奈良時代

中国の倭人伝が示す倭国 > 奈良時代

大和政権が樹立した中央集権制の日本の時代が、実質的に奈良時代から始まる。倭人は追い出されて沖縄に逃れ、奄美以南に籠って大和政権の襲来に備えた。自国の文献で歴史を検証する時代を、歴史時代と定義するのであれば、日本は奈良時代に歴史時代に入った事になる。参照できる確かな歴史者は、続日本紀から始まるからだ。従ってこのHPでは、続日本紀の時代(697年~)を奈良時代とする。実質的には、倭国の成立時には歴史時代に入っていたが、大和政権の樹立と共に殆どの文献が廃棄され、日本書記が編纂された時点で、残余の文献も意図的に廃棄されたと考えられる。それ故に倭人時代の事績の検証は、中国の史書に頼らざるを得ない。

続日本紀が唐突に生まれたのではない事は、千年以上の文字文化の伝統を持つに相応しい、知性を具備している事から推測できる。古事記や続日本紀に使われている日本語は、文法の完成度が高く、話者の高度な意図を読み取る事ができるからだ。それを認識した上で、続日本紀の記載内容を検証する必要がある。

大和政権は中央集権制の構築を意図していたが、中華的な専制皇帝ではなく、天皇を統治の最高責任者とする法治国家を目指した。しかしその理想は実現せず、世相が混乱する中で再び地域勢力が台頭し、それに妥協しながら権威主義的に政体を維持した後、中央集権制は12世紀に崩壊した。中央集権制は形骸化しながら500年も続いたが、8世紀早々の天皇の詔から、制度的な欠陥の顕在化を読み取る事ができる。

政権が中央集権化を進める傍ら、庶民は倭人時代の分権的な価値観維持していたから、中央集権制の非効率性が顕在化すると、地域住民は倭人時代の価値観に意識的に回帰し、中央と対立する様になった。続日本紀の天皇の詔は、中央集権制が崩壊していく序章として、政権内部で何が起ったのか読み取る事ができる。日本の歴史は貴族や英雄が作ったのではなく、歴史の流れと経済活動の必然が生み出した事を、続日本紀の天皇の詔は知的に描き出している。

 

1、    動乱の余韻

続日本紀の時代(697年~)になっても、九州と東北の戦闘や、西日本の政情不安が続いていたから、制度の確立は遅れていた。続日本紀を編纂する過程で、政情不安に関する多くの記事が削除されたが、幾つかの記事は残った。その記事の断片から、奈良時代初期の政情を再現する。

年月

記事

69710

陸奥の蝦夷(えみし)がその地の産物を献上した。

12

越後の蝦狄(えみし)に地位に応じて物を与えた。

698年 4

文忌寸(ふみのいみき)博士ら8人を南の島に派遣して国を探させた。

5

大宰府に命じて大野・基肄(きい)・鞠智(きくち)の3城を修理させた。

7

博打や賭け事をして遊び暮らしている者を取り締まった。

8

高安城(たかやすのき)を修理した。

12

越後国に石船柵(いわふねのき)を修理させた。

699年 7

種子島、屋久島、奄美大島、徳之島、などの人々が初めて朝廷に渡来し、土地の物産を献上した。

9

高安城(たかやすのき)を修理した。無位以上の者に弓・矢・甲・桙・軍馬を用意させた。

12

大宰府に命じ、三野(日向)、稲積(大隅)に城を築かせた。

700年 2

越後・佐渡2国に石船柵を造営させた。(先行した柵は戦乱で破壊?)

6

薩摩・肝付・球磨で騒動があり、筑紫の惣領に処罰させた。

11

盗賊が全国各地でたびたび悪事を行ったので追捕させた。

701年 7

官職の位階に応じて食封を与え、壬申の乱などの功臣に功績の程度に応じて食封を与えた。

8

高安城を廃止した。

702年 8

薩摩と種子島に派兵して征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた。

9

薩摩の隼人を征討した軍士に勲位を授けた。

10

薩摩の要害の地に柵を建て、守備兵を置いた。

703年 4

かすめとられて奴婢とされた安芸の者200余人を、良民として本来の戸籍に戻し入れる事を許した。

5

正七位・従七位の者達が良民である事を訴え、雑戸の身分から解放された。

70411

初めて藤原宮の地所を定めた。

708年 2

平城に都を造る詔

9

平城の地形を視察

709年 3

陸奥と越後の蝦夷を、関東甲信越北陸から兵を徴発し、東山道と北陸道から討たせた。

7

蝦夷を討つために、出羽柵に兵器を運び送った。船100艘を、征狄所に送らせた。

9

蝦夷征討の論功行賞を行った。

710年 3

平城京に遷都し 石上麻呂が藤原宮の留守居をした。

71912

備後国安那郡の茨城と葦田郡の常城を廃止した。

721年 6

陸奥や筑紫の辺境の砦の民は、しばしば戦乱にあい、兵役に病み疲れている。父子共に死亡し、一家が離散する者もある。諸国の軍人たちで、自ら兵士を率いて逆賊を捕えたり殺したり、勝に乗じて逃亡する敵を追撃した者には、2年間租税負担を免除する。

 

「陸奥の蝦夷がその地の産物を献上した。」 「越後の蝦狄に地位に応じて物を与えた。」 

蝦夷は大和朝廷の支配下に組み込まれていなかった。蝦夷の一部は壬申の乱の際に、関東の倭国王家を代表した甕星傘下の兵士として、征西に参加した筈だが、西の倭国王家出身の天皇を頂く大和政権には従わず、在野の勢力になっていた。支配民ではなかったから、物を授受して友好関係を持つ関係になった。

「文忌寸博士ら8人を南の島に派遣して国を探させた。」

倭人の亡命勢力に対し、降伏勧告を行ったと想定される。

「大宰府に命じて大野・基肄・鞠智の3城を修理させた。」

大野と基肄は大宰府を南北から守る山城で、どちらも300mを超す急峻な山上にあり、戦国時代の山城と比較しても遜色がない要害の地にあった。鞠智の城は熊本県北部の菊池平野の西北にあり、大宰府から山岳地を隔てた場所にある。鞠智の城が作られた現在の菊地市は、菊池川の河口まで東鯷人の国だったと考えられる。熊本県中南部の熊襲と対峙するため、大和政権の前線拠点として城が造られたと想定される。東鯷人の国とする根拠は、後漢書に「奴国は倭人国の南限」と記されている事、菊池川流域にある江田船山古墳から、倭人の大王名が記された鉄剣が出土した事による。

熊襲は倭人でも東鯷人でもなかったが、異民族だったのではなく、倭国王に統治されない集団だった。史書に熊襲に関する記述はないが、有明海でアカニシを採取して貝紫を得ていたのは、この集団だったと想定される。中華とは交易せずに、東南アジアの海洋民族と交易していた集団だったと想定される。甕星が北九州の倭人を制圧した際には第三者的な勢力だったが、その後中華思想に影響された大和政権が全国統一を企図したので、反抗勢力になったと推測される。彼らは何千年も倭人と対等に交易していたのだから、大和政権の方針が理不尽だったが、中華に習った中央集権国家として、日本列島を統一した事になる。日本列島にはこの他にも、この様な小集団が存在した可能性がある。

「高安城を修理した。」

高安城は、大阪と奈良を挟む生駒山中の、巨大な城だった。大和政権が飛鳥を都にしたのは、倭国の所在地だったからではなく、倭人勢力の海からの逆襲を恐れ、海岸から離れた場所を本拠地にしたからだと考えられる。奈良も安全な場所ではなかったから、倭人の攻撃から飛鳥を守る前進基地として、高安城を造ったと想定される。修理したのは、相変わらず倭人勢力の来襲を恐れていたからだろう。699年に「種子島、屋久島、奄美大島、徳之島、などの人々が初めて朝廷に渡来し、土地の物産を献上した。」後、701年に廃止したのは、倭人の亡命政権との間で、何らかの協定が成立したからかもしれない。

「越後国に石船柵を修理させた。」

1年後に造営した記事があって混乱している。蝦夷が反乱を起こしていたから、一旦炎上した後、場所を変えて再建した可能性もある。709年の征討により、越後の蝦夷の反乱は鎮圧したが、出羽は未だ征討できなかった。

「(700年)薩摩・肝付・球磨で騒動があり、筑紫の惣領に処罰させた。」

その対策として702年まで薩摩・肝付・球磨・種子島で征討戦を行い、

「(702年)薩摩の要害の地に柵を建て守備兵を置いた。」

 隼人も倭人でも東鯷人でもなかった。降伏した以降の隼人の役割を考えると、文化的には倭人より上位だった疑いがある。気候的に東南アジアに近いから、東南アジア原産の植物資源を、真っ先に導入してきた自負もあり、経済的な優位性もあったから、東南アジアの交易民文化を、最も濃厚に導入していた可能性があるからだ。大和朝廷の統一に、最も頑強に抵抗した人達だった。

「平城京に遷都し 石上麻呂が藤原宮の留守居をした。」

710年に列島内の治安が回復し、平城京に遷都する事ができた事は事実らしいが、藤原宮築造の開始時期に関して、続日本紀の記事は混乱している。

続日本紀は、「(704年)初めて藤原宮の地所を定めた」と記しているが、日本書紀は、藤原京は690年に建設が始まり、694年に遷都したと書かれている。日本書記は捏造書だから信用できないが、続日本紀のこの記述も不可解だ。敢えて尤もらしい仮説を想定すると以下になる。

関東系の総持天皇の時代に、天皇の肝入で藤原京の建設が始まったから、難波系の大和政権はその都を嫌い、改めて平城京を造営したと考えられる。高安城を701年に廃止するまで、広大で無防備な都の建設が出来る状況ではなかったが、680年代に大規模な戦争が終結していたから、労働力には余裕が生まれていた。革命戦争の契機は、高句麗滅亡による毛皮の販路の喪失だったが、中央集権国家を構築する大義名分は、経済の活性化だった。特に革命戦争を主体的に遂行した物部は、経済の活性化を切望していた。そのために戦争が終わった時点で、余剰労働が失業者に転換する前に、大規模公共事業を実施する必要が、物部から提起されたと考えられる。大規模公共工事として、都や郡衙を建設する事は容易だから、使用開始時期や、規模の妥当性などの具体的な企画が多少杜撰であっても、先ず土木工事を始める事が必要だった。その考えは近代的であり過ぎ、当時の人がその様な発想を持つ筈はないと、考える向きもあるかもしれないが、不況だった飛鳥時代に農民は米の販路を確保できず、農村に売れ残った米が溢れ、米の価格が値崩れしているにも拘わらず、仕事がない商工業者の一部は、日々の食料にも事欠いていた。その状況を天智が憂い、その解消の策を練った結果が、中央集計制樹立の大義名分だった。倭人は唐王朝治下の中華で、重税で農民が苦しむ傍ら、穀物価格は高値を維持している状況を見ていた筈だ。それが租税の効果である事は、直ぐに理解しただろう。唐王朝の商工業者は、官僚貴族の需要を満たすために忙しく働いていた。彼らに支払われる給与は、農民の租税から捻出されている事は明らかだった。それを飛鳥時代の倭人社会と比較し、王朝が租税を増やして商工業者の雇用を確保すれば、安定した社会が形成できると想像しても、不思議な事ではない。この様な連想には、難しい経済の話など介在する必要はない。左翼系の経済学者は、租税の重課は農民を苦しめる悪法だと決め付けるが、産業が未発達な社会で農業生産性が高まれば、農産物が過剰になって不況になり、物流も滞ってしまっただろう。平和な社会で不況に陥り、スパイラル的に景気が悪化して行ったのが、飛鳥時代の倭人社会だったと想定されるから、公共事業を実施して経済を活性化する認識が、財政基盤を租税すると決めていた大和政権にあったとしても、不思議な事ではない。

その様な事情の中で、藤原京の建設が690年に開始されたとすれば、歴史の流れとしては順当な時期だったと考えられる。続日本紀の記述の乱れは、次の様な事情から生まれたと推察される。

混乱が続いていた文武天皇の時代には、704年に限らず、藤原京建設の継続方針が出されていたが、天皇が変わった708年になると混乱も収束方向である事に気付き、「難波系の新政権の都は、関東系の天皇が決めた藤原京ではなく、新しい場所にしたい」との意見が盛り上がった。総持天皇が、都の建設方針や構造に関する構想を打ち出した事を、皆が知っていたから、藤原京は総持天皇の都だと、認識されていたと考えられる。藤原京の建設は、国運を賭けた様な大事業だったから、突然生まれた方針の大変更に議論が沸騰し、朝議録が混乱していたと想定される。総持が殺されて10年程経ち、難波系大和朝廷の齟齬が露見し始め、陰で総持の遺徳を慕う意見がささやかれていた事が想定される。その様な気運を一掃したかったから、総持の記憶を多分に持つ藤原京に遷都する事は、難波政権にとって危険だと考える事に、十分な合理性がある。現在でも多数の官庁や企業で繰り返されている、ありふれた一コマに過ぎないからだ。

朝議録には、それを匂わせる言葉が氾濫していたから、続日本紀の編纂者には糊塗する手段が見出せず、藤原京の建設時期そのものを704年まで繰り下げる簡単な記事を遺し、一切の捏造から手を引いたと推察される。しかしその300年後に編纂した日本書紀は、より精緻な合成理論を展開して捏造した話の辻褄を合せ、持統天皇にその役割を担わせ、改めて時期だけを、正しい690年に戻したと想定される。続日本紀の記述は曖昧だから、筋道の整った話を捏造すれば疑念をもたれる事はないと、日本書紀の編纂者が考えたと想定しても、その想定にも十分な合理性がある。

「(719年)備後国安那郡の茨城と葦田郡の常城を廃止した。」

東北を除く本州の治安は回復した。しかし721年になっても、蝦夷・熊襲・隼人は完全に服属せず、辺境を守る者は兵役に病み疲れていた。

防人の初出は、北九州の倭人を平定するために関東から派遣された、農民兵だったと推測される。彼らは壬申の乱以降、関東系の甕星の旗下で鹿島と香取の勢力として戦った。しかし鹿島勢と香取の物部が、695年頃の政変時に総持を裏切って難波系に鞍替えすると、彼らも鹿島勢と香取勢に追従したが、東北の勢力は難波系に反旗を翻した。

蝦夷や蝦狄は、甕星が指揮していた毛皮交易と結び付いた、狩猟民だったからだと想定される。東北には焼畑でヒエを栽培する農民もいたと考えられるが、ヒエには換金性がなかったから、経済的に東北を支配していたのは、狐、狸、熊、鹿などの毛皮を採取していた狩猟民と、北方交易のために廻船を行っていた、甕星直下の倭人だった。大和政権は総持を排除した代償として彼らと敵対し、彼らを蝦夷や蝦狄と呼んだと推測される。蝦夷は陸奥に住む倭人系狩猟民だった筈だが、蝦狄が倭人系だったのか東鯷人系だったのか、判定する根拠がない。奈良時代に温暖化が進み、東北でも稲作が可能になると、大和朝廷が軍を北進させて征討し、大和朝廷の勢力圏に組み入れたから、蝦夷や蝦狄の一部は北海道に逃げ、アイヌになったと想定される。彼らとオホーツク海沿岸で海獣を狩っていた狩猟民の末裔は、アイヌと言っても出自が異なっていたと推測される。

九州の反乱が鎮圧されても、防人は引き続き北九州に駐在した。防人の新たな役割は、新羅と北九州の旧倭人が提携する事を、牽制する事だったと想定される。大和朝廷と新羅は甕星が出雲と北九州を征討して以来、険悪な関係だったと想定される。甕星が、新羅を支援していた北九州の倭人勢力を、壊滅させてしまった上に、高句麗の滅亡によって酷い経済的な被害を受けた鹿島勢と香取勢の手前、難波系には新羅と敵対する理由はなかったとしても、彼らの心情を忖度すれば、新羅に接近する事は難しかったと想定される。

新羅と大和朝廷の関係はその後更に悪化し、8世紀中頃の新羅は、遣唐使の帰港を許さなくなった。そのために遣唐使は、東シナ海を横断しなければならない羽目になり、難破する船が増えたと考えられる。倭人時代には、沖縄を経由する航路が定番だったから、それが最も安全な航路だったと考えられるが、沖縄には倭人の亡命政権があり、遣唐使船を寄港させる事はできなかっただろう。

日本書紀は、防人や古代山城は唐に備えた兵や城だったと記しているが、それは革命戦争があった事を隠すために、創作した捏造物語だった。

防人の帰還時に、食料が尽きて路傍で餓死する者がいたから、強制的に徴発された不幸な人々だったと考える人がいるが、防人の帰還時のために、各地に食料を用意した記録が残っているから、その指摘は否定される様になった。関東の農民は大和政権成立後に、倭人が経営していた大農場の水田を、班田として支給されていたから、大和政権を強力に支持していた。関東の農民や商工業者は、飛鳥時代の不況の悲惨な被害者であり、大和政権の施策が最も効果的に作用した地域だったから、大和政権と関東の農民には信頼関係があり、帰路の食料が欠乏する事例があれば、大和朝廷としては不本意な事だった筈だ。

しかし7世紀末の動乱時には、防人の帰還時にその様な事例があった可能性は高い。それは防人への待遇の悪さによるものではなく、大和政権の統治能力の欠如によるものだった。出来たばかりの中央集権制は、欠陥だらけだったからだ。地域主権に慣れていた人達は、中央集権制の組織運営に慣れていなかった上に、地域の実情を知らない中央官僚の全国一律の命令を、聞きたくなかったという事情があった。その上に大和政権は、倭人の宗教を否定して中華的な価値観を強制したから、根本的な価値観が混乱していた。大和政権に面従腹背状態だった勢力も、津々浦々に多数あったと想定され、大和朝廷の尖兵だった防人に、好意的ではない地域も多数あっただろう。

「博打や賭け事をして遊び暮らしている者を取り締まった。」

「盗賊が全国各地でたびたび悪事を行ったので追捕させた。」

単なる治安の悪さの報告ではなく博打や賭け事が、新政権に不満な者達が徒党を組む場を提供していると、見做していた可能性がある。唐は商業活動を取り締まったが、商業活動は反政府的な者達が、徒党を組み機会を提供すると見做していたからだと考えられる。物部を中心とする勢力が倭人政権を転覆した事を考えれば、唐の認識も理解できるだろう。物部の活動によって成立した大和朝廷では、商工業は禁止しなかったが、賭博や博打が、危険な集会に発展し易い場を提供するという発想は、的外れではなかった。盗賊と呼ばれた人達は、反政府的な集団だった可能性が高い。

 

2、天皇の詔から読み解く大和政権の挫折

695年の政変で総持天皇を追放し、暫定的に即位した持統天皇は、2年後に孫の文武天皇に譲位し、続日本紀の時代が始まる。続日本紀は、実際の朝議録から記事を抜粋して編纂したが、この時代の記述には意図的な取捨と潤色がある。しかし正直過ぎると感じる詔に、課題に対応する姿勢の一貫性があり、改竄に対する罪悪感が原型を留めさせたと考えられ、詔を検証する事は意義深い。

文武天皇は新体制の理想を訴えたが、治安が安定し始めた元明天皇の時代になると、一転して中央集権制の欠陥に翻弄され始めた事が分かる。文武、元明、元正3代の詔を抽出し、日本的な中央集権制の特徴と問題点、課題に対する大和政権の対応を考察する。

宇治谷猛氏の訳本から、「詔」独特の回りくどい言い回しを簡略化し、青字で文意を掲示する。

 

2-1、文武天皇(697年~707年)

即位の詔(697年)

「現御神として大八島国を治める天皇の、言葉を聞きなさい。高天原に始まり、遠い先祖から現在に至るまで、天皇の任務として皇位継承を、天の神が授けた通りに執り行ってきた。その天皇として先代の持統天皇が、私に授ける皇位を受ける。百官や国司は国法を誤り犯すことなく、明直な誠心を持って怠ることなく仕えなさい。その勤めぶりに従って褒め称え、位階を上げる。」

高天原に言及しているから、既に古事記が頒布されて捏造史が周知され、官僚はそれを了解していた事を示す。古事記の中核的な認識である、高天原に天皇家の起原がある事を宣言し、古事記の内容を公知させている事は、天皇家は倭国王家の直系である事が、周知の事実だった事を示す。但しこの時期に頒布されていた古事記は、関東系の天皇を讃えた記述が溢れている儘であり、改訂版は未だ出版されていかったから、原古事記が示す神話世界を、難波系の新政権も継承する事を宣言した事になる。

国法を誤り犯すことなくと宣言し、天皇の絶対的な権力に触れない事により、法治国家である事を宣言している。これは交易民だった倭人の、社会規範に従う発想を受け継いだからだと考えられる。但し倭人は、信用と才覚で利を得る事を重視してはいたが、社会規範は慣習に従う事を意味し、法律で活動を縛っていなかったと想定される。現代日本人は無意識理に、倭人的な商業道徳を継承していると考えられ、その特徴を西欧的な価値観と比較すると、誠意と信用に重点を置き、法規を順守する概念が薄いからだ。大和政権が法規を重視したのは、飛鳥時代に倭人社会が混乱すると、各地域の地方政権が、理不尽な手段で権力を濫用したからだと想定される。地域分権制と異なり、中央集権制には条文的な法規が必要である事は、唐を観察して熟知してもいただろう。

天皇は現御神として大八島国を治める機能で、中華の皇帝の様に強い権限を持たない法治国家である事を宣言している。現御神の言葉は、皇帝より上位者を意味するのではないかと錯覚するが、倭人時代の諸国の王は「神」だったから、現御神は一神教が示す超越的な神ではない。倭人時代の神は、襲名を以て永遠の生命を持つと解釈されていたが、天皇は寿命を持つ人間的な存在になっていた。その様な神しか知らなかった当時の日本人には、中華的な専制君主を想定する事ができなかっただろう。総持天皇が、何を宣言していたのか分からないが、この宣言は当時の日本人には、中華的な発想に感じられたと推測される。

勤めぶりに従って褒め称え、位階を上げる発想も、固定的な身分制だった倭人社会にはなかった。倭人には自分の役割の遂行が求められ、その達成を論評して褒め称える習俗は、なかった可能性が高い。現在の日本人も、その価値観を濃厚に継承しているからだ。位階を上げる発想は、成績に応じて官僚の身分を変更する事を意味し、成果主義的な評定を行う事を宣言した事になる。それが官僚に対する最大のインセンティブである事は、時代を問わない事実だろう。それに反して交易者だった倭人社会では、競争原理に基づいて各国の収入が左右され、個人もその結果として潤ったが、身分制と能力主義は対立概念だから、それが両立していた可能性は低い。能力主義に基づく役割意識と身分性が、利益配分を律していた可能性の方が高い。能力主義は業務遂行前に、能力に応じて役割を決めるのに対し、成果主義は業務遂行後の成果を評価するから、その概念は全く異なる。能力主義は、地域分権的な小集団の組織に相応しく、成果主義は広範囲に評価の公平性を知らしめるものだから、巨大組織である中央集権制に相応しい。現代の日本企業でも、成果主義には批判が多いが、能力主義に基づく役割意識と身分性は、抵抗なく受け入れている様に見えるから、古代の倭人社会も、同様の価値観を持っていたと想定される。

 

699

「勲功を詮議する事は、前代から始まっている。坂上忌寸老は壬申の年の戦いに従軍し、国家の難に当った。未だ褒賞の位も与えないうちに死去してしまったので、従四位下の位と物を与える。」

壬申の乱(672年)から27年経っても、殊勲者に恩賞を与えていなかった。壬申の乱の後も動乱が続いたから、その機会が無かったという事ではなく、倭人社会にその習俗がなく、総持の時代の新生大和政権は、その様な制度に疎かったと推測される。話が前後するが、これは上記に示した倭人の能力主義的な発想を、この時代まで継承していたからだと考えられる。前代は持統を指すと考えられ、難波系の天皇になってから、初めて論功行賞を行う様になったと考えられる。国司が五位程度で、既に権勢を得ていた藤原不比等が従四位上だった時期に、死後の追贈とはいえ従四位下は相当な高位になり、その様な者の叙勲が不用意に、捨て置かれとは考えにくいから、総持の時代には戦乱が続き、意識改革が進まなかったとも言えるだろうが、倭人時代の価値観を持っていた大勢は、叙勲に無関心だった事になり、倭人の価値観の程度を計る、物差しになるだろう。

この発想は現代日本人も特徴付けているが、奈良時代以降の農民を主体とした社会では、能力主義や役割意識が発展する土壌があったとは考え難く、むしろ武士階級の発生や士農工商意識の醸成の様に、身分を細分化して固定化する方向に進んだ事は、現代日本人を特徴付ける産業社会への高い適応力は、倭人時代の価値観を継承しているからだと考えられる。その観点で日本人の精神構造を考察すると、倭人的な価値観が根底にあり、それが中華的な影響で変質し、更に近代の西欧化が変質を促進したと考えられるが、英国が代表する西欧文明も、多分に漁民文化を根底にしていると想定され、西欧化は変質であると同時に、むしろ倭人時代への回帰を促す側面もあったと考えられる。従って現代人は持つ日本人固有の、交易者的な発想を抽出すると、その起源は倭人社会にある可能性が高く、それが倭人社会を推測する重要な素材になる。老子思想に共鳴する日本人的な価値観に留意すれば、その確度は更に高まる。

 

「越智山陵と山科山陵を造営するから赦免を行うが、十悪と強盗、窃盗の者は赦免しない。」

越智山陵と山科山陵が、誰の墓だったのか記していない。続日本紀が記された平安時代初頭に、日本書紀のプロトタイプ的な史書が作られつつあったから、それらとの調整過程で、被葬者名が脱落したと思われる。記事全てを削除すれば、余計な邪推はされないが、この類の怪しげな記事を全て削除すると、文武の治世の記事が、些末なものだけになってしまうと判断したのだろう。

天智陵や天武陵であれば、被葬者を脱落させる必要はないから、日本書紀には記されていない皇族の墓だった事になり、甕星と総持の墓だった可能性が高まる。720年に成立した日本紀には、文武の先代は総持だと記されていた事を、新唐書は示している。以上から導かれる結論は、奈良時代初期の難波系の天皇は、関東系譜の天皇の後継者である事を自認し、甕星や総持を先代と考えていた事になる。新唐書が示す日本紀に、総持の先代は天武と記されていたが、この天武は持統の夫だった人物ではなく、甕星を指していた事になる。持統は大内山陵に合葬されたと記されているから、それが持統の夫だった人物の墓だった事になる。

赦免は皇帝の徳を知らしめる中華的な制度で、倭にはなかったと考えられる。隋書によれば、倭国では重罪は死刑、盗みには賠償、その他は軽重により流罪か杖だったから、徒刑は無かったと考えられるからだ。倭人時代の様な、規模が小さい共同体は「掟」社会になり、徒刑制度は発達しなかったと推測される。

 

持統天皇崩御の遺詔(702年)

「喪服をつけたり挙哀(こあい:死者を悼んで泣き叫ぶ儀礼)をしたりしないようにせよ。文官・武官は平常の様に勤務し、葬儀の儀礼はつとめて倹約にせよ。」

持統は自分の葬儀を質素にする様に命じた。それは彼女の無欲を示すのではなく、肉体は滅んでも文武と共に統治を遂行し続けると考える、倭人文化に起因する発想だったと思われる。

隋書に、「倭王は天を兄とし、日を弟とする。」と記されているから、倭王には肉体的な寿命はなく、継承儀礼により不滅の生命を持つと考えられ、親子の継嗣的な認識はなかったと推測される。

埼玉県の埼玉古墳群から発見された鉄剣には、「獲加多支鹵(わかたきる)大王の寺が、しきの宮に在る時、吾は天下を佐治し、この百錬の利刀を作らせ、吾が奉事の根源を記す也」と記されている。説文解字に、「(寺は)廷なり。法度有る者なり」とあるから、寺は倭国王が居住していた建物群を指すと考えられる。「獲加多支鹵大王」の居処が「しき」にあった時、埼玉県の稲荷山古墳の被葬者は、政治に参加した事を示している。「獲加多支鹵大王」らしい名前が、熊本県の江田船山古墳から発掘された鉄剣にも見られる。江田船山古墳は5世紀末~6世紀初頭の築造で、稲荷山古墳は5世紀後半と推測され、二つの古墳の築造時期が異なるから、「獲加多支鹵大王」は同一人物を指したのではなく、倭国王の襲名だったと想定される。続日本紀も風土記も先述の鉄剣の様に、宮の所在地で天皇の在位時期を示し、何時の事だったのか特定しているから、それが大王を個人として把握しない倭人の、年代を区別する方法だったと考えられる。逆に言えば、年代が区分できる程度に頻繁に、倭国王の所在地が変わった事になる。倭人は能力主義者だったから、能力評定に基づいて倭国王が選定され、複数の宮家が候補に挙がっていたから、倭国王の住地が遷移した。宋書が示す倭国王系譜はその様な状況を示し、一つの宮家で数代の倭国王を輩出した事も示している。大阪湾岸や奈良盆地の大王墓の位置が、数世代の時期を経て移動する事も、その様な事情の反映だと想定すれば、種々の事情は矛盾なく整合し、持統の発想まで繋がる。

元明天皇は即位の詔で、「藤原宮で天下を統治した持統は、697年に文武に譲位し、二人で天下を治めてきた。」と述べた。これは文武が崩御した翌月の詔で、これに先立って元明天皇は持統の墓に参詣している。元明天皇の即位は、持統が亡くなって5年後の事だが、文武の死まで、持統と文武が共同で統治していたと、元明も考えていた様だ。元明も倭人的な、不死的な襲名意識を持っていたから、その様な詔になったと推測される。

持統は、自分の葬儀に喪服を付けず、挙哀もするなと遺言したが、文武の遺詔は「挙哀は三日、喪服は一か月」だった。それが天皇の崩御に対する、正式な葬送方法だったのだろう。文武の崩御により、持統も共に亡くなったと解釈したのではなかろうか。

古事記は、天皇には寿命があると記して宗教意識の変革を促したが、持統はその意識改革を体現していなかった。元明は遺詔で、天皇にも寿命があると記して中華意識を示し、この時代が、倭人的な宗教観から中華意識への、変革期だった事を示している。

倭人時代は女性が宗教を差配していたから、女性だった持統は、宗教的な意識改革が遅かったとも言えるが、古事記を記して意識改革を推進したのは持統の周辺の巫女ではなく、関東系の総持の母や妻が率いた、関東の巫女だったから、変革意識に温度差があっただろう。

この時代の皇位系譜継承ルールは、新羅の骨制と全く同じだった事を、飛鳥時代の項で説明した。関東の巫女が著述した原古事記は、総持までそのルールに従っていた事を示している。712年に改訂された古事記は、関東系譜より複雑だった難波系譜も、そのルールに従っている事を示すために、古事記を大幅に改定した。奈良時代初期の日本人にとって、天皇家の皇位継承は、倭国王時代のルールに従うべきとする意識が、依然として強かった事になる。そこから類推すれば、倭人時代の宗教観も、濃厚に引き継いでいただろう。

 

704

「日照りが10日以上続いている。人々は飢えに苦しみ、そのために罪を犯し法にふれる者もいる。大赦を行い、人民と共に心を新たにしたい。」

倭人にとっては、農民は米を栽培する職業が違う人だったが、大和政権は農民に寄り添う姿勢を鮮明にした。古墳時代の倭人集団の中にも、構成員としての農民もいたが、内陸に居住して倭人とは経済関係しか持たない農民が、多数居たと推測される。その様な農民の人口が増え、彼らの商工需要を満す物部の人口も増えたから、物部が農民を先導して革命を成功させたが、革命戦争の論功行賞は物部と東北の狩猟民に厚かった事を、飛鳥時代の項で説明した。大和朝廷は農民に寄り添う姿勢を示しているが、商工業者に寄り添う姿勢は強く示していない。大和政権がその様に変化したのは、農民の地域勢力が台頭した事を示唆し、藤原不比等が農民勢力を代表していたからだ。大和政権が租税を財政基盤にした事が、姿勢の転換を促したと考えられる。

 

706

「礼は正しい法で、生活の手本であり、道徳や仁義も礼によって広まり、教訓や風俗も礼が備わる事によって成就する。諸官は多くの礼の道に外れ、男女の区別なく昼夜集合している。」

地域政権が統治する時代は身分秩序が厳しく、道で貴人に出会えば草叢に隠れて伏し、貴人は尊敬する人に合うと柏手を打って敬意を表する、古代的な貴族社会だった。狭い地域では皆が知り合いだったから、異常事態が発生しない限り、秩序が乱れる事はなかったと想定される。中央集権国家の中枢に集まった、多数の見知らぬ人と礼を交わす、中華式の習俗を取り入れるには、時間が掛かったと推測される。気心が通わない相手に対しても、身分秩序を弁えて作法を持って接する、中華的な礼が必要になった。そのためには、身分を示す衣装や装飾も必須だった。多数の人間が参集する中央集権国家の中枢では、地域主義的な相互牽制による抑止力は、働かないだろう。それに慣れない者が続出し、男女同格だった倭人習俗に慣れた者は、中国式の男尊女卑的な発想に、中々馴染まなかっただろう。男性が女性位に言い寄る淫らな風俗と言うより、女性が男性集団に割り込んで政治議論をする風潮を、咎めたと考えられる。この時期に高級官僚に叙任された者として、続日本紀に掲載されているのは皆男性だが、女性天皇を輩出した背景には、巫女の系譜的な多数の女官がいた筈だ。彼女達が官僚から意見を求められ、時に官僚を指図する事は、日常茶飯事だった可能性が高い。

 

「高位の高官は、自ら耕作しないかわりに然るべき俸禄を受けているのだから、農事を妨げてはならない。王や公卿・臣下達が、自分で農耕せずに競って貪り、土地利用の便宜を妨げ、みだりに境界を広げているから、今後それを禁止する。」

農業が国の基本だと考える発想が、色濃く滲んでいる。農民が人口の過半を占め、彼らの租税で財政を賄っていたから、この様な発想になったのだろう。江戸時代の士農工商的な貴賤意識が、既に顕れている様に見える。天皇が最初に気付いた中央集権制の矛盾は、貴顕の者が権力を濫用し、農地獲得に走る事だった。倭人時代の財物は、精緻に作られた工芸品だったと推測されるが、大和政権時代になると、農産物の蓄積の多寡が富貴の基準に変わり、農地を巡る醜い争いが生まれたと推測される。倭人時代にも、その種の争いはあっただろうが、農民政権化して農地の取得に対する欲望が高まり、貴賤の評価が農地所有の多寡に焦点化され、その争奪が一層熾烈になったと想定される。土地の所有に関する公認のルールが、倭人時代に曖昧だった事が、それに拍車をかけただろう。中央集権化の革命に参加はしたが、地域主権的な発想に戻り始めていた農民は、官僚による土地の収奪が始まれば、新政権に失望しただろう。各地でその様な事態が目立ち始め、詔でそれを禁止したと解釈される。中央集権制の運営経験がなかったから、手探りで状況を改訂して行くしかなかった。

 

707

「藤原不比等は忠勤を励んでいる。令の規定のままに食封5000戸を与える。」

農民を統治する者として、藤原不比等が政権の重鎮になった。官僚の給与は封戸の数で表していたが、続日本紀に記された増封として、最高の戸数だった。不比等は3000戸を受け、2000戸を辞退した。

 

文武天皇の遺詔(707年)

「挙哀は3日、喪服をつけるのは1か月にしなさい。」

持統の遺詔の項で説明したが、文武は天皇としての死を受け入れ、天皇にふさわしい葬儀を行う様に遺詔した。

 

2-2、元明天皇(707年~715年)

即位の詔(707年)

「藤原宮で天下を統治した持統天皇は、697年に文武天皇に譲位し、二人で天下を治めてきた。これは天智天皇が、『改変される事のない常典』として定めて実施した法を、皆が施行する事だった。わが子である先帝の遺詔により、位を継ぐのは尋常ではない。親王、諸王、諸臣、百官が浄明な心で務め、自分を補佐してくれれば、政治の平安は長く続き、永遠に続く掟として立てられた国家統治の法も、ゆるぎなく続いていくだろうと思う。天皇が国家天下を撫で慈しんできたのは、格別なことではなく、親が子を養育する様に治めてきたからだ。大赦を行うが、山や沢に逃げて軍器を隠している者は、自首しなければ罰する。」

天智天皇が定めた法は、改変される事がない法であると、宣言している事に注目する必要がある。天智天皇が生きていていた時は、難波の倭国王系譜の宮家の当主という肩書だった筈だから、この表現は続日本紀の著者の、例外的な改竄だった事になる。天皇の称号が遺贈されていたから、全くの嘘とは言えないが。

大赦から除外された罪から、その時期の問題点が見える。日本各地で、倭人の残党が武器を持って山間に隠れていた事が、深刻な問題になっていた事を示す。九州や瀬戸内の、朝鮮式の山城を維持せねばならないほどに、倭人の残党勢力が猖獗を極めていた。

 

和銅に改元する詔(708年)

「高天原から降臨した以降、天皇が天下を統治してきた。武蔵国から熟銅が出たと奏上があったのは、天地の神の祝福だと思い、年号を換える。大赦を行うが、山や沢に逃げて禁書を隠している者は、自首しなければ罰する。」

大赦からの除外が、禁書に変わった。古事記が捏造した歴史と倭人の記録が対立し、歴史認識の争いが発生したと想定される。倭人時代の諸王の活動は、地域毎に神話化されていたから、それらの認識と古事記が対立する事は、必然的な帰結だった。新たに書き遺そうとした人達も、多数いただろう。それらの中には、漢字で記されていない書籍もあった。

 

708

「王侯大臣は皆が遷都を主張する。都は百官の府で人々が集まる所であり、自分一人が遊び楽しむ場所ではないから、遷都に利点があるのであれば、従うべきだろう。平城に都邑を建てるべきである。秋の収穫を待って路や橋を造らせ、人民に苦労させぬように制度を適切なものにし、後から負担を加える事がないようにせよ。」

藤原京を放棄し、平城に新規の都を造る事にした。天皇が皆に押し切られて遷都を決めたと、文面通りに解釈する事は出来ない。藤原京遷都に関する記事は、続日本紀に採録されていないので、697年には建設途上にあったと考えられる。7041120に記事に、「初めて藤原宮の地所を定めた。住宅が宮の敷地内に入った1505戸の人民に、身分などに応じて布を賜った。」と記されているのは、拡張工事の記事の混入だったと考えられる。藤原宮は、関東系の天皇だった総持の指令で、690年頃に建設が始まっていたと考えられる。続日本紀にそれを正直に記載するわけにはいかなかったから、平安時代初期の歴史捏造方針では、難波朝が建設を始めた事にしたと考えられる。

藤原京の跡地から、699年を示す木簡が発見されているから、704年のこの記事は嘘だった事が分かる。人民に苦労させぬようにとする指示は、早急な都の建設を企図し、多数の人民を徴発する積りだった事を示す。

総持が藤原京の建設を決断したのは、主要な戦闘が収束して軍務に従事させる役夫が不要になった時点で、革命前に救貧化していた物部の様に、帰農できない者達が失業者になる事を防ぐために、雇用を維持する必要があったからだと考えられる。元々日本列島には職業軍人は存在せず、中華の様に軍隊を創設して人民を威圧する意図はなかったから、常設の軍隊を保有する意思はなかったと想定される。従って軍務の代わりの雇用として、地方の余剰労働者も含めて都に集め、藤原宮を築造する事によって経済を活性化する事を企図したと想定される。その方針により、革命の主体だった物部が満足し、各地で失業状態になっていた者達も満足し、地方の農民が建設途上の都を見物に来ることも、国が奨励しただろう。この様な状況の中で、都の建設は大和政権の国家事業になったと想定される。

失業者を全国から集めて公共事業を行い、経済の活性化を図る事が目的だったから、工事の進捗より工事を行う事そのものが目的化していた。藤原京の規模が巨大であるのは、その様な理由だったからではなかろうか。

 

709

「国家の政治を行うには、人民を差別なく救う事を優先すべきである。虚偽を退け真実を取るのは当然である。

隠れて偽銭を鋳造する者は浅民におとし、告発した人にその財産を与える。」

身分制を基本にしていた倭人社会では、身分に応じた差別があっただろう。倭人国の構成員だった農民は、倭人的な平等意識の下で、豊かな生活を享受していたかもしれない。しかし倭人国の周囲には、倭人国の構成員として組織化されない農民が、多数いたと想定される。彼らは倭人に経済的に支配され、飛鳥時代の不況の中で劣悪な生活を強いられていただろう。倭人国内の農民もそれに引き摺られ、貧しい生活に転落する者もいたと想定される。米は最も不況の影響を受けやすい商品の一つだったからだ。

大和政権が目指した差別がない社会とは、それらの農民を組織化して租税負担者とする事だった。農民は大和政権の軍事基盤でもあったから、福祉に注力する必要があった。しかし中央集権制の官僚の中に、倭人時代には想定できなかった腐敗が蔓延し始めていた。虚偽を退け真実を取るは、それに気付き始めた事を示す表現の様に見える。

和同開珎を発行した翌年に、多量の偽銭が出回っていた。総持の時代に発行した富本銭にも、偽銭が出回ったかもしれないが、富本銭はさして流通しなかったから、危機意識はなかったのだろう。和同開珎を発行した直後に大量に偽銭が出回った事は、鋳銅技術を持つ倭人の残党の仕業だったと考えられる。官僚の腐敗以上に目立つ不正だから、真っ先にやり玉に挙がったと考えられる。

倭人時代の地域社会が形成していた市場では、各国の規制の中でどんぶり勘定的な信用経済が発達し、物価を貨幣で価値化する習俗は弱かったと考えられる。中国の銅貨もある程度流通していたと想定されるが、異国の貨幣の価値は各地域の流通過程で自律的に決まり、大規模に普及しかったと推測される。それ故に日本列島の内需が活性化せず、深刻な不況に陥っていた。大和政権が革命を起こす正義は、経済的な沈滞を打破する事だったから、革命の動乱が落ち着くと直ぐに、独自貨幣の鋳造を始めたが、それを大規模化する余裕がなかったと推測される。

和銅開珎の発行に際しては、経済の活性化より、国家財政を潤わせる事が前面に押し出され、米との換算価値を極めて高く設定した。その結果として、地金の銅の価値に比べ、銭の価値がひどく割高になり、偽銭の鋳造が割の良い仕事になった。既に沢山の銅が日本列島に蓄積されていた上に、中国から銅銭を輸入して和同開珎に鋳直しても、高い利益が生まれる状態になった。倭人時代に鋳造技術があり、大和政権成立後にはそれが転じて、民間に偽銭を鋳造する技術がある事になったから、多量の偽銭が出回った。沖縄に逃亡した倭人も、多量の偽銭を鋳造する事が出来た。

大和政権のこの様な経済感覚の貧弱さは、内向きの農民経済に依存する勢力が、権勢を握ったからだと想定される。倭人崩れの物部が権力を持っていれば、この様な稚拙な政策は打ち出さなかったと考えれば、物部の高官として石上麻呂が在籍していたが、藤原不比等との政争に敗れ、実質的な権力を失っていた事が想定される。奈良盆地を拠点としていた石上氏は、倭人時代の伝統を継ぐ海洋民ではなく、海外情勢に疎かったのかもしれない。いずれにしても、関東の倭人系の物部だった香取神宮勢は、革命戦争で抜群の働きを示したが、奈良時代初頭には、権力の中枢から排除されていた可能性が高い。

 

711

「恵みの雨が降った事は、あらゆる祥瑞よりも勝る。朕は人民と共に喜び、一緒に天の思召しを感謝しよう。」

農民国家的な色彩を強めたのは、藤原不比等の影響力が増大したからだろう。

 

「諸国からの役民が造都の労役に疲れ、逃亡する者が多い。禁止しても止まらない。平城宮の垣は未完成で防衛が不十分だから、取敢えず衛兵所を建てて兵器庫を固く守るべきだ。」

建設途上だった藤原京を捨て、一からやり直して平城京を建設したから、遅れを取り戻すために過大な労力が必要になった。藤原京を建設したのは、経済を活性化させる公共事業としてだから、全国の失業者を吸収する事が主目的だった。農閑期の農民の労働は、あったとしても付加的なものだっただろう。しかし作業速度を数倍速める事になり、不本意な農民が多数徴発されたから、役民が逃亡する様になった。労働が過酷だっただけでなく、農閑期の労力を使う方針が拡大解釈され、理不尽な徴発が実施された事を示している。地域の農民事情に配慮しない、画一的な全国統治しかできない中央集権国家の欠点も、露呈し始めたと想定される。

以後の詔には、それを嘆いて是正させようとするものが多いが、成功しない様子も露呈している。

8世紀初頭の大和政権は、地方の農民に権勢を誇示するために、不要な労役を創り出して都に出向かせたとする説がある。藤原京の建設には、その様な側面があったのかもしれないが、平城京の建設以降は苛烈な局面に転換したと想定される。

机上で計画を立てるだけで、工事の実情を知らなかった官僚は、18年間好評だった政策の規模を拡大するのだから、平城京の突貫工事も、好評の中で難なく完遂できると考えたとしても、特段の違和感はない。朝廷の要望に応えて短納期で完成する為に、少し規模を縮小した事は、多少の危惧を抱いていたからだろう。しかし工事の進捗に遅れが出ると、官僚機構には遅れを取り戻すべく工夫する才覚も、遅延を受け入れる柔軟性もなかった事は、容易に推測できる。現場の労働者に過酷なノルマを課し、時期を区切って徴発した農民に、延長労働を強要した事も容易に想定出来る。中央集権国家の官僚には、報告と指示の技能として文章力が求められるが、特定作業の専門家になる事はないから、作業の改善による能率向上には無力だった。その結果として、現場の遅れを咎めて叱責する事以外に、督促の仕様がなかったと想定される。革命が起きてから35年経過し、官僚は革命第2世代になり、農工業の実務実態を知る高級官僚は、皆無になっていたと推測される。安定的な中央集権制を運用し始めた直後だったから、不具合の干渉機能になる官僚と事業者の癒着構造は、未だ生まれていなかったと想定される。

官僚がノルマ達成に厳しくなり、農民が官僚のその様な変化を感じ始めると、民衆の心は中央集権国家から離反していったから、徴発を忌避して逃亡する農民が、多発したと想定される。平城京の造営の様な特別なイベントがなくても、その様な方向に徐々に向かって行ったと想定されるが、18年間かけて未完成だった都の建設を、数年間で行おうとしたのだから、無謀な企画だった事は間違いないし、それを農民が嫌がってモチベーションが低下し、作業効率が低下したことも容易に推測できる。その辻褄合わせのために、一層過酷な労働を強制したから、建設労働者の意識にも劇的な変化を及ぼし、奈良朝のイメージを大きく損なったと考えられる。

能率向上のメリハリを理解出来ない官僚は、平城京の建設速度を実績と見做す様になり、以降の都の増設や遷都の際に、その様な無謀を繰り返す事になった可能性が高い。その様な事態が進行した反面、勤勉な職人達は作業の効率向上に努め、建築技術の向上や建築物の大型化に関する、技術の向上に貢献しただろう。その様な評価できる効果を生んだ側面もあっただろうが、8世紀中頃の聖武天皇の時代に、安易な遷都を繰り返した事を評価すれば、平城京の建設に達成感が生まれ、建設労働者の失業問題が再発したからではないかと想定される。公共事業が経済活動に組み込まれると、止める事ができなくなるのは、時代を問わない時事だからだ。しかし遷都の方針が出されると、再び過酷な労働が繰り返され、悪循環に陥った可能性がある。

 

「銭の用途は、財を通じて余ったものや足りないものを交換するためだ。人民は従来の習慣に囚われ、この理法を理解できないでいる。財を蓄える者がいない。銭を蓄えた者には、その多少に応じて位を与える。私鋳銭の罪が、徒刑3年では軽いから斬刑に、私鋳する者に従った者は官の奴婢に、家族は皆流刑にする。隣5軒で知りながら告げなかった者、犯人を隠した者も同罪である。」

高価に設定し過ぎた和同開珎は、銭を発行する事によって国家が潤ったが、期待したほどに流通しなかったから、畜銭叙位令(711年)によって発行量を増やそうとした。この時代の富裕者は、経済の活性化の恩恵に浴した物部だけでなく、豪農も多数いたと想定される。均田制と豪農の並立に、違和感を持つ人がいるかもしれないが、均田制の原資になった水田は、倭人が帰化人を使役しながら運営していた水田であって、農民が従来から耕作していた水田を接収したのではなかったから、大和政権に帰順した者の中に多数の豪農が含まれ、彼らの土地所有は継続的に認められていたと想定される。

しかし贋金が出回ったから、畜銭叙位令によって蓄えられた銭の内、どれほどが正規の和同開珎だったのか疑問がある。贋金を持ち込んだ者は、ディスカウントした価値でそれを世間にばら撒いただろう。それでも利益が出る程に、大和政権は和同開珎に高価格を設定していた。腕の良い倭人職人が沖縄や僻地で鋳造すれば、正規品と贋金の区別は難しかったと想定され、役人にも判別できなかった可能性が高い。

奈良時代に沢山の金銅仏が造られたが、銅の地金は世間に出回り続けていた。この時期から30年後の740年に、東大寺の大仏建立が決定されたのは、国家が銅を浪費して地金を品薄にすれば、偽の銅貨の鋳造原価が上昇し、偽銭の発生が抑えられる事を期待したからだと想定される。大仏建立を決定した聖武天皇は、「国中の銅を溶かして大仏を造る」と宣言し、500トンの銅を使った。20万貫(2千万枚)の銭=150万石の米(当時の日本の米の年産量の1213)に匹敵する量だったから、国が調達できる銅も払底して銭の鋳造量が減少し、銭の発行政策は行き詰った。しかしその後も、銭の高付加価値化政策を継続したから、銭の使用による経済の活性化政策は失敗した事になる。それでも経済活動が活発に行われ、平安時代中期に貴族が栄花を極め、平安時代末期に武士が華美な鎧を使用するに至ったのは、経済実態に見合った価格で、唐銭や宋銭が流通したからだと推測される。

 

「私稲を貸す場合、今後は5割を超えてはならない。」

倭人時代の利率が、どれほどだったのか分からないが、交易民に高利の日歩貸借があっても不思議ではない。しかし年に1度しか現金収入がなかった稲作民には、高利での借り入れは厳しかっただろう。それを是正するのは善政だが、その様な善政が要求された裏には、債務に追われる困窮者が急増していた事を示す。増税や役務の増加、中間・末端の役人の不正が、農民の生活を圧迫し始めたと想定される。

 

「勢力のある家は多くの山家を占有し、人民の仕事を妨げている。空地を開墾する者がある場合は、国司を通じて申請し、その後に太政官の処分を聞け。」

三世一身法(723年)が発布される以前から、大規模の私的開墾があった事を示し、三世一身法は事後法だった事になる。国家事業としての開墾は、精力的に実施されていなかった状況を示す指示だから、班田は増えていなかった事になる。この様な詔を出した事実は、その様な事態が進行している事に、朝廷が漸く気付いた事になる。人口が増加すれば班田が不足するのは必然だから、大規模な開墾を行って農地を増やした者は、皆に喜ばれて勢力家になり、権勢を強める事になっただろう。余力のある者が農地を拡張する事は、現代人の感覚では当たり前だ。農地を開墾する為に有給で人を集め、集中的に開墾を実施する者が多数出現していたのだろう。その者達に秩序を与えようとした事になるが、太政官の処分が必要なのであれば手続きが煩雑だから、効果的に水田を増やす施策には見えない。太政官に判断が上程されたのは、大和朝廷が実質的に支配していた畿内に留まったとしても、地方でも同様な手続きを要求しただろうから、余りに非効率だったと言えるだろう。

この様な判断をしたのは、倭人時代には米が余っていたからだと推測される。革命の動機の中に、恒常的に大規模開墾を実施し、稲作地を増やし続ける事が繰り込まれていなかった事を示す。中央集権制の実現を目指していた大和政権は、農地の拡大政策が欠けている事に漸く気付いたが、権力志向の官僚群に囲まれた状態では、各地の実態を把握することは困難だった。漸くその一例に気付いたが、適正な判断ができなかったから、政権中枢に藩段々を仰がざるを得なかったと推測される。この様な曖昧な方針は、農地の開墾を抑圧したと同時に、官僚に利権を与える事になっただろう。初めて日本列島に施行された中央集権制だから、不慣れな事が山積していたのは当然だったが、対策を立案するに際して官僚が頼りにならなかった事は当然として、問題に気付く事さえ儘ならなかったであろう事は、現代にまで通じる官僚制の真実だ。

 

712年

「諸国の役民が郷里に帰る日に食料が欠乏し、帰路で飢えて溝や谷に転落し、埋もれ死んでいる事が少なくない。国司はそれに対応するように。」

調や庸として収める物品を運ぶ者ではなく、平城京の建設に駆り出された農民の、帰路の事だと推測される。商工民が全国を歩き回っているから、農民も容易に移動できると安易に考え、遠隔地の農民を無分別に徴発した事を示す。役民が帰路飢えてしまうのは、必ずしも政権の過酷性を示すのではなく、政権の配慮不足と農民の無知に起因した問題だったと想定される。中央集権国家の常態として、地域の実情に配慮しない一律の法令を発布する欠陥が、ここにも露呈したのだろう。

 

「諸国の大税(おおちから:税の一種として得られた国庫収入)を、3年間無利息で貸し付けるのは、人民の窮乏を救うためである。国司、郡司、里長らはこれを利用し、勝手に利を得ている。これを重罪とする。」

役人が公共意識に乏しく、利権を貪る事が漸く問題になった。中央集権国家の役人の倫理が退廃するのは、何時の世も変わらない常態だろう。倭人時代の倫理観は、地域主権が及ぶ狭い範囲で機能するものだった。その倫理の元締めだった巫女も否定され、倭人社会の倫理観は崩壊していたが、新しい体制に対応する宗教や統治倫理は生まれていなかった。20世紀の共産主義国家が直面した倫理崩壊と、同様の現象が起ったと想定される。旧制度を否定すれば、旧制度を支えていた倫理観も喪失する事は、現代でも常識化する事ができていない。体制を刷新するだけで新しい秩序が生まれると、この時代の日本人が考えていたとしても、それを利己的だと咎める事はできないだろう。倫理観は長い経験に基づいた生活の知恵でもあるから、思想教育によってそれを措き換える事など、出来る筈はないのだ。

 

「律令を制定して以来久しい年月が経っているが、未だ律令に習熟せず過失が多くある。違反者は律によって処断せよ。それに当たる弾正台は毎月3回巡察し、法に違反した誤りを正せ。公務を怠る者があれば記録を式部省に送り、査定時に審問調査せよ。国司が入京させる使者は有能な者を選び、訊問に滞りなく答弁出来る者を送るべきで、出来なかった場合には、所管の官僚と使者も査定時に同様に審問調査せよ。国司は所管の官人の考課を記録して式部省に送り、式部省はそれを巡察使の所見と照合して考えよ。」

中央集権国家の役人の、非効率で無責任な勤務態度を矯正する手段として、その業務を監督する者を活用し、役人の怠慢に言い訳をさせない状況を、作ろうとした。役人の査定システムを厳正にし、勤務態度を改善させようとする事に、効果があったのか疑問だ。根本的な倫理観が欠如している状態で、監督を厳しくする事が無力である事を、現代人は良く知っている。青字の文章を読んだだけで、或る程度の状況は判断できるだろう。中央集権国家では、担当役人の成果評定は難しいから、役人の勤務態度が劣化すると同時に、平均的な能力が劣化して行く。現代の役人の様に、外部企業に発注する事ができれば、異文化交流による活性化が可能だが、この時代の役人にはそれは望みにくく、有効な行動規範も業務マニュアルもなかったから、真面目な者が途方に暮れる場面が頻出したと想定される。

このHPでは大和政権を辛辣に批判するが、殆どは中央集権化に伴う必然的な帰結だから、担当していた役人や、執行の最高責任者としての天皇を、倫理的に批判しているのではない。むしろ必然的な結果を隠すことなく明らかにし、真剣に対策を立案しようとする真摯な姿には、感銘さえ感じる。歴史が必然的に流れ、理想が現実になっても、当初の思い通りにはならない事から、新しい葛藤に移転する。その経緯と事情を読み取る事が、歴史の解釈として重要であると考えるだけで、他意はない。

 

「諸国の労役の人夫と運脚(庸・調の物を運ぶ)が郷里へ帰る日、食料が欠乏して調達する事が難しい。郡稲から稲を支出して便利な場所に用意し、自由に買えるようにせよ。旅行する人に銭を使う事の便利さを知らせよ。」

地方から駆り出された役夫が、帰路食糧難に陥る理由を、運搬を職業としている者(物部)から聴取し、彼らの意見を参考に対策を立案したと想定される。都に出てきた者が帰路食糧難に陥る理由は、都では食料が調達できず、途上の農民からも調達出来ないからだ。交換経済が未発達だった山村では、都で支給された銭で米を買おうとしても、拒否されたのだろう。物部は移動に際し、何処で一宿一飯の便宜が得られるのか知っていた。富裕者の中には、物部に情報の伝達機能を期待し、商品の売買がなくても宿を提供する者がいただろう。旅慣れた物部は、その様な環境で活動する事が出来たが、役夫には出来なかった。それで已むを得ず、郡司に食料を提供させる事にした。

 

713年

「郡司の官僚は、6貫文以上蓄銭している者に限る。」

畜銭叙位令を発布しても、銭の発行量が期待したほど増えないので、官僚に強制的に持たせる事にした。全国の郡衙の官僚(長官と次官)の合計が2千人程度だったとしても、1万貫増える程度でしかない。蓄えた銭の中には、贋銭も含まれていただろう。郡の官僚がその銭を稼ぐために、不正な蓄財を行う事を助長する結果になっただろう。それによって人民は更に困窮し、発行した銭は退蔵され、投資されない死に金になった。民間の富を無為に吸い上げ、産業の活性化を阻害する事になっただろう。

 

「国司や郡司は、富豪の者から募って米を路傍に用意して売買させ、物税を運搬する人民が各自一袋の銭を持てば、道中の飢えが少なくなるようにせよ。また田を借りる場合には、銭で支払うようにせよ。銭を所持していなくても、交易をしたいと願う者についてはこれを許せ。」

役夫のために郡が米を用意する行為は、銭を普及させて国家財政を豊かにする目的とは、逆行する結果を招く事に気付いた。銭が郡衙の備蓄米と交換できる様になると、銭を使って郡衙の米を持ち出す者が頻出し、郡の備蓄米が不足する事態になったと想定される。正規の銭が使われたのであれば、国家として見掛けの損得はないが、贋金が使われると国家財産の流出になった。そのために郡が備蓄している米を銭に変える制度を中止し、富豪から米を募る制度に変更した。富豪に銭を持たせる事により、銭の流通の促進も図る事ができる、一石二鳥の策だったと思われるが、姑息な政策は富農の反感を買っただろう。銭の流通価値が減価し始める、契機になったのではなかろうか。

 

「薩摩の隼人を討伐した将軍や士卒のうち、先陣で功のあった1280余人に、功労に応じて勲位を授ける。」

薩摩の平定に目途が付き、士卒の叙勲を行なった。壬申の乱の功労者には叙勲が遅れ、死後の追贈が習慣化してしまったが、隼人の討伐では除隊時に授与した。意識改革が進んだ事が分かる。

 

「和銅4年以前に借りた公私の稲・粟を、未だ償還していないものは皆免除する。」

徳政令を出した事は、困窮する農民が多発した事を示す。班田を支給されて豊かになった筈の農民が、困窮し始めた理由は幾つかあった。租税負担の増加が、最大の理由だったと考えられる。銭の普及に躍起になっていた事は、国家財政に余裕がなかった事を示唆し、農民に重税を課す動機が生まれていた事になる。国家が新たに事業を行うと、その度に定員が増え、政府の財源が厳しくなっただろう。官僚組織の膨張傾向は普遍的な事実だが、この時期の大和朝廷にその対策があったとは考えにくい。役人に支払う給与の財源が厳しくなれば、下級役人の給与が低く抑え込まれ、彼らが横領に走った疑いもある。役人の倫理観が失われ、利権を漁り、賄賂を求めれば、農民にしわ寄せが及んだだろう。

農民側にも、問題があっただろう。戦乱が収まって故郷に戻ると、政策的に内需産業が活発化され、物部や職人が豊かな生活を始めた。彼らを取り巻く農民にも、そのライフスタイルの向上余波が及び、生活水準の向上競争が始まっただろう。生活水準が高くなることは、商品経済が浸透する事と同義になる。その様な環境の中で、一部の才覚のある農民は、米を始めとする換金作物の増産や栽培に成功し、更に豊かになっただろう。しかし多くの農民には、体裁を保つ費用が高額になり、困窮化の道を辿った可能性が高い。内需産業が活性化して生活水準が向上する事は、全員が豊かになる事を意味しない事は現代も同じだ。商工業が発達して社会が豊かになると、当然貧富の差は拡大する。色々な事情があったにせよ、農民全体の平均的な生活水準は、飛鳥時代より格段に向上していた筈だ。

 

「これまで防人の引率のために、専門の使いを派遣したが、駅の人馬共に疲れている。今後は防人を駅毎に順送りするようにせよ。」

意味不明の文章だが、防人の派遣に要する費用が莫大になっていたから、その費用を節減したかった、詔の意図は分かる。防人の引率に莫大な費用が掛かっていた事は、非効率な官僚機構が出来つつあった事の事例になるだろう。防人に関しては、帰路飢えて死ぬ者が居たとする誤解が、20世紀後半に流布していたが、関東の軍事力によって政権を誕生させ、関東の農民から徴発した軍事力で政権を維持していた奈良朝が、防人を疎かにした筈はない。金が掛かり過ぎている事を問題にしている事が、それを示している。往きは面倒を見たが、帰りは勝手に帰らせて路傍で飢えたとする説もあるが、地域の郡衙の記録から、帰路も食料を支給していた事が判明している。

関東から九州に遠路防人を出したのは、関東が革命勢力の中核だったからだ。鹿島と香取だけが神宮位を貰い、勲一等も得ている事がそれを示している。革命で打倒された北陸などの東鯷人地域から、徴兵出来なかった事は分かるが、大阪湾岸の倭人地域からも徴発できなかった事と、生駒山中の高安城がなかなか廃止できなかった事と併せて考えると、難波の人々は倭人の統治時代に未練があり、大和政権を評価していなかった事になる。倭人地域だった吉備も、同様だった事になる。それらの地域は飛鳥時代の不況期に、関東ほど困窮していなかったからだと推測される。温暖な地域では、絹などの換金作物を栽培する事が可能で、工芸品産業も成長していたからだろう。飛鳥時代の関東の気候では、絹や油などの換金作物の栽培が出来ず、製鉄や製陶産業も育たなかったからだ。砂鉄や陶土の質が悪かったと、指摘している人がいる。

 

「鞍作磨心(人名)は、錦や綾を織る工芸の技が抜きん出ている。雑戸から良民に変え、柏原村主(すぐり)姓を賜う。」

雑戸は、倭人系の職人や農民だった事を示す戸籍だった。彼らの父祖は大和朝廷の賊だったから、卑賤な者とされていた。革命に参加した商工民も良民だったが、内需品を作っていた職人の技能は低かったから、工芸の技に優れた雑戸を良民とし、技能の継承を図った事になる。天皇がこの様に直接裁可したのであれば、その数は少なかった事になるが、例示として記された者だったのであれば、その数は多かった事になる。倭人時代の技能を見直す余裕が、生まれていた事になる。

雑戸なのか良民なのかを、庚午年籍を出典として議論するケースが、続日本紀に散見される。庚午年籍はその表題が示す様に、670年の戸籍だから、壬申の乱以前の戸籍だった事になる。倭人政権は地域分権制だったから、広域の戸籍を作成した筈はない。壬申の乱直前の、670年に作成した事になるから、その頃甕星が関東を制圧し、征西を歓迎する同志を募るために、連判状として庚午年籍を作ったと想定される。西日本では防人が徴発できない程に、反革命的な雰囲気があったとすると、相当数の雑戸がいた事になる。

 

714

「調として絹や麻布を輪納する国は、庸・調以外に人毎に絹や麻布を規定量蓄えさせ、生業の助けとし、貧困対策とさせよ。」

蓄財に絹や麻布を指定した事は、銭が普及していない事を認めている事になるだろう。調は政府によって価値が決められ、安定した価値を保証されていたから、調の方が安心できる蓄財だった事を示す。現実問題として、和同開珎は徐々に減価していたから、調の方が価値は安定していた。しかしこの対策では、既に発生している貧困問題の解決策にはならない。的外れの政策を生み出したのは、地方の実情に疎い官僚だったのではなかろうか。

 

「気候が不順である。幣帛を諸社に奉納し、名山や大川に降雨を祈願すべきである。」

女性天皇には、巫女としての機能はなくっていたから、名山や大川が信仰の対象になっていた。実際に降雨を祈願したのは名山や大川だったが、諸社に幣帛を奉納した事は、神社も信仰の対象になり始めていた事を示唆する。名山や大川を信仰対象とする習俗は、倭人時代にもあったと考えられるが、神社は古墳を無視しているから、倭人時代にはなかった信仰だと考えられる。神社に祭られる神の殆どは、古事記が系譜を定めたものだから、飛鳥時代末期に形成された事になる。古事記が示していない神を祭る神社も、神社信仰がこの頃発展する中で生まれたと考えられる。

革命を成功させた各地の地域勢力は、地域の団結力を維持する方向に戻り始めたが、倭人の諸王や巫女が追放されていたから、新しい団結の核が必要だった。その様な需要に応える存在として、神社が機能し始めたと想定される。民衆の団結心を鼓舞するために、各種の霊験を発掘・創造して地域住民の守り神とし、信仰の対象になっていったと推測される。朝廷は地域勢力に迎合する必要性を感じ、祈願の種類に応じて、ふさわしい神社を選んで幣帛を奉納したと想定される。この様な神社勢力は大和政権にとって、中央集権制を樹立した同志ではなく、懐柔すべき地域勢力に変貌していたと考えられる。その最大の理由は、平安朝の衰退を神社が支えた実績はなく、王朝の権威が完全に失墜した戦国時代以降も、神社は地域勢力として存続していたからだ。奈良平安時代を通して神社の社格が上昇し続け、最後には正一位を授与される神社が出現した事は、神社勢力が成長し続けていた事を示唆する。

その事情を忖度すれば、倭人時代の地域主権的な伝統を継承していた地域勢力は、中央集権制に失望して地域主権化しつつあったから、大和朝廷は地域勢力を懐柔する必要を感じ、幣帛を奉納する様になったと考えられる。革命戦争を総移行した関東系の天皇は、武断的な性格を維持していたから、地域勢力に媚びる積りはなかった可能性が高いが、難波朝は陰謀と政変で政権を奪取したから、その弱みから地域勢力に媚びる必要があったと想定される。大和朝廷が行事として神社に幣帛を収めたのは、この詔によるものが初出だった可能性がある。

 

715

「皇太子が拝賀した時に瑞雲が現れたので、大赦を行う。但し八虐を犯したもの、贋銭を鋳たもの、盗人は含まない。」

相変わらず贋金が横行し、それに悩まされていた事を示している。

 

6道(九州を除く)の諸国で営造する武器は、充分しっかりしていない。今後は毎年、製造した武器の見本を提出させ、巡察使が出向いた時に調べよ。」

中央集権制の官僚国家が、官営製造に手を出せば、品質管理が杜撰になって数を揃えるだけになる事は、洋の東西を問わない普遍的な傾向だろう。大和朝廷が管理する官営の兵器廠も、その傾向が顕著になった。

 

3、元正天皇(715年~724年)

即位の詔(715年)

「国家が栄えるためには、人民を富ませる事が大切だ。人民を富ませる根本は、財産を増やす事に専念させる事だ。男は農耕に努め、女は機織りを修め、豊かになって恥を知る心が生まれれば、刑罰を必要としない太平の風習を招く。諸国の人民はただ、湿地で稲を作ることにのみ精を出し、大水や日照りにあえば、多く(の者が)飢饉に見舞われる。国司は人民に命じ、麦と稲とを共に植えさせよ。粟(アワ)は永く貯蔵しても腐らず、穀物の中で最もすぐれたものだ。その他の雑穀も、人々の力に応じて割り当てよ。稲のかわりに粟を租税として出す者があったら、これを許せ。」

男が農耕に努め、女が機織りを修めると豊かになるのは、商品経済が浸透していない原始共産制の発想になる。倭人の制度や政策の欠点を正す政策方針が、いつの間にか原始共産制に辿り着いていた。倭人は商工業を発展させ、経済的に発展した社会を形成していたが、その必然的な結果として、貧富の差が大きく、不況が発生する社会になっていた。倭人社会を否定し、中央集権制の国家を作った人々は、地域分権的な規制を緩和し、貨幣を発行して経済を活性化させる事を理想としていたが、政策の中には、均田制などの共産主義的な発想も含まれていた。この詔はそれをさらに進め、完全自給自足的な農村社会を、理想としている様に見える。鉄や塩などの必需品は交換経済に頼ったとしても、それ以外は自給に頼ろうとした事になる。大和政権がこの様な姿勢を見せた事は、政権を支えていた筈の物部勢力が、権力中枢から排除されつつあった事を示唆する。

大和政権の新天皇とその取り巻きは、商品経済が農村に浸透している事を理解していなかった。先代の元明天皇は、布を財産にする様に説いたから、一見同じ事を言っている様に見えが、元明天皇は「調として絹や麻布を輪納する国」と限定しているから、商品価値がある布は財産になると判断している。この言葉だけが独り歩きし、官僚の作文によってこの様な表現になったとすれば、官僚の劣化を示すと同時に、官吏としての高禄を得て商品経済に浸る貴族と、自給自足的な原始共産制社会に向かいながら、米を生産して租税を納める農民という、階層化を想定し始めた疑いがある。中央集権制は官僚貴族の為にあるという、思い上がった発想が芽生え始めていた事になり、中央の官僚貴族と地域住民の対立が生まれる土壌を、形成しつつあった可能性が高まる。

倫理観を喪失し始めていた日本社会を更生するために、「恥」を思い起こさせる必要があるとする指摘に、注目する必要がある。「恥」には自己規制的な発想と、抑圧に反発する攻撃的な発想の2種類がある。以降では、日本的な前者を「恥」とし、攻撃的な後者を「恥辱」と表現する。「恥」は公共意識として、倭人社会で発達した概念だったと推測され、ここで「恥」の概念が掲げられたのは、それが当時の日本人を律していると考えたからだろう。中国人が羨んだ、秩序立った倭人社会では、多様な概念が人々の日常生活を律していたと想定されるが、その多くは倭人社会の崩壊と共に失われ、中央集権的な国家の下で、倫理を規定していた巫女も否定され、当時の人々は倫理観を喪失しつつあったが、それでも残っていると当時の人が考えた倫理観が、「恥」の概念だったと想定される。倭人時代の倫理観の、根幹だったからだろう。役割社会だった倭人時代には、役割を完遂できない事が「恥」だったと想定され、当時としては、官僚社会に必要な概念だった様に感じるが、農民に最低限必要な概念だったのかについては、疑問がある。農作業には、役割分担は必要ないからであり、それ故に農業社会だった中華では、発達しなかった概念だからだ。官僚が自分達に必要な概念だと考え、それを農民にも適用した、安易な発想だった疑いがある。

ここまで話が進んだ段階で、倭人社会から中央集権制の社会に転換していく中で、何が変化したのか認識して置く必要があるだろう。

「恥」の文化を継承している現代日本人は、契約書を交わさずに信頼関係だけで商取引を行う。この様な倭人社会に起原を持つと考えられる、現代日本人に特有な商慣習は、「恥」の概念が浸透していた倭人時代の商品経済を、推測する根拠になるだろう。「恥」を基調とする文化は日本独特であり、中国文化にも西欧文化にも、その概念は乏しい。

中華が尊重する仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌は、「面子」概念の自己規制に繋がる、他者に表現する徳目であって、「恥」の様な内面的なものではない。それ故に中国の商人には信義がなく、商品の品質に問題が生じる事は、現代では常識になっている。中国人を商業民族とする主張は、的外れである事は明らかで、それは古代から継続する中国人の特徴である事を、史書が示している。

西欧では神との契約や法律などの、明示された条項に違反する事を「罪」と考え、自己規制の原点と考える。そのために、聖書や契約書は長文が必須になって煩わしいが、彼らはそれを厭わない。

日本文化に聖書がないのは、「恥」という実用的な発想が原点だったから、話し合いで認識を共有したからだが、それ故に共通認識に地域差があり、中央集権制が地方に浸透しない事情を生んだと考えられる。

恥から離れ、広い範囲を漠然と概観すると、奢侈を求める風潮が倭人社会にもあれば、金銭的なトラブルから発展する抗争が、なかった筈はないが、倭人社会にはその様なものはなかった。農民社会が抗争的になるのは、耕作する農地を確保する必要があったからで、人口が増えれば必然的に発生する事情だった。倭人世界にも農民はいたから、その抗争が倭人社会に影響を与えなかった事は、巫女が差配する倫理観が強力に、日本列島全体を支配していたからだと想定される。魏志倭人伝は、卑弥呼の力量として、長く続いていた抗争を鎮めた実績を示しているからだ。その抑圧が極めて強力だったから、倭人社会では競争的な奢侈の追及が抑圧され、貨幣の使用が排斥されると同時に、原始共産主義的な共同社会が追及されていた可能性がある。原始共産主義的な共同社会でも、奢侈を追求する流れが生まれたから、古墳時代に産業社会化したと想定されるが、強い平等意識に裏打ちされたものだった可能性が高い。

倭人は交易者として、中国の貴人の為の奢侈品を開発し、それを中国に持ち込んで交易を行っていたから、倭人が中国に貴人に推奨した生活と、日本での倭人の生活は全く異なるものだった事になる。それは矛盾する事ではなく、「紺屋の白袴」に過ぎなかったと推測される。

以上を勘案すると、元正天皇が打ち出した原始共産制的な発想は、倭人時代の農民社会への回帰が、念頭にあった可能性がある。但しそれは、倭人に米の供給者に過ぎないと見做されていた農民の姿であって、革命によって経済の主役に躍り出た筈の、豊かになった農民の在るべき姿ではなかった。

粟も租税とする方針に転換したのは、租税収入が期待したほどに集まらない状況に、なっていたからだろう。商品として取引実績の乏しい雑穀は、租税としては適切な品目ではなかったが、都の造営に従事する労働者の食を賄う米が、不足していたからだと想定される。当時の農業土木技術では、十分な広さの水田は得られなかったから、稲作だけでは農民の食料として十分な穀物は得られず、農民は換金作物として米を作りながら、山林を切り開けば農地になる焼畑農耕で、粟を栽培して自給用の不足分を賄っていた筈だ。商品経済に組み込まれていた農民は、そのために米を作る必要があり、班田が支給されると租税の負担を強いられたが、余った米を換金して必要な物資を得る事ができた。

この詔以前は、良民は米を租税として納入していた事、全ての良民は水田を持っていた事を意味する。水田を持っていなければ、調を収めていた事になるが、それを示唆する文献がないから、全ての良民が班田によって水田を得た事になっている。しかし支給される均田がない山間で、焼畑農耕を行っていた者も多数いただろう。彼らは戸籍から漏れていた事になり、良民ではなく雑戸だった可能性が生まれるが、この詔はその様な農民からも、租税を徴収する方針転換を意味した可能性がある。

班田を支給されていた良民は、租税を納める事ができた筈だ。彼らに粟を収めても良いとした事は、班田の生産性が劣化したり、規定の広さを支給できない者が出現したりしたから、規定の租税を収める事ができない者が多数出現した事も示唆する。湿地で稲を作ることにのみ精を出しという論調は、支給する班田が不足した事を示唆するが、以降の流れを追うと、班田の生産性が劣化した事も重要な要因だった。元々班田の原資は、大農場を経営して帰化人に耕作させていた倭人から、接収した水田だった。それ以外に班田の原資が無い事は、農民にも分かっていただろうし、大和朝廷も分かっていただろう。711年の詔に、空地を開墾する者がある場合は、国司を通じて申請し、その後に太政官の処分を聞けと述べている様に、大和朝廷は開墾を行う計画を持っていなかった。従って、湿地で稲を作ることにのみ精を出しの文は、班田の管理が不十分で灌漑水路が機能しなくなり、水田としての機能に不備が生じている事を、婉曲的に述べた可能性が高い。租税が集まらない事に、言い訳する地方官僚の報告書が、その様に潤色されていたのだろう。

以上の議論の結論としては、班田の生産性が劣化して租税が集まらなくなったから、粟でも良いから収めさせる様に指示した事になり、農民にとっては、大変な事を言い出された事になる。班田を支給して貰い、余禄を得ようとしていた農民に、班田の生産米を全て供出した上に、自家消費分の粟も租税として出せと言った事になり、革命前の生活より救貧化する事を、強制した事になる。換金作物である米を少し残し、不足分を粟で収める事を許す方針に切り替えたのかもしれないが、実績と慣例を根拠にする官吏が、全員その様にしたとは限らない。苛斂誅求を深める、根拠になった可能性もあるだろう。中央政権と地方の対立を生みそうな、施策だったと言えるだろう。

 

716

「壬申の乱の功臣の子10人に、地位に応じて田を賜わる。」

壬申の乱は重大な決戦だった事を、この文は改めて示唆している。功臣が生きている間に、十分な顕彰を行わなかったから、顕彰制度が整い始めると、色々な批判が生まれただろう。壬申の乱の功臣の子孫は、下位の身分に捨て置かれているのに、大した功もなかった者の子弟が、高官となって高禄を食んでいる事に、深刻な対立が生まれたと想定される。現代人は、個人の問題だと割り切れるが、父祖の功績は子孫が共有できるとする中華思想を、大和政権は取り入れ始めていた。それは中華思想の根本原理だったから、時代と共に浸透していっただろう。

倭人時代には、遥か昔から続く血統身分と、代々継承される生業的な役割の中で、地域集団内の身分が決められ、統治官僚は殆どいなかったと想定される。しかし中央集権国家内には、膨大な数の官僚が寄生し始めていた上に、彼らの身分も、血統的な固定化に向かっていた。功田の子孫に対する継承権に関し、細かい規定を設けている記述が、その流れを示唆する。

革命の功労者と、政権誕生後の能吏とは、能力主義的な社会では全く異なる人材になる。それに囚われずに登用された人材が、中華でも活躍する場面が史書に散見されるが、異例の事だったと考えるべきだろう。その背景には、建国の功臣の子孫である事を根拠とする、権門貴族が多数いた筈だ。倭人の習俗を継承した日本では、中華より能力主義的だったと想定されるが、この時代の様相ははっきりしない。

 

「調を運ぶ人夫が京に入った日には、所司の役人は調を自ら調べ、国司の国を富ませる努力を評価せよ。近年の計帳によれば実績は良好だから、人民にゆとりがある筈だが、人夫の衣服は破れ、顔色が悪い。公の帳簿に偽りを書き、国が富んでいる様に見せかけ、良い評定を得ようとしている。人民の苦しみをあわれみ、委ねられた事に副うように仕事をせよ。管内の豊凶や農桑の増益の状態を記録して言上せよ。」

各地の特産物である調の生産が増える事で、各地の富裕度の向上を評価する考え方は、産業振興策になる。中央集権国家を樹立し、産業を振興というという建国の精神は残っていた事になる。しかし各国の国司の成果報告書が、水増しされている事を糾弾している。その理由が調を運ぶ人夫の衣服や顔色の判断では、如何かと思われる。実際には、人夫から聞き取り調査したのだろう。朝廷が実際に巡察使を派遣していない事を、示唆している。元々目が届く小さな国で施行されていた法を拡張し、全国の地域行政に適応したから、評価制度が欠落していたと想定される。

調を運ぶ人夫は、挑発された農民だった事を示している。物部に運送組織がなく、農民が挑発されたのであれば、経済的に不合理な仕組みだった事になるが、大和朝廷が権威を誇示するために、意図的に地域の農民を都に狩り出したとする説がある。平城宮建設のための、労働者の徴発は期間が延長され、激務になっていた。調の運搬も当初は都の繁栄振りを地方の者達に見せる目的だったが、その労役も好まれない負担になっていたと推測される。

路上で飢える心配は既に解決されたらしく、此処では問題になっていない。

天皇は、人民が豊かにならないのは官僚の怠慢だと考え、官僚がその怠慢を隠している事に気付いた。一般論として、任期がある官僚が成果を上げるのは、既存の達成すべきモデルがあり、それを全国展開する場合に限られる。産業の振興に関して、唐は商工業の発達が治安を悪化させると考えていたから、全く参考にならなかった。地域的な規制を撤廃し、市場を全国に広げた事は、産業の振興に役立っていただろうが、更に地域産業を振興する為に、官僚が活動する場があったのか疑問だ。現代人であれば、官の仕事はインフラ整備だと考えるが、当時の人にその認識がなく、何らかの産業が盛んになる事を、直接地方官僚に求めたのだろう。官僚は厳しい督促に遭い、水増しの申告を行う様になった。現代でも、共産主義国で横行している問題だと言える。

農家の副業として未熟練労働者に何かを製作させても、品質が低く換金性がないから、商品にはならない。前年の即位の詔で、男は農耕に努め、女は機織りを修めて豊かになってと述べたから、地方の役人がそれに従い、農民に麻布を織らせたから、粗布が次々都に持ち込まれる様になったのだとすれば、織布を強制された上に、都に届ける人夫として徴発されたのでは、人民も迷惑だっただろう。その様な不満が多数の人夫から漏れ、この詔に繋がったと想定される。裏を返せば、天皇は行政に深い関心を持ち、この様な細部の施策にも熱心取り組んだと言える。理想的な中央集権国家を作るという情熱は、まだ冷めていなかった様だ。

 

「諸国の寺家は、設備が伴わない多くの寺を作り、寺田を賜るように訴えていると聞く。数寺を合併し、廃れた仏法を興隆させねばならない。国司は管内の寺家の中で、統合すべきものとその寺の財産を箇条書きにし、奏上せよ。また聞くところによれば、寺家が寺を作っても僧がおらず、檀越の子孫が田畑をすべて支配し、その妻子を養うのみで寺の僧に役立てようとしないので、争いが起り騒がれている。檀越が勝手に収穫を処理してはならない。」

この時代の庶民には、仏教徒は少なかった筈だが、国家が仏教を保護して免税対象にしたから、この様な事態が頻発したと想定される。仏教を節税対策に使う庶民の逞しさが、現れている。倭人時代には相互監視が厳しく、宗教に対する冒涜はなかったと推測され、この様な変化が起きたのは、庶民が中央集権制の弱点に気付いただけでなく、地域共同体の意識が、この様な傾向を生んだ推測される。

政権が無理に仏教を広げようとしたから、庶民がそれに対して反抗する姿だった可能性が高い。政権が仏教の普及を推進したのは、官僚の倫理観を高める必要からだけでなく、神社勢力の弱体化を狙う目的もあったからだと推測される。

現代日本人も、仏教を胡散臭い宗教と見做し、敬虔な仏教徒にはならない。16世紀に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、日本の仏教が既に堕落し、坊主が職業になっていると非難していている。現代日本人が仏教徒にならず、むしろ神道に信仰心を寄せているのは、大和政権が神社勢力を牽制するために、仏教を利用した事に起源がある可能性がある。仏教関係者が記す日本の宗教史では、敬虔な信徒を多数抱える宗派が出現するが、庶民が仏教を信仰対象にした時期があったのか、疑問が残る。江戸幕府が宗門改め帳を作る以前から、仏教は政権と結び付き、庶民を支配する道具だったのではなかろうか。逆に神社信仰は、政権と対峙する地域勢力が支持母体だったから、政権と結託する事はなかった。しかし地域の団結維持が存在理由だったから、政権と対峙する大勢力に発展する事はなかった。

 

717

「官職を設け有能な人物を任命するのは、愚かな人民を教え導くためであり、法律を設け禁制を作るのは、悪事を禁断するためである。この頃人民が法律に違反し、勝手に出家している。行基とその弟子は、徒党を組んで人民を惑わしている。僧侶がまじないや占いを行い、報酬を求めている。監督官が取締りをおこなわないからだ。今後は禁止せよ。」

革命によって倭人宗教が否定され、人民の倫理観が崩壊していたから、地域毎に色々な混乱があり、集団間の衝突も発生していただろう。その様な状況の中で若い女性天皇は、下僚が奏上する問題点の多さに、うんざりしていた様だ。人民革命政府の統治者が、自分が掲げる理想に人民が従わない事にうんざりするのは、必然的な結果だろう。

仏教を国家統制し、官僚や人民を管理する手段にしていたから、勝手に出家する者や法令に従わない僧が生まれ、国家統制の圏外の僧侶が多数発生する事は、大和朝廷として許せなかった。行基の行いの善悪ではなく、国家統制の枠外にいる事が問題だったと考えられる。

仏教は哲学を説くだけで、日常生活の規範を示したわけではないから、結局倭人時代の倫理観に戻るしか、人々が地域の秩序を回復する手段がなく、国家がそれを推奨しない以上、神社を核にして地域的な団結を図るしかなかったと想定される。逆に言えば、倭人時代の倫理観の完成度が高かったから、人々は仏教に魅力を感じず、元の倫理観に戻って行った事になる。

 

「人民が四方に流浪して課役を逃れ、王臣に仕えたり、下級官吏や僧になろうとしたりする。王臣も彼らを召し抱えたりする。その様な者には、律令の掟の通りの罪を課せ。」

租税負担が重くなり、課役を逃れるために流浪する者が発生したのであれば、相当の重税が課せられていた事になる。班田を貰っても収入が増えず、逆に過重な負担を強いられる事態に、耐えられなくなった者も少なからずいたのだろう。人口が増えても班田が増えなければ、田を規定量給付する事は覚束なくなる。国家が水田の開発に取り組まないから、在地の富裕者や官吏が個人的な身分で私田を開墾し、農村の余剰労働力を雇用し始めた。王臣が流浪者を召し抱えていた事は、高級官僚でさえ私的な開墾を進めていた事を示す。その様な開墾者が、課税される国家の民より好待遇で流浪者を抱え、余剰になった労働者や窮乏した良民が仕える様になっていた。

その様な富豪や権勢家は、政権から見れば悪人だったが、雇われて賦役が軽くなった者や口分田からあぶれた者にとっては、恩人になっただろう。国家が農民に重税を課しながら、富豪や権勢家の課税が軽ければ、必然的な帰結だったとも言える。荘園制が発展する土壌が、既に醸成されつつあった事になる。

官僚が見掛けの仕事を増やし、組織を膨張させて末端の吏員を増やそうとするのは、万国共通の傾向だ。流民が下級官吏になった事は、官僚組織の膨張が始まっていた事を示す。その経費が増加すれば国家財政は窮迫し、増税が必要になる悪循環が生まれる。寺院が布教の為に慈悲を説き、経済的な困窮者を僧として受け入れると、その寺院を存続させる為に国家財政を費やし、租税負担を重くする動機を助長した。

地域の実情を知らない、中央集権官僚の一律的な政策は、人民に過剰課税や過剰労務を強制している事に、気付かなかっただろう。その上に官吏が腐敗し、収奪が進行していたと想定される。官僚が自からそれを指摘し、改める流れが生まれる事は滅多にないから、中央政府の認識は未熟だったが、制度が規則通りに働かず、役人の誤魔化しが多いという認識に達した。律令の規定からの逸脱も違反者への刑罰も、改めて掟通りの罪を課せと指示したのは、規律の緩みも目立ったからだろう。

 

「税として納入させる絹、絁(あしぎぬ)の価値がまちまちになっている。条例で公平にし、均等に納めさせる様にせよ。」

物部の利権を支えていた調の価格は、個別商品の生産地域毎に設定され、類似商品の価格は、産地によって異なっていた。調を役人が市で売ったり、同じ商品が直接市に出荷されたりすると、人々は産地を意識しながら商品を選別する様になる。価格の不揃いは、特定産地の商品に需要を偏向させるが、それで購入者が不便であるという事より、商品を販売する物部にとって極めて不都合な事だったから、この様な言及になったと考えられる。調の価格は政府が統制していたから、個々の物部にはどうする事も出来ず、販売が不振になった物部の苦情が、業界を代表する高官を通して陳情されたと推測される。これによって市場価格が設定され、品質と価格の競争が始まった事になる。

 

718

「平凡で愚かな人民は、ゆるい法網なのに自らそれに掛かり、官の法律は常にこれを咎め正す。憤怒の情を禁じ得ない。広く最善の道を示し、朕の慈愛を示して良い風俗に馴染ませたいから、大赦を行う。収監者を赦免せよ。」

天皇は理想と現実の違いに苛立っていた。中央集権国家を運営する政権の、思い通りに人民が統治される事などあり得ない。理想を持つ天皇は、どうしたら良いのか分からなくなった。違反者を検挙しても法令は守られず、検挙者の数が想定以上に増えてしまったのだろう。取締りを強化するよりも、融和策の方が有効だと判断した事になる。「憤怒の情」は穏やかではないが、打つ手が無い悔しさの表現だろうか。ここで云う人民は、商品の統制価格に翻弄される、小商人を指していた可能性が高い。

 

720

「隼人を征討する将軍の、大伴旅人をしばらく入京させるが、副将軍以下は隼人がまだ平定し終わっていないので、留まってそのまま駐留せよ。」

将軍を召喚した事は、九州南部の平定がある程度進行した事を示す。しかし依然として、兵を駐留し続ける必要があった。この年の2月に隼人が反乱を起こし、大隅の国司が殺害されている。

 

「仏教の経典を唱える作法(唱礼)には、伝えられた法則があり改めるべきではない。唐僧道栄、学僧勝暁らの方法によって、転読・唱礼すべきである。」

大和政権は、急激な唐化政策を推進していた。経典などの漢字の読み方も、従来の呉音から唐の音(漢音)に変えさせようとし、詔や政令でそれを強制したが、それは失敗して呉音が使われ続けた。唐音化を強制した初出が、この詔だったとされている。しかし万葉仮名が呉音である事から分かる様に、日本人は倭人時代から江戸時代まで呉音を使い続けた。現代日本人が漢音を多用するのは、明治時代に沢山の翻訳語を作った際に、漢音を使ったからだ。

呉音が日本に伝わった時期を推測するためには、その読みを「呉音」と呼ぶことを重視する必要がある。記紀が「呉」を「くれ」と訓読みさせる事も、検討の参考になる。呉国が出来る前に、呉の地を「くれ」と呼んでいたから、「くれ」という訓読みが出来たと想定されるからだ。呉はBC11世紀ごろ、周の封建領主として成立し、BC437年に滅亡したと史記は記しているが、史記は稲作民政権の歴史を抹殺するために、捏造史を記した書籍だから参考にはならない。三国時代にも呉と称する国が揚子江流域にあったが、当時の倭人や東鯷人は、この王朝とは一線を画していたから、その王朝から漢字の音が伝わったとは考え難い。漢書地理誌が戦国時代初期の地域名として呉を採用しているから、その頃呉と呼ぶ国があった事は確からしい。「くれ」という訓読みは、呉と呼ぶ国が成立する以前に、倭人が揚子江下流域の地名か、呉を形成した集団の呼称だったと考えられる。倭人が漢字を習得した記事は、音を呉の国の読みに統一した時期ではないが、呉音に統一したのは春秋時代だった事になる。魏志倭人伝に記された「大率」の、中国での使用時期が殷周交代期かそれ以前だったとすれば、倭人が漢字を使い始めたのは、周代以前だった事になり、学んだのは稲作民からであって、雑穀民起源の漢民族ではない事になる。

後漢代の倭奴国の使者や邪馬台国の使者は、中華帝国に対して自分は「大夫」であると自称した。「大夫」は、春秋戦国時代の中国の、地域主権国の重臣の呼称であり、中央集権制の帝国になった秦・漢では使わなかった。日本人も倭人文化を継承し、平安時代になっても「大夫」を呉音で「だいぶ」と読めば、倭人時代に意味した重臣を指し、「たいふ」と漢音で読めば、軽輩を意味した。鮮卑族の征服王朝だった唐の音を軽視し、呉音を尊んだのは、稲作民文明の継承者である事を、平安時代になっても意識していたからだと考えられる。

大和朝廷が漢音を奨励したのは、呉音が倭人の発音である事を、人々が意識していたからだと推測される。革命によって中央集権制が誕生したが、一旦革命に賛同した各地の地域民は、倭人時代の地域主権的な発想に戻りつつあった。大和政権はそれに危機感を持ち、倭人時代を思い起こさせる呉音は使いたくなかっただろう。しかし呉音が頑強に使われ続けた事は、中央集権制の良し悪しは兎も角、革命直後から唐風の価値観に違和感を持ち、倭人時代の価値観に戻った事を示している。

 

721

「朕の徳が少なく、民を導く十分な力もない。国家の事で有益な事は必ず奏上するようにせよ。朕が聞き入れないような事があれば、何度でも厳しく諌めてほしい。面前で服従している様に見せて、陰口を言う事がないようにせよ。」

天皇は人民不信に陥り、官僚不信になり、遂に自分も信じられなくなった。日本列島に初めて誕生した中央集権国家の、運営が軌道に乗らない事から自信を喪失してしまった。天皇を取り巻く高級官僚も、同じ感慨を持っていただろう。自信喪失感が極度に高まり、弱音を吐いたが、それを憚りなく言う事に、天皇の政治に対する正直さが読み取れる。前年に藤原不比等が亡くなったから、国家の重鎮を失った動揺もあっただろう。献策していた高級官僚が、自分達の意見を天皇が取り入れないから政策がうまく遂行できないと、主張した事を受けての物言いだと想定され、陰口を言われている事も、誰かに注進されての事だろう。それでも何度でも諌めてくれ、陰口を言うなと主張する辺りは、現代人と変わらぬ感性と、現代人以上の正直さを示している。当時の人々の知識の無さから考えると、政治に取り組む心構えとして、現代人は当時の人々から進化しているのか、疑問に感じさせもする。

 

「朕の手足となって重要なのは、按察使(あぜち)だけだ。封禄を2倍にする。」

按察使は地方行政を監督する令外官(りょうげのかん)で、数ヶ国の国守から1人を選任し、その数ヶ国を監察した。7197月に設置され、設置後1年余しか経ていなかったが、異常な信任を得た。按察使の任務遂行には摩擦があった様で、7209月に蝦夷が反乱を起こし、陸奥国を観察する按察使が殺害された。隼人の大隅国司の殺害も含め、辺境で強い反発を招く厳しい施策を、按察使が国司に強いたと想定される。中央官僚に国司を統括するノウハウが無く、国司の中で統治実績を上げた者に国司を監督させる事しか、全国の国司を有効に使役する手段がなかった事を示している。元正天皇として、絶望の中から光明を得た気持ちが、隠さず表現されている。

 

「老子・釈尊の教えでは、殺生を禁じている。諸国の鶏と猪をことごとく元のところに放ち、その本性を全うさせたい。」

日本人が殺生を嫌う傾向は、既に生まれていた。魏志倭人伝に依れば弥生時代末期の倭人は、葬式の最中には獣肉を食べなかった。魚を食べていた倭人は、獣肉と魚肉を区別していただろうが、肉食を穢れとする発想は、古い時代からあった様だ。

 

元明太上天皇の遺詔

「万物の生命には必ず死がある。葬儀を盛大に行ってはならない。百官は政務を離れて柩車に従ったりせず、平素通りに仕事をするように。棺を載せる車は彩色しない粗末なものにし、卑しく控え目にせよ。」

元明天皇に至って宗教改革は完了し、天皇個人にも寿命があると明言した。しかし持統の様に葬儀を質素に行ったのは、死んでも娘の元正天皇と共に、統治していく積りだったからかもしれない。

 

722

「市で行う交易では、物の値段は定められているが、その規定が守られていない。しかし不法を断絶しようとすると生業を失う家があり、不法を禁止しなればよこしまな者がはびこる。銭200文を銀1両とし、物の値打ちによる価格の多少は、時の状況によって定めよ。」

721年に銀1両を100銭と定めたから、1年後に価値を半減させた事になる。あり得ない話だから、何らかの事情があったと考えられる。

かなり前に銀1両を100銭とする通達を出していたから、721年に改めてそれを守れという通達を出したのだろう。それが続日本紀に掲載されていないのは、富本銭の発行時に、総持が定めた事だったからかもしれない。銭の価値が下落して実態が伴わなかったから、物部などの市場関係者から強烈なクレームが付いて実態に合わせざるを得なくなり、改めてこの通達を出したと想定される。財政を潤すために、銭と米の交換比率を無理に高く設定したが、その咎が表面化して銭の価値が半減していた事になる。40年後の760年に、「万年通宝」と呼ぶ新貨幣が発行され、新貨幣と和同開珎の交換比率を110とした。銭の価値は、概ね10年で半減していた事になる。その後も銭の価値は下がり続け、大和政権の貨幣政策は失敗に終わった。

この愚かな貨幣制度は、その後250年間継続され、インフレが進むと新貨幣を発行し、交換比率を旧貨幣10枚と新貨幣1枚としたが、新銭が出るたびに重さが減り、品質も悪くなったから、全国に流通する事はなかった。

この様な愚劣な貨幣制度が展開されたのは、権力闘争の末に物部が政権から疎外され、農民を統治する集団が権力を得たからだろう。それを代表したのが、藤原氏だった。藤原氏は租税の徴収を通して財政を差配し、権力を得たと想定される。班田制度の行き詰まりから、租税収入が落ち込んで国家財政が危機に陥り、官吏の増員や僧侶の増加圧力によって支出を増加させる圧力が高まっていたから、財政を差配する者が権力を握る事は、必然の結果だったかもしれない。彼らは産業振興策に興味がなく、天皇の詔やその他の朝議録には、産業の振興に関する記事は少ない。しかしそれだからと言って、奈良・平安時代に商工業が衰退したわけではなく、平安貴族の優美な世界や、平安時代末期の華麗な鎧や刀剣は、その成果として実現したと考えられる。

 

続日本紀を直接参照する事は、以上で終了する。大和朝廷は武力によって生まれた政権だから、他の武力集団が別の革命を起こす事を恐れていただろう。それを抑えるのは武力しかないと考え易い状況では、政権内部も不穏だった。740年に藤原広嗣の乱、764年に藤原仲麻呂の乱が発生し、武力で制圧された。続日本紀に記されている程に、それらの乱が容易に鎮圧出来たのか怪しい。

奈良時代に多数の女性天皇が誕生したのは、国家的な危機だと認識されていたからだと考えられる。弥生時代末期に倭が乱れ、卑弥呼を擁立して平和を回復する事ができたのは、危機に際して巫女の神聖性に頼るために、女王を擁立する事が有効だとする認識が、倭人社会にあったからだろう。偶然の結果ではなく、それが人々の認識だったからだと考えられる。倭的な文化を持っていた新羅でも、危機に際して2代の女王を戴いた時期があった。

奈良時代最大の反乱だった藤原広嗣の乱は、聖武天皇の治世だった。それに次ぐ反乱だった藤原仲麻呂の乱は、淳仁天皇の治世であり、共に奈良時代には少ない、男性天皇の治世だった。文武が持統と元明の傀儡だったとすれば、奈良時代の男性天皇は2人だけで、その二人の治世の末期に大乱が発生した事は、偶然とは言えないだろう。中央集権化し、中華風の意識改革を試みたが、官僚の熾烈な権力闘争に対処するには、倭人時代の精神文化としての女王統治に、頼らざるを得なかったから、巫女の権威を喪失していたにも拘らず、女性天皇を選定した事になる。

人心が乱れて人々が動揺している場合には、女性の決断力と情緒的な説得力が有効になるのだろう。男性は論理的で組織的だが、妥協的で精神的な脆さがある。進化が望まれる場合には、男性指導者の方が望ましいかもしれないが、先の見通しがなく不安が世情を覆っていたから、女性天皇の選出に繋がったのかもしれない。持統以下の女性天皇の詔を見ると、彼女達は自分の権勢欲とは全く別の動機で、天皇の業務を真摯に務めていた事が分かる。

その観点で革命後の情勢を推測すると、総持の時代に既に、醜い路線闘争や権力闘争が始まっていたから、人々は女性天皇の登場を希求し、人格者として慕われていた天智の娘だった持統を擁立すべく、政変によって総持を排除した可能性が高まる。しかし持統は自分がその任ではないと考え、文武に譲位したと考えられる。しかし虚弱な文武には統治できず、結局天智天皇の皇女だった元明天皇に白羽の矢が立ち、天皇になったが、彼女も巫女の権威を失っていた状態で、女性の権威を習俗的に継承していただけの人々を、卑弥呼の様に統治する事はできなかった。卑弥呼には1000人の女性ブレーンが控えていたが、元明天皇にはその様な組織はなかったからだ。自信を失った元明天皇を継いだ元正天皇が、耐えきれない程の荷重を背負いながら、真摯に政治に向き合った姿を、元正天皇の詔から窺う事ができるだろう。聖武天皇が亡くなると、再び天皇位が娘の孝謙女性天皇に移ったのは、中央集権制を試行錯誤していた奈良時代の、政情不安を示すと同時に、奈良時代全体が、倭人的な価値観から王朝的な価値観に転化する、過渡期だったからだと考えられる。

 

飛鳥時代末期に革命を起こし、中央集権制を確立して商品市場を統合した事は、その後の日本に大きな利得をもたらしたから、否定されるべき事ではない。その第2世代や第3世代にあたる奈良時代初期の天皇も、日本国とその人民を豊かにする事を目指して懸命に努力した姿が、上記の詔から読み取れる。しかし彼女達の努力は報われる事無く、朝廷は官僚が権力闘争を行う場になり、中央集権制は平安時代に瓦解して行く。その結果鎌倉幕府が成立したが、日本人はその中央集権的な制度の残存を嫌い、戦国時代を経て完全に地域分権に戻ったから、平和な江戸時代を迎えたと言えるだろう。

江戸時代の幕藩体制は、倭人時代の制度にかなり類似しているが、幕府が貨幣を発行した事は、倭人時代と大きく異なる。大阪が全国を股に掛ける商人の町として発展した事も、倭人時代にはない事だった。江戸時代の武士が、倭人時代の制度を知っていたとは考えにくいが、倭人時代の欠点だった、諸国の行き過ぎた地方自治が解消され、統一通貨が発行された事は、地域主権としては倭人時代に戻ったが、その主要な欠点は解消されていた事になる。

明治維新によって再び中央集権制に揺れ戻ったが、地域分権が解消された代わりに企業統治社会になり、倭人的な価値観や精神はより大きな自由度を獲得したから、急速に産業社会化する事ができたと考えられる。飛鳥時代の革命がなく、あってもその後の政権の葛藤がなければ、現在とは異なった精神構造の日本になっていただろう。多分その様な日本より、現在の日本の方が望ましい精神文化を持っていると、言えるのではなかろうか。

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