多数の交易都市が領域国家に征服される事なく散在し、文明を画期的に発展させた例は沢山ある。フェニキアの諸都市、ギリシャのポリス、中世イタリアの商業都市、近世の北海沿岸の交易都市などの地域主権が尊重された地域が、近代文明への進化に大きな役割を果した事は明らかだからだ。農耕民族は武力によって領土を拡張し、帝国を形成して王朝文化を発展させたが、嘗てその様な帝国があった地域は、現在文明の谷間になっている。多くの史家は、王朝文化の進化が歴史の本質であるかの様に捉えているが、このHPではその様な歴史観は排除し、社会・経済の必然的な変遷を歴史と捉え、政権がそれにどの様に関与したのかを論考する。 この時代の日本列島の歴史を検証する上で、先ず考慮すべき事は、弥生時代の倭国王は何処にいたのか、即ち倭人文化の中心は何処だったのか考証する必要がある。後漢書に倭国王(AD2世紀初頭)が登場し、宋書(AD5世紀)にも倭国王が登場し、漢書以降一貫して「倭には100余国ある」としているから、倭人連合の中核に倭国王が存在した事は間違いない。初めてその倭国を訪問した隋と唐の使者は、倭人連合の中核国を倭国と記しているから、倭国王が直接統治した国を倭国と呼んでいた事も間違いない。 しかし魏志倭人伝は、「30国を統括する女王卑弥呼が、邪馬台国を都にしていた」と記しているが、邪馬台国を「倭国」、或いは卑弥呼を「倭国王」とは記していない。卑弥呼は倭の30国を統治する女王に過ぎず、倭全体を統治する倭国王ではなかったからだ。「邪馬台国の東千里(400㎞)にも、倭人の国がある」と、魏志倭人伝は記している。そこに70余国を統括する倭国王の、倭国があったからだと考えられる。 根拠は(16)-(G)邪馬台国の所在地を参照頂きたいが、邪馬台国は神戸にあったと想定される。その邪馬台国から直線距離で400㎞東にある、多摩川と鶴見川の下流域が、弥生時代の倭国の所在地の有力候補になる。古墳時代初期に複数の大型古墳が形成され、当時の関東の中心地だった事を示しているからだ。弥生時代の倭国が関東にあった事は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣に、象嵌された被葬者の祖先系譜からも想定される。筆頭の祖先の名が「あほひこ(大彦)」だからだ。「ひこ」は倭の各国の王の呼称だったと想定され、「おおひこ」は「大率」と並ぶ、倭国連合の重要な職位だったと考えられるから、「おおひこ」は弥生時代の倭国王の、倭名だったと考えられる。 この鉄剣は古墳時代の倭国王を「獲加多支鹵(わかたきろ)大王」と記し、「わかたきろ」の意味は分からないが、大王の訓読みは「おおひこ」か「おおきみ」だったと推測される。隋書に記された倭王の称号が、「あめたりしひこ」と「あほけみ(おおきみ)」だったからだ。王の妻は「けみ」と号したから、「けみ」は首長的な人物に対する男女共有の呼称だった事になるが、「大」を付けて最高位を示す習俗は、飛鳥時代まで継続していた事が分かる。「あめたりしひこ」は、「あめを名乗るに足りるひこ」を意味したと考えられる。古事記は「あめ」を名乗る有資格者は、倭国王家の系譜者に限られた事を示唆しているからだ。古墳時代の項で説明するが、この王の出自は倭国王家ではなく、日本海沿岸の海洋民族系譜だった。古事記が継体天皇以降は異系であると示唆している事も、歴史事象と整合し、天照大御神や大国主の「大」も同様と考えられ、状況証拠を補強する。 5世紀の鉄剣に、6代前が「おおひこ」だったと刻まれているから、1代平均15年として、被葬者の上祖はその100年前の、4世紀中頃の「おおひこ」だった事になる。卑弥呼は3世紀の人だから、3世紀の倭国王は関東にいた事と合致し、魏志倭人伝の信憑性を高める 倭国王家の本流が関東にいた事を示すその他の根拠として、飛鳥時代末期の朝廷が、突然八角墳を天皇墳墓に採用した事が挙げられる。八角墳の起源は関東にあるから、飛鳥時代末期に関東の倭国王系譜が、大和に遷った事を示している。 更に他の根拠として日本書紀の国譲りに、「一書に曰く」、「天に悪い神がいる、その名は天津甕星(あまつみかぼし)、別の名を天香香背男(あまのかがせお)」と記されている事も挙げられる。「天」が付く名前は天皇系譜だからで、日立市の大甕倭文(おおみかしず)神社が天津甕星を祭っている事は、天皇系譜が関東にも存在した事を示している。 以上の証拠から、魏志倭人伝は弥生時代末期の倭国王が、関東に居た事を示している事になる。倭は関東発祥の交易集団だから、そのトップである倭国王が、弥生時代末期まで関東に居た事に違和感はない。古事記や日本書紀は、それを隠している事になる。 魏志倭人伝は邪馬台国の南に、女王卑弥呼に属さない狗奴国があると記している。漢書と後漢書は、「倭」以外の海洋民集団として「東鯷人」があり、20余国あると記している。「倭」の様な中華的な名称は無いが、20余国と明記し、倭の様な小国連合だった事を示唆している。「鯷」はカタクチイワシを意味するから、その様な魚を食べる漁民の名前から転じた交易集団の名称だったと想定され、海洋民族らしい名称だが、倭の様な組織名を持っていなかった事が、その交易集団の特徴を示唆している。倭人は殷や周に宝貝を納入し、中華の一端を形成する政権集団として「倭」と呼ばれたが、東鯷人は中国の政権とは交易しなかったから、政権名が付与されなかった事になる。しかし東鯷人と呼ばれた集団にも、中核国はあった筈だから、それが魏志倭人伝に記された「狗奴国」だったと考える事は、有力な仮説になる。史書と古事記を参照すると、日本列島にあった有力な交易集団は、太平洋岸の倭と越・出雲集団だったと考えられるから、弥生時代末期の狗奴国が、越・出雲集団を統括する国だったとすれば、この仮説は歴史事実として認定できる。 上に幾つかの論点を指摘したが、それ以上の論考は本論や他の時代の項に譲り、上記の論点の結論を言えば、倭国王を輩出する家系は東西にあり、東の家系は弥生時代まで倭国王を輩出し、西の家系は邪馬台国の王だった。魏志倭人伝はその家系を、「男弟有り、(卑弥呼が)国を治めるを佐(補佐)す。」「卑弥呼の死後、男の王が立ったが国中が服さず、卑弥呼の宗女台与を復た立てた」と記している。卑弥呼の弟が邪馬台国を統治し、卑弥呼や台与の家系を「宗家」とする統治があった事になる。中国の史書は民族単位で国や集団を定義せず、王の系譜で定義するから、「宗女」は倭の特別な王統の女性だった事を示しているが、男子の一系を当然とした中華や周辺民族と、邪馬台国の王統は概念が異なっていたから、魏の使者はその仕組みが理解できず、この様な曖昧な表現を使って報告したと推測される。陳寿もその実態が理解できず、この様に表現したと考えられる。 倭人の統治の実態は、倭国王系譜には複数の宮家があり、倭国王はその中から選出されるものだったから、中華的な一系の系譜ではなかった。その様な系譜の移行事情は、宋書に記された倭の五王の系譜から読み取る事ができるだけでなく、古墳時代の最大の古墳群が、古市古墳群から百舌鳥古墳群に移行した事によっても、読み取る事ができる。魏の使者にはこの仕組みが理解できなかったから、「宗女」という曖昧な表現になったと考えられ、実際の事として、卑弥呼が擁立される以前の王統と卑弥呼は、異なる宮家の出自だったから、魏志倭人伝には卑弥呼の父親に関する記載がないのだと考えられる。中華の史書は、王の系譜の追跡をその一つの主眼としているから、この様な曖昧な表現は異例だと考えるべきだろう。台与も単に「宗女」と記されているだけだから、卑弥呼と同じ宮家ではなかった可能性が高い。日本独特の宮家制は、倭人時代から受け継いだ文化だと考えられるが、倭人時代の宮家は皇統の断絶を補完したのではなく、優秀な指導者を決められた家系から選定する、能力主義的な仕組みだったと想定される。 邪馬台国を訪れた魏の役人は、大陸の農業国の官人だったから、漁民出身の交易者である倭人が形成した、都市国家連合の統治思想や実態を理解できなかったが、理性的な報告書が提出され、その抜粋が魏志倭人伝に掲載されたから、この様な推測が可能になる。但し都市国家と言っても、倭人の島には戦争がなかったから、城壁に囲まれた都市ではなく、茅葺の木造建築が集積しているだけの都市だった。茅葺と言っても立派な家だったから、魏志倭人伝は倭人の家について、「屋室(部屋が沢山ある立派な家)有り、父母兄弟は臥息するに処を異にする」と記している。古墳に媒葬された家形埴輪が示す様な、大きな木造建築だったと想定される。 倭人文化の系譜を考えるには、漢書、後漢書、魏志倭人伝に、 「東南アジアの海洋民族は遠い地域と交易し、習俗は海南島の住民と同じである。」(漢書) 「倭人の島は遠すぎるから、中国人は行く事ができないが、倭人は会稽の市を訪れる。」(後漢書) 「倭人の習俗や物産は、海南島の住民と同じだ」(後漢書、魏志倭人伝)と記されている事が出発点になる。 漢代の東南アジアの海洋民族が交易していた、遠い地域(船行八月で皮宗に到る)の具体的な場所は、梁書にローマ帝国やパルティア(ペルシャ)だったと記され、その交易品は、ローマ帝国で産出する珊瑚、琥珀、金碧珠、琅(美しい石)、鬱金(うこん)、蘇合(香水)であると記されているが、東南アジから輸出した商品は記されていない。しかし漢書地理誌粤の条を読めば、東南アジアの輸出品に絹布が含まれていた事が分かる。更に後世の事情から考えれば、香辛料も重要な商品だったと想定される。東南アジアの海洋民族はその見返りに、上記の財貨だけでなく、オリエントの文明も持ち帰ったと想定される。 西域を経由する陸路のシルクロードは著名だが、東南アジアの海洋民族は東南アジア産の絹布を、インド洋経由で地中海世界に輸出していたと想定される。海路の方が交易量は多かった可能性が高いが、史書にその記載がなく、現代人もその認識に乏しいのは、史書にその記述がなく、大航海時代になって海洋交易が始まったとする、西欧の歴史観が先入観になっているからだと考えられる。更に言えばオリエントの商人が、遠い陸路で運ばれた事を強調し、絹布の価格を釣り上げた可能性もある。しかし漢書、後漢書、魏志倭人伝、梁書を連ねて解釈すれば、弥生時代の倭人と東南アジアの海洋民族は、東シナ海~南シナ海~インド洋を介し、日本列島からオリエント世界に至る交易路を形成していた事と、その文化圏に中華は含まれていなかった事が分かる。 日本には、その証拠が幾つも遺されている。例えば、有明海のアカニシから抽出できる、貝紫と呼ばれる染料で染色した糸が、吉野ヶ里遺跡で発掘された。地中海で活躍したフェニキア人は、シリアツブ貝から貝紫を抽出し、それで染めた布を高値で販売し、財を為した。ローマ人はその技術を盗む事が出来ず、紫を皇帝専用の色にした時期もあった。有明海沿岸の弥生人が独自に貝紫を開発した可能性は低く、フェニキアとの往来があったと考えられるから、日本の海洋民族もオリエントに出入りしていた可能性が高い。 中国の最も高貴な色は黄色だったのに対し、日本では古代から紫が高貴な色だった事も、オリエント文化の影響だった可能性が高い。奈良時代の紫色は紫草(むらさき)の根から得たから、紫色の染料が貝紫から紫草に交替した時期は不明だが、紫色を高貴な色とする価値観の共有は、諸々の共有した文化の濃さを示している。日本に古代ヘブライ文化が残っていると指摘される謎も、この文脈から答えが出る。 弥生時代の紅海と地中海は、簡単な運河とナイル川を介して繋がっていたらしいから、倭人もフェニキア人と交流して貝紫を生産しただけでなく、時にはアテネやローマに船を付けた可能性も否定できない。 東南アジアの海洋民族と、習俗や物産を共有していた倭人も、海洋船を作るだけではなく、内陸に生産機能を備えて、絹布を生産して染料を開発し、ヒスイの加工品を作り、真珠や丹を採取していた。 製鉄技術もこの海上ルートで伝搬したと想定され、鉄器の使用は、中国人より海洋民族の方が早かったと想定される。インドには古代の海洋民族が育つ環境がなく、オリエント文明の伝搬は、東南アジアの海洋民族が仲介したと考えられ、インドの鉄はヒッタイトが滅んだBC12世紀に遡るとされているから、東南アジアや日本列島でもその頃に、鉄器の使用が始まった可能性が高い。 東南アジアの海洋民族の言語話者は、フィリッピン、インドネシア、マレーシアを中心に、南太平洋の島々からアフリカ東岸のモザンビークまで拡散している。現在彼らの言語が残っている地域は島嶼で、大陸でも密林などによって遮られ、陸の孤島だったと考えられる地域に限定される。従って武闘的な大陸民族がいた中国、インド、オリエントに、彼らの定住を示す言語的な足跡がないからと言って、彼らが交易者としてその地を訪れていたのを疑う事は、先入観に囚われていると言っても良いだろう。AD1世紀のインド洋交易について、ギリシャ人が記した「エリュトゥラー海案内記」には、アフリカ東岸の交易圏として、モザンビークの北端と同緯度の地域まで記されているが、著者が南下したのではなく伝聞記事と考えられている。東南アジアの海洋民族のモザンビーク方言は、AD300年頃に成立したと推定されているから、彼らがアフリカ東岸の交易に関与していた事は確実だ。AD300年頃は、古墳寒冷期になって地中海世界が混乱し、経済活動が縮小した時期になるから、交易の衰退によってモザンビーク植民地が孤立し、方言として分離したと解釈できるから、時期的にも整合する。 東南アジアの海洋交易民は、大陸の武装組織との戦闘を避け、大陸の勢力が及ばない孤島に秘密基地を作り、交易活動を行っていたと考えて良いだろう。中国大陸での彼らの足跡としては、戦国時代に山東の瑯琊を都にした越が、その民族政権だった可能性が高い。粤(えつ)が彼らの民族名で、越はその政権の名称だったと想定され、越が都にした瑯琊には川がなく、海に面している事に思い至れば、越は倭と東シナ海を共有した海洋民族だったと考えられるからだ。彼らは秦・漢帝国が成立した際に、漢民族の暴力を恐れて山東から撤退し、東南アジアの島嶼に移住したと想定される。史記には全く異なる歴史が記され、そこから臥薪嘗胆や呉越同舟という熟語が生まれているが、それは稲作民の歴史を抹殺した司馬遷の、創作話だったと考えられる。後漢書の南蛮西南夷列伝は、漢書地理誌の粤の条を補足する様に、粤の地の住民は貫頭衣を着けていたと記し、後漢代になっても東南アジアの海洋民族と習俗を共にしていた事を指摘している。 戦国時代の山東の越は、海洋交易に注力していた様に見えるのに対し、同時代の倭人は大陸の河川を遡上し、大陸内部の荊や漢民族と交易した事を、論衡の「周の時天下太平,越裳は白雉を献し,倭人は鬯草を貢す。」や、漢書の「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う」が示している。粤の国だった越裳は、大陸の奥深くにある洛陽や西安を都とした周には、偶に朝貢する関係だったから「献」が使われ、倭人は定期的に朝貢したから、「貢」が使われたと考えられるからだ。越が大陸から撤退していた漢代の事になるが、倭人は大挙して漢の領内に出向き、豪族の館を訪問していた。倭は春秋戦国時代から、その様な仕方で交易を行っていたから、漢代にもそれを続ける事ができたと考えられる。 倭人は春秋戦国時代から、大陸奥地の農民に物資の供給を行っていただけでなく、地域に縛られて情報源に乏しかった彼らに、遠隔地の情報を提供してきた事もそれに寄与したと考えられ、漢代にも交易を行う傍ら、強い情報発信力を持っていたと考えられる。戦国時代の伝承を記したとされる山海経が、海中の島の怪異を多く含んでいるが、それは倭人が発信した情報だったと考えられるからだ。倭人がその様な情報を流したのは、漢民族が倭人の島に渡航する事を嫌ったからでもあったが、倭人が持参する絹布、丹、瑪瑙、真珠、琥珀、珊瑚などの宝物は、遠く隔たった妖怪の住む島や神仙の島から持参したものだと宣伝し、商品に付加価値を付けて、高値で売りたかったからだとも考えられる。その様な怪異伝承や神仙世界は、民間伝承だっただけではなく、秦の始皇帝もそれを強く信じたから、史記の始皇本紀に、徐福伝説が記された。それに依れば始皇帝は徐福に、神仙世界から不死の仙薬を持ち帰る様に命令し、徐福の事業に千金を投じ、周囲の誹謗中傷にも拘らず、死ぬまで徐福を信じ続けた。 漢帝国が成立すると、王朝の史官は歴史を捏造し、中華文明は黄河流域から生まれ、稲作民は蛮族だった事にし、漢民族王朝の統治を正当化した。王朝が征服できなかった倭人とは、情報戦を戦う事になった。それ故史記は、倭人に関する一切の記述を史記から排除し、倭人の存在を無視したが、不本意ながら徐福伝説を記さざるを得なかったのは、漢代の大陸人が依然として神仙世界を信じ続け、徐福のその後に関する倭人の情報に、興味を持ち続けたからだ。三国志も後漢書も、それ故に徐福の子孫伝説にまつわる記事を掲載し、徐福を受け入れた倭人の、情報発信力の強さを示している。 弥生時代の歴史を時系列で追うには、1600年周期の寒暖表との併記が分かり易い。
赤字は稲作民の国、黒字は雑穀民の国/王朝 弥生時代の前史として、縄文晩期寒冷期を概観すると、大陸の農業生産は不振を極め、倭人の交易活動は停滞していたと想定されるが、記録がないから実態は分からない。1600年後の次の寒冷期が始まった、弥生時代末期の事情と比較すると、魏志倭人伝や後漢書が「倭国に乱があった」と記している事が目に付く。寒冷化によって大陸の農業が打撃を受け、それによる交易の不振が倭人諸国の軋轢を生んだ事情は、縄文晩期寒冷期にもあった可能性が高い。 日本列島の内陸に目を転じると、縄文的な生活が残っていた縄文晩期の東北と北陸に、青森を中心とする亀ヶ岡式土器が普及した事は、寒冷化を機に、毛皮交易が活発化した事を示唆している。一方西日本では、寒冷期にも拘らず熱帯ジャポニカやアワなどの栽培が盛んになり、農耕が徐々に北上した事が、考古学的な発掘から指摘されている。寒冷化によって、日本列島内の交換経済が不振になる中で、困難な状況を打破するために西の縄文人と東の縄文人が、それぞれ地域独特の、経済活動を展開した結果だったと想定される。 BC900年頃から弥生温暖期が始まり、その頃東アジアの鉄器時代が始まったと想定される。但し鉄器は急速に普及したのではなく、海洋民族が船を作るために使う事から始まり、やがて造船に使った鋭利な刃物で堅い木や竹を加工し、木製農具を製作する様になると、畔を持つ水田が作られて水田稲作が盛んになったと想定される。日本列島や華南の稲作民社会では、木工に適した鋼が得られる錬鉄を生産したが、華北では少ない木炭で製鉄する鋳鉄が作られ、漢代以降の大陸では、鋳鉄の生産が主流になった。しかしその後も、日本列島では錬鉄の生産が継続し、蹈鞴製鉄に発展して鋭利な日本刀が沢山作られた。大陸が鋳鉄の量産に特化したのは、木炭資源が乏しかったからだと想定されるが、鋳鉄は炭素などの含有不純物が多いから、脆いだけでなく錆び易く、鍛造して鋭利な刃物を得るには不向きだから、農具や刀剣は錬鉄製より重くなる。古代~中世にこの様な製鉄を行った地域は、中国しかないが、近代的な高炉製鉄と基本的に同じ方式だから、中国は製鉄の先進地だったと誤解する人がいるが、脱炭装置である反射炉や転炉がなければ、粗悪な鉄の量産でしかない。使用者の立場も考慮した長い目で見た場合、どちらの製鉄方法が効率的なのか、改めて研究する必要があるが、湿った土を深く耕す備中鍬などは、錬鉄でなければ作れなかったのではなかろうか。 稲作に目を転じると、弥生温暖期に中国の稲作民は東シナ海沿岸を北上し、山東半島に達した。山東の粤の分派は朝鮮半島南部にも入植し、それが魏志韓伝に記された弁辰人だったと考えられる。日本列島でも青森まで稲作が北上した。 夏王朝期までは石器時代だったから、石器の素材が入手出来ない沖積平野である淮河流域は、未踏の森林に覆われていたが、青銅器や鉄器が普及した弥生時代になると、その広大な沖積平野の開墾が進み、乾燥した内陸には漢民族が南下してアワを栽培し、湿潤な沿岸部を稲作民が北上した。春秋時代(BC8世紀~BC5世紀)は、弥生温暖期になって人口が増加した時代だから、文化が開花した百花繚乱の時代と言われる事と、背景が合致する。但しそれは稲作民が主導した文化であり、越文化の背景にはオリエント文明があったと考えられる。 日本の漢字の読み音は、江戸時代まで呉音が主流だった事は、倭人は揚子江下流域にいた荊の国である呉と、漢字音を共有した事を意味し、それと対比される漢音は、漢代の漢民族の音だったと想定される。倭人は稲作民と漢字を共有してその音に慣れていたから、漢帝国が成立して荊の文化が消滅しても、漢音は採用しなかったという事だ。唐の音も基本的には、漢民族の音を踏襲したものだったのではなかろうか。 春秋時代に最も高い文化を持っていたのは、東南アジアの海洋民族と共生していた越だった筈だが、この議論に「越音」が登場しない事は、越は漢字文化を主導していなかった事を示唆し、フェニキア文字の様な表音文字を使っていた事になる。呉や楚などの、荊の文化は越が主導していたと考えられるが、荊を支えた海洋民族は倭人だったから、漢字文化は呉と倭が共同で進化させた疑いを深める。倭も東南アジアの海洋民族と共に、オリエントの高度な文明に共感していたから、その文明圏からの影響が大きかったと捉えながら、倭と荊はその辺境に在ってより独自性を発揮したと考える方が、的確な表現になるだろう。 話しを経済問題にフォーカスすると、温暖化によって経済活動が活発になった影響として、次の様な変化が起きたと考えられる。 経済が活性化すると倭人が供給していた宝貝のインフレが進行し、楚が通貨を青銅に変え、楚貝貨を発行した。これによってデノミが実施された事になり、古い貨幣だった宝貝貨は価値を失い、倭人の宝貝交易は消滅した。倭人には新たな交易品が必要になり、絹布、丹、真珠、珊瑚、琥珀、瑪瑙などの物産を揃え、温暖化して豊かになった中国の豪族を顧客として、拡販したと考えられる。 中国の古代王朝は商工民族を母体としたと想定され、弥生温暖期の商工組織としては、洛陽を中心に周が活動を継続し、揚子江下流域に呉が生まれ、中流域で楚の活動が活発化し、東シナ海沿岸に越が生まれ、山東省の内陸に斉が生まれた。しかし青銅器や鉄器が普及して黄河流域や淮河流域の開墾が進むと、それらとは異質な雑穀栽培民の集団が、雨後の筍の様に生まれた。それらの新興政権は領域国家として、新開地に入植した農民に耕作権を保証する代わりに、租税と賦役を課す尚武的な政権だったと想定され、既存の交易に参入するための商品は、産出していなかったと考えられる。しかしその様な政権も、鉄器などの商品や基礎的な生活物資である塩を輸入する必要があり、域内で生産できる何らかの商品を供出する必要があった。農産物や鉱産物があれば、それを売る事ができたが、どちらもなければ奴隷を主体とする商品を、提供する事になったと想定される。周礼にその事情に関する次の記載があり、「揚州の利、金、錫、竹、箭」「荊州の利、丹、銀、齒(象牙)、革」「豫州の利、林、漆、絲(絹?)、枲(からむし)」「青州の利、蒲(敷物?)、魚」「兗州の利、蒲、魚」「雍州の利、玉石」「幽州の利、魚、塩」「冀州の利、松、柏」「并州の利、布、帛(絹織物)」、燕も塩の交易に参加していた事を示している。稲作地だった揚州や荊州は物産が多かったが、華北や淮河流域は物産の乏しい地域だった様に見える。越や斉の拠点だった青州の物産が少ないのは、その地の住民は内陸民との交易に興味が薄く、東南アジアやオリエントとの交易に、或いは倭との交易に顔が向いていた可能性がある。越が絹布の生産者で、製鉄集団を擁していた事は間違いないのだから。 弥生温暖期に黄河や淮河の流域の、武闘的な雑穀民の人口が急膨張し、地域政権が互いに攻伐しながら巨大化すると、戦乱が揚子江流域や東シナ海沿岸に及ぶ様になり、稲作民と雑穀民の武力的な力関係が逆転した。この項ではその様な時代を、戦国時代と呼ぶ。武力的に劣勢になった稲作民は、最終的に楚を、稲作民の武力を統括する政権としたから、楚が稲作民を統治する政権になった。楚は春秋時代以前から、稲作地の辺境にあって雑穀民と対峙し、武力を重視していたからだと考えられる。竹書紀年はこの時期の楚が、稲作民の政権としては唯一、積極的な軍事活動を行った事を示している。 しかし楚を指導国とした稲作民は、BC3世紀末に雑穀民政権の秦に打倒された。越は東南アジアに逃亡し、大陸稲作民の地域分権的な統治組織は、秦によって破壊された。秦の始皇帝が行ったとされる焚書坑儒は、儒教を弾圧したのではなく、文明の本流と自負していた稲作民の知識や知恵を、秦の帝国統治を否定するものとして、強制的に廃棄させる施策だったと想定される。史記も秦の施策を、その様に記述している。 秦は短命で滅んだ。稲作民は秦を打倒するために革命軍を興し、それを代表した項梁が、楚の王族の末裔を探すと、「その男は民間人に雇われて羊を飼っていた」と史記は記し、秦の文明破壊が如何に凄まじいものだったのか、簡明に記している。 革命戦争の最終段階で、稲作民を代表していた項羽が雑穀民の勢力を糾合した劉邦に敗れ、劉邦は長安に漢王朝を樹立した。秦が長安の前身だった咸陽に、財貨や宮廷職人を集めていたからだと想定される。漢王朝は秦帝国の暴力的な施策を改め、歴史を捏造して稲作民の歴史を抹殺し、漢王朝の正統性を宣伝した。しかし漢軍は倭人の島まで征服できなかったので、歴史を捏造していた漢王朝にとって、倭は極めて不都合な存在として存続し続ける事になった。その様な事情の中で、漢王朝の史官は帝国内に捏造史を浸透させる為に、倭人は昔から中華世界の外の民族だったと宣伝し、倭人が発信した情報を帝国内から排除しようとした。しかし倭人は大陸での交易を継続し、依然として強力な情報発信力を持っていたから、漢王朝の史官は倭人と、情報戦を戦う羽目になった。その様な倭人の様子を漢書地理誌は、「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と記した。倭人は毎年何百隻もの船を仕立て、決まった季節に大陸の奥深くに遡上し、豪族を相手に高価な商品を販売し、その商品の中には、戦国時代まで越が供給していた東南アジア産の商品も、多数含まれていたと考えられる。漢書地理誌は、広州に出向いた漢の商人が東南アジアの海洋民族と交易し、財を成していると記しているが、その商品を広州から長安や洛陽に運ぶには、長沙を経由する内陸路が使われたから、東シナ海がそのバイパス商路になっていたと考える事は、極めて妥当な推測になるだろう。漢王朝が成立したからと言って、自前の物流機構は容易に整備できなかっただろうし、必ずしも漢王朝に服していなかった沿海部の豪族が、自分の威信を示す高価な物品を、王朝から下賜される物品だけではなく、東シナ海から多量に且つ安価に流入して来る商品にも依拠する事に、関心がなかった筈はないからだ。 史記が倭人を完全に無視しているのは、捏造史を完成した司馬遷や漢代の史官が、やがて倭人は大陸から駆逐されると、考えていたからではなかろうか。しかし後漢代になっても、倭人の存在は無視できなかったから、後漢代に漢書を著述した班固は、倭人を除いた地理誌は不自然になると判断し、上記の一文を挿入したと推測される。 その後の史書が倭人に関する記述を増やしたのは、倭人は大陸の政権と無関係になっても、交易を続ける道を確立していたからだと考えられ、それらの史書の徐福伝説の扱い方から、倭人の交易活動の軌跡を窺う事が出来る。倭人は500年間、徐福の子孫の動向を中国人に伝え続け、中国人は怪異と神仙の島に実際に渡った、徐福一団の子孫の動向を興味深く聞き続けたからだ。それが華南の伝承だった事は、漢民族に征服された稲作民の、心理的な抵抗の表出だったのかもしれない。三国時代の呉はその情報を根拠にして、1万の兵を動員し倭人の島に遠征し、徐福一団の子孫を奴隷にする人狩りを企てた事が、三国志呉志に記されている。 その事件の直後に邪馬台国の卑弥呼が、朝鮮半島の交易問題を解決する為に魏に朝貢し、魏の使者を邪馬台国に招致した。それによって中国の知識人が、初めて倭人の島を訪れる機会を得たので、その報告書を手にした三国志の著者陳寿(ちんじゅ)が、魏の使者の報告書を精査して東夷伝を編纂し、漢書が「東夷は天性柔順で、三方(西、北、南)の外(の民族)と異なる。故に孔子は道(徳)が行われないことを悼いたみ、浮を海に設け、九夷に居さんと欲した。故ある事だ。」と特記した九夷は、倭人の祖先であると結論付けた。陳寿が漢代の捏造史から縁を切り、極めて学術的な歴史家になっていたのは、彼自身の人格が優れていただけでなく、後漢が滅んで捏造史を編纂する意欲が薄れたという、時代背景があったからだと考えられる。しかし陳寿は内陸の人だったので、倭人と直に触れた経験がなく、枝葉の細かい点ではあるが、倭人に関して幾つかの誤認があった。 南朝宋の官僚だった范曄(はんよう)は、三国志より遅れて後漢書を執筆し、その中に倭人伝を含めた。その倭人伝の見掛けは、魏志のダイジェストと後漢の朝廷記録の編集だが、范曄の真意は、魏志東夷伝の結論を否定する事だった。華北を異民族に蹂躙され、華南に亡命した漢民族が樹立した南朝では、漢民族の民族主義が台頭していたと想定される。范曄はその思想家として後漢書を著述し、民族主義を鼓舞しようとしたと考えられる。それ故に范曄は、中華以上に優れた文明が中華の周辺にある事を許す事ができず、その筆頭に見えた倭は、孔子が尊んだ九夷ではないと主張した。 范曄はそのために、宋に朝貢した古墳時代の倭や百済・高句麗の使者と積極的に接し、彼らから得た知識を基に、後漢書東夷列伝を著述したと想定される。三国志と後漢書の東夷伝を比較すると、漢王朝が成立した背景を薄々知っていた陳寿が、真実に迫った結論を得ているのに対し、范曄は漢代に著述された多数の捏造史書によって、知識を豊かにしただけの人だったから、後漢書の東夷伝には論理矛盾がある。しかし後漢書の東夷伝には、正確さを以て陳寿の結論を否定する意気込みがあり、それによって古墳時代の倭人の様子や伝承が分かるから、歴史を論考する上では大いに参考になる。 漢代の倭人は、漢王朝と敵対する情宣活動を控えたが、漢民族が日本列島に侵攻する事を極度に恐れ、「倭人の島は大陸から遠い」と宣伝し、漢民族が日本列島に渡航する事を拒み続けた。唐代になってもその状態が続いていたから、旧唐書に、「皇帝(唐の太宗)はその道(倭人の島への旅程)の遠きを哀れみ、所管の役人に命じ、毎年朝貢しなくても済む様に取計った」と記されている。 このHPでは弥生時代を3期に区分し、中国の貨幣が青銅貨に変わって宝貝交易を失い、交易品の転換を図りながら倭の組織を確立した春秋時代(形成期)、多彩な物産を扱う交易者に転身した戦国・秦・漢代(発展期)、気候が寒冷化して華北の農耕が打撃を受け、過剰になった華北の人口を華南に移す事業を始めた後漢・三国時代(転換期)について、各時代の事情を論考する。
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