経済活動の成熟期 その5

5 縄文文化の変質

 

5-1 縄文晩期~弥生時代の北九州

5-1-1 支石墓と甕棺墓

東アジアの支石墓と類似した形状の墓が、BC4000年~BC3000年頃の大西洋・北海・バルト海沿岸に作られたドルメンに類似し、起源は西ヨーロッパだった事を示唆している。東アジアではBC1500年頃に遼東半島付近に登場し、中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部での分布が、遼寧式銅剣の分布に重なると指摘されている。BC1500年は縄文後期温暖期が終わり、殷人の反乱によって華北夏王朝が滅亡した時期だから、遼東で活動していた濊が荊の武力的な庇護を失い、殷人との直接的な闘争期になった時期と一致する。つまりこの地域の支石墓は、濊が遼河の交易路を守る為に殷人と武力衝突した痕跡である事を示唆している。

他民族との武力抗争を初めて経験した濊が、シベリア流の戦死者の埋葬方法を息慎から聴き、西欧の海洋民族の埋葬方法を採用したから、それが濊の戦死者を弔う形式になったと考えられる。濊が遺した支石墓は、遼東半島を中心に遼西まで多数建造されている北方式と呼ばれるものだったと考えられ、建設に手間が掛かる地上式である事は、戦闘で死んだ死者を手厚く葬る施設だった事を示唆している。

日本の支石墓は、長崎県の原山支石墓群(島原)や大野台支石墓群(佐世保)などを嚆矢として縄文晩期に出現し、久保泉丸山遺跡(佐賀)には弥生前期までの支石墓がある。それらの出現時期は殷周革命以降に該当するから、殷周革命によって華北から追い出された殷人が、遼寧に逃亡して来ると遼東の濊との抗争が生れ、濊が遼東を死守すると殷人は満州に逃れて後世の扶余になった。荊との交易を重視していた九夷は、荊が南下すると交易対象を華南に移動させたから、薩摩半島にいた南方派の倭人は殷周革命時に河北に派兵したとしても、毛皮交易を活性化させる為に濊と一緒に殷人と戦う状況にはなく、北九に毛皮交易を推進する倭人連合が生れたと考えられる。北九州の支石墓は、その地域の人々が濊を支援する為に大陸に出兵した事を示唆し、北九州に生れた倭人連合は殷末まで九夷だったが、周初に倭になっていた事と一致する。

殷墟から宝貝が発掘される事は、九夷は殷王朝と交易関係にあった事を示し、九夷が殷人との戦闘に参加しなかった可能性も示しているから、殷周革命には濊を支援する倭として登場した可能性もある。その推測が支石墓の登場時期と一致するだけではなく、竹書紀年が殷周革命の立役者は西の諸集団であると強調している事に、時流の流れとの矛盾を感じるからだ。

竹書紀年は殷末の出来事として、

帝辛(紂王)元年 王即位。殷に居す。九侯、周侯、邘侯に命した。(君臣関係になった)

と記し、九侯(九夷)と交易関係にあった事を示し、華北夏王朝を倒した商侯履や、殷商王朝を樹立した成湯以降の王と、交易関係にあった事を示唆している。

関東部族は縄文中期から東夷諸民族に弓矢を販売し、夏王朝期の物流を支えて来たのだから、殷王朝と交易を行う事は当然の帰結だった。その証拠については、経済の成熟期の各項で通史的な事実関係を明らかにした後の、最後の項で検証するが、殷王朝の経済基盤は青銅の輸出で、その交易を担っていたのは九夷だった筈だから、最後の殷王である紂王が最も重視した周辺民族だった事を、竹書紀年の記述順序が示していると考えるべきだろう。既に指摘した様にその銅の最大の需要者は、焼畑農耕者だった可能性が高いからだ。

殷王朝期は縄文晩期寒冷期であり、既に出雲部族と対馬部族が毛皮交易を活性化させていた事実をそれに重畳すると、殷末に登場した九夷は既に北九州のそれらの部族の集合体で、南方派は伊予部族の支援の下に沖縄経由の華南交易に注力していた筈だから、縄文晩期寒冷期の九夷は既に、北九州の北方派と薩摩半島の南方派に分裂状態だった可能性が高い。

殷周革命時の濊は指導者である箕子が紂王に囚われていたから、殷周革命にどの様に参加したのか明らかではいが、殷周革命が終わると粛慎が即座に周に朝貢したから、殷周革命時にも何らかの活動を行った可能性が高い。竹書紀年は殷周革命時の出来事として、「周武王十二年 王は西夷諸侯を率いて殷を伐ち、野で之を敗る(勝利する)」と記しているが、夷は沿海部の諸民族を指す言葉で、西夷諸侯の表現は奇異だから、元の記述は夷諸侯だった疑いがあり、それに箕氏が含まれていた可能性が高いからだ。周は夏王朝の支持によって殷周革命を成功させた事を、世間に知られたくなかったから、記述に作為的な修正がある事はその8で検証する。

周が殷王朝を倒した殷週革命と、武王が死んで成王が即位した時期に起こった殷人の反乱が、交易にどの様な影響を与えたのか詳細は分からないが、殷人の反乱を契機に殷人への大弾圧が始まると、濊と提携していた北九州の倭人連合が、周に朝貢する事は自然な流れだった。

論衡の「成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ。」との記述はこの推測と整合し、越常が北陸越だったとすると、対馬部族がアワ栽培文化圏を代表する北陸越に、周への朝貢を促した可能性に繋がる。越常が史書に登場するのはこの文献だけである事も、その想定の傍証になるからだ。この時期の日本海沿岸の交易を対馬部族の海運が支え、新潟や出雲で生産された碧玉の管玉が北海道や朝鮮半島で発掘されている事も、その傍証になるだろう。

竹書紀年は、「成王九年 肅慎氏來朝,王使の榮伯が錫を使って肅慎氏を命した」と記しているが、これは「濊と粛慎氏」から意図的に濊を除外した疑いがある事も、その傍証になる。殷人に対する大弾圧を始めていた成王時代の周には、殷人と同じトルコ系民族である濊に対し、忌避的な感情が生れていたと想定されるからであり、北陸越は濊に玉器の製作技術を伝授していた関係上、濊、対馬部族、隠岐部族、壱岐部族(北海道部族)の代表者になる事ができたから、殷人と同じトルコ系民族である濊の立場を忖度し、著名な交易者だった北陸越を代表者に仕立てた疑いがあるからだ。

話しが回りくどいが、個々の記述の事実性を検証すると、それぞれが証拠になると解釈して頂きたい。

支石墓や甕棺墓はこれらの部族域から発掘されていないから、濊と同盟して戦闘に参加したのは縄文後期に関東の漁民が移住した地域と、関東系の九州漁民の地域だけだった事になる。つまり越文化を受容した部族は交易活動には積極的だったが、戦闘行為には極めて消極的だった事を示している。この傾向は歴史時代にも引き継がれ、邪馬台国連合系の倭は朝鮮半島に出兵したが、対馬部族の飛鳥王は朝鮮半島から撤兵し、隋との軍事同盟を拒否し、百済の滅亡を座視し、出雲部族の大率は高句麗を倒して欲しいと唐に賄賂を贈ったからだ。

藤尾慎一郎氏は支石墓と同様の埋葬施設だった甕棺墓について、長崎県対馬,福岡県宗像,遠賀川下流域,豊前,豊後,日向,大隅,天草にはまったく分布しない。分布範囲は熊本県宇土半島を南限に,大分県日田市を東限,長崎県壱岐を北限,長崎県五島を西限とする地域,及び飛び地的な分布をみせる薩摩で、薩摩は薩摩半島西海岸の地城で,鹿児島県日置郡吹上町,金峰町に相当すると指摘している。姶良に分布していない事は、薩摩半島に入植した関東部族は分裂状態だった事を示唆し、墓制の変遷を分類したⅠ期~Ⅴ期までの、Ⅲ期のみの出現である事は、少数派の活動だった事を示唆している。

伊予部族が参加していなかった事は当然として、対馬部族や出雲部族にも戦闘に参加する意志が全くなかった事を示し、交易的な利害関係が薄かった薩摩でさえも、同じ関東部族として援助するべきだとの動きがあった事と、対照的な事情が読み取れるからだ。

成王が殷人を河北から追放し始めると、華北の殷人集団が周の圧迫から逃れる為に、遼寧と満州に陸続と逃亡した事は間違いなく、それを受けて遼東を死守する事が濊の宿命になったから、倭はそれを援助する為に結成されたと考えられる。従って「成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ。」のは、倭が結成された事を周に知らせる使節だった可能性がある。

ウィキペディアは支石墓について以下の様に指摘している。

紀元前1500年頃に遼東半島付近でテーブル式が発生し、中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。(この記述は最近削除した)

縄文時代晩期の九州北西地域に碁盤式が出現する。

原山支石墓群の第1群は開墾によって失われ、第3群の40余基、第2群の6基があり、籾の圧痕のある縄文時代晩期土器が出土した。

朝鮮半島(南部)では紀元前500年頃(無文土器時代)から南方式(碁盤式)が見られる。

北方式(テーブル式)と南方式(碁盤式)のおおよその境界は、全羅北道付近とされる。

日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃にほぼ終焉する。(秦・漢王朝成立した頃に終焉する)

甕棺墓は、弥生前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。

弥生中期に最盛期を迎え、主として糸島市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布。(秦・前漢王朝期に最盛期を迎える)

弥生後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。

韓国の歴史認識への盲従が露なので要点を抜粋したが、南方式(碁盤式)は縄文晩期の日本で誕生し、500年後の弥生温暖期に韓国に伝わった事を隠している。

それとは別の問題として、日本の史学会の縄文晩期~弥生時代の年代観は極めて混乱しているので、何時が画期なのか分かり難い。

支石墓は築造に手間が掛かるから、戦死者が増えると甕棺墓に代わった様に見えるが、それも確実な話ではない。

甕棺墓は縄文時代からあり、縄文後期には東北~九州まで展開していた。(北海道にも発見例がある)

北九州の墓制では、弥生早期には小児の埋葬形態だったが、弥生前期から成人の埋葬に使われた。

支石墓の中に置かれた甕棺は、縄文晩期の支石墓から発掘されている。

などの矛盾した指摘があるからだ。

いずれにしても濊と倭人に相当数の戦死者が出たから、それを支石墓や甕棺墓に葬ったと考えられ、甕棺墓から発掘された遺体に多数の濊の遺伝子が含まれ、折れた銅剣が副葬されている事例がその事情を示している。縄文晩期以降に韓族の居住域になった朝鮮半島南部に、BC500年以降の支石墓が多数作られたが、それは燕が成長していた時期だから、燕と濊が一緒に扶余と戦っていた時期であると想定され、戦闘が下火になってから支石墓を多数作った事になり、韓族が支石墓を作った意図は不明だから、以下の検証から朝鮮半島南部の支石墓は除外する。

支石墓には年代を測定する手段がないが甕棺は土器なので、土器の編年に習熟している日本の考古学者として、藤尾慎一郎氏は以下の様に指摘している。

刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)の成立をもって、甕棺墓の開始と考える。根拠は刻目突帯文土器の成立を境に、棺として使用される土器や墓地構成が大きく変化するからである。刻目突帯文土器成立以前は、日常土器から転用された粗製土器(深鉢)を棺として使用し、1基ないしは数基の墓地構成で多数群集せず、周辺に同時期の住居跡や土壙を1基ないし数基伴うといった、生活域との未分離状態を特徴としている。しかし刻目突帯文土器成立以降は、新しく出現した埋葬専用の長胴壺を棺として主に使用し、他の器種と組み合わせた複式棺も登場する。また支石墓の内部主体としで営まれたり、支石墓に隣接して営まれたりして群集した墓地構成をとり、生活域とも分離されていることなど、縄文的な埋葬形態からは脱却しているからである。

刻目突帯文土器について、ウィキペディアは以下の様に説明している。

刻目突帯文土器は西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。この時代の土器の構成には甕(かめ)と、浅鉢、深鉢があり、刻目突帯文は甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器(ゆうすしきどき)、山ノ寺式土器(やまのでらしきどき)である。

菜畠遺跡の水田跡の層から山ノ寺式土器が発掘され、BC930年のC14較正年が示されているから、甕棺墓が戦死者を葬る正式な墓制になったのがBC000年頃で、刻目突帯文土器以前の戦死者の発生は更に遡るから、周の成王が即位したBC1042年より古い。従って濊と共に殷周革命に参加した者か、それ以前から濊と共に戦っていた者達の墓である事を示している。つまり九夷が殷王朝と交易を行う傍らで、北九州の海洋民族は濊と連携して殷人と戦っていた事になり、出雲部族が亀ヶ岡で毛皮の加工を始めた事と、北九州の九夷が濊の為に派兵した事と、何処かの九夷が殷王朝から青銅を入手し、華北に塩を販売していた事が、同時並行的に進行していた事になる。

濊と一緒に殷人と戦っていた九夷が、殷王朝に塩を売りながら青銅を購入していた事の両立に疑念があるが、濊の指導者だった箕子が紂王に囚われた事も、濊と殷人が戦っていた事との矛盾があるから、殷墟の周囲にいて殷王朝を維持していた殷人と、河北や遼西にいた殷人は同じ民族であっても別の集団で、両集団には政治的な統合性はなかったと考える必要がある。

支石墓と共にこの時代を代表する遺物に銅剣がある。

遼寧式銅剣は嘗て満州型銅剣とも言われ、琵琶型銅剣とも言われる。ウィキペディアは以下の様に説明している。

満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土する銅剣。最も古いものは、夏家店上層文化の遺跡から発見される。夏家店上層文化は、現在の中国東北部のBC1000年~BC600年の青銅器文化。

夏家店上層文化は満州に逃れた扶余の文化で、縄文晩期寒冷期に満州に逃れた集団のものだから、弥生温暖期が始まるB700年までの、彼らの苦しい時期の文化だった。BC600に弥生温暖期が始まり、アワの生産性が高まって人口が増えた事により、この文化期が終わった。

アンドロノヴォ文化と呼ばれる青銅器文化圏が、BC2300年~BC1000年にエニセイ川上流域~カスピ海北岸に展開した事は、縄文後期温暖期に息慎の陸の交易路で、この文化が展開した事になる。BC1000年に終わった事は、縄文晩期寒冷期に息慎が消滅した事を示している。遼寧式銅剣や銅矛はその文化系譜であると指摘されているから、濊が殷人と闘争を始めたBC1500年にこれらが導入され、殷人の夏家店上層文化の銅剣は、濊が使った銅剣を模倣したものである可能性が高い。

陸戦の経験がなかった倭人も銅剣や銅矛の製法と、それを使う戦闘技術を濊から学ぶ必要があった。遼寧式銅剣の発掘例は遼寧に多く朝鮮半島では稀であるが、北九州で盛んに作られた巨大な銅剣の形状がその系譜である事は、倭人が遼寧で濊と共に殷人と戦闘した際に、その様な銅剣を使用した事を示している。

その結果発生した多数の戦死者を弔う為に甕棺が生れ、濊に倣った支石墓も導入されたと推測される。幼児を葬る墓制だった甕棺墓が北九州では戦死した成人を葬う様になり、青銅製武器(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などを副葬する様になったのは、突然発生した多数の戦死者の為に急遽生まれた、戦死者用の墓制だったからだと考えられる。

この事情を説話化したと考えられる文章が、古事記の神武天皇紀にある。但し古事記は海洋民族の歴史には一切触れず、全てを縄文人系の人々の歴史として記述しているから、それに留意しながら解釈する必要がある。以下はその概略。

神武天皇は東征の前に日向に居て、阿多のアヒラヒメと結婚して子供がいた。神武天皇が亡くなるとアヒラヒメの子供である庶子が、神武の正妻の子である綏靖天皇とその兄を殺そうとし、機会を窺っていたので、綏靖天皇が兄に庶子を殺す様に言ったが、兄はそれを実行する際に手足がわなないて殺す事が出来なかったので、綏靖天皇が兄の持っていった武器を乞い取って庶兄を殺した。それ故に兄は天皇の位を綏靖天皇に譲った。

この説話が意味する歴史事実は、この時期まで九夷を率いていたのは阿多の人々だったが、何らかの事件によって薩摩半島の関東部族は倭ではなくなった事と、武器を取って戦う勇気がある者が統治者になった事になり、この時期の九州事情を的確に説話化している。

これを歴史に即して解釈すると、九夷の指導者だった阿多の人々は、関東部族の南方派の出先機関として沖縄経由の航路の維持を主務としていたから、華北の事情には興味がなかったが、北九州の関東部族系の漁民は、殷王朝期から濊の祖先と連携して華北交易を行っていたから、濊が窮地に立つと遼東に派兵したが、九夷を維持して華北に出兵しなかった阿多の人々は、それ以降は倭人ではなくなった。

九夷は春秋時代の孔子が訪問した時期まで継続したが、その時期の九夷は倭とは別の経済単位になっていたから、異なる名称の集団になっていた事になり、関東部族は南方派と北方派に分裂した事を意味する。

この事情を大局的に見ると、息慎が濊の人員を強化して朝鮮半島横断路を建設し、アムール川~ウスリー川流域のモンゴル系狩猟民族が、津軽にmt-N9aを送り込んで毛皮交易を拡大していた頃、息慎は関東部族にモンゴル高原~バイカル湖岸のmt-M10を送り込んでいた。息慎がそれによって関東部族に濊への支援を要請したとすると、兵を派遣して最大の被害を被っていた関東部族への貢献としては、多数のmt-N9aを送り込んだ出雲部族との釣り合いが取れない。息慎は関東部族の北方派にもっと大きな恩を売っていたと想定され、それは製鉄技術の提供だったと考えられるのでその7で検証する。

対馬と壱岐が倭人国になったのも、これらの島の漁民が北九州の漁民と一緒に華北交易に参加し、部族を変えて倭人になったからだと想定され、対馬部族だった行橋の漁民も同様だったから、魏志倭人伝に不弥国として登場すると考えられる。しかし宗像の漁民は対馬部族の毛皮交易者として、北海道に至る日本海沿岸の海洋交易を担い、北九州の対馬部族の中核として活動していたから、倭には参加しなかった事になり、対馬部族の漁民にも分裂の波が及んでいた事になる。古事記も宗像のタギリヒメは出雲の大国主と婚姻し、その子のアジ鉏高日子根が奈良の支配者になったと記し、事情が整合している。

菊池川流域が支石墓の南限である事はそこまでが2万戸の奴国で、その南が関東系漁民の肥国で、その南の伊予部族の地が熊曽国(鹿児島)だったと推測され、有明海を拠点としていた関東系漁民と、九州南部と阿波を除く四国をテリトリートとしていた伊予部族は、毛皮交易には関与しなかったから、倭人国にはならずに九夷に残存していたと考えられる。

伊予部族は古墳寒冷期にオホーツク文化を形成し、mt-Gを招いて海獣の皮革の生産者になった関東部族の北方派と、密接な関係を持つ民族だったが、伊予民族にも北方派と南方派があり、それぞれが異なる経済を運営していた事になる。その4で、奈良朝が成立すると南方派も北方派と同調し、裏切った関東部族と敵対関係になったと指摘したが、壬申の革命による中央集権制の樹立は、その様な経済的な分裂を起因とする敵対関係を解消するものでもあり、その為に一緒に戦った関東部族の裏切りに遭ったのだから、連合して関東部族と対峙する事は当然の流れだった。

甕棺墓から青銅製の武器が多数発掘される事や、弥生時代の鉄器の発掘事例が九州に集中している事が、それらの事情を示唆していると考える必要がある。つまり倭は九州に青銅の武器を潤沢に提供したが、鉄器の生産が軌道に乗ると北九州に鉄の武器を優先的に配分したから、先ず北九州で青銅器の祭器化が始まり、遅れて兵員を提供していた西日本にも鉄の武器を優先的に配布したから、銅鐸の量産と大型化が進行したと想定される。

経済力を付けていた出雲では九州より先行して鉄器時代化が始まり、日本海沿岸にその恩恵が及んでいた可能性もある事を、「山草荷遺跡出土の弥生土器」の検証に当地域(新潟県北部)では、弥生時代中期遺跡では石器類の出土は多くない。」との指摘がある事が示唆している。弥生温暖期になると、鉄の生産は東アジアの複数個所で行われていたから、経済力があれば交易によって入手する事も可能だったし、北陸部族が東南アジアから運んで来ることも可能だったからだ。

いずれにしてもBC400年頃に銅矛と銅鐸が祭器になっていた事は、この頃から鉄製の武器が潤沢に出回り始め、青銅の価格が下落していた事を示唆している。つまり稲作者や焼畑農耕者にも鉄器が普及し始めた事を意味している。奈良盆地で大型古墳の造営が始まった時期を次節で検証するが、その頃に始まった事もそれを証明している。

九州勢力のその様な軍事体制の構築に際し、動員する兵の供給者は焼畑農耕者と稲作民だったと推測され、3民族の共生体制だった濊の兵は、弓や槍の操作に慣れた狩猟民族が主力だったと推測され、その様な人々が濊の構成民族の2/3だったから、彼らと比較した倭兵の熟練度に大きな課題があっただろう。古事記が「兄は手足がわなないて殺す事が出来なかった」と記した背景に、その様な事情があったとすれば、縄文人とその子孫の歴史として編纂された古事記には、必要な文言だった。

吉野ヶ里遺跡は軍事要塞の様な作りだが、この様な遺跡が何カ所も発掘されていない事は、敵対する集団間の中核的な軍事拠点ではなく、徴発した若者を軍事調練する施設だった事を示唆している。派兵されると直ぐに実戦で役立つ様に、更に言えば戦場で無駄に殺されない為に、遼東に設置した砦と類似した施設で半年~1年掛け、城塞の攻防戦を含む軍事訓練を実施したとすると、それに相応しい場所と構造になるからだ。集団的な戦闘員を派兵する場合、その様な施設や場が必要である事は軍事的な常識であり、この時代の人も当然考え付く事だったからでもある。稲作者の集積地だった佐賀平野に、この施設が建設された事もこの想定を支持する。

 

5-1―2 倭国王と大率の関係

倭が生れると倭国王の地位が生れ、その名称が天皇だった事を、古事記が神武天皇の即位説話で示している。古事記についてはその6で検証し、此処では魏志倭人伝と旧唐書に記された大率と倭国王の関係を検証する。

遼寧の戦闘で傷付いた遺体は神戸でも発掘され、伊都国の大率の統治は、後世の邪馬台国になった大阪湾岸にも及んでいた事を示している。神戸の発掘事例は少ないが、邪馬台国出身でも多くは伊都国に葬られ、特別な人が神戸まで運ばれて埋葬された可能性が高く、弥生温暖期にはまだ大阪平野がなかったから、大阪湾の沿岸には多数の人口を擁する国はなかったからでもある。

魏志倭人伝は吉備を投馬国、神戸を邪馬台国と記しているが、「馬」は当時の軍事の象徴だから、これらの国名は軍事拠点を示す名称になり、平和な倭人社会でこの様な軍事的な名称が生れたのは、遼寧への出兵を意識していたからであると考えられる。

魏の使者に倭の防衛力を示す為に、敢えて一時的に付けた名称である疑いもあるが、首都的な意味を持つ伊都国にいた大率は大将軍を意味したから、軍事拠点的な意味を持つ投馬国邪馬台国の名称関係も、これらの国が伊都国を中心とする軍事国家である事を示し、名称に関わらず大率とこれらの国の関係は、軍事的な結び付を最優先とするものだったと考えられる。

卑弥呼がこの地域を統括する女王になったにも関わらず、この様な名称を魏の使者に示した事は、一時的な名称ではなく伝統的な名称だった事を示唆し、「特に一大率を置いて検察し、諸国は之を畏れ憚る。常に伊都国を治す。」との記述は、卑弥呼が女王になっても軍事では大率が上位者だった事を示し、大率は卑弥呼が女王になる前の統治者だった事を示している。

隋書の項で指摘したが、「邪」漢字は魏志倭人伝に挙げられている複数の国が使っているから、美称の様な付加漢字だったと推測され、邪馬台国の真の意味は「馬台」にあったと考えられる。従って将軍を輩出する国を意味した可能性が高く、魏の使者にその名前を示したのも、魏に対しても威嚇の意図があった事を示唆している。投馬国の「投」は手と丈の合成で、原義は「殴る・投げる」だから、矛を持つ武人の別称だった可能性がある。

「邪」「卑」は意味が邪悪だから、中華人が倭人を貶める為に使った音であると解釈する人がいるが、漢字は倭人と荊と製塩業者が起源の文化であり、殷人や周の漢字は華北人がそれを真似た亜流文化だった。倭人はこの時代も正当な漢字の使用者だったから、漢代以降に成立した史書や、唐代以降に王朝に流入した漢字文章に使われた漢字とは、意味が異なるものが多数あったと考える必要がある。

現代の漢音漢字が示す意味は、後漢代に作られた説文解字を出典とするものが多く、これは亜流である華北系の漢字文化であると考える必要もある。華北人は元々権力闘争的な農耕民族だったが、殷人に支配されて権力闘争至上主義的な文化を形成した結果、相手を罵倒する語彙を無数に発生させたから、意味が分からなかった漢字をその為に転用した可能性も高い。例えば「卑」は柄杓を手に持つ象形だが、それが「いやしい」という意味に変わった経緯が分からないのは、華北には柄杓がなかったから華北人には意味が分からず、音が似ていた異なる意味の言葉に、この漢字を転用した疑いが濃い。

魏志倭人伝の、「男の王が7080年統治したが、倭国が乱れたので、女王を擁立して卑弥呼と名付けた。」との記述は、男の王は北九州の大率だった可能性に至る。従って魏志倭人伝が示す「倭国の乱れにより(西日本の)倭の30国の統治者が、北九州の大率から邪馬台国の女王に移管された」事は、邪馬台国九州説が唱える統治者の変遷経緯と一致し、漢書と後漢書が記す「倭の百余国」の残り70余国は、関東を中心とした東日本にあったと考えられる。魏志倭人伝はその70余国について、「女王国の東、海を渡って千余里に別の国があり、皆倭の種」と記し、歴史事象と一致している。これは魏志倭人伝の倭に関する認識の高さを示しているが、これらの記述は倭人が魏の使者に話した倭の事情でもあるから、それが倭人の認識だったと解釈する必要もある。

南朝の宋に朝貢した倭人の申告を要約したと推測される後漢書も、「倭には凡そ百余国あり、武帝が朝鮮を滅ぼしてから、漢に使者を派遣する国が30ほどある。」と記し、西日本の30国の商圏は華北だったが、東日本には倭人国が70余あり、彼らの商圏は魏の領域外だった事になる。中華世界ではない地域も含まれていた事を示しているのは、この時代の荊は既にタイに移住していたから、当然それも含まれていたが、関東の倭人は内需交易を志向していたから、華北との交易に興味がなかったとも言える。

いずれにしても、この時代の倭国王は関東にいて、倭国王と大率は並立する存在だった事を示している。

宋書倭国伝に倭国王の使者の朝貢を示す記事が多数あり、倭国王の親書の内容が転記されている部分がある。それには「(倭国王が)東方の毛人55国を征服し、西方の衆夷66国を服属させた」と記され、倭人100余国と東鯷人20余国の合計と、概ね一致する国の数が示されているから、倭は古い時代から100余国で、倭の中軸地域は関東だったと考えられる。

西方の衆夷66が卑弥呼の時代の30国より増えているのは、この時代の倭国王が北陸部族、出雲部族、対馬部族、伊予部族の国も従えた事を示し、東方の毛人55国が上記の70余国より少ないのは、北関東~東北にあった倭人国は、この時期の倭国王の征服対象外だった事を示している。北関東にはヒエの栽培地になった集団もいたが、部族としては倭だった地域もあった筈だから。

後漢書の「奴国は倭の極南界なり」の記述は、九州中・南部に倭人国がなかった事を示し、魏志倭人伝が示す邪馬台国の位置と矛盾するが、(1)魏志倭人伝で指摘した様に、魏の使者が邪馬台国の倭人に騙され、誤った位置情報を与えられたとすれば両者に矛盾はない。邪馬台国の位置をフリッピン海とする魏志倭人伝のあり得ない表現と、この結論は整合するからだ。

邪馬台国の倭人が魏の使者を騙した200年前に、奴国の使者が後漢に朝貢し、奴国に関する正しい地理認識を示した事が、この記述上の矛盾を生んだが、奴国の使者がこの様に述べた理由が分かれば、歴史の流れは整合する。

奴国は交易者の同盟組織だった倭人連合から見ると、主要な航路から外れた地域に入植した辺境国だった上に、凶暴な殷人・扶余対策として、多数の兵を遼寧に送り出す軍事に忙殺されていた国だった。毛皮交易は対馬部族と出雲部族が担っていたと推測され、倭は軍事を担っていた可能性が高い。既に指摘した様に、毛皮交易を成立させる為にはマーケティング活動が重要になり、それができたのは毛皮の生産者だった出雲部族であり、その海運は対馬部族が担っていたからだ。

当然ながら出雲部族と対馬部族は利益の過半を、軍事を支えていた倭人国に提供していただろう。出雲と岡山に製鉄産業が生れたのは、その様な北九州の軍事を支える為だったのではなかろうか。既に何度も指摘した様に、萌芽期の製鉄産業には金に糸目を付けない顧客が必要であり、軍需目的がそれに最も相応しい事は世間の常識だからだ。

単なる軍需では資金が乏しく実現性に乏しい場合が多いが、この場合は商業国家が運営していたから、理想的な環境があったと云うべきだろう。但しこれは製鉄産業が既存の産業だったから実現したのであって、日本の製鉄産業の起源地は他の地域だった。

甕棺墓は、弥生前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られ、弥生中期に最盛期を迎え、弥生後期から衰退したとウィキペディアは記しているが、弥生時代の区分と実年代の関係に混乱があるから、これらが実際に何時を指しているのか明らかではない。前漢王朝期に最盛期を迎えたのであれば、衰退した弥生後期は後漢王朝期を指し、後漢は濊の毛皮交易に関する知見に乏しく、朝鮮半島に軍隊を派遣しなかったから、奴国が後漢に朝貢した事を示唆し、魏志東夷伝の記述と整合する。

つまり漢王朝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島に進出し、濊を制圧して大同江流域に楽浪郡を設置すると、戦線が朝鮮半島中央部まで南下して緊張感が一層高まり、奴国にとっては交易どころではなかったが、赤眉の乱によって王莽政権が倒れると、朝鮮半島には漢王朝の軍事力がなくなり、奴国が一息吐いた時期だった。後漢代になると古墳寒冷期に向かう気候の冷涼化が進展し、華北経済が急減速し始めたから、漢族の人口が減少して領土の膨張圧力が低下した上に、後漢王朝は遼東半島や朝鮮半島北部の経済支配を放棄し、この地域の漢民族を保護する政権に変質したから、北九州の倭人も交易に関心を高める余裕が生まれた。

史書には相変わらず遼東郡や楽浪郡の記述が踊っていたが、後漢代の遼東半島には騎馬民族的な墓制が広がっていたとの指摘があり、扶余とは異なるトルコ系の農耕民族の南下が始まっていた事を示唆している。つまり騎馬民族に保護された小麦栽培者の、この地域への南下が始まっていた事を示唆し、後漢代の一時的な人口の回復にも、それらの民族の貢献が寄与していた可能性も示唆している。

従って奴国の後漢王朝への朝貢は、それらの事情を睨んで行われた事を意味し、遼寧を拠点とした後漢末の軍閥である公孫氏も、その様なトルコ系民族の集団だった可能性も示唆している。公孫氏を滅ぼした魏軍が遼東で民衆を大虐殺した記録があるが、魏がそれらのトルコ系民族を、漢族の不倶戴天の敵だった殷人であると誤解した疑いもあるし、後漢は南下圧力を高めていたモンゴル系の騎馬民族を敵視していたから、魏の大軍を見て遼東の騎馬民族が逃亡すると、残された農耕民族が魏軍に虐殺された疑いもあるからだ。

しかし伊都国の大率の緊張感は解けていなかった事を、奴国が後漢に朝貢してから250年後に、倭人国を訪れた魏の使者を騙した事情が物語っている。従って交易国家になりたかった奴国が、後漢が生れた直後のAD57年に朝貢しても、彼らの準備不足は否めなかった。その様な奴国の使者は、華北交易に有利な条件を引き出す為に色々な提案をし、その際に正直に「奴国は倭の極南界なり」と申告したと想定される。交易を行う際の双方の仁義として、嘘を言っていては交易環境が整わないからだ。

しかしこの申告は、倭人同盟が漢民族に対し、「日本列島は大陸から遠く離れているから、航海術が未熟な中華人には渡航できない」と思い込ませる高度な戦略を否定するものだったから、その150年後に邪馬台国の倭人が為に魏の使者を招き、漢民族の認識を倭人が望む様に訂正させた。その様な高価な代償を払わせた後漢代初頭の奴国の人々は、交易事情に疎かった故に不用意に、後漢の光武帝に正しい知識を与えてしまった事になる。

范曄がそれを後漢書に記したのは、扶余が殷人の子孫である事を暴いた故に敵視していた、魏志東夷伝の矛盾を突いたと認識したからだ。范曄は倭の使者にそれを問い質した筈であり、邪馬台国の後継国だった当時の倭国の使者はそれを誤魔化すしかなく、その曖昧な返答が范曄を新たな誤解に導いたから、後漢書は邪馬台国と敵対していた狗奴国と、東の倭人国を混同したと推測される。後漢書は「邪馬台国は会稽の東にあり、海南島に近い」と記しているから、それが范曄の質問に対する倭国の使者の回答だった。

後漢書倭伝が、「倭人の島は遠すぎて(大陸人には)往来できないが、倭人は交易のために会稽に渡航して来る」との認識も示したのは、范曄に事情を説明した倭の使者が、邪馬台国の外交方針を范曄に吹き込んだ成果だから、自国の先人達の努力に報い、その方針を堅持した事になる。

しかし范曄は納得できなかったし、陳寿の認識が誤っている事を指摘できる材料になり得る記事だから、「奴国は倭の極南界なり」と朝議禄を転記しただけではなく、注目度と信憑性を高める為に、奴国の使者と光武帝の金印の授受に関する遣り取りの機微を交え、以下の様に朝議録から転記した。

建武中元二年 倭奴國が奉貢朝賀す。使人が自から大夫を称す。倭國之極南界也。光武が(献上品の返礼として)賜うに、印綬を以って(行う)。

安帝永初元年、倭國王帥升等、口百六十人を献上し、請見するを願う。

後漢書の著者の范曄は、魏志東夷伝が示す「扶余は殷人の末裔である」との記述を否定したかった故に、その信憑性を棄損したかっただけから、倭がどの様な国だったのかはどうでも良かったが、この記述によって後世の我々は、後漢代には倭国王身分が既に存在した事を知り、倭國王帥升等との記述から、絶対権力者ではなく諸国王の代表に過ぎなかった事を認識できる。つまり北九州に大率がいて、関東に倭国王がいて、倭の外交は倭国王が担っていた事が分かる。

宋書は「倭國王の珍は、倭隋等十三人に平西、征虜、冠軍、輔國將軍の号の除正も求む。」と記し、倭国王は単なる諸国の代表者でしかない事を、此処でも示しているが、高句麗と戦闘を行う軍事指導者である事も示している。つまり大率の上位者だった。

隋代の倭王は対馬部族の飛鳥国王(継体天皇系譜)だったから、彼も倭人時代の歴史的な事情に疎く、再び隋に正しい地理観を与えてしまった事が隋書に記されている。その様な隋書には大率に関する記事がないが、旧唐書は「其の王の姓はアメ氏。一大率を置いて諸國を検察し、皆之を畏附する。」と記し、大率が関与した倭国の使者が朝貢した太宗は、「余りに遠方から来るのだから、毎年朝貢しなくても良い」と伝えた事が、継体王朝下の大率と倭王の違いを示している。

つまり隋の使者は大率の存在を知らなかったから、隋代の倭王は大率に無断で隋の使者を迎えたが、唐代になると出雲の大率が対唐交渉を担当したから、再び邪馬台国が創出した偽情報を唐の太宗に提示した事になる。北九州の大率は継体王朝によって廃止され、代わって出雲王が大率になったから、継体王朝の倭王は倭人時代の大率の政策に疎かったが、出雲と北九州は縄文晩期から唇歯の関係にあったから、出雲王は北九州の大率の方針を知っていた事を示している。これだけの説明では分かり難いが、その7を読めば事実関係が明らかになる。

後漢書が倭国王は遅くとも後漢代に実在した事を示し、大率もその時代から存在していた事を示唆しているが、大率は倭国王の下位者であり、倭国王は倭の外交に関する交渉権を有していた事を、これらの史書から読み取る事ができる。

 

5-2 対馬部族が形成した飛鳥(ひと)国

関東のmt-B4や東北のmt-M7aが西日本に拡散した縄文後期には、淀川と大和川が大阪湾に土砂を輩出していなかったから、大阪湾岸に沖積平野は殆どなかった。淀川は山崎にあった山塊に堰き止められ、京都盆地と木津川流域に巨大湖を形成していたからだ。木津川はその巨大湖に流入して川洲を形成し、大阪湾には土砂を排出していなかった。宇治川は琵琶湖が土砂を堰き止め、桂川は古亀岡湖が土砂を堰き止めていたから、これらの川は古京都湖に土砂を流し込んでいなかった。古京都湖に土砂を堆積していた最大の河川は鴨川で、弥生時代になっても古京都湖の南半分は湖だったが、木津川が形成した川洲は山崎の堰に迫っていた。

川洲が流出校に達すると、その砂が混入した水が流出口の岩石を砥石の様に浸食し、流出口を急速に広げて湖の湖面標高を低下させ、湖底に堆積した土砂の排出も始まるから、その湖は巨大湖であっても急速に終末期に向かい、多量の土砂を排出しながら湖が盆地に変わる。従って川洲が流出口に達した時期は、歴史的にも重要な意味を持つ。

ヤンガードリアス期に木津川が形成した川洲が山崎の付近まで迫っているのに、山崎の堰が維持されたのは、その時期の古京都湖の水は琵琶湖に流れ、琵琶湖の水は関ヶ原を経て伊勢湾に流れていたからだと推測される。京阪京津線の追分と上栄町の間の地形が、その時期の古京都湖の流路を示しているからだ。大文字山や音羽山は隆起地形を示し、瀬田川流域は沈降している事を示唆しているので、琵琶湖は東西の隆起する山塊に挟まれ、褶曲によって生まれた沈降地形の湖である様に見える。

武庫川や猪名川も中流の湖が土砂を蓄え、大阪湾には殆ど輩出していなかった。

大和川も生駒山系に堰き止められて古奈良湖を形成し、大阪湾には土砂を輩出していなかった。

大阪湾岸の台地としては、六甲山系の南に幅1㎞未満の洪積台地があり、それが邪馬台国の起源集団が入植した地域だった可能性があるが、急速に広がった大阪平野に入植したのは、北九州、岡山、讃岐、淡路に入植していた人々だったと考えられる。それでなければ弥生時代末期に、7万戸もの人口が集積する条件は整わなかったからだ。

泉北台地から北に細長く伸びた上町台地があり、大阪湾を内海と外海に区分していたが、これらの台地は幅が狭すぎて河川も形成できなかったから、稲作地は望めなかった。

泉北台地と泉南台地の山側は、金剛山地や和泉山脈の山塊と一緒に隆起し、数次の間氷期に形成された複数の洪積台地が層状に堆積し、標高が高い台地を形成しているから、末端の谷に僅かな稲作地が望める程度だった。

泉北台地と泉南台地の海側は、今次の氷期初頭の豪雨期に、播磨灘に蓄えられた水が明石海峡と友ヶ島水道を排水路とし、太平洋に流出して深い谷を形成していた。ヤンガードリアス期の海面は現在より60m低く、その豪雨もこの谷を経て流失したから、泉北台地と泉南台地には傾斜がある深い谷が刻まれ、縄文海進期にはこの付近で最も深い海が形成されていた。太平洋の湿潤期の降雨は、入り江に変わったその谷の奥に小さな沖積地を形成したが、mt-B4型の稲作地は多少あったが、それほど広いものではなかったと想定される。

堺市の四つ池遺跡は縄文後期にmt-B4が入植した事を示唆しているが、この遺跡に関しては歴史学会から緘口令が敷かれているらしく、20世紀の文献にはこの遺跡に関するものがあり、此処から出土した土器は標準土器として扱われているが、最近の文献やネット情報では、四つ池遺跡は弥生時代の遺跡として扱われている。この遺跡から出土した土器に多数の炭化米が収められていたとの情報が真実であれば、縄文後期に稲作はなかったとか、あっても水田稲作ではなかったとの主張を否定するものだから、歴史学会がそれを隠す為に緘口令を敷いていることになる。

弥生時代の時代区分が不確かである事や、次節に示す様に古墳時代の設定が間違っている事や、卑弥呼の時代ではない箸墓古墳を卑弥呼の墓であるかの様に執拗に喧伝し続けている事も含め、歴史学会はある程度の真実は分かっているが、それを秘匿する為に世間を撹乱しながら誤魔化しているとしか考えられない事情が散見される。

いずれにしても泉北台地と泉南台地の沿海部は、台地の沖に深い海がある地形だから、台地から流れ出る中小河川では広い沖積地は生れなかった。従って縄文後期にこれらの地域に入植して四つ池遺跡を残したmt-B4も、日本式の稲作で温帯ジャポニカを栽培する時代になった弥生時代以降は、大阪平野生まれてその土砂が堺の沿海部に及ぶまで、稲作地を拡張する事ができなかったから、この地域の人々は弥生時代の稲作史には大きな影響を与えなかったと想定される。

従って関東から入植したmt-B4は、武庫川や猪名川(いながわ)などの河川流域に形成された、小さな盆地に入植して熱帯ジャポニカを栽培したと想定されるが、海岸から遠く海産物の入手に不便があった。しかしこれらの地域は北陸系のmt-D+M7aが焼畑農耕を営んでいた地域だったから、焼畑農耕者と共生関係を形成して内陸を稲作地にしたと考えられる。

淀川が大阪湾平野を形成したのは、木津川が古京都湖を埋め立て始めた時期にその川洲が山崎の堰の流出口に達し、土砂を含んだ水が流出口から排出され始めたからだと考えられる。それによって古京都湖の水位が幾分か下がると、川洲に蓄えられていた多量の土砂が流出口に流れ込み、その摩擦で流出口の浸食が急速に進んだから、川洲に蓄えられていた土砂が多量の水と共に流れ出し、山崎の堰が急速に破壊されながら大阪湾の埋め立てが進行し、大阪平野が急拡大したと考えられる。

山崎の堰が破れる直前まで、古京都湖は古奈良湖と繋がっていたから、奈良盆地周辺の古墳や遺跡の標高から古奈良湖の消滅過程を推測すると、山崎の堰の決壊と大坂平野の形成時期も類推できる。

先に神武東征の時期を示すと指摘したBC千年頃の、金剛山の側面崩壊による吉野川遮断時の古奈良湖の湖面標高は、標高110m程度の御所市の平坦部が示している。五條市にある宇智川磨崖碑(奈良時代)の標高が110120mだから、この崖が当時の五條市側の河道を示しているとすると、対馬部族が古奈良湖の湖岸に入植した縄文後期の湖面標高も110mだった事になり、この時期の古奈良湖の湖面は安定していた事を示唆している。宇智川磨崖碑は光仁天皇ゆかりの施設であると推測される事が、後述する理由によってその確度を高める。

奈良盆地の周囲の事情として柳本古墳群が標高90mの位置にあり、その次世代の古墳群であると考えられる佐紀古墳群が80m75mで、箸墓古墳を含む纏向古墳群が75m付近にある。これらは水運に長けた対馬部族の事業だから、古墳の形成には船で湖畔に石材などを運び、それらを使って古墳と周濠を形成した可能性が高い。

従って最古の古墳群が標高90mである事は、この頃から古奈良湖の湖面標高が低下し始めていた事を示し、古墳時代がAD200年~AD500年までだったとすれば、前半の150年間に湖面標高は90mから75mに低下した事になる。その300年後の飛鳥時代の遺跡が標高70m以上の位置にあるから、飛鳥時代の古奈良湖の標高が60m位だったとすると300年間で15m低下した事になるが、湖の終末期の湖面の低下は加速度的に進んだ筈だから計算が合わない。つまり柳本古墳群の築造時期はAD200年よりかなり早い時期で、佐紀古墳群や纏向古墳群の築造時期も現在の推定時期より早かった事になる。従って纏向古墳群を前方後円墳の発祥地とし、行燈山(あんどんやま)古墳などの前方後円墳を含む、柳本古墳群の方が新しいと考えている現在の通説に疑念が生れる。

唐古・鍵遺跡の現在の標高は47mだから、各古墳の標高が遺跡の古さを示しているとすると、矛盾があると思われるかもしれないが、この遺跡は盆地中央の厚い沖積土壌の上にあるから、湖面標高の低下と共に沖積土壌の地下水が抜け、土壌表面の標高が大幅に低下したと想定する必要がある。つまり盆地の沖積土壌の上にある唐古・鍵遺跡の現在の標高は、弥生時代の湖面標高を示してはいないのであって、山際ではない沖積土上の古墳にもその様な標高のものがある。この原因は地下水が抜けた事による地盤の沈下で、特に湖水面の低下が激しかった盆地ではその程度が甚だい。

この現象は考古学者の常識にする必要があり、その配慮がなければ古地理環境を復元する事はできない。

つまり奈良盆地の地下には相当深い場所まで堆積土で埋まっているから、湖面標高が低下すると地下水の水圧が下がって地盤が大きく沈下したと考える必要があり、唐古・鍵遺跡は標高110mの初瀬川の川洲上にあったが、現在の地下水位は大和川の流出口である標高35mの三郷町の河原まで75m低下したから、遺跡も標高47mまで低下したと考える必要がある。むしろ遺跡として発掘できたのは、周囲より地盤の沈降が少なかったからであると考える必要があり、遺跡の地下の岩盤が峰の様に盛り上がり、遺跡直下の沖積土がその分薄かったので、周囲と比較して沈降が少なかったから、厚い土砂を被らずに発掘可能な状態になっていると考える必要がある。

つまり唐古・鍵遺跡は弥生時代の湖面標高から63m低下しただけだが、盆地の地下の土砂の堆積が数100mある地域では、更に大きく沈降したと考える必要があり、その影響を受けない山際の遺跡の標高は参考になるが、山際から離れた盆地内の遺跡の標高は、築造時の標高を示してはいないと考える必要がある。

地形が複雑な奈良盆地ではその事情が分かり難いが、形状がシンプルな古甲府湖の場合は、笛吹市の山際の平坦地は標高290m以上あり、石和町の平坦部の標高は260m以下だから、湖水の喪失によって30m以上沖積土の標高が低下した事を示している。甲府盆地から流れ出る富士川の河川敷の標高は240mだから、古甲府湖は縄文時代以降に50m水位を低下させ、その影響で沖積土の標高を30m下げた事になるが、水位が75m低下した古奈良湖では、川洲にあった唐古・鍵遺跡の標高が63m低下した事に違和感はない。湖面水位の低下と盆地面の現在の地下水位の関係は、線形関係ではなく2次関数的な関係になると想定されるからだ。堆積土壌の砂質に依存するから単純に関数化する事はできないが、定性的な説明はできる。

その物理的な原因は、地下水が抜けて比重を高めた土壌の荷重が深層地下土壌への圧力を高め、地下水の輩出圧力を高めるから、湖面標高の低下が大きいと地下水を含まない土壌の層が厚くなり、その荷重によって地下水を含有する層の水を押し出し、土壌を圧縮して含水率を低下させてしまうだけではなく、更に深い場所では砂を押し潰して再び岩石化するプロセスに入るからだ。

以上を前提に佐紀古墳群の東の道路である、木津平城線の最高地点の標高が、67mである事に注目する必要がある。この標高が2000年前と殆ど同じであれば、古奈良湖はその狭間を介し、木津川流域を含んでいた古京都湖と繋がっていた事になるからだ。それが対馬部族の古京都湖への進出経緯を示すと共に、標高90mの古墳は、古奈良湖と古京都湖が古墳時代まで繋がっていた事を示している。

木津川下流域にある京田辺市の、同志社大の標高9060mのテラスが、古京都湖の湖面標高が90m以上あった時代の堆積を示している。ピーク標高160mの枚方国際CCが立地するテラスは、ヤンガードリアス期に形成された川洲であると考えられるから、縄文前期の古京都・古奈良湖の湖面標高は160mで、木津川の沖積土の堆積は山崎の流出口まであと数㎞まで迫った事を示唆している。

しかしヤンガードリアス期の堆積は枚方国際CCで止まり、降雨の減少によって湖面標高が低下したが、その時期以降の木津川はこのテラスを避ける様に流れ、京都盆地側に沖積平野を広げたから、山崎の堰の標高の低下によって湖の流出口が淀川水系に変っても、古京都湖の流出口が木津川の土砂に覆われるまでに1万年掛かった。その間に湖面標高が50m低下した事になるが、この地域は地殻の隆起や陥没が激しいから、上記の遷移を経時的に追跡する事は難しい。

琵琶湖の出口である標高88mの瀬田に縄文早期の遺跡があるが、上記を前提にするとこの地域は8千年間で70m沈降した事になり、縄文時代の地形の復元には、地盤の沈降や隆起も加味する必要がある事を示しているからだ。古京都湖の湖面の低下も、流出口の浸食によるものではなく、山崎の堰の標高が低下しただけである可能性もあり、この地域の地殻の上下動を加味しない検証は、弥生時代以降の3000年間に限定する必要がある。

和泉市の沿海部に弥生時代中期の大遺跡である池上曽根遺跡があり、堺市の沿海部に巨大な大仙古墳を含む百舌鳥古墳群があり、それらが標高10mの沖積平野に建設されている事は、山崎の堰が破れて多量の土砂が排出される事により、大阪平野が生まれたのはその千年くらい前だったと想定したくなるが、古京都湖と古奈良湖を繋げていた標高70m程度の水路は、僅か1㎞程度の長さしかない木津平城線の切通しで、その土質は沖積土であるのに対し、古奈良湖の流出口である大和川は、幅が3㎞程ある生駒山系を貫流し、その山塊は火成岩(花崗岩と閃緑岩)だから河谷を形成するのに時間が掛り、上記の想定を否定している。

つまり軟弱な土壌で形成された木津平城線の谷が、大和側に代わる古奈良湖の流出口にならなかったのは、湖面標高が90mだった古墳時代初頭に、標高70mの切通しを拡張する程の水が流れなかった事を示しているからだ。言い換えると古墳時代初頭の古京都湖と古奈良湖の水位は未だ60m以上あり、両者が同時期に湖の終末期になって湖面標高を急速に低下している最中だった事になる。

古京都湖が先に湖面を低下させると、古奈良湖の水が木津平城線の軟弱な土壌を破壊しながら木津川に流れ込み、山崎の堰から流出する流れを生んでしまった筈であり、それは古京都湖についても言える事だが、その様にならなかったのは、佐紀古墳群が形成された時期の古京都の水位と古奈良湖の水位が共に低下し、両湖の間に多量の水が流れる事態が生れていなかった事を示している。

大和川は古奈良湖の流出口としての地形を明瞭に残しているのに、山崎の堰は痕跡を留めないまでに破壊され、古京都湖の消滅が劇的に進行した事を示している。つまり古奈良湖の消滅には500年以上掛かったが、山崎の堰は100年程度で完全に破壊され、古京都湖が消滅した事を示唆している。

つまりヤンガードリアス期に形成された枚方CCの標高150mの台地が、現在より遥かに北まで延伸していたから、木津川の川洲はそれを周回する様に堆積して山崎の堰の北に迫っていたから、堰が破れるとその川洲と共に枚方CCの台地の土砂も流出口を浸食し、山崎の堰が急速に消滅した事も示唆している。

卑弥呼が登場したAD200年の邪馬台国は7万戸を擁する大国になっていたから、この時期には山崎の堰は完全に破壊され、木津川流域の土砂が大阪湾に爆発的に流出した後だった。大阪平野が急速に形成されても、その周囲には人口の集積地はなかったから、少なくとも5万戸以上が大阪平野に入植した事により、7万戸の邪馬台国が生れたと考えられる。

5万戸以上の入植に100年掛かったとすると、山崎の堰はAD100年には破壊を完了して人が住める大阪平野になっていた事になり、遅くともBC100年頃には、湖の終末プロセスを開始していたと考える必要がある。

つまり古奈良湖の水位が90mだった時期には、古京都湖はまだ健在だったが、古奈良湖の水位が75m程度になった頃に山崎の堰が急激に破壊され、古京都湖が急速に消滅したと考える必要がある。二つの湖が同期して湖の終末プロセスに入ったが、微妙なタイミングの差として古奈良湖が100年以上先行し、終末期に入ったと考えられる。

1万年以上維持された古奈良湖の消滅が500年程度で完了したのは、流出口に堆積土砂が蓄積されていたからだと考える必要があり、それに関しては唐古・鍵遺跡の存在がヒントを与えている。つまり初瀬川の川洲が弥生時代には古奈良湖を横断する様に延伸し、弥生時代末期には大和川の流出口である河合町に達する、古奈良湖を横断する川洲を形成していた事を示唆している。また御所市から流れる葛城川が形成した川洲も河合町に達していた痕跡を、河合町の標高70mの片岡台から、広陵町の標高70mの馬見までの平坦な地形が示している。つまり弥生時代の古奈良湖は南半分が沖積平野になり、豊かな稲作地を提供していた事を示し、流出口の土砂の堆積が進んで終末期の湖になる条件を整えていた事を示している。

奈良盆地の北部には遺跡も古墳もなく、盆地北端の山際に佐紀古墳群があるのは、奈良盆地の北側は古墳時代を通して湖だった事を示唆し、古奈良湖の終末期の大和川の流出口に、全方位から土砂が押し寄せたわけではない事を示唆している。それも古奈良湖の湖面低下が、古京都湖の湖面低下より速度が緩慢だった理由の一つになる。しかしいずれにしても、縄文草創期以降15千年以上継続していた巨大湖が、この時期に殆ど同期して消滅した事には違和感がある。

湖を形成していたどちらの山塊も、六甲山系から生駒山系に連なる一連の山だから、その様な事態の原因として地理学者の中には、地殻の大変動と連動した山塊の崩落などを根拠もなく提案する人がいるが、山塊の隆起が急激に進行する事はあっても、地殻の陥没的な崩落は滅多にないと考える必要がある。隆起は何もない空間に岩塊がせり出す現象だから、我々にも馴染みがある普遍的な現象だが、崩落する為には地中に広大な空隙が必要になり、その様な状態は滅多にないからだ。

六甲山系から生駒山系の山塊は、両側の基岩がこの地域を圧迫する事によってせり上がった山塊だから、崩落現象は最も考え難い山系になり、地殻変動より気候条件を検証する必要がある。尾瀬の花粉が示す気候変動は、この事情を説明するデータを示しているからだ。

弥生温暖期が終わるBC250年頃とBC100年頃に、大きな気温の低下があった事を示しているが、気温が急激に低下した時期は豪雨期だったと考える必要があり、BC250年頃の豪雨期に古奈良湖の流出口が数m低下し、葛城川や初瀬川の川洲の土砂が流出し始め、古奈良湖が終末期に突入したが、湖面低下は緩慢だったから、古墳の標高が徐々に低下したと想定すると、諸事情が整合する。

古京都湖はその豪雨に耐えたが、BC100年頃の2度目の豪雨期に木津川の沖積地の土砂を巻き込み始め、それによって急激な終末期を迎えたとすると、古奈良湖と古京都湖に関する諸事情の、原因と結果がすべて整合する。また古奈良湖の湖面標高が90mから75mに低下したのは、BC100年頃の2度目の豪雨期だったとすると、事態は更に整合する。

以上の事情を年表風に纏めると、

BC250年頃の最初の豪雨期に古奈良湖の終末期プロセスが開始され、やがて標高90mの柳本古墳群が形成された。

BC100年頃に2回目の豪雨期になり、古京都湖の終末期プロセスが開始された頃に、標高8070mの佐紀古墳群と纏向古墳群が形成された。

AD50年頃には山崎の堰が完全に破壊され、大量の土砂が流出して大阪平野が形成されていた。

AD100年頃に大阪平野の人口が急増し始め、邪馬台国が生れた。

AD200年頃に卑弥呼が大率から権限を委譲され、邪馬台国が西の倭人30国の盟主になった。

AD240年には、邪馬台国は7万戸の大国になっていた。

和泉市や堺市に弥生時代の遺跡や百舌鳥古墳群があるのは、山崎の堰が完全に破壊されて大阪平野が形成されると、その土砂が直ぐに上町台地の先端から大阪湾にも溢れ出し、上町台地を周回する様に西区や波速区にも沖積平野を形成したので、その砂が大阪湾岸を右回りに周回する潮流に乗り、堺まで沖積平野を拡大した事を示している。しかしそれは粒子が荒い海砂だったから、その海岸平野が稲作可能な土壌になるにはAD400年頃まで待つ必要があり、百舌鳥古墳群の築造時期が5世紀~6世紀になった。

池上曽根遺跡は弥生時代中期の遺跡だから、大阪平野の形成以前の集落跡で、泉北台地から流れ出ている大津川の支流が形成した、狭い沖積地の遺跡だった事になる。河川の氾濫が集落に被害を及ぼさない様に、これらの河川の氾濫原とは低い丘で隔てられた場所に集落を形成していた。この遺跡から複数の大型の掘立柱建物が確認され、同じ場所に3回から4回の切り合い跡があり、弥生時代中期に100年近くに渡って建て替えを繰り返したが、その後この集落は廃村に近い状況になる。

その時期に大阪平野が形成されたから、この集落の住民がそちらに移住したとすると、この集落が弥生後期に放棄された理由が明らかになると共に、弥生時代の泉北台地や泉南台地の沿海部には、優良な稲作地がなかった事を示唆し、この地域の住民は沿海部である利点を生かして海産物を多量に消費していたから、大型集落を維持する事ができた事も示唆している。

以上の検証の結果として、古墳時代の始まりはBC200年以前になり、通説の歴史観とは大きく異なるが、以下のデータが古墳時代の始まりを更に遡らせる必要がある事を示している。

行燈山古墳が崇神天皇陵に比定されているが、それより古い天皇にも御陵が割り当てられているので以下に示す。

1    神武天皇 畝傍山東北陵 奈良県橿原市大久保町 標高66m

2    綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵 奈良県橿原市四条町 標高66m

3    安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵 奈良県橿原市吉田町 標高68m

4    懿徳天皇 畝傍山南纖沙溪上陵 奈良県橿原市西池尻町 標高70m

5    孝昭天皇 掖上博多山上陵 奈良県御所市三室 標高100m(葛城山を水源とする小河川がヤンガードリアス期に形成した扇状地上にあり、建造時の標高は現在より10mほど高かった可能性がある。)

6    孝安天皇 玉手丘上陵 奈良県御所市玉手 標高110m

7    孝霊天皇 片丘馬坂陵 奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目 標高100m(西南の王子霊園を含めて沖積地だったと考えられるので、建造時は10mほど高かった可能性がある。)

8    孝元天皇 劔池嶋上陵 奈良県橿原市石川町 標高90m(背後の菖蒲町は標高90100mの沖積台地で、その東の甘樫丘はヤンガードリアス期の沖積台地だから、建造時から10mほど沈下した疑いが濃い。)

9    開化天皇 春日率川坂上陵 奈良県奈良市油阪町 標高75m(沖積地なので建造時の標高は不明)

10 崇神天皇 山辺道勾岡上陵 奈良県天理市柳本町 標高90m

孝昭天皇陵~孝元天皇陵には、崇神天皇陵より古い陵墓であると考えられるものを割り当てた様だが、それらの古墳の標高が、縄文時代以降の古奈良湖の湖面標高である110mを示している事は、BC250年以前に作られた古墳である事になり、古墳が作られた時代を古墳時代と言うのであれば、奈良の古墳時代はBC400年頃には始まっていた事になり、その4で指摘した様に、弥生時代中期には鉄器時代になっていた事と整合する。

このHPが示す鉄器時代は、稲作者や焼畑農耕者が個人的に鉄器を使い始めた時代であって、王侯貴族が鉄器を墓に副葬し始めた時代ではない。考古学者が弥生時代中期と呼ぶ時代が、何時から始まったのか確定していないが、ウィキペディアはBC400年である事を示している。従って海洋民族が鉄器を使って船を作り始めたのは、縄文晩期であるとの想定の確度が高まる。

御所市の宮山古墳も標高110mにあり、古奈良湖の湖面標高は弥生中期まで110mだったと想定されるから、その標高の古墳が最も古い時代のもので、神武天皇~懿徳天皇の御陵に比定されている古墳は、古墳時代末期のものになる。畝傍山近傍の堆積土壌の厚さは、盆地の中央ほどには厚くない筈だから、此処の土壌が数十メートルも沈降したとは考え難いからだ。

 

5-3 大阪湾岸に大型古墳を建造した人達

淡路島を望む標高20mの台地に五色塚古墳を遺した人々が、卑弥呼を支えた海洋民族の子孫だったとすると、古市古墳群や百舌鳥古墳群を作った人達は、魏志倭人伝に記された邪馬台国人とは異質な、巨大古墳を次々に作る事に執着する、農耕民族的な性格を強く示しているから、卑弥呼の時代には大阪平野にいなかったか、卑弥呼を支えた海洋民族の支配下の人達だったと推測される。

現在の大和川の南側に散在している百舌鳥古墳群の立地は、大阪平野とは異質な形成過程を経た地域でもあるから、そこを稲作地にした人々は、大阪平野が生まれると即座に入植した人々とは、出身地が異なっていたと想定される事も、上記の違いが生れた理由を示唆している。

つまり古市古墳群や百舌鳥古墳群を作った人達は、大阪平野が生まれる前に其処にいた人々ではなく、魏志倭人伝に記された邪馬台国が生れた後に、大和川が作った沖積地に遅れて進出した人達だったと考えられる。従ってその人達には海洋民族的な機動力がなかった事になり、武庫川や猪名川などの中流域の湖岸で、アワの栽培者と共生していた人達だったと考えられる。

漁民と共生していた稲作者は移住に関する機動性が高かったが、焼畑農耕者は内陸にいる事に価値があり、共生していた稲作者が海産物の取得が容易な沿海部に進出する事には、批判的だったと考えられるからだ。稲作者も長年共生していた焼畑農耕者を見捨て、大阪平野に移住する事に積極的になれなかったと推測される。彼らの最終的な解決策は、焼畑農耕者が徐々に稲作者に転向するのを待ちながら、稲作が可能な地域に進出する事だったと想定されるが、その為には従来共生していなかった漁民と新たに共生する必要があり、事情は錯綜していた。

従って先ず武庫川流域と環境が似ていた、幅10㎞程度の泉北台地の内側にある藤井寺や羽曳野(古市古墳群の所在地)に、大和川が奈良盆地から吐き出した土砂が形成した沖積地に、稲作者が移住すると、その周囲に焼畑農耕者も移住したと想定される。

他方の邪馬台国を形成した海洋民族は、弥生時代末期に突然大阪平野が急拡大すると、北九州や岡山の沖積平野で稲作を行い、海洋漁民と共生していた人々が先を争って入植したと考えられるから、邪馬台国は諸地域の混成集団が作った国だったと想定される。その様な地域を統括する為に九州から大率系譜の一族も入植し、彼らが卑弥呼や台与の宗族を形成した可能性が高い。

古事記の国生み説話が淡路島を筆頭に掲げているのは、縄文後期~晩期の淡路島の台地が、神戸より広い稲作地を提供していたからだと推測され、神戸の和田神社や西宮の西宮神社が主神とする蛭子が、淡路から来たと考えられている事と整合する。

古事記はイザナギとイザナミの神話で、「結婚の仕方を間違えて淡島と蛭子を生んだが、欠陥児だったので海に流した」と記しているが、神戸や西宮では蛭子をエビスとして祭っているのは、古事記を改訂した奈良朝と、神戸や西宮の人々の間に確執があった事を示唆している。古事記はこの説話で、他の部族が起源とする島が産れた事を示しているが、それらの島は43万年前にそれらの諸部族が海洋漁民化した際に、部族の聖地とした島であるのに対し、淡路島を囲む瀬戸内海は1万年前に生まれたから、他部族の聖地とは異質の島になり、この記述は古事記の趣旨にそぐわない。つまり奈良朝が古事記を改訂する際に挿入した文章である可能性が高いから、奈良朝と神戸や西宮の人々に確執があった事を示しているとの推測には根拠がある。

イザナギとイザナミが結婚の仕方を間違えた理由は、女性が先に求愛したからだとする男尊女卑思想に依るが、稗田阿礼が記した原古事記に男尊女卑思想はなかったから、大陸文化を取り入れた奈良時代に、改訂した説話である事を示している。また奈良朝が越系の、男尊女卑思想に影響されていた事を示している。

改訂された古事記では、正しい結婚儀礼の後で淡路島を産み直したから、淡路島は邪馬台国系の倭人にとって重要な島だった事も分かる。

以上の事情を翻訳すると、弥生時代に神戸にいた漁民と稲作者は、大阪平野が生まれるとそちらに移動し、北九州や岡山から移住して来た漁民と合体して新しい集団を形成したから、淡路の漁民と稲作者が空白になった神戸に勢力を拡大した事になる。神戸には六甲山系から流れる川があり、その沖積地で温帯ジャポニカを栽培する事ができたから、神戸の稲作者は温帯ジャポニカの栽培地が広がる大阪平野が生まれると、即座にそちらに移動して生産性が高い稲作者になったが、淡路島には大した川がないから沖積地に乏しく、淡路島の稲作者は弥生時代になっても熱帯ジャポニカを栽培していたから、稲作者がいなくなった神戸に移住し、それぞれと共生していた漁民はそれぞれの稲作者と共に移動した事を、上記の事情が示唆している。

卑弥呼を輩出した海洋民族系の倭人は、その様な経緯を経て初期の大阪平野だった住吉神社までを縄張りにしたが、その時期にはまだ淀川が輩出した土砂は、堺市の沿海部に沖積平野を拡大する状況ではなかった。山崎の堰から溢れ出した土砂は、高槻から徐々に大嵩湾を平野化し、その沖積平野が上町台地に達すると、上町台地の先端から大阪湾に拡大したから、その土砂が堺市の沿海部に達するまでには時間が掛ったからだ。

また上町台地と生駒山系の間にあった入り江は、大和川や石川の水を大阪湾に排出する流路だったから、淀川の水がこの入り江に流れ込んで沖積平野を形成する事はなく、河内湖と呼ばれる湖になった。従って大和川が輩出した土砂はその湖に川洲を形成する状態になったが、淀川が輩出した土砂が河内湖の水位を高めたから、大和川の沖積地は水位が不安定な沼地になり、温帯ジャポニカの優良な稲作地とは言えない状況になった。

また古奈良湖が消滅するまでは、大雨が降ると大和川は泥流をこの地域に流し込んだから、その観点でもこの地域は優良な稲作地だったとは言えず、古奈良湖が消滅したのは飛鳥時代以降だから、この地域に当時の大阪平野にはない巨大古墳を造営した事は、この地域に入植した人々の農耕民族的な権力志向体質が、強烈なものだった事を示している。

邪馬台国は極めて海洋民族的な人達の国だったが、この地域の人達が覇権を握ると、日本全国を武力平定して朝鮮半島に出兵し、高句麗と陸戦を華々しく行う農耕民族的で武断的な人達になった事も、上記の事情と整合する。宋書が彼らもを称していた事を示しているから、邪馬台国の後継政権だった可能性が高いが、別の国を形成した様な状態になった。

彼らは関東以西を始めて統合した政権だから、別の国であっても邪馬台国を傘下に収めた事は間違いなく、以降は一体的に邪馬台国として扱う。

この地域に入植した人々が古市古墳群を形成したが、大和川が形成する沖積地は洪水が頻発し、稲作の生産性が高まらなかったから、泉北台地を越えて大阪湾岸の堺に進出し、百舌鳥古墳群を形成したと考えられる。

その人達の系譜であると考えられる奈良朝は、倭の後継政権である事に強い拘りを見せながら、政治的な体質が卑弥呼時代の邪馬台国の倭人とは、大きく異なっていただけではなく、新羅の王族と同じ越系の婚姻習俗を持っていたから、アワの栽培者の影響を強く受けていた事を示し、アワの栽培者依然として、自分達は北陸部族の栽培者であると考えていた事を示している。

この様な人々が古市古墳群を形成した目的は、この地域の稲作権を主張する為だったと考えられる。彼らは古市古墳群を建造する100年ほど前から、石川と大和川に挟まれた地域に古墳を形成していたから、その時期から堺に進出していたかもしれないが、大阪平野が上町台地の外に拡大したAD200年頃は、大阪平野が堺に拡大した時期ではなく、上町台地の先端付近の沖積土が沿岸流に乗って堆積した時期だから、砂ばかりの痩せた沖積地で稲作を行っていたと推測され、百舌鳥古墳群を形成した事は、その様な土壌の地が漸く豊かな稲作地になった事を示しているが、現在の大和川の以北の地域と比較すれば、生産性は低かった可能性が高い。

彼らが大古墳を作成した目的は邪馬台国の海洋民族系の人々に対し、阪南地区の沖積地は自分達の領域である事を誇示する為だった可能性が高いが、豊かさを見せ付けるのではなく見栄を張っていた様に見える。この時代の倭国は大陸で移民事業を行い、それによる莫大な収益を上げていたから、その利益による財力を見せ付けていたのであれば、それに相応しい巨大古墳ではあった。海洋性が乏しい集団であったにも拘らず、移民事業を主導する集団になったのは、移民事業には彼らの武力が必要だった事を示唆している。

海洋輸送力が高い対馬部族と、毛皮の生産者だった出雲部族の同盟関係では、マーケティング力に優れた出雲部族が主導権を握ったが、それを移民事業に当て嵌めると、湊の周囲で交易を行う海洋民族にはできない事を、武庫川系邪馬台国の人々が行う事により、移民事業が成立していた事を示している。つまり彼らが華北平原で移住者を募り、時には暴力的に集め、彼らの交易的な行為を妨害する群盗に対しては、強力な武力を発揮する事によって移民事業が運営された事も示唆している。

その様な武力を備えていなければ、漢王朝によって秩序観や倫理観が破壊され、戦乱に次ぐ戦乱を経験していた中華世界の人々と交易を行う事は難しくなっていたから、増して人の売買を伴う移民事業は運営できず、海洋漁民は海上運送業者として彼らに従う事になったから、日本の部族の中で最も武闘的だった武庫川系邪馬台国が、AD3世紀~5世紀の海洋民族の交易を統括する事になったと考えられる。朝鮮半島で高句麗と軍事衝突したのも、この様な武庫川系邪馬台国の体質が発揮されたからだと考えられる。

この統一政権が極めて武闘的だった事を、宋書に記載されている倭国王の上申表(親書)が示している。

「昔より祖禰は躬から甲冑を擐らし、山川を跋涉して寧處するに遑なし。東に毛人五十五國を征し、西に衆夷六十六國を服させ、渡海して北九十五國を平らぐ。」と記し、極めて武断的であった事を示している。また甲冑を擐らし山川を跋涉して寧處した事は、海洋民族的な海戦ではなく農耕民族的な陸戦を行った事を意味し、この統一政権の農耕民族的な性格を顕著に示している。

遼東で恒常的な戦闘を繰り返した結果、この様な民族性が形成されたとも言えるが、それは海洋民族が邪馬台国の統治者だった時代の事であって、彼らは邪馬台国時代には遼東に派兵していなかったから、この政権の武断的な性格は邪馬台国や大率を起源とするものではなく、自身が持っていた越系文化の影響だったと考えられる。但し越系文化人の主流は戦争行為には馴染めず、それを回避する傾向が強い民族性を示していたから、武力を行使する点では倭人的だった。

その他の邪馬台国人は、北九州や岡山の人々を含む混成集団だったが、神戸にある処女塚古墳(おとめづかこふん)は、卑弥呼や台与と関係がある遺物であると推測され、この地域では最大の五色塚古墳は淡路島を望む地域にあるから、上記の蛭子の話を含め、AD3世紀の邪馬台国は淡路島の出身者が統括していたと想定されるので、その時期の邪馬台国を淡路島系邪馬台国と呼び、現在の大和川以北の人々を淡路島系邪馬台の人と呼ぶ。

淡路島系の邪馬台国人は神戸を拠点にして邪馬台国を形成したが、移民事業が盛んになると武庫川系の邪馬台国人が優勢になり、古市古墳群と百舌鳥を作ったと推測される。邪馬台国内で勢力の交代が起こったのは、晋が滅亡して華北が大動乱期になると、交易にも軍事力が必要になったから、多数の稲作民や焼畑農耕者を軍人として挑発した結果、武庫川系の倭人が邪馬台国の主導権を握ったからだと考えられる。淡路島系邪馬台国人には、卑弥呼の失敗は倭に軍事力がなかったからだとの反省があったとすると、武庫川系が主導して成功した移民事業は、軍事力を必要とする交易の実態を示しているとも言えるが、農耕民族的な武庫川系が邪馬台国の主導権を権力闘争の結果として握る為には、武力を強調する必要があったとも考えられ、この政権が必要以上に武闘的になった根拠を示している。

飛鳥時代に難波の宮(大阪城近辺)にいた最後の難波王は、壬申の乱の際に戦闘に敗れて逃亡した事を、難波の宮が消失した際に掘っ立て柱の根元まで焼けた事が示している。そこにいた王は淡路系だったと考えられるが、住吉社は正一位だが壬申の乱で活躍した事を示す勲位がない事が、この地域の人々は壬申の乱の際に天武天皇に対抗した事を示している。

 

5-4 古事記と神社が示す日本の歴史

古事記の神代が日本の縄文史を示している事を指摘したが、それについて体系的に検証する。

イザナミが黄泉の国から戻って竺紫(九州)の日向の川で禊をし、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から建速須佐之男命が生まれるが、これは古墳時代末期の稲作民の勢力図を示し、天照大御神が関東系、月読命が東北も支配していた伊予部族系、建速須佐之男命が対馬部族を傘下に収めた出雲部族を表象し、これらの部族がどの様に勢力を伸長して来たのかを、説話を使って暗示的に示している。但しそれらの部族が海洋民族だった事は無視し、全てを日本列島内の陸上世界の神々の行為に変えている。つまりmt-B4などが形成した、栽培者のネットワークに関する説話が中心になっている。

月読命に関する神話が欠落しているのは、奈良朝が原古事記を改訂した際に、最後まで敵対していた伊予部族の歴史を抹消する為に、改定古事記からその部分を削除したからだと推測される。また北陸部族に関する纏まった説話がないのは、北陸部族は縄文前期から海外交易に専念し始め、国内には目立った事績がなかった上に、北陸部族の最大の栽培民族だった焼畑農耕者は、縄文後期以降は各部族の稲作者と共生する人々になり、焼畑農耕者としての歴史伝承が失われていたからだと推測される。

また関東部族と伊予部族の神が左右の目から生まれ、建速須佐之男命が鼻から生まれた事は、関東部族と伊予部族の同質性と、出雲部族や対馬部族などの日本海系部族の異質性を、古事記の著者も意識していたからだと考えられる。

天照大御神が「豊葦原中国は自分の息子が治めるべきである」と主張した国譲りは、壬申の乱による天武天皇の日本全土掌握を象徴している。平安時代の日本には最高格の神宮号を持つ神社は、鹿島神宮、香取神宮、伊勢神宮しかなく、伊勢神宮は天照大神を祭り、鹿島神宮と香取神宮は、国譲り神話が示す最大の功労者だったからだ。平安朝は神社に位階と勲功を与えたが、鹿島神宮と香取神宮は最高位の正一位であると共に、最高叙勲位の勲一等が与えられている。この様な勲功が与えられる事情は、奈良時代以降にはなかったから、王朝の設立に功労があったからであると考えるしかない。

日本に統一王朝が生れたのは、分権的な倭人政権が滅んだからである事は間違いなく、それは旧唐書が倭国王の存在を示している、648年以降の事だった。従って日本書記が示す壬申の乱(672年)は捏造史で、実際の壬申の乱は、古事記の国譲り神話や神武東征神話が示唆するものだったと考えられる。

続日本紀は壬申の乱があった事を示しているが、それがどの様な乱だったのかは何も記していない。しかし論功行賞が不十分だったとの記述があるから、奈良朝の成立に関わる大きな戦乱だった事は認めている。従って壬申の乱によって王朝が成立し、鹿島神宮と香取神宮はその最大の功労者だった事と、国譲り神話が示す神々の活動が壬申の乱の経緯であり、古事記が歴史事実を示している唯一の同時代文献である事を、歴史認識の根幹に置く必要がある。

天照大御神が支配した高天原は沖縄系縄文人の古代世界を示唆し、スサノオの子孫である大国主が治めた地域は、最終的に日本越の勢力圏になった北陸も含む、出雲部族の勢力圏だった事は容易に推測できるが、月読命が治めた地域を古事記から明らかする事はできない。

しかし九州中南部にツクヨミを祭る神社が多数あり、鹿児島県の桜島と鹿屋市の月読神社、豊後一ノ宮と自称する大分県の西寒多神社がその代表例で、筑紫平野にも月読神社が幾つかある事がその事情を示し、古墳寒冷期にヒエ栽培地になった山形では、出羽三山に月山が含まれ、月山神社の主神が月読である事が、伊予部族との関係を示唆している。

月読信仰と八幡信仰には表裏の関係があり、山形の月山神社は中世まで八幡信仰の山とされてきたが、それ以降は月読が主神になった。これは山形の稲作民族は、弥生時代後半~古墳時代に伊予部族の支配下になり、奈良朝の征討対象になって蝦夷の地と呼ばれてから、自分達は伊予部族系であると認識しながら、月読の信仰を公にできなかった事を示唆している。山形の月山神社は朝敵の汚名を排除する為に、八幡を信仰する振りをしたが、王朝の権勢が衰えると本来の月読信仰に戻ったと考えられる。

月読を祭る神社が伊勢・松坂にも多い事が、この地域も伊予部族の領域だった事を示唆している。伊予部族が関東部族に代わって太平洋沿岸に湊を開設していたとすれば、伊勢はその有力地になる事もこの事情を傍証する。つまり伊勢神宮は関東部族と伊予部族の、部族連合の象徴だった可能性を示唆しているが、古事記にはその部分が欠落している。

古事記以前に月山の名称があり、ヒエ栽培者の信仰対象だったから、古事記の作者が伊予部族の神を月読と名付けたと推測されるが、その意図は、関東部族のmt-B4が温暖な気候を恵んでくれる太陽を崇拝する女性達だったのに対し、山形や福島のmt-M7aは月を信仰する女性達だったからであると推測される。ヒエを栽培するmt-M7aは暑い気候を避けた女性達だったから、太陽を好ましい存在とは認識せず、夜の涼しさを好んで月の信仰者になった可能性が高いからだ。

つまりイザナギが天照大御神、月読、スサノオに役割を与え、天照大御神に「高天原を知らせ(統治せよ)」と言ったのは、稲作者の統括を命じた事を意味し、月読に「夜の食国を知らせ」と言ったのは、冷涼な北国のヒエ栽培者の統括を命じた事を意味し、スサノオに「海原を知らせ」と言ったのは、海洋民族を支配する縄文人になれと命じた事を意味し、それぞれの部族の穀物栽培史を端的に表現している。出雲部族が最初に手掛けた穀物栽培は、海洋交易を行う為のソバの栽培であり、それ以前には穀物栽培者ではなかったからだ。栽培者は女性だったから、月読も女神だったと考える必要があり、それは稗田阿礼が崇拝する神だったから、稲作者の王朝だった奈良朝にとって、古事記に掲載する事は不適切な神だった。

八幡社は応神天皇を祭っているが、既に指摘した様に「幡」漢字は農事を示す吹き流しだから、北九州の人々が八幡を祭るのは、日本式の稲作の発祥地である事を誇りにしていたからだと推測され、北九州では稲作の神としての八幡が先にあり、古事記が応神天皇を伊都国の大率に見立てたから、八幡社に応神天皇が追加されたと考えられる。

奈良朝は応神天皇を守護神として、対馬部族の地に宇佐神宮を建立し、何故か八幡も一緒に祭った。

 

5-5 古事記が示す大率

古事記は天孫降臨の地を日向の高千穂の峰とし、その理由を、此の地は韓国に向かい、薩摩半島の笠沙の御崎に近く朝日が直にさす国で、夕日が日照る国だからとしている。韓国は渤海沿岸を指し、関東の南方派が宝貝を採取した沖縄と、製塩業者が集積していた渤海沿岸を結ぶ交易拠点にした場所が、薩摩半島と甑島だったと考えられるので、その事を指している。

降臨した天照大御神の子は、笠沙の御崎で阿多ツヒメ、又の名を木花のサクヤヒメを娶るが、阿多は神武天皇の次の綏靖天皇の即位時の揉め事により、この地域が倭にならなかった説話に登場する。現在木花のサクヤヒメを主神として祭っているのは富士宮市の浅間神社で、富士宮市は関東の南方派の拠点だったから、薩摩半島を拠点化したのは関東部族の南方派である事を示している。

朝日が直にさす(太陽が東の水平線から昇る)地域は日本に3カ所あり、関東の日立、伊勢、日向だから、これらの地域が関東部族の聖地だったと推測され、3カ所で天体観測を行っていたから、これらの地域が聖地になった可能性が高く、日向と伊勢は伊予部族と関東部族が共同で管理する地域だったから、中央の聖地である伊勢に天照大神を祭っていると考えられる。従って695年の政変で伊予部族と関東部族は敵対関係になったが、その後の和解によって現在の伊勢信仰があると考える必要がある。

天孫降臨に際して多数の神が活躍した事を記し、その中に伊予部族の神と考えられるものも含まれているが、古事記の神の系譜は極めて複雑なので別途の研究が必要になる。

古事記は縄文後期の事情をこの様に詳しく記し、その後関東部族の指導勢力が南方派に変った事、神武の即位によって北方派に変った事などを説話化しているので、その詳細はその7を参照。しかしその間の説話には大率は登場しない。

現在我々が見る古事記は稗田阿礼が創作した原古事記ではなく、奈良朝が改定した改定古事記なので、史実に忠実だったと推測される原古事記の部分を、改定古事記から抽出する必要がある。改定古事記は奈良朝の権力を維持する為に改竄したもので、歴史時事を無視しているだけではなく、歴史を改竄しているからだ。

原古事記の原文が改定古事記に転記されている部分は、格調高い文体である事が感じられるが、奈良朝が改訂した文章は不合理で辻褄が合わず、古事記の歴史的な価値を失わせているだけではなく、文学的な価値も大きく棄損している。従って改定古事記が発布されると、内容だけでなく文学性が喪失した事にも人々が反発し、改定古事記は世間に受け入れられなかった事が、先代旧辞本紀などの亜流を多数生んだ理由の一つであると考えられる。

原古事記を著述した稗田阿礼は女性であり、古事記を改訂したのも奈良朝の元明天皇(女性天皇)だった事が、この時代の女性達の優位性を示し、古事記が創作された目的を示している。つまりこの種の文筆活動を行う権利は女性達にしかなく、読者として想定された女性達が高い政治力を有していた事を示している。奈良時代に男性が日本紀を執筆したのは、唐に提出する外交文章だったからで、海外交易は男性達の領分だったからだ。それにも関わらず平安時代になると、続日本紀を始めとする朝議禄を男性達が編纂し、古事記の亜流である先代旧辞本紀も男性が執筆したのは、平安時代になると人々の意識が変わり、政治に関する男性の発言権が高まったからだ。その理由の一つとして既に指摘した様に、稲作の収穫権が男性達に移転し、男性達の経済力が高まった事と、世情が武闘的になって女性達の手に負えなくなった事も挙げられるが、それらとは異なる主要な原因を解明する事も、この項の主要なテーマになる。

平安時代には男性達にも歴史文章の記述が認められ、先代旧辞本紀などが生れたが、男性的な漢文調の文章には文学性が無く、古事記が示す高い文学性の起源が女性達にあった事を示している。つまり男性達は漢文を用いて事実を記述し、民族間や部族間の交易活動にも使っていたが、女性達が差配する陸上世界を批判する文章は公にできず、陸上世界で起こっていた事に関する感想文や教育的な説話は、女性達の専権事項だった事を示唆している。

これは自然地形を利用して栽培を行っていた女性達が、厳しい人間関係の下で生活していたからだと推測される。女性達は栽培技術を向上させる為に、特定種の栽培に関する情報ネットワークを形成し、頻繁な情報交換によって栽培種の生産性を高め、他のネットワークとの熾烈な覇権争いを展開していたから、特定ネットワークに属す女性達は類似した器形の土器を製作し、彼女達の所属を明示していたが、栽培地は限定的だった上に、場所によって生産性に優劣があったから、その配分に関する熾烈な抗争を、地域の女性達の間で展開していたと考えられる。

縄文遺跡に付き物の様に登場する石棒に男根を模したものが多いのは、性を信仰の対象としたからではなく、その様な女性達の熾烈な個人競争を裁定する秩序認識の道具として、女性達に最も強い印象を与える器形が、日本列島では武器の剣ではなく男根だったと考える必要がある。つまり女性達の宿命として、熾烈な栽培地の獲得競争を行いながら、強固な栽培者のネットワークも形成する必要があり、女性達はそれを両立させる為に、彼女達独特の倫理観を形成していたから、その世界に男性達が容喙する事は許せなかったと考えられる。

つまり女性達独特の陸上世界について、男性達はそれに触れる見解を公にする事はできなかったから、陸上世界の出来事を物語化する事は、女性の専権事項だったと考えられる。

古事記の文章の高い文学性を見ると少なくともヒエ栽培者の社会の女性は、辛辣な皮肉を込めた文章を文学性が高い表現で緩和しながら、意志交換する文化を形成していたと推測され、稲作者にもその様な文化があったが、ヒエ栽培者の社会の女性には遠く及ばなかった事を、原古事記と改定古事記を生み出す際に挿入した、奈良朝の女性天皇の文章から読み取る事ができる。

平安時代初頭に女性が政治の表舞台から身を引いた事と、平安時代に女流文学が生れた事も、表裏の関係であると考える必要がある。女流文学は平仮名の成立によって開花した様に見えるが、平仮名を作ったのは女性達だったと考えるべきであり、稗田阿礼が属した伊予部族の地である土佐の、平安時代になってから150年後に土佐の国司になった紀貫之が、平仮名文章の草分けであると称されている土佐日記を公にしたのは、その事情を示唆している。

つまり伊予部族は平仮名文を使っていたから、紀貫之もそれに影響されたと考える必要があり、土佐では古墳時代から平仮名文章が使われていたと推測する必要がある。太安万侶は改定した古事記の序文で、原古事記は漢文ではなかった事を示唆し、漢字が使われていた事は明示しているからだ。従って平仮名を使う文化の発祥を詮索すると、縄文後期に内需交易を重視し始めた関東部族の北方派と伊予部族が、縄文晩期頃にその様な文章を使い始め、女性達もそれに同調した事によって進化したと考える事が合理的になる。

カタカナはヘブライ文字との共通性が高いとの指摘が事実であれば、その文化が北陸部族の女性達に伝わり、北陸部族の女性達が表音文字を使い始めたから、関東部族と伊予部族の女性達が平仮名を使い始めたと類推する事もできるが、そこまでの詮索は根拠が乏しい。

奈良朝は女性の天皇達が差配し、男性の天皇は昼行燈の様な存在だったのは、女性天皇には活動的なプレーンがいたが、王朝の官僚組織しかなかった男性天皇には政治力がなかったと考える必要がある。その様な政治体制は奈良朝から始まったのではなく、魏志倭人伝が卑弥呼について、「自ら侍る婢千人を以て(統治し)、唯一人の男子が飲食を給し辞を伝えるために出入し、居処には宮室、樓觀、城柵を厳めしく設け、常に兵(武器)を持って守衞する人有り。」と記している状況から推測すると、奈良朝の官僚組織は形式的な制度として唐の制度を真似ただけで、実態は卑弥呼の統治と類似した状況が、交易文化を失った奈良朝でも行われていたと考えられる。

つまり女性の栽培者としての情報ネットワークが、陰で奈良朝を動かしていたと考えられる。その事情が続日本紀から読み取れないのは、続日本紀は平安時代になってから男性の手によって編纂された史書だからであり、奈良朝を美化する為に偏向的に編纂された史書であるからだと考える必要がある。

それは奈良朝が失政を繰り返した事によって世情が乱れたから、光仁天皇の御代から男性が実質的に差配する平安朝になり、女性達が政治の世界から身を引く様になったからで、先代旧辞本紀もその様な世相を背景に執筆されたと考えられる。質素な奈良朝から華美な平安朝に代わった事が、農本主義的な王朝から商工業的な王朝に代わった事を示し、女性的な政権から男性的な政権に変わった違いを示している事が、その具体的な証拠になる。

上記の事情を前提に、古事記が描く大率を検証する。

神武天皇の別称は神倭いわれひこの命だから、古事記は神武天皇が初代の倭国王だったと指摘している。ひこは倭国王を意味し、いわれは起源を意味しているからだ。つまり神武天皇が倭国王の起源であると指摘しているが、神武紀の最後に「阿多の神武の庶子が神武の正妻の息子を殺そうとしたので、庶子を殺した正妻の息子が次代の綏靖天皇になった。」と記し、この時期に九夷が倭から離脱したと指摘しているから、倭を率いて大陸の武力と対峙する倭国王が生れたと指摘し、殷代には九侯だったが周代から倭に代わったと記している中華の史書と整合するが、大率が生れたとは記していない。

孔子が九夷を訪問した履歴があるらしい事は、九夷が春秋時代まで存続した事を示し、阿多の勢力はその後も継続した事を示しているが、これも古事記の記述と矛盾するわけではない。古事記は神武東征が終了した後にイスケヨリヒメを正妻とする説話で、神武が日向にいた時に、阿多の小椅君の妹の姶良ヒメを娶って生れた子が、綏靖天皇に殺されたのであって、阿多の小椅君の系譜に何かあったと指摘しているわけではないからだ。

大率について古事記が言及しているのは、応神天皇について、「仲哀天皇の皇后のオキナガタラシヒメが筑紫国で産んだ。御子が生れた場所を宇美と謂い、御腹を鎮める為に裳に纏いていた石は伊斗村にある。」との記事が嚆矢になる。宇美は現在も宇美町の地名が残る奴国の中心地で、伊斗村は魏志倭人伝が示す伊都国を指しているから、北九州の大率を暗示している。それ故に北九州には応神天皇を祭る八幡神社が多いと考える必要がある。但し八幡は稲作者の神だから、八幡社が応神天皇を受け入れた事により、この組み合わせが生れたと考えられる。

古事記に登場する次の大率は継体天皇紀に、「継体天皇の御世に筑紫野君石井(いわい)は、天皇の命に従わずに無礼なことが多かったので、(天皇が)物部の大連と大伴の連の二人を遣わし、石井を殺した。」と記しているものが該当する。つまり武庫川系邪馬台国の倭国王の系譜が絶えたから、対馬部族の飛鳥王が天皇に即位すると、大率を罪人として罰したと指摘している。

魏志倭人伝は倭人の法として、「その法を犯すとき、軽い者はその妻子を没し、重い者はその門戸及び宗族を滅す。」と記しているから、九州の大率の後継者は倭人国の法に従い、門戸及び宗族を滅されて絶えたと考えられる。

これが起こった背景事情は海洋民族としての活動だから、原古事記には何の記述もなかった可能性があり、仮に何らかの記述があったとしても、奈良朝の利害関係が濃厚な部分なので削除されたと推測され、改定古事記には何も書かれていない。

宋書倭国伝の倭国王武の表(親書)が、その事情を示している。

祖先は昔から自ら甲冑を着て、山川を歩き回って落ち着く間もなく、東の毛人55国を征し、西の衆夷66国を服し、海を渡って北の95国を平らげ、領土は遠く広がった。

古墳時代の中頃に、武庫川系邪馬台国王が東北と北海道を除く日本全土を武力制圧し、朝鮮半島にも出兵して半島南部を領土化し、倭国王を名乗った事を示している。

埼玉県の埼玉古墳群では最も古い前方後円墳である稲荷山古墳から、鏡や武具、馬具と共に115の文字が刻まれた鉄剣が出土し、其処に以下の記述がある。但し関東全域には更に古い古墳群が多数あり、それらには前方後方墳が多い。

世々杖刀人の首となって奉事し、今に至る。獲加多支鹵大王の寺が、斯鬼の宮に在る時、吾天下を左治し、この百練の利刀を作らせ、吾が奉事の根源を記す。

杖刀人は軍人を指し、そのは最高司令官を指すから、大陸で軍事力を背景にして行っていた移民事業は、事業の統括は武庫川系邪馬台国王が行っていたが、その軍事力を支えていたのは関東の軍団だった事を示している。

つまり利益率の薄い内需交易に見切りを付けた関東部族の有力者が、利益率が高い移民事業を統括し始めた武庫川系邪馬台国王の下に集まったが、元々関東部族は武力的な活動に積極的な民族で、武庫川系の邪馬台国人の多数派は越系文化を尊重する焼畑農耕者だったから、移民事業に参加したい関東の有力者と、事業が拡大して武人が不足していた武庫川系の邪馬台国王の利害が一致したが、それに反対する勢力があったので紛争になった事情が、関東には在ったと推測される。

軍人だけではなく海運輸送力の増強も図りたかった武庫川系の邪馬台国王が、傘下に収めた国が宋書に記された国数で、関東以西を網羅していた事を示唆している。西の衆夷を服した事は、武力紛争がなかった事を示唆し、東の毛人55国を征した事は武力紛争があった事を示唆しているが、紛争は関東の関東部族との間に起こったと推測される。結果として反対は鎮圧され、多数の軍人が関東から出征した事により、関東にも富が流入した事を関東の多数の古墳が示し、それらから出土する多数の鉄剣や鉄鏃・銅鏃、及び武人埴輪もそれを示唆している。

この出征に反対したのは、mt-B4の情報ネットワークだった可能性が高い。古墳寒冷期には東北からヒエ栽培者の情報ネットワークが南下し、北関東を席巻する勢いだったからであり、彼女達が日本全国を巡回する海運力が移民事業に回ると、彼女達の活動が制限されたからだ。また各地域の最古級の古墳から末期の弥生土器が発見されたり、意図的に砕かれた須恵器が発見されたりする事も、関東の弥生式土器が古墳の成立を以て終了した事や、古墳の築造者が土器に畏敬の念を抱いていなかった事を示し、稲作女性と古墳の形成者の間の対立関係を示唆している。

群馬県の発生期古墳は信濃方面との関係が深く、南関東の地域と比較すると畿内古墳文化の流入がより急激で直接的で、三角縁神獣鏡をはじめ多くの舶載鏡の東北南部への流入も、北関東を経由した公算が大きいとの指摘もその傍証になる。群馬はmt-B4の浸透が遅い地域だったと想定される上に、古墳寒冷期の信濃はヒエの栽培地になっていた事を、水田雑草であるタイヌビエのF型分布が示しているから、古墳文化=武庫川系邪馬台国王の移民交易への参加が、信濃の対馬部族を経て北関東に流入した事は、mt-B4が濃厚に分布していた駿河湾~相模湾沿岸を避けた事を意味しているからだ。

つまり古墳時代の中期に起こった関東への古墳文化の流れは、関東のmt-B4に対して海外交易化を迫る形で進行し、北からのヒエ栽培の南下に匹敵する文化的な圧迫要因になっていたと考えられる。

しかし5世紀の中頃の華北に騎馬民族の王朝である北魏が生れると、華北の治安が回復して武闘的な交易活動はできなくなったから、武庫川系邪馬台国の経済力が凋落し、その旗下に参加していた関東の有力者も収入源を失って帰郷する事になり、時代は新しい局面を迎えた。

古事記が継体天皇の即位と記しているのは、その時期に倭国王が邪馬台国王から、対馬部族の飛鳥王に変った事を指している。

朝鮮半島が三国時代になったのは、邪馬台国系の倭国王が朝鮮半島に派兵し、高句麗と対立していた新羅や百済含む半島南部の諸国を援助していた状況が失われ、半島南部の人々が高句麗と軍事的に対峙する必要が生れ、軍事勢力が新羅と百済に集約されたからだと考えられる。

移民事業が終焉すると日本列島は不況に襲われたから、それを克服する為に継体天皇に擬せられた対馬部族の飛鳥王が倭王になったのは、古墳寒冷期には奈良、京都、琵琶湖南岸を領有していた対馬部族が、日本最大のコメの生産者になっていたから、弥生時代のコメの流通を主体とする経済に戻る為だったと考えられる。

この経済では経費が掛かる朝鮮出兵は維持できなかったから、それを止める事は朝鮮半島からの撤兵を意味し、朝鮮半島南部に軍事的な真空地帯が生まれたから、高句麗の南下を阻止する為に百済と新羅が軍事国家になり、三国が鼎立する朝鮮半島の三国時代になったと考えられる。百済は倭の傭兵集団だったから、韓族の王になる事によって領土を広げたが、濊が軍事を支えていた新羅は背後を固めていた倭軍が撤退すると苦境に陥った。

それらの経緯は(12)古墳時代の項で検証するが、その要旨を説明すると以下になる。

武庫川系邪馬台国王は朝鮮半島に関する軍事を大率に一任していたから、大率は出雲部族と対馬部族と連携して濊を強勢化する為に、扶余の残党を傭兵化して高句麗の南下を阻止しようとしたが、百済は自立して独立政権になる事を企図し、南朝に朝貢して倭とは別の政権である事を強調していたから、倭は百済を見限って高句麗に百済を一旦滅亡させ、その後で濊軍と共に、高句麗から東朝鮮湾~大同江~黄海ルートを奪還していた。

しかし倭軍が撤兵すると、濊には朝鮮半島南部の全域を維持する軍事力がなかったから、百済が全羅道で復活してしまったが、その百済の領域は高句麗と接していなかったから、高句麗の南下圧力は新羅だけが受ける事になった。北九州の大率や出雲部族はこの状況に危機感を持ったが、海上輸送を担っていただけの対馬部族にはそれは薄く、対馬部族は稲作民族になって繁栄していたから、朝鮮半島からの撤兵には反対しなかった。

飛鳥王は関東部族の推薦を受けて倭国王になると、新羅と敵対する百済に味方する様になった。百済を介して南朝仏教を導入した事がその契機だった可能性もあるが、百済は新羅と共に高句麗と敵対する筈の勢力だったから、唐の遠交近攻策に踊らされて滅亡した、三国時代の百済の去就を読み間違えた可能性が高い。稲作民族化した対馬部族には海外交易に執着する意志はなく、関東のmt-B4を身近な存在としていた部族だった。

隋に朝貢した飛鳥王の称号が、「姓はアメ、字名はタリシヒコ、オオキミと号す」と記されている事がその事情を示している。天氏を名乗る資格があるのは関東の有力者だけで、ヒコは関東部族の倭国王になる有資格者を指し、オオキミは出雲を含む越系文化圏の部族の棟梁である事を意味したからだ。つまり飛鳥王は関東の関東部族から、倭国王であると認知されていた事になる。

古事記はその様な飛鳥王の初代天皇を継体天皇であるとし、継体紀に記されている唯一の事績が石井の乱になる。

北九州の大率だった石井は、苦境に陥った新羅を援助したくなり、飛鳥王が発した撤兵方針に反する行為に出たから、飛鳥王が発した兵団との戦闘になり、大率は九州の支持者と共に滅ぼされたと日本書記は記しているが、日本書紀の記述には信憑性はない。いずれにしても大率の一族は滅ぼされたから、それに代わって出雲王が大率職を代行した。古事記が飛鳥時代の権力者として、大国主と命名したのはこの出雲王で、旧唐書は「一大率を置き、諸国を検察させる」と記しているから、飛鳥王が出雲王を大率に任命した事になる。

いずれにしても飛鳥王だった対馬部族の王が、関東系部族系譜ではない倭王として初めて即位したから、古事記は(倭国王制を承する)天皇として継体天皇と命名した。

対馬部族の飛鳥王の統治は、移民事業が終焉した後の経済不況の克服を目指すものだったが、不況が深まって社会が混乱する中で、富者と貧者の経済格差が拡大した。不況が深まった事情は、隋書が華麗な飛鳥文化を描写し、旧唐書が困窮化した飛鳥国の状態を描写している事から読み取れる。移民事業によって多量の利益が日本列島に流れ込んでいたのに、それが途絶えると徐々に不況が深刻化していった事は必然的な結果であり、一旦不況が始まるとそれがスパイラル的に悪化していく事は、20世紀前半の世界不況の流れと同じで、其処から脱却する事は容易ではない。

古事記は国譲り説話で、天照大神の使者が大国主に対し、「汝のウシハケル葦原の中国は天照大神の子が知らす国である」と言わせている。ウシの漢字はで所有者・領有者を意味し、ハケルは佩く(身に付ける)の形容詞だから、自分のものにしている事を意味し、同じ意味を重ねて強調し強力な支配者である事を表現している。百済を滅ぼして新羅が存続し、高句麗も滅んだ直後だから、出雲の毛皮交易は未だ継続していただけではなく、高句麗が滅ぶ事によって独占状態が生れていた。出雲だけがその富を独占する事により、経済的に繁栄していた事情がその背景にあった。

関東部族は伊予部族と連携して弓矢交易を始め、出雲部族と対馬部族もその一部の市場である、沿海州やその内陸に弓矢を販売していたし、縄文後期の関東部族は対馬部族の地域に熱帯ジャポニカの栽培を拡散し、対馬部族はその恩恵によって稲作大国になったが、出雲部族の毛皮交易は出雲部族の交易でしかなく、他の部族への恩恵は皆無に近かった。原料を大陸から仕入れ、それを加工して大陸に収めるものだったから、元々それほど大きな交易ではなかったかもしれないが、その利益を出雲部族が独占している事に、他部族の不満が集中していた事を示唆している。

世間が神無月と呼ぶ月が、出雲では神有月と呼ばれていたのは、この時代の神は各国の王だったと考えると、毎年この月に各国の王を出雲に集める権勢を振るっていた事になり、出雲部族の特異性がこの様な面にも表れていたと考える必要がある。古事記が事代主(飛鳥王)は大国主の子であると記しているのは、その様な事情の描写であると考えられる。

 

5-6 壬申の乱の後

古事記の国譲り説話が示す事実は、関東の倭国王系譜だった甕星(天武天皇)が672年に壬申の乱を起こし、倭王だった飛鳥王と大率だった出雲王を滅ぼした事件を暗喩している。

また古事記の神武東征説話は、関東部族と伊予部族の連合軍が、奈良盆地を攻略した事績を説話化している。神武天皇が日向から奈良に向かったのは、伊予部族の軍事力を背景に東進した事を示唆し、それが失敗して大将である五瀬命が戦死したが、強力な軍事力を擁した関東部族が神武天皇に率いられ、熊野から宇陀を経て奈良に攻め込んで奈良盆地を制圧した事を示唆している。

関東部族の棟梁だった甕星は、経済を活性化する為には内需を活性化する必要があると判断し、諸部族に分かれていた経済圏を統合する為に中央集権制を採用し、それを日本国と命名した。

甕星は日本国の統治者が正当な倭国王系譜である事を示す為に、天皇制を採用して初代の天皇になり、天武天皇になった。原古事記は天武天皇が発布したものだが、甕星の子が政変によって暗殺されると、天皇位は邪馬台国系の持統に奪われ、持統は孫の文武天皇を即位させたから、甕星系とは異なる奈良朝が生れた。

この政変の背後に関東のmt-B4の情報網があり、藤原氏はその情報網が奈良朝に送り込んだ目付だった事は既に指摘した。

その様な奈良朝が不祥事を連抜して世間の非難を浴びると、最後の称徳天皇が道鏡を後継者にしようとしたが、和気清麻呂が宇佐神宮に参詣し、神のお告げであると称してそれを阻止した事は、応神天皇を祭る宇佐神宮には、天皇位の継承を認証する重要な役割があった事を示している。

平安時代になると宇佐神宮は宇佐神社になり、その様な権威がなくなって他の大社と変わらない神社になった事は、奈良朝の天皇位が宇佐神宮の神託によって成立していたが、平安時代の天皇は倭国王家の血統を継承していたから、宇佐神宮の認証を必要としなかった事を示している。

つまり弥生時代には西日本を統括する政権が北九州の伊都国にあり、弥生時代末期に邪馬台国に権力が移行したのは、魏志倭人伝が示す様に(諸国王の)会議の議決として、九州の大率がそれを認証したからで、南朝の宋に朝貢した武庫川系の邪馬台国王が倭国王を称したのも、その認証を得ていたからであると考えられる。

それが奈良時代になって宇佐神宮の認証に変ったのは、古事記が記す石井の乱によって大率系譜の家系が絶えていたからだ。宇佐神宮が奈良時代初頭に朝廷によって建立されたが、その神官が大率家系ではなかった事がそれを示している。

また和気清麻呂の姉の広虫が、和気清麻呂と同時に称徳天皇に憎まれた事は、この事件の首謀者は吉備の女性である広虫だった事を示唆している。この時代の政治が女性達の情報ネットワークに支配されていたとすれば、和気清麻呂と姉の出自が備前だった事は、吉備系の倭人の子孫は武庫川系邪馬台国系譜の奈良朝に、批判的だった事を示唆しているからだ。

つまり吉備の情報ネットワークは淡路島系邪馬台国系譜の人々と連携していたから、淡路島系邪馬台国系譜の情報ネットワークが奈良朝の成立を認めるとそれに同調したが、奈良朝の政治があまりにも酷い状態である事を認識すると、淡路島系邪馬台国系譜の情報ネットワークと一線を画した事を示唆している。

吉備系や淡路島系の稲作女性達は純粋なmt-B4系譜だった筈だが、奈良朝の天皇位の継承方法が越系新羅人と同じだった事は、奈良朝の天皇家の女性達は越系だった事を示し、武庫川系にはmt-Dが濃厚に混在していた事を示唆しているから、その様な奈良朝が、mt-B4系譜の女性達の情報ネットワークの支持を失ったと解釈する事ができる。

奈良朝の天皇の血縁関係は、(15)古事記と日本書記が書かれた背景で検証するが、古事記を改訂した事情から推測すると、奈良朝の始祖は天智の異母弟で、天智の母は稲作者だったが天智の異母弟の母はmt-Dだった可能性が高い。その様な人物が奈良朝の天皇の祖先になったのは、天智を輩出した家系の正当な家長だったからではなかろうか。それ故に天智の娘をこの人物が妻にしたと考えられ、婚姻形態が家長の習俗に従う事は、関東系の習俗に従っていた筈の藤原不比等の甥である、聖武天皇が叔母である不比等の娘の光明子を妻にした事からも伺える。

縄文後期以降の稲作女性達の情報ネットワークは複雑になり、mt-B4の広域的な情報ネットワークと、アワ栽培者と共生する事によって生まれた、稲作者とアワ栽培者の地域ネットワークが併存していた。地域ネットワークは栽培情報を交換するものではなかったが、最大の換金作物を栽培しながら地域経済を差配していた稲作女性にとって、アワの栽培者との経済連携も重要な課題だった。従って稲作者と倭栽培者の連携が生れたが、それは地位時の事情に従う物であり、広域的な連携に拡張する必要性はないものだった。

従って奈良朝の稲作者とアワ栽培者の連携は、武庫川系栽培集団としてのローカルなものであり、吉備の稲作者とアワ栽培者がそれに影響されるものではなかった。実際には情報交換があり、それぞれの共生方法に統一性が生れていたと思われるが、ローカルな案件に対する規範の統合性を主張する事に意味はなく、奈良朝の形成にあたって稲作者とアワ栽培者がどの様に連携するのかについては、武庫川系の栽培者の中だけで決まった約束事に基づいていたと考えられる。

武庫川は海と隔てられた内陸だから、武庫川系の共生関係はmt-Dを重視するものだった可能性が高いが、吉備の稲作者は沿海部で暮らしていた人口の比率が高く、mt-Dの発言力は余り高くはなかったと推測される。従って奈良朝のmt-Dと吉備のmt-Dに情報ネットワークの連携があり、吉備のmt-Dから吉備の稲作者に色々な働きかけがあっても、武庫川系ほどには強い影響力は発揮できなかっただろう。つまり吉備のmt-B4は奈良朝のmt-D系の天皇から、最も政治距離が離れた集団だった。

和気清麻呂と姉の広虫が政変を企て、奈良朝の天皇系譜が道鏡に移る事は阻止できたが、彼らも罪人になったと続日本紀は伝えている。しかし実際に起こった事を、続日本紀が正しく伝えているは考えない方が良い。「日本紀」は古事記を焼き直した創作物語であり、「続日本紀」の名称はその続編である事を示しているからだ。

言い換えると、王朝は権力闘争が渦巻く世界だから物事が論理的に進行した筈はなく、権力闘争の実態は誰にも分からないからであり、大夫制度の復活は枢密院の様な機構が存在した事を意味し、政治が朝議録とは別の世界で進行したと考える必要がある。それを一言で言えば、朝議録や官僚の日記・報告書を編纂しても政治の実態は分からないから、論理性がない文献史学から分かる事は、歴史年表だけであると考える必要がある。

卑弥呼を輩出した淡路島系の邪馬台国王は大率系譜の分家だったとすれば、海洋民族にとって高貴な家系だったが、南朝の宋に朝貢した倭国王は武庫川系だから、その王は大率系譜ではなかった。それでも彼らが倭国王を名乗ったのは、九州の大率系譜から倭国王への就任を認証されたからだと推測される。露骨に言えば武庫川系の邪馬台国王に脅迫され、倭国王就任を認証していた疑いもある。

いずれにしても古市古墳群や百舌鳥古墳群を造営した倭の五王達は、その譲位儀式を代々行う必要があったと推測され、古事記が継体紀に石井は天皇の命に従わずに無礼なことが多かったと敢えて記したのは、この事情を指す為だったとも考えられる。

武庫川系の倭国王が廃されて対馬部族の飛鳥王が倭国王に即位すると石井が殺された事は、武庫川系の邪馬台国王も殺された事により、武庫川系の邪馬台国王の系譜も断絶した事を示唆している。古事記は殺された武庫川系の邪馬台国王を武烈天皇とし、その治世は8年だったと記しているので、宋書や南斉書に記された在位期間が長い倭国王のは、それ以前の天皇に比定される。

倭国王の時代は、奈良朝の祖先系譜である武庫川系の倭国王の時代なので、奈良朝が古事記を改訂した際に大幅に改変した可能性が高い。古事記の解説書もこの時代の記述は混乱し、表現は武闘的であると指摘しているから、古事記からこの時代歴史事象を抽出する事にはリスクがある。

持統の孫が文武天皇になって奈良朝が成立すると、邪馬台国系譜の天皇は従来の慣習に従い、大率に天皇即位を認証して貰う必要があったが、九州の大率系譜は途絶え、それを代行した出雲王は壬申の乱の朝敵だったから、その系譜も途絶えていたと考えられる。

それ故に奈良朝は、古事記が応神天皇を大率の生まれ変わりであると見做した事を根拠に、宇佐神宮を官制神社として創設し、応神天皇を祭って神官に天皇位の譲位儀礼を執行させた事が、和気清麻呂の謀略に繋がったと考えられる。

現在我々が見る改定された古事記は、奈良朝が不都合な部分を切り貼りしたものだが、応神天皇の出生に関する記述は原古事記にもあったから、宇佐神宮を創設したと推測され、宇佐神宮の権威を維持する為にはこの部分は改訂できなかったと推測される。但し神功皇后説話は奈良朝の創作だった可能性が高く、応神天皇に箔を付ける為に、卑弥呼の事績も参照した説話を挿入したと推測される。時代認識が一致しない事もその根拠になる。

現在流布している改定古事記には、関東部族や伊予部族を貶めるヤワトタケル説話が挿入され、奈良朝の改定が此処まで及んだ事を示しているので、古事記から歴史を再現する事を困難にしている。原古事記は格調が高い文体だったので、それが一つの判断基準になり、他の手段で再現した歴史と一致しない部分は削除対象になるが、それでも分類できない説話もあるし、説話の一部が改訂されている危惧もあるので、古事記から歴史を再現する作業には慎重さが求められる。

古事記以降の史書は古事記の歴史観を踏襲しているから、それらを参照して復元する試みも必要だが、中国が編纂した旧唐書、新唐書、宋史などが生れる度に、辻褄合わせのために不可解な細工をして更に捏造を深めたので、時代が下るほど参照できる可能性が低下する。最終的な辻褄合わせの集大成である日本書紀は、過去の歴史を反映しない矛盾した書籍になっている。

古事記が継体天皇を応神天皇(九州の大率)の子孫であると記したのは、継体天皇(飛鳥王)が大率(石井)を殺した事に対する、九州人の怨念を和らげる為だったと考えられる。その継体系譜である事代主は正統な倭国王系譜である甕星(天武)に、出雲の大国主や建御名方と一緒に打倒されたから、その怨念も対馬部族、出雲部族、北陸部族の人々に残った。

その様な時代に古事記を著作した目的は、それらの怨念を忘れて倭人時代の部族主義的な発想から脱却し、中央集権制を樹立する為に統一的な歴史観を創作する事だった。しかし当時の日本列島は不況に翻弄される中で人々の心が荒廃し、積年の怨念が満ち溢れてその悪意が人々の心を蝕んでいた。

古事記の著者は人々の反目を緩和して心を和ませる為に、歴史事実を神話化して遠い昔の事とし、新しい神話を創作して新しい価値を形成する方針の下に説話を創作し、古事記の文章に工夫を凝らして人々に興味を持たせる努力を重ねた。天武天皇もそれが実効あるものする為に、自ら自分の家系譜を廃棄して人々の信を問うと共に、日本全体の経済を活性化させる策を早急に実施した。

古事記が担った究極の目的は、倭人時代の有力者の系譜秩序を否定して新しい系譜を創作し、新しい勢力秩序を規定する事だったが、実際には同じ人に異なる系譜を与えたのであって、倭人時代の権力者を排斥する事ではなかった。倭人時代の制度は地域分権制であると共に家系譜を重視する貴族制だったから、その様な貴族達の家系譜を書き直す事が、新しい秩序を形成する事に繋がったからだ。

古事記がそれを実現する為に選択した手段は、関東に残留した関東部族の王だけに許されていた、倭国王になった際に名乗った天皇名称を、時代の流れに応じて生まれた他の集団の過去の権力者や、他部族の過去の権力者にも配分する事により、部族認識を解消させる事だった。つまり卑弥呼が登場する7080年前に、西の30国の統治権を委譲された九州の大率を応神天皇とし、武庫川系の倭国王にも天皇名を付与し、対馬部族の飛鳥王だった継体は応神の五代目の子孫であると、大胆に創作した事がそれにあたる。

彼らを倭の正統な指導者だった歴史的な名称である天皇とする事により、倭人時代の歴代の指導者を、全て単一の血縁系譜に纏め上げて万世一系の天皇系譜を創作した。武庫川系の倭国王が生れる前は、関東から倭国王が輩出されていたから、応神天皇の時代には本当の倭国王がいたが、天武天皇がその記録を破棄して古事記を正当な天皇紀にする事により、応神天皇以降の天皇の正当性が生れたから、古事記の発布と共にそれらの史書は公開の場で焼却されたと推測される。

古事記は天皇紀に代わるものになったが、新制度は海洋民族の社会制度を否定するものだったから、古事記は縄文人の歴史書として創作された。しかし唯の創作では信頼感に乏しいから、倭人時代の出来事を神話時代とし、史実をパロディー化して暗喩する事によって創作史を権威付けした。新たに創作した系譜に重みを与える為には、できる限り史実に忠実である必要があったが、それを示す説話には、海洋民族時代を匂わす要素を排除したから、何も知らない人が詠めば脈絡がないお伽話にしか見えない。しかし歴史時事を知っている人が古事記を読むと、歴史上の重要事項がパロディー化されている事が分かる。

神話時代の最終章を倭人政権が消滅した壬申の乱としたのは、古事記としては当然の事ではあるが、それをパロディー化した国譲り説話に至る神話時代の歴史の流れと、天孫降臨から壬申の乱の別のパロディー化である神武東征に至る神話時代の歴史の流れがある。前者は伊予部族の伝承に重点があり、後者は関東部族の文献記録を重点的に参照した様に見える。その具体例はその7参照。

古事記はそれによって縄文後期までを神話時代とし、縄文晩期に神武天皇が即位すると、それ以降は万世一系の天皇の時代になり、部族の対立は存在しなくなった事を前提として歴史を綴っているから、神武東征が何時だったのかを明らかにする必要があり、「皆が伝承で知っているあの大地震があった時代ですよ」と指摘する為に、吉野川が川尻になった時代を特定したと考えられる。

従って神武以降の天皇についても、誰を暗喩したのか分かる様に記す必要があった。各部族の人々が、自分達の部族の過去の王が、天皇系譜に組み込まれている事を確認する必要があったからだ。倭人の歴史を知っていた時代の人々は、個々の天皇が誰であるのか連想できたが、その記憶を失った現代人が推理を凝らせても、限られた数の天皇しか特定する事はできない。

古事記は天武天皇の妻(稗田阿礼)が創作し、古事記の頒布と引き換えに、天武天皇は倭国王家の伝承を抹消したから、古事記を受け入れた人々は部族を根拠にした怨念を、公の場で発言する事が出来なくなり、その効果が確認される事によって人々は、古事記を受け入れたと想定される。

従って古事記が生れた飛鳥時代の人や、改定古事記が発布された奈良時代の人は、日本国の天皇が天武から始まった事や、それを遡っても万世一系ではない事を知っていたが、民衆が古事記を受けいれて過去の部族的な怨恨を忘れる事は、自分達の真の歴史認識を失う事でもあった。

古事記は歴史書ではなく、人々に怨念を忘れさせて倫理観を回復する思想書だったが、それが歴史認識の上位に位置付けられたのは、古事記が人々に受け入れらたからだと考える必要がある。

人々が古事記の創作神を神社に祭り、倭人時代に作った古墳は見向きもしない状況がその直後に生まれ、それが江戸時代まで続いた事も、民衆が古事記の思想を受け入れた事を示している。これは王朝が強制したからだと考える人がいるかもしれないが、奈良朝は古事記を改訂しただけで、中央集権制という基本思想は継承したから、その後に生まれた先代旧辞本紀以降の史書もその思想を継承し、日本の公式の史書はその思想に基づいて改定を繰り返し、日本書紀に至った。

地方の民間伝承であるホツマツタヱや飛騨口碑も、それらの基本姿勢が古事記の思想に基づいている事や、古事記が創作した神を祭る神社は、原古事記を尊重して改定古事記を無視している事も、民衆が原古事記をその思想と共に受け入れた事を示している。

民衆が原古事記を尊重して改定古事記を無視した例として、改定古事記が関東部族や伊予部族を貶める為に創作したヤマトタケルは、改定古事記の最大のヒーローであるが、それを祭る歴史的な大社は全国に皆無である事や、改定古事記は山彦の妻の豊玉ヒメの出産時に、「山彦が産屋を覗くと、(豊玉ヒメは)大鰐の姿に戻って這いまわり、身をくねらせていた」と記しているが、豊玉ヒメの出自である塩釜神社は安産の神として祭られ、各地の神社にもその趣旨で祭られている事が挙げられる。関東は政変によって政権を奪った相手である甕星の出自であり、豊玉ヒメは稗田阿礼が自身を擬したものだったから、奈良朝の女性達は憎い相手としてこの様に貶めたが、古事記を受け入れた民衆は、その様な説話は受け入れなかった事を示している。

民衆が古事記を受け入れた後は、古事記の歴史観から逸脱する事は許されない筈だったが、古事記の著者が属した天武朝を政変で打倒した奈良朝の天皇は、天武朝を礼賛する原古事記の存在を不都合であると考え、太安万侶に命じて改訂版を作成した。新唐書が新生日本の使者の言葉として、「日本は小国(甕星の国)だったから、倭(嘗て倭国王を輩出した邪馬台国)に併合された。倭はその名前を奪って日本と名乗った(天皇制を継承した)記したのは、天武が始めた日本国の中央集権的な制度や天皇制を、政変によって政権を奪った奈良朝も継承した事を、唐朝に報告した事を示している。奈良朝にとっても古事記は日本国の起源を示す重要な書籍だったが、天武の妻だった稗田阿礼が著作した原古事記が、天武朝を礼賛しながら流布している事は許せなかったからだ。

従って元々の古事記を原古事記と呼び、奈良朝の天皇が改竄したものを改訂古事記と呼ぶが、大幅な改定があった事は覚悟して置く必要がある。

原古事記は高邁な思想に裏打ちされていたが、改訂古事記は奈良朝の権威を保つものに過ぎなかったから、改定古事記が発布されると民衆が怒り、勝手に各地域の独自版を創作した。先代旧事本紀もその一つに過ぎないが、これは物部(内需的な商工業者)が作った独自版で、平安時代に古事記を押し退けて歴史書の標準になった。

その事実が、平安朝は物部と妥協して政権の倫理観を建て直した事を示唆し、華美な物欲を追求する様になった平安朝の華麗な王朝文化の、存在理由も示している。

日本書紀に「一書に曰く」と記す各論併記が頻出するのは、これらの独自版を参照しているからだと推測される。改訂古事記に太安万侶が序を付け、「天武天皇が、諸家に帝紀や旧辞があって正実虚偽が分からなくっているから、正しいもの編纂して後世に残す必要があると判断し、稗田阿礼に誦習させたが、まだ実施に至っていなかった」と記しているが、この時代に各国の王が持っていた伝承は、倭人時代の海洋民族的な活動に関する伝承だったから、古事記とは全く違うものだった。日本書紀を正統化したい歴史学者は、日本書紀に各論併記が頻出する理由としてこの文章を利用しているが、論理性がない歴史論の典型であると言えるだろう。

太安万侶は身分が低い官僚だから、天皇家の歴史を改竄する権限はなく、元明天皇や後の元正天皇に言われる儘に原古事記を改竄する事しかできなかったが、自分の名前を冠した序には嘘を書きたくなかったから、精一杯の抵抗を試みた痕跡が各処にある。従って稗田阿礼が原古事記に深く関わっていた事は、間違いないだろう。

元明天皇には稗田阿礼の著作は全て気に入らなかったが、民衆が既に原古事記を受け入れていたし、奈良朝には独自に政治思想を創作する文化力はなかったから、改定とは言っても原著に忠実である事を装う必要があり、序を使って太安万侶にそれを表明させたかったが、太安万侶にも正義感があったから、序は元明天皇の意図と太安万侶の正義感がせめぎ合った、結果の産物であると推測される。古事記の序に稗田阿礼に誦習させたと記されているのは、稗田阿礼が原古事記の思想を広く世間に浸透させる為、人々を集めた場で誦(声を出して節をつけて読む。書いてあるものを見ないで、覚えていて言う。)したからだと想定される。稗田阿礼がそれをしてから20年ほど経て改訂古事記を出版した事になるから、年配の人々の中にはしていた稗田阿礼を覚えていた人もいただろう。つまりは事実だったと考えられる。

その様な奈良朝が失政を繰り返すと、奈良時代末期に皇位継承問題が起こり、和気清麻呂と姉の広虫が活躍して道鏡が失脚したが、その顛末は以下の様なものだったと想定される。

邪馬台国系譜の奈良朝では半分以上が女性天皇で、男性天皇は影が薄い状態だった。奈良朝は稲作民の為の農業国家を目指していたのは、稲作を担っていた女性達の為の政権を目指していた事を意味し、関東のmt-B4の情報ネットワークがそれを支えていた事も意味するから、失政を連発しても直ぐには倒れなかった理由の一つを、其処に求める事もできるだろう。しかし関東のmt-B4にとっては、温暖化した事によって稲作の北上が可能になったから、古墳寒冷期に北関東まで席巻されたヒエ栽培を、北に押し返す事が至上命題であり、それ以外の事は二の次だった事を、改定古事記に関東を貶める説話を大々的に挿入したにも関わらず、関東のmt-B4に咎められなかった事が示している。

最後の女性天皇になった称徳天皇が弓削道鏡への譲位を希望したが、和気清麻呂が宇佐神宮にお伺いを立て、神意としてそれを拒絶した。宇佐神宮が皇位を認定する論理に従った、和気清麻呂の行為に称徳天皇は文句を言えなかったからだ。皇位継承が行われた後であれば宇佐神宮は認証するしかなかっただろうが、継承前にお伺いされれば否と答えるしかなかったから、権威に靡きたかった宇佐神宮の神官は明言を避けたが、和気清麻呂の恫喝に遭って神意を窺う儀式の段取りを整えると、その結論は和気清麻呂の期待に沿うものにならざるを得なかったと推測される。

天甕星は改定古事記には記述がなく、先代旧辞本紀に登場するが天武を連想させる記述はない。しかし「甕星」の命名手法に古事記独特のユーモアが感じられ、原古事記には登場していたと推測される。

天甕星は日立の大甕倭文神社に祭られているが、現在のこの神社は「主神は建葉槌神(倭文の神)で、由緒は『建葉槌神を祀る奥宮が、天津甕星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に鎮座している』事が示している」と説明している。大甕神社と名乗ったのは天甕星を祭る神社だったからである筈だが、先代旧辞本紀や日本書紀に影響されて見識を変えた事を示し、他の神社がその様な事は無視しているにも関わらず、この神社が頑なに原古事記を否定しているのは、関東のmt-B4の膝元の神社には天甕星を祭る事ができなかった事を示している。

また政変の際に天武天皇の子の総持天皇を殺した者が、関東の倭文集団だった事を示し、天武朝を政変で倒したのは奈良朝ではなく、関東のmt-B4の情報ネットワークだった事を示している。

先代旧辞本紀には、国譲りについて以下の様に記されている。(天璽瑞宝から抜粋)

みなが申しあげた。「経津主神を将軍にするとよいでしょう」

その時武甕槌神が進んで申しあげた。「どうして経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私は丈夫ではないのだ」

その語気が激しかったので、経津主神にそえて武甕槌神を遣わした。ある説によると、天鳥船神を武甕槌神にそえて遣わした。(改定古事記の説)

天照大神と高皇産霊神は、経津主神と武甕槌神を遣わされ、先行して討ち払わせ、葦原の中国を平定させられた。

ときに、二神が申しあげた。「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香々背男です。まずこの神を除いて、その後、葦原の中国に降って平定させていただきたい」

このとき、甕星を征する斎主をする神を、斎の大人といった。この神は、いま東国の楫取かとりの地においでになる。

経津主神・武甕槌神の二神は、出雲の国の五十狭いたさの小汀に降って、大己貴神(大国主の別名)に尋ねていった、天照大神は葦原の中国は我が御子の治めるべき国であるといわれている。

以下の話しの概略は古事記と同じ。

先代旧辞本紀の著者は藤原氏に関する事には憚ることなく、出雲を平定した主役は武甕槌神ではなく経津主神だったと記しているのに、壬申の乱の主役が天津甕星だったと言えなかった事は、関東のmt-B4への気兼ねを示している。

先代旧辞本紀の著者には改定された古事記が気に入らなかった事は当然として、原古事記にも大いに不満があったから、その著者を代表する天武天皇も恨んでいたともいえるが、それを理由とするのは文学的な感性として違和感がある。

先代旧辞本紀は物部氏の主張である事を前提に、彼らがくどいまでに主張している内容を参照すると、古事記の神武東征説話にその原因があることが分かる。

古事記の神武東征説話では、奈良盆地の飛鳥王の拠点征服が終ると、最後まで抵抗していた者達が降伏した際の出来事として、以下の様に記述された事が機内やその周囲の物部にとって大問題だったからだ。

(神武が奈良盆地を概ね平定した)故に、邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が參り赴き、天つ神の御子に、「天つ神の御子が天より降り坐すと聞いた故に、追って參り降り來ました。ですから天の瑞(しるしを)献じ、以って仕え奉ります。」と申した。故に邇藝速日命はトミビコの妹のトミヤヒメを娶り、生れた子が宇摩志麻遲命である。〈此者。物部連。穂積臣。婇臣の祖也。〉故に此の如く、荒ぶる神等を言向け平げ和した。

この様な含蓄のある表現は、原古事記特有の文体になり、農本主義帝な奈良朝は物部を嫌っていたから、原古事記のこの様な記述は躊躇わずに転記したと考えられる。

邇藝速日命宇摩志麻遲命は機内やその周囲の物部が祭っていた神だから、古事記の著者はその様な神が最初から東征に参加していれば、神武の兄が戦死する様な苦境にはならなかったのに、神武が勝つ事が明らかになってから降参して来た卑怯者だが、その子孫は今は繁栄していると、糾弾する様な表現になっている。

香取勢は同じ物部でも、最初から壬申の革命の主力勢力として戦ったから、此者が指す物部ではない。つまり先代旧辞本紀は、平安朝と組んで王朝の立て直しに協力した物部の著作だが、彼らは古事記が〈此者。物部連。穂積臣。婇臣の祖也。〉と記した物部だったから、先代旧辞本紀は古事記によって貶められた彼らの名誉を挽回する書籍だった。先代旧辞本紀を読めば、彼らがどの様な記述で祖先の名誉を挽回したのか分かるが、その表現のくどさに辟易するだろう。

倭人時代の天皇は「天氏」の系譜がなるべきもので、古事記が「天鳥船」「天若彦」などと記しているのは、それらが「天氏」の人物像を表象し、関東には多数の天氏がいた事を示している。つまり「皇」は王の上に太陽がある象形で、多数の王の中の大王を意味したから、天皇は「天氏」の「皇」を意味し、多数の天氏がいた関東の大王を意味し、関東以外の大王には使わない名称だった。

隋書の項で指摘したが、隋に遣使した飛鳥王は「天氏」を称し、字名は「たりしひこ」「大君」と号していた。関東の天氏がその様に名乗る事を、飛鳥王に許していたからだと考えられるが、日本紀を転記した新唐書は、用明天皇の名は「めたりしこ」であると記している。つまり奈良朝が飛鳥王は「天氏」ではないとむきになって否定し、奈良朝は正統な「天氏」だと主張した事を示している。

つまり九州の大率は「天氏」だったから、邪馬台国王に権限を委譲する際に「天氏」を名乗る権限を与えたが、継体天皇が倭国王に即位すると石井が殺された事は、大率が関東部族の掟を破った事を示唆している。つまり奈良朝の行為も、関東部族の掟破りだった事になる。その様な立場の人達が、むきになって歴史を改竄する姿を現代人は見慣れているから、中華風の王朝を目指していた奈良朝の立ち位置も理解できるだろう。

その様な奈良朝であっても、女性天皇に「天氏」を付加した諡号が贈られなかったのは、「天氏」は男性社会である海洋民族の指導者の称号だったからだと考えられる。

現代日本人も偉人を祭る神社を建立するが、日本の伝統的な神も過去の偉人の霊であって、偉大な功績を挙げて人々を救った偉人が死ぬと、その霊も我々を守ってくれると考えるのであって、それ以上でも以下でもない。偉人を尊敬する発想の起源は倭人社会にもあった事を、魏志倭人伝が「尊敬する立派な人に会うと、手を博って跪拝に当てる。」と記して示している。これは神社で柏手を打つ行為と同じだから、神社に祭られているのは尊敬する立派な過去の人であって、特別な祈りを捧げる対象ではない事を示しているからだ。

古事記が創作的に生み出した神々はそれとは異なり、倭人時代の偉人の霊は、倭人時代はなかった事にする為に葬り去り、創作した神に置き換えるものだった。現代人の感覚で云えば、伊勢神宮の神を天照大御神ではない事にして、他の神にしてしまう事であり、天満宮や乃木神社を廃止して別の神社を建立する行為だった。その様な偉人の子孫である王が各国を統治していたから、甕星の体制変革は、明治維新の廃藩置県と比較しても格段の重みがある大変革だった。その20年後に甕星の子が殺されて奈良朝に変わったが、日立にいた甕星の子が関東の倭文集団に殺された事は、mt-B4の情報網が絶大な権力を持っていた事を示している。

古事記は天照大御神に、「葦原中国は我が子が統治するべきである」と無前提に主張させ、その交渉の為に出雲に乗り込んだ建御雷神に、「天照大神が、汝のうしはくる葦原の中つ国は、我が御子が知らす所のであるとの言依を賜った。故に汝の心は奈何。」と問い詰めたが、その理由は続けて記されている大国主の答えにある。「僕者はそれに答える事はできない。我子の八重言代主神が申し上げるべき事である。」

関東の倭国王系譜が「天氏」を名乗る事を許し、その結果として倭王になったのは飛鳥王で、出雲王を大率に任命したのは倭王だから、実権は大率だった出雲王にあったが、倭王の称号を返上するのは飛鳥王の八重言代主であると言った事になる。無前提にこの様に記しても、飛鳥時代の人には違和感なく受け入れられる事実だったから、古事記もこの様に記したと推測されるが、隋書と新旧唐書の記述と合致し、当時の世情を的確に表現している事に留意する必要がある。

出雲の大国主が事代主を我子と記している事は、倭王より大率の方が上位者だった事を示しているが、これは倭国と日本を分けた旧唐書と、その間の空白部分を含めて日本伝とし、その時期に倭国王ではない者が倭を代表していた事を指摘している事と一致し、その者が「献上した琥珀の大きさは斗(6リットル)の如く、瑪瑙は五升(3リットル)の器に匹敵する。」と記し、その者の財力に驚いた新唐書の記述と整合するからだ。出雲国王が大率だった事は、旧唐書倭国伝が「其の王の姓はアメ氏,一(人の)大率を置いて諸国を検察し、皆が之を畏附する。」と記している事も、その事情を示している。

但し実際の政権の奪還には武力行使が必要だった事を、国譲り説話に建御名方神が登場する事が示している。建御名方神を祭る諏訪神社の上社では、物部系の守屋氏が代々神主を務め、戦国時代の諏訪氏は建御名方神の子孫である事を標榜したが、守屋氏は物部であるとの伝承があるから、物部だった香取勢の一員だった可能性が高く、守屋氏が建御名方神を祭っている状況は大甕神社と大きく違っている。

古事記の国譲り説話では、「負けた建御名方神が科野のスワに逃げたので、追いかけて殺そうとすると降参した。」と記し、壬申の乱の合戦が諏訪湖畔で行われた事、そこで古事記が建御名方神と名付けた武将が戦死したので、武将を殺した守屋氏がその霊を祭っている事を既定の事実としているが、先代旧辞本紀を創作した畿内の物部は、甕星が殺されてから100年以上経っているにも拘らず、甕星を悪い神と記している事は、mt-B4の情報ネットワークの怨恨が継続していた事と、その影響力が畿内にも及んでいた事を示している。

甕星は敵将だった建御名方神の武功を高く評価したから、守屋氏がその霊を祭った事になり、飛鳥時代には貴人を殺した者がその霊を祭った事を示している。大甕倭文神社の名称も、甕星を殺した倭文が甕星を祭っていて然るべきなのだが、ヒエ栽培者である伊予部族と手を握った甕星(天武の子)を殺した関東のmt-B4は、その霊が祟る事を恐れて巨岩に封じ込め、甕星を殺してその怨霊を封じた者として倭文を祭らせた事は、この神社の異常性を示し、甕星と稗田阿礼の文明性の高さとmt-B4の情報ネットワークの非文明性を際立たせている。

またその影響が近世まで継続した事を示し、早乙女の風習を広めたmt-B4の影響が、この様な方面にも及んでいた事を示している。月山神社が中世に月読信仰に戻ったのに、こちらでは現在まで呪縛が解けていない事にも留意する必要がある。

以上の検証で以下の状況が明らかになる。

ヒエの中核的な栽培地が東北に南下した古墳時代に、ヒエ栽培者のこれ以上の南下を阻止したかったmt-B4が、ヒエ栽培の中核地になっていた仙台平野に近い塩釜を拠点とした伊予部族の国王の娘が、関東の甕星の妻になったのは、内需を重視する関東部族と伊予部族が交易同盟を結成した事の象徴だった。

その7で詳しく説明するが、原古事記は天孫降臨した神を天武の父に擬し、山彦を天武に擬し、神武天皇を天武の子の総持に擬しているので、山彦の妻になった豊玉ヒメは稗田阿礼自身を擬している。従って天孫降臨した神が木花サクヤヒメを妻にした事は、関東部族の北方派と南方派が婚姻によって手を結んだ事を示唆し、山彦が豊玉ヒメを妻にした事は、南北が合体した関東部族が伊予部族と婚姻によって提携した事を示している。

つまり古墳時代末期の実態として、日本紀の天皇紀に従って記述すると、大陸での移民事業の終焉によって経済の活況が終焉し、日本列島に不況色が漂い始めると、飛鳥王である継体天皇を倭王にしてコメ経済を活性化させ、不況を乗り越えようとしたが、不況はスパイラル的に進行した。

飛鳥時代になると用明天皇が隋に朝貢して活路を開こうとしたが、それに失敗すると不況が更に深刻化する中で、出雲王が毛皮交易の収益を背景に富貴を独占する状態になり、孝徳天皇の御代には実効的な日本の支配者になった。

関東部族と伊予部族の内需交易者は、不況から脱却する為には内需交易を活性化する必要があり、その為には部族が細分化されて生れた多数の国を経済的に統合し、市場を相互に開放して経済圏を拡大する必要性を認識したから、相変わらず部族経済に立脚して外需に依存する、毛皮交易に拘泥していた出雲部族と対立する事になった。規制を緩和して内需経済を活性化させる事は、現在でも行う経済政策の基本だから、関東部族と伊予部族の発想は極めて合理的だった。

関東部族と伊予部族の連合軍は、毛皮交易に関与していた飛鳥王と出雲王を壬申の乱によって征討し、中央集権制を基本とする日本国を誕生させた。古事記は壬申の革命戦争について、国譲り神話で出雲を舞台にした戦乱を描いているが、神武東征で畿内を舞台とした戦乱を描写し、武庫川系が失脚して淡路系が復活した邪馬台国王を「トミのナガスネヒコ」と記し、反革命派の首魁だったと指摘しているので、以降はこの集団の王を難波王と呼ぶ。大阪城に近い難波宮跡に戦乱で焼失した痕跡があり、壬申の乱の際のこの王の運命を示唆しているからだ。難波王も海運力を提供して毛皮交易に参加していた事を、この名称が示している。スネは陸上を走る為に必須の身体部位だから、海洋民族的な表現を嫌った古事記の著者が、長距離海運業者をこの様に表現した事になる。

革命によって生まれた政権は日本全国に街道を張り巡らせ、内需を拡大する為に日本全土を一つの経済圏に纏めただけではなく、公共事業として藤原京を建設して物部の経済力を高めた。平安温暖期が始まってコメの豊作が続いたから、余剰になったコメの需要を創出する事により、経済不況の泥沼から脱出する足掛かりにした事になり、稲作者から租税を徴収してそれらの工事や事業の費用に充当する事は、現代でも行う不況対策だから、極めて合理的な経済政策だった。

現代社会ではその費用の為に国債を発行するが、革命後に富本銭が発行された事は、それを国債の様に使う為だったと想定され、この時代としては画期的な発想だった。奈良時代に和銅開封などが発行され、その価値が青銅より極めて高かったので贋金が横行した事は、富本銭が国債の様に使われた事の二番煎じだった事を示唆している。

壬申の乱の勝利によって関東部族と伊予部族の関係が高まり、日本列島全体の経済活動も内需の活性化によって高まる筈だったが、両者の関係は突然崩壊し、甕星と伊予部族の女性(稗田阿礼)の子だった総持天皇が殺され、政権が奈良朝に移行して藤原不比等がその政権の重鎮になった。

防人と呼ばれた軍団に、関東から多数の兵員が送り込まれた事が知られているが、この軍団は南九州の反乱を鎮圧する為に派遣されと想定される。つまり奈良朝が成立すると関東部族と伊予部族が敵対関係になった事情は、総持天皇が殺された事情と一致している。

この一連の不可解な出来事は、平安温暖期が始まって北関東の稲作の生産性が高まると、関東部族のmt-B4に一息吐かせ、ヒエの栽培者だった東北の伊予部族のmt-M7aと、穀物栽培の主導権を巡る緊張関係が、mt-B4の北上と共に高まったからだと考えざるを得ない。それ故に関東のmt-B4は、稗田阿礼を妻とした甕星一族の抹殺を画策し、天武天皇と稗田阿礼の子の総持を倭文集団に暗殺させたと考えられる。これが「大化の政変」だった事を、鎌倉時代初頭に成立した二中歴が示している。

西日本に奈良朝が樹立されたのは、西日本の男性達の交易社会ではでは、天智系譜の血脈が重視されていたからだと想定されるが、女性達の動向も別途検証する必要がある。北関東はmt-B4の発祥地として尊重されていたが、古墳寒冷期にヒエ栽培が北関東に南下すると、北関東のmt-B4の情報ネットワークは壊滅の危機に晒されたと認識され、第二のネットワーク中心が、西日本最大のmt-B4の稲作地だった大阪平野や吉備を中心に結成されたであろう事は、想像に難くない。そのネットワークも男性の交易者の組織と結びついていた事は、魏志倭人伝が示す邪馬台国の事情から推測する事ができる。

従って関東のmt-B4のネットワークが天武と稗田阿礼の子を暗殺し、革命勢力を関東から一掃すると、mt-B4のネットワークの最大の関心は稲作の北上になり、西日本の事情に干渉する余裕はなかったから、奈良朝は西日本の政権として発足したと想定される。その様な奈良朝に関東の代表として藤原不比等を送り込んだとすると、全ての辻褄が合うからだ。更に言えば藤原不比等は政変以前から、mt-B4の情報ネットワークによって西日本に送り込まれていた可能性が高く、奈良朝を成立させたのは藤原不比等だった可能性も高い。

いずれにしても王朝期に藤原氏の権勢が継続した理由は、彼らの背後に関東のmt-B4の情報ネットワークが存在したからであると考えると、全ての疑問が氷解する。

続日本紀は奈良朝が東北南部以南を掌握していた様に記しているが、実は西日本と北陸を掌握していたに過ぎず、関東には別の政権があった事を、続日本紀に記された元明天皇の和銅元年の詔の「治めているこの国東方にある武蔵国に、自然に生じた熟銅新が出たから、それを奏上して献上してきた。」だから年号を和銅にするとの記述が示している。

唐書日本伝の末尾に「其の東海嶼中(島の中)に邪古(ざこ)、波邪(はざ)、多尼(たに)の三小王も有り。北は新羅と、西北は百濟と、西南は直ちに越州と距り、絲絮(絹や紙)、怪珍(極めて珍しい宝物)が有ると云う。」と記されている事もそれと整合する。邪古(ざこ)は山海経に記された射姑(ざこ)国であると推測され、宗像や奈良盆地を追われた対馬部族が安曇野に逃れ、政権を維持していた事を示しているから、波邪(はざ)多尼(たに)のいずれかが関東を指していたと考えられ、改定された古事記でヤマトタケルに東国を征服させた事と重なる。

これらに付いては別の節で詳細に検証するが、甕星と伊予部族が日本を統一して中央集権制の統一国家にした後、mt-B4の政変によって日本列島は再び、部族的な地域政権が分割支配する状態に戻っていた事を示しているから、実認定しても良いだろう。つまり奈良朝の正当性も、倭人時代の身分である大率の認証によって得られていたから、中央集権的に日本全土を統治する権能はなかった。

改定された古事記は西日本に発布されたのであって、東日本には配布されていなかったから、ヤマトタケルに東国を征服させる説話を挿入する事が可能だったのであり、それが関東のmt-B4に洩れない様に、元々は経津神が主役だった国譲り説話を建御雷神に摺り替えたとすると、先代旧辞本紀がそれを露骨に批判した事情と整合する。先に示した先代旧辞本紀の文面は、藤原氏に対する嘲笑に満ちていると考える必要があるからだ。

藤原氏が改定古事記の内容をmt-B4に洩らせば、藤原氏も古事記の改定に加担していた事が露見する事になるからだ。藤原不比等にその様な意図があったのか否かに関わらず、改定した古事記の内容が関東のmt-B4に洩れれば、藤原氏も一味に加担していたと疑われる事は間違いなく、悪知恵だけは冴えていた事を示唆している。平安時代に古事記が門外不出の書籍として秘匿された理由も、これによって明らかになる。

部族主義的で農本主義的な奈良朝が誕生すると、甕星が目指した中央集権化による内需の活性化や、それによる経済の復興策は頓挫したから、奈良時代は飛鳥時代以上の不況に見舞われた事を、貧窮問答歌が示している。

班田として給付した田には個人の耕作権がなく、その様な共産主義的な施策では、田の生産力の維持に労力を払う農耕者がいなくなったから、班田が私有田より生産性が低い田になった事が、稲作者の窮乏化を招いた事情もあっただろうが、それより大きな問題として、奈良朝が農本主義に走って商工業的な経済活動を軽視した事が挙げられる。それによってコメを消費する商工業者の数が減少しただけではなく、貧しくなった商工業者はアワを食べる様になったから、コメの需要が極度に減退した必然的な結果として、租税としたコメの価値が減退してコメ経済の大インフレが発生し、増税しなければ王朝の需要を満たす事ができなくなったからだ。奈良朝が盛んに用いた出挙が、増税手段だった事は公知の事実になっている。

平安温暖期になってコメの生産性が高まっているのに、最も温暖な地域で稲作先進地でもあった、筑前で発生した事情を貧窮問答歌が的確に示している。

 

5-7 奈良朝が終焉して平安朝が始まった顛末

古事記は縄文時代の出来事を正確に示しているから、説話の価値を確認する為には奈良朝の終末期まで下り、古事記の思想にまつわる歴史を検証する必要がある。

奈良朝の最後の天皇である、称徳天皇から皇位を継承したのは出自が不明な光仁天皇で、その子の桓武天皇が平安朝の祖になったが、以下の理由で光仁天皇は、関東の倭国王系譜の人物だったと推測されるから、平安朝は光仁天皇から始まったと考える必要がある。

(1) その第一の理由として、平安朝の天皇即位を宇佐神宮が認証しなくなり、宇佐神社に格下げされると共に即位儀礼が中華風になったのは、天皇が関東の倭国王系譜に戻ったからだと考えられる事が挙げられる。関東の倭国王家は、縄文時代から続く倭の統治者の最高系譜で、上位者がいなかったから、他者から位を認証して貰う必要がない家系だった。

(2) 光仁天皇の和風諡号が「天宗高紹天皇」だった事も挙げられる。天宗は「天氏(あめし)の宗族」である事を意味するから、この称号は「関東の正統な倭国王家(天氏)の嗣子」である事を暗示しているからだ。高紹は「高らかに受け継ぐ」事を意味するから、「天宗高紹天皇」は「高らかに天氏の宗族系譜を継承した天皇」である事を意味する。

続日本紀の編者はそれを暗示しながら、天智天皇の孫という明らかに嘘と分かる、虚構の設定を持ち出した疑いが濃い。平安王朝としては、古事記が設定した万世一系思想を崩してしまう、王朝革命があった事は明らかにはしたくなかったからだ。改訂古事記も先代旧事本紀もそれは厳格に守っているから、続日本紀の編者にもできなかったと考える事に合理性がある。

(3) 古事記が設定した推古までの天皇は、実在した人物ではなく、実在の初代天皇は天武だった。当時の知識人はそれを知っていた筈だから、光仁天皇を天智の孫にした事は、系譜を隠したと言っている事になるからだ。天智の弟がその家系の主になり、天智の弟が天智の娘を妻にした事は、新唐書が示す新羅の王族の婚姻制度に従えば、天智には息子がいなかったから弟が当主になり、姪である天智の娘を妻にした事になる。その子が天智の娘を妻にした事は、当主が叔母を妻にした事になり、新羅の王族の婚姻制度と合致する。日本書記は天智の弟と天武を意図的に混同し、同一人物であるかのように誤解させているから、その思い込みから脱却する必要がある。ちなみに日本紀を転写した新唐書は、天武は天智の子であると記し、初期の奈良朝の段階では捏造理論が成熟していなかった事を示している。

(15)古事記・日本書紀が書かれた背景の項で指摘したが、改定古事記は武庫川系邪馬台国の有資格者の系譜と奈良朝の系譜を整合させる為に、天忍穂耳尊と山幸彦の間に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を挿入し、山幸彦と神武天皇の間に豊玉ヒメの妹の玉依姫とウガヤフキアエズ命を挿入した。その際に持統天皇と元明天皇の父である天智は海神になり、奈良朝の系譜から外れているから、奈良朝が示す天武天皇は甕星ではなく、天智天皇の無名の弟だった事を示している。

従って甕星系譜だった光仁天皇は、その様な天智の系譜ではない事は明らかである。

また天智の孫である事が事実であれば、武庫川系の邪馬台国人である天智の子孫だから、宇佐神宮の認証が必要になり、第一に挙げた理由と矛盾する。

光仁の年齢は天智の曽孫やその次世代とした方が自然だが、三代で皇籍から外れる決まりがあり、偽の天武が既に奈良朝の天皇系譜の祖にされていたから、天智の孫に設定する以外に手段がなかったと推測される。平安朝は奈良朝から天皇系譜が変わった事を示し、それによる政治の刷新と人心の一新を必要としていたからだ。

(4) 続日本紀が光仁天皇を、「近江大津宮で天下を統治された、天命開別天皇(天智天皇)の孫」で、「天応元年(781年)に七十三歳で崩御した。」と記しているから、光仁天皇は709年に生まれた事になる。天智は遅くとも670年には亡くなっていたから、光仁天皇の父が生まれたのは、遅くとも天智が亡くなる直前の660年代後半でなければならず、光仁天皇は50歳近い父の子になり、この時代には極めて珍しい事情だった。

旧唐書に日本紀を転記した系譜が記され、隋に使者を送ったのは用明、その後は崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、天豊財、天智としているから、日本紀は原古事記の意図に反し、推古の後に舒明、皇極、孝徳、天豊財を挿入している。孝徳の在位は650年代初頭と重なり、天智の子は天武、天武の子は総持、系譜の記載なく701年に文武が即位したと記したから、奈良時代の捏造史では孝徳以降の天皇に各10年ていどを割振れば、701年の文武即位に繋がると安易に考えていた可能性が高い。

つまり奈良朝時代の捏造史は日本書紀とは異なり、天智は壬申の乱の後に即位した事になっていたから、光仁を天智の孫とする事に不自然さはなかった可能性が高い。しかし945年に旧唐書が成立すると、日本紀との矛盾を解消する新たな捏造が必要になり、新唐書が生れると更にそれを積み上げる必要が生れ、遣隋使を送り出した天皇を2代早めて推古として天智の時代を繰り上げたが、797年に編纂された続日本紀の編者は未だ、天智は壬申の乱の後に即位したとする日本紀の認識に立脚していたから、天智の曾孫であっても天皇になる資格はあったが、安易に天智の孫にしたと考えられる。

しかし光仁は天武の曽孫だったから、光仁が天皇に即位しなければ桓武は天皇になる資格がなく、光仁の即位はタイムリミットに近いものだった。

改めて正しい歴史観を示している古事記と、最終の捏造版である日本書紀の認識を確認すると、天智は672年の壬申の乱の際には既に死んでいた。元明天皇は661年に生まれて姉の持統天皇の息子の嫁になったから、元明天皇は天智の晩年の子だった事になり、元明天皇より遥かに若い天智の男子はいなかった。聖武天皇は元明天皇の孫だから、天智には聖武天皇より大幅に若い孫はいなかった筈だが、聖武天皇は701年生まれで光仁天皇は709年生まれだから、理論的にあり得ない事ではないが極めて稀な事だった。

しかし光仁天皇が甕星の天武系譜であれば、総持の孫世代までが皇籍になり、総持が暗殺された際に関東にいなかった兄弟の系譜であれば、総持の兄弟は文武と同世代になり、総持の孫世代である光仁は文武の孫世代である孝謙・称徳と同世代になるから、52歳で崩御した称徳天皇の後継として、62歳の光仁天皇が即位する事は不自然ではない。

(5) 平氏や源氏が関東を根拠地にした。

平安朝の初代天皇だった桓武が、関東の倭国王家の正統な後嗣だった事を前提にすれば、桓武平氏が関東に下向して勢力を得た事を明快に説明できる。関東勢力が待望していた皇統が生まれ、その血脈を関東に迎える事は当然の成り行きだったから、平安王朝初代の桓武天皇の系譜が生まれると、即座に関東に勢力を張った理由が明らかになるからだ。

平氏が拠点としたのは関東と伊勢だが、伊勢は関東部族が利用していた沖縄航路の中継地だから、この地域に関東部族が入植していた事に違和感はない。伊勢平氏の分岐として備中伊勢氏があり、それが北条早雲の家系起源であると言われる事にも因縁が感じられる。

関東に平氏の血統が浸潤する以前は藤原氏が有力勢力だったらしい事が、藤原氏がmt-B4膝元の勢力だった事を示唆している。平安時代以降の藤原氏の勢力圏が北関東で、藤原秀郷の母が鹿島氏である事なども、その事情の傍証になり、北関東のmt-B4と藤原氏の関係を示している。

桓武平氏だった平将門が皇統らしいものを称して反乱を起こした事も、乱の経緯が抹殺されて詳細が分からない事も、平将門が現在に至るまで敬愛されている事も、上記を前提にすれば明快に説明できる。将門の主張が「皇統は万世一系である」とのスローガンに反するものであれば、平将門の主張は抹殺する必要があったからだ。

将門の乱が鎮圧されると、倭人の地だった大阪を根拠地にしていた清和源氏が関東を制した。武家としての清和源氏の起源は摂津源氏と河内源氏にあり、河内源氏は平氏より広い地域に拡散したが、拡散の中心は関東に在り、甲斐源氏、上野源氏、下野源氏、常陸源氏などの名称もあるが、武蔵や相模にも拡散し、駿河の今川氏も源氏の一門になる。

摂津源氏と河内源氏以外に近江源氏があり、続日本紀の元明天皇の詔に天智が大津を拠点にしていたとの記述があるから、近江にも関東部族系譜が拡散していた事を示唆している。大和源氏もあるが、これは平安時代に奈良の国司になった源頼親が勢力を扶植したもので、特殊な事例になる。武家の世になった鎌倉時代以降に勢力が減退した事も、その他の地域との違いを示唆している。つまり平安時代~鎌倉時代に源氏の勢力が伸長した地域は、元々関東部族が拡散していた地域だったと考えられ、これも関東部族と桓武天皇の結び付き、即ち光仁天皇の血脈の重視を示している。

これは嘗て天氏を名乗っていた関東の貴族が、平氏や源氏を名乗る様になったと考える事ができるだろう。男系としては別系譜だが、女性が真の権力者だったのであれば、外婚制を利用した新たな血脈氏族が形成されても、権力実態には変化はなかったからだ。古墳時代になると関東部族の有力者が続々と稲作民族化した事を、八角墳が内陸の河川流域に形成された事が示し、漁民の稲作民族化が進んだ事を示唆しているが、それらの稲作民の族長が、有力漁民だった天氏の血統を継ぐ者になった過程でも、同様の婚姻形態が展開された事を示唆している。

話しが分かり難いが、古代社会では皆が話し合って物事を決めていたから、その議長を務める有資格者として、天氏や源氏が存在したと考える必要がある。議長は名誉職であると共に強い権限もあったから、候補者が多ければ血統で資格を限定する必要があったと考えれば分かり易い。封建的な主従関係系が制度化されていない社会の高貴な血族については、その様な利用価値があったと考えられ、古事記は血族が古代社会の秩序の基幹を構成していた事を示しているのは、他にも利用価値があった事を示唆している。

いずれにしても女性優位社会だった農耕社会で起きた現象であり、封建社会に変わる事によってその利用価値が変化したと考える必要もあるし、平氏や源氏が生れる事によって主従関係を基底とする封建社会化が進展したと考える必要もある。

(6) 甕星には子孫がいた。

甕星の子が政変によって殺されると、残党が久慈に逃れたと推測される。弘前にY-Nが多いのは、久慈にいた甕星の子に多数の高句麗人が仕えていたり、政変によって合流したりしたからであると推測され、弘前藩主が久慈氏の系譜である事と整合する。弘前藩の成立に南部氏(盛岡藩)が深く関与した事も、光仁天皇の出自が久慈氏だった可能性を高める。唐に滅ぼされた高句麗人が甕星に私淑していたのは、甕星が高句麗人の関東への大量亡命を受け入れたからだ。埼玉県の高麗郡に高麗神社があり、亡命王族の子孫がそれを祭っている事や、狛江、駒込、駒沢などの地名が残っている事がその事実を示している。

関東のmt-B4は弥生温暖期に稲作の北上運動を推進した筈であり、抵抗勢力の蝦夷が居た日本海沿岸の北上は、奈良時代には困難を極めた事情が続日本紀に記されているが、太平洋側については、712年には宮城県南部までが奈良朝の版図だったと史家が言うのは、関東部族の版図だった読み直す必要がある。

802年に坂上田村麻呂が派遣されて胆沢城を造ったが、其処が蝦夷との境界だったのではなく、mt-B4が派遣した稲作勧誘隊は更に北上していたと推測される。つまり蝦夷であるか倭人であるかの違いは、ヒエ栽培者なのか稲作者なのかの違いだった可能性が高く、平安温暖期になると直ぐに稲作が北上したから、水田雑草であるタイヌビエのF型の分布圏だった岩手まで、C型が北上していると考える必要がある。

土師器や須恵器はヒエ栽培者も使っていたし、奈良時代以降のこの地域の女性達はイネもヒエも栽培して飢饉に備えていた筈だから、それを土器で区別する事には賛成できない。

平安時代末期に欧州を支配したのが藤原氏だった事は、北関東の藤原氏との因縁も考慮する必要がある。彼らは藤原秀郷の系譜であると主張しているが、彼らの出自は明らかになっていないからだ。

奥州藤原氏が滅亡した後で、この地域で勢力を得た南部氏は清和源氏で、甲斐源氏だった。甲斐源氏と言っても「南部地域」は富士宮に近く、関東部族の南方派の一族であると言っても良いだろう。

既にmt-B4が派遣した稲作勧誘隊が多数居住し、奥州藤原氏の後継になり得る統括者を必要としていたのであれば、名門の南部氏は歓迎される存在だった。奈良時代の関東を藤原氏が統括していたが、そこに光仁天皇系譜の平氏や源氏が拡散し、源氏の棟梁だった源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした事は、関東部族内にmt-B4の勢力を排斥する力が働いていたと考える事ができるだろう。その後釜に清和源氏である南部氏が着任した事も、その流れの中で読み解く必要がある。

その4で示した様に、鉄器時代が進化して男性達が稲作の主体者になっていく中で、mt-B4を直接支持する勢力が後退していく流れが生れていた筈だから、藤原氏が支配する王朝が衰退し、源頼朝が鎌倉に幕府を設置した事も、その流れの中で読み解く必要もあるだろう。つまり農地の獲得に命を懸ける者達が出現すると、mt-B4流の統治体制では、武闘的になった稲作者を統治できなくなった事を示唆している。

南部一族が散開した地域は久慈に隣接し、久慈氏と密接な関係を持ちながら養子縁組もしたので、津軽藩主は大浦氏を名乗っているが出自は久慈氏らしい。大浦氏は戦国時代に、安東氏から津軽を奪取して津軽藩を形成したが、それを南部氏が援助した可能性が高い。

源氏だった南部氏は、青森東部に入植した12世紀から戦国時代が終わった16世紀まで久慈氏と密接に連携し続け、南部氏は盛岡藩を、大浦氏に改名した久慈氏が弘前藩を形成したが、南部氏が久慈市に肩入れした理由は、庇護者を任じていたからである疑いが濃い。久慈氏が光仁天皇を輩出した氏族であれば、十分な動機であると言えるだろう。

従って奈良時代末期に天武天皇の三代目の子孫がいるとの情報を掴んだのは、南部氏が入植する以前の稲作勧誘隊だったが、それがmt-B4の中枢に注進されて指導層が決断したから、光仁天皇が即位して再び統一日本が誕生したが、それは稲作地域の統一だったと考えられる。769年に和気清麻呂の神託事件があり、770年に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位した歴史の流れから推測すると、それらの一連のmt-B4の判断は極めて素早いものだった。

甕星の一族が久慈にいた理由は、その7で検証する。

 

5-8 奈良朝を終焉させて甕星の子孫を天皇にし、平安朝が生まれた理由

 縄文時代まで古代的な海洋民族だった倭人は、弥生時代に稲作が盛んになると農業国家的な体質を強めた。古墳時代に大古墳が林立した事は、経済活動の活発化と鉄器の普及が進行した事を示し、稲作者が戸毎に鉄製農具を入手して自営的な稲作者になる時代になった事を示している。しかし古墳寒冷期にはコメやアワの生産性が不十分だったから、海洋民族的な経済活動から脱却できなかったが、飛鳥時代後期に平安温暖期が始まると全ての準備が整った。尾瀬の花粉はAD500年~700年に急激に温暖化した事を示しているから、日本社会もこれに即した動きをしたと考える必要がある。「飛鳥時代」は美術史や建築史で使われ始めた言葉で、歴史家も592年から飛鳥時代が始まったとして、社会の変化が始まったと認めている事がその事情を示している。

飛鳥王が隋に使者を送ったのが600年で、608年に日本を訪れた隋の使者が、飛鳥国の繁栄ぶりを描写したのは、稲作国家になっていた飛鳥国の経済が回復し始めていた事を示唆している。しかし631年に同じ飛鳥国を訪れた唐の使者の報告書は、不況に襲われた飛鳥国の実態を描写している。有力な産業が存在しない社会でコメの増産が進むと、コメがだぶついてコメ経済のインフレが起こり、不況が深刻化した事を示唆している。

関東部族が飛鳥王を倭王にしたのは、古墳寒冷期だったAD500 年頃だったと推測され、対馬部族は出雲の下位にあって濊に支給する毛皮の運送を担っていたから、それは北九州の大率と同じ交易に従事していた事になり、関東部族や伊予部族と対立する要素だったが、他の部族的な特徴から関東部族と妥協し、天氏を名乗る倭王になったと推測される。

稲作に成功して生産高を高めていた部族で、その稲作技術は関東のmt-B4が下支えしていたから、伊予部族が関東部族に接近する条件は整っていた。関東部族が北九州の大率(石井)を殺し、武庫川系の邪馬台国を制圧した理由は、表向きは華北に北魏が生れて移民事業が衰退し、日本の経済が不況化したから、それを改善する為であり、その背後には関東を武力制圧した怨念があり、関東部族内で移民事業に参加し、経済力を誇示した者達への反感などがあっただろう。それらに関しては対馬部族との利害関係はなく、古墳寒冷期に活況を呈していた毛皮交易を敵視する必要はなかったから、対馬部族と関東部族にはその時点でWin-Winの関係があった。

しかし飛鳥時代になると不況が深刻化し、稲作の生産性が高まっても需要が不足していたから、コメの価格が下落して不況から脱却できない事が分かった。

コメの価格が低下すると稲作者の蔵にはコメが余る状態が生れたが、貧者はアワもろくに食べる事ができない状況が生れ、誰の目から見ても分かる経済的な矛盾が起こった事情は、貧窮問答歌から類推できるだろう。この時代の稲作者が困窮したのは、租税によって収奪されたからではなくコメの価値が低下し、アワを含む必要物資を入手する為に好況時の何倍ものコメが必要になったからだ。

飛鳥王はその不況に対応できず、稲作地だった飛鳥も不況に喘ぐ様になった様子が、旧唐書倭国伝に記述されていると考える事もできる。

毛皮交易を重視して交易立国を目指していた出雲は、その様情況下でも経済的な活況を維持していたから、必然的に経済を主導する状態になった。考古遺物がそれを示しているが、原古事記の国譲り説話はそれを端的に示し、以下の様に記されていたと推測される。

出雲に至った天鳥船(天氏の海軍の代表)と布都神(物部:革命軍の陸軍の主力)は、「天照大御神(関東倭人と伊予部族の統合的な最高神)の命により、汝(大国主=出雲国王)がウシハク(所有している)葦原中国は、我が御子の知らす国であると仰せになっている。汝はどう考えるのか。」大国主はそれに答え「僕には言えません。事代主(飛鳥王)が申しあげる事です。」と言った。

物部は関東部族が内需交易に重点を移した事によって生まれ、古墳時代前半の好況時に急成長した内需商工業者だった。倭は海外交易によって豊かになる事を目指した海洋民族の連合体だったが、革命を主導した甕星の主力軍が物部だった事は、甕星は内需の振興で経済を立て直そうとした事を示している。知らすは海洋民族的な統治を示す言葉で、夏王朝的な統治の再現を目指していた事を示し、交易によって経済を活性化する意志を示している。

これは縄文的な海外交易活動の時代が終わり、物部的な内需を基盤とする商工業活動が活性化する時代なったと、主張している様にも読める。夏王朝の繁栄は、青洲を中心とした荊の内需経済の活性化によって、もたらされたとも言えるものだったからだ。

縄文的な交易活動は、縄文人や漁民が生活の資を得る為に、厳しい肉体労働に耐える事を前提としたもので、その成果の多くは彼らの安定的な食料の確保だった。しかし稲作や焼畑農耕によって穀類が多量に得られる様になり、海産物の生産性を高める為の縄文的な交易に耐える必要がなくなると、それを前提して生まれた内需を重視する商工業活動は、人々の生活を物質的に豊かにする事を目指すものになり、縄文的な交易活動とは全く異質なものになるが、それは夏王朝が繫栄した事情でもあった。

稲作や焼きは農耕の生産性が低かった縄文後期には、日本の倭人には真似ができないものだったが、鉄器時代になって稲作や焼畑農耕の生産性が高まると、それを実現する事ができるのではないかと、人々に希望を与える状況になっていた。知らすはその様な復古的な活動を、表象する言葉になる。

古事記の著者が色々な言葉の中からこの言葉を選んだのは、その様な意識が天武天皇のブレーンの中にあったからだと推測され、大国主がうしはく出雲国は未だに縄文的な交易活動を行っていると、古事記の著者は主張した事になり、的確な状況判断だったと言えるだろう。しかし縄文的な交易巧者だった出雲部族は、他の部族が苦境にあえぐ中で毛皮交易で繁栄し、対馬部族を再び配下に収める勢いを示していただけではなく、他の部族の王も出雲の繁栄のおこぼれを貰う為に出雲に参勤していた事を、出雲の10月だけが「神有月」だった事が示唆している。

大国主が僕には言えませんと答えたのは、関東部族から日本列島の統治権を移譲されたのは飛鳥王であり、出雲王ではなかったからだが、それを出雲王に問うたのは、日本の経済を出雲の毛皮交易が回転させていた事を示唆し、日本人の4.6%がmt-N9aである事が示している。

関東の倭国王家を代表する甕星は、倭人の地域分権的な体制を打破し、中央集権的な体制を形成して交易圏を自由化し、経済を活性化させる積りだった。江戸時代の幕藩体制が明治時代に中集権制に代わり、全国規模の経済改革を目指すと日本経済は急速に活性化し、維新の50年後の第一次世界大戦では欧州に軍艦を派遣し、60年後には列強と言われる産業力を確立したが、天武天皇になった甕星もその様な方針を掲げ、不況から脱出する経済改革を推し進めた。

道路網を整備し、官営事業を興して経済を活性化させた事がその事情を示している。巨大な藤原京の建設や全国に形成した道路網は、代表的な公共事業だったと推測され、不況で買い手がいなかったコメを年貢として徴収し、それを原資として公共京事業を行う事は、現代にも通用する不況対策だったからだ。富本銭を発行して国債に替えた事も、既に指摘した。

しかし稲作民は年貢として集めたコメが商工業者に流れ、彼らが富裕になる事に不満を持っただろう。銭が発行されてコメの流通価値が相対的に低下する事に対し、本能的な嫌悪感を抱いた可能性もある。

その様な農民を代表する勢力が政変を起こし、甕星の一族を滅ぼして邪馬台国系の天皇を擁立し、奈良朝が生まれたと考える事もできるが、物事は多面的に見る必要があり、その様な不満を高めていた西日本の稲作者と、ヒエ栽培者との激闘の最前線にいた関東のmt-B4の利害が一致し、関東のmt-B4の女性的な決断力により、ヒエ栽培者を政治権力から排除せする政変が起こると、西日本を統括する政権として天智の一族が統治する奈良朝が生れた。

奈良時代の関東がどの様な状態だったのか明らかではないが、藤原氏が統括していたとも言えない関東部族の最大の政策目標は、稲作の東北への北上だった事は間違いない。

奈良朝は論功行賞に水田と鉄製農具を配布する様な、極めて農業国家的な体制を敷き、農民に自給自足的な生計維持を推奨した。奈良朝には女性天皇が多く、男性天皇は何をしたのか分からない昼行燈の様な存在だったから、政権を担ったのは稲作を行っていた女性達だった可能性もあるが、奈良朝の近親婚的な婚姻制度はアワ栽培者が政権中枢を抑えていた事を示し、続日本紀は稲作民の代表は藤原氏だった事を示唆している。

農業国家の統治手法を知らなかった奈良朝は、多数の遣唐使を派遣して極めて男尊女卑的な唐の制度を真似たから、続日本紀が編集した朝議録は男性が奈良朝を運営した体になっているが、最も活動的だったのは女性天皇だから、奈良朝の意思決定を左右したのは、在野を含めた女性達の世論だったと考えられる。卑弥呼が統治する邪馬台国もその状態だった事を、(1)魏志倭人伝で指摘したが、邪馬台国の後継王朝でもあった奈良朝でも、女性天皇が卑弥呼の様な統治を行いながら、唐の制度を真似た官僚制も存在する、二重統治状態だったと推測される。実権はどちらにあったのかは言うまでもなく、平安朝の貴族が大夫を、奈良朝が推奨した漢音で「たいふ」と発音すると、五位以下の低位の官吏を指した事がその事情を示している。

その様な奈良朝の女性天皇が経済政策を誤り、重税を課して庶民に塗炭の苦しみを味わわせた事と、奈良朝が採用した中央集権制の思想的な背景だった古事記を、政権を正当化する為に改竄した事は既に指摘した。

古事記が打ち立てた思想は、従来の部族制を廃止して人々を日本人として統合する為のもので、その目的の為に天皇制は太古からあったと主張し、万世一系の天皇が日本を統治したとする歴史を創作し、その天皇系譜の中に各部族の嘗ての有力首長を組み込んだ。それによって各部族の怨念を解消し、日本を中央集権制の下に一体化して経済を活性化する事が、甕星政権の最終目的だったからだ。

甕星は極めて丁寧な手順を踏みながらそれを民衆に問い、全員を日本人とする中央集権体制を形成した事を、古事記の記述が示唆しているが、その様な甕星の子を暗殺して政権を打倒した、関東のmt-B4の振る舞いは暴挙だったとしか言い様がなく、奈良朝が行った古事記の改竄も、自身の政権基盤を揺るがす暴挙としか言えないものだった。

原古事記に不満を持つ人々は沢山いたが、皆が同意する中で不満を抑え込まざるを得なかったが、新政権が自分の都合でそれを改竄したから、古事記が生み出した秩序観は失われざるを得なかったからだ。

奈良朝は物部を抑圧して不況を延長させ、生れ始めた新しい社会秩序を破壊し、唐から男尊女卑的な役に立たない統治手法を導入し、示威的な統治を強行する為に重税を課した上に、政権の樹立に際して恩義があった関東のmt-B4に、反抗的な姿勢を示した事を、ヤマトタケルの東征説話を改定古事記に挿入した事が示している。

奈良朝最後の女性天皇になった称徳天皇は、帝位を道鏡に譲ろうとしたが、道鏡はどの様に誤魔化しても「天氏」とは言えない人物だった。これが実現すれば、古事記が打ち立てた天皇制を中核とする統治思想は完全に瓦解し、日本は再び怨念に満ちた部族社会に逆戻りし、地域間の紛争を収集できない事態に至っただろう。

古事記の思想を知っていた筈である称徳天皇のこの行為は、日本社会を破壊する意志を持っていたからだと考えざるを得ない。奈良朝の統治は時代を追う毎に劣化し、社会不安が高まっていたが、称徳天皇がその行き詰まりを打開する為に行った事は、更なる制度や倫理の破壊を推進する、破滅的な意図を持っていたと推測せざるを得ないからだ。思い通りにならなければ社会秩序を破壊する思想は、現代社会にも無政府主義や共産主義として出現しているから、特殊な事態であると捉える必要はないが、その根源的な理由は、合理的な思考力が欠けた世間知らずの女性であったからだと言わざるを得ない。

それに反抗した和気清麻呂の行為は既に指摘したが、彼を支えていた吉備のmt-B4の情報ネットワークの思いは、「統治制度を刷新したくても雛形がなく、如何の様にしたら良いのか分からないが、倫理的な退廃を食い止めなければこの国は亡びる」という、危機感だったと推測される。この時期から桓武天皇の治政の前半期までの政権内の権力闘争は、続日本紀も修飾できないほどに凄しいものだった事を、続日本紀が示唆しているからだ。

権力闘争の敗者の罪状が実態を表わしていない事は当然だが、どの様な路線を巡って闘争がどの様に展開されたのか、極めて分かり難いのは、方向が定まらない政策論争の展開事情を示唆している。早良親王の怨霊話も、その文脈から読み解く必要があるだろう。

甕星の子孫を称徳天皇の後継者にしたのは、壬申の乱以降の甕星の統治時代に、日本を戻したかったからだと想定されるから、光仁天皇を推挙した勢力は甕星の政策を見直し、その時代への復帰を画策した事を意味する。甕星の直系子孫である光仁天皇はその様な人々の精神的な支柱になるから、「天皇を支えて進む事が、明るい未来への希望になる」と考えていたとすれば、その思惑は現代人にも分かり易い。また一連の事件が1年で完了した事は、それ以前から準備されていたシナリオが決行された事を示し、称徳天皇は暗殺された可能性が高い事を示唆している。

続日本紀が光仁天皇を天智の孫としているのは、古事記の万世一系思想により、既に奈良朝を天武系に偽作してしまっていたからだと考えられる。

続日本紀は日本紀の続きの史書だから、日本紀の創作も踏襲する必要があり、持統天皇の名称も統治時代も記述できなかった事が、その事情を示唆している。天武天皇の子の総持天皇が暗殺されると、695年に天智の娘だった持統天皇が、藤原不比等の後援の下に即位したが、続日本紀は日本紀に記されていなかったその時代を省いたからだ。

しかし続日本紀は、文武天皇が即位の詔で、「倭根子天皇から天皇位を授けられた」と宣告した事は訂正していないから、日本紀と続日本紀に矛盾が生じた。敢えてそれを許したのは、天皇の詔は改竄できなかったからだと推測され、その辻褄合わせとして、文武の祖母であり文武の先代であると記すに留め、漢風諡号は記していない。しかしその後の史書の改竄史から推測すると、奈良朝は持統の諡号を決めていたと考えられる。

その様な続日本紀が記す光仁天皇は、奈良朝とは異なる系譜である事は事実だから、既に奈良朝を天武系と捏造していた事情から、光仁天皇は天武系とは別の系譜にしなければ、捏造史全体の辻褄が合わなかった。別系譜を探すと言っても、候補は天智しかなく、それ以外系譜にすれば、古事記の万世一系思想を棄損する事になり、甕星の子孫を迎え入れた大義も成り立たないから、光仁天皇を天智系として万世一系思想を堅持したと考えざるを得ない。

光仁天皇は天武天皇の三代目の子孫だったが、稗田阿礼の子孫だったとは限らない。しかし伊勢神宮が最高格式の神社になった事は、伊勢が関東部族と伊予部族の入植地だった事を示し、関東部族と伊予部族が平安朝の成立を機に和解した事を示し、光仁天皇は稗田阿礼の系譜でもあった事と、関東のmt-B4も古事記の思想を受け入れた事を示している。当然ではあるが、この時代には原古事記を持っている人がいたからだ。

その様な事情中で大きな課題になったのは、光仁天皇の夫人の系譜だったと考えられる。井上皇后は聖武天皇の娘だったが子供はなく、夫人だった高野新笠は桓武天皇の生母なので、その出自を検証する必要がある。

高野新笠の父は百済系渡来人だったとされているが、上記の事情から高句麗人だったと考えられ、高野新笠の諡号が「天高知日之子姫」である事も、天氏と高麗を結んだ女性である事を示唆している。「高野」姓は称徳天皇が「高野天皇」と言われた事にちなみ、奈良朝系譜の女性の子であると装った疑いもあるが、その理由によって天高を使ったとは考え難く、光仁の諡号である天宗高紹天皇に近い事に留意した方が良い。高紹は高らかに(天皇位を)継承する事を意味するから、それと並べれば高知日之子姫は、天氏の日本女性である事を高らかに知らす事を意味し、古事記の趣旨である「(決まった事を)知らす国」にも繋がる。

しかし邪馬台国は高句麗と何度も戦った歴史があったから、高野新笠が高句麗人の子孫である事には大反発があり、百済系と詐称せざるを得なかったのではなかろうか。高句麗との戦闘に従軍したのは邪馬台国の人々だけではなく、西日本の倭人国も参加したから、少なくとも西日本の人々には高句麗に対する嫌悪感が強かったと推測される。

海洋漁民と縄文人の間で自由な婚姻が成立していた事を、沖縄と本土の遺伝子分布が示しているから、縄文時代の海洋民族の指導者は男系で、その妻の系譜に対する拘りはなかったと推測される。古事記が記す天皇系譜は有力豪族の妻を娶る族外婚で、関東部族の甕星が伊予部族の稗田阿礼を娶り、その子が総持天皇になったのであれば、伊予部族の婚姻制度も同様だった事になる。隋書に対馬部族の婚姻に関する記述があり、「婚嫁には同姓を取らず、男女相悦ぶ者は即ち婚を為す。」と記されているから、これが一般的な海洋民族の習俗だったと考えられる。

新唐書が示す新羅の婚姻形態は、「王族は兄弟の娘、叔母、従姉妹を妻にし、その他は娶っても妾や腰元にする」もので、続日本紀が記す奈良朝の婚姻習俗と同じだから、奈良朝の天皇家は極めて越人的だった事を示している。これは稲作者と共生していたアワ栽培者の習俗で、北陸越の習俗でもあったと考えられ、光仁天皇の妻が高句麗系である事に難色を示したのは、武庫川系邪馬台国人だけではなかく、西日本では稲作者より人口が多かったかもしれない焼畑農耕者も、反対勢力だった可能性もある。

栽培系の女性達は父系の婚姻性を利用し、同一種の栽培者を拡散して人口を拡大し、情報ネットワークを形成して栽培種や栽培技術の進化を推進してきたから、アワ栽培者が近親婚を採用した事は、栽培系の集団としては極めて異例な状態であるが、身分階層の頂点に立つ階層が近親婚だった事は、少なくとも越系文化圏の王族は外婚制の習俗を捨てていた事になり、それに関する検討はこの項の最後の章で行う。

この時期に関東と関西が合体した事は、国都をどこにするのかも問題なった筈だが、以下の理由で関西になったと推測される。

(1) 古事記が日本国の都を奈良としていた事。

古事記が日本国の都を奈良にしたのは、飛鳥時代の経済の中心が奈良盆地になり、古墳寒冷期にはコメの生産量が日本で一番多く、経済の中心地になる資格があったからであると共に、伊予部族の南方派の中核地である四国・九州南部と、関東と伊予部族の北方派の中核地だった東北・道南の中間地点にあったからだと推測され、伊勢神宮が伊勢にある事と同様の理由だったと推測される。神武に擬した天武が飛鳥で勝利宣言した事も、古事記が奈良を都に設定した理由の一つになる。従って古事記の思想の復活を期した新政権にとっても、適切な場所であるとの認識があったと考えられる。

(2) 奈良時代の奈良朝は遣唐使を派遣して唐から王朝制度を導入し、王朝風の政治体制を整えていたのに対し、関東では依然として部族制を継続する政治体制が展開され、統治組織が極めて未熟だった

から、新しい統治組織に関する定まった方針がなかった状況では、奈良朝の王朝組織や制度を継承する以外に手段がなく、各地の国名を含めた律令制度が平安朝に継承されたと推測される。これによって関東は王朝制度の後進地域になったから、平安貴族が関東を未開地と見做す習俗が生れ、続日本紀の編纂者には捏造し易い環境が生れたと考えられる。

光仁天皇を迎えた奈良朝の終末期の人々は、正規の天皇制に戻って後継天皇を決める事により、甕星時代への復帰を誓い合った筈だから、光仁天皇は甕星系譜の男系男子でなければならなかったが、皇后は他部族の女性でも高句麗人の女性でも良かった事になる。それが倭人時代の関東部族の天皇位の継承方法であり、光仁天皇と桓武天皇の正当性の前提条件だったからだ。

甕星系譜の天皇である光仁天皇を即位させる事は、天武が提唱した物部を重視する重商主義的な政策に復帰する事を意味し、古事記の思想に反する倭人時代の倫理観や、体制の復興を宣言する事ではなかった。平安朝の政策はそれに準じたものになったから、物部が復活して先代旧辞本紀を執筆し、商工業の成果を賛美する華美な平安文化が生れ、奈良朝の唐化政策を批判して和風文化が生れ、稗田阿礼を肯定的に捉える事によって女流文学者が多数輩出したと考えられる。

古事記の山彦海彦神話は、関東部族の南方派と北方派のそれぞれの家系に、関東部族の棟梁になる資格があった事を示しているから、これらの宮家に血縁関係はなかった可能性が高い。縄文中期までは弓矢交易を統括した北方派が棟梁で、縄文後期温暖期にそれが南方派に変わり、縄文晩期に北方派に戻った事を古事記が神武の即位で示している。温暖期には経済の主導権が南方派になり易かった事を示しているから、弥生温暖期に南方派に変わった後で、古墳寒冷期に甕星を輩出した北方派に変わった可能性もあるが、mt-B4と提携したのは北方派だから、弥生時代の事情は分からない。

いずれにしても、南方派にも北方派にも複数の宮家があった筈だが、光仁天皇が極めて高齢だった事は、その人選の範囲が極めて限定的だった事を示している。古事記が発布されて倭国時代の制度が廃止されると、甕星以外の家系は宮家としての認知を失い、三代で臣籍に降る原則を適用すると、奈良時代の終末期の天皇候補は光仁しかいなかったからではなかろうか。

稲荷山古墳から発掘された鉄剣の銘は、それらの宮家の本家は「すくね」を称して宮家である状態を継承し、その3代目までの分家も「わけ」を称する有資格者だった事を示唆しているから、関東には天皇になる事ができる有資格家系は多数あった筈だが、古事記の思想を掲げて日本国を生み出したのは天武天皇だから、それ以外の倭人時代の宮家は日本国の宮家ではなかった可能性が高い。

いずれにしても奈良朝は正当な天皇家ではなかったから、その王朝を万世一系の天皇系譜に組み込む為には、古事記や日本紀を先例として改めて歴史物語を創作する必要があり、その為に続日本紀が編纂されたと想定される。

但し男系男子を維持する為には、倭人時代にもあった宮家が必要だった。関東の大型古墳や八角古墳の位置を追跡すると、複数の宮家が存在した事を示し、古墳時代末期の八角古墳は内陸にあるから、これらの宮家は海洋漁民である事を止め、内陸の稲作者に転換した事を示しているが、稲作民族化してもその習俗は変わらなかった事を一連の事件が示している。しかし桓武天皇の子は極めて多く、その子の平成天皇も嵯峨天皇も子宝に恵まれたので、それに関する杞憂は当面霧散した。

 

5-9 先代旧辞本紀が生れた経緯

奈良朝は唐を文明国であると勘違いし、唐の制度を真似たが、征服王朝だった唐は帝国主義的な統治者であり、他民族の結社を抑圧する為に商工業活動を禁止し、必要物資は王朝の宮廷工房で生産していたから、それを真似た奈良朝は経済的な困窮を深めていた。従って元々交易国家だった日本国の経済を立て直す為には、経済活動を自由化する必要があり、奈良朝末期の人々が光仁天皇を迎える大義は、甕星時代の制度を復活させる事だったと想定される。それが物部の台頭を生んで華美な平安朝を生んだが、その根底には倫理観が堕落した奈良時代の70年を経ても、組織論を展開できる高度な倫理観を維持していた物部の、倫理観を取り入れる必要があったからだと推測される。

その様な経緯で政商に変貌した畿内の物部が、先代旧事本紀を編纂したと推測され、その序に「推古天皇の治世に摂政の聖徳太子が編纂を命じた。大臣の蘇我馬子らは勅により、古い文献に従い太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することが終わらないうちに太子は亡くなった。」と記されている。これは太安万侶が改定した古事記の序に記された、「天武天皇が後世に伝えるべき史書の編纂を稗田阿礼に託したが、天皇が崩御したのでそれが実行できなかった」、という文章を捻ったもので、畿内の物部は原古事記や改定古事記を再改定したかっただけで、それ以降の歴史には興味がなかった事を示している。

984年に宋に朝貢した日本の僧が、「日本国王の年代記」を提出したので、その抜粋が宋史に記されている。「聖徳太子は3歳で10人の話を聞いて同時に之を解す」との記述を皮切りに、聖徳太子の優れた人物像を羅列しているが、これも改定古事記の序に記された、「姓は稗田、名は阿禮、年は二十八。人は聡明を為し、目に度るものは口に誦(とな)え、耳を払うものは心に勒(きざ)む。」を意識したものだったと考えられる。これを現代語訳すると「一度見た文章は即座に暗唱し、聞いた事は忘れなかった」になり、稗田阿礼の天才的な作業振りを連想させるから、先代旧辞本紀を人々に信用させる為にも、その著者が天才的な人でなければならないと、先代旧辞本紀の著者が考えていた事を示し、原古事記が発布されたのは百数十年前の出来事だったから、人々の伝承によってそれが必須条件だったと考えられていた事を示している。

古事記が示す複雑な系図は、彼女が色々な人の主張を聴いた上で、皆が納得するものに仕上げた成果だったと推測され、この時代の人にとって系図は極めて重要なものだったから、稗田阿礼に対して大勢が神経質な主張を連発したと想定される。彼女はそれを聞き漏らさず、すべてを反映させた創作系図として原古事記を完成させたから、周囲の人々が舌を巻いたのではなかろうか。誰かが反論しても、「貴方はあの時この様に言いましたよね。」という様な指摘を即座にしたのだろう。前章で平氏や源氏の血統が関東部族に拡散したと指摘したが、その様な男性達の系図を女性の稗田阿礼が編集した事から、女性優位社会の男性の血脈がどの様に見做されていたのかを、この説明によって実感する事ができるだろう。

つまり平安時代初頭の畿内の物部は、原古事記を飛鳥時代の民衆が受け入れたのは、稗田阿礼が驚くほどの才女だったからである事を知っていたから、古事記の内容に不満を持っていた故に、古事記に代わるものが欲しかったから、稗田阿礼に対抗できる聖徳太子の人物像を創作し、著者に仕立てた事を示している。原古事記を創作した稗田阿礼には、才能を発揮して皆を唸らせる場が無数にあったが、聖徳太子にはその様な場はなかった事も、上記の推測が成立する根拠になる。

古事記が推古で終わっているのは、原古事記が推古の次は天智である事を想定していたからだと推測される。つまり推古までが倭人時代で、天智が新しい体制を構想し、天武が武力によってそれを実現したから、古事記(古い時代の出来事)に記すべき歴史は推古までだったからだ。

原古事記が記した厩戸皇子は、いずれ作られる筈だった新しい歴史では、素晴らしい制度を設計した天智天皇だったと想定される。その様な知恵者だった人物を天智、それを武力で実現した天皇を天武と諡号する事に、古事記の思想を読み取る事もできるからだ。

「武」を含む諡号は神武に始まり、それ以降も体制変革時の天皇の諡号に含まれる漢字になったが、「智」を含む天皇名は天智だけである事が天智の偉大さを示している。これは稗田阿礼の思想の一部で、新しい体制を賛美しながらその起源を明確にするものだったと考えられる。

持統や元明は天智の諡号を与えられた人物の娘だったのに、父親の革新的な思想を採用して日本国を作り上げた天武の子を殺し、旧態然とした部族思想に戻ったmt-B4の勧めに従い、父親の思想に反する農本主義的な奈良朝を創設し、唐を崇拝して奈良朝を酷い王朝にした元凶になった。

古事記が示す歴史も彼女達が改竄してしまったから、原古事記が天智天皇としたかった厩戸皇子は、先代旧辞本紀では聖徳太子に変わってしまい、その偉業も国家千年の大計を立案したのではなく、物部が改竄したかった歴史に箔を付ける、唯の天才に格下げされてしまった。

しかし先代旧事本紀を創作した畿内の物部が神聖視していた、聖徳太子が制定したとされる十七条の憲法は、見掛けは役人の心得の様に見えるが、倭人時代の商工業者の倫理観を焼き直したものである様に見え、現代日本人にも評価できる企業倫理の書でもある。十七条の憲法は精神論の様に見えるが、宗教の教義ではなく極めて実用的な実務者の心得で、禁止規定ではなく推奨すべき事を列挙しているから、現代企業の社訓としても通用する汎用性があるからだ。

これが平安朝の官僚に提示された結果として、中国・韓国とは異なる現在の日本があると言っても過言ではない程に、高邁な倫理が端的な言葉で列挙されている。長い実務経験を経た人達が、世代を経て改定した成果でなければ到底到達できない高度な倫理だから、これを王族だった聖徳太子が定めたとする時点で、聖徳太子像は嘘である事は間違いないが、それを平安朝の官僚に示した物部の功績は評価するべきだろう。十七条の憲法の詳細は、(9)旧唐書・新唐書の末尾参照。

平安時代は男性達が政治を切り回した時代で、女性達は政治を批判しない時代になった。関東の女性達も平安時代までは武勇伝を遺す程に稲作の肉体労働を継続していたが、それも男性達が地方政治の主導権も握り始めた鎌倉時代に終わった。しかし女性達は、家計の管理権は手放さなかった事は既に指摘した。

 

5-10 甕星の改革が否定された経緯

古墳寒冷期のmt-B4の情報ネットワークは、本拠地である北関東の北部がヒエ栽培者に席巻され、発祥地である北関東南部も危うい状態になっていたので、男性達が交易に関する協定を伊予部族と提携する流れを生み出すと、ヒエ栽培者の情報ネットワークのそれ以上の南下を阻止したい一心で、男性達にかなり譲歩した状態で関東部族と伊予部族の交易協定を認めると、両部族は海外との海洋交易に邁進していた出雲部族と対馬部族の同盟に対し、内需を中核とする交易への転換を迫り、壬申の乱によってそれを実現した。

日本列島は移民事業を失った古墳時代後期に不況になり、飛鳥時代になると不況が深まる一方で温暖化が始まり、コメの生産性が高まるとコメの価値が減価し、稲作者がインフレに苦しめられる状況になっていたから、アワ栽培者もその余波で困窮した。それを打開する為に関東部族と伊予部族が目指した経済改革には合理性があり、革命を成功させて堅実な経済対策を実施し始めたが、mt-B4は天武天皇の子を倭文に暗殺させ、経済改革を頓挫させた。mt-B4の情報ネットワークが行ったこの様な行為に経済合理性はなく、稲作者が経済的にな困窮に陥った事を、続日本紀が示す奈良朝の統治や、貧窮問答歌が示すコメどころの稲作者の窮状が示している。

しかしmt-B4の影響力は室町時代末期まで継続し、江戸時代になって漸く局面が変わった事を、農学者の佐藤信一郎氏が以下の様に示している。

弥生時代の稲作は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混載するもので、その農法は戦国時代まで継承されていた。また戦国時代までの農法は休耕田を必要とするもので、水田を毎年使う農法が採用されたのも、織豊期~江戸時代初頭の事だった。この変革には稲作者の意識と稲作技法に画期的な変化があったと考えざるを得ない。

この様な農業改革が単独で進行したのではなく、この時期が日本文化のあらゆる面で画期的な変革期だった事は、殆どの史家が認めている状況があり、これらの事情は共通する原因から生まれたと考える必要がある。

熱帯ジャポニカを混載する為には、mt-B4から定期的に純度が高い熱帯ジャポニカの供給を受ける必要があったから、その農法はmt-B4によって指導されていたと考える必要があり、また早乙女を習俗化するなどの文化的な組織力は、mt-B4の強力な情報ネットワークの存在を前提とする必要があるから、mt-B4の情報ネットワークが、室町時代まで強い影響力を持っていた事は間違いない。

この農法に休耕田が必要だった理由は、タイヌビエの高度な駆除方法を知らなかったmt-B4には、最も安易で確実な苦情方法である、乾田化して何年も放置する事しか駆除手段がなかった事を示唆し、織豊期~江戸時代初頭に水田を毎年使う農法が採用された事は、タイヌビエの高度な駆除方法を知っていたmt-Fが、稲作を指導する情報ネットワークを引き継ぎ、耐寒性向上一辺倒だったmt-B4の稲作を否定し、生産性を高める稲作技術を拡散した事を示唆している。

古墳時代から男性達は武闘的に領土を争う人達になり、鎌倉時代には「一所懸命」という言葉まで生み出した。これは稲作地を守る為であれば命を懸ける事を意味し、縄文時代には交易的な人々だった男性達が、稲作地を得たり守ったりする事に命を懸ける様になったのは、男性達が女性化した事を示していると言っても良いだろう。

縄文時代のmt-B4は個人的には優良な農地を争いながら、稲作技術を向上させてアワやヒエの栽培者の情報ネットワークと覇権を争ったが、中世の男性達が領土の争奪戦を頻繁に行い、社会的な秩序を封建的な主従関係によって形成した状況に類似しているからだ。

縄文文化を引き継いでいた飛鳥時代以降のmt-B4にも、その習俗が濃厚に引き継がれていたから、男性達の統治文化がその強い影響を受けた事により、源氏や平氏を棟梁とする封建的主従関係を形成したと考える事が可能であり、その様な傾向が特に強かった稲作民族の封建的な男性習俗のルーツは、mt-B4が拡散した稲作女性の文化にあった事になる。水辺を求める稲作者にとって稲作適地は狭く、稲作地の優劣も明らかだったから、mt-B4がその争奪の為に血眼になった一方で、関東部族と共に気候が冷涼な関東に定住し続ける為には、強力な情報ネットワークも必要としていたからだ。

室町時代末期に戦国時代になり、男性達はその時代まで武闘的な習俗を露にしていが、江戸時代になると一転して平和志向になったのも、個人が稲作地の確保に命を掛けなければ、優良な稲作地が得られなかったmt-B4の農法と思想が、室町時代末期まで拡散していたのに対し、mt-Fは集団が組織的に開発した農地の配分を受けていた女性達だった故に、農地の獲得の際の熾烈な競争状態を経験していなかったから、mt-Fの稲作技法が広まると共に栽培思想も拡散すると、平和な社会が自動的に生まれたと考える事ができる。

証拠がないと指摘する人がいるかもしれないが、現在の文献史学では全く説明が付かない現象だから、現象解明の一助になるだろう。

起点と結果を結びつけるだけは論理的な検証であるとは言えないから、mt-B4の意向によって倭文が神武の子を暗殺した後で何が起こり、歴史がどの様に展開したのかを、稲作の耐寒性の向上とヒエ栽培者を東北から駆逐する事を最大の目標としたmt-B4の視点から、奈良時代以降の歴史を検証する。当初はmt-B4の思惑通りに歴史が展開したが、やがて各種の矛盾が噴出して当事者能力を失い、歴史の表舞台から消えていく事情を追跡できれば、それが論理の検証になるだろう。

奈良時代の関東部族の事情に関する記録はないが、続日本紀が示す奈良朝の東北攻略は、実はmt-B4が主導した関東部族の事績であり、平安王朝が生れて両政権が合体すると、続日本紀の編者は恰も奈良時代から両者が合体していたかのような史書を編纂し、後世の歴史との辻褄を合わせたと想定されるから、続日本紀が示す東北経営を関東部族の事績として扱うと、奈良時代以降の歴史が明らかになる。

倭文が神武の子を暗殺した直後の関東は、mt-B4の集積地だった北関東の有力な天氏が支配したと想定され、それが藤原氏だったと考えられる。つまり少なくとも平安時代前期までの関東では、藤原氏がmt-B4の実務機関だったから、藤原秀郷などが北関東の実権を握っていた。西日本でも藤原不比等が奈良朝を形成したから、奈良朝では藤原氏が強い権力を握っていたと考えられる。

平安時代になると藤原北家に権勢が集約したのも、北家が光仁天皇の擁立に積極的に活動したからだと考えると分かり易い。どちらも王朝の樹立に際して最大の殊勲を挙げた家系だから、最大の権勢を振るう事ができたと考えられるからだ。

極論すれば天皇は必要な血筋として迎え入れられた存在であって、実際に王朝を樹立したのは、奈良朝では藤原不比等であり、平安朝では藤原永手・真楯・魚名と、真楯の子の内麻呂だったから、天皇家より藤原氏の方が権勢は強かったが、その頃の藤原氏はmt-B4の実働部隊の棟梁でもあった。

関東の藤原氏の奈良時代の事績としては、695年の政変直後から武力を交えた北上を開始し、山形、福島、仙台平野以南の宮城を攻略して陸奥国を形成していたが、712年に山形を出羽国とした事を、続日本紀の記述から読み取る事ができる。

718年には茨木を常陸国、会津と阿武隈川流域を石背国、福島県の海岸地域を石城国とし、陸奥国は宮城県の南部だけになった。これらは海と河川を使う交易を基本とした地域分割だから、彼らがどの様に稲作地を獲得していったのかを示唆している。

関東の藤原氏の使命は稲作者を順次北上させ、その地域の安全を武力的に確保する事だったが、東北南部の豪族は弥生温暖期には稲作者だったから、この地域の北上は彼らと同盟関係を結ぶ事が主体になり、快進撃的に北上する事が可能だった事を、仙台平野以南を20年以内に版図に収めた事が示している。

しかし平安温暖期になったと言っても、ヒエの栽培者は900年間栽培ノウハウを蓄積していたから、稲作がそれを凌ぐ生産性を容易に得られた筈はなく、現地の人々に稲作を奨励する為には、コメの市場価値が高い事を示す必要があった。つまり彼らが望むコメとの交換物が必要になり、玉器を生産していなかった関東部族が提供する物品の最大品目は、三陸海岸の砂鉄で生産する鉄器だったと考えられる。関東部族の製鉄に付いてはその7で検証する。

mt-B4の最大の目標は稲作の耐寒性を高める事であり、その為にはできるだけ北の地に稲作地を開設する必要があったから、続日本紀には記述が漏れた地域として、青森県の東南部への北上があり、この地域に入植した稲作者を支えたのは藤原氏だったと推測される。

724年に多賀城(宮城県多賀城市)が建設され、737年(天平9年)に多賀城の近くに玉造柵などの砦が多数作られた事は、奈良時代の北進はそこで停滞した事を示しているから、青森県の東南部は飛び地だった事を示唆している。733年(天平5年)に出羽柵が秋田に作られた事は、海路が繋がっている地域に関東部族が進出した事を示し、最上川流域に稲作者が入植したのもその流れで、出羽柵は最上川を遡上する海路の中継地であると共に、渤海国との交易拠点だった事を示唆している。

弥生温暖期になると西日本では毛皮の需要が失われたが、東北では需要があったから、関東部族はそれも東北の稲作者の換金要品にした可能性が高い。出羽柵の8世紀の遺構には建物の礎石がなく、瓦葺きでもなく、奈良朝の国衙の建築様式である寺院建築ではない事や、9世紀以降は渤海使の出羽への来航が途絶えている事などが、その事情を示唆している。

つまり平安時代になって日本が再統合されると、効率が良くない渤海交易は不要になった事を示唆している。日本の再統合には伊予部族と関東部族の和解が必要だったが、それが成立すると関東部族が得意としていた内需交易が活性化し、東北の稲作経済が活性化したからだ。

これはmt-B4にとっては不本意な事だったが、稲作地を拡大すると、増大するコメの換金需要に応える必要があったから、稲作地を拡大したかったmt-B4にとっては、背に腹は代えられない事情になり、日本の再統合を推進する必要が生れたからだ。奈良時代の稲作の北上は限定的だったが、平安時代になるとそれが急進展したのは、背後にその様な事情があったと考えられる。

伊予部族がそれに同意したのは、東北の栽培者はヒエを栽培する事によってmt-M7aの情報ネットワークに参加していたが、元々内陸の栽培者は伊予部族と共生していた縄文人の子孫ではなく、出雲部族や対馬部族と共に東北に北上した縄文人の子孫だから、彼らの帰属を巡って関東部族と争う意思はなかったからだ。またヒエ栽培者にはmt-B4の様な、情報ネットワークの維持に対する執念はなく、適地適作を旨とする柔軟な栽培思想があったから、縄文前期に南東北のmt-M7aが稲作者になり、飛騨のヒエ栽培者も京都盆地の稲作者になったと考えられる。

ヒエ栽培者がこの様な人々になったのは、北海道には優良な蛇紋岩鉱床がなく、船材となる樹種も限定的だったから、海洋民族が生れる素地が脆弱だった事が一つの原因であり、ヒエにはモチ種がない事もその原因の一つであると考えられる。遺伝子が2倍体であるイネは、突然変異種を見出してモチ種を栽培品種化し易いが、6倍体であるヒエはその全ての遺伝子セットに突然変異が揃わないと、モチ種を品種化する事ができないから、ヒエのモチ種化には成功していなかったと考えられている。

つまりヒエは海洋民族にとっては魅力がない穀類であり、栽培者が自家消費する穀物だったから、イネの栽培者だったmt-B4の様に、自分が稲作者である事を強く意識する動機が弱かった事が、部族内での女性の地位を特に高める状況を産まなかったと想定される。

この事情がヒエ栽培の情報ネットワークに所属する女性達の発想を柔軟にした結果、極めて文学性が高い原古事記を、稗田阿礼が創作する状況を産んだと考えられる。それを改訂した奈良朝の女性達と比較すると、その違いは歴然としているだけではなく、後世の事情にもそれを示唆する事例が多々ある。奈良時代以降は関東から文学的な作品が生れない事情が蔓延していたから、平安貴族からそれを馬鹿にされ、鎌倉時代以降の関東部族が武力による支配に傾倒し始めると、王朝貴族は文化力を誇示して関東を牽制した事が挙げられる。つまり王朝期からそれが関東の弱点である事を皆が認識していたが、関東のmt-B4にはそれを改める意思はなく、ひたすら稲作の耐寒性向上を至上命題としていた事になる。

江戸時代に寺子屋が発達して庶民も文学に親しみ、俳句を作る会が全国に族生したが、関東部族の支配地だった小田原の二宮金次郎は、「百姓には学問は要らない」と言われた逸話が残っている。その事実性を疑われてはいるが、そのような考え方が存在していた事を皆が知っていたと考える必要があり、それもmt-B4の伝統を引く考え方だったと考える必要がある。

従ってmt-B4による関東部族の文学的な文化の向上抑圧が始まったのは、縄文後期の北方部族とmt-B4の連携時代に始まり、古墳寒冷期にはヒエ栽培集団と関東部族の文学的な文明度には、大きな差異が生れていた事を、原古事記と改定古事記が示していると考えられる。関東部族がmt-B4の暴走を許した根底にこの事情があったのに対し、伊予部族が終始冷静にそれらに対処した事も、それらが背景にあったからだと考える事もできる。

伊予部族が関東部族と和解した最大の理由は、伊予部族には単独で経済を活性化させる力がなく、伝統的にそれを関東部族に依存してきた経緯があったから、関東部族の和解提案を待っていたと考えられる。明治維新もその様な発想により、薩摩の下級武士と土佐の土豪を中心に決行され、その目的は関東を制圧して新しい時代を切り開く事だったと考える事もできるだろう。

奈良朝の末期に藤原不比等の子孫の藤原北家が、吉備、難波、奈良などのmt-B4と結託して政変を起こし、提案時代になって桓武天皇の子孫が関東に下向すると、藤原氏に代わって平氏が関東を差配する勢力になり、平将門と藤原純友が承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)を起こした。関東では平将門が勢力を得て反乱の中核になったが、瀬戸内では伊予部族系の藤原純友が朝廷に反旗を翻した。両者が連携した証拠は確認されていないが、関東で藤原氏を排斥して部門の棟梁になった平将門が狙ったのは、mt-B4に支配される農業国家から、交易国家への脱皮だったのではなかろうか。

平将門を討滅した者が藤原秀郷や藤原為憲らで、討滅に参加した平貞盛の子孫が関東に居られなくなって伊勢平氏になった事、藤原純友が拠点とした胆振島は伊予部族の島だった事が、この時代の関東部族と伊予部族の新興勢力には、交易者としての連携の動きがあった事を示しているからだ。つまり関東の人々が平氏の血筋を導入した事は、mt-B4と藤原氏の関東支配に反抗的になっていた事を示唆しているが、平将門の乱は時期尚早だった事を示している。藤原氏の血筋を導入した伊予部族は、関東より早くその動きを開始していたから、彼らが迎えた血筋は平氏ではなく、奈良に土着した藤原氏だったと考える事もできる。

逆に奥州では在地の豪族を藤原氏が従えていく流れがあり、奥州藤原氏が次第に勢力を強めていった。この藤原氏は北関東の出自である事が、その背景を示唆している。

平将門の乱以降は関東の部門の棟梁が源氏に変ったが、源氏は平氏より交易的ではない人達だったから、それがmt-B4と関東の男性達の妥協の結果だったと推測される。桓武天皇は物部と連携して王朝を交易的な性格に変えようとしたから、平氏には交易的な性格が濃厚にあったが、藤原氏が娘達を後宮に送り込んで天皇の性格を変質させたから、清和天皇の時代には天皇も農本主義的になり、その系譜の源氏もその様な性格が濃い血族集団になったと推測される。

関東のmt-B4にとっては、次の寒冷期に備えて稲作の耐寒性を高める事が至上命題であり、それを妨げる男性達の交易志向は許せなかったが、稲作地の領土権を争う事に関心を高めていた源氏であれば、血筋の導入に妥協する余地があった事になり、関東の物質文化の後進性が高まっても、それより稲作の耐寒性の向上とその為の東北進出が重要であるという、頑なな態度を示していた。

黄八丈で知られる八丈織は、錦と同様に染色した糸で布を織る高級絹布だが、これを関東部族の交易者が遠隔地の島で生産した事は、海洋性を失っていた藤原氏の目を盗んで交易活動を行っていた事を示唆している。

藤原氏が掌握していた平安朝は、国司の過酷な収奪に遭っていた地方豪族の不満を和らげる為に、承平天慶の乱以降に稲作地の私有制を認める方針に転換し、寄進荘園制を発達させた。この制度によって地域豪族の不満は和らいだが、王朝の所領と寄進荘園は一定の割合が維持され、王朝の屋台骨は揺るがなかった。しかしこの制度によって在地豪族の経済力が高まると、武装集団を形成して武士の時代が始まり、武力を持たない王朝の支配力が低下した。

伊勢平氏は交易を重視して宋との貿易にも手を出したが、源氏は平氏を滅ぼすと交易の国内回帰を明確にし、関東に幕府を開設したが、王朝の執務機関であって独立した政権ではなかった。これはmt-B4が藤原氏を見限り、源氏を実務集団として認定した事を意味する。武力的な背景がなければ、治安を維持する事ができない時代になったからだ。

その様な源氏であっても、頼朝は内需交易を重視し、子の頼家を関東の交易集団だった比企氏に養育させたが、それが気に入らなかったmt-B4の意を呈した、北条氏に頼家は殺され、幕府政権は更に農耕民族的な北条氏に委ねられた。北条氏の「条」は律令の条坊制の管理者だった事を示し、北条氏の性格を示唆している。つまりmt-B4は朝廷を自分の代理人の様に位置付けし、実務機関を鎌倉幕府とする、木で竹を接ぐような変則的な政治体制を容認せざるを得なくなった。

北条氏と朝廷の二人三脚に何が不満だったのか明らかではないが、mt-B4の意を呈した新田氏と足利氏が両者を滅ぼし、足利氏が室町幕府を開いた。しかしその結果として政情は更に不安定になり、武士同士も南北朝に分かれて争う様になった。mt-B4から見ると、時代の進展と共に男性達は増々武闘的になり、世情の乱れは加速度的に進行した。その様な情勢の下で、mt-B4の情報ネットワークも地域的に細分化され、戦国大名と利害を共有する集団に分裂した。関東では武田、北条、佐竹、結城などが、戦国大名として分立する時代になったからだ。

商工業的な織田信長が天皇制と室町幕府に止めを刺そうとすると、甲斐の武田信玄が打倒信長に立ち上がったのは、mt-B4が最後の政治力を示した場だった。しかし駿河を含む関東は武田氏と北条氏に分割され、武田信玄が打倒信長に立ち上がっても北条氏はそれに背を向けていたから、mt-B4の分裂は深刻な状態に陥っていた事を示唆している。

武田氏が織田信長から逆に攻められて壊滅すると、mt-B4の情報ネットワークは実質的に崩壊し、代わってmt-Fの情報ネットワークが関東を支配する様になったのではなかろうか。これ以降の関東は、北条氏を筆頭に佐竹氏、里見氏、結城氏などが次々と駆逐され、駿河を含む関東は幕府の直轄領か徳川家の両国になるが、mt-Fの情報ネットワークがそれに関与していたとすれば、彼女達の情報ネットワークを統合する動きであり、江戸時代初頭に水田稲作の手法が一斉に変化する状況を生み出した、背景事情を説明する事ができる。江戸幕府がmt-Fの稲作を全国に拡散する事により、各地の大名の石高を増加させる事に成功したとすれば、彼らの信任を得る事に役立ったからだ。それに関する文献資料はないとしても、佐藤信一郎氏の疑問に答える義務はある。

神社には女性禁止の伝統があるものが多いのは、その様な女性達の影響力を排除する為に、地域の男性達が集まる場所として生成されたものを起源とする神社が、多かったからであると考えられる。

日本の稲作を指導したmt-B4の政治力は、縄文晩期寒冷期と古墳寒冷期に大いに発揮されたが、肝心の関東は古墳寒冷期にヒエ栽培者に蹂躙される危機に直面し、それ以降のmt-B4の情報ネットワークは、熱帯ジャポニカを使用した稲作技術の向上のみに向けられ、それ以外の事情には顧慮しなかった。彼女達が情報ネットワークの維持を目的化すると、極めて強い政治力を発揮する事に特徴があった。

稲作者としては温暖な地域に移住する選択肢もあり、大陸では荊も浙江省起源の稲作者もその様な行動を選択したが、関東のmt-B4は海洋民族化していた故に、栽培ネットワークの覇権にも強い執念を示し、その防衛や拡大に男性達の武力を使用した。商工業的な活動が彼女達の覇権維持に影響を与えると、それも排斥し、文化的な後進状態に陥ってもその姿勢を変えなかった。

栽培系の女性が皆その様な人だったのではなく、稗田阿礼の様に産業社会に高い関心を抱き、その進展に深い理解力を示した女性もいた。日本の事情を基に乏しい知識で大陸事情を推測する事にはリスクがあるが、得られた法則を展開する場を拡張する事は、法則の検証に役立つ。

関東のmt-B4が旧約聖書を見たとすれば、激しく憤っただろう。その創世記の第一章に、以下の様に記されているからだ。

神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。

神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

すべての栽培種は長年に亘った女性達の品種改良の成果ではなく、神が与えたものだと主張している。それだけではなく第二章では以下の様に記している。

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

第三章では以下の様に記している。

(蛇に誘われて)女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

旧約聖書はmt-B4が形成していた様な、栽培女性達の情報ネットワークを、破壊する為に編纂された可能性が高い。

焼畑農耕は男女の共同作業で、荊が始めた稲作も男女の共同作業だったから、日本の農耕者は男女の役割を時代の変遷と共に少しづつ変える事ができた。mt-B4の稲作に男性が参加したのは、縄文後期だったと想定され、日本の主要な穀物栽培者としては最も遅い集団だったが、日本全体を見れば、mt-B4の様な事情は少数派のものだった。

しかし小麦も大麦もミレットも畑作物だから、西ユーラシアの農耕民族の揺籃期には、穀物を栽培していたのは女性だけで男性が参加する機会は乏しかった。

その様な環境下で女性達が情報ネットワークを強化し、栽培の生産性を高めて女性優位社会を形成すると、甕星の成果をmt-B4が潰して愚劣な奈良朝を形成させた様な、不本意な事態が頻発しただろう。

栽培に男性が参加していなかった西ユーラシアでは、早い時期にその様な事態が発生していた可能性が高い。

日本では王朝が支配した奈良時代~室町時代は戦乱の時代で、戦乱の主要因は農地と領土の争奪だった。従って西ユーラシアの戦乱の多くも、その様なものだった可能性が高い。

農耕者だった女性達は直接その戦闘に参加しなかったかもしれないが、戦闘の成果は女性達が優良な栽培地を得る事だったとすれば、戦闘の背後に女性達がいた事は間違いない。

つまり女性達に戦闘に駆り出され、社会秩序を形成しても栽培至上主義的な女性達の気に入らなければ、企画が壊されてしまう実態に辟易した男性達が、この様な宗教の信者になったと想定される。

栽培女性のネットワークの横暴や、それが社会秩序に及ぼす悪影響を憂慮していた者が女性達の中にも多数いたから、男性達と共にこの様な宗教の信者になる集団が生れたと推測される。

宗教集団と非宗教集団の割拠状態が生れると、淘汰の法則が働いて優良集団が生き残るが、西ユーラシアでは宗教集団が残って非宗教集団を淘汰したと考えられる。

しかしそれが平和裏に進行したとは考え難く、この思想を受け入れるか否かの違いによる、宗教戦争が生れる事は必然的な結果だった。

この仮説の証拠として、気候が温暖で農耕の生産性が高い地域であるほど、即ち栽培女性のネットワークが強力な地域であるほど、宗教が主張する男尊女卑傾向が強い事が挙げられる。

温暖な地中海東岸以南に、男尊女卑的な傾向が強いイスラム、その北に宗教統制が厳しいカソリック、一番北に牧師の妻帯も許すプロテスタントが分布しているからだ。

旧約聖書の起源がBC8世紀の預言者イザヤであれば、栽培女性のネットワークを排除する思想の萌芽はそれに先行していた筈だから、縄文晩期寒冷期に栽培女性のネットワークの力が衰えると、その様な宗教思想が社会化した疑いがある。

それが西ユーラシアの状況だったのであれば、アワ栽培者が近親婚を採用した理由も普遍化される。焼畑農耕の歴史は稲作より遥かに古く、同様の課題を早い時期から抱えていたからだ。青銅が普及して樹木の伐採が容易になり、mt-D+M7amt-D単独の社会なった縄文後期後葉から縄文晩期が、その様な状況が高まった時期だったと想定される。それに危機感を持った人々が女性達のネットワーク力の根源は外婚制にあると認識し、近親婚によって血族の連帯力を高め、栽培ネットワークに対抗したと考える事が出来るからだ。

ツタンカーメンはBC1300年代のファラオだから、縄文晩期寒冷期に向かう寒冷化が始まっていた時代の王だった。ツタンカーメンの父であるアメンホテプ4世の別名は、アマルナ改革で著名なアクエンアテンでもある。アメンホテプ4世は同母妹を妻としてツタンカーメンが生れ、別の妻から生まれた異母妹がツタンカーメンの妻だった。ツタンカーメンは遺伝子病を原因とする身体不具者だった可能性が指摘され、その原因は近親婚にあった可能性が高い。

アメンホテプ4世の宗教改革がどの様なものだったのかのか明らかではないが、栽培女性のネットワークの影響を排除する為の一つの手段として、近親婚が生れていたとすれば、それを採用したアメンホテプ4世の子が身体不具者になって後継者が絶えた事により、宗教改革は頓挫したが、その思想が東南アジアの海洋民族を経て越に伝わり、越ではそれに成功していた事を示唆している。

以上の結論として西ユーラシアでは、穀物の生産性が高まる事によって女性の栽培ネットワークの力が強まり、王権によってそれを抑える事ができなくなると、色々な改革の試みが行われたが、東アジア以上の栽培ネットワークと比較し、極めて強力にになった状況を制御する事が不可能になり、それを改善する福音としてキリスト教が拡散した可能性がある。このHPが扱わない他の文明圏の出来事なので、確かな事は言えないが、日本で起こったmt-B4の農耕文化の旋風が、異端的なものではなかった事を示唆する材料にはなるだろう。

 

5-11 古事記が示す縄文時代の栽培史

古事記は、「イザナギが九州の日向で左右の目から産んだ、天照大御神と月読命が日本の農耕神の起源で、天照大神には高天原の支配を命じ、月読命には『汝は夜の食国を知らせ』と命じた」と記している。

月読は北海道や東北のヒエの神で、ヒエは温暖な気候では栽培できない穀物だったから、夜の食国を知らすと記したと考えられ、太陽神でもあった天照大御神との対比があり、天照大御神は温暖な気候を好む稲作者の神であり、冷涼な気候を好むヒエ栽培者は太陽信仰ではなく、冷涼な夜をもたらす月の信仰者になったと考えられる。

食国が「けこく」ではない事は、温暖な地域ではアワの栽培者と稲作者が共生している様に、東北では稲作者とヒエ栽培者の共生が可能である事を主張する、古事記の著者の認識が示されている。

イザナギとイザナミの国生み説話で、二人が四国を生んだ際に「粟国(阿波国)を大宜都比売(おおげつひめ)と謂う。」と記したのは、縄文後期初頭頃の日本の状況を概観したものだが、天の岩戸説話の次の説話が、スサノオが高天原を追放された際に、「オオゲツヒメがスサノオに食事を与えようとして、尻から食物を取り出したので、汚いとスサノオに切り殺された」と記し、大気都比売(おおけつひめ)大宜津比売(おおげつひめ)と同一神であると説明し、「死体から稲、粟、小豆、麦、大豆が生まれたから種とした」と記している事は、極めて重要な事情を示している。

古事記はアマテラス大御神と月読が生れた後に、日本列島に導入された穀物をアワとして稲、粟、小豆、麦、大豆を挙げているからだ。つまり16千年前に九州に上陸した縄文人はヒエの栽培者だったが、稲、粟、小豆、麦、大豆はその後に導入され、最も生産性が高いのは焼畑農耕で生産するアワだったから、オオゲツヒメを穀物の神にした事になるが、実際はアワ栽培者の神だった。それがおおけつひめでもあるとの指摘は、と発音する地域もあるからどちらでも良いとして、アワが広範な地位で栽培されていた事を示唆している。

万葉仮名の「食」には「乙類のけ」しかなく、「毛」は「乙類のけ」と「乙類のげ」の両方の発音例があるとする説と、「毛」にも「乙類のけ」しかないとする説があるのは、方言による違いを議論している事を示唆し、群馬と栃木が「毛」の国になった時点で、西日本では「下つげの国」と呼ばれ、東日本では「下つけの国」と呼ばれた可能性があるが、後世の呼称は「しもつけ」になったから、関東や東北では「食=け」だった事を意識している可能性がある。

先代旧辞本紀でもこの組み合わせは変わらないが、日本書紀に至ってこの組み合わせが稲、粟、稗、麦、豆に変る。五穀にヒエが入らないのは異常だから、日本書記はその認識で改訂したが、日本書記がヒエを入れた事は編者が日本の栽培史を知らなかった事を示し、日本書記が江戸時代になってから生まれたとの想定と合致する。

「大気都比売」「大」は大きい事を意味するのではなく、大豆、大麦、大夫などの用例と同じ「真正の」「本来の」などを意味し、「つ」は現代語の「の」だから、オオゲツヒメ=「真の穀物の神」を意味し、阿波では真の穀物がアワだった事を示し、阿波ではコメなどの他の穀物も栽培していた事を示し、アワの栽培中心だった阿波は農業大国だった事を示している。つまり古墳寒冷期の日本人の食料の中心はアワで、コメは生産量が少ない高価な穀物だった事も示唆している。

古事記が記す農耕の神は、天照大神を含めて皆女神である事に留意する必要があり、イサナギの左右の目から生まれた天照大御神と月読は姉妹の農耕神だったが、先代旧辞本紀は「月読が剣を抜いて保食神を撃ち殺すと、稲、粟、小豆、麦、大豆が生れた」「この暴力的な一件で天照大御神は月読と不和になった」と古事記の説話を変え、mt-B4に媚びる姿勢を示している。

古事記が稲、粟、小豆、麦、大豆と記しているのは、この順序で日本列島に穀類が導入されたと、古事記の著者が認識していた事を示唆している。大豆は縄文中期の関東で栽培化されたと考古学者が指摘しているから、小豆は縄文前期には導入されていた事になり、(大麦)は荊を介して仰韶文化圏から導入された事を示唆し、小豆(あずき)はそれ以前の導入だった事を示唆している。

このHPではアワは熱帯ジャポニカより先に導入されたと指摘したが、古事記の著者の認識がそれとは異なっているのは、古事記の歴史認識が伊予部族と関東部族の伝承に依存し、北陸部族の実態が分かっていなかったからだと考えられる。福井から新潟までの神社が祭っている神は、古事記を起源としていない事がその事情を示している。

従って古事記が、スサノオがオオゲツヒメを殺してしまったと記したのは、古事記の著者にはオオゲツヒメの子孫に関する伝承が分からなかったからであり、各地を移動しながら栽培適地を探し、最終的には稲作者に従属する人々になった焼畑農耕者には、偉人を輩出した伝承が失われていた事を示している。つまりオオゲツヒメは天照大神に匹敵するほどの偉大な女神だったが、明らかにその時点で死んでしまうと、以降の子孫伝承は存在し得ないからだ。

しかし小豆が伝来した時期にはアワが存在した事は伝承で知っていたから、上記の順序にしたと考えられる。

先代旧辞本紀はオオゲツヒメを殺した事を悪事と捉えているが、これは古事記の著者の温情でもあったと考えられる。北陸部族に関するこれ以降の伝承は、大国主の沼河ヒメに対する求婚説話だけになるが、この説話では大国主と沼河ヒメの応答を歌謡として長々と記述し、貴重な古事記の紙面をこれだけ使っている事は、北陸部族やアワ栽培者を軽視しているわけではなく、パロディー化できる伝承がないからであると、彼らに配慮した事を示唆しているからだ。

以上の検証がオオゲツヒメの物語の実態であるとすると、縄文人が九州に上陸した16千年前の出来事として、天照大神と同時に生まれたスサノオは何を表象しているのかが明らかになる。つまり13500年前に始まって12000年前に終わったヤンガードリアス期は、毎日曇天が続いて太陽が照らない時代だったから、それを岩屋戸説話で示した事になり、古事記はその原因が海洋民族にあったと記しているが、それは単に説話を面白くしただけの話しであるかもしれないし、九州に上陸した直後の縄文人にとって、東北系の海洋民族は馴染めない人達だったと指摘しているのかもしれない。

その様なスサノオが心を入れ替えてヤマタノオロチを退治し、出雲のクシナダヒメを妻に迎えるが、これは東北系の海洋民族である出雲部族と対馬部族が縄文人と共に東北に移住したが、縄文前期になって対馬海流が流れる様になると、海岸砂丘が次々に生まれて山形や秋田の内陸の湖沼の周囲に定住した縄文人と、船による交流ができなくなった事をパロディー化した説話であると考えられる。栽培者だった縄文人は女性として神格化されたから、足名椎がスサノオに答えた「我が娘は8人いたが、コシのヤマタノオロチが毎年来て食べてしまう。」「その体には、日影の葛、ヒノキ、杉が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にわたり、その腹には一面にいつも血がにじんで爛れている。」との記述は、海岸砂丘の実態を示している。

コシのヤマタノオロチと呼ぶのは、海岸砂丘の起源が信濃川や阿賀野川にあり、その砂を対馬海流が運んでいた事を知っていた事を示し、海洋民族が海の事情に精通していた事を示唆している。

体に日影の葛が生えているのは、海から見た斜面にその様な雑草が茂り、頂上の平坦部には杉やヒノキが生え、その長さが八つの谷と八つの峰にわたる事は、例えば庄内平野の場合にはその長さが35㎞に及び、男鹿半島を挟んだ秋田平野や能代平野の砂丘は更に長かった事と符合する。腹には一面にいつも血がにじんでいる状態は、砂丘の内側の湖の湖面標高が高まると、砂丘から水が滲み出ていた事を示唆している。それに該当するのは、庄内平野、本庄平野、秋田平野、能代平野、津軽平野で、青森平野はそれから免れた出雲だったとすると、六がに変った以外は、古事記の記述の正確さに驚かされる。

青森の辺地にはアイヌ語系譜の地名が沢山残っているから、古事記が記す和語の地名を探す事には意味がないだろう。いずれにしても海岸砂丘が南から次々に生まれた事は、対馬部族と出雲部族にとっては大惨事だった事を示している。また足名椎を稲田の宮主とした事は、縄文前期温暖期に熱帯ジャポニカの稲作が、東北の北部まで及んだ事を示唆している。

 

縄文時代に戻る

史書が示す倭人に戻る