経済活動の成熟期 その3

 3、西日本で本格的な農耕が始まった

3-1 縄文後期の自然環境

縄文中期に海退が始まり、縄文後期に顕在化すると世界各地の沖積平野が拡大し始めた。温暖期に可耕地の北限が北上すると、両者が重なって農耕適地が爆発的に増加し、各地に農耕文化が生まれた。

荊が青州の低湿地に入植し、オリエントの大河流域に農耕文明が生まれたのはその一環であり、日本でも山間地の焼畑農耕でアワを栽培していた者の一部が、低湿地の稲作者に転換する流れが生れた。

縄文後期温暖期になると、大陸の温帯ジャポニカは青州(北緯35度以南)に北上し、日本でも北関東と福井県(北緯36度以南)まで温帯ジャポニカの栽培地になった。縄文前期末にmt-Fが関東に渡来していたが、縄文中期寒冷の温帯ジャポニカの栽培は不振を極め、日本最大の沖積平野が広がる関東に移住したメリットを生かす事ができなかった。

縄文中期寒冷期の大陸の稲作北限は、鹿児島と同緯度の湖北盆地北部辺りだったと推測され、関東部族の最南端だった駿河湾東部~小田原はそれより遥かに高緯度地域だから、mt-Fの苦境が推察されるが、短日性が強い温帯ジャポニカの栽培には、秋の冷涼化が遅い海洋性の気候が有利に働いたから、稲作が壊滅する状態には至らなかった。

この時代の耐寒性を高める品種改良は、収穫が多い稲穂のモミを翌年播種するものだったから、寒冷地で栽培しなければ耐寒性は高まらなかった。稲作民族は気候が冷涼化すると、生産性が高い稲作地を求めて南下したが、関東に渡来した故に縄文中期寒冷期を関東で過ごしたmt-Fは、稲作民族には生活できない冷涼な地域で千年間稲作を強行し続け、温帯ジャポニカの耐寒性を高めていた。

縄文中期寒冷期から縄文後期温暖期になっても、日本での温暖化は1℃未満だったが、それでも関東のmt-Fには恵みの温暖化だった。青州に北上した温帯ジャポニカの異様な耐寒性の高まりは、関東のmt-Fが耐寒性を高めた品種を採用したからだと推測される事は既に指摘したが、稲作の耐寒性向上は栽培技術の改良にも依存し、それは容易に移転しないから、耐寒技術に関する関東のmt-Fの大陸に対する優位性は維持されていた。

縄文後期温暖期になると、日本の温帯ジャポニカの栽培北限は、大陸の北限より高緯度地域である北関東に北上した。mt-Fより稲作技術が稚拙だったmt-Dの温帯ジャポニカ栽培が、九頭竜川の河口域まで北上した事がその事情を示している。

縄文後期温暖期にmt-Fが稲作の生産性を高めたので、関東の主要な稲作者がmt-B4からmt-Fに代わった。単位面積当たりの収穫が逆転しただけではなく、mt-Fの河川の広大な氾濫源を稲作地にする農法が、生産量を突出させる状態を生み出したからだ。

荊の稲作地の形成手法は洪水が起こり易い低湿地の地形を見定め、天井川を意図的に氾濫させながら流れを制御し、広大な稲作地を確保するものだったから、海退によって拡大した関東平野の低湿地が、mt-Fに広大な稲作地を提供したからだ。荊の稲作地の形成は、男性達が組織的に行っていたと推測されるが、日本人には荊のY遺伝子は殆どないから、mt-Fは女性達だけで渡来したと想定され、mt-Fが関東でも稲作が行えると判断して渡来した事は、mt-Fも稲作地の形成に関する技能を保有していたからだと考える必要がある。

縄文中期寒冷期のmt-Fは関東南部の酒匂川、相模川、境川、多摩川などの河口域や、房総半島に逼塞していたが、縄文後期温暖期には北関東の荒川、利根川、永野川、黒川、田川、鬼怒川、小貝川、桜川などの当時の河口域に北上し、生産性の高い稲作に従事したと考えられる。

しかしこの時代の低湿地は、現在は厚い沖積土砂に覆われている上に、mt-Fの集落は浸食され易い洪積台地の斜面に形成されたから、遺跡は発掘できないらしく発掘事例は報告されていない。

この時期に気候が温暖化した状況については、縄文時代の導入項に掲げたグラフや表から明らかなので、此処では海退による沖積平野の拡大状況を検証する。

氷期に形成された海岸の沖積平野は、海面上昇によって全て海中に水没したから、縄文海進期には氷期の河川が形成した谷に海水が侵入し、深い入り江を有する溺れ谷を形成した。海面上昇が継続していた時期には、河川が流出した土砂の堆積を上昇した海面が飲み込んだから、海岸に沖積平野はなく、岩石の山肌を波が洗う状態になり、入り江の奥まで海水が入り込んでいたが、これは世界共通の現象だった。

8千年前に海面上昇が止まって縄文海進期になると、沖積地の形成が深い入り江を埋め立てる事から始まったが、溺れ谷を沖積平野にするのに長い時間が掛った。大河の多くは前回の間氷期にも大河だったから、氷期初頭やヤンガードリアス期に深い谷を形成し、それが縄文海進期に巨大な溺れ谷になったから、大河の河口だから河口に沖積平野ができ易いとは言えない状況だった。

湖は流出河川の河谷が恒常的に侵食され、湖面標高が低下し続けていたから、縄文海進期以前から山間の谷間には低湿地が形成されていた。渡来直後のmt-B4は台地上の森林を切り開いて稲作を行ったが、やがて内陸の湖畔に形成された川洲や、柔らかい洪積台地浸食した河川が形成した、広い谷を使用する様になり、そこで蓄積した稲作技術を縄文後期まで使用したが、これは地殻変動が激しい日本独特の現象であり、氷期に洪積台地が多数生れた関東独特の現象だった。

地殻変動に乏しい大陸や、氷期にも多量の降雨があって湖が消滅した東南アジアにはない現象だから、縄文後期までの日本列島はmt-B4型の稲作の先進地だった。しかしそれらの遺跡の殆どは、湖面が低下すると川洲と共に失われ、洪積台地を流れる河川の浸食によって失われた。関東では縄文稲作はなかったとの先入観を堅持している考古学者は、検証さえも行っていないが、縄文時代の日本が稲作先進地ではなかったのであれば、現在の日本に先進的な稲作が展開されている理由を、別の観点から説明する必要があるが、原因不明の偶然が重なったと誤魔化す非論理性を示している。

海退が顕在化すると河口付近の遠浅の海岸が陸地化し、沖積平野が拡大した事も事実だが、可耕地がこの時期に急速に拡大したのは、河口に形成されたデルタを流れる川が氾濫しなくなった効果が大きい。デルタや沖積平野を流れる川は川底に徐々に堆積物を蓄積し、天井川になってやがて決壊し、流路を変える事によってデルタ特有の三角形の面積を拡大するが、海面が低下すると海に流れ込む川の河面標高も低下するから、海進期に形成された沖積平野では河川の決壊による氾濫がなくなり、洪水の心配がない可耕地になったからだ。

この様な沖積地の拡大と海面低下が並行的に進行し、稲作可能な沖積平野が拡大していったが、沖積平野が広くなると河川が蛇行し始めて氾濫が頻出する様になるから、その様な沖積平野に水田を展開する為には、鉄製の農具による土木事業が必要だった。従って日本が稲作列島になる為には鉄器が普及する弥生時代まで待つ必要があり、それまでの稲作者は食料を海産物にも頼る必要があったが、その様な状況も多数の海洋漁民がいた日本独特の事情だった。つまり日本が先進的な稲作地になったのは、関東を中心に縄文海進期から稲作適地が散在していただけではなく、生産性が低い稲作者を養う事が出来る、海洋漁民が多数いた事も重要な要素だった。

稲作が盛んになり始めた縄文後期の沖積平野は、河川が蛇行するほど広くなかったから、海浜に近い場所でも洪水の危険がない稲作地が得られた。しかしその様な当時の沖積平野は、現在の沖積平野の山裾にあって標高は530mもあるから、当時の稲作の痕跡は発掘できない。

関東の沖積平野の形成事情は様々あったが、外縁を山岳地の痕跡である丘陵に囲まれている事に特徴があり、それらの多くは地殻の沈降帯にあるから、縄文後期末の3500年前の低湿地は、現在は数十メートルの地下に埋もれている。それ故に発掘されていないとも言えるが、考古学者にその気がない事も大きな原因だろう。

北九州は考古学者が騒ぐほどには稲作先進地ではなかったが、地殻が沈降も隆起もしない地域なので考古遺物が残りやすい。その様な博多平野の、海面の高さを追跡したデータがあるので以下に示す。8千年前に海面上昇が終了し、縄文中期(5000年前)に海退が始まり、縄文後期(4500年前~)に海退が顕在化した事を示している。

火山列島である日本には局所的な隆起や沈降があり、沈降地では土砂が堆積して古い時期の海岸を埋めてしまったが、博多湾沿岸は直近の100年で10㎝ほど隆起した隆起性の地殻地域だから、この様なデータが採取できる。横軸の年代は補正されていないC14年代なので、3000年前(弥生時代初頭)まではほぼ正しいが、海面上昇が終了した8千年前は横軸の「7」の位置になり、海退が始まった5千年前は図の曲線のピーク位置になる。

博多湾の海底には河川の中流域に特徴的な川原石や粗い砂があり、海面が低下していた氷期には、現在の福岡平野から河川が流れ出ていた事を示し、前回の間氷期に博多平野を形成した軟らかい土砂は、氷期の間に玄海灘に排出された事を示している。従って前回の間氷期に形成された福岡平野は、氷期の10万年間に浸食されて当時の海面付近まで標高が低下し、再び海面が上昇した縄文海進期には水深が100m近い海になり、波が山裾を洗う状態になったと考えられる。つまり室見川が氷期に形成した河谷は、縄文早期には内野や脇山まで溺れ谷を形成し、御笠川が氷期に形成した河谷は、太宰府まで溺れ谷を形成していた。

上のグラフの各測定点の標高は、海面の上下動によって変化しただけではなく、地殻の上下動によっても変遷したから、世界の標準的な海面推移を示しているわけではなく、この地域の海面変動を直截的に示しているわけでもない。図の曲線は各ポイントの中心値であると推測され、同時期の極大値と極小値に5mの差があるのは、局所的な隆起や沈降があった事を示している。

8千年前に海水準の上昇が停止したのは、北大西洋両岸の氷床が融け切って水源が枯渇したからではなく、氷床の融解は依然として微弱に進行していたが、世界の海水面が上昇する事によって海底への圧力が強まり、海底の沈降速度と融水の流入が均衡し、見掛け上の海面上昇が停止したからだ。

海面上昇によって古博多湾に海水が侵入すると、その重みで湾内の海底も徐々に沈降し、周囲の地殻もそれに巻き込まれて沈降したから、8千年前から5千年前までの見掛け上の海面上昇は、それによる地殻の沈降が主因だった可能性が高い。その後湾内に土砂が堆積して海水と置き換わると、海水の23倍の比重を持つ土砂が海底に掛る荷重を増加させたから、古博多湾域の地殻の沈降は継続した。これは海退による可耕地の拡大と逆の現象になったから、河川の蛇行と洪水の頻発を招く事になった。

北大西洋両岸の氷床の残量が更に減り、融水が減少すると海底の沈降が優る時代が到来し、海退期を迎えた。現在は氷床の融解が完了し、海底の沈降も飽和して海水準が安定している。

これらの認識を前提に、上図が示す見掛け上の海面の上下動を解釈するが、これは博多湾だけの現象ではなく、関東平野も含む一般的な事情になる。

8千年前~5千年前に海面が5m上昇した様に見えるのは、博多の周辺海域や湾内に侵入した海水の圧力によって海底地殻が沈降し、海岸の地殻も5m程度沈降したからだと推測されるが、この時期の海水準の変動と地殻の沈降を分離する事はできない。

湾内では海水に置き換わった土砂の影響で、5千年前から現在までの間に更に5mほど沈降したと推測されるから、2千年前から千年前の2mほどの海面上昇は、その終末期の現象を示している可能性が高く、海退は2千年前に終了した事を示唆している。

このグラフから海水準変動を分離する事はできないが、5千年前~3千年前に5m以上の海水準低下があった事は確からしく、博多湾の奥にあって海が浅く海底の圧力が弱かった地域では、更に数メートル上乗せした海退現象が発生した可能性が高い。

後述する様に縄文後期初頭にあたる4500年前には、現在の山際である福岡市野多目付近に海岸線があったと考えられ、那珂川を挟んだ対岸は須玖岡本遺跡がある春日丘陵の北端だから、現在の高速環状線が当時の海岸に沿って周回しているイメージになる。

この付近の現在の地理状況は、那珂川の河原は標高が4mで両岸の沖積地の標高は10m程度だから、上のグラフの解釈に従うと5千年前~3千年前に78m海退し、縄文中期後葉に形成された海抜0mの沖積地が海水準の低下と共に陸地化し、那珂川の河面標高も低下しながら両岸が標高1m未満の平坦地を形成し、その後の4千年間に12mしか堆積しない状況を形成した事になる。つまり古博多湾が大きく残存していた縄文後期には、大雨が降っても冠水しない沖積地が生れていた。

やがて沖積平野が博多湾に広がっていったが、その後の中小河川の堆積や那珂川の蛇行により、更に12mの土砂が堆積して現在の標高10mの平坦地になり、那珂川の河底にも土砂が堆積して標高4mの河原が形成された。現在の那珂川は直線的に流れているが、川の両岸の堆積土砂が平坦である事は、蛇行や氾濫が繰り返し起こった事を示している。

縄文中期末は海面上昇が停止してから3000年後になるが、その期間にこの付近に沖積平野が広がらなかったのは、那珂川の中流にあった湖を埋め立てるまで河口に土砂が堆積しなかったからだ。その湖が完全に埋め立てられると、湖を形成していた堰が急速に破壊され、堰の内側に溜まっていた土砂も急速に放出されたから、それによって縄文後期~晩期にこの地域の沖積平野が急拡大したと考えられ、以下に説明するこの地域の歴史事情と整合する。

地殻変動が激しい日本列島では、各河川の中流域にも隆起が発生し易く、それが流れを堰き止める堰になって多数の湖が生まれ、氷期の少ない雨がその湖を温存したから、那珂川の様な状況は殆どの河川にあり、ヤンガードリアス期の豪雨も全ての堰を破壊するには至らなかった。堰の破壊は河川の上流から始まったが、海岸に沖積平野が形成される為には、最後の堰が破壊される必要があったから、縄文後期にはその様な河川は未だ少なく、殆どの河川は中流域や下流域に湖を温存し、海岸の沖積平野は未発達な地域が多かった。つまり縄文中期までの海岸には、mt-F型の稲作が可能な沖積地は殆ど生れていなかった。

しかし関東平野はそれらの地域とは異なり、相模川、多摩川、荒川、利根川、渡良瀬川、鬼怒川などの、関東平野の西部から流れ込む河川の中流域にはその様な湖が殆どなく、ヤンガードリアス期以降の降雨が関東平野に多量の土砂を流し込んでいた。それ故にmt-Fが縄文前期末の関東に渡来したと考えられるが、mt-B4を迎え入れた八溝山地の湖沼群や、広範囲に展開している洪積台地と併せ、関東地方は極めて特異な地理環境を有する地域だった。それ故に2種の稲作者が混在する特殊な稲作地を形成し、それが日本を稲作列島にする決定的な要因を形成した。

日本列島の大きな沖積平野である東京湾岸、濃尾平野主要部、大阪湾岸、瀬戸内の地殻は北九州と異なり、最近100年間に激しく沈降しているから、縄文後期~晩期の低湿地の遺物は深く埋没し、発掘できない状態になっている。従って沖積平野としては広くない博多平野に、稲作者の考古遺物が集中していても、それが直ちに古代の実情を反映しているとは言えないが、日本人は考古学者に水田と稲作がセットで伝来したと思い込まされ、畔を持つ最も古い水田が北九州で発見されている事が、稲作に関する日本の歴史の理解に深刻な課題を投げかけている。

しかし関東縄文人に含まれるmt-B4は、縄文早期に渡来して熱帯ジャポニカを栽培化した遺伝子であり、mt-Fが縄文前期末に渡来して温帯ジャポニカの稲作を持ちこんだ事は、関東縄文人と現代日本人の遺伝子分布が示しているから、日本で独自に進化した稲作の歴史を追跡する必要がある。

石器時代には畔を作って斜面に水田を形成する事はできず、稲作は低湿地で行うしかなかったが、mt-Fは本格的な稲作民族の女性であり、弥生時代の稲作者はアワや海産物に依存する人々だったから、縄文時代のmt-Fの個人当たりのコメの収穫量は、弥生時代に小さな水田を形成した海洋民族的な稲作者より多かったと推測され、思い込みによる先入観から脱却する必要がある。

mt-Fの低湿地の使い方は極めて粗放なもので、稲作放棄地は稲作地の10倍以上あったと想定されるが、関東平野には低湿地を形成する河川が沢山あり、縄文後期~弥生時代にはそれらが皆、低湿地の面積を急拡大していたから、縄文後期~弥生時代のmt-Fの人口増加がそれに追い付かず、mt-Fは関東平野の稲作者に留まって、域外には積極的に拡散しなかったと考えられる。

水田に畔を作る様になったのは、鉄器時代になってカシなどの堅い樹木を加工し、農具を作る事ができる様になったからだが、畔を作ったのは緩斜面に水田を形成する為であると共に、日本式の稲作に必要な田植えの水深調整の為だったから、木製農具を使っていた弥生時代の水田は狭く、コメを主食にする程の生産量はなかった。それでも稲作を行ったのは、コメが換金作物だったからだ。

稲作の生産性が高まったのは鉄器が普及し、鉄製の農具や土木工具を個人が所有する事が可能になり、灌漑設備が整った広い水田で稲作を行う事が可能になってからだ。古墳を王朝史観的な考古対象にするのではなく、可能になった土木工事量の指標として活用すれば、鉄器の普及事情が明らかになる。

稲作で生計を立てていた荊にとっては、狭い水田は子供騙しの稲作でしかなく、日本に渡来したmt-Fにとっても故郷の稲作ではなかった。従って弥生時代に手間を掛けて畔を作ったのは、稲作民族を起源とするmt-Fではなく、弥生時代になって初めて稲作を行った他の女性達だったと考える必要がある。彼女達にはmt-Fの様な稲作地を形成する技量がなかったから、畔を作って狭い稲作地を形成する事しかできなかったが、海産物との交換価値が高かったから、鉄器の使用によって稲作が可能になった地域では稲作者が激増したが、それは稲作の普及とは関係がない現象だった。

 

3-2 縄文後期の西日本に関東から稲作が拡散した

3-2-1 考古学が示す北九州の稲作事情

縄文後期~晩期の北九州の稲作事情が、石川県埋蔵文化財情報の第11号に掲載されている。以下はその要約。

北部九州は稲作がいち早く取り入れられ、根付いた地域として知られている。それに先行する縄文後・晩期についても、西日本の中では集落遺跡の調査事例が傑出して多いだけに、低湿地遺跡やそこから復元する生業の実態も、かなり明らかな地域と思われがちである。しかし実際に発掘された低湿地遺跡は、ドングリ貯蔵穴にほぼ限られ、生業の実態もよくわかっていない。こうした中で山崎純男は主に以下の5つの理由により、後期後半を境として、植物質食料の対象が堅果類から焼き畑による根茎類等へと変わり、その主体がイネである可能性を提示した。

後期初頭に急増するドングリ貯蔵穴は、後期後半以降低調になる。

後期後半から、土掘り具としての扁平打製石斧が急増する。

伐採具である磨製石斧は、後期後半から急増する。

稲作に関連する打製石鎌・打製石包丁・籾圧痕土器は、後期後半から出現する。

畑小屋(出作小屋)とされる小規模集落遺跡が、後期後半から丘陵上に構築される。

以上の事実は北部九州の弥生時代を特徴付ける、水田稲作の受容と展開が、従来言われている様に突発的で急激なものではなく、その前段階として丘陵上に展開した焼き畑の存在を通し、比較的スムーズかつ発展段階的に進行したことを想定した見解として、大いに注目される。

後期集落は低位河岸段丘上に立地し、当初12軒の円形住居が次第に増え、34軒となった段階で大きく2群に分かれ、その後徐々に衰退していくパターンが一般的である。これに対して晩期の集落は丘陵の縁辺部に立地し、一辺3~4m の方形住居が相当な数で切り合うようになる。従って後期集落と晩期集落が、同一遺跡で検出されることはほとんどなく、むしろ晩期集落については、弥生時代初頭期の集落と連続する傾向にある。このような遺跡立地の変化は、生業内容の変化に直結している可能性が高く、山崎の指摘が大いに参考になるが、山崎の指摘する生業の画期が後期後半であるのに対し、集落の立地や構造の画期は、後期と晩期の境界付近に位置づけられるため、この差をどのように見るかが今後の課題になる。

低湿地遺跡の遺構は、ほぼドングリピットと呼ばれる低湿地型貯蔵穴に限られる。長崎と熊本では縄文前期から出現し、前期中葉の曽畑遺跡の58基、後期初頭の福岡市野多目の60基、後期前葉の大分県山香町の55基、晩期の長崎県黒丸遺跡の62基に注目する必要がある。貯蔵したドングリは、アク抜きを必要としないイチイガシが95%以上を占め、九州の縄文時代遺跡から、水晒し遺構が検出されない事と整合する。しかし弥生時代の遺跡では、アク抜きを必要とするアカガシが主体となり、九州でも水晒し遺構が検出されている

縄文前期から九州の低湿地でイネが栽培され、その痕跡としてドングリピットが残されたと考えられるので、上記の文章に添付された表の順序を入れ替え、注目すべき項目を以下に転写した。

時期

基数

所在地

遺跡名

備考

前期前葉

22

長崎県多良見町

伊木力

 

前期中葉

58

熊本県宇土市

曽畑

 

前期・中期

5

熊本県宇土市

西岡台

 

中期末

6

熊本県城南町

黒橋

 

中期末~後期初頭

22

長崎県壱岐市郷ノ浦町

名切

 

後期初頭

60

福岡県福岡市

野多目

 

同上

19

佐賀県西有田町

坂ノ下

内陸の谷間の斜面

同上

3

長崎県多良見町

伊木力

 

後期初頭~前葉

6

大分県大分市

横尾

 

後期前葉

55

大分県杵築市山香町

竜頭

内陸盆地の微高地

後期

60

福岡県久留米市

正福寺

 

後期中葉~後葉

12

長崎県五島市福江

中島

 

後期・晩期

4

熊本県宇土市

曽畑

 

晩期前葉~中葉

62

長崎県大村市

黒丸

 

晩期中葉

4

福岡県福岡市

野多目

 

同上

8

長崎県壱岐市郷ノ浦町

名切

 

海岸の低湿地にあった遺跡の一覧だが、内陸にあったものは備考欄にその旨を付記した。

この表が九州の稲作史の要諦を示し、後期集落と晩期集落が同一遺跡で検出されることはほとんどなく、むしろ晩期集落については、弥生時代初頭期の集落と連続する傾向にある。晩期の集落は丘陵の縁辺部に立地し、一辺3~4m の方形住居が相当な数で切り合うようになるとの指摘が縄文晩期の北九州で、耐寒性を高めた日本式の稲作が生れた事を示し、それが弥生温暖期の考古学的な発掘実績に繋がるが、それを論理的に説明する為には多数の前提事実が必要になる。

とりあえず結論を先に述べると、縄文後期に焼畑農耕者が北九州に集まったのは、温帯ジャポニカの稲作に挑戦する為だった。縄文後期の北九州には、関東のmt-Fmt-B4がそれぞれの稲作に適した地域に入植したから、アワ栽培者だったmt-Dが両者を真似て各地で稲作を行ったから、二つのイネを同時に栽培する者が登場したが、mt-Dの本命は生産性が高い温帯ジャポニカの稲作だった。

縄文中期にmt-B5に浸潤したmt-Dは、焼畑農耕地の片隅でジャバニカも栽培していたから、それを熱帯ジャポニカに変える事は比較的容易だったが、それでは飽き足らずに生産性が高い温帯ジャポニカの栽培にも挑戦し、保険として熱帯ジャポニカも栽培していた。

しかし焼畑農耕とは異なる新しい農法で、慣れない品種を栽培したmt-Dの生産性は不安定になり、救荒食としてのドングリを蓄える為にドングリピットを復活したが、縄文後期前葉に稲作が安定すると、ドングリを貯蔵する必要がなくなった事を示している。縄文晩期寒冷期にドングリピットが一部の地域で大復活した事は、その地域では温帯ジャポニカの栽培が破綻した事を示している。

九州縄文人がイチイガシを好んだのは、アクを抜かなくても食べられる品種だったからだと説明しているが、それには異論もある。いずれにしても暖温帯性の堅果類であるイチイガシを、縄文前期から集中的に栽培していた事は、縄文早期にmt-B5+M7bが九州に移住した事と、彼女達を受け入れた九州縄文人が蛇紋岩の磨製石斧を駆使し、盛んにイチイガシの樹林を形成した事と、九州縄文人のmt-M7amt-B5+M7bに浸潤されていなくなった事を示している。

イチイガシは自然林ではあまり見かけず、神社の境内などで生き延びている状況だから、自然環境では生存競争に生き残れない種である事を示し、品種改良が進んでから日本に持ち込んだ種である事を示唆し、mt-M7bが氷期のヴェトナム時代から多様な樹種を栽培していた事も示している。

弥生時代の遺跡では、アク抜きを必要とするアカガシが主体となり、九州でも水晒し遺構が検出されているのは、コメの生産性が高まった弥生時代にイチイガシの栽培を止めたから、里山は生命力が旺盛な野生のアカガシの樹林に変わり、弥生時代末期に寒冷化が始まって稲の不作が続くと、ドングリを食べる必要が生れたが、アカガシのドングリにはアク抜き施設が必要だった事を示している。アカガシは陰樹だから、他の樹木の林にも徐々に勢力を広げて極相林を形成し、他の樹木を排斥するから、イチイガシの里山を放置するとアカガシの林に変ってしまう。

弥生温暖期にコメの生産性が高まると、里山が何百年も放置されてアカガシの樹林に変わった事と、日本で最も温暖な九州であっても、栽培者が堅果類を必要としない穀物生産者になったのは、弥生温暖期になってからである事を示している。

 

3-2-2 九州縄文人の歴史

古事記は根拠に乏しい神話であると考えられてきたが、縄文史が明らかになると、古事記は縄文時代の歴史をトレースしている事が明らかになるので、以降は古事記の指摘を参照しながら歴史を解明していく。その際に古事記の記述との一致点を指摘すると、古事記の神話が荒唐無稽な説話ではなく、史実を背景としたものである事を実感できるだろう。漁民の部族名は、イザナギとイザナミの国生み説話に登場する島の名称を基本とするが、佐渡と記された北陸部族と、大倭豊秋津島と記された関東部族は、従来通り北陸部族と関東部族と記し、伊予之二名島と記された部族は伊予部族とする。

古事記の認識も、稲作の起源は関東部族にあった事を示している。

九州縄文人の起源は、16千年前に九州に上陸した沖縄系縄文人で、彼らの中のY-C1狩猟民族は、既に九州に展開していたモンゴル系のY-C3狩猟民族と縄張りが競合したので、他の縄文人を誘って九州や西日本の海洋漁民と共に東北に移住し、東北縄文人を形成した。しかし縄文時代以前に北海道に移住した壱岐部族を含め、すべての漁民が東北に移住したわけではなく、九州や西日本に残留して縄文人と共生していた漁民もいた。また関東部族の漁民の中にも、九州に残留して縄文人との共生を続ける者がいた。

壱岐部族の縄張りは大村湾沿岸にあり、関東系漁民の縄張りは有明海、島原湾、八代海だったと推測され、両者共通の漁具としてこの地域から、鋸歯尖頭器や石鋸が発掘されている。博多湾沿岸でもこの漁具が発掘されるので、地理的な整合性から推測すると、博多湾も壱岐部族の縄張りだった可能性が高いが、下に示す様に壱岐部族は外洋での漁労に積極的ではなかった疑いもあり、伊万里湾は壱岐部族の縄張りだったが、唐津湾と博多湾は関東系漁民の縄張りだった可能性がある。海進時には筑紫野市まで有明海だったから、大宰府の丘陵を超えると御笠川を経て、古博多湾に出る事ができたからだ。

対馬部族の縄張りは周防灘~北九州市沿海部で、縄文時代の周防灘と響灘を結ぶ航路は、関門海峡だけではなく小倉南区の湯川を介するものもあったと推測され、それが宗像も対馬部族の縄張りになった理由であると考えられる。対馬部族の南限は別府湾で、東限は広島湾に及んでいたと推測され、現在の伊予灘も対馬部族の縄張りだったと考えられる。

伊予部族の氷期の故地は斎灘が形成した湖だったから、3万年前に両部族が海洋漁民化する際に、対馬部族が素直に日本海に進出したのに対し、伊予部族はそれを避けて豊後水道に進出し、四国西南端の宿毛湾を拠点にして海洋漁民化したと考えられる。古事記が伊予之二名島と記したのは、沖ノ島と鵜来島ではなかろうか。縄文時代の姫島は、沖ノ島と繋がっていたと想定されるからだ。

隠岐部族は燧灘が故地だったから、32万年前に湖が冬季に氷結する様になると、最も近い海だった隠岐付近に移住し、海洋漁民になったと推測される。故郷の湖と移住した海岸の拠点を結ぶ水路がなかった隠岐部族は、早い時期に燧灘の漁労権を放棄したから、縄文時代の燧灘の北岸は関東部族が湊を設定する吉備になり、南岸は伊予部族の湊が散在する伊予になった。

九州縄文人は海産物を得る為に共生した漁民の部族に属したが、縄文人としては一体的な文化を持っていた事を、mt-B5+M7bmt-Dの拡散事情を示す、土器の形状の類似性が示している。

しかし男性達には海洋漁民の部族への帰属意識があった事を、男性達が形成した住居の形式が示している。壱岐部族と関東系漁民は同じ漁具を共有していたにも拘らず、壱岐部族の居住域だった大村湾沿岸では円形住居が形成され、関東系漁民と共生した縄文人の居住域である島原半島では、方形住居を形成していたからだ。

この観点で壱岐部族のエリアを推測すると、円形住居は有明海沿岸の雲仙市国見町神代の筏遺跡でも発掘されているが、佐世保市下本山町の四反田遺跡では隅丸方形になり、島原市有明町の小原下遺跡では長方形や隅丸方形の住居址が多数発掘されているから、壱岐部族は大村湾から外洋に出る事に積極的ではなかった事を示唆している。

この事情は、丘陵の縁辺部に立地した一辺3~4m の方形住居が、相当な数で切り合うようになる縄文晩期の稲作者は、関東系漁民と共生した九州縄文人だった事を示唆している。

周防灘の沿岸から鋸歯尖頭器や石鋸が発掘されないのは、対馬部族は広島で産出する質の良い蛇紋岩を使って船を製作し、東北からY-C1が生産した獣骨やY-O2b1が生産したアサやシナノキを入手し、壱岐部族や関東系漁民より豊かな海産物を得ていたからだと推測される。

長崎と熊本では縄文前期から、低湿地に形成されたドングリピットの集積が複数発掘された事は、長崎と熊本には全国有数の蛇紋岩帯がある事を前提に、ジャバニカの栽培者だったmt-B5+M7bが湿田稲作を行うために定住し、補助食料としてドングリを蓄えた事を示している。但し大村湾の沿海部にある伊木力遺跡は、壱岐部族の漁民と共生した縄文人の遺跡であり、熊本県宇土市の曽畑遺跡などは関東系漁民と共生した九州縄文人の遺跡になる。

大分県大分市の横尾遺跡は対馬部族と共生する縄文人の集落だったから、mt-B5+M7bが使った曽畑式土器は発掘されず、縄文中期に九州縄文人に浸潤した、アワ栽培者のmt-Dが使った土器は多量に発掘されているから、対馬部族と共生する縄文人は生産性が低いジャバニカの栽培には興味を示さず、生産性が高かったアワの栽培を受け入れた事を示している。

北九州では縄文前期のドングリピットが発掘されないのは、縄文前期の北九州には稲作が可能な川洲がなかった事を示している。縄文前期の北九州の海岸線の地形は、現在の沖積平野を全て海に変えた状態に近く、入り江が入り組んだ多島海だったと推測されるからだ。

北九州が縄文前期までその様な地形だったのは、微妙に隆起している狭い山岳地域の短い川の流域に、氷期に形成された湖が多数あったから、それらの湖が土砂で埋まって流出口が侵食され、その土砂を輩出する様になるまでは、沖積平野が形成されなかったからだ。それ故に縄文中期までの博多湾は入り江が入り組んだ多島海で、河口には稲作者が入植地できる川洲が形成されていなかった。

縄文前期の稲作者の遺跡として発掘された、最も早い時期のものは長崎県諫早市の一里松遺跡で、縄文早期の塞ノ神式に始まり、前期の轟 B 式、西唐津式(プロト曽畑式)、曽畑Ⅰ式、滑石を含まない曽畑Ⅱ式と曽畑Ⅲ式が続き、中期前半の船元式や中期後半の坂の下式、後期の縁帯文土器が出土し、極めて長期間継続した居住域だった事を示しているが、これは壱岐部族の居住域だった。従って壱岐部族は大村湾岸に恒常的に居住し、関東系漁民と共生する縄文人と一緒にmt-B5+M7bmt-Dの浸潤を受けていた事が分かる。

その発掘報告書は、周辺にも縄文時代の遺跡が多く確認されていると指摘し、縁帯文系土器は見られるが、後続する西平式土器などの磨消縄文系土器以降の土器は確認できない。(遺物は)他所から流れ込んだ二次堆積層であると推察され、遺跡に係る人々の集落は、調査地とは異なる別の場所にあったと想定されると指摘し、大村湾沿岸の台地や沖積地に集落散在していた事を示している。磨消縄文系土器が発掘されない事は、九州南部の伊予部族とは異なる稲作史があった事を示唆しているが、縁帯文系土器が発掘されている事は、縄文後期初頭には稲作の波が押し寄せた事を示唆している。縁帯文系土器は西日本一帯に拡散し、東は東海地方まで分布域が広がっているので、アワ栽培者の文化と関係している事が分かるが、その様なアワ栽培者と稲作者の関係については、解明する為に必要な情報が不足している。

表に示された伊木力遺跡の縄文人は、一里松遺跡の脇を流れる東大川と比較すると、遥かに小さい伊木力川の河口の川洲を利用していた。東大川流域を含めた諫早市西部の山岳地のなだらかな地形は、侵食されやすい岩石層で形成されている事を示し、古い時代から縄文人に集住し易い地形を提供していた。東大川や伊木力川の中流域には湖が存在した痕跡がないから、長崎県では最も早い時期に沖積地の形成が始まったと推測され、遺跡が営まれた縄文前期前葉(7000年~6500年前)は、太平洋が湿潤化した8千年前から千年ほどしか経っていなかったから、川洲は貴重な存在だった事が、此処に縄文人が定着した理由だったと考えられる。

伊木力遺跡の背後に伊木力城址がある丘があり、緩斜面から張り出したテラスを形成している。この台地は13万年前に形成された川洲の痕跡である疑いがあり、東大川の流域も同様の地形だから、mt-B5+M7bの故郷だった、銭塘江デルタを起源とする台地と同じ起源を持つ地形である事も、彼女達の定住を促した可能性がある。

縄文前期中葉(6500年~6000年前)の熊本県宇土市の曽畑遺跡も、洪積台地の末端に形成された扇状地の扇端だったと考えられ、この遺跡の北東の雁回山を挟んだ反対側の、阿高・黒橋貝塚も同様の地形だったと想定される。現在は曽畑遺跡の扇状地を形成した河川が存在しないのは、雁回山の斜面が崩落して潤川の河川路を塞いだからだと推測され、それ故にこの遺跡がその後の土砂の堆積に埋もれなかった事が、発掘に繋がった可能性が高い。雁回山は布田川(ふたがわ)断層帯の西端にある堆積岩質の山だから、山体の崩落は極めてあり得る事情だから。

肥後台地も九州中部の広い隆起地殻上にあり、13万年前の間氷期に形成された沖積平野が氷期になる前に隆起し、氷期直前の豪雨期に浸食されずに残った地形であると推測され、mt-B5+M7bが九州に渡来したのは肥後台地があったからである可能性もある。

しかし肥後台地は阿蘇外輪山の西の裾から始まり、一辺18キロメートルの正方形状に広がって黒色ロームや赤土で表層が覆われ、緩やかに西に傾斜しながら標高100メートル、3040メートル、10メートルの三段の台地面がある。この地域は最近の100年間で15㎝以上隆起しているから、このペースで隆起すると氷期の10万年間に150m隆起した事になるが、阿蘇の周囲では激しい隆起があったが海岸付近の隆起は緩やかだったと推測されるから、この台地の傾斜は10万年間の隆起によって形成されたと考えられる。

肥後台地の広さは武蔵野台地の半分ほどで、宇城市の台地も含めると武蔵野台地に近い広さにはなるが、縞状に山が点在して傾斜のある台地を河川が激しく浸食したので、台地の総面積は武蔵野台地よりかなり狭く、沖積層の下に厚い火山灰層があるので保水性に乏しく、湧水や湖沼がなく穀物の栽培には不適切な台地になっている。

mt-B5+M7bが地形で判断して勇んで入植したとすると、栽培活動を始めると落胆する台地だった。太平洋の湿潤期に台地は大きく開削されたから、その土砂が海岸に沖積平野を形成したが、その土砂の主成分が火山灰であれば湿田にはならなかった。曽畑遺跡がある地域は阿蘇の火砕流が雁回山などで遮られ、火山灰が堆積し難い地域だから、mt-B5+M7bは曽畑遺跡の周囲の台地に、集住せざるを得なかった可能性が高い。

mt-B5+M7bが九州到着直後に壱岐部族に浸潤したのは、その様な苦しい事情があったからではなかろうか。漁獲が豊かな対馬部族の縄文人に浸潤しなかった事も、mt-B5+M7bの生産性が評価されなかった事を示し、彼女達の衷情を示している。

 

渡来したmt-B5+Mbの実態

縄文前期前葉の曽畑遺跡に多数のドングリピットが作られた事は、寒冷期になって稲作が不調になると堅果類を大量に消費する必要があった事を示し、ドングリピットに蓄えられたドングリがイチイガシなどの暖温帯性の堅果類だった事は、浙江省と気候が類似する熊本や長崎で、縄文早期温暖期にmt-B5+M7bの浸潤が進み、mt-M7aがいなくなっていた事を示している。

平底の塞ノ神式はmt-M7aが製作した土器で、尖底や丸底の轟式~曽畑式はmt-B5+M7bが製作した土器だったと想定されるから、轟式~曽畑式の尖底や丸底の器形は、mt-B5+M7bが関東に滞在していた際に、関東の水辺の土器である尖底土器を真似たものだったと想定される。

8千年~7千年前の数百年間維持された佐賀の東名遺跡は、塞ノ神式土器を主体としながら少数の轟A式土器も出土し、ドングリはイチイガシやクヌギなどの暖温帯性の堅果類だった事は、この想定と整合する。つまりmt-B4+M7b7500年前には九州に渡来していた事になり、8千年前に始まった太平洋の湿潤化期の豪雨と低温化が、浙江省にいたmt-B4+M7bの渡来を促す動機になった事を示唆している。

縄文前期初頭(7000年前)に始まった河姆渡文化は、湖北省の塩の需要に基づいて発生したから、関東部族はそれ以前に湖北省に到達して荊と交流していた事になり、mt-B5+M7bの関東への渡来はそれを更に遡る時期だった筈だから、80007600年前に浙江省から関東に渡来したとすると全てが整合する。関東には先住のmt-B4が先進的な稲作を行っていたから、栽培競争に敗れたmt-B5は、77400年前には関東を去って九州に移住していたと考えられる。関東では7500年前に縄文早期温暖期甲が終了し、急速に2℃ほど低温化したが、mt-B4は既に一度寒冷期の洗礼を受けていたから、気候の冷涼化による生産性の違いが顕著になり、それが最後の引き金になった可能性が高いからだ。

7500年前は海進期になった直後で海岸に低湿地は殆どなかったから、九州で稲作が可能だったのは、ヤンガードリアス期に形成された内陸の湖沼の川洲だった。古人吉湖には大きな川洲があった事を示す地形が残り、盆地の末端で曽畑式の土器も発掘されているが、7300年前に鬼界カルデラが大噴火すると、mt-B5+M7bは九州南部に集落を形成しなくなったから、その影響が古人吉湖岸にも及んだだろう。

それらの事情によって状況は錯綜しているが、鬼界カルデラの大噴火の後は、mt-B5+M7bの集積が熊本、佐賀、長崎の海岸に生まれた事を、轟式や曽畑式の土器が発掘される水辺の遺跡が示している。

降雨が激しい九州では山間の湖沼が次々に消滅し、水辺の稲作可能地は縮小していったが、海岸の河口では狭いながらも低湿地が散見される様になったから、海岸の低湿地でも稲作が行われた事を、前期前葉のドングリピットが22基発掘された長崎県多良見町の伊木力遺跡や、前期中葉の58基が発掘された熊本県宇土市の曽畑遺跡が示している。

大分の対馬部族の縄文人がmt-B5が栽培するイネに興味を示さなかったのは、漁民が中国山地を西進して来たアワ栽培者のmt-D+M7aに遭遇し、アワと海産物の交換を始めていたから、mt-B5が栽培する生産性が低いイネは交換に見合わなかったとすると、経済的に解釈する事が出来る。

九州と比較すると山塊がなだらかな中国山地の西部には、ヤンガードリアス期や太平洋の湿潤期に侵食が進んだ地形があり、溺れ谷が内陸の奥深くまで延伸してはいても、その上流域には川洲が生まれ易い状況もあったから、稲作に拘った九州縄文人は縄文前期温暖期になると漁民と共に、海洋漁民の縄張りが確定していなかった山陰西部に移住した可能性が高く、考古学的な発掘もそれを示唆している事を後述する。

この様に記すと、ジャバニカの生産性が高まって稲作民族になったと錯覚するが、mt-B5が栽培していたイネは原生種に近く生産性が低かったから、彼らの主食は海産物とドングリで、コメは補助食品だった。

九州でmt-B5が栽培していたのはジャヴァ二カで、熱帯ジャポニカは台湾から渡来したmt-B4が関東で栽培化した事を、縄文人の活動期の項で指摘した。台湾からmt-B4が渡来した9千年前は現在より78℃も高温で、関東は現在の那覇と同程度の気候でイネの栽培化に適した地域だった。関東にはイネの原生種は全く存在しなかったから、その観点でもイネの栽培化に適した地域だった。

mt-B4mt-B5が関東に渡来した9~7千年前は、世界的に沖積平野が皆無に近く、沿海部では洪積台地だけが稲作可能な平坦地を形成していたが、これは希少な存在で、イネの栽培化が可能な広い台地は、銭塘江台地と関東平野の台地だけだった。従って相模台地、武蔵野、多摩丘陵、大宮台地、常総台地が広く展開している関東は、稲作を志向していたmt-B4には積極的に渡来したい地域だった。

mt-B4が渡来してから数千年間に徐々に気温が3℃低下すると、栽培化途上で生まれた野生種でさえ全く生存できない冷涼な気候になり、栽培化には理想的な環境になったが、生産性の一時的な低下は免れなかった。しかしmt-B4はドングリや海産物で飢えを凌ぐ事ができたから、理想的な環境で栽培化に邁進したと言える。

ヤンガードリアス期が終わった12千年前に台湾に北上したmt-B4は、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7cと共生し、mt-M7cの方が多い人口構成だったが、関東に渡来したmt-M7cは少なかったから、mt-B4は冷温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7aと共生する必要があった。

その様なmt-B4より1500年遅れて浙江省から渡来したmt-B5+M7bは、太平洋が湿潤化した8千年前に気候が低温化した事を契機に、イネの栽培化に本格的に取り組み始めたから、7600年前のmt-B5が関東に持ち込んだのは、栽培化途上とも言えないジャヴァ二カの原生種だった。縄文中期以降の関東縄文人からmt-B5が検出されない事は、mt-B4との栽培競争に敗れて平坦地に恵まれた関東での稲作を諦め、山しかないが故郷の浙江省と気候が類似した九州に移住して、九州縄文人に浸潤した事を示唆している。

但しこのmt-B5は縄文中期初頭に絶え、現代日本人には遺されていないから、論理的な推論の産物として浮上する遺伝子になるが、上の表に示されたドングリの殆どがイチイガシである事が、mt-B5と共にmt-M7bも移住した事を示し、推論の根拠を提示している。mt-M7bも九州に移住した事は、九州縄文人が遺した編み籠の技術が、関東縄文人のアズマネザサを用いるものではなく、照葉樹林の樹皮を用いるものだったからだ。この違いが女性達の出自の違いを示し、上記の仮説の根拠になる。

7500年前の浙江省でも人口はmt-M7bの方が多く、mt-M7bが植物性食料の主要な生産者だったから、mt-B5が単独で行動できる状態ではなくmt-M7bと行動を共にしたが、mt-B4の様に関東のmt-M7aとの共生は意図せずに、mt-M7bと共に九州に移住した事になる。

mt-B4が渡来した9千年前は7500年前より遥かに温暖だったから、mt-B4mt-M7aとの共生に成功したとの見解には根拠がないのと同様に、温暖な九州ではmt-M7aよりmt-M7bの方が有利だから、mt-B5+M7bの浸潤によってmt-M7aが絶えたとの見解にも妥当性がなく、mt-B4mt-B5よりオープンな性格で、mt-M7aとの共生も可能だったが、mt-B5mt-M7bから離れる事ができなかった事が、この様な結果を招いたと考えられ、mt-B5にはmt-M7bとの共生に固執する性格があった事を示唆している。

日本のmt-B5M7bは縄文後期~弥生時代に渡来した養蚕者の遺伝子で、フィリッピンで生まれた養蚕者はmt-B5+M7cだった可能性が高いが、それが台湾でmt-B5+M7bに変ると強力なペアになり、沖縄を経て日本にペアで拡散した事を、台湾、沖縄、日本の遺伝子分布が示している事も、mt-B5mt-M7bの宿縁的な相性の良さが窺える。mt-B4とmt-M7aは一旦相性の良さを示したが、両者の複雑な関係が縄文史を多彩なものしただけではなく、近世までその影響が継続したので、縄文後期以降の縄文史の主要なテーマになる。

mt-B4mt-B5は姉妹関係にあるが、この様な性格の違いを生んだ理由として、氷期のヴェトナム時代から母体になった堅果類の栽培者の人口は、mt-B4の方がmt-B5より多かった事と、mt-B4が氷期を過ごした朱江流域は稲作の北限的な気候だったから、この時期にmt-B4のイネの栽培化が進行していた可能性が高い事が挙げられる。

つまりmt-B4mt-M7cへの依存度がmt-B5mt-M7bに対するものより低かった事が、この様な性格の違いを生んだ可能性がある。ただし東南アジアの海洋民族はmt-B4の主導によって生まれたと考えられるから、それも加味すると他にも色々な要因があったと考える必要がある。

関東系漁民と共生していた九州縄文人が、縄文早期にmt-B5+M7bの浸潤を歓迎したのは、彼らに独特な事情があったからだ。堅果類に含まれるタンニンには毒性があり、必要なカロリーの半分しか堅果類に頼る事ができなかったから、琉球岬や沖縄にいた原縄文人時代には河川漁民と狩猟民族と共生していたが、九州は湖が少なく河川漁労の収穫が乏しかったから、縄文人の人口が増えて獣肉の入手量が減少すると、海洋漁労への依存度を高めざるを得なかった。

その点では関東縄文人も同様だったが、関東はシナノキの産地である霧ヶ峰を控え、魚船を多数作ったり大型化を試みたりする事が可能だったし、冷涼な中部山岳地帯で栽培するアサは生産性が高く、漁具も十分に揃える事が可能になり、多数の漁民が集積して漁労技術を高める環境が揃っていた。その結果としての漁民人口の集積が交易活動を活性化し、シベリアとの弓矢交易を生み出して豊富な獣骨を入手し、銛を多用してイルカやクジラを捕獲し、釣り針を多数制作して多種の魚を捕獲する事が可能だった。関東縄文人は弓矢の生産に忙しく、その代償として海産物を要求する権利を得たから、気兼ねなく海産物を入手する事ができた。

しかし九州にはその様な産業がなかった上に、漁民が船を作る為に必要としたシナノキは、温暖な九州では生産できなかった上に、漁網や離頭銛を作る為に必要なアサも九州は温暖過ぎて栽培できなかった可能性が高く、九州の漁民の生産性は関東の漁民よりかなり劣っていた。九州では結合式釣り針が使われ、それが文化の進歩性を示しているかの様な解説が散見されるが、アサ、シナノキ、獣骨などの入手が困難だった九州の関東系漁民が、乏しい素材を駆使して最大の生産性を得る為に使った漁具が、結合式釣り針だったと推測される。

九州には矢尻の固定に使うウルシを栽培できる、冷涼な高原が存在しなかった事が状況の悪化に追い打ちを掛けた。九州の狩猟民族も弓矢を得る必要があり、その為には獣骨を対馬部族に放出しなければならなかったから、九州の関東系漁民には銛を作る獣骨も不足していたからだ。九州北西部の代表的な漁具である石鋸などが、木片に鋭利な打製石器を埋め込む氷期の細石刃の様な石器だった事が、その事情を示している。石鋸は細石刃とは異なり、獲物に食い込むと抜けない様に刃部に凹凸がある事が、魚を刺殺する漁具である事を示しているからだ。

骨製の銛は遺物として残らないから、骨製の銛も使った可能性は否定できないが、その様な九州事情を知っていた関東のmt-Aは九州に浸潤しなかったから、高度な銛を作る事も出来なかった。その様な事情が重なって石鋸の誕生に繋がったと推測される。

つまり関東や東北の漁民はシベリア産や東北産の獣骨をふんだんに使い、離頭銛を使う鯨漁やイルカ漁で高い生産性を得ていたが、それができない九州の関東系漁民はドングリへの依存性を高めていたから、ドングリの消費量を減らしてくれるコメは是非欲しい食材だった。それ故に関東系漁民と共生していた九州縄文人はmt-B5の渡来を渇望したが、mt-B5+M7bの栽培種には漁労の生産性を高める要素はなかったから、九州のドングリやコメと海産物の交換比率は、関東ほど縄文人に有利ではなく、九州の漁民は関東の漁民の様に、ドングリを食べる事を止めてコメに完全転換する事が出来なかった。mt-B5+M7bが浸潤した九州縄文人がその状況に対応する為に、アク抜き技術を持たない漁民でも消費できるイチイガシを栽培したと推測される。

mt-B5+M7bが縄文早期に渡来して九州縄文人に浸潤したのは、九州中部は浙江省とほぼ同じ気候でありながら、浙江省にはない蛇紋岩が豊富にあり、森林を開いて栽培地を拡張する事が容易だったからだと考えられるが、mt-B5が栽培していたジャバニカは、7500年前には原生種に近い状態で生産性は極めて低く、栽培化の緒に就いた直後だった。

栽培地が限られてmt-B5の人口が少なかった九州では、その後の栽培化速度は浙江省と比較すると酷く見劣りしたから、mt-B5が渡来してから1500年後の縄文前期中頃には、栽培化の進展は大きく後れた状態になり、イネの生産性に大きな差が生れていたと考えられる。

縄文前期前葉の浙江省の稲作事情についてウィキペディア「河姆渡遺跡」は、水稲のモミが大量に発見され、稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が発見されている。ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や、魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見されたと記しているが、ウィキペディアには中国礼賛傾向があるから、他の冷静な分析も参照する必要がある。

中村慎一氏は「河姆渡文化研究の新展開」で、以下の様に説明している。(要約)

採集された食用植物のうち上位 4 位を占めるのは、堅果類・イネ・ヒシ・オニバスであり、堅果類以外は水辺の植物であることは言うまでもない。動物ではコイやフナといった淡水魚、カメやスッポンといった爬虫類、カモやガンといった水禽類が多く出土し、堅果類の多くはアカガシ亜属である。

野生イネの場合、籾が熟すと離層が形成され、籾は自然に脱落する。一方、非脱粒性を獲得した栽培イネの場合は、人為的に小枝梗から折り取る必要があり、籾の基部にはそのキズが残る。6900年前頃、6750前頃、6600年間頃の 3層位(いずれも縄文前期前葉)から出土した、植物種実のキズの比率を比較した結果、81824 パーセントに上昇したことが判明した。またその 300 年間に、籾基部の離層の形状から判定される栽培イネの比率も、 27 パーセントから 39 パーセントへと増加していた。まさにイネが栽培化される過程を、一つの遺跡でとらえることに成功したのである。

河姆渡文化期だった縄文前期前葉に、浙江省のイネの栽培化が急速に進んだ事を示している。栽培者が広域的な情報ネットワークを形成していた場合、品種改良の速度は栽培者の数や栽培面積に比例するから、広大な栽培地を有する銭塘江台地がある浙江省と、山が多い九州では、品種改良の速度に大きな差があり、九州のmt-B5がこの栽培種や栽培技術を欲していた事情を、上記の報告から実感できる。また浙江省での稲の可栽培化は、8千年前の太平洋の湿潤化に伴う気候の冷涼化が、起点だった事も実感できるだろう。

河姆渡文化圏は沿海部にあったが、銭塘江台地には馬家浜文化圏があり、両地の稲作者は連携していたと考えられる。また河姆渡文化圏のmt-B5は、生産した塩の代価として湖北省の温帯ジャポニカを受け取っていたから、浙江省のmt-B5が栽培化したジャバニカは、温帯ジャポニカとの雑種だった可能も高く、栽培化の急速な進展にはその効果も加味する必要がある。しかし湖北省のmt-Fはその様なジャバニカを入手したとしても、温帯ジャポニカと交配してしまう雑草として扱ったと推測される。

この時期の浙江省の稲作民族の、最大の植物性食料は堅果類だった事も銘記して置く必要がある。その事情が、彼らが製塩事業に励んだ動機を与えたからだ。

堅果類の多くはアカガシ亜属であるが、具体的にどの種に当たるのかについて、ドリアン・フラー氏は断定を控えているのに対し、鄭雲飛氏は「アラカシ(青岡櫟Cyclobalanopsis glauca)に似る」とし、金原正明氏の同定ではイチイガシ(Quercus gilva)である。

それ以外では、マテバシイ属(Lithocarpus)、シイ属(Castanopsis)、クヌギ(Quercusacutissima)などがあり、タンニンを多く含むクヌギも一定量存在することに注意しておく必要がある。

金原正明氏は典型的な日本人の史家らしく、中国人の史家がアクの強いアラカシであると言っているのに、中国の史学会に気兼ねしてイチイガシであると主張している。この様に言えば地位が保全されたり、賄賂が貰えたりするのだろうか。アラカシは樹木の生命力が強く、ドングリの収穫時期が長いから、暖温帯性の堅果類の栽培者に相応しい栽培種で、ドングリを交換材にする必要はなかった人々には、イチイガシを主要な食料にする必然性はなかったからだ。アク抜きを行った後のドングリに品質は、必ずしも未加工状態のドングリのアクの強さとは相関がないから、アラカシのアク抜き技術を高めていたmt-B5が、シイ属に価値があるとは考えていなかった可能性もある。現在でも日本で食べられている唯一のドングリが、アク抜きが面倒な栃である事が、その事情を示しているからだ。

ドングリのアク(タンニンやサポニン)は品種によって化学組成が異なるから、浙江省の人々の遺伝的な耐性として、アラカシのドングリの解毒に強かった可能性もあり、話は単純ではない。

シイ属もアクは少ないが、浙江省の人々がシイ属を主要な栽培種にしなかったのは、シイ属は関東部族が持ち込んだ種だったから、彼らには馴染みが薄い種だったからである可能性が高い。シイ属は暖温帯性の堅果類ではあるが、照葉樹林隊が形成されない冷涼な地域にも自然林があり、縄文人が氷期に北上しながら耐寒性を高めた種である可能性が高いからだ。シイ属のドングリは近世まで食用として利用されていたが、イチイガシにはその用途がなかった事も、シイ属とイチイガシの食べ易さの違いを示唆し、九州縄文人になったmt-B5+M7bの栽培種には、シイ属は含まれていなかった可能性が高い。

東名遺跡から発掘されたドングリは、イチイガシ、クヌギ、ナラガシワで、シイ属アラカシは含まれていない。イチイガシは暖温帯性の陰樹でクヌギとナラガシワは陽樹だから、mt-M7aと共生していた時代の九州縄文人は、生産性の高いクヌギとナラガシワを栽培していた事を示し、氷期から磨製石斧の恩恵を受けていたmt-M7aには、暖温帯性から冷温帯性までの多彩な栽培種があった事を示唆している。しかし磨製石斧を持たなかったmt-M7bには陰樹であるアカガシ亜属しか栽培可能な樹種がなく、アラカシが最も生産性が高かったので主要な栽培種になったが、イチイガシも栽培種に含まれていた事を示している。

磨製石を駆使していた九州縄文人は、陰樹であるか陽樹であるかに配慮する必要はなかったから、従来の栽培種に追加する際に、アラカシを避けてイチイガシを選択したが、漁民の需要に応える為にアク抜きが容易なイチイガシを増やすと、それが最終的に九州縄文人の主要な栽培種になったと考えられる。mt-B5+M7bはクヌギとナラガシワのアク抜き手法を知らなかった事が、イチイガシだけを栽培する状態に導いた可能性もある。

(河姆渡遺跡に近い)田螺山遺跡の食用植物利用状況が、縄文時代のそれとたいへんよく似ていることに気付く。この共通性は、基本的には両地の植生が類似することに起因するものだろう。ただ注意しておかなければならないことは、ヒョウタン・マクワウリ・シソ(エゴマ)などの、アフリカないしは熱帯アジア原産とされる種が含まれることである。漆器・玦状耳飾り・丸木舟などの他の物質文化が、ほぼ同時期に両地に出現することと併せて考えるべき重要な問題である。

両地(浙江省と日本)の植生が類似し、類似した物質文化がほぼ同時期に両地に出現するのは、氷期最寒冷期の日本列島は亜寒帯性の気候地域だったにも関わらず、後氷期には暖温帯性の植生が存在した事と、これらの地域には交易があった事を指摘しているのだから、それらの植生や物質文化を関東部族や北陸部族が、東南アジアや華南から持ち込んだと考える以外に答えはない。揚子江流域でも氷期最寒冷期には冷温帯性~亜寒帯の気候地域になったから、当時の華南の植生は後氷期になってから東南アジアから北上したものだが、彼らが利用していた有用な植生は自然に北上したのではなく、彼らが北上の際に持ち込んだと考える必要があり、その様に考えても答えがないものは、交易によって持ち込まれたと考える必要がある。縄文時代の海洋交易の主要な目的は、栽培種の拡散だったからだ。

ヒョウタン・マクワウリ・シソ(エゴマ)がアフリカ原産だったとすれば、台湾起源の海洋民族がアフリカから持ち込んだ事になる。海洋民族はこの頃アメリカ大陸にも到達していたから、アフリカにも到達していた可能性も高いが、1万年前の北アフリカに拡散していた栽培者は、後氷期に東南アジアから拡散した人々だったから、アフリカ原産と言っても氷期のアフリカに原生種が繁茂していたとは限らない。

つまりこれらの植生が現在のアフリカで野生化していても、東南アジア起源だった可能性は否定できないし、東南アジアの自然環境は後氷期に激変したから、現在の東南アジアは存在しない種であっても、氷期には自生していた可能性もあるから、栽培種の原生地を特定する事は極めて難しい状況にある。

縄文前期中葉の熊本県宇土市のドングリピットは、58基中1基だけがクヌギで、他は全てイチイガシだった。九州縄文人がイチイガシを集中的に生産していた事は、九州の食料事情の豊かさを示してはいるが、ドングリピットに堅果類を蓄えた事は、ジャバニカの生産性の低さを示している。但し海産物の入手が可能で食料事情は切迫していなかったから、食べ残したドングリを安易に放置し、発掘されるに至ったと推測される。

考古学者は、イチイガシはアクを抜く必要がないドングリであると主張するが、実際に試食した人にはアクが気になったとの体験談もあり、縄文時代に栽培化されていたイチイガシがどの様なものだったのか、再検討する必要がある。イチイガシに微量のアクがあったとしても、短時間でアクを抜く事が可能であれば、不漁が続いた漁民に対する交換が成立し易く、交換商品としての価値が高まった筈だから、九州縄文人がイチイガシを集中的に生産した理由を、その観点から検証する必要がある。

その観点に立てば、長時間のアク抜きが必要なドングリには、海産物との交換価値が乏しかった事になり、関東では毒性が弱いドングリの集中的な栽培が顕著ではなかった事は、縄文前期温暖期以降の関東の漁民は堅果類を消費せずに、コメの消費に傾斜していた事になり、関東の稲作事情と整合する。

つまり ドングリを常食していた縄文人は、長期間を要するアク抜き作業を生活の一部にしていたから、それを担った女性に土器の生産権が一任され、その様な関東の女性が選んだドングリの消費事情が、関東の食糧経済を示している事になる。日本の里山にコナラ属の樹種が多い事は、縄文早期には生産性が高いコナラを栽培していた事を示唆しているが、縄文中期頃から、コナラよりアク抜きに手間が掛かる栃が多く食べられる様になった事が、関東の食糧事情を示している。

栃の実は現代人も食べるから、食味や栄養価の点で縄文人も選択したと考えられ、関東縄文人がアク抜き作業を回避するべき労働であるとは、解釈していなかった事を示している。つまり関東の縄文人が示すドングリの品質上の観点は、アクの強さやアク抜きに掛かる時間ではなく、アクを抜いた後のでんぷん質の品質であり、その際に残留するアクの量は、ドングリが最初から含んでいる量に依存するのではなく、アク抜きした後にどの程度残留するのかという事であり、現代的に言えば樹種によって異なるタンニンの化学的な特性と、ドングリが有している残留栄養価に依存していた事になる。

縄文後期末~晩期の埼玉県川口市の赤山遺跡に、栃の実の加工工場ともいうべき共同加工施設が遺されているのは、縄文後期にコメを食べ始めた縄文人が、寒冷期になってコメが食べられなくなっても、コナラに戻る事を嫌がり、加工に手が掛かる栃の実を多量に食べたからだと考えられる。栃の実のアク抜きには、10日以上の水晒しを含む1か月程の期間が必要だが、これは現代的な道具を駆使しての話しだから、縄文時代にはその2倍程度の時間が必要だった可能性が高いが、それでも栃を選んでいた事は、関東の漁民は縄文前期にはコメを食べる様になり、縄文中期には縄文人もコナラ類は避ける様になって、栃が盛んに食べられる様になったと考えられる。

従ってアクの量が少ないイチイガシを九州縄文人が栽培した目的は、漁民の不漁による急場を凌ぐ為に、短期間にアクを抜く事が出来る樹種だったからだと推測され、漁民のドングリ消費量も縄文人に匹敵するほど多かった事を示している。その様な環境下で縄文人は他の味覚の良いドングリを食べ、漁民にはイチイガシを勧めるという行為に、九州縄文人の罪悪感や交換価値の劣化危惧があった可能性もあり、その様な状況下でイチイガシのアク抜き技術を高めたから、益々イチイガシに一本化する状況が進展したのではなかろうか。

 

九州のmt-B5と浙江省のmt-B5

沖縄から縄文前期の曽畑式土器が発掘され、女性を含む九州縄文人が沖縄にも在住していた事を示している。土器以外の遺物に沖縄と九州の共通性があっても、交易によって運ばれた可能性を否定できないが、土器は交易品ではなく女性の生業の一部とも言うべきものだったから、沖縄の複数の地域から曽畑式土器が発掘された事は、女性を含む九州縄文人が沖縄に渡って居住した事を示している。

その女性はmt-B5だったのかmt-M7bだったのかを検証する必要があり、縄文早期に渡来したmt-B5は稲作地を求めて関東に渡来したから、沖縄に定住したmt-B5はいなかったと想定されるが、mt-M7bは平坦地を求めてはいなかったから、航路途上の沖縄に土着する選択肢があった。

沖縄の原縄文人には河川漁民が含まれ、数千年前までは湖だった金武湾(きんわん)や中城湾(なかぐすくわん)が彼らに漁場を提供し、長い島嶼生活で沿岸漁労にも習熟していたと考えられるから、mt-M7bを受け入れる際の食糧事情に問題はなく、冷温帯性の堅果類の栽培者しかいなかった沖縄では、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7bを歓迎する経済事情があった。

mt-B5+M7bは豪雨に襲われた浙江省を逃れてきたと想定されるから、沖縄の事情も検証する必要がある。関東部族と接した河姆渡文化圏の集落は銭塘江の下流域にあったから、銭塘江の濁流の被害が甚大だったが、大河がない沖縄では被害は軽微だったと想定される。

現代沖縄人のmt-M7bの割合が、養蚕の技能者だったmt-B5+M7bより高い事も、この様な経緯のmt-M7bが含まれている証拠を示している。それを詳しく説明すると、現代沖縄人のmt-B5は養蚕の技能者だったmt-B5+M7bの片割れであると考えられるが、そのmt-M7bmt-B5の比率は、本土日本人の状態であるmt-M7bmt-B5が同数だったと考えられる。しかし沖縄のmt-M7bmt-B52倍だから、沖縄のmt-M7bの半分は、上記の経緯で暖温帯性の結果類を持ち込んだ遺伝子であると考えられる。

縄文前期に九州から沖縄にM7bが移住した可能性は低い。堅果類の栽培者は多様な樹種を栽培していたが、特定の樹種を選んで情報ネットワークを形成し、栽培化高率を高めた痕跡はなく、むしろ共生する穀類の栽培者と同調する傾向があったからだ。

縄文前期の沖縄には関東の海洋漁民が定住し始め、浙江省に塩を運び上げる企画を推進していたから、mt-B5にとっては遺恨があったmt-B4も、彼らのペアとして沖縄に定住して稲作を行っていた。その様な環境でmt-B5が関東部族と交流した筈はなく、沖縄の原縄文人の子孫と良好な関係を形成する必然性もなかった。

従って縄文前期の沖縄に、女性を含む九州縄文人が少数移住した動機は、他に求める必要がある。

沖縄から縄文前期の曽畑式土器が限定的に出土する事は、九州縄文人の沖縄移住は土器文化が現地化すほどの長期間ではなく、九州の縄文文化を維持する程度の短期的な滞在を、繰り返し行ったからだと想定される。九州のmt-B5がジャバニカの栽培者としての情報網を形成し、浙江省のジャバニカの栽培者との連携を望んだとすれば、沖縄がその中継地になったから、mt-B5がその様な目的で沖縄に短期的に居住し、沖縄で曽畑式土器を作ったり、九州から持ち込んだりした可能性が高い。

穀物の栽培化は希少な有用遺伝子を集積する事と同義であり、それには多数の栽培者が必要になり、有用な遺伝子を集積する情報システムも必須要件になる。穀類を栽培化した女性達には、その様な情報網が必ずあったと考える必要があり、その様な情報紋が自然発生的に生まれた筈はないから、穀類を栽培化した女性達は母から娘にその必要性を伝授し、その様な女性達を連携させる仕組みが継続的に存在したと考える必要がある。それが特定の穀類を栽培化する為に必須な文化であり、特定の穀物種とミトコンドリア遺伝子が紐づく基本条件だった。現代人がこの事情に疎い事には理由があり、その4で検証する。

イチイガシも食べる必要があった九州の漁民は、稲作の生産性の向上を強く望んでいたから、mt-B5のこの活動に協力を惜しまなかっただろう。トカラ海峡を越えて沖縄に渡航する事ができた九州の漁民には、それに協力する技術的な困難はなかったが、関東部族の様に長距離を航行する能力はなかった。島影を見ない大洋を数日掛けて航行する能力は、操船技能とは全く異なる技術体系で、星座や太陽の運行に関わる知識が必要だったからだ。その技能は島影を見ない航行を数日間行う為だけに必要だったのではなく、天候が荒れて遭難し、太平洋に孤立しても、目的とする島に帰還する為に必要だった。

つまり星座や太陽の運行に関する知識がなければ、島影を見ない大洋を航行する事はリスクが高過ぎたから、九州の海洋漁民にはその様な冒険はできず、島伝いに沖縄に行く事はできてもその先に進む事は、未知の海域に乗り出す危険に満ちた行為になった。冒険的な漁民がそれに挑戦する事はあったかもしれないが、稲作を生業とする女性を乗せ、その様な冒険を犯す事が出来ない事は、現代人にも常識的に分かるだろう。

関東部族の多数の船が、沖縄を経由して浙江省に渡り、湖北省に塩を運び上げていたが、関東部族の個々の船の操船者が航路を熟知していたのではなく、先導する船に従って船団を組んでいたと想定され、先導者は関東部族の特殊な集団だったと想定されるので、その事情はその5で検証する。

九州の漁民にも島影を目標にトカラ海峡を渡る操船能力があったから、沖縄に曽畑式土器が遺されている事になるが、沖縄から宮古島までは島影を見ない航路があり、その航行には天文的な知識を伴う高度な航行技術が必要だったから、九州の漁民は関東部族の船団と一緒に航行する必要があった。また台湾や福建省は異民族の地だったから、その地域の湊を使用する際の現地人との交渉を、関東部族の先導者に依存する必要もあった。関東部族の船団からその様な便宜を図って貰えば、九州の漁民も安全に浙江省に渡る事が出来ただろう。

関東部族の船団は数百隻が纏まって南下したのか、複数のグループに分かれて南下したのかは分からないが、船団としては最も遅い船に船足を揃える必要があったから、九州の漁民が同行し易い船団だった。それとは別に専業的な船が往来していただろうが、それらの船は船足が速く行動を共にできなかったからだ。

関東部族の船団は九州南端から沖縄に向かったが、鬼界カルデラの大噴火以降の南九州は過疎化し、mt-B5は熊本以北に集住していたから、彼らの集落は船団の航路から外れた場所にあった。従って九州南端に見張りを置いても、関東部族と一緒に沖縄に渡る事はできず、船団に同行する為には彼らを九州南端や屋久島、種子島、奄美大島などで待ち受ける必要があった。それらの地域に曽畑式土器が分布しているのは、待ち受け場所の選定に試行錯誤があった事を示唆している。

関東部族の船団は1日に50㎞以上移動したと推測されるが、船団の一日の移動距離は天候に左右されたから、関東部族の南下船団は毎年同じ場所に停泊したのではなく、その年の都合によって種子島や屋久島付近の宿泊地を変えたから、これらの地域で待ち受けても、必ず船団と同行できるとは限らなかった。絶海の孤島で待ち受けるわけにもいかなかったから、沖縄に渡って関東部族の渡来を待つ事が一番確実だった。沖縄から宮古島までは270㎞の航路で、途上に島はなかったから船団は沖縄の停泊地で体を休め、英気を養ってから一気に航行する必要があったと推測され、沖縄の停泊地は決まっていたからだ。

その湊に関東から渡来したmt-B4が定住し、コメや蔬菜類を用意していれば船団も十分に英気を養う事が出来ただろう。縄文人の活動期の項で説明したが南方派の指導者は、船団を組んで湖北省に向かう漁民を募集する際に、娯楽的なツーリングである事を強調する必要があったから、この湊にmt-B4が定住してコメを船団に提供する事は、必須事項だった可能性が高い。

関東部族の船団が南下する日時が決まっていたわけではなく、準備や天候の都合によって沖縄への到着に1か月程度のブレがあり、複数の船団のいずれかと話を付ける必要があれば、mt-B5の沖縄滞在が1ヶ月以上に及び、土器を使う日常的な生活の場が必要になった。

土器は女性に付き物の道具であるとの常識が縄文人を支配していたから、女性を含む集団が現地で土器を調達する事は、縄文人の常識ではあり得なかった事も、この場合の参考にする必要がある。土器の形式は女性達の栽培者文化を示し、特定穀物種の栽培ネットワークの存在を示すものでもあったから、中華世界で窯を使った土器製作が常態化しても、日本では縄文土器や弥生土器が野焼きで作られたからだ。

宮古島や石垣島の土器が台湾製だったのは、これらの島には土器の素材に相応しい土が乏しく、台湾の人々と特殊な関係を形成したからだと考えられる。宮古島や石垣島は北陸部族の石垣系縄文人の居住域だったから、沖縄系縄文人とは多少文化が異なった可能性があるが、アワ栽培文化圏は西日本に広く展開しながら、その土器の系譜は類似しているから、石垣島系縄文人にも同様の思想があった事は間違いない。いずれにしても沖縄の人々は土器を製作していたから、縄文人の常識が支配していたと想定され、沖縄の曽畑式土器の存在は、発掘された地域に九州縄文人が短期的に定住していた事を示している。

曽畑式土器が発掘された地域が2カ所ある事は、mt-B4を伴った関東部族の漁民が沖縄に移住し始め、彼らがキャンプ地にしていた付近で稲作を始めると、関東のmt-B4に敵意を抱いていた九州のmt-B5が、mt-B4の居住地を避ける為に、キャンプ地を北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡から、渡具知東原遺跡(とぐちあがりばるいせき)に移動した事を示唆している。つまり北谷町にキャンプ地を設定していた時期には、関東部族はmt-N9bをペアにした生粋の漁民だけだったが、伊礼原の中継湊としての機能を充実する為に、mt-B4をペアにした漁民も移住して来ると、渡具知東原にキャンプ地を変えたと推測される。

その様なmt-B5の努力も空しく、縄文前期温暖期が終わるとジャバニカの生産性が劣化し、九州縄文人は焼畑農耕者だったmt-Dを中国地方から招いた。それによって九州縄文人の遺伝子はmt-D+M7bに変わり、生産性が低い稲作から生産性が高い焼畑農耕に転換したから、低湿地でドングリピットを多数形成する状況は生れなかった。

上掲の表がその事情を示し、西岡台遺跡の少数のドングリピットは過渡期の混乱を示し、黒橋遺跡の少数のドングリピットは、最も寒冷化した中期末期にはアワの生産性さえも劣化した事を示唆しているが、多数のドングリピットが作られたわけではない。

縄文中期寒冷期の浙江省のmt-B5は、関東や岡山で耐寒性を高めた熱帯ジャポニカを採用したが、九州のmt-B5は熱帯ジャポニカを採用しなかったから、九州縄文人は焼畑農耕によるアワの栽培者を導入した様に見え、九州のmt-B5が熱帯ジャポニカを如何に敵視していたのかを示している。上記の論考では沖縄に曽畑式土器が遺された理由を、消去式の推論から導いたが、この事実も重要な証拠になる。

浙江省のmt-B5が縄文中期に熱帯ジャポニカの栽培者になった証拠として、気候が冷涼化した浙江省で良渚文化が開花した事、その分派が縄文後期温暖期に四川の成都に移住して三星堆文化を形成した事、製塩業者が渤海の南岸に移住した事が挙げられ、事実認定できる情況にある。四川の成都や渤海の南岸は熱帯ジャポニカが栽培化された関東と気候が類似し、縄文中期寒冷期になってもジャバニカの栽培を継続したmt-B5は、温暖なフィリッピンに移住したからでもある。

浙江省のmt-B5は寒冷期になると熱帯ジャポニカを受け入れたのに、関東系漁民と共生していた九州縄文人がmt-Dを受け入れてアワ栽培者になった事は、ジャバニカ栽培の情報網の中核を担っていたmt-B5と、縁を切るという異常事態だっただけではなく、この時代の海洋民族の秩序観から酷く逸脱していた。九州の関東系漁民は関東部族から、シナノキやアサを入手する必要があっただけではなく、先進的な漁労文化も入手していた筈だが、その事情を差し置いて、北陸部族の焼畑農耕を導入したからだ。

関東部族は漁民であっても、大陸から先進的な製陶技術を導入する事はせず、女性達が野焼きで形成した土器を使い続けていたから、関東部族のmt-B4がこの状況をどの様に見たのか、その結果として関東の漁民と九州の関東系漁民の間に、どの様な関係の変化が生れたのかについても考慮する必要がある。

この背景としては、九州のmt-B5が縄文早期の関東でmt-B4とのイネの栽培競争に敗れ、九州に都落ちした事に極度のコンプレックスを抱いていたと考えざるを得ない。九州のmt-B5は浙江省のmt-B5からジャバニカの栽培技術を入手したが、mt-B5の渡航先は浙江省の沿海部だった筈であり、その地域のmt-B5は製塩業者でもあったから、このmt-B5にはフィリッピンに移住する選択肢はなく、率先して熱帯ジャポニカを導入したと推測される。九州のmt-B5はその状況を見ていた筈だから、意地でも熱帯ジャポニカを導入したくない事情があったと考えざるを得ない。

その事情に困惑した九州縄文人の男性達とmt-M7bが画策し、九州縄文人が縄文前期温暖期に稲作地を求めて中国地方西部に拡散した際に、mt-M7bと一緒に焼畑農耕を行ったmt-Dを九州に招き、mt-D+M7bが運営する焼畑農耕者になったと想定される。九州縄文人のmt-M7bは稲作が盛んになると日陰者になったが、焼畑農耕者になると一躍基幹技術の保持者に変身できたから、九州縄文人のmt-M7bには焼畑農耕者になる動機があった。

このmt-M7bも現代日本人は遺伝子を遺していないから、論理的に生まれた遺伝子構成になるが、日本式の稲作の開発に関与した北九州弥生人の遺伝子構成は、これらの事情を前提にしないと説明できない。北九州弥生人の遺伝子構成は次節で説明する。

縄文中期寒冷期にフィリッピンに渡航した焼畑農耕者は、ジャバニカの栽培を選択したmt-Dだったと想定しなければ、フリッピン人に多数のmt-D+M7aが含まれている事は説明できない。日本に残ってアワを栽培し続けたmt-Dも多数いたから、九州と気候が類似している徳島が阿波(アワの栽培地)と呼ばれ、縄文中期以降のアワ栽培者の中核地になったと想定され、古事記もそれを指摘している。九州が阿波と呼ばれていないのは、縄文後期にアワを栽培していたmt-Dが稲作者に変わり、稲作の先進地になったからだ。

九州縄文人が北陸系の栽培技術を取り込んだ事を、許せないと感じた関東のmt-B4が多数いたと想定されるのは、mt-B5の遺恨に対する反発だけではなく、他にも理由があったからだ。縄文中期になるとアワ栽培者は蛇紋岩の産地である群馬や秩父に進出し、関東縄文人にアワを提供し始めていた。縄文中期寒冷期には関東でも穀類が不足し、mt-Fもコメの増産に協力してはいたが、矢尻との交換品にも使われたから、慢性的な不足状態が常在した。

関東で栃の栽培がこの頃から盛んになったのは、縄文人もコナラやクヌギは食べたくなかった事を示唆し、縄文人もアワを食べ始めていた事を示唆している。コメの増産を期待されたmt-B4は、同じく矢尻との交換品になっていたアワの、生産性の高さに脅威を感じていた事は間違いなく、九州縄文人に浸潤したmt-Dに対して脅威を感じたと想定されるからだ。

縄文前期の栽培事情としては、栽培適地にアワやコメの栽培者が拡散してそれぞれのテリトリーが生れていたが、人口が増えた上に穀類の交換価値が高まると、それぞれの栽培地が拡大して境界を接しただけではなく、地形によって栽培地が複雑に入り組む状況が生れていた。これによって栽培女性達の情報ネットワークが互いの存在を意識し合う様になり、戦国時代に領土争いが起こった様に、情報ネットワーク間に緊張関係が生れたと想定される。この緊張関係はやがてネットワークの存続を賭けたものに発展し、合従連衡を重ねながら日本が瑞穂の国になったと考える必要がある。

縄文中期の段階では、mt-B4が関東の稲作者の地位を確保していたが、東海を含む西日本は焼畑農耕者に席巻され、群馬や栃木に進出し始めていたから、九州と同様に関東を席巻する事態になる可能性もあり、それを恐れていた事は間違いない。その様な女性達の栽培に関する主導権争いは、その4で詳細に検証する。

上表の大分県大分市の横尾遺跡は、縄文後期初頭にドングリピットが作られた遺跡として追記したが、この遺跡は漁労技能が高かった対馬部族と共生していた縄文人のもので、縄文前期には曾畑式土器を採用しなかったが、縄文中期には瀬戸内系の船元式土器が多数出土し、アワ栽培を受け入れた事を示している。縄文前期にmt-B5+M7bを受け入れた関東系漁民以外の部族は、大村湾沿岸を拠点としていた壱岐部族だけだったが、この時期の土器の分布は、周防灘を拠点とした対馬部族も受け入れ、豊後水道沿海部を拠点とした伊予部族も受け入れた事を示しているから、九州全域がmt-D+M7bに席巻された事になる。

これはmt-D+M7bのアワの生産性が、mt-B5の稲作の生産性を遥かに凌駕していた事を示し、関東系漁民と共生していた九州縄文人が関東のmt-B4の支援を断って焼畑農耕を導入したのは、mt-B5の拘りやmt-M7bの画策といった人間関係だけではなく、生産性が高い焼畑農耕に依存したくなる、経済的な事情もあった事を示唆している。九州の関東系漁民や壱岐部族が使用していた漁労具は、関東の漁民のものより劣悪で生産性が低かったので、彼らと共生する九州縄文人の食生活は、植物性食料に依存する割合を高めざるを得なかったからだ。

関東部族はシベリアから多量の獣骨を輸入し、それを使ってイルカやクジラ漁を盛んに行い、漁網や釣り針も使って豊かな海産物を得ていたが、弓矢を生産できなかった九州縄文人にはその恩恵がなかっただけではなく、九州の狩猟民族も弓矢を得る為に、生産した獣骨を対馬部族や関東部族の弓矢と交換していたから、九州の漁民が使う事ができた獣骨の量は極めて限定期だった。その為に九州西部の漁民は黒曜石で製作した鋸歯尖頭器や石鋸を銛として使い、釣り針には角を節約できる結合式釣針を使った。黒曜石製の銛は遺物として残り易いから、多数出土すると漁労活動が盛んだったと誤解するが、むしろ苦しい内情を示していると考える必要がある。

また九州ではシナノキが生産できなかったから、船を大型化する事も難しく、漁労活動の範囲を限定せざるを得なかったから捕獲可能な魚種も限定された。縄文前期の九州は温暖過ぎてアサも栽培できなかった疑いが濃く、mt-M7aが短期間にmt-M7bに完全に浸潤されたのも、アサを栽培できないmt-M7aだったからである可能性が高い。

これらの事情により、九州西部の漁民の水揚げは関東部族の漁民と比較して酷く見劣りし、その結果として漁民も植物性食料への依存を高めたから、漁民が多量に消費するドングリを栽培する為に、九州では短期間にアク抜きできるイチイガシの栽培が盛んになった疑いが濃い。

この様な環境下では、九州縄文人がドングリや穀類との交換で得られる海産物の量は、関東と比較するとかなり貧弱なものになり、九州縄文人が必要とする一人当たりの穀物の生産高は、関東縄文人よりかなり多かったと推測される。従って九州縄文人は穀類の生産性の高さに関し、関東の縄文人より敏感にならざるを得ず、焼畑農耕によるアワ栽培を選択したと考える必要もあるが、それによって失った漁獲もあり、現代人にはその損得は分からないが、当時の九州縄文人にも分からなかった可能性が高い。いずれにしてもこの事件により、九州の関東系漁民は関東部族ではなくなった。

 

北九州が焼畑農耕地にならなかった理由

長崎県や熊本県は蛇紋岩の産地だから、焼畑農耕者だったmt-D+M7bには入植し易い地域だった。周防灘を拠点にしていた対馬部族は、広島県西部の蛇紋岩を使って船を作り、それを使った交易を得意としていたから、mt-D+M7bを大分に迎えると、良質の蛇紋岩を多量に持ち込む事ができた。

縄文中期には北九州の河川の河口にも川洲が生まれ始めたが、既にmt-B5はいなかったから、稲作地としての利用は考えられなかった。春日台地やその東部の大宰府市~筑紫野市に洪積台地が広がり、焼畑農耕が可能な地域ではあったが、北九州では良質の蛇紋岩が採取できなかったから、焼畑農耕には不向きな地域として放置されていた。九州西部の縄文人はウルシもシナノキも生産できなかったから、石斧を柄に固定する手段にも乏しく、良質な蛇紋岩が採取できる長崎と熊本だけが、焼畑農耕が可能な地域だったと推測される。

福岡市にも三郡変成帯と呼ばれる蛇紋岩帯があり、その西端が糟谷・篠栗(ささぐり)に延伸しているが、三郡変成帯はプレート境界の高圧低温下で形成された蛇紋岩帯で、マグマの上昇による低圧高温下で形成された著名な蛇紋岩帯とは異なり、硬度が高い透閃石岩などの含有率が低い。従って縄文中期の九州縄文人にとっては、焼畑農耕を行うほどの多数の磨製石斧を量産できなかった北九州は、縄文中期には稲作地でも焼畑農耕地でもなかった。

蛇紋岩製の磨製石斧が少量発掘されているが、使用時期を判定する必要がある。縄文後期に稲作が盛んになると蛇紋岩の流通システムが形成され、他の地域で生産されたものが持ち込まれたし、交易によってウルシも入手できる様になると、質の良くない蛇紋岩で磨製石斧を作った可能性もあるからだ。群馬や秩父の蛇紋岩も質は良くなかったが、高原山の山麓でウルシを栽培した可能性がある事を、縄文人の活動期の項で指摘した。

遠賀川流域は対馬部族の漁労権が及ぶ地域だったが、対馬部族は周防灘沿岸や別府湾の沿岸に丘陵地を抱えていたから、多島海だった現在の遠賀川流域に敢えて進出する必要はなかった可能性が高い。曾畑式土器が発掘されない九州南西部は伊予部族の領域で、7300年前に鬼界アカホヤ火山の直撃を受けた九州南東部は無住の地だったので、縄文後期に関東部族が入植したが後世の倭人地域にはならなかった。

部族の縄張り意識が厳格に守られていた縄文中期末に、関東縄文人が北九州に入植できたのは、縄文中期の北九州には焼畑農耕者がいなかったからであるが、北九州より温暖でイネの栽培に適した、有明海周辺や熊本に関東縄文人が植地しなかった事も、九州縄文人と関東縄文人は、別の部族の縄文人であると認識していた事を示している。

 

弥生温暖期の北九州の遺伝子分布

遺伝子の数値解析から生まれる推論を展開してきたが、縄文後期の北九州で稲作者になった人々の子孫が、弥生温暖期の北九州の多数派を占めていたと考えられるので、その遺伝子分布と上掲の表を連結する理論を検証する。

mt-Dは現代日本人の37%もいるが、漢族のマーカーであるmt-M8a1.2%しかいないから、古墳寒冷期に帰化した漢族のmt-Dは現代日本人の8%になる。

Y-O2bが日本人の8%ほどいるが、これは古墳寒冷期の帰化韓族の遺伝子であると考えられ、そのミトコンドリア遺伝子はmt-D4+M7aで、D4/M7a5だったと考えられるから、帰化韓族のmt-D4は現代日本人の7%程度になり、現代日本人のmt-D433%であるから、その他の起源のmt-D4+D526%+4.8%でD4/D55.4%になり、山東遼寧の漢族の遺伝子である5.5%と同じになる。従って帰化人由来のmt-Dは8%7%=15%で、縄文人の焼畑農耕者由来のmt-D37-15=22%になる。

フィリッピンのmt-Dmt-M7aはほぼ同数だから、それが焼畑農耕者の遺伝子構成だったとすると、縄文人女性の44%が焼畑農耕に従事していた事になるが、北九州弥生人の遺伝子分布は、鉄器時代になると焼畑農耕者のmt-M7bmt-Dに置き換った事を示しているから、他の地域の焼畑農耕集団についても石器時代には11%mt-D11%のmt-M7aが従事し、鉄器時代以降は22%のmt-Dに変わったと考えられる。

樹木の伐採に磨製石斧を使っていた石器時代には、伐採効率を高める為に樹幹が軟らかい樹木を植栽する必要があり、mt-M7aがその苗木を育てて植樹していたと推測されるが、鉄器時代になるとその様な配慮は必要なくなったからだ。この推測は現代日本人のmt-M7aの殆どが、東北・北海道の縄文人を起源とするとの想定と合致するが、その検証プロセスは複雑なのでその4で確認する。

帰化人のmt-Dmt-M7amt-M8aの合計は17 %だが、帰化漢族にはmt-B4mt-Fも含まれ、山東・遼寧の遺伝子分はその合計が3%を超える事を示しているので、古墳寒冷期の帰化人の合計は2割になり、Y遺伝子の分布と整合する。

彼らを帰化人と呼ばずに渡来人と呼ぶべきとの主張が散見されるが、これは彼らが大陸から稲作や文明をもたらしたと主張する、王朝史観のデマに基づく主張であり、実態は気候が寒冷化して大陸や半島での農耕に行き詰って、倭人の船で温暖な日本に渡来した人々だから、帰化人と呼んで現在は日本人の一員になっていると認識する事が人道的な配慮になり、渡来人と呼ぶ事は江戸時代まで存在した被差別部落の人々が、彼らの子孫であると主張する事に繋がる。

帰化人が渡来する前の弥生時代のmt-D比率は、22/0.828%で、同様に計算する稲作者の遺伝子であるmt-B4+Fの、(9+5-3%)/0.814%2倍の人口を有し、焼畑農耕者の人口比率の高さと焼畑農耕の生産性の高さを示している。

篠田氏が北九州弥生人の遺伝子分布を公表しているが、数が少ないので百分率ではなく78個体の数で示す。

その1で指摘した様に、甕棺墓に収められた遺体は濊の女性が多数帰化した事を示し、濊の女性の息子は積極的に戦地に赴き、果敢に戦って戦死する者が多かった事も示唆している。その様な人が甕棺墓に高い確率で葬られ、北九州弥生人の遺伝子分布を撹乱しているから、甕棺墓に収められた遺体から濊系遺伝子を除外したものが、北九州弥生人の遺伝子分布であると想定し、補正後として図の下段に示す。

濊の女性の遺伝子はmt-Zmt-Amt-N9aで、mt-Zmt-N9aは元々関東部族にはなかった遺伝子なので、それぞれの6人を除外する。濊は3民族の共生集団で、mt-Aもいた事を韓国の遺伝子分布が示している。mt-Zmt-N9aが同人数なので、同数のmt-A6人は濊系の遺伝だったと想定した。

mt-M8a2人いるので、漢族のmt-D13人だった事になるが、その場合にはmt-D5が含まれていなければならないが、北九州弥生人からmt-D5は検出されていない。しかしサンプル数が少ないから、統計的には一人だったmt-M8a2人検出され、その場合のmt-D5は一人だったから検出されなかったと解釈する事も可能であり、期待値2人のmt-D5が偶然検出されなかった可能性もある。

それより確度が高い想定として、縄文後期末に北九州に上陸したのはmt-D+M8aだったが、北九州ではアワの栽培者の需要がなかったのでmt-Dの遺伝子は絶え、里芋の栽培者だったmt-M8aは同じ水辺の作物である稲作にも関心を示した上に、北九州の人々が里芋の有用性を評価した結果、北九州ではmt-M8aだけが子孫を遺した可能性があり、この場合には北九州弥生人には漢族のmt-Dはいなかった事になる。

この仮説が最も合理的ではあるが、確率的にはどれもあり得る事情だからサンプル数が増えないと断定はできない。いずれにしても漢族のmt-Dは北九州の歴史に影響を与えた遺伝子ではないので、偶然mt-D5は検出されなかった事を前提に話を進める。この前提は以下の仮説には不利な状況設定になるが、それであっても仮説の検証が可能である事が、数値解析の基本でもあるからだ。

北九州弥生人にはmt-D4しかなかった事は、韓族のmt-Dにもmt-D4しかなかった事情と同じ事が、縄文中期に九州縄文人に浸潤したmt-Dにも起こっていた事を示している。つまり焼畑を使用した後に植える樹木を栽培していたmt-M7aにも高度な技能があり、その技能を真似たmt-M7bの技能はmt-M7aより明らかに劣っていたので、殆どのmt-Dmt-M7bの技能を評価しなかったが、極め付きの変り者が極少数いてmt-M7bと一緒に焼畑農耕を行った事と、その様なmt-Dは縄文前期温暖期の中国地方では、千年間に数人しか生れなかった事を示している。

フィリッピン人の遺伝子がmt-Dmt-M7aで構成されている事は、ジャバニカの栽培に切り替えたmt-Dであっても、そのペアはmt-M7aだった事を示し、九州より温暖なフィリッピンに移住したmt-Dでさえも、mt-M7aを選択した事を示している事と、mt-D+M7bという焼畑農耕者の組み合わせは極めて異色だった事と整合するから、その起源は数人のmt-Dしかいなかった事になり、婚姻習俗が父系だったmt-Dは、この異色の集団とは通婚しなかった事になる。

これは変り者だったmt-D4が、九州縄文人のテリトリーで焼畑農耕を継続していた事を意味し、その様な焼畑農耕者の人口が増えたから、縄文中期寒冷期にこのmt-D4が九州縄文人に激しく浸潤し、mt-B5を消滅させたと考えられる。氷期に起こった遺伝子純化がどの様に進行したのかを例示し、女性達の栽培種とミトコンドリア遺伝子が密接に連携している事と、栽培種の主導権競いが熾烈なものだった事と、縄文人にも部族認識があり、北陸部族のmt-D+M7aはフィリッピンには入植したが、他部族には浸潤しなかった事を示している。

北陸部族とフリッピン越の絆が極めて強固なものだった事も示唆し、それは石材加工の技術移転から派生したものだったと想定される事は、この時代の海洋民族にとっては産業化に関する協業が、極めて重要なものだった事を示している。

縄文人の縄張りは元々狩猟民族の縄張りであり、狩猟民族との契約によって栽培地が決まったと推測されるが、縄文人にとっては共生する漁民との食料交換が優先課題だったから、漁民の部族に従属した事が、この様な現象が生れた根本原因であると考えられる。

つまり北陸部族のmt-D+M7aにとって九州縄文人は異部族であり、石垣系と沖縄系の違いもあって婚姻を行わなかったが、特殊事情によって九州縄文人になったmt-D4がいたから、彼女が九州縄文人として振る舞うと、壱岐部族や対馬部族だけではなく伊予部族にも拡散しただけではなく、このmt-D4は北陸部族のmt-D+M7aの情報ネットワークにも参加したから、九州に瀬戸内系土器が拡散した事になる。

この法則を基に、mt-D+M7amt-B5+M7bが接触した地域を推測すると、周防灘を含む瀬戸内には対馬部族と伊予部族の縄張りがあったから、九州の関東系漁民が進出できる海岸は山陰西部にしかなかった事になり、それに関する考古学的な見解が石川県埋蔵文化財情報の第11号に掲載されているので、後述する。

北九州弥生人に含まれる漢族の遺伝子であるmt-D+M8aは、縄文後期末に殷人の迫害に遭った漢族の女性を、気候が冷涼化して稲作の不振による穀物不足に陥った関東部族が、稲作地にならない原野が関東各地にあったので渡来させたが、渡来途上の黄海で荒波に揉まれて酷い船酔いに苦しんだので、北九州に上陸するとそれ以降の航海を拒否した女性達の子孫が、北九州弥生人に含まれるmt-D+M8aだったと考えられる。mt-Dの渡航時のトラブルに関しては、韓族に浸潤したmt-Dや台湾に上陸したmt-Dにもあり、mt-Dは他の女性達より忍耐力が乏しかった事を示唆している。

九州には焼畑農耕によってアワを栽培するmt-D4+M7bがいたから、漢族女性のアワ栽培技能を求める事情はなく、彼女達の北九州渡来は極めてイレギュラーなものだったが、mt-D+M8aも日本式の稲作の開発に貢献したから、北九州弥生人の中に子孫を遺した事になる。既に縷々説明した様に、この時代の女性達は情報ネットワークに参加しなければ生きていけなかったから、mt-D+M8aが参加したネットワークはmt-B4のものだったと推測され、その準構成員として日本式の稲作の開発に参加しただけではなく、里芋栽培の伝道者としてmt-B4の稲作の拡散に協力した事が、北九に子孫を遺した理由だったと考えられる。mt-B4が稲作を拡散したのは縄文晩期寒冷期で、耐寒性が高い里芋は格好の随伴栽培種だったからだ。

北九州の弥生人にmt-Cが一人含まれているが、mt-Cはモンゴルなどの内陸系の遺伝子で、日本列島に組織的に移住した実績はなく、現代日本人に占める比率も極めて低い。濊のmt-N9aはモンゴル系の遺伝子なので、濊のmt-N9amt-Cが混入していた可能性がある。

九州の主要な稲作者になったmt-D4が、各地に浸潤しながら稲作技術を日本に広めたとすると、日本人のD4/D5比率が現代韓国人の様に低下した筈だが、現代日本人の低下は韓族の帰化だけで説明できる程度だから、北九州のmt-D4は弥生時代の北九州では主要な稲作者になったが、日本全国に新しい稲作を伝導した女性ではなかった事になる。現代の北九州人にはmt-D5も標準的に含まれ、北九州弥生人の遺伝子が失われた事を示しているから、それと連動した事情であると考えられ、稲作が北九州で生まれて日本各地に拡散したのではない事を示している。

縄文後期末に渡来したmt-(D)+M8aは稲作者ではなかったが、日本式の稲作を開発したmt-B4が使役する女性として良く働いたから、北九州ではある程度の人口になったが、稲作技術を持って北九州から他地域に浸潤する事はなかったから、このmt-(D)+M8aが現代日本人に占める比率も高くない。現代日本人のmt-M8aは帰化漢族のY遺伝子との数値合わせで充足するから、縄文後期に渡来したmt-M8aの子孫は現代日本人には残っていない。日本有数の里芋の山地が宮崎と千葉である事が、縄文後期末に渡来したmt-M8aが里芋を持ち込んだ事を示唆しているが、穀物ではなかったから他の女性達に浸潤しなかったと考えられる。

温帯ジャポニカを日本列島に持ち込んだmt-Fは関東縄文人に10%含まれ、現代日本人は5%のmt-Fを含んでいるが、北九州弥生人には4%しか含まれていなかった。現代日本人の25%が関東部族起源であるとすると、縄文後期に温帯ジャポニカを栽培する為に、北九州に入植したmt-Fは少なく、熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4が、mt-F5倍も入植した事を北九州弥生人の遺伝子分布が示している。

これは縄文後期温暖期に、西日本に稲作が広がった直接の原因は、温帯ジャポニカの生産性が高まったからではなく、関東にいたmt-Fの殆どは、関東の沖積地で稲作を行っていたのに対し、縄文中期まで関東の主要な稲作者だったmt-B4が、縄文後期に西日本に拡散した事を示している。関東は日本で最も沖積平野が広い地域であり、mt-Fは集団的な治水管理による大規模稲作を志向していたから、彼女達の稲作適地は関東だった事と整合するので、これらの事情は別途検証するがその結論は以下になる。

縄文中期寒冷期のmt-Fの稲作は収穫が不安定で、コメの品質も低かったが、縄文後期温暖期に品質が大幅に向上し、稲作者一人当たりの収穫量がmt-B4510倍になったから、mt-B4にはmt-Fの収穫とのバランスが必要になり、栽培地を大拡張する必要に迫られた。コメと海産物の交換比率は需給関係で決まったから、mt-Fのコメの放出量が増えると、mt-B4の海産物の入手量が減少したからだ。

しかし縄文早期から関東いたmt-B4の栽培適地を、関東で拡張する事は容易ではなかったから、稲作地を集約して大規模化する為に、多数のmt-B4が西日本に移住した事を、北九州弥生人の遺伝子分布が示している。

縄文中期まで関東南部に逼塞していたmt-Fは縄文後期温暖期になると、北関東の広大な沖積地も稲作地にする事が可能になった上に、海退が顕著になるとmt-Fの稲作地が更に急拡大したから、mt-Fの人口増加は、稲作可能地の拡大に追従できなかったと想定され、mt-Fが縄文後期に関東から流出する理由は存在しなかった事も、北九州弥生人の遺伝子分布が示唆している。

mt-B4は湖岸の川洲や台地の谷間を稲作地にしていたから、海退が進行しても稲作地が増えなかった事情もあり、西日本への移住を余儀なくされたとも言える。

実際にはmt-B4mt-Fに倣って沖積地に進出したし、温暖期なった事から北関東を北上する事が可能だったから、北関東のmt-B4の稲作地は倍増~3倍増程度にできたかもしれないが、それでもmt-Fの稲作収入に追い付く事はできなかったから、移住したmt-B4も辛かったが、関東に残ったmt-B4にとっても縄文後期温暖期は、忍耐を求められた時期だった事を、北九州弥生人のmt-B4mt-F5倍もあった事が示している。

従って北九州弥生人に含まれるmt-Fは、mt-B4の西日本への大拡散とは異なる動機で、異なる時期に北九州に入植したと考える必要がある。つまり縄文中期寒冷期の関東では、温帯ジャポニカを安定的に栽培できなかったから、甲府盆地や伊那谷に入植して希少価値を求めたmt-Fもいた一方で、冷涼な気候を嫌って北九州に入植したmt-Fもいたと考える必要がある。

しかし北九州の内陸は九州縄文人のテリトリーで、彼らは関東部族とは険悪な関係だったから、mt-Fが北九州に入植する際に紆余曲折があった事を、水田稲作の発祥地であったかの様に見える北九州の、弥生人の6割がmt-D4だった事が示している。

北九州弥生人にmt-M7aが含まれていない事は、温帯ジャポニカの稲作のために関東から移住した女性には、mt-M7aが含まれていなかった事を示しているが、mt-M7aは稲作者ではなかったから、稲作の為に北九州に移住しなかった事に違和感はない。関東ではmt-B4mt-Aに浸潤された後にmt-Fにも浸潤されたから、縄文中期末の関東のmt-M7aの構成割合は、かなり減少していたと推測される事も、北九州弥生人にmt-M7aが含まれていない事の説明にはなる。しかし現代の九州人にmt-M7a10%以上含まれ、日本の標準より高率である事は、北九州人にmt-D5も含まれている事と併せ、弥生時代の人々とは全く異なった人々が集積している事になり、その説明も必要になる。

縄文中期の関東縄文人は堅果類を沢山食べていたが、北九州弥生人にmt-M7aが含まれていない事は、北九州に移住した関東縄文人は、堅果類を食べない事を前提に入植したと想定される。ドングリのアク抜きは樹種によってやり方が異なるから、堅果類を食べる積りだったのであれば、その道のオーソリティーに北九州に適した樹種を選択して貰い、そのアク抜き手法を確立する必要があった。稲作者だったm-B4も堅果類を栽培していた民族の出自だから、樹種と手法が確立していればアク抜きはできたが、mt-B4は稲作者であって堅果類の栽培者ではなかったから、新しく入植した気候が異なる地域で堅果類を安定的な食料にする技術を確立する事は、mt-B4には難しかったと考えられるからだ。

北九州弥生人にはmt-M7bが含まれていない事に付いては、九州の栽培者は弥生時代に堅果類を栽培しなくなっていた事を、考古学者も確認している事は既に示した。mt-D4+M7bが焼畑農耕者から稲作者に転換する過程で、mt-D4に一本化された事を示している事になり、mt-Dとペアになって石器時代の焼畑農耕を営んだmt-M7xは、mt-Dに浸潤されてしまった事を示している。

縄文後期温暖期は700年以上続いたから、ドングリの生産と処理の技術が確立するとお役御免になったmt-M7aが、mt-B4に浸潤された可能性も指摘する人がいるかもしれないが、九州縄文人のmt-M7amt-B5+M7bに浸潤されていなくなった事は、縄文前期以降のドングリピットに遺されたドングリの殆どが、mt-M7bが持ち込んだイチイガシに変った事が示している。

現代日本人に含まれるmt-M7bは、養蚕の技能者として渡来したmt-B5+M7bの子孫であると考えられ、縄文時代のミトコンドリア遺伝子は、栽培技能の必要性の興亡による極端な盛衰を経た事を、現代人の遺伝子分布が示している。

現代九州人にmt-M7a10%以上含まれている事についてはその4で詳しく検証するが、結論を言えば、mt-B4が稲作を伝授した東北南部のmt-M7aが、東北部族の故地である九州や西日本の稲作者になる為に、漁民と共に移住したからだ。その様なmt-M7aは稲作者であると共に堅果類の栽培者だったから、彼らの集落には堅果類の樹林が付属していたと想定され、不足する食料を堅果類で補う事により、弥生時代の稲作者の祖先になったと考えられる。

それでありながら北九州弥生人にmt-M7aが含まれていなかった事は、関東部族が北九州に移住した際に、堅果類の栽培者だったmt-M7aを同行する必要がなかった事を示し、特記する必要がある事情になる。

 

縄文中期末~後期の九州の稲作史

縄文前期末に関東に渡来したmt-Fの一部が、気候が冷涼化していく関東に絶望して岡山に移住したが、岡山にも失望したmt-Fが北九州に移住したと考えられる。北九州弥生人として遺伝子を残した関東系遺伝子はmt-B4mt-Aが多く、両者の比率は縄文中期に沖縄に移住した人々の比と類似するが、mt-Fは沖縄に移住したB4/Fより微妙に低い。沖縄にはmt-Fが好む沖積平野はなかったが、北九州には多少あった事と併せて考えると、北九州に移住したmt-Fには、温暖な稲作地を求めて移住した事を示す強い意志は感じられない。

それとは対照的にmt-D46割を占めていた事は、縄文後期に北九州に移住した関東の漁民の、コメ需要はmt-D4が賄っていた事を示唆し、関東のmt-Fの代役をmt-D4が果たしていた事になる。

縄文後期の関東ではmt-Fの人口が激増し、mt-B4の人口を凌いだと想定される事を考慮した判断になるが、縄文後期の穀物には複雑な需給関係が生れ、北九州ではアワも重要な食料だったから諸事情を整理する必要があり、それらを考慮した検証は別途行う。

mt-Aは骨を加工して漁具を作る加工職人として、関東部族と北陸部族に含まれていた遺伝子だから、北九州のmt-Aは関東部族起源であると想定され、その比率の高さは関東の漁民が大挙して北九州に移住した事を示している。漁民だけが移住した沖縄では移住者全体に占めるmt-A36%で、北九州では28%だった事は、mt-Aを必要としない縄文人は移住者全体の半分以下だった事を示唆している。

以上を前提に石川県埋蔵文化財情報に戻ると、縄文後期後半から土掘り具としての扁平打製石斧が急増する事は、沖積平野の低湿地で温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fが、扁平打製石斧を使って湿田を整備していると、mt-D4がそれを真似る為に多数集って温帯ジャポニカの栽培が盛んにった事を示し、伐採具である磨製石斧が後期後半から急増する事や、畑小屋(出作小屋)とされる小規模集落遺跡が、後期後半から丘陵上に構築される事は、mt-Fの栽培地の周辺で温帯ジャポニカの栽培に挑戦していた、チャレンジャー集団の近辺に九州のmt-D4+M7bが追加的に我も我もと進出し、焼畑を形成してアワを提供し始めた事を示している。

熱帯ジャポニカが陸稲としても栽培できたのであれば、これらの焼畑農耕者も従来の栽培種だったジャバニカを捨て、熱帯ジャポニカの栽培に切り替えただろうが、熱帯ジャポニカを陸稲で栽培した証拠はないので、温帯ジャポニカの栽培に慣れていなかったチャレンジャー集団が、ジャバニカの姉妹種として栽培し易かった熱帯ジャポニカを、不作時の保険として栽培したと想定する必要がある。水の管理が巧みだったmt-Fは草丈が低い温帯ジャポニカを開発し、高い生産性を得ていたが、谷間や湖岸で栽培する事を前提にした熱帯ジャポニカは、大雨による増水に備える長い草丈を備えていたから、水の管理技能が劣っていたmt-D4には熱帯ジャポニカの方が栽培し易い種だったからだ。

縄文後期初頭に多数作られたドングリピットがやがて作られなくなった事は、気候の温暖化でアワも温帯ジャポニカも順調に栽培が進展した事も示しているが、関東部族の漁民と稲作を志向していたmt-D4+M7b間に交易活動が生れ、それが活性化すると、焼畑農耕を含む複合的な穀物の生産体系が生れた事を示唆している。つまりコメの生産者がアワを食べ、ドングリへの依存度が低下した事を示唆している。これは複雑な交易関係が生れた事を示し、関東部族はコメと海産物を交換したが、アワと海産物は交換しなかったから、コメの生産者が関東部族の漁民から得た海産物を、アワを栽培していた焼畑農耕者にも分配し、その代償としてアワ得るもので、アワの生産性がコメの生産性より数倍高い事によって成立する経済関係だった。

縄文後期以降の日本の穀物経済は、この関係を基本にして回転したが、縄文後期中葉にこの経済関係が北九州で成立していた事を、考古学的な発掘が示していると考える必要がある。石器時代であっても磨製石斧があれば焼畑農耕でそれなりの生産量を得る事ができ、栽培可能地は広大だったが、稲作地になり得る場所は限られていた事によって成立する経済事情だった。弥生時代の水田面積も限定的だったにも拘らず、弥生人のドングリの消費量が激減した事も、この経済関係を背景にする事によって解明する事ができる。

縄文後期後半に扁平打製石斧が急増した事が、mt-D4が温帯ジャポニカの栽培に成功した事を示し、複合経済が生れた事をも示唆しているが、ドングリピットが作られなくなったのはそれ以前だから、mt-D4が温帯ジャポニカの栽培に成功したとの情報を受け、多数のmt-D4+M7bがその周囲に群がった事情は、もっと早い時期に生まれていたと想定される。つまり稲作地には限りがあったので、焼畑農耕によるアワ栽培を継続しながら順番を待っていた女性達が多数いた事が、ドングリピットが作られなくなった事情を生み、複合経済の萌芽的な事情を生み出したが、萌芽期の遺物を発見する事は困難だから、沖積平野の拡大と共にこの複合経済が拡大したから、考古学的な特徴として捉える事ができる規模に至り、最終的にmt-D4の急増に繋がった事を北九州弥生人の遺伝子構成が示している。

つまり扁平打製石斧が急増した事は、複合経済が大規模化した事を示しているのであって、その様な経済活動は、縄文後期前葉に形成されたと考える必要がある。

焼畑農耕者にとっては、蛇紋岩の入手が容易な九州西部の方が生産性を高め易かったのに、蛇紋岩製の磨製石斧の入手が難しい北九州に集まったのは、その方が有利になる交換経済が生れたからだ。その具体的な仕組みについては話が複雑になるので後述するが、mt-D4の温帯ジャポニカ栽培がmt-Fと同様の生産性を得た筈はなく、焼畑農耕と兼業したり焼畑農耕者と共生関係を形成したりする必要があったから、縄文後期後葉に稲作の痕跡を示す打製石斧と、焼畑農耕の痕跡が並行的に急増したと考える必要がある。

北九州に集まったmt-D4+M7bは、mt-Fの5倍も移住して来たmt-B4から熱帯ジャポニカの種子を分けて貰い、それを従来のジャバニカの様に栽培する事から始め、ジャバニカより生産性が高い事に気付くとジャバニカを捨て、熱帯ジャポニカの栽培に切り替えただろう。焼畑農耕者がmt-B5から受け継いだジャバニカを、どの様に栽培していたのか不明だが、陸稲として栽培していた可能性が高い。フィリッピンに多数のmt-D+M7aが移住してmt-B5に浸潤した事は、その事情を示唆しているからだ。しかし北九州に集まったmt-D4+M7bの本命は、焼畑農耕では栽培できないが熱帯ジャポニカより生産性は高い、温帯ジャポニカの栽培技術を入手する事だった。この場合の熱帯ジャポニカの生産性は焼畑農耕による陸稲栽培であって、水稲栽培した熱帯ジャポニカの生産性ではなかったと考えられる。

栽培系の女性達は情報ネットワークを形成し、民族内民族を形成して情報を共有していたから、熱帯ジャポニカの栽培をしたいだけであれば種子を拡散するだけで十分だった。九州全域のmt-D4+M7bの中で、どれだけの割合の女性達が北九州に集まったのか明らかではないが、九州西部にも稲作集落が生れた事を考古遺物が示しているから、殆どの九州縄文人が北九州に集まったのではなかったが、一旦集まってから各地に散った可能性は否定できない。

彼女達がこの様な行動に走ったのは個々の女性達の意思ではなく、情報ネット―ワークが広域的な意思決定機構として機能し、北九州に参集する女性達の優先順位を決めたと推測される。また栽培種を焼畑農耕種から湿田稲作に変えたmt-D4+M7bは、新たな情報ネットワークを形成したと想定される。

関東から移住したmt-B4は、ジャバニカの栽培から熱帯ジャポニカの栽培に切り替えたmt-D4とも、熱帯ジャポニカの栽培に関する情報ネットワークを形成したと想定される。mt-B4にとっては有益なネットワークではなかったが、mt-D4にとって主要な栽培種ではなかったコメに、海産物との高い交換価値があることが分かると、無視できない栽培種になったから、持ち前のmt-D4の性格を駆使してmt-B4との関係を構築し、情報ネットワークを形成したと推測される。後述する様に、関東のmt-B4は東北のmt-M7aともその様な関係を形成していたから、mt-B4にはそれを拒む理由はなかった。

焼畑農耕者ではなく堅果類の栽培者でもなかったmt-Fは、北九州ではmt-D4+M7bとは別の場所の、低位河岸段丘上に立地した円形住居に住居していたと想定される。mt-Fは湖北省時代から洪水が頻発する低湿地で稲作を行い、周囲の高台に住居を形成していたから、低位河岸段丘上に立地した円形住居mt-Fの住居址に相応しいからだ。彼女のペアは漁民出身だったと想定されるが、海岸ではなくmt-Fが望む段丘上に住居を構えた事になり、この頃の関東縄文人の住居は円形だった事も、この想定を支持する。

縄文晩期に方形住居を使っていたmt-D4の、縄文後期の住居址が発見できない事は、mt-D4M7bの集落は誕生し始めた沖積地にあったと推測され、晩期寒冷期に丘陵の縁辺部に一辺3~4m の方形住居が、相当な数で切り合うようになったものが、それであると想定すると他の諸事情と整合する。

北九州弥生人にmt-D4が多く、mt-Fが少ない事情と整合するだけではなく、縄文中期の球磨川流域や、縄文後期後葉の島原半島の溶岩台地に方形の住居址を遺したのは、mt-D4+M7bをペアとして関東系漁民と共生していた縄文人の集落だったと想定されるからだ。彼らが集積していた八代湾、島原湾、有明海などは外洋から遮断された穏やかな海で、津波の心配もないから、そこから北九州に集まったmt-D4+M7bには、海岸の高台に集落を形成する習俗はなく、彼らの海岸の集落跡は発掘されていない事と整合する。それとは際立った違いを示している低位河岸段丘上に立地した円形住居が、両者の出自の違いを示している。

縄文晩期にmt-D4の住居が丘陵の縁辺部に移動し、発掘が可能な状態になったのは、沖積平野が発達して河川の蛇行が始まり、氾濫が頻発する様になった事により、丘陵の縁辺部に移動する必要が生まれたからだとすると、那珂川流域の地理的な環境変化と整合する。那珂川の沖積地の形成が縄文中期に始まったのは、その上流にあった湖が土砂で埋まって湖の堰が破れたからだから、沖積地は縄文後期に急速に発達したと考えられるからだ。それによって稲作には影響はない程度に湿田が冠水する様になると、温帯ジャポニカの栽培には構わない程度の冠水であっても、住居を形成して貯蔵穴に穀物を蓄える事はできなくなったからだ。縄文後期のmt-D+M7bの痕跡は低湿地のドングリピットとして残されているが、mt-B4の住居の痕跡は発掘されていない事は、ドングリピットは高台に形成した事になり、貯蔵していたドングリは水に漬けていたのではない事を示唆している。

mt-D4の一部が焼畑農耕を止めて稲作者になると、その成功を追従する為に九州各地から多数のmt-D4+M7bが北九州に集まり、低湿地で稲作を行うmt-D4とその周囲で焼畑農耕を行う後発のmt-D4+M7bが混在する状況が生れ、沖積平野が拡大するとmt-D4+M7bから稲作を行うmt-D4に収斂し、北九州に異常なmt-D4の集中が生れた事を、北九州弥生人のミトコンドリア遺伝子の分布が示している。

その過程でmt-Fmt-D4がどの様な名目で接したのかは、別途の議論になる。mt-Fにとってはmt-D4の栽培情報に価値はなく、mt-Fには他の栽培者に技術を伝授する習俗もなかったから、栽培系の女性達が過去に構築したネットワークとは全く異なる、異様なネットワークにならざるを得なかったからだ。

湖北省の荊は天井川になった河川の氾濫時期を予測し、被害が及ばない稲作地を選定すると共に、計画的に氾濫させて農繁期には被害が及ばない状態にする様な、高い予知能力と地理感覚を備えていたと考えられ、その土木作業は男性達の任務だった筈だが、mt-Fだけが日本に渡来して人口が増えた事は、mt-Fにもその能力が備わっていた事を示している。つまり北九州で沖積平野が拡大し始めると、mt-Fが能力を発揮する場が生れたから九州に移住した事になり、mt-Fの栽培ネットワーク自体が、女性達だけで形成されていた他の栽培ネットワークとは異質なものだった。

関東にmt-B4mt-F2種の稲作者が共存していたのは、彼女達の稲作地が異なったからではあるが、数千年に亘る共存が維持されたのはそれだけが理由ではなく、稲作者の情報ネットワークも独立して存在し、互いに干渉し合う事がなかったからだと推測され、mt-B4が他の栽培者にも栽培技術を拡散する性格だったのに、温帯ジャポニカが拡散は北九州のmt-D4を介したものだった事が、mt-Fの情報ネットワークの性格を示している。

それらの事情は、mt-Fmt-D4に栽培技能を伝授する人間関係を、更に異様なものにする要素にしかならないから、mt-D4は本来あり得ない関係を介してmt-Fから温帯ジャポニカの栽培技術を得たが、栽培地は自然地形を利用した我流にせざるを得なかったから、縄文晩期にmt-D4の住居が丘陵の縁辺部に集積したとも言える。同時期のmt-Fmt-B4の住居址は、発掘されていないからだ。

mt-Fmt-D4が、この様な異様な情報交換を行う様になった理由を解く鍵は、mt-Fが北九州に入植した時期にあると考えられる。縄文後期温暖期のmt-Fの稲作地は、関東平野で充足する状況にあったから、敢えて九州の狭い沖積平野に進出する必要はなく、mt-Fが北九州に入植したのは、縄文中期寒冷期が終わる前だったと考えられるからだ。つまりその時期のmt-Fの立場の弱さと、元々関東部族の縄張りではなかった北九州に移住した事から、mt-D4とこの様な約束を交わす必要が生れたと推測される。mt-D4が個人的にmt-Fに働きかけると、mt-Fは稲作地を借りている者として、それに応える必要があったと考えざるを得ない。

その様なmt-D4mt-Fmt-B4の複雑な人間関係から、北九州が日本の水田稲作の発祥地であると誤解させる現象が生れたが、北九州弥生人の多数派だったmt-D4は、田植えを伴う耐寒性が高い日本式の稲作の開発者ではなかった事を、日本人のD4/D5比率が、山東・遼寧のアワ栽培者と殆ど同じである事が示している。つまりmt-D4が他地域に浸潤したから、この稲作が日本全国に広まったのではなく、mt-Dはこの稲作の主体的な開発者でもなく、開発の成果を北九州で利用していたに過ぎなかった。焼畑農耕によってアワを栽培したmt-D4は、激しい浸潤によって九州全域に拡散したのに、稲作に関してはその様な活動が一切見られない事がその証拠になる。

 

 

アワとコメの生産性と交換価値

世界の一般的な事情としては、最も生産性が高い穀類がその地域の主要な栽培品種になったが、日本ではそれが異なっていた。稲作は生産性が高い栽培種ではあるが栽培地が限られるから、総生産量では焼畑農耕で栽培するアワには及ばなかったからだ。中国の華北でアワ栽培が小麦栽培に変わったのは、天水に頼る畑作ではアワより小麦の方が生産性が高かったからで、焼畑農耕によるアワの生産性と比較した事情ではない。

江戸時代までの日本の食糧事情として、庶民が雑穀を食べながらコメを年貢として納めたのは、焼畑で生産するアワの方が収穫高を高め易かったが、流通価値はコメにしかなかったからだ。

日本人は古代からアワよりコメを重視した故に、コメが流通してアワはローカルな流通穀物に留まったが、それは日本が海洋民族の支配する地域だったからであると考えられる。穀類は先にウルチ種が生れ、モチ種は後世になってから生まれたが、殆どの穀物にモチ種がある。しかし新品種は意図的に作り出さない限り生れないから、作り出した人には作り出した目的があり、目的に適合した品種にする為に選別を重ねた結果、モチ種が生れたと考える必要がある。縄文時代の稲作者の主要な顧客は漁民だったから、彼らが何故コメを好み、そのモチ種化を求めたのか考察する必要がある。

日本人が慶事に赤飯を炊くのは、古代米が赤かったからだとの説が有力であり、現在は赤い色を着色する。一昔前は小豆を混ぜてその色を使用したが、いずれにしてもコメにはモチ米を使う。これは古代米と言われた米がモチ種だった事を示すと同時に、古代にはウルチ種よりモチ種の方が価値の高いコメだった事を示している。つまり古代であってもウルチ種のコメは白かったが、モチ種のコメは赤かった事を示唆している。

海洋漁民がアワよりコメを重視し、縄文時代からコメの価値が高くアワが軽視されたのは、コメは船上の携帯食になったがアワにはそれが期待できなかったからだと考えられ、モチ米は更に携帯食として優れていたから重視されたと考えられる。餅の語源は「もちいい」=「日持ちの良い飯」であるとの説が有力である事も、この事情を支持する。

一般的な穀物はウルチ種だから、アワもコメも栽培化された段階ではウルチ種だった可能性が高く、コメはウルチ種であっても蒸したり茹でたりして携帯食化できるが、アワのウルチ種を食べる為には粥か雑炊にする必要があり、調理に土器と多量の薪が必要な食材は船上では食べられないし、岩礁の様な島に停泊した際にも食べる事が難しかったし、土器を携帯する必要があった。従って海洋を長距離移動する漁民や交易者にとって、コメは携帯食化する事が容易だったが、アワではそれができなかったからコメが好まれた可能性が高い。戦前のアワ栽培者はウルチアワを粉にして食べていたとの説もあるが、粟餅が普遍的な食べ物だったとは寡聞にして知らない。

餅は長期保存が可能で、火で炙れば消化し易い澱粉に容易に変化させられるから、漁民の携帯食には極めて有利なものだった。従ってmt-B4mt-Fが、海洋漁民の求めに応じてモチ種を生み出す事に必然性があった。餅は蒸篭と臼・杵があれば簡単に作る事が出来る事も、この想定の根拠になる。

海洋民族を祖先に持つ日本人が餅や煎餅を好んで食べるのは、携帯食の素材にする為にコメを品種改良し、加工方法も進化したから、現在も携帯食風の加工品が嗜好品として食べられていると考えられるからでもある。アワにもモチ種はあるが現在は餅の食材として使われていないのは、歴史が浅く進化が不十分である事に依る疑いがある。

穀類の澱粉はアミロースとアミロペクチンの混合物で、アミロースの含有量が20%を超えると、パサパサの炊き上がりになり、20%未満ではモチモチ感がある。もち米はアミロペクチンだけでアミロースを含まない品種になるが、それを品種化する為には突然変異遺伝子の集積が必要になるから、その栽培品種化には種籾の選別によってアミロースの含有量が少ないモチ種を生み出す必要があり、その為には識別マークが必要だった。

モミのサイズが大きいとか、稲穂に付くモミの量が多いとかの形質は、見ただけでわかる形質だからモミの選別は容易だが、アミロースの含有量は食べてみるか、炊飯時にしか分からない事だから、突然変異遺伝子の集積には他の何らかの識別マークが必要になり、それが赤いコメの色、或いはモミの色の微妙な違いだった可能性がある。つまり赤米はモチ米を選別する際の指標だった疑いもある。

いずれにしても関東の漁民が食べる事が出来た穀物は、縄文後期が終わるまでは米しかなかったから、コメの栽培者だったmt-B4mt-Fが、漁民の望む方向に品種改良した事は間違いなく、携帯時の保存性も含めてその米の食べ方を色々工夫していた関東部族の漁民にとって、穀物の選択肢は米しかなかった事は必然的な結果だった。

北九州で稲作が始まると直ぐに山陰に伝搬したのは、北陸部族の漁民や交易者もコメの有用性を理解したからだと考えられる。実際の歴史もそれが前提であるかのように進展し、奈良時代にはコメで租税を支払う必要があった事を、続日本紀に記された天皇の詔が示している。

この前提が正しければ縄文中期までの北陸部族が餅として食べていたのは、mt-Gが栽培するキビだった可能性が高まり、大陸の栽培種はウルチ種だが、現在の日本に残っている伝統的な栽培種はモチ種である事と整合する。従って古い時代から黍団子が食べられていたとすると、桃太郎伝説にも新しい解釈が生れる。キビはコメより甘みがあるから、海洋民族にとって嗜好品的な携帯食だった可能性もあるからだ。いずれにしてもキビはコメやアワと比較した生産性が低く、縄文時代の北陸部族の漁民にとっては、コメより価値が高い希少穀物だったとすれば、縄文後期に北九州で稲作が始まると、それが直ぐに山陰に拡散した理由が明らかになるし、穀類の生産性に拘って海洋民族との共生を軽視したmt-Dが、アワのモチ種化に熱意がなかったであろう事も、縄文後期の北九州事情に現実味を与える。

つまり関東部族の漁民はアワを食べなかったから、北九州に移住したmt-D4+M7bにとっては海産物との交換穀物はコメだけだったが、関東部族の交換比率は九州の交換比率より極めて縄文人に有利なものだったから、関東の漁民が移住した北九州に九州縄文人が殺到したと考えると、この時期の北九州で起こった事の経済理性が説明できる。それに関する数値解析は煩雑だから、3-3節で行う。

mt-Fの稲作地の周囲にmt-D4+M7bが群がったとすると、常識的に考えれば最も条件が良い沖積平野はmt-Fが先に占拠し、mt-D4+M7bはその脇の小さな沖積地で細々と稲作を行ったと想定されるが、弥生時代のmt-D4の人口がmt-F13倍もあった事は、その様な事情ではなかった事を示し、北九州はmt-D4の栽培地であって、mt-Fは栽培地を借用する身分だった事を示唆している。また縄文後の遺跡である福岡県久留米市の正福寺遺跡に、60個ものドングリピットを遺した事は、関東系の漁民と共生していたmt-D+M7bが、北九州で技術を習得した後に、有明海の沿岸に移住して稲作者になった事を示し、北九州はmt-D4+M7bの農業学校だった事を示唆し、mt-Fの負担がその様な事態にまで及んでいた事も示唆し、北九州に於けるmt-Fの立場を示唆している。

縄文時代の博多湾は洪積台地を挟んで有明海と繋がり、その洪積台地には御笠川が河谷を刻んでいたから、大きく湾入していた有明海から宝満川を遡上し、御笠川に達する陸路は5㎞未満だったと想定される。熊本や長崎にいた九州の漁民が漁獲を提供する事により、mt-D4+M7bの北九州への移住が始まり、その経路で磨製石斧も供給される様になって堅果類の樹林が形成され、その流通経路が発達して焼畑農耕に至る事も可能だったが、熊本で栽培されたアワを北九州に持ち込む事も難しくなかったから、この交易網は他の事情によって進展の度合いが決められたと想定される。

北九州弥生人には関東部族出自の栽培系遺伝子が少なく、男性達の殆どが漁民だった事は、稲作者になったmt-D4が関東部族の漁民にコメを提供し、関東部族の漁民から漁獲を得る状態が、縄文後期の早い時期に確立した事を示している。

しかし縄文後期温暖期に北九州に集まったmt-D4+M7bmt-B4mt-Fの劣化模倣者でしかなく、通常の浸潤法則ではmt-B4mt-Fの浸潤を受けて遺伝子割合が低下する状況だったが、北九州ではその法則が通用しなかっただけではなく、mt-D4が稲作を含む栽培集団の圧倒的な多数派になった。東ユーラシアでは稀なケースだから、mt-D4の排他性だけで説明する事は難しく、その他の特別な事態を想定する必要がある。

縄文後期後半の熊本県合志市の二子山石器製作遺跡で、湿田稲作用の扁平打製石斧を製作し、菊池川流域の川洲と白川の川洲でこの石斧が使用された事が判明し、関東系漁民の中核地だった島原湾沿岸にも温帯ジャポニカの栽培が及んだ事を示し、北九州で温帯ジャポニカの稲作技術を習得したmt-D4が、本拠地に戻って稲作を始めただけではなく、周囲のmt-D4にも稲作技術を拡散した事を示し、特異な事態が起こった事を示している。

 大分県山香町や大分市の横尾でもドングリピットが出現し、対馬部族の漁民と共生していたmt-D+M7b+にも類似した文化が波及した事を示し、mt-D4習得した温帯ジャポニカの栽培技術を部族に持ち帰った事を示唆している。山香町は近くに海がないから、このmt-D4+M7bは十分な海産物のサポートを得られなかったが、淡水魚と堅果類で凌ぎながら温帯ジャポニカの湿田稲作に挑戦し、やがてドングリピットを作らなくても良い程度に生活が改善した事になる。しかし海岸に近い大分市の横尾に帰還したmt-D+M7bもいた事を、この時期の横尾遺跡から、イチイガシが収められた6個のドングリピットが発掘された事が示している。

横尾遺跡のドングリピットは数が少ないが、この遺跡の住民は豊かな海産物を得る事が出来たから、イチイガシが収められたドングリピットが発掘された事から、起こった事態を把握する事は出来るが、この地域の縄文人はmt-D4が北九州で習った稲作を受け入れたのではなく、それに刺激を受けた対馬部族が異なる決断に走る契機になったと考える必要がある。

縄文中期まで東北や道南で暮らし、三内丸山遺跡や大船遺跡などの大集落を遺した縄文人の集落が、縄文後期に相次いで消滅や大幅縮小に至ったのは、これらの縄文人が稲作を行う為に西日本や九州に移住したからであると考えられ、彼らの最も大きな受け皿が、対馬部族が支配していた遠賀川流域から別府湾に至る地域であり、伊予部族が支配していた九州南部や四国南部だったからだ。

周防灘に面した九州沿岸の内陸は阿蘇を中心とした隆起地盤で、周防灘の沈降地盤に接している沿海部は徐々に沈降し、両地域は阿蘇のカルデラや猪牟田カルデラ(ししむたカルデラ)などの、噴火による厚い火山灰に覆われている。その為に蛇紋岩が採取できない地域だが、横尾遺跡などにmt-D4+M7bの痕跡が残っているのは、対馬部族が海運力の高さを活かし、広島から磨製石斧を搬入していたからだと推測される。

周防灘や別府湾の沿岸に洪積台地が連なっているのは、13万年前に土砂が堆積した周防灘が、日本海や太平洋とは分離された湖だったからだと推測される。それらがヤンガードリアス期に侵食され、底面が広い谷間が多数生れて土砂が堆積し、mt-B4型の稲作に適した河谷になったから、これらの地域に入植したmt-B4型の稲作者の収穫が、日本一だった時期があった事を「豊の国」の呼称が示している。

弥生時代の稲作は温帯ジャポニカを基本とするもので、木製農具を使って湿田を拡大する事によって収穫を高めたが、この地域の地形はその様な稲作に相応しいものではないから、この地域が「豊の国」と呼ばれたのは縄文後期だったと考えざるを得ない。この地域を覆っている火山灰も凝灰岩や凝灰角礫岩を形成し、洪積台地の様な地形を形成しているから、両者を個々に分離する事が難しいが、これらの火山灰土壌も河川の浸食を受けやすい地質だから、洪積台地と同様にmt-B4に谷間の稲作地を提供したと考えられる。

関東の武蔵野台地や大宮台地は隆起地形上にあり、台地の成因が明らかだが、周防灘や別府湾の沿岸は沈降地形であるにも関らず、洪積台地が海岸に接しているのは、周防灘は沈降しているが台地部は内陸の隆起地殻と接しているからだ。従って縄文時代の山際は現在より標高が低く、当時の沿海部は現在の海中に水没しているから、現在より広い谷間が散在していた。

河川がそれらを浸食した土砂を多量に流したにも関わらず、海岸に広い集積平野が形成されていない事が、周防灘の沈降速度が速かった事を示し、この地域がmt-B4型の稲作地にしかならなかった事情を物語っている。海岸の沖積平野も当時の方が遥かに広かったが、沈降地殻上の沖積平野では河川が頻繁に氾濫するから、mt-Fであっても稲作地にする事は容易ではなく、むしろ草丈が高く洪水に強い熱帯ジャポニカの方が栽培し易かったと考えられるからだ。

その様な「豊の地」に対馬部族が入植させた稲作者は、古山形湖の湖畔で熱帯ジャポニカの稲作を行い、稲作技術を関東のmt-B4から指導されていたmt-M7aを中核とする、広域的な東北縄文人だったと考えられる。対馬部族は縄文早期前葉に東北に移住し、周防灘沿岸にいた多数の縄文人を日本海沿岸に入植させたが、1万年~7千年前に対馬暖流が流れる様になると、日本海の沿岸に海岸砂丘が発達したから、漁民は湊の適地を求めて青森まで北上しなければならなくなり、古山形湖や秋田の湖沼群に入植した縄文人とは連携が薄れ、共生関係が弱体化していた。

それ故に山形のmt-M7aは伊予部族と共生していた古福島湖岸の縄文人と連携し、関東部族のmt-B4と熱帯ジャポニカの栽培ネットワークを形成したから、関東部族のmt-B4が北九州に入植した事を奇貨とし、数千年間放置していた罪滅ぼしに、東北のmt-M7aを周防灘南岸に入植させた事が、「豊の地」と呼ばれる所以になったと考えられる。

現在の北九州のmt-DD4/D5比は標準的な日本人の比率だから、伊予部族の稲作が北九州に拡散した事を示しているが、それが弥生時代ではなかった事は、北九州弥生人の遺伝子分布が示しているから、縄文晩期より気候が冷涼になった古墳寒冷期だったと考えられる。つまり対馬部族の稲作者はmt-B4の指導に従う稲作者になったが、mt-D4はそれとは異なるアウトロー的な稲作者だったから、日本列島内では比較的温暖な北九州の稲作者でありながら、古墳寒冷期を乗り切る事ができずに対馬部族の稲作者に席巻された事を示し、対馬部族の稲作者は共生する焼畑農耕者と行動を共にした事も示している。

 

縄文後期~晩期に起こった事象に関する農学的な見地

縄文中期~晩期のmt-Fが北九州で行った温帯ジャポニカ栽培は、沖積平野で扁平打製石斧を使って土手を作り、水溜り状の稲作地を形成しただけで、畔などの先進的な水田設備を作るものではなかった。畔を形成する為には土堀具が必要だが、扁平打製石斧では水溜りの堰を形成する事が精一杯で、鉄の鋤を使って形成する様な、立派な畔を作る事はできなかったからだ。その様な畔を作っていたのでは、mt-Fが必要とする量のコメを得る事はできなかったとも言える。

北九州で発掘された扁平打製石斧は、湿田稲作の土堀具として必須の農具だったが、焼畑農耕には必要がない石器だから、扁平打製石斧の出現を以て稲作が始まったと見做す山崎純男氏の見解は的を射ている。

このHPではmt-F流の稲作を「湿田稲作」と呼び、斜面に畔を形成して田の水を水平に張る、弥生時代以降の「水田稲作」と区別する。平坦な沖積平野であれば簡単な土手を形成する事により、大きな水溜まりを形成する事ができたが、水溜りの水の深さは均一ではなく、別の手段を併用して稲作地を整備する必要があった。

湖北省時代の荊が形成した稲作地については、古代人の知恵を高く評価する人であれば具体的な推測は控えるだろう。荊はその様な稲作を5千年以上続けていたから、現代人が驚く工夫も沢山あった筈であり、灌漑水路の整備にも多くの労力を費やした筈だから、水利についても豊富な経験と知識を有していたと推測される。

周礼の夏官司馬に稲作に関する記述があり、戦国時代(弥生時代中期)の大陸の稲作事情の一端を示しているが、まだ石器時代の湿田稲作だった事を示している。

潴(ちょ:水溜り、溜池、貯水池、沼)に水を蓄え、土手を作って水を止め、小さな溝を作って水を土に染み込ませ、大きな溝を作って水を調整(導き)し、列状に水を貯え、給排水路を作って水量を調整し、水の中を盛んに歩いて(草を踏込んで除き)、田を作る。一般には沢で稲をつくる。夏に水で草を断ち切り、芽が出た草を切り取る。沢の草が生えるところに、芒種(ぼうしゅ:新暦で65日頃)に種を播く。 

冒頭のは、人工的に形成した湿田と解釈するべきだろう。溜池の地形の凹凸に対しては、溝を作って水位を調整し、其処に種を蒔いた事を示している。その水位を調整する為に溜池の脇に溝を作ったが、地形に応じて複数の手法があった筈だから、これが全てだったと考えない方が良い。畔は水田全体に水を均一に張る手段だが、石器時代には溝を掘って水を供給し、溝を歩きながら周囲の草を摘んで溝に投げ込み、踏み込んで肥料にした事を示唆している。

農学者の佐藤氏は、温帯ジャポニカは施肥によって生産性が高まり、施肥が為されないと熱帯ジャポニカにも及ばないと指摘しているから、mt-Fは生産性を高める為に湿田に先ず雑草を生えさせ、それを踏み込んで肥料にした可能性が高い。

落ち葉を集めて湿田に踏み込んでいた可能性もある。mt-Fの故郷は常緑樹が茂る暖温帯性の地域だが、シイは落ち葉を形成して堆肥の原料にもなり、mt-D4が温帯ジャポニカの栽培に拘った理由は高い生産性だから、施肥技術を含めた総合力によって高い生産性を得ていた可能性がある。

大陸での温帯ジャポニカの稲作は、揚子江以北では縄文晩期寒冷期に壊滅したが、北九州の栽培者は気候が冷涼化しても温帯ジャポニカの稲作を止めなかった事を、縄文晩期寒冷期の丘陵の縁辺部に、一辺3~4の方形住居が相当な数で切り合うようになる事が示している。温帯ジャポニカが持っていた短日性は、気候が冷涼になると収穫を壊滅させる危険因子だから、縄文晩期寒冷期の大陸ではそれによって揚子江以北の温帯ジャポニカが壊滅したが、方形住居が相当な数で切り合うように集落が密集していた事は、この時期の北九州では温帯ジャポニカの品種や農法が改良され、耐寒性を高めていた事を示している。

湖北省で栽培化された温帯ジャポニカは短日性が強く、彼岸が過ぎてから一斉に開花したから、秋の冷涼化が早まるとイネが不稔になり、播種時期を早めても対策にはならなかった。芒種(ぼうしゅ:新暦で65日頃)に種を播く播種時期の遅さも、開花時期に合わせたからである疑いが濃い。この強い短日性の為に縄文晩期寒冷期の大陸では、青州だけではなく湖北省でも温帯ジャポニカの生産性が低下したから、温帯ジャポニカの稲作者は武漢の盤龍城遺跡も放棄し、呉城文化が栄えた江西省(北緯29度以南)まで南下した。

しかし北九州(北緯3335分)は、温帯ジャポニカの稲作者がいなくなった江蘇省北部と同じ緯度でありながら、温帯ジャポニカの稲作者の人口が増えていた事を、方形住居が相当な数で切り合うように密集していた事が示している。

北九州のmt-D4は縄文晩期の寒冷化の中で、独自の耐寒技術を編み出して生産性の劣化を食い止めたから、再び温暖化した弥生温暖期に、北九州弥生人のミトコンドリア遺伝子分布が示す、多数派を形成したと想定される。mt-Fが北九州弥生人に4%しか含まれていないのは、縄文晩期に新しい農法を採用したmt-D4や耐寒性が高い稲作者だったmt-B4の浸潤を受け、大幅に減少したからである疑いもあるが、mt-Fが現代日本人の5%以上を占めている事は、古墳時代に渡来した帰化人を除外した弥生時代末期の日本人の割合から推測すると、北九州より冷涼な関東で30%以上を占めていた事になり、mt-Fも新しい稲作技術に素早く順応した事を示している。従って北九州弥生人のmt-F比率が低かったのは、縄文後期から一貫した事情だったと考える必要がある。

しかしmt-D4が新しい耐寒農耕を採用し、盛んに北九州で稲作を行っていた縄文晩期寒冷期は、日本列島の各地に新しい耐寒稲作が拡散した時期でもあったから、縄文後期温暖期が終わってから縄文晩期寒冷期になった直後の事情を、色々な角度から検証する必要がある。

日本人のmt-DD4/D5比率は山東・遼寧の漢族とほぼ同じで、mt-D4しなかった韓族が古墳時代に日本に帰化し、日本の人口を8%ほど増やした効果として補正すると、山東・遼寧の漢族と殆ど一致する事は、新しい農法を確立して日本に拡散したのは、北九州のmt-D4ではなかった事を示している。

縄文後期温暖期が終わって気候が寒冷化し始めた頃、mt-Fが栽培していた温帯ジャポニカの生産性が激減した事は、尾瀬の花粉が示す気候の変遷を見れば明らかだが、その時期に耐寒性が高い日本式の温帯ジャポニカの栽培が始まった事は、ある意味では必然的な結果になり、それを開発した候補はmt-Fmt-B4になるが、農学的な知見から導かれる推論ではmt-B4になる。

農学以外の事情としても、弥生時代後葉の鳥取県の青谷上寺地遺跡の多数の惨殺遺体から、北陸縄文人の遺伝子ではないmt-B4が複数検出されたが、mt-Fは検出されていない事が証拠になる。このmt-B4の比率は10%未満だから、mt-B4は浸潤によって新しい稲作を拡散したのではなく、技術指導の為に少数者が日本全国に拡散した事を示し、新しい稲作の農学的な特徴と合致する。

また縄文中期~後期の関東の土器と東北南部の土器に類似性があり、東北的な土器が縄文後期の西日本から発掘される事も、mt-B4の稲作に関する情報ネットワークの存在を伺わせ、mt-B4が新しい稲作を拡散した状況を示している事と、青谷上寺地遺跡の遺伝子分布が整合する。

mt-B4は現代日本人の9%しかなく、古墳時代に渡来した帰化人を除外した弥生時代末期の遺伝子構成でも、当時の日本人の11%しかいなかった事になるから、田植えをする新しい稲作技術が弥生時代の日本列島に広がっていたのは、mt-B4が各地に浸潤したからではなく、稲作技術を指導する為に少数のmt-B4が各地に拡散した事により、日本列島に稲作が拡散した事を示している。またmt-B4のその様な行為により、縄文後期の日本列島の遺伝子分布が凍結されたから、縄文時代の遺伝子構成が現代日本人に継承されたと考えられる事も、沖縄人の遺伝子を含む各種の検証によって明らかになる。

以降の歴史検証は縄文史を構成する諸要素を論理的に組み立て、その体系に収まるものを歴史事とし、収まらなければその理由を検証する手法に移行する必要がある。単発事象を個々に検証するだけでは、縄文後期以降の複雑化した縄文社会を解明できないからであり、その様な手法を採用しなければ、縄文社会の変化を追跡する事もできないからだ。

以上を前提に縄文後期初頭の北九州の稲作事情を推測すると、mt-Fが北九州に移住して低位河岸段丘上円形住居を形成したのは、湖北省や河南省で水害に苦しめられていた荊の習俗として、平地に居住する事を危険視していたからだと考えられ、関東に移住したmt-Fもその様な地形上に居住していた事になるが、関東での発掘事例は報告されていない事も問題になる。

関東平野には相模野台地、多摩丘陵、武蔵野台地、大宮台地、常総台地などの微高地があり、それらの合間に沖積石平野が広がっているから、mt-Fの稲作適地と住居を形成する、段丘的な微高地の組み合わせは各地にあったが、洪積台地は細かい粒子の土壌で形成されているから、山裾は浸食され易く縄文後期の遺跡が残り難い事情もある。しかし日本の考古学者は、縄文後期の関東に稲作者がいた筈はないと決め付けているから、それ以前の問題としてこの課題は棚上げする必要がある。

12軒の円形住居が次第に増え、34軒となった段階で大きく2群に分かれたのは、縄文後期温暖期に稲作に成功すると稲作者の人口が増えた事も示唆している。円形住居は関東式の住居だったから、関東から移住したmt-Fの住居だったと想定される。縄文後期は海退が始まった直後で河岸の沖積平野は狭く、一カ所に多数のmt-Fが集住する状態ではなかったから、一カ所には34しか居住しなかった事になる。縄文後期に関東から北九州に移住したのはmt-Fだけではなく、mt-B4mt-Aも移住したから、この時期の円形住居の全てがmt-Fのものだったとは限らない。立地条件を精査する必要があるが、それについての記載はない。

その後徐々に衰退していったのは、縄文後期温暖期が終わると寒冷化が徐々に進み、沖積平野は拡大し続けていたが、温帯ジャポニカの生産性が劣化して稲作の継続が困難になったからだとも推測されるが、沖積平野が拡大して海が遠くなったのに稲作の生産性が劣化し、海産物の需要が増加したから、mt-Fの人口比が減少したのではなく、その入手を容易にする為だった可能性も高い。海が見える場所に千年も暮らしていれば、海には湖北盆地の様な洪水や水面上昇がなく、狭い博多湾の奥では大きな波もなかった事は、やがて分かっただろうから。

mt-B4が栽培していた熱帯ジャポニカは、関東で耐寒性を高めた品種だから、九州であれば縄文晩期の寒冷化にも耐えた筈であり、低位河岸段丘上に立地した円形住居が縄文後期後半に衰退していった事は、この住居はmt-Fのものでmt-B4は別の場所にいた事になるが、その住居址は発掘されていない。mt-B4が春日台地などの洪積台地に集住していたのであれば、その居住域は太宰府市や筑紫野市まで及んでいた筈だが、川が洪積台地の斜面を侵食して流域に厚い土砂を堆積したから、遺構が発掘される事はないかもしれない。

60基のドングリピットが発掘された福岡市野多目は、沖積平野が生れ始めていた縄文後期初頭には、海岸の狭い沖積地を望む山裾だったから、mt-Fが稲作を始めた沖積地を望む小高い丘に、先ずイチイガシの樹林を形成した事を示し、mt-D4+M7bはそれを食べながらmt-Fの稲作を真似る事により、稲作者になる道を歩み始めた事を示唆している。これが稲作者になり始めたmt-D4+M7bに共通する事象だったとすれば、mt-D4+M7bは広域的な経済共同体を形成していたのではなく、10家族未満の集合体が経済的に完結する集団を形成し、その集団が稲作に挑戦すると、食糧事情が一時的に劣悪になる事を覚悟しなければならなかった事を示している。

縄文後期初頭の北九州の低湿地で、60基ものドングリピットが纏まって発掘された事は、低湿地で温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fの周囲に、多数のmt-D4+m7bが群がった事を示している。北九州弥生人のミトコンドリア遺伝子の6割がmt-D4である事は、「群がった」との表現が妥当性である事を示し、60基という大きな数は10軒以上が集住していた事を示唆し、34軒となった段階で大きく2群に分かれたmt-Fの集落より住居数が多かった事と、師範役だったmt-Fより周囲に群がったmt-D4+m7bの方が多数だった事を示している。ドングリピットは縄文後期初頭のものしか発掘されない事は、mt-D4は温暖化して間もない時期に湿田稲作に成功し、ドングリを貯蔵する必要がなくなった事を示している。

この時代の北九州の海岸には、偶然発見されたこの60基以外にも多数のドングリピットがあり、それに見合う九州縄文人の集落があったと推測されるが、生まれて間もない沖積平野の面積は狭く、mt-Fの集落が34軒となった段階で大きく2群に分かれた事情と整合するから、好奇心が高く集団的に行動するmt-Dの性格を示すと共に、温帯ジャポニカの生産性が高かった事を示している。

熱帯ジャポニカは海岸の沖積平野で栽培する必要はなかったから、内陸の河川流域で栽培していたと想定されるが、その栽培技術はジャバニカの栽培者であれば容易に取り込む事ができたから、北九州に集住して技術を習得する必要はなかった可能性が高く、温帯ジャポニカの生産性は、熱帯ジャポニカと比較しても極めて高かった事も示している。従って此処に群がったmt-D4+M7bは先生の周囲に群がる生徒の様な環境で、稲作技術を習得すると大分や熊本に帰り、それぞれの故郷に錦を飾る事を目指した者も多かったと推測され、横尾遺跡、正福寺遺跡、二子山石器製作遺跡がその事情を示している。

但し温帯ジャポニカの生産性が高かった理由は、稲の品種としての生産性だけではなく、洪水を恐れずに低湿地を広域的に使う、mt-Fの画期的な稲作技法にもあったから、それを見て衝撃を受けたmt-D4+m7bが、種籾を分けて貰うだけでは実現できない稲作技法を学ぶ為に、mt-Fの周囲に集まった事になる。

その千年後の縄文晩期に、丘陵の縁辺部で一辺3~4m の方形住居が相当な数で切り合うようになりmt-D4の新しい稲作が成功しただけではなく、耐寒性が高い稲作も行っていた事になるが、千年間で変わった事はそれだけではなく、従来の発掘できない場所には、集落を営む事ができなくなった事も示している。

縄文後期に海退が急速に進んで沖積平野が拡大したが、晩期に海退の進行が遅くなって川面の低下速度が鈍ると、沖積地を流れる河川の川底に堆積した土砂が天井川を形成し始め、河川の蛇行も始まって氾濫が頻発し始めたから、平坦地に住む事が危険になって丘陵の縁辺部に移動したと想定される。従って丘陵の縁辺部に住居を移したのは気候要因ではなく、地理的な理由だったと考えられるが、mt-Fと同じ居住形式でもあるから、河川の氾濫原を使う稲作もある程度習得していた事を示している。

その様な場所をmt-D4が占有できた事は、mt-Fには対処できなかった何らかの事態により、沖積地を使う既得権がmt-D4に移転した事を示しているが、北九州より冷涼な関東のmt-Fの人口が急減したわけではないから、耐寒性の高い稲作の採用の有無が原因ではなかった。

 

温帯ジャポニカの耐寒性向上

農学者の佐藤洋一郎氏は、耐寒性が高い日本式の稲作は、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混栽によって生まれたと指摘している。関東ではmt-Fmt-B4が稲作地を接していたが、両者の稲作は手法が大きく異なり、混在していたのではなく稲作に適した地域に分かれていたから、両者が日常的に接する事はなく、稲作技術の交換もあまり行われず、縄文中期の関東では熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混栽が試行される事はなかったと推測される。

縄文後期温暖期の北九州に集まったmt-D4+m7bは、稲作種をジャバニカから温帯ジャポニカに変えたが、彼女達にとっては栽培しやすい熱帯ジャポニカも、温帯ジャポニカを栽培しながら混載していたと想定される。焼畑農耕でも、アワの傍らでジャバニカも栽培していた九州全域のmt-D4+m7bにとって、熱帯ジャポニカはジャバニカより生産性が高く、転換は種籾の入手だけで可能だったからだ。

その様な熱帯ジャポニカの種籾は、mt-D4の情報網を介して九州全域に拡散し、それまでは焼畑農耕に専念してジャバニカの栽培には関心が薄かったmt-D4も、熱帯ジャポニカの栽培に挑戦する様になったと推測されるが、熱帯ジャポニカであっても栽培に関するノウハウは色々あり、北九州でmt-Fの周囲に群れていたmt-D4+M7bにとっては、mt-B4から熱帯ジャポニカの栽培法を学ぶ必要もあった。

全く新しい栽培種である温帯ジャポニカの、生産性を安定させる技量は個人差も大きかった筈だから、世代を重ねても熱帯ジャポニカの生産性を上回る事ができずに、熱帯ジャポニカを主体に栽培していたmt-D4が多数派だった可能性もある。その様なmt-D4は狭い湿田で熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混載していたから、佐藤氏が耐寒性を高めると指摘している混栽条件をクリアし、耐寒性が高い品種が自動的に含まれていた事になる。

混栽によって生まれた雑種は多種多様だが、mt-Fであれば除去してしまう様な生産性が低いものが多く、栽培手法が劣悪なmt-D4の栽培で品質が劣る稲穂が多数を占めていたとすれば、品質に問題がある種籾を使って生産性を落としていたとも言えるが、雑種同士が再交配する環境には満ちていた。

佐藤氏が耐寒性は高まると指摘している理由は、温帯ジャポニカを短日性がない熱帯ジャポニカと交配させると、短日性を失った温帯ジャポニカが生れるから、短日性が強い故に播種時期を6月初旬に遅らせていた温帯ジャポニカの播種を、半月ほど早める事によって耐寒性が自動的に高まるからだ。但しそれだけでは後で説明する、田植えを伴う日本式の稲作とは全く異なる栽培手法だった。

しかし半月であっても播種を早める効果は、温暖期が終わって生産性が劣化した温帯ジャポニカには極めて有効だったから、気候が冷涼化し始めていた縄文後期温暖期の末期には、生産性が極度に劣化していたmt-Fの稲作より高い生産が得られただろう。

縄文後期温暖期末期の寒冷化事情を、縄文時代の導入項に示した尾瀬の気候で説明すると、BC1500年頃に突然気候が冷涼化し、縄文中期寒冷期と同様な気候になったから、それによってmt-Fの稲作の生産性が急減した可能性が高い。この問題は関東のmt-Fの生産性が急激に悪化した事によって顕在化し、mt-B4の生産性の後塵を拝す様になって大問題になったと想定される。しかしBC1200年頃に始まった更に厳しい急激な寒冷化の前に、九州のmt-D4が発見した耐寒性向上策が参照され、日本式の稲作の端緒が生れたと推測される。その話は複雑なので節を改めて検証する。

 

3-2-2 mt-Fが北九州で稲作を始めた経緯

mt-Fが日本に渡来した経緯

多数のmt-Fが日本に渡来したのは、縄文前期温暖期が終わると、陝西省や河南省などの高緯度地域の稲作が難しくなったからだと推測され、日本に渡来したmt-Fの郷里は、南陽盆地だった可能性が高い事は既に指摘した。

縄文前期温暖期の終末期になると、南陽盆地の荊は秋の寒冷化の到来の早さに苦しみ始めたが、湖北省には既に先住者がいたから、安易に南下する事はできなかった。短日性が強い温帯ジャポニカは秋分になってから一斉に開花したから、秋の寒冷化の到来が早まると、不稔による不作が深刻化し、やがて悲惨な状況を生み出しただろう。

南陽盆地の南端にある襄陽(北緯32度)の気温と、関東の千葉(北緯35度)の気温を比較すると、播種~育苗期である6月の平均気温は襄陽の方が高いが、開花から結実までの10月~11月を比較すると、10月の平均最高気温はほぼ同じだが、平均最低気温は千葉の方が2℃以上高い。襄陽の方が低緯度だが、千葉は黒潮による温暖な気候に恵まれている上に、海洋性気候の千葉の気温変化は、大陸性気候の南陽盆地より1か月遅れるからだ。それ故に、当時の温帯ジャポニカの収穫時期だった11月になると更に千葉の温暖性が目立ち、平均最高気温は千葉の方が1℃高く平均最低気温は3℃も高い。

温帯ジャポニカの栽培化が進んで耐寒性が高まると、6月の播種と育苗にはそれほどの高温を必要としなくなったが、短日性が強く結実期は変えられなかったから、10月~11月初旬の気温の低下が深刻な冷害を引き起こす、主要因になっていたと想定される。佐藤氏が指摘する温帯ジャポニカの耐寒性向上策が、熱帯ジャポニカとの混栽であった事は、温帯ジャポニカの短日性を失わせる策が最も有効であるとの指摘になり、その事情を端的に示している。佐藤氏はその根拠として、冷涼な東日本では現在も早生を栽培する必要があり、それは収穫時期を早める為であると指摘している。

縄文前期末の温帯ジャポニカが、その段階まで耐寒性を高めていたとすると、南陽盆地の南端にあった襄陽より千葉の方が有利だった。縄文中期の甲府盆地や伊那谷で温帯ジャポニカを栽培した事も、播種と育苗時の低温化には十分耐えられる状態だった事を示し、当時の温帯ジャポニカの耐寒性向上の課題は、短日性の克服だった事も示している。

縄文前期温暖期が終了した時点で、南陽盆地の荊はこの問題に直面し、関東の方が温帯ジャポニカの栽培に有利であると判断したから、mt-Fが関東に渡来した事になる。寒冷化が更に厳しくなると、南陽盆地には稲作者がいなくなった筈であり、その様な南陽盆地にいた荊の対策は、縄文前期には稲作に不適と見做されていた湖北盆地の何処かの地域に南下し、其処でも栽培可能な状態を得る為に奮闘するか、広い沖積地もなく原生種の影響が危惧された、湖南省に南下する為に組織を挙げて決断し実行したと想定されるから、その時期である縄文中期寒冷期になってから、日本に渡来したmt-Fはいなかったと想定される。つまり南陽盆地のmt-Fが日本に渡来したのは、また個人問題や特定集落の課題であると受け止められていた、縄文前期温暖期の終末期だったと想定されるから、渡来が始まったのは最初の寒冷化が始まった5600年前だった可能性が高い。

その頃に衝撃的な寒冷化の第一撃が襲い、気温が短期間に1℃低温化したから、南陽盆地の北部で不作に見舞われたmt-Fが動揺し、日本列島への渡航を決断したとすれば、母集落から離脱する事に消極的で、他民族への浸潤力が極めて弱かったmt-Fであっても、関東への渡航を決断せざるを得なかったと考えられるからだ。

湖北省や南陽盆地の荊が毎年関東部族の漁民を歓迎する行事を開催し、親睦を深めていた事も、mt-Fの決断の背中を押しただろう。極度の不作になり、翌年の秋まで全員の食料確保に目途が立たなくなった事が、最後の決断の契機になったかもしれない。関東に渡った年には、魚しか食べられない事を覚悟する必要はあったが、稲作民族は河川漁労に頼る民族でもあったから、それは大きな苦痛ではなかった。

組織力が高かった荊はmt-Fに大決断させる前に、少数のmt-Fを渡航させて関東南部は優良な栽培地であると判定した後で、多数の後続を渡航させたと想定される。上の説明には南陽盆地の最南端にある襄陽の気候を使ったが、南陽盆地の北端にある南陽ではこの傾向が増幅されたから、その辺りから多くのmt-Fが渡来した可能性が高い。

5500年前に気候がやや持ち直したから、渡来したmt-Fは関東南部で人口を増やしたと想定されるが、5400年前から気候が寒冷化し始め、寒冷期が終了する4500年前まで恒常的に、気候が徐々に冷涼化いった。縄文中期寒冷期はその様な寒冷期だったから、イネの耐寒性を炊高めるには理想的な気候だったが、栽培者にとっては、耐寒性を高める度に気候が冷涼化していく過酷な時代だったから、それ以降はmt-Fの人口が増えなかったと想定される。つまり現代沖縄人に遺されているmt-F比率が低い遺伝子構成は、その様な時代の関東部族の遺伝子構成を反映したものだったと考えられる。

縄文中期の関東部族と現代沖縄人の遺伝子分布は、この項の別の節で提示するが、沖縄に移住した海洋漁民と現代人の遺伝子比率は極めて類似し、両者の遺伝子分が縄文時代の遺伝子構成を遺している事を示すと共に、稲作者を含めた縄文人と海洋漁民は自由意志で通婚したから、沖縄に移住した漁民の遺伝子構成は、当時の関東の遺伝子構成を反映していた事を示している。

つまり縄文中期の関東部族のmt-F10%未満で、mt-B41/5程度だったが、気候が温暖な数百年間に人口を数倍に増やしたとしても、渡来したmt-Fの人数はかなり多かった事を示している。縄文人の活動期の項で控え目に見積もった、縄文中期の関東部族の人口は70万人程度だから、mt-F6万人ほどいた事になるからだ。女性はその半数だから、数十年間に渡来したmt-F1万人程度だったと、控え目に見積る事が出来る。沖縄人の遺伝子分布から想定する関東部族の遺伝子構成は、中部山岳地帯にいたmt-M7aを除外したものだから、そのmt-M7aを加算すると関東部族内のmt-Fの割合は、上記の計算より更に低下するが、控え目に見積もった数値を訂正する必要はないと考えられる。

日本にmt-Fが多数渡来したのはこの一回限りだったと想定されるが、日本のmt-Fの下位分岐は、大陸のmt-Fと比較しても遜色がない多彩さを有しているから、それを実現する為には、この程度の数が最低限必要だった事に異存はないだろう。南陽盆地の荊の経済論としては、漁労を行う男性達の生産性は気候が多少冷涼化しても変わらなかったが、稲作の生産性が劣化して栽培適地が限定的になると、女性の人口が過剰になると判断したのではなかろうか。

縄文後期温暖期になるとmt-Fの稲作地が北関東にも拡大した半面、mt-B4は稲作地を求めて西日本に移住する必要があったから、縄文後期の関東のmt-B4に対するmt-F比率は、現代人より高まっていたと想定される。その事情から具体的な数値を想定する為に、縄文中期寒冷期のmt-Fmt-B415%程度しかいなかったが、現代人のmt-Fmt-B460%もいる事から推測すると、縄文後期温暖期の関東のmt-Fは、mt-B4を凌ぐ人口規模になったと推測される。

しかし関東のmt-B4の主導によって日本式の稲作が開発され、それが日本全国に拡散した事は、縄文後期なっても関東がmt-B4の最大の集積地だった事を示し、mt-Fmt-B460%もいる事は、縄文晩期寒冷期に縄文中期寒冷期の最寒冷期より2℃も寒冷化しても、mt-Fの人口は激減する事はなく、関東で稲作を継続していた事を示している。これは関東の食糧事情が良好だった事を示すと共に、両者の稲作地が分離し続けていた事と、縄文晩期以降は寒冷期になっても、mt-Fの生産性は縄文中期の様に劣化しなかった事と、コメの収穫が劣っていたmt-B4にはそれを補填できる仕組みが存在した事を示している。

縄文中期のmt-Fの事情を想定すると、海産物と穀類を交換して多量の海産物を得る事は、海洋民族の稲作者としては当然の権利だったから、湖北省並みの収穫を得る必要はなかったが、コメと海産物の交換比率を決めていたmt-B4と、同等以上の収穫を得る必要があった。mt-B4は堅果類も食べる稲作者だったのに対し、mt-Fは堅果類を食べない稲作者だったから、彼女達が消費するコメはmt-B4より余分に必要になったから、mt-Fには厳しい時代だった。

その対応が十分ではなかったから、縄文中期のmt-Fmt-B415%しかいなかったと考えられる。この頃のY-D漁民は一部が栽培民化し始め、特にmt-Fを迎えた漁民はmt-Fの為に農耕民族化する必要があったから、その様なY-D一族の海産物を十分に得る事ができたY-Fは生き残ったから、それが上記の割合だったと想定される。

縄文人の活動期の項で、伊那谷や甲府盆地にmt-Fが入植した事例を紹介したが、mt-Fは生き残るために色々な対策を考案したと推測される。縄文中期の関東で、大豆の栽培化が進展した事が指摘されているが、それもこの様な状況に陥ったmt-Fの苦肉の策だったのかもしれない。

縄文中期寒冷期は、時代が進むと低温化が次第に深まっていく時代だったから、mt-Fは稲作の不振に苦しみ続ける宿命に襲われ続けていた。従って時期は不明だが、その一部が温暖な九州に移住したと推測され、その過程を示す情報が、石川県埋蔵文化財情報から転記した上記の表に現れている。

上表では縄文前期、後期、晩期に色分けしているが、中期の欄はない。九州縄文人は縄文中期に焼畑農耕を導入し、穀物生産に目途を付けたから、ドングリピットを形成する必要がなかった事情がこの表に現れているからだ。寒冷期になったのに穀物生産が安定化した事は、九州縄文人が焼畑農耕によるアワ栽培を採用した証拠にもなる。

中段のオレンジ色の欄に着目すると、先頭にある中期末~後期初頭の長崎県壱岐市郷ノ浦町のドングリピットが、温帯ジャポニカの湿田稲作に最も早く挑戦したmt-D4+M7bの痕跡を示し、重要な情報を提示している。それが縄文中期末に始まった事と、この時期のmt-Fは九州本土に移住する事が出来ず、離島への入植から始まった事を示しているからだ。

つまり縄文中期の最寒冷期になると、関東は元より岡山でもmt-Fの収穫が減少し、冷害が多発して収穫が不安定になったから、更に温暖な地域で温帯ジャポニカを栽培したくなったmt-Fが、片隅でも良いから温暖な九州で栽培したいと願い、それを不憫に感じた関東の漁民が壱岐に入植する手筈を整えた事を示しているからだ。

九州の周囲には多数の島嶼があるが、最も北に位置する壱岐が選ばれたのは、交通の要所として関東部族にも馴染みがある島であり、九州縄文人の縄張りとは言えない島だったからだと推測される。壱岐は航路の重要な分岐点を示す名称で、「壱」は「一の子分」「一宮」などの名称が遺されている様に、最も重要である事を意味したから、航路の分岐点として最も重要な島だった事を意味している。この名称が現在まで残されているのは、この島が日本海航路、黄海航路、東シナ海航路の分岐点になり、全ての海洋民族にとって重要な島だったからだ。

関東のmt-B4と反目していたmt-B5は、縄文中期にmt-D4に浸潤されたから、mt-D4mt-B4の間には怨恨関係はなかったが、mt-D4の栽培ネットワークは北陸部族と繋がっていたから、異なる部族の女性達だった事になり、他部族の地にmt-Fが入植する事は、基本的にはあり得ない事だった。壱岐部族には縄文早期にmt-B5+M7bが浸潤し、縄文中期にmt-D4+M7bが浸潤したから、関東系漁民と共生していた縄文人と密接な関係にあり、栽培者は一体的な情報ネットワークを形成していた。

しかし壱岐は壱岐部族の聖地だったから、九州の関東系漁民は縄張りを主張できない島だった。壱岐部族は縄文時代になる前に北九州から石狩川流域に移住したが、北海道に渡った壱岐部族は縄文人を帯同しなかったから、北海道部族には共生する縄文人はいなかった。縄文早期に道南に移住した伊予部族は、北海道部族と境界を接する地域で活動し、関東部族がシベリアと交易する際の中継湊を提供していたから、関東部族とは密接な交流・交易関係があった。関東部族が伊予部族を介して壱岐部族と交渉した可能性もあるが、事情は明らかではない。

壱岐では蛇紋岩は採取できないから、島に漁民はいたかもしれないが、焼畑農耕者はいなかったと想定される。この時期の壱岐に漁民が定住していたとすれば、それは大村湾に残留していた壱岐部族だった筈だが、関東部族の縄文人が九州縄文人のテリトリーに移住する事は、縄文中期のmt-D4+M7bには許せない事だったと想定される。長崎や熊本に近い島は、彼女達がいない島であってもmt-Fは入植できなかった事を上表が示し、壱岐部族の島だったと想定される五島列島にも、この時期のmt-Fは入植していないからだ。

漁民と縄文人は生業が異なる別の民族だったが、女性達は通婚によって単一民族化し、漁民と言ってもその配偶者はmt-D4+M7bだったと推測されるから、壱岐部族の漁民としても、関東部族のmt-Fが壱岐島に入植する事には賛成できなかったと推測される。

しかしmt-Fが壱岐に入植した事は確からしいから、mt-Fの窮地を見かねた関東の漁民が、壱岐は海洋民族の共有地である事を根拠に、九州縄文人の縄張りではないと主張しながら北海道部族の了解の下に、強引にmt-Fを入植させた可能性が浮上する。東北や北海道に入植した部族は、縄文中期まではシベリア交易などで経済状態が安定し、九州に残っていた人々より人口が多く、漁労に使う獣骨なども供給していたから、東北や北海道の人々の発言力が強かったからだ。縄文後期の対馬部族が、九州のmt-D4+M7bを差し置いて東北のmt-M7aを「豊国」に入植させた事が、その事情を示している。

この経緯が生んだ軋轢が、九州縄文人に壱岐のmt-Fに対する関心を高めさせた事を、壱岐の名切遺跡に22基ものドングリピットが遺された事が示している。mt-Fを入植させた関東部族の話しに依れば、mt-Fは大陸で最も生産性が高い穀物栽培者であるとの事だったから、日本の海洋民族と共生する縄文人の中で、最も生産性が高い穀物栽培者であると自負していたmt-D4+M7bが、mt-Fの稲作に強い関心を持って、壱岐に多数の監視団を上陸させた事を示しているからだ。

部族が異なる栽培者のこの時期の人間関係の例として、群馬や栃木に焼畑農耕者として進出したmt-Dは、関東縄文人には浸潤しなかった事が挙げられる。その証拠として、関東縄文人の遺骨にはmt-M8aが複数含まれ、関東のmt-Dは北陸部族のmt-Dではなく、漢族のmt-D+M8aだった事が挙げられる。

蛇紋岩が採取できない離島に関東部族のmt-Fが入植する事は、入植したmt-Fと共生する漁民の部族が重要な問題になったから、関東部族の縄文人は九州や周辺の島に入植できなかったが、特殊な環境にあった壱岐には入植したから、壱岐にドングリピットが遺されたと考える必要がある。壱岐では蛇紋岩は産出しないが、低湿地の稲作に必要なのは打製石器だから、壱岐に移住したmt-Fは稲作に必要な石器には不自由しなかったが、ドングリピットはmt-Fが作成したものではなかったから、作成したのはmt-D4+M7bだった事は間違いなく、蛇紋岩が採取できない壱岐に彼女達が居住した目的は、監視団と呼ぶべき存在になる事以外には想定できない。

従って北海道部族の圧力で関東部族の漁民がmt-Fと共に郷ノ浦に進出したが、壱岐の漁労権は大村湾を拠点とする壱岐部族にあったから、両漁民が共存する島になったと考えられる。関東部族は壱岐部族に不足していた獣骨や、それをmt-Aが加工した漁具を提供する事を交換条件として、壱岐への入植を実現した可能性も高い。

魏志倭人伝が壱岐と対馬は倭人国だったと記している事が、この時期の事情を分かり難くしているが、弥生時代末期に壱岐と対馬が倭人国だった事は、九夷の結成と北九州の倭人国の九夷からの離脱が、その様な事情を生んだ事になる。つまり九夷からの離脱した北九州の倭人国群には、壱岐部族や対馬部族の一部も参加していた事になる。

結成当初の九夷は薩摩半島に入植した関東部族を中核として、博多湾沿岸に入植した関東部族、九州西部の関東系漁民、壱岐部族、伊予部族、対馬部族が参加する集団だった。伊予部族は太平洋沿岸に広域的に拡散していたから、九州に入植しても縄文中期までの各地域拠点毎に独自集団を形成し、「球磨」、「曽於」、「隼人」などの多数の集団を形成したから、9以上の集団が参加していた可能性が高いが、それについてはその4で説明する。

関東部族は弥生時代に東西に分裂したが、それは関東部族だけではなく他の部族にも起こった現象であり、分裂した部族の断片が他の部族と統合した結果として、弥生時代末期の邪馬台国連合に壱岐部族や対馬部族の一部が参加していた。その背景として縄文早期に東北や北海道に移住せずに、九州に残っていた漁民集団と彼ら共生していた縄文人の集団のそれぞれに、利害関係があった事も挙げられる。

縄文中期までの各部族の経済活動は、シベリアやその周辺民族との弓矢交易を中核としていたが、それが失われた縄文後期以降は新たな経済活動を模索する必要があり、弓矢交易ほどの大型案件はなかったから、各部族は地域毎に独自の経済活動を推進する必要に迫られたが、最終的に北九州の人々は濊を仲介者とする毛皮交易に依存する事になったから、壱岐や対馬に漁労権を持っていた漁民は北九州の倭人に統合された事を、魏志倭人伝が示している事になる。

対馬部族も北九州に近い苅田や行橋の人々が北九州の倭人連合に参加し、魏志倭人伝に対馬国、不弥国と記された倭人国になったと想定され、対馬国の人々は縄文時代から対馬にいたのではなく、対馬が毛皮交易の要衝になったから、苅田や行橋の漁民が移住したと考える必要がある。

この様な部族の再編が進行したのは、鉄器時代になった弥生時代に商品の種類や商流が大きく変化したから、それに追従する為には従来の部族の枠組みに捉われる事が、難しくなったからだと推測され、経済活動が活発な現代社会では常態的に起こっている現象が、経済事情の変転が加速し始めた縄文後期~弥生時代に起こった事は、必然的な結果だった。

以上はmt-Fが壱岐に入植した政治的な経緯だが、壱岐の気候と地理的な状況も明らかにする必要がある。関東の冷涼な気候を嫌ったmt-Fは先ず岡山に入植し、そこでも不満が解消しなかったmt-Fが改めて壱岐に入植したと想定されるからだ。壱岐の緯度は岡山とほとんど同じで、10月の気温は岡山と同じだが11月は1℃ほど温暖だから、短日性が強く秋分を過ぎてから開花した当時の温帯ジャポニカにとって、壱岐は岡山より冷害のリスクが低い地域だった。しかし画期的な違いではないから、縄文中期寒冷期に壱岐に入植したmt-Fの生産性は、mt-D4+M7bが注目するほどの高い生産性は得ていなかった可能性が高い。

ドングリピットが発掘された壱岐市郷ノ浦名切には大きな川はなく、その北の永田川の川洲から1㎞程離れている。壱岐に派遣されたmt-D4+M7bは永田川の川洲に入植したmt-Fの稲作を観察する為に、小さな川の脇にドングリピットを遺したと推測され、その人数が22基ものドングリピットを遺すものだった事は、先遣隊の情報に驚いた長崎や熊本のmt-D4+M7bが後続を派遣した事を示唆している。

その事情を理解する為には、壱岐の地理的な事情を検証する必要がある。壱岐は現在も進行している沈降性の地殻上の島だから、当時の川洲は海中に水没していると考えられるからだ。永田川の水源は壱岐の最高峰である岳ノ辻で、山頂から郷ノ浦まで2㎞ほどしかないから、永田川は急斜面を下る浸食性の高い川である事に注目する必要がある。つまりヤンガードリアス期の豪雨により、岩石を含む荒い土砂が流出したから、弥生時代に標高が高い扇状地を含む沖積地を形成したと想定される。

しかしヤンガードリアス期の海面は現在より60mほど低く、この扇状地も沖積地もその後の海面上昇によって海中に水没したが、縄文海進期の初頭に太平洋の湿潤化による豪雨があり、海中に水没した扇状地や沖積平野の水深が浅かったから、原島と鋸崎を結ぶ線より内側の海は沖積平野に変わったと想定される。この地域が水深5m程度の広い海域として現在に遺されている事が、当時の沖積平野の存在を示しているからだ。5千年前にこの地域が沖積平野であり、当時の海面が現在の海面より5m高かったとすると、壱岐は5千年間に10m100年間に20㎝)沈降した事になるが、日本の標準的な隆起や沈降が100年間に数十㎝だから、特に過激な沈降ではない。

弥生時代末期(2千年前)に壱岐の稲作地が原ノ辻に移行したのは、郷ノ浦の沖積地が水没したからだとすると、沈降速度の計算と一致する。原ノ辻の北東に内海と呼ぶ湾入した浅い海があり、その地形も類似した経緯を経たものであると考えられるが、原ノ辻がある盆地を流れる幡鉾川がその土砂を提供したのではなく、その土砂は原ノ辻がある盆地を形成する為に使われ、現在も湾内に狭い沖積を形成している無名の小さな川が浅い内海を形成したと推測される。

つまり壱岐の河川土砂の堆積事情としては、壱岐で一番排出土砂が多い永田川が流れる郷ノ浦では、mt-Fが入植した時期には2㎞四方ほどの沖積平野があり、海退が始まって氾濫が起き難くなっていた上に、粒子が細かい土壌がその平野を覆っていたから、20人以上のmt-Fが稲作を行える地理的な環境があったと想定される。

蛇紋岩を採取できない壱岐では焼畑農耕ができないから、壱岐に入植したmt-D4+M7bは真似した稲作の成功の有無に関わらず、補助食料は堅果類に頼らざるを得なかった。壱岐に多数のドングリピットが遺されている事は、mt-D4+M7bmt-Fの稲作を検分する調査団として近くの小川の脇に入植し、ドングリを食べながらmt-Fの珍しい農法を観察し、やがて種籾を貰い受けて小川の水を使い、温帯ジャポニカを栽培した事を示唆している。

壱岐に上陸したmt-D4+M7bは壱岐部族と共生する縄文人だったから、海産物は壱岐部族が支給したが、このmt-D4+M7bは熊本を拠点とするmt-D4+M7bと密接な情報網を形成していたから、実質的には熊本を拠点とするmt-D4+M7bが派遣した偵察隊だった。

岡山の稲作に絶望して壱岐に入植したmt-Fが、岡山よりさほど温暖でもなかった壱岐で、順調に温帯ジャポニカを栽培していたとは考え難いが、焼畑農耕者だったmt-D4+M7bにとっては、河川の氾濫原を稲作地にするmt-Fの農法は、画期的なものに見えた事は間違いなく、秋の冷え込みが弱かった年には結構な収穫を上げたから、その収穫量の多さに圧倒されただろう。

その2の荊の北上の章で、縄文中期寒冷期から縄文後期温暖期に変わった直後に、大陸では激しい昇温のオーバーシュートがあったが、その原因は海洋が高温化せずにむしろ低温化し、大陸では晴天が続いて異常な高温期が発生したからだ指摘した。それを対馬海流に洗われている壱岐に適用すると、縄文中期末から後期初頭の壱岐は、気候が最も低温化した時期だったと想定され、ドングリピットが作られた時期のmt-Fの収穫は最悪な状態を更新し続けていた。

その様な時期にドングリピットが生まれた事は、mt-D4+M7bmt-Fの高い収穫を見て続々と壱岐に渡って来たのではなく、むしろ収穫が悪化していく中で、mt-Fを北九州に移住させる為に集まったと想定する必要がある。気候が温暖化すればmt-Fは関東に十分な稲作地を確保できたから、少人数での狭いエリアへの入植に拘り続ける必要はなく、増してmt-Fにとって先に指摘した様な不利な条件で、北九州に入植する必然性はなかったからだ。

北九州の考古学者が認識する縄文後期の開始時期は、このHP1600年周期の縄文後期温暖期であると認識する、4500年前の開始期と一致しているとすると、このシナリオが成立する。観測点である尾瀬の温暖化は100年ほど早かったが、尾瀬は海から離れているから壱岐より温暖化の開始時期が早く、壱岐では4500年前に最も冷涼になり、温暖化が顕著になる為には百年待つ必要があったとすると、気候条件とシナリオが一致する。mt-Fmt-D4+M7bの間の話し合いに時間が掛ったとすれば、mt-Fの北九州移住が気候の変化点より遅かった事もあり得るし、海に囲まれた島の温暖化は徐々に進行したから、数十年の違いまで厳格に査定する必要はないからだ。

この時期のmt-Fmt-D4の遣り取りを具体的に検証する前に、気候が極度に冷涼化したヤンガードリアス期のアムール川流域で、mt-Dがアワの栽培技術を獲得した経緯を思い起こす必要がある。極めて寒冷だったヤンガードリアス期のアムール川流域では、mt-Zが栽培していたアワの生産性はかなり貧弱で、むしろ耐寒性が高いキビの方が生産性は高かった筈だが、そこでアワの栽培技術を獲得したmt-Dが超温暖期になってからアワの生産性の高さに気付き、その後のmt-Dの行動を特徴的なものにしたからだ。

それと同じ事が壱岐でも起こったとすると、mt-Dは穀物の栽培種の優劣を見分けることができる、特殊な才能の持ち主だった可能性がある。栽培系の女性達にはその様な能力があったから、自然地形の中で栽培適地を探し続ける事ができたとも言えるし、mt-Dは母から娘に伝承されていた栽培思想の中に、それを積極的に見分ける思想と技能を伝承していたとも言えるが、他者の優れた栽培種を獲得する事はmt-Dの特殊性だったから、それに纏わる特殊な技能の持ち主だったとも言える。

自分の栽培種を維持しながら他の栽培種に手を出すのであれば、それは栽培系女性の一般的な習性だったとも言えるが、焼畑農耕者だったmt-D4+M7bが、良質の蛇紋岩が採取できない北九州に移住する事は、焼畑農耕の生産性を棄損しながら温帯ジャポニカの生産に賭けた事になり、この姿勢は栽培系女性の一般的な習性とは大きく違うものだった。穀物の生産性向上に異様な執念をもっていた、mt-Dの性格と矛盾する様にも見えるが、穀物の生産性向上に対する執念には二面性があり、極めて複雑なものだったとも言える。

華北でアワ栽培していたmt-Dは、アワの生産性が極度に劣化した古墳寒冷期に、耐寒性が高い小麦の栽培技術を持ったmt-Zが移住して来たにも拘らず、500年以上アワを栽培し続けたから、これはmt-Dの一般的な性格ではなく、漁民と共生して海洋民族的なったmt-Dだけが示す性格だったとも言える。

熊本や長崎のmt-D4+M7bは関東部族の漁民から、mt-Fは大陸で最も生産性が高い穀物の栽培者であるとの情報を得ていたから、最初は興味本位で調査団を派遣したのかもしれないが、少なくとも壱岐に渡ったmt-D4+M7bは、mt-Fが栽培していた温帯ジャポニカは極めて有望な品種で、特に栽培方法には学ぶべき点があると判断し、常識的には考え難い行動を起こした可能性が高い。

縄文後期温暖期になると大陸は即材に異常な高温になったが、対馬暖流は温暖期になっても直ぐに温暖化しなかっただけではなく、一時的に低温化したから、秋が深まるとシベリアから冷たい北風が吹く壱岐のmt-Fは、収穫の低下に苦しんでいた時期だった。九州のmt-D4は、北九州より熊本の方が温暖である事は知っていたから、温帯ジャポニカを熊本で栽培すれば、高い収穫が得られる見通しを得ていたから、それ故に異常とも言える行動を起こしたとすれば先見性が高かった事になるが、実際に栽培して見なければ分からない事だった。

壱岐に渡ったmt-D4mt-Fから分けて貰った種籾を、熊本に取り寄せて栽培したmt-D4もいただろう。海洋民族は太陽暦を使っていたから、播種期をmt-Fに合わせる事は難しくなく、ジャバニカは陸稲より水稲の方が生産性は高かった筈だから、ジャバニカを水稲として栽培していたmt-D4もいた可能も高く、狭い面積であれば、mt-Fの栽培に類似した環境を確保できただろう。この様な事を試して情報を公開する事にmt-Dの特殊性があったとすると、この時期のmt-D4の行動は極めて合理的だった。

当時の北九州では博多湾が現在の平野部の全域を覆い、その奥に春日丘陵を含む丘陵地の沿海部があった。温暖期になると陸地が先に温暖化したから、九州陸塊が海に囲まれている壱岐より先に温暖化したと想定され、壱岐のmt-Fがその温暖化に同期する様に、那珂川の河口に形成され始めた川洲に移住したとすると、mt-D4+M7bは狡猾な戦略家でもあった事になる。

縄文後期初頭の北九州に多数のドングリピットが生れた事は、mt-Fが栽培適地を求めて北九州に移住した事を示唆し、それには長崎や熊本のmt-D4+M7bの同意が必要だった事を意味したが、長崎や熊本のmt-D4+M7bは自分達の縄張りにはmt-Fを入植させず、焼畑農耕に不向きだった故に放置していた北九州にmt-Fを入植させ、熊本より幾分冷涼な気候地域で生産性を高める技能を獲得すれば、温帯ジャポニカを熊本に確実に導入する事ができたからだ。

mt-D4+M7bは双方の情報ネットワークの合意事項として、壱岐より温暖で生産性が高まる期待があった那珂川などの川洲に、mt-Fが移住する交換条件として、mt-D4+M7bに稲作技術を教える事を受け入れさせた可能性が高い。それによってmt-Fの周囲にmt-D4+M7bが群がった理由も納得できるし、温帯ジャポニカを栽培していた北九州弥生人の遺伝子の6割が、元々は温帯ジャポニカの栽培者ではなかったmt-D4だった理由にも繋がるし、温帯ジャポニカの栽培が縄文後期の北九州から西日本に拡散した理由にも繋がるし、このmt-D4が後世の日本に温帯ジャポニカを拡散したのではない事にも繋がる。

古代人や女性を蔑視している人はこの仮説に違和感があるかもしれないが、mt-D4+M7bの判断が的確だった事は後世の歴史が証明している。古代人の理性を認める人であれば、穀物生産量の最大化を目指していたmt-D4+M7bの感性や理性が正常に機能し、海洋民族のmt-Dらしい判断に至ったと評価する事ができる。またこのmt-D4が日本の稲作の元祖にならなかったのは、この時代にも資本力の差がその後の事情を決定したからであり、資本力があったmt-B4がその後の稲作技術の向上を主導したから、日本は稲作列島になったとも言える。

関東系漁民と共生していた九州縄文人は、漁民の言語に同化して関東部族の言語話者になっていたと想定され、関東部族との交易を重視せざるを得なかった九州の関東系漁民は、関東漁民の原語との共通性を維持していたと考えられる。関東に渡来したmt-Fは関東部族の言語を使っていたから、mt-D4+M7bmt-Fの会話に言語的な障害はなく、両者の情報交換は緻密なものだったと推測される。当時の壱岐部族の言語は不明だが、漁労文化や縄文文化を共有していた事は、関東系漁民の言語に同化していた可能が高い事も、この複雑な契約関係を生み出す背景になったと考えられる。

両者の当初の合意は、mt-D4+M7bが那珂川の小さな沖積地にmt-Fの入植地を確保し、mt-Fは岡山や関東から新たなmt-Fを誘致する事と、那珂川の川洲をmt-D4+M7bにも適当に案分し、稲作技術を伝授する事だったかもしれないが、それには関東部族の漁民が共生者として加わる必要があり、関東部族に玄界灘の漁労権や博多湾に湊を設定する権利を認める必要があった。関東部族の漁民がmt-Fと共に壱岐に入植した際には、海洋交通の要所にある壱岐は、海洋民族が共同使用する島だった事を理由に漁労活動を行ったかもしれないが、多数のmt-Fが那珂川の川洲に入植する為には、同数以上の漁民が北九州に移住する環境が必要だったからだ。

その交渉が九州の関東系漁民と関東部族の間で行われると、熊本の漁民の希望としては久留米まで湾入していた有明海から、宝満川を遡ると容易にアクセスし易い、大野城市や春日市もmt-Fの入植候補地になったと想定される。九州の関東系漁民には、mt-D4+M7bに海産物を届ける義務があったからだ。mt-Fには河口の沖積地が必要だったから、入植地は御笠川と那珂川の河口の川洲になったと推測される。

那珂川の河口である福岡県福岡市の野多目遺跡から、60個のドングリピットが発掘された事がその事情を示唆し、御笠川の河口ではその様な遺物が発掘されていなかったとしても、交易路としての必然性を備えているからだ。

御笠川と那珂川の流域にはmt-B4型の稲作が可能な洪積台地が広がっていた。洪積台地がmt-B4の稲作適地を提供する事情は、浸食され易い柔らかな土壌の谷が広く広がり、川辺に平坦な地形を形成するからで、その様な地形は現在の地図では、盆地が丘陵地に細長く食い込んでいる地形を示している。その様な谷間は大雨で水位が上昇するが、草丈が1.5mもある熱帯ジャポニカはそれに耐える事が出来た。

従って関東部族の漁民が多数北九州に入植すると、そのペアはmt-Fだけではなくmt-Amt-B4もいただろう。この時期の北九州でアサが栽培できたのか明らかではないが、mt-B4は海洋漁民に必要な資材を生産する女性だったから、mt-Amt-B4は漁民が入植する際に必要不可欠な人材だったからだ。その様なmt-B4が丘陵の谷間で熱帯ジャポニカを栽培する事も、必然的な結果だった。

彼らが北九州に入植した4500年前は、未だ温暖期とは言えない気候だったから、関東のmt-B4が稲作地の不足に苦しむ時期は始まっていなかったが、洪積台地に入植する事が可能になった事を機縁に、南関東より温暖な北九州に入植を希望するmt-B4もいたかもしれない。

mt-B4が栽培する熱帯ジャポニカは、mt-D4+M7bが栽培していたジャバニカより生産性が高かったから、九州の漁民も縄文人も、mt-B4の入植も歓迎しただろう。やがて温暖期になるとmt-Fの入植が途絶え、mt-B4の入植希望者が殺到したが、どのタイミングでどの程度の人数が入植したのかは明らかではない。

壱岐部族が提案したmt-Fの入植地は、伊万里川と有田川が流れ込む伊万里湾だったと推測される。有田川流域にある佐賀県西有田町の坂ノ下遺跡から、縄文後期初頭の17個のドングリピットが発掘された事が、その事情を示しているからだ。伊万里川の中流域に広がる洪積台地も、mt-B4の入植適地だったから、伊万里川流域には博多湾より多くのmt-B4が入植し、やがて唐津湾に流れ込む松浦川の流域にも拡散したと想定される。こちらも御笠川流域と同様に洪積台地が侵食され、遺跡は遺っていないが、洪積台地の面積は御笠川流域より広いから、入植したmt-B4の数も多かったと推測され、河川が流し出す土砂も御笠川より多かったから、入植したmt-Fも多かったと推測される。

現在の伊万里に狭い沖積平野しかないのは、この地域が沈降地形だからだと推測され、唐津の平野が狭いのは対馬暖流により、松浦川の土砂が沖に運び出されてしまうからだと考えられる。その結果糸島半島、能古島、志賀島などが対馬海流の流入を阻止している、博多湾だけが辛うじて沖積平野としての体裁を整えているが、それらの沖積平野が未発達だった縄文後期には、伊万里湾や唐津湾の方が多数の関東部族が入植していた可能性があり、関東部族と最も密接な関係を築いていたのは壱岐部族だった可能性がある。

伊木力遺跡にこの時期のドングリピットが3個遺されている事が、その片鱗を示しているとも言えるが、晩期前葉~中葉のドングリピットが62個発掘された、長崎県大村市の黒丸遺跡に着目する必要がある。黒丸遺跡は郡川(こおりがわ)が形成した長崎県最大の沖積平野に立地し、縄文晩期以降のこの地域の事情を示しているが、遺跡が立地する黒丸町は大村湾岸の標高5m以下の地域にあり、郡川の扇頂に位置する鬼橋町は標高25mもあるからだ。郡川は標高1000m以上の経ヶ岳や五家原岳を水源としながら、流域長は20㎞程度だから粒径が大きな土砂を輩出したと想定され、その結果として扇状地風の沖積地を形成しているから、黒丸遺跡の立地は縄文後期には海で、晩期になってこの遺跡が示す大きな低湿地集落が生れたと考えられ、縄文後期に形成された集落跡は扇状地の厚い土砂に埋もれているからだ。

遺跡の調査報告書は、縄文時代晩期の包含層の下部は、粘質土の粒子が細かい硬質土壌で、1万年以上前に堆積した風積土であると指摘してこの状態を別の言葉で表現している。また紡錘車様の有孔円盤土器が発掘され、円盤形石製品も数点出土している。これらは佐賀県鳥栖市の縄文後期末~晩期前半の蔵上遺跡から多数出土し、東関東を中心とした関東の縄文時代晩期前半の遺跡からも出土例が多いと指摘し、壱岐部族と関東部族の結び付きの強さを示している。

ちなみに鳥栖市の北の山間地には筑紫野市から続く洪積台地があり、蔵上遺跡はその延長線上にあるから、蔵上遺跡の遺物はmt-B4が遺したものである可能性も高い。温暖な地域では紵麻を栽培していたが、縄文晩期寒冷期になると北九州でもアサが栽培できる様になり、アサを紡いで漁網や釣り糸を作った可能性もある。紵麻はアサより生産性が低く繊維に強度がないから、漁具としては大麻の方が優れていたからだ。従って関東部族の北九州入植は壱岐部族が主導し、熊本の関東系漁民は副次的な役割を担った可能性があり、弥生時代末期の奴国は佐賀県に及んでいた可能性もある。

福岡市の野多目に多数のドングリピットが作られた事は、この時期の那珂川は中流の湖が完全に埋め立てられ、土砂が流出し始めた時期だった事を示し、熊本から春日丘陵の片隅に移住したmt-D4+M7bが、入植の順番待ちをしていた事を示唆している。つまり当時の那珂川の右岸は弥生時代に奴国の中心地になった春日台地で、左岸が野多目だったから、九州のmt-D4+M7bと関東部族の女性達は那珂川を境界にして、左右に入植した可能性がある。

多数のmt-D4+M7bがその様な行動を採ったのは、mt-D4+M7bが従来行っていた焼畑農法と比較し、湿田で栽培するmt-Fの収穫が格段に多かった事を示唆し、九州西部の漁民も関東の漁民が北九州に入植し、先進的な漁労技術を持ち込む事を期待していた事も示唆している。九州北西部の漁具だった鋸歯尖頭器や石鋸が、縄文後期前葉に衰退して後期中頃には使われなくなったからだ。

 

3-2-3 考古学が示す、縄文後期の日本海沿岸の農耕

縄文中期までの日本では関東平野が唯一の稲作地域で、熱帯ジャポニカの稲作地は東北南部の湖岸にも拡大していたが、mt-B4の稲作地は湖岸の沖積平野や台地の谷間だったから、面積が限られてコメの生産量は限定的だった。

関東のmt-B4から熱帯ジャポニカを譲り受けた良渚文化期の浙江省で、大規模な灌漑施設が建設された事は、mt-B4の稲作地は湖岸や谷間の湿地だった事を示唆しているからだ。従って栃木県那須町の何耕地遺跡も含め、この時代に多数の湖や洪積台地の谷間が点在していた八溝山地や上総台地が、mt-B4の集積地になっていたと想定される。

湖岸の沖積地は恒常的に拡大し続け、湖を形成していた堰が侵食されて湖の湖面標高が低下すると拡大速度が速まったが、縄文後期温暖期に海退が進むと海岸の沖積平野が急拡大し、mt-Fの稲作地が増えたから、それと比較したmt-B4型の稲作地の増加速度は遅く、稲作地を拡大する為には関東以外の地域に稲作地を求める必要があった。縄文後期の北九州は、その様なmt-B4に与えられた最初の移住地だった。

縄文後期に海退が始まると海岸の沖積平野も急拡大し始め、これによって日本の穀物経済が、アワからコメに変わる条件が整い始めた。海洋漁民はアワよりコメの入手を望んだから、海岸の沖積平野でコメが生産できる環境が整う事は、日本列島の穀物経済がコメを主導とするものに転換する、環境が整った事を意味したからだ。

焼畑農耕にはその様な制約はなかったから、西日本に多数の焼畑農耕者の集落が点在し、山陰や徳島が農耕先進地になっていたから、生産性が高いアワと市場価値が高いコメの、分業的な生産体制もこの時代を契機として生れた。

石川県埋蔵文化財情報、第11号の記事を参照しながら、北九州でも稲作が始まった状況を検証したが、山陰・北陸の低湿地遺跡の発掘状況も公開しているので、それを縄文後期の状況と晩期の状況に分け、先ず縄文後期の低湿地農耕を検証する。

日本海沿岸は、他者の栽培種の獲得に積極的だったmt-Dの集積地だったので、この息吹をいち早く取り入れた地域になった。

島根県では、低湿地遺跡は遅くとも早期末から出現し、特に後・晩期に増加するという感触はない。遺跡数は後・晩期に増加するが、低湿地遺跡は前期以降、一定の比率を持って存在し続けている。但し出雲平野の南部や西端部の益田平野など、それまで縄文遺跡が存在しなかった地域に、後期・晩期に遺跡が進出する。

後期後半から、土掘り具とされる打製石斧が卓越する遺跡が見られる様になり、晩期後半以降では顕著である。それに対し、穂摘み具とされる石包丁状のスクレーパーは出土数が少ない。

早期末から低湿地遺跡が営まれたのは、mt-B5+M7bがジャバニカを栽培する為に山陰に進出し、縄文前期温暖期までその状態が継続した事を示している。

中国山地には蛇紋岩の露頭が多いから、縄文早期に焼畑農耕者も入植したと想定され、山口県東部~島根県西部で両者が接触する事により、焼畑農耕者だったmt-D+M7aがジャバニカも栽培する様になり、焼畑農耕者になったmt-D4+M7bが生まれた経緯を示唆し、稲作も行うmt-Dもいた事を示している。

島根は中国山地の分水嶺が日本海に迫り、沿海部まで山間地が迫っているから、稲作者が入植するのに相応しい地域だったとは言えないが、それでも発見できる遺跡が複数ある事は、多数のmt-B5+M7bが稲作地を求めて山陰西部に北上し、その影響を受けて稲作も行うmt-Dが生れた事を示している。九州縄文人は熊本の気候に近い萩や、萩より1℃程冷涼な松江辺りまでは北上しても、更に冷涼な鳥取には東進しなかったと推測される。萩が熊本に近いほど温暖であるのは、対馬暖流によって温暖化しているからだ。

縄文後期に海退が顕在化して出雲平野や益田平野の形成が始まると、温帯ジャポニカの稲作者が進出した事を、打製石斧の出現が示している。穂摘み具とされる石包丁状のスクレーパーの出土数が少ない事を理由に、稲作の可能性を否定しているが、稲作が始まると穂摘み具が出土すると考えるのは一部の考古学者の思い込みである可能性が高い。mt-Fの故郷だった湖北省では、縄文中期中葉の屈家嶺文化期から穂摘み具が出土し始め、それ以前の大渓文化期には出土していないからだ。

mt-Fは縄文早期の早い時期に、大陸で唯一の本格的な稲作者になったから、その様なmt-Fの大渓文化期の遺跡から穂摘み具が出土しない事は、mt-Fは縄文中期前葉まで穂摘み具を使っていなかった事を示唆している。つまり縄文中期までの温帯ジャポニカは、離層の消失が不十分だったから、成熟した籾を手や木の棒でしごくだけで容易に収穫できたと想定される。湖北省のmt-Fは、温帯ジャポニカの短日性を高める事によって穂が実る時期を斉一化させたから、その様な温帯ジャポニカの離層を完全に消失させる必要がなかったと推測される。

稲に限らず自然界の植生は、種子が成熟すると離層が活性化し、自然に本体から離れて風や動物によって他所に運ばれ、離れた場所で発芽する。その様な繁殖の機会を増加させる為には、種子を一斉に成熟させずに、時間差を以て成熟した種子が順次離脱していく事が一般的になる。種子が成熟すると本体から栄養を運搬する機能部が消滅し、軽度の圧迫で本体と離れる程度の粘着性を持つ状態に変わり、やがて完全に離脱して落下する機能を離層の形成と呼ぶ。

栽培種に離層を形成する機能が残っていると、種子の収集を何度も行う必要があって労働効率が劣化するから、一般的な栽培種は成熟した種子が本体から離れない様に品種改良され、離層を失った状態になる。一般的な穀物はこの様に品種改良されると、栽培化が進展したと見做されている。

離層を失うと収穫した穂から脱穀する必要があるが、それであっても、離層を失った穂を収穫する方がモミを集める労力を最小化するから、現在の栽培穀物はすべて離層を失っているが、これは根刈が可能になった鉄器時代の一般側であって、根刈ができなかった石器時代の事情は異なった。

黄河流域では縄文中期から穂摘み具が出土するが、アワの栽培者が黄河流域に南下したのもその頃だから、アワが離層を失った時期については遼河文化圏の出土遺物を精査する必要がある。

縄文前期の湖北省には穂摘み具がなく、中期後半から出現する事は、それ以前の温帯ジャポニカは成熟した籾を穂からもぎ取って、の収穫いた事になる。栽培化が不完全だったから効率が悪い収穫法を採用したと誤解され易いが、温帯ジャポニカの短日性の強さに着目すると話は変わる。

温帯ジャポニカの強い短日性は、栽培化過程で作られた性質である可能性が高いから、収穫の効率を上げる為に短日性を強めた可能性もあるからだ。一斉に開花して一斉に結実すると収穫が効率化できるから、それによって穂への粘着性を高める必要性が薄れると、穂への粘着性の高さは却って収穫の効率を劣化させたからだ。つまり一斉に結実した穂からモミを収穫する際に、穂とモミの粘着性が高過ぎると収穫の効率が低下するから、温帯ジャポニカは結実後に微弱な粘着性を持つ品種として栽培化された可能性が高まる。

縄文中期に穂摘み具が出土するのは、それでは収穫の効率化が不十分だったから、離層が消失した品種を生み出したからである可能性もあるが、温帯ジャポニカに何らかの変化があったのではなく、縄文前期温暖期に陝西省に北上した稲作者が、mt-Zがアワの収穫に穂積具を使っているのを見て、それを真似ただけである可能性もある。アワの草丈は1.5mもあり、低身長の女性は穂積具がなければ収穫できなかったからだ。

ジャヴァ二カを栽培化した浙江省では、縄文前期前葉の河姆渡文化期に離層の喪失が始まっていたとの報告があり、縄文前期後葉の崧沢文化期に石製鎌の出土例があるから、ジャヴァ二カは縄文前期に離層を失った事になるが、ジャバニカや熱帯ジャポニカの草丈も1.5mである事に留意する必要がある。この時代の温帯ジャポニカの草丈は明らかではないが、温帯ジャポニカは草丈が短い品種だから1m程度だったとすると、女性が扱い易い高さだから穂積具を必要としていなかった可能性が高い。手でしごいて袋に集める方が、収穫の効率は高かったと推測されるからだ。

温帯ジャポニカと草丈が類似した穀類にキビ、ソバ、ヒエがあり、どちらも草丈は60130cmほどで、熟した状態で数週間放置すると脱粒してしまう。現在は実が熟したら草を刈るが、所謂離層が形成されていないから、棒で敲く程度で脱穀できる。これらは草を刈る事ができなかった石器時代から綿々と栽培され、栽培者に離層の形成が必要との認識がなかった事を示しているから、穂積み具は草丈の高い穀類の為の収穫具に過ぎなかった可能性が高く、温帯ジャポニカは穂摘み具を必要としない種だった可能性が高い。

荊は土木作業によって1mも冠水する状態を排除したから、温帯ジャポニカの草丈を短く抑える事が可能になり、それによって高い生産性を獲得したと考える必要もある。つまりイネの草丈は何千年も懸けた品種改良によって如何様にも変わったから、最も生産性が高い種に選別した結果が1m程度の草丈になり、荊はそれを実現する為に土木工事を行ったと考える必要もある。

熱帯ジャポニカの草丈が高いのは、湿田の水嵩が増しても稲作に影響が及びにくいからで、草丈が短い方が生産性は高いのに高い草丈を維持したのは、mt-B4の湿田では1m以上の冠水が珍しくなかったからだと想定され、熱帯ジャポニカは穂摘み具を使って収穫する必要があった。熱帯ジャポニカが離層を失った時期を示す遺物は発掘されていないが、縄文中期に浙江省の栽培種になった事は、既に離層の形成を実現していた事を示唆している。しかし考古学者はそれを発掘していないし、焼畑農耕者が使ったアワの穂摘み具も発掘していない。ヒエの穂積具も発掘されていないから、ヒエが日本で栽培化された事を、穂積具を穀物栽培の指標としている考古学では証明できないとも言える。

これらは穂積具がなければ穀物栽培があった事を認定しない、現在の考古学の欠陥であると考える必要がある。稲作地では竹が生えている事が一般的で、竹のナイフで穂を切り落とす事も可能で、竹の刃の鋭利さを再生する道具は砥石だから、竹がない寒冷地である華北や朝鮮半島の穂摘み具を参照し、それが稲作の伝搬路であると主張する事は、噴飯ものであると言わざるを得ない。

湖北省の稲作者が縄文中期から穂刈器を使い始めたのであれば、縄文前期末に関東に渡来したmt-F穂摘み具を使っていなかった事になり、縄文後期の北九州の遺跡から発掘された打製石鎌や打製石包丁は、アワの収穫に使った道具である可能性もあるし、mt-D4が作り出した熱帯ジャポニカとの雑種は離層を失い、アワの収穫とは別の穂摘み具を使った可能もある。従って縄文後期の山陰から穂摘み具が出土しない事が、温帯ジャポニカを含む穀類を栽培していなかった証拠にはならない。

 

越前の縄文後期の事情

後期前葉~中葉に低地性集落の遺跡数が増加し、遺跡の大規模化が認められる。丘陵や段丘上に立地する、中期後葉を主体とする遺跡は最も確認例が多いが、その大半は後期前葉から衰退・断絶する傾向があり、それと対照的であると言えよう。

縄文後期前半の西鯉地区遺跡群の環状集落内に、クリの半裁材を使用した径約10m の大型円形建物を含む、掘立柱建物・配石墓・埋甕などが検出され、製品・未製品・加工具の出土からヒスイ加工も窺え、そこが拠点的な集落だったと考えられる。しかし後期後葉~晩期前半には、遺構・遺物共にほとんど検出されておらず、様相は不明である。

丘陵や段丘上に立地する中期後葉を主体とする遺跡は、アワ栽培者の遺跡だったと推測され、弓矢交易を主体とする経済が福井のアワ栽培者にも及び、北陸部族の需要に応える為にアワ栽培が盛んになった事を示している。

その大半が後期前葉から衰退・断絶する傾向を示した事は、弓矢交易が衰退してアワの需要が激減する中で、湿田での稲作に移行する為にアワを栽培していた集落を店仕舞いし、徐々に低湿地に移動した事を示している。北陸部族でも漁民は、アワよりコメの消費を望んだ事が前提にならなければ、この移行を説明する事が出来ない。つまり狩猟民族と縄文人はアワの消費に積極的だったが、北陸部族の漁民も沖縄を経由して台湾やフィリッピンに渡航した際にはコメを食べ、関東部族はコメを食べている事を知っていたから、コメの有益性は既に認知していたから、山陰で稲作が行われる事を待ち望んでいたと考えられる。

中部山岳地から流れ出る九頭竜川は、現在は福井平野を貫流しているが、縄文海進時の福井平野は内湾になり、多量の土砂を輩出する九頭竜川の河口には、西日本で最も早く沖積平野が発達し始めていた。福井の縄文人がその沖積地で温帯ジャポニカの湿田稲作を始めた事を、後期前葉~中葉に低地性集落の遺跡数が増加し、遺跡が大規模化した事が示している。

上の説明だけでは、この地域で稲作が始まった証拠として不十分だが、付属の表が示すこの低地性集落の遺跡から発掘された石器には、石斧状の打製石器が多く含まれ、温帯ジャポニカの湿田稲作が波及した事を示している。

北九州で温帯ジャポニカの栽培技術を学んだmt-D4が、沖積地を求めて大分県山香町に移住し、竜頭遺跡を遺した事を上表が示しているが、この遺跡にも石斧状の打製石器が圧倒的に多い事は、青州と同じ緯度である福井にも縄文後期温暖期にmt-D4が拡散した事を示している。

縄文中期に九州縄文人に浸潤したmt-D4はアワ栽培者としての情報交換網を維持していたから、この様な素早い行動が可能だったと考えられる。九頭竜川の河口に形成された低湿地の広さは、北九州のどの河川のものより広かったが、アワ栽培者には無用の場所として放置されていた事がmt-D4の素早い動きに繋がったと想定される。

付属の表は九頭竜川河口に形成されたデルタ上の鳴鹿手島遺跡から398個の打製石斧が発掘されたが、磨製石斧は2個しか発掘されていない事を示しているから、この集落では大規模な稲作を行い、焼畑農耕は行っていなかった事を示している。石錐が226も発掘されたが、その用途は判明していない。

石錐は木材の穴開けに使う石器だから、此処で生産されていた温帯ジャポニカも離層の消失が不完全で、穂を摘む為の石器を使う必要がなかったとすると、石錐は木製の収穫具を作成する道具だったと考えられる。木片や竹片の縁に半円状の切り込みを穿ち、それを使って穂から直接モミをしごき取ったのではなかろうか。これは北九州でも石包丁が発掘されていない事と整合するから、石錐の出土がこの地域独特の現象であれば、この地域の人々が温帯ジャポニカを収穫する為に発明した道具になる。

考古学者は木片や竹片が発掘されていないと、この説明を受け入れないかもしれないが、それであれば焼畑農耕のアワはどの様に穂刈したのか説明する必要がある。竹がない華北のアワ栽培者は、石器で穂を刈ったかもしれないが、竹で色々な道具を作っていた縄文人は竹で穂首狩りをした疑いもあり、石製の穂首狩り器に拘ると物事の本質を見失う。

弥生時代に石製の穂首狩り器が普及したのは、熱帯ジャポニカと交配した温帯ジャポニカの雑種は、離層が消失して実が穂に固着する種になったから、石包丁で穂首刈をする様になったと考えられる。その様な状況に至った際には、それ以前に竹や木を使っていたのか否かに拘わらず、石器を使う方が便利な状態になれば石器を使っただろう。小さな石器は交易品にもなるから、海洋民族が大陸から調達する事も可能だった。従って穂首狩り器の類似性から、稲作の伝達路を復元する愚かな試みは止めた方が良い。また唐古・鍵遺跡で穂首狩り器を量産していたとの指摘もあるが、後述する様に奈良盆地には稲作者以上の焼畑農耕者がいたので、その穂首狩り器は稲作用途だったとは限らない。

鳴鹿手島遺跡から石皿と磨石が多数発掘され、コメをドングリの様に粉にして食べていた様にも見えるが、彼らの主食は相変わらずドングリとアワで、コメは漁民の海産物との交換品だった可能性が高い。西鯉地区の環状集落は東日本の縄文集落の特徴を示し、東日本から移住した人達の集落だった事を示しているが、その様な西鯉地区でも155個の打製石斧と56個の磨製石斧が出土し、クリやドングリを栽培しながら稲作を行っていた事を示唆している。つまり東日本で弓矢交易に関わっていた人々が、縄文後期に失職すると稲作者になる事を目指し、日本海の沿岸に移住して来た事を示唆している。

現在の福井平野は丘陵に囲まれた沖積平野だが、縄文後期は外洋の荒波や海流が及ばない湾内に、沖積平野が形成され始めた状態だった。西鯉地区は海だった福井平野の中央部に位置し、現在の標高でも5mほどだから、縄文海進期が終わった直後は海岸に形成された海抜0mの川洲だったと想定される。

九頭竜川は日本有数の荒れ川だから、縄文人が恒久的な樹林を形成する際にその危険性を認識していなかった筈はないが、鳴鹿手島遺跡や背後の丘陵に住んでいた縄文人がこの地域の既得権を持っていたから、東日本から移住して来た縄文人は、彼らの縄張りを避けて沖積地の危険な先端に移住した事を示唆し、縄文後期温暖期に稲作が盛んになると、この様な危険な場所にも東日本の縄文人が入植した事を示している。

九頭竜川は中部山岳地を水源とする堆積土砂が多い川だから、海退が始まった縄文後期に沖積平野が急拡大したが、堆積がある程度進行すると河川が蛇行し始めたから、西鯉地区の人々は縄文後期中頃には、河川の氾濫に怯えねばならない状況に至ったと推測される。九頭竜川は最も早くその様な状態になる川だったから、西鯉地区の集落群が縄文後期後葉に断絶したのは、温暖期の終了に伴う寒冷化だけが原因ではなく、九頭竜川が蛇行し始めて村が全滅する様な大洪水に襲われた事も、大きな原因だった可能性がある。

自然の驚異と対峙していた縄文人がそれを知らなかった筈はなく、稲作を求めて東日本から移住する事が、如何に危険で困難に満ちたものだったのかを示している。関東縄文人は日常的に洪水と戦っていたmt-Fの知恵を借り、安全な稲作地を組織的に求める事ができたが、集落単位で移住した他の東日本の縄文人の前途は極めて苦渋に満ちていた事を、西鯉地区に移住した縄文人が示している。

海退が進行して沖積平野が生まれた直後は、定住が可能な小さな川洲が各河川の河口に生まれ、それらの川洲では河川が氾濫しても大洪水に襲われる事はなかったが、沖積平野が拡大すると河川が蛇行する様になり、山裾から離れた場所では氾濫が深刻な問題になったからだ。これは縄文後期になってから各地で生まれた現象だから、縄文人にも油断があったのかもしれない。

気候が冷涼な福井では、mt-Fが縄文前期末に持ち込んだ温帯ジャポニカは、縄文晩期寒冷期を待たずに稲作が不可能になったから、鳴鹿手島遺跡は縄文後期中葉で途絶えた。北九州とは異なって付近にmt-B4がいなかったから、熱帯ジャポニカと混載せずに温帯ジャポニカを単独で栽培していたからだと想定される。

石川県埋蔵文化財情報、第11号の記事には縄文後期の鳥取県に関する記事はないが、縄文後期の山陰の稲作の中心地は千代川下流域だったと推測される。千代川下流域は縄文海進期に海岸砂丘によって湖が生れ、その湖に流れ込む多数の河川が川洲を形成し、それによって湖の面積が縮小した縄文中期に、湖の堰が破れて千代川が日本海に流れる様になったと推測される。その結果湖に形成された川洲の土砂が流れ出し、海水が侵入して生まれた狭い入り江を埋め尽くしたから、千代川の支流に沢山の小沖積地が生れていたと考えられる。

その時期は現在の地形から見積もる事はできないが、弥生時代の鳥取が遺跡遺物の宝庫であり、古事記がこの地域を「稲羽」と記し、縄文後期には此処が日本有数の稲作地だった事を示しているから、湖は縄文中期には消失していた事が分かる。

当時の狭い湾内の低湿地は内陸の盆地になり、当時の低湿地は厚い堆積土壌の下に埋もれているから、稲作者の痕跡が発掘される見込みは薄いが、法勝寺川流域などが典型的な事例になる。現在の法勝寺川流域は過疎的な農村で、大規模な土木工事を伴う開発は進んでいないから、発掘の機会が得られない事も遺跡の存在が認知されない原因になっている。しかしそれらの地域でも縄文後期前葉には、福井の様な稲作が行われた筈である事を、縄文晩期の米子市目久美遺跡が示している。晩期になると再び日本式の稲作が北上し、その後の土砂の堆積があまり進まなかったから、米子市の海岸付近で遺跡が発掘できる様になった事を示しているからだ。

千代川下流域に散在した稲作者の集落の一つ一つは、福井の鳴鹿手島遺跡程の規模はなかったが、奥深く細長い湾の縁に小さな沖積平野点在し、稲作者の人口規模は福井より大きかったと考えられるから、古事記がこの地域を「稲羽=稲場」と呼んだ事と整合する。

 

加賀に関する以下の記述は情報が不鮮明で評価が難しいが、二通りの解釈が可能になる。

手取川以北の北加賀地域は、手取川扇状地と小立野台地の河岸段丘、砂丘の後背湿地およびそれに連続する沖積低地に地形区分できる。縄文早期から中期にかけては、丘陵から段丘に集落が位置するものがほとんどで、中期の北塚遺跡と古府遺跡が標高10m という低地に位置することは注目できる。しかし、これらの集落は後期前半には終息し、後期後半から晩期に至り、砂丘後背湿地およびそれに連続する沖積低地、あるいは扇状地に集落が出現する。大規模集落のチカモリ遺跡や御経塚遺跡では、生産にかかわる植物の花粉の検出はないが、それは花粉分析などの自然科学的な分析が遅れていることに起因する。

これらの遺跡では打製石斧が多数発掘され、御経塚遺跡で2980点、チカモリ遺跡で944点、乾遺跡で400点、白山遺跡で369点が発掘された。

鳴鹿手島遺跡から398個の打製石斧が発掘されたが、加賀平野のこれらの遺跡の規模はそれを上回り、縄文晩期の遺物であると考えられている。加賀平野は対馬海流が形成する海岸砂丘の内側に形成された、潟湖を起源とする低湿地で、手取川や犀川が沖積地を形成する事によって稲作適地が生れた。金沢市は福井市より秋の降温が遅く、対馬暖流による影響であると推測されるから、福井の鳴鹿手島遺跡より温帯ジャポニカの栽培に適していた。しかし周囲にアワ栽培者の集落がなかったから、この地域への稲作の導入が、福井の鳴鹿手島遺跡より遅かった事に違和感はない。

土器編年に依存した時代区分には誤りが多いので、これらの遺跡の開始期は縄文後期前葉で、一旦縄文後期末に稲作が途絶えたが、晩期に北九州の稲作が盛んになるとこちらの稲作も復活した可能性が指摘できる。

しかし別の解釈として、金沢は北緯3630分で福井より高緯度地域だから、関東では宇都宮の緯度に相当する事が、この地域の稲作を福井とは異なったものにした可能性も指摘できる。縄文後期温暖期でもこの緯度は関東のmt-Fの栽培北限だったから、緯度に敏感な海洋民族が福井の様な温帯ジャポニカの栽培は難しいと判断し、耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培した可能性もある。実際には福井より金沢の方が温暖だが、当時の人には緯度は分かっても平均気温は分からなかったから、その様な対策を採った事が大正解になり、縄文後期中葉以降に鳥取を凌ぐ稲作地になった可能性もある。

対馬海流が形成する海岸砂丘は海洋漁民が定住できない地域だったので、この地域は縄文中期までは海洋漁民の部族的な縄張りの埒外にあったと推測される。この地域に関する説話が古事記にはなく、延喜式神名帳にも神社の記載がないので、入植した人々がどの部族に属したのか明らかではないが、それは北陸部族に共通的な特徴なので、北陸部族の入植地だった可能性が高い。

 

3-2-4 日本式の稲作による温帯ジャポニカの栽培

苗代を作って田植えを行う稲作は、縄文晩期に日本で開発されたと考えられる。弥生時代に田植えが行われていた事は、考古学的な発掘から明らかになっているが、周礼が示す弥生時代末期の大陸の稲作は、田植えを行うものではなかった事は既に示した。

 

mt-B4の縄文中期~後期の稲作

mt-B4は相模台地、多摩丘陵、武蔵野台地、大宮台地、常総台地などの、土壌が柔らかい洪積台地の谷に形成された小川の沖積地で、簡単な盛り土で堰を作って水溜りを形成して湿田を形成していた。起伏がある地形の方が水溜りを形成し易いが、大雨が降ると水かさが増すから、熱帯ジャポニカの草丈はそれに合わせて高くなっていた。堅果類の栽培者だった縄文人には稲作技術がなかったから、それらは全てmt-B4の工夫に委ねられていたが、縄文後期に北関東で土木工事が行われる様になった事は、mt-Fの稲作を検分して農法や農具を参照する事により、男性達も湿田の形成作業に参加して生産性を高める様になった事を示している。

ヤンガードリアス期や太平洋の湿潤期の豪雨が湖の畔に川洲を形成し、それが徐々に拡大していたから、小さな湖が散在する八溝山地も稲作者の集積地になり、台地の谷が集積する上総台地と併せ、北関東がmt-B4の集積地になったと推測される。mt-Fが渡来しても稲作地を争う様な状況は生れなかったのは、両者の稲作地が異なっていたからであると考えられ、草丈が低い方が稲作には有利だったにも拘らず、熱帯ジャポニカの草丈が2mを超えているのは、mt-B4の湿田が1m以上冠水する事を前提にしていた事を示し、mt-B4の稲作環境を示している。

梅雨時の長雨に遭って湿田が冠水し易い時期には、熱帯ジャポニカの草丈は1m以上ある事が、mt-B4の栽培の基本的だった。石器しかなかった時代に湿田を整地する事は難しく、自然地形の傾斜はその儘にするしかなかったから、湿田の深さに斑がある事は避けられなかったからだ。

梅雨の長雨は6月下旬に始まるから、温帯ジャポニカの播種期だった6月初頭の熱帯ジャポニカは、1m近い草丈に成長させている必要があり、熱帯ジャポニカの播種期も収穫期も温帯ジャポニカより2か月ほど早かったと考えられる。現在の稲作には色々なバリエーションがあるが、北関東の稲作地域では4月中旬に播種して5月上旬に田植えを行い、9月中旬~下旬に収穫しているから、出穂から登熟期は気温が低下する前に済ませている事になり、周礼が示すmt-Fの稲作より1か月以上早く作業を進めていたと推測される。

縄文後期までのmt-B4にも苗代はなかったと推測されるから、4月中旬の播種は難しかった可能性が高く、現在の田植え時期である5月上旬に播種した可能性が高いが、それでもmt-Fより1か月近く早いから、それが熱帯ジャポニカの耐寒性の高さの大きな要因だったと考えられる。宇都宮の9月と10月の平均気温の差は6℃もあり、それらが出穂から登熟期の気温差になるからだ。

しかし5月上旬に播種したのでは、6月中旬から始まる梅雨の豪雨期に、草丈が1m以上になっていなかった可能性が高い。mt-B4がその対策として狭いエリアに保護的な環境を形成し、播種を半月早めた苗を限定的に作成し、梅雨の豪雨期が始まる前に、冠水が激しい場所に移植してその場所の草丈を確保する事により、実質的な栽培地の拡大を実現していたとすると、それが田植えの原型になったと考える事に合理性がある。限られた栽培地で少しでも収穫を高める意欲があれば、容易に気付く手法であり、縄文中期~後期の増産に対する最大の課題は、稲作地の拡大だったからだ。

 

mt-Fの稲作

mt-Fの故郷だった湖北盆地では揚子江と漢水が広大な沖積平野を形成し、稲作可能な低湿地が広がっていたが、湖北盆地では古揚子江湾が完全に埋め立てられた縄文前期初頭以降から、現在の武漢の標高である20mまで土砂が堆積し、気候が温暖だった縄文時代の堆積が過半であると考えられるから、4千年で15mほど堆積する異常なハイペースだった。一度の大洪水で10㎝の堆積土が残されたとしても、30年に一度の頻度で大洪水に襲われ、その際の洪水の水深は数メートルに及んだと想定される。山際の湿田以外は壊滅したから、山際の丘の上に集落を形成する事は当然の事だった。

しかし洪水が引いた後の平坦地に樹林はなく、樹木を伐採しなくても流路を整備するだけで、肥料に富んだ広大な湿田が得られた。荊は早い時期からその土木作業を集団で実行する組織を形成し、豊かな稲作地を確保していたと想定される。揚子江や漢水そのものの治水は手に負えず、盆地に流れ込む小河川の流路を制御して稲作地を形成しただろうが、それでも日本人の感覚では大河を制御する必要があったから、農地を整備する組織には多数の人々が参加し、有能な指導者の下で統制が取れた治水活動を展開していた。

温帯ジャポニカの草丈が短く、イネの生産性を高める最適な草丈である事は、大洪水に遭えば諦めるしかないが通常の稲作では、洪水の被害がない環境を土木工事によって実現していた事を示唆している。

その様な組織が整備した湿田を使っていたmt-Fは、個人的に稲作地を確保する必要はなかったから、稲作地を求めて他民族に浸潤する習性がない浸潤力の弱い女性になった。現代日本人のmt-F比率が5%に留まっているのもその為だったと推測され、現代日本人に占める比率がmt-B49%より少ない事は、mt-B4と比較したmt-Fの稲作が見劣りしたからではないと考えられ、縄文後期温暖期に人口が増えた後の関東では、一貫して多数派だったと推測される。

「瑞穂の国」と言われた日本の稲作者の遺伝子が、mt-B4mt-Fの合計で14%しかない事は、「瑞穂の国」との標語は一種のプロパガンダで、実際の穀物生産は焼畑農耕によるアワ栽培に大きく依存していたからだと考えられ、mt-D37% もいる事がその事情を示している。

それでも合計が50%程度である事は、縄文時代には農耕とは関係がない生業に従事していたmt-Amt-N9aや、他の栽培種を栽培していた女性にmt-B4が稲作技術を広めたからだ。

考古学者に誤った認識を植え付けられ、日本の稲作の発祥地は九州であると誤解している人は、これらの認識に違和感があるかもしれないが、日本人に含まれる稲作者の遺伝子はmt-B4mt-Fで、彼女達は縄文時代に関東に定着していたから、日本の稲作の発祥地は関東だったと考える必要がある。日本人のミトコンドリア遺伝子の分布は、弥生時代に新しい栽培者が渡来しなかった事を示し、弥生稲作を担ったのは縄文人の子孫だった事は、自明の事実になるからだ。

古墳時代の帰化人の遺伝子は、80%が北方系のmt-Dmt-M8amt-M7aで、mt-B4mt-F20%ほどしかなく、それもアワ栽培民族だった漢族に浸潤した遺伝子だったから、このmt-B4mt-Fを含む漢族が稲作を日本に持ち込んだとすれば、日本はアワ栽培地になってしまった筈だが、歴史学者は弥生時代から一貫して日本は稲作地だったと主張しているから、水田稲作が弥生時代時代初頭に日本に伝来したとも主張する彼らの歴史観は破綻している。

日本に渡来するまでのmt-Fには、自分を他の栽培者と比較する環境がなかったし、mt-Fの稲作は荊の土木作業と一体だったから、自分の優れた稲作を拡散する習俗も意志もなかった。mt-B4は個人的な稲作者だったから、関東に渡来するとmt-M7aに浸潤して関東平野の穀物栽培者になり、東北南部のmt-M7aに熱帯ジャポニカの栽培技術を拡散したが、それらの違いは両者の性格だけではなく、背負っていた稲作文化の違いでもあった。

従って新しい稲作技術が縄文後期末~晩期に生まれても、それを日本全国に拡散する役割はmt-B4が担ったと想定され、鳥取の青谷上寺地遺跡から2体(8%)のmt-B4が発掘されたが、mt-Fは発掘されなかった事と整合する。稲作技術を広めるだけであっても、ある程度の浸潤は必要だったと考えられるからだ。

 

日本に渡来したmt-Fの農法

沖積平野を流れる川は川底に徐々に土砂を堆積し、やがて天井川を形成して氾濫を繰り返す様になるから、天井川を計画的に決壊させて突発的な洪水を防ぎ、洪水が起こらない場所に天井川から水を引き、湿田を形成したと推測される。但し河川が氾濫すると地形が変わるから、稲作地は氾濫の度に選定し直す必要があり、個人の農地が確定していた時代の人々には想像もできない農法だったが、氾濫を繰り返す河川流域の稲作者はmt-Fだけだったから、彼女達は広大な沖積地を縄張りとして生産性が高い稲作を実現する事ができた。

縄文中期寒冷期にmt-Fの一部は夏の気温が高く日照時間が短い甲府盆地や、関東より温暖な岡山や壱岐に入植したが、長野県富士見町の井戸尻遺跡に入植したmt-Fの様に、稲作を諦めた女性達も出現した。しかしmt-Fが入植した釜無川の川洲は広くはなく、岡山や壱岐の沖積地も手狭だったから、mt-Fの子孫の大半は広大な沖積平野がある関東南部に残留し、冷涼な気候と格闘し続けていたと考えられる。縄文中期寒冷期は一気に寒冷化したのではなく、徐々に寒冷化していく寒冷期だったから、耐寒種が生れたり耐寒技術が生れても、その後更に寒冷化が深まっていくmt-Fには過酷な寒冷期だったが、耐寒種を生み出したり耐寒技術を発明したりする観点では、理想的な寒冷期だった。

縄文後期温暖期に、大陸では温帯ジャポニカの稲作が山東に北上したが、それには関東で辛酸を舐めたmt-Fの耐寒種が必要だった事は既に指摘したが、その青州の稲作事情から関東の稲作の事情を評価すると、同緯度の関東でも温帯ジャポニカの本格栽培が可能になった事を示している。従ってmt-Fは北関東の荒川、利根川、永野川、黒川、田川、鬼怒川、小貝川、桜川などの河口域に進出し、稲作民族が必要とする高い収穫を上げる事が可能になった事になり、海洋民族との共生を前提としていたmt-B4を凌ぐ稲作者になった事になる。

考古学的にその痕跡は発掘されていないが、5%以上のmt-Fを含む現代日本人の遺伝子分布は、沖積平野が発達し始めていた関東が、縄文後期以降には日本有数の稲作地になり、その稲作の過半をmt-Fが担った事を示している。

 

関東のmt-B4mt-F

縄文時代の日本列島には沖積平野が殆どなかったが、関東には広い沖積平野があったから、縄文時代のmt-B4mt-Fには他地域に拡散する選択肢がなかった事も、両者が関東に集住した理由だった。縄文後期にその様なmt-B4が西日本に拡散したのは、温暖化によって突然生産性が高まったmt-Fの収穫とのバランスを取る為には、mt-B4の栽培地を急拡大する必要があったからで、mt-B4の本意ではなかった。漁民との共生が順調に推移していた縄文中期には、寒冷期であっても食料に余裕があり稲作地も充足していたから、東北のmt-M7aには浸潤せずに稲作技術だけを拡散していたからだ。

冷涼な気候が徐々に深まっていた縄文中期寒冷期のmt-Fの稲作地は、駿河湾沿岸を含む関東南部の潤井川、酒匂川、相模川、境川、多摩川などの、氾濫と洪水を繰り返す河川が形成した沖積平野だったと想定される。これら河川の中流域には盆地がなく、ヤンガードリアス期や太平洋の湿潤期以降に土砂を流し出し続け、その後の降雨によっても沖積平野が拡大していたから、縄文中期には相当量の土砂が堆積していたと想定され、其処でmt-B420%ほどの人口を維持していたと考えられる。

縄文時代には、稲作が可能な広い沖積平野は関東にしかなかった事は、実感として分かり難いかもしれない。大河川であっても中流に湖があれば、その湖が土砂で埋まり流出口が侵食されて堰が破れない限り、海岸の河口に沖積平野が形成される状況は生れなかった。湖は自然の調整池でもあるから、ある程度の面積があると激流を緩和し、流出口の浸食が抑圧されて湖の寿命が長期化するが、湖に土砂が堆積して流出口から土砂が排出される様になると、土砂が岩石をサンドペーパーの粒子の様に削るから、流出口の浸食が加速されて堰が消滅し、湖の痕跡が盆地として残る。

大河にはこの様な湖が複数ある事が常だから、湖は上流から消滅し始め、徐々に下流域の湖に土砂が移行し、最後の湖が消滅すると海岸に沖積平野が生れた。現代日本人は各河川のそれらプロセスがすべて完了した地形を見ているが、縄文時代はそれが進行していた時代であり、縄文中期にはまだ多くの河川が最終段階には達していなかった。

縄文時代に大阪平野が存在しなかった事も、この事情から生まれた。濃尾平野に流れ込む木曽川の盆地が中津川や美濃加茂にある事は、古中津川湖や古美濃加茂湖が土砂で埋まらない限り、土砂は下流域に輩出されなかった事を示している。但し堰が破れると、蓄えられていた土砂が一気に排出されて河口の沖積平野が急拡大したが、各地の大きな河川がその様な状態になったのは弥生時代以降だった。

しかし関東南部の潤井川、酒匂川、相模川、境川、多摩川なども、北関東の荒川、利根川、永野川、黒川、田川、鬼怒川、小貝川、桜川なども中流域に盆地がなく、ヤンガードリアス期から関東平野に土砂を流し込んでいたから、mt-Fに豊かな稲作地を提供していた。従って縄文後期温暖期になってこれらの沖積地がmt-Fの稲作適地になると、生産性だけではなく栽培地に関してもmt-Fmt-B4より有利になり、mt-B4の何倍もの収穫を得る事態が生れた。

 

温帯ジャポニカの短日性

弥生温暖期に中国の温帯ジャポニカ栽培は河北省まで北上したから、周礼や漢書地理志に青洲は稲作地であると記されたが、漢書地理志と晋書地理志の人口比較から、揚子江以北の人口が古墳寒冷期に激減したことが分かる。特に沿海部の人口激減が際立ち、揚子江以南でも沿海部では人口が減少した。これは沿海部から稲作者がいなくなった事を示し、その原因は温帯ジャポニカの「短日性」にあったと推測される。稲作者がいなくなったのは、稲作者が死滅したのではなく、海洋民族の船で東南アジアに移住したからだ。

荊は縄文晩期寒冷期にも同様の被害に遭ったが、縄文晩期には耐寒性が高い熱帯ジャポニカも彼らの農法で栽培し、湖北省に踏み止まった人々もいたが、この時期の温帯ジャポニカの栽培は、呉城文化が栄えた江西省まで南下したから、それより更に1℃以上寒冷化した古墳寒冷期は、彼らの限界を超えていた。古墳寒冷期に彼らが南下する必要があった地域は広東以南になり、大量移住先は東南アジアしかなかった。現在の広東のmt-F+B4は、縄文晩期寒冷期に荊が移住した事を示し、その子孫が現在の広東人の半分を占めている。台湾も同様な傾向を示している。

「短日性」は昼の長さが短くなると開花する性質で、暖温帯性や亜熱帯性の気候域では秋分以降に開花しても、その後の結実に必要な40日間も暑い気候が継続し、収穫に悪影響を及ぼす事はない。湖北省で縄文早期に栽培化された温帯ジャポニカが、秋分を過ぎて昼より夜が長くなると出穂して開花した事は、その性質が栽培の安定化や収穫の効率性に寄与した事を示しているが、冷涼な地域で秋分を過ぎてから開花しても、すぐに涼しくなってイネは結実しないから、気候が冷涼化し始めた縄文中期以降は、その性質が温帯ジャポニカの耐寒性向上の最大の障害になった。

高緯度地域で栽培されている現在の温帯ジャポニカは、7~8月に開花させる事によってイネの結実期間を確保しているが、温帯ジャポニカをこの様な品種に変える事が、耐寒性を向上させる最大のポイントだった。気候が寒冷化した際の秋の低温化は、平均気温の違いより顕著になるからだ。

短日性は温帯ジャポニカだけが持つ特性で、熱帯ジャポニカにはないから、耐寒性を高める為に必要な性質だったのではなく、栽培化の過程で他の目的の為に付加された性質である可能性が高い。

雑草として存在する多種のイネ科植物は、穂を形成すると徐々に下から結実させ、種を拡散する機会を長期化させるものが多い。しかし栽培種になるとその性質は、収穫時の生産効率を低下させるものになるから、現在の栽培種は結実しても穂から実が離れない品種に改良され、実が付いた穂として収穫されるものが殆どになる。

考古学者は穂刈器が登場すると、穀物の栽培化が進展したと判定するが、湖北省の稲作者は全く異なる収穫方法として短日性に注目し、先進的な穀物栽培者になっても縄文中期までは、穂刈器を使っていなかったと想定される。つまり温帯ジャポニカの栽培者の収穫方法は、短日性を強めて穂を一斉に開花させ、結実も一斉に起こる様に品種改良した事により、モミが強く固着されていない穂を手でしごくものだったと想定される。この方法では穂から籾をもぎ取る脱穀作業が不要になるから、原初的な稲作時には合理的な収穫方法でもあった。

強い短日性にはその他のメリットとして、播種期を遅らせて既に湿田に生えている雑草を踏み込み、肥料にする事によってイネの生産性を高める事もできたし、開花時期が遅くなる遺伝子を効率的に除去し、必要な時期に結実する確率を高める効果もあった。

その他の理由として洪水を避けた丘陵地の居住域と、低湿地の栽培地が酷く離れている状態が常態化したから、往復に時間が割かれて労働時間が制限されて、手早い収穫が重視された可能性や、収穫の運搬には荷物の小容量化や軽量化を重視した可能性も挙げられる。

縄文早期までの温帯ジャポニカは短日性とは異なる障害によって耐寒性が低く、それを克服した縄文前期温暖期に陝西省や河南省に北上したが、縄文前期温暖期が終わって気候が寒冷化すると、短日性の弱点が露呈して南陽盆地のmt-Fが、関東への移住を余儀なくされたと推測される。

10万年続いた氷期の原生種の北限は、温暖期であってもヴェトナム中部辺りだったと想定されるから、その様な赤道に近い地域で昼の長さを検出する事に、生存競争上の優位性があったとは考え難い。従って温帯ジャポニカだけが持つ短日性は、湖北省で栽培化した過程で後付け的に付加された性質だった可能性が高い。

温帯ジャポニカと交配可能な熱帯ジャポニカに短日性がなく、原生種が生存していた氷期の低緯度地域ではその性質を発揮する必要もなかった事は、氷期と間氷期を繰り返し始めた直近の100万年間に、コメの原生種になったイネ科植物の自然界での生存競争に、この形質が有利に働いたとは考え難い。

従って地球全体が現在より遥かに温暖だった500万年以上前に、温暖な高緯度地域に生息していた原生種の祖先が、短日性を獲得する事によって繁栄したから、休眠状態で保存されていた遺伝子が栽培化過程で偶然発現し、それがmt-Fによって純化された可能性が高い。地球が寒冷化して原生種が亜熱帯域の植生になったその後の500万年は、短日性の遺伝子は必要なくなったが、その性質が劣性遺伝子として、遺伝子の多様性の中に僅かに含まれていた事になる。

何十万年もその様な状態が続けば、その様な遺伝子は徐々に消滅した筈だが、イネの原生種は根を保存する多年草だから、種子の拡散によって増殖する種であれば失ってしまった性質が、根が分裂する事によって増殖を繰り返した事により、無用になった遺伝子が長期間温存されていたと考えられる。mt-Fの祖先が種子が一斉に実った穂を偶然見付け、収穫に便利である事に気付いてその遺伝子を純化し、短日性の強い品種に仕立てたと考えられる。

育成期間が長い夏植物としては、6月初頭の播種は酷く遅いが、短日性を高めた品種をその時期に播種すると、雑草を踏み込んで肥料にする事に繋がって生産性が高まったから、それが最適な播種期である事に気付き、更に短日性を強化した可能性もある。

しかし縄文晩期寒冷期には、その短日性故に栽培北限が青洲から500㎞も南下し、江蘇省や安徽省でも栽培が不可能になった。寒冷化して秋が早まっても、9月下旬にならないと開花しない短日性は変わらなかったから、寒冷期になると深刻な不稔に見舞われる状況は生産性の劇的な劣化をもたらし、多少の寒冷化には踏み止まって耐寒性を高めるという努力も、放棄せざるを得なくなった。

それ故に縄文前期以降の荊は、寒暖周期に合わせて大胆な南北移動を繰り返えさざるを得なくなった。

縄文晩期の状況を概観すると、荊は北緯2829度の江西省に南下して呉城文化を形成したから、海洋性である故に秋が1か月遅い日本では、北緯3132度の鹿児島であれば栽培が可能だった可能性もあるが、3233度の熊本は明らかに北限から外れ、33度以上の北九州では栽培が不可能になった。

しかし北九州では海岸付近の山裾に縄文人の集積地が生まれ、方形住居が相当な数で切り合うようになり、その集落跡が弥生時代まで継続した事は、熱帯ジャポニカとの混栽により、耐寒性が高い稲作が生れていた事を示している。耐寒性が高い稲作は縄文晩期に新潟県まで北上し、高い耐寒性を得ていた事を、次節に示す石川県埋蔵文化財情報第11号の、縄文晩期の日本海沿岸の事情が示している。

 

短日性を失わせた温帯ジャポニカの耐寒性

下図は「稲の日本史」角川選書:佐藤洋一郎著に掲載された、弥生稲作の状況。

農学者の佐藤氏が、弥生温暖期の水田では、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが混栽されていたと指摘している。

弥生温暖期に稲作が青森まで北上する耐寒性は、晩期寒冷期に新潟まで北上できる耐寒性と同じだから、縄文晩期寒冷期の新潟での稲作は、弥生温暖期と同じ技術で栽培されていた事になり、弥生稲作の基本技術は縄文晩期に完成した事を示している。

青森県の砂沢遺跡や垂柳遺跡(たれやなぎいせき)から、弥生温暖期の畔で区画された水田遺構やモミが発掘され、付近から縄文土器や縄文的な弥生土器が発掘されたので、弥生人が稲作技術を持って北上したと主張している考古学会の解釈は混乱しているが、縄文晩期に日本式の稲作技術を確立したmt-B4が、日本全土にその稲作技術を拡散した事を前提にすれば驚く必要はない。

またこの項を最後まで読めば、mt-B4には耐寒性を高めた稲作技術を日本全国に拡散する理由があった事も理解できるし、mt-B4が拡散した稲作技術は、北九州のmt-D4が行っていた不完全な耐寒技術による稲作ではなく、古墳寒冷期も乗り切る事ができる、完成度が高い耐寒稲作だった事も理解でき、その稲作の拡散と北九州を起源とする遠賀川系の土器の拡散は、直接的な関係はない事も分かる。つまり北九州のmt-D4は完成度が高い耐寒稲作の拡散者ではなかった故に、日本人のmt-Dmt-D4比率が高くない事と、その理由も分かる。

弥生温暖期の青森では畔で区画された水田で栽培したから、その水田遺構が残っているが、縄文晩期の北九州の稲作者だったmt-D4は畔のない湿田でイネを栽培したから、その遺構は発掘されていないと考える必要もある。mt-B4が拡散した稲作は田植えを行うものだったから、水田の水深を均一に保つ為に畔を使ったが、田植えを行わなかったmt-D4は畔を使っていなかったからだ。

畔を形成する為には労力が必要だから、他の手段で水深を均一に保つ事ができなければ、畔を形成する必要がある。しかし青森の稲作者は稲作に急傾斜し、畔を作る技術を開発して水田を広域的に形成したが、弥生温暖期が終わると青森では稲作ができなくなったから、続縄文文化圏になった。この複雑な事情には青森の地理的な特殊性も関係したので、それらの事情を説明できる必要がある。

 

日本式の稲作が生まれると、日本と大陸の稲作事情が大きく変わった

中国大陸では弥生温暖期に稲作が再び北上したから、弥生温暖期末期の事情を記した漢書地理志や周礼は、山東省西部や河南省東部が稲作地になった事を示している。しかし弥生温暖期が終わった漢代に華北の人口が減少し始め、晋代には稲作地だった沿海部の人口が激減していた事を、(7)宋書・好太王碑の導入項に示した。これは晋代に激減したのではなく、寒冷化の兆しが見え始めた前漢末の動乱期に、沿海部の稲作民族が東南アジアに移住した事が大きな要因だった。

古墳寒冷期は縄文晩期寒冷期より更に冷涼になったから、中国大陸では伝統的な大陸式の稲作が、揚子江以北では不可能になり、華北のアワ栽培も不振になって中華世界全体の農業が崩壊状態になったから、その切り分けが難しいが、論理的には以下の事情が想定される。

アワ栽培者が樹立した華北王朝である西晋が滅亡すると、その残党が南京で東晋を樹立したが、東晋時代の華南は経済的に苦しい状態だった。しかし南朝が宋に代わる頃から華南経済が改善し始め、梁代には顕著な経済発展を遂げたから、南京に仏教寺院が林立して「南朝四百八十寺」と漢詩に読まれ、竹林の七賢と言われた富裕な人々を輩出する、文化の爛熟期になった。

古墳寒冷期だった南北朝時代に、華北の農業生産が回復したのは、トルコ系民族を排斥していた漢族政権が崩壊し、先進的な農耕技術を持ったトルコ系民族が南下したからであって、華北のアワ栽培が復活したからではない。このトルコ系民族は中央アジアに隣接するシベリア南部で、小麦を栽培して農耕の生産性を高めたから、漢族の政権が崩壊すると騎馬民族の保護の下に華北に南下し、小麦栽培を持ち込んで高い生産性を示したからだ。唐代の租税はアワだったが、騎馬民族の子孫である貴族は小麦を食べていた事がその事情を示し、宋代になると華北が小麦の栽培地になった事がその証拠を示している。

この時代に小麦の生産性が突然高まったのではなく、晋代までの華北には生産性が高い小麦栽培者がいなかったから、小麦の栽培地であると言える地域にならなかっただけである事を、春秋戦国時代まで小麦より生産性が劣る大麦が、斉のY-Rによって山東や河南省東部で栽培されていた事を、周礼に青洲は稲と麦(大麦)の産地であると記されている事が示している。

またアワは漢代まで華北の主要な穀物だったから、耐寒性が高い穀物であると誤解されているが、日本で「あわ」と呼ばれた地域は徳島と房総半島南端であり、コメと比較した耐寒性が格別高い穀物ではない事にも留意する必要がある。つまり華北は小麦栽培が可能な気候環境だったが、mt-Dのアワ栽培者だった漢族が、小麦の栽培者になったトルコ系民族の南下を阻止し、小麦の栽培地になる事を阻んでいたから、華北は晋代までアワを主要な穀物する地域だった。それ故に古墳寒冷期に中華の穀物生産が激減し、小麦の栽培者になったトルコ系民族を抱えた騎馬民族が南下すると晋が滅亡した。

従って華北の農業経済が南北朝期の後半に再生したのは、気候が温暖になったからではなく、アワの耐寒性が突然高まったからでもなく、トルコ系民族の南下によって耐寒性が高い栽培種が華北に導入されたからで、その筆頭が小麦だった。交易事情に疎かった華北のmt-Dは、トルコ系民族の南下によって初めて、先進的な小麦栽を獲得する機会を得たが、小麦の栽培者に転換したのは、トルコ系民族が南下し始めてから700年以上経った宋代だった。

夏植物だったアワを栽培していた関係上、冬植物である小麦の導入は難しかったのかもしれないが、日本では既に大麦が栽培されていたから、大陸のmt-Dは日本のmt-Dとは異なり、自己の栽培種に拘る極めて保守的な性格を示した事になる。

北朝が形成される以前を五胡十六国の時代と呼び、ウィキペディアは王朝史観に基づいて、「後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。」と記している。しかし騎馬民族だった匈奴と鮮卑は、トルコ系栽培者を南下させる先導者だったと推測され、北方辺境に移住していたのは遊牧民だけではなく、彼らの庇護下にあったトルコ系民族も南下していたと想定される。

しかし従来からトルコ系民族を敵視していた漢族には、彼らの栽培技術にも嫌悪感もあり、強力な征服王朝が樹立される事によって始めて小麦栽培が緒に就いたが、その完了までに700年も要したとも言える。トルコ系民族の経済力が高まると小麦の価格が上昇し、アワの価格が低下したから、宋王朝が租税を小麦に変えた事により、仕方なく小麦を栽培した疑いが濃い。

倭人は古墳寒冷期に漢族を華北から華南に移住させ、その利益によって日本列島に古墳を林立させる経済力を誇示したが、その背後には耐寒性が高い稲作技術が確立していた事に加え、その生産力を高める労働力の導入としての、漢族の生口化(人身売買)があった。倭人はそれとは別に漢族の富裕者を日本に帰化させ、暴利を得たから、漢族の知識人の一部も日本に帰化したが、彼らが日本に中華文明をもたらしたとの説には根拠がない。その様な大嘘を並べている歴史学者が多数いる事が、王朝の付属物だった時代の史学を未だに引き摺っている、後進性と非科学性を示している。

古墳寒冷期に華北の農業生産力が復旧したのは、先進的な農業者だったトルコ系民族が南下したからだとすれば、華南の稲作の生産力が宋代~梁代に急速に復旧した理由も、日本の稲作技術が流入したからであると想定しなければ、他に合理的な要因は見付からない。倭人は華南に多数の移民を送り込んだから、その移民が華南に入植する際に日本式の稲作も持ち込んだと想定する事は、極めて常識的な発想になるからだ。

日本式の稲作は従来の稲作とは異なり、苗代を作って田植えを行う高度な技能を必要としたから、華南に残留していたmt-B4mt-Fが種籾を入手しても、それだけでは稲作ができなかったが、華北で蓄財していた豪族達が日本式の稲作を日本で学んだ生口を獲得する為には、金に糸目を付けなかったと推測されるから、導入の段取りにも不自然さはない。

倭人は弥生時代末期から華北の漢族を生口として導入し、稲作の労働者として使役していたから、日本で稲作技術を身に着けた生口を華南に移民する華北の豪族に売るだけで、高い利益が得られたから、経済合理性にも適合する行為だった。帰化人になった漢族にはmt-B4mt-Fがそれぞれ1割ほど含まれていたから、彼女達はその適任者だった。

現在揚子江以南で栽培されているインディカは、前漢末期にタイなどに入植した荊が栽培技術を獲得し、それを広東に南下した荊に平安温暖期に伝授する事により、揚子江以南まで北上したと想定される。従ってインディカは、古墳寒冷期の華南には未だ存在しない栽培種であり、南朝時代に復活した華南の稲作経済は、日本式の稲作を導入する事によって実現したと想定しなければ、合理的な説明はできない。

農学者の佐藤氏は温帯ジャポニカの遺伝子変異をah8種に分類し、日本の在来種は殆どがabで、aは東日本に多くbは西日本に多く、機内ではabが混在していると指摘した。中国では圧倒的にbが多く次いでaが多いが、朝鮮半島にはaが圧倒的に多くbが欠落していると指摘している。

ah8種に分類する部位には遺伝子としての機能がないから、この様な明確な分布は異常なボトルネック効果を何度も経験しなければ生れないが、多数のmt-Fが情報網を活用しながら栽培していたから、その様な事態が発生したとは想定し難い。同一種を栽培していた女性達は、種籾を頻繁に交換しながら有用な突然変異を探し、それを何百種も集積した効果として栽培化が進展したのであって、有用な突然変異の急速な拡散が、それらを実現する基本だったからだ。

特定の有用な遺伝子を純化する具体的な過程は、特定遺伝子が発現した穂から種籾を得て、それを純粋培養する事によって得たのではなく、種籾を交換しながらそれぞれが栽培していた品種と交配させ、多数の雑種を生み出しながら有用な遺伝子を選別し、それぞれが独自の優良な遺伝子を純化させながら、それらの交配によって総合的な品種改良を行ったと想定される。従って有用な特定遺伝子の出現とは関係がない部位の、ahの遺伝子変異は栽培化の過程では、分布の均質化に向かった可能性が高い。

現実的で分かり易い言い方をすれば、縄文時代のmt-Fに特別な改良目標があったわけではなく、相対的に実りの良い穂から種籾を採取し、それを分け合って翌年播種する事を繰り返し、時には遠隔地の女性とも種籾の交換を行ったと想定される。それが縄文時代の一般的な品種改良であり、参加者の数が多いほど栽培化の進展が早まる、全員参加型の品種改良だったからだ。

従って優良な遺伝子変異は純化されていったが、純化された遺伝子が全員に拡散する事によってmt-F全員の生産性が向上し、新しい有用な遺伝変異の探索が可能になったから、遺伝情報とは関係がない部位の遺伝子変異は、消滅するか分布の均質化に向うかのいずれかだったと考えられる。

朝鮮半島にbがないのは、高句麗滅亡後に朝鮮半島に南下したmt-Fのイネには、bが含まれていなかった事を示している。これは数回のボトルネック効果で1種類が失われる、確率的にあり得る事情になる。つまり弥生温暖期に北上したmt-Fは古墳寒冷期になると、不作によって種籾さえも失う状態に陥る可能性が高まり、その度に誰かに分けて貰う状態を繰り返したとすれば、ボトルネック効果は何度も訪れた事になる。その様なボトルネック効果を経ていない中国では、baだけが突出して他の変異には優劣がない事が、上記の事情を示している。

従って本来均質であるべき遺伝子分布が極度に偏在している事に、日本のイネの特殊性があり、日本式の稲作が生まれる過程で、mt-Fの手法とは全く異なる手続きを経た事を示していると考える必要がある。つまりmt-B4の農園で遺伝子の絞り込みを実施し、それが全国の稲作者に一方的に拡散したから、日本では温暖地の生産性が高いbと、寒冷地仕様のaが栽培されたと考える必要がある。

佐藤氏はこの現象を、僅かな種籾が持ち込まれたからだと説明したが、日本人や関東縄文人のミトコンドリア遺伝子の分布は、多数のmt-Fが日本に渡来した事を示しているから、それに代わる仮説が必要になるが、倭人が華南に送り込んだ生口に関し、温暖な地域には生産性が高かったbを持参させ、冷涼な地域にはaを持参させたが、東日本より冷涼な朝鮮半島にはaしか持ち込ませなかったとすると、歴史の流れとも整合する。つまり畿内まで拡散したbは縄文晩期寒冷期の北九州で生まれ、東北に拡散したaは関東で生まれたとすれば、農学的な見地と歴史の流れの双方と整合する。

この事はmt-B4mt-Fの関係が、縄文後期には経済的な競争者だったが、縄文後期末~晩期に連携する関係に変わった事と、どの様な連携だったのかを示している。結論を言えばmt-B4は種籾の生産者で、mt-Fがそれを使って稲作を行い、種籾の出来栄えを評価したが、種籾は品種として中々完成しなかったから、弥生時代の稲作者は熱帯ジャポニカを混載していた事になる。

稲作者の間でこの様な協業が生れた事は、極めて稀有な事例であると考えられる。縄文早期に関東に渡来したmt-B5は、mt-B4と併存する事ができずに九州に移住し、根深い遺恨を遺したからだ。

mt-B5は大陸でも稲作者として大成する事が出来ず、フィリッピンに移住したが、縄文中期にmt-D+M7aに浸潤されて少数遺伝子に転落した。日本のmt-B5M7bは、その状態から這い上がった養蚕の技術者の遺伝子であると考えられ、この時代の女性達の人間関係を示している。但しこれは個々の女性の感情ではなく、女性達が形成していた情報ネットワークの意志であると考える必要がある。

縄文晩期にmt-B4が荊のmt-Fに浸潤すると、縄文晩期寒冷期の数百年間にmt-Fよりmt-B4の方が多い状態になり、その後はその状態が固定化した事を、先に挙げた各地のmt-F+B4が示している。従って関東のmt-B4にも、機会があれば高い浸潤力を示す性質があったが、5千年間mt-Fと共存しながら浸潤した気配がない事は、日本のmt-B4mt-Fの間には、大陸とは異なる関係が生まれていた事になる。荊の男性達が稲作地を形成していた大陸では、縄文晩期寒冷期になっても生産性を維持していたmt-B4は、生産性が極度に低下していたmt-Fに次々と浸潤したが、関東ではその様な事態が発生しなかったのは、mt-Fのペアだった男性達に違いがあったのではなく、関東のmt-Fmt-B4が生産した種籾を使い、生産性の劣化が限定的だったからだと考えられる。

縄文後期温暖期の関東のmt-B4の一部は、mt-Fに追い出される様に西日本に移住したが、縄文早期のmt-B5の様に全員が移住したのではなく、半分程度のmt-B4は関東のコメ需要の一端を担いながら生き延びた。

その様なmt-B4が縄文後期末~晩期に優位性を復活させると、縄文中期~後期の様なシーソーゲームを復活させるのではなく、mt-Fに種籾を提供する共存的な状態を生み出したが、それがどの様な経緯で生まれたのかについても、上の図が間接的に示している。

 

日本式の稲作が普及した、弥生時代の稲作の特徴

弥生温暖期の日本では青森まで稲作地になったが、西日本から青森まで気候の寒暖に関係なく、温帯ジャポニカを単独では栽培せずに3割程度の熱帯ジャポニカを混ぜて栽培していた事を、上掲の佐藤氏が製作した地図が示している。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの生産性の違いを考慮すると田植えの苗は半々で、生産性の違いが上記のモミの数の比になったと考えられる。

上掲の地図には九州の事情が示されていないが、九州のmt-D4mt-B4が指導したこの様な画一的な稲作は行わなかったと推測される。熱帯ジャポニカも栽培していた故に、混栽の効果を早い時期から熟知していた上に、九州のmt-Fもこの様な稲作を行っていなかったと考えられるから、mt-Fを真似ながら稲作を行っていた九州のmt-D4には、この様な面倒な稲作を行う必然性はなかったからだ。

九州のmt-Fもこの様な稲作を行っていなかったと考える根拠は、稲作の生産性に拘っていたmt-Fには、小さな畔を作って田植えを行う稲作を受け入れる事はできなかったから、混栽によって短日性を失わせた種籾をmt-B4から貰っていたと考えられる。mt-B4がその様な種籾を生産したのは、mt-Fだけがその需要者だったのではなく、縄文後期温暖期に温帯ジャポニカを導入した「稲羽」などに需要があったからだが、それだけではなく先に示した加賀などの、日本海沿岸の更に北の諸地域にも需要があり、冷涼な関東のmt-Fが生産実績を示す事により、種籾の販売が可能になったからだ。新たな稲作者が生れたその様な地域には、mt-B4が稲作指導する必要があり、それに応える事もmt-B4の交易活動になった。

縄文晩期寒冷期に耐寒性を高めた種籾が生産されると、その稲作が縄文後期の稲作北限より北に北上するという、常識的には考え難い現象が生れたが、それぞれには必然性があった。この結果関東部族の経済と交易の構造は、関東部族が消費するコメはmt-Fが生産し、mt-B4は種籾を生産して日本の各地に販売する状態になった。これに関して少し穿った見方をすると、mt-B4が生産する熱帯ジャポニカはモチ種で、mt-Fが生産する温帯ジャポニカはウルチ種だったとすると、海洋漁民に対する販売価値は熱帯ジャポニカの方が高く、mt-B4が推奨した温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混栽に関し、熱帯ジャポニカの生産性の低さは大きな問題にならなかった可能性もある。

田植えは収穫を高める行為ではないから、直播を推奨する農法も現在は流行しているが、田植えを始めた頃の稲作者は、寒冷な気候への対策として短日性を失わせ、開花~結実期を早めると播種時期も早める必要が生れたから、早春に種を蒔く為に苗代を作り、従来の播種期に田植えを行う必要があると判断した結果だった。

佐藤洋一郎氏は、短日性がない熱帯ジャポニカと、短日性が強い温帯ジャポニカを交配すると、短日性を失った温帯ジャポニカが生まれるが、交配確率は1%程度で残りは自家受粉であると指摘しているから、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混栽する事は、短日性を失った温帯ジャポニカ種を作り出す為ではなく、短日性を失った温帯ジャポニカの状態を維持する為だったと考えられ、短日性を失った温帯ジャポニカの種籾はmt-B4が生産し、稲作者はそれを何年も、或いは何十年も栽培し続けたと考えられる。

栽培イネは自家受粉率が高いから、単年度の交配で品質が揃った新品種が生まれるわけではなく、稲穂の状態やモミの形状は親株の遺伝子によって決まり、種籾として選んだものの短日性の有無は識別できなかったから、翌年の栽培によって識別する必要があったが、その出現率は1%程度だった。短日性は劣性遺伝子だから、翌年の栽培によって短日性の出現を確認し、その籾だけを播種しても、翌々年に短日性を喪失した株の出現率は75%で、寒冷期には残りの25%は不稔株になった。無前提に栽培を続けると、この状態は毎年継続したと想定される。

つまりmt-B4が自分の熱帯ジャポニカの栽培地で1~2割の温帯ジャポニカを混載し、何らかの工夫によって交配率を高めて短日性を失った温帯ジャポニカを量産し、その籾を稲作者に配布したから、稲作者がそれを熱帯ジャポニカとの混載を続けると、短日性を失った温帯ジャポニカの状態が維持されたと考えられる。温暖化した弥生時代になってもそれを続けていたのは、その性質を持続的に持つ品種を生み出すのに長い時間が必要だった事と、時間が経つとその性質が失われていった事を示しているからだ。

しかしそれであっても、縄文晩期寒冷期から弥生時代が終るまでの千年間、その稲作を続ける必要があったのか疑問は残る。新品種の性質が斉一化しなかったから、この様な栽培を続けた事になるが、弥生温暖期の西日本では温帯ジャポニカを単独でも栽培できる気候になったから、必要がなくなっていたにも拘らず栽培者がこの稲作手法を頑固に続けたのは、その背景に色々な要因があったからだと考えられるので、それを以下に列挙する。

(1)技術的な理由としては、短日性を示す遺伝子は劣性遺伝子だったので、混合栽培によって新品種を作り出しても、短日性を示す種籾の完全排除が難しかった事が挙げられる。短日性が単純な劣性遺伝子によって形成されたのか、複数の遺伝子による合成された形質だったのか明らかではないが、その中に一つでも劣性遺伝子があれば、劣性によって隠された遺伝子を含む種籾を使用すれば、そこから生まれた株の1/4にそれが発露し、その株は収穫期が異なるから期待した収穫を得る事ができなかったからだ。残りの3/4を翌年播種すると1/8発露する品種になるが、半分近いモミは依然として短日性遺伝子を隠れた遺伝子として持つから、その含有率を画期的に低くする事には長い時間が掛り、1割近い発露が繰り返されただろう。

(2)1次交配種は12対の遺伝子索が交雑し、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの性質が混在する状態になり、温帯ジャポニカであるとは言えない種だから、それを短日性が失われた温帯ジャポニカにする為には、1次交配種と温帯ジャポニカを何度も交配させ、短日性を持つ遺伝子索だけが失われた温帯ジャポニカを選別する必要がある。この選別過程では不稔株の出現率が極度に高まり、栽培系の女性達が一般的に行っていた、実りの良い種を翌年の種籾とする手法とは全く異なる発想が必要だったから、一般の稲作者には手に負えない選別だった。

(3) (2)によって短日性を持つ遺伝子索だけが失われた温帯ジャポニカが生れても、10%程度の熱帯ジャポニカ的な性質は残り、それが新品種の形質や生育にどの様な影響を与えたのか明らかではない。

(4)生まれた新品種が熱帯ジャポニカ的な性質を示し、温帯ジャポニカの生産性の高さが少しでも失われると、生産性が高い種籾を選別する古代的な品種改良をそれに適用した場合には、短日性が復活する可能性を高める選別になり、その品種の短日性遺伝子の割合を高める選別になった。つまり一般の稲作者に(2)を経て生れた新品種を渡しても、栽培者が(4)の選別を行って翌年の種籾を確保すると、短日性遺伝子の割合が徐々に高まり、それが発現する株が無視できない割合で出現する様になった。熱帯ジャポニカとの混栽は、その様な状況が生れる事を抑止しただろう。

短日性が復活して出穂が遅れた株は寒冷期には不稔になったから、その混入率が高いと稲作全体の生産性が劣化した。縄文晩期の稲作ではそれが深刻な問題になったが、弥生温暖期の西日本では出穂が遅れた株として収穫が可能になり、深刻な問題ではなかったのに、日本全国判で押した様に熱帯ジャポニカを半分混ぜ、苗代を形成していた事を上の図は示している。

その理由としては、縄文晩期寒冷期が終わっていない時期に新品種が生まれ、上記の様な状態になって生産性が劣化したから、それを避ける為に混栽を義務付ける栽培規約が生まれ、それが弥生温暖期を通して守られたと考えざるを得ない。縄文晩期寒冷期にその段階に至った事に疑念はあるが、画一的な弥生稲作がその事実を示し、日本全国一律にその規約が厳守された事は、その稲作技術を指導する事によって規約を守らせていた女性達がいた事になり、その様な人間関係を支えていた女性達の、情報ネットワークの団結力を示している事にもなる。

稲作者が混載していた熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカと交配し続けたから、熱帯ジャポニカの形質を維持した株から熱帯ジャポニカの種籾を選んでも、その中には短日性の遺伝子を含むものが含まれ、やがて温帯ジャポニカの短日性遺伝子を減らす効力を失ったから、栽培者は定期的に新鮮な熱帯ジャポニカの種籾を入周する必要があった。それは規約を守らせていた関東のmt-B4の役割であり、純粋な熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4以外には、この役割を担う女性はいなかったと考える必要がある。

以上から得られる結論は、縄文晩期寒冷期に新しい稲作技術の基本が確立し、それを日本全国に拡散したmt-B4の指導を、厳格に守った女性達は寒冷期であっても高い生産性を獲得したが、指導をないがしろにして自己流に走った女性達は、悲惨な事態に見舞われたから、それを目撃していた女性達に指導を厳格に守る習俗が定着した事になる。その技術指導は混栽だけではなく、苗代の作り方から田植えの仕方を含む高度なものだったから、それが日本全土の稲作の標準技術になり、弥生温暖期になっても厳守されたと考えられる。

逆に弥生温暖期になって、東日本でも短日性が強い温帯ジャポニカの栽培が可能になっていた状況下で、この技術を拡散する為に混栽の必要性を訴えても、関東以西の稲作者は聞く耳を持たなかったと想定されるから、遅くとも縄文晩期寒冷期の早い時期に、新しい稲作が日本全国に拡散したと考えざるを得ず、その開発は縄文後期温暖期が終了した直後には、始まっていたと考えざるを得ない。つまり冷涼な関東で稲作を行っていたmt-Fの為に開発したから、縄文後期温暖期が終了した直後に開発が始まったと考えられる。

弥生温暖期の西日本では、新しい稲作技術は不要な技術だったが、縄文晩期寒冷期より冷涼な古墳寒冷期になると、その真価が大いに発揮されたから、大陸の稲作が崩壊する傍らで日本列島は「瑞穂の国」状態を維持し、大型古墳が林立する事態が生れた事になる。関東のmt-B4による稲作指導は、古墳寒冷期のその様な状態によって一層強化されたから、平安温暖期になると青森まで稲作地になり、奥州藤原氏の繁栄に繋がったと考えられる。

 

田植えと苗代の起源

短日性がない熱帯ジャポニカは、播種期を早める事によって開花時期も早まったから、関東のmt-B4は熱帯ジャポニカの耐寒性の改良を進める傍らで、梅雨時の水深に耐える株を早生させるなどの目的で、縄文中期寒冷期には播種時期を早めて移植する農法も採用していたと想定される。縄文中期寒冷期に北関東に北上したmt-B4は、耐寒性を高める農法としても発展させていた可能性がある。

陸稲として栽培していれば田植えはできないが、関東の熱帯ジャポニカが陸稲として栽培されていた証拠はなく、縄文中期寒冷期の那須町何耕地(いずこうち)遺跡で、集落が沖積地に営まれた事は、mt-B4が水耕栽培していた証拠を示している。日本列島は「豊葦原瑞穂の国」の別名を持つが、mt-Fの稲作では葦原を求める必要はなかった。しかし葦と同じ草丈の熱帯ジャポニカの栽培適地は、葦が生えているか否かで識別する事が出来たから、この言葉が生れた背景としても、熱帯ジャポニカは水辺の水耕が基本だったと考えられる。

縄文時代の八溝山地~北総台地には多数の湖沼があり、mt-B4の集積地になっていたと想定され、何耕地遺跡はその北限的な集落だったと推測されるから、mt-B4がこれらの地域で原初的な田植えを始めた可能性が高いが、現在の田植えから連想される手法とは異なっていた可能性も高い。例えば腰まで浸かる沼地で短いスキーの様な下駄を履き、沼の泥に足が捕られるのを防ぎながら太い棒で穴をあけ、草丈1m近い株の根を押し込む様な田植えだった可能性もある。

浙江省の良渚文化期に栽培されたイネは、熱帯ジャポニカだった可能性が高い事は既に指摘したが、良渚文化期の遺跡から灌漑用の土木工事の痕跡が発掘された事は、浙江省の稲作者が熱帯ジャポニカは水耕栽培する品種であると認識していた事を示し、それが縄文中期には常識化していた事を示している。

播種時期に自由度があった熱帯ジャポニカは、播種した後の発芽時期にもばらつきがあり、近代的な田植えを発想する品種ではなかった可能性も高い。自然界の植生は生育上のばらつきによって種の保存確率を高めているから、栽培過程で意識的にそれを揃えない限り、栽培化してもその様な性質は残存したからだ。

播種すると一斉に発芽する性質は、栽培種特有の性質でもあり、熱帯ジャポニカの栽培史も既に5千年を経ていたから、播種すると発芽する性質はある程度揃えられていた筈だが、温帯ジャポニカほど斉一的ではなかった可能性が高い。寒冷地の栽培者だった関東のmt-B4にとっては、その様なばらつきがあった方が、年度による気候の違いを克服して収穫が安定したから、意図的に揃える必要性を感じなかった可能性も高いからだ。

しかし短日性を失った温帯ジャポニカと混載し、日本式の稲作の必要不可欠なセットである苗代の形成と田植えを行う際には、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの播種期を揃え、混栽によって開花時期を早めた温帯ジャポニカと同様に、一斉に発芽する熱帯ジャポニカにする必要があった。田植の際には生え揃った苗が必要になるから、苗代に播種してから田植までのスケジュールは、それまでの熱帯ジャポニカの栽培と比較するとタイトになったからだ。日本式の稲作を開発したmt-B4には、その様な細かい配慮も求められた。

縄文晩期以降の稲作は温帯ジャポニカが主流になったから、稲作史の追跡は温帯ジャポニカの品種改良や農法の改良に焦点化される傾向があるが、温帯ジャポニカに合わせて播種と田植えを行う必要が生れた熱帯ジャポニカの品種改良にも、温帯ジャポニカから短日性を失わせる品種改良と変わらない困難があり、それを克服する努力もあったと想定される。それらはmt-B4しかできなかった事も、日本式の稲作の発明者はmt-B4だった事を確信させる。陸稲を栽培していたmt-D4や生産性の高さを追求していたmt-Fには、田植えの発想が生れなかったと想定される事も含め、諸事情と整合するからだ。

つまり日本式の稲作が生まれたのは、縄文後期温暖期が終了した3500年前から、晩期寒冷期になった3300年前までの数百年間だったと想定されるから、この様な短期間に混栽技術を発明し、種籾を量産する為の品種改良を行う傍らで、苗代と田植えも発明したと考える事には合理性が乏しく、苗代の形成と田植えに関する原初的な技術は、縄文中期の栃木や茨木での湿田栽培時に生まれ、縄文後期に稲作地を北に拡大する過程で進化したと推測される。その場合には田植え技術の開発に、千年以上の時間を要した事になるからだ。

 

3-2-5 日本式の稲作に辿り着くまでの開発過程

北九州弥生人のミトコンドリア遺伝子は、アワの栽培者だったmt-D46割を占め、稲作者の遺伝子である関東系のmt-B4mt-Fの合計が3割で、残りの1割は漁労をサポートするmt-Aだったから、縄文後期~弥生時代の新規の渡来者が稲作を持ち込んだのではなく、焼畑農耕者だったmt-D4がその技術開発の端緒を作り、関東起源のmt-B4が漢族のmt-(D)+M8aを使役する事により、北九州で耐寒性が高い温帯ジャポニカの栽培手法が生れ、それは佐藤氏が指摘したSSR部位のタイプがbの品種だったと考えられる。

九州で生まれた品種では、北関東で栽培する為の耐寒性が不足する恐れがあったから、関東のmt-B4が冷涼な関東でも稲作が可能な品種を生み出したものが、佐藤氏が指摘したSSR部位のタイプがaの品種だったと考えられる。

その理由は佐藤氏が、伝統的なイネの遺伝子は12対全てが温帯ジャポニカのもので、熱帯ジャポニカの遺伝子は断片として含まれているだけだと指摘しているからだ。つまりmt-B412対の中の11対の遺伝子を熱帯ジャポニカのものに置き換えただけではなく、最後の1対も、短日性を示す劣性遺伝子だけを断片として、遺伝子索から除去した事になる。

つまりmt-Fが長い時間を掛けて熟成した有用な変異遺伝子の集積は、その僅かな一部でも失うと生産性が劣化したから、mt-B4は全てを保全する事を目標に、品種改良に取り組んだ事を示している。言い換えると、遺伝子索の一部の断片が、対のものと交換される現象がしばしば発生するから、それを利用した選別の累積により、短日性を示す劣性遺伝子を断片として除去する事が、最終目標だった事を示している。mt-B4に遺伝子に関する科学的な知識はなかったが、論理的な思考を重ねる事によって何らかの法則性を見出し、作業を高度化して効率を高めながら最終目標を実現したと考えられる。

それを具体的に説明すると、選別によって11対の遺伝子索を純化し、短日性を示す株の出現率が極めて低い温帯ジャポニカ的な新品種が生れても、それは短日性を失った温帯ジャポニカではなく、熱帯ジャポニカの形質も併せ持つ品種だった。mt-F1万年以上掛けて優良な突然変異を集め、栽培種としての生産性を高めてきたのだから、有用な突然変異の数は数百~数千はあったと想定され、単純な遺伝子索の置き換えではその1/12が失われたから、その様な品種では温帯ジャポニカの高い生産性は到底得られなかった。

遺伝子索は固定的なものではなく、1対の遺伝子索の一部が交換され、親の遺伝子索とは異なる構成のものになる事が多い。従ってこの性質を利用すると、短日性の遺伝子を含む遺伝子索の中から問題の遺伝子だけを取り除く事が理論上は可能だが、種子の選別だけでそれを行う為には、気が遠くなる様な膨大な作業が必要になる。

現代の遺伝子技術を使って問題の遺伝子部分を特定し、遺伝子の切り貼り技術を駆使すれば実現は難しくないが、交配の結果を選別するだけでそれを実現した事に、mt-B4の偉大さがあった。佐藤氏が指摘する「部分的に遺された熱帯ジャポニカの遺伝子切片」は、選別漏れだった可能性もあるが、新しい温帯ジャポニカに相応しい遺伝子として、篩い落とされずに追加的に残された可能性もある。

縄文晩期寒冷期が始まった頃には、それらの品種のプロトタイプが生れて新潟以南の各地に拡散できたから、弥生温暖期には青森にも拡散可能な稲作になり、日本列島の標準稲作技術になったと推測されるが、断片を選別する過程に入ると新たな遺伝子を追加する事ができなくなり、開発途上の品種の一層の温帯ジャポニカ化を推進する必要が生れた。つまり開発の特的時期に生まれた最高品種を原品種化し、それを継続的に選別して温帯ジャポニカの形質に無限に近付け、一方では新品種として生産性を極大化したから、縄文晩期にはbaに純化するまでには至らなかったかもしれないが、弥生時代を通してその選別を継続したから、古墳寒冷期にはbaに純化されたと想定される。

それが中国大陸に持ち込まれると、bが多くそれに次いでaが多い中国の遺伝子分布になった。

冷涼な朝鮮半島にはaだけが持ち込まれたから、古墳寒冷期の朝鮮半島南部にはそれしかなかった可能性がある。しかし高句麗が唐代に滅亡すると、弥生温暖期に華北沿海部の漢族に浸潤したmt-Fが朝鮮半島に南下し、弥生温暖期に稲作を復活させた事によって事情が変わった。このmt-Fが古墳寒冷期に山東や河北で細々と栽培していた温帯ジャポニカは、何度も起こったボトルネック効果でbを欠き、cdが異様に多かったから、半島南部のaと混合される状態になり、韓国の在来種の状態が生れたたと考えられる。

「イネの日本史」佐藤洋一郎著、角川選書2002年より転写

中国の稲作が古墳寒冷期に壊滅した事が読み取れるが、矢印の方向は逆になっている。しかし2002年には人の遺伝子分布の解析は未着手状態に近く、縄文人の交易活動を検証する事はできなかったから、それを以て佐藤氏を非難する事は理性的ではなく、その様な時代のこの偉業に敬服する必要がある。朝鮮半島でcdが多いのは、bを失った理由と同様の複数回のボトルネック効果と、女性達が稲の生産性を高める為の情報ネットワークを形成しなかった事により、本来は均質である筈の分布が乱れているからだ。

この純化作業には極めて長い時間が掛ったから、弥生時代の稲作者に配布したモミはこの工程の純粋な成果物ではなく、この種と温帯ジャポニカの雑種を生み出し、ある程度の短日性株は出現するが、温帯ジャポニカの形質に近いものを作り出し、熱帯ジャポニカを混載する必要があるものになったと考えられる。従って時間の経過と共に純化作業の成果が高まり、短日性株の出現率が低い品種に変っていったから、古墳寒冷期を乗り切る事ができたと考えられる。

縄文晩期寒冷期になってもmt-Fが大陸から持ち込んだ栽培技法に拘り続けると、収穫が壊滅してmt-B4に浸潤される厳しい寒冷期だったから、関東のmt-Fは真っ先に、短日性を失った種子をmt-B4から貰い受け、播種期を早めて収穫を確保したと考えられる。それでなければ現代に、mt-B4に匹敵する遺伝子を遺す事はできなかったからだ。

当初は短日性を示す株が高率で含まれていただろうが、それでもある程度の収穫を確保したから、mt-B4が継続的に選別を続けると次第に状況が改善していったと推測されるが、初期のmt-Fの稲作地には熱帯ジャポニカの様な外観の株も多数混入していただろう。

弥生温暖期になるとその必要はなくなったから、関東のmt-Fは弥生温暖期が終わるまで湖北省流の稲作手法を復活させていた可能性が高い。弥生温暖期が終わる頃には鉄器が普及し、畔や灌漑水路を形成する事が容易になったから、mt-Fは従来の粗放な稲作を止め、土木工事によって形成された水田を使う様になった可能性が高い。考古学者は関東に水田が普及したのはBC2世紀だったと主張しているから、弥生温暖期の終了時になり、有益な情報であると錯覚するが、集落跡や木製農具の発掘実績はあっても水田の発掘実績はないから、弥生温暖期が終わった際に関東のmt-Fが、どの様な稲作に切り替えたのかは全く分からない。

 

縄文後期温暖期が終了した時期に、北九州で発生した騒動

縄文後期温暖期の北九州のmt-D4mt-Fから種籾を譲り受け、mt-Fの稲作技法を真似て海岸の低湿地で温帯ジャポニカを栽培したが、見様見真似でmt-Fを模倣し、その亜流的な技術を得たmt-D4が九州の各地に拡散し、ドングリピットを含む遺跡を縄文後期初頭~前葉の九州各地に生み出したから、優れた稲作者と言える状況ではなかった。

その様なmt-D4の収穫がmt-Fの数分の一だったとしても、収穫したコメを関東の海洋漁民との交換に提供すると、九州の漁民との間でアワと海産物を交換していた交換レートより、有利なレートで交換できたから、コメを栽培するmt-D4とアワを栽培するmt-D4+M7bが共生し、両者の生産物を合体すると、両者がアワを栽培するより有利な交換関係を形成する事ができた。その共生に九州の漁民が参加すると、関東部族から漁具やその素材を、コメとの交換によって得る事が出来たから、mt-D4のコメの生産は、北九州に限定される必要がなかった。合志市の二子山石器製作遺跡は、その様なmt-D4の需要に応えた人々の痕跡であると考えられる。

つまり北九州に参集したmt-D4+M7bの多くはある程度の技量を獲得すると、稲作も行う焼畑農耕者か焼畑農耕者と共生する稲作として、故郷に錦を飾る事が出来た。それを目指して果敢に挑戦し、一時的にドングリに頼る生活になる事にも耐えた点に、農耕の生産性向上に賭けたmt-D4の執念が感じられる。縄文後期末に日本式の稲作が開発される契機を、この様なmt-D4が形成するには二つの要因が必要だった。

(1) mt-D4は温帯ジャポニカの栽培の獲得を目指していたが、保険として同じ湿田で熱帯ジャポニカも栽培していた。

(2) 縄文後期の終末期に気候が冷涼化し、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの生産性が急減する中で、栽培者としての情報網を構築できていたmt-B4に、熱帯ジャポニカ栽培の耐寒性向上技術を問い合わせ、それによって熱帯ジャポニカの耐寒性を高めながら、短日性が失われた温帯ジャポニカの耐寒性も高めた。

mt-Fには縄文晩期寒冷期に対応する耐寒技術はなかったが、北関東で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4との情報網を維持していた北九州のmt-B4には、縄文晩期の北九州で熱帯ジャポニカを栽培する事に困難はなかったから、mt-D4の質問には容易に回答する事ができた。mt-B4自身もその手法を使って耐寒性を高めたから、mt-B4への回答には実例が含まれ、極めて具体的だった。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混載していたmt-D4の温帯ジャポニカは短日性を失った株が多数あり、それらは熱帯ジャポニカと同様の対策で効果が上がり、生産性の極度の低下を免れた。

mt-Fmt-B4は関東や北九州で2千年も共存状態を継続していたが、両者はそれぞれの稲作に適した異なる地域で栽培に没頭し、相手の栽培種は栽培しなかったから、関東では混栽技術は生れなかった。しかし北九州のmt-D4は両者から種籾を受け取り、両者の稲作技術を真似ながら並行的に栽培したから、北九州では上記の事情が生れた。縄文時代の栽培系民族の女性としては、mt-Fmt-B4が秩序立った正常な女性であり、mt-D4は極度に異端的な性格の女性だったからだ。

九州に移住したmt-B4は、温暖な気候に合わせて生産性を高める為に、mt-Fに近い日程で栽培カレンダーを設定していた可能性もあるが、播種期や収穫期は異なっていた可能性が高い。mt-D4はその深い理由は知らなかったし、mt-B4mt-Fに両者の違いの理由を聞いても、両者から明瞭な答えはなかっただろうから、温暖期のmt-D4には、播種期をmt-Fに合わせて統一した者、mt-B4に合わせて統一した者、別々に播種した者などバラエティーに富んでいたかもしれない。しかし気候が冷涼になるとmt-B4に合わせて播種期を早め、その他の耐寒性向上策もmt-B4を真似るしかなかったから、相談相手は専らmt-B4になったと想定される。

mt-B4は縄文中期寒冷期のmt-Fの生産性が不安定だったのは、温帯ジャポニカの短日性に原因がある事を知っていたから、mt-D4が栽培する温帯ジャポニカは短日性が失われている事に気付き、驚いてその原因究明に奔走した事は間違いない。mt-B4がその原因を突き止めるのに時間は掛からず、それをmt-D4が理解する事にも課題はなかったと考えられる。

その様なmt-D4には田植えに行き着く道筋はなかったから、どの様な稲作を行ったのか明らかではないが、直播の儘色々な工夫を重ね、温帯ジャポニカの生産性を高めたと推測される。縄文晩期寒冷期になっても盛んに稲作を行い、晩期の集落は丘陵の縁辺部に立地し、一辺3~4の方形住居が、相当な数で切り合うようになり、後期集落と晩期集落が同一遺跡で検出されることはほとんどなく、むしろ晩期集落は弥生時代初頭期の集落と連続する傾向にある状態が生れ、弥生温暖期が終わるまでその稲作を継続したからだ。

しかし菜畑遺跡や板付遺跡から発掘された水田跡は、田植えを行った痕跡であると考える必要があるから、mt-B4が開発した技術に基づいて稲作を行った痕跡であると考える必要があり、mt-B4mt-Fに渡す種籾を生産する水田だった可能性が高い。mt-D4はその様な種籾を使わなくても、mt-Fの稲作を真似ながら、混栽によって得た品種を栽培し続けたと考えられる。品種改良の方向性が定まっていなかったこの時期に、mt-B4が生産した種籾がmt-D4の栽培種より生産性が高かったとも考え難いからだ。

青洲の稲作が行き詰まったBC1500年頃には、関東のmt-Fの生産性も劣化が目立ち始めていた筈だから、その事情が大陸から漢族のmt-D+M8aを招く原因だったとすると、この頃の関東で何が起こったのかを推測する事が出来る。北九州のmt-Fの生産性の劣化は未だ目立っていなかったが、北関東のmt-Fの生産性が劣化し始め、関東の穀物の需給関係に大異変が起こったと考えられるからだ。

縄文時代の導入項に示した尾瀬の気候グラフは、BC1500年に急激に気候が冷涼化し、縄文中期より冷涼な気候になった事を示しているから、北関東のmt-Fの生産性は危機的な状態になり、南関東のmt-Fも大幅な減収になったと考えられ、急遽mt-D+M8aを招く様な契機になった事を数値的に示している。mt-B4も大幅な減収に見舞われたが、縄文後期に稲作地を拡張する必要性から、冷涼な山間地にも稲作地域を拡大し、温暖期でありながら縄文中期より栽培の耐寒性を高めていたから、その技術を活用する事によってmt-Fの様な悲惨な状態は免れていたと考えられる。弥生温暖期に青森まで稲作が北上する為には、この時期の北関東での稲作が可能な状態でなければならかなかったからだ。

温暖な海洋に囲まれている日本列島では気候の寒冷化が始まると、多量の雲が発生して気候の冷涼化速度が速まり、大陸では青洲の荊が江蘇省南部や安徽省に南下すれば、稲作を継続できる程度の冷涼化であっても、関東の冷涼化は急激に進行した事を尾瀬の気候グラフは示しているからだ。しかしこの時期の北九州は縄文後期温暖期の関東より温暖だったから、mt-Fmt-D4にはまだ危機感がなく、北九州のmt-B4も、混栽によって温帯ジャポニカの短日性が失われる事に気付いていなかったか、気付いた直後で未だ何の対策もない時期だったから、関東のmt-Fは何の対策もない状態で大幅な減収に見舞われ、多数の漢族のmt-D+M8aを関東に招く必要が生れたと考えられる。

華北夏王朝が滅んで殷人の支配が始まり、漢族の立場が極度に悪化して多数のmt-D+M8aが日本への亡命を望んだからではあるが、関東に彼女達の需要がなければ、mt-Fmt-B4の反対を押し切って第三の穀物栽培者を関東に招く事はできなかったからだ。

北九州弥生人にmt-D+M8aが含まれていたのは、関東への航行途上の黄海で波に揉まれ、酷い船酔いに苦しんでそれ以上の乗船を拒否し、北九州に留まった女性達だったと想定されるが、その様な事情を訴えたmt-D+M8aを受け入れる事情が、縄文後期末の北九州にはあった事になる。

アワ栽培者に囲まれていた北九州で、漢族のmt-D+M8aの需要は無かったから、海洋民族を構成していたmt-Amt-B4mt-Fの中に、彼女達を受け入れた女性達がいたと考える必要があるが、獣骨の加工者だったmt-Aが受け入れたとは考え難く、温帯ジャポニカの稲作が斜陽化し始めた時期のmt-Fだったとも考え難いから、気候が冷涼化し始めて温帯ジャポニカの生産性が劣化する中で、熱帯ジャポニカの栽培者に増産圧力が掛かり、追加的な労働を求められていたmt-B4が、mt-D+M8aを受け入れたと考えざるを得ない。

それはmt-B4にとって必ずしも嬉しい話ではなく、押し付けられる様に引き取ったのかもしれないが、このmt-(D)+M8amt-B4の手足になり、mt-B4が新しい稲作の開発に集中し易い環境が生まれた事が、日本式の稲作の開発に大きく寄与した可能性が高い。

混栽すれば良い事が分かっても、具体的にどの様にすると効果が効率的に引き出せるのか、mt-D4の稲作地を回って調べ、それを自分でも試してみる必要があったが、その効果は翌年の収穫によって確認するしかなく、単年度の栽培で全ての効果を実証する事はできなかったから、思い付く儘に色々試してみる必要があったからだ。

菜畑遺跡や板付遺跡から発掘された水田跡は、北九州では特異なmt-B4風の田植えを行う施設だった可能性が高く、それらは当時の海岸付近にあるから、関東部族の漁民のペアだったmt-B4が、mt-(D)+M8aと共に作業した痕跡である可能性が高い。関東部族は最も早く鉄器を入手した部族だったから、畔の形成に鉄器を使った可能性もあるがそれについてはその6で検証する。

菜畑遺跡の水田跡には灌漑設備が完備されているから、当時としては多大な労力を投入して作ったと想定されるが、草丈が短い温帯ジャポニカの苗と、草丈が長い熱帯ジャポニカの苗を混載する為に、田植えを行う施設だったとすれば、それは収穫したモミをmt-Fに支給する為であり、mt-Fの稲作にとっては死活問題が絡む重要案件だったから、水田の形成に過分な労力を投入した理由が明らかになる。

ウィキペディアは菜畑遺跡について、縄文晩期後半にはこの様なイネの栽培が始まり、周囲の雑草の種子は大半が水田雑草で占められ、2930年前の事だったと記している。2930年前は縄文晩期寒冷期が終わる頃で、大陸は一足早く温暖期になったが海水温は急速に上がらないから、日本列島では温暖期の昇温が遅く、尾瀬の花粉は3000年~2800年前が最も冷涼な時期だった事を示している。

 

mt-B4の活動が日本の稲作史の画期を形成した

関東ではmt-B4mt-Fの間に大した交流はなかったとしても、北九州に移住したmt-B4mt-Fには親密な交流があった可能性が高い。現代社会でも海外出張者は出張先で独特の村社会を形成し、国内では交流しない競合他社の社員と、家族ぐるみで交際する事例は珍しくないからだ。縄文後期初頭の北九州に入植したのはmt-Fmt-B4を併せても精々数百家族で、伊万里から御笠川流域の細分化された稲作地に分散し、周囲を異部族のmt-D4+M7bに囲まれていた事も部族意識を高めただろう。温暖期になって多数のmt-B4が入植しても、機動力がある漁民が彼女達の配偶者であれば、同一部族との認識で一緒に船団を組み、大型魚の漁労に従事していただろうから、農閑期には船を使った交流が盛んに行われた可能性も高い。

熱帯ジャポニカは関東で栽培化された品種だから、北九州が縄文晩期の低温化に見舞われても、縄文中期の関東程度に冷涼になっただけで、致命的な減収にはならなかった。北九州と北関東の気温差は3℃で、縄文中期寒冷期から後期温暖期への温暖化は1℃程度で、縄文後期温暖期から晩期寒冷期への気温低下は23℃だったから、縄文中期寒冷期に北関東で開発した耐寒技術を使えば、晩期寒冷期の北九州では、縄文中期の北関東以上の収穫を得る事ができたからだ。

従って北九州のmt-D4は熱帯ジャポニカに関しては、必要な耐寒技術をmt-B4に確認すれば良かったが、北関東より1℃温暖な南関東で縄文中期寒冷期に不作に悩んでいたmt-Fは、自身の減収に打ちひしがれる状態だったから、温帯ジャポニカの減収対策に対する質問には回答がなかった。熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4は、秋の冷涼化が早まると播種期を早めて秋の不稔に備えたから、同じ湿田で熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混載していたmt-D4がそれを真似ると、すべての温帯ジャポニカではなかったにせよ、mt-D4が栽培していた温帯ジャポニカの一部は秋分を待たずに開花し、秋が深まる前に豊かな実りをもたらした。

mt-D4がその情報をmt-B4に伝達すると3者の協議が始まったが、播種期を早める技術はmt-B4しか持っていなかったから、短日性を失った温帯ジャポニカの栽培技術はmt-B4が開発し、温帯ジャポニカの短日性を失わせる技術の開発もmt-B4が主導したと推測される。mt-D4は色々な混栽履歴のある温帯ジャポニカを持参し、mt-Fは種籾を供給して播種期を早める栽培技術の確立に協力しただろう。

これは第一波の寒冷化が到来し、縄文中期以上に気候が冷涼化した3500年前以降の北九州の出来事だが、関東で温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fは、既に壊滅的な減収に見舞われていた。熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4も、北関東から徐々に減収が酷くなっていく状況になり、関東部族が山東や青州からmt-D+M8aを招いた時期だったからだ。

2930年前の北九州では、菜畑遺跡などの水田でmt-B4が盛んに混栽を行い、mt-Fに短日性を失った種籾を支給していたと想定されるから、3500年前~3100年前の間に田植えも行う日本式の稲作が開発され、少なくとも2930年前の100年前には、混栽技術が確立していたと考えられる。

畔を伴う水田は、苗代で育てた草丈が短い温帯ジャポニカの苗を、田植によって栽培する為の施設だったから、形成するのに手が掛かったこの水田は、mt-Fが使う種籾を生産する為にmt-B4が開発した、特殊な稲作地だったと考えられるからだ。

田植えを行う稲作技術もこの時期に北九州で、400年程度の短期間に開発したとは考え難いから、北関東のmt-B4が熱帯ジャポニカの耐寒技術として既に開発し、それを使って縄文晩期寒冷期の北関東で熱帯ジャポニカの栽培を行っていたから、関東でこの様な栽培による種籾の生産が始まり、それが北九州にも伝わったと考えなければ、菜畠遺跡の成立に繋がらない。

縄文晩期の北関東で田植えを行う稲作が完成していなければ、弥生温暖期になった直後の青森に、水田を伴った混栽稲作が北上する事はできなかった事も、この想定の証拠になる。その際の水田稲作がどの程度まで北上したのか明らかではないが、熱帯ジャポニカの耐寒性を比較しただけでも、以下の事情が想定される。

弥生温暖期は縄文晩期寒冷期より2℃温暖化したが、青森は北関東より3℃以上冷涼だから、縄文後期温暖期のmt-B4は稲作地を求め、標高200m程度の北関東の山間地にまで熱帯ジャポニカの稲作地を拡大していたから、そこで縄文晩期寒冷期の低温化に耐えた結果として、弥生温暖期の青森での稲作に繋がる。それには画期的な稲作技術の改良が必要だったから、苗代を作って田植えを行う稲作は、その様な地域のmt-B43500年前には開発していた可能性が高い。その様な地域の候補としては、袋田の滝で知られる大子町、縮小しながら沖積平野を形成していた古大田原湖の周囲、其処に流れ込む松葉川の流域など、北関東にはそれに相応しい候補地が各所にある。

縄文後期温暖期にmt-Fの収穫が急増すると、mt-B4はその様な地域まで入植する困難を強いられたが、mt-B4の情報網はそれを恨みとはせず、縄文晩期寒冷期にそれをビジネスチャンスと見做した事になり、mt-B4の時代の流れを受け入れる寛容性と、旺盛なビジネスマインドを窺う事が出来る。その背景として縄文中期寒冷期に、東方南部のmt-M7aの為に耐寒技術を開発した実績があり、冷涼な北関東に稲作地を求める事に抵抗がなかった事も挙げられるから、それについては後述する。「情けは人の為ならず」と言われるが、縄文中期のmt-B4に相応しい言葉だった。

日本式の稲作の肝は、温帯ジャポニカを熱帯ジャポニカと混載して温帯ジャポニカの短日性を失わせる事と、早春に苗代を形成して苗を育て、気候が温暖化してからそれを田植えにより、自然界に放出する事によって播種期を早める事だった。

苗代を形成する基本技術は、狭い苗代に暖かい水を導入する事によって実現できるから、その為に川の水を温める技術が必要だった。その一般的な方法は、川から苗代に導く水の経路を極端に長くし、陽が当たる日中に水をゆっくり流して温める事だったから、北関東では縄文中期からその技術を使っていた可能性もあり、縄文中期より冷涼になった3500年前の北関東で、本格的に使い始めた事に違和感はない。

北九州のmt-B4が温帯ジャポニカの短日性を失わせる混栽技術を確立していた時期に、北関東のmt-B4が耐寒技術としての苗代と田植えを高度化したから、それが同時並行的に進化した結果として2930年前には、水田で田植えを行う段階に達していたとすれば、極めて合理的な仮説が設定できる。

つまり北九州のmt-B4が労力を掛けて狭い水田を形成したのは、その収穫を食用のコメとする為ではなく、mt-Fに供給する種籾を生産する為だったから、その施設で短日性を失った温帯ジャポニカの種籾を量産する事が可能になると、北九州のmt-Fの稲作が再び活性化しただけではなく、その種籾が岡山や関東でも使われた事により、温帯ジャポニカの栽培が再び活況を呈したと推測され、必要な施設の形成に過分な労力を投入する価値が十分にあった。

その様な作業が可能だった地域は、当初は温帯ジャポニカの健全な栽培が可能な北九州だけだったかもしれないが、3200年前に第二波の寒冷化に襲われると、温帯ジャポニカの種籾を使った単純な種籾生産は不可能になり、種籾から種籾を生産する複雑な生産体系が必要になったから、少なくとも混栽の基本技術は3200年前には完成していたと想定される。

それを栽培したmt-Fが従来の稲作の様に、実りが良い穂を選んで種籾を選定し続けると、劣性遺伝子である短日性遺伝子が存在確率を高め、昔の温帯ジャポニカに先祖返りする株の混在が目立つ様になり、生産性が徐々に劣化していっただろう。生産性が高い優良な種籾の選別に習熟していたmt-Fの栽培地では、mt-D4と比較すると顕著にその現象が発現し、mt-D4が独自の稲作を開発する契機になった可能性もある。

温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混栽し、短日性を失った株から種籾を選別する事を繰り返すと、劣性遺伝子の形質である短日性を示す株は失われ、混栽を止めて温帯ジャポニカの性質を復活させる栽培を繰り返すと、温帯ジャポニカ的な品種にはなったが、劣性遺伝子が完全に失われた訳ではないから、両者の交配によって短日性を示す株も出現した。それが無視できる様になるまで混栽を続ければ、種籾として完成したと考えたかもしれないが、温帯ジャポニカの生産性や味覚を復活させ様として、温帯ジャポニカの性質に近い穂を選んで種籾にする事を繰り返すと、短日性を示す遺伝子の存在確立を高める行為になり、劣性遺伝子が発現する株の発生頻度を高める事になったからだ。

北九州のmt-B4が開発した種籾を関東のmt-Fに送り、それをmt-Fが栽培して翌年周囲のmt-Fに配布する行為を繰り返すと、やがて短日性を示す株の存在確立を高め、短日性を発現した株の種子だけを翌年の種籾としても、その様な株の出現率は年々悪化しただろう。北九州のmt-B4はその為に新しい種籾を増産する必要に迫られ、菜畑や板付に水田を形成した可能性もある。

関東や岡山のmt-Fに配布する種籾を含め、混栽技術に習熟した北九州のmt-B4がその生産を一手に引き受けていた時代には、種籾の生産に対する需要が高まると他地域に稲作を拡散する余裕は生れなかった。しかし北九州で生産した種籾を素材にして関東でも種籾を製造する様になると、北九州のmt-Fの負担が軽くなって他地域に稲作技術を拡散する余裕が生れ、西日本に稲作を拡散する余裕が生れたかもしれない。縄文後期温暖期に温帯ジャポニカだけが拡散した日本海沿岸の人々は、その様なmt-B4の技術指導を待望していたからだ。

しかし東日本を含めた縄文晩期の日本列島に、上掲の図に示した様な稲作事情が生れる為には、冷涼な北関東での稲作実績が必要だったと考えられる。温暖な九州で栽培が可能であっても、冷涼な東日本で栽培できるとは限らなかったからだ。

新しい稲作を普及させる為には、定期的に新しい種籾を配布する必要があったが、更新する必要が生じるまでの期間はmt-Fにもばらつきがあり、最短の女性に合わせると頻繁な更新が必要になっただろう。関東や岡山のmt-Fは、その地域のmt-B4が生産した種籾を使って稲作を行う事ができたが、それ以外の地域では更新する手続きが必要になり、その煩雑さは普及の妨げになった。

難しい技術を駆使するmt-Fの稲作には高度な技術が必要だったから、日本全国に稲作を拡散する際にはその方式は使えず、mt-B4の稲作地の様な、安易な形成手法しか推薦できなかったから、手間が掛かる畔の形成も選択肢とする必要があった。

従ってそれらの諸条件を勘案した結果として、mt-B4mt-Fもいない地域の他部族の女性に対する稲作指導としては、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを半々混在させる稲作を指導する必要があったが、縄文後期に温帯ジャポニカを栽培していた地域もあり、稲作地の形成に関しては臨機応変な対応が必要だった。

その様な指導が可能だったのは、純粋な熱帯ジャポニカ種を供給できるmt-B4だけだったから、九州と関東のmt-B4が日本全国を行脚し、稲作事情を巡視しながら必要に応じて新鮮な熱帯ジャポニカを適量提供し続けたと想定される。つまり北九州のmt-B4は数が少なかったから、その様な大事業は関東のmt-B4の役割になったが、北関東で栽培している事は重要なセールスポイントだったから、必然的な流れでもあった。

稲作技術の拡散を慈善事業の様に説明してきたが、この結論によってmt-B4は熱帯ジャポニカの種籾の販売者になったから、縄文後期にはmt-Fの生産性に劣る劣等感を抱えていたmt-B4が、一躍交易の主要舞台に躍り出た事になり、種籾の需要を高める為に稲作を各地に推奨し、種籾の配布を定期的に行いながら稲作指導もする事に張り切る事情が生れたから、密接で強固な情報ネットワークが構築され、その状態が弥生時代以降も継続したと考えられる。

現代日本人のmt-B49%だが、その半分以上は縄文後期初頭に熱帯ジャポニカの栽培者として、西日本に移住した女性の子孫であると想定されるから、弥生時代まで関東に残っていたmt-B4の子孫が4割程度であるとすると、その4%のmt-B440%以上の稲作者の面倒を見る事により、関東のmt-B4の熱帯ジャポニカビジネスが成立した事になる。

その拠点はmt-B4が集積していた北関東にあったから、後世の事情を勘案すると筑波と鹿島が技術拠点と交易拠点を担い、その系譜の神社として筑波神社と鹿島神宮が生れたと想定される。

温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混載すると、熱帯ジャポニカの遺伝子に温帯ジャポニカの遺伝子が混入する状態も生まれたから、混栽を続けた熱帯ジャポニカにも次第に短日性を示す株が出現する様になり、それに従って温帯ジャポニカの短日性を弱める効果を失ったから、その状態が出現し始めると新鮮な熱帯ジャポニカと交換する必要が生れたからだ。

縄文晩期寒冷期が終わる前にmt-B4がその稲作を東日本にも拡散し、その後で弥生温暖期になったから、弥生温暖期には西日本であっても耐寒稲作として開発された苗代作りと田植えが行われ、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混載する稲作も継続したと想定されるが、考古学者は稲作の拡散と遠賀川式土器の拡散を結び付けたがっているから、上掲の地図の遺跡については弥生時代の何時であったのかが明確にならないと、温暖期になってもこの稲作が西日本の各地で継続されたと断定する事はできない。遠賀川式土器を拡散したのは、mt-F型の稲作を続けていたmt-D4だったと考えられるからだ。

考古学者が示す弥生時代の範囲は不明確で、前期、中期などを区分する根拠は更に不明確であり、弥生温暖期は弥生時代の前半期であるBC250年に終わり、それ以降は古墳寒冷期に向かう寒冷化が急速に進行したから、弥生時代は温暖期と寒冷期に分ける必要があり、温暖期についてはmt-D4の撹乱も考慮する必要がある。いずれにしても、佐藤氏が示した弥生稲作の実態、即ち西日本から青森まで斉一的に熱帯ジャポニカを混載していた理由は、この仮説以外に説明できる想定がないが、上掲の遺跡の中には弥生時代の後半期になってから日本式の稲作を採用した集落も含まれる可能性があり、mt-Fがいた地域では弥生時代が終わるまで、或いはそれ以降もmt-F式の稲作を行っていたと推測され、弥生時代の稲作事情は一様ではなかった。

 

それぞれの工程の開発に要した期間

寒冷化が顕在化した3500年前から、縄文晩期寒冷期の冷涼な気候が終わった2700年前までの、800年間の出来事を推測する際には、栽培実験は1年に一回しかできず、知見や技術の更新に時間が掛った事を考慮する必要がある。必要な開発工程を、時系列的に並べると以下になる。

(1)   mt-D4が行っていた混栽事情を整理し、適切な混栽条件を見出し、短日性を失った種籾を生産し、mt-Fに支給できる様になるまでに100年以上掛かった。

(2) mt-Fが栽培し続けると温帯ジャポニカが先祖返りするので、新しい種籾を生産し続ける必要があり、生産力を大幅に増強する必要があるとの結論に達するまで100年以上掛かった。

(3) 水田を形成するか否かに関わらず、種籾を増産する手段として田植えを選択したが、それで温帯ジャポニカを安定的に成長させる技術の開発に100年以上掛かった。

(4) mt-B4 は日本各地に稲作技術を拡散したが、その相手は今まで稲作を行った事がない女性達だったから、それに100年以上掛かった。

菜畑遺跡の検出年である2930年前は、(3)の段階の出来事だったと想定され、

(1) 3500年~3300年前 (2) 3300年~3100年前  (3) 3100年~2900年前 (4)2900年~2700年前とすると、概ね諸事情と整合する。

(3)~(4)の時代に畔を持つ水田の需要が急増し、北九州では間に合わなくなると、mt-Fやその亜流の稲作者の需要に応える為にその他の地域にも、建設に手が掛かる上質の水田が作られたと考えられる。考古学者はBC10世紀に北九州で作られた水田が、九州南部、九州東部、瀬戸内、四国南部に拡散するのに200年の歳月を要したと指摘し、その理由の説明に苦慮しているが、上記のタイムスケジュールを想定する必要がある。少なくとも岡山と関東では、北九州に次ぐ速さで種籾を生産する施設が建設された筈だからだ。

その様な水田と、稚拙な稲作者が作った水田は区別する必要があり、津軽平野の特殊性についてはその4で検証する。

関東でも種籾の生産が始まると、その生産地には温暖な地域が選ばれた可能性が高いが、小田原には2900年前の「御殿場岩屑なだれ」の痕跡が厚く堆積しているから、それ以降の生産拠点は相模原台地や座間丘陵の開析部に作られた可能性が高い。弥生温暖期になった2700年前以降の種籾の生産地は、mt-B4が集積していた北関東に移った可能性が高い。

 

3-2-6 日本式の稲作が成立した、縄文晩期の日本海沿岸の稲作事情

石川県埋蔵文化財情報、第11号の記事から、縄文晩期の日本海沿岸の低湿地農耕を検証する。

縄文晩期の九州で再びドングリピットが作られた事は、寒冷化によって稲作が不調になった事を示しているが、熊本県のドングリピットは4基しかなく、念のため程度の危機意識だった事を示唆している。宇都宮より3℃温暖な熊本では、縄文晩期になっても温帯ジャポニカの北限より南の地域だった上に、mt-D4+M7bが従来通りの焼畑農耕でアワを栽培していたから、mt-Fより稚拙な稲作者でも持ち堪えた可能性が高く、縄文晩期の寒冷化で大した被害を受けなかった事を示している。

福岡で4基のドングリピットが発掘された事は、ある程度のダメージがあった事を示しているが、数は少なく危機感は大きくなかった事を示している。しかし長崎県の大村湾を望む、臨海の低湿地の黒丸遺跡から62基、壱岐で8基発掘された事は、壱岐部族の地域では危機意識が高まった事を示している。この地域のmt-D4mt-F型の稲作を行っていたが、付近にmt-B4が入植していなかったから、混栽が行われていなかった可能性が高い。長崎の10月は福井より3℃温暖だから、3500年前の寒冷化は持ち堪えたが、3200年前に始まった更なる寒冷化に耐えられず、ドングリピットが必要になった事を示しているからだ。

北九州でも生産量が減少した事を、遺されたドングリピットが示しているのに、晩期の集落は丘陵の縁辺部に立地し、一辺3~4の方形住居が、相当な数で切り合うようになった事情は、交換経済から解釈すると鮮明になる。関東部族と密接な関係があった北九州では、コメの生産性が劣化すると価格の高騰により、温暖期より多量の海産物と交換する事が可能になったから、アワの栽培者はコメの価値が高まると食糧難になったが、稲作者の食生活は却って豊かになり、彼らの集落では人口が増加した事を示唆している。縄文晩期の関東は九州以上に極度のコメ不足に陥ったから、関東部族全体の相場がかなり高騰していた可能性が高く、九州の稲作者にもそれが適用されると、コメの収穫は減少したが得られる海産物は、減収を補填する以上の量になったからだ。

縄文晩期の大陸では稲作者の南下が相次いだが、日本では北九州で耐寒性が高い日本式の稲作が成立すると、稲作者にとっては嘗て経験した事がない冷涼な寒冷期でありながら、稲作が北九州から北上する異常な現象が生れた。その稲作の生産性はそれほど高くはなかったが、海洋民族独特の需要に支えられて北上し、その背後にはmt-B4の稲作拡散ビジネスがあった。耐寒性が高い稲作が生れたと言っても、生産性や生産量がアワを凌いだ筈はないから、海洋漁民にはアワよりコメを強く好む事情があった事になり、その理由は携帯食としての有用性の高さだった可能性が高い。既に何度も指摘した様に、交易者は交易活動に有益であれば、金に糸目は付けないからだ。

縄文後期に稲作者になった経験を持っていた山陰の人々は、mt-B4が真っ先にターゲットにした人々だったが、やがてアワ栽培者から転向したmt-D+M7aだけではなく、東北から移住したmt-M7amt-G、更に弥生温暖期にはmt-M9amt-Cも含まれた事を、青谷上寺地遺跡から発掘された遺骨や、北九州弥生人の遺骨が示している。

鳥取県米子市目久美遺跡の分析では、晩期に栽培種が増加する。水田雑草(水中植物)・田畑共通雑草(畦畔雑草)・畑雑草(人里植物)も急増し、晩期のある時期に、人為的な作用が大きく働いたことが考えられる。

米子市目久美は現在の海岸に近い低地だから、縄文晩期に形成された沖積平野上の遺跡であると想定され、北九州発の日本式稲作が、縄文晩期の鳥取県に拡散した事を示している。しかし先に指摘した様に、鳥取の千代川下流域は縄文後期から日本有数の稲作地だったから、其処がmt-B4の中核的なビジネスターゲットだったと想定される。しかしこの地域は、現在は厚い土砂に覆われている上に、発掘に繋がる大型工事も極度に少ないから、実態が隠されている。

石川県の事情は縄文後期の節でも紹介したが、要約すると、

手取川以北の北加賀地域では、後期後半から晩期に砂丘後背湿地と、それに連続する沖積低地や扇状地に集落が出現し、縄文後期型の打製石斧が、御経塚遺跡で2980点、チカモリ遺跡で944点、乾遺跡で400点、白山遺跡で369点発掘された。

これは縄文後期に拡散したmt-F型の稲作だが、それが縄文晩期の稲作だった事に違和感がある。しかし稲作は水田でしか行なわなかったという、考古学者のプロパガンダから脱却すると、mt-B4がこの地域に拡散した稲作は、mt-F型の湿田で行なわれたと考える事が可能になる。つまり海岸に近い沖積平野では、日本式の稲作であっても畔を作る必要はなかった事を示している。

富山県の丘陵裾部では、後期から続く遺跡が多いが、晩期中葉以降に衰退する傾向が見られる

沖積地では後期から続く遺跡も見られるが、晩期中葉以降に現れる遺跡が大半である。

晩期後葉の遺跡からキビ属のプラントオパール(桜町遺跡)、穂つみ状石器(豊田遺跡)、多量のソバ属の花粉と炭化物片(十二町潟排水機場遺跡)が検出され、焼畑農耕の存在が推定されている。

縄文前期の小竹貝塚から発掘された栽培系遺伝子が、mt-M9a3体、mt-M7a2体、mt-G1体で、mt-M9aソバの栽培者であり、磨製石斧工房の運営者でもあった事を、縄文人の活動期の項で指摘した。mt-Gが持ち込んだと考えられるキビは寒冷な気候に強く、乾燥にも強いから、海退が進んで沖積平野が広がった縄文後期に、富山はそれらの穀類の栽培地になり、温帯ジャポニカの栽培地にはならなかった事を示唆しているが、富山湾岸は沈降帯だから、低湿地の稲作遺跡の残存率に疑念があり、状況は確かではない。

縄文後期に生まれた平野部の遺跡は土砂の堆積に埋もれてしまい、山裾の集落だけが発掘可能な状態で残ったから、集落が丘陵裾部に形成された様に見えている疑いもある。沖積地では後期から続く遺跡も見られる事は、温帯ジャポニカではなく熱帯ジャポニカの稲作者として、mt-D4が入植していた可能性も示唆している。福井平野の様に後期後葉に遺跡が消滅しなかった事が、熱帯ジャポニカの栽培だった可能性を示唆しているからだが、キビやソバの栽培者が多数派だった事は、mt-M9amt-Gが持ち込んだ栽培種が依然として主要な栽培種だった事を示している。

丘陵裾部で後期から続く遺跡が多いが、晩期中葉以降に衰退する傾向が見られ、沖積地の遺跡が増えた事は、晩期になると沖積平野が広がって人々が進出する環境が整ったから、丘陵裾部に居住する必要がなくなった事を示しているが、その栽培種がキビやソバなどの耐寒性が高い雑穀だった事は、此処はmt-Dがアワを栽培していた地域ではなく、mt-M9aがソバを栽培し、mt-Gがキビを栽培する地域だった事を示している。

ソバは生産性が低く、王朝期以降は栽培種としても見捨てられたのは、ソバがイネ科の植物ではなかったからだと考えられる。イネ科の植物は自家受粉率が高いが、ソバは100%他家受粉だから、有用な遺伝子変異が生れても、それが劣性遺伝子であれば形質が発現しないからだ。それ故に栽培化の速度が遅く、穀類と言えるほどに品種改良する為には、強力な情報ネットワークが必要だった。mt-M9mt-D的な気質を僅かでも持っていれば、他の栽培種に乗り換えていた可能性は高いが、堅果類の栽培者の中の少数者として何万年もソバを栽培し付けた気質が、mt-M9に拘りの気質を堅持させていたと考えられ、これはmt-B4mt-B5と共通する性格だった。

韃靼ソバと呼ばれる品種がユーラシア大陸で広く栽培され、大陸に広く拡散しているmt-M9の栽培種だった事を示している。日本で栽培されている所謂普通ソバは、日本に渡来したmt-M9が品種改良したものだが、現在は中国でも栽培されている。コメやアワの生産性が高まると普通ソバは救荒食扱いされ、西日本では食料としても扱われなくなったが、稲作ができない寒冷地では栽培が継続されていたから、細切り蕎麦が生まれると一般の日本人の食卓にも多用される様になり、消費が縮小したアワやキビなどの他の雑穀とは、逆の流れになった事は興味深い。

ソバにはウルチ種しかなくモチ種がない事も、ソバが他家受粉品種だからだと推測され、海洋民族の需要が乏しかったから縄文人が自分で消費する穀物になった。それ故にmt-M9mt-Gがキビのモチ種を生み出すと、海洋民族との共生を諦めて山中でウルシ樹やシナノキを栽培する生業を選択し、磨製石斧の製作もそこから派生した生業だったと推測される。

青銅器時代になって磨製石斧の需要を失う事は、mt-M9にとっては危機的な状況だった。縄文晩期の大陸は青銅器時代になったが、日本でも焼畑農耕者は青銅を使う様になったから、奈良や京都に稲作者が進出したと考える必要がある。稲作者は江戸時代まで雑穀を食べながら換金作物であるコメを栽培していたのだから、生産性が低かった古代の稲作者がドングリを食べる事から免れる為には、アワなどの雑穀を食べる必要があったからだ。その様な稲作者と焼畑農耕者の共生が縄文後期初頭の北九州で生まれ、その生業形態が蛇紋岩の産地であるか否かを問わず、西日本の各地に広がったからだ。

その様な縄文晩期の富山にソバの栽培者が多数いた事は、依然として石斧を生産していた事を示唆しているが、縄文晩期には青森の西部でもソバの栽培が検出された事は、青銅器時代が成熟して鉄器時代が始まろうとしていた中で、石斧産業に見切りを付けた人々が弘前平野に移住した事を示唆している。

縄文晩期は鉄器が普及する以前の時代だったが、西ユーラシアの鉄器時代は始まっていたから、それによって青銅に余剰感が生れ、大陸の磨製石斧需要は急減していた。縄文晩期に広東で焼畑農耕による稲作が始まった事が、その事情を示唆しているからだ。日本でも蛇紋岩の産地ではない場所に焼畑農耕者が進出し始め、磨製石斧の製作者は危機感を深めていただろう。

青森の西部は三内丸山遺跡があった場所で、出雲部族が入植した地域だった。其処がアワの栽培地になった事と、富山は出雲と同様に東北系の音韻訛りがある地域である事は、古事記が記す出雲神話の大国主が、高志(こし)国の沼河比売(ぬなかわひめ)を妻としたと記している事や、古墳時代の出雲が玉造産業の中心地になった事と結びつき、偶然の一致としては事情が重なり過ぎる。

沼河は糸魚川だったとする説もあるが、沈降地殻地域である富山湾の海岸には、恒常的に沼地が広がっていたと想定されるから、沼河は富山湾沿岸を指した可能性が高く、上記の事情の重なりは、縄文晩期に富山湾が出雲族の海になった事を示唆している。また日本人の遺伝子分布も、上記の事情が生れた事を前提にする事により、説明できる遺伝子を含んでいる。

鳥取の弥生時代の遺跡である青谷上寺地遺跡からmt-M9a4体、mt-G1体確認され、日本海沿岸の海洋民族の遺伝子には、弥生時代までmt-M9amt-Gが含まれていた事を示しているが、現在の日本人にはmt-M9は殆ど含まれていない。縄文晩期にmt-M9が津軽に大挙して移住したとすると、その理由も明らかになる。

弘前平野は弥生温暖期に稲作地になったから、その担い手は縄文晩期にソバを栽培する為に移住したmt-M9だった事になるが、弥生時代後半に古墳寒冷期になるとこの地域は稲作地ではなくなり、mt-M9は稲作者としての地位も失ったからだ。その様なmt-M9が現在極めて少ない理由は、その4で再検証する。

プラントオパール分析により、新発田市と長岡市の晩期後葉の土器胎土からイネが検出され、稲作が導入された可能性が指摘されている。

土器胎土に残されたイネの痕跡は、縄文晩期にこの地域まで稲作が北上した事を示し、mt-Gが稲作者に転じた可能性を示唆している。mt-Gがキビを栽培していたのは、海洋漁民や海洋交易者の需要に応える為だったのであれば、穀物としての完成度が低いキビから生産性が高いコメに栽培種を転換する意義は大きく、北陸部族と連携していたフィリッピンはコメの産地だから、海洋交易者もそれを歓迎しただろう。

 

3-2-7 日本式の稲作の拡散

弥生時代の水田の存在は、必ずしも先進的な稲作地である事を示しているのではなく、沼地や低湿地であれば簡便な土手や排水路の整備で済んだが、傾斜地に稲作地を形成する為には畔が必要だった。鉄器が普及すると畔を容易に形成できる様になったが、弥生時代の前半期は木製農具の時代だったから、畔がどの程度使われたのか明らかではない。その時期の畔の多くが木の杭で作られたのは、鉄の斧が一丁あれば多くの木材を作り出す事ができたが、土の畔を形成するには多くの労力が必要だったからだと推測される。

佐藤信一郎氏が、古代の水田は数年で地力が衰えて放棄されたと指摘しているから、それであれば木枠で作る畔と、土の畔に掛ける労力の違いは更に大きかった。新たな水田を開く際に土の畔は一から形成する必要があったが、木の杭は従来使っていたものを再利用できたからだ。

関東のmt-Fは弥生時代になっても、氾濫原でもあった栃木、茨城、埼玉、群馬、千葉、神奈川の湿田で伝統的な稲作を行い、mt-B4は八溝山地の湖畔の湿地や、常総台地の谷間の湿地で熱帯ジャポニカの栽培を行う、伝統的な手法で稲作を続けていたから、畔で区切る小さな水田は採用しなかったと推測される。

考古学者が関東に水田が出現したと主張する2200年前は、弥生温暖期が終了して未曽有の厳しい寒冷期だった古墳寒冷期に向かい始めた時期だから、mt-Fの稲作が再び苦境に立ち始めた時期だった。岡山では大きな弥生古墳が作られ、鉄器を使って大規模水田を形成する事が可能になった事を示しているから、関東でもそれに必要な土木技術は揃っていた時期になり、稲作の転機であった事は間違いない。但し考古学者の主張は、環濠集落が生れたから水田もあった筈だとの思い込みに過ぎないから、確かな事は何も分かっていない。

関東の沖積平野は拡大し続け、mt-Fの稲作地は恒常的に拡大し続けていたから、mt-Fが縄文時代から継続していた湿田稲作を、弥生温暖期が終了するまで行っていたとしても、mt-Fのコメの収量は右肩上がりに増加し続け、人口の増加圧力も吸収していたと想定され、転機が突然訪れる環境にはなかった。鉄器を使って稲作地の形成手法を徐々に合理化した事は間違いなく、彼女達の稲作は徐々に変質していったと考えられる。

mt-B4は日本式の稲作の拡散を交易ビジネスに発展させたから、熱帯ジャポニカの生産性が低い事を恥じる必要はなく、稲作技術や種籾を日本列島の津々浦々に配布していたと想定される。その為の船便を提供した漁民は、その他の商品も扱う関東部族の交易事業にしたから、関東部族の交易は縄文晩期に大転換し、大陸の諸民族との交易から日本列島内の内需を求める交易に転換し、交易対象になった地域の経済の活性化を求める様になったと考えられる。その手っ取り早い手段が、換金性が高いコメを生産する地域を拡大する事だったから、mt-B4の目的と完全に整合していた。

古墳時代に物部と呼ぶ内需商工業者が活発に活動し始め、やがて日本列島の商工業を仕切る様になったが、それはこの様な交易に転じた関東部族が育てた、新しいビジネスモデルだったと言えるだろう。

弥生温暖期になると大陸では宝貝貨を使わなくなり、デノミが行われて青銅貨の楚貝貨に変わったが、鉄器時代になると海洋民族は獣骨の交易に邁進する必要はなくなったから、関東部族の交易目標は縄文時代とは全く異なるものに変わり、内需の拡大が重要な交易活動の一つになったからだ。

その為にはmt-B4が提唱する、日本列島の稲作技術の高度化が必須事項になったから、mt-B4に依存する交易者になり、mt-B4の関東部族内の発言力が極度に高まった。これは以降の日本の歴史に画期的な変化を引き起こし、古墳・飛鳥時代を最後に、海外交易を重視する倭人政権が終了し、王朝期~封建時代の日本の政権を、極めて鎖国的なものにした。

関東部族の倫理観や生活習俗はmt-B4の影響を強く受ける様になり、mt-B4が構築した稲作者の情報ネットワークが日本全国に広がると、既存の部族の枠を破壊する事情も生れた。それを具体的に言えば、mt-B4が稲作技術を日本全国に拡散した事は、各地域の女性達が縄文後期まで形成していた情報網を清算させ、北関東のmt-B4を頂点とする新たな情報網を構築した事を意味し、それが部族の枠を超えると、栽培女性達の民族内民族的な情報網が広域的に形成された。つまり縄文晩期以降の関東のmt-B4の活動により、日本列島の人々の価値観が関東部族的なものに変わった。

日本海沿岸の諸部族は、アワ栽培者的で越系的な文化圏の集団になり、身分階層を厳格に規定する価値観を持っていた事を隋書や唐書が示し、それは魏志倭人伝が示す倭人社会とは大きく異なっていたが、それらの部族の女性達は交易者的な男性達とは異なり、関東のmt-B4の文化圏の女性になって民族内民族を形成していたと考える必要がある。

その様な部族関係や男女関係は、各地域で独自の進化を遂げたが、現在の日本人の均質的な倫理観は、この様にして形成されたと考えられる。女性達の情報網は男性達の様に組織的ではなく、上意下達的でもなく、同意や同調を求める傾向が強かったから、日本の政治も文化も極めて複雑な思惑の中で展開した事をその4で検証するが、社会が複雑化して断片的な検証に留まらざるを得ないから、何を検証するのかについては細心の注意を要する。

 

3-2-8 社会構造の変化

縄文後期の関東縄文人は弓矢の生産事業を失い、稲作者になる為に低湿地に移住したから、考古学的には集落の発掘が難しい状態になった。考古学者は縄文後期に人口が減少したと錯覚し、縄文晩期になるとその傾向が更に高まったから人口が激減したと主張しているが、的外れの主張になる。東北でも同様な事態が発生し、彼らも稲作者になる為に、考古学的に発掘できない西日本の低湿地に移住した。

考古学者が稲作時代になったと主張している、弥生時代の水田は小区画のものが多く、農民化するには明らかに不十分な面積だが、それでも稲作を行ったのは、海産物との交換品として栽培していたからで、カロリーベースでコメの何倍もの漁獲と交換できたから、僅かな収穫でも稲作者の帳尻が合っていた。縄文晩期のmt-B4がその様な稲作を指導したのは、縄文後期までの彼女達がその様な稲作者だったからで、弥生温暖期になるとmt-B4の指導の下に誰でも稲作者になれた上に、沖積平野が拡大していたから稲作ブームが生れた。

その様な弥生時代の状況を魏志倭人伝が、「対馬や壱岐の漁民は主に海産物を食べるが、南北に渡航してコメを買っている」と記述している。全国の漁村と稲作地の間で、この様な交換経済が発生していたと考えられるが、これは縄文後期に始まった交易事情だった。

関東のmt-B4が田植えの成功率を高める為に、小区画水田の形成も指導したかもしれないが、湿田の形成に習熟していたmt-B4自身は、生産効率が良くない小区画水田は使わなかっただろう。灌漑水路を切り開いて畔で区切る水田を形成する為には、石器時代や青銅器時代には多大な労力が必要だったから、稲作を普及させたかったmt-B4は、全員に小区画水田の形成を推奨したとは考え難い。

稲作の生産性が高まって彼らが農耕民族化する為には、鉄器時代を待つ必要があった。鉄器を使う事によって稲作地の形成が可能になり、それによって生産性が高まっただけではなく、広い稲作地を得る事も可能になったからだが、その為には農耕が男女共通の生業になる必要があった。

多量の土を盛った古墳が作られた事は、その様な土木事業が可能な時代になった事を示しているが、土木工事は先ず水田の形成から始めた筈だから、古墳の出現に先立って鉄器を使う土木工事が盛んになったと考える必要がある。それが弥生古墳の形成に結び付いた事情は、地域によって大きく異なっていたから、最も早い大型弥生古墳の形成時期が、鉄器が普及した時期だったと考える必要がある。関東部族がmt-B4と共に津々浦々を回り、内需的な交易活動を活性化させていたから、土木事業が可能になったのは日本全国同時期だったと考える必要もあるからだ。

鉄器が普及すると、交易活動によって木製農具や鉄製農具を入手した男性が、灌漑水路や稲作地を形成する様になったから、女性は稲作地の選定を含めた主導的な稲作者から、男性が形成した稲作地で稲作を行う稲作労働者に変質していった事を意味し、稲作に関する社会の仕組みが変化し始める時代になった。菜畠遺跡に畔を持つ水田が形成された事は、その様な時代が始まった事を示しているが、種籾を生産する特殊な施設だから、mt-B4自身が形成した水田だった可能性もある。

それによって水田を形成する手法が、男女を問わずに示されたと考える視点も必要になるが、常識的な人は、人々がそれを真似た模範的な水田を作ったとは考えないだろう。

mt-B4はその様な新しい社会の形成に向かって進んでいたが、元々生産性が高い稲作者だったmt-Fには社会を変革する動機がなかったから、弥生時代になっても従来の稲作を継続していたと考えられる。しかし2200年前に弥生温暖期が終わり、再び秋の訪れが早まると、mt-Fを真似てmt-F型の直播農法を行っていた人々は、言い換えるとmt-B4の指導に従っていなかった稲作者は、稲作を継続できない時代になった。関東のmt-Fは再びmt-B4から短日性を失わせた種籾を貰い、それを使って従来の稲作を継続するのか、mt-B4の指導に従い、苗代を作って田植えを行う稲作に切り替えるのか、選択を迫られただろう。田植えを行う為には、均質な水深で常時水に浸っている水田が必要だから、畔を形成して水田化する必要があり、それはmt-Fの農法とは全く異なるものだった。

鉄器が普及し始めていた時代だから、それによって稲作地を容易に整備できた場所では、従来とは異なる稲作手法の模索が始まったかもしれないが、全てのmt-Fが一斉に稲作を変える動機はなかったから、地理的な環境に応じて手法を変える地域的な移行と、部分的に導入する個人的な移行が発生し、総合的な移行期が長く続いた可能性が高い。

それらを総合的に勘案すると、稲作を指導していたmt-B4に対し、稲作地の形成に関する指導も求められる事は極めて自然な流れだから、稲作地の形成に関する技術の開発に取り組んだ筈だが、既に鉄器時代が始まっていたから、土木作業に適切な農具の開発を含めた水田の形成技術が、関東で開発され始めたと考える事に合理性がある。製鉄に関する検証はその6で行うが、関東部族は最も多量に鉄器を入手していたと考えられるので、関東の男性達がその流れを推進する事に支障はなかった。

つまり古墳時代以降の日本式の水田も、日本式の稲作より遅れながらも関東から標準技術が拡散したと考えられ、杭を使って畔を形成する技術もそれに含まれていた可能性が高い。伝統的な稲作を行って稲mt-Fは、それを見ながら徐々に稲作技術を統合していったのではなかろうか。それを示す考古学者の報告は見当たらないが、現在の考古学にその事情を検出できる機能はないから、これを論理的な結論とする。

現在の考古学の実態として、小田原の中里遺跡などの弥生遺跡を、関東最古の弥生遺跡としている実態が挙げられる。この遺跡は弥生的な住居址の集合体であって、周囲でどのような稲作が行われていたのかを示す遺物は発掘されていない。この遺跡は関東に留まっていた関東部族の痕跡ではなく、縄文後期に西日本に移住した関東部族の、出戻り集落だった可能性も高い。中里遺跡がある足柄平野は、2300年前に富士山の東斜面が崩壊し、大規模な土砂なだれである「御殿場泥流」に覆われていたから、関東の人は住まない地域だったと考えられるからだ。

瀬戸内では大規模な弥生古墳が形成されていた時期であり、大規模古墳は稲作集落の団結心を高める為に造営されたと想定されるから、稲作地の争奪が熾烈になった事を示唆している。従って西日本で勢力争いに敗れた人々が、此処に入植した可能性が高い。大阪の池上曽根遺跡と同じ構造の、大型建物の存在を示す整然と並んだ掘立柱跡も発見されている事も、西日本から逆移住した関東系の人々の集落だった事を示唆している。これを以て西日本の先進的な稲作文化が波及したと主張するのであれば、噴飯ものであるとしか言い様がない。

 

3-2-8 稲作社会になった後の稲作事情

佐藤洋一郎氏は、熱帯ジャポニカは室町時代まで栽培されていたと指摘している。その頃になって漸く短日性を完全に失った品種が完成したとの認識が生れ、稲作者が混栽を止めたとすると、短日性を失った温帯ジャポニカが品種として完成するのに、3千年の歳月を要した事になる。

佐藤氏は長野県では江戸時代まで混載していた地域があったとも指摘しているが、王朝期以降は海洋民族的な嗜好から農耕民族的な価値観に変っていった筈だから、商品価値は生産性が高い温帯ジャポニ移行したと想定されるから、単なる惰性では説明できない。佐藤氏は室町・戦国時代の領主が、熱帯ジャポニカでの年貢の納入を拒否し始めていたとも指摘し、この推測の根拠も示している。熱帯ジャポニカを混栽し続ける為には、純度が高い熱帯ジャポニカの継続的な提供が必要だから、関東のmt-B4が相変わらずそれを供給していた事になるからでもある。

温帯ジャポニカの短日性遺伝子が根絶に近い状態になると、短日性に関する品質劣化は起きなくなった上に、混載していた熱帯ジャポニカの品質劣化も起きなくなったから、純度が高い熱帯ジャポニカの提供頻度も、時代が進むと共に長期化していたと想定されるが、混載すると温帯ジャポニカが雑種化して生産量も品質も劣化したから、その様な状態になれば稲作者には何のメリットもない混栽になった。

室町時代は平安温暖期が終了した時期だから、気候が冷涼化する中で混栽の成果が試される時期だった事も間違いなく、何らかの根拠によって混栽は必要がないと判断したから、領主が温帯ジャポニカの単作を求めた事になり、その際にmt-B4の情報ネットワークがどの様な役割を果たしたのか、検証する必要がある。

縄文中期以降のmt-B4の主要な稲作地は、北関東の八溝山地(やみぞさんち)や北総台地に残されていた、多数の湖沼の湖畔に形成された川洲だった可能性が高く、鉄器時代になるとそれらの稲作地を拡大しながら、沖積平野に進出していたと考えられる。潮来が未だ湖だった時代には、彼女達と海洋民族の接点は霞ケ浦の北端にある土浦近辺だったと推測され、藤原秀郷などの藤原系の豪族がこの地域を支配した事も、その関連事情だったと解釈される。しかしこの地域の水上交易者は海洋交易者ではなかったから、霞ケ浦と太平洋を結ぶ利根川の水路上にあった、鹿島神宮を囲む勢力がその役割を担っていたと考えられる。

奈良・平安時代の藤原氏の権力基盤が、鹿島神宮にあった事は確からしいから、その根拠が稲作者の統括だったとすると、藤原氏は関東のmt-B4の情報ネットワークと、奈良・平安王朝の宮廷政権との橋渡しを行っていた事になり、それを前提すると、古事記を含めた王朝期の歴史の背景が明らかになり、日本の稲作史の重要な視点になる事を指摘して置きたい。つまり藤原氏の権力基盤が関東のmt-B4の情報ネットワークを背景にしていたから、王朝の中で絶大な権力を振るう事ができたと考えると、藤原氏の権力の強さとその継続性を説明する事ができる。

鎌倉・室町時代は王朝権力の崩壊期であり、それはmt-B4の情報ネットワークの弱体化も意味したとすると、mt-B4型の稲作への統一力が低下したから、領主が温帯ジャポニカの単作を指導し始めたとも言える。その検証には多数の証拠が必要だから、詳細な検証はその4で行う。

 

3-3 関東部族の経済事情が、縄文中期末~晩期に流転した

3-3-1 縄文中期と後期の関東部族の遺伝子構成

篠田氏が、「新版 日本人になった祖先たち」に示す沖縄人の遺伝子分布を基に、縄文中期の関東部族の遺伝子分布を以下に示す。但し縄文中期の関東部族には、矢尻交易の為に中部山岳地帯で活動していた人々も含まれ、彼らは船や弓矢の生産に忙しく、多数の縄文人が中部山岳地帯でシナノキやウルシ樹を栽培し、湖沼漁民がそれらの生産に必要な荷役や漁労を担ったから、その様な縄文人にはmt-M7aが濃厚に含まれていたが、稲作が可能な関東平野にはmt-M7aが活躍する機会が乏しく、平野部にはmt-M7aは殆どいなかった上に、彼女達が沖縄に移住する動機も見つからないから、沖縄に移住した海洋漁民にmt-M7aは含まれていなかったと考え、以下の議論からmt-M7aの存在は除外する。

沖縄のmt-M7a+M9は原日本人系譜の遺伝子で、その割合は沖縄の原縄文人系譜のY遺伝子の割合と一致するので、それらと縄文後以降に移住したmt-Dmt-Gmt-B5+M7bと、極めて微量な遺伝子を除いたものが、縄文中期に関東から移住した人々の遺伝子になる。

沖縄人のこれらの遺伝子と現代の本土日本人の同じ遺伝子の、相対的な割合が極めて類似している事は、沖縄人のこれらの遺伝子は、縄文中期の関東部族の遺伝子を起源としている事と、両者がその分布を現在まで遺している事を示している。現代日本人では温帯ジャポニカを持ち込んだmt-F比率が高い反面、特殊事情があったmt-N9bmt-M7cを除く他の遺伝子が、その影響を受けた分だけ縮小しているのは、縄文後期にmt-Fの割合が増加した事、即ち温帯ジャポニカの生産性が高まってmt-Fの人口が急増した事を示し、両者の起源が同じである証拠を示している。

縄文人の活動期/その5に示した「縄文人の編組製品の出土地域と素材」と併せて検証すれば、事実認定できるだろう。従ってこの事実を起点に、以下の推論が成立する。

本土日本人のmt-N9bの過半は北陸部族や東北部族起源で、関東部族起源のmt-N9bは殆ど残っていない可能性が高い。mt-Aも北陸部族起源の遺伝子が混入しているが、北陸部族は石錘を使った網漁が盛んだったのに対し、関東部族は銛を使って大型魚を盛んに捕獲したと考えられ、関東部族が弓矢交易を活性化してシベリアから多量の獣骨を輸入したのは、鯨やイルカを捕獲する離頭銛を作る為だったから、本土日本人のmt-Aの殆どは関東部族起源であると考えられる。

従って関東部族のmt-N9bmt-Aへの転換が進み、その比率が減少した理由は明らかだが、その様な減少過程にあった縄文中期の関東部族のmt-N9bが、他部族のmt-N9bも含む現在の本土日本人の割合より高い事は、mt-N9bからmt-Aへの転換は徐々に進んだ事を示している。干物を作る技能などが、mt-N9bの重要性を容易に失わせなかったからではなかろうか。

しかし保存性が高いコメの入手が容易になると、コメより保存性が劣る干物の価値が薄れ、干物にする事が難しい魚介類を保存する特殊な技術の伝承が必要なくなった結果、mt-N9b比率が低下した可能性が指摘できる。縄文時代に盛んに作られた商業的な巨大貝塚の衰退も、mt-N9bの減少とリンクしていた疑いがあるからだ。つまり稲作の生産性向上と、漁労技術の進化に伴う食糧の豊かさが、mt-N9bの減少を促したと推測される。

漁具の製作者だったmt-Aと、稲作者だったmt-B4+Fの比率を比較すると、沖縄人のA/B4F)比率は30/53=57%で、現代日本人の比率は6.9/(9+5.3)=48%で沖縄人より少ないが、現代日本人の比率は他部族も含めた平均値だから、関東部族を起源とする日本人は1/4である事から考えると、mt-Aはむしろ大幅に増えた事になり、関東部族が西日本に移住した後は、関東部族以外の漁民の需要にも応じる様になったり、関東部族内ではむしろ稲作者と比較した人口割合が増えたりした事になる。つまりmt-B4が稲作技術を拡散する傍らで、関東部族の漁民も漁労技術を拡散し、漁具も交易対象になった事を示唆し、それが日本全体の豊かさと稲作の産業化をもたらした半面、mt-N9bを減少させたと考えられる。

鉄器時代になり、漁具も鉄で作られる様になるとmt-Aは失業したが、それでもこの様な数値が算出される事は、mt-B4が稲作技術を指導した女性達にmt-Aも含まれていた事を示唆し、関東部族内であってもmt-B4が浸潤する事はなく、手厚く稲作を指導した事を示している。北九州ではmt-D4+M7bmt-D4に変り、その他の焼畑農耕者もmt-D+M7amt-Dに変ったと想定される事情と比較し、それとは異なるmt-B4の性格を示していると言えるだろう。

母から娘に栽培技能が伝授されていた石器時代には、考えられない事態であるとも言えるが、mt-Aが稲作者の半分もいた事は、石器時代の関東部族は稲作に傾斜した社会ではなく、むしろ鯨やイルカの捕獲を中心とした漁労社会を形成していたから、コメもその社会に必要な物品の一つだった事を示している。

自然地形を利用する栽培には極めて高度な知識が必要だったから、母が異なる栽培者がその技術を入手する事は容易ではなかったが、mt-Aが失業したのは鉄器時代が到来した後だったから、鉄器時代になって男性達が稲作地を整備する様になった事も、mt-Aが稲作者になる必須要件だったと考えられる。この論理を敷衍すると、毛皮の加工者だったmt-M10mt-N9aが現代日本人に多数含まれているが、弥生温暖期には多数の失業者が生れたと考えられるから、木製であったのか鉄製であったのかは別にして、弥生温暖期に稲作農具を製作していた関東部族は、鉄器時代になっていた事を示している。

沖縄のmt-M7cが本土日本人と同じ比率である事は、縄文前期~中期に漁民のペアとして沖縄に渡った、関東部族の遺伝子である事を示唆しているが、温暖な沖縄に暖温帯性の堅果類を持ち込んだのは、現代沖縄人に多いmt-M7bだったと考えられる。関東部族とは別部族の様に振舞った九州縄文人のmt-M7bが、閉鎖社会を形成していた沖縄の原縄文人系集団や、沖縄に移住した関東縄文人に浸潤したとは考え難いから、縄文早期に浙江省から渡来したmt-B5+M7bの中に、原縄文人系集団に浸潤したmt-M7bがいた可能性が高い。

海面上昇によって縮小し続けていた沖縄に、原縄文人系集団を5千年間放置していた関東部族の贖罪意識として、その様な斡旋を行った事に違和感はないからだ。その様なmt-M7bは現代沖縄人のmt-M7a1割だから、原縄文人系集団に激しく浸潤しなかった事になり、mt-M7aの方が文化的な上位者だった事を示唆している。mt-M7aは何万年も前から磨製石斧を使って樹林を切り開き、色々な樹種や1年生の草類を栽培してきた履歴があったが、渡来時のmt-M7bにはまだ磨製石斧がなかった事が、その様な結果を生んだと推測される。

縄文早期の九州で逆の現象が起きたのは、稲作者としてのmt-B5の存在の有無だったと想定される。縄文早期のmt-B5にとって、平地がない沖縄に留まる理由はなかったからだ。

養蚕技術者だったmt-B5+M7bの、mt-B5mt-M7bの比は本土日本人ではほぼ同じだから、沖縄でも同様だったと推測され、沖縄のmt-M7bmt-B52倍である事も、この推測と一致する。

従って沖縄に渡ったmt-M7cには、堅果類の栽培とは異なる特殊な生業があった事になり、その候補として両地域に共通な編み籠の素材である、アズマネザサを栽培して籠を製作する生業があった可能性がある。それだけでは生業としての価値に疑念があるが、箕氏朝鮮の名称は、製塩の為の箕の製作者だった事に依ると考えられるから、古代人にとって箕は重要な道具だった事を示唆している。特に魚籠は漁労活動にとって重要な道具だったが、mt-A程の人数は必要なかった事も示唆し、銛や釣り針の様に損失が激しい漁具ではなかった事と整合する。石器時代には竹細工によって籠を製作する事はできず、アズマネザサの茎を割って素材にしたと推測されるからだ。本土日本人のmt-M7cが関東部族の遺伝子であるとすると、mt-M7cは縄文後期以降に関東部族の10%ほどを占めた事になり、漁具としての魚籠が重要な商品になった事を示唆している。

 

3-3-2 稲作やアワ栽培を取り入れていた、縄文中期の海洋民族の食料経済

関東の食糧経済

縄文中期の関東平野では、縄文人の4割を占めていたmt-B4が稲作に従事し、そのペアの男性達が弓矢などの工芸品や船の製作に励みながら、堅果類の樹林を管理していたと考えられる。3割を占めていたmt-Aが漁具の製作に従事していたが、そのペアは必ずしも漁民である必要はなく、海岸近くに住む縄文人も含まれていた可能性もあるが、話を単純化する為にmt-Aのペアは漁民だったとする。

縄文人の1割を占めていたmt-Fのペアは、稲作地の造成に忙しく働く必要があったから、そのペアはY-Dだった可能性が高い。mt-Fのペアには治水に関する高度な土木技能が求められたが、mt-Fが渡来しても縄文人にはその技能はなかったのに対し、湖北省や南陽盆地に渡航した漁民は稲作地を造成する現場を見ていたから、その技術を関東平野で発揮し易かったからだ。

縄文前期末にmt-Fが移住した際に、それを促す為に何年も南陽盆地に滞在し、土木工事を実習した漁民も多数いた可能性が高く、それは漁民しかできない事だったからだ。日本には荊の遺伝子であるY-O2が殆どいない事は、渡来したmt-Fはその様なY-Dとペアにならざるを得なかった。

縄文中期寒冷期のmt-Fmt-B4が形成した穀物市場に、堂々と参入する生産性は得ていなかったから、Y-D漁民の一族の支援を得て、漸く食糧事情を完結する状態だったと推測される。従って穀物とコメの需給に依って決まる交換レートは、mt-B4が生産する熱帯ジャポニカによって形成されていたと考えられる。

縄文中期の関東で大豆の品種改良が進展したが、この様なmt-Fが市場参入する手段として品種改良に努力したからである可能性も高い。市場経済が浸透していた関東では商品生産力を高める必要があり、アサの栽培もできなかったmt-Fの選択肢として、大豆の栽培化は参入しやすい市場だったからだ。

従ってmt-Fのベアになった漁民はmt-B4が生産したコメは食べず、非常時だけ利用する程度だったと想定され、関東平野でのコメと海産物の交換社会では部外者になり、mt-B4と一般漁民が形成していた交換経済に影響を与える存在でもなかったと考える事ができる。つまり関東平野でmt-B4とペアになった縄文人一家の食生活が、カロリーベースでドングリと海産物に半々依存し、生産したコメの全量を漁民に供給していたとすると、mt-B4はコメの収穫によってその半分の海産物を取得し、男性達が弓矢の生産などの内職によって残りの半分の海産物を得ていたと単純化し、彼らの家計収支を数値化する事が可能になる。

     ◇◇◇◇◇◇

船を個人的に所有する事は難しかっただろうから、漁民は大家族的な一族単位で経済活動を行い、その女性達の中にmt-Amt-N9bが含まれていたと想定されるが、漁民も縄文人も食生活は単婚家族単位で賄い、双方共に6人構成の家族だったと仮定すると、コメに換算した一つの家族の年間消費カロリーは6石になる。

漁民は縄文人の2倍の人口を擁していたとすると、漁民の一つの家族のコメの消費量は、mt-B4一人が生産したコメの半分だった事になる。それを数値化する為に以下の係数を定義する。

漁民家族が消費したコメ=6石xA  (Aは漁民の消費カロリーのコメ依存率)

mt-B4一人のコメの生産量をMとすると、

6石xAx2=M  ・・・・ (1)

mt-B4が生産したコメは、6人家族の1/4の食料を賄う必要があったから、1.5石換算の海産物と交換しなければならかった。

コメと海産物のカロリーベースの交換レートをBとすると、 

     M*B=1.5 石 → M1.5/B   ・・・・(2)

(1)と(2)を合成すると  

6石xAx2=1.5/BM  

この関係は下表になる。

漁民のコメ依存率A)

1%

2%

3%

4%

5%

6%

7%

8%

交換レート(B) 倍率

12.5

6.3

4.2

3.1

2.5

2.1

1.8

1.6

mt-B4の生産量(M) (単位石)

0.12

0.24

0.36

0.48

0.6

0.72

0.84

0.96

mt-B4mt-

mt-B4の収穫には個人差として0.52倍のばらつきがあり、温暖期と寒冷期の違いもあった。

漁民のコメ依存率が12%の状態は、コメの生産量の不足を示し、漁獲が不十分な漁民はドングリを食べる必要があっただろう。

交換レート(B)が10以上になると、コメは極めて高価な嗜好品になっただろうから、漁民も不漁期に堅果類を食べる必要があったと推測されるからだ。

漁民の消費率が5%以上になると交換比率は2倍程度に下がったから、収穫が多いmt-B5は米を自分で食べる機会が増え、稲作地と交易場所が離れていたmt-B4は、腐敗し易い海産物を頻繁に入手する手間を省く事ができる状態になっただろう。

交換レート(B)が1である事は、農耕民族として自立できる生産性を達成した状態だから、縄文中期の関東の実態は2以上だったと想定される。

漁民が食材の20%以上をコメにする為には、コメの生産性が稲作農耕民族に近い状態になる必要があり、mt-B4も殆どドングリを食べなくても良い状態になるまで待たなければならなかった。

従って関東部族のmt-B4一人の生産量は上表の3%~5%の範囲で、収穫は36斗(50100kg)だったと想定される。漁民が必要カロリーの35%のコメ、即ち一家族が年間25㎏~50㎏のコメを消費すると、縄文経済がバランス良く回転したからだ。

mt-B4はアサなども栽培していたからこの関係はもう少し複雑だったと想定されるが、その場合にはコメとアサの合計の交換レートが、上記の様なものだったと考える事もできる。

コメは矢尻の交換材としての需要もあったが、矢尻職人の人口は縄文人より遥かに少なく、矢尻職人の穀物需要は北陸部族のアワも充当されたから、上表を乱す大きな割合を占めていなかったと推測される。

蓄財の概念がなかった縄文中期に、必要以上の食料を得る必要はなかったし、mt-B4にある程度公平に稲作地が分配されていれば、平均的な生産者の収穫によってコメと海産物の交換レートが決まったから、上記の生産が可能であれば稲作地を分割し、人口を増加させる方向に向かった可能性が高い。それによって安定的な交換経済が成立した結果として、縄文中期の関東部族のmt-B4には、装身具を使ってお洒落を楽しむ余裕が生れたと推測される。

 

九州西部の食糧経済

同じ計算を縄文中期の九州縄文人について行う場合、焼畑農耕が可能な場所は稲作地の何倍もあったから、漁民と縄文人の人口は同じだったと仮定する。食料の生産性が高い民族が多数派になると食糧事情が安定し、他方の民族が生産する食料が奢侈品化する必要があるから、漁民の生産性が低く焼畑農耕者の生産性が高かった九州西部では、関東より縄文比率が高かったと想定される事情とも一致するからだ。現実には焼畑農耕者の方が人口は多かった可能性もあり、日本人のmt-D比率が高いのは、北陸部族のmt-D+M7aの社会はその様な状態だったからだと考えられる。

焼畑農耕はmt-D4+M7bの合作だったから、12人家族とする考え方もあるが、6人家族に分割する事情は漁民家族と同様になる。

男性には弓矢の生産などの内職がなく、焼畑農耕は男性にも重労働を求めたから、アワの生産は夫婦の合作だった。

関係式は 6A=3/BM になり、Mを指標とすると以下になる。

漁民のアワの消費率(A)

8%

17%