縄文時代 (各論への導入ページ)

21世紀に新発見が相次ぎ、縄文時代の通説が覆りつつある。

従来は土器や道具から縄文人の生活を分類していたが、遺伝子分布が縄文人の活動歴を示しているからだ。

新石器時代の人類の最大の成果は、農耕の発明だったと言っても過言ではない。植物採取を担った女性が貯蔵性に優れたイネ科の種子に着目し、その栽培を始めたことが穀類の栽培化に繋がった。そこまでは定説化されているが、遺伝子分布は更に詳細にその事情を明らかにしている。つまり栽培が始まったのは氷期の期間も温暖・湿潤だった東南アジアで、女性が農耕を担う状態は石器時代が終わるまで続き、栽培を農業に進化させたのは女性達だった事を示している。

栽培種と栽培技術は母から娘に、ミトコンドリア遺伝子と一緒に伝えられたから、栽培種とミトコンドリア遺伝子の関係を特定すると、栽培種の伝来事情が明らかになる。それによって縄文時代を動的に捉える事ができるだけではなく、大陸の栽培事情や民族の履歴も明らかになる。

近代科学では実験室に隔離された環境を整え、その実験結果から理論を構築するが、閉ざされた日本列島で営まれた縄文社会も、これに類似した環境だった。大陸では民族が複雑に交雑したから、そこで起こった事象の判定は困難だが、隔離された日本列島の縄文人が、大陸民族と交流してミトコンドリア遺伝子と栽培技術を取り込み、栽培技術を進化させたから、ミトコンドリア遺伝子の渡来時期や渡来事情を復元すると、それにまつわる個々の諸事情が明らかになり、ミトコンドリア遺伝子の拡散法則が得られる。

海に囲まれて大陸から孤立している日本列島では、氷期が終わった時点では亜寒帯性の植生しかなく、穀物栽培者が誕生する要素はなかったが、その1万千年後の弥生時代には、大陸では行われていなかった田植えを行うなど、先進的な稲作列島になっていた。それは縄文人が穀物の栽培者を大陸から選択的に受け入れ、渡来した女性達が日本の風土の下で品種改良し、独自の栽培技術を生み出したからだが、孤立した日本列島は穀物の栽培化過程を理論的に復元する、実験室的な環境も提供している。

栽培技術を持った女性達が、海で隔てられた大陸から日本に渡来する為には、前提条件が必要だった。

彼女達を日本に運んだのは、日本の海洋漁民だった。海洋漁民は優れた漁具の素材である、獣骨や鹿の角を入手する為に、狩猟民族との交易を活発に行っていた。それらの素材から銛や釣り針を作って漁獲を得ていたが、これらは消耗品だったからだ。漁民の交易的な営みは氷期に生れ、彼らは海洋漁民になると南北に遊動し始め、やがて移動範囲を日本列島の外に広げた。

海洋漁労には漁網や釣り糸の素材になるアサも必須素材で、それがなければ離頭銛で大型魚を捕獲する事ができなかった。氷期が終わった直後の日本列島にアサは自生していなかったが、縄文遺跡からアサ、土器、銛、海洋魚の魚骨、黒曜石の矢尻などが発掘され、縄文時代にはこれらが揃っていた事を示している。

従来は単一民族が四季に応じて、漁労、狩猟、栽培を行っていたと考えていたが、日本人には漁労民族(Y-D)、狩猟民族(Y-C)、栽培民族(Y-O)のY遺伝子が揃っているから、異なる民族がそれらを生業とし、必要に応じて物資を交換しながら生活を支え合っていたと考えられる。常識的に考えても、石器時代に一つの民族がアサやウルシなどの栽培、船を使った海洋漁労、鹿や猪の狩猟の三つの業態を、四季に応じて行う事などできた筈はない。それぞれの生業には必要な道具類があり、石を割ったり研いだりしたり、樹木を選んで削ったりして整える行為は、狩猟や漁労などの直接的な行為と同程度に高度な営みであり、石器時代の最も重要な文化要素だったからだ。

縄文人はY-Dの単一民族だったとの主張が罷り通っているが、その根拠は日本人に多いY-O2b1の分岐年が、縄文時代の成立時期より新しいという、意味不明な計算結果しかない。遺伝子の系統樹に分岐年が付与されているが、この数値は目安を示しているだけで、歴史事実を知らなければその精度は保証できないが、Y-O2b1の分岐年は歴史事実を無視し、固定的な計算式で算出しているに過ぎないからだ。従ってそれを根拠に、歴史仮説の可否は判定できない事は言うまでもなく、歴史事実を積み上げると、縄文人は単一民族ではなかった事が明らかになる。

それを具体的に示すと、氷期の日本列島には漁民と狩猟民族しかいなかったが、海洋漁民が交易的な生産活動の主導権を握り、アサを栽培する縄文人を船で日本列島に招く事が、縄文漁労の成立には必要不可欠な条件だった事は明らかだ。

縄文人の渡来によって漁民の生活が安定し、交易活動を活発にできる様になると、漁民は大陸の稲作民族とも交易を行い、稲作技能を持った女性を渡来させ、縄文人が彼女達を受け入れる事により、日本列島に穀物栽培が定着したと考えなければ、縄文史もそれ以降の歴史も成り立たない。言い換えると3民族のいずれが欠けても、縄文文化は生まれなかったし、漁民が主導権を握らなければ物事は進まなかった。渡来した縄文人は狩猟も行う人々だったから、先住の狩猟民と縄張りを調整する必要があったし、漁民が稲作の技能者を連れて来ても、縄文人が受け入れなければ縄文稲作は定着しなかったからだ。

通説では大陸の農耕民族が弥生時代初頭に渡来し、それによって日本列島で稲作が始まると共に、文明化したと説明しているが、上記を前提にした遺伝子分布は、その様な歴史認識を否定する。縄文時代初頭に上記のY遺伝子が揃い、それによって縄文文化が生まれたとすると、その他のY遺伝子、即ち大陸からその後に渡来した民族のY遺伝子は、日本人には含まれていないからだ。

古墳時代に華北のアワ栽培者が帰化し、日本列島に新たなY遺伝子が加わった事も、遺伝子分布は示しているが、彼らの子孫は現代日本人の2割に満たない。帰化人の由来には2種類あり、魏志倭人伝は彼らを「男女の生口=売買された人々」と記し、海洋民族が気候が寒冷化して農耕が厳しくなった華北から、鉄器が普及して水田の開拓が盛んになった日本列島に、肉体労働者を導入した事を示している。

平安時代に編纂された新選姓氏録は、豪族が率いる集団として帰化した人々の存在を示しているが、全1182氏姓の内、帰化人である事を示す「諸蕃」は326氏しかない。帰化人が多かった畿内の集計である事、在地氏族の方が氏族規模は大きかったであろう事を勘案すると、帰化人の多数派は生口として渡来した人々だった可能性が高く、現代日本と中華の文化的な隔絶が、極めて大きい事と整合する。

従って弥生人は渡来者だったとか、古墳時代の帰化人が大陸文化を持ち込み、日本が文明化したなどの主張には根拠がない。

男女がペアで渡来すれば民族が渡来した事になるが、縄文時代に渡来したのは、穀物栽培などの特殊技能を持つ女性達だけだった事を、縄文人と現代人の遺伝子分布が示している。渡来した女性は栽培技能者だけではなく、色々な技能を持つ人達だった。現代社会でも、特殊技能者が単身で世界に雄飛する例は多々あるが、縄文時代にも同様な事が起こっただけだ。現代日本人のミトコンドリア遺伝子分布は、その様な女性達が残した遺伝子が圧倒的な多数派である事は、縄文時代には文化の拡散や摂取が、精力的に行われた事を示している。

現代日本人の多数派は、縄文人の子孫である事に疑問の余地はないが、縄文人由来の多彩なミトコンドリア遺伝子は、縄文文化が大陸文化の影響を受けた事も示している。

 

10万年続いた今次の氷期の日本列島は、寒冷期には亜寒帯性の気候に覆われ、温暖期には冷温帯性の気候に覆われ、北海道と樺太を介してシベリアに繋がっていたが、朝鮮半島と九州の間は、日本海と東シナ海を繋ぐ水路を海水が出入りしていたから、陸続きではなかった。つまりシベリアと動植物を交換していたが、朝鮮半島は動植物が往来する地域ではなかった。氷期の最寒冷期が終わると海面が上昇し、日本列島は大陸から完全に切り離されたから、温暖化して農耕ができる気候になっても、穀類の栽培化に繋がる植生は原生していなかった。

その様な日本列島で農耕が始まるためには、大陸で生まれた穀類の栽培技能者だった女性達に、日本列島に渡来して貰う必要があった。その最終結果として、日本列島は豊かな稲作に恵まれる瑞穂の国になったが、その複雑な経緯を考古学だけで明らかにする事はできない。

54万年前に、河川・湖沼漁民が陸路でシベリアから日本列島に漂着し、日本列島の歴史が始まった。シベリアの狩猟民族は、それ以前から日本列島に季節遊動していたから、漁民と狩猟民族の共生社会が生まれた。

43万年前に彼らが海洋漁民化すると、最北の海洋漁民だった関東と北陸の漁民は台湾に季節遊動し、堅果類を栽培していた民族と交流した。氷期の台湾は大陸の一部だったから、堅果類を栽培していた民族は大陸民族だった。

15千年前に日本列島が温暖化すると、海洋漁民がその栽培民族を船で日本列島に入植させ、縄文時代が始まった。このHPでは、堅果類を栽培していた民族を縄文人と呼び、氷期から日本列島にいた漁民や、シベリアから南下した狩猟民族と区別するが、包括的に人々を指す場合は縄文人と呼び、可能な場合は地域名を付ける。

堅果類の栽培者は、保存性が高い植物性食料の大量確保に、世界で最も早く成功した民族で、縄文人はその分派だった。母集団は暖温帯性の堅果類を栽培していたが、縄文人は冷温帯性の堅果類を栽培していた。どちらの堅果類も毒性があるタンニンを含むから、土器を使って除去したが、完全には除去できなかったので、食料の過半を堅果類に依存する事はできなかった。

堅果類の栽培者は狩猟民族でもあり、堅果類は不猟期の食料不足を補うものだった。堅果類を栽培して食料事情が安定すると、人口が増えて狩猟の縄張りを新たに求め、多数の分派集団が生まれた。縄文人集団はその一つだった。

縄文人が日本列島に渡来して漁民と共生し、海産物の供給を得て人口が増えると、食料の過半を海産物に依存する状態になった。この様になった縄文人が、漁民の収穫を当てにする状態から脱却し、自立した食料生産者になる為には、穀物栽培者に転向する必要が生じたが、その歴史は極めて長く紆余曲折に富むものだった。

堅果類の栽培者だった縄文人が穀物栽培者になるためには、先ず漁民が大陸から、優れた穀物の栽培者を連れて来る必要があった。漁民も自分の食料事情を安定させるためには、保存性が高い植物性食料を併用する必要があったから、縄文人との共生を始めた当初はドングリも食べたが、大陸で穀類が栽培されている事を知ると、堅果類ではなく穀類を食べる事を強く希望したから、縄文人と漁民の利害は一致した。漁民はその方針に従い、大陸の各地から色々な時期に、色々な穀物栽培者を招いた。

石器時代の穀物栽培は先端技術だったから、縄文人は大陸各地で先進的な穀物を探し出し、その栽培技能者を日本に招聘した。その結果多彩な穀物種が導入され、それぞれが日本で独自の進化を遂げたから、ミトコンドリア遺伝子の分布を解析し、彼女達が持ち込んだ栽培種と流入時期を特定すると、日本の穀物栽培史を復元できる。しかし石器時代の穀類は生産性が低かったので、穀物栽培が導入されても、縄文人が食物を海洋漁労に依存する状態は継続し、堅果類を補助食料とする状態から脱却する事もできなかった。

この状態は大陸の稲作民族も同様だった事を、河姆渡遺跡の発掘遺物が示している。河姆渡遺跡では、熱帯ジャポニカ系のイネを栽培していたが、ドングリも多量に発掘されているからだ。温帯ジャポニカを栽培化した湖北省の稲作民は、稲作と河川漁労だけで食生活を賄う事ができた、例外的な存在だったが、彼らの稲作は広い沖積平野を必要とし、縄文時代にはその適地が限られていた。彼らが栽培化した温帯ジャポニカには、致命的な耐寒性問題があり、気候の寒暖に合わせて南北移動を繰り返す必要があった事も、彼らの稲作事情を窮屈な状態にした。

縄文人も気候の激変を何度も経験し、穀物の生産性はその都度甚大な影響を受けたが、栽培技能者として渡来した女性達は、日本列島に閉じ込められていたから、大陸の栽培者の様には南北移動しなかった。生産性が高い漁民と共生していたから、気候の寒冷化によって生産性が劣化しても、食料に窮する事はなく、堅果類も活用しながら大陸から持ち込んだ穀物種を栽培し続けた。その結果として彼女達が栽培するイネは、耐寒性を劇的に向上させる事になり、亜熱帯の植生だった稲を温帯の栽培種に変えた。

この様な日本の穀物栽培史を復元すると、渡来した女性達の故郷だった、大陸の栽培事情も明らかになる。

中国南部を含む東南アジアの民族は、氷期には狩猟と漁労を主要な生業にしていたが、女性達が出産と育児を担いながら植物を採取し、保存性が高いイネ科の植物を栽培し、地域毎に生産性が高い特定種の生産性を高めていた。後氷期に温暖化するとその女性達がユーラシア各地に拡散し、各地で独特の穀物を栽培化したから、交易活動の対象地域が広い縄文人はそれらの穀物種の中から、優良な品種を選んで栽培技能者の女性達を日本列島に招いた。彼女達の子孫が穀物の生産性を徐々に高め、日本列島を瑞穂の国にしたが、最も貢献したのは女性達だった事が、縄文人や弥生人のミトコンドリア遺伝子分布から明らかになる。

女性達が栽培を始めた事は既に周知されているが、農業に仕立てたのも女性達だったと聞くと、疑念を持つかもしれない。しかし日本人のミトコンドリア遺伝子分布は、栽培種が穀物と言える状態に進化した石器時代の終了時まで、主体的な農耕者は女性達だった事を示している。その理由は母から娘に栽培ノウハウが伝えられ、それが蓄積されて栽培技術が高度化し、生産性が高まると、その技術は容易に男性に移転しなかったからだと想定される。男性達の側も、栽培の生産性が一家全員を養うレベルまで高まらないと、狩猟や漁労から解放されなかったからだ。それを一般論として言えば、石器時代の穀類は生産性が低く、男性達も息子に狩猟や漁労の技能を伝える必要があり、男女の分業を継続せざるを得なかったから、穀物の生産性がかなり高まった時代になっても、主体的な栽培者は女性だった。

石器時代の栽培は自然地形を利用するものだったから、生産性は低かったが、貯蔵可能な補助食料として不安定な狩猟を補完した。栽培の生産性が高まると、狩猟民族は居住可能圏を拡大する事ができたから、それに付き合った女性達は、恒常的に生産性を高める必要に迫られ、新たな栽培地の選定を含めた、栽培技術を高度化していった。縄文前期には多くの栽培種が、穀物と言える状態に達していた事は、遺跡の発掘から確認されているが、ミトコンドリア遺伝子の分布も同様の事情を示している。

狩猟民族は不猟期を補完する食料が充実すると、生産性が不安定な地域にも縄張りを設定できる様になり、安定した狩猟が可能だった地域でも、人口密度が高まると縄張りが実質的に狭くなり、狩猟者個人の生産性は低下した。そのような必然的な事情により、食料生産に関する女性の役割は益々高まったが、栽培行為が農耕として成立し、家族全員を養うことが可能にならない限り、男性達は狩猟や漁労を継続しなければならず、乏しくなりつつある獲物の獲得競争に勝ち残り続ける必要があった。

その様な状態の転機は、鉄器の普及によって到来したと想定される。鉄器時代になると各種の農具や土木具が生まれ、それを使った男性達の労働により、灌漑水路を開設して開墾地を整備し、水田を形成する時代になったからだ。それによって男性達が整備した水田の質が、農業の生産性を左右する様になると共に、農業専業でも自立できる生産性が得られたから、石器時代に母から娘に伝承された自然地形を利用する栽培技能が陳腐化し、農業の主体者が女性から男性に転換したと考えられる。

但しこれは、経済事情が農耕に直接反映した場合であって、実際には民族毎に状況が複雑に絡み合っていたから、農業の主体者の転換は地域環境や民族性に依存した。しかし基本的な事情が分かれば、それを基に各民族の歴史を分析し、穀物栽培の進化過程を明らかにできる。

ミトコンドリア遺伝子とY遺伝子は、現在の分布が一致していないだけでなく、拡散時の相関関係さえも示していない場合が多い。これは大陸であっても日本列島であっても、男女ペアが一体的な民族として移動・拡散したのではなかった事を示している。その様な不可解な現象に、困惑させられている人もいるが、ミトコンドリア遺伝子の純化と拡散の法則が分かれば、その理由は明らかになる。

石器時代の男性達は、狩猟や漁労を生業としていたから、縄張りを設定するために情報や掟を共有する必要があり、広域的な共通言語を生み出してそれに対応したが、採取・栽培者だった女性達は、男性達が設定した広大な縄張りの中で作業したから、広域的な言語は必要としなかったと考えられる。従って男性達が民族言語を形成し、女性達はそれに追従したと想定されるが、それは家族内での地位を示すものではなかったと考えられ、その理由は上に示した。

それ故に民族枠は、Y遺伝子が規定したと考えたいが、実際の言語民族とY遺伝子は、一致する場合もあるが一致しない場合も多く、Y遺伝子の分布は法則化が難しい。大陸でもその事情は変わらないから、広域的な狩猟活動を担った男性達が、臨機応変に集団の枠組みを変えた事により、複数の異なる遺伝子が民族内で混在する状態が、高頻度で生まれたと想定される。野牛の大軍に遭遇し、追い込み猟に多数の人員を必要とした場合に、臨機応変の狩猟集団が結成された事などが、その様な結果を生んだのではなかろうか。

その一方で優れた栽培技術を獲得した女性は、栽培の生産性の高さ故に人口密度を高め、栽培地が不足する状態を自ら促進していたから、新たな栽培地を獲得するために他の集団や他民族に、拡散する事例が頻発した事を、ミトコンドリア遺伝子の分布が示している。母から娘に伝えられた栽培種や栽培技術は、特定のミトコンドリア遺伝子に付随していたから、高度化した栽培種から突然変異によって更に生産性が高い種が生まれると、それは更に限定的な特定ミトコンドリア遺伝子に帰属したからだ。

その過程を詳細に検証すると、以下の事情が想定される。

ミトコンドリア遺伝子の実際の分布は、優れた栽培技術を獲得した女性が、部族や民族の枠を超えて広域に拡散した事を示している。つまり男性達が設定した縄張内で、個人作業として栽培を行っていた女性達には、民族意識や部族意識は必要なかったから、特定ミトコンドリア遺伝子が言語によって規定された民族の枠を超え、広域的に拡散したことを示している。

その具体的なプロセスとしては、乱婚的な婚姻が発生した可能性も排除しないが、僅かな女性が偶然の婚姻関係により、他民族の縄張りに越境しただけでも、世代を経ると強力な浸潤になったと考えられるから、狩猟民族の社会に厳格なルールがあったとしても、後世には強力な浸潤になったと想定される。偶然の機会で第一世代が誕生したとすると、その女性の娘達はミトコンドリア遺伝子と栽培技術を継承した、他民族言語の女性になったからだ。彼女達が栽培の生産性の高さを武器に、その民族に広く浸潤すれば、結果としてミトコンドリア遺伝子と栽培技能が、その民族内に広範囲に浸潤したと考えられるからだ。

多くのミトコンドリア遺伝子はその様に拡散したと想定され、この場合の細胞核の遺伝子は、浸潤を受けた民族の多数の遺伝子が、少数の浸潤者の遺伝子を希釈したから、ミトコンドリア遺伝子と核遺伝子の不整合が生まれた。世界的にこの様な状態が生まれている事は、このような拡散が主流だった事を示唆している。

後氷期になると、ミトコンドリア遺伝子の北上移動が広範囲に起こったが、その経緯は、気候変動や地形の変化に大きく影響された。日本に渡来した女性達の故郷も、その変化に大きく影響されただろう。日本側から見ると渡来した女性達の故郷は、時代の経過と共に日本列島から遠方の地域になっていった。それは海洋漁民の到達範囲が、時間の経過と共に拡大したからだと想定され、海洋漁民の航行能力の向上過程を推測する資料にもなる。

それらも含めた種々の現象から、ミトコンドリア遺伝子の拡散法則を発見する事ができる。その詳細は本論で展開するが、この拡散法則により、Y遺伝子とミトコンドリア遺伝子の分布が世界的に一致しない理由を、具体的に提示する事ができる。分布の不一致は男性の暴力に起因したとの誤解があるが、遺伝子分布はその根拠を示さないだけでなく、反証も提供するから、それを含めた状況が明らかになる。

狩猟や漁労を生業とし、縄張りを形成していた男性達の活動履歴については、石器時代の終了と共にその生業が衰退し、農耕民族化する中で歴史の闇に閉ざされたから、明らかにする事は難しい。しかし石器時代に狩猟と栽培を併用していた民族が、最終的に農耕民族として生き残った事は事実だから、彼らがそのような民族になる為には、優れた栽培技能を持つ女性を集団内に取り込む必要があり、例えそれが他民族や他部族の女性であっても、事情は変わらなかった事は間違いない。狩猟の生産性に大きな差がなければ、不猟期を耐え抜く保存食料としてのイネ科植物の種子の蓄えの多寡は、家族や部族の生存条件に、決定的な差を生み出したからだ。栽培技術が時代を追う毎に拡大したから、その差はそれに連れて拡大し、多数の民族がそれによって淘汰されたと想定される。

石器時代の栽培は自然地形を利用したから、栽培技能を発揮して必要な量の種子を確保する為には、栽培地の選定は極めて重要な案件だった。従って婚姻に際しては、その選定能力を持った女性の発言権が高まる事は、必然的な結果であり、その様な状況下では婚姻に暴力が介在する余地はなかった。仮に部分的にあったとしても、女性の栽培を積極的に支援した男性達が繁栄し、暴力的な習俗を持った男性達が、食料の生産性の相対的な劣性を理由に消えていく事も、必然的な結果だったからだ。栽培者の支援を得て優勢になった人々の志向が、その民族の習俗になる事も必然的な結果であり、その様な民族が、同質の気候地域を制覇する事も必然的な結果だった。

通説では、人口の増加によって狩猟の縄張りが確保できなくなった事が、農耕民族化の契機になったと説明しているが、その様な単純な発想も上記の誤解を生む原因になる。母から伝えられた優良なイネ科植物を持っている事が、有能な栽培者になる必須要件だったから、その様な女性を探す必要があったが、都合良くその様な女性がいた筈はなく、むしろその様な女性達の拡散によって、全てが決したと考えるべきだろう。つまり民族の枠を超えて女性達が拡散しなければ、優れた栽培技術を持った女性達を抱えた民族が、やがてその地域を制覇しただろうが、それには暴力的な征服は必要なかった。

栽培の生産性向上と品種改良は不可分の関係があり、イネ科植物の品種改良には、気が遠くなるほどの長い時間が掛かった。その過程では栽培と狩猟が併存し、改良された栽培種は栽培技能と共に母から娘に伝達されたから、何処かの狩猟民族が農耕民族化する事を求めたり、生産性が高い栽培種を求たりしても、品種改良された種子や栽培法の入手は容易ではなかった。栽培技術は各地で一様に高まったのではなく、優れた原生種を選択し、それを栽培種に進化させる事に成功した女性だけが、食糧確保の安定性を得て子孫を増やしたからだ。

その限られた女性達の拡散により、栽培技術が広域化した事は間違いないが、一旦栽培化が始まってもその中で、更に高い生産性を得た種が生まれると、その種が再び拡散する事態が繰り返された。その様な事態が栽培種の遺伝子を純化していったが、その栽培種は特定ミトコンドリア遺伝子と一体化していたから、ミトコンドリア遺伝子も栽培化の過程で純化された事は間違いない。類似の栽培技術を持っていれば、優れた栽培種の種を分けて貰う事はできが、栽培する女性達が男性の縄張りの中で活動していた時代には、その範囲は限定的だった。

その次の段階として、栽培者が拡散し合う事によって栽培民族が生まれ、その民族の一体感が高まると、婚姻が抵抗なく行われる地域部族が生まれたと想定される。その様な環境で栽培種の交配が頻繁に起こり、栽培技能の融合も始まって特定種に収斂しながら、栽培種や栽培技法の進化が加速したと想定される。この状態は、穀類の栽培化には必須の段階だったからだ。

それによって同一の栽培種を栽培する者の人口が急増し、地域部族が拡大して広域的な部族になり、それらも統合されて栽培民族が形成されたと想定される。この段階に至った栽培種が、本格的な穀物化の道を歩み始めたと想定されるからだ。つまり本格的な穀物に進化する為には、遺伝子変異の蓄積と共に栽培種が進化する必要があった。栽培化には画期的な遺伝子変異が複数必要だが、その背景には膨大な遺伝子変異の蓄積が必要であり、この段階では栽培者の数が多い程、進化する機会が増えたからだ。逆に言えばその段階に至らずに、消えた栽培種も多数あったと想定される。つまり穀類の進化過程では、特定穀物の栽培集団が巨大化する事により、イネ科植物の栽培化が完成したから、その候補は多数あったが、その条件を満たした栽培種だけが穀類に進化した。その様な巨大な栽培民族を形成したのは、同種の穀類を栽培していた近縁的な女性達だった可能性が高いから、その民族のミトコンドリア遺伝子は、成立時には極めて純化された状態になり、それを起点に新たな多様化が始まったと考えられる。

上記のプロセスを経た栽培系のミトコンドリア遺伝子は、先ず栽培品種を確定するために、特定部族の女性が特定遺伝子に収斂した時期があり、生産性が高い穀類の栽培化の成功により、その遺伝子を持つ女性の浸潤力が高まり、その遺伝子の数が急膨張すると、改めて遺伝子の多様化が生まれ始めたと考えられる。

歴史的な穀物栽培の移転と、純化されたミトコンドリア遺伝子の拡散が、一体化した状態で歴史事象を示している事が、その証拠になる。

原生種が繁茂していた東南アジアでは、現代的な穀類の栽培化はできなかったが、現在の農耕民族の祖先は氷期にこの前段階を迎え、原生種の品種を厳選してから、ユーラシア大陸各地に拡散して後半の段階に至ったのか、ユーラシア大陸各地に拡散してから全てのプロセスを始めたのか、検証する必要がある。

詳細は本論で展開するが、mt-B1万年前には原生種を栽培していた状態で、稲作者にはなっていなかったが、遺伝子は既に純化されてmt-B4mt-B5が別集団になっていた。日本に渡来したmt-B4は渡来後に純化していないから、mt-B4は台湾に北上した1万年前には、前段階を終了していた事になる。mt-B4mt-B5は類似したイネの原生種を栽培していたから、栽培化した品種も類似していると考えられ、両社の共通の祖先だったmt-Bが稲の原生種の栽培を始めたのは、氷期の東南アジアだった事に間違いはない。

その様な栽培過程の段階では、女性が栽培する穀物種の生産性の優劣が、民族のサバイバルに決定的な影響を与えていた筈だから、優良な原生種を栽培していた女性の発言権が民族内で高まっていただろう。後氷期の民族移動と定住地の選定の際に、栽培民族は狩猟の獲物の多寡だけではなく、栽培者だった女性の意思も尊重したと想定され、その様な移住履歴を示した民族も存在した。その事情も氷期の東南アジアの栽培は、その段階に至っていた事を示している。その実例は本論参照。

大陸での栽培者の移動と拡散は、後氷期の波動的な温暖化と寒冷化の過程の中で、複雑な軌跡を辿ったから、その経緯を解明する事は容易ではないが、上記の様に日本列島には栽培者の純粋培養的な環境があったから、事態が分かり易い。

活動域が広かった海洋漁民は、優れた栽培種の栽培者を選択的に勧誘したが、それを受けた大陸の女性達は、栽培事情が極度に悪化した場合に限って、日本列島に渡来した。その様な事情が女性達の集団的な渡来時期と、持ち込んだ穀物種と、日本列島での活動歴の追跡を可能にすると共に、海洋漁民が栽培技能者だった女性を、暴力的に拉致したのではない事を示している。温帯ジャポニカの栽培者を招いた際には、女性達の渡来の決意を、湖北省に到達してから千年以上も辛抱強く待った事も、後氷期の栽培系の女性達の地位の高さを示唆している。

以上を纏めると以下になる。

氷期の東南アジアで原生種の栽培が始まり、特定の栽培種を厳選して栽培する状況に至っていたから、その様な栽培者になっていた女性達が、後氷期の温暖化によってユーラシア各地に北上すると、彼女達が南方から持参した栽培種や、流浪の途上で発見した地域独特の栽培種が、各地で栽培化される事になった。やがてそれらの栽培種の間に競争が生まれ、次第に優良な品種に統合されていったから、最後まで生き残ったミトコンドリア遺伝子と栽培種の組み合わせが広範な地域に拡散し、栽培種と特定ミトコンドリア遺伝子を紐付けできる状態が生まれた。

それが現在の栽培種だが、その過程で選に漏れて消えた栽培種が何百種もあった過酷な現実が、新石器時代に進展した穀類の農業化の実態だった。これは現在の先端技術であるPCやスマホの、OSが乱立した時代から、特定のOSに収斂した過程に極めて類似し、先端技術が辿る宿命の類似性を示している。OSのデファクトスタンダード化には数十年しか掛からなかったが、穀類の普遍化には1万年以上の歳月が掛かったから、栽培者の葛藤の多様性も遥かに多彩だった。

石器時代を考証する考古学者は、狩猟者に注目する傾向があるが、狩猟者は痕跡が残り易い、台地の生活者だった事に留意する必要がある。遺伝子分布はその様な考古学者の見解とは異なり、縄文文化は漁労民族によって牽引された事を示している。

海岸や川洲の生活者だった漁民の遺跡は、河川の堆積や津波に破壊されて殆ど残っていない。その上に漁民は、農地を奪い合う様に漁場を奪い合わなかったから、農地の耕作権を確保するために必要不可欠な、権力機構を形成する必要がなかった。それ故に農耕民族が権力を装飾するために、労務を集積して作った華美な遺物や建築物を遺さなかった。海洋民族の終末期だった古墳時代に、漸くその様な遺物として巨大古墳や副葬品を遺したが、これは漁民の勢力が凋落し、農耕民族が実権を握り始めた事を示す遺物だった。古墳時代が終わると短い飛鳥時代を経て、農民政権である奈良朝が誕生した事も、古墳時代が漁民時代の終焉期だった事を示している。

遺伝子分布が公表される以前は、華麗な遺物を遺さない漁民の存在は軽視されていたが、遺伝子分布の解析により、石器時代の主役は漁民だった事が明らかになると、史学には新しい研究手法の模索が求められる。

 

縄文時代はどんな時代だったのか

縄文人は単一民族ではなく、異なる民族が漁労、栽培、狩猟を担い、生産物を交換しながら共生していた。

漁民は豊かな漁獲を提供しながら共生社会の中核を担い、大陸と交易を行い、栽培技能を持つ女性を日本列島に招いた。

アワやイネの栽培者が大陸から渡来すると、ドングリと穀類の価値に大きな差が生まれ、交換経済が複雑になった。

栽培民はアサを栽培し、漁具を製作して漁労の生産性を高め、工芸品を製作して漁民の交易活動を支えながら、

北陸部族は焼畑農耕を開発してアワの生産性を高め、関東部族は稲作の生産性向上に注力した。

狩猟民は漁民に、釣り針や銛の素材となる獣骨や角を提供した。

骨や角は石器時代のプラスチック素材として、石や木と並ぶ重要な資源であり、漁労には欠かせない素材だった。

交換経済が活性化すると量産工房が生まれ、海洋交易が盛んになると交易圏が拡大した。

火山性の石材に恵まれた日本列島では、蛇紋岩の磨製石斧や黒曜石の矢尻などの多彩な石製品を作る事ができた。

職人が優れた素材から石斧や矢尻を製作すると、青銅器製に匹敵する性能が得られたから、

日本列島では石器時代が疑似青銅器時代になり、青銅器時代を経ずに鉄器時代になった。

 

後氷期のシベリアと、日本列島などの東アジアの島嶼では、3民族が共生社会を形成する事が一般的だったが、華南の稲作民族は単独事業で稲作を生み出した。縄文中期までは、3民族共生社会の方が食料の豊かさと安定性に優れ、漁民の機動性を活用した交易が東ユーラシアの経済活動を牽引した。日本列島などの島嶼では、海産物の生産性が高かった上に、保存性が高い堅果類の栽培者がいたので、食料事情は豊かで安定していた。

漁民は保存性が乏しい海産物の生産者で、獣骨製の漁具は消耗品だったので、大陸の狩猟民族との継続的な交易が欠かせなかった。縄文人は精力的にそれに協力し、海産物の配分を得ながらアワやコメの生産性を高めた。

ドングリには毒性が強いタンニンが含まれ、除去しても微量に残留し、そればかり食べていると健康問題を起こしたから、縄文人は海産物も多食する事により、その影響から免れる必要があった。大陸時代の縄文人の祖先は、不猟期にドングリを食べる狩猟民族だったが、生産性が高い海洋漁民と共生すると狩猟の必要性が減少し、やがて食料の過半を海産物に依存する様になった。

その事情が縄文人の経済活動を、漁民に従属的な関係を強いるものにしたので、海洋漁民はその様な縄文人の支援を受ける事により、漁労の生産性を高めただけではなく、漁具に必要な獣骨を求める為の狩猟民族との交易活動も活性化し、このHPが定義する「海洋民族」化したが、縄文人はその様な作業に従事しながらも、アワやコメの生産性を高めて経済的に自立する、願望を抱き続けていた。

しかしアワやコメの生産性が高まらない限り、農耕民族として自立する事はできなかったから、漁民と縄文人の当面の共通の課題は、漁具の素材である獣骨を大陸から多量に獲得する事になった。北陸縄文人は焼畑農耕によるアワ栽培に成功すると、過半の縄文人が生産性を高める為に西日本に移住し、交易を求める海洋民族とは言えない人々になった。しかし関東縄文人は、mt-B4が栽培するコメの生産性を高める為に、優れた稲作者を大陸から招聘する事業を継続し、海外交易を活性化させながら海洋文化を高度化し続けた。

その様な関東縄文人の希望に応え、温帯ジャポニカを持ち込んだmt-Fは、堅果類の補助を必要としない高収穫を得ていた稲作者だった。その理由は本論で説明するが、関東縄文人が縄文前期に湖北省に到達すると、多大な労力を払って稲作民族と交流を深めたが、mt-Fを渡来させたかった縄文人の希望は容易には叶わず、その稲作が困難になった縄文中期寒冷期に、南陽分地の稲作者だったmt-Fが漸く渡来した。

母から娘に伝承されたのは栽培技能だけではなく、厳しい栽培環境で生き抜く人生哲学も伝授されていたから、ミトコンドリア遺伝子と共に伝来したのは栽培技術だけではなく、稲作民族独特の栽培思想や、生活習俗も含まれていた。高度な栽培技能を持った女性は尊重され、発言権を高めていたから、日本に限らずミトコンドリア遺伝子の拡散は、受け入れた民族の民族性に少なからぬ影響を与えた。

遺伝子の機能を生理学的に解釈すれば、分類しているミトコンドリア遺伝子の変異は、人体の形成には影響がない単なるマーカーに過ぎない。その様な影響を排除できる遺伝子変異を選定し、民族移動を追跡するマーカーにしているからだ。しかし上記の観点に従えば、ミトコンドリア遺伝子の分布は民族論の重要な資料になる。生産性が高い栽培種の栽培技術を獲得したミトコンドリア遺伝子は、それを実現した優れた栽培思想を持ち、それぞれに特徴的な性格を有していたからだ。その分析には多くの紙面を要するので、本論で説明する。

この様な民族論を提起すると、人種差別主義者と誤解されるかもしれないが、このHP縄文時代の各項を読めば、現存している殆どの民族には、栄光に満ちた活動歴があった事が分かるから、現在は発展途上地域の人々であっても、この観点を踏まえた民族論に立てば、未来に向かう有意義な議論が可能になる。肌の色や身体形状を重視する現在の人種論には、偏見と悪意が多分に含まれているから、その議論を忌避する事に合理性はあるが、遺伝子分布を基礎にした民族論では、各民族の民族文化の成立を客観的に評価する事ができるからだ。歴史認識としては、彼らの祖先の失敗やその原因を指摘するだけだが、失敗の多くは偶然の重なりに依るものが多いから、個々の民族の未来に関する議論としては、それで十分であると考えられる。

縄文人は部族単位に分かれ、各部族は漁民を中核とする3民族を含んでいた。縄文後・晩期には関東起源の倭人系部族と、北陸起源の越系部族の他に、610の部族に分かれていた。部族の形成は氷期の漁民に遡り、アイヌの祖先も一部族だった。部族を未開な人々の纏まりに過ぎないと誤解する人もいるが、文化や規範を共有しながら、経済活動を行う単位集団だったから、地域自治の原初的な形態として捉える必要がある。各部族は互いに競い合いながら経済活動を推進し、縄文中期には現代人も驚くほどの、組織的な活動を展開したからだ。

縄文中期までは、栽培系の女性が多数渡来したが、温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fを取り込むと、大陸にはそれ以上に優れた栽培種がなかったし、シベリアが青銅器時代になると石製品の需要が失われたから、関東縄文人は中核的な活動目標を相次いで失った。彼らは縄文後期に活動方針を大転換し、関東を新たな輸出品の生産拠点にするため、漆工芸品を開発し、高級毛皮の製作技術を持ったシベリア奥地の女性や、アシカの皮革加工技術を持ったオホーツク海沿岸の女性を招いた。

 

縄文文化の発展を時系列的に概観する

海面が120m以上低下していた氷期の、日本列島の主流遺伝子はY-Dmt-N9bだった。

彼らは45万年前に陸続きだったシベリアから南下し、

34万年前の各地の湖岸に、湖沼漁民の痕跡として磨製石斧と台形石器を遺した。

氷期の最寒冷期になった3万年前に、海洋漁民になった証拠を関東一円に遺したので、彼らを「原日本人」と呼ぶ。

原日本人は2万年前頃から、漁具に使う骨や角の入手量を増やすため、シベリアから狩猟民族を招き始めた。

15千年前に気候が温暖化すると、原日本人は漁具に使うアサの入手量を増やすため、堅果類の栽培者だった縄文人を日本列島に招いた。縄文人には二つのグーループがあり、沖縄系縄文人はY-O2b1O3a2cC1mt-M7aのペアで、石垣系縄文人はY-O2b1mt-M7aのペアだった。

縄文人が日本列島に渡来した結果、漁労・栽培・狩猟を専業とする3民族が共生する、縄文時代が始まった。

縄文人は台湾近傍の海岸を原郷としたから、その時代の縄文人の祖先を「原縄文人」と呼ぶ。彼らはY-O2b1mt-M7aのペアだった。

氷期が終わって海面が上昇すると、氷期の海岸に居住していた海洋漁民の痕跡も、渡来して海洋漁民と共生した縄文人の痕跡も、全て跡形もなく消えた。海面上昇が停止した後も、彼らの痕跡は津波に襲われたり堆積した土砂に埋もれたりして消滅したから、縄文時代前半の遺跡としては、少数派だった狩猟民の痕跡以外は殆ど残されていない。

しかし縄文人が渡来したのは、急速に海面が上昇していた時期だったので、彼らは海面上昇を恐れながらも、漁民と共生する必要から入り江の高台を居住地にした。そのお陰で渡来してから3千年後~7千年後の期間に亘り、海面上昇期の縄文人の遺跡が遺され、貴重な情報を提供している。考古学者は狩猟民の遺跡と縄文人の遺跡を区分しないが、海岸の高台にあった遺跡は、海面上昇期の縄文人の遺跡だったと推測される。

その遺跡が示す縄文人は、ドングリと獣肉を主要カロリーにする人々だった。

8千年前に海面上昇が止まると、海面上昇の恐怖から解放された縄文人が海岸に降り、海洋漁民と集落を隣接させて共生する様になった。

海洋漁民は縄文人が提供したアサによって漁獲を高め、ドングリによって食生活が安定したから、彼らも縄文人との集住を歓迎して過分の漁獲を提供した。

縄文人が海洋漁民と共生し、豊富な海産物が得られる様になると、人口密度が高まって狩猟の獲物が減少し、海産物への依存度を高めた。

縄文人はドングリより質の高い食料である海産物を、更に多量に望む様になり、漁具を作って漁労活動を助ける様になった。

それが昂じて多彩な物品を創作し、より多くの海産物と交換する様になった事は、ドングリと海産物の味覚の優劣を知っている現代人に、敢えて証明する必要はないだろう。

縄文人が海産物との交換を目的として、色々な物品を製作すると、漁民の船の機動力がその交換圏を広域化し、地域の特産物が生まれた事も、必然的な成り行きとして理解できるだろう。縄文遺跡から発掘された多彩な工芸品が、この想定の事実性を証明している。つまりそれに必要な環境として、縄文人と漁民の間に生産物の交換が成立し、豊かな食料事情が形成されていた事になる。

縄文遺跡から発掘された石製装飾品や漆塗りの櫛などを見て、単に「縄文人はお洒落だった」と片付けず、世界に類を見ない早い時代に、その様な物品を作り始めた理由を、縄文人が置かれた環境から考える必要がある。

3民族の共生により、単一民族では形成できない食生活の豊かさが生まれ、多彩な工芸品が生まれる事は、経済理論としては極めて順当な成り行きになる。

新石器時代の末期に農耕技術が進化し、生産性が高まって食生活が安定すると、世界各地にその様な状況が生まれたが、新石器時代早々とも言える縄文早期に、縄文社会でその様な事情が始まっていた事を、佐賀県の東名遺跡や福井県の桑野遺跡の、極めて文化的な出土遺物が示している。文化的とは、食料などの生活必需品を生産する機能とは関係なく、高度な技能を駆使して作られた審美的な要素を、濃厚に含む事を意味する。

東名遺跡は海面上昇が終わった直後の、縄文早期末(7500年前)の海岸の遺跡だから、海岸で漁民と共生していた縄文人の、発見できる最古期の文化遺物になる。低湿地遺跡である東名遺跡では、有機物が酸化されない状態で保存されたので、当時の編み籠も発掘された。籠には見た目の美しさを追求する、高度な編み込み技法が駆使され、製作物の交換価値を強く意識していた事を示している。遺物に駆使された編み込み技法は、現代人が持つ技能と比べても遜色なく、技法の多彩さは、現代人が知る編み込み技術を網羅していた。その様な技法の完成度の高さは、そこに至る長い前史があった事も示している。

この遺跡から日本最古の櫛や、腰岳で採掘された黒曜石も発掘され、既に交換物が多岐に亘っていた事と、交換の歴史が積み重ねられていた事を示している。この様な木製品は、腐食が抑止される低湿地でしか保存されないが、長期間継続した低湿地は極めて稀な存在だから、発掘事例は極めて少ない。しかし植生が豊かだった縄文早期以降の日本列島では、樹木や草本を素材にした多彩な工芸品が各地で製作され、縄文早期には交換経済がかなり進化していた事を示している。

遺物を遺した縄文人は漁民と共生しながら、交換経済によって漁民から多量の海産物を得て、食料の豊かさを享受していたと想定され、漁民の遺跡は発掘されていないが、漁民の豊かな生活事情も推測できるだろう。この遺跡から発掘された遺体の脂肪分析でも、縄文人は海産物とドングリを半々食べていた事を示し、上記の想定と合致している。

単一民族では形成できない食生活の豊かさが、3民族の共生によって生まれた事を前提にすれば、この様な物品は自然に生まれると考える人もいるかもしれないが、経済論としては、食料の豊かさだけではこの様な状態は生まれなかったと考える。食生活が豊かになっただけでは、この様な審美的な物品を製作する、動機が欠如しているからだ。

船の機動力を駆使した海洋漁民のマーケティング力が、この様な新商品を生み出す原動力として機能し、その結果として交易圏を拡大する事により、交易と呼べる状態に発展したから、この様な物品が生まれたと考える必要があるからだ。

マーケティングの概念は分り難いが、「自身は生産せずに市場を観察し、生産者に生産活動の指標を与える存在」と定義する事ができる。

海洋漁民のマーケティング力を特記するのは、仮に原初的な工芸品が生まれても、恒常的な需要が生まれなければ交易活動は活性化しないから、その様な物品は進化しないからであり、人口密度が希薄な縄文時代に、市場と言える様な纏まった人々にアクセスできたのは、遠隔地の需要を発掘する潜在的な能力と、商品を運搬する機動力があった海洋漁民だけだったからだ。

交易に関するこれらの諸条件は、現代にも繋がる普遍的な真理だが、海洋漁民はそれを余暇の活用として行ったのではなく、狩猟民族から獣骨を得る交易活動は、彼らにとって必要不可欠であり、海洋の状況によって変化する漁労情報も、彼らには必要不可欠だったからだ。それらを安定的に実現・収集するためには、極めて広域的な情報網を構築する必要があった。

この様な硬い表現では分かり難いから、推測を交えて小説的に、彼らの原初的なマーケティング活動を推測すると、以下の様な話になる。

狩猟民族から獣骨を入手し、縄文人からアサを入手し、船と漁具を作って漁労活動を行っていた漁民は、縄文人が漁具を製作すると漁労に専念できる様になり、漁獲を増やす事ができた。これは分業による生産効率の向上だから、敢えて説明する必要がない経済の一般則になる。

これによって漁民と縄文人の食料に余裕が生まれると、縄文人は更に多くの海産物を入手する為に、漁民が喜ぶ工芸品も作り始めただろう。漁民がその作品を携え、遠方の漁村に出掛けて漁労情報を交換しながら、お国自慢の様にそれを見せると、相手も自分が共生する縄文人の作品を見せた様子が、この話の重要な設定場面になる。

その際に相手の持ち物の方が立派に見えると、帰還した漁民は郷里の縄文人に相手の作品を見せ、もっと精緻なものを作ってくれと要求する事が、彼らの原初的なマーケティング活動になる。その様な活動が縄文早期には始まっていた事を、東名遺跡の秀逸な網籠が示しているのだが、この様な必然性を発掘遺物から見出す事ができない限り、縄文人の交易性も理解できない。

それが精緻であれば、地域の特産物として生産されていたと認定する必要がある。精緻な籠がこの地域の特産品だったのであれば、この地域の人々が他の地域との差別化を求め、美麗な作品に仕上げる事に情熱を傾けていた事になり、簡単に制作できない物品であれば、経済活動の結果と見做す事ができる。

津々浦々で皆が同様に、この様な精緻な籠を製作していたのであれれば、それは交易活動の結果ではなく、美的な物品を求める宗教活動の結果だった事になり、その様な状況を想定するべきであるとの見解も、あり得るかもしれない。

東名遺跡の発掘遺物を幾ら眺めても、それだけでは上記の課題を識別できないが、縄文前期から中期の縄文人の交易活動を参照すると、東名遺跡の秀逸な網籠は後者だったと判断される。つまり東名遺跡の人々は、この様な秀逸な網籠を宗教活動の一環として製作したのではなく、生活を豊かにする交易活動の一環として、製作したと想定される。

それに付随して言える事は、他の集落にもある程度の技巧を持った人はいただろうが、東名遺跡の人々は他者の追従を許さない技巧を開発し、遺物を遺したと考える事もできる。交換経済が発達した社会では、この様な技巧がある程度一般化すると、更に驚くべき技巧の考案に執念を燃やすから、その過程で現代人も驚く多彩な技巧を、駆使していたと考える事もできる。またその競争はこの程度にして、他の分野に進出していた可能性もある。高度な産業社会に生きる現代人は、豊かな社会でその様な活動が繰り返され、交易文化が発展した事に違和感は持たないから、この様な柔軟な考えに違和感はないだろう。それを否定したがる史学者がいる様だが、彼らの方が現代社会の異邦人になっている。

この時期の佐賀県は縄文文化の中心地ではなく、縄文人の最大集積地は関東に移っていたから、関東では更に多彩な文化が展開していたと推測されるが、関東ではこの時代の低湿地遺跡は発見されていない。東京湾沿岸は地殻の沈降帯で、多摩丘陵や武蔵野台地は隆起地形だから、低湿地遺跡が発掘できない事は止むを得ないが、発掘されないものは無かった事にして歴史を組み立てる事を強要する、現在の考古学者の姿勢は猛省する必要がある。

縄文人と漁民がこの様な交換社会を形成していた事は、原初的な海洋民族が成立していた事を示している。「海洋民族」の定義は一般化していないが、このHPでは海洋を使った単なる交易者の集団ではなく、縄文人の実態を正確に把握して以下の様に定義する。

海洋交易の推進者は漁民だけではなく、栽培民や狩猟民も交易品の生産者として参加していたから、彼ら全員を、海洋を使った交易民族として捉える。優れた工芸品がなければ交易活動は生まれないから、その生産と交易に従事した複合的な人々の集まりを、「海洋民族」と定義し、海賊や海洋を使った交易専業者、或いは単なる工芸品の生産者と区別する。

海洋民族の生産者は、海洋交易に供される事を目的として物品を生産していた。彼らが海洋交易を行った主要な目的は、大陸の狩猟民族から獣骨を入手し、漁労の生産性を高めて食料の豊かさを確保する事だった。従って縄文人と狩猟民はそのための交易活動に積極的に参加したのであって、奢侈品を生産して自身の生活を豊かにする事は、海洋民族の活動としては副次的なものだった。

但し縄文人は複数の部族に分かれ、それぞれに異なった交易事情があったから、全ての縄文人の活動を一括定義する事は難しい。以下では最も典型的な海洋民族だった、関東部族の活動を中心に説明する。

日本列島には元々、シベリア系の狩猟民族が南下遊動していた。縄文人が渡来した頃にはそれでは獣骨が不足したから、シベリアの狩猟民族の南下や渡来も募り、縄文草創期には3民族の原初的な共生が始まったが、その状態では縄文的な海洋民族ではなかった。漁民が縄文人を招いて食生活が安定すると、両者の人口が急増し、狩猟民族が日本列島で狩った獲物だけでは量が不十分になり、大陸にその供給を求める必要が生まれ、それによって海洋民族的な生産形態が生れたからだ。温暖化した縄文早期に、海洋交易が必要になった。

海洋交易が生まれるためには、安定した需要とそれに向けた生産力が必要条件になる。それを実現する為には、遠隔地である日本とシベリアの間で、人々の密接な交流が生まれている必要があった。それを前提とした交易活動であっても、先ず商品の生産が必要であり、それと並行して需要の発掘も必須事項である事は、時代を問わない真理でもある。

海洋漁民の機動力と縄文人の生産力がそれを推進し、それが実現すると交易の進展に応じ、新たな特産品が生まれる事も、海洋漁民の仲介があれば実現できた。つまり特産品の生産は栽培民族だった縄文人が担い、海洋漁民はその交易者に過ぎなかったが、交易者がいなければ特産品は生まれなかった。

その様な交易が突然生まれる事はないが、縄文早期の東名遺跡の遺物が、漁民と縄文人の関係の中にその様な素地が、既に生まれていた事を示している。従って縄文人と海洋漁民と狩猟民の共生の中から、交易圏を拡大する素地が生まれていたから、大陸から獣骨を得る交易は、それを発展させる事によって生み出すことができた。既に指摘した様に縄文早期の東名遺跡の遺物も、長期に亘る交易の積み重ねがあった事を示している。縄文時代には突然何かが始まる事は殆どなく、縄文文化が自律的に進化した結果として、縄文人の活動が推移した。他民族の強い影響がなければ、文化は実績の積み重ねによって進化するが、縄文時代がその様な時代だった事は、本論を読めばそれが分かるだろう。関東の縄文文化が、他の部族や地域を先導する先進的な文化だった。

この様な推論は、現代史学が日本人に示している常識とは大きく異なるから、容易には納得できないだろう。理解を妨げている大きな要因として、石器時代の人々に関する理解不足が想定されるので、上記とは異なった観点からそれを検証する。

本論でも詳しく説明するが、石器時代の人々は自然の力に圧倒されながら、貧弱な道具を使ってそれに立ち向かっていたから、自然の驚異から免れながら食料を確保し続けるために、合理的な判断を駆使する必要があった。その僅かな差がサバイバル競争を勝ち抜く力になり、時には生死を分けたから、科学的な知識は乏しかったが、現代人より遥かに鋭い感覚で周囲を観察し、親から譲り受けた知恵と経験を積み重ね、自然の驚異に立ち向かっていた。従って石器時代人の武器は、判断の合理性しか無かったと言っても過言ではなく、宗教や迷信は判断の合理性を鈍らせる原因になるから、その様なものは持っていなかったと考えられる。

その様なものが蔓延したのは、鉄器時代になって農業の生産性が高まり、それらに惑わされても、生きる事ができる様になった時代からだと考えられる。特に農耕社会では、毎年農耕歳事を繰り返していれば、その結果として毎年収穫が得られたから、日々の行動に対する慎重な判断は、必ずしも必要ではなくなったからだ。農耕にも知恵が必要だった事は間違いないが、日々の自然との闘いよりは、天候などの知恵では何ともできない事象に、収穫の多寡が左右される様になったから、宗教や迷信が蔓延る環境が生まれたと考えられる。

この観点で縄文早期の東名遺跡の遺物を検証すると、縄文人が最初に作った漁民の為の工芸品は、秀逸であれば皆が必至になって真似る、漁具などの生活必需品だったと想定される。やがて櫛の様な審美的な工芸品が生まれると、簡単には真似ができなくなったかもしれないし、他の集落の人々もそれを必死に真似る必要もなくなっただろうから、地域の特産品になり易かったと推測される。生活必需品である編み籠が秀逸な技術によって作られていた事は、漁民が必要とする以上の網籠が生産できたから、それとの交換によって漁民から海産物を得る為には、機能以上の付加価値が必要になっていた事を示している。現代社会を含め、何時の時代であっても供給が過剰になれば、付加価値を高める必要が生まれ、その付加価値が一般化すれば、更に高度な付加価値が必然的に生まれるからだ。

漁民の機動力がそれらを集落間で誇示し合う環境を形成し、各地域になにがしかの特産品が生まれると、特産品がない地域の住民がそれを恥と感じる様になる事は、特に証明する必要はないだろう。漁具の改良には際限がないから、常に優れた漁具を求めていた漁民が、その感性を特産品にも向けた事が、海洋民族の成立を促す原因になったと考えられる。

従って縄文時代の多数の部族が、それぞれの特産品を交易したと考えられるが、これは日本列島の特殊事情ではなく、湖沼・河川漁民を中核としたシベリアの共生民族や、太平洋の熱帯域で活動した東南アジアの海洋民族も、同様な成果を遺したと推測され、東南アジアの海洋民族については史書がそれを明らかにしている。それについては、(1)魏志倭人伝の項で示した。

豊かな樹林に覆われた日本列島では、製作された工芸品の多くは植物を利用したものだった筈だが、それらは低湿地遺跡と呼ばれる特殊な環境でしか残らないから、進化を連続的に捉える事ができない。しかし石製品とその工房は海面上昇が停止した8000年前から、連続的に発掘されているから、それに注目して縄文産業の発展の軌跡を追跡すると、縄文人の活動歴の一端が明らかになり、その連想から、植物性の原材料を使った工房も日本各地に多数あったと考える事ができる。

その様な作業に必要な余剰食糧があり、食糧の確保に汲々としていなかった事が、縄文人の特徴だったとも言える。堅果類の味覚は劣悪で、毒性を除去し切れなかったが、生産性と保存性は極めて高く、一旦樹林を形成すると手が掛からなかったからだ。それ故に縄文人は、高品質食材である海産物をより多く入手する欲望から逃れられず、それを実現する最も手頃な手段が、漁具を含む工芸品の製作だったから、その支援を得た漁民の、海洋民族的な活動が活性化したと考える事もできる。

しかし穀類の栽培技術が導入されると、縄文人はその栽培者になろうと努力した。投入労働に対するカロリー生産性は、堅果類の栽培より甚だしく劣化したが、縄文人は穀物を栽培する機会を得ると、その生産性を高める努力を止めなかった。縄文早期の縄文人にはその様な雑念がなかったから、工芸文化の発達史の中でも、最も早い速度で技能が進化した時代だった事を、東名遺跡の出土遺物や北陸の石製装飾品が示している。普遍的な言葉で言い換えると、縄文人が作成した審美的な器具の原型の多くは、縄文早期に生まれていた可能性が高い。

新潟県や富山県では、特産の蛇紋岩鉱物から磨製石斧や装飾品を量産していたから、その工房跡が多数発掘されている。八ヶ岳山麓では黒曜石の矢尻が量産され、それを使った弓矢が交易品として生産されたから、多数の矢尻が発掘されている。矢尻の工房は発掘されていないが、八ヶ岳の周辺の遺跡から極めて装飾的な土器や、石製装飾品を蓄積した痕跡が多数発掘され、堅果類と海産物・水産物に支えられた縄文前期・中期の豊かな食料事情が、活発な交易活動を支えていた事を示している。

海洋漁民は上記の様な獣骨交易とは別に、縄文早期から積極的に大陸南部にも出掛け、アワやイネを栽培していた女性達に、磨製石斧や各種の工芸品を含む文化の優位性を顕示し、日本列島への渡航を促した。蛇紋岩の産地である岡山で、日本最古の稲作の痕跡が発掘された事は、その様な事情を示唆している。岡山では住居址や発掘遺体は確認されていないが、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子は、イネの栽培者だったと推測されるmt-B4を濃厚に含み、現代沖縄人の遺伝子分布が、彼女達は縄文前期には関東に渡来していた事を示しているからだ。従って間接的にではあるが、岡山で稲作が行われた事情を示している。岡山は蛇紋岩の産地だから、関東縄文がそれを採掘するために縄文早期に入植した地域だった。

縄文人から海洋文化を伝授された台湾の栽培民も、縄文早期には山岳地帯の狩猟民族と共に、無人島だったフィリッピンに南下しただけではなく、インドネシアを経て南太平洋の島々に拡散し、南米大陸にも達したと考えられる。彼らの言語分布とmt-B4の分布が、彼らの足跡を示しているからだ。

台湾起源の海洋民族も縄文人を真似て、縄文中期に大陸から稲作民を招き、3民族の共生社会をフィリッピンで形成したが、縄文後期になると海洋民族と栽培民族に分離し、海洋民族はインド洋交易を行った。栽培民族は亜熱帯地域の特性を生かし、絹布や香辛料などの商品を開発し、それぞれが性格の異なる海洋民族に発展した。海洋民族のインド洋交易は、絹布や香辛料などの優良商品に支えられて活性化し、西ユーラシアンの青銅器文化や鉄器文化が、東アジアに伝わる原動力になった。

縄文後期に海退が始まり、大陸の縁辺部に沖積平野が広がり始めた頃、大陸の農耕民族の青銅器時代が始まった。シベリアではそれに先駆けて青銅器時代が始まり、磨製石斧や黒曜石の矢尻の商品価値が失われたから、縄文人にはそれに代わる新しい交易財が必要になった。

縄文人は縄文後期になると、シベリアから獣骨を得る事を諦め、海退によって生まれた沖積平野に入植した、稲作民との交易に切り替え、家畜の獣骨を得る交易に注力した。その交易を活性化するために宝貝貨を貨幣化した痕跡が、大陸の各地で発掘され、漆器の商品化を模索した痕跡が、武蔵野の下宅部(しもやかべ)遺跡などから発掘されている。

縄文後期温暖期に華北に北上した稲作民が、夏王朝を形成して宝貝を貨幣化したから、海洋縄文人は沖縄から宝貝を組織的に供給し、その制度を支える事によって獣骨を得たが、宝貝を貨幣とする制度は殷・周王朝にも継承され、発展しながら千年以上続いた事は、縄文後期以降の縄文人の活動が、大陸の政治権力と結び付いていた事を示している。

史記などの中国の史書がその事実に言及していないのは、農耕民族的な性格が強かった漢王朝の、統治の正統性を主張するためには、自分達が倒した稲作民族の政権が、倭人と協力しながら中華文明を先導していた事を隠し、アワ栽培民族が黄河文明を生み出したとする虚構の歴史を、捏造する必要があったからだ。それらの文章を解読している史学者は、典型的な「論語読みの論語知らず」になり、史書に記載された内容を史実であると捉えているが、遺伝子分布は再考を求めている。

海洋民族の石器時代は3千年前まで続き、それ以降は徐々に鉄器時代に移行していったので、海洋民族の石器時代を縄文時代とし、海洋民族が鉄器文化を導入する為に活動した時代を、弥生時代とする。鉄の量産が実現した古墳時代に、鉄器を多量に使った大型の土木事業を興し、稲作の生産性を高めたので、その余技として大型古墳も作られた。

鉄器の普及が農耕の生産性を飛躍的に高め、稲作民が海洋漁民から経済的に自立すると、海洋民族が成立する基盤が完全に失われ、倭人政権は飛鳥時代に自壊した。代わって登場した奈良朝が稲作民の政権だった事に、歴史の転換を見る事ができるが、海洋民族の活動によって日本列島が豊かな瑞穂の国になると、その成果によって経済的に自立した稲作民により、海洋民族の政治生命が絶たれただけではなく、海洋民族の歴史も抹殺された事に、歴史の皮肉を見る事もできる。

 

海洋民族の石器時代を3期に区分する

通説による時代区分は農耕文化を重視し、農耕がなかった時代を旧石器時代、農耕が始まった時代を新石器時代、それ以降を金属器時代と区分し、青銅器時代と鉄器時代に区分しているが、海洋文化の発展史はその様な時代区分には馴染まない。

農耕の生産性が低かった故に、農耕民族が歴史の表舞台に登場していなかった時代に、海洋民族やシベリアの漁労民族が、豊かな漁獲と水上の機動力を背景に交易文化を発展させていたからだ。その時代の農耕民族は海洋民族に栽培技術を供与したが、海洋民族の交易活動の恩恵を受け、栽培文化を発展させる立場にあり、海洋民族優位の時代だった。

農耕が文明を生み出す時代は、海退によって農地が急拡大した、縄文後期に始まった。それ以前の世界の地理的な環境では、農耕民族に限定的な栽培地しか与えていなかったから、彼らの人口も多くはなかった。具体的に説明すると、氷期に形成された沖積平野は後氷期の海面上昇によって水没したから、海進期だった縄文中期まで、海岸に沖積平野はなく、波が山肌を洗う状態だった。それ故に農耕適地は、限られた地域に偏在し、農耕民族はそれぞれの限定された地域に閉じ籠っていた。

旧石器時代から縄文時代の終わりまでを、海洋民族を生み出した時期、海洋民族が活発に活動した時期、海洋民族の活動が商業的になり、終末期の様相を呈し始めた時期に3区分し、それぞれを縄文文化の形成期、縄文人の活動期、(縄文)経済の成熟期と命名する。

栽培系縄文人は原日本人から引き継いだ漁民の部族に組み込まれ、大まかに関東部族、北陸部族、東北部族、北海道部族に分かれていた。

 

縄文文化の形成期(縄文文化の諸要素が揃う過程)

創生期:湖沼漁民だった原日本人が、シベリアから日本列島に漂着し、海洋漁民に変貌するまで。

先縄文時代:原日本人が、まだ大陸の一部だった台湾近辺で原縄文人と出会い、縄文人を日本列島に上陸させるまで。

縄文時代草創期~早期前半:沖縄系縄文人が九州に上陸した15千年前から、彼らが関東に定着した1万年前まで。

縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に区分されているが、九州に上陸した沖縄系縄文人が、海面上昇と気候の寒冷化に苦しんだ草創期には、3民族が共生する社会は形成されていなかった。縄文早期に気候が温暖化すると、沖縄系縄文人が九州から関東に移住し、3民族が共生する海洋民族になったから、彼らが移住に要した縄文早期前半までを、海洋民族の形成期とする。

縄文草創期の出来事

北海道部族が九州から北海道に移住した。

九州に上陸した沖縄系縄文人は、ヤンガードリアス期になると寒冷な気候に苦しみ、薩摩半島に逼塞した。

石垣系縄文人が北陸に上陸し、ヤンガードリアス期になると山陰に移住した。

縄文早期前半

東北部族が沖縄系縄文人を伴い、九州・西日本から東北と道南に移住した。

沖縄系縄文人が関東に移住した。

石垣系縄文人は北陸に戻った。

 

縄文人の活動期(海洋漁民が大陸との交易を本格化させ、大陸から穀類の栽培者を招いた時期)

縄文早期後半

シベリアの河川漁労民族を仲介者とする、獣骨交易を始めた。

関東の海洋縄文人が孤島になった台湾に再進出し、台湾起源の海洋民族が誕生する以前に、mt-B4+M7cを渡来させた。

彼女達は超温暖期の関東にイネの原生種を持ち込み、超温暖期~その後の急激な低温化の中で、熱帯ジャポニカを栽培化した。

北陸の海洋縄文人が、オホーツク海南岸からアワの栽培者だったmt-Dを渡来させ、磨製石斧を多用する焼畑農耕を始めた。

mt-Dはアワの生産性を高めるために、北陸の海洋民族と別れて日本海沿岸を山陰まで拡散した。

縄文前期

関東部族と北陸部族がシベリア産の獣骨を得るため、交易を活性化させたので、黒曜石の産地だった八ヶ岳山麓の縄文集落が拡大した。

関東の海洋縄文人が揚子江を遡上し、湖北省で温帯ジャポニカを栽培していた稲作民と交流した。

しかし温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fが渡来したのは、縄文中期寒冷期になってからだった。

縄文中期

八ヶ岳山麓の縄文集落が活況を呈した。

寒冷期になったので山陰のアワ栽培者が徳島に南下し、mt-Dが九州縄文人に浸潤した。

山陰のmt-D+M7aがフィリッピンに移住し、焼畑農耕を移植した。

 

経済活動の成熟期(海洋民族の交易が商業化し、日本式の稲作が成立した時期)

縄文後期

縄文中期後半に海退が始まり、海岸の沖積平野が拡大し始めた。縄文後期に温暖化してイネの生産性が高まると、多くの縄文人の活動目標が稲作者になる事に変わり、彼らが稲作地を求めて西日本に移住すると、海洋民族的な活動から脱落した。しかし石器時代の稲作は生産性が低かったから、移住した縄文人が海産物に依存する状態から解放される事はなく、新しい共生生活を模索する事になった。

関東に残り、海洋民族的な活動を継続する縄文人も多数いた。

東北部族の一部が、稲作者になるために西日本に移住した。

大陸では農耕の生産性が高まると、稲作民族の統合政権が生まれ、アワ栽培民族にもそれが波及した。

海洋民族も大陸の政権と交易する中で組織化し、利潤重視の交易活動に傾斜し、部族の連帯意識が薄れていった。部族に代わって特定業界を経済基盤にした故に、細分化された地域団体が生まれた。経済活動としては、近代的な交易者に近付く進化だったが、海洋民族の伝統的な交易活動ではなかったから、価値観の変化が部族社会を混乱させた。

縄文晩期

稲作民族が嘗て経験した事がない、冷涼な寒冷期になり、大陸の農耕社会が混乱した。

日本独自の耐寒性が高い稲作が生まれ、その付属技術として田植えを行う様になった。

縄文晩期の西ユーラシアで鉄器文化が進化すると、その導入が海洋民族の新しい使命になり、伝統的な海洋民族としての活動が再開されたが、その背後で交易利潤を追求する傾向も進化し、部族社会は地域集団の連合体に変質していった。

 

倭人呼称の成立時には、関東の海洋縄文人を指す呼称だったが、関東部族は縄文後期に稲作地を求め、西日本の各地に移住したから、彼らは一旦その呼称の範囲外になった。彼らも地域集団に分裂したが、組織的な交易活動を始めると政治的に統合され、倭を自称する拡大交易集団になった。古墳時代になると、邪馬台国を起源とする倭人国が巨大化し、日本の殆どの海洋民族を武力統合したので、統合された海洋民族も倭を名乗る様になった。

古墳時代に多数の帰化人が渡来したが、彼らは海洋民族が選択的に渡来させた人達だから、渡来以前から海洋文化に理解がある人達だったと推測され、1600年間日本人として生活したから、縄文系とは区別できない人々として、現代日本人に溶け込んでいる。

 

海洋民族の特徴

海洋で活動した集団には、海洋漁民、海洋民族、海洋交易者があり、縄文時代を論考する際にはそれらを区分する必要がある。

氷期に生まれた海洋漁民は、氷期の最寒冷期に台湾に遊動し、後氷期の超温暖期にオホーツク海沿岸に遊動し、それぞれの遊動先で原縄文人やシベリアの狩猟民と交流したが、遠隔地の民族と物資を交換しただけなので、それは海洋漁民の交易活動だったとする。

海洋民族はそれとは異なり、3民族が近隣に集落を構えて共生し、それぞれの物産を日々交換して補い合う事により、食料の総合的な生産性を高めただけではなく、食料の生産性と品質を更に高める為に、一致協力してその手段を海外交易に求める多民族共生集団だった。具体的に言えば、大陸から獣骨を得る為の交易活動に際しては、役割を分担して活動し、縄文人が生産する植物性食料の品質を高める為には、大陸から栽培技能者を招いただけではなく、その生産性や生産量を高める為に協力し合う、多民族共生集団だった。

後氷期の開始と共に始まった縄文時代は、世界各地に多数の民族が拡散し、それぞれの民族が文明らしいものを萌芽させた時代だから、海洋民族はそれらの民族と良好な関係を構築し、栽培文化や民族文化を分けて貰う事が活動の主要目的になる事は、必然的な結果だった。文明度が高い稲作民族との交流では、経済的な利益は度外視して文化交流を積極的に行った。その成果として、現在の日本の豊かな植生と、生産性が高い稲作があるのだから、現代日本人は縄文人の海洋民族的な活動を、高く評価しなければならない立場にある。

その様な縄文人が、大陸の稲作民族のモノカルチャー社会に求めたものは、縄文人と構築した共生文化の延長として、共生の輪を広げながら、互いの文化や生産物を交換する事を端緒に、栽培文化を導入する事だったと想定される。穀物栽培は縄文時代の先端産業だった事を認知すれば、縄文人の活動を現代人も身近に感じるだろう。

海洋縄文人は交易利潤の獲得には関心持たず、相手が欲しがる物品や労力を、惜しまず提供した具体例として、温帯ジャポニカを栽培していた湖北省の稲作民(荊)に、塩を供給した事が挙げられる。関東の海洋縄文人は浙江省で生産された塩を、湖北省に運び上げる膨大な運送負担を引き受けただけではなく、稲作民の塩の需要が高まると、多数の縄文人が沖縄に常駐して不足した労力を補い、需要の充足に努めた。

荊とその様な交易関係が成立すると、塩の対価としてコメを引き取るだけではなく、日本列島では需要がない商品も引き取る様になり、その販路を大陸で開拓した。

その後両者の関係が宝貝貨の制度化に発展すると、海洋民族はその制度から受ける恩恵以上に、制度の実現と維持に貢献した。宝貝貨は大陸で千年も使われたが、日本列島では全く使われなかった事が、その事情を示している。

東南アジアの海洋民族や日本列島の他部族の海洋民族は、東南アジアやインド洋で宝貝を採取できたから、彼らの協力を得なければ、宝貝貨の価値を維持する事は難しかった。従って宝貝貨の制度化に際しては、交易活動の縄張りを他の海洋民族と調整すると共に、使用者だった荊に対し、独占的な交易者として振舞う必要があった。宝貝貨が中華世界で千年間使われた事は、海洋縄文人がそれらの課題を乗り切った事と、海洋民族全体の交易文化が、他者の交易活動を妨げない仁義を含んでいた事を示している。また各海洋民族は、それぞれが密接に提携する栽培民族を選定し、互恵的な交易活動を展開していた事も示している。

現代の日本国が盛んに海外援助を行い、巨額の公費をその目的に投入しているが、国民がその様な政府を非難しないのは、共に発展する事が自分達の利益にもなると考えているからだと推測され、この様な日本人の発想は、縄文時代の海洋民族に起源があると考えるのも、一つの認識ではなかろうか。その理由を日本人に問われても答に窮する様に、縄文人が何故その様に行動したのか、論理的に説明する事は難しいが、強いて説明すれば、縄文人はその様な考え方で共生社会を形成し、大陸の農耕社会より豊かな社会を形成していたから、更に多くの民族が共生社会に参加する事により、より豊かな社会を形成できると思ったのではなかろうか。

海洋漁民は移動時の食料調達が可能だから、驚異的な長距離移動が可能だったが、何時でも何処でも十分な漁獲が得られるわけではないから、彼らの航路開拓には適切な漁労技術の開発も、必須要件として含まれていただろう。それは陸上の旅行者が、飲み水が得られる場所を確認して置く事に等しいからだ。彼らの大陸への渡航路は活動の終末期まで、黒潮を横切る難所を含む南西諸島経由だったから、航行時の保安上の理由以外にも、その様な事情が含まれていたと推測される。

何処でどの様な魚介類が捕獲可能で、どの様な食べ方ができるのかという情報は、彼らの苦難に満ちた航海の労苦を慰める、旅の楽しみになっただろう。それは現代人にとっても旅の楽しみの重要な要素だから、それを敢えて証明する必要はないが、先輩達のその様な話を聞いた若者が、続々と海洋交易に乗り出した理由をその様な事情に求める事も、人々の活動の軌跡として歴史を解釈する、重要な要素になるだろう。歴史を人々の営みとして捉えるのであれば、当時の人々の心情にも配慮し、彼らの活動の軌跡を追跡する必要があるからだ。海洋縄文人の船の航行の推力は、人が櫂を使う人力に頼っていたと想定されるから、漕ぎ手の労務負担は厳しいものだった。古代交易では船の推力に限らず、陸上の物の輸送も人力に頼っていたから、肉体的には過酷なものだった。しかしそれが彼らの生きる術だったから、弱音を吐く状態ではなかった。農耕はその様な過酷な労務から、解放される手段でもあった。

 

海洋民族を生み出した海洋漁民の特徴を、経済的な視点から捉える

海洋漁民は長期保存できない海産物を、主要な食料にしていたから、漁獲を高めるだけではなく、四季を通して漁獲を安定化する必要があった。旧石器時代から関東の遺跡密度が高いのは、関東に漁民が集住していたからだ。漁民が集住した理由は、集住する事が海洋文化を高める、最も有効な手段だったからだと想定される。

海洋漁民は農民とは違い、農地を確保する様に漁場を囲い込む必要はなかった。古代の稚拙な漁法では、海洋資源は無限に近く、魚は広大な海を回遊しているから、漁場を共有する者が多ければ多い程、漁獲情報を共有する機会が増え、漁労の生産性が高まったからだ。

漁場の様子は天候や潮流の変化によって日々刻々変化するから、漁業従事者が多いほど、状況分析に使える情報が豊かになり、情報から導かれる結論の確度が高まる。釣りを趣味にする人であれば、この事情は十分理解できるだろう。海は広いから、漁に関する有益な情報が拡散しても、自分の漁獲が減る事はなく、情報網の中に居れば却って増えるからだ。

この様な漁民集団の共通認識として、情報が正確である事は必要不可欠で、情報に嘘が混入すると漁労活動が無駄になるだけではなく、命が脅かされる危険もあったから、嘘の情報受信を避けるだけではなく、発信者は排除しなければならなかった。

漁民が集積する効能は、優良な情報が日々得られるだけではなく、地域独特の捕獲魚種の発見や、それを効果的に得る漁法を生み出す頻度が高まり、その成果として最も恐ろしい不漁期を短縮する事ができた。

能登の真脇遺跡から発掘されたイルカの骨は、漁民が共同作業によって大型魚を捕獲していた事も示している。その様な共同作業には、正確な情報の共有が不可欠だから、それを重視する姿勢も共有していた筈であり、それが彼らの価値観を規定していたと考えられる。この様な価値観は人類普遍のものではなく、海洋漁民の特徴的な民族性として捉える必要がある。

イルカやクジラなどの大型魚を捕獲する場合は、統率が取れた集団を構成する必要があり、船団を編成し、構成員が異なる業務を分担するためには、情報共有が不可欠だった事は言うまでもないが、判断力と行動力のある者が指導者になる必要があった。各々の構成員がその指揮下で異なる役割を担う必要があり、何れかの役割に粗漏があれば、全体の作業が無駄になった。従って各自が役割の遂行に、真剣に取り組む必要があっただけでなく、互いの能力を熟知している必要もあった。

リーダーには粗漏が無い統率力が求められたから、指導者を能力主義的に選考する傾向が高まり、集団の各個人にも、指示に従って任務を遂行する分担力が求められた。熟練度に応じて役割が配分され、重要な役割を担う事が名誉になっただろう。それは現代社会では当たり前の事だが、縄文時代には漁民だけが持つ、特異ではあるが重要な価値観だった。

狩猟民族にも類似の価値観が生まれていたと推測されるが、四季を通して安定した獲物を確保するためには、少ない人数で広い縄張りを確保する必要があったから、大集団を形成する事はできず、同業者の中で熟練度を競い合う機会は、漁民と比較すると大きく制限された。しかし漁民集団は、近接した地域に何組も併存する事が可能だったから、各集団が互いに漁獲を競う様になっただろう。成果を挙げた集団が誇りを持ち、その重責を担った者達は、社会的な名誉を得たと推測される。従って重要な役割を担う者達には、それらを効率的に遂行する責務感が生まれ、その様な人々の努力により、漁労文化が発展したと想定される。

狩猟民族は隣接した縄張りを持つ集団と、獲物の捕獲に関する情報を交換する必要は、殆どなかったと推測されるが、海は広く魚は広い範囲を回遊するから、魚種によっては遠隔地の情報も有用になり、それに関する情報交換も頻繁に行われたと推測される。その様に交換された情報の有益性は、それを受けた者達の漁獲の有無によって検証されたから、漁民集団間の交流と信頼関係の構築も、重要な漁労活動のひとつになったと推測される。言い換えると独立した漁民集団の間に、情報の貸し借りの概念が生まれ、互いの信頼関係を高める努力が払われると同時に、技能を競争的に高め合う土壌が、醸成されたと推測される。

その様な漁労活動によって得られた海産物は、腐敗しやすく長期保存ができないから、リーダーだからと言って過分な分配を求める事に意味がなく、貧富の差は生まれにくかった。その様な集団の構成員に、人々の人格を評価する価値観が生まれたとすれば、集団に対する貢献能力を重視したものになる事も、必然的な方向性だった。それが現代日本人の特徴でもある事に、気付く必要がある。現代日本人も各々の役割を決め、それを遂行する過程で権限が付与され、その成果によって評価されるが、評価基準は集団に対する貢献度であり、それが社会的な評価にも繋がる事は、漁民的な発想を根底にしているからだと考えられる。また社会には色々な役割の人がいて、それぞれが役割に応じて機能しなければ、全体の成果が得られないと考える事も、漁民的な価値観を基底にしていると推測される。また職業に貴賤的な等級を付けない事も、海洋漁民的な発想であると考えられる。

この様な社会では、人々の心の中に権力闘争や賄賂の様な概念が、入り込む余地はなかった。それと対極的な農耕社会では、限られた優良な農地を確保しなければ、生活基盤が揺らいだから、それを巡る闘争が常在し、その利害関係を調整する権力者を必要とした。優良な農地の耕作権に論理的な根拠はないが、何らかの根拠によって誰かに配分する必要があったから、秩序の維持には強力な権力が必要だった。その様な権力者が生まれると、権力を装飾する必要が生まれると同時に、権力者に賄賂を贈る事も、農地を確保する有力な手段になり、真実を追求する事がその秩序を乱す場合も多々生まれた。しかし個々の農民にとって、農地が確保できるか否かは死活問題だったから、紛争が発生すれば何としても、相手を言い負かす必要があった。状況が紛糾すると、最終的な調整は力のある者の主張を、真偽は問わずに絶対的なものにするしかなかった。その様な社会では、権力に同調して従う事を最上位の規範とするしかなかったから、農耕民族独特の習俗が必然的に生まれた。

大陸の人々が身分の上下を決めたがり、上位者が下位者に絶対的な服従を求めるのは、この系譜の文化から生まれた習俗になる。

嘗ての日本人にもこの習俗が色濃く存在したのは、農耕社会化した古墳時代以降の日本は、漁民的な価値観だけでは統治できなかったから、奈良時代以降の王朝が、農民化した日本人を統治する為に中華からこの思想を導入したからだ。これは必然的な帰結だったから、領地を石高で測った江戸時代まで、この思想が社会を支配していたが、明治維新以降はその意識が急速に薄れた。それは日本人が西欧化したからではなく、明治維新によって海洋民族的な産業社会が復活し、それに相応しい精神状態として、海洋民族的な発想に回帰したからだと考えられる。この方向感は、現在も進行中である様に見える。

 

海洋民族の社会構造

この議論を分かり易くするため、漁民と対極的な農民社会に目を転じ、両者の違いを明らかにする。農民が収穫を得る為には、農地を占有する事が絶対条件であり、農地を安定的に占有するためには、耕作権を保証してくれる権力が必要だから、成熟した農業社会には強い権力が必要不可欠な存在になった。農民の生活を支えるためには、広い農地が必要だから、農業者は小集団として集住する事はあっても、集落は散開する必要があり、農耕民族の権力者は、複数の集落を包含する領土を設定し、その秩序を確保する必要があった。

農耕社会がその様な状態になっても、農作業は個人や一族の枠を超える必要はなく、共同で生産する行為は生産性を高めないだけではなく、却って生産性を劣化させた。責任が曖昧な共同作業が農耕の生産性を低下させる事は、共産主義的な集団農場の例を見れば明らかだ。

従って農耕社会であるか漁民社会であるかの違いが、古代社会の成立に異なる作用を及ぼした事は間違いない。

農耕社会の進化を先導した古代エジプト人が、ピラミッドや神殿を沢山作ったのは、余暇をその様に使う事に意義を見出したからだ。エジプト王朝はナイル川が氾濫する度に、農地を配分し直す権力だったから、それに神聖な力を与えたいと願う事は、エジプトの農民にとって必然的な発想だった。従って壮麗な建造物や奢侈品で王権を装飾し、王の権力を誇示する事が、余暇の最も有意義な使い方であると判断する事は、自然な流れだった。エジプトに王朝が発生した5千年前は、海面の上昇が止まって3千年経過した時期だから、海面が低かった氷期には深い谷になっていたナイルの河谷に、海面上昇によって海水が入り込んだ後、広い谷が沖積土で埋まり、ナイルが氾濫し始めた頃になるから、時期も整合している。氾濫が起きて農地の区画が曖昧になると、農地の再配分を差配する権力が必要になるから、その様なエジプトで真っ先に、強い権力を持つ王朝が生まれた事に違和感はない。

その王朝が華麗な建造物を造り続けると、石材加工技術や建築技術が高まる事も必然的な結果だが、それを以てエジプト文明を過大評価する必要はない。別の文明の時代になると、エジプトは文明の先進地ではなくなったからだ。

エジプト人がこの様な王朝文化を創造すると、それが一つの統治形式として他の地域に移植された事は、歴史の必然的な流れと言えるだろう。農地の耕作権を保証する権力を必要とする地域で、それを強化するために財力を集中させる事は、必然的な流れだったからだ。その様な権力機構は権力者に華美な生活を与えたから、権力者がそれを守るために武力を高め、その武力を使って物資を暴力的に集め、より多くの富を求めて領土を拡張した事も、必然的な流れとして捉える事ができる。

その様な権力が農地の耕作権を認めると、その恩恵を受けた農民は継続的な耕作権を保証して貰う為に、その権力を盛り立てる必要が生まれた。若し権力者が変われば認定作業は振出しに戻り、新たな認定から漏れる恐れもあったからだ。従って既得権益者は、既存権力の維持に積極的にならざるを得なかった。

統治領域が広がって権力者の周囲に多数の追従者が集まり、彼らが23次の権力者になると、頂点に君臨した権力者も周囲に群がる追従者も、それぞれの既得権を守る人々になり、後継者を能力主義的に選ぶ事が難しくなった。その結果、血統を根拠に選定する以外に手段がなくなったが、そのような権力者は必ずしも適任者ではなかった。しかしそれであっても、権力者は絶対且つ至高の者である事にしなければ、農地の耕作権が曖昧になって社会が暴力的に混乱するから、その様な事態を避けるためには、適任者ではない者でも適任者らしく見せる必要があり、そのために華美な住居や豪華な調度品を集め、無意味で仰々しい典礼を催す必要が生まれた。

その様な権力者が巨大な墓に葬られ、権力の装飾品だった華美な奢侈品が副葬されると、考古学的に発掘されやすい物品になったが、それらは権力の本質ではなく、権力を飾ったものに過ぎない。最も有効に権力を飾ったのは、周囲の者達の虚飾に満ちた嘘言だった筈だから、華麗な遺物は装飾の本質でもなかった。

権力者の地位も農民の耕作権も、既得権の踏襲に過ぎず、論理的な根拠などある筈はなかったが、農耕社会を安定させる最も基本的な案件は、耕作権が権力によって認定される状態の維持であり、それを実現する最も確実な方法は、耕作権の根拠を創作してそれを守ってくれる権力者を、虚言で装飾する事だったからだ。

権力者は権威を高める為に神秘性を装い、個々の農民との直接的な関係を意図的に希薄化したから、民衆は権力者の恣意的な恩恵を受けたり回避したりする際に、仲介者を必要とする様になり、必然的に統治機構が複雑化すると共に、機構内部の腐敗が進んだ。嘘を言い合っていた人達が権力機構を維持したから、自浄作用は期待できなかっただろう。

権力者が統治する領土の境界では、強い権力者に付こうとする力が働くから、強い権力者の領土は容易に膨張し、権力が腐敗によって衰亡すると新しい権力が生まれたが、新旧いずれの権力も、力の根源が武力になる傾向が高まった事も、農耕民族の必然だったと言えるだろう。

古代の稲作民社会ではエジプト型の権力は形成されず、荊型の社会と越型の社会が生まれたが、両者の性格は全く異なっていた。

越は小国に分かれ、庶民の監視が行き届く状態を維持した。百越と呼ばれた地域や、小国に分かれていた古代の南朝鮮では、非常事態に至る迄、その様な状態を維持していた。越人がその様な見識に至ったのは、彼らの権力者の起源が、製塩で得た財力を使って民衆を集め、灌漑事業を興して水田を広げ、そこで働く稲作者を統括した人々だったからだと推測される。製塩地は海岸に幾つもあり、越人の権力者は発足時から多数存在したから、彼らが領主になってもその状態を発展させ、それを民族文化にしたからだと推測される。農耕社会を安定させるためには、強力な権力が必要だった事に変わりはなかったから、その背景となる思想は必要だった。彼らは身分格差を前提とした、法治国家を形成した。隋書が記す越系倭国や新唐書が示す新羅は、その様な体質の地域国家だった。

荊は独特な社会を形成したので、その事情は本論の中で詳しく説明するが、組織の本質は、洪水に襲われた稲作地を、集団体制で即座に復興させる為に、独特の倫理観を基底とする集権的な体制を維持していた。

アワ栽培民は粗放な天水農耕を行っていた都合上、自発的な統治組織を形成する機会がなく、農地の獲得競争が無秩序に行われた結果、極めて暴力的な社会を形成した事を、龍山文化期の遺跡が示している。彼らは王朝を形成しても、暴力な体質を維持し続けていた事を、殷墟周辺の王墓に副葬された多数の斬殺遺体が示している。

その様な農耕社会とは異なり、海洋漁民だった海洋縄文人や倭人には、農地や領土を支配して耕作権を保証し、その対価として徴税する領主権は、生業の遂行上必要なかった。従って領主の権勢を高める壮大な建築物も、権力を飾る奢侈品も必要がなく、豪華な骨董品は遺物として遺さなかったが、庶民的な財産だった石製装飾品や、優秀な量産品だった磨製石斧や矢尻を、多数の庶民的な家屋に遺す文化を形成した。それらの遺物から縄文人の経済活動を窺い、彼らに君臨していた海洋民族を評価すると、虚飾に満ちた農耕社会の価値観では解けない、縄文人像が浮かび上がる。

堅果類の栽培は一種の農耕ではあったが、穀類の栽培とは異質な農耕だった。東日本で生まれた縄文人の環状集落は、堅果類の栽培に従事しながらそれを生活基盤にはせず、他の手段によって海産物を入手していた人々の、集落の在り方を示している。堅果類の生産性は古代農耕より高かったが、堅果類には毒性を除去し切れない問題が内在し、食料としての味覚も劣悪だったから、堅果類の栽培者は食料の過半を、堅果類以外の食材に求める手段として、漁民の為に漁具や特産品を生産して海産物を入手した。従って堅果類の生産には、樹林を維持するための共同作業が必要だったが、その生産を極大化する事には関心がなく、必要最小限の樹林を共同管理するために環状集落を形成したと想定される。

環状集落は東日本に共通した住居形式で、穀類の生産性が低く漁獲に依存する必要性が高かった、北陸部族、関東部族、東北部族の縄文人が採用していた。堅果類の栽培者は樹林を共同管理する文化を持ち、共同で大型魚を捕獲する漁民の価値観と、融合しやすい人々だった。従って海洋文化と堅果類の栽培文化が接すると、必然的に海洋民族が生まれたが、栽培者が穀類の生産性を高めて農民化すると、海洋民族的な関係は必然的に解消された。

具体的に言えば、環状集落に住んでいた縄文人が豊かな食料を得る手段は、毒性に問題がある堅果類を多量に収穫する事ではなく、漁民が必要とするアサなどを栽培し、漁民の生産性を高める漁具を製作し、商品価値が高い交易品を創造し、それを漁民に提供してより多くの海産物を得る事だった。経済原則から考えれば、漁具や船を製作する者と漁労を行う者が別人である方が、漁労の生産性は高いから、その様な分業はかなり早い時期に成立したと想定される。

この様な縄文人は漁民と同様に、食料の備蓄はできなかったから、優良な作品を仕上げて過分な海産物を得ることができても、自分の家族が食べ切れなければ近所に配る以外に手段はなく、それが共同体の協調に結び付いたとしても、職人としての一代限りの豊かさであって、次世代では事情が変わったから、世襲的な身分や権益にはなり得なかった。

関東では熱帯ジャポニカが栽培されていたが、栽培適地が少なく生産量は限られていたから、コメは一種の奢侈品になり、堅果類と海産物を2大食材とする状況は、縄文中期まで継続していた。稲作者にとってもコメは生活必需品ではなく、漁具などを作る職人と類似した意識で、より多くのコメを得たいと思っていただけだから、適当な広さの稲作地がありさえすれば、稲作の腕前を披露する事は可能だった。従って稲作地は、女性達全員に均等に配分された可能性が高い。彼女達にはアサなどを栽培する責務もあり、コメ、アサ、野菜、根菜などはどれも、海産物との交換品になったから、稲作に拘泥する必要はなかった事が、彼女達の稲作地に対する執着心を、農耕民族の様に高めなかった事は間違いない。

縄文前期~中期の東日本の縄文人は、漁具の製作に加え、八ヶ岳山麓で製作した黒曜石の矢尻を使い、弓矢を量産する内職も抱えていた。「縄文人の活動期」の項で詳しく説明するが、その様な海洋民族的な活動を展開し、豊かさを示す多彩な遺物を遺した縄文人は、漁民を最大の食料生産者だった事を認め、海洋民族的な生産活動に従事した証拠を、示している事になる。

またその様な縄文人は、シベリアの狩猟民が高性能であると認めた弓矢を、組織的に量産する事によって多量の獣骨を得ていたから、その事実に誇りを持つことができただろう。その様な縄文人は、漁民に従属する劣等感から解放されただけでなく、自分達が主導する産業構造が生まれた事を自覚していたから、黒曜石の産地だった八ヶ岳山麓を中心に、独創性に溢れた縄文文化を展開したと想定される。

その様な八ヶ岳山麓の縄文人は、海産物に恵まれていた関東の縄文人と比較すると、諏訪湖の単調な魚と堅果類しか食べる事ができなかった上に、特別な日にコメを食べることもできない貧しい食生活を強いられていたが、弓矢産業に従事している誇りが極めて独創的な縄文文化を生み出し、関東の縄文人もそれを真似る状態だった事を、産業社会に生きる現代人には十分理解できるだろう。

西日本の縄文人も堅果類を栽培していたが、西日本では環状集落は生まれなかった。西日本の縄文人はアワの栽培に注力し、それを漁民の海産物との交換品にしていたからだ。アワ栽培者は自身を、ドングリを提供する縄文時より格が高いと考えていたから、泡栽培を継続していたと考えられるが、アワの生産性も、自家消費を全て賄うほどには高くなかったから、堅果類も栽培する必要があった。彼らが東日本の縄文人の様に環状集落を形成しなかったのは、アワを焼畑農耕で生産するためには広い土地が必要だから、漁村から離れた地域に散村を形成せざるを得ず、アワを栽培する農耕社会になり掛っていたからだと想定される。

焼畑農耕でアワを栽培しても石器時代の生産性では、堅果類から完全に脱却する事はできなかったが、過半の食材を堅果類とする食料事情から解放され、漁民と対等な立場で交換を行う経済基盤を形成していた。しかしアワを生産するためには、堅果類の樹林を維持する事と比較して、過大な労務負担が必要だったから、アワの栽培者は漁労活動の支援はしなかった。つまり漁民に従属しない農耕民族的な人々になった。

但し彼らの経済構造では、生産したアワがカロリーベースで、アワより多量の海産物と交換できる事により、成立していたと推測される。焼畑農耕には多数の磨製石斧が必要になり、それを交易によって得る必要があり、その為にアワを供出しなければならなかったからだ。アワ栽培地は蛇紋岩の産地でもあったから、磨製石斧も自家製だったかもしれないが、その場合のアワ栽培地は漁村から遠く離れたから、鮮魚より味覚が劣る干物などで我慢せざるを得なかった。それでも多数の北陸縄文人が、温暖な西日本に移住してアワの栽培者になったのは、漁民に従属する身分を嫌ったからだと推測される。

これは経済的な関係に起因する必然性ではなく、アワの栽培者だったmt-Dが、関東のmt-B4とは異なる性格を持っていたからだと推測される。華北の多数であるmt-Dも同様な振る舞いを実行し、シベリアで進行していた河川漁民との共生社会を離脱し、華北の栽培者になったからだ。mt-Dが母から娘に伝えていた栽培思想に、その様な状態を生み出す気質があったからだと想定される。

縄文人が食料としての質が低い、堅果類の栽培者だった時代には、縄文人と漁民の密接な共生関係が維持され、海洋民族が生まれる環境を生み出していたが、生産性が高い穀類の栽培が導入され、多くの漁民がその味覚に魅了される時代になると、縄文人の間に穀類の栽培競争が始まり、穀類の生産性が高まって農民化が進行すると、海洋民族的な活動には陰りが生まれた。この事情は縄文社会の一般的な傾向でもあったから、関東のmt-B4も縄文後期になると、その様な稲作者を多数輩出した。

穀類の生産には手間が掛かり、それに没頭すると海洋民族的な活動に手が回らなくなっただけではなく、自分達の生活も余裕を失った。東日本の縄文中期までの土器は、極めて多彩で手が掛かるものだったが、縄文後期以降にその余裕を失った事が、その事情を示している。西日本の縄文人は乏しい痕跡しか残していないが、過疎地だったとの考古学的な解釈に安易に同意できないのは、このような事情による。

いずれにしても石器時代の穀類の栽培者には、自給自足できるほどの生産性はなく、カロリーベースで数倍の海産物と交換する必要があったから、海洋民族的な需給関係は辛うじて維持され、栽培者が生存を賭けて農地争いに走る状態には至らなかったと想定される。言い換えると、命を懸けた闘争を繰り広げて農地争いをしなくても、海洋民族社会に戻れば、家族の生命を維持する事は出来た。縄文時代の闘争的な遺物は殆ど発見されていない事が、上記の想定を証拠付けている。

 

縄文時代の地形環境

縄文時代は1万年以上も続き、その間に地形的な環境が大きく変化した。

縄文時代が始まった15千年前の海面は、現在より100m以上低く、それが徐々に上昇して8千年前に停止すると、縄文海進期が始まった。海退が始まったのは5千年前で、縄文中期だった。

15千年前の海岸には、沖積平野を起源とする丘陵地が散在していたが、海面が100m上昇するとそれらは全て海中に水没し、15千年前には山肌だった急斜面が、海岸線を形成する様になった。従って縄文海進期には、河川が浸食して形成した谷にも海水が侵入し、リアス式の海岸の様な地形が、日本の海岸の一般的な景色になった。これは日本だけの事情ではなく、世界的な現象だった。

従って縄文海進期の穀物栽培は、13万年前の間氷期に形成された沖積平野の特殊な残渣である、沖積台地でしか行う事ができなかった。理論的には、焼畑農耕は急斜面でも行う事は出来るが、縄文人の豊かさを示す石製装飾品が発掘された、福井県の縄文早期の桑野遺跡は、その様な沖積台地の端にあるから、焼畑農耕も比較的平坦な場所で行われたと推測される。氷期が終わった直後の山岳地は、氷期の雨によって表層の土壌が流されていたから、植生による腐葉土の形成に乏しく、農地にはなり得なかったからではなかろうか。

稲の栽培化が進行する為には、多数の女性が栽培化途上の特定品種を栽培しながら、遺伝子変異を蓄積する事ができる、広い沖積台地が必要だった。縄文海進期にその様な地形が存在したのは、日本では関東の武蔵野台地・多摩丘陵だけで、大陸には銭塘江が形成した沖積台地が浙江省にあり、それが最大の規模だった。従ってイネが栽培化される環境は、気候問題だけではなく地理的な問題として、関東、浙江省、湖北省にしかなかった。湖北盆地は8千年前には海だったが、揚子江が急速に沖積平野を形成し、温帯ジャポニカの栽培者に優良な稲作地を提供していた。

従って関東で熱帯ジャポニカが栽培化され、熱帯ジャポニカの姉妹品種であるジャバニカが、浙江省で栽培化されたと推測される。

 

縄文時代の気候の変遷

縄文時代後半の尾瀬の気候変動を、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動に示した。東アジアの特定地域の気候を連続的に再現する唯一のグラフとして、縄文史を解明する有力な手段になる。鹿島沖の海水温の変遷と併せて参照すると、大陸を含めた縄文時代の気候変動を、高い確度で再現できる。

縄文時代の前半期は後氷期の温暖化過程で、大きな寒の戻りもあったがそれが終わると、温暖化のピークとしての超温暖期を迎え、その後はその余韻を交えながら徐々に冷涼化し、縄文前期から1600年周期の寒暖が優勢になった。縄文史年表にこの気候変動を併記すると、縄文文化は気候変動の影響を受けながら進展した事が分かる。詳細はこの項の末尾からジャンプする、縄文時代の各項参照。

下図は鹿島沖の海底堆積物が示す、海面水温の変化。

海水温

これらのグラフから分かる事を以下に解説し、気候変動に影響されながら進展した縄文史の概略を、年表を使って説明する。

「(鹿島沖の)海面水温の変化」は、低緯度地域で温められた暖流の水温の変遷であって、日本列島の気候ではない。日本の気候は尾瀬の花粉が示し、温暖化のピークは9000年前だった事を示しているが、海水温のピークは7800年前だから、気候の激変期に大気温と海水温が異なる軌跡で変動した事と、大気温の変遷には緯度による時差があった事をこの違いが示している。

大気温と海水温が異なる軌跡を描いた原因は、温暖化の条件が整うと大陸の大気は直ぐに昇温するが、熱容量が大きい海洋の昇温には時間が掛かるからだ。大陸の大気温が急上昇しても海水温が追従しなかった時期の大陸は、晴天が続いて大陸の大気温を一層高め、砂漠化して海水を徐々に温めた。

海水の昇温の最終段階で、自然界の必然的な現象としてオーバーシュート現象が発生したから、そこまでを大陸の高温期と考える事ができる。暖流の水温は低緯度地域の気候を反映し、日本列島の大気温は高緯度地域の影響も受けたから、それらを考慮して東アジアの気候を復元する。

上に掲げたグラフでは、海面水温の変化も13千年前以降の変化だが、それ以前の事情は、南極やグリーンランドの氷床に含まれる酸素ガスが、2万年前に氷期の最寒冷期が終わって温暖化し始め、15千年前に急激な温暖化が始まり、13千年~12千年前に寒の戻り(ヤンガードリアス期)があったが、それが終わると再び昇温過程が始まった事を示している。しかしヤンガードリアス期以降の状態については、定説と言えるものはない。

上掲のグラフは、ヤンガードリアス期が終わると大陸の大気温は急上昇したが、海水は徐々に昇温し、両者がバランスを欠く状態が4千年続いた事を示している。その期間中大陸では高温で乾燥した状態が続き、海水温は徐々に上昇したが、海水温が大陸の高温状態に追いつくと、多量の雲が発生して大陸の高温期が終わり、海水温も冷却過程に入った事を示している。但し海水温が示す低緯度地域が冷却過程に入ったのは7800年前で、中緯度地域の尾瀬の大気温は9000年前に高温期が終わり、気温が急低下した事を示している。

この状態を物理的に理解する為には、幾つかの気候事情を理解して置く必要がある。

大気や海水を温めるのは雲に遮られない直射日光だから、晴れた日には昇温するが、雲が多いとそれが妨げられる。

温暖な大気が冷たい海水を覆う地域では、海面に接している大気が冷却されて重くなり、海面上の水蒸気が上昇して雲を形成する上昇気流が生まれないから、晴天が続いて陸上が砂漠化する。寒流が流れている南北アメリカ大陸の西岸や、西岸を寒流が流れているサハラ砂漠がその例になる。つまり温暖な大気が冷涼な寒流を覆う地域では、晴天が続いて砂漠化するが寒流は温められるが、大気温まで昇温しないから砂漠化し、大気温が下がる冬季に雨が降る。冬の大気温が寒流の水温より低くなると、寒流を覆っている大気が寒流によって温められ、上層の冷たい大気より軽くなり、湿気を帯びた上昇気流が生まれて雲が発生するから雨が降る。

その逆に暖流が北上する際に、暖流が冷却される典型的な現象を、冬の日本海沿岸の豪雪が示している。対馬暖流が北上している日本海では、シベリアから冷たい風が吹く冬に雲が大量に発生し、北陸に豪雪を降らせながら暖流は冷却される。冬の日本海の水温が、アメリカ西海岸の夏の寒流より温かいわけではないが、多量の雲を発生させながら暖流は冷却される。

つまり雲が発生するか否かは、海水温の高低で決まるのではなく、海を覆う大気温と海水温の相対的な温度差で決まる。

モンスーン地帯の豪雨は、海流とは関係ないメカニズムで発生する。低緯度地域の陸や島に囲まれ、循環海流が及ばないベンガル湾や南シナ海では、夏季に水温が異常に高くなり、その上を海洋性の高気圧が生み出す冷風が吹くと、温暖な海を冷たい大気が覆う状態が生まれ、膨大な量の雲が発生する。

後氷期の急激な温暖化は、大陸と海洋の温度バランスの崩れが引き起こしたので、両者の関係を把握する必要がある。

海水は表面が太陽光に温められて高温化すると、蒸発して高温化が抑止されるし、波が海水を攪拌して膨大な熱容量を持つ中層水と中和するから、急激な温度変化は起こり難い。しかし熱伝導率が小さい岩石や土壌は、海水と比較した表面熱容量が小さいから、大陸の大気は昇温に対する抑制力が弱く、大地が熱せられると急激に昇温する。熱せられた大気は上昇して冷えるが、冷えた大気が下降すると昇温するから、この上下動を含めて一体的に把握する必要がある。

夜間の放熱量は表面温度に依存するから、表面熱容量が小さい陸地では、夜間に急速に低温化するから、陸上の大気温は海水温と比較し、気温の上下動が極めて激しく、平均的な状態を定義する事は難しいが、何かを基準にして相対的な上下動を捉えると、話は分かりやすい。

気候が安定している現在は、大気温と海水温は年間を通してバランスが取れた関係にあり、毎年同じ気候が繰り返されているが、バランスを決めている条件が変動すると、先ず大気温がそれに向かって急速に変化し、海水温が徐々に変化していくので、その期間は気候が急激に変化する変動期になる。後氷期の急激な温暖化は、そのプロセスに従ったと考えられるが、バランスを決める条件は複雑なので本論で説明する。

尾瀬の花粉は大気温の変化を示しているが、日本列島は海洋性の気候地域だから、大陸と比較した気温の上下動は抑圧的になる。海水が温まっていない時期には、尾瀬の大気も昇温が抑止されていた筈だが、それは7800年前より古い時期なので、その状態での変化は千年間しかなく、継続的な変化を読み取る状態にはない。従ってマクロ的な解釈として、東ユーラシア大陸には尾瀬より大きな温度変化があり、海水温が急激に上昇し始めた12千年前に高温期が始まり、海水温が上昇し続けた8千年前まで続いたと考えられる。

このHPでは、12千年前に始まった大陸の異常な高温期を、「超温暖期」と呼ぶが、これは東ユーラシア独特の現象であって、同時期の西ユーラシアにはまだ厚い氷床が残り、西ユーラシアの大気温を冷却していた。厚い氷床が融けて海面が上昇する現象が、8千年前まで続いた事は、西ユーラシアはその時期まで氷期の寒冷な気候から、脱する事ができなかった事を意味している。その様な西ユーラシアでは、植物の花粉によって古気候を推測する事が難しいので、以下の話は東ユーラシアの古気候に限定する。

北太平洋の亜熱帯循環(その一部が黒潮)に着目すると、晴天が続く北アメリカの西岸で南下する寒流が太陽光によって温められ、東アジアでは北上する暖流が冬の日本海などで曇天に覆われ、水蒸気が蒸発しながら冷やされている。つまり北太平洋の亜熱帯循環は、北アメリカ大陸西岸の砂漠地域で温められ、赤道域でも温められるが、北上する黒潮は東シナ海や日本近海で冷やされ、北太平洋をアメリカの西海岸に向かう過程でも冷やされ、寒流になってカリフォルニア方面に南下する事により、現在の安定した北太平洋域の気候が維持されている。

現在でも12千年前に始まった海水の昇温期でも、海水温を最も強力に温めるのはアメリカ大陸西岸と赤道近辺の日射で、それは現在でも起こっている。従ってこの安定状態が破れ、黒潮の温度が急激に上昇するためには、太陽光を雲が遮って海水温の上昇を抑えたり、蒸発によって海水温を低下させたりしていた地域が、即ちユーラシア大陸東部が、極めて高温で乾燥した気候になる必要があった。つまり12千年前も現在も、黒潮の海水温が急上昇する為にはユーラシア大陸東部が、超温暖状態になって砂漠化する必要があった。尾瀬の9千年前の高温状態は、その末期の状態を示しているが、大陸ではもっと厳しい高温状態が12千年前に生まれ、それが継続していたと想定される。

昇温の最終段階でオーバーシュート現象が発生したのは、以下の理由に依る。

気候のバランス点が変化して地球が温暖化する際には、先ず大陸の大気が高温になって大気が乾燥し、晴天が続く事によって昇温し、正の気候サイクルに突入した。正の気候サイクルとは、状態の進行がその傾向を助長する状況を指す。大陸の大気が昇温すると雲が発生しなくなり、益々昇温するから、更に晴天が続いて大陸の大気温が上昇し、限界極限まで昇温した。

その影響で海洋でも晴天が続き、海水も多量の日光を浴びて急速に温まったが、海水温の場合には急速と言っても、上のグラフに示す様に千年間に67℃昇温する程度だった。大気温との差が減少すると局地的な雲が発生したり、夜間の放熱量が増えたりして昇温の速度は鈍ったが、昇温傾向は変わらなかった。

この状態は北太平洋の水温が、大陸の大気温に追い付くまで続いた。厳密にいえば黒潮の水温が、東ユーラシア大陸の大気温に追い付くまで続いた。但しこの時期の黒潮が追従した大陸の大気温は、砂漠化した大陸の異常な高温状態であって、後氷期の安定的な気候条件を作り出すバランス点ではなかった。

異常な高温状態になった大陸の大気温に、北太平洋亜熱帯循環の海水温が8千年前に追いつくと、ユーラシア大陸の雲が増えて降雨時代が始まった。その雲によって黒潮の水温上昇は止まり、ユーラシア大陸東部の大気も冷えたが、熱容量が大きい太平洋の海水温は直ぐに低下しなかったのに、大陸の大気温は急速に低下したので、昇温期とは逆転した相対的な温度差が生まれた。その様な状態で大気が冷えると、益々雲が多量に発生して太陽光を遮り続け、陸地は更に低温化して海水温より大幅に低くなった。それによって雲が多量に発生して降雨が激増すると、大陸の大気も海水温も低下する、逆のスパイラル現象に突入した。それによって超温暖期は終わり、ピークを打った大気温と海水温が下降サイクルに入った。

この時期の気候変動は、後氷期のバランス点を中心に、振幅を減衰させながら微振動するもので、尾瀬の気候グラフはその影響が4千年ほど続いた事を示している。但し後氷期のバランス点は固定的なものではなく、ミランコビッチサイクルと呼ばれる4.1万年周期の寒暖周期に従い、9千年前の温暖ピークから1.1万年後の寒冷ピークに向かって、北半球の気候は徐々に冷涼化していく。この気候サイクルは、氷期の寒冷な気候の直接の原因ではない。

東ユーラシアの超温暖期の影響は西ユーラシアにも及び、堆積していた膨大な氷床が急速に融解し、世界の海面が再び急上昇した。西ユーラシアに樹林が生まれたのは1万年前だから、西ユーラシアの後氷期は1万年前に始まったと認識されているが、東ユーラシアでは冷温帯性の堅果類の栽培者だった縄文人が、15千年前に日本列島に北上したから、東ユーラシアの後氷期は15千年前には始まっていた。

このHPでは超温暖期が終わって低温化し始めた転換点を、「大洋の湿潤化」と呼ぶが、大洋の湿潤化は広いエリアで一斉に起こったのではなく、高位緯度地域の沿海部から始まり、その前線が沿海部を徐々に南下したと想定される。尾瀬の気温が9千年前に急低下したのは、「大洋の湿潤化」がその時期に観測された事を示しているからだ。それが7800年前に低緯度地域まで達し、東アジア全域が湿潤化した事を、鹿島沖の海水温が示している。

太平洋の全域が湿潤化すると初めて、東ユーラシアの内陸の砂漠地域も森林化した事を、黒竜江省西端の半砂漠地である泰来県で、8千年前に黒褐色土層が形成された事が示している。また北半球全体が降雨期になった事を、その頃サハラが最も湿潤化した事が示している。太平洋で発生した雲がサハラに及んだのではなく、大陸と海洋が気候の乾燥化によって温められるプロセスが、世界最大の海洋である太平洋が湿潤化した事によって終了し、大陸が急速に低温化したから、サハラの近傍でも海水から水を蒸発させる状態が生まれたと解釈される。サハラがその後乾燥化したのは、メキシコ湾流の北上力が強化され、北大西洋亜熱帯循環の北上が進み、アフリカ西岸を流れる寒流の水温が大陸の大気温と比較して、相対的に低下したからだと考えられる。

太平洋の海水温の上昇期だった9千年前に、中緯度地域の沿海部に位置する尾瀬で「大洋の湿潤化」が起き、気温が急低下した事は、高緯度地域の沿海部ではもっと早い時期に、「大洋の湿潤化」と低温化が始まった事を示唆している。つまり高緯度地域であるシベリア沿海部では、「大洋の湿潤化」は1万年前に始まった事を示唆している。

沿海部と内陸を分けるのは、大陸内部の乾燥地域である黒竜江省東部は、尾瀬より高緯度地域でありながら、湿潤化したのは8千年前だったからだ。従って沿海部と内陸部の湿潤化には大きな時間差があり、大陸の内部まで広範囲に湿潤化したのは、「太平洋の湿潤化」の終末期だった事になる。

従って「太平洋の湿潤化」のプロセスとしては、高緯度地域であるシベリア沿海部の湿潤化は1万年前に始まり、中緯度沿海部である日本列島は9千年前に湿潤化し、最後に低緯度地域と大陸内部の湿潤化が8千年前に起こったと想定し、各地域の歴史を解析する必要がある。

鹿島沖の海水温は1万年前に千年間昇温が停滞し、その後再び千年間急激に昇温した後、7800年前に太平洋の湿潤化に至った事を示しているから、インド洋が1万年前に湿潤化し、その影響が太平洋に及んだ事を示唆している。インド洋にも「大洋の湿潤化」があり、海流が高緯度地域を循環していないインド洋は、太平洋より昇温が早かったと考えられるから、「インド洋の湿潤化」が1万年前だったとの想定は、妥当である様に見える。

「鹿島沖の海面水温」は、ヤンガードリアス期に太平洋の海水温が低下した事を示しているから、この時期にはインド洋の海水温も低下したと推測され、ヤンガードリアス期が終了してから2千年後である1万年前は、太平洋に先行して昇温したインド洋の湿潤化時期として、妥当であると考えられる。

従って1万年前に始まったシベリア沿海部の湿潤化は、インド洋の湿潤化をトリガーにして始まった可能性は高いが、その時期にインド洋が湿潤化しなかったとしても、太平洋は遅かれ早かれ湿潤化し、東ユーラシアの気候は類似した状態で遷移した筈だから、太平洋の湿潤化に関する議論で、「インド洋の湿潤化」を深く追求する必要はない。インド洋は地形が複雑で、ベンガル湾はモンスーン気候の発生源でもあるから、インド洋の湿潤化の議論は複雑になるから、上記の指摘だけで話は終りにしたい。

尾瀬の気候は、9000年前に高温のピークを迎えたが、これは1600年周期の温暖期になり、その後の寒冷期に太平洋の湿潤化と併せた効果で、急激に低温化した事を示している。従って1600年周期の寒冷期だった1万年前に、シベリアの湿潤化が始まり、温暖期に湿潤化前線がオホーツク海南岸で停滞した後、次の寒冷期(82007800年前)に向かう低温化の中で、中緯度沿海部の湿潤化に至ったと考えられる。

次の温暖期(縄文早期温暖期甲)の昇温が目立たないのは、この湿潤化の余波として3千年周期の寒暖が生まれ、この温暖期はその低温期に当たって高温化が抑止されたからだと推測される。

両者の温暖期が重なった縄文前期後半は、異常な高温期になった。

続く縄文中期寒冷期にそれほど低温化しなかったのは、湿潤化の余波が温暖化に傾いていたからだと想定される。

縄文後期温暖期はその低温期になったから、昇温が抑圧された様に見える。

それ以降は湿潤化の余波が減衰し、1600年周期の気候変動が顕在化したから、縄文晩期は明瞭な低温期になったと考えられる。

以上の気候変動と縄文人の移動を組み合わせると、15千年前に後氷期が始まって気候が急激に温暖化し、日本列島が亜寒帯性の気候から温帯性の気候に変わったから、関東の原日本人は沖縄の縄文人を九州に移住させ、北陸の原日本人は石垣島の縄文人を北陸に移住させた事になる。それが15千年前だったと判定する根拠は、南極の氷がその頃に気温が急上昇した事を示し、海面もその頃から急上昇し始めたからだが、長崎県などからその時期の縄文土器が発掘され、考古学的な証拠も揃っている。

しかし13千年前に寒冷なヤンガードリアス期になり、北半球は急激な低温化に見舞われたから、九州にいた縄文人は九州南端に逼塞させられた。この時期の縄文人の痕跡が九州南端で発掘され、「鹿島沖の海水温」のグラフは12千年前の暖流の海水温が、現在より6℃以上低かった事を示しているから、両者は整合している。

それを具体的に検証すると、ヤンガードリアス期の大気温は海水以上に低温化したと考えられ、当時の九州は現在の東北北部か北海道南部の様な、冷涼な気候になったと想定され、これは現在の野生化した冷温帯性の堅果類の、北限の気候だから、堅果類の生産性が極度に劣化した事は間違いなく、この時代の縄文遺跡が、九州南端に集中した理由を示している。当時はまだ海面が低く、黄海は大陸から延伸する陸地だったから、北九州には大陸の寒冷な気候の影響が直接及んだと想定され、九州南端は緯度が低いから温暖だったのではなく、黒潮の温度も温暖とは言えなかったにせよ、大陸の厳しい寒気を避けたかった縄文人にとって、黒潮に洗われる南九州が最低限の生存域になったと想定され、定性的な現象論ではなく、定量的に評価しても事象が整合する。

北陸に渡来した石垣系縄文人のこの時期の動向として、鳥取県の鳥浜貝塚から12千年前にウルシ樹を栽培していた痕跡が発掘され、草創期(1.5万~1.2万年前)の地層からアサの繊維も出土し、彼らが山陰に南下して寒気を避けた事を示している。山陰は九州南端より遥かに寒冷だから、台湾/石垣島から持ち込んだ堅果類の収穫は、絶望的だったと想定され、アサの実や海産物を食べて生き延びた事になる。富山の縄文前期の小竹貝塚から、mt-M9の遺骨が複数発掘され、短い夏でも栽培できるソバも、彼らの重要な植物性カロリーだった事を示唆している。

福井県の水月湖の花粉分析により、冷温帯性の堅果類であるコナラの樹林が、この頃の山陰に形成された痕跡が発見され、この頃山陰が温暖化した証拠と見做されているが、寒冷化した故に、縄文人が南下した痕跡であると考えるべきだろう。コナラの類縁種であるミズナラは、耐寒性が高い日本の固有種だから、山陰に南下した縄文人がミズナラを栽培して急場を凌いだ可能性もある。

ヤンガードリアス期が終わった12千年前から、太平洋の海水温が2千年間で5℃も急昇温し、ユーラシア大陸東部が超温暖状態になり、気候が極めて乾燥して砂漠化した。しかし縄文遺跡はその時期にも継続的に展開され、日本列島はモンスーンに由来する降雨に恵まれ、人類が生存できる環境が提供されていた事を示している。

但し縄文人は漁民と共生していたから、それらの極端な寒暖期や乾燥期を、海産物によって生き延びたのであって、縄文人が単独で生活していたとすれば、ヤンガードリアス期や超温暖期に滅んでしまった可能性が高い。

モンスーン気候は大洋の海水温と大陸の大気温の、マクロ的な関係とは異なるメカニズムで生まれるから、それが日本列島を極度の乾燥から免れさせたが、同時期の東ユーラシア大陸の中緯度地域は、過激な温暖化と乾燥化に襲われたと想定される。1万年前にインド洋が湿潤化すると、幾分冷涼・湿潤になったかもしれないが、それによる降雨が始まったのは、高緯度地域の沿海部だけだった事を、黒竜江省の半砂漠地の土壌が示しているからだ。つまり東ユーラシアの中緯度地域の内陸部では、太平洋が湿潤化する8千年前まで厳しい高温乾燥状態が続いた。但し華南はインド洋が湿潤化すると降雨に恵まれ、暖温帯性の堅果類の栽培者やイネの栽培者が、揚子江流域や東シナ海沿海部に北上した。

シベリアの狩猟民族や河川漁労民族は、日本人の歴史に大きな影響を与えたので、氷期~後氷期前半のシベリアの気候も検証する必要がある。氷期には親潮が消滅し、黒潮がカムチャッカ半島に北上したから、氷期のシベリアはそれほど寒冷ではなく、マンモス動物群が生息する気候環境が維持されていたと推測され、シベリアから発見される遺物はこの推測と合致する。

15千年前に急激に温暖化すると、シベリアも沿海部を除いて気候が乾燥したが、高緯度地域にあるシベリアは砂漠化せず、多数の栽培系狩猟民族の祖先が、乾燥した中緯度地域からシベリアの沿海部に北上し、生存圏を得た。その遺伝子であるmt-Dmt-Cは、超温暖化したシベリアからアメリカ大陸に渡ったが、1万年前にベーリング海峡が生まれてシベリアとアラスカが分離したから、彼らはそれ以前にアメリカに渡った事になる。この事実も、その時期の大陸が超温暖期に突入していた事を示している。

尾瀬の気候グラフでは9千年しか遡れないが、鹿島沖の海水温の変化が、12千年前に超温暖期が始まった事を示唆しているから、この事情は尾瀬の花粉が示す、9千年前の超温暖状態とも整合する。従って両者を統合すると超温暖期の東ユーラシアの沿海部は、少なくとも現在より10℃ほど温暖化し、ベーリング海峡近辺も現在の北限農地より温暖だったと想定され、歴史事象と古気候が整合する。

この頃の西欧は永久凍土が融け始めた状態だから、ユーラシアの東西には極端な気候差があった事になる。古気候学者は地球全域が、一様に温暖化したり寒冷化したりしたと思い込み、良く分っている西欧の事情を参考にして、後氷期の温暖化は徐々に進行したと主張しているが、尾瀬の花粉は昇温期の東ユーラシアの気候は、西ユーラシアの気候と全く異なっていた事を示している。

 

尾瀬の花粉が示す1600年周期の気候と、縄文人の活動歴を示す時代区分が整合している事を、下表に示す。

下表の上段で、原日本人が日本列島に漂着した5万年前から、後氷期が始まった15千年前の気候を示し、氷期の4.1万年周期の寒暖を、周期的な気候変化(BC6万年前~BC2万年)として示した。その下に後氷期が始まった15千年前から、尾瀬の気候グラフが示す9千年までの気候の激変期を、付加的に示した。

その下に、考古学者が公開している縄文早期以降の時代区分と、尾瀬の花粉が示す1600年周期の寒暖を示す。両者の良好な一致は、日本の考古学者の高い認知力と、1600年周期の寒暖の実在性を示している。この表は、温暖期と寒冷期の境界に劇的な気候変化があり、それが縄文人の生活に大きな影響を与えた事を示しているが、上掲の温度グラフは1600年周期の温度変化を、縄文後期までは明瞭に示していない。その理由として、植物は一旦群生すると気候が多少変動しても、容易にその場を強者に明け渡さない故に、花粉量が示す気候変動は曖昧になる事を示唆しているが、1600年周期の気候の寒暖が降雨量を大きく変動させ、それが縄文人の生活に大きな影響を与えた可能性もある。

下表は尾瀬の気候グラフを転記した都合上、BC年代で示しているが、このHPの文章は〇〇年前と記しているので誤解を生じやすい。原典とした阪口氏の記述がBC/AD表記なので、阪口氏の偉大な業績に敬意を表し、気候グラフと表もそれに合わせた事を御理解頂きたい。縄文人の事績については、関東縄文人について特記している。

BC年代

相対的寒暖

日本の時代区分

浙江省・上海

湖北省

華北・遼河台地

640000

氷期の温暖期

原日本人が日本に漂着

 

 

 

420000

氷期の寒冷期

原日本人が海洋漁民化

 

 

 

18000

サハラが砂漠化

台湾にいた原縄文人が

 

 

温暖化と乾燥化が始まる

17000

台湾平原を北上

 

 

16000

東ユーラシアが温暖化

 

 

 

 

15000

緩やかな海面上昇開始

原縄文人が沖縄に移住

 

14000

 

 

 

 

 

13000

後氷期の温暖化開始

縄文人が九州に上陸

堅果類の栽培者が

 

12000

急激な温暖化と海面上昇

縄文草創期(オレンジ色)

   広東に北上

     

 

11000

ヤンガードリアス期の

 

 

10000

   厳しい低温化

縄文人が九州南端に逼塞

 

 

 

9000

温暖化の再開

日本列島が再温暖化

稲作者の祖先北上

稲作者の祖先北上

 

8900

8800

 

 

 

8700

 

 

 

 

 

8600

縄文早期

 

 

 

8500

  (ライトグリーン)

 

 

 

8400

 

 

 

 

8300

 

シベリアからmt-Aが渡来

 

 

沿海部に堅果類栽培者が北上

8200

 

 

 

 

山東に漢族の祖先が定着

8100

 

 

 

 

8000

インド洋が湿潤化し

 

台湾が島になる

湖北省が内湾化

海進によって巨大渤海が誕生

7900

太平洋の温暖化が停滞

九州縄文文化が繁栄

安徽省西部まで海進

 

 山東が島になる

7800

 

 

 

 

 

7700

 

 

 

揚子江の

 

7600

 

 

 

 大洪水時代

シベリアの冷涼化と湿潤化

7500

 

 

 

古湖北省湾に

栽培系民族が南下

7400

 

 

 

沖積平野が拡大

 (華北・満州は未だ砂漠)

7300

 

 

 

 

 

7200

太平洋の温暖化再開

縄文人が関東に移住

 

温帯ジャポニカの

7100

尾瀬の気候グラフ開始

台湾からmt-B4が渡来

 

栽培地が拡大

 

7000

熱帯ジャポニカの栽培化

 

 

6900

 

日本列島の湿潤化

 

 

6800

 

 

 

6700

 

          

 

 

 

6600

 

 

 

 

6500

 

 

 

 

 

6400

 

 

 

 

 

6300

 

 

 

 

6200

 

 

 

 

6100

太平洋が湿潤化し低温化

大湿潤期開始

イネの原生種の

急激な湿潤化

6000

 

北限が南下

 

(人が住める環境になった)

5900

 

 

ジャバニカの栽培化

 

興隆窪文化(遼河文化)

5800

 

 

開始

 

台地上でアワを栽培

5700

 

 

        

 

5600

 

大湿潤期終了

 

 

 

5500

 

 

 

 

 

5400

 

 

 

 

趙宝溝文化(遼河文化)

5300

 

鬼界カルデラ大噴火

 

 

5200

相対的温暖期

(九州南部が被災)

 

 

新楽文化

5100

 

 

 

5000

 

 

 

 

 

4900

 

 

大渓文化

仰韶文化

4800

 

縄文前期

馬家浜文化

 

(河南、陝西、山西)

4700

過渡期

 

河姆渡文化

 

 

4600

 

 

 

 

 

4500

 

 

 

 

 

4400

相対的寒冷期

 

 

古湖北省湾消滅

 

4300

 

 

製塩業が生まれる

 

 

4200

 

 

 

 

 

4100

 

 

 

 

 

4000

 

 

 

 

大汶口文化

3900

 

 

崧沢文化

 

   (山東省)

3800

 

 

 

 

 

3700

 

 

玉器、

 

 

3600

相対的温暖期

 ヒスイ加工品の出現

黒陶、灰陶

 

 

3500

 

 

 

 

 

3400

 

 

 

 

 

3300

 

縄文中期

良渚文化

 

紅山文化(遼河文化)

3200

 

 

 

 

3100

過渡期

 

多様な玉器

 

竜山文化

3000

 

 

屈家嶺文化

(華北のアワ栽培文化)

2900

 

 

黒陶、赤陶

 

 

2800

相対的寒冷期

温帯ジャポニカ導入

 

卵殻黒陶

 

2700

 

 

 

 

2600

 

 

洪水多発

 

山東竜山文化

2500

 

 

 

(山東のアワ栽培文化)

2400

 

 

良渚文化消滅 

石家河文化 

2300

 

縄文後期

 

陶寺遺跡(山西省)

2200

相対的温暖期

 

 

都市文明

稲作民が河南省東部に入植

2100

 

 

三星堆文化

銅器

夏王朝

2000

 

 

 (四川省)

 

 

1900

 

 

 

 

洛陽の二里頭遺跡

1800

 

 

 

 

1700

 

 

 

 

 

1600

過渡期

 

 

盤龍城遺跡

殷人の王朝

1500

 

 

稲作が広東に南下

(武漢)

1400

 

 

 

 

 

1300

 

 

呉城文化(江西省)

 

(殷墟の時代)

1200

相対的寒冷期

縄文晩期

 

1100

 

日本式稲作成立

 

 

1000

 

 

 

 

周王朝

900

 

 

 

 

 

800

 

呉・越(沿海部)

700

 

弥生時代

 

呉・越(沿海部)

春秋時代

以下は上の表の簡単な解説。詳細は末尾からジャンプする本論参照。

氷期には4.1万年周期の温暖期と寒冷期があり、氷期の寒冷期は余りに寒く、温暖期になっても昇温期は極度に気候が乾燥したから、原日本人が大陸内を長距離移動できる環境は、温暖期のピーク前後の1万年程だったと推測される。氷期最後の温暖期だった5.54.5万年前は、東アジアは現在より4℃程低温で、シベリアは現在と同程度の気温だったが、海水温が低かったから降雨が少なく、草原に覆われていた。シベリアには氷期初頭に形成された大氷床の残渣として、広大な湖沼が広がっていたから、それが狩猟民族に広大な活動域を提供し、湖沼漁民だった原日本人にも、シベリア南部には拡散環境があった。

原日本人は地中海沿岸を起点に5.54.5万年前に、中央アジアの湖沼群を経てシベリア南部に拡散し、湖沼が凍結する冬季を、狩猟民との共生によって凌ぎながら徐々に東に拡散し、先端が樺太に至ると陸路で日本列島に南下したと想定される。

「日本人の祖先は南から船で渡来した」と根拠なく主張し、意味不明な実験を試る人がいるが、鉄器時代になってから千年経過した5世紀になっても、後漢書の著者が「大陸人は海洋を長距離航行できない」と記しているから、石器時代の大陸人に太平洋に漕ぎ出す海洋技術があったとは考えられない。海の先に何があるのか知らなかったのに、小舟で無謀な航海を敢行したと想定する事自体が、古代人を無分別な人として馬鹿にしている事に気付くべきだろう。古代人は迷信深い迷妄な人だったと思いたい心境は、人種差別や民族差別と同根の願望である事に気付く必要がある。

4万年前に氷期の寒冷期が始まると、シベリアの湖沼の凍結期間が長くなり、河川漁民がシベリアに展開する環境は失われたから、原日本人はそれ以前に日本列島に南下していたと考えられる。その根拠として、43万年前の原日本人の痕跡が、関東以西に遺されている事が挙げられる。つまり東北と北海道には痕跡がないから、それより寒冷だったシベリア南部では、原日本人の生存圏は4万年前には失われていた事になる。シベリアより南のモンゴルや華北には、原日本人の生業に必要な湖沼が存在しなかったから、移動経路にはなり得なかった。

日本列島には5万年以上前からシベリア系の狩猟民が住んでいたか、季節遊動する地域だったと想定されるが、狩猟民族と漁労民族は縄張りを争わないから、原日本人はそれらの狩猟民族の縄張りとは関係なく、湖沼の畔に居住しただけではなく、シベリアで行っていた狩猟民族との共生関係を復活したと想定される。日本語がシベリア系言語である事は、原日本人がシベリアで狩猟民族と共生し、狩猟民族の文化に同化した事を示しているからだ。

現在の東シベリアの言語が、アルタイ語族に統一されている事は、狩猟民族や河川漁労民族の間に広域的な、情報交換があった事を示している。従って偶然日本列島に達した少数の原日本人が、人口を増やして現在の日本人になったのではなく、氷期の温暖期の終末期にシベリアが冷涼になると、温暖な日本列島で湖沼漁労が継続できるという情報が、シベリアの狩猟民族の情報網を介してもたらされ、シベリア各地に散在していた原日本人が、4.54万年前に陸続と日本列島に南下したと想定される。

その根拠として、シベリアの狩猟民族は季節に応じて南北遊動し、その過程で情報が交換された可能性が高い事が、第一に指摘できる。

第二の根拠として、日本語とアイヌ語の文法の違いが挙げられる。日本語の祖語であるアルタイ系言語は、当時の西シベリアの方言で、アイヌ語の祖語になった言語は、当時の東シベリアの方言だったと考えられるからだ。現在のシベリアの主要言語はアルタイ系で、アイヌ語と同じ文法の言語は、現在の北東シベリアと北アメリカに分布しているから、その境界を西に移動する事によって氷期の方言事情が復元できる。シベリアの狩猟民族がアメリカに移住したのは、氷期の最寒冷期が終わった2万年前以降だったと考えられるから、アイヌ語の祖語は氷期の東シベリアの言語だったと想定される。従って原日本人がシベリアから離脱したのは、4万年以前だった事と整合し、原日本人の子孫にはシベリアの東西方言を話す部族がいた事になるから、原日本人はシベリアの広域的な地域から南下した事になる。

現代日本人にもシベリア系言語の違いだったと想定される、子音の発音によって区別される方言があり、それが縄文人の部族構成と一致する事も、原日本人はシベリアの各地から南下した事を示している。

第三の根拠として、原日本人がシベリアを横断して日本列島に定住できたのは、狩猟民族と縄張りを争わない漁労民族だっただけではなく、彼らとの共生的な生業関係が成立していたからだと想定される事が挙げられる。両者にメリットをもたらす共生関係がなければ、狩猟者の既存の縄張りが展開していたシベリアを、横断する事はできなかったと想定されるからだ。

これを前提すると、チベットと日本だけにY-Dが濃厚に分布している事も説明できる。チベットも湖沼が多い地域で、湖沼漁民の避寒地として最適だったからだ。地理的な状況を考慮すると、中央アジアの湖沼漁民がチベットに南下し、シベリアの湖沼漁民が日本列島に南下したと想定され、その様な広域的な南下移動が生まれる為には、シベリアに広域的な情報網がなければ実現しなかった。

第四の根拠として、共生の痕跡である神津島の黒曜石が、関東や中部山岳地帯の3万年前の遺跡から、多数発掘されている事が挙げられる。原日本人が海洋漁民化しても、狩猟民族と共生していた証拠を示しているからだ。原日本人が欲しかった物資は銛を作るための獣骨で、狩猟民が飛しかったものは豊かな海産物だったと推測される。

中部山岳地域にも神津島の黒曜石が残されているが、関東で最も多く発掘されるこの時代の黒曜石は、霧ヶ峰周辺で採掘された黒曜石である事は、狩猟民は霧ヶ峰産の黒曜石を多用していたが、神津島に渡る事ができた海洋漁民と、交易関係が成立していたから、品質が良い神津島産の黒曜石も使った事を示している。

3万年前のこの交易関係は、シベリア時代の原日本人も狩猟民と共生していた事を示唆し、原日本人がシベリアを横断できた事情に結び付く。つまり原日本人は湖沼漁民の時代から、漁具の素材になる獣骨と漁獲を、狩猟民と交換していた事と、原日本人は地中海沿岸時代から一貫して、河川や湖沼で漁労を行う民族だった事を示唆している。厳密に言えばシベリアの狩猟民は、石で作った重い尖頭器を付けた槍を使い、バイソンやヘラジカなどの大型獣を狩る狩猟民族で、原日本人は獣骨製の穂先を装着した軽い槍を使い、河川や湖沼で魚やカワウソなどを突き、野原でウサギや野ネズミなどの小動物を狩る、敏捷な狩猟者だったと想定される。

原日本人のミトコンドリア遺伝子は、シベリアの狩猟民族を起源とするmt-N9bだけだった事も、原日本人がシベリアで狩猟民族と共生した証拠になる。原日本人の故郷だった北アフリカ時代のペアは、mt-Lmt-Nmt-Mに分化していない遺伝子)だったと想定され、それが狩猟民族のペアだったmt-N9系に変わったのは、狩猟民族の女性が作る耐寒性の高い毛皮の衣類やテントがなければ、寒冷なシベリアで生き延びる事が出来なかったからだと考えられる。その様な女性の獲得を含め、シベリアの狩猟民族との共生に成功したY-Dだけが、共生関係を進化させながら中央アジアやシベリアを横断し、樺太を経由して日本列島に至ったと想定される。従って異民族と共生する文化は、シベリアの狩猟民族に起源があったと考えられる。

原日本人は4~3万年前に、大きな湖があったと推測される東日本以西の地域に、磨製石斧や台形石器を遺した。しかし氷期の最寒冷期が始まった3万年前から、その様な痕跡を遺さなくなった。氷結した湖沼を捨て、海洋漁民になったからだと想定され、神津島の黒曜石が3万年前の遺跡から発掘される事情に繋がる。

最北の原日本人だった関東と北陸の漁民は、海洋漁民になると同時に冬季になると、避寒のために沖縄や台湾に遊動し始めた。遊動は寒冷地の狩猟民族の一般的な習俗だから、海洋漁民になった原日本人にとっても、当然の行為だったと想定される。内陸の遺跡から神津島の黒曜石が発掘された事は、彼らの海洋船は太平洋の荒波の上を数十キロ、航行する能力があった事を示しているから、当時の黒潮が沖縄の東部を流れていれば、沖縄や台湾へ島伝いに南下する事も可能だった。彼らのキャンプ地の痕跡が南西諸島から多数発掘され、彼らが遊動した事を示している。

原日本人の痕跡は北九州や宮崎でも発掘されているから、このキャンプ地は関東の原日本人のものだったのか、九州の原日本人のものだったのか確認する必要があるが、歴史的な経緯から推測すると、関東の原日本人の痕跡だったと考えられる。

その理由は、九州の原日本人は温暖化した縄文早期に、北海道や東北に移住したと想定され、それらの地域の縄文人から、大陸起源のミトコンドリア遺伝子が発掘されていない事は、九州の原日本人には大陸の民族と交流する、習俗がなかった事を示しているからだ。一方関東の縄文遺跡では、大陸起源の多彩なミトコンドリア遺伝子が発掘され、大陸の人々と盛んに交流した事を示している。

従って関東の原日本人が台湾で原縄文人と接触し、後氷期の温暖化が始まると、縄文人を彼らの船で九州に移住させたと想定される。それによって縄文草創期の九州に縄文文化が生まれ、温暖化した縄文早期にその縄文人が関東に移住したとすると、考古遺物と矛盾なく整合する。

一部の歴史学者は縄文人が栽培者だった事を認めないが、縄文人が栽培者でなかったのであれば、氷期の日本列島にはなかった筈である各種の植生が、縄文時代に存在した事は説明できない。縄文草創期の鳥浜からアサやウルシが発掘された事は、その有力な証拠になり、それ以外の事情では説明できない。氷期の最寒冷期に亜寒帯性の気候に覆われた日本列島に、縄文時代に暖温帯性の堅果類が多種存在した事は、更に説明が困難になる。堅果類が海流によって拡散した事例はないから、人が持ち込んだと判断するしかないからだ。

縄文人は栽培者ではなかったとの主張は、この様な簡単な理由によって論破できるが、考古学会の重鎮が縄文人は栽培者ではなかったと、頑固に主張しているから、真面目な考古学者はこの破綻している主張の矛先を避ける為、腫物に触る様な解釈をしている。このHPではその様な馬鹿々々しい事はせず、縄文人は堅果類やアサなどの栽培者だった事を前提に、話を進める。

mt-M7bmt-M7cは暖温帯性の堅果類である、カシやクヌギなどの栽培者で、mt-M7aはブナやコナラなどの、冷温帯性の堅果類の栽培者だった。アサやウルシは冷温帯性の植生で、東アジアや東南アジアでは、それらを栽培化した他の候補者は見付からないから、Y-O2b1mt-M7aペアがアサの栽培起源者だったと考えられる。アサの原生地は中央アジアだったと主張する人が居るが、氷期の最寒冷期~後氷期前半の中央アジアに、豊かな植生を維持する場所はなかったから、アサに限らず殆ど全ての栽培種に関し、中央アジアが原生地であると主張する事に科学的な根拠はない。

 

氷期の台湾は大陸と繋がり、南北に広大な沖積平野が広がっていたから、その沖積平野を「台湾平原」と呼ぶ。氷期の最寒冷期の台湾と台湾平原は、冷温帯性の気候に覆われていたと想定され、石器に使う石材が採取できる場所は、奥深い山間地か台湾近傍に限定されていたから、南西諸島を南下遊動して来た原日本人と出会い、交流する事ができたのは、台湾近傍にいた原縄文人だけだった。石器時代の人は、石器の素材である岩石が採取できない沖積平野では、生活ができなかったから、原縄文人だけではなくすべての狩猟民族は、台湾近傍しか居住域がなかった。

現在の狭い沖縄に原日本人ではない3種のY遺伝子が遺され、原縄文人のミトコンドリア遺伝子であるmt-M7aが、3種のY遺伝子の合計に匹敵する割合で遺されている。これは氷期の台湾にいた原縄文人が、沖縄に一旦定着した後、日本に渡来した事を示唆している。

3民族がmt-M7aを共通のペアにしたのは、堅果類の生産性の高さが複数の民族を引き寄せたが、近接して生活する様になっても、mt-M7aだけがドングリを解毒する技能を持ち続けていたからだと考えられる。つまり原縄文人は、沖縄から日本に渡航する以前に、原日本人と狩猟民族の共生とは異なる、mt-M7aを核とする民族共生を実現していた事を示している。また狭い沖縄に3種のY遺伝子が揃って渡航し、沖縄で共存した事は、各Y遺伝子は異なる生業を持って、共生していた事を示唆している。

原縄文人のルーツは4万年以上遡り、Y-Omt-M7のペアが暖温帯性の堅果類の栽培者として、ヴェトナム中部にいたと想定される。

そこから分岐したY-O2b mt-M7aは、冷温帯性の堅果類の栽培者になる為に、3万年以上前に台湾に北上したと想定される。石垣島の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発掘された人骨に、複数のmt-M7aが含まれているからだ。

残った母集団の子孫は、後氷期になってから沿海部を北上し、Y-Omt-M7bは浙江省に、Y-Omt-M7cは原縄文人が北上した後の、台湾に定着した。

Y-O2bmt-M7aが冷温帯性の堅果類を栽培するために、分派集団として北上したのは、船で南下した原日本人と出会ったからだと考えられる。

ヴェトナム中部でY-Omt-M7が栽培していた暖温帯性の堅果類は、日が当たらない場所でも芽吹く陰樹が多く、樹木を伐採せずに堅果類の樹林を形成できる。つまり暖温帯性の堅果類は、石斧がなくても自然林の中で、堅果類の樹木を育てる事ができるから、ヴェトナムでも成立する生業だったが、Y-O2bmt-M7aが栽培した冷温帯性の堅果類は、日光が当たる場所でしか育たない陽樹だから、里山を作る要領で樹木を伐採しなければ、堅果類の樹林は形成できない。つまり冷温帯性の堅果類は、ドングリの生産性は高いが、磨製石斧がなければ栽培できない樹種だった。蛇紋岩鉱物から作成した磨製石斧は性能が高いが、その他の岩石では性能が劣る。蛇紋岩はプレート境界で生まれる鉱物だから、日本や台湾には産地が各所にあるが、ヴェトナムでは産出しない。

日本列島で発見された43万年前の磨製石斧は、打製石器が一般的だった旧石器時代には、他に例がないものだから、Y-O2bmt-M7aが冷温帯性気候の台湾に北上したのは、彼ら自身が磨製石斧を発明したからではなく、原日本人と遭遇して磨製石斧を得た事により、樹林の伐採能力を高めたからである可能性が高い。

冒険的な原日本人が3万年以上前に、海南島かヴェトナム中部に南下して北上前の原縄文人と接触すると、Y-O2bmt-M7aが磨製石斧を得たから、生産性が高い堅果類が栽培できる台湾近傍に、狩猟の縄張りを新たに獲得する事も目指し、北上した可能性が高い。

海南島かヴェトナム中部に限定するのは、海面が100m以上低下していた氷期の海岸では、広い沖積平野が広がっている状態が一般的で、南シナ海沿海部もその例外ではなかったから、石器の素材になる岩石を採取できた海岸は、海南島かヴェトナム中部しかなかったからだ。ヴェトナム中部は氷期の最寒冷期でも暖温帯性の気候地域で、海南島はその気候帯の北限として、冷温帯性の樹林が混在する地域だったと想定される。従って海南島とヴェトナム中部は、どちらも原日本人と原縄文人が接触した可能性がある場所だが、「縄文文化の形成期」の項に示す検証の結果、ヴェトナム中部だったと特定する事ができる。

石垣島の白保竿根田原洞穴から発掘されたmt-M7aの人骨は、27千年前のものが最古で、15千年前のものが最新で、それ以降の人骨は発掘されない事が、原縄文人は3万年前には台湾に北上していた事、27千年前には原日本人の船で八重山諸島に渡っていた事、後氷期が始まった15千年前に、日本列島に移住した事を示している。

沖縄系の原縄文人に眼を転じると、彼らは3万年前頃に台湾近傍に北上した後、北陸の原日本人の船で石垣島に渡る事はせず、台湾近傍に留まって関東の原日本人と交流した。2万年前に氷期の温暖期が始まると、大陸の内陸部は温暖化と乾燥化が始まり、沿海部に向かう民族移動が始まると共に、民族間の軋轢が高まったと想定される。

台湾近傍にいた原縄文人は、その様な民族との軋轢を避ける為に、台湾や沖縄の石材を原日本人の船で採取・運送する事を条件に、原日本人の誘いに応じ、台湾平原を沖縄の対岸まで北上したと想定される。堅果類の栽培者は雑穀の原生種を栽培していた民族とは異なり、定住地が堅果類の樹林の周囲に固定されたから、他民族との軋轢が生じると、不利な立場に追い込まれたからだと想定される。しかしその様な環境では、迷い込んだ集団を迎え入れる機会も生まれ、この原縄文人集団にはY-O3a2aY-C1が参加した。それによってmt-M7aを共有する、それぞれの民族の特技を生かした共生集団が生まれた。

この原縄文人は、北上しても沖縄に渡らずに、数千年間大陸に留まったと想定され、その証拠は本論で説明する。大陸に留まった理由は、何十万年も孤島だった沖縄の貧弱な自然環境では、原縄文人が採取できる植生に乏しく、狩猟対象になる動物も少なかったからだと推測され、Y-O2b1とmt-M7aペアは北上した地で、沖縄系縄文人だけに含まれるY-O3a2aY-C1との共生文化を高めた。

3万年前に台湾近傍の沿海部に北上したY-O2b1は、沖縄や九州に移住して縄文人になったが、石器が採取できる現在の福建省近辺にいたY-O2bは、原縄文人にはならずに大陸に留まり、超温暖期になってから大陸沿岸を北上し、河北省や河南省東部に土器を含む遺跡を遺した。それが裴李崗文化 (はいりこうぶんか)や、磁山文化(じさんぶんか)で、一部が遼東に定住して後世の韓族になったと推測される。河北省や河南省に定住した人々は、縄文中期にシベリア系アワ栽培者に駆逐されて四散したが、遼東は拡大した渤海によってそれらの地域とは隔てられていたから、その様な事態から免れたと推測される。

氷期末期の現在の大陸沿海部の、石器が採取できた地域の事情を概観すると、狩猟民族だったY-Nmt-M系(CDGZ)のペアが、氷期には福建省や浙江省などの、冷温帯性気候帯の北限で栽培系狩猟民族として展開し、mt-M系は雑穀の原生種を栽培していた。台湾近傍の海岸は降雨量が多く、冷温帯性の樹木が密生していたから、堅果類の栽培には適した気候だったが、狩猟民族は獲物が多い内陸の草原や山岳地にいたと想定される。

2万年前に氷期の寒冷期が終わると、温暖化と共に乾燥化が進展したから、内陸は砂漠化が進行した。彼らはそれに押されて海岸に進出し、台湾に居た原縄文人との軋轢も生まれた。原縄文人はそれを避ける為に、原日本人の支援がなければ石器が入手できない、沖縄の対岸に北上したと推測される。内陸の狩猟民族にはその様な選択肢はなかったから、乾燥化した中緯度地域を捨てて湿潤な環境を求め、沿海部を北上してシベリアに至ったと想定される。

その様な人々の痕跡が、ヤンガードリアス期のアムール川流域から発掘されている。氷期の末期に南シナ海や東シナ海の沿海部にいて、シベリアに北上した人々以外に、現在まで残っている大陸民族は、堅果類の栽培者だったY-Omt-M7ペアの子孫と、栽培種が不明なY-O3mt-M8aペアだけだから、それらの民族の履歴を追跡する事により、東アジア沿海部の民族史は完結する。

既に説明した様に、有力な栽培種の栽培者になった女性を取り込む事ができなかった狩猟民族は、温暖化した後氷期に栽培の重要性が高まると、消滅してしまったと考えられ、その時期はmt-M系の女性達の栽培技能の進化を勘案すると、後氷期の前半の比較的早い時期だったと想定されるからだ。言い換えると、mt-M系の女性達も氷期が終了する以前に、栽培化の前段階を終了していたと想定される。

Y-Nmt-M系ペアの2万年~15千年前の足跡は不明だが、15千年~13千年前にはオホーツク海沿岸に北上したと推測され、ヤンガードリアス期にアムール川流域まで南下した痕跡が、発掘されている。彼らは超温暖期になると再び北上し、最北の栽培者だったmt-Dmt-Cの一部は、ベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸に拡散した。それによって彼女達の足跡は確認できるが、アメリカに渡った女性達のペアは、一緒にシベリアの北上したY-Nではなく、彼女達がシベリアで浸潤したY-Qだった。

Y-QY-R(西ユーラシアの主要遺伝子)と兄弟関係にあり、Y-Rは縄文前期の陝西を中心に仰韶文化を遺した遺伝子だから、Y-QY-Rは中央アジアが湿潤化した11千年前に、パキスタンから中央アジアに北上したが、Y-Rはそれ以上の北上は止めて中央アジアに留まったのに対し、Y-Qはシベリアに北上してペアをmt-Dmt-Cに変え、その一部が1万年以上前にベーリング陸橋を越え、アメリカ大陸に渡ったと想定される。

Y-Q Y-Rが中央アジアに北上したのは、インド洋の湿潤化の前駆として中央アジアが湿潤化した、11千年前より後だった筈であり、ベーリング陸橋は1万年前に失われたから、Y-Qがシベリアに北上してアメリカに渡ったのは、11千年~1万年前の短い期間だった。

アメリカ大陸に1万1千年前より古い栽培者の痕跡があれば、それはY-Nのもので、そのY-Nはアメリカ大陸では絶えた事になるが、アメリカにその時代の栽培者の痕跡がなければ、Y-Qだけがアメリカに渡った事になる。現在のアメリカの発掘事情は、Y-Qだけがアメリカに渡った事を示唆している。当時のアメリカ大陸は、超温暖期になった東ユーラシアより冷涼だったから、彼らは直ぐに南下したと想定される。

沖縄の対岸に北上した原縄文人の話に戻ると、17千年前頃から海面上昇が目立ち始め、沖縄と台湾平原の距離が広がり始めたから、彼らをサポートしていた関東の原日本人は、沖縄から台湾平原に渡航する事に限界を感じ始めたと想定される。関東の原日本人は南西諸島を南下して沖縄に至り、そこから対岸の台湾平原に渡っていたからだ。原縄文人は原日本人の求めに応じ、孤島だった故に植生が貧弱な沖縄に、移住したと想定される。

移住に際しては大陸の豊かな植生や狩猟対象になる野生動物を、原日本人の船で沖縄に運び込んだと想定され、南西諸島で発掘される鹿の骨などは、その結果だった可能性が高い。天敵になる猛獣がいない沖縄や周辺の島々では、牧場的な環境で草食動物が繁殖できたから、移住した縄文人の食料事情を豊かにしたと想定される。さほど広くない沖縄に多数の縄文人が渡り、日本で最もmt-M7aの多様性に富んだ島になった事には、その様な理由が必要になるからだ。

しかし15千年前に急激な温暖化が始まり、海面が急上昇して沖縄島が狭くなっていったから、原縄文人の一部は原日本人の船で九州に移住した。石垣島の縄文人も、狭くなっていく石垣島から北陸に移住した。

(ここまでが先縄文時代) 

 

15千年前に気候が急激に温暖化し、九州が現在の関東の様な気候になると共に、海面が急上昇して沖縄島の面積が急減し始めたから、沖縄の縄文人は長崎・雲仙~五島列島の間にあった丘陵地に入植し、堅果類の樹林を形成した。縄文人の入植地を此の地域に特定するのは、当時の九州西部にはそれ以外に丘陵地がなく、当時の山岳地だった長崎県の泉福寺洞窟(せんぷくじどうくつ)から、13千年前のものと思われる土器が細石刃と共に発掘され、発掘層の上層から進化した土器も発掘され、縄文人が付近に定住していた事を示しているからだ。この洞窟から発掘された多量の細石刃は、この洞窟の住民は狩猟民だった事を示し、縄文人と狩猟民の間に食料や物品の、交換経済が成立していた事を示している。

縄文人も狩猟民族だったから、縄文人とシベリア系狩猟民族が共存する為には、両者より食料の生産性が高かった漁民が、交換経済を背景に共存を仲介した事を示している。つまり最も食料の生産性が高かった漁民が、縄文人のアサと狩猟民の獣骨を必要としていたから、狩猟民族も縄文人を受け入れ、新たな縄張りを設定したと推測される。

13千年前にヤンガードリアス期が始まって堅果類の生産性が低下し、海面が上昇して丘陵地が水没して堅果類の樹林が消滅する状態も発生し、九州に上陸した縄文人は困難な状況に直面した。12千年前の最寒冷期の黒潮は、現在より6℃低温化したから、九州は現在の東北北部や北海道南部の様な気候になり、縄文人は九州の最南端に逼塞させられた。それによって縄文人は海産物への依存度を高めざるを得なくなったから、海岸に居住しなければならなかったが、生産性が高い樹林の形成には何百年も掛ったから、徐々に進行する海面上昇に強い恐怖感もあった。それらに対する解決策として、彼らは入り江の奥の高台に、堅果類の樹林と住居を設営したので、その後の海面上昇によって水没しない遺跡が生まれ、この時期の縄文人に関する多彩な情報を残した。

(ここまでが縄文草創期)

 

12千年前に東ユーラシアが超温暖期になると、海水は直ぐには昇温しなかったが大気は直ぐに温暖化し、日本列島は暖温帯性の気候に覆われたから、縄文人は先ず九州各地に拡散した。

縄文人は過半の食料を狩猟から得ていたが、海洋漁民と共生して人口が増えると、過半の食料を海産物から得る状態に変わっていた。従って更に人口が増えると、漁民が集住する関東などに移住する必要が生まれた。

1万年前にインド洋が湿潤化すると、気候も海水温もやや低温化したが、それでも日本列島は現在より5℃以上高温になっていたから、縄文人は関東に移住するだけではなく、九州在住の漁民と一緒に東北~北海道南部に移住した。

生産性が高い堅果類の樹林は、完成するのに何百年も掛かったから、彼らが生産地を離れる事は、雑穀栽培者や稲作者の様に容易ではなく、移動は組織的に行う必要があった。しかし遅くとも9千年前には、移住は完了していたと想定される。

超温暖期になると、漁獲が腐敗し易くなって漁民の食料事情が不安定になったから、九州の漁民は温暖化が始まった縄文早期早々に、縄文人と共に東北や北海道に移住したが、九州縄文人の関東への移住は出遅れたので、関東の漁民は貯蔵性の高い堅果類を、補助食料にできる状態になる事にも遅れ、猛暑に襲われる様になった夏季には、冷涼な北方に遊動する必要が生まれた。

関東縄文人と現代人に含まれるmt-Aは、東北や北海道の縄文人から発見されていないから、関東縄文人が遊動先で取り込んだミトコンドリア遺伝子であると考えられる。超温暖期のオホーツク海沿岸には、狩猟民族や河川漁労民族がいたから、mt-Aはその女性だったと考えられるが、接触可能な狩猟民族系のmt-Ymt-N9a、栽培系のmt-D/C/G/Zは取り込まず、mt-Aだけを選択的に多数取り込んだのは、mt-Aが特殊な技能を持っていたからだと想定される。

アメリカ大陸に渡った狩猟民族の遺伝子はmt-Aだけだから、シベリアでも北方系の狩猟民族の遺伝子だったと想定され、大型獣の厚い皮革を加工して耐寒性が高い衣類やテントを作るための、強靭な獣骨の針を作るなどの、優れた獣骨の加工技能を持っていたから、それが漁具の作成にも発揮されたからだと考えられる。縄文人が多用した回転離頭銛は、その様なmt-Aが開発した漁具だったと想定されるが、mt-Aが持っていた技術を改良したものだった可能性もある。

mt-Aは寒冷地の狩猟民族の遺伝子だったから、関東の漁民の遊動先はオホーツク海北岸だったと想定される。東北や北海道の沿岸は九州から移住した、他部族の縄張りになっていたからだとも想定されるが、必要以上に遠方であるオホーツク海北岸に遊動した理由は、氷期の最寒冷期に台湾に遊動して原縄文人と交流した様に、先進的な他民族の集積地を、遊動の最終目的地にしたかったからだと想定される。

その遊動路は東北・北海道の太平洋岸を北上し、千島列島を経てカムチャッカ半島の西岸を北上し、オホーツク海の北岸に至るものだったと想定される。

九州の縄文人は1万年前には関東に定住し始めたから、漁獲が腐敗して食料事情が不安定になる状態を、堅果類で補う事ができる様になると、オホーツク海の北岸に至る遊動は次第に廃れていった。シベリアの湿潤化が始まり、オホーツク海北岸の河川が冬季に凍結する様になり、栽培民族の生産性も低下し、共生民族がオホーツク海西岸に南下すると、シベリアの奥地でmt-Aをペアにしていた狩猟民族との接点も失い、遊動の意義が失われたからだと推測される。

オホーツ海西岸は北陸の漁民の遊動先だった事も、彼らの遊動意欲を失わせた可能性がある。海は広いから、その様な縄張りの存在に疑念があるかもしれないが、彼らは遊動先で、河川漁民や狩猟民族の集落を訪問し、民族交流を行っていたから、それらの集落が縄張りになっていたと推測される。

関東の漁民は代わりの遊動先として、冬季に南方に遊動する流れが再び生まれ、沖縄や台湾に再渡航し始めた。海面が上昇すると黒潮が東シナ海に入り込み、トカラ海峡から流出する様になったから、氷期の漁民が持っていた海洋技術では、トカラ海峡の横断が不可能になっていた。しかし気候が温暖化して樹木が巨木化し、大型の海洋船を作る事ができる様になると、漕ぎ手を増員した船の速度が速くなり、トカラ海峡を横断できる様になったと推測される。

それにより、オホーツク海沿岸の狩猟民族や、河川漁労民族との交流が途絶えたのではなく、オホーツク海沿岸には交易の専業者が向う様になり、家族の遊動は南方に向かう様になった。その理由の説明は煩雑なので、この項の末尾からジャンプする縄文文化の形成期参照。

(ここまでが縄文早期前半)

 

以降の歴史の解説には、込み入った論理展開が必要なので、本論で展開するが、稲作の伝来は縄文史の重要な側面なので、以下にその概要を付加する。

15千年前に後氷期の急激な温暖化が始まると、暖温帯性の堅果類の栽培者だったY-Omt-M7cペアが、原縄文人が北上した後の台湾に北上し、12千前に超温暖期が始まると、亜熱帯性の植生を栽培していたmt-B4も台湾に北上したから、堅果類を栽培していたmt-M7cはその浸潤を受け、mt-B4+M7cになった。

台湾は海面の急上昇が続いていた1万年前に、大陸から切り離されて孤島になった。台湾に取り残されたmt-B4+M7cは、狭くなっていく台湾で食料に困窮したが、1万年前に再び南下遊動したY-D2mt-N9bペアに遭遇し、多数のmt-B4が関東に渡来した。台湾に残った人々はY-D2mt-N9bペアから海洋文化の移転を受け、Y-Omt-B4が海洋民族になると、先ずフィリッピンに拡散し、その後インドネシアを経て南太平洋の島々に拡散した。

mt-B4が台湾に北上する際にペアだったY遺伝子を、特定する手掛かりは見つかっていないが、mt-B4+M7cのペアについても、Y-O系だった事は確からしいが、その下位分類まで特定できる、単一民族ではなかった可能性が高い。堅果類の栽培者だった原縄文人が、mt-M7aを共有するY-O2b1Y-C1Y-O3a2aの混成集団になった様に、氷期が終了する以前からmt-M7cを中心に、多彩なY遺伝が集まっていた可能性が高いからだ。

これはmt-M7系を祖先とする民族に特有な、母から娘に伝達された性格で、穀類の栽培者になった女性の多くは、不足する栽培地の確保に汲々とし、その獲得に奔走する栽培思想を持っていたのに対し、mt-M7系女性は、生産性が高い堅果類の樹林形成は男性達に任せ、土器を作ってドングリのアクを抜く事を主要な役割にしたから、同性同士の厳しい生存競争を経験しなかっただけではなくなく、生産性が高い堅果類から作った食料を、惜しみなく振舞う寛容な性格を持っていたと推測される。

その様なmt-M7系の女性の下に集まった複数の民族が、それぞれの民族文化の成果を交換しながら共生し、堅果類の栽培者の総合的な文化を向上させたから、氷期にmt-M7cが纏めた複数の民族が、新たに参加した活動的なmt-B4を中心に再結集する事により、広い海洋に拡散する海洋民族になったと想定される。

浙江省に北上したmt-M7bも同様に、複数のY遺伝子民族を纏めて共生民族を形成していたから、良渚文化を生み出しただけではなく、それを発展させて越文化を開花させたとすると、整合的な仮説になる。

関東のY-Dmt-N9bペアが1万年前に、台湾の堅果類の栽培者だったY-Omt-B4+M7cペアに遭遇すると、彼らに海洋文化を伝授する傍らで、イネの原生種を栽培していたmt-B4を武蔵野台地や多摩丘陵に招聘した。これにより、mt-B4が栽培していた亜熱帯性の植生と、mt-M7cが栽培していた暖温帯性の樹木が、関東にもたらされた。また海洋民族化してフリッピンなどに南下した人々が、船の船底材に適したムクノキなども栽培し始めたので、それらも関東にもたらされた。千葉県の雷下遺跡で、7500年前のムクノキの長大な船底材が発掘され、その事情を示している。

超温暖期の大陸がどの程度高温化したのか、海洋性の尾瀬の気候から推測する事は難しいが、9千年前の関東は現在より8℃ほど高温で、8千年前の太平洋の湿潤期にイネを栽培化し始めた時期の、浙江省と同様な気候だった。これは重要な観点になる。イネに限らず穀類の栽培化は、原生種の北限の気候地域で生まれたと想定されるからだ。

大陸での稲の栽培化は、イネの原生種の北限が気候の寒暖によって、南北移動する事によって生まれた。気候が温暖化すると栽培者は北上し、候が寒冷化して北限の栽培地が、原生種が繁茂できないほどに寒冷化すると、その様な栽培地でも稲の原生種の栽培者は、生産性が高い稲の原生種を栽培し続ける事に努力したから、雑草を除く事などにより、人が栽培地を整備する必要性が高まったが、栽培化の第一段階を経ていた女性達は、黙々とその作業を行っただろう。

この様な状態では、栽培者の周囲に野生の原生種がなくなり、原生種や野生種の花粉が飛散して改良した品種を汚染し、栽培品種化していた種を先祖返りさせてしまう事から免れていた。従ってその様な努力を重ねる事により、穀物の遺伝を改良する事による、栽培化が可能になった。浙江省ではそのタイミングが、太平洋が湿潤化して気温が急低下した8千年前だったと考えられる。しかし1万年前に関東に渡来したmt-B4がイネの栽培化に取り組む事ができた時期は、浙江省より千年以上早かった事を、尾瀬の気候が示している。関東に渡来したmt-B4は渡来したその日から、栽培化が可能な環境下にいたからだ。

8千年前には東シナ海が安徽省まで入り込んでいたから、浙江省の稲作者はそれ以上の北上はできなかった。南の福建省では海進により、山岳地の岩肌が波に洗われる状態になっていたから、浙江省の稲の原生種の栽培者は、浙江省の沖積台地に取り残された状態になり、必然的に稲作者になった。それがmt-B5だったと想定され、mt-B5mt-B4と殆ど同種の原生種を栽培していたから、mt-B4が栽培化した熱帯ジャポニカと、mt-B5が栽培化したジャバニカが、同種のイネと見做されている。

mt-B4が関東に渡来してから1千年後に3℃低温化し、イネの原生種の北限より数℃低温になった。それによってイネの栽培環境は厳しくなったが、mt-B4+m7cは堅果類の栽培者でもあった上に、漁民から海産物を得る事も可能だったから、食料に窮する事なくイネの栽培化に取り組み、日本を原産地とする熱帯ジャポニカが生まれたと想定される。

姉妹品種であるジャバニカは、現在もインドネシアで栽培されているが、それを栽培化したのは浙江省のmt-B5だったから、ジャバニカは熱帯ジャポニカより耐寒性は低いが、温暖な地域では生産性が高く、現在もインドネシアで栽培されていると推測される。

これらの推測と、湖北省のmt-Fが温帯ジャポニカを栽培化したとの推測により、それぞれのイネの栽培史と耐寒性の違いを、整合的に説明できる。つまり温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカは、異なる原生種から生まれた品種で、熱帯ジャポニカとジャバニカはmt-Bが氷期にスンダランドで栽培していた原生種が、異なった地域で栽培化される事により、異なった品種になったと考えられる。

温帯ジャポニカの耐寒性が高いのは、湖北省の稲作民は揚子江と原生種に南下を阻まれ、北上できる地域だけがあったから、栽培化と共に北上を目指し、耐寒性を高めていた。それが日本で熱帯ジャポニカと交配し、更に耐寒性を高めた上に、稲作技術を改良して田植えを行う様になったから、温帯域で最も生産性が高い稲になったと考えられる。

この解釈は稲作の進化に関する諸事情と整合し、歴史的な諸状況とも整合する。

以上はイネの栽培化に必要な、気候環境に関する検証だが、地理的な環境も重要な検証項目になる。

3種のイネが栽培され始めた8千年前の、日本列島も含めた地理環境は現在とは全く異なっていた。氷期の沖積平野は海面上昇によって全て水没し、海岸は波が山肌を洗う状況だったから、現在は広大な沖積平野を有する中国大陸でも、各地に沖積平野が散在している日本列島でも、海面上昇が終了した海岸には沖積平野がなかった。従って稲作が可能な沖積平野は、13万年前の間氷期に形成された後、氷期の降雨によって浸食されずに今次の間氷期まで残存した沖積台地と、浅い海を揚子江の膨大な土砂が埋め立て始めていた、湖北盆地だけだった。既に指摘した様に、栽培化の後半の段階では広いエリアで多数の女性達が稲作を行い、栽培種の遺伝子変異を蓄積する必要があったが、それが実現できる沖積台地は浙江省と関東にしかなかった。

従って超温暖期~太平洋の湿潤化期を経て、それ以降も継続的に稲作が可能だった地域は、気候感覚が示唆する稲作適地ではなく、むしろ平地や丘陵地などの地理的な稲作適地の有無が、イネの栽培化には重要な環境要因だった。

この3地域について具体的に説明すると、最も稲作に適した湖北盆地はインド洋の湿潤化の予兆が始まった1.1万年前には、頂が現在の海面より低い丘陵地だったと推測される。雲南や四川に纏まった雨が降り始めた頃、海面が上昇して盆地全体が一旦海になり、1万年前にインド洋が湿潤化すると、雲南や四川が豪雨地帯になったから、海になった盆地に沖積地が生まれ、海進期が終わる前に急速に拡大していた。四川盆地が突発的な水流の緩衝地になったから、湖北盆地では緩やかな堆積が続き、温帯ジャポニカの栽培適地になったと想定される。

湖北省でも、原生種や野生種が繁茂しない気候になったのは、浙江省と同じ8千年前だったと想定されるが、温帯ジャポニカは熱帯ジャポニカより生産性が際立って高く、栽培種としての完成度が高かったから、栽培化された時期は8千年前より早い時期だったと想定される。従ってmt-Fの北上過程で、野生種が生まれない程度に栽培化が進んでいたから、湖北省にはイネの原生種や野生種が存在しなかったか、mt-F独特の栽培手法が、野生種の発生を抑止して栽培化時期を早めていたと推測される。mt-F独特の栽培手法は、氾濫によって堆積した広い土壌に種を播くもので、それによって堅果類を必要としない、豊かな生産量を確保したと想定されるからだ。この様な栽培法によって生産量を増やした事も、遺伝子変異の蓄積に貢献したと想定される。

浙江省のmt-B5が稲作地にしたのは、前回の間氷期に銭塘江が形成した沖積平野だった。氷期が始まる前に銭塘江の流路が変わり、現在の様に杭州湾に流れる様になったから、後氷期が終わった際の豪雨期にも、その後の氷期の10万年間にも、銭塘江がその沖積平野を侵食する事はなく、現在の紹興市~上海~常州市に平坦な地形が残った。前回の間氷期の海面は現在の海面より数十メートル高かったので、この沖積平野は今次の間氷期に台地になり、揚子江にも侵食されずに現在のなだらかな丘陵地になったと考えられる。

銭塘江が流路を変える前の現在の紹興市域は、上海に向かって裾を延伸していた標高200m程度の山岳地で、その内側を流れていた銭塘江が上海~常州にデルタを形成したが、デルタの成長と共に銭塘江の河床にも土砂が溜まり、次第に天井川化し、やがて紹興市の丘陵地に流れ込む様になったと推測される。その様な銭塘江が紹興市域に河谷を形成し、氷期の海面低下時に深い河谷になったから、それが現在の杭州湾になったと推測される。

8千年前の中華大陸では、この2地域だけが湿式稲作が可能な、平坦地だったと想定される。

関東には、前回の間氷期に多摩川が形成した武蔵野台地と、前々回の間氷期に相模川が形成した多摩丘陵があり、両者は隆起地形上にあるので、沖積平野を形成した多摩川や相模川は後氷期が終了しない内に、沖積平野の脇を流れる様になった。沖積地を形成した河川がその様な状態になると、氷期に100m以上低下した海に流れ込む様になっても、沖積地を侵食する事はなくなり、残った沖積平野が台地や丘陵地になった。ほとんどの海岸平野の山裾には、前回の間氷期に形成された沖積平野は残っていない。それは氷期が終了した時点で、それらの土砂が流出していた事を示しているが、小さな残渣は各地に残っている。

しかし既に説明した様に、穀物の栽培化プロセスの後半期には、多数の稲作者が同じ種を栽培しながら、突然変異が出現する事を期待していた時期があった。有用な突然変異が出現すると、それを交配によって拡散し合い、遺伝子変異を蓄積して生産が高い栽培種を形成する必要があったからだ。このプロセスには均質性が高い広い栽培地と、其処で栽培する多数の女性達が必要だった。

8千年前の東アジアには、イネの栽培化可能な広い地域はこの3カ所しかなく、東アジア起源のイネの栽培種が3種ある事は、全体事情が整合する。従ってこの3カ所でイネの栽培化が始まり、関東が熱帯ジャポニカの発祥地だったと考える事に、栽培化に必要な地理的な合理性と、超温暖期にmt-B4が渡来したという、時期的な合理性と、その後の稲作史を説明できる歴史的な合理性がある。

イネの栽培史については縄文人の活動期の項で詳しく検証するが、概略を説明すると、関東縄文人はmt-B4が台湾から渡来した数千年後に、浙江省からジャバニカを栽培化したmt-B5+M7bも招いたが、mt-B5+M7bは先行していた熱帯ジャポニカ栽培に敗退し、浙江省と気候が同じ九州の、関東系九州縄文人に浸潤し、九州に断片的に残っていた海岸の沖積台地や、沖積平野が形成されていた人吉盆地でジャバニカを栽培したが、縄文中期寒冷期に生産性が激減し、焼畑農耕でアワを栽培していたmt-Dに浸潤された。

関東縄文人は縄文中期寒冷期の初頭に、湖北省から南陽盆地に北上していたmt-Fが、生産性の低下に苦しんでいた事を好機とし、楊陽盆地より温暖な関東に招いたが、寒冷化が深まると、渡来したmt-Fも生産性の劣化に苦しみ、その一部が壱岐などの九州の島嶼に移住した。

縄文後期温暖期になると、温帯ジャポニカの生産性が高まり、湖北盆地と類似した地理環境が得られる海岸では、温帯ジャポニカが栽培され、西日本に残されていた断片的な丘陵地や山間の盆地は、熱帯ジャポニカの栽培地になった。

縄文晩期寒冷期になると、温帯ジャポニカの栽培は九州でも絶望的になったが、熱帯ジャポニカと混載していた九州縄文人の温帯ジャポニカは栽培できた事を契機に、日本式の稲作が生まれた。この稲作が弥生時代に日本全国に拡散し、日本列島の稲作時代が始まったが、縄文中期に海退が始まり、海岸に沖積平野が生れていた事が、その大きな要因だった事も認識して置く必要がある。

関東縄文人が稲作を導入した事情の概略は以上だが、北陸縄文人はmt-Dが栽培していたアワを導入し、焼畑農耕を開発したので、それについても説明する。

焼畑農耕は樹木を伐採して農地を形成する農法だから、蛇紋岩製の磨製石斧を入手できる地域でなければ、縄文時代には成立しない農法だった。北陸で7千年前の磨製石斧の工房が発掘され、更に古い工房があった可能性も高く、これらは焼畑農耕を支援する工房だったと想定される。これらの工房の古さは、台湾から関東にmt-B4が渡来した時期より早く、mt-Dがアワの栽培者として北陸に渡来した事を示している。縄文時代の日本には、アワの原生種であるエノコログサはなかったと考えられているから、mt-Dが渡来した時点でアワは栽培品種化されていた事により、野生種が生れなかったと考えられる。

mt-Dがアワの栽培者として渡来したのは、北陸の漁民が超温暖期の暑さに耐えられず、北に遊動していた時期だったと想定される。1万年前にシベリアの超温暖期が終了し、オホーツク海沿岸の栽培者が西岸に南下し始めたが、北陸ではまだ超温暖期が続いていた1万~9千年前が、その時期だったと想定される。

大陸の中緯度地域は超温暖期の最中で、気候が極度に乾燥していたから、mt-Dはオホーツク海沿岸から渡来したと想定される。大陸には蛇紋岩がないから、焼畑農耕は渡来したmt-Dのために、縄文人が開発した農法だったと考えられる。縄文人は堅果類の栽培者だったから、焼畑農耕を開発する適任者だった。

降雨が多い日本の乾式農法として、焼畑農耕は最も生産性が高い農法だったから、戦前まで盛んに行われていた。稲作は平地で行う必要があるが、焼畑農耕は山間地で行うことができるから、樹木が山を覆っている日本では、広い栽培地を使うことができた。従ってそれらの観点でも、焼畑農耕は日本起源の農法であると考える事に合理性があるだろう。

弥生時代には一時的に、稲作の方が生産性は高まったが、鉄器が普及して樹木の伐採が容易になると、焼畑農耕の生産性が高まったから、地域にもよるが一般論として、稲作より焼畑農耕によるアワ栽培の方が、穀類の生産量が多い時代が、江戸時代まで続いたと推測される。コメは換金作物だったから大名の経済力を石高で示したが、江戸時代の農民がコメを常食できなかった事は、良く知られた事実でもある。

 

「倭人の歴史」と題したこのHPで、縄文人の歴史に多くの紙面を割くのは、海洋民族だった縄文人が大陸の稲作民から「倭人」と呼ばれただけではなく、倭人の時代は海洋民族だった縄文人の長い歴史の終末期だったからだ。その様な海洋民族の政権は、古墳時代に適格性を失って飛鳥時代に崩壊したが、海洋民族が最も輝いていた時代は、縄文時代だった。

倭人政権が崩壊した飛鳥時代に東南アジアの海洋民族も消滅したから、海洋民族の消滅は、東アジア全体の歴史動向だった。縄文人の交易は氷期から発展し続けたものだったが、その様な交易社会が崩壊したのは、海洋民族が育てた農耕技術の向上により、農耕民が海産物に頼らずに経済的に自立し、政治的に台頭したからだ。農耕民族と海洋民族は価値観が全く異なり、両者は両立できなかったからでもある。現在でもその様な価値観の相違を、海洋民族の子孫である日本人や欧米人と、農耕民族の子孫である中国人との違いとして捉える事ができる。

 

縄文人観をミスリードしている人々

本論に入る前に、無宗教だと言われている日本人にも立派な「経典」があり、多数の「神官」が居る事を指摘して置きたい。

「経典」の元祖は古事記で、それを起源に沢山の経典が派生し、最終経典は日本書紀になっている。

「神官」は大学教授などと呼ばれる史学者で、「経典」の内容に懐疑的な姿勢を示してはいるが、古事記の精神は厳然と守っている。

古事記の精神とは、古墳時代まで極めて部族主義的だった人々が、飛鳥時代末期に日本人と呼ぶ単一民族になる過程で、創作物語である古事記を介して受け入れた特異な歴史観を指す。一言で表せば「天皇は万世一系」で、これが「日本人は単一民族である」事を意思表示する、合言葉になった。飛鳥時代末期には「部族主義者ではない」事も意味し、皆がこの精神に賛同する事により、「酷い戦乱の時代だった、部族主義的な古墳時代の精神状態」から脱却し、平和な時代になった事を評価する意思表示でもあったが、飛鳥時代の人は「天皇は万世一系」ではなかった事を知っていた。

これを理解する為には、時代背景を認識して置く必要がある。

古墳時代に鉄器が普及し、稲作者が自立した農民になったが、その為には自活できる広い稲作地が必要だから、皆がその獲得に狂奔し、徒党を組んで農地を奪い合う暴力的な風潮が蔓延した時代が、古墳時代だった。日本全国に古墳が作られたのは、その様な集団が自分達の力を誇示する為だったと想定される。

その様な時代が終わって古墳を作らなくなった時期と、古事記の出現時期が一致している事と、神社には古事記に記された神が祭られているが、神社は古墳を全く無視している事が示しているのは、古事記の出現によって古墳時代が終わり、古墳に変えて神社を祭った人々は、古墳時代の精神世界を拒否した事になるからだ。

つまり古墳は、稲作地を集団で囲い合った人々が、自集団の暴力の強さを誇示する造形物で、築造の音頭を取った権力者が最も暴力的な人々だったから、古墳の存在そのものが、庶民的な人々の反感を買っていたと考えられる。鉄器時代なると大規模な灌漑工事が可能になり、各地に新たな稲作地を造成できる様になったから、古墳時代に稲作地は急速に拡大したが、その結果として生まれた水田の、水利権や耕作権を決めるルールが確定していなかったから、それらの権利の争奪を巡って人々が極めて暴力的になった時代が、古墳時代だったと考えられる。

古事記の思想を提唱したのは、壬申の乱に勝利した天武天皇だった。但し壬申の乱は現在の教科書に書かれている様な、つまり日本書紀に書かれている様なものではなく、関東の倭国王家が出雲の大率(大将軍)を倒した戦いだった。それに勝利して天武天皇になった倭国王家の当主が、地域分権的な倭人時代の制度を改め、統一的な国家を形成して内需経済を活性化する為に、統一国家として日本国の名称を提案したが、その最大の問題点は、古墳時代から続いていた日本の動乱だった。それを収める必要性を痛感した天武天皇は、倭国王家の年代記を廃棄して古事記と称する創作歴史に代えた。

古事記が示した改革の骨子は、動乱の時代に日本の覇者になった、異部族の指導者に天皇位を追位し、系図を作成して「万世一系」だったとし、天武天皇もその子孫である事にして、新たに生まれた日本国の国史にする事だった。

それにより、当時の人々が最悪であると考えていた部族主義的な争いは、旗印になる名目がなくなり、大きな争いは急速に鎮静化し、それと共に地域内の紛争も収まったと推測される。それを見た人々は古事記を日本国史とし、そこに記された「万世一系」の天皇史を受け入れると、国史を維持する神官も生まれたが、それによって日本人は倭人の歴史を忘れてしまった。

天武天皇の王朝を倒した奈良朝が、天武が制定した古事記を書き換えたので、現代人は奈良朝が改訂した、「改訂古事記」しか見る事ができない。天武天皇が制定した古事記は、このHPでは「原古事記」と呼ぶ。

奈良朝の天皇が「天皇」を称する権利は、原古事記が倭国王家以外の家系にも、「天皇」を称する事を許した事に依存していたので、その証拠である原古事記を、奈良朝は改訂できない筈だったが、奈良朝には不都合な記述が各処にあったので、天皇を称する根拠とは直接関係がない説話を削除し、奈良朝にとって都合が良い新しい説話を挿入した。奈良朝にはそれしかできなかったので、改訂古事記には、原古事記の文章が無修正に近い状態で残った部分がある。

そこには天武天皇に古事記の執筆を委託された者の、民衆に受け入れて貰う為に苦労した痕跡があり、著者の文学的な感性も溢れている。その様な素晴らしい文章が、民衆に受け入れて貰う際に大いに寄与したと推測される。

原古事記は、農工民族の大王だった天皇が、神代から日本国を統治し続けたから、海洋民族の時代も倭人時代もなかったとする説話を展開しながら、神代説話は倭人時代の重要な出来事のパロディーとし、倭国王家の年代記を下敷きにした事を顕示していた。この様な創作手法も、民衆に古事記を受け入れて貰う為の、重要な要素だったと推測される。原古事記に関するそれらの考察は、経済の成熟期の項を参照し、原古事記の具体的な内容は、(15)古事記・日本書記が書かれた背景を参照して頂きたい。

奈良朝は成立早々に改訂古事記を発布し、唐に向けた宣伝用に日本紀も創作した。古事記は推古天皇で終わるので、新しい国史にはその後の歴史を書き加える必要があった。新しく書き加えた部分も創作史だったので、その後に唐書が生まれると、それらの中華の史書と辻褄を合わせる必要が生れ、そのためにも何度も改版した結果、最後は日本書紀になった。歴史家が日本紀と日本書紀は同一書籍であると、無理に主張しているのは、それが「万世一系」思想に傷を付けないための「神官」の務めであると、彼らが認識しているからだ。

神官達が何度も「経典」を改訂したが、「万世一系」の歴代天皇の諡号は、原古事記が創作した初代の神武天皇から何も変えていない。日本人は単一民族である事を否定しなければ、即ち天皇は万世一系であるとした古事記の精神を継承していれば、それ以外は何を変えても良かったからだ。「日本国史」は立派な書籍にする為に何度も改訂され、詳細な辻褄合わせが進行したが、それを実際に実施した神官は王朝の高級貴族だった。

現代の神官達はそれを巧妙に引き継ぎ、日本書紀の記述を部分的に否定しながらも、「万世一系」の機微に触れる恐れがある倭人の歴史に関しては、誰も何も執筆していない事が、現代日本の宗教の在り様を示している。このHPが「倭人の歴史」と題したのは、この様な宗教的なタブーを破って事実を開示する為だが、学会がこれを完璧に無視している事が、現代日本人の堅牢な宗教性を示している。

古事記は日本教と言える様な宗教の経典ではなく、歴史認識を開示している書籍に過ぎないが、歴史認識が人々の行動を大きく規制する事は、中華5千年の歴史を唱える現代中国人や、華夷思想に染まった朝鮮人が示している。彼らは政権の正当性を主張し、政権が望む方向に民衆を鼓舞する為、嘘の歴史を喧伝している。民衆が歴史事実を知れば、今の様な行動は採らない事を知っているからだ。

倭人の歴史を知っていた飛鳥時代の人々は、古事記の宗教性を理解した上で、その趣旨から逸脱する事を互いに戒めたが、倭人の歴史を知らない現代人には、記紀の存在意義さえも分からない。しかし神官達は古事記の思想を日本人に尊重させるべく、縄文人の海洋民族時代や倭人時代に関して何も示さず、その様な時代はなかった事にしている。縄文時代は狩猟採取社会で、大陸の影響によって文明化したと言って置けば、日本人は古事記の思想から逸脱しないからだ。

しかし現代日本人は飛鳥時代の人々とは異なり、自分が日本人である事を疑ってはいないし、記紀がその状態を守っているわけでもないから、経典を正しい歴史に書き換えても現代日本人には何の問題もなく、むしろ正しい歴史が、日本人を冷静な民族に変える可能性が高い。現代の神官がそれをしないのは、正しい歴史が忘れ去られて復元できないから、徒な混乱を回避するために、旧習を墨守しているからだと推測される。

史学者を自認している人々の中には、この様な神官とは全く異質な人々もいる。その様な者の歴史観を、「王朝史観」と呼ぶ事ができる。これは海洋民族とは無縁の思想で、農耕民族に特有な思想になる。農耕民族は耕作権や領土を保証して貰う必要があり、そのためには絶対権力が必要だから、その様な権力の一つの形態として王朝を形成したが、王朝は一旦成立すると、歴史を創作して王朝の権力の根拠を確実にしようとする。それを「王朝史観」と定義すると、古典的な解釈では史記の歴史観がそれに該当する。

日本人も奈良時代以降は、史記を聖典とする中華思想の影響を受けたので、原古事記を起源とする歴史観を堅持しながらも、次第に国史に王朝史観的な思想を盛り込んでいった。日本国史の改訂には、王朝貴族だった神官達の神学論争は不可避だったから、その過程で王朝史観が浸潤した疑いが濃い。最終経典である日本書紀には、史記の様な捏造史を書き加える作業や、史記の辻褄合わせをした漢書や後漢書と同じ流れの作業が、行われた事が垣間見えるからだ。

王朝史観に基づく史学は、王朝を賛美するために記述された文献を、読み解く事によって成立する伝統的な学問分野で、文献は膨大にあるから、それらの解釈は学術的な体裁を取っているが、記述内容の検証が好い加減である事に特徴がある。真面目に検証すれば、王朝が主張する嘘が露見してしまうからだ。

王朝史観に立脚する書籍の特徴として、王朝成立以前に存在した交易社会を否定する事により、王朝の権威を確立している事が挙げられる。端的に言えば、交易社会の存在を抹殺している。

現代日本の教科書に記された、「未開な集落が武力的に統合されて王朝が生まれ、王朝の発展に伴って文明が進化した」とする歴史観は、その様な王朝史観が生み出した、典型的な創作歴史になる。それを事実であると主張する事により、王朝を絶対的な存在にしたからだ。その様な王朝史観で古代史を解釈すると、王朝が成立する以前の歴史は闇に閉ざされるから、それを原始時代と規定する事になる。考古遺物にはそれを否定するものもあるが、それはひたすら無視する事によって王朝史観が堅持されている。その典型例が、縄文人が栽培者であった事や、縄文稲作があった事を否定し続ける考古学者の、根拠がない頑な姿勢になる。

中華の王朝史観は押し付けだったが、古事記は民衆に提案する書籍として著述された事が、両者の根本的な違いだった。しかし人々が本当の歴史を忘れてしまうと、両者には類似した状況が生まれた。農民政権が史書を改変し、王朝の正当性を主張するものに変えていったから、当然であると言ってしまえばそれまでだが、時代が降るほど捏造が酷くなっていった事は、文明が進化する事の意味を、考え直す必要性を示している。現代ほど嘘が充満した時代は、過去にはなかったのではないかと疑問に思う状況も、生まれているからだ。

古代人は自然と対峙する必要があったから、正しい判断は生存に関わる重要事項だったが、農耕技術が発達して衣食住に余裕が生まれると、嘘に塗れても生活できる様になった事が、この様な事態を生んだと考えられる。

日本の史家が王朝史観に拘泥しているのは、明治維新によって王朝が復活し、日本書紀に基づく歴史教育が行われたからである事は間違いない。戦前の日本は王朝史観一色に染められ、戦後になってもその残渣が精算できていない事情があり、現在も継続しているとも言えるが、GHQが中国や韓国の捏造史に迎合する事を強制し、大陸の劣悪な王朝史観が日本に流入した事も、その理由の一つである事も間違いない。それによって歴史学者の気概が失われた事も、その理由の一つである様に見える。

しかし理由はそれだけではないところに、事情の複雑さがある。

敗戦が欧米に阿る傾向を生み、縄文人は文化的に遅れた人々だったという、欧米人にとって好ましい認識への追従は、自然科学分野にも見られる。自然科学者も欧米人の宗教上の機微を避け、西欧文明至上主義に阿るため、縄文人は文化的に遅れた人々だったという認識を、陰で支えているからだ。具体的に言えば、聖書に農耕は神から与えられたと記され、その始まりはエデンだったとも記されているから、それ以前の世界にもそれ以外の地域にも、農耕や栽培は存在しなかったとする宗教観に忖度し、原縄文人が何万年も前から樹木やアサを栽培していた事を示す、全ての状況証拠を葬っている。

王朝史観は共産主義思想との共通性が高く、そのイデオロギーと癒着している事も、王朝史観に固執する史家が多い理由として挙げられる。どちらの歴史観も、政治の本質は権力であると解釈する点で一致し、政治権力は権力闘争によって獲得するものであるという発想も共有し、政権内で権力闘争が頻発し、腐敗が進行しやすい事情までも共有している。つまり王朝史観と共産主義は、思想の基底にある人生観を共有しているから、左翼思想に共鳴する史家は王朝史観を常識であると捉え、それ以外の発想を拒絶している。

海洋民族の発想は全く異なり、それによって多大な成果を上げた事は、このHPの縄文時代の本論を通読すれば分かるだろう。つまり王朝史観は、絶対的な常識ではないのだ。

主要な共産国家が王朝の後継政権である事は、王朝史観と唯物史観が、歴史観や人生観を共有しているからだと考えられる。王朝統治下の民衆が民主化を求める場合は、王朝的な政体である共産政権しか、実感としてイメージできないという認知力の欠如が、厳然と存在している事が、強力な王朝に支配されていた地域を共産主義国にした、最大の理由であると考えられるからだ。広大な農業地域は強力な王朝を生みやすく、その王朝は共産政権に転換しやすかった事は、ロシアと中華を見れば明らかだから。

これを別の側面から見ると、民族自決の歴史がない集団が、共産主義政権を生み出したという共通性もあり、王朝が運営していた上意下達方式の、官僚機構に支配されていたという共通性もある。権力を奪取する手段は、武力闘争しかないと考える点にも共通性があり、これらの政権の為政者は、自分達の満足度を向上させる為に政治を行い、民衆の福利には関心が薄い事にも共通性がある。

この様な共産主義政権が、王朝史観を土台にして進化すると、王朝特有の嘘を交えたプロパガンダを乱発し、民衆を教導しながら民衆に判断させない、帝国主義的な統治手法を採用する事も必然的な結果であり、それが共産主義政権の実態であるとも言える。

この様な共産主義国家が嘘を基本とする王朝史観と融合し、自らを美化するプロパガンダを多発する事は、歴史的な必然と言えるだろう。この甘いプロパガンダが、社会経験に乏しく認識が甘い多くの若者を誘い込み、民衆の伝統的な政治感覚を混乱させると、倫理観の後退を招く事になる。

これらを学術的に言えば、古事記の思想に呪縛されている人達は、民族文化を守ろうとする保守的な人々だが、古代の交易社会を否定し、古代人の理性的な活動史を闇に葬る事に関しては、共産主義的な王朝史観の持ち主や、グローバリストと呼ばれる民族文化を否定する思想の持ち主と、共同戦線を張る様になる。従ってこれらを包括的に、「近代的な王朝史観」と呼ぶことができるだろう。

民族文化を否定する人々は、それに代わるものを何も提示しないから、文明を破壊するアナーキズムと何ら変わる所がなく、文明を退行させる存在でしかない。100年前の共産主義者は、マルクス・レーニン主義や唯物史観を人々に正しく教育すれば、民衆の倫理観は維持・向上できると主張したが、その論理が破綻した現在になっても、ポリコレと呼ばれる子供じみた発想以外には、代案を何も示していないからだ。

現在の日本史学者には、その様な状況に汚染され、学問的な価値がない権力闘争史観に傾倒している者が少なくない。王朝が編纂した史書には権力闘争史しか記されていない事も、王朝史観と融合した机上の空論を生み易い環境が、醸成されている。

別の観点から言えば、古代人が持っていた認知力さえも欠いている一部の現代の史家が、古代史を解説するという滑稽な役割を演じる場合には、古代人は蒙昧な人達だったと決め付けなければ、学術的な活動の真似事もできなくなる。それ故に、王朝史観に固執せざるを得なくなるだけではなく、古代人は未開な人々だったとする蔑視観は、人種差別を禁止された人々の、文学的な娯楽になっている面もあるから、その様な歴史観に迎合している側面もある。

海洋民族だった縄文人や倭人の歴史は、王朝史観では解釈できない。縄文文化は日本文化の基底的な存在だから、日本人と日本文化を理解する為には、縄文史を正しく認識する必要がある。

縄文人の海洋性と石材加工 (具体的なこの時代の説明の前に)

このHPの時代区分

現行の時代区分

説明項目

縄文文化の形成期

その1

 

縄文文化の形成期

その2

旧石器時代

 

縄文草創期

 

早期前半

その1

1、人類のアフリカ脱出とユーラシア大陸への拡散

2、原日本人の日本列島漂着と海洋漁民化

3、原縄文人の起源と原縄文人集団の形成

その2

4、縄文時代の幕開け

5、縄文文化の開花

縄文人の活動期その1

 

縄文人の活動期その2

 

縄文人の活動期その3

 

縄文人の活動期その4

 

縄文人の活動期その5

 

縄文人の活動期その6

早期後半

 

前期

 

中期

その1

1、縄文時代の東アジア諸民族

その2  

2、日本に渡来した女性技能者達

その3  

3、弓矢の生産と矢尻街道

その4  

4、石材加工と石材の貨幣化

その5  

5、海洋民族の海外交易

その6  

6、縄文社会と縄文経済

7、縄文時代の人口

経済活動の成熟期その1

 

経済活動の成熟期その2

 

経済活動の成熟期その3

 

経済活動の成熟期その4

 

経済活動の成熟期その5

 

経済活動の成熟期その6

 

経済活動の成熟期その7

 

経済活動の成熟期その

 

後期

 

晩期

その1

1、華北のアワ栽培者と東夷諸族

その2

2、荊の北上と夏王朝の形成

その3

3、西日本で本格的な農耕が始まった

その4

4、関東部族の農耕民族化

その5

5、縄文文化の変質

その6

6、海洋民族と大陸の稲作民族の交易が組織化された

その7

7、古事記が示す日本の歴史

その8

8、補足説明

8-1、宝貝貨とツングース貝貨

8―2、交易品の多様化

8-3、縄文晩期に大陸で起こった事

8-4、海洋民族は大陸河川の奥深くまで交易路にした

 

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