経済活動の成熟期 その8

8 補足事項

その7までは論理展開を主眼として話の展開を見失う長い説明は後述する事にし、その多くは後の時代に関する論理展開の中で消化したが、それでも言及できなかった事を以下で説明する。

8-1 宝貝貨とツングース貝貨

8-1-1 夏王朝の宝貝貨

洛陽にある夏王朝期の二里頭遺跡は、青州から西に300㎞離れた西の拠点都市だった。禹の改革によって湖北省や南陽盆地に荊が再入植すると、湖北省に塩を多量に搬入する必要が生れ、洛陽盆地が渤海南岸の塩の陸揚げ地になり、此処から陸路で南陽盆地に塩を運んだ後、河川を使って湖北省に運ぶルートが生れ、洛陽盆地が交易拠点になった事を示している。

二里頭遺跡には宮殿跡と推測される遺構があり、遺跡内の貴人の墓や遺跡周辺の有力者の墓から、宝貝貨が発掘された事がその事情を示している。青州の遺跡は現在厚さ数10mの堆積土砂に覆われているので、夏王朝期の遺物としてこの遺跡が最大規模のものになっているが、この遺跡が夏王朝の首都だったと見做す発掘至上主義的な発想は、笑止であると言わざるを得ない。

夏王朝期の人々が宝貝貨を多量に使った事を示しているが、夏王朝の後半期に禹の改革によって生まれた遺跡だから、この遺跡年代が夏王朝の存続期間を示すわけではない。

赤峰市の大甸子(だいでんし)に縄文後期のアワ栽培者の集落跡があり、有力者の墓から稲作民的な陶器や夏王朝的な青銅器と共に、659点の宝貝貨と加工された貝製品が多量に出土した。大甸子遺跡は渤海の北岸から400㎞ほど北上した台地上にあり、当時の巨大な渤海を挟む青州の対岸に位置した。夏王朝の文化がこの地域に浸透したのは、遺跡の近くにこの時代の銅山があり、稲作民が大甸子の有力者から銅を入手したからだと推測される。

大甸子(だいでんし)遺跡から発掘された宝貝貨ではない多数の貝製品は、不足した宝貝貨を模造品で代用品した可能性もあるが、ツングース貝貨である可能性が高い。但し形状が公開されなければ論評はできない。

大甸子遺跡は、息慎が西ユーラシアからもたらした青銅器文化が、北東アジアに及んでいた事を示唆している。大甸子は紅山文化の遺跡が残る赤峰市街域から、西に140㎞も離れた遼河支流域にあり、息慎の交易路だった遼河本流に近いからだ。従って遺跡の付近にあった銅山は、息慎が西ユーラシアから招いた技能者が発見したと想定され、この時代には華北で唯一の銅山だった可能性もあるが、青銅器文化はインドネシアの海洋民族も西ユーラシアから持ち込んだから、華南にも鉱山があった可能性が高く、三星堆文化がその事情を示している。

西ユーラシアの青銅器文化の中心は縄文後期まで、地中海東岸ではなく黒海周辺にあったから、青銅器文化の東アジアへの伝達は、東南アジアの海洋民族がインド洋を経てもたらしたものより、息慎のシベリアルートの方が先行していた可能性が高く、竹書紀年の五帝時代末期の記事に登場する息慎は、華北の銅交易も差配していたと推測され、北陸部族や関東部族もそれに関与していたと考えられる。

この頃まで地中海はスエズの海峡を介してインド洋と繋がっていたから、東南アジアの海洋民族が黒海に出没した可能性もあり、両ルートによる東アジアへの青銅器文化の到来に大きな時間差はなかったと想定され、縄文中期後葉の良渚文化圏から石剣が発掘された事がその事情を示唆している。青銅の剣が貴重品として持ち込まれ、それを石材で模倣した事を示唆しているからだ。

 

8-1-2 礼文島で作られたツングース貝貨

縄文後期の礼文島で貝製品が多量に作られ、それがシベリアで発見されている事は、この貝製品を扱っていたのは息慎で、使用者は息慎の商圏にいたトルコ系民族やモンゴル系民族だった事になる。

礼文島の遺跡は縄文文化を示すから、貝貨を製作してシベリアに出荷する事が、この島の縄文人の交易活動になっていた事を示し、ヒスイ加工品も発掘された事は高い交易利潤を生む作業だった事を示している。縄文後期になるとシベリアに青銅が出回り、黒曜石の矢尻を装着した弓矢の交易は失われたから、息慎との新しい交易品を求めた結果が礼文島の遺跡に遺されたと考えられる。

竹書紀年の五帝代最後の帝舜有虞二十五年の記事に、息慎氏が来朝して弓矢を貢いだと記されている事は、息慎と呼ばれたツングース系の交易民族が青州の稲作民族と交易する為に、シベリアから松花江と遼河を経て渤海に南下していた事になる。朝鮮半島で発掘された櫛目紋土器は、彼らが縄文前期~中期に黄海を南下し、朝鮮半島西部に植民して遺跡を遺した事を示し、九州縄文人と交易していた事を示唆している。

息慎が日本海沿岸に出るに為には、ウスリー川を遡上して低い峠を越えた、ウラジオストックで日本海沿岸に出るルートもあり、対馬部族や出雲部族がそのルートで彼らと交易を行った事は既に指摘した。ウラジオストックの北西200km程の日本海に近い場所にある、縄文前期のチョールタヴィ・ヴァロータ洞穴から北陸部族の玉器が発掘された事は、縄文前期にはこのルートの交易に北陸部族も関与していた事を示唆している。

海面が上昇していなかった16千年前以前は、津軽海峡も宗谷海峡もなかったから、アムール川流域やオホーツク海沿岸で漁労を行っていたツングースと北陸部族との交易は、このルートが主要な交易路だった可能性が高く、津軽海峡が生れても北海道を周回する距離は長いから、アムール川流域の漁民と北陸部族の交易は、宗谷海峡が生れるまではウラジオストックを中継地にするものだった可能性が高い。つまり1万年前頃に宗谷海峡が生れた事により、北陸部族のアムール川流域への交易路が変わった可能性も高く、ウラジオストックは一貫して北陸部族の交易拠点であって、対馬部族や出雲部族は後発的な参入者だった可能性が高い。

対馬部族や出雲部族が後発的に参入したのは、彼らが弓矢を商品化したからで、それは北陸部族が弓矢生産に参入する以前だったから、彼らは自分達が生産した弓矢をウラジオストックに持ち込む必要があり、ツングースと交易する第三の交易者になったからであると考えられる。

これをツングースの側から解釈すると、関東部族が生産する弓矢だけでは、シベリアの狩猟民族の需要を満せない事が判明すると、北陸部族の仲介を得て対馬部族や出雲部族の進出を促したと推測される。

北陸部族が自ら弓矢を生産しなかった背景には、共生する石垣系縄文人には矢尻を固定する高品質の漆がなかったから、ツングースに依頼されて対馬部族や出雲部族に弓矢生産を促した事により、その様な状態が生れたと考えられる。北陸部族が弓矢生産に参入する為には、関東部族からウルシ樹の栽培技術の移転を受ける必要があり、ツングースに依頼された関東部族がそれを受け入れた事により、北陸部族の弓矢生産も縄文前期に始まったが、それは対馬部族や出雲部族の生産でも需要が満たせないと判断した、ツングースの海洋民族への強い要望だったと考えられる。

対馬部族や出雲部族が生産した弓矢が出回った縄文早期末に、それまで石刃鏃を使っていたモンゴル民族の居住域から石刃鏃が失われたが、それでも重要を充足できなかった事は、シベリアに多数の草原系狩猟民族がいた事を示唆している。

下の写真は礼文島から発掘された貝殻の加工品で、写真上部に示す多数の平玉は、ビノスガイの貝殻で作られている。

遺跡に埋葬された人骨にこれらの平玉が多量に巻き付いていたので、装飾品だったと誤解されているが、宝貝貨と同様の機能を持つツングースの貝貨だったと考えられる。多数の貝製製品と共にその製作に使われた、長さ1㎝余りのメノウ製のドリルが1万点以上出土した。遺跡にはビノスガイの貯蔵庫や作業所があり、貝玉を組織的に製作していた事を示している。

貝玉は数種類の形状に規格化されているが、装身具としては仕上がりが雑で表面研磨が為されていないから、少なくとも平玉は貝貨だった可能性が高い。礼文島で発掘された人骨の過半は、北海道縄文人を特徴付けるmt-N9bだから、作業者は北海道部族の人だった事を示唆している。

息慎が五帝代の青州と交易し、宝貝貨の便利さを知っていた事も、この貝玉は貝貨だったと考える根拠になる。大甸子の墓から宝貝と共に発掘された加工された貝製品は、形状が公開されていないので確かな事は言えないが、この貝貨であれば大甸子の銅生産者は二つの通貨を使っていた事になり、この銅山は息慎が銅を得る為に開発した可能性を高める。

考古学者が銅産地を特定する為に鉛の同位体分析を行ったが、青銅は5%ほどの錫、亜鉛、鉛などを混ぜて硬度を高めたものだから、その程度の量であれば、息慎が西ユーラシアから持ち込んだ可能性もあり、有益な情報は得られていない。

殷墟の王墓から先進的な戦車の車輪が発掘されたが、石器時代~青銅器時代の殷人の木工技術は、船を盛んに作っていたシベリアの民族には遠く及ばなかった上に、交易性がなかった殷人がそれを作ったとは考えられない。つまり殷墟から発掘された車輪は、息慎の技術によって作られ、その実用化は縄文中期頃だったと考えられる。

シベリアの河川は部分的に途切れているから、それを補うために馬車が発達した可能性が高いからであり、考古学者は縄文中期の中央アジアの栽培民族が、馬車を使っていたと考えているから、殷墟で発掘されたものを含めてこれらの車輪は、黒海沿岸の青銅器を使ってシベリアで作られた可能性が高いからだ。

車輪の製作には当時の最先端技術が必要だったから、交易性がない栽培系狩猟民族が作ったと考える事に無理があるからでもあり、殷代の西ユーラシアとシベリアでは既に鉄器時代が始まっていたが、殷人は銅山を開発して青銅器を多量に作っていた事も考慮する必要がある。

縄文晩期の関東の遺跡から複数のmt-M10の人骨が発掘され、縄文後期のシベリアには毛皮加工職人として、膨大な人数のmt-M10が居住していた事を示唆し、息慎が彼女達の技能を惜しんで関東に渡来させるほど、職人技を重視する民族性を持っていた事を示し、シベリアではその様な加工産業が発達していた事を示唆している。

これらを前提にすれば、息慎が宝貝貨の優れた機能を認識し、貝貨を使う気になったとしても不思議ではない。宝貝貨の価値を決める塩の産地にアクセスできる、シベリアで唯一の交易民族だったから、彼らに必要なのは通貨を発行する意志と、貨幣の素材と形状を決める事だけだった。

貝玉の原料になったビノスガイは貝殻が厚く、加工して形状を整形する素材として適している。礼文島を含む北海道の日本海沿岸でも採取できるが、多量に採取できるのは伊予部族の縄張りだった、福島県〜北海道の太平洋沿岸になる。

息慎はシベリアの河川や湖沼を縦横に移動していたが、日本海の北岸やオホーツク海沿岸は粛慎の領域で、古墳寒冷期に道東や樺太に展開した、オホーツク文化の担い手は粛慎だったが、ツングース貝貨は縄文後期のものだから時間差を考慮する必要がある。

オホーツク文化は北海道部族の縄張りで展開されたが、海獣の皮革が商品として多量に流通した時代に、ツングース系の民族と伊予部族の共生によって成立したもので、海獣の皮革の需要が盛り上がるのは寒冷期特有の現象だったから、縄文後期温暖期の粛慎はビノスガイを採取できる、太平洋の沿岸地域にはいなかったと推測される。

ビノスガイは暖流が流れる地域の貝ではなく、寒流が流れる冷たい海の貝でもなく、生息域はあまり広くない。対馬暖流が流れる現在の東北の日本海沿岸に、ビノスガイが繁殖していない事情を参照すると、縄文後期は現在より4℃も温暖だった上に、親潮の勢力は現在ほど強力ではなかった疑いが濃く、対馬暖流の微弱な分流が周回している礼文島を含む北海道の日本海沿岸の、縄文後期の海水温は現在より高く、ビノスガイの繁殖地はなかった疑いも濃い。

つまり黒潮の海水温が現在より10℃ほど低かった氷期に、日本列島の太平洋沿岸で大繁殖したが、後氷期の温暖化によって繁殖地が極度に限定され、やや冷涼化した縄文後期になっても、伊予部族の縄張りだった東北北部だけがビノスガイの生息地だった可能性が高い。

宝貝は海水が澄んだ沖縄やフィリッピンの島嶼に繁殖地があり、海洋民族であれば幾らでも採取できたから、宝貝を貨幣として使う事ができたのは、文明度が高く順法精神に富んだ荊の居住域か、その文化の影響を強く受けながら海洋民族との交易が乏しかった、華北のアワ栽培民族の居住域に限定された。交易者だった息慎は、その様な宝貝貨は多民族が散開する地域の通貨には適さないと考え、制作に手間は掛かるが独自の材質と形状の貝貨を設定し、広域的に流通させたと想定される。

息慎と粛慎の交易圏内にはビノスガイを採取できる場がなく、シベリアにはそれを加工する技術がなかったから、加工技術を持っていた縄文人に加工を委託した事になるが、この選定に関しては「慎」漢字の意味を形成した民族らしい、極めて慎重な配慮が示されている。

北陸部族は縄文前期からヒスイ加工品を作り、縄文中期以降は各種の石材から勾玉も作ったし、縄文中期に息慎が遼東に送り込んだ濊も玉器を製作していたから、玉器を通貨とする選択肢もあったが、息慎がそれを採用しなかったのは、偽の通貨が生れる事を危惧したからではなかろうか。

ビノスガイの貝殻の加工は、その技術を応用する事が可能だった。貝貨の大量生産に必要な技術は工具で貝を削る技術ではなく、堅い石で貝を削る工具を製作する技能だったと推測され、北海道はメノウの産地だから、その加工技術は古い時代から発達していたかもしれない。玉器の生産技術に関しては、北陸のヒスイ加工に目が行きがちだが、メノウは半結晶性の石英でヒスイに匹敵する硬度がある。礼文島でそれを加工して小さなドリルなどの工具を製作した事は、北海道部族には玉器の製造技術とは異なる、独自の加工技術があった事を示唆しているが、北陸部族から柘榴石や研磨剤を購入して製作した可能性もある。

孤島である礼文島に作業場を作る事が、縄文人に加工を委託した息慎の必要条件だった可能性が高い。造幣局が世間と繋がっていては望ましくない事は、現代人にも理解できるからであり、孤島の作業場が必要であれば、手作業に慣れた縄文人が多数いた伊予部族の、歯舞島や色丹島も選択肢になったが、これらの島が関東部族の交易路になっていた事が、息慎には懸念材料だった事を示唆している。ヒエ栽培者の農耕民族的な文化が、息慎には気に入らなかった可能性もある。

礼文島で発見された縄文後期の土器は、この時期の北海道中西部の土器だから、加工者は北海道部族の漁民女性だった可能性が高い。北海道部族のミトコンドリア遺伝子はmt-N9bを主体とし、縄文草創期に陸路で北から移住した狩猟民族のmt-Gmt-Dを含むだけだったから、シベリアの狩猟民族や漁労民族との交流は殆どなく、日高の青虎石と獣骨を狩猟民族から得る、自給自足的な部族だったと考えられる。

但し福島の縄文人のミトコンドリア遺伝子も、半分程度はmt-N9bだった事から推測すると、北海道の伊予部族の遺伝子も類似した状況で、mt-M7aと混在する事によってヒエの栽培者になったmt-N9bも少なからずいたとすれば、北海道部族のmt-N9bにも縄文人化した女性達が多分に含まれていた可能性もある。

従って利尻島での加工作業は、関東部族と伊予部族の介在によって息慎の需要を賄っていたと考えられ、息慎にも粛慎にも知られていない孤島で、息慎にも粛慎にも馴染みがない北海道部族が貝貨を作る事が、息慎の希望に叶っていた可能性が高い。造幣局の場所も作っている人達も知らない方が、貨幣を使うに息慎には都合が良かったからだ。

宝貝貨に関しても、沖縄で宝貝を採取した関東部族は関東では使わず、採取地も採取方法も知らない荊が使ったから、この類似性が息慎に安心感を与えたが、更に厳重な隔離環境を形成しただけではなく、伊予部族が貝を採取して北海道部族が加工を行った事に、守秘性だけではなく製造の管理にも配慮が窺え、「慎」漢字の意味を創造した民族らしい選択を示している。

縄文中期までの礼文島の地理的な環境から推測すると、北陸部族のシベリア航路の中継地だった可能性が高いが、縄文後期にシベリアが青銅器時代になると、弓矢や磨製石斧は商品力を失しなった一方で、フリッピン越と共生していた海洋民族がインドネシアに南下し、mt-Dを送り込んだフィリッピンとの交易が活性化する中で、インド洋交易が活性化して東南アジアの海洋民族との交易需要が高まったから、シベリアとの交易は断念した可能性が高い。その結果日本海沿岸に集住していた北海道部族は、海外交易から疎外されて物資や情報が途絶え、伊予部族や関東部族との連携を強めざるを得なかったと考えられる。

従って北陸部族との交流の中で、独自のメノウ加工技術を身に着けた北海道部族が、礼文島を加工基地として加工者を提供したと想定される。

船泊遺跡の上層(縄文後期前葉~中葉)から貝貨が発掘され、青州の宝貝貨と同時期に、この貝貨も流通し始めた事を示しているから、青州に入植した荊が宝貝貨を使っているのを見て、息慎も即座に貝貨の発行に踏み切った事を示している。息慎はシベリアの河川を使ってユーラシアの東西交易を担っていたから、彼らの最盛期だった縄文後期の経済力は、関東部族を遥かに凌駕していたと推測され、商圏内の狩猟民族や漁労民族の人口規模は、荊の人口を上回っていた可能性もある。縄文後期温暖期には黒海沿岸~地中海沿岸の経済活動も活発化し、青州では荊が経済活動を活発化させたから、両者を結ぶ最短交易路だったシベリアの河川路は、活況を呈していたと考えられるからだ。

宝貝貨を模倣して作ったツングース貝貨は、基礎的な仕組みも模倣した可能性が高く、渤海南岸で越人が製塩した塩をシベリアに配布する事により、貝貨の兌換性を保証した可能性が高い。加工に手間が掛かるツングース貝貨は、宝貝貨ほどの流通量は得られなかったから、形状が大きい高額貨幣も発行した事を、上掲の発掘遺物の写真が示唆し、ヒスイ加工品と黒曜石の欠片を通貨として使った関東部族から、その経験を聴取したと想定される。

大小の穴が開いた円盤以外に、糸巻の様な楕円形の加工品やヘラの様な加工品もあり、それも貨幣だったのであれば、4段階以上の価値を持つ貨幣を発行した事になり、この貨幣が交易者間の大型取引にも多用された事を示し、シベリア交易の活況を窺う資料である事も示している。

当時の西ユーラシアでは琥珀や金銀を使って交易が決済されていたが、それらは産出量が限られていたから、多量に流通させる事はできなかった。縄文後期に青銅の生産量が飛躍的に増加し、それに伴う産業構造の変化が多量の通貨を必要としたから、この様な通貨が必要になったと考える事もできる。

縄文後期後葉に船泊遺跡が衰退したのは、以下の様な理由だったと推測される。

櫛目紋土器を特徴とする朝鮮半島のツングース文化は、BC2000年~BC1500年頃に断絶する。殷商王朝が生まれたのはBC1500以降だから、夏王朝期に殷人の武闘的な集団が台頭し、遼河の交易路を塞いて息慎の利益を横取りした事を示し、夏王朝にはその様な法規違反を取り締まる仕組みがあったが、五帝代が終わって夏王朝期になると、むしろそれが機能しなくなった事を示している。

竹書紀年の以下の記事はその証拠として、殷人がツングースの交易集団を支配していた事を示唆している。

帝芬十六年 洛伯の用が河伯と(一緒に)、馮夷と闘った。

河伯はツングースの水運者だったと推測されるから、帝芬三年に渤海の主要な水運者が俀から九夷に変わると、即ち俀が渤海から手を引くと、河伯馮夷の間に闘争が生れた事になり、それまで渤海沿岸の治安を維持していたのは俀だった事を示唆している。交易の為には交易秩序を維持する必要があり、それまでの九夷は俀の天氏の指導の下に水運を担っていただけだったから、全権を委譲されても交易秩序を維持する困難な活動には、習熟していなかったのではなかろうか。

帝泄十六年 殷侯の微が河伯の師(軍)を以って有易を伐ち、其の君の綿臣を殺した。(帝泄は帝芬の次々帝)

河伯殷侯に従う集団になった事を示し、この様な状態が昂じた事により、息慎の交易活動が困難になった事を示唆しているが、これは渤海南岸の出来事だから、遼河の河口では早い時期からこの様な状態が生れていた可能性もある。

竹書紀年の別の証拠として、夏王朝期~殷王朝期の記事に息慎は登場しないが、殷王朝を倒した周武に粛慎が朝貢し、殷人の反乱を鎮圧した成王にも粛慎が朝貢し、周王朝と主従関係を結んだと記され、遼河が開通するとツングースが頻繁に華北に渡来した事を示唆している。

粛慎は沿海州やオホーツク海沿岸のツングース民族だから、殷王朝期になるとシベリア事情が変わり、渤海に南下する交易者が息慎から粛慎に変ったとすると一連の話が整合する。息慎は西ユーラシアまで櫛目紋土器を普及させた、シベリア内陸部の河川交易者だったが、縄文晩期の寒冷化によってシベリア経済が崩壊すると交易組織も消滅し、縄文晩期以降の史書には粛慎しか登場しない状態になったからだ。

魏志東夷伝の序文に、五帝時代から周代まで、白環と呼ぶ西戎が物を献上し、肅慎と呼ぶ東夷が朝貢したと記され、漢民族には肅慎しか記憶になかった事を示している。息慎が消滅したのは縄文晩期寒冷期で、粛慎も古い時代から、オホーツク海沿岸や日本海北岸(沿海州)でアザラシやアシカの皮革を交易していたと想定され、陳寿は息慎が消滅してから1500年経った魏代の人だから、ベリアの河川交易民族は粛慎しかいないと考えても不思議ではない。

陳寿は竹書紀年を読んでいたから、そこに記された息慎粛慎の誤記であると解釈し、上記の序を書いた疑いもあるが、白環と呼ぶ西戎は竹書紀年には登場しないから、他の失われた文献を参照したと考えられる。白環民族の部族だったのであれば、大集団の名称が先に記される越裳倭奴(倭の奴国)と同じ用法になる。

竹書紀年には異部族だったと考えられる「夷」が多数あり、アワを栽培していたトルコ系の狩猟民族には多数の部族があった事を示しているが、シベリア系の民族に「白」漢字を使う例が頻出し、彼らは白色を高貴な色とする民族だった事を示唆しているから、白環はシベリア系の部族だったと推測される。

トルコ系の共生民族と粛慎の連合国家だった高句麗を示す「貊」「狛」、実質的には濊の国だった新羅の倭名である「白城=しらき」が、その事情を示しているからだ。

高句麗の好太王碑文に以下の様な記述があり、河伯はツングースである事を示している事も、その事情の一端を窺わせる。

(高句麗は)鄒牟王が基を創った。その出自は北夫余で天帝の子、母は河伯の女郎(娘)

河伯は粛慎の地域指導者を指し、息慎氏粛慎氏河伯を統括する上位身分の者で、息慎粛慎は民族名ではなくが民族名だった。つまり稲作民族だった呉は、同様の語順を使って中央集権的な統治体系を表現し、句呉鹿呉の様に記して地域や鹿地域の稲作者を示したが、交易者だった粛慎は、地域の有力者だった河伯の上位者として息慎氏粛慎氏が君臨し、その7で示した関東部族と同様に、人治主義的な認識を持っていた事になる。

つまりツングースにはシベリアのを統括する息氏と、オホーツク海沿岸のを統括する粛氏がいて、「白」に人偏を付加した漢字であるは、粛慎の為に生まれた漢字だったと推測され、河伯を統治する息氏粛氏は関東部族の天氏の様な存在で、天氏は関東部族が生み出した特別な身分ではなかった事になる。「粛」漢字は「さおを手に持つ象形と、両岸がせまり間に淵(底が深く水がよどんでいる所)のある形の象形から、淵にさおをさす事を意味しているが、それが「おそれつつしむ」事を意味するようになったのも、粛慎の民族性から漢字の意味が決まった事を示唆し、この推測の傍証になる。

「息」漢字の「自は鼻の象形、心は心臓の象形で、心臓部から鼻に抜ける「いき」を意味するとされるが、「生れる・育てる/息子・生息」「広がる・増える/利息」などの意味があり、これも広大なシベリア平原を有望な市場にした人々の特徴から、意味が派生した事を示しているが、鼻と心臓が息慎の特徴になった理由は定かではない。現在の北欧の人々の様な高い鼻と広い胸を持っていたから、この様な漢字が生れた可能性がある。

「白」は狩猟、漁労、栽培の3民族共生集団だったから、その中の狩猟民族を「狛」「貊」などと記し、漁労民族を濊、栽培民族をや穢と記した可能性もある。漢書武帝紀では、漢書食貨志ではと記しているが、記述に統一性がないのは、漢民族が彼らは共生民族である事を知らなかったからだと考えられる。つまり五帝代から夏王朝期に多数の漢字が生れた際に、シベリア系民族のそれぞれに異なった漢字を作ったが、その意味が分からなかった華北のアワ栽培者が、意味が分からない漢字を相手を罵倒する漢字にしたから、濊が汚い事を意味する漢字に変ったと考えられる。

気候の冷涼化によって青洲の荊の人口が減少すると、多数派になったアワ栽培者が青州から華北夏王朝を武力で駆逐したが、殷人勢力の台頭はそれ以前から進行し、渤海と東シナ海を結ぶ水路が失われ、俀が渤海交易から手を引いて九夷に変ったBC1800BC1700年頃に、水辺の殷人の横暴が高まり始めたとすると、船泊遺跡が縄文後期前葉~中葉の遺跡である事と合致する。朝鮮半島の櫛目紋土器文化の継続性が途切れ、息慎が遼河を南下しなくなった時期もその頃だったからだ。

その様な状態になった息慎が、濊を東朝鮮湾の沿岸に入植させて交易を継続させた事は、息慎の交易活動は未だ継続していたが、兌換材である塩を青州から大量に入手出来なくなったから、通貨の発行も断念せざるを得なくなった事を示唆し、ツングース貝貨の兌換材は塩だった可能性を高めるから、それを前提にこの時代の歴史を組み立てると、以下の仮説が成立する。

夏王朝が成立して周辺のアワ栽培民族にも王が生れ、王による組織的な民族統治が始まると、アワ栽培民族の組織化が急速に進んで組織的な暴力性が高まり、抗争が集落や血族を中核とする小規模なものから、組織化された人々が展開する大規模なものに発展し、最終的には商侯の履の様な大規模集団を動かす者が誕生したが、荊の眼が届かなかった渤海沿岸では、夏王朝の成立と共にアワ栽培者の活動が活発化し、息慎の交易活動を阻害し始めたと想定される。

俀はその様なアワ栽培者と縄文中期から交易していたから、彼らの扱いにある程度習熟し、暴力性に手を焼く状態になると中部山岳地帯の狩猟民族を、用心棒として伴う事も可能だった。中部山岳地帯にいた狩猟民族も弓矢交易が活発な時期には、矢尻の製作者やアワ栽培者に獣肉を提供する事によって生活の資を得ていたが、弓矢交易の凋落と共に両者が居なくなって失業状態になったからだ。漁民に獣骨を提供する事によって細々と生活を繋いでも、困窮状態から逃れる事は難しかったから、獣骨の価値が高かった秋田や青森に移住する者も多かっただろう。

彼らは輸出用の小型の弓矢ではなく、後世の和弓に繋がる大型で強力な弓矢を使っていたと想定されるから、縄文後期の俀にこの様な狩猟民族が加わると、青銅の入手が困難だったアワ栽培者の弓矢需要をマーケティングしながら、船団を護衛する役目も負っていた可能性がある。

しかし九夷と共存していた九州のY-C3は、mt-M7aの浸潤を受けて縄文早期に縄文人化し、更にmt-B5+M7bmt-Dの浸潤を受け、純粋な狩猟民族ではなくなっていたから、狩猟者としての弓矢の技能には見劣りがあり、渤海交易を担う水運者が俀から九夷に変ると、治安維持に慣れていなかった九夷と、用心棒として心許ない九州のY-C3の組み合わせになり、彼らの劣化した抑止力によって渤海沿岸の治安が悪化した疑いがある。この様な観点には閾値があり、それを下回った抑止力の下で治安が悪化し始めると、諸事情が急速に劣化していく事は容易に予測できるからだ。

韓国人のmt-A比率がmt-N9aより高いのは、大型獣を狩っていた南北遊動型の狩猟民族は、温暖期になっても優れた狩猟者であり戦士だったから、高句麗や濊に多数含まれていたからだと推測され、魏志濊伝が豹の毛皮を特産品として多数出荷していると指摘している事が、その事情を示唆している。mt-N9aとペアだったモンゴル系の狩猟民族は河川漁民でもあり、高級毛皮になる小動物を罠などを使って狩る事を得意としていたが、mt-Aをペアとする草原の狩猟民族は、大型獣である野牛やヘラジカを狩っていたから、弓矢や格闘技能に優れていたと考えられ、狩猟民族にも色々な技能があったからだ。

櫛目紋土器文化時代の後期(BC20001500年)に、「内陸部の居住が増えて貝塚が少なくなった byウィキペディア」事は、狩猟民族を主体とした濊の移住が始まった事を示唆し、この仮説と整合する。つまり夏王朝期になると俀の海運力が不足し、渤海沿岸の海運活動が徐々に九夷に移行して渤海沿岸の治安が劣化したから、息慎が遼寧や吉林省に濊を移住させ始め、それに比例する様にツングースの航行者が減少した事を示唆している。

 

8-1-3 円形銅貨の祖型はツングース貝貨だった可能性

円形銅貨が最初に鋳造されたのは、戦国時代の陝西だった。陝西は秦の勢力圏だから、縄文後期のシベリアでツングース貝貨が多量に使われたのであれば、中央アジアでも流通した可能性が高く、中央アジア東部の交易民族だった秦人は、稲作民を敵視した周の構成民族だったから、秦の青銅貨は宝貝貨を模した楚貝貨ではなく、ツングース貝貨を模した形状になる必然性があった。

シベリアに製塩所はなく、ツングースは西ユーラシアで黒海の塩を調達し、中央アジアで秦人から青海湖の塩を調達し、東アジアで渤海の製塩者から塩を得たとすれば、秦が発行した通貨も塩の兌換通貨だった可能性が高い。春秋時代の中華では楚が発行した青銅貨である楚貝貨が優勢だったが、華北では楚貝貨は流通しなかった。従って秦が中華を征服すると、秦の銅銭が優勢になって楚貝貨が駆逐される事に蓋然性があった。漢が長安を都にして銅銭を発行した事は、秦の経済構造を踏襲した事を意味し、塩を専売品にしたか否かに関わらず漢王朝の重要な財源になった事は間違いない。

北陸縄文人がヒスイ加工品に開けたのは、通貨の価値は素材の価値ではなく、綺麗な円孔を開ける職人技の価値だったから、日本ではその思想が勾玉にも継承され、ツングース貝貨にも継承された様に見えるが、旧石器時代末期の道南の遺跡から穴を開けた装飾型の玉器が発掘され、狩猟民族間の交易に使われたものであると想定されるから、財貨には穴が必要であるという認識はシベリアの狩猟民族に起源があり、ヒスイ加工品の整った形状の穴は、北陸部族がその思想を再現した事になる。従ってツングース貝貨の穴も、ツングースの要求によって加工された可能性もある。

 

8-2 殷王朝の宝貝貨

8-2-1 黄河北岸の殷人

殷墟の中級貴族の墓から宝貝貨が発掘され、大量使用者が夏代の上級貴族から、殷代には一般貴族に拡大した事を示している。殷人の貨幣経済が宝貝貨によって成立していた事は、渤海南岸で越人が製塩した塩を九夷が殷墟に持ち込み、その兌換通貨として宝貝貨も持ち込んでいた事を示している。

殷王朝は青銅や獣骨を輸出した財力で財政基盤を形成していたと推測され、亀甲が多量に発掘された事は、それも重要な交易品だった事を示している。殷商成湯夏の社を建てた事や統治者を王と呼んだ事は、夏王朝の法規に準拠して交易を行った事を示し、殷墟から宝貝貨が発掘された事は塩を兌換品とする宝貝貨も、夏王朝の枠組みに組み込まれていた事を示している。

竹書紀年の殷商王朝期の記事の信憑性が乏しいのは、周の人は殷王朝の年代記を見た事がなく、捕らえた殷人から聴取した事を示している。甲骨文の解析から、殷墟に移動する前に殷商成湯以降に21代の王がいて、殷墟に遷ったのは武丁代だったと考えられているが、竹書紀年には3代しか記されていないからだ。また殷墟に移動した後の記事であっても、周が殷王朝の諸侯になった殷王朝最後の4人の王以前は、在位が10年以上の王しか記載されていない事が、その事情を示している。黄河以北の殷人にとって黄河以南の人々の商王朝期は、自分達の祖先伝承ではなかったからであるとも言えるが、殷王朝期の祖先伝承も曖昧だった事は、農耕民族化して権力闘争に忙しかった殷人の祖先伝承は、極めて曖昧なものだった事を示している。

殷人より理性的だった周王朝の人々認識は以下になり、竹書紀年は要点を纏めた史書に過ぎなかった可能性もある。

盤庚十四年 奄から北蒙に遷り,殷と曰う。(竹書紀年では武丁の先代)

は山東~江蘇北部にいた淮夷の拠点邑だったから、それが殷王朝を樹立した人々の故地で、殷商成湯夏の社を建てたのはの近傍だった事を示唆し、周初の殷人の反乱拠点がだった事とリンクする。北蒙は文明化していない黄河の北の人々の居住地を指し、その地の人口が増えて経済活動の中心が移行した事を示唆している。

盤庚十五年 殷邑を営む。

殷邑は殷墟の前身となる邑だが、殷墟がある場所だったとは限らず、殷墟の北東(洹水北岸)の殷中期の都城遺跡から、文字を刻まずに占卜した獣骨が出土しているから、そこだった可能性が高い。

武丁元年 王即位。殷に居す。

武丁が殷墟の地を拠点にした事を指しているが、殷に居すが殷墟を都にした事を指すのであれば、甲骨文が示す歴史の要点を正しく伝えている事になる。

武丁三十二年 鬼方を伐ち荊の地で次す。

は「身の回りを整理し休息をとること。待機すること。」を意味するから、夏王朝に参加していた荊とは戦闘行為は行わず、交渉次第で軍の野営地にもなった事を示している。これは周の記録だから、このは呉を指し、鬼方が東シナ海沿岸のアワ栽培者だったとすれば、従わない淮夷の一部を指した事になり、商王朝の発祥地であっても従わない淮夷がいた事を示唆している。

武丁三十四年 王師が鬼方に克つ。

武丁四十三年 王師が大彭を滅した。

古代の中国では徐州を彭と呼んだから、大彭はその付近のアワ栽培者の中核集団で、夏王朝から殷商地域の統括を任されていた殷王朝は、同民族のアワ栽培者との内紛に明け暮れていた事と、黄河以北の河南省の未開な殷人は王朝に従順だったが、山東や江蘇の殷人社会は戦国時代的な状態だった事を示唆している。

祖甲十二年 西戎を征し、冬、王が西戎から返った。

祖甲十三年 西戎が來賓。

西戎は殷墟と周の根拠地だった山西の間の、焦作市の辺りにいたアワ栽培者で、夏王朝が淮夷と呼んだ沿海部のアワ栽培者は、反乱を繰り返しながら殷王朝に従わなかったが、黄河北岸のアワ栽培者は征討すると、殷王朝に従う人々になった事を示唆している。

殷王朝の王は墓に何百人もの惨殺死体を埋める、残忍な民族性を示したが、黄河以北の殷人は征討されると王朝に帰順する民族性を示した事は、夏王朝の秩序に抵抗し続けた淮夷は、破壊的とも言える無秩序な民族性を有していたが、黄河以北の殷人はその様な人々ではなかった事を示唆し、殷王朝は夏王朝によって文明化した黄河以南の人々の一部が、その様な戦乱を逃れる為に黄河以北の地に移住した事を示唆している。

つまり縄文中期に華北平原に南下し、殺伐とした龍山文化を形成した人々の末裔は、縄文晩期寒冷期に黄河以南に移住したが、彼らは長期間、俀や夏王朝によって中途半端に文明化されながら、漢族を暴力的に収奪する状態を2千年以上続けてきた人々で、その集合である淮夷は最悪の民族になった様に見える。

秦末の動乱期にはその淮夷が結束して漢王朝を樹立したが、彼らは周代に日陰者としての生活を強いられる中で闇社会を形成し、mt-Dが周囲の民族を真似てコメや麦の栽培をし、情報ネットワークを形成して次第に結束力を高めていたが、弥生温暖期の終焉によって彼らの原初的なアワ栽培や盗作作物が不作になり、食糧危機に陥った事によって結束を高めたからである可能性も高い。

漢王朝が滅んでもこの地域の住民が入れ替わったわけではないので、元王朝が滅んで動乱が生れ、安徽省鳳陽県出身の朱元璋が明王朝を樹立した際にも、秦王朝の滅亡時も混乱に乗じて漢王朝が成立した状況と、類似した現象がこの地域の人々に発生した可能性がある。安徽省北東部~江蘇省西部は淮夷の子孫の居住域であり、白蓮教徒が紅巾の乱を起こした1351年は、気候が急速に寒冷化して縄文晩期より寒くなった時期だから、気候条件も類似していた。また明王朝の皇帝が死ぬと後宮の女性達を全員殉死させる制度は、殷墟の王墓から発掘された多数の惨殺死体や、魏志扶余伝に「貴族が死ぬと人を殉葬し、多い時には数百人になる。」と記された事情を髣髴させ、その傍証になるからだ。

 

8-2-2 商王朝の実態

史記の殷本紀に、「初代の契から湯に至る迄八回遷り、成湯が始めて亳に居した」と記されている。

現在の亳州市は商丘市の南、徐州市の南西にあるから、成湯は商の人だったと記している。アワ栽培者の人口は黄河の北の方が多くなっていたが、商のアワ栽培者は青州に入植した稲作者と接し、文明化して塩の商流に参加する事により、稲作民の文化の影響を受けて商侯を形成したが、文明の恩恵は夏王朝期には黄河の北に及ばなかったから、夏王朝期の末期に暴れたのは、商侯に扇動された商のアワ栽培者だった。

も商と同様に「高い丘の上に作った建物」を意味し、五帝代には生まれていた荊の集積地だから、五帝代のは荊の2大集積地で、はそれらと並置される、荊の地に形成された越人の商都だったと推測される。現代中国の夏県は解池の東にあり、「夏」漢字は製塩者の特徴を示す漢字だった事を示唆している。つまり「冠をつけた人の頭」の象形と「両手と両足」の象形から、冠をつけて両手・両足を動かす人を示す「夏」漢字は、製塩者の作業風景を描写したものだったと推測される。

八回遷って成湯が始めて亳に居した事は、栽培系狩猟民族だった成湯の一族は、野原を焼いてアワを数年栽培し、地力が衰えると新しい栽培地を求め、別の栽培地に移動する習俗があった事を示唆し、生産性が低かったアワの栽培事情を示している。狩猟者が移動すると縄張りの侵犯問題が発生するが、アワ栽培者の社会はこの様な状態だったのであれば、武闘的な摩擦が常在する危険性を孕んでいた。

気候の冷涼化が始まって荊が南下し始めると、その跡地の争奪を巡る闘争が繰り返えされた事を指したのであれば、史記が記す契から湯に至る迄は15世代もなかった。縄文後期温暖期の終焉時には気候が急速に冷涼化し、100年未満で青州から荊がいなくなり、間もなく商侯の履の動乱が起こった事を、尾瀬の花粉が示しているからで、大陸の気候の冷涼化は尾瀬より緩慢だったとしても、15世代は過剰にみえるからだ。

史記に詐称がなかったとすると、成湯の一族は地力が衰えるとmt-Dと共に新しい栽培地を求め、稲作者がいなくなった青州で他の集団と共に栽培地の獲得戦を行い、勝ち進んで最も肥沃なを手に入れるまでに、一族指導者が戦死して撤退する事も何度かあった事になる。

その6で示した様に、夏王朝最後の帝癸の即位年と、殷商成湯の即位年に3160N 年の関係があり、帝癸二十一年に商の帥が有洛を征したが、帝癸二十三年になっても帝癸は亡くなっていなかったし、殷商成湯十八年に成湯が王即位したから、N=0はあり得ない。N1であれば、有洛襲撃から成湯の即位までは70年で、N2であれば商侯の履が亡くなってから、100年程の動乱期があった事になるが、契から湯に至る迄(の15世代に)八回遷り、成湯が始めて亳に居したのであれば、N=3で動乱期は150年以上続いた可能性もある。

この場合の事情としては、夏王朝から王に任命されると他の酋長が入手できない塩や物資を独占的に入手し、各酋長にそれを配分する事にる利益が得られたから、王になりたい酋長を頂く多数の集団の盛衰が続き、夏王朝はその都度頭角を現した酋長を王に任命したが、最後の成湯が長期政権を樹立したから、その事績が竹書紀年に転記された事になり、戦国乱世の収束としては最もあり得るシナリオになる。

華北夏王朝を倒した商侯の履は、夏王朝が任命した王が統治する事により、交易秩序が維持される事は知っていたが、諸制度を悪用して武力を集積し、民衆を煽って塩の物流拠点を襲い塩を略奪したが、夏王朝が生み出した経済構造を知るには至っていなかったから、交易経済が破壊されると一般のアワ栽培者も困窮し、それを解決する為に殷商成湯が夏王朝に復帰したとすれば、商侯履殷商成湯の時代の間には、殷人が経済事情を学習する期間が挟まれていた事になり、それもN=2だった可能性を高める。

いずれにしても青洲の栽培地を巡る血みどろの闘争が100年ほど続き、それを制した成湯の一族が商の覇権を握り、未開な殷地方の商権も入手した事になる。武力が幅を利かしていた殷人集団に、法秩序があったとは考え難いから、成湯が小集団の酋長を夏王朝の社に集めて夏王朝の法規を説明する際に、地域集団間の規約も制定して武力で実施させる為に、最高権力者が王になったと考えられる。

殷人には塩と宝貝貨の流通に関する、夏王朝の法規を順守する義務はあったが、それは国際法でしかなく、殷王朝の域内統治は殷商王朝の裁量に委ねられたから、華北のアワ栽培民を強権的に支配する必要があった。商王朝がその為に中央集権的で武断的な政権を目指した事を、鄭州の巨大遺跡が示し、黄河以北ではそれほどの強権は必要なかった事を、規模を縮小しながら商都らしくなった殷墟が示している。

「殷商王朝」との記述は立派な朝廷を持つ王朝をイメージさせるが、成湯時代の「朝廷」は夏社への参集に過ぎず、それが鄭州の巨大宮城に発展したと推測されるが、殷周革命後に周に殷王朝の歴史を説明した殷人には、商代の記憶は不鮮明だったから、鄭州に巨大宮城があったとの認識もなかった可能性もある。

盤庚が殷邑を営み、以降の殷王朝の王や高官が自分達はであると認識していた事は、華北の現地勢力が殷王朝を形成したのではなく、民族移動的な北上者が殷王朝を樹立した事を示している。彼らが移住したと推測されるBC1500年以降は、縄文後期~晩期寒冷期に向かっていた時期だから、気候が寒冷化したのに北上した事になる。

気候が冷涼化すると湿潤化するから、青州が降雨量の増加によって森林化し、アワ栽培に適さない地域が増加した事も示唆している。乾燥地に生育する貧弱な樹木は、燃してしまうだけでアワの栽培地になったが、樹勢が盛んな樹林に火を放っても草原にはならないから、略奪農法的にアワの栽培地を変えていた農法では、降雨量が増えて樹林の形成速度が速くなると、栽培放棄地が森林になってしまう事象が多発した可能性もあるからだ。

殷墟に移動した殷人は盛んに青銅器を製作し、王権を装飾して武器を製作した事は、青銅が殷王朝の主要な交易品になった事を示唆している。磨製石斧を使っていなかったアワ栽培者の伝統的な農法には、森林を開拓する手法は含まれず、青銅は庶民には無縁の資源であり続けたが、九夷が青銅を重要な交易品としたので商の人々が、銅の産地を求めて殷に移住した可能性も高い。

縄文後期の甘粛省の斉家文化と馬家窯文化の説明でも指摘したが、食料の生産力が弱く人口が希薄な地域であっても、交易が活性化すると食料の交換も活性化され、その様な事情が生れなかった時期の、数倍の人口を養う事ができる様になる。黄河以北で青銅、獣骨、亀甲などの交易が活性化すると、その様な環境が生れて盤庚が殷邑を営み武丁が殷に居したと考えられる。それによって内モンゴルの高原から降って来て間もない、未開のアワ栽培者を商の交易者が支配する状況が生れ、殷王朝の経済的な繁栄に繋がったと考えられる。竹書紀年はその事情を、以下の様に端的に示している。

武丁元年 卿士に甘盤を命す。(何らかの作業集団を形成した事を示している。)

武丁三年 夢が傅を求め之を得る。(是非とも得たい知識や技能があった事を示唆している。)

武丁六年 卿士に傅を命し、學を視して老を養う。(高齢者が持っていた高度な技能を重視し、作業集団にそれを実践させた事を示唆している。)

以上の意味不明な記事は、経済活動を熟知していた周が記したものだから、効率的な銅の精錬技術を得た事や、青銅の鋳造技術を得た事を、この様に表現した可能性が高い。古事記の出雲神話で指摘した様に、この時期に高度な青銅の鋳造技術が、西ユーラシアから伝来したからだ。

河亶甲三年 彭伯が邳に克つ。

河亶甲五年 侁人が班方に入る。彭伯と韋伯が班方を伐つと、侁人が來賓した。

河亶甲盤庚より古い時代の王だが、ツングースと思われる彭伯韋伯が渤海沿岸で活動していた事を示し、息慎との交易活動が継続していた事を示唆しているから、息慎ルートで青銅技術を入手する事が可能だった事を示唆している。シベリアでは寒冷化によって河川の凍結が進行し、経済活動が破壊されていたから、彭伯韋伯には帰還する故郷がなかった事が、この様な状況を生み出したと想定される。

以上の仮説が事実であれば、未開な殷人は殷王朝に関する経済的な史実は伝承していたが、王朝の権力闘争には興味がなかったから、短命に終わった王に関する事績は忘れていたとすると、縄文晩期寒冷期に内モンゴルの高原から河北平原に南下した殷人は、古代人的な合理性を持っていたが、商から移住して殷地方を支配した人々の、残忍な習俗や権力闘争を文明であると勘違いし、漢王朝に支配された中華人以上に洗脳された結果、残忍で権力闘争に異常な関心を持つ民族に変貌した事になる。

商王朝や殷王朝は、塩を基幹とする交易の仕組みを夏王朝に依存し、河北夏王朝から河北の統治権を委譲されても、製塩技術や流通の仕組みを理解し、それらの生産集団や物流集団を接収する事はできなかったから、呉が青州から南下しても一部の越人は製塩業を続け、九夷は宝貝の供給を担い続けていたと想定される。殷周革命時に登場するがその様な製塩集団だった事を、次節で検証する。

九夷は塩や宝貝貨の運送を介し、華北の商流を掌握して殷人が生産した青銅や獣骨を引き取り、代わりに塩や華南の工芸品を支給する役割を一手に引き受けていたと想定され、殷末の紂王が九夷を九侯に任じた事が、その事情を示唆している。

九夷の商圏は渤海湾岸と渤海に流入する河川流域だったが、商圏は商品を販売するエリアであって、商品を仕入れる際には適用されない概念だから、九夷は俀人の商圏だった東シナ海では販売行為は行わなかったが、九夷の商流には荊が製作した高級陶器、箕子朝鮮の濊が製作した玉器、関東縄文人が製作した毛皮や漆器なども含まれていたと推測される。

アワ栽培者の塩の消費量は稲作民の半分以下だったとしても、殷人の人口は増加していたから、それらが殷人の酋長の有力な原資になった事は間違いない。塩は穀類との交換比率を操作する事が可能だから、塩を販売すれば租税を集める必要はなく、租税制度が生まれる以前に塩の販売による収税機能が確立していたと考えられる。従って商王朝の財政基盤は、塩や獣骨の販売を中核とする商業的な利益で賄われ、殷王朝期になるとそれに銅や亀甲の販売収益が加わったが、租税制度は未だ生まれていなかったと想定される。

租税制度を発明したのは、周王朝だった可能性が高い。周王朝期の宝貝貨は庶民が墓に埋納する程にインフレが進行し、塩の価値が低下していた事を示しているから、塩の価格操作によって税収を確保する事が困難になっていたからであり、法治国家だった周には、租税制度を創設する文明力があったからだ。史記の著者にはその事情が理解できなかったから、殷王朝の税制に関する創作物語が史記に記されている。

殷商王朝は中華の歴代王朝の中で、塩の売買に介入できなかった唯一の政権だったが、豊かな青銅の生産を掌握し、獣骨や亀甲の商流を財政基盤にしていた。しかし青銅の産地は華南にも生まれていたから、その取引を政治的に利用する事は難しかった。稲作民の様に海洋民族と連携していれば、世界の情報を集める事ができたから、世界的な経済変化に対応する事も、事前に準備する事もできたが、殷商王朝は夏王朝に従順ではなく、遼河の航行を阻害して息慎や粛慎とも対立したから、世界情勢に疎い民族にならざるを得なかった。殷周革命の終了直後に、粛慎が周に朝貢した事がその事情を示している。

 

8―2-3 殷王朝の青銅貨

殷王朝が銅の生産性を高めると、殷人の経済活動が活発化して宝貝貨の流通量が増え、殷墟から多数の宝貝貨が発掘される状況に至った。殷墟から宝貝を模した青銅品が少数発掘された事は、以下の様に解釈される。

殷王朝が青銅や獣骨の交易に使う宝貝貨の流通には、殷人の部族法ではなく夏王朝の法規が適用されたから、それを快く思わなかった殷人が、宝貝を模した銅貨を発行したから、殷墟から発掘された青銅製の宝貝はその残渣であると想定される。僅かな数しか発掘されないから、流通量が少なかった様に見えるが、ある時期には多量に流通した可能性が高い。この時代の青銅は貴重品だったから、貨幣ではなくなると鋳潰され、原型を留めなくなるタイプの物品だったからだ。

この時代の銅は高価であり過ぎたから、少額貨幣である宝貝貨の代用にはならなかったが、銅の生産力を過信した殷人が敢えてそれを試み、ある時期には貨幣として流通したから、僅かな数の青銅貨が残されたと想定される。通貨より物品としての銅の方が高価地だった時代に、宝貝を模した貨幣に多量の銅を使用したので、殷王朝がその運用を諦めると青銅貨は鋳潰され、銅貨より高価な銅塊になったから、殆どの銅貨は鋳潰されたと考えられるからだ。

夏王朝の法規が殷人社会にも浸透している事を殷王朝が不満に思い、宝貝貨に対抗する為に多数の銅製宝貝貨を製作すると、殷墟では一時期青銅貨が流通したと想定される。しかしそれを地金に戻すとより高い価値が生まれる事が知れ渡ると、「悪貨(宝貝貨)が良貨(青銅貨)を駆逐する」典型的な状態だったから、退蔵が進んで流通量が減少する事は、経済の法則として必然的な結果だった。

その様な状態が始まると、王朝は普及を推進する為に地金にする事を禁止したと推測されるが、人々は退蔵する事を止めずに宝貝貨を優先的に使い、青銅貨を作る為に王朝が投入する地金の浪費が進んでも、普及は進まなかったと推測される。その結果何処かの時点で、王朝が青銅貨の発行を諦め、地金に戻す事を禁止していた法規を取り下げると、宝貝貨だけが流通する元の状態に戻っただろう。すると青銅貨を退蔵していた人々が一斉に、公然と銅貨を地金に戻したから、銅製の宝貝貨は殆ど存在しなくなったと推測される。

宝貝貨が流通する仕組みを理解していなかった殷王朝が、その様な施策を強行したが失敗した痕跡が、僅かに遺された銅製宝貝貨だったと想定される。希少なコレクターが遺した青銅貨が発掘されたのは、殷周革命に敗れた紂王が宮殿に火を放って自殺したが、全焼しなかった殷墟に多量の遺物が遺されたから、その様な青銅貨も発掘されたと考えられる。

宝貝貨の供給によって利益を得ていた九夷が、その様な殷王朝の施策に対し、指を咥えて見ていた筈はなく、企画を諦めさせる為に色々な事を行ったと想定される。最も有効な対抗処置は、王朝内に流通する宝貝貨を増やす事だったから、殷人から獣骨を引き取る際には過分の宝貝貨を支給し、殷人社会の宝貝貨の流通量を増加させ、更に殷人が宝貝貨を使って九夷から何かを購入する場合にも、宝貝貨を使う者には商品の価格をディスカウントし、宝貝貨が殷人社会に多量に残る事を画策しながら、宝貝貨を使用する動機付けを行ったと推測される。

もっと積極的な策として、殷人の銅貨を銅の価格で引き取り、それに必要な宝貝貨を割り増し支給した可能性もある。九夷がそれを地金に戻しても損はしなかったし、殷人は過分の宝貝貨を得る事ができたからだ。但しこれは殷人に王朝への不服従を促す行為だったから、可能性の指摘に留めるべきかもしれない。しかし銅貨推進派の殷人の結束を切り崩す為に、反対派への賄賂として多量の宝貝貨を贈った可能性はある。

宝貝貨の価値を維持する為に夏王朝が課していた法的義務は、要求があれば誰に対しても宝貝貨と塩の等価交換を行う事だけだった筈だから、越人の製塩業者と九夷が連携すれば、上記の対策の実施は難しくなかった。越人は塩の増産が可能だったし、俀人が沖縄で採取し、九夷に提供していた宝貝も増産は容易だったからだ。更に言えばそれらの物資は、華南の稲作民が多量に消費していたものであって、アワ栽培者の需要はその一部に過ぎなかったから、アワ栽培者用の物資を2倍に増産しても、それぞれの生産者の負担はさほどではなかったからだ。

それを知らなかった殷王朝の企画が頓挫した事を、銅製の宝貝貨は殆ど残っていない事が示しているとも言える。

関東部族はヒスイ加工品や矢尻を貨幣として使ったが、これらの流通は九州には及んでいなかったから、九夷は貨幣経済を十分理解していなかった可能性があり、この様な対策の知恵袋は俀人だった可能性が高い。

文明化した稲作民族と接する機会がなかった、黄河以北の殷人は交易ルールを無視する風潮が強く、この様な思い込みに走ったと推測される。銅貨には素材の価値があるから、材料価値がある青銅貨が他に使用価値のない宝貝貨を駆逐するだろうとの発想は、合理性を欠いた思い込み的な思考の産物だが、現代でも経済理論に疎い人が陥り易い陥穽でもあり、この時代の殷人がその様に考えた事に違和感はない。

いずれにしても殷王朝が銅貨を発行した事は、銅の生産量がかなり高まっていた事を示し、殷墟から発掘される多数の青銅器がその証拠を示している。

銅の生産性が高まって経済が活性化し、それによって増加した塩の需要を、越人が生産性の高度化によって対応すれば、塩の相対価値が低下して次第に宝貝貨のインフレが進行した。それに伴って宝貝貨の使用者が増加し、一人当たりの蓄積量や使用量が増えた事を、殷墟から発掘された多量の宝貝貨が示している。これは産業化された社会で経済が発展すると、自然に発生する一般的な法則になる。

九夷はそれに応える為に、殷人社会に塩と宝貝貨を運び込み、その対価として獣骨や青銅を得たと考えられる。縄文晩期になっても海洋漁民には旺盛な獣骨の需要があり、焼畑農耕者は透閃石岩で作った磨製石斧より、耐久性が高い青銅の斧を欲していたからだ。南シナ海北岸で焼畑農耕による稲作を始めた粤人も、青銅の大口需要者になったと想定され、殷王朝の繁栄は青銅器時代の申し子として生まれたと考えられる。

弥生時代に銅鐸や銅剣・銅矛が祭祀に用いられたのは、鉄器時代になって青銅器が使われなくなり、蓄積されていた青銅も余剰品になったからで、それ以前の青銅の主要な用途は、焼畑農耕だったと考えられる。祭祀に用いられた銅器は秘かに埋められたから、その発掘には極めて稀な偶然に期待する状況があり、全て発掘されれば膨大な数になる筈だが、その様な量の青銅が余る事情は、焼畑農耕以外にはないからだ。

日本には青銅器時代がなかったと主張する考古学者は、その時代の青銅器が発掘されていない事を根拠にするが、広東近辺の粤の遺跡でもこの時期の青銅の斧は発見されず、伝統的な石斧しか発見されていない。しかし石斧が発掘されている事が稲作民族の南下を示し、広東地域の現在の遺伝子分は、縄文晩期に台湾からこの地域に、焼畑農耕による稲作が伝搬した事を示している。つまり考古学的な発掘実績は、歴史を考察する参考資料にはなるが、歴史認識を左右する重要因子ではなく、諸事情を交えて考察する要素の一つに過ぎない。

青銅は貴重品で鋳潰せば価値が再生したから、住居址から伝統的な石斧が発掘される事はあっても、青銅の斧が発掘されない事に違和感はなく、考古遺物が墓から発掘される宝物的な物品に偏在している事の方が、違和感がある。

 

8-2-4 周王朝の宝貝貨

周王朝期には庶民の墓に宝貝貨が埋納され、貴族墓に限定されていた殷代と比較すると、宝貝貨が更に普及した事を示している。周の都があった西安は青海湖に近いから、周王朝はその塩によって宝貝貨の兌換性を維持し、宝貝貨の発行主体になったと推測され、その豊かな塩の供給とY-R民族の交易性の高さが、産業を活性化させて宝貝貨のインフレを亢進した事が、この様な状態に繋がったと考えられる。

殷人には流通業者を介して塩を購入する必要があったが、周は秦人が青海で製塩した塩を利用したから、周の都があった陝西省の住民は、殷墟の住民より廉価な塩を入手できたと推測され、殷代より多数の宝貝貨が周の拠点から発掘されたからと言って、周の拠点が殷墟より経済的に繁栄していたとは言えない。

いずれにしても周代の金文に、銅を宝貝貨の価値に換算する文章があるから、周代になっても宝貝貨には銅より確かな価値基準があった事になり、塩との兌換性以外にそれを満たす候補はない。宝貝貨と塩の交換比が夏代から変わっていなければ、製塩技術が発達して生産性が向上した上に、産業経済の発展によって物資の流通が盛んになった事が、塩の価値を相対的に低下した事は間違いなく、庶民も塩を多量に消費する程にインフレが亢進し、価値が下がった宝貝貨を頻繁に使った事を示している。

夏王朝と敵対し始めた周王朝の拠点に、宝貝貨は流通していた事になり、周は夏王朝と敵対すると宝貝貨の使用を止めたのか、庶民はその様な王朝の都合に関わらずに使用を継続したのかは、宝貝貨が発掘された墓の年代を精密に計測すると判断できるが、それに関するデータは公表されていないし、周が夏王朝と敵対し始めた時期も明らかではない。歴史学者は西周代に夏王朝が存続していたとの認識もないから、歴史学者に多くを期待する事はできない。

いずれにしても宝貝貨には無尽蔵の供給力があり、流通量が桁違いに増えても貨幣が不足する事はなく、経済の発展に伴って流通量を増やす事ができたから、貨幣としての価値が極めて高かった。これは現在の紙幣や硬貨と同じ性質の通貨だから、現代の経済事情から宝貝貨の流通事情を窺う事ができる。

金や銀の通貨にはその様な融通性がなく、通貨の不足が経済の発展を阻害する場面もあったが、その制限がなかった宝貝貨は、中華世界に経済が発展しやすい環境を提供した。揚子江以南の稲作民の経済活動が、縄文晩期寒冷期なっても発展したのは、それ故だったとも想定されるが、宝貝貨にはインフレが進み過ぎる課題もあった。しかし宝貝貨がインフレによって価値を失うと、タイミング良く鉄器時代が始まって銅が必需品の座から転落し、銅が過剰供給状態になったから、華南では青銅貨を鋳造する機運が生まれた。

しかし周は逆に塩や青銅などの有力商品を失った上に、鎖国政策を採用したから華北経済が停滞し、稲作民族の経済活動が空前の活況を呈した春秋時代になっても、華北では通貨としては使い難い布銭や刀銭が使われた事が、その事情を示唆している。

宝貝貨の普及はインフレを伴ったから、その亢進速度を華北の使用状況から窺う事もできるが、それが稲作民の経済事情を反映していた保証はない。インフレ事情と経済の活性化度合いが、リンクしていた保証はないからだ。つまり華北経済が完全に孤立していた筈はなく、塩との交換比率は同じだった筈だから、華南のインフレ事情は華北より進んではいたが、ある程度は類似していたと推測する事も可能だが、現在の状況と照らし合わせると、極めて確度が低いと言わざるを得ない。

華南経済の活性化の程度は、王朝世代が一つ進んでいる様な状況だったと想定し、周王朝のインフレ状態が華南の殷代の状態だったとすれば、歴史事象と整合する可能性がある。つまり周王朝期の稲作民社会で宝貝貨がビタ銭になり、些細な物品の購入に際しても、多数の宝貝貨を使う必要が生まれていたから、鉄器が普及すると早々に青銅貨が生れた可能性がある。

宝貝貨が使われなくなったのは、インフレを起こして価値が低下したからで、鉄器時代になって青銅が余剰になったから、青銅を使うデノミ政策が可能になった事が、その契機になったと考えられるが、インフレの高進が使用者に不便を強いる以前に、俀人に宝貝貨の供給意欲を失わせた事が、重要な要因になった可能性の方が高い。つまり宝貝貨の価値が下がり過ぎて使い難い状態になる前に、宝貝の採取と加工に掛けるコストが見合わなくなり、俀人が宝貝の供給を放棄した時点で、楚貝貨の発行が必要になったと想定される。

縄文土器が発掘される上海の馬橋文化(BC2000BC700年)の継続性が、その時期を示している。俀人が馬橋を去ったのは、宝貝の加工を止めたからだと考えられるからだ。従って馬橋遺跡が途絶えたBC700年頃には、楚貝貨の発行が始まっていたと想定されるが、宝貝貨は夏王朝にとって重要な政策であり、稲作民族の経済活動を左右するものだったから、楚貝貨の流通が安定しなければ、宝貝貨の発行を停止する事はできなかった。それを前提にすれば楚貝貨の発行は、それより100200年早かったとの推測が常識的な判断になる。

それを論理的に展開すると、鉄器時代になると青銅が余り始め、楚貝貨を多量に発行すると青銅の価値が維持されたが、その需要も満たす様になったB400年頃には、東アジア全体で青銅が余る様になり、日本列島で青銅の祭祀器が盛んに作られる様になったと考える必要がある。その7で示した様に、BC1000 頃には鉄器時代が始まっていたから、その頃から楚貝貨の発行が始まり、BC700年頃に宝貝貨の供給が停止し、BC400年頃の日本では青銅の祭器が生れ、青銅は明らかに余る状態だった事を示している。

この仮説によって時代の流れと鉄器の普及状況がリンクし、殷王朝の崩壊は主要な産品だった青銅の、価格が下がり始めたからである事になり、日本列島で青銅の祭祀器が盛んに作られたのは、鉄器が普及して青銅が余剰になったからである事になり、AD200年頃にそれらが山野に埋められたのは、銅塊に戻しても買い手がいなかったかである事になる。

銅貨の発行に失敗した殷人と、楚貝貨の発行に成功した稲作民には大きな違いがあったので、それに付いて説明する。

材質に価値がない貨幣に価値を付加する為には、発行主体が十分な量の兌換品を用意し、その交換比率を保証する必要がある。夏王朝はその為に設立された側面もあり、規約によって宝貝貨と塩の交換比率を決めたから、宝貝貨の価値が保証された。

しかし塩を生産していなかった殷人に青銅貨の価値を決める力がなく、それに必要な高度な貨幣概念もなかったから、銅貨を宝貝貨より高額な貨幣にする意識がなく、宝貝貨より価値が高い銅を使えば、宝貝貨を駆逐する事ができると単純に考えたが、価値の標準化を背景に膨大な量が流通していた宝貝貨に対しては蟷螂の斧の様な存在でしかなく、標準化を達成する事はできなかった。単純な等価価値品であれば普及通貨を置き換える動機がないし、その発行コストが普及品より高ければ存在価値もないからだ。

楚貝貨の場合には登場した時点で、交換比率を宝貝貨10個分とか100個分の塩との交換比を設定すると、夏王朝の法規に慣れた人には分かり易い指標だった。鉄器時代になって青銅が余り始めると、発行コストは殷王朝より廉価になっただけではなく、交換比率を宝貝貨10個分として発行費用を賄えば、発行者に経済的な負担がなく、調達できる素材の限度まで発行量を増やす事ができた。俀が発行量が充足するまで宝貝貨を発行し続けたのは、終末期には赤字になっても、青銅貨の発行による利益でそれを補填できたからであると推測され、本来の宝貝貨の寿命はBC1000年頃には尽きていた可能性が高い。

しかし楚は塩の生産地ではなく、塩によって楚貝貨の価値を保証する事はできなかったから、青銅の価値が低下すると共にインフレが進行し、春秋時代末期には流通価値の低下は免れなかったと推測される。

楚貝貨は多数発掘されているが、時代を特定する手段は、埋葬されていた墓が作られた時期を、墓の形式の変遷から追跡するしかなく、墓以外の場所から発掘されたものも多数ある為、発行が始まった時期を考古学的に確定できない事情があったが、上記の論理を使えば確度が高い推定が可能になり、鉄器時代が始まった時期の推測も可能になる。

大陸の弥生温暖期はBC800年頃に始まったから、BC770年に周王朝が西安から洛陽(東都)に移動したのは、温暖期が始まって華北の経済状態が激変した事により、政治体制も変化した事を示唆している。財政基盤を塩の流通に依存する交易的な西周王朝から、租税収入に頼る農耕民族的な東周王朝に変ったのは、温暖化によってアワ栽培の生産性が高まり、余剰農産物が増加すると塩の価値が相対的に低下し、塩の価格統制による税収の相対的な価値が低下し、租税収入に頼る必要が生れたからである可能性があるが、春秋時代の歴史はその様な単純なものではなくなっていた。

楚貝貨は各地から多量に発掘されるので、その分布から弥生温暖期の稲作者の北上域を推測すると、揚子江流域と淮河の支流域には発掘事例が多いが、黄河流域には殆どなく、使用者は楚や呉の領域に偏在していた事を示している。つまり宝貝貨は殷墟や周の都から発掘され、華北でも流通した事を示しているが、楚貝貨が洛陽を含めた黄河流域では発掘されない事は、周の統治領域では宝貝貨が発行されなくなると、通貨が失われた事を意味する。布銭や刀銭は発掘されるが、これらは使用する青銅の量が多く、小口貨幣として機能した宝貝貨や楚貝貨の代用にはならなかったからだ。

夏王朝と敵対していた周王朝は、夏王朝に参加していなかった倭から宝貝貨の供給を受ける事ができたが、楚や呉が発行した楚貝貨は受け取る事ができなかったから、或いは受け取る事を拒否したから、周王朝の支配地だった華北では、アワや塩を通貨の代わりに使用する、原初的な経済に戻る不便を強いられた事になる。

夏王朝に参加していた俀が宝貝貨を製造していたから、周が倭を介してそれを入手していた事に違和感があるかもしれないが、宝貝貨を製造していた事業者には事業者としての都合があり、俀だけがその需要者ではなかったし、特に薩摩半島の事業者の顧客は倭だけだったから、薩摩半島が俀の支配地域だったとしても、その事業者が倭への供給を止めるか否かは、俀の権限外だったと推測され、周の拠点だった西安から宝貝貨が発掘されている事が、その事情を示唆している。

周王朝から宝貝貨が失われたのはB700年以降だった可能性が高いが、いずれにしても宝貝貨失われると、華北では通貨がない原初的な生活に戻らざるを得なかった。しかし漢族の諸侯にとっての周は、殷人から解放して貰った恩義だけではなく、殷人の農地を接収して漢族に分配して貰った恩義もあった。その様な周を漢民族が洛陽に迎えて東周が成立したのは、その様な恩義だけではなく諸侯としての身分制も、周王朝の封建制によって保障されていたからだと推測される。

黄河の中下流域から多数の布銭や刀銭が発掘され、世間的な価値がある程度認定されていた事を示し、地域政権が軍事行為などの恩賞として、これらの銅貨を発行した可能性を指摘できるが、貨幣と言えるものではなく、贈答用品や蓄財品程度の利用価値しかなかったと推測される。しかし発掘至上主義の考古学者は、墓から多数の宝貝が発掘される華北だけが、宝貝貨が使用された地域だったと言い張るから、歴史の解釈に深刻な問題が生まれている。

楚貝貨の分布域が淮河の支流域に達しているが、鄭州、開封、洛陽には達していない事が、稲作者はアワ栽培者のいない地域には即座に北上できたが、アワ栽培者がいた地域には北上できなかった事を示しているとすると、縄文晩期寒冷期の淮河流域は、無人地域だった事になる。これはアワ栽培者が、森林地帯とエノコログサが繁茂する地域には南下できなかった事と、大陸とは長い間海や湿原によって隔てられていた江蘇省や山東省は、その例外だった事を示している。

縄文晩期寒冷期は、縄文中期寒冷期より2℃ほど低温化したが、一旦群落や群生を形成したエノコログサは、遺伝子の多様性によって気候の冷涼化に耐え、群生地が南下しなかった事を示唆し、矛盾がない状態を示している。現在のエノコログサの種の多さを勘案すれば、妥当な事情であると考えられ、春秋時代の淮河流域の栽培者は稲作者で、アワ栽培者は黄河流域に留まっていた事になる。

楚貝貨の分布域より北にある山東・遼寧の現在の遺伝子は、アワ栽培者だったmt-D+M8a48%、稲作者だったmt-B4+F17%、その他は殆どシベリアから南下した遺伝子だから、弥生温暖期が終わった時点での遺伝子分布は、アワ栽培者が74%で稲作者が26%だった事になり、山東・遼寧より温暖な淮河の支流域は、弥生温暖期になると再び稲作地になった事になる。弥生温暖期は縄文後期温暖期より1℃低温だったが、縄文晩期寒冷期に温帯ジャポニカの耐寒性が高まった上に、荊には耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培するmt-B4が浸潤していたから、縄文後期と同じ状態が出現した事に違和感はない。

竹書紀年が春秋時代に最も早く王を称したと記しているが、史記では触れていないは、弥生温暖期に北上した稲作民の国だったとすれば、史記が黙殺した事情にも繋がる。つまり史記は春秋時代の淮河流域に、アワ栽培者の小国が多数生れたかの様に記しているが、それは史記が創作した歴史であって、実際の淮河流域は稲作民の地域で、当初は呉が支配する地域だったと推測される。呉が越に吸収されると楚が夏王朝を継承し、楚が夏王朝を放棄するとが生まれた事になるが、竹書紀年にはに関する記事が少なく、実態は不明。

 

8-3 交易品目の拡充

8-3-1 漆加工品

ウルシ加工の歴史は鳥浜貝塚から発掘された、12600年前のウルシの木片の検証から始める必要がある。氷期の日本列島にウルシの木はなく、ウルシ樹も利用技術も大陸起源であると想定されるから、鳥浜貝塚から発掘されたウルシの木片は、16千年前に日本列島に上陸した原縄文人が、堅果類やアサと共に持ち込んだ事を示しているからだ。

当時の用途が装飾品の素材だったとは考え難く、沖縄系縄文人が矢尻を固定する為の接着材として持ち込んだと想定されるが、北陸縄文人は弓矢の使用者だったY-C1を含まなかったから、北陸縄文人の勢力圏だった鳥取で栽培されたウルシは、矢尻を固定する用途ではなく、磨製石斧を柄に固定する接着剤だったと想定される。つまりウルシを利用し始めたのはY-O2b1mt-M7aペアで、彼らがウルシを栽培し始めたのは、石垣島系と沖縄系の原縄文人が分離する前の、海南島~台湾時代(3万年前)に遡る事になる。

彼らがウルシの栽培を始めたのは、打製の尖頭器を付けた槍などを狩猟具としていた時代に、磨製石斧を木の棒に取り付ける道具として、ウルシが有用である事を発見したからで、それを栽培する様になった動機は、磨製石斧を使って伐採する樹木は、打製石斧を使って倒す動物の皮や肉より遥かに硬く、石斧の打撃力を樹木に有効に与えて伐採する為には、磨製石斧を柄に強力に固着する技術が必要だったからだと考えられる。

しかし原縄文人に磨製石斧の作り方や使い方を教えた原日本人は、4万年前から磨製石斧を使って船を製作していたから、3万年前の原縄文人にとって漆がなければ磨製石斧が形成できないどの、必須の素材ではなかったと推測される。しかし4万年前の原日本人はアサより剛性が高いシナノキの樹皮を使い、蛇紋岩製の磨製石斧を棒に縛り付けていたと推測され、アサより強力な固着が可能だった。

3万年前の原縄文人はアサを使って石斧を木の棒に縛り付けたが、固着力が弱く原日本人の様に効率的に樹木を伐採できなかったから、それは柄と石斧の固定強度が不十分であるからだと認識した原縄文人が、石斧を縛り付けたアサ紐にウルシを垂らして固着力を高めた事が、その使用の始まりだったのではなかろうか。この論法の当然の帰着として、縄文人の固有種だったアサの栽培も、磨製石斧の強度を高める為に進化したと考えられる。

原縄文人は磨製石斧を使う事により、陽樹である故に樹林形成に樹木の伐採が必要な、冷温帯性の堅果類の栽培者になったのであり、それ故に当時は冷温帯域だった台湾に北上できたのであり、ウルシもアサも冷温帯性の植生だから、原縄文人は台湾に北上してからウルシとアサを栽培する様になった事になるから、ウルシやアサの栽培化と磨製石斧の進化は一体的に捉える必要がある。

原日本人が船を作る為には、伐採する樹は10本未満で良かったが、原縄文人が堅果類の実る里山を作る為には、多数の樹木を伐採する必要があったから、原日本人の石斧より効率を高める必要があったが、両者が求める効率に大きな違いがあったとは考え難い。しかし技術は目標が明確であり、改良する為の資源に恵まれていれば、達成にさほど時間が掛からない事は常識的な事実でもある。

また原日本人の直接的な生産行為は、船を作る事ではなく漁労を行う事だったが、原縄文人が栽培していた冷温帯性の堅果類は、樹林を形成する為に既存の樹木を伐採し尽くす行為により、ドングリが得られる樹林を形成する事ができたから、より広い樹林を形成する事に対する意欲が、即ち磨製石斧の性能向上に賭ける意欲が、原日本人より遥かに高かった事は間違いない。

原縄文人は台湾に北上すると蛇紋岩を豊富に入手し、冷温帯性の植物資源に恵まれていたから、目標となる性能が明らかな状態で色々な樹木を試し、ウルシの利用技術を生み出したとの論理的は分かり易い。樹木栽培者だった原縄文人には、ウルシ樹の改良を速やかに進める技能が既にあり、樹木の伐採技能が高まると堅果類の樹林だけではなく、アサなどを栽培する菜園も形成する事ができたから、樹木の伐採技能を高める目標が次第にエスカレートしていく事も、必然的な結果だったからだ。

一旦新製品の開発を始めると、当初の目標を達成しても更に改良を加える努力が続けられ、やがて当初の目標を大きく凌ぐ新製品に至る場合も珍しくなく、優良なウルシが採取できる様になってもその原則が発揮され、更に優れた栽培種にしてしまったから、小さな矢尻を強力に固定できるウルシになったと想定する事も、人間の本質として無理がない説明になる。生産性が落ちた老樹を伐採し、生産性が高い樹林を維持する様になると、品種改良の為の樹木の回転率も高める必要が生れたから、石斧の伐採効率の向上は食糧の増産だけではなく、食料の質の向上にも役立ったからだ。

ウルシ樹はかぶれやすく、身近にあれば危険な樹種でもあるが、必要だったからそれを数万年掛けて現在の品種に改良し、その過程で複数の栽培種が生まれたから、大陸も含めて現在の山野に生えているウルシ樹には、栽培種が野生化したものも多分に含まれていると考える必要がある。

その様な沖縄系原縄文人集団にY-C1が参加すると、矢尻を矢柄に固定する素材としてウルシが使われ、アサを弓に利用する事により、水鳥や小動物を狩る貧弱な狩猟具だった弓矢が、中型の野生動物も狩る事ができる実用的な狩猟具になったと想定される。しかし現在の石垣島にY-C1はいないから、Y-O2b1だけで構成された石垣島系縄文人は、弓矢文化を持っていなかったと想定され、12600年前の鳥取のウルシは磨製石斧の為に栽培されていたと推測される。つまり中・小型獣までを狩猟対象にできる程に矢尻を強力に固定できる、強力な接着力を有するウルシは沖縄系縄文人の固有種だったと考えられる。

縄文人が渡来した16千年前から、日本では細石刃を伴う遺跡が急増する。日本列島で細石刃を使う場合は、木の棒にウルシで細石刃を固着したと想定され、日本で細石刃が盛んに使われた事は理に適っている。細石刃に限らないが、考古学者は石の割り方に拘り、割れた石が石核に復元できると大騒ぎするが、石器の使い方の研究は疎かになっているので、この様な見解は見た事がないが、上記には彼らを納得させる論理性がある。

何でも大陸起源と言えば、起源を探究する労力が省けて仕事が楽になるので、考古学者はその状態に安住しているが、大陸でも細石刃が使われていたと主張するのであれば、それを棍棒に固着するのに使われた技術も明らかにする必要がある。当時漆を栽培していたのは日本列島の縄文人だけだったから、細石刃を装着した棍棒の製作者は縄文人だった可能性が高いからだ。

氷期に日本海が結氷すると、北陸の原日本人は石垣島に移住せざるを得なかったが、彼らにも日本列島や大陸の狩猟民族から継続的に獣骨を入手する必要があり、狩猟民族との交易品があったと考えるべきであり、同一部族が2種類の狩猟具を並行的に開発した可能性は低いが、競争的に活動していた二つの部族が別の狩猟具を開発する事は、極めてあり得る事だった。

関東の原日本人が中部山岳地帯の狩猟民族と交易を行っていた事は、3万年前の関東の遺跡から、神津島の黒曜石が発掘された事が証明している。関東の原日本人が狩猟民族から得たかったものは獣骨で、その代わりに狩猟民族が得たものは海産物だったと想定され、関東の海洋漁民は3万年前から、獣骨を使った銛で漁労を行っていた事を示している。北陸の原日本人も獣骨を必要としていた事は、新潟県十日町市の信濃川流域の多数の遺跡から、15千~14千年前の魚の脂が付着した土器が、多数発掘された事が示しているから、北陸の原日本人も氷期から、狩猟民族から得た獣骨で銛を作っていたと考えざるを得ない。

弓矢を使っていた沖縄系縄文人には、狩猟を効率化する為に細石刃を別途開発する動機は乏しかったから、細石刃を装着した棍棒は石垣系縄文人の作品だったと想定され、石材が乏しく石の加工技術が貧弱だった石垣島の縄文人は、石材の豊富な大陸の狩猟民族が加工した尖頭器を棒に固着し、やがて細石刃を棍棒に加工する作業も請け負った可能性が高く、それが氷期の北陸部族の交易手法だったと想定される。

尖頭器と棒が固着されると獲物に与える打撃力に棒の重さが加わり、尖頭器を軽くしても高い打撃力が期待できるし、投げ槍の命中率も高まるから、氷期の石垣系縄文人の交易手法が、細石刃に発展したのではなかろうか。

その前提で狩猟民族が尖頭器を小型化すると、水晶や黒曜石で小型の鋭利な尖頭器を作る事が可能になり、更に槍の性能が高まる。その様な尖頭器が茨城県笠間市小組遺跡などから多数発掘され、水晶で尖頭器を製作した事例もあるから、縄文草創期の日本のY-C3はシベリアの狩猟者より、効率的に獲物を狩っていた可能性が高い。

石槍は突くか投げる事しかできないが、細石刃を装着した棍棒は薙刀や刀の様に使う事もでき、鋭利でありながら軽い狩猟具だったから、尖頭器の進化系狩猟具だった可能性が高い。

縄文人の活動期の項で、シベリアに弓矢が普及した過程を追跡したが、それ以前に細石刃が普及していたとの指摘もあり、石垣島の原日本人が大陸の狩猟民族に持ち込んでいた事を想定しなければ、大陸で細石刃が使われた経緯は説明できない。水晶で尖頭器を製作した茨城県笠間市小組遺跡の様に、狩猟民族が尖頭器や細石刃を製作し、それを槍や棍棒に装着する加工を、石垣島の縄文人が請け負っていた可能性が高いが、彼らが北陸に上陸した時代は明らかではなく、日本海の氷結が解消した2万年前以降であれば、北陸縄文人の仕事だった可能性が高い。

沖縄系縄文人は16千年前に日本に上陸したが、その頃の日本列島の狩猟具は細石刃が主流で、弓矢が日本列島に普及したのは12千年前以降だから、その間は細石刃を装着した棍棒の方が有力な狩猟具で、その後弓矢の技術が進化して狩猟具の主流になったと考えられる。鹿児島県大崎町の12800年前より古い土層から、細石刃、土器、石鏃が一緒に発掘された事は、この頃が併用期だった事を示している。

日本特有の形状と言っても良い無茎石鏃は、矢に固定する端子がないから接着剤で矢柄に固定する必要があり、ウルシを生産できる日本独特の形状だったと考えられる。縄文早期の九州で、既に無形石鏃と言える三角形の矢尻が使われていたから、弓矢は矢尻を漆で固着する事によって完成したのではなく、原縄文人にとっては日本列島に上陸して初めて見る、黒曜石やサヌカイトなどのガラス質の鋭利な石材を、小さな矢尻に加工して矢を形成する技術が生まれた事により、シベリアの狩猟民族にも推奨できる優秀な狩猟具になったと考えられる。

以上の結論としては、ウルシ樹は縄文人の固有栽培種で、その栽培起源は3万年以上遡り、沖縄系縄文人と石垣系縄文人は、それぞれ別のウルシ樹を開発したと考える必要がある。北陸部族は縄文前期に沖縄系の漆を導入し、弓矢の大量生産を開始したから、それ以降は北陸系の漆が野生化し、野ウルシになった可能性がある。

細石刃と石鏃が一緒に発掘された12800年前は、ヤンガードリアス期の最寒冷期だから、鳥取は現在の北海道の様な気候だったと推測され、原初的なウルシは寒冷な気候でも栽培できる、冷温帯性の樹種だった事を示している。現在の北海道にもウルシの野生群があり、堅果類の北限より冷涼な気候に適合している。現在のウルシ樹はそれを品種改良し、温暖な地域でも質の良いウルシが採取できる品種にしたものだが、現在より気候が温暖だった縄文時代には、気候が冷涼な北海道や東北の山間地でウルシ樹の品種改良が進み、これらの地域で装飾的なウルシ技術が生まれたと考えられる。

関東部族が冷涼な八ヶ岳山麓でウルシ樹を栽培し、北陸部族が浅間山麓でウルシ樹を栽培した事は既に指摘した。

東北の縄文遺跡から漆を吸った糸が発掘されたが、接着性がある素材に繊維を混ぜて材質の強度を高める事は、現在も行われているから、ウルシを有効に使う知恵だったと考えられ、東北北東部でもウルシ工芸品が発達したのは、その地域の縄文人にはY-C3が少なく狩猟民族としてY-C1が多かったからだと推測される。

mt-M7bmt-M7cも堅果類の栽培者だったが、暖温帯性の堅果類の栽培者が、ウルシ樹を栽培していた可能性は乏しく、ウルシ樹の栽培起源者は原縄文人だったと確定しても良いだろう。現在は華南でも栽培されているが、標高600m以上の高地で栽培されている事に留意する必要がある。

9千年前(縄文時代早期)の函館の垣の島B遺跡から、赤い漆が塗られた装身具が発見され、縄文前期(70005500年前)の鳥浜貝塚の遺跡から、漆が塗られた赤い櫛が発見された事は、装飾的な漆技術も日本発祥だった事を示している。9千年前~縄文前期は現在より67℃温暖で、当時の函館は現在の西日本の様な気候だったから、それが当時のウルシ樹の南限だったとすると、この地域が漆器技術の発祥地だった事と整合する。

縄文前期~中期に量産した輸出用の弓矢にもウルシが必要だったから、関東や北陸から出荷された矢に矢尻を固定するウルシは、冷涼な中部山岳地帯で栽培していた。八ヶ岳山麓に多数の縄文人が集住していた目的の一つが、ウルシ樹の栽培であれば、八ヶ岳山麓に多数の縄文人集落があった理由と、弓矢産業の衰退と共に集落が失われた理由を説明できるが、それ以外の理由は見付からない。

従って東北北部と道南を縄張りとした部族が漆器技術を進化させ、鳥浜貝塚の赤い櫛も、彼らが製作したものだったと考える必要がある。関東や北陸の縄文人は漁民の交易活動に参加し、経済活動を活性化させていたが、東北・道南の縄文人はその様な活動から疎外されていたから、商品になり得る人工物を創出する必要性から、自域内で調達できるウルシと顔料に注目したと推測される。

その観点で更に絞り込むと、出雲部族と対馬部族も弓矢を生産する交易活動を活発に行っていたから、漆器技術を高めたのは伊予部族の縄文人だったと推測され、その中でも道東でヒエを栽培する事も出来なかった下北、亀田半島、日高山脈の、太平洋沿岸などがその有力候補地になる。その様な遺跡である垣の島B遺跡から、赤い漆が塗られた最古の装身具が発見された事は、縄文人の経済活動の必然的な帰結を示している。

但し東北と北海道の縄文人は皆沖縄系で、彼らには特定部族に厳格に帰属している意識はなく、技術の相互拡散があった可能性が高いから、鳥浜貝塚の赤い櫛を製作したのは伊予部族の縄文人だったとは限らない。

関東や北陸の縄文人も矢尻を矢柄に固定するウルシは盛んに栽培したが、接着強度を高める事に主眼を置いていたから、不純物である顔料を混ぜる事は御法度だったと想定される一方で、mt-M7a比率が高かった東北縄文人にとって、ウルシ樹は自分達の祖先が日本に持ち込んだ身近な樹種だった。関東や北陸の女性達は海外から渡来した女性の子孫で、女性達には祖先の植生であると言う意識は希薄だったから、ゲテモノの様なウルシ樹を敢えて栽培する意欲はなかったと想定され、新たな用途や商品の為に植生を改良する際にも、注目に値しない植生だったとも言える。

霧ヶ峰でシナノキを栽培していた尖り石遺跡の縄文人を含め、八ヶ岳山麓に集住した縄文人はY-O2b1とmt-M7aペアが主体で、湖岸で漁労を行ったY-O3a2amt-M7aペアと共に、原縄文人的な人種構成の人々だったと想定されるが、彼らが中部山岳地帯で栽培していたウルシ樹は、弓矢産業が廃れた縄文後・晩期には栽培が断念された。このウルシ樹も野生化し、北陸部族が栽培していたウルシ樹と交配しながら、現在の山ウルシになったと考えられる。

西日本でも矢尻の需要はあったから、それに使われたウルシはどの様なものだったのか検証する。

西日本で作られた矢尻は、サヌカイトなどのガラス質安山岩から作るものが主体だった。ガラス質安山岩は黒曜石より切れ味は劣るが、加工が容易だから、西日本では高度な技術を持った職人でなくても加工ができる、ガラス質安山岩が多用された。狩猟用にはそれで十分だったが、シベリアの狩猟民族が骨鏃を製作する事を阻止したかった関東部族は、矢の品質を高める為に霧ヶ峰産の再上質の黒曜石を使い、腕の良い職人を集めて鋭利な矢尻を量産し、腕の良い職人を確保する為に職人を優遇した事は、縄文人の活動期の項で指摘した。

しかし矢尻としての機能はガラス質安山岩でも十分だった事は、霧ヶ峰から遠くない木曽の高原の柳又遺跡で、下呂石(ガラス質安山岩)が矢尻として使われただけではなく、その矢尻で製作した矢が量産されていた事が示している。つまり冷涼な木曽山脈の山麓でもウルシが栽培できたから、下呂石を矢尻とした安価な矢が内需用に生産されていた事になる。

山陰では大山の山麓でウルシ樹が栽培されたと推測され、瀬戸内では香川で豊富に産出するサヌカイト(ガラス質安山岩)が多用され、原石が広島県の帝釈峡に運ばれた後で、中国地方の各地に分配された事が分かっている。その流通が始まった時期は明確ではないが、縄文中期寒冷期から盛んになったとすると、この流通にもウルシ樹の栽培が関係していた可能性が高い。

吉備高原と呼ばれる標高300m700mの丘陵地が、岡山県、広島県、兵庫県の瀬戸内に広がっている。最も標高が高い地域は岡山県との県境に近い広島県の神石高原で、標高500700mの丘陵地が広がり、標高600m以上の平坦地にゴルフ場が形成される様な、頂部が平坦でなだらかな地形を有している。この様な吹き曝しの高原にはフェーン現象はなく、夜間の放射冷却を遮る山もないから、海岸の平坦部より平均気温が5℃以上低い。その結果岩手県の平地程度に冷涼な気候になり、ウルシの品質や生産性を問わなければ、縄文前期からウルシ樹の栽培が可能だった可能性があり、縄文中期寒冷期には間違いなく可能だった。帝釈峡はその様な神石高原の裾にあり、瀬戸内から船で遡上できる場所だったから、讃岐からサヌカイトを運び込んで矢を製作する事に適した場所だった。

更に気候が冷涼化した縄文後期後葉~晩期になると、サヌカイトの運搬先は津島岡大遺跡群にも拡大する。この頃にはウルシ樹の品種改良が更に進み、吉備高原の裾野でも栽培できる様になった事、即ちサヌカイトの矢尻を漆で固着する作業が、瀬戸内の各地でも可能になった事を示し、サヌカイトの配布先の多様化が、接着剤系ウルシ樹の南限が南下した事を示している。

神石高原のウルシ樹の栽培は、矢尻を固着する為に始まったのではなく、シベリアに出荷する磨製石斧を柄に固着する為に始まったとすると、関東部族の交易構造も明らかになる。つまり縄文早期の関東部族は岡山で磨製石斧を生産して関東に持ち帰り、関東周辺の高山で栽培した品質が高くないウルシ樹を使い、柄に固着してシベリアに持ち込んでいたと想定される。関東周辺には山頂部が平坦な高山として、御岳山(929m)、高尾山(599m)、大山の脊梁部(650800m)などがあり、これらの山が古い時代から信仰の対象とされてきた理由は、これらの事情と関係がある疑いがある。

縄文人の生活に欠く事ができなかったシナノキやウルシ樹は高原の物産で、黒曜石や蛇紋岩も山岳地の物産だったから、自然発生的に山岳信仰が生まれる環境があったからでもある。

縄文中期になると神石高原でウルシ樹が栽培できる様になり、シベリアに出荷する石斧を吉備で一貫生産する事が可能になると、生産量が増大して価格が低下したから、海運力が劣る北陸部族がそれに対抗する為に、磨製石斧の品質を高めた事情が糸魚川市の石斧工房に現れたとすると、歴史の流れが鮮明になる。糸魚川市は背後に妙高高原や黒姫高原を控えているから、ウルシ樹の生産地には不自由していなかったが、北陸部族はシベリアへの航行能力が関東部族より劣っていたから、出荷量で対抗できない分を品質の高さで補う必要があったからだ。

東アジアの青銅器時代の開始が西ユーラシアより千年以上遅れた原因は、蛇紋岩の有無にあったと考えられるが、ウルシの存在もそれに一役買っていた可能性がある。

 

工芸用の漆加工技術

縄文後期になると多数の東北縄文人が、温暖な稲作地を求めて西日本に移住したから、東北で育った高度な漆技術は東北では空洞化した疑いがあるが、青洲の経済が活性化すると漆器の需要が生れ、その生産の為にむしろ繁忙状態になった可能性が高い。東北のウルシは工芸用に品種改良されていたから、接着剤としての需要が希薄化しても、東北はウルシの主要産地であり続けたからだ。函館の垣の島A遺跡から発掘された、縄文後期の漆塗りの注口土器や香炉形土器が、その事情を示している。

但しロクロで製作して窯で焼いた青州の土器は、縄文土器より遥かに商品性が高かったから、これらの土器が輸出用に生産されたわけではなく、輸出用の漆器は精巧な木工品だったと考える必要がある。

弓矢や磨製石斧の需要を失った中部山岳地から、沖縄系縄文人の多くがヒエの栽培地を求めて北海道に渡った事と、石垣系縄文人が山陰に移住してアワ栽培者や稲作者になった事は既に指摘したが、八ヶ岳山麓から関東平野に降って漆工芸品の製作を始めた者もいた事を、考古学的な発掘が示している。

中部山岳地帯の漆は矢尻の固定用に品種改良されていたから、ウルシより強力な接着剤である膠が使える様になると、その用途のウルシの需要は激減したと想定される。膠の製作技術が日本に流入した時期は分からないが、縄文晩期に息慎の交易組織が壊滅した際に、mt-M10の毛皮の加工技術と共に流入した可能性がある。いずれにしても、縄文後期になっても八ヶ岳山麓に残っていた人々は、生産量が激減していた矢の用途だけではなく、膠の普及と共に接着用途も失ったから、彼らが山を下った縄文晩期の八ヶ岳山麓は無人状態になった。

縄文晩期の北杜市の金生遺跡は、低地でもウルシの栽培が可能になったので、八ヶ岳山麓から降った人々が関東に近いこの地域で、霧ヶ峰のシナノキを運ぶ街道の宿場を運営しながら、ウルシ樹の栽培を行っていた疑いがある。いずれにしても山岳地でウルシ樹を栽培していた縄文人は、縄文後期になると山を下り始めざるを得なくなったから、その頃に関東の漆器生産が盛んになったとすると事情が整合する。

 

関東で発掘された漆工芸品

武蔵野の西端にある狭山丘陵の下宅部(しもやかべ)遺跡や、つくば市の上境旭台貝塚、さいたま市の大木戸遺跡から、縄文後期~晩期の漆加工品が発掘され、その頃の関東の縄文人が漆加工を行った事を示している。狭山丘陵の下宅部遺跡では、発掘された杭列に多数のウルシ樹を用いたものが含まれ、その中にウルシを採取した痕跡を持つ杭が多数あり、漆の加工技術者が近辺に居住していた事を示している。

狭山丘陵は武蔵野台地の西端にあり、多摩川水系から離れた水上交通網の過疎地だった。つくば市の上境旭台貝塚も縄文中期に過疎化した地域に、新たに形成された大型集落で、大木戸遺跡も荒川と元荒川に挟まれた丘陵上にあり、河川が氾濫しやすい低湿地に挟まれた島の様な丘陵地だったから、新参者だった漆加工者が過疎地に入植した事を示している。

下宅部遺跡は縄文後期初頭からウルシ加工者の集積地だったと推測され、狭山丘陵は関東平野の中で、最も冷涼な地域である事に着目する必要がある。それであっても実際にウルシ樹を栽培していたのは、多摩湖や狭山湖を形成している、標高100m以上の丘陵地だった可能性もある。

縄文中期のこの地域はクルミの産地だったらしいが、クルミは冷涼な地域の物産である事は、現在の産地が長野と青森に集中している事から明らかで、縄文中期までのこの地域の小集落は、冷涼な気候地で栽培する堅果や果物の収穫地であって、年間を通した定住集落ではなかった疑いもある。

 東北縄文人が関東に移住した事を示す直接の証拠はないが、漆加工技術は東北発祥だったのに、縄文後期に突然関東の周辺地域に漆工房が出現した事は、伊予部族の縄文人も移住していた事を示唆している。縄文後期の早い時期には漆器の需要は盛り上がっていなかったが、その気配が見え始めた事を関東の南方派が見出し、八型山麓から降り始めた縄文人に漆器の製作を勧めると、彼らが伊予部族の技能者を招いて漆器の製作を始め、木工技術の優位性を生かした漆器生産が始まったが、青洲の漆器需要が急拡大すると垣の島A遺跡が高品質の漆を武器に、漆器生産の中心地になった可能性がある。

但し下地の木工品と漆器の生産は別の地域で行う事が可能だから、垣の島A遺跡は漆塗り加工地で、木工品は関東で製作された可能性が高い。

   

「縄文人の植物利用」 国立歴史民族博物館編 新泉社刊 永嶋正春氏著述部から転写

上の左画像は下宅部(しもやかべ)遺跡から発掘された杓子(しゃくし)の柄で、右は復元品。発掘品の方が精巧に見えるのは、職人の技が生み出した作品だからだろう。製作地に残されたものは習作か失敗品で、精巧な完成品は各地に出荷されたと想定されるが、この様な木製品を石器で削り出す事は難しいから、青銅の加工具を使ったと考えられるが、鉄器で加工した可能性もある。

しかし発掘品にその様な物は含まれていなかったらしく、発掘至上主義の考古学者は何も言及していないが、歴史的に重要なのは作品の形状ではなく、加工具を特定する事ではなかろうか。木片の面を観察すれば、砂岩の様な石で研磨して成形したのか、金属で切削したのか判断できるだろう。木を石で研磨して木工品を製作する事は、旧石器時代からから行われていた筈であり、その技能によって海洋船も製作した筈だから、時間を掛ければ精巧な木工品も製作できたが、石器では切削加工による繊細な曲面形成には限界があった。

庶民文化を重視した関東の縄文人が、この様なスプーンを日常的に使ったとは考え難い。関東の経済活動を牽引していた漁民は、リーダー型の権力者を求めたから、実用的な器物は進化させても、権力を修飾する農耕民族な奢侈品需要は乏しかったからだ。魏志倭人伝が、「倭人は絹織物や錦を産出するが、男は縫ってもいない布を体に巻き付け、紐でそれを縛っている。食事は竹や木の高坏を使い、手で食べる」と記している事がそれを示している。魏志倭人伝が描く倭人の住居は、家族が屋内に個室を持つ立派な建築で、高価な丹を使って化粧するなどの贅沢な側面もあり、豊であっても奢侈品を使わない事に特徴があった。従って上掲の漆器は北方派が推進した特産品の開発活動に、南方派が乗る典型的な縄文後期の産業形態だった。

この様な奢侈品の生産技術を高める為には需要が必要であり、青州の製塩業者だった越人が高めた宴会文化や、彼らの華麗な日常生活に需要があったと考えられる。隋書が示す越系文化も奢侈品を好む文化だったが、彼らの主要な収入源は鉄器の生産と寒冷期の毛皮交易だったと想定され、そのどちらもなかった縄文後期温暖期には、出雲部族や対馬部族に大きな収入源はなかったからだ。

北陸部族がフリッピン産の絹糸を青州に持ち込み、呉人がこの絹糸を布に仕立て、内需にしたり製塩業者に販売したりしていた事が、呉の絹布の生産力を高め、弥生温暖期の繁栄を生み出す基盤を形成したと考えられるから、北陸部族は縄文後期に豊かになっていた可能性がある。だ。しかしその時代の最大の富裕者は青州の呉や越であって、それを仕掛けていた北陸部族に、どの程度の利益があったのか明らかではない。

東南アジアの海洋民族もインド洋交易によって豊かになっていた可能性があるが、それは俀の交易圏だったから、北方派が生み出した関東の中小生産者を、俀が新たな需要を持ち込む事によって活性化し、その中に漆器産業も含まれていたと考える必要がある。

下宅部(しもやかべ)遺跡や大木戸遺跡から漆塗の木弓も多数発見されたが、単に漆を塗ったのではなく、細い紐を模様風に巻き上げたり砂で一部を盛り上げたりして装飾効果を高め、大陸の富裕者が使う物品として製作された事を示している。

竹書紀年の帝舜の項に「息慎氏が来朝して弓矢を貢いだ」と記されているから、弓が関東の特産品だったのであれば、帝舜に献上した弓矢はシベリア産だったと考えられる。矢尻は青銅製だった筈だから、矢はシベリア産だった事は間違いなく、息慎氏の弓は膠を使った合板弓だったとすれば、この頃のシベリアには膠技術が広がっていた事になる。

つまり関東縄文人はその様な弓に対抗し、青洲の市場を確保する為に装飾的な弓を製作していたと考える必要がある。合板弓は威力が高いと言われているが、シベリアの森林資源は樹種が貧弱だったのに対し、日本列島には梓を含む多種の樹木があったから、貧弱な強度の弓を漆加工で誤魔化していたわけではなく、弓に使うアサ紐は依然としてシベリアへの輸出品だった。

 

大陸のウルシ加工

ウルシは中国が原産地だったと主張する人がいるが、原縄文人が43万年前に台湾に北上した際に、台湾の山中にウルシ樹の原生種が生育していたが、その後の温暖化によって台湾では絶滅したから、現在の自然環境から原生種の繁殖地を特定する事は、極めて困難である事は指摘して置きたい。

ウルシ樹が生えていた事と、ウルシを栽培して樹液を使用する事は、分けて考える必要があり、ウルシ樹の栽培~漆器の製作には高度な技能が必要だから、ウルシを必要とした文化の有無を検証して起源を判断する。

現在の自然環境から栽培起源を探す特異な方法論は、キリスト教の影響から解放されていない西欧人のもので、聖書が人類の歴史は7千年余しかなかったと記しているから、栽培の歴史もそれ以上は遡らないと信じたい人々の、合理性を伴わない希望的な見解である事は再三指摘した。

しかし依然として小麦栽培の発祥地はレヴァントであるとか、多数の栽培種の起源を中央アジアとする見解が散見され、その影響力の強さを示している。

縄文人には蛇紋岩製の磨製石斧を柄に固着する用途と、無茎石鏃を固定する二つの用途があったのに対し、大陸には蛇紋岩は産出せず、矢尻らしい遺物には無茎石鏃の使用例が乏しいから、大陸人のウルシ使用の歴史はあまり古くないと考えられる。

従って現在の大陸で栽培しているウルシ樹は、交易によって持ち込まれた栽培種であると考えられるが、山野に生えているウルシ樹は原生種が北上したものか、栽培種が野生化したものであるのか判定できない。

縄文人は大陸で稲作民女性を直接リクルートし、本物の稲作技術を縄文早期~前期に入手したが、大陸人にはその様な事はできなかったから、縄文人が交易によって技術移転するまで、大陸にはウルシ技術は存在しなかったと考えられる。従って縄文中期までのウルシ樹の栽培地は、日本の東北・北海道や冷涼な中部山岳地などに限定され、大陸にウルシ樹が本格的に移植されたのは、関東や西日本の山裾にウルシ栽培が南下した、縄文後・晩期以降だったと想定される。その様な状態にならなければ、稲作民族にウルシ樹の栽培を伝授する事ができなかったからだ。

ウルシの使用があったのか否かを検証する為には、中華大陸の弓矢文化の歴史に着目する必要がある。

骨鏃や石鏃であると見られているものが、沿海部のBC6000年紀~BC3000年紀前半の遺跡から発掘され、河姆渡遺跡から発掘された骨鏃がその代表であると言われているが、それには長い茎部があり、北海道や北東アジアの石刃鏃に近い形状で、ウルシを使わないで作る刺殺具の槍先だった事を示している。

縄文人の活動期の項で石刃鏃の使用方法を検証し、北海道縄文人が石の矢尻と石刃族を併用したのは、河川漁労やウサギなどの小動物の捕獲には発射に時間が掛かる弓矢より、軽い槍の方が即応性は高く効率的だったからだと想定した。その様な利器が独自の形状に進化し、定型的な石刃族になったと考えられるから、石鏃とは異なる用途に使う狩猟具だった事は間違いない。

石刃族の素材には石より骨の方が適しているが、北海道や樺太の河川漁民が敢えて石材を使ったのは、関東部族が漁具の素材として骨を買い漁り、その代わりに弓矢を支給していたが、生産量が少なかった縄文早期には弓矢が貴重品になり、必要な量の矢を入手する為には多量の獣骨を必要としたから、河川漁労に使う骨材の入手が困難になって石刃族の発達を促したと推測した。浙江省の人々は稲作民族であって狩猟民族ではなかったから、モンゴル系の狩猟民族の様に漁労用の骨材が欠乏する状態にはなく、骨で槍の槍先を作って河魚や野兎を仕留めたと考えられる。

この時代の大陸に石鏃の様な石器がなかったわけではないが、半坡遺跡から発掘される石鏃風の石器は、用途が分からないと言った方が良いだろう。石鏃として使ったとすると、木製の矢柄の先端を裂いて石鏃を挟み込んだと想定される形状だが、石器群の形状が不揃いでやや大型のものも含まれるなど、縄文遺跡から出土する石鏃とは趣を異にしている。

龍山文化期の客家荘遺跡から発掘された、石鏃風の刃器には長い茎があり、幅が広い先端だけの石刃器もあり、刺殺具が武具として進化した事を示しているが、類似した形状の骨器も出土しているから、骨が足りない分を石器で補った様に見える。それらを弓で飛ばしていた証拠はないが、この時期には関東部族の漁民が、獣骨を求めて黄河の下流域まで出没していたから、交易品としてアサを入手する事により、弓を作っていた可能性も否定しないが、長い茎を有すものが存在していた事情は縄文の人の矢尻とは全く異なり、ウルシで固着する技術は有していなかった可能性が高い。

その様な石器群を武器として使っていたとすると、武器の基本は相手に対する威嚇だから、新手の武器らしく見せ掛けて相手を威圧する事には、有効だったと考えられる。本当の殺傷具は棍棒や斧だったから、闘争でそれらを使う事は稀だったとしても、その様な威嚇用の武器を頻繁に投擲するとか、或いは重要性が乏しい付随的な武器だった場合には、その形状や素材は粗製乱造せざるを得なかったから、用途が不明な石器が多数作られたと考える事もできる。集団間の闘争が常在していた龍山文化期のアワ栽培者としては、威嚇の際に目新しい武器が有効に機能した事は敢えて証明する必要もなく、実用性に疑問符が付く武器が多数あった事は指摘できる。

戦闘の際に大型の矢尻を使った事情は、縄文人の活動期/2 海洋縄文人を育てた縄文人の活動/2-1 弓矢の生産で論考したが、結論を言えば、漆で矢尻を固着した高級な矢は狩猟用で、威嚇射撃が多い戦闘の際には使わなかった。戦闘には多数の矢が必要だったから、粗製乱造する必要があり、矢尻が固定できない状態で殺傷力を得る為には、矢尻を大型化する必要があった。

アサやウルシがmt-M7aY-O2b1の文化だった事は、9千年前に渤海沿岸に展開した韓族の祖先も、同様の文化を持っていた可能性があるが、これらは3万年前に原日本人と交流した、沿海部の原縄文人の文化だった可能性が高い。彼らには蛇紋岩の磨製石斧を使う機会が乏しく、Y-C1を欠く民族には弓矢文化もなかったから、韓族に漆文化が生れる要素はなかったからだ。

シベリア起源のY-C3狩猟民族がチベット高原に散開し、成都に三星堆文化を形成した人々と交易したのは、青銅器時代になった縄文後期だから、縄文人の弓矢技術が彼らを経由して華北に拡散する環境は、石器時代だった縄文中期まではなかった。縄文後期には長い茎を持つ青銅の鏃と、膠を使う合板弓が登場していたから、Y-C3狩猟民族がチベット高原に散開できたのは、その様な環境が生れていたからだと考える事もできる。

華南の稲作民も俀から弓矢を得て狩猟を行ったかもしれないが、漁労も併用していた稲作民が、弓矢を駆使する高度な狩猟技術を習得する必要はなかった。弓矢があれば簡単に狩猟が行えるわけではなく、射技には高度な熟練が必要で、一射必殺の技も必要だったからだ。

竹書紀年の夏王朝期の記事に、アワ栽培者だったと考えられる多数の「〇夷」が登場する。「夷」は「人」と「弓」を合成した漢字だから、それらの民族が弓を日常的に使用し、荊は弓の使用に習熟していなかった事を示している。彼らが弓矢の使用に習熟していたのは、縄文中期に俀から獣骨と引き換えに弓矢を得ていた事を示し、荊が作成した黒陶が、縄文中期の龍山文化圏から多数発掘される事がそれを証明している。

曖昧な案件には別の角度から検証する事も必要になる。

中国で弩と呼ばれる武器が発達したのは、弓が使えない農民を兵士として徴発したからだ。青銅器時代や鉄器時代になると青銅や鉄の鏃が生まれ、折れない長い茎を容易に形成できる様になり、ウルシを使う装着技術の必要性が低下したから、大陸内部にも弓矢の使用が拡散した。しかしその状態になってから、千年以上経過した秦・漢代になっても、兵士として駆り出された農民は高度な技能を必要とする、弓矢の操作に習熟していなかったから、大陸では弩が発達したと考えられる。

逆に日本で弩が普及しなかったのは、伝統文化に支えられた弓の名人が各地に多数いたからだ。奈良朝が弩を導入して兵士の標準装備にしたが、平安時代にそれが廃れてしまったのは、日本人が弩の使い方を知らなかったからではなく、扱い慣れた人には弓矢の方が有効な武器だったからであり、在地の武装集団が弓矢を使用していたからだ。弩は連射できないだけではなく、矢を長くできないので、初速は速くても命中精度が低かった。

秦の軍隊が矢の柄と矢尻を一体化した鉄や青銅の弩矢を使い、強力な軍事力を発揮したと言われているが、これを裏返すと、秦人はウルシの存在を知らなかっただけではなく、狩猟民族が使っていた膠も知らなかった事を示唆している。弥生温暖期の中央アジアや甘粛では周囲の山々から樹木が失われ、狩猟民族の成立に必要な野生動物の群生が失われていたから、狩猟技能が進化する環境にはなかったが、秦は狩猟民族の子孫である騎馬民族の南下圧力を撥ね退け、中央アジアを死守する必要があったから、砦を守る為に弩の技術を高めたと考える必要がある。

以上から、縄文中期までの中華大陸には独自の弓矢文化はなく、関東部族を中心とした日本の海洋民族が弓矢を持ち込んだ地域だけに、弓矢の技能に習熟した狩猟民族が生れ、それらの民族を「夷」と呼んだから東夷西戎に分類されたと考えられ、矢尻を漆で固定する技能は縄文人の固有技術で、大陸にはないものだった。言い換えると大陸には縄文中期まで、ウルシを使う文化が存在しなかった。

中国の考古学者は、8千年以上前の漆製品が浙江省の沿海部で発掘された事を根拠に、ウルシは中国の固有技術であると主張しているが、関東部族は1万年前に台湾に南下し、8千年前には浙江省に到達してmt-B5+M7bを関東に招き、7千年前に湖北省に塩を運び上げ始めたから、沿海部の製塩者が7千年前に河姆渡文化を生み出したのであって、最古の漆製品が8300年前のものである事は、その時期には関東部族が浙江省に達し、その地域の堅果類の栽培者と交易していた事を示しているに過ぎない。

良渚文化期の遺跡から漆器が発掘されているが、これを持ち込んだのは関東部族だけではなく、北陸部族だった可能性もある。

この時代の北陸部族は矢尻を矢柄に装着する良質の漆を得る為に、関東部族から品種改良されたウルシ樹の栽培技術を得ていたから、浙江省に北陸から玉器の加工技術が移転した際に、付属技術としてウルシ樹の栽培技術が伝わった可能性があり、同様の事情は玉器を製作する為に遼東に入植した、濊にも生れていた可能性がある。

縄文人の活動期の項で、透閃石岩を削る道具は柘榴石だった事を指摘したが、柘榴石の原石だけでは工具として使い難く、木の棒に固定する必要があったから、その際にウルシを使った可能性が高いからだ。両地域の石材職人が北陸から工具としてそれを輸入しても、使っていると木の柄から柘榴石が脱落する事もあり、それを再固着する為にはウルシ樹が必要だったからだ。

遼東は青森や道南と類似した気候だから、ウルシ樹の移植は可能だったと推測される。浙江省でも紹興市から西に直線距離で200㎞ほど山間地に入ると、冷涼な高原地域がある。しかし柘榴石を固定する為のウルシ樹は数本で良いから、多量に生産する必要はなく、浙江省では良渚文化が消滅して玉器を多量に製作しなくなると、ウルシ樹の栽培は放棄された可能性が高い。それが野生化しても、原生種や交配種と区別する事はできないし、玉器を生産しなくなった遼東でも同様の事が言える。

従ってウルシ樹の本格的な栽培技術が日本から大陸に渡ったのは、気候が冷涼化して華南の高原でウルシ樹の栽培が可能になった、縄文後期後葉~縄文晩期だったと推測され、その用途は装飾用ではなく接着剤だった可能性が高い。

そのウルシが荊の職人技と結び付き、木工用途に多用された可能性もあるが、いずれにしてもそれは東北で品種改良された塗料用のウルシ樹ではなく、中部山岳地帯や中国山地で栽培された接着用のウルシ樹で、中華ではそれが装飾用に転用されたから、成分が日本産より劣ると見做されている可能性が高い。

膠はシベリアの狩猟・遊牧民族の文化で、周礼に記述があるが中華に南下した歴史は、それほど古くないと考えられている。その理由は明らかではないが、中華には既にウルシがあったからだとすれば、納得できる説明にはなる。シベリアの民族も中華人の粗暴な性格を危惧し、弓矢を強力な武器にさせない方針があったとすれば、秦人が鉄の弩矢を使った理由に結び付くし、楚漢戦争で数では劣勢だった楚軍が、大軍を擁した漢軍を破り続けた理由にもなるからだ。

以上の結論として、以下の事が言える。

東北・北海道縄文人が創造した漆装飾技術は、縄文中期までは日本列島内にしか需要がなかったが、縄文後期になると豊かになった青州の稲作民の需要が爆発し、国際商品になったと推測される。しかし東北で漆工芸技術を育てた東北縄文人は、縄文後期に大挙して西日本に移住したから、ウルシ技術も西日本に拡散する流れではあったが、ウルシ樹の栽培南限が関東だったから、縄文後期の漆工芸の工房は関東に展開し、需要の高まりと共に函館が生産の中心地になった。

但しウルシの樹液は、密閉容器が生れると保存性が向上するから、その容器を荊の磁器に求めたり、銅や鉄の容器に求めたりする事も可能になると、漆器工房とウルシ樹の栽培地が分離する事も可能になり、弥生時代以降の生産事情は複雑になった。

 

8-3-2 毛皮や海獣の皮革の加工技術

縄文晩期になるとmt-M10が毛皮の加工者として多数渡来し、北方派が推進していた新商品の創造活動に、新しいメニューが加わった事を示している。

mt-M10は取手市の中妻貝塚から多数発掘され、篠田氏がバイカル湖近辺のmt-M10と、同系の遺伝子であると指摘している。彼女達の起源と渡来した経緯は既に説明し、彼女達は毛皮の加工職人だったと想定したが、纏まった数の人骨が一つの巨大貝塚から発掘された事は、彼女達が工房を形成していた事を示唆している。

mt-M10は現代日本人の1.3%を占めるから、関東部族の人口が当時の日本列島の人口の20%程度で、その半分が縄文人だったとすると、関東の縄文人の13%がmt-M10だった事になる。当時の日本列島の全人口が200万人だったすると、関東の縄文人の人口は20万人で、mt-M10の人口は2.6万人だった事になるから、毛皮を加工していた女性が13,000人居た事になり、毛皮加工が一大産業になった事を示している。

渡来人口はそれほど多くはなく、関東に渡来してから人口が増えたと想定されるが、関東部族がその規模の工人を求めていた事になり、漆加工者が同数居たとすると、その2大基幹産業で関東縄文人の3割を占めていた事になる。同時期に津軽に渡来したmt-N9aは現代日本人の4.6%を占めているから、mt-N9aが普及品である廉価な毛皮を製作し、バイカル湖周辺から遠路渡来したmt-M10は、高級毛皮を製作していたと想定される。この時期のその他の基幹産業として、アシカの皮革を加工するmt-Gが漁民の集落にいて、彼女達の人口はmt-M10より多かったと推測されるから、縄文晩期の関東と津軽は日本の大産業地帯になっていた。

中妻遺跡は利根川が氾濫しながら形成した沖積平野に囲まれた、小島の様な地形上にあるから、mt-M10を受け入れた縄文人は、温帯ジャポニカの栽培集団だったmt-F系の可能性もあり、mt-Fのペアは漁民由来のY-Dだった可能性が高いから、mt-Fの多くがその様な人々になった可能性もある。

ウルシ加工を行っていたと想定される、つくば市の上境旭台貝塚も同様の立地だから、mt-FをペアとしていたY-D系の縄文人集落が、寒冷期になって稲作が不振になると、海洋民族化して特定技能を持つ女性達の集積地になった事を示唆し、中部山岳地帯から降ったY-O2b1縄文人もその中に紛れ込んだとすると、この時期の歴史と整合する。

縄文晩期のmt-Fは九州のmt-B4から、発芽時期の早い温帯ジャポニカの種籾を支給されていたが、後期温暖期が終了して稲作が壊滅状態になると、稲作に見切りを付けたmt-Fがいたり、発芽時期の早い温帯ジャポニカの種籾を支給されても、出穂時期が斉一化できていない種籾に絶望したりして、これらの商品生産に切り替えた集落が多数あった事を、これらの集落の立地条件が示唆している。

貝塚から多数の魚骨が発掘された事は、彼らの食生活を漁民が支えていた事を示唆し、上記の想定と符合するからでもある。

mt-Fmt-M10もドングリを食べる習俗がなかったから、縄文晩期になっても彼女達の食料はコメと海産物に依存する必要があり、縄文晩期の気候の寒冷化がmt-Fの集落にこの様な選択を強いた事は、経済的な必然だったとも言えるからだ。つまりmt-Fに浸潤して加工業者になったmt-M10が消費したコメは、稲作に拘り続けていたmt-Fが収穫した温帯ジャポニカか、mt-B4が収穫した熱帯ジャポニカだった事になり、現在の日本のmt-F比率が5.3%である事は、mt-Fの多数派は稲作に拘り続けていた事になる。

上境旭台貝塚は漆器が出土した貝塚だが、付近を流れる桜川を5㎞下ると、同時期に形成された大型の上高津貝塚がある。貝塚に隣接した場所に工房が営まれたのではなく、両貝塚が形成された地域は、貝を採取して干物を生産した場所であり、工房の食生活を支える貝塚だったと考えられる。この貝塚の貝類も付近の貝塚と同じヤマトシジミで、当時はこの付近が汽水域だった事を示唆し、5㎞程度離れた貝塚が別の集落によって営まれる程に、この地域の産業化した集落は密度が高かった可能性がある。

この貝塚から汽水域やその付近を生息域とする、クロダイやスズキなどの魚骨が多量に出土し、漁民との交易が活発に行われていた事を示している。それがこの時代の職人家族の一般的な食生活だったとすると、外洋の水深 30m以深の海底に生息する、マダイの成魚の骨が多量に出土している事は、この地に住んで漆器を生産していた職人が、一般の縄文人より豊かな食生活を満喫していた事を示唆し、奢侈品の生産が縄文人に豊かな生活をもたらした事を示唆している。

縄文後期後半に黒曜石で製作した矢尻の価値は失われたから、矢尻を少額貨幣とした貨幣経済も失われていたが、多量に出土したマダイの成魚の骨が活発な交易活動を示している事は、既に指摘した様にこの頃の関東では信用経済が発達し、海洋漁民が豊漁に恵まれた際には食べ切れない多量の海産物が、この工人集落に持ち込まれたと想定される。この集落ではそれを周囲の稲作者の集落に分配し、稲作者はその見返りとして農産物をこの集落に提供し、それらの交換は年間の収支によって決済されたと推測され、それについては更に後述する。

弥生温暖期になるとこの事情が逆転し、再び稲作が有利な産業になったから、現代日本人の遺伝子分布は、弥生時代の状態に大きく依存している可能性もあり、縄文後期後葉から晩期までの関東には、上記以上の工人女性が集積していた可能性もあるが、関東のmt-B4は熱帯ジャポニカであるか温帯ジャポニカであるかに関わらず、縄文後期から稲作者の数を最大化する事を生業にしていたから、弥生温暖期にmt-Fが稲作者に復帰しただけではなく、mt-Gmt-M10も稲作者になる事により、遺伝子比率が維持されたと考えられるから、基本的には縄文後期以降の遺伝子と、それに浸潤した遺伝子が、現代日本人にも伝えられていると考えられる。

縄文後期以降の経済事情を、現代日本人の遺伝子分から推測する事ができるからであり、沖縄人と本土日本人の遺伝子構成の違いも、それに歴史事情を加味すると解釈できるからだ。

歴史時代の関東に漆器の生産地がなかったのは、関東部族が弥生時代に漆器の生産に見切りを付けたからで、その理由は漆器は富裕者だけが使う奢侈品で、庶民の必需品ではなかったが、毛皮は高価であっても寒冷地の必需品だったからだと推測される。

縄文早期以降は徐々に冷涼化が進行し、それに伴って稲作の耐寒性を向上させる必要が生れたから、稲作技術の進化に伴って冷涼な地域に稲作が北上し、稲作民でも冬季には毛皮の衣類や寝具が必需品になった。特に稲作の北限であり続けた関東では縄文晩期以降、毛皮が冬季の必需品になったと推測される。寒冷な地域に北上した大陸の稲作民にも、高価な毛皮で寒い冬を凌ぐ状況が生れると、高価な必需品になる要件が整った。

この様な毛皮の商品としての特殊性を、現代社会の類似品に求めると、同様に高価な必需品である自動車に例える事ができる。モータリゼーションを当然とする現代社会では、車がなければ不便を強いられる地域が多いから、この産業には多数の従業員が従事する事が可能な、極めて高い需要が生まれている。これを一般論として言い換えると、最も有力な商品は高価な必需品だから、現代社会でもその状況があり、車産業は宝飾やアパレル産業より遥かに巨大化し、生産企業は高度な技術を競い合っているから新規参入は難しい。

従って当時の毛皮産業を漆器産業と比較すると、食器を主体とした漆器産業の基底に土器があり、磁器の生産も始まった時代だった。類似品として漆加工が為されていない木工品があり、漆器はその上位の奢侈品になるから、磁器との競争もあり、現代人は漆器より陶器を多用している現実がある。

人々に毛皮を高価な必需品として認知させる過程には、その様に思わせるマーケティング技法も必須要件になる。毛皮に競争相手がないわけではなく、牛や豚の皮革は身近にあり、キツネやウサギを狩る事もできた人々に、シベリア産の高級毛皮は必需品であると思わせる必要があった。その為には組織的な生産力や高品質品を生産する技能だけではなく、組織的な販売網も必要であり、需要者が求める商品の形体を指摘できるマーケティング力も必要になり、海洋民族にはその認識もあったと考える必要がある。

 

8-3-3 新商品の産業化過程から推測する、縄文後期以降の産業社会の多極化

需要構造の変化に伴う交易環境の変化

大陸の稲作者の生産性が高まり、それに伴って経済活動が多様化すると、富裕者が増えて社会が複雑化した。それに伴って彼らと交易していた海洋民族も、利潤を求める奢侈品交易に傾斜し始め、交易利潤が一部の者の懐しか潤さない産業形態が発生した。

関東部族が弓矢交易に専念し、それによって豊かになる事を目指していた時代には、漁民も縄文人もその実現によって食生活が豊かになる事を実感し、奢侈品の利用はその副産物に過ぎなかったが、弓矢交易を失うと産業構造を多様化しなければならなくなった。縄文後期温暖期になって温帯ジャポニカの生産性が高まると、熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4が相対的に困窮し、上記とは別の理由によってmt-B4も打開策を求める必要が生れた。

関東部族の北方派は両者を同時に解決する手段として、東北部族のmt-M7aに西日本への移住を推奨してそれを指導するmt-B4を派遣し、漁労権があった備讃瀬戸や大阪湾岸にmt-B4を入植させ、熱帯ジャポニカの生産に関わるmt-B4の交易を創造する事により、漁労技術も販売する内需交易を活性化させた。

青洲の経済活動が活性化して奢侈品の需要が高まると、関東部族の南方派がその状況を活用して多数の商品を開発し、青州に送り込む事も必然的な結果だったから、関東部族のビジネスモデルの転換は、その様な過程を経て進行した。青州の経済が活性化して宝貝貨のインフレが始まると、南方派は宝貝以外の商品も青州に投入しなければ、従前の量の獣骨が獲得できなくなり、追加の商品を投入する必要が生まれたからだ。

これによって物資の交易量が必然的に増加したが、遠隔地交易で利潤を得る為には高価で軽量な奢侈品が有利だから、漆工芸品が重要な商品になった。しかし奢侈品の価値は遥かに遠い青州の市場で決められ、個々の商品の価値は曖昧だったから、縄文人には自分が生産した物品の価値を、実感として理解する事ができなかった。特に加工に手間が掛かるが実用的な機能ではなく、奢侈品としての価値を有する漆工芸品にその傾向が強く、労働時間を価値化する事も難しかった。

関東部族の社会では使わない奢侈品の価値と、獣骨を得て生産性を向上させた海産物の価値の因果関係は、極めて分かり難いものだったからであり、奢侈品を生産する縄文人が実感として分かったのは、成果として配分された海産物の多寡だけで、生産活動の価値が直感的に理解できる状況ではなかったからだ。漆工芸品を関東で消費した可能性は低く、典型的なこの様な奢侈品だったと想定される。

彼らの物品に関する価値観を不安定化させた他の要因として、縄文後期にコメの価値が大きく変動した事も挙げられる。縄文人と漁民が頻繁に交換していたコメと海産物の交換レートが、縄文人の貨幣的な価値観の基準になっていた筈だが、縄文後期温暖期に温帯ジャポニカの生産性が高まり、コメの価値が縄文中期の半分以下に低下したから、多数のmt-B4が広い稲作地を求めて西日本に移住した。

コメの価値が低下したのは縄文後期初頭だけではなく、海退が進んでmt-Fの稲作地が拡大していたから、温帯ジャポニカの生産量は温暖期の末期まで右肩上がりに上昇し続け、恒常的に続いた一種のインフレ現象が、彼らの価値観を混乱させていたと推測される。

青州との交易が拡大して海洋交易者が増加し、それを支える漁民人口も増大して海産物の生産量も増大したが、温帯ジャポニカの生産量の増加はそれを遥かに凌ぐ勢いだったから、慢性的なコメ余り状態が続き、コメの価値の下落が恒常的に進行したからだ。漁民や交易者には好ましい経済状態になり、優良な稲作地を得たmt-Fも豊かになったが、稲作地の拡張が容易ではなかったmt-B4には困難な時代になった。縄文中期に盛んに製作された精緻な耳栓や装飾性が高い土器が作られなくなったのは、この時代の熱帯ジャポニカの栽培者の苦境を示しているが、それがmt-B4の情報ネットワークに危機感を与え、稲作の商品化を組織的に推進する原動力になった。

関東部族内に生まれた企業集団が漆器や高級毛皮を生産し、海洋交易者がそれを大陸で販売して利潤を得る様になると、その交易活動は一部の技能者の選任的な仕事になり、交易利潤は一部の人の懐を潤すだけで、多数の部外者には何の利益も生み出さない状況が生まれた。

獣骨をその利潤によって入手する時代になると、商品と獣骨の入手を結び付ける情報が、交易者から発信される様になり、その商品の生産者は優先的に海産物を入手する状況が生れたから、他の人々は他の商品を生産しなければならなくなった。これによって弓矢交易の時代に形成された部族の一体感が崩壊し、生産する商品毎に作業者を組織化する必要が生れ、その結果として多数の国が生れた。

弓矢交易によって作業集団を組織化する為に必要な、高度な社会風土や倫理観は既に熟成していたから、生産品目毎に新たな小集団が生れる事に支障はなく、その誕生を求めていた人々が多数いたから、新商品の創造と企業集団の結成は急速に進んだと考えられる。その様な文化が関東部族と親しかった伊予部族にも伝搬し、縄文後期の函館に漆器産業が生れ、縄文晩期の北上山地に製鉄産業が生れ、大洞式土器文化がその繁栄を示していると考える必要がある。

また大洞式土器文化が示す、奢侈を好む文化を受け入れなかった関東部族は、伊予部族より非商業的な部族だった事を示唆し、壬申の革命を最も強く推進したのは伊予部族だった事情に繋がる。

関東部族がその様な状況になったのは、縄文後期の強力な稲作になったmt-Fと、稲作をビジネスに転換したmt-B4がいて、商品開発に至らなかった地域でも稲作に頼る事が可能になり、ヒエ栽培を商品化できなかった伊予部族とは、経済環境が異なっていたからだと推測される。つまり関東部族の方が平均的な生活レベルが高く、互助的な社会を形成していたから、その様な環境が整備されていなかった三陸沿岸の伊予部族が製鉄産業の恩恵に浴すと、成功した人々やその取り巻きは関東部族の縄文人より豊かになり、奢侈品を楽しむ余裕を得たが、その産業が衰えると経済的な不況に襲われる事情もあり、関東部族より商業主義的な発想を高める必要があった。

関東部族の組織力が新たな産業化の種を探す際に、漁労技能の優位性や高度な海洋航行技能だけではなく、mt-B4の稲作普及活動を含めた内陸の産業基盤があったが、伊予部族にはその様な伝統がなかった事や、伊予部族にその自覚があった事が、伊予部族の立場を規定する事情になったと想定される。

これを現代的に言えば、豊かな財源や多彩な人的資源を活用しながら、経済環境の変化に対応して新事業を生み出し、それに応じて企業構造を変革していく大企業と、その様な活動ができずに大企業に群がり、下請け産業を形成する事しかできない中諸企業群が、この場合の関東部族と伊予部族の立場の違いを連想させる状況になる。大企業の利潤は内部留保に回り、社員の給与は低く抑えられるが、福利厚生環境は整備される。しかし活況を得た中小企業では、社員や経営者は極めて羽振りが良くなって豪遊する事も珍しくない事情が、大洞文化の実態だったと想定されるからだ。

つまり関東部族の個々の生産企業が国を形成しても、それは大企業の事業部の様な位置付けだったから、事業部が衰退すると他の事業部からのテコ入れもあり、場合によっては活性化された事業部が、衰退する事業部を吸収する場合もあった。それ故に全体を統括する天皇が必要だったが、地域的に分散していた伊予部族にはその様な大組織化の機会はなく、財政資源や人的資源が乏しい地域集団がそれぞれの責任で起業する必要があった。それ故に企業活動を有機的に連携する力がなく、ヒエ栽培の中核地に部族の力を結集する事もできず、交易活動では関東部族の後塵を拝する宿命を負っていた。

産業種の選択

関東部族が毛皮や海獣の皮革の産業化を重視し、漆工芸品の産業化を軽視した事が、その後の関東部族の産業構造を規定したが、関東から漆器産業が失われた真の理由として、関東部族が奢侈品産業に否定的な認識を持っていた事が挙げられる。

関東部族の縄文中期までの経済活動は、皆の食生活を向上させる為にシベリアの民族と獣骨交易を行い、華南から稲作技術を導入し、縄文後期になると熱帯ジャポニカの栽培技術を日本の各地に拡散し、日本式の稲作が確立するとそれも日本全国に拡散したが、それらは極めて大衆文化的な交易活動や商品で、それを貫いた関東部族には、自分達が必要としない高級な奢侈品を生産する事に、情熱を傾ける事ができなかったからである疑いが濃い。

これを産業面から捉えると、自分達の社会に実需がない物品は文化として発信する事ができず、他民族だけが消費者の場合には、形状や機能の進化に追従する事が難しいから、それに該当する漆器産業は関東部族には不向きな業態だった。

弥生温暖期に越系集団の経済が繁栄したのは、絹布を中心とする奢侈品交易に依るものだが、越人社会は身分格差が激しく富裕な貴族は華美な生活を謳歌し、荊の貴族も富裕者になったから、漆工芸品はその様な社会で開発するべき商品であって、平等で互恵的な関東部族の社会では、商品企画の遅れが常態化する事は当然の帰結だから、関東部族は漆器の生産から手を引いたと考えられる。

縄文中期までの関東縄文人は弓矢を生産する事によって獣骨を入手し、それを使って漁具を作成して漁獲量を高めると、人々の食料事情が豊かになる事を全員が理解し、その活動に参加する事が海産物を入手する必要条件になったから、皆が何らかの形でその活動に参加する、全員参加型の産業を運営していた。

高級毛皮は関東部族にとって奢侈品ではなかった事になるが、縄文前期~中期の八ヶ岳山麓の繁栄事情を見ると、それを事実化する事に違和感はない。つまりシベリアの狩猟民族が必要とする弓矢を、量的に供給できる体制が整った縄文前期~中期には、その膨大な量によってシベリアの狩猟民族と関東部族の交易バランスが崩れ、関東部族の輸出超過状態が生れたから、シベリアの狩猟民族も荊と同様の発想から新しい商品の開発に傾注した結果、その最大の商品が毛皮と海獣の皮革になり、mt-M10が製作した高級毛皮も、主要な市場は西ユーラシアと関東部族だったと考えられるからだ。

その結果として中部山岳地帯の縄文人は、冬になるとシベリア産の高級毛皮を皆が着る様になり、住居の床に海獣の皮革を敷く状況が生れたと推測される。縄文中期後葉の中部山岳地帯に敷石住居が出現するが、それは通気性を確保した板張りの支えで、その上に海獣の毛皮を敷いて材質の劣化を防ぐ為だったとすれば、合理的な住居構造であると言えるからだ。縄文人にとっては、石器でほぞ穴を開けて床下に空間を形成する事は難しかったが、石斧を使って作成した割り板を、砂岩を使って平面に仕上げる事は容易だったから、石を敷けばその代用としての空間を形成できたからだ。

敷石住居が出現したのは弓矢交易が衰退し始めた時期だから、時期がずれている様に見えるかもしれないが、それまでの樹木を敷いていただけの状態では皮革の耐久年数が短かったから、皮革の入手が困難になると、耐久年数を伸ばす為にこの様な工夫をした可能性もあり、また粛慎のmt-Gの加工技術が高まって高級な皮革が出回り始めたから、それに合わせて使い方を工夫した可能性もあり、また特定文化の末期に出現する爛熟的な文化現象だった可能性もあり、敷石住居の出現時期に拘る必要はない。

この仮説を敷衍すると、関東にmt-M10が渡来した経緯も具体的になる。つまり縄文前期に毛皮の加工技術を身に付けたmt-M10が生まれ、粛慎がオホーツク海北岸のモンゴル系民族の為に、そのmt-M10の一部をオホーツク海北岸に移住させる事により、関東部族への毛皮の支給を容易にしたから、関東部族にとってシベリア産の高級毛皮と海獣の皮革が身近な存在になり、縄文晩期にシベリアの交易構造が壊滅して彼女達の食料の調達が困難になると、食糧事情が豊かな関東にmt-Gmt-M10が移住した事になるからだ。

この仮説はモンゴル系のmt-N9aが縄文晩期に津軽に移住し、mt-M9が彼女達の為にソバを栽培した事情と類似しているから、背景事情を考慮すれば確度が高い。

弓矢産業を高度化する事によって分業型の産業社会を形成した関東部族は、全員参加型の経済活動の高度化も実現していたから、それを応用できる分野を求めて毛皮や皮革産業を育成し、使い慣れていなかったし多用する予定もない高級漆器は、関東部族が目指す産業構造ではないと考える事に合理性があった。既に指摘した様に縄文晩期には鉄の生産も始まったから、それに傾注する方が関東部族らしい産業を生み出すとの認識も、人々の底流にあったと考えられる。

従って縄文後期~晩期の北方派の交易事情は、mt-B4と共に船や漁具の製作を伴う漁労技術を拡散し、それを内需交易の基底としながら製鉄産業も興し、輸出用として毛皮や海獣の皮革の加工に傾注する状況だったと考えられる。縄文晩期になると稲作が不振になって荊が更に南下し、奢侈品重要が大幅に減退して漆器需要も滞った事も、この状況を加速したと推測される。

黒曜石の欠片や矢尻の不良品が貨幣価値を失った後の、交易に関わる決済事情

通貨を失っても交易による豊かさを求め続けた社会では、物価が丼ぶり勘定にならざるを得ないから、代わりの通貨を求める事に必然性があるが、関東部族が代用的な通貨を進化させた証拠は発掘されていないから、通貨と併用していた信用経済に戻り、互助的な交易環境を形成した可能性が高い。

生産が不安定な漁労の場合には互助的な公益システムの方が、商機を逸して魚を腐敗させるリスクが低く配分に無駄が生れ難かったから、賞味期限がある食材の交換が工夫次第で効率的に回転する、信用経済が復活したとも言えるが、漁民と共生していた縄文人は、通貨を使っていた時代から貨幣経済を重視せず、一貫して信用経済をシステム化していた可能性も高い。

その即物的な論拠としては、腐敗しやすい海産物を市場で交換すると、客を待つ時間が必要になったり売れ残って腐敗させたりするリスクが高いから、貨幣を使う交換は効率的な配給システムとは言えない事が挙げられる。骨が残る海魚は貝塚に痕跡を遺したが、当時盛んに捕獲されていたクジラやイルカは、浜で解体してから集落に運び込んだ筈だから、主要な海産物は痕跡が残らなかった可能性も高く、工房集落の主要な食料はこの仕組みで配給された海産物で、周囲の稲作者の基礎食料も縄文晩期寒冷期には海産物になり、工房と一体化した信用経済の一環として食糧交換が実施された可能性がある。

それが交易決済の基本だったからでもあるが、工房には常時多数の人々がいて海産物を受け取る体制が整っていたが、昼の稲作者の集落では人々が農作業に出払っていたから、工房が海産物の受け取り基地化し易かった事もこの想定の要素になる。

この信用経済の痕跡を現代社会に求めると、お歳暮やお中元にこの様な交換方法の残渣を感じるが、江戸時代の生活に必要な基本物資は、掛け売りと年末の清算が基本になっていた事が、より確度が高いこの仕組みの残影であると考えられる。江戸時代には貨幣経済が浸透していたが、それでもこのような決済システムが残っていた事は、縄文時代以来の伝統だったからであると考えざるをえないからだ。貨幣経済が浸透した江戸時代に、経済が活性化したからこの様な信用経済が後追い的に生まれたとは、到底考えられないからだ。

天武朝が富本銭を発行したが、それは現代的に言えば国債の様な高価なものだったから、それを継承した奈良時代の銭も高価であり過ぎ、贋銭が横行して政策的には失敗だったが、それ以降も日本で流通通貨が発行されなかったのは、通貨を必要としない経済システムが浸透していたからであって、それは江戸時代まで続いた信用経済だったと考える事に、合理性がある。元々は関東部族を起源とする仕組みだったかもしれないが、mt-B4が広めた稲作文化が関東式の信用経済を共有文化に仕立て、元々漁民と共生していた縄文人の共通の価値観だったものが、各地で高度化したと考える事もできる。

地域特有の縄文土器が遠方から発掘される事例が珍しくなく、縄文人が頻繁に移動していた事を示しているが、信用システムが発達していればその様な移動も容易である事も、状況証拠として挙げる事ができるだろう。移住者は必要な食材を、移住先で容易に入手する事が可能だったからだ。

このシステムの効率性は、腐敗しやすい海産物が生活の基本物資である場合に限って発揮され、工房の生産者に漁民が安定的な食材提供を保証し、生産性が高い工房に生産を高めさせる為に、過分の配給を行うには極めて都合が良いシステムだったが、貯蔵性が高い穀類を主要な食料とする農民社会では、効率性が高い配給システムとは言えなかった。穀類を多量に備蓄していた農民が食料を交換し合う必然性はなく、むしろ交易性が乏しい自給自足的な状態になり易かったからだ。

従って農耕社会になった奈良時代以降に、稲作者を統治する為に成立した王朝が、貨幣を鋳造しても普及しなかったのは、この様な配給システムが日本全国に普及していたからであると考えられる。

このシステムでは、生産量が不安定な漁獲を豊漁時に皆に余すことなく配分し、配分された縄文人も賞味期限内に食べ切れなければ、更に周囲の縄文人に配るが、配った際には対価は求めず、1年を通した収支決算で年末に穀類で調整するもので、この決済が基底にあれば、季節の野菜や工芸品を漁民に渡す際にも決算が可能だった。

この仕組みには漁民にとってのメリットが更にあり、縄文人が製作した漁具による漁獲が目覚ましければ、その結果による決済も可能だった。つまり漁労活動に従事しない漁民に、積極的に漁具を工夫する動機を与え、漁獲の向上に大きく貢献する仕組みでもあった。

この様な決済システムが縄文後・晩期の関東で進化したのは、遠隔地の市場を対象とする商品の開発の牽引者が、漁民出身の交易者だったからでもあった。遠隔地での物品販売では生産組織より販売組織が重要になり、交易全体の指導的田立場になり易いが、新商品や奢侈品の販売に際しては市場の反応に敏感になる必要があり、販売組織の高度化の程度によってその機能レベルが規定される場合が多々あり、大型商品であるほど販売組織の重要性が高まるから、それとの相乗効果も期待できたからだ。その結果として販売戦略が精緻化され、それに対応する販売組織を整備する事も重要になった。

関東に生まれた漆器生産は、それを販売する者を組織化する環境が整っていた事を具体的に示し、上記の仮説の証拠を示している。これらは権力者の宮廷工房や王朝の官営工房でではなく、庶民の間で授受された物品である事も重要な視点になる。王朝の宮廷工房や官営工房の存在は、民間の産業基盤の脆弱性を示しているのであり、その様な権力機構とは無縁な縄文社会で奢侈品が生産されていたからだ。その理由は、保存食である穀類の生産性が低かったから、保存性が劣る海産物に食料の過半を頼る事情があり、その生産性を高める為には交易が必要であり、交易力を高める為には産業力と海運力が必要だったからだ。

交易の多様化によって生まれた社会の変化

縄文中期までの関東部族の交易活動は、すべての民族が成果を共有する全員参加型で、海洋民族の活動は公共の福利であるという意識が共有され、皆が等しく豊かになったから、海洋交易者が尊敬される基盤を提供した。その様な海洋交易者の動機は、集団の福利に貢献する誇りと周囲の賞賛が支えていたから、個々の作業が必ずしも物質的な利潤に結び付かなくても、それに纏わる活動である限り問題視する風潮はなかった。

しかし海洋交易者の活動目的が、商品交易から得られる利準の獲得に傾斜すると、海洋民族の社会的な立場は大きく変わった。成果として得られる利潤は多様な商品間で一律ではなく、同一商品であっても品質やデザインに大きく依存し、商品の生産者に職人的な高い技量を求める様になった。

弓矢生産の場合にも矢尻の生産にはその様な配慮が必要だったが、矢尻に限定される事情があり、その他の生産活動では生産量を確保する為に、むしろ全員の技量を揃える必要もあった。

しかし漆器や毛皮の工房から出荷される最終商品には、究極的な品質の高度化が求められただけではなく、販売量を増やす為に形状の変化や追加的な付加機能が要求された。特に奢侈品の生産には高度な技能が要求され、職人が集積する工房の優劣に交易の成果が依存したから、商品の選択と生産の集中が進行した。商品が高度化すると販売に必要な知識も高度化し、交易者にも技能格差が生まれ、それが交易の成果に直結する様になった。

商品が多彩になってそれぞれが異なる利潤を生み、それぞれが別々に交易の利潤を配分すると、その波紋があらゆる社会階層に及んだ。それぞれが必要に応じて個々に対策を講じなければならなくなると、栽培者と海洋民族はそれぞれの立場で、社会的な変革を受け入れる必要が生れたからだ。栽培者は高利潤商品の製作者になる必要があったが、大多数の縄文人は商品価値がある稲作に従事し、自立できる生産性を得る必要に迫られた。それ故に多数の稲作者が西日本に移住したと推測され、移住は縄文後期初頭に単発的に発生したのではなく、継続的に進行した可能性が高く、この様な社会の動揺も信用経済が破壊される方向性を有していた。

この事情は縄文後期以降の関東部族に必然的に降りかかり、誰かの成果を皆で讃え合う習俗が失われ、他人の成果を嫉妬する状況が生まれたから、海洋民族の共同体的な倫理観が薄れ、扱う交易品の違いや集荷する地域の違いによって多数の小国が生まれ、信用経済は破壊される方向に進んだ。

最終的に倭は100余国になったが、それにも関わらず信用経済が維持されたのは、天皇を頂点とする全体主義的な組織の統廃合があり、生産・販売集団の連合体の様な社会になったからで、古事記が天皇制を至上の組織形態であると称賛したのは、その様な背景があったからだと考えられる。

それによって問題が解決したわけではない事を、古墳寒冷期に大陸の農耕が徐々に不振になって交易が縮小すると、小国が利益配分を巡って争う事に社会になった事を、魏志倭人伝が示す卑弥呼の統治体制が示唆しているが、女王が大率から移譲された倭の30国は、関東の天皇が統治する国々ではなかったからだとも言えるし、女王卑弥呼の誕生によって社会が安定化した事は、倭人的な統治の柔軟性を示しているとも言える。縄文晩期寒冷期にも同様の課題は発生し、それらは信用経済が崩壊する危機だった筈だが、それでも信用経済が維持されたのは、日本の経済が寒冷期になっても生産性が劣化しない、漁労経済を基底にしていたからだと考えられる。

弥生温暖期の主要な食料は海産物だった事を、魏志倭人伝が示す対馬、壱岐、末盧の漁民の集住状況と、彼らの食糧事情がそれを示しているからだ。つまり日本列島が農耕社会になったのは、平安温暖期になった奈良時代以降だった。

 

8―4、縄文晩期に東アジアで起こった事

8-4-1 mt-B4の華南移住

縄文後期温暖期にmt-Fの稲作の生産性が高まり、個人的な生産量で大差を付けられたmt-B4は、先ず北九州に移住し次いで備讃瀬戸や大阪湾岸に移住し、九州南部や四国南部の伊予部族の地にも入植した。関東では縄文中期に人口が希薄だった北関東に入植し、伊予部族と共に九州南部や四国南部に入植した、福島のmt-M7aが残した稲作地にも入植した事を、福島の河岸段丘の遺跡から発掘される加曾利式土器が示している。標高300mの北関東の黒磯より、緯度は北になるが標高250mの郡山の方が、やや温暖である事もその事情に影響していた可能性がある。

この様なmt-B4が熱帯ジャポニカの耐寒性を高めなければ、熱帯ジャポニカも栽培する日本式の稲作が弥生温暖期に、青森に北上する事はできなかった事は既に指摘した。

しかし縄文後期温暖期が終わって迎えた縄文晩期寒冷期は、縄文後期温暖期より23℃低温化し、稲作者が嘗て経験した事がない寒冷期になった。それに向かって気候が徐々に冷涼化した縄文後期の終末期には、熱帯ジャポニカの栽培地は宇都宮以南に南下し、福島や北関東にいたmt-B4は稲作地を失ったが、多数のmt-B4が移住できる稲作地は日本列島には既になかった。

海洋漁民だったY-Dとペアになっていたmt-Fにも移住先はなかったから、彼女達の集落の一部は海洋民族化して漆器や毛皮を生産し、残りはその集落を囲む生産性が乏しい稲作者になったが、内陸で縄文人とペアになっていたmt-B4にはその様な機会もなかった。この時期の関東部族は不足する穀類を補う為、漢族のmt-D+M8aを多数導入した事も既に指摘した。男性達はそれも含めた就労の機会を求め、人材を求めている地域に移住したかもしれないが、稲作に拘るmt-B4にはその様な選択肢はなかった。

縄文後期温暖期が終わったBC1500年頃に、気候が突然急速に1℃低温化したから、青州の荊は安徽省以南に南下したと想定されるが、BC1200年頃に再び急速に1℃以上低温化すると、湖北省の盤龍城が廃れて江西省に五城文化が生れた事が、この時期の寒冷化の厳しさを示している。五城文化の遺跡から磁器を生産した遺構が発掘され、南下した荊の遺跡である事を示しているからだ。

上記の尾瀬の花粉が示す気候変動は、海に囲まれた日本の気温だから、大陸の冷涼化はもう少し緩やかだったが温度振幅は大きかったと推測すると、この時期の荊の動向と一致する。

しかし次節示す様に、縄文晩期寒冷期に湖北省や安徽省に留まった荊も少なからずいたから、彼らがそこで栽培していたのは熱帯ジャポニカだったと考えざるを得ない。

俀は宝貝貨を加工する女性を示し、夏王朝に参加した関東部族の南方派を示す漢字だが、倭は稲作を行う女性を示しているから、熱帯ジャポニカの栽培者だったmt-B4を送り込んだ北方派に、荊が「倭」漢字を作って贈呈した事によって倭が生れ、神武が北方派を統合して倭連合が生れたとすると、大陸と日本の双方の歴史と整合する。古事記がこの事情を神話化し、神武天皇を「神倭いわれびこの命」と記したのは、神武天皇がmt-B4を荊に送り込む事によって倭が生れ、それを機会に倭を政治集団として統合した事を示唆しているからだ。

荊を無二の友邦としていた俀もそれに感謝して倭の優位性を認めた事が、この名称の言外に込められた意図である事は、他の古事記の説話や天皇の名称から推測できるし、古事記が最も重視する天皇制の起源者である神武には、重要な歴史を踏まえた特別な意味が込められている事も間違いないからだ。

その7の古事記の解釈では、神武を初代の天皇に据えたのは、寒冷期なって稲作が不振になると伴に沈滞化した経済活動を、製鉄事業を興す事によって活発化させたから、それによって倭を統合した天皇になったとするものだったが、「神倭いわれびこの命」と命名して本当の天皇制の始まりであると定義したとすると、縄文晩期寒冷期の始まりであるBC1200年と、神武天皇の即位が一致するから、古事記に込められた政治的な意図を深堀する事が可能になる。

を使う名称が体制の変革者を示す符合である事は、南方派も傘下に収める統合的な天皇になった事を意味するが、古事記がこの名称によって特に強調したかったのは、飛鳥時代末期に不穏な動きを示していたmt-B4の情報ネットワークに対し、神武天皇は困窮していた当時のmt-B4に救いの手を差し伸べた事と、それによって当時のmt-B4の情報ネットワークから多大な賛辞を得た事になるからだ。前者の成果を大洞式の華麗な土器群が示し、古事記の主張の正当性を示している事は既に指摘した。

を使う名称が、天氏の系譜が変わった事を示す符号である事を、これらの事情と絡めて解釈すると、商工業を統括していた北方派の天氏系譜の天皇が、天文と遠洋航行を統括する本流の、甕星の祖先系譜である天氏に代わった事と、天皇は神武が初代ではなく、原初的な天皇は既に存在していた事を示唆している。従って海幸彦山幸彦説話は、兄の天皇が弟である南方派の主導権を認めた事績の、神話化であると解釈する事もできる。

縄文後期に福島に北上したmt-B4BC1500年頃に稲作に行き詰り、北関東に北上したmt-B4BC1200年に行き詰ったから、第一陣がBC1500年頃に華南に移住し始め、その成功を見届けていた北方派がBC1200年に多数のmt-B4を移住させたから、揚子江流域に残る事ができた荊が感激して北方派に「倭」漢字を贈呈したとすると、神武の即位と時期も一致する。

縄文晩期寒冷期が始まる前に日本式の稲作の開発が完了すれば、荊にはmt-Fを送り込む事ができたが、日本式の稲作と言える様な技術が生れたのは縄文晩期寒冷期の中頃で、それによって関東のmt-Fの生産性が幾分持ち直したとしても、縄文晩期のmt-Fの生産性は安定した状況には程遠かったし、既に多数のmt-B4が大陸に渡った後だから、mt-Fが追加的に荊の稲作者になる状況はなかった。

周礼に記された弥生温暖期の大陸の稲作は、田植を行う日本式の稲作ではなく、種を直播するmt-Fの古典的な稲作だから、縄文晩期にmt-B4が大陸に持ち込んだ稲作は、日本式の稲作ではなく関東で栽培化された耐寒性が高い熱帯ジャポニカだった事になる。

多数のmt-B4が華南に入植したのは縄文後期末~縄文晩期初頭だった事を、B1100年頃に発生した殷周革命時に、湖北省の庸が活躍した事が示している。

現在の中国ではmt-Fよりmt-B4の方が多く、山東・遼寧でその傾向が著しい事もこの事情と整合する。

但し縄文晩期の人口が劇的に減少したと考古学者が指摘するのは、mt-B4の大量移住があったからではなく、縄文晩期寒冷期に日本式の稲作が開発されると、それを採用したmt-B4も低湿地に移動したからだと考えられる。東京湾周辺は地殻の沈降地帯だから、低湿地の痕跡は地中深く埋もれているからだ。

縄文晩期の関東や函館で精巧な漆器が生産された事は、荊と越人にある程度の数の富裕者がいた事を示唆し、それが交易の成果を示しているとすると、地中海世界は縄文晩期の寒冷化で大混乱し、文明が断絶する様な事態になったが、インド洋沿岸やペルシャ湾岸の交易は順調だった事を示唆している。

古墳寒冷期には世界経済が大混乱に陥ったが、その前の弥生温暖期に農耕の耐寒技術が向上し、農耕民族が黒海沿岸まで北上していた事が西ユーラシアの打撃を大きくしたが、山岳地に囲まれたアラビア海やペルシャ湾沿岸では小麦栽培者の北上は限定的だったから、寒冷期の南下圧力も限定期だった可能性が高い。また縄文晩期寒冷期は古墳寒冷期ほど劇的に低温化しなかったし、その前の温暖期との気温差も古墳寒冷期より小さかったから、混乱は限定的だったと推測される。

東アシアのmt-B4の分布

殷周革命時の援軍の筆頭が湖北省のだった事は、これらの地域の荊がmt-B4を受け入れ、伝統的な広い湿田で熱帯ジャポニカを広域的に栽培し、食料事情を安定させていた事を前提にしなければ、主要な戦力として殷周革命に参加する事はできなかった。これは四川を含むその他の華南地域の、稲作民族の包括的な事情だったから、mt-B4は揚子江の中下流域だけではなく、四川にも入植したと考えられる。縄文晩期寒冷期に武漢の盤龍城遺跡が空洞化し、温暖な江西省で呉城文化が開花した事は、より温暖な江西省に南下した荊は温帯ジャポニカの栽培を継続した事を示し、縄文晩期寒冷期の気候事情と整合するからだ。

漢書地理志は広東以南を粤の地とし、粤人の基本構成のB5+M7bD+M7bが浸潤し、焼畑農耕に変なった事を示唆しているが、漢代の地名は粤でありながら、現在の広東ではB4Fが多数派である事から推測すると、縄文晩期寒冷期の荊は広東まで南下できなかったが、更に寒冷化した古墳寒冷期には、江西省でも稲作が難しくなって広東に南下し、現在はインディカ米の栽培者になっている事も、尾瀬の花粉が示す気候変動と一致する。

ジャポニカ種の原生種が繁茂している広東で、温帯ジャポニカを栽培する事は難しかったから、遅くとも平安温暖期にはインディカ米の栽培者になった事になり、タイに入植した荊は早々に、この地域のmt-Rxの浸潤を受け入れてインディカの栽培者になったから、その道筋も合理的に説明できる。

広東でmt-B4mt-Fの分布がほぼ拮抗し、両者の合計が最大遺伝子群を形成しているが、この状態は台湾、フィリッピン、山東・遼寧、タイに共通しているから、それほど古くない時代に稲作に行き詰った荊が、それらの地域に大移住した事を示している。大移住は縄文晩期寒冷期ではなく、鉄器時代になっていた古墳寒冷期に求める事は、稲作者が熱帯雨林を開墾する為には多量の鉄器が必要であり、青銅器時代だった縄文晩期には難しかったという理由だけではなく、海洋民族が多数の荊の移民を短期間に輸送する海運力を得たのも、鉄器時代になってからだと考えられるからだ。

周礼や漢書地理志に青州の穀物はイネと麦(大麦)であると記されたのは、弥生温暖期に華北に北上した荊が、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを栽培していた状況を指している。その様な荊のmt-F+B4が漢族に浸潤したから、その一部が古墳寒冷期に帰化漢族の遺伝子として日本に渡来した。日本のmt-B4には古墳時代に帰化したmt-B4も混在しているが、いずれのルーツも縄文早期に渡来したmt-B4だから、区別する意味はない。

しかしmt-B4が持ち込んだ熱帯ジャポニカの生産性と、mt-Fが栽培した温帯ジャポニカの生産性と比較すると、熱帯ジャポニカの生産性は半分程度だったと想定されるから、弥生温暖期になると雲南や成都などを除いた温暖な地域では、荊は再び温帯ジャポニカの栽培者に戻り、熱帯ジャポニカの栽培が放棄された疑いがある。しかし稲作の耐寒性は熱帯ジャポニカの方が極めて高く、治水が難しい地位での栽培も、熱帯ジャポニカの方が容易だったから、北辺や山間地では熱帯ジャポニカの栽培が主流だった可能性も高いし、mt-Fmt-B4が混在した地域では、温帯ジャポニカを栽培するmt-B4が出現した可能性も高い。

両種は交配が可能だったから色々な亜種が派生した可能性も高いが、古墳寒冷期の後半に倭が移民事業を推進し、日本で熱帯ジャポニカと交配した種が華南に持ち込まれたから、現在の華南にはその痕跡として、農学者の佐藤氏の分類によるタイプb種が圧倒的に多い。

稲作民が南下した温暖な江西省で呉城文化が開花したが、湖北省、浙江省、安徽省に残った荊は、生産性が低い熱帯ジャポニカを栽培して苦しい食料事情を耐えたから、稲作文化と言える様なものは遺せず、盤龍城さえも放棄せざるを得ない状態になった事は、この時代の中華世界の出来事と整合する。また山東遼寧の漢民族の稲作系遺伝子は、台湾以南に南下した荊と比較し、mt-Fに対するmt-B4比率が高い事も諸事情と整合する。

現在の中華世界に広域的に散在するmt-B4が、縄文後期末~晩期初頭に関東から移住して荊に浸潤したmt-B4だった事を、遺伝子分から検証する必要もある。縄文中期の良渚文化期に浸潤したmt-B4が、縄文後期温暖期に成都で増殖したりして、それらが縄文晩期に荊に浸潤した可能性もあるからだ。但し日本列島以外に耐寒性が高い稲作が行われていた地域はないから、他地域のmt-B4だった可能性はない。

その検証の為には、遺伝子変異の下位分布まで分類する必要があり、先ず分類記号の一つ下位までのクラスターの、東アジアでの分布を下表1に示す。

 

日本

中国・朝鮮

ヴェトナム

台湾

タイ

東南アジア・島嶼

南太平洋の島嶼

北米

南米

B4*

 

 

 

 

 

 

 

B4a

 

 

B4g

 

 

 

 

 

 

B4h

 

 

 

 

B4i

 

 

 

 

 

 

 

 

B4k

 

 

 

 

 

 

 

 

B4m

 

 

 

 

 

 

B4b1

B4b2

 

 

 

 

 

 

 

B4d

 

 

 

 

 

 

B4e

 

 

 

 

 

 

B4c

 

 

 

B4f

 

 

 

 

 

 

表1

表1から読み取れる事は、1万年前に海洋民族になったのはB4b女性で、B4全体の中では極めて少数派だった事になる。海洋航行に尻込みする女性達の中で勇敢な一人の女性が挑み、その娘達が第一世代の海洋民族になり、南太平洋を横断して南米に渡った事を示しているからだ。

その段階ではB4b1B4b2は未分離で人口も少なかったが、大陸に上陸した女性達と、海洋民族である事を続けた女性達の双方の人口が増え、それぞれがB4b1B4b2を形成した可能性もあるが、表の様に明確に分かれている状況は、浸潤があった事を示唆している。

つまりB4b2の成功体験を受け、第二世代の南太平洋の海洋民族になったB4aB4b1が、島嶼で活動する新しい海洋文化を身に付けていたので、島嶼部の第一世代の女性達に浸潤して遺伝子を置き換えたが、アメリカ原住民に浸潤したB4b2は南米原産の豊かな植生を得て、既に有用な品種の栽培化を進めていたから、海洋民族の女性にはB4b2に対する浸潤力がなかったとすると、表の様に明確に遺伝子群が分かれる状況が生れたからだ。縄文後期にはインド洋の海洋民族と南太平洋の海洋民族が分離したから、浸潤が発生したのは縄文前期~中期だったと推測される。

これを前提に彼らが台湾で海洋民族になった1万年前まで遡ると、B4bの或る女性が果敢に海洋民族になり、その長女の家系は積極的に南太平洋に拡散して南米に到達したが、次女の家系は親戚と共に徐々にフィリッピンやインドネシアに南下し、栽培種も含めた海洋文化を高度化した上で、女系の親戚ではなかったB4aと共に、徐々に南太平洋を東進しながらB4b1を浸潤していった状況が想定される。

1万年前の台湾で海洋民族にならなかったB4は、稲作民として残った事になるが、稲作者として生き残る道は日本に渡来し、熱帯ジャポニカの栽培者になるしかなかった。もう少し残酷な言い方をすれば表1は、1万年~9千年前に日本に渡来せず、台湾に残って稲作を続けていたmt-B4は、稲作者ではない東南アジアの島嶼の女性になったが、特技がなかったその女性の子孫は、現在B4cしか残っていない事を示している。

上表では中国・朝鮮の遺伝子バリエーションが最も多く、中国・朝鮮がこの遺伝子の起源である様に見えるが、現在の中国のB4人口は日本の20倍にも達しているから、独自のクラスターが多数発生している事になり、クラスター数の単純比較には意味がない。日本には分類できないB4*が多数居る事に着目すると、日本がB4の起源地だったとも言えるが、それはあり得ない事も、この表だけでは結論が得られない事を示している。

表1を裏面から観測すると、縄文中期寒冷期と晩期寒冷期に纏まった数のB4が、熱帯ジャポニカを栽培する為に浙江省や揚子江流域に渡り、その子孫が本家の20倍になった事は否定していないと解釈する事はできる。

mt-B4が縄文中期寒冷期の浙江省で越人のmt-B5に浸潤し、その後mt-B5と共に成都に移住したり広東に南下したりして、縄文晩期寒冷期に華南の荊に浸潤し、弥生温暖期に青州に北上して漢族に浸潤したmt-B4については、以下の考察が成立する。

越系mt-B4の活動歴は、一緒に行動したmt-B5の分布から得られる筈だから、mt-B5の現在の分布に着目すると、従来の越系遺伝子と養蚕の技術者になったmt-B5がいて、養蚕の技術者になったmt-B5はフリッピンでmt-B5+M7aを形成し、台湾に北上したmt-B5mt-B5+M7bの養蚕者になり、島嶼部を日本列島まで北上した。そのmt-B5mt-M7bは同率だから、それを加味したフィリッピン以外の各地のmt-B5の分布から、縄文後期以降の越人のmt-B5の拡散事情を推測し、越系mt-B4の動向を間接的に推測する事ができる。これは穀類を栽培する遺伝子の追跡に威力を発揮した手法だから、実績がある手法であるとも言える。

養蚕者だったmt-B5+M7bの正確な割合の推測に際し、起源地の台湾で両者を比較すると、焼畑農耕者だったmt-D+M7bとの重なりがある。それを除去する為に焼畑農耕者に着目すると、mt-B5の割合が極後に低く、隣接するヴェトナム(越南)にはmt-B5が多いから、広東には養蚕者がいなかったと想定すると、焼畑農耕者が移住した広東のmt-M7bmt-D24%になる。

この比率から台湾のmt-M7bの内訳を計算すると、6.5%が焼畑農耕者で5%が養蚕者だった事になる。台湾のmt-B56%だから、養蚕者のmt-B5+M7bmt-B5がやや多いか、同数の組み合わせだった事になる。日本では焼畑農耕者だったmt-Dのペアは鉄器時代に消滅したが、台湾も広東も同じmt-D+M7bで、期限を共有する焼畑農耕者だったから両者の関係は類似していた事と、この計算から産出する養蚕者の遺伝子構成は日本と同じである事が、台湾と広東では焼畑農耕者のmt-Dのペアだったmt-M7bが、鉄器時代になると自身も焼畑農耕者になる事により、完全には消滅しなかった事を示唆している。mt-D+M7bに掛かっていたストレスが、温暖な地域では日本ほどには過酷ではなかったからだろうか。

日本ではmt-B54.3%、mt-M7b4.5%でmt-M7bがやや多く、宮崎ではその傾向が強まるから、北九州では縄文中期の焼畑農耕者がmt-D4に一本化されたが、九州南部では関東から移住したmt-B4の指導でmt-M7bも稲作者になり、この系譜のmt-M7bが日本のmt-M7b比率を高めている可能性がある。従ってmt-B5がやや多い台湾の事情と変わらない。フィリッピンのmt-B511.3% mt-M7a9.4%だから、フリッピンでも同様な事情が生れていた事を示し、これが養蚕者の遺伝子構成だったと推測される。

韓国のmt-B54.6%でmt-M7b3.5%だから、養蚕者の遺伝子構成よりmt-B5比率が高い。但し山東・遼寧ではmt-B5比率が低いのに、mt-M7bがその1.4倍もあり、韓国のmt-M7bには養蚕者以外の遺伝子としてのmt-M7bが、山東・遼寧から拡散した疑いもあり、少なくとも朝鮮半島~山東・遼寧のmt-M7bには、養蚕者ではないmt-M7bが無視できない割合で含まれている。

このmt-M7bの出自は明らかではないが、縄文後期に製塩業者と一緒に越人のmt-B5+M7bとして、渤海南岸に移住した遺伝子である可能性が一番高い。縄文中期の越人はドングリも併用する食生活を基本としていたから、縄文後期に四川に移住した人々も堅果類を食べていた筈だから、縄文後期に渤海南岸に移住した製塩業者も、mt-M7bを含んでいた事に違和感はないが、山東・遼寧ではmt-B5より割合が高い事に驚きがある。韓国のmt-M7bは韓族の基底遺伝子だったmt-M7aとほぼ同率だから、mt-M7bには堅果類や穀類以外に有用な栽培種があった事を示唆し、台湾や広東の焼畑農耕者だったmt-M7bが消滅しなかった理由も示唆している。

堅果類や穀類以外の有用な栽培種は、常識的にはイモ類か豆類になるから、沖縄や台湾も含めて広く東南アジアで栽培されている、ヤム芋の一種であるダイジョが有力候補になる。これを漢字で書くと「大薯=最も重要なイモ」になり、夏王朝の領域内では里芋より盛んに栽培されていた事を示しているからだ。

この越人の遺伝子が漢族に混入し、高句麗の滅亡と共に漢族が朝鮮半島に南下し、現代韓国人の遺伝子の主要な構成要素になっているから、韓国のmt-M7bの半分近くはこの遺伝子であり、韓国のmt-B5の半分以上は越人の遺伝子で、養蚕者の遺伝子は極めて少なかった事になる。魏志東夷伝が「朝鮮半島で養蚕も行われている」と指摘してはいるが、邪馬台国で「盛んに養蚕が行われ、高級絹布や錦を出荷している」と指摘した状況とは比較にならないから、遺伝子事情は文献資料とも整合する。

この状態を敷衍すると、漢代の山東・遼寧には養蚕者がいなかった事が判明するだけではなく、春秋時代に山東に北上した越人には養蚕者が含まれ、その養蚕技術が荊のmt-F+B4にも伝承されたが、大陸の気候では蚕の生育が思わしくなく、樹木栽培の技能に優れた人材もいなかったから、高級な絹糸を生産する事はできなかったとの推測と整合する。

中華のmt-B4が日本人の20倍もある事に驚くが、漁労資源が食料の重要な要素だった日本のmt-B49%で、mt-F+B4でも15%しかないが、基本的にはアワの栽培地だった山東・遼寧にもmt-F+B420%も含まれている事は、農耕民族の地だった中華世界では、mt-F+B4の拡散力が極めて強力だった事を示し、特に寒冷期だった縄文晩期にmt-B4の浸潤力が強かった事を、農耕民族の特徴として捉える事ができる。

従って縄文晩期寒冷期にmt-B4の人口爆発が起き、一気に日本の人口の20倍になる状態が進行したのではなく、弥生温暖期以降であっても、冷涼な気候地域である華南の高地や華北では、mt-B4が強力な浸潤力を発揮し、日本のmt-B420倍の人口に至った事に違和感はない。

従って縄文後期温暖期に渤海南岸に北上した製塩業者のmt-B5+M7bの内、その後の冷涼化の中で残ったのはmt-M7bの方で、mt-B5は弥生温暖期にmt-B4によって浸潤されて殆ど消滅し、現在の山東・遼寧のmt-B5は、その後の動乱の中で朝鮮半島から拡散した遺伝子であると推測されるからだ。言い換えるとmt-B5比率がmt-M7bより低い大陸で、熱帯ジャポニカの栽培だった越人のmt- B5が、荊に拡散した痕跡はない。

このmt-B5が荊に拡散できなかったのは、縄文中期寒冷期の浙江省の気候環境で熱帯ジャポニカを栽培したから、その後の耐寒改良が進まず、縄文後期温暖期に渤海南岸に移住しても、このmt-B5が栽培する熱帯ジャポニカは耐寒性を得る事ができなかったし、成都に移住したmt-B5についても同様の事が言えるから、縄文後期温暖期に福島まで北上したmt-B4と比較すると、同じ滅諦ジャポニカであっても耐寒性は劣っていたと考えられる。従ってこのmt-B5と行動を共にしていたmt-B4がどの程度いたのか分からないが、そのmt-B4が縄文晩期寒冷期に荊に浸潤しても、華南で稲作ができたとは考え難く、縄文晩期に荊に浸潤したのは、縄文後期に福島や北関東で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4だったと結論付ける事ができる。

韓国のmt-B5の半分は、養蚕の技能者だったmt-B5+M7bではなく、越人のmt-B5である可能性が高い事は、製塩業者であり交易者でもあった越人には、日本の海洋民族以上に交易者的な状況があった故に、稲作者としての役割が求められていたのではなく、交易者の伴侶としての役割があった事を示唆している。

製塩業者の末裔が移住したその様な韓国とは対極的な地域として、粤が拡散した広東を挙げる事ができる。粤は製塩業者になった越人を輩出した農耕民族だが、広東に残されたmt-B5の比率は1%と極めて低く、荊が南下する以前の粤時代でも2%しかなかった事になり、台湾で生まれた焼畑農耕者のmt-D+M7bに浸潤されて殆ど失われた事を示し、農業地域では強力な栽培者の遺伝子に強烈な浸潤を受けた事を示しているからだ。

古墳寒冷期に南下した荊のmt-F+B4が最多遺伝子になり、それにタロイモを栽培していたmt-M8aを加えると、9割近い遺伝子が栽培者の遺伝子になり、この地域が農耕地域だった事を示し、栽培者の農耕民族への浸潤と交易者への浸潤には大きな違いがあった事を示し、ミトコンドリア遺伝子の浸潤理論を精緻化している。

更に詳細に検証する為に、下位分布の調査が比較的充実しているB4a1を追跡すると、以下の表2になる。

 

日本

中国

朝鮮

台湾

ヴェトナム

タイ

東南アジア・島嶼

南太平洋の島嶼

B4a1a

 

 

 

 

 

B4a1b

 

 

B4a1c

 

 

B4a1d

 

 

 

 

 

 

 

2

B4a1aは稲作者にならずに海洋民族になったが、B4a1bdは稲作者になった事を示している。つまり1万年前の台湾でmt-B4B4a1B4fxまでクラスター化し、B4a系ではB4a1aだけが海洋民族化したが、南太平洋には進出せずにインドネシアやインド洋に進出し、縄文前期~中期に南太平洋にも進出した事になる。

従って他の遺伝子クラスターもこの様なバリエーション状態だったとすると、1万年~9千年前に台湾から関東に渡来したB4は、少なくとも数千人規模だったと推定され、北陸部族がアムール川河口域から受け入れたmt-Dの最低人数と一致し、当時の海洋民族の航行能力を示している。1年に数十人程度でこの条件を満たすが、その航行が安全である事を女性達に納得させる事ができる航行能力だった。

1年に数十人程度であれば、人口の再生産が可能な移住人口だったから、台湾には少なくとも数千人のmt-B4が常在する中で、各集落の女性の中から希望者を募った事になる。この場合には近世まで台湾に残っていた女性達はとも角として、海洋民族と一緒にフィリッピンやインドネシアに移住した女性達の子孫は、B4cしか残っていない事になり、日本に渡って熱帯ジャポニカの栽培者になった女性だけが、その後多数の子孫を遺した事になる。

1では日本とヴェトナムにだけB4*があり、表2にもヴェトナムにだけB4a1dが存在し、どちらもmt-B4の起源地である様な状況を示唆している。ヴェトナムには華南の山岳地の様に少数民族が多数雑居している状態はなく、多数の少数民族の中に特定クラスターが発生し、起源地であるかの様な錯覚を与える状況もないから、検証に値する状況にある。

ヴェトナムは氷期のmt-B4の故郷だった事がこの原因である可能性もあるが、縄文晩期に荊に浸潤したmt-B4は北関東の遺伝子だったのに対し、縄文中期に浙江省に移住したmt-B4は関東部族の南方派が送り込んだ、関東南部や駿河湾沿岸のmt-B4だったからである可能性もある。ヴェトナムにはmt-B5が多く、縄文後期以前の粤人の遺伝子を保存していると考えられるから、これが事実であれば、縄文中期にも少数のmt-B4が浙江省に入植した事を、表12が示している事になる。

B4a1bB4a1cの下位グレードを分類した表を下に示す。

 

日本

中国

朝鮮

台湾

ヴェトナム

タイ

B4a1b1

 

 

 

 

B4a1b2B4a1e

 

 

B4a1c1

 

 

 

B4a1c2'4'5

 

 

 

B4a1c3

 

 

 

 

B4a1bB4a1cが日本で確立し、その下位が中国で発生した疑いもあるが、下位グレードの存在は遺伝子変異が発生した時期を示しているのではなく、その遺伝子クラスターがグルーピングできる人口である事を意味しているだけなので、日本のB4人口は1千万人だが中国のB4人口は2億人で、中国の山岳地には少数民族が多数散在し、閉鎖的な婚姻関係を維持している事を考慮すると、B4a1の下位グループが中国に多い事は、その変異をグーピングできる人口規模や婚姻事情が存在していた事を示すだけだから、これらの遺伝子変異を以てmt-B4は中国起源であると考えるべきではない。中国にはそれらの発生起源を示す歴史がなく、揚子江以南の少数民族に関する調査が盛んに行われ、多数の特定クラスターを探し易い状況になっているからだ。

少数の女性が少数民族に浸潤して特定遺伝子を増やした場合、それが特定遺伝子グループのクラスターになるから、少数民族の起源調査が偏向的な結果を生んだ可能性も高い。歴史認識のない人々が現在の遺伝子分布から論評し、認識を混乱させる事は止めるべきだ。

 

8-4-2 殷・周時代の塩の商流

竹書紀年は殷王朝最後の王だった帝辛、最終年の最後の記事として以下の様に記している。

周が始めて殷を伐つ。秋に周の師が鮮原に次し、冬十二月に周の師が上帝で有事し、庸(湖北)、蜀(四川)、羗(四川、陝西)、髳(雲南)、微(四川)、盧(?)、彭(?)、濮(山東)が、周の師に従って殷を伐つ。

は場所を特定できていないが、濮水流域にあったとする説が正しければ、濮水の河口にいたと同様に、製塩に関わっていた越人集団だった可能性が高い。越人は熱帯ジャポニカと堅果類を栽培していたから気候が寒冷化しても、温帯ジャポニカを栽培していた荊の様に、南下しなければならない状態に陥らなかったからだ。いずれにしても先頭の5集団は稲作民の国だから、周を支援したのは稲作民族だった事になり、彼らは栽培種を熱帯ジャポニカに切り替えて各地に留まっていた事になり、彼らには南下する場所がなかった事を示し、倭名称を贈呈したのは荊だけではなかった事を示唆している。

この記述を基に、殷周革命以前の殷王朝期の塩の商流と、殷周革命によってそれがどの様に変わったのかを検証する。

殷代の塩の商流

周の武王紀の初年に、「周の武王は西夷諸侯を率いて殷を伐った。野でこれを敗った。」と記し、上記の記述と事績を重複させている。通常の年代記ではあり得ない事だから、殷周革命の戦闘が正月を跨いで行われ、の決戦は年が明けてから行われた事を示唆しているが、違和感は免れない。夷は東の沿海部の民族だから、西夷諸侯の用語にも違和感がある。は位置的には東夷諸侯であり、湖北省の西夷諸侯とは言えないから、この記述には周王朝の作為が感じられる。

明らかに東の集団であるを無視した事は、周代にが消滅してが渤海で製塩を行った事、それに伴って殷周革命後に濮水の名前が済水に変わった事と、関係している事も示唆している。

殷周革命後にと周の関係が悪化した理由は、周の起源が青海湖の塩を販売していた集団だったから、渤海の製塩者とは革命前から利害が対立していたからだと考えられる。周が華北を支配すると、華北の塩を一元管理する体制を目指し、山東の製塩地に秦人の国としてを封じたから、が山東から撤収すると濮水の名前が済水に変わったと想定されるからだ。

海洋民族の法を重視した夏王朝は、市場の覇権は商品の優劣によって決まる事を法規で規定し、商圏や商流の既得権益を尊重していた筈だから、周はそれを尊重せずに武力による覇権を重視する、極めて農耕民族的な集団だった事を示している。夏王朝の法規は見た事はないから確かな事は言えないが、夏王朝の塩は海洋民族が配布していたから、交易に関する法も海洋民族的なものにならざるを得なかった事は間違いないからだ。

縄文時代の交易者は交易によって生活必需品を得ていたから、産業力を高める事に民族の盛衰を賭け、それによって生まれた商流の優劣が、交易覇権を決める事は交易者の宿命であり、交易にはその様な認識が不可欠であると考えていたと想定される。それによって人々が次第に豊かになる事や、ルールを守った自由競争によってそれが実現する事は自明だから、その思想に基づいて夏王朝の法規を定めた事により、縄文後期の青州の繁栄や、春秋時代前半の中華の繁栄に至ったと考えられる。

しかし華北のアワ栽培民族は武力によって領土を獲得し、武力によって耕作地の領有権を保証する以外に手段がない、極めて農耕民族的な社会を形成していた。周の起源は法治主義者の越人だったが、華北のアワ栽培地で2千年以上過ごし、殷王朝と主従関係を結んだから、アワ栽培者の考え方に同調していたと考えられる。農耕民族的な民族と領域が隣接すれば、相応の対応をする以外に、耕作地を守る手段はなかったからだとも言える。

竹書紀年は殷王朝の事績に関する記述に乏しく、記述内容の正確さにも疑念があるが、殷人より合理的な認識力があった周の理解では、祖乙の時代に邠侯と特別な関係を結び、次の盤庚の時代にから北蒙に移住して殷邑を営み、再び邠侯と特別な関係を結んだ。邠侯は周の祖先系譜だった解池の塩の販売者で、黄河の北に移住した殷王朝は、の塩が十分に供給されない事を恐れて邠侯と提携した。

西方から華北平原に流入する塩は青海湖の塩と解池の塩しかなく、青海湖の塩の流通には周が関与していたから、この記述は解池の塩に関するものだったと解釈され、周の着眼点を示している。

帝辛元年 王即位。殷に居す。九侯、周侯、邘侯を命した(主従関係を結んだ)と記している事も、塩の商流に着目した周の視点を示している。も「都」漢字と同様に「おおざと偏」を使っている事は、周が製塩者を特別視する為に創作した漢字である事を示しているから、は周集団の母体で、は製塩地だった可能性が高く、邘侯邠侯の後継者だったと推測されるからだ。

周の祖先の越人は、縄文後期初頭に洛陽盆地や山西などに北上した荊に、塩を供給する為に山西に陶寺遺跡を建設し、解池で製塩業を始めたが、渤海産の塩が出回ると品質の低さから商品価値を失い、青海湖の塩も供給する為に秦人と提携して商圏を維持したが、やがて質が良い冀の塩の生産力が高まると、周の母体だった有扈が稲作民の市場から締め出され始めた事と、禹が夏王朝を樹立しての塩を安価に配布する体制を確立し、浙江省の製塩集団も統合して質の良い海塩の供給力を高めると、青海湖の塩の商流も湖北省や河南省から排除された事はその2で指摘した。

夏王朝は荊が青州から撤退した後も、浙江省の越と渤海南岸のが製塩した塩の商流を統括し、俀と九夷の水運力によって稲作民にも配布し続けたから、青海湖の塩の商圏は、陝西省、山西省、河南省北西部に限定され続け、山西を商圏とする解池の塩と市場を分け合う状態だったと推測される。従って邠侯は夏王朝に恨みを抱いていたと想定され、周もに敵意を抱いていたが、殷周革命を成功させる為にそれを隠し、を含む稲作民族の援助を期待した状況が、この節の冒頭の帝辛の最終年の最後の記事だったと推測される。

従って「周の武王は西夷諸侯を率いて殷を伐った。」との記述は、夏王朝の年代記からの転記した帝辛の事績が、周王朝には気に入らなかったから、周王朝独自の年代記である周史に改めて、周の主張を記載したのではなかろうか。周の師が上帝で有事したとの記事は、夏王朝の年代記であれば不自然ではないが、殷王朝や周王朝の記事としては、夏王朝の記載がない事は不自然だから、武王や成王の時代には転記の儘で、帝が夏王朝のものである事は敢えて期さないだけだったが、夏王朝との反目が高まると呉を落として楚をに変えた疑いが濃いからであり、それと同時に周史も加筆したと考えられるからだ。

荊の政治制度は中央集権的だったから、軍事も統括する王は呉と楚にそれぞれ一人いるだけで、この様な大きな軍事を行う際には、それぞれの王が軍を率いて参戦した筈だから、が単独で殷周革命に参加する事は制度的にあり得なかった事が、これらの推測の根拠になる。

その事情から敷衍すると、羗(四川、陝西)、髳(雲南)、微(四川)は荊ではなく、チベット民族の集団だった可能性が高まり、更に敷衍すると、荊ではない箕子微子が紂王を諫めたが、聞き入れられなかったので軍事になったのは、以前から荊と殷王朝は厳しい対立関係にあったから、荊ではない箕氏微氏が紂王を説得したが紂王は聞き入れなかった事になり、歴史の流れがスムーズになる。

は越人集団だったから、夏王朝と対立し始めた時期には改竄の対象にならず、以下に示す理由によって改竄時にはは消滅していたから、恨みは霧散して書き換えは沙汰止みになったと推測されるからだ。法治主義者の越人にとって、法の根拠としていた歴史の改竄は、正義に悖る大罪だったからだ。

は漢字の意味から類推しても、周とは系譜が異なる越人の国だった。

春秋時代の渤海南岸の製塩集団は、周に封建されたを名乗る集団で、その地域を流れる川の名は斉にサンズイを付加した済水だった。この関係を濮水にも当て嵌めると、サンズイを除いたが本来の集団名だった事になる。「僕」漢字は「入れ墨をする為の針」「農具の箕()」「両手」を合成した象形漢字だから、入れ墨をした越人が箕を両手で使い、製塩する姿の象形になる。

越人が入れ墨をしていた事は色々な史書が指摘しているが、荊と漢族には入れ墨の習俗はなかったから、周にも入れ墨を行う習俗はなかったと想定され、越人の製塩集団の名称はで、竹書紀年や史記に記されたは誤記になる。周の人々に入れ墨の習俗がなかった事は、縄文中期の越人には入れ墨をする習俗がなく、それ故に縄文後期初頭に浙江省を離れ、山西に入植した越人には入れ墨の習俗がなかった事になる。

入れ墨の起源はシベリアだったとの説があるが、それが正しければ息慎に入れ墨の習俗があり、冀に北上した越人がその習俗を受け入れたから、製塩業を営む沿海部や浙江省の越人にもその習俗が広がり、琅邪の越人が刺青をしていたから弁韓人も刺青をしていた事になる。

アルプスで発見された5300年前(縄文中期前葉)のアイスマンの遺体には、入れ墨が施されていた事が知られているが、その地域が起源であればシベリア起源だったとも言えず、西ユーラシアの習俗を息慎が取り入れていた可能性もあるが、文化は高い方から低い方に流れる事が常であるから、シベリアが起源だった可能性が高い。

(みの)について説明すると、箕子朝鮮がを国名にしたのは箕の製造者だったからだと想定される。箕子朝鮮の領土だった遼東は製塩所があった渤海南岸の対岸だから、箕子朝鮮の特産品だった箕は唯の箕ではなく、製塩に使う特殊な箕だったと推測されるからだ。

越人の製塩法は砂浜に海水を撒いて天日で乾燥させ、その砂を箕で掬って上から海水を流し、濃縮した海水を土器で受け、それを煮詰めて塩を得ていたと想定され、その箕には海水を通すが砂は流さない緻密さと、砂の重さに耐える丈夫さが必要だった。それには特殊な素材と技能が要求されたから、それが箕子朝鮮の主要商品になり、が集団名になったと考えられる。

「朝鮮」漢字には輝く物体のイメージがあり、玉器の製作集団の名称だったと推測される。歴史家は発掘されやすい玉器を重視して歴史を組み立てるが、中華の玉器文化を先導した越人の製塩者と、その製作者だった箕子朝鮮の最大の繋がりは、玉器ではなく製塩用の箕だった事を箕子の名称が示している。

箕子朝鮮の根拠地だった遼東は、倭人の船がに至る際の経由地としてと呼ばれたから、製塩に使う箕の生産に相応しい場所だった。製塩作業では箕は消耗品だから、その生産額が玉器を凌いだとしても不思議ではなく、その指導者が箕子を名乗った事に違和感はない。

魏志濊伝が「箕子の四十世後の朝鮮侯」と記しているのは、斉の製塩者は箕子朝鮮の箕を使わなかったが遼東産の玉器は使ったから、周代は朝鮮侯と名乗ったとすれば上記の想定と整合する。また秦末に遼東を追い出されて馬韓に逃げた朝鮮侯は、遼東半島産の岫岩を入手できなくなったから、魏志韓伝が「自ら韓王と号す」と記す状態になった事になる。つまり朝鮮は岫岩が採取できる遼東の地名だったから、遼東から逃れると朝鮮侯も名乗れなくなって韓王を名乗ったが、韓も倭人が遼東半島に付けた名称だから、本来は正しくない民族名称だった。

ちなみに春秋時代末期~戦国時代の山西省にが生れたが、韓族が未だ遼東半島にいた時代だから、縄文後期にアワ栽培者として山西に入植し、周王朝の一翼を担う農耕民族として、諸侯になった集団の祖先伝承が、遼東を出自とするアワ栽培集団を韓と呼状態からと自称した事を示し、朝鮮半島南部に南下した集団もと自称した事と連動している。

  

竹書紀年の帝辛元年(最後の王だった紂王の即位年)の記事に、以下がある。

帝辛元年 王即位。殷に居す。九侯、周侯、邘侯を命した(主従関係を結んだ)。

九州を拠点としていたは、殷末になっても倭に統合されていなかった事を示し、荊が青州から南下した殷代になっても紂王が九侯を重視した事は、越人が渤海で製塩した塩を九夷が殷人に販売し、殷墟でもそれが流通していた事を示している。

九侯より上位の諸侯になった事は、殷にとっては渤海や河川を使って交易を行っていたが、周より重要な交易相手だった事を示し、周の記録である竹書紀年にこの序列が記されている事は、周もそれを認めざるを得ないほどに交易力の格差が大きかった。

九侯が最上位に位置したのは、獣骨や亀甲を交易対象にしていたのは九侯だけであり、焼畑農耕者に銅を供給していたのも海洋民族だけだったから、主力商品だった銅の最大の購入者だった九侯を、殷王朝が重視するのは当然の帰結だった。

殷人は殷(殷墟)に移住する際にと特殊な関係を結び、青海湖や解池の塩の供給者を確保したが、殷末のは周とに分かれ、解池の塩の供給者だった邘侯の序列は、渤海の塩を供給していた九侯と、青海の塩を供給していたの下位になっていた。硫黄を含む解池の塩は品質に難点があり、周が供給する青海湖の塩より劣勢だったからだと推測される。

通説ではは、殷墟の西北にあった小規模な侯国だった事になっているが、殷王に3大諸侯の様に扱われたは塩の生産者としての財力があり、製塩労働者に食料を供給する農地も確保していたから、三番目とはいえ有力な交易者として扱われた事になる。通説の出典である史記の編者は、塩の商流を含む交易への配慮もなく、漢王朝と殷人を顕彰する為だけに歴史を捏造した事を示唆し、周が編纂した竹書紀年とは知性の点で大きな差がある。

夏王朝期のは、製塩と物流を担う酋長や統括者の称号だったから、殷末のこれらのも塩の販売を兼務する交易者だったと想定される。

以下の記事が、周侯邘侯の関係を示している。武乙は紂王の3代前の王。

武乙元年 邠が岐周に遷った岐周は咸陽の西の宝鶏市岐山県にあり、の地名も咸陽市内に残っている)

武乙三年 (殷王の武が)殷から河北に遷り。周公の亶父に岐邑を賜い、命した。(主従関係を結んだ)

武乙二十一年 周公の亶父が薨った。

武乙二十四年 周の師(軍)が程を伐った。畢で戦って之に克った。は渭水盆地にある後世の周の拠点地だから、歓迎されて岐周に入植したわけではなかった)

武乙三十年 周の師が義渠を伐った。其の君を獲えて連れ帰った。

武乙三十四年 周公の季歷が来朝した。王が地三十里、玉十、馬十匹を賜した。

上記の殷王朝期の記事は、殷王朝の事績の体裁を取りながら、実際は周の年代記になっている。

上記を整理すると、祖乙の時代に邠侯と呼ばれていた山西の集団は、解池で製塩を行ってその塩を販売していたが、の販売集団が岐周に移動して周を名乗り、製塩地に残った人々がと呼ばれた事を示している。但し竹書紀年は嘗てと名乗った周の年代記だから、祖乙武乙の時代にはそれらの集団に名称漢字がなく、周史を編纂し始めた時代に、改めて漢字名称を創作した可能性が高い。の旁であるは英語のatonを示す前置詞で、「おおざと=邑」は製塩拠点を示す記号だから、製塩地を指す漢字になり、製塩や塩の販売に従事した周が創作した漢字に見えるからだ。

五帝代の記事に以下の様に記されている。

帝堯陶唐五十八年 帝は后稷に使者を送り、帝子の朱を丹水に放させた。丹水は商洛市を水源に南陽盆地に東流する川)

帝舜有虞三十年 后育をに葬った。は西安や咸陽がある渭水盆地)

后稷が周の始祖だった事は他の史書に記されているが、后育については他の史書に言及がないから、山西の后稷が周の始祖だった事を示唆している。つまり帝堯の時代に渤海の塩を輸送していた関東部族と、解池の塩を商っていた后稷が対立し、その和解が成立した事を帝堯陶唐五十八年の記事が示している。しかし対立関係は解消しなかったから、禹の次の二年に、王が師を帥いて有扈を伐つ状態になったと解釈される。従って有扈と同一の集団だったが、周が漢字を創作して別の集団であるかの様に記していると考えられる。

Y-Rが形成した斉家文化圏の指導者だった后育とは、表立った対立はなかったから渭に葬った事になり、この時期の后稷の集団だった有扈后育の集団は、まだ合体していなかったから、武乙元年 邠が岐周に遷った事が、周が斉家文化の後継者である秦と合体した事を示している。

殷王朝の最後の王が即位すると即座に、九侯、周侯、邘侯との関係を調整した事は、紂王の意図と歴史的な因果関係を明らかにしているが、経済関係に敏感な周の視点である事にも着目する必要がある。

この時期の周の立場は以下の記事が示している。文丁武乙の次の殷王で、西伯周公季歷の次の周の指導者。

文丁十一年 周公季歷が翳とその仲間の戎を伐ち、其の三大夫を獲たので捷(戦勝)を献上した。王は季歷を殺した。

殷の為に周公季歷が戎を伐ったのに、殷王は季歷を殺した事は、殷王朝と周の微妙な関係を示し、殷周革命の伏線になっている。

帝辛六年 西伯が初めて畢で禴をした。

は古代の王侯の儀式で、人を殺して犠牲にする残忍な儀式。殷人は残忍な儀式を日常的に行っていた疑いがあり、殷墟近傍で発掘された王墓に、殉葬された多数の遺体が埋められていた事が、その事情を示唆している。また魏志扶余伝に記された「貴族が死ぬと人を殺して殉葬し、多い場合は数百人になる。」との記事も、それを示している。周にはその様な習俗はなかったが、帝辛から臣従の証としてこの殷風儀式を執り行う事を強要され、初めてと注釈してそれを示したと推測される。敢えてこの様な記事まで掲載した事に、周が殷を倒した理由を言外に滲ませている。

周公季歴の次の西伯が、帝辛によって周侯になったが、帝辛の治世の記事には周侯ではなく西伯を使っている。

この頃には後世の公、侯、伯、子、男の序列はなく、の上位爵位で、は交易者に与える称号だったから、帝辛九侯、周侯、邘侯を命した事は、殷王朝と公式的な交易関係を樹立した事を意味する。

従って「周の武王は西夷諸侯を率いて殷を伐った。」との記述は、周が封建性を採用して多数の諸侯を従え、爵位の序列を決めた後に書き加えられた事になる。

帝辛九侯、周侯、邘侯を命した事は、「交易関係を緊密にする事を命じた」と解釈され、殷王朝も銅や獣骨の取引を経済基盤とする交易王朝だったから、は王の監督下で塩などを商う交易者を指し、古代王朝の本質は特定地域や商品を独占的に交易する、利権者だった事を示している。

農耕技術や文明が未成熟だった時代に、王朝の財政基盤が租税であった筈はなく、塩の販売を独占する事によって租税の徴収を代用したが、それができなかった殷王朝は、青銅、獣骨、亀甲などを独占的に販売する事により、王朝の財政を維持していたのであって、農耕の生産性が向上すると王朝が生まれ、王朝が引き続き文化を牽引したとの歴史観は、王朝史観に依るプロバガンダであると考える必要がある。中華のその様な王朝は、法治主義的な周王朝が嚆矢だったと想定されるが、封建諸侯は依然として商業利権に依存し、塩の販売による収益を重視したから、諸侯と呼ばれたのではなかろうか。

竹書紀年の殷王朝紀には侯に関する記述が殆どなく、邠侯以外には盤庚の時代に應侯が登場するだけだから、依然として侯は塩を扱う流通業者を指していた可能性が高く、紂王が九侯、周侯、邘侯と主従関係を結び、侯の身分を授与した事は、経済問題が深刻化した殷王朝末期の紂王が、物資の流通に着目した事を示している。

殷墟に膨大な青銅製品が遺されている事は、青銅が殷王朝の主要な生産物だった事を示唆し、膨大な量の甲骨文字が発掘された事は、獣骨や亀甲も重要な交易品だった事を示唆しているから、殷王朝が交易者の九侯周侯、邘侯に注目したのは、逼迫した王朝経済を立て直す為だったと推測され、特に九侯を重視したのは青銅や獣骨を多量に購入する、最大の交易者だったからだと考えられる。

mt-D+M7bが台湾から広東周辺に移住し、盛んに焼畑農耕を行った事は、縄文後期後半には青銅器が普及していた事を示し、焼畑農耕者が使った青銅の供給者は複数あったと推測されるが、生産地やシェアは分からない。いずれにしても殷墟に多量の青銅器を遺した殷王朝が、主要な供給者の一つだった事は間違いない。

熱帯ジャポニカを栽培していた四川の稲作民も、台湾の海洋民族が支給する蛇紋岩の磨製石斧から、青銅の斧を使用する様になった事を三星堆遺跡の遺物が示している。日本の焼畑農耕者も多量の青銅を使い始めた事を、蛇紋岩が産出しない京都盆地や奈良盆地に、稲作民と共生する焼畑農耕者が入植した事が示している。発掘実績はないが、古事記がそれを示している事は既に指摘した。

最後の殷王になった帝紂が即位したのは、西ユーラシアが鉄器時代になろうとしていたBC11世紀だから、帝紂が即位して直ちに上記を行った事は、青銅器時代から鉄器時代への変遷に関わる交易上の課題に直面し、それに対処する為だった可能性が高い。ヒッタイトが滅んで鉄器時代になり始めた西ユーラシアで青銅が余り始め、青銅が東ユーラシアに流入し始めた可能性も高い。古事記は帝紂が即位する以前に、倭は製鉄を始めていた事を示している。

インドネシアを拠点にしていた海洋民族も、オリエントから鉄器を輸入したり生産技術を導入したりし始めたから、インドでBC12世紀の鉄が発掘された事になり、シベリアルートとインド洋ルートが競う様に、製鉄技術を東アジアに拡散していたと推測される。それによって東アジアでも青銅の需要が低迷し、価格が下落し始めたと推測される。

考古学者は「発掘事実だけで歴史を構築するべきだ」と主張し、鉄器時代の開始期時を上記より大幅に繰り下げているが、西ユーラシアが鉄器時代になればインドネシアの海洋民族が、鉄器や製鉄技術を導入しなかった筈はないから、発掘できないのは考古学に限界があるからだと、素直に認める必要がある。

この事情を上記の記述に当て嵌めると、殷の青銅を盛んに購入していた九夷が、青銅の引き取り量を絞り価格を叩き始めたから、紂王が経済の再建に乗り出したと解釈される。

暴力的な殷商王朝が200年以上継続し、BC1100年頃に漸く殷周革命が起きたのは、稲作民が青銅に裏打ちされた殷人の経済力と武力に圧倒され、華南の防衛に回らざるを得なかったからで、青銅の価値が低下して殷王朝の経済力が衰えると、殷王朝を倒す機会が巡って来たと考えられるタイミングで、殷周革命が起こった。殷王朝の経済基盤が揺らぐと、経済力で支配していたアワ栽培者が王朝の指示に従わなくなったから、それを抑える為に帝乙と帝辛(紂王)がを名乗ったとすると、歴史の流れが他の諸事情とも整合し、それを指摘した周の歴史認識の確かさにも敬服する。

黄河の南にあった商王朝が黄河の北の殷王朝に変ったのは、彼らも稲作民族との抗争の前面に立つことを恐れ、黄河を障壁とするだけではなくアワ栽培者の人数も多かった、殷地方に移動したと解釈する事もできるし、殷王朝の経済力が衰えると殷人の忠誠心も揺らいだから、殷王朝の弱体化が進行したと考える事もできる。

帝辛が即位する40年ほど前の事績として、以下の記事があり、王朝の権力基盤に変化が訪れた事を示唆している。

 武乙三年 殷から河北に遷り。周公の亶父に岐邑を賜い、命した。

武乙 十五年 河北より沫に遷る

武乙が二度も居所を変えたのも、周公季歷を厚遇したのも、戦闘で戦死してしまったのも、その様な事情が背景にあったとすると、歴史の流れが分かり易い。

次の王の文丁は殷墟に戻るが季歷を殺し、統治力が弱体化しただけではなく、政局が混乱し始めた事を示唆している。

周王朝も青銅の容器を多量に作ったが、殷王朝ほど青銅器の製作に熱心ではなかったのは、最早青銅には高い商品価値がない時代になった事を示唆している。

周王朝の経済基盤は青海湖の塩に依存していたから、銅の生産に執着しなかったからだとも言えるが、それを逆に言えば塩の消費者でしかなかった殷王朝は、宝貝貨の運用を含む経済的な実権を九夷と越人のに握られていたから、帝辛が即位と共に九侯、周侯、鄂侯と主従関係を結んだ事になり、紂王の意図は青銅や亀甲の販路を新たに開拓し、陰りが見えて来た殷王朝の財政を改善する為だった事になる。

周代の塩の商流

周王朝が成立すると周の商売敵だったを渤海の製塩から撤退させ、青海湖の塩商人だった秦人のに製塩地を支配させた。殷代の稲作民族の塩は、浙江省に戻った製塩者が供給していた筈だから、周代になると南北の製塩を異なる民族が担う状況が生れた事になる。

青海湖の塩を華北で拡販したかった周は、海水から生産する質の良いの塩を、華北から駆逐する為に、彼らを追放してY-R系の製塩者である斉を送り込み、華北の製塩業を一括管理したが、これは夏王朝の規約に反する行為だから、それを守らなかった殷王朝を武力で滅ぼした呉や楚が認める筈はなく、夏王朝と周が険悪な関係になるのは当然の成り行きだった。の製塩者が浙江省に戻ると、周は浙江省の製塩者も敵に回す状況を生み出した。

周の都だった西安近郊の庶民の墓から、多量の宝貝貨が発掘された事が、塩の物流によって宝貝の兌換性を保証する夏王朝の仕組みを、周も踏襲した事を示し、論衡は周王朝が倭人の来朝を歓迎した事を示している。つまり夏王朝に参加していなかった倭は、周王朝と連携して華北の交易圏を維持し、夏王朝に参加していた俀と反目する状態が生れた。

論衡に記された、「成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ」との記事は、その様な事情を示しているが、竹書紀年に越裳氏来朝於越来賓と記されているのは成王紀だけだから、を追放して斉を青州に封建したのは成王の次の康王か、その次の昭王の時代だったと推測される。

倭が粛慎や伊予部族の北方派と連携し、毛皮などの北方の物産を華北に販売する交易が主流になり、俀が伊予部族の南方派と共に、華南の夏王朝と連携する状態が生れると、関東や函館の漆器業者の帰趨が問われる状態になった。俀がこの状況によって関東の漆器を交易品から除外したから、関東の漆器産業が失われた可能性もある。伊予部族は南北の連携が緊密だったから、南方派が函館産の漆器を華南に売り続けた可能性が高く、その下地の木工品は関東で生産された可能性も高い。

北九州の倭人集団の商圏は渤海沿岸と黄河流域に設定されていたから、北九州の倭人集団がその様な周に肩入れする事に必然性があり、それに起因した倭と俀の対立は、神武が倭を統合した直後から発生していたから、古事記が倭と俀の分離は神武紀の出来事であると指摘しているとすると、繊細な歴史任認識を示している。神武が亡くなった後の事を神武紀に記す、異色の記述になっているからだ。

夏王朝の規約に従って運用された稲作民の宝貝貨は俀が運用し、夏王朝の規約に従わない周が運用する宝貝貨を倭が提供していた事は、沖縄での宝貝の採取作業と笠沙での宝貝貨の穴開け作業は、誰が継続していたのか疑問になるが、一時期薩摩半島にも甕棺墓が営まれた事が、その事情を示唆している。つまり宝貝貨の作成は、俀に帰属する縄文人の商業的な生産行為だったから、それを生業としていた薩摩半島の縄文人は、宝貝貨を製作して北九州に提供する権利を主張し、その顧客の為に出兵まで行ったと考えられる。

その事情を現代風に焼き直すと、人口が集積していた関東には多数の企業群が生れていたが、その様な環境がなかった薩摩半島では宝貝貨の作成が重要産業になり、一種の企業城下町を形成していた事が、倭から脱退した薩摩半島の人々に宝貝貨の作成の継続を促し、顧客の為には多大な犠牲も厭わない企業人体質が、遼東出兵を促したと想定される。日本人の商業行為には往々にしてこの様な性向があり、子会社が親会社の意向に反して顧客寄りの姿勢を示す事は珍しくない。その背後に接待がある事も、日本的であると言えるのだが。

大陸で宝貝貨が使われなくなると出兵を止めたとすれば、薩摩半島で甕棺墓が営まれた時期が限定的だった事と整合する。

関東部族の漁民は夏王朝傘下の民族に、塩や交易物資を運送するだけではなく、夏王朝にまつわる情報の伝達や治安の維持に貢献していた筈だから、関東部族の漁民が非夏王朝派の倭と夏王朝傘下の俀に分裂し、倭系の漁民の数が多数派になると、夏王朝体制を維持する意識が大陸でも薄れ、夏王朝体制を弱体化させる一つの要因になった可能性がある。

呉や楚が維持していた夏王朝と、その法規を守らない周が対立した事情を、竹書紀年から読み取る事もできるが、中華大陸の資料では読み取れない状況が、日本列島で発生していたからだ。

宝貝の形状を模した青銅製の楚貝貨が春秋時代に流通し、淮河流域や揚子江流域から多数発掘されているが、黄河流域、西安、東シナ海沿岸で殆ど発掘されない事は、一口に宝貝貨と言っても、既に2系統に分かれていたからだとも言える。楚貝貨の発掘状況の詳細は、「中国における古代青銅貨幣の生成と展開(六)」 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/11326#.Ygpd-4jP2Ukを参照。

楚貝貨の発行は、塩との交換比率が固定していた宝貝貨のインフレが進行し、デノミを実施する為に生れたと考えられるが、その発行起源が塩の産地ではなかった楚だったのであれば、製塩した塩を兌換品としたのではなく、製塩地を抑えていた呉が夏王朝を維持する能力を失ったから、塩を兌換材とする必要がない通貨として、銅貨を発行した事になる。

いずれにしても、弥生温暖期に北上した稲作民が楚貝貨を使用したから、その分布が弥生温暖期の稲作民の北上事情を示し、その北の地域である華北が、西周時代の周の宝貝貨の分布圏だった事になる。

縄文晩期に2系統の宝貝貨が併存した事は、この時期には華南の稲作民と河北のアワ栽培者の間に、冷涼であるが故に稲作ができず、エノコログサが繁茂している故にアワの栽培もできない地域が森林として放置され、両経済圏が分離されていた事を示唆している。弥生温暖期の楚貝貨の流通圏が、黄河南岸に近い場所まで北上したのは、アワ栽培者の人口が希薄な地域には、稲作者が容易に北上した事を示唆し、縄文晩期寒冷期と弥生温暖期の事情が整合する。つまり弥生温暖期に北上した稲作民族は、外見が周のものと同じ宝貝貨ではなく、それとは異なる楚貝貨を使う必然性があった事になり、楚貝貨はデノミの必要性だけで登場したのではなかった可能性もある。

東シナ海沿岸に楚貝貨が分布していない事は、越人も残存したアワ栽培者も宝貝貨を使っていなかった事を示し、夏王朝に参加していなかった地域では、塩が宝貝貨の兌換性を保証する仕組みが整備されていなかった故に、宝貝貨は流通せず、その後継貨幣である楚貝貨も流通しなかった事を、この分布が示している。

周代~春秋時代の山東は、とか莱夷と呼ばれる未開の地だったから、この地域でも楚貝貨は発掘されていない。この地域では布銭や刀銭などの発掘例も乏しく、史記を基にした周代~春秋時代の諸侯の分布図でも、山東半島と江蘇省東部は空白地帯になっている。

江蘇省東部はまだ東シナ海で、歴史時代に黄河と揚子江の土砂が形成した陸地だから、諸侯の空白地になるのは当然だが、地形から見ると農地になり得る地域が各地に存在した山東半島には、この時代にも農耕に従事する者がいてもおかしくはない状況がある。しかしは農耕に適さない荒れ地を指す言葉だから、縄文晩期~春秋時代のこの地域は、人口密度が低い地域だった事になる。

周がこの地域の殷人を追放しなかったので、漢族と殷人が雑居する未開発地域として莱夷の地と呼ばれたか、この地域は農耕適地ではなかったので、と呼ばれて放置されていたかのいずれかになる。稲作が山東半島を経て日本に渡来したと主張する史学者が、20世紀には多数いたが、彼らは弥生温暖期の山東をどの様に理解していたのか想像すると、彼らの無知に背筋が寒くなる。

於越が都とした琅邪はその様な山東と、淮夷が征討されずに残っていた徐州の中間にあり、周、呉、斉によって領土が確定しない地域だったから、呉が青州に再北上すると同時に浙江省の越が琅邪に入植し、交易拠点を形成した事になる。その様な琅邪を守る為であれば、傭兵集団程度の兵力で十分だったと推測され、越が琅邪に入植した事は、弥生温暖期にはその様な集団も生まれていた事を示唆している。

史記が山東半島の反対側の付け根である之罘も、越人の拠点だった事を示唆し、斉の勢力圏ではなかったから浙江省の製塩業者が進出した事を示唆している。経済至上主義者だった越人にとって、気候が乾燥して製塩効率が高かった渤海南岸は、万難を排して確保したい製塩地だったが、製塩と殷人の監視の為に入植した斉には、興味を持つ必要がない地だった事になる。

越人が琅邪と之罘に進出したのは、北陸部族が交易拠点とする際の適地だったからだと推測される。北陸から山東に渡航する場合は遼東半島まで北上しなくても、漢江の北の黄海南道の南を西に進み、標高150mの山がある島から50㎞沖まで視覚航行し、80㎞島影を見ない航行に耐えると、山東半島の先端にある標高470mの山が80㎞沖から眺望できるからだ。新潟を発進した交易船が朝鮮半島南部を周回し、上記の地点で山東半島に渡って琅邪や之罘に出向く航路は、沿岸の目標が必要だったこの時代としては、極めて効率的なものだった。

荊が北上していた青洲は黄河などの河川の堆積が進み、淮河の支流が入り組んでいたから、北陸部族の船は琅邪で絹糸を積み込み、当時の淮河の河口だった連雲港から淮河を遡上する事が可能だった。北陸部族の大型船がフィリッピンと琅邪を往復し、小型の海洋船が琅邪から淮河を遡上し、荊に絹糸を配布して絹布を回収していたとすると、琅邪は北陸部族にとって最適の拠点だった。

新潟を拠点とした北陸部族にとって、琅邪が越人の拠点になれば半年程度の航行で、交易を済ませて新潟に寄港する旅程を毎年組む事が可能になり、台湾を経由して湖北省や四川省に遡上する、関東部族の航路より極めて楽なものだった。

弥生温暖期に青州に北上した荊の主要な交易者が、俀ではなく北陸部族に変わると、渤海沿岸と黄河流域を商圏とする倭、淮河流域を商圏とする北陸部族、揚子江流域と広東を商圏とする俀が、それぞれの河川流域の交易者になり、青州の荊の塩は之罘で生産されたものを、北陸部族の船が配布したと考えられる。

楚貝貨が発掘されない黄河下流域で、布銭や刀銭が発掘されている事も、この推測の確度を高める。周代には宝貝貨が流通していたが、温暖期に北上した稲作者が楚貝貨を持ち込むと、それと連動して黄河の下流域でも宝貝貨が価値を失い、周が認可しない夏王朝の楚貝貨は公式に流通しない地域として、代わりの貨幣が必要になったからだ。

布銭や刀銭は楚貝貨より青銅の使用量が格段に多く、個人が塩の売買に使うには高額過ぎるから、褒賞や贈答に使われたと推測されるが、政権が価値を保証する近代的な貨幣だったとも言える。しかし布銭や刀銭の形状に種類が有る事は、銅の重量によって価値が決まった事を示唆し、需給によって価値が変わる銅を通貨にした事は、通貨ではなく価値基準が曖昧な財貨でもあった。

通貨を使った交換が頻繁に行われていない社会では、それでも通貨価値があったと考える必要がある。その様な社会では、通貨を使って交換される物品や穀物の価値も曖昧だから、通貨だけに価値の厳密性を求める事に意味がないからだ。

周王朝は夏王朝の様に商工業を盛んにする為の政権ではなく、帝国主義的に領土を統治する農耕民族政権であり、統治領域の地域的な利権に固執し、中華全体の繁栄に関心を持たない独善的な地域政権だった上に、青海湖の粗悪な塩は沿海部の塩との競合に耐えられなかったから、それに起因する財政基盤の脆弱性を、武力を中核とした帝国主義的な民族支配で補う事が、運命付けられた政権でもあったからだ。

アワの生産性が低下した縄文晩期寒冷期の政権であり、生産性の向上が交易の活性化に結び付く要素が乏しい、アワの栽培者を統治する政権だったから、寒冷化によるアワの生産性劣化が顕在化すると、自給自足経済に閉じ籠らざるを得なくなったからでもあった。その様な社会の交易品は塩に収斂し、獣骨や亀甲の生産者が対外的な財貨を獲得する経済が回転したから、交易者が布銭や刀銭を使って塩を入手して実需者とアワで交換し、そのアワが商工業者の食料になる実物経済が、縄文晩期寒冷期の主要な経済活動だった可能性が高い。

その様な華北を統治する周王朝は、農耕民族的な自給自足経済に傾斜せざるを得なかったから、布銭や刀銭でも経済が回転したと考える事もできる。その際に布銭や刀銭を鋳造する意味は、扁平で細長い鋳造品を形成する事により、石などの混入がない重量を保証する事だったと考えられる。各種の布銭や刀銭の重量が公開されていないが、形状が違っても重量が同一であれば、標準通貨の位置付けが得られた事になり、形状毎に重量が異なっていても、一つの重量を計量して後は数を数える事により、交易を合理化する事ができただろう。

宝貝貨を使っていた社会がこの様な状態になる事は、通貨制度としては劣化状態になったが、傘下の漢族は周王朝に鼓舞されて殷人集落を襲撃し、優良なアワ栽培地を確保していたから、その様な状態になっても特段の不満はなく、アワ栽培者にとって青銅は必要不可欠な道具ではなく、武器として使う以外に用途がなったから、交易を求める意識が希薄だった可能性も高い。漢族が交易に無関心だった証拠は、(1)魏志倭人伝を参照。

 

8-4-3 各王朝期の出来事の補足

殷王朝の二里岡期(BC14世紀)

二里岡遺跡は鄭州の丘陵上にある巨大遺跡で、この丘陵地は洛陽盆地から東に延伸して鄭州に至っているから、鄭州は青州の低湿地を俯瞰する軍事上の要衝でもあった。

二里岡遺跡は内城だけで夏王朝期の二里頭遺跡の規模があり、それを囲む巨大な外郭内は現在の市街地なので、殆ど発掘されていない。内城に宮殿があり、外郭内に手工業者の工房が整然と配置され、商王朝期の拠点的な都市だった事を示している。

此処が殷商王朝の拠点だったBC14世紀は、寒冷化し始めていたとは言え弥生温暖期程度の気候だったから、稲作民は南下したがアワ栽培には適した気候が続き、巨大な都市を構築する農耕基盤は存在した。漢族の集落を襲撃し、労働力を挑発する事も容易な地域だった。

殷商王朝が政権を維持した制度は夏王朝の模倣ではなく、集権的な権力機構を独自に形成した事を、この巨大な城郭が示している。武断的な政権には強力な軍隊が必要だから、それを支える行政機構も必要になり、軍隊と官僚機構に物資を供給する機能も追加すると、中核都市が巨大化したと考えられる。黄河の北にある殷墟より巨大な城郭である事が、湖北省の荊の軍隊が北上して来る事を恐れ、嘗ては荊の稲作地だった青洲を眺望しながら黄河南岸を防衛する拠点として、この城郭都市を建設した可能性を示唆している。

残忍な習俗を持った殷人が建設した事から推測すると、この様な都市に物資を集積する労力は、征服民族にした漢族の強制労働を活用した可能性が高い。その為の収奪が苛酷になると漢族の反乱を恐れる必要性も高まり、益々軍事力を高める必要が昂じ、最終的に異様に巨大な都市が生まれたと推測される。農耕社会に巨大都市は必要ないが、軍事には手工業者が必要だから、彼らを囲い込む必要性が巨大都市の建造に至る一つの要因だった可能性も高い。

歴史家はそれを宮廷工房と呼ぶが、発展する地域産業を抱える社会の在り様ではなく、周囲の民族より産業力が劣る王朝が最低限の需要を賄う為の、工房の在り方であると考える必要がある。後世の中華王朝もその様な政権になった事を、中華の史書が示し、中華世界の産業力の脆弱性を示しているからだ。

城壁に囲まれた地域に広い工業区を設置する事は、食料の調達を含めた不便さだけではなく、農産物などを加工する原初的な産業が発展できない、マイナス要因も大きかったからで、その様な産業地域の形成と、商人が集住する商業都市の発展は区別する必要がある。商人は都市に集住する事により、円滑な情報の伝達と集積が期待できたからだ。

鄭州城と同時期に存続していた武漢の盤龍城は1㎞四方の小都市に過ぎず、縄文後期前半に形成された石家河期の集落より規模が小さいから、寒冷化によって稲作が不振になった事が、都市の規模に影響した疑いがあるが、防御施設に特化したものだった可能性もある。

いずれにしても産業化が進んでいた稲作民の都城と、中央集権的なアワ栽培者の都城の規模を比較し、文明の進化の度合いを論じる事に合理性はない。軍事的な要塞は土砂の堆積や洪水から免れ易い、丘の上に形成されたから、発掘の難易度の違いが誤解を増幅している疑いもある。稲作者の遺跡は後世の土砂の堆積によって発掘できない事例が多いが、アワ栽培者や狩猟民族の遺跡は沢山発掘できるし、権力志向を高めた政権は王宮だけではなく華麗な墓も遺し、そこに奢侈品的な遺物も多量に遺したから、それを文明化の判断根拠にする考古学は、歴史の解析に向かない知識体系になっているからだ。

荊が南下した直後の盤龍城遺跡の建築様式、銅器の製造方法、豪族の埋葬方法は、鄭州の二里岡文化と同じだったが、陶器の様式は二里岡とは異なり、盤龍城遺跡の後期にすべてが二里岡と異なるものになった事は、華北夏王朝期に殷人と文化を共有した荊が、時代が進むに従って異なる方向に文化を発展させた事を示しているが、黄河文明の実在を信じたい中国人は、盤龍城は殷王朝の支配下にあったと見做している。この誤解は中国人が史記の歴史観から距離を置き、夏王朝と殷王朝の違いを理解しなければ永遠に続く。

漢族の書籍が五帝時代と華北夏王朝期を「聖賢の時代」とするのは、寒冷化して稲作民が華北から撤退する際に、漢族に惜しまれながら南下した事を示唆している。その時代に稲作民の支配地域にいた漢族は、夏王朝の法規によって守られたが、寒冷化によって稲作が不振になると荊が南下して河北夏王朝の秩序が失われ、暴力的な殷人が支配する地域になったからだ。縄文時代に関東に渡来した女性達は、大陸での苦境から逃れる為に渡来したと推測されるが、他民族の迫害から逃れる為に日本に渡来したのは漢族女性だけだった事も、殷人の異様な暴力性を示している。

商王朝はその様な暴力的な殷人集団を統治する為に武断的な中央集権制を選択し、それを維持する強力な軍隊を維持する為に漢族の収穫を収奪し、拠点とする巨大な城郭を建造する為に人狩りを実施したと想定される。殷墟の近郊の巨大王墓に多数の戦車を埋納した事が、彼らの武断的な性格を示し、多数の人々を殺して殉葬した事が、過酷な統治実態を示しているからだ。租税制度が確立していない時代だから、徴収方法は多分に略奪的だった可能性が高い。

魏志扶余伝に記された扶余の武断的な習俗が、その頃の殷人の習俗を遺している事は既に指摘したが、扶余の子孫だった百済人が見栄を張り、プロパガンダ的な嘘を周囲の民族に振り撒き、それを倭人や唐王朝に咎められた事も、暴力的な殷人の精神面を示している。武断的な民族同士が無益な闘争を避ける為には、武闘の代用となる罵り合いが必要になり、暴力的な民族性とプロパガンダ的な嘘は不可分の関係にあるからだ。

 

殷墟の時代(BC13世紀~BC12世紀)

縄文晩期寒冷期に突入したBC1300年頃、殷王朝の祖先は黄河の南の商から殷地方の安陽に移った。殷地域の中核都市だった殷墟は、洹水の(安陽河)河岸にあり、自然の川と人工の壕で防御された5km四方の地域に、宮殿、手工業工房、貴族の邸宅、墓地などが散在していた。

縄文晩期寒冷期は中期寒冷期から2℃ほど低温化しただけだから、うちモンゴルの高原から河北に南下したアワ栽培者に限定すれば、安陽の寒冷化に問題はなかったが、生産性の劣化は免れなかった。その様な地域に王朝が北上した事は、黄河の南がアワ栽培者とって住み難い地域になった事を示唆している。

その理由として、稲作者が北上する脅威に晒されていた黄河の南の人口が減少し、鄭州を維持する事が困難になった故に、黄河の北に拠点を移した可能性がある事は既に指摘した。鄭州城より殷墟の方が規模が小さく、住居址も離散的である事がその理由になる。

アワの栽培環境に関して言えば、寒冷化とは異なる減収要因があった事も指摘できる。縄文中期まで孤島だった山東には、アワの原生種であるエノコログサが存在せず、アワの栽培地としては温暖で生産性が高い地域だったが、縄文後期に低湿地が広がって稲作者が入植する状況が生れ、夏王朝期に大陸と半島が合体して渤海と東シナ海が分離したから、山東にエノコログサが拡散してアワの栽培が困難になり、商の人口が減少した事が、殷に移住した原因だった可能性もある。

つまり縄文晩期向かう気候の湿潤化の中で、鄭州と山東の中間地の堆積が進んで低湿地が草原化し、大陸から拡散したエノコログサが繁茂する様になったから、山東がアワの栽培に適さない地域に、徐々に変わっていた可能性が指摘できる。縄文中期の山東に大汶口文化が発達し、中期末には山東龍山文化が栄えた山東が、周代には農耕に適さないと呼ばれる地域になった理由も、これによって説明できるからだ。

周初になっても山東南部には、淮夷として残ったアワ栽培者が多数いたが、山東南部は多島海が埋め立てられた地域で、埋め立てる土砂を運んだのは流量が少ない山東山塊から流れ出る川だったから、多島海時代の島は低湿地に囲まれ、乾燥した土壌を好むエノコログサが拡散しなかった可能性がある。

山東の漢族は暴力的な殷人によってアワ栽培の適地から追い出されたが、漢族は里芋を栽培してアヒルを飼う多彩な生産手段を持つ民族だったから、殷人が住まない山東周辺の低湿地に居住し、乾燥した狭い微高地をアワの栽培地にする民族になったから、そこが淮の地(アヒル飼養者の地域)と呼ばれる様になり、弥生温暖期に北上した稲作民族が、巨大化した河川を淮の河と呼んだとすれば歴史の流れと整合する。

淮夷は漢族を指したと解釈する人がいるかもしれないが、青洲の荊は友好的な漢族の地だった山東の沿海部を淮と呼び、その地に雑居していた殷人を淮夷と呼んだのであれば、その問題は解消する。

華北を支配していた殷王朝を倒す殷周革命には多数の稲作民族が参戦し、大軍が激突する戦闘が展開されたが、武王が亡くなった後の反乱の主体は淮夷で、周の武力だけで決着した事は、淮夷の人口はその程度に少なかった事も、この仮説の傍証になる。

また周初の殷人の反乱を鎮圧した後、漢族を使って華北から殷人を追放した事は、殷末周初の漢族の人口規模が大きかった事を示唆し、黄河以南では漢族と、淮夷や商の殷人の住み分けが成立していた事に繋がる。また黄河以北から殷人を追放し、春秋時代に漢族の政権である趙や燕が繁栄した事は、殷末の商の地では漢族が多数派だった事に繋がるから、この仮説の傍証になると共に歴史の流れと整合する。

 

縄文晩期寒冷期に南下した稲作民

盤龍城が放棄された後、湖北省に居た稲作民はどの様になったのかを示す資料が、竹書紀年に記された殷周革命時の参加勢力になる。その勢力は庸(湖北)、蜀(四川)、羗(四川、陝西)、髳(雲南)、微(四川)、盧(山東?)、彭(?)、濮(山東)で、BC1200年に縄文晩期寒冷期になったのに、BC1100年頃の殷周革命に参加したのだから、それらの地域で稲作を行っていた稲作民には、福島や北関東で熱帯ジャポニカの耐寒性を高めたmt-B4の浸潤が必要だった。

彼らが盤龍城を放棄したのは、熱帯ジャポニカの生産性が低く盤龍城を維持できなかったからではなく、鄭州城を維持していた殷人が黄河の北に撤収し、対立の構図が大幅に緩和したからである可能性が高い。後述する様に更に寒冷化が深まった縄文晩期寒冷期の末期に、華北の総力を結集した周の軍隊が南下すると、楚がそれを粉砕したからだ。

その様な楚を代表するが殷周革命時の筆頭勢力になった事は、殷王朝が黄河の北に移動しても対立関係が解消したのではなく、規模の小さな戦闘は相変わらず繰り返されたが、殷人の防御的な戦闘は南陽盆地に後退したから、盤龍城を維持する必要がなくなった事を示唆している。

これらの湖北省の稲作民族の遺跡とは別に、湖北省より温暖な江西省でも縄文晩期寒冷期の遺跡が多数発掘され、多数の稲作民が江西省に南下した事を示している。その代表的な呉城遺跡は4平方㎞の規模があり、中央集権的な殷王朝の都だった殷虚(25平方㎞)より小さいが、盤龍城(1平方㎞)より大きな遺跡ではある。重要な事は呉城文化圏の遺跡が江西省に100箇所以上ある事で、呉城遺跡は最大規模の遺跡に過ぎない。

呉城遺跡からこの地域特有の青銅器が多数出土し、陶器の製造所を示す遺構も発見され、磁器を作り始めていた事を示す遺物も発掘され、これらの産業に荊の職人が従事していた事を示唆している。この地域は竹書紀年の帝舜紀に記された有苗の商圏で、そこに移住した荊の遺跡が呉城文化圏の遺跡であると考えられる事を、後述する竹書紀年の穆王の記事が示している。

縄文晩期寒冷期になると、それまで江西省で耐寒性が低い稲作を行っていた苗族も、この地域に留まる事はできずに広東方面に南下したと想定され、彼らは後世の百粤の一部になった可能性もある。苗族も縄文中期初頭に熱帯ジャポニカに切り替えたとしても、この地域で栽培すればそれ以降の耐寒改良は及ばなかったから、縄文中期寒冷期より2℃冷涼化した縄文晩期寒冷期に、それを江西で栽培し続ける事はできなかったからだ。

従ってこの地域を塩の商圏としていた有苗にとって、荊の南下は歓迎すべき事態だった。竹書紀年の穆王の記事には、大いに九師を起こし、東の九江に至り、遂に越を伐つとしか記されていないが、製塩ができない九江の越は塩の販売者で、縄文後期に山西省の解池の塩を扱っていた有扈になり、やがて青海湖の塩も扱うになって塩の商流を守った様に、有苗も九江以南の河川流域の商圏を守っていたから、周に越であると見做された事に違和感はないからだ。

竹書紀年での初出は西周代中葉の、昭王十六年 楚を伐つ。漢水を涉り大兕で遇したとの記事で、昭王は楚と数次の激戦を交え、親征して戦没してしまうから、既に荊との関係が険悪化していた事を示している。上掲の穆王は昭王の次の王で、楚の領域だった湖北省を避けて九江に至ったと推測される。

西周代後葉の記事に、夷王七年 楚子の熊渠が庸に代って鄂に至るとの記載があり、湖北省の別称でもあるは湖北盆地の中心部で、は湖北省の北端にあった。は西周代の楚子の居住地で、楚はこの記事より古い時代から湖北省全域の、同盟的な組織だった事を示しているから、楚が殷周革命に参加した事を認めたくなかった周王朝が、楚子の居住地だったを楚の代わりに挙げ、誤魔化した事を示唆している。成王の時代には越裳氏が来朝して於越を来賓として迎えたが、次の康王の時代にその様な動きは皆無になり、次の昭王は楚と激戦の末に陣没したから、康王の時代に夏王朝と敵対する様になったと考えられる。

夏王朝の中核的な運営者だったは、周にとって以上に憎い相手だったから、史書から呉の名称を落としたが楚は渋々記し、楚ではなくにしたと考えられる。に関する初出が以下である事が、周王朝の気持ちを如実に示しているからだ。

元王四年BC472年) 於越が呉を滅した。

周王朝が、が滅亡して夏王朝が崩壊の危機に瀕した事を喜び、この様に記したと推測される。

楚の中核集団が縄文晩期に湖北盆地の北端にいたのは、縄文晩期の寒冷化によって降雨量が激増し、武漢周辺では稲作地の確保が難しくなっていたからで、寒冷期の末期に湖北盆地の中心地に移動したのは、海水温の低下によって降雨量が減少し、湖北盆地中央部への復帰が可能になったからだと考えられる。

竹書紀年に登城するの初出は成王十年 越裳氏来朝成王二十四年に於越来賓で、論衡には越裳、越常、倭が外来者として登場し、朝貢して特産品を献上したと記している。

越裳は秦が中華を征服した漢王朝期にも王莽に朝貢し、中華大陸外の政権だった事を示している。フィリッピン人にはmt-F12.5%含まれ、前漢末に荊が多数移民した事を示しているから、同数のmt-B4を含むmt-F+B4が荊起源であるとすると、フィリッピン人の1/4になり、越裳氏が王莽に朝貢したのは、織布技術を持つ荊を多数受け入れる為だった事が明らかになる。従って越裳氏がフリッピン越で、越常が北陸部族だったと想定され、これは他の歴史事象と整合する。彼らが周に朝貢したのは、周が殷人の亀甲や青銅の生産を継承して財貨を得ていたから、絹布や香辛料などを販売する為だったと推測される。

論衡には倭が登場するのに、竹書紀年には倭に関する記載がないのは、周は呉と密接な関係があった倭を楚以上に嫌っていたからで、それ故に倭の商圏だった渤海~黄河流域に北陸部族も参入させたから、越裳、越常、於越が朝貢したと考えられる。従って夏王朝と周王朝との不和は成王の時代に顕在化し、次の康王の時代にそれが昂じて越同盟も朝貢しなくなり、次の昭王の時代には楚と干戈を交える状態になった。

渤海や黄河流域が縄文後期に倭の独占的な商圏だったのであれば、北陸部族の周への朝貢は海洋民族の掟を破るものだったが、その様な状況は考え難いから、北陸部族は縄文中期以降も渤海沿岸の交易も続け、殷王朝とも交易関係があったと推測される。但し殷墟から発掘された宝貝貨が、塩を含む一般的な交易は九夷が仕切っていた事を示しているから、局所的な交易関係があったと考えられ、それは亀甲と絹布や香辛料の交換を基調とする、越同盟の特産品を交易するものだった可能性が高い。エリュトゥラー海案内記には亀甲を商品としていた事を示す記述が多数あり、インド洋交易の重要商品だった事を示しているからだ。

成王二十四年に於越来賓と記され、来朝と記された越裳氏より格が高い事を示している。於越は春秋時代に頻出して越滑も登場するから、が交易同盟の名称で、が個別の集団名だったと推測される。於越は大陸の製塩業者だったと推測され、縄文晩期寒冷期の於越は広東の粤からコメの供給を受け、農産物には困窮していなかった事は既に指摘した。

越がこの様に周に販売攻勢を仕掛けたのは、黄河流域の商圏は殷代には俀系九夷に属していたが、殷周革命後は倭の商圏になるなど、商圏認識に混乱が生れたからでもあるが、もう少し大きな経済の流れとして、商品の多様化が奢侈品的な高級商品に偏在し、その需要の高まりによって交易金額が増加したから、生産者が需要者の消費動向を知る必要も高まり、その為のマーケティングとブランド戦略が、高度化する流れがあったからだと考えられる。それは世界的な潮流だったから、金属器時代になって豊かさが高まった、西ユーラシアを主要な商圏とする越人には常識的なものになり、殷周革命後の動乱期にその流れを加速させる意図が働いたと考えられる。

つまり奢侈品の販売主体は、生産者を抱える交易者が担う流れが高まり、交易の縄張りとしての海洋民族の商圏意識が低下していった事を示唆している。周王朝下ではそれが逆行する流れが生れ、越同盟は周との交易から手を退いたが、倭が毛皮を主力商品にすると、同じ理由で渤海沿岸で倭が優勢になり、北陸部族と連携していた濊と対馬部族や出雲部族が、北九州の倭と連携する状態が生れたと考えられる。

周王朝

竹書紀年は稲作民が維持していた夏王朝のが殷人の横暴に反発し、殷王朝末期の殷王がを称した事を重大な規律違反と判断し、周の武を華北の王に任命した事を暗示しているが、これは周王朝が殷周革命の正義を主張する為に用意した言い訳であって、史実もそのようなものだったと解釈すると誤解を生む。楚も呉も俀も色々な局面で殷人の横暴に遭遇し、それを統制できなかった殷王朝に不満があり、楚や呉は実際に殷商王朝と武力抗争を繰り返し、抗議すると商王朝や殷王朝が嘘を並べて弁明する事態が、日常茶飯事なっていた可能性が高いからだ。

殷周革命の直前に、殷王朝を説得する為に殷墟を訪れた箕子微子は、夏王朝の計画に従って行動したと考える必要もある。

周の武王は殷周革命に成功すると、淮夷の居住地になっていた青州に軍事拠点()を設けた事は、殷墟に紂王の子を残して周囲に周の兵を駐屯させ、華北に充満していた殷人は其の儘として、王朝の体質を転換させる積りだった事を示している。

しかし殷人が武王の死後に反乱を起こしたので、周はこの反乱を鎮圧すると華北の殷人を追放する政策を採用し、漢族を各地に駐屯させて殷人を追放し、その農地を漢族に与えたので、漢族が積極的にその政策に応じた事により、華北にはY-Nが殆どいない状態になった。現在の河北に残っているY-Nの多数派は、宋を建国したシベリア起源の小麦栽培者であると考えられるが、低湿地にアワの栽培地が島の様に分散していた徐州では、近世までY-Nがしぶとく生き残った。

漢族が殷人を征討して領土や農地を拡大すると、殷人とは異なる凶暴性を持つ漢族が生まれた。宋を建国したシベリア起源の栽培者にもY-Nが濃厚に含まれていた筈だが、漢族はそのY-Nも華北から排斥したから、Y-Nは殆ど残っていない現在の華北の遺伝子分布になった。漢族のその様な性格の起源は、周の徹底した殷人掃討に従ったからだが、南北朝以降の華北はシベリアから南下したmt-ZY-Nにより、徐々に小麦の栽培地になったにも拘らず、小麦栽培を持ち込んだmt-Zではなく、アワ栽培者だったmt-D+M8aが多数派を占めた事は、小麦を持ち込んで宋を建国したY-Nmt-Zペアも殷人と同じトルコ系民族として、北宋の滅亡後に排斥した事になる。

現在の山東遼寧ではmt-B4+F17%を占め、濊や高句麗を起源とするシベリア系のmt-G+M10+A+N9a+Y17%を占めているから、高句麗が滅亡する以前のmt-B4+F20%だったと推測され、mt-Zとは違って無傷で残っている様に見える。漢族には五帝時代や夏王朝期への郷愁があり、稲作民族や稲には敬意を払っていたから稲作の導入には積極的だったが、mt-Zが南下した晋の滅亡時から、華北が小麦栽培地になる宋代までに600年以上を要したのは、周の政策が漢族を、トルコ系民族を毛嫌いする民族に仕立てたからだと推測される。

mt-Dは他の穀物栽培を積極的に取り入れる性格だったから、弥生温暖期の500年間に20%のmt-F+B4を取り込み、稲作も行うアワ栽培者になったが、mt-Zを敵視し続けて栽培技術を教えて貰わなかったから、遠方の集落の小麦栽培の様子を観察しながら、独自の栽培技術を身に付ける必要があり、栽培技術を獲得するのに長い時間を要したからだと推測される。

その様な漢族が晩唐期~宋代に朝鮮半島に南下し、高句麗の残党と濊の居住域に囲まれる、韓族の地だった朝鮮半島西部に大挙入植し、918年に高麗を建国した事に驚く必要がある。現在の韓国人の多数派は、漢族起源の人々であり、それまで阿利水と呼ばれていた川が、彼らによって名称が漢江に変えられた事は、漢族には極めて民族主義的な高揚があった事を示し、史書に記されていない凄惨な事変があった事を示唆している。高麗が捏造史である三国史記を編纂したのは、それを糊塗する為だったと推測される。

竹書紀年には、西周代の軍事的な事績として以下の記事がある。

周武王十二年 王は西夷諸侯を率いて殷を伐ち、野で敗る。

周武王十五年 肅慎氏來賓。

周武王十六年 箕子來朝。 秋,王師が蒲姑を滅した。蒲姑が淮夷の拠点だった)

周武王十七年 王の世子の誦を東宮に命じた。冬十二月に王が亡くなった。年五十四。

成王元年春正月 王即位 秋 武庚(紂王の子)が殷を以って叛した。

成王三年 王師が殷を滅し、武庚にした祿父を殺した。殷の民を衛に遷した。遂に奄を伐ち蒲姑を滅した。

成王四年 王師が淮夷を伐ち、遂に奄に入った。

成王五年春正月 王は奄に在って其の君を蒲姑に遷した。夏五月 王は奄から帰り、殷の民を洛邑に遷し、成周(洛陽)を営んだ。

成王八年 禽父を魯侯とし、齊侯の伋が庶殷を魯に遷した。王師が唐を滅し、其の民を杜に遷した。

成王九年 太廟で有事を行った。肅慎氏來朝,王は榮伯に使いさせて肅慎氏に錫杖を与え、主従関係を結んだ。

殆どは既に説明した記事だが、禽父を魯侯とし、齊侯の伋が庶殷を魯に遷した事は、洛邑に遷した殷の民は殷王朝の貴族層で、庶殷は魯に遷した事を示している。は「いけどる」事を意味し、庶殷を囚人として受け入れた事を示している。それを送り込んだ齊侯の伋が周軍を差配していた事を示し、斉がY-Rの国だった事を踏まえると、周軍の中核は秦軍だった事を示唆している。越系の法治主義的な製塩業者の、軍事を他民族に委託する特徴が、この場面でも発揮されたと考えられる。

越系の製塩業者だった周は、越人のが経営していた製塩業をに代行させ、塩の商流を独占的に統括した事により、夏王朝や越人との関係が悪化した。殷人が経営していた銅鉱山を接収しても、戦後の混乱期には生産性が低下していたから、青銅の武器を豊富に持っていた殷人と闘争する為に、漢族に青銅の武器を配布する原資を捻出する為に、この様な行為に走ったのかもしれないが、夏王朝の規則に反した事は間違いない。

銅の採掘~精錬には殷人の高度な技術が必要だったから、周が華北を制圧しても生産は容易に復旧せず、殷の民を洛邑に遷しても、華北経済は容易に改善しなかったから、その対策として嘗ての漢族に課された重税と役務が、魯に遷した庶殷に課された可能性が高い。史記がそれに触れない事も、当然の帰結だった。

2代目の成王が幼少の身で即位すると、殷人の反乱が起きた。竹書紀年はその反乱の鎮圧の最終段階として、「王の軍は淮夷を征討し、最後に奄に突入した」と記している。淮夷が青州南東部のトルコ系アワ栽培民族で、その中核都市はだったと記している事と、殷王朝を創始した王が、殷虚に都を移す直前にを居処としていた事は、淮夷が殷王を輩出した部族だった事を示している。ウィキペディアも、「殷墟の時代になっても自分達は商であると認識していた」と指摘し、この事情と整合している。

文明度が低かった漢族を屯田兵として育て上げる為には、彼らを尚武的な民族に育成する必要があり、それが漢族を上記の様な民族にした原因でもあった。各地の諸侯に大夫制度を導入させたのも、それが諸侯の武力を高める有力な手段であると同時に、統治能力が不十分な諸侯を補佐する人材を、育てる為でもあったと推測される。

は周が送り込んだ青海湖の製塩集団だったとの想定は、春秋時代の山東から、アーリア人系の遺骨が発掘される事と整合する。従って春秋時代の青州は荊と秦人が共存する地域で、荊に絹布の加工を依頼する於越が琅邪に拠点を設け、北陸部族の船が淮河やその支流を往来し、絹糸と絹布の授受を仲介したと想定される。荊が北上する以前の縄文晩期寒冷期の青州は、青海湖の製塩業者だったY-Rが殷人を追放し、大麦を栽培しながら製塩も行う地域だったが、彼らの主要な任務は、の殷人と徐州の淮夷を監視する事だった。

周王朝は寒冷期が終わるまで華北の統治者であり続けたが、温暖化した春秋期になると秦と越人が分裂し、越人は塩の物流拠点だった西安を離れ、洛陽を都とする東周になった。しかし越人には華北を統治する軍事力はなかったから、諸侯が分立する時代になった。つまり弥生温暖期に東周が生れたのは、農業生産性の低下が原因ではなく、秦が周王朝から離脱したから、越人が華北を統治する為に洛陽に居住したとも言えるし、陝西省から追い出されたから洛陽に遷ったとも言える。

華北の漢族政権になった趙と燕、及び山西の農耕民族だった韓は、諸侯として華北の秩序を維持する為に周王朝が必要だったから、彼らの要望に応えて東周が生れたとも言える。竹書紀年は西周最後の王の事績として、肝心な事は以下しか記していない。

幽王十一年春正月、日暈がある。申人、人及犬戎が宗周に入り、王及鄭の桓公をした。犬戎が王子の伯服を殺した。

東周の初代の王の即位についても、以下の記述しかない。

平王元年 王が洛邑に東徙し、(晉の)文侯を錫して命す。晉侯が衛侯、鄭伯、秦伯に会い、王が成周に入るに師を以って從う。

竹書紀年は東周の史書だが、西周代まで示した理性は失われ、幽王褒姒と呼ぶ美女に溺れて政治をないがしろにしたと言い訳を記しているが、実質的な事績は何も記していない。

東周が生まれると西周の拠点だった陝西省が秦の勢力圏になった事は、秦人系の製塩者と越人系の塩の販売者との連立が解消され、越人が漢族の統治を継続する為に洛陽に移動したが、軍事の中核を担っていた秦人が独立したから、華北を統治する軍事力が失われた事を意味する。それによって東周は地方政権に転落し、優位条件は周王朝の系譜であるという名誉職だけだった。

秦が周王朝に見切りを付けたのは、周王朝が夏王朝を敵視していたからだと推測され、弥生温暖期に呉が北上し、秦の分身だった斉がその荊を青州に迎え入れると、浙江省を拠点としていた於越が琅邪に拠点を設置し、北陸越がその交易を担った事が、その理由を示している。周王朝の越人は夏王朝を担っていた呉と敵対し、夏王朝に参加していた楚とも敵対していたから、絹布の交易に参加したかった秦人は、その様な周と決別する必要があったからだ。

西周王朝が夏王朝と敵対した軌跡を、竹書紀年から追跡する

成王の37の次に康王の26があり、その次が昭王の19だった。

康王十六年 斉侯を錫して急ぎ主従関係を結んだ。王が南に巡狩して九江の廬山に至った。

康王の治政は平安な時代だったと言われているが、殷人を華北から追放する闘争が数10年で完了した筈はなく、それを継続していた時代だった。この時期までとの主従関係がなかった事は、その時期まで斉は秦の分身であって、越人の成王や康王の家臣ではなかった事を示している。

つまり秦は非力な越系製塩業者の為に、殷周革命の戦力や、殷人が反乱を起こした際の征討軍を派遣し、青洲に駐屯して殷人や淮夷の抑圧は行ったが、華北の統治実務は越系製塩業者の任務で、交易者の秦人には興味がない事業だった。それに不都合を感じた康王斉侯と主従関係を形成したが、それで両者の関係が大きく変わったわけではなく、多分に形式的なものだったと考えられる。

昭王十四年 恒星が見えない。秋七月、魯人が其の君宰を殺した。

が崩壊した事を示唆している。

湾入していた東シナ海の周囲に河川が土砂を流し込み、陸地化と土壌の乾燥化が進むとエノコログサが拡散し、アワの栽培が不可能な地域が拡大した。は湾入した東シナ海の山東側の地域で、アワの栽培地にエノコログサが侵入する状況が進行したと想定される。斉のY-Rは大麦の栽培者だったからその変異に耐性があったが、殷人を入植させたは過酷な収奪を行っていたから、アワの減収による悲惨な状況が生れ、庶殷が動揺した可能性が高い。漢字は魚の下に「曰」があり、「曰」には「口」「隠れた事情」などの意味があるから、の庶殷が川魚を食べながらアワを収める事を強いられ、それが地名になった可能性がある。

春秋時代の孔子がいたは同じ地域の名称だったとしても、稲作者と大麦栽培者が住む地域に変貌していたから、民族構成も食糧事情も全く異なっていた。

昭王十六年 楚を伐った。漢水をわたると大きな兕にであった。(兕は一角獣)

昭王十九年 紫微に星孛(ほうき星)が有った。祭公の辛伯が王に従って楚を伐った。天が大きくかげり、雉兔皆震え、漢(水)の地で六師(6軍団)を喪い、王は陟(亡くなった)。

王は楚を討伐する最中に陣没したが、越人らしくない迷信的な暗示を並べ、昭王の陣没と軍団を失った痛手が、極めて大きかった事を示している。

昭王が大軍を編成して楚を討伐した事は、華北から殷人を追放する戦役に、目途が付いた事を示唆しているが、統率者を失って烏合の衆になった殷人の集落を襲い、彼らを追放しながら勢力を拡大していた漢族の兵を使い、かねてから敵視していた楚を討ったと推測されるが、軍律が行き届いて大夫が陣頭指揮を執っていた楚の敵ではなく、軍が壊滅して王も戦死したと解釈される。

次の穆王の時代に稲作民が攻勢を掛けて来たので、反攻を行った事が記されている。

穆王三十五年,荊人が徐に入った。毛伯の遷が軍を率い、済水の流域で荊人を破った。

荊人が徐に入った事は、呉が周の勢力圏だった徐(江蘇省北部)に侵攻した事を示している。楚は湖北省の荊を統括し、呉が東の沿海部の荊を統括していた筈だから、呉の存在を認めたくなかった周が、「呉」を「荊」と表現したと考えられる。熱帯ジャポニカの栽培者になった呉が収穫を高める技能を開発し、稲作地を求めて北上を開始したと解釈される。は青州の南端にあったから、斉の領域に接する場所まで呉が北上したが、斉にはそれを阻止する意図がなかった事を、次の記述が示している。

毛伯の遷が済水の地で荊人を破ったとの記事は、これが呉と戦闘した最大の戦果だった事を示唆しているが、済水の地(渤海南岸)が戦地になった事は、大東亜戦争時の大本営発表の様に、勝利したと言いながら戦地は周の中核地に肉薄した事を示している。済水の河口に斉の製塩地があったから、済水の地が戦場になった事は、から奪って斉を封建した製塩地帯に呉が進撃した事になる。斉がそれを止めなかった事は、斉、呉、於越の間の交易関係が既に成立していた事を示唆し、周の越系製塩者の孤立が既に始まっていた事を示している。

それを言い換えると、呉は既にフィリッピン越から養蚕技術を受け取っていたから、呉が生産した絹糸で織った絹布は斉に販売する事が可能になり、斉は秦人にその絹布を渡したから、秦人はその絹布を黒海沿岸で売り捌き、黒海以西でsilkの名称が生れていた可能性もある。弥生温暖期は縄文晩期寒冷期より2℃温暖化しただけで、縄文中期寒冷期より冷涼な気候だったから、その時期に淮河の北岸(青洲)に荊が北上したのは、稲作の為ではなく養蚕の為だった可能性が高くい事もその傍証になる。荊は既に熱帯ジャポニカの栽培者でもあったから、多少であれば冷涼な気候を恐れる必要はなかったからだ。

秦人にとっての荊は、塩を交易しながら仰韶文化~斉家文化を形成した相手であり、4千年の付き合いがある民族だったが、周の越系製塩者とは殷王朝期に関係が生れたから、数百年の歴史しかなかった。夏王朝が起こした殷周革命にも兵を派遣した秦人が、東シナ海沿岸で呉と提携する事は、民族伝承を伝えていた古代民族にとって当然の事で、斉には周を裏切る認識は全くなく、親しい二つの民族が抗争を展開した事に困惑したと想定される。

河北省を封土とした燕は漢族の政権だったから、その様な斉とは全く異なり、春秋時代には河北省から殷人を追い出して遼西を蚕食し、箕子朝鮮の本拠地だった遼東と境界を接する様になった。

穆王三十七年,大いに九師を起こし,東の九江に至って遂に越を伐った。紆に至ると荊人が来貢した。

穆王三十九年,王は塗山で諸侯と会った

周と越も対立した事を示している。九江に至って遂に越を伐った事は、九江の南は越の領域だった事になるが、この時代の九江付近に製塩地はなかったから、前述の様に有苗の地だった九江以南の地域に荊を受け入れ、呉城文化を形成した越人と戦闘したが、伐ったとの表現は局地的な交戦を意味し、勝敗に言及した言葉ではないから、軍が接触した程度だったと解釈される。

九江にある鄱陽湖(はようこ)に揚子江の支流の贛江(かんこう)が流入し、贛江流域は殷王朝後期~周代に呉城文化が栄えた地域だから、穆王はその地域の人々と軍事的に接触したと推測される。

呉城文化の遺跡が高度な製陶技術と磁器の生産を示し、その生産者は荊だったと考えられる事は、この地域でも荊と越の経済が融合していた事を示し、春秋時代の前駆状態として上記の青州事情と整合する。つまり荊が生産者になって越が商流を構成する経済構造が、両民族にとって最も整合性がある経済状態である状態が、縄文晩期には確立していたと想定され、それは絹布の生産に留まるものではなかった事を示している。春秋時代に西ユーラシアの経済が活性化し、絹布の需要が異常に高まると上に述べた共生関係に発展し、呉と越の経済が統合されたが、縄文晩期寒冷期にはそこまで至っていなかったと推測される。

しかし荊には対外的な交易に打って出る民族性がなく、その役割を北陸部族と提携した越に依存した事が、春秋時代以降の歴史を複雑化した。

荊人が来貢した紆は何処だったのか分からないが、九江から揚子江沿岸を降った地域は呉の勢力圏だったから、その地域の呉が穆王を平和的に出迎えた事になる。但し竹書紀年は周の立場で記されているから、「来貢した」と記されても周が上位者だったとは限らない。

穆王が揚子江流域に南下したのは、塗山で諸侯と会う為だったと推測される。その為に九師を起こしたが、その理由は楚と対立していたからだと考えられ、楚を伐った昭王の軍は、南陽盆地から湖北盆地に南下する途上の、漢水流域で楚軍と激戦になって壊滅したが、穆王の軍は湖北盆地の北東の山岳地を周回し、山岳地を越えて九江に南下し、五城文化圏の越と交渉したが、彼らは製塩者ではなかったから穆王との会談を拒否した。揚子江を下った合肥周辺の荊は、穆王の来意を聴いて塗山の製塩者と折衝し、その答えを斉を通して周王朝に伝えたから、2年後に穆王は塗山で諸侯と会う事ができたと考えられる。

穆王塗山の諸侯と会いたかったのは、秦が提供していた青海湖の塩の安定供給に、疑念を抱いたからであると推測される。それ以外に、塗山の製塩者と合う理由は考え付かないからだ。

華北の漢族の人口が増えると、塩の需要が高まった可能性は高い。殷人はアワを栽培する栽培系狩猟民族に過ぎず、人口密度は低かったが、里芋を栽培してアヒルを飼う、高度な農耕民族だった漢族が河北に展開すると、人口密度が殷代の数倍になっただけではなく、縄文晩期寒冷期に向かう降雨が華北の沖積平野の面積を増やし、それによる人口の増加もあった。周王朝は漢族が殷人と戦う為に、青銅の武器を多量に提供したが、殷人との戦闘が終わるとそれが農具になり、漢族の里芋の生産性を高め、アヒルの餌になる蔬菜類の栽培地を広げた可能性も高い。

渭水盆地から離れていた青海湖の製塩地は塩の輸送の労務負担が重く、塩の生産性が高まって価値が低下すると、山間地を遠路輸送するコストが無視できなくなり、華北の漢族の需要を満たし切れなくなった可能性が高い。これはいずれ顕在化する課題だったから、それが縄文晩期に起こった事に違和感がなく、弥生温暖期には宝貝貨が使われなくなった事情と、同期している事がその傍証になる。

更に言えば、絹布の出荷が縄文晩期に始まったとすると、中央アジアの秦人は軽量で価値が高い絹布の輸送に関心を高め、利益率が低い塩の輸送に従事する者の人口を減少させていたとすると、単なるインフレ要因以外にも大きな理由があった事になるが、荊が絹布を増産した事も大きなインフレ要因だったと考える事もできる。

それを理解した呉が斉を介して仲介する事により、穆王塗山で諸侯と会った事になり、その解決策は斉が塩を増産するのではなく、浙江省の製塩業者が再び渤海南岸の之罘に進出し、高品質の海塩を大量生産する事だったと推測される。海塩を生産する高度な技術がなかった斉は、浙江省の製塩業者に渤海南岸の製塩業を任せたのは、Y-Rが経済原則を熟知する人々だったからだけではなく、呉と斉の交渉期間中に斉の人々が浙江省の製塩業の実態を知り、対抗する事が無益である事を知った事も大きな要因だったと考えられる。

以上だけの状況では、斉の人々は物分かりが良かったとの印象があるが、以下の想定が事実であれば斉にも大きなメリットがあった。

現代日本人は「斉=せい」と読むが、古音は「し=支」だったと推測され、満州第二の都市はチチハル(斉斉哈爾)なので、「ち」音もあった事を示している。現代中国語でも秦と斉の音は類似している。

エリュトゥラー海案内記では内陸部の秦をSERES、沿海部をTHINAEと記しているから、silkの語源がSERESだった事に違和感はないが、Chinaの語源はTHINAEに求めるべきだろう。THINAEの漢字が「斉南」だったとすると、音韻が合致するだけではなく歴史事象とも合致する。秦と斉は別の政権だったからだ。

秦人は周の起源である越人と同じ漢字の使い方をした筈だから、越南(ヴェトナム)と同様に「斉南」と呼ぶ地名があった事に違和感はなく、現在も山東省に「斉南」と呼ぶ地域がある。地形が変わった現在の地名と当時の名称は異なるかもしれないが、斉の南部にあった春秋時代の青州に、秦人と荊が雑居して絹布を生産していたとすれば、秦人が絹布の生産に直接関与しなくても、荊の養蚕によって得た絹布を秦を介して販売し、周辺残業によって潤う事もできた。従って斉には製塩に拘る理由がなく、むしろ塗山の諸侯(製塩業者)が廉価な塩を荊や斉人の為に生産してくれるのであれば、歓迎する状態だったとしても不思議ではない。

この事情を敷衍すると、縄文晩期に秦人が黒海沿岸に荊の絹布を出荷し始め、それがSERESの布としてsilkになったが、西欧の交易者がその生産地を知りたくなると、秦人が生産地は「斉南=しなん/ちなん」であると言ったので、西欧ではそれがChinaになり、エリュトゥラー海案内記にTHINAEと記した地域名になり、支那も「斉南」の音を転写した漢字であると考えられ、諸事情と整合する。

つまり秦が中華を征服したからChinaと呼ばれる様になったのではなく、弥生温暖期の早い時期から西欧の交易者は、silkの産地はChinaであると知っていた事になる。

 

8-4-4 荊が中華世界に遺したもの

倭人が高く評価していた荊の倫理観が、現在の中華世界に残っている様には見えない。中華経済の発展が華南で著しい事は、その残渣かもしれないが、春秋時代の荊が越人の経済的な優勢を是認し、越の法規主義を採用した事により、統治文化の高度化を断念した事が、荊の統治文化が体系化されなかった理由であると推測される。これは朝鮮半島の濊が、自らの統治文化を根拠とする政権を樹立できなかった事と共通する事象で、倫理観が支えていた民族秩序には汎用性がなく、多民族の統治には通用しないものだったからだ。

両民族も最終的には越人の法治主義を受け入れ、多民族社会の秩序を形成したが、殷人や漢族によってそれも破壊され、倫理観も法的な秩序も失った現在の大陸事情がある。

しかし越の法治主義は貧富の格差を是認し、経済力で貴賤を等級付ける文化だったから、産業は発展したが民族や部族の結束を壊し、部族主義や民族主義を排斥したから、越の軍備は傭兵に頼る必要が生れ、軍事力は常に2流以下だった。越人はそれを補う為に民族間の紛争を金で解決し、最終的に自滅する道を歩んだが、法治文化と儀礼文化を後世に遺した。

過度な法規主義が自発的な議論を抑圧し、民族文化の形成に負の作用を及ぼす事は現代人にも実感として分かるだろう。また貝を含む漢字の多さが、越の法規主義がどの程度干渉的なものだったのかを示し、その様な複雑な法規に縛られると人々は自由な発想力を失うから、越人は経済を法で細かく統制する事により、荊より有利な経済ポジションを得た可能性も高い。現代社会にも通じる経済法則が、古代社会にも存在した事を示唆しているとも言える。

春秋時代に諸子百家が生まれたが、統治思想に関する諸家は、儒家、法家、道家、墨家だけだった。これらは春秋時代に生まれた新しい統治思想の様に解釈されているが、既存の民族思想を体系化したものに過ぎない。儒家は海洋民族の統治思想を中華風にアレンジしたもの、法家は越人の法治思想を精緻化したもの、老子を始祖とする道家は法治主義に反発した荊の民族主義的な体制改革思想、墨家はシベリア的な厳格な秩序主義を中華風にアレンジしたものだったと推測されるからだ。

儒教を生み出した孔子の民族系譜は明らかではないが、元々は魯の越系法治主義者で、老子と同様に体制改革を志す思想家だった可能性が高い。論語は統治思想や統治者の心得を説いているが、個人的な倫理観に依拠する点で、多民族を統治する中華世界での実現性は乏しい。しかし海洋民族の習俗を参照しているので、日本人には理解できる点が多々ある。老子道徳教は統治される民衆の立場を強調し、為政者に政治の舞台から引退する事を推奨しているが、為政者の心得も説いている事に特徴があり、政権に採用される余地を残しているが、漢王朝以降の中華世界では無用の長物になった。

このHPでは法治主義を批判的して来たが、必ずしも否定されるものではない事を聖徳太子の17条憲法が示している。聖徳太子のモデルは越系文化を採用した対馬部族の王族だから、越の統治文化の一端を示していると考えるべきだからだ。但しこれは海洋民族的に翻訳されたもので、純粋な法治主義者の主張ではないが、文化の融合の観点で有意義な例示になる。

17条憲法の内容は(9)旧唐書・新唐書参照して頂きたいが、17条憲法は政治に携わる者の心得を述べているのであって、法治主義的な禁止事項を並べているのではないから、越の法治主義の本来の仕様にもそれが含まれていた可能性もあり、禁止事情を並べる法治主義は、発足当初は亜流だった可能性もある。17条憲法は海洋民族の考え方を文章化したもので、日本人はそれを尊重し続けてきた。

従って夏王朝の法規にもその精神が発揮され、罰則規定ではなく民衆の心得を説くものだったのであれば、17条憲法の様なものになっていた可能性もあるが、人々を統制する煩雑な法規だったのであれば、迷惑な存在でもある事は現代人にも理解できる。つまり文化の融合が重要であって、主観を主張し合っても物事の解決には至らない。

その観点で道家の思想を再考すると、上記とは異なった見方もできる。嘗ての荊の高い倫理観を復元する試みとして、倫理観の基本を説いている面もあるし、越人的な功利主義が荊の社会に蔓延した事に反発し、社会の正常化を説く際に、古来の道徳観への復帰を重視したからだ。倫理意識が高い日本人の中には通俗的な言説が多い論語より、老子の方が高尚な考えを示していると感じる人が多い事が、その事情を示している。

また真理を求める哲学的な思索が、老子によって始まった事を読み取る事もできるが、思索だけでは条理の法則には至らず方法論に終始している。

多くの章を設けているのは、法治主義的な功利主義の下で人々が経済的な利益を追求すると、物事の真理(道)に関する思索が疎かになるだけではなく、社会の軋轢を高めて社会が不安定化するから、その様な状態から回避すべきであると説くもので、例えば以下の章がある。

賢を尚(尊いもの)としなければ、民を争わせる事はない。得難い貨を貴としなければ、民に盗をさせる事はない。欲するべきを見なければ、心は乱れない。聖人の治は心を虚にして腹を満たし、志を弱くして骨を強くし、常に民を無知無欲にして、知者に敢えて行動させない。無為によって事を為せば、(太平に)治まらない事はない。(3章)

衆愚政治を推奨しているのではなく、民が経済活動によって富者の地位を求める事(尚賢)を止めさせる為には、統治者自らが欲を捨てろと主張している。道を求める思索は善行だが、財を成す為に知恵を巡らせる事(尚賢)の推奨は、民に争いや盗みをさせる愚行であると主張している。

虚に至るを極め、静を篤く守る吾は、万物が並び作り、その復するを見る。物は様々に変化するが、各々その根に復帰するからだ。根に帰るを静と言い、是を命に復すと謂う。命に復すを常と言い、常を知るを明と言う。(16章)

は自然科学的な定常的な状態を指し、根に帰るを静とするのは現代科学で云う、「撹乱によって起きた動的状態は、エネルギー的に安定した定常状態に復帰する」事を指す。は法則的な定状態で、常を知る事は自然界と人間界の法則的な挙動を知る事。自然界にも人間界にも法則があり、それがである。

道を以て君主を補佐する者は、兵を以て天下を強いる事はしない。それを好むと、軍団の至る所は荒れ地になり、大軍の後には凶作がある。善者は結果を求め、強さは求めない。結果に驕らずに、結果は止む得ない事として、強さを誇ってはならない。壮は必ず老いるが、道を得ていない者の衰退は早い。(30章)

この思想が発展すると孫氏の、「戦わずして勝つ事を上策とする」兵法に繋がる。道を究めた人が有徳者になる。

有徳者は徳を意識しないから徳がある。徳が低い人は徳を失うまいとするから徳がない。高仁者は世間に働きかけるが打算はない。高い義を身に付けた人も世間に働きかけるが、打算がある。高い礼を身に付けた人は世間に働きかけ、応じない人を無理に誘い込む。(38章)

現代社会にも通じる警鐘で、以下にも類似の指摘がある。

信じられる言葉は美しくなく、美しい言葉は信用できない。善人は巧みな弁舌を用いず、弁舌が巧みな者は善人ではない。知者は知識をひけらかす事はせず、博識であると言われる者は物事を知らない。(81章)

自然科学的な思索もある。

天下の万物は有から生まれ、有は無から生まれる。(40章)

は形があって目に見えるもの、は形がなかったり遠方にあったりして目に見えないもの。

以下の指摘にも注目する必要がある。

知っていても知らずとするは「上策」、知らずに知るとするは「病」である。聖人が病ではないのは、病である事を認識しているからだ。(71章)

これらは論語の以下の言葉に対応する。

知らざるを知らずとなす、これ知るなり。

過ちて改めざる、これを過ちという。

巧言令色鮮し仁。

学びて思わざればすなわち罔(くら)し、思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し。

老子の難解な哲学を、庶人にも分かる事例を使って解説しているとも言える。

孔子が九夷に渡航して海洋民族の社会を観察し、実践的な思想を身に着けた様に、墨家の主張は墨子がシベリア系民族の居住地に出向き、秩序主義の実例を見て形成した思想体系が、墨家の強烈な秩序主義とそれを順守する共同体の様に見える。

この時期の濊は遼寧を支配し、青州の稲作民や秦人との交流があったから、シベリア的な秩序主義がどの様なものであるかを、中華の人々も知っていた可能性が高い。また入れ墨がシベリア起源の習俗だったとすると、この頃の濊は入れ墨をしていた事になり、その影響で墨家集団も入れ墨をしていた可能性がある。

しかし墨家や儒家の思想は、シベリアや日本で長い年月をかけて形成された、各民族独特の倫理観を背景にしたもので、制度や机上の論理を導入しただけでは実現しかったが、長い年月を掛ければ徐々に良好な影響を及ぼし合ったかもしれない。しかし東南アジアに移民しないで中華に残った荊は、漢王朝の官僚になった殷人の子孫に倫理観を破壊され、再起不能の状態になった。

南北朝期に生まれた南朝の宋代と梁代は、荊が民族主義を取り戻す最後の機会だったが、それを捉える事ができずに北朝の騎馬民族に征服され、春秋時代に文明化した多数の人口を擁しながら、民族政権が生まれない民族になった。

老子の思想は、荊の政権は諸経費を商工業者になった貴族が負担し、稲作を行う庶人に課税していた事を示唆していると指摘したが、74章に以下の記述がある。

民の飢えは、その上が税の多くを食すからだ。民を治めるのが難しいのは、その上に有為があるからだ。民の死が軽んじられるのは、その上が厚い生を求めるからだ。

「税」漢字の原義は収穫を二つに分ける事を意味し、一つは自分の食料になる分で、その他は必要経費を意味した。荊の貴族は塩や工芸品の配布者でもあったから、その交換に宝貝貨や楚貝貨を介したか否かに関わらず、価格を操作して穀類を間接的に徴収する事が可能だった。その様な状況下でも、貴族が豊かな食生活を享受しながら民衆は飢える状態も生まれたから、このは法治的に決められた租税ではないと解釈されるが、秦の征服以降に法治的な租税制度が生れ、上記の記述はその時代を反映して追記されたものである可能性もある。

法治主義者だった製塩業者にも同様の事は言えるから、当時の法治主義が経済力によって身分階級を決めたのは、納税額の多寡によって決める仕組みだったからだと推測され、税漢字をその様な意味に転用すする事により、現代の税漢字の意味も定着したのではなかろうか。租漢字はもっと直截的で、「且」は台の上に積み上げられた物品を指すから、何らかの用途で集めた穀物を意味し、収穫の税は「租」漢字で示した可能性が高い。

 

8-5 海洋民族は揚子江や淮河などの、大陸河川の奥深くまで交易路にした

トカラ海峡を横断していた海洋民族の航行能力から、大陸河川の遡上可否を判定し、大陸内部に広がった海洋民族の交易範囲を検証する。

縄文時代は現代と比較すると沖積平野が未発達で、河川の堆積土砂による平野裾部の標高の嵩上げがなく、大陸の河川の勾配は現在より緩かったが、海水温が現在より高く降雨量が多かったので、河川の水量は現在より多かった。従って雨期の水流は現在より速く乾季は緩やかで、船での河川の遡上可否には季節性があった。漢書地理志が「倭人は歳時に来る」と記しているのは、その事情を指していると考えられる。

沖縄を経由して大陸に渡航していた海洋民族の、最大の難所は屋久島と奄美大島の間のトカラ海峡だった。最大平均流速3/hの黒潮が東シナ海から太平洋に流出し、その幅は100㎞あるから、トカラ海峡を横断する航行能力があれば、大陸の河川を遡上できた事を検証する。平均流速は長期間の流速の平均で、これには潮流や吹送流は含まれないから、これらを加味した最大流速は5/h程度であると想定される。

太平洋の一部であるトカラ海峡には常時波浪があり、海洋民族の船がトカラ海峡を安全に横断する為には、静かな水上では1015km/hの速度を、長時間維持する航行能力が必要だった事を、縄文人の海洋性と石材加工の項で指摘した。

縄文人の発掘遺体に上半身の筋骨が発達した者が含まれ、櫂を漕ぎ続ける為に身体能力を鍛錬した者が多数いた事を示唆し、この事情を傍証している。関東縄文人のミトコンドリア遺伝子は、大陸から多数の女性が渡来した事を示しているが、後漢書が「中国大陸の人には日本列島に渡海する能力はない」と断言しているから、彼女達は海洋民族の船で渡来した事になる。

海洋民族は交易者として多数の者が、同じ航路を何千年も往来し続けたから、航路上で捕獲できる魚種や必要となる漁法や調理法を含めた、航行に関わる安全性と快適性を高める情報を共有していた筈だが、その事情は海だけではなく、大陸の河川でも同様だったと想定される。食料を効率的に調達しながら航路を急ぐ事は、現代でも当たり前に行われる旅行事情だから、それを証明する必要はないだろう。

海洋航行能力も海洋漁労技術もなかった中国大陸の人には、海洋民族の驚異的な長距離移動が超人的に見えた事は間違いなく、シベリア河川の漁労民族が息慎と呼ばれた交易民族になり、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易者になったのもその様な理由に依る。

台湾起源の海洋民族は、関東部族から獲得した航行能力を最大限に発揮し、インドネシアを拠点として東は大洋が尽きる南アメリカに、西はインド洋を経てアフリカの西岸に達し、大洋上の無人島に拡散して拠点化し、海上交易を仕切った。彼らがユーラシア大陸の河川を長躯遡上した痕跡も、インダス川、ガンジス川、メコン川、揚子江などの流域に遺されている。しかし海洋文化の起源者だった日本の海洋民族は、氷期から継続していた海洋文化の高度化を優先し、それに必要な漁民の集住を重視したので、1年以内に往復できる東アジアの交易に注力し、大陸の河川を遡上して稲作民族と交流する事が主要な交易活動になった。

中華大陸が石器時代に内陸まで文明化したのは、関東部族や台湾の海洋民族が大陸の河川を遡上し、漁具の素材として必要な獣骨を獲得し、その見返りに塩や磨製石斧などの必要な物資を届けたからであり、その延長として大陸民族から文化や物資を得た見返りに、海洋民族も自分達たちの文化や周辺民族の情報を提供したからだ。それによって日本列島にはない穀物の栽培技術も得たから、それらの交易は互恵的なものだったたが、穀類の栽培技能者だった女性達は、危機的な状況にならなければ渡航を決断しなかった事も、文化交流の一つの特徴だった。

金属器時代になって商品が多様化し、石製品の需要が減退すると、石材が豊富な台湾の海洋民族の活動が鈍り、中華世界の海洋交易者は関東部族系と北陸部族に収斂した。北陸部族は春秋時代に淮河の主要な交易者になり、倭人系は黄河流域の交易者に、俀人系は揚子江流域の交易者になったが、秦が中華世界を征服すると越人は大陸から追い出され、漢代の淮河流域は倭人の交易圏になった事を、漢書が「東鯷人(北陸部族)は会稽に来る」と記した。後漢書もその認識を踏襲したが、会稽には倭人も来ると認識していた。

後漢書倭伝に、以下の記述がある。

「建武中元二年(AD57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。」 

「安帝の永初元年(AD107年)倭国王師升等、生口(奴隷)160人を献じ、請見を願う。」

AD57年に奴国が洛陽に使者を派遣し、AD107年には倭国王自身が艦隊を率い、洛陽を訪問したと記している。倭国王師升等が黄河を遡上して洛陽に至った事は、黄河流域が依然として倭の商圏だった事を示している。

安徽省亳州市で発見された墓のレンガに、「有倭人以時盟不」(倭人がいる。適切な時期に同盟できるだろうか)と刻まれていた事が、漢代の淮河流域は倭人の商圏になっていた事を示しているが、海洋民族の仁義や縄張り意識として、商権の移管は極めて重大な行為だったから、春秋時代に北陸部族の商圏になっていた淮河流域が、漢代になると倭の商圏になっていた事に違和感がある。それについて時代を遡ると、縄文後期に東シナ海を商圏としていた俀が、東シナ海が陸地化して生まれた淮河の流域を、春秋時代になると北陸越に商圏を譲渡した事情でもあるから、包括的な状況として以下が想定される。

商圏の設定は、塩を含む物品を販売する際に発生する、商業利権を確定する行為だが、物品の生産に関するものとは別になる事は、現代社会でも常識的な商業利権の在り方になる。つまり淮河流域が俀の商圏である事は一貫して変わらず、春秋時代に北陸越が行ったのはフィリッピンから琅邪に絹糸を運び込み、それを淮河流域の荊の集落に分配し、絹布を受け取って琅邪に集積したのであれば、俀の商圏を冒すものではなかった。

越人が秦によって大陸から追放されると北陸越も淮河から撤退し、俀の交易活動は継続したが、古事記が示唆する様に弥生時代に俀は倭と統合され、漢代の淮河流域は倭人の単独商圏になっていたから、亳州市で発見された墓のレンガに記された状態が生れたと考えられる。

別のレンガに「会稽曹君」と記されているから、その人物が墓の被葬者だったと想定されるが、文献上の誰に該当するのか分かっていない。しかし建寧三年(AD170)と記されたレンガが、後漢代の墓である事を示し、亳州市は魏の創始者の曹操が、自分の祖先であると主張した名門曹氏一族の居所だから、後漢朝に高級官僚を輩出した名門貴族の墓であると想定される。

後漢書は史記や漢書と同様に、殷人系譜の官僚の著作物だから、彼らが編纂した史書には捏造や脱落が多く、正しい歴史を示していない実例になる。後漢書が「会稽曹君」に関する事績を脱落させたのは、曹氏の出自が稲作民族だったからである事を示唆し、後漢王朝期に彼らと対立する政局があり、後漢書はそれを脱落させた事も示唆している。曹操は稲作民族の遺伝子である、Y-O1だったとの説がある事もこの推測を補強する。文献史学者は漢書や後漢書の記述を無前提に引用するが、猛省する必要があるだろう。

「有倭人以時盟不」の上部が欠けているので、彼らが倭人に何を求めたのか分からないが、推測する事はできる。当時の豪族が海洋民族に求めたものは、奢侈的な物品より遠隔地の情報だった可能性が高いからだ。近代的な情報網が発達する以前は、広域商業者が物品と共に情報も販売していたから、大陸各地を商圏とした倭人はそれに相応しい交易者だった。

亳州市は漢代の豫州にあり、古墳寒冷期になった晋代の豫州の戸数は、弥生温暖期末の漢代の戸数の8%に激減した。弥生温暖期は前漢代初頭に終了し、それ以降は古墳寒冷期向って寒冷化していったから、古墳寒冷期なった晋代には農産物の収穫が激減していたからで、後漢代にはその兆候が顕在化し始めていたと考えられる。尾瀬の花粉は戦国時代末期に急激な低温化があり、前漢代中頃に二度目の急激な低温化があった事を示しているが、この様な急激な低温化は海洋性気候の特徴であって、大陸の低温化は緩やかに進行したと想定される。

亳州市の豪農だった曹氏がこの頃栽培していたのは、熱帯ジャポニカだったと推測され、荊の主要な人々は既に東南アジアに移住した後だった。従って会稽曹君がこの頃悩んでいたのは、先人の後を追って東南アジアに移住するか否かの、大きな判断だった疑いが濃いが、王朝が健在だった後漢代に官僚を輩出する一門が、勝手に海外に移住する事はできなかった。

倭人は移住が可能な地域の情報を持っていた上に、人や家財を安全に運搬する船も持つ、頼りになる交易者だったが、事は内密に運ぶ必要があり会稽曹君は決断できなかった様だ。曹氏の逡巡を王朝の政局に絡めて解釈する人がいるが、黄巾の乱(AD184年)が発生する14年前だから、地方豪族の領内の収穫不足は差し迫った問題になり、対策は急務だったと想定される。

この様な記述が遺されている事は、荊の移住は王莽政権の崩壊と共に生れ、後漢の成立と共に停止したのではなく、後漢代になっても後続があった事を示唆している。

後漢書は、「会稽の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。又夷洲及澶洲有り。・・・(その地の)人民が時に会稽の市に至る。会稽東冶県の人で海に入って行き、風に遭い、流移して澶洲に至る者有り。所在が絶遠なので往來は不可である。」と記しているので、夷洲澶洲は日本列島を指し、東鯷人は北陸部族を指していると考えられる。隋書が夷洲は九州だった事を示唆し、澶洲は日本列島だったと考えられる事は、隋書の項で指摘した。

後漢書は東鯷人や倭人が中華に渡来して時に会稽の市に至るが、中華の人は日本列島に渡航できない事を認めている。後漢書の著者である范曄が活動した南朝の宋代は、武庫川系邪馬台国が東日本まで武力統合した後だから、東鯷人と称した北陸部族は消滅していたが、後漢代には残存していたから、後漢書に上記がある事は問題ない。

論衡に「成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ。」と記されているから、倭人と北陸部族は周初(BC1000年頃)に、西安(周の西都)か洛陽(周の東都)に遡上していた事になる。つまり北陸部族にも黄河流域で絹布や亀甲を交易する利権があったから、それを確認する為に成王に朝貢したと推測される。

山海経に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す」と記され、燕が強勢になった春秋戦国時代の倭人は、南から蓋国を訪問していた事を示している。蓋国は現在の山東省淄博市沂源県(きげんけん)にあり、四方を山に囲まれた盆地が沂河の水源地になり、それが地名になっている。当時の沂河もこの盆地から南流していたが、東シナ海ではなく淮河に流れ込んでいたから、倭人は船で沂河を北上して蓋国に至っていたから、蓋国の人は上記の地理観を持っていたと想定され、この記述も春秋時代になっても淮河は倭人の商圏で、北陸越は絹糸と絹布の授受者に過ぎなかった事を示している。

山東半島はアワの栽培に適さない地域になっていたが、標高200m以上の盆地にある漢族の国だった蓋国は、エノコログサが生えない北限的な地域としてアワの栽培が可能だった事を示唆している。但し弥生温暖期にmt-B4が漢族に浸潤した事を、現在の山東・遼寧の人々の遺伝子が示しているから、蓋国は熱帯ジャポニカと里芋を栽培する漢族の国だった可能性もある。後漢代に人口が増加したと主張する史学者がいるが、尾瀬の花粉は温暖化を示していないから、mt-B4の漢族への浸潤が拡大し、熱帯ジャポニカの生産量が増えた事もその一因だったと推測される。

倭は燕に属すとの認識は、海洋民族が交易の為に燕と接した態度を示しているが、臣従関係はなかった。商業的な民族が顧客に示した接客状況が、周囲の他の集団とは全く異なるものだったから、交易していた民族は倭しかなかった燕が、倭は燕に従属していると錯覚した事を示し、漢族の世界観の狭さと交易性の欠如と、当時の渤海沿岸は倭の独占的な交易圏だった事も示している。

当時の漢族は倭人が福建省の福州を経由して大陸に来る事は知らず、倭人は南から来るという認識しかなかった。俀人やその後継の倭人は縄文時代から一貫して、沖縄~台湾を経て福建省に至る交易路を使っていたから、魏志倭人伝や後漢書も、倭人の島は会稽(浙江省と福建省)の沖にあると記し、山海経のこの地理観と一致している。つまり邪馬台国の倭人は山海経の地理観を利用し、それを華北の人々に再認識させた事になる。

倭人は漢族も暴力的な民族であると見做していたから、彼らが宝の島だった日本列島に朝鮮半島を南下して侵攻する事を、阻止する必要性を痛感していたからだ。その為に春秋時代の倭人は、倭人の島は朝鮮半島の千㎞も南の海上にあり、航海術がない中華人には渡航できないと思い込ませていた。

倭人は箕子朝鮮の濊と共に軍事活動を行い、扶余の南下を防いでいた事を、北九州に遺された支石墓や甕棺墓が示している。その膨大な数が、戦闘で落命した倭人が多数いた事を示し、倭人の大陸に対する恐怖認識の背景を示している。この時代の戦闘相手は殷人だったが、春秋時代の漢族はそれに迫る凶暴性を示していた事になる。

現代の地図を見て蓋国は朝鮮半島にあったと解釈する人が居るが、燕(河北省)の南にあったのは渤海で、朝鮮半島ではない。燕の拠点だった河北省の東には、遼東半島を含む遼寧省があり、朝鮮半島はその東にある。海内北経は上記の文の次に「朝鮮(遼東)は列陽の東に在り。列陽は燕に属す」と記し、列陽は遼西の地名で朝鮮は翡翠が産出する遼東を指したと想定され、彼らの地理認識の限界を示している。つまり当時の燕は朝鮮半島の存在を知らなかったと推測され、蓋国は朝鮮半島にあったとの解釈は、歴史を知らない者の見解になる。

東夷諸族を網羅的に列挙した魏志東夷伝に、蓋馬高原に展開する民族集団が記載されていない事も、春秋戦国時代の朝鮮半島には蓋国はなかった事を示している。

春秋戦国時代の倭人は船で沂河を遡上し、山東の山中にある蓋国に達していた事になるが、沂源県は海岸に近く標高が高いから、川の傾斜が厳しく船の遡上は難易度が高かった。山海経の上掲の記事は、鉄器時代になっていた弥生時代の事だから、石器時代の関東部族も大陸の河川を遡上していた事を、トカラ海峡を横断した航行能力と比較しながら検証する。

従って先ず比較的遡上が困難な沂河について検証し、その結果を参照しながら、石器時代の船が中華平原の奥深くまで遡上できた事を検証する。

検証の前提は、沂源県の沂河の水面標高が現在270mで、関東部族の船は縄文早期から1015/hの速度で、長時間航行する能力があった事になる。

河の流速は以下のマニングの公式から算出できる。

V=(1/n)*R^(2/3)*I^(1/2)

  V :流速

 :租度係数(河底の状態を表す数値)

  R<流れの断面積><潤辺の長さ>

  I :水面勾配

 勾配が同じであれば、河の流れは川幅が広く水深が深いほど早くなるから、峡谷モデルと大河モデルに分けて計算する。二つのグラフの傾向を読み取れば、各地の河川の流速を推測できる。現在の沂源県の平坦部の川幅は100m程度で、傾斜がある場所でも河原の幅は100mほどだが、水流の幅は半分以下になっている。

沂河の最悪状態を想定する峡谷モデルでは、川の深さを河幅の25%とし、断面は川底の幅が川幅の半分である台形とし、川底は平坦な岩石面とした。川底の幅が狭かったり凹凸があったりすれば流速は遅くなるから、峡谷的な川の最大速度を見積るモデルになる。同じ川幅であれば水深が深い程流速が速くなるが、川幅の25%は想定し得る最大の水深だから、これも最大速度を見積もる事になり、実際の流速は下図ほどではない。最悪値を見積っても遡上が可能であれば、関東部族の船は下記の範囲の川を遡上できたと結論付ける事ができる。

横軸は標高差1mに要する流路長で、単位は㎞。縦軸は流速(km/h)。川幅毎に流速を示す。

一般論として河は隘路部で勾配が急峻になるが、その様な局所で傾斜が急峻になっても、流速はそれほど早くはならない事を上図は示している。また河川の流速は、岸に近く浅い場所では緩やかになる。沂河は部分的には大河的だが、急流部は峡谷的な川になる。

沂河の流域長は574㎞だから、平均勾配は267m(河面標高)/54km1m/2.15kmになる。

狭隘部の幅は100m以下だったと推測されるから、河川の流速は概ね6km/h以下で、最悪8/h程度の場所があったかもしれないが、1015/hで長時間漕ぎ続ければ、難所も漕ぎ上る事ができた。

大河モデルは川幅が極めて広い河川で、流速は水深によって決まる。

横軸は標高差1mに要する流路長で、単位は㎞、縦軸は流速(km/h)、水深毎に流速を示す。

大河モデルの断面は酷く扁平な逆三角形とし、川底を砂としてモデル化した。このグラフは川全体の平均流速を示すから、岸に近く浅い場所の流速は遅く、中央の深い部分は速い。大河を遡上する際には河底が浅い岸に近い場所を選べば、上のグラフほどの流速にはならない。

揚子江の平均流量は2.1x104m3/sだから、それを南京から下流域の河川に適用すると、幅2㎞、最大水深15m、流速7.5㎞/hに該当する。南京の河面の標高は4mで、河口から200km1m/50km)の位置にあるから、南京の最大水深が15m(川幅2㎞;灰色の線)であればグラフと一致し、このグラフの大まかな妥当性が検証できる。

従って1015/hの速度の船が揚子江を遡上する場合、岸に近い水深5m域を航行すれば、青と灰色のグラフの中間域を遡上する事になる。但しそれでは実質的な遡上速度が、船の実際の速度の半分になり、遡上効率が極めて劣化した状態になるから、一般論としては水量が少なく水深が浅い乾季に遡上し、雨期に漕ぎ降る事が望ましい。揚子江の河面標高は、河口~南京4m(河口から200km1m/50km) ~武漢16m1200km=1m/75km) ~岳陽(長沙)25m1700km=1m/55km)だから、岳陽から離れてはいるが、湖で繋がっていた長沙まで達する事に、技術的な問題はなかったと考えられる。~重慶160m4000km=1m/10km)~成都(重慶から支流)450m(重慶から500km=1m/1.6km)は、大河モデルと峡谷モデルの混在になり、水深が浅くなる乾季しか遡上できなかったと推測される。

縄文前期~中期の武漢の標高は5m未満だったと推測され、乾季に武漢に遡上する事に問題はなかったが、湖北省と四川省の標高差は現在より大きく、海洋が温暖で降雨量が現在より多かった縄文中期までは、重慶(四川省)への遡上は難しかったと想定される。重慶の降雨量は乾季(1月)に19.7㎜に低下し、雨期(6月)には193.8㎜もあるから、乾季と雨期の水量差は極めて大きく、四川に遡上していた海洋民族は、降雨量が減少した縄文後期になっても、乾季に遡上して雨季に降る事しかできなかった可能性が高い。つまり縄文後期に稲作民が成都に定住し、三星堆に青銅器文化を遺したのは、この頃になって漸く、海洋民族が成都に達する事ができる様になったからだと考えられる。海洋民族が遡上できなければ、稲作民に塩を供給する事ができなかったからだ。

淮河流域の川の傾斜については、~周口50m1000km=1m/20km) ~許昌70m(周口から100km1m/14km)は、雨期には水深10m以上の大河モデルになったかもしれないが、乾季には水深が浅い峡谷モデル状態になったと推測され、雨期であっても水深が浅い岸を航行すれば遡上できたと推測される。

現在の黄河の勾配は、河口~鄭州90m1000km=1m/11km) ~洛河との分岐点110m(鄭州から200km=1m/7km)だが、黄河は堆積土砂が多い河だから、縄文時代の標高はこれよりかなり低く、乾季に洛陽に遡上する事は問題なかった可能性が高い。しかし渭水と黄河の分岐点の標高は326mもあり、そこから標高360mの西安に遡上する事に問題はなかったが、洛河との分岐点から山門狭を経て渭水との分岐点まで、標高差200m/河川路500㎞=1m/2.5kmを遡上できる様になったのは、洛陽付近の標高が高くなった上に気候が乾燥化した、縄文後期以降だった可能性が高い。

それであっても平均で1m/2.5kmの河川勾配は遡上に厳しく、黄河は冬季に氷結するから、乾季の航行にも制限があり、それ故に洛陽以西は、馬で青海湖の塩を運ぶ人々の商圏になったと推測される。

周、秦、漢、隋、唐が西安に都を設定したのは、シルクロードの起点だったからだとも言えるが、伝統的に秦人系交易者の塩の道でもあったからだとも考えられる。塩の道である以上、街道は必ず商人が往来できる様に整備されなければならず、それが阻害されれば住民が武力によって妨害者を排除したからだ。

漢書地理誌が、倭人は歳時(1年の決まった時期)に来ると記したのは、乾季に遡上して雨季に下降する必要があった、内陸の事情を示していると考えられる。

 

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