経済活動の成熟期 その2

2 荊の北上と夏王朝の形成

2-1 概況

縄文後期温暖期(BC2500年~)に荊が華北に北上したが、尾瀬の気候変動グラフがBC1500年頃に気温の急低下を示しているから、黄河が河南省東部~山東省西部に形成した広大な低湿地では、その時期に稲作が困難になったと推測される。竹書紀年は五帝時代が360年続き、それに続いて華北夏王朝が340年続いたと記しているから、荊は温暖期が始まった直後のBC2500年頃に入植し、BC2200年頃に五帝時代が始まり、BC1850年頃に華北夏王朝期が始まり、BC1500年頃に華北夏王朝が滅亡したと考えられる。

縄文後期温暖期の湖北省には石家河文化(せっかがぶんか)が生れ、都市も形成されたが、都市は五帝時代だったBC2000年頃に途絶えた。石家河文化が生れた湖北省から河南省東部~山東省西部の低湿地に、稲作民族の大移動があった事を示している。

山西省では縄文後期温暖期初頭から陶寺遺跡(BC2500年~BC1900年)が営まれ、此処にも稲作民族が北上した事を示唆しているが、これを龍山文化の遺跡だったと考えている人がいる。龍山文化は華北のアワ栽培者の文化で、彼らは栽培系狩猟民族の段階に留まっていたから、陶寺遺跡に示される高度な文化をこの時期に生み出した筈はなく、温暖期に北上した稲作民族の遺跡だったと考えられる。温暖期が始まると共に陶寺遺跡が形成された事は、荊の北上意欲がそれ以前から存在し、温暖期になって顕在化した事を示しているから、河南省東部~山東省西部の低湿地にも温暖期の初頭から意欲的に入植したと推測される。

現在の河南省東部~山東省西部に荊の北上を示す遺跡はなく、夏王朝の中心地だった事を示す地名しか残っていないが、低湿地にあった稲作民の住居跡は現在地下50m以上の場所にあり、発掘はできないから、他の手段で検証する必要がある。

その直接的な証拠としては、漢字文がSVO言語であって殷人が使ったトルコ語はSOV言語だから、殷人が漢字文の発明者だった筈はなく、荊や浙江省の稲作民族はSVO言語を使っていたから、彼らが漢字文の創始者だったと考えられる事が挙げられる。稲作民族の政権が力を得たのは縄文後期温暖期だった筈だから、その時期に該当する五帝時代~夏王朝期に漢字が生れ、夏王朝がそれを普及させた事により、トルコ系民族だった殷人も漢字の使用者になったと考える事に合理性があるからだ。

竹書紀年は五帝時代から歴史を記しているから、それが稲作民族の歴史を記している場合には、直接的な証拠になる。夏王朝の創始者だった禹が会稽で諸侯と合い、会稽で死んだと記している事は、その証拠を示していると言えるだろう。創作物語である史記に証拠能力はないが、竹紀年には論理性と環境への適合性がある事が、竹書紀年の記述の信憑性を示し、同様な論理性と環境への適合性を示している魏志東夷伝が、「夏后少康」の名を記述している事が傍証になる。

考古学者は夏王朝の存在を認めないが、それは海岸の遺跡や船は発掘できない事を知りながら、縄文時代の多数派が海洋漁民だった事を認めない姿勢と全く同じで、発掘実績がないものは歴史事実として認めない、頑な姿勢を堅持しながら歴史の合理的な解釈を妨げているに過ぎない。歴史にも論理的な知識体系を導入する必要があるが、考古学者の「発掘至上主義」は思考体系の論理性を否定しているのだから、論理性が欠如した知識体系である事を自ら宣言している事になり、その様な論理性のない主張に耳を傾ける必要はないからだ。

考古学的な事実だけが歴史を紐解く手段だった20世紀には、その様な知識体系も存在し得たが、遺伝子分布が明らかになると共に、古気候の解明も進んだ21世紀になっても、考古学者が牢固として「発掘至上主義」を掲げ続けている事は、陳腐化した断片的な知識に過ぎなくなったと言わざるを得ないからでもある。

荊の北上に関する第一の論理的な発想として、縄文時代の湖北省の稲作民族は揚子江の氾濫に苦しみながら、それを逆手に取って土木技術を高め、豊かな稲作地を形成していた事を前提にする必要がある。それ故に山東島と大陸に挟まれた海域に黄河が形成した、広大で洪水の被害が少ない低湿地に魅力を感じ、積極的に入植して短期間に広い稲作地を形成したからだ。しかしこの地域は湖北省より気候が冷涼だから、寒冷期だった縄文中期には入植できかった。

荊は縄文前期温暖期に陝西省まで北上した経験を持っていたから、縄文中期寒冷期に湖北省に南下せざるを得なかった事情を、伝承によって知っていただろう。従って縄文中期に耐寒性を高める品種改良を進め、中期末には河南省南部まで北上していた事は間違いない。

但し縄文中期寒冷期に海洋の水温が低下したから、縄文前期には、南陽盆地の北部の山岳地の水源が、南陽盆地に豊かな水を提供していたかもしれないが、縄文後期温暖期にはそれは期待できなかった。縄文後期温暖期に大陸の気候が極めて乾燥し、中央アジアが森林から草原に変わったからだ。従って縄文後期の南陽盆地では、荊の集団的な稲作に必要な多量の水は得られなかったから、縄文後期温暖期の荊には、降雨量が多い沿海部の低湿地に進出する動機があった。

当時の黄河は鄭州の北の平野部から巨大な渤海に流れ出て、デルタを拡大していたから、真直ぐにデルタが延伸すると山東山塊に突き当たり、流路を南北に変えながらデルタを拡大する過程にあった。その1で漢族の動向を検証した結論としては、縄文前期にデルタの先端が山東に当たり、その後はデルタの南北への拡大期になったが、関東部族は縄文後期後葉まで、鄭州半島と山東山塊の間の海峡を抜けて黄河を遡上し、華北龍山文化圏に弓や黒陶などを配布して獣骨を得ていたから、渤海と東シナ海の間に船が航行できる沼地が広がっていた事になる。

荊が入植した稲作地の、中核的な集落になった商丘市域は、湖北省より気候がかなり冷涼な地域で、縄文後期温暖期は縄文前期温暖期ほど温暖ではなかったから、縄文前期温暖期に陝西省に北上できた程度の耐寒性では、縄文後期温暖期に商丘市域に北上する事はできなかったし、縄文中期寒冷期の武漢の稲作者が、縄文後期温暖期に商丘市域に北上する事もできなかった。つまり縄文中期寒冷期に南陽盆地の南端まで北上していた稲作者であれば、縄文後期温暖期に商丘市域に入植できる程度だった。

縄文中期の荊がイネの耐寒性を高め、漢水流域を遡って南陽盆地の南部に稲作地を拡大したとしても、緯度に関する認識がなかった荊には、どの程度耐寒性を高めて北上すると、河南省北東部の低湿地に入植できるのか、判断する知識も手段もなかった。しかしシベリアからインドネシアまで航行していた関東部族は、緯度と気候の関係を実感として知り、北極星の高さや冬至の太陽高度から、緯度を測定する手法を知っていた。

この様な唐突な指摘には戸惑いがあり、大陸民族と海洋民族の知識の違いに実感が湧かないかもしれないが、魏の使者が邪馬台国はフィリッピン海にあると誤解するほどに、大陸の民族には緯度に関する認識がなかったのに対し、その200年前に後漢に朝貢した奴国の使者が光武帝に、「奴国は倭の極南界にある」と言った事を想起すれば実感が湧くだろう。北九州にあった奴国は北緯3340分辺りにあり、最も南にあった本州の倭人国である岡山は3435分、四国の倭人国だった讃岐の南端でも3410分、邪馬台国の南端だった可能性がある大阪平野の南端は3420分だから、奴国は倭人諸国の中で最も南位置していた事になるが、違いは1度未満だった。海洋民族だった奴国の倭人はその程度の緯度の違いも認識していたから、「奴国は倭の極南界にある」と言ったが、太陽高度と緯度の関係を知らなかった魏の使者は、自身が出向いた邪馬台国はフィリッピン海にあると言われても、その事に疑念を持たなかった。

大陸人は東西南北という抽象概念に乏しく、山海経の記事の東西認識に違和感がある事も、(4)山海経の項で指摘した。大陸では地形を見て方向を認識し、その知識の集成によって旅をする事ができるから、敢えて東西南北の概念を持ち出す必要はないが、海洋上では東西南北以外の方向感は存在しないから、文化の高低に関わらず必然的な結果だった。

農耕民族は冬至を観測する事ができれば作成できる、太陰暦を使う事が一般的で、緯度による太陽の南中高度の違いや、北極星の仰角と緯度の関係は知る必要がなかった事を、魏志倭人伝に記された魏の役人の認知力が示している。

具体的に言えば、太陰暦では冬至になった日を観測し、その月齢を記憶して置きさえすれば、月齢が循環する29.5日を1ヶ月とする暦を作る事が可能であり、冬至の翌日を正月元旦とすれば、農耕の歳時は毎年同じ日付になった。冬至の50日後を正月元旦としても、その関係は変わらなかったから、播種日を厳格に決めていた温帯ジャポニカの栽培者でも、太陽暦と比較して遜色がない暦になった。従って荊は大きな日時計などで冬至を正確に観測していたが、太陽暦に関する知識はなかったと推測される。

冬至の測定には、緯度によって南中時の太陽高度が違う事まで認識する必要はないから、縄文前期に陝西省に北上していた荊が冬至を観測する際に、湖北省と陝西省では南中高度が異なる事に、気付く機会はなかったと考えられる。

ちなみにアワは生育期間が短く、播種期の自由度が高いから、アワの栽培者には冬至を観測する必要はなく、肌感覚で播種期を選定していた可能性が高い。

しかし海洋民族が島影を見ない大洋から特定の島に帰還する為には、島が視界に入る範囲の精度で緯度を認識する必要があった。それに必要な分解能は「10㎞=5分」程度だから、奴国の使者が光武帝に「奴国は倭の極南界にある」と言った事に繋がるが、海洋民族がそれを海上で得る為に使ったのは、暁の曙光に消えていく星座の位置だったと想定される。それらの知識を得る為の観測地に、冬至の太陽の南中高度を測定する施設や、北極星の高度を観測する手段があり、星座の観測によってその整合性を確認していたと推測される。恒星の位置は少しづつ変化しているから、観測し続ける必要があったからだ。

世界各地の古代遺跡から冬至を検知する遺構が発掘されているが、民衆が伝統的な手段で冬至を検知していた民族であれば、権力者が手の込んだ建造物を築造する事に、政治的な意味があったとは考え難い。当時の先進的な天文知識は海洋民族が提供していたから、権力者がそれを入手している事を誇示する為だったとすれば、その様な施設を建造した民族は、海洋文化に関しては後進性を示しているとも言える。つまりその様な施設を建設したのは、海洋文化と縁が薄い純粋な農耕民族だったと考えられる。

湖北省の稲作民は縄文前期温暖期に、陝西省の渭水流域まで北上した実績があり、再びそれが可能になる時期を待っていたとすれば、努力家だった荊は気候の温暖化を待つだけではなく、イネの耐寒性を向上するプランも持っていただろう。温帯ジャポニカは縄文中期に歴史的な速さで耐寒性を高めたから、それに何らかの意図を読み取る事も妥当な判断だが、実際にそれを行ったのは、縄文中期寒冷期に温帯ジャポニカの北限を超えてしまった関東で、冷害と戦いながら栽培を続けていた関東のmt-Fだった可能性が高い。

いずれにしても関東部族が割り出した緯度感覚では、温帯ジャポニカの耐寒性が山西省南部で栽培きるまでに向上すれば、黄河デルタの低湿地でも稲作ができる筈であるという結論だったので、それを荊に説明したと想定される。縄文前期に北上した渭水流域まで北上しても、黄河デルタに拡散するには不十分な緯度だったから、それより北にある陝西や山西の適切な緯度地域で、稲作が可能な平地を探すと、現代の地図を見ても山西しかない。

陶寺遺跡は山西省臨汾市近郊の、北緯3554分の位置にあり、黄河デルタに北上した荊の中核的な稲作地だった、商丘市は3424分で、鄭州市は3444分だから、嘗ては鄭州半島だった細長い丘陵を巡る様に、北東~南に延伸していた黄河デルタの中心地は、陶寺遺跡とほぼ同じ緯度だった。現在の濮陽市が陶寺遺跡と同緯度で、黄河デルタが山東の山塊と接していた斉南市は354分の位置にあるから、稲作が陶寺遺跡まで北上できれば黄河デルタの南半分は稲作地になる計算だった。

しかし実際には商丘が荊の稲作の中心地だったと推測され、縄文後期の温帯ジャポニカの耐寒性は、縄文後期温暖期に黄河デルタの南半分を、稲作地にしてしまう程には高まっていなかった。しかしそこまで欲張らなくても、縄文後期に北上した荊は十分過ぎるほどの広い稲作地を獲得した。

湖北省時代の荊は、集落が洪水の被害に遭わない様に丘陵地の裾に集落を形成し、その周囲を稲作地にしていたが、海に近かった当時の黄河デルタでは、洪水の被害は広範囲に広がらなかったし、洪水時の水嵩も高くならなかったから、平地に高床式の建造物を作ってコメを貯蔵しても洪水に絶える事はできた。従って黄河デルタでは稲作者の居住域が、丘陵地の裾の線状の地域に限定される事はなく、稲作地と集落を面的に拡大する事ができたからだ。

縄文中期寒冷期は縄文前期温暖期より3℃低温化したから、縄文前期に陝西省まで北上していた稲作では、縄文中期寒冷期には湖北省であっても、北域で栽培する事は難しかった。縄文中期寒冷期に南下した荊は、関東部族の船を使って湖南省へも入植したと想定されるが、湖南省の河川は沖積土砂の堆積が遅く湖沼が多かったから、平坦な沖積平野を利用する荊の大規模稲作には、相応しい地域ではなかった。

これらは尾瀬の花粉が示す低温化に基づく想定だが、海洋の湿潤周期の影響が弱かった大陸では、縄文前期温暖期と縄文中期間定期の気温差は、尾瀬ほど大きくなかった疑いがある。しかし縄文後期温暖期になると即座に石家河文化が生まれた事は、縄文中期の湖北省の稲作は、冷涼な気候に苦しんでいた事を示しているから、3℃の低温化に見舞われた事を示す尾瀬の気候グラフと概ねの一致を見せている。

従って尾瀬の花粉が示す様に、縄文後期温暖期は縄文前期温暖期より2℃低温だったとすると、荊が縄文後期温暖期に、渭水流域より冷涼な鄭州以北の沖積地に入植する為には、縄文中期に耐寒性を3℃向上させて置く必要があり、荊はそれを実現したわけではないが、それに近い状態に達していた事になる。

縄文後期温暖期に稲作が陶寺遺跡(3554分)まで北上したとすると、縄文前期の北上実績だった西安などの渭水流域(北緯3430分)を越え、渤海南岸(北緯3550分)に北上する事も可能だった事になるが、温帯ジャポニカの稲作が陶寺遺跡まで北上したのは短期間で、それ以降の稲作地は後退した事を、陶寺遺跡の盛時の事情が示している。

日本でも縄文後期温暖期の温帯ジャポニカの北限は、九頭竜川の河口(北緯36度06分)だったと考えられ、上記の事情と概ね一致してはいるが、日本の稲作は冷涼な気候でも強行する海洋民族型だったから、コメを主食にしていた荊の、後期温暖期の稲作地の北限はもう少し南だったと想定される。それらは商丘が稲作の中心地だった事情と一致し、縄文後期温暖期の一般的な事情としては、鄭州辺りが実際の北限だった事を示唆している事も、温帯ジャポニカの稲作が陶寺遺跡まで北上したのは短期間だった事を示唆している。

それでも渭水流域と同程度の緯度まで北上した事になるから、縄文後期の荊の稲作は、縄文前期温暖期の稲作より2℃ほど耐寒性が向上していた事になる。

縄文前期温暖期の渭水盆地には、稲作ができる豊かな降雨があったが、縄文後期温暖期には内陸の気候が極度に乾燥し、中央アジアが極度に乾燥して森林から草原に変わったから、渭水流域も稲作地になるほどの降雨はなかったと推測される。これは海洋の水温が低下した事だけが原因ではなく、カスピ海やアラル海が大幅に縮小し、それらの湖から得られていた降雨が失われていた事を示唆し、その影響が陝西省にも及んだと判断する事に妥当性がある。

カスピ海やアラル海の水量の変遷は、海面上昇との関係から推測する事ができる。8千年前に海面上昇が終わった事は、北西ユーラシアや北メリカ大陸の高緯度地域に残留していた、巨大氷床が全て溶けた事により、追加的に海に流れ込む水がなくなった事を示しているからだが、その時点で全ての氷床が完全に失われたのではなく、北欧やウラル山脈の限定的な地域には、縄文前期温暖期(海面上昇が終わって2千年後)までは厚い氷床が残っていたから、その水がカスピ海やアラル海に流入し、巨大化した湖が周囲に降雨をもたらしていたと推測される。縄文海進状態を維持する為には、実質的に千年間に数メートル以上の海面上昇に匹敵する水が、海に流れ込んでいる必要があったからだ。

縄文後期(海面上昇が終わって4千年後)に海退が進行した事は、それらの氷床が失われていた事になり、カスピ海やアラル海が縮小して降雨の水源にはならず、中央アジアが草原化した事と連動している。海退の原因は、容量が増えた海水による海底への重圧が、海底を徐々に沈降させたからで、これは縄文海進期にもあった現象だから、海退が始まらなかった縄文中期までは、高地や寒冷地にあった残余の氷床が融解し続け、それが海に流れ込んで海退が始まらなかった事になり、カスピ海やアラル海がその為に巨大化していたとすると、海退が顕著になった縄文後期には、カスピ海やアラル海が縮小していたとの想定と一致するからだ。

当時の渤海や東シナ海は現在より内陸に広がっていたから、山西省の東にある太行山脈では、夏季には太平洋高気圧の影響によって南東風があり、渤海や東シナ海を水源とする降雨があったから、山西盆地の陶寺遺跡に北上した稲作民は、その降雨を期待していたと推測される。

渭水盆地や山西盆地は標高が400mほどあり、0.6℃/100mであるとすると2.4℃低温化させる必要があるが、気候が乾燥した内陸の盆地では、海面から上昇する気流の減圧効果や、気圧の低下による、蒸発量の増加が引き起こす低温化も大した影響はないから、乾燥した気候による日射量の増加が引き起こす昇温と相殺された期待と、歴史的な実態と整合する事を考慮し、標高の効果は上記の気温に関する見積から削除した。

 

2-2 縄文後期の湖北省

縄文中期の屈家嶺文化から進化した石家河文化(BC2500年~BC2000年)が縄文後期温暖期の湖北省に生まれ、特徴的な器形を持つ精巧な玉器が発掘されている。縄文後期温暖期になると稲作の生産性が高まり、人口が増えて都市が生まれ事を示してはいるが、屈家嶺文化期にはその様な都市がなかったとは言えない。縄文中期の湖北省の平原標高は山際でも10m未満だった可能性が高く、その時期の山裾の小高い丘の上にあった都市は、堆積した土砂に埋もれている可能性が高いからだ。揚子江の河岸にある武漢の標高が現在2025mで、盆地の周囲の丘陵地の裾では30mに達しているから、それを確認する為には盆地の堆積事情を推測する必要がある。

縄文前期に古揚子江湾が全て埋め立てられると、その後暫くは沖積土砂の堆積が進んだ筈だが、ある程度の標高になると土砂の多くは東シナ海の埋め立てに回り、湖北盆地の標高を高める作用は緩慢になったからだ。縄文中期後葉の銭塘江台地では、その現象によって周囲に土砂が堆積し、洪水と銭塘江台地の沈下が発生して良渚文化が滅亡したと考えられる。

縄文後期に海退が顕在化すると、安徽省にあった揚子江の河口の水位が低下し始め、安徽省や江蘇省を埋め立てる土砂の割合が増え続けたから、銭塘江台地の再利用は春秋時代(弥生温暖期)まで復活しなかった。春秋時代に台地の再利用が始まったのは地盤が隆起したからだとの説もあるが、縄文早期以降の海洋の水温の低下が、降雨量を減らして洪水の被害を局所的にしたからである事も、要因の一つとして考慮する必要がある。

つまり縄文中期後葉~古墳寒冷期までの湖北盆地では、縄文前期~中期中葉までの様な激しい堆積は進行しなかったと推測され、縄文後期初頭の盆地の周辺の標高は、盆地中央にある現在の武漢の標高である、2025m近くまで堆積していたと想定される。従って降雨量が多かった縄文中期中葉までは、盆地周辺の丘陵上の遺跡は急速な土砂の堆積によって土中深く埋もれたが、縄文後期以降はそれほど堆積が進行しなかったから、縄文後期以降の遺跡が増えている様に見えても、それが湖北省の実態を示しているとは言えない。

標高31mの石家河遺跡は山裾の平地にあるが、北の丘陵から延伸する丘に接しているから、この都市が形成された時代の平地は現在より5m以上低かったとすると、この都市は盆地の平原を望む小高い丘の上に形成された事になる。軍事目的の都市としては標高が低過ぎるから、洪水の被害を避ける為に必要な標高を見積もり、稲作地を見下ろす丘の上に建設されたと考えられる。

標高31mの石家河遺跡は、盆地の中央にある武漢より5m以上標高が高いから、当時の武漢の標高が現在と同じで、湖北盆地全体が6mの洪水に覆われても水没しない都市だった事になる。盆地の洪水面の標高が高まると揚子江の排水量は桁違いに増加するから、そこまで洪水リスクを過大評価する必要があったのか疑問があり、偶々適当な丘陵を選んだ結果として現在の場所に設置されたと考えられる。

従ってこれより低い場所に形成された都市は、発見できない深い地下に埋もれている事になり、縄文中期~後期前半に石家河遺跡の様な城郭都市が多数あったが、それらは全て土砂に深く埋もれ、標高が高い丘陵上に形成された石家河遺跡などが、辛うじて都市の威容を遺していると考えられる。つまり湖北省では縄文中期から多数の都市が営まれ、次第に文化が進化して石家河遺跡に遺された遺物が示す、次の高度化の段階に至った可能性が高い。但し縄文後期温暖期が始まるとこの都市が即座に建設され、五帝時代の中頃であるBC2000年に消滅した事は、歴史的な環境変化を示している事になり、都市の建設時期がBC2500年である事は、縄文後期温暖期に稲作の生産性が高まり、人々の生活が豊かになって人口が増えた事を示している。

 

2-3 荊の北上

縄文中期に荊が温帯ジャポニカの耐寒性を確認しながら湖北省から北上する際には、北上した地域での塩の入手の可否が重要な問題になったから、馬家窯文化圏から南下して来る人々が、青海湖の塩を運ぶ交易ルートとしていた、漢水流域を北上して南陽盆地に至る事を目指したと想定されるが、襄陽に至る事が精々だったと想定される。しかし縄文後期温暖期になると今までの苦労が噓であったかの様に、先ず南陽盆地での稲作が可能になり、更に北の山を越えて洛陽盆地に北上したと想定される。

この時期の黄河のデルタは鄭州半島の先端から扇状に拡大し、商丘にも低湿地が広がっていたが、その西の許昌はまだ東シナ海だったと想定され、南陽盆地の稲作者が洛陽盆地に北上する際に、南陽盆地と東シナ海の間にあった丘陵地の海側の裾に沖積平野はなく、洛陽盆地の沖積平野を求める為には、南陽盆地から山を越えて北上する必要があったと想定されるからだ。

青海湖の塩の供給者だったY-Rは、荊の急速な北上を受けて即座に渭水流域に進出し、商洛を経て丹江を下って南陽盆地に至る交易路を復活させた事を、斉家文化(BC2400年~BC1900年)がこの時期に生まれた事が示しているが、洛陽盆地やその周辺に北上した稲作者は、Y-Rのこの商流から外れた地域に北上した事になる。

ウィキペディアはY-Rの斉家文化(甘粛省~陝西省)とそれ以前の馬家窯文化(甘粛省)について、馬家窯文化は出土物の類型から、石嶺下、馬家窯、半山、馬廠の4つの類型期に分かれ、石嶺下類型期はBC3800年~BC3100年、馬家窯類型期はBC3100年~BC2700年、半山類型期はBC2600年~BC2300年、馬廠類型期はBC2200年~BC2000年の間にそれぞれ栄えた。」と指摘し、「斉家文化BC2400年~BC1900年)は黄河上流の甘粛省蘭州市一帯を中心に分布し、東は陝西省の渭水上流、西は青海省東部の湟水河流域、北は寧夏回族自治区と内モンゴル自治区に及ぶ。遺跡の数は300か所以上で、青海省の喇家遺跡もこの文化との関係があるとみられる。」と記している。

考古学者が馬家窯文化と斉家文化を区別しているのは、塩の交易量が減少した縄文中期には馬家窯文化を担った人達が塩の商流を維持していたが、縄文後期温暖期に需要が爆発的に増加したので、馬家窯文化を担っていた人達に加えて新たに斉家文化を担った人達も参入し、縄文後期温暖期の前葉には両者が混在しながら活動していたが、BC2000BC1900年にこの文化圏が衰退した事を示している。

馬家窯文化を担った人達には、温暖期初頭の荊の急激な北上の全てに対応できない状態が生れ、洛陽盆地に北上した者達にまで塩を供給する体制が整備できなかったから、洛陽盆地に北上した稲作者の最終北上目標が塩湖である解池周辺になる状況が生まれ、その遺構が山西省の陶寺遺跡として遺された様に見えるが、盛時の陶寺遺跡は製塩業者とアワ栽培者だった韓族を主体とし、荊は居ない集落だったと推測されるので状況を精査する必要があるが、それは次節の話とする。

いずれにしても山西省の陶寺遺跡に集落がBC2500年に誕生し、それが斉家文化の開始期より100年早かった事は、荊が温暖期の到来を受けて一気に北上した事を示している。寒冷期から温暖期に変わる場合、大陸の内陸部では100年未満の遷移期間を経て急激に温度が上昇したと想定されるから、この様な状況に違和感はない。

日本の気候を示している尾瀬の花粉は、大洋の乾湿振動の影響が薄れた弥生温暖期や平安温暖期の特徴として、寒冷な気候から温暖な気候への変化は100年程度の短期間で完了した事を示している。温暖化が遅い海洋に囲まれていた日本でも、その程度の期間で温暖化した事は、大陸内部の温度変化はかなり短期間に完了しただけではなく、オーバーシュートがあった可能性が高い。温暖期になると大気温が海洋の温度を上回り、海洋から水が蒸発しなくなって晴天が続くから、それによって更に大気温が温暖化してブースト状態が生れるが、海洋から遠い大陸内部では更に激しい温度上昇と、長期的なオーバーシュート期があった可能性が高く、陶寺遺跡の設立時期やY-R民族の動向がその事情を示唆している。

オーバーシュートは多くの現象で発生するが、気候のオーバーシュートについて詳しく説明すると、寒冷期に向かって気温が低下する場合には、温暖な海に囲まれた日本列島周辺では雲の量が激増し、大気温が急低下した筈だから、大陸の大気の低温化より早い速度で低温化し、アンダーシュートが発生した疑いが濃く、縄文晩期寒冷期や古墳寒冷期の急激な低温化時に、その兆候が微弱に見えている。

しかし温暖化の場合には雲の発生を顧慮する必要はないから、昇温が遅い大洋に囲まれた日本では、大気温の昇温は大陸と比較して遅かったと想定される。それでも弥生温暖期や平安温暖期にオーバーシュートが発生したのは、温暖期の初頭に大気温と海水温の乖離が始まると、晴天が続いて急速に過剰昇温したからだと考えられ、海洋の影響が弱い大陸内部でこれより過激なオーバーシュートが発生する事は、一般的な現象だったと推測される。

これは海洋の海水温の変動とも連動する現象で、縄文中期寒冷期に海水温が低下した後、縄文後期温暖期に大陸の大気温が急激に上昇すると、海水温と大気温の乖離が激しくなり、気候が乾燥して晴天が続く様になって、大陸の大気温は過剰に上昇した。しかし晴天によって海水温も急上昇するから、やがてはこの事情が解消するが、海水温が大陸の大気温に近付くまでは、極めて広域的な晴天率の向上による、大気温の過剰上昇が生れてオーバーシュート現象が発生する。

四季の変化がなければオーバーシュートはかなり大きくなるが、実際には、冬季になると暖流以外の海水温は夏季より大幅に低下し、翌年又上昇する事を繰り返すから、この様な撹乱の中でオーバーシュート状態は解消されていく。

縄文後期温暖期のオーバーシュート状態は、縄文時代の導入項に示した鹿島沖の海水温の推移から読み取る事ができる。縄文中期寒冷期の末期である4500年前に、海水温が異様に低下した時期があり、その後海水温が急上昇しているからだ。北太平洋亜熱帯循環の海水温は、アメリカ大陸の事情も反映しているから、鹿島沖の海水温が変化した個々の事情は分からないが、アメリカ大陸西部の山塊などから巨大な氷床が太平洋に流出した事などの、偶然の産物として縄文中期末に、異常な海水温の低下があったとすると、縄文後期初頭に異様な昇温オーバーシュートがあった事に繋がり、上記の事情と整合する。

これを一般論化すると、単純な1600年周期の寒暖振動が繰り返されたとしても、この事象は付帯的な定常現象になるが、日本の気候を示している尾瀬の花粉は太平洋の湿潤化によって始まった海洋の寒冷化が、縄文早期末の温暖期の昇温を抑圧し、その影響である緩やかな長期の寒暖振動が、縄文後期まで続いた事を示している。この現象にも固有振動があり、その周期は1600年周期の2倍近い長周期だったので、太平洋の湿潤期と同時期にあたる、1600年周期の温暖期である縄文早期末の温暖期(縄文早期温暖期甲)の昇温を抑圧し、次の縄文前期温暖期には異様な高温状態になり、逆に縄文中期寒冷期には低温化を抑圧した事を示している。

その様な海洋の温度振動が減衰した弥生温暖期から、尾瀬の気候は1600年周期の寒暖振動のオーバーシュートも捉え始めたが、海洋の影響が弱い大陸ではその一つ前の温暖期である、縄文後期温暖期にはこの現象が顕在化していた可能性が高い。つまり縄文後期温暖期初頭のBC2500年~BC2400年頃の湖北省、河南省、山西省では、温暖期初頭のオーバーシュートが顕著に発生した可能性が高く、鹿島沖の海水温の推移がそれを捉えているが、冷えた海洋に囲まれていた日本列島ではそれが見えず、尾瀬の花粉は緩慢な温度上昇しか示していない。

荊の二つの北上路 

荊が同時期に入植した黄河デルタ地域は、商丘を中心とする鄭州市の東部~東南部だったと推測される。黄河デルタは、鄭州の北の平原が標高数m程度に嵩上げされると、時には流路を南に変えて東シナ海を埋め立て、そのデルタが商丘辺りまで拡大していたと想定されるからだ。しかし鄭州丘陵の陰になる周口や許昌などは、長らく東シナ海だったと推測され、商丘には関東部族の船で渡った荊も多数いたと推測されるから、南陽から洛陽に北上する際にも、上図に示す様な平坦な北上路ではなかったと考えられる。

黄河は渤海に流れ込んでいた時期もあり、荊が入植した時期の流路は明らかではないが、夏王朝期には渤海に流れ込んでいたと推測される。

山東丘陵の南端にあった徐州は、海進期に多島海になったが、山東から流れ出る川が沖積地を形成すると、島嶼が連結されて丘陵地を形成し、縄文後期にはアワ栽培者だった淮夷が入植していた。しかし商丘と徐州の間は、細長い湾の様な状態に海峡地形が残り、縄文後期初頭の両地域は海によって隔てられていたから、関東部族の船が黄河流域に到達することができたと考えられる。

江蘇省や安徽省に湾入していた東シナ海は、周囲の山塊から流れ出る河川が沖積平野を徐々に形成し、やがてそれらが黄河デルタと連結して現在の河南省東部、安徽省、江蘇省の平原を形成し、それらの河水と山東の河水を集める大河として淮河が生れた。その川の名称が淮夷にちなんだものだったとは考え難いから、周代~春秋時代に漢族がこの川の支流域に定住し、淮河流域が山東以上のアヒルの飼養地になった事から、この河が淮河と呼ばれる様になったのではなかろうか。

この様に堆積が進んだ状態になると、この地域は青州と呼ばれる穀倉地帯になった。周礼の夏官司馬に、「青州には(平原の水を集める)淮水と、(山東の水を集める)泗水が流れ、泗水には(山東西南部の丘陵から流れ出す)沂水と沐水が流入している。」と記され、栽培穀物として(大麦)が挙げられているが、アワやキビは記載されていない。その理由は後述する。

荊が入植した山東省西部と河南省東部に跨る、当時の低湿地には歴史的な名称はない。しかし周礼や漢書地理志がこの辺りを青州と記しているので、このHPでも荊が入植した低湿地を「青州」と呼ぶ。山東龍山文化の代表的な遺跡である城子崖遺跡は山東丘陵の北端にあり、その文化圏は山東東部~沿海地区に広がっているが、城子崖遺跡は稲作民の遺跡ではないから、山東北部や東部などの丘陵地は青州ではない。アワ栽培者の遺跡は丘陵に遺されたから、発掘可能だが、稲作民の集落は低湿地に営まれたから、遺跡の発掘は絶望的な状態にある。

淮河が現在の様に揚子江の支流になったのは、山東半島の北を流れていた黄河がAD12世紀に流路を変え、山東半島の南を流れる様になったからだ。堆積物が多い黄河は天井川になるだけではなく、黄河が山東半島を南に周回して淮河の支流と交差すると、黄河の河床が堰堤になって淮河の流路を遮断してしまったので、淮河の水が行場を失って大洪水を引き起こした。やがてその水が揚子江に流れ込む様になり、現在に至っている。

黄河は山東半島の南を600年間流れ、東シナ海の海岸線を膨張させて現在の地形を形成し、18世紀に再び渤海に流入する河道に戻り、現在に至っている。縄文前期からこの様な事態が繰り返され、山東周辺の沖積平野が形成されたと考えられる。

青州に入植した直後の荊は、海水を汲んで塩を得たかもしれないが、稲作地が内陸に広がると塩の流通が必要になった。関東部族がその需要に応えて浙江省の塩を供給したが、やがて浙江省の製塩者の一部を渤海南岸に移住させ、その塩を供給し始めただろう。

湖北省の石家河文化がBC2000年に途絶えたのは、湖北省の人々が青州に移住し、荊の中心地が青州に移行したからだと想定されるが、湖北省で洪水に苦しめられた事が移住の原因ではなく、製塩業者が移住した青州では塩の入州が容易になっただけではなく、その価格が極度に低下した事も、移住を促す一つの要因になったと考えられる。

竹書紀年はが渤海南岸の有力者になり、夏王朝が成立すると浙江省に出向いて諸侯と合ったと記しているから、渤海沿岸は中国の沿海部で最も乾燥し、製塩に向いている地域である事を考慮すると、の祖先は浙江省の製塩業者で、は渤海南岸の製塩業者だったと考えられる。その様に想定する事により、良渚文化が滅んだ後の浙江省の製塩業者の歴史に継がる。

甘粛省を中心に渭水流域まで進出していた斉家文化がBC1900年に消滅したのも、渤海南岸の製塩業が活性化して中華の塩需要を一手に引き受ける様になったからだと推測される。縄文中期の湖北省の遺跡からトルコ石が発掘された事は、関東部族が浙江省に運び上げた塩では足りなかったから、青海湖の塩も消費されていた事を示し、縄文後期温暖期に斉家文化が生れた事は、湖北省や河南省の塩の需要が急増した事を意味するが、石家河文化がBC2000年に途絶えて斉家文化が、BC1900年に消滅した事は、荊の人口が青州に大移動して青海湖の塩の商費が激減した事を示唆している。

夏王朝が3850年前に成立したとすると、禹は渤海南岸の製塩業者が、中華の塩の商流の元締めになった成果を掲げ、青洲を中心とする新しい経済体制の構築を主導する為に、夏王朝を樹立した事になる。夏王朝の版図が十二州とか九州とか言われ、中華のほぼ全域を網羅したのは、それが夏王朝の塩の流通圏だったからだと想定され、禹はそれを行政組織として統括する制度を構築したから、夏王朝の始祖になったと推測される。

武力的に征服した王朝ではなく交易的に連合していた組織だったから、武力的な征討を唯一の政治統合の手段であると規定している史記を、聖書の様に見做している王朝史観では、夏王朝の実態は解釈できない。

夏王朝の創始者は浙江省の製塩業者を起源とし、渤海南岸で製塩を行っていた禹だったが、青州に移住した荊は湖北省で育んだ秩序文化を維持していた筈であり、両者は青州に移住する事によって始めて異民族との共存を経験した人々で、この共存はシベリア型の共生とは全く異なるものだった。両民族は共に稲作民族で、青洲には狩猟民族も漁労民族もいなかったからだ。

問題点はそれだけではなく、両民族は縄文中期まで殆ど接触がなかっただけではなく、浙江省の稲作民族には先進的な民族と境界を接した経験がなく、荊が縄文前期温暖期に共生したのは、栽培地が競合しない大麦やアワを栽培する民族だった。その様な二つの稲作民族が青州で共存したのは、縄文人との共生を当然と考えていた関東部族の漁民が、その様な状態に両民族を導いたからだと推測される。

荊の稲作地は鄭州より南の地域で、耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していた製塩業者は、鄭州より北にあった渤海南岸に入植した筈だから、入植当初は稲作民族の共生に軋轢はなかった可能性もあるが、縄文後期温暖期になった直後の青州に入植した荊は、温暖化がオーバーシュートしていた故に、また丘陵地の裾部に居住する習性を維持していた故に、丘陵地の裾部を求めて鄭州丘陵を周回する様に入植したとすると、渤海北岸に製塩者と共に入植した浙江省起源の稲作者の、水源地帯に入植していた可能性がある。荊は大規模な土木工事によって稲作地を形成する度に、河川の川筋を変えていた筈だから、それが両稲作者のトラブルになる可能性があった。

その様な課題の有無に関わらず両稲作民族の人口が増加して稲作地を拡大し、水源になる河川や稲作地が近接する様になると、それらに纏わる色々な問題が発生したと推測される。両者の課題は単に農地の獲得競争に関するものではなく、青洲のコメの価格に関する課題を含んでいた事が、問題の解決を困難にした疑いもある。縄文早期に関東に渡来したmt-B5が、mt-B4との稲作競争に敗退して九州に移住したが、青洲でも稲作に優れたmt-Fと隣接したmt-B5が、同じ課題に直面したからだ。

製塩業者は渤海南岸から移動する気はなく、荊も稲作地を放棄する気はなかったから、従来とは異なる解決策が必要になっていた。浙江省起源の稲作者も良渚時代に灌漑技術を進化させ、稲作地を集団で形成する様になっていたから、稲作問題はmt-B5だけの生業課題ではなく、荊とのトラブルは稲作民族間の問題になった。

揚子江の氾濫に苦しめられていた荊が青州の低湿地に移住すると、黄河の氾濫にも多少は苦しんだかもしれないが、形成されたばかりの低湿地に氾濫する黄河の河水は、近くの海に流れ込んで広域的な氾濫にはならなかったから、致命的な災害は稀になったと推測される。竹書紀年は五帝代の治水に関し、「帝堯十九年、工人共に治河を命じた」「帝堯六十一年、崇伯の鯀に治河を命じた」「帝堯六十九年、崇伯の鯀を黜したと記しているが、何を措いても成し遂げねばならない重大事態だった様には記していないからだ。

荊の土木工事の技量が如何に優れていても、黄河本流の治水が可能だった筈はないが、夏王朝期の記録には治水の記事がないから、夏王朝期の黄河は青州から離れた北方を流れていたと推測され、竹書紀年に記された上記のが、黄河を指したのかも定かではない。

は官位から退ける事を意味するが、その意味の初出は金文だから、五帝時代に何を意味したのか明らかではない。は入れ墨に関する意味を含んでいるが、製塩業者は入れ墨を習俗としていたから、夏王朝期の入れ墨が刑罰を意味したとは考え難く、鯀を黜したとの記述は、業務が完了して役目を解いただけであるとも解釈される。史記は治水に失敗したを罰したと記しているが、竹書紀年と同じ出典から話を創作した際に、の意味を取り違えた疑いがある。

いずれにしても広大な低湿地に入植した荊は、水害を恐れる必要がなくなると、低湿地の奥深くまで稲作地に変えていったと推測されるが、その様な地域でも洪水は皆無ではなく、但し洪水の水嵩は高くならなかったから、湖北省では煉瓦で家屋を形成していた人々が、高床式の住居や倉庫を建設し始めたと推測される。その為には膨大な量の樹木が必要になり、炊飯の需要も加えると木材需要が高まったが、製塩業者はそれ以上に薪炭を消費していたから、森林の管理と伐採にも両民族が共同で関与する必要が生れた。

夏王朝の成立は、それらの課題を解決する事によって実現したと想定されるが、夏王朝はそれらの課題を解決する為に生まれたのではなく、むしろそれらの解決手法を製塩業者の法治主義の成果として、塩を販売する商流と共に周辺民族に法治主義を広めたから、中華全土を網羅する夏王朝の版図が生れたと考えられる。つまり夏王朝は中華の塩の商流を統括したのではなく、それに纏わる交易の仕方も、法治主義的に統括したと考えられる。

諸民族には習俗としての禁忌があり、民族秩序を維持する伝統的な法規も既にあったが、夏王朝の法規はそれに抵触するものではなく、それまで諸民族が行っていなかった交易に関する法規であり、国際条約的な法規だったから諸民族には受け入れ易かった事が、夏王朝の広域的な版図の形成に繋がったと推測される。

歴史の諸事情を検証すると、夏王朝が塩と宝貝貨の交換価値を固定化した可能性が高いが、それは極めて画期的な事だった。塩が単純な商品であれば、輸送コストが異なる青洲と湖北省では価値が異なる事は当然の帰結だが、塩と宝貝貨の交換価値を固定する為には、その常識を破る必要があったからだ。つまり製塩業者と輸送業者が連携し、青洲では価格が高い塩の販売によって過剰な利益を上げながら、湖北省では出血価格で交換を成立させる必要があり、青洲の荊がそれに同意する必要があった。青洲の荊が湖北省と共通の宝貝貨を使いたければ、それを呑む事は必須事項だったし、塩の価格が高い故に郷里の湖北省が過疎化し、寂れていく事には耐えられなかったから、同意が成立したと考えられる。

それがどの様な手段で何時実現したのかは、竹書紀年の記述を参照しながら追跡する必要があるが、これが実現した後で塩の生産性が徐々に高まると、それに連れて製塩業者や運送業者の負担が軽くなった事は間違いなく、それを含む経済の活性化によってインフレが進むと宝貝貨の供給量が激増したから、その供給者だった関東部族の負担が増加した事も間違いない。既に指摘した様に関東部族は宝貝貨を使い易くする為に、穴を開けた宝貝貨を多量に製作して一個の価値を低減していたから、関東部族の負担は宝貝の単なる採取より遥かに重かったが、製塩業者と関東部族が負担割合を協議すれば良い事であって、関東部族が一方的にそのコストを負担したわけではない。つまり関東部族にとっては、弓矢交易を失った縄文人の失業対策にもなる事業だった。

 

2-4 山西に北上した製塩業者

陶寺遺跡は臨汾市の南端の汾河の脇にあり、集落の周辺で稲作やアワの栽培が可能な地域であり、河川交通にも配慮した商業的な拠点集落に見える上に、塩城市の南端にある解池からやや離れた場所にあるから、荊は耐寒性を高めた温帯ジャポニカの北上限界を探る為に、この地域に入植したと考えられるが、それとは異なる事情でその集落が発展し、都市と言える状態になったと考えられる。

陶寺遺跡(BC2500BC2000)はこの地域に初めて生まれた稲作民系の城郭都市で、塩湖である解池の北100㎞の洪積台地上にある。この台地は前回の間氷期に形成された湖の、湖面に合わせて形成された沖積平野で、湖の流出口が黄河によって侵食されたから、陶寺遺跡が営まれた時代の湖面は低く、既に消失してしまっていた可能性が高いので、沖積平野は汾河の河床より標高が高く、汾河の洪水が及ばないエリアを形成していた。

集落はBC2500に生まれたが、やがてそれが発展して1.8㎞x1.5㎞の城郭都市になり、内部は王宮、外郭、倉庫、墓地、天文観測用の壇、手工業用の作業部屋、下層貴族の居住区、庶民居住区などに区画された。都市住民は解池で産出した塩を交易し、都市の周囲には彼らを養う稲作地やアワの栽培地が、広大に広がっていたと想定される。

壇を作って太陽の位置を観測したと想定される遺物があり、太陽暦を使っていた事を示唆しているが、太陽暦は農耕民族には必要がなかった事と、太陽や星の運行を観測するだけであれば、仰々しい建造物を作る必要はなかった事は既に指摘した。従って農事には必要がない天体観測所を建設した動機が、この地域に稲作民族が北上した理由を示している。

世界各地の古代遺跡から天体観測の証拠を示す報告があり、それを建造した目的は権力者の偉大さを示す為だったと考えられるが、この遺跡には天体観測施設の規模に匹敵する権力者の墓はなく、権力を誇示する為ではなかったとすると、稲作地の北限に到達した達成感がこの施設の建造を促した事になる。この様な施設が発見されると、王朝史観に囚われて古代人を蔑視したがる歴史学者は、原始的な宗教の祭祀に結び付けたがるが、自然の猛威との闘いに明け暮れていた古代人は、現代人より合理的な発想を持っていたと想定され、原始宗教とこの遺跡を関連付ける事には再考の余地がある。

BC2500年に入植した稲作者が天体観測施設を建造したのは、温帯ジャポニカを栽培していた荊が入植したからだと考えられる。先に指摘した様に、温暖期初頭に昇温がオーバーシュートした故に、温暖期が始まった直後のこの地域は、荊の稲作が成立する温暖な気候地域になったが、やがてオーバーシュートが終わると温帯ジャポニカの生産性が激減し、入植した荊は洛陽盆地に南下するか、青洲に再入植したと考えられる。既に青洲への入植が始まっていたから、オーバーシュートが終わって気候が幾分冷涼化しても、鄭州以南では温帯ジャポニカの栽培が可能である事が分かっていたからだ。

この時期の荊は、気候が更に寒冷化する事を恐れていたかもしれないが、弥生温暖期や平安温暖期の温度変動事には、オーバーシュートが終わって気候が冷涼化しても、再び微妙な昇温期になる事を示しているから、不安は完全に解消しなかったにしても、希望が持てる状態である事を認識していただろう。日本列島では昇温過程にあった事も、荊には朗報だったと推測される。

都市に発展した時期の陶寺遺跡では、貴族の墓から良渚文化の影響が見られる玉戉(まさかり)、玉琮、玉璧が発掘され、この都市の建設者は良渚文化の後継者だった事を示しているが、沿海部の玉器より製作技巧が劣っている。

これらの遺物は、この都市の住民が浙江省起源の製塩集団だった事を示しているから、この地域は製塩業者が栽培していた、熱帯ジャポニカの栽培地になった事を示唆している。熱帯ジャポニカは縄文中期寒冷期の北関東でも栽培していた品種だから、耐寒性には問題はなかったが、生産性が低いから穀物の供給量は不十分だった。浙江省で栽培していた暖温帯性の堅果類も、山西の冷涼な気候では生産性が劣化したから、この地域の製塩業者は別の食料も得る必要があった。

彼らの選択可能な手段は、冷温帯性の堅果類とアワを栽培していた韓族を招く事しかなかったが、出土した稚拙な玉器を製作したのは韓族だったとすれば、彼らはそれに成功していた事になり、韓族の製作技量は濊と比較すると劣っていた事も示している。つまり沿海部の丘陵地で発掘される精巧な玉器は、青洲の製塩業者が使ったものではなく、その儀礼文化を真似たアワ栽培民族が使ったものでしかなかったが、それらは濊が製作したものだった事を示し、山西や浙江省の製塩業者は技量が劣る韓族を招いた故に、その事情に相応しい玉器を使っていた事になり、その論理的な結論としては、青洲の製塩業者は濊が製作した玉器を盛んに使っていたが、それらは深く埋もれた低湿地の遺物だから発掘されない事になる。

韓族が山西に入植する事によって食糧事情が充足され、陶寺遺跡が示す豊かな都市文化を形成できた事は、韓族が栽培する冷温帯性の堅果類が必要だった事を示している。或いは堅果類を食べていたのは韓族だけで、製塩業者はアワを食べていたのかもしれないが、韓族のアワの生産性がその域に達し、アワを他者に提供できる生産性を得ていた事は間違いない。焼畑農耕者に匹敵する生産性を得ていた事になり、北陸部族と種子や栽培方法に関する連携があった事を示唆している。この地域の平均気温は東日本並みに低いが、夏は猛暑になって雨も降るから、栽培期間が短いアワに適した栽培地だった。

朝鮮半島にこの様な遺跡がない事は、交易による富が都市を建設する原動力になり、それを実施する為の文化力の形成には、多民族が連携するネットワークが必要だった事を示唆している。周代の韓侯や戦国時代の韓は、この韓族を起源とする人達だったと推測され、魏志韓伝に記された辰韓人の起源は、この地域の人達だったと考えられる。

以上の結論としては、気候のオーバーシュートが失われて荊が撤退すると、陶寺遺跡に残った製塩業者は韓族を誘って食糧事情を確保し、解池の製塩事業によって富を得た事により、城郭都市を建設するに至ったと推測される。

陶寺遺跡の玉器の形状や墓制が良渚文化の系譜を示し、石家河遺跡のものとは異質である事は、荊がいなくなってから都市が生まれ、製塩業者と韓族の集積地になっていた事を示唆し、湖北省の石家河遺跡が1.3km 1.1kmであるのに対し、山西の片田舎にある陶寺遺跡が1.8㎞x1.5㎞もあり、石家河遺跡の2倍の面積を有する大都市になっていた事も、この遺跡が製塩業者のものだった事を示唆している。この地域の稲作が湖北省並みの高い収穫を得ていたとは考え難く、製塩によって豊かになった人々の集落だったと考えざるを得ないからでもある。

従って温暖期の初頭の昇温のオーバーシュート期には、温帯ジャポニカの栽培が可能になったから荊が北上したが、それが100年程度で終わると荊が撤収し、製塩業者と韓族が共生する奇妙な集団がこの遺跡の住民になったとの結論に至る。荊の撤退によってこの遺跡が製塩業者の独壇場になり、荊であれば身分不相応であると感じる様な大きな都市に成長したとすれば、上記の状態を無理なく説明できるだけではなく、荊と製塩業者の生業観や文化の違いも推測する事ができる。

荊の身分秩序は倫理観を基底にして形成されていたが、法治と儀礼によって統制する製塩業者の身分制では、建築物の壮麗さや玉器の使用によって、権力に箔を付ける必要があった事を示しているからだ。

この集団が周王朝の起源集団だったと想定されるが、周王朝にはY-Rも参加し、熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B5は、縄文晩期寒冷期にアワを栽培していた韓族のmt-Dに浸潤されたと想定され、それが周王朝と陶寺集団の主要な違いだったと想定される。山西や陝西のmt-DD5/D4比率が判明すれば、韓族のmt-Dがどの程度残存しているか分かるだろう。

良渚文化と同様に共同墓地が形成され、貴族層だったと推測される富裕者もそこに纏めて葬られたが、良渚期と比較して墓の規模に大きな差が生まれている事は、階層の重層化が進んだ事を示し、この地域の生活環境が厳しかった事を示唆している。しかし依然として共同墓地を使用した事は、酋長は構成員から隔絶した存在ではなかった事を示している。

その状態を殷墟の王墓などと比較し、発展段階の墓制だと主張する人がいるが、それが浙江省起源の製塩業者の墓制だったのであって、暴力的に中央集権制を進めた殷王朝と比較する事に意味はない。殷人が形成した武断的な中央集権国家では、生業的な必然性を持たない王の権威を高める為に、大規模な城郭都市と巨大な王墓を形成し、何百人もの人々を殺して王墓に殉葬したが、それは地域分権的な体制を採用していた粤人や、稲作地を形成する為に生まれた荊の習俗的な統制とは、統治思想が異なっていたからであるに過ぎないからだ。

殷商王朝の並行期に営まれた武漢の盤龍城遺跡や、殷王朝の並行期である江西省の呉城文化遺跡は、小規模ながら文化の先進性を示しているが、大規模な王墓は発見されていない事がその事情を示している。発展途上国の都市に高層ビルが林立しても、それが文化力のバロメーターにならない事と同じだから、殷人の巨大建造物は、庶民が営んでいた交易社会の実態を反映するものではなく、権力の不安定性を示しているとも言えるものであり、建造物や華麗な遺物よって王朝の進化を測る事に、学術的な意味はない事を認識するべきだ。交易性と対立する武断的な土俗を、濃厚に伝えている現代中国の諸都市に、近代的な高層ビルが林立している矛盾を指摘する方が、学術的な姿勢であるとも言えるだろう。

陶寺遺跡の後期の溝から、暴力的に殺害されたと見られる、青壮年男性の散乱した頭骨や人骨が多数発掘され、戦争捕虜などを殺戮した痕跡だと考えられている。殺伐とした龍山文化圏に北上した人々が殷人と深刻に対立した場合に、武力的に克服する場面が多々あった事は想像に難くない。この遺跡の後継集団が、千年後に殷人の王朝を倒して周王朝を形成したと考えられるから、殷人との対立関係が既に始まっていた事を示唆している。縄文前期の荊は仰韶文化を形成したY-Rと共生的に共存し、陶寺遺跡の人々は斉家文化を形成したY-Rと合体して西の塩商人になったが、殷人は他民族とは共存できない暴力的な民族だったからだ。

陶寺遺跡が石家河文化(BC2500年~BC2000年)と同期して生まれた事は、温暖期が到来した時期を示し、夏王朝の成立前に石家河文化や斉家文化と同期して消滅した事は、荊と製塩業者の民族拠点が青州に集約され、新しい塩の商流が生れた事を示している。

岡村秀典氏はBC3000年~BC2000年が中華文明の形成期で、先ず東シナ海沿岸部に玉器製作技術が伝播し、その後内陸に伝わった」と指摘しているが、BC3000年~BC2000の前半期は良渚文化期で、後半期の沿海部の玉器は箕子朝鮮が製作したと考えられ、内陸に伝搬したのは製塩業が成立したからであり、韓族が移住したからでもあった。

石家河文化圏の玉器には造形に優れた荊独自の器形がみられるが、良渚で生まれた形状は含まず、沿海部の玉器が示す良渚文化の発展形としての、儀礼文化的な形状も含んでいない。

沿海部の玉器の一部に石家河文化の影響が見られるが、主流は良渚的な形状である事は、沿海部に移住した荊が製塩業者の統治文化を受け入れた事を示し、竹書紀年の記述と整合している。

製作技巧が劣る陶寺遺跡の玉器は、沿海部とは別の加工集団が山西にいた事を示しているが、玉器製作には高度な技能と工具が必要だから、沿海部の工人の一部が山西に移住したが、沿海部との交易関係は継続していた事になる。

この時代に最も優秀な工人だった濊は3民族の共生集団だったから、河川漁民が活動できない山西には移住しなかった可能性が高く、その様な制約がなかった韓族の一部が山西に移住した事になる。つまり山西に移住した韓族には濊ほどの技能はなかったが、彼らの主要な役割は工人になる事ではなく、優れたアワ栽培者兼堅果類の栽培者として、生産性が低い山西の熱帯ジャポニカ稲作に起因する食料不足を、補填する事だったと想定される。

ウィキペディアは朝鮮人に多いO1b2a2Y-O2b)が山東と山西にも分布していると指摘し、上記の推測の根拠を示している。山西は他の華北地域とは異なってY-N比率が高い事も、この地域の人々の民族性が他地域とは異なっていた事を示唆している。このY-Nは殷人の遺伝子ではなく、古墳寒冷期に華北に流入したシベリア系トルコ人の遺伝子であると想定され、周を構成した製塩業者や韓族は、縄文後期~晩期には殷人に囲まれて困難な状況もあったが、山東や淮河流域にいた漢族程の迫害は受けなかったから、漢族程には殷人を恨む伝承は持っていなかった上に、韓族のmt-Dには漢族のmt-D程の排他性はなかったからだとすると、山西のmt-Dには韓族のmt-Dが多分に含まれていた可能性があり、宋代に漢族の民族意識が高揚しても、山西の人々にはその様な意識は生れていなかった可能性もある。

 

2-5 荊が北上した青州と、青洲に隣接する山東

山東龍山文化期(BC2700年~BC2300年)がBC2300年に消滅したのは、温暖期になったBC2500年に荊が青州に入植したからではなく、BC2300年頃に製塩業者が渤海南岸入植し、権力機構を装飾する儀礼文化を持ち込んだから、その影響を受けたアワ栽培者も、権力を飾る道具が変化した事を示している。荊は製塩業者が渤海南岸に移住すると、高級陶器を製作して塩との交易品にする動機が薄れ、高級陶器の製作目的が変質したから、アワ栽培者の権力機構を維持する道具が、荊の陶器より殷人受けし易い製塩業者の玉器に変わった事を以て、「山東龍山文化が消滅し、華北の文化に変化が生れた」と解釈しているのであれば、お笑い考古学になってしまう。

関東部族が湖北省の荊の物産を持ち込んだり、北陸部族が濊の物産を持ち込んだりしていた時代に、獣骨交易などを統制する組織が生れ、その酋長の権力機構が進化して権力を装飾する道具を買い込んだが、それが変化しただけでは、淮夷の自律的な変化が起こったのではなく、権力を装飾する道具立てが変わっただけであるが、それ以外に進化の要因があったとは考え難いからだ。

夏王朝期になっても青州と山東は依然として海峡や湿地が隔てていたから、山東の淮夷は夏王朝の文化に馴染む機会に乏しく、淮夷は夏王朝と武力的に対立し続けていただけで、交易関係が生れた事を示す「候」身分の者は生れなかった事が、その事情を示唆しているからでもある。

青州に入植した荊の活動歴を時代区分すると、入植してから稲作の生産性を高めて生活が安定し、それと並行して製塩業者が入植し、塩の入手も容易になるまでの時期、五帝の統治によって二つの稲作民族の間に政治的な安定が生れた時期、夏王朝が成立して中華世界の交易を法治によって統合する体制が確立し、中華世界の経済活動が活性化した時代に区分する事ができる。

五帝時代がBC2200年に始まったとすると、青州に稲作民が入植して彼らの生活が安定し、製塩業者も入植して塩の入手が容易になった頃になり、山東龍山文化が終焉したBC2300年に特別な意味を持たせるとすると、製塩業者の大量入植によって良渚的な玉器が、青州に多量に持ち込まれた時期だったと考えられる。

それによって青洲の荊には、黒陶を製作する動機がなくなった事は間違いないが、湖北省の荊にはその動機が残存していたかもしれない。しかし青州に移住した荊にはその様な陶器を製作する意欲が失われていたから、湖北省に塩を運び込んでいた関東部族が、青洲の荊でなく湖北省の荊と共にアワ栽培者の集落を訪れ、黒陶の器形などの御用聞きを続けていたとは考え難い。馬家窯文化圏や斉家文化圏の陶器も、実は仰韶文化期に引き続いて荊が製作していたとすると、その答えは其処にあった事になる。

陶器は遺跡の遺物として残り易いから、考古遺物としては注目せざるを得ないが、その背景には多様な物品が交易されていたとすると、それが答えになるかもしれない。つまり色々な事が起こって繁忙になった関東部族は、湖北省に出向く機会が乏しくなったから、BC2000年までの湖北省の塩はY-Rが供給していたとすれば、湖北省では縄文後期温暖期が始まった直後から、黒陶を製作しなくなっていたと推測され、製塩業者が渤海南岸に移住する前は青洲に入植した荊が、淮夷の為に黒陶を製作していた可能性が高い。

関東部族としては、シベリアでは縄文後期に黒曜石の矢尻の付いた矢の需要は失われたが、それは文化の先進地だったシベリア事情であって、文化の谷間だった沿海部のアワ栽培者の需要は、縄文後期末まで継続していたから、そちらの交易も依然として重要だった。つまり八ヶ岳山麓の矢尻産業は縄文後期も、衰退しながら継続していのは、その主要な需要者が中華世界のアワ栽培者だったからだと推測され、青洲の荊が生産する色々な物品も、それに加えてアワ栽培者の獣骨交易に使う事ができた。

当時の山東は東シナ海から湾入する海峡によって青州と隔離されていたから、淮夷と稲作者は疎遠な関係にあったが、鄭州南部~商丘地域にいた大陸側の殷人は、荊や製塩業者と頻繁に接する様になったから、五帝代にはかなり文明化したと推測され、夏王朝が成立すると、黄河北岸の殷人にも稲作文明が波及した事を竹書紀年が示しているが、夏王朝が終わるまで山東は文明化しなかったし、周代になっても淮夷と呼ばれる人達がいた事も、竹書紀年が示している。

周代になっても淮夷は残存していたが、青洲と繋がった地域では殷人にも、徐、奄などの文明的な名称が付与されていたからだ。徐は現在の徐州近辺の地域集団だったと推測されるので、殷代に内陸化した地域の殷人は、ある程度文明化した事を示している。

従って山東の丘陵地の遺跡から発掘される玉器の変遷から、夏王朝の事情を窺う事はできないと考える必要がある。それを現代的に言い直せば、アメリカと敵対しながらアメリカの外見的な文化を真似ている、中国の街並みを見ながら、アメリカの民主主義の進展事情を窺う様な行為だからだ。

夏王朝が形成された目的は、経済を活性化して交易を円滑に行う為の汎用的な制度を確立するだけの実用的なもので、後世の中華王朝の様に武力征服を根拠とする収奪的なものではなかったからだ。その主要な経済活動は、浙江省で生産した塩を関東部族が湖北省に運び上げ、それを荊の有力者が生産した産業物やコメと交換し、荊の有力者が宝貝を使いながらその塩を民衆に配布するという、既に成立していた交易活動を青州に移転する事から始まり、青州では製塩業者と荊が直接的な交易関係を形成できた事から、両地域の仕組みを調整して統合された経済体制に転換し、交易活動を円滑に発展させる事だった。

竹書紀年は五帝時代にその課題がある程度解決したが、懸案が残っていたから最終的な解決を禹に委ね、禹がその課題を解決して夏王朝を樹立した経緯を事績として記述している。禹が採用した解決策は、塩と宝貝貨の交換比率を固定化し、製塩業者が良渚文化期に発展させた儀礼と法規による統治を中華世界に拡散する事だったと考えられるが、それに関する事は竹書紀年には記されず、途上で起きた権力闘争的な事情だけが記されている。しかし夏王朝が中華の九州を統括したのであれば、夏王朝の交易圏に多数の民族を取り込み、宝貝貨の普及と共に交易の統制も進めた事になる。つまり宝貝貨と塩の等価交換方式を確立すると、青洲から離れた内陸でも安い塩を入手できる様になったから、夏王朝の法規と共にその制度が及ぶ範囲に塩の商圏が拡大し、青海湖や解池の塩の交易者は中華世界から撤退したと推測される。

その様な夏王朝には中央集権的な統治組織はなく、各民族の自治的な政権の寄せ集めの体制だったから、夏王朝の設立目的は、それを統合する統治原理を創作する事だったとも言える。

史記、漢書、魏志倭人伝に記された、「夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身した」との記述は、夏王朝の本質を示す伝承の肝だったから、これらの史書がそれを記している事になる。この時期の夏王朝のは、製塩業者の習俗だった文身(入れ墨)をしていなかった事を示しているから、荊の出自だった事を示している。つまり夏王朝の統治者が、浙江省出身の製塩業者だったの系譜から、数世代後には荊に交替した事を示しているが、この短い言葉が、夏王朝の基本理念は荊がになっても継承された事情を示しているから、それを理解する為には、竹書紀年が示す夏王朝の歴史を検証する必要がある。

 

2-6 夏王朝の歴史を具体的に検証する為の予備知識

2-6-1 夏王朝の実態

夏王朝は交易を円滑に行う為の規約を制定する組織で、それを順守する民族が参加したから、参加した民族には夏王朝に対する被征服民族的な従属意識はなく、後世の征服王朝とは異質な存在だった。参加した諸民族は交易の利便性を得る為に合議し、制定した規約に従う事を以て王朝への参加意思としたから、形式的には王朝統治が広範な地域に及んだが、それは領土ではなかった。但し夏王朝は新たに参加した未開民族を啓蒙し、秩序認識を浸透させる機能を持っていた。これは文明中心から文化が拡散する過程で、何処にでも起きた現象だが、その様な事態が自然派生的に進行したのではなく、規約の履行を強制する夏王朝の法規的な仕組みが、未開民族に対する強制的な文明化圧力になった点に特徴があった。未開民族でも集団内部に交易規約は存在したが、夏王朝の法規にはそれを高度に組織化させる手順が含まれていた点に、大きな特徴があった。現代社会のISOにも同様な機能があり、規約に従った組織を形成し、その組織が規約に従って機能しなければ認定組織にならないが、夏王朝の規約にも類似した機能があったと考えると分かり易い。

地域集団はそれに基づいて交易を管理する政権を形成し、その政権が個々の交易者を監督する制度の創設が、夏王朝に参加する基本要件であり、その様な政権が夏王朝に参加する事により、夏王朝の統治領域が拡大した。

元々地域政権は交易を組織化する事によって生まれていたから、この様な夏王朝の制度は地域政権の利害と一致しただけではなく、地域政権が夏王朝によって認証される効果も期待できたし、地域政権が夏王朝によって交易の商流を認証される効果も期待できたから、地域政権も夏王朝に積極的に参加する事に大きなメリットがあった事が、夏王朝の統治領域が急膨張する原動力になった。

夏王朝はその上に、塩と等価交換できる宝貝貨を普及させて交易活動を活性化したから、安価に塩が入手できる事や宝貝貨の利便性が加わる事も、夏王朝に参加する意味を高めた。

後世の話しになるが、元王朝を倒した明王朝が雲南を征服すると、雲南では依然として宝貝貨が使われていた事が、夏王朝の版図の広さを示している。また明王朝が征服した雲南に派遣した官吏に、宝貝貨を支給する為に琉球王朝に膨大な量の宝貝を発注した事が、夏王朝の宝貝貨の出所を示唆している。

漢書はその事実を認めたくなかったが、中華の起源として良く知られていた事なので、地理志の冒頭に以下の様に記した。

昔黄帝在り、舟と車を作って不通(の場所)を済(わたり),天下を旁行した。万里を方制し、野を画して州に分けた。百里を得ると之を国として万区(を形成した)。・・・天下を分絶して十二州と為し、禹を使って之を治めた。(禹は)水土を平らげると制を九州に更(あらため)た。

夏王朝の法規を明らかにする為に、漢字文がこの時期に生まれて急速に発達し、法規を守る諸民族の意思疎通の媒体になった。情緒的な表現力に乏しく時制がない漢字文の文体は、法規を表現する為に発達したと考えられている事とも整合し、上記の根拠として挙げられる。漢字文の詳細はその5で検証し、先ずは歴史の流れを概観するが、ISOは文書管理の規約でもあり、文章がなければ成立しない事は認識して置いて頂きたい。

殷王朝と周王朝は華北しか統治しなかったので、多くの史家が考古遺物に乏しい五帝時代や夏王朝の存在を否定し、史記を参照して中華文明は華北で発展した事にして、殷王朝や周王朝の領域拡大と共に中華世界が拡大したと主張している。これは漢王朝の統治を正当化する為に、史記が捏造した嘘の歴史認識の強化に貢献しているだけで、事実を論理的に検証していない結果であるとも言える。

日本史についても言える事だが、海岸にあった漁民の集落跡や、低湿地にあった稲作民族の建造物は、その後の土砂の堆積によって埋もれてしまうから、畑作民族や狩猟民族の遺跡を集中的に発掘せざるを得ない。従って正しい歴史認識に至る為には、考古学者がそれをどの様に認識するのかに懸っているが、発掘至上主義に陥っている考古学者には、歴史を論理的に展開する発想がないから、歴史認識を誤る典型事例になる。遺伝子分布が公表された段階で、遺伝子の拡散事情は従来の歴史観では説明できない事が明らかになったから、それを説明できる新しい論理を構築する必要があるが、考古学者の発掘至上主義がそれを妨げている状況があるからだ。縄文後期温暖期に青州に北上した稲作民族が夏王朝を形成し、中華文明はそれを基底にして発展した事を前提とし、それを理論的に展開すると東アジア史を合理的に解釈できるからでもある。

アワ栽培民族が樹立した周王朝と漢王朝が、それぞれの立場で歴史を偽り、稲作民族の文明史を抹殺したが、それぞれの王朝の個別の理由により、異なる史書に異なった事績を書き留めたから、偽った理由を論理的に解明する事により、夏王朝の実態が明らかになるからでもある。

この観点では竹書紀年の夏王朝に関する記事も、青州を中心とした華北の事績しか記さない不誠実さがあるが、周が王朝の権威を示す為に史書を編纂し、竹書紀年はその抜粋である事を前提にすれば、五帝代~夏王朝の記事も、周王朝の統治範囲だった華北の事績しか記載しなかった理由が明らかになり、その範囲内では有用な史書になるからでもある。

しかし史記は創作物語に満ちているだけではなく、交易に疎いアワ栽培民族の歴史認識では、交易者の組織化から始まった政権の誕生や発展は追跡できないから、史書としての価値は竹書紀年より大幅に下がる。それを別の角度から言えば、交易に疎いアワ栽培者の政権だった漢王朝は、古代政権が交易組織から発展した事実を全力で否定する必要があり、史記はその趣旨に沿って創作されたから、歴史の検証には殆ど役に立たないが、意図に反して掲載せざるを得なかった事績に関しては、信憑性が高いとも言える。

従って夏王朝の歴史を検証する際に、竹書紀年に青州に存在したかの様に記されている政権は、夏王朝とは呼ばずに華北夏王朝と呼ぶ必要がある。この時代には民族毎に政権があり、それが各民族を統治する唯一の統治主体だったから、青州を統治したのは青州王朝であって夏王朝ではなかったが、それが夏王朝の母体であり中核組織でもあったから、それを華北夏王朝として広域的な夏王朝と区別する必要があるからだ。

広域的な夏王朝の実態は、各民族が合議して交易ルールを策定する場でしかなく、華北夏王朝はその会議に参加した代表者でしかなかったが、夏王朝の創始者だった禹は夏王朝のでもあった。しかしそれを継承してになった荊人が、自分は夏王朝のではなく華北夏王朝のであると宣言し、夏王朝と華北夏王朝を分離した事を、魏志倭人伝、史記、漢書に記された「夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身した」との記述が示している。この時代を記した全ての史書にこの記述がある事は、当時の人々がこれを画期的なエポックメイキングを示すキーワードとして、伝承していた事を示しているからだ。

しかし竹書紀年はを意図的に混同し、歴史を歪曲して夏王朝の実態を隠蔽した。しかし竹書紀年、史記、漢書の目論見が分かれば、この謎を解く事ができる。華北夏王朝が滅亡して殷商王朝が成立しても、稲作民族は夏王朝の合議体を維持し、秦の始皇帝が中華を武力統一するまで継続した事が分かれば、事情が鮮明になる。

その証拠が竹書紀年に隠されているが、竹書紀年、史記、漢書がそれぞれの立場で隠蔽した事情は、周辺環境や前提条件を明らかにしながら順を追って解明する必要がある。つまり竹書紀年の元になった史書を編纂した周王朝は、王朝成立後に夏王朝から脱退して夏王朝と敵対する関係になったから、夏王朝の事績から自分の都合の良いものだけを選び出し、周王朝の歴史として編纂した事を前提に、竹書紀年の文章を分析する必要がある。

周王朝下の漢族諸侯は政権の成立当初から、その様な周王朝の影響下にあったから、稲作民族が維持していた夏王朝とは無縁の存在だった。つまり史記が描く春秋戦国時代の華北の諸侯は、夏王朝とは縁がない人達だった事と、夏王朝に参加していた呉と楚についての史記の記述は、空想的な虚構である事を認識して置く必要もある。史記の創作である呉越の逸話が特段の注目を浴びたのは、漢族の歴史である華北の事績には、ある程度の事実を反映させる必要があったが、稲作民族の歴史は完全に抹消する必要があったので、事実関係を確認しなければならない制約から免れていた状況を基底に、分かり易い物語に仕立てる事ができたからだと考えられるが、それだからと言って、史記や漢書が描く華北諸侯の歴史は正しいとは言えない。

竹書紀年は周王朝の歴史を記した史書として、周王朝が統治しなかった地域に関する記述は少なく、その記載も内容も不正確で、夏王朝については何も記していない。しかし不都合な事績を抹消したり記述の一部を隠したりするだけで、嘘を書き込む事はしなかった事を、周王朝の始祖である武王が夏王朝の支援によって殷王朝を倒した事が、武王紀の記述に隠す意図を示しながら明示的に記されている事が、周王朝の歴史認識を示している。

史記は周の歴史認識をある程度は引き継いではいるが、漢王朝には周以上に隠したい歴史があり、竹書紀年の様に不都合な事績を隠すだけでは、漢王朝を正当化する通史の編纂は不可能だった。従って編纂方針は、捏造に次ぐ捏造にせざるを得なかったから、各所に矛盾がある。漢書はその矛盾を糊塗するものだったが、班固がそれをする事によって新たな矛盾を抱えただけではなく、漢代の漢族が何を史記の矛盾として指摘したのかを示唆している。

従ってこのHPでは竹書紀年の記事は文言まで吟味するが、史記は竹書紀年に記されていない事績の推測と、竹書紀年の曖昧さを検証する用途にしか使わない。漢書は三国志東夷伝が批判の対象にした書籍だから、論衡なども含め、後漢王朝が何を偽っていたのかを示す具体的な資料になる。

 

2-6-2 山東龍山文化期から漢王朝成立までの、渤海南岸~東シナ海沿岸の諸民族の動向

竹書紀年は夏王朝の中心地が青州だった事を示し、稲作に適した低湿地が青州に広がっていた事を示唆しているが、現在のこの地域の乾燥した気候から、この地域が稲作地だった事を連想する事は難しく、現在の青州には黄土が3070mも堆積しているから、地理的な景観も当時とは全く異なる事が、夏王朝史の復元を困難にしている。

縄文後期に荊が入植したのは黄河が形成したデルタの低湿地で、当時の海洋は現在より温暖で降雨が多かったから、温暖期の青州は稲作適地になった。夏王朝を形成した稲作民は、アワ栽培者が形成した殷商王朝の様な、武力を基底にした中央集権的な政体は採用しなかったから、大きな宮殿や王の権威を飾る多数の奢侈品が、黄土の下に埋もれているわけではない事も、華北夏王朝の考古学的な存在確認を困難にしている。

周礼や漢書地理誌が、弥生温暖期の青州は大麦とコメの産地だったと記し、現在より気候が温暖・湿潤だった事を示している。鹿島沖の海底堆積物が示す海面水温は、弥生温暖期には現在より1℃高温で、縄文後期温暖期は弥生温暖期より2℃高温だった事を示しているから、縄文後期温暖期の青州は弥生温暖期より高温多湿で、夏王朝期の青州はコメの産地に相応しい地域だったと考えられるから、史書の記述と古気候は整合している。

戦国期の山東省の遺跡から、コーカソイドの特徴がある人骨が発掘されるのは、大麦の栽培者だったY-Rの居住域だった事を示し、青州が大麦の産地だったと記す周礼と一致しているが、竹書紀年にはY-Rの存在を直接示す記述はない。しかしこのY-Rの存在は、周王朝がアワ栽培者だった殷人や淮夷を駆逐する為に、斉家文化圏の人々を山東に移住させた結果であると推測され、殷人を華北から追放する闘争が長期化し、血生臭いものであった事を示唆している。

縄文後期温暖期に青州に北上した稲作民は、縄文晩期寒冷期に揚子江以南に南下し、弥生温暖期に再北上したから、青州にいたY-Rが弥生温暖期に彼らを迎え入れた事になる。荊とY-Rは仰韶文化期以降の相棒で、塩の交易では長い付き合いがあり、殷人の暴力的な挙動の被害者である点も共通していたから、弥生温暖期の荊の再入植はY-Rの歓迎の下に進行したと考えられる。弥生温暖期に青州に北上した稲作民は、弥生温暖期が終わった漢末に再び南下したから、現在の華北には殆どいないが、大麦の栽培者だったY-Rには気候を理由に他所に移住する動機はなかった。それにも関わらず、現在の中華世界にY-Rが殆どいない事に違和感があり、その理由がこの地域の歴史を解く鍵になる。

周代~弥生時代前半期は青銅器時代だったから、鉄器を使って大規模な灌漑水路を作り、稲作地を大規模に拡大する時代ではなく、稲作者は低湿地を活用し、大麦栽培者は台地上で栽培した時代だったから、両者の農地は競合しなかったが、アワと大麦は栽培地が競合した。縄文後期までの山東~河南の丘陵地はアワ栽培地だったが、周代~春秋時代に大麦の栽培地に変わった事を、周礼や漢書地理志が示している事になる。つまり周代に青州からアワ栽培者がいなくなり、大麦の栽培者が入植した事を、周礼や漢書地理志が示しているから、殷周代に発生した大規模な戦乱の結果であると解釈する必要があるが、アワ栽培者の政権だった殷代に、青州からアワ栽培者が退去した可能性は極めて低い。

これを解く鍵は殷周革命にあり、その解明によって夏王朝以降の歴史が明らかになる。竹書紀年を参照してそれを検証するが、竹書紀年は周王朝の認識を示す史書であり、記事の選択には周王朝の偏見が濃厚に示されているから、先ずそれに関する状況を確認する必要がある。

竹書紀年は夏王朝の存在を秘匿し、殷商王朝の記事には被征服者から聞き取った事による不確かさがあるから、他民族の政権に関する情報の確度は低いが、自身の祖先系譜と見做す華北夏王朝の記事や、自身の王朝である周代の記事には合理性があるから、それらに関する記事は信憑性が高いと考えられる。特に殷週革命に関する記事は、周王朝の起源と正当性に関わる事だから、隠蔽はあっても記事そのものの信憑性は高いと考えられる。

史記はその様な竹書紀年とは異なり、高祖本紀には項羽本紀との矛盾が多々あり、何かを胡麻化す姿勢が露になっているから、史記と竹書紀年には大きな違いがある。王朝の起源を記した史書をひと括りにして、同類であると決め付ける必要がない事は当然だが、周王朝は自分の起源をできるだけ正確に伝えたい意思があり、漢王朝は自分の起源をできるだけ隠したい意図があったから、両者の記事の信憑性には雲泥の差がある。

この様な違いが生れた第一の理由として、殷周革命に臨んだ周には大義があったから、周王朝はその大義を大切に守って王朝の権威の根拠にしたが、楚漢戦争時の劉邦には大義と呼べるようなものはなく、嘘に満ちた言動を濃厚に含む陰謀と直接的な武力によって政権を得た上に、漢王朝の創始者は漢族の不倶戴天の敵である殷人系譜の人々だったから、漢王朝は史記を使って王朝統治を正当化する為に、後付けの理由を創作する必要があった事が挙げられる。

第二の理由として、劉邦が代表していたアワ栽培集団は平気で噓を言い合う殷人起源の人々を中核としていたが、周王朝には浙江省の製塩業者を起源とする法治主義の文化があり、その正義の根拠は歴史認識の正しさにあった事が挙げられる。浙江省では製塩集団が財力を使って水利事業を行い、それによって拡大した稲作事業を運営する為に、荊の様な厳粛な秩序を求めたが、浙江省の稲作民族の習俗には荊の様な高度な秩序観がなかったから、法規による秩序形成を目指したが、その根拠になる農地の私有権は、製塩による財力によって稲作地を形成した事に依っていたから、資産を保有する根拠を歴史によって明確にする必要があったからだ。

周王朝の正義はその様な祖先集団の認識を根拠にしたもので、祖先集団の法的な権威は誰が稲作地を拡張したのかという歴史認識を根拠にしていたから、正しい歴史認識が法治主義の根底にあった。法治主義が更に進化している現代社会でも、農地の所有権は相続を原則とし、元を質せば祖先伝来という歴史認識であり、農地の売買もそれを基本として成立し、売買契約の成立後に新しい歴史が始まるのだから、法治主義者の認識は現在にも通用する先進的なものだった。農地を開墾する事も企業を創始する事も、それを認知する法理論は基本的に同じだから、彼らにとっては王朝も一種の企業だった。

竹書紀年が禹の事績を詳細に記しているのは、周は禹と同じ祖先系譜を持っていた故に秩序認識を共有していただけではなく、禹は周の祖先の郷里である会稽もその傘下に収める、中華世界の製塩業者の元締めになったからだ。従って竹書紀年は華北夏王朝が滅亡する事により、周独自の歴史が始まったと主張している様に見えるが、それには矛盾があったから竹書紀年からそれを抽出する必要がある。

 

2-6-3 竹書紀年が記す殷周革命の最終章

竹書紀年を教材に夏王朝の歴史をその創設から淡々と説明しても、背景を理解していないと分からない事が多い。竹書紀年独特の記述方法にも慣れる必要があり、竹書紀年の具体的な解釈は殷週革命の終末期から始めると分かり易い。

殷週革命に関する事績を順序良く説明する為には、殷周革命の発端から始める必要があるが、竹書紀年の記事から歴史を分析するのであれば、周王朝の性格や特徴的な行動を、殷人の反乱時の事績から把握すると理解が進み易い。周の武王が殷王朝を倒して周王朝を樹立したが、5年後に武王が死んで幼い成王が擁立されると、殷人が大規模な反乱を起こしたので周がそれを鎮圧した。

古典漢文には時制がないので、訳文にも時制がない事を了解頂きたい。

殷人の反乱の顛末は、以下の様に記されている。

成王元年 武庚が殷を以て叛す。 

武庚は殷王朝の最後の王である紂王の子で、殷の祭祀を絶やさないために殷人の故地に封じられたが、武庚が率いる殷人(黄河の北の殷人)が反乱を起こした。

成王二年 奄人、徐人、及び淮夷が邶に入り、以って叛す。秋、風が大雷電を起こし、王は周文公を郊に迎え、遂に殷を伐つ。

黄河の北の殷人に同調した、黄河以南のアワ栽培者の、記の勢力が、に集結して反乱に加勢した。この文章には「武庚」が省略され、武庚の指揮下に入った事を示している。は殷墟の南の地名だから、殷王朝時代には直轄地だったと考えられる。風が大雷電を起こしたとの記述は、自然現象を記したのではなく、不穏な情勢を自然現象に託して表現したと解釈される。郊に迎えたとの記述は、大軍を率いて来た周文公を王都の郊外で閲兵した事を示唆している。

周初になっても山東のアワ栽培集団を淮夷と呼んでいたのは、夏王朝に参加しなかったので公式な集団名がなかっただけではなく、殷代になっても政権集団化しなかったが、は山東南部の集落名だから、周初には大陸とこの地域が完全に陸続きの状態になり、その地域のアワ栽培者は漢字名を持つ集団になっていた事になる。殷商王朝はトルコ系アワ栽培民族の王朝ではあったが、民族王朝ではなかった事も示している。

成王三年 王の師(軍隊)が殷を滅し、武庚を殺した。殷の民を衛に遷した。遂に(最後に)奄を伐ち(奄の軍と戦い)、蒲姑を滅した。 

成王四年 王の師が淮夷を伐ち、遂に奄に入った。

成王五年正月 王は奄に在し、其の君(奄の君)を蒲姑に遷した。

夏五月 王は奄から戻り、殷の民を洛邑に遷し、遂に成周(洛陽盆地の拠点)を営んだ。

鎮圧に3年も要した事は、殷人や淮夷の反乱が激しかった事を示し、は屈服させたが淮夷は征討するには至らなかった。反乱を鎮圧すると殷の民を洛陽に移したが、奄人、徐人及び淮夷をどの様に処置したのか、竹書紀年は記していない。常識的に考えれば、殷人を征討した後に殷の民を洛邑に遷したが、残った淮夷については、それ監視しながら小規模な反乱に対処する人々を、彼らの居住域の周囲に送り込んだと推測され、それが大麦栽培者のY-Rだったから、彼らはその為に甘粛から青州に移民した事になる。周の拠点は陝西にあり、斉家文化の遺跡が甘粛や渭水流域(陝西)から発掘されているから、山東に移民したY-Rはその文化圏の人々だったとすると話は整合するからだ。

甘粛は縄文後期以降に乾燥化が進み、農業に適さない地域に変貌しつつあった上に、殷人は仰韶文化人を甘粛以西に追放した民族だから、その恨みも伝承していたY-Rが周の意図を歓迎し、周に請われて入植したとの想定もあり得るが、Y-Rは周王朝の基幹構成員だったから、周文公が率いて殷人を征討した軍隊は、Y-Rを主力として構成されていた可能性も高い。

周王朝の起源は解池の製塩者として陶寺遺跡に入植した人々だったと指摘したが、彼らが青海湖の塩を扱っていたY-Rと提携した事は、陶寺遺跡に入植した製塩業者が斉家系の塩商人に吸収され、製塩と塩の販売を行う集団として周を結成した可能性が高い。つまり解池の塩は硫黄などを含んで質が悪く、遠路運ばれて来た青海湖の塩に需要が向かう傾向があったから、縄文前期にその塩を扱う人々の文化として、仰韶文化が生れたと考える必要がある。

従って縄文中期~後期の荊も解池の塩は使いたくなかったから、甘粛に追い出されたY-Rが馬家窯文化や斉家文化を形成し、青海湖の塩を湖北省に供給したと考えられ、縄文後期温暖期に斉家文化が生まれ、陝西省まで進出して経済的に繁栄した事がその事情を示しているから、陶寺遺跡がBC2000年に終了した事は、解池の塩の需要が消滅した事を示している。従って周文公が率いた軍隊がY-Rを中核としていたのであれば、彼らの目的は殷人を征討するだけではなく、渤海南岸の製塩地を掌握する事も含まれていたと考える必要がある。

その様なY-R集団の歴史を検証すると、縄文中期の馬家窯文化人は青海湖で良質の塩を生産し、それを湖北省の荊に販売していたが、縄文後期温暖期になって荊が急速に北上し、湖北省の人口も増加したから、斉家文化人も投入して交易量を拡大したが、荊が分散した全ての地域に対処する事は難しかった事になる。

特に洛陽盆地などの黄河中流域に入植した荊に対しては、対応する新たな販売網がなかなか整備できなかったので、その間隙を突いて陶寺遺跡に入植した製塩業者が、質が悪い解池の塩を生産して販売網を構築したと考えられる。従って経済原則から考えれば、質が悪い解池の塩の生産者として陶寺遺跡に入植した人々が、質の良い青海湖の塩を生産していた斉家文化人の、販売組織に吸収される事は当然の帰結だった。竹書紀年を読んでもその事実が浮上しないのは、竹書紀年を最終的に編纂したのは東周の人だった事を示唆し、竹書紀年が戦国時代の魏の墓から出土した事と整合する。

周が東西に分かれる事によって春秋時代が始まったが、陝西省に残って中央アジアの交易者になった人々は秦人になり、華北を支配する農民王朝の形成を目指した人々が、洛陽に移って東周を形成したからだ。両者の分離が喧嘩別れだったとすれば、竹書紀年に記された西周後半期の愚かしい統治者の歴史も、色眼鏡で見たものである疑いは拭えない。両者が喧嘩別れしたとすればその原因は、東周の人々は古風な塩の販売と華北統治に固執し、夏王朝と敵対し続けていたのに対し、秦人は荊の分派だった呉と連携して絹布の交易に乗り出したかったからだと考えられる。

西欧人が絹布をsilkと呼ぶのは、それを出荷していた民族をSeresと呼んでいた事に由来し、中国をチャイナと呼ぶのは秦の国名に由来しているが、元々は同一の名称を起源にしていたと考えられる。漢王朝期にギリシャ人によって記されたエリュトゥラー海案内記に、中央アジアの交易民族としてSeresの名称が記されている事は、秦帝国は項羽や劉邦によって滅ぼされ、彼らの軍事活動による中華世界の征服は失敗したが、それは秦の本体だったがSeresが滅ぼされたのではなく、本体は甘粛~中央アジアの交易者として健在だった事を示しているからだ。

エリュトゥラー海案内記はSeresの特産品として、毛皮、綿布、生糸、黒色インディゴを挙げている事にも、注目する必要がある。つまり中華世界から撤退したSeresの特産品には絹布がなく、毛皮、綿布が特産品になり、生糸だけが何らかの理由で残存していた事を示している。従って漢書や後漢書は西域に関しても、嘘を混ぜた情報を提示している疑いが濃い。つまり漢王朝はSeresを大月氏と呼び、共に匈奴を征討したいと申し出た事になっているが、漢王朝が秦を滅ぼしたのであればその様な事があった筈はなく、後漢王朝が衰亡した頃にカニシカ1世(2世紀半ば)が登場してクシャーナ朝は全盛期を迎えた事に、何らかの連動があった可能性がある。

いずれにしても以上の結論として言える事は、発足当初の周王朝はY-Rが主体だったから、必要に応じて大麦を栽培していたY-Rを、自身の分身として青州に送り込んだ事になる。周礼には「雍州(甘粛省)、其の川は涇と汭,其れが浸す渭と洛(洛陽ではない)、其の畜は牛馬、其の穀は黍稷(キビとアワ)」と記されているのに、大麦の栽培者が雍州から青州に移住した事は、彼らは陝西省や甘粛省の平地でアワやキビを栽培していた人々ではなく、気候が冷涼な高地で大麦を栽培していた人々だった事を示唆している。

青海湖の塩を製塩していた人々は標高3200mの青海湖の湖岸で作業し、標高1000m以上の起伏がある高原を1000㎞以上運送して渭河平原(関中)に至っていたから、その輸送路の沿道には耐寒性が高い大麦を栽培しながら、羊を飼養していた人々がいたと想定される。その人々が青州に送り込まれたとすると、彼らは平地の農耕民族ではなく製塩業者と塩の運送者だった事になる。

このY-Rが斉を形成すると殷代まで渤海南岸で製塩を行っていた、浙江省起源の禹系の製塩者が渤海南岸から消えた事を、濮水と呼ばれていた川が済水に変わった事が示している。その詳細はその7参照。

周王朝が成立したのは縄文晩期寒冷期だったから、縄文後期に青州に北上した荊は既に南に去り、殷人に対抗できる文明的な民族は揚子江以北の沿海部にはいなかった。殷人の圧政から解放された漢族はいたが、彼らには政権を樹立する文化力がなく、殷人を監視して反乱を鎮圧する能力は期待できなかったからだ。それ故に周は信頼できるY-Rを甘粛の山中から青州に送り込み、華北沿海部の製塩を彼らに委ね、従来の製塩業者を渤海南岸から追放した事になる。これだけが原因ではないが、周が夏王朝と対立する要因の一つになった事は間違いない。濮水の河口で製塩を行っていたのは、夏王朝の起源民族である禹系の製塩業者だったのだから。

上記だけではY-Rの移住についての不確かな推理でしかないが、他の諸状況も検証すると確度が高まる。

龍山文化期以降の華北の発掘遺体は、Y-NY-Qが圧倒的に多くY-O3は少ない。しかし現在の華北ではY-O360%以上を占め、Y-NY-Qの合計は10%に満たない。この違いを説明する為には、周王朝が漢族に地域政権を樹立させ、殷人や淮夷(Y-NY-Q)を華北から追放したからだと想定せざるを得ない。その結果周代~春秋戦国時代にY-O3が爆発的に増加し、現在の遺伝子分布になったと考える為には、華北のその他の少数遺伝子の由来を明らかにして置く必要があり、Y-Rも極めて少ない理由を説明する前にそれを検証する。

華北のその他のY遺伝子を列挙すると、稲作民族のY-O2a10%未満、シベリア系狩猟民族のY-C35%程度、大麦の栽培者だったY-R2%未満、由来不明のY-NO2%程度で、春秋戦国時代に青州の麦栽培者だった、Y-Rの占有率が少ない事以外は、ある程度順当な分布に見える。稲作民族は温暖期になると華北に北上し、寒冷期なると南下する南北移動を繰り返したが、最後の南下が、弥生温暖期の終末期だった前漢末で、その際に東南アジアに移住してしまったから、王朝が継続的に統治していた平安温暖期には、華北だけではなく中華世界に再移住する機会もなく、稲作者の遺伝子だったY-O2aY-O1が華北に僅かにしかない事に違和感はない。

隋・唐王朝を樹立した鮮卑族はモンゴル系で、元王朝を樹立したのもモンゴル系で、モンゴル人はY-C3Y-O3の混成民族であり、清王朝を樹立した満州族もY-C3を濃厚に含む民族だったから、華北のY-C3の由来はそれで説明できる。

宋王朝はトルコ系民族の王朝だったから、南北朝期~隋・唐代に華北に流入した、トルコ系のY-NY-Q Y-Rが宋王朝を形成した事になり、その遺伝子も現在の華北に残っていると考える必要があり、10%に満たないY-NY-Qの合計は、彼らに由来するものも含まれている。従って春秋戦国期~漢代の華北にいたY-NY-Qは、現在の割合よりかなり低かった事になり、殷人や淮夷は周代~春秋戦国期に激減し、華北には殆どいなくなった事になり、周王朝が行った殷人の追放はかなり厳しいものだった事になる。殷王朝期に虐待された漢族もその活動に積極的に参加し、むしろ漢族の方が積極的だったから、周王朝の権威が衰えた春秋時代以降も、シベリアのトルコ系民族は鮮卑族の支援が得られるまで華北に南下できなかった事になり、歴史が整合する。

 

2-6-4 漢王朝の実態

周礼や漢書地理志に「青州 其の山を沂と曰い・・・・穀は稲と麦(大麦)」と記され、青州に大麦を栽培していたY-Rが入植していた事を示しているのに、現在の華北に殆ど遺伝子を遺していない事は、周礼が記述対象とした戦国時代以降にY-Rが華北から四散した事になる。秦は斉家文化の末裔が形成した集団だから、秦帝国が中華を征服した際に、青州のY-Rと提携する事はあっても敵対関係になったとは考え難いから、秦が最後まで残った戦国七雄の一つだった斉を、武力で滅ぼしたと記している史記の記述も捏造の疑いは拭えない。

Y-Rが四散した原因は、漢の高祖劉邦が沛県の出身だった事に関連している。沛県は現在の江蘇省徐州市だから、劉邦は殷人の末裔だった疑いがあるからだ。

竹書紀年は周初の殷人の反乱が鎮圧された後、周が徐人及び淮夷をどの様に扱ったのか記していないが、周代に淮夷を征討した記事を2回掲載しているから、淮夷は周代になっても徐州や沿海部に留まり、周王朝に圧迫されながら反乱を繰り返し、その都度斉のY-Rによって討伐されていた事になる。従って沛県出身の劉邦の祖先が徐人及び淮夷だったのであれば、漢初にY-Rが集団逃亡した理由が明らかになるので、それを検証する。

史記の項羽本紀と高祖本紀には多数の矛盾があり、史記が何かを隠している事を示している。項羽と劉邦の争いは史記成立の100年前の出来事だから、皆が知っている事を記事にした筈なのに、大きな混乱があるのは色々な事績を無理に誤魔化しているからだと考えられ、漢帝国の成立事情を捏造した事を示唆している。

漢帝国は武力によって成立した権力だから、武人に対する論功行賞は公平にする必要があり、その為にも帝国成立時の武闘史を明らかにする必要があった筈だが、実際はその必要がなかった事を示している事になり、組織内組織が漢帝国を牛耳っていた事を示している。史記は劉邦の妻だった呂太后の悪徳振りを小説的に描き、論功行賞の不備の言い訳にしているが、その余りにも筋書き的なストーリーは、何かを隠す為の創作だった可能性が高い。

劉邦が殷人系譜の人物で、周王朝の指示を受けたY-Rから、組織的に抑圧されていた地下組織の頭目だったとすれば、史記はそれを糊塗する為に事績を捏造する必要があった事は間違いない。殷人は漢族の不倶戴天の敵だったから、殷人の地下組織が漢王朝を樹立したとすれば、その事実は絶対に秘匿するべきものであり、史記の捏造の手口、捏造史の創作内容、書き換えの動機などはこの推測と整合する。その様な地下組織が漢族を扇動して漢王朝を樹立したのであれば、漢王朝内に組織内組織が形成され、漢族の功労者が排斥される事も必然的な結果だったからでもある。その1で指摘した燕王盧綰もその様な陰謀によって訴追されたから、その悪意に気付いて逃亡したのではなかろうか。

漢帝国の成立事情は、民衆にとっても記憶が鮮明な直近の歴史だったから、劉邦の履歴や協力者の事績を誤魔化す為には、矛盾した記事を史記に掲載せざるを得なかった事は間違いなく、推敲を重ねても多数の矛盾が内在する事は避けられなかった。華北の主流民族になっていた漢族にとって、殷人は漢族に惨い仕打ちを千年間繰り返し、それが周王朝によって覆されてからの千年間は、不倶戴天の敵として追放対象にしていたから、漢王朝がその疑いを胡麻化す事は喫緊の課題だった。

漢王朝が成立して中華が平和になり、人々が歴史情報を交換する様になると、その追求から真実を隠蔽する為には、嘘に塗れた統一見解を策定する必要が生れた事は間違いない。史記の成立を待ち望んでいた殷人系の高級官僚にとって、猶予できない喫緊の課題だったから、漢帝国が成立してから100年後でもタイミングとしては遅かったが、史記の編纂に時間が掛かっただけではなく、人々の記憶が薄れるのも待つ必要もあった。しかし事態が切迫していれば、各所に矛盾が残る事は我慢せざるを得なかった。

漢帝国が成立してから100年後であれば、成立事情を直接見聞した人は既に亡くなり、その人から直に話を聞いた人も既に亡くなっていたから、一つの好機ではあった。史記を漢王朝の国家事業にしたのは、法治主義的な統治を行っていた周王朝に支配されていた漢族にとって、正義の拠り所は歴史にあるとの認識があったからだと考えられる。

史記が生れて王朝の統一見解が確定すると、個々の官僚が個別の質問に答える必要はなくなったが、漢族の識者からそれを鋭く突く批判が沸き起こると、史記の統一見解の齟齬を糊塗する必要性が高まった。それに対処する為にその他の書籍が多数刊行されたが、史書としての訂正は後漢の班固が漢書を編纂し、新たな統一見解を生み出すのを待たねばならなかったので、班固がその為に活動した事は既に指摘した。漢書には漢の成立史を含む漢代の事しか記述できなかったので、班固は地理志を新たに編纂し、各地域の歴史を偏差する事を口実に、史記の誤りを糊塗しようとしたから、陳寿が漢書地理志を攻撃対象にした事に繋がる。

これらの一連の出来事は、漢王朝に大きな秘密があった事を示唆し、その秘密は、漢王朝を樹立したのは殷人系の地下組織だった事である可能性が高い。その1に示した扶余や衛氏朝鮮を巡る出来事も、それが事実認定されると有力な証拠になるが、劉邦が殷人系譜の人物だった事を示唆する直接的な証拠も複数ある。

その第一の証拠として、史記が劉邦を蛟龍の子だったと記している事が挙げられる。は紅山文化圏で発掘された多数の玉器のモチーフだから、遼河台地を起源とする殷人の信仰対象だった可能性が高く、その様な宗教を殷人に広めたのは玉器を製作した濊の祖先だった事は既に指摘した。春秋戦国時代までの龍は、鳳凰などの怪異動物の中の一つの選択肢に過ぎなかったが、漢代になって龍信仰が盛行した事は、漢王朝の高官が龍を信仰対象にしていた事を示唆している。

の崇拝はシベリア起源の民族が共有していたから、北西ユーラシアにもドラゴンを守護神と見做す民族があり、ヴァイキングが船首を竜頭にしていた事は良く知られている。従ってはシベリア文化の象徴で、その影響を受けた民族の信仰対象だったと考えられるが、Y-C3がいなかった上にY-NY-Qが華北から追放され、Y-O系の稲作民族とアワ栽培者が圧倒的な多数派になった周代~春秋戦国時代の中華では、龍の信仰は外来的な存在に過ぎなかった筈だから、漢代にそれが主流になった事は、漢王朝の有力者の信仰対象だったと考えざるを得ず、漢王朝の有力者は殷人系譜の人々だった可能性を高める。

縄文時代のシベリアでは、平原を蛇行する河川が漁民の生活基盤であり、ツングースの交易路でもあったから、それを神格化したものがだったと推測され、それが信仰対象になる事には必然性があった。縄文時代の北欧や黒海沿岸は、広義のシベリア文化圏だったから、それらの地域の水上交易民族もシベリア文化の影響を受け、龍を信仰対象にしていた事に違和感はなく、ヴァイキングはその遺風を遺していた事になる。

黒海沿岸は縄文後期までシベリア系の文化圏だったから、その先のクレタにもシベリア的な文化が遺されたが、弥生温暖期になるとギリシャ人がその交易民族を駆逐し、黒海に北上進出した。ギリシャの荘厳な神殿や武闘的な民族性は、農耕民族を出自とする南方系の民族だった事を示しているから、ギリシャ人の交易活動や黒海への北上に、敵対的な姿勢を示した民族が崇拝していたドラゴンやそれに類する怪物を、ギリシャ神話には邪悪なものとして描かれている事もこの推測と整合する。

ギリシャ人が集積していたバルカン半島とマケドニアの北には、縄文時代にはギリシャ人より文明度が高かった、ウラル語族が展開して交易活動を展開していた事を、ウラル語族として現存するマジャール人の存在や、エーゲ海を支配していたクレタの海洋民族の遺跡が示し、ギリシャ人がそれらの文明地域を征服した痕跡を残している。

縄文時代のハンガリー主要部は、巨大湖(古ハンガリー湖)を抱えた水郷地帯として、河川湖沼漁民の集積地になっていたと推測される。その巨大湖から流れ出ていたドナウ川は、シェルダップの岩石地帯を徐々に侵食したから、それによって湖が消滅すると湖底の堆積土砂が黒海に流出し、ルーマニアの主要部であるワラキア盆地(黒海沿岸の沖積地)が急速に形成されたと想定される。この様な現象は世界各地にあり、大阪平野も山崎の堰が崩壊する事によって急速に形成された。

従って縄文時代のドナウ川はシェルダップの岩石地帯を貫流して黒海に注ぎ、古ハンガリー湖と黒海を繋ぐ交易路になっていたと推測される。その様な古ハンガリー湖は、シベリア文化の最南端に位置する河川・湖沼漁民の集積地であり、黒海や地中海沿岸を交易路にする水上交易民族の拠点だったと推測される。古ハンガリー湖の周辺にY-C1狩猟民族が集積していたが、この地域は氷期からY-C1の縄張りになっていたから、彼らから獣骨を集める為にこの地域に進出した漁民も、Y-C1の言語話者になり、漁民と共生する栽培者だったこの地域の栽培民族もY-C1の言語を使用したから、ウラル語族としてのハンガリー人が現存している事になる。

これは満州に南下した挹婁が、ツングースの縄張りに南下した故にツングース語の話者になった事と同じであり、シベリア文化圏の秩序認識を示している事になる。現在のハンガリー人にY-C1は殆どいないから、それについても説明する必要がある。

ウラル語族であるマジャール人はシベリア系のY-C3を少し含み、Y-Nは少ないがロシア人と同じY-R1aが多く、西欧人に多いY-IY-R1bもいるから、西ユーラシアの海洋民族になる為に必要な遺伝子は一通り揃っている。

従ってハンガリーの歴史としては、縄文前期まではY-C1が獣骨を生産し、それを集荷する為にY-R1b漁民やY-C3漁民が古ハンガリー湖に定住し、彼らと共生する栽培民族としてY-R1aY-Iも定住していたが、青銅器時代~鉄器時代に獣骨の需要が失われてY-C1狩猟民族がいなくなり、古ハンガリー湖が消滅して漁民もいなくなると、栽培民族が農耕民族化して人口の過半を占める様になったが、既に彼らはマジャール語話者になっていたから、その言語を現在に遺している事になる。

狩猟者の言語が現在まで残っている事については、東ユーラシアにもモンゴル系民族の事例があり、森林系の狩猟民族が毛皮の生産者に転身したり、騎馬民族化して羊の飼養者になったりしたから、マジャール人のY-C3もこの系譜の森林系狩猟民族だった可能性もあるが、YC1と縄張りが重複する人々だった可能性もあるから、シベリアから移住した漁民や水上交易民族だった可能性が高い。交易民族がクレタに南下する以前は、この地域がシベリア的な交易文化の最南端だったと推測されるからだ。

ポリス成立以前の縄文後期ギリシャ人が、水上民族だったマジャール人と接して彼らの富に憧れていたとすれば、縄文晩期寒冷期の動乱期に、クレタや地中海沿岸を荒らし回っただけではなく黒海沿岸も略奪し、交易利権をウラル語族から奪った事になるから、ギリシャ神話もその観点で読み解く必要がある。黒海沿岸にもギリシャ人のポリスが多数形成された事が、その事情を示唆しているからだ。

龍や蛇を邪神とするギリシャ人の農耕文化は、水上交易民族と交易覇権を争った痕跡を示しているが、トルコ民族の南下を毛嫌いした漢族が、龍を崇拝している事に大きな違和感がある。しかし漢王朝の支配者が龍の崇拝者だったのであれば、納得できる話になる。漢代以前は鳳凰などの信仰もあり、龍は特別な存在ではなかったが、漢代に龍信仰が一気に盛り上がって皇帝のシンボルにもなったのは、支配者になった殷人の信仰対象だったからであると想定しなければ、理屈に合わない。

史記に「劉邦は蛟龍の子である」と書かれた事が、龍信仰の発端であると錯覚し易いが、漢代の漢族は史記の信憑性に疑念を持ち、その疑念を胡麻化す為に漢書が著述されたのだから、漢代に始まった龍信仰に史記が影響した可能性は低い。

漢代以前にも龍の存在が知られていたのは、濊の信仰対象だったからだと推測される。縄文後期の湖北省の遺跡から発掘される、芸術性に富んだ玉器は、社会を産業化させていた荊が自分達の石材加工職人を輩出した可能性も示唆しているが、石材加工技術の神髄である加工具は北陸部族が製作していたから、関東部族と専属的な交易関係を形成していた荊には、加工職人を生み出す事ができなかった可能性が高い。従って荊の遺跡から発掘される造形的な玉器は、荊の注文に応じて濊が作成した可能性が高く、その際に濊の信仰対象だった龍も、荊の社会にある程度拡散した可能がある。また製塩業者が儀礼に使った統一的な形状の玉器は、濊や北陸部族が製作したと推測されるから、そちらの伝達ルートによって、製塩業者に龍信仰が知られる様になった可能性もある。

しかしいずれにしても、稲作民族が従来から信仰していた鳳凰や麒麟を押し退け、龍信仰が活性化したとは考え難い。

第二の証拠として、甲骨文が示す殷代の事績は、漢王朝が編纂した史記と概ね一致するが、竹書紀年には食い違いが多い事が挙げられる。竹書紀年は魏の襄王の墓から出てきた史書で、魏は周王朝の同姓諸侯だった晋が分裂して生まれた国だから、竹書紀年は周王朝の歴史認識を示している事になり、史記の歴史が殷人の歴史を正確に記述している事は、史記の編者は殷人だった事を示唆しているからだ。

史記が正しい殷王朝史を採録している事は、漢王朝が史記を編纂した際の資料に、殷人系譜の者が提出した正しい年代記が含まれていた事を示すが、漢王朝が殷人と無関係な人達だったとすれば、その様な第三者が周王朝の年代記と殷人の年代記を比較し、殷人の年代記の方が正しいと判断できた筈はない。従って史記の編纂者の中に殷の祭祀を繋いでいた者がいたから、周王朝の認識の誤りを訂正できた事になる。つまり漢王朝の中枢に殷人系譜の知識人がいなければ、周王朝の認識は訂正できなかった筈だから、劉邦の取り巻きは殷人系の人々だったとの結論に至る。

これは中国人の史書に対する認識を示しているので、その歴史的な変遷を検証する必要がある。その検証から生まれた結論は、南北朝期までの中華の歴史認識では、王朝の祭祀を継承した者が年代記も継承していた事を示唆し、上記の事情と一致している。

後漢書を編纂した范曄は、殷人系の漢王朝の官僚系譜だった疑いが濃い事は既に指摘したが、南朝では宋書や南斉書が編纂されても晋の歴史は編纂されなかった事も、南朝の宋や斉は華南の稲作民系の王朝であり、晋は華北の漢族系の王朝であると認識されていたとすると、この法則の範疇に入る。陳寿が後漢書を飛ばして三国志を編纂したのも、陳寿は晋の皇帝や家臣は漢王朝系譜ではないと認識していたからである事になり、この法則の範疇に入る。

つまり南北朝期までの中華では、先の王朝を滅ぼした政権が先の王朝の歴史を編纂したのではなく、固有の民族が祭祀を維持しながら年代記も保存していたから、同系の皇帝を輩出した民族政権が、前政権の過ちを指摘するものだった事になる。

従って南北朝期までの中華民族の認識としては、竹書紀年は製塩業者の系譜の歴史書であり、史記や漢書は殷人系譜の歴史書だった事になるが、漢代の漢族には史記の歴史系譜を確認する手段がなかったから、漢王朝は殷人系譜である事を知らなかったと考えられる。陳寿は稲作民族系譜の歴史を多少知っていたが、その史書が散逸して詳しくは知らなかった上に、漢王朝が捏造の限りを尽くしていたから、乏しい史書を使って漢書地理志を攻撃した事になる。

これに関する他の証拠として、殷人を率いて反乱を起こした武庚の成立経緯として、竹書紀年は「(周の武)王が、西夷諸侯を率いて殷を伐ち,之を野で敗る。王は親禽(紂王の遺骸と捕虜の検分)を南単之台で受け、遂に天の明を分けると、受けた子を祿父に立て、是を武庚にした。」と記している事が挙げられる。

分かり難い文章だが、武庚は祿父だったと記している。この祿の解釈が問題になるが、現代の意味である「めでたいこと」「扶持」「俸給」「利益」「富」などは該当しない。この祿が「録」の意味に使われていたとすると、武庚は祭祀を守る者ではなく、王朝の記録や遺物を守る者だった事になる。つまり殷王朝を滅ぼした周の武王には、殷王朝の歴史記録を殷墟から持ち帰る積りはなく、それを武庚に託したから、武庚が王朝の記録や遺物を守る者になった事になる。

その武庚が反乱を起こして殺された事は、王朝の記録や遺物が廃棄された事を示唆するが、何らかの理由で王朝の記録が保管されていたから、史記はそれを参照した事になる。つまり反乱軍の旗色が悪くなった時点で、誰かが持ち出したと考えられる。

従って殷王朝にとっても周王朝にとっても、王朝の記録を保管する者はその王朝の系譜者であり、同系民族が正当な歴史記録の保持者であると認識されていたから、それを後継王朝に託す事が祭祀を守る者の役目だったと考えられる。史記や漢書はその趣旨で編纂されたが、その見込みがない場合には後漢書の様に、不条理なタイミングで史書を編纂する事もあった。

周の武王は殷人の朝議録には興味はなかったが、夏王朝の朝議録には高い関心があったから、夏王朝の朝議禄を保管していた者からそのコピーを譲り受け、周王朝の朝議録の一部とした結果が、竹書紀年に記されている事になる。また武庚が殺された際に朝議禄を受け取って保管していた殷人がいたから、それが史記の編纂時に漢王朝に持ち込まれた事になる。漢書の編者だった班固もそれを参照し、地理志にその一部を転記した疑いがあり、それが殷人系譜の人物に守られ続けていたから、范曄もそれを参照して後漢書を編纂したと考える必要がある。

唐の太宗がこの慣例を破棄し、唐王朝の民族系譜とは関係がない多数の王朝史を編纂した事は、史書に関する認識に革命的な意識変革をもたらした事になる。

唐の太宗は史書の編纂を外交的な武器として使用し、百済の悪評を非難する記述を梁書と隋書に盛り込み、新羅と倭などの直接の被害者だけではなく、天下に周知させる為にこれ見よがしに示したが、それは百済が他者を貶める嘘を拡散している事を非難するもので、唐がやがて百済を滅ぼす伏線でもあった。また晋書に百済を恫喝する記述を記載し、それも公開して周知の事実とした事は、いずれ唐は百済を滅ぼす積りであると世間に告知した事になる。

それらについては(8)隋書の項で説明したが、唐の文化人がこの様な史書を編纂して恥じなかった事は、百済のその様な卑しさは周知の事実だった事を示唆している。古墳時代の百済は扶余系民族の唯一の王朝だったから、百済の卑しさが殷人の性格を示しているとも言える。

それらの史書が示す百済の性格は、自分を相手に実力以上の存在に見せる為であれば、嘘を申告する事や根拠のない他者非難を告げ口的に申告する事に、躊躇いのない民族だった事になる。隣人との暴力的な共存が常在していた殷人社会では、その様な行動が常在していた事を彷彿とさせるエピソードになり、嘘で塗り固められた漢王朝の真の性格を知る貴重な資料にもなり、漢代に成立した史書やその他の書籍の信憑性や、後漢書の信憑性を窺う資料にもなる。

第三の証拠として、周王朝の年代記として記された竹書紀年の一部である、周初の殷人の反乱に関する記述と、それに関する史記の記事を比較すると、史記の記事は殷人の弁明になっている事が挙げられる。例えば反乱を起こした理由について、竹書紀年は武庚に率いられた殷人の反乱だと断定しているが、史記の記述は全く異なり、殷の武庚には目付として成王の叔父が二人付けられ、反乱を起こした首謀者はこの叔父達だったと記している。つまり反乱を起こした責任は殷人にはなく、周王朝の内紛だったと話をすり替え、殷人に対する周王朝の圧迫は濡れ衣に基づいていたと主張している。

竹書紀年には、殷人の反乱を制圧したのは周文公であると記されているが、史記がその人物をすり替えている事も、同じ動機に基づく史書の嘘として指摘すべき素材になる。

史記は、周文公は初代の周王になった武王の父で成王に従って殷人の反乱を制圧したのは周公旦だったが、殷週革命時の戦功の第一人者は太公望だったとし、周公の功績を軽視している。その上で、武庚の目付だった成王の二人の叔父は、成王の後見になった周公旦を疑って乱を起こしたと記し、周の身内の反乱だったと捏造しただけではなく、二人の叔父の反乱に正当性があった事を装う為に、周文公は武王の父であって成王の補佐ではなく、成王の補佐は功績が薄い周公旦だったと偽った。

漢族にとって周文公は、殷人の圧政から漢族を開放した至誠の聖人として、その名声が轟いていたと想定される。その様な周文公に対して成王の二人の叔父が反乱を起こしたとすると、裏に殷人の画策があったと疑われるから、それを恐れた史記の編者が、殷人の反乱を制圧したのは周文公ではなく周公旦だったと偽り、二人の成王の叔父の反乱に必然性があった様に装ったと推測される。史記の捏造が、極めて用意周到に行われた事を示している。

武王の父(先代)は殷王朝の封建領主だったから、その呼称が周文公である事に制度上の問題はなかったが、周の歴史認識を示している竹書紀年が、殷週革命時に活躍した周の最重要人物の名称を書き誤る筈はないから、これは史記の手の込んだ捏造だったと考えざるを得ない。周文公の名声を保存する為に、周文公は武王の父として立派な事績を遺した事にしたが、その為に更に色々な捏造が為された。その説明は歴史の真実とは関係がないから、興味がある人は史記の周本紀を読んで頂きたい。史記の本紀は翻訳書が幾つかあるから、漢文を読めなくても確認する事はできる。

百済の卑劣な行為と史記の手の込んだ捏造は、同系の文化から生まれたものだった事になり、納得する気分もあるが、日本書紀も同様な捏造の末に生まれたものである事が分かると、日本人も心穏やかではいられない。一旦中華的な王朝文化に染まると、人はそこまで堕落するものだという例示になり、それも歴史であると受け止める必要があるが、日本書紀を日本の正史であるかのように扱っている現代史家に対する嫌悪感は、それとは別の意識になる。

第四の証拠として、竹書紀年は反乱に加担したのは奄人、徐人及び淮夷だったと記しているが、史記は劉邦の出自である徐人を省き、反乱を起こした主体も曖昧にしている事が挙げられる。史記は竹書紀年より多くの字数を使って詳しく記しているにも拘わらず、淮夷の処置に関する記述も曖昧になっている。

史記は一介の亭長だった劉邦が、数々の幸運を経て軍閥の頭目になり、乱世を終わらせて漢帝国を樹立したと記しているが、上記の事情から類推するとそれは事実ではなく、殷人の秘密結社の頭目だった劉邦が、各地の殷人の地下組織を結集し、数々の組織的な陰謀によって漢族を扇動し、嘘や甘言によって稲作民族を騙す事により、秦末の混乱を制して漢帝国を樹立した可能性が高まる。劉邦と呂太后の陰謀により、歴戦の諸将が次々と粛清された事も、事実は騙した漢族の諸将を蹴落とし、殷人や淮夷系の人物で王朝の中枢を固める過程で起こった騒動を、隠蔽する為の創作話であると推測される。劉邦の周囲の者達は初めからその積りでいたから、部外者を粛清した真の理由を隠す為に、呂太后の話を捏造して責任を彼女に擦り付けたのではなかろうか。

周の政策によって華北の圧倒的な多数派になっていた漢族には、これらの事実は秘匿する必要があった。漢王朝の成立時には武力によって諸将を押さえ付けたが、時流が太平に流れて緊張感が弛緩し、世間が言論闘争に移行する前に嘘の公式見解を形成して置く必要があった事は、説明の必要がない一般的な事実だろう。史記はその様な目的で編纂された捏造史である事を前提にすると、史記の嘘が理解しやすくなり、個人的な権力闘争から生まれた様に見える不条理な歴史も、実はかなり必然的に流れていた事が理解できる。

史記の著者だったとされている司馬遷は周の家臣系譜の人だが、司馬遷の若い頃の長期旅行では、浙江省の製塩業者と荊が青州に北上し、夏王朝を形成した軌跡を追慕していた感があり、稲作民族の家系であると自認していた事を示唆し、司馬遷のこの様な極めて非殷人的な行動は、司馬遷の名声を漢王朝に利用された可能性も示唆している。司馬遷が夏王朝や周の統治を懐かしむ人だったとすれば、周王朝の恩顧を深く感じていた漢族に、捏造史を納得させる為には適任の人物だったが、その様な司馬遷の実像は漢書に記された司馬遷伝を根拠にしているだけだから、その全てが捏造であるある疑いも拭い切れない。

いずれにしても史記の本当の編者は個人ではなく、殷人系譜の官僚が国家事業とし編纂したとの想定は、多くの史学者が指摘する様に、史記は司馬遷個人の著作ではなく、漢王朝の国家事業だったと考えられる。

陳寿の様に真実を探求する場合は個人でもかなりの事ができるが、嘘を連ねて矛盾が少ない捏造史を創作する場合には、矛盾を糊塗する為の膨大な作業が必要になるから、史記の編纂には多数の殷人官僚が関与したと考えられる。司馬遷が伝えられている様な人物であれば、周王朝の歴史観である竹書紀年と矛盾する、歴史物語を創作した殷人官僚と対立した筈だが、著者の注釈である「太史公曰」に続く文章にそれを感じさせる記述はなく、漢書に記された司馬遷が史記の著者だった可能性は極めて低い。

漢代に編纂された多数の書籍が、史記と同じ歴史観によって編纂されている事は、漢代に多数の捏造史書が生まれた事を示し、漢王朝の高級官僚や知識人が殷人系譜の人脈に独占されていた事を示している。後漢代に漢書を編纂して史記の矛盾を糊塗した班固も、その系譜の人だった事になり、光武帝の事績とされている後漢王朝の復興も、殷人の人脈によって成し遂げられた事を示しているが、後漢書を編纂した范曄もその系譜の人だったから、後漢書に記された劉秀(光武帝)の事績にも、多数の潤色や捏造が含まれている可能性が高い。

以上の検証により、大麦栽培者だったY-Rの子孫が、現在の華北に殆ど残っていない理由も明らかになる。

劉邦が帰属していた徐人を監視していた者が、外ならぬ大麦栽培者のY-Rだったから、漢王朝が成立すると、迫害される立場になった事は想像に難くないからだ。劉邦を頭目とする秘密結社の存在を知っていたとすれば、徹底的に迫害されたであろう事も想像に難くない。現在の満州周辺に遺されているY-Rは、衛氏朝鮮に亡命した人々の子孫であると考えられ、魏志濊伝に記された「陳勝等が起ち、天下が秦に叛くと、燕、齊、趙の民で朝鮮を避地とする(者が)数万口。燕人の衞満、魋結夷服で復た来たり、之の王になる。」との記述が、それに該当すると推測される。特にY-Rの政権だったからだ。従って正確に言えば天下が秦に叛いた時期ではなく、劉邦の勢力が優勢になった時期だったと考えられるが、燕、齊、趙は秦に滅ぼされたのではなく、殷人を迫害した首謀者として劉邦の軍に滅ぼされた疑いがある。にも地下組織があったのであれば、それが当然の帰結になるからだ。

隋書流求国伝に次の記述があり、現代の台湾人に遺されているY-Rは、海洋民族の手引きで海外に亡命した斉人などの子孫であると推測される。

「(流求国の)人は目が深く鼻が長く、胡に頗る類す。」

「崐崘人に頗る其の語を解す(者が)有り、(その)人を遣して之を慰諭するも流求従わず。」

崑崙山脈はタクラマカン砂漠の南ある山脈だから、隋代のY-R民族は新疆まで後退していた事も示している。秦末漢初に迫害されたのは青州のY-R民族だけではなく、甘粛のY-R民族も殷周王朝期の歴史を知る者として迫害され、新疆に後退させられたのではなかろうか。騎馬民族が南下していた時代だから、タクラマカン砂漠の北側は騎馬民族とトルコ系民族に制圧され、Y-R民族は青海湖がある南部に集住し、険阻な山に囲まれながら製塩業を継続していた事を示唆している。

隋の台湾侵攻軍がY-R民族の居住地に上陸したのは偶然の出来事ではなく、台湾の海洋民族は大陸の人々の不穏な動きに悩まされていたから、大陸人の船が近づきそうな地域に軍務経験があるY-Rを入植させ、台湾の藩屏にしていたからだと推測される。Y-Rは台湾人の少数派だから、その様に考えなければ、可能性が低い偶然の出来事を解釈する事はできないからだ。隋に朝貢した倭の使者は、そのY-Rの国を「夷邪久(いざく)国」であると指摘した。魏志倭人伝は弁韓にあった倭人国を「狗邪韓国」と呼んだが、「狗=久」は飛び地である事を意味したと考えられるから、「夷」の「飛び地」、即ち斉人の移住地を意味した可能性がある。古代中国では「夷」は沿海部の異民族を指し、その東にある朝鮮半島や満州の民族を東夷と呼んだのは、漢代以降であると考えられる。

以上が直接的な証拠だが、これだけ有れば十分だろう。

以上の結論としては、漢王朝が地下勢力だった殷人の子孫を集め、官僚組織をその系譜で固めて漢族官僚や稲作民族を排斥し、劉氏王朝の正統性を主張する為に史記を編纂したと考えられ、漢王朝が採用した儒教は騙した民衆を統治する手段に過ぎず、多数の民衆がそれを知っていたから、中華の倫理は時代の経過と共に堕落し、三国時代の乱世になったと考えられる。

殷人を華北から追い出した漢族も、その過程である程度は狂暴化しただろうが、漢族を堕落させたのはその様な事ではなく、権力闘争に明け暮れながら嘘を並べる事に躊躇しない、殷人の際立った非文明性が漢王朝期に発露した事により、中華世界全体が堕落してその後の中華世界を停滞させたと考えられる。

南朝の宋や梁には、倫理観が高かった稲作民族の王朝に戻る機会はあったが、それが実現した様子もなく、短命の王朝が続いて隋に滅ぼされた事も、上記の様な漢王朝の統治により、稲作民族の倫理観も破壊された事を示しているからだ。

現在の中国人も稲作民族系譜の人々であって、もこの事情によって文明的な発展が阻害されているとすれば、荊の子孫までも倫理的に堕落させた真の原因は、漢王朝期に殷人的な非合理性が蔓延したからだと考えざるを得ない。荊は1万年掛けて倫理文化を発展させたが、僅か400年間の漢王朝統治により、その全てが破壊されてしまった事になる。

その歴史を振り返ると、稲作民族が殷人を危険視して周と共に殷王朝を倒し、周王朝は華北から殷人を追放するエスニッククレンジングを実施したが、それに漏れた殷人が地下組織を形成し、秦末の動乱期にそれを活用して漢王朝を樹立した。それによって殷人の不合理な発想が中華全体に蔓延し、殷人的な文化圏にしてしまったから、中華民族全体の政治感覚と倫理観が失われてしまった。それ故にその後の中華社会は自立性を失い、異民族による征服王朝が繰り返されたと推測される。

中華世界で異民族による征服王朝が繰り返されたのは、中華民族にとって、自民族に統治されるより征服王朝に統治される方が、却って住み易い社会になったからだと考えざるを得ない。その様な漢族によって700年間統治された朝鮮半島の人々の、現在の文明度がその結果を示しているのだから。

朝鮮の歴史教育の現状を知り、辺り構わず嘘を言い張って虚勢を張り続け、他者を攻撃する事に異様な執念を燃やしている姿を見て、それが殷人統治の実態である事を理解し、文明を失う事の意味を実感する必要がある。中国人が統治する中国も、やがてその方向に向かう危機を孕んでいる。

 

2-7 夏王朝の歴史

2-7-1 概論

夏王朝は交易的な利便性を向上させる事を目的として結成された、多民族の同盟組織だったので、王朝史観に基づく権力闘争史に慣れた人には、その実態を理解する事は難しい。夏王朝の実態を説明する証拠には、経済論的な法則性を援用する必要があり、その基礎知識がない人には理解し難い。

それらに関する基本認識や素養がある人であっても、夏王朝の実態やその形成理念が分からない状態で、証拠だけを提示しながら話を進める推理小説的な展開では、筋書きは興味深いものになるが膨大な紙面が必要になり、論理的な話の展開は難しくなる。

この様な場合であるか否かに関わらず、マーケティング手順では結論から述べる事を常道とするから、それに従って結論的な概念説明を先に行い、その証拠に関する詳細説明は順次行う。

当時の人にとって夏王朝の樹立は、前例がない試行錯誤の結果だったが、経済活動の活性化に邁進していた人々がその様な場に直面すると、経済法則に合致する状況が必然的な結果として生れる。従って注目すべき点として、結果として得られた状態、其処に至る課題、解決が可能な条件を着目点とし、夏王朝の実態と成立過程を概念的に説明する。

荊と浙江省の稲作民族は起源が異なり、民俗も大きく異なったから、両者が青州に入植すると、両者にとって未知の環境が生れた。荊は統合志向が強い民族だったのに対し、製塩業者は個々の事業者に独立志向があり、民族的な統合を目指す人々ではなかったという違いや、荊の社会秩序は厳しい労働の中から必要に応じて自然発生的に生まれた、倫理観によって支えられていたが、製塩業者の社会秩序は資本主義的な環境の中から生まれた、儀礼と刑罰を基底とする法治によって維持されていた点に違いがあった。

荊は内陸の湖北省から臨海地の青州に進出しても、塩を兌換材とする宝貝貨の流通を望んだが、宝貝はフィリッピンやインドネシアでも採取できたから、海洋民族には価値がないこの物品を、沿海部に移住した荊が貨幣として使う為には、幾つかの課題を解決する必要があった。

それに関する制度上の最も大きな変更は、湖北省の宝貝貨の価値は関東部族が保証していたが、青洲で荊と製塩業者が近接する状態になると、宝貝の価値を保証する役目を、製塩業者が担わなければならなくなった事になる。湖北省に残った荊に対しては、関東部族が従前の状態を継続する事は可能だったが、青洲の製塩業者が宝貝貨の価値を保証する様になると、青洲と湖北省では異なる主体が宝貝貨の価値を保証する事になっただけではなく、輸送コストが重畳されない青洲の安価な塩と、輸送コストを関東部族が負担する高価な塩が併存する事になり、両者の整合性が課題になった。

宝貝貨の価値はそれを保証する者が、宝貝貨と等価の塩を無条件で交換する事によって成立したが、関東部族が青州の交換価値に従って湖北省で塩と宝貝を交換する事はできなかったから、地域によって異なる塩の価格は、宝貝貨の価値を地域によって変えてしまう事になり、この二重性は宝貝貨の存立問題にも及んだ。それを放置すると、縄文中期から慢性的に塩が不足していた湖北省では、益々塩が不足する事態が生れた。関東部族の経済性から考えれば、同じ量の宝貝貨しか得られないのであれば、輸送コストが低い青州に運びたくなるのは経済的な必然性の帰結だったから。

斉家文化圏がBC2500年に生まれた事は、湖北省の塩の需要が縄文中期と比較して格段に高まった事を意味し、それは関東部族の運び上げていた塩が激減した事も意味し、その理由は上記のようなものだったと考えられ、斉家文化圏がBC2000年まで繫栄していた事は、湖北省に青海湖の塩の需要がその時期まで継続していた事を示し、その時期まで課題が解決しなかった事を示している。

縄文中期までは湖北省の荊と関東部族の民族的な信頼関係が、その様な状況を補填する事によって宝貝貨の価値が維持され、塩の供給量も確保されていたが、その時代の宝貝一個の価値は、製塩土器一壺の塩だったと想定される事は既に指摘した。しかし荊と製塩業者が近接した地域に居住する様になると、両者が歩き回って交流する場面も頻繁に生れ、少額単位の塩とコメの交換が各地に生れただろう。この様な状態を宝貝貨で処理する為には貨幣の少額化が必要になるから、縄文後期の早い時期に宝貝貨の穴開けが始まり、低額の宝貝貨が生れた事を、縄文人の活動期の項で指摘したが、それはこの様な需要に応える為だったと考えられる。

青洲ではその様な改革が進んでいたが、湖北省の荊にとっては、宝貝の少額化によって利便性が生れたとは考え難い。しかし青洲と湖北省を任意に移動する荊がいれば、貨幣制度は統一する必要があった。合理的な思考力を持った古代人は、その程度の理屈は直ぐに気付いただろうが、地域的な塩の価値の違いを含め、それらの課題の解決策を見付ける事は容易ではなかった。

いずれにしても青州に移住した荊に対し、引き続き関東部族が宝貝貨を発行し続けるのか、新たに製塩業者が宝貝貨の発行者になるのかに関し、関東部族と荊と製塩業者が決める事は、喫緊の課題だった。宝貝貨の穴開け作業が縄文後期早々に始まったらしい事は、製塩業者の移住開始から低価格化した宝貝貨の普及までは、比較的速やかに進行した事を示しているからだ。

製塩業者は耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培し、荊は温暖な気候で生産性が高まる温帯ジャポニカを栽培していたから、温暖期初頭の昇温ブーストが終了した頃に、製塩業者が渤海南岸に入植し始めたとすれば、その頃の渤海南岸は温帯ジャポニカの栽培地としては、冷涼過ぎる気候になっていたから、その時期の両者の集落の距離は、数日の旅程を要する程度には離れていた可能性が高い。その様な状況であれば、関東部族が宝貝貨の価値を管理する事も可能だったから、その様な環境下で製塩業者の入植が始まり、やがて開孔型の低価格宝貝貨が生れる筋書きは、順調に推移していったと想定される。

しかし両者の人口が膨張して稲作地が近接する様になると、水利権や稲作地の境界が曖昧になり、稲作地の境界に関する習俗の違いも、両者の間に紛糾の種を蒔いただろう。その様な荊と製塩業者が青州に共存しただけではなく、宝貝貨の使用方法に関する取り決めを制定し、その制度がその後2千年近く継続した事は、塩と宝貝貨の交換価値を固定化したからだけではなく、両者の共存条件も確立したからだと推測され、それらの困難さを想定すると、驚きを以て評価するべき事態が進行したと考えざるを得ない。

黄河がデルタを拡大すると、やがて製塩業者が集積していた渤海沿岸と、東シナ海を繋いでいた水路の安定的な航行が不可能になり、製塩業者がいた渤海と稲作者がいた青州南部の、両方にアクセスしていた関東部族の航路が分断された。すると渤海交易を担う集団として、九夷が新たに登場し、その活動圏は黄河流域のアワ栽培民族の領域まで拡大したから、殷王朝や周王朝も宝貝貨を安定的に多量に使用する状態に繋がった。

殷王朝や周王朝が興亡する劇的な環境変化にも関わらず、宝貝貨の制度は継続されただけではなく、次代の変遷と共に使用量が激増していったから、かなり安定した制度だったと考えられるが、宝貝貨の供給を含め、どの様に運営されていたのか現在の我々には知る術がない。しかし何らかの法規的な取り決めがなければ、宝貝貨の継続的で広域的な使用は不可能だった事は間違いない。

アワ栽培者の統治者だった殷王朝や周王朝も宝貝貨を使ったから、殷墟や周の都から宝貝貨が多量に発掘されているが、それは殷・周代になっても華南で荊が宝貝貨を継続的に使用していたから、華北のアワ栽培者だった殷・周王朝も、宝貝貨を使う事ができたと考える必要がある。関東部族は荊の為に宝貝貨の制度を維持したのであって、アワ栽培者の為に宝貝貨を支給し続け、その制度を維持したのではないからだ。

宝貝貨が安定的に運用される為には、中華世界の主要な海洋交易を関東部族と、関東部族系の九夷が独占する必要があった。弓矢交易や湖北省への塩の運送実績から想定すると、船を多用した古代交易の交易圏は、数千㎞の範囲に及ぶ事が可能だったから、関東部族がそれに応える事は技術的には可能だったが、他の海洋民族も青州に出向いて交易する事も可能だったから、それが宝貝貨の貨幣価値を棄損する可能性が常在した。従ってその様な恐れがある他の海洋交易者との交易は、青洲や浙江省だけではなく、宝貝貨が普及した中華世界から排除する必要があった。

宝貝は清澄な海に生息するから、河川が流れ込んで海水が濁っている大陸の沿岸では入手できない。それ故に中華世界では貨幣化が可能な素材だったが、沖縄以南の島嶼では容易に採取できるから、台湾起源の海洋民族も北陸部族も容易に入手できるものだった。縄文中期までの荊は湖北省に閉じ籠り、海運力に優れた関東部族だけが湖北省に遡上していたから、関東部族が独占的な交易者だったが、荊が沿海部である青州に入植すると、その他の海洋民族と交易する可能性が高まっただけではなく、他の海洋民族と交易を行っていた異民族と接する機会も生まれた。

従って荊が引き続き宝貝貨の利便性を享受する為には、関東部族の独占的な交易権を認める必要があったが、その実現に関して荊は受動的な立場だった。つまり関東部族が他の海洋民族と交渉し、交易圏や交易する物品を調整する必要があった。

この時代の北陸部族は浙江省の製塩業者と交易し、フィリッピン越とも交易があり、遼東の箕子朝鮮は北陸部族が支給した工具で玉器を製作し、息慎を介してトルコ系のアワ栽培者に提供していた。北陸部族が製作した弓矢もこのルートで販売されていた可能性が高く、其処に宝貝が持ち込まれる危険性もあった。その7で説明する様に、息慎は宝貝貨の存在に触発されて彼ら独自の貝貨を使い始めたから、海洋交易者や水上交易者には、交易協定を結ぶ下地となる交易文化や交易に関する秩序認識があり、全ての海洋民族がシベリア起源の交易文化を共有していた事が、その交易秩序の共有も可能にしたと推測される。

台湾起源の海洋民族は南太平洋やインド洋に進出したが、インド洋交易ではフィリッピン越が生産した物産の販売者になっていた事を、縄文後期温暖期のインダス川流域が一時的に稲作地になった事が示唆している。フィリッピン越が栽培していたジャバニカが、インダス川流域に持ち込まれたと考える以外に、その事情を説明する事ができないからだが、この時期の中華の内陸の遺跡から発掘される絹布の存在が、フリッピン越と中華世界との交易があった事を示し、現実の交易はかなり錯綜していた事を示している。

台湾に残っていた海洋民族については、事情は更に錯綜していた。彼らが生産した削孔石斧が、浙江省の製塩業者に供給されて製塩に多用されていたから、中華世界の石斧の標準形が有孔石斧になったと考えられ、関東部族が浙江省の製塩業者を渤海の南岸に移住させると、これらの交易事情が錯綜した。台湾に残っていた海洋民族の、浙江省の製塩業者との活動はそれだけではなく、製塩業者だけが青洲に移住した故に、浙江省に遺された稲作者が生れると、彼らを四川の成都に移住させたから、その結果として三星堆文化が生れた。従って台湾の海洋民族は、浙江省の塩を成都に運んでいた事になる。

成都の稲作民族に関する事情を整理すると、彼らの起源は浙江省であるらしい事は認知されているが、成都の気候は関東に類似しているから、彼らは熱帯ジャポニカを栽培していたと考えられる事が、その認知を確かなものにする。縄文後期には青洲でも温帯ジャポニカが栽培されたから、関東でも栽培できた事は間違いなく、それらの地域と類似した気候地域である成都でも、温帯ジャポニカが栽培できたのではないかと錯覚するが、成都は内陸性の気候が顕著な地域だから、秋の訪れが早く短日性が強い温帯ジャポニカの栽培は難しかった。従って成都に移住した稲作民は熱帯ジャポニカを栽培し、暖温帯性の堅果類を補助食料とし、河川の漁獲にも期待していたと推測される。

彼らが冷涼な成都に入植した事には、それなりの経済的な背景があったと考える必要がある。森林系の狩猟民族の遺伝子であるmt-N9aが、華南にも拡散している事は、これらの狩猟民族は稲作民族に獣肉を供給していただけではなく、稲作者を集荷者とする獣骨の提供者になっていたと考える必要がある。

三星堆遺跡が示す経済的な繁栄の基盤は、彼らが栽培した亜熱帯性の堅果類を飼料にして豚を飼い、その獣骨を出荷していただけではなく、周囲の狩猟民族が生産した獣骨を集荷する事により、海洋民族との交易を活性化させていたと考える事ができるからだ。逆に言えば暖温帯性の堅果類を栽培し、それを飼料として豚を飼育するのであれば、成都の気候は冷涼過ぎるから、それ以外に海洋民族との交易によって多量に入手した青銅の、原資を賄った商品の候補が見当たらないからだ。

三星堆遺跡から出土する青銅器の特殊な形状は、華北夏王朝とは異なる文化体系を持つ人々の文化を示しているから、対応していた海洋民族も、関東部族や北陸部族ではなかった事を示唆し、消去法で台湾の海洋民族だったとの結論に至る。

彼らが成都に集住した事は、縄文後期の熱帯ジャポニカの栽培適地は当時の関東の気候帯になっていた事を示唆しているが、それを栽培する稲作民族の文化として、三星堆の繁栄が示す多彩な青銅器の製作が可能だったとは考え難いから、成都の北にチベット高原に連なる、2000m以上の高山が連なっている事に着目する必要があるだろう。

mt-N9aには栽培技能がなかったから、この地域の狩猟者がY-C3mt-N9aペアだったとすると、彼らは獣肉が腐敗しない冷涼な高地で生活する必要があったから、狩猟民族との交易の利便性を考慮して成都を選定した事により、両方の食料事情が満足され、三星堆の繁栄が得られたと考える必要があるからだ。

狩猟者も成都で弓矢や穀類を得る事ができたから、この地域に集まっていたとすると、Y-C3mt-N9aペアがその様な交易を求め、モンゴル高原から移住して来た事になり、この時代の交易ネットワークの広域性を示す事例になる。フィリッピンにツングースのmt-Yが遺されている事は、この想定に疑念を持つ必要がない事を示唆している。

関東部族はそれらの海洋民族や交易者と個々に交渉し、青州に宝貝貨以外の宝貝が流入しない仕組みを構築する必要があったが、その主要な要点は他の海洋民族に、山東や華北のアワ栽培者に宝貝を与えない約束を取り付ける事だった可能性が高い。これによって中華世界は、交易的な民族と未開民族に区分けされ、関東部族以外の海洋民族は、交易ルールを順守する稲作民族とは活発に交易を行ったが、関東部族の不興を買う恐れがあるアワ栽培者との交易は、控える様になった可能性が高い。その後の歴史の流れもそれを示唆し、台湾起源の海洋民族に関する知識を殷人が全く持っていなかった事を、漢書地理志が示している事もその証拠になる。

縄文後期前半のアワ栽培者には獣骨以外に交易品がなく、北陸部族以外の海洋民族の交易対象ではなかったし、北陸部族は暴力的な殷人との交易には及び腰だったから、関東部族はそれらの約定を他の海洋民族と締結したと想定され、その状態が殷商王朝の成立後も維持され、殷王朝が銅の主要な輸出者の一つになっても変わらなかった事を、漢書地理志が示しているとも言える。

その結果、アワ栽培者との交易は関東部族が独占する状況が生れたから、その交易事情を九夷が継承し、九夷から独立した北九州の倭人が華北交易を独占したと推測される。但し華北には斉家文化圏を窓口とする交易路もあったから、周の祖先はそれを活用する事も出来たが、その交易路を運用していたのはY-R民族で、彼らは殷人に対して敵対的だったから、殷王朝期の殷人には九夷以外に交易可能な交易者がいなかった可能性が高く、史記と竹書紀年にはそれらしい記述があるので、その7で検証する。

九夷はその名称が示す様に、多数の交易集団の寄せ集めだった。関東部族としては、北九州に移住した関東部族に渤海交易を任せたかった筈だが、関東部族の船だけでは需要を賄い切れないと判断し、九夷の結成を促す必要があったと考えられる。殷末までの渤海交易は九夷が担っていた事を、竹書紀年と史記が示しているが、論衡には周の成王に倭が朝貢したと記されているから、北九州の倭は殷週革命時に九夷から離脱し、西日本の倭連合を結成したから、それが魏志倭人伝に記された邪馬台国連合の前身である、北九州の大率が統括する軍事組織だったと考えられる。

つまり弥生時代の西日本の倭人国は、交易では関東の倭人組織に属し、朝鮮半島や渤海沿岸の軍事的な緊張関係に対しては、北九州の大率が対応する二元的な組織になったと想定される。

殷週革命以降の華北では、周王朝の殷人追放活動が発生し、それによって華北から追われた殷人が遼寧や満州に逃げ込んだから、渤海沿岸では軍事的な緊張状態が常態化し、その地域の交易者だった倭には、軍事的な背景が必要になったからだ。

殷人や扶余などの暴力的な民族に対しては、交易船や交易拠点を襲撃すれば恐ろしい結果が待っている事を、実感させる必要があったが、殷人の酋長も交易者だったから、倭人が交易を拒否すると彼らの死活問題になった。従って現実的な治安の維持は、これらの酋長が行っていたと想定されるが、遼寧や満州に逃げ込んだ殷人はその秩序外の人々だったから、倭人が直接関与する必要が生れ、軍事的な緊張関係に対して北九州の大率が対応する、非常事態的な組織が生れたと想定される。弥生温暖期になると満州に逃げ込んだ殷人の南下圧力が高まり、大率が指揮する非常事態的な組織は恒常的な組織になったと考えられ、北九州の支石墓や甕棺墓はその様な文脈から検証する必要がある。

春秋時代の人である孔子の言行録に九夷が登場するから、九夷は北九州の倭人が脱退しても春秋時代まで継続していた事になる。中核組織だった北九州の倭人が九夷から脱退しても、九夷の名称が維持されていた事は、九夷を形成していた海洋民族の各集団の紐帯は緊密なものではなく、北九州の倭人が強力な指導力を発揮していたわけではなかった事を示唆している。

つまり九夷の結成には元々無理があり、九州の地域的な海洋民族の安定的な同盟関係ではなかった上に、北九州の倭人は多数派でもなかったから、北九州の倭人が脱退しても九夷は存続していた事になる。北九州の人々が九州の多数派ではない状態は、現在の状況でもあるから、縄文後期から一貫してその状態だったとすると、北九州の倭人が九夷から離脱したのは大阪湾岸や讃岐の倭人の人口が増え、大率がそれらの人々の軍事力に依存する事が可能になると、九夷を離脱する状況が整ったからだと考えられる。

それを受けた九夷のその他の諸集団が、西日本の倭人が軍事組織化していく事に反発し、渤海湾岸の交易圏から離脱していったとすると、孔子が居た魯に九夷が出現していた事情に繋がる。つまり魯は山東半島の南にあった国だから、九夷の商圏ではなく浙江省から北上する関東部族の商圏だったから、そこに九夷が交易を求めた事は、関東部族傘下の交易集団から離脱し、関東部族が決める交易秩序の制約を受けなくなった事を意味するからだ。

関東部族傘下の交易集団から離脱すると、関東部族が生産した物品を販売する事はできなくなったが、自分達が生産した物品は自由に販売できるという状態が、この時代の海洋民族の秩序観だったと推測される。その8で検証するが、縄文後期に九州に移住した伊予部族は、各集団の故地が東北から北海道の太平洋沿岸に散在していたから、部族集団としての纏まりがなく、九州に移住すると球磨、曽於、隼人などの地域集団を形成したと想定される。これらの集団名は各集団の特産品にちなむものだった疑いがあり、この事情を裏書きしている。

縄文後期の青州の話しに戻ると、その様な九夷を急遽結成せざるを得なかった関東部族は、荊が求める海洋交易需要の対応に汲々としていた事を示唆している。縄文後期温暖期に関東も稲作地になったから、関東部族の人口も増えて交易船も増えたかもしれないが、大阪湾岸や北九州に移住する者も多く、関東に限定すれば漁民人口は減少していた可能性が高い。しかし青州に移住した荊は新たに得た広大な農地と気候の温暖化によって爆発的に人口を増やし、その塩の需要に応える為に、渤海南岸に移住した製塩業者の人口も急速に増えていたから、それらの人々の交易需要に対応する事が難しくなり、関東部族の漁民は忙しく活動せざるを得ない時代になったからだ。

インドネシアに南下した海洋民族も、オリエントやインダス川流域で同様の事情による農民人口の急膨張に遭遇していたから、インド洋交易が忙しくなって中華の交易に参入する余裕はなかった事も、関東部族が中華交易を独占する状態を生み出した根本要因だった可能性も高い。インドネシアの海洋民族もオリエントとの交易だけで手に余る状態になり、インダス文明圏から徐々に撤退せざるを得なくなった事情や、南太平洋を経て南米に達する交易を放棄した事は既に説明した。

東アジアの全ての海洋民族は、シベリアの狩猟民族の部族制を基底にした文化を継承し、それには縄張り文化も含んでいたから、それが彼らの交易秩序を生み出していたが、競合する商品の交易圏は錯綜していたから、青州に進出した荊が宝貝貨を安定的に運用する為には、新しい交易秩序が求められた事も間違いない。

例えば台湾の海洋民族が四川省に行く為には、揚子江を遡上する必要があり、その航路上には荊が集積する湖北省があった。この時期の荊の文化を示す石家河文化と、三星堆文化は極めて異質だから、三星堆文化を形成した民族に対応していた海洋交易者は、荊や関東部族ではなかった事を示しているが、交易者と受益者の密接な関係がそれぞれにあり、地域的には入り組んでいても、それぞれが独立した交易圏と文化圏を維持していた事も示している。つまり気紛れな交易者が、偶然立ち寄った場所で交易を行ったのではなく、固定的な交易関係が形成された上で、特産品や塩などがその商流に乗って流通していた。

夏王朝はその様な多数の民族の、交易に関する諸問題を解決する為に、諸民族が集まって合議する「場」だった。夏王朝にその様な機能がなければ、複雑な交易秩序は維持できなかったし、新たな交易路の開拓には、周辺民族との関係の調整も必要であり、その交易に宝貝貨を使うか否かも重要な課題だったからだ。

その様な話し合いの結果として生まれた交易秩序が、複数の民族内で宝貝貨が千年以上使われた状況を生み出し、時代の進展と共に宝貝貨の使用量が増えていった。

それに従って話し合いの議題が増え、それに参加する民族の数が増えると、話し合いで決まった事を記録する必要が生れるのは、必然的な結果だった。従って五帝代~夏王朝期の交易秩序は、漢字文化に支えられていた可能性が高い。

竹書紀年に記された五帝代の事績が、年次を伴った合理的な記述になっている事は、五帝代に漢字が生れた事を示唆し、その状況証拠を示している。

五帝代の会議に参加したのは荊と製塩業者と関東部族だけだったから、漢字文は荊と製塩業者の為に作られた事になる。製塩業者は複数の団体に分かれていたのに対し、荊では多数の貴族が職掌を分担していたから、会議に参加していた関東部族の数は少なかったとしても、荊と製塩業者を代表する人の数は多かったと推測される。稲作地や水源や薪炭などの重要な資源に係る民族間の諸問題と、宝貝貨の使い方がその会議の重要問題だったと想定されるからであり、資源に係る民族間の諸問題に関しては、製塩業者と荊の双方から多数の利害関係者が参集した筈だから。

そのような時代の関東部族は、単なる両者の調整役に過ぎなかったかもしれないが、宝貝貨の使い方に関する課題が議題になると、関東部族の貴族層も多数参集したと推測される。彼らは実際に宝貝貨を媒体として塩を配布する業務を担っていたからであり、規約が整備されるまでは、どれだけの量の塩を何時何処に配布するのかを、自分達の判断で具体的に決める必要があったからだ。

会議で塩の配分が決まると、それを確実に実行する為に割符の様な竹簡が作成され、そこに記された記号が漢字に進化した可能性もあるが、証拠はない。オリエント世界では粘土板に文字を刻印したが、青洲では熱した青銅で、割った竹に記号や文字を刻印した可能性が高い事が、唯一の指摘事項になる。

竹は華南ではありふれた資源であり、既に青銅器時代になっていたから、先端が尖った青銅筆は容易に製作が可能であり、それを熱して竹の白い内面に焼き印すれば、鮮明な線刻が容易に得られたからだ。竹は千年前まで中華の重要な筆記用具だった事もその傍証になるが、漢字の発生と進化についてはその5で検証する。

五帝時代には二つの稲作民族の共存条件を調整する事と、塩との交換価値が平準化された宝貝貨を実現し、それを媒介とした塩の流通網を確立する事が主要課題だったが、その成功によって夏王朝が生れると、夏王朝の交易システムに参加する民族が増え、夏王朝の版図が広がった。それによって上に掲げた課題も複雑化し、その解決手段の策定や実現は困難度を高めたから、利害を調整する為に諸民族の代表が頻繁に会合を行う必要が生れた。

その結果会合が定例的に開催される様になり、会合を招集する者や会合の場を提供する者が制度化されると、その運営実務を担ったのは華北夏王朝だった。但し周は広域的な夏王朝と敵対する関係になったから、広域的な夏王朝に関する記事は竹書紀年には記載されていない事は、既に指摘した。華北夏王朝の指導者がだったのかだったのかが、後世の人々の高い関心事になっていた事が、その事情を示唆している事も指摘したが、それについての詳細は順次説明する。

五帝~夏王朝には、時代の進展と共に色々な機能が政権に付加されていったが、五帝時代が終わって製塩業者の棟梁だった禹がになった事は、政権が画期的な変質を遂げた事を意味する。五帝時代にも夏王朝的な政権機構は存在し、禹が統治者になってもその仕組みが大きく変化する必要はなかったが、それまでは青州の統治機構だった華北夏王朝が、中華の九州を統治する夏王朝に脱皮したから、それに付帯する統治機構が付加される必要があった。

これを別の側面から見ると、夏王朝が成立する以前に、渤海産の塩と浙江省産の塩が中華世界を席巻していたから、解池の塩はもちろん青海湖の塩までもが、中華世界から排斥される状態になっていた。従って禹が渤海南岸と浙江省の製塩業者を統括する地位に就任すると、塩の商流を介して中華の九州を経済的に支配する事が可能になった。

それに関する事績が、竹書紀年に以下の様に記されている。

帝禹夏后五年、巡狩、諸侯ととで会う。

帝禹夏后八年春、諸侯と会稽で会う。夏六月、夏邑に金の雨が降った。秋八月,帝は会稽で亡くなった。

以上の簡単な記述しかないが、竹書紀年の記事は皆この様なものだからそれに慣れる必要があり、この時代の諸侯は製塩業者を指し、塗山会稽はこの時代浙江省の2大製塩地だったから、禹が沿海部の全ての製塩業者を統括する者になった事を示している。

その結果として、夏邑に金の雨が降った事になる。殷人の反乱の記事でも指摘したが、この時代の漢字文は抽象的な表現力が乏しかったから、起こった事を自然現象に例えたと考えられ、宝貝貨の元締めだった禹の拠点である、青州の夏邑に多量の財貨が流入した事を意味している。

浙江省(会稽)の製塩業者は台湾や東南アジアの海洋民族とも交易を行い、東南アジアの海洋民族はオリエントの財貨である金を使っていたから、金は世界共通の財貨である事も意識してこの様な表現にしたと推測される。但しこれは禹が暴利を貪った事を示しているのではなく、禹の政策的な目論見が成功した事を示し、禹はそれに満足して亡くなった事を示唆している。

その理由は陶寺遺跡がBC2000年に消滅し、斉家文化圏もBC1900年に経済的な繁栄を失い、海水から精製した塩が中華の主要な塩になってから50年後の、BC1850年頃に禹が製塩業者を統括する帝禹夏后になったからだ。つまり禹が夏王朝の帝になったのは、製塩業者間の覇権争いに勝利したからではなく、その成果を踏まえて新しい交易活動を展開し、新時代を切り開く為だったと解釈されるからだ。言い換えると、五帝は青州の経済活動を安定させる事に尽力したが、禹にはそれを中華全域に広げた事により、広域的な夏王朝が生れたからだ。

禹が浙江省の製塩業者を指導する事により、「雨金于夏邑」という状態が生れたのは、それまでの浙江省の製塩業者は禹の統制外の製塩業者として、青洲での売り上げを増やす為に売価を低くし、それを関東部族が湖北省や四川省に持ち込むと、運送料を加算した価格で塩を販売していたから、地域によって塩と宝貝貨の交換価値が異なっていたからだ。

禹はその状態を是正する為に浙江省の塩を一旦すべて引き取り、渤海で製塩した塩を含めて販売を一元化し、青洲の塩の価格を上げてその利益で湖北省や四川省への塩の輸送費用を賄ったから、中華圏の全域で塩と宝貝貨の交換比率が固定化し、最大の塩の消費地だった青州では、製塩業者に大金が転がり込んだ。但しそれは禹の財産になったのではなく、関東部族に支払う輸送費だった。

しかし現象面だけ捉えると、「(青洲の塩の販売拠点だった)夏邑に、金が雨の様に降り注いだ」事になる。漢字文の表現力が乏しかったこの時代の人が、この様な記述で起こった事を把握したとすると、かなりの経済通だったと言わざるを得ない。青州の塩の価格を高くする事は、青洲の荊にとっては苦痛だったから、青洲の荊が宝貝貨の価値を統一する為には、青洲の荊にそれを呑んでもらう必要があり、青洲の夏邑に金が降り注いだ事は、その最大の難関が突破できた事を意味するからだ。

禹のこの様な施策は、青洲に入植した荊の稲作の高い生産性と、関東部族の強力な水運力によって実現する事ができたが、この制度は内陸の栽培民族が夏王朝に参加する意欲を高める、最大の要因だったから、これによって夏王朝の版図が急拡大したと想定される。しかし関東部族の船が遡上できない、内陸の高地では効力を発揮できない制度でもあり、青洲の荊の人口が中華世界で圧倒的な多数派である事が必要だったから、商圏を無制限に拡大できるわけではなかった。

しかし法治主義者だった禹は通貨制度の確立を、法治主義的な理想の実現であると考えていたと推測され、竹書紀年の編者もその実情を知っていたから、「雨金于夏邑」をキーワードとして挿入したと推測され、周王朝は禹を王朝の始祖であると認識していた事を示唆している。

湖北省で千年以上も宝貝貨を使用し続け、青洲に入植してもその使用に拘り続けたのは荊であり、荊は青州の多数派でもあったが、宝貝貨を通貨として完成させたのは荊ではなく、青洲に移住して初めて宝貝貨の存在を知り、その使用には必ずしも拘らない製塩業者の棟梁だった禹が、その実現に尽力した事を奇異に感じるかもしれない。

製塩業者は弥生時代に越の一翼を担う集団になるが、越は宝貝貨を使わない交易集団だったから、彼らはその時点で宝貝貨の使用を放棄してしまった。製塩業者にとって宝貝貨は拘り続けるものではなく、経済活動の一つの媒体に過ぎなかったからだ。その様な製塩業者の棟梁だった禹が、宝貝貨の制度化を完成したのだが、時代の流れを読める人であれば、宝貝貨と塩の交換比率を均一化して宝貝貨の制度を完成させ、それによって交易を活性化させる夏王朝を生み出した禹も、陳腐化した宝貝貨を捨てて新しい財貨制度に乗り換え、製塩業も捨てて新しい交易に取り組んだ製塩業者も、特定の成果に拘らない常識的な経済人だったと評価する事ができるだろう。

周王朝はその様な夏王朝と反目する関係になったから、自分達の間接的な祖先である禹と、その系譜の者が統治した華北夏王朝に関する事績だけを編纂した。従って竹書紀年を表面的に読んでも、夏王朝の実像は見えないが、上記の様な断片を随所に残しているから、それを手掛かりにこの時代の実像を推理する事ができる。

史記の編者が夏王朝についてどの程度理解していたのか分からないが、この統治機構が夏王朝と呼ばれる様になったのは、史記が夏王朝を、殷王朝や周王朝と同列の政権として扱ったからだ。漢王朝は周王朝の後継王朝である事を装いながら、秘かに殷王朝の後継王朝である事を自任していたから、殷人が滅ぼした夏王朝に望んだ性格は、殷末の紂王が倒された様な状況で打倒されるべき末期を持った、農耕民族的な王朝でなければならず、華北夏王朝の最後の王は殷商成湯によって打倒されるべき、愚昧な王でなければならなかった。

史記はその構想を起点にして、実態とは掛け離れた殷人風の夏本紀を創作したから、後世の人にとって夏王朝は訳の分からない存在になった。上記の観点で云えば、夏王朝は王朝とは言えない存在だったし、最高権力者は王ではなかったから、言葉の使い方としても王朝ではなかったが、現在使われている歴史用語とは異なるものを使うと読者が混乱するから、禹が五帝に代わって帝になる事により、「夏王朝」が始まった事にする。

「王」は鉞の象形で、法治的な権威を象形していたが、それは製塩業者の社会秩序を形成していただけであって、荊の社会は倫理観によって秩序が形成されていたから、荊の指導者がになると、製塩業者の民族社会には王がいたかもしれないが、華北夏王朝に王がいたのか疑わしいからだ。

夏王朝は同質の文化系譜の海洋民族が話し合う場ではなく、関東部族、荊、製塩業者の間で、異質の文化を持つ民族が境界問題を円満に解決する場として始まり、交易を円滑に実施する為に、共有するべき法規を制定する組織に発展したものだった。それが多数の民族集団の話し合いの場に変わると、議論した上で必要事項を立法化し、それを周知させ、実施状況を交易現場で検証する組織になった。従って後世の中華王朝とは全く異なり、交易に関心を持つ諸民族が積極的に参加し、交易に関する規約を取り決める「場」であり、議論して決定した事項を主催者が諸民族に知らせ、諸民族がそれを順守している事を交易の場で監視し合い、それらの全体を誰かが統括する民族同盟だった。

夏王朝は独立した統治主体だった、諸民族の権力者の権力と主権を認定する存在でもあったから、交易によって政権を樹立した諸民族の酋長にとって、王朝に参加する事に二重のメリットがあった。再三指摘した様に、地域政権の組織的な活動の萌芽は地域交易によって生まれ、その活動によって財を得た者が権力者になったから、その様な揺籃期の権力者にとって夏王朝への参加は、彼らの権力機構を安定化する事に役立ったからだ。中華世界の広域的な交易は海洋民族が担い、それが地域政権の最終的な交易構造にもなっていたから、夏王朝に参加すれば、海洋民族との独占的で安定的な交易権が付与されたからでもある。

その様な夏王朝に参加すると地域交易も活性化し、交易者でもあった権力者の地位が安定しただけではなく、夏王朝に参加した諸民族の酋長達は、夏王朝の場を利用して交易情報を交換する事ができたから、交易品の生産者の供給力、同種の物品間の品質の違い、標準的な価格なども知る事ができた。交易者に広域的な情報が必要である事は議論の余地がない事実であり、交易者は本能的にそれを求めるからでもある。

夏王朝の発足時には関東部族の仲介の下で、荊と製塩業者が宝貝貨と塩の交換に関する規則を決め、関東部族はその決定事項に従って宝貝を供給するだけで、事足りたかもしれない。その話し合いの場で宝貝貨の低価値化が早々に決まり、低価値化した宝貝貨に穴を開ける事も決まったからだ。それを提案したのは黒曜石の欠片を貨幣として使っていた関東部族だったから、宝貝貨に穴を開ける作業も関東部族が引き受けた事は既に指摘した。物流を担った関東部族は各民族の法令順守を監視する役目も担ったから、会議の仲介者としての適任性があり、やがて法規の制定に積極的に参加する必要も生れた事は、必然的な結果だったから証明する必要もないが、地域主権的な製塩業者には違反者が絶えなかった事と、青洲の経済活動が必然的に進行した事を竹書紀年が示しているので、竹書紀年の具体的な説明の際に指摘する。

縄文後期に海退が顕在化して河川流域に沖積平野が拡大すると、海水面の低下によって沖積平野の河面標高も低下し、河川が氾濫しない沖積平野が拡大した上に、縄文後期温暖期になると農耕の生産性が向上したから、農耕民族の生産性が急激に上昇し、世界各地に農耕民族の集団が生まれて地域主権的な農耕民族の政権が族生した。黄河デルタへの荊の入植は、その最大の出来事の一つだったから、青洲にも地域主権的な農耕民族の政権が生れる事は必然的な結果だったが、その様な農耕民族政権の本務は農地を分配して栽培者の耕作地を確定する事だった。

農地を分配する政権の在り方は地域によって異なり、歴史的な経緯が大きな影響を与えていたが、青洲に入植した荊は既に中央主権的な組織社会を形成し、製塩業者は地域単位の自治的な組織を形成し、法規によって社会秩序を形成する手法を確立していたから、その様な両者が隣接した地域では、統合的な秩序形成が必要になる事は必然的な結果だった。

従って両者が社会秩序を形成する機運が高まる事に必然性があり、その統合は入植時に生まれた異民族間の交易を、円滑に行う為の取り決めを形成するものから始まり、やがて人口が増えて稲作地が近接すると、稲作地、水源、薪炭の採取などに関わるものに変わる事も必然的な結果だった。両者には塩の生産と消費という密接な経済関係があり、両者を青州に導いた関東部族が仲介者になった上に、両者には既に民族や地域集団の意思を決定する政権があったから、武力は使わずに話し合いで物事決める環境が整っていた。

竹書紀年にはそれに関する記述もあり、その経緯を追跡する事ができる。竹書紀年を編纂した周王朝にとってもその経緯は誇らしかったから、正しく後世に伝えたかった事が、竹書紀年をその様な史書にしたのではなかろうか。多くの史家は夏王朝の存在を疑い、その版図の広さを荒唐無稽であるとしているが、その版図の広さこそが夏王朝の実態を示し、民族間の紛争の解決に夏王朝の法規が使われた事を示唆している。その様な夏王朝は中華世界に生まれた文明の光だったから、多くの民族がそれに惹かれた事も、必然的な結果だったと言えるだろう。

沖積平野が広がって農地が増え、気候が温暖化して作物の生産性が高まっても、多くの民族は栽培系狩猟民族の段階にあり、荊と浙江省の稲作民族を起源として、華南の周辺地域に入植した稲作民や、彼らに触発されて文明化し始めた民族だけが、農耕民族的な統治を試みる段階ではあったが、権力機構は揺籃期だったと見る事もできるだろう。稲作者の2大文明を築いたのは、特殊な農法を駆使する事によって倫理観を高め、極めて中央集権的な大集団を形成した荊と、製塩で得た財力を使って稲作地を形成し、稲作者を法的に統治する製塩業者だけで、その様な統治手法は周辺の栽培民族が、発展のモデルにする事ができる政体ではなかった。

しかし青州に入植した荊と、製塩業者が率いていた稲作者の間に悶着が起こり、その解決手段として民族関係を規定する法規が有用である事が分かれば、先ず荊と浙江省起源の稲作者がそれを実践し、民族間の課題を法規的に解決る手段が確立すると、交易者として組織化された集団を率いた各地の酋長が、農耕民族的な地域主権者に転換する路が拓け、彼らが夏王朝に参加して議論を重ねる事により、その法規が普遍的なものになっていったと考えられる。

従って夏王朝に参加したのは交易者だけではなく、農耕民族的な色彩が濃厚な民族も、夏王朝が掲げる規約を順守する集団に変わり、その地域の治安が良好になると、更に多数の民族が参加した事も容易に想定できる。

その根源だった夏王朝の法規は、同じ地域に二つの稲作民族が雑居する、極めて不自然な状態から生まれた故に、一般的な栽培民族が民族内で抱える課題を遥かに凌駕する、包括的な規定であると共に、課題解決に関する曖昧性を極小化した実用的なものになり、交易の利便性や地域酋長の身分保障と共に、夏王朝への参加民族を拡大する原動力になったと想定される。つまり夏王朝に参加した交易者が農耕民族的な領主権を確立したり、逆に農耕民族的な農地争いに苦しんでいた地域の弱小交易者が、農耕民族的な権力者になりながら交易によって蓄財する事が可能になり、その財力によって農耕民族的な政権の権威を高める事が可能になった。

広大な版図を有した夏王朝の発足母体が、この様な青洲の華北夏王朝だったから、華北夏王朝には夏王朝の統括機能も包含していたが、本務は青州の地域分権的な統治組織だった。つまり華北夏王朝は青州の統治者として荊や製塩業者の代表が参集する会議を開催し、自治的な荊や製塩者の個別政権を統括すると共に、中華の諸民族の代表を定期的に青州に集め、その会議の議長も兼務し、決定事項を文章化して諸民族に伝達していたと考えられる。

後漢書に「倭国王師升等、生口(奴隷)160人を献じ、請見を願う。」と記され、倭国王が軽々しく洛陽を訪問した事に違和感があるが、夏王朝が存在した時期には、その招集に応じて会議に参加していたのは倭国王だった事を示唆している。

華北夏王朝の事績だけを記している竹書紀年には、の記述に混乱があり、陳寿は少康はだったと主張し、竹書紀年は少康を含めてそれ以降のだったと記しているが、歴史的な経緯を参照すると、竹書紀年がに書き換えていると考えられる。それを行った周王朝の意図は、少康が夏王朝の帝になる事を辞退し、華北夏王朝が夏王朝に参加する一つの地域政権になった事を、認める事ができなかったからだと推測される。

それを認めると周代にも夏王朝が存続していた事だけではなく、周も夏王朝に組み込まれるべき存在であった事になるだけではなく、王朝内で民族系譜が変わる事を容認する歴史観だから、武王から一貫した王朝系譜を守りたかった周には、それを認める事ができなかったからだと考えられる。

周王朝のその様な歴史観を知っていた漢王朝が、その認識を踏襲しながら歴史を更に捏造して史記を創作したから、それによって夏王朝の実態は漢代以降の史書から完全に失われたが、周王朝は法治主義者だった、製塩業者の倫理観に基づいて竹書紀年を編纂したから、少康以降のだったと記していること以外は、不都合な事実は抹消したが嘘を記述する事はしなかった。それ故に竹書紀年の矛盾を明らかにすると、真の歴史に近付く鍵が見付かるので、それが以下の検証の一つの主題になる。

陳寿が少康だったと主張したのは、漢王朝によって歴史的な書籍が悉く焚書されてしまっていたから、それが最大限の抵抗だったからではなかろうか。

竹書紀年の矛盾から明らかになると、「華北夏王朝が滅んで殷商王朝が成立しても、殷王朝を滅ぼした周王朝が成立しても、稲作民や倭の合議体である夏王朝は維持され、秦の始皇帝が中華を武力統一するまで継続していた」事が明らかになり、「周は夏王朝の支援によって成立したが、やがて夏王朝と対立する政権になった」事や、周は華北夏王朝だけが存在したとする独自の歴史観を、史記の成立以前に形成していた事も明らかになり、東アジアの歴史に整合性が生れる。

つまり五帝代の初期に荊と製塩業者が話し合った中心議題は、宝貝貨の運用を円滑に実施する為の諸課題の解決だったが、五帝代の末期には統治原理が異なる二つの農耕民族が、隣接した地域に居住して稲作地が混在する状況で、社会秩序が混乱して新たな統治原理が必要になったから、活発な議論を行う事によって製塩業者の禹が登場し、法治的な多民族統治手法を用いてそれを解決しただけではなく、宝貝貨と塩の交換比率を固定化したから、禹を創始者とする夏王朝が生れて夏后だったになった。

それによって多数の民族が参加する夏王朝が生れ、宝貝貨と塩の交換比率を固定化する事によって遠隔地の塩の価格が低下し、辺境の経済状況が安定して版図が急拡大したが、製塩業者が統治する夏王朝は次世代ので終焉し、代わって荊が夏王朝のになった。それに製塩業者が反発し、政権が混乱したが、荊の次世代の統治者になった少康になり、の身分は辞退した。それは当時の人には驚くべき出来事だったから、その記憶が長い間語り継がれた事を史記と漢書と魏志倭人伝が、それぞれの立場でそれについて記した事が示している。

初期の夏王朝に参加した諸民族の代表が会議の場で熱心に討議したのは、塩を安定的に入手する手段としての、宝貝貨の運用に関する諸課題だったかもしれないが、それに目途が付くと参加する民族に、交易ルールを徹底させる事に変わったと推測される。それが経済発展の段階を踏む為の、必然的な経過事情だったからだ。

その為には前例がない約束事を色々決める必要があっただけではなく、その課題の解決の為に合議体が形成した結論の中に、法規の運用方法に関する諸システムの開発も、重要な課題として含まれる必要があったからだ。つまり合議で決まった交易ルールを諸民族に順守させる必要があり、その為には諸民族それぞれが、個別の合議体を持って民族内に周知させるだけではなく、その参加者を通して末端の交易者にも、ルールを順守させる手順を含んでいる必要があったからだ。華北夏王朝が滅亡して殷商王朝が成立した時期の、竹書紀年の記述がそれを示している。

灌漑施設と稲作地を共同で形成していた稲作民族にとっては、その様なルールは集団の団結力を高め、統治者の権威も高めてくれるものだったが、その様な実務基盤がない上に、話し合いより権力闘争を優先していたアワ栽培民族には、実施が困難な規定が多かったから、末端の交易者を含めたルール違反が後を絶たず、夏王朝の場で非難が集中する状態だった事を、竹書紀年が示唆しているとも言える。

夏王朝の中核民族は、宝貝貨を使用する事によって現物的な価値を生み出した青州の荊、宝貝貨の制度を設計して運用した青洲の製塩業者、宝貝貨の交換価値を広域的に普及させた関東部族だったが、その成果として宝貝貨の使用領域である夏王朝の版図が、内陸に広く拡散した事を、夏王朝の版図が中華全域(九州)に拡大した事や、雲南では明代まで宝貝貨が使われていた事や、宋代にチベット族が西夏(当時の国名は夏で、西夏は歴史家が他の王朝と区別する為に便宜的に使う名称)を樹立し、独特の漢字を使った事などが示している。

周王朝は夏王朝と敵対関係になったが、夏王朝から引き継いだ宝貝貨を使い、その使用量が殷代より激増していた事は、九夷が宝貝貨を使う民族との交易を継続し、それを引き継いだ北九州の倭も、周代までその運用を継続した事を示している。これは周代にも稲作民族が夏王朝を維持し、宝貝貨の運用に関する法規が守られ、関東部族が彼らに宝貝を供給し続けていた事を意味し、馬橋遺跡が周代まで維持されていた事と整合する。

殷・周王朝の首都の墳墓から多量の宝貝が発掘されたから、彼らが宝貝貨の使用主体だったと誤解されているが、関東部族や倭が宝貝貨を供給し続けたのは、夏王朝の主体だった荊の為であり、夏王朝に参加していた華南や四川の稲作民集団の為だったから、最も多くの宝貝貨を使用したのは華北を支配した殷・周王朝ではなく、華南の稲作民族だったと考える必要がある。

彼らは墓に宝貝を埋納する習俗を持たなかったから、墓から宝貝が発掘された実績はないが、春秋時代になって宝貝貨が使用されなくなり、宝貝貨に代わってその形状を模した青銅製の楚貝貨が発行されると、それを墓に埋納する様になったから、彼らが宝貝貨を使っていた事やその流通範囲の検証が可能になる。

青銅製の楚貝貨が生れたのは、塩の生産性が高まると塩の相対価値が低下し、経済が活性化するとインフレが起こり、デノミを実施する必要が生れたからだ。楚貝貨が使われなくなったのは、その後の貨幣の標準形になる円貨を使っていた秦が、中華世界を征服して円貨を統一貨幣にし、漢王朝がそれを継承したからだ。円貨はシベリア系貝貨の標準形だったから、秦の母体である中央アジアのY-R民族と息慎の間に、濃厚な交易関係があった事を示唆している。

 

2-7-2、竹書紀年が示す夏王朝の成立

竹書紀年は戦国時代の魏の王族の墓から、晋代に発掘されたもので、陳寿も参考にして三国志を記したと考えられる。その後2回散逸して2回復元されたから、脱落や誤記も想定されるが、これ以外に夏王朝の実態を復元できる史書はない。竹書紀年も史記と同様に黃帝から記述を始め、禹を夏王朝の始祖としているが、竹書紀年の禹は史記の禹とは異なり、洪水を治めた農耕民族の王ではない。以下では上に記した概論を、初心に戻って検証する。

竹書紀年の年代記風の記事は、五帝代には既に漢字があり、それによって事績が記述された事を示唆している。竹書紀年の記事の合理性は、記事が事実に基づいている事を示しているが、此処では夏王朝の成立事情を追跡する為に必要な記事を抜粋して示す。

夏王朝の始祖だったに関し、「禹は冀(河北省の邑)に居す」と記しているが、「諸侯と塗山(安徽省の山)で会す」「諸侯と会稽(浙江省と福建省)で会す」「会稽で亡くなった」とも記し、帝禹夏后になった後は揚子江下流域で活動した事を示している。禹の諸侯が会稽や安徽省にもいた事は、夏王朝の后になったが、浙江省の製塩集団も傘下に収めた事を示しているが、その様な禹が渤海南岸のを本拠地にしたのは、渤海沿岸は大陸沿海部で最も気候が乾燥し、製塩の適地だったからであると共に、最大の塩の消費者になった青州の荊の、最大の塩の供給者になっていたからだと推測される。

この時代の塩は最も重要な商品で、縄文早期には土器に海水を入れて煮詰めたが、縄文中期の浙江省の製塩業者は天日を使う先進的な製塩法により、需要が増加していた湖北省の荊の需要に応えていた。荊が縄文後期に青州に移住すると、浙江省の製塩業者も気候が最も乾燥した青洲の沿海部である、渤海南岸のに入植して其処を最大の製塩地にしたと考えられる。

彼らの製塩史を検証すると、崧沢文化期までは土器で海水を煮詰めていたから、土豪程度の富裕者しか生まれなかったが、良渚期に海水を砂に撒いて天日で濃縮する方法に変わると、製塩業者を組織化する必要が生れたから、その実現によって製塩業者の経済力が高まると共に、その組織力を灌漑事業にも使って良渚期の農耕民族的な権力機構を生みだした。

天日で濃縮する方法はそれ以前にもあったかもしれないが、縄文中期寒冷期には浙江省の稲作民も生産性が低下して困窮化し、製塩者が労働力を確保する事が容易になったから、天日を使う製塩技術を高度化する契機になった可能性が高い。製塩業者は荊が生産したコメを塩の代価として入手していたから、コメの不作に苦しんでいた浙江省の稲作民を製塩事業に糾合し易かったからだ。

浙江省の稲作民族はコメの減収に苦しんでも、堅果類を食べて飢えを凌ぐ事ができたから、人口が急減したり治安が急激に悪化したりする事はなかったが、堅果類には毒性があるから一定割合のコメの消費を必要としていた。この事情は海産物を必要としていた縄文人が、海洋民族の活動に積極的に参加した事情や動機と同じだから、縄文中期寒冷期の製塩業者が労働力を集め易い環境を得た事は間違いない。荊が湖北省に陸続と南下し、塩の需要が右肩上がりに急増していたから、産業史の観点でも技術革新が生れ易い環境だった。

縄文中期寒冷期になっても直ぐに良渚文化期にならなかったのは、製塩者が多数生れると薪が不足するなどの諸課題があり、天日干しの製塩法が組織的に整備されるのに、時間が掛ったからである可能性もある。崧沢文化期の墓から石斧が出土するが、これは稲作地を開墾する為の道具ではなく、製塩者が薪を調達する為に使ったから、それによって貴重品扱いされたからである可能性が高い。その様な磨製石斧の大量需要が、台湾の海洋民族に石斧の供給者としての確固とした地位を与えたとすると、歴史の流れに整合性が生れる。台湾には火山と湖が少なく、優良な黒曜石の産地がなかった上にウルシやアサも栽培できなかったから、北陸部族から磨製石斧の加工具だけではなく弓矢も輸入する必要があり、その資金を得る為に磨製石斧を生産していた交易構造が浮上するからだ。

渤海沿岸は中国の沿海部で最も乾燥した地域だから、夏王朝期以降は中華の重要な製塩地になった。周礼の夏官司馬に、「幽州(河北と遼西=渤海西岸~南岸)の川は黄河と泲(済水)で、その物産は魚と塩」であると記され、他の地域の説明には塩に関する言及がないから、戦国時代には中国最大の製塩地になっていた事が上記の証拠になる。

周礼も史記も漢書地理誌も、当時の冀州は現在の河北省だけではなく山西も含み、冀州の北に并州(後世の山西)があったと主張し、禹が渤海南岸を拠点にした事を否定している。しかし漢代の并州は山西省の中部と北部で、山西省南部は司隷と呼ぶ直轄地だったから、縄文後期には司隷も冀州だったと主張している事になり、地理的な区分に違和感がある。黄河の北方地域の地形を素直に解釈すれば、山西省南部も含む山西省全域が并州だった可能性が高いからだ。

但し「冀」漢字は「異」の上に「北」が載せられた字形で、「異」は「人が鬼を追い払う際にかぶる面をつけて両手をあげている」象形とされているが、「面」ではなく「製塩業者の顔面刺青」を指したとすると、「冀」は浙江省の製塩業者が北上した場所を示し、漢字が生れた夏王朝期には製塩業者の北上地を指した可能性もある。つまり縄文後期中葉までは、渤海南岸と解池に近い塩城市や臨汾市が「冀」だったが、陶寺遺跡が失われたBC2000年に解池の近傍は「冀」ではなくなり、渤海南岸だけが「冀」になったから、河北省が冀州と呼ばれる様になった可能性がある。但しそれであっても、禹が居た冀は渤海南岸だったとの結論は変わらない。

解池の塩は硫黄などを含んで品質に難点があるから、臭いに敏感な古代人はこの塩を敬遠したと推測され、縄文前期から青海湖の塩が遠路運ばれて交易品になっていた事が、その事情を示しているからだ。つまり禹が夏王朝の指導者になった時期には渤海南岸の塩の商圏が拡大し、陝西や山西を除く華北の塩を一手に生産する状態になり、解池の塩が不要になる状況を形成していたから、塩城市や臨汾市は冀とは言えない状態になっていた。言い換えると、関東部族の船が遡上できなかった陝西や山西は、青海湖の塩の商圏として残ったが、それ以外の中華の塩は、渤海南岸か浙江省で製塩した質の良い海塩が主流になっていた。

禹は夏邑現在の商丘市の一部)の酋長でもあったから、帝舜の時代に夏后になった事がこの王朝を夏王朝と呼ぶ原因になったが、それ以降の帝の所在地は、次代もだった事を除けば(現在の商丘市の一部)、(所在不明)、老丘(現在の商丘市の一部)だったから、この時代に禹が居したも製塩者の邑(むら)が集合する、狭い地域を指したと考えられ、それを後世の州と混同する事にも違和感がある。

後世になって河北省が冀州と呼ばれる様になったのは、夏代には渤海に覆われていた地域が、次第に埋め立てられて広い沖積平野になったが、長らく渤海に覆われて地名がない地域だったから、著名な冀邑があった地域として冀州と呼ばれる様になったと考えられる。

周礼、史記、漢書地理誌がを内陸の地名にしたかったのは、禹が製塩業者だった事を隠し、農耕民族の統治者だったと誤魔化す為だったと考えられる。禹の居所を曖昧にして夏と殷商を同系譜化する事は、史記が歴史を捏造する為のキーファクターになっていたから、史記の歴史捏造の目的と合致する。

禹は五帝最後の帝舜代の初期に夏后になったから、帝舜の重要課題は荊と製塩業者の調和的な統治だった事を示している。

夏后の居処に関する記述を竹書紀年から拾うと、禹の次のは、夏邑で即位して冀に帰ったと記しているから、夏邑があった商丘市は青州の稲作民族の中核地で、は夏邑で荊に対する即位式を挙行した後に、製塩者の本拠地である冀に帰った事になる。禹がその様な夏邑の所有者になったのは、夏邑を荊に配布する塩の集積地にしていたからではなかろうか。

次の帝相は商を居所とし、淮夷を征したと記している。も商丘市にあったと推測され、アワ栽培者だった淮夷がこの時期には荊と対立していた事を示している。黄河のデルタが東シナ海を埋め立て、海峡を陸化して山東と青州を広範囲に陸続きにした結果、青洲に入植した荊は、山東のアワ栽培者と宿命的な対立関係になった事を示唆している。

次の帝少康は原に遷都したが、の位置は分かっていない。

次の帝杼は老丘に遷った。老丘は開封市の東端で商に近く、現在は黄河の南岸にあるが、当時は巨大な渤海の南岸に位置し、今はない済水の畔にあり、製塩地だったに近い場所だったと推測される。

その後五代に亘って老丘を帝の居所とした後、帝孔甲は西河に遷った。西河老丘の北にあり、戦国時代には済水の北にあっったが、この時代の地理は明らかではない。老丘西河は当時の渤海の西岸だったのかもしれないが、いずれにしても黄河が流路を北に変えた事により、稲作地が渤海西岸まで北上した事を示唆している。

その後二代の帝が西河を居所にしたが、華北夏王朝最後の帝癸斟鄩を居所にした。斟鄩は青州ではなく鄭州と洛陽の中間にあったから、帝の居所が青州を離れて西に移動した事になるが、荊の故地だった湖北省に近づいた事になる。華北夏王朝の末期は温暖期の末期でもあったから、気候の冷涼化に伴って華北の稲作民の人口が減り、華北夏王朝内での稲作民の勢力が劣化したから、湖北省の荊の武力を背景にしなければ華北を統治できない程に、殷人の勢力が相対的に高まって華北夏王朝の秩序を脅かしていた事を示唆している。

帝癸 二十一年、商の帥(軍)は有洛を征し、之に克つ。遂に荊を征し、荊は降った。

この記述が華北夏王朝の実質的な滅亡と、殷人の商王朝樹立を示している。有洛は洛陽盆地にあったから、商が華北夏王朝を華北から追放した事を意味するが、殷人が湖北省まで征服したのではない。周が殷王朝を滅ぼした際に、周に加勢した勢力の筆頭は湖北省北部のだったからだ。

以上の検証により、禹を含めた夏王朝の夏后の居処は青州にあり、禹が本拠としたは現在より遥かに巨大だった渤海の南岸~西岸にあった、製塩業者の邑を指していたと推測される。五帝時代末の帝堯帝舜を居所としたから、史記がの場所に神経質になっていた事は間違いない。現在の史学会では夏王朝の存在に疑念が向けられ、五帝代の帝堯帝舜の実在性が疑問視されているから、代以降の記事を参照して夏王朝の成立史を検証したが、五帝代の実在性に疑念を持たれている理由の一つに、帝堯帝舜の在位年が69年と50年で、当時の人の寿命から考えると長過ぎる事も挙げられる。

禹の活動歴も45年で、殷王朝最後の帝だった紂王の在位は52年だから、健常で長寿だった人はその程度まで長生きした可能性もあるが、帝嚳は63帝顓頊は78黃帝は100で軒並み異様に長く、常識的にはあり得ない寿命になる。しかしこれらの在位年は古事記の天皇系譜の様に、個人の在位年ではなく父子関係を一括している可能性が高い。これは西欧のアンリやルイと同様に、親子が同じ王名を名乗った名残で、古代社会では一般的な習俗だったと考えられるから、在位年の長さを疑いの根拠にする必要はなく、以降は帝堯帝舜の記事も適宜引用する。

製塩業者は荊に塩を供給する事を本務としていたが、その財力を使って灌漑工事も行い、稲作地を拡張して富を蓄積する事は、良渚文化期に浙江省の製塩業者が行っていた事だから、良渚文化が洪水で滅んだ後も、浙江省の片隅で脈々と製塩事業を運営しながら灌漑設備を作り、熱帯ジャポニカを栽培する稲作者と共生し、その習俗を青洲にも持ち込んでいたと考えられる。彼らは湖北省から降って来た関東部族から、荊が生産したコメを受け取っていたから、コメの生産に汲々とするのではなく、蔬菜類の栽培にも励みながら製塩労務者の供給源も兼ねていたと推測され、その習俗は富裕度を高めた青州で一層強化されただろう。

浙江省の製塩業者が関東部族から受け取るコメの量は、関東部族の水運力によって制限されていたから、浙江省の製塩業者は多数の稲作民と共生する必要があったが、渤海南岸に移住した製塩業者は荊から直接コメを受け取り、その量は浙江省時代の何倍もあったから、渤海南岸の製塩業者と共生する稲作民族が、製塩業者に出荷する生産物は蔬菜類が中心になり、それに必要な人数は浙江省時代ほど多くはなかった。しかし稲作民族でもあったから、稲作も重要な生業だった事は間違いない。

青州の荊の人口が増えると塩の需要が高まった上に、容易に塩が入手できる様になった青州の荊は、個人当たりの塩の消費量を増やしたから、青州の塩の消費量は右肩上がりに高まり、製塩労務者の数も右肩上がりに増加したから、浙江省から多数の製塩業者が移住すると、浙江省に残された稲作民族は身の振り方を考える必要に迫られた。

稲作者であり続ける事を希望した人々で、浙江省に留まった人々は後世の粤になり、新天地を求めて四川に入植した人々が、三星堆遺跡を形成して後世の蜀になった。その移民事業を積極的に推進したのは、台湾の海洋民族だった事は既に指摘したが、縄文後期に青銅器時代になって磨製石斧の需要が失われると、彼らも新たな事業を展開する必要に迫られたから、両者の利害関係が一致して移民事業が強力に推進され、成都高原で獣骨の生産性を高めた結果、青銅器を多用する華麗な三星堆文化が生れたと考えられる。

夏王朝を創始した帝禹夏后会稽塗山に出向き、その地域の諸侯(製塩者)に会った事は、渤海南岸に移住せずに浙江省で製塩業を継続していた者も、多数いた事を示している。つまり浙江省の製塩業者だった禹の祖先がに移住し、その後の移住者や青州での人口増加によって渤海南岸の製塩業者が増え、青州に塩を供給する主体になる一方、浙江省に残った製塩業者は、湖北省の荊の為の製塩を続けていたが、関東部族は青州の人々の需要に応える水運事業に忙殺され、湖北省に向かう船の数は減少していたと考えられる。縄文後期の前葉に斉家文化圏の経済活動が活発になった事が、その事情を示唆しているからだ。

会稽塗山の塩は、台湾の海洋民族によって成都にも運ばれていたと考えられるが、彼らの海運力は関東部族には遥かに及ばず、成都は湖北省より遥かに遠かったから、その塩の需要は余り多くはなかっただろう。また台湾の海洋民族は宝貝貨を運用していなかったから、湖北省に塩を運び上げる事はしていなかったと推測される。従って会稽塗山の製塩者が塩の生産性を高めると、その販売先は青洲に向かわざるを得なかった。荊の青州移住が始まった時期から一貫して、関東部族は会稽塗山の製塩者の塩を青洲に運んでいたし、青州の対応に忙しくなると遠い浙江省に塩を運び上げるより、近場の青州に運びたくなる事は人間の心理としても当然の帰結だった。青洲にも旺盛な塩の需要があったからでもある。

つまり青洲に入植した荊の人口膨張が先にあり、製塩業者の渤海南岸への入植はそれに追従するものだったから、先ず浙江省の塩を青州に運ぶ商流が生れ、それが次第に渤海南岸の塩に置き替わっていった筈であり、浙江省の製塩業者が青州に塩を販売する既得権は、荊が青州に入植した時代に生まれていた。関東部族もその状態に対応していたから、帝禹夏后が夏王朝を創始した時代にも、青洲には渤海の塩と浙江省の塩が流入し、それぞれの商流を関東部族の海運力がサポートしていたと考える必要がある。

それによって青洲の塩の価格が低下し、湖北省の塩が相対的に割高になると、湖北省の稲作民は続々と青州に移住して湖北省が過疎化したから、BC2000年頃に石家河文化が消滅し、それによって塩の販売先を失った斉家文化圏も没落し、BC1900年に消滅したと考える必要もある。

禹が塗山や会稽で合った諸侯は、禹の配下になったそれらの地域の製塩業者の頭目だったから、帝禹夏后になった青州の禹が、浙江省の製塩業者と懇談する為に会稽塗山の諸侯と合った事になる。この時代の製塩地は会稽(杭州湾)だけではなく、塗山にもあった事を示しているが、その位置は明らかではない。しかし揚子江の沖積平野の形成具合を勘案すると、塗山は湖北省にも青洲にも近い、南京辺りの丘陵地にあった可能性が高く、その後中華世界が文明化してこの地域が諸民族の拠点になった結果、古代の地名が失われたのではなかろうか。

いずれにしても禹がわざわざ浙江省に出向いて長期間滞在したのは、浙江省の製塩業者を説得する必要があったからだと推測され、その理由は先に示した様に、青洲の塩の販売価格を上げてその利益率を高め、それを浙江省から湖北省への塩の運送料に充当する事により、夏王朝の商圏の全ての塩と宝貝貨の交換比率を、固定化する為だったと考えられる。

浙江省の塩もその体系に組み込む為には、一旦夏王朝が全量引き取って専売制にする必要があったが、その為に実物を無駄に移動させる余力は関東部族にはなかったから、見掛け上のその様な仕組みを構築する為の、最終仕上げとして禹が浙江省に常駐して諸制度を整備し、老体に鞭打ってそれを完成すると、力尽きた禹は異郷の地である浙江省に骨を埋める事になったと考えられる。その様な禹の功績を讃えた会稽の製塩業者が、禹の墓を大切に守り続けたから、現在に至るまで禹の墓の所在地が伝承されている事になる。

殷・周時代に宝貝と塩の交換比率が固定化していたと考えられる、状況証拠は色々あるが、それを実現する為には強力な政治力が必要だから、その成立時期は夏王朝の成立時だったと考えざるを得ない。製塩業者が帝になったのはとその次の帝のだけで、これは製塩者や流通業者を巻き込む一大事業だったから、統一的な権力による強力な推進力が必要だったからだ。

禹がこの様な大事業を敢行する為には、青洲の荊に塩の価格上昇を容認して貰う必要があったが、この企画はむしろ荊の希望によって推進され、禹がそれを受け入れる事によって実現した可能性も高い。つまり従来の儘では湖北省の塩の価格が高止まりし、湖北省の過疎化が止めどもなく進展してしまうから、故郷がその様な状態になっていく事を憂いた青州の荊が、それに歯止めを掛ける策を五帝代に会議で諮問し、その際に禹が出した結論が、塩と宝貝貨の交換比率を固定化する事だったから、禹にその実現を託した結果が帝禹夏后の即位と夏王朝の成立だったと考えられる。

この制度が確立すると関東部族の水運が及ぶ範囲内では、即ち夏王朝の版図内では青海湖の塩が流入する余地はなくなったから、湖北省の人口が復活しても斉家文化が復活する余地はなく、考古学的な発掘事情もそれを示している。二里頭遺跡がBC1800年~BC1500年の遺跡である事も、禹のこの政策がBC1850年頃に実施された事によって、荊が再び青州から各地に拡散する様になり、洛陽盆地にも入植した事を示唆している。洛陽盆地は渤海南岸の塩を南陽盆地や湖北省の北部に運ぶ、水運の要衝になったと推測される。

が亡くなるとが夏邑で即位し、諸侯は帝に従って冀都に帰った。

この時期の諸侯は製塩集団の頭目を指し、禹は帝禹夏后になっても荊の統治者ではなかったから、禹を継いだも荊の稲作地である夏邑で帝に即位したが、諸侯(製塩者)と一緒に冀都に帰った事になる。つまりは製塩によって得た財力で稲作地を形成し、夏邑の支配者になったのかもしれないが、稲作者も統治するに即位する為に、製塩業者の拠点ではなく荊の稲作地の中核地だった夏邑に出掛け、即位の儀式が終わると製塩業者だった諸侯と共に、製塩者の中核地だったに帰った事になり両民族の中核的な居住域は隔たっていた事を示している

竹書紀年の記述は極めて簡略だが、合理的な解釈を可能にする的確性を備えている事がこれ他の事績から読み取れるし、詳しく解析すると驚くべき事象も明らかになる。それとは対極的な史記は、誰が何を言ったのか詳しく記しているが、言い方が大仰で何が言いたいのか分からないものが多い。史記の曖昧で冗長な記述は、歴史を捏造する為の誤魔化しには都合が良く、その為に開発された記述方法である様にも見えるが、未開民族の非論理的な思考から脱却していないだけである可能性が高い。幼児が複雑な事情を説明する場合、自分を含めて誰が何を言ったのか羅列するが、それと類似した発想に見えるからだ。

暴力が常在していた殷人社会では権力闘争が日常化し、真実より誰が何を言ったのかを問題にする習俗が卓越し、それが殷人社会全般の発想になっていた可能性も高い。声闘によって勝ち抜く必要がある社会では、事態を冷静に判断する能力より他者の言動を咎め、それを相手を攻撃する素材にする才能の方が、有能な人物に必要な能力であると見做されていた事は、間違いないからでもある。現代の朝鮮人や中国人にも特徴的なこの性格は、殷人由来の社会に生き残る為に発達した特異な習俗である事を示唆しているが、稲作民族の子孫もこの習俗に染まっている事は、伝性が強い習俗である事も示している。

厳しい自然と対峙していた一般的な古代人は、合理的な発想によって繰り返し襲って来る危機を乗り越え、サバイバル競争に生き残ってきたから、古代人が展開した経済活動は必然性に満ちていた事を、このHPは繰り返し検証している。竹書紀年の記述の合理性もそれを示しているが、史記が示すそれとは対極的な欺瞞性と非論理性は、アワ栽培者が生き残る為に収穫や栽培地を巡って繰り返し展開された、人為的な闘争に勝つ事を最大の命題としてきた人々の習俗が、如何なるものであったのかを示しているからだ。

広い華北平原ではある程度の広さの縄張りがあれば、アワの栽培と狩猟によって栽培系狩猟民族として生活する事は可能だったから、何らかの人口の調整機能があれば持続的な民族の生存圏になったが、既に暴力性を習俗に取り込んでしまっていた故に、集団の暴力を強化する為の人口の増加も習俗に加えた事により、暴力的に生き残る社会を形成し、この様な民族性を生み出した可能性が高い。その結果、闘争に勝つ事が全てに優先する文化を生み、嘘を含む声闘を有力な威嚇手段にしたから、合理的な発想を欠く民族になったのではなかろうか。

が帰った「冀都」という表現には重要な意味が込められている。単にと呼ばれた都城を意味したのではなく、この時期の「都」は製塩者の中核拠点を示す漢字で、渤海南岸には他の製塩集団が多数集住していた事を示しているだけではなく、浙江省を起源とする製塩業者の棟梁が居住する邑を示す漢字だったからだ。つまり帝になる前の禹が居住していた製塩集団の集住地は、単にと呼ばれたが、が住む邑が冀都と呼ばれる様になったのは、禹が会稽の製塩集団も支配する帝になったからだ。

「都」漢字の意味は漢代に大きく変わり、王が住む都市を指す漢字になったが、周王朝までは一応正しく使われていた。周王朝は洛陽を東都と呼んだが、「都」漢字の使用は極めて限定的で、これ以外に都と呼ぶ拠点はなかったからだ。周は自分達が製塩者を出自とする集団であると自任していたから、自分達の中核的な集落は「都」だったが、その他の集落は「都」ではないと考えていたからだ。これについては以下に詳しく論考する。

の事績に関する記事は、五帝最後の帝舜代の記事から始まる。

帝舜十四年、禹に虞事を代するを命じる。

虞事を直訳すれば「懸念がある事や心配事」だが、帝の虞事は「政治課題」などと翻訳する必要がある。つまり帝舜に、懸案になっていた政務の代行を命じた事になる。海洋民族だった帝には解決できない、荊と浙江省起源の稲作民の農耕民族的な摩擦の解消と、塩の価格が高い故に過疎化している湖北省の、人口減少を防止する手段の策定と実現を、禹に委託したと解釈される。荊の方が文明度は高かったと推測されるから、帝舜に強く求めた懸念の解決は、後者だった可能性が高い。

帝舜四十二年、玄都氏来朝、宝玉を貢ぐ

この事績が「都」漢字の初出になり、浙江省の製塩業者の中心地が玄都と呼ばれ、その棟梁が帝舜に伝家の宝玉を貢いだと解釈される。形式的には帝舜に従う事を示す意思表示だが、帝舜は既に虞事を禹に代行させ、禹が実績を積み上げていたから、その成果として製塩者の中心地が玄都から冀都に移動した事を意味する。つまり浙江省の製塩集団の棟梁だった玄都氏が、青州にいた禹に製塩集団の棟梁の座を譲った事を示していると考えられるので、その根拠を以下に示す。

「都」漢字の旁である「者」は、台の上に柴(しば)を積んで火を焚()く象形で、右側にある阝(おおざと)は「邑」が簡略化されたものだから、製塩の最終段階として天日で濃縮した塩水を入れた土器を、火を焚いて煮沸している状態が旁で、阝はそれを行う集落を指したと想定される。製塩の最終工程を担った集落が「都」の字源だったとすれば、当時の製塩者の中心都市がだった事になる。つまり玄都は浙江省の製塩業者の拠点集落で、その領袖だった玄都氏を製塩業者の新しい領袖にする為に、青洲に来て帝舜の虞事を代していた禹に、伝来の宝玉を渡したと想定される。製塩業者が徐々にに移住していたから、浙江省の製塩業者の棟梁だった玄都氏が、冀都になる事が妥当であると判断し、棟梁の象徴だった宝玉を貢いだ事になるが、禹の構想を認めて指導権を禹に渡したとも言える。

良渚文化期に盛んに製作された玉器の進化形が、玄都氏貢いだ宝玉だったと想定されるが、これは玄都氏の自発的な提案ではなく、禹が青州の製塩業者に権力を集中させる為に行った、政治工作の最後の仕上げだったと解釈するべきだろう。

この想定の第一の証拠として、華北夏王朝の帝の居処には、冀都以外には「都」漢字が使われていない事が挙げられる。青州の製塩者の拠点が冀都になったから、冀都に帰った帝は禹と同様に製塩業者の棟梁だったが、以降の帝の居所に「都」漢字が付与されていない事は、その他の地域を拠点にした帝は製塩者の棟梁ではなかった事を意味する。その頃から夏王朝に戦闘行為が目立ち始めたから、それに対処する為に夏后が荊人に変わったと考えられ、竹書紀年は次の帝相の時代に内紛があった事を記し、それ以降の帝が拠点とした邑はではなかった事が、この想定と合致する。

魏志倭人伝に、「夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身する事によって蛟龍(へび)の害を避けた。」との文がある。夏后少康は内紛によって殺された帝相の子だが、荊だった帝相には文身する習俗がなかったから、その子の少康も文身しなかったが、浙江省の製塩業者には文身する習俗があったから、会稽に封じられた夏后少康の子が敢えて文身したと解釈される。この経緯も夏后少康は荊だった事を示し、夏王朝のが製塩業者から荊に変わって帝相が生れ、その子の少康夏后になった事を示している。

これに類似した文章は史記にも漢書にもあり、著名な出来事だった事を示唆している。の系譜が変わる事は華北夏王朝の一大事だったが、少康ではなくなった事は、中華世界にとっては更に重大事だったからだ。漢代はこの事件の1500年以上後の時代だから、人々はこの「夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身した」という短い言葉を一連の事件の見出しとして、詳しく伝承していたと考えられる。

この短い言葉には「少康は帝を辞退して夏后になった。」「少康の子が会稽に封じられた。」「会稽に封じられた少康の子が断髪文身した」という三つの重要情報が込められ、会稽には既に玄都は存在していなかった事も暗に示しているが、これが中華世界の歴史にとって重大事だった背景として、禹が開設した夏王朝が動乱を経て安定的な王朝になった事を示している。その大きな背景として先に示した二里頭遺跡が、この時期だったBC1800に建設された事が、宝貝貨と塩の交換比率が固定化し、荊が湖北省への帰還運動を始めた事を示している。しかしその影響は荊の事績に留まらず、中華世界には更に大きな動きがあり、各地に散開していた稲作民族が、夏王朝に参加する条件が整った時期でもあったから、その動きも始まっていた事を示唆している。

次に漢字が使われている竹書紀年の記事は、周の成王の時代まで降り、成王が成周(洛陽)に東都を建造した記事になる。周代の記事には東都が頻出するから、周の支配層が自身を製塩者系譜であると考えていたのであれば、周王は漢字を復活させるのに相応しい人だった。塩商人ではなかった殷人の拠点はではなく、その状況で周が東都呼称を敢えて復活させたのは、周が塩を国家の戦略物資としていた事も意味する。つまり周王朝を構成した集団は、青海湖や解池の塩を扱うために陝西や山西に移住したY-Rと、浙江省出自の製塩者を祖先とする集団の混成集団で、東都は後者の拠点だった事を示唆し、陶寺遺跡の貴族層のルーツが、漢字を使用する製塩集団だった事も示している。

周王朝が竹書紀年を編纂し、その書き出しを五帝代にした意図も、これによって明らかになる。周を形成していたもう一つの集団である、斉家文化を形成したY-Rの子孫にとっても、彼らの製塩業が衰退したのは五帝時代だったからだ。

青海湖の塩を含む華北での塩の商流を独占していた周王は、浙江省の製塩業者を出自とする塩商人の領袖ではあったが、中華の製塩業者全体の領袖ではなかった。周代の稲作民の為に製塩を行っていたのは呉に属す製塩集団で、製塩業の規模も需要者の集合体である市場規模も、呉に属す製塩集団には到底及ばなかったからだ。史記はそれらの一連の事実を隠したかったから、全ての時代に亘って渤海南岸を支配した者に関する記述が曖昧だが、歴史を追跡する為にはそれを把握する必要がある。

交易的な民族集団は職能集団でもあったから、夏王朝期を経て民族共生に慣れた製塩業者の一部は、殷・商王朝期になると九夷と提携し、アワ栽培者に塩を提供する製塩集団になったが、他の製塩業者は殷人が支配する事になった渤海南岸から南下し、東シナ海の沿海部を支配した呉に帰属したと想定される。当然の事ではあるが竹書紀年には、彼らが新たに集積した場所が何処であったのかは記されていない。

しかし製塩業者や塩の流通業者の実態は、「都」漢字のその後の使い方を追跡しながら検証する事ができる。

周の権威が衰えると、「都」漢字は周王朝の同姓諸侯の居処にも使われたが、それ以外の用例の初出は春秋時代まで降る。

貞定王元年(BC468年)、於越が琅邪に都を移した。

移したのだからそれ以前にも何処かに於越があった事になるが、それに関する記述は竹書紀年にはない。製塩者の拠点は沿海部の何処かにあり、それが既に於越になっていたから、それが於越の都として琅邪に移動した事になる。「越」はフリッピン越と北陸部族の交易同盟を起源とする、海洋交易集団だったと考えられるので、製塩業者は荊の分身だった呉を離脱し、越同盟に参加していた事と、その同盟の旗艦国だった於越が、大陸の沿海部にいた事を示している。

竹書紀年には縄文晩期寒冷期だった西周時代に、と記された呉が渤海南岸に侵攻したとの記述があり、呉が製塩地だった渤海南岸を軍事的に窺った事は、縄文晩期寒冷期の製塩業者は、呉の傘下にいた事を示唆している。製塩業者や越には軍事力がなく、それが必要な場合には他民族の軍事力に頼っていた事は、朝鮮半島の歴史に関する説明でも指摘したが、大陸でも同様な状態だったからだ。

於越は越人同盟の旗艦国だったから、この時代には漢字が、浙江省の製塩業者と同盟した越同盟の、中核都市を指す漢字になっていた事になる。つまり浙江省を起源とする製塩業者は、同じ浙江省起源の稲作民族の集団だったフィリッピン越と同盟し、製塩業者である事から脱皮して越同盟が扱っていた、絹布の生産者に鞍替えしていたから、その中核都市をと呼んだ事になる。

於越が琅邪に都を移した6年前の元王四年に、於越が呉を滅したとの記事があるから、それを機に呉と共生していた製塩業者が、同族であるフィリッピン越の傘下に入った可能性もあるが、その場合には都を移したとの表現は適切ではなくなるから、もう少し複雑な事情があったと想定される。

いずれにしてもフィリッピン越が大陸での拠点としたのは、同じ稲作民族である製塩業者の集落だったが、その集落の立地は琅邪の様な良湊を提供する場所ではなかったから、海洋交易の拠点に相応しい琅邪に都を移したと推測される。製塩に適した砂浜は湊には適さないから、於越は製塩者と別れて琅邪を拠点にした可能性が高いが、於越がそれをにした事は「都」漢字の使い方が、漢代の用法に近付いた事を示している。つまり製塩者の拠点を意味していた「都」が、交易者の拠点を示す漢字に変わった事になる。塩を扱う商人は他の物品も商っただろうから、当時の人の実感としても、「都」は交易者の拠点を示す漢字になっていたと推測され、必然的な変化だったと考えられる。

於越が呉を滅したとの記事はアワ栽培者の誤解で、実際は共生集団の指導民族が変わっただけだったと考えられる。軍事力では製塩業者を圧倒していた呉が、於越によって軍事的に滅ぼされた筈はなく、養蚕業を握っていたフィリッピン越が呉を経済的に支配する様になった事を示唆している。これは秦帝国の成立に繋がる、中華世界を巻き込んだ経済戦争の序章だったと考えられるので、詳しくは弥生時代の項で検証すべき事柄になる。

周を含むアワ栽培者には、民族が経済的に共存する状態が理解できずにこの様な表現にしたが、それが嘗ての製塩業者の系譜を引く周王朝の歴史認識でもあった事は、色々な事を示唆している。つまり山西に北上して周王朝の祖先になった製塩業者は、青州に移住して荊と共生する経験を経ない状態で、解池の製塩者になって陶寺遺跡を建設した事を示している。彼らは解池の塩の需要が失われると、陝西に移住して斉家文化圏のY-Rと合体したから、沿海部の製塩業者が行っていた事が理解できず、越同盟に参加した製塩業者とは異質な集団になった事も示している。

於越が登場した春秋時代後期には宝貝貨は廃止され、楚貝貨の時代になっていたと想定されるから、製塩業者が宝貝貨の価値を保証する仕組みが既に失われていた事が、製塩業者が夏王朝を離脱して越同盟に参加した背景にあり、「都」漢字の用法に関する製塩との関連の希薄化も、その流れの中から生まれた可能性が高い。

東都を建設した時代の周は、製塩と販売を行っていたY-Rと、製塩手段を失って販売に特化した陶寺集団の合体集団だったから、陶寺集団は華北西部の従来の商圏に青海湖の塩を販売する、販売組織になったと考えられる。その様な周が洛陽に東都を建設したのは、華北の支配者になって塩の独占販売が可能になったから、販売組織を復活的に構築する交易拠点として、洛河流域に東都を設定した事になる。虜囚になった殷人を洛陽に移したのは、その荷役労務を担う奴隷にする為だった可能性が高い。縄文人の活動期の項でも指摘したが、古代交易には過酷な荷役労務が必要だったからだ。

漢代に成立した史書は、漢字を製塩業者や交易とは関係がない、武闘的な集団の拠点として使っているから、戦国時代から漢代の間にの意味が更に変化した事になる。魏志倭人伝が示す伊都国大率が成立したのは、遅くとも弥生時代中葉だったと考えられるから、の意味を先行して拡大したのは九夷系譜の倭人だった疑いもある。伊都国には浙江省起源の製塩者はいなかったが、宝貝貨の発行主体である事を意識してと命名した可能性が高いからだ。

夏王朝の製塩業者には二つの役割があり、一つは製塩を行う事だが、もう一つは宝貝貨の価値を保証する機能だった。製塩や物流を行っている者に宝貝貨を渡せば、それに見合った量の塩を即座に提供する事が、宝貝貨の価値を保証する機能だったが、宝貝貨を適量発行する事もその機能に含まれていた。

上海の馬橋遺跡で製作された開口宝貝貨は、台湾を経由した関東部族の船が、東シナ海沿岸や揚子江流域に運んでいたが、渤海と東シナ海の間を通行できなくなった夏王朝期から、渤海や黄河流域に宝貝を提供したのは九夷だったから、その宝貝貨は馬橋で製作されたものではなく、九州西岸の南端で製作されたと推測される。宝貝貨の製作時には悪臭が漂って海が汚染されるから、流れが速い潮流が南流していた、九州南端の野間半島付近で実施していたと推測され、宝貝を無傷で死滅させる為には真水が必要だったから、笠沙を流れる秡川がそれに使われた可能性がある。その詳細はその6を参照。

殷人の暴力によって華北夏王朝が滅亡した後、渤海南岸に残って製塩を続けた製塩業者もいたが、彼らが宝貝貨の発行機能も維持していたとは考え難いから、九夷が代行していた可能性が高い。周が殷王朝を滅ぼして華北の塩の商流を独占すると、渤海南岸の製塩者がいなくなり、春秋時代の有力諸侯になった斉が渤海南岸で製塩を行っていた事を、周礼や漢書地理志が示唆している。斉は周王朝の一翼を担ったY-Rの地域政権だったから、宝貝貨の使用を拒否した可能性が高く、黄河下流域では楚貝貨ではなく布銭や刀銭が使用された事が、その事情を示唆している。

つまり九夷とその後の華北交易を継承した北九州の倭は、早ければ殷王朝が成立した時期に、遅くとも周代には、宝貝の発行主体になっていたと考えられる。九州の大率がその責任者の系譜である事を自任し、自身の居住地を「都」であると宣言したとすれば、それに違和感はない。夏王朝期に「都」漢字の意味が製塩者の拠点から、宝貝貨を発行する拠点に変わった事を、北九州の伊都国の名称が示しているからだ。

史記がこの様なの用法を無視して一般的な都市にもこの漢字を用いた事は、殷人系譜の漢王朝の高官は、漢字の語源的な意味を無視していた事になり、漢字の語源や象形の起源を、その様な文化系譜の起源である甲骨文字に求める危険性を示している。

五帝の話しに戻ると、山海経/海外東経に「大人国は嗟丘の北に在り、坐して船を削る。」「嗟丘は百果の所在、堯を葬った(場所の)東に在る。」との記述があり、山海経の海外は中華大陸の外の事象に関するもので、海外東経は海洋民族が拠点としていた、島嶼に関する伝承を編纂したものだから、五帝時代の指導者は海洋民族だった事を示唆している。

青州の交易を担っていたのは関東部族だったから、五帝はその指導者だった事を示唆しているこの記述は青洲の事情と整合するが、古事記の天孫降臨説話とも整合する事に驚く必要がある。古事記についてはその6で検証するが、古事記は倭人の伝承や年代記をパロディー化した書籍で、縄文時代~弥生時代の倭人の歴史を検証する際に、有力な史書になる事をこの事実が示している。天孫降臨説話で天孫族が降臨したのは、聖地である笠沙の岬に近い場所だったから、その北に延伸している海岸砂丘である吹上浜が嗟丘だったとすると、一連の歴史事情が整合するからであり、神武紀と後漢書の記述も整合するからだ。

神武天皇が東征を完了し、正妻としてセヤタタラヒメを娶る前に、阿多(薩摩半島)のアヒラヒメ(鹿児島湾西北岸)を妻にしたが、神武天皇が亡くなると悶着があり、綏靖天皇がアヒラヒメの息子を殺した事と、後漢書が奴国の使者の言葉として、「奴国は倭の極南界にある」と申告した事が整合するからだ。

つまり古事記も竹書紀年と同様に、五帝時代の天孫降臨(関東部族の南方派の拠点)が薩摩半島周辺にあり、その天氏の系譜が神武天皇になった事を示している。古事記が記す具体的な歴史神話がこの時代から始まっている事は、竹書紀年と同様に漢字による歴史記述が、この時代に始まった事を示唆している。

青洲では五帝代が終わると製塩業者の禹に帝位を譲ったが、製塩業者の2代しか続かず、3代目以降が荊に変わった事は、五帝は製塩業者ではなかった事になる。代わって荊が帝になると政局が混乱し、の空位が10年以上続いた事は、五帝は荊でもなかった事を示唆しているから、五帝は関東部族だった可能性が高い事も、色々な書籍との整合性が見られる。

関東部族は荊を青州に導いた上で、製塩業者を渤海南岸に移住させたのだから、その経緯から考えても、関東部族が五帝になる事が相応しかったが、文明度が高い二つの稲作民族を統治する為には、農耕文化に馴染んでいる必要があった。しかし海洋民族の指導者に過ぎなかった関東部族の貴族層に、農耕民族の価値観を見抜いて統治する見識があったとは思えないから、何かに付けて反目する様になった二つの稲作民族の、仲裁役に過ぎなかったと想定される。飛鳥時代に壬申の乱が起きて倭人政権が崩壊したが、それは海洋民には、農耕民族を統治できる見識がなかった事を示しているからでもある。

具体的に言えば、古墳時代後期~飛鳥時代の海洋民族政権は、関東部族より農耕民族的な越系文化圏の海洋民族だったが、それでも農民の不満は抑えられなかった事を、倭人時代の終末期に多数築造された古墳が、農民政権を標榜した奈良朝が成立した奈良時代以降は、全く顧みられなくなった事が示している。奈良時代以降は、古事記に記された神々を祭る神社が盛行した事が、当時の稲作民の庶民感情を示し、庶民が古事記の歴史観を受け入れた事を示している。

その経緯としては、弥生時代~古墳時代に日本列島が稲作民族化するに連れ、古典的な海洋民族だった関東部族は、過去の人達の様な位置付けになっていったから、関東部族は仕方なく越系文化圏の海洋民族に政権を委ねた経緯があったから、縄文後期の関東部族が稲作民族を統治する事など、到底できなかったと言えるだろう。

従ってその様な関東部族が担った五帝の実像を推測すると、仲裁役とは言っても上位者的な仲裁者ではなく、精々両者の言い分を聞くに留まる事が関の山だったと推測される。しかし竹書紀年を遺した周王朝は農耕民族の政権だったから、政権には農地を配分する重要な役割がある事を認識していた。それを実施する為には強権を発動できる権力が必要であり、その様な権力は威厳を備えている必要ある事を認識していたから、その様な歴史認識の中で五帝を解釈した結果として、周の公式記録や竹書紀年は五帝を権威ある統治者でなければならず、それに相応しい事績を連ねた結果が、竹紀年には反映されていると推測される。

その様な五帝のイメージが中華世界に定着していた中で、史記は殷王朝の権威を高める為に、それとは別の意図として殷王朝が倒した夏王朝の存在を創作する中で、その先代の王朝とする為に更に一般化した五帝像を作り上げ、統治者の系譜に繰り入れたと考えられる。

実際に関東部族の貴族層が行った事は、両稲作民族が新天地移住する為の船を手当てし、従前から必要としていた塩の提供も継続しただけで、その際に両民族に与えた色々な情報は、彼らの判断を助ける為に過ぎなかったと想定される。荊の稲作技術も統治手法も荊独特のものだったから、漁民だった関東部族がそれに関する何らかの援助さえも可能だった筈はなく、荊は移住すると勝手にその地の稲作者になり、従来の自分達の治水技術を応用して統治システムを構築する事は、極めて必然的な結果だったからだ。

青州に製塩業者を移住させたのは、青洲に塩を運ぶ労務負担を軽減する為だったが、耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していた浙江省の稲作者にとっては、願ってもない事だった可能性が高い。浙江省の稲作者が移住した四川の成都の気候は関東に類似し、常識的な感覚では稲作地としては冷涼な地域だったが、関東で栽培化されて品種改良が進んでいた熱帯ジャポニカの最適な栽培気候は、関東に類似した冷涼な気候だった事を示しているからだ。当時の渤海南岸は現在より降雨量が多く、こちらも成都や関東と類似した気候地域だったから、この移住は製塩業者だけではなく稲作者にとっても、当初は歓迎すべきものだったと考えられる。

しかし両民族の人口が増えて居住域が接する様になると、伝統的な習俗に従った両民族の境界では、水利権や農地配分に支障が生れて民族間紛争が頻発したと推測される。荊の稲作地の形成手法は、河底に土砂が溜まって天井川になる頃に、適度に氾濫させて稲作地を確保するものだったと想定され、それによって河川の流路が変わる事態が頻出したから、下流域や海岸で固定的な稲作地を形成していた浙江省起源の稲作者にとっては、甚だ迷惑な稲作者になる可能性があった。

湖北省の荊は山裾の河川を利用し、洪水が頻繁に起こる盆地中央部は稲作地にしなかったから、青洲でも当初は山裾に集住していたと推測され、地殻の沈降地帯だった杭州、紹興、寧波を稲作地にしていた浙江省起源の稲作者は、海岸に近い低湿地を稲作地にしていたとすると、この様な事態が頻出した可能性がある。

農耕民族は穀類を煮沸して調理する必要があり、狩猟民族より多量の薪炭を必要としたが、製塩には桁違いの量の薪が必要だったから、森林の管理についての係争も頻発した可能性が高い。

製塩業者と共に移住したmt-B5は熱帯ジャポニカの栽培者だったが、稲作の生産性が高いmt-Fと境界を接する様になると、心穏やかではなかったと推測される。

縄文早期の関東では、先住のmt-B4と対立したmt-B5は九州に移住してしまったからだ。堅果類の栽培者の中の少数栽培者として、母から娘に託された稲作を1万年以上守り続けていた両者だったから、その遺風が濃厚に残っていた事が、その様な結果になったと想定される。

その様なmt-B5が青州に移住したのだから、mt-B5にとっては再びフラストレーションが溜まる事態に直面した事になり、四川の成都に多数の稲作者が入植したのも、その情報が浙江省に伝わったからである可能性が高い。

荊と浙江省の稲作民族を青州に移住させた関東部族としては、両者の紛争の仲介者になる必要はあったが、農耕民族ではなかった関東部族には、対応できない役柄でもあった。しかし荊も製塩業者も事態が紛糾すると、利害関係がない関東部族に調停を求める事態が頻出し、それが五帝代だった可能性も高い。五帝の役割はそれだけではなく、宝貝貨の使用方法も含め、独立志向が強く全体の流れに従わない複数の製塩業者の集団があったから、それを諫める役割もあった事を、竹書紀年が示している。

竹書紀年の編者だった製塩業者の子孫は、法治主義者の伝統を堅持していたから、その様な五帝を青州を法治する支配者であったかの様に、事績を整理した事が、大きな誤解が生れる原因を作った可能性が高い。

関東部族が荊と製塩業者に推奨できた事はシベリア的な共生の実現だったが、稲作民族にはそれが通用しなかった事を、帝舜十四年、禹に虞事を代するを命じたとの記事が示している。これは湖北省の過疎化対策が主眼だったとしても、海洋民族が農耕民族を統治する事の難しさに、匙を投げた事を示す言葉でもあったと解釈するべきだろう。禹の成功によって五帝時代が終わった事が、その事情を示しているからだ。

湖北省の温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fと、同じ稲作者だったmt-B5の折り合いが良好ではない状態に至っていた可能性は高く、青洲でもmt-B5は劣位の稲作者だったから、縄文早期の関東と類似した感情を発揮した可能性も少なからずあったと推測されるが、それは製塩業者が解決すべき事であり、関東部族には何もできない事だったから、その様な製塩業者の悩みや苦情に悩まされた関東部族が、禹に虞事を代すを命じた可能性も否定できない。

いずれにしても禹に虞事を代すを命じたのは、両民族間のトラブルの解決策を浙江省の稲作民族の法治主義に求めたのではなく、浙江省の稲作民族は個々の製塩業者に従属し、それぞれの色々な主張は荊に対する苦情が多く雑然としていたから、それらの解決案は浙江省の稲作民族が整理する必要がある見做し、製塩業者の主導で解決策を模索し、荊も協力できる方策の取り纏めを求めた可能性が高い。

禹がそれに才能を発揮して課題を解決すると、荊の方から禹に対して湖北省の過疎化対策も求められたから、禹に野心が生れて帝舜を利用し、自分の下に製塩集団を団結させた事が、夏王朝の成立に繋がった可能性もある。

この時代の権力者が善意や慈善意識で大業を成し遂げたと考える必要はなく、禹にも野心があったから、荊が湖北省の過疎化を悲しんでいる事を利用し、宝貝貨と塩の効果比率を固定化する事を名目に、浙江省の製塩業者も支配する仕組みを形成した側面もあっただろう。禹が樹立した夏王朝が2代で崩壊したのは、その様な禹の野心が強過ぎたからだったと解釈する事もできるからだ。

いずれにしても瓢箪から駒が出た様に、禹の登場によって民族間の課題が解決し、宝貝貨と塩の交換比率が固定化し、それによって荊だけではなく全ての農耕民族が夏王朝に参加する事により、廉価な塩を入手して各地に入植し、稲作地を拡大して交易経済が活性化したから、中華全域の交易を統括する夏王朝が誕生した事になる。それは政権幹部の独断的な判断ではなく、民衆の評価によって施策の可否が判断されたから、結果として経済合理性が高い施策が選択され、それがヒットすると経済の大勢がそれに向かって流れたからだと想定される。

いずれにしても我々にはその結果しか分からないが、荊と浙江省の製塩業者が帯同した稲作民は、農耕民族としての常として農地や河川水利の囲い込み意識が強烈にあり、一旦諍いを起こすと収拾が付かなくなったから、その為の話し合いの場を設けた事が、五帝代に民族間の合議体質が生まれた根源的な理由だったと推測される。

農地や水利が一旦確定して既得権が生れると、変更はできないとの認識を持つ稲作民族には、事後的な規約を作る海洋民族的な発想は通用しなかったから、話し合いで生まれた規約を文章化する必要から漢字が生まれ、五帝代の事績もその漢字によって記録されたと考えられる。

法治主義者にとってはその記録が法の根拠になるから、漢字が生れると製塩業者は早速記録を整備したと推測され、竹書紀年の五帝代の事績は、その様な法規的な記述の抜粋だった可能性もある。五帝代の文体と以降の文体には違いがあり、以降の文体は歴史記録として記述された事を示唆しているが、五帝代の文体にはその様な体裁が乏しいからだ。は即位時から夏王朝の帝だったから、製塩業者が積極的に政権に参加する場が準備された状態になり、帝紀を遺す機運が盛り上がったからではなかろうか。

周と同祖である禹が夏王朝を創始した経緯は、簡潔で合理的な記述になっているが、製塩業者の帝は2代しか続かず、荊の后が青州の統治者になった経緯は要領を得ないものになっている。周は禹の行動は理解していたが、荊が何を考えていたのか理解していなかった事になり、その観点でも竹書紀年の位置付けが鮮明になる。荊を出自とした后が統治していた時代についても、その事績に関して同様な印象があり、起こった事の解釈に難渋する。

荊にとっての統治に関する不満の一つとして、製塩業者の軍事力に対する懸念があった事は間違いない。歴史時代を通して荊は戦闘状態に果敢に対処したが、製塩業者や越同盟者にはその様子が見られないからだ。青州の人口は荊が圧倒的に多かったから、荊が軍事に駆り出される機会も多かったと想定されるが、倫理意識が高い荊は戦闘に積極的に参加して勇敢に戦ったが、製塩業者にはその観点での弱点があったから、アワ栽培者に取り囲まれて不穏な情勢を抱えていた状況では、製塩業者のアワ栽培者に対処する指導性に、荊の貴族層が疑念を持っていた可能性は高い。

争いの歴史を竹書紀年の五帝代から拾うと、五帝時代には製塩業者が形成した複数の地域政権との、諍いが始まっていた事を示している。

帝嚳高辛十六年 帝は重を使わし、師を帥いて有鄶を滅したとの記事が、それを示している。

次代の帝堯陶唐十二年 初めて兵を治めるとの記事は、有事が頻発して軍を常備した事を示しているが、職業軍人を育成したのではなく、有事に徴兵する仕組みを整備したと推測される。

地域政権の名称に有鄶の様に、「有」が接頭される事例が多数あり、禹の次代のが即位した翌年に、王は有扈を伐ち、甘で大戦した記されているが、黄帝元年、帝即位、有熊に居すとの記述もあり、「有」は製塩集団の個別名称に冠す漢字だったと考えられる。

「有」漢字は「右手」と「肉」の象形から成り立っているが、「有」漢字は甲骨文では「右手」だけで、金文になって「肉」が付いたと指摘されているから、夏王朝期には、右を意味する漢字しかなかったのかもしれないが、右の人が製塩者で左の人が荊で、居住域や会議の場の席次がその様な配置になっていたと推測すると、左右の漢字の成因が明瞭になる。

「右」漢字は右手に「口」が付加されたものだから、法治主義者だった製塩業者は議論を好む人達だった事を「口」が示し、工具を示す「工」が付加されている「左」は、社会が産業化されて多数の職人がいた、荊を示す漢字に相応しいからだ。既に指摘した様に、荊の貴族層は製造業の経営によって政権の運転資金を得ていた人達だったから、この推測を強く補強する状況証拠になる。

つまり五帝代の漢字には右手と左手しかなく、夏王朝期に右手に口が付いて「右」を意味し、左手に工が付いて「左」を意味する様になったが、殷人にはその区分に意味がなかったから左右を示す右手と左手しか使わなかったが、夏王朝から年代記と漢字の一部を借用した周が、五帝代~夏王朝前期の「右手」は、「右」なのか「有」なのかを書き分ける必要があると認識し、周の歴史を編纂した史書は「右鄶」などに「」を使って「有鄶」としたから、その後の史書は製塩業者の接頭漢字に「有」を使う様になったと推測される。

周の歴史の編纂者が左右漢字の成因を知らなかったのであれば、周はその様な未開の人達だったと評価する事になるが、竹書紀年に抜粋した記事の適格性を見ると、異なった解釈をする必要があるだろう。つまり周の歴史の編纂者は、有鄶の本当の表記は右鄶である事を知っていたが、敢えて有鄶と記した事になる。

周の歴史の編纂者としては、右であれば左が存在した事になるから、左はだった事を認めなければならなかったからだ。周にとって呉は不倶戴天の敵だったから、呉を連想させる記述はできなかった事が、この様な表記になったと考えられる。その5で検証するが、湖北省の稲作民族の本来の名称はで、は湖北省に再入植した稲作民族の呼称だったと考えられるからだ。の音は関東部族が自分達を「わ」と呼んだ事に由来し、は湖北省の稲作民が自分達を「ご=吾」と呼んだ事に由来したとすると、よりの方が古い呼称になり、夏王朝を支えていたのは呉だった事になるからだ。

いずれにしても帝嚳に滅された有鄶は、宝貝貨の統一的な運用規則に従わなかった製塩業者で、禹の次代のが即位した翌年に、王は有扈を伐ち、甘で大戦した記された有扈は、禹が形成した体制に反旗を翻した製塩業者だったと推測される。

黄帝元年の居所になった有熊は、製塩業者の元祖的な集団として、関東部族と共に宝貝貨の運用に努力していた氏族集団だった事になる。

が冠されていないは氏族名ではなく、禹が統括していた製塩集団の中核的な集積地の地名だった事になり、それ故に冀都とも呼ばれた事になる。

有扈はこの時期の情勢判断として、陶寺遺跡を遺した周の祖先集団だった可能性が高い。禹は浙江省の製塩業者を傘下に収め、彼らの利権は保護したが、解池の製塩者や青海湖の塩を販売していた者達は、禹が宝貝貨と塩の交換価値を固定し、安い塩が中華世界に拡散すると、彼らの商圏を後退させなければならない状態に追い込まれたからだ。

反乱を起こして渤海産の塩の流入を止めても、荊に支持される事はなかったから、無益な反乱だったと推測される。彼らが渤海産の塩の流入を止めようとした場所は、洛陽盆地だったのではなかろうか。其処が山西の塩の販売者の商圏と、渤海の塩の商圏の交差点になるからだ。

十一年 王の季子の武觀を西河で放つ。

十五年 武觀が西河を以って叛す。彭伯の壽が師(軍)を帥いて西河を征す。武觀は来帰した。

西河は山西~陝西の地名だったと想定されるので、有扈がその地域の統治者だったのであれば、武觀有扈の王の季子(3番目の子)だった事になる。有扈を滅ぼした際に武觀を捕虜にしたとすると、10年経ったので故郷に返したら反乱を起こしたので、彭伯の壽が軍を差し向けると敵わないと見て帰順した事になる。彭伯が呉の貴族だったとすると、は呉の貴族の称号だった事になる。

次の帝相から荊が帝になるから、それに至る大事件があった筈だが、その経緯は竹書紀年には記されていない。

帝相元年 帝即位、商に居す。淮夷を征す。

帝相二年 風及黃夷を征す。

矢継ぎ早にアワ栽培者を遠征したのは、彼らの暴力が青州に入植した荊に甚大な被害を与えていたから、武威を示してそれを止めさせる為だったと考えられる。

帝相七年 于夷來賓。

帝相の武威を見せつけられたアワ栽培者の一部が、夏王朝に朝貢した事を示している。

帝相二十八年、寒浞が其の子澆を使って帝を、后の緡が有仍に帰った。

それ以前に寒浞の父子が各地で暴力を振るっていたらしい記述が幾つもあるが、何を意味しているのか分からない。治安が乱れた事をこの様に表現した可能性があり、治安が乱れた理由は分からないが、製塩業者を同族と見做していた周にとって、転記したくない事情だったとすると歴史の流れを推測する事はできる。禹の功績を認めながら、禹を始祖とする夏王朝を2代で終焉させ、荊が政権を握った事に不満を持った製塩業者が、何かに付けて不穏な挙動を示したのではなかろうか。寒浞もその一派だった事になるが、竹書紀年は寒浞が誰だったのか分からない状態で放置している。

帝相は后ではなくは製塩業者だったから、后の緡が有仍に帰った事を示している。帝相が殺されてから少康が即位するまでの20年ほどの間は、朝議録がなく記憶によって以下が記された様に見える。

夏の世子少康が生れた。

少康が有仍から虞に奔った。

帝相が殺された後に夏世子の少康が生れ、少康が有仍から虞に奔った(逃亡した)後に、少康が帝に即位した事は、后の緡が帝相の妻を伴って有仍に帰った事を示している。帝少康の子は刺青の習俗を持っていなかったから、荊の系譜だったと考えられる事は既に指摘したが、その父の帝相が荊として初めて帝に即位すると、夏王朝内に大騒動が持ち上がり、製塩業者が帝相を殺してその妻を略取した事を示唆している。

しかし穿った見方をすると、帝相が民族融和の為に製塩業者の娘を妻にしたが、帝相の統治に不満を持った后の緡帝相を殺させた事になる。帝相の妻は后の緡の娘だった可能性も高いが、いずれにしても帝相妻は自分の息子は荊であると考え、少康には入れ墨をしなかったとすれば、陳寿が夏后少康の名称に拘った理由も明らかになる。つまり誰にでも分かる見掛け上の事績としては、少康は荊の指導者として初めてになったからだ。

五帝代からの時代まではは別の資格で、帝舜の時代に禹が夏后だった事は、少康は荊の指導者として初めてになった事の、重要性を示している。殷王朝の統治者は王だったから、は各民族のそれぞれの法規に従って各民族を統治する人として、五帝代にも夏王朝期にも存在し、荊と製塩業者にはそれぞれ王がいた事になる。

は中華全体を統括する者で、は青州の統括者として、荊民族の王と浙江省出自の民族王の上位者だったと考えられる。但し五帝時代の帝が統括していたのは、青州の荊と製塩業者だけだった可能性が高く、夏后だった禹がそのの権限を代行すると、は華北夏王朝を統括する資格になったと推測される。

夏后少康以降のはそれ以上の権限を有し、青洲の荊と製塩業者だけではなく、浙江省の製塩業者と稲作者の上位者になった。は王の上位者ではあっても民族を統治するではなかったから、元々はそれぞれの民族から選ばれて合議に参加する、代議員の様な存在だったと想定される。しかしその様なには各地の王に対する指導権があったから、夏王朝の統治が実現するとの権力が高まり、実質的な統括者になったと考えられる。既に指摘した様に夏王朝には統治機構はなく、夏王朝の帝には会議を開催する権限しかなかったから、民族や地域の実際の統治権が、夏王朝の興隆と共にに移っていったと考えられる。但し単一民族の場合には王がを兼ねる事は可能であり、弥生時代の倭国王はその様な存在だった可能性が高い。

いずれにしても少康夏后だったとすると、その上位に夏王朝の帝がいた事になるが、夏王朝の存在を隠したかった周王朝には認められない事だったから、竹書紀年では少康以降も帝だった事になっている。

華北夏王朝の最上位者が帝だったとすると、殷王朝や周王朝の最上位者が王だった事と整合性がなく、法治主義者には大矛盾だが、周王朝にできる事はそれが限度だったと推測される。法治主義者だった周にとって、王朝の歴史は政権の正当性の根拠だったから、創作が混入した事が露見すれば周王朝の権威が失墜してしまうからだ。

陳寿は四川の稲作民系譜の人だったから、「夏后少康の子が会稽に封じられると断髪文身した」事を地域の伝承によって知り、その歴史的な重要性も認知していたから、竹書紀年を読んで歴史の捏造が周王朝でも行われていた事を認識し、魏志倭人伝に正しい歴史を記した事になる。

以上を纏めると、以下のシナリオが浮上する。

縄文後期温暖期に荊が青州に入植すると、関東部族は浙江省の製塩業者にも渤海南岸への入植を勧め、馬橋で開口宝貝貨を製作してそれを青洲で発行し、宝貝貨の価値の低減を実現すると、青州の経済が活性化して湖北省から入植する者が激増し、入植した荊の人口も激増したから、荊の中核地は青州になった。

それに伴って多数の製塩業者が浙江省から入植すると、両稲作民族の境界が接する様になり、水源や薪炭の確保などを巡る争いが発生した。製塩業者は地域集団を形成し、それぞれが独立した政権を持っていたので、宝貝貨の運用に関する統制を乱す者が出現し、青洲を統括する政権が必要になって五帝代が始まった。

各帝の居所は黃帝が有熊、帝顓頊は濮、帝嚳は亳、帝堯と帝舜は冀だから、帝嚳以外の帝は、製塩者の居住域を拠点にした事になる。帝舜は関東部族だった可能性が高い事を指摘したが、その他の帝も、海岸にあった製塩者の集落を拠点にしていた事は、関東部族の漁民だった事を示唆している。当然ながら関東部族にも貴族が存在し、南方派と北方派にはそれぞれ別の指導集団がいたから、五帝は南方派の指導集団の貴族の一員だった事は間違いない。

関東部族には宝貝貨と塩の兌換性を維持する必要があったから、製塩者の中核的な集落を拠点にする事は必然的な事情だったが、複数の地名が挙げられている事は、多数の製塩業者の集落が割拠し、最大規模の製塩者集団が時間の経過と共に変化していた事を示している。言い換えると製塩事業が急拡大していた事を示し、青洲に移住した荊の人口が急膨張していた事を示唆している。

製塩業者の数が増えると製塩業者間の諍いも生まれ、武力を行使する事態に発展した事を、帝嚳十六年 帝は重を使い、帥(軍)を師いて有鄶を滅した事と、次帝の帝堯十二年 初めて兵を治すと記された事が示している。関東部族が兵員を提供したとは考え難いし、製塩業者は兵事に疎かったので、挑発された兵員は荊だった可能性が高く、帝嚳が亳を拠点としたのは、荊にそれを依頼する為だった可能性がある。

有鄶会稽塗山の製塩業者だったとすると、渤海南岸の製塩者が、安価な輸送コストと効率的な製塩によって財力を得ていた上に、宝貝貨を運用して更に高い利益を得ていた事に対し、依然として湖北省の荊との間の非効率な交易に甘んじていた会稽塗山の製塩業者が、宝貝貨の制度に不満を持って青州に管理外の塩を持ち込み、青洲の貨幣制度の秩序を乱したから、帝嚳高辛有鄶を滅した可能性がある。帝嚳高辛がその軍事を指揮したと言うよりは、青州の荊と製塩業者が有鄶に警告を発したのに聞き入れなかったから、青州の総意として浙江省の製塩業者を誅したのであれば、やがて玄都氏が禹の傘下に入った事に繋がる。

つまり渤海南岸の製塩業者には多額の利益が生れていたのに、浙江省の製塩業者は旧態然とした利益が薄い、湖北省との交易も行う事を求められていたから、それに対する不満が浙江省の製塩業者から上がっていたとすれば、その最終的な解説策は、浙江省の製塩業者の棟梁だった玄都氏が禹の傘下に入り、同じ交易手順によって利益を享受する仕組みを構築する事だった。しかしそれが実現したのは、帝嚳高辛有鄶を滅してから150年後の事だった。

関東部族は青州に荊が入植した直後から、会稽塗山の塩も青州南部に持ち込んでいたから、航路が短縮された関東部族は輸送コストが低減した会稽塗山の塩を、盛んに青州に運び込んでいた筈であり、宝貝貨の使い方について彼らとどの様な合意があったのか明らかではないが、渤海南岸の製塩業者と全く同じではなかった可能性が高い。

気候が湿潤な会稽塗山では、晴天が多い渤海南岸より製塩コストが高く、渤海南岸の塩が多量に出回る様になると、廉価な渤海南岸の塩に市場を奪われ始めたと推測される。塗山の場所は明らかではないが、南京付近だったとすると、会稽では青洲や湖北省への輸送コストが嵩むから、青洲に近い場所に製塩業者が移住した地域が、塗山だったと推測される。「塗」漢字は泥を捏ねる象形であると解釈されているが、それで何をしたのか明らかではない。しかし旁である「余」は道具を意味するから、製塩者が砂浜で砂を移動させる象形だった可能性が高い。

会稽塗山の製塩者も青洲を主要市場にしたかったが、彼らがそれに邁進すると、輸送路の都合上高価な塩になっていた、湖北省の稲作民には不利な現象が生れた。関東部族も青州に入植した荊の需要に応える事に忙しく、利益が薄い湖北省に遡上する船は減少していただろう。甘粛のY-Rがその間隙を縫って、青海湖の塩を湖北省に運び込んでいた事を、斉家文化の興隆が示している。

帝嚳高辛有鄶を滅したのはBC2000年頃だったから、斉家文化や陶寺遺跡が消滅した時期に相当し、石家河文化の拠点的な遺跡が消滅した時期でもあるから、湖北省から荊が青州に移住してしまい、湖北省が急速に過疎化した事になるから、帝嚳高辛有鄶を滅した事により、この二つの現象が同時に発生したと考える必要がある。

これらの現象は、近現代的な経済法則から読み解く事ができる。

青州では依然として荊の人口が増えていたから、市場規模は右肩上がりに増加し、浙江省の製塩業者も渤海の製塩業者も、その需要に対応するべく増産に励んでいた。青州北部では渤海産の塩が潤沢に出回る様になり、浙江省の塩を消費する青州南部と市場を2分する状況が生れると、その境界が徐々に南下して渤海産の市場占有率が高まり、浙江省産の市場圏が縮小過程に入ると、浙江省側はその市場を守る為に、潤沢な塩を市場に投入する必要に迫られただろう。

この状況を現場の実態として捉えると、塩を末端の稲作者に配布していた荊の二次問屋的な人々は、生産力が劣る故に納入時に欠品を起こし易かった浙江省の塩より、生産力が高く潤沢に出回っていた渤海産の塩の購入を優先する事は、必然的な経済事情になる。

その様な状況下にあった浙江省の製塩業者の同盟組織が、青州の販売網を失いたくなければ、浙江省の製塩業者の息が掛かった一次問屋に塩を潤沢に送り込み、欠品を未然に防止する必要があった。その結果として浙江省の製塩業者は、従前は湖北省への塩の配給を慈善事業的に行っていたとしても、それは青州に集荷すべきであるとの圧力が、製塩業者の同盟組織から掛る様になり、青洲の一次問屋には余剰の塩が溢れているのに、湖北省への塩の出荷は拒否する状態が多発するという様な、極めてバランスが悪い状態を生み出した可能性が高い。

その背景として、青洲の荊の人口が爆発的に増加し、廉価になった塩の個人消費量も増加していたから、浙江省の製塩業者が幾ら増産に励んでも、浙江省の塩の地域的な販売圏としては、青洲の商圏が徐々に縮小していく状況にあったと想定される。この様な場合には生産した塩の需要が増加していても、生産者には危機的な状況に見える事が一般的な事情になる。渤海の製塩業者は湖北省への輸送ルートを持っていなかったから、湖北省の過疎化については、渤海の製塩業者には如何ともできない事態だったが、彼らはそれ故に青洲への出荷を強力に推進していただろう。

渤海の製塩業者の生産性が高かった一つの理由は、晴天に恵まれていたからである事は間違いないが、浙江省の製塩業者の周囲には他の交易的な民族がいなかったのに対し、渤海の東岸である遼東に箕氏朝鮮がいた事も、生産性を高める大きな要因になったと考えられる。

箕氏の「箕」は竹で編んだ容器を指すが、それを集団名にしたのは濊の最有力商品だったからで、その出荷先は渤海南岸の製塩業者だったと考えられるからだ。砂に海水を撒いて乾燥させる製塩では、この砂を海水で洗って塩を回収するから、重い砂を支えながら水通しが良い丈夫な「箕」が多量に必要だった。箕氏がその供給者になったから、箕氏を名乗ったと推測される。

いずれにしてもこの様な事態に有鄶が真っ先に気付き、有鄶が生産した塩は全量青州に出荷すると宣言したとすると、帝嚳高辛有鄶を諫めて湖北省にも塩を送る様に説得せざるを得なかったが、有鄶はそれに応じなかったので有鄶を滅したとすれば、有鄶の姿勢は極めて必然的な経済戦争の帰結だったから、道義的にそれを咎めても状況が改善される事はなく、却って逆効果を生じ、湖北省の製塩業者が結束して面従腹背的に青洲への出荷を増やす様になり、やがて湖北省に回される塩が途絶えただろう。

帝嚳高辛有鄶を滅した事により、信頼関係が失われたと感じた浙江省の製塩業者が、仁義のない経済戦争に突入した事に違和感はなく、その状態に突入すると両者の間に残されたのは、市場争奪戦を勝ち抜く販売競争しかなかったからだ。現代社会でも同様な事が日常茶飯事的に起こっているから、これに違和感を持つ現代人はいないだろう。

それによって湖北省の荊は、青海湖の塩に依存せざるを得なくなったが、元々青海湖の塩は入荷量が少なく、価格も青州の塩と比較するとかなり高価だったとすると、湖北省の荊は青州に移住せざるを得なくなり、斉家文化と石家河文化が同時消滅する事態になったとすれば、それも極めて必然的な経済戦争の帰結になる。

青洲の荊の人口は爆発的な増加を続け、塩の需要も激増していたから、帝嚳高辛としては有鄶を滅したが、青洲の荊にとって浙江省の塩も必用である状況に変わりはなく、帝嚳高辛としても事態を放置する以外に対処法がなかったのではなかろうか。荊や関東部族は民族間の調和を重視し、知恵を集めて解決策を探す習俗があっただろうが、法治と経済原則を重視した製塩業者が原則を譲らなければ、解決策を見付ける事は困難だったからだ。

玄都氏宝玉を貢いだのは、石河家遺跡が消滅してから150年以上後の事だから、浙江省系の製塩業者と渤海系の製塩業者の対立が、100年以上継続していた事になる。玄都氏宝玉を貢いだのは、渤海の塩の商流が中華世界全体を支配する勢いになっていたのに対し、生産性が劣る浙江省の製塩業者もそれを公に認めざるを得なくなったからだと考えられるが、其処に至らせた禹の政治的な手腕が光ったから、夏王朝の始祖になったと考えられる。

帝舜が塩の商流に関するこれらの混沌とした状態と、稲作民族間の諍いに終止符を打つ為に禹に虞事を代行させると、禹の法治主義的な対策の提案と、粘り強い合意への説得により、製塩業者間の対立と稲作民族間の諍いを鎮静化させ、浙江省の製塩集団が禹の統帥権を公式に認させると、荊も禹の法治主義的な民族間統治を容認したので、禹を始祖とする夏王朝が成立した事になる。

しかし西の製塩集団だった有扈が夏王朝の体制に従わなかったので、が即位した翌年に有扈を討ったが滅したとは記されていないから、依然として有扈は塩の販売組織として存続し、後世の周の一翼になったと考えられるが、夏王朝の年代記に「滅した」と記されている事が周には甚だ不都合だったから、王は有扈を伐ち、甘で大戦したと曖昧に書き換えた疑惑は拭えない。

その様な周が華北夏王朝の歴史を知っていた事に疑念はあるが、殷週革命時の周は夏王朝に参加していたから、周の名目上の政権の正統性は夏王朝に付与されたものだった。それについては別の章で検証するが、その機会に周も夏王朝の年代記を入手する事ができただろう。夏王朝の年代記を保持していたのは、周が同族と見做していた渤海起源の製塩業者だった筈だから。

有扈は五帝代には帝が開催する会議に参加していたから、有扈の名称が付与されたと推測される。夏王朝が生れるとその体制に参加できなかったから反旗を翻したが、その時点までは有扈も青州政権の一翼を担い、漢字文化圏の民族でもあったが、成立直後の夏王朝から脱退すると、夏王朝期に進化した漢字文化から取り残される存在になった。

禹が形成した体制によって宝貝貨と塩の交換比率が固定化すると、品質が悪い解池の塩が市場から排斥された事は当然の帰結として、青海湖の製塩者だったY-Rをこの体制に組み込む事はできなかったから、宝貝貨の普及は有扈を製塩業や塩の販売者から実質的に排斥する体制だったからだ。従って有扈を討った際に有扈Y-Rが加勢していた可能性もあるし、が招集した兵の過半は荊だった。

荊にとってこの抗争は製塩業者間の勢力争いであり、その様な戦闘に荊が駆り出される筋合いはないと考えても、不思議ではなかった。その様な抗争を指揮した14年の治政が終了すると、その後に帝になったのは荊人の帝相で、即位すると直ぐに淮夷を征討した。青洲の周囲に雑居していたアワ栽培者の脅威が迫っている中で、その様な戦闘行為に走る製塩業者の集団に、荊が反感を持つ事も自然の成り行きだった。しかし荊人が帝になる事に反感を持った製塩業者により、帝相は殺されてしまった。

魏志倭人伝の少康の正しい称号は夏后であるとの指摘は、帝相を最後に華北夏王朝のは帝ではなくなった事を意味する。

「帝」漢字は「木を組んで締めた形の台」の象形で、古代人を蔑視している人達の通説では「神を祭る台」と解釈しているが、此処まで読んだ人には「会議を開催した際に設置された卓」と、解釈するべきである事が理解きるだろう。その詳細は別途検証するが、五帝に与えられている「帝」の称号は、関東部族が荊や製塩業者を集めて話し合いの場を設定し、塩の商流や宝貝貨の使い方を含めた諸集団の利害を調整する役割を指し、その会合が大きな卓を並べた議場で行われたから、その会議が帝と呼ばれる様になり、やがて会議を主催する者の名称になったと考えられる。

会議の場では主催者に一目置き、その発言を重視する事は常識的な行為だから、それが「帝」の権威だったと推測されるが、統治者と云うには相応しくない存在だった。

禹が夏王朝の帝に就任すると製塩業者の立場を前面に押し出し、製塩業者の諸集団を法治によって半強権的に統制すると、禹の統治方針に従った沿海部の製塩業者は利益を高め、夏王朝の権威はそれらの多数派によって高められたから、製塩業者の一部に反対者が出ても武力で鎮圧された。従って製塩者が夏王朝の帝は、製塩業者の秩序を維持する者であると固く信じたとしても、不思議な事ではなかった。

しかし夏王朝の製塩業者の利害調整の為に、多数の荊が兵士として挑発されると、荊の不満が高まる事も必然的な結果だった。稲作者として青洲の辺境に拡散した荊の中には、アワ栽培者の暴力の犠牲になる人々もいたから、荊人から帝が排出されて帝相が生れたと推測される。しかし塩の商流を理解しない荊人のでは、折角が制定した塩の商流を、維持・統制できない事に不満を持った后の緡が、帝相を殺した可能性が高い。后ではなく、帝相時代のが製塩業者だった事は、帝相の時代には製塩業者からが選出されていたか、帝を輩出しなかった側からが選ばれていた事を示し、には明らかな役割分担があった事になる。従ってが青州の政務を担当し、は会議を主催する者だったが、それから転じて夏王朝下で地域を代表する代議員を意味したと想定される。少康夏后になる事によってこの制度が確立したのであれば、夏后少康という言葉の伝承は、夏王朝の体制が確立した事を示す言葉だった事になる。

帝相七年に于夷が來賓して周囲のアワ栽培者が帰順の意向を示した翌年の帝相八年に、寒浞が羿を殺して夏王朝の治安が乱れた事を示しているのは、帝相が即位したのは短期的なリリーフで、周囲のアワ栽培者が帰順すれば、帝は製塩業者に戻る筈だった事を示唆し、帝相がその約束を違えたからである事も示唆しているが、周が編纂した竹書紀年から、そこまで読み取る事にはリスクがある。それ以降の華北夏王朝の指導者を荊が踏襲し、製塩業者の帝は生れなかった事は、製塩業者も荊の指導者を必要としていた事を示しているからだ。

いずれにしてもこの様な混乱の中から生まれた夏后少康は、帝を称する事を止めて夏后になった。つまり華北夏王朝を代表して帝に参加する代議員になり、帝の称号を持つ者はこの時代からいなくなったと陳寿は主張している。史記も越王勾践世家で「越王句踐の先は禹の苗裔の、夏后帝少康の庶子である」と記し、少康夏后だった事を認めている。竹書紀年の帝禹夏后は記述順として正しいが、史記が夏后の後に記している記述順序は極めて不自然だから、夏后少康と呼ばれていた実態に、「実は帝も含まれていた」という欺瞞的な注釈を付けた結果であると考えるべきだろう。

夏后少康のこの決断により、夏王朝の帝の場で決まった議決事項が、華北夏王朝の法規にもなるという、従来とは異なる認識に変わった事を意味する。それによって荊人のが華北夏王朝の実質的な統治者になったが、は飽くまでも両民族を直接統治する王の上位者に過ぎなかったから、荊にも青洲の製塩業者にもそれぞれ王がいた。

華北夏王朝のが帝を開催する事は、従来通りだったと考えられ、関東部族が再び帝に返り咲いた可能性は極めて低く、帝は夏王朝の決議機関になった可能性が高い。つまり華北夏王朝のが帝を主宰し、議長になり、議決事項を参加者に周知していたが、華北夏王朝のは夏王朝の帝ではなかった。時代の進展と共に帝の権威が高まり、権力も高まったから、その様な身分には誰も就任しない方が良いという、古代人の知恵だったのではなかろうか。

いずれにしても夏王朝の制度がこの様に整った事により、多数の民族が平等な立場で夏王朝に参加する事になったから、夏王朝の版図が急拡大したと考えられる。禹の時代には塩の商圏が華北夏王朝の疑似的な版図だったが、夏后少康の決断によって民族同盟に衣替えした事になる。

秦が中華を征服すると夏王朝が完全に終焉したから、秦の最高権力者が「始皇帝」を名乗ったと推測される。「皇」は諸王の中の大王を意味するから、始めて大王が帝になった事を意味するからだ。但し秦の王が始皇帝を名乗ったとの記述は、史記などの漢代の書籍のものだから、漢王朝の悪行を秦の王に擦り付ける為の、焚書坑儒などと同様の史記のデマである疑いも拭えない。

少康夏后になっても、会稽塗山の製塩業者は夏后少康の傘下である状態を維持したが、会稽塗山は帝に直接統治される存在ではなくなり、王が統治する地域になったから、「夏后少康の子が(王として)会稽に封じられると、断髪文身した」と考えられる。禹は「諸侯と塗山(安徽省の山)で会す」「諸侯と会稽(浙江省と福建省)で会す」と記されているから、宝貝貨の制度を徹底させる為に直接的な統治を行ったが、それとは異なる状態になって夏后少康による間接的な統治が行われた事になる。会稽に封じられた塗山の名称はないから、塗山は別の王がいた可能性もある。

宝貝貨を運用する為には、会稽と塗山で生産した塩は、全量夏王朝が買い取る必要があったが、夏王朝には帝しか存在しない状態になったから、夏王朝としての宝貝の運用を華北夏王朝が代行する必要があり、華北夏王朝が会稽を直轄したが、塗山にはその必要がなかった事と、夏后少康の子を会稽に封じたのは直接統治を避ける為だったとすれば、夏后少康に権限が集中する事を避ける為だった事になり、やがて夏王朝の法規が整えば、各民族の王が法規に則って物事を処理すれば良い状態になり、各民族の自治が尊重される状態になったと推測される。

会稽に封じられた夏后少康の子の身分は「王」で、竹書紀年もこの時代にも「王」がいた事を示しているが、夏王朝に関する記事に王が登場しないのは、周王朝が歴史を編纂する過程で「王」の事績を抹消したからである疑いが濃い。夏后は王ではなかったから少康以降にもを使い、政変は華北夏王朝の体制に変化を与えなかった風に装っているが、周の最高権威者は周王だったから、華北夏王朝と周は同格の王朝ではなかった事を露呈している。であってではなかったと主張したのは、周王は夏王朝の帝に封じられた身分だったからだと推測されるが、その不条理な論理は現代人には理解できないかもしれない。

「王」漢字は刑を執行する鉞の象形だから、民族内の治安を維持する存在であって外交的な存在ではなく、民族間の交流活動を指導して歴史を動かす存在ではなかったから、製塩業者の歴史に登場する必要がなかった事も、竹書紀年が無視した理由であると推測される。周代に王が外交も統括したのは、国際機関である夏王朝に参加していなかったから、はいなかったからだ。

五帝代の歴代の帝の称号は、初代の黄帝と次世代の帝顓頊以降では、の記述順序が異なる。息慎と越裳にも語順の逆転があり、それぞれの語順が各集団の性格を表わしているから、それを五帝にも当て嵌めると、黄帝は息慎型で帝顓頊以降は越裳型になる。これを息慎と越裳の語順法則に従って解釈すると、黄帝は皆が話し合って諸事を決める、海洋民族型のを目指したが、それではうまくいかないと判断した帝顓頊以降の帝は、荊と製塩業者はそれぞれ別の民族である事を前提とした、越人的な多極統治体制を目指した事を示している。つまりこの語順は帝と呼んだ会議の場に、関東部族を含めた各民族がどの様な立ち位置で参加したのかを示し、五帝もその一人だった事を示している。

初代の黄帝の立場は、皆が新たに青洲に集まった人々だから、新たな集団を結成するべきであるとの理念の下で、自分もその一角を占める者であると主張した事を示している。その背景には関東部族の様に、漁民と縄文人がそれぞれの生業を維持しながら、一体的な政権を実現している事実があり、それと同様な体制を目指した事を示唆している。縄文中期の関東部族が沖縄に多数移住した様に、渤海沿岸にも移住する構想があった可能性も示唆している。

しかしこの構想には無理があった。漁民と縄文人は生業が全く異なり、生業に関する両者の縄張りに重複がなかったから、両者がそれぞれの生業を生かして共生する事により、民族間の摩擦がない経済発展を実現したのであって、生業が同じ稲作民だった荊と浙江省の稲作者には、実現できない事だった。

帝顓頊以降の帝は、荊と浙江省の稲作者は別々に統治されるべき存在であると認識し、それぞれの民族の代表が帝に参加して、それぞれの民族利害を代弁する場が帝になったから、語順が分権型の越系集団型になったと考えられる。つまり帝顓頊は帝荊や帝製塩者と並置される存在だったが、後世の歴史家による幾多の編纂を経て農耕民族的な発想が高まると、帝顓頊と呼ばれる独裁者が居たかの様な、農耕民族的な歴史認識に変わってしまったと想定される。

確かな根拠はないが帝顓頊が二文字であるのは、二人が帝の座に座っていたからだと推測される。漢字の数を急速に増やして表現力を高めていたこの時期に、一人の人物に2文字を割り充てる発想は異常だからだ。従っては髭を生やした人物の象形、は首に玉器を掛けた人物の象形として、両者の為に作られた漢字である可能性が高い。

関東部族の漁民は近代のアイヌ的な風貌だったと想定され、古墳時代には縄文人系が多数派だった西日本の人達から、毛人と呼ばれていたから、モンゴロイド的な風貌だった青州の両稲作民族にも、髭が濃い人であると見做されて漢字が宛てられ、縄文人は威厳を示す為にヒスイのペンダントを着けていたから漢字が宛てられたとすると、漁民と縄文人の特徴を示している事になる。

関東部族の漁民が縄文人を伴ってに参加し、関東部族的な体制の構築に最後の一類の望みを託したが、縄文人にも両稲作民族は説得できなかったので、次の帝嚳から両稲作民族と関東部族を別の民族として帝を運営したが、関東部族の両者が帝の場で最後に座ったのは、民族別の席だったので帝顓頊になったのではなかろうか。関東部族は荊の産業力を高く評価していたから、青州に飛び地を作って荊と共生する積りだったが、この事態に至って断念したと考えられる。

かなり怪しい推測だが、五行説では黄色は中央の色だから、関東部族が両稲作民族の要になる積りで、黄帝と名乗った可能性もある。

いずれにしても縄文人はドングリを食べる事を忌避する為に、漁民と一緒に漁労の生産性を高める努力をしていたから、両者の共生が成功したのであって、稲作技術が卓越していた荊には、縄文人的な生活は論外だった事も、関東部族はこの時期の帝(会議)で思い知ったのではなかろうか。つまり青州で潤沢な塩を得た荊は、嘗ての様に関東部族が獣骨を得る為に陶器を製作する事を拒否し、自分達の生活を豊かにする手段を模索していた事になるが、それも経済活動の必然であると言えるだろう。

黄帝と次世代の帝顓頊に関する事績の記述が少ないのは、越人的な法規主義を採用する事によって漢字が必要になり、帝顓頊の時代以降に漢字文化が急速に発達したから、黄帝帝顓頊帝嚳に関する事績は、帝堯の時代になってから記憶を基に加筆した可能性が高く、この推測も上記の仮説の傍証になる。

帝嚳以降は帝に参加する3者の立場が明確になり、関東部族は青州では第三者的な立場になったから、両稲作民族や製塩業者間の揉め事の仲介者になり、それが常態になって立場が固定化すると、諍いを起こしていた人々に対してアドバイスを行う立場から、公平な裁判官である様な立場に変わり、後世の人々から権力者と見做される様になったと推測される。従って何かを発案したのではなく、稲作民族の人々の言い分を聞き、最後の裁定を下して両者にそれを納得させる人だったと考える必要がある。

しかし帝舜が禹に虞事を代行する様に命じた事によってその事情は一変し、当事者が政治的な判断をする時代になった。帝舜が禹に虞事を代行させたのも、それを支持する意見が多数派だったからだと解釈する必要があるが、禹は自分の考えに基づいて施策を立案し、それを実施したからだ。

その様な禹が樹立した夏王朝は、禹代の8年と帝16年で終わり、帝相が即位した。帝相は周囲のアワ栽培者の暴力に対抗する為に即位したと指摘したが、禹が樹立した夏王朝が24年しか続かなかったのは、それだけが理由ではなかった事を示している。文明度が高かった荊が製塩業者の統治を嫌った側面もあっただろうし、歴史上経験がない独裁的な立場に就いた帝には、帝王学も官僚体制もなかったから、行き詰る事は必然的な結果だったのかもしれない。

荊は縄文前期から巨大組織として活動し、統治者の心得にも十分な経験があり、それをサポートする貴族層も厚く、階層的な職掌分担にも慣れていたから、荊が最多人口を擁していた華北夏王朝の統治は、荊の貴族にしかできなかったと言っても過言ではないだろう。

禹の偉大な功績によって両稲作民族間の諍いが激減し、湖北省の過疎化を憂いていた荊が中華世界の各地域に入植し始めると、禹の功績を荊の貴族層が継承する事により、新しい時代が始まった事になるが、その間に時代は急展開に次ぐ急展開を遂げ、それぞれが必然的に流れながら落ち着くべき状態に急速に収斂していったから、それを古代人の知恵と評する事に吝かであってはならない。

帝少康以降は浙江省を含む華北夏王朝としての安定期になり、法治的な体制を基盤にして諸民族を同盟させる、広域的な夏王朝の中核組織として発展したと考えられる。この時期に夏王朝に参加したと推測される湖北省や四川省の稲作民族が、殷週革命時の記事に多数登場する事が、その証拠になる。

夏王朝は秦・漢帝国以降の中華王朝の様に、暴力的な征服によって民衆から生産物を収奪する、中央集権的で強権的な王朝とは異質なものだったから、その呼称に同じ「王朝」を使う事は大きな問題だが、徒に造語すると混乱するからこのHPでも夏王朝を使う。

但し稲作民の地域政権だった華北夏王朝は、農地争いを武力で解決する典型的な農耕民族の政権だったから、民族間の交易の促進を目的とした夏王朝とは性質が異なる政権だった。華北しか統治しかしなかった周王朝は、華南を統治していた夏王朝を邪魔な存在として切り捨てた事を、周王朝が編纂した竹書紀年が示しているが、竹書紀年の記事から読み解く以外に、中華の歴史を復元する手段がないからそれに頼るが、偏った史書を熟読しても客観的な事実が明らかになるわけではない。

その一番良い例は、華南の稲作民族の事情は竹書紀年には記されていない事が挙げられる。しかし皆無というわけではなく、竹書紀年の記述を精査すると、不都合な記述の削除を主眼とする改竄であり、史記の様に捏造した記述を編纂したのではない事が分かるから、断片的な記事と経済の必然性から華南の稲作民族の事情も朧気ながら見えて来る。

 

2-7-3 竹書紀年が示す夏王朝の盛衰

次の帝相は、商(河南省東部)に居し淮夷を征したと記され、淮夷との対立が激化した事を示している。

竹書紀年には歴代の夏后が帝と記されているので、以降の記述も竹書紀年に従って帝を使う。

次帝の少康の治世には、少康二年 方夷来賓などと記され、夏王朝の活動によって異民族との間に秩序が得られ始めた事を示している。

次々帝の帝芬の治世に帝芬三年 九夷来御と記され、九夷が渤海交易に参入した事を示している。これは単に九夷の酋長が青州を訪問した記事ではなく、他に例がない来御という敬意を込めた表現が、華北夏王朝の交易環境が大きく変わった事を示している。この頃青州のデルタが更に拡大し、渤海と東シナ海を結ぶ水路が失われたから、青州にアクセスする関東部族の航路が北九州から黄海を経由して渤海に至るものと、従来の沖縄~台湾~浙江~湖北省と浙江~青州南部に2分され、関東部族とは異なる海洋民族である、九夷の登場が必要になった事を示している。

黄河のデルタが拡大すればこの様な事態になったが、浙江省の製塩業者が冀に移住した時代には東シナ海と渤海が繋がっていたから、多数の製塩業者が渤海南岸に移住したと推測され、地理的な環境変化の流れと整合する。竹書紀年の殷末の記事に九候が登場し、殷王朝の重要な交易相手になっていた事を示しているから、殷王朝期には東シナ海と渤海が完全に遮断されていた事になり、地理的な変遷と合致する。

関東部族はこの様な地理的な変化に対応する為に九夷の結成を促し、結成間もない九夷が大型使節団を派遣したから、帝芬が盛大に迎え入れて九夷来御と記されたと考えられる。関東部族は自分達の海運力では渤海に手が回らなかったし、北九州に入植した漁民だけでは、青洲北岸から黄河流域に拡大した夏王朝の広大な版図に対処できなかったから、16千年前から九州にいた嘗ての関東部族と、関東部族と親和的だった伊予部族の九州入植者を糾合し、海運力を高めた九夷を結成したと推測される。

伊予部族も九州や四国南部に再入植して千年近く経過していたから、関東部族の勧誘は望むところだったと推測される。但し伊予部族は縄文中期まで東北と北海道の太平洋沿岸に分散し、部族としての纏まりを欠いていたから、九州に入植してもそれぞれの地域単位の集団が別々の政権を結成し、九夷と呼ばれる多数の海洋集団になっていたと推測される。

その次帝の帝芒の時代に、帝芒三十三年 商侯殷に遷ると記され、アワ栽培民族に販売する塩の元締めになっていた故に商侯と呼ばれた酋長が、アワ栽培者の塩の最大需要者になったり、拡販活動を行ったと記している。この時代のは製塩業者だけではなく、塩の流通に関与する者も指す様になっていた事を示し、塩の流通が更に活性化していた事を示唆していると共に、塩商人がその他の交易品も扱い始めた事も示唆している。

殷王朝や商王朝は殷人の政権であって華北夏王朝の事績ではないが、竹書紀年は華北の事績であれば採録し、華北王朝だった周の前史にした事になり、華南ではもっと早くからこの様な経済活動が活発化し、浙江省を大陸の起点としていた関東部族は、四川や雲南にも商圏を拡大したと想定されるが、それに関する記述を無視した結果、この様な事績を記したと推測される。成都は台湾の海洋民族の商圏だったが、入植した浙江省起源の稲作者は浙江省の塩を消費していたから、台湾の海洋民族も成都の稲作民族も夏王朝に参加した可能性が高いが、それも無視していた事になる。

商侯は荊の集積地でもあった商(地名)近郊の丘陵地の、アワ栽培者の酋長がアワ栽培者に塩を配布する者になった事から、商侯と呼ばれる様になったと推測されるが、荊の同じ役目の人がと名乗ったのでなければ、殷人が虚勢を張る為に自称した故に、時間の経過と共に称号になっただけであると推測される。夏王朝は民族自決主義だったから、殷人集団が勝手に称号を決めたとしても、それに干渉しなかったからだ。

黄河の北岸にいた殷人は、夏王朝が成立した当初は商侯から塩を得ていたが、黄河北岸の殷人の塩の需要が拡大すると、それに対処する為に塩の交易拠点が黄河を渡ってったと推測される。以降の記事には商侯は登場しなくなり、代って殷侯が登場する事がその事情を示しているが、殷侯が生れた事は黄河の北岸にも夏王朝の版図が広がった事を示していると共に、殷人集団の政権が塩の販売によって成長した事を示し、夏王朝の版図の拡大が意味した実像を示していると共に、法規に従って民衆を統治す王を生み出す、文化的な基盤がなかった事も示している。

一般的な事情として王朝の記録には、平穏に治まっている地域の事は記されず、特殊な異常事態が起こった場合にそれが記された筈だから、時代が進むと共に竹書紀年の記事に殷人の登場頻度が高まる事は、粗暴な殷人はお騒がせ集団だった事を示唆している。殷人が製塩業者の法治文化や儀礼文化を習得し、安定的な統治者になり始めると、経済力と武力を高めながらアワ栽培民族を武力統合し、稲作民集団に挑戦し始めた事を次帝の帝泄の治世に、殷侯に纏わる色々な事件が発生した事が示している。

帝泄十二年 殷侯の子の亥が有易を賓(訪問)した。有易は之を殺して放った。 死体を放置したのだろうか。

有易が製塩集団だったとすると、殷侯が華北夏王朝の塩の商流を無視し、製塩業者から直接廉価な塩を入手しようとして有易に断られると、執拗に絡んで殺された疑いがある。

帝泄十六年 殷侯の微が河伯の師(軍隊)を以て有易を伐ち、其の君の綿と下臣を殺した。

高句麗の好太王碑文にも河伯が登場するから、河伯はシベリア系の水上交易者だったと推測される。殷人が息慎の交易路だった遼河の交通を妨げ、交易の利益を収奪し始めていた頃だから、息慎の末端組織が何らかの交換条件の下に、この紛争に駆り出された可能性がある。殷侯は海岸にあった製塩集団の集落を、陸上から襲撃する事は無理だと判断し、息慎の船を調達した可能性が高い。有易の統治者をと記しているが、これは群小集団の統治者の一般名称で、王より格下の呼称だった。

この時期の華北は縄文後期温暖期の終末期だったが、高緯度地域であるシベリアでは既に縄文晩期寒冷期が始まり、シベリア経済が崩壊し始めていたから、シベリア系民族全般に動揺が走る混乱の中で、この様な事も起こったと考えられる。河伯の師を以てとの表現は、華北夏王朝にとっても意外な事として特記した疑いがある。

帝泄二十一年 畎夷、白夷、玄夷、風夷、□□、黃夷を命した。(君臣関係を結んだ)

多数の異民族と急遽君臣関係を結んだが、この時代の夷は遼河文化系譜のアワ栽培民族が主流だったと推測され、無理に彼らを手名付ける策に出た事を示し、華北夏王朝の窮状を示唆している。□□は不明である事を示すが、この中に淮夷は含まれていなかったと推測される。す事によって生まれた君臣関係は、塩の流通とは別の関係だったから、彼らはにはならなかったと推測される。

次帝の帝不降の治世になると、殷人の横暴が更に高まった。

帝不降三十五年,殷が皮氏を滅した。 温暖期の終末期になって気候が冷涼化すると、稲作民の人口減少が進んで耕作放棄地が多数生まれ、その動揺の中で殷人に圧迫された皮氏が滅んだ事を示唆している。皮氏は荊や製塩業者ではない集団だったと推測され、漢族だった可能性が高い。

帝不降の次々帝は、華北夏王朝最後の帝癸だった。その外交に関する記事を以下に抜粋する。

三年、畎夷が岐に入って叛した。 稲作地だった岐が寒冷化によって過疎化したので、そこにアワ栽培者だった畎夷が闖入したと推測される。

六年、岐の踵戎が来賓した。 は後世の漢族だったと推測され、侵入した畎夷を夏王朝が追い払ったので、踵戎が感謝して朝貢したとも読める。

華北夏王朝の統治領域が広がると、殷人に圧迫されていた漢族が解放されたから、新たに生まれた沖積平野であっても、稲作地に不向きな丘陵地には漢族を優先的に入植させ、厚遇したと推測される。華北夏王朝が殷人の暴力によって滅亡した頃、多数の漢族女性が関東に移住した事を、複数の関東縄文人のミトコンドリア遺伝子が漢族のmt-D+M8aである事が示し、関東部族にとっても殷人と漢族は別扱いだった事を示している。

縄文中期以降の漢族は、殷人の暴力によって関東部族との交易拠点を奪われ、内陸に逼塞する者が多く弓矢を十分に入手できなかったから、華北夏王朝が殷人系のアワ栽培者と闘争する際に、棍棒を持つ兵士として参加したからの名称が生まれた可能性がある。殷人系譜であっても関東部族の船が及ばなかった、華北西部のアワ栽培者も弓を使わない未開部族としてと呼ばれ、内陸を拠点とした周王朝の記事には、多数のが登場する。夏王朝期の交易を担ったのは関東部族や九夷だったから、華北西部のアワ栽培者が竹書紀年の記事に登場する事はなかったと推測され、踵戎は青州周辺の漢族だった可能性が高い。

漢族は既に指摘した様に、里芋を栽培したりアヒルを飼養したりする先進的な農耕民族で、アワの栽培についても交易により、韓族や北陸部族の生産性が高い品種を導入していたと推測される。従って栽培系狩猟民族から脱皮していなかった殷人と、狩猟の縄張りを暴力的に争う事は避け、内陸で農耕や畜産に依存する生活をしていた故に、弓を巧みに扱う狩猟民族ではなかった可能性が高い。栽培の生産性が低い栽培系狩猟民族の人口は、広い狩猟地を確保する事によって成立したから、華北全域で見ると、殷人の人口は漢族の人口より少なかった可能性もある。しかし弓を武器とする殷人には対抗できなかったから、彼らを避ける事が可能な地域に居住していたと推測される。

殷人の圧政に虐げられていた漢族にとって、五帝~華北夏王朝が青洲を支配していた時代は、束の間の平穏な時代だったから、「古代の聖賢の時代」として後世まで敬慕したのではなかろうか。

十一年、諸侯と仍で会い、有緡氏が逃げ帰った。遂に(最後に)有緡を滅した。 

有緡氏も製塩業を営む諸侯だったと推測される。帝相の事績に帝をすと,后の緡は有仍に帰ったと記されているから、製塩者の中核地だったで製塩者の集会があったが、有緡氏がその集会の決議事項を守る意思がなく、自分の拠点に逃げ帰った事になる。帝相の時代のの製塩者だったが、この時代になるとを離れ、別の場所で製塩を行っていた事になる。帝相の時代から300年経っていたから、帝相の時代には海岸の製塩地だったは、その後の黄河の堆積によって内陸の稲作地になったが、製塩業者は伝統的に、嘗ての拠点だったで集会を続けていた事を示唆している。

縄文後期温暖期が終了し、青洲から荊が陸続と南下し始めていた時期だから、塩の需要減に苦しんだ有緡氏がアワ栽培者に廉価な塩を違法に販売し始め、夏王朝の物流体制から逸脱した疑いがある。その様な有緡を滅した帝は、荊の為ではなく製塩業者の為に軍事を行った事になる。

十四年、扁が帥いる師(軍隊)が岷山を伐った。

〇が帥いる師(軍隊)が○○伐つとの定型的な表現は、帝嚳が有鄶を滅した記事が初出で、二年王が帥いる師が有扈を伐つ2例目で、十五年、武觀が西河を以て叛す。彭伯の壽が帥いる師が西河を征した3例目で、帝相二十六年,寒浞が其の子澆を使い、師を帥いて斟灌を滅す4例目で、上記が5例目になる。有緡を滅した事によって廉価な塩の入手経路を絶たれたアワ栽培集団が、扁に帥いられて帝の居所を襲撃した可能性が高い。「伐った」は、戦争があったが勝敗は決しなかったことを示す表現。

十五年、商侯の履が亳に遷った。嘗てのは稲作地だったが、アワ栽培地に変わっていた事を示している。

商侯に名前のも加えた事は、この時代には複数の商侯が存在し、その中の誰であるかを明らかにする必要から、商侯の履と記したと推測される。商侯は塩の統括的な販売者だったが、特に商侯の履は注目すべき存在だった事を示している。

この時期の商侯は黄河以南のアワ栽培者に対する、塩の統括的な販売者であると同時に、他の商品も扱うリテーラー(生産はしないで末端の物流を行う者)になり、アワ栽培者の間でそれを商人と呼んだ事から、後世の熟語が生れた可能性が高い。気候が冷涼化すると黄河以北のアワの生産性が低下し、稲作者が撤収した地域にアワ栽培者が入植していたから、塩の需要の中心が再び黄河以南に移行し、それに伴って多数の商侯が生れた事を示唆しているからだ。

商侯の履は塩の拡販の為に亳に遷ったのではなく、アワ栽培者と華北夏王朝の帝の間に起きた戦乱に便乗し、華北夏王朝から政権を窺う為に軍事拠点の亳に遷ったと考えられる。廉価な塩の入手経路を絶った帝を追放し、塩の価格の低減を実現する積りだったのではなかろうか。

十七年、商の使として伊尹が来朝した。 

商侯の履商侯を統括し、その商の使者が帝に面会を求めた事を示している。「政権を殷人に渡せ」という、最後通牒を突き付ける使者だった疑いがある。

二十年、伊尹が商に帰り、商及び汝鳩と汝方が北門で会った。 軍事を盟約した? 

宮殿の正門を、宮城区画の南に設置する習俗がこの時期に既に存在したとすると、北門で会ったとの記述は、秘かに密談を行った事を意味している疑いがある。商侯は塩の商流を差配していた者達だったから、汝鳩と汝方はアワ栽培者の地域集団だった事になり、塩の販売とは異なる系譜の酋長も別途生れていた事を示している。

二十一年、商の軍が有洛を征し之に克つ。遂に荊を征し、荊は降った。

一連の戦闘で商の軍が華北夏王朝を実質的に滅ぼし、有洛での戦闘はその最終戦だったと考えられる。有洛は洛陽盆地にあったと考えられ、そこで最後まで抵抗した者達は、湖北盆地や南陽盆地を拠点とするだった。夏王朝の施策により、荊は再び湖北盆地や南陽盆地に入植したが、渤海と東シナ海が船で通行できなくなった後は、これらの地域の人々が浙江省産の塩しか入手できない事を回避する為に、九夷が洛陽まで運んだ塩を、陸路で南陽盆地に運び込んでいた可能性が高い。従って洛陽盆地にあったは有洛は、湖北盆地や南陽盆地の荊にとって重要な交易拠点だったから、その攻防戦は熾烈なものになった可能性が高い。

気候が冷涼化すると洛陽盆地にも稲作者がいなくなり、代わりにアワ栽培者が入植していたから、荊は不利な戦いを強いられて敗退したと推測される。

  二十二年 商侯の履が来朝したので、履を囚えて夏臺(監獄)に収監する様に命じた。

商侯の履の勝手な行動に対し、ができた事はこの様な事しかなかったのだろう。

  二十三年 商侯の履を釈放すると、諸侯は遂に商に賓した。(商侯の履を華北の指導者と見做し、製塩者や塩の販売者がその下に伺候した。)

華北夏王朝を最後まで支えた湖北や南陽の荊が、洛陽盆地の戦闘で敗退すると、華北夏王朝に従う諸侯が激減したから、帝癸囚えた商侯の履を釈放するしかなく、帰還した商侯の履の下に諸侯が伺候し、華北夏王朝は実質的に終焉した事を示している。

温暖期が終わると青州の稲作民は南下し始めたから、多くの製塩業者も江蘇省や安徽省に南下したと推測されるが、青州に残っていた製塩業者や塩の販売を統括していた浙江省起源の諸侯は、Y-NY-Q系譜のアワ栽培民族の酋長を顧客にする様になっていたから、暴力的な殷人に囲まれた状況から判断し、夏王朝ではなくアワ栽培者の盟主になった商侯の履に、商権の庇護を求めた事を示している。製塩業者は耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していたから、縄文晩期寒冷期になっても渤海南岸に踏み留まる事ができた故に、この様な状況が生まれたと推測される。

浙江省の製塩業者が渤海沿岸に入植する前は、殷人も原始的な手段で製塩を行っていたかもしれないが、冀で製塩された良質な塩が安価に出回るとその産業は廃れ、その交易に関与していた殷人の酋長は、冀で製塩された塩を配布する様になっただろう。低湿地の稲作と天水農耕のアワ栽培は栽培地を争わなかったから、製塩業者はアワ栽培者との共生は可能だった。温暖期が終了して青州から稲作民が南下すると、稲作地の一部がアワ栽培地に転換され、アワ栽培者の人口が増えた事を多数の商侯が生れた事が示している。

荊が温暖期の終焉と共に、青州南部と陸続きになった江蘇省や安徽省の沖積地に南下すると、製塩業者もそれを追う様に南下した筈だから、渤海沿岸に残ったのは一部の製塩業者だったと推測されるが、夏王朝の最後の帝は荊であったにも関らず、塩の販売価格を守る為に奮闘したのに対し、法治主義者だった製塩業者がそれを裏切った事になり、法治でなければ統治できなかった製塩業者の低い倫理観と、倫理観が高かった荊との対比も鮮やかに描かれている。

尾瀬の花粉はBC1500年頃に、気候が急激に1℃寒冷化した事を示しているから、荊がそれを契機に青州から次々に南下し、華北夏王朝内の荊の勢力が急速に劣化した事が、華北夏王朝の滅亡に繋がった可能性が高い。

商候の軍が洛陽盆地を占拠して荊を追放すると、荊は武漢の盤龍城などを拠点にして殷人の南下に備えた。盤龍城が1平方kmの大きな都市に急成長した事が、その事情を示唆している。盤龍城が防衛拠点になった事は、商侯の軍が陸化していた許昌や周口を南下し、信陽まで南下した事を示唆している。湖北盆地は淮河流域の平原とは幅80㎞ほどの丘陵地で隔てられているが、その標高は200300mしかなく防衛線とは言えないものだが、盤龍城の北には幅10㎞ほどの湖沼が巡っているから、それが最後の防衛線だったと推測される。

盤龍城の文化遺物は当初は殷の都城のものに類似していたが、次第に地域独自のものに変わっていった事も、その事情を示唆している。華北夏王朝期の殷人は荊や製塩業者の先進的な文化に同化したから、荊が有洛を追われて武漢に拠点を移した時代には、同じ遺物を遺す程に文化の類似性が高まっていたが、湖北省は殷商王朝の版図にはならなかったから、荊と殷人がそれぞれの文化を発展させると、盤龍城の遺物が次第に殷人とは異なるものになったからだ。史記を台本とする王朝史観に拘泥する史家は、盤龍城は殷の支配下にあったと解釈しているが、次第に独自の文化に向かっていった事は、殷人に支配されていなかった事を示している。

最後の帝が実質的に権力を失ったのは、荊が降伏したからだと竹書紀年が記している事も、帝の系譜が荊に移行していた事を示している。また製塩集団は華北夏王朝が滅んでも、製塩業を継続していた事も、製塩業者は殷人と荊の紛争に関与していなかった事を示し、滅亡時の華北夏王の夏后(竹書紀年では帝)は荊だった事を示している。

夏后帝少康の事績の記述は魏志倭人伝のものが正しいと指摘したが、史記、漢書、魏志倭人伝がそれぞれ異なる背景を提示しているので、3者を比較する事によってそれを確認する。

史記の越王勾践世家は、「越王句踐の先は禹の苗裔の、夏后帝少康の庶子である。会稽に封じられて禹の祀を奉守し、文身絶發(髪?)し、草萊(未開の荒れ地)を披いて邑とした。」と記し、

漢書地理誌粤の条では、「其の君は禹の後、帝少康の庶子であると云う。会稽に封じられて文身絶髮し、それで蛟龍(へび)の害を避けた」と記し、

魏志倭人伝は、夏后少康の子が会稽に封じられて絶髮文身し、それで蛟龍の害を避けた」と記しているが、それで蛟龍の害を避けた事には疑念を示している。

殷・周王朝が華北を支配する政権に留まったのに対し、夏王朝は華南まで支配していた事は、史記や漢書にとっては都合が悪い話だったにも拘らず、潤色しながらこの様に記したのは、この史実が余りにも著名だったからだと考えざるを得ない。夏王朝は製塩業者だった禹が創始したが、帝相代に帝が荊に変わり、その子の少康の時代になると、浙江省が始めて荊の支配地に組み込まれたが、それは浙江省の人達にとっては驚天動地の画期的な出来事だった。帝相代には製塩業者のが浙江省を統治したが、になった少康にはその様なバッファがなく、直接統治する事になったが、少康は代理人として息子を送り込み、その息子を地域政権の王として封じる事により、浙江省の自治を認めた事になる。

それ以前の時代にこの様な事例はなかった可能性が高く、封じるという漢字もこの為に生まれた可能性があり、その息子は庶子ではなかったと推測される。製塩業者の娘を妻にしていた可能性はあるが、それであっても息子は荊として育てられた事は、帝相少康の関係から想定され、庶子ではなかった可能性が高い。

3つの史書が記している共通項は、「少康の子が会稽に封じられて文身断髮」した事だが、その事情や文身断髮した理由が史書によって異なっている。

史記は会稽は未開の地だったと貶したが、文身断髮した理由を述べていないのは、漢代初頭の人にとって文身断髮は非文明的な行為ではなかったからだと考えられる。秦が中華世界を征服する以前は、中華世界で最も豊かで文化的だったのは、琅邪を中心として沿海部に点在していた越人で、彼らは浙江省起源の越人の子孫として文身断髮の習俗があったからだ。

秦が中華世界を征服すると大陸沿海部の越人は在地から逃亡し、その一部が弁辰人になったが、魏志弁辰伝は男女共に文身していると記しているから、琅邪を中心に沿海部にいた越人にも文身の習俗があった事を示している。

従って越人が沿海部から去ってから、150年ほどしか経ていなかった時代に編纂された史記が、この逸話を貶める手段は文身している事ではなく、「会稽は草深い田舎だった」と決め付ける事だった。しかしその様な場所に禹の墓があった事は、誰が見ても矛盾しているから、漢書はそれを訂正する必要があった。

史記は少康夏后だった事を認めているから、史記の編纂者が参照したのは竹書紀年ではなく、それより史実に忠実な史書だった事になる。従って夏后少康夏后帝少康に書き換えたのは史記ではなく、周の公的な史書にもその様に記されていた可能性もあるが、法治主義者だった周が夏后の記述順が逆である状態を放置していたとは考え難く、夏王朝の歴史に関する知識が乏しかった殷人系譜の、漢王朝の官僚のミスだった可能性が高い。

この文言を歴史上の重大な出来事のタイトルとして、熱心に語り継いでいたのは会稽の製塩業者の子孫系譜である、前漢代の粤人だったと推測される。会稽が荊の支配下に入っても、荊人の指導者が製塩業者に敬意を表し、息子に文身断発させた事は彼らの文化的な優位性を認めた事になり、文身を習俗としていた粤人にとって誇らしい歴史だったからだ。その観点では浙江省稲作者を出自とした成都の蜀の子孫も、この事績に関心を持っていた可能性が高く、四川出身の陳寿はその系譜の知識を得ていた可能性が高い。

漢書は史記の記述は間違いで、少康夏后ではなく、文身絶髮した理由は蛟龍の害を避ける為だったと主張している。漢書がその様な操作を行ったのは、少康夏后だった事を隠す必要があったからだ。漢王朝は史記の嘘話を創作して夏王朝の事績を誤魔化したが、少康夏后でもあった事が公になるとの違いを明確にする必要があり、それが分かるのは稲作民しかいなかったから、その詮索を許すと稲作民族の歴史の復活に繋がってしまう事が、分かっていたのではなかろうか。

現実問題として前漢代には浙江省の稲作民族から、少康夏后だったとのクレームがあり、史記の記述には矛盾があるとの指摘もあっただろう。従って実際に焚書坑儒を行ったのは秦の始皇帝ではなく、漢王朝だった可能性が極めて高い事も、改めて指摘して置く必要がある。

文身絶髮した理由は蛟龍の害を避ける為だったとの主張については、浙江省の様な気候が温暖な地域では蛇の害が多い事は、現代人にも常識的な指摘ではあるが、越人に関する記憶が温存されていれば文身絶髮は未開人の風習ではない事は明らかだった。しかしそれが言える程度に記憶が薄れていたのであれば、禹の祀を奉守するという理由を取り下げ、蛟龍の害を避ける為である事を前面に押し出し、全てを曖昧にする事ができた。

後漢代に編纂された漢書がこの様な表現を採用できたのは、弥生温暖期が終わった前漢末に、沿海部にいた荊の子孫は東南アジアに移住するか、広東以南に南下してしまったからだ。荊が広東以南に南下した事は、浙江省起源の稲作民として粤と呼ばれ、前漢代の広東にいた稲作民族や、漢書地理志粤の条に記された広東の商人は、それに先立って東南アジアに南下移住してしまった事を意味している。

この稲作民族の大移動については別途説明するが、それによって越人はどの様な人だったのかを語り継いでいた越系の人々は、前漢の末期に大挙して中華世界からいなくなったから、漢書地理志の嘘の記述は前漢代よりクレームが少ない状態になっていた。移民に乗り遅れた内陸の蜀の子孫だけが、漢書地理志の主要なクレーマーになっていた可能性が高く、陳寿はその正しい知識を継承している数少ない者として、漢書の記述に憤慨してこの文章を魏志倭人伝に挿入したのではなかろうか。

以上を纏めると、史記は黄河流域が文明の発祥地だったとする嘘の歴史を創作したから、夏王朝期の会稽は未開の地だった事にする必要があり、前漢代には批判が渦巻いていたが、後漢代になると批判が沈静化していたから、漢書は言葉を入れ替えて史記の嘘を糊塗しながら、ドサクサ紛れに夏后を抜き取った事になる。

史記も漢書も嘘に塗れた書籍だから表現に一貫性がなく、事実より声闘に勝つ事にしか興味がない、殷人文化の本質を露呈している。従って東夷伝に事実性の高い文章を選択した陳寿が、稲作民族の知識を正しく継承していた可能性が高く、焚書坑儒を行って支配民族の文化を破壊したのは、始皇帝ではなく漢王朝だったと断ぜざるを得ない。春秋時代までは、百花繚乱と言われる高度な文化的な発展を遂げていた中華世界が、漢王朝の支配によって文化的な暗黒時代を迎えた理由も、それに帰着するからだ。中華民族はそこから脱却できずに現在に至ったから、地域自治が生まれずに征服王朝に頼る歴史を繰り返した事になり、中国人が好んで使う、「上に施策があれば下には対策がある」との言葉がその実態を示している。

史記はその責任は始皇帝にあると言わんばかりに、焚書坑儒だけではなくその他の悪行も書き連ね、趙高も悪人に仕立てて秦王朝の腐敗振りを喧伝したが、それらは事実ではなく、政治を腐敗させて中華文化を破壊したのは、殷人が支配した漢王朝だった。

歴史を文献から復元する事を好む現代史家は、文献が多い王朝期以降の歴史を研究し、文献に記載されていなければ論理性を無視する点で、考古学者の発掘至上主義と類似している。文献には史記や漢書の様な意図的な捏造があり、著者が事実と信じた文献であっても偏見に満ちている場合もあり、その危険性は容易に察知できるがそれ以上に問題なのは、農耕民族の政権に変わった王朝期以降は、経済的な必然性とは無縁な権力闘争が支配したから、文献があっても歴史の流れは却って分かり難くなった事にある。

それを無視して文献の平均値を採ったり、文献の著者の位置付けを十分評価せずに、特定の文献に傾斜したりする事は当然避けなければならないが、権力闘争が支配していた時代には、当事者の頭の中にも経済的な必然性が失われていたから、当事者の意図さえも極めて分かり難くなっている。権力闘争に誰が勝ったのかは偶然に左右され易い事象に過ぎないから、その理由を詮索する事に歴史的な価値はないが、その様な偶然の積み重ねによって歴史が動いていた時代の評価は極めて困難であり、このHPとは異なる論理が必要になるが、まだ誰もそれを確立する動きを示していない。

古代人の経済活動には法則的な結果に至ったものが多く、論理的な追跡が容易だが、王朝期以降の権力闘争には法則性がなく、多数の文献があってもその歴史を解明する方が難しいからだ。

特に史記や漢書を編纂した殷人は、当時の文明人を支配する為に漢王朝を樹立し、嘘を駆使して相手を騙しながら論破する、声闘文化を押し付けた事が文明破壊に繋がったと推測される。当時の文明人はその様な民族文化が、存在する事を前提にしていなかったから、易々と騙されて漢王朝の成立を許したのではなかろうか。しかし一旦漢王朝が生れ、欺瞞を伴う武力に支配されて文明を失うと、殷人の様な未開人に堕落して文明を復活する事ができなかった。

その被害は漢民族だけが受けたのではなく、朝鮮半島の濊の高度な文明も、漢王朝期を経た漢族が高句麗滅亡後に朝鮮半島に南下し、高麗や李氏朝鮮王朝を樹立し、朝鮮半島を支配する事によって失われた。高麗が欺瞞に満ちた三国史記を編纂した事は、史記に倣って民族の偽史を創作した事になり、悪しき前例が繰り返された事になる。

 

2-7―4 夏王朝の遺跡と遺物

夏王朝期の遺跡として洛陽盆地の二里頭遺跡が知られているが、これは竹書紀年に記された有洛の痕跡である可能性が高い。二里頭は洛陽盆地から黄河に流れ出る洛河流域にあり、河川交易者の拠点に相応しい場所にあるからだ。黄河は土砂を多量に堆積させるから、平原に入ると天井川になって何時大決壊するか分からない大河になる。従って洛河流域を河川交易の拠点にする事は、交易者にとって必然的な選択だった。縄文後期温暖期の洛陽盆地は現在より遥かに温暖湿潤だったから、稲、麦、アワ、キビ、大豆が栽培されていた。

二里頭遺跡はBC1800年~BC1500年頃の遺跡で、都城・城壁の跡は発見されていない。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ、周囲には塀などがあった。その近くある二号宮殿址に東西58m南北73mの基壇があり、その北に大きな墳墓がある。半径100km程の文化圏を支配し、出土した青銅器の数は多くないが、遺跡内の鋳造工房で青銅の容器や武器を鋳造していた。

宮殿基壇から玉璋、玉刀、玉斧などの、浙江省の製塩業者が儀礼に用いた玉器が多数発掘され、製塩業者が提起する宮廷儀礼が行われていた事を示している。しかし良渚期に盛んに作られた玉琮や玉璧はなく、宮廷儀礼の変遷も見られ、石家河文化系譜の模様が刻まれた玉器も発掘され、この遺跡に荊もいた事を示している。

以上の玉器は華北夏王朝期の荊が、製塩業者の宮廷儀礼文化を受け入れた事を示し、華北夏王朝の初代の指導者が製塩業者の禹だった事情と整合するから、二里頭遺跡は夏后少康以降にこの地域に進出した、夏王朝の出先機関の遺構であると考えられる。つまり夏王朝の商圏が洛陽盆地に及び、関東部族と九夷の海運力がこの流通拠点を支えていた。

山東龍山文化期の遺跡から発掘される白陶と黒陶の酒器が、二里頭遺跡でも多数出土し、酒を温めて香りを付ける器も発見されたから、華北夏王朝が用いた儀礼の一端がアワ栽培者にも波及していた事を示すと共に、陶器が依然として重要な交易品であり続けていたが、製塩業者がその陶器を儀式に多用していた事を示している。

竹書紀年に禹を継いだ帝の記事として、帝は夏邑で即位して諸侯を鈞臺で大いに饗し、諸侯が帝に従って冀都に帰ると、諸侯を璿臺で大いに饗したと記されている事は、その様な酒器を使って盛んに宴会を開催していた事と、その様な酒宴が製塩業者の統治文化の重要な要素になっていた事を示している。つまり荊の陶器の販売対象が、アワ栽培者から青洲で豊かになった製塩業者に変った事を示している。

周王朝の遺跡から発掘された爵(しゃく)の画像を(5)論衡の項で示したが、この様な左右非対称の器形は、二里頭遺跡が初出であるとされている。その事はこの器形が夏王朝期に生まれ、殷代にも盛行して周代まで続いた事になる。しかし殷週革命によって殷王朝を滅ぼした周が、滅ぼした異民族の王朝文化を受け継いだとは考え難いから、荊が提案した陶器の器形を殷王朝も周王朝も採用したと考えるべきだろう。

二里頭遺跡の周辺から、宮殿内の墓と比較しても遜色のない品質の副葬品を収めた、複数の庶民的な墓が発掘されている。周囲の土豪のものだったと推測されているが、その墓穴の規模は小さく、権力機構が分散していた事を示している。夏王朝期のこの様な分権的な遺跡と、殷王朝の中央集権的な体質を示す二里岡遺跡や殷墟を比較し、その規模や遺された青銅器の数から文明の進化が議論されているが、武断的な中央集権化は文明の進化とは関係がなく、華北の文明の起源は稲作民族の夏王朝にあったのだから、夏王朝期の文化は殷王朝期のものより原始的だったと解釈するべきではない。

二里頭遺跡の土器、宝貝、銅について、岡村秀典氏は以下の様に指摘している。(要約&抜粋)

二里頭遺跡から出土する土器の遡及範囲は、黄河中流域とその周辺地域を飛び越えて北や南に遠く広がっていた。いずれの地域も酒器だけを選択的に受容し、地域によってその対応が違っている。北の大甸子(だいでんし:北京の北の遼河台地の裾にある遺跡で、紅山文化の後継文化と見做されている)では、有力者が爵と盉を受容して墓に副葬し、その墓の規模は比較的大きい。長江中・上流域では盉だけ、下流域では觚だけを受容し、すべて生活層から出土する。大甸子では社会の階層化が進んでいたため、有力者が身分の表象として飲酒儀礼を積極的に受け入れたのに対し、長江流域では庶民が同じ器形の土器を生活用品としていた。

爵は3本足のスズメの形をした酒器で、注口,角,取手が付き、殷代から周代にかけて祭器として盛行した。

盉は容器に筒状の注口と、取手とフタが付いたもの。

觚は上部がラッパ状に開き、胴は四角または八角の筒状で、口と同型の足が付いた杯。

上記の岡村氏の説明は、黄河流域が文明の中心地だった事を前提にしているから極めて分かり難いが、稲作民族が青州に樹立した夏王朝がこの時代の文化を牽引していたと考えると、長江流域では庶民の文化だった酒宴用の土器が、アワ栽培民族に伝わると有力者の貴族文化になり、その様な貴族の需要を満たす為に酒器の形状が荊の工人によって精緻化され、荊の製陶技術が改善される事によって進化・多様化したと解釈する必要がある。

荊の製陶技術は青州にも移転していた筈だから、その窯で焼かれた土器が大甸子にも持ち込まれたと考えられる。塩を得る為に高級土器を焼く必要がなくなった荊は、製塩業者の儀式の為に陶器を製作する様になり、それがアワ栽培者にも拡散した事を示している。又それとは別の流れとして、稲作民族は庶民も儀礼的な土器を使う様になり、庶民の中から独特の器形が生れ、それも夏王朝の儀礼に採用され、アワ栽培者はそれらも採用した事になる。アワ栽培者には特に高級な土器を特注品として製作していた様に見えるが、青洲の遺跡は堆積土砂に埋もれているから、青洲の製塩業者は更に華麗な土器を使用していたと考えるべきだろう。

大甸子のアワ栽培者も夏王朝に参加する事により、交易の利潤が高まって経済力を誇示する事が可能になり、製塩業者の儀礼文化を取り入れてアワ栽培者を組織化し、更に深く交易経済に参加した事を示している。

長江下流域では、良渚文化が衰退した後に華南龍山文化の土器が広がり、やがて(縄文後期に)馬橋文化が生まれ、觚が生活層から多量に出土する。馬橋文化では鴨形壺やスタンプ紋をもつ土器が盛行し、それが二里頭遺跡からも出土する。スタンプ紋土器は二里頭二期に多数出土し、同時期に発掘された灰釉陶器も長江流域で製作された可能性が高く、二里頭と馬橋の相互交流が活発化した事が窺われる。

馬橋は縄文土器が出土する遺跡だから、宝貝の穴開け加工をしていた関東部族の、縄文人の居住域だったと想定される事は、縄文人の活動期の項で指摘したが、関東部族の交易拠点でもあった事を示している。二里頭と浙江省は直線距離で1000㎞離れ、河川路は2000㎞を超えたと推測されるから、これらの土器を運んだのは関東部族の船だった可能性が高く、関東部族の交易拠点だった馬橋に、交易用の土器も集積していた事を示しているが、東シナ海と渤海を繋ぐ水路が失われ、渤海沿岸や黄河流域の交易を九夷に譲った後だから、鄭州と山東の間に細い水路が残存していた事を示している可能性もあるが、これらの土器は青州でも生産されたから、二里頭遺跡と揚子江流から同じ器形の土器が発掘されると考える方が合理的だろう。

考古学者は発掘至上主義者だから、華南龍山文化という荒唐無稽な概念を創出し、高級陶器は荊が製作したのではなくアワ栽培者が製作した事にしている。類似した発掘品の中で、時代が最も古い遺物の発掘地を機械的にその物品の発祥地とする発想では、遺物が発掘されない青州の夏王朝の存在に言及できないが、論理的に考えれば、青州が夏王朝の拠点だった事は明らかだから、それを認めれば上述の土器分布に合理的な解釈が生まれ、荊が製造した陶器を関東部族が搬送していた事を認めれば、この時期の経済活動を詳細に分析する事もできる。

つまり荊の職人が各地域を巡って御用聞きし、夏王朝が諸民族に交易への参加を促した結果として、高級な土器を使用する文化が民族を問わずに各地に一斉に生まれ、支払われる宝貝貨の多寡によって、土器の形状や精緻さに地域性が生まれたが、その器形や用途に共通性がある理由が明らかになり、王朝史観に拘る人達の説明の不自然さが解消する。

目的と効果を明確にする為に「御用聞き」という言葉を使ったが、現代的に言えば「マーケティング活動」になる。しかし「マーケティング」という言葉は近代的な概念を濃厚に含んでいるから、この時代の荊の活動に使用する事に躊躇いがあり、「御用聞き」という言葉にも違和感はあるが、荊の貴族層は社会の産業化に積極的に取り組み、産業によって利益を上げる事が貴族層の使命であると考えていた筈であり、その為に多くの民族と交流を行い、広い知識を有する事が貴族の資格の一部であるとも考えていた筈だから、彼らが卑屈になっていたと考える必要はない。

むしろ近世のキリスト教の伝道者の様に、進んだ文化を未開民族に拡散する事に使命感を持っていたと推測する方が、彼らの実態に近かったと想定される。しかし他者の価値観を否定する宗教の伝道ではなかった事を、各民族が使用する器形の違いが示しているから、日本語としては「御用聞き」という言葉に収斂する。

縄文後期~晩期に日本でも注口土器が盛んに作られたが、馬橋に駐在した縄文人女性も、湖北省から持ち込まれた盉を使い、その器形を日本に持ち帰ったから、日本にも注口土器が普及したと考えられる。荊か好んだ盉の形状を、馬橋にいた縄文人女性が日本に持ち込んだ事は、それが関東のmt-Fにも好まれたからではなかろうか。自分達の故郷が湖北省である事を知っていた当時の日本のmt-Fが、湖北省の器形である盉の筒状の注ぎ口を好んで使ったから、周囲の女性達もそれを真似したのかもしれない。

盉は急須の原型の様な形状だが、華南では鼎状の足が付き、蓋も付いていた。鼎状の足の形状や蓋が日本に持ち込まれなかったのは、荊の土器は高温の窯で焼いた堅牢なものだったが、低温で焼く縄文土器は脆く、それらの形状に実性がなかったからだと推測される。

縄文晩期の注口土器では、蓋の代わりに筒状の水入れ口が生まれ、苦しい焼成時事情の範囲内で、湯を冷まさない工夫が施された事を示している。編んだ葦の様なもので蓋を形成し、蓋が湯気で濡れない様に工夫したのではなかろうか。しかし縄文人の女性達はその様な苦しい工夫を施しながらも、職人が窯で土器を焼く文化は受け入れなかった。堅果類のアクを抜く作業は女性の仕事であり、その道具である土器を製作する作業も、女性の仕事であるとの認識を、縄文人女性達は頑固に堅持していた事を示している。考古学者はその様な縄文土器を荊が製作した土器と比較し、縄文文化は大陸の文化より遅れていたと解釈しているが、それも考古学者の論理性の乏しさと、実生活に関する肌感覚の欠如を示している。

縄文女性達が荊の土器文化を持て囃した事は、荊の織布技術や縫製技術も流行した事を示唆している。縄文人の活動期の項で示した仮面の女神の豊かな衣装も、その様な背景の下で流行した疑いがある。縄文人はmt-Mcが台湾から持ち込んだ、梶の樹の樹皮を叩いて作る不織布を作っていたから、新しい布を受け入れる体制は整っていたからだ。

揚子江下流域で流行したは、儀式に用いる大型の酒器で、この形状が日本に流入しなかったのは、荊にも関東縄文人にも飲酒を楽しむ習俗がなかったか、漆塗りの木器で酒を飲んでいたからだと考えられる。浙江省には伝統的な紹興酒があり、製塩業者が酒を楽しんだ事を示唆しているが、湖北省には著名な酒はなく、関東にも著名な地酒がないから、前者だった可能性が高い。

二里頭遺跡の宮殿敷地内の墓から、副葬品と共に90個の宝貝が発掘され、他の貴族墓からも70個、別の貴族墓からも58個の宝貝が発掘された。二里頭遺跡の周囲の墓からも、数は多くないが宝貝が発掘され、宝貝貨を財貨としていた事を示している。塩と宝貝貨の交換比率が固定化する事により、稲作民族としては辺境だった洛陽にも、宝貝貨が普及していた事も示している。

二里頭遺跡の銅は、内蒙古自治区赤峰市の大甸子(だいでんし)で採掘された銅だったと想定されている。大甸子で発掘された43基の墓から、爵、盉と共に宝貝やそれを模した貝製品が多量に発掘され、多いものでは宝貝が659点、他にも255点とか226点も出土した墓がある。夏王朝が大甸子の銅を入手する為に、大甸子の有力者に宝貝貨を手交したと推測され、アワ栽培者の身分階層の格差が、稲作民のものよりかなり大きかった事を示している。

以上の流通範囲の広さから、関東部族と九夷の船が物品を運搬した範囲が分かる。つまり東は浙江省~渤海湾岸、西は湖北省~河南省北部が関東部族と九夷の交易圏になり、それが夏王朝の版図だったと推測される。

 

2-8 周

BC2500年に創設された初期の陶寺遺跡の役割が、稲作の北限を探る事だったのであれば、荊が青州に入植して稲作に成功した段階で、その使命は終わったが、斉家文化圏の塩の販売者が荊の人口の急増や、北上して稲作地を急拡大した事に対応できなかったので、その間隙を縫って解池で製塩を続ける為に山西に集まった人々が、禹が形成した夏王朝に敵対した有扈になり、後世の周になったと想定される。従ってが即位した翌年に、王は有扈を伐ち、甘で大戦したと記されたは、洛陽盆地だった可能性が高い。洛陽盆地は山西の塩の南陽盆地への玄関口になり、渤海の塩の北からの搬入口にもなったから、両者が覇権を争うべき地域だったからだ。は地名だったが、有洛は夏王朝が設定した塩の販売者集団の呼称だから、異なる名称でも問題はなかったからだ。

縄文晩期の周が西安を拠点にしたのは、青海塩湖の湖岸で製塩した塩の、中華圏への販売網を統括する為だったと推測されるから、その時期の周は有扈と青海湖の製塩者だったY-R民族との、混成集団だった可能性が高い。Y-R民族が遺した斉家文化は、温暖期が始まってから100年後のBC2400年に活性化し、甘粛省の黄河上流域を中心に渭水流域まで拡散した。陶寺遺跡は温暖期が始まった直後のBC2500年に始まり、400年間斉家文化と併存してBC2000年に消滅し、斉家文化もBC1900年に消滅したからだ。

陶寺遺跡が消滅したBC2000年は、帝嚳が浙江省の製塩業者の有鄶を滅し、それによって浙江省と渤海沿岸の製塩業者の仁義なき経済戦争が勃発した時期であり、その影響で湖北省に沿海部の塩が持ち込まれなくなり、湖北省が過疎化して石家文化が消滅した時期だった。

BC1900年頃に禹が青州の政権を掌握し、独特の施策を実施し始め、それによって宝貝貨と塩の交換比率が固定化し、渤海沿岸と浙江省の塩が上記の範囲に及んだから、斉家文化圏の製塩業者も市場を失い、交易の利益を誇示する建築物は失われたと考えられる。禹はBC1850年頃に夏王朝を形成したが、帝舜はその36年前に禹に虞事を代すを命じたから、渤海南岸の製塩業者がそれによって中華の塩の商流を拡張したとすると、BC1900年~BC1850年の間に起こった事を逐次的に追跡する事は難しく、因果関係を厳密に考証する事はできないが、概ね因果関係があると考える事ができるだろう。

従って陶寺遺跡にいた製塩業者は、BC2000年頃に斉家文化の人々と合流した事になるが、有扈として夏王朝と戦ったのは陶寺遺跡を形成していた人々だったとすると、それに関する事績を竹書紀年は以下の様に記している。

二年 (華北夏王朝の)王は師(軍)を帥いて有扈を伐ち、甘で大いに戰った。

十一年  (有扈の)王の季子である武觀を西河に放った。(釈放した。)

十五年 武觀は西河を以って叛す。彭伯の壽が師を帥いて西河を征すと、武觀は来帰した。(帰順した)

西河は山西~陝西を指したと考えられ、その地域で農民化していた韓族や浙江省起源の稲作民が、より豊かな生活を求めて製塩や塩の販売に従事していた状態が、有扈の実態だったと考えられ、西河はそれらの人々の居住域だったと考えられる。彼らの食生活は自活によって得ていたから、塩の商流に乗って豊かな生活ができれば有扈として集まり、商流を失うと元の貧しい農耕民族に戻った事情を示している。

斉家文化圏では馬の飼育の痕跡が見られ、物資の運搬に馬を使用して輸送力を高めていた事を示しているが、陶寺遺跡と斉家文化圏が同時に終末期を迎えた事は、渤海の塩が関東部族の船で運ばれる状況になると、馬で運ばれる青海の塩は市場を失った事を示している。

実際の輸送コストを比較した場合には、内陸である山西や陝西だけではなく河南省北東部でも、馬を使った青海湖の塩の方が廉価だった可能性はあるが、夏王朝の塩は輸送コストが低い青州で高い価格を設定し、その利益を内陸部の輸送コストに転嫁し、青洲と同じ価格で販売したから、青海湖の塩は価格競争に勝てなくなった。その様な塩と一緒に他の物品も販売されたから、斉家文化圏のY-Rと陶寺遺跡の人々は、中華世界での交易から締め出される事になった。

Y-Rは関東部族の船が及ばない山西や陝西の、有扈の販売網を活用する必要に迫られ、有扈と合体して周を形成したと想定される。嘗ては洛陽を含む河南省北部までを商圏としていた有扈の販売網は、その時期には山西に後退していたが、Y-Rには貴重な市場になっていたからだ。

但しこの様な経済活動の盛衰と、Y-Rや陶寺遺跡を支えていた人々の人口動態にも、大きな連動性はなかったと想定される。石器時代の人々の食料は地産地消を基本にしていたから、地域の人口は気候の変動には大きく影響されたが、経済の活性化とは大きな関係がなかったからだ。

但し経済が活性化すると地産の食糧にも交易が生れ、生産に余力がある地域では食料が増産されたから、その分の人口増加は見込めたが、人口が倍増したり半減したりする影響力はなかったと想定される。その事情を論理的に展開すると、単位家族が展開する余地がある場合には、家族が分割されて新しい家族を形成したが、その様な余地がなくなると人口は固定化し、各家族には生産力を高める余地が数割~2倍程度ある状態が維持された。それによって天候不順や災害に対処できる状態が確保され、その地域の人口がその状態で一定に維持されたと想定される。

従って経済が活性化して物流が盛んになり、それらの家族が余剰食糧を生産して物流網に投入し、その代価として奢侈品を購入する事が可能になると、余剰食糧は奢侈品の生産者や物量業者の食料になり、奢侈品の生産者や物量業者の人口は従来の人口に重畳される状態が生れたから、地域の人口が2倍程度に増加する事は可能だった。斉家文化の興隆は、その様な事情を背景にしていたと想定され、斉家文化が失われても、甘粛省や西域のY-R人口が激減したわけではなかったと考えられる。

栽培系民族ではその傾向が強かったから、Y-Rや陶寺系の人々はその様な状況だったが、栽培系狩猟民族にとっては、交易によって弓矢が入手できるか否かは大きな違いになったから、アワを栽培する栽培系狩猟民族だった殷人は、沿海部では人口密度が高く内陸では人口密度が低かったと推測される。

従って山西、陝西、甘粛などの内陸では、経済の活性化と人口密度に大きな相関はなかったが、当事者の衣類や住居に関する豊かさには大きな差があった。遺跡として残り易い住居に関しては、経済が活性化していなければ人々は農閑期を無為に過ごし、豊かさを示す大きな建物は建造しなかったが、経済が活性化すると衣類などの奢侈品を得る為に、建設労働力を提供する人が多数登場しただろうから、人口の増減とは関係なく大型建造物が作られた可能性が高い。

周は弥生温暖期になると分裂し、Y-Rは新たな交易品を模索しながら秦を形成したが、浙江省起源の製塩者は洛陽に移動して周を継承し(東周)、華北の統治者である事を継続したから、塩以外のY-Rの商流から離れた周の経済力が低下し、王朝の権威も失墜して諸国を統括するだけの存在になった。その背景には温暖期になって稲作の生産性が復活し、鉄器時代が始まって商品経済が画期的に活性化すると、塩の価値が相対的に低下した事情があった。

秦が新しい交易を求めて産業力が高い荊と接近すると、荊と敵対していた浙江省起源の製塩者との提携が邪魔になり、両者が分裂する事情が生れた。荊との新しい交易品の筆頭は、荊が生産する絹布だったと推測されるが、史記にも竹書紀年にもそれに関する記述はない。史記に記述がないのは当然だが、竹書紀年にもない理由の一つとして、東周には秦の交易事情が分からなかった事が挙げられるが、洛陽に移った東周王朝が自分を捨てた秦を恨んでいたからである可能性も高い。

竹書紀年の周に関する記事は殷王朝の終末期から始まるが、殷王武乙以降の事績は殷王朝の朝議録の抜粋ではなく、殷王朝に支配されていた周の、王朝前史になっている。竹書紀年は周王朝の歴史書だから、その事自体に違和感はないが、周王朝の前駆王朝は夏王朝であって、殷王朝は華北夏王朝と周王朝の間の時期的な空白を埋める、異民族の王朝に過ぎず、その王朝の歴史には興味がなかった事を示している。

つまり殷王朝は周王朝の前駆王朝として、華北を支配した王朝だったが、民族系譜が異なる王朝であった故にその民族の歴史には興味がなく、周王朝は殷王朝の朝議禄を継承しなかった。竹書紀年が記す殷王朝史が不確かで、殷人の王朝の史書だった史記の方が、比較的正しい殷王朝史示しているだけではなく、竹書紀年の殷末の記事の過半は、周の祖先集団に関する記事である事も、この事情を示している。

竹書紀年に記された殷王朝の歴史に誤りや欠損が多数あるのは、投降した殷人から殷王朝の歴史を聴取した事を示し、後世の史書の様に前王朝の朝議録などを参照し、正しい歴史を編纂する意図は全く示していない。

史記の方が比較的正しい殷王朝史示している事は、殷人も周王朝を後継王朝とは見做していなかったから、降伏の意思表示として朝議禄を譲渡する事はなく、同じ民族の誰かが保管していた事を示している。

中華王朝が滅んで新たな王朝が樹立されると、既に滅んだ王朝の歴史を編纂する様になったのは、それほど古い時代に起源があるわけではなく、後漢書を記した南朝の范曄が嚆矢の様に見えるが、実は范曄も漢王朝の殷人系官僚の子孫で、後漢王朝の朝議禄を参照する機会を得ていたから、漢王朝の史書だった史記の歴史観を踏襲し、漢書に続く史書として後漢書を編纂した疑いが濃い。少なくとも後漢書東夷列伝はその様な意図を濃厚に示し、正しい歴史認識に戻そうとした陳寿の東夷伝を序に遡って真っ向から否定し、史記や漢書の歴史観に戻そうとしている。

漢王朝の家系譜の者達にとって、扶余が殷人の子孫である事と、漢王朝が扶余を保護した事が分かると自分達の身が危うくなるから、魏志東夷伝は何を措いても否定すべき存在だった事を、後漢書東夷列伝が如実に示している事が、その動かぬ証拠であるとも言える。

つまり范曄が後漢王朝の朝議禄を入手したのは、殷人系官僚の子孫としての手蔓があったからで、范曄の家系譜がその記録の保管者だったから、范曄が家系を代表して後漢書を編纂した可能性も高い。つまり南北朝期までの中華民族の認識としては、民族の歴史の証拠は同一民族の子孫が継承するものであって、王朝が滅んでも他民族に渡すものではなかったし、王朝を倒した民族もそれを欲しいとは思っていなかった事になる。

それは殷王朝の滅亡期も同様で、殷人は民族王朝の朝議録を同じ民族の者にしか渡さなかったから、周王朝はそれを当然の事とし、周の公式な史書に記された殷王朝の歴史が不正確であっても、何ら恥じる必要はなかった一方で、漢王朝は史記を編纂する場合に、殷王朝の歴史は正しく編纂する必要があったが、夏王朝や周の歴史はどの様に記しても構わなかったとも言える。しかし史記が目指したのはその様な史書ではなく、殷人の子孫が漢王朝を樹立する事の正当性ではなく、漢王朝は殷人とは関係がない事を捏造する歴史であると共に、中華文明は華北のアワ栽培者によって創出され、稲作民族は未開人だったとする大捏造史だった。

この前提に立って歴代の王朝史を記した経緯を検証すると、南北朝期まではこの認識によって史書が編纂されたことが分かる。陳寿は魏・晋王朝系譜の人だったから、晋に仕えながら魏の歴史を編纂する人であって、後漢の史書を編纂する人ではなかった。その立場を犯したくなかったから魏志を独立の史書とし、呉志と蜀志は別途編纂したと考える事ができる。

南朝期に編纂された史書についても、南朝の斉が宋書を編纂し、梁が南斉書を編纂したが、南朝を始めた晋の歴史は編纂しなかった。その理由は、宋以降の王朝は稲作民族の王朝で、晋はアワ栽培民族の王朝であると認識していたからだと考えられ、この認識は南朝期まで継続していた事を示している。

この認識を破ったのは、鮮卑族が樹立した征服王朝である唐だった。唐の太宗は民族系譜を無視し、晋書、梁書、陳書、南史、隋書を編纂し、それを国際政治の道具として使った。従って唐の成立によって、中華民族の歴史認識は終焉したとも言えるが、歴史を編纂する文化を形成した製塩業者は、春秋時代に越と呼ばれて中華世界にいたが、秦の中華征服によって中華世界から追い出されたから、その思想によって歴史を編纂する文化は、それによって終焉していた。

その後に漢王朝の文明破壊があり、越人が編纂した夏王朝史は焚書に遭って失われ、現在は誰も見る事ができないから、史書に対する認識を以て文化系譜を論じる文化は、漢王朝期に完全に失われたからだ。陳寿がその復活を目指したが、後漢書がその流れを否定し、宋書と南斉書がその余韻を残しているに過ぎない。

従って殷王武乙以降の事績が周王朝の前史になっている事は、周の祖先集団の記録を遺す習俗が、この頃始まった事を示している。陶寺遺跡時代には、五帝が主催する帝に出席していた可能性もあり、その時期の漢字文化が有扈にも拡散していた筈だが、夏王朝期以降は帝に参加していなかったから、それ以降に進化した漢字文化は知らなかった可能性が高い。従って周の漢字文化への再参入は、殷王朝との関りの中で、殷王朝から伝わる事によって再開した可能性が高く、殷王武乙以降の事績が周王朝の前史になっている事が、その事情を示している。

但し殷王朝を滅ぼした周王朝の正義は、夏王朝の方針に基づくものであると認識していたから、その事は殷王朝から漢字文化を受容し始めてから間もない時期に、稲作民族とも交流して夏王朝の文化を取り入れた事になる。

竹書紀年は周王朝が編纂した正史ではなかったが、その歴史観は共有していた筈だから、周王朝は歴史を権力闘争の道具にする歴史観には立脚せず、王朝の大義を歴史に立脚させる意識が強く、夏王朝下の製塩業者系譜の歴史観を、殷週革命時の浙江省の製塩業者と共有していたと考えられる。従って殷王朝から漢字文化の影響は受けたが、文明的な影響は軽微だったと考える必要がある。

つまり周に夏王朝の文化を伝えたのは、縄文晩期寒冷期に華南に南下した製塩業者だったが、それによって周が歴史観や法治主義を基礎から再習得したのではなく、製塩業者が生み出した法治主義の精神は、周の祖先が言語だけで伝承していたと考える必要がある。高度な文明は言語や文字で簡単に伝わるものではなかったからであり、古代人が持っていた言語による伝承力の強さを、認識する必要があるからでもある。

以下は殷王朝が滅んだ理由として、周が認識して竹書紀年に記された殷王朝末期の記事。

竹書紀年は殷王朝に関する記載が不正確で、史記が30代の王を挙げているのに竹書紀年は10代の王しか記していない。しかし竹書紀年が記す武乙は、殷王朝最後の帝辛(紂王)から3代前の王で、史記もそれについては同じ認識を示しているから、この頃には周にも漢字文化が及び、漢字で年代記を記していた事になる。

武乙元年 邠を岐周に遷す。 

は陝西省の地名だったと言われているが、地名ではなく、周の前身集団の名称だった疑いが濃い。

この時期の周の祖先集団と殷王朝の間に、この様な事績を生む封建的な主従関係があったとは考え難いから、周の祖先集団がこの年に中核拠点を岐周に移した事を、殷王朝の年次を借りて記したと考えられる。竹書紀年が記す武乙以前の殷王朝の王統に大幅な欠落があり、その時代のは殷王朝とは全く関係がない集団だった事を示しているからだ。

「都」は製塩集団の中核拠点を指す漢字だった事を指摘したが、塩を扱っていた周の祖先集団もそれを知っていたと想定し、についても同様の漢字検証を行うと、の旁は「分」で、「おおざと偏」はと同様に集落を意味するから、から分岐した製塩集団を意味していると推測される。

殷王朝最後の紂王の即位年に、「九侯、周侯、邘侯と主従関係を結んだ」との記事があるが、邘侯は解池の製塩集団だった疑いが濃く、その漢字も「おおざと偏」を使っている事が、この想定の別の根拠になる。の旁であるは英語で場所を示す前置詞のatと同じ意味で、これも位置関係を示しているから、塩が採取できる解池そのものを指していると解釈される。

解池の塩は質が悪いから、陶寺遺跡にいた集団は渤海湾の質の良い塩の攻勢に遭って敗退し、製塩集団は消滅して販売集団になったと指摘したが、殷末の邘侯は解池の製塩集団だった疑いがあると指摘すると、このHPの歴史認識に矛盾があると考えられる恐れがあるから、状況は時代によって変遷した事を説明する。

低品質の塩でも廉価にすれば貧者には売れたから、気候が寒冷化して貧困化していた縄文晩期のアワ栽培者は、高級な海塩、中級の青海湖の塩、廉価な解池の塩というグレードの中で、廉価な塩の需要を復活させていたと推測される。塩を入手する為にはアワなどの交換品が必要だから、アワの生産性が低下して極貧状態になると、塩の品質に拘るわけにはいかなくなったからだ。但しその様な廉価な塩は遠方への輸送コストは捻出できないから、市場範囲が狭く利益が薄い商流になったが、寒冷期の山西や陝西にはその塩が出回っていたと推測される。

但し時代が進むと商品も多彩になったから、塩商人の販売額に占める塩の割合が、如何程になっていたのかは分からないが、塩は基幹的な商品だったから、販売者がその地域の商流を差配する事はこの時代の必然であり、邘侯が解池の製塩集団だったとしてもその商品メニューに、青海湖の塩も含まれていた可能性もある。商品経済化が進むと塩の販売者は、その地域を商圏とする商業政権に変わったからだ。中華の文献にはその視点が欠けている事を(1)魏志倭人伝で指摘したが、これは漢王朝が交易性の欠如した王朝だった事に起因し、漢王朝に文明を破壊された中華民族にはその意識が欠落しているから、東洋史家は史書には経済活動に関する記述が欠如していると考え、認識を再構築する必要がある。

紂王の即位年の記事は殷末の華北の殷人にとって、東の塩商人は九侯、青海湖の塩を扱う西の塩商人がだった事を示しているから、邘侯は解池の製塩集団だった事を示唆し、も製塩者を意味する漢字だったと考えると歴史が整合する。にもにも汎用的な意味がないのは、特定集団を指す為に生まれた漢字だった上に、多くの人に知られる名称ではなく、その地域の人の特徴を示す意味に転化する事もなかったからで、それ故に後世になると使われなくなった点でも共通性があるからだ。

の異字体としてがあるが、異字体としては極めて不自然な漢字になる。しかし渤海沿岸に州があり、そこは嘗て夏王朝の製塩者のがあった場所で、周とは異なる製塩集団の継続的な所在地だった事から考えると、豳やの異字体になったのは、漢字の簡略化とは無関係にが持っていた意味から、異字体になったと解釈する事ができる。つまり州は禹が居住していた冀都を含む製塩集団の居住地で、周の母体だったは浙江省の製塩者の中核集団だった、玄都氏から分枝した製塩集団だったと認識していた事を示している。当然ながら周の祖先集団が分岐した時に漢字はなかったから、その時期にと呼ばれたのではなく、殷末の周の人の漢字認識から自分達はであるとの認識が生れたと考えられる。

幽の「山」の様な形状が何を意味しているのかについては諸説があり、「山」「燃え立つ炎」「落とし穴」などを示すとの指摘があり、それぞれに脈絡がない解説があって定説はない。製塩業者らしく「燃え立つ炎」を指したのであれば、塩を煮詰める最終行程を意味してと繋がるが、幽州の旁は糸での異字体であるの旁が豚を意味している事は話を難しくする。

周の人々の意識として、製塩者の都だったでは繭を煮て絹布を織る優雅な生活をしていたのに、陝西ではブタを炙って食べる野卑な生活をしていた事を自嘲し、或いはその頃の苦しい生活を思い出して戒めとする自称漢字にしたとすると、一つの仮説に辿り着く。幽州の呼称も夏王朝期にはなかった筈だから、周王朝が両方の漢字を創作したと考えられる事がこの仮説の根拠になる。

この説明は苦し紛れの様に見えるが、古代の稲作民族はユーモラスな発想で民族呼称の漢字を選定したから、周の祖先集団が自らをこの様に自称した事に違和感はない。各民族集団の呼称についてはその5で説明するが、の様な威厳を持った煌びやかな呼称漢字は、現代の中華風ではあるが、古代人の認識としては野卑なアワ栽培者の文化系譜だった。

異民族間の交易に従事すると、各民族の習俗の違いによって些細な事から感情的になるリスクが常在したが、互いの習俗を説明する際に滑稽な民族名を自称すれば、話が和んで必要な対立を避ける事ができたから、帝に参加した諸民族はその様なユーモラスで滑稽な呼称を使い合う事を、文明人の証としていたと推測される。

しかし対立関係が常在していたアワ栽培者の社会では、富裕で武力もありそうな煌びやかな名称が、相手を威嚇する手段になり得たから、この様な習俗の違いを生んだと推測される。稲作民族は、自分達の生活は交易なしでは成り立たない事を知っていたから、交易相手に親近感を持って貰う事を優先し、ユーモラスで自嘲的な民族名を選定したが、権力闘争に明け暮れていたアワ栽培者は、自分の体面を重視して煌びやかな名称を選んだと推測され、現代の中国人や韓国人も国際交易のルールを無視し、自分勝手な事をする傍らで自身の体面は酷く気にする風潮があり、アワ栽培民族の民族性を現代まで引き継いでいる。交易民族の歴史を検証する際には経済的な必然性だけではなく、精神面の必然性についても考慮する必要がある事を、この事例が示している。

いずれにしても上記の記事は、が無人の野に移転したのではなく、塩の販売集団には盛衰があり、殷代にが衰えて岐周に覇権を移す必要があり、それに伴って人の移動もあった事を示唆しているが、は民族移動を示したのではなく、覇権集団の所在地が変わった事を意味した。

武乙三年、殷から河北に遷る。周公亶父を諸侯とし、岐邑を下賜した。

の前身集団が、殷王朝に封建領主として認定された事を意味しているが、この時代の諸侯も単なる封建領主ではなく、塩の販売者である事を意味したと想定される。殷王朝最後の紂王の即位年に、「九侯、周侯、邘侯と主従関係を結んだ」との記事があり、それぞれは塩の販売者だったと考えられるからだ。

岐邑は西安の西100㎞ほどにあり、山岳地を越えた600㎞西に巨大塩湖である青海湖があり、其処への陸路は山西とは違って黄河を渡る必要がなかった。縄文晩期寒冷期に向かって気候が冷涼化していた時期だから、降雨量が増えて黄河を渡る事が困難になった事が、拠点を山西から渭水流域に移した理由だった疑いがある。いずれにしても質が悪い解池の塩の需要者は、殷墟にいた殷人ではなく、陝西、山西、河南の貧しいアワ栽培者だったと推測される。

周が岐周(岐邑)を拠点とした事は、青海湖の製塩者だったY-R集団が製塩と輸送を担務し、陶寺遺跡系の人々は塩の販売者になった事を意味するが、どちらの系譜が周の指導層を形成したのかは明らかではない。後世の名称から判断すると、西周を引き継いだ東周は陶寺遺跡系の製塩者で、秦を形成したのはY-R民族だった様に見えるが、東周は周の名称を引き継ぐ事によって華北を統治する大義名分を維持し、秦は夏王朝と敵対関係だった周の後継政権ではないと主張する為に、周とは異なる秦を名乗ったと推測され、秦がその様な集団名としたのは、夏王朝の主要民族だった荊と、交易関係を形成したからだと考えられる。つまりそれぞれの利害関係により、東周と秦の名称が生れた事になるから、元々の民族集団が分裂したのか、全く別の要因で分裂したのかは明らかではないし、漢音が類似している周と秦は、Y-Rの音を漢字に変える際に、2種の表記があっただけかもしれないからだ。

武乙十五年 河北から沫に遷る。 これは殷王朝の事績。

殷王朝の勢力が衰えると、遷都を繰り返した事を示している。そのドサクサの中で、周の祖先が岐邑の領有を正統化した疑いがあり、殷と周公が主従関係になった事にも疑念がある。

武乙二十一年 周公亶父が薨した。

武乙二十四年 周の師(軍)が程を伐った。畢で戦い之に克った。

武乙三十年 周の師が義渠を伐ち、其の君を獲えて帰還した。 義渠は異民族を指す言葉。

武乙三十四年 周公季歷来朝。王が地三十里、玉十、馬十匹を下賜した。 周公が初めて殷王朝に朝貢した事を示唆している。

戦乱が絶えない状況が続き、戦功があった周公季歷に恩賞が与えられた事を示唆しているが、周が独自に領域を広げた事により、初めて朝貢して諸侯になったのかもしれない。周が戦闘を繰り返した事は、塩商人である事から脱皮して農地を領有する、農耕民族的な領主政権になった事を示唆しているからだ。この時代の単なる農民集団は、軍事的には烏合の衆に等しく、周は塩の商流を維持する為に人々を組織化していたから、武人の数は少なくても戦闘には強い集団だったと推測され、殷王朝が衰えて統制力が弱まると、その間隙を突いて領土を広げた事を示唆している。

周の始祖は后稷と呼ばれ、后稷は農業の神として信仰されている事もその根拠になるが、先に説明した様に塩の販売が低調になっても、農耕者の人口が減ったわけではなく、青銅で農具を形成できる時代になっていたから、気候が冷涼であっても財力があれば、農耕の生産性を高める事が可能になり、アワ栽培地域から農耕民族的な封建領主が生れる環境が整いつつあった。

農民から租税を徴収する仕組みも、法治主義者だった周によって創始された可能性が高い。荊の貴族層は産業によって政権を維持し、沿海部の製塩者は塩の販売益によって政権を維持していたから、塩の販売が不振になった陶寺系の人々が、租税制度を創設して政権を維持し、農具を製作する為の青銅器を集めて生産性を高め、農地の配分を差配する農耕民族政権になったとすると、この制度の発祥と周の武力的な台頭を説明する上で、また周の始祖が后稷だった事に関する論理的な妥当性が生れるからだ。製塩者としての組織力は維持していたが、中華の交易が及ばない過疎地だった山西で、農業を営んでいた陶寺系の人々は、その様な制度を最も創出し易い立場にあったからでもある。

アワ栽培者だった東夷諸族は、関東部族との獣骨交易によって交易者としての組織化は進んでいたが、それが農耕民族的な政権を樹立する契機になったのかについての論理的な根拠がないが、関東部族の船の到達範囲外だった、山西、陝西、河南省西部のアワ栽培者は、石器時代には塩以外に交易品がない人々だったから、青銅器時代になって青銅が商品になると、その商流が新たに脚光を浴び、それと陶寺系の人々の組織力が結びつけば、殷人系のアワ栽培者も支配下に収める封建領主になる事は、論理的に可能だったからだ。

后稷は民族を代表する夏王朝の制度に由来したと考えられるから、周は夏王朝に参加していた事も示唆しているが、周の漢字文化の系譜は明らかではないので、これを夏王朝期の名称であると考える事にはリスクがある。周代の夏王朝でもが民族の代表者だったのであれば、周はそれをヒントに祖先の名称を具体化した事になるが、いずれにしても周の租税制度は歴史が長かった事を示唆している。

以上の論考から殷商王朝期の殷人が、租税制度を創設していたとは考え難いから、巨大都市を建設した原資は、武力による収奪や略奪によって得た穀物を、軍事都市に集積したものだったと想定される。それに関する史記の記述が曖昧である事も、状況証拠になるだろう。

いずれにしても周が青銅を集めて農地を積極的に開拓し、その領有者になって穀物の安定的な蓄積が可能になると、それを軍糧とする事によって軍事力が飛躍的に向上したと推測される。殷人が略奪によって穀物を集積していたとすると、その対象は漢族だった事になるが、集積事情は不安定だったと推測され、軍事力の凋落はその事情を一層厳しくした。一方の周は法規によって租税を定め、安定的な税収を得ていたとすると、周や秦の軍事力の強さの根源的な理由の一端を窺う事ができる。

秦は中央アジアへの南下圧力を強めていたトルコ系民族と、彼らを支援する騎馬民族と武力的な緊張関係にあったから、強力な軍事力を常備する必要があった事も、秦の軍隊が強かった理由の一つであると考えられるから、陶寺系の集団の軍事力が秦には及ばなかったとしても、烏合の衆の様なアワ栽培者に、組織的に活動する軍隊の強さを示す事はできただろう。

鄭州の丘陵上には武断的で中央集権的だった商王朝の巨大な城跡があり、それらは黄河の土砂に埋没していないから、全容を発掘して巨大な城郭を確認する事も可能だが、現在は市街地の地下にある。暴力的な緊張関係が常在した殷人系のアワ栽培者を統括する為には、より強力な暴力を常備するしかなく、その為に壮大な武力を集積した結果が巨大な城の建造に繋がったと推測される。この様な城郭を建造する事に経済的なメリットはなく、権力者の権力を維持する事だけがこの城を建造した目的だったと考えざるを得ない。

殷墟から膨大な量の青銅器が発掘されているから、殷王朝を維持した財源は青銅の生産にあったと考えられるが、商王朝が建造した鄭州の巨大な城はそれより大きく、それを建造して維持する為に必要だった膨大な財源が、何処から捻出されたのか明らかではない。

 

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