飛鳥時代

中国の倭人伝が示す倭国 > 飛鳥時代

飛鳥時代は、日本書紀が示す様な平和な時代ではなく、倭人政権が崩壊して日本国が成立した革命の時代だった。旧唐書と新唐書は共に、複数の新生日本の使者の言葉を、時期を特定せずに羅列している。

その中から日本国の成立過程に関する言葉を拾うと、旧唐書は、

「日本国は、日が昇る地にあるから日本と名付けた。」

「倭国の名を嫌い、日本と名付けた。」

「日本は元小国だったが、倭国の地を併せた。」と記し、

新唐書は

「(日本)国は、日が出る所に近いので、その名前を付けた。」

「日本は小国だったので倭に併合され、名前を奪われた。」と記している。

その様な異例の記載になったのは、千年以上続いた倭が突然滅んで日本国になった事を、唐朝は俄かに受け入れる事ができなかったからだと考えられる。具体的に言えば、皇帝が使者を引見しなかったので朝議録がなく、703年に遣唐使を受け入れ、日本国の成立を正式に認めた後に、使者を引見した官僚の記録を探し、朝議録に編入したから、その様な乱暴な記述になったと推測される。

新旧唐書の一見不可解な革命の軌跡は、古事記、日本書紀、延喜式などを援用し、更に考古学的な発掘結果も参照すると、以下の様な状況だった事が判明し、当然ながら、日本書紀が示す現在周知されている飛鳥時代とは、全く異なる歴史が展開した事が分かる。このフロントページでは、その推論の結論だけを示すが、飛鳥時代に起こった事の顛末が、因果関係を明らかにしながらリアルに示される事に、驚きを感じるかもしれない。しかし以下に示す各々の事績は、根拠を以て推測した結果である事に、留意頂きたい。マーケティング手法を厳正に実施すれば、断片的な証拠が各々意味を持ち、その連携から生まれる深い推測を実感できるだろう。以下にその結論を略記する。推論の過程は本文を参照して頂きたい。

新旧唐書の記事を翻訳すると、日立にあった倭国王の宮家が、自分の根拠地だった常陸を日本国とした。→「日本国は、日が昇る地にあるから日本と名付けた。」 壬申の乱(672年)を経て旧東鯷人の倭国(飛鳥)と出雲を征服し、革命の第一段階が終了した。倭人の慣例では、倭を指導する倭国王を輩出している地を倭国と呼んだから、常陸が倭国と呼ばれるべき国になったが、革命軍を指揮した倭国王は倭国の名を嫌って日本国とした。→「倭国の名を嫌い、日本と名付けた。」 革命軍は中央集権制を目指していたから、征服地全体が日本になったとし、倭国王になった日立の宮家が天皇に即位し、大和政権を樹立した。→「日本は元小国だったが、倭国の地を併せた。」 しかし695年頃に政変が起こり、日立系の天皇が排除されて難波系の天皇に変わり、難波系の天皇が日本国の名を踏襲した。→「日本は小国だったので倭に併合され、名前を奪われた。」 日立系の天皇は大和朝廷の賊になったから、大和朝廷が創作した日本の歴史から抹殺された。

日本国の誕生に関する新旧唐書の記述にはこの他にも、日本書紀史観では解釈できないものがあるが、倭人の習俗とこの革命の経緯が分かれば、すべて読み解くことが出来る。

日立系の天皇は歴史から抹殺されたが、その痕跡が日本書紀に記されている。古事記には記されていない説話として、日本書紀の国譲り説話に、「悪い神」と記された「天津甕星(あまつみかぼし)」がその人で、小国日本は天津甕星を祭る大甕神社がある、日立だった事を示唆している。両者の関係は、「日が昇る地にあるから日本と名付けた。」事と一致し、逆賊としながら甕星の名前に「天津」を冠し、倭国王系譜である事を示している事も、常陸に天皇系譜の家系があった事を示し、甕星が初代の天皇だった事を示唆しているが、それだけでは証拠として不十分だ。より具体的な証拠は、色々な事実の断片を突き合わせる事から生まれるから、詳細は本文を参照。

日本国が誕生した経緯を具体的に説明すると、飛鳥時代の為政者は、政権運営を委託された東鯷人の王であって、倭国王系譜ではなかった事から考証する必要がある。その際に、江戸幕府から政権を奪還した、明治維新から類推すると理解しやすい。江戸の将軍は天皇系譜ではなく、天皇から統治を委譲された実務的な権力者だった様に、飛鳥時代の倭を統治した倭王は倭国王系譜ではなく、古墳時代に倭国王家から、倭の統治を移譲された東鯷人の王だった。明治維新では、政権を奪還したのは薩長土肥の諸藩だったが、飛鳥時代に日本国を樹立したのは、関東系の倭国王家の宮家だった。倭国王家について説明すると、倭人時代の初期には一つの倭国王家だったが、弥生時代に難波系と関東系に分かれ、弥生時代後期には、関東の倭国王家が倭の統治者として、倭国王になっていた。それ故に、卑弥呼の家系は倭国王ではなかった。しかし古墳時代前期に、難波系の倭国王家が倭国王を輩出した。東西の倭国王家には、それぞれに複数の宮家があり、優秀な宮家から倭国王が選出されたから、大王古墳群の位置が古市古墳群から百舌鳥古墳群に変遷した。

古墳時代後期には、東西どちらの宮家も、海洋交易を生業とする倭人経済を牽引する事ができなくなり、精巧な工芸品を生産していた東鯷人に、倭人経済を委ねざるを得なくなったから、東鯷人の王を倭王に認定した。しかし東鯷人は倭人経済の活性化に失敗し、飛鳥時代に深刻な不況に陥ったから商工業者や農民の不満が昂じ、中央集権制を目指した倭国王家の宮家が、政権を東鯷人の倭王から奪還した。倭人時代には、江戸時代の藩以上に、独立性が強い小国が日本全国に割拠していた。その上に飛鳥時代末期には、東西それぞれの倭国王家に、倭人体制維持派の宮家と、中央集権制への変革派の宮家があったから、幕末以上に事態は混沌としていた。

それであれば、飛鳥維新と命名しても良いかもしれない。倭人時代の分権制を完全に否定し、新しい体制として中央集権制を導入したのは明治維新と全く同じだったからだ。しかし日本国誕生直後の大和政権は、歴史を捏造して倭人時代を完全に否定した事は、江戸時代を含む日本を継承した明治政府とは、意識が違っていた。適切ではないかもしれないが、維新とは違うという意味で、以下ではそれより過激な言葉として、「革命」を使う事にする。

明治維新より状況を複雑にしたのは、上記の事だけではなかった。革命後の建国中に、邪馬台国起源の難波系の倭国王家の宮家が、関東系の倭国王家出自の天皇を政変で追放し、奈良時代の天皇になった際に、唐に対して倭国王系譜である事を名乗った上で、甕星同様に倭の名前を嫌い、甕星が名乗った日本国名を継承したからだ。難波系が日本国の名を継承したのは、甕星と同盟して革命戦争に臨み、共に中央集権制の樹立を目指したからだ。国名の継承に関する新唐書の書き下し文は、「其の号(日本)を冒す」で、「冒す」は他人の名前を名乗る事を意味し、事実にふさわしい用語だった。難波王朝と日本国の名には直接の縁はなかったが、甕星が主体的に革命戦争に勝利し、日本国と命名した事を尊重した事になる。甕星の配下だった常陸の中臣氏が、その息子の時代の政変では、難波系と連携して藤原不比等を輩出した事も、その事情の裏にあったからかもしれない。

上記の結論を導く為には、古事記が記す神代は、古代の事績を忠実に反映している素振りを見せながら、実は大和政権に都合よく潤色された説話だった事を理解して置く必要がある。それを理解する切り口は、国譲り神話で国譲りを実現した2神は、延喜式神名帳で最高の社格である神宮とされた、香取・鹿島の2社の神である事になる。全国の神社が祭る多数の神の中で、2神が一致する確率は極めて低いから、鹿島と香取が革命に最も貢献した神社勢だった事になり、国譲り説話は、革命の経緯を暗示している事になる。両神宮は勲一等も授与されているが、革命戦争以外にこの様な高位の勲功を得る機会は、この時代にはなかった。

この判定が確定すると、国譲りだけでなく「神代」の他の説話も、倭人時代の事績を反映している可能性が高まる。それを検証すると、濃厚な潤色を受けてはいるが、倭人時代の事績の反映だったと考えられる説話が、神武即位以前に沢山含まれている事が分かる。しかし神武即位以降は、中央集権制を経験した事がない時代の創作だから、捏造説話だった事になる。

大和政権が古事記をその様な構成にしたのは、日本全国に散在していた神社勢力を、革命に参加した勢力とそうではなかった勢力に区分し、天皇家の神である天照大御神の下に序列化した神々を、個々の神社勢力が祭る神にする為だった。その神々を、日本全国に散在していた多数の神社勢力に配分し、大和政権の権力機構に組み入れた。その目的を明確化するために大和朝廷の歴史を創作し、当時の人々が良く知っていた倭人時代の歴史事績を、大和政権の都合に合わせて潤色し、創作歴史に組み入れた。それが成功した事を、現在の神社の祭神の殆どが、古事記に記された神である事が示している。古事記成立以前の神社勢力には、人格神がなかった事を示してもいる。古墳時代の宗教が古墳を使い、神社は古墳とは全く縁がない風を装っている事は、神社の成立が飛鳥時代以降だった事を示し、上記の説明に合理性を与える。その帰結として、大和朝廷は秩序形成を目的として古事記を作成したという、因果関係が成立する。

この様に言われても、倭人時代の人々の精神構造を理解していなければ、古事記の意図は実感できない。倭人時代の神は小国の王で、神無月はその神が出雲の大率の下に参集する月だったから、諸国に神が居なくなる月であり、出雲だけが神有月だった事が分かれば、倭人時代の神を理解する事ができるだろう。各国の王家には、倭人体制が出来たBC7世紀以降の、祖先達の事績の伝承があった筈だ。継承される権力機構があれば、その由来を説明する伝承がある事は当然のことになる。なかったと主張したいのであれば、その理由が必要になる程に、当り前の事だと言えるだろう。文献にないからあったと想定してはならない、と云う様な現代の歴史観では、その様な想定はできないかもしれないが、後漢書に「国ごとに皆王と称し、世々統を伝える。」と記されている以上、王にまつわる伝承は、当然あったと考えるべきだろう。

その伝承は事実に立脚していたから、人々を説得できるものだったと想定される。倭国王家には、倭国王である大神が、神々を統率して中国に出向き、交易を行う中で、倭連合の樹立に至った経緯を語る伝承があっただろう。それが千年以上に亘って語り継がれ、倭国王家の権威を確かなものにすると同時に、諸王の正統性も保証していたと想定される。

革命政権が倭人政権を倒し、中央集権制の日本国を形成する際に、革命の主体になった神社勢は、倭人国の王が支配していた倭人集団とは出自が異なり、国王の神話とは利害関係を持たない集団だった。古事記の神代説話は、その様な集団のために新たな神話を創作して倭人時代の神話を置き換え、神社勢を諸王国とは異なる地域勢力として認定し、新しい統治単位とした。

その革命的な施策を明治維新に例えれば、幕藩体制下の諸藩の藩主は、幕府から封建領土を与えられた事を権威の根源としていたから、幕府を否定すれば藩主の権限もなくなったが、倭人時代の諸国王の権威は、神話を含む各国の伝統によって正当化され、海外交易による各国の経済力によって支えられていた。倭国王の権威は、諸王の推戴によって得られていたから、体制を一新する為には倭国王の権威だけでなく、諸王の権威も否定する必要があった。革命政権は、新しい神話を持ち込んで古い神話を償却すれば、倭人体制の権威を消滅させる事ができると考え、古事記を創作した事になる。

その役割を完遂するために、古事記の著者は全く架空の話を創作したのではなく、倭人時代の神話の骨子を残し、それを潤色して話を換骨堕胎する事が有効だと判断し、神代にその様な説話を連ねた。倭人の伝承は、真の事績を潤色したものだったから、新しく創作した説話も、その範疇から逸脱する事は出来ないと判断したと考えられる。

大和政権の究極の目的は、天皇家の祖先である天照大神の、支配下にある神々を地域主権的な人々に配布し、その神々を祭神とする神社勢が各地に形成されれば、人々は天皇が任命した官僚の統治に従う、従順な人民になるという事だった。大和政権がそのために、他にどの様な施策を行ったのか具体的には分からないが、戸籍の製作はその作業の一環だっただろう。しかし各地域の住民は、倭人時代の地域主権的な発想が根強く、中央集権下の人民にする事はできなかったから、大和朝廷のその様な施策は失敗に終わったが、神社が意図しない方向に発展し、地域主権を主張する地域住民の団結の核になった。

地域住民は、大和朝廷が強制する全国一律の施策に違和感を持ち、官僚の非効率性や腐敗に抵抗し、中華的な価値観の普及を拒否したかったから、神社を中心に結束して倭人時代の価値観を保持し続ける事になった。王朝はその様な民衆の力に抗しきれず、中央集権制が崩壊して荘園制に変わり、やがて王朝制度そのものも崩壊した。武家統治の時代になっても、神社を中核とした地域分権的な発想が守られ、同時に倭人的な価値観が保持され続けたから、現在も神社が日本人の心の拠り所となり、近代日本の産業社会を支える精神構造になった。この詳細については、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景を参照。

上記の骨格的な認識を前提に、飛鳥時代の経緯を概観すると、以下の様な状況だったと想定される。

古墳時代の中頃に、経済基盤を海外交易によって賄っていた倭人諸国が、中国の移民事業を失って大幅な収入減に見舞われると、財政が窮乏化して統治能力が大幅に減退した。倭人諸国はそれを打開するために、工芸品の製作に優れた東鯷人に交易の活性化を託したが、東鯷人を主導していた飛鳥政権は、海外交易を活性するために諸経費を切り詰める、飢餓輸出政策を倭人各国に奨励した。そのために内需が沈滞した倭人社会は、飛鳥時代に深刻な不況に陥った。旧唐書倭国伝は、隋書倭国伝が示す飛鳥時代初頭の倭国(飛鳥)と比べ、飛鳥時代中期の倭国が極めて貧しくなっていた事を示している。

工芸品の産地だった飛鳥が貧しくなると、稲作地だった関東は更に深刻な不況に見舞われ、農民や商人が困窮して治安が悪化したと想定される。関東の倭人諸国は窮乏化していたから、それを是正する統治能力を失っていたからだ。民衆は地域共同体を守りながら、窮乏化と治安の悪化に耐えざるを得なかったから、この共同体の団結力が革命軍の構成要素になったと想定される。

もう少し具体的に説明すると、移民事業を失って多数の交易船が不要になると、倭人諸国は中国沿岸の海洋運輸業に活路を求めたが、隋が南北運河を開削して沿岸海運業も廃れると、多数の倭人が海外事業を諦めて内需に転向し、物部と呼ばれる内需商工民になった。東鯷人が生産する工芸品は、東鯷人職を潤す事はできたが、多くの倭人国は商品生産力を失い、農業国家に転落していった。豊かな東鯷人国が近隣にあれば、農業国もなんとか成り立ったが、倭人国一色だった関東で、未熟な製造業を興しても東鯷人国の生産力に劣り、関東一円が農業国になってしまった。そこでコメを生産しても買い手が付かなかったから、関東の農民は工芸品の需要者になる事が出来ず、不況が深化すると物部の中には、食料の確保さえ難しくなる者も出現しただろう。海外交易者を祖先に持つ物部は、東鯷人の輸出優先策が内需を減退させている事を知り、生活防衛の為に団結を強固にしながら東鯷人政権への不満を募らせ、全国的な流通ネットワークを使って商機を求めながら、同時に革命思想を普及させたと想定される。

各地域の政権を掌握していた倭人の中にも、経済が急速に悪化して行く状況を憂い、政権を移譲した東鯷人に不満を持ち、政権の奪還を主張する者が出現しただろう。しかし交易の活性化を目指す技巧の巧拙では、精緻な交易財を生産できる東鯷人に対抗する事はできなかった。その様な環境下で、東西の倭国王系譜の宮家から、打開策としての中央集権化が提唱された。小国が分立する倭人体制では商圏が統合できず、それが内需不況を深める原因になっていると考える事は、現代的に言えば、規制を緩和して利権構造を打破すれば、経済が活性化するという事だから、経済的な観点では正鵠を射ていた。

革命が起きる直前に、大津で自作農を統治していた難波の宮家で、中央集権制での農民統治と産業の活性化が議論され、それを根拠に大和政権が樹立されたと推測される。その宮家の当主に「天智天皇」という諡号が、天智の死後に成立した大和政権から贈られた。日立の天津甕星は、天智の思想に共鳴はしていたが、毛皮や皮革の交易に従事する伝統的な倭人交易者だったから、革命の直前まで、自ら主導して中央集権制を実現する意思はなかったと想定される。しかし革命の火蓋を切り、革命戦争を戦い抜いたのは天津甕星だった。

天津甕星は、オホーツク海沿岸の海獣の皮革や、シベリアの高級な毛皮などの、北方の物産を仕入れる倭人集団の王で、それを高句麗や北九州の倭人が、中国で販売していたと想定される。北方の物産を仕入れる代価として、北方では生産できない生活必需品を船で送り込んでいたから、米や雑穀を含む関東産の穀物の、有力な販路を担っていたと考えられる。しかし688年に、北方の物産の販路だった高句麗が唐に滅ぼされると、甕星が差配していた集団は主要な販路を失い、交易集団が困窮化しただけでなく、穀物の主要な販路を失しなった農民も貧困化し、それに伴って関東の物部は極度に困窮化し、農家にコメが余っているのに、日々の食料に窮する商工業者が多数出現したと想定される。

高句麗が唐に滅ぼされたのは、東鯷人政権と北九州の倭人が新羅を支援し、唐の政策に嵌って高句麗を孤立させた事に遠因があった。唐が新羅軍を使って百済を滅ぼし、唐軍が朝鮮半島に居座って駐留し続けると、高句麗は南北から唐に挟撃される事になった。高句麗は、長年使っていた北方の山岳防衛線が無効になると、あっけなく唐に滅ぼされた。天津甕星はその過程で、取引関係があった高句麗から強い警告を受け、東鯷人や九州の倭人の政策に異論を唱えたが、出雲の大率に聞き入れられる事はなかった。その痕跡が、古事記の国譲り説話に記されている。

高句麗が滅亡すると、天津甕星は突然主要な販路を失い、彼を取り巻く稲作民や物部は、突然米や商品が売れなくなった。その戸惑いの中で、一時は茫然自失の状態になったが、我に返ると東鯷人政権に対する憤りが噴出し、政権を打倒するエネルギーに一気に昇華したと考えられる。これを端緒とした革命の第一段階は、高句麗が滅亡した2年後の670年頃突然始まり、甕星は関東を制覇した。

難波の宮家だった天智の勢力がそれに呼応し、670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。庚午年籍は戸籍ではなく、革命に対する各自の旗幟を示す連判状だったから、後世に良民と雑戸(被差別民)を区分する根拠になった。関東の革命勢力は672年に征西軍を発し、飛鳥と出雲を攻略して東鯷人政権を打倒した。それが壬申の乱だったと考えられる。

甕星が率いる革命軍は、飛鳥攻略に際して天智の勢力と合流したが、既に天智は亡くなっていたので天津甕星が天皇になり、大和政権を樹立した。しかし20年を経て世代交代すると、革命政権内の路線闘争が先鋭化し、農民を統治する官僚に支持された藤原氏が、天智系譜の持統と連携して政変を起こし、天津甕星の息子の総持天皇を排斥して全権を掌握した。この政変を最後に革命の時代は終了し、政権が安定して朝議録を歴史書にする事が出来る様になり、続日本紀(しょくにほんぎ)の時代が始まった。

その大和政権を受け継いだ奈良・平安政権は、倭人的な巫女の権威を否定して国が管理する仏教を広め、地域集団の宗教色を薄めて神社を形式化し、中央集権制下の従順な民衆に転換しようとした。しかし地域集団はそれに対抗し、神社勢として団結を維持し、巫女に代わって神官が中核者になり、朝廷の官僚統制に対峙する在野勢力になった。地域主権に慣れた地域住民は、全国を一律に統治するための、地域にとって意味不明な中央の指令や、非効率で腐敗しやすい官僚統制に服する事を、不合理と感じたからだ。朝廷はその反抗を宥めるために各地の神社を叙位叙勲し、幣を奉納して神社に対する朝廷側の恭順を示して神社勢を慰撫した。その軌跡を、平安時代に編纂された延喜式神名帳に見る事が出来る。延喜式神名帳には神社名があり、神社勢を構成する単位としての座が記されているが、祭神は記されていない。その記述方法が、神社の性格を示していると言えるだろう。

神社勢は倭人的な自由経済を尊重し、禁欲的な宗門にはならなかったから、外見は宗教団体に見えなかっただろう。神社は伝統的な人格神を持たなかったから、古事記が神を配布したが、神社の勢力を高めるために新たな神を招聘し、霊験がある神を多数祭って神社勢の気勢を高めた。その様な神社の性格を示す事例として、商売繁盛を謳う神社が奈良。平安時代以降、全国各地に生まれた事が挙げられる。宗門に厳しく禁欲的な仏教寺院と比べれば、その差は明らかだろう。仏教の宗門は、宗教の為に存在するが、神社はその様な宗教性には無頓着に、地域の精神力と団結力を高める為に存続した。地域の精神力とは、倭人時代に形成された、地域自主を主体とする精神だった。各神社が盛大な祭りを個性的に創作しながら、それが誰のための祭りであるのか分からないのは、この特徴を示しているからだと考えられる。

現行の古事記とは異なる原古事記が、壬申の乱の直後に上記の目的で、甕星を賛美する形で成立し、現行の古事記の序文に記された712年は、原古事記を改訂した日付だった。当時の大和朝廷は、712年に古事記が完成したとは認識していなかったから、続日本紀にその様な記載はないが、71352日に風土記の編纂を命じた。その参考資料にするために、甕星を称賛する原古事記を改訂し、関東は革命の発祥地ではないとする、捏造した説話を追加する必要があった。太安万侶がその改訂を行ったが、原古事記があったとは序文に記せないから、712年に成立したと記すしかなかったが、朝廷としては少し増補した程度の改訂で、大した変更ではないと銘打つ必要があった。実際の改訂の程度にかかわらず、新しい古事記とか、大幅な改定と言えば、古事記の信頼性が薄れてしまうからだ。

改訂にその様な限界があり、日立を賛美する文章、人名、地名が残ってしまう事になった。特に天孫降臨説話は、極めて骨格的で重要な説話だったから、多くの人は諳んじていただろう。その様な原話に人々の記憶と矛盾しない説話を追加する事は、難しい課題だった。誰でも分かる必要な改訂を行う事は許容されても、大幅に改訂して古事記の骨格を壊し、信憑性を毀損する事は改訂者には出来ない事は、現代人の感覚としても理解出来る。それ故に現行の古事記にも、日立を賛美する文章、人名、地名が残存し、原古事記が甕星を賛美しながら著作された事を示している。

古事記の序文を記述した太安万侶は、実直な人だったらしい。太安万侶が記した序文では、関東出自の天皇が、清原の大宮で即位したと記している。その詳細は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景参照。

古事記の位置付けや成立時期に関し、現在定説と言われるものがない理由の一つとして、続日本紀に古事記の成立が記されていないから、古事記の成立時期を特定できないとする歴史学者が多い事が挙げられるが、「論語読みの論語知らず」と言わざるを得ない。国譲り神話で活躍した神は、明らかに関東の神であるのに、崇神天皇と倭建命がその関東を二重に征服した事は、大矛盾と言わざるを得ないからだ。その矛盾を詮索せず、書籍の字面だけを追えば、この様な疑問を感じるかもしれないが、それでは余りに知恵がない。延喜式神名帳などを精査すれば、自ずと答えが出る。

「続日本紀」は、「日本紀」に続くと銘打って編纂された史書だが、720年に成立した「日本紀」は、現行の「日本書記」ではない。新唐書が「日本紀」を引用しているから、その範囲内で「日本紀」を覗く事が出来るが、明らかに「日本書記」とは異なっている。それでは「日本書記」は何なのかと云えば、「日本紀」を差し替えるために創作された、鎌倉時代以降の捏造歴史書だったと考えられる。但し「日本紀」も、唐を騙すために著作した捏造書だから、真実の歴史が記されていたわけではない。

日本書記を作成したのは、捏造を精緻化するためだった。平安時代に唐書が成立し、唐書と「日本紀」の矛盾が明らかになると、「日本書記」を編纂する必要が生まれたからだ。唐に提出した日本紀は、中国人は神話を受け入れない事が分かっていたから、古事記の神話部分を中華風の継嗣に書き改めていた。しかし「日本書記」は再び神話を採用し、やはり中華では受け入れられない異論の併記が盛り込まれている事は、「日本書記」の想定読者は日本人だった事を示している。その日本書記は、日本紀であるかの様に装うために巻数を合わせ、日本紀と差し替えられるべく編纂された。

そこまで配慮して日本書紀を編纂したのは、大和政権が中央集権制のモデルにした唐王朝が、平安時代初期に無残に瓦解し、その後継王朝だった宋も、平安時代末期に脆く崩れたからだ。それらの王朝が崩壊した内情が伝わると、中央集権制は理想の政体ではなかった事が露呈し、京の官僚貴族の権力に疑念が持たれたから、その権力基盤を補強するために日本は天地開闢以来この体制だったと主張し、体制変革を抑止するために日本書紀を編纂したと考えられる。しかしその願いも空しく、平安王朝が崩壊すると倭人的な地域主権の復活が始まり、土着の武士が割拠する中世になった。

地域主権的な武士の時代を中世と呼ぶ事は、日本と西欧に限られた特徴で、純粋な農民地域だった中国やインドに中世はない。日本と西欧の類似性はこれだけではなく、文明の類似性として梅棹忠雄によって指摘された。この類似性を生み出した理由は、西欧にも歴史に埋もれた、海洋民時代があったからではなかろうか。記録魔だった中華が倭人の記録も遺したから、倭人の歴史は再現する事ができるが、西欧には農民政権が成立する以前の観察記録がないから、農民政権の征服に敵対したヴァイキングの歴史だけが残り、農民政権の歴史書が、ヴァイキングを悪人に描いている事になるのではなかろうか。ローマ文明が滅んだ後に、ローマ文明を凌ぐ西欧文明が生まれたが、原始的な状態から短期間に、ローマ文明とは異質な西欧文明が生まれたと考える事は不自然だ。

日本文明は中華文明が移転した後に、自然発生的に高度化したのではない事は、史書読めば明らかだ。同様の海洋環境を持った西欧文明も、倭と同様な経緯で発展したと考える方が合理的だ。倭人の活動から類推すれば、ギリシャ時代から大西洋沿岸の漁民がポリスの港に出没し、ギリシャ文明を吸収して独自の精神文化を発展させていたと想定される。倭人的な海洋民族の移動距離から考えれば、超人的な漁民だけが地中海を航行したのでなく、多数の漁民が当然の様に往来していた。ポリスの様な分権的な統治形態を採用した古代ギリシャも、海洋的な文明地域だった可能性が高い。

歴史について考える場合、民衆が主役になった近代文明の形成史を考察するのであれば、民衆の精神力と知性の発達史が重要になり、帝国主義的な王侯時代に至る歴史を考証したければ、王侯や貴族集団の治績を追い求める必要があるが、現在の史学は王侯や貴族集団の治績に傾き過ぎているから、近代産業社会の形成史が理解出来ないのではなかろうか。

このHPの飛鳥時代は、唐に誘導された戦乱が朝鮮半島に発生した時期を開始期とし、現在の天皇系譜が統治し始めた時期を終了期とする。統治者の所在地から飛鳥時代を定義すれば、飛鳥を根拠地とした東鯷人が倭の統治を始めた520年頃から、その政権が倒れた壬申の年(672年)までになるが、初期の大和政権も明日香を拠点とし、政変によって政権が交代したが、次の政権も飛鳥に留まったから、710年に平城京に遷都するまでには、三つの政権が飛鳥を根拠地とした。政権の所在地で時代を決める事は適当ではない。このHPの飛鳥時代は、東鯷人の統治時代末期から始まり、革命を経て中央集権制が定着した時代までとする。

飛鳥時代を3区分し、激動前夜で革命に至った原因を概観し、体制革命で革命を遂行した勢力を概観し、列島統一で壬申の乱から政権が安定するまでの、革命政権内の葛藤から政変に至った経緯を検証する。

日本書記は政変を隠しているから、その終章まで捏造史を記している事になる。

このHPの時代区分

 時期

各章のタイトル

激動前夜

631年~

  648

隋が滅び、唐が中国全土を統一した。

新羅が唐文化を導入し始めた。

百済が離反して高句麗と同盟し、新羅を激しく攻撃した理由と経緯。

朝鮮半島の処置に関して倭王と大率が対立した。

不況の中で倭人権力が没落し、物部が台頭した。

体制革命

648年~

  672

百済と高句麗が滅亡し、新羅が唐の属国になった

革命勢力

唐書が示す日本の成立過程

古事記、日本書紀、続日本紀から飛鳥時代の動乱を読み取る

巫女が差配した倭人宗教の終焉

物部が台頭した経済的背景

列島統一

672年~

  697

混乱が続く中で、天皇制が生まれた。

難波系官僚が中央集権化を進めた

政変(第2革命)の詳細

班田収授と調

古事記と日本書紀の役割、倭人文明のその後の展開

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