経済活動の成熟期 その6 

6 海洋民族と大陸の稲作民族の交易が組織化された

6-1 諸民族の体制事情

6-1-1 アワ栽培者

大陸の稲作民族は炎天下の労働を強いられる都合上、縄文前期には塩の流通の必要性に目覚めていたが、漢族は交易に疎かった事を(1)魏志倭人伝/高句麗の項で指摘した。大陸の交易は塩の流通から発展したから、華北のアワ栽培者がまだ塩の流通網を形成していなかった縄文後期に、荊の青州北上に伴って先進的な製塩業が渤海沿岸に生まれ、関東部族が船でその塩を各地に配布するとその消費者になり、流通が民族文化の一部にならなかったからだ。

アワ栽培者の歴史は太平洋が湿潤化した8千年前の遼河台地から始まり、気候が寒冷化した縄文中期に河北に南下したが、この民族の実態を知る為には、その中間過程で起きた事象を検証する必要があり、標高が高い内モンゴル高原の状況を確認する必要がある。内蒙古は急斜面が多い山岳地帯ではなく、草地、林地、園地を併せた丘陵状の地域が72%もあり、縄文後期になっても森林率が40%もあったと考えられているからだ。縄文中期寒冷期に紅山文化を営んだ集落跡がある、赤峰市紅山区の標高は560mで、その西北西400㎞に広がる標高1000mの高原台地は東西400㎞南北200㎞の広さがあり、その南200㎞先に華北平原を囲む山岳地がある。

この地域は気候の冷涼化によって次第にアワ栽培が困難になり、海洋の低温化によって徐々に砂漠化したが、弥生温暖期の末期である漢代の内蒙古は、依然としてアワの栽培地であり小麦の栽培者になったトルコ系民族の南下路だった。尾瀬の花粉は、縄文中期の気温は弥生温暖期の気温と同じだった事を示し、縄文中期のアワ栽培者は栽培系狩猟民族の状態で、アワの生産性の劣化が即座に人口の減少に結び付く状況ではなかったから、アワ栽培者の多数派は縄文後期温暖期まで内モンゴルで過ごし、黄河が形成した広い栽培地に降ったのは縄文晩期寒冷期だったと想定される。その人口を吸収した黄河北岸に、黄河の南の商や淮夷を凌ぐ人口の集積が生れたから、殷墟を中核とした殷王朝が生れたと考えられるからだ。

従って海退によって生まれた低湿地が、広大な稲作地になった縄文後期温暖期に、稲作民向けの塩の需要は爆発的に増大したが、丘陵地で天水農耕によるアワを栽培していた栽培系狩猟民族には、大きな影響はなかった可能性が高い。縄文後期に中央アジアが草原化すると、中央アジアにいたY-R民族は西ユーラシアや南ユーラシアに大移動し、内モンゴル西部も乾燥化して栽培放棄地が発生したが、内モンゴル東部では森林が疎林化してアワの栽培地が増えたから、華北~内モンゴル高原をマクロ的に見ると、ローカルな移動が各所にあったが全体に大きな人口の増減はなく、縄文後期が終了するまで塩の交易とは無縁人々が、アワ栽培者の多数派である状態を維持していたと想定される。

従って華北地域に限定すると、縄文後期温暖期に突然先進的な製塩と物流の仕組みが誕生し、華北に南下していたアワ栽培者はその流通網に取り込まれたが、その様な状態になったアワ栽培者は少数派だったと想定される。しかし縄文晩期寒冷期になると華北のアワ栽培者が増加し、稲作民が南下しても塩の需要がある程度あったから、渤海南岸の製塩業者の一部は製塩業を続け、その流通を九夷が担っていた事になり、殷墟から発掘された多数の宝貝がその事情を示している。

縄文後期温暖期が終わると、温帯ジャポニカを栽培していた荊は華南に南下したが、製塩業者は耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していた上に、穀物の不足分は塩と交換するアワで賄う事が出来たから、縄文晩期寒冷期になっても渤海南岸に留まる事ができた。

この様な経緯を経たアワ栽培者が形成した統治組織は、どのようなものだったのか検証する。これは殷人の話しであって漢族の話しではないが、漢族のmt-Dは殷人由来のものであり、漢族は華北文化圏の人だったから、類似した状況にあったと考えられる。

殷人の末裔だった扶余に付いて、魏志扶余伝は以下の様に記している。

戸は八万、宮室、倉庫、牢獄あり。

国に君主あり、六畜を以て官を名づけ、馬、牛加、猪加、狗加、大使、大使者、使者がある。

邑落に豪民あり、諸加の別主が東西南北にいて、それぞれが数千家~数百家を奴僕の様に支配している。

魏志高句麗伝は、以下の様に記している。

丸都の下を都にし、戸は三万。

国に王あり。

其の官に相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人が有り、尊卑には各等級が有り、對盧があれば沛者を置かず、沛者があれば對盧を置かない。

王の宗族で大加は皆、古雛加を称す。諸大加は自ら使者、皁衣先人を置き、その名は皆王に達している。

本は涓奴部、奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五族が有り、涓奴部が王を為していたが、微弱化して今は桂婁部が之に代っている。

奴部は世々王と婚し、古雛の号を加えている。

高句麗集団の形成時に5つの部族から人を集め、時代を経てそれが再編された事を示唆し、シベリア時代に部族制を採用していた人々が建国した事を示している。

古雛が関東部族の天氏の様な立場で、倭文化との同質性が感じられる整った組織形態である事も分かる。

魏志東夷伝では扶余伝と高句麗伝が連続し、陳寿も両者の違いを意識しながら編纂した筈だから、扶余には部族制はなかったと言っても良いだろう。部族制が一旦生まれると、人々は所属する部族への帰属意識を高めるから、扶余の祖先である殷人にも部族制はなかったと推測されるが、それは竹書紀年に記された風夷、白夷、黄夷などの、一見部族的な名称の存在と矛盾する。しかし部族制下の部族と、交易環境が生れた事によって発生した交易集団は、区別する必要がある。

シベリア起源の部族制では、部族員は部族組織を守る為に団結して経済活動に臨み、その行動力連帯力が縄文人の民族性を解体し、各部族に組み込むほどの力強さがあり、高句麗の制度も部族制を経験した人々子孫が集まり、高句麗を建国した事情を示唆しているからだ。

トルコ系アワ栽培者には、縄文中期に河北に南下した商や淮夷と、縄文晩期に大挙して黄河以北に南下し、殷王朝の主要な構成員になった殷人の2つがあり、前者は夏王朝期に風夷や白夷と呼ばれる交易集団を形成したが、これらは縄文中期以降の関東部族の獣骨交易により、それに対応する為に生まれた交易集団で、縄文晩期に河北に南下した集団には、その様な交易集団を形成する時間はなく、殷王朝が青銅の採掘と精錬の為に形成した交易集団や、王朝を維持する為の軍事組織に組み込まれた人々だったから、彼らには君主制はあっても部族制はなかったとすれば、話は整合する。扶余の民衆が奴僕の様な状態だった事も、その様な時代の遺風であれば整合する。

魏志倭人伝の資料になった官僚の報告書を作成した魏の役人は、殷人の圧迫から周王朝が解放した漢族の子孫だったが、漢族は解放と同時に屯田兵として周の支配下に組み込まれ、経済的に自立した集団を形成する時間はなく、自治的な統治を経験する事もなく、歴代の王朝に支配され続けて現在に至ったから、彼らには交易に関する認識が欠如し、自治的な政治風土も形成していない事と整合する。

この様な議論をする場合には、民族と部族の違いを明確にして置く必要がある。

民族は習俗、言語、秩序認識を共有する集団、或いはその様な時代を経験した人々の集合体を指し、政治的な統一体であるか否かとか、過去に統一政権を形成した記憶の有無は問わない。それに対して部族は、過去に経済主体であった状態を共有したか、現在もその様な状態であると認識している人々で構成され、その構成員の民族構成は問わない事に特徴がある。

漢王朝を興した殷人の子孫は、周王朝のエスニッククレンジングに遭遇して山間地や沼沢に身を潜め、同じ運命に遭った人々が連携する事により、民族としての自覚が生れたと推測される。彼らは逃亡中にトルコ語を失い、地域民族の言語や習俗に染まりながらも、民族意識を堅持していた事になり、それらも民族と定義すれば民族の定義は更に拡大され、秘密結社の様な民族も存在する事になる。

また高句麗が滅んだ後の朝鮮半島に南下し、現在の朝鮮半島の最大集団になっている漢族起源の人々は、現在は濊族系の言語である朝鮮語を使っているが、朝鮮半島を漢族化した事から考えると、現在の朝鮮人は漢族と呼ぶべき民族の別種であると考える事もできる。

 

6-1-2 浙江の製塩業者

関東部族が湖北省の塩の需要を満たす為に、杭州湾の稲作民族に製塩業の活性化を求めると、銭塘江台地の馬家浜文化とは異なる河姆渡文化が生れ、生産量が拡大すると製塩集団の数が増えて製塩技術が進化し、製塩業者が富裕化すると縄文中期寒冷期に灌漑事業を興し、熱帯ジャポニカの栽培地を造成すると労働者になった稲作民を統括する良渚文化が生れた。

灌漑事業は荊文化の模倣だったと推測され、倫理によって統制していた荊を真似る為に法治文化と玉器文化を生み出したが、各々の製塩業者は独立した経済環境を得ていたから、分権的な政治体制になる必然性があった。彼らは交易によって富を得た者が政権を構築する体制を形成したから、必然的に経済活動至上主義的な民族になった。

縄文後期温暖期に荊が青州に入植すると、製塩業者も渤海南岸に移住したが、青洲には生産性が高い温帯ジャポニカを栽培するmt-Fがいたから、渤海南岸に移住する稲作民の数は制限され、共生する製塩業者を失った浙江省の稲作者は、四川省の成都高原に移住した。彼らは台湾の海洋民族と交易関係を樹立し、チベット高原に移住したモンゴル系の狩猟民族と共生し、獣骨を集荷する事によって三星堆文化を形成したと推測され、その華麗な遺物が浙江省起源の交易経済至上主義的な性格を示している。

宝墩(ほうとん)遺跡(BC2500年~BC1700年)が温暖化直後に形成され、その後継と見做される三星堆遺跡(夏~商代)が高度な青銅器文化遺跡を遺し、熱帯ジャポニカの栽培適地だった事を示しているが、成都高原は多量の漁獲が見込めない地域だから、入植者はコメと同量の堅果類を食べ、豚の飼育でそれを補っていたと推測される。彼らの文化が青銅器で彩られている事は、広東に先駆けて焼畑農耕で熱帯ジャポニカを栽培した事を示唆している。台湾ではその頃には、焼畑農耕による稲作が生れていたからだ。青銅器を使って湿田を形成した可能性もあるが、湿って重い土壌を扱うには青銅は柔らか過ぎるから、青銅の使用量が少なくて済む上に、青銅を効率的に使用できる焼畑農耕の方が可能性は高い。

彼らが奇怪な文化遺物を残す為に、多量の青銅を入手したと考える事は馬鹿げているから、三星堆文化が示す青銅事情は、焼畑農耕に使う用途には十分に入手できる様になった結果、余剰の青銅を使って製作したと考えるべきだろう。

温暖期になった直後に宝墩(ほうとん)遺跡が生まれ、それから500年足らずで三星堆文化が生まれた驚異的な進捗の速さや、三星堆の夏王朝系とは異なる成熟した青銅器文は、この地の稲作民と台湾系の海洋民族の間に、深い関係が形成されていた事を示唆している。成都高原の稲作民族は弥生温暖期に蜀と呼ばれたから、巴と呼ばれた四川盆地の低地の稲作民族は、荊だったと推測される。

蜀は蛇を意味するから、成都高原には蛇が多かった事を示唆し、それが民族名になった事は、自身を麗々しく見せる意識を持たなかった、古代民族の民族名である事を示している。巴も川が合流する状況を示した可能性があり、同様に古代的な名称だから、両者の名称の起源は共に縄文後期だった事を示唆している。

また雲南と日本の伝統建築の類似性が指摘されている事は、弥生時代以降に蜀や巴に塩を運び上げたのは、関東部族だった事を示唆している。弥生時代になると鉄器時代になり、縄文後期に蛇紋岩製の石斧の販路を失った台湾の海洋民族は、獣骨の需要も失い始めていたが、成都の稲作民族も獣骨需要を失って新しい交易品目を探す必要があったから、その過程で雲南への移住もあり、関東部族との交易関係を深めたと想定され、明代になっても雲南で宝貝貨が流通していた事情に繋がる。漢書地理志は四川を含む荊州の特産品として、丹、銀、齒(象牙?)、革を挙げているから、そのいずれかは四川の物産だった可能性があり、三星堆遺跡から多数の象牙が発掘されている事が注目される。

縄文晩期の広東に焼畑農耕者が生れ、弥生温暖期に粤と呼ばれた事は、縄文晩期寒冷期に荊が浙江省に南下すると、製塩業者の共生者が稲作の生産性が高い荊に変った事により、粤が広東に南下せざるを得なくなったからであるとも解釈できるが、浙江省起源の稲作者の交易性を考慮すると、縄文晩期寒冷期にフリッピンでの稲作も不調になり、コメの価値が高まったから、広州での熱帯ジャポニカ栽培の高い生産性に目を付けた、浙江省の稲作者が南下した可能性もある。フリッピンでの稲作が不調になったのは気候の冷涼化ではなく、寒冷期特有の多雨気候によって水害が多発した可能性がある。

越系民族の指導者には、稲作の生産性を高める事より交易の活性化に高い関心があり、指導者の投資によって社会が回転する仕組みを政治制度化し、指導者の経済力を高める事を目的化する傾向が強かったから、部族制とは全く異なるものだった。農耕者はともかく産業国家の中枢にいた貴族には、その意識が強かったと考えられ、皆の協業によって部族の産業化を図る共同体意識が強かった、部族国家の人々とは発想が異なっていた。部族国家は弓矢産業の様な国家的な事業の展開には強かったが、小回りを利かせて産業の芽を育て、有望であれば集中的に投資する機動力に劣り、縄文後期以降の多様な産業化の流れに乗る事ができなかった。

越系文化を採用した日本海沿岸の部族が、経済力と身分をリンクさせながら身分制を強めた事も、法治を特徴とする越系文化の実態を示している。経済力を付けた出雲部族が倭王になった対馬部族の上位者になった事も、その思想の表れだったと考える事ができる。この様な社会制度は必要な産業に投資を効率的に集中できる利点があり、産業にとっては発展性が高い社会体制だったが、貧富の格差を助長する故に内需産業にとっては好ましくない制度でもあったから、日本では革命によってその制度が否定された。

部族国家の人々の意識は社会の持続性と団結力を育み、縄文後期以降は強力な軍事力の源泉にもなったが、越系文化圏の人々にはその様な意識はなく、武力的な対立関係が生れると他部族の軍事に依存し、或いは当該地域から撤退したから、彼らの子孫系譜と見做せる地域集団は残っていない。

隋書倭国伝に、それを示す記述がある。

後宮には女六七百人あり。

内官に十二等あり。クニ百二十人あり。八十戸ごとに一イナキを置く。十イナキは一人のクニに属す。

(貴族は優雅な生活を享受しているが)人庶は素足の者が多く、金銀を用いて飾りと為すことを得ず。

 

6-1-3 縄文中期の湖北省の荊と、青州に入植して呉になった荊

湖北省時代の荊は稲作の生産性を高める事を至上命題とし、大規模な土木作業を効率的に行う為に、ピラミッド的な上意下達組織を構成し、貴族層が塩を得る為に商品産業を興す事を両輪とする、複合的な体制を構築していた。彼らの統治組織の根幹は、稲作民族としての継続性を維持する事に焦点化されていた。

遠隔地から塩を持ち込んでいた湖北省時代は、塩を運び込んでいた関東部族の帰りの船が、重量比の価値が低いコメだけを乗せて浙江省に帰還する状態では、交易品の価値に極端な片務性が生れたから、重量比や容量比で塩より価値が高い商品を開発する必要があり、荊の貴族はその為の奢侈品を開発して生産する必要があった。

しかし青州に入植して稲作の生産性が高まり、洪水の被害が少ない青州では土木工事の必要性が大幅に低下したから、ピラミッド的な上意下達組織の存在意義が薄れた。また製塩業者が入植した青州では、廉価な塩を多量に入手する事ができたから、貴族層が奢侈品を開発する必要性が失われ、彼らが運営していた高度な産業力の必要性も大幅に低下した。彼らは製塩業者の為に奢侈品を生産する様になり、製塩業者が富裕化すると彼らも富裕化した。

その様な状態になった荊の制度や価値観が、どの様に変化したのかを検証する事が、この項の重要なテーマの一つになる。春秋時代の荊の思想を示していると考えられる老子は、以下の様に記している。

満ち足りた状態を失わぬように保ち続けるのは、止めた方が良い。富貴で驕慢であれば、自ら災難を招く。仕事をなし遂げたら身を退く、それが天の道だ。(第九章)

最高の支配者は、人民はその存在を知っているだけだ。その次の支配者は、人民は親しんで褒め称える。その次の支配者は、人民は畏れる。その次の支配者は、人民は馬鹿にする。信が不足すれば、不信が生れるからだ。支配者の言葉が少なければ、人々は成功したのは自分達が成し遂げたからだと言う。(第十七章)

富貴を求める事を戒めているのは、越人の価値観に染まる事を否定しているからだと推測される。また支配者と人民の関係をこの様に理想化するのは、貴族層の産業力に依って支配者の財政が維持される状態になると、稲作民と支配者の関係が疎遠になった事を示している。社会は思想家の示す方向とは逆に動いていたから、この様な思想が生れたと推測され、荊社会の越社会化が進行していた事を示唆している。

 

6―2 宝貝貨の普及

6-2-1 宝貝貨の成立

荊が青州の広大な沖積地に入植した直後は、関東部族は浙江省の塩と沖縄の宝貝貨を、湖北省と青州の双方に供給したが、製塩業者が渤海南岸に移住すると、青州の荊は遠距離輸送を省いた安価な塩を入手できる様になり、事情が急変した。製塩業者はその様な青洲の荊の需要に応え、渤海南岸での製塩業を活性化させ、そこに流れる河川流域に塩の配給拠点を形成すると、荊が今まで便利に使っていた宝貝貨の価値を、関東部族が保証する事ができなくなった。しかし荊は宝貝貨を貨幣として使っていたから、貨幣が失われる事に著しい不便を感じ、関東部族にその窮状を訴えた。

青州特有のこの問題を解決する為には、関東部族が製塩業者に宝貝を供給し、製塩業者が塩を兌換材とする宝貝貨を発行する必要があった。その仕組みは、その制度を望む荊には構築できなかったから、関東部族と製塩業者が具体策を計画し、試行しながら実用化せざるを得なかった。製塩業者に渡した宝貝貨は、製塩業者が荊からコメや陶器などの必要な物資を入手する費用に充て、荊がその宝貝で製塩業者から塩を入手できる様になると、荊が望む状態が実現したから、宝貝化の制度を青州の荊の実情に合わせる事に大きな支障はなかった。

その結果として各種の物資に相場観が生れ、関東部族が青州に持ち込んだ宝貝貨の一部を、製塩業者に渡さずに獣骨の入手に費やす事も可能になっただろう。

それまでの製塩業者には貨幣を扱った経験がなかったから、矢尻と翡翠加工品を貨幣として使っていた関東部族が、荊の為に同じ仕組みを構築する以外に、青州で宝貝貨を流通させる有効な手段はなかった。その具体的な試行手順は分からないが、黒曜石の欠片を矢尻と同等品として、その価値を保証していた狩猟民族と、定まった矢尻の個数と等価のヒスイ加工品を交換する、北陸部族の仕組みは特に複雑なものではなかったから、それらより単純な仕組みを青州で実現する事に大きな支障はなかった。

湖北省では製塩土器一壺の塩と、一つの宝貝が等価だったから、その時期の宝貝はヒスイ加工品より高価だった可能性もあるが、関東部族は高価であり過ぎるヒスイ加工品は、黒曜石の欠片の様に便利に使えない事も知っていたから、穴を開けた宝貝貨を新たに発行し、黒曜石の欠片に類似した低価値の通貨にしたと想定される。

宝貝貨を従来の価値の儘にして置いても、関東部族には大きな不都合はなかったし、その方が関東部族の宝貝貨に関する運用は容易だったが、敢えて使い易い宝貝貨を発行した事に、関東部族の意気込みを感じる必要がある。つまり関東部族は廉価な通貨があれば経済が活性化し、彼らに対する運送需要が増加する事を知っていただけではなく、その運用プランも企画し、膨大な数の宝貝貨の採取作業だけではなく穴開け作業も引き受けたからだ。青州で宝貝貨を使う商流では、湖北省時代の関東部族の塩の運搬を担う役割が失われ、それによって得ていた塩の運搬者としての利益も失ったが、関東部族はそれには構わずに、青洲に最適な経済活動を推奨した事になる。

青洲の人々の立場で最適解を論理的に追求すれば、当然その様な結論に至ったからだが、弥生温暖期の越はその様にはせずに越だけの利益を追求したから、秦の武力征服を招いた。老子の警告が的中し、越人は秦によって中華世界から追放されたが、その秦は越人が唱えた法治主義によって富国強兵を実現した点に、歴史の皮肉を見る事ができる。

この時期の関東部族の商流は、個々の交易の利潤に拘る打算的なものではなく、帰路に獣骨を満載できればそれ以上は望まかったから、荊から追加的な要求があれば、できる範囲で応じる姿勢を堅持していた。荊が青州で畜産を盛んに行ってくれれば、関東部族は大陸の暴力的なアワ栽培者から、危険を冒しながら獣骨を集める手間が省けたから、その様な荊の人口が増える事にも積極的だった。双方の親和度から推測すれば、荊も製塩業者に倣って堅果類を栽培し、関東部族の為に積極的に豚を飼っていた可能性も高い。中国南部では古い時代から養豚が盛んだった事が、その事情を示唆しているとも言える。

宝貝貨の制度は無秩序的な状態から始まったとしても、やがて参加者が納得できる方向に収斂したから、周囲の民族も巻き込みながら1500年ほど継続した。その過程を知る手段は乏しいが、古代人は自然界の出来事に極めて敏感な人達だったから、狩猟や河川漁労の縄張りを合理的に決めた手順に従って、宝貝貨の運用手順を試行錯誤的に開発したと考えられる。しかし極めて人工的で複雑な仕組みだから、新しい知見を創造する必要があった。コメと塩の需給関係を見極めながら、交換比率を決めるだけではなく、その他の物品の価値も塩の価値と比較しながら、適性価格を決める為に必要な人工的な概念を形成し、その交換手続きを決めていく必要があったからだ。

それ以上に大きな課題として、出回る宝貝貨の適正量を判断する必要もあった。近世になってから紙幣を発行する様になると、過剰発行によるインフレが頻発したが、1500年間適度のインフレを維持しながら宝貝貨が流通し続けたのは、塩との兌換性が堅持されたからだと考えられる。この極めて人口的な概念は、自然界の出来事を理解する事に長けていた古代人にも難題だったから、先ず事実を認識してそれを記録する必要が生れたと想定する事に、異論はないだろう。膨大な数の宝貝を無制限に市場に投入すれば、悪影響が生れる事は自明だから、物価や流通量を示す細かな記録は必要だったからだ。これには物品を示す記号と、日時を示す記号と、数字があれば良かったから、その様な単純な目的には、漢字のような複雑な概念は必要なかった。

物品価値がない通貨を過剰に発行すれば、インフレが起こる事は現代人の常識だが、宝貝貨が1500年も継続的に使われた事は、運用者がそれを危惧して発行量を調整していたと考える事も、常識的になる。金銀はそれ自身に希少性があるから、過剰に流通する事はあり得なかったが、宝貝貨は無制限に発行できるからだ。

塩との交換比率が固定化されていたから、製塩業者は生産に見合った需要が、宝貝貨の使用によって生まれる事を是とし、需要が不足すれば宝貝貨の増発を、需要が過大になれば塩を増産するか宝貝貨の発行を抑止し、時には塩の販売によって回収した宝貝貨を償却し、宝貝貨の発行量を適正化する必要があった。その様な概念に至るまでには紆余曲折があった事は間違いないが、法治主義者の越人がそれを管理する為の手段として、物価に敏感になってその記録を必要とした事は、確からしい推測になる。

発行量を確認する作業に関しては、荊は早い時代から、その仕組みの基礎を形成していた可能性がある。荊は気候の温暖化と寒冷化に翻弄され易い、温帯ジャポニカを栽培していたから、栽培適地の北限を知る必要があり、北限の収穫は年度毎に異なっていたからだ。個人が自己責任で北上する場合は、気候変動の結果は北上者個人が負うべきものだが、集団で土木作業を行っていた荊としては、その可否を客観的に判断する必要があったからだ。つまり規定面積の収穫量を定量化し、集団移住が可能であるのか否かを判断する必要があった。

宝貝貨の投入実績の記録はそれより極めて複雑なものだから、新たな概念を試行錯誤的に多数創出する必要があった事も間違いなく、その際に使った記号が、漢字を生む基礎概念になった可能性が高い。既に指摘した様に、個人的な記号や地域集団内で通用する符号は大昔からあり、矢尻街道で生まれた土器の複雑な器形の中にも、その様なものが取り込まれていた筈だが、それらと広域的な汎用性を持つ文字は区別する必要がある。つまり宝貝貨の発行に関しては、荊、越、倭にそれぞれの利害関係があり、その扱いには3者の合意が必要だったから、3者が理解できる記号が必要なった時点で、汎用性がある漢字が生れる基礎ができたと考えられる。

 

6-2-2 青州の交易事情

荊が青州で使った磨製石斧は台湾産だった可能性が高いが、青州を含む華北で宝貝貨を使える状態にする為には、関東部族がそれらの地域を商圏として管理する必要があった。それらの地域に他の海洋民族が無秩序に出入りすれば、フリッピンやインドネシアで採取した宝貝が持ち込まれる恐れがあり、金・銀・琥珀を財貨とする交易者が出没して通貨が併用されると、希少価値も実用価値もない宝貝貨が価値を失う恐れもあったからだ。現代人はそれを「良貨が悪化を駆逐する」と言うが、古代人も直感的にそれを分かっていただろう。従って宝貝貨と金銀の交換レートも定量化する必要があり、金銀の定量化が必要になった。金銀を使って交易を行っていた民族は、交換品である物品の価値が定まっていなければ、金銀を厳密に定量する必要はなかったが、宝貝貨と金銀との交換比率は厳密に定義する必要があったからだ。現実問題として、物品の価値が定まっている状況は皆無だった筈だから、金銀や琥珀を使って交易していた民族に、厳密な定量基準はなかった可能性が高い。

東アジアの海洋民族にはシベリア起源の縄張り意識があったから、この認識を徹底する事に大きな困難はなかったかもしれないが、その状態を実効的に維持する為には、荊が必要とする物品を、関東部族が生産地から搬入する必要があった。それは荊の生活圏を関東部族が独占的な商圏にする事を、荊に認めて貰う事でもあり、関東部族にとっては喜ばしい事ではあったが、その重い輸送の労務負担や物品管理に耐える必要があり、その軽減の為に青州の塩の商流を製塩業者に移管する事は、必然的な結果だった可能性が高い。その結果として塩の商流が分割される状況が生れ、関東部族も越も双方の状況を互いに説明し合う必要が生れたから、それに必要な知識や数値が複雑化すると、双方が記号を使って説明を合理化する必要も生れた。

青州全体の交易を俯瞰すると、関東部族の船は忙しく活動していたから、その輸送労務に見合った収益があれば、個々の事情に細分化してそれぞれの収益の有無を検証する必要はなく、関東部族にはそれを検証する能力もなかった可能性が高い。つまり宝貝の提供労務そのものには収益はなくても、全体の交易収支の中で処理し、労働奉仕的に宝貝貨を提供していた可能性も高く、交易の多くはどんぶり勘定だったと推測されるが、宝貝貨に関しては定量的な記録に注目する独特の交易習俗が生れたと推測される。

この様な交易は、関東部族と荊の信頼関係の上に成り立つ事であり、その為には双方の民族に高度な倫理観が必要になり、それを背景にした信頼関係も必要だった。荊は湖北省で洪水の被害に遭い続け、農地の早急な復旧作業を共同で行っていたから、連帯感と倫理的な統制意識が強く、その点では問題はなかった。関東部族の漁民も何万年も関東に集住し、正しい漁場情報を求める海洋文化を育て、大型魚を捕獲する際には組織的な統制を高めていたから、この様な特殊な経済関係は、両者に限って可能だったとも言える。

しかし信頼関係は盲信の上に成立する事はなく、互いに相手の状況を確認し合う事も重要になる。その様な双方の事情説明を行う際には、数値的な裏付けが必要になるから、記号の進化は数値に纏わる品名や状況の抽象化から始まり、やがて説明内容を抽象化するメモの様なものになった可能性もある。説明者は簡単な記号でも良いが、その説明を受けた者が、自分の民族内や部族内にその情報を拡散する場合、簡単な記号では難しい事態も生まれただろうから。上意下達的な荊にはその必要がなかったかもしれないが、漁船や大型魚を捕獲する為の、船団単位の小集団を基本とする漁民社会では、論理の因果関係を示す説明記号の詳細化が求められただろう。

海洋漁労に獣骨が必要である事情は変わらず、シベリア交易を失った伊予部族や対馬部族も、不足した分を南方から補う必要があったから、薩摩半島に移住した関東部族の南方派の指揮下に入り、九夷を結成すると交易環境は更に複雑化した。夏王朝期に多数の民族が交易に参加し、彼らの共通言語として漢字が生れたと考えられるが、古事記を創作した稗田阿礼の文学的な才能が生れる為には、伊予部族にも漢字を使う文化基盤があったと考えざるを得ず、その為には華北夏王朝が生れた夏王朝の揺籃期に、伊予部族も夏王朝の帝に参加していたからだと考える必要がある。

日本人にはウィルス感染に対する遺伝的な免疫性があるとすると、この様な交易からウィルスに感染し難い体質を獲得した可能性がある。これらの部族の華南交易では、1年の決まった時期に上海の馬橋に出向き、そこを拠点に大陸各地で交易を行った後で、再び馬橋に戻って日本に帰還したからだ。大陸の河川を遡上する都合上、河川の水量が少ない冬季が交易活動期だった。

ウィルスが変異して新たな感染源になる事情は、当時もコウモリ→豚→人の感染が主流だったとすると、大陸で感染した漁民が馬橋に集まって感染者を増やし、それを日本に持ち帰った可能性が高い。

大陸と馬橋の航路長は概ね500㎞未満だから、1日に40㎞程度移動したとすると、交易先で感染した漁民は馬橋で発症し、先ず馬橋を集団感染状態にしただろう。彼らの帰路には台湾、沖縄、九州に人口密集地があり、それぞれの拠点で数日休憩したとすると、既感染者はそれらの地点でも新規感染者を増やした。それぞれの区間移動は10日程度だったと推測されるから、各人口密集地が集団感染の温床になり、馬橋では感染していなかった漁民も帰還途上で感染する可能性が高く、終着地だった日本各地の部族の拠点にも、感染が拡大した可能性が高い。帰還者が数派に分散して帰還した場合には、帰還者を迎える度に感染爆発が起こっただろう。

広域的な交易者になる為にはその様なリスクも克服する必要があり、漁民だけではなく共生していた縄文人も、ウィルス感染に対する抵抗力を高める必要があった。日本人がキスやハグを嫌い、昔の人が家に入る際に足を洗ったのも、その様な感染を防ぐ為だった可能性も高い。

関東部族だけがその様な状態だったとしても、日本全体の人口としては25%しかしなかった。しかしそれに伊予部族、壱岐部族、対馬部族、肥国人が加わると、日本人の60%以上が毎年ウィルス感染の脅威に晒されていた事になり、国民的な事情に昇格する。

 

6-3、漢字文化の成立と発展

歴史の流れを検証すると、塩の流通を背景にした宝貝貨の運用が、五帝の成立に大きく関与していたと考えざるを得ず、その時代の人々が宝貝貨を円滑に流通させる為に、漢文と漢字を生み出すと、稲作民族でありながら全く異なる習俗を持っていた荊と越が、共生関係を円滑化する為にそれを法規文章化し、更に発展した事を起源に、夏王朝期に交易の円滑化を図る為に、漢字文が東アジアに拡散して諸民族も使えるものになったから、漢字と漢字文が国際化した状態が東アジアに生まれたと考えられる。

竹書紀年が示す夏王朝の成立事情はその2で検証したが、複雑な諸事情は多面的に検証する必要があるので、この項では歴史的な事情は脇に置いて、漢字文化から夏王朝の実態を検証する。

 

6-3-1 漢文法と漢字の標準語化に関する一般論

縄文中期までの荊は内陸に閉じ籠り、縄文後期に青州に入植しても宝貝貨を継続的に使用する為に、関東部族の独占的な交易権を容認したから、交易を通してユーラシア各地と接触する機会はなく、西ユーラシアで文字文化が進化していた事を直接知る機会はなかった。製塩業者になった越人にも、西ユーラシアの事情を知る機会はなく、同族としてフィリッピンに渡った越人はインドネシアの海洋民族と疎遠になり、代わって同盟者になった北陸部族にはインド洋を周回する海運力がなかったから、オリエント世界の文字文化が先行していたのであれば、その文化を青州に持ち込む事ができた海洋民族は、漢字文化の関係者としては関東部族しかいなかった。

どの程度の数の関東部族の漁民が、オリエントまで渡航したのか不明だが、日本にヘブライ文化的な要素があるとすれば、関東部族の漁民が持ち帰った可能性もあり、貝紫を使った染色や、その紫を高貴な色とする文化の共通性、貝肉を腐らせて宝貝貨を量産した手法と貝紫を得る手法の共通性、両文化が発生した時期の共通性などは、関東部族がインドネシアの海洋民族と共にオリエントに出向いた事を示唆している。魏志倭人伝が日本の海洋民族とインドネシアの海洋民族の文化の共通性を指摘し、エリュトゥラー海案内記が、紅海やギリシャの交易者はインドまでしか行けなかった事を示し、インドネシアの海洋民族がマダガスカル島に植民した痕跡として言語と遺伝子を残しているから、関東部族の漁民がオリエントに出向いていた可能性はかなり高い。

日本の文字文化の多様性については、越人がインドネシアの海洋民族を介し、オリエントの表音文字を導入していたと考えられるので、カタカナはその経路で導入された可能性が高い。

東西ユーラシアの交流はインド洋経由だけではなくシベリアルートもあり、漢字が生れた縄文後期には、むしろシベリアルートの方が主流だった可能性が高く、竹書紀年が帝舜への息慎の朝貢を特記している事は、関東部族や北陸部族にとっては、ペルシャ湾より黒海の方が身近な存在だった事を示唆している。従って縄文後期に漢字文化が生れた事は、ユーラシア大陸全般の文化動向として捉える必要がある。

世界には表意文字(象形文字)と表音文字(カナやアルファベット)があり、漢字は現存する世界唯一の表意文字だが、縄文時代には世界各地に原初的な表意文字があった。シュメール人のウルク古拙文字(BC3200年~)、エジプトのヒエログリフ(BC3200年~)、原始エラム文字 (BC3000)は漢字より古い文字である可能性が高く、縄文後期(BC2500年~)に生まれたと推測される漢字は、世界に先駆けて生まれた象形文字ではなかった。

従ってこれらの象形文字に関する知識を、関東部族が青州に持ち込んだ事により、漢字が生まれたと推測される。

象形文字はその後も生まれ、インダス川流域で発見された原始インド文字 (BC 2200年~)、クレタ象形文字 (BC1500年頃~)、アナトリア象形文字(BC1500年頃~)などがあり、象形文字としての漢字の発生は特異な現象ではなかった。

やがて西ユーラシアでは象形文字の一部が音節化し、表音文字化する流れが生れた。表音文字化にも段階があり、先ずカナに代表される音節文字が生まれ、次にアルファベットの様な音素文字が生まれると、それが普及して現在に至っている。漢字は世界で唯一生き残った表意文字だから、その様な状態になった理由を明らかにする事が、関東部族、荊、製塩業者になった越人が、漢文法と漢字を生み出した時期や経緯を解明する鍵になる。

多数の表意文字(象形文字)が失われた主な原因は、文字数の多さが学習を煩雑にし、文字の複雑さが記述時間を長大化するなど、扱いにくい文字だったからだ。エジプトの象形文字は、神官が文字を独占する為に意図的に扱い難くしたと言われているが、文字の普及に関しては論外の現象なので、此処では検討対象から除外する。つまり農耕民族が文字を入手すると、権力を装飾化する手段として使う流れも生れたが、漢字は交易を円滑に行う為に開発されたものだから、フェニキア文字からアラム文字やギリシャ文字が生まれた様な、表音文字が普及した過程と比較する事に意味がある。

漢字は象形文字特有の、字体が複雑で扱い難い課題を解決する為に文字の簡略化を推進し、会意や形声手法を駆使して文字数を増やし、文章の表現力を豊かにした。貝に関する漢字が多数ある事から、それらの手法の優秀さは理解できるだろう。表意文字としては他に例を見ない画期的な試みだが、夏王朝の詳細な法規を記述する為に、多数の民族の英知を集めた結果であると考える必要がある。

他の象形文字はその様な課題を克服できず、全て放棄され、扱い易い表音文字に置き変えられたのに、漢字が現在まで使われている理由は、表現力の豊かさにあったのではなく、他に理由があったからだと考える必要がある。これらの課題を解決しても、象形文字特有の、複雑で扱い難い問題が解決されたわけではないし、口語をその儘表現できる表音文字の使い易さは、表意文字だけでは解決できなかったからだ。日本語に表音文字が含まれる事により、漢字だけの文の表現力より遥かに優っている事が、その事情を示しているからだ。

漢字と漢文は扱いが煩雑で表現力が乏しいが、多数の民族がそれを共有する事によって国際語にする事が可能だから、表意文字をできるだけ便利なものにする為に幾多の努力が投入された結果として、漢字が進化して表現力も豊かになったと考える必要がある。発音記号は各民族の言語を音声表現するから、民族の標準言語になる事は可能だが、国際語になる事は原理的に不可能だ。しかし表意文字はその意味だけを共有し、各民族が異なる発音で読む事も可能だったから、文字文化として国際語化する事が可能だった。古代の日本人がそれに参加したから、国際語化する可能性を改めて立証する必要はないが、トルコ語話者だった殷人も漢字を使い、チベット系民族だったタングートやモンゴル系民族だった契丹も、漢字系の文字を使っていた事が、標準文字になった事情を示している。

弥生時代の越人は表意文字を捨て、表音文字を使いながら東ユーラシア経済を牽引する強力な経済力を獲得したから、漢字は常に表音文字から標準化圧力を受けていた。その状況を日本列島について言えば、北陸や山陰の文化を牽引した日本越が表音文字を使い、関東部族や伊予部族が漢字を使う状況が展開した。大陸でも荊、殷人、周が漢字を使ったが、沿海部の越が表音文字を使い、中央アジアにも表音文字が普及していたから、漢字文化圏は4千年間表音文字文化圏に囲まれていたが、その様な環境で漢字が生き残ったのは、表音文字より優れているとは言えない表現力の豊かさや使い易さ故ではなく、多くの民族の標準言語になったからだと考える必要がある。

つまり漢字が普及したのは、漢字文章が東ユーラシアの文字文化の、デファクトスタンダード化に成功したからだと考えられる。象形文字を使った文章は文意をデファクトスタンダード化できるが、民族の会話音を転写して文書化する表音文字は、文字のデファクトスタンダード化は容易だが、その文字を使った文章は、他言語を使う他民族には理解できないから、文章がデファクトスタンダード化する事はないからだ。表音文字を使う民族が意思疎通する為には標準語を決める必要があり、現在は英語がその役割を果たしているが、英語を理解する為には英語圏の人々の習俗や感性も知る必要があり、スラングや方言まで学習させられる煩わしさがあり、優れた標準文章であるとは言えない状況にある。

共用の表意文字を使う民族が、会話も標準語で行いたければ標準音を決める必要があり、一旦それが決まれば、異言語話者であっても意志疎通が可能になる。つまり文法が定まった文章を書く事ができれば、その文章の通りに発音する事により、意思疎通する事が可能になるからだが、その為には文法を厳格に決めて置く必要がある。会話語の様に表現力を高めると、文法が複雑になって使い難くなるから、共通語の文法は簡便である必要があるからだ。中国の史書は簡単な文法を多用しているから、現代日本人でも多少の訓練と辞書があれば、中華の史書を読む事はさほど困難ではない事が、その事情を示している。唐代以降の漢字文は民族語化し始め、徐々に日本人には理解し難いものになっていったが、成立時の漢文法は極めて簡便なもので、感情や意思を表現する修飾的な機能はなかった事を、竹書紀年が示している。

法律用語であればそれで十分であり、法律には時制は要らないから、古典的な漢文法に時制がない事は、法律を制定する為に漢字や漢文法が進化したとの想定と整合する。

決められた文法の範囲内であれば音を標準化して置けば、漢文の通りに発音すれば会話もできるから、漢文がその様に使われたのではないかと想定される。漢字の 90% 以上が形声文字である事が、その一つの証拠になる。形声文字を多用する事は、読み手が発音記号付きの漢字を使用している事になり、標準語での会話を容易にする為に、発声による意思疎通に配慮した成果であるとすれば、極めて理に叶った造語手法であると言えるからだ。

形声手法は多数の文字を生み出すと共に、漢字文を介した会話言語の標準化を推進したが、それが余りに多用されると象形文字としての意味が曖昧になり、形態的には表音文字に近付くから、多数の民族が使う際の汎用性を失うリスクもあった。

漢字を便利に使っている現代日本人が、同音異義語の識別に不自由しないのは、漢字文の用例を多数知る事により、無意識裏に同音異義語を識別しているからだ。日本人が無意識裏にそれができるのは、偶然の結果ではなく、漢字を生み出した古代人が経験的に編み出した漢字の黄金律とも云うべき、形声文字比率になっているからだと考える事もできる。

形声文字の発音は自動的に理解できるから、文章を覚えながら意味を理解する事ができる利点があり、その観点では形声文字比率を出来るだけ多くした方が使い勝手は良いが、漢字の識別や文の意味の理解には難点がある。従って漢字文の未熟練者が使う使用頻度が高い漢字には、見ただけで容易に識別できる、意味を重視して象形性を高めた漢字を使い、高度な漢字文も扱える熟練者の作文力の高度化と、音読の容易さの為に、使用頻度は低いが膨大な数の漢字として、ルビを付加した形声文字を使いながら、熟語的な使用も促して表現力を高めたと想定される。

但し熟語が生れると新しい漢字を形成する意欲が減退したから、五帝時代に漢字の創造が意欲的に行われ、夏王朝末期には既に生まれた数万の漢字を組み合わせ、熟語化する段階に進んだと想定されるから、五帝時代の人々が何処までそれを意識していたのか明らかではなく、むしろ熟語化の過程で不要な漢字が淘汰され、上記の黄金律が生れたと考える事に合理性がある。魚種を示す漢字は多数あるが、日本人でさえその殆どを知らない事や、頻繁に食べる鯖、鯵、鯛、鰯には熟語化しているものが多いからだ。

多数の民族に漢字文を拡散してデファクトスタンダード化する為には、多数の人々が漢字文を頻繁に使う環境が必要だが、夏王朝が複雑な法規を制定すると、多数の民族にその環境を提供した。当初の漢字は荊の人々と製塩業者に周知徹底する事により、頻繁に使う条件をクリアしたが、それだけでは他の民族には普及しなかった。しかし夏王朝が生れて多くの民族が採用できる、共通の法規を制定する手段になると共に、その法規を制定する為の、民族間の高度な意思疎通を容易にする手段として、漢字文と漢字が開発された事が、広範囲に普及した理由だったと考えられる。

その対極にあった象形文字であるエジプトのヒエログリフは、権力者の権威を飾るものとして使用者が制限されたから、エジプト文明の凋落と共に見捨てられたと想定する事も出来るが、オリエントでは各地に生まれた表意文字を統一する、指導的な交易民族がいなかったからだと想定する事もできる。それと対極的な東アジアでは、少なくともこの二つの重要な課題がクリアされたから、表意文字を使う利便性が支持され、漢字のデファクトスタンダード化に成功したと考えられる。

エジプトのヒエログリフは、単一民族の神官が権威を誇示する目的で使ったから、語彙数が増えずに簡略化も遅れて消滅したが、海洋民族の拠点だったクレタでは、クレタ象形文字からクレタ線文字に発達し、ある程度の象形化は進んでいた。しかし同時期の甲骨文字の様な、会意や形声の技巧が生まれなかったのは、使用人口が少なく進化が遅れ、表音文字が発明されるとその攻勢に晒されたから、不便な文字として消滅したと推測される。つまり西ユーラシアで象形文字が進化しなかったのは、宝貝貨の様な便利な通貨を使う為に、法規を標準化する環境や機会がなかったからだと考える事もできる。

交易が盛んだったクレタを含む地中海~黒海では、多数の民族が交易を行っていたが、宝貝貨の複雑な運用システムの有無が、その後の発展過程の違いを生んだとすると、それ自身には何の価値もない宝貝を塩と定量交換できる貨幣とし、その運用規則を庶民に周知させる為に、表現の条文を日常会話に近いものにする必要があったからだと考える事もできる。つまり宝貝貨の貨幣化には多大な知的労力が必要であり、制度を維持する労務負担も重かったが、荊と越と関東部族はそれをやり遂げる環境に恵まれていたとも言える。それを具体的に列挙するとと、民族文化が全く異なる民族が共生し、荊の生産性が高い稲作と工芸品の生産力があり、越人の高度な製塩技術と法治主義的な小集団の共存文化があり、関東部族の高度な海運力と、価値がない黒曜の欠片を貨幣として使用した経験が統合された事が、漢字文化を生み出す必要条件だった。

 

6-3-2 夏王朝期の漢字と漢字文

竹書紀年の記述は極めて簡潔だが、時系列的な合理性があるから、当時の漢字文に近い文体と漢字で記されていると考えられるが、製塩業者を示す漢字の「右」が、竹書紀年では「有」に変っている事をその2で検証した。従って他の漢字や文体も、転記の過程で後世風に変わった可能性があり、竹書紀年を使って当時の漢字や文体を検証する事にリスクがあるが、漢字文の表現力や論理性は変える事ができないから、それらは竹書紀年から直接読み取る事ができる。

但しそれは漢字を使ったから生れた能力ではなく、元々古代人が会話言語として身に着けていた表現力の一部を、揺籃期の漢字を使って表現したと考える必要がある。その5に示した古事記のヤマタノオロチ説話や、毎日曇天と降雨が続いたヤンガードリアス期の状態を、古代人が会話言語によって伝承していた故に、古事記の説話が生れた事は明らかなのだから。

従って古代人が文字を使って表現の正確性や汎用性を求めた結果として、漢字や漢字文が進化したと考える必要があるが、漢字文を汎用化する必要性から文法概念を生み出し、それが各民族の口語に大きな影響を与えたと考える事にも合理性がある。

漢字文は民族言語の語順が大きく異なっていた荊と関東部族の、双方が使うものだったから、文法が定まらなければ文意が曖昧になった。逆に文法が明らかであれば、日本人も書き下し文として漢文を読む事ができるから、日本人であっても簡単な訓練によって古典漢文を読む事ができる。日本の王朝貴族の日記や記録が、その様な漢文である事もその証拠になる。

夏王朝期の事績を記した文体が、中国語と同じSVO形式である事は、漢字文の揺籃期から荊の言葉であるSVO形式の文法になり、SOV言語民族だった関東部族は、その文法を認識して文意を読み解いたと考えられるが、文法が明らかであれば難しい事ではない。

古代人の能力を過小評価する理由の一つに、人間は言語を使って思考しているとの誤解が、現代人に蔓延している事が挙げられる。古代の言語は現在のものより酷く単純だったから、古代人の思考能力もそれに比例して低かったとの誤解でもある。

しかし実際の人間の頭脳の働きとして、思考過程と情報伝達過程は完全に分離していて、思考過程が生み出した結果を言語化したり文章化したりする事により、それを他人に伝えているのだが、思考過程は言語とは無関係に処理されている。難しい数学の問題を解く場合に、言語によって答えを探してはいない事から、その事象は容易に気付く事ができる。また「ふと思いつく」という行為が、言語を使った思考の結果ではない事に気付けば、思考中枢には言語が関与していない事が分かるだろう。

現代人は言語能力が高いので、言語的な思考検証と非言語的な思考中枢の情報交換を、頻繁に行う事によって抽象的な思索結果を導き出している。その為に言語を使って思考していると錯覚し勝ちだが、言語力が弱かった古代人はその様な思索手法は多用せず、非言語的な思考中枢から結論を得る事が多かったと推測される。状況が変化し易い剥き出しの自然界に対峙していた古代人にとっては、その方が素早い状況判断を得る事が可能だったから、長い間その様な思考方法を維持していたと考えられるが、新しい環境に適応するのに相応しい思考方法ではないから、時代の変化に対する適応力は、現代人と比較するとかなり見劣りしたと考えられる。

しかし変化のない日常生活であれば、自然環境に対する適応力は現代人より高かったと想定され、古代社会の時間推移が緩慢だったのは、その様な事情があったからだと推測される。従って古代社会では、言語能力が高い人が交易社会の指導者になり、異文化を持つ異民族との交渉にあたったと推測され、それ故に一般の人々にはない高度な能力を持つ人として、交易的な民族の貴族層を形成した可能性が高い。現代の政治家もその系譜の人が多いが、その様な政治家には論理的な思考能力が欠如している疑いが濃い事も、多くの人が感じているのではなかろうか。

これを別の確度から見れば、非言語的な思考中枢を多用する理系学科的な思考力は、現代時より古代人の方が優れていた可能性が高い。考古学者が打製石器の進化を盛んに議論するので、古代人の思考力の進化過程をその様な視点で捉えると、大きな誤解が生れるから、本来はそれを使って何をしたのかを議論するべきだが、現代人にはそれができない事を上記の議論が示している。

現代人と古代人の脳容量は変わらず、基本的な機能も変わらないから、古代人もそれをフル活用する事によって生き延びた事により、脳の機能が進化したのであって、高々千年程度の文化的な進化により、現代の複雑な科学的知識を駆使できる様に、脳容量が物理的に進化したのではないと論理的に考える必要がある。

栽培技術の進化については、それを実感する説明をする事ができる。自然界の野原や河原を使って原生種を栽培しながら、その微妙な変化を見分けて有用な遺伝子変異を集める事が、如何に知的な行為であったのかについては、安易に畑に種を蒔いている人には想像できないが、山間の雑草に満ちている野原で石器だけを使い、播種から収穫まで56か月かかる穀類を栽培し、その収穫を確保しながら栽培種の生産性を高めていた事を想像すれば、その難しさに多少は思い至る事ができるだろう。また女性達は穀類だけを栽培していたのではなく、多様な植生を多様な環境の下で栽培していた事について、詳しく説明する必要はないだろう。その様な女性達には野草を摘む事が心の癒しになったから、和歌や古事記にその情景が描かれているが、それを以て古代人の食生活は山野草に依存していたと想像する事は慎むべきだ。

 

6-3-3 製塩業者(越人)と漢字文化

青州では少数派だった製塩業者のが、荊を主体とした青州で夏王朝のになったのは、塩の流通から生まれた富の力だけではなく、良著文化期に生まれた先進的で成文法的な法規意識が、荊と倭に評価されたからだと想定される。良著文化が遺した灌漑工事の痕跡と玉器を主体とする墓の副葬品から、その背景に政権の権威形成に関する指導者の意思や、鉞や剣によって形成した法秩序が窺えるからだ。

荊の農耕には彼ら以上の先進性があり、何千年もかけて熟成した品種と農法があったが、資本主義的な水利事業を興した浙江省の製塩業者には、その状態に急速に近付く必要があり、稲作労働者に規約を順守させる為の人工的な規範を形成し、上意下達的に順守させる必要があり、それを民族の文化体系として皆に納得させる必要があったからだ。

倭と荊の文化は長い時間を掛けて熟成したもので、個々の構成員にも浸透している民族文化だったから、それらを背景とする荊や倭には経済活動を法規で規定する習俗はなかった。従って先進的な法体系を短期間に構築する必要が生まれると、越人の経験に学ぶ必要があった。漢字を分析すると夏王朝の法規は、生活の細部まで規定する緻密な条文によって構成されていた事が判明し、その証拠を示している。

交易には何らかの規約が必要だから海洋民族にも法規意識はあった筈だが、漁労活動は現場主義的な傾向が強く、従事者の事実認識を常時交換する必要があるから、定款的な法規を必要とする認識は乏しかった。複雑で多彩な事実認定が必要な交易活動では、必要な交渉は代表による話し合いで決めざるを得なかったから、漁民上がりの交易者には成文法的な法規意識はなく、上意下達によって指示を伝達する経験も皆無に近かったと想定される。

荊はそれとは真逆の人々で、土木工事を期限内に完了させる為に上意下達的な意思伝達が常態化していたと考えられるが、石器時代の荊は関東部族との親和性が高く、密接な関係を何千年も継続した事は、事実を探究して信義を重視する習俗が極めて類似していたからだと推測され、権威を装飾して団結意識を高めた製塩業者の認識とは、根本的に異なっていたと考えられる。従って荊の上意下達的な絶対権力は土木工事の際には発揮されたが、その作業から解放されると一般人の習俗に従う人々で、その実態は大型魚を捕獲する漁民団に類似していた可能性が高い。

それに関しては荊の思想が変質した老子思想しか参考資料はなく、支配者と民衆が分離している世相を反映しているから、統治に関する縄文時代の荊の姿を示すものではないが、現代日本人は中華思想の中で老子思想に最も親近感を持っているから、その様な現代日本人の特徴である役割意識は、縄文時代の荊と共有できる意識だった可能性が高い。

役割意識には成文的な規範意識に馴染まない認識が多分に含まれ、古代社会には馴染みやすい発想だから、両民族が法規に代わる秩序認識の基本とした結果である可能性があり、倭人と荊がその認識を共有できれば、互いを理解する事が容易だったと考えられるからだ。

荊と共有した漢字音は呉音で、「役」漢字の呉音である「やく」は公共の為に労務を提供する事を意味し、役所、役場、役職、役目、役割などの熟語があり、その労務が提供される範囲の広さを示しているが、漢音の「えき」は労働の苦しさを意味し、熟語に懲役、役務、弘安の役などしかない事がその証拠になる。つまり荊と共有した意味は現代日本語の「えき」として残っているが、漢代以降の中華大陸ではその意味を失った事になり、アワ栽培者にはそれを理解する文化がなかった事になる。

現代日本社会では役割を担った人に超法規的な判断が許され、それによって生じた事柄については、役割の遂行者の責任であると見做す傾向があり、日本人の発想に多大な影響を与えている。

それに関する規約は漠然と存在するが、厳格に決められた法令を参照する認識はない。その具体例として日本人の商慣習を挙げると、日本人には欧米的な契約概念はなく、「人として許されない事」は絶対にしない倫理を共有している認識があり、当事者間で細かく契約規定しなくても、仮に問題が起これば誠意を以て話し合えば良いとする。その様な日本人には契約書に目を通す習慣がなく、プロの営業にもその意識が希薄である事は、日本の実業界が昔から指摘している事実でもある。

それが原因になって経済活動が停滞する事はなく、相手の信用度を調査して取引毎に契約書を作成する労力は、無視できない程に大きいから、その必要がなければ物事が効率的に回転する。従って日本人にとっての課題は、海外との取引では日本的な常識が通用しない、現実に直面した場合に発生する。諸外国にはその様な倫理を持たない人が多く、法規は逸脱する為にあるのだと豪語する人々もいるからだ。

中世日本の武家諸法度も、諸事情を網羅しているとは到底言えない単純な条文で構成されているが、それで諒とした人々の意識の根底にも同様の認識があったと推測される。

「人として許されない事」に成文規定はなく、暗黙裡の共有認識でしかないが、その基本認識に「社会の仕組は共有財産であって、人はそのお陰で生きている」事情があり、議論や文言によってそれを確認し合う必要はない。この様な考え方が成立したのは、日本人が長い間民族自決の環境下にあり、社会の仕組みを自分達が形成した歴史に立脚しているからではあるが、その背景にはmt-B4が形成した認識の共有があり、古事記の思想により、日本人は単一民族であるとの認識が形成されたからでもある。

つまり同じ民族だから倫理観も同じでなければならず、不都合な倫理観があればその優劣を決め、優位と認定された倫理意識を高める習俗が4千年以上続いた事も、日本人の国民意識を斉一的に高めた事は間違いない。しかしそれは斉一化のプロセスであって、根源的に存在する海洋民族的な倫理観は、漁民と縄文人の共生社会から生まれたと考える必要がある。

その対極にあった大陸民族にとっては、異民族は考え方が違うのは当然であり、統一的な倫理観はないから、「人として許されない事」に関する認識は民族毎に異なり、全ての民族が共有する最小共役的なものになる。それを擦り合わせる場もないから、「人として許されない事」が曖昧になり、概念としての成立も危ぶまれる。西欧人が統一的な宗教観に拘る事は、その観点では理解できるが、西欧人とは異質な中国人が好んで使う「上に方策有れば下に対策あり」は、その様な意識の欠如を示している。

日本人の「人として許されない事」の認識は、罰則的な法規を背景としているのではなく、「人として生まれたからには、しなければならい事がある」という、明確な行動方針に従っている。つまり一人前の社会人になる事が、「人としてしなければならない」事であり、その具体的な手段は、社会に対して何らかの役割を担い、それを通して社会に貢献する事になる。日本人はそれを「世間」と呼んだので、それに関する言葉を集めると実態が明らかになる。

日本人が生活保護の受給を恥と感じるのはこの認識があるからで、「人としてしなければならい事」をしないのは「人でなし=人ではない」から、人が作る社会から排除されるべき存在になり、この倫理観はかなり強烈な意味を含んでいる。現代日本人は伝統的な道徳教育を受けていないから、この因果関係が分からなくなっている上に、欧米的な権利意識が横行して日本的な価値観を否定しているから、日本的な倫理観の本質を見失い始めているが、条文付きの契約を根拠にする欧米的な権利意識は、日本的な倫理観とは融合しないから、日本社会に根付くとも思えない。

「世間」は個人が形成する社会であり、自分も「世間」の一員でなければならないが、その形成過程の透明性は、「お天道様はお見通し」という言葉で保証される必要がある。「お天道様」は見ているだけの神ではあるが、日本人の倫理観に深く根差す神であり、偶然の幸せや不幸に関与するものではないが、人として生きる為にはその存在を信じている事が必要不可欠の要素になる。

この様な日本人の認識が世界に類例がないのは、現代日本人の倫理観が極めて交易的な人々だった、縄文人の認識を基底に成り立っているからだ。奈良時代には唐文化を採用し、それを否定した平安時代になっても貴族は王朝を賛美したから、王朝のモデルになった中華とは全く異なる、交易者的な倫理観がこの時代に生まれた筈はないからだ。中世以降の日本人は王朝期以上に農耕民族化し、農地や領土を求めて戦争を繰り返したから、その風土の中から交易者的な倫理が生まれた筈はないからでもある。

縄文中期までの荊は頻繁に洪水に襲われ、その度に秩序だった土木工事を興し、稲作地の復旧を急いだ民族だから、荊と関東部族には集団の秩序を維持する秩序認識に共感できる部分が多々あり、「役」認識を共有したと推測される。つまり荊も作業を成就する集団が目的別・地域別に結成される社会で、困難な事象に立ち向かう人々には特別な役割を与え、それに協力する人々の倫理観によって成果が左右され、その成果は誰の目にも明らかだったから、人々は個人的な倫理観を高めざるを得なかった。

従って海洋民族には明文的な規範認識はなく、その最右翼だった関東部族が最も親和性を高めた荊も、類似した倫理観を持つ民族だったと推測される。

 

6-3-4 漢字文化から推測する夏王朝の法規

竹書紀年に、以下の記述がある。

(周の)成王10年 越裳氏が朝貢した。

成王24年 於越が来賓した。

縄文後期温暖期が終了して荊が南下すると、一緒に南下した製塩業者がフリッピン越(越裳)と北陸部族と共に、越同盟を結成した事を示している。縄文晩期の製塩業者の拠点は、彼らの古巣である杭州湾だったと推測され、春秋時代に都を琅邪に遷した於越のそれ以前の拠点だったと推測される。

竹書紀年は於越BC473年に呉を滅しBC468年に都を琅邪に遷したと記し、於越が製塩業者の中核集団である事を示し、呉を吸収する事によって拠点を琅邪に遷した事を示し、越同盟の旗艦国である事を示唆している。弥生温暖期の越人の富の源泉はフィリッピンで生産した高級絹糸で、それを呉が高級絹布に仕立てていたが、呉が越同盟の下請けになった事は、元々は夏王朝の中核だった呉が越同盟の下請けになって消滅し、夏王朝は楚が引き受けた事を示している。従って禹の系譜の製塩業者は、夏王朝期からと呼ぶべき集団だった事になる。

は漢字を生み出した民族だから、漢字が生れた際に真っ先にこれらの文字が生まれた筈だが、周の歴史ダイジェスト版である竹書紀年の五帝代や夏王朝紀に、その漢字が記されていないのは、周王朝にとっては禹が越人だった事、荊の実名がだった事、五帝が海洋民族だった事は周には不都合な事実だった事になる。つまり竹書紀年の編者は、夏王朝を周の祖先王朝であると印象付けたかった事になり、その背景として竹書紀年が周史から抜粋された時点で、既に夏王朝は存在していなかった事を示唆している。竹書紀年が収められていたのは魏の襄王の墓で、襄王はBC300年頃の人だから、夏王朝はBC300年頃には存在していなかった事になり、夏王朝を維持していた楚は秦に滅ぼされる前に、夏王朝の維持を放棄していた事を示している。

つまり竹書紀年が記したかったのは、同じ浙江省出身の製塩業者だった禹の功績であって、帝相から殷王朝の滅亡までは周王朝が成立する前史に過ぎず、前史として必要な事績を夏王朝の年代記から抜粋し、殷周革命に敗れた殷人から聞き取った事を記したから、記載内容は事実であっても一部に改編があり、歴史の流れに論理性がないのもその為であると考えられる。従って夏王朝期の青州の繁栄事情は、竹書紀年に記された事績から読み取る事はできないと考える必要がある。

従って竹書紀年から夏王朝期の漢文と五帝代のものを識別したり、春秋時代のものと夏王朝のものを区別したりする事はできないが、宝貝が流通したのは縄文晩期寒冷期迄で、春秋時代の貨幣は楚貝貨に代わった事と、縄文晩期寒冷期は稲作民族にとって動乱期だったから、以下に示す多彩な漢字を生み出す環境があったとは考え難い事から、貝が含まれる多様な漢字文化が生まれた時期は、五帝代を含む縄文後期温暖期だったと考えられる。

宝貝貨が1500年間使われ続けた事が、完成度が高い法規が縄文後期に生まれた事を示し、宝貝を象形した「貝」を含む漢字の多さと、財貨概念の先進性が宝貝貨の多様な使い方を示し、高度な細則条文が作られた事を示しているから、それらの漢字から夏王朝の青州の繁栄を追跡する事ができる。

荊や越が生産していたコメは何年も貯蔵できないから、湖北省時代の荊も浙江省時代の越も、長期的な蓄財概念には乏しかったと想定されるが、宝貝貨の導入によって蓄財概念が発達した事を、多彩な漢字が示している。つまり青州に入植して豊かな稲作民や製塩業者になる以前の、湖北省時代の荊も浙江省時代の越も知らなかった高度な経済用語が、夏王朝期に生まれた漢字には多数含まれている。良渚文化期の玉器も財産ではないかとの指摘があるかもしれないが、それは広隆寺の弥勒菩薩も換金性のある財産だったと言う様なもので、良渚期の製塩業者にとって玉器は権威を装飾する道具であって、財産ではなかったと考える必要がある。

「貝」を含む漢字の一部として、貞、貢、負、責、賀、貸、資、貪、賠、償、賄、賂、賊などを挙げると、これらの余りにも高級な概念は激しい貧富の差が生まれ、社会の腐敗が始まっていた事も示唆し、青州に展開した荊と越の宝貝貨経済は、これらの漢字を使う必要が生まれるまでに高度化した事を示している。

宝貝貨の授受を表現する漢字だけでも、贈、賞、償、賠、賄、賂、貢、貸、遺、貰、買、貿、賃、貼、貽、貺、賕、賖、などがあり、青州の越や荊がそれらの違いを識別していた事になるが、口語を使って意思を伝達するだけであれば、基本的な言葉に簡単な情景描写を付ければ、十分意図は伝わったと思われるものも多い。これらの漢字の夏代の意味は明らかではないが、この様な細かい概念区分を必要とする場は、法律用語しかない事は直感的に分かるだろう。豊富な語彙を持っている現代人でも、日常の金銭授受にこれほど多様な概念は用いないからだ。

現代人はこれらに漢字を重ねて贈与、懸賞、賠償などの熟語を形成しているが、これらの漢字は一つ一つが既に熟語だった。例えば「贈」の場合、旁の「曽」は「甑から蒸気が発散している様子」の象形だから、「その様に宝貝貨を渡す」という合成語になるからだ。つまり当時の人にとっては、現代人が使う熟語が一つの漢字に収まっている様な認識だった。これを漢字の発達史として捉えると、先ずこのような過程で熟語漢字が多数生れ、それによって生まれた漢字が多過ぎて、識別が困難になると共に覚え切れなくなったので、漢字数を減らす為に熟語が生れたと考えられる。

荊が日頃からこの様な言葉を多用していたのであれば、過激なエコノミックアニマルか守銭奴だった事になるが、荊は協調的な習俗によって社会秩序を維持していた民族だから、彼らが日常社会で使った言葉だったとは到底考えられない。貨幣経済が急速に進展すると富裕者の一部に不心得者が生まれたから、越人が主導する法規の形成過程でこの様な概念が生まれたと考える必要がある。

つまり越人が製塩業によって富を蓄積し、荊の貴族がその需要に応える為に奢侈品を開発し、この様な概念を必要とする程に貧富の差が拡大したから、多様な概念を含む法規が必要になったが、荊の民衆にその意味が分からなければ漢字化する意味がなかったから、商工業を大規模化させて豊かになった荊の貴族層も、この様な概念に無縁ではなかった事も示している。

荊や倭には越人が示す法治概念を理解する事が難しく、それを説明する為の条文が長文化したから、それを解説する手間を省く為に意味を細分化した漢字が生れ、それらの漢字の解説は別途行われたのではなかろうか。現代的に言えばそれらは法律家の為の専門用語で、複式簿記、劣後債券、貸借対照表などの様に、解説がなければ意味が分からない単語だったと推測されるが、多数の貝漢字が現代まで遺されている事は、それらが一般化する程に青洲経済が繫栄していた事を示している。

塩などの交易によって富裕になった越人が、破格的な富を入手した事を示し、商工業の隆盛によって金回りが良くなった荊の貴族層も、貧富の差を拡大させて共同体的な社会が破壊された状況も示唆している。「貴」漢字は宝貝貨を多量に持っている事の象形で、それが「貴」の意味に進化した事は、宝貝の使用に関する漢字文化を越人が主導した事を示し、越人にとっての貴賤は富の有無によって規定された事を示し、越人の経済至上主義的な思想を示している。

春秋時代に荊の社会改革を唱えた老子道徳教が、その様な貴族の頂点に立つ指導者と庶民の乖離を、以下の様に記している事がこの事情を鮮明にしている。

「最高の支配者(資産家)は、人民はその存在を知っているだけである。その次には、人民は親しんで誉め称える。その次には、人民は畏れる。その次には、人民は馬鹿にする。」

貝漢字だけを見ると、漢字文化は越人が主導したと感じるが、荊は樹木や草木の名称に多様な漢字を生み出し、社会秩序の根幹となる「役」漢字も生み出し、倭は海洋や天文に関する学術的な名称に多様な漢字を生み出し、東西南北などの抽象概念を漢字化したから、貝を含む漢字によって漢字文化を検証する事は、漢字文化が成立した時期と背景事情を特定する教材であって、それ以上のものではないと認識する必要がある。その2で示した様に、越人が夏王朝のだった時代は数代で終わり、荊の指導者が華北夏王朝のになったからだ。但し越人の法治主義が如何なるものだったのかを、推測する教材ではある。

越人が夏王朝のだった時代が数代で終わった主要な理由は、荊の居住地だった青州と淮夷の居住域だった淮(山東)を隔てていた海が埋まり、アワ栽培者との武力的な摩擦が増加すると、それに対抗する為には荊の武力が必要になったから、華北夏王朝の指導者が荊に代わったと解釈する事もできるが、越人の過剰な法規意識や財貨主義に辟易した荊が、自分達の指導者は荊の文化を理解する必要があると考えた事も否定できない。

法治に厳格になれば民族意識が希薄になり、荊の社会が維持していた倫理観との軋轢も生まれ、富裕になった越人が金銭でトラブルを解決する様になり、淮夷に対しても妥協的な態度を示した事が、却って淮夷の暴力性を誘発する結果になった事も挙げられるからだ。それらの苦境を打破する為には、信義に敏感な荊の指導者が民族主義を発揮し、淮夷に強硬な態度を示す事により、一時的に武力紛争が頻発してもそれが最良の手段だった事情は十分あり得るし、融和策を提案して横槍を入れる越人に反発する事もあり得るし、これは現代に至る歴史の法則だからだ。

これを現下の事情に例えると、尖閣に侵略的な態度を示しながら核ミサイルを増やしている中国に対し、国民の多くは不信感を持っているが、経済界が融和策を連呼している事情と類似し、越人が淮夷の酋長に渡す賄賂は、彼らに販売する塩や陶器の量と比較すれば大した散財ではないから、財貨で融和する方が賢明だと主張したのであれば、更に分かり易い歴史になる。

いずれにしても夏王朝に参加する集団が増加し、同盟下の諸民族を律する法規を制定する際には、各民族の代表が熟議する必要があり、一旦決まればそれを普及させる必要があったから、決まった法規を記録する文字が必要になる事は必然的な流れだった。曖昧な妥協を繰り返すと民族間の紛争に発展する恐れがあり、話し合いで何が決まったのか厳格に記録して置かなければ、解釈の違いによる紛糾も多発したから、上記の宝貝貨に関する多数の漢字も、その様な法規意識から生まれたと考えれば分かり易い。

法規を伝達する対象者の最大多数は荊の民衆だったから、荊の民衆に法規を読み聞かせ、紛糾すればその法規を参照させる為に、法規の条文は荊の言語で表現する必要があった。夏王朝に参加した多数の民族は、越が生産した塩の需要者ではあったが、それらの民族では交易者だけが漢字文を理解できれば良く、その民族の一般住民には必要がないものだったから、法規の条文が荊の言語であるか越の言語であるのかは問題にならなかった。

その様な交易者が扱う塩以外の多彩な商品は、高度に産業社会化した荊の物産が殆どで、宝貝貨を得る為にはそれに匹敵する独自の物産を提案する必要があり、産業社会の共通言語は荊の言語になる必要があった。夏王朝の議論に参集した諸民族の交易者は、荊の多彩な商品とそれらに類似した各民族の特産品を扱う為の、交易者を養成する場になるメリットもあったからだ。

夏王朝の法規が適用される範囲は、民族間交易を行う交易者に限られ、それを知っている者だけが独占的な交易者になる事ができたから、各地に交易的な政権が生れる事が促進される利益もあり、法規を荊の言葉で表現する事に抵抗はなかったと推測される。

従って荊や越は使わない概念であっても、周辺民族が使っていた概念があれば、漢字として制定した可能性もある。貝に纏わる漢字の非常識的な多様性は、必ずしも荊や越が全ての概念の使用者だったからではなく、民族毎に異なる習俗に対応したものだった可能性もあり、漢字の多様性は夏王朝に参加した民族の数の多さを示しているのであって、富裕な越人であっても此処まで多様な認識は必要なかった可能性もあるが、法治主義者だった越人の性質を示している事情は変わらない。

漢字を生み出す法則的な手順が生れると、自然界のあらゆる事象の為に漢字を創作し、それを標準化する必要があったが、権力機構が標準化を推進しない限り、多様な漢字が意味を共有しながら拡散する事はないから、夏王朝が弱体化した縄文晩期寒冷期に、漢字文化が進化したとは考え難く、漢字の複雑な概念が一斉に生まれた筈はないから、頻繁に法規が追加されたり書き換えられたりした事が、漢字の発展を促したと考えられ、夏王朝期の青州でその様な場が生まれたと考えられる。

漢字文化は夏王朝期に萌芽したのではなく、五帝時代に生まれて夏王朝期に完成度を高めたと考えられるが、漢字の基本字体と意味が確定すると、夏王朝の帝で承認される機会が乏しかった動乱期であっても、簡略化や熟語形成は起こり得る事だった。

 

6-3-5 漢字の進化に重要な役割を果たした民族

夏王朝が扱う法規は、各民族の慣習法的な倫理観に抵触するものではなく、夏王朝への参加者に対する服務規程、宝貝貨の使用やそれを使った交易に関する規定、民族間の紛争の調停規定などの、既存民族の習俗には触れない国際法に限定する必要があり、それに対する合意が形成される事により、夏王朝の法規が機能したと考えられる。逆に言えば法規がそれに限定されなければ、広域的な夏王朝が成立する要件は満たされなかった。史記には色々な誤魔化しがあるが、夏王朝の版図が九州に及んだ事は隠せなかったから、漢書もそれを踏襲せざるを得ず、ある程度の潤色はあっても領域を狭める事ができなかったから、領域に関する矛盾を孕んだ史記が生れたと考えられる。

王朝史観に毒されると、「王朝が生まれる前に未開人だった人々が、王朝の成立と共に文明化した」という嘘から脱却できないが、古代人の知恵を正統に評価できる歴史家であれば、4500年前のこの行為に科学的な知識は必要なく、現状を正しく認識できる知恵さえあれば良かった事を理解し、上記の論証を肯定的に捉える事ができるだろう。

但し広範囲に拡散した漢字文化が生まれる前提として、民族毎に交易者を統制するシステムが確立している必要があった。荊と越と海洋民族の社会では、貴族階級が政権を支えていたが、更にその上位者が存在する寡頭制により、民族や部族の意思決定機関として機能している必要があった。その状態に最も早く至ったのは、大規模な灌漑工事を行っていた荊だったと考えられ、縄文後期の荊の組織はかなり秩序立っていたと考えられる。越人も良渚文化の段階で製塩業者の統制力が高まり、縄文後期の中頃には地域集団の統括者が生れていたから、その2で示した様に虞事を代行した五帝時代末期に、製塩業者全体の統合的な支配権が確立したと考えられる。

関東部族の北方派は、1万年前にシベリアの狩猟民族との弓矢交易を企画し、縄文人にその製作を依頼する事により、縄文人を巻き込む統制的な交易を実現していた。南方派は9千年前に台湾からmt-B4を招致し、7千年前には組織的に湖北省に塩を運び上げていたから、荊と比較しても統制権者の確立は遅くはなかったが、荊の様な上意下達的なものではなく、代表者が話し合いで意思決定した事を魏志倭人伝や隋書が示している。

(1)魏志倭人伝の項で指摘した「大夫」が一般貴族の上位者に相当し、夏王朝期には既にその職位が存在していた事を陳寿が指摘し、海洋民族の社会では皆が話し合って政務を仕切っていた事を、魏志倭人伝と隋書が示している。

 

6-3-6 漢字が普及した時期は縄文後期だった事を、文献から検証する。

夏王朝に参加した各民族の統治は、各民族の固有の法規に委ねられ、夏王朝が定めた法規はそれに優先する国際法だったから、夏王朝に参加した各民族が自決権を維持できた事が、多数の民族が夏王朝に参集した理由だったと考えられるが、荊と製塩業者にとっては河北夏王朝の法規が青州の法だったから、夏王朝と華北夏王朝は別の統治実態だった。

それを前提にすると、竹書紀年は華北夏王朝の朝議録の抜粋だから、夏王朝の統治範囲は九州に拡大したが、殷・周王朝期の支配領域は華北に限定されていたと、多数の史書が記している事に矛盾はなく、それが歴史の実態だった証拠になる。

またその2で説明した様に、帝禹と次世代のは夏王朝の帝であり后である分かり難い立場で、少康が青洲を代表する后になって夏王朝の帝ではなくなり、それによって多数の民族が夏王朝に参加できる様になったと考えると、竹書紀年はその事情を暗示している史書になり、竹書紀年を含めた史書の矛盾は氷解する。

つまり夏王朝は参加型の王朝だったから、統治実態を有する多数の民族が参加できたが、華北夏王朝は青州に入植した荊と越の統治者で、竹書紀年は一貫して華北夏王朝の歴史だけを記しているから、夏王朝が九州を支配した実態が分からない。その様な歴史観を遺した周は、並行的に実在した夏王朝と敵対したから、少康が青洲を代表する后になって夏王朝の帝ではなくなった歴史を秘匿する必要があり、それに即した竹書紀年が生れた事が理解できれば、史書の矛盾は氷解する。

殷周王朝を含む華北王朝は、武力による征服王朝だったから、夏王朝と対立した周には自身の政権を正当化する必要性があり、それに応える周王朝の歴史を編纂した筈だがそれは失われ、そのダイジェスト版である竹書紀年が遺されているが、竹書紀年が禹に関わる歴史を正確に追記している事は、帝舜~夏王朝期に漢字が存在した事を示している。

法治主義者だった周が、王朝統治の正当性を歴史的な事象に求めたから、竹書紀年が編纂された周代の末期まで、その様な法治思想が維持されたが、それに無理があると分かると歴史を意図的に編纂した。但しその手法は事実の隠蔽であって捏造ではなかった事を、竹書紀年が示す禹に纏わる歴史が示している。しかしその形式だけを模倣した漢王朝は、歴史の捏造によって殷王朝を正当化し、歴史を創作して稲作文化を抹消したが、夏王朝の版図が広かった理由の説明は失敗している。論理的な検証によってそれが明らかになるが、王朝史観に毒されている人は論理的な思考ができないからそれに気付かない。

非中国語圏で唯一残っている漢字文化の国である日本の、漢字文化の利用状況を検証すると、その他の重要な証拠が浮上する。

 

6-3-6 漢文の標準化

日本人は漢字の起源には関心が高いが、日本語とは異なる文法を持つ漢字文には関心が薄く、最近は高校でも漢文を教えない。日本の教育機関が示す漢文は、唐代以降の漢詩が多い事もその理由として挙げられる。六朝から唐にかけて流行した漢文は四六駢儷体と呼ばれ、中華民族の民族言語になった文体だから、国際標準語としての漢文ではないのだが、日本の漢学者はその様なものを漢文と呼び、古事記にも使われた本来の漢文を「変体漢文」と呼ぶ、極めて異常な認識を持っている人達だから、日本人に漢文を習得させる意義も失っている。

つまり漢字は中国人が発明したとする、中世以降の王朝のプロパガンダをそのまま継承しているから、日本人にとって漢文は単なる外国語になり、英語の様に学習する価値もない実用性皆無の言語になる。しかし日本語で記された古典を習う様に古代漢文を習得すれば、古代史を学ぶ基礎知識になり、魏志倭人伝と古事記がその教材に相応しい。

漢字文は日本語などのシベリア系SOV言語とは異なるが、日本人は「読み下し」技法を用いる事により、漢文を日本語として読む事ができる。平安時代の貴族はその技法を意識して日記を記したから、漢文を日本語として読む事もできたが、習熟すれば呉音で読んで文意を理解でき、更に習熟すれば漢文で文章を作成する事ができた。漢文に慣れた人は日本語を介さずに文章を交換できたが、漢文は表現力が乏しかったから、やがて漢字カナ交じり文が多用された。漢字カナ交じり文が生れても、王朝貴族や仏教界が漢文を使い続けたのは、朝鮮半島の例が示す様に、特権階級の文章であるとの意識があったからだと推測され、日本の仏教の在り方を示している。

交易者だった倭人の標準的な日本語表記能力は、王朝期の貴族と同じだったから、日本語話者であってもトルコ語話者であっても、文法を理解して自言語との対応を法則化すれば、自国語で読み書きができただけではなく、漢文の作成に慣れた人が標準音で漢文を読めば、それだけで国際語になった。つまり頭の中でその文章を構成し、それを標準音で読む事が国際語を使った会話になった。日本人が英語を学習する場合、文法を意識し過ぎているとの指摘は、日本人の素養だった漢文の学習方法が、英語の学習にも適用されたからである疑いが濃い。

その様な漢字の便利さを享受する為には、個々の漢字の発音の共通化が必須だから、それを理解していた平安時代の貴族は、共通化されていた呉音に拘ったと考えられる。奈良朝がそれを漢音に変えろと指示した事は、国際標準を変えろと言った事になり、唐の文化を取り入れたかった奈良朝の基本姿勢だったが、征服王朝だった唐の音を標準音にする事は、恰も唐王朝に征服された民族であるかのような状態になる事を意味したから、倭人の歴史を知っていた平安貴族はその様な発想に抵抗し、呉音に拘り続けた事になる。シベリア文化の掟として、他民族や他部族の地に入植するとその部族の言語を使う慣習があり、満州族が宋代に生まれたのは、シベリアのトルコ語話者やモンゴル語話者が満州に入植すると、ツングースの縄張りに入植した人々としてツングース語話者になったからだと推測され、平安貴族にもその意識は濃厚にあったと推測されるからだ。呉音は縄文後期後葉の荊の音だから、その2千年後の華南の稲作者が、呉音を使っていたとは考え難いが、日本人が律義に呉音と漢音を区別したのは、その様な背景があったからだと考えられる。

法規は参加した民族の合議によって決められ、合議の席では共通音が使われたから、各民族はそれを頭の中で翻訳しながら、会話空間に参加したと想定される。それが呉音だったと推測する根拠は、日本に「呉音」と呼ばれる音が残っているだけではなく、青州にいた荊が呉を形成したからだ。

竹書紀年は呉に関する記述を一貫して忌避し、呉が滅亡した事は嬉々として記しているので、呉に関する竹書紀年の記述はそれを前提として読む必要がある。その様な竹書紀年が記す荊は、湖北省や揚子江下流域の稲作者で、揚子江下流域の政権について記さねばならない場合には、荊と記して呉の存在を無視している。

竹書紀年は青州の住民を荊であると記していないから、彼らの民族名は呉だったのか荊だったのか、竹書紀年から読み取る事はできないが、青州時代の荊も呉と呼ばれていたから、呉音は夏王朝の正式な音だったと考える事が合理的な解釈なる。つまり縄文後期の呼称としては、沿海部に移住した荊を呉と呼び、湖北省に残った荊は楚と呼ばれたと推測されるが、その2で示した様に湖北省の荊の殆どは一旦青州に移住し、夏王朝が成立してから湖北省に再入植したが、竹書紀年はその様な人々を荊と記しているから、政権が成立する前の民族名として、或いは再入植した湖北省の稲作民族の俗称として、華北夏王朝の滅亡期に洛陽盆地で殷人に抵抗した勢力をと記したと考えられる。

倭の呼称は関東部族が縄文中期の湖北省で、自分達を「わ=我」と呼んだからだと考えられるから、それと対になる荊の言葉は「ご=吾」だったと想定され、それが「ご=吾=呉」だったと推測されるが、話はその様に単純なものではない。日本語の「呉=くれ」は、故郷である湖北省から移住した人々であると、関東部族が認識していた事を示唆しているから、元々は「荊=くれ」だったが青洲に移住した人々が「呉」を名乗ると、関東部族が「呉=くれ」と認識した事になり、荊にとって元々は「荊=ご」だったが、青洲では「呉=ご」になり、認識に混乱があった事を示唆している。

竹書紀年は周代の湖北省の勢力を「楚」と記し、荊と同じ「いばら」を意味する漢字を採用したのは、夏王朝期に再入植した人々は「荊」ではないと荊が認識していたからで、それを整理すると夏王朝期の認識としては、mt-Fをペアとして温帯ジャポニカを栽培する民族を「荊」、夏王朝期に湖北省に再入植した稲作民の政権を「楚」、沿海部の荊の政権を「呉」と呼んだと推測される。

「楚」や「荊」が意味する「いばら」は、彼らが農地を分割する標識として「いばら」を使っていた事を示唆し、「呉」は仮面をつけて踊り狂う人の象形だから、縄文後期にはこの様なユーモラスな名称を使ったのに蔑称という概念が生れたのは、越人の分派として法治主義を標榜していた越人に、周を起源とする新しい習俗が生れた事を示唆している。法治主義者は自己と他者の関係に敏感になり易く、蔑視は身分格差を助長する文化と表裏一体の関係にあるからだ。

ついでに「倭」について考察すると、隋書では蔑称の様に「俀」を使っている。これも竹書紀年の「荊」の用法に近く、夏王朝期の関東部族の南方派は「俀」だったが、縄文晩期に荊が北方派に「倭」漢字を贈呈したから、「俀」が関東部族の蔑称になったと推測される。「俀」は女性の上に「手」があり、女性が宝貝貨の穴開け作業をした事を示唆し、櫂を漕ぐ重労働を日常としていた漁民にはできない事を、女性が行っていた事を示唆している。工芸品の製作者だった荊の貴族には、極めて奇異に見える現象だったから、荊がこの漢字を関東部族に与えたと推測される。

「倭」は女性の上に「禾=イネ」があり、縄文晩期に温帯ジャポニカの栽培に行き詰った荊の為に、関東からmt-B4が入植したから、それを差配した北方派に荊が贈呈した漢字だったと考えられ、同種の人々である「俀=わ=倭」を前提とした漢字になる。

以上を整理すると、平安時代以降の日本人が厳格に守った呉音は、夏王朝期に創始された漢字の標準音で、国際語として成立する必須要件で、「呉」は夏王朝を形成したパートナーだったから、倭の後継政権であると認識していた平安朝では、呉音を使う事が正当だった。

漢字は殷代には存在した事が実証されているが、殷代の漢字は抽象化が進んでいた事と、トルコ系の言語話者だった殷人は漢文法を提供する民族ではなく、漢字の標準音を提供する民族でもなかったから、縄文後期の青州の呉に漢字音の起源を求める事に合理性がある。

 

6-3-7 倭人と漢字文化

中国から伝来したから「漢字」と呼ばれていると思いがちだが、それは根拠がない誤解に過ぎない。漢王朝が滅んでから千年近く経った平安時代に、「真名(まな)」と呼んで「漢字」とは呼んでいなかったが、鎌倉時代以降に誰かが「漢字」と呼び始め、それが現代まで使われているからだ。

「漢」の名称は漢王朝を起源とし、漢王朝以前に「漢」と呼ばれた民族も政権もなかった。漢字はもっと古い時代からあったから、使用者の起源を表す「ギリシャ文字」や「ローマ字」とは異なり、理由を説明できない名前の付け方になっている。

黄河流域のY-O3アワ栽培民には古代的な民族名がなく、竹書紀年に記された「戎」(未開で政権を持たない民族)が、夏王朝期の漢族を含む雑多な人々の呼称だったと推測される。「漢王朝」名称の起源は王朝の創始者だった劉邦が、秦末の混乱期に項羽から「漢中王」に封じられ、漢王と呼ばれたからで、それ以前に漢と呼ばれた政権や民族はなかった。

殷墟で発掘された甲骨文字は、BC1300年には象形化された漢字が存在していた事を示し、漢王朝が成立する遥か以前に漢字が存在した事を示している。あまり使われなかった漢字が漢王朝期に画期的に整備されたわけでもなく、周代には盛んに使われていたから、ローマ人が使ったローマ字とか、ギリシャ人が使ったギリシャ文字と同様に、「漢字」名称が生まれたのではない。

平安時代には漢字を「真名」(本来の文字)と呼び、仮名(便宜的な文字)と区別していた。「漢字」名称が使われ始めたのは13世紀頃で、その発端は中国の元王朝だったと考えられている。元王朝は13世紀にパスパ文字を標準文字とし、中華圏の伝統的な文字を「漢字」と呼んでそれと区別した。

隋~宋までの中華王朝はすべて征服王朝だったから、元王朝は漢字に名称を与える際に、漢王朝が中華民族の唯一の王朝であると考え、「漢字」と呼んだ可能性はある。漢王朝以前に秦王朝があったが、モンゴル人は秦も征服王朝であると見做した可能性が高いからだ。始皇帝はアーリア人的な風貌だったと言われているから、秦人は青海湖の塩を流通させていたY-Rだった可能性が高いが、それだけが根拠ではない。

それを説明する前に、史記が如何に信用できないものであるのか、再認識する必要がある。

記述内容に偏向性はあるが、記述事項には信憑性がある竹書紀年は、BC290年代以降の事は記していない。それ以前の記事に秦は登場するが、周王朝は諸侯が支配した民族を区分していないから、竹書紀年では秦の民族区分は分からない。

従って秦が中華を征服した経緯を記した史書は史記しかないが、漢王朝成立直前のる記述は特に信憑性が乏しい。

西欧には秦の名称が伝わって英語のChinaになった事が、この問題解く鍵になる。秦は一時期中華を征服したが、その後中華世界から撤退した事情を、ギリシャ人が記したエリュトゥラー海案内記が示しているからだ。これが記された事情は、紅海の交易者が貿易風を使ってインド洋沿岸の交易者になり、AD1世紀頃(後漢代初頭)にギリシャの海洋交易者が、紅海の交易者と一緒にインド洋沿岸を移動した事が背景にある。

エリュトゥラー海案内記に、インダス河口域の交易者は中央アジア東部をSERESと呼び、海路が遠過ぎて行く事ができない華南をSINAI、その都はTHINAIと呼ばれていたと記されている。

翻訳者の村川堅太郎氏は、SERESSilkの語源になった言葉で、シナの西辺で絹の売買を仲介していた人々の名称が、絹の呼称になったと指摘しているが、エリュトゥラー海案内記はSERESを、シナ、トルキスタン、チベットなどを指す地名として使っている。

前漢王朝が海南島を一時征服し、王莽がトンキン湾の北岸から黄支国に使者を送った事は事実だったとしても、前漢王朝や後漢王朝が広東を支配したのかについては疑問があり、漢書地理志も曖昧に、「閩君搖が諸侯の平秦を佐し、漢が興ると復た搖が立って越王に為った。是時に、秦の南海尉の趙佗も亦た自から王になり、国を伝えたが、武帝に至った時に盡く滅し、以って郡と為したと云う。」と記し、これは伝聞であって王朝記録はない事を認めている。つまり前漢の武帝の軍は長沙から桂林を経て海南島の北部を占領し、其処に郡(軍事拠点)を形成したが、広東省は閩君趙佗の子孫が支配する地域だった事を示している。エリュトゥラー海案内記はそれ故に、東南アジアの海洋民族はそれらの地域をSINAIと呼び、その情報がインド洋沿岸にもたらされた事を示している。

エリュトゥラー海案内記が示すAD1世紀の中華は動乱期で、王莽がAD23年に赤眉の乱で殺された事によって前漢王朝が滅び、AD36年に光武帝が後漢を建国したが、長沙から南は土豪が割拠して南進が阻まれていた。それでありながら後漢書には交阯の支配者が帰順したとの記述が唐突にあり、後漢書も記事の信憑性が疑われる。范曄は漢王朝の正当性を訴える為に、漢著地理志との連続性を強調した疑いもあり、利害関係がなかった人物の記録であるエリュトゥラー海案内記の方が、信憑性が高いと言わざるを得ない。中華の史書の信憑性を議論する以前に、殷人の地下組織を祖先とする漢王朝系譜の人々が編纂した史書は、極めて信憑性が低い事を覚悟する必要がある。

エリュトゥラー海案内記が記されたのはその少し前に、貿易風に乗って紅海沿岸からインド南部に至る航路が発見され、紅海の交易者がインド南部で交易する事が出来る様になったからだ。その結果として一部はベンガル湾を北上し、ガンジス川河口域まで至ったが、彼らの交易路はそこが限界だったから支那の事情は鮮明ではない。それについて村川氏は、「(ガンジス川河口域の先)では、ある場所へと外海が尽きると、其処にTHINAIと呼ばれる内陸の大きな都があり、此処からSERESの羊毛と糸と織物がバリュガザ(インド東部の港)へ、<それとは別の経路として>バクトラ(パキスタン)を通じて陸路でも運ばれ、またリミュリケー(インド南部)へとガンジス川を通して運ばれる。このTHIS地方へは容易には到達する事ができない。」と訳している。このバクトラを通しては分り難いが「経由して」と訳すと、THINAIの絹布はSERES のものとして、中央アジア~パキスタン~インダス川河口~バリュガザ(インド北東部の寄港地)に至るか、ガンジス河口を経てリミュリケー(インド南部の寄港地)に至った事になる。

インド南部には豊かな物資が集積し、胡椒と肉桂(シナモン)のために大型の船が使われていると記され、色々な商品が挙げられている中に、多量の優秀な真珠、象牙、絹織物があると記載されているが、訳者である村川氏はインド南部に多量の絹布が存在した事について説明に苦慮している。しかしインドネシアの海洋民族の主要な交易品が、絹布と胡椒だった事を知っていれば、困惑する事はなかっただろう。つまり最も優秀な絹布はインドネシアの海洋民族が、ベンガル湾岸を経て南インドに運んでいたが、中央アジアからインダス川河口に運ばれた絹布にちなんでSilkの名称が付き、それを出荷していた地域の名称がティーナイ(チャイナ)だった事になる。

これが事実で漢書や後漢書の記述が嘘であるとすると、秦の占領軍は漢代になっても広東を占拠していたから、その地域がSINAI と呼ばれ、その都がTHINAIと呼ばれていたと解釈できる。広東の人々の現在の遺伝子の半分は荊のもので、前漢が滅んでから中華世界から広東に移住したとすると、秦の征服時に秦と提携していた荊が秦の残存政権が支配していた広東に移住し、後漢代になっても広東には秦と荊の国が残存していた事は十分あり得るから、エリュトゥラー海案内記の信憑性は高い。

上記の話しが分かり難いのは、エリュトゥラー海案内記にはインドネシアの海洋民族に関する記述がないからだ。

紅海の交易者達がインドネシアの海洋民族の存在を知らなかったのは、漢書王莽伝に、「越裳氏は白雉を献じ、黃支は生きた犀を貢じ、東夷王は大海を度って国珍を奉じた。」と記された事を契機に赤眉の乱が起こり、mt-Fの一部がフリッピンに移住してから間もない時期で、フィリッピン産の絹糸を荊が絹布に加工する生産体制が、秦の中華征服によって破壊されてから十分に回復していなかった事が、一つの原因であると考えられる。

王莽が派遣した使者の報告書が転記された漢書地理志に、(粤の地は)海に近く、犀、象、毒冒(たいまい)、珠璣、銀、銅、果、布を扱う湊が多く、中国から往く商人は多くの富を取る。番禺(ばんぐう;広州の古名)は其の(第)一の都会である。」「其の州(黃支国があった島)は広大で戸数や人口が多く、珍しい物が多い。」「黄支から船行八ヶ月で皮宗に到る。」と記されているから、インドネシアの海洋民族がオリエントと交易していた事は間違いなく、紅海の交易者がそれを知らなかったとすると、インドネシアの海洋民族が紅海沿岸の交易者に対し、自分達の存在を隠していた事になり、話が複雑になるから事情を整理する必要がある。

BC3世紀までは、琅邪を拠点とした越がフィリッピンで生産した絹糸を呉に渡し、呉がそれを上質の絹布に仕上げて越に戻すと、東南アジアの海洋民族がそれをペルシャ湾岸に運んでいたが、BC3世紀に秦がそれを横取りする為に中華を征服し、更に長沙を南下してトンキン湾の北部まで征服したから、上記の秦の南海尉の趙佗が生れたが、その地域に養蚕者も絹糸の生産者もいなかったから、秦は失望して中華世界から撤退したと推測される。

それ以前の秦は、呉が生産した品質が劣る絹糸や、それを使った呉の絹布を販売し、それによって「シルク=秦の絹布」の名称を得ていたが、越が呉に加工させた上質の絹布は東南アジアの海洋民族が出荷していたから、それを横取りする為に中華を征服したと考えられる。つまり秦には中華全土を征服する意図はなかったから、燕、斉、趙の人々は漢が興ると初めて朝鮮半島に逃げ込んだ事を、その2で指摘した。

秦はヴェトナム北部まで南下しても上質の絹糸が得られない事が分かると、中華から撤退して元のSERES の民族に戻ったから、漢代になっても中央アジアを拠点とする交易民族だったとすれば、エリュトゥラー海案内記の記述に繋がる。

また紅海沿岸の交易者やアラビア海沿岸の交易者が、絹布を出荷しているのはTHINAI(秦)であると認識していた事は、前漢が滅亡した時期に至っても、紅海沿岸の交易者は絹布を出荷しているのは秦であると認識していた事になり、秦を名乗る実態は滅亡していなかっただけではなく、中央アジア経由のチャイナ交易を独占していた事になるが、SERES の出荷品の筆頭は高級な毛皮であって、あまり高級ではない絹糸も付録の様に記されている。つまり荊が生産した質の良くない絹糸を相変わらず出荷していたが、上質の絹糸の獲得には失敗した事を示している。

以上の事実は、紅海の商人が貿易風を使ってインド洋交易を始めたのは、秦の中華世界征服によってインド洋交易から高級絹布が失われ、ペルシャ湾沿岸の商人がそれを入手できなくなった事を契機に、紅海の商人に商機が生れたからである事を示唆している。従って秦は中央アジアのY-R集団名の音訳で、漢王朝が成立しても秦は中央アジアで存続し、その名称が西ユーラシアのチャイナ呼称やシルク名称の起源になったと考えられる。インド洋沿岸に商品を出荷していた東南アジアの海洋民族は、ペルシャ湾岸の国々と交易を行い、インダス川の河口から出荷された低品質の絹布を交易品としては扱わなかったから、質の良い絹布はペルシャ湾岸の交易港に出荷され、質の低い秦の絹布が紅海を経由して欧州に流入し、それを入手していた西欧人は絹布と秦を結び付けたと考えられる。中央アジアの秦は陸路で黒海沿岸に絹布を輸送していたから、それによってSilkとチャイナの名称が生れた可能性もあり、険しい山岳地を越えてインダス川河口に至るものより、多くの絹布が黒海沿岸に運ばれていた可能性もある。

秦が中華を征服して琅邪から越人を追放すると、インドネシアの海洋民族は高級絹布を出荷する事ができなくなり、ペルシャ湾岸の交易者はローマ帝国の版図に絹布を出荷する事ができなくなったから、その理由を曲解した紅海の交易者が貿易風を使ってインド交易に進出したが、彼らが得る事が出来たのは秦が中華世界から奪い取った数年分の在庫だけで、やがて呉が生産した質の悪い絹布を、インダス川の河口で入手する事になったと推測される。つまりBC3世紀以前にペルシャの商人が扱っていた絹布はシルクとは呼ばれていなかったが、その入荷が途絶えて紅海経由で呉の低品質品が入荷する状態になると、紅海の商人の取扱量が実質的に増え、西欧への流入量も増えたからシルク呼称が定着したと推測される。

その理由として、BC3世紀のインド洋交易に供された高級絹布は、フィリッピン・台湾・日本で生産された絹糸を使ったもので、織布の中心地が日本に変わったから関東部族や伊予部族が異様な好景気に沸き、俀の船がインド洋に出向いたがペルシャ湾は遠かったので、インドを介した紅海の商人との間接交易が成立した可能性がある。

魏志倭人伝に次の様に記されているからだ。

「蚕桑して緝績し、細紵と縑緜(高級な絹布)を出す(出荷している)」

「(台与が魏に)白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。」 

異文は見た事もない模様を意味し、雑錦は色々な色の糸で織られた錦を指すが、その模様は西ユーラシアの人々が好む模様で、中華には出荷しない高級な錦だった事がその証拠になる。

それであっても紅海の商人経由であれば、欧州では同じ名称が使われ、その機縁を作った秦の名称が残ったと推測される。

インドネシアの海洋民族は、それらの産地を一々明らかにはしなかった事と、西欧人はインド洋と地中海を同様の面積の海であると見做していたから、ペルシャの商人が長い陸路を使うSERES が産地であると喧伝し、絹布の価値を釣り上げた事により、絹布の名称がSilkになり、絹布の産地はTHINAI(秦)であると認識された可能性もある。

いずれにしても以上の結論として、漢帝国が成立しても秦(チャイナ)は中央アジアで存続し、最終的に滅んだのはチベット系のタングートが中央アジアに北上した唐代か、トルコ系農耕民族の南下によって少数民族になった宋代~元代だったと推測され、ソグド人との関係を検証すべき人達になる。また中華にとって秦王朝は異民族の征服王朝だった事になり、中央アジアを征服したモンゴル人はその経緯を知っていた可能が高い。

従って元王朝期のモンゴル人は秦を征服王朝と見做し、「漢字」名称を「漢王朝」から派生させた可能性もあるが、中華には王朝名を民族名とする慣例はないから、これだけでは元王朝が「漢字」名称を採用した事に違和感がある。

モンゴル系の契丹人が内モンゴルに遼(9161125年)を建国し、漢字に類似した契丹文字を創作したから、宋代にそれと区別する事も意識し、騎馬民族の総意として中華の文字を「漢字」と呼び始めた可能性がある。遼は同じ民族系譜のモンゴル人に文化的な影響を与えたから、契丹人が漢民族の名称を使った事が、「漢字」呼称の起源である可能性もあり、その場合の「漢字」は蔑称だった。契丹人は漢字が漢民族の民族文字になって汎用性が失われた事を嫌い、漢字に似た独自の文字を生み出したからだ。

契丹文字の誕生から100年ほど遅れ、漢字に類似した西夏文字も生まれた。「西夏」と呼ぶのは歴史家が夏王朝と区別する為で、王朝の創始者だったチベット族はこの政権を「夏」と呼んだ。二つの民族がほぼ同時期に漢字に似た独自の文字を制定したのは、モンゴル帝国が生まれる100年ほど前だから、元が「漢字」と呼んだ理由を推測する参考資料になる。特に西夏が漢字を生み出した夏王朝と同じ名を名乗り、新たな漢字文化を生み出した事は、漢字の起源事情を知っていた事を示し、夏王朝に参加した民族だった事を示唆している。明代まで宝貝貨を使っていた雲南はチベットに隣接する地域で、同時期に生まれた大理国がチベット人の国であった事も、その傍証になるだろう。

漢字は字数が多く覚えるのが大変だから、共通語としてのメリットがなくなると、使い易い民族文字に変えたものが上記の文字だったと推測される。メリットが失われた理由は、漢族には交易者として必要な認識が皆無だったから、漢字・漢文を漢族の民族言語化し、多数の方言が生まれる状況を放置したからだと考えられる。それによって標準語としての機能が失われただけではなく、標準語としての漢字文化に干渉したからだと推測される。つまり騎馬民族の征服王朝だった唐までは、中華の官僚も他民族に対して標準語を使用したが、唐が滅亡して交易者ではない農耕民族の宋王朝が生れると、宋の音や用法が正しい漢字の用法であると主張し始めたから、周辺の中小民族が標準語としての漢字・漢文を失った事を、契丹文字や西夏文字が示している。その様な宋の態度に怒った満州族の金が、北宋を滅ぼしてしまったと考える事もできるが、いずれにしてもこの時期に標準語として漢字を使う文化圏が消滅した事を、契丹文字や西夏文字が示している。

中華が東アジア最大の文明地帯で、周辺には蛮族が住んでいたとの誤った認識に拘っている限り、これらの事情は読み解けないが、実際は黄河流域が文明の谷間だった事が分かれば、交易性が全くない漢族には共通言語の利便性が理解できず、方言化した漢文を自分達の民族言語であるかの様に喧伝した事により、周囲の文明的な民族が以後はその様な漢字を使わないと決めた事が理解できる。宋はシベリア系トルコ民族の王朝だったが、農耕民族であったが故に対外交易の重要性が理解できず、中華圏の閉鎖的な経済活動に終始し、漢族の夜郎自大な言動を規制しなかったからだと推測される。

北宋は960年に始まり、1004年に遼が南下すると、遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦(澶淵の盟)した。同時期に西の西夏が宋に反旗を翻すと、1044年に財貨を贈ることで和睦した(慶暦の和約)事が上記の事情を示唆し、宋の基本姿勢が越人的な経済至上主義だった事を示している。つまりこの様な政権は、経済力で対外的な緊張を緩和する反面、内政では経済至上主義に走って貧富の格差を拡大し、政権を支える人々の倫理観を劣化させたから、彼らの王朝への帰属意識が弱体化し、国際的な緊張関係の中で妥協を繰り返しながら、領土を縮小させていったと見る事もできる。水滸伝はその様な宋の世相を、端的に示している。

契丹人やチベット人も唐代まで漢字を使っていたから、その連想から漢字に似た文字体系を作成したが、元王朝を創建したモンゴル人は元々漢字を使っていなかったから、表記が簡便な表音文字であるパスパ文字を使ったと考える必要がある。契丹人やチベット人もその存在は知っていた筈だから、彼らは改めて文字の標準化を提案した事になるが、契丹人の遼が満州族の金と敵対関係になり、新漢字文化圏の統合は実現しなかった。

契丹人の居住域と隣接していた高麗(9181392年)は、河北省から朝鮮半島に流入した漢族の王朝だった。その様な高麗が編纂した三国史記(1145年完成)に、好太王碑文(4世紀末)に阿利水と記された川が、漢族の地を流れる川を意味する漢江と記されている事は、現代韓国人の半数は漢族系遺伝子で、高句麗滅亡後に漢族が河北から朝鮮半島に流入した事を示している事と併せて考えると、高麗王朝を建国したのは華北から流入した漢族で、その漢族が自分達を漢民族であると自認していた事になる。つまり華北の漢族の自称として宋代に「漢民族」呼称が生まれ、朝鮮半島に移住して濊や高句麗人のトルコ語に同化した人々にも支持される、言語を越えた祖先伝承によって生まれた大規模な民族運動に発展していた事を示している。

これは華北の人々には標準言語がなく、漢字・漢文によって意思疎通する事によって共通語化し、現代人の常識とは掛け離れた標準語になっていた事を示している。

朝鮮半島の漢族の起源を検証すると、晋書は高句麗が隆盛になる以前の楽浪の中華の民は、8600戸しかなかったと記している。しかし現在の韓国人の遺伝子は4割程度が漢族系だから、高句麗が滅んだ唐代以降に漢族が朝鮮半島に流入し、祖先伝承によって自分達は漢民族であると自認していた事になる。これは高麗を建国した人々だけが自分達を漢民族と呼んでいたのではなく、華北のアワ栽培者を起源とする人達が、宋代に「漢民族」を名乗っていた事を示している。

契丹人は高麗と境界を接する様になると、高麗を属国視したから、契丹人を含むモンゴル人やチベット人は、漢民族と称する農耕民族が使っていた文字を、「漢字」と呼んで蔑称した可能性が高い。漢字を尊重する気があれば「夏字」とするべきだが、それは分かっていながら敢えて「漢字」と呼んだのは、交易者の共通語を民族言語にしてしまった交易性に乏しい人々を、世間知らずであると蔑視する為に、漢族が使っていた民族文字を「漢字」と呼び、彼らの民族言語を卑しめたからだと考えられる。元王朝が「漢字」呼称を採用した背景には、その様な認識もあったと考えられる。

王朝期の日本人が「漢字」を真名と呼んだのは、東アジアの標準文字であると認識していたからだが、平安時代後半にはその状態が崩壊していた事を、契丹文字や西夏文字の誕生が示している。王朝制度の手本とした唐は平安時代の初頭に滅亡したが、宋王朝が生まれてより進化した王朝制を作り上げ、経済活動を活発化させていたから、政権を握っていた王朝貴族がそれに安堵し、事実を認識する余裕を維持しながら漢字を真名と呼んでいたと想定される。

しかし武士に政権を奪われた鎌倉時代以降の王朝貴族は、武家政権が滅んで王朝が復活する事を願い、嘘を吐いても権力を奪還したかったから、大陸から輸入した王朝制度を称賛する為に、大陸文化の優秀性を誇示する必要に迫られ、「漢字は大陸で発明されて王朝文化と共に日本にもたらされた」とするプロパガンダを生み出し、「漢字」名称を広めたと考えられる。つまり漢字は自分達の祖先が発明した文化であるとの誇りを棄て、日本は優秀な大陸文化を輸入する事によって文明国になったのだから、大陸から輸入した王朝文化も尊重するべきであるとする、現代日本まで引き継ぐ嘘の歴史を創作して拡散した事になる。漢文、漢籍、漢方薬などの派生語も、「漢字」呼称の普及と共に13世紀以降に創作し、京の貴族が広めたと考えられる。

権力闘争は王朝貴族の本質だから、本性を露呈したとも言えるが、漢文・漢字が大陸で標準語としての地位を失ったから、「真名」と呼ぶ必要も失われたとの認識が普及した事も、「漢字」名称に変わる契機になったと推測される。この頃から男性が仮名交じり文を書き始め、方丈記や徒然草などが生まれた事も、この意識の複合的な波及効果ではなかろうか。

この様なすり替えが完璧に行われ、現代人も「漢字」名称に違和感を持たないのは、倭人時代から「漢音」という分類があり、その連想から「漢字」名称も妥当であると錯覚したからだと推測される。

 

6-3-8 呉音と漢音

春秋戦国時代の倭人は呉音を標準音としていたから、江戸時代までの日本人も漢字を呉音で読んだが、明治以降の翻訳語に漢音が使われたから、現代人は漢音の方が文化的で呉音は古臭いと見做している。この事情も漢字呼称を日本に定着させる、契機になった可能性がある。呉音は江戸時代には、東ユーラシアの標準音ではなくなっていたが、日本人が律義に呉音と漢音を区別し、呉音を正統な音として使ったのは、奈良時代に漢音が使われた事への反発が平安時代に生まれ、その感性が維持されていた事を示しているからだ。

奈良朝が漢音を奨励したのは、王朝制度を模倣した唐の音として、天皇が使用を強制したからでもあるが、西日本の倭人諸国の毛皮交易が、弥生温暖期が終了した漢代に活性化し、武庫川系邪馬台国人の標準語は漢音になっていたから、その文化を強調する為でもあったと考えられる。

唐音と呼ばれる音が殆ど存在しないのは、唐王朝の高官の音の殆どは、漢音と同じだったからだと考えられる。多少は違っていただろうが、王朝期の日本人には違いが分からなかったから、唐音として区別しなかったと考えられる。

奈良朝の終焉と共に呉音が復活したのは、当時の日本人は華北を野蛮な地域と見做し、官僚以外の人々は、漢音を使わせたかった天皇の指示に従順ではなかったから、呉音を使い続けていた人が多かったからだと推測されるが、他にも重要な理由があった。

平安朝では「大夫」を呉音で「だいぶ」と発音すると高官を意味し、漢音の「たいふ」は「五位」と呼ばれた、下級官僚を意味する様になったからだ。それは現代にも引き継がれ、宮内庁東宮職(とうぐうしき)の長である「東宮大夫」は、「とうぐうだいぶ」と呉音で発音するが、「たいふ」は「たゆう」と共に卑しい身分に使われる。

平安朝の貴族が漢音を卑しんだのは、華北の音だったからではなく、奈良朝の官僚が使った音だったからだと推測される。つまり平安朝の人々の認識では、「奈良朝の官僚は女性達の陰の力に対抗できず、平安朝の「五位」程度の下級役人の様に、政策決定権がない役職者だった」と見做していたからだ。その認識を裏返すと、平安朝の高級官僚(大夫=だいぶ)は倭人時代の様な決定権を行使し、本当の政治を行っているとの誇りがあり、それは甕星系譜の天皇が皇位を継承しているからだとする、天皇への忠誠心を示す表現でもあった。それ故に公の場で呉音を使ったから、呉音が権威ある者達の標準音になり、その習俗が江戸時代まで続いたから、呉音と漢音を峻別する認識も継続したと推測される。

平安朝には倭人時代の様に大夫が参集する会合があり、それに決定権が集中していたから、中華に倣って制定した官僚組織には実際の政治を動かす力がなかった事も、この呼称の使い分けが示唆している。倭奈良朝が導入した王朝統治を継承してはいたが、倭人時代の精神に戻った事を認識していたから、日本では王朝期から江戸時代が終わるまで、中央政権では官僚による統治は行われなかった事を示唆している。鎌倉時代以降に王朝の役職を勝手に名乗る風習が生れ、駿河守とか上総介とかの名称が統治実態とは無関係に使われたのは、その為であると考えられる。

殆どの漢字に漢音と呉音があるのは、呉音は縄文後期から夏王朝の標準音であったのに対し、華北の支配者になった周は夏王朝と敵対し、呉音を標準音として使う意思がなかった事が、呉音と漢音の2系統の音が生まれた根源的な理由であると推測され、周王朝の統治がどの様なものだったのか示唆している。

漢音は漢書地理志に記された様に、倭人が歳時を以て渡航し、漢王朝の官僚になる様な富裕な土豪達に献見する際に使った、漢王朝の標準音だったと考えられ、これは漢王朝の都だった長安や洛陽の音だったと考えられる。遣唐使が多数派遣されたのに唐音が殆どない事は、唐代(AD700年~)になっても漢代(BC200AD200年)から大きく変わった音は僅かしかなかった事になり、西安を都にした唐王朝も周代から続く陝西方言を使い、その音の起源は周であったからだと考えられる。その音には殷人の音も混入していた可能性もあるが、陝西~洛陽は周、漢、隋・唐などの歴代王朝の都があった地域だから、それが漢民族の標準音になったが、それは夏王朝が定めた標準音ではなかっただけではなく、呉音と漢音では漢字の意味が全く異なるものが多数あるから、標準語にはなり得ないものだった事が分かる。

華北のアワ栽培者が、漢字文化は自分達の祖先が形成したものだと錯覚し、それを世間に宣伝する事情を生んだのは、華北の人々の言語に統一性がなかったから、漢字を共通語としたからではあるが、歴史を知らないにも程があると言わざるを得ないが、それに便乗して日本人に「漢字」呼称を普及させた鎌倉時代の王朝貴族は、更に唾棄すべき存在だったと言わざるを得ない。本来の呼称は、「夏字」であるべきだからだ。

平安時代に呉音が標準化された事は、華北を交易相手としていなかった関東や伊予部族の人々が、呉音を使っていたからだとも推測される。それには藤原氏が大きな役割割を果たした筈だから、平安時代の王朝文化には、関東文化の大きな影響があった事を示唆しているが、伊予部族の文章力がその背後にあった可能性が高い。紀貫之が土佐日記を記した事は、その背後に先進的な伊予部族の文章力があった事を示唆しているからだ。奈良時代に部族主義が復活したから、平安朝は再び中央集権制を標榜する必要があったが、それによって部族認識が完全に解消したわけではないから、文化の中心は王朝の都だったという根拠のない先入観を捨てなければ、平安時代以降の日本史は解釈できない。内陸を都にした平安朝は稲作地の処分に関する統治を行っただけで、海運を活用した交易活動に干渉する力はなく、伊予部族、関東部族、対馬部族海洋漁民は王朝の統制外で経済活動を行ったからでもある。

 

6-3-9 漢字文化の波及範囲

フィリッピン越は台湾起源の海洋民族と共にインド洋交易に注力し、東アジアでの交易を軽視していたから、越の海運部門だった日本越もそれに同調していた。宝貝はフリッピンやインドネシアでも容易に採取できるから、越の領域や交易圏で宝貝が貨幣化する事はなく、製塩業者になった渤海南岸の越だけが、夏王朝期に宝貝貨を使っていたと考えられる。

倫理観が高く視野が狭かった荊がそれを採用した事は、交易者としての視点では異様な事態であり、越全体ではその運営の成否を危ぶんでいたが、荊の倫理観がその流通を支えていたと想定される。

越の小部族に過ぎなかった渤海の製塩業者が漢字文化の発展に寄与しても、それは越の総意ではなく、宝貝貨の使用者は異端児でしかなかったから、後世の越人には漢字を使用する者がいなかった。漢書王莽伝に記された、「越裳氏は訳を重ねて白雉を献じ,黃支は三万里の先から生きた犀を貢ぎ、東夷王は大海を度って国珍を奉じた。」との表現が、その事情を示している。交易者だった黄支東夷には漢字文を使える者がいたが、フィリッピンの越裳氏は東アジアの標準語である漢字を使わなかったから、複数の通訳を介さなければ言葉が通じなかったからだ。

交易者にとって漢字は極めて便利な道具だったから、周囲の異言語民族と交易する者は漢字を使ったが、越裳にとって交渉が必要な他民族は、遠いインド洋沿岸の交易者だったから、漢字を使える者が皆無だった事を示している。黄支にはその様な表現がない事は、海洋交易者として漢字の必要性も認識していた事を示し、越裳の主要な生業は海洋交易ではなく商品の生産だったから、漢字を使える者が皆無だった事を示している。つまり台湾起源の海洋民族とフィリッピン越は、絹布や香辛料を中核商品とするインド洋交易を志向し、越裳はその方面の音素文字には親しんでいたが、漢字には興味がなかった事も示している。

竹書紀年が「(BC468年) 於越が都を瑯琊に徙す。」と記し、杭州湾の製塩業者だった於越が、フィリピン越と北陸部族と交易同盟を結成し、弥生温暖期荊が再び青州に北上したから、於越もそれを追って山東に北上したと考えられる。於越の目的は荊の産業力を利用し、フィリッピンで生産した高級絹糸を、高級絹布に仕上げる事だったと考えられ、弥生温暖期はBC650年頃に始まったから、荊の生産量が北上してから100年後に急拡大し、その100年後に琅邪が絹布を集荷する中核都市になったとすると、時期も整合する。

荊の織布技術が優れていたのは、mt-Fの織布技量が優れていただけではなく、荊の産業力を駆使して製造した、職機が優れていたからだと推測される。海外事情に触れる事を極力避けている古事記も、応神紀に「呉服(くれはとり)」が渡来したと記し、古い時代から呉が高級絹布の産地だった事を示唆しているからだ。また現代人が高級な和服を呉服と呼ぶのも、呉の織布技術が高かった事を示し、この推測には多数の証拠がある。但し荊の工業技術力を担った荊の貴族は、前漢末に東南アジアに移住したから、その後の織布産業の中心地は東南アジアに移転した事も付記して置く必要がある。エリュトゥラー海案内記が記されたのはその様になった後漢代で、インダス川の河口に内陸から運ばれて来た商品は絹糸だった事が、その事情を示しているからでもある。

杭州湾の製塩業者は夏王朝を形成して漢字文化を生み出した人々の子孫だったが、琅邪では漢字を使っていなかった事になり、高級絹布の出荷先がオリエント世界だった事を示している。中華世界は倭人の商圏だったから、彼らには販売権がなかったである可能性もあるが、中華の主要な需要は呉人で、他地域の零細需要は呉の低品質な絹布によって満たされたのではなかろうか。秦がそれを西ユーラシアに出荷していたからだ。

荊が生産する絹糸の品質に課題があったのは、養蚕には海洋性の温和な気候が必要で、気温の寒暖変化が激しい大陸で生産した絹糸は、品質が劣っていたからだと考えられる。後世の状況からその事情を理解する事は難しいが、気候変化に敏感な蚕の特徴が分かれば、難しい話ではない。建築技術が高度化すると、暖房によって蚕室の温度管理が可能になったから、鉄器時代なって木造建築の技術が高まると、養蚕の北上が可能になったが、冷房できる様になったのは近代だから、それ以前には日中の気温が異様に高まる大陸では、生産性が高い養蚕はできなかったからだ。従って日本の木造建築の基礎技術は、養蚕によって進化した可能性があり、大陸にはない耐震建築もその過程で生まれた可能性がある。

弥生温暖期の大陸には呉の人と会話ができる於越がいて、於越が呉の人々に絹布の生産を依頼し、フィリッピンにいた越裳於越を北陸部族(日本越)の船が仲介し、生産した絹布は東南アジアの海洋民族がインド洋に出荷したから、於越の一部の人が漢字を使う事ができれば、越裳と北陸部族には漢字を使える人がいなくても、この生産・交易活動には支障がなかった。しかし北陸部族は海洋民族だったから、漢字を使う事ができる人材は確保していただろう。

上記の王莽伝に戻ると、越裳が前漢王朝に親書を提出する為に日本越が仲介すれば、使者が訳を重ねる必要はなかった筈だが、タガログ語→日本語通訳と、日本語→漢音通訳の二人の日本越がいた事を示唆し、絹布の生産には漢字文化は必要なかった事を示唆している。これは製塩業者の言葉と荊の言葉は、元々Y-Oが使っていた同系の言語だったから、青洲での共生と春秋時代の協業により、会話ができる状態になっていた事を示唆している。呉、楚、巴は元々荊で、粤と蜀は元々越だったから、稲作民族には国際語として漢字を使う必要が薄れていた事も、周が独自の漢字文化を生み出す事情を生み出していた可能性があり、荊の民族文字は漢字である状態も続いたから、彼らの漢文も民族文字として進化した事を、荊の思想書である老子の独特の文体が示している。

春秋時代に山東半島の琅邪を都にした越人も、漢字を使っていなかったと考えられる事が、その事情を示している。彼らが秦によって大陸から追い出された際に、その一部が移住して生まれた弁韓人も、漢字を使っていなかったからだ。(8)隋書の項で指摘したが、新羅の王族になったこの系譜の人々が、南朝の梁に朝貢する際に百済人を通訳にした事が梁書に記され、弁韓人も漢字を知らなかった事を示しているからだ。新旧唐書の新羅伝の冒頭に、「新羅国、本は弁韓之苗裔也」と記し、新羅の王族は弁韓人だったと断定している。新羅を軍事的に支えていたのはシベリア系の白族だったから、倭人は新羅を「しらき=白城」と呼び、その軍事的な発祥地の名称を示し、実質的な支配者が濊だった事を示しているが、新羅の王族は漢字を使わない弁韓人だった。

東夷王は大海を度って国珍を奉じたとの記述は、高官である大夫が朝貢した可能性もあるが、倭国にだけに東夷王との表現が採用された事は、倭国王自身が出向いた事を示唆している。後漢書は倭国王が洛陽に出向いたと記し、倭国王には自身で出向く習俗があった事を示唆しているからだ。これらは弥生温暖期が終わって稲作に行き詰っていた東シナ海沿岸の荊の、東南アジアへの移住許可を得る為だった。

沿海部から遡上する河川流域も倭人の交易圏だったから、四川や雲南の人々も夏王朝に参加して漢字文化圏の人になったが、上記の西夏や遼の事情は内陸のチベット系タングートや、モンゴル系契丹人も、漢字文化圏に属していた事を示している。しかし西のモンゴル人だったチンギスハーンの統治下のモンゴル人は、漢字文化圏に属していなかったからパスパ文字を採用した事になり、鮮卑族としての彼らの起源は明らかではない。

古墳寒冷期のモンゴル系騎馬民族派は、栽培系のトルコ系民族と共に内モンゴルや満州から華北に南下したが、中華の文献は南北朝時代の騎馬民族を鮮卑と一括している。しかし東の鮮卑である慕容部は、縄文晩期に出雲部族と合流した人々と祖先を共有する、シベリア東南部を拠点としたY-C3mt-N9aペアの狩猟民族で、粛慎の満州への南下には応じなかった人々だった。慕容鮮卑が342年に高句麗に侵攻して丸都城を陥落させたのは、彼らが濊と同系の交易者だった事を示し、慕容鮮卑―出雲部族―濊同盟が高句麗と対立する、息慎系の毛皮交易者だった事と整合する。

唐を建国したのは西の拓跋鮮卑で、彼らが多数のトルコ系民族を山西から華北に南下させたから、長安を都とする唐王朝を建国したと考えられ、唐王朝は漢字を使ったが、チンギスハーンを輩出したモンゴル人との民族関係は明らかではない。

チンギスハーンを輩出したモンゴル人は、現在のモンゴル国の人々の祖先系譜であると考えられるが、現在のモンゴル国の人々はY-O3Y-C3の混成民族で、mt-Dmt-Cなどの栽培系の女性をペアとしてmt-N9aは殆どいないから、東洋人的な容貌である事と整合するが、慕容鮮卑は肌の色が白かったとウィキペディアが指摘しているから、Y-C3mt-N9aペアの狩猟民族だったと推測され、日本人にmt-N9a4.6%も含まれている事と整合し、両者は騎馬民族であっても民族系譜は異なったと考えられる。

濊も高句麗も漢字を使う人々だったから、契丹人もその文化圏に属す人として漢字を使ったと推測されるが、契丹人は高句麗と同盟関係にあったから慕容鮮卑の末裔ではない。モンゴル系民族にも多数の部族があって人種構成も複雑で、個々の部族の動向を把握する事はできない。

ヴェトナム人のミトコンドリア遺伝子分布は公開されていないが、42人のサンプリングでmt-D47人でmt-D52人だから、広東に近いD4/D5比率を示し、漢代まで広東の多数派だった粤がヴェトナムに拡散した事を示している。350人ほどのサンプリングでmt-B1/3を占め、mt-B4/B50.8もある一方でmt-F15%程度だから、前漢末の荊の移住は広東ほど多くなく、越人に近い遺伝子構成を示している。インディカの栽培者だったR9R2210%ほど含まれているので、移住した荊や粤にインディカの栽培者が状況はタイ人と類似しているが、タイ人は荊が主体であるのに対してヴェトナム人は荊と粤が半々であると推測される。つまり荊が移住した前漢末期以前は、粤が広東からヴェトナムまで拡散していた事になる。

広東にはmt-B5が殆どいない事が、粤は養蚕を行わなかったから越同盟に参加する状況は生れなかった事を示しているが、焼畑農耕に使う青銅を入手した海洋民族がいた筈だから、それは関東部族だった可能性が高い。タイには元々荊の分派がいたから、同族の地に入植したが、粤の地だった広東やヴェトナムに入植する為には海洋民族の仲介が必要になり、それは俀だった可能性が高いからだ。室町時代に多数の日本人がヴェトナムに入植したのも、その機縁だったとすれば傍証になり、室町時代より古い時代から多数の俀が、広東やヴェトナムの沿海部に居住していた事を示唆している。

彼らは明(1368年~1644年)の海禁政策によって中華大陸から追い出されたから、それが倭寇の発生に繋がると共にヴェトナムへの進出を活発化したと考える事もできる。mt-B4の意を受けた北条氏が政権を奪取する為に、交易者だった梶原景時や比企能員を滅ぼしたのは1200年~1202年で、タイ人の活動が1240年頃から活発化する事と整合し、日本で拠点や地位を失った関東の土豪が海外に活路を求め、これらの地域に移住した可能性も高い。鎌倉幕府の滅亡が1333年で、その頃タイのアユタヤ王国の活動が活発化したのも、関東から脱出する豪族が急増したからである可能性が高い。

長篠の合戦で使用した鉄砲玉の鉛が、タイ産のものであった事がそれらの事情を示している。この頃のタイで、広東に南下した荊との交流が活発になったとの指摘もあるが、農耕民族である故に海上を往来する手段を持たなかった両地域の、荊の子孫の往来を支えたのは、関東の交易者の船だったと推測する必要もあるだろう。タイで活躍した山田長政は駿河の出身であった事にも、留意するする必要がある。三浦半島から駿河までは、関東部族の南方派の拠点地域だったからだ。

 

6-4 関東部族の統治制度

「俀」の「女」の上にあるのは「手」だが、それが縄文晩期に「禾=イネ」に変ったのは、縄文晩期寒冷期に熱帯ジャポニカの栽培者が多数荊に浸潤したからで、「俀」は女性が宝貝を加工する民族を意味し、倭は高度な稲作技術を持つ女性がいる民族を意味したと考えられる。男性達が工人だった荊から見ると、細かい手作業は女性しかできない海洋民族に違和感があり、それを関東部族の漁民の特徴としたとすれば、この時代の民族漢字の滑稽さに繋がる風情があるが、この漢字は卑下する意味もあるから、倭に限らず海洋民族を貶め、騎馬民族を顕彰する意図が見え隠れする隋書に、「俀」が使われた事と符合する。

「呉」は仮面を被って踊り狂う人の象形で、「越」に含まれる戉は罪人を斬首する道具として、刑罰に峻厳だった法治主義的な越人の表象に相応しく、「荊」は広大な農地の境界を茨を植えて確定した荊の習俗を示唆し、縄文後期の人々の感性とユーモア観感覚を示している。

倭は関東部族の北方派を起源とする組織だったから、彼らが入植した北九州、岡山、大阪湾は倭の「地域部族」と呼ぶべき存在になり、各地に貴族や寡頭政治家が生まれ、地域政権としての色彩を強めながら、更に経済活動単位に細分化していった。それは何万年も関東を拠点とし、部族単位で経済活動を行っていた人々が、多様化する交易環境に適応する為に生み出した、新しい部族組織の形態だった。

魏志倭人伝はそれらの経済活動単位の指導者を「官」と呼び、卑弥呼の統制下の官僚だったと指摘しているが、武庫川系邪馬台国が日本の統治者としての「倭国王」になり、倭国王が派遣した使者が范曄に説明した内容としての後漢書の倭国伝には、「およそ百余国あり。国ごとに皆王と称し、世世統を伝える。その大倭王は邪馬台国に居す。」と記され、卑弥呼の強権的な統治は、異常事態下の現象だった事を示唆している。倭国王の使者が范曄に説明した内容は、倭国王が邪馬台国の対外政策を継承していた状況を示し、魏志には記されていない邪馬台国の事情を含む事が、古市古墳群や百舌鳥古墳群を造営したのは、邪馬台国の後継国である事を示している。

つまり後漢書の記述が、倭の百余国の一般的な実態を示し、魏志倭人伝が示す卑弥呼の時代は、大陸で黄巾の乱が発生した時代で、華北を商圏とする交易者にとって異常な時代だった事と整合する。これらは同時代文献と言っても良いものだから、著者の先入観や誤解の根拠を見極めれば、残余の記事は素直に受け入れる事ができる。

奈良朝が示した大倭の概念は、奈良時代に生まれたものであると考えられる。南朝に使者を派遣した倭の五王が、「大倭王」を称さずに「倭国王」と称したのは、倭国王の呼称は古くからあり、大倭の概念はその後に生まれた事を示しているからだ。つまり「倭国王」呼称はかなり古い時代から存在し、倭の百余国の統治者の呼称として定着ししていた事を、後漢書に記されたAD107年に、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、見るを願請する。」が示し、倭国王呼称には歴史的な権威の裏付けがあった事を示唆している。

大倭の概念に使われた「大」は大きい事を意味するのではなく、大麦や大豆と同様に「真の、本来の」を意味している事に留意するする必要がある。古事記は「倭=やまと」であると記しているが、奈良朝は「大倭=やまと」であると主張している事がその事情を示しているからだ。

新唐書に奈良朝の言い分として、「日本は小国だったので、倭が日本を併合した。故にその号を冒す。」と記されている事が、その事情を示している。日本は甕星を王とする小国(常陸/日立)だったので、政変が起こると奈良朝が倭を称して西日本を統合し、日本の名称は奈良朝が継承した事をアピールする為に、一方的に主張したものだったからだ。

甕星が中央集権制を樹立して日本を形成したが、政変によってそれが崩壊すると西日本に生まれた奈良朝は、甕星は常陸の王に過ぎなかったと主張しながら、甕星が命名した「日本」国名を踏襲し、日本国を統治しているのは奈良朝であると主張した事が背景にある。しかし倭が倒れて日本が生れたのに、奈良盆地が正当な倭であると主張するだけではなく、「大倭」と呼んで関東や日立は「倭」ではないとの主張は論理に整合性がないから、奈良朝が生れて数10年後に「大倭」「大和」に変えたと考えられる。

後漢書が「倭国王」の名称は後漢代にはあった事を示しているが、倭の王は交易の指導者であり、農耕民族の権力者や領主の様に農地の配分に関わる者ではなく、交易者にとってそれに匹敵する重要事項である、商権と生産物の配分に関わる者だったと考える必要がある。

日本の新漢字では「国」の中に「玉」があるから、国と王は不可分の関係であると誤解し易いが、旧漢字の「國」は国構えの中に「域」があり、守るべき領域を示す象形文字だから、国と王の起源は異なる。王は鉞の象形だから、法を基に罪科を決定し、罪人の首を刎ねる事の象形であり、法の番人としての統治者を起源とした。

竹書紀年の王の初出は、帝禹夏后の次帝である帝の治世の記事になる。

二年 費侯の伯益が就国を出る。王は師を帥いて有扈を伐ち、甘で大戰した。

これは洛陽~鄭州辺りの塩の販売者だった費侯の伯益が、先導役を務める為に出国し、有扈を征討する為に師を帥いて出陣し、山西省の三門峡の北の台地で大戦があったと解釈される。この台地は標高800mほどで気候が冷涼だから、アワより味覚が甘いキビの栽培地だったと推測されるからだ。この王は華北夏王朝の法を基に、人民を裁く者だったとすると、軍律も王の職掌だった事を意味する。帝も后も別にいた時代だから、王は法に基づいて統治する警察官の様な職務で、軍事と警察が一体になっていた事を示唆している。

その様な王が生れた時期を検証すると、以下の記事がある。

帝舜九年 西王母来朝

西王母Y-R民族を指す名称で、彼らの呼称を音訳したものであると考えられるが、そこに「王」の漢字が使われた事は、この時期に既に「王」の漢字が成立し、法に基づいて警察と裁判を施行する者がいた事を示し、この時期には法規が存在していた事、即ち漢字がかなり整備されていた事を示している。

十一年 (有扈の)王の季子の武觀を西河に放つ

これは有扈にも王がいた事を示し、有扈には華北夏王朝とは異なる法体系があり、別の政権だった事を示している。

華北夏王朝の末期の記事として以下がある。

帝孔甲三年 王が萯山を畋した。

萯山に賊軍が集まっていたと推測され、この時期の王は軍事の指導者になっていた事を示唆している。

華北夏王朝が実質的に滅んだ後、殷商成湯が殷人の王朝を樹立した事を、以下の様に記している。

殷商成湯十八年 王即位

殷人集団の指導者として王に即位した殷商成湯は、軍事の指導者だった事を意味し、殷商王朝は軍事政権だった事を意味している。

この状況は周王朝も継承し、周王の武が殷王朝を武力で倒し、周の領域では周王だけだが王だった事は、周王は軍事の統括者で、周法と呼ぶべき法があった事を示している。それ故に、王ではない諸侯が存在した。

歴史家は史記の記述を鵜吞みにし、春秋時代に小さな地域集団が生れ、それが徐々に統合されたと考えているが、元々殷人の地だった地域を武力で漢族の居住域にしたから、周の諸侯は初めから地域を統括する軍事指導者だったと考える必要がある。

春秋時代になってもその状態が維持されたが、簡王十三年(BC573年)に以下の記事がある。

楚の共王が宋の平公と湖陽で会う

元々周の統治下にはなかった楚が、BC573年に呉から独立して独自の政権を形成し、夏王朝の実権が呉から楚に移った事を示している。宋の平公は周の諸侯だったから、王になる資格はなかった。

呉はBC473年に越に吸収されたから、経済活動を越に依存していた呉には、夏王朝を維持する力が失われ、その資格も失っていたからだと考えられる。越は夏王朝には参加していない集団だったからだ。

BC468年に於越が琅邪に遷都するから、この時期に楚が夏王朝の中核集団になっていた事は間違いない。

於越の指導者には、於越子句踐、於越子朱句の様に「子」を使っているのは、「王」は夏王朝の法規によって定められた身分だったから、夏王朝に属さず漢字を使わない越の指導者に「子」を使ったと推測される。周の指導者が「王」を名乗ったのは、殷周革命を起こした「武王」が、夏王朝によって「王」であると認定されたからだが、その経緯はその8で検証する。

有力諸侯が王を名乗った状況を竹書紀年から抜粋すると、以下が挙げられる。

(周の)烈王六年(BC370年) 梁惠成王元年 

史記などの漢代の書籍では、BC641年に滅んだ事になっているが、竹書紀年は異なる歴史を示し、最も有力な諸侯が周王朝から独立した事を示唆している。

顯王十七年(BC352年) 趙靈王

慎靚王二年(BC319年) 魏惠成王

隱王元年(BC314年) 鄭宣王  

隱王三年(BC312年) 秦王、越王 

史記などでは、BC375年に韓に滅ぼされた事になっている。呉を吸収した越が、王を称した事を示している。

   隱王十五年(BC300年) 楚が雍氏に入る(雍氏に加勢した?)。楚人が敗る。

      楚人が誰を破ったのか記されていないが、秦の軍だった可能性が高い。周の領土だった山西省南部が、この2年前に秦に侵略され、周の逸民が遥かに北の内モンゴル包頭に逃げたからだ。

   隱王十六年(BC299年) 王が韓で齊王と合った。

      庇護者を失った隱王が、斉に亡命した事を示唆している。

隱王二十年(BC295年) 今王(周王朝最後の隱王)終る。

周王朝が名実共に滅亡し、以降は全ての諸侯が夏王朝(楚)の認証の下に王を名乗る事ができた様に見えるが、楚は夏王朝が禁じた死闘を繰り返していたから、楚が夏王朝の帝を廃止した事によって夏王朝が失われ、王の身分は夏王朝から認証される必要がなくなり、誰でも名乗る事ができる身分になったから、皆が王を名乗り出したと考える必要がある。王の身分を夏王朝が認証したのは、夏王朝が定めた国際法を、王が統治下の人々に守らせる必要があったからだ。

魏志濊伝が「朝鮮候の準が僭号して王と称す。陳勝等が起こり、天下が秦に叛く。燕、斉、趙の民、地を朝鮮に避けるもの数万口」と記している事は、上記の竹書紀年と整合する。陳勝等が起こった時期に朝鮮候の準が王になろうとしても、それを認定する夏王朝は失われていたからだ。秦は燕、斉、趙を滅ぼさなかったから、その民が秦末に登場する魏志濊伝の記述も、史記の偽史を指摘している。

後漢期の倭が国毎に皆王と称し、世世統を伝えていた事と、夏王朝の制度の整合性を検証すると、倭の諸国がそれぞれの法規を制定し、倭がその法規を守らせる王を認定していた事になるから、有扈の王が存在した夏王朝の成立時には、理論的に存在し得た身分になる。

倭人集団の中に小国ができた時期を検証すると、縄文中期まで盛んに行われた弓矢交易には関東縄文人の全てが参加したから、その時期には未だ地域集団が成立する条件はなく、弓交易が斜陽化して地域部族が生まれた後だったと考えられる。弓矢交易が斜陽化すると他の手段で経済を活性化する必要が生れ、稲作もその一つの手段ではあったが、他にも新たな交易を生み出さなければ交易は活性化しないから、その様な状況の中で地域毎に異なる活性化策が生まれると、それに応じて地域的な交易集団が生まれたと推測されるからだ。

九夷を形成して荊との交易に注力した事は、関東部族は海運力の優位性を発揮する方面に特化した事を示唆し、縄文後期には未だその環境が十分整っていなかった事を示唆している。しかしこの時期の北関東に、漆を塗った木工品の製作遺跡が登場した事は、それを模索する動きが始まっていた事を示している。

「倭国王」が最初に史書に登場するのは、後漢書のAD107年の「倭国王師升等」を含む記事が嚆矢になる。これは倭国王が諸王を率いて洛陽に出向いた際の記事で、後漢王朝には大王が諸王を率いる制度概念がなかったので、諸王を「等」で表現したと推測される。宋書は宋の皇帝と倭国王の外交交渉を書き連ね、諸王を「倭随等」と記し、彼らに中位の将軍職を与えている。宋に朝貢した倭国王の使者は、范曄に説明した様に「およそ百余国あり。国ごとに皆王と称し、世世統を伝える。その大倭王は邪馬台国に居す。」と宋の皇帝にも説明した筈だが、梁代に編纂された宋書に諸王を「倭随等」と記したのは、中華の人々には諸王を率いる大王の存在に馴染みがなかった事を示している。

交易集団だった倭を代表する国が倭国で、その王である倭国王が諸王の中の大王だった事は、倭国王の機能は大陸の商圏を各国の王に割り当て、大国が生産した商品を各国の王に配分する事だったと推測されるが、それは各国の王が集まる会議の場で、利害関係者の取引として話し合われるべきもので、倭国王はその会議の議長を務めながら最終的な決定者になったと考えられる。商圏は農耕民族の領地に比定するべきもので、其処で販売する物品の配分と販売価格の統制は、交易者にとっては必須要件であり、安定した交易を営む為の基本要素だからだ。現在もその状態は継続し、メーカーと商社・販社の間にはこの関係が厳然と存在し、その他には適切な手段はないから、この想定を証明する必要はない。

有力な商品を生産できない販社的な小国は、大国から全ての商品を仕入れる必要があったが、大国であっても全ての商品を生産しているわけではなく、売れ筋の商品は奪い合いになったから、配分機能だけではなく生産量と販売量を整合させる価格指導も必要になり、ブランド品の価格を統一する必要がある事も、現在と変わらなかった筈だからだ。魏志濊伝には、濊がその様なブランド商品を生産していた事が記されているが、魏志倭人伝にはその様な商品が記載されていないのは、邪馬台国で生産した高級絹布や錦の販売先は、農業が不振で経済活動が低調な華北ではなかったから、魏の役人はその著名度が分からなかったからだ。華北で販売していた主力商品である毛皮は、出雲や豊国で生産していたが、魏の使者はその地域には足を踏み入れてはいないからでもある。

倭全体ではその他にも色々な商品があり、倭国王の下でそれらの調整を行う為には、販売の実務者である諸王と生産を担当していた諸王の会議が必要であり、それが実務的な決定機構になる事は、今も昔も変わらない交易集団の必然的な事情になる。従って経済立国だった倭が諸事を円滑に運営する為には、経済的な活動単位の指導者である諸王が集まる会議で、全てを決める以外に、多数の商圏に分かれた諸王が多数の商品販売する交易を、円滑に運営する手段はなかった。つまり経済活動の必然性として、倭国王に恣意的な決定権はなく、会議を取り仕切る事しかできなかった。

その事情を知らなかった南朝の宋は、諸王は倭国王の従者であると解釈する事しか出来なかったから「倭随等」と記し、後漢も倭国王の権限が弱く諸王の発言が越権的であると感じ、朝議録に「倭国王師升等」と記したと推測される。この事情を簡単に言えば、租税を財政基盤にする農耕民族の統治者である王朝の皇帝は、絶対君主である必要があり、統一的な法規による裁判権の確保も必須の機能だったが、交易民族の指導者は会議の議長に過ぎず、異なる交易を展開していた諸王には異なる法規が必要だった。戦国時代~織豊政権期の堺で、会合衆と呼ばれる有力商人達が自治的な都市運営を行っていたが、これは交易の利便性の為であって、民主主義の萌芽であるとの解釈は早計だが、別の商業都市には堺とは異なる法が必要だった事は理解できるだろう。

農業の様に生産手段を個人が所有している場合には、その人の生産活動には自由があり、個人の尊厳も担保されたが、農地を命懸けで確保する必要があった。交易集団の中で、他者が所有する生産手段を使用して生産活動を行う人には、自由や尊厳はなく、生産手段の所有者に隷属しなければならない。従って組織的な交易活動を行う為には、個人の自由や尊厳を剥奪する仕組みが必要になり、それが交易者の法になる。その法は個人経営を基本とする農耕社会と比較すると、格段に強力な統制力の担保が必要になる。その為には不要な統制は排除する必要があり、それが組織的な活動の効率性の向上に直結するから、商工業者は必然的に個々の企業に独特な内規を制定する必要がある。それが成文化されているか否かに関わらず、現代社会にも同様な事情は存在する。

その様な事情を有していた諸王は、自身の経済活動を自由に行う権利を有する代わりに、自領域内の治安は自分で守る必要が生れた。倭国王はその様な諸王に対し、合議内容に従った経済活動を行わせる必要はあったが、諸王の配下の活動まで取り締まる必要はなかったし、その様な事はできなかった。現代企業も全く同様の状態で運営され、社員は企業独自の上意下達の業務命令に従って経済活動を行い、一般社会より格段に細かい社内規約に制約され、不適格な活動者は解雇される。競争的な経済活動を集団で行う為には、これ以外に手段がないからだ。

従って時代が進むと共に人々が制約から解放されたのではなく、交易が高度化するに従って人々は自由を失ったが、不要な規制を排除する事によってバランスを維持してきたと考える必要があり、それを政権と民衆の関係に拡大した政体が、民主主義であると考える必要がある。従って民主主義の基本は労使の話し合いであり、労使の対立を煽る左翼はその妨害者であると考える必要もある。

以上の検証により、以下が想定される。

「王」の呼称が生れたのは五帝時代で、警察・裁判と軍事を職掌する官職名だった。夏王朝期に地域的な生産者が生れるとその機能は各地域に分立し、華北夏王朝でもそれが機能したが、法規を制定する議会の長である后の下位に位置する職制だった。華北夏王朝が滅んで殷人が改めて夏王朝に参加した際に、殷商成湯が王と呼ばれる華北の支配者になったのは、殷人の習俗では后と王の権力を分離できなかったからで、夏王朝の法規と民族の慣習法を皆に守らせる為には、強力な武力が必要だった事を意味する。

この事情をもう少し深堀すると、それまで自由と個人の尊厳を必要以上に享受していた未開の民族に対しては、法の存在を知らしめる為に武力が必要だった事を示し、交易者の王とは異質な存在として成立した。

この様な事情により、王の身分が辺境伯の様に解釈される様になり、殷周革命時に周の武が王に叙任されたのは、周王が夏王朝の辺境民族の統治者であるとの認識が、夏王朝の参加者に生れていた事を示唆している。春秋時代に楚王が生れた事は、戦時には王が全権を握る必要があった事を示している。その様な中で倭に大率が生れた事は、警察と裁判を担う王とは別の機能として、軍事を専門に担う職制が生れた事になり、農耕民族の政権とは異なる発想があった事を示すと共に、大陸との間に軍事的な緊張関係が生れた事を示している。

従って縄文後期には関東部族に王が誕生していた可能性があるが、夏王朝に参加していたのは南方派だけだったから、関東部族全体を統治する大王は生れていなかった可能性がある。しかし古事記が記す縄文晩期寒冷期の神武天皇の即位は、北方派にも夏王朝的な制度と漢字文化が伝搬し、それがある程度成熟していた事を示唆している。それに付いてはその7で検証するが、古事記は神武を軍事の指揮者ではなく産業に関わる統治者として描き、北九州に大率が生まれた時期は綏靖天皇紀以降だった事を示唆している。但し古事記は海洋民族的な商業活動の歴史を抹消し、内需に関わる商工民族の歴史だけを記述し、対外戦争の指揮官だった「大率」については、大率を暗喩する応神紀の記事であっても何も触れていないから、古事記の解釈には独特の手法が必要になる。

 

呉の実態

倭人が呉を「くれ」と訓読みしたのは、青州の荊を浙江省の荊と区別する為に、「くれ」と呼んだからだと推測される。「くれ」の「く」は狗邪韓国、狗奴国、久慈と同様に、飛び地を指す倭人語だったと推測されるからだ。

魏志倭人伝に登場する狗邪韓国(くざかんこく)は、半島にあった倭人の飛び地であり、飛鳥にあった狗奴国(くなこく)は、周防灘沿岸を拠点とする対馬部族の飛び地であり、日立の久慈川流域は東京湾岸から見れば飛び地であり、岩手の久慈は関東部族の飛び地だったから、湖北省から見れば荊の飛び地だった青州を、「くれ」と呼んだとすると各地の地名と整合する。狗邪韓国の邪は邪馬台国にも使われた地名の汎用句で、狗奴国の奴も魏志倭人伝に記された倭国名に多用されているから、邪や奴は国名に多用する汎用語で、「邪」は地域を特定し、「奴」は人々を指す言葉だったと推測され、これらの地名の本義は「く」=「飛び地」だったと想定されるからだ。

 以上の結論としては、青州に入植した荊を倭人が「くれ」と呼んだから、「呉=くれ」になったと考えられる。「呉」は仮面をつけて踊りくるう人の象形だから、青洲に移住した荊がその様な文化を高めたと推測される。

荊は集団で土木工事を行っていたから、作業の合間にその様な行為を披露する事により、集団の精神的な緊張感や疲れを癒していたと推測され、青洲に移住して時間的な余裕が生れると、それを民族文化に高める事は必然的な結果だったと考えられる。

従って「荊=ご」になる筈だったが、青洲の人々に呉の漢字を割り当てると「呉=ご」になり、再び湖北省に移住した人々の呼称が「荊」になったが、呉も荊だったから新たに「楚=そ」漢字が生れ、「荊=けい」になったと推測される。

 

6-5 竹書紀年が示す夏王朝の統治

6-5-1 夏王朝の成立

竹書紀年の帝嚳、帝堯、帝舜、禹の事績の中に、明らかに塩の商流に関する以下の記事があり、それだけで記事全体の3割になる。

帝嚳高辛.元年、帝即位、亳に居す。

帝嚳高辛十六年、帝は重を使い、師を帥いて有鄶を滅す。

帝堯陶唐元年、帝即位、冀に居す。羲和に命じて象を暦にする。

帝堯陶唐五十八年、帝が后稷に使いを(送り)、帝子の朱を丹水に放させた。

 丹水は漢水の支流で、湖北盆地と関中(西安近郊)を結ぶ河川交易路だから、青海の塩を湖北省に運ぶ交易路だったと推測される。

帝舜有虞元年、帝即位、冀に居す。

帝舜有虞十四年、禹に虞事の代(行)を命じた。

帝舜有虞十五年、帝が太室で夏后に有事を命じた。

有事という意味不明な言葉は殷末にも使われ、周の武が王に任命された事を指したから、を華北夏王朝の王に任命した事を指すと推測される。

帝舜有虞三十年、后育を渭に葬す。は渭河平原(関中)を指すと推測され、后稷后育有扈や斉家文化圏のだったと推測される)

帝舜有虞三十二年、帝が夏后に總師を命じた。(軍隊()の統率を命じた事は、王が警察と軍の統帥者になった事を示唆している)

帝舜有虞三十三年春正月、夏后は神宗で命を受け、遂に九州に復した。

帝舜有虞四十二年、玄都氏が來朝し、宝玉を貢いだ。

帝舜有虞五十年、帝陟(亡くなった)

帝禹夏后元年、帝即位、冀に居す。夏の時を邦國に頒す。

帝禹夏后五年、諸侯と塗山で会った。

帝禹夏后八年、諸侯と会稽で会った。金が雨の様に夏邑に(降る)。秋八月に会稽で帝陟。禹が立ってから四十五年。

 禹が立ったとは、禹が虞事を代(行)してからの年月を指している。合計年が足りないのは、帝舜が亡くなってから喪期があったから。

元年、夏邑で即位した。諸侯を鈞臺で大いに饗した。諸侯は帝に従って冀都に帰った。諸侯を璿臺で大いに饗した。

以上は下記の様に解釈できる。

帝舜を居所にし、帝堯を居所にしたが、帝嚳を居所に、帝顓頊を居所に、黃帝は有熊を居所にした。有熊は製塩業者の集団名だから、は渤海南岸にあった、浙江から移住した製塩集団の居所だったと推測される。濮水は現存しないが、春秋時代まで黄河の南を流れて渤海に流れ込む川だったから、はその河口だったと推測される。帝嚳が荊の居住地だったを居所にしたのは、有鄶(会稽の製塩集団)を滅ぼす為の軍を、荊から調達する為だったと推測され、五帝が渤海南岸を重視していた事を示している。つまり宝貝貨の運用を円滑に行う事が、この時期の五帝の最大の関心事だった事を示している。

后育を渭に葬した事は、五帝代には夏后以外にもが居た事を示している。后稷后育の先代だった可能性が高いから、このの系譜が周の祖先系譜である事を示唆している。しかし帝が夏后に總師を命じた事によってこの系譜のは廃止され、それに応じた夏后が行政区分を変更し、九州に復したと推測される。それによって周の祖先も一旦は夏王朝に組み込まれたから、周王朝が華北夏王朝の朝議録を自分達の祖先の朝議録にしたと推測される。

羲和に命じて象を暦にした事は、関東部族が使っていた太陽暦で温帯ジャポニカの稲作を行う為に、青洲に相応しい二十四節句の暦を作らせた事を指し、羲和は関東で温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fだったと推測される。以降の即位事績に十干十二支が付記される様になった事が、十干十二支も関東部族の天氏が起源だった事を示している。

夏后が行政区分を変更して九州に復した事は、山西の陶寺遺跡にいた集団の帰属が変更された事を示唆するが、陶寺遺跡が遺棄されたのはこの集団の拠点が関中に移動したからだと推測され、后育を渭に葬った事がそれを示している。関中は周が興った地域だから、后稷后育が周王朝の祖先であれば山海経の記述と整合するが、山海経には后育は登場しないから、周の祖先は后稷だった事になる。后稷はアワを指すから、縄文後期の関中の主要な穀物は、山西や関中に移住した韓族が栽培するアワやキビだった事を示し、后育Y-Rの斉家文化圏の人々だった事を示唆している。

史記は后稷を周王朝の始祖で農耕の神としているから、一応それと部分的に整合するが、史記を精読しても周王朝の始祖が后稷と呼ばれた理由は分からない。しかし有扈が自分達のを選定した場合に、韓族から選定された后稷と呼ぶ事には蓋然性がある。しかし山西や関中のアワ栽培者だった韓族がになり、五帝代のに出席する事にどの様な意味があったのか疑問があり、陝西の塩商人は既に渤海南岸の製塩業者と敵対関係にあったから、韓族のに出席する事には儀礼的な意味しかなかった可能性が高い。

後世の周がその様な后稷を祖先に祭り上げたのは、夏王朝の記録の先頭に記された有扈の記事に后稷が登場した事と、周はアワによって人口を増やし、アワ栽培を国家事業にしたからだと推測される。つまり周の法治主義は交易者としてだけではなく、農耕民族としても発揮された事を示している。塩の交易に関する主導権はY-R民族に在り、周が主体的に活動できる場は農業しかなかった事を示し、春秋時代にこの集団が秦と東周に分裂する素地が、この時期から常在していた事を示している。

浙江省の製塩業者が渤海南岸に移住して製塩を始めると、青海や解池の塩の重要性が薄れただけではなく、渤海南岸で生産する塩の品質が優れ、それを倭の海運力が支えたから、多数の浙江省の製塩業者が渤海南岸に移住して禹がその棟梁になった経緯を、竹書紀年が示している。

陶寺遺跡の製塩業者はそれに対抗する為に、質が劣る解池の塩を諦めて青海の塩に切り替え、関中に移動した事も、上記の事績が示している。青海で製塩し、その塩を関中に運んでいたのは秦人だったから、秦人と有扈密接な関係がこの時期に生まれ、殷周革命を起こした周は、両民族の統合政権だった事を示唆している。

しかし俀人の海運力が増強されると、黄河の中流域の洛陽であっても、馬を使う秦人と有扈の輸送力より水運が優る様になり、陝西や山西を除いた中華の塩需要が冀の塩に一本化された事を、帝が夏后に總師を命じ、夏后が九州に復した事が示している。つまりそれまでは、塩の商圏の都合によって中華が12州に分割されていたが、冀の塩を中心に商圏を九州に再編した事を示している。但しこの九州は周礼や漢書地理志に記された九州とは、名称や範囲が異なるだけでなく、既に稲作者が入植していた四川、雲南、江西も含まれていたと考えられる。その地域は稲作民族が拡散していた地域で、青洲や浙江省の塩の主要な需要地だったからだ。つまり周礼や漢書地理志には、冀州の範囲に誤魔化しがあるだけではなく、稲作民族の地域は発展途上で、アワ栽培者の地域は先進的だったかの様に歴史を胡麻化す為に、揚子江流域の地名を削除して黄河流域を細分化したと推測される。

この時代の文明的な稲作圏を、水運に使った河川の流域に従って分割すると、1、洛陽以東の黄河流域、2、青洲、3、浙江省、4、湖北・湖南、5、四川、6、鄱陽湖(はようこ)に流れ込む河川流域、7、湘江流域、8、山東・渤海北岸、9、青海湖の塩が提供されていた山西・陝西の様になった筈だ。これでは史記の捏造史が成り立たないから、漢王朝にはこれを否定する動機があった。

玄都氏が來朝し、宝玉を貢いだ事の解釈は既に説明したが、その背景として帝が夏后に總師を命じたと記し、荊が支える強力な軍事力を背景に、が浙江省の製塩業者の棟梁も兼ねた事を示している。故郷の湖北省が過疎化する実態を前にして、湖北省を再生したいと願う荊の意志も、塩と宝貝貨の交換価値の固定化に込められていたから、帝の恣意的な独断で物事が決したのではなかった。帝が夏后に總師を命じた実態も、が集まった会議の場で決まった事を、帝が裁可したのではなかろうか。

浙江省の製塩業者も禹の諸侯になったから、禹が塗山や会稽に出向いて諸侯と合ったのは、宝貝貨と塩の交換価値を固定化する為の、禹の統治方針を彼らに徹底する為だったと想定される。その結果として夏邑に一旦富が集積された事を、金が雨の様に降ったと記しているが、それを現代的に言えば、膨大な額の消費税が大蔵省に集まったが、それは運送者や物流業者に支払う為のもので、渤海南岸の製塩業者の利益ではなかった。

禹の次帝は夏邑諸侯を参列させて即位し、大饗宴を催した後に、製塩業者の諸侯を連れて冀都に帰り、再び大饗宴を催した事が、禹の成功によって製塩業者全体が富裕になった事を示している。

以上が竹書紀年の記事に関する一通りの解説だが、夏王朝の成立に関わる事績が時系列的に整然と記され、夏王朝は塩の流通を統括する組織だった事を明示し、周王朝の意図も明らかにしていると同時に、竹書紀年の価値を再認識する理由を提供している。またこれらの事績を記録として遺した事は、五帝代に漢字の完成度が高まった事を示している。

史記から始まる漢代以降の中華の史書は、人物史に終始しているから歴史の流れの必然性が読み取れないが、竹書紀年のこの様な的確な表現は、交易者だった越人の事象の捉え方の的確さを示している。史記がアワ栽培者によって記され、竹書紀年が物流業者によって記されたから、観点の違いは生業の違いを示しているとも言えるが、海洋民族との関りによって外来文化の刺激を受けながら、文明を進化させていた者と、文明の遺産を浪費しながら権力にしがみ付き、権力闘争に明け暮れていた者との違いこそが、最も重要な差異だったと捉えるべきだろう。つまり中華文明は春秋時代まで進化したが、その文明は漢王朝によって破壊され、それ以降は文明が堕落していった事も竹書紀年が示している。

夏の時を邦國に頒す「頒」は、法律や命令等を広くゆき渡らせる事だが、この文章について詳しく検証したい。

中華世界では王朝が制定した暦を使う事が、王朝に帰属する事を意味した。従ってこの文章は、禹が青州の統治者になった事を指すとも解釈できるが、帝堯陶唐元年、羲和に命じて象を曆にすると記しているから、暦は夏王朝文化の一部として、既に諸民族に拡散していた筈であり、禹についてはその記述の前に帝即位と記しているから、同じ事を重ねて記している事になり、簡潔な記述を旨とした竹書紀年は、単なる威令の発布ではない事を示している。新たに参加した邦國が、夏王朝の法に従う事を意味したと解釈する事もできるが、夏王朝に参加していたには独自の法があり、青州の法は適用できないからその解釈にも無理がある。

邦國は華北夏王朝を指し、は夏王朝に参加した国を指した筈だから、夏の時を邦國に頒した目的は、法の制定日や施行日を夏王朝の暦によって確定する為だったと想定される。それであれば後世の怪しい常識を持ち出さなくても、文章をそのまま解釈する事が可能になり、歴の流れとも合致するからだ。つまり帝で国際法規が決められても、それには施行日が付随したから、それに必要な日時を統一した事をこの様に記したと考えられる。

邦國をこの様に解釈する根拠として、夏王朝期の事を記した魏志東夷伝の序の、夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう。新しく分かった東夷の国の特徴を区分けし、今までの歴史書に欠けていた処を補う。」を挙げる事ができる。陳寿がこの記述でを使い分けたのは夷狄の邦が東夷諸国の集合体を意味し、東夷の国の特徴と記した際には、は個別の国を指す事を示しているからだ。つまり邦國は夏王朝に参加した国々()と、禹が王になった華北夏王朝()を指したと考えられる。

これを実態に即して解釈すると、夏の時を邦國に頒すとの表現は、帝を華北夏王朝()に設置した、夏王朝の成立を宣言した文章であり、実際に禹が諸国の后を招集した帝の場で、この様に宣言する事によって夏王朝が成立したと考えられる。

法律の施行には制定日と執行日が必要であるとの近代的な認識が、4千年前に生まれていた事になるが、決まった事を伝達する時間や周知徹底する時間が必要だから、古代人は極めて常識的な人達だったと解釈する事もできるし、それを王朝の成立宣言とする辺りに、法治主義者だった越人の絶頂期を感じる事もできる。夏王朝成立の論理的な基本要件を、端的な言葉で示しているからだ。

呉と対立していた周にとって、この一連の記事は極めて重要なものだった。呉と敵対していた周にとって、「華北夏王朝期の呉は越人の禹を領袖とし、呉人はその統治下に組み入れられた」事を、世間に示す事になるからだ。「最も早く出現した后稷だった」事も、その趣旨に沿って周が竹書紀年を編纂した結果である可能性もある。春秋時代の呉の産業は越人に依存し、やがて於越に吸収されたから、「その越は后稷より後に生まれた王統なのだ」とも言いたかった様だ。

以上の想定は、(4)山海経項で示した戦国時代の歴史認識と一致し、経済論理から推測した事象とも合致する。

山海経の海内経に、「后稷は各種の農作物の種を撒き、后稷の孫の叔均は牛耕を発明した。これによって国が生まれ、禹と鯀は農地を作り、九州を定めた。」と記され、周の恩顧を受けた漢族諸侯の認識を示している。この神話は后稷は女性ではなかった事を示唆し、旧約聖書の様に女性の情報ネットワークを排除するものだった事を示唆し、この思潮は世界的なものだった事も示唆している。

 

6-5-2 山海経と竹書紀年から読み解く歴史

山海経の海外東経に以下の記述がある。「海外」は中華世界の外を指し、東の海外は海の彼方になる。

「大人国は嗟丘の北に在り、坐して船を削る。」

嗟丘は百果の所在、堯を葬った(場所の)東に在る。」

山海経の大荒南経に以下の記述がある。これも中華世界の外の事を記述している。

「帝堯、帝嚳、帝舜は岳山に葬した。」 

岳山は外に用例がないから、高い山の一般名称であると考えられる。

「東南海の外、甘水の間に羲和の國が有る。名を羲和と曰う女子が有り、甘淵で日を浴して方す。羲和なる者は帝俊の妻である。」

秦代に方士と呼ばれる知識人がいた事から連想すると、動詞として使われているの意味を推測できる。

この文と竹書紀年から抜粋した、「帝堯陶唐元年、帝即位、冀に居す。羲和に命じて象を曆にする。」を比較すると、山海経の記憶には混乱があるが、五帝は倭人だった事を示唆し、海洋民族の稲作者だった羲和が、海洋民族の太陽暦に従って青州の稲作歳時を決めたと解釈される。短日性が強い温帯ジャポニカの栽培者だった荊は、播種期を厳格に決める必要があったから、湖北省時代から太陽暦を使っていた可能性が高い事を指摘したが、湖北省時代の太陽暦は冬至を起点に日数を数える単純なものだったとすれば、海洋民族の太陽暦を採用する事により、青州に相応しいきめ細かい歳時を設定する事ができる様になったと推測され、上記の文章はそれを指している可能性がある。

百果の所在地である嗟丘については古事記の節で検証するが、独特の柑橘類が豊富な九州の中でも、特に温暖な薩摩半島西岸の吹上浜の砂丘だったと推測され、堯を葬った場所はその西の甑島だった可能性が高く、天孫が降臨した笠沙との位置関係も整合し、殆どが山で標高604mの尾岳を有する下甑島は、帝を葬した岳山も連想させる。

従って「帝禹夏后元年、帝即位、冀に居す。夏の時を邦國に頒す。」は、農耕民族には使い難かった太陽暦を廃止し、月齢で月日を認識できる太陰暦に変えた可能性もある。これは法律の日時に関する事だから、稲作も太陰暦に従ったのではなく、アワ栽培者にも分かる暦が必要だったからだ。

温帯ジャポニカの栽培に関しては、現代にも残る「八十八夜の別れ霜」などの表現や、周礼が温帯ジャポニカの播種期を芒種とするなどの二十四節気は、太陽暦に基づく暦だから、羲和が制定したものを基本としていたと推測される。つまり史書に太陰暦が使われていても、温帯ジャポニカの栽培者は太陽暦を使っていた可能性が高い。

竹書紀年は、帝堯陶唐元年丙子(ひのえね)、帝即位、冀に居す。羲和に命じて象を曆にすると記し、以降の帝の即位年に干支を付与し、干支は関東部族の文化だった事を示している。

干支が60年周期であるのは木星が11.86年で太陽を一周し、木星を同じ状態で観測できる時期が12年に1回巡って来る。土星が29.5年で太陽を一周する事がそれに加味されると、59年と4か月後に、5回太陽を周回した土星と2回太陽を周回した木星を、殆ど同じ状態で見る事ができるから、それに合わせて干支が生れたと考えられる。

干支と天象を一致させる為には60年毎に補正が必要だが、海洋民族の天文者は年次を60年に固定した場合に、木星と土星の周期がどの程度ずれていくのかに関心があったと推測される。天象を観測するとその様な事に興味が湧く事は、現在に至るまで万国共通の心象だから。干支年に特殊な意味を持たせる文化は、それが決められた後に生まれた事は言うまでもない。

60年周期の天文事象を記録する事は、累代の天体観測者がいた海洋民族にしかできない事だったから、干支が倭人起源の文化であった事は間違いない。西ユーラシアで60進数の時刻や360度の角度が生れたのも、この60が基礎になっているからだと考えられるが、これは共有する自然現象に起因する文化だから、倭人の文化が伝搬したものであるとは言えないが、竹書紀年は中華の干支が俀の文化だった事を示している。

干支を使って竹書紀年を読み解くと、帝堯の在位年は69年だが、帝舜は帝堯が即位してから104年後に即位した事になり、五帝代に常時帝がいた訳ではない事を示している。従ってその2で、五帝代はBC2200年頃に始まったと推測したが、BC2300年には始まっていた可能性が高い。

夏王朝期は帝や后が死ぬと、数年の喪を経て次世代の帝や后が即位したから、在位年の合計より王朝期が長く、実際は424年継続した事になる。また初めて荊を出自とした帝相が生れた際に、前後に60年の空白期があり、荊を出自とした帝や后が生れるまでの騒動が、大変なものだった事を示している。

従ってそれを加味すると、荊の入植が始まると直ぐに五帝代が始まり、初代の黄帝時代は入植を組織的に行った時期になる。黄帝元年に初めて衣冠の制度を制したと記しているから、荊が青州に入植すると製塩業者も即座に入植し、両者が起こした揉め事の仲裁が必要になると、話し合いの際の荊の貴族の衣服が粗衣だったので、越人の進言を入れて帝の場の衣冠を制度化し、帝の権威を高めた事を示している。が越人の法治主義的な発想から生まれた誇りが、竹書紀年を黄帝元年から記した理由である事も示している。

金が雨の様に夏邑に(降る)との表現は、禹が浙江省の製塩業者に対して使った政治スローガンとして、それが実現すると夏王朝史に其のまま記録されたから、周王朝も誇らしげに周史に転記し、それが竹書紀年にも転記されたと想定される。

禹がこの様な政治スローガンを発したのは、青州の越人は宝貝貨を使ったが、多数の海洋民族と交易していた浙江省の製塩業者は、金・銀本位制の財貨認識を持っていたからで、唐突にと記述されたのは、浙江省の製塩業者に向けて発した言葉だった事を示唆している。つまり浙江省の製塩業者は、この時期まで宝貝貨を使っていなかった事を示唆しているが、その後も使わなかった可能性が高い。杭州湾沿岸や琅邪地域から楚貝貨が発掘されていない事も、その事情を示唆している。

夏王朝が法規によって決めた塩と宝貝貨の交換比率は、その後千年間維持され、アワ栽培社会でもそれを基底に宝貝貨が流通したから、夏王朝期、殷王朝期、周王朝へと時代が進むに連れ、アワ栽培者の王朝の拠点で宝貝貨の出土量が増えていく。つまり製塩が合理化されて生産性が高まり、経済が活性化されてインフレが進むと、宝貝貨の使用量と使用範囲が急速に拡大した事を示している。

塩の生産が合理化されて単価が下がると共に、他の物品の生産性が高まって塩の相対価値が低下して行く中で、塩の個人的な消費量はあまり増えなかったから、時代の進展と共に塩の相対的な価値が下がり、それに従って宝貝貨のインフレが進む事は、青銅器時代から鉄器時代になっていく中で必然的な減少だから、この状況は宝貝貨が安定的に流通していた事と、青銅器時代に色々な物産が各地で生産されると、経済活動が活性化した事を示している。

周代の金文に銅の価値を宝貝貨で計量する記述がある事も、宝貝貨には銅より強力な兌換材があった事を示しているが、それは塩以外には考えられない。

夏王朝が法規によって決めた交換比率は、湖北省時代に荊が使っていた比率ではなく、縄文中期の宝貝の1/100程度の価値を、穴の開いた宝貝に固定的に付与し、縄文中期の宝貝は製塩業者が回収したと推測される。

 

6-5-3 夏王朝の統治範囲と合議制

竹書紀年も史記も殷周革命時に周に加勢した稲作民集団は、西は四川と雲南の民族を含み、東は渤海南岸の製塩業者も含んだ事を示し、夏王朝に参加していた民族の範囲を示唆している。明代に雲南を征服した明王朝は、雲南ではこの時代まで宝貝貨が使われていたので、沖縄から宝貝貨を購入して官吏の給与に充てた事が、歴史家から指摘されている。従って南は粤が南下した広東省、西北は西夏を建国したチベット系タングート、北東は遼を建国した契丹人までが、宝貝貨の流通範囲であり漢字文化圏だったと推測される。

帝舜の時代に以下の記事がある。

帝舜有虞三十五年、夏后に征するを命じ、有氏が来朝した。

は何処の民族だったのか明らかではないが、浙江省出身の禹に征伐を命じた事と、三十二年 帝命夏后總師、三十三年 遂に九州に復す、三十五年 帝が夏后に有征す命じ、有氏が來朝した、四十二年 玄都氏が來朝して宝玉を貢いだの連なる記事から、征したから玄都氏が來朝したのであれば、は浙江省近辺の稲作民で、九江南部の鄱陽(はよう)湖沿岸か、それ以南の贛江・撫河・信江・鄱江などの流域に居た稲作系異民族だったと推測される。

彼らも温帯ジャポニカの種を交易で入手すれば、本格的な稲作者になる事ができたから、塩の供給を得る必要が生れていたと推測され、製塩者の拠点が南京付近にもあり、それが塗山だったとすると、九江と青洲は塗山から等距離にあった事が、この事績の背景を示唆している。

つまり鄱陽湖沿岸やそれに流入する河川域のが、禹の改革以前には塗山で製塩した安い塩を、を介して入手していたとすれば、禹の改革によって塩の価格が上昇する地域になり、それに抵抗する勢力になり得る存在だった。荊より稲作技術が劣っていたの塩商人だったが、コメと塩の交換比率が劣化する、禹の改革に反対を唱える事は極めてあり得る事だった。それ故に禹に征するを命じたとすれば、これも禹が統括する新しい制度の、普及活動の一環だった事になり、実際は禹の上申を帝(議会)が裁可した事になる。

この地域は縄文晩期寒冷期に呉城文化の中心地になり、周王が九江で軍事活動を行った際に、九江以南は越人の地域であると記している事と、この記述が繋がる。製塩地でもない九江に越の地があった事に違和感があるが、が越人の塩の販売業者だったのであれば、この地域は越人の塩商人の商圏だった事になり、疑問が解消するからだ。

縄文晩期寒冷期にこの地域に南下入植した荊は、この地域が越人の地域であると認識していた事になり、荊もシベリア的な領域認識を継承していた事も示し、夏王朝には息慎や濊も参加したから、夏王朝の法規にはシベリア的な要素も盛り込まれていた事を示唆している。これは殷周革命時にシベリア系民族だった箕子が、重要な役割を演じた事にも繋がる。史記は箕子が殷王朝の貴族だったと誤魔化したが、理路整然とした竹書紀年であれば此処まで確認できる。

夏王朝が定めた法規の条文は散逸して残っていないが、合議制によって結論を出す手法に多くのバリエーションはなく、多数決での議決を前提に相手を論破する西欧式の論争的な議論か、全員一致を目指しながら粘り強く妥協点を探る日本式しかない。

全員が賛成しなければ議決しない習俗は、現在は日本にしか残っていないが、現代日本人は日本式に疎くなっているから改めて日本式を説明すると、相手を詰問する事は避けながらひたすら妥協点を探るもので、議論に負けて相手の言い分に妥協する事も正義になる。つまり議論する双方が妥協点を見出す為には、個別事案では負ける必要もあるが、双方がそれを前提に話し合いを行えば妥協点は必ず見出せる。

唐書が越系新羅人もその習俗を堅持していた事を指摘し、卑弥呼を選出した諸王の会議もこの様なものだったと推測され、夏王朝に参加した民族は、この様な話し合いを基本としていた可能性が高い。つまり卑弥呼は無前提で女王になったのではなく、女王の権限に関する細かい議論があり、男性達と女性達の間で妥協点が生れたから、卑弥呼が女王になったと考えられる。

この時代の人にはイデオロギーはなく、純粋に経済的な利害を議論したから、竹書紀年の記事も論理的に解析する事が出来る。つまりこの時代の人々は経済活動だけではなく、文化の在り方もこの様な発想で処理し、それが文明人の流儀であると認識していたと考えられる。従って夏王朝の合議制については倭や越系民族の習俗に関する文献と、縄文文化を継承している日本の習俗から復元できるが、イデオロギーに汚染された人とは、妥協点を現実に即して見出す事は困難だから、この方式を適用する事が難しいだけではなく、その様な人には、この時代の話し合いがどの様に行われたのか想像する事も難しいだろう。

夏王朝は任意参加集団の集合体だったから、議決に最後まで反対する民族があれば、その民族は王朝を離脱しなければならない事を意味した。従って全員が賛成する事によって議決する事は、広域的な経済活動を担保する為の須事項だったから、全員一致の起源は夏王朝によって制度化され、それが多数の民族に文明として普及した可能性が高い。

夏王朝がその様な議決法を採用した背景として、古代の諸民族にその素地があったから、法規化する事が可能だった可能性も高い。狩猟民族が縄張りを決めた際にも、この様な事情が常在していた筈であり、焼畑農地を求めていたmt-Dにも、稲作地を求めていたmt-B4にも、この様な発想は必要だったからだ。

むしろ倭や荊には、その様な発想が乏しかった可能性がある。海洋漁労には固定的な縄張りを決める必要はなく、指導者の経験による適時的な判断が必要だから、話し合いで決める事は誰が指導者になるかだけだった。荊の指導者も膨大な人数の土木作業を指揮する必要があったが、指導者の選定事情は倭人と類似していたからだ。

魏志濊伝はを以下の様に描写し、その様な文化の起源はシベリアの狩猟文化だった事を示唆している。

「大きな長はなく、首長と三老が庶民を統主している。性格は生真面目で個人的な欲望は少なく、恥を知っているから他人に請う事や乞う事はしない。」「その俗は山川を重んじ、山川には各々が(所有する)部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。」「魏から濊王を拝した首長の居処は、民間の中に雑じっている。」

濊のこの様な民族性が上記を直接証明するわけではないが、この様な倫理観の人々は、全員が賛成する議決に馴染み易かったと推測され、それがシベリア文化の特徴だったとすると、その文化が夏王朝を経て越人に影響を与えた可能性があるが、五帝時代に荊と越だけが話し合っていた時期にはこの制度は必要なかった。夏王朝に征討された各地の塩の販売者にも、塩の販売者としての意見を集約する機能があった様には見えない。従って夏王朝に息慎や濊が参加すると、夏王朝の法規に大きな影響を与え、それが法規に盛り込まれたと推測される。

魏志倭人伝に、「その会同(寄り集まり)での振る舞いは、父子・男女の区別がない。」と記された事は、魏の役人から見た倭人は議論好きだったと推測される。議論の場に魏の役人が立ち会う事ができた背景として、狭い空間で少人数が話し合っていたのではなく、広場に多数の男女が集まって議論していたからだと想定される。倭人がこの様な体制を形成したのは、倭国王が諸王の利害を調整する様になってからだと推測され、倭が多数の国に分裂する以前である、縄文後期の青州にこの様な制度が生れた事は、縄文後期に倭の分国制が生れる条件が存在した事を示している。

 

6-5-4 竹書紀年が示す夏王朝の統治実態

夏王朝の実態を解析する為には、華北王朝の盛時ではなく、その滅亡から殷商期初頭の経緯が参考になる。

華北夏王朝最後の帝癸の紀事として、諸侯(塩の販売者)だった殷人の商侯が、華北夏王朝を倒した経緯が以下の様に記されている。

帝癸十年、五星錯行、夜中の星隕雨の如し。地震。伊、洛竭。(悪い事が起こる前兆があり、重臣()がいなくなった)

帝癸十一年、諸侯が仍で会った,有緡氏が逃げ帰った。遂に有緡を滅した。(塩の商流に関する諸侯の会議を仍で開いたが、決議に賛同できない者がいたので滅ぼした)

帝癸十四年、扁が師を帥いて岷山を伐った。(反徒が集まる岷山伐ったが、征討したのではない。王がいないので下級官僚のが代行した?)

帝癸十五年、商侯の履が亳に遷った(五帝時代には荊の中核地だったが、アワ栽培者の居住域になっていた事を示している)

帝癸二十一年、商が帥いる(群集?)が有洛を征し之に克つ。遂に荊を征し、荊が降った。(商の群集が他のアワ栽培者の集団の先頭に立ち、有洛を攻略したので、有洛の背後にいた荊も撤退した)

帝癸二十二年、商侯の履が來朝したので、履を夏臺(牢獄)に囚える様に命じた。(前年の暴動を譴責した)

帝癸二十三年、商侯の履を釈放すると、諸侯は遂に商に賓した。(製塩者も塩の販売者も、商に朝貢する様になった)

軍事的には非力な帝癸夏臺(牢獄)商侯の履を収監した事は、に夏王朝の規約を順守させる為に、后が王の職責を果たした事になる。

「帝舜有虞三年、咎陶に刑を作る事を命じた」のは、禹が青州の政権者になる10年前の事だから、咎陶が越人だったのであれば、夏王朝の法治主義の状態を示している。

禹の偉大な業績は塩と宝貝貨の価値を統一した事だけではなく、法治主義を青州に根付かせる事に成功したから、帝舜が青州の実権をに譲渡したと考える事もできるからだ。

帝癸はその法に従う王の義務を果たした事になり、法治主義がどの様なものだったのかを窺う材料になると共に、気候が冷涼化して黄河流域から荊がいなくなり、帝癸は製塩者として渤海南岸に残った越人だった事も示唆している。

夏王朝期の記事は以上で終了し、殷人の商王朝の記事が始まる。

殷商成湯十八年癸亥、王に即位し亳に居す。夏の社を屋すを始める。(夏王朝の社を初めて建てた。)

成湯十八年は、成湯が殷商の酋長になってから18年目を指し、その年に成湯が(夏王朝が任命する)王に即位した

華北夏王朝が実質的に滅んだ原因は商侯の履の反逆だったが、成湯の即位まで年月が経ていたから、成湯は商と殷を統括する酋長になっていた。帝癸が即位したのは壬辰だから、成湯が即位した癸亥はその3160N 年後になり、N=0の場合の帝癸二十一年成湯殷商の実権を握ってから、8年経過していた時期になり、矛盾するからN≧1である事になる。

成湯は商ではなくの酋長だったと考えられるから、亳に遷った履の子孫だった可能性はあるが、確かではない。

黄河の南のアワ栽培者が、黄河の北のアワ栽培者がだったと推測され、渤海南岸の製塩地を抑えていた成湯が、全てのアワ栽培者の塩や商品の、流通を差配する様になった事を意味し、成湯殷商を領土化したのではない。この時代に他民族を征服支配し、租税の徴収などで収奪する概念があったとは考え難く、武力は他集団を圧迫して勢力圏を広げるか、集落を襲って略奪する事に使われたと考えられる。

成湯が即位した年に夏の社を屋したのは、成湯が殷商の酋長として夏王朝に加盟する条件として、の職位を認知して貰う必要があり、その為には夏王朝が指示した建物を、建設する必要があった事を示している。つまり夏王朝は参加する諸集団に対し、夏王朝の定める交易秩序を維持する役目を負った、王の存在を必須要件としたから、成湯がその王に即位する事により、夏王朝の最低限の義務を果す事を期待された事を示している。王は華北夏王朝では后の下位の職掌だったが、軍事と警察を統括したから、法治を重視した夏王朝にとって必要最小限の機能だった。

成湯が選択したのは王の身分だったが、夏王朝の帝に参加するのは后だったから、議決に参加する事より殷商のアワ栽培者を軍事・警察的に統括する事の方が、重要だった事を意味するが、小さな集団では后が王を兼ねる事も珍しくはなかっただろう。しかし殷商は広大な地域で人口も多かったから、治安が悪い辺境では王が重要な機能だった事を示している。商侯の履が反乱を起こした理由も、夏王朝の帝の決定に不満があったからだと推測され、アワ栽培者には夏王朝の法規が苦痛だった事より、自分達の主張を明らかにして帝で申告する、文化力の欠如が動乱の発端だった可能性が高い。

成湯が王に即位した事は、華北夏王朝が滅んでも九州を統括する夏王朝のは継続し、その帝が認めたから成湯が王に即位し、夏王朝の指示に従って夏の社を屋した事になる。

夏の社は現代風に言えば、民族内の諸集団の代表が集まる議事堂だったと推測される。殷と商には多数の地域集団がいたから、夏王朝は成湯がそれらの民族の小酋長を集め、夏王朝の法規を守らせる事を、成湯が王に即位する条件にした事を示している。法規を守らせる為には、法規を権威付ける必要があり、立派な建物の中でそれを伝達する事により、法規の重要性を蛮族に認識させる事が目的だったと考えられ、法規主義者だった越人の合理性を示している。短い文に重要な文言が込められている事は、竹書紀年の論理性の高さを示している。

商侯の履が荊に対する暴動を起こしたのは、渤海南岸の製塩者の数が荊の南下と共に減り、塩の入手を待たされる様になった殷人集団が、渤海南岸で製塩された塩の殆どが有洛を経て、湖北省に流れる事に不満を持ち、商侯履の甘言に乗って暴動を起こし、有洛を襲撃して塩を略奪し、その商流を遮断したが、商侯履に製塩集団と流通業者を統括する才能はなく、九夷は夏王朝の法規に従わないアワ栽培者とは、獣骨と塩の交易を行わなくなったから、青洲と黄河流域のアワ栽培者の経済活動が麻痺し、商侯履の権威が失墜して動乱になったと推測される。

商と殷の人達がその動乱を制した成湯に、夏王朝との交渉を委ね、成湯が夏王朝に交易秩序の回復を約束したから、名目的に華北夏王朝の后と王を継承していた夏の桀が、成湯の王位を認めて権限を譲った事を示唆する記事が以下になる。

殷商成湯二十年、大旱。夏の桀が亭山で卒した。弦と歌舞を禁じた。(奏楽と歌舞を禁じた=喪に服す様に命じた)

アワ栽培者には喪に服す習俗がなかったから、夏王朝の誰かが夏王朝に恭順の意を示す意思表示として、成湯にこれを行う事を指示したと推測される。その実態がどの様なものであったにせよ、製塩業者の王朝だった周王朝にとっては、夏王朝の記録から華北夏王朝の権威を高める表現を拾い出す事に意味があった。成湯が王に即位して2年目のは、既に后、王のいずれでもなく、成湯の死に最大限の弔意を示したのは、成湯に王位を譲った人だったからだと推測される。

が華北夏王朝の最後の帝癸と同一名ではなく、高齢になってから死んだらしい事は、商侯の征服から成湯の即位まで長い年月が経過し、殷商成湯十八年になって漸く夏王朝が認定する王位が、夏の桀から成湯に移行した事を示している。

帝癸が華北から追放されていなかった事は、商侯帝癸の王権が自分や友邦の領内に及ぶ事を拒否しただけで、帝癸を滅ぼしてはいなかった事になる。つまり商侯は諸勢力を糾合して有洛を軍事制圧したが、夏王朝の系譜は亭山に存続しながら夏后を称していた事になる。商侯履の反乱の際に、激しい武力闘争があった事を示す発掘事例があり、帝癸が荊だったのであれば華北に留まる事はできなかったが、帝癸が製塩業者の越人だったのであれば、荊が南下しても帝癸が青州に残っていた不自然さはなくなる。

その頃に武漢近郊に盤龍城が構築され、北からの襲撃に備える様に北面が沼や湿地で囲まれた場所に設営されたから、商侯履が扇動したアワ栽培者が略奪を繰り返しながら南下し、荊がそれに備える防御施設を建造した事を示している。九夷の交易活動の停止などにより、商侯履の指導力が行き詰まると、それを打開する為に華南に侵攻して略奪を繰り返したとすれば、それが武漢に及ぶ事を恐れた荊が盤龍城を建設する事は当然の帰結だった。

商侯の武力では華北を統治できなかったので、暫く混乱が続いた後で実権を握った成湯が、夏王朝と交渉して青州の王に認定して貰う事により、夏王朝が認定する殷商王朝が成立したと考える必要がある。商侯履が夏王朝を追放すると、九夷も追い出す結果になり、殷人の銅や獣骨を塩と交換してくれる者が居なくなったからだ。その結果殷人の諸集団が、夏王朝の商流に頼るしかない事を再認識した後で、商の亳侯が交易の継続を交渉する必要に迫られ、夏の社を屋すに至ったと推測される。それを実施すれば、単なる口約束ではなく夏王朝に参加する意志を示した事になると、夏王朝の帝に判断されたのではなかろうか。

この推論に従えば成湯商侯ではなく亳侯だった事になるが、商侯の履が亳に遷ったとの記事があり、塩商人の系譜と地域の纏め役である酋長の関係が曖昧である限り、この系譜論には結論がでないが、帝癸の即位と成湯の王即位の干支が、その事実を証明している。N=1であれば有洛襲撃から70年の経過年次があり、N=2であれば商侯の履が亡くなってから100年程の動乱期があった事になるからだ。

は荊や越人が集住していた地域だったが、そこで活動していたアワ栽培者の商侯が、黄河以南の商圏を統括する存在になったから、商侯の商圏になった黄河以南をと呼び、その商圏ではなかった黄河の北をと呼んだと推測される。「殷」漢字は「身ごもった人」の象形と「手に木のつえを持つ」象形の合成漢字で、それが「大きい」「盛大」を意味する様になったと考えられているが、これは夏王朝期に黄河北岸地域を指す為に生まれた漢字だから、縄文後期後半に気候が冷涼化し始めると内モンゴルの高原から黄河が形成し続けていた華北平原に、南下するアワ栽培者が激増した地域として呼称が生まれた事になり、「木のつえ」が新規入植者への土地の配分を意味し、黄河の沖積平野にアワ栽培者が次々に南下し、集落が族生する状況を示した漢字になる。

夏王朝の目的は交易の円滑化で、殷人の統治体制に介入するものではなかったから、縄文晩期寒冷期に向かって気候が寒冷化していく中で、稲作民がいなくなった青州で製塩業者と九夷の交易を維持する為には、成湯がアワ栽培者の酋長になったのであれば、彼を王として認める事にやぶさかではない事情もあった。九夷や製塩業者には早急に交易を軌道に乗せたい事情もあり、夏王朝の誰かが夏王の桀に譲位を促したと推測されるが、事態が平穏に経過したのではない事は節を改めて後述する。

史記はは同一人物で、成湯も同一人物で、夏王朝は成湯に滅ぼされたと記しているが、それは華北が中華文明の発祥地であると主張する為の史記の捏造だった。漢王朝はどちらの王朝も中華民族の王朝だったと、漢族に認識させる必要があったからだ。史記の信奉者は現在に至ってもそれを真に受けているから、殷人は人を騙す事に天才的な能力を発揮したとも言える。

以上を纏めると、武闘的で交易事情を知らなかった商侯の履が、夏王朝の煩雑な規約に対応できなかったアワ栽培者を扇動し、塩の出荷地だった洛陽を襲撃して塩を略奪し、その塩を戦利品として殷人集団の頂点に立ったが、その結果として交易環境が破壊された事に愕然としたアワ栽培者が、夏王朝期には羽振りが良かった商侯の履から離反し、夏王朝の恨みを買っていなかった亳の酋長に期待を託したから、それに応えて夏王朝と交渉した成湯が王に即位し、華北の交易活動を回復させて殷商成湯と名乗ったが、が先に記されている事は、夏王朝期末期と比較して殷と商の力関係が逆転した事を示唆している。

縄文晩期寒冷期に向かう気候の冷涼化は、縄文中期寒冷期とは比較にならない厳しいものだったから、内モンゴルの標高1000m級の高原ではアワの栽培が不可能になり、次々と華北に南下していたからだと推測され、やがて本格的な縄文晩期寒冷期になると、政権の中心も黄河以北の殷人集団に移行し、殷墟を拠点とする殷王朝が生れたと考えられる。これらの経緯は歴史の流れとして極めて合理的だから、竹書紀年の記事の事実性を示している。この様な事例は他にも多数あるので、史記は無視して竹書紀年を参照しながら話を進める。

漢王朝は交易活動の経験がないアワ栽培者が樹立した、農耕民族を支配する事を目的とした初めての王朝だった事と、その王朝が捏造史を創作した事は偶然の結果ではない。日本でも交易者の倭人体制が崩壊して王朝時代が始まると共に、捏造史を乱発し始めたからだ。此処で云う交易活動は異民族間の交易活動を創作し、文化や商品の定常的な交換状態を創造・維持する活動を指し、幸運の結果として商流に乗る行為ではない。

創造的な交易者は民族間の取り決めを重視する必要があり、その様な取り決めは古い時代からあり、人口の増加や生産性の向上に伴い、新しい約定を創作しながら継続的に進化する必要があった。民族の歴史に関する伝承は交易関係の起源に遡る、古い時代からの継続性が必要だったから、古代の民族伝承の対象期間は極めて長かった。関東部族の息慎や粛慎との交易は1万年前から継続し、その航路に伊予部族が湊を提供していたから、それらの民族や部族との約束事や、それが生れた事情や歴史は正しく伝承されている必要があった。従って農耕民族的な王朝の正当性を主張する史記の歴史認識と、交易民族の歴史の背景にはその様な違いがあり、交易民族はその様な膨大な歴史を伝承しながら、交易文明を進化させていた事を認識する必要がある。

原古事記の説話は交易民族の歴史を踏まえて創作されたので、その詳細はその7で検証するが、弓矢交易が始まる以前のヤンガードリアス期の苦境時代に関する伝承から、天の岩屋戸説話が生れた事を指摘して置きたい。

 

6-5-5 殷末周初の記事が示す夏王朝の帝

竹書紀年は殷王朝と周王朝の最上位者が代々王に即位したと記しているが、殷王朝の最後の王を帝辛、その前代の王を帝乙2代に限ってと記し、それ以前の王である武乙、文丁などの記述と区別している。しかし帝乙帝辛の事績の筆頭に王即位と記し、その他の記事にもを使う矛盾を示し、その理由を推測させる文章が帝辛の記事の最後の2行にある。

帝辛五十一年、冬十一月、周の師(軍)が盟津を渡り、而して還った。王が箕子を囚え、王子の比干を殺すと、微子が殷墟から逃げた。

帝辛五十二年、周が始めて殷を伐った。秋、周の師は鮮原に宿営した。冬十二月、周の師が上帝で事を有した。庸、蜀、羗、髳、微、盧、彭、濮が、周の師に從って殷を伐った。

以上の2行で、殷王朝の記事は終了する。

周の武王が率いた軍が殷を倒し、稲作民の諸集団がそれに従ったと記しているが、具体的に解釈すると以下になる。

帝乙帝辛が夏王朝の規範に従わないので、箕子微子が殷墟に乗り込んで諫めた。周の軍が殷を威圧する為に盟津を渡り、戦闘はせずに帰還したが、それを知った帝辛箕子を囚えて反逆の意思を露わにし、王子の比干を殺したので微子が殷墟から逃げた。翌年に稲作民を主体とした連合軍が、殷王朝を滅ぼした。

周を支援した諸軍の筆頭は、荊の地域集団だった湖北省のだった。殷墟から逃げた微子を指導者とするも、5番目に記されているから、の軍は微子が率いていたと推測される。(箕子朝鮮)が列挙されていないのは、箕子が囚われていた為だったとも考えられるが、極東の考古遺物は異なる事情を示している。は民族集団の指導者を示す身分呼称。

以下の文章から始まっている周王朝の最初の事績から、上の論点が明らかになる。

周武王十二年、王は西夷諸侯を率いて殷を伐ち、野で之を敗る。

周武王十二年は、武が周集団の酋長になってから12年目である事を示しているが、周王としての王即位に関する記述がないから、殷を討つ前に既に王に即位していた事を示している。つまり竹書紀年のこの記事は、殷が滅ぶ前に「夏王朝の帝」がを王に任命したから、帝辛が戦争に破れて死ぬ前に名目上の殷周革命は終了していた事を示している。それを示す記事が帝辛五十二年の、「秋、周の師は鮮原に宿営した。冬十二月、周の師が上帝で事を有した。」になる。

帝辛五十二年のその他の記事には、帝辛が王として命じた事績もその指揮下の諸侯が活動した事績もなく、帝辛の治世でありながら周王朝の記事になっている。それだけではなく「周の師が上帝で事を有した。」との意味不明な記述があり、これは周武が「夏王朝の」によってに叙位された事を示しているのでなければ、全体の流れが把握できない。原文は「周師有事于上帝」になる。は英語のonatに相当する漢字。

夏王朝の成立事情を説明した際に、帝舜有虞十五年、帝が太室で夏后に有事を命じた。」有事は、王に就任する事を意味する名詞で、これの原文は「帝命夏后有事于太室」になる。この有事は「王に就任する事」を意味し、周師有事」はその動詞になる。古典漢文には動詞と名詞の相互転換が頻出するから、特に異常な用例ではない。

周王朝としては、殷周革命は夏王朝の帝が命じたから実施したとは正史に記したくなかったから、上帝で事を有したと誤魔化したと考えられる。「上帝」は現代日本の領収書で、宛先を明記しない場合に上様と書く状況に類似し、によって夏王朝の名前を伏せた事になる。これも日本の習俗の起源が、縄文時代に遡る証拠になるだろうか。

中国古代の在位年次の決め方は、帝辛五十二年の年初に帝辛が在位していれば、その年は帝辛の在位年になり、その年にが即位してもの在位年次は翌年から始まったから、竹書紀年の年次はそれに従い、帝辛五十二年に周王が即位した事を示している。上帝との曖昧な表現で夏王朝の存在を隠し、周武が王に即位した事情を胡麻化したのは、周王朝にとっては記録に残したくない事柄だが、越人の法規主義の厳正さがそれを許さなかった事と、周王が華北を統治する正当性は夏王朝によって与えられたものだったから、その根拠として竹書紀年にこの様に記したと考えられ、竹書紀年は文言まで正確に記されている事を示している。但しその出典は夏王朝の年代記ではなく、それを転記した周の正史ではあるが。

武王のその後の事績にから具体的な指示を得た記事はなく、に該当する巨大政権があった様にも見えないから、は何処かの地域の統治者ではなく諸民族の合議体だったと想定される。つまり殷を撃つ為に集まった諸王の集まりがで、そのによって周の武が周王に叙任された事は、殷を倒した周が殷の領土を併合する事も、によって認められていたと考えられる。つまりは領土を支配する機能ではなく、領域規定を含む法規の決定機関だったから、誰かが即位するものではなかった。

竹書紀年が帝乙帝辛だけを帝と記している理由も、これを前提にすると明らかになる。彼らが独断で自らを名乗ったから、それを異常事態であると判断した周王朝が、この様に記した事になり、夏王朝の秩序に反する異例の事態だったから、周王朝が殷王朝を倒した正統性を示す証拠として、竹書紀年に特記した事になる。夏王朝に参加していた諸子が、殷を撃つと決めた理由はこの一事だけではなかったが、短い文章に事情を濃縮する為には、この表現が相応しいと判断したのではなかろうか。

帝乙帝辛が殷末に帝を名乗った理由は、殷王朝が滅亡の危機に瀕したので、合議によって合理的な法規を決める習俗がなかったアワ栽培民族に対し、帝乙帝辛が素早い行政判断を独断で下す手段として、殷王が対外的な法規も決める権限も兼ねる為に、自らを名乗ったと推測される。この時期の殷王朝の支配領域は華北全域ではなく、河北の殷人には統治権が及んでいなかったから、箕氏朝鮮は遼寧で殷人と戦闘を繰り返しながら、殷墟に出向いて殷の帝辛と談判したと考えられる。

殷末の殷王朝の危機は、反乱や気候変動などの問題ではなく、交易上の課題が発生したからである事を、帝辛元年、王即位。九侯、周侯、邘侯に命したとの記事が示している。は主従関係になった事を示唆し、周侯、邘侯と殷王朝の関係は明らかではないが、九侯は九州の九夷だから殷王朝には九侯に何かを命じる権限はなかったが、無理やり何かを約束させた事になり、その様な行為は夏王朝の法規に反するものだった。現代的な感覚で言えば、国際法を破って大国が小国に従属を要求した事になるので、この詳細はその8で検証する。

それらを裏返すと、殷王朝も夏王朝の指導により、曲がりなりにも夏の社での合議制が存在していたが、帝乙帝辛がそれを反故にした事になる。現代中国人も約束を簡単に反故にするが、アワ栽培者はその様な習俗を本質的に持っていたから、夏王朝傘下の諸民族は殷人と交易する際に、法規や約束を守る保証が必要になり、殷商成湯にそれを求めた結果が夏の社を屋すとの記述だったと考えられ、どちらも極めて端的な表現だが、殷王朝と夏王朝の本質的な違いを的確に指摘している。

古代人はその記述で気付く筈だと考えていたとすると、それに気付かない現代史家は、古代人の予想以上に凡庸である事になる。

ちなみに、周武王十二年 王が西夷諸侯を率いて殷を伐つと記されている事は、周武王はその12年前に王に即位した事を示しているが、その時期に該当する帝辛四十年の記事に、周が靈臺を作る。王の使の膠鬲が周で玉を求めたと記している。この記事によって武王の即位を暗示した事になるが、史記などの漢代の史書がそれを否定しているから、現代の史家は靈臺をその様には解釈していない。竹書紀年は殷王朝期の周の歴史を、殷王朝の歴史らしく記しているから、この帝辛でありながら周武である様に記し、周武が王に即位したかの様に誤魔化しているのは、法治主義者としての最大限の辻褄合わせである様に見える。

つまり周王朝としては夏王朝の帝に命じられて殷王朝を倒したとは正史に記したくなかったから、「夏王朝」を「上」で誤魔化したがそれでは不十分であると考え、周武王は既に王に即位して殷王朝を倒す積りで準備していたのであって、夏王朝の命令はその背中を押したに過ぎないと言いたかった様に見える。夏王朝は地域の王を一人だけ認知する機関に過ぎなかったから、周はこの時点で独自の王を頂く組織なったのだと主張する事は、法理論上は可能だからだ。

法治主義者は事象の解釈に厳密性を求めたから、既に指摘した様な論理性を歴史観にも示したが、法治の正当性を歴史観に求めた故に、歴史を歪めなければ彼らの論理が成立しない矛盾に突き当たると、歴史の誤魔化しに着手し始めた事を示している。史記はそれを大胆に推し進めて歴史の捏造に走った事になり、歴史を歪める行為は、権力の正当性を歴史観に依存した法治主義者が、必然的に陥る罠でもあった。現代の中国人や韓国人が起源主張に拘るのは、この様な法治主義の残渣が中華民族や漢族の拡散した地域に、色濃く残っている事を示している。

 

6-5-6 帝の実態

通説では「帝」漢字を、「木を組んで締めた形の、神を祭る台の象形」と解釈している。王朝史観に毒されている人は、「原始時代の未開な人々は、神のお告げに権威を求め、絶対主義的な神聖政治を行った」と考え、は無知蒙昧な未開社会の最上位者を示すものであると解釈しているが、宝貝貨を流通させた古代人は交易ルールを合理的に構築した、理性的な人々だった事を前提にすると全く異なる解釈が生まれる。

つまり「木を組んで締めた形の、合議の場の象形」で、「製塩業者と荊の代表が集まる会議の場の象形」であると解釈すると、帝漢字が生れた五帝時代の実態を彷彿とさせ、それが発展した夏王朝期の会議の場を示しているから、その真偽を確認する。

縄文時代の思想や遺風を現代まで遺している文化は、東アジアでは日本文化しかないから、日本の習俗を参照する事によってそれを検証する。日本語で政治を意味する「まつりごと」が、縄文時代の遺風を残している可能性があり、日本語の「祭り」は皆が集まって酒食を共にし、諸問題を話し合う場を起源とするから、それをに重ねると木を組んで締めた形の台は、皆で歓談する為に豪華な酒食を並べた食卓を意味した可能性に至る。利害関係を調整する場では、酒食を共にして緊張を和らげる必要があり、日本の祭りは正にその様な場だったからだ。

現在では政治的な「まつりごと」と町内会的な「祭り」は異質なものになっているから、「政ごと」と記して「祭り」と区別するが、「政」漢字は物事を正す事を意味し、「祭」は台の上に肉と手がある象形で、「肉を皆に振舞う」とか「皆が肉に手を出している様」を意味するから、両方を合体すると本来の「まつりごと」になる。つまり古代の「まつり」は、「政祭」と漢字表記するべきものだった。

具体的に言えば古代の「まつり」では、皆が参集した政治的な「まつり」が終わると、諸事情を解決する規約が決まった事を祝い、皆が狂喜乱舞する祭りが開催されたと推測され、人の心の在り方として至極自然な行為だった。他地域と水利権や入会権を争い、またそれによって得た権利を組合員各自に配分する話し合いなどは、生活が懸かった切実なものであり、それが決まらないとそれらを利用する事ができなかったから、それらが決まった後の喜びを祭りで表現したとすれば、現代人にも極めて分かり易い流れになる。その決定に不服な者が怨恨を抱いたとしても、一緒に祭りで騒げばその様な心のしこりの解消にもなるし、一緒に騒ぐことはそれを認めた事にもなるから、祭りの騒ぎは盛大である必要があり、これも古代人の知恵だったと解釈する必要もあるし、各地の人々競って祭りを盛大に行う理由があった事にもなる。

現在は完全に分離しているが昔は政治と祭りが一体だったから、同じ言葉が使われている事になり、日本の祭りが全員参加型である事は、「政りごと」の場も全員参加型だった事を示唆し、直接民主制の一つの形態が「まつり」だったと解釈される。魏志倭人伝に原稿を提供した魏の使者の報告書も、その様な光景を見た魏の使者の、「其の集会での立ち居振る舞いには、父子男女の区別がない。」「人々は酒が好きである。」「敬う尊貴な人に会うと、拍手して跪拜の代わりとする。」との報告を転記したが、「尊卑の区分が明確である」とも記しているから、直接民主制とは言っても参加者は特定身分以上の者だった。

夏王朝の会議は各民族の代表者が集まる場だったが、そこで使われた立派なテーブルも「帝」の象形を継承したのであれば、現在も行われている政治的な昼食会や晩餐会もそれを意図した儀礼だから、現代人も古代人も同じ発想を持っていた事になり、古代人が会議をどの様にイメージしていたのかが明らかになる。その様な場では、全員の認識が一致するまで延々と話し合いが行われたと想定され、先述の新羅の習俗や邪馬台国連合の習俗に繋がる。日本で「政り」と「祭り」が早い時期に分離したのは、奈良時代以降は鎖国的な農耕社会になったからだと推測されるが、交易社会が継続していた西欧ではそれが結び付いていたから、ヴェルサイユ条約を締結する場で、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたと想定され、これは交易者の共通認識だった事を示している。

夏王朝でも各民族代表の議論を理性的に進行させる為に、立派なテーブルの上に酒食を用意したのであれば、帝を開催した華北夏王朝のがその財力を駆使し、豪華な卓と料理を用意すると共にその会議の議長になったと想定され、それを満喫した各地の代表が議論を纏める義務感を再確認したとすれば、古代人の知恵を垣間見る事になる。

竹書紀年が華北夏王のと記したのは周王朝の捏造である事を、魏志倭人伝が示している事は既に指摘したが、説明が不十分だったので、夏王朝の事績に関する諸史書の文章を改めて検証する。

史記の越王勾践世家は、「夏后帝少康の庶子が、禹の祀を奉守するために会稽に封じられ、文身断発した」と記している。

漢書地理誌は「帝少康の庶子が会稽に封じられ、文身断発した」と記している。

魏志倭人伝は「夏后少康の子が会稽に封じられ、文身断発した」と記している。

陳寿は史記や漢書の誤りを訂正し、古代史を正しく復元する為に奮闘した人だから、魏志倭人伝が一番信頼できる事は既に指摘したが、陳寿が竹書紀年と上記の史書を全て読んだ上で、魏志倭人伝に夏后少康の子と記し、庶子を削除した理由を検証する。

史記が夏后帝少康の庶子と記し、漢書がそれを帝少康の庶子に訂正した事は、史記と漢書のそれぞれの特性として説明できる。

史記や漢書は漢王朝の正統性を主張する為に、稲作文明があった事を否定する目的で記されたから、会稽を辺境であると印章付ける事は当然として、両史書はその目的を共有して庶子を追加したが、史記は夏后の記述を残し、漢書がそれを省いて帝のみにしたのは、初版である史記が記された時代には、伝承によって人々が諸事情をある程度承知していたから、それを迂回する為の記述には色々な制約があり、多くの矛盾を含んでいたからだと考えられる。

しかし漢書が記された後漢代には、夏王朝を形成した荊の貴族層は東南アジアに移民し、粤はヴェトナム方向に南下した上に、先に指摘した様に後漢王朝に支配される人々ではなかったから、クレームを付ける人が失われていた。残された荊の庶民の記憶は曖昧で、時間の経過と共に事実認識が薄れていた上に、漢書の著者には史記を読んだ人が何を問題にしているのか分かっていたから、その問題に焦点を当てて世論を誘導する事が使命になり、史記を訂正する風を装いながら、確信犯的な捏造を大胆に行う事もできた。夏后少康の子の事例は、その典型的な事情を示している。

史記の著者は夏后が正式名称である事を知っていたから、を故意に追加して夏后帝少康とするに留めたが、漢書の著者がそれでは不十分だと感じ、禹が浙江省を起源とする人である事を否定し、その上で夏后を除いた事は、漢書の意図を露わにしているからだ。史記や漢書の著者にとって、の違いは夏王朝の性格を示す重要な観点であり、陳寿も史記と漢書の改竄意図を理解していたから、夏王朝の代表者はであってではなかった事を周知させる為に、魏志倭人伝に夏后少康の子と正しく記したと考えられる。魏志倭人伝にこの記述を挿入した事に唐突感があるが、陳寿には元々これを明らかにする意図があり、訂正する場は魏志倭人伝しかなかったからだと推測される。

 

6-5-7 后の機能を漢字の象形から検証する

縄文後期に生まれた身分や制度には、漢字を作り出した人々の思いが込められているから、漢字の象形からその性格を推測する事ができる。

「后」「じっとしている人」「口」の組み合わせだから、「自分が統治している邑で帝を開催する人」、或いは「自身の拠点に帝を招集して議事を進行する人」の象形漢字に相応しい。

殷商成湯が建てた夏の社は、立派なテーブルを備えた議事堂の様な建物だったと推測されるが、殷商成湯は殷王だから、そこに集まる人々は殷人の諸侯(塩商人)であって、夏王朝を構成していた諸民族の代表ではなかった。しかし夏王朝のが決議した規約を諸侯に伝え、殷人諸集団の意見を集約し、夏王朝のに持ち込む為の準備の場だったから、夏王朝は各地の民族に間接民主制を推奨し、夏王朝の帝によって国際法を議決する制度を、各地の民族に共生的に推奨したと考えられる。それがの役割だったが、現在のが全く異なった意味になったのは、その意味を理解できなかった華北のアワ栽培者が、この漢字を異なる意味に転用したからだと考えられる。

殷の紂王(帝辛)が議会を廃止して自分がになり、殷王朝傘下の諸民族に恣意的な規約や命令を下知したが、それは中華の専制皇帝の役割だから、中華的な王朝の起源は殷王朝だった事になり、殷人が漢王朝を創始した事に繋がる。王朝的な規模を持つ虚飾的な都市や建造物の発掘事例が、殷商王朝期までしか遡れない事とも一致するが、始皇帝にもその傾向があった事は、周王朝や漢族を含めたアワ栽培者の特徴だったとも言える。

しかし中華社会の劣化はそれが主原因ではなく、殷人が支配者になった漢王朝により、人々の倫理感が破壊されて文明が酷く棄損・劣化した事が、本質的な原因だった。史官である陳寿には史記や漢書などの捏造書籍が、王朝制度の典型的な悪しき事例を示し、それらが人々の正しい認識を抑圧したから、戦乱が絶えない中華になったと見做して三国志を記述し、世間の認識を立て直そうとした可能性がある。

三国志を編纂した陳寿は、朝議録と共に地方役人の報告書を読んでいたから、それらには不条理な事実が横溢していたと推測される。そこから得た陳寿の認識は半ば正しかったが、捏造書籍の存在が文明劣化の原因だったのではなく、殷人系譜の民族が漢王朝を通して中華世界を統治した事が根本的な原因であり、捏造書は殷人の習俗から生まれた多数の悪しき生産物の一つに過ぎなかった。現代中国人が歴史認識を正したからと言って、国際秩序を守る国になるとは誰も思わないからだ。

 

6-5-8 皇帝呼称の起源

秦の征服者が「始皇帝」を名乗った事になっているが、史記が典拠であれば信用できない史実になり、実際の始皇帝は劉邦だった疑いもある。しかし誰が始皇帝であっても、以下の議論には関係がない。

皇帝の「皇」漢字はの上に太陽がある状態の象形だから、王の中の大王を象形しているがではない。王は法規を守らせる機能であり、帝は国際的な法規を形成する機能であって、両者は全く別の機能だったからだ。その2で青洲の帝では、荊が左に座って製塩業者が右に座ったから、左右の手とは別に、左右の座を占める人として左右の漢字が生れ、こちらがその後の標準漢字になった事を指摘したが、青洲の南部にいた荊が左の座を占め、青洲の北部にいた製塩業者が右の座を占めたのであれば、その会議を仕切った五帝は東側の席に西向きに座っていた事になり、会議が夜明けに始まったとすると、太陽を背にした議長が開会を宣言した事になり、「皇」漢字の意味が鮮明になる。

つまり倭人国の諸王を集めた会議の議長が皇であれば、皇は朝日を背にして諸王の会議の開会を宣言した人になり、象形文字の成因が明確になるからだ。

隋書倭国伝に、(倭の)使者が言うには、倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が未だ明けない時に出でて政を聽き、日が出ると理務を停め,我が弟に委ねると云うと記されているが、この飛鳥の倭王は天氏を名乗る事が許されていた事と、大王が招集した会議に参集した諸王は、地元では大夫を集めて会議を開催していたが、その会議は日の出と共に始まる慣例があった事を前提にすると、合理的に解釈する事ができる。

倭王が開催する会議は諸国の王が開催するものより上位の会議だから、未明に初めて日の出と共に終わる事を慣例化し、その会議を権威付けしただけではなく、大王の会議に参加した諸王の一部は即座に地元に戻り、自身が議長になる会議を開催した事になるからだ。

アワ栽培民は立法者であると行政者であるが分離した、分権的な政治体制は形成できなかったから、史記にはそれに関する概念は含まれていない。秦の法治主義は浙江省起源の製塩業者の伝統を継承したものだから、それによる租税制度が強力な軍事力の形成に役立ち、楚を破る原動力になったが、その様な高度な法規は法体系として整備する必要があったから、有力者を集めて議決するものではなく、専制的要素を内在するものだったと想定される。周には諸侯しかいなかったから、諸王を集めて議論する場もなかったからだ。

但し秦の強力な軍事力はそれだけで形成されたのではなく、縄文晩期寒冷期以降は、騎馬民族と共生したトルコ系栽培民族が、秦の交易路だった中央アジアに南下圧力を掛けていたから、それに対抗する為に武力を練り上げていた事も、楚を破る強力な軍事力の形成に寄与していたと想定される。秦が形成した万里の長城がその様な性格のものだった事が、その事情を示しているからだ。

戦国時代までの中華世界では、鉄製農具は盛んに作られたが鉄の武器の生産は活発ではなく、鉄製の武器が盛んに作られ始めたのは漢代になってからである事も、この想定を支持する。つまり春秋戦国時代はそれほど殺伐とした時代ではなく、青銅の武器でのんびり戦っていた時代であり、楚もその例外ではなかったから、鉄器で武装した百戦錬磨の秦軍の敵ではなかった可能性が高い。従って秦の王が皇帝を称した事を前提に、検証を進める。

始皇帝の名称は、大王が国際法規を決める者を兼務する事と、その初代である事を宣言する称号だった。つまり始皇帝の名称は、独立した諸王の統治権は認めるが、それらの諸王が参加していた、夏王朝の帝の存在を否定するものだから、夏王朝を滅ぼした事を宣言する称号だった。夏王朝を維持した最後の勢力は楚だったから、楚を滅ぼした秦の王が始皇帝を名乗る事は当然の流れでもあった。

人口が圧倒的に多かった稲作民が、それに対してあまり抵抗しなかった疑いがあり、交易を重視する夏王朝体制の下で、経済的な貧富の差が拡大し、産業化を進めて絹布の生産で富裕になった呉の貴族と、稲作を継続していた荊の庶民に意識の乖離があった事がその原因だった事を、老子道徳教が示している。つまり倫理的な社会秩序を重視していた庶民は、越人が生み出した法治体制が、経済格差の酷い社会を形成したと感じていたから、その様な稲作民から夏王朝体制を継続する意思が失われ、秦と楚の武力衝突は貴族の政治活動に過ぎないと感じていた可能性がある。

この時代の貧富の差を示す資料はないが、隋書に記された飛鳥倭国や唐書に記された新羅などから、越人が形成した社会は身分格差が激しかった事を窺う事ができる。中華の南北朝時代の南朝の富豪の状態も、稲作民族の社会に広がっていた貧富の格差の大きさを推測する素材になる。南朝の宋代にアワ栽培民族の政権から稲作民族が自立しても、荊を基幹としていた稲作民族には復古すべき古来の政治体制がなく、漢王朝の支配によって倫理観が崩壊していたから、民衆と政権が利害を一致させる事ができなかった故に、短命の王朝が交代した後に、騎馬民族が形成した北朝に征服されたとすれば、政治と経済の必然性を示している。

湖北省時代の荊は高い倫理観を持っていたが、青州で豊かになると貨幣経済が浸透して貧富の差を生み出し、その倫理観が通用しない社会に変質したと想定され、貝を含む多数の漢字が縄文後期に生まれた事が、それを示唆している事は既に指摘した。弥生時代に更に経済が活性化して貧富の差が拡大すると、稲作者の社会が不安定化した事は経済法則の必然であり、現在の先進国の主要な課題でもある。

古事記が国譲り神話に示す大国主への問いかけである、「汝のうしはける葦原中国は、我御子が知らす国であると天照大御神が言依を賜わった。故に汝の心は奈何」も、貧富の格差が激しかった越系社会の実態を示唆している。「うしはける」は漢字で記すと「主佩ける葦原中国」になり、現代語訳では、「汝は豊かな国を自分のものにしているが、これは天照大御神の御子が知らす国である」になるからだ。知らすは夏王朝的な体制の在り方を示し、出雲王も諸王を集めて開催した会議の結果を諸国に知らせていた筈だから、上記の指摘と矛盾する様に感じるかもしれないが、壬申の革命を遂行した甕星は公共事業を行って経済を立て直そうとしたから、見掛けは同じ政治体制であっても、政策目的を、内需経済の振興に方針転換しろと主張した事になる。

荊の貴族は秦漢王朝が成立するまで、自身の産業力と越人の法治的な統治力に依存し、稲作者と意識が乖離していく状態から決別できず、越人がその様な荊の産業力に群がって富を振り撒いていたから、荊の貴族は受け身の経済活動から脱する事もできなかった。荊は倭人と共生関係を構築していなかったから、倭は盟友だった荊がその様な状態に堕落していく事を食い止める事ができなかった。存立基盤が海運力だった倭にも自律的な経済活動を運営する力がなく、関東部族は内需の活性化に注力していた事が、それぞれの経済事情を示唆しているからでもある。

越が呉を吸収したのは、北陸部族と共生していた越には機動力があり、交易と産業を自ら切り開く力があった事により、荊の経済的な上位者になる必然性があった。秦が楚を滅ぼすと越人が大陸から逃亡した事は、秦と呉が一味同心して越の経済力を撥ね退ける積りだった、越が秦の武力攻勢の防波堤役を楚に求め、利害関係が混沌としていた事を示している。つまり越の経済力が呉と楚を天秤に掛ける状況を生み出し、呉と楚の関係が悪化する中で呉が秦と連携し、楚が越と連携した構図が浮上する。

越は商人気質が強く、国家的な緊急事態になると他民族に軍事を任せる傾向が強かったから、秦と呉が結び付く気配を見せると、楚に同盟を提案した可能性が高い。朝鮮半島でも同様な状態があり、日本の越系部族は濊との交易同盟を深化させたが、軍事は北九州の倭人に任せていた事がその事情を示している。

また高句麗と新羅の死闘に際し、飛鳥王は政権を委譲されると朝鮮半島から軍を撤退させた事がその事情を示唆し、その後出雲王が交易の主導権を握ると、唐に高額な賄賂を贈って高句麗への軍事を促した事も、越系文化圏で経済力を高めた部族の実態を示している。新羅の王族は越人だったが、軍事は白族(濊)に依存していたから、倭人は新羅を「しらき=白城」と呼び、濊との軍事同盟を重視した事もその事情を示している。つまり新羅の実態は、濊が多民族国家になった朝鮮半島の運営を、法治主義者だった越人に任せた事によって発生した事情であり、華北夏王朝の荊が越人の禹に政権を委譲した状況に類似している。

いずれにしても越系文化圏では経済活動至上主義が採用され、経済的に夏王朝的な王が生れる要素はなかったし、越人は夏王朝に参加しなかったから漢字文化圏の人ではなく、諸王と呼ばれる存在があったのか、またそれらの会議があったのか疑わしく、王漢字から皇漢字を生み出す環境を有していたとは考え難い。竹書紀年に越王表現が生れるのは、春秋時代が終わって戦国時代になってからである事も、その事情を示している。

夏王朝の文化圏では、王の上位者はその民族の后であり、王が最上位者である民族の王の上位者は夏王朝の帝だったから、夏王朝の文化圏では「皇」が生れる要素はなかった。

以上の検証により、竹書紀年の記述内容の正確性が極めて高い事が分かると共に、製塩業者だった越人の歴史を余りにも端的に示している事は、竹書紀年の短い記述と併せて考えると、竹書紀年は周王朝の貴族を教育する為の、歴史教科書だった可能性を高める。その教材に嘘があると伝承が混乱し、長過ぎると教材として役に立たないから、王朝史の要点を纏める必要があったからだ。幾つかの書き換えは、一般貴族の忠誠心を涵養する為だったとすると、如何にもそれらしいものであるとも言える。

 

6-6 漢字文化の視点から、天皇名称の起源を検証する

6-6-1 漢字の象形が示す天皇

漢字には成立時の思想が象形に込められているから、意味や象形から天皇名称の誕生事情を検証する。天皇が生れた政治的な経緯は、節を改めて検証する。

「皇」漢字は王の上に太陽がある象形で、諸王を集めて会議を主催した大王を意味する事は既に指摘した。

天皇は「天(あめ)氏を名乗る大王」「天氏の王の中の大王」を意味したと想定され、以下がその根拠になる。

「天」漢字の象形は「人の頭部を大きく強調して示した形状」で、「それが派生して天空を意味する様になった」と説明されているが、解釈が不自然である事は否めない。しかし「天空に関わる偉大な人」が起源であれば、その人の特徴から天空をイメージする様になった事は、その他の漢字の進化過程を参照すると合理的な判断になる。

海洋民族は島影を見ない大洋を航行する場合、星座を観測して自分の位置を知り、目的地への方向を割り出したから、星座を観測する人を偉大な知識人としていた。従ってその技能を代々継承した家系を「あめ氏=天氏」としたのであれば、「天」漢字はその人物を連想する象形として、不自然さが解消するからだ。大きな頭は星座に関する膨大な知識が詰まった人の頭で、その人が観測する天空が「天」になる事は自然な流れだった。天空を象形する事は難しいが、その様な人を象形したのであれば、古代人の知恵とも言える。

日立に大甕神社があり、星の神である天甕星を祭っている。境内には東の海を見渡せる小高い岩山があり、古代の天体観測所に相応しい状態を示している。古事記は東の海岸から太陽が昇る地を聖地とし、「天若日子」「天尾羽張神」「天迦久神」「天鳥船神」などの、「天」が付く神が多数いたと記しているから、上記の想定はそれと整合し、天氏の頂点に天津甕星がいた事になる。

「天」漢字が天体を観測する天氏の人物象形であれば、「天」は倭人が提起した漢字になり、天体観測集団が「天氏」を名乗ったとすれば、それが倭国王家の家系譜に繋がって天孫降臨説話と結び付く。つまり倭国王家は「天氏」だったから、古事記の作者が天孫降臨説話を創作したのであって、天孫降臨したから「天氏」になったのではない事になる。古事記では天孫降臨説話の前に多数の天氏が登場するから、この解釈は古事記の認識と合致している。

漢字文化は倭人と荊と越人が作り上げた事を認めれば、上記に限らず海や星座に関する漢字は、海洋民族が発案したと想定する必要があり、「星」漢字の成因はそれを示す好例になる。古代の「星」漢字は「晶」と記され、「日」が3個並んでいる状態の象形だった。これは太陽も星の一種であると認識していた事になるが、この様な認識は太陽と天体の動きを細かく観測し、太陽暦を使っていた海洋民族でなければ生まれないものだった。

この様な海洋民族的な発想が失われ、現在は「星」になっている経緯が、農耕文化と海洋文化の融合によって漢字が生まれた事を示している。

大陸では「星」が採用され、「晶は異なる意味に転用されたから、俀人も荊が使う漢字を受け入れた事になる。「星」の下部の「生」が何を意味するのか分っていないが、上記を踏まえると先ず海洋民族の「晶」が生まれたと考えられる。しかし「晶」は海洋民族がイメージする大洋上の星を意味したから、荊や越人が大陸民族には異なる星の概念があると主張し、樹林を「生」で表現して森の上に「晶」がある形状に変えたが、漢字が複雑になって簡略化する必要を感じると、「晶」と区別する為に「生」を残したから、「日」が一つしかない「星」に変わったと想定する事ができる。現代人には大した違いはないと感じられるが、海洋民族は水平線上の星座を重視したから、それを見る事ができない陸上の空の星は「晶」ではないと俀人が主張し、並行的な使用時期がしばらく続いたが、俀人が妥協して統一的な「星」漢字になったと考えられる。

竹書紀年の「皇」漢字の初出は、以下になる。

成王元年 王即位,周文公に總百官の冢宰を命し、庚午の日に周公は皇門で諸侯に誥した。 武王の葬儀を行う為に周文公にその元締めを命じ、周公は皇門で諸侯にその段取りを示した。

これにより「皇」漢字は周初にあった事、それが皇門という名称に使われていたが、殷の体制にも周の体制にも「皇」漢字を生み出す要素はなかったから、他の地域で「皇」漢字が生れ、そこで作られた皇門が周の都にも作られていた事を示している。

この事情を考察する際に、漢字の進化過程を論理化する必要がある。

会意や形成などの技巧が生れる前の漢字は、甲骨文字が示す簡略されたものではなく、もっと具体的に状況を示すものだったが、会意や形成などの技巧が生れると共に簡略化された筈だから、会意文字や形成文字はそれ以前の複数の象形文字を、統合するものだったと考えられる。その便利さが分かると、膨大な数の漢字が生れたと想定され、貝を含む漢字の多さがそれを示している。

漢字を標準化する為には夏王朝の帝で承認される必要があり、膨大な数の漢字が承認される為には、想像を絶するほどの審議時間が必要だったと想定される。従って漢字が標準化されたのは、五帝代~夏王朝が順調に機能していた時期に限られ、集まる人が減少した夏王朝末期にはその様な行為は難しくなり、単語を増やす行為は、専ら熟語の形成に頼らざるを得なくなったと想定される。熟語は皆の合意が得られなくても認定する事が容易であり、一旦それが始まると、新たな漢字を生み出す労力を惜しむ様になったと考えられるからだ。貝漢字の例が示す様に、既に熟語形成に必要な膨大な漢字が揃っていたからでもある。

縄文後期温暖期が終わったBC1500年から、弥生温暖期が始まったBC700年までは、大陸の稲作民族にとっては激動の時代で、夏王朝の帝に参集する余裕がないのに決める事は色々あった時代だから、帝に必要な新語は熟語で形成し、新しい漢字を生み出す努力は放棄されたと考えられる。つまり皇門の名称が生れた時期はさて置き、漢字が生れたのは縄文後期温暖期だったと考えられる。

倭が地域分権的な小国に分かれたのは、中華を含む広大な交易圏に各種の商品を販売する際に、販売組織や生産組織が独立していた方が、効率が良いと判断したからだと考えられる。現代の企業は皆その様な形態で活動しているから、この推測の合理性に疑念を持つ必要はなく、関東部族の人々にその必要性が痛感された時期だけが問題になる。漢書地理志は東南アジアの海洋民族も多数の国に分かれていた事を示し、それが海洋民族の一般的な組織形態だったと考えられるから、遅くとも弥生温暖期にはそれが海洋民族の一般事情になっていたと想定される。

従って縄文後期に身分が生まれる環境があったのは、多数の国があった日本列島しかなく、20余の地域国家を形成した日本越は漢字を使っていなかったし、隋に使者を派遣した越系文化圏の飛鳥王は大君(あほけみ)を名乗ったから、越系文化を取り入れた諸国の指導者はであって王ではなく、漢字を生み出す環境があったのは倭人だけだった。

 

6-6-2 天皇を意味する倭語

古事記は倭国王の日本国内の称号は、「天皇」だったと主張している。倭国王は中華の史書に登場する称号で、倭の中の一小国である倭国の王を示しているから、一見大王の称号には相応しくない。しかし倭国王は倭連合の諸王が集まる会議の議長に過ぎず、他国の政治に干渉する権限はなかったから、対外的には倭国王でしかなかったとすれば、倭の側にはそれを訂正する動機は乏しかった。

夏王朝にが誕生したのと同様に、それに相応しい身分と呼称が倭にも生れ、それが「天皇」名称だったと古事記は主張しているが、夏王朝のが生れると関東部族に天皇が生れたのではなく、縄文晩期に倭が生れると同時に天皇制が生まれたと主張している。

卑弥呼がいた弥生時代末期までの倭国は関東にあったと想定され、その時代の倭国王は多数の天氏が諸王になっていた、関東の大王だったと考えられる。古事記が当然の様に「天皇」名称を多用し、多数の天氏を登場させている事は、その様な大王に対する倭人内部の尊称は、漢字で示せば「天皇」だった可能性を高める。

古事記の思想は、敵対感情が高まっていた部族間の融和を図る為のもので、その一つの手段として、関東部族には既に天皇名称があり、その地位が部族制社会の他部族から尊敬されていたから、過去にはその名称で呼ばれなかった他部族の王にも、その名称と系譜を与えて天皇家を万世一系とし、日本から部族対立に根差した怨念を払拭するというもので、それが古事記の思想の根幹になっている事も、この推測の有力な証拠になる。

但し中央集権的な「すめらみこと」呼称は、議長だった倭国王には相応しくなく、農耕民族的な感性が感じられるから、倭人時代には別の倭人語があったと考えられる。

古墳時代前期に武庫川系邪馬台国王が倭国王になり、その時期の埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣に、被葬者が杖刀人の首(軍務長官)として仕えたのは獲加多支鹵大王(わかたきろだいおう)」であると象嵌され、時代が下る熊本県の江田船山古墳出土の、太刀の象嵌にも〇〇鹵大王と記されていた事は、この時期の倭国王は大王だったが「天皇」ではなかった事を示し、「天氏」ではなかった邪馬台国系の倭国王は、天皇とは称していなかった事を前提とする、古事記の主張と整合する。

古墳時代に倭国王になった邪馬台国王は、九州の大率から「天氏」を名乗る事を許されたが、古墳から発掘された刀剣には、意味が伝わっていない獲加多支鹵大王の称号が記され、この称号が世代を超えて使われた事は、天皇に代わる何らかの称号を漢字で創作した事を示している。古代人は漢字の意味を原義から捉えたから、=大盾として解釈すると、多支鹵=多数の盾となる地域(軍事拠点)を獲得して加えた大王になり、その意味は「朝鮮半島だけではなく、大陸にも多数の拠点を形成し、移民事業を遂行した大王」になり、その訓読みは漢字の音読とは異なっていたと考えられる。つまりそれが大陸で行った移民事業の実態を示し、関東の人々に軍事支援を求めた事情になる。

それらの倭国王が南朝の宋に上表した文面に、「祖先は昔から自ら甲冑を着て、山川を歩き回って落ち着く間もなく、東の毛人55国を征し、西の衆夷66国を服し、海を渡って北の95国を平らげ、領土は遠く広がった。」と記し、平穏に倭国王になったのではない事を示している。特に東の毛人を征したと手荒な言葉を使ったのは、関東の天氏は邪馬台国王が天氏を称する事に同意しなかったが、九州の大率が天氏を名乗る事を許したから、武力によって強引に倭国王に就任した事を示唆している。

従って後漢書と魏志が示す西の倭人30国には、「天氏」を名乗る王は伊都国の大率しかいなかったが、倭人100余国の内の残り70余国が散在していた東日本には、「天氏」を名乗る王が多数いて、関東の倭国王は彼らから天皇と呼ばれていた事になり、これらの史書に倭国王が登場しない事と古事記の主張が一致し、宋書の上記の記述が、邪馬台国系倭国王が生れた事情を示している。

移民事業の終焉によって邪馬台国の経済力が急落すると、対馬部族の飛鳥大君が倭人経済を牽引する様になったから、関東の天氏は飛鳥大君に天氏を名乗る事を許し、それに反対した九州の大率を攻め滅ぼしてしまったから、古事記に「石井の乱」として記された事になる。古事記はそれによって当時の人々に、継体天皇は対馬部族の飛鳥王である事を暗示したが、九州の大率が「石井」と呼ばれていたのではなく、古事記は当時の人々が「石井」名称から、その事件を連想できれば良かったから、実際には別の呼称だった可能性が高い。

関東天氏の本家だった天甕星(これも原古事記が付けた名称で、実際の呼称ではない)が、飛鳥王と出雲王を滅ぼして分権的な倭人体制を終焉させ、中央集権的な交易体制を構築して天武天皇と称したが、息子の代に政変が起こって奈良朝が生れると、天智の本家だった邪馬台国王の系譜が天皇になった。

「石井の乱」以降の西日本の事情としては、武庫川系の王とその一族が倭の掟によって滅亡すると、淡路系の邪馬台国が復活して難波王が生れ、難波王は対馬部族や出雲部族と共に毛皮交易を担ったから、天甕星が起こした壬申の革命により、大阪城の近くにある難波の宮が戦火で焼かれたので、古事記はその難波王をトミノナガスネビコと名付けた。淡路系の邪馬台国王が滅びると、革命思想を提案した天智が武庫川の人物だった機縁により、武庫川系のこの宮家が復活して奈良朝が生れた。

奈良朝が創作した日本紀が、飛鳥王は天氏だったのか否かに拘って醜態を示した事は、天皇が倭の最高位の統治者だった事と、天皇には天氏しか就任できなかった事を示している。

原古事記が「天甕星」の名称を与えた天武は、天氏の本家系譜だったから、350年振りに関東の「天氏」が天皇になったと想定すると、古事記の主張と整合するだけではなく、旧唐書が掲げる新生日本国の使者の申告とも整合する。

隋書に記された飛鳥王が「あめ氏」を名乗ったのは、関東の天氏が対馬部族の飛鳥王に「天氏」を名乗る事を許したからだと推測され、日本紀を転記した新唐書が用明天皇を「めたりしひこ」とし、隋に朝貢した飛鳥王が「あめ氏」と称した事を取り消した事は、対馬部族の王が「天氏」を名乗るのは僭越だと主張した事になる。言い換えると日本紀は、影で関東を憎んでいた奈良朝が創作したから、関東の天氏がその呼称を飛鳥王に許した事は認められないと主張した事になる。

この背景として、古墳時代の邪馬台国王が倭国王を名乗った際に、天氏を名乗る事が許されていた事を示唆しているから、それを許したのは九州の大率系譜の天氏だった事になる。奈良朝はそちらが正統な天氏であって、関東の天氏は偽物だと主張した事になり、その根拠は、邪馬台国はれっきとした倭人国だが、対馬部族は正式な倭人国ではなく、武庫川系邪馬台国の倭国王が関東以西を征服した際に、倭に編入された新参者だから天氏を名乗る資格がないと、主張した事にもなる。

奈良朝が古事記を改訂し、「ヤマトタケル」が未開な関東を征服する説話を追加したりした事が、奈良朝のその様な主張を裏書きしているが、古事記が創作した応神天皇を祭る為に、宇佐神宮を建立して天氏である事を認証させた事は、古事記の思想を利用する姑息な手段を使ったと言われても仕方がない状況だった。

つまり天皇呼称は、倭国王になった天氏の大王が名乗るものだったから、武庫川系邪馬台国の王が倭国王になった時点で、どこにも存在しない身分になった。

稲荷山古墳の鉄剣に「おほひこーたかりすくねーてよかりわけーたかはしわけーたさきわけーはてひーかさはよー乎わけ」の系譜が記され、最も重要な祖先は「おほひこ」である事に注目する必要がある。被葬者である乎わけを古墳に埋葬したのは、AD470年代だったと考えられているので、一世代20年とすると、7世代前のおほひこ140年前のAD330年代に死んだ事になり、武庫川系邪馬台国王が倭国王になった時期である事と整合する。大王の呼称が「おおひこ」だった事は、関東の大王は天皇名称を使っていなかった様に見えるが、この時期の天皇には諡号がなく、漢字文は大陸の人々との意思相通の為に使うもので、部族内では音を示す用途にしか使っていなかったとすれば、これが一般的な表記だったとしても違和感はない。

つまりおほひこの漢字表記が天皇で、交易相手の大陸の人々には倭を代表する事を示す為に倭国王と名乗り、他部族や他地域の人々と漢字文を交換する際には天皇漢字を使い、部族内では口語であるおほひこと呼ばれ、象嵌にもその様に記したと推測される。

風土記などに多用されている時世の表記法は、天皇が何処の宮にいたのかだけで、この鉄剣の銘にも「大王がシキの宮に在る時」と記されているだけだから、古事記以前には天皇に諡号はなく、天皇を輩出した宮家の居所で識別していたが、古事記の著者が創作した天皇に創作した諡号を付与したと考えられる。

此処に記されたおほひこが、関東最後の倭国王としての天皇であれば、次の「すくね」が宮家の当主で、分家である「わけ」が三代続くとその次世代は庶人になる規則が、この家系にも適用されている事になり、この家系譜の記述法は宮家だった事を示し、おほひこが天皇だった可能性を高める。

乎わけは功績によって「わけ」の身分を復活させた事も示唆し、乎わけは倭が朝鮮に出兵していた時期の、倭国王の杖刀人の首(軍事長官)だった事は、この時期の倭国体制を支えた移民交易活動の、実質的な指揮者だった事になり、その功績の褒章として宮家に復活した事は、この系譜が関東倭国王家系の宮家だった可能性を更に高める。

飛鳥王だった隋書が記す倭王は、姓は「あめ氏」、字名は「たりしひこ」、「あほけみ=おおきみ」と号した。

従って天皇の倭名に「きみ」や「ひこ」が含まれていた疑いがあるが、竹書紀年は夏王朝が認定した王がいない集団の、棟梁の一般名詞としてを使っているから、「あほけみ」は越系文化圏の大王名称だった可能性が高く、倭国王の倭名は「おほひこ」だった可能性がある。但し「きみ」は倭人語で漢字音は「君=くん」だから、飛鳥王が「君」漢字を意識しながら「あほけみ」と号したと考える事は早計になり、日本の越系文化圏では漢字を使っていなかったから、各国の首長が表音文字で「きみ」と名乗り、飛鳥王が「おおきみ」と称していたと考える必要がある。

「あほけみ」が奈良や京都などの古語だったとすれば、奈良時代の万葉仮名や平安期の仮名文献も、その様な日本越的な発音を示している事と整合するが、「おほひこ」と記した関東方言の方が現代日本語に近く、「ひこ」「きみ」「みこと」などの近世風の和語は、古事記が関東風の和語を全国に拡散した事により、それ以降の標準語になったと考える必要がある。その下地として、mt-B4の稲作技術の拡散があった事も指摘できるが、それによって関東部族の言語が標準語化されただけで、地域の部族言語は残っていたから、平安貴族は京都方言を使ったが、他の地域にはもっと正当な関東部族の言語が浸透していたから、時代が進むと正規の関東部族語である、関東方言が優勢になった事を示唆している。

京都盆地の言語史はかなり複雑で、縄文後期に飛騨から稲作者として入植した縄文人の言語が基底にあり、そこに対馬部族の言語が重なり、王朝期に周囲から多数の人が移住したから、クレオール的な言語事情があったと推測される。一方の関東部族は漁民の言語に統一されたから、彼らの言語史は単純なものだった。北関東から宮城県南部に無アクセント方言が広がっているが、F型のタイヌビエの分布と境界が整合するから、古墳寒冷期に東北の人々がヒエ栽培者として南下した事を示し、当時のmt-B4の危機感の理由を示唆し、この地域の言語が流動的だった事を示している。

無アクセント方言の北限が宮城県北部である事は、言語が流動的だった理由が稲作とヒエ栽培の混濁だった事を示唆し、栽培者の言語が標準化される傾向が強かった事を示唆している。つまり異なるアクセントが飛び交った事により、この地域の人々のアクセント感覚が失われた事を示唆しているからだ。日本語の起源は関東語だから、その観点から推測すると京都や大阪の人々の独特のアクセントは、その様な言語の混濁の中で一旦アクセントが失われ、再生したものであると考えられる。関東方言とは逆のアクセントの単語が多いのは、単語にアクセントを付ける必要性の認識は類似していたが、異なる法則化に進んだからだと考えられる。

天皇名称が成立する前の大王は、古事記では「命=みこと」と記している。古事記は冒頭に、「国の常立の神~伊邪那美神を神世七代と言い、天神の諸命を以てイザナミ神とイザナミ神に、ただよえる国を修めてつくり固め成せと命じると、イザナミ命とイザナミ命に呼称が変わった」事を示し、「命=みこと」は天の神に命じられた責務を果たす者であると定義している。

奈良朝が創作した日本紀はこれらの神をと記し、この定義を無視している事は、奈良朝が海洋民族の思想を否定した事を示している。改定古事記に「命」称号を残した事は、そこまで改定すると、奈良朝の中央集権制の土台が崩れる恐れがあった事を示し、その恐れがない唐への説明資料である日本紀では、堂々と「命」を「尊」に変えた事になる。

江戸時代に編纂された日本書記は、最初に生まれた神が国常立尊であると記し、この思想を完全に否定しているのは、古事記の思想を失っていた、王朝貴族が編纂した事を示している。これらの事象は、倭人時代の天命思想は天氏だけが伝承し、アワ栽培者の文化には「天命」思想がなく、関東部族であっても天氏以外の漁民には、この思想がなかった可能性も示唆している。

関東部族の天氏は南方派であっても北方派であっても、自らの犠牲を顧みない献身的な集団だった様に見えるのは、この思想があったからである事を古事記が示し、天武の起こした壬申の乱も、この思想に依っていたと主張している。天智もこの思想に従って革命思想を生み出したのであれば、天氏以外の漁民が全くそれを知らなかったのではなく、天氏がその思想に基づいて活動していた事は知っていたから、天氏を尊敬していた事になる。つまり古事記は、天皇と呼ばれた王が世間の尊敬を集めたのは、天命思想によって活動していた集団の、頂点に立つ人だったからであると主張している。

その主張が当時の人々を納得させたとすると、天氏ではなかったのに天氏を名乗った天皇を頂く奈良朝には、極めて不都合な事実だったから、唐に提出する日本紀ではそれを否定できたが、改定古事記では手が付けられなかった事になり、歴史事実と整合する。

以上を纏めると、「けみ」は日本の越文化圏の君主名で、「ひこ、ひめ」は関東部族の有力者の呼称で、関東の海洋民族の統治者は「おほひこ」と呼ばれ、それが奈良盆地の対馬部族の訛りで「あほひこ」になり、日本の越系民族の大王は「あほけみ」だった事になる。

日本語の「きみ」と結び付いた「君」漢字の竹書紀年の初出は、夏王朝期の中頃になり、

帝泄十六年、殷侯の微が河伯の師を以って有易を伐ち、其の君の綿臣を殺す。

と記されている。これは殷人に塩を配給していた殷人の塩商人が、製塩者の有易を襲ってその統率者を殺した記事になる。以降にも「君」漢字は頻出し、民族を問わずその集団の首長を指している。

「君」漢字と夏王朝の帝に参加する人を示す「后」漢字は、「口」を共有している事に特徴がある。漢字と漢字の類似性も越文化の特徴を示し、漢字文化圏の人は越人を議論好きな人達であると認識していた事を示している。しかし「尹」「神聖な物を手にする」状態の象形だから、の身分には神聖性が付与されていた事を示し、その初出が製塩業者の首長に用いられた事は、良渚文化期の玉琮の様な神秘的な玉器が、越のの権威を高めた事にちなんでいた疑いがある。

竹書紀年に記された帝舜有虞四十二年、玄都氏が來朝し、寶玉を貢いだ。」との記事は、単なる権威の象徴としての寶玉を貢いだのではなく、玉琮の意味や使い方を示す記事になり、竹書紀年の歴史認識の論理性が高まるからだ。

周はその文化を失ったから、権威の根拠を歴史に求めた疑いがあり、彼らの祖先の文化を示す東寺遺跡から玉器が発掘されたが、それは沿海部の玉器より製作技能が劣るものだったとの、縄文後期初頭の歴史に遡る必要がある。つまり周の祖先は玉器の製作者に恵まれなかったから、玉器文化を捨てざるを得なかった故に、それに代わる文化として歴史認識を採用した事を示している。

殷商成湯二十七年 九鼎を商邑に遷す。 殷商王朝の神器が九鼎だった事を示している。

周武王十五年 九鼎を洛に遷す。  周がその認識を踏襲した事を示している。

顯王四十二年 九鼎を泗に淪し、淵に沒す。  周王朝が滅亡する少し前に、王朝の存続に見切りを付けた王が、九鼎水のに沈めた。

一応九鼎に王権の象徴を求めたが、殷王朝の文化を継承していた点に周王朝の劣等感が滲み出ている。紅山文化圏の殷人は玉文化を受け入れたが、それは息慎の文化力が背景にあったからで、殷王朝を形成した殷人は紅山文化期には、その北西何100㎞も離れた高原台地に散開していたから、彼らが華北に南下して初めて見た宝は青銅器だった。既に息慎は消滅していたから、濊の力だけでは殷人に玉器文化を植え付ける事ができなかった事になる。

竹書紀年に「君」が次に登場するのは殷王朝末期だから、周王朝の認識として、自分達の宗教性と「君」漢字を結び付ける意識がなかった事を示唆している。

以上の認識は、越文化は密教的な宗教と結びつき易い体質だった事を示唆し、越文化圏になった飛鳥国が日本で最も早く仏教を採用し、アワ栽培者の王朝だった奈良朝が仏教の導入に熱心だった理由を示している。また関東部族系の人々が銅剣・銅矛を使ったり銅鐸を使ったりして祭り文化を進化させていた頃、越系文化圏の奈良盆地や出雲に古墳が生れ、奈良盆地でその文化が進化した事も、越文化圏の特徴を示している。

 

6-6-3 天皇名称の歴史

漢字の「天皇」名称は、起源が極めて古い事を示す証拠として、新唐書が日本紀から転記した部分に、「神武立ち、あらためて天皇を以て号と為す」と記している事が挙げられる。「あらためて」は、それ以前の王は「尊」を号していたが、神武は「天皇」と号した事を意味する。

日本紀は720年に成立した捏造史書で、遣唐使がそれを唐に提出したから、宋代に成立した新唐書がその抜粋を記したが、神武~推古の天皇名は古事記を継承している。中華人は古事記が記した神代の神々の、荒唐無稽な事績は受け入れないから、古事記の神代の説話は単なる祖先系譜に置き換えたと推測されるが、その様な日本紀を見た唐や宋の文化人にとって、天皇名称が初見だったのであれば、上の様に転記したとは考えられない。

唐の高宗が天皇を号したから、唐の歴史にとって天皇名称には特別な意味があったが、それにも関わらず新唐書の著者がこの様に記したのは、記す必要があると認識したからだと考えられる。日本紀には天皇名称が溢れていた筈だが、唐書には天皇に関する記述はこれしかなく、他の天皇は諡号だけを記しているから、敢えて初代の神武だけに「天皇」名称を使った事になり、新唐書の編者の繊細な配慮を示しているからだ。

高宗は674年に天皇を称し、皇后だった武則天は天后と称したが、その名称の発案者は武則天で、彼女が認可した高宗の諱は「高宗天皇大聖大弘孝皇帝」だった。天皇名称が飛鳥時代の日本で突然生まれたのであれば、則天武后はこの様にはしなかっただろう。天甕星は672年に壬申の乱を起こし、出雲と飛鳥を制して天武天皇と称し、その使者が唐に出向いた時期が、高宗が天皇を称した時期と一致しているからだ。

則天武后がこの様な考えに至ったのは、中華で唯一の女帝として、卑弥呼の女王即位に強い関心があったからだと推測される。則天武后は遣唐使を、則天武后の周囲が篤く程に厚遇した事が、倭への興味の高さを示しているからだ。つまり則天武后は唐の政治文化を、女王卑弥呼を生み出した倭人の文化に近付けたい希望を持っていたから、天皇や天后を称した可能性が高い。中華を征服して唐を樹立した西の鮮卑族にとって、漢字文化圏で最高位の者が名乗る名称は、従来の自分達の民族系譜のものではなかったから、中華の名称を使うか倭の名称を使うのかに、大きな拘りはない時代だった。少なくとも中華で唯一の女帝になった則天武后には、その拘りがなかったのではなかろうか。

その様に考える根拠として、新生日本の使者が申告した内容が甕星のものと奈良朝のものが別々に、それぞれ旧唐書と新唐書に記されている事が挙げられ、それは正規の朝議録ではなかった事に着目する必要がある。新旧唐書に記された内容の一部は、この節にも掲載するが、詳細は(9)旧唐書・新唐書参照。

旧唐書に記されたものは、則天武后がまだ皇后だった時代の新生日本の使者の口上だったから、朝議録の体裁になっていなかった事を示している。つまりこの使者は皇帝には謁見できず、誰かにその口上を伝えたが、則天武后が皇帝になると誰かにそれを整理させた事を示している。則天武后がそれを命じた背景には、倭に対する高い関心があったと考えられ、天武天皇の使者が面会したのは武則天だったと想定される。

以上の事情により、天皇名称は古い時代からあり、中華の人々もそれを認識していたが、それが日本独特の呼称であるとは認識していなかった事になる。

「皇」漢字の起源を歴史的な観点から論考すると、始皇帝が突然帝を名乗った事は、その時代の漢字文化圏に身分が存在し、それが広く知られていた事を示している。夏王朝体制下では、周王以外にも多数の王はいた筈だが、それを統括していたのが夏王朝の帝だから、諸民族を統括する王は多数いても、帝に併置される様な皇はいなかった。

夏王朝が規定する王は、「自領内の裁判権を有し、それを根拠にその民族を統治するか否かはその民族が決める事だったが、国際法である夏王朝の法期を順守させる者」だったから、春秋時代までの中華世界では民族集団毎に王がいたが、華北で王と呼ばれた人は殷王と周王だけだった。周の領域に諸侯はいたが王はいなかったのは、王は法治の最高責任者で、周の法が及ぶ世界には周王以外の王はいなかったからだ。

王達が連合組織を形成した場合には、その指導者が大王になる必要があり、その地域の大王を示す漢字が「皇」だった。

つまりこの時代であっても、交易手法が異なる故に法規も変える必要があった地域では、その地域の首長が王になる必要があったが、その様な事情が生れていたのは倭や越などの特殊な交易民族であって、農耕民族にはその必要性がなかっただけではなく、地域によって異なる法を施行する事は武力紛争を生んだから、極力避けるべき事情だった。倭人社会では、交易手法が異なると地域分権的な分国制を採用し、各国に王が生れたが、その理由は、俀は夏王朝に参加していたが倭は夏王朝に参加していなかったからだ。

関東部族の南方派と北方派は同じ部族だったから、互いに密接な協力関係にはあったが、シベリア起源の部族制認識によって互いの商圏に干渉する事はなく、全く別の交易組織でもあった。従って南方派が俀として夏王朝の重要メンバーになると、北方派は俀の交易圏を冒さない領域での交易を模索したから、粛慎を介したシベリア交易を継続し、弓矢交易に必要な磨製石斧を得る為に、岡山に入植した事によって得た漁労権を活用してmt-B4の備讃瀬戸や大阪湾岸への入植を斡旋し、北九州にも入植したが、俀として中華の人々と交易を行う意思はなかったと考える必要がある。関東の漁民や縄文人には、南方派と北方派のどちらかに帰属している意識はなく、融通無碍に活動する事に関東部族の特徴があった。

つまり関東の縄文人や漁民は弓矢交易を失った縄文後期から、現在の企業の様な地域主権的な集団を形成し、独自の商品の生産やその交易を行い始めていたが、その元締めは北方派で、主要な商品はmt-B4の稲作技術と漁民の先進的な漁労技術だったから、扱う商品や生産形態が異なる集団には独自の法が必要になり、それらを交易集団として統括する機能も必要だったから、一つの生産集団には一人の王が必要だったが、その権限は現在の中小企業の社長ほどにも強くはなかったかもしれない。しかしその様な交易集団に諸王が生れると、それらを統括する大王が生れるのも時間の問題であり、漢書地理志は倭に100余国があり、東鯷人にも20余国があったと記しているが、それを後世の領主権を持つ権力機構であったかの様に想像すると、大きな誤解を招く。

 

6-6-4 甕星の政権が生れ、政変によって奈良朝が生れた事を示す史書

旧唐書が掲げる日本国の使者の言葉は、壬申の革命によって日本を統一した天武天皇が、唐に送った使者の口上だったと考えられる。古事記が天武を暗喩した「天津甕星」は、大甕倭文神社(おおみかしとりじんじゃ)がある日立国の王だったと考えられる事も、この想定と整合する。

日本国は倭国の別種。その国は日の昇る方向にあったから、日本という名にした。

或いは曰く、倭国の名前が雅ではない事を嫌い、改めて日本とした。

甕星が倭を統一すると、倭人体制では日立国が自動的に倭国になったが、その名称を日本国に変えた事を示している。

或いは云う、元々日本は小国だったが、倭国の地を併合した。

この倭国の地は飛鳥王が倭王として統治していた倭国だが、実権を握っていたのは出雲王だった。この事情は新唐書でも暗示され、飛鳥時代末期には倭王ではない人物が、倭を仕切っていた事を示している。考古遺物も古墳時代末期の経済的な繁栄が、奈良盆地から出雲地域に移行した事を示している。

甕星は分国制を否定して中央集権制を提唱したから、日本国が併合した倭国の地は倭の時代とは異なり、日本列島全域が日本国になった。

新唐書が示す、政変後の邪馬台国系の使者の申告は以下になる。

日本の使者が言うには「日が出るところに近いから、それを名前にした。」

或いは云う、「日本は小国だったから倭に併合された。倭はその名前を奪って日本と名乗った。」

武庫川系邪馬台国の人々は甕星が提唱した、天皇が統治する中央集権制を採用し、国名も「日本国」を継承したが、自分達は倭人だと思っていた。つまり甕星の改革には理解がなく、権力だけを奪取したかの様な申告になっている。

使者は本当の事を言わないから、疑われる。

天智は聡明な人だったが、武庫川系邪馬台国の人々には一貫した主張がなく、農耕民族特有の矛盾した発言を連発していた。

また、いいかげんなことを言い、「国都は数千里四方で、西と南は大洋で、東と北は山脈がある。その山の先は毛人の国である。」と云う。

これは旧唐書日本伝にも記されているから、甕星の使者が言った事の真意を唐朝の役人に問われ、その通りだと言ったと推測される。倭人の分国制と中央集権制を無前提に合体させると、この様な認識になるからだ。倭人時代の国都は倭国だったが、倭国=日本国の状態で中央集権制にすると、日本国=国都になるからこの様な認識が生れたと推測される。

 政変直後に唐に使者を出した事は、この政権に協力する海洋民族がいた事を示しているが、それが淡路系邪馬台国人だった可能性は低く、関東部族、伊予部族、対馬部族だった可能性も低い。奈良朝が成立した翌年の事として、続日本紀の記事に以下があり、これは奈良朝と関東部族や伊予部族との戦いではないので、奈良朝が支援する北陸部族が、東北のヒエ栽培者と争った事を示し、奈良朝を支えた海洋民族が誰だったのかを示唆している。

698年 越後国に石船柵(いわふねのき)を修理させた。(石船柵は新潟平野の北端にあった)

700年 越後・佐渡2国に石船柵を造営させた。(先行した柵は戦乱で破壊?)

709年 3月 陸奥と越後の蝦夷を、関東甲信越北陸から兵を徴発し、東山道と北陸道から討たせた。

関東と陸奥が交戦状態になっていた事は既に指摘したが、古墳寒冷期の越後は全域がヒエ栽培地になっていたから、北陸部族の地の北限だった石船柵は、稲作者とヒエ栽培者の争いの為に設置されたのではなく、北陸部族が伊予部族系のヒエ栽培者と勢力圏を巡って抗争していた事になる。

7月 蝦夷を討つために、出羽柵に兵器を運び送った。船100艘を、征狄所に送らせた。

9月 蝦夷征討の論功行賞を行った。

出羽柵は山形県酒田市の城輪柵(きのわのさく)だったと推測され、北陸部族が動乱を好機として北進し始めた事を示唆し、奈良朝と連携した活動だったから、続日本紀に記されたと推測される。東北の日本海沿岸は縄文時代は対馬部族の交易圏だったが、古墳寒冷期にヒエ栽培者が南下すると、陸上は伊予部族系になったが、北海道系の伊予部族には日本海沿岸を南下する海運力がなかったから、秋田を拠点とした関東部族がそれを担ったと推測され、古墳寒冷期にヒエ栽培が北陸に南下すると、関東部族の交易圏が新潟まで及んだ可能性がある。

北陸部族は縄文人の子孫と共生している意識が乏しかったから、北陸のヒエ栽培者も関東部族と交易を行っていたとすると、インド洋交易を失って国内回帰せざるを得なくなっていた北陸部族にとって、関東部族が邪魔になったが、関東部族も伊予部族と対立すると日本海沿岸の交易を放棄せざるを得なかったから、その様な状況で北陸部族の北進が始まったとすると、突然出羽柵に兵器を運び送る状況が生れた事も理解できる。その様な北陸部族に帰順せず、飽くまでも伊予部族系譜であると認識し続けていたヒエ栽培者がいたであろう事も、必然的な結果だったからだ。

奈良朝と北陸部族が連携した事を示唆する記事を、新唐書も掲載している。

天武が死んで子の総持立つ。後ようやく夏音(中国語)を習い、倭の名を悪として日本と号す。

時代認識が錯綜しているのは、奈良朝の使者のいう事に一貫性がなく、甕星の使者との整合性も問われて更に混乱した状況を示唆しているが、この使者は天武の子の総持が天皇になった後の使者であり、実は政変が起こって総持が殺された後の使者である事を、日本は小国だったから倭に併合されたとの言葉が示している。つまり奈良朝の使者になった北陸部族は、それまでは越同盟の一員として表音文字を使っていたから、使者になった者も漢文の習得に遅れがあり、それを唐の役人に指摘されると、この様に答えた事になるが、唐は倭人が漢文を流暢に使っていた事は知っていた。

華北で毛皮交易を行っていた海洋民族であれば、この時期に改めて中国語を習わなくても、華北の音で漢文を読める者が多数いた筈だが、奈良朝が成立した直後に唐に派遣された使者は、毛皮交易には関与していなかった北陸部族の交易者だった事を示唆している。

 

6-6-5 以上の纏めと敷衍

関東には天氏を王とする国が多数あり、倭国王は関東の諸王が集まる会議の開催者兼議長として、「天皇」を名乗っていた。古墳時代に邪馬台国王が武力的に日本を統合し、倭国王になる為に九州の大率の許可を得て「天氏」を称したが、邪馬台国王は「天皇」になる資格を有していなかった。

大型古墳が古市・百舌鳥古墳群に多数造営された時代は、邪馬台国王による日本列島の征服統治によって始まり、この事件が日本全域に緊張感をもたらした。日本列島の征服にどの程度の武力が投入されたのか明らかではないが、争いを武力で決着する風土を強めた。但し関東の諸王の中には、邪馬台国の移民事業に参加する者も多数あり、関東と邪馬台国が対立したという単純な構図ではなかった。

部族対立の解消を提案した古事記が頒布されると、全ての古墳が完全に遺棄された事は、武闘的な風土と古墳の造営が同一視されていた事を示し、大型古墳が作られた時代には、尚武的な地域対立が高まっていた事を示唆している。

巨大古墳は首長が集める事ができる人数を示し、それが地域勢力の誇示に繋がったと考えられるが、大陸の様な城郭を構える代わりに巨大古墳を造営し、武力的な国威を発揚して地域の権力者が互いに牽制し合う時代だった事を示し、城郭を構えなかった事は戦国時代の様な、領土の争奪が頻発したのではなく、シベリア系文化に特徴的な既得権の不可侵規定は、機能していた事を示唆している。

つまり鉄器の普及によって新たな稲作地を形成する事が可能になると、新規開墾地やその水利権を争う事がこの時代の闘争の主眼であって、既存の稲作地を奪い合うものではなかった事を示している。

古墳がBC400年頃の奈良盆地で発生した事は、倭人社会が銅剣、銅矛、銅鐸を使って祭り文化を進化させ、地域集団の団結力を高めていた時期に、権力に神聖性を求めた越系文化圏で古墳が生れた事を示唆している。この段階の稲作者は尚武的ではなかったが、AD200年頃に西日本の倭人社会に古墳文化が浸透した事は、古墳に上記の様な尚武的な要素が加味された事を示している。

それを発展させたのが、倭人の中で最も武闘的な集団だった武庫川系の邪馬台国で、AD300年代になると、彼らの移民事業を支えた関東の豪族にも古墳文化が波及した事を、千葉県長南町の能満寺古墳などの前方後円墳が、突然関東に登場した事が示している。やがて関東の大王家系譜の者も古墳を作る様になったが、彼らが崎玉古墳群を作り始めたのは移民事業が収束し始めたAD400年頃である事は、古墳文化を移入した意味が異なっていた事を示唆している。つまり関東でもその頃に稲作地の開拓競争が激化し、名門の権力者が力を誇示してそれを統御する必要が生れた事を示唆している。

西日本の稲作社会では、倭人社会でも稲作地を巡る争奪戦が激化した事を、銅剣、銅矛、銅鐸が地下に葬られ、民衆の力を誇示する巨大古墳の造営が始まった事が示唆している。祭器が地下に埋められたのは、これらの祭器を集団間で交換する事によって緊張を緩和していたが、憎しみが優るとそれらを廃棄したからだと推測される。良心的な集団は再び使う時期が来ることを期して地下に埋めたが、怒りが優る集団はそれらを壊したり鋳つぶしたりしたと想定され、古墳の大きさを競い合う時代になると、人々は体力の限界まで古墳の造営に駆り出されただろう。しかし日本列島の経済が移民事業によって回転している間は、人々は武庫川系邪馬台国の方針に従わざるを得なかった。

関東の天氏はその様な世相を生み出した武庫川系邪馬台国王に不満を持っていたから、移民事業が収束して彼らの経済力が凋落した6世紀に、武庫川系邪馬台国王と北九州の大率を滅ぼし、対馬部族の飛鳥大君を「天氏」と認定し、倭王の称号を許して武庫川系邪馬台国が征服した地域の統治を委ねた。

飛鳥大君は唐に対して法治主義的な越人らしく振る舞い、倭人諸国を代表する「倭国王」ではなく、倭全体の統治者を意味する「倭王」と称した。古墳寒冷期には関東の稲作は低調だったから、日本一の稲作地を抱えた飛鳥王が、越系諸部族の代表としてこの様な天氏の提案を受け入れたと推測され、古事記はこの飛鳥大君を「継体天皇」と命名した。

飛鳥王が統治する時代になっても古墳の造営熱が低下しなかった事は、武力で物事を解決する風土が沈静化しなかった事を示している。この時代に古墳の規模が縮小し、数も減少したが、その主要因は移民事業の終焉による各国の経済力の劣化であって、尚武的な風土が沈静化したわけではなかったからだ。飛鳥時代に古墳の造営熱が更に低下したのは、不況の蔓延によって権力者の経済力が更に劣化したからであって、事態は改善していなかったと想定される。

関東のmt-B4が甕星の革命に賛同したのは、甕星の革命にそれを鎮静化させる意図も含まれていたからだと推測され、古事記はそれを実現する為の革命思想を頒布する書籍だった。甕星は不況を克服する為に内需を活性化する事を目指し、物部の経済状態を改善して物流と商工業を活性化しようとしたから、分国的な倭人体制を中央集権制に変える必要性を痛感していた。その為に分国的で海外交易に依存していた倭人体制を終焉させ、人心を刷新する為に倭国の名称を日本国に変え、天皇呼称を復活して中央集権制を樹立した。

甕星は経済を活性化させる為に、公共事業を興し、藤原京を建設し、各地に立派な道路を敷設するなどの施策を実施した。生産性がない古墳の造営に駆り出されるより、後世に残るこれらの意味ある工事を行う事は、民衆に新しい時代の息吹を感じさせ、革命を受け入れる土壌を形成したと想定される。

庚午年籍は壬申の革命の2年前に作られたもので、革命に賛同するか否かを問う連判状の様なものだったから、それを根拠に後世に良戸であるか否かが議論されたと想定される。従って革命は突発的に起こったのではなく、天智が形成した革命的な体制構想は、何年も前から世間に示されてその賛否が問われていた事になり、武力革命と同時に、新しい体制がスタートする準備もある程度整っていたと考えられる。

甕星が革命を決意した契機は、出雲部族や対馬部族が支援する新羅と唐により、同盟関係にあった高句麗が668年に滅亡し、その亡命者を関東に受け入れた事だったと想定され、その2年後に庚午年籍が作られ、その2年後に壬申の革命が起こった事になる。甕星の決断は私怨によるものではなく、出雲部族と対馬部族の毛皮交易が高句麗の滅亡によって巨大化し、日本全体が彼らの経済力によって支配される前に革命を起こし、体制の転換を成功させる為だったと推測される。経済戦争と権力闘争に関する情勢を的確に判断し、素早い行動に移行した事になる。

甕星は地域毎の過去の怨念を解消させ、人心を統合する事が必須であると痛感していたから、部族主義に基づく地域主義を放棄させる為に、古事記を頒布して新しい思想を提起した。古事記は倭人時代の神々を否定し、新たに創作した農耕や商業の神々を代わりに人々に分配し、怨念を生み続けた古墳時代を忘れ、縄文時代の平和な社会に戻る事を提案した。その大きな象徴として天皇名称の復活があり、その呼称も各部族の過去の統治者に分配する事により、万世一系思想を確立して部族間の怨念の解消を目指した。

その思想を普及させる為に創作した古事記は、倭人の歴史を大胆に改竄し、天皇を名乗る資格がなかった古墳時代以降の統治者も、実は天皇だったとする画期的な統一思想を提示し、各部族や地域勢力の和解を提案した。その為に古墳時代の大率、倭国王、倭王の事績を換骨堕胎し、怨念がない融和な時代であったかの様に歴史を書き変え、民衆がそれを新しい歴史観として受け入れる事により、過去の怨念や拘りを放棄する事を求めただけではなく、倭人時代は存在しなかったと主張し、倭国王家の正当な継承者だった甕星が、彼の権威の背景であるとも言える、縄文後期以降の倭国王家の伝承を全て破棄したから、多くの人々がこれを受け入れて新生日本が誕生した。

その方針を受けて創作された原古事記の説話は、時代が入り組んだ複雑な構成になっている上に、説話の文章には高度な文学的センスが感じられるから、古事記の完成までには時間が掛ったと考えられる。庚午年籍が作られた頃にその原型が生れ、徐々に説話が追加され、体系的な物語に纏め上げた可能性もあるが、説話の構成は壬申の革命を軸にして成立しているから、古事記のもう一つの使命である家系譜の書き換えが壬申の乱の頃に進展し、説話は壬申の革命が終了した後で創作したと考えられる。

太安万侶が稗田阿礼の記憶力に言及しているのは、紛糾する新しい家系譜を徐々に形成していく中で、各地の人々から聞き取った諸事情を即座に自家薬籠中のものとし、皆の不満を吸収した体系に仕上げた驚異的な能力を、当時の人々が驚嘆したからだと推測される。人々が稗田阿礼のその様な能力を認めたから、古事記が人々に受け入れられたと考えられるが、使命感に溢れた国家的な書籍でありながら、説話の文学性の高さに驚嘆せざるを得ない高度に推敲された文体は、系譜の創作とは異なる膨大な作業だったから、別の人物が行ったと考えられる。

原古事記の説話の著者は、天武天皇が倭国王系譜の正統な後継者である事を根拠に、その祖先が名乗った天皇名称を復活させ、初代の天武天皇の事績を寓話的に顕彰し、子孫の治世が永遠に続く事を願った。しかし政変が起って天武の後継者が殺されると、天武系譜の残党は岩手県の久慈に逃れた。

政変によって関東がmt-B4の統治域になり、その支配を委ねられた藤原氏の一派が西日本に、古事記の思想を実現する地域政権として奈良朝を形成し、中央集権制を継続する為に天皇名称を継承したが、その為には奈良朝の天皇も天氏である事を証明する必要が生れた。

古墳時代の武庫川系邪馬台国王は、九州の大率から天氏である事を認証して貰っていたから、奈良朝は九州の大率系譜を探したが、「石井の乱」で宗族が滅亡していた。仕方なく原古事記が大率であると暗喩した応神天皇を祭る為に宇佐神宮を建立し、その神託によって天氏である事を認証して貰う、詭弁を弄さざるを得なくなった。権力を装飾する農耕民族的な発想の、典型的な事例であるとも言えるが、天皇名称を使う為には必須の要件だった。

以上の歴史から、これらの事情にまつわる弥生時代の状況を推測する事も可能になる。

稲作が盛んになると、新たな開墾地を形成する運動を盛んになり、その際に開墾が可能な地域や水利権の争奪などの、農耕民族的な闘争が始まり、その兆候が先ず西日本の稲作社会に顕著に現れた。アワ栽培者から転化した稲作者と、アワ栽培者の共生集団が最も暴力的になった事を、東海地方の朝日遺跡から発掘された、逆茂木を置いた防衛施設や、鳥取県の青谷上寺地遺跡から発掘された、多数の惨殺遺体が示している。古事記も稲羽の八十神の暴力性を特記し、古事記の著者の歴史認識の正しさを示している。

対馬部族の稲作者は東北縄文人や飛騨から降ったmt-M7だった上に、対馬部族は権力者の権威に宗教性を加味する越系文化を取り入れたから、暴力性の程度が軽かった事を関東部族が評価し、コメの生産量が日本一だった奈良盆地や京都盆地を領有していた飛鳥王を、関東の天氏が倭国王にしたと考えられる。

倭人社会で銅剣・銅矛や銅鐸が盛んに作られたのは、古奈良湖の周囲に大型古墳が形成された時期と同時代だから、宗教的な法治主義者ではなかった関東系の部族は、mt-Fが持ち込んだ祭り文化と越系民族の祭祀を合体し、盛大な祭を行って集団力を高めたと推測される。しかし倭人社会でも古墳が作られる様になると、それらの祭器が地中に埋められ、中には破壊された痕跡を示すものがある事は、古墳の宗教性を採用した人々の意識に大きな変化が生れた事を示している。

つまり倭人社会では稲作者の人間関係や集落間関係が険悪化すると、友好関係を維持する努力として祭が営まれ、銅剣・銅矛や銅鐸などの祭器を使って団結を求めたが、祭は地域集団の閉鎖的なものではなく、隣村の人々も招いて親交を深めるものだったから、祭りに使う青銅器も贈与したり交換し合ったりしていた故に、対立を煽る古墳を形成する様になると、憎悪の対象になり易かったと推測される。

越系文化圏では良渚文化を継承する文化として、古墳を形成して宝物を埋納する密教的な儀式を発達させ、権力者の権威を平和裏に高めるものだったのに対し、祭りだけでは権力者の権威が高まらなかった関東部族系の文化圏では、村落間の緊張が高まると抑止力が利かなくなり、抗争意識が高まって村落間の緊張が抜き差しならない状態に追い込まれ、王の権力を高める手段として越系文化の古墳に着目したが、その目的が密教的な要素ではなく人員の動員力の誇示に焦点化された。大衆文化を重視する倭人文化は、身分の上下を前提とする密教的な宗教に馴染まず、経済対立を宗教によって解消することができなかったからだ。この様な倭人文化が現代日本人にも継承されているから、日本人は宗教教義に関心が薄いと言えるだろう。

大型古墳の形成が武力を誇示する方向に転換すると、古墳作りに忙しくなって祭り文化に時間を割く余裕を失い、祭祀用の銅器を交換していた隣村との関係が壊れ、嘗ての友好の証が邪魔になって意図的に廃棄したと考えられる。銅鐸が作られた時代の地域社会は規模が小さかったが、古墳が作られた時代は鉄器が普及して大型工事が可能になり、それに必要な人員を確保する為に農耕社会が政治的に統合されたから、社会の緊張関係が急速に高まったと想定される。

従って青銅の祭器を使う弥生時代から古墳時代になったのではなく、経済力があった関東系の部族が青銅器の祭器を使う時代と、経済力が最も高かった越系文化圏の対馬部族が、奈良盆地の周辺に大型古墳を作った時代は並行的な時期で、稲作の生産性が高まって農地争いが激化した際の、二つの解決策の様相を示したと考える必要がある。

但し両文化圏が同時にその様な時代に突入したのではなく、関東文化圏では海岸の沖積地の拡大が進行すると自動的に稲作地が拡大する状況があったが、対馬部族が拠点とした古奈良湖岸、古京都湖岸、琵琶湖の南岸は、稲作地が急激に拡大する要素はなかったから、対馬部族の方が切迫感は強かったと想定される。対馬部族は古松本湖岸や古善行寺平湖岸に進出するなど、気候が冷涼である事を顧慮せずに内陸に遺されていた巨大湖岸に入植し、稲作地の獲得を追求した事がその事情を示唆している。

日本の考古学者は古墳の年代を意図的に繰り下げているから、彼らにはこの時代の歴史を論じる資格がない。古墳の年代を意図的に繰り下げているのは、発掘された遺物が中華世界や朝鮮半島の発掘実績より先行していた状態を、世間に知らせたくないからだ。それが露見すると大陸から文化が伝搬したとする、王朝史観が瓦解するからでもあるが、外圧が考古学者をその状態に押し込めている疑いも濃い。

 

6-6-6 天氏を王とする国が多数生まれた事情

古事記は天氏を王とする多数の国があった事を示唆しているので、その真偽と実態を検証する。

天体観測を行う集団は地域に一つあれば良く、それを起源とする天氏が多数の国の王になった事は、海洋交易者の経済活動がその様な状態を生み出した事になる。関東部族が弓矢交易や宝貝交易を組織的に推進した背景に、以下の事情が存在したとすれば、それが崩壊した後に天氏を指導者とする多数の交易集団が生まれた事を、合理的に説明する事が出来る。

1、天氏は集団の発足時から天命思想を持ち、自集団の利益に拘る発想がなかった事が、特殊技能の驚異的な進化の原動力になった。

2、水先案内人を輩出する為には、天体観測を恒常的に行う集団が必要であり、遠隔地の地理を会得する為には、遠距離航行を頻繁に行う集団が必要であり、天氏がその任務に進んで応じた。

3、海洋民族の季節移動や交易の為の長距離移動には、目的地までの航路を正確に知っている船頭が必要だったから、星座や太陽の運行に詳しい者が水先案内人になり、残余は船団を組んでその後を進む状況が一般的だった。

4、天氏が他の集団から尊敬され、経済活動の利益配分を優先的に受け取る権利を有す様になると、天命思想と経済的な利益が結び付き、天氏の人口が増えて思想が進化した。

5、父子伝承を基本とする知識の伝承が、厳しい労務負担に対応する特殊技能の蓄積を、血縁氏族内に留めたから、天氏が関東部族の特定集団になると、天氏に代わる同様な集団は生まれなかった。

縄文中期までの関東部族は、シベリアに渡航して弓矢と磨製石斧の交易を行い、沖縄に出向いて浙江省の塩を湖北省に運び上げ、東南アジアの海洋民族と物資や情報を交換していたが、それぞれの活動には異なる天氏の集団が対応し、水先案内を務めるだけではなく交易を担務する人材も派遣し、南方派と北方派が分離したとすると、歴史事象と整合するだけではなく古事記の認識とも一致する。古事記は海彦と山彦を兄弟とし、それぞれを北方派と南方派に位置付けているからだ。

天氏の呼称は天体に関する知識が存在価値を高めた事を示しているが、その集団が分裂すると星座や太陽の運行に関する知識が偏り、天文知識の集約が非効率になるから、単一集団を維持する事に合理性があった。従って交易を指導する南方派と北方派の上位者として、天体観測に専念する天氏が存在し、星の運行記録と共に歴史記録を集成していたと考えられ、干支はその様な活動の中から生まれたと考えられる。

縄文中期に経済的に繫栄した事を示す、ヒスイ加工品が発掘される遺跡として、多摩川流域や矢尻街道沿いの集落が含まれる事は当然として、那珂川流域にもその様な遺跡が集積している事に着目する必要がある。この集団は高原山を水源とする那珂川の渓谷で黒曜石を採掘し、矢尻を製作して矢交易に参加していたと想定される事は、縄文人の活動期の項で指摘した。しかしこれらの集落に関し、不思議な事が幾つかある。

A、高原山の黒曜石は霧ヶ峰産のものより品質が劣るが、それにも関わらず独立した生産集団を形成し、経済的に繁栄していた事を、発掘された多数のヒスイ加工品が示している。

B、関東の縄文遺跡から高原山産の黒曜石の矢尻が多数発掘され、霧ヶ峰産のものより多い。

C、神津島産の黒曜石は霧ヶ峰産のものと比較し、品質に遜色がないのに発掘数はあまり多くない。

D、霧ヶ峰産の黒曜石の資源枯渇については、縄文後期に膨大な数の矢尻を遺しながら、神津島産の黒曜石の使用量は少なかった事から推測すると、心配はなかった様に見える。

E、それにも拘らず関東部族の人々が、高原山産の黒曜石を使った弓矢を使用していた事は、那珂川流域の人々を優遇する意図が強く働いていたからだと考えられる。

北陸部族も阿武隈川を遡上して黒曜石を採取し、矢を生産していた事が発掘から明らかになっているが、北陸部族の弓矢生産は関東部族の生産技術を模倣したものだから、その模倣の中に高原山の黒曜石を使う事情も含まれていた事になり、関東部族と同列に扱う事象ではない。関東部族は八ヶ岳の裾野と関東を結ぶ太い街道を形成し、物資の運搬の手当ても行っていたから、其処に人的資源を集中投下する方が、生産は効率的になった筈であり、敢えて高原山の黒曜石を使う必要はなかった。

天氏の本流は日立の天津甕星集団だったと推測され、古事記が東に海がある地を聖地と見做し、太陽が西の海に沈む地域を黄泉の国としている事は、その様な場所が天体観測の拠点に相応しかった事を示唆し、天氏の拠点が日立にあった事と整合する。日立にある大甕倭文神社がその事情を示し、新旧唐書の記述もそれを示しているから、高原山の黒曜石が関東に大量に流通したのは、天氏に経済的な優遇措置を与える為に、関東部族の人々が高原山の黒曜石を特別扱いしていた事を示唆し、上記のAEの疑問はそれによって解け、1~5の前提も納得できるものになる。

1~5の前提を関東の漁民の歴史に適用し、天氏を王とする多数の集団が生まれた歴史を紐解くには、交易集団が生まれた縄文早期までの歴史に遡る必要がある。

縄文早期初頭(12千~11千年年前)にカムチャッカ地域からmt-Aを関東に移住させ、1万年前にシベリアとの弓矢交易を生み出し、9千年前の台湾で海洋民族を育て、mt-B4を関東に移住させ、8千年以上前に浙江省に到達してmt-B5+M7bを関東に移住させ、8千年前には湖北省に達していた事は、全て天氏の成果を示している事になり、これらは縄文早期の出来事だった事に着目する必要がある。氷期の海洋漁民は家族で島伝いに遊動していたが、海面が上昇して島影を見ない大洋を航行する必要に迫られると、その継続が困難になって水先案内人が必要になり、天氏が生れたと想定されるからだ。

縄文草創期に海面が急上昇し、ヤンガードリアス期を含む気候の激変が繰り返されると、海洋漁民にとっても危機的な時期が到来したと推測される。それまで可能だった漁労活動が難しくなり、漁労域を変えたり拡大したりする必要が生れたが、それには命懸けの冒険も必要だったからだ。関東部族の漁民はそれを克服する事により、他の部族には真似ができない画期的な時代を迎える事が出来たが、それは海面上昇によって航路上の島が水没し、航路を見失い始めた事が天氏登場の契機になり、天氏の活躍によって関東部族が危機を乗り越えたからであると考えられる。

石垣島にいた北陸部族も同様の天体観測環境を得ていたから、類似した事情によって関東部族に匹敵する海洋民族になったが、後氷期に太陽が西に沈む新潟に帰還した事によって天体観測環境が劣化した事が、縄文時代の両部族の海洋活動に影響を与えたと考える事もできる。

関東部族の具体的な軌跡としてシベリア航路を挙げると、15千年前に気候が温暖化すると共に津軽海峡が生れると、北陸部族は北海道を東回りに周回してアムール川の河口に至り、日本海北岸から北上したツングースの祖先との交易を継続したと推測されるから、北方への進出に出遅れた関東部族がシベリアに遊動する為には、樺太を経てオホーツク海沿岸に向かう航路を避け、千島列島からカムチャッカに向かう航路を開拓する必要があった。彼らは縄張りに厳格なシベリア文化を継承していたから、航路上の漁労権に配慮する必要があったからだ。

海面上昇によって宗谷海峡が生まれると、北陸部族の航路が短縮されたから、北陸部族はアムール川の河口域からmt-Dを渡来させる事も可能になったが、千島列島を使用していた関東部族にとっては、千島列島の島や岩礁が水没して島間距離が拡大し、目印になる山頂の標高が低下したから、島の位置を確認しながら航行する事が難しくなった上に、昼間の航行だけでは目的の島に到達できなくなった。それによって天体と海流に詳しい水先案内人が必要になり、天氏の祖先がその役務を担ったと推測する事に合理性がある。多数のmt-Aがカムチャッカ地域から関東に渡来する為には、操船技能の向上が不可欠だったからだ。

天氏の祖先がその航路を頻繁に往復し、天氏の屈強な男性達が海流の状態を観察していたとすると、その期間に関東に残された家族の食料は、他の集団が補填するなどの協業関係が必要になったが、人間関係が形成されれば、その様な状態は容易に成立し得る。この段階で天氏と言われた集団が成立したのではなく、各地域集団の中にその様な役割を持つ家系が生れたのかもしれないが、彼らは同一の目的で行動したから、その様な人々が集まって必要な技能を高める過程で天氏集団が成立したとすれば、数世代で職能集団化しただろう。

職能集団化した人々の家族は、元の集団に残っていたかもしれないが、mt-N9bも船を操って漁労を行う女性だったから、その様なmt-N9bが集まって特異な技能集団を形成する事も、論理的には可能だった。例えば基本的な漁労活動が操船者と刺殺漁労者のペアで実行され、それを男女が担っていた場合、天氏の女性達はそれを女性のペアで実施する技能を高めたかもしれない。栽培系狩猟民族では男女が栽培と狩猟を分担したから、その両輪である男女ペアが共生しなければ、食生活は成立しなかったが、明確な男女の分業が生れていなかった海洋漁民の社会では、ペアが長期間離れていても食糧の自給が可能だった事が、天氏が生れる重要な基幹要素だった可能性は高い。その様な天氏の世話になる他の漁民が、豊漁の際に天氏の女性達に差し入れする事は、十分にあり得た事情でもある。

縄文人との共生の結果として漁民が穀類を入手できる様になった事は、極めて重要な意味を持った。漁民にはドングリを解毒する能力がなかったから、ヒエやコメが天氏に優先的に配分される体制が整えば、男性達が長期間海洋上にいる状態が生れても、女性達の食料が欠乏する状態は生れなかったからだ。コメは携帯食として優れた素材である事は既に指摘したが、携帯時間を長期化できるモチ種が生れると冒険的な活動が一層容易になった事も、関東の天氏の文化が発展する重要な要素になっただろう。

海洋漁民は海難事故率が極めて高く、特定の血縁集団に知識を集約する事は極めて危険な行為だったから、集団内では全員がある程度の知識を持ち、指導者が失われても代行者が登場できる状態が必要になり、貴族層が出現し難い状況があった。しかし皆が庶民である状態では知識や技能の進化が遅いから、海面上昇期の様な危機的環境が急激に生まれると、貴族層が特定知識を持つ集団が生まれる環境が整い、貴族層は地域集団の技能者を育てる集団にもなり、農耕民族より極めて数が多い貴族層を生み出したと推測される。漁労活動には指揮者が必要であり、漁労知識を集約できる人材も必要であり、造船や漁具の製作に優れた者が専業化し易い環境もあったから、それらを担う人材的な貴族層と、天氏的な貴族層が混在しながら生れたと考えられるからだ。

天氏集団が交易地で相手と交渉する技能には、更に多岐に亘る技能が必要だったから、天氏だけではなく地域漁民からも優秀な若者が選抜され、更に多様な天氏集団を形成する必要があった。海洋技能を高める為に集住していた漁民達には、その様な傾向は以前からあったが、色々な機会を経てそれが強まり、更に特殊な集団に進化したと考えられる。

マーケティング理論ではこれらの可能性がすべて事実だったと主張する必要はなく、色々な可能性の中の実現性が高いもので、進化の過程の説明になる蓋然性が高ものであれば、「それが原因だった可能性が高い」と判断し、結果が明らかであれば過程を事実証明する必要はない。しかし蓋然性が高い過程を挙げて置く事により、それが他の事象の説明に役立つ場合が生れ、全体像の把握に貢献する事になるから、必ず一つ以上の過程は上程して置く必要がある。

天氏の様な特定知識集団は、天文や海流に関する知識を広く集め、その体系を継承する大集団になる必要があったから、拡大時には血縁を越えて人材を集める努力が為されたと推測される。平穏な時代にはその様な事は起きなかったかもしれないが、海面が急上昇すると共に気候が激変した縄文草創期~早期は、海洋漁民がそれを求めざるを得ない時代だったから、後世の人から見ても驚異的であると思える集団が生れたと考えられる。

海洋に関する技能は多岐に亘るから、分業によって技能の高度化が実現したと考えざるを得ない。11千年前にオホーツク海北岸から多数のmt-Aを関東に招いた技能は、社会の分業化によって得られたと考える事に、疑念を許さない程の確実性があるからだ。日本人に多数のmt-Aが含まれているが、これは主に関東縄文人の遺伝子で、東北縄文人や北海道縄文人には含まれていなかった事がその論理的な証拠になるが、論理体系が生み出す結果であって直接の証拠ではない。つまり北海道縄文人(壱岐部族)や東北縄文人(伊予部族)が北海道や東北に移住する前に、多数のmt-Aが関東に渡来した事情を、地理的な環境変化や気候変動を参照しながら紐解くと、この様な結論が論理的に導かれるし、天氏の誕生もその事情から推測すると上記の様な結論になるが、縄文人は部族社会を形成していた事がこの論理の背景にあり、それらを基底にマーケッティング理論を応用した結論であって、実証できない事は論理化しない科学的な結論ではない。

多数のmt-Aを関東に招いたのは天氏に先導された漁民集団だったが、関東に定着したmt-Aが優秀な漁具を製作すると、漁労の生産性が高まって漁民の人口が増えたから、不足する獣骨をシベリアから入手する必要が生まれた。その為の交易活動を開始したのも天氏だったと想定する事は、此処までの話の流れから素直に帰着する。縄文文化の形成期の項では説明できなかった経緯が、天氏の活動を想定する事によって歴史の流れとして完結する。事象の断片がジグソーパズルの様に当て嵌り、一幅の絵柄が生れると、科学的な根拠が確実ではなくても、工学やマーケティングではそれらの要素事象を確実視するが、これは正しくその状態であると言えるだろう。

この様な絵柄がない状態で、データだけを並べても得られるものはない。遺伝子の系統樹が緻密化し、各民族の分布が調査されているが、歴史の絵柄がない状態でその分布を精緻化しても、得られる情報は皆無に近い。苦し紛れに現在の分布に矢印を付け、歴史的な人類の拡散と銘打っている人達がいるが、見苦しい真似は止めた方が良い。

縄文早期の天氏が高原山の黒曜石を使い、シベリアの狩猟民族との弓矢交易を開始し、その事業を拡大した事によって八ヶ岳山麓の繁栄が生れたとすれば、彼らの事業が特別視された理由が明らかになる。獣骨の需要が高まると多数の漁民集団がその交易に参加し、恒常的な事業に発展すると黒曜石の採掘地を、品質が良い石が多量に採取できる霧ヶ峰に変え、弓矢を製作する人々も関東の多数の縄文人に代わったからだ。その様な状況の最適解として、部材を生産する拠点と最終組み立て地が生れ、それらの地域を結ぶ流通経路が生れ、最終生産物である弓矢を満載した関東の漁民の船が、日立の天氏の導く航路を辿る為に、多摩川の河口から出港する様になった状態を、矢尻街道の繁栄から窺う事ができるからだ。

それらの多数の交易船は天氏の船に先導され、伊予部族が開設した是川や大船の湊を経て北海道を東回りに周回し、樺太の沿岸からアムール川河口に向かう様になり、日立の天氏が特別な人達である事を継続した状況が、縄文人の活動期に掲げた事績をカバーする。つまり那珂川流域は弓矢交易の発祥地だったから、関東の人々はそれに敬意を払い、できるだけ高原山の黒曜石や那珂川流域の弓矢を使い、天氏の経済力を支え続けたと想定する事ができるし、天氏は水鳥を捕獲して矢羽根を集めていたY-C1の為に、シベリアの狩猟民族が野獣を狩る目的の弓矢とは異なる、鳥を捕獲する為の弓矢を生産したから、高原山の黒曜石で作った多数の矢尻が関東に残されている可能性もある。

関東部族の天氏に南方派と北方派が生れたのは、天文知識は共有財産だったが航路の事情は北と南で大きく異なり、それぞれ別の集団が担務する必要があったからだ。つまり天氏には単一の天文集団になる必然性があったから、分裂する集団ではなかった。改定古事記には登場しないが、原古事記では天武を暗喩する為に登場していた甕星は、北方派と南方派を統括する家系で、北方派は北関東の沿海部を拠点とし、南方派は相模湾や駿河湾を拠点としていたと考えられ、古事記もそれを前提にしている。

原古事記では、「天孫降臨した天忍穗耳命が、大山津見神の娘のアタツヒメ、亦の名を木花ノサクヤヒメと結婚し、海彦山彦の兄弟が産まれた」と記されていた想定されるが、富士宮市の浅間神社の主神が木花ノサクヤヒメである事が、この地域が古墳時代の南方派の拠点だった事を示し、山田長政が駿河の出身だった事と結び付く。またこの地域の人々は、古事記が提案した思想の推進者だった事も示している。

 

6-6-7 交易の先導者でもあった天氏

交易に限らず全ての事業には必ず揺籃期があり、需要が拡大すると成長期を経て成熟期に変化していく。遠隔交易の揺籃期は特定の小集団による可能性の発見によって始まり、有望であれば他の地域集団も参加して成長期が始まり、生産や流通の合理化によって成長の階段を上り始める。文献も広報誌もなかった古代の海洋交易では、新規参入者はビジネスチャンスを掴んだ集団の指導を仰ぐ必要があった。

弓矢交易のビジネスチャンスを掴んで恒常的な交易に発展させたのは、積極的に航行活動を行っていた天氏だった可能性が高く、ビジネスの通常の流れでは、多数の海洋漁民が参加する様になっても天氏が交易の主導権を握り続け、それに参入した他部族は所謂チャレンジャーになる。北陸部族は生産量を需要に合わせる為に作られたチャレンジャーで、沿海州を交易圏とした出雲部族と対馬部族の連合体は、モンゴル系の狩猟民族の需要に焦点を合わせたニッチチャレンジャーだった。

事業のパイオニアには先行者としての知名度があり、恒常的な技術革新のリーダーの地位を維持し易い上に、事業から得た利益を再投資して生産力を高める事も容易だから主導権を維持し易く、交易上の安定供給者になった。関東部族と北陸部族の主要な交易相手は、息慎を介した南北遊動型狩猟民族の子孫であるY-C3mt-Aペアで、彼らのニーズに適合した弓矢を量産していたと推測される。

ニッチチャレンジャーだった出雲部族と対馬部族は、森林の狩猟者だったモンゴル系民族の為に弓矢を生産していたと想定され、縄文人の活動期の項で説明した石刃鏃が使われなくなったのは、出雲部族と対馬部族がモンゴル系の狩猟民族に弓矢を供給し始めたからで、関東部族の生産を北陸部族が補った事とは直接の関係はないが、シベリア全体の需給関係としてある程度の連動性があり、現代の産業社会から連想できる状況が弓矢産業でも展開していた事を示している。

伊予部族は航路の湊を提供する事によって関東部族の同盟者になったが、この様な集団の出現が成長期の常態になる事も、現代の産業社会では極めてありふれた事情になる。

技術革新によって代替的な新しい商品が生まれ、それによって商品が世代交代すると、主導する企業集団も変わる事も一般的な事情になり、縄文中期に青銅器が出現するまでは、その様な事態は起こらなかった事を、中部山岳地帯の多数の縄文遺跡が示している。関東部族は霧ヶ峰の豊かな黒曜石資源と、八ヶ岳山麓で得た広大なウルシ樹の栽培地、関東平野に広がる湿原での水鳥の捕獲、温暖な関東平野での竹とアサの栽培で、優位な生産状態を維持し続けたからだ。

弓矢交易の成長期に天氏から多数の人材が排出され、海洋を航行する際の先導や、粛慎や息慎との折衝を担った事を疑う余地はなく、それによって天氏集団が巨大化し続ける事は、鉄器が出現して海洋漁民が欲しい物品が、獣骨である事情が失われるまで変わらなかった。弓矢交易に陰りが見え始めた縄文中期に、華北の栽培系狩猟民族との交易に注力し始めた事は、それを承知していた天氏が、関東部族の獣骨の入手に責任を持ち始め、関東部族の交易を主導する責務を自覚していた事を示している。

つまり縄文中期までの天氏は、南方派も北方派も一体的に活動していたから、南方派が塩を湖北省に運び上げる為に沖縄に移住し、その実行の為に多数の漁民を挑発しても、北方派はそれを南方派との競合関係とは認識していなかった可能性が高い。南方には多種の植物資源があり、北方派と南方派の利害関係は完全に一致していたからだ。

矢尻街道の繁栄事情が、商品価値が高い弓矢の大量生産に必要な高度な技能は、専門性が高い狩猟民と栽培民に任せた事を示しているが、それは職能の分担によって実現した事情だから、矢尻職人が贅沢な生活を満喫できた事も含め、職業の専業化が進んだ事を示している。それは陸上だけで起こった事ではなく、海洋漁民と天氏の間にも、類似した分業関係が生れていたと考える事は常識的な推論になる。

海洋漁民は4万年以上前から東京湾に集積し、技能を交換し合って海洋文化を高めていたから、関東の漁民達の海洋漁労の道具や仕方に類似性があり、各漁労集団の航行能力に大きな差はなかったと推測され、漁民集団の中に交易の詳細を知っている者が少数いれば、彼らを核にした地域的な小集団も、交易に参加する事が可能になったから、彼らの活動は一見統合的な組織に見える状態になっただろう。

つまり均質で質の高い労働者予備軍が多数いたから、水先案内人を兼ねた交易現場の実務指導者が少数いて、彼らが的確な実務方針を明確に提示すれば、雑多な地域集団の漁民の儘であっても、恰も統一的な組織であるかの様に高度な交易活動を行う事ができた。特に大型魚を捕獲する為の組織化を経験していた漁民であれば、組織的な活動の仕方を訓練する必要もなかった。従って弓矢交易が盛んになると、獣骨が豊富になった事と併せ、漁民に鯨漁などの大型魚の捕獲を目的とする漁法が浸透する事も、必然的な結果だった。

また天氏の側にも色々な任務が必要になり、航路の事情に合わせた船体や航法の開発や、各航路上で必要な食料を調達する為に各地域それぞれの海域に特有の、季節的な漁法の開発も重要な案件だった。何をどの様に行ったのか具体的には分からないが、天氏集団が必要とする技能は多岐に亘ったから、多数の人材が必要だった。但しその殆どは特に高度な身体能力を必要とするものではなく、一般的な漁民にも可能なものではあったが、必要性を認識しなければ動機が生れないものだったから、天氏は特殊な技能集団化したと想定される。

その様な食料生産者としては非効率なミッションを実施する為に必要な原資を、天氏を必要とする他の漁民や縄文人から集める事ができれば、この集団は永続的に存続する事ができたから、弓矢交易と貯蔵可能な穀物生産が、この様な集団を育てたと考える事ができる。稲作者になったmt-B4がその目的の為にコメを供出していたとすれば、彼女達は貯蔵が困難な海産物を入手する為にコメを生産していた事になり、必要以上にコメを生産する動機が生れなかったから、社会主義的な栽培地の分配に不満を持つ事はなかったと想定されるが、余剰米が生れてその処分権が彼女達に帰属する時代になると、稲作地の配分に神経質になっただろう。

交易の際に派遣される天氏の人材は、親元集団の交易状況を熟知し、それに基づく適切な指示を出す必要があったから、弓矢交易が高度化するに連れて必要な認識力が高まり、天氏に貴族層が生れる環境を高めたと考えられる。従って粛慎や息慎の貴族層と交渉して政策決定を行う高級貴族層と、彼らの下で水先案内を行いながら交易実務者を兼ねる実務貴族層が生れ、各々の人材を育成して交易実務の効率化を図っただろう。

これらは人々が目的を共有化しながら集団規模を拡大すれば、その過程で必然的に生まれる事情であり、それが血統的な貴族層だったのか、実力を重視する貴族層だったのかは課題になるが、階層組織が生れた事は間違いない。交易量の膨張に対応しながら、実務者に指示が出せる有能な人材が必要になる事は、必然的な結果だったからだ。

その様な人材は常に交易活動の先頭に立って指導する事を使命とし、それに必要な能力を得る為に日々精進したから、農耕民族の権力者の様に、高貴な物品で身辺を飾って権力の存在を誇示する必要はなく、人々と距離を置く事によって高貴な人であるかの様に見せ掛ける必要もなかった。

後世の話になるが、梁の職工図と呼ばれる各国の使者の服装を絵画化したものが流布し、倭人の服装が貧弱であると指摘されているが、海洋民族の指導者としては当然だったと考える必要がある。魏志倭人伝も倭人は「ひと幅の布を腰に巻いているだけだ」と記し、農耕経済が繁栄していた古墳時代の奈良盆地の貴族の様に、着飾って身分を示すものを身に着けてはいなかったと指摘している。関東部族の強みは、漁労文化や交易に必要な操船文化だったから、弥生時代まで漁民が主導する文化圏を形成していたが、対馬部族は奈良盆地で稲作に成功すると、海洋文化から農耕文化に移行して越系文化を受け入れた事を示している。

縄文後期以降の漁民団は関東への一極集中を止め、稲作者と共に他の地域に入植し始めたが、海洋航行に必要な天文知識を持つ集団は分散できなかったから、その様な天氏から必要に応じて漁民集団に派遣され、地域に土着した人材が、次世代を教育する際の最も合理的な方法は、日立の天氏の下に修行に出して星座や天文の知識を勉強させ、帰郷した地域に必要な技能を配布する事だった。その様な人材が各地の交易の指導者になると、天氏を名乗るか否かに関わらず、諸王と天皇の関係が生まれる素地が形成された。

天氏を頂点とする交易体制は、縄文前期には完成されていたから、矢尻街道の繁栄が生れたと考えられるが、弓矢交易が盛んな時代には組織と資源を集中する事によって効率を高めたから、諸王と天皇が生れる関係は、弓矢交易を失って多元的な交易を求める必要が生れた、縄文後期以降だったと考えられる。多元的な交易にも集団の統制力は必要であり、商品の開発や流通に成功すると集団規模が大きくなり、統制力も強くなる傾向があるから、縄文後期以降の地域集団の階層形成も、縄文前期以降に強められた慣習的な階層関係の、延長線上にあったと推測され、地域政権に王が生れたから身分階層が強化されたと考えると誤解を生む。

地域に王が生れたのは、地域独特の交易を行う為にはそれに見合う法規が必要になり、それを管理する者が王と呼ばれたのであって、独特の技術は現場から生まれる事が一般的だから、むしろ官僚主義的な傾向は排除する必要があった。現代の企業例を見れば分かる様に、社長の権限の強さや範囲は業態によって異なるから、この時代も同様だったと考える必要もある。それらの推測の根拠として、聖徳太子が制定したとされる十七条の憲法が挙げられる。一朝一夕には生れない高度な認識が羅列され、実力主的な海洋民族の活動指針を、集大成したものである事を示唆しているからだ。十七条の憲法の詳細は、(9)旧唐書・新唐書の項の末尾を参照。

石器時代の知識の伝承体系として、年配者が若者に集団的に伝達する知識体系と、父から息子に伝えられる技能体系があり、父から息子に伝えた技能は漁労と操船技術だった。貴族層にとって最も重要な知識体系は、年配者が集団的に伝達する、他民族との約束事を伝える祖先伝承だったが、天氏の下で天文的な知識を習得する必要もあった。天文知識がなければ船が難破して漂流した場合、帰還できるか否かは命に直結する事だったからだ。その様な天氏の技能伝達には、地域集団の祖先伝承にはない、部族間や大陸民族との契約関係が含まれていたと想定される。

長距離航行を行う天氏の場合には、天体観測による位置確認が重要な知識要素に含まれ、それは遠洋航海中の実務的な技能でもあったから、その知識を集積して伝承する為には特殊な家系が必要だった。その家系が一つしかない状況は不安定だから、地域集団の王の家系が固定する事はあっても、天氏の最高位者は複数の家系が担う必要があった。その結果として天氏の最高位が天皇になっても、天皇を輩出できる家系は常に複数存在する習俗が生れたので、以下ではそれらを宮家と呼ぶ。

稲荷山古墳から発掘された系譜がその形態を示し、宮家の子孫は3代まで天皇になる為の知識と技能を修練する必要があり、それ以降はその義務から解放された事を示している。知識と技能を修練する場は交易の最前線で、彼らの活動によって新しい交易が開拓されたが、人材の制限によって活動集団の数は限られたから、この制度によって生まれる集団の数が、関東部族では新しい交易を開拓する最適数だった事を示唆している。

王朝史観に毒されると、天皇は権力の頂点に立って贅美を尽くした宮殿に住み、多数の妃妾を侍らせる優雅な存在であると錯覚するが、古事記は南方派の指導者が笠沙の御崎にいた事を指摘し、交易の最前線で多くの経験を積む必要があった事を示している。つまり海洋交易者には遭難リスクが常在するから、必要な知識を備えている代替が常に準備されている必要があった。

縄文前期~中期の南方派の指導者は、沖縄に常駐して湖北省に塩を運び上げる事は元より、アワ栽培者の居住域だった華北にも出向き、交易実務を経験する必要があったが、暴力的なアワ栽培者との交易にもリスクは常在しただろう。

漢書王莽伝が「東夷王が大海を度り、国珍を奉じた」と記し、後漢書が「倭国王等が洛陽に出向き、皇帝との面会を求めた」と記し、長安や洛陽に倭国王や諸王が出向いた事を示しているは、倭国王や諸王は交易の最前線にいたからだと考える必要がある。

関東の漁民は一生の間に数度の大航海を行ったのに対し、指導集団は毎年出掛けて各地の状況を把握する必要があり、その様な激務に従事していた指導者の船上生活は長く、航路上での海難率は極めて高かったから、本人の寿命だけではなく家系の断絶率も高く、複数の宮家を必要とする認識は極めて現実的なものだった。その様な宮家が交易活動の最前線で活動したのは、先に示した天命思想があったからだと推測され、多数存在した宮家の中で、交易を活性化できた宮家のランクが上昇したが、そこに至らずに歴史の闇に埋もれた宮家も、多数あったと推測される。9千年前に台湾からmt-B4を移住させ、関東に稲作地を手当てした集団と、浙江省からmt-B5+M7bを招致した集団と、湖北省に進出して荊の為に塩を運び上げ始めた集団と、荊が生産した黒陶を華北で栽培系狩猟民族に販売する端緒を形成した集団は、母体は同じであっても、それぞれは分家した宮家に率いられた集団だったと考えられるからだ。

学術集団としての天氏と、交易集団としての天氏は、発足当初は一つの集団だったかもしれないが、ビジネス規模が大きくなると交易集団の天氏が主導権を握り、最上位者としての天皇を輩出したと推測される。古事記がこの事情を海彦山彦説話で示しているので、説話の詳細はその7で検証するが、縄文後期に南方派と北方派が分離し、それぞれが複数の宮家を抱えたと考えられる。

 

6-6-8 九夷と倭

九州の大率は北方派の天氏だったが、九夷を主導したのは南方派の天氏だった。

竹書紀年にが登場しない理由は、倭は呉の背後の存在として呉と共に、意図的に記述を排除したからだと考えられ、史記の姿勢と一致している。史記が倭について記さないのは、周王朝からその様な歴史観を継承したからであるが、漢代には存在していなかった呉越については、嘘の歴史物語を創作する事ができたのに対し、実在する倭について嘘を創作すれば倭から抗議を受け、事実を流布される恐れがあったから無視を決め込んだとも言える。

倭人は史記や漢書の捏造に対し、それらの史書に子孫はいなかったと記された太白の子孫であると公言し、それらの史書は嘘である事を暗示する程度だった。王朝との対立は交易の支障になると考え、自重したのではなかろうか。この様な王朝への暗黙の圧力が、倭人の中華交易を黙認させる手段として使われたと推測される。

竹書紀年の夏王朝期の記事に九夷が登場し、殷末の記事に九侯が登場し、漢書に九夷が登場するのは、周王朝も漢王朝も九夷は倭ではないと認識していた事を示している。

九夷は俀の分派的な交易集団として渤海交易を担務したから、竹書紀年に「(夏王朝の)帝芬三年、九夷來御」「(殷王朝最後の)帝辛元年、王即位。九侯、周侯、邘侯に命じた。(主従関係を形成した)」と記され、史記にも同時期の記事に九侯の記述がある。また論語には、孔子は九夷に航行歴があったかの様に、「子、九夷に居さんと欲す。」と記されている。

論衡に「成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ」と記され、竹書紀年の周代の記事に越裳於越が登場するのに倭が登場しないのは、周の正史には倭に付いても記されていたが、それを抜粋した竹書紀年では無視されたか、周の正史が倭と呉に関する記述を忌避していた事を示唆し、殷周革命を起こした際には援助した夏王朝と、西周の関係がその後悪化した事を示している。

華北交易を担う海洋民族が九夷からに代わったのは、華北夏王朝が滅んでから殷周革命に至る間だった事を、北九州の甕棺墓の歴史的な変遷が示している事をその3で指摘した。気候が冷涼化して毛皮交易が活性化すると、北九州連合が濊と組んでその交易に参加し、殷人と抗争を始めた濊を軍事的に支援したから、その戦死者が北九州の甕棺墓に埋葬されたが、薩摩半島に甕棺墓が形成されたのは極めて短い期間で、地域も限定されていた事が、毛皮交易に消極的だった九夷の並立事情を示している。

古事記の神武紀に綏靖天皇の即位の際の出来事として、神武が阿多に遺した子を綏靖が殺したと記し、この事件の顛末を暗喩している。つまり北九州の甕棺墓や支石墓は、北方派が毛皮交易の活性化の為に遼東に派兵し、濊と共同戦線を構築した事を示唆し、その為に生まれた大率に就任したのは北方派の天氏だった。大率は同格の部族集団を率いる職制だから、関東部族だけではなく対馬や行橋の対馬部族や、壱岐や大村湾岸の壱岐部族、有明海沿岸の関東系漁民を糾合していたが、多数の兵士を提供したのは関東部族系の人々だった事を、支石墓や甕棺墓の分布が示している。

縄文後期温暖期に、福島のmt-M7aが稲作者になる為に九州南部や四国南部に移住したから、北関東のmt-B4がその空白地域に北上したが、縄文晩期寒冷期に熱帯ジャポニカの稲作に行き詰った。荊の温帯ジャポニカ栽培が同時期に不振になったから、関東部族の北方派が福島のmt-B4を揚子江以北に送り込むと、荊が関東部族の北方派に「倭=わ」の名称を贈呈したから、北方派の商圏になった華北で「倭=わ」と呼ばれ、それが俀の名称塗り替えたと考えられる。俀の旁は女性と手の合成で、女性が宝貝貨を加工する人々を指したが、倭は優れた稲作女性がいる集団を指したからだ。

対馬部族や出雲部族がこの出兵に参加した事を示す甕棺墓や支石墓は、それらの部族地域から発掘されていないから、出兵した関東部族には天氏の天命思想が浸透し、mt-B4の影響を受けた小集団が関東部族に賛同したが、越系文化を受け入れた対馬部族や出雲部族は、経済的な支援に留まった事を示している。

渤海沿岸の動乱によって交易環境が悪化すると、南方派である九夷は渤海交易から手を引き、渤海沿岸の民族に塩を供給していた北九州の北方派が倭に参加し、北九州の諸部族を再編して華北交易を継続し、濊との協力関係を高めた事が遼東への出兵に繋がったとすれば、それは天命思想の結果だったとも言える。九州の大率の居所を「伊都国=貴人が塩を商う邑がある国」と命名した事が、その事情を示しているからだ。動乱と気候の寒冷化に苦しんでいた漢族のmt-D+M8aを関東に送り込んだのも、その様な北九州の人々の活動の一環だった。

北九州弥生人には、濊の女性が渡来した事に起因する遺伝子が、甕棺墓に多数葬られた事を指摘したが、それは縄文後期温暖期が終了して華北夏王朝が滅亡すると、暴力性を露にした殷人と戦ったのは濊と北九州の人々だけではなく、遼東の漢族もその闘争に参戦したから、遼東から多数のmt-D+M8aが渡来したと考える事もできるが、甕棺墓に葬られた遺体にmt-D5が含まれていない事は、積極的に戦ったのは濊と北九州の人々で、漢族は逃げ惑う状況に終始していた事を示している。天命思想がシベリア起源だったのであれば、それは当然の事だったとも言える。

論衡の著者である王充は、漢書の著者だった班固の父の班彪に師事したから、王充も殷人系譜の人だったが、論衡に「周の時天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ぐ。」と記している。成王が即位すると殷人が大規模な反乱を起こしたから、周が先鋭化して漢族を組織し、各地に屯田兵を配置して軍事拠点を形成し、殷人を狩り立てるエスニッククレンジングを実施したから、「周の時天下太平」だった筈はない。

殷人も大人しく追い出された筈はなく、各地で戦闘が繰り返された筈だが、論衡の著者は祖先達のその様な苦闘を隠して上記を記述したのは、漢王朝の安泰の為だったとしか考えられない。史記は「殷人の反乱は殷人の本音ではなく、周代に殷人が迫害された事実はなく、殷人と呼ばれる実態もなかった」と主張しているから、それを継承した事が見え透いている。周と親交があったのは祖先系譜が同じ越裳だけだったが、それだけでは天下太平の真正性が乏しいから、塩を販売しながら平和の使者の役割を担っていた倭も、不本意ながら併記したのではなかろうか。

これを敷衍すると漢書地理志も、道徳的な九夷に移住したがった孔子について記述した後に、「楽浪海中に倭人あり・・・・歳時に来て貴人と合う」と記したのも、前漢王朝期は平和だったとの主張も兼ねた事になる。

後漢書に「奴国は倭の極南界にある」と記され、遼東への出兵を拒んだ薩摩半島の関東部族に対する、北九州の主張を示しているが、関東の倭人は別の見解を持っていた可能性もある。古事記が綏靖天皇の即位に関する説話を記した事は、この時期の薩摩半島の関東部族は、北方派から破門を宣告された事を示しているが、話は単純ではない。

遼東に出兵した兵士の多くが死体になって帰還しているのに、出兵を拒んでいた薩摩半島の人々に対し、「お前らは倭人=関東部族ではない」と言いたくなるのは、誰もが共感する感情でもあるから、それを代弁する事は古事記の説話としてあり得る事だが、綏靖の次の懿徳天皇大倭日子鉏友命漢字は、倭が拡大した事を示しているからだ。また綏靖天皇が殺したのは多芸志美美命だが、懿徳天皇の子に多芸志比古命があり、比古美美も諸王の称号だから、倭が拡大した対象は南方派だった事を示唆しているからでもある。

「奴国は倭の極南界にある」と記された時期は、再度気候が寒冷化して縄文晩期の状態が再現した時期だから、北九州の人々が過去の記憶を取り戻した時期でもあった。古事記が指摘した過去の怨念には、この様なものも含まれていた可能性がある。

 

6-7 倭の組織化

6-7-1 漢字が示す夏王朝の変遷

夏王朝の中核メンバーだった荊、呉、越、倭を識別する漢字は、宝貝貨の運用規約には必須の記号だから、先ずそれらの識別記号が漢字として定着し、その後に色々な意味を持つ漢字が生まれたと考える必要があり、五帝代の早い時期に生まれたと推測される。竹書紀年では華北夏王朝末期のがこれらの初出だが、五帝時代最後の帝舜の事績に息慎が登場するから、荊、呉、越、倭の名称はそれ以前に遡るだけではなく、民族である事を示す語順熟語が生れていたから、遥かに遡ると考えられる。

漢字が生まれていたと想定する理由は、竹書紀年の華北夏王朝末期の記述である、「帝癸二十一年、商が帥いる(群集?)が有洛を征し之に克つ。遂に荊を征すると荊が降った。」は、湖北省や南陽盆地の稲作民をとし、それには青州の稲作民は含まれていないからだ。縄文後期に青州に入植した稲作民に、名称がなかった筈はなく、その名称が夏王朝の法規に記されていた事は間違いないからだ。

その筆頭候補がである理由は、呉には倭人語があるが荊や楚にはなく、「湖北省の稲作民が遠隔地に入植した地域」を意味する、倭人語の「くれ」の名称規則と合致するからだ。

竹書紀年のの初出は春秋時代まで降り、BC473年 於越が呉を滅した。」記され、その後BC378年 於越が呉に遷った。」「BC365年 於越の太子諸咎は其君の翳を殺した。十月,越人が諸咎を越滑で殺したので、呉人が錯枝を立孚して君とした。」と記され、越の記事に付随的に登場するものだけで、呉が何かしたという記事はない。つまり竹書紀年は呉が滅んだ事を確認した後で、その残党の動静は記事にしたが、呉の起源や事績に関する記事は全く掲載していない。夏王朝と敵対した周は、夏王朝の中核集団だった呉に敵意を持っていたから、その時期の呉についての記述を極力避けたが、呉が越に吸収されて夏王朝の機能が楚に移行した時点で、衰弱した呉の記事を喜んで掲載したとの印象は拭えない。

春秋時代の記事だけではなく、周代の記事にもの表記を意図的に避けた痕跡があり、それに付いてはその8で説明する。

史記や漢書は竹書紀年より信憑性が低いが、両書が呉は荊であって呉の起源は殷代に遡ると記している事も、竹書紀年がに関する表記を意図的に削除した証拠になる。漢王朝も呉が存在した事を認めたくはなかったが、創作物語で貶めてもが存在した事は認め、であると記しているからだ。歴史を捏造するにしても、幾ばくかの真実を背景にしなければ只のお伽噺になるから、呉が荊だった事は事実だったと推測される。

従って竹書紀年の夏王朝期の記事に、に関する記載がない事は、青州の稲作民がと呼ばれた可能性を否定する証拠にはならず、縄文後期に青州に移住した荊は越人やアワ栽培者からと呼ばれ、倭人は「くれ」と呼んでいたとの推測が成立する。

五帝時代最後の帝舜の記事に息慎が登場する事も、漢字が生まれたのは夏王朝期ではなく、五帝時代に呉、越、倭の連合体が宝貝を運用しながら共生する為に、規約を作成する過程で漢字文化が進化した証拠になる。この時期の民族名は1字だから、複合的な意味を持つ2字名称はその発展形になり、漢字文化がある程度成熟した時代の呼称だから、漢字は五帝代の早い時期に生まれた証拠にもなる。

従って呼称も同時期に製塩集団を指す為に生まれた筈であり、竹書紀年には呉に関する記述は殆どないが越に関する記述はあるから、その追跡によって呉の動静を推測する。

周の成王の時代に、越裳氏と呼ばれたフィリッピン越と於越が登場し、縄文後期温暖期が終了すると荊と製塩業者が青州から南下し、浙江省に戻った製塩集団が於越、フィリッピン越が越裳氏、北陸部族が越常氏になり、於越が越同盟の中核国になった事を示している。これを経済的に解釈すると、浙江省に南下した製塩集団が北陸部族の海運を利用し、フィリッピンから絹糸を買い付けて浙江省に南下した呉に高級絹布に仕上げさせたと推測されるが、絹布は縄文後期の前葉には存在したから、その仕組みは縄文後期に生れ、縄文晩期寒冷期に於越と呉が南下しても継続したと考えられる。

寒冷期には絹布の需要が低調だったから、塩を凌ぐ商流にはならなかったかもしれない。荊の人口も経済力も低迷していたから、製塩業者の為のコメの入荷が不十分になり、粤が焼畑農耕を取り入れて広東に南下する動機が生れた時代だったからだ。広東にはタロイモを栽培するmt-M8aがいたから、日本でアワ栽培者と稲作者の共生が生れた様に、広東で稲作者とイモの栽培者の共生が始まったから、現在も数%のmt-M8aが残っていると考えられる。

弥生温暖期になると、西ユーラシアで絹布や香辛料の需要が爆発的に増加したから、それが越同盟の主要な産業になり、その圧倒的な経済力が呉を支配する様になったから、BC473年 於越が呉を滅した。」と竹書紀年に記された。

フィリッピン越が養蚕や香辛料の栽培などを行い、インドネシアの海洋民族がそれをインド洋に持ち込むと、それらの利益率が高い商品がインド洋交易を活性化し、やがて絹布がインド洋交易の花形商品になったから、越は漢字の使用を止め、インド洋沿岸で使われていた音素文字を使う様になったと想定される。

この事情は、石器時代には東アジアが文明中心になったが、金属器時代になると金属の生産力に優れた黒海沿岸、穀物の生産性が高い地中海南岸、東西文明が交錯するペルシャ湾沿岸が文明中心になり、縄文晩期に息慎が滅んでシベリア交易路が失われ、同時期にスエズの海峡も失われ、地中海が西ユーラシア人の内海になった事が、西ユーラシアの経済発展を極大化させる事に繋がり、東ユーラシアはその巨大市場に商品を送り込む、生産地になった事を示している。その背景に小麦の生産性の向上があり、小麦の栽培地は森林を切り開く事によって得られたが、石器時代の水田面積は限られ、穀物の生産量に大きな差が生れていた事が挙げられる。

東アジア最大の民族になった荊が農耕民族的な豊かさを追求した結果、鉄器時代になって経済事情が大幅に変化すると、それに対応できずに絹布を下請け生産する民族になった事が、その事情に追い打ちを掛けた。内陸の農耕民族は夏王朝に積極的に参加したが、宝貝を容易に採取できる海洋民族は参加できなかった事が、越の離脱を阻止できない夏王朝の限界を示したとも言えるが、荊と関東部族の共生が青州で成立しなかった事が、根本的な原因だったとも言えるだろう。それが秦の征服と、その後の動乱期に殷人が漢王朝を樹立する流れが生れ、中華世界が経済活動の谷間になった事は、この傾向を強める追加的な事象だった。

西ユーラシアでは金貨や銀貨が発行され、銅貨は重視されなかったのに、東アジアでは近世に至るまで銅貨が重視された事は、この地域の経済活動が低調だった事を示していると考える必要がある。

 

6-7-2 漢字が示す諸民族の特徴

漢字文化の揺籃期には、漢字の構成要素によって各民族の特徴を示し、それが一つの漢字になって各民族を示す符号になり、記述を容易にする為に徐々に簡略化されていったと想定される。各民族の特徴は他民族から見なければ分からないから、各民族を示す漢字の構成要素を分析すると、この時代の人々が他民族をどの様に見ていたのか、窺う事ができる。また2字表現の民族名については、順序の法則性からその民族の統治事情を窺う事ができる。

「越」は「戉(まさかり)」と「走」の組み合わせで、「戉」は罪人を斬首する道具だったから、越人の法規主義的な性格を示している。「走」は「走る人」と「立ち止まる足」の組み合わせだから、製塩業者の多面的な活動を示している。

論衡に越常越裳が登場するから、が上位集団名ではその構成集団の名称だったと推測される。金印に刻まれた倭奴もこの順序だから、王を戴く独立集団をこの様に記述したと推測され、越は倭の様に地域分権的な集団の集合体だった事になる。

逆順の於越はその例外になり、「於越は都を瑯琊に徙した」と記されている。この時代の「都」漢字は製塩者の拠点を示したから、於越は大陸の越諸国の旗艦国だった事になる。「都」の原義は製塩者の中核地を指したが、周は製塩者ではなく塩の販売者でしかなかったのに、洛陽を東都と呼んだ事は、周初には「都」漢字の意味が商都に変質していた事を示しているが、塩は依然として重要な商品だった。

魏志倭人伝に記された「伊都国」も類似した「都」の用例で、大率は製塩者ではなかったが、九夷を引き継いで華北に塩を供給していた事から、青海湖の塩の販売拠点だった周の東都と同様の機能を果たす拠点として、「都」と命名したと想定される。周の本拠地は渭水流域にあり、洛陽は東都だったが、大率は北九州を本拠地にしていたから、本拠地である事を意識して「伊都国」と命名したと考えられる。

「伊」漢字は「横から見た人」の象形(にんべん)と、「神聖な物を手にする」象形から、「治める人」を意味したが、伊は大王ではなく家老や重臣を指す漢字だから、それが大率の立場を示している。つまり上位者である天皇の指示に従い、天皇になる資格を有する北方派の宮家の、当主(すくね)が大率に就任した事を示唆している。

「都」漢字が戦国時代~秦・漢代に首都を指す一般名詞になったのは、塩の販売者が他の商品も扱う様になり、やがて一般的な大商邑を示す漢字になったと推測される。中華で首都を示す漢字は、高い丘の上に塔が聳える象形の「京」漢字で、漢書は首都に「京師」を使い、魏志は「京都」を使っているが、それより史記は「都尉(郡都尉)」を使っているから、漢代の「都」は賑わいのある邑程度の意味しかなく、「京都」は商業的な賑わいのある「「京師」を意味したと考えられる。

「荊」漢字は草冠(くさかんむり)が植物である事を意味し、旁は農地の区画を示す「井」と、刀を示す「刂(りっとう)」で形成されている。縄文人の活動期の項で、良渚文化から出土した石剣は農地の境界を確定する、権威の象徴だった事を指摘したが、その様な石剣と農地の区画を示す「井」を組み合わせて「荊」漢字が作られた事は、越人の感性で「植物で農地を区画する民族」を示した事を示唆している。この漢字が「いばら」を意味しているのは、荊が洪水の被害から復旧した農地を再配分する際に、「いばら」を植えて境界を確定した事を示唆している。つまり荊は「いばら」を意味する象形ではないが、荊が農地を確定する為に使った植物が「いばら」だったから、「いばら」を意味する漢字になったと考えられる。

「荊=いばら」は罪人を鞭打つ道具として使われたから、鞭打ち以外の色々な刑罰を示す漢字として、「荊」から草冠を外した「刑」が派生漢字として生まれたと想定され、古代人の思考の柔軟さに敬服させられるが、これも刑罰に等級概念を生み出した、法治主義者の越人の発想だったと考えられる。魏志倭人伝が示す刑罰は、「軽ければ妻子を没収し、重ければ宗族を滅す」極めて単純なもので、倫理観によって秩序を形成していた倭人にその様な概念はなく、荊も同様だったと推測されるからだ。

「楚」「荊」と同様に「いばら」を指すが、「楚」の構成要素である「林」にも「疋」にも「いばら」を連想させる要素はないから、荊の別種として生まれた「楚」も、「いばら」を使って農地を区画する行為を続け、荊と同様に「いばら」意味する様になったと考えられる。洪水の被害が頻出しない沿海部に進出した呉は、農地の確定を急遽行う必要がなくなり、別の手段によって農地を区画する様になったが、湖北省に再入植した楚は相変わらず洪水を利用し、稲作地を復旧する作業を繰り返した事を示唆している。

楚と呉はどうちらも荊だったから、湖北省に再入植して「荊」以外の民族名を名乗る必要が生れると、西荊や東荊ではなく独自の新しい名称を持ったのは、それが法規に記入される一人前の民族の条件だったからだと推測される。

とこの時代の民族名はかなりユーモラスなもので、後世の様に威厳や見栄えを気にしないのは、他民族から民族の特異性を指摘されても気にせず、むしろ誇りに思う気分があったからだと推測され、厳しい自然環境下で大きな民族人口を擁していた事情は、その民族の誇りだったと想定される。

竹書紀年に楚が登場するのは周代になってからで、殷周革命期に参戦したのは庸だったと記されているが、夷王七年(西周代)に「楚子の熊渠が庸に代って鄂に至る」との記事があり、この記述と「楚」呼称が縄文後期に生まれた事は矛盾しない。は湖北省の中心部の呼称で、は湖北省の北端にいた集団の名称だから、庸は西周代の楚子の居住地だったが、楚子が盆地の中心部のに移った事は、湖北省の統一政権の名称が楚で、庸は地域政権の名称だった事になるからだ。

つまりは古い時代から湖北省全域の組織名称だったが、竹書紀年は殷周革命時の記事に、「庸、蜀、羗、髳、微、盧、彭、濮が、周の師(軍)に従って殷を伐った」と記したのは、と記すと何故が入っていないのかという疑問が起り、周にとって都合が悪い記事になるから、を意図的に除く為にと記したと推測される。従って華北夏王朝の終焉期の事績である、「商の軍が有洛を征し之に克つ。遂に荊を征し、荊は降った。」との記事も、実は「遂に楚を征し、楚は降った。」が正しい表現だった疑いが濃い。

「呉」は「頭に大きなかぶりものをつけて、舞い狂う」象形から、「はなやかに楽しむ」事を意味するとされている。「かぶりもの」は縄文中期~後期の土偶が示す仮面を連想させ、呉文化と縄文文化の融合を窺わせる。荊の本流だった呉は、自分達の生活文化を高める事にしか興味がない民族だったから、呉の衣装は時代の変遷と共に目まぐるしく変わっていたと想定され、日本人が呉人の衣装ではなかった和服を呉服と呼んでいる事も、呉の衣装には定型がなく、きらびやかな衣装を呉服と呼んだからであれば、その証拠を提示している事になる。

踊りの際に仮面を着けて舞う習俗は呉に起源があった事を「呉」漢字が示し、古事記が応神紀に呉服(くれはとり)と記し、呉には優れた織布技術があった事を認めているから、呉の人が仮面を付けて舞う際には優雅な衣装を着けていたと想定される。日本人が華麗な衣装を呉服(ごふく)と呼ぶのは、踊りを舞う際の華麗な衣装を、「呉(の舞人の様な)服」と呼んだ事が呉服の起源である事を示唆している。

呉の女性が和服を着ていた筈はないから、高価な和服を呉服と呼ぶ事に違和感があるが、踊りの際に着る衣裳が「呉服」の起源で、それが優雅な衣裳の代名詞になったとすれば、踊りの衣裳の形状が変わっても踊りの衣装を「呉服」と呼び続け、それがやがて華麗な衣装の呼称になったと解釈する事ができる。つまり「呉服」の起源は、「華やかな踊りの衣装」だったと考えられる。

縄文人の活動期の項で、屈家嶺文化期の遺跡から紡錘車が発掘され、荊の織布文化が発達していた事を示していると指摘したが、呉の衣装文化にはこの伝統的な織布文化が基底にあり、越が春秋時代に東シナ海沿岸を北上して琅邪を都にしたのも、呉の織布文化に依存して上質の絹布を生産したからである可能性が高い。その様な呉になったのは、縄文前期から顕著に産業化した稲作民だったからで、春秋時代には荊の産業力を結集した機織り機が作られ、高級絹布が生産されたと想定される。

青州に移住して豊かになった呉の人々は、塩を得る為の産業力を民族文化の高揚に振り向け、他民族との交易を拡大する事に、興味を示さなかった事は既に指摘した。元々踊りが好きな民族だったから、呉の人々の余暇時間が踊り文化を高める事に費やされ、やがて衣裳にも凝って「踊り狂う人」になり、それに必要な織布、縫製、衣装の意匠などに優れた民族になったと推測される。

荊文化を関東に伝えたのは、縄文前期末に渡来したmt-Fだったが、関東に渡来したmt-Fにはその後の荊文化にも憧憬があり、縄文後期になっても漁民から呉の文化の消息を聴きたがったかもしれない。縄文後期の青州で豊かになったmt-Fが舞踏文化を発展させると、舞の衣装の華美化も進んだから、関東でも稲作の生産性を高めたmt-Fが呉の舞人の衣装を欲しがり、それが日本に流入する事により、稲作文化を魅力的なものに変えた可能性が高い。つまり九州縄文人や山陰縄文人が稲作文化に惹かれたのは、温帯ジャポニカの生産性の高さだけではなく、祭りや踊りなどを含めた人々を魅了する文化要素に溢れていた事も、大きな理由だった疑いもある。

魏志倭人伝は、貫頭衣は東南アジアの海洋民族にルーツがあった事を示唆しているが、その理由が絹布の流行だったとすれば、縄文後期から絹布を織り始めた荊のハレの衣装が、貫頭衣だった可能性もある。隋書が記す飛鳥人が裙襦を着ていたのは、それが越系文化人の標準的な衣装だったからだと推測されるが、荊が衣装文化の牽引者だったとすると越系文化人の衣装は、後漢代に大陸に残っていた荊の衣装だった可能性に至り、漢書地理志や魏志倭人伝が貫頭衣を海洋民族の民族衣装として特記したのは、流行遅れを示していた事になる。

裙襦は貫頭衣と比較すると複雑な縫製技術を必要とするから、呉の衣装が弥生時代に裙襦に変る事により、衣装文化に敏感な越人もそれを着用したが、海洋民族は縄文後期の荊の衣装文化を維持していたから、弥生時代末期になっても貫頭衣だった事になるからだ。

「俀」「倭」については既に説明したので此処では割愛するが、倭が人偏であるのは、荊や越には倭の生活実態が分からず、渡航して来る「人」の特徴しか見えなかったからだと推測される。

夏王朝はを別の民族として区別する為に異なる漢字を付与したが、言語起源が同じ両者が共に自分達を「えつ」と呼んだから、漢字の発音にも区別がなく、「えつ」も越人語の「われ」だったと推測される。

の政治体制を示す2字表現として、山海経の南山経に区呉鹿呉漆呉などの地名が掲載され、それらは越裳とは逆の順序だから、越と呉は政治体制が異なっていた事を示している。史記も句呉と呼ぶ集団名を挙げているから、呉にはその様な名称の小集団が実在したと考えられるが、越裳の様に独立した交易集団ではなく拠点集落だったと考えられる。つまり越常越裳には独立的な地域の指導者がいて、越裳同盟の集団だったが、区呉鹿呉は呉の支配地の地域名称で、鹿呉鹿地域の人々を示したと考えられる。

呉は商品を生産する集団になっても、統一的な指揮下にある稲作民集団である習俗を維持し、地域分権的な統治制度を採用していなかったのは、稲作民にとって重要な事は、灌漑水路の構築と水系の維持管理だから、それを管理する地域集団に政治的な独立性は必要なく、夏王朝下でもその習俗は変わらなかった事を示している。

交易集団はそれぞれ独特の生産物を扱い、その販売には独自の商流があったから、交易者の政権には判断の独自性が必要だった。その事情の違いがこの様な集団名称の違いを生んだと推測され、荊が産業民族化しなかった根本的な問題は、この様な伝統を守っていたからでもある事を示している。つまり稲作民族として発展した1万年余の歴史を持つ荊の人々にとって、稲作を順調に行う事が至上命題であり、産業化して稲作者の従来の秩序認識の範囲を逸脱する事ができなかった事を示している。

先に掲げた労使の思想をその観点で見ると、民族の主体は常に稲作民で、それに干渉しない統治者が最善の統治者である事を示し、古来の荊の倫理感が全てに優先する事を主張しているとも読める。従って法治化してもそれが常に上位規定になり、稲作者が慣習法より上位に位置する法規が生れる事を拒否したから、王が生れる余地はなかった事が、この様な荊の社会を作ったと想定される。

壬申の革命を台無しにしたmt-B4の挙動は既に説明したが、荊の社会をこの様に発展性がないものにしたのも、mt-Fの稲作への拘りだった可能性があり、縄文晩期にmt-B4が荊に浸潤しても、この事情は変わらなかった事になる。関東でも類似した事情が継続したから、稲作者に多様性が生れてそれぞれのネットワークが並行的に発展した事が、却ってこの様な事情を亢進した可能性も高い。

倭は活発な交易集団だったから、地域主権的な体制のパイオニアとして多数の国が生れ、漢書や後漢書に100余国あると記された事と整合し、越もその様な体制だった事は、弥生時代の民族が産業社会を形成する為には、分権的な政治体制が必要だった事を示している。

息慎(ツングース)も五帝代に生まれた民族名で、周代に粛慎が登場する。この2字集団は越型ではなく呉型だから、ツングースの民族名がで、ツングースは全体的に統合された組織だったが、五帝時代に遼河を下って青州に来たのは、シベリアの内陸河川とアムール川・松花江・渤海を交易路にしていた息慎で、沿海州やオホーツク海沿岸を拠点にする海洋交易民だった粛慎は、関東部族の北方派の交易相手だったが青洲には登場しない人々だった。

息慎は遼河台地や朝鮮半島に櫛目紋土器を遺したが、夏王朝期に殷人が遼河を遮ると渤海に南下できなくなったから、この地域の櫛目紋土器文化はその時期に消滅した。

縄文晩期寒冷期になるとシベリアの河川が冬季に氷結する様になり、シベリアの内陸経済が崩壊して息慎の組織は壊滅した。それ故に五帝時代には息慎が登場したが、縄文晩期寒冷期に殷周革命が起こり、遼河を塞いでいた殷王朝が崩壊すると、粛慎が登場した事が両者の関係を明らかにする。つまりシベリアを横断する交易者は息慎で、粛慎はオホーツク海沿岸で海獣を捕獲しながら海洋交易を行っていた地域集団だったが、縄文晩期に息慎の組織が壊滅すると、それに代わって粛慎が華北の毛皮交易に参入した事になる。彼らは呉と同様に一民族一政権を採用したから、関東部族は彼らを慎(みしはせ)と呼んでいたが、それは粛慎を指す言葉でもあった。

の旧字である「愼」は、「忄=心」「ヒ=さじ」「鼎=土器」の組み合わせだから、縄文後期までのシベリア民族は、魏志東夷伝に記されたの様に秩序立った社会を構成していた事から想定すると、「心」が彼らの慎み深さを示し、穀類を粥にして匙で上品に食べ、底が尖って異様に見える櫛目紋土器を使っていたから、それを特徴とする民族として「慎」漢字が生れたと推測される。稲作民はコメを手でつまんで食べていたが、アワを含む寒冷地の穀類は粒が細かく、粥にして匙で食べていたからこの漢字が生れたと推測される。

慎み深さを示す要素は「心」だけだから、慎み深い民族として「慎」と呼ばれたのではなく、慎み深い人を「慎」の様に振る舞う人と呼んだから、やがてその概念が独立して「慎=つつしむ」になったのではなかろうか。抽象的な概念が生まれて漢字化される場合、手本を示すものから連想する事は、何時の時代にも変わらないからだ。「倭」には「従う」「従順」「慎む」などの意味が一応あるが、それが日常的に使う漢字にならなかったのは、倭人は「慎」ほど慎み深い人々ではなかったからだとすると、この論理体系と整合する。

竹書紀年には五帝代~夏代の政権として、上記以外に西王母(仰韶文化人?)、(揚子江南岸の稲作民族)、防風昆吾などが記されている。西王母は時代が降っても使われたから、言語体系が異なる民族言語の音写だった疑いが濃く、印欧語族の長い単語を用いていた、Y-R民族を指したと推測される。

は彼らの故地に生まれた国で、は彼らが青州に移住して作った国だから、越型の語順であるとすれば西に繋がる民族名で、王母は越型組織の地域分権的な組織だった事になり、SERESTHINAIなどは民族名で、実態は分権的な集団の統合体だったと考えられる。縄文後期の甘粛省に、類似しながら微妙に異なる馬家窯文化と斉家文化が併存した事が、その事情を示唆している。

は夏王朝がと呼ぶ民族集団に、塩を販売する集団だったと想定され、禹がを征服すると異民族であるかのように来朝したから、越文化の影響を受けた族だった可能性もあるが、越人と彼らに明確な民族意識があったのか疑わしい。

は畠に草が生えている情景を示すが、この時代のイネは種を播いて収穫する穀物であって、苗を育てる穀物種ではなかったから、田植えをした稲の苗を連想する事は間違いだ。を植えて育てるタロイモ類を想定する必要があり、イネではない栽培種を一括して苗と呼んだ可能性もある。揚子江以南に稲作民族が生まれる環境がなかった事は、縄文人の活動期の項で指摘したが、広東省に多いmt-M8aはタロイモを栽培する民族だったと推測され、獣骨交易が可能であれば海洋民族が交易を行った筈だから、彼らとの交易に浙江省の塩が含まれていた事に違和感はないからだ。

フィリッピンの越人は優れた絹糸を生み出し、その織布を呉に依頼したが、養蚕技術はフィリッピン越が堅持したから、絹布の生産に関しては複雑な民族関係が生まれた。

フィリッピンにはmt-M7bが極めて少ないから、養蚕に必要な桑の栽培を手掛けたのはmt-M7cmt-M7aだったと推測され、落葉樹である桑の原生種は冷温帯性の植生だったと考えられるから、桑の原生地がフリッピンだったのではない限り、mt-M7aが日本から持ち込んだ樹種であると考えざるを得ない。桑の実は甘く食用として重要な樹木だったから、mt-M7aが日本からフィリッピンに持ち込む動機は十分にあったからだ。

また日本では、石器時代の焼畑農耕に欠かせなかったmt-M7aの技能は、青銅器時代~鉄器時代になると不要になり、mt-D+M7aだった焼畑農耕者はmt-Dの浸潤によって純粋なmt-Dになってしまったから、フィリッピンには現在も多数のmt-M7aが残っている理由は、フィリッピンの養蚕がmt-B5+M7aによって担われた可能性を示唆している。フィリッピンのmt-M7a9.5%、mt-B511.3%だから、この二人のペアによって養蚕が営まれた可能性が高い。

養蚕技術が台湾に北上すると、桑を栽培する女性が台湾の焼畑農耕を担っていたmt-M7bに変り、mt-B5+M7b型の養蚕技能者が生まれ、このペアが沖縄を経て西日本に北上した事を、台湾・沖縄・西日本の遺伝子分部が示している。また揚子江以北の大陸にはこの遺伝子セットが希薄で、広東~山東にはmt-B5が殆どいない事が、弥生時代までの大陸には養蚕が普及していなかった事と、mt-Fが養蚕を行っていたとしても、気候環境は養蚕に適していなかった事を示している。

蚕は気候の変化に弱く、無理して飼っても良質の繭は得られないから、養蚕者は寒暖差が少ない海洋性の気候地域を北上したと推測され、木工技術に優れた海洋民族が蚕室を形成し、温度管理が可能な暖房技術が生れる事により、養蚕技術の北上が可能になったと考えられるからだ。弥生時代には日本列島で良質の絹糸が生産されていたと推測され、日本に分布するmt-B5+M7bがそれを証明している。

関東部族は遅くとも縄文晩期には、荊から織布技術を学んでいたから、魏志倭人伝が示す倭の織布技術が成立したと考えられる。古事記は応神天皇紀に、百済王が呉服(くれはとり=くれのはたおり)を献上したと記しているから、日本の史家は応神天皇を百済と並行する時代の天皇だったと解釈しているが、古事記は卑弥呼が即位する前の7080年間、西日本の30国を統治した大率を応神天皇としたから、百済はまだ建国されていない時代の天皇で、秦の征服によって越人が大陸から追放され、インド洋から高級絹布が失われた時代だった事に着目する必要がある。

古事記の著者の意図としては、「百済王が呉服を献上したのではない事は、皆さん良くご存知でしょうが、海洋民族はいなかったとすると、高級衣料の導入に関する諸経緯を、古事記の作者が創作する必要があり、それは難しい事だから、魏志倭人伝が邪馬台国の絹布や錦を褒めている事を参考に、この時代の少し前に伝来した事にします。」という事だったと考えられる。

その8で検証するが、応神天皇の時代はAD120年に始まり、秦が中華を征服したのはBC220年頃だから、古事記の言い方では320年もインド洋交易から高級絹布が失われていた事になるが、それに関する厳密性を古事記に求める事に意味がないし、原古事記には応神以前の天皇紀に記されていたが、改定古事記が応神紀に変えてしまった疑いもあるし、原古事記にはなかった話である疑いもある。

いずれにしても古事記の著者の理論としては、海洋民族の存在を否定した都合上、日本にある全ての文化的な物品や植生は、すべて日本起源であると主張していると誤解される事を恐れ、海外からもたらされたものも多数あるとの認識を示す為に、この文章を挿入したと考える必要がある。

鎌倉時代に政権を失った王朝貴族は、王朝制度の発祥地だった支那の文化が偉大だったと主張する為に、文化的なものの起源は全て支那大陸にあったと主張し、嘘の伝来説話を多数創作したから、その影響下にある日本人は王朝史観を信奉する歴史家にも騙され、東南アジアから導入したものや日本で生まれたものまで、全てが支那起源であると思い込まされている。

 

6-8 倭の統治制度

6-8-1 弥生時代末期~飛鳥時代の統治機構

魏志倭人伝が示す邪馬台国は越系文化圏の法治主義的な制度とは異なり、王を除けば職制は3階層しかなく、重要な職務は大夫と呼ばれる貴族層が担った。魏志倭人伝は4階層を挙げているが、魏の使者が通過した各国の王も「官」とし、「(邪馬台国の)官には伊支馬(いきま)有り、次は・・」と記しているから、伊支馬7万戸の邪馬台国王で、官僚的な階層は3階層しかなかった。

隋書が示す越系文化圏の飛鳥国は10万戸の人口規模で、12階層の身分制を採用する対照的な階層制だった。旧唐書は飛鳥国の身分制について、女性は単色のスカートと長い襦袢を着て、髪を後ろに束ね、25㎝程の銀製の花を左右に各々数個着け、身分の上下を示す。」と記し、男尊女卑的な社会を形成し、女性が銀花の数で身分の上下を示し、身分が血縁関係によって固定していた事を示している。

卑弥呼は倭の諸王の上位者として君臨したが、卑弥呼の下僚として魏に応対した人物に官僚的な名称はなく、大夫であるとしか記していない。倭人が組織的に活動していた事は明らかであり、魏志倭人伝は倭人社会にも尊貴の身分差が厳然と存在した事を明示しているから、倭の制度では日常的な職務の遂行に必要な最低限の身分階層しかなく、重要案件には能力に応じた適任者を貴族層から選任する制度を、縄文時代から維持していたと考えられる。船には船頭が必要であり、船団を組めば船団長が必要だったから、組織階層を3階層以下に圧縮する事は、7万戸の国としては難しかったと考えられるからだ。

但し卑弥呼の時代の邪馬台国はその後変質し、武庫川系の王が関東以西を武力制圧して倭国王になったから、その政権が倒れて対馬部族が倭国王になった時代には、邪馬台国も変質していたと想定されるが、対馬部族ほどには整備された体制に至らなかったと推測される。

古事記が示す身分は臣、連、直、君などと多彩だが、血族的な地域集団を統制する仕組みに過ぎず、稲置は飛鳥国の制度だった「いなき」の借用である疑いがある。その上位者である「くに」も併せ、飛鳥国に隣接する大津にいた天智が示す革命後の国家構想は、飛鳥国の稲作民の統治制度を拡大したものだった疑いが濃い。つまり飛鳥時代まで倭人には領域統治の概念が乏しく、血縁的な代表者を通して人を統治する制度だったから、古事記はその思想に基づいて血縁関係を再定義したと考えられる。

魏志倭人伝は、倭人が示した「国」漢字を使ったが、倭人には領土認識が薄かったから、天智が考案した中央集権制では、「くに=国=領域」の概念を対馬部族から借用した可能性が高く、古事記が記す国造(くにのみやつこ)や「稻置(いなぎ)」も、天智が考案した新しい職制だったと推測される。つまり関東部族の農耕民族的な領域概念や稲作地の所有概念は、mt-B4が縄文時代から受け継いでいた概念と、mt-Fが南陽盆地から持ち込んだ区画手法が踏襲されていたが、天武天皇は公共事業を行う原資を賄う租税制度の必要性から、天智の構想を取り入れて「国」や「稲置」漢字を導入したが、これが人を指すのか領域を指すのか曖昧な状態だった疑いが濃い。

シベリア的な縄張り主義が根底にある社会では、集落を形成していた人々と、彼らが利用していた地域は不可分の関係にあり、それらの地域が交易関係を複雑に張り巡らし、活発な交易活動を行っていたとしても、地域の支配と人の支配は不可分の関係にあったから、飛鳥国の制度も80戸を統括する「イナキ」、10の「イナキ」を統括する「クニ」があったに過ぎず、農地の広さは定義していない。古い時代から人々が暮らしていた地域では、領域概念は人が移動するか支配者が交代しなければ生れなかったし、農地の広さも班田制が施行されたり、官僚に農地を支給したりしなければ意味がなく、農地の広さより収穫の多寡が問題である実態から考えても、人を管理する方が容易だったからだ。

越系文化圏だった新羅の事情を梁書新羅伝は「其の俗では城を健牟羅と呼び、其の邑で内に在るものを啄評,外に在るものを邑勒という」と記し、「むら」の呼称や藤原京から発掘された「こおり=評」の名称漢字も、越系文化が起源だった事を示唆している。

漁労社会が人治主義である事は分かり易いが、mt-B4mt-Fも農地を公平に分配する習俗を継承し、収穫は個人の努力に依存する社会だったから、関東部族には人治主義が適していたと推測され、飛鳥国も基本的には同様の状態だったが、法治主義を適用して異なる社会を形成したと推測される。天智と天武はそれを中央集権制に適した制度に変革する為に、租税の徴収とそれを使った公共事業を運用する、斬新な概念を取り入れたと推測される。

 

6-8-2 大夫と大率

大夫は倭人国の貴族身分を示す呼称で、官僚的な身分ではなかったので、漢字の組み合わせが似ている大率と併せて論考する。

史記は春秋戦国時代の大夫を諸侯の重臣身分としているが、竹書紀年の大夫の初出は以下になる。

(殷王朝の)文丁十一年 周公季歷が翳に徒う戎を伐し、其の三大夫を獲えた。

文丁は殷王朝の最後から3番目の王で、この大夫の小酋長を意味した。

帝辛三十九年 大夫の辛甲が周に出奔した。

帝辛は殷王朝最後の紂王で、大夫は殷王朝の重臣を指している。

西周代になると大夫の登場頻度が高まり、

宣王三年 王は大夫の仲に西戎を伐つことを命じた。

宣王四十三年 王が大夫の杜伯を殺したので、其の子の隰叔が晉に出奔した。

宣王(BC827BC782年)の時代に、大夫の政治的な重要度が高まった事を示唆している。

惠王十六年 晉の獻公が二軍を作って耿を滅し、それを大夫の趙夙に賜い、魏を滅してそれを大夫の畢萬に賜った。

恵王(BC676年~BC652年)は春秋時代の東周の王。大夫が領土を持つ諸侯になった。

烈王元年 於越の大夫の寺區が越の亂を定めた。

烈王(BC375BC369年)は戦国時代の東周の王。この前年に於越に政変があり、は自らの君主を於越とは別に立てた。於越にも大夫がいて、君主に匹敵する政治力を持っていた事を示している。

魏志倭人伝は「其の使いが中国を詣でると、皆自から大夫と称す。」と記し、夏王朝期の俀に大夫がいた事を示唆している。つまり夏王朝期には俀しか使っていなかった大夫身分が、殷王朝でも使われ、周王朝期には遠征軍を率いる大将になり、春秋時代には領地を所有する諸侯になり、国が乱れると主君に変って貴族を指揮する存在になった。

大夫の原義は「真正の男子」「重要な男子」で、大豆と小豆、大麦と小麦などと同系譜の言葉だから、この名称の起源は文字がなかった時代に遡る可能性が高い。

古代の「大」は最も重要なものに付ける漢字で、小は重要度がそれに次ぐものを指し、サイズの大小を示すものではない。麦には大麦や小麦の他にハト麦やカラス麦などがあり、同様の事情を示しているからだ。豆類である「きぬさや」や「あおばた」も、「あずき」と同様な事情にあったと想定される。

中国では漢代まで「大麦」とは記さずに単に「麦」と記し、後世の農業書でそれを区別したものは、元代に刊行された農桑輯要が嚆矢になり、「收九穀種は黍、稷、稗、稻、麻、大麥、小麥、大豆、小豆」と記されている。「むぎ」は縄文時代に日本に伝来したから倭語があるが、小麦は漢字が生れてから伝来したから中国の漢字を訓読みした事になり、この法則を農桑輯要に適用すると、蕎麥は漢字が生れてから中国に伝った事を示している。

倭語の「そば」は縄文時代からあったから、中華には縄文時代に日本から伝搬したのではなく、漢字が生れてからチベットなどから伝来した事を示し、「そば」は北陸部族の栽培種で関東部族は栽培していなかった事と整合する。それとは逆に稗が単一漢字化されている事は、縄文時代に関東から中華に伝搬した事を示している。

呉音で発音する大夫(だいぶ)大率(だいそち)の話に戻ると、は成人男子を指し、は指導者を指したから、大夫は貴族層を指し、大率は貴族を統括する最上位の指導者を指した。

は「洗った糸束の水をしぼる」象形だから、本来は人を束ねる指導者を指し、軍事に限定されるものではなかった。魏志倭人伝は、「一大率(一人の大率)を置いて諸国を検察し、諸国は之を畏れている。」と記し、飛鳥時代について記した旧唐書も、「一大率(一人の大率)を置いて諸国を検察し、諸国は之を畏れている。」と同じ事を記しているから、倭には大率は一人しかいなかった事になる。日本語では最上位のものは「一の宮」や「壱岐」の様に「一」で表し、「大」は「本物」を意味しながら複数ある物や人を指したから、「大率」が日本語起源の言葉であれば、「一率」になったと想定される。天照大御神もその例になり、大神は複数いたから「天照」を付記して区別している。従って大率は日本語起源の言葉ではなく、身分も日本起源ではなかった。

魏志倭人伝は「古以来、其の使の中国に詣でるに、皆自から大夫と称す」と記しているが、この文の前に倭人の刺青の話があり、この文の後に「夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身した」と刺青の話を続けているから、倭人が自から大夫と称したのは夏代だったと指摘している事を、(1)魏志倭人伝の項で説明したが、大夫には倭語がないから、この概念が生まれたのは漢字を作った後であって、夏王朝の帝の場で使う言葉だったと推測される。つまり倭人の貴族層は既に存在していたが、それを身分として認定する認識はなく、越人の身分階層意識に影響され、とその下僚の大夫という認識が生まれたと推測される。

「まえつきみ」という和語もあったが、「きみ」は越系民族が使った尊称だから、倭人社会では使っていなかったと推測され、魏志倭人伝にも登場しない。隋書が飛鳥時代の飛鳥国が「あほけみ=大君」と称したと記しているから、飛鳥時代の越系諸王の名称が「きみ/けみ」だったと推測される。

竹書紀年は春秋時代末期の事として、「於越の太子諸咎其の君の翳を殺した。十月、越人が諸咎を越滑で殺したので、呉人が錯枝を立孚して君と為した」と記し、春秋時代の「君」は大王の様な身分で、その下僚に大夫がいた事になる。飛鳥王が大君と称したのは、出雲部族や北陸部族にも君を称す王がいたから、それを統括する飛鳥王は大君を称した事になる。

古事記が神代で示す身分は神と命だから、神=王=ヒコ、大夫=命だったと考えられるが、古事記は縄文時代の倭人は天命思想を持っていた事を示しているから、神も命になった。

つまり神=王が誰かに重要な行動目的を命じると、その役目を担った人が「命=みこと」になったが、王が何かを命じるのは貴族層だけだったから、夏王朝の帝で既に身分階層があった荊や製塩業者にその実態を指摘され、何かを命じられる為に待機している貴族層を「大夫」と呼んだと推測される。それは夏王朝の帝の場での呼び名であって、関東部族は従来の慣習に従って行動し続けたから、倭語は生れなかったが、大陸で「大夫」身分が既知の普遍的な存在になったから、漢字語として中華世界に定着したと考えられる。後世に関東部族が身分制を取り入れた際には、「大夫」は夏王朝の標準語になっていたから、それが日本語になった経緯は、「だいず=大豆」と同じだったと考えられる。

古事記は、天命思想は天地開闢時からあったと主張しているから、その起源はシベリアの狩猟民族に帰着するが、北欧系譜の人達にもその思想が拡散しているらしい事が、その証拠として挙げられる。科学の進化に貢献した人達の事績や、その人達を顕彰する文化は天命思想に通じるもがあり、ノーベル賞の創設はその思想の一つの表れである様に見えるからだ。

氷期のシベリア狩猟民族の文化を検証すると、彼らもその思想に基づいて行動したと考えなければ説明できない事象が複数ある事も、その証拠として挙げる事ができる。

南北遊動を行う狩猟文化が、その一つとして挙げられる。氷期に彼らの狩猟対象が徐々に南北移動を始めたから、それに連れて狩猟民族も南北移動を始めたと考える事には、無理があるからだ。彼らの祖先は9万年前に東南アジアに拡散し、冷涼な気候に耐える文化を構築しながら太平洋沿岸を北上し、8万年前頃にシベリアに到達したと想定されるから、氷期が始まって5万年も経っていたシベリアには、既に南北遊動する動物群が存在していたと考える必要がある。南北遊動する為には、夏季にはその動物の北上域に北上する必要があり、季節に応じたキャンプ地の気候環境を凌ぐ文化や、移動に必要な軽量の防寒住居が必要だから、その開発には1万年では足りなかった可能性もある。

長距離を高速度で南北遊動する為に、体型を大型化したヘラジカなどを狩る為には、天命を感じた小集団がそれらの動物と一緒に移動する事により、狩猟民族の誘導路を開拓する必要があった。そのパイオニアになった集団は一度の試行錯誤で成功したのではなく、幾多の犠牲を払った多数の先人の失敗例から学び、最後に成功した集団が生れると、その集団の指導の下に、南北遊動文化が生れたと考える事に合理性がある。

アルタイ地方にいたと想定されるツングース系とモンゴル系の民族が、日本海沿岸に移動して北陸部族と出会った事も、別の例として挙げられる。氷期の最寒冷期が終わって気候が温暖化すると、アルタイ地方が乾燥化して湖沼漁労が難しくなり、日本海沿岸に移動したと考えられるが、移動距離は直線距離でも3000㎞あり、途上に豊かな漁労地や狩猟地があったわけではないから、拡散的な民族移動は不可能だった。当時は既に生まれていた南北遊動する狩猟民族は、キャンプ地を部分的に共有する際に東西方向の情報連携があり、天命を受けた小集団がその情報に基づいて日本海沿岸に達し、彼らの指導によって民族移動が敢行され、新しい文化を切り開いたと考えられる。

民族が気候変動に応じて拡散した場合にも、見掛け上は類似した現象が見受けられるが、拡散的な移動が可能だったのか否かが、天命思想の有無を判断する分かれ目になる。シベリアの民族が生み出した民族の共生文化も、天命思想と同根の思想だった可能性も高いが、このHPは検証可能な事柄の論理体系的な検証を目指しているので、難解な哲学論は展開しない。

史記に大夫が初めて登場するのは殷本紀で、殷の始祖である湯王の言葉として、「昔蚩尤と其の大夫が、百姓(人々)に対して乱を為した。」と記されている。蚩尤は軍神として信仰されてもいるが、魔物でもあり、悪鬼でもあった。

この文章は蚩尤を悪鬼と見做しているが、史記は稲作文化を抹殺している史書であり、華北夏王朝を滅ぼした殷人の視点で記述したものだから、実際の蚩尤と其の大夫は、史記の説明とは異なるものだったと考える必要がある。つまり稲作民の軍事指導者だった蚩尤と、彼に従う部隊長だった大夫達に関する殷人の伝承だから、荊の軍事活動を敵方から見たものであると考える必要がある。

殷本紀に登場する大夫はこれだけだが、周本紀に大夫が多用されている事は、殷商王朝初期の殷人は大夫の制度を使わなかったが、夏王朝が滅んだ後の制度として荊が使ったから、それを見た殷人も大夫の効力を認め、竹書紀年の殷末の記事に大夫が登場した事になる。また殷周革命の際に稲作民族が大夫を使って戦功をあげたから、周も大夫の制度を重視し、多数の大夫が生れて昇進したのではなかろうか。

魏志倭人伝が、夏王朝期の大夫は倭人独特の習俗であると指摘している事は、夏代の稲作民には大夫身分がなかった事になるから、稲作民も殷人も夏王朝期には俀人のその制度に関心がなく、実態を知らなかったが、商侯履に青州から追い出された稲作民が大夫の制度を倭人から取り入れ、悪鬼の様な恐ろしい軍事活動を展開したから、その恐怖が蚩尤と其の大夫として殷人社会に伝承され、それが史記に記載された事になる。大夫を使う軍事活動に自信を持った荊は、それを統治制度にも組み入れたから、殷周革命時に再びその威力が発揮され、周もそれを採用したから、春秋時代に大夫の制度が盛んに使われる様になったと考えられる。

殷も九夷から学んでその制度を真似たから、竹書紀年に大夫が登場すると推測されるが、天命思想を理解しない殷人の文化に大夫制は馴染まなかったから、殷王朝期には重要な制度ではなかったと推測され、功績を挙げた記事がない事がその事情を示唆している。

 

6-8-3 荊の統治組織

竹書紀年は、商侯履に扇動されたの無秩序な群集が、華北夏王朝を倒した際に華南の稲作民と戦争状態になった事を

帝癸十四年 扁が帥いる師が岷山を伐つ(不穏な群集が岷山に集結したした事を示唆している。)

帝癸二十一年 商の軍が有洛を征し之に克つ。遂に荊を征し、荊は降ったと記している。

武漢の盤龍城は湖と沼を防御施設とし、北から侵入する敵を防いだ城であり、盤龍城に荊の文化が遺された事は、殷人は武漢まで南下できなかった事を示している。その際のの南下を防いだ者達が、蚩尤と其の大夫だったと想定すれば、商侯履の時代と殷の始祖である湯王の治世に、長い時間差があった理由も説明できる。

商侯履がその戦闘中に落命し、殷人の戦闘部隊が華北に押し返されたとすれば、殷人が蚩尤を悪鬼と見做す理由が確定し、商侯履が亡くなった後に動乱が発生したから、湯王が華北を掌握するまでに時間が掛かったと推測する、一連の史実が無理なく繋るからだ。

蚩尤と其の大夫が殷人にとって悪鬼だった事は、荊が軍事の劣性を立て直す際に大夫の制度を採用し、それが成功に繋がった事を示唆している。それがどの様に進行したのかを推測する前に、それ以前の荊の軍事はどの様なものだったのかを推測する。

湖北省時代の荊は頻繁に発生する揚子江の氾濫に悩まされたが、それを復旧すれば土壌が肥沃な稲作地が得られた。しかし大災害に襲われると復旧するまでは稲作ができなかったから、備蓄食料を食い尽くしてしまう前に新しい収穫を得る必要があり、復旧や灌漑水路の改修には期限があった。従って有能な実務指導者が強力な陣頭指揮を執り、被災者を総動員して適材適所に配置し、重労働に耐える人々を鼓舞する必要があった。その指導者は一人で十分であり、二人以上いれば「船頭多くして船山に登る」状態になったから、荊の最高指導者は常に一人だったと想定され、大率と呼ぶのに相応しい権能者である必要があったが、別の地域に異なる大率が併存する状況もあり得た。

実際には大率が一人で行動したのではなく、多数の取り巻きが情報を集めたり、大率の指示を地域的な小集団に伝達したりしたと推測されるが、土塁の位置や河水を導く水路の配置は、単一の決断に従う必要があった。従って大率の起源は、素早く最終決断を下す強力な指導者を必要としていた、荊にあったと想定する事に合理性がある。

災害の規模に応じてその都度大率が選定され、中小河川が各所で氾濫すれば複数の大率が必要だっただろうが、揚子江や漢水が氾濫した場合には、一人の大率が数千人~数万人を動員する必要があった。青州の沖積地には大規模な河川氾濫はなく、夏王朝の法規では警察と裁判を司る職務の王が、軍事の指導者になったから、青洲では大率は死語になっていたかもしれないが、湖北省に再入植した荊には、必要な職能として復活していただろう。

従って夏王朝軍の主力になった荊の軍事は、大率の下に参集して土木工事を行う様に、大軍が一斉に行動するものだったと推測される。殷人は集落間の抗争を頻繁に行っていたから、棒で殴り合う個人的な格闘技は殷人の方が優っていたと想定され、稲作民の主要な副業は漁労だったが、殷人の主要業務は狩猟だったから、弓矢の扱いも殷人の方が優っていた。従って荊の軍事の優位性は、一人の強力な指導者が指揮する軍隊が、数の多さを最大の武器に大軍がまとまって一気に襲い掛かり、相手を圧倒するものだったと想定される。稲作は高い人口密度を可能にしたが、アワを栽培する栽培系狩猟民族の人口は希薄だったから、青州が豊かな稲作地である限りこの戦法は有効だった。

しかし気候が寒冷化して青州の稲作民の人口が減少すると、その戦法では商の軍に負ける状態が生まれたから、扁が帥いる師が岷山を伐つ(交戦記録であって勝ったとは記していない)の記事が、緒戦に敗れ始めた事を示唆している。

洛陽盆地で湖北省から北上した荊の軍が敗れると、殷人が南陽盆地に侵攻し、稲作民の集落を略奪したと想定される。殷人は穀類の略奪を習俗にしていた民族だから、コメの備蓄が豊かな荊の集落は、恰好の標的になった可能性が高い。それらの勝利に奢った殷人が調子に乗って南下を続け、南陽盆地を制圧した頃、大夫が登場して激戦に敗退し、華北に逃げ帰ったと想定されるが、その戦いの詳細を検証する前に、大夫とはどの様な人達だったのかを検証する。

海洋民族は船団毎に指揮者を必要としたから、夏王朝期の俀人は船団の指導者をとして任命したが、になり得る家系は地域集団毎に複数存在し、彼らはその任に堪える為の修練を、日頃から積んでいたと想定される。倭人がその様な人々を何と呼んでいたのかは別にして、その様な人々を大夫と呼ぶ。

日本列島から大陸まで数千㎞あり、航路上には海流が複雑に流れていたから、海が荒れると退避場所に急がなければならなかった。待避所は必ずしも広くはなく、船団の規模が大きければ複数の場所に退避する必要もあったから、大船団で行動する事には危険が伴った。従って一つの船団は数隻~数十隻の船で構成され、素早い指示ができる範囲内に纏まって行動する必要があったが、航路を熟知していた天氏が多数いたわけではなく、水先案内を務める天氏は小船団の指導者を介して全体を統制する必要があり、適宜適切な大夫に小船団長をす(指名する)必要があった。竹書紀年が動詞として使う「命」は、この様な意味として解釈すると分かり易いから、「命」は俀人のこの様な挙動を漢字化したものである疑いが濃い。

航路や食料の調達事情に応じて小船団に分離しても、目的地では大船団に再集合して共同作業をする必要もあったから、各小船団の指導者は上位者の指示を受けない状態で、自発的に航行して適切な目的地に向かい、途上では他の小船団と連携する必要もあった。

この様な海洋民族に交易を統制する最高位者が生まれたのは、大陸的な発想である大率大夫の認識が確定した後であり、大率大夫の認識が生れたのも「命」としての船団長が生まれた、遥かに後世だったと想定される。認識が生まれると直ぐに組織が形成されたとは限らないが、両者の機能を取り込んだ統合的な組織が生まれると、より高度な活動が可能になった事は間違いない。

蚩尤大率として強力に軍団を指揮し、その指揮下の部隊長が俀人の船団長の様に、適宜必要な使命を持った「命」として配置されると、軍事的な機動力が格段に高まったから、軍を破る事ができただけではなく、荊と殷人の軍事的な攻守が逆転したと想定する事も、合理的な見識になる。常に大軍が一斉に行動していた状況から、地形に合わせて陣立てしたそれぞれの軍が、事前の合意事項に合わせて有機的に活動する状態に変化すると、遊軍を編成したり威力偵察を行ったりする事も可能になり、軍事力が格段に高まったからだ。

多数の倭人の大夫が荊の軍に参加すれば、短期間に軍事力を向上させる事もできただろう。また北九州の人々がこの頃大陸に出征し始めたから、彼らが商を側面から軍事的に牽制した可能性もあり、これを契機に濊との交流が深まった可能性もある。

湯王が殷人の軍事的な敗北を認め、関東部族の交易封鎖によって殷人の不満も高まったから、夏王朝に参加する為に夏の社を建てた事になり、竹書紀年と史記の記述を統合する事ができる。また史記が殷人の立場から蚩尤と其の大夫を悪鬼として記した事は、BC1500年は殷人にとっては神話時代だったが、稲作民には歴史時代だった事になる。稲作民は五帝時代には漢字を駆使し、経済関係の推移を記録に遺す歴史時代に入っていたが、殷人にとっては未だ神話時代で、周囲の出来事を漸く漢字で表現できる文明の黎明期だったからだ。

史記の殷本紀に湯王の言葉として記載されている全文を示すと、「昔蚩尤と其の大夫が百姓(人々)に対して乱を為した」の後に「帝乃弗予,有狀。先王言不可不勉」と記されている。意訳すれば「帝は乃(それに対し)て予(事前の教え)がなかったので、状(酷い有様)が有った。しかし先王の言葉を、実践する様に努めねばならない。(秩序を回復する事は大変だ)」になる。

史記の著者は湯王の言葉と伝えられていた文を、史記に其の儘書き込んだから、分り難い記述になったが、この文の前後にもこの様な文体の文章が並んでいる。この時期の殷人の思想としては美辞麗句であり過ぎ、殷王朝を美化する為の創作であるとの解釈もあり得るが、史記の著者は湯王を尊敬していたから、伝えられていた文言を無修正で書き込んだ可能性が高く、言語能力の貧弱さを示しているだけである可能性もある。いずれにしても、これは不意打ちだったと言っていた事になり、殷人の余りの身勝手な発想に呆れるしかない。

「帝乃弗予,有狀」は湯王の先人の言葉で、湯王がそれを受けて「先王言不可不勉」と言ったのであれば、湯王は殷人の偉大な指導者だった事になるが、文中のは夏王朝の帝しか考えられないから、荊の反撃にあって商軍が壊滅し、交易封鎖を受けて内乱状態になったのは、が事前にそれを教えなかったからだと主張している事になるからだ。

商や殷が華北夏王朝期に交易集団として認定されると、夏王朝の法を守らせる為に殷人の王を認定したから、湯王の言う先王はそれを指していると考えられ、呆れざるを得ない主張だが、史実を隠している上に文意が曖昧なので、史記の編者も大胆に採録したと推測される。現代の中国人や朝鮮人も同じ事をしているから、この説明に違和感を持つ日本人はいないだろう。

この文を基に漢代以降に色々な解釈が生まれ、蚩尤はとんでもない怪物にされ、黄帝に成敗されたという変な尾鰭が付いたが、冒頭の100年ほど昔であると解釈すれば、それが商侯履と湯王の時代差になるから、史記のこの文章は非現実的ではない。漢代以降に生まれた色々な解釈は、史記の正直過ぎた表現を悔み、誤魔化そうとした人達の創作であると推測される。

史記に記された湯王の言葉が、この時代の湯王の生の言葉だったとすると、この言葉が伝承された理由が明らかになる。商侯履が敗死した後の荊の反撃が華北に及び、交易封鎖にも遭って殷人社会が100年ほど激しく動揺し、人々が疲弊すると湯王が屈辱に耐えながら夏王朝に和睦を申し入れ、夏社を建造して夏王朝の傘下に戻ったからだ。史記には捏造した夏社の話しがあり、夏社の建造は殷人にとって極めて屈辱的だった事を示唆しているから、歴史上の重大事として竹書紀年にも特記されたと考えられる。

和睦交渉を進めた湯王は、荊だけではなく倭と和解する必要があり、説得しても従わない殷人には武力を使う必要もあった。殷人系譜の史記の著者が民族王朝の実質的な創始者だった湯王に、溢れんばかりの敬意を持ち、伝えられていた湯王の言葉を、捏造的に修正する事はできないと思った気持ちは分からなくもないが、鬼の眼にも涙であると言うしかない。

以上を纏めると、湖北省時代の荊は武力紛争を経験したことがない平和な民族だったが、青州に入植すると殷人の武力と対決する必要が生まれ、軍事組織を形成したが、華北が寒冷化して稲作民の人口が減少すると、殷人の攻勢を防げなくなって華南に追い出された。しかし殷人が勢いに任せて南下すると、荊は強力な武闘集団を結成する必要に迫られ、倭人から大夫の制度を導入して軍事訓練し、殷人に大勝して殷人を華北に押し戻した。この様な荊の軍制改革では、大夫として単に部隊長を指名するのではなく、役割意識を持つ大夫の概念を導入して必要な心構えや情報伝達技術も学ぶものだったから、分散した小部隊に有能な指揮官が常在する状態が生まれ、軍事力が飛躍的に高まったと想定される。

但し軍制改革は短期間には実現しないから、蚩尤や軍隊は荊だったとしても、其の大夫の一部は倭人だった可能性がある。倭人は弓矢の操作に長けた関東近辺のY-C1狩猟民と共生し、シベリアの弓矢需要を失って失業状態に陥りつつあった、Y-C3狩猟民を抱えていたから、彼らを伴った上に膨大な数の矢を用意し、この戦闘に参戦した可能性もある。狩猟には一射必殺の技能が必要だったから、狩猟民族は即座に強力な軍事力になった。また関東部族が輸出した弓矢は小振りだったが、日本には大型の強力な長弓があり、アワ栽培者との交易に際しても、狩猟民族を用心棒として伴っていた可能性もある。

 

6-8-4 倭が導入した大率

縄文人は荊に「大夫」の制度を教える傍らで、荊から民族全体を統括する心得や技巧を学び、倭にも大率と呼ぶ身分を設置したと推測される。

魏志倭人伝は大率を、「唯一人の職位で、諸国を検察し、諸国はこれを畏憚する。」と記し、旧唐書も「諸国を検察する。皆これを畏附する。」と記しているから、大率は江戸時代の徳川将軍の様な、統治的な職権を持っていた事になる。両史書は大率を極めて重要な職位としているが、独立心が強かった海洋民族集団にこの職位が成立した時期は、大夫より遅かった事は間違いない。またそれを採用しても直ぐに強力な存在にならなかった可能性も高いが、関東部族は荊社会がどの様な秩序認識で運営されていたのか、見聞する機会は十分に得ていたから、徐々に認識が変化していったと考えられる。

大率は現代風に言えば大将軍だから、軍事に関する大陸での認識を検証する。

史記の周本紀の殷周革命時の記事に、

帝紂は武王が來ると聞き、亦た兵七十萬人を發して武王を距ぐ(防ぐ)。武王は師(軍)を使い、尚父と百夫を師に致らせ(送り込み)、大卒が帝紂の師に馳せた。

と記されている。卒は兵士を意味するから、大卒は精々部隊長を意味し、それを膨らませても一介の将軍に過ぎなかった。

最後の文は、「以大卒馳帝紂師」なので、これを「大卒を以て」と訳す人もいる。しかしその次の「紂の師は衆と雖ども皆戰之心無く、心は武王の亟入を欲し、紂の師は皆兵(武器)を倒し「以戰、以開武王。武王馳之」紂兵は皆崩れ紂に畔いた。」に使われている「以」は、「それで」、「その状態で」、「それ故に」程度の意味しかなく、「以て」と訳すほどの意味はないから上記の様に訳した。

大卒を軍団と訳す人がいるが、それではその翌日の記事が意味を為さない。

百夫が罕旗を荷して先驅け、武王の弟の叔振鐸が常車を奉陳し、周公旦が大鉞を把み、畢公が小鉞を把んで武王を夾み、散宜生、太顛、閎夭は皆劍を執って武王を衛る。(武王は)既に入り,社南の大卒の左に立った。

従って「大卒」は大将軍の職位を連想させ、その職位の人が諸国軍を指揮して殷の大軍に突入し、勝利宣言の際には武王の右側に立った事を示している。つまり武王の上位者だった。

大率を近世的な言葉に訳せば大将軍や大統領になるが、率と卒は交換されやすい漢字だから、史記の編者には知識がなく混用した疑いもあるが、殷周革命時の大卒は大率と記すべきだから、書き換えを疑う必要がある。倭人が飛鳥時代までその職位の意味と役割を厳然と守っていた事は、少なくとも稲作民は春秋時代まで、その役割を知っていた事を示しているからだ。

史記の編者が参照した資料には大率と記されていたが、意図的に大卒に書き代えた疑いもあるが、史記の編者が参照した周の正史が、既に書き換えられていた疑いもある。大率は荊の軍制であって周にはないものだったから、此処に大率と記せば、殷周革命の主体は稲作民だった事が露見するからだ。

周の正史には大率と記してあったが、史記の編者がそれを書き換えた可能性もある。大率は倭人社会では古墳時代まで重要な職位だったから、春秋戦国時代の稲作民族にも同様な職位が存在した可能性が高く、楚漢戦争時の項羽も大率を名乗った可能性が高いからだ。史記は楚軍を率いた項羽と項梁について、秦に滅ぼされた楚王の系譜を探したと記しているから、それが事実だったのであれば、項羽の家系は大率=大将軍を輩出した家系だった可能性が高く、項羽はそれを自身の呼称にした可能性も高いからだ。

大率の役割は地域分権社会に特有のもので、同格の資格を持つ諸国が提供した連合軍を統括する職制だった。北九州の大率も倭人諸国を率い、時には対馬部族や出雲部族も統括する職制だったから、殷周革命時の諸軍を率いた人物と同じ職制だった。

殷周革命時の事情として竹書紀年は、庸、蜀、羗、髳、微、盧、彭、濮が、周の師に從って殷を伐った」と記し、史記も「庸、蜀、羌、髳、微、纑、彭、濮人」を挙げ、ほぼ名称も一致している。共に筆頭を(湖北省)とし、最大の稲作民集団だったが欠落している事は異様に見えるが、を無視する事は両史書に共通する利害項目だったから、実はの前にが記されるべきだったと想定する事に違和感はなく、の実態は楚だった可能性が高い。

大率の職制は小国制を採用していた海洋民族や、夏王朝に参加していた民族には適用されるが、中央集権的な殷王朝には必要がなく、封建制を採用した周王朝にも必要がない職制だった。周王朝は諸侯の下僚を大夫とはしたが、周王朝の軍は直属軍と諸侯の軍で構成され、独立した諸国の軍を率いる大率は必要としなかったからだ。

従って華北夏王朝が滅亡した後の、周王朝下の華北では大率が制度的に存在する余地がなく、アワ栽培民族の史書にこの職位が記述される事態は、夏王朝の諸軍が参加した、殷周革命時の事績に限定され、それ以外には登場する機会がなかった。

 

6-8-5 日本の王朝期以降の統治組織

中華では秦・漢帝国の成立と共に大夫大率の職位名称は失われたが、倭では倭人政権が崩壊するまで大夫大率名称が使われ、大夫名称は王朝貴族も使ったから、現代の東宮大夫(とうぐうだいぶ)に至るまで使われている。

日本人にとって大率は外来の名称で、付随する概念も大陸的だったから、王朝制が導入されると思想的に馴染まずに消えたが、大夫は縄文時代以来の日本式の統治の基本概念を含み、平安時代になっても実質は大夫制だったから、日本人はそれを合理的であると考え続け、現代まで大夫名称を遺した様に見える。

大率の歴史的な立場を検証すると、伊都国の大率は大陸での軍事活動の必要性に応じて権力を高めたが、古墳寒冷期に華北の農耕経済が破綻し、華北王朝の軍事活動が停滞すると、それに対抗する武力を維持する必要性が薄れ、邪馬台国の卑弥呼に権力を移譲する事が可能になったと考える事もできるから、倭にとっては緊急時に必要な職務だったが、常時機能する事を求められる職制ではなかった事が、大率の職制が失われた一つの原因ではあった。

旧唐書は飛鳥王が出雲王を大率に任命した事を示唆しているから、出雲王が飛鳥時代に権力を急上昇させたのは、大率だったからであると考えられる。全国の神無月が出雲では神有月であるとの伝承は、倭王だった飛鳥王を差し置いて出雲王が権力を高め、全国の諸王を参勤させる強大な権力者になった事を示唆しているが、出雲王が経済力を駆使して日本を統治する為に、大率の職務執行を表向きの建前とした事も示している。但しこの大率が行ったのは朝鮮半島の軍事ではなく、毛皮交易を維持する為の経済政策だったから、本来は倭国王が開催すべき会議を出雲王が開催したに過ぎず、大率の職務はないがしろにされていた。

大率は外来の発想だから、壬申の革命によって出雲国が消滅すると日本から永遠に失われたと考える事もできるが、征夷大将軍と極めて類似した職位だから、平安貴族がその事情を知らなかった筈はなく、源頼朝にその職位を与える際に、大率を避けて征夷大将軍とした事が、大率名称が失われた直接の原因だったと考える事もできる。平安貴族は源頼朝に大率の様な包括的な統治権能を与えたくなかったから、中華では軍事しか担務しない将軍名称を与えたと推測されるからだ。

つまり朝廷は鎌倉幕府を、律令制と荘園制度を守る警察権力に過ぎないと認識して将軍職を与えたが、源頼朝は農業国家の本質は、農地の耕作権を保証する権力機構である事を見抜き、それに関わる裁判権も掌中に収める事によって実質的な日本の支配者に近付いた。

頼朝の遺制を引き継いだ武士達は戦乱を重ね、戦国時代に王朝的な国司制度や守護大名制を廃止させ、倭人時代の様な完全な自治制度である幕藩体制を樹立した。江戸幕府の将軍の名称である征夷大将軍は大率の権限に近く、出雲的な大率制が復活した様に見えるのは、出雲王が形成した大率制は政治的に安定した制度だからであり、それ故に古事記が最後の倭人政権の立役者だった出雲王を、大国主として国譲りの主役に仕立てたとも考えられる。

これは5世紀中頃に華北に北魏が生れ、武庫川系邪馬台国の軍事を伴う移民事業が行き詰まると、2番手事業だった毛皮交易が最上位に戻り、武庫川系邪馬台国と提携していた北九州の大率が、出雲国王と飛鳥侯王に排斥された事件が「石井の乱」だった事に結び付く。その際に関東部族の天氏は、毛皮交易を主導していた出雲国王を倭王にしたかったが、mt-B4が彼女達の情報ネットワークが弱い出雲を嫌い、稲作を推進していた対馬部族の飛鳥王が倭王になったが、飛鳥王が実権を握っていた時期はなく、古墳時代後葉~飛鳥時代(450年~670年)は実は出雲時代だった可能性が高いからだ。

鳥取県琴浦町に斉尾廃寺跡(さいのおはいじあと)があり、この付近が飛鳥時代の出雲国の都だった事を示唆しているが、まともな発掘は為されていない。実際に発掘して飛鳥以上の遺跡群が確認される事は、王朝史観にしがみ付いてる史学者にとって、不都合な事実になるからではなかろうか。

 

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