経済活動の成熟期 その4

4 関東部族の農耕民族化

4-1 縄文中期までの食糧経済

4-1-1 海洋民族としての関東部族の稲作

大陸の稲作者は栽培環境が不適切になると、躊躇いなく移住する事によって収穫を確保したが、関東の漁民は漁労文化の発展の為に関東に集住し続けたから、漁民と共生していた関東の稲作者は気候が冷涼化しても南下移住する事は許されず、栽培種の耐寒性を高めなければならなかった。北陸部族のmt-Dは温暖な気候を求めて西日本に拡散し、フィリッピンにも移住したが、関東部族の稲作者はそれとも異なる特異な状況下にいたから、気候に関しては大陸の稲作者より過酷な環境に置かれていた。

縄文時代の日本列島には関東以外に適切な稲作地がなく、稲作者自身にも関東に留まる強い意志があったとも言えるが、稲作を重視するのであれば、浙江省の稲作民族より先にフリッピンに渡る選択肢もあった事を考慮すると、漁民にその意思がなかった事が、稲作者が関東に留まった根源的な理由だったと考えられる。関東に渡来したmt-Fmt-B4が同じ行動パターンを選んだ事も、稲作者の選択ではなく関東部族の体質だった事を示している。

関東部族は漁労の生産性が高い海洋漁民集団だったから、豊かな海産物が彼女達のその様な選択を可能にし、それ故に耐寒性の向上を含む生産性向上に没頭し、東アジア有数の稲作集団になった。寒冷期に生産性が低下するとその代償に対応する必要があったが、交換経済下では生産量が低下して需給関係が変化すると、海産物との交換比率がコメの生産者に有利に改定され、稲作者に致命的な困窮状態は発生しなかった。

しかし気候が冷涼化すると個々の稲作者の技量の差が顕著になり、淘汰環境は大陸の稲作者より極めて厳しくなった。それを乗り越える為には日常的に耐寒性向上に取り組む必要があり、寒冷期にそれに苦しんだ女性達が開発した栽培技術や栽培思想が、次世代に伝えられてそれを守る事により、次の寒冷期を乗り越える必要があった。その3に掲げた弥生時代の稲作事情はその典型例を示し、それが古墳時代に開花して日本式の稲作の高い耐寒性を示した事情は、弥生温暖期に突発的に発生したのではなく、mt-B4が縄文中期寒冷期にも経験した事情だったから、その思想が縄文後期温暖期や弥生温暖期にも受け継がれ、古墳寒冷期を乗り切った事は、その思想が平安温暖期にも受け継がれたと考える必要がある。

原生種の北限を越えた高緯度地域で栽培していたイネは、生産性が高いものを選んで種籾にする事を繰り返せば、自然に耐寒性が高まったが、縄文中期寒冷期は縄文早期には経験がない冷涼な気候であり、縄文晩期寒冷期には縄文中期寒冷期より2℃も低温化したから、先人が開発した耐寒技術と品種改良の効果を継承しながら、新たな品種や農法の開発によって漸く乗り切った事になるが、寒冷期の収穫には個人の能力差が顕在化したと推測される。小田原と宇都宮では平均気温が1℃違うから、駿河湾を含む南関東と栃木を含む北関東では生産性は大きく異なったが、それは漁民も心得、mt-B4の情報網も収穫の斉一性を考慮し、配分する稲作地の面積にその配慮があったと想定される。

いずれにしても寒冷期になると、特に北限の栽培者だった北関東のmt-B4の収穫に大きな個人差が生れ、栽培者の淘汰が進むと共に栽培者の思想が実証主義的になり、情報網の活用も活発になったと推測される。縄文後期温暖期になると南関東のmt-B4は次々に西日本に移住していったとその3で指摘したが、縄文後期温暖期が終わってmt-Fに試練が訪れた際に、関東に残って混乱を収めたのは、北関東に残っていたmt-B4集団だった事に偶然の僥倖を感じざるを得ない。苗代を作って田植えを行う技術は北関東で発明され、北関東のmt-B4がその技術を駆使して短日性を失わせた種籾を生産し、mt-Fに支給しなければ、mt-Fは縄文晩期を乗り越えられず、現代日本人に5%以上の遺伝子を遺す事はできなかったからだ。

石器時代の栽培者は母から伝授された栽培種に拘り、そのネットワークの勢力争いが展開された事により、栽培者のミトコンドリア遺伝子と栽培種が紐付けられる状態になったのだから、mt-B4mt-Fに種籾を支給する行為は極めて特徴的なものだったが、堅果類の栽培者に囲まれて何万年も生活し、異なるネットワークとの共存に慣れていた上に、縄文後期にアワ栽培者の情報ネットワークと連携したから、mt-B4にとってのmt-Fとの連携はその発展形だった事が、種籾の提供に繋がったと考えられる。しかしmt-Dとは異なり、単純に他者の栽培種に乗り換える事はしなかった。

古代の品種改良は優良な種籾を選別する事が基本だったから、海洋民族には稲作の耐寒性を向上させる強力な環境があったが、気候が冷涼化すると生産性を確保する為に南下した大陸の稲作民族には乏しかったから、寒冷期が終わった後の温暖期にその違いが現れた。従って荊が縄文後期温暖期に青州まで北上できたのは、海洋民族化したmt-Fの成果だったと考えられる。縄文前期末に渡来したmt-Fは縄文中期寒冷期に、稲作民族の栽培北限を超えた関東で栽培を続けたからだ。

関東のmt-Fのその様な成果とは裏腹に、関東に渡来したmt-Fの縄文中期の境遇は悲惨だった。華麗な土器が作られた縄文中期の中部山岳地他の宿場でも、mt-B4mt-M7aが製作した土器は奔放な器形を示しているのに対し、mt-Fの土器には哀愁を帯びた陰鬱な雰囲気があり、出産に対する異様な関心の高さはmt-Fの不安心理の反映を示唆している。

温帯ジャポニカの稲作は不可能だったと考えられる中部山岳地にその様な土器の発掘事例があれば、稲作を諦めたmt-Fが其処にいた事を示しているが、縄文時代の栽培系の女性にとって、母から譲られた栽培種と栽培技術は自分の存在感と同義だったから、その様な集落の片隅で小さな栽培地を形成し、一粒でも収穫を得る為に努力していただろう。その様なmt-Fが精選した遺伝子変異や、寒冷な気候でも栽培できる稲作技術が、縄文後期温暖期になると荊に青州への北上能力を与えると共に、関東のmt-F自身も北関東の広大な沖積平野への進出能力を得たと考えられる。

関東縄文人は派手な柄の衣類を着け、華麗な耳栓などのアクセサリーも多用していたと指摘されているが、その様なお洒落を求める風俗は、mt-B4のものだったと考えられる。縄文中期のmt-Fは厳しい稲作を強いられていたが、mt-B4は祖先が4千年かけた成果の恩恵に与かり、収穫が安定した稲作を謳歌していたからだ。この様なmt-B4は、この時代の東日本に一般的だった環状集落に住んでいたと想定され、平等な環境を求めていた様に見える環状集落に住んでも、見栄に拘る誘惑から逃れる事はできなかった事を示している。

環状集落を形成した目的とは矛盾するその様な風俗が生まれた背景には、食料危機から逃れていた豊かさがあった事は当然として、微妙な経済格差を生み出す発達した手工業基盤があり、交換品としてコメを生産していた稲作者も広義の手工業者の一員だったから、交換経済の中で豊かな稲作を得ると個性的な習俗を育む自由が生れ、奢侈的な消費を促進する風土に発展した事を示している。

自由経済が進化すれば、奢侈的な消費を求める風土が生れ、それに応える生産活動が活発化する事は常態だから、女性達が派手な装身具を使っていた事が、縄文中期の関東がその状態に至っていた事を示すと共に、mt-Fの存在がmt-B4に豊かさの自己顕示を促した疑いもある。

装身具の草分けは縄文早期の北陸部族のmt-Dにあり、mt-Dが少数者でmt-M7amt-Dの人口増加を待っていた時期であり、北陸部族が遼河台地に出向いてmt-Dをリクルートする状況だったから、mt-Dmt-M7aの優劣関係は明らかであり、縄文中期の関東のmt-B4mt-Fに類似した状況にあったからだ。アワの生産に直接的に関与していたのはmt-Dで、mt-M7aはアワの栽培地を整備する女性だったから、mt-Dが経営者でmt-M7aは雇用される賃金労働者だった事も、この推測の状況証拠になる。

富山の縄文前期の遺跡である小竹貝塚から、骨製のかんざし類が発掘されたが、発掘した骨にはmt-M9mt-M7amt-Gが含まれ、多数派のmt-M9は磨製石斧の製作によって豊かになった女性だから、骨製のかんざし類の存在にもその様な事情を窺う事ができる。

この様な文化は集団で樹林を形成する必要があった堅果類の栽培者からは生れず、集団的な作業ではなく収穫量には個人差があったアワ栽培者、稲作者、磨製石斧の生産者から生まれた事は、生産性の差異が人格的な優劣に転換する流れが必然的に生まれる産業形態が、背景にあったと考える事もできる。

個人的な成果が反映される交換経済が発達した社会では、購入品の選択が社会的なステータスになり、富裕者がその様な場面に優越感を求める事情は、縄文時代も同様だったと想定される。

つまり縄文人がお洒落だった事が意味するのは、彼女達の美意識が洗練された結果として、自分の為に装身具や衣装を製作した結果であり、社会の生産力が過剰になって女性達の為に装身具を製作する者が出現し、その様な職人が需要を喚起する為に形状や色を工夫して購買意欲を煽ったから、購買力があった縄文人女性達がお洒落になった結果ではあるが、豊かさの発露には無数の方向性があり、女性がお洒落を求めた事には理由があったとすれば、その背景として固定的な社会的格差が存在し、それを顕在化させる一つの手段だった事を指摘できるだろう。

mt-B4に配分された稲作地は広くなく、毎日あくせく働く必要がなかった事も、彼女達をお洒落な物品の製作に走らせる大きな要因だったと考えられる。関東で発達した精巧な土製の耳飾りは、土器と同様に製作者は女性だったと推測され、その優れて美的な形状は、依頼されて製作する職人的な女性がいた事を示唆しているからだ。アワ栽培に忙しかったmt-Dの装飾品は石斧職人が製作したが、関東のmt-B4はそれを自分達の手で製作する、時間的な余裕があった事を示しているからだ。

北陸部族のmt-Dが石斧職人に製作を依頼した目的は、装飾品であると同時に財貨として蓄財し、子孫に遺す物品とする為だったが、縄文中期の関東にはその様な財貨は既に存在していたから、精巧な土製の耳飾りは、純粋な装飾の為に製作されたと推測される。従ってmt-Fと比較したmt-B4の羽振りの良さが、この様な行動を選択させた可能性が高く、縄文中期の荊は織布技術を持っていたらしい事を、屈家嶺文化の遺跡から発掘された紡錘車が示しているから、mt-Fが不振に陥っていた稲作を補完する為に製作した布を、mt-B4が身に着けていた可能性もある。

縄文後期にmt-Fmt-B4の立場が逆転すると、華麗な土器を含めたこれらの文化が衰退したのは、mt-B4も栽培地を拡張して収穫を高める必要が生れ、時間的な余裕と穀物栽培者としての優位性を失った事もその一つの理由ではあるが、それだけでは理由として不十分だから、mt-Fには他の栽培者と自分達を比較する発想がなかった事が、その理由だったと考えると事情が整合する事が、その根拠になる。

それを敷衍すると土器に用いられた装飾意匠を含め、装飾品や衣類に共同体的な文化意識を表現し、他者との違いを求めながらそれらをできるだけ華麗にする事が、栽培文化を共有しながら情報ネットワークを形成していた女性達の、一つの文化意識だったと考える事ができる。それが民族衣装に発展したとすれば、一つの文化論になるだろう。

 

4-1-2 東日本の縄文社会に生まれた環状集落

縄文人は堅果類を何万年も栽培してきた民族だが、環状集落が縄文前期に出現した事は、経済事情が変化した事を示し、縄文前期に弓矢の生産が盛んになった事が、その筆頭候補として挙げられる。それによって換金商品の生産が重要な生業になり、その産業の発展と共に、琥珀、ヒスイ、矢尻、黒曜石の欠片などの、財産価値を持つ物品が生まれたからだ。その貯蔵の有無による貧富の差が生れ、縄文人が食料を確保する手段が堅果類の樹林の共同管理から、個人の生産活動に依存する割合が高まった事が、環状集落を生み出したと想定する事もできるからだ。

しかし弓矢の生産は1万年前に始まり、縄文早期後葉には生産が需要に追い付かない状態になり、流通貨幣の量を増やす為に矢尻から黒曜石の欠片に移行した事や、縄文前期に生産の不足分を北陸部族に依存する状態になった事は、7千年前から始まる縄文前期はそれに関する画期的な変革期ではなかった事を示している。

むしろ9千年前に渡来して気候が冷涼化する中で、熱帯ジャポニカの栽培化に取り組んでいたmt-B4の生産性が、気候の温暖化に伴って急速に向上した時期だったからであると判断する方が、この時期の変革期を適正に判断している様に見える。6200年前に気候の温暖化が急進展したから、縄文前期(7000年~5500年前)の後半期に環状集落が発達したとすると、時期が整合するからだ。

環状集落は共同体の結束力を強化する為に形成された筈だから、弓矢産業が興隆したり稲作の生産性が高まったりする状況とは逆行する流れだが、堅果類の樹林の管理が必須である状況は継続していたから、崩れ行く共同体意識を維持する為に環状集落が生まれたとすると、状況説明にも合理性が生れる。弓矢産業での集団的な労働は、集団の結束力を強める事はあっても弱体化する要素は乏しかったが、稲作は極めて個人的な生産だから、生産性を高めた稲作者の発想が環状集落の形成を促したとすれば、因果関係も明瞭になる。

通説は環状集落が生れたのは縄文前期であるとしているが、縄文人の活動期の項でも指摘した様に、考古学者の中には縄文早期後葉~縄文前期を纏めて縄文前期であるとする、前時代的な主張を続けている人が多いから、時期を正確に検証する必要はあるが、縄文早期末であってもmt-B4が渡来してから2千年経ていたから、平常的な気候の中で徐々に生産性を高めた事も間違いなく、稲作の生産性が縄文前期温暖期に画期的に向上した事は間違いないが、時期に拘る事に大きな意味はなく、その他の状況証拠を検証する必要がある。

この様な場合、それを前提とした推論の妥当性を検証する事が、一つの確認手段になる。縄文前期に環状集落が出現し、後期までその形態が主流だった事は、カロリーベースでは堅果類が重要な役割を担っていたから、縄文人は堅果類の森を共同管理する必要があったが、コメや弓矢交易の為の生産物に交換価値が生れていたから、環状集落内の人々に貧富の差があった事は間違いない。その矛盾を抱えながら環状集落を維持したのは、堅果類は生産性が高い食材だが交換価値が低く、ドングリ拾いに権利争いは起こらなかったから、交換経済が活性化しても樹林の形成を共同で行う事に、経済的な支障が生れなかったからだと考えられる。

縄文前期~中期に作られた中部山岳地帯の華麗な土器は、中部山岳地帯の様な冷涼な地域であってもドングリの生産性が高く、食生活には芸術活動に励む余裕があった事を示しているから、温暖な関東の平野部で栽培すればより多くの収穫が得られた事を示している。つまり樹林を形成する技術は既に確立し、先人の成果によってドングリの生産性が高まっていたから、海産物を入手する交換品がコメや工芸品に移行し、ドングリの必要量は徐々に低下してはいたが、必須の食材である状況は変わっていなかった。しかし確立した樹林は一定量のドングリの収穫を保証し、個々の家庭が必要量を十二分に確保する事を可能にしていたから、生産性が低いサイドビジネス的な共同管理でも十分な生産量が得られただろう。

この時期の漁民は弓矢交易を支える縄文人に海産物を支給する必要があり、シベリアの増産要求に応える為には多数の縄文人の協力が必要であり、その為に漁労の生産性を高める好循環が回っていたから、積極的に外洋に進出する流れも生まれた。危険な外洋に出漁して大型魚やクジラを捕獲する為には、船を大型化して高速化する必要があったから、それらを生産する職人が多数生れ、シナノキの樹皮も増産する必要があった。その結果として船のモジュール化が進み、それぞれの部材の製作も縄文人が担う様になったから、縄文人の男性にも弓矢の生産も含めて十分な仕事量があり、その成果によって海産物を得る事が常態化した。

大きな船には多数の漕ぎ手が必要になり、生産効率が高い鯨漁には船団を組む必要があったから、縄文前期以降は漁民の組織化も進み、それによって強化された交易組織がシベリア交易を強化し、湖北省に塩を運び上げる輸送力も形成したが、その様な経済の最大の成果は漁獲量の増加でなければならなかったから、mt-B4の稲作もこの様な経済活動の一つの要素として、漁民や海洋交易者の携帯食量の素材の生産者として活動したと考えられる。

考古学者はその様な縄文人の集落からモミの痕跡が発掘されないから、稲作が行われていた証拠がないと主張するかもしれないが、商品としてのコメは保存性を考慮する必要があり、籾殻が付いた状態で出荷されたと想定され、種籾は翌年播種したからこれらの集落にモミの痕跡が残っている筈はない。

縄文時代の遺跡から発見された釣針と魚骨の解析から、漁民はこの頃から遠洋に出掛ける様になった事と、遠洋では釣針を使って真鯛を釣り、離頭銛を使ってイルカを捕獲した事が指摘されている。クジラの骨も発掘されているから小型のクジラも捕獲対象だったと考える事も可能だが、鯨の解体は浜で行った筈だから、貝塚から出土する骨の量で食料の割合を推測する事に合理性はない。

江戸時代にクジラ漁が盛んに行われた事は良く知られているが、この時代の捕鯨技術を江戸時代のものと比較した場合、船を漕いでクジラを追い掛け、銛を投げて鯨を捕獲する基本動作を人力に頼っていた事に違いはなく、鉄器がなかったから獣骨製の銛を使った事以外に大きな違いはなかった。獣骨で作った銛も十分に鋭利だから、縄文人も江戸時代の漁民の様に盛んにクジラ漁を行ったと考えるべきだ。

クジラの脂はスライスすると干して貯蔵する事ができ、その道具として竹のナイフが使えたから、それらが量産されて干魚と共に矢尻街道に運ばれ、矢尻街道の基礎物資になったと考える事もできる。鯨漁が盛んになると夫婦で行う漁労が非効率なものになり、それによって得た雑多な海産物を貯蔵する必要もなくなったから、mt-N9bの人口比が減少した可能性もある。

これらの漁労活動には高い組織力が必要であり、漕ぎ手や銛打ちには男性の斉一的な筋力が必要だったから、漁労技能の高度化が男性達の組織化を進め、それが弓矢生産の組織化にも影響を与えたと考える必要もある。つまり鯨漁に必要な役割の分担意識が生産に影響を与えると、生産の分業化が進展し、高度な技能を持たない縄文人も多様な生産に参加する事が可能になった。

縄文前期~中期の関東の沿岸には多数の漁村が散在していたかもしれないが、鯨やイルカが捕獲対象として重視されると漁村の立地条件は、外洋に流れる河川流域に営まれる様になったから、東京湾内の漁労活動は停滞しただろう。

この時期の房総半島の太平洋沿岸や鹿島灘沿岸には沖積平野がなく、河川が山間地から直接外洋に流れ、沖積平野が形成されている現在の地形とは大きく異なっていたから、それらの湊の痕跡が発掘できる可能は低い。稲作者の痕跡が発掘できない事と併せ、水辺に生業を持った人々の痕跡が発掘される事は稀になるが、その事情が発掘至上主義の考古学者の俎上に上ると、酷くゆがんだ縄文史の形成に至った事を、遺伝子分が暴露していると言わざるを得ない。

漁労の生産性は稲作より個人の能力差が大きく、それが漁民人口の増加に大きな制限を与えていたと想定されるが、漁民と接していた縄文人はその様な漁民の価値観を、縄文経済を主導する民族の価値観として、受け入れざるを得ない事は十分認識していただろう。従って職人的な技能を評価する日本人的な価値観は縄文時代に形成され、稲作民になった古墳時代以降の、権力闘争的な価値観と対立しながら現在の日本人に引き継がれていると考えられる。

漁民の価値観に同調した縄文人が、稲作者になった女性達に求めた事情として、稲作地を均等に分け与え、各々の技量によって生まれた収穫を、彼女達の取り分とする事が最も合理的な仕組みであると判断したと考えられる。それは堅果類を共同栽培する、縄文人的な価値観とは異質なものだった筈だが、男性達が製作した漁具や漁船の素材の数や品質は、製作者の能力差と漁獲の多寡が直結する状況だったから、漁民にとっては交換する漁獲量と、個人の成果物の品質との連動は当然の事だった。また海は広く、漁労活動の場に個人的な占有権は存在し得なかったから、機会が均等で結果に能力差がある状態が、海洋漁民の常識だったからだ。

漁民の活動がより多くの漁獲を得る事に焦点化されると、優秀な漁具や船を使う必要性が更に高まり、成果主義的な報償を与える価値観が必要になる事も、この様な経済活動の必然的な結果だった。黒曜石の欠片を貨幣とする仕組みが縄文早期に生まれた事は、弓矢を生産していた者達に生産量に応じた出来高払いが必要になり、それらを実現する為に貨幣が支払われた事を示し、この様な価値観が広く普及していた事を示唆している。また縄文前期にヒスイ加工品を財貨とする習俗が生まれた事は、縄文人の個人的な経済意識が更に高まった事を示している。

この発想は交易にも有効な環境を生み出すから、海洋民族が交易集団化した事情を示しているが、彼らが求める交易は実用的な物品の交換だったから、農耕民族的な権力を飾る奢侈的な物品の生産に至らなかった事も、王侯の墓を発掘して文化の優劣を議論したがる考古学者との相性が悪く、考古学が海洋民族的な活動を検出できない大きな原因になっている。

漁民にとって漁労に必須の素材はコメではなく、アサ、シナノキ、船材になる各種の樹木でありそれらの加工品だったから、稲作者になったmt-B4もその価値観の下では、稲作地の配分に異議を唱える状況にはなかった。つまり矢を生産する為には、冷涼な八ヶ岳山麓でウルシ樹を栽培する必要があり、竹林を形成して矢竹を生産する必要もあり、その上でアサを栽培して漁具を生産し、漁労の生産性を高める事は、コメの収穫を最大化する事より優先するべきである事が、自然発生的に常識化されていたと想定されるからだ。

従ってmt-B4が個人的な稲作地の拡大に走る事は、好ましい現象ではないとの認識も常識化されていた筈であり、稲作の生産性の向上が環状集落を生み出す契機にはなったが、全ての環状集落に必ず稲作者がいた訳でもなく、環状集落の成因が稲作者の明らかな収穫の差であったとしても、それを普及させたのは、弓矢の生産の活性化に伴って個人的な能力差が生み出す貧富の差が、集団作業を必要とした堅果類の樹林の維持作業が、円滑に行われなくなる事を危惧したからだと考えられる。

mt-B4にお洒落な生活を楽しむ余裕があったのは、コメの需要が生産量に合わせて意識的に調整され、安定的な生業になったからだと想定されるが、彼女達には他にも仕事があったから、お洒落な生活の享受は好ましい現象ではなかった可能性も高い。生産性が高い南関東や矢尻街道で起こった限定的な現象だったのであれば、mt-B4の情報網が推奨する共通文化ではなく、mt-Fと共生していたmt-B4だけが染まった文化になり、現代的な感覚では不良少女や不謹慎な女性達だった疑いもあるからだ。

以上の結論としては、堅果類の樹林を共同の生活基盤として何万年も過ごしてきた縄文人には、共同体的な意識が極めて強かったから、稲作が盛んになる前には敢えてそれを再認識する必要はなかったが、交換経済が活性化し始めた縄文早期に共同体意識の崩壊が危惧される状況が生れ、稲作の生産性向上が生み出した収穫格差の大きな個人差が、それに拍車を掛けたから、共同体意識を再認識して堅果類の樹林を維持する為に、環状集落が生れたと考えられる。

堅果類は縄文人の基礎食料だったから、樹林を共同管理する必要性から環状集落を形成したが、堅果類は縄文人の基礎食料ではあっても漁民との交換価値は乏しかったから、ドングリの蓄積の多寡が経済的な豊かさを示すものではなく、しかし前時代的な共同管理で樹林を維持する必要があったから、環状集落が生れたと考えられる。

従って環状集落に居住していた東日本の縄文人は、平等な社会を形成していた様に見えても実は海洋民族的な成果主義が入り込み、経済活動に競争を強いられる状況が生れていた。従って構成員には経済的な平等はなく、個人に高度な技能が要求された稲作もその価値観に従属する生産物だった。栽培化途上の稲作は、情報網によって幾ら技術を共有しても、個人的な技能差が生れる事は避けられなかったからだ。

農耕系の産業は個人主義的な生産形態の方が生産性は高まり、栽培技術も進化するから、その点では漁民の価値観を肯定する業種でもあり、生産性の向上には稲作技術の高度化が必須である事も、海洋民族の社会と相性は良かったが、農耕には優良な農地の占有の方が優先課題であり、その実現には権力闘争が必要だったから、技術の向上は海洋民族の社会で実現したが、農地を確保する権力闘争が重要になった農耕社会では、農耕技術の進化が停滞するいびつな現象が生れた。

極めて農耕民族的な中国や韓国では、生産経済の単位が数百人規模の一族であるのに対し、日本では農村の経済単位が家族である事は、この様な歴史的な背景があるからだと推測される。

生産物に保存性がない漁民には蓄財の概念がなかったから、彼らの蓄財意識は親譲りの船や漁具を継承する程度のもので、それらは消耗品的な生産手段に過ぎなかったから、自分の実力で漁獲を得てそれらを更新しなければ持続性のある豊かな生活は得らなかった。つまり次世代になると富裕者が別の家族に代わる一代限りのものだったから、隣人が金持ちでもあまり気にしない日本人の特徴も、この様な生活環境から生まれた可能性がある。

これは日本の海洋民族だけの特徴ではなく、隋書高句麗伝に「結納は簡素で財物を受け取る事を恥とする。」「父母が亡くなって埋納が終わると、死者が生前に身に着けていた者や車馬は全て墓の前に置き、会葬者が争って取って帰る。」などと記され、漁労文化から発展したシベリア系の交易国家だった、高句麗の労働者も同様な価値観を持っていた事を示している。彼らには十分な就業機会があり、労働の成果で日常生活を賄う事を美徳としたから、財産は一代限りのものとする習俗があった事を示しているからだ。

交易国家や交易的な部族が有効な活動方針を打ち出せば、経済活動に特化した民族国家が発展する為には、それに必要な仕事が計画的に生み出され、労働需要が満たされない状況が作り出された事を示唆し、縄文早期後半から縄文中期までの関東部族にも、類似した状況があったと推測される。

これは国家社会主義の様にも見えるが、古代社会の人口規模を考慮すれば単純な企業主義であり、好況時に慢性的に人が不足する状況であると考える方が実態に近いだろう。縄文中期までの関東部族はその様な状態だったから、縄文後期以降もその様な部族経済を維持する事が部族の共通目標になり、縄文後期以降も部族を経済単位とする経済活動の活性化を目指したが、経済活動が複雑化して利害関係による地域分割が生れ、企業集団としての再編と分裂が進行した。それは関東部族に限った事ではなく、各部族に共通する現象だった事も既に指摘した。

 

4-2 縄文後期に起こった経済的な変化

縄文後期の関東部族の経済活動には、二つの激震が走った。

(1)、縄文後期に大陸は青銅器時代になり、青銅の矢尻が黒曜石の矢尻を駆逐したから、最大の生産量を誇った矢の需要が激減し、多数の縄文人が失業した。

(2)、mt-Fの稲作の生産性が高まってmt-B4の何倍もの収穫を得る様になると、mt-B4の稲作地の狭さが問題になり、mt-B4が西日本に移住する流れが生れた。

 

4-2-1 弓矢産業の喪失

矢の需要が失われると縄文人の労働力に大きな過剰感が生まれたので、他の産業を興す動きが活発化したが、最大の経済活性化策はmt-B4を西日本に入植させ、コメが流通する経済を活性化させる事だった。それに伴って北九州で起こった事をその3で検証したが、それを他の地域にもそれを拡大する事により、各地の地域経済を活性化させると関東部族の交易量も増加したからだ。

獣骨交易は華南や華北でも始まっていたから、シベリアの狩猟民族との交易が下火になっても、獣骨が逼迫して漁労活動が沈滞する事態には至らなかったが、大陸の稲作民族との交易には、縄文人が生産する商品を必要としなかったから、南方派が推進する交易が活性化しても、関東縄文人の労働力の過剰感は解消しなかった。稲作民族から獣骨を得る交易は海洋漁民が湖北省に塩を運び上げ、代わりに得た荊の工芸品を華北の栽培系狩猟民族に売り、帰りの船に獣骨を満載するものだったからだ。

大陸の稲作者や製塩業者が交換経済を活性化させると、稲作者が飼養する家畜の獣骨もそれに加わったから、獣骨の不足は生じなかった。漁民にはそれに対応する遠距離交易者としての活動の場があり、交易の利益に宝貝貨の運用益も加わったから、それらが中華世界から獣骨を得る追加的な手段になったからだ。この獣骨が関東部族の経済活動に組み入れられる為には、関東縄文人が代価として支払う物資が新たに必要になり、それがコメだったと考えられる。また他の地域の漁民が生産性を高める為に、関東部族が生産した漁具を入手する際にも、その地域で稲作が行われていればコメが決済品になり、コメが交易の媒体としての重要性を高めた時代が、縄文後期に始まったと考える必要がある。

関東部族の漁民は南方派の交易に参加する事により、その利益の配分を得る事が出来たが、縄文人はその経済活動から疎外される状況が生れ、稲作に走る動機が生れた。縄文中期のmt-FのペアはY-Dだった可能性が高い事を指摘したが、その何倍もいたY-O2b1mt-B4ペアもコメの増産に走る必要が生れたが、縄文後期温暖期のmt-Fの予想外の増産が関東のコメの価格を低減させたから、Y-O2b1mt-B4ペアにとっては困難のダブルパンチになった。それを現代風に言えば、夫は弓矢産業から解雇され、妻が栽培していたコメの価格が半減した。

関東部族がシベリア産の獣骨の入手に危機感を持ち始めたのは、中華世界が青銅器時代になった縄文後期ではなく、黒海沿岸で青銅器の生産が活発になった縄文中期前半期に、その兆候を見定めていたと推測される。縄文中期に黒陶が華北から発掘される事情が、危機感を高めた関東部族が中華世界から獣骨を調達する方針に転換し始めた事を示しているからだ。

弓矢を華北の栽培系狩猟民族に販売し始めたのも、その事情があったからで、黒陶より先に弓矢の販売が始まったと想定されるが、mt-B4が縄文中期に製作した土器や耳栓は彼女達の趣味の域を出るものではなく、用途や技能の汎用性がなく、職人が技術を高度化する要素もなく、国際商品になる条件は整っていなかったから、獣骨の入手量を増加させる為には、荊が生産する黒陶に傾斜せざるを得なかったとも言える。

湖北省時代の荊は豊かな稲作を得る為に厳しい土木作業に耐え、塩を得る為に他民族の奢侈品需要を生み出し、それを生産する為に産業を活性化さたが、青洲に移住すると水害の恐れが和らぎ、土木的な重労働から解放されて時間的な余裕が生れた。その上に塩の入手が容易になり、荊の産業力の目標が民族需要に解放されたから、荊の産業力は製塩業者が求める奢侈品を含む、新しい需要の充足に向かって回転し始めた。その様な環境下の青洲では、大富裕者になった製塩業者が奢侈品を消費する文化を先導し、荊の産業がそれに応えて生活を豊かにする物資の生産と交易に方向転換したから、関東から輸出できる製品の創造は容易ではなく、それに向かう産業には縄文人を雇用する力はなかった。

縄文後期の関東部族では、弓矢の生産に従事していた手工業者が失業しただけではなく、矢尻街道で物流を支えていた宿場の人々も職を失い、慢性的な労働人口の過剰感に苦しむ状況が生まれたが、関東部族には弓矢に代わる生産物がなかったから、縄文人の労働力を吸収する唯一の産業は、関東部族が得意とする海運業を支える為の造船業だったと考えられる。これは荊には真似ができない生産分野であり、縄文後期の青洲で活発化した経済活動に関東部族は輸送力の増強で対応したから、縄文人はその点で優れた業績を残したと推測されるが、それに関する考古学的な成果は皆無に近い。

しかしその程度の産業の活性化では、失業した関東縄文人の労働力の補填には程遠い状態だった。船に積んで交易する商品の生産に費やす労力の方が、船を製作する労力より圧倒的に多くなければ経済活動が活性化しない事は、時代を問わずに証明する必要がない明らかな事実だから。

関東部族の漁民が運んでいた物は、製塩業者が製塩した塩や荊が製作した陶器などの、稲作者の生活を豊かにする物品であって、関東縄文人が製作した商品ではなかったから、高いマーケティング力を駆使して商品生産を主導した漁民集団を海洋民族と定義すれば、関東部族の縄文人の労働需要が荊の労働によって賄われる状態になった。

その様な関東部族の状況を現代的に言えば、生産工場の海外移転が発生したのではなく、荊が開発した商品の市場性が高く、縄文人には農耕民族が欲しがる商品の開発力も欠けていたから、生産基地としての立場を失っただけではなく、開発拠点でもなくなった事になる。関東部族は漁民が担務する海洋輸送力は高かったが、農耕民族化していない関東縄文人には、荊と比肩できる奢侈品の開発力も生産力もなかったからだ。

荊の激増する需要を支えながら沖縄から漁民が撤退した背景には、造船業が活性化して大型船が多数作られた事情もあったが、組織化した九州の漁民にその船を支給する事により、輸送力が飛躍的に向上した事情もあった。この時期に結成された九夷には、北九州に移住した関東部族の漁民、熊本や長崎にいた関東系漁民、対馬部族や伊予部族などが参加し、青州交易の強力な増援部隊になった事が、僅かな数の漁民を沖縄に派遣する意味を失わせたからだと考えられるからだ。その陣頭指揮を執っていたのは、薩摩半島に入植した関東部族の南方派だった。

シベリアとの弓矢交易が低調になると、それらをシベリアに運んでいた関東の漁民が失業し、湊を提供していた伊予部族も打撃を受け、独自の弓交易を行っていた出雲・対馬部族は交易を失ったから、彼らは交易を求めて南方に目を転じる必要があり、積極的に関東部族の南方派の旗下に馳せ参じる状況だったと推測される、彼らが東北のmt-M7aと共に彼らの故地で稲作を始める事も、必然的な流れだった。

弓矢交易に依存していた縄文人が失業すると、彼らは海産物の需要を控えてドングリを多食する様になったから、獣骨の入荷が増えてもそれを使って生産した海産物の需要が乏しくなり、漁民が生産していた漁獲の生産過剰問題も発生した。つまり関東部族の経済活動が不況状態になり、海洋漁民にも打開策を求めざるを得ない事情が生れたが、これは北方派の漁民問題であって、南方派の漁民は交易事業に忙殺される状況が年々厳しくなった。

関東の漁民の構成としては、南方派の交易に積極的に参加していた漁民と、シベリア交易に積極的に参加していた北方派の漁民と、縄文人に漁獲を提供していた一般漁民がいた筈であり、縄文人の人口が漁民の半分程度だったとすると、一般漁民が多数派だったと想定される。一般漁民の中の体力が壮健だった者は、生涯に何度かどちらかの交易活動に参加していたと想定され、縄文後期の経済事情の激変期になると、それぞれの漁民には異なった身の振り方があったと考えられる。

関東部族の南方派が計画していた薩摩半島への移住は、南方派の漁民を動員するものだったが、青洲に移住した荊の人口爆発を勘案していなかったから、縄文後期早々に輸送力の欠如が露呈しただろう。緊急時のその対応策として九夷を結成すると、北方系漁民の行き場がなくなっただけではなく、関東では人が過剰状態になった一般漁民の身の振り方にも、南方派は解決策を提示できない状態になったと想定される。

その様な一般漁民の一部が活路を求め、北方派が開拓した北九州に移住する事は必然的な結果だったから、その3に示した九州弥生人の遺伝子構成を生み出したと推測され、北九州以外の地域であってもmt-B4の移住先の目途が立つと一緒に移住する漁民も多数発生したが、その有力候補地は関東部族に漁労権があった播磨灘沿岸と大阪湾岸だった。この地域は縄文中期まで、北方派が開拓した磨製石斧の製造拠点だったから、北方派が北九州で得た経験を基にmt-B4Y-O2b1ペアを入植させやすい場所でもあり、シベリア交易を失って失意のどん底にあった北方派としては、渡りに船の新規交易事業だった。

この移住によって得られた経済効果は、mt-B4にとっては稲作地の拡大であり、海洋漁民にとっては海産物需要の獲得だったから、従来の関東部族の経済構造とは異なるものになった。つまり縄文中期までは、弓矢の生産が至上命題で稲作は脇役に過ぎなかったが、縄文後期にコメが北方派の経済活動の基軸になった。それによってコメの生産量の拡大がmt-B4の至上命題になり、北方派の漁民はその様なmt-B4の活動をサポートする存在になった。交易社会では交換経済が回転する事が至上命題であり、交易に投入される物品は何でも良かったから、この交易活動の拡大が、縄文後期以降の関東部族の北方派の中核的な命題になると共に、関東部族だけではなく日本の海洋民族全体の社会構造に、大変革をもたらした。

関東部族内の事情としては、縄文中期までは南方派に所属していたmt-B4が、青州交易に没頭してmt-B4の苦境を顧みない南方派から自立し、弓矢交易を失って新たな交易材料を探していた北方派と提携し、北九州や播磨灘沿岸に移住する流れを生んだ。

縄文中期までは東北の諸部族として弓矢交易に参加していた伊予、出雲、対馬部族は、関東の南方派と提携して九夷を結成する一方で、関東部族の北方派と提携したmt-B4と東北南部のmt-M7aの熱帯ジャポニカ栽培の情報網を活用し、北九州に生まれた稲作者とアワ栽培者の共生関係を導入しながら、彼らの故地を稲作地に変える活動も活性化した。周防灘の東南岸が豊国と言われたのはその成果であり、豊国は熱帯ジャポニカの栽培地であってmt-Fの入植地ではなかったし、北九州で生まれたmt-D4mt-F亜流の稲作地でもなかった。

北九州に移住した漁民が縄文晩期に倭人として九夷から自立したのは、濊と提携して毛皮交易を活性化させる為だった事は既に指摘したが、毛皮交易は関東の北方派の新しい交易事業でもあったから、北九州の大率系譜は北方派で、その配下の漁民も北方系だった事に繋がり、歴史の流れが整合する。

縄文後期初頭のドングリピットが多数発見された野多目は、「那珂川」を挟んだ春日丘陵の対岸にあるが、水戸市を流れる「那珂川」と同じ名前であるから、この名称が古い時代のものであれば、北九州に移住した漁民は那珂川流域を拠点としていた北方系の漁民で、mt-B4も彼らと共生していた女性だった可能性を示唆している。那珂は二者の境界を流れる川を意味し、北九州ではmt-D4と関東部族の境界を流れ、北関東の那珂川は古大田原湖に流れる川として、右岸がアワ栽培者の地域で左岸が稲作者の地域であれば、那珂川の意味に共通性が生れるからだ。縄文中期の那珂川の左岸に関東系の集落があり、右岸の丘陵地の長者ヶ平遺跡から火炎土器系の土器が発掘された事は、縄文人の活動期/その5で指摘した。

 

4-2-2 縄文中期~後期の関東の稲作者

mt-F

関東部族の北方派は縄文中期には、弓矢交易の斜陽化を察知してその対策に苦慮し、色々な新事業に挑戦していた。毛皮交易もその候補だった可能性はあるが、縄文中期にそれが開花した証拠は発見されていない。mt-Bmt-Fを岡山に入植させる事もその一貫だった可能性は高く、縄文前期に稲作が行われた痕跡があるが、縄文中期にそれが活性化した事情を、縄文人の活動期その2に掲げた西日本の稲作事情が示している。

従ってmt-B4を香川にも入植させる事業も、縄文中期に始まった可能性が高いが、それが将来の大輪になるとは持っていなかったと考えられる。しかしmt-Fの岡山への入植も積極的に進めたから、その一部が壱岐に入植した事になり、その経緯がかなり強引だった事は、重要な事業であるとの認識があった事を示している。

北方派がその様な温情をmt-B4に示したのは、弓矢の生産には縄文人の協力が不可欠だったから、彼らの困窮に応じて手を差し伸べる事が、弓矢の安定的な生産には必要だった事を示している事になるが、mt-Fのペアは南方派の漁民だった筈であり、mt-Fの稲作はかなり不調だった時期だから、焦りながら当てもなく色々な事業を試していたとも言える。

北方派は稲作者とのその様な関係を模索していたが、南方派はmt-Fのリクルートを成功させた後には稲作者との目立った接点はなく、縄文後期に彼らが必要としたのは漁民の海運力だけで、その主力は関東出自の漁民ではなく、九州の漁民や東北から移住した漁民だった。つまりmt-B4mt-Fも縄文後期には、南方派との連携を見限って北方派と連携する流れが生れた。

 

mt-B4

縄文中期までのmt-B4は、アサの栽培地や堅果類の樹林に近い場所に居住し、稲作地の拡充には積極ではなかったかもしれないが、縄文中期に那須町の何耕地遺跡を遺した事は、熱帯ジャポニカの栽培に対する意欲は高かった事を示している。縄文中期にはこの地域に多数の遺跡を残していないが、縄文中期以降に関東のmt-B4が作ったと考えられる加曾利E式土器が、東北南部の土器である大木式土器の影響を受けて発生し、その影響が縄文後期まで断続的に続いた事と、縄文中期後葉の福島県の縄文遺跡に、加曾利E式土器と大木式土器が混用された状況を示しているものが多数あり、その様な遺跡多くが多数の住居跡を伴っている事が、熱帯ジャポニカ栽培の福島県への北上を示しているからだ。その様な遺跡の縄文中期末の地理的な環境を復元すると、mt-B4型の稲作適地だった事を示している事もその証拠になる。従って何耕地遺跡に集積していたmt-B4が行っていたのは、北関東より冷涼な福島の山間地の湖沼群の湖畔で、mt-B4型の稲作を行っていたmt-M7aの為に、類似した気候環境下で熱帯ジャポニカを栽培し、福島のmt-M7aの稲作を指導する為だった可能性が高い。

何耕地遺跡は海洋漁民の集積地だった日立市から、那珂川を100㎞も遡上した場所にあり、標高も250mほどあるから、関東のmt-B4にとっての稲作適地だった事に疑念があるが、福島の遺跡は概ねその程度の標高にあるから、それらの地域のmt-M7aの栽培環境に合わせたのであれば、納得できる環境になるからだ。

関東のmt-B4がその様な温情を示したのは、mt-B4自身の意向ではなく関東部族の北方派の希望だった可能性が高い。関東部族の北方派はシベリア交易の為に東北の太平洋沿岸を北上し、北海道を周回して樺太に至っていたが、その航路上の湊を提供していたのは伊予部族だったから、伊予部族の庇護下にあった福島の縄文人が、関東部族から熱帯ジャポニカの栽培技術を獲得したいと希望すると、色々な便宜を図ったと推測されるからだ。

縄文前期温暖期に大木式土器が生れたから、それが東北南部の稲作者の土器だった可能性が高く、縄文中期寒冷期になって気候の冷涼化が進行すると、福島のmt-M7aの稲作も苦境に陥ったから、関東部族のmt-B4にアドバイスを求めていたと考えられるからだ。

しかしmt-B4が集積していた大宮台地や常総台地は、福島より明らかに温暖だったから、mt-B4のアドバイスにも不確かなものが混入する事は避けられなかった。縄文中期寒冷期になって福島の稲作も苦境に陥ると、日立の漁民との合意の下に何耕地遺跡に入植し、寒冷地稲作の実験場にしたとすれば諸事情が整合する。

それによって東北のmt-M7aと関東のmt-B4は、同じ熱帯ジャポニカを栽培する者としての情報網を構築し、一体的な民族内民族関係を形成したと推測されるから、縄文後期にこのmt-M7aだけではなく古山形湖の周囲にいたmt-M7aも含め、東北系部族の漁民と共に西日本に移住する流れが生れたからだ。

この関係は縄文中期にはmt-B4の一方的な善意に見えたが、縄文後期に意外な展開に発展し、「情けは人の為ならず」を実践した事になる。

意外な展開は二つあり、一つはこの活動によって熱帯ジャポニカの耐寒性や耐寒技術を高めた結果として、縄文後期のmt-B4に北関東の広大な稲作地が解放された事で、もう一つはmt-M7aが伊予部族の故地である九州南部に入植した際に、mt-B4も一緒に入植した事が挙げられる。縄文後期にmt-B4が得たものはこの二つだったが、mt-B4が開発した熱帯ジャポニカの耐寒技術が、日本式の稲作の開発に大いに寄与し、弥生時代以降の日本が瑞穂の国になった事は、更に意外な展開だった。

更に言えば、福島のmt-M7aを介して広げた熱帯ジャポニカの栽培情報網が、縄文晩期にmt-B4が日本式の稲作を拡散する際にも活用され、北海道を除く日本全土に日本式の稲作が拡散すると共に、その活動を支援した関東部族の北方派の内需交易が、日本全国の物部を育て、中央集権的な王朝が飛鳥時代に生まれる素地を形成した事も、この活動が発展した結果だった。

 

4-2-3 縄文後期の関東の稲作事情

縄文後期に南関東にいたmt-Fが稲作の生産性を劇的に高めると、南関東で稲作を行っていたmt-B4の半分以上が、西日本に移住する決断を求められ、播磨灘や大阪湾岸に移住したから、北九州に移住したmt-B4はその一部に過ぎなかった。

関東部族の南方派は三浦半島~駿河湾を拠点にし、関東に渡来させたmt-B4mt-Fをその様な温暖な地域に入植させたと推測され、北方派は房総半島以北を拠点としていたと想定される。縄文早期にはその様な色分けは明確ではなかったとしても、シベリア交易の弓矢が多摩川から搬出され、縄文前期~中期には海だった北関東を経て東北の太平洋岸を北上したから、その沿岸の漁民は北方派に傾斜する様になり、mt-B4mt-Fの最初の入植地は温暖な地域になったから、南関東の漁民の多くは南方派になっただろう。

活動的なmt-B4は縄文前期温暖期に常総台地まで拡散し、北方派とも交流するようになったから、東北のmt-M7aにも熱帯ジャポニカの栽培が拡散したが、縄文前期末に渡来したmt-Fが北方派と交流するには数百年の時間が必要だったと推測される。彼女達が遺した中部山岳地の代表的な遺跡である井戸尻遺跡は、縄文中期中葉の遺跡であり、壱岐に入植したmt-Fを観察したmt-D4+M7bのドングリピットは、縄文中期末の遺物だからだ。

渡来直後のmt-B4mt-Fが集積した小田原や駿河湾沿岸は、事情がある程度分かっている縄文晩期以降でも、富士山の崩落を原因とした土石流や泥流に何度も襲われ、遺跡を押し流して厚い土砂で覆ったから、彼女達の痕跡は殆ど発掘されていないが、温暖な地域では稲作の生産性が高いから、縄文後期初頭には多数のmt-B4がいたと想定される。

しかし稲作者に対する南方派の海洋漁民の庇護は乏しく、西日本に移住する際には、北方派の漁民や一般漁民と一緒に入植した可能性が高い。南方派の漁民は荊の青州への入植以降極めて多忙になり、mt-B4mt-Fに対する十分なサポートを行う事ができなかったからだ。南方派と北方派の合意事項があったのか否かは別にして、関東の縄文人に関する共生漁民としての義務の履行は、北方派に一任された可能性も高い。古事記の記述に依れば縄文後期前葉の彼らの拠点は、航路の要衝になった薩摩半島になったからだ。(天孫降臨説話)

北関東のmt-B4も一部は西日本に移住したかもしれないが、多数派は北関東に残留していたと推測され、半分以上が移住する必要に迫られていた南関東のmt-B4の移住事業は、北方派のサポートの下に粛々と進められたと考えられる。北関東に残留したmt-B4は、温暖期なった事を僥倖として北限的な地域に入植し、縄文晩期になってもその地域で継続的に熱帯ジャポニカを栽培し、耐寒性を高めたから、弥生温暖期の青森でも熱帯ジャポニカが栽培できたと考える必要があるからだ。

宇都宮市の平均気温は14.3℃で、青森市の平均気温は10.7℃だから3.6℃の差があるが、縄文晩期寒冷期から弥生温暖期の昇温は1.5℃程度だったから、宇都宮より2℃冷涼な地域での栽培実績が必要だった。宇都宮市の標高が100mである事を考慮すると、標高400m以上の地域で栽培していた事を意味するから、那珂川上流の余笹川流域まで稲作地にした事は当然として、久慈川を遡上して福島県の棚倉町に至り、其処から更に北上して阿武隈水系に進出した可能性も高い。白河市域を含む阿武隈川の上流域には、mt-B4が好む地形が展開していたが、福島で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-M7aは縄文後期前葉に、沿海部の伊予部族の漁民と共に九州や四国西南部に移住してしまっていたからだ。

また北関東に北上したmt-Fの稲作手法を一部取り入れ、縄文中期寒冷期には稲作地にできなかった低湿地にも進出したと想定される。縄文後期になると男性達が土木作業を行った痕跡が、北関東の遺跡から発掘されているからだ。従って扇状地の様な傾斜を持つ大田原市の沖積平野も、縄文後期にはmt-B4の稲作地になったと推測され、伊予部族の縄張りだった阿武隈川の遡上権も認められれば、福島県全域が関東部族のmt-B4の稲作地になった可能性もある。但しこの時期のmt-B4は低湿地稲作を志向し始めていたから、関東平野と同様に縄文中期の台地上の遺跡は発掘されても、縄文後期以降の低湿地の遺跡は発掘されていない可能性が高い。

考古学者は縄文中期の終末期から後期にかけて土器の形状が簡素になり、環状集落が消滅して集落規模が縮小し、柄鏡型敷石住居が出現したから、大きな社会的な変貌があったと指摘している。

具体的には隆帯を文様の基本としていた縄文中期的な土器が、縄文後期には磨消縄文が卓越する様になり、土器の製作手法が簡素化したと指摘している。それを稲作者だったmt-B4の事情として捉えると、彼女達の稲作地が低湿地に拡大したから、女性達の労務負担が増え、土器の形成に手間暇を掛ける余裕がなくなった事を示している。

柄鏡型敷石住居は、縄文中期の中部山岳地帯で盛行した敷石型の住居が変形したもので、弓矢産業の衰退によって多数の縄文人が、中部山岳地帯から関東に降って来た事を示している。縄文中期の関東で盛行した加曽利E式土器は、縄文後期後葉の関東では作られなくなったが、その技巧の一部が縄文後期の西日本の土器に見られるとの指摘も、これらの想定と合致する。

関東に在住していたmt-B4だけではなく、中部山岳地帯で一旗揚げていたmt-B4も、弓矢産業の衰退と共に関東に降って来たから、縄文中期末~後期初頭の関東には、稲作地を求めるmt-B4が充満していた事になる。中部山岳地にいた関東部族の多数派はmt-M7aだったが、彼女達は伊予部族の伝を頼って北海道に移住したと想定されるので、4-4-4北海道で栽培化されたヒエの節で検証する。

 

西日本に移住した関東部族

この時期の関東部族は、淡路、讃岐、武庫川流域に入植したと推測される。この時代に大阪平野はなかった事は既に指摘したが、大阪湾の東岸にはmt-B4が入植できる場所がなかったからだ。

縄文時代の淀川は山崎辺りの丘陵に遮られて湖を形成していたから、京都盆地はその湖の湖底になり、大和川も生駒山系に遮られて古奈良湖を形成していたので、淀川も大和川も山間の支流が削り出した土砂を大阪湾に流出させる状態にはなく、それらの土砂は巨大湖の川洲として蓄えられていたから、淀川から土砂が排出される事はなく、高槻まで湾入していた大阪湾に流れ込んでいた、淀川の河口には川洲が存在しなかった。

阪南地域に傾斜がある台地があるが、現在も台地の縁に海が迫っている状況があり、mt-B4が好む地形は乏しかった。この様に記すと豊国の地形と類似している様に見えるが、この地域の河川の谷は狭く、沖積土砂が堆積していない。台地を構成している土壌が沖積した後に固く締まり、浸食され難いからだと推測されるが、他にも違いがあるかもしれない。

西の生駒山系と北の六甲山系が大阪湾岸に屹立する山塊を形成し、高槻まで湾入していた大阪湾の沿岸は山裾の岩石や狭い洪積台地を波が洗う状態だった。

関東部族は中国山地の蛇紋岩から磨製石斧を得る為に、1万年前の岡山に入植したが、その頃の播磨灘は淡路島に流路を塞がれた河川が形成する湿地だった。当時の関東部族の船は、明石海峡から流れ出ていた河川を大阪湾から遡上して岡山に達したと想定され、大阪湾は岡山に入植した関東部族が海産物を得る場所だった。それ故にこの時代に関東部族の漁労権が大阪湾で確定し、海面上昇に伴って播磨灘も得たから、縄文後期に関東部族が入植できたが、それ以外の地域には漁労権はかなかったから、関東部族の縄文人は播磨灘沿岸、淡路島、大阪湾に流れ込む河川流域に入植した。

山崎の奥には巨大湖があったが、その沿岸は後世の倭人国ではなかった。続日本紀が奈良朝の祖先は大津にいた事を示唆しているが、関東部族系の集団が大津を得たのは弥生時代末期だったので、此処ではその経緯は割愛する。当時の大阪湾は六甲山地と生駒山地に囲まれて平地に乏しい地域だったから、広い湖沼群があった武庫川の中流域が、mt-B4に集中的に稲作地を提供する唯一の河川だった。

当時の武庫川の河口は宝塚駅の辺りで、其処に小さな沖積地が形成されていた可能性はあるが、mt-B4が入植する様な場所ではなかったと考えられる。宝塚から道場町に至る渓谷が侵食され、有馬温泉から福知山線の草野駅に至る間を、細長くうねる様に連なっていた湖が消滅するまで、武庫川の河口に沖積地が拡大する要素はなかったからだ。

渓谷の深さが海抜140m程度まで侵食されると、この湖は殆ど消滅して三田駅以北がmt-B4の稲作地に相応しい沖積地になったが、その時期は明らかではない。川の傾斜がきついから漁民が武庫川を船で遡上する事は難しく、入植したmt-B4は北陸部族のアワ栽培者と共生し,アワを主食にしながら人がコメを背負って20㎞ほどの有馬街道を往来し、大阪湾岸の交易活動に参加したと推測される。それ故にアワ栽培者の影響を受け、関東部族とは異なる習俗を持つ稲作集団になったと考えられる

淡路島にある南あわじ市の平坦地や、播磨灘の南岸にある讃岐平野は、海岸に近い場所でも標高が10m以上あり、狭い平野でありながら山裾の標高が30mを越えているから、前回の間氷期に形成された洪積台地の残渣であると推測され、瀬戸内が沈降地殻である為に海岸に沖積平野が生れ難い地域になっている。こちらの台地には河川の浸食による広い谷が形成されているから、mt-B4の稲作地には相応しい場所だったが、13万年前の前回の間氷期に、この様な場所に広い沖積平野が形成された事に一抹の疑問がある。

13万年前の前回の間氷期に岡山と香川は浅い海で隔てられ、淡路島がそれを塞いでいたから、現在岡山を流れている河川が香川や淡路島まで沖積平野を形成していたが、氷期直前の豪雨期に海面が急低下する際に、明石海峡や鳴門海峡が急速に浸食されたから、これらの台地を侵食する筈だった川の河面標高が急低下し、河川に浸食されずに残されたから、淡路島の平坦な地形もその過程で形成されたと推測される。西宮神社の恵比寿神は淡路島から上陸したとの伝承が、邪馬台国の別の起源を示しているから、魏志倭人伝に記された海洋民族的な邪馬台国は、この系譜の人々が統治する国だった可能性が高い。

吉野川流域を中核とする阿波は山陰系縄文人の縄張りで、香川から見た吉野川流域は讃岐山脈の反対側になり、其処がアワ栽培者の縄張だった事は、関東部族の漁労権は播磨灘と大阪湾に限定され、紀伊水道は含まれていなかった事になる。

北九州に伊都国や奴国などの倭人国があった事は常識になっているが、邪馬台国や投馬国の所在地には荒唐無稽な諸説あり、纏向古墳を卑弥呼の墓にしたがる人が多い。しかし奈良盆地と京都盆地は加茂社を祭る地域で、古事記は「迦毛の大御神」は宗像を起源とする神で、宗像は出雲の大国主の勢力圏であるあると記している。御所市の高鴨神社は、全国鴨(加茂)社の総本宮であると主張しているから、古事記の記述と一致している。従って奈良の古墳は倭人系譜の王のものではなく、宗像を含む周防灘沿岸を部族域としていた、対馬部族の王の墓だった事になる。

邪馬台国九州説では、投馬国5万戸や邪馬台国7万戸を擁した広い地域の説明が難しく、大阪平野を控えて古墳時代初頭の古墳がある神戸が、邪馬台国の所在地に相応しい。投馬国の5万戸も吉備以外に候補はなく、弥生時代末期の吉備は広島東部も含む広大な地域だった事と整合する。従って邪馬台国に匹敵する奈良盆地は、女王国の南の大国だった狗奴国の地になり、は飛び地を意味したとの想定と合致する。起源地だった宗像や豊国から見れば、奈良や京都は飛び地だったからだ。従って北九州にもあった奴国は、稲作を行う女性の国を意味したと考えられる。

「女王国の東、海を渡って千余里(500㎞)に国あり、皆倭の種」と記された地域が、駿河湾を含む関東圏と距離や方角も含めて合致し、弥生時代末期に倭人国があったのは、北九州、吉備、大阪湾岸、関東になり、縄文時代以降の歴史と整合する。

魏志倭人伝に記された帯方郡から邪馬台国までの旅程は、倭人が魏の使者を騙したものであるが、邪馬台国から見た方位や距離は概ね正しかった事は、(1)魏志倭人伝で指摘した。

縄文後期~弥生時代に讃岐で採取されたサヌカイトが、吉備の帝釈峡や津島岡大遺跡で2次加工されて広域的に配布された事や、弥生時代~古墳時代の備讃瀬戸地域の海岸部に、同じ技術で塩作りをしていた遺跡が多数存在していた事が、吉備と讃岐が一体的な経済圏を形成していた事を示し、讃岐の一宮である田村神社(たむらじんじゃ)が祭る神が、吉備津彦命(きびつひこのみこと)である事も、吉備と讃岐の一体性を示し、これらの地域が関東部族の入植地だった事を示している。

 

4-3 日本式の稲作が日本文化に与えた影響

4-3-1 これを検証する必要性

縄文中期までの栽培文化は、それを担っていた女性達のミトコンドリア遺伝子と紐付ける事ができた。北東北の円筒土器は九州から北上したmt-M7aの存在を示し、それから分離した東北南部の大木式は、関東の加曾利式と影響を及ぼし合い、熱帯ジャポニカの栽培文化をmt-B4と共有した事を示している。西日本の縄文早期から中期までの土器は、アワ栽培者になったmt-D+M7aの文化系譜を示し、九州の曽畑式は関東から移住してジャバニカの栽培者の栽培者になった、mt-B5の存在を示しているからだ。中部山岳地帯の矢尻街道に開花した華麗な土器は、それらの女性達の混在が複雑な器形を生み出した事を示しているが、その背景を推測する事ができる。

しかし縄文後期以降は稲作者とアワ栽培者が共生する様になり、土器とミトコンドリア遺伝子の連携関係が失われたので、僅かに残された痕跡から共生の系譜を探す必要が生れ、それを時代の経過と共に薄れていく。その一方で部族社会も縄文後期から崩壊し始め、地域的な経済関係が再編される状況が生れたので、男性達の交易活動と女性達の栽培文化の関係も複雑になり、古墳時代には越系文化圏と倭人系文化圏に二分される状態が生れていた。

交易文化についてはその5で検証し、この項では縄文後期以降の栽培文化の変遷を追跡するが、それを示す資料は極めて乏しいので、弥生時代から近世までの稲作文化の中から幾つかの検討項目を掲げ、それを縄文後期まで敷衍する手法を採用し、具体的な歴史事実を検証する際の基礎知識とする。

農学者の佐藤氏が指摘した図をその3に掲げ、弥生時代の稲作者が熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混載していた事を前提に話を進めたが、弥生温暖期にはこれを否定する事情も存在した。

縄文晩期寒冷期にmt-B4が日本式の稲作を開発し、その技術を北陸まで拡散したから、弥生温暖期に津軽まで稲作が北上した。しかしmt-Fが持ち込んだ温帯ジャポニカの直播式でも、弥生温暖期には関東まで北上できたから、西日本の稲作者がそれを採用すれば労働負担は軽減した。

田植えが稲作の生産性を高める行為ではない事は、現代の稲作者からも指摘されているが、直播式の稲作では水田雑草であるタイヌビエの繁殖を抑える事が難しく、mt-Fの稲作はそれを克服する手段を有していたと考えられ、北九州でmt-F流の稲作をマスターしたmt-D4は、その対策も学んでいた可能性が高い。6月初頭の播種は、その対策だった可能性が高い。

mt-B4のネットワークは単なる栽培者の情報ネットワークではなく、関東のmt-B4を頂点とする階層的な情報ネットワークである点で、他の栽培女性達の情報ネットワークとは異質なものだった。しかし日本式の稲作を採用する為にはmt-B4の技術指導を受ける必要があり、それを継続する為には定期的に熱帯ジャポニカを更新する必要があり、それを関東のmt-B4に支給して貰う必要があった。

大規模農場の経営者が合理的な判断をすれば、9割の水田で純粋な温帯ジャポニカを栽培し、1割の水田で種籾を生産する為に混栽を行えば良かったが、その様な稲作が行われなかった事は、稲作は栽培規模が小さい個人経営的な稲作で、稲作者は女性だった事を示している。

生産性が高い温帯ジャポニカと生産性が低い熱帯ジャポニカを混載し、そこから生まれた雑種的な温帯ジャポニカを種籾にする事は、純粋な温帯ジャポニカの栽培より生産性が劣化していたが、それでも稲作者が従っていた事に特徴があった。

mt-B4が純粋な熱帯ジャポニカの種籾を配布しながら、各地の稲作を見分して適切なアドバイスを与えていたから、そのアドバイスを得た稲作者が高い生産性を得ていたとすると、mt-B4の教えを順守する動機にはなっただろう。しかし弥生温暖期の西日本でもこの様な稲作が行われていたとすると、女性達がこの不合理な稲作を受け入れていた事になる。

このネットワークが強力な統制力を維持した理由として、mt-B4の稲作とは直接関係がない以下の事情もあった。

(1) mt-B4の活動は関東部族の北方派の交易活動と一体化し、各地の漁民の生産性を向上させるものでもあった。関東の漁民は高度な漁労技術を持っていたから、それを拡散すると必要な漁具の販売が伴い、内需的な交易者としての地位を獲得する事ができた。従って稲作を取り入れた女性と共生していた漁民集団は、関東部族の船の来着をmt-B4の来着以上に歓迎する状況があった。

(2) 関東部族の交易観は極めて縄文時代的で、利益の追求への執着が弱く、異文化と交流して自分達の文化力を高める目的意識が強かった。荊の為に払う労力を惜しまなかった事は再三指摘したが、それは南方派だけではなく、北方派の交流相手は粛慎とも同様な関係を形成していた可能性が高い。それまでは競合相手だった異部族の漁民や栽培者が、同質的な交易相手である事に気付き、内需交易を重視し始めた事に違和感はない。従って他部族の漁民や栽培者は、稲作の効率化や漁労の生産性の向上だけではなく、関係を深める交易者としてmt-B4式の稲作を受け入れていた可能性もある。

この時代の人々は自分の食料は自分の活動で賄っていたから、交易活動の目的は生活を豊かにする事に焦点化されていた事情は、現代人には想像できないものがあるだろう。豊かさを求める選択の幅が広く、文化的な豊かさを求める事も有力な交易事業だったからだ。

(3)mt-B4が女性達の習俗的な情報ネットワークを再編成し、熱帯ジャポニカの情報ネットワークに組み込む手法に、優れていた事は間違いない。

以上は縄文的な海洋民族の本質的な行動原理だったから、西日本の人々が交易の利潤獲得に狂奔し始めても、依然として縄文的な交易活動を展開した事や、その交易相手が大陸民族から日本列島の人々に変わった事にも違和感はない。日本列島の各部族の文化が均質化し、日本人としての精神構造が形成された理由としては、最も可能性が高い仮説になるからだ。権力闘争史を追求する王朝史観では見えない事象だから、日本の史学者は無視するかもしれないが、その様な人々の回答はいつもながらの、偶然が重なってこの様になったというものでしかないからだ。

農学者の佐藤洋一郎氏は、熱帯ジャポニカを混栽しなくなったのは室町時代だと指摘し、

古代の水田には休耕田が多く、広大な平野の全面が黄金色一色に覆われる、見渡す限りの水田の景観は、中世になってもなお出現していなかった。

それが出現したのは、おそらく太閤検地のあと、あるいは近世に入ってからではないかとさえ思われると指摘している。

つまりmt-B4の混栽稲作は室町時代まで続き、安土桃山時代~江戸時代の初頭に全国一斉に終了したが、それと同時に休耕田が多かった水田が黄金色一色に覆われる様になった事は、日本の稲作史に何らかの異変があった事を意味するが、佐藤洋一郎氏は稲作史の画期だったと指摘している。

安土桃山時代に中世から近世に変り、人々の意識も大きく変化したが、その流れと稲作に対する考えの変化が連動した事は、mt-B4集団の実態を解明する鍵になる。

その背景事情として、この情報ネットワークに参加していなかったmt-Fが行っていた、直播の稲作技術も並行的に存在した事が重要な意味を持つからだ。つまりmt-Fは大陸で唯一の稲作民族になった縄文早期以降、水田雑草であるタイヌビエとの闘いを継続していたから、安土桃山時代~江戸時代の初頭に生まれた休耕田を不要とする稲作は、mt-Fが開発したと考えざるを得ないからだ。

水田雑草であるタイヌビエは、戦後に除草剤を使い始めた事によって大きな脅威ではなくなったが、水田に繁茂するとイネの生産性を極度に劣化させるから、除草剤がなかった時代には有効な対策が必要だった。最も安易な対策は休耕して何年も乾田として放置し、種を死滅させる事だった。草丈が長い熱帯ジャポニカを栽培していれば、湿田を冠水させる事によってタイヌビエを死滅させる事ができたから、mt-B4にとってタイヌビエは脅威ではなかったが、それができない熱帯ジャポニカを栽培していたmt-Fには何通りかの対策があり、湿田を形成する場所を定期的に変えてしまう事が最初の対策で、6月に播種する事だけではなく、水で草を切るのはタイヌビエを死滅させる行為だった可能性が高い。

つまり佐藤氏の指摘は稲作を指導する情報ネットワークが、mt-B4のものからmt-Fのものに切り替わった事を示唆し、mt-B4のネットワークが如何に強力なものだったのかを示している。

縄文後期に北九州のmt-D4が習得したのは、mt-F系譜の技術だった。このmt-D4は縄文晩期寒冷期に盛んに稲作を行い、その集落は弥生時代にも継続したから、考古学者が遠賀川式と呼ぶ土器が、弥生温暖期の西日本に拡散したのは、北九州のmt-D4が直播式の温帯ジャポニカを拡散した軌跡である可能性が高い。東日本には殆ど拡散しなかったのは、九州発の稲作では危険と感じたり、実際に収穫の現象に見舞われたりした稲作者が、関東発のmt-B4式を採用したからだとすると諸事情が整合する。

この稲作は弥生温暖期の終焉と共に西日本の生産性を極度に劣化させたから、それをmt-B4の稲作が上塗りすると、直播のmt-F式の稲作は寒冷な気候に弱く、mt-B4式でなければならないという認識が稲作先進地で一般化されていた可能性も高い。つまり佐藤氏が弥生時代の稲作として示した図は、東日本では弥生時代を通して変わらなかったが、西日本では弥生温暖期だったのか古墳寒冷期だったのか区別する必要があり、古墳寒冷期のものが多数含まれている疑いがある。弥生時代はBC700年~BC250年の350年間が温暖期で、BC200年~AD600年の800年間が古墳寒冷期だった。

古墳寒冷期にmt-B4が開発した稲作技術の成果が発揮され、中華世界では温帯ジャポニカの栽培が前漢末に途絶えたが、日本列島は古墳寒冷期に東アジアで最も先進的な稲作地域になり、大型古墳を林立させる経済的な繁栄を謳歌した事が、その事情を示している。焼畑農耕によるアワの支えがあったからではあるが、稲作を中心に回転していた日本の穀物経済が堅調に推移したから、繁栄を招く事ができたと考える必要がある。

大型古墳を形成した土木技術は、稲作に必要な灌漑技術や水田の形成技術から転用されたと考える必要があり、鉄器の普及がその繁栄を支えていた点も見逃す事はできない。つまり古墳時代の経済的な繁栄は、鉄器時代になって焼畑農耕によるアワの栽培が、飛躍的に高まった事も必須要因だったが、稲作の生産性が高まった事も事実であり、それは稲作技術の主導権を握っていたmt-B4の偉大な成果だった。従って平安温暖期にmt-B4の統制力が一層強まり、平安温暖期の終了と共に再び脚光を浴びる存在になったが、実際には寒冷期が始まった安土桃山時代~江戸時代の初頭に、稲作の指導者はmt-B4からmt-Fに変った。この極めて不条理な事実は何故生れたのか、検証する必要がある。

 

4-3-2 邪馬台国の女王卑弥呼

邪馬台国の成立と女王卑弥呼の即位は、mt-B4の稲作史を検証する上で有益な情報を提供してくれる。

尾瀬の花粉は日本列島の弥生温暖期が、BC250年に終了した事を示している。海洋に囲まれた日本列島では寒冷期への気候変化が急峻になるから、前漢代に稲作の不振に悩み始めた大陸の荊が、AD0年頃に東南アジアに移住した事情も、この違いによって生まれたと考えられる。つまりBC250年に始まった1次の寒冷化は、大陸では厳しくなかったが、BC100年に始まった2次の厳しい寒冷化により、東南アジアに移住した事になる。縄文中期寒冷期に湖北省に閉じ込められ、縄文晩期寒冷期に江西省に南下させられた荊としては、厳しい古墳寒冷期は耐えられないと的確に判断した事になる。

日本列島でも1次の寒冷化によって関東のmt-Fに打撃があり、mt-Fも日本式の稲作に切り替えたかもしれないが、種籾の支給が復活した可能性もある。2次の寒冷化に襲われると、北九州や大阪平野で従来の稲作を行っていたmt-Fも稲作を変える必要が生れ、mt-Fを真似た稲作を行っていた北九州のmt-D4の稲作は壊滅した。従って卑弥呼が誕生したAD190年の300年ほど前に、西日本のすべての稲作者が何らかの形でmt-B4の情報ネットワークに参加せざるを得ない状況が生れた。

mt-B4のネットワークに参加していなかった北九州のmt-D4はがどの様になったのかについては、現在の北九州のmt-DD4/D5比率が、日本の標準的な比率に近い事と、北九州より温暖な宮崎ではD4比率が高い事が示唆している。

mt-B4の情報ネットワークに参加者が増えると、階層が生れたと想定され、西日本の倭人地域には関東の総本部とは別に、地域の情報ネットワークを統括する女性が生れた事を、女王卑弥呼の誕生が示唆しているからだ。しかし卑弥呼は西日本の倭人国の女王であって、西日本の情報ネットワークを統括する女性ではなかった。

西日本の倭人30国は華北を商圏とする交易同盟を結成し、九州の大率がそれを統括していたが、華北の混乱によって入荷品が品薄になると、交換媒体だった米のインフレが高進した。それに不満を持った女性達の怒りを収める事が出来ず、女性達を代表する女王卑弥呼が生れたと想定されるが、邪馬台国の女性がその地位に就任する事は必然的な結果だった。

栽培種の品種改良や栽培技術の進化は、栽培している女性達の人数に大きく依存したから、栽培系の女性は漏れなく同一栽培種の情報ネットワークを形成したが、その様な女性達は栽培者の数が力の源泉である事を知っていたからだ。

魏志倭人は卑弥呼について、「自から侍べる婢千人がいて、飲食を給して辞を伝える(為に)出入する、唯一人の男子が有る」と記し、稲作者の情報組織の様に多数の女性が各国から集まり、慣れない議論を重ね、その結論を男性の代表に伝えていた事を示唆している。唯一人の男子であると倭人が魏の使者に教えたのは、海洋民族の会議には多数の男性の王が参加していたが、女王卑弥呼の下では男性達は、議決に意思表示する事が禁止されていた事を示している。

話し合いを基本としていた倭人社会に、突然絶対的な専制君主が生れたとは考え難いから、元々稲作社会にその様な背景があり、それを交易者の社会にも拡大する為に卑弥呼が登場したとすると、稲作者の社会では女性が稲作主体だった事を示唆している。つまり稲作は女性の仕事で、その成果であるあるコメを何と交換するのかについて、男性達には発言権がなかった事を示唆している。これは突然生まれた事情ではなく、その3で示した縄文中期のmt-B4の経済実態と同じで、コメの生産量が縄文中期の何倍にも増えていた事が違うだけだからだ。

従ってこの時代の女性達が生産するコメは、気候が寒冷化したにもかかわらず順調に収穫を得ていたのに、それと交換する交易品は中華経済の沈没によって極端に目減りしていたから、コメの生産者から見ると極端なインフレが発生した事になり、女性達の不満が極度に高まったと考えられる。九州の大率の統括を受けていた倭人国の国王は、この様な女性達の不満に応える説明ができなかったから、大率に代わって女性達が推す卑弥呼が、西の30国に君臨する大女王とし事態の収拾を図った事になる。「其の國本亦男子を以って王と為し,住くこと七八十年,倭國は亂れ,相攻伐すること歷年におよび,乃ち共に一女子を立て王と為す,名を卑彌呼と曰う。」と、諸王が集まって相談した様に記したが、実際は女性達の剣幕に押されたのではなかろうか。

男性達は経済単位が細分化した国を形成していたが、女性達の情報ネットワークは民族内民族を形成していたから、広域的な組織力では諸王を凌駕していた事も示唆している。関東でも同様な状況が発生する基本事情があり、関東の関東部族はmt-B4と共に内需交易を追求していたから、西日本以上に卑弥呼の様な女性が登場し易い環境があった。

日本列島の貨幣経済化が極めて遅かった理由として、矢尻交易に参加していた関東部族や北陸部族が、蓄財した黒曜石の欠片や矢尻の不良品の貨幣価値が、縄文後期末に突然失われた事がトラウマになり、信用経済に移行した事を縄文人の活動期の項で指摘したが、弥生時代以降はコメを最強の流通品としていた女性達が、貨幣の流通によってコメの流通価値が薄れる事を恐れ、銭の発行や流通に抵抗した可能性もある。個々の女性達が抵抗しても無益だが、mt-B4の組織が健在であれば、組織的な抵抗が可能だったからだ。

安土桃山時代に始めて本格的な貨幣が鋳造され、江戸時代に制度化されると瞬く間に日本全国に流通した事は、上記の関連事情と言えるだろう。

また奈良時代の和銅元年に、年号を慶雲から和銅に換える詔で、「治めているこの国の東方にある武蔵国の、自然に生じた熟銅が献上されたので、慶雲五年を和銅元年とする」との不可解な言葉も、東のmt-B4の治国である武蔵国から貨幣鋳造の許可があったので、和銅貨幣が発行できる事を喜んだと解釈される。つまり奈良朝は西日本を治めるアワ栽培者の王朝だったから、稲作者が収める東の国から、アワ栽培者の為に貨幣を発行する許可が得られた事を示している。続日本紀も極めて偏向的に編纂されているが、天皇の詔には手を加えなかったらしく、天皇の詔から奈良朝の本質を窺う事ができるからだ。

 

4-3-3 女性が行っていた稲作が 男性の作業に変わった経緯と時期

縄文時代の大陸の稲作民族には粤と荊があり、mt-B4に類似した稲作を行っていた浙江省の稲作民族は、男性達が灌漑施設を建設していた事を良渚文化期の遺跡が示し、浙江省の稲作も荊と同様に、男女が共同で行う生業になった事を示している。

縄文晩期に台湾のmt-Dが移住する事によって焼畑農耕者の粤が生れたが、焼畑農耕も男女が共同で行う農耕だから、男女共同の生業であり続けた。漢書地理志は海南島の女性の生業が養蚕と絹布の生産に変化し、稲作は男性の生業になった事を示しているから、海南島の女性は鉄器時代になると焼畑農耕から離脱し、換金性の高い絹布の生産者になった事を示している。但し広東~山東・遼寧にはmt-B5が殆どいない事が、夏の気温が高い大陸では養蚕が難しかった事を示し、大陸の粤は男女が稲作を行っていたが、粤女性になったmt-Dもコメの処分権を維持していた事を示唆している。

栽培系狩猟民族だった時代には、保存性が高い穀類を管理する女性が家計を握り、発言権を強めていた事は既に指摘したが、鉄器時代の東南アジアの社会では、海洋民族の女性は生業としての稲作を放棄し、換金性が高い絹布の生産に変えた事は、家計の財布の紐を握り続けて放さない女性達の強かさを示しているからだ。養蚕が可能だった越系文化圏の島嶼部では、鉄器時代になると穀物生産は男性の役割に変化した事も示唆している。

模範的な稲作民族だった荊の子孫であるタイ人の現況は、良く働く女性と労働意欲に乏しい男性の組み合わせであると指摘され、荊は鉄器時代になっても稲作や養蚕は女性が行う状態が継続していた事を示している。つまりmt-B5+M7bが縄文後期~弥生時代に養蚕を伝えたが、西日本のmt-B4mt-Fも両者を行う様になった事を、魏志倭人伝が示している。これを養蚕が北上できなかった関東に当て嵌めると、mt-B4は稲作を行いながらアサを紡いでいたから、奈良時代に望陀布が生れた事を示唆し、mt-Fも稲作を行いながら紵麻を紡いでいたかもしれないが、mt-Fは稲作に忙しかったから、紵麻布(上布)は北陸部族の女性の生業になった事を示唆している。

荊と関東部族のmt-Fが弥生時代まで、タイ式の稲作文化を共有したとの推測には疑念がある。

前漢末にタイに移住した荊の女性が、タイに入植しても稲作の主導権を握り続けたのは、タイでは土木事業が必要なかったからだと考えられるからだ。弥生温暖期が終了してからタイに入植した荊には、治水に纏わる稲作地の整備に労力を投入する必要があり、インディカの栽培者になる為に他の遺伝子の浸潤を許す必要があった事を、現代のタイ人の遺伝子分布が示しているからだ。

タイに入植した荊の文化を追跡する為には、5千年~3千年前のものと考えられているバーンチエン遺跡(タイ北東部)から、多数の高級土器が発掘されている事に着目する必要がある。この地域は現在は交通が不便な内陸にあるが、5千年前のこの地域の河川の堆積は現在ほど厚くなく、景観は現在とは大きく異なっていたと考える必要があり、タイ北部を周回する様に流れているメコン川の河床は、現在よりかなり低かった筈だからだ。つまりこの遺跡地域からメコン川に流れている、Songkhram川の河床も現在よりかなり低く、丘陵地帯に深い谷を刻みながら現在より直線的に流れていたと考えられるからだ。

現在のSongkhram川とメコン川の合流地点の標高は140m以上あるが、氷期の河谷は現在の海水準かそれ以下だった筈だから、5千年前の河床が海抜100m程度まで上昇していたとしても、その地点のSongkhram川の河床は現在より40m低かった事になる。日本ではヤンガードリアス期や太平洋の湿潤期は特別な豪雨期になったが、低緯度地域で暖流の影響が乏しかったインドシナ半島では、その影響は比較的軽微であり、毎年のモンスーンによる降雨の影響が大きかったと想定され、海面上昇が終了してから3千年しか経っていなかった5千年前に、40m低かったとの見積もりはかなり控え目なものになる。

荊がこの地域に入植した5千年前は、関東部族の要求によって黒陶を盛んに作っていた時代だから、荊の一団が土器に適した陶土を求め、この地域に入植したと想定する事に歴史的な整合性がある。この地域を交易圏にしていた台湾起源海洋民族にとって、メコン川の遡上はインダス川の遡上より遥かに容易だったから、台湾起源海洋民族に誘われた荊の一派が、丘陵地の土砂や岩石が露出していた川を遡って優れた陶土を探す事は、極めて必然性が高い交易行動だった。縄文中期寒冷期の湖北省は人口過密状態だったから、荊には強い移住希望があり、陝西の渭水流域や南陽盆地から南下した荊が、湖北盆地で稲作地を得られずにこの地に直接入植した可能性もあり、荊にも十分過ぎる動機があった。

谷間の沖積地は荊に稲作地を提供したから、この地域で稲作が行われた事に必然性があり、台湾起源の海洋民族が浙江省の塩を運び込む事も難しくなかった。台湾起源の海洋民族は荊が生産する高級陶器を、インド洋交易に活用する事ができたから、入植した荊は高級な土器の需要者を確保する事ができた。

但しこの仮説には、この地域にジャポニカ種の原生種が繁茂していた疑いを払拭する必要がある。それについて現在分かっている事は、東シナ海や南シナ海沿岸にはジャポニカ種の原生種が繁茂していたが、インダス文明圏には存在しなかった事しかない。しかし荊が5千年前に入植した事は、ヴェトナム西部の脊梁山脈がジャポニカの原生種の拡散を阻止し、この地域にはジャポニカ種の原生種が北上しなかった事を示唆している。言い換えるとジャポニカの原生種は稲作者だったmt-Fmt-B4の北上によって、南シナ海や東シナ海沿岸に北上したが、5千年前にタイに入植した荊の温帯ジャポニカは既に栽培化が進み、野生化する恐れはなかったと想定される。

しかし後氷期のタイはジャングルに覆われていたから、磨製石斧を使わない荊の稲作が入植可能な場所は、頻繁に洪水を起こして樹林が形成されない谷間の河床に限られ、大々的に入植できる場所ではなかったが、高級土器の製作者が入植するだけであれば十分な広さの稲作地があっただろう。

鉄器時代になるとガンジス川流域にインディカの栽培が広がったから、この地域に入植した荊も海洋民族からその種子を入手し、その栽培によって生産性を高めていたとすると、稲作者としての人口が高まっていたと考えられ、弥生温暖期の末期に多数の荊の入植を受け入れる準備が整っていた事になる。それによってタイに入植したmt-F+B4は栽培種をインディカに切り替え、男性達は栽培地を拡大する事はできたが、インディカを栽培していた女性達の技能も必要だったから、現在のタイ人にはインディカの栽培者だったと考えられるmt-Rxが多数含まれている。

いずれにしても稲作地が整備されると男性達の仕事がなくなり、豊かな稲作の収穫に支えられた女性達がmt-F+B4+Rxの伝統を守り、女性が稲作を行う習俗を維持したから、現在のタイの男女関係が生れたと推測される。

冷涼で稲作の生産性が低い関東の海洋民族社会では、その様なタイの人々とは異なり、稲作の生産性の低さを補う必要が常在していたから、男性が手工業を生業にして漁具や工芸品を作り、海産物の増産に協力していた。弓矢産業支える交易労働は過酷だったが、それに耐えれば生活の資が得られただけではなく、文明社会の一員になれる社会だったからだ。荊の男性達も湖北省時代には土木作業の重労働に耐え、陶器を生産して塩を得ていたが、縄文後期に青洲に移住するとそれらの必要性は失われた。

荊もタイ人も稲作によって自活できる農耕民族であり続けた事が、上記の様な経緯を生んだが、日本の稲作者がその様な状態を確実にしたのは明治以降の事であって、中世までの稲作者には稲作民族化する為に十分な量の収穫はなく、不足分はアワなどの雑穀で補っていた事に注意する必要がある。

つまり稲作民族としての視点から日本を見ると、関東部族は稲作の生産性が乏しかった故に、男性も忙しく働く社会を縄文時代に形成したし、アワ栽培者の社会も同様だった。鉄器時代になって男性達が水田を形成すると、収穫を高める事ができたが、稲作で日常的な食料を得る生産性は得られなかったから、日本独特の男女の分業が生れたと考える必要がある。

従って日本ではコメは重要な換金作物であり続け、アワなどの雑穀で基本的な食生活を維持していたから、コメの価格は需給関係で決まり、稲作の生産性を世間並みに維持できれば飢える状況ではなかった。経済力を手放したくなかった女性達は最も換金性が高い稲作に拘ったから、誰が雑穀を栽培していたのかはさて置き、稲作者が女性から男性に代わる経緯には複雑な事情があった。

 

それらの事情を文献から確認する

魏志倭人伝は、「邪馬台国では男女平等で、集会の席には女性も参加し、内政が乱れると卑弥呼を女王にして混乱を収めた」事を示している。卑弥呼を女王にしたのは、話し合いでは結論が出ない利害の衝突を、彼女の神託によって決着したのではなく、稲作によって経済力を得ていた女性達のインフレに対する不満を鎮める為には、女性の権力者を擁立する必要があったからだと推測される。それによって女性達が交易事情を認識し、寒冷化によって発生した不可抗力的な事態の理解を高める事が、真の解決策であると認識するに至ったからではなかろうか。それまでは稲作の生産性向上だけに注力し、交易事情には疎かった女性達が、卑弥呼の登場によって交易問題の解決にも参加する様になったとも言える。

いずれにしても稲作女性が活動する陸上世界では女性優位社会が形成され、男性が形成していた海洋交易と共存したが、海洋交易にも干渉できる経済力を握っていた事を、卑弥呼が女王になって千人の女性を従えた事が示している。

魏志倭人伝は、漢書地理志/粤の条に「儋耳、珠崖郡。民は皆単被の如き布を服し,中央を穿って貫頭を為す。男子は耕農して禾稲と紵麻を種し,女子は桑蚕して織績する」と記されていた事を受け、「(倭人の)婦人は屈紒した髮を被し、単被の如き衣を作り、其の中央を穿って貫頭し、之を衣する。禾稲、紵麻を種し,蚕桑、緝績して細紵、縑緜(高級絹布)を出す(商品として出荷する)」と記し、海南島の稲作民族と邪馬台国の倭人は、男女の生業が異なっていた事を示している。つまり禾稲、紵麻を種し,蚕桑、緝績して細紵、縑緜を出すのは、すべて女性である様にも読める。但し日本ではタイと異なり、男性も働く必要があったから、植栽とは無縁な織布は男性の生業だった可能性が高い。

出雲風土記に、「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らし、志羅紀(しらき)の三埼、佐伎、良波、高志(こし)の都都(つつ)の4地域から土地を引き寄せ、意宇 (おう)郡(安来~松江)などの土地にした」と記されている。これに現実性はないが、「若い女性の胸の様に広い鉏(すき)を使って遠方の土地を切り取り、それを引き寄せる」との文学的な表現が、出雲風土記の主要部である意宇 (おう)の説明の冒頭に繰り返し4回使われ、出雲風土記を創作した大和朝廷の官僚にとって、稲作の肉体労働に従事した神話時代の若い女性は、たおやかな者ではなく男性より逞しい存在だった事を示している。

縄文中期の関東のmt-B4は狭い稲作地から僅かな収穫を上げる傍らで、優雅な衣装を纏って装身具で身体を飾り、意匠を凝らせた土器を製作する時間的な余裕を得ていたが、稲作に励む様になった縄文後期以降の女性には厳しい稲作労働に耐える必要性が生れ、土器は簡素になり装身具で身体を飾る習俗も失い、弥生時代~古墳時代には男性より逞しい存在になっていた事を示唆している。

一般的な経済論理では、鉄器時代になると男性が水田を形成する様になり、その良し悪しが稲作の生産性を左右する様になったから、稲作の主体は女性から男性に移転したと推測されるが、日本式の稲作は手順が煩雑で高度の農業技術を要したから、鉄器時代になっても稲作の移転は直ぐに実現しなかった事を、出雲風土記が示唆している。mt-B4が形成した情報組織は女性社会に帰属したから、男性達は稲作の実務に手が出せなかったのではなかろうか。

東南アジアの海洋民族では稲作の主体者の転換が完了していた弥生時代末期になっても、倭人社会では稲作は女性の仕事で、むしろ織布などの手工業を男性が担う、石器時代の海洋民族の分業形態が維持されていたと推測される。

稲作の伝統を守っていた女性達も、気候の冷涼化を原因とする大陸の稲作の崩壊事情は知っていたから、それを尻目に生産性を高めた誇りが、その様な立場を堅持した可能性が高い。

男性達がその様な女性達を見返す為には、巨額の財貨を積み上げる必要があった事が、古墳時代前期の経済的な繁栄に繋がった可能性がある。移民事業に入れ込んで財貨を稼ぎ、それを使って大型古墳を林立させただけではなく、それまで女性の専権事項だった土器の生産権を奪い、男性職人が土師器の埴輪を生産して古墳上や周囲に林立させ、土器は生活に密着した道具ではない事を誇示したからだ。製作した埴輪の中には、女性達に対する挑戦的な態度を示しているものがある。生活用具には須恵器をロクロで成形して還元窯で焼成し、女性が野焼きで製作していた弥生土器を一掃した。

武人埴輪は古墳時代の人々が武闘的になった事を示し、大型古墳は農耕民族的な権力が形成され事を示し、両者の組み合わせは農地の争奪が武闘の対象になった事を示唆し、畿内の巨大古墳はこの地域の男性達が極めて武闘的になった事を示している。従ってこれらの遺物は農地争いを巡る団結力の誇示だけではなく、鉄器が普及する時代になって稲作の主導権が男性に移行し始めると、女性優位社会を生きてきた男性達の価値観が、女性達の価値観と衝突した結果でもあると推測される。

邪馬台国時代の大陸交易も船団を組んではいたが、交易行為は極めて小集団的なものだった事を、船団の無事を祈る「持衰」と呼ばれた者がいた事が示しているが、移民事業は極めて組織的に行われた事を、倭国王が朝鮮半島に万単位の軍隊を派遣した事が示している。それに使用した船は交易船の転用だった筈だから、その傭船や朝鮮半島に万単位の軍隊を遠征させた事が、倭国王の組織力が高まった事を示し、女性達の情報網に対抗できる集団力が備わった事を示し、古墳が示す文化と整合している。

鎧などの武具が発達した事は、この時代に戦乱が生れていた事を示し、宋書に記された倭の武王の「祖禰は昔より甲冑に躬を擐し,山川を跋涉して寧處に遑あらず、東に毛人五十五国を征し・・・」との記述もその状況を示し、この(親書)の一連の文章も武人的な気概を示し、古墳時代の男性達が尚武的になった事を示しているが、男性達が尚武的になるのは必ずしも外敵に対抗する為ではなく、女性達の優位性に対抗する目的も含有していた事は、扶余に関する説明でも指摘したが、普遍的な事情であると考える必要がある。

その様な流れの先にあった奈良時代について、続日本紀は元正天皇の詔として「人民を富ませる根本は財産を増やす事に専念させる事である。それ故に男は農耕に努め、女は機織りを修め、家は衣食が豊かになれば、・・・、太平の風習を招く事ができる。」と記している。

唐の制度を模範とした奈良朝の天皇は、大陸で標準になっていた男女の分業を日本でも進める様にせよと、詔を下した事になるが、日本では事情が異なっていたから、敢えて天皇が詔で言及するほどに重要な課題だったと解釈する必要がある。

つまり男に農事をさせれば生産性が高まって家計が豊になるのに、女が何時までも稲作に拘泥してそれが実現できない事を、コメを租税として徴収していた奈良朝の天皇が憂いた事を示しているからだ。

通説では奈良時代は710年(和銅3年)に、元明天皇が平城京に遷都した事によって始まり、794年(延暦13年)に桓武天皇が平安京に遷都するまでの84年間か、同じ710年から桓武天皇が784年(延暦3年)に長岡京に都を移すまでの74年間を指すが、このHPでは武庫川系邪馬台国系譜の天皇の時代とし、文武天皇が即位した697年から称徳天皇が崩御した770年までとする。

奈良朝で実権を振ったのは持統、元明、元正、孝謙、称徳などの女性天皇で、文武、聖武などの男性天皇は昼行燈の様な状態で、淳仁は廃帝と言われた。その様な状態が生れたのは、奈良朝が稲作民を政権基盤にしていたからで、稲作民の実力者は稲作を行う女性達だったからだが、その様な王朝の女性天皇がアワ栽培者的な越系文化の価値観に従い、また唐の制度に倣い、上記の様な男尊女卑的な発言をした辺りに、奈良朝の政治力が欠如していた理由を読み取る事ができる。

しかし奈良朝のこの様な施策によって稲作の実務が女性から男性に転換した事が、班田収授の制度で口分田(1段=360歩)を良民男子に2段、良民女子に1120歩(男子の2/3)支給した事情が示している。班田収授法は701年の大宝律令で制定したのに、元正天皇の上記の詔は715年だった事に、矛盾を抱えた奈良朝の実態が示されている。

これは奈良朝を形成した西の女性達の栽培者ネットワークと、関東で稲作を指導していたmt-B4系譜の女性達のネットワークの、併存的で対立的な関係を示唆している。

両者を仲介していたのは鹿島神宮勢力を基盤とする中臣氏で、藤原不比等を始祖とする藤原氏が、その出先機関として奈良朝に駐在していたから、藤原氏は不死鳥の様に奈良朝と平安朝で勢力を得たと考えられ、藤原氏が勢力を得たのは西と東の女性達が対立していたからだと考えると、彼女達の対立は極めて深刻で、男性達は右往左往していた事が連想され、史実の断片がそれを示唆している。元正天皇の上記の詔は、越系文化圏の女性は農耕から足を洗って機織りをしていたが、東の女性達のネットワークに属す稲作者は、それを認めなかった事を示しているからだ。

アワは稲作が広がると海産物との交換価値を失ったから、アワ栽培者の一部は稲作者に転じたが、多数のmt-Dはアワ栽培者として生き残る道を模索し、内陸に入植した稲作者と共生してアワとコメを交換し、交換経済に参加していた。奈良朝の天皇は倭人である事を主張しながら、婚姻制度が極めて越人的だった事が奈良朝の体質を示し、この王朝の支配者の出身地は、武庫川中流域にあった湖沼地帯であると考えられる事は既に指摘した。奈良朝の天皇一家は越人の婚姻習俗を採用していたから、元正天皇が越人的な発想をしていた事は、上記の発言もその文脈から解く必要があり、奈良朝の天皇はmt-Dだった可能性が高い。

しかし女性が稲作を止めると経済力を失い、東国の稲作女性が稲作を止めると、日本式の稲作の普及力も失う事を意味したから、古墳寒冷期が終わってから間もない奈良時代の東西の女性の対立は、深刻だったと考えざるを得ない。稲作が盛んだった奈良盆地や京都盆地は、西のアワ栽培系の女性の集積地でもあり、奈良朝や平安朝で女性らしく優雅な生活を謳歌していたのは、アワ栽培文化に染まった女性達だったらしい事は、その後の歴史にも見え隠れしているからだ。

木曽義仲に従った巴御前が武勇者だった事、その様な女性は東日本には他にもいた事は、依然として女性が稲作労働の最前線にいた事を示唆し、北条政子が承久の変の際に御家人を統括する発言力があった事は、これらの事情から読み解く事ができる。源義経は稲作を止めて雅になった女性である静御前を妻にしたが、関東の稲作者だった北条政子に疎んじられた事も、この文脈から読み解けば実感が湧くだろう。

 

小倉百人一首の巻頭を飾る和歌が、飛鳥時代の西日本であっても稲穂の収穫権は女性が握っていた事と、平安時代末期には稲作の主体が男性に移行していた事を示している。

(1)  秋の田の、かりほの庵の苫をあらみ、我が衣手は露に濡れつつ

飛鳥時代末期の人である天智天皇が詠んだとされるこの和歌の解釈に関し、通説では「かりほ」を「かりいほ(仮廬)」の短縮であるとしているが、それではこの歌の秀逸性は理解できないし、小倉百人一首の巻頭を飾っている理由は全く分からない。文学者と称する人達は、それに疑問を持たないのだろうか。

かりほ刈穂と解釈し、この和歌が詠まれた時代には女性が穂首刈りを行っていた事を前提にすると、この和歌の解釈は以下の様になる。

恋する女性が刈った稲穂が、粗い苫(芦や小枝で織った庵の囲い)で作られた庵に積まれているので、早朝密かにその庵を訪れ、女性を愛しむ様に積まれた稲穂に手を差し入れたら、粗い苫を通った夜露で稲穂の表面が濡れていたので、私の袖が露に濡れてしまった。しかし積まれた稲穂の中に貴女が残した温もりがあり、私は手を深く差し入れてそれを偲んだ。

「かりほ」刈穂と解釈すると、この様な色気と抒情感が溢れる忍ぶ恋の秀歌になるから、これを秀歌であると評価して百人一首の巻頭に置いた平安時代まで、イネを収穫する権利が女性に属していた時代の、記憶が残っていた事を示している。

(2) 秋田苅る、借廬(かりほ)を作り吾が居れば、衣手寒し露ぞ置きにける 

これも万葉集にあり、上記とセットの歌である事が知られているが、上記を受けた派生歌であれば笑いを誘う秀歌になる。

恋しい男性が訪れるのを、(1)の条件を整えて待っていたが、寒い夜が更けても来ないから、私の衣の袖が露に濡れてしまったわ、という滑稽な歌になり、借廬刈穂にかけた表現は、準備が入念であった事を強調し、笑いを誘っているからだ。

(1)の和歌の読み手を歴史上の重要人物である天智天皇に仮託した事は、「昔は女性が稲穂を穂首狩りしたが、今はそれとは違って鎌で根刈をしているから、この時代の遺風が失われているが、それはとても残念な事だから、それを忘れてはならない」との意識があった事を示唆している。

穂首狩りを行わなくなったのは、鉄器が普及してイネが根刈される様になったからであり、根刈の方が収穫作業が早く、根刈した稲束を乾燥するとコメの食味が改善したから、それが可能になると普及したと考えられる。穂刈をしていた時代には、脱穀と精米に臼と杵を使う必要があり、力の入れ加減が不適切であるとコメが割れ、商品価値を失う恐れがあったから、作業に習熟した女性が行う必要があり、穂首狩りから脱穀までを女性の独占的な仕事にする理由でもあった。

しかし根刈した稲穂の脱穀は、穂首を2本の棒に挟んで茎を引っ張る単純労働になり、脱穀したモミは回転式の石臼で容易に精米できたから、根刈の浸透は稲の収穫だけではなく、脱穀・精米も伴う技術革命になり、コメの処分権に関わる男女の権利意識の革命を引き起こす要因になった。

ウィキペディア「不動穀」は、和銅元年(奈良時代初頭)に正税である稲穀(モミ)の貯蔵が奨励されたと記しているから、この頃から根刈が普及し始めた事を示唆し、ウィキペディア「舂米」は、天平期(奈良時代中葉)の出挙に関する正税帳では、すべてが穎稲(稲穂)であると指摘しているから、依然として穂首狩りも行われていた事示している。従って飛鳥時代の収穫は穂首狩りだったが、平安時代末期には鎌が普及し、根刈が一般的になっていた可能性が高い。

昔は穂首狩りが一般的だったという伝承に付随事情もなく、その事だけが単独で何百年も伝承されたとは考え難いから、小倉百人一首が生まれた平安時代末期の人が、それを事実として認識できる程度の時代まで遡った時期には、その習俗が一般的だった事になる。

小倉百人一首が生まれた平安時代末期は、鉄製農具が普及してから千年以上経ていたが、飛鳥時代は500年程度しか経ていなかったから、当初の農具は土堀具として普及したと考えられる事と整合し、イネの収穫方法に関する時代認識は概ね一致する。

この和歌を百人一首の巻頭に掲げたのは、稲作の収穫が男女の何れに属するかという課題が、男女の経済闘争になっていた事を示唆している。稲作を背景とした嘗ての女性の権利が崩壊の危機に陥っていた故に、昔の習俗はこの様なものだった事を示す為に、実在したと主張できる最古の偉人にこの歌を託し、人々の注意を喚起したと想定されるからだ。百人一首と云われる歌集は多数あったが、小倉百人一首だけが伝承されているのは、著名な歌として百人一首の巻頭に置く事に特別な意味があり、後世に伝える意思が強く働いたからだと考えられる。

これが天智天皇の歌である事に、強い違和感がある。その理由は、実在した最古の天皇は天武天皇だったからだ。原古事記の著者の意図は、「古事記が創作した天皇系譜は推古で終わり、壬申の革命によって天武天皇が倭人時代を終わらせ、新しい政治体制を構築したが、新しい体制の青写真を描いた偉大な人物がいたから、将来新しい歴史書ができる際には、天皇ではなかったその人を初代の天皇にするべきであり、その諡号は「天智天皇」とするべきであると考えていたからだ。

天智の墓は山科にある日本最大の八角墳で、古事記は「(推古の)御陵は大野岡のふもとにあったが、後に科長の大陵に遷した。」と記している。古事記は事実を神話化し、地名も人命も変えてパロディ化しているから、その積りでこの文面を読めば、推古は新しく作られた天智の大陵に改葬された事になり、古事記の著者の意図を文学的に解釈すると、推古と天智は母子関係にあった。は「真の」を意味する古語だから、天皇陵である八角墳に葬られたと解釈する必要がある。

舒明~斉明までの4代は、原古事記の著者の意図とは関係なく、奈良時代に創作された天皇だった。

天智天皇に関してはその6を参照して頂く事として、平安時代の知識人は天智も実在した人物がモデルだった事は知っていたと推測されるから、此処では平安時代の人々の意識を検証する。

新唐書は奈良時代初頭に記された日本紀を参照し、天皇系譜は用明、崇峻、推古/舒明、皇極、孝徳、天豊財、天智、天武、総持/文武で、608年に隋の使者を迎えたのは用明だったと記している。

奈良朝の都合で舒明~天豊財を挿入したのは、天皇になる有資格者を祖先系譜から探すと、天智4代前に遡る必要があったからだ。それによって文学的な不自然さが生れたので、後世に歴史を書き換え続けた結果、江戸時代初頭に生まれた日本書記では、遣隋使を送ったのは推古である事にした。古事記が決めた推古以前と、続日本紀に記されている文武以降は確定しているが、に挟まれた部分はその後の歴史捏造で様相を変えていったからだ。

宋史には日本国が984年に提出した日本国王の年代記の転記があり、「用明、崇峻、推古/舒明、皇極、孝徳、天豊財、天智、天武、総持/文武」とし、遣隋使を送ったのは用明だったと記している。

小倉百人一首と同時代(1200年頃)に成立した二中歴では、「用明、崇峻、推古/舒明、皇極、孝徳、斉明(皇極の重祚)、天智、天武、持統/文武」になり、推古から天智までの長過ぎる系譜を調整し始め、天武の次は持統だったとし、日本書記と同じ体裁にしているが、文武が即位したのは大化3であると記し、日本書紀とは程遠い認識を示している部位もある。

二中歴になって初めて持統天皇の存在が認知されたが、同時代に成立した小倉百人一首の第二歌は持統天皇の歌だから、歴史の捏造はそれ以前に行われ、それが周知されていた事を示している。持統天皇の歌は新古今和歌集にも収録されているが、新古今和歌集は小倉百人一首より新しい。

以上から小倉百人一首の首歌と第二歌は、極めて政治的な意図を持って採録され、その読み手は創作的に決められた疑いが濃く、上記の指摘の第一の根拠になる。

平安時代の知識人が、王朝絵巻を創作した紫式部を「日本紀の局」と呼んだのは、日本紀は創作である事を知っていたからだ。それを知らなかった女官が、紫式部は漢字の知識をひけらかしているから、その様に呼ばれていると誤解したから、それを揶揄した記事が紫式部の日記に記されている。平安貴族には既に改定された年代記があり、改定前の日本紀を読む事には意味がなかったから、その女官は日本紀を読んだ事がなかっただけではなく、日本紀は創作物語である事も知らなかった事を示唆している。

つまり古典に精通していた紫式部と、皇室の歴史を知って置く必要があった天皇の取り巻き貴族だけが、唐王朝に提出するために創作した日本紀の存在を知っていた事を、紫式部の日記が示している。日本紀を大幅に改訂した別の皇室史を、平安時代の早い時期に「年代記」として創作し、宋に提出していたから、貴族はこちらを読む必要はあったかもしれないが、日本紀は読む価値のない古典になっていた。平安王朝は自分が提出した「年代記」を創作であるとは言えなかったが、奈良朝が創作した「日本紀」であれば、あれは創作だったと言えたのだろう。

鎌倉時代に二中歴が生れたのは、1060年に成立した新唐書と984年に宋に提出した「年代記」の矛盾が露呈し、武家に政権を奪われて凋落した朝廷の権威を立て直す為に、「年代記」の矛盾を補正する必要に迫られたからだ。旧唐書が成立したのは945年だから、「年代記」も同様の動機で捏造した疑いが濃い。

日本紀が確固とした史書であれば年代記も二中歴も新たに作成する必要はなく、戦国時代末期の宣教師が本国に報告した「大文典」とも、内容が異なる筈はなかった。従って日本書記は戸時代の初期に王政復古を願った京の貴族が、従来指摘されていた矛盾を訂正する為に編纂したと考えざるを得ない。年代記の内容も、1345年に成立した宋史に暴露されたからだ。日本の史学者は日本紀を日本書記であると強弁しているが、恥を知っていればその様な事ができる筈はない。

上掲の百人一首の巻頭の和歌の作者を、歴史上実在した最古の天皇(大津の地方役人であって天皇ではなかった)に仮託したのは、秀歌である故に記憶されていたこの和歌を、永久保存的な記憶遺産にする為だったと想定される。小倉百人一首を創作した目的は、稲作民を政権基盤としていた王朝が、鎌倉幕府の成立によって失った権力を取り戻す一環として、依然として権力を持っていた女性達の支持を得る手段とした疑いが濃く、女性達も男性に対抗する情報戦として、他の百人一首を差し置いて伝承すべき歌集にした可能性もある。

小倉百人一首が生まれた平安時代末期~鎌倉時代初期は、王朝的な価値観が崩落し始めた時期だった。庶民は平安王朝が拡散した中華的な男尊女卑思想に反発していたから、中央集権的な平安朝が衰退して地域経済が復活し、女性の権利意識が高揚し始めると、それに迎合する為に小倉百人一首が誕生したとも解釈できる。

早乙女

稲作の主体が女性だった事を示す残渣として、近世まで早乙女の習俗が続いていた。

中世~近世の農村に残っていた早乙女は、晴れ着を着た女性達が田植えを行い、男性達が周囲でそれを囃す事を特徴としていた。日本式の稲作の根幹的な技術は田植に象徴されているから、稲作の主体が男性に移転する事に危機感を持った女性達が、田植えを実施する権利は女性だけにあると主張し、この習俗が生まれたと推測される。

稲作の起源は女性達にあったとする主張が継続していた時期に、発明者の直系子孫である女性達に対する尊厳を求める意識が、この様な習俗を生み出したと推測されるが、その背景には日本式の稲作が開発された縄文晩期の雰囲気を、mt-B4が稲作技術と共に全国に広めていた事情と、稲作の実務が男性達の手に移管されていく実態を、女性達も認めざるを得ない状況があった事を示している。

新鮮な熱帯ジャポニカのモミと新たに開発された増産技術を、mt-B4が津々浦々に配布する行為が鎌倉時代まで続いていたから、関東の女性達の意図が全国的に拡散し、早乙女が全国的な抵抗運動のシンボルになった可能性が高い。

早乙女は稲作習俗だがその目的は他に在り、イネの収穫権を失った女性達が、コメの交換処分権を手放さない抵抗運動の象徴として、早乙女の習俗が生れて継続した可能性が高いからだ。換金作物の代表であるコメの生産主体が男性に完全に移転すると、それまで女性が握っていた家計を管理する実権も男性に移行する気配が生まれたから、女性達がその流れに抵抗して早乙女を儀式化したとすれば、分かり易い経済論になると同時に、その後の女権運動の在り方にも繋がるからだ。

この様な運動が生れて日本全国に拡散した事は、それを先導した全国組織があった筈であり、関東のmt-B4の情報網が依然として機能していた事を示しているからでもある。

現代日本人男性の多くは、自分が家庭内の主たる稼ぎ手であっても、家計の管理を奥さんに任せる事を当然と考える人が多い。その様な風習は世界的には奇習かもしれないが、早乙女に関する論考が確立すれば、日本の伝統に確固として従っている状態として、日本史の重要な観点になるだろう。

欧米の女性は今更の様に女性の権利を主張するが、日本の女性は穀物栽培者として実権を握っていた縄文時代から、現代まで途切れることなく男女間の権利意識を主張する為に、集団的な運動を展開して家計の実権を維持してきたが、その一つの運動が早乙女だったからだ。男性達の交易者的な社会では、発明者に敬意を表する思想があった事も重要な背景だが、早乙女の習俗が倭人時代の交易者的な発想も維持したから、日本人にはノーベル賞の受賞者が多いと考える事もできる。農耕民族にその概念が乏しい事は、現代の中国人や朝鮮人を見れば明らかだから。

田植えは重労働だが、昔の女性達はそれによって自らの権利を世間に確認させ、労苦を共有する事によって団結心を高めてきたのだから、現在の欧米風の安易な男女同権論に対し、日本人女性は毅然とした態度を示すべきではなかろうか。

日本の女性達のこの種の行動は、早乙女が最初ではない。堅果類を食べていた時代には、「土器を発明してアク抜き技術を完成した女性が、堅果類を栽培する文化の実質的な創始者である」事を、記憶遺産として保存する為に、土器の製作権が女性に帰属していた事を、縄文人の活動期の項で指摘した。堅果類を常食しなくなった弥生時代になっても、土器を職人が窯で作る機運は生まれず、女性達が野焼きで作り続けた事は、その様な拘りは女性の本質的な性格である事を示している。これを敷衍すると、生活に密着した土器の製作権が女性に帰属しているとの認識は、女性は生活文化を担う存在であり、男性は交易文化を担う存在であるとする縄文人の文明観であり、家計を女性に任せる現代日本人の習俗は、縄文文明を現在まで継承している事を示している。

縄文女性や弥生女性が土器の製作権を確保した理由も、単に調理を行う権利の確保ではなく、重要な家財である土器の製作権を確保する事により、交易活動に参加しながら樹林を管理して竪穴住居を建造していた男性達に対し、家父長的な権利を要求するものだったと推測されるからだ。食料に関わる事が最も重要な認識だった時代には、実質的な家長権を確保する行為だった事も、容易に推測できるだろう。

土器は遺物として残るので、製作者が女性から男性の職人変わった時代を特定する事ができる。堅果類が重要な食料ではなくなったのは縄文後期だが、その遺風は弥生時代が終わるまで引き継がれ、明らかな時期の食い違いを示しているのは、この時代の女性達が早乙女と同様の権利意識を発揮し、土器の製作権にその活路を求めたからだと考えられる。

土器が土師器や須恵器に変わるとカマドが普及し、何千年も続いた女性の権利意識の象徴が失われると共に、生活様式が一変してそれが忘れ去られたから、それに代わって稲作権が登場した事になる。その風俗が西日本から崩壊し始めると、早乙女の習俗が生まれたと想定されるが、早乙女も最後の砦ではなかった。

食生活の維持費が家計の殆どを占めた時代に、女性だけがコメを調理する権利を有する事が、家計を女性が管理する象徴になったからだ。つまり女性の家計に関する権利を表象する役割分担が、台所仕事になったから、「男子厨房に入らず」という状態が生まれたと推測される。

従って「男子厨房に入らず」も早乙女と同様に解釈する必要があり、男尊女卑思想の発露であると解釈する事は筋違いになる。

戦後の女性達が権利意識を高めて家事からの解放を叫んだ際に、それを危惧して悲しんだのは男性達ではなく、明治生まれの女性達だったのではなかろうか。

西欧流の女権主義はエリート女性には好ましい流れだが、庶民文化として根付いていた日本的な女性の権利観が崩壊するのであれば、それに代わる新しい文化を求める必要がある。凝った弁当を作る日本的な女性達は、薄々その事情を意識しているのかもしれない。

土器の歴史を改めて振り返ると、荊は縄文前期からロクロや窯を使って高級な土器を製作し、塩の代価の一部にしていたから、海洋漁民はその技術の存在を知ってはいたが、それを縄文人に依頼して日本に導入させる事はなかった。その事情が縄文女性の発言力の強さを示し、その様な女性達に配慮した男性達の立場を示している。

古墳時代になると窯で焼いた土師器(埴輪)が古墳の上に並べられ、男性的な意匠の埴輪が多数作られた事は、男性達の反撃が表現された事を示している。武人埴輪やスカートを捲り上げて性器を露出させている女性達の埴輪が、当時の男性達の心象を表現しているからだ。

古墳時代になると土師部や須恵部などの職人集団が生まれ、ロクロを使って登り窯で焼く須恵器が作られた事が、この種の女性の拘りが一掃された事を示している。

古墳の出現は鉄器を使った大規模な土木工事が可能になった事を示し、男性達が土木事業によって水田を形成していた事を示しているから、稲作の実質的な主導権が男性に移転し始めた事に異論を挟む余地はない。古墳を造成した原資は男性達が営んだ海洋交易の成果で、交易によって入手した鉄器とそれを使って発展させた土木技術を使い、古墳を形成して男性的な埴輪で飾った事は、稲作社会に男性優位の意識が萌芽した事を示しているからだ。

それまでの稲作は自然地形を利用するもので、その場の選定と活用技術が女性の尊厳を支えていたが、水田を形成する様になると、水田の良し悪しがコメの収穫高と直結する時代になり、女性と男性は実質的に稲作の主導権を争う時代になったからでもある。

古墳時代の寒冷化は厳しく、大陸の農耕が崩壊して困窮者が激増した時代だったが、男性達が主導する移民事業によって交易経済が活性化され、生口を労働力として導入して水田を広げる事により、稲作経済も男性の手に委ねられようとしていた事情があった。その成果として富裕者の倉に米が溢れる状況が生れ、須恵器の生産が始まる背景事情を形成していた。

須恵器の出現により、土器の製作を女性が独占する習俗に止めが刺されたが、須恵器の関東への拡散は西日本より遅かった。しかしそれを以て関東は未開だったと断定するのではなく、関東には畿内とは異なる文明認識があったと解釈する必要がある。畿内を含む西日本は倭人文化と越系文化が混濁した地域で、交易を通してアワ栽培者の権威主義的な文化が流入していたが、関東にもあった越系文化圏は群馬や栃木の山間部に限定され、縄文的な価値観が残存し易い環境だったからだ。

その様な関東文化がmt-B4の情報網を介して全国に拡散したから、日本の精神文化は二重構造になっていた。つまり王朝文化は西日本の文化系譜で、関東は別の稲作文化圏を形成していたが、関東文化は孤立した文化ではなく、全国の庶民文化を統合する文化中枢でもあった。

 

4-3-4 鉄器の普及による栽培事情の変化

男女の社会的な軋轢は、鉄器の普及による稲作や焼畑農耕の生産性向上と連動したので、改めてその視点で鉄器の普及事情を検証するが、鉄器が発掘されたのか否かを重視する考古学者の発掘至上主義的な観点ではなく、栽培事情や墳墓の規模によって判断する方が確度は高い事を、事前に指摘して置く必要がある。

考古学者が地産地消に拘泥して製鉄遺跡の存在に拘るのは、海洋交易が不得手な王朝が創作した王朝史観に囚われているからだ。製鉄所がない現在のフィリッピンは、未だ鉄器時代になっていないと言ったら常識を疑われるが、それと同じ主張をしている考古学者の先入観は非常識極まりない。

海洋民族は船を作る基幹技術とし、堅い木で船底材や櫂を作り、柔らかい木材で舷側版を削り出す技能を高めたが、石斧では作業効率が悪かったから鉄器が入手できる様になると、木工技能は飛躍的に向上したと考えられる。従って海洋民族が真っ先に欲しがった鉄器は木工具であり、その事情は東南アジアの海洋民族も同じだったから、西ユーラシアで鉄器文化が開花したBC10世紀頃には、両者はその実現段階に達していた可能性が高い。

木造船や木製農具を作る程度の鉄器を運ぶ事は、当時の海運力では難しい事ではなかったから、使われた鉄が何処で製鉄され、何処で製品に仕上げられたのかについては、普及の初期の段階では大した意味はなく、黒海沿岸、インド、インドネシア、シベリアの何れであっても、日本の海洋民族も鉄器時代に突入したと見做す事ができる。

インドでBC12世紀の鉄器が発見された事は、その頃にはインド洋交易によって鉄器が拡散していた事を示しているが、鉄器はインド洋ルートだけで拡散したのではなく、騎馬民族は馬具として鉄器を必要としていたから、シベリアルートでも拡散した。

シベリアの鉄器文化は騎馬民族のクツワの需要によって発展した可能性が高く、それは個人需要に支えられていたから、需要量は海洋民族の造船需要より旺盛だった可能性が高いが、海洋民族の鉄器需要には経済力に裏打ちされた購買力があったから、製鉄産業を活性化させる力を秘めていた。

鉄器の導入によって木工が容易になると、コメの生産に熱心だった関東部族が木製農具の製作に応用する事は、時間の問題だった。従って日本の稲作民は鉄器が極めて貴重だった時代に、鉄器によって製作された木製農具を真っ先に使い、畔を形成して種籾を生産し、鉄器で割り出した板材を使って畔を形成し、水田稲作を始める事ができた。焼畑農耕に使う鉄器は個人が所有する必要があったから、焼畑でジャヴァ二カを栽培していた東南アジアの稲作民族や、交易性が海洋民族より劣っていた大陸の稲作民と比較すると、稲作技術を開発する機会に恵まれていた。田植えをする日本式稲作には水深を斉一化した湿田が必要だから、BC10世紀に畔を伴う水田が出現する必然性もあった。軟らかい土壌を扱う稲作者には、木製農具で賄える作業が色々あった。

縄文晩期には本格的な青銅器時代になる条件が整い、蛇紋岩が採取できない地域に焼畑農耕が進出する機会が生まれた事を、台湾と類似した広東のmt-DD4/D5が示しているから、青銅器の普及も評価する必要がある。つまり青銅器の普及期は鉄器時代の曙光期でもあったから、鉄器と青銅器の使い分けにも配慮する必要があり、その際にも青銅器が発掘されないからと言って、日本に青銅器時代がなかったと判断する事は極めてリスクが高い。

海洋漁民の支援が得られない奈良や京都の様な内陸に、稲作だけでは食料自活できない稲作者が進出した事情を考えると、焼畑農耕者の支援が必要だったと考えざるを得ないからだ。つまり蛇紋岩が採取できない奈良盆地に形成された唐古・鍵遺跡の集落は、それを取り巻く周辺地域に共生する焼畑農耕者がいた事を想定する必要があり、日本にも青銅器時代があった事を示しているからだ。これは考古学者が青銅器時代と呼ぶ権力者が青銅器を使った時代ではなく、庶民が青銅器を使う事が出来た時代を意味し、広東のmt-DD4/D5比がその証拠を示している時代になる。

台湾から広東にmt-Dが拡散した理由は、縄文晩期寒冷期になって浙江省の稲作民族の南下圧力が高まったからで、蛇紋岩が採取できないこの地域に、焼畑農耕が進出できるほどの青銅が、この時代の何処かで生産されていたからだが、広東に青銅産業があったと主張しているわけではない。浙江省の稲作者が自発的に南下したのではなく、縄文晩期寒冷期になって台湾やフィリッピンのコメの生産量が減少したから、東南アジアの海洋民族の勧誘に従って稲作民族が南下し、東南アジア全体のコメの収穫量の目減りを補ったと考える必要もあるからだ。

奈良盆地に稲作者が入植した事は、主要なカロリー源を海産物で補充できない地域に稲作者が進出した事を意味し、弥生時代の稲作者にはコメを食べて自活する生産性はなかったから、アワ栽培者と共生する必要があった。しかし奈良盆地では蛇紋岩は採取できないし、採取できる地域から離れているから、奈良盆地でアワを栽培する為には青銅の斧が必要だった。

つまり青銅の斧を使う事により、稲作者が内陸に進出する事が可能になっただけではなく、コメが海洋漁民との交易品になる事により、アワの商品価値が失われた状況であっても、アワ栽培者がコメを得て流通経済に再参加する事が可能になる現象だったから、日本では縄文後期に青銅器時代になる環境が整った事になる。

実際の流れとしては、青銅の斧を取得した焼畑農耕者と稲作者が、蛇紋岩が採取できなかった故に放置されていた、内陸の奈良盆地に進出した事になるが、稲作者はコメを交換する漁民と交易する必要があったから、漁民が両者を内陸に送り込む仕組みの形成が、先行的に必要だった。つまり奈良盆地への稲作者の進出は、海洋民族が主導する部族的な入植活動の一環として実施される必要があり、縄文早期~中期にアワ栽培者が西日本の各地に拡散した事情とは異なっていた。彼らはドングリも食べ、不足分を僅かな水産物で補っていたが、弥生時代に内陸に拡散していた稲作者もアワ栽培者も、ドングリは食べていなかったからだ。

弥生時代前半にはその流れが生れていたから、奈良盆地に唐古・鍵遺跡が生まれ、青銅器の鋳造遺物が遺されたと考える必要があり、この遺跡の稲作者は鉄器で製作した木製の農具を使って稲作を行い、青銅で作った斧を周囲の焼畑農耕者に渡し、アワと琵琶湖の魚を主要な食料とし、ドングリを必要としない食生活を実現していたと考えられる。蛇紋岩が採取できた九州では、その様な稲作者の入植が縄文後期に展開されていたから、青銅器時代になっていた縄文晩期にはその様な集落が生れていた事になり、縄文後期にそれが始まっていた可能性も否定できない。縄文後期はまだ鉄器時代ではなかったから、木製農具は誕生していなかったが、熱帯ジャポニカを栽培する事はできたからだ。

この論理に従えば、弥生中期に銅鐸を製作する様になったのは、焼畑農耕者にも鉄器が普及し始めて青銅が不要になり、青銅の価格が下がったから銅鐸も製作する様になった事になる。銅鐸を製作する為に青銅技術が普及したという様な、経済原則を無視した発掘至上主義的な考古学者の発想は無視する必要があり、その頃に鉄器の普及を示す古墳の形成が始まったと考えられるので、古墳に関する考古学者の年代観も再検討する必要があり、それに関する検証はこの項の後段で行う。

商品性に乏しいアワで地域経済を回転させながら、広域商品としてコメを生産する新しい生業形態が縄文後期に生まれたのは、日本列島の気候環境や地理的制約ではコメの生産性が低かったが、海洋漁民がコメに執着していたからだ。斜面を畔で区切って小さな水田を形成する事は、本格的な稲作民の発想としてはあり得ないものだが、コメが交易品として栽培されれば、その様な生産形態でも栽培する意味があったからだとすれば、関東部族が武庫川の中流域に入植した様に、熱帯ジャポニカの生産性が武庫川流域より高かったと想定される奈良盆地に、対馬部族が入植しても不思議ではなかった。

鉄器の普及効果が漁民にも及び、漁船の大型化や漁網の大型化による漁労の生産性向上が、背景事情としてそれを支えていた面も見逃せないが、この経済構造の変化は、弓矢交易を失った各部族が新しい経済活動を求めた結果として生まれた経済変化だったから、道具立てが揃う事によって事態が進展したと考える必要もある。

つまり縄文後期に始まった農耕革命は、以下の順序で事態が進展したと考えられる。

   蛇紋岩の産地に稲作者、アワ栽培者、海洋漁民の共生が生れた。(北九州で発生して各地に拡散/縄文後期)

   青銅が普及する事によって蛇紋岩が採取できない地域にも3者の共生が生れた。(武庫川中流域、奈良盆地)

   鉄器が漁民に普及する事によって漁労の生産性が高まり、木製の稲作農具が生れて水田稲作が普及し、稲作の生産性が高まった。(弥生時代の奈良盆地など)

 

4-3-5 アワの生産性

上記の論理展開は、アワの生産性は稲作者より高く、稲作者がドングリ食から逃れる為にはアワを食べる必要があった事を基底としているから、それを確認する必要がある。

日本では戦前まで、焼畑農耕によるアワやヒエの栽培が盛んに行われていたから、焼畑農耕の生産性が近代農業に匹敵した事に異論はないだろう。雑草の種を根絶する為に焼き払った木材の、灰を肥料にする極めて合理的な焼畑農耕は、化学肥料や除草剤が登場するまでは最も生産性が高い乾式農法だったからだ。科学肥料がなかった時代には休耕して地力を回復する必要があったが、樹木の根は地中に深く食い込んで希少元素を吸い上げるから、木材の灰は極めて貴重な肥料になったからだ。

日本の百姓は江戸時代までは、稲作者であっても毎日三食コメは食べず、雑穀を食べながらコメを年貢や換金作物として供出していた事も、事実認定して良いだろう。関東では畑作でヒエや大麦が栽培され、西日本ではアワ、大麦、キビなどが栽培されていたからであり、明治時代までその様な地域が各地にあったからだ。

従って古代の稲作民がコメを毎日食べていた筈はなく、コメは租税や換金作物として栽培し、自身はアワ、ヒエ、大麦などの雑穀を食べていたと考える必要があり、これらの生産は、生産性が高い焼畑農耕に依存していたと考える必要もある。

焼畑農耕は水田稲作とは全く異なる技術体系だから、農民が両者を併用する事はできず、稲作者はコメを重量ベースで数倍のアワと交換し、それを食べていたと考える必要もある。万葉集に載録されている貧窮問答歌がその実態を示し、稲作者のアワへの依存率がかなり高かった事も示しているからだ。

貧窮問答歌は温暖な北九州であっても、稲作者が生産したコメは全て租として徴収され、農耕者はアワを食べていた事を示している。

貧窮問答歌は、奈良朝が成立した30年後の730年代初頭に、山上憶良が筑前守に在任した際の事情を詠んだもので、律令体制下の公民の貧窮振りと、苛酷な税の取り立ての様子を歌っている。大袈裟に盛られている可能性はあるが、民衆が奈良長期以前より生活が厳しくなったと感じていた事は間違いない。

平安温暖期が始まって稲作の生産性が向上していた時期だから、稲作者が困窮した原因は不作ではなく、厳しい租税の取り立てだった。

「竈(かまど)には火気吹きたてず 甑(こしき)には蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く事も忘れて」いるのに、「楚(しもと=いばらの鞭)取る さとをさ(里長)がこゑ(声)は、寝屋ど(処)まで来立ち呼ばひぬ」とあり、飯を炊飯する甑は長らく使っていないのに、里長が年貢の取り立てに来ることを嘆いている。コメは既に全く無いのに、コメの年貢を督促されている状態を示しているが、嘆いている本人が冒頭部分で、「寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ)うちすす(啜)ろひて」と言っているので、糟湯酒をコメから作る酒であると勘違いし、情景描写が分からなくなっている人が多い。

糟湯酒はアワから作る事もできるから、「アワはまだ少し残っているが、それさえも家族を養うには不十分で、アワと交換するコメが無くなって久しいのだ。」と訳すべきだろう。これ以外の解釈では意味が不明になるから、稲作民がコメとアワを交換していた証拠を示すと共に、租税は交換価値があるコメで納めていた事になり、上記の経済構造が明示されている。

それらの句に続いて、「我(あれ)を除(お)きて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば」「我(われ)よりも貧しき人の父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは乞(こ)ひて泣くらむ この時はいかにしつつか、汝(な)が世は渡る(この様な場合に貴方なら如何するのか)」と登場人物に言わせ、本当の貧者は沢山いるのだが、それはとても言葉では言い表せないとしている。

温暖な筑前でさえこの有様だから、冷涼な地域は推して知るべしと言いたかった筈であり、奈良朝の施策に対する山上憶良の抗議が込められている。

奈良朝は訳が分からない愚策を展開したが、続日本紀はそれを隠蔽している。しかしその隠蔽から漏れた言葉が、上記の元正天皇の続きの詔として続日本紀に記されている。

今諸国の人民は生業の技術をわきまえておらず、湿地でイネを作る事にのみ精を出し、陸田(はたけ)の有利な事を知らない。だから・・・多くの飢饉に見舞われる。麦と稲を共に植えさせ、成人男子一人ごとに二段の割合になるようにはかれ。

口分田を成人男子に二段支給する事が班田収授法の基本だったが、それは全て水田ではなく畑も含んでいた事を示し、畑の割合を増やせと言っている。それによってコメの収穫量が減少し、代わりに栽培した大麦にはアワと交換する換金性もなかったから、稲作者は食料不足に悩む事を強いられた上に、租税を納める事も出来なくなっただろう。その結果として租税の取り立てが厳しくなったとすれば、逃亡する農民が増えても不思議ではなく、とんでもない詔だった。

この詔は以下の様に続いている。

アワは長く貯蔵しても腐らず、穀物の中で最も優れている。これを広く天下に告げ、力をつくして耕作させ、適期を失わないようにさせよ。・・・もし人民の中で、稲の代わりにアワを租税として出す者があったら、これを許せ。

焼畑農耕者のアワの生産性は高かったから、稲作者にも焼畑農耕を行えと言っている様に聞こえるが、稲作者が焼畑農耕者になることなどで記す筈がなく、暴論としか言い様がない様に見える。畑で栽培するアワにどれほどの生産性があったのか明らかではないが、焼畑農耕と比較すれば貧弱な生産量だった事は間違いないからだ。帰化韓族や漢族で稲作者になれなかった者は、その様な栽培を行っていた可能性が高いが、畑では麦を栽培しろと言っているのだから、話が矛盾しているとも言えるからだ。

しかしこれを、稲の代わりにアワを租税として出す者があったら、これを許せと言いたかっただけであると解釈すれば、話は全く異なる。

稲作者のコメが租税として徴収されていた上に、水田の給付が減少してコメの収穫が減っていたから、コメをアワと交換する事によって租税として納めていたアワ栽培者が、コメを租税として収める事ができなくなった事に配慮し、アワ栽培者がアワを租税とするのであれば、それも受け取れと命じた事になるからだ。また奈良朝は稲作者の政権である様な振りをしながら、実はアワ栽培者の政権だった事を示している言葉でもあるからだ。

奈良朝には関東のmt-B4から藤原氏が派遣され、稲作民の保護に配慮していた筈だが、奈良朝3代目の元正天皇がこの様な発言をしていた状況を、看取する必要がある。元正天皇はその後の詔で、官僚が隠し事をしていると不平を述べているが、必然的な結果だったと言えるだろう。

山上憶良は701年に遣唐使の一員になり、716年に伯耆守、726年~732年に筑前守になったから、716年に元正天皇(715年~724年)が上記の詔を発した1016年後に筑前守になり、その様な詔による施政下にあった筑前の事情を詠んだ事になる。初回の遣唐使に随行したエリート官僚の中にも、朝廷を批判する者がいた事になり、和気清麻呂の政変に繋がる事情を示している。

多少経済学が分かる者であれば、商工業を重視した物部と反目しながら農民政権である事を標榜した奈良朝が、温暖化によるコメの豊作を享受しながらこの様な状態に陥った事に、必然性を読み取る事が出来るだろう。コメの需要者になるべき商工業者が抑圧され、コメの需要が低迷する中で、豊作によってコメの価値が暴落すると権威主義的な王朝は、奢侈的な諸経費を賄う為に必要なコメの量が増加すると、それを増税で補った事を示しているからだ。稲作の生産量が少なかった農民は途端に困窮したが、王朝の蔵にはコメが余って腐らせる事態も生まれ、貧富の格差が急拡大して逃亡農民が多発した事は、その必然的な帰結だった。

その様な奈良朝の存在を許していたのは、関東のmt-B4の情報網が奈良朝の成立を容認したからだが、奈良朝が改定した古事記は関東に対する悪意に満ち、なら長が用いた関東の国名にも侮蔑意識が現れている事は、関東を支配していなかった事を示唆している。その証拠として和銅元年の元明天皇の詔に、「治めているこの国の東方にある武蔵国」との記述がある事は既に指摘したが、新唐書日本国伝にも「其の東海の島には、古、波邪、多尼の三小王国有り」と記され、関東には奈良朝とは別の政権があった事を示しているから、これも事実認定して良いだろう。

奈良朝は畿内、旧邪馬台国系倭人国、旧越人地域しか支配していない政権だったが、続日本紀はそれを隠蔽する為に、意図的に編纂されたと考える必要がある。

 

4-4 縄文後期に西日本に入植した東日本の縄文人

4-4-1 概況

縄文後期に関東の温帯ジャポニカの生産性が高まり、mt-B4が生産する熱帯ジャポニカの収穫が極度に見劣りする様になると、多数のmt-B4を伴った関東部族の漁民と縄文人が、北九州、播磨灘沿岸(岡山、香川)、大阪湾岸(淡路島、神戸、武庫川流域)、九州南西部に入植したが、漁労権がない他部族の海域には入植できなかったから、関東部族の入植地は元的だった。日本海沿岸に漁労権がなかった事は当然として、伊勢湾沿岸や阿波にもアワ栽培者の入植地があり、九州北西部は壱岐・関東系九州漁民の海域で、九州南東部~愛媛・土佐は伊予部族の領域、宗像~周防灘は対馬部族の領域だった。

九州南部では姶良カルデラや桜島が大噴火を繰り返し、九州の漁民が寄り付かない海域になっていたから、関東部族の南方派が縄文後期初頭にそれを譲り受けたが、後世の倭人国にはならなかった事と、古事記が神武天皇が亡くなった際に、この地域の人々と諍いがあった事を示している事と整合し、後漢書が奴国は倭人国の最南端にあると記している事とも一致する。

南方派は華南の稲作民の交易需要を満たす為に九夷を結成したが、関東部族の指導者が毛皮交易を主導する北方派になると、その様な北九州の大率に属する事を拒否したが、論語は春秋時代まで九夷が存続した事を示している。しかし飛鳥時代に生まれた古事記は、九州を筑紫国、豊国、肥国、熊曽に分け、薩摩半島は伊予部族に属した事を示している。

四国最大の河川である吉野川流域は、縄文中期にアワ栽培者が南下した地域だが、紀伊水道を挟んだ南紀最大の河川である紀の川流域や、其処を玄関口とした奈良盆地や京都盆地は、宗像を拠点とする対馬部族の領域になった。奈良県御所市の高鴨神社は、阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)を祭り、京都盆地の加茂神社の神はその系譜になり、古事記は大国主と宗像の多紀理毘賣命の子が、阿遲鉏高日子根神であると記しているからだ。

つまり古事記は、宗像が出雲の属国になっていた事と、豊国の稲作者と焼畑農耕者が奈良県南部に入植し、その後京都盆地や琵琶湖南部に拡散したと指摘している。

畿内の主要部である奈良盆地、京都盆地、琵琶湖畔は、縄文後期までは湖や沼に覆われて蛇紋岩が採取できない地域だったから、海洋民族も焼畑農耕者も興味を示さない過疎地だった。青銅器時代になって初めて、稲作者とアワ栽培者の共生が実現したから、対馬部族の故地だった豊国より遅れて発展した事は間違いなく、古事記の指摘は歴史事象と整合する。

焼畑農耕者に囲まれた稲作地に大集落が生まれた地域として、北九州の次に生れたのは豊国と稲羽(鳥取)だったと考えられる。鳥取の千代川の中小支流域は縄文後期に川洲が発達し、北九州でmt-F型の稲作を身に着けたmt-D4が、この地域に浸潤する条件が整っていたからだ。また古事記の出雲説話で、大国主が稲羽の八上ヒメを娶るのは、出雲部族が当時の日本有数の稲作地を掌握した事を示し、大国主を苦しめた八十神の存在が、千代川下流域の複雑な地形を示唆し、歴史的な事情と整合しているからだ。

鳥取は背後の中国山地で蛇紋岩が採取できる地域として、縄文前期からアワ栽培者の集積地だったから、稲作者とアワ栽培者の共生が生れ易い場所だった。北九州で生まれたアワ栽培者と稲作者の共生文化が、鳥取や若狭湾沿岸に移植される事は必然的な成り行きであり、千代川流域は最も川洲に富んだ複雑な地形を有していた。この様な事例は縄文後期~晩期の人吉盆地にも見られ、稲作者の入植が可能だった地域には、漏れなく入植したと考えられるからでもある。

洪水の恐れがない日本海沿岸の川洲には、北九州でmt-Fから温帯ジャポニカの栽培技術を習得したmt-D4が拡散し、洪水の恐れがある内陸の盆地には、熱帯ジャポニカの栽培者だった関東のmt-B4や東北南部のmt-M7aが入植した事に留意する必要がある。

 

4-4―2 縄文後期に西日本に移住した、関東部族以外の人々

縄文後期に東日本から西日本に移住し、稲作者になった人々には二つの源流があった。

その一つは縄文前期~中期の中部山岳地帯に焼畑農耕者として入植していたが、弓矢産業が失われた縄文後期に集落が断絶した伊那谷の人々や、千曲川流域や群馬県で矢尻街道の宿場を運営し、焼町土器と呼ばれる極めて装飾的な土器を製作していた人々、その周囲で焼畑農耕を営んで石棒を遺した人々などだった。火炎土器を製作していた信濃川流域の人々も、それに含まれるかもしれない。

縄文後期に山を下った人々は、焼畑農耕を営んでいた山陰の縄文人と同じ北陸部族ではあっても、新たな入植地では新参者だったから、新たに生まれた沖積平野に活路を求める事は自然の成り行きであり、その3で示した福井の西鯉地区の集落群の人々や加賀の人々は、その様な移住者だった可能性がある。

北陸部族の宿場を運営していた人々にmt-Dが含まれ、同じ宿場の運営者として古甲府湖の畔にあった関東部族の宿場を訪問し、mt-B4から種籾を譲り受けて栽培したり、鋳物師屋遺跡(いもじやいせき)などのmt-Fと接触し、釜無川の河口で栽培されていた温帯ジャポニカの種籾を譲り受けていたりすれば、稲作者に転向し易い人々だったとも言えるが、稲作者が急増した地域の周囲に焼畑農耕者として入植する事が、最も容易な移住だったと考えられる。

いずれにしても彼らの入植地は、北陸部族のアワ栽培者が拡散していた地域に限定された筈だから、山陰、琵琶湖岸、伊勢湾沿岸だったと考えられ、対馬部族が奈良や京都に縄文後期早々に入植したとすればその対象になり、安曇野や千曲川流域もそれに含まれる事は後述する。

その観点で千代川流域の地理的な事情を検証すると、鳥取の海岸砂丘は、砂丘の上に樹林が形成されていない部分が注目されているが、樹林に覆われた標高70mほどの砂丘もあり、縄文中期までの鳥取平野は、樹林に覆われた砂丘が形成する湖だったと推測される。しかしその様な古鳥取湖は、同様に砂丘が形成していた古庄内湖や古秋田湖ほど広くなかった上に、川洲の発達による湖面積の縮小が早く進んで縄文前期~中期に海岸砂丘が決壊し、千代川が日本海に流れ出る状況が生れた。

鳥取環境大学とその東の渡葉台団地が立地している、標高50mほどの平坦な台地がその痕跡であると考えられる。千代川の支流の曳田川や八東川(はっとうがわ)の流域にも、標高50m程度の平坦地が残されているから、古鳥取湖の湖面標高は50m程度だったと推測される。海岸砂丘が形成した湖については、東北に残された縄文後期の遺跡が示す、移住前後の対馬部族と出雲部族の事情の節で詳しく検証する。

砂丘が決壊して湖が失われた時期は明らかではないが、湖が存在していた時期の海岸は、海洋漁民は定住できない場所だったからアワ栽培者にも放置されていたが、海岸砂丘が破れて千代川の河口が生れると、この地域の複雑地形が生み出した多数の小さな入り江の奥に、湖岸の川洲として蓄積されていた土砂が河川に流され、入り江の海面に堆積して温帯ジャポニカが栽培できる、小さな沖積地が生れた。

それらの沖積地に入植したmt-D4が稲作に成功すれば、焼畑農耕を営んでいたmt-Dも周囲に集まったから、稲羽(=稲場)と呼ばれるのに相応しい地域になっただろう。

もう一つの源流は、福島や山形で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-M7aと、北東北で堅果類を栽培していたmt-M7aの混成集団で、縄文中期末~後期初頭に大集落が断絶した青森の三内丸山遺跡、是川遺跡、函館の大船遺跡の人々と、縄文後期に集落が減少した山形や福島の人々がそれに該当する。考古学的な事実としても東北各地の縄文集落の規模が、縄文中期末から後期初頭に縮小した事が指摘されているから、広い範囲の縄文人が西日本に移住したと考える必要がある。

関東でもこの時期に台地上の縄文集落の規模が縮小したから、寒冷期になって人口が減少したと主張する考古学者が多数いるが、縄文後期は温暖期だった。縄文後期温暖期になると、関東のmt-B4が大挙して西日本に移住したが、同様の状態が東北でも発生した事は、東北縄文人が関東縄文人の動向を注視していた事を示している。関東部族と同様に弓矢交易の崩壊に直面した人々として、新しいビジネスモデルを共同で構築する必要もあり、コメの生産は格好のビジネス対象だったからでもある。

北九州のmt-D4mt-F型の温帯ジャポニカの栽培を山陰に拡散した動きは、稲作の拡散という点では同じだったが、関東部族や東北の諸部族の経済活動と連動したものではなく、北陸部族の需要に応えるもので、縄文後期温暖期に生まれて温暖期の終焉と共に消滅した、一種の徒花として考える必要があるが、その3で指摘した様に縄文晩期のmt-B4が稲作を拡散する際に、稲作の経験者として強力な需要を生み出した事は評価できる。

東北南部のmt-M7aは北関東のmt-B4から熱帯ジャポニカの種を貰い、福島や山形の湖岸の川洲で栽培していた事を、大木式土器と加曾利式土器の共通的な文様が示しているが、彼らの移住先だったと考えられる鳥取県の智頭万田遺跡で、大木式に類似した文様の土器が発掘される事は、その決定的な証拠を示している。此処までの説明だけでは理解できないかもしれないが、以下に順次説する事柄を理解すれば、実感として分かるだろう。

福島のmt-M7aと関東のmt-B4の熱帯ジャポニカを介した情報ネットワークは、関東部族と伊予部族の長期に亘る親密な経済協力の成果だったが、山形の縄文人と関東部族の間に人の交流があった事も、山形で出した「縄文の女神」土偶の臀部や頭部の被り物の意匠と、八ヶ岳山麓で発掘された「縄文のビーナス」土偶の意匠に極めて高い類似性がある事が示している。

堅果類の栽培者だったmt-M7aにはmt-B4mt-B5mt-M9の様な、堅果類の栽培者に囲まれながら自身の栽培種に強い拘りを持ち、栽培技術を維持する環境には氷期からなかったし、mt-M7bmt-M7cとは異なり、氷期から蛇紋岩製の磨製石斧を使って畑を形成して1年生の植生も栽培していたから、稲作者になる環境にも恵まれていた事も、mt-M7aが容易に稲作者になる条件を備えていたが、mt-M7aは稲と類似したヒエの栽培者だったから、稲作者ではなかった北東北のmt-M7aも西日本に移住して稲作者になった事により、三内丸山遺跡や是川遺跡が縄文後期に断絶したと考えられる。

ヒエの栽培に付いては、節を改めて説明する。

山形市の夏季は大田原市や水戸市と比較しても遜色がないほどに温暖だから、山形のmt-M7aは最上川が形成した古山形湖の川洲で、熱帯ジャポニカの栽培に挑戦していたと想定され、三内丸山の縄文人が西日本に移住する際に稲作技術者として勧誘され、関東のmt-B4の様に西日本に移住したと推測される。

南東北に特徴的な大木式土器の分布範囲が、熱帯ジャポニカ栽培の北限だったと推測され、ウィキベディアは、秋田市・田沢湖・盛岡市・宮古市を結ぶ以南の、東北地方南部を主な分布域とし、東北地方北部から北海道南西部にかけて分布する同時期の円筒土器と並行する。縄文時代中期後半に、北東北に分布域を広げると記している。

寒冷化が深刻になった縄文中期後半に北限が北上した異常性があるが、北関東のmt-B4がその頃に、何耕地遺跡がある盆地などの冷涼な稲作地で、寒冷化に対応する新たな稲作技術を開発した事が、この様な事態を招いたと推測されるから、縄文晩期寒冷期に稲作が新潟に北上した事例と比較すれば、違和感がある話ではない。その様なmt-M7aの稲作の収穫は、mr-B4と比較すれば極めて低く、収穫がない年度もあったかもしれないが、東北のmt-M7aには他に栽培できる穀物はなかったから、栽培事情としての不自然さもない。

宇都宮市の5月の平均気温は17.8℃で、10月の平均気温は16.7℃、山形市ではそれが16.2℃と14.1℃、秋田市では15.2℃と14.5℃、盛岡市では14.5℃と12.6℃だが、稲の生育に必要な8月の平均最高気温は、宇都宮市30.9℃、山形市30.5℃、秋田市29.2℃、盛岡市28.4℃で、mt-B4が実験的な稲作地としていた何耕地遺跡の標高は238mで、宇都宮より110m高く、緯度も50㎞ほど北上しているから、宇都宮より1℃ほど冷涼である事を考慮すると、実験的な稲作地は宇都宮より1℃ほど低温である事になるが、宇都宮が首都圏のヒートアイランド現象に巻き込まれている事を考慮すると、実際の何耕地遺跡の気候は現在の宇都宮より1.5℃低温である事になり、古山形湖の湖畔は実験的な稲作地より夏の日中温度は1℃高かった事になる。

巨大湖の湖畔では秋の低温化が緩和されるからそれも考慮すると、山形では実験農場に近い収穫を得た可能性が高く、山形市、秋田市、盛岡市でも、不作の年もあった程度の事情だったと推測され、大木式土器の分布範囲が熱帯ジャポニカの栽培地だったと想定する事に気候的な支障はない。

三内丸山などの北東北のmt-M7aには稲作経験がなかったが、西日本に移住した縄文人の集落は規模が大きく、堅果類の栽培者も含んでいた事を示唆しているから、海洋漁民と共生していた青森の堅果類の栽培者と、稲作はできるが海洋漁民と共生していなかった大木式土器圏の縄文人が、新たな共生関係を形成しながら西日本に移住したとすると、九州を含む西日本の縄文後期の事情とその後の歴史展開に繋がる。

mt-B4が熱帯ジャポニカの情報ネットワークを東北南部のmt-M7aまで拡大していた事は、縄文後期に西日本に移住したmt-M7aの稲作を確認しながら、技術指導と栽培者のネットワークを維持していた事になり、関東のmt-B4が縄文晩期に耐寒性が高い稲作技術の拡散活動を行ったのは、日本式の稲作技術を開発した事が動機だったのではなく、従来のネットワークを強化しながら対象範囲を拡大していく行為だった事になる。その様な情報交換の為に船便を提供した関東部族の漁民は、mt-B4の活動と並行して内需交易を拡大していったのだから、漁民にもそれに対応する組織が生れる事は必然的な結果であり、北関東に集住していたmt-B4と連携した北方派の漁民が、後世の鹿島神宮勢力を形成したと想定する事に合理性がある。

我々が見る事ができる奈良時代初頭に改定された古事記と、平安時代初頭に創作された先代旧辞本紀を参照すると、この漁民系譜の組織として鹿島神宮と香取神宮が存在した事を示しているから、縄文後期~古墳時代の間に両者が別の組織になった事になる。mt-B4に従属的な鹿島神宮が藤原氏を奈良朝に送り込む一方、内需的な商業活動を担う物部を香取神宮が統括していた事は、香取神宮が北方派の交易事業を支えていた事になり、両者が目的に応じて別の組織になった事情が明らかになる。霞ケ浦への出入り口にある鹿島神宮と、利根川を介して北関東一円の交易が行える香取神宮の、地理的位置と整合する。

香取の位置は北方派の交易拠点だから、南方派の拠点は別にあり、古事記が降臨した天皇家の祖先と婚姻したとする、木花のさくやヒメを祭る富士宮市の浅間神社が、その所在地を示している。

 

4-4-3 西日本に移住する前の、縄文前期~中期の東北縄文人

北海道縄文人にはmt-D+G30%も発見されているが、東北縄文人にはmt-D5%ほどいるだけでmt-Gはいないから、東北縄文人が九州から移住した縄文早期の津軽海峡は既に海峡化し、東北には南北遊動するシベリアの狩猟者は殆どいなかった事を示している。日本列島には漁民と共生するモンゴル系狩猟民族もいたが、この時代のモンゴル系狩猟民族は、漁民と共生する狩猟民族だった。縄文早期の海洋漁民は関東、北陸、九州、山陰、四国南部に集住していたから、東北にはモンゴル系狩猟民族も殆どいなかったと想定され、東北縄文人の遺伝子分布がその事情を示している。

東北縄文人の最多遺伝子がmt-N9bである事は、漁民と盛んに通婚していた事を示しているからであるが、湖沼が少ない九州に5千年いた縄文人には漁労技術の進化に遅れがあり、巨大湖が散在する東北に移住すると、海洋の漁労技能や航行技能を盛んに入手した事も示唆している。これは海洋漁民から離れた内陸の湖の畔に集落を形成しても、自活できる食料自給力を身に着けていた事も示唆している。

東北縄文人のミトコンドリア遺伝子が抽出された遺骨は太平洋沿岸のものが多く、津軽のものは含まれていない。太平洋沿岸は伊予部族の縄張りだが、関東部族と最も親和性が高かった伊予部族でさえ、関東部族が海外から招いたmt-B4mt-Fはが全く含まれていない事は、出雲部族や対馬部族と共生した日本海系の東北縄文人にも、他部族との婚姻による遺伝子の浸潤はなかったと考えられる。

従って東北縄文人の土器はmt-M7aが作っていたと想定されるが、東北北部の円筒形土器群と南部の大木式土器群に大別され、部族的な違いは見られないから、東北縄文人には3部族のどれかに帰属しているとの認識は薄く、東北縄文人としての一体性の方が高かった可能性が高く、稲作技術の受容の仕方がそれを示唆している。

伊予部族の縄張りだったと考えられる、下北半島の縄文中期の遺跡から発掘される土器には、関東部族的な尖底土器もあるが三内丸山などの青森県西部に多い円筒土器も含まれ、その折衷的な器形が大船遺跡から発掘されている事は、青森の東西でmt-M7aの活発な交流があった事を示し、上記の推測と整合する。伊予部族の領域だったと推測される函館の、縄文早期の遺跡である中野AB遺跡で、同時期の関東部族と同様の尖底土器が発掘され、伊予部族と関東部族の関係の深さを示しているからだ。

伊予部族は関東部族のシベリア交易をサポートする為に、1万年以上前に東北や北海道の太平洋沿岸に進出したから、彼らが縄文早期の関東の土器を使っていた事に蓋然性があり、伊予部族の縄文人は関東部族の縄文人と関東まで北上し、その後伊予部族と共に北上して東北沿岸に拡散し、北海道に渡った者もいた事を示している。

 

出雲部族(隠岐部族)

隠岐の黒曜石を加工した矢尻が沿海州で多数発掘されている事は、出雲部族は弓矢を沿海州の狩猟民族に販売する海洋交易者だった事を示し、出雲方言と津軽方言の類似性が、三内丸山遺跡は出雲部族の縄文人集落だった事を示唆している。その他の諸事情もこの想定を支持するので、確度が高い。

三内丸山遺跡の北東に小さな丘があり、その丘の反対側を流れる新城川の河口に、彼らと共生する漁民の集落があったと推測される。三内丸山遺跡の巨大な建造物は北東北の縄文人にも豊かさがあり、ヒスイや漆器などの工芸品を製作していた事は、産業社会化の波が及んでいた事を示している。しかしそれを理由に、関東より先進的な文化があったと考える事は誤解になる。関東縄文人は弓矢産業に従事する労務が求められ、稲作も行っていたから、経済活動に忙しく三内丸山遺跡の様な巨大建造物は遺さなかったと推測されるからだ。またこの地域の特殊性として、巨大建築が台風の襲来によって破壊されなかった事も挙げられる。

但し三内丸山遺跡は出雲部族の一つの集落ではあったが、この集落は弓矢交易に直接関与していなかった疑いが濃い。

その様な出雲部族が移住していた縄文前期以降の津軽では、漁民に獣骨を提供していたのは縄文人を起源とするY-C1だったと想定され、Y-C1も大胆に南北遊動する狩猟民族ではなく、漁民と共生する地域的な狩猟民族だったから、九州でモンゴル系狩猟民族と縄張りが競合したY-C1が、移住に積極的だった可能性が高い事はその2で指摘したが、日本海に流れ込む河川の中流域に多数の巨大湖があったから、Y-O3a2aの移住意欲も高く、出雲部族の縄文人にはこれらの人々の比率が高かった事が、出雲部族の特殊性を生み出したと考えられる。

隠岐の黒曜石を使った出雲族の弓矢交易は、関東部族と伊予部族のビジネスモデルの模倣だが、経営主体は全く別だったから、彼らと共生する縄文人にもその経済活動や成果の違いは及んでいたが、縄文人の部族間交流はそれを強く意識せずに行われていた事になる。

両者の弓矢交易の生産構造は類似していたが、関東部族の市場はシベリアの内陸部で、息慎が仲介者だったのに対し、出雲部族の弓矢の市場は沿海州で、粛慎が仲介したと推測されるから、それぞれの部族の経済活動には異なる浮沈があり、下北半島で発掘される円筒土器は出稼ぎ者の存在を示唆しているから、不況になった部族に帰属する縄文人が、繁忙な部族の縄文人集落に求職活動を行っていた事を示唆し、ルーツが同じ沖縄系である東北縄文人には婚姻関係が生まれていた可能性もある。

阿武隈川の流域に古福島湖が存在し、最上川が古山形湖を形成していたが、その北の日本海に流れる大河の流域にも巨大湖が形成されていた。現在はそれらの湖が全て失われて盆地になっているが、1万年前に出雲部族や対馬部族と一緒に東北の日本海沿岸に拡散した縄文人の一部は、それらの湖の湖畔に定住した。

しかし日本海沿岸を対馬暖流が流れる様になった7千年前以降は、海岸砂丘が発達して海洋漁民の定住が難しくなり、海洋漁民は青森に北上してしまった。

古山形湖の湖畔に定住した縄文人と、日本海の海洋漁民との交流がそれによって薄れた事が、関東部族や伊予部族と共生する縄文人との連携に、傾斜させる要因になったと考えられる。阿武隈川は太平洋に流れ出ているから、河口に砂丘は生れなかったからだ。

従ってその流域で伊予部族の漁民と共生していた縄文人は、阿武隈川を遡上した海洋漁民と共生する事ができたが、最も上流に在った古郡山湖は河口から遠く標高も高かった。古山形湖は酒田の海岸から100㎞程遡上した場所にあり、湖面標高も150mに満たなかったが、古郡山湖は150㎞以上遡上する必要があり、湖面標高は300mほどあったからだ。しかし縄文人がその湖畔の稲作に適した地域に、大きな縄文集落を形成していた事は既に指摘した。伊予部族は獣骨に不自由していなかったし矢を生産していなかったから、Y-C1の人口は少なく稲作者のペアは湖沼漁民が多かった可能性が高い。

東北縄文人のミトコンドリア遺伝子として抽出できた遺骨には、これらの湖の湖畔の縄文門人のものは含まれず、殆どは太平洋沿岸地域の縄文人のものではあるが、mt-M7a30%未満しか含まれず、他は6割以上がmt-N9bで、Y-C3のペアだったmt-D1割未満だった。これらの湖畔の縄文門人が東北縄文人の多数派だったとは考え難く、縄文後期に稲作者として西日本に移住したmt-M7aは、東北縄文人の全てのmt-M7aでもなかった筈だから、西日本に移住したmt-M7aは東北縄文人の15%程度しかいなかった事になる。これでは稲作者としてのパンパワーに欠けたから、少なくとも伊予部族は関東のmt-B4もリクルートしたと考えられ、その証拠は次節に示す。

出雲部族は隠岐の黒曜石で矢尻を製作したから、最も重い矢竹を温暖で竹の生育が早い隠岐で生産していた都合上、運搬上軽量な矢羽根とウルシを隠岐に運び、完成品としての矢を製作しでいた可能性が高い。それを朝鮮半島の東岸経由で、日本海を周回する様に沿海州に運ぶと、海運上最も合理的な航路になったからでもある。帰還船は沿海州を北上して樺太に至り、南下して青森に至ったのではなかろうか。

ちなみに北陸部族の船は間宮海峡を越えてアムール川河口に至り、其処で粛慎に積み荷を渡せば最短ルートだったが、息慎と北陸部族の間には親密な関係があり、その関係から遼河台地からmt-Dをリクルートしたり、濊の祖先集団が遼東で玉器の製作者になったりした事を考慮すると、北陸部族の船は更にアムール川を遡上し、息慎に直接積み荷を渡していた可能性が高い。北陸部族のその様な行為が粛慎の反発を生み、縄文晩期に息慎が崩壊して粛慎がシベリア東部の交易の主導者になると、北陸部族が北方交易から手を引く事になったとすると、歴史事象と整合するからだ。

この様な交易構造を形成していたとすると、出雲部族の三内丸山集落の役割は、海洋漁民と共生する栽培者としてクリを含む植物性食料を生産し、漁労に必要な漁具を製作する事だったと想定され、三内丸山遺跡の周囲から発見されていないウルシ樹は、冷涼な岩木山の山麓で別動隊が栽培していたと想定される。

入植時のY-C1は漁民に獣骨を供給したが、弓矢交易が始まると水鳥を捕獲して矢羽根を集める事が重要な任務になり、Y-O3a2aは水上交易者として獣骨や矢羽根を漁村に届けるだけではなく、食料自活力がなかったY-C1に、湖沼漁労の生産物を届ける役割も担ったと想定される。三内丸山遺跡を囲んでいた広大なクリ林は、三内丸山遺跡の縄文人の需要を満たすだけではなく、これらすべての人々の為に栽培していたと推測される。

三内丸山遺跡に遺された巨大建築物は、住民の利便性向上の為に作ったとは考え難く、農地を配分する権力機構を装飾する王宮だった筈もなく、自分達の力を漁民や他者に見せ付ける為のものでもなかった筈だから、消去法から推測すると日頃から過分な海産物を提供してくれる、漁民を迎える為の迎賓館だった可能性が浮上する。この時代の三内丸山のY-O2b1mt-M7aペアは、弓矢の生産への貢献が間接的で、食料の自給力が低く、創造性を発揮する事が難しい少数民族だったからだ。

その前提に立てば、サルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させていた痕跡は、巨大建築物に定期的に招き入れていた漁民を、大いにもてなす為に酒を用いた痕跡になる。それは現代人も多用する有力な交際手段だから、集団間の交際に供する設備としての巨大建築物が、海岸近くに自然発生的に生まれた事の説明になる。

これらを前提にすると用途が不明な櫓構造の高層建築物も、灯台として使った可能性が高まる。三内丸山遺跡から小さな丘を隔てた北東には、現在は新城川の沖積地が形成されているが、縄文中期までの海岸には砂浜が乏しく、波が岸壁を洗う状態だった事をこの地域にも適用すると、波の影響を受けない内湾的な地域を求めた漁民集落は、当時の新城川の河口だった津軽新城駅辺りにあったと考えられる。その集落の漁民には青森湾の様子は見えたが、陸奥湾の様子を見る為には青森湾に漕ぎ出さなければならなかった。つまり漁村の近くの海岸でかがり火を焚いても、陸奥湾や海峡に夕刻まで出漁していた漁民には、帰路の目安になる灯りが見えなかった。

地図上では三内丸山遺跡でかがり火を焚けば、津軽海峡から見える事になるが、地球は丸いから海岸の焚火は、5㎞以内の海域からしか見えない。標高10mの大地上に30mの櫓を組み、その上で火を焚けば30km沖合から確認できたから、津軽海峡で日没まで操業していた船が、暗闇になる前に陸奥湾に入れば、その光を頼りに新城の湊に帰還する事ができた。

月明かりがあれば問題はなかったかもしれないが、出漁時には晴天でも夕刻に曇天になれば、津軽海峡の漁場から夜間に帰還する事は難しかっただろう。しかし三内丸山遺跡に灯台があれば、灯火に向かって全力で漕ぎ進めば良く、漁場範囲と漁労時間を拡大して海産物の水揚げを増やす事ができた。

青森湾内であれば夜間に漁火漁を行う事もできたから、この灯台の存在によって新たな漁法を開発する事も可能になった。三内丸山の縄文人にとっては、漁民の生産活動に貢献する事により、胸を張って海産物を受け取る事ができたから、適切な位置に可能な限り高い灯台を作る事に、積極的に取り組む動機があった。

漁民に渡せる最上の穀類がクリしかなかった三内丸山の縄文人にとって、灯台の運営によって漁民に貢献できるのであれば、できる限り高い建造物にする事に躊躇いはなく、柱を継ぎ足して50m以上の高さを実現していた可能性が高く、台風の襲来頻度が低い青森ならではの高層建築物だったと考えられる。

三内丸山遺跡の1㎞ほど背後に標高60m程の丘陵があり、その山頂で火を焚いても同様の効果は得られた様に見えるが、当時のこの地域は樹林に覆われていたから、丘陵の上の樹林の中で火を焚いても、光が樹木の枝葉に遮られて遠方から見難かったから、周囲の樹高より十分に高い灯台を建設する事に存在意義があった。従って周囲のどの樹木より高い楼を形成し、全方位から見えるものにする為には、30m以上の高さが必要だった。

標高10mの敷地に50mの灯台を建設すると、津軽半島と下北半島が形成する平舘海峡(たいらだてかいきょう)の南端から、灯台の灯りを見る事が可能になるが、この海峡の北端から灯りを見る為には100m以上の高さが必要だから、無理がない範囲として、幅11㎞の海峡を抜けると灯台の灯りが見える事を目指し、高さ50mの灯台を建設した可能性が高い。

平舘海峡の西には山岳地が迫っているから、その最高峰である丸屋形岳(標高718m)の上でも火を焚けば、日没後の津軽海峡から新城川河口の漁村に帰還する事も可能になった。特別な漁期にその様な仕掛けを設定すれば、津軽海峡での長時間の漁労活動が可能になっただろう。

 

伊予部族

伊予部族は函館の大船や垣ノ島、青森の是川などの、太平洋沿岸に拠点湊を形成し、関東部族がシベリア交易に使用する湊を提供する事により、獣骨を豊富に得ていたから、彼らが共生した縄文人にはY-O2b1が多かったと推測される。縄文早期末(7,000年前)の垣ノ島遺跡の土坑墓に、世界最古の漆製品を遺しているから、これはその様なY-O2b1mt-M7aの作品だったと考えられる。この時代の伊予部族の縄文人は、縄文早期に中野AB遺跡などがある函館に集住していたと想定され、彼らが遺した尖底土器は関東縄文人の縄文早期の土器形式だから、関東に移住しても狩猟民族との関係から十分な縄張りを得られなかった縄文人が、伊予部族と一緒に福島~函館に北上した事を示唆しているが、ヒエを栽培したかったmt-M7aが、野生種が繁茂しない冷涼な気候を求めて北上した可能性も高く、それに付いては次節で検証する。

彼らは関東縄文人が八ヶ岳山麓でウルシを栽培していた様に、八ヶ岳山麓と気候が類似した道南でウルシを栽培したが、それを使って輸出用の矢を作る必要はなく、自身が使う矢と磨製石斧の為だけで良かったから、余った漆を利用して漆工芸品を作ったと想定される。但しウルシ樹は青森以北で栽培できたから、漆加工技術の起源は出雲部族、伊予部族、対馬部族のいずれであったのかは分からない。それを詮索する事には大きな意味はないが、ウルシは冷涼な気候地域の物産だから、漆工芸品はこれらの部族の特産品だったと考えられる。

縄文前期の鳥浜遺跡から漆塗りの櫛が発見された事は、東北の海洋民族がそれを商品にしていた事を示し、縄文人が漁民の為に漁具や工芸品を製作する縄文経済は、東北で成立もしていた事を示しているが、ウルシ工芸品は経済的に豊かな海洋民族同士の交易品でしかなく、大陸の貧しい農耕民族には手が出ない奢侈品だった。シベリアの漁労民族の需要の有無については、明らかではない。

優れた工芸品であれば海外に輸出できた筈だと考える人は、縄文人にも及ばないマーケティング音痴だと言わざるを得ない。製作に手間が掛かる高級な工芸品の需要は、石器時代には交易者が時間を掛けて創造するものであって、「良い物品であれば自動的に需要が生まれる」わけではなかったからだ。荊が作った黒陶が中華世界の各地から出土するのは、関東部族が交易の仕組みを開拓し、荊が各民族の嗜好に合わせた土器を製作したからだ。その交易は縄文前期の河姆渡時代に始まり、縄文中期に華北の栽培系狩猟民族の需要を喚起し、販売を軌道に乗せるまでに千年以上の歳月を費した事を想起する必要がある。

北陸縄文人は石材加工技術を輸出し、加工具や石材の交易で利潤を上げたが、ウルシ栽培には気候適所があり、縄文時代には完成品の販売しかできなかったから、北陸縄文人の様に権力の象徴に育て上げる事によって良渚文化人に販売したり、箕子朝鮮の様な加工集団を育成し、遼河台地の栽培系狩猟民族に販売したりする事はできなかった。経済力がある海洋民族しか需要者にならなかった事が、石器時代に漆工芸品が輸出品にならなかった最大の理由だが、荊の土器の様にそれを強力に販売する動機がなかった事も、縄文中期までの漆工芸品の需要が薄かった理由に挙げられる。

また玉器には人を威圧する美しさがあり、民族文化に相応しい形状に加工する事も可能だったが、ウルシには玉器ほどの美しさがなく、木器や土器の装飾しか用途がなかったから、揺籃期の権力者には需要がなかったとも言える。

東北の部族は中華大陸に積極的に打って出る海洋民族ではなく、関東部族のビジネスモデルを模倣して近場の大陸に販売したり、関東部族の活動をサポートしたりする事により、部族の経済活動を維持する状態だったから、彼らの交易力では漆加工品の需要を創出できなかったとも言える。東北の諸部族の人口規模が、北陸部族や関東部族に及ばなかった事もその理由の一つではあるが、南方から造船に相応しい樹木を導入して岡山で栽培するなど、造船や操船の技能を向上する手段や熱意が関東部族と比較して乏しかった事も、重要な理由として挙げる事ができるだろう。

道南の大船遺跡と垣ノ島遺跡は、太平洋に面した山並が海岸に迫る場所にあり、栽培者だった縄文人にとって暮らし易い地形であるとは言えず、漁民にとっても湊に相応しい地形に乏しく、海が荒れると外洋の荒波が打ち寄せる地域でもあった。これらの遺跡がある亀田半島は、太平洋側は山並が切り立った海岸だが、標高500m程度の山岳地を挟んだ反対側に、函館市や北斗市の平坦地があり、縄文早期にはそちらに縄文人が集住していたが、縄文前期以降は道東に移住した。従ってこの遺跡に残った住人は、海の幸と山の幸に恵まれた住み易い場所に住んでいたのではなく、むしろその逆に人が寄り付かない場所に無理やり居住できる場所を探し、集落を形成していた事に特徴があった。

大船遺跡と垣ノ島遺跡の立地は、13万年前の間氷期に河川によって形成された沖積地で、ヤンガードリアス期の豪雨がその台地の軟らかい土壌に河谷を形成し、それが縄文海進期に狭い入り江になった場所だった。其処に狭いながらも波浪を避ける事ができる湊の立地を探し、小さな川の周囲に、縄文人と漁民の集落がひしめく様に形成された事を示唆している。

亀田半島の太平洋沿岸地域には、両遺跡の脇を流れる川よりやや大きな川も幾筋か流れているが、それらの川の河口は太平洋に向かって直線的に開いているから、太平洋の荒波を避ける湊に相応しい地形ではない。しかし両遺跡の脇を流れる川は、海に向かって真直ぐに流れ込むのではなく、斜めに流れ込んだり河口に丘陵の岩塊が迫出したりして、太平洋の波浪を辛うじて食い止めていた。

これらの伊予部族の集落とは対照的に、三内丸山遺跡は津軽半島と下北半島に囲まれた陸奥湾の奥にあり、陸上には広い平坦な地形もあり、両者の立地条件には雲泥の差があった。函館近辺にも両遺跡より住み易い平坦な地形があり、湊になり得る候補地が何カ所もありながら、亀田半島北岸に集住した目的は、太平洋沿岸航路を確保する事以外には考えられない。つまり室蘭から真南に40㎞南下した湊として、また下北半島から幅20㎞の海峡を渡って亀田半島を周回する船の停泊地として、つまり関東部族の船がシベリアに渡る際の重要な退避湊として、この地域が選定されたと考えられる。

これらの湊がなければ、下北半島から室蘭迄は120㎞の航路になり、関東部族の船の1日の旅程としては長過ぎたが、両遺跡は丁度その中間点だから湊を形成する適地だった。また亀田半島から下北半島に渡航する為には、対馬海流を横断する必要があっただけではなく、亀田半島の北東岸で襟裳岬から溢れ出る親潮の流れとも交錯するから、亀田半島の沿海部では親潮が南下する場合と暖流が北上する場合があり、複雑な海流が流れる海の難所だった。

大船遺跡と垣ノ島遺跡は類似した遺跡で、3㎞程度の距離を隔てて並んでいる。どちらも小さな湊で、縄文人の生活環境も良好だったとは言えないのに、二つの拠点が形成されたのは、関東部族の海の宿場需要は、どちらか一つでは満たされなかったからだと想定され、シベリア交易に向かった関東部族の船団規模を推測する材料になる。関東部族の船は組み立て式だったから、浜に船を並べる広さより、船員に食料を支給する在地漁民の数が問題だった可能性もある。つまり先駆けの船が船団の到着を知らせると漁民が総出で漁を行い、その水揚げで到着した船団に食糧を供給した場合、それに必要な漁民の数が一つの集落では不足した事が、集落を二つ設置した理由だった可能性もある。

室蘭の湊の近くにあった伊達市の北小金貝塚の周囲では、9千年前に集落が成立して縄文前期に最も繁栄したが、縄文中期になると洞爺湖町の入江・高砂貝塚が繫栄した。この変化はシベリアへの航路が、亀田半島と室蘭を直接結ぶものから、噴火湾内を周回するものに変わった事を示唆している。亀田半島の上記の遺跡と室蘭を直接結ぶ航路は、40㎞ほどの海を横断する航路だから、弓矢交易の最盛期~終末期になると、それに耐えられない事情が生れた事になる。最も可能性が高い理由は、積み荷を増やす為に船を大型化した故に、船の速度が落ちた事ではなかろうか。

沖縄航路にも同じ船を使っていた筈であり、沖縄航路にはもっと長い島間距離があったし、黒潮が太平洋に流れ出るトカラ海峡も難所だったが、シベリア航路ではその様な長距離航行ができなかったのは、シベリア向けの船は弓矢や磨製石斧を満載していたからだと推測される。沖縄を南下する船の主要な目的は、浙江省で積み込んだ塩を湖北省に運び上げ、湖北省で満載したコメを浙江省に運ぶ事だったから、沖縄を経由する際の船の積み荷は多くなかったが、シベリア航路では最大積載状態で航行する必要があったからだ。

更に言えば、海洋漁民にとっては湖北省に航行する事は、沖縄で奇麗な海を見て、浙江省で塩田を見て、湖北省で広大な荊の湿田を見た上に、荊が大歓迎してくれる娯楽的なツアーを兼ねていたが、シベリア航路にはその様なものはなく、防寒衣料を纏うと体の動きが鈍くなり、船が転覆して冷たい海に投げ出されると、体が冷えて死んでしまう恐怖と戦わなければならなかったから、応募する漁民の数が不足しがちになり、過積載に走らざるを得ないという悪循環があった可能性もある。

これらの貝塚から発掘された遺体は北海道縄文人の特徴を示しているから、宿場の運営者は伊予部族の人々ではなく、北海道部族の人々だったと推測され、伊予部族と北海道部族と関東部族の間に交流があった事を示唆している。北海道部族の貝塚はmt-N9bが形成したから、関東の貝塚もmt-N9bが作成した可能性が高い。

入江・高砂貝塚の産業的な立地条件は、現在の国道230号線が石狩平野と洞爺湖町の海岸を結んでいる事から、連想する事が出来る。太平洋沿岸から陸路で石狩平野に向かう場合、現在は苫小牧から千歳・恵庭を経て北上するが、縄文時代の千歳以北は低湿地だったから、洞爺湖町が陸路の玄関口になったと推測されるからだ。北海道部族も海洋漁民ではあったが、森林資源が乏しい上に縄文人の支援がなかったから、彼らの造船・操船技術は伊予部族より大きく劣り、渡島半島を頻繁に周回する能力があったとは考え難いが、部族として交易活動に参加する事は極めて重要な活動だったからだ。

大船遺跡と垣ノ島遺跡が弓矢航路の海の宿場だったとすると、中部山岳地帯の矢尻街道が縄文中期末から廃れ始めた様に、両遺跡も縄文中期末に廃れる宿命にあった。両遺跡が縄文中期末に衰退したのは、この地域の人々もその打開策として、稲作やヒエの栽培に向かった事を示唆している。伊予部族は福島のmt-M7aの稲作技術を利用する事により、西日本に移住する事も可能だったから、九州・四国の稲作者と、北海道のヒエ栽培者を抱える二股部族になった。縄文後期の稲作の北限は北関東~福島で、ヒエ栽培の南限は道東だったから、両者は南北に分離している独立栽培集団だった。しかし弥生温暖期に稲作の北限が青森に達し、古墳寒冷期に東北がヒエ栽培地になると、両者は境界を接する状態になった。

 

4-4-4 北海道で栽培化されたヒエ

ヒエに関する諸情報

縄文時代の北海道でヒエが栽培化された事は、北海道や東北の縄文人とシベリアの栽培者との間に、植栽に関する交易関係がなかった事を示している。シベリアの栽培者だったmt-Zは豊かな共生社会を形成していたから、シベリアの栽培種を抱えて日本に渡来する気はなかった事が、その一つの要因ではあったが、ヒエは穀物としての完成度が高く、mt-Zを招く必要はなかった事がその最大の要因だったと想定される。

北海道縄文人として検出された遺体に含まれている穀物栽培者の遺伝子は、mt-G11%、mt-M7a7%mt-Z1.4%で、mt-Zが殆ど含まれていない事がその事情を示している。mt-Cは全く含まれていない事が、アワより耐寒性が高いキビの栽培も渡来しなかった事を示している。

但し北海道縄文人として検出された遺体は、渡島半島や噴火湾沿岸に偏り、ヒエの栽培地だった道東は3/16遺跡しかないから、ヒエは栽培していなかった北海道部族の遺伝子を主に検出している疑いが濃い。また道東の低湿地でアワを栽培していたmt-M7aについては、関東などの低湿地遺跡の発掘例が乏しい事情と同様に、発掘できていない可能性が高い。

縄文早期の函館で尖底土器を使った縄文人はmt-M7aで、彼女達は16千年前に沖縄から持ち込んだイヌビエを栽培し、北海道で栽培化してヒエを生み出したから、大陸から穀類栽培を導入しなかったと考えられる。三内丸山遺跡で栽培化途上だったと思われるヒエが発見されているが、ヒエは日本の五穀の一つであり、江戸時代には関東でも盛んに栽培されていたから、その様な完成度が高いヒエが、縄文中期に栽培化途上にあったのでは時間的な整合がない。日本の近世の五穀は、米・大麦・アワ・キビ・ヒエだったが、ヒエだけが栽培化された場所も不明確だから、改めて検証する。

ヒエは北海道で栽培化されたと考えられるから、縄文中期寒冷期になっても青森はその南限を外れ、野生のイヌビエの花粉と交配してしまう地域だったから、栽培化途上の様に見えたと考える必要がある。

縄文晩期以降のヒエの栽培状況を追跡すると、亀ヶ岡遺跡を擁する青森では縄文晩期にソバが栽培されていたとの指摘があるが、古墳寒冷期には東北中部に南下していたから、古事記の序に記された稗田阿礼の名が生まれたと考えられる。稗田阿礼はその他の事情から塩釜の人だったと考えられるから、縄文晩期のヒエ栽培は仙台まで南下できる状況だったが、出雲部族の地域である津軽に南下しなかったのは、出雲部族が富山からmt-M9を招いてソバを栽培していたからだと考えられる。

つまり縄文中期にはヒエを栽培したがっていた出雲部族が、縄文晩期に敢えてソバを栽培したのは、ヒエを栽培化した伊予部族と敵対関係にあったからだと考えられる。その理由は毛皮交易に関する軋轢だったとすると、伊予部族と関東部族が粛慎・高句麗派で、出雲部族と北九州の大率が濊派だった事情と整合するからであり、古事記が指摘する大国主と沼河ヒメとの婚姻も、この事情と整合するからだ。また縄文中期のヒエの南限が道南だったとすると、それより3℃低温化した古墳寒冷期の南限は福島以南になる。

考古学者は弥生温暖期に東北北部で稲作が行われたが、弥生時代中期末に水田が放棄されたと指摘している。現在の弥生時代の区分には合理性がなく、実際に何時だったのか明確ではないが、尾瀬の花粉が示す気候変動を参照すると、BC250年~BC200年頃に気候が急に寒冷化したから、それによって青森では稲作が不可能になったと考えられ、出雲部族が伊予部族と敵対関係にあったとの推測と一致する。

雑草の花粉に強い焼畑農耕で栽培すれば、ヒエ栽培の南限は南下した筈であり、出雲部族は縄文後期に山陰に入植し、アワ栽培者との連携も得ていた筈だから、彼らにはヒエの南限を更に低下させる事も出来た筈だが、それもしなかった事になるからだ。

古事記の説話や成立事情とも一致するが、古事記の詳細はその6参照。

津軽では弥生時代中期に水田が放棄されたが、稲作史に関する誤った認識に凝り固まっている考古学者は、それ以降の北東北は続縄文文化圏になったとしか言わないが、ヒエを栽培する続縄文文化圏になったと考える必要がある。弥生温暖期より3℃も低温化した古墳寒冷期がB100年に始まると、東北は北海道で栽培化されたヒエの栽培地になったと考える以外に、常識的な判断はあり得ないからだ。

ウィキペディアはヒエについて以下の様に指摘している。

ヒエは畑でも水田でも栽培が可能で、日本では縄文時代の前期から冷涼な北海道と東北地方で栽培された。下北半島では水田でイネだけではなくヒエも栽培されており、1890年(明治23年)の統計では、その比率は稲田:2に対し稗田8の割合であった。東京都杉並区では大正時代から少しずつ蔬菜の栽培が増加し、都市近郊の野菜栽培農家に転換したが、それ以前はヒエなどの穀物を栽培し、日常食はヒエとムギで、米は少し入れる程度だった。

ヒエを栽培化したのは伊予部族だった事と、伊予部族の故地だった下北半島でヒエが重視されていた事が一致するから、これが縄文時代~古墳時代の標準的な栽培方法で、古事記の作者である稗田阿礼は伊予部族を出自とする女性だったから、故郷の塩釜では弥生温暖期に水田だった場所が、古墳寒冷期には稗田になっていたと推測される。

 

ヒエの栽培化に関する考察

一般的な穀物の栽培化は、原生種の北限を微妙に超えた地域で始まり、気候の寒冷化によって栽培化が進展したが、ヒエはその典型例だった。つまりmt-M7aが台湾平原から沖縄を経て九州に持ち込んだイヌビエが、縄文早期以降の北海道で栽培化されと想定される。ヒエ以外の五穀は氷期に栽培種とミトコンドリア遺伝子が紐付けできる状態になったから、その事情をヒエにも適用すると、沖縄系縄文人の場合は九州に上陸した時点でmt-M7aの栽培種だった可能性が高い。

北海道に渡った沖縄系縄文人のmt-M7aは、台湾時代から起算すると琉球岬、沖縄、九州、関東、東北、函館、道東に7回大移住し、その内4回は海を渡る移住だったが、それでも種子を失わなかった事は、原縄文人のmt-M7aがイヌビエを栽培し始めたのは、遅くとも琉球岬時代だった事になる。

アワの原生種であるエノコログサは温帯の植生だが、ヒエの原生種であるイヌビエは暖帯~温帯の植生だから、海南島近辺にいた原縄文人が北陸の原日本人と交流し始めた時代に、既に栽培者がいたと考えられるが、それはmt-M7aではなかった可能性が高い。石垣島の白保竿根田原遺跡の、2万年前の人骨からmt-B4が発見されている事は、台湾時代の原縄文人集団の中にmt-B4が含まれていた事を示しているからだ。

つまり北ヴェトナム時代のmt-B4は熱帯ジャポニカの原生種とヒエの原生種を栽培していたが、冷温帯性の堅果類を栽培する為に台湾に北上すると、熱帯ジャポニカの栽培は難しくなったからヒエの栽培者になり、氷期の最寒冷期に石垣島に渡ったが、ヒエの原生種は栽培を続ける事ができたので、洞穴に葬られたと想定されるからだ。イヌビエには水田雑草として繁殖している種もあるから、熱帯ジャポニカの原生種を栽培していたmt-B4にとっては同時に栽培し易い種だったが、耐寒性はイヌビエの方が格段に高かったからこの様な事態になった。

暖温帯性の堅果類の栽培者と共生していたmt-B4は、後氷期になると熱帯ジャポニカの栽培者になったが、原縄文人集団と共生していたmt-B4はヒエの栽培者を目指していた事は、高緯度地域に拡散したmt-B4の残渣が各地で発見され、シベリアの少数民族にもmt-B4が遺されている事情も、イヌビエを栽培しながら内陸に拡散したmt-B4の痕跡であると解釈される。

石垣系縄文人は後氷期に北陸に渡ったが、ヤンガードリアス期の寒冷化によってソバの栽培者だったmt-M9が生き残り、イヌビエを失ったmt-B4は絶えたと推測される。ヤンガードリアス期の九州南端は現在の青森の様な気候になったから、九州南端に逼塞した沖縄系縄文人のmt-M7aはイヌビエの栽培を続けることができたが、山陰は現在の道央の様な気候になったから、石垣系縄文人に含まれていたmt-B4が絶えたとの想定は、現在の青森がイヌビエの北限で、合北海道にはイヌビエが生息していない現状と一致し、この想定の数値的な根拠になると共に、ヤンガードリアス期の日本列島の気候仮説の正しさも示している。豪雨に襲われた日本列島は日照時間の激減によって低温化したが、大陸にはそれほどの豪雨はなかったから、アムール川流域でも南限地域ではmt-Zのアワ栽培が可能だった事になり、東アジアの事情も明らかになる。

沖縄系縄文人のmt-M7aがヒエの栽培者になった経緯は、原縄文人が冷涼な琉球岬に北上した際にmt-B4が絶え、mt-B4の栽培種だったヒエの原生種を、mt-M7aが受け継いだからだと推測される。mt-B4の息子の嫁になったmt-M7aが、義母からヒエの原生種の栽培技術を学んだ事になるが、このHPではその様な状況を「浸潤」と呼び、環境が整えば発生する事情だった。つまりmt-M7aの栽培種に何らかの優位性が生れ、mt-B4が激しく浸潤される環境が生れたと考えられる。

琉球岬時代のmt-M7aは、磨製石斧を駆使して樹林を拓き、アサを栽培していたから、それと一緒にヒエを栽培する事は難しくなかった。つまりmt-M7aは自分の栽培種を失わずにヒエを栽培する事ができたから、浸潤によってヒエの栽培技能を受け継ぐ事はできたが、優位な食料種の栽培者とは別の事情だから、それだけではmt-B4mt-B4の娘以外の女性にヒエの栽培技術を伝授した動機としては弱く、ミトコンドリア遺伝子と栽培種の強固な結び付きに割り込む事ができたとは考え難い。

しかし磨製石斧を駆使出来たmt-M7aは、冷温帯性の果樹の栽培起源者だった事や、タケノコを得る事ができる竹の生産者だった事を想起する必要がある。それらを何種類も栽培するmt-M7aが、mt-B4のヒエより生産性が高い非ドングリ類の植生の栽培者になると、危機感を持ったmt-B4がヒエ栽培の技術を残す為に、mt-M7aに栽培技術を伝授したと考える事ができるからだ。その様な事態の契機は環境の激変期に生まれ易く、主要な栽培種がヒエしかなかったmt-B4と、栽培種に多様性があったmt-M7aの違いも考慮すると、琉球岬への大移動期だった可能性が高い。

以上を前提にすると、ヒエと熱帯ジャポニカの原生種の栽培はmt-B4によって並行的に進められ、アワやキビより早い時期にアワやキビより温暖な地域で原生種の栽培が始まった事になり、ヒエの穀類としての完成度の高さと整合する。原生種であるイヌビエは北海道では野生化していないが、アワの原生種であるエノコログサは北海道でも野生化している事が原生種の出自を示し、栽培化されたヒエはアワより耐寒性が高い事が、海洋民族型の栽培者の栽培化力の高さを示している。

気候変動事情を縄文早期まで遡ると、縄文中期に道南がヒエ栽培の南限だった事は、縄文後期温暖期には石狩平野~十勝平野~釧路平野が南限だった事になり、それより2℃以上温暖だった縄文前期温暖期の北限は、稚内や択捉島以北だったと推測され、下図に示す黒ボク土が分布する地域と一致している。但し対馬暖流の分流が道北を周回し、釧路の沖には親潮が流れているので、北海道の気候は南北差が少ない。

関東部族がシベリア航路とした道東の沿海部に黒ボク土が集中している事が、伊予部族のmt-M7aがアワを栽培していた事を示し、縄文人と共生していなかった北海道部族の領域が、黒ボク土が乏しい石狩川流域~千歳~苫小牧と、北小金貝塚や入江・高砂貝塚がある地域だった事を示している。

 黒ボク土の分布状況(赤色) 出典:農研機構 日本土壌インベントリー

黒ボク土は日本の国土の31%程度に分布し、国内の畑の約47%を覆っているが、国外ではほとんど見られない。北海道・東北・関東・九州に多く見られる。by ウィキペディア

黒ボク土は火山灰の上に草が生える事によって生まれ、イネ科の植物は黒ボク土を形成し易いと言われているので、全てが栽培起源ではないとしても、異常に集中している北海道・東北・関東・九州については理由の説明が必要になる。

関東の黒ボク土は1万年前以降に形成された事が判明しているが、1万年前の関東は既に温暖化していたから、黒ボク土が分布している台地上には樹木が密生していた筈であり、自然現象として黒ボク土が生れる環境はなかった。つまり縄文人が樹木を切り開き、イネ科の植物を栽培した痕跡であると考えられるが、台地上の土壌は乾燥しているから、栽培種は稲ではなくイヌビエだった可能性が高い。

黒ボク土の分布が山間地に多いのは、温暖な地域ではイヌビエが野生化して栽培種を劣化させたから、縄文時代の栽培者が冷涼な高地に栽培地を求めたからだとすると、分布傾向と合致する。

山間地に縄文人が集まっていた地域として、ウルシ樹やシナノキを栽培していた八ヶ岳山麓や、磨製石斧を生産する為にウルシ樹やシナノキを栽培していた富山と岐阜の県境の山岳地に、黒ボク土の集積がある事がその事情を示している。富山と岐阜の県境の黒ボク土の集積は北陸部族の事情として、mt-M9がヤンガードリアス期にmt-B4から栽培を引き継いだ事を示唆し、冷涼な高地では、イヌビエはソバに匹敵する生産性があった事を示している。従って中国地方の大山山麓などの黒ボク土も、焼畑農耕者に磨製石斧を供給する為に中国山地に移住した、mt-M9が形成したものである疑いが濃い。

東北の黒ボク土もmt-M7aがイヌビエを盛んに栽培した結果であるとすると、冷涼な高地に栽培地を求めた事を示し、ヒエの栽培化の実態と整合する。しかし縄文前期温暖期には高地でもイヌビエが野生化したから、東北南部のmt-M7aはヒエの栽培を諦めて熱帯ジャポニカの稲作に転換し、大木式土器を使ったとの想定に繋がり、東北北部のmt-M7aにはヒエ栽培を継続する選択肢しかなかったから、標高が高い山間地で盛んにヒエを栽培し、円筒土器を使い続けた事とも整合する。

最終的にヒエを栽培化する事ができたのは、野生種が育たなかった北海道だけだった事を、北海道の黒ボク土の分布が示しているからだ。

北海道で栽培化されたヒエを青森の平地で栽培すると、野生種の花粉によって劣化したから、それが三内丸山遺跡に残されたヒエだったと考えられる。

九州南部の黒ボク土はアカホヤ火山灰の上層にあり、アカホヤ火山灰の上層に積もった火山灰を黒ボク土化しているだけではなく、アカホヤ火山灰にまで黒ボク土化が及んでいる地域もある。従ってこの黒ボク土は7300年前以降に形成されたもので、縄文後期に東北北部から九州南部に入植した伊予部族系のmt-M7aが、栽培化途上のヒエやイヌビエを盛んに栽培した事を示唆している。

縄文中期に熱帯ジャポニカを導入した大木式土器文化圏のmt-M7aは、稲作を始める事によってイヌビエの栽培を止めたかもしれないが、彼らと共に東北の北東部から入植したmt-M7aは、水辺で慣れない熱帯ジャポニカの栽培挑戦しながら、山地でイヌビエの栽培も継続していた事を示している。ドングリの消費量を少しでも低減したかったmt-M7aの、石器時代の栽培系女性の行為としてのとして、理解できない事ではない。

焼畑農耕者は生産性が低いシラス台地などの火山灰土壌を避けたが、イヌビエの栽培者は構わずに栽培していた事になる。栽培化されたヒエも少ない施肥で育つから、シラス台地を焼畑農耕者との栽培地争いが起きない場所として利用した事が、この様な状態を生み出したと考えられる。ヒエの栽培者が火山灰土壌を好み、広大な地域に黒ボク土を残した事は、ヒエは火山灰土壌を好む種であり、他の穀物が育たない黒ボク土でも、イヌビエであれば栽培できたと考える必要もある。

従って黒ボク土を残す様なイヌビエの栽培は、樹林を切り開いて春に野焼し、種を蒔くと其の儘収穫時まで放置する様な極めて粗放な栽培だったから、一度樹林を切り開けば毎年収穫が得られ、野生動物と収穫を争う様なものだったとすれば、日本の各地に黒ボク土が残っている事情と整合する。またイヌビエの雑草としての生命力の強さが、その様な農法に絶える事ができる種だった事を示している。

原始的な農法だが、大陸のアワや大麦の栽培者も同様な農法で栽培していた筈であり、各地に多量の黒ボク土が残っているのは、mt-M7aが磨製石斧を駆使する事ができたからであるとすると、日本の特殊事情である事も説明できるし、縄文時代の日本列島の人口密度の高さも説明できる。

本州でヒエ栽を培化する試みは縄文前期に殆ど壊滅したが、ウルシ樹やシナノキの栽培者が集積していた八ヶ岳山麓では、それらの栽培地としていた標高800m1000mの山麓の背後に、標高1000m以上のなだらかな山麓が続いていただけではなく、標高1400mの白樺高原、標高1600mの霧ヶ峰湿原や八島湿地があったから、道東の台地や湿原と同じ気候の傾斜地や湿地でヒエを栽培化する事が可能であり、栽培化に必要な多数のmt-M7aが集積していた。

在地の考古学者だった藤森氏が、この地域で縄文農耕が行われていた事を指摘したが、考古学会では証拠がないとして採用しなかった。しかし八ヶ岳山麓のヒエ栽培には二つの栽培方法が可能であり、一つは湖岸の湿地で栽培する労働集約性が高いもの、もう一つは冷涼な標高1000m以上の山麓で栽培するもので、両者が並行的に行われていた証拠がある。

後者は樹木を伐採する磨製石斧があれば良く、黒ボク土は後者の痕跡であると考えられるからだ。ヒエは実が容易に離脱し、草丈は1m程度だから、手で扱く事によって収穫でき、穂刈器は必要ない。

前者についても縄文前期の阿久遺跡などから打製石斧が発掘されているから、それが前者の農具だったと推測される。

考古学会は縄文後期の北九州などで発掘された打製石斧を、稲作の痕跡であるとは未だに認めていないから、この打製石斧もヒエ栽培の痕跡とは認めないだろう。

この地域のヒエの栽培者は、縄文後期に北海道に入植したと想定されるので、それについては順次説明する。

縄文後期に弓矢産業が衰退すると、八ヶ岳山麓の人口集積が失われ、縄文晩期には無人に近い状態になったから、この地域のmt-M7aは何処かに移住した筈だが、温暖な関東に降るとヒエの栽培を諦める必要があったから、ヒエ栽培に拘ったmt-M7aは、広大な栽培適地でヒエ栽培を生業化していた人々が集積する、北海道に入植する必要があったからだ。

それらを前提に北海道に目を転じると、石狩平野から苫小牧に至る湿原域に黒ボク土が分布していない事が、この地域がmt-M7aがいない北海道部族のテリトリーだった事を示し、この地域から多数の縄文遺跡が発掘されているのは、発掘が容易な狩猟民族系の人々の遺跡だからで、黒ボク土が集積している道東から低湿地遺跡の発掘事例が少ないのは、稲作者の遺跡を発掘できない関東の事情と一致し、アワの低湿地栽培を行っていた人々の遺跡についても、多数の大集落があっても殆ど発掘できない事に気付く必要がある。

釧路湿原の周囲には、北斗遺跡の住居址、幣舞(ぬさまい)遺跡、緑ヶ丘遺跡などの墳墓遺跡など、大規模遺跡の確認事例はあるが、住民の生業実態は殆ど分かっていない。道東最大の沖積平野である根釧原野に標津遺跡群(しべついせきぐん)があり、弥生温暖期だった続縄文時代に、多数の人々が低湿地でヒエを栽培していた事を示唆しているから、続縄文時代はヒエ栽培者が形成した文化時代だったと考える事ができる。

つまり少数派だった北海道部族の遺跡は、狩猟採取文化圏の人々だった故に多数発掘されているが、低湿地でヒエを栽培して北海道の多数派を形成していた、伊予部族の人々の遺跡は殆ど発掘されていない事になり、縄文時代の北海道にどの程度の人口が集積していたのか分からないが、縄文時代としては有数の人口集積地だった可能性がある。

黒ボク土の分布が示す伊予部族の縄張りは国後島や択捉島を含み、道北は名寄、幌内、稚内なども含んでいた。縄文後期温暖期の栽培地が十勝や釧路だったのであれば、それより2℃温暖だった縄文前期温暖期の栽培地が、国後島や択捉島を含んでいた事は当然の帰結になり、北海道だけでは栽培地が不足するほどの人口を抱えていた事になるから、黒ボク土の分布はヒエの栽培史を示している事になる。

伊予部族が関東部族の為に用意した大船遺跡と垣ノ島遺跡は、ヒエを栽培できない地域の縄文人集落として台地上に遺物を遺したが、それ以外の湊は低湿地にあり、湊も背後の栽培地も現在は土砂に埋もれていると考える必要があり、室蘭から稚内までの海岸に伊予部族の湊が点在し、それぞれに大船遺跡と垣ノ島遺跡より遥かに多い人口が集積していたと考える必要があるから、関東部族のシベリア交易の実態を示す事にもなる。

北海道南東部は縄文後期温暖期にヒエの大産地になったが、青森では縄文中期寒冷期でさえ、ヒエの栽培が野生化したイヌビエに邪魔される状態だったから、縄文後期温暖期には北海道と道北の穀物の生産性格差が更に露になったが、出雲部族には北海道に北上する選択肢はなかったから、稲作を選択して西日本の故地に移住するしかなく、それによって三内丸山遺跡が断絶する事は歴史的な必然だった。

北海道にいた伊予部族のmt-M7aは、縄文後期温暖期になってもヒエを栽培する為に北海道に残ったが、東北の太平洋沿岸にいた伊予部族のmt-M7aは稲作者になる為に、伊予部族の故地である伊予灘や豊後水道の沿岸に移住した事を、九州南部のシラス台地上の黒ボク土が示している。

 オホーツク文化時代(弥生温暖期末~奈良時代)に、オホーツク文化圏のミトコンドリア遺伝子がmt-Ymt-Gになった事は、海獣の皮革が重要な交易品になると、この地域にツングースが移住して来た事を示している。ウィキペディア「 オホーツク文化」は、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定され、同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や、擦文文化とは異質の文化であると指摘しているから、古墳寒冷期にオホーツク海沿岸に移住して来たのはツングースであって、北海道部族ではなかったと考えられる。

篠田氏が示すオホーツク海文化圏の遺伝子分布も、ツングースの遺伝子に伊予部族の遺伝子が20%含まれている状態だから、シベリア文化の掟に従って伊予部族の地にツングースが招かれたとすれば、渡来したツングースは伊予部族の為に働きながら、伊予部族の言語話者になったと考えられる。伊予部族が生産したこれらの海獣の皮革は、関東部族に招かれたmt-Gによって関東で仕上げ加工され、縄文晩期寒冷期に渡来したmt-M10が加工した高級毛皮と共に、西日本の倭人国を介して華北に販売されたと考えられる。mt-Gが関東に渡来したのは、関東の食糧事情が豊かで加工に専念できたからだ。

オホーツク文化の終焉と共にツングースは大陸に戻り、道東は伊予部族の子孫の地になった。カムチャッカ半島が土器文化時代になったのはその頃だから、伊予系アイヌが新たな交易を求めて千島列島や樺太に進出した事を示し、諸事情と整合する。

続縄文時代の次の擦文時代(さつもんじだい)について、ウィキペディアは以下の様に説明している。

7世紀ごろから13世紀にかけて(飛鳥時代から鎌倉時代後半/平安温暖期)、擦文文化が栄えた時期。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化に代わった。9世紀(平安時代前期)まで擦文文化と並行して、それとは異なるオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がり、13世紀(鎌倉時代後期)までその系譜を継ぐトビニタイ文化が、北海道東部を中心に擦文文化圏と隣接していた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が採り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなったため、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。

篠田氏が示す擦文文化人の遺伝子構成は、オホーツク文化時代の遺伝子にmt-Dなどの本土系遺伝子が混合したもので、現在のアイヌの遺伝子は、更にmt-M7amt-Dmt-Gが流入したものだから、ヒエの栽培者としてのmt-M7aや、北陸部族系のmt-Dmt-Gが流入した事を示している。鉄器時代になると栽培者の主体が男性に移転し、栽培種とミトコンドリア遺伝子の関係は希薄になったから、mt-M7amt-Dmt-Gは全てがヒエの栽培者だった可能性が高く、ヒエも他の穀物同様に時代の進展と共に耐寒性を高めていったから、平安温暖期になると東北から北海道にヒエの栽培者が北上し、平安温暖期が終わっても政治的な理由により、北海道に北上した人々がいた事を示している。

ウィキペディアは「北海道アイヌ」について、以下の様に説明している。シャクシャインの戦いは、1669年にシブチャリ(静内)の首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。

◇シュムクルは、「祖先は本州から移住してきた」という、他のアイヌ民族集団の中では見られない伝承を有しており、奥州藤原氏の崩壊を契機に北海道島へ移住してきた、奥羽アイヌを先祖とする集団ではないかと考えられている。

◇メナシクルは、道東一帯で栄えたトビニタイ文化人を母体とし、比較的遅れてアイヌ文化を受容した集団であると考えられている。アイヌ集団の中でも独立心が旺盛で、メナシクルの居住地域にのみ「砦としてのチャシ」が集中して発見される。

◇石狩アイヌは、シュムクルの居住圏である千歳川流域を除く、石狩川流域一帯を居住地とする集団。石狩川流域は擦文時代から鮭漁で栄えた地域で、先住の擦文集団と後に移住してきた奥羽アイヌが交わる形で成立したと考えられている。

◇内浦アイヌは、シャクシャインの戦いの際にはメナシクルと密かに連絡を取り、同盟関係を結ぶなど、太平洋岸の諸集団と密接な関係を有していた。松前を中心とする和人地に近かった為に早くから人口の減少が始まり、起源や文化は不明な点が多い。

余市アイヌについては、定説がないので説明はないが、このHPの論理展開の結論としては、北海道部族の末裔である可能性が高い。メナシクルと内浦アイヌが北海道に残った伊予部族で、シュムクルは東北に残っていた出雲系や対馬系の縄文人の子孫で、擦文時代(平安温暖期)に北陸部族系の稲作者が日本海沿岸を北上し、青森や岩手では関東部族系の稲作者を代表する南部氏が勢力を伸長させたから、それらの稲作者に圧迫されたアワ栽培者が、北海道に移住したと考えられる。

現代アイヌと言っても地域によって起源が異なる人々の集合体だから、遺伝子分布も地域分布である事が望ましく、一口に現代アイヌと呼ぶ事は学術的に相応しくないだけではなく、アイヌ文化や言語を論じる根拠を失う事になる。例えば静内~稚内までの伊予部族の故地には「内(アイヌ語で沢)」が付く地名が多く、ヒエの栽培地に関するものだった事を示唆し、北海道部族の地だった北海道東部には「別(アイヌ語で川)」が多く、サケ漁を意識していた事を示唆しているからだ。

 

改めてヒエの栽培史を纏めると以下になる。

縄文早期後葉の日本列島では南から、九州のmt-B5+M7bのジャバニカ、西日本のmt-D+M7aの焼畑農耕によるアワ、富山のmt-M9によるソバ、関東のmt-B4による熱帯ジャポニカ、北海道のmt-M7aによるヒエが有力な栽培種になり、東北では栽培イヌビエがそれに準じる栽培種だったが、八ヶ岳山麓ではヒエの栽培化が進展していた。

縄文中期にそれらの勢力図が変化し、九州・西日本・東海・中部山岳地帯のアワ、関東~東北南部の熱帯ジャポニカ、八ヶ岳山麓と北海道のヒエに集約される状況が生れ、それぞれが覇権を争う状況が生れ始めていた。アワとコメは栽培民族が境界を争う状態になり、九州は稲作地からアワ栽培地に変ったが、他の地域では低湿地で栽培するコメと、比較的乾燥した樹林帯で栽培するアワは栽培地が異なったから、栽培地が混在しても共存が可能な栽培種だった。

ヒエは東北には南下できず、熱帯ジャポニカは東北北部には北上できなかったから、栽培者が競合関係を意識する状態ではなかった。

縄文後期温暖期になるとアワ栽培者と稲作者の共生が一般化し、両者は補完関係にある事が確認された。

弥生温暖期に日本式の稲作が青森まで北上したが、弥生温暖期が終わると北関東まで南下後退し、東北北部はヒエの栽培地に代わって続縄文文化圏になった事は、東北南部が両者の境界地域になった事を意味し、ヒエの栽培者と稲作者が境界を争う状態になった。擦文時代(平安温暖期)の北海道にmt-Dが登場した事は、古墳寒冷期の東北南部では、焼畑農耕でヒエを栽培していたmt-Dがいた事を示し、ヒエの栽培地が東北南部まで南下した事を示唆している。

ヒエの畑栽培が、江戸時代の関東で盛んに行われた事は知られているが、江戸時代末期の二宮尊徳について、下野国芳賀郡桜町(那須塩原)の管理をしていた時期に、冷夏になることを予測して村人にヒエを大量に植えさせたから、天保の大飢饉が発生しても餓死者が出なかっただけではなく、余分のヒエを周辺の村々にも分け与えたとの逸話があり、北関東にヒエの水田栽培が浸透していた事と、水田で栽培するヒエの生産性の高さを示している。つまりヒエもアワ同様に生産性はコメより高かったが、市場価値がないので、農民は水田でコメを栽培していた事を示している。

江戸時代末期は古墳寒冷期より1℃低温化し、東北が天明や天保の飢饉に見舞われたから、稲作の耐寒技術が古墳寒冷期より1℃分向上していたとすると、古墳寒冷期の東北の稲作者にも稲作派とヒエ派が混在し、平安温暖期に稲作者が増えたから、熱烈なヒエ派は北海道に北上したと考えられる。

ヒエが栽培された事実が確認されている南限は多摩地域で、多摩地域は埼玉や群馬の平野部とほぼ同じ気候だから、古墳寒冷期のヒエの南限は栃木の北部に南下していた筈だから。江戸時代末期は縄文中期より4℃低温化し、多摩地域と青森の温度差も4℃程度だから、縄文中期の青森に南下できなかったヒエが、江戸時代には多摩地域に南下できたのは、栽培化が進んで自家受粉率が高まり、ヒエとイヌビエの交配確率が低下したからだと考えられる。

従って縄文晩期以降の関東部族のmt-B4は、低湿地栽培者の栽培ネットワークの覇権を伊予部族のmt-M7aと競う関係になり、古墳寒冷期にその主戦場が関東と隣接する東北南部になると、関東のmt-B4は自分達のネットワークに脅威を与える存在として、ヒエの栽培を強く意識する様になった。

 

鉄器時代になって水田が盛んに形成された時期の栽培種は、関東以南ではイネだったが北陸を含む東北と北海道ではヒエだった

この想定の証拠として示す図を理解する為には、ヒエとその原生種であるイヌビエに関する知識が必要になる。

栽培ヒエの原生種は「狭義のイヌビエ」と呼ばれるもので、広義のイヌビエにはその他の種もあるので、以下に纏めた。

種の和名 

 染色体

主要な分布域

水田/乾燥地

 推測される渡来経路

 

イヌビエ

6倍体

北海道を除く日本全土

水田と乾燥地

縄文人が持ち込んだ

ヒエの原生種と野生種。 日本には多様な種が存在する

タイヌビエF

4倍体

東北・北海道・北陸

水田

mt-B4が持ち込んだ

水田雑草 東アジア・南アジアに広域的に分布

タイヌビエC

4倍体

関東・東海以西

水田

mt-Fが持ち込んだ

水田雑草 日本、中国、朝鮮のみに分布

ヒメタイヌビエ

6倍体

関東以西

水田

mt-Fが持ち込んだ

水田雑草 東アジア・南アジアに広域的に分布

ヒメイヌビエ

6倍体

日本全土

乾燥地

縄文人が持ち込んだ?

水中で発芽できない。荒地にも生える。イヌビエとは異系遺伝子

パン小麦も6倍体だが、その構成要素である一粒小麦(2倍体)、クサビ小麦(2倍体)、タルホ小麦(2倍体)は広域的に分布している。一粒小麦とクサビ小麦の合成遺伝子である、4倍体の二粒小麦(栽培種はエンマ小麦)の生息域は限定的で、二粒小麦とタルホ小麦の合成遺伝子であるパン小麦には野生化する生命力はないので、氷期の栽培者は一粒小麦、クサビ小麦、タルホ小麦を栽培し、後氷期にその状態で西ユーラシアに拡散し、それらを混載する中で遺伝子の合体が生れ、生命力が衰えて野生化する繁殖力を失った種として、パン小麦を栽培化したと推測される。

ヒエはそれとは異なり、遺伝子が合体する事によって繁殖力を増強したので、東アジアや南アジアには2倍体の種に乏しく、4倍体と6倍体が山野に繁殖している。遺伝子が合体した時期もかなり古く、タイヌビエの葉緑体とイヌビエの葉緑体ゲノムの分岐は約 330万年前と推定されているから、人類がこれらの種と接しした時期には既に4倍体や6倍体が山野に繁茂し、それらの構成要素になった2倍体の種は、淘汰されて絶滅していたと推測される。

縄文草創期に九州に上陸した沖縄系縄文人や、北陸に上陸した石垣系縄文人はイヌビエを栽培していたが、その時代の縄文人は山間地の樹林を切り開いてイヌビエを栽培したから、日本の各地に黒ボク土が残され、その様な栽培地に生える雑草としてヒメイヌビエも持ち込まれたと考えられる。イヌビエとヒメイヌビエが交配可能であれば、種としてイヌビエに統合された筈だが、異系の遺伝子で交配しなかったので雑草として進化し、現在のヒメイヌビエになったと考えられる。ヒメイヌビエは強力な雑草ではないから、mt-M7aのヒエの栽培化を阻んだのは、栽培地に生まれた野生種だったと考えられる。

タイヌビエは水田雑草で、水田以外の場所では繁殖しないから、稲作者が持ち込んだ雑草であると考えられる。イネは栽培品種として遺伝子がある程度純化された状態で持ち込まれ、栽培化の進展に従って純化度が高まったから、遺伝子の多様性に極めて乏しいが、タイヌビエは稲とは交配しない水田雑草として進化し、遺伝子の多様性に富んでいる事を武器に生命力を高め、地域毎の水田の事情に合わせて開花時期が異なるだけではなく、人が雑草として除去する事を防ぐ為に、出穂前の葉の形状が稲と類似した状態に進化している。

農学者はこれを擬態と呼んでいるが、タイヌビエをその様な形状の雑草にしたのは、長期間除草し続けた稲作者だった。この事情により、稲作者は有史以前からタイヌビエとの格闘を続けてきたが、稲作者の渡来と共にタイヌビエも持ち込まれる事になった。

タイヌビエの花の形状が2種類い在り、C型とF型と呼ばれている。C型は中国、日本、韓国に分布し、歴史的に温帯ジャポニカが栽培された地域に分布しているので、mt-Fが温帯ジャポニカと共に持ち込んだと推測されるが、F型は誰が持ち込んだのか定説がない。以下にC型とF型の分布を示す。

   「雑草研究Vol.61 タイヌビエの小穂C型およびF型の日本国内での地理的分布 保田謙太郎 中山祐一郎」 より転写

上図の見方として、福井と鳥取ではC型もF型も80%以上であるのは、稲作者の激しい移動によってどちらかが優勢になる状況が生れず、両種が近接した地域で別の種に支配されていたり、場合によっては同じ田で混在したりしている様な状態を示し、評価が難しい地域である事を示している。どちらも優勢ではない地域も、同様の状態であると考える必要がある。

どちらかが優勢になっているその他の地域は、水田が形成された際に持ち込まれた種が、地域の気候やイネの事情に合わせて特性を変えながら変化する事により、他の種の侵入を防いでいる事を示している。遺伝子の多様性故に変わり身が早い、野草独特の特徴であると言えるだろう。

水田が盛んに開かれたのは弥生時代~古墳時代だから、それを前提に二つの地図を概観すると、弥生水田が作られた津軽にC型が殆ど見られない事は、鉄器が普及したBC200年以降の事情を示していると考える必要があり、福島までF型が南下している事と整合する。

従ってC型が温帯ジャポニカの雑草で、F型がヒエ栽培に伴って拡散した雑草であると推測されるが、千葉がF型である事と、熊本・長崎はF型が優勢な地域である事には説明が必要になる。千葉がF型である事情を詳しく見ると、神奈川にもF型が無視できない状態で拡散している事に気付き、これは縄文早期以降のmt-B4の稲作地だった事に気付く。つまり関東では古墳寒冷期まで、mt-B4は熱帯ジャポニカを栽培し、mt-Fは温帯ジャポニカを栽培し続けていたから、鉄器時代にそれぞれが日本式の稲作に切り替え、土木工事を盛んに行って水田を形成すると、それぞれの雑草が地域の雑草に変ったと考えられる。

熊本と長崎でF型が優勢であるのは、縄文晩期寒冷期に温帯ジャポニカが壊滅した事がトラウマになり、弥生温暖期にも熱帯ジャポニカを栽培し続けた事が、この様な結果を招いた可能性もあるが、九州南部は鹿児島を典型例として小地域毎にC型とF型が散在しているのは、縄文後期に関東のmt-B4が入植した地域である事、この地域は北海道も領域としていた伊予部族の地域だから、古墳寒冷期に北海道からヒエの栽培者が入植した可能性がある事など、色々な要素があるから詳細なデータがなければ判断できない状態にある。

東北の太平洋沿岸にC型地域があるのは、平安温暖期なった直後に関東から稲作が強力に北上したからで、平安時代に稲作地帯になった日本海沿岸にはC型地域がないのは、稲作の北上が遅れたからだと考えられる。つまり福島、宮城、岩手南部は縄文中期に大木式土器の文化圏になった地域であり、関東のmt-B4にとっては馴染みがある地域だったから、失地を回復する為に関東のmt-B4が急遽北上し、稲作指導に励んだ地域だったと推測される。

それ対して日本海沿岸では依然として海岸砂丘が残存し、内陸への海洋漁民のアクセスを拒み続けていた上に、壬申の乱の際に敵対者だった対馬部族や出雲部族の縄張りだったから、mt-B4が稲作を拡散する為には平安時代まで待たなければならなかった。これについてはその5以降に順次説明するが、温暖期になってタイヌビエの生育環境が変わった直後に、稲作が北上した太平洋沿岸地位ではC型が浸潤できたが、温暖期になって100年以上経ていた平安時代になって稲作が北上しても、既に遺伝子の多様性によって環境適応を済ませていたF型のタイヌビエの群生に対し、新たに持ち込まれたC型の繁殖力が制限され、群生できずに消滅したと考えられ、歴史事象と一致する。

F型がヒエ栽培者の雑草になった経緯は、縄文前期温暖期にmt-B4が甲府盆地に入植したからだだと考えられる。諏訪湖畔でヒエが栽培され、湿田方式が採用されていたから、其処に甲府盆地からF型が持ち込まれた事によってヒエの湿田雑草がF型になり、縄文後期に八ヶ岳山麓と諏訪湖畔でヒエを栽培していたmt-M7aが北海道に移住した事により、北海道のヒエ栽培が湿田型に変り、ヒエの水田雑草がF型になったと考えられる。

伊予部族は縄文後期になると道南の亀田半島辺りを境界として、九州や四国に南下して稲作者になる者と、北海道に残ってヒエの栽培者になる者に分裂したが、後述する様に、伊予部族の地だった九州南部に関東のmt-B4Y-O2b1のペアが移住した事は、同じ伊予部族の地である北海道に、八ヶ岳山麓で弓矢産業から失業したmt-M7aY-O2b1ペアが、ヒエを栽培する為に移住しても不思議ではない事情があった。

八ヶ岳山麓のmt-M7aY-O2b1ペアが北海道に移住したとすると、その有力な入植候補地は帯広と北見だったと推測され、北見市のHPには以下の文章が記されている。

縄文時代前期末から中期・後期初頭にかけて、オホーツク海沿岸地域ではバケツを細長くしたような形をした、円筒形の土器が流行しました。(帯広では大正遺跡群としてこの土器が継続していた)

縄文時代後期のオホーツク海沿岸地域では、遺跡がほとんど見つからない時期になる。それと共に中期・後期初頭まで流行していた円筒形の土器は姿を消し、他地域の文化の影響も受けた様々なデザインの土器が作られる様になった。晩期に遺跡の数が増加する一方、装飾的で華やかな土器も作られるようになった。(縄文後期に集落数が激減する傾向は、帯広でも見られる。)

続縄文時代前半は北海道の各地域で地域色の強い土器が作られていたが、後半に入ると道央部の文化の影響が北海道全域に広まり、斉一的な文化圏が形成される。

続縄文時代前半は弥生温暖期で、後半は古墳寒冷期の寒い時代になったから、ヒエ栽培者の文化にその影響が現れた事を示している。

北見市のHPの指摘から言える事は、北海道で縄文後期の遺跡が激減したのは、人口が減少したからではなく、ヒエの栽培者が低湿地に移動したからだと考えられる。これは関東と全く同じ状況だからだ。

八ヶ岳山麓のヒエ栽培者が湿田を使っていた可能性については、八ヶ岳で縄文遺跡を発掘している考古学者が、「縄文遺跡は清水が豊かな場所に立地している。」と指摘している事が参考になる。つまり八ヶ岳山麓は帯広や北見程冷涼ではないから、縄文前期温暖期になると、雑草化したイヌビエの影響を完全に排除する事ができなくなった。しかし水温が低い清水を導入した湿田でヒエを栽培し、野生化したイヌビエの湿田への侵入を阻止する事により、生産性が高いヒエの栽培化を推進していたと考えられるからだ。

縄文中期にはmt-Fが持ち込んだ、ヒメタイヌビエも雑草に加わった可能性があるが、それも水温の低温化によって阻止する事ができただろう。またmt-Fは湿田雑草と5千年も格闘してきた女性達だったから、湿田栽培に関するその他のノウハウも吸収できただろう。

八ヶ岳山麓に縄文人が入植したのはヤンガードリアス期以前だった可能性が高く、ヤンガードリアス期に一旦撤退したとしても、温暖化し始めた縄文早期には再入植していたと想定される。彼らにはウルシが必要だったし、漁民の為にシナノキを栽培する必要もあったからだ。この時期の諏訪湖の湖面は標高900m以上あったから、函館と同じ気候だったと想定され、伊予部族と共に縄文早期に函館に移住したmt-M7aと、同じ気候条件でヒエを栽培していた事になる。

彼らは諏訪湖の湖岸で生活していたから、湖沼漁民のペアになったmt-M7aは湖岸でヒエを栽培していただろう。ヒエは水耕も畑作もできる種だが、水耕が可能な種には大きな特徴がある。水が張られた水田で発芽する為には、無酸素状態で芽を伸ばして水面に達し、酸素を取り入れる事ができる様になってから根を形成し始める。無酸素状態で芽を伸ばして水面に達する為には特殊な代謝機能が必要であり、それを活用する為にはエネルギーの蓄積が必要だから実が大きくなる。つまりヒエを水耕する事によって実を効率的に大型化し、生産性を高めた可能性がある。

いずれにしても八ヶ岳山麓~諏訪湖岸にいたmt-M7aが縄文後期に北海道に移住すると、北海道のヒエ栽培者も一斉に低湿地に降ったから、この時期の集落跡が発掘されない状態になったとすれば、矢尻街道で生まれた多彩な土器の製作者が移住北見や帯広に移住した事になるから、土器の文化系譜を議論できない状態が生れた事になり、考古学的な事実と整合する。

縄文晩期になると遺跡が増えた様に見えるのは、石川県埋蔵文化財情報の第11号が示す鳥取・島根の事情と全く同様に、縄文晩期以降の低湿地遺跡は深い土砂の堆積に埋もれていないから、条件が良ければ発掘される状況が生れただけで、縄文晩期に人口が増えたわけではないと考える必要がある。

そもそも、本州では縄文晩期に発掘できる集落跡が激減したから、考古学者はその状態から、縄文後期に始まった寒冷化の影響であると主張しているが、関東より格段に冷涼な北海道で、縄文晩期に遺跡が増加したとすれば、全く説できない矛盾した事情になる。しかし稲作やヒエ栽培の生産性を高める為に、低湿地に移住したと想定すれば事情は簡明に説明できる。

ちなみにウィキペディアは、明治になって本州から北海道への集団移住が始まると、

1895年(明治28年):田村喜蔵を団長とする土佐団体(土佐国の団体)29戸が常呂に入植。

1896年(明治29年):土佐国の坂本直寛らがクンネップ原野を調査し、「北光社」設立。

1897年(明治30年):北光社移民団112戸が北見に入植し、北光社農場開設。

と指摘し、坂本直寛は坂本龍馬の親戚筋の郷士であると記しているから、土佐の人は江戸時代まで、道東のアイヌは同じ部族の人々であると認識していた事になる。

従って同じ伊予部族の薩摩と土佐の郷士の明治維新の際の連携は自然の成り行きになり、肥前もF型の比率が高い事や方言が南九州型である事などから伊予部族系だったとすると、対馬部族の故地を藩領としていた長州だけが別部族だったから、「薩長同盟」が歴史上の重大事件になった事になり、上記の傍証になる。

 

4-4-5 縄文後期の対馬部族と出雲部族の遺跡が示す西日本への移住事情

東北縄文人は共生していた漁民と共に漁民部族の故地に再入植したが、東北的な生活基盤を維持する為に堅果類の樹林を形成した事を、縄文後期の西日本で発掘される東日本型の大型遺跡が示しているから、その成長に伴って徐々に移住したと想定される。稲作と漁労に習熟していた関東部族でさえ、北九州に移住した際に堅果類の樹林の形成を無視し、mt-Fmt-B4だけが入植した事によって在地のmt-D4M7bが多数派になり、東北縄文人が自己完結的に移住する為には、堅果類の樹林形成は必須だった事を示しているからだ。

縄文人の移住した後の三内丸山遺跡に琥珀や翡翠の大珠が遺されていた事は、彼らの最後の移住が片道切符の旅として慌ただしく進行した事を示し、縄文中期の集落には財貨が溢れていたから、全てを持ち出す事ができなかった事を示唆すると共に、彼らが移住を急いでいた事を示している。

北海道垣ノ島遺跡の大規模な盛土遺構、大船遺跡の大型建物、岩手県御所野遺跡の掘立柱建物と盛土遺構なども、構造にはそれぞれ個性があるが、巨大な建造物は漁民との交流を重視し、彼らを賓客として迎える為に豪華な建物や空間を備えた事を示唆し、部族が異なっても縄文人が文化を共有していた事を示している。

その様な海浜の巨大集落が消滅した縄文後期になると、秋田県の大湯環状列石、伊勢堂岱遺跡、青森県の小牧野遺跡などの巨大な環状列石が、以前とは立地が異なる内陸の河岸の小高い丘の上に設営された。

北海道の鷲ノ木遺跡にも環状列石が設営され、その立地は大船遺跡や垣ノ島遺跡と同じ亀田半島の海岸で、湊になる小さな入り江の上にある事も同じだが、亀田半島の付け根に位置しているから、室蘭を経由してシベリア交易を行う船の退避港ではなかった。シベリア航路から外れた立地は、噴火湾の沿岸をローカルな船便の航路にしていた事を示し、利用していたのは関東部族の船ではなく、航行能力が劣る伊予部族の交易船だった事を示唆している。つまり北海道の狩猟民族から獣骨や毛皮を集める為に、噴火湾の沿岸を周回した小舟が停泊し易い場所として相応しく、本州から集荷品の回収に来た海洋船と交易する拠点集落だったと推測される。

伊予部族が縄文中期まで漁労に使っていた獣骨は、関東部族に湊を提供する事によって得ていたが、シベリアとの弓矢交易が衰退した縄文後期になると、東北と北海道の伊予部族の漁民は北海道の狩猟民族から獣骨を調達する必要があった。狩猟民族は北海道に一様に分布していたのではなく、彼らの獣骨の需要者だった北海道部族の周囲に集まっていたとすれば、北海道の伊予部族は彼らから獣骨を入手する為に、噴火湾の沿岸を交易路にする必要があったからだ。

東北南部の漁民は福島や山形の縄文人と共に豊後水道の両岸に移住し、関東部族の沖縄航路の為の湊を、四国の太平洋沿岸や宮崎・薩摩半島で提供し、獣骨を得ていたが、それだけでは西日本に移住した部族全員の需要は賄えなかったとすると、北海道の狩猟民族から調達する必要があった。つまり内浦アイヌの祖先は石狩湾沿岸の北海道部族から獣骨を入手し、帯広や北見のヒエ栽培者と共生する漁民にそれを提供し、下北半島以南の伊予部族と交易を継承する為に、漁民が桂川の河口に退避湊を設営し、森町の沖積地にヒエを栽培する縄文人が集積していたと想定される。

鷲ノ木遺跡の壮大な環状列石は、縄文後期温暖期になるとヒエの収穫も増え、縄文人の食料事情が良化して再び人口が増えた事を示しているが、同系の文化遺跡である秋田や青森の遺跡は内陸にあり、海岸にあった縄文中期の建造物の様に、海洋漁民との交流を目的とした施設ではなかった。垣ノ島遺跡や大船遺跡の遺構は現在の標高が40m程度の場所にあり、縄文海進期のものだが、鷲ノ木遺跡の環状列石は海退期のものでありながら標高60m以上の台地上にあり、海岸から見た遺跡の立地の標高は実質2倍になっていた事が、それらの共通の設営目的を示唆している。

海洋漁民がいなくなった東北に残された縄文人は、内陸の狩猟民と河川漁民を主体とする人々だったから、縄文人が作った環状列石が彼らとの交流の場だったとすると立地条件に違和感がある。河川漁民や縄文人の居住域にあったとは考え難く、狩猟民が多用する経路、即ち尾根から全景が見渡せる場所でもないからだ。

縄文前期の中部山岳地に形成された、阿久遺跡の環状列石と同じ趣旨で作られたのであれば、その目的は他者との交流ではなく、団結力を誇示する為の示威的な建造物だった。それが環状列石を作った目的だったのであれば、西日本への移住に出遅れて稲作者になる希望を失った東北縄文人の、屈曲した精神世界を示している様に見える。その観点で鷲ノ木遺跡の立地を見直すと、函館の気温は青森より1℃低く、北見より2℃温暖だから、縄文中期寒冷期の青森では温暖過ぎてヒエが栽培できなかったとすると、それより1℃温暖化した縄文後期の函館付近でもヒエの栽培は難しく、帯広や北見に北上する必要があったから、鷲ノ木遺跡に隣接す森町の沖積地にいた縄文人は、ヒエの栽培が難しい状況に陥っていたからだ。

つまりこの時代の道南と東北北部の縄文人にとっては、皆が先端産業になった穀物栽培の為に北見や西日本に移住していったのに、稲もヒエも栽培できない東北や道南に残され、縄文中期の廃墟が散在する地域で、従来産業である獣骨の収集に明け暮れる毎日に、堪らない寂しさが込上げていたのではなかろうか。

小牧野遺跡は三内丸山遺跡の南10㎞程の場所にあるから、三内丸山遺跡の縄文人と同一部族の、移住せずに残った縄文人の遺構である可能性が高い。大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は共に米代川流域の丘陵上にあり、大湯環状列石の麓の米代川の現在の標高は100mほどだから、土砂がそれほど堆積していなかった縄文後期には、海洋船も遡上できる場所だったと想定される。

三内丸山遺跡と小牧野遺跡の立地事情から類推すると、米代川の河口である能代の集落の人々が西日本に移住した後に、この地に残された同部族の縄文人が環状列石を形成した可能性が高く、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡の規模が小牧野遺跡より巨大である事は、能代には三内丸山より大きな縄文集落が、縄文中期まで存在したと想定される。

能代市の市街地の西には海岸砂丘があり、米代川はこの砂丘を突き抜けて日本海に流れ出ているが、縄文時代には男鹿半島から八峰町まで大規模砂丘が連なり、それに遮られた米代川などが大きな湖を形成していたと想定される。日本海沿岸の海岸砂丘は、南の河川が流し出す土砂が対馬海流に運ばれて堆積したものだから、雨が多かった縄文時代には、信濃川が流し出した多量の土砂がそれ以北の海岸に大きな砂丘を形成したと考えられるからだ。

海岸砂丘が形成した地形は、新潟平野、庄内平野、秋田平野、八郎潟にもあり、海岸に高い砂丘が形成される事により、現在の平野部は縄文時代には湖になっていたと考えられるが、新潟平野には水量が多い信濃川と阿賀野川が流れているので、縄文時代も現在と同様に大河が海岸砂丘を突き抜けていたと考えられる。その為に両河川が日本海に直接流れ込み、多量の土砂を海に吐き出していたから、縄文時代の庄内平野と秋田平野は八郎潟の様な状態を最終段階とするまで、湖水面が海面より数10m高い巨大湖になっていたと考えられる。

東北の日本海沿岸では砂が沖合まで堆積し、新潟県では水深100m未満の海が25㎞沖合まで広がっているが、庄内平野でも17㎞沖まで広がっている。新潟平野と庄内平野の間の山岳地の、河川土砂の流入が殆どない海域でも、水深100m未満の海域は同様の幅で連なり、浅い海底の土砂はその地域の河川が流し出したものではなく、信濃川と阿賀野川が中部山岳地帯から流し出した膨大な土砂が、海底に堆積したものである事を示している。

流量が多い信濃川と阿賀野川の水が砂丘を破っていた新潟平野は中海になる事から免れ、海洋民族が河口を根拠地にする事が可能になり、阿賀野川流域や信濃川流域に多数の縄文遺跡が遺っているが、庄内平野と秋田平野は湖の面積が河川の流量と比べて過大だったので、大雨が降っても中海の湖面変動が小さく、海岸砂丘の決壊が起こらずに巨大湖の状態を維持していたと考えられる。

巨大湖に溜まった水は日常的には、扇状地の伏流水の様に砂丘の下の地下水として排出され、湖面上昇が防止されていたと推測される。砂丘の幅は何百メートもあり、大雨によって湖水が溢れる状態が生れても、砂丘上の松林の松の根や笹が土砂の流出を止め、何処も破れることなく保存されたと考えられるからだ。

砂丘が堆積して湖になる過程は、サロマ湖の様子から読み取る事ができる。現在のサロマ湖には流出口が形成されているが、明治時代のサロマ湖では、降雨量が減少する季節に流出口が砂丘で塞がれ、降雨期になると湖面標高が上昇して周囲に水害をもたらしたからだ。サロマ湖の砂丘は幅が広い部分でも1㎞未満で、殆どは100m程度しかないから、サロマ湖の水は殆どが伏流水によって排出され、降雨量が減少する季節には流出口から水が流れ出る必要がなくなり、砂丘を形成するプロセスによって流出口にも砂丘が形成されると、次の雨季には湖の水面が周囲に洪水を引き起こす程に上昇した。

サロマ湖の沖には対馬暖流の分流が流れ、この様な事態を引き起こしているが、津軽までは対馬海流の本体が流れ出しているから、海岸砂丘の形成速度はサロマ湖より遥かに大きい。津軽に形成された七里長浜の砂丘の幅は4㎞ほどあり、現在も頂上の標高が2030mの丘を各所に形成しているが、最も高いものは標高50m以上ある。八郎潟の外縁も似た状況にあり、60m以上の丘が複数ある。

丘の上に松などの樹木が生えなければ雨によって砂は流されてしまうが、伏流水が地下水になると丘に松が生え、雨による浸食が起きなくなる。現在も残っている潟湖の外縁に高い丘があるのは、潟湖が地下水を供給しているからである可能性が高い。

縄文時代は現在より温暖で降雨量も多かったが、気候が温暖で地下水が豊富な地域で松の根が広域的に入り組んでいる状態は、富士山麓の樹海で見る事ができる。鳥取の千代川河口域の丘陵を見ると、湖面から100以上の標高地点まで松林に覆われているから、湖の堰を形成していた海岸砂丘上の松林の標高は、湖面標高より数十メートル以上高い位置にあったと推測される。

海岸砂丘の標高が高くなる理由は、海岸砂丘の上に松林が幅広く形成され、地面が笹などで覆われ、海岸の砂浜から風で飛ばされた砂が降り続けると、積もった砂は風で吹き飛ばされない状態が生れるからだ。それによって砂丘は次第に標高を高めていくが、標高が高くなり過ぎた砂丘上の松林は、雨水しか水を得る事ができないから、根が浅い笹などは生えなくなって砂の堆積が進まなくなり、松も水が不足して疎林になり、それ以上砂丘は成長しない。しかし内側の湖面標高が上昇すると湖水が真水の供給源になり、砂丘上の松林はそれによって成長するから、淡水湖の湖面標高と海岸砂丘が同時並行的に標高を高め、湖面は無制限に上昇する事が可能になる。

湖面標高が何処まで上昇したのかについては、庄内平野を流れる最上川と、相沢川の合流点の東1.5㎞にある標高20mの河岸段丘が参考になる。これは湖面の標高が20m程度に上昇した時期に形成された、川洲の痕跡であると推測されるからだ。

この湖は徐々に埋め立てられて湖面積が縮小するし、南北端の湖の幅が狭い地域で流入河川の沖積地が拡大し、それが砂丘に達すると伏流水が流れるエリアを狭くするから、流入する河川の水を伏流水では排出し切れなくなる状態が生れるから、それらによって大雨による水位の上昇が甚だしくなると、海岸砂丘はやがて決壊する。

砂丘が決壊して湖面標高が海面近くまで下がると、松林を維持する湖面標高が下がって海岸砂丘上の松林が疎林になり、湖面標高が数十メートルもある湖の再生は難しくなるから、湖から河川によって水が流れ出る汽水湖と呼ばれる状態になる。

現在は平坦な沖積平野である庄内平野や秋田平野は、汽水湖が完全に埋め立てられた状態だが、庄内平野がその様な状態になったのは江戸時代だったと言われている。これらの地域に縄文遺跡が少ないのは、海岸砂丘に漁民の湊を形成する事ができなったから、漁民と共生する縄文人も居住できなかったからであり、漁民が松林を踏破して湖と海岸を往復する事も難しかったから、湖の湖岸にも縄文集落が生れ難かったからだと推測される。

古山形湖の周囲に縄文集落の集積があったのは、この地域の縄文人は関東部族のmt-B4から稲作技術を学ぶ事ができから、むしろそちらに人口の集積が生れたからだと推測され、湖沼漁民と共生して食糧事情が改善しても、文化的な刺激がない場所には縄文人も住みたくなかった事を示唆している。つまり古山形湖の周囲の縄文人は、熱帯ジャポニカの栽培者の情報ネットワークに帰属し、古福島湖岸にいた伊予部族の湖沼漁民と、漁労文化を共有していたと考えられる。

遠浅の海岸は青森沖まで続き、津軽海峡を越えた渡島半島の日本海沿岸にはないから、津軽海峡から太平洋に抜ける対馬海流が、東北の日本海沿岸に土砂を運んでいる事が分かる。

新潟以北の海岸砂丘の形成史を概観すると、13万年前の前回の間氷期にも、信濃川と阿賀野川が吐き出した土砂が対馬暖流によって沿岸に堆積し、氷期に海面が低下すると広い海岸平野を形成したから、佐渡と新潟平野は狭い海峡を挟む状態になり、その海峡が北陸部族の海洋民族化に貢献したと想定される。

15千年前から海面の急上昇が始まったが、1万年前までは対馬海流が流れていなかったから、対馬部族や出雲部族が九州の縄文人と共に、東北の日本海沿岸に北上した縄文早期前葉には、氷期の海岸平野は冠水して水没していたが、海岸に砂丘はなかった。

しかし1万年前に対馬海流が流れ始めると、現在の酒田平野や秋田平野では、南西端の山岳地が接する海岸から海岸砂丘が発達し始めた。8千年前に海面上昇が止まって豪雨期になると、信濃川が多量の土砂を海岸に吐き出して砂丘が急速に発達し始め、豪雨が止んだ7千年前に対馬海流が安定的に流れる様になると、海岸の砂丘が南端の岬から北端の山岳地まで繋がり、庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野が湖になり、やがて巨大湖になったと想定される。

海洋縄文人の船は組み立て式だったから、湖面が海面より10m以上高くなっても、交易者として最上川を遡上する事は可能だったが、山形県や秋田県の現在の平野部の海岸には、標高100m以上の砂丘が延々と続き、現在の山岳地は切り立った崖になっていたから、海洋民族が漁港を設ける場所は沿海部にはなくなった。砂丘の内側に広がった湖では湖面上昇が続き、湖岸は海面上昇期の様に山肌しかない状態になったから、縄文人が樹林を形成したりアサを栽培したりする場所もなくなった。東北の日本海沿岸には縄文遺跡が少なく、独特の縄文文化が展開しなかったのはその為だと考えられる。

しかし古山形湖などの湖は流出口が侵食されると、時代の経過と共に湖面表が低下していったから、湖岸には各地に川洲が生れていた事情と併せて考えると、湖面上昇が続いていた縄文前期には、縄文人が集積できる場所は庄内平野や秋田平野の周辺にはなく、古山形湖の様な内陸湖の周囲しかなかったと考えられ、それらの地域で生活文化を形成した縄文人は、縄文中期までそれらの地域での生活を継続したと考えられる。

1万年前に古山形湖の湖岸に集落を形成した縄文人が、大木式土器を伴う文化圏に帰属した事が、その事情を示している。

能代の北部地域はその例外として、北の山岳地が迫る湖面幅が狭い地域で、小さな川の沖積地が砂丘に達し、その川が砂丘を浸食してしまう状況が生れると、海に直接水を流し出す川になって海洋漁民が河口に湊を形成する事が出来る様になった。その河川が形成した台地に、縄文集落が形成される環境も生まれた。

能代から八郎潟を経て秋田に至る地形は複雑なので、縄文早期~前期には能代と秋田は同じ湖として連結していた疑いも濃いが、確かな事は言えない。また能代の北部地域で起こった地理的な変遷も、かなり複雑な経緯を経ていると考えられるので、起こった事を時系列的に並べる事はできないが、能代から八郎潟を経て秋田に至る地域には、深い山岳地から流れ出ている故に、土砂の堆積が進行したと考えられる河川が複数あり、それらによって湖の分断が繰り返された可能性がある。

河川が土砂を堆積して湖を分断すると、その河川が堆積した土砂は台地を形成するが、海岸砂丘は海岸の砂が拡散できる範囲内にしか生まれないから、その奥に河川が堆積した土砂が台地を形成すると、雨や湖の波によって徐々に失われても補給がなく、やがて湖とその河川が合体し、その河川が湖の流出路になってしまったと推測されるからだ。能代川の南北の海岸砂丘の内陸側には、その様な流路の痕跡であると考えられる地形も残っている。

能代川の北を流れる竹生川の流域に、この川が形成した台地があり、縄文前期の杉沢台遺跡があるから、この地域は縄文前期に、海洋民族の居住地になった事を示している。海岸砂丘が形成され始めた縄文早期後葉~縄文前期前葉の遺跡は発掘されていないが、五能線の沿線には更に山岳地が迫って海岸砂丘が発達し難い地域があるから、それらの地域の小河川の河口を湊にして、縄文早期後葉以降から縄文前期までは五能線の沿線にいたと推測される。

西日本に移住する前の時代である、縄文中期の集落跡は発見されていないが、縄文後期に大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡が存在した事は、米代川の流路が日本海に貫流する様になっていた事を示しているから、縄文中期初頭に能代川も日本海と繋がる状態になり、彼らがそれに適した地域に移住した事を示唆している事になる。湖面が急低下すると平坦な地形が各地に生まれたから、平坦な地形を求めて台地上に居住する必要はなくなったからだ。

九州に移住した出雲部族や対馬部族は縄文中期まで弓矢交易を行い、縄文後期はそれを失った直後だから、九州に移住した漁民が米代川を遡上し、環状列石が形成された台地の麓にあった縄文人の集落で獣骨交易を行う以外には、獣骨を入手する手段がなかったと考えられる。中部山岳地帯にいた狩猟民族も、矢尻の製作者の獣肉需要を失っていたから、縄張り事情が許せばその様な狩猟民族もこれらの地域に移住し、この交易に参加していた可能性が高い。

日本列島の狩猟民族は、漁民と共生するモンゴル系の狩猟民族だったから、交易環境がある地域でしか狩猟活動を行わなかった事は既に指摘したが、縄文早期後葉から縄文中期までの東北は、正にその様な地域だったからだ。Y-C1狩猟民族も同様な事情で、青森と秋田北部を除く地域では、狩猟活動は行っていなかったと推測される。

いずれにしても、Y-O2b1mt-M7aペアの殆どが九州に移住した縄文後期の米代川流域には、縄文中期の海洋漁民とY-C1狩猟民族の共生関係の延長として、ドングリやイヌビエを栽培しながら河川漁労を行うY-O3a2amt-M7aや、Y-C1mt-M7aのペアが残っていたから、彼らが環状列石を形成したと考えられる。津軽の小牧野遺跡や北海道の鷲ノ木遺跡も、同様の民族構成と経済構造だったから、類似した文化になった可能性が高い。

古事記の国生み神話が示す部族を割り当て、青森県東部が出雲部族の入植地で、青森東部が伊予部族の地域だったとすると、此処が消去法で残る対馬部族の拠点だったと考えざるを得ないが、事実認定できるほどに諸事情が整合する。

出雲部族は隠岐の黒曜石を利用して弓矢交易に参入していたが、対馬部族が何を生産してどの様な交易をしていたのか手掛かりになるものは、杉沢台遺跡から発掘されていない。三内丸山遺跡には色々な物品が遺されていたが、縄文前期の杉沢台遺跡の出土品は極めて貧弱な状態にあるのは、縄文中期に能代川流域に移住したから、忘れ物は取りに来る事ができた事情に依るのであって、文化的な貧弱さを示しているわけではないと考えられる。

いずれにしても、三内丸山遺跡の出土品には弓矢交易を想定させるものはないから、対馬部族に関しても他の事情から推測するしかない。

米代川流域に縄文後期の大きな遺跡が2カ所発見され、それらの規模が出雲部族の小牧野遺跡より大きい事は、出雲部族より多量の獣骨を必要としていた事を示し、漁民の数は出雲部族より多かった事を示している。

古事記が示す宗像の三女伸が海洋民族的な神である事は、宗像に海洋民族的な集団が集結していた事を推測させ、この事情と整合する。また縄文後期に豊国を形成し、弥生温暖期に奈良盆地や京都盆地に大規模農耕集団を形成した事は、秋田や山形の大木式文化圏の縄文人は、対馬部族と共生する縄文人だった事を示唆している。

出雲部族の漁民は秋田や山形の縄文人と共生している意識がなかったし、海洋活動が特異ではなかったから陸奥湾の奥に引き籠っていたとも言え、操船に自身があった対馬部族が能代や五能線沿線に拠点湊を形成し、海洋活動に専念していたとも言える。

古事記はその様な対馬部族が、出雲部族に従属する様になった事情について、大国主に率いられた出雲部族が、先ず稲羽の稲作民族と連携してコメの収穫を確保し、富山のmt-M9と連携して津軽の食糧事情を改善し、大陸からmt-N9aを招いて毛皮の加工基地を作り(亀ヶ岡遺跡群)、弓矢交易に代わる新しい交易を樹立した事を示唆している。古事記は倭人時代の交易事情は全て割愛し、縄文人の歴史しか記していないから、亀ヶ岡の事情に触れていない事に違和感はない。

縄文前期の対馬部族の痕跡であると想定される杉沢台遺跡は、米代川の河口の北東5㎞にある標高35mの東雲台地と、その北側の斜面で形成される3.5haの範囲が想定され、そこから長経3116メートルの大型住居跡4棟と、竪穴住居跡40基が発掘された。北海道日高産の緑色岩である「アオトラ石」で作成した磨製石斧が2個発見され、円筒式土器を使っていた事などは、三内丸山遺跡と共通するが、発掘された遺物が三内丸山遺跡ほど多くないので、注目度は高まっていない。

三内丸山遺跡は約40ヘクタールの広さがあり、杉沢台遺跡は3.5haしかないが、近くの別の遺跡から日高産の緑色岩の原石が発掘され、加工途上の様相を呈しているから、其処も杉沢台遺跡の延長部分だったとすると三内丸山遺跡に匹敵する広さがあった。両遺跡の間に小高い丘と深い河谷があるが、この沖積台地の深い河谷は後世に刻まれた可能性が高く、この谷が集落の中央部を削り取ってしまったと考えられるからだ。

対馬部族が五能線の沿線に定住したのは、日本海交易に有利な地域だったからだと想定され、出雲族に陸奥湾の奥まった地域を譲った事も、両者の航行能力の違いを示している。対馬部族の海洋技能は周防灘で形成されたと推測される。山口県の東部で高品質の蛇紋岩が産出するから、それによって木材の加工技能を高度化させ、造船技能を高めていたからだと想定される。周防灘の東部である岩国市南方から柳井市~周防大島町(屋代島)にかけて、質の高い蛇紋岩が産出する領家変成岩の露頭があり、防府の近傍にも蛇紋岩の露頭があるから、其処が彼らの採掘地だった可能性があり、対馬部族と伊予部族は関東部族と北陸部族に次ぐ海洋航行能力を有していたと推測されるのは、氷期からそれらを使って船を作り、優れた海洋漁民になっていたと推測される。

縄文早期~後期まで続いた横尾貝塚遺跡から、縄文早期後半の加工建材が発掘され、ほど穴と目途穴が形成されていた事がその事情を示している。

この遺跡から多量の獣骨が発掘された事もシベリア交易の成果を窺わせるが、この遺跡から姫島産の黒曜石が発掘されているのに、沿海州で発掘されるのは隠岐産の黒曜石で作った矢尻である事は、弓矢の製作は出雲部族が担い、海上輸送を対馬部族が担った事を示唆している。陸奥湾の奥に引き籠った出雲部族にその様な海洋性がなかったのは、出雲の周囲の蛇紋岩帯は、質の低い三郡変成帯だったからだとすれば話は整合する。

北陸部族は糸魚川や黒部川の河川敷で高品質の蛇紋岩を拾う事が可能であり、関東部族は白馬地域の高品質の蛇紋岩を入手する為に、古松本湖までをテリトリーにしていたと想定される事は既に指摘した。この地域の蛇紋岩は、低圧高温状態で生まれた角閃石を多量に含む、質の高い蛇紋岩だったからだ。

日高産の緑色岩である「アオトラ石」は、北海道を代表する磨製石斧の素材で、三内丸山遺跡や杉沢台遺跡で発掘され、秋田、山形、新潟北部でも発掘されているが、日高山脈は高圧低温下で生成された蛇紋岩の産地で質が劣るから、変成岩ではあるが蛇紋岩ではない「アオトラ石」を、磨製石斧の素材にしていた。

額平川周辺が原石の産地で、千歳・苫小牧周辺か下北半島で磨製石斧に製作されたから、伊予部族の産業だったと考えられる。奇麗に研磨されている大型の石斧が多数あり、北陸部族の研磨技術が拡散した縄文前期後葉~中期に、伊予部族がそれを導入して産業化した疑いが濃く、造船技術や海洋航行能力の指標とはならない可能性が高い。

つまり高品質の蛇紋岩が採取できない北東北や北海道は海洋漁民には住み難い場所だったが、対馬部族は多数の漁民や縄文人が残留して周防灘も維持し、船を作る程度の蛇紋岩製の磨製石斧は周防灘から運んでいたと想定される。しかしその様な海運力がなく、高品質の蛇紋岩を入手する場もなかった出雲部族は、海洋交易を対馬部族に依存していたから、漁民も陸奥湾や青森湾に引き籠っていたと想定される。

従って隠岐での弓矢の生産は出雲部族が担務し、海洋輸送は対馬部族が担務していたと想定され、その交易構造は縄文晩期の亀ヶ岡を拠点とする毛皮交易にも引き継がれたが、製品の生産者だった出雲部族が上位者だったと古事記は記している。これは山海経の海内北経の記述とも整合する事を、(4)山海経の項で指摘した。縄文人の活動期の項で、関東部族の弓矢交易の実質的な統括者は漁民だったとしても、商品開発と生産性向上はY-C3狩猟民族の専管事項だったと指摘したが、この狩猟民族の役割を出雲部族が担い、その交易構造が毛皮交易にも引き継がれた事は、出雲部族は縄文人のY-C1かモンゴル系のY-C3が仕切っていた事を示唆している。

 

移住先の西日本の状況

縄文後期になると、西日本の各地に東日本的な構造を持つ大型遺跡が登場する。宮崎県本野原(もとのばる)遺跡、熊本県中堂遺跡、福岡県アミダ遺跡、鳥取県智頭枕田遺跡などで、これらはいずれも内陸の盆地にあるから、関東のmt-B4型の熱帯ジャポニカを栽培する為に、東北南部のmt-M7aが移住した地域の集落だったと考えられる。

以下は篠田氏が「日本人になった祖先達」に示す、mt-M7aの分布。

鳥取、福岡、宮崎にmt-M7aが多く、その割合が一様であるのは、東北南部から西日本の各地にmt-M7aが拡散した事を示している。

東北のmt-M7aが西日本に移住して稲作者になる大ブームが起きたのは、mt-Fの温帯ジャポニカ栽培の生産性が高まり、関東のコメの需給バランスが大きく変化した結果、関東のmt-B4が西日本に移住すると、mt-B4の情報網がその流れが生れた事を示し、東北南部のmt-M7aがそれに呼応した要因もあったが、縄文後期に大陸が青銅器時代を迎えて黒曜石の矢尻を使う弓矢産業が衰退すると、伊予部族、出雲部族、対馬部族の経済活動も破綻し、新たな経済活動を活性化させる必要に迫られた事も、重要な要因として挙げられる。

稲作は当時の先端産業であっただけではなく、関東部族はもとより北陸部族もその需要者になったから、日本列島内では換金性が高い商品になったからであって、移住した縄文人自身がコメを食べる為ではなかった。換金性のある商品を生産して部族間の経済活動に参加する事を、伊予部族、出雲部族、対馬部族が至上命題にしていたからだ。

同様な環境にある現代人には、彼らの心情が理解できるだろう。この時代の人々の経済活動は、基本的には個人的な活動ではなく、部族単位の経済活動を追求していたが、これも現代の大企業の企業活動に類似し、それらの企業の収益を再分配する形で、個人の経済活動が成立していたからだ。この時代の部族が業態転換した事情も、近代の紡績会社が今は化粧品会社になっていたり、フィルム会社が医療機器を製造する会社になったりする状況と類似した事情が、縄文後期の各部族に発生したが、石器時代の産業には現代程のバラエティーはなかったから、最も有望な次世代商品がコメであると認識されると、伊予部族、出雲部族、対馬部族は三者三様の仕方でそれに参入した。

上記の遺跡は内陸にあった故に偶然が重って保存されたが、東日本から小さな沖積平野に移住した稲作者の遺跡は発掘できない事を前提に、これらの事情を検証する必要がある。

東北のmt-M7aは縄文後期に残った人々と、弥生時代中期~古墳時代にヒエを栽培する為に、北海道から南下した女性達の子孫であると推測される。盛岡のmt-M7a比率が低いのは、奈良時代初頭に関東から稲作者として遡上した女性の比率が高く、この地域に南部氏が入植して彼らを組織化したからであると推測されるからだ。

南部氏は甲斐源氏であるが、それ以前に富士川流域は関東部族の南方派の拠点であり、古事記が南方派の神とした木花サクヤヒメを祭る浅間神社が甲斐国一宮だから、縄文後期に稲作地を求めてmt-B4が北上した地域だった事を示唆している。その様な南部氏の拠点は甲府盆地より富士宮市に近いから、甲斐源氏と言うより南方派の代表だったと言うべきだろう。西日本へのmt-B4の入植は北方派が主導したから、先を越されていた南方派が岩手や青森東部に進出する、逆転現象が起きた事を意味する。南方派のmt-B4としてはmt-Fが入植できない、冷涼な地域に入植したかったのではなかろうか。

新潟も東北型の遺伝子分布を示している事は、弥生温暖期が終了してから古墳寒冷期が終わるまでの間に、ヒエを栽培する文化圏になった事を示唆し、タイヌビエF型の地域である事情と一致している。その様な新潟のmt-M7a比率が、東北部族の地だった山形や青森と類似している事は、東北のmt-M7aは縄文後期に残留した縄文人の子孫ではなく、古墳寒冷期に東北に南下したヒエ栽培者の遺伝子が主である事を示唆している。つまりヒエ栽培者にも関東部族のmt-B4の様に、栽培を指導しながら地域に浸潤するmt-M7aがいた事を示唆している。

その様な東北部族の移住も彼らの故地に限定され、西日本にはアワ栽培者が既に拡散していたから、九頭竜川の河口ではその様な人々が北九州からmt-D4を招き、mt-F型の稲作で温帯ジャポニカを栽培していた事を指摘した。

縄文後期に中小河川の川洲が多数生れていた鳥取県東部は、「稲羽=稲場」と呼ばれる地域になったが、その様な好条件の場所は先住の焼畑農耕民に先取されたと想定されるから、上図の鳥取のmt-M7a比率が西日本としてはやや低いのは、それが原因である疑いがある。

宮崎は福岡よりmt-M7a比率が高いが、篠田氏が示す地域別の遺伝子分布は、他地域と比較してmt-D5が極めて少ない事を示している。それは九州縄文人のmt-D4を濃厚に温存している事を意味し、縄文後期のこの地域のmt-M7a比率も温存している可能性が高い事を示唆している。

「日本人になった祖先達」が示す宮崎の遺伝子分布は区分が不明確だが、「新版 日本人になった祖先たち」に掲載されている分布は区分が明瞭なので、以下に転記した。

mt-Gは伊予部族の縄張りだったオホーツク文化圏から、海獣の毛皮の加工者として渡来したと想定され、mt-N9aは隣接する対馬部族の文化圏だった大分から、移住したり婚姻したりして流入した遺伝子であると想定される。

mt-M7bの割合はmt-B5に類似しているから、これは養蚕技能者の遺伝子であると推測され、焼畑農耕者だったmt-M7bは宮崎でも残っていない事を示唆している。

mt-Fmt-Aは北九などから弥生温暖期以降に移住したと推測され、北九州弥生人のmt-Fが少なかったのは、元々入植者が少なかったのではなく、沖積平野が不足すると伊予部族の沖積平野にも進出したからである事を示し、北九州のmt-F人口は、彼女達が取得可能な沖積地の面積によって制限された事を示唆している。温暖な宮崎では縄文後期温暖期が終了しても、暫くの期間は温帯ジャポニカの栽培が可能だったし、弥生温暖期には生産性が高い稲作者だったから、宮崎に移住する動機は十分にあった。しかし宮崎のmt-B4の起源はその様なmt-Fとは異なり、関東から直接入植した事を次節に示す。

僅かではあるがmt-D5がいる事は、その6倍のmt-D4がいた事になり、それらは後世になってから宮崎に移住した者だから、その分を差し引いた九州在地のアワ栽培者のmt-D4と、熱帯ジャポニカの栽培者として入植したmt-M7a+B4の合計は、ほぼ同じ人数だった事を示している。mt-M7a+B4の最優先入植地は、漁民との共生が可能な地域だった筈だから、その様な地域ではmt-D4+M7bとの共生は必要なかった。しかしmt-B4型の稲作は谷間や盆地に適したものだったから、内陸に進出する事に消極的ではなかったと推測されるから、漁民と共生したmt-M7a+B4は半数だったとすると、内陸では稲作者の周囲にその倍の人数の焼畑農耕者が集まっていた事になる。

縄文後期は実質的な青銅器代の開始期だったから、青銅の斧が普及する事によって蛇紋岩の入手が困難な場所に焼畑農耕者が入植できる様になり、それによってmt-D4+M7bmt-M7b比率が低下していった可能性がある。鉄器時代になるとmt-M7bはいなくなったが、青銅器時代になった縄文後期はその中間過程にあったと考えるべきだろう。

 

4-4-6 各部族の具体的な移住事情

宮崎県本野原遺跡は、清武川が台地を削った広い河谷を望む丘の上にあり、100以上の竪穴式住居跡が東日本的に円形配置された大規模集落。

熊本県中堂遺跡は、人吉盆地から球磨川が流れ出る場所を望む山裾にあり、61軒の堅穴式住居が発掘された。

福岡県アミダ遺跡は、遠賀川支流の屏川が作った山間の盆地と丘陵が接する場所にある。

鳥取県智頭枕田遺跡は、千代川上流の新見川と土師川に挟まれる舌状台地の先端にあり、竪穴住居跡12軒を中心に東日本的な構造を持つ住居址が多数発掘された。西日本に普遍的な突帯文土器の他に、信州・北陸の浮線網状文土器や、東北の変形工字文土器が出土し、稲作を求めて集まった人々の出自を示している。

いずれの遺跡も山間の小盆地を見下ろす台地上にあり、遺跡が保存されやすい場所である。

山間の盆地は縄文時代の湖の痕跡で、湖は縄文時代に消滅したから流れ込んでいた川が、現在は盆地を貫流していると考える必要がある。これらの集落が営まれた縄文後期には湖が残存し、湖岸の川洲が稲作地になったが、終末期に近い湖は湖面の面積が急速に縮小する過程にあり、大雨で水位が急上昇したから稲作者は山裾に居住する必要があったが、その様な場所では草丈1mのタイヌビエは繁殖できないが、草丈は2m熱帯ジャポニカには栽培適地になる場所が各地にあった。

石川県埋蔵文化財情報の第11号が、同時代の九州縄文人が大分県香山の盆地に入植した事を指摘しているが、この盆地を流れる八坂川は極めて特殊な川で、竜頭遺跡の周囲の低湿地は洪水の危険がない場所だった。この盆地に流入している八坂川は山間の隘路から流れ出ているが、水源が深くない上流に細長い湖が何カ所もあり、自然の貯水ダムとして川の水量を調整していたから、mt-D4+M7bは大雨が降っても水位が上昇しない沼地でmt-F流の湿田稲作に挑戦して温帯ジャポニカを栽培する事ができたからだ。

草丈が長いと株の密度を下げなければ下部に日光が届かなくなるが、下部の細胞にも成長エネルギーや生存エネルギーが必要だから、草丈が高いイネを密生させる事は、エネルギーを消費するだけの茎の細胞も成長させたり維持したりする事を意味し、コメの生産性を高める障害になる。何千年も熱帯ジャポニカを栽培し続けたmt-B4がこれを知らなかった筈はなく、熱帯ジャポニカの草丈が2mもある事は、mt-B4が栽培地としていた湿田ではこの草丈が必要だった事を示している。

日本の水辺で繁茂している最も一般的なイネ科の植生はアシで、アシの草丈は2m3mだから、日本列島の水辺の植生にはそれが最も相応しい草丈である事示している。つまり関東の沼地で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4は、その草丈であれば大雨で稲作地が水没しても草の上端が水上に露出し、イネが死滅する事から免れると判断してその草丈を維持した事になる。

日本を「豊葦原瑞穂の国」と呼ぶのは、葦が生える場所は水田に向いていると主張しているから、熱帯ジャポニカの栽培に適した土地が豊かである事を表現している事になる。大分県を豊国と呼ぶのは、その様な葦原が豊かな温暖な地域だったからだと考えられる。従って日本列島を「豊葦原瑞穂の国」と呼ぶ習俗は、日本式の稲作が行われる前の事情だったと考える必要があり、縄文中期までの「豊葦原瑞穂の国」は関東を指し、縄文後期の「豊葦原瑞穂の国」は東北南部以西の日本列島を指したが、弥生時代に温帯ジャポニカを栽培する様になると、葦原になる様な洪水リスクが高い地域では稲作ができなくなったから、少なくとも温帯ジャポニカの栽培地は「豊葦原瑞穂の国」ではなくなった。

元々は関東が「豊葦原瑞穂の国」だったのかもしれないが、縄文後期に熱帯ジャポニカの栽培が西日本にも広がる過程で、日本を指す言葉になったと考えられる。

 

4-5 移住した後の各部族

4-5-1 出雲部族と対馬部族

智頭枕田遺跡の立地は新見川と土師川が合流する台地上にあり、両河川の奥に深い沖積河谷を形成しているから、当時はその河谷に東北縄文人が多数入植して熱帯ジャポニカを栽培し、その周囲に山陰の焼畑農耕者や矢尻街道から下山した縄文人が集まっていた事を、この遺跡から発掘された土器が示している。

両河川が合流して形成される千代川は狭い河谷を抜けると鳥取平野最大の河川になるから、その流域には支流が形成した川洲にアワ栽培系譜の山陰縄文人が入植し、北九州で稲作技術を得たmt-D4や、mt-D4から稲作技術得たmt-Dが温帯ジャポニカを栽培する、地域的な2重構造が生れていたと推測される。

熱帯ジャポニカは温帯ジャポニカより生産性は低かったが、沖積平野が未発達だった縄文後期には、相対的に広い稲作地の確保が可能であり、縄文晩期寒冷期になっても稲作が可能だった。縄文晩期にそれらの地域にmt-B4が日本式の稲作技術を広め、弥生時代に稲作の生産性が高まったが、洪水の危険が常在した山間地は熱帯ジャポニカの栽培地であり続けた可能性も高い。

その様な千代川が流れる鳥取県東部は、律令期に漢字で「因幡(いなば)」と命名されたが、古事記は「稲羽」と記し、日本有数の稲作地だった事を示唆している。この地域の弥生・古墳時代の出土品の豊富さが、日本有数の稲作地だった面影を伝えているから、「稲羽」が倭人時代の地名だったと推測される。

「稲羽」の「羽」は「ば」を示す音韻漢字として、万葉仮名に多用されたが、「場」は万葉仮名としては使われていないから、倭人語の「いなば」の漢字表現は「稲羽」だったと考えられる。「羽」の呉音は「う」で、「は」や「ば」は訓読みだから、これは中華的な漢字音ではない。「稲=いね」も訓読みだから倭人語の「いなば」を「稲ば」と記すところを、万葉仮名で「稲羽」と記した事になる。

飛鳥時代の日本人は「三羽(さんば:数詞)」の様な日本語的な使い方を慣用化していたから、「羽」を「ば」の万葉仮名に宛てたと推測されるが、日本では古い時代から多数の人が漢字を使っていたから、「羽」の訓読み音である「ば」が、音を示す漢字として多用されたと考える必要もある。魏志倭人伝の項でも指摘したが、邪馬台国の倭人が漢字を使っていた事は明らかだから、この推測には無理がない。

原古事記には「稲バ」と記されていたものを、太安万侶が改定した際に「稲羽」と記した疑いもあり、それについてはその7で検証する。

いずれにしても古事記が記す「稲羽」は、「全国的な観点で稲作地帯」である事を意味した筈だが、奈良盆地や大阪平野が古代有数の稲作地だった事を知っている現代人には、鳥取東部がその様に呼ばれた事に違和感がある。それを解消する為には、鳥取東部が何時まで「いなば」と呼ばれていたのか検証する必要がある。

弥生時代には古奈良湖の沿岸が広大な稲作地になり、弥生時代後半に大阪平野が急拡大したから、弥生時代末期のコメの生産高は、大阪平野や奈良盆地の方が圧倒的に多く、狭い谷が放射状に広がっていただけの鳥取東部が、「いなば」と呼ばれる状況ではなかった。弥生時代末期の事情として魏志倭人伝に投馬国5万戸と記され、拡大していた大阪平野を擁した邪馬台国7万戸だったが、「稲羽」がそれに匹敵する稲作地だったとは考えにくいからだ。

大阪平野がなかった弥生前期の岡山が、どの程度の稲作地だったのかを推測する事は難しいが、吉井川と旭川は上流域には大盆地がないから、比較的早い時期から岡山平野を形成する土砂を堆積していた可能性が高。古総社湖が決壊した時期は明らかではいが、高梁川が多量の土砂を流し込んでいた痕跡があるから、古総社湖の湖岸に沖積平野が広がっていたと想定され、古総社湖が決壊すると岡山平野が拡大したから、古い時代から西日本有数の稲作地だったと考えられる。吉備に含まれた福山市も、内陸の盆地域が古代から稲作地だったと考えられるので、大阪平野の様に沖積平野が急拡大して稲作地が激増する要因はなかった。つまり吉備の稲作地は徐々に拡大し、コメの生産量は弥生時代初頭から鳥取県東部より多かったと考えられる。

その前の時代である縄文晩期寒冷期の稲作は低調で、mt-B4の技術指導によって即座に大稲作地になったとは考え難いから、鳥取県の東部が「いなば」と呼ばれる機会は縄文後期しかなかったと考えられる。つまり古事記は縄文後期の事情として「稲羽の素兎」説話を創作し、出雲の大国主が「稲羽のヤガミヒメ」娶ったと記したのは、出雲勢力が鳥取の稲作地を抑えた事を指摘している。

その最中に八十神の抵抗が激しかったので、大国主が根の国(紀州)に出掛けてスセリヒメを娶ると、由緒ある家系のスセリヒメが正妻になり、ヤガミヒメは去ってしまう。スセリヒメは稲羽に匹敵する稲作地を表象しているから、奈良盆地を指している可能性が高い。つまり縄文後期温暖期が終わって千代川流域の温帯ジャポニカが不作になると、奈良盆地の稲作が脚光を浴びる様になったから、出雲勢力は提携先をそちらに変えた事を示唆している。

次の説話である沼河ヒメとの婚姻は、津軽にソバの栽培者を送り込んだ縄文晩期の出来事を指摘していると考えられ、説話の順序は時代の進展と整合している。

その後に胸形(宗像)のタキリヒメを娶ったと記しているのは、津軽の亀ヶ岡を拠点とする毛皮の生産が軌道に乗ったから、海洋交易者だった対馬部族を傘下に収めた事を示し、歴史的な順序を踏まえて神話を創作した事を示している。従って古事記が示す説話も、歴史的な事実に関する有力な証拠になるが、古事記を直接解釈するのではなく、遺物や神社の事情から歴史を組み立てる際に、古事記を参照すると、どの部族が何の為に何を行ったのかについて、古事記がヒントを与えてくれると考える必要がある。

その様に組み立てた歴史から俯瞰すると、鳥取東部では9千~7千年前に対馬海流によって広大な海岸砂丘が形成され、水源域が広い千代川を堰き止めて湖が生まれたが、その湖は古庄内湖や古秋田湖程には広くなかったので、その湖は縄文中期に消滅して千代川が直接日本海に流出する様になり、湖の入り江に川洲として蓄えられていた土砂が、入り江を埋める様に広がったから、海退が始まった縄文後期には各入江の奥に沖積平野を形成したと想定される。縄文後期に海退が始まったと言っても、河口に狭い沖積地が生れた程度であり、海岸砂丘の裏側は汽水湖だったが、「稲羽」ではその奥の多数の入り江が稲作地になったから、総面積では日本一の沖積地になったと想定される。

北九州の河川の土砂は水深が50m以上あった博多湾を埋め立てたが、千代川の支流の土砂は入り江の奥の浅い海に小さな沖積平野を形成する為に使われ、その様な小さな河川の川洲で温帯ジャポニカを栽培する事ができた。川の規模が小さかったから、mt-Fが持っていた高度な稲作技術は必要なく、北九州でmt-Fの技能を真似た未熟なmt-D4であっても、この地域のmt-Dに稲作を伝授する事ができたと想定される。福井の鳴鹿手島遺跡の発掘実績が、それが可能だった事を示しているからであり、未熟なmt-D4には九頭竜川の大河の流れを扱う事は難しかったが、稲羽の小河川の治水は容易だったからだ。

弥生時代以降に各地の沖積平野が拡大しても、千代川の河口では対馬海流が土砂を運び去り、沖積平野が日本海に向かって拡大しなかったから、鳥取平野の稲作地の拡大は弥生時代以降には進展しなかった。従って弥生時代の西日本の有力な稲作地は、岡山などの沖積平野や奈良盆地などに移行し、弥生時代後期に大阪平野も生まれたから、稲羽は日本有数の稲作地ではなくなったが、その名前は飛鳥時代まで残っていたと推測される。

隋書倭国伝は、紀ノ川流域を含む奈良・京都盆地の人口は10万戸であると記しているから、古墳時代の古墳の規模と比例している。つまり古墳時代の主要な稲作地の生産高は、古墳の規模にある程度比例していた筈だから、古墳時代の鳥取平野は「いなば」ではなく、遡った弥生時代にも「いなば=日本有数の稲作地」ではなかったと考えられる。

律令期に「因幡」という変な漢字名称が与えられても、人々はそれを無視して「いなば」と呼び続けた事がその証拠を示しているが、人々が稲羽と呼んだのは必ずしも当時の実態ではなく、古事記の影響だった可能性も高い。「因幡」の漢字読みは「いんほん」であって、この漢字を「いなば」と読む事はありえないからだ。

「因」が語頭に使われた場合は、因習、因果、因循などの様に否定的な意味を持つから、「因幡」は「古めかしい風習の下で使う幡」を意味し、古事記の記述を揶揄している様に見える事もその理由になる。

幡の原義は「田植えの際に掲げる細長い吹き流し」だから、この地域を貶める為に選ばれた漢字名称に見える。「幡」とは別の「はた」である「旗」は、四角になる様に横木を使って箕や筵を掲げたもので、布が貴重品だった古代にはそれらが軍旗に使われた。

「旗」が含む「其」は竹を編んで「旗」を作った事と、それに旗印を墨書した事と、横木を使ってそれを掲げた事を示し、威厳がある物品だったから軍旗にも使われたと考えられる。藁で編んだ莚(むしろ)でさえ、農民一揆の際には莚旗になったから、農民が意識を鼓舞する勇ましいものは「旗」だった。しかし「幡」は農耕用の道具であり、農耕の歳時を知らせる為に竿で掲げた吹き流しだったから、「因幡」は「昔は稲場と呼ばれていたが今は大した生産地ではない」とか、「農耕技術が未熟な稲作地」を示唆する蔑称だった可能性が高い。

従って律令時代に「因幡」を国名としたのは、倭人時代の記憶を抹消する為でもあったが、奈良朝に敵対的な地域を貶める為でもあったと考えられる。この様な事例が奈良朝に疎まれた関東で多発したので、その事情はその6で論考するが、漢字を無視して古代の発音を継続している場合には、縄文時代の事情を読み解く鍵が隠されている。

その様な千代川の中流域に智頭万田遺跡があり、そこから西日本に普遍的な突帯文土器の他に、信州・北陸の浮線網状文土器出土した事は、この遺跡に焼畑農耕者もいた事を示唆し、稲作者と焼畑農耕者が共生する複合的な穀物経済が展開されていた事を示している。彼らが海から離れた山奥に入植したのは、アワが交換経済の主役から脱落し、コメが交易活動の原資になったからだ。智頭万田遺跡は海岸から直線距離で30㎞も離れ、漁民が千代川を河原町まで遡上したとしても、直線距離で15㎞ほどの山間地を踏破する必要があったから、その上流域である新見川や土師川の流域に入植した稲作者は、ドングリに過度に依存しない食料事情を得る為には、生産性が高いアワ栽培者と共生する必要があったからだ。

変形工字文は大木式土器の文様だから、東北南部から移住した縄文人が混在していた事を示し、この地域で熱帯ジャポニカが栽培されていた事を示している。この時代のモチ種は熱帯ジャポニカにしかなく、その価値は温帯ジャポニカより高かったとすれば、山奥でアワの栽培者と共生しながら遠路コメを運んで交易を行う事が、より一層容易になっただろう。

この経済構造は「稲羽」と言われた千代川下流域でも採用され、背後の丘陵地にアワ栽培者がいた筈だが、内陸とは異なる共生関係があったと想定され、福井では縄文後期にアワ栽培集落が減少していった事がその事情を示している。つまりコメを租税として徴収されなかった時代に、漁民との交易が容易な海岸近くで温帯ジャポニカを栽培していた縄文人は、鉄器時代を待たずにコメを自家消費する事が可能になり、稲作に数熟して生産性を高めながら、共生するアワ栽培者の数を徐々に減らした事を示している。従ってこの地域が縄文後期温暖期に稲羽と呼ばれたのは、その様な事情も背景にあったからである可能性があり、その様な地域で奈良時代に租税が徴収されると、コメがあっても租税の徴収に抵抗する様になり、貧窮問答歌が作られた北九州とは異なる事情が生れた事は間違いない。

智頭万田遺跡で信州の土器が発掘された事は、矢尻街道の宿場だった佐久・上田の縄文人や、伊那谷のアワ栽培者がこの地域に移住した事を示している。変形工字文土器を製作した東北縄文人は沖縄系縄文人で、北陸部族の縄文人は石垣島系縄文人だったが、その垣根も越えて混住していた事は、稲作が本格化した縄文後期に、海洋民族の部族主義が崩壊したのは北九州だけではなかった事を示している。

変形工字文土器を使う東北縄文人は、出雲部族の海洋民族としてこの地域に入植した筈だが、信州・北陸の北陸部族もそこに移住しただけではなく、西日本に普遍的な突帯文土器を使う、西日本のアワ栽培者も混入していた事が、その事情を示しているが、突帯文土器の数が一番多い事は、稲作者の周囲に集まったアワ栽培者の主流が西日本のアワ栽培者だった事と、この様な内陸の稲作地ではアワ栽培者の方が数は多かった事を示し、宮崎ではmt-M7a+B4の周囲に2倍のmt-D4+M7bが集まっていたとの推測と整合する。

縄文人は海洋漁民から経済的に独立する事はできなかったから、智頭万田遺跡の稲作者と共生していた海洋漁民は出雲部族で、千代川下流域の「いなば」の稲作者やそれを取り囲んでいた焼畑農耕者は北陸部族系で、彼らと共生していた海洋民族は北陸部族だったと推測される。北陸部族には東北縄文人を鳥取に入植させる動機はなかったが、智頭漫画遺跡に集落が成立する為には、東北の稲作者だったmt-M7aが入植する必要があり、この地域に東北のmt-M7aを入植させた海洋民族は、出雲部族以外に候補がないからだ。

縄文後期の出雲では島根半島は島で、山陰とこの島の間を対馬海流が流れ、中海、宍道湖、出雲平野の南部の丘陵地は海岸砂丘を起源としている疑いが濃く、縄文後期にどの様な状況だったのか明らかではないが、この地域には稲作地なる様場所は殆どなかった疑いもあり、出雲部族行動を共にした縄文人が入植したのは、出雲地域では斐伊川流域などの中小河川の中流域だったと想定されるが、これらの川はまだ海岸砂丘による湖を形成していた疑いもある。現在の様に半島と山陰が一旦繋がると、海岸砂丘が成長しなくなって何処かが破れ、湖に蓄えられていた土砂が一気に流出して沖積平野を形成し、現在の様な安定状態になるが、僅かな土砂の流出は対馬海流が運び去り、海岸砂丘を強化したから、海流が流れている状態にも別の安定状態があり、現在の状態になる契機はなかなか生まれなかった可能性が高い。

従って古事記が「因幡の素兎」説話で指摘したのは、智頭万田遺跡などに移住した東北出雲部族のmt-M7aが、各地から集まった怪しげな素性の焼畑農耕者と共生しながら熱帯ジャポニカを栽培し、海洋漁民は出雲から千代川を遡上してこの縄文人と交流していたから、千代川下流域の「稲羽」の北陸部族の縄文人とも、共生関係を形成した事になる。縄文後期の北陸部族の海洋民族は、フリッピン越と提携して交易活動を行い、必要なコメは福井で調達していたから、コメしか生産しない「稲羽」との交易の維持に強い関心がなく、出雲部族のこの様な挙動に対抗する意識が希薄だったから、この様な状態が生れたと推測される。

古事記に記された説話には北陸部族の事績が殆どなく、それも出雲部族と関係を持った稲羽や沼河などの人々に関するものに限定され、加賀を含む北陸の神社は古事記に記された神を祭る事もできない状態にある事が、その事情を示している。つまりmt-Dが余りにも海洋民族的な活動に無関心なので、北陸部族の関心がアワ栽培者から離れ、海外交易に専念する様になった事がこの様な事情を生み、見捨てられたアワ栽培者が各部族の稲作者と共生する状態が生れた事も、縄文後期の特徴だったと考えられ、古事記と実際の歴史の連動性の高さを示している。

「因幡の素兎」説話は「稲羽の八上ヒメ」を最初の妻とする話であり、大国主がこの地域で最も親切な神だった事を示しているのは、「稲羽」の縄文人が「意地悪な北陸部族」を見限り、面倒見が良い出雲部族の漁民を共生者として新たに選定した事を意味する。

しかし「いなば」の八十神はその様な大国主を迫害したので、「根の国」に逃れて「須勢理ヒメ」を正妻に迎えると、「八上ヒメ」との関係が疎遠になる。「いなば」の八十神が大国主を迫害した説話は、稲作者になったアワ栽培者の社会に異様な暴力性があった事を指摘している。弥生時代の青谷上寺地遺跡から多数の惨殺遺体が発掘された事や、名古屋の朝日遺跡の環濠から逆茂木が発掘された事は、この社会の暴力性を示しているが、古事記も正にその点を指摘している事になるからだ。

「根の国」は紀ノ川流域で、宗像部族が奈良・京都盆地に入植する拠点だったから、出雲部族が重視する稲作地が「稲羽」から奈良・京都盆地に変わった事を意味し、それは縄文後期温暖期が終了して温帯ジャポニカの生産性が極度に劣化し、奈良・京都盆地に入植した対馬部族が栽培していた、熱帯ジャポニカには大きな影響がなかった事を意味する。

奈良盆地が稲作地として繁栄したのは、唐古・鍵遺跡が発掘された弥生時代だったとすると、古事記の説話と時代の齟齬が生れるが、古事記の説話の順序で事態が進展したとしても、矛盾が生じるわけではない。つまり考古学者の偶然性が高い主張を信じるのか、古事記は本当の歴史を示していると考えるのか、二者択一の選択になるが、このHPは古事記の方が確度は高いと考える。その理由は既に色々示したが、それに関する事例は他にも多数あり、古事記の指摘の適正さに驚かざるを得ないからだ。言い換えると、歴史を正しく認識すると古事記の説話と歴史事実が驚くほど一致し、考古学的な事情、古気候の変遷、農学的事情だけでは解釈できない事も、古事記が示す民族間や部族間の因果関係が、それらの理由を示してくれるからだ。詳細はその7に示す。

縄文晩期に亀ヶ岡を中心とした毛皮生産が盛んになったが、その最終加工の為に大陸から招いたmt-N9aには、ドングリのタンニンに対する解毒力がなかったので、ソバを栽培する富山のmt-M9を津軽に送り込んだ事が、大国主が沼河ヒメを娶った事の背景だが、これは縄文晩期寒冷期が深まった時期の事だから、スセリビメを娶った後の事情になる。

沼河ヒメを娶ったのは、大国主の別名である八千矛神であると記しているのは、稲作民族と連携した民族とは別の民族が、津軽にソバの栽培者を送り込んだ事を示している。この時代に戦争はなく、矛は別の用途だったと考えると、熊やイノシシなどを狩る狩猟具だった事になり、出雲部族内のY-C1Y-C3狩猟民族を指した事になり、大国主の名が5つあった事は、その他の民族はY-O2b1Y-O3a2aY-D2である事になり、八千矛神は大陸のモンゴル系民族と何らかの連携があった、Y-C3モンゴル系狩猟民族だった可能性を高める。

大陸のモンゴル系民族との連携は弓矢交易と共に形成され、縄文晩期に突然生まれたものではなかったと推測される。弓矢などの大型交易に際しては、製作者と需要者の間の密接な関係が不可欠である事は、有史以前から現在に至るまで変わらない、普遍的な経済原則であると考えられるからだ。古事記は出雲部族の強さは、5つの民族が密接に連携していたからである事も示唆している。

それとは対極的な集団として、関東部族の南方派の漁民と、対馬部族の漁民を挙げる事ができるだろう。関東部族の南方派は一貫して漁民集団として活動したから、宝貝交易を失うと交易者としての根拠を失ってしまい、歴史の表舞台から姿を消した。対馬部族は弥生時代には稲作民族になり、宗像の存在は霞んでしまった。

古事記はこれらの話の展開とは別掲として、大国主が宗像のタギリヒメを娶ったと記し、その子が奈良・京都の神社の神である加茂(鴨)であると記しているので、出雲部族と対馬部族の海洋民族としての連携は、上記の流れとは関係なく進行していた事を示唆している。古事記は海洋民族的な社会を否定しているので、それらに纏わる説話は一切記述していない事に注意する必要がある。

 

4-5-2 伊予部族

鹿児島や宮崎に入植した伊予部族は「曽於」と「熊襲」と呼ばれ、鹿児島に入植した「隼人」も含め、その起源は太平洋沿岸の福島、宮城、岩手、下北半島を含む青森東部の縄文人と、東北の太平洋沿岸に展開していた伊予部族の漁民で、伊予部族は北海道のヒエ栽培集団と、九州中南部や四国西部や南部の稲作集団に分裂したと想定される。

熊本県中堂遺跡は球磨川が人吉盆地から流出する場所にあり、海洋漁民が球磨川を遡上するには50㎞以上漕ぎ上がらなければならなかった。この地域の遺跡数が縄文晩期に増えた事は、縄文晩期になっても熱帯ジャポニカの栽培を継続し、温帯ジャポニカの稲作が混乱する中で経済的に繁栄した事を示している。つまりこの地域には熱帯ジャポニカの稲作者とアワ栽培者が共生していた事を示し、宮崎の遺伝子分布がその事情を示唆している。

古事記は国生み説話で九州に付いて、「筑紫島(九州)には筑紫国、豊国、肥国、熊曽国がある。」「肥国を建日向日豊クジヒネ別と謂う」と記している。つまり肥国は日向も含むと指摘している。日向は伊予部族の故地だった筈だが、それが肥国に属すと指摘している事に違和感がある。

四国についても律令時代以降の常識と異なり、「伊予の二名島(四国)は伊予国、讃岐国、粟国、土佐国で、伊予国と粟国は女神(農耕神)の国、伊予国と讃岐国は男性神(漁民)である」と指摘している。ちなみに九州はすべて男性神の国なので、稲作と漁労をセットにし、女神はアワ栽培者の国である事を指摘していると推測される。

九州や四国に多数の縄文人が再入植したのは縄文後期なので、古事記は縄文後期の事情を神話時代の末期とし、神武以降(縄文晩期以降)を歴史時代としている。しかし出雲に関しては国譲りまでが神話時代で、「大国主と沼河ヒメの婚姻」が津軽の毛皮生産を軌道に乗せる話、「少名毘古那神(濊)と行った出雲の建国説話」がその交易を実現した時代、「少名毘古那神が常世の国に去った後、海を照らして大国主と一緒に建国を継続した神は、御諸山の上に座す」と記した御諸山は奈良盆地の三輪山だから、その交易の海運を対馬部族が担った事を示し、歴史認識と一致する。

つまり交易の実現は、出雲部族のY-C3狩猟民族と濊のモンゴル系狩猟民族の提携によって成就した事を示しているだけではなく、この段階までは出雲民族の漁民の活躍によって実現し、Y-C3狩猟民族の往来が頻繁に行われたが、出雲民族の漁民の海運力では増加する需要に追い付かなくなったから、弓矢交易の時代の海運力を担った対馬部族と提携し、万全の海運力を獲得したと指摘している。

その様な古事記の認識と、日向が肥国に属すとの古事記の指摘に関しては、諸事情を再検討する必要がある。

人吉盆地は興味深い地形を形成しているので、その変遷とそれに関する歴史を、縄文草創期から晩期まで概観する。

縄文草創期の古人吉湖の湖面は標高240mほどあり、大きな湖だったので縄文人や狩猟民の集積地になっていた。氷期の古人吉湖は湯前町まで東西25㎞、南北の最大幅10㎞の大きな湖だったが、ヤンガードリアス期に川辺川が流出口を塞ぐ様に巨大な川洲を形成したので、流出口から土砂が恒常的に排出される状況が生れ、河川の浸食進んだので山岳地を50㎞以上流れる球磨川下流域の浸食が進み、湖面標高が大きく低下し、太平洋が湿潤化した時期の湖面の標高は150m程度に下がっていた。

太平洋の湿潤期に形成された沖積地はその後台地化したが、鼓ケ峰遺跡から縄文前期の曽畑式土器が検出された事は、7500年前から6千年前までは降雨が少なく、湖面標高の低下は少なかった事を示唆している。九州に稲作地を求めたmt-B5+M7bの集落が、縄文前期温暖期に古人吉湖の周囲に散在していた事は、Y-O3a2aの湖沼漁民と共生していた事を示唆している。この時期の古人吉湖は川辺川の下流域では川洲に変っていたが、その川洲が球磨川の水流を遮っていたあさぎり町は沼地になり、湖沼漁民が活躍する場があったからだ。

沿海部にいたmt-B5が共生する海洋漁民と浙江省に出向き、先進的な栽培技術を入手していたが、この時代の古人吉湖の湖岸は九州最大の稲作地だったと推測され、関東のmt-B5+M7bが九州移住を決意したのは、この湖の存在を確認したからである可能性もある。

鼓ケ峰遺跡から瀬戸内の土器も発掘され、縄文中期にmt-D4M7bが展開した事を示しているのは、依然として漁労ができる湖だった事を示すと共に、鼓ケ峰遺跡の立地が焼畑農耕地になった事は、湖面標高の低下が継続する事によって湿地が乾燥地になった事も示している。つまり縄文前期末~縄文中期の気温の低下が激しい降雨をもたらし、再び湖面標高の低下が激しくなった事を示唆している。

縄文中期の球磨川流域の縄文遺跡に方形の住居址が遺されているから、縄文晩期の北九州に方形の住居址を遺したのも九州系譜の縄文人だった事を示し、縄文中期後葉に古人吉湖が消滅し、湖沼漁民が球磨川流域に移住しなければならなくなった事を示唆し、縄文後期の古人吉湖の流出口に稲作者が集住した事情と整合する。

縄文中期初頭の船元式土器が鳥取県で発掘され、これが縄文中期の瀬戸内の標準土器になった事は、縄文中期寒冷期にアワ栽培者が山陰から瀬戸内に南下した事を示唆し、古事記が国生み説話で、四国では伊予と阿波がアワの栽培地だったと指摘している事と整合する。縄文中期の球磨川流域の遺跡から船元式土器が発掘され、九州縄文人と北陸系焼畑農耕者の関係がこの地に及んでいた事を示している。

九州中部は黒瀬川構造体の南部地域として各地に蛇紋岩の露頭があるから、焼畑農耕者が磨製石斧を得易い場所だった事が、焼畑農耕者をこの地に招き寄せた事になる。九州の海洋漁民の漁労能力が低く、湖沼漁民とあまり変わらない漁獲しか得られなければ、縄文人が海岸に棲む価値は低下したから、球磨川や人吉湖の周囲に縄文人が集まった可能性もあるが、古人吉湖は縄文中期に流出口の浸食が進み、湖とは言えない状態になっていた可能性が高い。

アワ栽培者の標準的な土器が瀬戸内に広がった事は、この地域の部族の勢力圏が再配分される状況を生み、出雲部族を生んだ燧灘の北は岡山に移住した関東部族のテリトリーになり、南は伊予灘から続く伊予部族のテリトリーになり、周防灘は対馬部族のテリトリーとして認知されたと推測される。東北に移住していた各部族の漁民と縄文人の共生集団は、彼らの故地にも漁民と縄文人を残していたから、縄文人はmt-D+M7aの浸潤を受けて焼畑農耕者になったと推測され、東北から熱帯ジャポニカの栽培者になったmt-M7aが入植する際に、共生する焼畑農耕者になったと考えられる。但しこの時代のアワ栽培者だったmt-D+M7amt-M7aは九州のmt-M7bと同様に、鉄器時代になった弥生時代~古墳時代にmt-Dに置き替わったから、現在まで残っているこの地域のmt-M7aは、東北から入植したmt-M7aの子孫であると推測される。

篠田氏が「日本人になった祖先たち」に示す現在の北九州のmt-DD4/D5比率は、東海地方のD4/D5比率の67割程度である事が、現在の北九州に北九州弥生人のmt-D4の子孫は殆どいない事を示しているからだ。これは北九州弥生人の67割が、西日本のアワ栽培者の遺伝子に置き替わった事を示しているのではなく、北九州にはmt-D4しかいなかった韓族の子孫が古墳寒冷期に混入したから、広島や山口にいた北陸部族系譜のアワ栽培者が、対馬部族の縄文人として北九州のアワ栽培者になった事を示し、貧窮問答歌に示すアワを栽培していた事になる。

北九州がその様な状態になった理由は、九州のmt-D4mt-B4が示す日本式の稲作に従わず、弥生温暖期の稲作も我流で通していたから、古墳寒冷期に稲作の生産性が激減すると、mt-B4に指導された他の稲作者に浸潤されたからだと考えられる。弥生温暖期にはmt-Fを真似していた方が生産性は高かったから、これらのmt-D4mt-B4に忠実な稲作を、生産性が低い稲作者として軽侮していたからだと推測され、北九州の甕棺墓に収められた遺体がmt-D4のみである事は、彼らが甕棺墓に葬られたのは、弥生温暖期が終わったBC200年より古い時代だった事になる。これは遼東への派兵が、衛氏朝鮮が成立する事によって終焉したとの想定と一致する。

また宮崎にはmt-D5は殆どいない事が、稲作者になったmt-D4も温暖な宮崎では、古墳寒冷期なっても稲作者であり続ける事ができた事を示唆している。それらの事情を敷衍すると、mt-Dは稲作者よりアワ栽培者の方が多かったから、共生する稲作者とアワ栽培者の間にも密接な関係が生れ、両者は移住行動も共にしたから、北九州のmt-D4mt-M7aに置き替わると同時に、北九州の焼畑農耕者も周防灘北岸の焼畑農耕者に置き替わった事を示している。

宮崎とは極めて対照的な現在の事情は、気候だけでは説明できない可能性があり、古事記が継体紀に記す「石井の乱」が、真の理由だった可能性もある。石井は北九州の大率を暗喩していると想定され、古墳時代後葉に対馬部族の飛鳥王が倭王になった際に、それに抵抗して殺され、北九州は対馬部族が支配する地域になったと想定されるからだ。詳細は以降の項で順次説明する。

縄文後期に東日本から移住して中堂遺跡に入植した縄文人は、古人吉湖が残した湖畔の狭い沖積地で熱帯ジャポニカを栽培したが、アワ栽培者が共生する事により、湖沼漁労がなくても食生活の維持が可能だった事を示している。

縄文晩期寒冷期にこの地域の人口が増え、中神町中堂遺跡の他に下原田町高千穂アンモン山遺跡、七地町迫田遺跡、赤池永谷遺跡、相良村の深水谷川遺跡、湯前町米山遺跡などを遺し、寒冷期でありながら人吉盆地が経済的に発展した事を示している。

mt-Fから温帯ジャポニカの栽培技術を獲得したmt-D+M7bは、この地域には入植できなかったから、東日本の稲作者が入植したと考えられる。

この地域は後世の肥国であり、日向も肥国だった理由を、宮崎県本野原遺跡が示している。

発掘報告書の「序」に記された遺跡の特徴を簡略化し、以下に転記した。

1、発掘された住居跡の軒数が113あり、西日本では最大級になる。

2 3軒の列状掘立柱建物跡が発掘され、柱穴の規模は通常の掘立柱建物よりも遥かに規模が大きく、東日本の大型掘立柱建物に類似 し、この様な建造物は西日本では初例になる。

3、縄文後期の関東地方で見られる土木工事跡が発掘された。九州という遠隔地で、関東地方で行われた土木工事が類似 した状態で検出されることは極めて珍しく、驚くべき事例 といえる。

4、多数の環状土坑が発掘され、その多くは墓墳 と考えられるが、一部は貯蔵穴や掘立柱建物の可能性もある。

5、何万点にも上る多数の遺物が見つかっている。

6、西日本にありながら、東日本の影響が強く反映されている。

以下はそれに関する本文の説明。

関東地方で見られる土木工事跡についての説明は、以下。

C区南部で確認された大規模な土層の消失は正円形に近く、南西部が狭く、窪地遺構の南部はF区西部の道路状遺構に接する可能性 もある。

調査区内北部を中心に中期後葉から集落が営まれ始め、縄文後期前葉に最盛期を迎え、このころ土坑列も構築された。その遺構の整然とした配置から、木柱を伴っていたと推測される。

土坑列が埋没した後、C,D区南側で径80-100mの範囲に土木工事が行なわれた。断面形は窪地状を呈し、中央部は約1,5mも削られ、阿多火砕流の直上にまで達していた。その際に縄文早期の集石遺構は、包含層と共に破壊を受けた。

土木工事により生じた排土は、南東部傾斜面下などに移動したと考えられる。

この時期に伴う集落はその後急速に衰退し、やがて完全に姿を消すが、その頃に削平外縁に土坑が多く構築される。

この遺跡に特徴的な土木工事は縄文中期に行われたのではなく、縄文後期に最も住居址が多くなった時代でもなく、集落の過疎化が進んだ後に行われた。それが関東に類似した土木工事である事は、此処に入植したのは関東部族の縄文人で、関東の縄文人との連携が入植後も長期間継続していた事を示している。

窪地遺構は栃木県寺野東遺跡の調査を契機 とし、関東地方で類例が増加中であり、環状盛土遺構 と併せて土木工事の象徴的形態 と考えられている。 九州という遠隔地で土木工事が検出されたことは極めて珍 しく、驚くべき事例 と言える。

九州で土木工事が把握できた遺跡としては、横峯遺跡 (鹿児島県屋久町)を挙げることができる。 全体形がL字状と予想 されることや、窪地遺構内に竪穴住居が集中している点は異なるが、遺跡の時期は後期中葉から後葉を主簿 としており、本野原遺跡の整地時期に重なるほか、礫の入った土坑の検出などの共通点も認められる。 また本野原遺跡の北方、七野台地の最北部に立地する丸野第2遺跡のA地 区でも、 弧状に分布する竪穴住居に沿って等高線が不自然に湾曲しており、内側では本野原遺跡 と同様にアカホヤ火山灰層の消失が認められたことから、窪地遺構である可能性が考えられる。

屋久島は沖縄に向かう航路上の島だから、屋久島に入植した縄文人は薩摩半島に入植した縄文人と同様に、南方派の漁民の手引きによって入植した可能性が高く、宮崎や人吉盆地に入植した縄文人とは入植経緯が異なっていたと推測されるが、入植経緯には関係なく同族としての文化を維持していた事を示唆している。

配石遺構

西日本の縄文後・晩期遺跡における配石遺構は、石ケ坪遣跡 (島根県匹見町)、水田ノ上A遺跡 ( )などが知られている。また藤平小田遺跡 (鹿児島県南種子町)に おける、配石土坑群の中心部に配石が検出された例や、 松添遺跡 (宮崎市)における環状を呈する5基の「すり鉢状の遺構」の、中心に配石が行なわれた例は、どちらも配石下部に土坑を伴う点は異なるものの、レイアウ ト上類例に含まれよう。(関東の)寺野東遺跡で検出された「石敷台状遺構」も、構成礫の大きさは異なるが、窪地遺構の中央部から検出された点では類例と考えられる。ただし寺野東遺跡の場合は、検出地点が削り残され高まりが作り出されていることから、本遺跡とは順序が逆である。

縄文後期の東北北西部や道南に配石遺構が形成されたのは、関東部族が嘗て阿久遺跡に形成した文化が、伊那谷や佐久のアワ栽培者を経て西日本に持ち込まれ、関東部族によって九州に持ち込まれたものが、それぞれの部族を介して東北北西部や道南に伝わった事を示唆している。

環状掘立桂建物群

環状土坑群の中で、径50cm以下、深さ50cm以上で、直に落ちる断面形を呈するものや、図面から配列が確認できるものは、掘立柱建物の柱穴 と判断した。遺構はC区 のみで 9軒に上る。配置は環状土坑群の弧に直交または平行 してお り、整地後、掘立柱建物で構成された集落が展開したと考えられる。この遺構はD区にも存在 したと考えられることから、掘立柱建物群の配置は環状を呈 していたと予想 される。なおC区 でも検出作業は不充分であったため、掘立柱建物の軒数は今回の想定より多くなる可能性が高い。ちなみに、柱穴 と判断した土坑の中で配列が認められないものについては、掘立柱建物以外の機能を考える必要がある。

関東部族が掘立柱建物を使用していた事は、縄文早期~中期の八ヶ岳山麓の遺跡の遺構が示し、漆の保管に使用していたと推測したが、九州でウルシ樹を栽培していた筈はないから、コメの保管用だったとすると弥生時代に盛んに作られた高床式の米蔵遺構や、古墳時代以降の校倉式倉庫に繋がる可能性がある。

出土遺物

本遺跡から主体的に出土 した土器型式を時期別に表すと、岩崎式・指宿式→市来式→九尾式→納屋向タイプとなる。磨消縄文系土器群の出土は少ないが、後期前葉に主体を占める指宿式は、磨消縄文土器の影響を受けて成立 した土器であり、一時的かつ間接的ではあるが外的要因を窺う事ができる。

市来式で成立 した貝殻文系土器群は、時間の経過 と共に属性が磨消縄文系土器群に接近 し、後期末に途絶えて晩期は黒色磨研土器が主体になる。このような縄文後・晩期の土器の動態は、宮崎県央部に共通 した傾向である。出土石器からは、狩猟よりも漁労、動物質食料よりも植物質食料に依存 した生態を窺うことができる。遺跡の規模を考慮すれば磨石 も決 して多いとはいえず、石器組成は貧弱である。

東北南部で縄文前期に大木式土器が生れ、関東はその影響を受けて縄文中期に加曾利E式が生れたが、加曾利E式の変遷には大木式の影響が濃く、これらの土器に磨消縄文が多用されている。つまり関東のmt-B4と東北南部のmt-M7aの影響を受けた土器である指宿式が盛行し、関東式の土木工事が行われた事が、この地域に東北のmt-M7aと関東のmt-B4が移住して来た事を示し、建築物や土木工事の仕方が関東に類似している事は、mt-M7a だけではなくmt-B4もペアで移住した事を示している。

堅果類を栽培する縄文人には土木技術を生み出す動機はなかったから、関東のmt-B4は縄文前期までは、Y-O2b1のサポートがない状態で稲作を行っていたかもしれないが、mt-Fが稲作地を形成する為に行う土木工事を毎年見て、Y-O2b1もその影響を受けて土木工事を始めた事も示している。つまりこの遺跡で盛んに関東風の土木工事が行われたのは、土木工事そのものが関東縄文人の文化だったからだ。

縄文後・晩期の土器の動態は、宮崎県央部に共通 した傾向である事は、伊予部族の領域に関東部族の縄文人が多数移住した事を示している。宮崎県央部が内陸を指しているとすると、伊予部族の漁業権があった沿海部に、東北から移住したmt-M7aが居住して漁民と共生し、内陸に関東のmt-B4が移住した事を示唆している。前掲の宮崎の遺伝子分布ではmt-M7a13%、mt-B48%だから、伊予部族の縄文人の方が多数派だったが、関東部族の縄文人も多数入植した事を示唆している。

後世に流入したmt-D4+D5の数%を除外しても、縄文後期の焼畑農耕者のmt-D435%もいるから、それが全てmt-B4の周囲に移住したとすると焼畑農耕者はmt-B44倍もいた事になり、土器が大木式や加曾利式とは異なっていた事情と、稲作者とアワ栽培者は共生集団を形成すると共に、その共生集団のシンボルである新しい土器形式を生み出したと考えられる。

以上の他に、鹿児島市の春日遺跡の事情も記されている。

遺物包含層は上下二層からなる。基盤の沖積砂層からその上の黒色砂層にかけて,縄文時代中期の春日式・並木式・阿高式・岩崎下層式土器が出土した。上層では後期の指宿式・市来式・草野式土器が層序を為して出土している他、地元の縄文後期の土器と共伴する様に,瀬戸内の福田KⅡ式土器の影響を受けた磨消縄文土器,北九州の鐘崎式土器,中九州の西平式土器などが出土し,後期になると瀬戸内,北九州,中九州の文化が際立って波及している。

縄文中期の焼畑農耕者だったmt-D4+M7bは、瀬戸内の栽培者との交流を継続していたが、後期になるとそれぞれの地域を故地とする海洋民族が東北から移住し、彼らと一緒に東北や関東の縄文人も稲作地を求めて移住したから、古事記が熊曽国と記して伊予部族の本拠地だったと指摘している南九州は、縄文中期にmt-D4+M7bのアワ栽培地になり、縄文後期には稲作者とアワ栽培者との共生社会が生れた事を示している。球磨川流域では縄文中期初頭から始まる、即ちアワ栽培者が南下した直後の船元式土器が発掘されているが、春日遺跡では縄文中期に始まる春日式から発掘されている事は、焼畑農地が不足したmt-D4+M7bが、アカホヤ火山の忌まわしい記憶にも拘らず、この地域に南下した事を示唆している。

福田KⅡ式土器は岡山県に発掘事例が多い土器だから、九州の諸部族だけではなく岡山の関東部族も九州地域の人事交流に参加していた事を示唆している。

従って古事記が示す肥国に日向が加わっているのは、アワ栽培を九州に拡散した関東部族系の九州縄文人が、縄文後期になってアワの需要が乏しくなった焼畑農耕者の生業を維持する為に、生活圏を拡大する策を立案し、八代海の内陸にある人吉盆地だけではなく、宮崎の内陸部も縄張りであると主張して関東部族のmt-B4を招いたから、この様な事情を生んだとも言えるし、関東部族は如何なる手段を以てもmt-B4の入植地を確保したかったからだとも言えるし、関東部族と友好的だった伊予部族はその様な関東部族の縄文人が、日向の内陸に移住する事に寛容だったからだとも言えるし、日向の沿海部に入植した福島のmt-M7aにとって、近所にmt-M7aが入植している事は心強かったから、彼女達が伊予部族の漁民に働きかけたからだとも言える。

それらの基底的な事情として、内陸の山間地は沿海部の台地の谷と比較すると、洪水の危険度は極めて高く稲作事情は厳しかったが、関東のmt-B4にはそれに耐える技能があり、それに絶えねばならない切迫した事情があったから、果敢に入植したと推測されるが、それは北九州での成功事例を、アワ栽培者と関東部族が共有していたからであると考える必要がある。つまりその経済モデルを人吉盆地や日向の内陸に持ち込み、各地で共生社会の建設に成功したから、豊国や智頭万田遺跡が生れたと考えられる。豊国や智頭万田遺跡には、関東部族は関与していなかったからだ。

出雲部族の縄文人が、縄文後期に三内丸山遺跡を捨てて智頭万田遺跡に入植した構図が浮かぶが、三内丸山遺跡は縄文中期末に消滅したと考えられている事は、関東部族の九州中南部への入植は縄文後期早々に成功した事になり、この時期の歴史の回転が極めて速かった事を示唆している。

伊予部族の発祥地であると考えられる宿毛では、縄文前期~中期は遺跡が乏しいが、橋上町四ツ池遺跡は縄文早期から後期まで継続し、橋上遺跡から轟B式土器や姫島産の黒曜石で作った矢尻などが発掘され、伊予部族の縄文人が此処に継続的に居住していた事を示している。縄文後期になると海岸に大型遺跡が生れ、宿毛貝塚は下層の岩礁に産する貝から上層の淡水生のシジミ類に至る変遷があり、海退の進行と沖積平野の形成事情を示している。宿毛市史には以下の様に記されている。

繩文後期の遺跡は、海岸に多くなってくる。しかもその遺跡はかなり大規模のものが多い。土佐清水市の片粕・下益野、宿毛市の宿毛貝塚、南宇和郡の平城貝塚などがその代表的な遺跡である。これらの遺跡の立地条件も、すべて海岸であり、当然漁撈系中心の生活が行なわれていたと考えてよいであろう。

 

4-5-3 対馬部族の奈良盆地への進出

このHPでは直接的な証拠によって歴史を組み立てる事を基本とし、土器の形式は副次的な証拠として引用したが、それによって組み立てられた歴史を参照すると、土器の形式と女性達が栽培していた穀物種に深い関係があり、同一穀物種を栽培する女性達の情報ネットワークにより、土器の形質が均質化された事が分かる。土器は女性達が製作したから、これは必然的な結果であると言えるので、ミトコンドリア遺伝子の拡散法則にこれも組み入れる事が可能になる。

縄文中期までこの法則が機能し、縄文後期にこの関係が崩れるが、その原因は稲作者の土器が標準化され、アワ栽培者の存在が霞む状態が生れたからであると考えられるので、その事情を追跡する事により、奈良や京都に稲作が拡散した事情を解明する事ができる。

その確度を検証する為に、縄文早期~中期の土器の地域的な変遷を法則的に解釈し、日本の穀物栽培史を以下に組み立てるが、継続は無視して変化点だけを挙げる。

(1)縄文早期

    沖縄系九州縄文人が出雲部族と対馬部族と共に東北に移住し、ヒエ栽培(円筒式土器)者になった。

    沖縄系九州縄文人が関東部族と共に関東に移住し、ヒエ栽培(尖底土器/~打越式)者になった。

    関東のアワ栽培(尖底土器/~打越式)者の一部が伊予部族と共に函館に移住し、ヒエ栽培(尖底土器/中野式)を継続した。

    関東のアワ栽培(尖底土器/~打越式)者の残余が八ヶ岳山麓に移住し、ヒエ栽培(尖底土器/阿久尻式)を継続した。

    函館に移住したアワ栽培(尖底土器)者は道東に移住し、ヒエ栽培(尖底土器/東釧路式)を継続した。

    北陸のアワ栽培者が西日本に拡散し、(粕畑式~石山式)を生み出した。

    西日本のアワ栽培者(鵜ヶ島台式~石山式)が伊勢湾沿岸に南下した。

    関東に渡来したmt-B4が熱帯ジャポニカの稲作者になり(尖底土器/~打越式)を使った。

    関東に渡来したmt-B5が九州に渡ってジャバニカの稲作者になり、(尖底土器/轟式~曽畑式)を使った。

(2)縄文前期温暖期

    東北のヒエ栽培(円筒式土器)者が道東に移住し、ヒエ栽培(円筒土器/北筒式)を継続した。

    東北南部のmt-M7aは熱帯ジャポニカ(大木式)の栽培者になった。

    関東の穀物栽培者はmt-B4になった。(~加曾利式)

    八ヶ岳山麓では宿場の土器と、mt-B4mt-Fの土器が混在し、移住したアワ栽培者の土器の変遷は明らかではない。

    伊勢湾沿岸のアワ栽培者は伊那谷のアワ栽培者の影響を受け、独自の土器を形成した。

    近畿のアワ栽培者が北白川下層式土器を形成した。

(3)縄文中期

    アワ栽培者が瀬戸内に南下し(船元式、里木式)を使用した。畿内のアワ栽培者も(船元式、里木式)の使用者になった。

    mt-D4+M7bが九州に拡散してアワ栽培者(船元式、里木式)になった。

縄文前期温暖期に東北のヒエ栽培者が道東に移住する事により、道東のヒエ栽培者の土器が円筒式になった事は、多数のY-O2b1mt-M7aペアが移住した事を示唆し、出雲部族と対馬部族と青森で共生していたY-O2b1mt-M7aペアが激減し、Y-C1Y-C3比率が高まった事を示唆しているが、それを含めた以上の経緯に特段の違和感はなく、法則に従って歴史が展開した事を示している。従って以上を前提に縄文後期の京都と奈良の事情を、土器の変化から読み解く事ができる。

但し京都の土器の変遷は縄文前期の北白川下層式から始まり、その起源を知る為には縄文早期の飛騨~岐阜の事情から紐解く必要がある。飛騨には縄文早期から多数の縄文遺跡があり、九州的な押型紋系や沈線文系に始まって、関東系の茅山下層式や神之木式土器に変わるが、北白川下層式はその系譜の土器である疑いが濃いからだ。

飛騨の代表的な遺跡である丹生川町西田遺跡は標高850mの山中にあり、その発掘報告書に以下の記載がある。(概要)

縄文早期中葉の土器として、押型紋系土器と沈線文系土器が出土する。早期後葉には粕畑式(アワ栽培者)に変り、その後東海系の塩屋式が主体になり、関東系の羽状系、神之木式、東北の円筒式などが混在するが、それらの地域のものと全く同じではない。縄文前期の出土例は少なく、中期には東海系、北陸系、信州系が混在する。信州系は中期後半に増加し、殆どが唐草文様系である。後期の土器も色々な物が混在するが、加曾利式が識別できる。晩期になると北陸の中屋式が識別できるが、それ以降は系譜が不明。

発掘報告書に黒ボク土の名称は記されていないが、黒色砂質土、オリーブ黒色砂質土、オリーブ褐色砂質土、黒褐色砂質土、褐色砂質土などの記述があり、黒ボク土を指していると考えられ、厚い場所では1mを超える層を形成している。

飛騨の縄文人が縄文前期に何処で何をしていたのかについては、岐阜市の御望(ごも)遺跡がヒントを与えてくれる。岐阜市教育委員会が平成23年度に行った考古学講座のテキストに、以下の様に纏められているからだ。

御望遺跡は 「黒野台地」上に立地。「黒野台地」は2 1. 万年前に「古根尾 II により形成された扇状地 表面は黒色土壌(黒ボク)で覆われる。遺跡の縄文前期の生活面はこ の黒ボク土層中≒縄文前期に黒ボク形成中。

縄文時代前期後葉~末葉・・・竪穴住居 8軒、土坑 24基、集石遺構 18

I期  西日本系の土器(北白川下層 IIb ()lIc 式類似)が主体。特定器種(列穴浅鉢)が東日本系土器(諸磯式類似)からなる。

Ⅱ期 地域色豊かな土器群で占められる時期。この時期の土器様相の詳細は未検討。

Ⅲ期 再び西日本系(北白川下層Ⅲ式~大歳山式類似)主体で、東日本系土器(十三菩提式・晴ケ峰式類似)がともなう。この時期を最後に縄文中期後葉まで生活の痕跡は見られない。

以上から言える事は、縄文早期に九州縄文人が関東に移動する際に、或いは移動した後のヒエ栽培者には、伊予部族と共に北海道に渡ったmt-M7aと、冷涼な高地を求めて八ヶ岳山麓に移住したmt-M7aがいたが、冷涼な高地を求めて飛騨に移住した第三のmt-M7aもいた事になる。飛騨のmt-M7aは縄文早期にはヒエを栽培し、気候が温暖化すると野生化したヒエの影響による減収に苦しんだが、縄文前期に関東の熱帯ジャポニカの生産性が高まると、温暖な平地に降って御望で稲作を行った事を示ししている。背後の黒野台地でヒエも栽培し、黒ボク土を残したと考えられる。

Ⅱ期について土器様相の詳細は未検討と記されているが、別掲の図では、この時期の土器にも関東系が含まれている事が示されている。

「福島県文化財センター白河館収蔵の北白川下層Ⅱc式土器の紹介」として以下の記述がある。(抜粋)

郡山市田村町守山字田向の田向A遺跡から、北白川下層Ⅱc式土器が発掘された。この土器の年代は明らかではないが、ほぼ同地点から浮島Ⅰ式土器片が数点出土している。周囲には唐松A遺跡、地蔵田A遺跡、地蔵田B遺跡等の前期前半の遺跡はあるが、前期後半の明確な遺跡は確認されていないから、この土器は縄文前期前半の遺物であると考えられる。

関東地方における前期の土器型式で北白川下層Ⅱc式並行期に比定されるのは、諸磯 b 式土器(古段階)や浮島Ⅰ・Ⅱ式土器である。

諸磯 b式土器は浮線文を施文することで北白川下層Ⅱ式土器と対比して考えられることが多く、その出自や関連性に注目されているものである。諸磯式・浮島式土器は東関東地域を主体に分布し、千葉県及び茨城県では大木3~4式土器が少数ではあるが出土する。後続する諸磯c式・興津Ⅱ式土器期ではこの事象が際立つようになり、大木5式土器の出土が飛躍的に増加する。

南東北地域では、大木5式土器とともに諸磯c式・興津Ⅱ式土器が出土し、南東北地域と東関東地域間で相互の深い係わりがあったことがうかがえる。

埼玉県及び千葉県で北白川下層式土器の集成が行われているが、良好な共伴関係はなく散発的で、ほとんどが1~数点の出土に留まる。埼玉県ではその様な 18 遺跡が集成され、その半数以上の遺跡で同Ⅱc式土器が出土した。千葉県では前期の非在地系土器(木島式土器・北白川下層式土器・前期大木式土器)に着目し、それぞれ集成している。北白川下層式に関しては 14 遺跡が集成され、同Ⅱc式土器を出土した遺跡が最も多く、埼玉県と同様の結果である。

表現が回りくどいので分かり難いが、関東で北白川下層Ⅱ式土器が多数発掘されるのは諸磯c式・興津Ⅱ式土器期であるが、田向A遺跡から発掘された北白川下層Ⅱc式土器はそれより古い時代のものだから、関西から関東に女性が出向いて故郷の土器を遺す事情は、福島の方が先だったのではないかと問いかけている様に見える。

その指摘は事実だった可能性が高く、大木式土器を製作した東北南部のmt-M7aは、関東のmt-B4から熱帯ジャポニカの栽培技術を導入し始めてはいたが、依然としてヒエの栽培者でもあったからだ。御望の事情を参照すれば、東北南部のmt-M7aはヒエの栽培はやめなかったから、関東とは異なる土器文化圏である大木式文化圏を形成していた事になるからだ。

つまり飛騨のmt-M7aは、同じヒエの栽培者だった東北南部のmt-M7aと栽培者の情報網を共有していたから、その情報網によって東北南部のmt-M7aが関東から熱帯ジャポニカを導入し始めたと聞くと、自分達もその話に乗るべく福島に出向き、mt-B4の稲作を一緒に真似ていたと考えられる。

土器の形式が確立して一つの標準形と言われる様になるのは、特定栽培種に関する生産意欲が高まり、それを栽培する女性達のネットワークが形成された後だから、その揺籃期の土器には特定の形式はなく、訪問した女性達は故郷の土器を作っていたと考える必要がある。つまり熱帯ジャポニカの導入に成功した東北南部のmt-M7aは、大木式土器を形成して熱帯ジャポニカとヒエを並行的に栽培する技術を共有したが、東北南部に出向いていた飛騨のmt-M7aは、岐阜の平坦地や古京都湖の川洲に降り、熱帯ジャポニカとヒエを並行的に栽培する技術を共有する集団を形成すると、彼女達の土器が北白川下層式になったと考える必要がある。

それ故に関東のmt-B4と東北南部のmt-M7aの間の交流が活発になり、東北のmt-M7aが関東に出向いてmt-B4と何年も稲作を一緒に行い、技術の伝承力を高める様になると、京都や奈良のmt-M7aも関東に出向いて実地教育を受ける様になったと想定される。飛騨や御望の関東系の土器が正式な標準形とは言えないものであるのは、その様な関東帰りのmt-M7aが製作したものだったからだと考えられる。しかしそれを製作したmt-M7aにとっては、自分の稲作技術は関東仕込みの正統派である事を強調する為に、できるだけ正規品に近いものを製作したが、その娘や孫の代になると形が崩れたから、考古学者はそれを○○系と呼んでいる事になり、学術的な姿勢を示している事になる。

いずれにしても熱帯ジャポニカの栽培技術は、飛騨や京都のmt-M7aが関東に出向く事によって伝達された事を示唆している。

縄文中期寒冷期になると御望遺跡は断絶し、岐阜平野に降っていた人々は再び飛騨に帰り、ヒエ栽培に専念した事を、東海系と信州系の土器の存在が示している。特に信州系が増加したのは、八ヶ岳山麓のアワ栽培が生産性を高めていたからであり、矢尻街道との経済的な結び付きによって何らかの利益が得られたからだと推測され、北陸系の土器の存在がその事情を示唆している。

つまり北陸部族が弓矢交易に参入すると、沖縄縄文人系の良質のウルシが多量に必要になったが、飛騨はその栽培適地だったからだ。また縄文前期に飛騨に残っていたmt-M7aは、mt-M9と提携して磨製石斧用のウルシも生産していた可能性もあり、山陰に点在する黒ボク土はその様なmt-M7aが、mtM9と共に中国山地の蛇紋岩鉱床を求め、大山山麓の冷涼な気候を求めたからである可能性が高い。

縄文中期寒冷期の京都盆地では北白川下層系の土器が失われ、アワ栽培者の土器である船元式や里木式に変る。つまり九州でmt-B4mt-D4に浸潤された様に、京都ではmt-M7amt-Dに浸潤された。京都や奈良は蛇紋岩が産出しないから、彼らには磨製石斧を入手する必要があったが、飛騨でmt-M9と連携した事が、適当な産地から遠路運びこむルートの形成に役立ったと想定される。

伊勢湾沿岸の焼畑農耕者は伊那谷で生産された石斧を使っていた可能性があり、琵琶湖岸の焼畑農耕者は富山の石斧を使った可能性が高いから、古京都湖の焼畑農耕者は琵琶湖経由の磨製石斧を、古奈良湖の焼畑農耕者は伊勢湾沿経由の磨製石斧を使い、古京都湖と古奈良湖は繋がっていたから、両者は水上交通で過不足を補い合う事もできた。伊勢湾から古奈良湖への道程は長い様に見えるが、当時は古伊賀湖も古名張湖も健在だったから、津市の雲出川を大野まで遡上できれば、そこから急斜面を500m昇ると、地図上では3㎞しか離れていない川上川水系に出る事ができる。川上川は古伊賀湖に流れ込んでいる川だから、このルートで伊勢湾から古伊賀湖に至るルートは、敦賀から琵琶湖岸に至る30㎞の陸路より近かったと考えられるからだ。

これらの出来事はmt-B4には、九州の出来事以上にショッキングだっただろう。九州のmt-B5が栽培していたのはジャバニカだったが、京都のmt-M7aが栽培していたのは熱帯ジャポニカだったからだ。

mt-B4にとって更に深刻だったのは、御望の稲作者が熱帯ジャポニカを捨て、同じ関東部族のmt-M7aが八ヶ岳山麓で栽培していたヒエを選択した事だろう。東北のmt-M7aが同様な選択に走れば、今までは熱帯ジャポニカの師匠だった立場が逆転し、自分達がmt-M7aからヒエの栽培方法を教えて貰う事態になる危険も孕んでいた事を、熱帯ジャポニカの栽培者の情報網が共有しただろう。縄文中期のmt-B4が何耕地に実験農場を形成し、東北南部の稲作者を支援したのは温情であるかの様にその3では解釈したが、その様な事態に至る事を未然に防ぐ為の、mt-B4の強い意志だったと解釈する必要がある。

以上の事情は女性達が穀類の栽培に如何に熱心だったのかを示すと共に、それを裏面から見ると、穀類の栽培者である事が女性の必須の要件になっていた事を示唆している。つまり穀類を栽培して一定以上の収穫を得る事が、一人前の女性の要件になった事を示している。それ故に飛騨の女性は遠路関東に出向き、何年も稲作の修業を行い、技能を習得して故郷に帰るとそれを誇りとして関東風の土器を作り、その技能を分けて貰った周囲の女性達もその関東風の土器を作り、誰の一門であるかを示したと考える事ができるだろう。

女性達のこの必死の努力は、できるだけ堅果類を食べなくて済む食生活を実現する為のものであったから、男性達はその様な女性達の努力に感謝し、女性優位社会に肯定的になっていたと想定される。それを示す象徴が調理機であり食料の貯蔵器だった土器であれば、土器が堅果類のアク抜きの用途としての機能を失っても、生産から使用に至るまで女性達の専管事項だったとしても、それを肯定する背景が男性達にはあっただろう。穀類の生産性を高める為に直向きに努力している女性達への、尊敬の念が込められていたからだ。

関東のmt-B4が縄文中期に受けたショックや危機感は、栽培技術と共に母から娘に受け継がれたから、縄文後期に飛騨の女性達が再び稲作に関心を寄せすると、女性達が関東に修行に来るのを待つのではなく、関東のmt-B4自身が御望などの伊勢湾沿岸や京都盆地に定期的に出掛け、その地域のmt-M7aに直接稲作指導を行い始めたとしても不思議ではない。その様なmt-B4の移動ルートが伊勢湾から奈良や京都に、磨製石斧を運んでいたものになる事は必然的な結果だった。

 

縄文後期の奈良盆地と京都盆地

縄文後期になると関東の土器は称名寺式に変り、この土器は今まで関東系の土器が拡散していなかった静岡まで分布する様になるが、愛知や三重にも発掘事例があり、奈良県の広瀬遺跡から纏まった発掘がある。考古学者の千葉 豊氏は、第 291 回 京都市考古資料館文化財講座で、北白川上層式が称名寺式の次世代の堀之内1式の影響を受けて変質し、それが更に関東の堀之内2式の影響を受けて変質するが、その様な堀之内1式も堀之内2式も関東からの搬入品ではなく、在地で製作された土器が大多数を占めることが明らかになっている。つまり縄文集団が広域にわたって、情報のやりとりをしていたことを示していると指摘している。

既に指摘した様に、縄文後期になるとアワの広域的な流通価値が失われたから、アワ栽培者はそれに対する対策を講じる必要があり、北陸部族系のアワ栽培者は、沿海分に住んでいた者はmt-D4を招いて温帯ジャポニカに栽培者になろうとし、内陸のアワ栽培者は東北から入植した熱帯ジャポニカの栽培者や、関東から入植したmt-B4と共生した。

京都や奈良のアワ栽培者にはその様な選択肢はなかったが、彼らは北陸部族の石垣系縄文人ではなかったから、沖縄系縄文人としての人脈を活用する事ができた。それをどの様に活用されたのかについては、千葉 豊氏の「縁帯文系土器群の成立と展開」に、以下の様に記されている事がヒントになる。

縄文後期に展開する土器の発展系譜を示すものとして、関東系土器の流入も認められる広瀬遺跡に注目する必要があり、それに準じる遺跡が和歌山県の亀川にある。

広瀬遺跡は木津川の支流である名張川の中流域にあり、その標高は150m以上あるが、当時の古奈良湖と古京都湖は連結し、湖面標高は110m以上あったと推測され、伊賀も名張もそれより湖面標高が高い湖で、名張川の支流の小波田川(おばたがわ)は古伊賀湖に流れ込んでいた木津川と数㎞しか離れていない場所があるから、伊賀から古奈良湖に抜けるルートとしてこちらが利用されていた可能性がある。

その地域はmt-B4型の稲作地に相応しい、洪積台地に広い谷間が形成されている地域だから、飛騨を起源とする沖縄系縄文人が稲作者としてこの地域に入植し、周囲に焼畑農耕者が展開する地域だった可能性が高いからだ。

つまり関東のmt-B4が畿内に入植して稲作教室を開いた場所が、広瀬亀川だったと考えられる。従ってこれらの地域は京都や奈良のmt-Ma達の既存の縄張りではなく、しかしmt-B4の高度な稲作技能を発揮できる谷間の低湿地として、mt-B4が選定した場所だったのではなかろうか。これによって畿内のmt-M7aは、関東まで出向かなくても高度な稲作技術を習得できる様になった。

伊勢湾の沿海部は北陸部族の縄張りで、縄文後期以降の北陸部族は日本の内需的な交易から、フリッピン越と提携した海外交易に関心を移していたから、彼らが生産したコメの需要者になる見込みは薄く、他の漁民の需要を探す必要があった。つまり海洋民族の掟として海上を交易路する事はできても、伊勢湾沿岸に海洋民族が入植する事はできなかったから、mt-B4の移動ルートにはなり得ても、コメの輸送路や需要地にはならなかった。

和歌山県の亀川流域は紀ノ川の河口に近く、紀ノ川を遡上すれば奈良盆地に至る事ができたし、その経路の峠は現在の標高でも168mしかない。亀川流域の岡村遺跡から、瀬戸内の縄文後期初頭の土器である福田 KII式の深鉢が出土し、縄文時代後期前葉にこの遺跡が形成された事を示している。千葉 豊氏はこの遺跡の住民が、畿内の稲作文化の拡散と発展に寄与した可能性が高い事を指摘している。

その様な亀川流域は、別の観点から注目する必要がある。現在の和歌山市や有田市には水田地帯があるが、海退が始まった直後の両地域の海岸には沖積地は皆無で、和歌山市と海南市の境界にある僅かな台地が、辛うじて稲作地なる程度だったと想定されるからだ。

現在の紀ノ川流域の沖積平野の面積が、吉野川流域と比較して狭い事がその事情を示唆しているが、縄文中期末の紀ノ川流域は、紀の川市まで海が入り込む状態だったと推測され、現在の地形から想像する以上に大きな違いがあった。その理由は古紀ノ川湾の水深が極めて深かったからで、その理由は氷期が始まる直前の豪雨期に播磨灘に集まった水が、明石海峡を経て大阪湾に流入して淀川水系の河水と合流し、紀淡海峡と紀伊水道西部を経て太平洋に流れ出しながら、紀伊半島の西に深い谷を形成したからだ。

12万年前の紀ノ川もその深い谷に流れ込んだから、必然的に深い谷を刻んだと想定される。現在も紀伊水道の東部は水深が60m以上あるが、吉野川が流れ込む紀伊水道の西部は30mほどしかない事が、その事情を示唆し、深い海を沖積平野に換える為には多量の土砂が必要になるから、紀ノ川流域は深い入り江の状態が長い間続いた。

古紀ノ川湾に沖積平野が形成され難かった理由は他にもあり、五條市域の複雑な事情が紀ノ川を、縄文後期が終わるまで土砂を輩出しない川にしていたからだ。それ故に縄文後期の紀ノ川は河口に山肌が屹立し、古紀ノ川湾内にも沖積平野が生れていなかった。

縄文中期に阿波に入植したアワ栽培者はその様な紀ノ川流域に興味を示さなかったので、縄文後期に他の部族の稲作者がその様な亀川流域の、狭い稲作地に入植する余地があった。

五條市域の複雑な事情とは、紀ノ川は五條市より上流では吉野川と呼ばれるが、古代に吉野と呼ばれたのは奈良県南部だから、川と沖積地の名称が一致していない。従って古代の吉野川は古奈良湖に流れ込み、その河道は現在の国道24号線沿いだったと想定される。

現在の国道24号線には河道の痕跡がないが、金剛山塊の東側の山肌が伏見峠の南東部から崩落し、国道24号線の最高部である標高249.7m地点を覆った事を、国土地理院の地図が示している。この地域は中央構造線の断層帯が急斜面を形成しているから、巨大地震に見舞われてこの様な事態が発生した事に違和感はない。

従って崩落以前には吉野川が古奈良湖に流入し、御所市から北に広がる奈良盆地の南半分は、その土砂が堆積した沖積地だったが、金剛山が崩落してその流れが止まると、行き場を失った水が一旦古五條湖を形成し、そこから流出し始めた水が紀ノ川を形成した事になる。その湖を形成した堰の痕跡らしい丘陵を過ぎると、現在でも吉野川が紀ノ川に名称を変える事は、吉野川と吉野の地名にその記憶が遺されている事になる。従って金剛山から土砂が崩落したのは、稲作者が吉野(良好な稲作地)に入植した後だった事になる。

古事記の神武東征説話の最終段階に、八咫烏に導かれた神武が熊野から奈良盆地に侵攻する際に、八咫烏の後を幸行して吉野河の河尻に至った時、筌を作って魚を取る人有り、・・此者は阿陀の鵜飼の祖である。」と記している。阿陀郷は現代の下市町から五條市に至る吉野川沿いの一帯で、河尻は河口の事であるから、神武東征は吉野川が五條市に湖を形成していた時代だった事を示している。

その様な時代は数百年で終わった筈だから、古事記はこの記述によって神武東征の時期を暗示した事になる。金剛山の崩落は巨大地震によって誘発された筈だから、古事記の趣旨は「各地の伝承に残っていた巨大地震の時期に、神武東征があった事にします」という事になり、創作説話の時期設定に厳格な古事記の特徴を、神武東征説話でも示している。

つまり吉野川が吉野に沖積地を形成していた時代に稲作者が入植していたから、四国の吉野川と吉野にちなみ、この地域を東の吉野と吉野川と命名したが、金剛山から土砂が崩落して吉野川を堰き止めると五條市が湖になり、そこに吉野川が流れて河尻(河口)が形成されたが、形成された湖は狭かったから湖の寿命は短く、その期間に限って阿陀郷河尻になる状態だったから、古事記はそれを利用し、創作説話である神武東征の時期を人々に周知した事になる。

神武天皇の即位年についてはその6で検証するが、古事記が示す天皇の在位期間から神武天皇の即位年を計算すると、それは縄文晩期になるが、金剛山から土砂が崩落した時期も、その頃だった可能性が高い。現在の和歌山平野の形成事情を考慮すると、縄文晩期以前である事は間違いないからであり、アワ栽培者は縄文中期に四国に入植したが、和歌山平野には入植しなかった事と、古奈良湖に形成された吉野に稲作者が入植したのは、北白川上層式土器が生れた縄文後期初頭だったと考えられるからだ。

古事記の著者がこの様な事情を知っていたのは、mt-B4が日本式の稲作を拡散していた奈良盆地に大地震があり、それによって金剛山から土砂が崩落して阿陀郷河尻になった事を知っていたから、それが関東の女性達の伝承になっていた状況があり、古事記の著者が神武東征に託した大政変があった際に、大地震があった事を人々に思い起こさせる為に、女性達の伝承を転用した可能性が高い。

いずれにしても古事記は、古い時代の記憶を正確に示している。

従って縄文後期初頭に古奈良湖の沖積地に入植した、飛騨を起源とするmt-M7aに稲作を指導する為に、関東のmt-B4が亀川流域の極めて狭い沖積地に入植し、そこで稲作教室を開設した事になる。その成果として稲作地が吉野と命名され、アワ栽培者がその周囲に入植した事になる。

縄文後期の事情としては、mt-B4を亀川流域に入植させた海洋民族が、古奈良湖のコメを受け取る為には、吉野川が流れていた阿陀郷から古紀ノ川湾の入り江まで陸路で運ぶ必要があったが、千代川上流の智頭や球磨川上流の中堂遺跡と比較すると、運搬が容易な陸路だった。しかし関東部族のmt-B4が入植した古武庫川湖と比較すると、陸路は長かった。

宝塚から有馬街道を使えば15㎞程度の旅程で古武庫川湖岸に達する事ができたし、武庫川の支流である船坂川の名称が当時の事情を継承した名称で、このやや流れが急な川を船で荷物を運んだ名残であるとすると、陸路は10㎞未満で済む状態だったが、古紀ノ川湾から吉野川までの陸路は20㎞を遥かに超えたからだ。

それ故に関東部族が古武庫川古への入植を優先した結果、古奈良湖には入植しなかった可能性もあるが、古京都湖や古奈良湖は縄文前期に飛騨のmt-M7aが入植した地域だったから、関東のmt-B4は彼女達の縄張りを認め、この地域のmt-M7aに稲作の指導は行ったが、自身が入植する場ではないと考えていた可能性が高い。また関東部族のmt-B4が当時の大阪湾が湾入していた高槻に稲作地を開設すれば、古京都湖のmt-M7aに稲作を指導する事ができたから、敢えて漁労権がない亀川流域に稲作地を設営する必要はなかった。

その後の歴史的な事情や古事記の指摘を参照すると、亀川流域に稲作地を設営したのは対馬部族だったと考えられる。隋書が示す古墳時代後期の倭国は、「土地は肥沃で水多く陸は少ない。」「鵜飼漁をしている。」「葬式の際には屍を船上に置き、陸地でこれを牽く。」と記しているから、内陸の湖に面した地域だった事になり、旧唐書はこの倭国は「倭国なる者、古の倭奴国也」と記し、北九州に起源があった事を示している。

古事記は「宗像のタキリヒメと大国主の子がカモ(鴨)の大神である」と記し、御所市に高鴨神社があり京都に加茂社があるから、豊国や遠賀川流域だけでは稲作地が不足した対馬部族が、和歌山に入植して紀ノ川を遡上し、古奈良湖や古京都湖に拡散した事を示唆している。つまり古紀ノ川湾から古奈良湖に至り、古京都湖に水運を拡大したのは対馬部族だった事を示しているが、古事記は「迦毛」と記しているのに、奈良では「鴨」、京都では「加茂」と記している不思議がある。

古事記は対馬部族に関し、複雑な記述をしているのでその骨子を以下に記す。

大國主神が胸形の奧津宮に坐す、神多紀理ヒメを娶って生んだ子がアジ鉏高日子根神と下光ヒメ。アジ高日子根神は、今謂うところの迦毛の大御神である。大國主神が神屋楯ヒメを娶って生んだ子が事代主。大國主神が八嶋ムジノ神ノ女(むすめ)の鳥取神を娶って生んだ子が鳥鳴海神である。

古事記はを「すき」と読ませているが原義は小刀だから、アジ鉏が焼畑農耕に使う青銅製の斧を指したのであれば、飛騨を起源とする縄文人には海洋性がなく、交易によって青銅を入手する事ができなかったが、北九州や瀬戸内の焼畑農耕者は青銅を使い始めていたので、蛇紋岩が産出しない奈良や京都に彼らが、縄文後期に焼畑農耕者として入植した事を示唆し、アジ鉏が鉄製の小刀を指したのであれば弥生時代に入植した事になる。後者の場合には、古事記が大書する程の出来事だったのか疑問があるから、前者だった可能性が高い。

神屋楯ヒメの素性は明らかではないが、アジ鉏高日子根神が焼畑農耕者だったのであれば、神屋楯ヒメは稲作者だった事になり、対馬部族の稲作者は縄文後期に生まれたから、素性が記されていない事と一致する。また事代主は倭国王を指したから、それが稲作の指導者の系譜だった事と整合する。

八嶋ムジノ神はスサノオノミコトとクシナダヒメの子だから、対馬部族の別の流れである海神として、能代の漁民系譜である宗像の海洋漁民を指していると考えられる。

古事記が記すこの複雑な流れは、飛騨を起源とする縄文人のテリトリーに、対馬部族が農耕民族や交易者としてそれぞれの立場で登場し、コメの需要者である海洋民族と、青銅器や鉄器を使う焼畑農耕者や稲作者がそれぞれ送り込まれると、奈良と京都ではその影響の程度が異なった事を示唆している。奈良の稲作者や焼畑農耕者は対馬部族に完全に組み込まれたが、京都は関東部族との関係が深かったから対馬部族としての認識が薄く、壬申の乱の際には奈良が出雲派だったのに対し、京都は倭国系の天智に従って反出雲派になった事に繋がるからだ。

古事記は対馬部族について、天の石屋戸説話の前の説話である天照大御神とスサノオの「うけひ」説話で、「天照大御神の子である天忍穂耳と、スサノオの子である宗像のタキリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの3女神が生れた」と記し、天の岩屋戸説話の前に生まれていたから、対馬部族の漁民と縄文人は古い昔から周防灘や宗像にいた事を示唆している。その時期についてはその7参照。

 

4-5-4 縄文晩期の東北

縄文晩期の東北を代表する亀ヶ岡式土器は大洞式土器として編年され、東北に残った人々の縄文的な交易文化を示している。大洞土器文化圏は山形以北の内陸の水辺と、太平洋沿岸に形成されたので、この文化を概観する。

縄文的な交易文化は食料の中心を水産物に求め、穀類と堅果類を補助食料としながら交易に活路を求めた人々の文化で、交易性が高い地域の土器が極めて装飾的なった事を特徴とし、大洞式土器はその兆候を顕著に示している。ヒエが水耕栽培されていたと想定されるが、ヒエは交易性に乏しかったから、他の物品がこの地域の交易を支えていたと考える必要がある。この文化圏では湖沼漁民が縄文後期温暖期の主役になり、狩猟民族から獣骨を集めていたが、稲作者は温暖な西日本に去り、ヒエの栽培者は北海道に北上してしまったから、湖沼漁労の技能を高める必要があった。

その必要性から生み出された漁労技能が、鹿の角から製作した刺殺漁具の活用だったと推測される。古山形湖は縄文中期から縮小し始め、後述する様に縄文晩期には湖が消滅していたから、彼らは沼地の様な浅い湖で淡水魚を捕獲していたと想定される。この事情は古山形湖だけではなく古盛岡湖、古横手湖、古津軽湖、小川原古でも生れ、湖面標高の低下が進行していたから、多数の漁民が参加する淡水漁労文化圏が形成された可能性が高い。縄文後期の集積遺構はその様な文化が形成した、良好な食料事情に支えられていたと考える事ができるだろう。

縄文後期には古庄内湖を形成していた海岸砂丘が破れ、河川によって水が流れる潟湖に変っていたから、海洋民族の船が山形盆地に遡上する事ができる様になっていた事も、この時期の特記事項になる。また西日本に移住した稲作者が、縄文晩期寒冷期に稲作の生産性を落とし、稲作者を囲んでいたアワ栽培者の生産性も極度に低下していたから、水辺の稲作者も淡水漁労の生産性を高める必要に迫られ、東北縄文人の漁労文化をパッケージとして入手したい事情があった。

縄文晩期のその様な状況を古山形湖の流出口に近い場所にある、山形県の宮之前遺跡の事情から読み取る事ができるので、第2次発掘調査報告書を以下に抜粋・要約する。

周辺には縄文晩期の遺跡だけでも約20遺跡を数え、山形県内の縄文時代晩期の遺跡の約20%近くがこの地域に集中するから、この文化圏の中核的な地域と見ることもできる。いずれの遺跡とも後期末から晩期終末までの遺物を含み長期にわたる営みをうかがえる。蟹沢遺跡から遠賀川系の土器も出土し、この地域が最上川などの河川の物資の流通などをとおし、先進的に発展していた地域であることを裏付けている。

報告書に示されている地図は、この付近の遺跡が標高95mの等高線に沿って展開している事を示し、ヒエの栽培者が水耕を行って生産性を高めていた事を示し、この地域の覆土は褐色あるいは黒褐色の土であるとの指摘は、陸上でもヒエを盛んに栽培していた事を示唆している。宮之前遺跡は標高110m以上の場所にあるが、遺跡の脇を流れる富並川の扇状地の川筋だから、川の冷水を使ってタイヌビエやヒエの野生種の繁殖を抑える事が可能だった。

この地域の現在の最上川の河原の標高は80mだから、既に古山形湖は完全に失われていた事を示し、この地域が庄内潟から遡上してきた船の船溜まりになり、交通の要衝を形成していた事を示唆している。

遺跡から縄文早期~中期の土器が少量発掘され、この付近にあった遺跡から持ち込まれた事を示し、かれらが祖先の遺物を保管していた事を示唆している。

発掘された遺物は圧倒的に土器が多いが、掘り具として使用された頁岩製の石鍬も16点発掘され、先端に破損部分があるものや、細かい縦の線が無数に観察されるものが含まれ、土を掘る際の使用痕を示している。小型の石斧には、粘板岩製と蛇紋岩製のものがある。円盤状石器が多数あり、大(78cm)(56cm)(45cm)3種類があり、材質は砂岩、安山岩、頁岩で、周囲を打ち欠いて形態を整え、平坦面のどちらか一面を磨いている。石錘らしいものが1個ある。

石鍬の形状は柄に固定していた事を示唆し、本格的なヒエの水耕栽培が行われていた事を示している。

発掘された多数の土器には華麗な文様のものが多く、この地域の人々の豊かさを示している。ヒエの水耕栽培は北海道から導入されたと考えられるが、北海道とは異なる華麗な土器文化を示し、北海道のヒエ栽培者より豊かな生活を享受していた事が、この様な違いを生んだと考えられる。その要因として北海道では高品質の蛇紋岩が産出しないので、北海道には高度な漁労文化が生れなかった事が挙げられ、東北の湖沼漁民が海洋漁民に匹敵する高い生産性を得ると、食料の豊かさが優る様になり、ヒエを生産しながら土器を製作していた女性達に、時間的な余裕を与えた事を示している。

この時代の関東部族は中華世界から獣骨を得ていたが、釣り針や沿岸の刺殺漁などには鹿の角を利用していたから、その需要に応えていた事も、東北の縄文人の懐事情を豊かにしていた可能性が高い。鹿の角は北海道でも得られたが、運搬距離が半分で済む東北産で需要が満たされると、敢えて北海道から搬入する必要はなかったからだ。大洞土器の文化圏の湖沼漁民が、釣り針や刺殺漁具に加工した状態で出荷していたとすれば、北海道産の原材料の需要はなかった事になる。

大洞式の土器には典型的な土器セットがあり、小型の壺型土器、大型の壺型土器、注口土器、湯飲み状の土器は、近現代日本の茶器セットと極めて類似している。注口土器の内側の空洞は、現代の急須の構造と極めて類似しているだけではなく、現代の様にステンレスの金網で茶殻の流出を阻止できなかった故に、茶殻の流出を阻止する工夫が、次代の進展と共に進化した事を示唆している事も、これらが茶器セットである事を確信させる。唯一の違いは、焼成温度が低く材質が脆い縄文土器では、蓋と急須が擦れて粒子が液体に落下するから、それを嫌って急須の蓋を木製にした事を示しているだけだ。

注口土器の起源は湖北省の荊にあり、宝貝の穴開けの為に馬橋遺跡に出向いていた縄文人女性が、その形状を日本に持ち込んだ事を指摘したが、大洞式土器の茶器セットを見ると、飲茶の習俗と共に注口土器が持ち込まれたと考えざるを得ない。

お茶の主成分はタンニンで、ドングリのアクと類似した化学成分だから、土器を多量に食べていた時代に縄文人が得たタンニンを解毒する能力が、穀類を食べる様になって不要になると、その能力を敢えて使うお茶を飲み始めたと考える事に合理性がある。人にはその様な本能があるからで、古代から喫茶の習俗を持つ民族が、華南、台湾、東南アジアに散在し、それらは堅果類の栽培者の子孫の分布と一致しているからだ。

縄文人の女性は荊が使っていた注口土器を真似たが、製塩業者が多用していた、口がラッパ上に開いた円筒形の觚を持ちなかったのは、觚は酒器だったからである可能性もあるが、製塩業者は縄文中期からコメ食になり、製陶技術が貧弱だった浙江省では注口土器は作れなかったから、彼らが縄文中期に喫茶の習俗を身に着けた際に、急須は使わないで茶を飲む習俗を身に着けていた可能性が高い。近世の中国を描いた小説では、熱湯を注いだ椀にお茶の葉を振りかけ、薬湯の様に飲む習俗が描かれているが、それが製塩業者の喫茶習俗だったのではなかろうか。

荊は縄文後期に青州に入植して初めて、製塩業者の奢侈文化を学んだが、葉まで飲む事を嫌い、得意の製陶技術で注口土器を製作したから、縄文人の女性はその様な喫茶文化を日本に持ち帰ったと考えると、起こった事象を合理的に判断する事ができる。

つまり大洞土器の文化圏の人々は、日本の茶道文化の草分け的な存在だった。茶道の道具に異様な関心を高めていたからだが、その観点で他の土器の器形を見ると、徳利らしい土器と盃状の土器もあり、ヒエを醸して酒も飲み、その酒器にも凝っていたことが分かる。茶道具や酒器の精巧さは専門の製作者がいた事を示唆し、縄文中期の関東の土製の耳栓製作より、遥かに専業化が進んでいた事を示唆している。つまりヒエの生産性が高かったから時間的な余裕があり、タンニンの解毒力が不要になり、漁労技術の交易が順調だったから、お茶の葉を入手する経済余力があった事を示唆している。この様な人々に対し、薩摩半島に入植した関東部族の縄文人がお茶の木を栽培して応えたから、現在でも鹿児島が茶葉の有力な産地になっているのではなかろうか。

茶文化は王朝期に中国から伝わったと主張する人がいるが、これは王朝史観に毒された主張であると言わざるを得ない。日本のお茶は緑茶で大陸には緑茶はないから、かなり古い時代に両者の喫茶文化が分離し、それぞれが独自に茶ノ木を品種改良したと考える必要があるからだ。

その様な大洞文化圏の中で、亀ヶ岡遺跡群が立地する津軽平野には独特の文化があった。亀ヶ岡を代表する遮光土偶はこの文化圏独特のもので、基本形は宮之前遺跡から多数出土しているものと同じだが、宮之前遺跡の土偶は他の地域の土偶の様に破壊され、その目は遮光土偶の形状ではないからだ。この地域の縄文晩期の土壌からソバの花粉が多量に検出された事が、その事情を示している。

津軽平野は三内丸山遺跡があった青森平野と、標高500mに満たない山岳地を挟んで隣り合っているから、縄文晩期の亀ヶ岡の繁栄を生み出したのは出雲部族だったと想定され、縄文晩期寒冷期に経済的な繁栄が生れた理由は、この地域が毛皮の交易拠点になったからだと考えられる。

その為には大陸から加工技能者であるmt-N9aを渡来させる必要があり、mt-N9aが生活する気候環境を考慮し、出雲ではなく気候が冷涼な津軽を毛皮の加工基地にしたと考えられる。出雲部族も対馬部族も北海道に拠点はなく、津軽が最北の地だったからだ。この時代のmt-N9aの毛皮加工には、シベリア南部の様な冷涼な気候が必要だった可能性もある。

縄文晩期の津軽平野の南部は東西を山岳地に挟まれた沖積地で、北半分は七里長浜の海岸砂丘が形成する湖で、境界は五能線の五所川原駅付近だったと想定される。津軽平野では標高1030mの平地に岩木川の支流が浅い河谷を形成しているから、一見隆起地形の様な景観だが事実はそれとは異なり、縄文早期には湖が現在の弘前平野の全域を覆っていたが、湖面が徐々に低下していくに従って広大な緩斜面を有する津軽平野になったのであって、実際は湖面が徐々に低下する事によって生まれた地形であると考えられる。

津軽平野が山間地と接している平川市の遠手沢や、浅井川の山際の平地の標高は、9千~8千年前の湖面標高が7080mに達していた事を示し、標高3640mの弘前市街地は縄文前期頃の湖面標高を示していると考えられる。七里長浜の砂丘の近くに大きな川がなく、その堆積によって海岸砂丘が攪乱されなかった上に、主要な河川である岩木川は水源域が狭く流量が多くなかった事が、湖の寿命を長期化させたからだと推測される。庄内平野や能代平野はラッパ状に開き、最上川や能代川の水源域は岩木川より遥かに広いが、湖面積は古津軽湖が最も広かったと推測される上に、津軽平野の西の山岳地の水は岩木山に遮られ、鰺ヶ沢に流れ出ている。

時代の進展と共に古津軽湖の湖面標高が徐々に低下していったのは、縄文早期以降に海水温が徐々に低下し、それに従って降雨量が減少すると、高い湖面標高を維持する伏流水を岩木川が賄い切れなくなり、湖面標高を低下させた伏流水の発生圧力を下げる事により、湖面標高と伏流水量のバランスを取ったからではなかろうか。

弥生水田が発見された田舎館村垂柳遺跡は、その様な緩斜面の標高30mの平坦地にあり、湖面が低下すると河川の水位も低下していたから、弥生時代の川面は平坦地より5mほど低い現在の状態に近く、遺跡が堆積土砂に埋まる状況が発生しなかったから、遺跡として発掘できる状態に維持されたと考えられる。

亀ヶ岡は十三湖と日本海を結ぶ現在の水路の近傍ではなく、水路の南20㎞の現在は陸地化している海岸砂丘の内側にある。それ故に、日本海で漁をする漁民の退避港ではなかった様に見えるが、亀ヶ岡の周囲の海岸砂丘には小さな池が多数あり、それらを結ぶと海岸に達するから、縄文晩期には五能線まで広がっていた古十三湖と日本海との、接点だった可能性が高い。つまり十三湖の現在の流出口は、十三湖が現在の様に狭くなってから形成されたものであって、縄文晩期の流出口は亀ヶ岡近辺にあった可能性が高く、亀ヶ岡の住民は付近の漁村から海産物の供給を受ける事ができたと推測される。

縄文晩期の津軽平野でソバが栽培されたとの指摘があるのは、毛皮を加工する為に亀ヶ岡に移住したmt-N9aにはドングリのタンニンを解毒する能力がなかったから、出雲部族が富山(沼河)富山からソバの栽培者を移住させ、mt-M9aの健康状態を維持したからだと推測される。縄文晩期の津軽平野ではヒエも栽培できたが、ヒエを採用せずにソバを採用した事は、出雲部族と伊予部族の関係が縄文後期~晩期に悪化したからである様に見えるが、実際の原因は異なった事を後述する。

縄文晩期にシベリア経済が壊滅すると、息慎は食糧事情が悪化したバイカル湖岸のmt-M10を関東に送り出したが、アムール川の下流域のモンゴル系民族も冬季に河川が凍結して漁労ができなくなり、mt-Cが栽培するキビの生産性が低下して食料の調達に困窮した結果、キビを生産しないmt-N9aが口減らしの対象になり、青森に渡来して毛皮の加工者になったと想定される。その段取りを担ったのは既に指摘した様に、出雲部族のモンゴル系Y-C3集団だったと想定される。

具体的に言えば、エニセイ川流域を拠点にしていた息慎には、この様な分裂の要素はなかったとしても、統括部門だった息慎が消滅する事により、アムール川~ウスリー川~ウラジオストック~東朝鮮湾を交易路にした濊系と、オホーツク海の交易者だった粛慎が、それぞれの交易路をそれぞれ独自に求めた結果として両者の競合が生れ、対立関係に発展し、最後は武闘を展開する関係になったと考えられる。

濊が普及品の毛皮交易に専念し、粛慎と高句麗が高級毛皮と海獣の皮革の販売に専念していれば、両者は市場を分け合う関係に収まったかもしれないが、オホーツク海沿岸にもモンゴル系狩猟民族がいたし、濊と提携した北九州の倭は、関東で生産した高級毛皮や海獣の皮革を販売したかったから、両者の品揃えは競合し、最後は武力抗争で決着を付ける事になり、唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされる事によって決着した。

朝鮮半島の歴史としては、両者は共通の敵だった殷人や扶余と対峙していた関係上、時には提携していた様に見えたが、その背後では縄文晩期から勢力争いが展開されていた事を、出雲部族と伊予部族の対立関係から読み解く必要がある。つまり津軽も大洞土器の文化圏になったが、伊予部族は津軽にはヒエの栽培者を送り込まなかったから、出雲部族はソバの栽培者だったmt-M9を津軽に送り込んだと想定される。しかし東北縄文人には特定の部族への帰属意識が薄かったから、津軽も大洞式土器の文化圏にはなったが、内実はかなり異なる文化圏だったと考えられる。

出雲部族にはY-C3を乗せた船が大陸と津軽を往復する程度の海運力しかなく、人の移動や交易品の運搬が頻繁に行われる様になると、海洋技能に優れた対馬部族がそれを担う必要が生れ、雲部族と対馬部族の共同経営としてこの事業が進められたと想定される。

山海経が、「列姑射(れこざ/出雲部族)は海の河州の中に在り。射姑(ざこ)国(宗像部族は)海中に在り、列姑射に屬す。西南、山が之を環る。」と、弥生温暖期の事情を記しているのは、島根半島に囲まれた川洲に出雲があり、遠賀川の河口に宗像がある地形を表現していると、(4)山海経の項で想定したが、この関係は弓矢交易時代に発生して縄文後期に一時途絶えたものが、縄文晩期に復活して古墳寒冷期まで継続した事を示している。

亀ヶ岡では竪穴住居跡が発掘されないから、亀ヶ岡の住民はテント生活をする狩猟民だった可能性が高く、狩猟民は縄文人化したモンゴル系のY-C3と、大陸から渡来したモンゴル系のY-C3と、縄文人起源のY-C1だったと想定される。彼らがmt-N9aを受け入れてペアを形成し、或いは渡来したモンゴル系のY-C3mt-N9aペアが亀ヶ岡文化を形成したから、亀ヶ岡の土偶が遮光土偶になり、土偶を壊す文化を持たなかったから完形品に近い土偶が残されたと想定される。mt-M9は北陸文化圏の女性だから、土偶に対する考え方は沖縄系縄文人とは違っていた故に、土偶を壊さなかった可能性もある。

その様な状態になると、縄文後期には不遇をかこっていたY-O3a2a漁民も、主要な食料供給者として大活躍する時代が到来し、mt-M9を迎え入れて総合的な食料生産者になったかもしれないが、縄文晩期にはほぼ海退が終わり、当時の湖岸は5m以上の土砂に覆われているから、彼らの痕跡は発見できないかもしれない。

mt-N9aは現代日本人の4.6%を占めているから、この時代に東北にいた出雲部族のY-C3Y-C1だけではペアとして受け入れ切れず、対馬部族のY-C1が協力しても十分とは言えなかっただろう。河川漁民もペアとして受け入れたとすれば、ソバを栽培させる為にmt-M9だけではなくY-O2b1も富山から招いたと推測される。

弥生時代初頭に生まれた砂沢式土器は弥生稲作と関連付けられているが、東北北部に分布している異常さがあり、mt-M9が作ったと考える事によってのみ事象との整合性が得られるので、次節で論考する。

関東にも毛皮の加工者だったmt-M10が縄文晩期に渡来したが、関東縄文人からmt-N9aは検出されていない。しかし現代日本人のmt-N9amt-M103倍もいるから、出雲部族にとっては津軽での毛皮生産が最大の交易事業だったと考えられる。つまり出雲部族のビジネスモデルは、シベリア南部のモンゴル系民族が毛皮を生産し、それを津軽のmt-N9aが高級毛皮に仕立て、濊が華北で販売するものだった。その市場だった華北に近い遼東を拠点としていた濊が、高級毛皮の製品仕様を決めていたと考えられ、古事記が説話として示す、大国主が沼河ヒメを娶ったのは、青銅器時代になって磨製石斧の販路を失った富山のmt-N9を、ソバの栽培者として津軽に送り込んだ事を指し、宗像のタギリヒメを娶ったのは、毛皮の輸送者として対馬部族の海運力を入手した事を指し、大国主の地位が安定すると小さな神である少名毘古那(すくなひこな)と国作りをした説話が続くが、少名毘古那は小国で人口が少なかった濊を指すとすれば、濊が東朝鮮湾から紅海に抜ける交易路を形成する事により、毛皮交易が順調に立ち上がった事を示す事になり、その順序は歴史の展開と整合する。また少名毘古那の父である神産巣日神(かみむすひのかみ)はツングースになる。天地(あめつち)が開けて最初に生まれた3神が天の御中主神高御産巣日神神産巣日神だから、天の御中主神が天孫族の祖先である漁労民族を指し、高御産巣日神がシベリアの狩猟民族を、神産巣日神はシベリアの漁労民族を指すと考えられるからだ。

少名毘古那が去るとパート―ナーが御諸山の神に変るのは、奈良盆地に入植した対馬部族が対馬部族全体の統括者になり、彼らと良好なパートナーシップを維持すれば、宗像の漁民が出雲に協力する事によって交易が進展したと指摘しているから、殷周革命によって周が生れる以前にこの様な事態が進行した事を示唆し、竹書紀年や魏志東夷伝では分からない裏事情を示している。

この時期のmt-N9aの人口規模が現代日本人に遺され、4.6%を占めているとすると、古墳時代の帰化人を除いた弥生時代の人口の6%だった事になるから、山陰に移住した人々を含めた当時の出雲部族の半分がmt-N9aになったとしても、出雲部族の人口は当時の日本の全人口の12%ほどになって多過ぎる。従ってmt-N9aの渡来は、縄文晩期寒冷期と古墳寒冷期の2波あった可能性が高い。

弥生温暖期になると毛皮需要は減少したから、mt-N9aは対馬部族の領域である周防灘に南下し、mt-B4の指導を受けて稲作者になったが、古墳寒冷期に再度毛皮需要が高まると、出雲部族は再度大陸からmt-N9aを渡来させ、毛皮の生産者になって経済的に繁栄したと考えられるからだ。豊国の南にある宮崎は、縄文後期の遺伝子を遺していると指摘したが、その様な宮崎の人の2%がmt-N9aだから、豊国には多数のmt-N9aがいた事を示唆している。多数の対馬部族の縄文人が奈良や京都に入植したから、人口規模は出雲部族の何倍もあった事は間違いないからだ。

いずれにしてもmt -N9aは現代日本人の4.6%もあり、養蚕の為に渡来したmt-M7bB5のそれぞれに匹敵する割合を占めているから、毛皮交易の収益性の高さと古墳寒冷期に出雲が繁栄した理由を示している。また古墳時代の出雲人はY-C3mt-N9aのペア、及びY-C1mt-N9aのペアが極めて多い、特異な国だった事になる。

関東に渡来したmt-M10は現代日本人の1.3%しかいないのは、黒貂などを素材とする高級毛皮を生産していたから、現代日本人に占める遺伝子割合は低く、mt -N9aは鹿、キツネ、熊などのありふれた毛皮から廉価な毛皮を生産していたから、数が多かったと想定される。但し関東部族起源の遺伝子は現代人の25%で、縄文晩期にはその半分が西日本に移住していたとすると、縄文晩期の関東ではmt-M101割を占めていた事になり、関東部族の2/3が漁民だったとすると、mt-M10は縄文人の30%を占めていた事になり、縄文晩期の関東部族の重要産業だった事になる。

濊の人口は弥生時代末期に2万戸しかなく、陸送を担う交易者でもあったから、毛皮に関する濊の生産部門は他地域で賄う必要があり、それが亀ヶ岡だったと考えられる。同時期の高句麗の戸数が3万戸で、食料を生産しない者(交易者)が1万戸だったから、純粋な交易者は1/3だった事になる。この時代の日本の人口が100万人だったとすると、5万人(1万戸)がmt-N9aとその家族として毛皮の加工に従事していた事になるから、濊には手に負えない生産工程だった。

高句麗人の遺伝子を含んでいる韓国人にはmt-N9aよりmt-M10の方が多い事は、高句麗が弥生温暖期末期~古墳寒冷期にmt-M10を集め、高級毛皮を多量に生産した事を示しているが、日本人のmt-M10比率は韓国の1/4しかなく、それが毛皮の販売者だった北九州の倭と高句麗が、宿年の対立関係を生み出した原因の一つだったのかもしれないが、朝鮮半島のmt-N9a比率が日本人より低い事は、朝鮮半島の当時の人口が日本の人口の23割しかなかった事から考えると、出雲部族のmt-N9aが生産する普及品の生産量は、高句麗の生産量を圧倒していた事になり、何時の時代にも普及品の販売量の方が圧倒的に多いから、高句麗が新羅を敵視した理由を示し、高句麗は高級品で利益率を高め様としたが、その様な高句麗を西日本の倭が妨げていた事になる。

毛皮などの商品にはマーケティングによる市場形成が必要であり、その需要に合わせて生産する生産力も重要だから、現代社会でも高度な工業製品は海運者より生産者が優位になる。それは高度に産業化が進んだ社会に特徴的な事象であり、その様な社会では普遍的な事象でもある。その一例を挙げれば、穀物や鉄鉱石の買い付けが重視された50年前までは、海運業を主体とする商社も先端産業として活躍したが、その産業社会が高度化すると目立たない存在になった事が挙げられる。つまり毛皮交易を行う際に、出雲部族が対馬部族の上位者だった事は、mt-N9aを集積した津軽の生産システムが、極めて高度化していた事を示している。

亀ヶ岡文化を代表する遮光土器は、シベリア起源の狩猟民族のmt-N9aの審美眼から生まれたが、その器形のルーツがシベリアにはない事は、中部山岳地帯の土器のルーツが中華世界にはない事と同様に、縄文人の食料事情の豊かさと時間的な余裕が、彼女達の心の中に眠っていた精神世界を顕在化させたからだと考えられる。

縄文晩期に是川遺跡が復活し、大船渡が大洞式土器の代表遺跡になった事は、関東部族がシベリアとの交易に再び注目して伊予部族の湊が活性化した事を示し、関東にmt-M10が渡来した事と整合している。mt-M10がクロテンなどの高級毛皮の加工者だったのであれば、その原料である毛皮を輸入し続ける必要があったし、関東縄文人からmt-Gが発掘されている事は、オホーツク海沿岸のオットセイの皮革も輸入し、関東でmt-Gが仕上げ加工を行っていた事を示しているからだ。

亀ヶ岡は出雲部族の生産拠点で是川は伊予部族の湊だったから、両者を同一文化圏として括る事には疑問がある。伊予部族と出雲部族の敵愾心が高揚していたからであると共に、縄文後期までは東北縄文人ではなかったmt-M9が津軽に北上した事も、東北縄文人の一体感を喪失させる出来事だった。

縄文晩期に津軽や秋田で起こった出来事として、亀ヶ岡遺跡の発掘報告書が以下を指摘している。

亀ヶ岡遺跡の丘陵北部の検出遺構が、前・中期のフラスコ状土坑群や堅穴建物跡から、晩期の土坑墓群へと大きく変化する。岩木川上流の川原平遺跡、青森平野南部の朝日山遺跡、秋田県鷹巣町の藤株遺跡、秋田県増田町の梨ノ木塚遺跡も、縄文晩期になると大規模な墓域を形成する様になり、それ以前の時期とは検出遺構の内容が変わる。

これらの遺跡はヒエの栽培地だったとは考えられない場所に立地しているだけではなく、朝日山遺跡は環状列石が遺されている小牧野遺跡の2㎞北にあり、藤株遺跡は同じく環状列石で知られる伊勢堂岱遺跡から、4㎞程しか離れていない事に留意すする必要がある。つまり縄文後期温暖期には不遇をかこっていた縄文人が、縄文晩期に人口を増やした事を示しているからだ。

これらの地域では亀ヶ岡と同様に住居址の発掘例が乏しい事も、これらの地域に入植したのは狩猟民族だった事を示唆している。増田町の梨ノ木塚遺跡は雄物川の上流にあるから、縄文晩期には雄物川の河口の砂丘も破れ、海洋民族が遡上できる環境が生れた事を示しているが、最上川の上流域である宮の前遺跡群とは異なる人々の遺跡である事に留意する必要がある。宮の前遺跡群の人々は元々ヒエの栽培者だったから、水耕技術を取り入れて豊かな収穫を享受する人々になったが、雄物川の上流入入植した狩猟民族は、それまでY-C1の人口も希薄だった地域に新たに入植した狩猟民族になるからだ。

従って墓制を共有するそれらの人々は、大陸のモンゴル系狩猟民族だった疑いが濃くなり、出雲部族の特異性を更に高める事になる。

この様な人々がmt-M9が生産したソバを食べていた事は、彼らは大陸でもソバを食べていた可能性を高める。mt-M9はモンゴル人にも分布し、韃靼ソバは日本にも知られている栽培種だからだ。つまりモンゴル系狩猟民族が日本に移住する際に、故郷の食料と同じものを求めたから、出雲部族が富山のmt-M9に目を付けて津軽と秋田に入植させた事になり、出雲部族と伊予部族が対立していたから、津軽にヒエの水耕栽培が導入されなかったわけではない事になる。また日本人に占めるmt-N9aの多さを考慮すると、この時期に津軽や秋田に入植したmt-M9の数も多かったと考えられる。

ソバの花粉が検出されたのは亀ヶ岡遺跡の土壌中であり、この時期の亀ヶ岡遺跡は古津軽湖が潟湖になった状態の、湖に面した海岸砂丘上にあったから、この付近でソバが栽培されていたのではなく、五能線以南の平野部で栽培していたと推測されるから、そこから10㎞も離れた亀ヶ岡に飛散した花粉が検出された事になり、現在の津軽平野の南部にはソバの畑が広がっていた事を示唆し、上記の事情を傍証している。

mt-M9が集積した津軽平野は他の沖積平野とは異なり、七理長浜が形成した湖の湖面標高が時代の進展と共に徐々に低下した事により、川が平地より僅かに低い谷を流れる洪水の危険がない平坦地になっていたから、鉄器を持たない栽培者にとっては、谷合の平坦地や海岸の沖積地より稲作に適した地形だった。そこでモンゴル系の狩猟民族の為にソバを栽培していたが、青森東部、岩手、山形にはソバより生産性が高いヒエの栽培者が居て、伊予部族や関東部族との交易の中で大洞式土器を生み出す豊かさを得ていた。

従って津軽のmt-M9の中には、ヒエ栽培を取り入れる希望の高まりを抑え切れず、青森東部のヒエ栽培者の集落に出向き、栽培の修行に励む者が生れてもおかしくない状況だった。その様なmt-M9が津軽に帰って大洞式土器を作り始めたとすれば、極めて自然な流れであるし、ソバとヒエを並行的に栽培する状況が生れる事も、必然的な状況だった。

その様なmt-M9が製作した弥生時代初頭の砂沢式土器が、大洞式土器の系譜である事がこの事情を示している。従って考古学者がこの時期の北東北の代表的な土器の名称を、亀ヶ岡式から大洞式に換えた事は賢明な処置であり、将来的には異なる文化圏の土器として扱う事が望ましい。

 

4-5-5 稲作者になったmt-M9

砂沢遺跡は縄文晩期から弥生前期まで継続し、畔を持つ水田でありながら遠賀川式土器が混在するので、mt-B4から稲作指導を受けながら、北九州からmt-D4を招いた事になる。前掲の生石2遺跡が、砂沢土器を使用していたmt-M9の稲作が、庄内平野の稲作より先行していた事を示しているから、東北で真っ先に稲作を始めたのはmt-M9だったと想定され、その発生地は山形や秋田ではなく津軽だった可能性が高い。

その理由は津軽がmt-M7aの集積地だったからでもあるが、太平洋沿岸の是川遺跡の周囲の多数の遺跡から、遠賀川式の土器が発掘されているからでもある。つまり縄文晩期のmt-M7aがヒエの栽培を習った地域が、是川周辺のヒエ栽培集落だったから、弥生温暖期にこれらの集落のヒエ栽培が行き詰まると、mt-F流のタイヌビエの駆除技術を伴うmt-D4の稲作を、恩返しとして遠賀川式の土器と共に拡散した事を示唆しているからだ。

その様なmt-D4の状況を検証すると、遠賀川は対馬部族のテリトリーだった宗像の川だから、その流域には関東部族のmt-Fmt-B4は住まなかったが、mt-B4+M7bは構わずに進出したからmt-D4の稲作地になったと推測される。

縄文後期に対馬部族が東北から招いた縄文人が、遠賀川中流域のアミダ遺跡を遺した事は、東北から移住したmt-M7aは中流域で熱帯ジャポニカを栽培し、下流域の沖積地でmt-D4が温帯ジャポニカを栽培していた事を示し、mt-D4の既得権を対馬部族が認めた事を示している。その状況が弥生時代まで継続したから、遠賀川流域に独特の稲作文化圏が生れたと推測され、その地のmt-D4も縄文後期初頭には関東部族の漁民を交易相手にしていたかもしれないが、対馬部族が熱帯ジャポニカの大産地として豊国を形成した頃には、対馬部族の縄文人になっただろう。

従って遠賀川流域のmt-D4が対馬部族のテリトリーである秋田に拡散する際には、対馬部族の船を使う事ができた。対馬部族の船は毛皮の運搬も行っていたから、潟湖になっていた古津軽湖にも出入りしてmt-M9の情報ネットワークと接していただろうし、多数のmt-M9を富山から津軽に送り込んだのも対馬部族の船だった可能性が高いから、mt-M9にとっての海洋民族は対馬部族だった可能性も高い。遠賀川式土器が東北の日本海沿岸を急速に北上したのは、その様な事情が背景にあったからだと考える必要があり、津軽が稲作の発祥地になる事にも必然性があった。

また対馬部族は縄文後期温暖期に東北のmt-M7aを豊国に入植させる際に、関東のmt-B4とも深い関係を結んだから、関東のmt-B4が関東部族の船で津軽を訪問する事もあり得たし、対馬部族の船で津軽を訪問する事もあっただろう。

磨製石斧産業が崩壊した後のmt-M9は、生産性が高いヒエ栽培者に囲まれてソバの栽培から脱却したかったから、取り敢えずはヒエの栽培者になったが、アワの栽培者とも長い付き合いがあったから、ソバの代わりに採用する穀類の選択に付いては、mt-M9の情報ネットワーク内にも議論があっただろう。弥生温暖期になると素早く稲作者になったのは、ヒエ栽培に乗り遅れていた女性達が、稲作に飛び付いた事を示唆している。

北九州のmt-D4mt-Fを真似て温帯ジャポニカを栽培し、mt-B4の稲作とは異なる独自の稲作で縄文晩期寒冷期を乗り切ったから、弥生時代には純粋な温帯ジャポニカに近い品種を栽培する事により、熱帯ジャポニカを混載して生産性を低下させたmt-B4の混栽方式より、高い生産性を得ていたと推測される。

mt-B4は混栽稲作によって京都盆地からアワ栽培者を駆逐する事ができたし、稲作地を北関東に拡大する事もできたし、熱帯ジャポニカの価値を高めるビジネスの基本だったから、耐寒性を得る稲作の改革に余念がなく、mt-D4の稲作を邪道であると考えていただろう。再び寒冷期になったらひとたまりもなく、稲作が崩壊してしまうリスクを孕んでいたからだ。

しかしmt-D4は生産性の高い稲作を背景に、北九州の一部を独自の稲作文化圏にしたから、遠賀川式土器はその文化圏の土器になったとすれば、温暖な西日本にこの土器が拡散した状況と一致し、対馬部族の勢力圏に拡散した事情とも一致する。しかし弥生温暖期が終わったBC200年頃には、西日本でもこの稲作は見捨てられ、mt-B4が提唱した混栽稲作が日本全土に拡散した。

遠賀川式土器は弥生前期の土器であると言われるが、弥生時代の編年に関する考古学者の見解が統一されていないので、遠賀川式土器の時代的な位置付けは明らかではない。弥生前期と弥生温暖期が同義であれば、遠賀川式土器は弥生前期の東北の対馬部族の交易圏に、mt-D4の拡散と共に拡散した事になる。

ウィキペディは遠賀川式土器の分布域として、太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域に及ぶとされたが、その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。青森県三戸郡南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。これらの遺跡からは石包丁、石斧などの大陸系磨製石器類が出土していると指摘している。

対馬部族は縄文晩期に濊との関係を深めて遼東にも進出したから、その機縁で石包丁、石斧などの大陸系磨製石器類が伝わり、土器の仕様もその影響を受けたのかもしれないが、大陸系磨製石斧と軽々しく記す事には問題がある。大陸系の太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧の材質は玄武岩で、蛇紋岩製の磨製石斧より遥かに性能が落ちるからだ。つまりmt-M9集団が蛇紋岩製の磨製石斧を作らなくなったから、容易に形成できる玄武岩の磨製石斧しか、使う事が出来なくなった事を意味し、日本が青銅器時代になって焼畑農耕者が蛇紋岩製の磨製石斧を使わなくなったから、蛇紋岩製の磨製石斧を製作する産業が、巨大産業化し過ぎていた故に崩壊し、蛇紋岩製の磨製石斧が出回らなくなった事と、石斧を重視する人々は青銅製の石斧を使ったから、性能が劣る太形蛤刃石斧でも問題がなくなった事を意味するからだ。

玄武岩は長石の含有率が高いから、蛇紋岩の様な粘性も硬度もなく、石英成分が多い安山岩で研磨して成形する事ができ、柘榴石系の研磨剤も必要ないが、蛇紋岩製の様に刃を薄くする事はできないから、ハマグリ型の厚い肉厚が必要になる。多少の訓練で誰でも製作できるから、蛇紋岩の磨製石斧が作られなくなるとこれしかなくなったが、その背景として海洋民族が船を造る際には鉄器を使い、焼畑農耕者が樹林を切り開く為には青銅器を使っていたと考える必要がある。

つまり考古学者にとって必要な事は、日本の青銅器時代の始まりを示す事情である、蛇紋岩製の磨製石斧の終焉期を示す事であり、この一連の話しとしては、mt-M9が生業を失って津軽に流れなければならなくなった時期を示す事になる。弥生時代の初頭から太形蛤刃石斧が使われた事は、縄文後期に青銅器が普及し始め、晩期には磨製石斧の生産が停止した事を示唆し、mt-M9が津軽に流れていく理由が生れた事になるから、この想定は時代の流れと整合する。

考古学者は弥生稲作の拡散と遠賀川式土器の拡散を同一視するが、これはmt-B4の日本式の稲作の普及とは別もので、稲作技術はmt-B4の様に体系付けられたものではなかったから、弥生温暖期が終わったBC200年にはメッキが剥げ、それ以降のmt-D4は稲作者として通用しなくなったから、日本のmt-D4比率は高くない事は既に指摘した。

弥生温暖期の西日本であれば、純粋な温帯ジャポニカの稲作も可能だったから、田植えをする日本式の稲作を普及させていたmt-B4から見ると、普及活動を妨げる困り者だった。mt-B4は稲作技術を伝えただけだから、各地の土器にmt-B4の痕跡は残っていないが、宗像のmt-D4は稲作者として浸潤的に拡散したから、遠賀川式土器が各地から出土するが、両者の稲作の採用事情を確認する為には、在地の土器と遠賀川式の土器を区別する必要がある。

山陰のmt-Dは縄文晩期寒冷期に痛い目を見たから、同じ九州発のmt-D4の稲作には懐疑的だった可能性が高く、関東発のmt-B4式には安心感があった事は既に指摘した。縄文後期に熱帯ジャポニカの栽培地者になり、mt-B4が縄文晩期に混栽を広めた地域でも、mt-D4の稲作を採用してmt-B4を困らせる事態を避ける、賢明さがあったと推測されるが、弥生温暖期に稲作が一種のブームになった事は間違いなく、安易にmt-D4を招いた人々もいただろうし、両者を比較していずれかを採用した地域もあったから、その様な地域から遠賀川式の土器が発掘される事もある。

砂沢遺跡から畔を持つ水田が発掘され、その遺跡に遠賀川式の土器も混在している事は、ソバの栽培者として津軽や秋田北部に入植したmt-M9が、稲作者に転換した事を意味する。水田が発掘された事はmt-B4式の田植えを採用した事を示し、遠賀川式の土器も混在している事は、北九州ではmt-B4式より生産性が高かったmt-D4式の稲作も、mt-D4を招いて試した事を示している。

この地域に遠賀川式の土器が普及しなかったのは、mt-D4式の稲作では収穫が不安定だった事を示し、縄文晩期にはmt-B4型であっても新潟までしか北上しなかった事と整合する。また砂沢遺跡の次世代の稲作遺跡として、田舎館村の垂柳遺跡に多数の水田跡を残した事は、津軽にはmt-B4型の稲作が適しているとmt-M9が判断し、水害のない緩やかな緩斜面に水田を次々に形成していった事を示している。

弥生時代になると庄内平野にも稲作地が生れた事を、最上川が庄内平野に流れ出ている標高1012mの場所にある、生石(おいし)2遺跡が示している。以下は発掘報告書の要約。

土器は砂沢系、遠賀川系、折衷系が共伴し、砂沢系土器(弥生Ⅰa)が畿内第Ⅰ様式中段階と平行する。これは土器形式で12型式の差で、西日本にさほど遅れることなく弥生文化が搬入されたことを示している。器種構成は鉢・高坏・甕A・甕B(=深鉢)・壷・蓋の6種類があり、3系統別に分けられる。砂沢系土器には装飾性の濃い鉢・高坏・甕Bがあり、亀ケ岡式土器の装飾体系の伝統が残っている。

遠賀川系土器には壷があり、遠賀川式土器の形姿や成形技法が遺憾なく反映されている。折衷系土器には甕A・蓋があり、砂沢系の縄紋、遠賀川系の形姿・沈線や列点紋に見られる施紋が融合している。この構成には機能的なまとまりが見られ、3系統の土器は相互に補完関係にあることが分かる。

これは当地方の縄紋晩期以来の組成とは異なるもので、西日本の弥生土器のありかたと共通する。亀ケ岡式土器に見られなかった蓋と甕の加入は、生活様式の変革に伴う土器の用途に変化が起こった事を示している。

この遺跡では遺物が包含された土層を発掘したが、遺構は検出していない。スクレイパー(穂首狩り器)が23点発掘され、蛤刃石斧が1点発掘されているが、土堀具は発掘されていない。つまり畔を形成しないmt-D4型の稲作が拡散した可能性が高く、mt-D4を受け入れたのは縄文晩期には、古山形湖の周囲にいた縄文人の子孫だったとすると、弥生温暖期になってタイヌビエが繁茂する様になり、ヒエの収穫が激減したから、mt-M9mt-D4を北と南から招いて急いで稲作者になったと推測される。やや離れた場所から関東風の墓制である再葬墓が発掘され、この遺跡の人々が大木式文化圏の人だった事を示唆しているからだ。

 

4-5-6 東北に南下した続縄文文化と擦文文化

津軽平野は洪水の危険がない平坦地で、中小河川が縦横に流れていたから、弥生温暖期が千年続けばmt-M9も、mt-Fの様な生産性が高い稲作者になる可能性を秘めていた。やがて能代や秋田もその様な地域にする事も計算し、準備万端を整える一環として緩斜面に形成する棚田の形成技術も開発した事を、垂柳遺跡の水田跡が示している。北限の栽培者は雑草の被害が最も少なく、その駆除技術の開発負担も軽いから、弥生温暖期の津軽は稲作天国だった可能性が高い。

耐寒性が高いソバの栽培者だったmt-M9には、気候循環があるから温暖期の豊作には気を付ける必要があるという、稲作者であれば当然持っていた伝承や配慮に欠け、この様な北限の地で稲作者になった可能性が高い。熱帯ジャポニカを栽培化したmt-B4も、ヒエを栽培化したmt-M7aもそれを承知していたから、作物の耐寒性を高める努力を続けていたし、mt-Dもそれを認識していたから冷涼な北陸を捨て、温暖な西日本や九州・四国に拡散したとも言える。

それを具体的に言えば、温暖期に北上した稲作者が耐寒技術を高めると、次の寒冷期には稲作の本拠地に南下し、本拠地で漫然と稲作を行っていた女性達を、同じミトコンドリア遺伝子の女性が浸潤する事態が発生した筈だから、現在まで出遺伝子を遺しているmt-B4mt-Fは、温暖期になると積極的に北上した遺伝子が優勢になり、母から娘に伝えられる栽培思想にその様な判断が組み入れられていた可能性が高い。しかし津軽の稲作者になったmt-M9には、その様な伝承も認識もなかったと推測される。

津軽で栽培したソバが狩猟民族との交易品になり、ヒエ以上の価値がある穀物であると誤解したが、狩猟民族がその他の穀物も消費する様になってソバの商品性が低下すると、穀物の商品化に味を占めたmt-M9が二匹目のドジョウを狙い、海洋民族にとって最も価値が高い稲作に挑戦した疑いもある。

何度も温暖期と寒冷期を経験してきたmt-B4の情報ネットワークの安定感が、mt-B4の精神状態を安定させていた事は間違いなく、穀物の生産性が高まって穀物生産者の発言が社会的な影響力を強めると、女性達の意思が民族的な判断の根拠になる場合が頻出する様になる。その様な栽培女性達が最も重視していた事は、情報ネットワークの活性化による栽培技術の向上であり、その最大の必須要件は、栽培技能を次世代に繋ぐための栽培人口の維持・拡大だった。縄文後期以降の女性達がその意欲を高め、情報ネットワークの重要な組織目標に掲げていた事を、歴史事象が露にする様になったからだ。

関東部族でmt-B4が部族交易の牽引者になった様に、津軽で稲作者になったmt-M9にもその道が開けると、ソバの栽培ネットワークを稲作のネットワークに転換し、津軽平野を関東にも負けない稲作地するべく、稲作地の拡大技術の向上に邁進した状況が、垂柳遺跡の立派な水田跡だったのではなかろうか。津軽平野にはmt-D4型の稲作地もあった筈だから、両者を併存させながら各々の利点を検証する様な、伝統的な稲作者だったmt-Fmt-B4には生れなかった発想も、mt-M9は取り入れていた疑いもある。

この項の主要なテーマの一つとして、江戸時代初頭に稲作技術の大変革があり、その象徴が熱帯ジャポニカとの混栽を止め、水田を通年使用する稲作に変った事だが、それは日本が武闘的な中世から産業社会化を目指す近世への転換点と同期していたから、関東のmt-B4の動向を追跡する必要があるとの認識の下で、それに関する状況を幾つか指摘してきた。

mt-B4の追跡は勝者の視点になり、その背後にいた敗者の視点も検証する必要があるが、津軽のmt-M9はその格好の検証材料になる。

 

古墳寒冷期の津軽

弥生温暖期はBC200年に終わり、津軽平野はヒエを栽培する続縄文文化圏になった。自己の栽培種に拘る性格が強かったmt-M9には耐えられない状況が続き、精神的な理由によって人口を激減させた可能性がある。平安温暖期になると再び稲作が北上し、津軽平野が稲作地になった事が、最後のダメ押しになった可能性もある。

その様に判断する理由は、篠田氏が「日本人になった祖先たち」で示す、青森から宮崎までの日本人の遺伝子構成に一様性があり、稲作者と焼畑農耕者の共生社会が、弥生時代以降どの様に日本列島に拡散したのかを示し、歴史的な解釈を可能にしているが、本土日本人にmt-M9が殆どいない事は、弥生時代以降の津軽のmt-M9に異常な事態が発生した事を示しているからだ。

ヒエも湿地で栽培すると生産性が高まるが、田舎館遺跡が縄文中期に断絶し、畔で仕切る水田が放棄された事は、畔はヒエの栽培には不要な施設だった事を示し、mt-M9が開発した稲作技術が無駄になった事を示唆している。

mt-M9の情報組織を挙げて日本式の稲作に切り替えた700年後に弥生温暖期が終わり、中核地だった津軽がヒエ栽培文化圏になった事は、稲作を推進した組織のリーダーが自信を失った事を示唆し、その混乱の中で800年後に再び稲作が北上すると、ソバ、ヒエ、コメの生産が混在する状況が生れ、情報ネットワークが完全に破壊されて女性達が地域や個人に分解されたと想定される。現代青森や東北6県のmt-M7a比率は特に高くはなく、ヒエ栽培の拡散も浸潤より技術移転が中心だったと考えられるから、この地域のmt-M9は特定の栽培者ではなく、栽培技術をmt-B4やmt-M7aから学んだ他の遺伝子に、浸潤されてしまった可能性が高いからだ。

古墳寒冷期になった弥生後期の、鳥取の青谷上寺地遺跡から4体のmt-M9が検出され、古墳寒冷期になってもmt-M9は健在だった事を示唆しているが、鳥取は北陸部族のアワ栽培者が稲作者と共生していた地域だから、青谷上寺地遺跡には縄文中期まで磨製石斧の職人だったmt-M9がいたが、全国的には既に少数者になっていた可能性がある。

つまりmt-M9の人口を激減させた理由は、縄文晩期寒冷期に津軽平野や能代平野のソバ栽培者になったmt-M9が、弥生温暖期にその地で稲作者になる夢を抱いて富山から同胞を呼び集めたが、その後の両地域の栽培穀物の度重なる変遷により、栽培者としての自信を失ったからである疑いがある。北九で稲作者になったmt-D4も同様の事情によって遺伝子を激減させた疑いがあるが、こちらは弥生温暖期の西日本でmt-B4の活動を妨害した遺伝子だから、古墳寒冷期になるとmt-B4の恨みが爆発し、混栽技術の移転を拒否された疑いも濃い。

亀ヶ岡の繁栄が弥生時代に途絶えたのは、温暖期になって毛皮需要が減退したからだと想定されるが、古墳時代に再び毛皮交易が活性化しても、この地域は毛皮の生産地として復活しなかった様に見える。しかし北九州や出雲の人々が新羅と同盟し、高句麗と毛皮交易の覇権を争った事は間違いないから、mt-N9aが何処かで毛皮の加工を行っていた事も間違いなく、そのmt-N9aに穀物を供給していた栽培者がいた事も間違いない。弥生温暖期のmt-N9amt-B4の指導によって稲作者になり、古墳寒冷期に再び毛皮の加工者になった事を、豊国の南の宮崎の遺伝子分布が示しているとすれば、モンゴル系の狩猟者だったY-C3も含め、mt-N9aはアワやコメを食べる人々になっていた事になる。

古墳寒冷期に東北北部が続縄文文化圏になった事は、津軽は伊予部族の勢力圏になった事を意味するから、伊予部族と反目していた出雲部族は鳥取のコメやアワを活用した可能性が高く、豊国と奈良・京都を抑えて日本最大の稲作集団になった対馬部族もそれを支えたと想定され、津軽のmt-M9は出雲部族や対馬部族に見捨てられた事になる。

 

続縄文文化と擦文文化

縄文晩期寒冷期にヒエ栽培が山形や宮城に南下すると、この地域が北海道のヒエ栽培文化圏になった事を、北海道の長沼町幌内遺跡や北見の常呂川河口遺跡から、在地の土器とは別に大洞式土器も発掘された事が示している。つまり大洞式土器の文化圏の女性がヒエの栽培技術を獲得する為に、北海道の各地に短期居住した事を示唆しているからだ。

ヒエ栽培は弥生温暖期に下北半島以北に後退し、それより南はmt-M9が東北型に改編した稲作文化圏になった事は既に指摘した。

弥生温暖期の北海道は続縄文文化期になり、前期の土器は道南、道央、道東の三つの文化圏に分かれていた。道南と道東が伊予部族の文化圏で、道央は北海道部族の文化圏だったと推測されるが、それぞれの土器の器形や文様の要素が交換され、稲作文化圏の様に関東で稲作修業をした女性が帰郷すると、関東風の土器を作る様になる一方的な師弟関係ではなく、各地の栽培技術を交換しながら栽培技術を高めた事を示唆している。

北海道と東北・北陸の土器を研究している考古学者は、古墳寒冷期(弥生時代後期~古墳・飛鳥時代)に北海道のヒエ栽培が、これらの地域に南下した事に気付いているが、王朝史観に拘る学会中枢がそれを認めないので、土器や装飾品を使って文化の流れだけを追っている様に見えるので、以下ではそれをヒエの栽培と結びつけて説明するが、考古学者が指摘するヒエ文化圏の土器の分布と、先に示した水田雑草であるタイヌビエの、F型の分布圏と整合する事を指摘して置きたい。

北海道の土器形式は弥生温暖期が終わる頃に統合の方向に向かい、その土器形式が後北ABCDと細分化され、CD期に北海道全域の土器形式なったと指摘されている。この土器は石狩平野の江別式土器を起源としているので、弥生温暖期の石狩平野でヒエ栽培の革新的な技術が開発され、それが古墳寒冷期に北海道全域に広がった事を示唆している。

石狩平野は不思議な平野で、広大な沖積地は嘗て其処に湖があった事を示しているが、その堰が何であったのかを、現在の地形から読み取る事ができない。しかし諸事情から推測すると、対馬海流の分流が石狩湾の沿海部に海岸砂丘を発達させた事により、それが石狩湾側の堰になったと考えられる。この海流が北海道を周回してサロマ湖を形成しているから、降雨量が多く流砂の量も多かった縄文時代に、その様な砂丘が形成された事に違和感はない。

石狩平野の南部の地形にも堰を推測させる丘陵はなく、石狩平野に流れる千歳川と苫小牧に流れる美々川の、分水嶺である千歳空港の標高は20mしかないが、石狩平野の北端の標高は60mもある。千歳空港を囲む地域は沈降地形であると推測され、ヤンガードリアス期から太平洋の湿潤期には100m近い標高だったと考えられる。幌内遺跡の発掘報告書に、「ホロナイ」はアイヌ語で大きな川を意味すると指摘されているが、付近に大きな川はない。5㎞西を千歳川が流れているが、地盤の沈降によって現在の川筋が生れたとすると、上記の仮説の定性的な説明になる。1万年間に80m沈降する状況が恒常的に進行したとすると、100年間に80㎝沈降する状況になるから、国土地理院が示す最近100年間の2倍の沈降速度になり、その様な沈降を示している地域は本州にもないが、北海道には本州にはない奇異な地形が各所にあり、活発な造山運動を展開している上に、この地域は隆起する日高山系と渡島半島に挟まれた褶曲による沈降帯だから、あり得ない話ではない。

従って石狩平野の末端である江別でヒエの湿地栽培が可能になった時期は、比較的新しい時代だったと想定され、弥生温暖期に石狩川の低地が湿地帯に変った事により、ヒエの湿田栽培が広域的に可能になり、石狩平野が弥生時代のヒエ栽培の中核地になったから、後北AD式の統一的な土器が生れたと推測される。但しこの地域の土器を基に一方的に標準化されたのではなく、各地の土器の特徴が複雑に影響し合った事を示している。

古墳寒冷期になった弥生時代後葉に、これらの土器の影響を受けたり大洞式の伝統を引き継いだりする、縄文土器風の弥生土器が東北や北陸に拡散する。西日本の弥生土器には煮炊きに用いた痕跡がないが、これらの土器にはその痕跡を残しているものが多いとの指摘もある。「甑」(こしき)