古墳時代

中国の倭人伝が示す倭国 > 古墳時代

古墳時代は、倭人社会が経済的に最も輝いた時代だった。華北が寒冷化して農産物の収穫が激減し、晋が滅亡して華南に南朝が成立する動乱期に、倭と高句麗だけが交易で繁栄する中で、倭人は次々に大型古墳を造営しながら、朝鮮半島に出兵して高句麗の南下を阻止した。倭のこの様な異常な繁栄は、華北の雑穀と華中の稲作の不振によって発生した余剰人口を、未墾地が放置されていた華南に移民させる事による、莫大な謝礼から得られた。高句麗の巨利は、満州を交易路として北方の毛皮や皮革を仕入れ、寒冷化した華北に加工して売ることによって得られた。

2世紀に世界的な寒冷化が始まって華北の農民人口が激減し、過疎化した華北に異民族が乱入すると、4世紀に晋王朝が滅んだ。寒冷化による混乱は、地球規模で発生していた。地中海世界では、ローマ帝国が衰亡してゲルマン民族が南下し、オリエントやインドでは、遊牧民のエフタル(白フン)が南下してパルティアとクシャーナ朝が滅亡し、インド中南部で繁栄していたアーンドラ朝とチョーラ朝も滅亡した。

倭人が移民で莫大な利益を得たのは、農業収入の減収や治安の悪化に苦しんでいた華北の多数の豪族を、船の機動力を活用して一族郎党と共に移民させ、莫大な謝礼を得たからだ。史書には移民に関する直截的な記載はないが、漢代から多数の倭人が中国に出入りしていた事を、複数の史書が記しているから、偶発的に移民事業を行なう事は、必然的な帰結だった。問題はその規模の議論になる。(0)序論でも議論した様に、日本人の遺伝子分布を検証すると、古墳時代前期の150年間に、500万人程の移民を運んだと結論付けられる。最初は偶発的だったが、ある時期から組織的に行い、この様な人数に達した。平安時代に作成された、新選姓氏録に記載された漢系帰化人の列挙は、多数の漢系貴族がこの時代に帰化した事を示している。日本人の1割を占めるY遺伝子O3a2c1の渡来や、大型古墳を日本列島に林立させた理由は、倭人の移民事業で説明出来るが、外の理由は見つからない。史書にそれが記載されていない事には、漢民族特有の理由があったと想定される。

漢民族は農耕民族だから、農地の耕作権を保証してくれる政権の、権威の維持に高い関心があり、その政権の権威を虚飾的に高める事に、積極的に参加する習性を持っている。その帰結として、自分達の政権が他者の援助を得た事は、無視する習性を持っている。他者の援助によって政権が維持された事を認めると、自分達の政権の虚構的な権威を、弱体化させる事になるからだ。この習性が現在の漢民族にも濃厚に発露しているから、日本がWW2で植民地主義を排除した貢献を無視し、朝鮮半島を併合して近代化した成果を、無視する事になる。農耕民族のこの様な習性は、実力主義的な漁民を母体にした、倭人に長く統治された日本人には不誠実と感じ、理解する事が出来ないが、農地の耕作権を保証し、治安の安定を担保してくれる政権の、虚飾的な権威に敏感な農耕民族にとっては、最優先の正義になる。従って漢民族の史書が、倭人の移民事業の成果に触れなかった事は、農耕民族である漢民族の史書として、当然の編集方針だったとも言える。現代の漢民族は、歴史的に皇帝に絶大な権力を与え過ぎ、他民族に帝国主義的に征服・統治された結果として、多少変質してはいるが、この土俗的な体質は中華思想として伝承され、日本の20世紀の活動を決して肯定的に評価しない、権威主義的な農耕民族であり続けていると考えられる。その習俗が倭人の移民事業の無視に繋がった事を、現代日本人は、現代の中韓の民族性の中に感じる事が出来るだろう。

倭人が興した移民事業の経緯は、弥生墳墓と初期の古墳からトレースする事ができる。弥生時代末期の吉備と出雲に大型の弥生墳墓が誕生した事は、その国の倭人が移民事業の草分け的な存在だった事を示す。出雲の古墳から吉備の特殊器台が発掘されるのは、両者が共同してその事業を興し、莫大な利益を得た事を示唆する。東鯷人の国だった出雲は、華南に商圏を持っていたから、華南の豪族に謝礼を匂わせ、移民を受け入れる未墾地を確保する事ができた。倭人国だった吉備は、華中・華南に商圏を持っていたから、戦乱や凶作から逃れる為に移民を希望する豪族を、募集する事が出来た。吉備と出雲が連携して豪族の移民事業を興すと、1世紀に始まった生口(労働者)の交易と比較して桁違いに高い収益を、移民した豪族から謝礼として得る事が出来た。

晋が滅んで華北が動乱状態になると、移民希望者が殺到し、吉備と出雲の2国だけでは賄えない状況になった。倭人は現代日本人より信義を重んじる人達だったから、動乱の中での彼らの移民事業は、漢民族の豪族から高い信頼を得たのだろう。3世紀後半の箸墓古墳の周濠から、吉備の特殊器台が発掘された事は、出雲の国力だけでは入植地を確保し切れなくなり、東鯷人の首領国だった纏向(魏志倭人伝に記された狗奴国)も、入植地を調達し始めた事を示唆する。同時代の邪馬台国の古墳だった西求女塚古墳は、同時代の吉備の古墳より小さいから、邪馬台国はまだ本格的に参加していなかった様だ。しかし4世紀になると、邪馬台国の王がその統括に乗り出し、弥生時代から統治していた30国に加えて他の倭人国の参加を募り、移民事業を倭の国家事業に高めたと考えられる。

それによって倭人諸国総体が、空前の収益を獲得するに至り、弥生時代の倭国王だった関東系譜に代わり、邪馬台国の王が古墳時代前半期の倭国王になった。東鯷人の諸国も、移民事業を通してその倭国王の指揮下に入った。誉田御廟山古墳や大山古墳などの巨大古墳が、大阪湾岸に造営されたのは、移民事業の隆盛に従って、従事者を増やす必要が生まれ、邪馬台国が周辺の農業国を吸収した結果、難波全域を統括する領域国家になったからだと推測される。

華北の雑穀や東シナ海沿岸の稲作は、寒冷化によって壊滅的な打撃を受けたが、日本列島では稲作の耐寒化が進んでいたので、寒冷化しても激しい南下後退には至らず、北限は東北南部に留まった。その結果関東平野は、広大な水田を開墾できる地域になっていた。関東だけでなく、海岸線が長い日本列島では、河川の堆積が継続的に沖積地を形成していたから、常に未開の農地を生成していた。政権が労働力を組織的に投入し、先進的な土木工事を実施すれば、日本列島の各地に水田を開墾し、商品価値が高い米を増産する余地があった。

交易民だった倭人は、弥生時代まで農地の開墾に積極的ではなかったが、多数の漁民を移民事業に投入し、朝鮮半島に出兵する兵士を農村から調達する為に、彼らに代わって食料を生産する者を必要とした。倭人は華中の豪族や農民を華南に移住させる傍ら、華北や朝鮮半島から多数の移民を日本列島に受け入れ、水田を開墾して米を増産させた。特に関東では、移民事業で富裕になった倭人が多数の移民を受け入れ、労働力を集中的に投下して水田を拡大し、米を増産して富を得た。

日本列島全域に、移民事業で得た財貨が注ぎ込まれると、内需産業が興隆して空前の好況が生まれた。考古学的な発掘も、この現象を捕えている。

華北に征服王朝が成立する5世紀中頃に、華南への移民が途絶えると、それに同期して大型古墳の造営も止まった。この時期的な一致は、古墳造営の原資が何であったのか示唆している。

移民事業が失われると交易の収益が激減し、移民事業を統括した難波の倭国王は、倭人の交易を統率する事が出来なくなった。その結果倭人諸国を統率する権限は、工芸品の生産と交易に長けた旧東鯷人に委ねられた。倭国王の権威は、諸国に交易の利潤を保証する事により、諸国王の信任によって生まれていたからだ。

飛鳥を拠点とした旧東鯷人国の王が、古墳時代後半の倭王になると、諸国を統括する職務を担った大率も、北九州を拠点とした石井(いわい)から、出雲を拠点とした王(古事記が示す大国主)に代った。新任の両者は、経費を浪費する軍隊を朝鮮半島から撤収した。九州の倭人を代表した石井は、傭兵集団でありながら倭に反抗的だった百済を嫌い、友好国だった新羅に朝鮮半島南部を支配させようとしたが、中華的な価値観を持っていた百済は、海洋民族的な習俗を持つ新羅の支配を拒み、馬韓に割拠する内諾を飛鳥の倭王から得るために、飛鳥の倭王に賄賂を贈った。それが南朝の仏教文化だったと想定される。倭王は半島からの完全撤退を石井に迫り、それに逆らった石井は反逆者と見做され、鎮圧された。

倭軍が撤退した後の、朝鮮半島南部の軍事的な空白を新羅と百済が埋めると、高句麗、新羅、百済が割拠する、朝鮮半島の三国時代になった。

日本列島の経済活動は、移民事業の収益を失しなうと徐々に沈滞し始め、中国を統一した隋が、大陸の南北を繋げる大運河を開鑿すると、倭人の大陸での海運業は廃業の危機に陥った。倭王は隋との交渉を求め、海運業の延命を図ったが、失敗に終わった。移民事業を通して中華に貢献した事は、何の交渉材料にもなかった事に、倭王は落胆したかもしれない。

このHPの時代区分

参考史書  時期

目次

開始期

好太王碑

中国世界が動乱期に入った

倭国王が列島連合を形成した

朝鮮半島に出兵し、高句麗と激突した

華北が不安定化し、移民事業が空前の活況を呈した

日本列島全域に好況が広まった

4世紀~

5世紀初頭

安定期

宋書・斉書

日本列島は最後の好況に沸いた。

南朝に朝貢した。

5世紀の倭。

仏教が伝わった。

5世紀~

6世紀初頭

転換期

梁書・隋書

政権が交替した。

農民の数が増え、国内交易が活発になった。

景気が停滞し、経済的な軋轢が生まれた。

隋が中国全土を統一した。

隋に朝貢して海運業の不振を改善しようとしたが、失敗した。

6世紀~

 630年

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