7 古事記が示す倭人の歴史
7-1 古事記が創作された背景事情
7-1-1 概論
飛鳥時代になると日本経済の不況が深刻さを増し、その中で飛鳥王の越人的な法治を基本とする統治が貧富の差を拡大させ、社会不安が高まって殺伐とした世相になった。その様な状況で経済的な実力者だった出雲王が、警察権力を担う大率としても台頭すると、治安の回復とは裏腹に経済的な逼塞感が高まったと推測される。その警察活動がどの様なものだったのか、隋書に記されている。巨大財閥が警察権を入手すると何が起こるのか、現代人にもある程度は想像できるだろう。
大率の方針は新羅の援助だったが、関東の関東部族は高句麗との交流があり、利害関係が対立していた。新羅が唐と連合して高句麗を滅ぼす勢いになると、関東の関東部族は高句麗の滅亡を食い止める活動もしたが、高句麗は668年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。672年に日立国王だった甕星が壬申の革命を起こし、関東と伊予の勢力を率いて出雲国と飛鳥国を滅ぼした事は、高句麗の滅亡を契機に壬申の革命が起こった様に見えるが、670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)が作られた事は、革命への関心はそれ以前から高まっていた事を示している。
つまり甕星が軍事行動を起こす事に対する人々の期待が高まっていたから、高句麗の滅亡によって甕星がその決意を固めると、革命への賛否を問う庚午年籍が作られたと考えられる。競争相手を軍事的に滅ぼしながら利潤を追求する出雲と濊に対し、関東の関東部族と伊予部族は、伝統的な交易活動とは異なるその方針に反発していたから、経済不況の中で出雲だけが繁栄する状態に反発していた民衆と共に、革命を起こしたと考えられる。甕星には天智が考案した不況対策があり、庚午年籍はそれへの賛否を問うものだったと推測される。
天体観測集団の棟梁だった甕星は、天氏の本流系譜だったから、不況に喘ぐ日本列島の経済状態を憂い、武庫川系邪馬台国の宮家の当主だった天智と意気投合し、中央集権制による内需の活性化が、経済不況の突破口になると考えていた。壬申の乱を起こした大義も、それを実現する経済革命だったと推測され、内需産業を仕切っていた物部が古墳時代前半の好況時に台頭していたから、それが壬申の革命に賛同する最大勢力になった。物部は関東部族が育てた内需商工業者だったから、古事記は彼らを革命の推進者と見做し、天孫族であると分類している。
伊予部族には独自に海外交易を行う海運力がなく、出雲部族が主導する毛皮交易に関与していなかった上に、北海道から九州までの太平洋沿岸を版図とし、内需経済に依存していたから甕星の方針に賛同していた。
甕星が滅ぼした出雲王や飛鳥王は、関東部族の天氏が統治権を認証した政権の担務者だったから、甕星には政権を奪還する大義名分があり、古事記もそれを国譲りの説話で掲げている。革命を成功させた甕星には、中央集権制を樹立して経済を立て直す為、しなければならない事が沢山あった。
部族制や地域主義的な風土が地域の自給自足的な経済を維持し、日本列島の経済活動を分断していただけではなく、弥生時代以降の稲作地の争奪を巡る怨恨が蓄積し、それが広域的な経済活動を阻害していたから、それらを解消しなければ経済の広域化による、内需経済の活性化の実現は難しいと判断し、実務的な経済の活性化策に取り組んだが、精神面での可決策としては、縄文時代の平和な社会を取り戻す復古主義を掲げ、弥生時代~古墳時代に生れた怨恨を人々に解消させる処方箋として、思想書である古事記を創作して発布した。
7-1-2 伊予部族と関東部族の関係
改定古事記の序は、古事記の著者は稗田阿礼だった事を示唆している。稗田阿礼の名称は伊予部族系のアワ栽培者だった事を示しているので、極めて密接な関係にあった関東部族と伊予部族の歴史を改めて検証する。
縄文中期までの関東部族はシベリアに弓矢を支給し、見返りに獣骨を得る交易を行っていたから、その様な関東部族の航路上に湊を提供する為に、東北の太平洋沿岸や北海道の太平洋・オホーツク海沿岸に展開し、北海道の内陸でヒエを栽培化した部族である事は既に指摘したので、関東以西の伊予部族と関東部族の関係を検証する。
古事記が日向を「朝日の直刺す国」と記して神聖視したのは、海洋民族の天体観測地は、東の海から太陽が昇る場所でなければならなかったからで、日本列島の太平洋沿岸にはその様な地域が多数あるが、日本海沿岸にはなく、古事記はその様な地域を黄泉の国と記している。つまり海洋民族にとって天体観測は必須事情だったから、それに優れた関東部族の天氏が、すべての海洋民族に尊敬されていたと考えられる。
天氏の根拠地だった日立が天体観測の中心ではあったが、天氏は日向でも天体観測を行っていたから、古事記が日向を「朝日の直刺す国」と呼んだと考えられるが、この地域は元々伊予部族の縄張りだった。日向の天体観測地は日南市の鵜戸神宮がある場所だったと想定され、関東から西の天体観測が可能な地域は、日向以外には伊勢しかない。伊勢に天照大御神を祭る伊勢神宮があるのは、天体観測を行う場所だったからだと考えられ、そこにも関東部族と伊予部族の共有地があり、熊野川の河口に近い太地町が緯度の中間点になるから、縄文時代にはそこが天氏の入植地だった可能性が高い事は既に指摘した。
大甕神社の緯度が北緯36度30分51秒で、鵜戸神宮は31度38分54秒だから、太地町はその中間点の33度35分42秒にあり、正確な中間点からのずれは2㎞未満になるからだ。後漢に朝貢した使者が「奴国は倭の最南端にある」と指摘したが、島影を見ない大洋を航行する者には、数分以内の誤差で緯度を認識する必要があり、海洋民族にとって常識的な認識である事も指摘した。太地町を観測地点としたのであれば、観測誤差は1分以内だった事になるが、船上での認識誤差が数分しか許されなかったのだから、地上の観測地点の選定に更なる精度を求めた事に違和感はない。太地町や日南市で鯨漁が盛んだったのは、この地域の漁師は天氏の子孫だったからかもしれない。
上記の関係を北方にも適用すると、陸前高田市~気仙沼が大地町に相当するが、この地域はリアス式海岸に視界を遮られ、良好な観測地が得られなかった可能性がある。鵜戸神宮に該当する地点は、下北半島北端の尻労(しつかり)になる。「しつかり」は「あおむろ」と呼ばれるアジの一種で、現在は関東以南の海で捕獲され、くさやの干物の原料になっているが、縄文時代には此処が北限だったと推測される。「しつかり」の語源は明らかになっていないが、伊予部族がこの魚を盛んに捕獲していたとすると、アイヌ語である可能性が高い。近くに大間漁港があり、大型魚であるマグロの捕獲が盛んである事は、天氏の入植と関係があるかもしれない。
この緯度間隔を更に北方に延伸すると、色丹島のイタコタン岬になる。イタコタンの名称はイタココタンの短縮形であるとすると、イタコの原義は地域で最も知的な人々を指した可能性に至る。ウィキベディアもイタコについて際立った呪術性はなく、相手の話を聞いて何らかの回答をする巫女で、同様の存在は東北の太平洋沿岸である奄美大島にもあったと指摘しているから、それもイタコの変形であるとすると、伊予部族はイタコタンでも関東部族と共に天体観測を行っていた可能性が高い。
日南市と色丹島は伊予部族の太平洋に面した南端と北端だから、その両地域が観測点として選定される事に違和感はなく、日立から色丹島までの緯度は日南市までの1.5倍だから、0.5倍刻みで観測点を設置して精度を高める事は当然の帰結だった。天体観測を異なる緯度で行う発想は従事者には当然の進化で、観測点の緯度を等間隔にする必要性も容易に思い付く事だから、天氏がそれらを行った理由を証明する必要はなく、その事実の痕跡を探せば良いとの認識に立つと、その痕跡が遺されている可能性が高い。
日立から色丹島と同一緯度距離の南方にトカラ列島の子宝島があるが、小さな島では観測者が常駐する事は難しい。その南に更に0.5倍移動すると沖縄本島の平良湾の奥になり、観測地としては視界が悪い場所になる。先島諸島は北陸部族の縄張りだったから、沖縄本島以南に観測地の候補はなく、天氏が常駐する主要な観測拠点は日南市、太地町、日立、尻労、色丹島だったと推測される。三宅島や八丈島には縄文人の痕跡があるから、天氏は経度の違いは天体の変化に影響はなく、緯度による違いが重要である事は早い時期から知っていたと考えられる。
天氏が天体観測を始めた時期は明らかではないが、台湾起源の海洋民族が南太平洋に拡散したのは縄文前期だから、縄文草創期には観測が始まり、縄文早期には島影を見ない大洋の航行が可能になっていたと考える必要があり、その時点で関東部族と伊予部族が設置できた観測点は、上記の地点しかなかった事も、上記の地点の重要性を示している。南半球と北半球では一部の星座が異なるが、原理が分かれは台湾起源の海洋民族がそれに従って観測し直せば良く、それを使って南太平洋の島々を東進した事に違和感はない。
イザナミが天照大御神と月読を得たのは日向で、「月読」の名称は太陰暦を示しているとの指摘がある事も、上記の事情の傍証になる。「暦」漢字は、「屋内で整然と稲をつらねる」象形と、「太陽」の象形から、日の経過を整然と順序立てる事を意味しているから、「暦」漢字は太陽暦を示しているからだ。つまり関東のmt-B4やmt-Fは太陽暦を使って稲作を行い、その神である天照大御神が太陽暦を示し、ヒエ栽培者は太陰暦で暦を作成し、その神である「月読」が太陰暦を示している事になる。
ウィキペディアは「こよみ」の古形が「かよみ」で、「か」は「二日=ふつか」の様に「日」の音だから、暦=日読みであり、太陽暦であると指摘し、月読は太陰暦の神だった事と整合する。
竹書紀年に帝堯陶唐元年丙子 羲和に象を曆すを命じたと記されているが、この曆すは二十四節季などの太陽暦を意味した筈であり、「暦」漢字の象形事情とも一致するから、一連の関連事象と整合する。
日向で生まれた太陽神である天照大御神と、ヒエ栽培者の為に太陰暦を配布する神だった月読は、天体観測に必要な左右の眼から生まれた事は、古事記の著者の認識とも一致している。それと関係がないスサノオは、鼻から生まれたからだ。つまり1万6千年前の縄文人は既に太陰暦を使ってヒエを栽培する民族だったたから、縄文人は引き続いて太陰暦を使い、関東部族になった縄文人は太陽暦を使って稲作を行なったと、古事記は指摘している事になる。ヒエはイネより栽培期間が短く耐寒性が高いから、太陰暦で栽培しても問題がなかったからであると推測される。
天氏は一般の関東部族より伊予部族の天体観測者との結びつきが強く、天津甕星が伊予部族の女性と婚姻関係を結ぶ事は、特記する必要がある事ではなく、天体観測者が両部族の最高の知識人だったとすると、原古事記が高い知性を示す理由を示している。
7-1-3 古代人の伝承能力
古代人は文字がなかった時代から、自分達を民族集団であると認識して祖先の事績を伝承する習俗を持っていた事を、これまで分析した縄文史や古事記が示している。また古事記の伝承が、時系列的に正確なものであった事は既に指摘した。
これは全ての民族に共通する事象だったと推測されるが、その為には先ず民族としての自覚の成立が必要だった。狩猟民族の時代には縄張りを決める必要があったから、その決定に参加した人々には、決定の経緯を子孫に伝承する必要があり、それが祖先伝承文化と言語の発達を促した事に、異論はないだろう。従って狩猟民族は同一地域に滞留している限り、延々とその地域に纏わる伝承が継承された筈だが、異なる地域に移住すると、元の地域の伝承は廃棄され、新しい伝承が生れたと考えられる。
部族主義はこの状況から生まれ、同一民族内で部族間と部族内を区分しながら、部族間協定を締結する必要があったから、部族認識がない単一民族と比較すると、格段に複雑な伝承が必要になったと考えられる。
これは栽培系の女性達にも言える事で、特定栽培地での気候変動に纏わる栽培地の変遷や、栽培種の進化過程は、蓄積された栽培技術と共に母から娘に伝承されたと考えられる。時代が進化して栽培が最も重要な生業に変化すると、縄張りの設定を含む栽培地の確保が民族の最重要課題になり、栽培種を共有する女性達が栽培民族を形成すると、民族伝承の主体が女性達に移行する状態が生れたと考えられる。但しそれが食料の過半を穀物が占める状態になった事を意味したのではなく、栽培がなければ狩猟経済も回転しない状態になった事を、民族として自覚した時期であると考える必要がある。
古事記が示す縄文人の神が女神である事は、この事情を反映していた事を示し、古事記は1万6千年前の縄文人が、既にその段階に達していたと主張している。古事記が参照した縄文人の伝承は、その判断が容易に付くものだった筈だから、それは古事記の著者の誤解ではなかったと考えられる。
民族の共生には大きな経済的メリットがあったが、異なる生業を営みながら異なる習俗の人々と混住する必要があったから、両民族の間には複雑な取り決めが必要になり、それを子孫に伝承しながら新しい取り決めを生み出す必要があった。従って共生民族は、単一民族と比較すると民族としての自覚を高める必要があり、伝承は極めて複雑なものにならざるを得なかった。縄文人には海洋民族と共生する為の男性の伝承と、栽培に纏わる女性の伝承が併存していた可能性が高く、女性が土器を製作する権利を維持していた事も、その様な男女間の取り決めに従った結果であると考えられる。一度決まった事は容易に変更できなかったからであり、既に指摘した日本の男女間の生業の在り方に関する複雑な力学も、その様な伝統の上に立脚していたと考える必要がある。
海洋民族の部族主義は特定地域を縄張りとするものだったから、部族が結成されるとそれにまつわる伝承も始まり、縄文時代末期まで海洋民族の縄張りが固定化されていたから、膨大な量の伝承が蓄積されていた可能性が高い。古事記はそれを参照した筈であり、関東部族と伊予部族の伝承が合成されたものだったと想定されるから、古事記の神代の説話の過半は伊予部族の伝承に基づき、縄文後期以降の説話である第二段階以降は、関東部族の文字記録の参照が主体になったが、出雲神話が縄文晩期までの期間に及んでいるのは、この区分では出雲神話は神代になるとの判断が、古事記の著者にあったからである可能性が高い。
壬申の革命は関東部族と伊予部族が中核になって起こしたもので、主要な説得対象ではなかったから、古事記には両者の説話は少なく、古事記を受け入れて貰う相手部族の歴史を説話化し、その事実性を示す事によって古事記の権威を高めたので、第一部の神話には関東部族や伊予部族に関するものは、原古事記にも少なかったと推測される。それに加えて月読と甕星に関する説話が改定時に削除されたから、古事記から読み解く両部族の歴史を分かり難いものにしている。
7-1-4 古事記はどの様な書籍だったのか
古事記は説話の中に事実と虚構を混在させ、海洋民族の時代の怨念が込められた歴史を、新しい創作歴史にすり替えるものだったので、説話構成は極めて複雑に入り組んでいる。その詳細は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景を参照して頂きたいが、簡単に記せば以下になる。
古事記は壬申の乱によって倭人時代が終焉した事を宣言し、壬申の革命を神代の国譲り説話に置き換えて時代をすり替え、それによって壬申の革命後の混乱を収拾した。
飛鳥時代の社会秩序は血縁系譜を主体とした氏族が、各地域を支配する状態を社会秩序の基本としていたから、この体制を壊すと無秩序状態が生れる事は必定だった。従ってこの社会秩序は新体制になっても温存し、支配者の意識だけを変える事によって革命を成功させる必要があった。支配者の家系は倭人事時代の功績によって権威付けられていたから、彼らの家系譜の根拠を新体制への貢献に書き換え、彼らの存立基盤の根拠を変更して従来の支配秩序を維持すると、新体制への移行を円滑に行う事が可能になるとの判断が根底にあり、古事記はそれを実現する新しい系譜を示すものとして創作され、それに必要な思想を示す書籍でもあった。
しかし所詮は創作説話だから、それに現実味を持たせる事には関心がなく、歴史を題材とする教訓説話にする事が主題だった筈だが、話が堅くなって民衆が興味を失う事を恐れた故に、民衆の興味をそそる為の卑猥な記述も多く、当時の人々が求めた大衆文学的な短編集としての色彩が濃い。後世の神学者がそれに不満を持ち、歴史書らしい体裁を徐々に整え、最終的に日本書記に至ったのは、本当の歴史伝承を失う事により、古事記が創作説話であるとの認識も失ったからだ。
古事記は三部構成で、第一部の神代で海洋民族の歴史を説話化し、それは壬申の革命によって終了した事にして、壬申の革命の時期を縄文中期末に繰り上げた。農耕民族だった縄文人の視点で説話を創作し、海洋民族的な活動は説話に繰り入れなかった。海洋民族の時代にも縄文人的な営みはあり、それに貢献した事績だけを特記して海洋民族的な活動歴を無視すると、説話を受け入れた人も自動的に海洋民族の時代を忘れ、部族的な怨恨は必然的に消散してしまうという思想が、古事記の根幹にあった。
日本人だけに通用する「水に流す」との発想が、その根幹にあったと考える事もできるし、現代社会にも放送禁止用語や言葉狩りがあるから、現代にも通用する現代人にも分かり易い思想だったとも言える。部族間や地域間の怨念は過去の事実に基づいていたから、古事記が示す歴史だけが公の歴史であると皆が納得し、それに示されていない過去の怨念は、公の場で言及する事が禁止されれば、人々の怨念の殆どが解消した筈であり、極めて興味深い発想だった。現在の朝鮮人や中国人もこの発想が理解できれば、大中華主義や大朝鮮主義は霧散し、東アジアに平和が訪れる事が理解できれば、古事記の思想の偉大さも理解できるだろう。
その為に壬申の革命の時期を3千年繰り上げたから、古事記の第一部はそれより大幅に長期間になる必要があり、古事記の著者もその時期の伝承を意欲的に蒐集し、イザナギとイザナミの説話やスサノオの説話を創作したが、それでは出雲部族や対馬部族に関する説話の量が不十分だったから、時期的には第二部になるべき大国主の建国説話を第一部に繰り入れたと推測されるが、伝承説話のジャンルとして第一部に繰り入れた可能性もある。人々がいがみ合う以前の部族の歴史は、当時の人々には時間関係が曖昧だったから、古事記の著者は誰もそれに気付かないであろうと、秘かに考えたのではなかろうか。
第二部も創作的な神話時代ではあるが、海洋民族の時代が終わって新体制の構築が始まった時期であるとして、有力氏族の家系譜の根拠はこの時代に発生した事にした。神武天皇の東征が壬申の革命を再現しているのは、第二部は天皇制に基づく新体制の形成期で、天皇制こそが日本のあるべき統治制度だから、その歴史はある程度の背景を示す必要があったが、その記述は海洋民族的な活動を反映させる必要があり、読者にその記憶も払拭させた後で、天皇の時代を創作する事が必要だった事を示唆している。つまり天皇制の時代が創作日本史の根幹であると認識させる事が、古事記の主眼である事を示している。
第三部は神武の即位から始まる天皇制の歴史で、開花天皇までを北方派の起源的な天皇時代、崇神天皇~仲哀天皇は、実際にはいなかった南方派の天皇の時代、応神天皇以降は、天皇になる資格がなかった他部族(西日本の関東部族もこれに入る)の指導者を、完全な創作として天皇にした時代で、最後の天皇は部族の指導者でもなかった天智の母とする事により、新しい時代は天智の制度設計によって始まった事を示し、革命の大義を明らかにした。日本紀を転写した新唐書が、天武は天智の子であると記しているのは、当時の人々が甕星は天智の養子になった事により、新しい体制が始まったと認識していた事を示唆している。
古事記の思想を浸透させる為には、伝承や年代記に記載された史実を、古事記が正しく説話化した事を示す必要があり、それを示す為のキーワードや、事実的な暗示を説話に盛り込んだ。
そのもっとも典型的な事例を、国譲り説話に見る事ができる。
天孫族の頂点にいた天照大御神が、葦原中国(あしはらなかつこく)は天孫族が「知らす」国であると唐突に主張し、その交渉のために天孫族の使者を出雲に何度も派遣した事が、壬申の革命前夜の事情を示唆しているが、史実が分からない現代人には、何を暗示しているのか分からない。しかしそれが皆失敗したので、最後に物部を代表する経津主(香取神宮)と、天鳥船(天氏の特徴である快速船の運用者)を派遣し、葦原中国の支配者だった大国主に、「汝が所有している葦原中国は、天照大御神の子が知らす国であると、天照大御神が宣託した。どうするのか返事をせよ。」と迫った。この言葉に壬申の革命の大義が込められている事は、既に指摘した。
大国主が「僕は白(申)す者ではなく、我が子の八重事代主の神が是を白すことができます。」と答えた事は、この時代の歴史背景を正確に捉えている。事代主は天氏を名乗る事が許された飛鳥王を暗示し、飛鳥王は代理の王だったと主張しているからであるが、それを示すネーミングが極めてユーモラスであると感じる必要もある。当時の人もこれを読むと、思わず吹き出してしまっただろう。
事代主が国譲りを認めると、抵抗する最後の神として建御名方神が、「誰かが我が国に来て忍忍(ひそひそ)と物言を言う。然らば力競べしよう」と言う。・・・しかし負けて逃げ去ったので、科野国の州羽(諏訪)の海に迫り、將に殺そうとした時に建御名方神が白すに、「恐し、我を殺す莫れ。此地を除いて他処には行きません。我が父大国主神の命と八重事代主神の言(降伏宣言)に従います。葦原中国は命に隨って献じます。」と言った事も、史実として文学的に解釈すると、既に建御名方神は諏訪の決戦で戦死していたから、それを祭る神社が諏訪にあった事を暗喩している。
建御名方は「その名を知らない人はいない高名な武将」を指すユーモラスな表現ではあるが、この文学的な表現の背景として、建御名方の軍勢に勝利した甕星が、相手の武将の関東を讃えて死地に神社を作り、その霊を祭ったから、皆が知っている武将になった事を示唆している。つまり甕星も古事記の思想の実践者である事を、読者にアピールしている事になる。
以上の結論として、壬申の革命の天王山となる決戦は諏訪湖畔で行われ、それに勝った物部を主体とする関東勢が出雲に迫った史実を、文学的に忠実に示している。改定された古事記では、経津主(香取神宮)が建御雷(鹿島神宮)に変ったが、先代旧辞本紀がそれを以下の様に批判している。
天照太神は仰せられた。「また、どの神を遣わしたらよいだろうか」・・・・みなが申しあげた。「経津主神を将軍にするとよいでしょう」
その時武甕槌神が進んで申しあげた。「どうして経津主神だけが丈夫で、私は丈夫ではないのだ」との語気が激しかったので、経津主神にそえて武甕槌神を遣わした。
ある説によると、天鳥船神を武甕槌神にそえて遣わした。
つまり藤原氏が古事記を改竄した事を示唆しているが、もう少し深読みすると、mt-B4にも不都合な記述が沢山ある改定古事記が、藤原氏を介して関東に洩れない様に、奈良朝の天皇が策略を廻らし、建御雷を主役に変えたと推測される。天武天皇の子が関東で暗殺され、古事記が主張する政体が関東から失われると、古事記思想の信奉者として奈良朝を樹立した藤原氏が、古事記の思想に反する改定が古事記に加えられる事に加担した筈はないからだ。
mt-B4にも不都合な記述を改定古事記に盛り込んだ奈良朝の元明天皇としては、それは藤原氏も承認した事だといわんばかりの改定も行い、建御雷を主役に変えたと考えられる。壬申の革命の主役が奈良朝に敵対的な物部だった事にも、我慢ができなかったからだと推測される。先代旧辞本紀の著者はそれらを知っていたから、改定古事記をある説に格下げした。
このHPの読者であれば、天照大御神が突然この様な事を言い出した、背景事情を理解できるだろうし、当時の倭人崩れの人々も鮮明に理解したと想定される。
古事記に記されたユーモアに富んだ名称は、古事記の著者の文学的なセンスの良さと、情勢を的確に捉える知性の高さを示しているが、その様な名称や記述は外にも多数ある。
現代に遺されている古事記は、壬申の乱の後に甕星が発布したものではなく、政変によって甕星系譜を断絶させた奈良朝が大幅に改訂したものだから、甕星が発布したものと奈良朝が改訂したものを区分する必要があり、前者を「原古事記」、後者を「改訂古事記」と呼ぶが、記述が煩雑になる事を避ける為に、特に区別する必要がない限り原古事記を古事記と記す。
古事記が大幅に改定された証拠として、改訂古事記がヤマトタケル説話を挿入し、関東や伊予部族を貶めている事が挙げられる。熊曽征伐の説話は、元明天皇の残忍な性格も示している。しかし国譲り(壬申の乱)で活躍したのは関東の香取勢力で、それに鹿島勢力が加勢した事を、古事記と先代旧辞本紀の国譲り説話が示しているし、東征した神武の出発地が伊予部族の地である日向である事も、改定古事記の内容に大きな矛盾がある事を示している。
奈良時代~平安時代の王朝期に、伊勢神宮を除けば香取と鹿島が日本の神宮の双璧であり、両神社は正一位であると同時に勲一等も得たから、これは国譲り説話と一致する。叙勲は戦功に対して行われる事が多く、この様に高い叙勲位の対象になる戦役は、壬申の革命しか考えられないからだ。
勲功の授与によって平安朝が示した事実と、古事記の説話が一致している事は、国譲り神話が事実の神話化であって、ヤマトタケル説話は虚構である事が分かる。香取神宮や鹿島神宮が鎮座する関東を、ヤマトタケルが未開の地として征討する大矛盾を、一人の著者が犯す筈はないからだ。またヤマトタケルを主神とする大社が存在しない事も、改定古事記が世間に受け入れられなかった事を示し、支持されたのは原古事記だった事を示している。
改訂古事記は奈良朝が生まれた15年後の712年に、元明天皇の指示によって太安万侶が編纂したと、現在遺されている改訂古事記の序に記されている。続日本紀にそれに関する記述がないのは、奈良朝にとっては僅かな改定であり、朝議録に遺すほどの事ではなかったとの主張があったからである可能性もあるが、万世一系思想によって編纂された続日本紀の編者には、古事記が改定されたとの事績は、採用できなかったからである可能性もある。
改定古事記に関する話は以上とする。
古事記は史実を伝える史書ではなく、海洋民族の時代が3千年前に終了したとすれば、その後の歴史がどの様に展開したのかを創作し、弥生時代以降の忌まわしい記憶を人々に償却させるものだった。史記や漢書の様に人々に嘘の歴史を信じ込ませ、政権の正統性を主張する書籍ではなく、嘘である事は承知している民衆に対し、「新しい日本国を作る拠り所として、古事記を下敷きにした新しい歴史観に従う事」を民衆に提案し、民衆がそれを受け入れれば、政権の正統性が担保されるものであって、見方によっては極めて危うい状況を提案する書籍だった。
しかし民衆がそれを受け入れたから、日本には倭人時代を記した史書が現存しない事実が生れた。民間伝承であるホツマツタエや飛騨の口碑でさえも、倭人時代はなかったとする古事記の基本思想を踏襲し、古事記の創作説話の変形である事を示し、古事記の思想が当時の人々に受け入れられただけではなく、後世の人々の歴史認識も束縛する程の、驚異的な強い支持を得た事示している。それを敷衍すると、民衆の思想がその様に成熟していた一方で、改定古事記を公布した奈良朝の天皇の文化的な未熟さが露になり、改定古事記を下敷きにした捏造史を創作する為に、延々と神学論争を繰り広げていた王朝の位置付けも、王朝史観が主張する、未開な人々に王朝が文化を配布したという虚構も露になる。
史記はそれとは全く異なる書籍で、漢王朝統治の正当性を主張する為に、嘘の歴史を民衆に刷り込む為に創作した史書だった。交付した時代には中華の民衆に受け入れられなかったから、王朝と同一民族の班固が漢書でそれを取り繕い、王朝とは異民族だった陳寿が漢王朝滅亡後に、三国志で批判する史書だった。
現代人が史記を批判の対象にしないのは、中華文明人の知性が極めて劣化している事が主要な要因だが、史家が中華国民の聖典に祭り上げている実態が、批判を憚る雰囲気を形成している。
隣国である日本の史家にも類似した事情があり、王朝制度を導入した支那が古代の文化中心だったとのプロパガンダを、人々に信じ込ませる事によって王朝史観を強化してきた歴史があり、現在もその方針を堅持する為に史記を利用している。
物質文化の高まりと共に人々の知性が劣化した事を示す事例になり、日本では日本紀(新唐書に掲載)、先代旧事本紀、年代記(宋史に掲載)、二中歴などを経る事により、先史と中華の史書の辻褄が合わない部分の補正技能を高めたが、古事記の思想を基にした神学論争に過ぎない事がその実態を示している。
飛鳥時代~奈良時代の人は古事記が創作神話である事を知っていたが、古事記の思想を逸脱する事は許されなかったから、部族的な対立感情が急速に冷却された効果を重視し、古事記の思想に共感したが、古事記は飽くまでも思想書であって史書ではない。
奈良朝がそれを歴史らしく書き直したのは、唐に奈良朝の歴史を説明する必要があったからで、国民まで騙す気はなかった筈だが、王朝貴族が事ある毎に改竄し続けて日本書紀に至り、頒布する対象を正しい歴史を忘れてしまった日本人に変えた事は、学究的には「馬鹿々々しい行為」の一言に尽きる。
古事記は史記の様に他民族の歴史を改竄したものではなく、天氏の本流だった甕星が、自分が管理していた倭国王家の長い伝承を放棄し、内需を基本とする商工民族の歴史として創作したものだった。改竄者が倭人政権を倒した革命の指導者であると共に、倭人時代を牽引した倭国王家の直系の子孫だった事が、人々が古事記を受け入れる動機を担保していた。
つまり新生日本の天皇(天武天皇)に就任したのは、天皇を名乗る有資格者だった天津甕星(あまつみかぼし)であり、倭国王家の本流だった。また関東の北方派の天氏が倭国王になった時期にだけ、名乗る事ができた天皇名称を、500年振りに名乗る資格を得た人物でもあった。
その甕星が壬申の革命を起こして倭人時代を終焉させ、経済を活性化させる為に分国制を廃止して中央集権制を始めたから、天皇に即位した統治者の正統性を問う必要はなく、古事記は政治の在り方を問うものだった。その様な古事記は統治者の正統性を主張する必要はなく、甕星の出自に言及する必要もなく、歴史観の変更を指導するものだったが、新生日本の政策の可否は、別の手段で民衆に問うしかなかった。それについては、経済の活性化を企図した公共事業としての藤原京の建設や、全国に張り巡らせた公道の建設は既に既知の事象だが、古事記はその他の重要な手段があった事を示唆している。
しかしそれらとは関係がない理由で天武天皇の子が暗殺され、政変が勃発した。それによって天津甕星は関東でも奈良朝でも悪者になった様に見えるが、古事記の思想の神髄である天皇制を維持する為に、奈良朝を興したのは藤原不比等だったと考えられるから、彼は古事記の思想に傾倒していた事になる。古事記の思想に従って天智の家系を天皇に据えた事も、彼の古事記信仰に負う所が大きかったとも言えるだろう。
しかし天智には息子がいなかったので、天智の弟と結婚していた天智の娘をショートリリーフとし、その息子の息子である文武を奈良朝の初代の天皇にした。実際の歴史が分かっていた平安朝が、この高齢の天智の娘を歴史上の天皇に祭りあげ、「持統」という名称を贈った事は、他の天智の娘達がしり込みする中で、果敢にその大役を引き受けた事に対する賛辞だったと考えられる。彼女が引き受けなければ奈良朝が存在せず、天皇制を維持する為の王朝文化を日本に導入する機運も生まれなかったからだ。持統の諡号が彼女の果たした役割を示し、この「統」は血統ではなく「天皇の統」であると考える必要がある。
従って改定古事記の国譲り説話から経津主が欠落し、代わって建御雷が登場したのは藤原不比等の本意ではなく、不比等に擁立された奈良朝の天皇の愚昧さと、権力闘争に執心する者に特有な、悪知恵の為せる業だったとの結論に至る。不比等の子孫は不比等の思想に従って奈良朝を支えたが、遂に北家がこの血統に見切りを付け、光仁天皇を迎える決断をしたが、依然として古事記の思想を堅持していたから、古事記の思想に従って続日本紀が編纂され、奈良朝も万世一系の天皇系譜の歴史に組み込まれた。
比較的よく知られている体制革命にフランス革命、ソ連の成立、中華人民共和国の成立などがあり、いずれも革命後に膨大な流血を経験したが、壬申の革命では乱が終わると民衆が古事記の思想を受け入れ、平穏な時代になった事を、上記の事績が示している。平城京の何倍もの規模の藤原京が建設され続け、それが無防備の状態であっただけではなく、各地から持ち込まれた物資の荷札が発掘されている事や、この短い時代に後世にはない立派な道路が各地に建設された事も、それを示している。
その様な平穏な時代になった理由は、古事記が倭人時代の利権や血縁系譜を肯定し、民間事情の変更を最小限に留めたからだと推測され、古事記を生み出した先人の知恵が称賛に値するものである事を示すと共に、革命の大義を理解した民衆が神話の様な古事記を受け入れた事も、大きな要因だった事も示している。その後の歴史書は全て古事記を基底に編纂され、倭人時代について記したものは生まれなかった事は、朝廷の事情とは裏腹に、古事記を受け入れた民衆の文化力の高さを示している。
7-1-5 古事記の思想
古事記は冒頭に天命思想を示しているが、それは過去の偉人の業績がその思想に基づいていた事を示したのであって、民衆にその思想の実践を求めたものではなかった。しかし過去の偉人によって日本国が形成された事を人々に再認識させた事は、古事記の思想を受け入れさせる、大きな要因になった事は間違いない。これは選民思想ではなく、祖先の業績を継承して社会を形成するという縄文的な思想を、再び民衆に思い起こさせる起爆剤になったからだと考えられる。
漁民と狩猟民の神であるイザナギと、縄文人の神であるイザナミが同時に他の神々から命を受け、一緒に日本を形成したと、古事記が史実を無視して宣言したからだ。この宣言の為に、それより古い独神(ひとりがみ)の時代が必要であり、その時代には日本列島はなかったと宣言する為に、海に刺した矛の先から滴り落ちた塩でオノコロジマが生れ、その島に降り立ったイザナギとイザナミが、日本列島の全ての島を生む必要があった。北海道がその説話に必要なかったのは、北海道部族の起源は壱岐部族だったからだ。また生み出した島の状態は、当時の民衆が自分の祖先系譜と結びつける事ができる時代まで、繰り下げたものである必要があった。従って国生み説話から導き出すべき情報は、古い時代の日本列島の事情ではなく、当時の人々が古代事情として認識していたものが、どの様なものだったのかという情報になる。
倭人時代の神々は各国の王の祖先(上=かみ=神)で、その権威は伝統に立脚し、その背景には古代から伝わっていた海洋民族の伝承があったから、それを書き換えてしまえば、それ以上の体制変更は必要なかった事を、古事記は示している。当時の人は古事記の説話が虚構である事は知っていたが、共同体のシンボルを変える事に皆が同意すればそれで十分だったから、古事記が明確にその路線を打ち出したとも言える。古事記が発布される事によって起こった現象は、結果論として幾らでも論評できるが、古事記の著者にとっては結果論ではなく、政権の命運を賭けた著述作業だった事を理解する必要がある。
古事記が上記の目的と同時に、不況の真只中の民衆に訴えた事は、経済の活性化には内需の振興が不可欠であり、その為には小さな国や部族の垣根を取り払い、自由に交易活動を行う必要性だった筈だ。壬申の革命の主要勢力は、内需の商工業を担う物部だったから、それは革命後の主張ではなく革命の大義だった。倭人諸国は伝統的に海外交易を重視し、それに起因する内需経済の不況に喘いでいたから、新政権の経済目標は、経済の主体を行き詰まっていた海外交易から内需に変え、内需に関する事業を推進するものだった。
元々海外交易には従事していなかった大多数の民衆に、経済活動の変革を迫るものではなく、民衆も受け入れ易いものだったと想定され、大多数の民衆が古事記を受け入れた理由は、古事記の仰々しい思想に共鳴したからではなく、経済の活性化に期待していたに過ぎない可能性もある。しかし古事記の思想が民衆に受け入れられ、それ以降の歴史書が古事記の歴史観から逸脱しなかった事は、古事記が民衆に大きな感銘を与えた事を示している。
古事記が生まれた飛鳥時代の日本では、旧来の部族意識が残存していただけではなく、各々の部族内に地域集団があり、地域集団は稲作地の水利権などを巡って更に細分化されていた。商工業の発達に伴って部民と呼ばれる地域横断的な職能社会も生まれていたが、各地域の人々が互いに抱いていた怨念が累積していたから、商工業活動はそれによって大きく阻害されていた。それ故に物部が壬申の革命の主役になったが、物部には革命後の社会を変える力はなかった。それらを解消して新しい秩序観を持つ為には、それぞれの人々の為に新しい神々を創作する必要があり、それは極めて複雑な作業だった事を古事記が示す膨大な系譜が示し、それが古事記を編纂する主要な目的の一つだった事を示している。
人々の不満がない形でそれらの系譜を再編成する実作業には、極めて膨大な作業が必要だった筈だから、それを粘り強く粛々と進める事が必要だった。つまり現代の思想書の様に、思想の拠り所を文書化するだけではなく、その思想に基づいて行われた作業結果である膨大な系譜を作成する必要があり、それについても古事記思想の一面として評価する必要があるが、その情報には歴史書としての価値はない。
それらの系譜は民衆に近い貴族層に関するものだから、極めて地域性が高い情報になるが、現代人が見るべき古事記の根本思想は、部族の和解に関するものになる。
嘗ては関東の倭国王にしか許されなかった「天皇」名称を、この時代に唯一名乗る事ができた天甕星が自称すると共に、古墳時代に倭国王位を簒奪した邪馬台国王や、甕星自身が征討した飛鳥王も、自分の祖先を形成した一系の天皇として位置付け、それぞれ相応しい諡号を付与し、各部族の名誉を尊重しながら各部族の人々を、自分が樹立した中央集権制下の日本国民にする事だったから、それに関する古事記の記述を検証する事には意味がある。
それらの作業では従来の系譜関係を尊重しながら、一つ一つの神を丁寧に新しい神に書き換えなければならなかったから、それにまつわる古事記の説話も煩雑にならざるを得なかった。しかし古事記の著者はその要点を簡明に書き連ね、極めて簡略な文章に仕立てている。
それらは思想的な表現ではなく、説話を連ねたものだった事に、日本的な特徴があった。日本語は機微な内容を含む説話の記述に適しているから、現代日本人も説話や小説を通して社会思想を受容するが、飛鳥時代の人も同様だったから、古事記の説話を受け入れたと推測されるが、その言語文化を推進していたのは女性達だった。
海洋民族の男性達は汎用語だった漢文法に親しみ、大陸との交易に励んだから、彼らの日常会話にもその影響が深まり、現代の中国語の様な状態に陥る危険性が多分にあったが、現代人が使う日本語も古代の日本語文献も、過去・完了・未来の時制を明確に区分し、微妙に意味が異なる語彙を多数含み、中国語の様に表現力の乏しい言語にならずに済んだ理由は、日本の言語文化を発達させていた文化人が、交易者以外にも居たからであると考えざるを得ず、それは陸上の覇者だった女性達だったと考えざるを得ない。物事には原因と結果があり、文化的な劣位者は交流する文化的優位者の言語に同化し易いが、それらを考慮して必要条件を確認すると、それ例外の結論はないからだ。
説話を面白くする為には、それに必要な語彙や適切な表現があり、それらが完備する事によって興味深い説話が生れるが、古事記にはその文化を高めていた人々の痕跡が濃厚にあり、稗田阿礼を輩出したヒエ栽培者の文化には、その様な要素が多分に含まれていた事を、古事記が示している。
稲作者は単なる栽培者ではなく、自身の収穫物を漁民と交換する交易者でもあったから、言語の扱いに巧みになる必要があり、その様な女性達になる環境があったと想定されるが、稗田阿礼などが創作した原古事記の優れた文学性は、稲作者やアワ栽培者を代表していた奈良朝の女性天皇が、改定した古事記では遠く及ばない、優れた文章表現を具備しているから、当時の事情はこの想定とは異なっていた事になる。
稲作では雑草と格闘する必要があり、その除草に多大な労力を要したが、冷涼地域で行うヒエ栽培にはその様な労働は必要なかった事が、ヒエを栽培する女性達に余暇時間を与えたからである可能性があり、縄文晩期の彼女達の土器である大洞式土器には、茶道具や酒器だったと推測される華麗な土器が多数含まれていた事が、その事情を示唆している。
また縄文後期以降の東北や北海道には、広大な沖積平野が生れていたが、西日本や九州は山岳地が多く、稲作者は稲作地の獲得競争に狂奔していた事が、稲作女性達の精神的な余裕も奪っていた可能性もある。女性達は海外交易に参加していなかったから、男性達の様に漢文を使う必要はなかったが、関東の交易者と頻繁に接していた関係上、文字文化への興味が高かった事も挙げられるかもしれない。伊予部族の文化だったヒエ栽培の文化圏では、優良な蛇紋岩が産出しなかった関係上、男性達も海外交易とは無縁だったから、男性達も日本語を駆使する文字文化に興味を持ち易かった事も、ヒエ栽培文化圏の日本語リテラシーの向上に貢献した可能性が高い。
確定的な結論は導き出せないが、明治の著名な歌人や童話作家として、正岡子規、若山牧水、石川啄木、宮沢賢治などを挙げると、皆東北地方か伊予部族の出身である事は特記すべきだろう。
飛鳥時代の日本人が古事記を受け入れた事は、各地の神社が現代に至るまで古事記に記された神々を祭り、古墳時代に各国の倭人達が全国に沢山造った古墳は、完全に無視している事も示している。言い換えると、古事記に記された神々を祭る神社が例外なく古墳を無視している事が、古事記は倭人時代を否定する書籍だった事を示し、この関係が全国一律に成立している事は、壬申の革命によって倭人時代の価値観が例外なく放棄され、古事記が示す新しい価値観に一斉に転向した事を示している。
しかし政変が起こって奈良朝が成立した結果、邪馬台国系の天皇にとって不都合な記述を、古事記から削除し、自分達に都合が良い説話を挿入する必要が生まれ、原古事記が改訂された。元明天皇と元正天皇が説話を創作し、太安万侶がそれを編纂する事によって改訂古事記が生まれたが、現存するのはこの改訂古事記しかない。
7-1-6 原古事記の成立と頒布
国譲り説話と神武東征は壬申の革命を神話化したもので、それが古事記の示す歴史の画期を形成しているから、古事記は壬申の革命後に成立した事は間違いない。古事記が提唱した万世一系思想に基づけば、神武天皇が即位した後に革命(血縁系譜の交代)はなかった事になるから、日本の史書は皆「壬申の乱」と記しているが、歴史を正しく評価すれば正真正銘の革命だから、「壬申の革命」と記すのが正しい。
しかしこの様な革命があった事は、古事記の思想によって歴史記憶から抹殺されたから、人々の記憶からこの革命の記憶も失われた。原古事記も彗星のように現れ、短期間輝いた後に闇の中に消えたが、原古事記が提起した思想が脈々と継承された事は、その著述と頒布が偉大な行為だった事を示している。従って以下の検証は、原古事記がその様な思想書であった事を前提に、どの様な環境下で執筆され、如何なる環境下で頒布されたのかを検証する。
古事記が頒布された時期の下限は、文武天皇(697年~707年)が即位の詔で、「高天原に始まり、遠い先祖から現在に至るまで、天皇の任務として皇位継承を、天の神が授けた通りに執り行ってきた。」と、古事記が創作した高天原に言及しただけではなく、古事記の万世一系思想をその儘述べている事が、この時既に原古事記が頒布され、人々が既知とする状態になっていた事を示している。つまり原古事記は壬申の革命が終了すると、間もなく頒布された事を示している。
元明天皇の即位時の詔で、「藤原宮で天下を統治した持統天皇は、その後文武天皇に譲位して二人で天下を統治したが、これは大津宮で天下を統治した天智天皇が、不改常典として定めた(実施した)法を、受け継いで実施したものだ。」と述べた事が、続日本紀に記されている。壬申の革命によって倭人政権が倒れる前に、革命勢力は政策に関する構想を持っていたが、それを考案したのは天智天皇であると指摘している。
続日本紀には辻褄合わせが散見され、総ての記述が史実を正確に反映していないが、天皇の詔の改竄は天皇に対する不敬罪に該当し、古事記の思想に反するから、編纂者は天皇の詔は忠実に再現したと考えられる。天智天皇時は壬申の革命以前の人なので、統治したのは近江周辺の限定期な地域だった筈だが、元明天皇は天智が整備した法が、大和朝廷に引き継がれたと主張し、革命によって天皇に即位した天武が天智の諡号を与えた事を示しているから、天下を統治した天智天皇という表現も、古事記の思想に従っていた事になる。
従って嘘であっても古事記の思想の延長線上にある主張は、当時の人々にも受け入れられる表現だった事を示している。従って実際に元明天皇がその様に発言し、朝議録にその様に記され、続日本紀の編纂者も古事記の思想に従って採録したと考えられ、古事記の思想が奈良朝に深い影響を与え、平安朝にも引き継がれた事を実感させる。
近江に近い京都市山科区にある御廟野古墳(ごびょうのこふん)は天智天皇の墓とされているが、関東の埋葬様式である八角墳だから、関東系の天皇が建立した墓であり、それが畿内最古の八角墳で、八角墳として日本最大の規模を誇っている事は、天武が天智を高く評価した事を示して上記の歴史認識と整合する。天智が革命後の政権構想を作成し、天武がそれを革命の大義として壬申の革命に勝利した事が、天武が天智を高く評価した理由になるからだ。
「天武」は天氏の大王が武力によって日本を統一した事を意味する諡号だから、「天智」の諡号にその敬意が込められているとすると、両者は対になる天皇名称になり、この様な名称の付与も新政権の正統性を宣伝する有力な素材になっただろう。言い換えると御廟野古墳を大規模に造営する事が、天智の思想を実践する意欲を世間に示す事になり、重要な国家事業だった。
漢風の天皇諡号は淡海三船(おうみのみふね)が、奈良時代の後半に命名したとの説があるが、720年に成立した日本紀の天皇系譜が新唐書日本伝に転写され、それに「天智」や「天武」などの漢風諡号が使われているから、この説は明らかな誤りである。
これを頑強に主張する目的は日本史を誤魔化す為であるとしか考えられず、史学者の堕落を示す行為であると言わざるを得ない。日本紀が天皇の漢風諡号を掲載した事は、原古事記にそれが記載されていた事を意味するが、改訂古事記にそれが掲載されていない事は、これらの諡号が古事記に掲載されている事が、奈良朝にとって都合が悪い事態だった事を示している。その理由は後述する。
以上の経緯から言える事は、庚午年籍を作成した時点で民衆には新しい系譜への期待感があり、新しい系譜を作成する面倒な作業は既に始まっていた事を示唆しているが、壬申の革命を題材とする説話は古事記の全体の流れを決定付けるものだから、説話は壬申の乱の後に創作されたと考えられる。壬申の革命(672年)から政変(695年)まで23年しかなく、政変以前に古事記の思想が民衆に浸透していた事を前提にすると、古事記は675年頃に発布されたと考えられ、説話と系譜を紐付ける膨大な作業が数年で完遂された事になる。
一般民衆には倭人の歴史に関する深い知識はなかったが、博識者に「この記事は何を意味しているのか」と聞けば、明快な答えが返って来るのであれば、それが古事記の権威を高めた事は間違いなく、その様な事態が各地で起こって民衆が古事記に関心を高めたから、古事記が急速に普及したと考えられる。学術書の様な書籍に民衆が興味を持つ事などあり得ない事情は、古今東西の常識であり、古事記の著者も古事記を頒布した天武天皇もそれは十分承知していた。
従ってそれを期待する為には、書き換えた元の事績が何であったのかを、容易に類推できる必要があった。その観点で原古事記を復元すると、それに対処した著者の思惑が理解できると同時に、著者の類稀な文学的感性にも気付かされる。従って古事記の著作時にそれが意識されていた事は間違いなく、それを前提にすると、各説話の短い言葉から著者の意図を読み取る事もできる。国譲り説話に登場する人物名は、正にその様な感性の表出であると言えるだろう。
7-1-7 古事記の説話の特徴
民衆も知っている著名な事績が古事記の説話になる必要があり、それを基底とした創作歴史の一部に、倭国王の年代記を書き換えた事が分かる、言葉のマークを入れている。皆が知っている故にマーカーになる事象は、伝承の中で各時代の節目になった事件だった筈だから、倭人の長い歴史の中でも、重要な転換点を示す事績でもあった。
古事記の著者の優れた感性が、その要点を手短に抽出したから、マーカーは極めて短い文章だが歴史の要点を的確に示している。ヤマトタケルの東征説話の様な、改定時に挿入された説話にはその様なものはなく、文学的な感性に乏しい回りくどい表現が使われているから、原古事記と改定古事記を区分する為の解析には、それらを識別する文学的な感性も必要になる。
それであっても著者の文学的な才能だけでは、創作した物語に権威がなかったが、倭国王の年代記を伝承していた者が、それを書き換えた事を示すマーカーを散りばめると、創作歴史を興味深い説話集に仕立てる事ができた。古事記を頒布して速やかに民衆に受け入れさせる為には、「倭国王家の正当な後継者が、倭国王家の年代記を書き換える」事を公言した上で、書き換えた原典的な事績が容易に分かる様にする事も、必要不可欠な条件だったと想定される。
各部族は1万年以上海洋民族であり続けて、折に触れて偉業を成し遂げると、それらが漢字の成立以前の伝承として語り継がれていた。それに続く倭国王家の年代記は2千年以上に及んだから、その文字数も膨大だった。その伝統の重みが海洋民族の活動を権威付け、民衆を統治する基盤にもなっていたから、古事記はそれを打ち破る革命的な書籍になる必要があった。
また海外交易を目指した海洋民族国家から、内需に重点を置いた農商工国家に変わる為に、発想を転換させる啓蒙書である必要もあった。古事記の説話は、革命後の武力的な鎮定が終了すると急遽創作され始めたから、文言を遂行する時間は殆どなく、著者は実務作業に明け暮れる必要があった。
原古事記を著述する資格は、皇族しか有していなかった筈だが、太安万侶が記した改訂古事記の序は、「古事記を詠唱した稗田阿礼は舎人(とねり)だった」と記し、著者は皇族ではなかった事を示し、稗田阿礼について「人は聰明、目にする度に口で誦し、耳にすれば心にきざむので、阿礼に勅語し、帝皇日繼と先代舊辭を誦習するを令した。」と記している。稗田阿礼が誦したものは漢字で記されていた事も示しているから、稗田阿礼は漢字を読めずに暗誦に専念していたとの解釈は、序を正しく読んでいない人の解釈になり、歴史解釈を混乱させる事を狙う人の誤った主張になる。
古事記の山彦説話には、古事記の説話の著者の実体験が織り込まれていると想定され、説話の著者は天津甕星=天武天皇の妃で、族外婚だった倭人の正統な皇妃だったと推測される。その根拠は人々注意を引き付ける説話を創作する為に、自分の経験を取り入れたと考えられるからだ。話が生々しければ生々しいほど、人々の興味をそそる事は敢えて説明する必要はないし、天皇と妃の経験談を背景にした話が古事記に記載されれば、人々がその説話に異様な興味を持ったであろう事は想像に難くない。
現代でも女性週刊誌が皇室記事を掲載するのは、その為である事に異存がなければ、山彦が釣り針を求めて海神の居所に出向き、そこで展開された豊玉姫とのロマンスは、自分の経験を織り込んだ可能性が高いとの指摘に違和感はないだろう。古事記を民衆に受け入れて欲しかった天武天皇としては、読者の興味をそそる為にそれも公言した疑いもあると指摘しても、違和感はないだろう。
言い換えると、古事記を民衆に受け入れて貰う為に、民衆に興味を持って貰う為の手法を駆使する必要があった事は間違いなく、それにこの様な事が含まれていたことしても違和感はなく、それとは毛色が違うが同様な発想から生まれたと考えられる以下の手法も、同じ目的を持っていたと推測される。
古事記の説話には時代を示す事件が、必ずマーカーとして含まれていると考えられるが、それが分からない説話が多々あり、改定古事記に挿入された説話であれば、検討する意味もないから、改定古事記に挿入された説話であるか否かは、現有古事記を解釈する上で重要な判断点になる。但し改定時の挿入は説話単位で行われただけではなく、国生み説話では一部の文章の差し替えも行われたから、原古事記と改定古事記の文章を見分ける作業は煩雑になる。
その代表的な事例が、天孫降臨から神武の東征の間に挟まれた説話になる。
原古事記は、「天照大御神ー天忍穗耳命―日子穗穗手見命(山彦)―神武天皇」の系譜を掲げ、それが「天氏の宮家―甕星の先代―天武―総持(暗殺された天皇)」を示していたが、天智の弟を当主とする家系譜は難波王の「別(わけ)」の資格を失っていたから、奈良朝の天皇が宮家の資格を持っている事を世間に納得させる為に、邇邇藝能命と鵜葺草葺不合命二人の神を挿入する必要があったから、天忍穗耳命―日子穗穗手見命の間に一人、日子穗穗手見命―神武天皇の間に一人追加し、それぞれの追加に応じた説話を挿入しただけではなく、その挿入に合わせて元の3人の説話も訂正した。
この訂正部分は奈良朝の天皇の婚姻関係と一致するから、その為に追加した事が分かると同時に、原古事記では天忍穗耳命―日子穗穗手見命―神武天皇の系譜が、甕星の先代―天武―総持の系譜と同一視され、それは原古事記の読者にとって常識化していた事を示している。
改定古事記のこの訂正により、正史の天皇系譜も「推古―天智―天武―総持」に二人追加する筈だったが、日本紀では更に追加し、「推古―舒明―皇極―孝徳―斉明―天智ー天武―総持」へと更に長くなった。二人の追加だけでは正しくない事が判明し、この様な事態になったと考えられる。つまり天智の一族は王族の「別=わけ」から数代経ていたから、奈良朝の初代天皇になった天武天皇の系譜を遡り、「別」に到達する為にはこの系図が必要だった事を示している。
天武は天智を天皇であると認定したから、古事記を改訂した天明天皇は、天智の一族は天皇系譜であると認識されたと考えて楽観視していたが、天智には男子がいなかったから、文武を正当な系譜であると世間に認知させる為には、即ち当時の常識だった貴種の男系男子を皇統とする為には、「別」の系譜である事を明確にする必要があるとの認識が、日本紀の編纂時に確定したと考えられる。
長くなり過ぎた辻褄を合わせる為に推古の時代を繰り上げ、現在に至っている。これらの訂正に関する考察は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景を参照。つまり奈良朝の初代文武天皇は天智の系譜ではなく、天智の弟の系譜だったから、系譜主義の古事記思想に従って文武の祖先の「別」を探すと、2代以上追加しないと辿り着かなかった事を示唆している。
原古事記の著者は世間の道徳観に応える為に、この説話の中で、夫(天津甕星)の母を擬した女性に「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」の名を付与し、その名称だけで類い稀な美人だった事を連想させた上に、「麗しき美人」と3重のコメントを付加した事も、彼女の説話創作上の工夫の一つだった。「木花之佐久夜毘売」は富士山を御神体とする浅間大社(静岡県富士宮市)と、約1300社の浅間神社に主神として祀られているから、このモデルになった女性は、南方派の領袖だった富士宮国王の娘だったと推測され、北方派の領袖だった日立国の王に嫁いだ事を示し、これも甕星の妻になった原古事記の著者と道鏡に、政略結婚だった事を示唆している。
つまり「木花之佐久夜毘売」は日立王だった甕星の母を暗喩している事を、当時の人々はそれを承知していたから、息子の嫁が義母を讃える事を美徳としていた世間に、女性達のすがすがしい関係をアピールし、甕星一族の高貴性を示す説話でもあった。その観点で一連の説話を見ると、天忍穗耳命が木花之佐久夜毘売と契ると、直ぐに妊娠したとの説話も、富士ノ宮王の娘は美人で有名だったので、甕星の父に嫁ぐと直ぐに子供ができたのは、甕星の父が溺愛したからだと言う噂が既にあったから、それも下敷きにして、義母の美しさを世間にアピールした説話であると推測される。
この推測は文学的な感性を根拠にしているが、改定古事記がこの系譜に二人を挿入し、日本紀の天皇系譜も辻褄合わせの為に改定し、日本書記に至るまで、持統も正規の天皇にした事も含めて更に何度も改定した事は、これらが甕星の系譜を暗喩しているとの想定を裏付ける、確かな証拠になる。
古事記のこの様な表現が、著者の道徳観と共に優れたユーモア感覚を示し、神話時代の説話の多くが、著者の周囲で起こった出来事を下地にして、躍動感溢れる説話を創作した事を示している。これは人々の興味をそそる説話を創作する際には、基本的な手法であるし、皇室の実話に興味を示す現代人にも理解できる手法になる。
以上の話しを全て包含すると、原古事記の説話の著者は甕星の妻であり、伊予部族の王の娘だったが、諸氏族の系譜を編纂して系統樹を作り上げたのは、伊予部族の王の娘の侍女だったから、それを太安万侶が「稗田阿礼は舎人(とねり)だった」と記し、系譜の作成者は皇族ではなかった事を示したと考えられる。人々にとっては古事記が示す系譜こそが、古事記の最も重要な価値だったから、この認識に大きな誤りはない。
稗田阿礼については、「人は聰明、目にする度に口で誦し、耳にすれば心にきざむので、阿礼に勅語し」、原古事記を「誦習する」様に命じたと考えられる。つまり説話を著作する事と、多数の氏族の系統樹を形成する事は、一人の女性が短期間にできる事ではなかったから、古事記の肝である諸系譜を作成する為に各地を何度も回り、皆の意見を集約した聡明な女性が稗田阿礼だったが、説話と共それを纏め上げたのは伊予部族の王女だった。しかし古事記の長い文章を暗記し、各地を回ってそれを「誦し」、古事記の思想を世間に広めたのは稗田阿礼だったと考える事に妥当性がある。
それを示唆する説話が古事記にあり、山彦が豊玉ヒメの父の宮の門の傍らの香木に登ると、「海神の女(娘)の豐玉ヒメの従婢が、玉器を持って將に水を酌む時、井に光有り。仰ぎ見ると麗しい壯夫(おとこ)有り。其の婢を見て水を乞うたので、婢は水を酌んで玉器を入れて貢ぎ、・・・・(現代人には意味不明な長い経緯)・・・婢から事情を聴いた豊玉ヒメが山彦の存在を認め」豊玉ヒメの父の海神が、山彦を歓迎して宮殿に導く。この従婢が稗田阿礼だったとすると、古事記の著者が説話に稗田阿礼を登場させ、従婢が玉器を持って水を酌む場面から(現代人には意味不明な長い経緯)で箔を付けた事になり、全ての疑問が氷解する。
この侍女の登場は、古事記の説話の進行上必要がないものだが、敢えて長い文章を使ったのは、稗田阿礼が暗唱した古事記を各地で誦し、人々に周知徹底させる為に必要だったからだ。古事記に登場するあの女性という事であれば、多数の徴収が集まる事は間違いないから、その効果を狙った演出として従婢として描かれたとすると、古事記の思想を周知したかった天武天皇と、その妻だった著者の意図が明らかになるからだ。
この様な古事記の意図が明らかになると、イザナギ・イザナミの国生み説話で、「其の妹(妻)のイザナミ命に問いて曰く、汝の身は如何に成らんと。(イザナミは)吾身には成リ成りて成リ合ざる処一処在り。するとイザナギ命が詔り、我身には成リ成リて成り余る処一処在り。故に此の吾身の成り余る処を汝身の成リ合ざる処に刺し塞ぎ、以って国土を生み成さん、奈何に。」との露骨な性表現も、古代人もこの時代の人も性に関しておおらかだったのではなく、現代人以上に貞淑だったかもしれない男女に対し、極度に煽情的な表現により、古事記説話への興味をそそる為だった事になる。
神話に登場する神々の名前は、古事記の著者が付与したものだが、その名前が暗喩している人物の職位や人格を、的確且つユーモラスに表現している。国譲り説話に記されたその様な名前は既に示したが、他にも色々あるから、以下の説明の中でも折に触れて紹介する。それらのユーモラスな名称は、古事記の著者が生み出した独特の書風ではなく、当時の人々はユーモアに富んだ感性を持っていたから、特に優れた感性の持ち主だった古事記の著者に期待する状況もあり、熟慮の末に考案した名称だったと推測される。
当時の人々がその様な習俗を持っていた例として、隋に遣使した倭王の字名が「たりしひこ」だった事が挙げられる。それを現代語表記すると「足りし彦」だったと推測され、彼の正式名称は大君だったから、天氏を名乗る事によって「王(ひこ=日子/関東部族の名称)に相応しい男」を意味する、ユーモアを含んだ名称だったからだ。
この様な名前の議長が王達の会議を主催し、各国の王もその様なユーモラスな名前を名乗っていたとすると、座が和んだ事は間違いないだろう。飛鳥時代は倭人時代の終焉期だったから、矛盾が多発して緊張が高まっていた筈だが、その様な世相の中でも、当時の人々がこの様なユーモア感覚を持ち合わせていたとすれば、古事記の著者は益々文学的なセンスを磨き上げ、世間受けする名称を考案しなければならなかった。古事記が執筆されている事を知っていた庶民も、それに期待していた可能性が高い。
古事記が多用した「書き換えた事が分かる」最も簡便な手法は、倭国王家の年代記の事績である事を示すマーカーを、書き換えた事が類推できる様に細工した上で、その事績の時期も明示し、それらを民衆に確認させる事だった。従ってマークされた事績を中華の史書から類推できる場合は、それによって倭人社会に起こった出来事と、その時期を割り出す事ができる。
以上を纏めると、原古事記はある日突然頒布されたのではなく、天武天皇に即位した天津甕星が新しい秩序を構成する原案を公表し、それを具体化する手段として稗田阿礼が系譜を作成し、それを潤色する為に原古事記の説話が執筆されたと想定される。つまり原古事記の系譜記事や説話は、最終案として纏めて公表されたのではなく、簡単な原案が公表された段階で人々は疑心暗鬼の状態にあり、新体制の矛盾が噴出する度に猜疑心も高まったが、原古事記の説話が公表されると人々の興味がそちらに移行し、稗田阿礼が各地でそれを詠唱し、説話に関する人々の疑問に答えると、人々は古事記を受け入れる気になったと推測される。
古事記の著者は人々の関心を留める為に、色々な策を実施したが、その効果の有無が判然としない時期に、薄氷を踏むその様な思いで色々な技巧を駆使し、説話を創作したと考えられ、上記はその一例に過ぎない。
その結果として、古事記は信じられない程の偉業を成し遂げたから、その革新的な施策の過程には、それに関与した人々の涙ぐましい努力と忍耐があった事は間違いない。
但し原古事記は既に失われ、奈良朝が書き換えた改訂古事記だけが現存しているので、改訂古事記から原古事記の断片を抽出する必要がある。太安万侶が改訂古事記を712年に上程したから、原古事記が流布していた時期は40年に満たなかった。しかし各地の神社は原古事記に従って主神の由緒を決めたから、それが改訂古事記と矛盾している例があり、当時の民衆は原古事記は受け入れたが、改訂古事記は受け入れなかった事を示している。改訂古事記の最大のヒーローであるヤマトタケルを、主神として祭る神社は皆無に等しい事が、それを端的に示している。
7-1-8 古事記が「天皇」制を復活させた理由
倭人時代を否定した古事記が当然の様に天皇名を乱発している事は、天皇名称は古代からあった事を示唆しているが、古墳時代の動乱に嫌気がさしていた民衆にとって、拒否感がない呼称でなければ、古事記が採用する事はできなかった。従って長らく使われていなかった呼称を、天武が復古的に採用したのでなければ辻褄が合わない。
飛鳥時代の民衆が憎んだ時代は古墳時代と飛鳥時代で、弥生時代の倭人や海洋民族は、鉄器文化を日本に導入する事を一つの使命としていたから、稲作者にとっても有難い存在だった。それによってイネの生産性が高まったし、特に関東の倭人は、日本列島を稲作列島にするという、縄文時代的な海洋民族の責務を果たしてもいた。
農耕民族化した西日本の稲作民は、弥生時代になると稲作が可能な沖積地を囲い込み、その田に引く水の水利権を争いながら、農耕民族的な暴力社会を形成し始めたが、mt-B4に先導された関東の海洋民族は、日本全国津々浦々に日本式の稲作技術を普及させ、それに必要な種籾を配給してもいた。稲作民になった縄文人が豊かになれば、その恩恵を皆が受けると考える事が、縄文時代の海洋民族の発想だったから、関東の海洋民族は稲作の日本列島への普及を、古典的な海洋民族の最後の活動の場にしていたと推測される。
また弥生温暖期が終了したBC250年には、北九州のmt-D4の稲作を採用していた西日本の人々が、mt-B4が開発した日本式の稲作に切り替えなければならない時期だったから、関東部族の活動の恩恵に浴した時期だった。
その頃に日本列島が本格的な鉄器時代になった事を、奈良盆地の古墳群が多数形成され始めた事や、余り始めた青銅を祭器に転用し始めた事が示しているから、古き良き時代はBC200年頃までだったと推測される。
古事記はその事情に関し、以下の様に示している。
埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣に、被葬者の遠祖はおほひこで、その子がすくねであると象嵌されていたから、天皇は関東ではおほひこと呼ばれていたと想定したが、それを古事記に当て嵌めると色々な事が分かる。
古事記に登場する大毘古命は8代孝元天皇の長子で、その二人の子は「別」だが、三人目の子は「別」ではないから、これが関東部族の人数制限だった可能性もある。孝元天皇の三男が9代開花天皇で、その息子が10代崇神天皇になり、崇神天皇が大毘古命の娘を娶って産んだ長子が、11代垂仁天皇になるが、末子の名が倭日子命である事が興味深い。つまり開花天皇か崇神天皇が、南方派の宮家の出自だったから、北方派の大王が倭日子命になった事を示唆している。南方派が荊から呼ばれていた呼称は、俀だったからだ。
崇神紀の後半に大毘古命の北陸征伐と、その子の東の方十二道(関東)の征討説話があるが、これは明らかに改定時の挿入だから、却って大毘古命が関東を統治する大王だった事を示し、大毘古命が天皇家から分岐したのは、開花天皇の時代だった事を示唆している。
崇神紀の最後に「其の御世を、謂所、初國知らす御眞木天皇と称す。」と記されているのは、夏王朝が失われて中華と交易を行っていた各部族の帰属先がなくなり、日本を代表する代わりの政権を、夏王朝の創建者だった南方派が担った事を示唆している。その時期はBC450年頃だったと推測され、その詳細については節を改めて検証するが、開花天皇から南方派に変ったとすると、その天皇の即位は弥生温暖期になって間もない頃だった事になり、時代背景も一致する。また孝元天皇とその前代の孝霊天皇は大倭根子日子で、その前代の孝安天皇は大倭帯日子だったが、開花天皇が若倭根子日子である事も、皇統を南方派に変えた事を示唆している。
つまり古事記は事実の如何に関わらず、開花天皇以降は本来の天皇である北方派の大王ではなく、他集団の棟梁を天皇とし始めた事を示し、天皇は古き良き時代である弥生温暖期の初頭まで継続したが、それ以降は存在しなかったと主張している。後漢書に記された倭国王は、天皇を名乗る条件を満たしていた様に見えるが、古事記の主張に従えば南方派の棟梁だったから天皇ではなかった事になる。
従って古事記が主張する平和な時代への復古とは、弥生温暖期以前の海洋民族の時代への回帰で、その時期までは関東の北方派の天氏が天皇を名乗っていたから、天津甕星や古事記の著者にとって天皇名称は、体制改革の前面に押し出す価値がある名称だった。甕星は日本全土を制圧したから、天皇名称を復活させる資格を持った天氏の王でもあった。
古事記は史書ではなく思想書であるが、それ以前に文学的な著作物だから、古事記の読解にはこの様な文学的な感性も必要になる。
7-1-9 天皇呼称
「皇」の漢字が生まれた時期を経済的な事情から推測すると、それが天皇名称の発生時期だった可能性に至る。
天皇の「皇」漢字は太陽を戴く王を意味し、諸王が集まる会議の議長を示したとすると、王を戴く国が多数存在していた時代に生まれた漢字だった。関東に多数の国が生まれたのは、多彩な商品が生まれて交易関係が複雑になり、商品を生産する集団と、それを大陸を含む各地に売る為の販社集団が、併存していた時代だったと考える必要がある。交易に関する経済事情は今も昔も変わらないから、この条件設定には妥当性がある。
弓矢交易や宝貝交易などの単体交易だけでは、その様な条件は生まれなかった。言い換えると、主要な販売先がシベリアの交易者に限定されていた時代や、塩と宝貝を持ち込んで獣骨に変えるだけの交易が、青州と湖北省に限定されていた時代や、販路の多様性を必要としていなかった時代には、交易者が小集団に分離して独立した経済活動を行う必要がなく、天皇名称は存在しなかったと考えられる。
しかし縄文後期のmt-B4の稲作の普及活動と、それに便乗した海洋漁民の漁労技術の拡散活動、それに付随してmt-Aが作成した漁具、mt-M7cが作成した魚籠や箕などを販売できる市場が日本各地に生まれると、内需を見込んだ交易活動が活性化する事に必然性があった。縄文後期以降は、それが北方派の主要な交易活動になった事は既に指摘したが、それが北方派の主要な交易実態になれば、天皇名称は縄文後期に生まれていた可能性があり、神武が倭を形成する以前に天皇名称があった可能性も生まれる。
それを検証する為に、「皇」漢字の起源を検証すると、始皇帝が皇帝を称する為には、「皇」漢字が中華世界に流布している必要があったから、春秋戦国時代には流布していた事になる。但しそれを使っていた民族を探すと、荊は地域集団を設定しなかったから、荊には地域を統括する諸王はいなかったと推測され、越系民族は漢字文化圏から離脱していた。
漢書地理志が粤と記す地域に、越系稲作民の諸国王が誕生していた可能性は高く、それを統括した大王の称号に「皇」漢字を使用したかもしれないが、彼らは夏王朝に参加する漢字文化圏の人々ではなかったから、彼らの制度の為に「皇」漢字が作られたとは考え難く、該当する民族は見当たらない。
その他の夏王朝に参加していた諸民族に王はいたが、彼らは夏王朝に参加する諸民族だったから、夏王朝に並置される皇が存在する事は論理矛盾になり、夏王朝に参加していた諸民族の為に「皇」漢字が生れる要素はなかった。
「皇」漢字の竹書紀年の初出は、「成王元年丁酉春正月 王即位。周文公と総の百官に、冢(武王の墓)の宰を命じた。庚午(丁酉の3日後)に、周公は皇門で諸侯に誥(申し渡)した。」になる。武王が危篤である事を聞いた諸侯が、急遽周の都に集まったから、周公は成王に冢の宰を命じられ、その3日後に方針を決めて諸侯を集め、それを申し渡した記事になる。諸侯しかいなかった周に皇門があった事には、極めて大きな違和感があり、何処かから借用した名称である事を示している。但し成王の時代に皇漢字が生まれていた事を示し、竹書紀年のその後の周代の記述にも、高位の身分らしい皇父が何度も登場するから、その確度は高い。しかし皇父は周王より下位の者を指し、王の中の王が周王より身分が低いという、極めて不可解な漢字の使い方が、何処かから借用した身分である事を示している。
古事記は神武即位時に天皇名称が存在し、「皇」漢字が存在していた事を示している。竹書紀の用例は、BC1200年頃即位した神武が天皇を名乗った事と整合するが、100年未満の違いでしかないから、神武の即位によって天皇名称が生まれたのではなく、それより古い時代に存在した故に、周の都に皇門が存在したと考える必要がある。つまり海彦山彦説話の時代から神武の即位までの間に、多数の交易集団が生まれてそれぞれに王が誕生し、その統括者として天皇を名乗る者が生まれたとすると、竹書紀年に皇門が登場する時期と整合する。
周王朝は倭の大夫制を導入したから、それを学ぶ際に皇の概念も知り、周の諸侯と倭の諸王は大夫制を採用する点で、類似した存在であると勝手に解釈し、皇門を作ったのではなかろうか。つまり関東の何処かに皇門と呼ばれる立派な門があった事になるが、海洋民族である関東部族は太い木材から船底材を削り出していたから、木工技術に優れていた筈であり、それを応用した巨大建造物があったとしても不思議ではない。縄文早期の八ヶ岳山麓の阿久尻遺跡に、立派な掘立柱建造物を建設していた事もその証拠になる。この頃の俀人は大陸の民族に恐怖感を抱いていなかったから、稲作民や周の使者が関東を訪れる事を、拒否していなかったのではなかろうか。
古事記の著者が天皇名称の発生と倭同盟の始まりを識別し、倭同盟の誕生が倭人の歴史の画期であると判断したとすれば、古事記の歴史観に論理性があった事になり、天皇制は倭同盟の発生と共に生まれたが、天皇名称は既にあった事を示唆している。つまりそれを知っていた古事記の著者は、天皇呼称は倭の付属物ではない事を前提として、神武天皇を「神倭イハレヒコノ命」と命名し、倭同盟の成立と共に日本を統治する天皇が生まれたと宣言したからだ。
これを分かり易く言えば、古事記は倭の消滅と日本の誕生を示す書籍だから、天皇名称は倭の付属物ではないとの確信がなければ、天皇制を採用する事はできなかった。つまり縄文後期の漢字生成期に「皇」漢字が生れ、漢字生成期が終了して熟語を造語する時代に「天皇」名称が生れ、それ等の時期は関東部族の北方派が内需の為に、多数の生産者を生み出していた時期だったと考えられる。
それをもう少し細分化すると、関東に生まれた中小業者は生産を円滑化する為に、現代的に言えば社規の様な独自ルールを形成したが、関東独自の動向だったから、その統括者を示す漢字が生れる機運は夏王朝の帝にはなく、関東の人々が既存の漢字を選定した結果、「王」漢字を採用して独自ルールの運用者の名称にしたと想定される。それから派生した皇漢字は関東のローカル文字だったが、大夫の制度などと共に大陸に伝搬し、周代には使われていたと考えられる。
天皇が関東部族の北方派の大王の呼称だったとすると、北方派の天氏だった天津甕星が壬申の革命を起こし、内需を中心とする経済活動を主張する事に必然性があっただけではなく、出雲王が主導する毛皮交易などの、外需依存の資本主義政策を維持する為に、部族主義に立脚していた結果として、地域の内需交易者に閉鎖的な特権を与えて保護する政策が採用され、それが内需交易をどの様に阻害していたのか、全国的な内需交易者を統括していた甕星は、実感を持って知っていた事になり、民衆に説得力が高い提案を示す事ができたから、革命への賛否を問う庚午年籍を作成できた事に繋がる。
この様な出雲の政策は現代社会にも起こるもので、禁輸政策によって保護された内需の生産者が、生産過剰になった場合にダンピング輸出を行うと、広域的な経済発展を阻害するだけではなく、日常的な経済活動にも大きな被害を与える。出雲部族は産業立国的な部族だったから、彼らがその様な政策を行えば、他部族の内需商工業者が大きな被害を受ける事は、時代を問わない経済原則だった。後述するがそれが製鉄産業に及べば、他地域の製鉄産業の被害は甚大だった。
壬申の革命が起こった飛鳥時代に、北方派は相変わらず粛慎と毛皮の交易を行い、南方派は荊と交易を行ったり邪馬台国や伊予部族が生産した絹布をインド洋に持ち込んだりしていたから、海外交易も盛んに行っていた筈ではあるが、内需の為に生まれた中小の生産者が、古墳時代の移民事業が活性化していた時期に、事業規模を拡大してしまっていたから、移民事業が終焉して内需が減退すると交易を拡大する為に、海外の商流にも商品を持ち込む様になっていた事情もあり、多数の企業群が多元的な交易活動を行っていたと考えられ、物部と呼ばれた交易者の立場も一様ではなかったと考えられる。
その様な状態になった倭を漢書地理志が百余国と記し、魏志倭人伝が華北と交易する国が30国あると記した。つまり残りの70余国が駿河を含む関東にあったとすると、縄文後期~弥生時代に至る諸事情と合致する。但しこの70国が何を生産していたのかについては、漁具、麻布、倭文、高級毛皮、海獣の毛皮加工、鉄製品以外は明らかではない。
天皇と皇帝の違いに着目すると、夏王朝に参加していた交易者が帝の代わりに「天」を使う事は、漢字の派生としてはあり得ないから、「天」は他の意味を表現する漢字だったと考える必要があり、「天」が天体観測者の象形で、天氏の為に作られた漢字だったのであれば、天皇は天氏の大王だったと考える事に必然性がある。天皇が議長を務める会議の参加者は、天氏ではない商品の生産者を多数含んでいた事も、必然的な結果になる。内需交易者は沿岸を航行するだけだから、高度な天文知識は必要なく、mt-B4と共に日本全国を移動していた漁民の過半も、天氏ではなかっただろう。古事記の神代の記述に多数の天氏が登場するが、天氏ではない神も登場するから、この事情は古事記と整合する。
隋に朝貢した越系文化圏の飛鳥王が、自分の姓は「阿毎(あめ)氏」、字は「多利思比孤(たりしひこ)」であると申告したが、奈良朝が唐に提出した日本紀に、用明天皇は「目多利思比孤(めたりしこ)」であると記されていたのは、奈良朝が飛鳥王は天氏ではないと主張した事になり、正規の天氏ではなかった奈良朝が、天皇への就任資格を巡って醜い争いを演じた事になるが、天皇になる為には天氏である事が重要な資格要素だった事を示し、天皇の「天」は天氏を指した証拠を示している。
7-2 改訂古事記が生まれた後の出来事
7-2-1 日本紀の編纂
奈良朝の朝議録を編纂した続日本紀に古事記を発布した記事がないのは、原古事記を改訂した奈良朝の建前が、「原古事記に僅かな手を加えただけだ」との認識だったからだと考えられる。その様な改訂古事記を712年に発布したのは、その頃に編纂を命じた風土記の、原本として必要だったからだと想定されるが、それも含めた王朝の重要な事業ではあったから、古事記の思想に従って奈良朝も天皇系譜に加えた続日本紀の編纂者が、暗黒史として意図的に脱落させた可能性も高い。
奈良朝は720年に日本紀を編纂し、日本国の歴史として唐に提出した事は、続日本紀に記載されている。これは唐に提出する為の書籍であって、これを国史とする意図があったのか明らかではないが、改定古事記がその種本だった事は、古事記の思想は堅持していた事を示している。
日本紀は古事記が万世一系とする天皇名を踏襲したが、神代の突拍子もない神話を中国に公開するわけにはいかなかったから、天御中主以降の32世を創作して中華風の人物史に変えた。日本紀を転記した新唐書はこの32世が尊(みこと)と称し、神武天皇から天皇制が始まったと記している。
日本紀が天皇名称を「命」から「尊」に変えた事は、藤原氏が古事記の天命思想を否定した様に見えるが、奈良朝の成立事情から考えると、天命思想は奈良朝を崩壊させる恐れがあるとして、表の世界から抹消する為だったと推測される。藤原氏がそれ以降の数百年間に行った事は、天命思想に裏打ちされていた疑いが濃く、藤原氏自身は古事記の思想に傾倒していたが、世間はそれでは動かない時代になっていた事を、認識していたのではなかろうか。天命思想は海洋民族の思想であって、農耕民族的な官僚主義の王朝には相応しくない思想だから。
古事記の天皇紀は初の女性天皇である推古天皇で終わっているが、日本紀はその後の天皇を舒明、皇極、孝徳、天豊財、天智、天武、総持とした。それを転記した新唐書は、「文武がその後に立ち、遣唐使として粟田真人を遣わした」と記しているが、総持と文武の関係は記していない。奈良朝の正式な天皇系譜では、総持が殺されると持統が立ち、それを文武に継承したが、その系譜を明確に示す事ができなかった事を示している。それでありながら奈良朝が編纂した日本紀が、古事記の皇統を完全に踏襲していた事は、古事記の思想だけを継承し、皇統は継承していない事を自覚していた事になる。
天智に男子があれば古事記の思想に準拠し、天智の3代目まで天皇に即位する事ができたが、天智には娘しかいなかったので、天智の弟を継承者とする家系譜を皇統とするしかなく、この時代の王位継承法則に従うと、王位継承権がある祖先を探す必要があった事を示している。
稲荷山古墳から出土した鉄剣に象嵌された系譜では、おほひこーたかりのすくね―てよかりわけ―たかはしわけーたさきわけーはてひーかさはよーをわけ となり、おおひこの子は宿祢(すくね/宮家)になり、その子孫の3代が「わけ=別=分家」になったが、それ以降は名前しかない身分になった事を示している。つまり現代的に言えば、わけまでが皇族として天皇位を継承する資格があり、それ以降は臣籍降下してその資格を失った事を示している。をわけは稲荷山古墳の被葬者で、大王から高官の待遇を得た故に、わけの身分に昇格した事を示している。
この継承則を奈良朝にも適用すると、初代である文武天皇が天智の子孫系譜であれば問題なかったが、天智の兄弟の系譜だったから、その系譜が天皇になる事が妥当である理由として、即ち文武天皇が大功によって「別」になる事ができる根拠として、祖先が「別」である事を証明する必要があった事を示している。この一致は偶然ではなく、天皇位は関東部族の正式な継承則に従わなければならなかった事を示し、天武天皇の即位の詔でその様な事を宣べている。
新唐書は天豊財を女性であるとは特記していないから、日本紀にもそれに関する記載はなかったと推測されるが、後世になると天豊財は斉明の諡号を持つ女性天皇で、皇極と重祚した事にして天智の前に実質3代の天皇を追加したが、これは後世の神学論争の結果であって、歴史の捏造理論が未熟だった712年の改定古事記では、2代を追加すれば良いと思っていたが、精査すると更に4代の追加が必要であるとの認識に至った事になる。
(15)古事記・日本書紀が書かれた背景の項で詳しく説明するが、原古事記は神武天皇を天照大御神の曽孫(3代目)とし、甕星の子である総持を神武に比定していた。奈良朝はそれを初代天皇である文武に置き換える為に、古事記を改訂して天照大御神の5代目を神武として文武に比定させたが、これは祖先系譜を「別」に求める為ではなく、天智の弟~文武天皇までの系譜を原古事記の系譜に合わせる行為だった。原古事記を無視して文武天皇を即位させる事ができず、文武天皇の即位を正統化する為に古事記を改訂した詳細は、(15)古事記・日本書記が書かれた背景参照。
当時の人は原古事記が示す天孫降臨から神武の即位までが何を意味し、誰を暗喩していたのか分かっていたから、越系の文化人だった元明天皇は古事記のその部分を改定し、三代を五代に変えて辻褄を合わせれば、文武天皇の正当性が担保できたと考えたが、日本紀の編纂に際して関東部族の継承則を精査すると、祖先の「別」も明らかにする必要があるとの認識が生まれたから、続日本紀では天智の前に4代を追加したと考えられる。つまり元正天皇は関東部族の制度に詳しくなかったから、見掛けの辻褄さえ合わせれば良いと考えたが、天皇制は関東の王位継承文化の産物だから、それに詳しい藤原氏が主導した日本紀の編纂では、祖先の「別」を明らかにする必要があるとの認識が再確認され、日本紀の天皇系譜が生れたと考えられる。
奈良朝は720年に日本紀を作成し、日本の歴史を唐に申告したが、その前の712年に改訂古事記を頒布して置かなければ、日本紀に記載した推古以降の天皇の歴史を創作できないと考え、元明天皇主導で古事記の改定が行われた。原古事記は天武天皇の皇妃が作成したから、その改定も天明女性天皇がする事は暗黙裡の了解だったと推測され、その過程に藤原不比等も口出しできなかった事が、この様な事態を招いた可能性が高い。
その様な状態に調子付いた天明天皇が、ヤマトタケル説話を創作して関東を貶め、溜まっていた鬱憤を晴らしたが、それが関東に洩れる事を恐れた元明天皇が、国譲り説話の主人公を建御雷神に変えてしまったとすると、藤原不比等もやりきれない思いだったと推測される。平安時代に天皇が藤原氏と対立した時期があったが、それと類似した状況が元明天皇と藤原氏の間に生まれていた事は想像に難くない。
日本紀は4代の天皇を追加し、天智、天武、総持を父子関係としたが、新唐書は総持と奈良朝初代の文武天皇との関係を記していないから、その背後に政変があった事を示唆している。宋史が転記した平安初期の年代記では総持が持総に変わり、日本書紀が総持を持統に書き換えた事も、神学論争の複雑な仮定を示している。
原古事記は初代の天皇を神武にすると共に、天孫降臨から神武の即位迄を甕星の事績に重ね、神武は甕星の子供を暗喩していたから、上記の様な課題を奈良朝に与えた。彼は関東部族の天皇になった天武と、その皇妃だった伊予部族の王の娘の子だったから、関東部族と伊予部族の統合の象徴になった事が、総持の名称に込められていた。これらの事績を検証すると、当時の天皇の名称は諡号ではなく、称号だった可能性が高い。
古事記が最後の天皇を推古にした事も、日本紀以降の天皇系譜の創作に混乱を与えた。
古事記は国譲り神話で継体朝の最後の天皇を、男性である事代主としているから、天皇系譜でも最後の天皇は崇峻にして置くべきだったが、何故か唯一の女性天皇である推古天皇にした。
継体朝の最後の4人の天皇である、敏達、用明、崇峻、推古は皆、欽明天皇の子で、推古は異母兄の敏達の妻として8人もの子供を産んでいるが、王が姉妹を妻とする事は越文化では許されていないから、この組み合わせは現実的ではなく、古事記の著者も当時の人もそれを知っていたとすれば、推古天皇は別の男性の妻だった事を暗示している。欽明天皇の娘は豐御氣炊屋比賣命だが、敏達天皇の妻になった人物は豐御食炊屋比賣命で、それが推古天皇の名前だった事も何かを暗示しているのかもしれない。
推古紀に「御陵は大野崗の上にあったが、科長の大陵に遷した」と記されている。大陵の大は大きいと解釈するのではなく、「真正」とか「本物」と解釈するべきであるから、大陵は古墳時代に建造された争いを助長する忌まわしい古墳ではなく、「天皇家だけが使う真正な陵」と解釈する必要がある。従って天智天皇陵と考えられている、日本最大の八角墳である御廟野古墳が、この大陵に該当する。「山科」の地名は律令時代には存在していたから、飛鳥時代にもあったと想定され、科長は山科を暗喩していると考えられる。
しかし御陵を科長にしたのは推古だけではなく、敏達天皇は川内科長、用明天皇は「石寸掖の上にあったが後に科長中陵に遷した」と記され、兄弟天皇の中の崇峻だけが倉椅岡の上と記されている。これについては幾つかの解釈が可能で、原古事記に記された敏達天皇と用明天皇の墓は他所にあったが、元明天皇が書き換えて推古を欽明天皇の娘に固定し、壬申の戦争で死んだ事になる崇峻の墓は他所とし、それ以外を同じ墓にした可能性がその筆頭になる。改定古事記をこの様に細工する事により、奈良朝の天皇を継体朝の系譜にすると、古事記としては上記の「別」探しは必要なくなると、元明天皇が考えた可能性があるからだ。
しかし古事記の思想を正しく認識していた藤原不比等にとっては、天皇は関東系譜の天氏である必要があり、少なくとも天氏を名乗る事が許された関東系の王でなければならず、古事記に事代主(代理の倭王)と記された継体系譜では話にならなかったから、続日本紀の天皇系譜になった事に繋がり、推理としての合理性はある。
その他にも解釈の候補はあるが議論する事に意味はないから、科長の大陵との文言が天智の母を擬した事の暗示であるとすると、天武が天智の母を天皇にした事になり、天智と並んで壬申の革命に多大な功績があった事を示唆している。その事情を推測すると、若い頃の甕星が天智の居処を訪問して天下の行く末を語り合った際に、この立派な母がいたから天才的な天智が生まれたと、甕星が確信したからではなかろうか。甕星の基本政策は天皇制の復古だったから、天智の母の適切なアドバイスが、復古主義を掲げた壬申の革命を成功に導いた事にちなみ、推古の諡号を贈呈したと考えられる。
新唐書に記された天皇名は、敏達が海達に変り、推古が雄古に変っているから、双方とも転記時の誤りであると考えられている。しかし上記を前提にすると、用明を「めたりしひこ」とした悪意が推古にも及び、推古を故意に雄古にした疑いも濃厚になる。天智の母が天皇である事は、別の母の子である天智の弟系譜である奈良朝にとって、甚だ都合が悪い事実だったからだ。
海達と誤記された敏達も、古事記の改定によってその子が天智の弟であると誤魔化す事ができたのに、藤原氏が原古事記を根拠にそれを否定したとすると、元明天皇の取り巻きにとっては、口惜しさの対象になる天皇だった。
それによって敏達の誤記の理由も説明できるから、上記は確度が高い推測になるが、政務に参画できなかった奈良朝の高官は、子供じみた人々になっていた事を示し、その嫌がらせの対象は藤原氏だった事になる。
7-2-2 先代旧辞本紀以降の、神学論争的な歴史の改竄
室町時代までの知識人は改訂古事記の方が偽書で、先代旧事本紀が正統であると考えていた。奈良朝が改訂古事記を発布すると、それに反発した尾張を中心とする物部が、自分達独自の改版を創作したものが、先代旧事本紀だったと想定される。原古事記の思想を堅持していた物部系の人達は、それをないがしろにした改訂古事記を相手にする気はなかったからだ。平安貴族も、自分達が否定した奈良朝が作成した改定古事記を相手にする気がなかったから、平安朝と提携していた物部の主張が通った事が、この様な状態を生んだと考えられる。物部には原古事記を復活させる選択肢がなかった理由は、7-4-3 神武東征を参照。
従って本居宣長以来の、改訂古事記が正統で先代旧事本紀は偽書であるとする考えは、正しいとは言えないが、改定古事記には原古事記の記述がそのまま残っている個所が沢山あり、先代旧事本紀は原古事記の文章の痕跡を留めていないので、本居宣長の選択は後世に大きな遺産を遺したとは言える。
先代旧事本紀は男性が著述したから、女性的な文学センスが欠如し、男性的な回りくどい論理性が鼻を突く文体になっている。原古事記の著者は古事記の正統性を、倭国王家の年代記を基に説話を創作した事にあると考えていたが、倭国王家の年代記の存在が忘れ去られた上に、古事記の思想に従った民衆から祖先伝承も失われていた時代に、先代旧事本紀の著者が古事記を論理的に記述し直した事は、古事記が示した歴史を神学論争に変えてしまう嚆矢になった。
奈良朝の古事記改訂に反発していたのは、尾張を中心とする物部だけではなく、全国各地でその動きがあった結果として、「ホツマツタエ」や「飛騨の口碑」などの、地域の主張に沿った原古事記の改訂版が各地で作られ、改訂されながら現在に伝わった。江戸時代初頭に完成した日本書紀が、「一書に曰く」として異説を列挙している事は、江戸時代までそれらの地域版が伝承されていた事を示している。しかし現在はそれらが失われている事は、明治政府に先導された廃仏毀釈の陰で、それらの伝承本が焼却された疑いを深める。焼却された書籍の中に、原古事記も含まれていたかもしれない。
旧唐書が成立すると、平安朝は日本紀との矛盾を解消する為に、年代記を作成して宋に提出した。宋史にその転記が記されている。
新唐書が成立すると年代記との矛盾が明らかになり、平安朝は二中歴を作成したが、それを元や明に提出したのか明らかではない。武士が台頭して朝廷の権威が失われ、中華に対する説明より、国内に対する説明の方が重要になる状況が生れていたから、それを意識した内容になっていた。
戦国時代末期~安土桃山時代に日本に渡来したキリスト教の宣教師が、日本の歴史を調べて本国に送ったものが翻訳され、日本大文典と呼ばれている。
日本書記は日本大文典より捏造の芸が細かいから、日本書記はそれ以降に成立したと考えられ、江戸時代になって完全に権威を失ったが、生活は安定して時間を持て余した宮廷貴族が、日本書記を編纂した可能性が高い。
明治政府は日本書紀を唯一の聖典とする為に、表の名目として廃仏毀釈を行ったが、裏に秘めた真の目的は、日本書紀に関わる異説を封じる為に寺院を焼き払う事だったと推測される。現存する古事記は、真福寺の僧によって筆写された真福寺本である事が示す様に、その類の書籍が秘蔵された場所の多くは寺院だったからだ。
神社は地域の人々が結集し、相互福利を追求しながら朝廷の権威に対抗する「場」だったから、神社には核になる神さえあれば良く、それが古来の風習を堅持する根拠になれば良いだけで、創作された歴史の真偽の詮索には興味がなかった。
仏僧がその様な民衆の支持を得る為には、学術性や論理性を武器に人々を説得する必要があり、中世社会では寺院が学術的な知識や学問の集積地になった。江戸時代の学習塾を寺子屋と呼ぶのも、その事情を示している。従って寺院の書庫を悉く焼いてしまえば、日本書紀が正統な史書であると主張する際の、邪魔な書籍は殆どなくなった。日本書記の編纂の際に参照した書籍が失われている事は、廃仏毀釈の効果であると考えられるから、その様な書籍は民家の天井裏から発見されるかもしれない。
原古事記は人々の意識改革を促す著作で、歴史を明らかにする書籍ではなかったから、それらの亜流の書籍も古事記の思想を継承する思想書になり、歴史を明らかにするものではない。日本書紀はそれらの書籍群と、奈良朝が中華に提出するために作成した日本紀や、先代旧辞本紀の歴史観を大幅に取り入れた年代記(平安朝)、二中歴(鎌倉時代)などを統合し、百科全書的に編纂したものだから、諸説が併記されている古事記思想の解説書ではあるが、本当の歴史を知らない人々が編纂したものだから、日本史を復元する参考にはならない。
古事記の思想は日本を争いがない国にする事であり、その為の有効な手段は、飛鳥時代には部族社会を否定する事だったから、倭国王家の天皇と他部族の大王を同祖とし、天皇家は万世一系だったと歴史を書き換える事が、最も有効な手段だった。その効果は絶大だったから、古事記の思想の効果を認めた者にとって、「万世一系」は何を措いても譲れない核心思想になった。
やがてこの核心思想さえ堅持すれば、傍系の歴史を改竄する事に大きな問題はない事が判明し、多数の亜流史書が生まれたと考える事もできる。
改訂古事記がヤマトタケルに関東を征伐させた事は、諸部族の融和を否定する説話だから、古事記の根本思想をぶち壊した事になる。それが古事記の思想を堅持したかった世間の反感を誘発した事は間違いなく、ヤマトタケルを祭る大社が存在しない事がその事情を示している。
奈良朝は天皇制の維持に躍起になっていたから、その手段として宇佐神宮を建立し、宇佐神宮の神官に天氏である事を認証させたが、その奈良朝の女性天皇がこの様な認識を示した事は、古事記の思想を理解していなかったか、憎しみがそれ以上に強かったかのいずれかになる。ヤマトタケル説話には、東征の前に熊襲の征討があり、その粗筋はヤマトタケルが童女の身形で館に入り込み、宴会の最中に熊襲建(くまそたける)兄弟を刺し殺したのだが、その説話に「兄は衣を捉えて剣を胸から刺し通し、弟は背中の皮を掴んで剣を尻の穴から刺し通し、熟れた瓜を裂く様に切り裂いて殺した。」と記されている。
この女性天皇の時代に熊襲が反乱を繰り返したから、熊襲に対する憎しみを露わにした表現になるが、原古事記の思想を全く理解していなかった事を示している。この様な改訂古事記の記事は、古事記の思想に従って憎しみを忘れようとしていた人々を、あざ笑うものだから、原古事記を受け入れた人々の怒りを誘発した事も間違いない。逆に言えば天皇より民衆の方が冷静で、古事記の思想の恩恵を強く感じていた事を示している。
天皇ともあろう人が、この様な下品で粗暴な表現を選んだ事に驚くが、改定部分にはこの様に下品な表現が他にもあり、原古事記由来であると考えられる文章と、際立った対比を示している。稲作女性は稲作の主体者であり、稲作地の獲得競争に執着していたから、この時代の稲作女性達の中に、この様な性格の女性達が多数いた事を示している。実際の稲作地の争奪戦での闘争は、男性達が行ったとしても、背後でそれを煽っていた女性達が、どの様な人々だったのかを彷彿とさせ、ヒエを栽培していた女性達と文化的に大きな違いがあった事を示している。
この様な男女が多数派だったとすれば、それに嫌気がさし、古事記の思想に共鳴した人々が多数いた事や、藤原不比等が古事記の思想を懸命に守った事情も、実感を持って想像する事ができるだろう。また稲作女性達の中にも、和気広虫の様に古事記思想を復活させようとした女性もいた事になり、この時代の動乱の背景事情も窺う事ができる。
7-2-3 改定古事記が示す壬申の動乱
奈良朝の起源は、大津の飛び地を管理していた邪馬台国の宮家の子孫で、この一族の天智とその母が壬申の革命の大義を形成したので、壬申の革命によって飛鳥王家が滅亡すると、甕星が派遣した代官がこの一族を大津から飛鳥に招いたと推測される。
政変によって天武の子が殺されると、藤原不比等がこの一族を天皇家にしたと想定され、先ず天智の娘を天皇にした(持統天皇)のは、この一族の中では彼女しか、この激変の時代を見極める事ができなかったからだと推測される。
農耕民族化して女性優位社会を形成していた一族だから、この様な事態になったと考えられるが、持統天皇は政変が起きた695年には高齢だったから、天武と同世代の女性だったと推測され、祖母である天智の母の言動を見知っていた可能性もあるし、天智を訪問した天武と面識があった可能性もある。古事記を改訂した元明天皇も天智の娘だが、持統天皇の息子の嫁だったから天智の晩年の子だったと推測され、上記の経験はなかった上に持統の異母妹だった可能性が高い。
関東部族は漁民優位の社会を形成していたから、藤原氏を含めた男性達も政治的な活動に積極的だったが、この一族は農耕優位な内陸を拠点としていたから、極めて女性優位的な習俗を堅持していた事は、藤原氏の誤算になった。
天智の墓として御廟野古墳が京都盆地の山科に作られ、賀茂別雷神社(上賀茂神社)が平安時代に勲一等を得た事は、この一族は賀茂別雷神社の支援によって壬申の革命に参加した事を示している。上賀茂神社が山代国の一宮だった事は、壬申の革命の際の、畿内の局地戦に勝利した功績の多くは、上賀茂神社の貢献によるものだったとの認識が世間にあった事を示しているが、奈良朝の成立寄与した事が最大の勲功であって、実践上は大した勢力ではなかった可能性がある。
加茂神社は御所市の大鴨神社を元社とする対馬部族の神社だったから、部族としては反革命勢力になる筈だったが、京都盆地の稲作民は天智の思想に共鳴し、甕星陣営に参加した事になり、壬申の革命は部族間の争いではなく、部族内の争いでもあった事を示している。大津の宮家は壬申の革命の際に、上賀茂神社の勢力を得て参戦したとすると、宮家としては大した戦力を提供しなかった事になる。改定古事記には、上賀茂神社の働きを示す記述さえもないからだ。
革命が成功して飛鳥王の旧領地の一部がこの一族の所領になると、天武が造営した藤原京を根拠地にしたから、元明天皇が持統は藤原京を拠点にしたと述べたと想定されるが、改訂古事記は崇神記に、山代国の波邇安(はにやす)王の反乱を鎮圧する説話を追加し、その戦で賊軍が敗戦する模様を、「先ず賊軍の王が一矢で射殺され、逃げる賊軍は追い詰められると、恐怖で醜く脱糞した。逃げる賊を遮って切りまくると、死体が河に鵜の様に浮いた」と、汚い言葉で罵る様に記している。奈良朝の天皇が何かの理由で京都盆地の稲作民と不仲になり、その報復としてこの様な説話を挿入した事になる。
この説話は古事記の思想に反している上に一連の記述に文学性がないから、改定時の追加である事は明らかだが、関東で天武の子が殺された際に、奈良盆地の代官として赴任していた関東の人々に対し、京都盆地の人々が不穏な動きを示した事を示唆している。関東では天武の子が殺されると同時に、アワ栽培者の地域になりかかっていた北関東に関東部族の軍が進行し、革命の成果を台無しにする挙にでたから、京都盆地の人々も奈良朝に対して猜疑心を抱き、奈良朝が彼らを説得する必要があった事と、それが容易に進行しなかった事を示唆している。京都盆地の人々にとっては、同じ部族の飛鳥王を裏切って革命に参加したのに、それを関東の関東部族が裏切ったのだから、当然の成り行きだったとも言える。藤原不比等はその様な地域の人々を説得する為に、周辺地域を駆け回った筈だが、その事績は続日本紀には採録されていない。奈良朝を万世一系に嵌め込む為には、当然の編纂方針だったからだ。
奈良朝の天皇になった女性達は、上記の様な稲作女性を集めて卑弥呼の様に取り巻きとし、男性達を排除して専横的な政治を行ったから、これらの粗暴な言葉を連発する女性天皇が生れ、物部を排斥する奈良朝の政策を生み出したと推測される。「類は友を呼ぶ」の例えに倣うと、奈良朝の女性天皇は取り巻きに影響されたのではなく、元々その様な傾向が強かったからその様な女性達を集めたと考えるべきだろう。特に元明天皇は殺伐とした飛鳥時代の内陸の農村で、多感な少女時代を過ごしたから、現代的に言えばかなり「天然の稲作女性」だったと推測される。
不況の飛鳥時代には、周囲の男性達は仕事を失って無為徒食に人になり、稲作を行っていた女性達に頭が上がらなかったが、甕星の経済改革によって公共事業が始まり、藤原京の建設や公道の建設に駆り出されて職を得る事により、男性達も社会的に復権する機運が生れたと推測される。彼らを直接雇ったのは、入札業者になった物部だったと推測され、その様な物部に支払う原資として、稲作者から租税を徴収する必要があった事は言うまでもない。
「天然の稲作女性」達にはその仕組みが気に入らなかったから、物部を排斥する奈良朝の体質が生れたと推測され、天皇の取り巻き女性達が政治を壟断したから男性達に職権がなかった事と併せ、奈良朝の特徴を形成していた。
この様な天皇が支配する奈良朝に対し、革命の大義の為に壬申の革命に参加した京都盆地の加茂神社は甚だ不満を持ち、地理的に近い事から天皇の取り巻きに対し、手荒な言葉で非難したのではなかろうか。それを逆恨みした取り巻きに押された元明天皇が、実態がなかった建波邇安王の反乱を創作し、改定古事記に挿入したと推測される。続日本紀には生駒山中に建設した高安城(たかやすのき)に関する記述はあるが、京都盆地との境界に防御施設を建設した記録はないからだ。
原古事記は革命直前まで敵対していた飛鳥王に対しても、嘗ての恩讐は全て水に流して継体天皇~崇峻天皇までを記し、天皇家の祖先であるとしている。また敵の総帥だった大国主ですら悪人の様には描いていないから、一種の人気者になる要素が生れ、現在の大国主の評価に至っている。原古事記の著者と快適古事記の著者には、特記するほどの違いがある。
神代の説話は壬申の革命(国譲り説話)に至るまで話だから、その時期までは多数の天氏が登場するが、国譲り説話が終わると、天孫降臨した天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の系譜だけに「天」を使い、それによって天皇系譜は「天氏」である事を明らかにしたが、その後は天氏である事示す表現の使用は止め、天照大御神の子である事を示す日子(ひこ)を多用し、神武天皇は「神倭伊波礼琵古(かむやまといわれびこの)命」とした。以降の天皇にも「命」を使って天氏である事は示さず、代わりに天皇を使い、「天氏」ではなかった大率、邪馬台国系倭国王、飛鳥王を万世一系の天皇だった事にした。この様な話の切り替えにより、古い社会体制を新しい状態に自然に導く手法は、原古事記の著者の秀逸な構想力を示し、原古事記の思想を鮮明にしている。
奈良朝が行った改訂はヤマトタケルに関東や熊襲を征伐させ、下卑た表現を使ってそれらの地域を貶めた。その基底には農民にとって重要な事は、嘘を含むあらゆる手段で権力闘争に勝利し、その結果として権力を得る事であって、その権力を駆使して耕作権や領地の領有権を担保する事が、最重要課題であるとの認識があった。その手段の中には、武力をちらつかせて相手を威嚇する事も含まれていた。従って農民政権の正義は、その様な権力を安定させる為の主従関係であって、事象を正しく認識する事ではなかったから、その様な価値観が、改定によって挿入され古事記説話には溢れている。改定時に挿入されたヤマトタケルと弟橘ヒメの主従関係は、その様な文脈から読み解く必要があるだろう。
天皇の歴史をないがしろにすれば、天皇の権威に傷が付いたから、原古事記は天皇に関する時代考証を厳格に行い、倭人の歴史を知っていた飛鳥時代末期の人に、古事記の正当性を理解させたが、奈良朝の天皇は古事記がもたらす利益だけを享受し、古事記を原古事記とは似て非なる書籍に変えてしまい、古事記の思想に泥を塗る行為にも恥じる事がなかった。
古事記の思想に従って倭人の歴史を償却してしまった後世の人には、日本の歴史は分り難いものになったから、後世の神官達が行った改竄は更に酷いものだったが、それも古事記の思想が生み出した歴史の必然だった。
7-3 原古事記の文体と構成
7-3-1 原古事記の文体
改訂古事記の編纂者は太安万侶だが、改訂の原案は、元明や元正などの女性天皇が執筆したと想定される。創作的な王朝史を改竄する権限は皇族にしかなく、官僚に過ぎなかった太安万侶に、その様な事ができた筈はないからだ。原古事記には漢字が使われていた事を、太安万侶は改訂古事記の序で示している。
上古時の言や意は(純)朴で、敷文構句を(漢)字にするのは難しい。(原古事記が)訓で述べているものの詞は、(漢文では)心にとどかない。全てを音で連ねているものは、事の趣が更に長い。だから(太安万侶が記すものは)、一句の中で(漢字の)音と訓を交えて用いたり、一事の内の全てを訓で録したりした。辞理が分かりにくいものは注で明らかにした。亦、姓の日下は「くさか」、名の「帯=たらし」は此の類で、(これらの表記は)もとのままにしたがって改めない。
稗田阿礼は漢字を知らずに帝紀や旧辞を暗記していたとの指摘は、歴史学者が意図的に誤魔化している証拠にしかならない。太安万侶はそれだけではなく、漢字が訓読みされている事も指摘している。つまり漢字が長い間使われた事により、訓読みが多用される様になっていたから、漢字仮名交じり文を漢文体に直す作業は、一筋縄ではいかないと記している。簡単に言えば、表現が豊かな漢字仮名交じり文は、表現力が乏しい漢文に直す事は難しいと言っている。
古事記の著者が文学的な才能を発揮できたのは、ヒエを栽培していた女性達が、カナを使って日本語を綴っていたからだと想定される。関東部族から漢字を学んでいた伊予部族の女性達が、カナを学ぶ機会を得たのは、ヒエ栽培が北陸を席巻した古墳寒冷期だったと推測され、古墳寒冷期はBC200年に始まったから、古事記が生れたAD674年頃までの間に、800年以上の年月があったからだ。
北陸の日本越は海外交易を重視していたから、越人の共通言語だった表音文字に習熟する必要があり、西日本の越系民族より表音文字が普及していた反面、漢字を使う人は殆どいなかった可能性が高い。従って北陸のヒエ栽培者が伊予部族と文章を交換する為には、両者が共有できる文字が必要だった。
海洋交易を行っていたのは北陸の漁民と関東部族の漁民で、彼らには交易者としての立場があり、相手の言語に精通している構成員を求めたが、折衷言語を開発する意志はなかったと考えられる。ローカルな言語であればその言語を学んでも、広域的な交易には役に立たなかったからだ。
しかしヒエを栽培する女性達には全く異なった事情があり、彼女達は大陸でも使える言語の習得には高い関心はなく、ヒエ栽培者同士が意思疎通する必要があったから、便利な文体が生れれば採用する必然性があり、漢字と表音文字が混在する文体を開発する事に、積極的だったと考えられる。それは両者にとって学習が容易であり、使い易い文字言語だったからだ。その表音文字は越系のものがそのまま使われた筈だから、カタカナとアラム文字に共通性があるとの指摘に従えば、その表音文字はカタカナだったと推測される。
両部族の部族言語は異なっていた筈だが、縄文後期以降は稲作やヒエ栽培が部族の重要産業になったから、栽培者の言語が浸透したと推測され、ヒエ栽培者の言語は関東部族の言語を基底とする、現在の日本語とは異なっていた可能性があるが、伊予部族の貴族は関東部族の言語に同化していた可能性も高い。稲作が四国や九州南部に浸透した時点で、伊予部族の南方派は関東部族の言語に変った可能性があり、漢文を採用した時点で東北の伊予部族の貴族も、文章語は関東部族の言語に統一した可能性が高い。つまり東北と北陸のヒエ栽培者が古墳寒冷期に使っていた文章語は、関東部族の言語を基底としたものだった可能性が高い。
文字が進化する為にはそれを支える大きな使用人口が必要だが、彼女達にとってはカナ交じり文は漢文より使い易く、カタカナだけの文章より使い易いから、ヒエ栽培者がするのに相応しい言語だったと考える事に、それを使っている現代人は誰も反対しないだろう。またそれが急速に普及したと考える事にも、違和感はないだろう。ヒエを栽培する女性達の余暇時間は稲作者より多く、古墳寒冷期のヒエ栽培者は希望に満ちていたからだ。伊予部族の男性達は海外交易に邁進していたわけではなく、東北の伊予部族には海洋性が乏しかったから、男性達も漢字カナ交じり文を使用していた可能性が高い。
その便利な文化がヒエ栽培と共に北関東に流入し、関東部族のmt-B4もそれを愛用していた可能性も高い。稲作の重労働に耐えながら、漢文技能を習得する事は大変だったからだ。
原古事記の微妙な表現に尾張の物部が反応した事は、漢字カナ交じり文は、内需に専業化した物部の間にも浸透した事を示唆している。
それに対して邪馬台国などの西日本の女性達は、変体漢文を使って文章を作成していたと想定される。卑弥呼や周囲の女性達が、諸韓国や漢系王朝への諸王の通信文を検閲できた事は、男性達が国際語として使っていた漢文を、女性達も読めた事を示しているからだ。従って西日本の倭人国の女性達は、日本語で文章を作成する事が苦手だった可能性が高く、元明天皇が作成した改定古事記の文章に文学性が欠如している事も、その事情を示唆している。
平安時代になって100年以上経てから、土佐に赴任した紀貫之が土佐日記を著述した事は、伊予部族の地では漢字カナ交じり文章が使われていたが、その頃まで奈良や京都にその文化が波及していなかったから、土佐の人々の文章力の高さに圧倒された事を示している。つまり王朝文化は日本文化の谷間にあったが、王朝史観では王朝が鄙びた地方に文化を配布したと、宗教的に信じ込んでいるから、その辺りの事情が見えていない疑いが濃い。
飛鳥は西日本の越系文化の総本山だったが、古墳寒冷期に東南アジアの海洋民族のインド洋交易が壊滅し、インドの交易都市が市場を求めて中華にアクセスする状態だったから、古墳時代の飛鳥人は越系文化に見切りを付け、漢字文化に移行したと想定される。隋と交渉した飛鳥人に極めて高い漢字力があった事を、(8)隋書の項で指摘したが、隋書や唐書は飛鳥人が仏教を信仰していたと記しているから、彼らは漢字で書かれた仏典から漢字を学んだと推測され、隋書にもそれらしい記述がある。仏教信仰が飛鳥人の漢字化に拍車を掛けた事は間違いなく、女性達も仏教を学ぶ為に漢字を習得した可能性が高い。
仏教は学問的である事を強調する宗教だから、仏典を読める人を文化人とする習俗を生み出し易い。飛鳥時代の奈良や京都の人々がその習得に邁進していたとすると、この時代の諸事情が分かり易い。原古事記には仏教臭が皆無で、中華的な男尊女卑の影響も見えないからだ。つまり原古事記の著者や周囲の女性は、漢文で書かれた仏典は殆ど読んでいなかった事を示し、呉音を基底とした標準語としての漢文は読めても、民族文化化した漢代以降のアワ栽培者の漢文は、読む事に苦痛を感じる状態だった可能性が高い。
その様な状態の違いの結果として、原古事記と改定古事記の違いが生れたとすると、仏教がまともな日本語文化の王朝への流入を妨げ、人々の発想を原初的な状態に閉じ込めていた事になり、仏教界が喧伝している王朝文化の宗教的な価値は、大きく棄損する事になる。宗教者は仏教の伝来事情を色々宣伝するが、事実は全く異なっていた事を、改定古事記が明示しているからだ。
日本の文字文化は不思議な発達を経たので、歴史学者が日本の漢字文化は古墳時代に中国から伝わったとの嘘を喧伝し、日本文化の起源を貶める事に躍起になっている。歴史学者がこの様な暴言を主張し付ける事が許されるのは、王朝や寺院が遺した文献だけを参考にしているからだと考えられる。
しかしその文献に関しては、奈良朝が関東や伊予部族の文化を蛇蝎の様に嫌い、意地でもカタカナを使わなかったから、奈良時代の文章にはカタカナが登場せず、続日本紀が転記した天皇の詔にも、漢字だけの極めて分かり難い宣命体で記されていると考えられる。この様な文体を使っていたのであれば、日本語を使う文体が発達する余地はなかったと実感できるものだから、王朝の人々の日本語での思考力は、かなり限定されたものにならざるを得なかった。
文学は文字がない社会では文学は発達しない事を常識とすれば、奈良時代に編纂された万葉集は、日本に豊かな日本語文化が存在した事を示している。優れた文学作品は多数の読者がいる事によって初めて進化するもので、言語しかない社会で文学が生れたと考える事には無理があるからだ。
万葉集は万葉仮名を使って記録されているが、同音であっても多種の漢字を使っている事は、漢字の標準化が進んでいなかった状態を示しているが、文字がない人々に万葉仮名を示せば、特定の漢字しか使わなかった筈であり、漢字カナ交じり文を知っていた人々が地域毎に勝手に万葉仮名を選んだから、あのような状態になったと考えるべきだ。つまり漢字カナ交じり文を使っていた地方の人々が、朝廷に提出する文章に漢字を使う事を強制されたから、慌ただしく漢字を選定した状態を示しているのであり、奈良朝には漢字しかなかった事を示す証拠であると考える必要がある。それぞれの音に数十の万葉仮名がある不自然な状態は、それ以外の理由によって説明する事はできないからだ。
万葉仮名に訓読みを仮名にしたものが多数含まれている事も、漢字カナ交じり文が既に生まれて訓読みが発生していたから、その読みを使った万葉仮名が使われた事を示している。
万葉仮名には借訓仮名と呼ばれている表記法がある事も、その事情を証明している。「なつかし(懐)」を「名津蚊為」や「夏樫」と表記した場合の、「名」「津」「蚊」「為」「夏」「樫」がそれに該当し、表音文字を交えて文章を記していた人が、漢字だけで文章を書けと言われたから、この様に記したと考えられる。訓読みを前提として漢字を書く機会がなければ、この様な借訓仮名を使った事を説明できないからだ。漢文を書き下し文で読んでいたから、この様な万葉仮名が生まれたとの反論もあり得るが、それであれば借訓仮名の使用者が懐の漢字を知らなかったか、懐には訓読みがなかったかのいずれかが前提になり、いずれにしてもその人物は漢文を書き下しで読んだ経験が乏しかった事になるから、漢字文を習得していた人の表記方法ではない事になり、多様な漢字が万葉仮名に使われている状況と矛盾する。
漢文を書き下し文で読む文化が発達すると、同様な状態になると主張する人がいるかもしれないが、書き下し文で読むのは初級者の為の技巧であって、皆が漢文を使う様になれば呉音での発声が標準になり、その場合には訓が使用される事はない。坊さんが漢文で経を読むのは、往時はそれで理解されたからだと考える必要があり、文章語と会話語が異なる社会の事情はその様なものだったと考える必要もある。従って漢字仮名交じり文しか読んだ事がなく、日頃は音素文字で書いていた「懐」漢字を知らなかった人が、その文章に万葉仮名を使ったと考える事が最も自然であり、歴史事象と整合する解釈になる。
中途半端な漢文しか知らない人が多数いたから、この様な事が起こったと主張する人がいるかもしれないが、現在の様に全員入学制の学校があり、授業について言いけない人が多数いたという様な時代ではなく、人々の経済的な余裕が乏しかった時代には、必要があって漢文を使う為に学習し、必要な技能を獲得する人と、それはしないで文盲状態である人に二分されていた筈だから、この主張は前提にならない。
朝鮮半島は近世までその様な社会だった事は、現代では常識になっているし、中華世界もその様な状態だったから、魯迅が白話を提唱したと考える必要もある。それ以前の中華世界では、漢詩はあっても文学的な民謡はなかった事がその事情を示し、万葉集の基底文化として漢字カナ交じり文があった証拠を示している。原古事記は万葉集より古い時代に生まれた文学でありながら、見事な散文の体裁を整えているのだから、万葉集より進化した散文も地方には存在したが、現在には伝わっていないと考える必要がある。この点に関しては、国文学者も考古学者の発掘至上主義の様な陥穽に陥り、論理性を失っていると言わざるを得ない。
原古事記の説話と改定時の挿入説話の文体の違い
改訂古事記には繊細な文学的感性が溢れている段落もあり、その様な段落の少なくとも一部は原古事記の転写であると想定される。また話の流れや古事記の思想に準拠しているか否かでも、原古事記の説話か否かを判定する事ができる。その様な感性が見られない段落の一部は、明らかに関東などを貶めるものだから、それは奈良朝が挿入した説話や段落になり、ヤマトタケル説話は明らかに後者に属している。
文学的な感性の優劣により、説話から原古事記の断片を抽出できる場合もあるが、短い文章をその観点で抽出する事は難しい。後世の思想家が創作した先代旧事本紀や、それらを基に宗教祭司が推敲した日本書紀に、その様な感性が感じられない事は言うまでもない。
古代日本の散文文学は女性が主導したから、原古事記の作者にも文学的な感性が溢れ、その様な原古事記を改訂したのも、元明天皇や元正天皇などの奈良朝の女性達だったから、それが当時の文学事情を示している事になるが、彼女達は当時の古語を駆使した筈だから、当時の女流文学の実態を示しているわけではない。
平安時代に女流文学が盛んになったのは、光仁天皇の即位による倭人文化への回帰方針が、女流文学を復活させたからだと考えられる。平安的な女流文学は平安時代の終焉と共に廃れたのではなく、平家物語の様な戦記物や、方丈記・徒然草の様な随筆が男性によって著作され、源氏物語や枕草子を上回る人気を博したから、更に進化したと考える必要がある。しかしそれらの根底には、女性達が熟成させた日本語の散文学があった事は、間違いない歴史事実になる。
倭人時代の男性達は、海外交易の為に漢文を習得していたから、民族文学に参加する機会を得なかったが、海外交易には参加していなかった女性達が、日本語の散文学を発達させていたからだ。
7-3-2 原古事記の構成
古事記は不思議な構成になっている。倭国王の年代記の書き始めを神話化した、天孫降臨説話の前に壬申の革命を神話化した国譲り説話があり、天孫降臨説話に続く一連の説話が一段落した後の神武天皇の即位前に、再び壬申の革命を神話化した神武東征説話がある。
古事記の小説的な構成として、壬申の革命が終了して新しい秩序生れるべき飛鳥時代末期の前に、壬申の革命が終わって倭人時代が終了した後の時代として、天皇制によって天皇が統治した時代が既に2千年ほどあり、その時代に生まれた社会秩序の延長線上に、当時の飛鳥時代末期があるとの構成になっている。それが仮想的な事実であれば、革命が終わった飛鳥時代末期の社会秩序は、統治体制が地域分権制から中央集権制に変っても変更する必要がなく、人々は従来通りの社会生活を継続する事ができた。
従って古事記がその2千年の歴史を創作し、人々がその創作史を皆の歴史であるとして共有すれば、人々は従前の生活を営む事ができるという主張が、古事記が掲げる第一の提案だった。実際の古事記説話には、天皇制が生れる準備期間として天孫降臨以降の千年が追加され、古事記が創作した歴史は3千年になった。
創作した2千年は実際の歴史とは異なり、倭人の時代ではなく天皇が日本国を統治した時代だから、倭人時代の身分名称はなく、新しく構築した体制によって生まれた従って新しい名称に変えたが、それを与えられる人は今までの倭人時代の秩序を形成していた人であり、役割と名称を変えるだけで基本的な身分秩序は変わらないというものだった。その様な新しい名称には、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、稲置(いなぎ)などがあり、身分として「臣(おみ)」「連(むらじ)」などがあり、地域は国や評に分割された。
「壬申の革命によって多数の人々が亡くなり、それ以前にも部族対立や地域対立で多数の人が死に、数えきれない憎しみと怨恨が生れていたが、それは3千年前に姿を消した神々の仕業であるから、それに纏わる今までの怨恨は忘れ、水に流して欲しい。」との主張も兼ねていた。
その為に古事記が作成した説話には、大陸で活動した海洋民族の事績を匂わせるものはなく、全ては海洋交易に関与していなかった縄文人と、その子孫の視点で捉えた歴史物語であるとの方針は、神代でも人代でも貫かれている。
悪しき倭人社会は、出雲や飛鳥の支配体制の崩壊によって終焉したから、その時期を神話時代に繰り上げたものが国譲り説話で、その後に海洋民族ではない人々が天孫降臨し、新しい歴史が始まって天皇制が生れる準備が整い、神武東征によって海洋民族的な要素が払拭され、飛鳥時代の2千年前に天皇制が生れた事にした。
その時期に天皇が生れた事は事実だったが、それは関東部族の北方派の棟梁に過ぎず、後世の様な天皇ではなかった。古事記はその歴史を踏まえ、天皇制の成立時には北方派の正規の天皇を暗示する系譜にしたが、次に本当は天皇ではなかった南方派を天皇系譜にし、次に古墳時代に西日本の大王になった大率、次に全国を制覇した邪馬台国王、そして最後に倭王になった飛鳥王とし、それらは万世一系の天皇だったとの系図を創作した。それによって各部族の人々も、2千年前から統一された日本国の国民になっていたと認識させ、部族の怨念を越えた共同体である日本国の一員としての、自覚を促すものだった。
この思想に基づいて古事記を発布する事は、その必然的な結果として、倭国王家の年代記と諸王の年代記を廃棄する事になり、それらの年代記を根拠にして祭られていた、各地の祖先神や祭りの場もすべて廃棄する必要があった。その後の神社に古事記が創作した神が祭られた事は、それらすべてが壬申の革命が完了した672年から、政変によって天武政権が失われた695年までの23年間に、実質的に完了した事を意味している。つまり壬申の革命は前触れもなく突然起こったのではなく、庚午年籍が生れる直前に人々に対する情宣活動が行われたのでもなく、醸成されていた革命思想の仕上げが672年の壬申の革命だった。
この思想は王朝時代にも引き継がれ、現代の史学者にも多大な影響を与えている事が、動かぬ証拠になる。体制革命後の混乱を収拾する為に必要だった、幾多の政治的な英断の詳細はさて置き、古事記の著者がこの様な奇抜なアイデアを採用した事に、驚嘆を禁じ得ない。
才能を高く評価されていた著者が、渾身の構想力と文学力を駆使し、古事記を書き上げた事は間違いない。古事記が示す思想と意思が洗練された文章と共に、倭人崩れの人々に伝わって受け入れられただけではなく、圧倒的な支持を得ていたから、天孫降臨や国譲り説話などの感動的な文章は、古事記を改訂する際にも手を付ける事ができず、原古事記の文章を其の儘残さざるを得なかった事を、改定古事記が示している。但し最も重要な国譲り説話や神武東征説話であっても、その一部に明らかな改変が見られるから、国生み説話や天孫降臨説話も原古事記の忠実な転写ではない。
原古事記の国譲り説話では、出雲に出向いて大国主と談判したのは建布都神と天鳥船だった筈だが、改訂古事記は建御雷神と天鳥船神に書き換えられている。建布都神は甕星と共に壬申の革命で活躍した物部だから、農本主義を掲げた奈良朝には好ましくない存在になり、藤原不比等の支持基盤である鹿島神宮の建御雷神に変えたと考えられる。神武東征説話でも、同様の差し替えが行われている。
天孫降臨説話でも書き換えが行われ、原古事記では天忍穗耳命が降臨したが、改訂古事記ではその子の邇邇藝命が降臨した事に変え、更に山幸ヒコ(日子穂穂出見命)の子として鵜葺草葺不合命を加え、奈良朝の初代文武天皇に至る系譜事情と辻褄を合わせた。逆の視点から見れば、この様な辻褄合わせを行った事は、基本的な説話構成は変えかった事を示している。
続日本紀に古事記を発布した記事の記載がないのは、古事記は少し改訂しただけだとする建前があり、大幅に改定した先代旧辞本紀が書名を変更した事と、対照的な様相を示している。従って改定古事記の書名である「古事記」は、原古事記が配布された際の書名でもあったと考えられる。
仰々しい書名ではなく「古事記」と命名した事にも、原古事記の著者の文学的な才能と意志が感じられる。書名を短くする事によって印象が高まるからであり、内容に自信があった事を感じさせるからだ。
改訂古事記の国譲り説話では、建御雷が大国主に対し、「汝の宇志波祁流〈此の五字は音=ウシハケル〉葦原中国は、我御子が知らす国であると、(天照大御神が)言依を賜った。汝の心は奈何に」と迫った。この文章は、古事記の中の白眉とも言うべき文章なので、改定時に登場人物は変えたが、発言の原文は忠実に変体漢文に変えたと考えられる。文章が簡潔であるだけではなく、主張が明白であり、重要な単語がセンス良く含まれているからだ。
宇志波祁流(うしはける)の「うし」は「主」漢字の訓読みで、「はく」は「佩く=身に着ける」を意味するから、古事記の著者は出雲王が日本の国土(葦原中国)を私物化していると指摘し、それに相応しい名前として大国主と命名し、壬申の革命の大義は、その様な社会になった日本の国土を元に戻す事であると主張している。「大」は大きい事を意味するのではなく「真の」を意味し、倭王は飛鳥王でありながら実権がなく、出雲王が財力を根拠に権力を壟断していた事情も、大国主の名称には込められている。
しかし大国主を一方的な悪者に仕立てる事はせず、成長期に兄弟達(周囲の地域部族)から暴力的な迫害を受けた事を繰り返し述べ、アワ栽培から転換した稲作社会が暴力的で男尊女卑的だった事を示し、それにも負けずに幾多の困難を乗り越え、立派な国を形成した事は大いに評価している。それ故に現在の読者は、大国主に同情するべき話であると誤解しているが、それは現代人がこの時代の背景事情を知らないからである。しかし古事記の著者の思い遣りが、その様な説話構成にしたと考える必要がある。
この短い言葉で示すうしはけると知らすが、越人的な厳しい法治主義の帰結である身分格差の固定化しと、皆が融和的だった縄文時代を比較する言葉になっている。うしはける者の統治は相応しくないから、天皇がいた弥生温暖期以前の夏王朝的な知らす統治に、戻すべきであると主張している。言葉が端的で短過ぎるから、翻訳されないと言葉の意味を理解できない現代人には分かり難いが、当時の人には極めて鋭い印象的な言葉だったと推測され、当時の流行語になった疑いもある。
地域の特産品に立脚した商工業を振興する事により、不況に打ちひしがれた経済状態を打破すれば、明るい未来がある筈であるとの経済政策は、現在の公共投資による経済の活性化策と、同様な効果が見込めたと推測され、極めて先進的で適正な政策だったから、その自信に裏打ちされていたとも言える。
神話を使って対立する勢力を和解させ、交易を円滑に行う手法は、環ユーラシア海洋文化の特徴的な文化だったと考えられる。説話の具体例は(4)山海経で説明したが、邪馬台国を訪れた魏の役人が、倭人にそれらの説話の真偽を質したのは、その様な説話に高度な秩序文化の存在を匂わすものがあったからだと推測される。それらは海洋文化の一部だったから、農耕文化が広がった大陸では春秋時代に失われたが、魏の役人にそれを質す意欲があった事は、魏代の中華世界にその様な感性が残っていた事を示唆している。
(3)史記に書かれた徐福の項で、秦の始皇帝の本格的な巡行としては初回になる、2回目の巡遊で琅邪に3ヶ月滞在し、秦の徳を称える長文の碑を作らせ、その碑の末尾に「古の五帝・三皇の教えが同じではなく、法度が明らかではない事が知られると、鬼神の威を借りて遠方を欺いた。実が名分と異なったから、その在位中に多数の諸侯が叛いて法令が無視された。今始皇帝が海内を併一して郡県とし、天下が平和になった。」と記されていたと、史記が記している事を紹介した。
史記が記された時期にはこの碑文は残っていたから、碑文は正確に転写された可能性が高い事を指摘したが、「古の五帝・三皇の教えが同じではなく、法度が明らかではない事が知られると、鬼神の威を借りて遠方を欺いた。実が名分と異なった。」との指摘は、海洋民族がこの様な神話化を行って過去の歴史を偽っていた事を、始皇帝が非難しているとも読める。秦は越人的な法治主義を標榜する、周の後継政権でもあったから、嘘を嫌う法治主義者として海洋民族の文化に疑念を抱いた事が、この文章の趣旨であると解釈すると、上記の証拠になる。つまり始皇帝の主張はかなり明確で分かり易く、思想的な根拠も一貫し、史記の様な何を言っているのか分からない意思表明ではなかった。
始皇帝は自分の主張の本質をこの様に堂々と述べたが、史記以降の史書は人物史しか記さず、「ああした、こうした」と単発的な事績を重ね、権力闘争の成り行きで皇帝になった事しか示していない事は、文明の堕落と言っても過言ではない。古代の聖賢の時代の指導者は、それぞれに目標を持って論理的に行動していたが、漢王朝以降の皇帝にはその様なものがなく、「徳がある」という曖昧な表現で誤魔化し、目覚ましい発展や改善がなかったのは、農耕文明には統治目標を設定する文明力がなく、その本質は権力闘争に過ぎないからだとも言え、現在もその延長線上にある中華は将来が危惧される。
7-4 原古事記が示す日本の歴史
7-4-1 国譲り説話以前の神話時代
古事記の神代の説話は、古代の人々の伝承がどの様なものだったのかを示唆している。遠い昔の事を手短に話す為には、神々の事績として纏める事が有効であり、更に古い時代の事は、民族の活動を一人の神の行動に集約し、更に古い時代の事は神の名前に集約したと考えられる。飛鳥時代の人々が古事記を受け入れた事が、当時の人々の伝承も、その様な構成になっていた事を示唆しているからだ。
その観点で古事記を見ると余りにも膨大な情報に満ちているので、その解析は一朝一夕にはできない事は明らかで、以下の解釈は古事記が示す情報の中の、僅かな部分の解釈に過ぎない。縄文史を正しく整理すると、古事記が示す説話が何を暗喩しているのかが明らかになり、古代史に関する理解が大きく進展するので、分かる範囲ではあるが、古事記の記述が示す過去の事績を説明する。
天地(あめつち)の始め
天地が初めて發(ひらけた)時、高天原(たかあまはら)に成る神の名は、天之御中主神、次は高御產巢日神、次は神產巢日神。此の三柱神は並(みな)独神(ひとりがみ)に成なり坐(い)まし、身を隱した。
これはシベリア時代の事を記していると推測され、出雲神話に登場する少名毘古那神は神產巢日神の御子であるとしているが、少名毘古那神は濊を暗喩していると考えられるので、神產巢日神は濊を遼東に送り込んだツングースか、実際に移住した狩猟民族を指すと考えられる。シベリア時代の原日本人にはまだ民族としての纏まりがなく、ツングースなどの漁労民族の他に南北遊動する狩猟民族と森林の狩猟民族がいて、彼らがシベリアの主役だったから、天之御中主神と高御產巢日神もそれらの民族を指したと推測される。独神(ひとりがみ)は栽培系狩猟民族の神である女神とのペアではなく、共生する民族がいなかった事を指している。
次に成る神は、ウマシアシカビヒコジ神と天之常立神で、此の二柱の神も独神に成り坐し、身を隱した。 上の五柱の神は別天の神。
これらもシベリアにいた狩猟民族で、別天の神との指摘がそれを示している。つまりこれらの神は、原日本人が日本列島に定着するまでの間に、経過した地域にいて世話になった民族を指している。
次に成る神は國之常立神、次は豐雲野神。此の二柱の神も独神に成り坐し、身を隱した。
次に成る神の名は、ウヒチニ神。次は妹ウヒチニ神。次は角杙神で次は妹活杙神。次オホトノチ神で次は妹オホトノヘ神。次はオモダル神で次は妹アヤカシコネ神。次はイザナギ神で次は妹イザナミ神。國之常立神から伊邪那美神までを、神世の七代と称す。
原日本人が狩猟民族のサポートを得て日本列島に到着したが、その頃大陸と日本列島には、栽培系狩猟民族と狩猟民族や漁労民族との5組の共生が生れ、原日本人と原縄文人の共生は最も遅い成立だったと指摘している。海洋漁民は日本列島にしかいなかった時代であり、氷期のシベリアに栽培民族がいた筈はないから、漁民と栽培系狩猟民族の共生はあり得ないが、この時代を知っている人は殆どいなかったから、古事記が正しい歴史を示す必要はなく、「東アジア第一の海洋民族」として高慢になっていた各部族をたしなめる為に、原日本人と縄文人の共生は遅れて生まれたと偽り、皆に自重を求めた可能性もある。これは暴力化した社会を鎮静化する処方箋として有効だから、その可能性も高いが、この時代の縄文人の特徴は、栽培者ではなく移動しない民族だったとすると、遊動する狩猟民族と湖沼などがある特定地域に定住する、漁労系民族の共生を指した可能性もある。
後者の候補として挙げられるのは、原日本人と同種の民族だったチベット系Y-Dで、アルタイ地方の湖沼群で彼らがその様な生活を始めたが、原日本人はその様な生活に移行できず、更に東に移動した事を示しているのであれば、歴史を正しく伝承していた事になる。その場合の國之常立神と豐雲野神が関東部族と北陸部族の原日本人と共に、南北に遊動していた狩猟民族だったのであれば、原日本人の言語が関東・北陸部族のアルタイ語系と、その他のアイヌ系言語部族だった事と整合する。
いずれにしてもこれらの伝承は原日本人のものではなく、縄文時代になってからシベリアの狩猟民族から聞いたものを、要約したものだったと推測される。古事記の立場としても、日本はイザナギ神と妹イザナミ神によって生まれた地域であり、祖先伝承は両者の活動によって生まれたとの歴史観があった筈だから。従って祖先はシベリアから来たとの伝承から、シベリアの狩猟民族の伝承を此処に掲載した可能性が高い。
日本紀を転記した新唐書が「(日本の)初主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで凡そ三十二世」と記している事は、奈良朝は原日本人と縄文人の歴史を知らなかった事を示している。
二神の国生み
シベリア時代には日本の存在を知らなかったが、原日本人が日本列島に漂着した事により、日本列島が生れたとの認識を変形し、日本列島には原日本人と縄文人が同時に辿り着き、両民族が共同で日本列島を形成したと主張している。
原日本人が日本列島に定着すると各部族が生れたから、それぞれの部族が聖地とした島の名称を記し、縄文前期~中期の各部族の勢力圏を併記して、飛鳥時代の人が認識する古代とそれらの島の関係を示している。これらの島は海面上昇によって生まれたものだから、古い時代には島ではなく陸の山で、各部族の漁場を見下ろす聖なる山だったと推測される。各部族の詳細については既に説明したので、此処での再掲示は割愛するが、古事記が示す部族認識によって縄文史の理解が画期的に進む事は、特記する必要がある。
二神の神生み
沢山の神が生れたが、その殆どは意味が分からない。後の説話にも登場したり、現代まで祭られていたりする神は以下。
天鳥船 : 海洋漁民化すると、直ぐに天氏が誕生した事を示唆している。天氏は快速船を操る事により、活動圏を広げた事を示唆している。
オオゲツヒメ : アワの神であると共に、ヒエを除くすべての穀物の神である事が、高天原を追い出されたスサノオの神話で示される。天照大御神、月読、スサノオが沖縄系縄文人の神であるのに対し、石垣系縄文人を代表する穀物神になる。沖縄系縄文人と石垣系縄文人は起源が異なる縄文人である事を認識していたから、両者の日本列島への到着に後先の序列を付けない為には、この説話にこの神が登場する必要があると認識し、説話上の矛盾は無視した。
火カグ土神 : この神を産むとイザナミのホトが炙られ、病になる。
豊ウケビメ : 病床に伏せるイザナミの尿から和久產巢日神が生れ、その子が豊ウケビメ。「ケ」は穀物を指すので農耕神で、伊勢神宮の外宮に祭られている。オオゲツヒメがアワ栽培者の農耕神であり、石垣系縄文人の農耕神であるのに対し、豊ウケビメは沖縄系縄文人の農耕神であると推測され、天照大御神と月読が沖縄系縄文人の暦の神であるのに対し、豊ウケビメはオオゲツヒメと並置される穀物の神であると考えられる。
女神名の末尾に「比売=ヒメ」と「毘売=ビメ」があり、男性神の末尾に「比古=ヒコ」と「毘古=ビコ」があるが、何を区分しているのか分からない。「日子=ヒコ」は天照大御神の子孫の男子を示し、「比古=ヒコ」とは異なる。
イザナミは全ての縄文人の祖先神になるが、オオゲツヒメが娘で豊ウケビメが孫娘である事は、古事記の著者は沖縄系縄文人は元々穀物栽培者ではなく、mt-B4を取り込む事によってヒエやコメの栽培者になった事を知っていたが、石垣系縄文人がアワの栽培者になった経緯を知らなかったから、説話の論理には矛盾があるが、失礼にならない様にイザナミの娘にしたと推測される。
イザナミが火の神を産むとホトが炙られて死んだ事は、姶良火山の大噴火を神話化したものである可能性がある。当時の海面は現在より120m低く、鹿児島湾は存在していなかったが、山並が二つに分かれて又状の地形を形成し、その陰部にあたる部分に姶良火山があり、その大噴火によって九州にいた縄文人は壊滅したから、それを以てイザナミが死んだとすると、故事説話として成立するからだ。
姶良火山が噴火したのは3万年前だから、まだ氷期の寒冷期には至らず、少なくとも九州であれば、堅果類やヒエを栽培する事ができた時期だった。阿蘇の西山麓に3万年前の黒ボク土の層があるとの指摘もあり、荒唐無稽の話をしているのではない。考古学者はこの時代の遺跡を発掘する場合、これを前提に考証する必要がある。
上記には掲げなかったが、イザナミが健康な時期に速秋津日子神と妹速秋津比売神を生み、このペアから多数の子孫が生れたと記している。国生み説話で関東部族の聖地を、大倭豐秋津嶋であると記しているから、3万年以上前に関東に定住した縄文人がいたと指摘している事になる。彼らの役割はシナノキを栽培する事だったとすると、関東部族が優れた海洋漁民になった理由を示し、ミズナラの耐寒性が異様に高い理由も示すから、一連の話は整合する。
ミズナラの現在の北限は樺太で、氷期の最寒冷期の関東の気候は現在の樺太の様な気候だったから、コナラ属の中で異様に耐寒性が高く、その実は縄文時代から食用に利用されていたが、縄文時代の気候下で栽培北限を拡大したとは考えられない耐寒性の異様な高さも、氷期の最寒冷期の関東で耐寒性を高めたのであれば、説明できるからだ。有用な植生が栽培化によって異様に耐寒性を高める事は、穀物に限った話ではない。
姶良火山の大噴火に関する伝承を遺していたのは、伊予部族だった可能性が高い。彼らにとっては多大な犠牲者を出した大惨事であり、末代まで伝承するべき重要事態であり、その後噴火口の位置を確認する立場の人々でもあったからだ。3万年前の関東部族に縄文人がいたとすると、伊予部族も縄文人を含んでいた可能は高い。
黄泉の国
死んだイザナミを追ってイザナギが黄泉の国に出掛けたが、見てはならないと言われたイザナミの腐乱した死体を見てしまったので、イザナギは怒ったイザナミに追われて逃げ帰る。
姶良火山の大爆発によって九州の縄文人が壊滅した事件の後に、台湾にいた原縄文人が関東部族に冷たくなり、日本には再渡航しないと宣言した事を説話化したと考えられる。原縄文人は後氷期に沖縄に移住した後も、海面上昇によって沖縄が水没する危機感を持つまで、九州に渡航しなかったのは、この記憶が残っていたからである可能性がある。縄文人が九州に再上陸した1万6千年前には、mt-Dはオホーツク海沿岸に北上し、mt-Gもオホーツク海南岸に達していたから、九州の温暖化を待っていたとは言えない時期だったからだ。
イザナギの禊と三貴子の誕生
黄泉の国から戻ったイザナギは日向で禊を行い、多数の神が生れた最後に、イザナギの左目から天照大御神、右目から月読、鼻から建速須佐之男が生れた。イザナギは天照大御神に高天原の統治を、月読には夜の食国の統治を、速須佐之男には海原の統治を命じた。
考古学的な発掘では、1万6千年前に九州に再渡航した縄文人は、縄文早期になってから黒潮の道と呼ぶ太平洋沿岸を北上した事になっているが、古事記は縄文人の九州上陸早々の縄文草創期に、太平洋沿岸を関東や東北に北上したと主張し、関東に留まった縄文人は関東部族の太陽暦を使い、伊予部族と共に東北に北上した縄文人は太陰暦を使ったと指摘している。つまり縄文草創期のそれらの地域の縄文遺跡は、狩猟民族の遺跡ではなく縄文人の遺跡であると指摘している。
まだ海面が上昇していない時期だったので、彼らの移動は陸路だったが、北陸部族の縄張りを避けて東北の日本海沿岸に北上する為には、九州や山陰から海路で山形に北上する必要があり、速須佐之男はそれを行わなかったとの指摘が次の説話になる。
天照大御神と速須佐之男
速須佐之男は母を恋しがって言われた事をせず、毎日泣いていたので、淡海の多賀(滋賀県多賀)にいたイザナギに追放されてしまう。速須佐之男が別れを告げる為に、高天原の天照大御神を訪問すると、天照大御神は建速須佐之男が国を奪いに来たと思い、建速須佐之男を問い質す。二神は誓約の儀式を行い、そこでスサノオの子としてタキリヒメ(対馬部族の神)などが生れ、天照大御神の子として天之忍穗耳命(天孫降臨した神)などが生れる。
イザナギが滋賀県にいたのは、縄文早期~中期に飛騨でヒエを栽培していた人々の、起源を明らかにする為だったと推測され、1万3千年前の滋賀県の相谷熊原遺跡の発掘事実と整合する。縄文早期の琵琶湖岸にはアワ栽培者が進出していたので、相谷熊原遺跡も石垣系縄文人の遺跡であると想定したが、古事記は沖縄系縄文人であると指摘し、彼らは縄文早期にヒエが栽培できる冷涼な気候を求めて飛騨に移住したから、その空き地にアワ栽培者が進出した事を示唆し、出雲神話で沖縄系縄文人が滋賀や京都に戻った事を示している。イザナギが淡海の多賀にいたとの記述は、出雲神話で大国主がこのイザナギと交渉し、スセリビメを得た説話の準備になる。
ここでタキリヒメと天之忍穗耳命が生れたのは、両者は別格の上位神である事を示す為だったと推測される。タキリヒメは対馬部族の縄文人の神で、天之忍穗耳命が天皇系譜の祖になるからだ。
天の岩屋戸
建速須佐之男が高天原で乱暴な振る舞いをしたので、建速須佐之男が高天原にいる事を許した天照大御神は、天の岩屋戸に籠ってしまい、世界が真っ暗になった。困った神々は知恵を廻らし、天照大御神を天の岩屋戸から引き出すと、世界は再び明るくなった。高天原の神々は速須佐之男を高天原から追放した。
山形以北の日本海沿岸に北上する積りだった九州縄文人が、対馬部族と出雲部族の約束不履行によって九州に足止めされ、速須佐之男は縄文人に対して乱暴だったと主張しているが、天照大御神が天の岩屋戸に籠って世界が真っ暗になったのは、ヤンガードリアス期の豪雨期に毎日曇天が続き、太陽が照る日が殆どなかった時代を暗喩していると考えられるので、気候が冷涼化したのに山形に北上した縄文人を、九州に戻さなかった事を咎めている疑いがある。
これと類似した説話として中国や東南アジアに、「昔は大洋が10個あったが、神がそれを一つづつ射落としたので、現在は一つの太陽がある。」というものがあり、これはヤンガードリアス期に、東南アジアから北上していなかった民族の伝承であるとすると、歴史の流れと整合する。彼らはヤンガードリアス期以前の東南アジアで、酷い温暖化と乾燥化を経験し、ヤンガードリアス期に徐々に気候が冷涼良化していった事情を、上記の様に説話化し、ヤンガードリアス期が終わると冷涼な気候を求めて華南や台湾に北上したから、意味不明なこの説話を伝承し続けた事になるからだ。
この説話が東南アジアにも拡散しているのは、縄文中期にフィリッピンに移住した越人や、古墳寒冷期に東南アジアに南下した荊や粤の神話だったからだと考えると、このHPが提唱する歴史と整合する。太陽を射落とす神話が多数派で、天の岩屋戸説話系は古事記の説話しかないとすれば、ヤンガードリアス期以前に中緯度地域に北上し、ヤンガードリアス期の寒冷気候に耐えて現在まで生き残っている民族は、縄文人しかいなかった事になってこれも歴史と整合する。ヤンガードリアス期以前にオホーツク海沿岸に北上した民族は、別の伝承を生んだ筈だから。
高天原から追放された速須佐之男が、オオゲツヒメに食物を乞うと、鼻・口・尻から取り出した味物を揃えて出したので、汚濊であると見做してオオゲツヒメを殺してしまった。オオゲツヒメの体から、蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生れたので、神產巢日御祖命(神產巢日神の母)が種にした。
石垣系縄文人には祖先伝承がなかったので、古事記ではその子孫の活躍の場を示せない事を、オオゲツヒメを殺したとの表現で示している。またこの説話で石垣系縄文人の最終的な栽培種を示し、彼らはヒエを栽培していなかった事と、彼らが日本で最初に蚕を飼養した人々である事を示している。この断片的な説話が、北陸部族の縄文人に関する神話の全てになり、沼河ヒメの説話は出雲神話の一部になるからだ。
神產巢日は出雲大社の境内ではなく、その外にある荒垣外摂末社の一つである命主社に祭られ、出雲の主役は縄文人だった事を示しているが、古事記は出雲にモンゴル系(森林系狩猟民族)民族が多数流入していた事と、彼らが農耕民族化した事を示している。
この指摘は日本人に含まれるmt-N9a比率が、他の東アジアの民族より高い理由を示唆し、mt-B4の稲作普及活動の際に、モンゴル系民族だったmt-N9aが積極的に応じた事が、関東部族のmt-B4の伝承に含まれていた可能性が高い。モンゴル系民族のmt-N9aは肌の色が白く眼鼻立ちが鮮明だったので、mt-B4には異様な異民族との印象があったからだ。弥生温暖期の津軽で水田を多数形成した女性達は、ソバを栽培していたmt-M9だったと推測したが、毛皮の需要が失われて失業したmt-N9aも、多数含まれていた可能性がある。
古事記の著者は、出雲のモンゴル系民族は東朝鮮湾の沿岸に入植した濊と同様に、ツングースがウスリー川を遡ってウラジオストックに出るルートを使い、青森に送り込んだ人々であると認識していた様に見える。縄文中期に遼東に入植した濊は、松花江から遼河を経て遼東に入植したのかもしれないが、縄文後期末~晩期に東朝鮮湾の沿岸に入植した濊は、出雲部族と一緒に別々の地域に入植した人々で、濊と青森や秋田に入植したモンゴル系民族を、同族であると見做していた事を示している。
但しこれは縄文早期~前期の伝承に基づく説話だから、この時期に青森や秋田に入植したモンゴル系民族の目的は、市場価値が高い弓矢を製作する事だった。それが縄文晩期の毛皮交易の話しと混同されている事を、蚕やイネが登場する事が示している。古事記の著者に歴史的な厳密性を求めても仕方がないし、分かり易い短い説話に纏めて古事記の思想を民衆に広める為には、この様な混同も必要だったとも言えるから、古事記の著者の認識が混乱していたとは言えない。
以下から出雲神話になる。
出雲に降りた須佐之男は、大山津見の子の足名椎と手名椎の女(娘)の、櫛名田ヒメを八俣のオロチに食われてしまう事から救い、八俣のオロチを退治して櫛名田ヒメを妻とする。但し大国主は櫛名田ヒメの子孫ではなく、須佐之男が大山津見神の女の木花チルヒメを娶って産んだ子の子孫になる。
前段のオオゲツヒメの話しと併せて出雲部族と対馬部族が、日本海沿岸を北上した結果として起こった八俣のオロチ退治を示す事により、北上過程は全て分かっているとの姿勢を示している。八俣のオロチが海岸砂丘を暗示している事は既に説明したが、砂丘が形成される事によって内陸の縄文人と別れ別れになった事情を、縄文人(女)が次々に砂丘の内側に取り残された事を、八俣のオロチに食べられたとする秀逸な神話説明に変えた事は、当時の人の文学趣味を満喫させただろう。「食われても腹を破れば蘇る」説話の原型も、此処にあるからだ。
この説話が示す出雲は青森を指しているが、八俣のオロチ退治が能代平野に杉沢台遺跡を建設した事などの、海岸砂丘が破れて海洋漁民が内陸に遡上できる様になった事績を示唆しているのであれば、出雲は能代平野や秋田平野を含んでいる事になる。高志(こし)の八俣のオロチと呼んだ事は、海岸平野の砂が新潟平野の河川から流出した者である事を、海洋民族は知っていた事を示している。彼らが北陸を高志(こし)と呼んだのは、海洋民族の故地である北九州や山陰と出雲は、彼らの領域外だった北陸を越えていかなければならなかったから、その様な北陸を「こし」と呼んでいたが、北陸部族が「越」になったから「越=こし」が結び付いた可能性が高く、越境や越年は日本語起源である事になる。越の呉音は「おち」だが、「越=こし」が結び付いた呉音の熟語がない事も、この概念は比較的新しいものである事を示唆し、この推測の証拠になる。幕末・明治に生まれた翻訳熟語の一つではなかろうか。
須佐之男が娶った大山津見神の娘が二人登場する事は、出雲部族がモンゴル系民族と共生した事を示唆し、渡来したモンゴル系民族の主要な働き手が女性だった事を示している。系譜の途中に天之ツドヘチニ神を娶ったと記されている事は、出雲部族や対馬部族が関東部族の航海技術を、この地域に移住した天氏から習得した事を示唆している。その神の名が漢字にできない言葉である事は、関東部族にはその伝承はなかったが、アイヌ系言語の話者だった彼らの伝承にはその集団の呼称が含まれていた事を示し、これを含む伝承の実在性を示唆している。
大国主の別称として、大穴ムジ神、葦原シコ男神、八千矛神、ウツシ国玉神があると記し、漢字とアイヌ系言語が混在した名称である事は、出雲部族にはこれらの神の名が示す複数の指導者がいた事と、出雲部族の言語は関東部族系の漢字語とアイヌ系言語が混在し、日本語とは異なる漢字カナ交じり文を使っていた事を示唆している。葦原シコ男神は稲作者の神を示唆し、八千矛神は沼河ヒメを津軽に招いた毛皮の生産者(狩猟民)で、ウツシ国玉神は沼河ヒメの故地である富山の玉器生産者の神を示唆し、古事記はそれらの諸民族が統合した出雲国の大国主が、多元的な交易品の生産者として富を築いたと指摘している。大穴ムジ神は製鉄の神だったと推測されるので、それに付いては後述する。
稲羽の素ウサギ
稲羽には八十神がいて、八十神が八上ヒメを娶ろうとして求婚するが、その道程でウサギを虐めた。大穴ムジ神がそのウサギを助けたので、ウサギが大国主に、八上ヒメは汝命が得るだろうと言った。
古事記の著者のユーモアが此処にも溢れている。八十神が八上ヒメを娶る事は、八十神の上位者であるヒメを娶る事を示し、千代川流域にいた稲作者の勢力争いである事を示しているからだ。大穴ムジ神は他部族の稲作地のコメを獲得する為に、活躍した神でもあった事を示している。現代的に言えばコメ商人だったが、この時代にコメの商権を獲得する事はその地域を支配する事も意味した。
八十神の迫害と根の国訪問
八上ヒメを娶った大穴ムジ神は、八十神の迫害に遭って何度も殺されるが、その度に產巢日之命に助けられて蘇る。遂に堪らず木国の大屋毘古神の下に向かうと、八十神に追われたので、根の堅州国の須佐之男の下を訪れた。須佐之男に幾つもの試練を与えられるが、須勢理ビメの援助によってそれをすり抜け、須勢理ビメを正妻に娶って出雲に帰る。
八十神の際立った暴力性は、稲羽の人々の好戦的な性格を示している。青谷上寺地遺跡から多数の惨殺遺体が発掘された事と整合し、名古屋の朝日遺跡の逆茂木を植えた環濠と併せ、アワ栽培者が稲作者になった地域は、農耕民族的な暴力社会になった事を古事記も指摘している。神產巢日之命に助けられて蘇る事は、その様な稲作民族の暴力によって窮地に陥った出雲部族を、青森や秋田に入植したモンゴル系の狩猟民族が、救援に駆け付けた事を示唆している。狩猟民族の優れた弓の技が、稲作民族への威嚇に威力を発揮したのではなかろうか。
木国は対馬部族が奈良盆地への入り口としていた地域だから、出雲部族と対馬部族が青森と秋田で協力していた様に、西日本でも稲作地を得ていた対馬部族と連携し、コメの入手を容易にしようとしたが、切羽詰まって直接根の堅州国に出向いた事を示唆している。先に述べた様に須佐之男は近江にいたから、この説話では、近江か京都盆地にいた須佐之男の下に出向いたと推測される。須佐之男は出雲部族と対馬部族の両方の神であり、出雲部族だけの神ではなかった。
実際の出来事としては、紀ノ川を遡上する交易路を開拓していた対馬部族は、奈良盆地までを傘下に収めていたが、飛騨から京都盆地や近江に降った稲作民は奈良盆地の人々ほどには、対馬部族との共生関係は鮮明ではなかったから、壬申の革命の際にも甕星の側に立ったと推測され、それが根の堅州国の事情だった。この説話は京都盆地や琵琶湖南部の稲作民が、出雲部族と対馬部族の双方から、共生を持ち掛けられた事を示している。しかし古事記の思想では対馬部族と出雲部族が、京都盆地や琵琶湖南部の稲作民の帰属を巡り、争った事は説話化できなかったから、大穴ムジ神は須佐之男のいじめに遭ったと記し、それを曖昧にしたと推測される。須佐之男は大穴ムジ神の上位神だから、そのいじめは怨恨の根拠にはならないからだ。
須勢理ビメは飛騨系の稲作者を指していると推測され、須勢理ビメの名称は音で読めとの指示はないから、漢字の意味を解釈する必要がある。「須」漢字は「待つ」事を意味し、「勢」漢字は出雲部族と対馬部族を意味し、「理」漢字は物事の筋目の正しさを示すから、大穴ムジ神と須勢理ビメが出会った直後に意気投合した事は、京都盆地と近江の稲作者は出雲と連携したかった事を示している。対馬部族がそれに難癖をつけたが、稲作民の意志が固く、対馬部族もそれを認めた事を示している。京都のコメを和歌山から出荷して瀬戸内~関門海峡~出雲に至るのではなく、敦賀から集荷する方が合理的だから、その様な運送事情が背景にあったと推測される。京都や琵琶湖岸の人々には、歩いても数日で行ける出雲は身近な地域であるとの地理感があり、直接コメを出荷する事は稲作民の総意でもあっただろう。
この説話の末尾に、須勢理ビメを連れて出雲に逃げ帰る大穴ムジ神に、須佐之男が「宮柱フトシリ、冰椽タカシリテ、高天原ニトドカセ、是奴メ。」と言った事は、出雲部族に繁栄しなさいと言った事になり、出雲の製鉄産業が活性化したした事を示唆しているが、やや時代が先行している事は否めない。
それに続いて、「故に其の大刀、弓を持って其の八十神を追避く時、坂の尾每に追伏し、河の瀬毎に追い撥い、国を作り始めた。」との記述は、稲羽の複雑な地形を示し、このHPが示した稲羽の稲作事情と合致し、八十神の名が示す様に、谷毎の集落群が地域勢力を形成していた事を示し、地理感と合致している。
更に続けて、「故に八上ヒメは嫡妻の須世理ビメを畏れ、生れた子を木俣に刺し狹んで返した。」と記し、この様な事態が起こったのは、縄文後期温暖期が終わって山陰の温帯ジャポニカの栽培が不振になり、熱帯ジャポニカを栽培していた京都や奈良の内陸地域が、一躍コメの大産地になった事情が背景にあった事を示唆している。近世の言葉に「木俣から生まれたわけじゃあるまいし、人並みのことはしなさい」というものがあるが、この言葉が飛鳥時代にもあったとすると、生れた子を木俣に刺し狹んで返した意味が深刻になる。つまり稲羽は以降の出雲の歴史から消えた事を意味するから、それを深読みすると、出雲の人々は稲羽の人々の暴力性に嫌気がさし、統治を放棄した事を示唆している。
八千矛神の沼河ヒメに対する妻問婚
この説話に多くの紙面を割いているのは、北陸部族系の縄文人には伝承がなく、古事記に記すべき事がなかったので、これを唯一の説話として記したからだと推測され、古事記の著者の思い遣りを示している。
毛皮の加工者として津軽に入植したモンゴル系民族の多数のmt-N9aの為に、富山のソバの栽培者だったmt-M9が津軽に入植し、大陸でもmt-N9aが食べ慣れていたソバを栽培した事を説話化した。富山のmt-M9は出雲部族に誘われても、なかなか決断できなかったのかもしれない。しかし磨製石斧産業を失っていたmt-M9は、この誘いに乗る以外に活路がなかった。縄文晩期の富山でソバが盛んに栽培された事は、富山産のソバも津軽に運ばれた事を示している。シベリア時代のmt-N9aにとって、ソバは高級食材だった事も示している。
大国主の子孫
宗像の多紀理ビメを娶って生れた子が、アジ鉏高日子根神で、迦毛の大御神とも謂う。屋楯ヒメを娶って生れた子が、事代主神。
アジ鉏高日子根の日子は縄文人の神である天照大御神の子孫である事を示し、鉏は鉄器を持って奈良盆地に入植した稲作者の神である事を示唆しているから、大国主は鉄器の生産者になっていた事を示唆している。事代主神は継体天皇から始まる飛鳥王の系譜を示し、飛鳥王の系譜は稲作者ではなかった事を示唆している。屋楯ヒメの楯が欄干を示す漢字であるとすると、宮殿に住む高貴な身分を指す事になり、海洋民族系譜の家系である事を示唆している。大穴ムジ神が木国の大屋ビコ神の下に行こうとして、結局須佐之男の下に出向いた事から推測すると、大屋が鉄器時代になって更に進化し、欄干のある宮殿になった事を示していると解釈できる。三内丸山遺跡に高床式の住居があったのだから、古事記の著者が示す歴史認識には現実性がある。
須佐之男が高天原に届く高い宮を立てろと言ったのも、対馬部族に高い木工技術があった事を指したとすると、この言葉は大国主に対馬部族と協力して国を作れと言った事になり、巨大な出雲大社があったとの伝承や発掘事実、また飛鳥に法隆寺などの精巧な巨大建造物が残された事や、鳥取県琴裏町に未発掘の巨大都城遺跡(斎尾寺跡を含む遺跡群)がある事にも繋がる。
遡って三内丸山遺跡に巨大建造物があり、類似した遺跡が能代に近い杉沢台にあった事も、出雲部族と対馬部族の、巨大木造建築に関する関心の高さを示している。古事記も八俣のオロチを退治した後の出雲に、須佐之男が宮を作ったと繰り返し記しているのは、両部族は縄文前期から、巨大木造建築物に高い関心があった事を示唆している。それを敷衍すると、現代人は縄文人が建造した三内丸山遺跡を称賛しているが、木工技能に優れた海洋漁民の集落には、もっと精巧な建造物が並んでいた事になる。
大国主と少名毘古那神
神產巢日神の子の少名毘古那が、葦原シコ男と兄弟になって其の国を作り堅め、大穴ムジと相並んで此の国を作り堅めたが、その途上で少名毘古那は常世の国に度ってしまった。大国主が困惑していると海が光り、来る神が言う。一緒に国を成そう。吾は倭の青垣の東の山の上で伊都岐を奉る。此の者は御諸山の上の神也。
大穴ムジと相並んで此の国を作り堅めた事は、出雲部族が鉄の生産者になって濊にも鉄器を提供した事や、濊と連携した毛皮交易の利益が、その産業を盛んにする原資になった事を示唆しているが、葦原シコ男と兄弟になって其の国を作り堅めた事の意味は分かり難い。其の国が東朝鮮湾沿岸に作られた濊の国を指すとすると、葦原シコ男がコメを含む濊の国の必要な物資の、生産者になった事を示唆している。富山のソバが津軽に運ばれた時代だから、京都のコメや山陰の工芸品が東朝鮮湾に運ばれたとしても不思議ではないが、確かではない。
倭の青垣の東の山の上での不可解な表現は、古事記の改定時に奈良が倭である事を示す為に、倭のが付加された疑いがあり、原古事記では吾は伊都岐を奉る御諸山の上の神也だった可能性がある。御諸山は対馬部族の領域になった奈良盆地にあり、奈良盆地が青銅の加工基地になった事を示唆している。奈良盆地が青銅器時代になったのは縄文後期だったと推測されるが、縄文後期の青銅器製作には高度な鋳造技術がなく、磨製石斧の代用品を作る程度の技術だったが、縄文晩期になってその技術が伝来したから、濊が琵琶型銅剣などを使ったと推測される。歴史学者は青銅器時代の次に鉄器時代になったと説明しているが、古事記の説明順が正しければ、原初的な鉄器が作られる様になった後で、精巧な鋳型を使う青銅の高度な鋳造技術が伝来した事になる。殷末の殷墟から鋳造された青銅器が多数発掘されるのも、その頃に高度な青銅の鋳造技術が東アジアに伝搬した事を示唆し、古事記の歴史認識を否定する根拠はない。
国譲り説話
天照大御神の命を以って、豐葦原の水穗の国は我が御子の天忍穗耳命の知らす国であるとの言因(ことより)を賜い、(天忍穗耳命は)天降った。(その際に)天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、豐葦原の水穗国はイタク騒がしいと告げ、(高天原に)還ってしまった。
言因(ことより)は、宗教性が込められた宣託。出雲の大国主との交渉が始まるが、埒が明かないので建布都神と天鳥船が最後に出向く。この説話に高御產巢日神が重要な神として登場するが、これは古事記の改定時に挿入した、藤原氏を暗喩する神であると推測される。天地開闢説話に登場したシベリアの神が、此処に登場する筈はないのだが、古事記が示す歴史を理解していなかった元明天皇が、この神を挿入したと考えられる。日本紀に天皇の元祖は天之御中主であると記されていた事が、その事情を示唆している。つまり天之御中主の次に記された神をその従者であると勘違いし、藤原氏を暗示する神に仕立てたと考えられる。
(建布都は)出雲國のイナサの小浜で十掬の劔を拔き、浪穗に逆に刺し立て、劔の前に趺坐し、大国主に問いて言う。天照大御神の命を以って問う。汝のウシハケル葦原中国は、我御子の知らす国であると言依を賜わった。汝の心は奈何に。
趺坐は足を組んですわること。以降の説話については、既に説明したので割愛する。
関東部族の天氏が飛鳥王に天氏を名乗る事を許し、それを受けて飛鳥王が倭王になって出雲王を大率にしたが、経済力が実力を示す、法治主義的な越系文化圏の両国では、経済中心を形成していた出雲王が日本列島を実質的に支配していたので、古事記も出雲王に国譲りを迫った経緯を神話化している。突然革命戦争を起こしたのではなく、話し合いを尽くしたが聞き入れられなかった事を、この説話の前に複数の説話を重ね、多くの文字を費やして説明している。
7-4-2 天孫降臨から始まる天皇制の成立史
倭国王の年代記の最も古い記述を書き換えたものが、天孫降臨説話だったと考えられる。これには日立を礼賛する記述が含まれているから、原古事記の転写であると想定され、この記事が暗喩している事績は、倭国王の祖先が沖縄から鹿児島県の甑島(こしきじま)に移住し、宝貝交易を差配していた時代だったと考えられる。以下はその書き下し文で、カタカナは古事記が音読みさせている漢字。
それゆえに、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命は天の石位を離れ、天の八重タナ雲を押分け、而してイツノチワキワキテ天浮橋にウキシマリ、ソリタタシテ天降り、竺紫の日向の高千穗のクジフルタケに坐(いました)。それゆえに天忍日命と天津久米命の二人は、天の石靫を取負い、頭椎の大刀を取佩き、天の波士弓を取持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立って仕え奉った。天忍日命は大伴連等の祖、天津久米命は久米直等の祖であるのは、ここで詔があったからだ。此の地は韓国に向い、笠紗の御前(御崎)に眞来が通り、朝日が直に刺す国、夕日の日が照る国だから、此の地は甚だ吉い地だ。その様に詔(みことのり)し、底の石根に宮柱をフトシリ(太い柱を立て)、高天原に氷椽タカシリ(やねの千木を高く掲げ)坐(いました)。
冒頭のそれゆえには、天照大御神から葦原中国(あしはらのなかつのくに)に降って、国を知らせと命じられたから。
正勝吾勝勝速日天忍穗耳命は、改訂古事記では天津日高日子番能邇邇藝能命になっているが、原古事記の天忍穗耳命は甕星の父を暗喩していた。「勝」をくどいほどに連ねたこの名称は、甕星の父が関東を制圧した際の、強さが圧倒的だった事を暗喩し、歴史を知っていた人々に起こった事を連想させ、誰を暗喩したのかを分らせる原古事記独特の文学的な手法だった。古墳時代~672年までの飛鳥時代は、地域勢力が割拠していた時代だから、それと類似した戦国時代の事情から連想すると、甕星の父が関東一円を武力制圧した事を示唆し、壬申の革命戦は圧倒的な優勢の下に、当然の様に勝ったと主張している。この時代の関東部族の軍事力には、他部族を圧倒する力があったからだ。
天の石位は天上にある高天原の、山河を構成する岩石の位置。高天原は雲の上にあるとの設定だから、この表現になった。高天原の様な楽園は地上から失われている事を示唆し、高天原から下った正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が、高天原の様な楽園を地上に再現する使命を帯びていたとの設定だった。
古事記の作者には、関東部族のこの地域への移住時期は分からなかったらしく、それ以降の記述の様に時期は暗示せず、「韓国(からくに)に向かい、笠沙の御崎に真直ぐに通じている良い場所」だから、「日向の高千穂のくじふるたけ」に降臨したと記している。この文章は倭国王の祖先が笠沙に移住した様に見せているが、好漁場に囲まれた甑島の方が海洋民族の拠点に相応しい場所だったから、古事記は縄文人の移住場所を示しているだけで、海洋漁民は甑島に移住したと考えられる。甑島は笠沙の沖にあり、甑島を中継地にすると沖縄と青州を結ぶ直線的な航路を形成できるが、笠沙は航路から迂回した場所になるから、沖縄と青州を結ぶ航路の中継地に相応しい場所だったからだ。
古事記の建前として倭人時代はなかった事にする必要があったから、天孫を農耕が可能な九州に降臨させる必要があり、日向の高千穂の峰と笠沙の御前を挙げたと考えられる。笠沙の御前と高千穂の峰も、この時期の倭人と深い因縁がある場所でもあった。
日向は朝日が東の海から昇る地を指し、それが良い地であるとの認識は、太洋上で船の位置を確認する必要がある海洋民族の認識だったが、天津甕星(原古事記執筆時の天武天皇)の根拠地だった日立(常陸)を、天武が日本(日が昇る地)と名付けた事も意識した文章だった。高千穂の峰は鹿児島から見た名称であって、宮崎(日向)から見た名称ではなかったから、高千穂の峰が日向にあるとの認識には違和感がある。
奈良朝の勢力圏に日向と名付けるのに相応しい場所はなく、上掲の文は明らかに日立を礼賛しているから、改訂古事記にヤマトタケル説話を挿入した奈良朝にとって、この話が面白い筈はなかった。それでありながら、改訂古事記にこの文章が残されたのは、この説話が余りにも著名になり、手を付ける事ができなかったからだと推測される。夕日の日が照る国は薩摩半島西部の吹上浜の内陸部を指し、稲作適地として多数の縄文人が移住したと推測される。
「日本」も「日立」も「日向」も太陽が東の海から昇る地を意味し、その様な地は天体観測に最適な場所だった。星の神である天津甕星は、海洋民族の為に天文を観測する家系の総帥として、代々襲名しながら日立に君臨していたと考えられる。海洋民族にとって星座に関する知識は、海洋上の船の位置を知る重要な手段だったから、倭国の重要な国家機能でもあった。北極星の位置で船の緯度を知る事もできたが、揺れる船の上で角度を正確に測定できる器具がなかった時代には、概略の緯度しか分からなかった。
天体を観測する場所として朝日が昇る海が重要だったのは、朝日が昇る前の曙光の段階で、水平線上の星が暁と共に消える状態を認識し、緯度を確認したからだと推測される。目的地の緯度を正確に知り、自分が目的地の東に居るのか西に居るのか分かっていれば、自分の船の緯度を南北10㎞以内の誤差で観測すると、目的地に確実に到達できたからだ。オーストロネシア語族の海洋民族が、絶海の孤島である南太平洋の島々を、縄文前期から往来していたのは、その様な知識があったからだと想定される。彼らが赤道に近い航路を好んだのは、夜と昼の境界が明瞭な低緯度地域で高い精度が得られたからだと考えられる。
暁の水平線は夜間に冷えた海に接しているから、水平線上の星を鮮明に示し、観測する星を満天の星座との位置関係から特定できるが、夕刻の水平線は昼の日射によって温まった海の上にあり、靄が懸かって必要な視界が得られない上に、明るい星から徐々に現れる状態では、星座との位置関係から星を特定する事ができない。
従って夕刻の水平線では船の位置の測定精度が下がり、陸が見えない絶海を航行する場合には、その誤差によって生命が危険に晒される事もあった。古事記が日本海沿岸や紀州を黄泉の国とするのは、日が海に沈む西の海に面しているからだと考えられる。日本海沿岸に東の海から太陽が昇る地を求めると、佐渡、能登半島、隠岐などがあり、佐渡と隠岐はイザナギとイザナミが生んだ大八島(おおやしま)に含まれている。しかしそれらの島や半島では平地が狭く、農地にできる場所が限られているから、多数の水先案内人や海洋交易者を輩出する地域にはなり得なかった。日本越の海洋輸送者として能力に限界をもたらした一つの理由が、その様な事情だったと推測される。
天津甕星を祭っている大甕倭文(おおみかしとり)神社は、天体観測所に相応しい当時の海岸に突き上がった、見晴らしの良い岩石塊を御神体としている。海岸の高台に立てば夜明けに消える水平線上の星を、水平線の奥まで観測する事ができたからではなかろうか。高い山に登ると航海者の目線と異なる角度になるから、海岸の小高い岩山が観測の最適地だったと推測される。
日向の高千穂峰を賛美した後で、「韓国(からくに)に向かい、笠沙に通じている良い場所」である事を理由に、「日向の高千穂のくじふるたけ」に天孫を降臨させた事には、以下の様な意味があったと考えられる。
韓国は夏王朝期の韓族の居住地だった、遼東半島を指していると考えられる。倭人の船が渤海南岸にあった越人の製塩地に宝貝を届ける為には、朝鮮半島の西岸を北上する必要があり、遼東半島は渤海の入り口になるから、この時期の関東部族は製塩地への航路を、韓への航路と見做していた可能性が高い。「韓」漢字の左は「長い旗竿」の象形で、右は「方向が違う二つの足の象形と、その中央の場所を示す象形」だから、交通の要衝に旗が立っている状態を示し、関東部族が遼東半島の先端に旗を立て、航路の目印にした状態を漢字化したと推測される。遼東半島の先端に羊頭窪遺跡(ようとうわいせき)があり、住居址の傍に60cm大のケイ岩を数個集積した炉址が出土している事が、夜間に火を焚いて場所を示していた事を示唆し、その役割を担っていた事を示唆している。
古事記が記された飛鳥時代末期には、朝鮮半島や遼東に韓国はなく、遼東(遼河の東)は新羅と唐が境を接する地域だった。韓族が縄文中期~春秋時代に遼東半島を領有していたが、縄文後期は箕子朝鮮の時代だったから、古事記が記す韓国は縄文後期の事情を述べているのであれば、韓国は箕子朝鮮の地域を指した。
古事記の著者が遼東半島の名称の歴史的な変遷まで、詳しく知っていたとは考えにくいから、縄文後期の倭国王家の年代記に記載されていた韓の名称を、倭国王家の年代記を参照した証拠として掲げた可能性が高い。
原古事記が海外の地域名称として挙げたのは、垂仁天皇の御世の「常世の国」、応神天皇の時代に大陸文化を伝えた百済、その文化の一部である韓鍛(からかぬち)と呉服(くれはとり)しかない。海外の文化はすべて百済王が献上した事にして、海外の地名を挙げる事を極力避けたから、此処に記された韓国は異色の存在になる。
ちなみに神功皇后の新羅・百済遠征説話には、原古事記の転記であると想定する文学的なセンスが感じられないから、改定時の挿入だったと推測され、奈良朝の祖先系譜である邪馬台国を、顕彰する為の挿入だったと推測される。神功皇后を卑弥呼に比定したかった様だが、その時代には新羅や百済は未だ生まれていなかったから、年代観にも問題があり、年代記を持っていなかった奈良朝が、改訂古事記に挿入したものである証拠になる。原古事記は倭人が海外に干渉した痕跡は示さなかった筈である事も、その証拠になる。
「から」は後世になると「唐」を指し、中華大陸を指す言葉になったから、古事記が記す韓鍛(からかぬち)は大陸の鍛冶技術を指したと想定され、文化は中華大陸から伝わったと信じ込ませる歴史観は、古事記の思想の一部だった事になる。海洋民族の時代を抹消する為には、東南アジアの海洋民族もいなかった事にする必要があったから、その様な歴史観にする必要があった事は常識的に理解できるだろう。
呉服(くれはとり)を挙げたのは、現代人が高級な和服を呉服と呼ぶ様に、この時代も「呉服」は日本語になっていたから、大陸から伝わった重要な文化要素として、挙げざるを得なかったと推測される。飛鳥時代の人々も晴れ着は「ごふく」と呼んでいたが、古語らしく「くれはとり」と読ませた疑いもある。
従って原古事記が示した海外の国は、曖昧な「常世の国」と百済しかなく、大陸文化が朝鮮半島経由で伝達されたとの歴史観も、古事記の思想の一部だった事になる。対馬部族が仏教を導入する為には、百済を仲介する必要があった事は、当時の人々には常識になっていたから、百済の国名を挙げたと推測される。飛鳥時代の仏像は北朝様式であるとの指摘もあり、それには高句麗と関東部族の仲介が必要だった筈だが、高句麗の名を挙げる事はできなかった。壬申の革命の契機が高句麗の滅亡だった事は、特に明らかにしたくない事実だったからだ。
この様な事情がありながら、天孫降臨説話で韓国を敢えて使ったのは、倭国王家の始まりを示す為には、青州との交易が重要な役割を果たしていた事を、示す必要があった事を示唆している。
原古事記が実際の歴史事象を暗喩する場合、登場人物の創作名称などの、機知に富んだ言葉で軽く触れるだけだが、上記の場面設定では、重厚な暗喩を例外的に重複させている。新生日本にとって、天皇名称の復活が極めて重要であると認識し、古事記が天皇を名乗った倭国王家の年代記の変形である事を、周知したかったからだと考えられる。つまり古事記の創作歴史が、倭国王家の年代記を変形したものである事を周知する為には、その出発点である天孫降臨説話に重要な意味があり、暗喩を何重にも重ねてそれを確認させたと推測される。
奈良朝が改訂古事記に神功皇后の三韓征伐を挿入したのは、その様な原古事記に倣って奈良朝の祖先である卑弥呼を、顕彰したかったからだと考えられる。それが歴史の流れと整合しないのは、奈良朝が邪馬台国や大率の年代記を持っていなかった事を示しているが、この起源説話が人々の説得に重要な役割を果たしたから、奈良朝も類似の説話を必要としていた事も示している。
邪馬台国にも年代記があったと想定されるが、壬申の乱で淡路系邪馬台国の拠点(難波の宮と言われている遺跡)が焼け落ち、邪馬台国の年代記が失われた事が、奈良朝が邪馬台国の年代記を持っていなかった理由かもしれない。革命後に甕星に倣って年代記を焚書してしまった可能性もあり、事実は分からない。難波の宮が消失した事は、考古学的な発掘によって確認されているが、それは淡路系宮家の拠点であって、武庫川系の宮家は古市古墳群や百舌鳥古墳群の近傍にあったと推測されるからだ。
原古事記の著者が卑弥呼や台与の存在を意識し、それに関する暗喩を原古事記に挿入したとすると、妻に頭が上がらなかった仁徳天皇がその候補になる。「仁徳天皇の御陵は毛受(もず)の耳原にある」と記されているから、違うと主張する人がいるかもしれないが、元明天皇が神功皇后を卑弥呼に比定して古事記を改訂すれば、当然仁徳の墓の場所を書き換えただろうから、反論の根拠にはならない。用明、崇峻、推古にも類似した事情があった事は既に指摘したが、応神天皇以降は奈良朝の祖先系譜になるから、他の天皇についても改訂してしまった可能性が高いからだ。
日本語の「から」は大陸を意味し、原古事記が創作された飛鳥時代には「から国=唐」だったが、それでありながら韓国を「から国」と読ませたのは、古い時代である事を連想させると同時に、沖縄~台湾~浙江省が倭人の航路だった事を、読者に連想させない工夫だったとも考えられる。大陸は広いから包括的な地名はなく、玄関口で大陸の内部を区別したと想定され、渤海の入り口が韓国で、もう一つの入り口だった会稽には別の名称があったと想定される。隋書は台湾を琉求と記しているが、この地名は大陸人が命名したものではなかったから、琉球の場所は時代と共に変遷した。壬申の革命後の動乱期に沖縄に逃れた倭人が、正しい地名として沖縄を琉球にしたと想定され、倭人の大陸への南の玄関口は、台湾を含む琉求諸島だった可能性が高い。琉漢字は宝を意味するから、大陸の宝を求める航路として琉求と名付けた可能性がある。
くじふるたけは「くじの霊を遷した岳」を意味するから、高千穂の峰を久慈の霊峰に見立てたと推測される。現在の日立の周辺に久慈岳と呼ばれる山はないが、久慈川がくじの名を留めている。甕星の子孫が奈良朝の迫害から逃れ、岩手県の久慈を新たな拠点にしたとすると、久慈は湊があった地域の名称だった事になり、那珂川とは異なる久慈川がある事と整合する。倭人語の「く」は飛び地を意味したと指摘したが、これらの「く」も同じ意味だったとすると、海洋民族の集積地だった東京湾岸から離れた日立は「く地」だったから、「くじ」になった可能性もある。それであれば岩手県の久慈も、同様の性格を持った地域になって話は整合する。
笠沙の御前は薩摩半島から西に付き出した、野間半島を指したと想定される。甑島には薩摩川内や串木野の方が近いが、甑島を拠点とした倭人達が関東と連携する為の航路は、坊津や佐多岬を周回して太平洋沿岸を航行するものだったから、倭人にとって甑島に近い九州は野間岬だったと推測されるからだ。沖縄で宝貝を満載した船がトカラ海峡を越えると、野間岬を道標にしながら甑島に向かったであろう事も、甑島と笠沙の御前を一連の名称として認識していた可能性もある。
甑島から長崎半島の先端にある野母岬までの100㎞は、北極星を目指して漕ぎ続ける事ができたから、日照りが厳しい日中を避けて涼しい夜間に漕ぎ進む事ができた。その先で長崎県の半島群を周回する必要があり、笠沙の御前を出発地にすると航路距離が長く複雑になった事も、甑島が拠点だった可能性を高める。
甑島から北上した船が西彼杵半島の沿岸を航行し、平戸瀬戸を抜けると北に壱岐があり、朝鮮半島南部に向かう事もできたが、この時代の倭人は野母岬から再び北極星を頼りに真西に向かい、五島列島南端の笠山岬を周回して済州島の漢拏山(標高1950m)を目指したのではなかろうか。五島列島の西海岸に標高460mの父ヶ岳があるから、夜間に西に向かった船が夜明けと共に済州に向かった場合には、その180㎞の航路内で、どちらかの山頂が見えた。従ってこの航路が実現できた甑島は、沖縄から渤海南岸に向かう航路の重要拠点になり易い島になり、宝貝交易に従事した海洋民族の根拠地に相応しい場所だった。縄文前期に南太平洋を横断した海洋民族と同じ航行能力を持っていた倭人の航路として、大胆な発想ではないからだ。
湖北省に運んだ宝貝貨に穴開け加工を施していた拠点は、縄文後期初頭は上海の馬橋だけだったが、沖縄から北に輸送する宝貝には別の加工拠点が必要になったから、甑島の近傍に新たな加工拠点を設定する必要が生まれた。その作業は海洋民族化した縄文人が担務したから、九州本土に彼らの移住地を求める必要があったが、熊本や長崎は九州縄文人の勢力圏だったから、それを避けて薩摩半島に拠点を設けたと推測される。
関東縄文人は稲作者でもあったから、その拠点にはmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培できる場所も必要だった。笠沙町を流れる大浦川流域はその適地ではあったが、日置市に広がる吹上浜の砂丘の内陸部には、広い稲作可能地が広がっていた。この地は古事記に阿多として登場し、天孫降臨した天忍穗耳命が妻にした木花之佐久夜毘売の別の名は、神阿多都比売であるとした事がその事情を示している。時代が下った神武の九州時代の妻は、阿多の小椅君の妹の阿比良比売だから、縄文晩期には稲作民が姶良にも入植していた事を示している。
笠沙から北に延伸している吹上浜は、庄内平野や能城平野と同様な海岸砂丘がある浜で、砂丘の内側に水田地帯がある。庄内平野や能代平野は歴史時代になってから田園地帯になったが、九州の降雨は東北より激しく、平野部の面積は狭いから、砂丘の内側に形成された湖や汽水湖は、縄文時代の早い時期に失われ、mt-B4だけではなくmt-Fにも、豊かな稲作地を提供する沖積地になっていたと想定される。そのコメを甑島に運び出したり、加工する宝貝を入荷したりする湊が、古代湊の地形に相応しい笠沙町にあり、野間岬が笠沙の御前だったと考えられる。
サンズイがある沙は水辺の砂を意味するから、この時代の笠沙は吹上浜一帯を指したと考えられ、高千穂の峰を高原山に見立てたのは、笠沙や姶良に移住した北関東の縄文人だったと想定される。那珂川の中流域にある大田原に、縄文中期の関東系土器を伴う遺跡がある事は既に指摘したが、縄文後期に関東のmt-B4がこの地域に大挙して入植した事は間違いない。彼女達の稲作地になった大田原市は、高原山の麓にあると言っても良い場所にあり、九州に入植した稲作者にとって、姶良は高千穂の峰の麓にあると言っても良い場所だから、「高原の山」と「高千穂の峰」は、当時の関東部族にとって対になる表現だったと考えられる。温暖な九州では稲の生育が目覚ましかったが、北関東ではそれほどでもなかったから、大田原市の平坦地は「高原の地」と呼ぶべき状態で、姶良は稲穂が密集する「高千穂の地」だったとすると、「高原の山」と「高千穂の峰」は、地域事情も加味した景観を示す名称だった事になる。
現在の霧島連山の最高峰は韓国岳だが、4千年前のこの時代の最高峰は高千穂の峰だったのでなければ、「高千穂の峰」の名称にそぐわない。「高千穂の峰」を現代語訳すると、「広い稲田に無数の稲穂が風に揺れ、その背景に見える高い峰」になるからだ。
韓国岳が隆起して高山になった記録は存在しないらしいから、新しい歴史時代には韓国岳が存在した事になるが、新しい歴史時代は古事記の成立と共に始まったから、縄文後期の文献を参照した古事記の著者の認識では、高千穂の峰が最高峰だったと推測される。古事記を読んだ人が韓国岳と命名した筈だが、その人は倭人の歴史を知らなかったから、この峰から韓国が見えたと解釈した事になる。ウィキペディアは韓国岳について、標高1700mの山容の900mから上は、1万5千年前以降に噴出した新期溶岩からなり、火砕流と軽石の噴出が繰り返されてできた噴石丘であるとしているが、山容が形成された時期は明らかにしていない。
薩摩半島に移住した関東縄文人は、西に流れる万の瀬川や神之川、東に流れる甲突川(こうつきがわ)や田上川の流域をmt-B4の稲作地とし、その中核地が後世に阿多と呼ばれた笠沙(日置市と南さつま市)だったと想定される。姶良も稲作地だった事は思川や蒲生川の流域にも入植した事になるが、そもそもは宝貝の加工のために移住したから、大浦川を宝貝の加工地にして、海流が北から南に流れて悪臭を放つ水が北上しない吹上浜の内陸部を、稲作地にしたと推測される。しかし海洋民族の中核だった天氏集団が甑島を引き払うと、最大の稲作地だった姶良が縄文人の中心地になった事を、古事記は示唆している。但し縄文晩期以降の大陸での武闘の痕跡を示す甕棺墓は、鹿児島県では日置市吹上町と南さつま市金峰町から発掘されているだけだから、海洋民族は東シナ海沿岸を拠点とした交易活動を継続していた事になる。
天孫降臨説話が示す真の歴史
甑島を根拠地とした俀人の主要な商流は、沖縄で採取した宝貝を青州に運び入れる事だったが、縄文後期初頭に荊の青州への入植と、越人の渤海南岸での製塩が同時に始まったから、天氏の沖縄から甑島への移住も縄文後期の早い時期だったと考えられ、甑島に移住した直後は未だ漢字がない時期で、俀人の年代記が記録され始めたのは、越人が主導した夏王朝の成立後だったと推測される。倭国王家の年代記としては、冒頭に「甑島を拠点にして、宝貝と塩の交易に従事していた」事が書かれ、その始まりについては何も書かれていなかったと想定され、その年代記に記された多数の人物名を日子穂穂出見命と一括し、その年期は580年だったと記している事と整合する。日子穂穂出見命は、多数の穂に稲の実が付いている様に、膨大な数の日子がいた事を示す、古事記の著者のユーモアに富んだ命名だからだ。
古事記がこの説話で意図したのは、倭国王家の祖先の画期がこの時期にあり、それを天孫降臨説話とし、次の山彦海彦説話に繋げる事により、「天皇」と呼ばれる身分が発生した時期と経緯を示す為だったと考えられる。天孫降臨説話~山彦海彦説話は、シベリアの狩猟・漁労民族と北方派の交易が1万年以上続いた後に、南方派が関東部族の経済の主導権を握った経緯を示しているからだ。南方派が主導権を握ると関東に漢字文化と、生産集団を統括して交易を差配する為に、夏王朝的な会議やその議長である「天皇」が、生産集団を統括していた北方派の中から生れたからだ。古事記の著者はその経緯を認識していたから、天孫降臨を天皇制の「事始め」と位置付けたと考えられる。
安定的な縄文社会は縄文中期で終わり、激動の時代に足を踏み入れる画期が縄文後期だったからでもある。鉄器時代になると毛皮交易などによって再び北方派が主導権を得たが、毛皮交易も鉄器の生産も最終的に出雲部族が主導する産業になったからだ。
天津甕星は北方派に属する天氏だったから、彼の祖先伝承では南方派の台頭は驚天動地の出来事で、彼の正当性を主張する為にはこの歴史は受け入れ難いものだったが、天津甕星は天氏の本流で、天体観測集団の指導者だったから、自分の出自を称賛する必要はなく、復古主義への支持が得られる事績に相応しいか否かが、古事記を編纂する際の重要な観点として、この説話を創作したと考えられる。この時期の説話と彼の家系譜を重ね合わせたのは、その屈辱的な事情を緩和する為だった可能性もある。
南方派の俀が縄文後期に関東の主導権を握った経緯は、以下の様な事情だったと推測される。
関東から南方に船出した海洋漁民は、縄文中期までは沖縄~台湾~福建省を経由して浙江省に至り、杭州湾で塩を積んで湖北省に遡上し、湖北省でコメや工芸品を積んで杭州湾に戻り、塩の代価として浙江省にコメを降ろした後、華北のアワ栽培者の集落で工芸品を獣骨に替え、再び沖縄経由で関東に帰着する、長い航路を踏破する必要があるものだった。従って関東から船出した漁民には航路の途中で余計な事をする余裕はなく、関東に獣骨を持ち帰る事だけを目指し、ひたすら航海を続けたと想定される。
沖縄に移住していた天氏集団と、彼らと行動を共にしていた海洋漁民は、湖北省に1年に2回遡上する事もできたし、湖北省の荊の交易活動の為に多彩な便宜を図る事ができたから、荊の青州移住に際しても多大な便宜を図ったと想定される。つまり沖縄に移住していた天氏が、関東から渡来した漁民の水先案内や交易の手引きを行い、帰路に獣骨を満載しても1年未満の交易活動になる様に、指導を行っていたと想定される。
その様な天氏は荊や越に対する親密度が高く、現地の事情にも明るい人達だったから、本来であれば青州を中心にした宝貝交易も、沖縄に移住していた天氏が差配するべきものだったが、青州の荊や越人の人口爆発が起こると交易量が爆増し、航路の選定も複雑になった上に、それ等の輸送に北九州の漁民も加わると、交易の差配も複雑になったから、天氏が拠点を沖縄から甑島に移して九州の諸部族を糾合した九夷を結成し、関東の天氏と連携しながら青州交易に対応したと想定され、俀の中核的な天氏は甑島の天氏である状態になったと想定される。
沖縄は浙江省を経由して湖北省に出向く最短ルートだったが、交易の中心が青州に移行すると、渤海経由の航路が重要になる事は必然的な結果であり、縄文後期の前半期に湖北省が過疎化した事も、沖縄から甑島への拠点移動を加速したと推測され、五帝の堯の墓が甑島にあった可能性が高い事も、その事情と整合する。
竹書紀年が記す五帝時代は、古事記が記す天孫降臨時代だから、山海経の五帝に関する記事は、甑島と笠沙にいた俀の天氏に関する事情になる。
山海経の海外東経に以下の記述ある。
「大人国は嗟丘の北に在り、坐して船を削る。」
「嗟丘は百果の所在、堯を葬った(場所の)東に在る。」
「黒歯国が大人国の北に在る」
笠沙の浜が嗟丘(砂丘)で、甑島が大人国だったと推測され、甑島の天氏が船を造っていた事を示唆している。大人は背の高い人を意味したのではなく、権勢や財力のある天氏を大人と呼んだと想定されるからだ。関東部族の船は中華人の感覚では大型船だったから、造船者も巨人であると考えて大人国になった可能性もあるが、いずれにしても五帝を輩出した人々の国が大人国だったと想定される。
嗟丘は百果の所在との記述は、東南アジア原産の多種の柑橘類が実っていた事を指したと想定される。俀は東南アジアの海洋民族と交易を行っていたから、縄文人が九州南端の笠沙に入植すると、東南アジアの色々な種類の果物類を、阿多に持ち込んだと推測される。縄文人は食用の実が成る樹木の栽培者だったから、果樹の品種改良技術にも優れていたと推測され、薩摩半島独特の果樹栽培が生まれた可能性が高い。但しパパイアやドリアンは栽培できなかったから、温帯地域でも栽培できる柑橘類を栽培したと推測され、九州に色々な種類の柑橘類があるのは、その名残であると考えられる。「柑」も「橘」も中華にはなかった果樹を示す、和製漢字である事がその事情を示している。
堅果類の栽培者を起源とする越人については、中国に柑橘類を持ち込んだ形跡がなく、多数の越人が渡航したフィリッピンには、果物類の原生種が殆どなかった事を示唆しているが、越人の祖先は磨製石斧を使わずに堅果類を栽培し、磨製石斧が容易に入手できる様になったのは、稲作民族化して製塩者になってからだから、彼らには果実を栽培する文化が育たず、フィリッピンに渡っても果樹を栽培化しなかった結果であるとも言える。
中国原産と言われる果実には柑橘類は殆ど含まれず、広東などにライチ(一族一種の希少種)や羅漢果(ウリ科)などの、特異な種しかない実態がある。それらは漢書が粤と記している地方で生産されているから、越人の栽培者だった粤が広東以南に拡散した後で、インドシナ半島原産の果実を栽培化した可能性もあるが、むしろ越人とは別種であるmt-M8aが栽培化した可能性が高い。ムクロジは縄文早期に九州に移住したmt-B5の栽培種だったから、その類縁種であるライチはmt-B5が栽培化した可能性があるが、羅漢果はつる性の多年草で亜熱帯の山岳地帯を好む種だから、mt-M8aの栽培種だった可能性が高い。
中国の著名な果実は、梅、モモ、李などの冷温帯系の果物で、植物学者はそれらを中国原産であると一応言うが、科学的な根拠は皆無に等しい。氷期の中国にこれらの原生種が生えていた筈はなく、後氷期になってから東南アジアから自然に北上して来た事になるが、越人は暖温帯性の堅果類の栽培者だったから、冷温帯性の落葉樹である梅、モモ、李の栽培起源者だったとは考え難いからだ。荊は堅果類の栽培者ではなかったし、樹林が生れない洪水地域の稲作者だったから、果実を栽培化する機会に乏しかった。
従ってこれらの冷温帯性の果樹の起源は、冷温帯性の樹木栽培者だった縄文人や韓族に求めるべきだろう。魏志東夷伝は、「扶余の地には果実がない」と記し、シベリア系の栽培者は果実を栽培しなかった事を示しているから、中華の冷温帯性の果実のルーツは縄文人や韓族以外には、秦人を含む中央アジアの民族しか想定できない。
植物学者にそれを証明する意志がある様には見えないから、此処で敢えて科学的に判断すれば、梅、モモ、李、杏、柿などの冷温帯性の果樹の起源は、縄文人だったと考えられる。韓族の縄文草創期から早期は長く苦しい流浪時代で、先ずはドングリやクルミを継続的に栽培する事で、精一杯だったと考えられるからだ。隋書などが韓族の特産品を大きなクリと記し、その状況を示唆してはいるが、既に長期の交易関係にあった日本からの、渡来種だった疑いは払拭できない。縄文晩期に荊の稲作が行き詰まると、関東から多数のmt-B4が熱帯ジャポニカの栽培者として揚子江流域に入植したから、その際に上記の果樹も持ち込んだとすれば歴史的な経緯も明らかだから。
甑島には上、中、下の3島があり、人が住みやすい上甑島が俀人の拠点だったと想定すると、大人国は嗟丘の北に在りは上甑島が笠沙の御崎(野間岬)の北にある事と一致し、嗟丘は堯を葬った(場所の)東に在るとの表現は、山岳信仰がある関東部族の埋葬地に相応しく、笠沙の砂丘は下甑島の東にあるから東西関係が正確に一致する。下甑島には尾岳(標高604m)などの高山が並び、人が居住できる場所は殆どないが、高千穂の峰を神話化する民族の墓域に相応しい島だった。
五帝時代に青州の荊や越人が甑島を訪れ、笠沙で柑橘類を食べた記憶が余りに鮮明だったので、戦国時代まで伝承されていた事になる。
黒歯国は春秋時代に山東に居た越人を指した可能性があるが、大陸の人々が武闘的になった春秋時代以降は、倭人は大陸の人々に正しい地理観を示さなくなったから、笠沙で柑橘類を食べた荊や越の記憶と同列に扱わない方が良い。戦国時代の文献には色々な時代のものが混在しているから、一つの一つの文はそれぞれ独立に解釈する必要がある。
縄文後期後葉に黄河が堆積した土砂が、渤海と東シナ海の水路を遮断すると、渤海南岸で製塩した塩を湖北省に運ぶ為に、洛陽への水運とそこから200㎞ほどの陸路で南陽に達し、河川路で湖北省に運ぶルートが生れ、渤海交易圏が拡大した。青洲南部は東シナ海交易圏になり、海から河川に遡上する俀の交易路は南北に分断された。俀人だけの海運力ではこの二つの交易圏を担う事ができなかったから、薩摩半島の俀人が九夷を結成し、その組織に渤海交易を委ねた事は既に指摘した。
その様な状態になると、俀人が青州南部運ぶ塩は再び浙江省産になったから、浙江省の製塩業が再び活況を呈したと推測され、関東の漁民を主体とする俀の主要な航路は再び沖縄経由になり、九夷と商圏を分ける状況が生れた。
俀の拠点が甑島から関東に移った事を示す書籍は古事記しかないが、この時代の俀の経済活動を考察すると、俀人が関東に拠点を移す必然性があった。
天孫降臨に続く海幸ヒコ山幸ヒコ説話
天孫降臨した天忍穗耳命は木花之佐久夜ビメを妻にし、隼人と阿多君の祖、海幸ヒコ、山幸ヒコ(別名は日子穂穂出見命)が生れた。
山幸ヒコが釣りをしたくなり、海幸ヒコから道具を借り受けて釣りをするが、魚に針を取られてしまう。海幸ヒコは失った針を返せと意地悪く言い張るので、困った山幸ヒコが海辺にいると、塩椎神が現れて綿津見の神の宮に行く方法を教えた。海幸ヒコが言われた通りにすると海神の宮に着き、言われた通りに桂の木に登ると、豊玉ヒメの侍女が水を汲みに来た。
既に説明したこの侍女との意味不明の長い遣り取りの後で、
豊玉ヒメの父の海神が海幸ヒコを、此の人は天津日高(ひこ)の御子のソラ津日高であると言って宮に導き入れ、アシカ皮の疊を八重に敷き、更に絁疊(絹の布)を八重に敷いて其の上に坐らせ、百の取机の代物(料理)を具え、御餐と為した。そこで其の女の豐玉ビメとの婚を令した。
山幸ヒコはこの宮に3年いたが、釣り針の事を知った海神が、魚を集めて釣り針を探し出したので、山幸ヒコは帰る事にしたが、海神は山幸ヒコに、兄が高田を作れば汝は下田を営む様に(人々に)命じ、兄が下田を作れば汝は高田を営む様に命じなさい。そうすれば吾が掌にある水が、三年の間に必ず兄を貧窮にさせると言った。また若しそれを恨怨にして攻め戦うのであれば、塩盈珠を出して溺れさせ、若しそれを愁いて請えば、塩乾珠を出して活かしなさいと言った。
帰った山幸ヒコが海神の言った通りにすると、全てが海神の言った通りになり、兄の海幸ヒコは、「今より以後は、僕は汝命の為に昼夜守護人になって仕え奉る。」と言った。
隼人阿多君之祖は薩摩半島に残った天氏、兄の海幸ヒコは関東の北方派、弟の山幸ヒコは関東に帰還した南方派を暗喩し、縄文中期まで関東を支配していた北方派が、縄文後期に獣骨交易の主役になっていた南方派が関東の支配者になる事を拒んだが、塩椎神の援助を得て関東の支配者になったと暗喩している。
塩椎神は塩釜神社の神であると推測され、宮の門に桂の木があった事がそれを示している。自生する桂はブナ林域などの、冷温帯の渓流などに多く見られる樹種だからだ。塩椎神の援助を得た事は、甕星の妻であり古事記の著者でもあった女性が、塩釜王の娘だったからだと考えられるが、縄文中期まで北方派の弓矢交易に協力していた東北や北海道の伊予部族は、それを失った縄文後期には南方派の経済力に頼る必要があり、漁民を交易者として提供したかった事情を反映している。つまり南方派と北方派の感情的な諍いに伊予部族の北方派が割って入り、関東部族の北方派を説得した事を示唆している。伊予部族の北方派の東北の拠点が、縄文後期から古墳寒冷期まで塩釜にあったのであれば、縄文後期の歴史と甕星の婚姻事情が重なっている、古事記の一連の話は整合する。
関東部族の南方派が関東に戻ったのは、以下の様な事情があったからだと推測され、その具体的な状況証拠はその8に示す。
沖縄から青州に宝貝を搬出すると、それだけで多量の獣骨を得る事はできたが、青州の経済活動は右肩上がりに活性化していたから、その市場に商品を投入する事は大きなビジネスチャンスだった。それを裏面から見ると、気候が乾燥した渤海南岸で製塩業者が生産性を高め、塩の相対的な価値が低下するとインフレが起こり、経済の活性化によってそれが加速されると更にインフレが進行し、宝貝を交易材としていた俀は時代の進展と共に、入手できる獣骨の量が減少していたから、俀も青州に商品を持ち込んで減収を補填する必要があった。
経済が活性化すると通貨の必要発行量も増えるから、当初はその状況を享受していた俀も、青洲の経済が成熟するに連れて宝貝貨の発行必要量が減少していくと、新たな商品を投入する必要に迫られたと推測され、その様な状態に気付く事に大した知識は必要がなかった。
関東にいた北方派はmt-B4と共に日本列島の各地を巡り、漁獲の拡大の為に漁具を作成していた縄文人に、交易者として自立する道を切り開いてはいたが、青洲を巡る交易量と比較すれば大きく見劣りしたから、一部の縄文人が俀を介して青州に製品を出荷し始めると、他の縄文人も色々な物産を青洲にも出荷したくなった事も間違いない。それに賛同して協力を惜しまない漁民も多数いただろうから、更に商品を充実させたい南方派と、傘下の生産者が俀の為の商品を生産し、自分達の交易活動から離脱していく集団が発生していた北方派に感情的な諍いが発生したが、やがて巨大市場を抱えていた南方派の勝利に終わる事は、必然的な結果だった。それを敢えてこの様に仰々しい説話にしたのは、この時期の北方派の敗北を明確に示したかったからだと推測される。
その理由として、神武天皇から始まる天皇制は北方派の復権を意味するから、その前に北方派が大負けする説話は歴史のダイナミズムを示し、古事記思想の一つの側面である歴史の必然性を示す事になり、古事記の著作物として権威を高める事が挙げられるが、甕星政権の正統性を示す観点から言えば、それに傷を付ける説話でもあった。甕星がそれを含めた英断を下したのであれば、優れた指導者だった事になるが、古事記説話の組み立ての構想は、甕星の妻の独創性に委ねられていたとすると、不満があった甕星のクレームを尻目に古事記の著者が押し切った構図もあり得る。
文学的に解釈すると、後者だった可能性が高い。天孫降臨と海幸ヒコ、山幸ヒコに説話は古事記の中でも文学性が高く、言葉遣いが厳選されているからだ。夫妻の緊張関係の中でこれらの説話が生れたから、その様な事情になったと推測されると共に、甕星一族の三代の事績がこれらの説話に投影されている事も、古事記の著者の配慮から生まれたものだった可能性があるからだ。人々に皇族の私生活に興味を持たせる事は、古事記の著作時から意図的に狙ったものではなく、結果として生まれたと考える方が自然である事も、その根拠になる。
上記の説話の最後に、以下の文章がある。
故に今に至るまで、其の溺れた時の種種の態を、絶やさずに仕え奉る也。
溺れた状態の仕草を演じて仕えるのは、極めて屈辱的な事であり、原古事記の記述には相応しくない表現なので、改定時に挿入した疑いも拭えないが、原古事記に記されていたとすると、甕星の祖先が被った屈辱を世間に晒す事は、「天武天皇の祖先もこの様な屈辱を受けたが、今は全てを水に流して和解する時期であり、自分も恥を世間に晒しながら和解を進めているのだから、皆も過去の怨念は忘れて欲しい」と願う強力なメッセージだった事になる。それであれば、文章が卑屈であればあるほど効果が高まるから、古事記の著者が品よく捻った言葉がこれだった事になる。
この説話の表現の文学性が高いのは、山幸ヒコと豊玉ヒメのロマンスは、著者の経験を背景にしているからである可能性が高い。甕星の父と駿河の富士宮王の娘の結婚、即ち天忍穗耳命と木花之佐久夜ビメの婚姻も政略結婚だった可能性が高く、甕星も政略結婚だったが、その為に初めて塩釜を訪れた際に、ふざけて時刻より早く来て桂の木に登り、この説話の様な経緯を経て披露宴になったのではなかろうか。以下に示す様にこの一連の政略結婚は、伊予部族が関東部族の協力得る為に仕掛けたもので、甕星と伊予部族の王の娘との政略結婚はその最後の仕上げだったから、塩釜王は甕星を大歓迎し、婚姻の披露宴は盛大なものだった筈だから。
塩盈珠と塩乾珠の説話は、この頃の関東に津波の被害があった事を示唆している。北方派の拠点だった北関東の沿海部に大きな被害があったが、相模湾や駿河湾の沿岸部の被害はさほどではない状況は、今次の東日本大震災時にも起こった事情だから。
南方系の天氏のその様な要請は、縄文後期の早い時期に始まり、それによって多様な商品とその生産集団が各地に生まれ、それを販売する北方派の海洋交易者も、関東各地に生まれたと想定される。多彩になった商品を扱う為には、生産者や販売者が地域集団化する必要があり、漢書に「100余国有り」と記された状態に向かい始めたと考えられる。つまり南方派が甑島から関東に戻ったのは、縄文中期までの彼らの海洋交易は北方派が開発した海運力に依拠し、販売していた商品は北方派が開発した弓矢だったが、中華でも弓矢交易の重要性が薄れ、俀の交易が荊の商品力と越人の製塩力に依存する状態になると、南方派も自前の商品生産力の必要性に目覚めただろう。その為には関東に戻り、北方派が育成した生産集団と連携する必要性が高まり、生産地である関東に拠点を移したと考えると古事記の説話と整合し、縄文後期~晩期の考古学的な発掘事情とも整合する。新たな商品と生産集団に関する詳細は、その8で説明する。
その結果として地域の生産集団の規模が拡大して諸国になり、諸王が生まれて交易が活性化すると、最終的に天皇称号が生まれた事になるが、この天皇は現在の我々がイメージする天皇とは異なり、商品の生産と販売を取り仕切るだけの存在で、南方派は夏王朝に参加する統一集団だったから、北方派の天氏が王を有する諸集団を統括し、巨大商社だった南方派に商品を送り込む生産組合の、専務理事の様な存在だったと推測されるが、内需に対してはそれらの商品の販売者になった各地の漁民集団に、市場を分割して割り振る機能も果たしただろう。
漁労技術を内需として販売する場合には、類似した商品を扱う生産者が多数生れていたからであり、稲作を普及させるmt-B4にも、気候や地形に応じた分担があった筈だから、それらの集団の生産活動が活性化して諸王が生れても、天皇の機能は変わらなかった筈だから。
北方派が育てた零細な交易集団が、南方派が開拓した青州の市場に商品を出荷する事によって成長し、北方派を見限って南方派の指導の下で国を形成する経済力を得た事は、北方派にとっては不本意だったのかもしれないが、北方派は南方派が招いたmt-B4と連携して内需交易に活路を見出し、交易者が形成した国が北方派を見限って南方派に属す様になっても、mt-B4は一貫して北方派の内需経済を支え続けたから、それによって交易者の離合集散は、時代の変化によって流転するという歴史観が生れ、古事記もそれを受け入れている。現代日本では当たり前の思想だが、その基本思想を持たない西の大陸の人には、受け入れられない思想である様に見える。
山幸ヒコの別名である日子穗穗手見命(ひこほほでみのみこと)は、高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580年)坐し、御陵は高千穗の山の西にある。この命が豊玉ビメ命を娶って生まれた御子の名は、五瀨命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命で、若御毛沼命の亦の名は豐御毛沼命、亦の名は神倭イワレビコ命。御毛沼命は波穗を跳んで常世国に渡り坐す。稲氷命は亡き母の国に入り海原に坐す。
日子穂穂手見命は古事記の著者が命名した名称で、優れた文学的センスを示している。稲穂は沢山のモミ(見=実)を付けるから、その穂を重ねた穂穂は、「日子が数えきれないほど大勢いた」事を連想させ、580年間に多数の天氏の指導者が膨大な数の事績を連ねていた事を、この名称が一言で示している。それが古事記の著者のユーモア感覚の鋭さを示しているが、真面目な人には「冗談を言うな」と言われそうな名称ではある。
原古事記の著者はこの様な文才を至る所で開花させているから、これはその一つとして理解する事ができるが、ユーモアを交えて本音を示していると解釈する事もできる。つまりこの時代の年代記には、天氏の指導者名と事績が延々と記されていたから、原古事記の著者としては「沢山の事が書いてあり、それを全部読んだ私も大変だったのよ」と言いたかった事を、この様な短縮形で表現したと解釈する事もできるからだ。
倭国王家の伝承を聞き知っていた飛鳥時代末期の倭人崩れの人々には、この奇異な命名から古事記の著者の感性が伝わったであろう事も、この推測の根拠になるし、古事記の著者はその様な効果も狙っていたと考えられる事も、その根拠になる。
古事記の著者は堅苦しい学術的な歴史書を書いたのではなく、民衆に新しい世界観を提示する為に、民衆が受け入れやすい説話を創作したと考える必要がある。古事記が人々の興味を喚起し、人々の話題に上らなければならないという重圧を、ひしひしと感じながら説話を創作していた筈だから、格調高い美文を創作した事は当然として、機知を随所に回らして大衆受けする冗談を各所に挿入する事も、著者の苦心に含まれていた。
高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580年)坐し、御陵は高千穗の山の西にあるという文体は、その後の天皇紀にも必ず登場するから、各天皇紀の類似した文体もその積りで解釈する必要がある。神武天皇以降は少し文体を変え、神倭イワレビコ天皇の御年は壹佰參拾漆歳。御陵は畝火山の北方の白檮尾の上に在るに代わったが、一人の寿命がその様に長い筈はなく、日子穂穂手見命の様に何代もの天皇を一人で代用し、古事記全体の文章を短縮したと解釈する必要がある。また多数の王を代表する日子穂穂出見命の墓が一カ所だった筈はなく、墓の場所も事実ではい事を示し、関東に戻った山幸ヒコの話しが前にあるから、高千穂の宮にいた事も明らかな嘘であり、天皇が坐した場所も事実ではない事を示している。
しかし天皇と日子穂穂手見命の在位年をわざわざ記したのは、倭国王家の記録がどの程度の長さのものだったのかを示す事により、倭国王家の膨大な年代記を読んだ者が古事記を執筆した事を、世間の人々に認識させ、倭国王家の年代記を償却してしまう事の価値の高さを誇示し、天武天皇の決意がどの様なものであるかを、民衆に示す為だったと考えられる。従って古事記の著者にとって各天皇紀に示す寿命年次の合計は、該当者の在位期間として計算されるべきもので、数値は正確なものでなければならなかった。
夏王朝の年代記を転写したと想定される竹書紀年には、帝や后の即位年と在位年次が記されているだけで、帝や后の寿命に関する記述はないから、その様式で天氏の年代記も形成された筈であり、古事記の著者にも各日子の寿命は分からなかった筈である事も、天皇の寿命として記された数字は、複数人の在位期間だったとの想定の根拠になる。
その様な正面からの議論だけではなく、御年は○○歳。御陵はXXの上に在るとの表記は、古事記が一貫して用いている記述で、日本書記が用いている崩は使っていない事に着目する必要がある。これは天皇を特別な人として敬わせる為に、崩などの不吉な表現を避ける必要性から、古事記が初めて採用した文体であると考えられ、この文体が何を意味するのかを示す最初の記述が、日子穂穂手見命は高千穂の宮に伍佰捌拾歳(580年)坐し、御陵は高千穗の山の西にあるになり、寿命ではなく在位年を示す文体であると、これによって古事記が指摘していると解釈する必要もある。
これに関する計算手順は順次示すが、神武天皇の即位はBC1200年頃で、日子穂穂手見命の初代の即位年はBC1800年頃だったと推測され、禹が帝になって夏王朝が始まり、法治主義者だった越人が年代記を記録し始めた頃になり、それを見た関東部族の南方派の天氏も、自分達の年代記を作り始めたとの想定と整合する。
古事記が歴史実をかなり正確にトレースしている事と、原古事記は山幸ヒコを天武天皇に、その子供達を神武天皇世代に暗喩している事から推測すると、御毛沼命は波穗を跳んで常世国に渡ったとの記述は、縄文晩期寒冷期に荊の稲作が不振になった際に、多数のmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培する為に、荊に浸潤した事績との関連性を示唆しているが、誕生順と記述順が逆転している上に名称と役割が不整合だから、改定古事記かそれ以降の転記で、若御毛沼命と稲氷命が逆転した疑いがある。つまり凍り付いた大陸に耐寒性が高い稲作を伝えたのは、女神である稲氷命で、母の国である東北に渡ってその地の海洋民族の棟梁になったのが御毛沼命であれは、名称と事績が一致するからだ。光仁天皇から始まる平安朝の系譜は、この御毛沼命の子孫だったと言えるからでもある。
稲氷命については、古墳寒冷期が終わり始めていた時期の人物だから、時期が矛盾している感があるが、移民事業によって日本から華南に移植した日本式の温帯ジャポニカ栽培も、古墳寒冷期が終わり始めた頃に温帯ジャポニカの遺伝子純度が高まり、生産性が低下していた時期だから、気候が温暖化し始めて熱帯ジャポニカの生産性が高まると、華南に入植していたmt-B4が北進し始めた可能性が高く、中華世界の稲作が混乱状態になったが、それを指導するべき荊の貴族層は既に東南アジアに入植していたから、混乱を指導する者は中華世界にいなかった。
mt-B4に祖先伝承があり、この混乱の収拾を指導する人材の派遣を関東に求め、関東から再びmt-B4集団が渡航したとすると、その統括者が甕星の娘だった事に違和感はない。その統括者に求められたのは稲作技術ではなく、女性達の往来を統括する機能だったから、海洋民族の系譜である必要があったからだ。
山東・遼寧ではmt-B4の比率がmt-Fの1.5倍であり、元々海洋民族のmt-B4がいた温暖な台湾では、mt-B4の比率はmt-Fより僅かに多い程度である事が、mt-B4が北上に積極的だった事を示唆している。従ってその様なmt-B4の栽培ネットワークを統括する存在として、北関東の女性が大陸に渡る事情があった可能性がある。しかし政変が起きて天武天皇の子が暗殺されると、この企画は中断された筈だから、中華の歴史に痕跡を残す事はなかったと推測される。
御毛沼命は亡き母の国に入り海原に坐すと記されていたとしても、敢えて亡き母と記した事に不自然さがあり、改定時に母を亡き母に書き換えた可能性が高い。つまり改定古事記が生れた712年には、原古事記の著者は既に亡くなっていた事を周知させる為に、書き換えたと推測される。勝手に書き換えた人の心理として、あり得る話になるからだ。
7-4-3 神武東征
天皇制の成立史を示す為に、天孫降臨と海幸ヒコと山幸ヒコの説話を挿入したが、国譲りで倭人時代が終わった事にして置きながら、これらの説話は海洋民族の歴史だから、海洋民族の活動は天皇制の歴史と関係がなかった事を再確認する為に、壬申の革命のもう一つの戦争だった難波王と飛鳥王の同盟軍と、関東部族と伊予部族の連合軍の戦争を神武東征説話として挿入し、倭人時代の最終章にする必要があった。
神武東征は第二段階の神話時代の最終章だが、古事記はそれ以前の神代を上巻とし、神武東征以降を中巻としている。神武東征説話は神武の天皇即位の原因だから、東征と即位を切り離す事はできないからだ。
神倭イハレビコ命は、其の兄五瀬命と高千穂宮に坐す。
神倭イハレビコ命は天皇に就任する前の名称で、文学的な才能を感じさせる名称でもあるから、原古事記にも天皇即位前の名称として記され、通説が主張する和風諡号ではないと推測される。
改訂古事記は全ての天皇に和風諡号を付与し、原古事記が創作した漢風の天皇称号を抹消した。奈良朝にとって最も重要な応神天皇の漢風称号が、不都合な名称だったからだと推測される。称号は生前の呼称で、諡号は死後に送られる呼称で、原古事記がそれをどの様に使い分けていたのか明らかではなく、名称はすべて称号だった可能性が高いが、歴史家は漢風諡号と記しているので此処でも漢風諡号と記す。
天皇名に「神」が付く漢風諡号は、神武、崇神、応神しかなく、倭人崩れの人はその理由を知っていただろう。神武は南方派の天氏が関東の支配者になった後、宝貝貨のインフレによって宝貝交易の利潤が失われ、縄文晩期寒冷期に大陸の稲作社会が大縮小した時期に、縄文晩期寒冷期に毛皮交易を重視した北方派の天氏が、関東の覇権を奪還しした時期の天皇だったからだ。
崇神は弥生温暖期になって毛皮交易が低調になり、越人が主導する絹布の生産によって中華経済が大躍進したが、大陸の社会体制の変化によって夏王朝が消滅し、交易が混乱した時期に、海洋民族の為に夏王朝の代役を務めた南方派の天氏だったと推測され、北方派から南方派に交易を指導する天氏が変わった時期の天皇だから、「神」は天氏の系譜が変わった事を示す符号だった。応神の名称は関東の天氏から北九州の天氏に、天皇位を移した事を示している。
応神から始まる天皇は関東の天氏ではなく、関東の人々は北九州の大率系譜を天氏と認めていたのかも不明な状態だったが、古事記が応神天皇としてこの系譜も天氏だった事を認めたから、奈良朝が宇佐神宮を建立したと考えられる。大率が嘗て天氏を称していたのであれば、古事記がそれを認知する事は、古事記の性格上当然の事だったからだ。北九州に天氏の宿祢(宮家)が移住し、その系譜が伝えられていたのであれば、北九州の大率の主張は制度上正当だったが、その真偽を検証する事はできない。
原古事記の著者はこの系譜を、倭の五王時代が終わるまでの天皇とした可能性が高く、その初代の天皇を示すマーカーが「神」を含む天皇名称だった。
飛鳥王は倭人ではなかったから、その規則の例外として当時の事情に即し、継体天皇(体制を継続した天皇)と命名した。
北九州の大率がBC120年頃に西の30国の指導者になった際に、関東の天氏が大率に天氏を名乗る事を許したが、大率はそれによって正当な天氏系譜を形成したと解釈した疑いもある。3代を経て臣籍になっても天氏を名乗る資格があったのか否かは分からないから、この議論には答えがない。
応神天皇の「応」漢字には「指名される」「それに応じる」などの意味があり、「天氏を名乗る事を許された天皇」を意味するから、古事記の著者は応神の立場を明確にする為にこの名称を採用したが、それらは奈良朝が漢風諡号を嫌う理由になったと推測される。
それ故に改訂古事記は漢風諡号を使わなかったが、日本紀は漢風諡号を使ったから、新唐書にその転記が記載されている。
両者にその様な違いが生まれた理由は、奈良朝は漢風諡号を使いたくなかったが、「甕星が原古事記を唐朝に渡した疑いがある」と考えていたから、唐に提出する為に創作した日本紀には、漢風諡号を使わざるを得ないと考えたからだと推測される。
甕星が天武天皇に就任すると唐に使者を送った事は、旧唐書も新唐書も記しているから、その際に原古事記とは別に天皇系譜を提出した可能性が高く、それを見た則天武后が、高宗に天皇名称を与えた可能性も高く、「疑い」ではなく事実だった可能性が高い。つまり奈良朝の使者が改めて使者を送った際に、その使者が甕星の提出した天皇系譜の存在を知ったから、慌てて日本紀を作成して奈良朝の正当性を主張した可能性も高い。
いずれにしてもこの天氏が、邪馬台国王が天氏を名乗る事まで勝手に許したから、関東の天氏が継体に天氏を名乗る事を許した際に、その罪を咎めて大率系譜を族滅したと想定される。魏志倭人伝が示す邪馬台国の刑罰は、法を犯すと軽い者は其の妻子を没収し、重い者は其の門戸や一族を殺すものだったから、関東の天氏にとって大率系譜の族滅は、倭人の法に則った処罰だった。
改訂古事記を参照させた風土記に天皇名が一切書かれていない理由は、それに絡む諸問題だったとすると話が整合する。
古事記がマーカーとした天皇名称に含まれる漢字は、「神」だけではなかった。古事記が天皇名に「武」を使っているのは神武と武烈だけだが、天武に「武」を使っているから「武」にも意味があったと考えられる。体制の大変化に関係した天皇に武を使い、この方針は奈良・平安時代まで引き継がれた様に見える。
神武は倭同盟を結成した天皇で、武烈は邪馬台国王も含めた倭人の最後の天皇で、次は飛鳥王の継体に変わったからだ。烈漢字は「火力が激しく、上に置いた物が裂ける」事を意味するから、武烈の下で倭人社会が大混乱に陥り、倭連合を崩壊させた天皇を意味した。
飛鳥王だった継体は倭体制を引き継いだ天皇だから、これも天皇の本質を意味し、命名者の鋭い感性を示している。
天武は倭人体制を終わらせた革命者で体制の変革者で、天は天氏の本流を意味するから、天津甕星に相応しい名称だった。
奈良朝もその感性を受け継ぎ、政変後に樹立された奈良朝の初代天皇を文武とした。日本列島で唯一の、天皇制を維持する王朝だったからだ。
桓武は平安京に都を遷した天皇だから、武を使う天皇に特別な意味を持たせる思想は、平安朝まで続いた事になる。
聖武はその例外に見えるが、奈良朝最後の男性天皇だから、武烈と同格に扱ったとしても不思議ではない。東大寺を建立した事が示す様に、仏教狂いの天皇だったから聖武にした疑いもある。聖武の後は再び女性天皇の孝謙になり、男性の淳仁に引き継いだが7年で廃帝にし、孝謙が重祚して称徳天皇になった。
しかし和気清麻呂の知恵により、称徳が譲位したかった道鏡は天皇にならず、邪馬台国系の奈良朝は称徳を最後に終わったから、女性天皇を中繋ぎと見做したのであれば、聖武は王朝を崩壊させた天皇になり、武烈と同類になる。
神武の話に戻ると、神倭伊波礼毘古命の伊波礼は「謂れ」であるとすると、人物名称によって事績を示す、古事記独特の手法を此処にも展開した事になり、神武の即位によって倭が生まれた事を示している。BC1500年に第一弾の寒冷化があり、荊は青州から南下したが、BC1200年に本格的な縄文晩期寒冷期が始まったから、北方派がmt-B4を荊に送り込む事により、荊の一部が揚子江以北に留まる事ができた。その様な荊から北方派に「倭」の名称漢字が贈られ、原古事記の著者が神武と命名した倭国王が生れ、それを北方派が天皇と呼んだとすると時代も整合する。
伊波礼を漢字で解釈して難解な典拠を示す人がいるが、改訂古事記にも「神倭伊波禮毘古命〈自伊下五字以音〉(伊以降の五字は音で読む)」と記されているから、神武の名は「神倭イハレヒコノ命」で、「神倭の起源を形成した人」を意味した。
「神」の名称を持つ人物は神代に多数登場し、特に尊貴な称号ではないから、「神倭」は「神々の倭=諸王の倭」と解釈され、倭同盟を政治的な集団とした事は示しているが、日子=毘古であるとすると「神倭イハレヒコノ命」の名称に大王を示す符合はなく、初代の偉大な体制変革者で、北方派から南方派に天氏系譜を変えた人である事を示す為には、神武の名称を特別なものにする必要があった。
この状況を文学的に推測すると、神武天皇の名称が先にあり、この名称を権威付けする為に「神」や「武」の漢字を意味付けした可能性が高い。つまり初代の神武天皇の名称は既にあったから、他の天皇の漢風諡号には、既に意味がある漢字として「神」や「武」を使い、神武天皇の名称の価値を高めたとすると、その様なマーカーを作った意味が明らかになり、原古事記の著者のきめ細かい構想力を示している事になる。
神武が即位したBC1200以前に内需交易に参加していた地域の小集団が存在し、南方派が関東に常駐すると多数の生産集団や交易集団が生れ、南方派が夏王朝的な制度をそれらの地域集団に適用したが、地域分権的な性格が強い関東部族内に夏王朝的な法治主義が広まると、地域的な交易集団毎に内規を生み出して、社長の様な王が多数生れたと推測される。中華の製塩業者は同じ製塩と塩の販売業を営みながら、地域毎に王を生み出していたから、生産品目が異なっていた関東の地域集団に、それぞれの王が生れる事は必然的な結果だったと考えられるからだ。
神武天皇が生れた頃の華北では、周と呼ばれた単一政権が生れてその他の交易者は諸侯になったが、多種の商品を生産していた関東では諸王の分権的な性格が強く、地域勢力を国と認定する必要が高まった事も、必然的な結果だったと推測される。海が身近にあって製塩業者が育たなかった日本では、製塩業が拡大して政権に変化する流れはなかった上に、元々が交易立国体質の文化圏だったからだ。
交易を活性化するには地域集団間の秩序認識が必要になり、その為には諸王を集めて会議を開催する必要があり、元々倫理観が高かった関東部族に、地域集団間の取り決めを制定する国際法は必要なかったから、その会議では物流の整合性が主要な議題になったと推測される。縄文文化を継承している現代日本人も、商行為に関する規約の制定や契約文の交換に関心がなく、(交易文化を共有する)人として許されない事はしないし、それでも問題が発生したら誠意をもって対応する姿勢を、共有している事がその証拠になる。
その様な会議の議長が天皇を名乗って関東内部の交易を仕切っていたが、神武がそれを広域に拡大し、北九州・岡山・大阪湾岸などの関東部族や、その周辺の他部族の一部の地域集団も含む倭同盟を結成したから、古事記の著者がその現象を表現する人物名として、「神倭イハレヒコノ命」と命名したと考えられるが、一代でその様な広域的な集団が生れたのではなく、世代を経る毎に参加集団が増えて九州を含む集団になるまでに、神武の寿命であると記した137年を要したと推測される。
九州には九夷を名乗っていた集団がいた事を竹書紀年と史記が示し、神武が即位したBC1200年には北九州は未だ倭連合に属していなかったが、137年後のBC1050年頃に、即ち神武が亡くなって綏靖が即位し頃に、殷周革命が起こって必要な武力の提供の可否を巡り、北九州は参加したが薩摩半島の俀は参加しなかった事情を、綏靖の即位前に姶良ヒメの息子とイスケヨリヒメの息子が対立し、イスケヨリ比売の息子が姶良ヒメの息子を殺して綏靖天皇になった説話が示し、大陸で多数の人命が失われた事と、人を殺し合う戦争に参加するには相応の心構えが必要だった事を示唆している。
神武の名称に「倭=やまと」を使ったのは、古事記の作者もその時代に「やまと」の名称が成立したと、認識していたからだと考えられる。倭人は海洋民族内では自分達を倭とは呼ばず、他の部族と自分達を識別する言葉として「やまと」と呼んでいたと想定され、「いずも」、「いよ」などと並び称される名称だった可能性もある。
神武東征
日向より発して筑紫に幸行し、豊国宇沙に到るとウサツヒコとウサツヒメの二人が、宮を作って大御饗を献じた。そこから筑紫の岡田宮に移って一年坐し、阿岐国のタキリの宮に七年坐し、亦その国から吉備の高嶋宮に遷り八年坐しき。
神倭イハレヒコノ命と五瀬命の二人の行動であるとしているが、実際に日向から伊予の軍勢を率い、難波と奈良に向かったのは五瀬命だけで、上に転記した文が示す地域は、それ以前に伊予部族が占領した地域で、日数はそれらの地域の人々と交渉を始めてから、占領までに要した日数だった可能性が高い。全ての地域で戦闘行為があったのではない可能性もあるが、筑紫の岡田宮に移って一年を含むそれ降の地名が、(13)飛鳥時代/列島統一の項に示す神籠石系の山城の分布と重なり、神籠石系の山城を作って守っていた北九州の勢力と、伊予部族の間に戦闘が繰り返され、出雲・対馬・難波系の勢力圏が瀬戸内から後退した事を示唆している。説話の地名が瀬戸内の西部に戻るものがあるのは、伊予部族の戦線が後退した時期があった事を示唆している。
伊予部族は壬申の革命の20年近く前から、徐々にこれらの地域を占拠していった事になり、その時期の朝鮮半島の動静も検証する必要がある。この時代の朝鮮半島は三国時代で、新羅が唐と連携すると、百済は高句麗と連携して対抗した。新唐書日本伝がその時期の出来事として、以下の様に記している。
650年代始め頃、(出雲王の使者が新羅の使者と共に来朝し)一斗枡ほどもある琥珀と、五升入りの容器大の瑪瑙を献上した。(当時新羅は高句麗と百済に侵され、厳しい状況にあった。)唐の高宗は詔勅を下し、軍を発して新羅を救援させた。
秘かに新羅を支援していた北九州勢力が、伊予部族の北進に対抗する為に北九州に釘付けになり、危機感を持った新羅と出雲王が、この様な挙に出た可能性がある。
655年 新羅王金春秋は(唐に)表を提出し、百済と高麗・靺鞨が其の北界を侵略し、三十余城が奪われたと唐に訴えた。
北九州勢の支援が得られないと分かった新羅が、唐との同盟に傾斜していったと解釈する事ができる。
660年、唐は将軍蘇定方に百済を討たせ、百済を大破して国王、太子、諸将を虜にし、唐の都に送った。百済の僧道琛(どうちん)と将軍だった福信は衆を率いて反乱を起こし、使者を倭国に派遣して王子の扶余豊を迎え、王にした。百済の西部、北部、翻城がこれに応じた。
この倭国は飛鳥ではなく、宗像勢力だった可能性がある。飛鳥王は出雲王に頭が上がらなかったから、新羅に敵対する様な行動は採れなかったからだ。出雲部族の海運を担っていた宗像の漁民が、百済を支援した事に違和感があるが、対馬部族は南朝文教の経典を百済経由で入手していたから、この時期の国際情勢は複雑に展開していた。いずれにしても、北九州の倭も宗像も伊予部族との緊張関係にあり、朝鮮半島に派兵する余力はなかった。
663年 百済の反乱は鎮圧された。
668年 熊津の撫大使に任命された唐の将軍が、高麗を討平した。(高句麗が滅亡した。)
高句麗が滅亡した事を契機に関東の関東部族が立ち上がり、壬申の革命に至ったと考えられるが、伊予部族はその20年前から北九州への北上や瀬戸内の征討を進めていた事になり、何が起きていたのかを検証する必要がある。
色々な可能性があるが一番確からしい事は、壬申の革命の大義は伊予部族と関東部族の南方派の方針でもあり、関東部族の北方派もそれに徐々に傾倒していた構図を指摘できる。伊予部族と関東部族の南方派は毛皮交易から疎外され、関東部族の南方派は荊がいなくなった中華大陸との交易に興味を失っていたから、内需交易に活路を見出す方針に転換し、関東部族の北方派である内需交易者もそれに賛同する立場にあった事が、その背景として浮上する。
壬申の革命以前の伊予部族と関東部族の南方派の主張は、部族の壁が遮断していた内需交易を活性化させる為に、他部族の市場を開放させる事だったと推測される。しかし毛皮交易で潤っていた部族の地域には、既存の商品の流通秩序を守りたい既得権勢力がいたから、その壁は厚く、小さな部族間抗争が起きていたのではなかろうか。但しこれらの戦争は商工業者の交易覇権を懸けた戦争であって、中世の戦乱の様に農地や領土を巡る領有権争いではなかった。農民も戦争に参加していたかもしれないが、それは傭兵の様な存在で、戦力の主体は運送業者を含む商工業者だった。古事記もそれを指摘しているので、それに付いては後述する。
この時代の世相を理解する為には、この時代は未だ縄文時代の延長線上にあり、交易的な社会が持続していた事を理解する必要がある。その様な交易的な社会を理解する為には、交易的である事が共通する近代以降の社会から、交易的な社会の経済問題を連想する事が有効になる。人々が特産品を開発する事によって経済活動に参加していた事情は、近代社会と類似した経済構造だから、近代社会が克服した諸問題や、克服できていない諸問題を内包していたと考える事ができるからだ。
その一例をあげると、生産構造の不均一性から発生する課題として、市場の独占が大きな問題になる。どこかの地域で特産品を開発し、その販売が順調になった際に、他地域が類似した商品を生産してその市場に参入する事は珍しくない。現在は発明者を保護する為に特許制度や商品登録制度があるが、その様な制度がなかった時代には模倣商品が生れても、既存の生産者には防護策がなかった。人々が豊かで購買力もあった出雲系社会でその様な模倣者が生れると、生産技術に勝る出雲の商品が出雲社会を席巻し、元々の商品生産者だった地域の商品は、出雲社会では売れなくなる。それで留まっていれば部族間対立は生れないが、生産力を高めた出雲の商品が元々の商品を生産していた人々の市場を蚕食し始めると、元々の商品生産者は市場から撤退しなければならなくなり、最悪の場合は産地が消滅する。
魏志倭人伝が示す様に、古墳寒冷期になると大陸の農耕が行き詰まり、生口と呼ばれる奴隷を大量に供給し始めたから、資本力がある出雲がその生口を買い集めて生産に従事させると、元々の商品生産者には実現できない廉価な商品が生れた。生口の所有者は投下資本を回収する為に、また生口の衣食住を維持する費用を稼がせる為に、当面の需要以上に商品を生産させ、それを部族の地域外でも販売する様になる事は、経済の必然になる。元々の商品生産者が品質を高めてそれに対抗し、その商品が出雲にも再流入すると、生口の所有者はそのコピー商品を生口に作らせ、その品質向上が不十分であれば部族会議に諮り、改良された商品が出雲部族の領域内で販売できない様にする事も出来た。
現代社会ではその様な行為は発展途上国だけに許しているが、最も産業化した社会を実現した出雲部族がこの様な行為を多発すれば、特産品を開発して市場経済に参加しようとしていた周囲の部族の貧困化を招き、その地域の商工業者のコメ需要も奪う事になる。出雲部族の周囲で稲作を行っていた人々は、それによって出雲部族の需要に依存する様になるが、出雲部族内に巨大コメ商人が生れると、生産者と需要を一手に握る人々になり、購入価格を抑えて利益を最大化する傾向に走る事も、産業社会起きる必然性になる。この様な状態になった出雲のコメ商人は、他部族が出荷組合を作ってそれに対抗しようとすると、その組織を潰してコメの売り渡し価格を低く抑えようとする。
古事記が示す大穴ムジ神の活動により、京都盆地や琵琶湖南岸のコメを入荷できる様になった事を指摘したが、京都の加茂神社が平安時代に勲一等を得た事は、壬申の革命に際して反出雲陣営に参加した事を示し、当時のコメ所だった京都の稲作者がその様な選択をした背景に、その様な事情があった事を示唆している。この様な経済構造は法規制がなければ、時代が進むと自律的に進化し、誰の手にも負えなくなる事も経済の自然原則だからだ。経済力を得るとそれを使って政治に容喙し、経済的な既得権を守りながら組織を巨大化し続ける事も、経済の自然法則と言っても良いものだから。
非力な伊予部族は単独でその壁を破る事ができなかったが、関東部族の南方派と提携する事によって軍事力を増強し、軍事的な対抗関係によってその壁を破る方向に向かう事が可能になり、九州北部を除く地域に自由交易圏を形成した様子を、神籠石系の山城の分布が示しているのではなかろうか。豊国宇沙では宮を作って大御饗を献じた事は、コメ所だった豊国では伊予部族への賛同者が多く、伊予部族の商圏確保方針が受け入れられた事を示唆している。
北九州勢力は伊予部族の北進を拒んでいたが、伊予部族は市場経済の自由化を求めていただけだから、両者の闘争は部族政権の消滅に至る深刻なものではなかったが、北九州勢力が半島に派兵する余力を失わせるものだった事を、上記の朝鮮半島情勢が示唆している。
それらの経緯を古事記に合わせて解釈すると、甕星の父である天忍穗耳命が、南方派の棟梁だった富士宮王の娘である木花ノサクヤビメを娶ったのは、伊予部族との連携に北方派も巻き込んだ事を意味し、伊予部族の北九州や安芸への進出は、その成果だったと考える事ができる。しかし伊予部族と関東部族の南方派の勢力を統合しても、出雲部族の経済力対抗する事は難しかったから、木花ノサクヤビメは美人だったと古事記が絶賛しているのは、富士宮王が美人で知られた娘を北方派の領袖に差し出した政略結婚で、それは良く知られた事実だったからこの説話が生れた可能性が高い。
古事記が国譲り説話の前半部で、出雲との交渉が繰り返して行われた事を示唆しているのは、軍事だけではなく外交的な努力も為された事を示している。最初に派遣したのは天ホヒだが、この神の子孫が古事記に多数記載されているので、神社の場所から特定する事ができないが、次に派遣した天若日子は、関東部族の南方派だった可能性がある。「若」漢字は欠史八代の南方派の天皇に使っているからだ。
天忍穗耳命と木花ノサクヤビメの息子である甕星が、伊予部族の塩釜王の娘だった才色兼備の古事記の著者を政略結婚で娶ったのも、同様の構図があったからだと考えられる。
浪速の渡を経て白肩津に泊った時、トミノナカスネビコが軍を興し、待向けて戦った。五瀬命は御手にトミビコの痛矢串を負い、日に向かって戦うのは良くないから、賤しい奴から痛手を負った。これからは背に日を負って撃とうと、南方に廻るが、紀国の男之水門に到って死んだ。陵は紀国の竈山に在る。
半島状に突き出した上町台地の岬を経て、東大阪の河内湖の岸に泊まると、夜明けに朝日を背にしたトミノナカスネビコ(難波王)の軍に急襲され、盾で防いだが朝日に幻惑され、相手を見定める事ができない状態で弓矢を射かけられ、総大将の五瀬命まで腕に負傷して退却したが、五瀬命は紀ノ川まで南下して絶命した。
難波は関東部族の分派の地で、大阪平野を控える人口密集地だった。西日本の倭人は春秋戦国時代に燕と戦い、漢代には漢の軍と睨み合い、晋が滅ぶと高句麗と激闘を繰り返したから、実戦経験が豊富だった。トミノナカスネビコの命名は、古事記の作者のユーモア感覚を示している。トミは難波王が毛皮などの交易によって豊かになっていた事を示唆し、ナカスネビコは脛をかじる取り巻きが、多数いた事を示唆しているからだ。日に向かって戦うのは良くないとの記述は、西から攻めるのは戦術的に間違っていた事を示しているが、実戦としてしても朝日を背にして矢を射かけて来る敵に、矢の照準を定める事ができなかった事を示唆し、極めて実戦的な描写になる。
この戦闘に伊予部族が勝つ事は元から難しく、無謀な戦闘で敗戦したとも言えるが、伊予部族が甕星の息子を総大将にして進軍すれば、難波王も降伏するだろうとの甘い期待を抱いていた事になる。
建御名方神は富山~山陰の兵を総動員し、甕星の主力軍と諏訪湖畔で激突して壊滅したが、伊予部族はそれと並行して瀬戸内から大阪湾に進軍し、難波王に撃破された事を示唆している。吉備も出雲に味方する関東部族の地だったが、毛皮交易から阻害されて戦意がなかった上に、吉備の征討は関東部族が正面戦争を始める前だったから、関東から援軍も来ていた故に征討できたのではなかろうか。
壬申の革命に藤原氏が参加していなかった事を、先代旧辞本紀が揶揄した事は既に紹介したが、壬申の革命は商工業者の経済体制に絡んだ戦争であって、稲作民が参加する大義は含まれていなかった可能性が高く、王朝期~中世の農地に関わる覇権や領有権を懸けた戦争とは異質のものだったから、物部の藤原氏に対する非難は的外れだった可能性が高い。
古事記には戦闘の様子をこの様にリアルに描いた場面は他になく、古事記の著者が自分の息子が亡くなった際の様子を周囲から聞き、この様に書き留めたから、説話に組み込まれたと推測される。神話時代の説話でありながら、妙に記述が具体的で、神掛った要素が欠落している事もその可能性を高める。
神倭イワレビコ命が更に紀伊半島を周回し、熊野村に到った時、軍と共に意味不明の理由で倒れてしまったが、高倉下が剣を献上すると皆元気になった。その剣の名は、佐士布都神、亦の名は甕布都神、亦の名は布都の御魂。神倭イワレビコ命は八咫烏の道案内で吉野河の河尻に到り、更に進んで宇陀に進んだ。
改定時に書き換えた痕跡があり、文章も整っていないので粗筋を記した。
複数の布都神が登場している事は、関東部族の主力と合流した事を示し、諏訪湖畔で山陰・北陸勢を壊滅した甕星の主力が、伊勢に到着した事を示唆している。伊賀を超えるルートには飛鳥王が幾重にも防衛線を張り巡らしていたから、その裏をかいて熊野から北上し、宇陀に進んだと推測されるが、太地町が天体観測をする天氏の根拠地だったとすると、その近くを流れる熊野川を遡上する事は、甕星にとっては予定の行動だった事になる。従って八咫烏の道案内は、この天氏の道案内があった事を示唆している。
宇陀は紀ノ川水系から奈良盆地に至る交通の要衝だったから、飛鳥王の配下の者が多数いた事は間違いなく、不意に現れた関東部族の軍との騙し合いがあった事を示唆する説話があるが、それは割愛する。
久米歌(説話ではなく歌で事の進行を示唆している)
忍坂の大室(桜井市)に到ると、尾が生えた土雲の八十建がいて、其の室で待ち受け、唸り声をあげていた。・・・ 一時に一斉に斬り殺した。
此処が飛鳥王の軍事拠点で、関東部族が伊賀・名張を越えて来る事を想定し、軍隊を集結させていたと推測され、室は防御施設もあった事を示唆し、激戦があった事を示している。久米については別掲の件で検証する。
然る後にトミビコを撃ツ時ノ歌、・・・
こちらも激戦だった事を示唆している。
兄師木と弟師木を撃ツ時ノ歌、・・・
伊賀方面に出向いて関東勢を待ち受けていた軍隊が、奈良盆地に戻って戦闘になった事を示唆しているが、こちらの歌には悲惨さはない。
戦闘が終わった後の説話
邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が赴き參り、天の神(天照大御神)の御子(神倭イワレヒコ)に言った事は、『天の神の御子が天から降りて坐(いま)すと聞いた故に、追って降り参り来ました。ですから天の瑞(きざはし)を献じ、それを以って仕え奉ります。』 邇藝速日命はトミビコ(ながすねひこ)の妹であるトミヤビメを娶り、生れた子がウジシマジノ命だからだ。〈此者。物部連。穂積臣。婇臣の祖也。〉此の如く荒ぶる神等を言向け平和し、不伏(従わない)の人等を退け撥った故に、畝火の白檮原の宮に坐し、天下を治めた。
邇藝速日命とウジシマジノ命は、革命に積極的に参加しなかったと見做された物部が、奈良時代以降に祭った神だったと推測される。つまりこの地域の物部は、毛皮交易で富裕になっていた飛鳥王(トミビコ)の支配地や、出雲部族の地で商売を繁盛させていたので、革命が起こっても商売相手との縁を切る事ができず、飛鳥が陥落してから止む無く降って来た物部であると、古事記は主張している。トミビコ(の妹であるトミヤビメを娶り、生れた子がウジシマジノ命であるとの説明が、その事情を示唆しているからだ。
石見国の一宮である物部神社、河内の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)がそれに該当し、石上神社も主神は布都御魂神だが、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)も祭っている。
この様な物部がこの地域に多数いたから、彼らは原古事記を嫌い、物部が復権した平安時代初頭に、先代旧事本紀を新たに作成したと考えられ、ナガスネヒコの名称はその様な物部を皮肉る名称でもあったと推測される。
古事記の著者の認識は、物部を天孫の見方であるべき人々で、高天原の住民であると見做している。つまりこの革命戦争は、商工業者が交易秩序の改善を求めて起こしたものであり、出雲部族の特権的な商工業者でなく、その被害に遭った商工業者の革命であるとの認識があった事を、『天の神の御子が天から降りて坐(いま)すと聞いた故に、追って降り参り来ました。ですから天の瑞(きざはし)を献じ、それを以って仕え奉ります。』 との表現が示している。つまり各地の商工業者は、革命に積極的に参加する天孫族の一員であると認識していた。
香取の物部である布都神は壬申の革命に積極的に参加したのに、この地域の物部である邇藝速日命とウジシマジノ命は、勝勢が見えてから追っかけ参加する状態だったが、一応参加したから此の如く荒ぶる神等を言向け平げ和した神のカテゴリーに分類した。
彼らが物部として積極的に革命に参加していたら、五瀬の命が落命する事はなかったと思う母親の恨みが、此処に噴出して筆が滑った様に見える。物部は甕星の最大の支持基盤だったが、この記述によって彼らの団結が弱体化し、甕星の将来を危ういものにした疑いもある。甕星を殺したとする建葉槌命は、当然古事記には登場しないが、全国の倭文神社は建葉槌命を祭り、古事記に記載された神々を祭る神社とは異なる状態を示しているからだ。
平安時代初頭に生まれた先代旧辞本紀は、古事記のこの記述に敏感に反応し、その由緒の書き換えや言い訳めいた説話を、くどいほどに長々と記している事は既に指摘した。
大阪城に近いこの時期の宮殿跡が、炎上した痕跡を考古学者に示し、壬申の戦乱が激しかった事を示唆している。
この革命戦争(神武東征)に天智系の宮家を暗喩する神は登場しないから、壬申の乱の際の天智系の宮家は、殆ど戦力にならない小集団だったと想定され、革命戦争に破れた他の宮家は沖縄、奄美、東北に亡命し、天智系の宮家は邪馬台国系として唯一残った宮家の様な状態になったと推測される。
呉音で読む那覇は難波と同じ音で、尚氏の時代に勧進した住吉神社は、難波王の祖先系譜である淡路系邪馬台国人の神社だからだ。また尚氏の女性が就任した聞得大君(きこえのおおきみ)は、卑弥呼を彷彿とさせるからでもある。
東北にも亡命したと推測する根拠は、鎌倉時代に水軍として活躍した安東氏に、祖先はナガスネヒコであるとの伝承があったからだ。出雲が陥落すると出雲部族の多くが津軽に逃げた筈だから、難波王家の眷属も一緒に津軽に逃げ、持ち前の海運力を活かして安藤氏になったとすれば、十分あり得る事だからだ。
7-4-4 神武の天皇即位
故に此の如く、荒ブル神等を言向け平和げ、不伏の人(従わない人)等を撥ね退け、畝火の白檮原の宮に坐して天下を治めた。
壬申の乱によって天下を掌握した天津甕星の子が、飛鳥の征服では総大将になり、白檮原の宮で天皇に即位した様に記しているが、実際に初代天皇になったのは天武天皇だから、神話時代の神武東征とこの天皇即位は別の話にしなければならない。つまりこれ以降の神武天皇は甕星の子ではなく、BC1200年に実在した天皇の事績を、説話化したものが以下に展開されるが、海洋民族的な匂いを払拭したから現代人には分かり難い。
上記の文に主語がないのは、原古事記が主語としていた神武天皇を、改定古事記が脱落させた為である可能性が高い。撥ね退け以降に、「神倭イハレビコ命は神武天皇となって」を追加するとこの文が引き立つが、この文章では迫力がないからだ。優れた文才を示す原古事記の著者が、この最も重要な文言を、この様な状態に留めていたと考える事はできないからだ。
関東の天氏は日本越の飛鳥王に政権を委譲したから、天津甕星が征服した飛鳥で天皇即位を宣言したとしても、違和感はないが、他部族の地だった奈良県を都にして、日本を統治したとは考えられない。旧唐書は日立が日本国になった事を示しているから、甕星は占領地で壬申の乱の終焉を宣言し、天武天皇に即位すると日立に戻って日本を統治したと想定される。
王権が崩壊した飛鳥では、推古や天智の功績を評価した天武天皇が両者に天皇位の諡号を与えると共に、代官を派遣して支配したと想定される。それによって飛鳥は天武朝の西都になり、日立が東都になったと考えられる。
原古事記が綏靖天皇以降の居処を何処にしたのか、確実な事は分からないが、倭国王の年代記を実質的に廃棄した甕星としては、古事記が記す歴代天皇の居処を、関東にしなければならない必然性はなく、奈良盆地は飛鳥王の治世を継承する為に西都とし、日本で2番目に華麗な都市だった奈良を、万世一系の天皇の居処にした可能性はある。最も華麗な都市だった出雲の都市群は、歴代天皇の仮想的な居所には相応しくなかったからだ。
御廟野古墳を日本最大の八角墳として建造し、奈良に巨大な藤原京を建設した事は、甕星が奈良を西都にする意思を固めていた事を示唆しているからでもあり、その実際の支配者は甕星が指名した政治力がある人物だったが、それは藤原氏ではなかった可能性が高い。続日本紀が示す奈良朝初頭の高官は、阿部御主人、大伴御行、多治比嶋などで、石川麻呂、藤原不比等、紀麻呂はそれに次ぐ職位だったからだ。
文武天皇が即位すると直ぐに、藤原不比等の娘が夫人、石川氏と紀氏の女性が妃になったから、日本で唯一の古事記思想を継承する王朝になった奈良朝を樹立した際の功労者は、藤原不比等、石川麻呂、紀麻呂だった事になる。藤原氏は関東のmt-B4が派遣した勢力、石川氏は畿内の物部を代表する勢力、紀氏は古事記によって救済された、対馬部族の豪族を代表する勢力だったと推測される。五瀬の命が紀国で亡くなった事は、紀国の人々は革命に同調的だった事を示唆している。
タタライスケヨリヒメを正妻とする
大后に為る美人を求めると、大久米命が曰う。媛女有り。神の御子で其の所以は(以下)、
三嶋の湟咋の女のセヤダタラヒメの容姿が麗美なので、美和の大物主神が其の美人を見て感じ、大便の時に丹塗の矢に化け、大便の流下する溝から其の美人のホトを突いた。すると其の美人が驚き、立ち走ってイススいた。其の矢を持ち帰って床の辺りに置くと、忽ち麗しい壯夫に成り、即座に其の美人を娶って生れた子の名は、ホトタタライスケヨリヒメ命。亦の名はヒメタタライスケヨリヒメ。<是の者は其のホトと云う事を悪み、後に名を改めたもの也。>
タタライスケヨリヒメは製鉄者の女神を示唆し、神武の時代に製鉄を行っていた事を示し、二つの名がある事は、製鉄地が2カ所あった事を示している。神武の正妻である事は、BC1200年に製鉄が始まり、関東部族の北方派の最も重要な産業になったと主張している事になる。
其のホトと云う事を悪み、後に名を改めたとの注釈をわざわざ挿入したのは、製鉄炉に必要な空気の送風管の口の形状が女性の陰部に似ていたから、その送風口の名称だった「ほと」が、女性の陰部の名称に変った事を示唆している。古事記の著者がその様な尾籠なうん蓄を披露したのは、「私は製鉄の歴史を知っているのです」と主張し、神武紀の記述の重要性と信憑性を読者に認識させる為だったと推測される。
セヤダタラヒメと大物主神の説話が挿入された理由を理解する為には、大国主の建国説話に戻る必要がある。
少名毘古那神が去った後、大国主が憂いていると、是の時光る海有り。依って来る神が言う、我が前の者は能く治める。吾と共に相い作り成さん。吾は倭の青垣の東の山の上にイツキ奉る。此の者は御諸山の上に坐す神也。
倭は改定時に書き加えられた疑いがあるが、御諸山は奈良盆地の三輪山であると考えられ、神武紀の美和も三輪山を暗示しているが漢字を変えた事は、この話を連想する必要があるが場所は異なっている事を示唆している。
この二つの説話から光る海は「光る金属」を暗示し、大国主の建国説話の金属は青銅器であると考えられる。銅も錫も産出しない奈良盆地で青銅器を作る説話は、青銅は既に出回っていたが、奈良盆地には高度な鋳造技術を持つ加工者の集積があり、三輪山の付近から鋳型になる石材か、特殊な粘土が産出した事を示唆している。
青銅は縄文後期から出回っていたが、青銅は火に焙って熱して軟らかくすれば、石で敲いて成形する事が可能で、焼畑農耕に使う斧や簡単単な道具は、その様な手段で形成する事ができたから、鋳型を使う高度な鋳造技術は必要なかった。その2で指摘した様にBC1500年に縄文後期温暖期が終わり、荊がいなくなった渤海沿岸で、濊と一緒に殷人の暴力と戦わなければならなくなった際に、西ユーラシアからシベリア経由で、青銅器の剣を形成する技術が伝わって琵琶型銅剣が作られた。
琵琶型銅剣は鋳造によって作られたと推測され、この時期に青銅の鋳造技術が伝わると、それが日本で真っ先に定着したのは奈良盆地の対馬部族だったと、古事記は指摘している。これは殷墟から発掘された多量の青銅器が作られた、殷王朝末期より古い時代になり、対馬部族が琵琶型銅剣を作ったのか否は明らかではないが、焼畑農耕者の為に鋳造の斧を作った事になる。この神に名前がないのは、息慎が技術者を遠路連れて来たから、名前も知らない異国の技能者が奈良盆地に定着した事になり、濊より先に青銅の鋳造技術が伝わった事を示唆している。若し琵琶型銅剣も鋳造していたのであれば、満州や遼東で発掘される琵琶型銅剣は、奈良盆地で作られた可能性もあるが、濊は石材加工の職人集団だったから、彼らも鋳造を行った可能性もある。
物部が商品の生産流通業者を指した事から連想できる様に、大物は「真の商品」である鉄を指しているから、神武紀に記された大物主神は鉄の神で、鉄は縄文晩期以降の関東部族の最大商品だったと解釈される。この神も大国主が出会った御諸山の上に坐す神と同様に出自が分からなかったから、大物主神と命名したと考えられる。物の大小を区別すると、「大物=鉄」で「小物=青銅」になり、大国主の建国説話に小物主神と記す事は不適切だったから、無名の神にしたと考える必要がある。
大物主神が鉄の神だった事を以下に検証する。
1、方言から検証する。
上図は、ウィキペディア「日本語の方言」から転写した。
単語や言い回しは変化が速いが、子音の発音は変化し難い事は、長期間英語に接した日本人でもLとRを識別できない事が示している。それに関する方言の分布は、縄文時代の部族分布の痕跡を示している可能性が高く、歴史事象と整合すれば確度が高まる。
部族言語の起源はシベリア時代の原日本人に遡り、共生したシベリアの狩猟民族の部族言語を起源にしたから、シベリアの狩猟民族の方言を示している事にもなる。アイヌ語はシベリア北東部から北アメリカの諸民族に類似性があり、現代日本語はアルタイ語族の言語に近いから、それらの狩猟民族と共生したシベリア時代の原日本人の言語から、アイヌ語と現代日本語が生れる過程として、縄文時代の各部族の言語があったと考えられる。
縄文文化の形成期の項で指摘した様に、対馬部族、出雲部族、伊予部族、壱岐部族の祖先はシベリア東部から日本列島に先に南下し、気候が温暖な九州の湖岸に展開したが、遅れてシベリア中央部から日本列島に到達した北陸部族や関東部族の祖先は、気候が冷涼な東日本に展開せざるを得なかったから、日本にはアイヌ語と現代日本語があると考えられる。その背景となる氷期のシベリア事情として、温暖湿潤な気候に恵まれた東シベリアには、南北遊動型の狩猟民族が広範囲に展開し、暖流の影響が乏しかったシベリア中央部のアルタイ地域に、漁労も行う森林系狩猟民族が集中していたから、その事情が日本のアイヌ系言語部族とアルタイ系言語部族を生んだとすると、上図は歴史の流れとある程度整合する。
整合しない部分から各部族の言語史を補正すると、関東部族と北陸部族は「二つ仮名部族」で、アイヌ系に分類した他の部族にもそれぞれ異なる言語があり、「一つ仮名部族」に分類される東北縄文人は、北海道部族の言語を受け入れた事を示している。つまり東北北部と北海道は画一的なアイヌ語圏で、これらの地域に入植した出雲部族、対馬部族、伊予部族は、シベリアの部族文化の掟によって、既に縄張りが確定していた他部族の地域に入植した者として、北海道部族の言語話者になったが、氷期の故地に残っていた人々はシベリア由来の言語を使い続けていたとすると、各部族の歴史と上掲の方言分布がほぼ整合する。
シベリア文化圏では他部族の縄張りに入植すると、その縄張りを所有する部族の言語話者になった事は、ツングースの縄張りに入植した満州族が、その典型例を示しているからだ。またアイヌ語が北海道全域の言語だった事は、この文化的な掟以外に説明する根拠がない。
つまり伊予部族の中で、東北北部~北海道に展開した人々は北海道部族の言語話者になり、四国や九州南部に残っていた人は、シベリア起源の伊予部族の言語である「四つ仮名」言語を使っていた事になり、東北北部に移住した対馬部族も類似した状況になって、大分県南部に「三つ仮名」文化を遺したが、他の地域ではイネとアワの栽培者だった関東部族と北陸部族の言語に同化した事になる。
壱岐部族は北海道に部族言語を遺したが、大村湾周辺に残った人々は、有明海や東シナ海沿岸にいた関東系漁民の言語に同化した事になり、出雲部族以外の部族の事情は、これまで説明した縄文史と矛盾する点はないが、北海道部族の縄張りは北海道だけではなく東北北部にも及んでいた事と、壱岐部族以外の言語はアイヌ語であったのか否かは明らかではない事も、上掲の方言分布によって再認識させられる事象になる。但し関東部族や北陸部族の言語と異なっていた事は示しているから、関東部族や北陸部族の言語は狭いアルタイ語圏の森林系狩猟民族の言語で、その他の部族の言語はシベリア東部の広大な平原を、南北遊動する狩猟民族の言語だったとの想定と、矛盾するものではない。
青森に移住した出雲部族は、青森や秋田の人々が文化の中心を形成したから、元々の部族言語を失って北海道部族の言語話者になり、出雲と富山にその痕跡を残している事になる。その様な出雲部族については、古事記以外の文献や考古遺物から、その理由を求める事ができなかったが、古事記が出雲神話を特設している事からその理由が明らかになるから、古事記が示す出雲部族の歴史を再検証する必要があるが、その話の前に上に掲げた方言分布が、縄文時代の部族分布を再現している事を検証する。
原縄文人にも石垣系と沖縄系があり、両者は3万年以上前に分岐したから、それによって関東部族と北陸部族の言語に違いが生まれた可能性があるが、上図に示す子音の発音には違いがなく、各漁民部族の言語話者になった事を示している。つまり縄文人もシベリア文化の掟に従い、漁民と同様に各部族の縄張りに移住すると、当該地域の部族言語の話者になった事になり、シベリア文化の影響力の強さを再認識する事になるが、上に掲げた方言分布が、縄文時代の部族分布を示している事を否定するものではない。
狩猟や漁労が最も重要な食料の生産手段だった時代には、栽培者も狩猟・漁労民族の言語話者になったが、農耕が最も重要な食料の生産手段になった時代には、栽培者が集積していた地域の言語が優勢になる事は、自然の成り行きだったから、多数のアワ栽培者を輩出した北陸部族や、稲作を普及させた関東部族の言語が、西日本に拡散した事も上図が示し、その様な時代になっても文化力が高かった出雲部族と伊予部族は、自身の部族言語を維持していた事も上図が示し、大分県の「三つ仮名地域」は対馬部族の言語の痕跡を残している地域になる。
「四つ仮名」部族は東北には残っていないから、彼らが東北部族だった事に疑念があるかもしれないが、九州南部や四国南部の人々には、アルコールに強い東北人的な体質が遺されている事も、彼らの人的起源は東北縄文人だった事を窺わせ、上掲の方言分布が部族分を示している証拠を提示している。
アルコール飲料が生まれてから数千年しか経っていないから、この体質はアルコールによって作られたものではなく、有機毒素を分解して無力化する酵素を多量に有している、特定遺伝子の保持者の体質であると考えられる。有機毒素の代表的なものは、腐敗した魚肉や獣肉に含まれる毒素だから、最も腐敗しやすい魚類を主食にしていた人々が、身に付ける必要がある能力だった。縄文早期に縄文人が漁民と共に九州から東北に北上したのも、漁民が温暖化によって魚が腐敗する事に耐えられなくなったからだと想定され、彼らにとって腐敗は切実な問題だった。
その逆に酒に弱い人が華南に多く、日本人にもその様な人が含まれているが、これらの人々の祖先が堅果類の栽培者だった事が、この様な事態を引き起こしている可能性が高い。
堅果類の栽培者の祖先がドングリを食べる様になったのは、4万年前だったと考えられ、それ以降の堅果類の栽培者は獲物が乏しい季節に、ドングリを食べて飢えを凌ぐ事ができたから、腐った獣肉や得体が知れない昆虫や小動物、或いは毒性がある草木の根やキノコを食べて飢えを凌ぐ必要はなくなった。つまりゲテモノを食べて飢えを凌ぐ必要が4万年もの間なかった人達の遺伝子から、解毒作用を生み出す酵素の一部が脱落しても生存には問題がなかった事が、堅果類の栽培者をその様な人達にしたと考えられる。
1万2千年前の九州縄文人の集落跡から、煙道付炉穴が多数発見されているのは、彼らが獣肉を燻製にして保存していた事を示し、彼らが他民族に先駆けてその様な食生活を重視した事は、彼らは既に腐敗した肉を受け付けない身体になっていた事を示している。煙道付炉穴が縄文草創期~早期の、九州から関東までの太平洋側の地域で集中的に発掘される事は、この文化は沖縄系縄文人のものだった事を示している。
縄文前期以降はこの炉がなくなり、屋外の炉が集石炉に集約されたのは、高温で焼く調理が一般的になった事を示すと共に、彼らの食生活が豊富な海産物によって改善された事を示唆し、獣肉は燻製にする事によって保存性を高めたが、腐敗し易い魚肉には適用できなかった事を示唆している。現代日本の魚食文化では、干物は一般的だが魚介類の燻製はない事が、この事情を説明する根拠になるだろう。
日本海沿岸の縄文遺跡に煙道付炉穴炉がない事は、石垣島系縄文人は3万年前から原日本人と共生し、豊富な海産物によって彼らの食生活が保証されていたから、燻製を作る文化が生まれなかったと想定すると、これらの歴史事象と整合する。
東北の海洋漁民は最も腐敗しやすい魚類を5万年間主食にし続け、縄文早期まで後氷期の温暖化にも耐え抜いたから、有機毒を分解する多種多量の酵素が必要な状態が長く続き、アルコールにも強い体質になる遺伝子を、多分に含んでいたと想定される。冷涼な東北では漁民が多く縄文人比率が低かったから、東北縄文人は有機毒に強い遺伝子を濃厚に維持していた故に、その子孫の東北人は酒に強い体質を持つ人が多いと考えられるが、それを補強する理由があった。
東北縄文人も沖縄系の堅果類の栽培者だったから、元々は有機毒素の分解能力に乏しかったが、東北縄文人として採取された遺伝子の多くは太平洋岸のものではあるが、その遺伝子は海洋漁民の遺伝子であるmt-N9bが多く、約6割を占めていた。これは内陸の湖沼に展開した縄文人の主要な食料も、腐敗し易い魚介類だった事を示唆し、東北縄文人は有機性の毒素を分解する能力を、mt-N9bとの婚姻によって再び高めた事を示している。これは縄文時代に湖が多かった、東北と北海道特有の現象だったと考えられ、太平洋沿岸は伊予部族の活動領域だったから、現在の九州・四国南部の人々にアルコール分解酵素が、強力に備わっている理由を示している。ちなみに北海道縄文人のmt-N9b比率は、7割に近い。
秋田や山形の人にも酒豪が多いから、同様の事情があったと考える事に違和感はなく、四国や九州の南部に酒豪が多い事は、東北縄文人や北海道縄文人の遺伝子が濃い事を示唆している。現在の四国や九州の南部の人々の遺伝子には、mt-N9bは殆ど含まれず、栽培系の遺伝子が浸潤しているが、栽培系の遺伝子が浸潤したからと言って、元々の遺伝子体質が変化するわけではい事は再三指摘してきた。食料生産に有利なミトコンドリア遺伝子は、当初の浸潤者が少なくなくても集団内で増殖するが、それは当該ミトコンドリア遺伝子を持つ女性が増殖するだけであって、核細胞の遺伝子は従来のものが保存され、環境に合わせて淘汰されているからだ。安土桃山時代の末期に土佐に入植した山之内家が、土佐の人々にカツオのたたきを作らせたと言われているが、土佐の人々と同じものを食べると食あたりしたが、カツオを食べたかったからその様に命じたのではなかろうか。
酒が好きである事と有機毒の分解酵素を豊富に持つ体質は、関係がないという意見もあるかもしれないが、その回答も堅果類の栽培者の子孫が与えてくれる。堅果類の栽培者の子孫の分布とお茶を飲む文化の普及が一致し、飲茶文化は堅果類の栽培者の子孫から生まれたと考えられるからだ。お茶の主成分はタンニンだが、ドングリを食べてしまう昆虫から身を守る為に、堅果類に含まれている毒素もタンニンである事は、3万年以上堅果類を常食してきた人々がコメやアワを食べる様になり、堅果類を食べなくなると、タンニンを分解する酵素を豊富に持っている人々であるが故に、その能力を使う欲求が高まって飲茶の習俗が始まったとすると、酒を飲んで有機毒素を分解する酵素を活用する事を好む人々と、類似した身体特性を持っている事になるからだ。
現代人が経済効果のない運動に励んだり、命懸けの登山に挑んだりする人が後を絶たないのも、自身の持つ身体能力を活用し、機会があればその能力を高める無意識裏の要求が、体の機能として備わっているからだと推測され、その充足によって快感を得る性向は万人が持っていると考えられるから、上記はその一部に過ぎないと考える事もできる。
お茶の原生種はタンニンを摂取するための種だったが、飲茶の習俗を持つ人が多数生まれると、品種改良が進んでアミノ酸を多量に含む現在の美味しいお茶が生まれたのは、堅果類を栽培していた人々は堅果類を栽培しなくなっても、果樹や養蚕の為に樹木の品種改良を続けたから、お茶の木の品種改良は難しくなかったからだと想定される。それによってお茶は世界的な飲料になったが、元々は東アジア南部の飲料で、堅果類の栽培者の子孫が分布する地域の飲料だった。
この事情を勘案すると、人は自分の身体能力を試したい欲望を持ち、その結果として能力が向上する事に快感を持つのは、運動能力や自然界でのサバイバル能力を高める場合だけではなく、解毒能力を高める場合にも該当し、元々能力が高い人は遺伝子の違い以上の高い能力を獲得している可能性が高い。日本人は海外旅行先で食中りし易いと言われているが、その原因もこの様な事情が絡んでいる可能性がある。
その逆に日本では、カテキン飲料は中性脂肪を低下させる肥満対策の健康食品とされている。カテキンはタンニンの別名だから、堅果類の栽培者を祖先に持たない人種には、瘦せるほど過剰に摂取すると毒性が問題になるかもしれない。WHOが世界一律の食材基準や毒性基準を設けている事は、危険な行為である可能性を示す事例になるだろう。
いずれにしてもこの事情は、九州南部や四国南部の酒豪の祖先は、Y-D比率とmt-N9b比率が高かった東北縄文人であるとの想定に一つの根拠を提供し、上に掲げた方言分布が縄文時代の部族制社会を、かなり正確に反映している証拠になる。
上記の説明に付加する見解として、以下も指摘して置きたい。
全遺伝子解析では縄文人を単一民族の様に扱っているが、ユーラシア大陸で人種や民族が分化したのは5万年前で、原日本人はその時既に単一民族化していた。堅果類の栽培者は4万年前以上に生まれ、冷温帯性の堅果類の栽培者も3万年前には生まれていたから、両者が合体して部族民化し、通婚によって遺伝子を交換した人達が、単一人種だったと考える事には無理がある。
大陸から多数の女性達が渡来して遺伝子が更に混合されたが、ミトコンドリア遺伝子の占有率と同様の比率で、核遺伝子が混在しているわけではない。特にミトコンドリア遺伝子の場合は、母から娘に伝承した栽培種と栽培技術が優秀であれば、それに付随して拡散したミトコンドリア遺伝子の割合は増加したが、核遺伝子がそれと共に増大したのではなく、核遺伝子はその民族の遺伝子プールに渡来女性が持ち込んだ割合が、その後の環境淘汰によって増減した程度で、大きな変化はなかったからだ。つまりミトコンドリア遺伝子の淘汰とは全く異なる環境要因によって、ミトコンドリア遺伝が増減した。
九州南部や四国南部にmt-N9bやmt-M7aが少ない事は、彼らが東北縄文人の直系子孫ではない事を示しているから、この地域の人達が酒豪である事の由来も異なるとの見解は、この理由によって上記の推論の反論にはならない事を理解する必要がある。
ミトコンドリア遺伝子のタイプの違いは、その女性の祖先の縄文時代の特殊技能を示しているだけで、核遺伝子の状態を示しているのではなく、多数の原住民に少数の女性が拡散した後で、その技能が評価されてその女性のミトコンドリア遺伝子が増殖しても、その地域の人々の核遺伝子は元の原住民の核遺伝子と殆ど変わらず、その女性の特技能によってその民族の食生活が大幅に変化した場合には、その新しい環境による遺伝子淘汰が進行したからだ。つまり現代日本人の核遺伝子の多数派は、Y-Dとmt-N9bペアの遺伝子と、Y-O2b1とmt-M7aペアの遺伝子で、それが栽培種の変化を含む環境の変化に伴い、淘汰された結果であると推測される。
以上を前提に古事記の解釈に戻ると、岩手県の沿海部に分布する「二つ仮名部族」の痕跡は、甕星の子が暗殺された飛鳥時代末期に、多数の関東部族が移住した痕跡を示唆しているが、この地域では古代から製鉄が行われていたから、それ以前から関東部族の飛び地だった事も示唆し、久慈の名前はその事情と一致する。
古代の製鉄について現在分かっている事は、久慈地方は古い時代から砂鉄の産地として知られ、磁鉄鉱が産出する釜石では平安時代から製鉄が行われていた事などだが、甕星の子孫が久慈に逃亡した事と重ね合わせ、古事記が甕星の子が東北の母の地に移住したと記している事から推測すると、倭人時代から製鉄が行われていた可能性が高まる。鹿島で採取できる砂鉄はチタンの含有量が多く、良質の鉄は作れないから、関東部族が製鉄地を求めたとすると、チタンの含有量が少ない良質の砂鉄や鉄鉱石が得られる、三陸が適地だったからでもある。
古事記を除外した文献史学の観点から、甕星の子孫の逃亡先として久慈に着目し、その根拠をその6に示したが、久慈は「二つ仮名部族」の分布圏の北端にあり、釜石はその南端にあるから、海洋民族だった倭人が製鉄の為に久慈や釜石に入植していた事により、甕星の末子だった2代目の天皇が政変で暗殺されると、亡き母の国に入り海原に坐した御毛沼命が、北関東の勢力が及ばない製鉄集団の地に残された事になり、歴史の流れの合理性が高まる。
mt-B4の手先として岩手県に北上していた稲作者が、天武天皇の系譜が久慈にいたと報告しても、関東のmt-B4や西日本の人々は、容易に信じる事はできなかったが、久慈氏の祖先は天武天皇である事を原古事記が保証していた上に、三陸を南北に挟んで展開していた伊予部族がその人である事を確認していたから、日本中の人が光仁天皇の血統の正当性を認知できた事になり、その正当性の高さが藤原北家に、奈良朝を見限って光仁天皇を新しい天皇に迎える、決断させたと考える事ができるからだ。続日本紀は道鏡や和気清麻呂などの説話を示し、光仁天皇への交代が必然であったかの様に編纂しているが、光仁天皇の血統の正当性が確実だったのであれば、これらの説話に多少の根拠があったとしても、主要な流れとしては創作説話だった疑いも高まるほどに、歴史解釈の合理性が強化される。
日立の天氏は北方交易を宰領する毛皮の交易者だったと想定され、西ユーラシアから製鉄技術者を受け入れれば、北方交易の航路上にあった三陸の、良質の砂鉄の産地に着目しなかった筈はなく、その傘下にあった三陸の製鉄地は、甕星と塩釜王の娘の子が統治者になるのに相応しい場所であり、その子孫の隠生地に相応しい場所だった。従って倭人がこの地に製鉄集団を形成していた可能性は、極めて高いと言わざるを得ない。考古学者は製鉄の痕跡がなければ製鉄があったとは認めず、遺跡が発掘されない限り、製鉄が行われていなかった事を前提に歴史を組み立てる事を主張するが、古代人にとって重要なイヴェントである製鉄が何時始まったのかについては、確実性に乏しい考古学者の主張より、古事記の主張を採用する方が遥かに賢明であると言わざるを得ない。
1万6千年前以降の歴史を順序良く示し、考古遺物では明らかにならない部族関係を、気候変動や地理的な変化に即して合理的に示している古事記が、神武の妻になった「イスケヨリヒメ」の説話で、この事情を詳しく暗示しているから、ヤマタノオロチが海岸砂丘である事も分からずに、島根県の何処かの河川の出来事であると、根拠もなく決め付けている歴史家の妄言に従うより、古事記の記述を重視する方が賢明である事は、このHPの読者であれば例外なく賛同するだろう。
古事記が二つの名を列挙するのは、読者に二つの場所を想起させる為だから、天孫降臨説話ではコノハナノサクヤビメとカムアタツヒメの名を併記し、説話の流れでは九州での出来事としながら、その子の山彦と海彦の説話は関東の出来事であるだけではなく、駿河湾沿岸を拠点とする南方派の歴史である事も暗示した。従ってイスケヨリヒメの二つの名称も2カ所の製鉄地を暗示しているが、製鉄所としての機能は同じだから、類似した女性の名称でその事情を示したと想定される。
チタンの含有率が低い良質な砂鉄の産地は、日本では中国山地と三陸だから、その2カ所でBC1200~BC1050年に製鉄が始まり、その2カ所を類似した2つの名称で代表し、どちらが先行したとは明らかにしない為に、類似した女性の名称を創作した上で、卑猥で面白い話に仕立てた方が人々の興味を掻き立てる事を承知していた古事記の著者が、最も重要な史実をこの様に創作したと考えられるが、日本の製鉄史はもう少し複雑だった。
古事記が示すこの卑猥さは、飛鳥時代の人にとって日常的な事だったと解釈するのは間違いで、許される卑猥さの限界としてこの文章を創作し、若い女性などが顔を赤らめながら、興味深く聞く事を期待したと想定される。古事記は老若男女を集めて読み聞かせるものだったと推測され、男性達は自分や周囲の祖先系譜を確認する事に必死になり、その傍らでこの様な説話が披露されると、若い男女も爆笑する大興奮の渦が生まれただろう。
その噂が広まると古事記を詠唱した稗田阿礼の周囲には、常に多数の群集が群がっていたと想定され、古事記を全て詠唱するには長時間が必要だったが、地域毎に必要な系譜は限られていたから、詠唱の過半は説話に宛てる事が可能になり、他地域の系譜に関する質問に稗田阿礼が即答した事も、稗田阿礼の異様な記憶力の強さを人々に印象付け、聴衆を引き付ける一つの要因になったと推測される。
倭国王家の年代記には、どちらの製鉄が先行したのか記されていたが、古事記の著者はこの表現によって開始の先後に差はなかったと説明し、製鉄に関わった地域部族の融和に努めたが、「是者、其のホトと云う事を悪み、後に名を改めた」との注釈は、「私は本当の歴史を知っているのですよ」と暗に匂わせている。西の倭人や山陰の人々が稲作や奢侈品の生産性の高さを誇り、尊大になっている事を戒める為だったのではなかろうか。この説話は天皇制を創始したと主張する、神武天皇に関する唯一の説話だから、著者も甕星も説話の選定や構成に推敲を重ねた事は間違いなく、その積りで解釈すれば上記の想定の確度は高く、著者の文学的な感性の鋭さも感じさせる。
日本刀のルーツである蕨手刀は東北起源だが、それが何故なのか納得できる説明はなく、例によって大陸に起源を求める史家も居るが、日本の製鉄先進地は、古墳時代初頭まで三陸だったとすれば当然の事になる。
その様な三陸の製鉄はやがて出雲の製鉄の後塵を拝する様になったのは、出雲と比較した製鉄技術の改良速度が遅く、次第に製鉄技術の後進地に陥っていったからだと推測される。
部族言語の話しに戻ると、関東縄文人が入植した筈の薩摩半島に「二つ仮名部族」の痕跡が残っていない事は、この地域が伊予部族の縄張りだったから、入植した関東部族が伊予部族の言語を使った事を示している。また西日本の日本海沿岸に移住した東北縄文人の足跡が、出雲と越中に遺されている事は、出雲は東北から移住した人々の国だった事を示し、越中も出雲文化圏だった事を示している。つまり越中の人は自分達が北陸部族に帰属しているとの認識を失い、縄文晩期以降は出雲部族に属す縄文人になった事を示している。
ソバの栽培者だったmt-M9が津軽に移住しただけではなく、縄文晩期の富山県の花粉分析でソバの花粉が多量に発掘され、この地のmt-M9aも、出雲部族が招いたmt-N9aの為にそばを栽培し、津軽に出荷していた事を示している。ソバの輸出だけでその様な関係が生れたとは考えにくいから、海洋民族としての出雲部族の文化力が高く、北陸部族の漁民や交易者から見放されていた富山の縄文人が、出雲部族と共生する栽培者になった事を示している。つまり出雲の建国説話を天孫降臨説話と並置させたのは、出雲部族の重要性を認識させ、沼河ヒメへの妻問婚に長い説話を割り振ったのは、深い訳があったからである事を示している。
富山のmt-M9集団は縄文中期まで、磨製石斧を製作する技能集団だったが、縄文後期に磨製石斧の市場をうしなった。しかし彼らにはまだ玉器を製作する技能が残っていたから、その販路の開拓を含め、交易力が高い出雲部族が沼河の職人集団を傘下に収めた事は、古墳時代後半の玉器生産が出雲に集約された事が考古学的に指摘され、事実認定しても良いレベルにある。出雲部族と富山の玉器製作集団の交流は縄文中期には存在していた事を、三内丸山でヒスイを加工していた痕跡が示し、青森の出雲部族も縄文前期から、弓矢を製作するだけではなく玉器の加工技能も駆使する、生産系の交易集団だった事を示している。
富山や糸魚川で採取できたのはヒスイだけではなく、チタンの含有量が少ない良質の砂鉄も採取できた。出雲では良質の砂鉄だけではなくメノウや水晶も採取できたから、古墳時代末期の出雲では製鉄が可能であると同時に、各種の宝石を散り填めた宝飾品を生産していた。つまり出雲部族の製鉄技術を高めたのは、元々の出雲部族の人々だけではなく、磨製石を作り続けて産業力を高めていた富山の人々との協業の成果だった可能性が高いが、古事記の著者にはそこまで認識できなかっただろう。富山の人々が製鉄技術の獲得活動を始めたのは、津軽平野に移住して出雲部族の人になった後だったからだ。
西日本の人々が栽培民族化した縄文後期に、関東部族の北方派が縄文時代の海洋民族文化を維持しながら、内需交易者に転換していった事を指摘したが、関東部族が交易の活力をmt-B4の稲作の普及に頼りながら、次第に稲作民族化していく中で、縄文晩期には南下したヒエ栽培文化を受容しながら、文化を高めていた事を大洞式土器の華麗な形状が示し、東北と北海道に残った出雲部族、対馬部族、伊予部族が、弥生時代が終わるまで縄文的な海洋民族文化を維持した事を示している。
大洞式土器の起源となった地域は北東北で、北上山地の周辺に文化中心があった事は、上に掲げた方言地図と、古事記がしめすタタライスケヨリヒメの説話と、その地域人々の異様な豊かさを結び付けると、この地域が縄文晩期に製鉄地帯になったとの結論に至る。縄文晩期のこの地域のヒエの水耕栽培は、北海道から導入されたと考えられるが、北海道とは異なる華麗な土器文化を示し、北海道のヒエ栽培者より豊かな生活を享受していた事がその証拠になる。その4ではこの地域に異様な豊かさがもたらされた理由について、納得できる回答を示す事ができなかったが、土器文化の拡散と上記の事情を参照すると、それに対する答えを得る事ができる。
大洞式土器の化圏は全国に拡散したが、起源地である北東北で独自の文化圏を形成した。その文化圏は沿海部に限定された地域ではなく、内陸である北上川の流域にも文化中心があり、沿海部より北上山地を囲む地域が文化中心だったとも言える状況だから、海洋航行能力に優れた海洋民族の文化ではなかった事を示している。
大洞式土器は日本全国に出土例があり、北陸には長竹式と呼ばれる、北東北のオリジナル土器と器形が類似した土器があり、西日本には長竹式の土器を介して器形や模様が拡散し、類似した器形である大洞式土器群を形成した。大洞式土器はそれらとは関係なく進化した縄文晩期の土器で、弥生温暖期になると北東北の土器は砂沢式に変った。
しかし他方の北陸の長竹式は、その後期には稲作文化と関連付けられる弥生温暖期の土器になり、弥生前期末の柴山出村式まで継続した。それらの器形や模様が各地に伝搬し、類似した器形が土着化して更に変形した器形に変容したから、大洞式と長竹式の終焉時期には大きなずれがあり、この土器を担った文化の背景事情が縄文晩期には北東北にあったが、弥生温暖期には北陸に移転していた事を示している。
この様な土器形式の拡散事情は、既に説明した関東の稲作者の加曾利式土器に見られ、先ず東北の大木式土器文化圏に京都盆地の北白川下層式土器が登場し、それが関東の加曾利式土器文化圏に混在し始めた事情を、飛騨から京都盆地に降った人々が、関東の稲作技術を習得する為に関東に多数移住した時期であると指摘し、やがて奈良盆地の周辺で加曾利式と類似した土器が作られる様になると、関東から稲作技術を持ち帰った人々が、それらの地域で稲作を行った証拠であるとし、その発展形である北白川上層式が生れると、稲作が京都盆地に定着した時期であると指摘したが、大洞式にも同様の法則を適用する事ができだろう。但し大洞式土器の文化圏には北白川下層式土器に該当する土器はなく、大洞式系譜の土器が製鉄文化の拡散事情を示し、縄文晩期には北東北が製鉄の中心地だったが、弥生温暖期を待たずに製鉄中心が北陸に移転し、北陸を起点に全国に拡散した事を示唆している。
つまり津軽に移住したmt-M9集団は、北上山地の砂鉄を利用して製鉄を行う技術を関東部族から入手し、縄文晩期には北上川流域や青森で製鉄を行っていたが、やがて関東部族より高い製鉄能力を獲得し、彼らの製鉄中心が北陸に移転したと考えられる。大洞式土器の分布圏が広いのは、当時の非効率な製鉄技術では燃料としての樹木を多量に消費する必要があり、北上山地の河川で採取した砂鉄を樹林がある地域に持ち込んで製鉄し、樹林が失われると製鉄地も変える方式だったからだと推測される。北陸に製鉄中心が移転してもその事情は変わらず、砂鉄は富山の山間地の花崗岩質の山から流れ出る河川で採取したが、製鉄地は富山湾沿岸から能登・新潟に拡散していたと考えられ、この製鉄技術を担ったのは磨製石斧と玉器の製作集団だったが、稲作文化と出会う事によってmt-M9遺伝子は、稲作者の遺伝子に変っていったと考えられる。
つまり出雲部族の大穴ムジ神は縄文後期の神から大きく変質し、縄文晩期には富山の玉器の製作集団を核とする製鉄業者に変質していた事になる。経済力が高まった製鉄集団はコメを多量に消費したから、他部族の地域からコメを調達し始めた事情が、須勢理ヒメとの婚姻説話だった事になり、それを見送ったスサノオが立派な宮殿を立てろと言ったのも、製鉄業者の高い経済力を示す言葉だった事になる。
この様な出雲部族の交易活動を、古事記の著者が海洋民族の経済活動であると評価し、出雲の建国神話を天孫降臨説話と並置する事により、出雲部族は幾多の困難に遭遇したが、それにめげずに海洋文化を進化させた事を説話化した事になり、「スサノオがイザナギに海原を知らせと言われた」理由も、東北に縄文人を船で移住させた事だけではなく、古事記の著者にとっての近世史は、出雲部族の経済活動に牽引されていたからだった。
王朝史観に毒された歴史学者により、東北は文化が遅れていた地域であると教えられた現代日本人は、これらの指摘に違和感を持つかもしれないが、縄文人が農耕民族化すると、共生していた海洋民族の活動が鈍る事を何度も例示されてきた、このHPの読者には必然的な結果だろう。
古墳時代の関東部族は、既に海洋民族である事を卒業して内需の商工民になる積りだったから、古事記はそれを意識し、農耕の神でもある天照大御神を用意した事になり、イザナギが天照大御神に「高天原を知らせ」と言った事もそれに繋がる。つまり古事記を創作した時点の関東の人々には、海洋民族的な活動には興味がなく、最後の海洋民族は出雲の人々だったとする事に何の抵抗もなかったから、古事記はスサノオノ命が本家の海洋民族であると認識する事に抵抗がなかった。その様な海洋民族を悪役に仕立てたのは、海洋民族的な交易と法治主義が合体すると、貧富の差が止めどもなく拡大した上に、不況になると稲作者が困窮する状態になったからだ。
日本列島が熱帯ジャポニカの産地から温帯ジャポニカの産地に変ったのは、熱帯ジャポニカのモチ種を好んだ関東部族の交易者が減少し、生産性が高い温帯ジャポニカ栽培に転換する流れが高まったからであると推測される。従って弥生温暖期になっても東北は、モチ種がないヒエの栽培地だった可能性があり、源頼朝の奥州征伐は稲作文化とヒエ栽培文化の激突だった可能性が高い。それを現実に即して言えば、稲作文化圏によるヒエ栽培文化圏の征服だった可能性が高く、それに敗れた人々の一部が北海道に入植し、アイヌのシュムクルになったと考えられるからだ。
2、製鉄史から検証する
考古学的に発掘されているのは、古墳時代以降の製鉄炉の跡で、それ以前の製鉄遺構については何も分かっていない。北上山系が花崗岩の山塊なので、その周辺では古代から製鉄が行われていたらしいが、その起源は明らかではない。
古代の製鉄炉は山の緩斜面を利用し、原料として鉄鉱石や砂鉄の何倍もの木材や木炭を必要としたので、砂鉄や鉱石が各地で産出する北上山系では、樹木を求めて製鉄炉が移動したと想定され、現在その痕跡は山林に覆われて遺跡を確認する事も難しいからだ。発見されても往時の形状を留めているものは少なく、例えその様な遺物が発見されても土器などが一緒に発掘されないと、遺跡年代を特定できない考古学的な実態がある。岩手県教育委員会が発行した「岩手の製鉄遺跡」報告書でも、その点を指摘している。
古墳時代以降の製鉄炉の跡で、技術系譜が見通せるのは古墳時代末期に始まった大陸系の製鉄炉で、西日本から展開が始まり、初期は鉄鋼石を素材としていたが、やがて砂鉄を原料とするものに変わった。この大陸系の炉は鋳鉄を生産するもので、鋳鉄はチタンを含む砂鉄でも原料にする事ができたので、この形式の炉が全国的に雨後の筍様に拡散したが、奈良・平安時代の製鉄遺跡は陸奥と吉備に多く、石見・安芸・出羽・越後・肥後がそれに次いでいる。
これについて安来市政策推進部観光振興課のHPは、以下の様に指摘している。(一部改変)
中国地方のたたら製鉄遺跡は、石見(島根県西部)、出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県)、備前(岡山県南東部)、備中(岡山県西部)、備後(広島県東部)、美作(岡山県北東部)、および播磨(兵庫県西部)の各地で確認されています。この地域では6世紀後半から11世紀頃の製鉄遺跡が、現在のところ70余り確認されています。中でも古代日本では、備前、備中、美作と備後にまたがる地域、即ち吉備国の地域にその大半が集中しています。
これに対して11世紀~16世紀の製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認され、それまで大半を占めていた吉備では、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し、中国山地の備中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるようになります。
たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。古代の初期の製鉄では、原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは、砂鉄のみが用いられているからです。
6世紀後半から11世紀頃の製鉄遺跡の大半が吉備国の地域に集中しているのは、壬申の革命によって出雲の産業が壊滅し、製鉄技術者の多くが吉備に強制移住させられたからで、11世紀~16世紀の製鉄遺跡が石見・出雲地域に集中したのは、山陽地域の鉄資源が枯渇したから、資源が豊富な地域に製鉄産業の中心が移動したからであるが、吉備に強制移住させられた人々の子孫が、出雲に帰ったからであるとも解釈される。
これらの製鉄に使う炉として、箱型と呼ばれるものが普及したが、やがて送風構造を持つ縦型炉に変っていった。但し製鉄の仕方は各地それぞれで、炉の形式が変化する時期も画一的ではなかったが、奈良時代末期に箱型から送風構造を持つ縦型炉への変化が北陸・西日本から始まり、平安時代前葉には足踏み式のふいご座を備える送風機構も普及した。しかし秋田と青森では一貫して、縦型炉が使われた。
中世になると出雲の製鉄技術が高度化し、その技術が全国に拡散したが、逆に製鉄遺跡はチタン含有量が少ない砂鉄が産出する、山陰と岩手に集約されていった。農耕用途であれば鋳鉄でも使える事は、大陸では一貫して鋳鉄が生産されていた事が示しているが、鋳鉄には粘度がなく脆い上に、腐食が早いから漁民や海洋交易者には使い難い鉄だった。その用途が多く、高品質の鉄であれば高価であっても購入する需要者が多かった日本では、品質が高い鋼の需要が根強くあり、それが生産技術の進化を促すと、日本の製鉄技術の方向性が決まり、技術の進化によって使用する木材や炭の量を減らす事ができたから、チタンを含まない良質の砂鉄の産地に生産地が集約されたと考えられる。
但したたら製鉄の原料には砂鉄が必須で、鉄鉱石は使えなかったわけではなく、その発想は原因と結果が逆であると考えられる。近代産業にも多くの例があるが、一旦一つの方向で技術開発が進み、色々な技術が生れた後で振り返ると、本当は別の方向の方がより正解に近かったと分かったとしても、先行した条件の下で蓄積された技術を捨て、その新しい方向性を追求する価値がない限り、先行技術の震度化は止まらないし、それが市場で唯一の製品技術である状態は変わらない。つまり出雲の人々には製鉄技術を高める郷土力があり、出雲で産出する原料は砂鉄だったから、出雲で高まった生産技術が日本の製鉄技術になると、「日本のたたら製鉄は砂鉄を原料とする製鉄になった」と言う状態が江戸時代末期まで続いたと考えられる。
若し関東部族の人達が日本一の製鉄集団になり、釜石の磁鉄鉱を使って製鉄を継続していれば、全く異なった日本の製鉄史が生れただろう。
従って以上の検証経緯を纏めると、縄文晩期初頭に北上山地の沿海部に砂鉄を使う製鉄が伝来し、関東部族と伊予部族がその原初的な生産を始めると、青森に北上していた出雲部族と富山の石材加工集団がそれを真似、樹林を求めて製鉄地を北上山地の周辺から東北各地に拡大し、製鉄地を移転しながら生産していたが、製鉄の原料となる砂鉄が富山でも発見されると、出雲部族と富山の石材加工集団の製鉄の中心地が北陸になり、北陸が日本の製鉄技術の先端産業地域になると、日本全国から製鉄技術を得る為に人々が集まり、やがて帰還した彼らの故郷に製鉄技術と大洞系の土器が拡散した。
初期の製鉄では炉の形状が原始的で、高温を得る技術が未熟だった故に木材を多量に消費したから、木材を求めて製鉄地が移動する状況だったが、その様な状況の中で出雲部族が独自の炉を生み出し、樹木や砂鉄の消費効率を高めたから、東北各地の製鉄は出雲部族の主導の下に展開し、東北の内陸が出雲部族の経済圏になったとすると、東北の方言分布の事情も明らかになる。
東北北部は北海道部族の縄張りだったから、その地域は縄文草創期からアイヌ語圏だったが、それが縄文晩期以降に東北南部まで広がったとすれば、東北に残った製鉄者は北上山地の砂鉄や磁鉄鉱を使いながら、出雲部族の技術で製鉄を行っていたから、出雲部族の言語に変ったと考える事もできる。部族の言語から産業者の言語に変った事になるが、稲作者は縄文後期からその様な状況を生み出していたから、東北の言語はヒエ栽培者の言語に統一されたとも言え、原因を一義的に求める事は難しい。
この流れは壬申の乱によって撹乱され、出雲部族が製鉄集団として復活するのに300年の歳月を要したが、出雲の製鉄が復活すると日本の製鉄の中心地になり、北上山地の周囲は第二生産地の立場を甘受する事になった。
出雲や千代川流域にも大洞式系の土器が拡散したが、それが第二の各産地を形成しなかったのは、弥生温暖期の山陰には北九州から稲作系の土器として、板付式や遠賀川系の土器が拡散してきたからであって、考古学者は稲作の西進が始まった事にばかり注目し、土器文化としては、稲作文化と製鉄文化の衝突が生れた事を認識していないから、土器の分類や編年に偏見もあり、状況の把握が不十分である疑いがある。
いずれにしても土器の変遷から、製鉄中心が富山から出雲に移行した時期を特定する事はできない。現在の考古学はこの時期の製鉄炉を検出できていないから、そちらからこの時代の製鉄事情を窺う事はできない。
いずれにしても壬申の革命によって出雲の製鉄が壊滅し、出雲の製鉄技術者は天武天皇の政策により、吉備だけではなく日本各地に強制移住させられ、各地の製鉄産業を興す技術者になったから、7世紀末に日本各地に製鉄炉が生れ、王朝期にはその方針が堅持されていたと推測されるが、それらの新興地域の製鉄原料は、チタンの含有量が多い各地の地産砂鉄だった。つまり甕星の公共政策は製鉄にも及び、物部を統制する事によって高価な鋼の需要と廉価な鋳鉄の需要を区分し、それぞれの需要と生産量を把握する事により、日本列島全体では鋼より鋳鉄の生産量の方が多い状況が生れ、出雲部族の独占状態が失われて鉄の需給関係が農民に有利になったから、奈良朝と平安朝はその方針を堅持した。
続日本紀に天皇が鉄製農具を恩賞として家臣に配布する話が記されているが、それは天武天皇の政策が成功した事例を示す記事だったと推測される。
しかし中世になって出雲の製鉄技術が躍進し、鋼の生産技術が高度化すると鋳鉄の需要に陰りが生れ、生産が鋼に集約されると製鉄地も出雲と岩手に集約されたが、生産技術に勝る出雲が日本の製鉄業を牽引する存在になった。
3 神社が祭る神から、東北地方の製鉄史を検証する
山形と秋田の県境に鳥海山があり、その山を御神体とする大物忌神社がある。この神は古事記には登場しないが、美和山の神(西ユーラシアから渡来した製鉄技術者集団)である大物主神とこの神を併置すると、両者の関係が明らかになる。
大物忌神の「忌」漢字には、「三本の横の平行線を持つ、糸筋を整える糸巻き」の象形と、「心臓」の象形から心を整える事を意味し、そこから「かしこまる」「うやまう」などの意味が派生したが、この漢字が華北では全く別の意味を持ち、「縁起が悪い」「命日」などの意味に変ったと推測される。現在の日本語には漢音である「き」しかなく、呉音である「ご」は全く使われていないからだ。
つまり大物忌神を「おおものいみのかみ」と読むのは間違いで、「大物主神を敬う神」を意味する読み方が正しいのだが、正しい意味に該当する日本語がない。つまり製鉄技術を学んだ出雲部族が縄文晩期に、この地域を中心とした東北の日本海沿岸に、樹林を求めて製鉄産業を興したが、大物忌神を祭る集団は、自分達は出雲部族ではないと主張している事になる。
出雲部族の大穴ムジ神の意味を推測すると、「穴」漢字には「むろ(物を保存、または育成のために、外気を防ぐように作った部屋)」、「つちむろ」の意味があり、製鉄用の縦型炉を示している可能性が高いから、古事記の著者の感性から推測すると製鉄の神だった可能性が高い。しかし大物忌神はそれとは違う事を示しているから、この地域の人々が出雲部族との縁を認識していたとすると、大穴ムジ神を意識して「おおものむじのかみ」と読ませる積りだった可能性もある。ちなみに古事記の著者はヒエ栽培文化圏の人だったから、大穴ムジ神が何を意味していたのか知っていたと推測され、アイヌ語の漢字カナ交じり文で「忌」を「ムジ」と呼んでいたが、漢音の漢字文化圏だった西日本の人々にも読める様に、「ムジ」と書いた疑いもある。
(13)飛鳥時代/体制革命の項で、延喜式神名帳に記された畿内以外の神社として、その頃に勲三等に叙された出羽大物忌神社、勲四等の下野二荒神社、陸奥志波彦神社、陸奥 志波姫神社、出羽月山神社があると指摘したが、この叙勲は壬申の革命時の戦功に依るものであると考えられる事も指摘した。つまり出羽大物忌神社勢は、壬申の革命時には出雲部族から離反し、甕星側として参戦した事になる。
この事情に関する推理は複雑だが結論から言えば、出羽大物忌神社勢は出雲攻撃に参加する事に躊躇いがあったから、奈良盆地の攻撃に参加して殊勲を挙げたと推測され、古事記が奈良盆地の攻略時に活躍したと記している久米が、その候補の筆頭に挙げられる。神武紀にホトタタライスケヨリヒメを紹介した人物として、久米が登場するからでもある。
久米は天忍穗耳命の天孫降臨の際に、降臨する路を大伴氏と共に先駆け、警護する武人として初出したが、その際の天津久米命の名称は天孫族である事を示している。つまり久米は物部だった事になり、製鉄業者だった事に繋がるだけではなく、鋼の製造者だったのであれば武器の生産者にも繋がる。古墳時代には沢山の剣や甲冑が生産されたが、チタンを含む砂鉄を利用しなかった当時の製鉄地は、北上山系、富山、出雲、北九州のいずれかで、北九州から大洞式土器の発掘事例が乏しい事は、関東部族や伊予部族への鋼の供給地は北上山系だった可能性が高い。日本海沿岸の製鉄業者がそれを使って鋼を生産する為には、北上山系から砂鉄を運ぶ必要があったが、秋田城を交易拠点にしていた関東部族の水運が、それを担っていたとの推測が現実的になる。
またその頃の出雲部族は、秋田北部~青森西部の人々は毛皮の生産に忙しく、製鉄原料は富山と出雲の砂鉄に集約し、その周辺地域の森林を使って製鉄していたが、東北の製鉄業者に先進的な製鉄技術の供出を渋ったから、日本海沿岸の出羽大物忌神社勢や出羽月山神社勢だけではなく、北上川水系にあった志波彦神社勢や志波姫神社勢も、甕星の側に立って参戦したと推測される。叙勲委は三等や四等だが、畿外の神社としては最高位になり、彼らの壬申の革命時の奮戦事情を示し、出雲部族に対する恨みの深さを示しているからだ。
久米歌にアワが含まれているから、東北の人々だった事に疑問があり、久米の名称は改定古事記の文脈上、漢字で解釈すべきか否かも分からないが、神武東征説話には明らかな奈良朝の改定部があるので、これらの矛盾に関する議論は一先ず棚上げにする。
出羽月山神社が月読信仰を隠し、室町時代に漸く明らかにした事は、奈良時代以降の東北地域の複雑な歴史を示唆している。上に掲げた下野二荒神社は、下野国一宮として大己貴命(おおむなちのみこと)を祭り、大物忌神はそれとは違う事を示唆しているからだが、志波彦神社と志波姫神社には更に悲惨な事情があったからでもある。
志波彦神社は中世に廃れ、現在は塩釜神社内に社殿がある。志波姫神社も中世に廃れ、伊達藩の重臣が宮城県の北端にある栗原市に復興したが、主神は木花開耶姫になっている。木花開耶姫は南部氏の出身地である山梨県南端に隣接する、富士宮市の浅間神社の主祭神だから、志波姫を祭っていた人々が南部氏に征服され、祭神の変更を強要された事を示唆している。
以上を纏めると以下の構図が浮上する。
古墳寒冷期にヒエの栽培者になった出羽や陸奥の人々は、当初は出雲部族の先導で製鉄業者になったが、出雲部族が資本の原理に従って出雲での製鉄に注力し、東北の製鉄集団を顧みなくなっただけではなく、競争者と見做して敵視し始めると、技術力と資本力に劣る東北各地の地域集団の製鉄事業が廃れ始めたから、壬申の乱で甕星に味方して内需交易の復興を期したと推測される。彼らが7世紀後葉にチタン含率が高い砂鉄を使い、鋳鉄を製造し始めたのは、甕星の政策に従ったからである可能性が高い。
日本全国に鋳鉄を製造する機運が盛り上がったのは、それが甕星の政策目標の一つだったからである可能性が高く、これによって出雲部族が独占していた製鉄業の業態が変わり、東北各地の製鉄事業が復活したと推測される。甕星は滅ぼした出雲で製鉄技能者を募集し、全国に配布して鋳鉄の生産を始めたのは、その用途が廉価な農具や鍋窯であっても需要はあり、高価な漁具や武具と競合するものではなかったからだと推測される。つまり出雲を滅ぼすと鋼の生産量が激減したが、その多くの需要は鋳鉄によって賄う事ができたから、各地の鋼の生産者にも過剰な増産要求はなく、当面の鉄の需給は順調に回転したと推測される。
しかし政変によって甕星の子が殺されるとその政策は水泡に帰したが、古事記の思想を継承した奈良朝と平安朝は、製鉄に関しては甕星の方針を追従する事しかできなかった。その様な状況で、山陰や北陸で開発された先進的な製鉄技術は、新潟以北には北上しない状況が継続したから、秋田や青森の製鉄業者は独自の道を開拓する必要が生れ、従来の縦型炉の改良を余儀なくさせられた。奈良時代に盛んになった箱型炉は秋田以北では使われず、一貫して縦型炉が使用された事が、その事情を示唆している。その様な事情下で、北上山地の周辺では蕨手刀を生み出す鋼も生産したが、生産効率が低く全国に鋼を販売する事ができなかった事が、蕨手刀を地域文化に留めざるを得なかった理由だったと推測される。
壬申の革命によって出雲の製鉄産業は壊滅状態になったが、出雲には産業化に優れた人材を輩出する文化土壌があり、縄文晩期に北陸最大の工人集団だった石材加工集団も吸収していたから、平安時代末期に出雲の製鉄産業が復活した。その鉄が吉備の鍛冶技術と結び付き、中国地方がそれを含む複合的な産業地帯として発展すると、東北地方の製鉄産業は再び衰退の道を歩み始めたと推測される。
その過渡期以前に奥州藤原氏の繁栄があり、藤原氏の拠点が北上川河畔の平泉だった事は、北上川流域で製鉄した鋼を販売する事により、奥州藤原氏の経済力が生れた可能性が高い。その時代も末期に源義経と金売吉次の出会いがあったから、金売吉次は金を売っていたのではなく鉄商人だった可能性がある。金を売って何を得ていたのか疑問になり、都で何かを買い付ける人だった事になるが、当時の都は消費地であって何かを生産する地域ではなかったからだ。しかし鉄を売るのであれば、都でも商売が成立する。
平安温暖期の東北では、ヒエの栽培地に関東から稲作者が武力的に北上していたから、栽培穀物に混乱があり、奥州藤原氏はヒエを栽培しながら製鉄を行う集団の総帥だったとすると、奥州藤原氏が滅亡して北海道にヒエ栽培者が逃れた話に繋がり、源義経が北海道に渡ったとの伝説も生まれ易い環境になった。奥州藤原氏が滅亡して稲作者の政権が生れた事も、その事情を示唆し、地域経済が更に混乱して志波彦神社と志波姫神社が衰亡したとすれば、アワ栽培者の集団が圧迫されて消滅した悲劇に結び付く。
その様な稲作集団の代表が南部氏で、勢力を稲作の北限地である岩手と青森に広げた事は、背後に稲作の北限地を求めていたmt-B4がいた事を示唆している。稲作の耐寒性向上は、北限的な寒冷地で行う必要があったからであり、次の寒冷期に備える為には、温暖期には極限まで北限を広げる必要があったから、そこがヒエの栽培適地であっても、武力的に稲作地に変える必要があったからだ。縄文的な栽培種の生産性向上には、多数の栽培者と栽培ネットワークが必要だった事は再三指摘した。
秋田では奥州藤原氏が滅亡しても動乱が続き、鎌倉幕府側の記録では、有力な支配者が生れたのか明らかではない。江戸時代に秋田藩主になった佐竹氏は、室町時代以来の常陸守護の家柄で、常陸源氏の嫡流だった。つまり津軽藩以外の秋田・青森・岩手は、関東の源氏の系譜になった。
その様な栽培種の混乱の中で製鉄の中心地が北上山系と出雲に集約され、北上山系の製鉄技術が出雲より劣る状態が慢性化すると、北上山系以外の東北各地の製鉄業が壊滅し、北上山系の製鉄業も斜陽化していったと推測される。
7-4-5 欠史八代
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代は、事績の記述がないので「欠史八代」と呼ばれている。
綏靖天皇の即位に当り、南方派を示唆する当芸志美美を殺した事は、北方派だった神武が樹立した倭から、薩摩半島の俀が離脱した事を示唆し、それは薩摩半島の勢力だけではなく、駿河湾岸を根拠地にしていた南方派も離脱した事を示唆している。
この8代の天皇は倭同盟の正規の天皇だったので、それについて取り立てて説明する必要がなく、民衆に配布する祖先系譜を記述すれば良かったから、理解し易い書籍にする為に文章を節約し、説話は作らなかったと想定される。
(8代)孝元天皇(大倭根子日子國玖琉命)が内シコメ命を娶って生れた御子が、大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根子日子大毘毘命。
大毘古命が木国造之祖である宇豆ヒコの妹の、山下影日賣を娶って生れた子が建内宿祢。
建内宿祢の子が并せて九人で、波多八代宿祢は、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。次の許勢小柄宿祢は、許勢臣、雀部臣、輕部臣の祖。次の蘇賀石河宿祢は蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等の祖。次の平群都久宿祢は、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等の祖。次の木角宿祢は木臣、都奴臣、坂本臣の祖。次の久米能摩伊刀ヒメ。次の怒能伊呂ヒメ。次の葛城長江曾都毘古は、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等の祖。又若子宿祢は江野財臣の祖。
長男の大毘古命は天皇にならず、末子の若倭根子日子大毘毘命が9代目の開花天皇になる。大倭根子日子ではなく若倭根子日子になった事は、開花天皇は分家である事を示唆し、ここから南方派を天皇にする伏線を示している。
大毘古命の系譜を長々と記したのは、こちらが本当の天皇だったからその子孫を列挙したと考えられる。建内宿祢が大毘古命の子で、建内宿祢の子が葛城長江曾都毘古で、蘇我臣、高向臣、平群臣もこの系譜であるとしている事は興味深い。これらの豪族は関東の天皇家の家臣であると宣言している事は、奈良盆地土着の豪族ではなく、占領地に派遣された官僚的な人々だった事を示唆しているからだ。日本書記はその様な人々の子孫の、自分達は奈良盆地の土着の豪族だったとの主張を受け入れた事を示しているが、どちらが事実だったのかは分からない。
開化天皇が庶母(父の妻)だった伊迦賀シコメ命を娶って生んだ御子が、御眞木入日子イニエ命(崇神天皇)と御眞津ヒメ命。
複雑な家系譜を示しているのは、関東部族の棟梁が南方派の崇神系譜に変わった経緯を、系譜だけで示す為だと考えられるが背景史実は分からない。
7-4-6 崇神天皇
大毘古命の女を娶って生れた御子は、イクメ入日子イサチ命、イザノ眞若命、国片ヒメ命。千千ツク和ヒメ命、伊賀ヒメ命、倭日子命。
政略結婚によって大毘古命の娘を妻にした事を示唆し、その子が倭日子命になった事に何かの意味かありそうだが、背景史実は分からない。
此の天皇の御世に疫病が多く起り、人民が死に尽しそうになった。天皇が愁歎して神牀に坐した夜に、大物主大神が夢に顕れて曰った。是の者は我の御心であるから、意富多多泥古に我が御前を祭るを令せば、神気は起らず国は安平になる。それで四方に使者を派遣して意富多多泥古と謂う人を求めると、河内の美努村に其の人が見得たので貢進した。
南方派が華南以南の人々と交易すると、疫病を持ち帰り易かったから、それに対する対策が必要だった事は、この天皇の御代に限った事ではないが、南方派がそれに対する対策を実施して効果があった事を、この天皇の事績として挙げたのではなかろうか。南方派の交易者の自主的な対策が主なものだったから、古事記の著者も実態は知らなかったと推測される。
天皇が汝は誰子かと問うと答えて曰う。僕は大物主大神が陶津耳命女の活玉依ビメを娶って生まれた子の櫛御方命の子の、飯肩巣見命の子の建甕槌命の子の、意富多多泥古である。それで天皇は大いに歡び、詔をすると天下が平らかになって人民が榮えた。意富多多泥古命は御諸山の神主になり、意富美和の大神の前を拜祭した。
美和山がある奈良盆地は西日本最大の稲作地で、稲作神として建甕槌命が祭られる北関東は、弥生温暖期には東日本最大の稲作地だったから、人口密度が高い両地域は、疫病が蔓延し易かったと推測される。意富多多泥古が建甕槌命の子のである事は、疫病の被害に悩まされていた北関東の稲作者が採用した対策を、奈良盆地の人々も採用した事を示唆している。
この話に大物主大神が登場する事に違和感があるが、国譲り説話で建甕槌命は天の尾羽張神の子であると記し、イザナミが死んだ説話で天の尾羽張神は鉄剣であると記しているから、建甕槌命は稲作者に鉄製の農具を支給する、物部だった事を示唆している。中華大陸では稲作者の中に生まれた交易者は製塩業者だったが、製塩業が発達する余地がなかった日本列島では、鉄器時代になるとその役割を製鉄・鍛冶技能者が担った事を示唆している。つまり藤原氏は、製鉄業者の系譜の人だったと考えられる。
大毘古命を高志道に遣し、其の子の建沼河別命を東方十二道に遣し、これらの地域を征服させたとの説話があるが、これは改定時に挿入された説話なので割愛する。
其の御世を称し、謂所、初国知らす御眞木の天皇也。
中華世界で夏王朝が崩壊したので、成立時から夏王朝に参加していた南方派が、その代役となる機構を日本列島に設立した事を、暗示していると考えられる。北方派も改めて夏王朝の重要性に気付き、南方派がその帝を開催する事に、賛同したと考えられる。古事記は倭人の歴史を消滅させる書籍だから、軽く「謂所知初国の御眞木(みまき)天皇也」の一言で済ませて事の軽重は無視したが、崇神の天皇名称には工夫があった。
崇神の「崇」は「山」と、屋根を持つ家屋である「宀」と、神に生贄を捧げる台である「示」であると解釈されているが、帝と同様に「示」は生贄を捧げる台ではなく、帝のために使う「卓」であると解釈すれば、山が多い日本列島に「夏の社」である帝を設置した天皇として、原古事記の著者が創作した名称に見えるが、古事記の著者が文学的才能に溢れていたとしても、漢字の起源に関する深い知識があったとは考え難いから、古い時代から崇神と呼ばれていた可能性もある。
古事記の作者にとって「初めて国を知らした」事は、この天皇が誰であるかを示すマーカーでしかなかったから、崇神の事績とこのマーカーを整合させる意思はなく、むしろその不自然さを露わにする事により、崇神は誰を暗喩しているのかを明らかにしたと考えられる。古事記のその様なマーカーが、倭国王家の年代記に基づく創作説話である事を示し、文章の権威を高めたからだ。
古事記がそのマーカーに付いて何も説明しなくても、倭人時代の事績を知っていた人には十分に意味が通じたし、歴史に疎かった一般民衆は博識者からそれを指摘される際に、博識者が納得顔で説明すれば安心し、物知りがしたり顔で民衆に説明すれば、古事記の思想が容易に浸透する事まで、期待していた可能性も高い。
古事記は神武も崇神も「天下を治めた」と記しているが、崇神紀はその上に「謂所、初めて国を知らした」と記しているから、「治める」と「知らす」の違いが問題になる。「治める」は法に従って民族や部族を統治する事で、この法は民族や部族の独自の法規になる。しかし「知らす」は帝が決めた国際規約を諸国の王に周知し、実行させる事だったから大きな違いがあった。従って神武は夏王朝の帝に参加していたが、帝を開催する「后」ではなく、帝によって決まった法規を議事録として配布し、それを周知させる人(それも后)でもなく、倭の法規に従って倭を統治する人だった。
崇神が国を知らしたのは、夏王朝が消滅すると崇神が独自の帝を開催し、そこで決まった規約を「知らす」必要が生じたからだと想定される。崇神が開催した帝に参加したのは、関東、岡山、大阪湾岸、北九州に生まれた倭人国だった可能性が高く、それらの諸王を招集して夏王朝に代わる帝を開催し、懸案事項を議決して議事録を諸王に配布した事を指したと推測される。
夏王朝に参加していたのは関東部族の南方派だけではなく、九夷や北方派も参加していた可能性があるが、崇神が夏王朝に代わる帝を開催すると、参加者の顔ぶれが変わった可能性がある。この帝には大陸の交易を統括する権限はなく、日本列島だけの帝だったからだ。先に示した様に海洋民族の交易には古来の仕来りがあり、誠意を持って対応する事が基本で、問題が起こった際に解決策を改めて協議する方式だったから、この帝にどの程度の統治力があったのか疑問がある。
いずれにしても古事記は、南方派の棟梁がその帝か后に就任したから、以降はこの系譜が天皇になった事にして、関東の実際の天皇は大毘古命に格下げした。
竹書紀年から夏王朝の消滅時期を読み取る事は難しいが、崇神の在位期間は168年(複数の王の合算)なので、比較する必要がある期間は長く、於越が呉を吸収したBC473年に楚が夏王朝を引き継いだとしても、後述する崇神の在位期間内になり、楚はBC447年に蔡を滅ぼし、BC445年に杞を滅ぼし、BC430年に莒を滅ぼし、夏王朝としては許されない事を行ったから、この頃に楚が夏王朝を閉じた可能性が高く、BC370年に梁の惠成王が自立した時期が夏王朝の消滅時期だったとしても許容範囲になり、時期的な整合性に問題はない。
古事記を史書として解析する為には、崇神天皇に関する説話だけではなく、他のマーカーの抽出も重視する必要がある。古事記は天皇の寿命から年次を計算させ、マーカー事象が起こった年次を確認させているからだ。それらから試算する天皇の在位年代は、古事記に関する説明が終了した後に示す。
古事記が国譲りに「知らす」を使い、崇神がその役目を担った事を、「謂所、初めて国を知らした」と記したのは、甕星も夏王朝の制度の復活を想定していた事を示唆している。「知」漢字は矢と口の合成だから、口は規範を伝達する使者の口上を示し、矢の様な形状の竹簡にそれが記された状態を示唆し、伝達行為の表象だったと考えられる。帝によって決まった規範を議事録として伝達し、それを周知させる事が、帝の招集者で議長だった夏后の統治行為だった。倭国王の年代記を読んでいた甕星も古事記の著者も、夏王朝から「知らされた」事項を全て承知していたから、それを使った統治については実体験的に知っていたと推測される。
国の旧漢字は國で、域を国構えで囲った事を示す漢字で、竹書紀年では五帝時代から「国」漢字が使われているが、春秋時代までの使用頻度は高くなく、集団が居住する場所を曖昧に示す概念として使い、統治や行政に関わる領域認識を、この漢字によって示してはいない。古事記が使う「葦原中国」も、この曖昧な概念として使っているから、初めて国を知らしたとの記述は、近代的な国の概念が初めて登場した事になる。
史記の周本紀は統治単位としての「国」漢字を多用しているが、竹書紀年の同時代の記述はその認識を示していないから、戦国時代~漢初に領域を持つ「国」の概念が生まれ、史記はそれを遡って多用した事になる。崇神天皇もその時代の流れの中で、倭国と諸国の概念を形成して知初国天皇と呼ばれた可能性があり、この頃倭人諸国が自分達の領域を国と認識し始めたから、魏志倭人伝に〇〇国が多数登場したと考えられる事と整合する。
つまりそれまでの倭は、倭人同盟の指導者である倭国王が対外交渉を取り纏め、倭同盟全体を倭であると認識していただけだったが、大陸に夏王朝傘下の民族がいなくなると、それぞれが国であるとの認識に至り、大陸の各地と交易していた諸国も、各国の王が交易相手を国と認識し、王を頂く各集団も自分達を国であると認識したから、初めて国を知らしたと記述した可能性がある。回りくどい話をしたのは、初めて国を知らしたとの記述は、BC400年頃の大陸事情と一致している事を説明したかったからだ。つまり古事記の著者は単に「知らす」と記したかったのではなく、初めて国を知らしたとの記述全体に、意味があった事を説明したかったからだ。
但しこの時代の人々の「国」認識は、領土概念ではなく交易者が帰属する王による、法治範囲を示すものだったから、国構えで「域」を示す「國」とは異なる概念だったが、大陸に国が生れている状況で他に漢字がなかったから、領土が不明確な交易集団でありながら「国」漢字を使った可能性が高い。つまり商工業者に独特の内規があっても、それは現代社会の社会規定の様なもので、それを統括する王の概念は早々に生まれたとしても、領域はなかったが名前を付けた国名が必要だった事になる。領土を征服するとその国域が膨張する事は大陸の常だが、シベリア起源の先有権的な占有法が優先した日本列島には、それとは異なる領域認識があったから、国の概念は存在しなかったからだ。
隋書に倭国の統治形態として、80戸が「いなき」に属し、10の「いなき」が「くに」に属し、倭国には120の「くに」があると記され、その「いなき」や「くに」を拡大し、甕星の統治機構が「稲置」「国」と漢字で記したとすると、「国=くに」の音は壬申の革命によって生まれた事になり、それ以前の人々には「くに」という言葉がなかった事になるから、革命以前の飛鳥時代の人々には国の概念は存在しなかった事になり、上記と整合する。
魏志倭人伝が示す各国名称は、奴國、彌奴國、姐奴國,蘇奴國,烏奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國,不呼國,邪馬國,已百支國などの、地名とは言えない意味不明なものが多く、むしろ地名を使う事ができない事情があった事を示唆している。奴國は「皆の国」程度の意味だったと推測され、それに彌を付けると「皆が元気な国、姐を付けると「女性が元気な国」などの、その国の人を特徴付ける漢字を付加しているに過ぎず、不呼國が「名無し国」を意味するのであれば、ユーモアを示す識別番号程度の名称でしかなかった。
倭人諸国を代表する国が倭国であるという不自然な構図は、倭国以外の商業集団がこの様な名称を勝手に決めてしまった後に、倭国だけが残ったからではなかろうか。古事記の著者も初めて国を知らしたと記述はしたが、新しく生まれた日本国の概念に習熟していなかった疑いがある。
7-4-7 南方派を天皇にした時代
垂仁天皇
沙本ヒメと沙本ヒコ説話は、改定時の挿入の疑いが濃いので割愛する。
天皇は御子を可愛がったが、御子は髭が胸元に届く様になっても口がきけなかった。高く往く鵠の音を聞いて始めて、片言を言った。
山辺の大鶙を派遣し、其の鳥を取るように令した。是の人は其の鵠を追い尋ね、木国から針間国に到り、亦た追って稲羽国を越えて旦波国に到り、多遲麻国に追って東方に廻り、近淡海国に到った。乃ち三野国を越えて尾張国から科野国、遂に高志国に追い到り、和那美の水門で網を張って其の鳥を取り、持ち帰って献上した。しかしその鳥を見ても、御子は言葉を発しなかった。
天皇の夢にお告げがあり、占うと、出雲の大神の御心である事が分かり、御子に其の大神の宮を拜すを令すと、それだけで霊験がある事が分かった。
御子が出雲に到って大神を拜訖し、還り上る時、出雲国造の祖が青葉の山を飾って其の河下に立ち、大御食を献じた時、其の御子が詔り言う。是の河下の青葉の山の如きものは、山に見えて山に非らず。出雲の石の曾宮に坐す、葦原色許男大神を祝う大廷ではないかと問い賜う。御伴の王等は聞いて歡び見て喜び、駅使を貢上した。
この説話は流れが簡潔で文学的なので、原古事記の説話であると考えられる。
古事記の著者がこの説話で示したのは、日本語の統一がこの頃進んだ事ではなかろうか。先に挙げた国々は既にmt-B4の稲作普及活動により、関東部族の言葉が通じる地域になっていたが、出雲は産業地帯として、独特の専門語を多数含む独自の言語圏を形成し、依然としてアイヌ系の言語を使っていたから、稲作文化圏と製鉄文化圏の言語が異なっていたと推測される。どの様な経緯でそれが統合されたのか明らかではないが、古事記の立場としては元々言語が違っていたとは言えないから、この説話でその時期とその時期の標準語圏を羅列し、この時代の言語事情を示したと考えられる。
ヒエ栽培地だった高志国まで標準語化していた事は、出雲文化圏だった津軽や秋田北部以外の東北に、ヒエ栽培文化を拡散した伊予部族の北方派も、関東部族の言語を使っていた事を示唆している。
それとは別にこの説話が示す事情として、天武天皇の中央集権制によって平安時代から江戸時代まで続いた行政分割地が決まり、各国に名前が付いていたことが分かる。それが平安時代以降の漢字と異なるのは、奈良朝が各地を卑しめる漢字名称に変えていたから、光仁天皇を送り込んで平安朝を形成しても関東にはまともな統治制度がなかったから、奈良朝の統治機構を踏襲するしかなく、妥協の産物として奈良朝が制定した漢字を使う事になったからだと考えられる。他の説話も参照すると、豊前や備後の様に前後を着けて細分化する事もしていなかった。
この事情が出雲の標準語化を遅らせて孤立的な発音圏を形成し、文学に優れていた伊予部族と双璧の地域性を形成していたと推測される。明治時代に島根や鳥取から優れた文学者が生れなかったのも、その為である可能性がある。ちなみに森鴎外は津和野の人で、此処は対馬部族の文化圏だった可能性が高く、出雲は石見、伯耆(鳥取西部)、因幡を含んで中核地を形成していたから、壬申の革命によって細かく細分化されたと考えられる。
景行天皇
ヤマトタケルの説話が中心で、これは改定時に挿入されたものだから、この天皇紀に紹介する説話はない。
成務天皇
説話はない。
仲哀天皇
神功皇后に関する説話が中心で、これも改定時に挿入された説話なので割愛するが、応神天皇の生誕に関する部分は改定しなかった筈なので、そこだけ紹介する。
息長帯ヒメ命(おきながたらしひめのみこと)を娶って生れた御子は、品夜和気命。次は大鞆和気命で、亦の名は品陀和気命(ほむだわけのみこと=応神天皇)。
息長帯ヒメ命が筑紫国に渡り、其の御子を産んだ。其の御子が生れた地を宇美と謂う。其の御裳に纒いた石のある所は、筑紫国の伊斗村に在る。亦筑紫末羅県の玉嶋里に到り坐し、御食に其の河辺で年魚を釣った。〈其の河の名を小河と謂い、其の磯の名を勝門ヒメと謂う。〉
宇美は現在も福岡県糟屋郡宇美町に地名が残り、奴国の中心地だったと考えられている。伊斗村は魏志倭人伝に、大率が住む地として伊都国と記されている。筑紫末羅縣も魏志倭人伝に末盧国の記述があり、唐津市の東端に玉島川がある。地名の挙げ方がくどいので、改定時に追加があった可能性が高い。
香坂王と忍熊王の反逆説話は、奈良朝が大率の年代記を所持していなかった事と、難波王の年代記も入手していなかった事を示唆し、それ故に仁徳天皇が誰を指しているのか分からず、応神天皇紀には色々書き込んだが、仁徳天皇紀にはあまり手を付けなかった可能性がある。
7-4-8 大率系譜が天皇になった時代
応神天皇
原古事記の断片が分からないので割愛する。
仁徳天皇
難波の高津宮に坐し、天下を治めた。此の天皇は葛城之曾都毘古の女の石の日売命を娶り、生れた御子は大江の伊邪本和気命(履中天皇)、次に墨江之中津王、次に蝮の水齒別命(反正天皇)、次に男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)。
葛城之曾都毘古は建内宿祢の子で、建内宿祢は壬申の革命の後に、奈良盆地を統治する為に関東から派遣された人々の、父であると位置付けられている事は既に指摘した。
此の天皇の御世に石の日売命を大后とし、その御名代を葛城部に定めた。・・・秦人を役して茨田の堤と茨田三宅を作り、丸邇池と依網池を作り、難波の堀江を掘って海に通じさせ、小椅江を掘り、墨江の津を定めた。そして天皇は高い山に登って四方之国を見て、詔をした。「国中に烟が発していないのは、国が皆貧窮しているからだ。故に今から三年は、人民の課役を悉く除く。」このために大殿が破壞し、悉く雨が漏ると雖ども修理せず、其の漏雨を椷で受け、漏らない処に遷り避けた。後に国中に烟が満ちているのを見て人民が富むを知り、課役を科したので百姓が栄え、役使を苦しむ事はなかった。故に其の御世を称して聖帝の世と謂う。
(1)魏志倭人伝の項で、弥生時代末期の古墳寒冷期に向かっていた時期に、西日本の倭人30国で何が起きたのか検証した。古墳寒冷期が迫って交易活動が大きく後退すると、交易商品との交換品だったコメの価値が下がり、それを不満とした女性達が卑弥呼を擁立して政権を獲得した。魏志倭人伝には「卑弥呼の弟が統治を助けた。」としか記されていないが、卑弥呼の擁立を許した大率と、卑弥呼の弟の統治を仁徳天皇に託し、女性達の横暴に耐えた男性達を讃えている様に見える。難波の高津宮にいたとの記述はこの天皇だけである事も、その事情を示唆しているからだ。文学的な素養がなかった武庫川系邪馬台国の人々には、原古事記の著者のアイロニーが理解できなかった様だ。
原古事記の著者も魏志倭人伝を読み、魏の使者には見えなかった邪馬台国の裏面をこの様に説話化したから、秦人を役しとの記述は、邪馬台国の人々が魏志倭人伝に示された生口をどの様に使ったのか示している。
古事記の著者はその様な卑弥呼を、仁徳天皇の皇后になった石の日売命に比定し、「其の大后(正式な皇后)の石の日売命は、甚だ嫉妬が多い」と記した。また吉備の黒ヒメとの恋を石の日売命の嫉妬に邪魔されたとの説話は、大阪湾岸と備讃瀬戸の男性達が連携して行った諸活動が、卑弥呼と彼女を取り巻く千人の女性達により、酷く妨げられた事を暗示している。
石の日売命の嫉妬と横暴が如何に酷いものであったのかを文学的に綴り、原古事記の著者の感性を示している。これを文学的に拡張すると、ヒエ栽培者だった原古事記の著者の眼には、関東部族の女性達の振る舞いが横暴である様に見えていたが、奈良朝の女性達も関東は関西より酷いと認識していたから、関東の事績を基に創作した説話であると誤解した可能性も高い。関東のmt-B4は縄文中期までは海洋民族の一部署に過ぎず、縄文後期はmt-Fの風下に置かれ、縄文晩期~弥生温暖期までは激動の時代を切り抜け、古墳寒冷期に初めて歴史の前面に躍り出たから、主導的な立場での在り方が分からず、優位な立場を利用して横暴になっていたのではなかろうか。
しかし西日本では鉄器の普及と共に男性達の役割が高まったから、仁徳天皇の事績はそれを強調しているが、北関東のmt-B4には稲作を全国に広めたプライドがあり、北方派の男性達の交易活動も、mt-B4の稲作普及活動に相乗りするものだった。西日本では絹布の生産も盛んになり、経済活動を稲作だけに依存する必要がなくなっていただけではなく、女性の一部も養蚕や織布に参加する事によって経済が多様化していたが、関東では稲作経済への依存度が高かった事が、その様な違いを生んでいたと推測される。
ヒエ栽培者の高度な文学センスと接していた関東の女性達には、古事記の著者のアイロニーを理解する者が多数いたとすると、この説話が関東のmt-B4に甕星や古事記への反感を煽ったかもしれない。古事記の著者はこの説話を通し、関東の女性達をたしなめる気があった可能性も高いからだ。文が長いので説話は此処に掲げないが、興味がある方は出版されている古事記を参照して頂きたい。
大樹で船を作ると甚だ捷行だったので、其の船を枯野と呼び、朝夕淡道嶋の寒泉を酌んで天皇の飲用に献じた。船が破れ壞われると塩を燒き、焼け残った木で琴を作った。其の音が七里に響いて歌が生れた。
当時の備讃瀬戸が塩の産地だった事を示し、魏志倭人伝に記された多数の樹木が、高度な木工品の生産を支えていた事を示唆し、内需交易を活性させれば人々は豊かになる事を示唆している。それらを纏めると、古事記にはこの様な思想の頒布も託されていた事を示唆している。聖帝の世を実現した天皇紀の末尾にこの説話を挿入し、その効果を狙ったのではなかろうか。古事記の多目的性に驚く必要がある。
履中天皇
即位すると弟の墨江の中津王が反乱を起こしたので、その下の弟の水齒別命(反正天皇)に墨江之中津王を殺す様に命じた。古事記には相応しくない殺伐とした説話が続くが、文体がしっかりしているので、原古事記の説話であると推測される。反正天皇の「反正」は正義に反する事を意味し、その名に蝮を使っている事は、この天皇が武庫川系邪馬台国を形成し、関東も征服する武闘的な王だった事を示唆し、古事記の著者もこの暴力的な政権の成立に対し、批判的だった事を示している。反正天皇紀に説話がない事は、古事記思想に基づく融和的な説話を、この天皇の為に創作したくなかった事を示唆し、関東の関東部族や伊予部族のこの人物に対する恨みの深さを示唆している。
履中天皇~武烈天皇までが、前後を含む「倭の五王」の時代になるが、改定古事記が記す各天皇の寿命が長過ぎ、古事記と同時代の宋書を比較する事ができないので、奈良朝が各天皇の寿命を改竄したと考えられる。允恭天皇以降は、奈良朝の挿入や改定もあるので省略するが、天皇名称は変える事ができなかったと考えられるので、それに付いて検証する。
履中天皇の「履」漢字は、「足をあげて地におろす」「ふみつける」「ふみ歩く土地」「領土」などの意味があり、中華世界への軍事侵攻を開始した人物である事を示唆している。
允恭天皇の「允」漢字は「頭のひいでた人」を意味し、「恭」漢字は「注意深い」「控え目」「礼儀正しく丁寧」を意味するので、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣の銘にある、シキの宮の大王だった可能性がある。反正天皇の時代に関東と邪馬台国の関係が極度に悪化すると、関東との融和策を提案し、関東の諸豪族にも移民事業に参加して利益を上げる機会を提供したから、この様な評価が与えられた可能性がある。
7-4-9 古事記が示す歴史の実年代
古事記が示す天皇の寿命をその天皇系譜の合計在位期とし、古事記が説話で暗喩した事績から推測すると以下の表になる。
即位年のマイナス表示はBC年を示し、応神天皇の在位期間を、魏志倭人伝に「其の國本亦男子を以って王と為し、住くこと七八十年、倭國が乱れ、歷年相攻伐した。そこで共に一女子を立て王と為し、卑弥呼と名前を付けた。」と記されている事から80歳にした。改訂古事記に130歳と記されているが、奈良朝が重視した応神天皇を偉大な天皇にする為に、在位期間を増やした疑いがあるので採用しない。
AD107年に大率ではない倭国王の帥升が後漢に朝貢したので、この時期の大毘古は関東にいたと推測される。卑弥呼が女王になったのはAD200年頃だったと想定されるから、応神天皇の即位年はAD120年頃だったと想定すると在位80年になり、それが下表の基準年になる。
天皇と命 |
推定年 |
事績 |
||
名称 |
寿命 |
即位年 |
||
天照大御神 |
縄文中期以前 |
高天原時代 |
||
天忍穗耳命 |
? |
BC2500年 |
甑島に移住(天孫降臨) |
|
|
BC1900年 |
夏王朝成立 縄文後期温暖期 |
||
日子穗穗手見命 |
580 |
-1783 |
BC1800年 |
|
海彦山彦説話 |
BC1700年 |
天氏の南方派が関東に移住 |
||
|
BC1400年 |
縄文晩期寒冷期 |
||
|
日本式稲作の成立 |
|||
神武 |
137 |
-1203 |
倭同盟の成立、鉄器の生産 |
|
|
殷が九夷を九侯に叙任 |
|||
綏靖 |
45 |
-1066 |
殷周革命、南方派の九夷が倭同盟から離脱 |
|
安寧 |
49 |
-1021 |
倭が周に朝貢 |
|
懿徳 |
45 |
-972 |
|
|
孝昭 |
93 |
-927 |
BC900年 |
|
孝安 |
123 |
-834 |
|
|
孝霊 |
106 |
-711 |
弥生温暖期 |
|
孝元 |
57 |
-605 |
|
|
開化 |
63 |
-548 |
|
|
崇神 |
168 |
-485 |
BC4世紀 |
夏王朝消滅 |
垂仁 |
153 |
-317 |
|
|
|
秦の中華征服 |
|||
景行 |
137 |
-164 |
前漢代 古墳寒冷期 |
|
成務 |
95 |
-27 |
荊が東南アジアに移住 |
|
仲哀 |
52 |
68 |
AD107年 |
倭国王が後漢に朝貢 |
応神 |
80 |
120 |
AD120年 |
大率が西日本30国を統治 |
仁徳 |
83 |
200 |
AD200年 |
卑弥呼が女王になった。 |
履中 |
64 |
283 |
AD283年 |
台与から男王に変わる |
反正 |
60 |
347 |
|
履中・反正以降の在位年が長過ぎ、 |
允恭 |
78 |
407 |
|
奈良朝が改竄した疑いが濃い。 |
安康 |
|
485 |
|
倭の五王の時代 |
太字は中華の史書を参照した事績。
天皇の寿命は在位年で、同一系譜はまとめて記述していると判断したのは、分り易い短文にしたかった古事記の性格上、必然的な記述方法であり、古事記は思想書であって史書ではないから、歴史の正確性は文学的な表現になった。特記する必要がない天皇名を羅列するより、異常に長い寿命を使った方が分かり易いからだ。
神武東征前の580年間を日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)が高千穂にいたと、一言で纏めてしまった事がその事情を示し、竹書紀年の形式で記されていた倭国王の年代記では、寿命は分からないからだ。
埼玉県の稲荷山古墳の遺物と同じ大王名らしい象嵌が施された剣が、それとは異なった時代の異なる地域の、熊本県の江田船山古墳から出土した事が、大王は世代が変わっても同じ呼称を使っていた事を示し、古事記が天皇の在位を纏めた根拠を示している。稲荷山古墳の鉄剣は宮があった地名で識別する以外に、天皇を区別する手段がなかった事を示しているが、同じ宮家の父子は同じ場所に住んでいた筈だから、それが区分できない事は必然的な事象でもあった。従って原古事記の著者も、それらを区分できなかった可能性もある。
倭王の親書に記載された名前から、唐王朝が個人を特定できなかった事も、その事情を示している。隋唐代の飛鳥王は代変わりしても、「たりしひこ」「あほけみ」と名乗り続けていたからで、個人名ではなく称号だったからだが、王が個人名を名乗る習慣がなかった事を示している。
これに似た習俗は西欧にもあり、世代が代わってもルイやアンリを名乗った事が知られている。古代エジプトにもその例があり、第20王朝のラムセスに使われたから、世界的な用法でもあった。
7-4-10 崇神天皇の在位期の妥当性を、竹書紀年と比較しながら検証する。
東周時代の周の権威は弱く、釐王(BC681年~BC677年)の記事として、釐王四年 晉武公三十八年 と記され、周の有力諸侯が独自の年次を決めていた事を示している。
簡王十三年(BC572年)に楚共王が宋の平公と湖陽で会ったとの記述は、楚はこの頃に王を輩出していた事を示し、呉と楚の経済活動に食い違いが生まれて楚が自立した事を示している。
荊全体に一人の王がいたと推測されるから、それ以前に楚が呉から独立した事を示唆している。周王朝はそれが気に入らなかったらしく、竹書紀年のそれ以前の記事には楚子を何度も登場させているが、以降は楚王も楚子も登場しなくなる。竹書紀年に呉王の記述はなく、周は夏王朝の中心的な存在だった呉に敵意を持って記述を避けていた事を示唆している。
元王四年(BC473年) 於越が呉を滅した。
この記事が呉の初出になり、呉が滅んだから喜んでそれを記述したと推測される。
西ユーラシアの経済が回復し絹布の需要が増えると、呉は越が生産した絹糸を使って高級絹布や錦を織る事を主要な交易とする様になり、海運力がなかった呉はフィリッピンから絹糸を輸入できなかったから、越の下請けになって経済的に従属する立場になったと想定される。倭人はフリッピンに渡航する事はできたが、フィリッピンと中華の越は北陸部族の海運力を駆使し、香料と併せてインドネシアの海洋民族のインド洋交易に委ねていたから、シベリア起源の交易ルールに従うと倭がその交易に介入する事はできず、呉を助ける事はできなかったと推測される。
この越は夏王朝には参加していなかったから、越に対して従属的立場になった呉が夏王朝の帝を開催する事は、不都合である事は誰の目にも明らかだった。従って楚に共王が生れていたBC572年には、夏王朝の帝は楚が開催していたと考えられ、青銅貨である楚貝貨も、その様な楚が発行したと推測される。夏王朝の中心的な存在になった楚としては、インフレによって価値が低下していた宝貝貨に代わる貨幣を、発行する義務があったとも言える。宝貝貨の価値は製塩者が保証していたが、青銅貨は素材に価値があったから、製塩業者ではない楚が発行する事ができたからであり、塩は既に重要な交易品ではなくなっていた。
春秋時代末期と思われる揚子江下流域の墓から、多数の楚貝貨が発掘されるが、それらは鉛の含有量が多いとの指摘がある。青銅が錆びると深緑色になるが、錆びていない青銅は錫や鉛の含有量の違いによって色が変わるから、楚が発行した楚貝貨とそれらは区別されたと推測され、高価な銅の含有量が少ないそれらの楚貝貨は、製塩業者が価値を保証する事によって呉の人々の貨幣になった疑いがある。つまりその様な事態は呉が越に経済的に従属していた事を示唆し、竹書紀年の記述と整合している。
楚に共王が生れていたBC572年の100年後である、BC473年に於越が呉を滅した事は、呉が越に吸収されて消滅した事を示し、上記を裏書きすると共にこの時期の夏王朝は楚が運営していた事になる。関東部族の南方派や伊予部族の南方派の海運力が、楚が運営する夏王朝の為に使われていたのであれば、伊予部族はその様な活動によって海運力を高め、神武東征に必要な水軍を育てたとも言える。
楚はBC447年に蔡を滅ぼし、BC445年に杞を滅ぼし、BC430年に莒を滅ぼし、法規によって国際関係を統括していた夏王朝には許されない事を行ったから、楚はこの頃に夏王朝を閉じた事を示唆している。計算上の崇神の統治期間はBC485年~BC316年だから、その早い時期に夏王朝が消滅し、崇神はその残務処理として日本列島に帝を設置したのであれば、計算上の崇神期と歴史の流れは一致する。
その確認の為に中華のその後の歴史を追跡すると、周の烈王六年(BC370年)に梁惠成王元年の記述があり、楚に200年遅れて梁にも王が生まれた事を示している。梁については史記に記載がなく、その実態を究明する動きも緩慢だから、アワ栽培者の政権が周から独立して夏王朝に参加した可能性もあるが、趙靈王、魏惠成王、鄭宣王、秦王が間もなく登場し、春秋時代には〇子と記されていた越の指導者も、周の隱王三年(BC312年)には越王と記され、その13年後には齊王も登場するが周王は相変わらず自身を王と記し、地域勢力が勝手に王を名乗り始めた事を示しているから、夏王朝が復活したわけではなく、周と同格の王が生れただけであると解釈される。
つまり「王」漢字の原義に戻り、周法に従わない独自の法を作る政権である事を、宣言する呼称だったと考えられ、崇神の統治期間がBC485年~BC316年であった事と整合し、神武天皇の成立はBC1200年頃だった可能性が高まる。
日子穗穗手見命の治政は580年だから、関東部族の南方派が年代記を書き始めたのはBC1800年頃だった事になり、夏王朝はBC1900年頃に始まったと推測されるから、関東部族の南方派が越人の夏王朝の年代記を見てそれを真似、年代記を記し始めた状況と整合するだけではなく、関東部族の年代記は竹書紀年の形式で記されていた事、つまり在位年は分かるが寿命は分からなかった筈である事とも整合する。
原古事記が天孫降臨させた「天忍穂耳命」や、改訂古事記がそれと差し替えた邇邇藝能命の寿命が記されていない事は、天孫が甑島に移動した時期は古事記の著者にも分からなかったが、日子穗穗手見命以降は年代記を参照し、在位年が正確に分かった事を示し、これらの整合性も古事記が示す歴史の信憑性を高める。
俀が薩摩半島や甑島に移住したのは、沖縄より青州に近い拠点を形成する為だったから、BC2500年から余り時代が下らない時期だったと推測され、その時期については記録がなかったから、古事記は天孫降臨から海幸ヒコ山幸ヒコの説話時代には年次を記す事ができなかったが、BC1800年頃から年代記が記され、倭が生れて神武天皇が即位したのはBC1200年だったから、上に示した説話が成立したとすれば、古事記が記す年次は竹書紀年が示す歴史と完全に一致する。
7-4-11 その他の事情との整合
「皇」漢字は関東で生まれたと想定したが、竹書紀年との整合性を改めて確認する。
諸民族の王は諸民族独自の法を守らせる存在ではあったが、夏王朝の帝が決めた国際法を守らせる義務があったから、夏王朝が認定する役職でもあり、諸民族の王は夏王朝が存続する限り、夏王朝の下部機関である事が義務付けられた。従ってその様な諸民族の王を夏王朝とは別に統括する者は、法理論上存在し得なかった。周王朝は極めて特異な存在で、殷周革命は夏王朝の指示の下に行ったが、その後の華北統治に際して夏王朝から離脱し、王の名称は維持した事をその8で検証する。
周の封建制が崩れて諸侯が王を名乗り始めると、皇が生まれる環境は整ったが、その様な諸王を統括する権力が生まれなければ、皇の漢字が生まれる政治環境は存在しなかった。竹書紀年はBC290年まで、その様な動きがあった事は示していない。
しかし始皇帝が「皇帝」を名乗った事は、それまでに皇の漢字が生まれていた事を示している。つまり漢字文化圏には既に「皇」漢字が存在し、竹書紀年が周の成王の事績に周公が諸侯に皇門で誥したと記している事は、周初には「皇」漢字が存在した事を示している。誥は「つげる」「
おふれ」を意味する。
周代以前に「皇」漢字が生まれる環境が整っていたのは関東部族だけで、神武天皇が周代以前にいたと古事記は主張している。倭人社会では縄文後期に北方派の支援の下で、mt-B4が各地に入植し、東北から移住したmt-M7aに熱帯ジャポニカの栽培技術を拡散していたから、北方派がその情報ネットワークを利用して漁労技術と漁具を販売し、漁具の生産者が中小企業を形成していたから、その社長が「王」を名乗る環境があった事は既に指摘した。
南方派が関東に移住したのは、その中小企業と連携して青州に販売する商品を開発し、量産して貰う為だった事も既に指摘した。
商品を生産する中小企業を運営していた縄文人は、生産品目毎に独自の社規を制定していたから、夏王朝の成立に関与していた俀の指導者が、夏王朝の考え方を適用してその様な各社を法規的に規定すると、各社の社長は「王」と呼ぶ以外に、適切な漢字がなかったと考えられる。夏王朝期以前から存在した製塩集団の有扈に王がいたのだから、それと類似した関東部族の各種商品の生産集団の長を「王」と呼ぶ事に対し、俀の人々にも違和感はなかっただろうし、それらの生産集団に王がいなければ夏王朝的な統制を行う事はできないと考え、各生産集団に棟梁を決めさせ、その人物を王にした可能も高い。それが関東に帰った俀人が誇る、先進的な夏王朝の交易秩序だったからだ。
海幸ヒコ山幸ヒコ説話の最後に、兄の海幸ヒコは「今より以後は、僕は汝命の為に昼夜守護人になって仕え奉る。今に至るまで、其の溺れた時の種種の態を、絶やさずに仕え奉る。」と言ったとの記述は、南方派が漢字と共に持ち込んだ夏王朝の法規秩序を、北方派も今に至るまで守っている事を暗示したとすれば、古事記的なユーモアがある表現であると見做す事もできる。当時北方派が「従来の慣習法があるのだから、改めて条文化する必要はない」と主張したのに対し、南方派が説得して法規概念を導入する事により、交易秩序が高まって交易活動が活発化したとすれば、それをこの様に表現する事は古事記的なユーモアになるからだ。
その様な王を集めた会議は青州で行われた会議に倣い、背後に朝日を控えた議長が早朝に開会を宣言したから、その議長が「皇」になったと推測される。諸王を統括していたのは北方派の棟梁だったから、南方派の漁民は生産集団から商品の配分を受ける立場にあり、北方派の漁民と共にその立場で会議に参加したから、生産と配分を仕切る会議の議長は北方派の天氏になり、それが天皇の起源になったと推測される。現代社会でも生産量と配分量を仕切る会議が最も重要な会議で、最も紛糾し易い会議である事を認識する必要がある。商品の開発に関する相談は、別途個別にできるからだ。
隋書に記された、倭王は朝日が昇ると後は弟に任せたとの記述も、その事情を示唆している。つまり諸部族の指導者を集めた会議は、その様な商業的な会議とは異なる政治的なものだったから、夜半に会議を始める事により、夜が明けるとその会議の出席者の一部が、商業的な会議に参加する事が可能になった。従って政治的な会議は夜間に初めて日昇と共に閉会にする事が、日本の海洋民族の慣例になっていた事を示しているからだ。
この様な慣例は、交易活動を共にする人々が共有する必要があったから、日本列島全体の慣例になったとすると、それは必然でもあった。隋書では、隋の皇帝がそれは不合理であると主張したと記しているが、何が不合理なのか分からない。しかし最も重要な会議は日昇と共に始める事が世界の常識だったとすると、隋ではそのタイミングで皇帝が臨席する朝議を開始したが、倭王は商業的な会議を最も重要な会議であると認識し、そのようにしているとの応答があったから、隋の皇帝がそれは不合理であると認識したのであれば、隋書を合理的に解釈する事ができる。
周王朝の都にあった皇門名称は、指導者がまだ皇だった時代に、漁民や生産者が集まる場所だったと考えられ、交易船を作る船大工が立派なものを作ったもので、それが印象的だったので俀人が夏王朝の帝が開催される場にも設置する事を提案し、船大工が出向いて皇門を作成したのではなかろうか。
それが鳥居の原型だったとすれば、揚子江以南の山岳地の稲作民族に、鳥居の様なものを作る習俗が残っている事の説明にもなる。その場合には鳥居は「夏の社」の一部で、俀の船大工が作った様な立派な鳥居を、周王朝が皇門と呼んだ可能性もある。
日本の人々は王朝期になっても地域分権を堅持したから、人々が会議の為に集まる場を示す鳥居の形状が進化したが、大陸では王朝制が進化して地域分権制が失われたから、雲南などの山岳地にしか鳥居文化が残存していないとすると、現代に繋がる歴史の流れに整合性が生れる。
唐の則天武后が高宗を天皇と呼ばせたのは、皇帝より天皇の方が古い名称で、唐王朝には帝と呼ぶ実態はなかったから、皇帝呼称に合理性がないと考えたからだと推測される。現代人は革新的である事を称賛するが、中華人は古代の聖賢の時代に郷愁があり、復古であると標榜した方が政治改革として受け入れられ易かったし、中華で唯一の女性皇帝だった則天武后は、制度や意識を改革したい案件は山ほどあったから、復古を名目にして改革を行う為には天皇呼称は便利な存在だった。則天武后が日本の遣唐使を異例に歓待したのは、女王卑弥呼を輩出した国である事を意識したと共に、日本でもこの称号の採用を継続した事を、歓迎したからであるかもしれない。
新唐書日本伝に奈良朝が作成した日本紀の抜粋があり、「初主は天御中主と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆尊(みこと)を以て号と為し、筑紫城に居す。彦瀲の子神武立ち、更めて天皇を以て号と為し、治を大和州にうつす。」と記している。
日本紀には天皇名称が溢れ、遣唐使も「天皇の使者である」と明言していた筈だが、天皇の記述があるのはこの文だけで、遣唐使を派遣した文武天皇についても「長安元年,其王文武立」と記し、天皇名称の記述を避けた。唐の高宗が天皇を名乗ったから、みだりに書籍に記してはならない称号として、一カ所にだけ記したと考えられるからだ。宋代一流の知識人だった史書の編者が、史書に天皇を以て号と為したと記した事は、宋王朝も日本に天皇呼称があった事を認めた事になる。
九夷と倭が記された時期から分かる事
竹書紀年と史記が殷末に九侯がいた事を示し、論衡に成王に倭人が朝貢したと記されている。古事記が示す年代では、神武の統治が終了してから綏靖天皇が即位するまでの期間に、九州の俀と北九州の倭の間に悶着があった事を示唆し、殷の紂王が即位した時期には九侯がいたが、殷周革命が終わって成王が即位した時期には、倭が成立していた事になる。
殷の紂王が即位したのはBC1200年以前で、周の成王が即位したのはBC1066年以降になり、殷周革命がBC1050年頃の出来事であった事とは整合するが、殷周革命によって終了した帝辛(紂王)の在位が52年だった事と矛盾する。 しかし初代神武は関東のみの天皇で、北九州が倭に参加したのはBC1100年以降だったとすると、時期が整合するだけではなく倭の成立史も明らかになる。
つまり倭は殷周革命を起源として生まれたのではなく、それより早い縄文晩期寒冷期初頭に生まれた事になり、荊の稲作が極度に不振になると北関東や福島からmt-B4を華南に送り込み、それによって荊から倭の名称を貰った事と整合すると共に、シベリアで息慎が消滅する直前に製鉄技術者を獲得し、それが倭が成立した政治的な理由になり、神武紀にイスケヨリヒメとの婚姻説話しかない古事記の主張と整合するからだ。
熊曽・熊襲漢字の意味
「熊曽」は国生み説話とヤマトタケル説話に登場するが、奈良朝は「熊曽=伊予部族」を敵視したから、「熊曽」漢字は伊予部族を貶める為のもので、本来の名称ではない可能性がある。
熊曽の地域は球磨郡~曽於郡だったと推測され、考古学的には球磨郡と曽於郡は別民族の地域で、それを熊曽と呼ぶのは不適切だと指摘されている。しかしそれらが集まって九(多数の民族、或いは九の民族)と称したから、熊曽は「九磨曽=九磨と九曽」だった可能性がある。これは「倭奴国」や「越裳」と同じ用例で、先に同盟の名称があって個々の集団の名称が続く、東アジアの一般的な命名則になるからだ。
弥生温暖期の伊予部族は俀と一緒に華南で交易を行ったから、孔子が九夷について言及したと考えられるが、孔子が九夷と呼んだのは薩摩半島の人々で、九磨や九曽は別にいた可能性がある。九夷が結成されたのは縄文後期で、孔子の時代はその千年以上後であり、九夷の組織内容は変遷していたからだ。
「曽」は重ねた蒸篭(せいろ)の頂部から蒸気が出ている象形だが、現在の日本の「曽」漢字にその意味はなく、蒸篭が何段も重なる情景の連想から曽孫や木曽などの熟語が残っているに過ぎない。「甑(こしき)」漢字は「曽」を瓦で作った事を意味するから、元々の「曽」は木製で、それを土器で作ったものが「甑」になるが、現在は木製のものを蒸篭と呼び、形状と名称が後世に変わった事を示唆している。木製の「曽」が廃れたのは、鉄器時代になって蒸篭が流行したからであると推測されるからだ。
従って「曽」は縄文後期の曽於郡の特産品だったが、弥生時代以降に蒸篭が流行すると曽於郡の人々は販売競争に負け、「曽」と呼ばれる商品がなくなったと考えられる。
この推測に拘るのは、彼らが九夷を結成した際に特産品がなければ交易者にはなれず、苦労して生み出した特産品名が、交易者の集団名になった事を示唆しているからだ。地域集団が交易集団化を目指していれば、必然的な帰結だったからでもある。
中国では湯を沸かす三足の鬲と、曽の機能が一体になった土器を甗(ゲン)と呼び、漢代に成立した説文解字では、甗と甑(ソウ)は同じ意味であるとし、別の地域で別の呼び名で使われていたものが、漢代に同一視された事を示している。従って蒸篭だけを示す木製の曽は、曽於地域の特産品で、石器時代の民衆には、手軽に作る事ができた土器の甑が普及したから、木製の曽を特産品とする製作集団が曽於と呼ばれ、現在まで甑島の名称が残されている事は、甑は普及品で曽は高価な商品だった事を示唆している。
隼人の地名を冠する地域が、霧島市の雨降川流域に集中している。阿多や姶良の丘陵地は緩やかな緩斜面だが、雨降川は切り立ったシラス台地を流れる川だから、先住の関東系縄文人が稲作適地だった阿多や姶良を先有し、後から来た東北部族が稲作環境に難がある雨降川流域に入植したとすると、縄文後期の歴史事情と整合する。「隼」は現在は「はやぶさ」を意味するが、「隼」漢字は「尾の短いずんぐりした鳥」と「横線」の象形だから、元々は地鶏を指した疑いが濃く、これも特産品起源の部族名称だった可能性がある。九州や四国の南部は現在も地鶏の産地で、オナガドリの起源地でもあるからだ。
縄文後期の各部族の入植地が、稲作に必要な河川の水系単位で決ったとすると、宮崎県の清武川流域に東日本的な集落を遺した部族の名は、歴史に登場していないから、それらと俀、壱岐、対馬、関東系九州人などを合わせて9部族になったとすれば、それが九夷の実態だった可能性が高く、その名称が現在の九州(九洲←九の島)に引き継がれていると考えられる。
玉器やその生産技術を販売していた北陸部族は、縄文中期の良渚文化圏にそれらを販売していた段階で、特定地域の人々が商品を開発する状態に達していたから、倭人や九夷が多彩な商品を生み出し、その販売の為に強力な組織を形成した事は、画期的な出来事ではなかった。俀人が行った画期的な経済活動は、塩を兌換品とした宝貝貨を制度化した事で、それによって青州経済が活性化したが、その様な状態になった経済環境に対応するためには、多彩な商品を生み出す必要があった。しかしそれについては、俀人も倭人も伊予部族も習熟していなかったから、青州経済が活性化するとそれに引き摺られる様に、多彩な商品の交易にのめり込んでいったと考えられる。
それに対応し続ける事により、海洋民族活動を商業的な活動に変質させていったが、縄文晩期寒冷期になると大陸の交易環境が極度に悪化し、多様な生産基盤を基底とする商業活動は、縮小せざるを得ない事態に追い込まれた。神武が鉄器の生産とmt-B4の華南への入植を契機として、倭人の交易体制を刷新したのは、交易が不振になった打開策として組織化が推進された事になり、部族的には復古主義が生れたとも言える。それに対し、出雲部族が産業化の多様性を追求しながら経済発展を遂げたのは、縄文早期から磨製石斧や玉器の生産によって培った、mt-M9集団の産業力があったからだと推測される。その産業力が部族主義の継続を求め、日本列島の経済格差が拡大していくだけではなく、資本の原理に従って独占企業化が進展し、貧富の格差が拡大していく状況は、関東部族や伊予部族だけではなく他の地域部族にも許せなかったから、壬申の革命が起こったと考えられる。
その思想と日本の縄文史を示していた筈の、原古事記が失われた事は甚だ残念だが、明治初頭の廃仏毀釈を逃れて現在まで残っている可能性もある。
伊予部族の故地地域の嘗ての豪族の子孫の倉に、秘かに残っている可能性もあり、薩摩藩や津軽藩の殿様の遺品に含まれている可能性もある。異色の可能性として、日南市の鵜戸神宮の社倉に秘匿されている疑いもある。鵜戸神宮の神宮名称は明治初頭に付与されたもので、この神社が神宮を名乗る由縁は見当たらないが、伊予部族が起こしたと言っても過言ではない明治維新は、日本書記を日本教の聖典とする政策を強力に推し進め、廃仏毀釈を煽ったが、身内の神社とは取引があり、原古事記に従った神を祭っていた鵜戸神宮が日本書記の神に変更した疑いが濃いからだ。鵜戸神宮のその後の態度としては、神宮名称を政府に維持させる為の武器として、原古事記を秘かに隠し持つ事は当然の戦術になるからだ。
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