経済活動の成熟期 その1

縄文後期(45003300年前)に海退が顕在化し、沖積平野が急拡大して農耕適地も急拡大した。温暖期になると農耕の生産性も向上したから、農耕民族の人口が急増して世界各地に農耕民族の政権が生まれた。その結果海洋民族の交易対象が農耕民族の富裕者になり、交易品が高額な工芸品に傾斜し、利潤追求型の交易に変質した。しかし縄文晩期(33002800年前)になると、農耕民族が経験した事がない寒い寒冷期になり、大陸の農耕社会は大混乱に陥った。海洋民族はそれらに対応しながら、組織化を進めた。

 

1、華北のアワ栽培者と東夷諸族

1-1 華北の地理的な環境の変遷

氷期の海面は現在より10m以上低かったから、前回の間氷期に形成された沖積平野は、氷期には海抜120m以上の台地になった。前回の間氷期に堆積した軟らかい土壌は、氷期の河川に侵食されて台地は削平され、その土砂は氷期の海面水準に見合った沖積平野として、氷期の海岸に堆積した。それによって中華大陸の氷期の海岸線は、現在より数100㎞以上沖に延伸したが、その殆どの地域の標高は現在の海面より100m以上低かった。

後氷期になって海面が上昇すると、氷期に形成された沖積平野は徐々に海に飲み込まれ、海面上昇がピークに達した縄文海進期には、海面が現在より5mほど高くなったから、渤海と東シナ海が巨大化して現在の平野部を覆い、山東半島は大陸から切り離されて九州程度の広さの島になった。

氷期初頭に超弩級の豪雨期があり、その後10万年氷期が続いて後氷期になったが、ヤンガードリアス期にも豪雨があったから、考古学者や地質学者の調査を待つまでもなく、上記を事実として歴史を検証する必要がある。縄文海進期初頭に海水が何処まで侵入したのかについては、現在の沖積地の標高を100mほど下げる事により、当時の状態を推測する事ができる。山東省済南市は水面下-75m、河南省濮陽市の南部は-45mになるから、山東半島の北西部が海になった事が実感できるし、江蘇省や安徽省も同様の操作により、現在の沖積平野は全て海になった事が理解できる。

海面が上昇した直後の山東半島は、東西の島に分かれていた可能性があるが、海進期の開始期に起こった太平洋の湿潤期に、土砂が流出して陸橋が形成されたと考えられるので、歴史上は一つの島として扱う。

陝西省の山地から河南省鄭州市まで丘陵が張り出し、細長い岩石帯を形成しているから、縄文海進期が始まった8千年前には、山東島に向かって張り出す細長い半島だったと考えられる。山東半島の丘陵地も氷期に削平されなかった岩石帯で、両者の間に広がっている250㎞幅の平地の標高は、4060mしかないから、100m低下させると-40-60mになり、縄文海進期にはその幅の海だった事を示している。但し縄文海進期の海岸線を形成した丘陵の裾は、現在は標高4060mの土砂に埋もれているから、実際の海峡の幅は250㎞には至っていなかった筈だが、鄭州市の丘陵は大陸から細長く張り出し、山東の山塊の南北幅は200㎞しかないから、海峡隘部の幅は200㎞以上あったと推測される。

鄭州丘陵の北に広がる平野の標高を100m低下させると-10mになり、黄河が洛河と合流する地点は同様の計算で+7mだから、縄文海進期初頭の渤海は、洛河と黄河の合流点辺りまで拡大していたと推測され、当時の巨大な渤海は上述の幅200㎞の海峡を介し、江蘇省や安徽省の平原を覆った東シナ海に繋がっていた。

しかし縄文海進期初頭に太平洋が湿潤化し、黄河の水量が激増して渤海を急速に埋め立てたから、この状態は直ぐに変化した。縄文中期初頭の山東の遺跡は、山東と大陸の間に人の移動があった事を示し、その頃には黄河の堆積土砂が、上述の幅200㎞の海峡に陸橋を形成した事を示しているからだ。縄文中期初頭(5500年前)は、太平洋の湿潤化期(8000年前~7500年前)が終わってから2千年後になるが、人の移動はもっと早い時期に可能だった可能性もある事を、歴史事象が示唆している。

黄河はその後も多量の土砂を堆積し続け、現在はその陸橋を含む周辺地域の上に、標高4060mの平原を形成しているから、縄文時代に陸橋や黄河のデルタに居住していた人々の痕跡は、発掘不可能な厚い土砂に覆われている。つまり低湿地に居住していた稲作民の痕跡が、考古学的に発掘される可能性は絶望的に低い状況にある。

太平洋が湿潤化する以前の超温暖期の華北は、極度に乾燥して人の居住を拒んでいたが、太平洋が湿潤化した8千年前以降は人が住める環境になり、多数の遺跡が発掘されている。但し上記の事情により、発掘された遺跡は全て丘陵地にある。それらの代表的な遺跡群として遼河上流域の遼河文化、河北省南部の磁山文化、河南省東北部の裴李崗文化、河南省北西部~陝西省の仰韶文化、山東半島の北辛文化、大汶口文化、山東龍山文化、華北全域に広がる龍山文化などがある。

縄文早期のアワ栽培者の中核的な居住域だった、遼河文化圏は標高500m以上の丘陵地にあり、気候が湿潤化した8000年前に定住が始まったが、以降の寒冷化と乾燥化の中で次第に衰退し、縄文中期の紅山文化を最後に、文化圏と言える状態ではなくなった。

その様な遼河台地から河北省や河南省東北部に南下したアワ栽培者は、堅果類の栽培者の文化だった磁山文化と裴李崗文化を縄文前期に消滅させ、上記の海峡の東岸を占拠したが、海に隔てられた山東には侵攻できなかった。

仰韶文化は、縄文前期の華北を代表する先進的な文化だったが、縄文中期に甘粛や青海に後退して馬家窯文化や斉家文化を形成し、華北にはアワ栽培者の龍山文化が広がった。

山東は縄文中期前半まで大汶口文化圏だったが、中期後半に山東龍山文化圏になり、華北のアワ栽培民族が山東にも進出した事を示している。当時の山東山塊の南端は、江蘇省の徐州~安徽省の淮北域に及んでいたから、それらの地域にもアワ栽培者が南下したが、山東南部は当時のアワ栽培の南限より温暖な地域だった。

しかしアワ栽培者の文化だったと考えられる中期大汶口文化や後期大汶口文化、それに次ぐ山東龍山文化の遺物が、華北龍山文化圏より豊かであるのは、超温暖期にアワの原生種であるエノコログサが、山東に北上する以前に山東が島になり、エノコログサが存在しない地域になったから、温暖な地域でありながら花粉汚染を被る事がなく、アワの栽培が可能だったからだと考えられる。

エノコログサは湿地帯の様な過剰に湿潤な環境を嫌うから、陸橋ができても暫くの間は、大陸から山東に拡散しなかった事が、この様な事態を生んだと考えられる。またエノコログサの北限だった鄭州半島より北の部分から陸橋が広がった事も、縄文時代の山東にエノコログサが拡散しなかった理由であると推測される。

 

1-2 華北を占有して龍山文化を形成した、Y-NY-Qmt-D ペアの起源

2万年前に東ユーラシアの温暖化が始まると、氷期に福建省~江蘇省にいたY-Nmt-M系ペアは、気候が極度に乾燥化したそれらの地域から追い出され、湿潤な気候を求めて太平洋沿岸を北上した。オホーツク海沿岸まで北上したmt-Dmt-Cmt-Gmt-Zは、河川漁民になっていたツングースの祖先と共生し、それぞれの栽培種に適した気候を求めながら、湿潤なオホーツク海沿海部やアムール川流域を南北移動し、それぞれが南北の気候帯別に展開していたが、気候が極度に寒冷化したヤンガードリアス期には、mt-Dmt-Cmt-Gmt-Zの全てがアムール川流域に南下せざるを得なくなり、狭い地域に混在する状況が生れた。

12千年前に超温暖期になると、ツングースの祖先はmt-Gと共にオホーツク海沿岸に北上したが、アワを栽培していたmt-Zと、mt-Zからアワの栽培技術を習得したmt-Dの小グループは、アワの栽培に執着して温暖なアムール川流域に留まり、ツングースが北上して空席になったアムール川流域に入植した、トルコ系漁民と共生した。

シベリアに北上したY-Nはこの地域の新参の狩猟者だったから、先住のY-C3狩猟者の縄張りを荒らす事はできず、Y-C3が放置していた獲物が乏しい地域を縄張りにしていたと想定される。シベリアには南北遊動していた草原のY-C3狩猟者と、ツングースと共生していた森のY-C3狩猟者がいたから、Y-Nにはまともな狩猟地は残されていなかった。しかし不猟期が発生し易い地域の狩猟者になる事は、栽培系狩猟民族だったY-Nの特技でもあったから、そのような地域で森林の小動物を狩ったり、漁民の集落に近い川辺で魚を捕獲したりしたのではなかろうか。

しかしそれでは十分な食料は獲得できなかったから、彼らの食料の過半は、女性達が栽培物と交換した河川漁労民族の漁獲だった。狩猟地が貧弱であっても、漁獲に助けられれば食生活に余裕が生れたから、漁民が栽培物を欲している事を知っていた女性達は、漁民との共生によって豊かな食生活を得る生活に充足し、その継続に固執していた。漁民の食料保存技術が向上し、冷凍品を長期保存すれば焼いて食べる必要が生れ、干物にしてもビタミン類は失われたから、栽培系の女性達が生産する蔬菜類は、漁民にとっても必要不可欠な栄養素になり、互いに相手を必要とする関係が生れていた。つまり漁民は共生する栽培系の女性達が、生活を維持できる量の漁獲を提供する必要があったから、漁民の生産性が高ければY-Nの生産性に関わらず、栽培系の女性達は生活を維持する事ができた。

シベリアに北上したY-Qは、氷期にはインドシナ半島の西北部にいたが、後氷期になると早い時期にインドやパキスタン方面に移住し、超温暖期になると中央アジアに北上したが、中央アジアがY-Rの縄張りになると、シベリアに北上したと想定される。しかしヤンガードリアス期にアワ栽培者になったmt-Dの、その後の行動を検証すると、シベリアに北上したY-Qには2波の北上期があったと考えられる。一波は後氷期になると直ぐに中央アジアに北上し、ヤンガードリアス期以前にシベリアに北上していたから、ヤンガードリアス期にY-Nと共にアムール川流域にいた事により、8千年前に遼河台地のアワ栽培者になったが、このY-Qには超温暖期にアメリカ大陸に渡る経緯も動機もなかったからだ。

ヤンガードリアス期にアムール川流域に居たmt-Dの中で、アワの栽培技術を獲得しなかったmt-Dmt-Cと共に、超温暖期になるとmt-Gより早いタイミングでオホーツク海沿岸に北上し、新たに北上して来た栽培系狩猟民族のY-Qに浸潤し、アメリカに渡ったシナリオは成立するが、アワの栽培技術を獲得していたmt-DのペアだったY-Qは、北上せずにアムール川流域に留まり、8千年前に遼河台地のアワ栽培者になった筈だから、このシナリオが成立する為には、全てのY-Qがヤンガードリアス期以前にシベリアに北上していたか、超温暖期になってから新たに北上したY-Qがいた事が前提になる。

ヤンガードリアス期前後の中央アジアに、Y-Qはいなかったとの想定にも疑問がある。後氷期になって気候が温暖化すると、北欧やウラル山脈などの高山に残っていた氷床が融け、その水の溜まり場だったカスピ海やアラル海は巨大化し、周囲の気候を湿潤化して栽培系狩猟民族に居住可能な場を形成していた筈だから、むしろY-C3の縄張りが既に存在していたシベリアに、敢えて北上したY-Qの方が少数派だった可能性が高い。従ってアメリカに渡ったY-Q12千~11千年前に、中央アジアに北上したY-Rによって中央アジアから追い出され、シベリアに北上した人々だった可能性が高い。

Y-Qのペアだったミトコンドリア遺伝子は、mt-Dmt-Cに浸潤されて現在まで遺っていないが、mt-Rxではなくmt-Mxだったと推測される。このmt-Mxは氷期から一貫して温暖・湿潤な気候を得る機会に乏しく、河川漁民と共生するに足りる栽培技能がなかったから、シベリアに北上するとY-Nとペアだったmt-M系に浸潤され、消滅したと考えられる。栽培種や栽培技術の獲得に熱心だったmt-Rxが、冷涼なシベリアに北上した可能性は低いだけではなく、栽培技能に優れたmt-Rxmt-M系の栽培者に浸潤された可能性も低いからだ。

Y-Qの中央アジアへの北上ルートはY-Rと同じだったが、北上時期はY-Qの方が先行していた事も上記の事情が示している。Y-Rのペアだったmt-R系は、自身が持っていた栽培種の栽培環境に固執し、中央アジアに留まってシベリアに北上しなかったのに対し、Y-Qのペアだったmt-Mxはその様な拘りを示さなかったから、彼らはシベリアに北上した事になるからだ。つまり栽培者の栽培技能が高かった民族は、不猟期の食料の欠乏に耐えて人口密度を高める事ができたから、人口を増やして文明度を高める事もできたが、それを逆に言えばその様な民族の居住域は、栽培が可能な地域に限定された。それがY-Rだったから、麦の栽培が可能な中央アジアではY-Rの人口密度が高まり、栽培の援助がない故に過疎地でなければ生計が成り立たない狩猟民族だったY-Qは、優れた栽培者と共に北上したY-Rとは共存できなかったから、大麦の栽培が可能になった中央アジアから立ち退き、シベリアに北上するしか生き延びる手段がなかった。

逆の立場から言えば、Y-Qには栽培可能な地域に限定される制約はなかったから、シベリアに北上する事ができたが、狩猟だけで生計を立てる事ができる地域でなければ、生存する事はできなかった。縄文文化の形成期の項でも説明したが、狩猟だけで生計を立てる事ができる地域の定義は、必ずしも獲物の数が豊富で不猟期がない地域だったのではなく、気候が冷涼で肉の長期保存が可能な地域であってもそれに該当した。従ってY-Qは気候が温暖化した2万年前に長躯北上する動機を得たから、中央アジアに一時留まったとしても温暖化してY-Rが北上すると、Y-Rと隣接する地域に留まる事ができずに更に北上する必要があった。

その事情を具体的に推理すると、Y-Rはヤンガードリアス期以前にヒンドゥスターン平野に北上していた筈だから、それに押されてY-Qが中央アジアに北上したとすると、その一部が北上の第一波としてシベリアに北上し、Y-Nのペアだったmt-M系女性の浸潤を受けていたから、ヤンガードリアス期にアムール川流域に南下し、遼河台地のアワ栽培者の祖先になった。11千年前にY-Rが中央アジアに北上すると、中央アジアに残っていたY-Qもシベリアに北上しなければならなくなった。彼らもシベリアでmt-M系女性の浸潤を受け、その一部がアメリカに渡ったと考えられる。

いずれの場合もY-Qに浸潤したmt-Mは、Y-Nと共にツングースの祖先と共生していた女性だったが、少数がY-Qに浸潤してY-Nより優れた狩猟者である事が分かると、mt-Mの民族内民族的な情報網によって浸潤者が増加し、Y-Nに匹敵する河川漁民との共生民族になったと想定されるから、アワ栽培者になったY-Qはヤンガードリアス期には、Y-Nと同様にアムール川流域に居た事になり、この前提がなければアワ栽培者になったmt-Dのペアに、Y-Qが濃厚に含まれている理由は説明できない。

Y-QにはY-Nより優れた狩猟技能があったから、mt-M系の女性達が積極的に拡散した事になるが、それでもY-Qに一本化されなかったのは、Y-NにはY-Qとは異なる特技があったからだと考えられる。氷期にY-Qのペアだった女性達には優れた栽培技能がなかったから、Y-Qは狩猟だけで食生活を賄う必要があったが、Y-Nは女性の栽培技量に支えられ、不猟期には獲物がなくても耐えられる程度の狩猟者になっていたから、北上直後のY-Qの狩猟能力はY-Nの何倍も高かったと推測され、それが女性達を引き付けたと考えられる。

この様な事情を勘案すると、この時代に漁労民族と共生しながら民族を構成していたのは、特定の栽培種を持ち、その栽培技術を向上させる為にネットワークを形成していた女性達であって、男性達は女性が形成した栽培種別民族の構成員でしかなかった事情も浮上する。

11千年前にY-Rによって中央アジアから追い出されたY-Qが、シベリアに北上してmt-Dmt-Cの浸潤を受け、ベーリング陸橋を渡ってアメリカに渡った事情も検証する。

アメリカに渡ったmt-Dmt-Cがアワは栽培していなかったから、アメリカ大陸にはアワ栽培は渡らなかったが、キビはアメリカ大陸に渡ったと想定されているから、超温暖期にはベーリング陸橋付近の高緯度地域でも、耐寒債が高いキビであれば栽培できる気候環境があったと考えられる。従って超温暖期になるとmt-Dが真っ先に北上し、それに続いたmt-Cと共にアメリカ大陸に渡ったとすると、キビの栽培者はmt-Dmt-Cのどちらだったのかという疑問が生れる。

mt-Dがアワの栽培者になったのはヤンガードリアス期にmt-Zと混住し、mt-Zの栽培種だったアワの栽培技術を得たからであり、mt-Dがキビの栽培者だったと推測したのは、縄文時代の華北ではアワとキビが主要な栽培種だったからだ。しかし最北の栽培者だったmt-Dに、栽培化が可能なイネ科植物を入手する環境があったのか疑問であるだけではなく、キビの栽培を行っていたのであれば、ヤンガードリアス期以前にY-C3狩猟民族に浸潤した際にそれを持ち込んだ筈だから、北海道でヒエが栽培化される以前にキビの栽培化が始まった筈だが、その兆候は見出されていないから、キビを栽培化したのはmt-Cだった疑いが濃い。

mt-Cmt-M8からmt-Zと共に分岐した姉妹で、同じ姉妹であるmt-M8aは漢族と広東の遺伝子で、mt-Zはアワの栽培者になり、mt-M8aは里芋とタロイモの栽培者になったから、mt-Cにも類似した栽培種があった可能性が高く、その筆頭候補はキビになる。つまり最北の栽培者だった氷期mt-Dには有望な栽培種がなかったが、ヤンガードリアス期のアムール川流域でアワとキビの栽培技術を獲得したmt-Dが、遼河台地の栽培者になったと推測される。mt-Dの行動にはその後も類似した傾向があり、他の女性達は母から譲り受けた栽培種の栽培に拘っていたが、日本ではジャバニカの栽培者になったり、熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカの栽培者になったりする異色の存在だったから、この推測に違和感はない。

Y-Qmt-Dmt-Cが多数浸潤したのは、mt-Nと比較したY-Qの狩猟能力が高かったからだと推測されるが、その様なY-Qの狩猟に対する積極性が、シベリアの古参の狩猟民族との間に悶着を起こしていたから、漁民との共生によって狩猟稼働を控える様になったY-Qはシベリアに留まる事ができたが、狩猟に拘り続けたY-Qはアメリカに渡らざるを得なかった可能性もある。

現在のトルコ系民族にはY-Rも多数含まれ、シベリアの狩猟民族や漁労民族は狩猟の縄張りが侵されない限り、共生者を歓迎する姿勢があった事を示している。それが民族間交易を重視するシベリア起源の文明であり、地域主権的な部族主義と民族共生がその基本要素だったから、その文化がY-Nとの共生に繋がっていたが、その価値観によってY-Qの参加も受け入れたし、Y-Rも受け入れた事を示している。

現在の西ユーラシアのトルコ系民族に、濃厚に含まれているY-Rの起源については、色々な事情があったと考えられる。中央アジアのY-Rが更に北上して共生民族になった事例や、中央アジアが乾燥化して農耕ができなくなった縄文後期に、湿潤なシベリアに北上して漁労民族と共生した事例などが考えられるからだ。いずれにしてもユーラシア大陸の内部事情は、海洋民族との接点から追跡する事は困難だから、東アジア沿海部の歴史を追跡するこのHPとしては、トルコ系Y-Rの起源については追求しないが、シベリア文明の歴史的な流れの名では、彼らが共生民族になる機会が色々あった事は指摘して置く必要がある。

インド洋が湿潤化した1万年前に、シベリア全域が降雨に恵まれたから、河川漁労が可能な地域がシベリア全域に広がり、それを受けたトルコ系漁民がシベリアに拡散する際に、mt-ZをペアにしていたY-NY-Qを共生者としてシベリア各地に拡散した。彼らは自発的に拡散したのではなく、ツングースが彼らを狩猟民族から獣骨を収集する集団としたからであり、ツングースがその獣骨を関東部族に販売する事によって弓矢を受領し、その弓矢を狩猟民族に配布する事によって成立する、持続的な交易を樹立したからだ。その利益によって輸入品に頼る高度な漁労技術と、それに必要な漁具をトルコ系漁民に支給し、トルコ系漁民の漁労の生産性を高めたから、アムール川流域に集結していたトルコ系漁民は積極的にそれに応じた。彼らが得た主要な漁具は、海洋漁労に習熟していた関東部族が支給する磨製石斧やアサなどだったから、ツングースと関東部族の間の交易量が急拡大すると共に、アムール川流域にいたトルコ系漁民はシベリア各地に急拡散した。

アムール川流域に居たmt-Zはトルコ系漁民と共にシベリア各地に急拡散したから、アムール川流域にはmt-Zがいない状態が生れ、mt-Dだけが取り残された。

トルコ系漁民と共にシベリアに拡散したY-Nmt-Zペアは、ウラル山脈に達すると、ウラル語族の漁民の共生者にもなった。ウラル山脈以西はY-C1狩猟民族の縄張りだったから、漁民も栽培民族もY-C1狩猟民族の言語を使う様になったが、ウラル山脈以東でトルコ語を使っていたY-Nmt-Zペアを含め、彼らの子孫は現在も最北の栽培系民族として現存している。縄文晩期に狩猟者と漁民が激減したから、シベリアとウラル山脈以西の高緯度地域では、現在は栽培系民族が多数派になっている。

シベリア起源のこれらの栽培系民族の遺伝子は、Y-Nmt-Zペアと、Y-Qmt-Zペアの混成集団だったが、Y-Nの分布が北方に偏り、Y-Qはそれより南にY-Nより厚く分布し、モンゴル系民族の領域を避ける様に分布している。Y-Qがアメリカ大陸に渡った11千年~1万年前に、Y-Nがオホーツク海北岸で漁民と共生していたとすれば、Y-Nより北にいたY-Qがベーリング陸橋を越えた事になるが、その後両者の南北関係が逆転した事になり、その理由として幾つかの要因を想定する事ができる。

その一つは漁民との共生に出遅れたY-Qと、既に5千年近く漁民と共生していたY-Nには、生業形態に大きな違いがあった事が想定される。つまりY-Qmt-M系の浸潤を受けても、依然として内陸の狩猟民族であり続ける傾向が強かったから、内陸が沿岸部の北にあったオホーツク海沿岸以東では、地理的な理由によって南北関係が決まっていたと考えられる。Y-Qと共にアメリカに渡ったmt-Cは現代日本人には稀な遺伝子だから、内陸型の栽培者だったと考えられ、その様なmt-Cと共にアメリカに渡ったY-Qも、内陸の狩猟民族だった事を示唆しているからだ。

その様なY-QはY-C3と狩猟の縄張りを争った筈だが、YC3には南北移動する草原型の狩猟民族と、漁民と共生していた森林型のY-C3狩猟民族がいたから、それを区分して検証する必要がある。森林型のY-C3狩猟民族は漁民と共生する狩猟民族で、狩猟民族単体としては生活する事ができない、共生型の狩猟民族だったから、オホーツク海沿岸から離れた内陸には拡散していなかった。超温暖期にはオホーツク海の北の大陸内部も一部が森林化していたとすると、そこは草原型のY-C3狩猟民族とも縄張りが競合しない地域だったから、オホーツク海北岸の海から離れた地域では、Y-Q栽培系狩猟民族の生活圏が生れていた。

暖流である黒潮がオホーツク海沿岸を洗っていた時期だから、キビが栽培できる程に温暖化していたのであれば、森林化はかなり進んでいたと想定され、上記の場面設定には合理性があると同時に、歴史的な流れとも整合するから、その様なY-Qmt-Cmt-Dが浸潤したとすると、mt-Dにもmt-Cと同様の選択傾向があった事になる。つまり森林系の狩猟者だったY-Qの技能を評価し、純粋な栽培系狩猟民族になる為に、Y-Qに浸潤したmt-Cmt-Dが多数いたから、その一部がアメリカに渡ったと考えられる。逆に言えばmt-Zmt-Gは漁労民族との共生を本命視し、漁民との共生から独立して純粋な栽培系狩猟民族になる気はなかったから、アメリカには渡らなかった事になる。

縄文時代のシベリアは森林に覆われ、南部であるほど気候が乾燥して疎林化し易く、漁労民族の人口が希薄な地域だったから、シベリア南部に分布が厚いY-Qは、漁民との共生者になりながらもその様な地域を好んで拡散したとすれば、この推測の傍証になる。

森林型のY-C3狩猟民族の末裔であるY-C3モンゴル民族の分布域も、シベリア南部~モンゴル高原にあり、Y-Qの濃密な分布域がモンゴル民族の分布域から西にずれている事も、この推測の傍証になる。つまりmt-Aとのペアだった南北遊動型のY-C3の縄張りは、寒冷だった故に疎林化していたシベリア北部にあり、其処を流れる大河が冬季に氷結しなければ、Y-C3漁労民族に豊かな漁場を提供していたから、Y-Nmt-Zペアの多くがその様な地域に拡散したトルコ系漁民との共生者になり、Y-Qとベアになったmt-Zは南部の森林地帯に散開し、mt-Zはアワの栽培を継続していた事になる。つまりY-Qとペアになっていたmt-Zにも、アワを栽培できるメリットがあり、両者の利害は一致していた。

Y-Nとペアになって極限的な高緯度地域に拡散したmt-Zは、アワの栽培を諦めて蔬菜類の栽培者になる代償として、豊かな漁獲を享受した事になる。

アメリカに渡ったmt-Dに着目すると、mt-M系では最も北辺の栽培者だったから、冷涼な気候にもめげずにベーリング陸橋付近まで北上し、Y-Qと共にアメリカに渡ったとも言えるが、超温暖期にオホーツク海北岸にいた故に、現在はカムチャッカ半島に閉じ込められているmt-Gも、類似した気候環境下で栽培を行っていたから、アメリカに渡ったmt-Dはその様なmt-Gとは、全く異なる選択をした事に着目する必要がある。アメリカに渡ったmt-Dはカムチャッカ半島に閉じ込められる事はなく、カムチャッカ半島に閉じ込められるほど高緯度地域まで北上したmt-Gは、Y-Qと一緒にベーリング陸橋を渡ってアメリカに渡らなかったからだ。

この事情は、超温暖期のオホーツク海北岸で河川漁民と共生していたのはmt-Gだけで、mt-Dは漁民とは共生できない内陸で、Y-Qのペアになっていた事を示唆している。つまりY-Qと一緒にアメリカに渡ったmt-Dは、漁労民族との共生に興味がない、内陸型の女性としてY-Qに浸潤していた事になる。mt-Dが漁労民族との共生に拒否的だった事は、縄文人の活動期の項で繰り返し指摘したから、これ以上の説明は必要ないだろう。

縄文草創期以前に、樺太経由で本州に渡来したのはmt-Dだけだった事は、mt-Dが最北の栽培者だった事を示しているが、シベリアの超温暖の終末期に北陸に渡来したのはmt-Dmt-Gだけで、mt-Cは居なかったから、北陸部族がアクセスできる沿海部にいなかったmt-Cは、mt-D以上に漁民との共生に拒否的だった事を示している。mt-Cがモンゴル人や中央アジアの人々に多い遺伝子である事も、この事情を示唆している。

遺伝子の分岐から辿るmt-Cmt-Zの姉妹で、その母系のmt-M8mt-D4万年以上前に分岐したと想定され、余りにも昔の事になるから、母から娘に伝達された思想の類似性を、4万年前まで遡る事に意味はないだろう。mt-Cは姉妹であるmt-Zと対極的な性格だったから、それぞれの遺伝子グループの性格の違いは、それぞれが固有の栽培種を得て民族内民族を形成した事によって生まれ、その民族内民族が色々な経験を経る事によって思想内容が変遷した結果として、それぞれの性格が超温暖期の行動に影響したと考えられる。

これは特定の栽培種を得たミトコンドリア遺伝子が、その獲得に成功した少数者を核にして人口を増やし、やがてその栽培種の生産性を高める為に民族内民族を形成し、情報交換を密接に行う事によって栽培種の生産性を高めると同時に、母から娘に伝える栽培思想も高度化したと想定する、このHPが提案するミトコンドリア遺伝子の法則的な挙動と一致し、その論理的な背景を提供する事例になる。

従ってヤンガードリアス期から超温暖期が終わるまでの、環境の変化に適応する為にmt-Cmt-Dmt-Gmt-Zがそれぞれ選択した特徴的な対処方法が、彼女達の身の振り方に関わる人生観も共有していた事になる。また遺伝子毎に特徴的な選択をした事は、彼女達の情報網が極めて多彩な情報を含み、それが民族内民族の意思決定にも影響を与えていた事を示している。

上記の選択に際してmt-Cmt-Dが共有していた性格は、論理的に説明する事は難しいから小説的に表現すると、以下の様なものだった可能性が高い。

女の細腕に頼る主体性がない男を嫌う感性が、この女性達に強く含まれていた事が、この様な行動を採る理由だった可能性が高い。つまり漁民の従属者の様に振舞うY-Nに愛想をつかし、狩猟者として逞しく生きるY-Qに魅力を感じたから、積極的にY-Qのペアになったと想定される。これは古代人にとって必須の心意気ではあったが、その強弱には個人差があり、母から娘に伝えられた思想にも大きく影響されてもいたが、mt-Cmt-Dにはその意識が強かったから、経済的に独立した栽培系狩猟民族になる事を望んでいたと推測される。

この性格は北陸に渡来してアワ栽培に成功したmt-Dにも顕著にあり、アムール川流域でアワ栽培になったmt-Dが、冷涼なシベリアへの移住を拒んだ理由にも、この様な要素が含まれていたと考えられる。ヤンガードリアス期以前には目立った栽培種を持っていなかったmt-Dが、アムール川流域でアワとキビの栽培者になり、自活力が大きく向上したとの自意識が、その生産性の維持に拘ってシベリアに北上しなかった事は間違いないが、mt-D特有の上記の性格はヤンガードリアス期以前から存在していた事を、アワ栽培者にならなかった故に氷期以来の性格を遺していたmt-Dが、Y-Qmt-Cと共にアメリカに渡った事が示している。

超温暖期になって漁労技能が高かったツングースの祖先が、アムール川流域からオホーツク海沿岸にmt-Gと共に北上移住してしまうと、アワと交換できる漁獲は減少したが、代わりに移住して来たトルコ系漁民と共生を続ければ、生活に困る事はないという判断がmt-Dにあり、mt-Zもアムール川流域に留まったのは、同様に判断したからだとすれば、北上したツングースの祖先は社交的なmt-Gとの共生を好み、mt-Dmt-Zはその選択から漏れた女性達だったとも言える。但しmt-Cは現在のモンゴル系民族に多い遺伝子だから、この頃からY-Qだけではなく、森林系のY-C3狩猟民族に浸潤する傾向があったと推測され、mt-Cの内陸的な性格を示している。

しかし1万年前にシベリアが湿潤化してトルコ系漁民が陸続とシベリアに移住すると、トルコ系漁民は頼まれると断らない愛想が良いmt-Zを選択し、漁民との相性が良くないmt-Dには声を掛けなかったから、やがてアムール川流域にトルコ系漁民がいなくなると、mt-Dだけが取り残される状態になったと考えられる。華北のアワ栽培者系譜の扶余がトルコ語話者だった事は、彼らが最後に共生していたのはトルコ系漁民だった事を示し、アワは超温暖期であっても、レナ川やエニセイ川流域では栽培できなかったと推測されるからだ。

北陸に渡来したmt-Dも、焼畑農耕に成功すると早々に北陸の漁民との共生から離脱し、福井~中国山地に移住しただけではなく、琵琶湖を経て濃尾平野まで集団で移住したから、トルコ系漁民に置き去りにされた状態は、mt-Dが最終的に望んでいた状態でもあったが、北陸に渡来してアワ栽培に成功したmt-Dと比較すると、欠けているものが幾つもあった。

第一に、アワの生産性が格段に劣っていた。北陸部族のmt-Dは温暖な地域の焼畑農耕によって高い生産を得ていた上に、食料が不足すればドングリを食べる選択肢もあった。北陸にはその様なmt-Dを追って山陰や伊勢湾に移住した海洋漁民もいたし、北陸縄文人には沿岸漁労ができる者も多数いたが、アムール川流域の漁民はシベリアに去ってしまったから、北陸のmt-Dと比較すると食糧事情は極めて劣悪だった。

ペアだったY-NY-Dは長らく漁民と共生する事によって狩猟技能が劣化していたが、ある程度の漁労技能を獲得していたから、トルコ系漁民がいなくなると河川漁労に励んだかもしれないが、その生産性はトルコ系漁民よりかなり劣っていた。単に技能が劣っていただけではなく、トルコ系漁民も北陸部族から輸入したアサを使い、網漁も行っていたと想定されるが、Y-NY-Dには交易によってそれらを得る才覚もなかった。

トルコ系漁民がいなくなるとY-C3狩猟民族も去ったから、広い狩猟地を得て狩猟に励む事もできたが、その技能はY-C3狩猟民族には遠く及ばなかった。Y-C3狩猟民族は弓矢を使い始めていたが、Y-NY-Dにはそれを入手する才覚もなかった。彼らはその後アムール川や松花江を南下する事になるが、その過程では弓矢を入手する事はできなかったから、それでも彼らが敢えて南下した事は、彼らは一貫して弓矢を使用していなかった事を示唆している。

シベリア系の狩猟民族は、性能が高い狩猟具を得る為に交易を行う伝統があったが、中国起源の栽培系狩猟民族にはその様な文化はなく、中央アジアから北上して来たY-Qにもその意識が乏しかったから、彼らは地産地消的な狩猟具を製作していたと推測される。

mt-Zの歴史的な栽培事情は、mt-Dとは全く異なっていた。漁民と共生したmt-M系の中で、mt-Dは最北の栽培者だったが、mt-Zは最も南の温暖な地域から北上した栽培者だったからだ。栽培系狩猟民族の経済事情を分析すると、南の温暖な地域の狩猟者には獲物の肉が腐敗し易いというペナルティーがあったが、その代わりに優秀な栽培者を得ると、植物性食料への依存度を高める事ができた。北の冷涼な地域の栽培系狩猟民族は、植物性食料への依存度を高める事はできなかったが、獲物の肉が腐敗し難く不猟期を耐え易い状況があった。mt-Zmt-Dはその両極端の民族の女性だったから、mt-Zの栽培種の豊富さや栽培技能の高さは、mt-Dを遥かに凌いでいた。

ちなみにmt-Zの南には里芋やタロイモを栽培化したmt-M8aがいて、その更に南に暖温帯性の堅果類の栽培者がいたから、氷期の生産性はこの序列に従っていたと推測される。

現在遺されているmt-Z遺伝子が、最北の遺伝子である様な状況を示しているのは、シベリアの漁民が魚の腐敗しない寒冷な気候を好み、常に北上する事を望んだから、それに気前よく応えた結果として、現在のmt-Zの分布が遺されているが、Y-Nやmt-Zが栽培民族であれば、単独では北上しない冷涼過ぎる地域に分布している事が、特殊な事情の下で北上した事を示唆し、それは漁民との共生だったと考える必要がある。逆に言えば漁民や狩猟民族も縄文時代になると、栽培民族と一緒でなければ移住しない人々になっていたから、蔬菜類の栽培が可能な極限までは北上したが、それ以上は北上しなかったと推測される。いずれにしても漁民や狩猟民族は縄文晩期寒冷期と古墳寒冷期に滅んだから、現在は栽培民族だけが残っている。漁民や狩猟民族が寒冷期に滅んだのは、河川が凍結して漁労ができなくなっただけではなく、交易システムが破壊されて漁具や狩猟具が入手できなくなったからだと推測される。

漁民が獣骨を供給してくれる狩猟民族と共生する事は、経済原則上必須要件だったが、食料の保存事情から栽培民族との共生も必要だったから、漁民が栽培民族に北への移住を求める事情が継続し、mt-Zだけがその意を汲んで栽培が難しい北方に移住した事になる。氷期の広東出身だったmt-Zは漁民と共生したmt-M系の中で、最も豊富な栽培種を持った女性として、漁民の人気が最も高かった事は間違いないから、mt-Dと混住していたアムール川流域時代には、漁民によって最北の栽培者だったmt-Dと常に比較され、称賛されていただろう。

しかしmt-Zにはmt-Gの様な社交性はなく、アワの栽培に対する拘りもあったから、超温暖期になってもオホーツク海沿岸には北上しなかったが、その空席に乗り込んできたトルコ系漁民は、mt-Zをアムール川流域で最高の栽培力を保持する女性として賞賛しただろう。

mt-D特有の性格は、アムール川流域での混住以前に形成されていた事を指摘したが、mt-Zの漁民に対する極めて親和的な性格は、その様なアムール川流域時代に増幅された可能性も否定できない。mt-Zと姉妹の関係にあるmt-Cは、mt-D以上に漁民との共生を嫌っていたから、北陸に渡来する事はなかった事は既に指摘したが、その様なmt-Cの性格も、アムール川流域時代に増幅された疑いがあるからだ。

両極端の性格を示しているmt-Cmt-Zだが、元々は広東近辺にいたmt-M8から分岐した遺伝子で、広東に残ったmt-M8mt-M8aになり、北上したmt-M8mt-Cmt-Zになったのだし、アワの栽培者になった事とキビの栽培者になった事の違いから、この様な極端な違いが生れたとは考え難いから、両者の両極端な性格は後氷期に形成された可能性が高い事がその理由になる。後氷期の大移動はこれらの女性達に多大な苦難を与えたから、それが一つの原因になった可能性があるが、ヤンガードリアス期に異なる栽培種を持つ女性達と混住した事も、彼女達の民族的な性格に大きな影響を与えたと想定する事は、極めて自然な発想になる。

mt-Gが現在オホーツク海沿岸を占有する様に分布しているのは、超温暖期の分布を維持しているからだと考えられ、超温暖期になるとツングースと一緒にオホーツク海沿岸に北上した事を示しているから、mt-Gはツングースの好まれる社交性をmt-Z以上に持っていたと考えられるが、現在mt-Gが最も濃密に分布しているカムチャッカ地域に、mt-Zの集積も見られる事は、mt-Zmt-Gの秘められた関係を示唆している。つまりmt-Zはアムール川流域で混住した時代に、mt-Gと親密な関係を形成した事を示唆し、その関係はアメリカに渡ったmt-Dmt-Cに類似している。

mt-Gと親密な関係を形成したmt-Gがアワ栽培者にならなかったのは、mt-Gには漁民と共生する為に必要な栽培種があったからであって、それに乏しかったmt-Dは貪欲に、mt-Zmt-Cからアワとキビの栽培技術を得たとすると、mt-Dの特異性が一層際立つ事になる。

現在Y-Nはシベリア全域に分布しているが、mt-Zは北辺などの辺境にしかいないのは、mt-Zが漁民との共生社会の中で特殊な栽培者になり、穀類より蔬菜類の栽培に注力する女性になったからだと推測される。縄文晩期寒冷期にシベリア漁民の生業が失われると、漁民を対象としたmt-Zの特殊な栽培者としての価値が低下し、南部では穀類を栽培する他のミトコンドリア遺伝子に浸潤されたが、寒冷な気候に順応していたが故に、穀類を栽培するミトコンドリア遺伝子が浸潤できない極北に、限定的に残っていると考えられる。その様なmt-Zの生き様は、mt-Gの栽培姿勢と極めて類似しているから、両者がヤンガードリアス期のアムール川流域で親密になり、情報を密接に交換する関係を形成していた故に、漁民が求める蔬菜類の栽培に注力するmt-Gの方針に、即座に共鳴したmt-Zmt-Gと共にオホーツク海沿岸に北上し、現在もmt-Gと共にカムチャッカにいるが、トルコ系漁民と共生したmt-Zの中にもmt-Gの影響が濃厚に残っていたから、Y-Nと共生したmt-Zはその思想に戻って極北の栽培者になったと考える事に妥当性がある。

仰韶文化圏に南下してアワ栽培者になったmt-Zがいた事は、シベリアに拡散したmt-Zには3種の集団があり、それぞれの選択を示した背景には、それに相応しい性格があった事になり、元々のmt-Zの性格は何であったのか、分からなくなる状況を示しているが、大きく分ければmt-Gの思想に共感してアワを捨てたグループと、アワの栽培に未練があったグループに分類できる。

氷期~縄文時代に穀物を栽培化した女性達は、栽培種とセットの遺伝子グループを結成し、種子や栽培情報を交換しながら疑似民族的に行動したが、アワ栽培者になったmt-Dとその他のmt-Dの行動には極端な違いがあり、性格が分裂したmt-Zとは異なる事例を示している。しかしこの様なmt-Dの違いも、アムール川流域で混住した時代に起こった女性達の変質の、典型的な事例として解釈する事ができる。

アワ栽培者になったmt-Dは、オホーツク・アムールグループの最南の栽培者になったが、その他のmt-Dは今まで通りの最北の栽培者として行動し、一部はベーリング陸橋に北上してアメリカに渡ったからだ。mt-Dと性格が類似していたmt-Cは、Y-C3狩猟民族にも浸潤したから、その様なmt-Cと行動を共にしたmt-Dも、モンゴル系民族に浸潤した事を、現代のモンゴル人とシベリアに残ったモンゴル語話者が示している。

南部のモンゴル人であり、騎馬民族の子孫でもある現在のモンゴル国人にはmt-Dが多いが、バイカル湖周辺のモンゴル語話者であるブリヤートはmt-Dmt-Cが半々で、更に北方のモンゴル語話者はmt-Cの方が多い。つまり北方にmt-Cが多く南方にmt-Dが多い事情は、北方に拡散したmt-Cは本来の性格を示し、南方に多いmt-Dはアワ栽培者になったmt-Dと行動が類似している事を示している。いずれにしてもこの地域のmt-Cmt-Dの浸潤先は、森林系のY-C3狩猟民族だった事になり、両者の方向性は一致していた。

アワ栽培者になったmt-Dは、Y-NY-Q以外の民族に浸潤せずに、従来のペアと新たな生業を持つ民族として自立したが、これはmt-Dの根源的な性格ではなく、mt-Dは浸潤力が高い女性達だった事は、縄文人の活動期の項で指摘した。従ってモンゴル国人にmt-Dが多い事は、キビより生産性が高いが耐寒性が劣る新な栽培種を得たmt-Dが、比較的温暖なモンゴル高原や内モンゴル地域で優勢になった事を示唆しているが、Y-O3mt-M10ペアに浸潤した結果でもあるから、mt-Dmt-Cより浸潤力が高かっただけである可能性もある。

いずれにしてもアワ栽培者にならなかったmt-Dは、mt-Cと行動を共にした事になり、Y-Qと一緒にアメリカに渡ったmt-Dmt-Cの関係が、此処にも現れている。南北アメリカの遺伝子分布を見ても、各地域のmt-Cmt-Dの割合が類似している事は、同一の栽培種を栽培していた女性達である様な様相を示し、両女性の親密関係がヤンガードリアス期のアムール川流域で生まれた事を示唆している。

以上の派生的な事情として、アワ栽培者になったmt-Dには浸潤する相手民族が周囲にいなかったから、従来のペアだったY-NY-Qと行動を共にし、遼河台地のアワ栽培者になった事になる。

以上とは別の観点として、遺伝子分布から得られる情報を参照すると、mt-CにはC1C4C5C74種の一次分岐があり、C1C4はユーラシアとアメリカに分布しているが、C5C7はアメリカの在地民族から発見されていない。従って元々Y-Nのペアだったmt-Cは、その一部がY-Qに浸潤し、その一部がアメリカに渡った事を示している。

アメリカに渡ったmt-Dの大勢は、mt-D1に分類される遺伝子群だから、mt-Dが大分岐してアメリカに渡った様に見えるが、mt-D1mt-D4のサブグループである事が判明し、現在広く東アジアに分布しているD4b1a2a1の近縁であるD4b1a2a2が、アメリカやカナダの原住民にも存在し、アメリカ大陸に広く分布しているD4h3aの姉妹であるD4h3bが中国では多数発見されているから、その様な事情はなかった。

つまりアメリカに渡ったmt-Dとアワ栽培者になったmt-Dは、mt-Dと呼ばれる遺伝子群に集約した氷期には、栽培情報を共有する女性集団だったが、13千年前に始まったヤンガードリアス期に、アムール川流域に急遽南下して他の遺伝子群の女性達と混在すると、mt-Dとしての纏まりを失った事を示している。

mt-Dmt-M1次分岐遺伝子だから、誕生したのは2次分岐であるmt-Cより早かったが、mt-D1次分岐にはD4D5D6しかなく、D6の数は極めて少ない。D5D42割未満である上に、アワ栽培者の端に加わった事によって人口が増えた疑いがあるから、mt-Dが栽培民族化した際の遺伝子はmt-D4だった事になるが、それが完全に純化されずにD5D6が残っている事は、真剣に生産性を高めるべき栽培種はなく、mt-D4が圧倒的に多いのはボトルネック効果によるものだった疑いもある。

つまり43万年前には特定の栽培種の栽培者だったが、冷涼な気候帯にいた為に氷期の最寒冷期にその栽培種が栽培できなくなり、獣肉が腐敗し難い冷涼な気候帯の、原初的な栽培系狩猟民族として氷期の最寒冷期を過ごし、何度もボトルネック効果を経験した疑いがある。2万年前に後氷期なると真っ先に北上したのも、その様な事情があったからではなかろうか。mt-Gなどの栽培者はもっと南に居たから、気候が乾燥して栽培が不可能になり、北上せざるを得なくなったとは考え難いからだ。その様なmt-Dが人口を増やしたのは、沿海部で漁民や狩猟民族と共生した時期が最も早く、その恩恵によって却って最大人口を有する様になったとすると、歴史的な前後関係と整合する。

アワ栽培者になったmt-Dにはmt-D4mt-D5のサブグループがあり、1万年を経てもその構成割合が変化しなかった事は、このサブグループには別々のグループである認識がなかった事を示し、上記の仮説の根本的な証拠を提示している。つまり43万年前には特定の栽培種の栽培者だったから、氷期の最寒冷期になっても栽培情報の交換は継続し、栽培民族の女性としての纏まりを維持し、狩猟民族や漁労民族への浸潤も無秩序に進行したのではなく、浸潤したmt-Dが情報網を利用して後続のmt-Dの浸潤を促したから、共生によって人口が急増したと想定される。その時期のmt-Dは共生の推進者だったが、後世になると漁民との共生を嫌う様になったとも言えるが、東北や北海道の縄文人から発掘されたmt-Dは、狩猟民族に浸潤したmt-Dだから、この時期のmt-Dが漁民にも浸潤していたと想定する証拠は発見されていない。

ヤンガードリアス期のアムール川流域でmt-Zの集積地の近傍に南下し、アワを栽培する技能を習得したmt-Dだけがアワ栽培者になり、その機会を得なかったmt-Dmt-Cからキビの栽培技能を獲得した。mt-Cからキビの栽培技能を獲得したmt-Dは、一部がアワを栽培する技能を習得したmt-Dと合流したが、その他のmt-Dはヤンガードリアス期が終わるとmt-Cと共に真っ先に北上し、中央アジアから北上して来た狩猟技能に優れたY-Qに浸潤し、その一部がアメリカに渡ったから、mt-Dは全体として脈絡がない遺伝子群に分裂したと考えられる。この遺伝子群がmt-Cと共に内陸に拡散し、モンゴル人などのY-C3狩猟民族にも拡散したと考えられる。

ヤンガードリアス期にアムール川流域で混住した女性達が、互いに影響し合いながらそれぞれの栽培種を交換し、情報を交換する事によって民族的な性格を改善した結果が、上記の様な超温暖期の挙動に示されたとすると、それぞれ女性達の行動を詳細に説明する事ができる。

それを時系列で説明すると、後氷期になって東シナ海沿岸が極度に乾燥すると、Y-Nとペアだったmt-Dmt-Gmt-Cmt-Zがオホーツク海沿岸に北上し、それぞれの栽培種の北限に見合う状態で、南北に層別される様に展開したが、ヤンガードリアス期に気候が極めて冷涼化すると、全員がアムール川流域に南下せざるを得なくなった。それによって混住を余儀なくさせられると、彼女達の栽培文化に大きな転機が訪れた。それぞれの栽培文化を交換しながら、互いに民族的な性格も見詰め合い、改めてそれぞれの特徴的な性格を形成しただけではなく、mt-Dはアワとキビの栽培技術も入手した。

彼女達は栽培文化を高める為に情報交換を活発に行っていたから、混住を機会に栽培力だけではなく、その他の文化力も高まった事は説明の必要がない一般側になる。それによって各々が更に個性的になる事も、証明の必要がない一般則になる。各民族の文化がそれぞれの立場を踏まえて進化する事は、各民族が個性的になる事と同義であるからだ。

ヤンガードリアス期のアムール川流域では、比較的温暖な南端部でしかアワは栽培できなかったから、mt-Zはその地域に集住していたが、人口が多かった上に北限の栽培者だったmt-Dは、北から南までの空いた空間に雑居していたから、mt-Zと混住してアワ栽培の技能を入手できたmt-Dは、アワ栽培者になったが、できなかったmt-Dmt-Cからキビの栽培技術を入手したが、従来の最北の栽培者として振る舞ったmt-Dは、mt-Cを誘って再び最北の栽培者になり、ベーリング陸橋を超えてアメリカに渡るポジションまで北上したと考える事ができる。キビの栽培に執着したmt-Cが主導した集団は、シベリア南部のY-C3森林系狩猟民族に浸潤した。

上記の仮説を敷衍すると、mt-Cmt-Gはヤンガードリアス期以前から対極的な性格の持ち主で、mt-Dmt-Cの影響を強く受けて類似した思想の持ち主になり、mt-Zmt-Gの影響を強く受けたことになる。つまりmt-Dmt-Cmt-Zの栽培技術を獲得したが、栽培思想はmt-Cの影響を強く受け、mt-Z に強い影響を与えたmt-Gは漁民との共生に必要な栽培を心得ていたから、超温暖期になると即座にオホーツク海沿岸に北上し、ツングースの祖先との共生に全力を傾けた。その様なmt-GにはG1G2G3G4のサブグループがあり、G1はオホーツク海沿岸に集中しているが、G2はユーラシアに満遍なく分布しているから、G2はシベリア内部に拡散したツングースと共生にしていたと考えられ、G3は数は少ないがG2に準じた状態になっている。この様に整ったサブグループを形成していた事は、中核的な栽培種と共に遺伝子が純化し、栽培化の進展と共にサブグループが生れた軌跡を示しているから、mt-Gには穀類の栽培種がなかったのではなく、漁民と共生するのであれば穀類の栽培は必要ない事を見抜いていたから、手が掛かる穀類の栽培を止め、蔬菜類の大量栽培に向かったと想定される。

mt-Gに次いで遺伝子群が整っているのがmt-Cだから、両者が栽培思想に関する影響力を高めていたのは、実績に基づく文化力を背景にしていたからだと考えられ、遺伝子のサブグループの配列が最も整っていたmt-Gが、漁民との共生に必要な条件を見抜いて事は、偶然の産物ではなかった事を示唆している。超温暖期になってツングースの祖先がオホーツク海沿岸に展開した際に、mt-Gもすかさず一緒に展開したのも、その様な事情が背景にあったからだと推測される。

mt-Cからキビの栽培技能を学んだmt-Dは、栽培の生産性が高い進化した栽培系狩猟民族の女性になり、mt-C と共にY-QY-C3に浸潤したが、二つの穀物栽培種を得たmt-Dはその成果に喜び、mt-Cの指導も振り切って穀物栽培に拘り、超温暖期になってもアムール川流域に留まった。しかしmt-Zmt-Gの考え方に共感していたから、最も感化された一部は超温暖期になるとmt-Gと共に、アワが栽培できない冷涼なオホーツク海沿岸に北上した。それに逡巡して機会を失ったmt-Zも、やがてトルコ系漁民がシベリアの内陸に拡散し始めると、トルコ系漁民と共にアワの栽培が難しいシベリアに拡散したのは、mt-Zのコミュニティーの中にmt-Gの思想の影響が色濃く残っていたからだと推測される。

漁民と共に豊かな漁場に北上する為には機会を捉える必要があり、超温暖期になった直後にツングースの祖先と一緒に北上しなければ、体制が固まった後にはその機会がなかったが、北上したmt-Zとの間にも情報交換があったとすると、2千年間その情報が温存されていたのではなく、漁労技能に優れたツングースと一緒に北上した女性達の生活と、アムール川流域に留まって漁労技能が劣るトルコ系漁民と共生している自分達を比較し、後悔の念に駆られていたのではなかろうか。やがてトルコ系漁民もツングースの手を経て優れた漁具を入手する機会を得ると、アムール川流域に取り残されていたmt-Zも、今度は後悔する様な事はするまいと決意し、トルコ系漁民と一緒にシベリアに移住する機会を積極的に利用したと推測される。

mt-Gには開明的な思想があったから、mt-Zに大きな影響を与え、超温暖期になると即座にツングースの祖先と共に、オホーツク海沿岸に北上したのは、後氷期なって気候が温暖化するとシベリアの漁民も魚を干物にする事が、一般的になっていたからだと推測される。それによってカロリー摂取量は安定したが、ビタミンCなどの必須栄養素が欠ける状態になったから、その様な漁民が欲したのは蔬菜類であって穀類ではなく、mt-Gはそれに気付いて穀物栽培を捨て、栽培種を蔬菜類に集約したからだと考えられるが、当時の女性達は母から娘に、何があっても穀類の栽培を継続させる思想の堅持を伝授していた筈だから、mt-Gがそれを捨てて蔬菜類の大量栽培に向かった事は、栽培系の女性達にとっては画期的な思想革命だった。

栽培者になった女性達がイネ科の植物を重視したのは、不漁期の飢えをしのぐ為だった。mt-Cはそれに適した植生として耐寒性が高いキビを栽培し、栽培系狩猟民族の女性になる事を目指したから、mt-Gも氷期にはその様な女性達だった筈だが、後氷期に温暖化すると漁労民族との長い共生生活が続いたので、思想革命ともいうべき新しい発想として、生産性が高い漁労民族と共生する場合には、自分達が飢える事を防ぐ保険としての穀類ではなく、漁民の需要が高い蔬菜類の栽培に注力するという、極めて商業主義的な栽培者に転換した事になる。

狩猟民族との共生の歴史は、mt-Dの方が圧倒的に長かった事を、東北縄文人や北海道縄文人に含まれるmt-Dと、北海道縄文人にしか含まれないmt-Gが示している。東北縄文人に含まれていた南北遊動型の狩猟民族の遺伝子は、津軽海峡が生れた15千年以上前に浸潤したものであり、北海道縄文人に含まれるmt-Gはその後に浸潤した遺伝子になるからだ。しかし漁労民族との共生史は、縄文人に遺された狩猟民族の遺伝子から推測する事はできないから、漁労民族との共生はmt-Gも比較的早い時期に始めていたのかもしれない。いずれにしても機会という観点から見ると、mt-Gは遅れて参入した女性達だったが、的確な判断に至る時期は早かった事になる。

mt-Gが栽培していた蔬菜類は、1万年前に新潟に渡来した際に持ち込んだ筈だから、日本古来の蔬菜類からその候補を探す事ができる。大根は日本には古い時代からあり、独特の遺伝子群を持っているからその有力候補になる。大根の場合は根だけではなく、その葉もビタミンの補給に優れていたから、当初は根菜ではなく葉物野菜だったものが、突然変異によって根が肥大化したのかもしれない。

いずれにしても日本にある多種の大根は、他地域のものと比較すると巨大であり、その品種改良が数千年程度で実現したとは考え難いから、温暖な日本に渡来したmt-Gが、品種改良した成果であると考える事に合理性がある。日本しか栽培していないゴボウもその有力候補になるし、春の七草などもmt-Gに起源を求める事ができるかもしれない。

mt-Gが栽培していたそれらの蔬菜類は、実質的に当時のアワやキビの生産性を凌いでいたから、時間が掛る穀類の品種改良には興味を示さなかった可能性もあるが、何らかの原初的なイネ科植物を栽培していた可能性があるmt-Dは、栽培化が進展していたアワやキビに飛び付いて自分達の栽培種にした。既に根菜類の栽培化にも目途を着けていたmt-Gは、漁民が好むそれらの栽培に精を出し、イネ科植物に興味を示さなかった可能性もあるが、彼女達はmt-Zに影響を与える女性達になりながら、即ちアワの栽培者になる機会も十分ありながら、商業主義に徹して蔬菜類の栽培を選んだ事に、mt-Gの意識革命の偉大さを見る事ができる。南方の出自だったmt-Zから、多彩な蔬菜類を入手した事は間違いないだろうし、やがてシベリアに拡散して蔬菜類の栽培者になったmt-Zも、mt-Gの固有種を得ただけではなく、蔬菜類の品種改良技術も伝授されていた可能性が高い。

mt-Dには他の女性達とは異なる性格として、進んだ栽培種を持った女性と積極的に交わり、それを自身の栽培種にする思想に特徴があったが、その様な思想が生れたのも、アムール川流域での混住が契機だったと考えられる。日本に渡来したmt-Dは渡来後にもそれを反映した挙動があり、焼畑農耕を行うアワ栽培者になるとmt-Gとの混住を嫌って西日本に移住したが、縄文前期にmt-B5と接すると一部がジャバニカの栽培者になり、それの高い生産性を求めてフィリッピンに渡っただけではなく、縄文後期にmt-Fmt-B4と接すると一部が温帯ジャポニカや熱帯ジャポニカの栽培者になり、一部がその2種の混合栽培者になった事により、日本式の稲作が生れる契機を作ったが、その様な栽培種の転換は、他の穀類を栽培していた女性達には見られない現象だった。厳密に言えば、鉄器時代になって農耕の主体が男性に変わると、農耕民族は新しい品種の導入に積極的なったが、栽培の生産性が高くなかった石器時代の女性達は、母から伝承された栽培種に固執する傾向が強かった。

最北の栽培者だったmt-Dはヤンガードリアス期になっても、気候が極度に寒冷化するまではオホーツク海沿岸で、漁民の期待に応えて蔬菜類の栽培に頑張っていただろう。従って彼女達でさえもオホーツク海沿岸での栽培が不可能になるほど寒冷化し、アムール川流域に南下した際には、優良な栽培地は既に他の女性達に占拠され、誰も手を出さない不良栽培地に散在せざるを得なかったと推測される。アムール川流域に南下すると南北に関わらず広域的に拡散した事が、全てのmt-Dに何らかの穀物栽培者と接触する機会を与えた事を示唆し、その後の彼女達の運命を決めた事情も示唆しているからだ。優良な栽培地を得る事ができなかった恨みも、彼女達の性格形成に大きな影響を与えた可能性が高い。

mt-Gの影響を受けたmt-Zも数奇な運命を辿った事を、北九州弥生人に7%も含まれていた、濊の遺伝子であるmt-Zが示している。但しこのmt-Zは、現代日本人の1%を占めるmt-Zの祖先ではなく、現代日本人のmt-Zは飛鳥時代末期に亡命して来た、高句麗人の遺伝子であると考えられる。北九州の7%の遺伝子が日本全体の1%の遺伝子になったとは考えられないが、高句麗の栽培者だったY-Nmt-Zペアの殆どが、高句麗滅亡時に日本に亡命したとすれば数値的に整合し、日本人のY-N比率も1%程度である事とも整合するからだ。それらの事情が、シベリアに拡散したmt-Zの活動歴を示しているとも言える。

高句麗の農耕技術は華北のアワ栽培だったmt-Dより優れていたから、この仮説が正しければ、mt-Zは縄文時代のシベリアで、最も有力な穀類の栽培者だった事になる。また既に指摘した様に濊は、魏志東夷伝で文明度が高い民族として評価されているから、mt-Zはその様な濊の栽培民族の遺伝子でもあり、シベリアの共生集団の最多栽培遺伝子だった可能性も高いから、縄文時代のシベリア事情を窺う遺伝子になる。

その様なmt-Zであるにも関わらず、現代に殆ど遺伝子を残していないのは、特殊な事情が重なったからだ。寒冷地のmt-Zが消滅した理由は上に説明したが、穀物栽培が可能な地域にも残っていない事には、地域毎の特殊事情があった。

西ユーラシアでは麦栽培者になったmt-RxY-Rのペアが、気候が乾燥した縄文後期温暖期にロシア平原に北上し、漁民と共生していたY-Nmt-Zペアを、漁民と共に駆逐したと想定される。ロシア平原は北欧に近いから、河川交易もツングースからY-R1bに交代した可能性が高く、北欧の文明力が高まれば必然的に起こる結果だった。西ユーラシアは縄文中期に本格的な青銅器時代になったから、それによって弓矢と獣骨の交換経済が失われ、従来型のシベリア経済が崩壊すると西ユーラシア型の新しい経済構造が生れた。それに適応できなかったY-Nmt-Zペアを、極北の民族にしてしまったと考えられる。

降雨が多い東ユーラシアでは、縄文後期になってもツングースの交易路は健在な状態が継続し、獣骨交易もある程度延命していたが、従来型の交易構造が崩壊していく中で、ツングースも交易対象を農耕地域の富裕者に切り替える必要性に迫られ、交易の主力商品を毛皮に切り替えた事を筆頭に、狩猟民族や栽培民族が生産する新たな商品を開拓した事により、交易の活性化には成功したが、経済活動の内容は大幅に変更された。

縄文後期に低緯度地域の農耕経済が活性化した流れに乗り、縄文中期以上の経済的な繁栄を得た可能性もあるが、それらの商品需要には獣骨の様な汎用性がなく、需要の規模も大きくなかったから、経済構造の実態は大きく変わらざるを得なかった。弓矢交易を失いつつあった関東部族や北陸部族は、南方から獣骨を得る交易を開拓していたから、シベリアの獣骨の巨大市場ではなくなっていたからだ。この理屈は分かり難いが、関東部族や北陸部族はシベリアに送り込む大型商品を失ったから、シベリアの交易者から見ると優良な取引相手ではなくなった事が、獣骨の需要は依然として存在していた関東部族や北陸部族の交易力を減退させ、シベリアとの交易を減衰させる最大の要因になった。しかし高句麗の栽培民族がmt-Zだった事は、シベリアのmt-Zはその激動を乗り越えた事を示している。

縄文晩期寒冷期にシベリアの漁民人口が激減すると、経済活動が壊滅して栽培系民族は自立を迫られ、従来型の交易に頼っていたY-Nmt-Zペアの人口も、その苦しさの中で激減したと想定される。経済的に高度な連携を形成していると、その一角が崩れるだけで全体の経済活動が失われ、食料供給システムにも致命的な事態が生れたからだ。自活力に乏しかったY-Nは、西ユーラシアではY-Rに圧倒されたから、ペアだったmt-Zもこれらの一連の動乱の中で、同様の運命に見舞われたと推測される。

弥生温暖期になると気候が更に乾燥し、中央アジアには草原や砂漠が広がった。比較的温暖なシベリア南部でも、漁民との共生が不可能になる地域が多発したから、mt-Zはアワ栽培から小麦などの更に生産性が高い穀物栽培者に転換すると共に、男性達は畜産に励み、遊牧騎馬民族との共生者に転換したと推測される。温暖な気候地域では、アワと小麦の生産性に大きな差はなかったかもしれないが、気候が冷涼なシベリアでは南部であっても、小麦の方が生産性は高かったからだ。古墳寒冷期~平安温暖期初頭に、華北の栽培種がアワから小麦に転換した事が、その事情を示唆している。mt-Zはアワから小麦の栽培者に転換する事により、再び息を吹き返した事も、高句麗の栽培者がmt-Zだった事が示している。

弥生温暖期が終わって古墳寒冷期に向かう気候の冷涼化中で、シベリアでは南部であっても小麦栽培が困難になったから、トルコ系民族が一斉に南下運動を始めた。西ユーラシアでは民族の大異動期になった事を、この時期に中央アジアがトルキスタンと呼ばれる地域なった事が示しているから、フン族の移住活動から始まる欧州の民族移動は、その末端の出来事に過ぎなかったとも言える。但しこのトルコ人の麦栽培者はmt-Zではなくmt-Rxだった事を、現在の遺伝子分布が示している。つまり元々の小麦の栽培者はmt-Rxで、シベリア南部のmt-Zが彼女達から小麦の栽培技術を取り入れた事になる。

東シベリアでは弥生温暖期になってもY-Nmt-Zのペアが健在だった事を、弥生温暖期の末期に遼東に南下した高句麗の遺伝子が示しているが、厳密に言えば日本に亡命した栽培系高句麗人の遺伝子が、その事情を示している事は既に指摘した。その証拠を更に付加すると、現在のY-Nmt-Zがそれぞれ日本人の1%を占めている事は、高句麗の最多集団は栽培系民族だった事を示唆し、現在の韓国ではmt-A8%も占めているのにmt-Z2%程度で、この2%は濊のmt-Zに相当すると考えられる事から、栽培系の高句麗人は全員が関東に亡命してしまった事になる。

関東部族の縄文人の当時の子孫は稲作民族になっていたから、関東では麦やアワの栽培地は空いていた事が、栽培系の高句麗人を多数受け入れる余地を残していたが、狩猟民族や漁労民族を受け入れる余地はなかったからだ。

華北の漢民族の王朝だった晋が滅ぶと、鮮卑族が南満州や華北に南下したから、それらの騎馬民族と一緒にY-Nmt-Zペアも南下したが、現在の華北ではY-Nmt-Zも少数遺伝子になっているのは、トルコ系民族を排斥する習俗を持っていた漢族のエスニッククレンジングに遭い、人口が激減したからである疑いが濃い。それに付いてはその2で論考するが、華北の栽培系遺伝子はアワ栽培者だったmt-D+M8aが多数派で、その他の遺伝子としてはmt-B4+Fの稲作系が最多で、現在の華北の主要栽培種である小麦を持ち込んだ筈のmt-Zは極めて少ない上に、そのペアだったY-Nも極めて少ないからだ。

この様に多数の事実を投入して論理を精緻化すると、現在の原初的な史学や考古学とは一線を画す、事実性が高い歴史事実の解明が可能になる。但し此処で云う多数の事実は、歴史家が扱っている考古遺物や文献資料だけではなく、古気候や古地理、農学的な知識に加え、遺伝子分布の法則的な解析も必要になる。農耕民族の文化系譜を色濃く残している中華政権にとって、歴史事実は彼ら独特の社会秩序の形成に邪魔になる場合が多く、その解明に政治的な妨害が及んでいる事は縄文人の活動期の項で再三指摘したが、その圧迫は全ての時代に及んでいる事も認識して置く必要があり、それもその2の主要なテーマになる。

アムール川流域のmt-Dの話に焦点を当てると、1万年前に共生するトルコ系漁民がいなくなり、漁民との共生生活が不可能になっても、mt-Dはアワ栽培に固執していたから、Y-NY-Qと栽培系狩猟民族に戻らざるを得なくなった。その様な栽培系狩猟民族がアワ栽培の生産性が高い温暖な地域を求め、アムール川を南下して松花江や遼河の河谷に南下する事は、必然的な流れだった。丘陵地や台地面より河谷の方が温暖湿潤だから、アムール川の河谷にアワ栽培の適地を見出しながら、気候の湿潤化に合わせて徐々に南下していったと想定される。

彼女達が南下していた時期は、湿潤化前線がシベリアから徐々に南下すると共に、海面が上昇するに連れて川面の上昇が目立ち始めていた時期だったから、下流の河谷が水没すると一つ上流の河谷に移動する事により、実質的な南下行動を採りながらアワの生産性、狩猟の生産性、漁労の生産性に配慮し、徐々に南下したと想定される。アムール川の下流域は北流しているから、上流の河谷への移動が栽培地の南下に繋がり、気候が温暖な地域への移動にもなった事が、農耕民族単独移動としては、長距離の移動を実現する原動力になったと推測される。

アムール川は黄河や揚子江とは異なり、下流域であっても丘陵地を流れているから、河川の土砂の流出は散在する幾つかの地峡に阻まれ、流域に複数の盆地が形成されている。満州平原はその最大の盆地として、平均標高150m程度の平坦地を形成しているが、その平原は前回の間氷期に形成された台地であって、松花江は標高100m程度の河谷を流れている。

mt-Dはその河谷でアワを栽培し、Y-NY-Qが台地で狩猟を行ったと想定されるが、その痕跡は発掘されていない。この時期のmt-Dに土器を作成する技能があった証拠はないから、遺跡を遺す豊かさがなかった可能性もある。

松花江が満州平原を抜け出る丘陵が入り組んだ地域の、丘陵地に流出する直前にハルビンがあり、その東北にある幅10㎞程度の木蘭県の地峡が、満州平原の土砂の流出を堰き止めている。その様な地峡がその下流域に幾つも散在し、川の名前がアムール川に変わっても事情は変わらず、アムール川本流と合流した後も、次第に台地と河谷の標高を低下させながらオホーツク海南端の河口に至る。河口は最後の地峡によって形成され、多量の土砂を海に輩出して広い沖積平野を形成する河まで進化していないから、1万年前のこの川の流域は湖が点在する状態だった可能性が高い。

mt-Dは温暖な地域に早く南下したかったかもしれないが、太平洋が湿潤化するまでは湿潤化前線の南下は極めて緩慢だったから、9800年前に温暖期が終了するまでは、殆んど南下できなかった可能性もある。満州の様な内陸性の気候地域では早めに見積もっても、尾瀬が湿潤化した8500年前までは、超温暖期の乾燥した気候が継続していたと想定されるからだ。しかし海面上昇が進行すると、氷期に形成された深い谷の河面も上昇し、栽培地にしていた川底が冠水したから、その盆地を放棄して上流に移動しながら、松花江を遡上する事によって最終的に遼河台地に辿り着いた事になる。

8千年前に太平洋が湿潤化して大陸内部の降雨量も激増すると、彼らは氾濫が激しくなった松花江や遼河の河谷を捨て、それまで乾燥していた故にアワ栽培ができなかった、遼河台地に登ったと想定される。 台地に登ると彼らの食料から水産物が失われたが、遼河台地が緑に覆われるとシカやイノシシなどの野生動物が繁殖したから、食料に窮する状況はむしろ改善され、栽培系狩猟民族として人口を増やした結果、興隆窪文化が生まれた。

シカやイノシシが繁殖するとそれらを捕食する肉食獣も増えたから、台地上の集落を囲んでいた空堀の様な環壕は、肉食獣の侵入を防ぐ施設であって闘争の痕跡ではない可能性もある。両者を環壕の形状から区分する事は難しいから、無前提に闘争を想定する必要はないが、河北の堅果類の栽培者の遺跡だった、磁山文化を7500年前に消滅させた事は、興隆窪文化期の初頭から闘争的な民族だった事を示し、環壕の存在は闘争的な社会だった事を示唆している。太平洋が湿潤化すると食生活は改善された筈なのに、環壕が興隆窪文化期の集住事情を示しているのであれば、アワ栽培者の闘争的な文化は松花江流域の谷間で既に生まれていた事になる。

内モンゴル自治区東部の、渾善達克砂丘地帯の堆積物を検討すると、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は、12,000年前頃から4000年前頃まで豊かな水資源に恵まれ、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化したとの記述が、最近散見される。12,000年前はヤンガードリアス期が終焉した時期で、日本列島の超豪雨期が終焉した時期だから、この辺りまでその降雨が及び、12,000年前に樹林が形成されていた事に異論はないが、12,000年~8千年前の超温暖期には降雨が乏しい地域だったと考えられる。

その期間にアラル海が巨大化し、それによる湿潤化が中央アジア~甘粛に及んでメルヘガル・仰韶文化が生れたから、その湿潤化がこの地にまで及んだ可能性もあるが、それが内モンゴルの東部まで達したとすると、裴李崗文化や磁山文化が9千~8千年前に始まり、遼河文化が8千年前に始まった事とは辻褄が合わない。渾善達克砂丘地帯の湿潤期が仮に継続したとしても、西からの湿潤化は大興安嶺や太行山脈に遮られた事により、満州・華北・遼河台地の湿潤期は12千年前に一旦終焉し、8千年前に再び湿潤化したと考えなければ、遼河文化の発生時期とも整合しない。

それを時系列的に言えば、氷期に形成された深い河谷は湿潤化以降の堆積土砂に埋もれ、考古学者が発掘できるのは高台の集落だけなので、突然遼河文化が生まれた様に見えている事になる。従ってこの民族の前史を考古学的に解明する事は難しく、気候変動を考慮すれば、遼河文化はシベリアの共生文化から派生した、異端的なアワ栽培者の栽培系狩猟文化だったと考える必要があり、発掘万能主義に陥った考古学者には歴史を復元できない典型的な事例になる。

アワとアサは中央アジア起源の栽培種であるとの誤解が、これらの事情を理解する妨げになっているが、中央アジアは氷期の寒冷期には冷たい砂漠だったから、栽培化が可能な植生が群生していたとは考え難い事を、冷静に顧慮する必要がある。

後氷期なると西シベリアや北欧の氷床が融解してカスピ海やアラル海が巨大化したから、ヤンガードリアス期以前にも植生が群生する環境が生れたが、南アジアから豊かな植生が、ヒマラヤから西に連なる高峰を超えて拡散したとは考え難いから、東アジアにはなかった植生が拡散していたとすると、欧州から拡散した可能性が高い事になる。しかし西欧は1万年前まで極寒の地で、植生の多様性は極めて貧弱な地域だったから、西から豊かな植生が拡散した可能性は極めて低く、1万年前に栽培されていた栽培種の起源地ではあり得ない。

アワの栽培はmt-Zがユーラシア全域に広めたが、アサは栽培が拡散したのではなく、ツングースの交易路がカスピ海や黒海にも及んでいたから、漁労や弓の必須素材として交易を介して拡散したと考えられる。

現在の中央アジア以西の主要な穀物は、秋から冬にかけて降雨が増加する気候に適応し、冬作物として栽培化された麦類だから、内陸型の栽培種の典型的な栽培地である事を示している。従って夏植物であるアワやアサの、栽培起源地である筈はない。夏植物は夏季に降雨が多いモンスーン気候帯を起源とする植生である事は、常識的に考えれば当たり前の事だ。この地域にアサが原生していたのであれば、亜麻を栽培化する必要はなかった筈だが、西ユーラシアのこの種の繊維製品の原料が亜麻であった事も、この地域にアサがなかった事を示している。

亜麻はエジプトのミイラを包む袋に使用されたから、エジプトが原産であるとの主張も散見するが、現在も亜麻を栽培しているのはノルマンジーや北フランスなどの冷涼な地域だから、その気候帯が有力な栽培地だったと考える必要があり、エジプトには交易によってもたらされたと考えるべきだろう。つまりアサの供給が不足した黒海沿岸の人々が、亜麻を栽培化した可能性が高い。

従ってアワの原生種の起源は氷期の東南アジア東北部(広東辺り)にあり、4万年前にその地域にいたmt-M8系の女性(m8aCZ)が、栽培に適す気候が類似している植生としてアワ、キビ、里芋を栽培化したと考える事に妥当性がある。超温暖期の東ユーラシアの中緯度地域は極めて乾燥し、穀物を栽培する環境ではなかったから、これらの栽培起源地は彼女達が氷期に北上した揚子江流域だったが、後氷期に更に北上した超温暖期のオホーツク海沿岸が、栽培化の最終地だったと考える事が妥当になる。アワが仰韶文化圏でも栽培され、西ユーラシアでは現在も栽培している地域があるのは、mt-Zがアワ栽培を拡散したからだと考える事にも必然性がある。

ツングースは1万年前にシベリアの水上交易者になったから、シベリアと河川が繋がっていた中央アジアで発掘される、栽培植物の殆どは中央アジアで栽培化されたものではなく、交易品として持ち込まれたと考えるべきだろう。欧米人が何かにつけて中央アジア起源を主張し、歴史解釈を混乱させている状況は、中央アジアを起源とするmt-Rの子孫である事を意識している様に見え、国威発揚的な中国人や韓国人風の意味不明な起源主張をしている様にも見えるから、止めるべきだ。

アワ栽培者になったmt-Dの土器文化は、シベリアに残留したmt-Zほどの歴史はなく、彼女達が土器を製作し始めた時期は明らかではない。その様なmt-Zの土器技術もmt-M7系が起源であり、土器を多用していた堅果類の栽培者には到底及ばなかったから、櫛目紋型土器の起源地を遼河文化圏であるとしている通説も、本当の歴史を知らないし知りたくもない中国韓国系の人達の、王朝史観に基づくプロパガンダであると言わざるを得ない。

関東では1万年以上前から尖底土器が使われ、関東部族とツングースは密接な交易関係にあったから、櫛目紋土器の尖底器形は、ツングースのmt-Yが関東部族から直接学んだものだったと考えられる。底面が尖った土器は、岸辺の堆積土砂に刺して安定させる事が容易であり、水に浮かべると底が底面の重さで水底に向かうから、水に浮かべて綱で引けば移動も容易だったからだ。1万年前のmt-Zの土器は平底で、焼き上がりが稚拙な脆い土器だったが、尖底土器はツングースの航路上と、九州を含めた関東部族の領域内の、水辺の地域で発掘されている事がその事情を示している。

関東では縄文前期に平底土器になるが、川船が大型化してmt-B4+M7cが持ち込んだネザサの籠が普及すると、荷物は籠に入れて船に乗せる方が合理的な運搬になったから、平底土器に変わったと考えられる。九州では尖底の曽畑式土器が縄文前期末まで使われたのは、九州にはアズマネザサで籠を編む文化がなく、樹皮で編んだ籠には強度がなかった上に、関東では霧ヶ峰産のシナノキの樹皮を多量に使って船を大型化できたのに、それを分けて貰っていた九州縄文人は小型の船しか作る事ができなかったからだと考えられ、状況説明も合理的にできる。

九州では縄文中期に平底の土器に変ったが、それは九州縄文人にmt-Dが浸潤し、水辺の稲作者から陸上の焼畑農耕者に変わったからだ。この頃九州の土器が曽畑式から瀬戸内の船元式や、船元式に類似した春日式などの平底土器に変わる事が、それを示している。冷涼なシベリアではアズマネザサは栽培できなかったから、水辺の交易者だったツングースは、縄文後期まで櫛目紋土器を使わざるを得なかった。

縄文時代のシベリアが先進的な文化圏だった事を、信じられない人も多数いるかもしれないが、縄文後期までのシベリアは現在より温暖・湿潤で、深い密林に覆われた平原には湖沼が点在し、大河が平原を縦横に流れて湖沼を連結していたから、漁労民族と栽培民族が共生できる環境が至る所にあり、河川交易者が東西に往来できるルートもあった。現在のシベリアの地形をグーグルマップなどで細かく見ると、大河川や大湖沼群の痕跡が各処にあり、往時のシベリアの湿潤な環境を彷彿とさせている。従ってシベリアの漁労民族や栽培民族にとっても、櫛目紋土器は使いやすい形状の水辺の貯蔵器であり、運搬具でもあった。

王朝史観が農業地帯から文明が生れたという幻想を創作し、野蛮な遊牧民族やトルコ系民族が中華世界に南下し、野蛮な武力によって王朝を樹立したと思い込ませているが、その歴史も見直す必要がある。縄文時代のユーラシア大陸東部では、シベリアと稲作地域が文明の先進地で、アワ栽培者がいた華北は文明の谷間だったから、「黄河文明」という呼称は、王朝史観が生み出した虚構に過ぎない。この様な歴史観が生れた根本原因は、アワの栽培に固執したmt-Dが、アムール川流域から華北に南下した事によって生まれた。

 

1-3 mt-Dから見た遼河台地への南下

1万年前のアムール川下流域では、海面上昇によって温暖な川底が失われつつあったから、mt-Zは吹き曝しであるが故に冷涼な丘陵地に登り、耐寒性が高い蔬菜類の栽培者に転じてトルコ系漁民の需要に応えたが、アワの生産性向上に固執したmt-Dは川底の温暖な栽培地を求め、漁民集落から離れた場所に栽培地を求めたから、トルコ系漁民との意思疎通が疎かになり、彼らの需要を読み間違えていた事を、訂正する機会がなかった可能性が高い。

つまり必ずしもトルコ系漁民がmt-Dを見限り、mt-Zを誘ってシベリアに去ったのではなく、アムール川の水位が上昇して川底の栽培地が失われると、mt-Zは台地に登って蔬菜類の栽培者に転向する事によって漁民集落の近傍に留まり、アワの栽培はその範囲内で行ったが、mt-Dはアワの栽培地が失われると上流に移動し、自から漁民の居住地から遠い地域に移動してしまった事により、情報に疎い女性達になっていた事が、結果としてアワ栽培に固執したmt-Dを生み出した疑いもある。

超温暖期になるとmt-Zの一部がmt-Gと共にオホーツク海北岸に北上したから、カムチャッカにもmt-Zの集団が残存し、mt-Gに含まれる状態で展開している事は既に指摘した。つまりmt-Gに触発されて蔬菜類の栽培に転向したmt-Zと、アワ栽培に未練があった故にアムール川流域に残ったmt-Zがいたが、このmt-Z1万年前に気候が冷涼化するとアワ栽培を半ば諦め、mt-Gから学んだ蔬菜類や、それまで自分達が栽培していた蔬菜類を栽培する為に、冷涼な地域の栽培者になりながら漁民と共生する事を選択したが、アワ栽培者になったmt-Dにはその様な配慮がなかったとも言える。

蔬菜類には鮮度が必要だから、栽培者は需要者の近隣に居住する必要があったが、長期保存が可能なアワにはその様な気遣いは必要なかったから、魚を干して貯蔵する技術が高まっても、アワ栽培者になったmt-Dはアワと干魚を交換する事により、食生活を満たす事ができた。しかし干魚や焼き魚を主食にしていた漁民の必需品は蔬菜類であって、アワは必ずしも必要ではない食品だった。これに気付いていたmt-Gmt-Zにもそれを教えたが、それを無視して漁民の集落から離れた場所に居住していたmt-Dは、漁民達の情報にも疎くなっていたと言わざるを得ない。トルコ系漁民達がmt-Zと共にシベリアに去り、アムール川流域には森林系の狩猟民族しかいない状態になっても、mt-Dにはその様な状態になった理由が分からなかったかもしれない。

北陸に渡来したmt-Dはその様な状態になる前の、漁民との共生時代に栽培地を失った女性達だった可能性が高いが、この様な状態になってアムール川の下流域からいなくなったmt-Dも、アムール川を遡上して北陸に招いたかもしれない。しかし漁民集落がなくなると情報収集が難しくなった上に、彼女達は魚民との共生時代の様に、栽培地を失って切羽詰まった状況にあったわけではないから、仮に北陸部族がその様な行為に及んでいたとしても、渡来したmt-Dの数は多くなかったと推測される。つまり北陸に渡来したmt-Dの殆どは、漁民との共生の場を失った事に、酷く落胆していた女性達だったと推測される。

川底の平坦地を求めながらアムール川を遡上する事は、温暖な地域に南下する道でもあったし、漁労民族と共生する狩猟民族が希薄な地域への移動でもあったから、Y-NY-Qが気兼ねなく漁労や狩猟に打ち込む事ができる地域への移動でもあった。その様な環境をmt-Dが好ましく感じたとすれば、漁民の移住によってアムール川の中流域に取り残された事に、大きな不安を感じていなかった疑いもある。つまり元々栽培系狩猟民族化志向が強かったmt-Dは、mt-Cとの交流によってその認識を強めたから、配偶者や息子達が生き生きと狩猟や漁労に励んでいる姿を見ると、mt-Zのペアになっていた男性達と比較し、食生活の貧しさと引き換えに得た精神的な充実感に、満足していた可能性もある。狩猟や漁労で不足する食料は、アワを増産する事によって補充が可能であり、性格が合わない漁民と交換時に面倒な交渉をしながら、頭を下げてできるだけ多くの干魚を得る必要もなかったからだ。

この様なmt-Dに強い影響を与えたmt-Cは、自分の栽培種であるキビの栽培から脱却できなかったから、最も生産性が高い森林系狩猟民族だったY-C3に浸潤先を絞り、モンゴル系民族の根幹的な栽培者になったが、アワの栽培も入手したmt-Dには、従来のペアだったY-NY-Qとの生活を継続する選択肢があった。森林系狩猟民族だったY-C3には漁労技能もあったから、彼らが拡散した地域には石刃鏃が遺されている事は既に指摘した。彼らが石刃鏃を使用したのは、弓矢を得る為に獣骨の使用を抑えた結果だから、彼らは弓矢も使う狩猟民族でもあった。それを逆に言えば、従来の狩猟方法を継続していたY-NY-Qは、生産性が低い狩猟者であり漁労者だった。

その様な状況を甘受しただけではなくむしろ推進したのは、アワの生産性向上に執着したmt-Dであって、Y-NY-Qではなかったと想定される。Y-NY-Qには河川漁民との直接の交渉関係がなく、漁民との経済関係に関する全ての選択は、mt-Dに一任するしかなかったからだ。つまりmt-Zのペアの様に生きるか否かは、mt-Dにしか決める事ができない案件だった。mt-Zのペアも同じY-NY-Qだった事が、それを示しているとも言える。

漁民の生産性に依存する従属的な関係から解放される希望や、家族の精神的な自立性を高めたい健気な女性の心境が、mt-Dの背中を押した事も間違いないが、mt-Dの判断はその様な前向きな理由だけに基づいたのではなく、自分達の交渉能力がmt-Zと比較して大きく見劣りし、最北の栽培者だった故に蔬菜類の栽培種の多様性が乏しいなどの、現実的な事由に起因する劣等感もあっただろう。

北陸に渡来したmt-Gは、シベリアの湿潤化が始まってオホーツク海北岸が寒冷化した事により、1万年前に栽培地を失ったmt-Gだったと推測されるから、海面上昇によってアムール川下流の栽培地を失った事によって渡来したmt-Dの方が渡来時期は早く、海洋民族の誘いに応じて日本列島に渡来した栽培女性としては、嚆矢的な存在だった。mt-Dにその様な決断をさせた理由が、海面上昇によって栽培地を失う事ではなく、温暖な地域でアワを栽培したかったが、やや温暖なアムール川中流域は他のmt-Dmt-Zが既に占拠していたから、河口に近い冷涼な地域のmt-Dが渡来したのであれば、彼女達が渡来を決意したのは、超温暖期になって最初の寒冷期が始まった11千年前だった可能性もある。超温暖期になった直後は、暖流である黒潮でも海水の温度は低かったから、海に近い河口域の気候は冷涼だったからだ。

1万年前にアムール川流域に取り残されたmt-Dは、湿潤化前線が南下し始めた9800年前に南下を開始し、満州が湿潤化するに連れて松花江を徐々に南下したと想定されるが、その旅程は必ずしも順調ではなく、アワの蓄えを奪い合う粗暴な習俗が生れた事は既に指摘した。砂漠化していた丘陵地には獲物が少なく、河川の水も乾季には干上がる悲惨な状態が、この民族を何度も襲ったからだと推測される。それによってmt-Dの情報網が破壊され、民族内民族の維持が困難になり、アワの品種改良の進展も停滞した可能性が高い。

8千年前に気候が湿潤化すると、松花江や遼河の河底に水が溢れる様になり、河底の栽培地が失われたが、代わりに遼河台地が広い栽培地を提供し、周囲の草原が豊かな狩猟地を提供したから、mt-Dは再びアワの生産量を高め、民族の人口が急膨張した。しかしmt-Dの民族内民族組織は完全に復旧しなかった事も、この民族が凶暴性を維持した原因の一つだった可能性が高い。

氷期の原初的な栽培系狩猟民族では男性達に主導権があり、狩猟の縄張りを男性達の協議によって決めたから、民族言語は男性達の血族集団によって規定されたが、栽培系の女性達が栽培種の生産性を向上させる為に情報網を発達させ、民族内民族を形成する様になると、狩猟の縄張りと栽培地の関係を調整する為には、女性の発言権が高まらざるを得なかったと想定されるからだ。

遼河台地でアワの栽培地が拡大すると、一時的には豊かな状態が生れたが、それによって人口密度が高まった上にアワへの依存度も高まると、狩猟者個人の獲物が減少し、アワ栽培の生産性が人口規模を抑制する段階に至った。これはアワ栽培者に限った話ではなく、すべての栽培系狩猟民族が経験した通過点だったが、mt-Dには特に過酷な状態があった。アワの生産性はコメや麦より低かっただけではなく、天候に左右され易く、生産量が年度毎に大きく変動したからだ。

アワの本質的な問題点は、温帯の植生から生まれた栽培種としての生産性の低さにあり、生育期間が短い事がその事情を増幅した。麦類は畠作である点では類似していたが、冬作物は栽培地の乾燥や雑草の被害が少なく、病虫害や昆虫類の被害も受け難いが、夏作物であるアワはそれらの被害を受け易く、収穫量が不安定だった。

この課題は栽培化を幾ら進めても解決できず、生産性の向上に対する本質的な限界になった。つまり荊の様な民族になる条件を満たしていなかった上に、mt-Dには堅果類を栽培する技能も、ドングリのアクを抜く技能もなかった。

アワは長期保存が可能な穀類だが、それは原生種が持っていた性質ではなく、収穫が不安定なであるが故に栽培化の過程で獲得した、特異な性質である疑いもある。生産性が不安定な穀類は、何年も前に収穫した種子を播種する事情が頻発したからだ。日本のアワにも同様な性質があるのは、シベリアに北上した時点でその様な事情が頻発していたか、大陸の品種と何度も交配した結果として、その様な性質になった可能性がある。原生種や野生種にはその様な性質が必要だから、栽培化し後に生まれた性質についての話になるが、比較的収穫が安定しているコメは収穫後の劣化が早いから、それと比較しての話になる。

農耕の生産性を画期的に高める為には、栽培種を変えるか農法を画期的に転換する必要があり、華北のアワ栽培者はその保険としてキビも栽培していたが、交易による各種の支援を受ける機会がなかったから、歴史時代になってもその様なアワ栽培を継続していた。

華北の栽培者が栽培種の転換を実現したのは、小麦の栽培者になったシベリアの栽培者が南下した、唐代~宋代の事だったが、皮肉な事に彼らの南下をその時代まで阻んでいたのは、華北のアワ栽培者自身だった。シベリアのmt-Zが小麦栽培に転換できたのは、交易的な環境があったからだが、華北のmt-Dがアワ栽培者に転換したのは、古墳寒冷期にアワ栽培が壊滅的な減収に見舞われ、華北王朝が弱体化してシベリア民族の南下を食い止める事ができなくなると、小麦の栽培技術を持ったシベリアの栽培者が、華北に南下できる様になったからだ。その様なアワ栽培者が黄河文明を形成したなどという話は、お伽噺にもならない。

遼河台地や華北のアワ栽培は、開放的な疎林地で天水に頼る粗放なものだったから、上記の理由で収穫が不安定だった上に、乾燥した華北では副業的な漁獲も、多くを期待できなかった。それに耐えながらmt-Dが生産性を高めても、食料を狩猟の獲物にも頼る状態から脱却できる程には、生産性は高まらなかった。交易による支援を受けにくい環境に置かれていたから、生産性を高める道具の進化も遅かったが、華北平原にはmt-Dの粗放な農法で栽培が可能な地域は広大に広がっていたから、人口が増えると他民族を征服して狩猟地を奪ったり、華北から追い出したりし始めた。

遼河文化が生れてから500年後の7500年前に、河北の磁山文化が消滅し、その500年後の7000年前に河南省北東部の裴李崗文化が消滅し、その千年後に陝西省や河南省北部の仰韶文化が失われ、Y-Rの文化圏は甘粛や青海に後退した。

これらの事情を遼河文化の進化過程と比較すると、興隆窪文化期に遼河台地に拡散し、農耕民族化が始まった趙宝溝文化期の初頭に河北に南下し、堅果類の栽培者の磁山文化を滅ぼした。次いで裴李崗文化も征服し、気候が冷涼化した紅山文化期の初頭に、華北からY-Rを追放した。つまり興隆窪文化期の遼河台地では、狩猟の縄張りとアワ栽培地が飽和して民族内の暴力性が高まったから、その末期に河北に侵攻して堅果類の栽培者を征服し、狩猟の縄張りを奪ったと想定される。

彼らがどの様な経緯で暴力性を高めたのか、その過程を検証する。

松花江流域で高まった暴力性は、生活に必要な最低限の食料も確保できなくなると、突発的に発生したものだったと想定され、後氷期~縄文時代に滅んだその他の民族にも、その様な事態が発生していた可能性が高い。海洋民族が大陸に拠点を設けなかった事が、その事情を示唆しているからだ。しかし歴史時代に巨大な人口を遺し、王朝まで形成した民族としては異例の事態だから、この民族の遼河台地に登ってからの暴力性については、その再発事情を検証する必要がある。

アワの栽培化が進んで生産性が高まる事は、アワの遺伝子の多様性が失われる事でもあるから、異常な気候に対する耐性が弱体化し、アワへの依存度が高まるにつれて飢饉の発生頻度が高まっていったと推測される。人口密度が高まって狩猟の獲物が減る事も、飢饉に対する抵抗力を弱めたからでもある。アワ栽培民族はそれらの苦しみの中で、暴力的な民族文化を形成していったと考えられる。

獲得する食料の量が安定していれば、人々はその範囲内で持続的な生活を維持し、人口を調整する知恵も生まれるが、暫く豊作が続いて人口が増えた後に突然飢饉が続けば、生き残りを賭けた非常手段が生まれた可能性が高い。その様な事態が何度も繰り返されると、最も有効な非常手段が常態化する事は必然的な結果だったからだ。それが暴力的な収奪であれば、社会全体が必然的に暴力的になったと考えられるが、龍山文化期の華北の遺跡は、その様な状態になった人々の遺物を遺している。

農耕民族が農地の獲得競争を経て暴力的になるのは普遍的な現象で、荊の様な事例は例外的な存在だったが、稲作民族は海洋民族との関りの中で交易に打開策を見出し、数々の窮地を脱した。台湾に閉じ込められた民族は海洋民族になって危機を免れ、太平洋やインド洋に進出する海洋交易者になった。浙江省の稲作民は製塩業を営んで不足する食料を補い、その一部は稲作の生産性が高いフィリッピンに移住した。湖北省の稲作民は工芸品を生産して必要な量の塩を得ると共に、温暖期には渭水や黄河の広大な川洲に北上して豊かな稲作地を形成した。気候が冷涼化すると華南に退避したが、彼らには交易を阻害する様な暴力的な振る舞いはなかった。交易を求めるY-R民族や関東部族などの交易を活性化し、欠けていた物資を補ったからだ。海洋民族との交易は、必要な物資を獲得する効果に限定されていたかもしれないが、それによって民族内内の経済活動が活性化すると、労働を対価として穀物が不足していた人々に放出される効果もあったから、その過程で民族内での穀物貯蔵の偏在性が緩和された。

しかし遼河台地を起点に華北に侵入したアワ栽培者は、暴力的な民族性を有していた故に他民族から疎んじられ、最も交易性が高かった海洋民族やツングースでさえも、獣骨交易以上の交流には発展させなかったから、打開策が生まれる余地がなかった。これを一般論的に言えば、暴力的な民族は他の民族から疎んじられ、文化力を高める有益な情報が得られなかったから、文化や文明の谷間の民族である状態を継続せざるを得なかった。それでありながらこの民族が滅亡しなかったのは、mt-Dが生産性の高いアワを栽培していたからであり、広大な華北平原がその栽培に適した地域だったからだ。

mt-Dはアワを栽培化した女性ではなく、他の女性達が栽培化した優良種を取り込む事によってアワの栽培者になったが、この様な性格は石器時代の他の女性には見られないものだったから、必要とあれば他者から奪ってしまう漢民族的な暴力性に対し、抑止力が弱かった事は間違いない。氷期のmt-Dにその様な性格がったのか明らかではないが、ヤンガードリアス期にアワやキビの栽培方法を獲得したmt-Dグループには、その性格が強かった事は間違いない。

他の女性達が母から譲り受けた栽培に固執したのは、その栽培に自身のプライドを投射していたからだと推測されるが、元々その様なプライドが弱かったmt-Dが、ヤンガードリアス期に他の女性達と混住し、アワとキビを取り込んだmt-Dについては、そのプライドが更に弱まった事も間違いなく、極論すると、そのプライドを崩壊させた成果だったとも言える。角度を変えてその状況を表現すると、ヤンガードリアス期のmt-Dは他の優秀な女性達に囲まれ、人格が否定された状態になったから、性格が近いmt-Cに頼りはしたが、mt-Gmt-Zと接していたmt-Dには厳しい苦痛を与え、プライドの崩壊状態になったから、開き直ってアワとキビの栽培技術を取り込み、その様な手段を最良の生き残り策として子孫に伝承したとも言える。縄文人の活動期の項で指摘した、mt-B4mt-B5mt-M9aなどの、堅果類の栽培者の中の少数者として過ごしながら、堅果類の栽培文化に埋没する事を拒み、自身の栽培種に強烈なプライドを維持していた女性達とは、対極的な性格を持つ女性達になったからだ。

ソバの栽培者だったmt-M9aが、最も相応しい比較対象になる。ソバは生産性が低いが寒冷地でも栽培可能だから、それを逆手に取って寒冷地でしか栽培できないウルシやシナノキの栽培者になり、それを使った磨製石斧の生産者になったからだ。彼女達は交易的な環境下にあったから、その様な成果を上げる事ができたが、穀物の栽培者としては特異な方向に活路を見出し、栽培者としてのプライドを維持した好例になり、mt-Gと類似する思想の持ち主だった。mt-M9aが磨製石斧の量産を推進しなければ、焼畑農耕によるアワの大量生産は実現しなかったのだから、歴史を動かすキー遺伝子だった事は間違いない。

mt-D3分裂したのはその様な事態の結果だったが、アワ栽培者になったmt-Dは他の女性達がアムール川流域から去ると、自分を取り戻して民族内民族的な集団力を高め、新たな道を切り開いたから、東アジア最大の遺伝子集団になったとも言えるが、失ったプライドは復活しなかったから、必要なものは他者から得るという発想が身に付いたから、北陸に渡来したmt-Dもその様な性格の女性になり、mt-M7aが形成した焼畑農地でアワを栽培するという、半ば他力本願的な農法を確立したが、その性格が遼河台地起源のアワ栽培民族に至ると、必要なものを他者から奪う事を特徴とする暴力的な民族になる、一つの原因になったと考えられる。

mt-Dは氷期の最寒冷期に栽培種を失い、情報ネットワークが弱体化していたから、それぞれの小グループが地域毎に形成され、それぞれに特徴的なものが加わっていたから、3分裂したそれぞれが独自の路を切り開いたとも言える。アワ栽培者になったmt-Dを濃厚に含む民族の暴力性については、弥生時代の日本でも発現しているから、他の2グループの事情は明らかではないが、少なくともアワ栽培者になったmt-Dは、暴力性を生み出し易い要素を共通的に維持していた事になり、上記の推測の根拠になる。

弥生時代の日本で大量殺人があった鳥取の青谷上寺地遺跡や、集落の周囲に逆茂木を植えていた愛知の朝日遺跡は、アワ栽培者が拡散した地域であり、それらの地域では身分性が発達していたとの指摘もあるからだ。弥生時代に生まれた環濠についても色々議論されているが、日本全国を一律に俯瞰するのではなく、この様な区分の下で検証するべきだろう。

 縄文早期以降のユーラシア大陸は気候が徐々に寒冷化に向かい、それによって海水温が低下すると大陸内部の気候が乾燥化していった。遼河台地でも寒冷化と乾燥化が徐々に進み、アワ栽培に適さない地域に変わっていった。アワ栽培者はそれに追われて華北に南下したが、樹木を伐採する能力がなかったので降雨量が多い沿海部の森林界を避け、気候が乾燥した疎林地でアワを栽培し、暴力的な社会を彷彿とさせる集落を囲む障壁や粗製乱造した武器と、荊が製作して倭人が持ち込んだ黒陶を特徴とする、龍山文化を形成した。

この文化圏の黒陶は獣骨との交易品だったから、その量や華麗さがアワの生産性の高低を示しているわけではない。山東の遺跡に華麗な作品が多く遺されたのは、アワの生産性との関連も想定されるが、山東は関東部族がアクセスし易い場所であり、そちらの影響の方が大きかった可能性が高い。また縄文後期の遼河台地に、銅の生産と関連付けられる富裕さが見られるから、遺物の華麗さがアワの生産性に比例していると見做す事はできない。つまり縄文中期~後期の、アワ栽培者の遺跡に残された文化的な遺物は、獣骨や銅の交易によって得たものであって、アワの生産性の高さから生まれた農耕民族的な成果ではなかった。

つまり山東・華北であっても遼河台地であっても、息慎を含む海洋民族がアクセスできた地域の発掘遺物には、権力者の権威を飾る華麗な輸入品が含まれているが、これらの地域では弓矢を含めた生活必需品を得る為に、海洋民族に獣骨を提供する組織が形成されたから、それに伴って権力機構が形成されたのであって、その交易はアワの生産性と直接関係がなかった事を示唆している。龍山文化圏では関東部族がそれを集荷し、紅山文化圏ではツングースが集荷したから、それぞれの文化圏で、権威を飾る輸入品が異なった事を示しているに過ぎないからだ。

歴史時代の民族呼称になった「夷」は、弓を扱う人を意味する漢字だから、中華世界の東の沿海部には交易によって入手した弓を使う、栽培系狩猟民族が生れていた事を、「東夷」呼称が示した事は容易に類推できる。縄文後期には「夷」の多くは、アワを栽培する民族だった事を竹書紀年が示している。

縄文中期までの暴力的なアワ栽培者は、政治体制の確立に必要な統治文化を持たなかったので、武力的な統合組織を形成する事は難しかったが、簡易的な交易組織を形成する事は可能だった筈だから、その時期のアワ栽培者が遺した華麗な奢侈品は、獣骨と弓矢を交換する過程で形成された簡易的な組織の、権力者であり富裕者であった者が権力を煌びやかに見せる為に、交易によって得た奢侈品であるとの結論に至る。

アワ栽培は極めて個人的な生業だから、原初的な交易組織すらなかった地域で、それを起源とする組織的な集団が形成される可能性は極めて低く、女性達が栽培情報を交換するネットワークが維持されていたとしても、それはアワの生産性を高める為に女性達が営々と築いてきたものであり、栽培物を交換する漁民が居ないアワ栽培地では、交易とは関係がない存在にならざるを得なかったからだ。その様な情報組織が栽培地の獲得に関する複雑なルールの締結に及べば、栽培情報を共有する情報ネットワークが破壊される可能性が高い事は、容易に想像できるだろう。合理的な判断をしていた古代人には、栽培種の品種改良や農耕技術の向上を目指す情報組織と、栽培地の所有に関する苦情は切り分ける知恵があったから、栽培化された穀類が時代の進展と共に生産性を高めた事は間違いないからでもある。

その様な環境に獣骨を蒐集する交易者が登場すると、交易者を中心に狩猟の縄張りを再調整し、獣骨の生産性を高める機運が生れ、部分的に実現するとそれを維持する権威が必要になったから、原初的な栽培系狩猟民族の様な、狩猟の生産性を重視する縄張り調整の必要性が高まったと想定される。従って奢侈品を含む交易市場が生れていた事は、女性達のネットワークが破壊される方向に、社会が進んでいた事を示唆している。

元々狩猟民族が割拠していた地域に栽培系狩猟民族が拡散した場合には、栽培系狩猟民族が獣骨交易の立役者になる事はなく、この様な事案は発生しなかったが、栽培系狩猟民族しかいなかった地域では、狩猟の縄張りと栽培地の分割が同時進行する必要があった。栽培の生産性が高かった稲作地では、狩猟早い時期に農耕の従属的な生業になり、民族文化は稲作の生産性を高めたり、それを推進する為の産業化に進んだが、華北や内モンゴルでアワを栽培していた栽培系狩猟民族にはその要素がなかったから、栽培地の分割関する秩序より、狩猟の縄張りに関する秩序の維持が優先される状態が長期間継続した事は間違いなく、其処に獣骨交易が入り込むと、狩猟に関する縄張り設定が優先する時期が長期化し、栽培系狩猟民族社会から農耕民族化への進展が停滞した事も間違いないだろう。

縄文中期のアワ栽培社会はその様な状況にあり、狩猟の輪張り争いとアワ栽培地の争奪が複合的に進展してはいたが、各狩猟者の獣骨生産量を把握していた交易者は、交易量を増やす欲望に駆られていた筈だから、恣意的に縄張りを再調整して獣骨の集荷量を増やし、狩猟に関する従来の縄張り秩序が乱れる方向に活動し、その争いが激化する中で、栽培者の合理的な見解は無視される事態が頻発していた可能性が高い。交易者がルールに従わない狩猟者との取引を拒む様になると、交易者の権威を確立する条件が整ったが、栽培地や狩猟地の獲得競争を繰り広げていた人々の間に、その様な条件が合理性を持って汎用的に形成される事情の形成は難しかった。中世的な戦乱が発生したが、彼らが戦争によって守り、新たに得たのは農地ではなく、獣骨を生産する狩猟の縄張りだったと考えると、この時代を理解し易い。中世社会では保存が可能な穀物が財産の主体だったが、この時期の華北では、保存が可能な獣骨が経済主体になったからだ。

この様な環境にアワ栽培民族の暴力性が加わると、獣骨生産量を把握していた獣骨の交易者が採用した統率手段は、縄張りを均等に配分する事ではなく、権力闘争の対象であったり獣骨の供給量が少なかったりする一族を滅ぼし、その縄張りを権力闘争に味方する者と自者で分け合い、権力機構が成長する状況を生んだだろう。それが恐怖を伴う強制力であった方が、この暴力的な民族の統御には有効だった可能性が高い。

それを現代社会に例えると、社会秩序を形成する文化が未発達な農耕民族に、麻薬の生産と販売に関わる組織が浸透した状況と類似している。その組織が地域社会の経済発展に貢献するわけでもなく、人々の福利の向上に役立つわけでもなくても、組織の壊滅には困難が伴う事情と類似しているからだ。また現在の中国人や韓国人の秩序意識の根底に、この様な統御の痕跡が残っているとすると、彼らの嘘を厭わない声闘や見掛けを気にする、権力闘争の背景を理解し易い。現在の大陸には民族としての殷人は存在しないが、漢王朝期に類似した行為が繰り返される事により、殷人的な思考が中華社会に移植された可能性が高いからだ。

アワの生産性はその様な状況には関係なく、mt-Dの努力によって次第に高まっていったから、栽培地に関する新しい秩序形成も課題になったが、それを解決するには農耕民族的な政治文化が必要になり、稲作民族の北上による統治文化の移転まで待つ必要があった。後世の中華社会が、越人的な法治主義と殷人的な権力闘争社会になった事がその事情を示唆しているが、歴史の変遷を詳細に追跡するとその事情が浮上する事が、その主要な理由になる。

獣骨交易によって原初的な政権が生れると、狩猟の縄張りとその生産物である獣骨の交易は、男性達の話し合いで完結できたが、アワ栽培地の決定にはアワ栽培者の意見が反映される必要があった。自然地形を利用していたアワ栽培者にとっては、地形の見立てが重要な配分要因になったが、その議論には多数の参加者が必要であり、紛糾し易い議題でもあったから、それに関する組織の成立には時間が掛ったが、暴力的なアワ栽培者には、それを解決する手段が容易に見付からなかった事も、物事の必然性として理解できるだろう。その結果としてアワ栽培者の極めて男尊女卑的な発想や、暴力の優劣によって社会の序列を決める習俗が生れ、男性達が獣骨交易時代の統治原理を維持しながら栽培地を決めていた時期が、極めて長かった事を示唆している。

交易者には組織を生み出す動機があったが、栽培者による広域的な武力統合を実現する為には、武力統合される事によって形成できる社会秩序の、青写真がなければならない。それがなければ大軍を動かす事についての、動機付けができないからだ。つまり中華的な農耕社会の武力闘争が先に生まれ、その統合過程で統治組織が生れたのではなく、先ず交易組織が生れて権力と富の集積に対する経験が蓄積され、それを得る為の武力闘争が農地の争奪に発展したと考え事に合理性があり、農地の争奪を繰り返しているだけでは、高度な権力機構は生れる条件を欠いていたと考える必要がある。

東アジアでは農耕民族的な統治モデルが荊社会に生まれたが、それは余りに高度な倫理に依存し過ぎていたので、製塩業者が生み出した法治主義がそれに代わったが、これは成熟した交易社会が原初的な農耕社会に秩序を与えたもので、栽培系狩猟民族が自発的に生み出したものではなかった。農耕民族的な秩序を形成する統治文化の成立が、如何に難しいものだったのかを、この事例が示していると言えるだろう。

交易社会が生み出した海洋民族的な秩序を維持していた倭人社会が、稲作技術の発展による農耕社会化の中で飛鳥時代に崩壊し、法治主義的な農耕社会化を標榜した奈良朝に変わった事は、交易者が農耕民族を統治する事はできない事を示し、奈良朝や平安朝は王朝統治が腐敗と権力闘争に明け暮れる、発展性がないものである事を周知させた故に、徐々に崩壊して封建社会化した事も、農耕民族の統治原理を生み出す事の困難さを示している。

従って華北のアワ栽培者の社会に農耕民族的な統治原理が芽生えた可能性は極めて薄く、稲作民族がアワ栽培者に伝えた統治文化が、後世の殷商王朝を形成する基盤になったのであって、それ以前の華北は中小交易者とアワ栽培者が内在していた暴力が支配する、混沌とした社会だったと推測される。小国が徐々に統合されて広域的な国家が生れたと主張する王朝史観には、その動向を生み出した動機に関する考察がなく、必然性に関する論理性が欠如しているが、王朝史観は交易に疎い農耕民族が生み出した論理だから、農耕社会が継続していた時代にそれを持て囃す事は必然的な結果ではあったが、再び交易社会になった現在になっても、それを鵜吞みにしている現代の歴史家の後進的な状況については、批判する言葉もない。

アワ栽培者から獣骨を得る効率的な手段として、ツングースは北陸縄文人からヒスイ加工技術を得ると共に、その製作者としてシベリアの共生民族を遼東に送り込み、遼東で産出する岫岩から玉器を製作した。それをシベリア産の毛皮や木工品などと共に、紅山文化期の遼河台地の狩猟者との交易材にする為だったとも考えられるが、浙江省の製塩業者が玉器を使って法治主義的な秩序を形成した事に倣い、アワ栽培者の社会に秩序を生み出す事も期待していたとすると、その成果はある程度上がった様にも見える。その2で説明するが、紅山文化の後継文化と見做されている大甸子(だいでんし)遺跡は、縄文後期の華北社会を代表する豊かさを示し、銅を産出する地域だったからであると想定されているから、交易社会をその様な方向に発展させた事を示すと共に、身分格差が激しい社会が形成されていた事も示しているからだ。

つまり良渚文化ではあまり重視されなかった高級陶器ではなく、良渚文化の一つの神髄だった玉器を採用する事により、縄文後期になると華北としては先進的な社会が、アワの生産性が低下していた紅山文化圏の後継地域に生まれた事は、縄文後期までの華北社会の経済活動を動機付けていたのは、アワの生産性を向上させる事ではなく、交易によって利益を得る事だったことを示していると共に、良渚文化に学んだ玉器とそれに付随する秩序認識の導入には、ある程度の経済活性効果があった事を示している。

代表的な海洋民族だった関東部族が活動した黒陶文化圏では、その様な遺跡が発掘されていない事も、浙江省で生まれた統治文化は、未開の民族の啓蒙には有効だった事を示唆している。

魏志倭人伝に記された濊の祖先が、ツングースが玉器を製作する為に、岫岩が産出する遼東に送り込んだ、シベリア起源のトルコ系共生民族だった。

日本では全く需要がなかった荊の高級陶器を、関東部族がアワ栽培民族に売り込んだ様に、シベリアには何の需要もなかった玉器を、紅山文化圏のアワ栽培者に売り込んだ可能性が高い事が、上記の想定の一つの根拠になる。シベリアの何処かに玉器の先行需要があった可能性もあるが、それに関する報告は公表されていない。むしろ崧沢文化圏や山東の大汶口文化圏にその先行事例があり、ツングースはその成功例を学んで良渚文化に先行する時期から、紅山文化圏に玉器を提供していたと推測される。特に大汶口文化圏については同じアワ栽培者でもあり、当時の華北で最も文化的な民族でもあったから、その成功事例を基にシベリア起源のアワ栽培者にも適用する事は、ツングースにとっても喫緊の課題だった可能性が高いからだ。華北のアワ栽培者はやがてツングースの交易路を遮り、ツングースを河北から締め出してしまう暴挙に出たが、その予兆は縄文中期には顕在化していたとすれば、華北のアワ栽培者にも同様な社会秩序を形成させる事は、ツングースにとっても喫緊の課題だったからだ。

この様な経緯に大汶口文化圏を挙げる事に違和感があるかもしれないが、山東時代の漢族の祖先には、遼河台地を起源とするアワ栽培者の様な激しい闘争性はなく、縄張りを守り合う民族秩序が形成され、交易が活性化していた。その背景として獣骨交易関する組織化が、アワ栽培者より遥かに先行していた事も挙げられるが、激しい闘争性がなく健全な栽培系狩猟民族の社会を形成していた事が、主要な理由だったと考えられる。

交易の成果として新たな栽培種を導入し、食生活を改善する事情も展開していた事が、更に交易性を高めていたと推測され、荊の高級陶器に関する高度な独自仕様が、それを示唆している。関東部族は植生の交易にも高い関心を持っていたから、その様な交易が展開されると、女性達も交易に関心を高めた可能性が高く、殷人によって華北から夏王朝が暴力的に追放された縄文後期末に、関東に多数のmt-D+M8aが渡来した事も、漢族の祖先と関東部族との親和性の高さを示し、彼らの文化が高度化していた事を傍証している。

考古学者はそれらの発掘遺物を見て、民族独自の器形にその民族の宗教観が表現されていると説明するが、オーダーメイドに過ぎなかったそれらの意匠に、民族の独自性がどの程度反映されていたのかについては、考え直す必要があるだろう。むしろこの様な交易が民族の嗜好や神話に大きな影響を与え、共通性が高い民族文化を生み出したと考える必要もある。

いずれにしても紅山文化圏や龍山文化圏の男性達が盛んに交易を行い、権力の象徴として高級な陶器や玉器を欲しがった事は、男性達がアワ栽培者だった女性達を差し置いて、権力者になる事情がこの頃には存在していた事になり、アワの栽培地の配分も狩猟地の縄張りを決める傍らで、男性達の話し合いによって決められていた可能性が高い。

mt-Dの民族内民族的な情報交換機能が松花江時代に破壊され、その修復が十分ではなかったとすると、女性達が男性達のこの様な動きを抑止する力が弱く、通常の栽培系狩猟民族が経験した様な、女性優位時代がなかったとすると、女性達が不満を抱えながらそれに従う状況が長く続いただろう。それによって女性達の文化力を高める機会が奪われ、アワ栽培と直接関係していた習俗も不安定化した事は間違いなく、男女の利害関係の衝突も常態的に先鋭化しただろう。元々社交的でもなく時宜に応じた判断も不得意で、黙々と栽培に励む事に希望を見出していたmt-Dにとって、栽培に伴う女性文化を育てる機会が奪われた事は、このアワ栽培民族が異質な民族性を形成する別の要因になった可能性が高い。

 

1-4 華北龍山文化

龍山文化期になると土塁を築いて防衛する集落が出現し、弓矢を主とした集団戦に用いる武器が多くなり、暴力的に殺害された犠牲者が目立つ様になる。集落には貧富の差を示す器物が乏しいから、土塁を作って守ったのは農産物や農地だったと推測される。天水農耕による雑穀栽培は生産性が低く収穫が不安定だから、農地の優劣が顕在化しやすかった事が、その直接的な原因だったと推測される。殷人社会は漁民社会と隔絶していたから、狩猟の獲物とアワだけで生計を立てる必要があり、アワの生産性が高まって人口が増えると、食料に占めるアワの比率が高まり、優良農地や収穫の武力的な争奪が発生したから、防御手段として土塁が構築され、武器が準備される様になったと想定される。

社会の暴力性が高まると社会的な優位者が、農耕技術を持った女性から農地を囲い込んだり農産物を強奪したりする男性に移行し、一旦そのような状況が生れると農地を囲い込んだ男性は、獲得した状態を安定させる為に暴力性を常態的に高める必要が生れ、暴力の強弱による序列社会が生れたと推測される。つまり優良な農地の耕作権や狩猟の縄張りが暴力によって決まる兆候が生まれると、自分達の暴力の強さを喧伝しなければ既得権を守る事ができなくなり、日常的に暴力の威力を示威する必要が生まれる事は必然的な結果だった。様々な工夫が追加されながら、社会がスパイラル的に暴力性を高める状態になり、状況に画期的な変化が発生しなければ、誰にもその傾向を止める事ができなくなったと推測される。中世の日本社会でも築城技術が向上し、鉄砲が出現すると即材に量産される様になった事は、この様な傾向は自然発生的に進化する事を示唆している。日本社会にはそれを抑止する社会的な力があったから、やがて平和な江戸時代を歓迎する様になったが、その様な抑止力が働かない社会で何が起こるのかについては、人類の想像を絶するものがある。

稲作民族は洪水の被害から復旧する際には、或いは灌漑設備の構築に人々が協力する必要を認めていれば、更には必要な交易活動を見極めていた場合には、得た物資を消費しながら生産性を高める必要性から、交易者を中心とする集団が形成されたり、交易秩序を維持する為に暴力性を排除したりしたが、天水農耕を行っていた華北のアワ栽培者には、その様な抑止力の源泉がなかったからだ。

この様な社会では男性達が一旦得た優位性を維持する為に、意図的に暴力的な社会を継続する傾向が生れた事も、容易に推測できるだろう。殷王朝や扶余が何百人も殺して殉葬する習俗を持っていた事や、扶余の家々に武器が常備されていた事がその事情を示し、恒常的な暴力性がトルコ系アワ栽培者の共通習俗になった事を示唆しているからだ。

自然の地形を利用する事しかできず、農耕の生産性が不安定だった石器時代には、生産性は個人の技量に大きく依存したから、栽培地の選定能力を持つ女性の技能は欠かせなかった。従って経済効率だけで論考すると、男性が主要な農耕者になる必要条件は、農耕の生産性が高まって食料を狩猟の獲物に依存する必要がなくなり、男性が農耕に専念できる収穫が得られる事だった。

鉄器時代になって農地を整備する事が可能になり、その整備の仕方に生産性が依存する状態が生れ、農耕の主体が女性から男性に移行したのであれば、平和裏にそれが実現したと考えられる。稲作民の男性は石器時代から治水や水田の形成主体になり、それが稲作技術の向上の重要な案件になったから、稲作社会の方が男性優位社会への移行条件は、アワ栽培者より早い時代に整っていた。しかし縄文中期初頭にmt-Fが関東に渡来し、彼女達が温帯ジャポニカの稲作技術をもたらした事は、荊であっても稲作者としての女性の優位性は、容易に揺るがなかった事を示している。

天水農耕に頼るアワ栽培は、鉄器時代になっても農耕の生産性は稲作よりかなり劣悪だったから、男性達がその不足を狩猟で補っていたとすると、男性が農耕の主体者になる時期は遅れる要因に満ちていた。それでありながら有史時代に最も男尊女卑的だったのは、華北のアワ栽培社会だった。つまりアワ栽培者の暴力的な社会では、農地を囲い込んで土地所有者になる為の暴力が、農耕の収穫を確保する最大要因になり、異常な男性優位社会を生み出していた事を、上記のアワ栽培者の社会事情が示している。つまり一旦社会的な優位性を得た男性が、それを維持する為に尚武的な習俗を発展させた事により、扶余や殷人の武断的な社会を形成したと推測される。

女性が持つ栽培技能の重要性が失われていない段階で、その様な社会に移行すると、男女間の軋轢が大きくなっただろう。扶余の「女性の妒を最も憎む」習俗は、その様な事情を背景にしていた疑いが濃い。女性が不満を公言すると多数の女性が同調し、それが正論であれば男性優位社会が揺らぐ事を、農業生産に寄与していなかった男性達が極度に恐れていた事を示唆しているからだ。

男性が農耕の主体者になると、それによって家父長制が生まれたとの説が流布し、その時期が考古学的なテーマになっている様だが、mt-DD4/D5比率は浸潤した民族には依らず一定状態を維持したから、彼女達はシベリア時代から一貫して父系家族を維持していた事になる。従って縄文前期の大汶口文化が母系的で、縄文中期に父系的になったのであれば、父系習俗を持つmt-Dが浸潤したからだと考える必要があり、もう少し根源的に考えると、社会的な女性の優位性と父系社会であるか否かは関連がなかった可能性が高い。

優れた栽培技術を持った女性が栽培地を求めて拡散する為には、送り出した集団も受け手の集団も父系社会である必要があり、優良な穀物の栽培者になった女性の拡散的な婚姻に際し、それを妨げる母系を、女性自身が支持する理由があったとも考え難いからでもある。

もう少し過去に遡って論考すると、原初的な栽培系狩猟民族の社会では、狩猟の縄張りは男性達の秩序観の産物だったし、狩猟だけで食料を調達する為には広い縄張りが必要であり、その様な時代の人口密度は極めて過疎的だったから、優良な栽培者はその縄張りの中で新たな栽培地を求める必要もあり、その婚姻は一族内で完結する必要があって母系でも父系でもなかったと想定される。

栽培の生産性が高まり、栽培が狩猟地を拡大する際の必須技能になると、栽培が可能な地域を選定する必要が生れたから、優れた栽培者を獲得した一族が、縄張りを新たに得る確率が高まった。その状態が恒常化すると、優れた栽培者を取り込んで縄張りを新規に獲得する為には、父系の婚姻形態を採用せざるを得なくなった。これが栽培の第一段階としてのミトコンドリア遺伝子の純化過程に相当し、穀物の栽培者になった女性は皆この段階を経ていたから、ミトコンドリア遺伝子と栽培種を紐付ける事ができる。

栽培技能が更に高まって栽培系狩猟民族の密度が高まると、親族である女性達が連携して栽培技能を高め合い、優良な品種を分け合う時期が始まって栽培化の第二段階になった。この時期の女性達は品種改良の為の情報交換ネットワークを形成し、優良な栽培地を得る手段としてもそれを利用した筈だから、その為の移動の際にも父系の方が有利だった。この段階になったミトコンドリア遺伝子は、下位クラスターを複数発生する様になるが、彼女達は情報網を構築して一体的に行動し、下位クラスターとしての一体性より、幅広い民族内民族的な情報交換を重視し、相手男性の民族に拘らずに浸潤した事は、シベリア時代のY-NY-Qの関係や、日本列島に渡来した女性栽培者達事情、フィリッピンに渡ったmt-D+M7aの事情などがその事例になる。

この段階になっても、母系社会を維持していた集団があったとしても、父系社会を利用してダイナミックに活動した女性達と比較した、栽培種の改良や栽培技能の向上速度に太刀打ちできなかったから、淘汰の結果として父系が優勢になっただろう。従って石器時代が終わるまで特定栽培種を栽培していた女性達は皆、この淘汰に勝ち残った女性達だった筈であると想定すれば、栽培系狩猟民族の殆どは父系社会だったと考える必要がある。

その様な女性の自由な動きが栽培系狩猟民族の繁栄に繋がったから、栽培系狩猟民族の習俗としては女性優位の父系社会が固定化し、mt-Dも特殊な習俗を持つ女性ではなかったと考えられる。フェミニストやコミュニストが父系・母系議論を政治的に展開しているが、史学者は異なる観点から捉え、女性優位社会の父系制と、暴力的な男性優位社会の父系制は区別する必要がある。

魏志高句麗伝は「高句麗の女性は享楽的である」と非難し、「婚姻に際しては、婚約してから女性の両親に礼を尽くして婿入りし、子供が成長してから夫の家に帰る。」と記している。シベリアの共生民族は、華北のアワ栽培者ほどには父系的でも男尊女卑的でもなかったから、魏の役人がこの様に記したと考えられるが、この婚姻形態は最終的には父系に分類される。

扶余には騎馬民族の様な嫂婚制があると指摘している事は、男性が家計を仕切っていた事を示唆し、一般的な農耕民族とは習俗が異なっていた事を示している。嫂婚制は家計を支えている男性が死亡した場合に、配偶者だった女性が、即座に生活苦に陥る事に対処する制度だったと考えられるからだ。騎馬民族の生計は羊を飼養する男性によって維持されていたから、騎馬民族には嫂婚制は必要な制度だったが、扶余は栽培民族だったにも関わらず、栽培者ではない男性が家計を仕切っていた事は、経済的な摂理に逆らって強固な父系制を習俗化した事を意味する。

ちなみに現代日本人が家計を妻に委ねる傾向があるのは、イネの収穫を女性が管理していた時代から引き継いだ、日本人の伝統的な習俗であると考えられ、女性優位的な栽培系民族の父系社会の、原初的な状況を示している。詳細は「3-2-5 稲作の主体が女性から男性に変わった経緯と時期」参照して頂きたいが、日本では稲作の主体が女性から男性に転移した時期が、大陸の稲作民族と比較しても格段に遅かったから、原初的な状況を示していると表現したが、原初的である事と、時宜に適している事や合理性とは関係がないから、無理に進化させる必要性はない。

華北のアワ栽培者が極度に男尊女卑的になった事は、上記の様な仮説を設定しなければ説明できないし、現代の中国・韓国人の特徴もこれを基底にすると説明しやすい。

 この様な社会に権力者が登場し、龍山文化を代表する精緻な黒陶が遺されているのは、栽培系狩猟民族の社会に獣骨交易が持ち込まれ、その代価として弓矢と共に黒陶も持ち込まれたからであり、この様な交易を主導して財力を得た者に富と権力が集中したから、アワ栽培者の社会にも権力秩序が生れた事になるが、それは王朝史観が主張する農耕社会の秩序ではなく、狩猟民族としての秩序だった事は、十分に留意するべき事象になる。つまり男性達が獣骨交易による利益を調整する為に、狩猟の縄張りを配分する為の秩序であって、食料の争奪に絡む秩序形成ではなかったが、彼らにも秩序形成を可能にする状況が到来した事になるから、それを基底にその後の歴史を追跡する必要がある。

稲作民族の秩序形成には、荊の上意下達型であっても、浙江省の製塩業者の資本投入型であっても、稲作地を形成する為に多数の労働力を投入する事を前提にしていたから、その活動の必須機能として身分制が生れたが、アワ栽培者の農事にはその必要性は皆無だったから、アワ栽培者の社会には身分性が生れる余地がなかったが、交易の巧者が社会秩序を生み出したから、その社会秩序の機能は農業生産に関わるものではなかった。従ってそれを幾ら発展させても、農耕の生産性向上に資するものではなかった。

暴力的に農地を囲っていた男性達がこの交易に参加する事により、農地の争奪を巡る暴力性の高揚に歯止めが掛かった可能性は高いが、狩猟地を配分する様に農地も配分する傾向が生れると、農地の所有意識を高めた男性達が、女性達に男尊女卑的な習俗を強制する必要が生れたから、栽培地を暴力的に囲い込んでいた時代と同様に、男尊女卑的な習俗を進化させた可能性があり、結局男性社会の暴力性を高める副作用をもたらしただろう。

 

1-5 縄文中期以降の華北、満州、朝鮮半島

縄文後期後半から歴史時代になって文献記録が登場するから、それらを分析する事により、縄文中期以降の情勢を推測する事ができる。この地域の主役だったシベリア起源のトルコ系民族は、色々な呼称で呼ばれたから、それらの名称を整理する必要があるが、呼称の乱れは両者の間に交易や文化交流が欠如していた事を示している。魏志東夷伝の序に「(魏が高句麗を征討して沃沮の地を過ぎ、粛慎の庭(沿海州)に至ったから)遂に諸国を周観して其の法俗を采し、小大の区別、各々が有する名号を詳紀する事が可能になった。」と記されているのは、陳寿にも画期的な時代になったとの認識があった事を示している。それ以前は漢王朝の嘘と欺瞞により、正しい認識が欠如していたからだ。

周代以降の漢民族が使った民族呼称には、殷人、淮夷、扶余、濊、白、貊(はく)、狛、沃沮などがあるが、好太王碑文に高句麗の出自を「北扶余」と記している事は、シベリアのトルコ系民族には漢代まで漢字名がなかった事を示している。ツングースには粛慎や息慎などの名称があったが、彼らは遼河を交易路にして漢字文化圏に接触していたからであって、シベリアにいたトルコ系民族は漢字文化圏に属さない人達だっただけではなく、華北の人々との交易や交流に積極的ではなかった事を示している。

扶余、濊、白、貊、狛などは誇るべき華麗な名称ではなく、自分達の名称を麗々しく飾ったのは弥生時代末期に最も遅れて登場した高句麗だけだった。それ以前のシベリア系民族にとっては、自分達がシベリアで使う正式名称は他にあり、華北や朝鮮半島の民族の漢字名は、漢字文化圏の人々が使う呼称をその儘使っていた事になる。

魏志倭人伝も「彼らは異言語を使っている」事を指摘しているから、漢字文化圏の人達との会話に限ってこれらの名称を使っていた事になる。但し漢字文化圏の民族も、自民族の呼称には麗々しい名称は使わず、むしろ卑下する様な名称を好んでいたから、麗々しい名称を好むのは未開民族であるという状況があった。従って彼ら自身もこれらの呼称に、さほどの不快感は持っていなかった可能性がある。

後世のモンゴル人がパスパ文字を使用したのも、シベリアの生産者が主要市場としていたのは黒海周辺やそれ以西の地域だった事を示し、シベリアの人々の伝統的な意識として、漢字文化圏との交流をあまり重視していなかった様に見える。中華圏で最も豊かな人々だった稲作民は、毛皮などの北方の物産の大きな需要者ではなかったからではなかろうか。

中華の歴史時代は、竹書紀年の記述から始まる。史記も同時代から記述しているが、史記は捏造史だから竹書紀年を補う程度の価値しかない。竹書紀年の記述は夏王朝の前の五帝時代から始まるが、五帝時代の事績には息慎以外のシベリア系民族の名称はない。

夏王朝期になると淮夷、風夷、于夷、方夷、馮夷、白夷、黄夷などが登場し、稲作民がアワ栽培者の地域集団をこれらの名称で呼んだ事を示している。夷が夏王朝に参加すると名称がに変わったが、徐州近辺にいた淮夷は夏王朝に敵対し続け、最後まで侯にはならなかった。

夏王朝に参加した侯の中から商侯履が台頭し、やがて夏王朝を黄河下流域から追放し、洛陽盆地にあった夏王朝の西の拠点も占拠した。

その後アワ栽培者内に動乱があり、殷商成湯が華北を統一した。殷商はアワ栽培者の集団だったの連合体を指し、先ず成湯がその連合政権を掌握した。は中国語で色々な具材を入れたスープや薬湯を指すから、成湯は混乱した社会の「覇者」を指す一般名称であって、固有名詞ではなかった疑いがある。と呼ばれた地域は夏王朝の版図内にあり、その中心は鄭州の東南にある商丘付近だったと考えられるからだ。は縄文後期には稲作民族の中核地で、黄河の川洲に覆われた海抜ゼロメートルの平原だったが、元々多島海だったので、丘陵地が混在する景観が生まれ、荊に豊かな稲作地を提供した傍らで、アワ栽培者も丘陵地に散在する状況があったから、荊がこの地域をと呼んだ事を契機に、この地のアワ栽培者の酋長も商候と呼ばれたと想定される。

竹書紀年に「帝相即位、商に居す。淮夷を征す。」「帝杼五年、原(場所不明)より老丘(現在の商丘市域)に遷る。」などの記述があり、「商」漢字は「高殿の上に目立っている尖塔」の象形だから、中核都市の存在を示唆している事がその証拠になる。

丘陵地にいたアワ栽培者は稲作民と混在する事により、最も早く文明化したアワ栽培者の集団になり、夏王朝が生れるとそれに参加し、を集団名にしたと推測される。竹書紀年に「商夷」は登場しないが、夏王朝の末期に突然商侯が登場する事が、その事情を示唆している。は塩の販売者を意味していたから、商侯は渤海南岸の製塩業者から塩を受け取り、アワ栽培者の商流にそれを送り込む役割を持つ人物の名称だった。

縄文後期温暖期が終了して気候が冷涼化すると稲作民が南下し始め、商侯がこの地域の覇者になって残存していた稲作民も支配したとすれば、歴史の流れとしては順当な解釈になる。但しは製塩集団を示す名称で、この時代には塩の流通業者も指す様になっていたから、商侯が夏王朝の製塩業者から塩を入手し、アワ栽培者に分配する商流を支配していたのであって、後世の諸侯の様に租税を徴収して領域を支配したのではない。夏王朝を形成した荊に租税の概念がなかった事は、既に指摘した。

アワ栽培集団の連合王朝は武丁の代に都を黄河の北にある殷墟に移し、殷王朝を名乗ったので、このHPではY-NY-Q系アワ栽培集団を殷人と呼ぶ。

殷墟は黄河の北にあり、稲作者が入植しない冷涼な地域だった。黄河北岸にいたアワ栽培者の集団が殷商時代に文明化し、次第に勢力を強めてを従え、殷王朝を形成したのではなかろうか。黄河北岸の殷人は、五帝代~夏王朝期に稲作民と密接に接し、文明力を高めて商のアワ栽培者になったが、黄河の北にいた殷のアワ栽培者はそれとは異なり、稲作民族が北上していた縄文後期には組織化が遅い未開で粗暴な集団だったから、夏王朝期が終了して殷商時代になってから文明化と組織化が進行し、集団規模の差によって勢力を強め、殷人の覇者になったと推測される。殷墟に多数の青銅器が遺されている事は、青銅が殷人の主要な交易品になった事を示唆しているから、青銅の生産地がその付近にあった事が、殷王朝の成立に寄与した可能性も高い。

殷王朝の統治が余りにも暴力的だったので、稲作民族が殷週革命を起こして殷王朝を倒したが、縄文晩期寒冷期の華北は稲作民にとって入植する価値がなく、統治したい地域でもなかったから、陝西や山西を勢力圏としていた周に華北統治を任せた。都を殷墟として黄河北岸に拠点を移動した武丁22代目の王で、殷王朝最後の紂王31代目なので、殷商王朝がBC1500年頃に始まり、殷週革命がBC1050年頃に起こったとし、その450年を王の数で案分すると、比較的文明化した商が統治していた期間は稲作民族も我慢していたが、黄河北岸の暴力的な殷人が商を圧倒して覇権を握ると、その余りの暴力性に耐えられなくなった稲作民族が、殷王朝が成立してから150年後に殷王朝を滅ぼした事になる。

周王朝は殷人を華北から追放する為に、殷人に虐げられていた漢族を華北の各地に屯田入植させ、エスニッククレンジングを行って華北を漢族の地にしたので、殷人の一部が満州南部に逃れて扶余を形成した。しかし淮夷はその後の事績にも登場し、周王朝の圧迫に抵抗しながら徐州の周辺に残っていた。縄文晩期寒冷期に華北のアワの生産性が低下しても、南部のアワ栽培地だった山東では高い生産性が維持され、特にその南端だった徐州近辺にはアワ栽培者の残存勢力が集積していた事を示唆している。

史記が「殷人は白色を尊重した」と記し、魏志扶余伝が「扶余は白を高貴な色とする」「殷の暦を使っている」「亡人と自称している事には由来がある」と記し、祖先が地域集団だった夏王朝期には、白夷と呼ばれるアワ栽培者の集団だった事を示唆している。

魏志東夷伝の序文に、五帝時代から周代まで白環と呼ぶ西戎が物を献上し、肅慎と呼ぶ東夷が朝貢した」記されているから、この白環が殷人だった可能性がある。但し周代には殷人は華北に居なかったから、この文章に関しては陳寿の誤認があり、「五帝代には白環と呼ぶ西戎が物を献上し、周代には肅慎と呼ぶ東夷が朝貢した」と記すべきだったが、漢代に歴史が捏造され、陳寿の認識もその影響から完全に免れていなかった事を示している。「夷」は弓矢を使う集団を指す普通名詞だが、「環」漢字の複雑な象形は、アワ栽培者の錯綜した社会を彷彿とさせるから、夏王朝が白夷と呼んだ集団は、アワ栽培者の身内から白環と呼ばれ、それが漢代の認識になっていた事を示唆している。

高句麗を貊と呼ぶのは、白の蔑称として獣偏を付加したからだと考えられるが、魏志高句麗伝は高句麗が白色を高貴な色としたとは指摘していないから、白を高貴な色とする習俗はトルコ系民族に共通したものではなく、殷王朝を樹立した部族のシンボルカラーだったと考えられる。高句麗については好太王碑に、弥生温暖期の末期にシベリアから南下した民族であると記されているから、高句麗は周代に白と呼ばれていた民族ではないが、周がトルコ系民族を白と呼んだから、高句麗人も漢代以降の文献に貊と記され、南下した直後の高句麗人もその名称を受け入れたと推測される。

商侯が華北から夏王朝を暴力的に追放し、その後の動乱の中でアワ栽培者が殷商王朝を形成した事も、アワ栽培者の武断的な民族性を示しているが、殷王朝の都だった殷墟の郊外から複数発掘された大きな王陵に、多数の斬殺された殉葬者が埋められていた事は、殷人の残忍な暴力性を示している。史記が歴史を偽って殷人の暴力性を隠蔽したから、史記を読んでも殷人の実態は分からないが、魏志扶余伝は殷人の末裔である扶余を以下の様に描写している。

「家々に武器があり、軍事を行っている。」

「貴族が死ぬと多数の人間を殉葬し、多い場合には数百人になる。」

「女性の妒を最も憎み、殺した上に死体を山の上で腐乱させる。」

「昔は天候が不順で五穀が実らないと、王を変えるべきだと云ったり、王を殺すべきだと云ったりした。」

扶余は武断的で男尊女卑的であると記しているが、「勇敢だが他国を略奪しない」とも記している。但しこの時代の扶余は寒冷化の中で農耕が振るわず、西は騎馬民族の鮮卑に、東は軍事に長けた高句麗に挟まれ、南には漢王朝の支配民になった漢族がいたから、侵略できる民族がなかったとも言える。後述する様に扶余は漢王朝と親密な関係を形成し、漢王朝の領土に侵入しなかった事が、魏の役人にも好印象を与えていたと想定されるから、文面通りには評価できない。扶余は北の挹婁(ツングース系民族)を搾取して反乱に遭い、高句麗とは何度も戦闘を繰り返したからだ。

扶余は古墳寒冷期に滅亡して民族は四散したが、高句麗は同時代に経済的に繁栄した。扶余は農業集団だったのに対し、高句麗は商業国家だった事もその理由として挙げられるが、華北のアワ栽培が壊滅した冷涼な古墳寒冷期に、吉林省の平原を農地にしていた扶余は農業が振るわずに滅亡したのに対し、吉林省と同緯度である満鮮境界の農地が少ない山間部に籠っていた高句麗が、同時期に人口を何倍にも増やした事は、高句麗の農業技術が扶余や華北の漢族より先進的だった事を示している。

扶余や漢族の農耕者はアワを栽培していたmt-Dだったのに対し、高句麗の栽培者はシベリアで色々な穀物を栽培し、農耕技術を高めていたmt-Zだったからだと考えられる。mt-Zは交易者だったツングースや騎馬民族を介し、栽培種のメニューを広げて農耕の生産性を高めていたから、mt-Dのアワ栽培を遥かに凌ぐ高い生産性を得ていたと想定され、以下の史書がそれを示している。

魏書(北朝の史書)は古墳寒冷期の最寒冷期に、高句麗の人口が古墳寒冷期初頭の魏代から何倍にも増え、北魏に多額の金や銀を貢納したと記している。また隋書が寒冷期末期~温暖期初頭の高句麗は、穀類の納税額が隋の支配地域より多いと指摘した事を、(8)隋書の項で指摘した。

魏志東夷伝は東夷諸民族が栽培していた穀類について、弁韓と倭のを特記し、アワ栽培者だった韓族については「禽獣草木は中国と同じ」と記しているが、トルコ系の栽培民族だった扶余と東沃沮については、「その地は五穀の栽培に良い」としか記していない。交易者だったツングースがユーラシア各地から耐寒性が高い穀類を集め、mt-Zがそれを栽培していたから、トルコ系民族の栽培種には、古典的なアワ栽培者だった漢族が知らない種が多数あり、この様な表現になったと推測される。

高句麗は飛鳥時代に唐と新羅によって南北から挟撃され、滅亡すると多数の亡命者が日本に渡来し、奈良朝が成立すると不遇な時代を迎えたが、埼玉県に高麗神社を建立した。この神社の神聖な作物が小麦である事が、高句麗のmt-Zは小麦も栽培していた事を示唆している。華北が小麦の栽培地になり始めたのは南北朝期~唐代だった事が、その時期に華北に流入したトルコ系民族の栽培種だった事を示し、トルコ系民族が宋を建国した10世紀に租税がアワから小麦に変わった事が、高句麗の小麦の栽培事情を示しているからだ。

歴史教科書は晋が滅ぶと華北に蛮族が侵入したと記しているが、実際の華北はmt-Dの排他的な思想と、アワ栽培民族の暴力的な民族性が蔓延し、他民族との交流がない状況下でアワ栽培者が伝統的な習俗を継続する、交易活動が進展しない閉鎖社会を形成していたから、未開な状態に停滞していた。アワは小麦より生産性も耐寒性も劣るから、古墳寒冷期に華北のアワ栽培は壊滅したが、進んだ農耕技術を持ったトルコ系民族がシベリアから南下すると、華北の農業生産が持ち直して人口が回復し、北朝の繁栄をもたらした事も付記する必要がある。

この様な事情があったにも関わらず、現在の華北にmt-Zが少ない事は、mt-Dを擁する漢族の排他性が強く、華北からトルコ系民族が排斥された事を示している。華北にはトルコ系民族の主要遺伝子だったY-Nも希薄だから、漢族はトルコ系民族に対して極めて排他的な民族だった事を示している。周王朝の殷人排斥活動が、後世まで影響を及ぼしていたと考えざるを得ない。

魏志扶余伝は「扶余の土地は五穀に宜しいが、五果を生じない」と記し、果実がない地域であると指摘している。縄文人の第一の交易目標は、果実を含む各種の栽培種を取り込んで豊かになる事だったから、扶余はその様な交易から疎外されていた事を示唆している。魏の役人がその様に指摘したのは、魏代の華北には色々な果実があったからだが、扶余がその様な状態だった事は、魏代の華北にあった果樹は殷人が集めたものではなく、弥生温暖期に北上した荊がもたらした事になる。縄文後期温暖期に北上した荊が果樹も栽培していたのであれば、その文化によって文明化した殷人も果樹栽培を知っていた筈だが、縄文後期温暖期の荊は果実の栽培者ではなかったので、扶余には果実がなかった事になる。

弥生温暖期に北上した荊は縄文後期温暖期の荊とは異なり、縄文晩期寒冷期に関東部族のmt-B4が浸潤していたから、縄文後期温暖期に北上した荊の栽培種には、関東部族の要素が加味されていた。このmt-B4は現在の山東・遼寧の人々の10%を占め、mt-Fより多いから、縄文後期温暖期に北上した荊とは異なる稲作者だった事を示している。

このmt-B4が冷温帯性の果実を華北に持ち込んだから、魏の役人が華北では果実が豊かに実るが、扶余には果実がないと報告した事になり、「扶余の土地は五穀に宜しいが、五果を生じない」との短い記述が、中華の果実の起源は関東部族にある事を示している。関東のmt-B4が縄文晩期寒冷期に荊に浸潤した顛末は、「8、気候が寒冷化した縄文後期末~晩期に、大陸で起こった事」の章で検証するが、漢族が排斥したのはトルコ系民族だけで、荊は排斥しなかった事も示している。

華北に展開したアワ栽培者の社会は極めて閉鎖的で、他民族が栽培化した穀類や植生を交易によって入手する機会に乏しく、栽培系狩猟民族から農耕民族への遷移は順調に進展しなかった。それが彼らの暴力性を高めたとも言えるが、松花江時代に生まれた暴力性が他民族との交流を阻害し、閉鎖社会化を助長した事による悪循環の結果だから、原因は彼らの側にあった。荊や浙江省の製塩業者は、この様な華北のアワ栽培民族とは対極的な存在として、縄文前期から交易を活性化させて発展的な社会を形成したから、アワ栽培者とは対極的な民族になったとも言えるが、華北のアワ栽培者を囲んでいた民族は、荊、浙江省の製塩業者、中央アジアのY-R1b、シベリアのツングースとトルコ系民族などの、交易的な民族だったから、華北のアワ栽培者が異端的な存在だった。

 

1-6 魏志/東夷伝に記された東夷諸族(ツングース系民族、トルコ系民族、韓族)と、魏志/烏丸鮮卑伝に記されたモンゴル系民族 

シベリアの歴史事情は殆ど分からないので、南下した諸民族の歴史時代の活動歴から、往時のシベリア事情を類推する必要がある。

現在のシベリアにはアルタイ語族であるモンゴル系民族、トルコ系民族、ツングース系民族が割拠し、有史時代にはそれらの民族が抗争を繰り広げ、唐、宋、元、清などの征服王朝を樹立したが、シベリア漁労の生産性が高かった縄文時代には、これらの民族は平和裏に共存していたと推測され、史書もそれを示唆している。

シベリアは縄文晩期寒冷期に厳しい寒冷化に襲われ、冬季の氷結が厳しくなって河川漁労が壊滅し、それと共にシベリア経済が崩壊したが、縄文晩期寒冷期にはまだ騎馬民族が成長していなかったので、彼らが騎馬民族と共生する農耕民族として満州や華北に南下したのは、騎馬民族の文化が成熟した弥生温暖期末期~古墳寒冷期だった。

縄文晩期寒冷期に河川漁労が壊滅した事情は、次の様なものだったと推測される。

シベリアの河川は北上しているから、温暖で水量が多かった時代に低緯度地域の支流が氷結しなければ、高緯度地域を流れる水量が多い本流が凍結しても、表面が凍結しただけで川の流れを阻害するほどはなく、漁労に依存する民族の定住は可能だったと想定される。しかし厳しい寒冷化に襲われた縄文晩期は、気候が寒冷化しただけではなく河川の流量が減っていたから、冬季に大河の支流やバイカル湖が長期間氷結すると、中流域も凍結して河川漁労が不可能な期間が長期化しただけではなく、大河の下流域の氷結が深部まで達し、川の流れが阻害されて洪水が広範囲に広がり、栽培者が低地で蔬菜類を栽培する事も不可能になった。洪水が起こると漁民も凍結保存していた漁獲を失い、共生経済が崩壊したと想定される。

この推測には数値的な裏付けもある。北海道の不凍湖である、支笏湖付近の現在の平均気温は6.7℃で、支笏湖が不凍湖であるのは、水深が深く湖水の熱容量が大きいからだ。バイカル湖は支笏湖より面積も水深も格段に大きく、バイカル湖の貯水量は23 × 104 km3で、20.90km3である支笏湖の1万倍もあるから、支笏湖より凍結し難い湖ではあるが、バイカル湖に近いイルクーツクの現在の平均気温は1℃だから、冬季には湖の表面が凍結する。

縄文時代の日本列島は現在の気温より3℃以上高温だったが、高緯度地域であるほど地球規模の寒冷期と温暖期の温度差は大きかった筈だから、縄文時代のシベリアは現在より5℃ほど高温だったとすると、バイカル湖は縄文後期まで不凍湖だった。しかし縄文晩期の尾瀬は、現在より12℃温暖である程度まで寒冷化したから、バイカル湖は冬季になると凍結する様になって流出量が激減し、アンガラ川やエニセイ川の下流域も厳しい氷結に見舞われる様になったと推測される。

この状態は弥生温暖期に一旦解消してシベリアの漁労事情も改善したが、降雨量は大幅に減ったから予断を許さない状態ではあった。古墳寒冷期になると現在と同様な気候になったから、河川漁労が再び壊滅状態になり、その酷さは縄文晩期寒冷期を大幅に上回った。トルコ系栽培民族はその様なシベリアに見切りを付け、騎馬民族と共に華北や中央アジアに一斉に南下した。

従来の歴史認識では、古墳寒冷期に中央アジアや華北に突然異民族が登場し、中華では晋王朝を滅亡させ、中央アジアを動乱に巻き込み、西ユーラシアではフン族が出現して玉突き式に民族移動を起こしたと説明しているが、実際に大挙南下した主体はトルコ系の栽培民族で、彼らと共生していた騎馬民族がそれを支援していた。

中央アジアに南下したトルコ系民族は、平安温暖期になった10世紀にセルジューク朝を樹立し、ホラズムがその後継王朝になったが、やがてモンゴル人に征服された。平安温暖期の末期に大モンゴル帝国が成立したのは、温暖期が終わって内陸の降雨が増え、草原に雑草が繁茂する時代になって騎馬民族の活動が活発化したからだと推測される。この時代の騎馬民族はトルコ系の栽培民族との共生者ではなく、草原で羊を飼養する騎馬民族単体になっていたから、寒冷期になってから南下するのではなく、降雨量が最も多かった温暖期の末期に活動の極大期を迎えた事が、彼らの内情を示している。温暖期の末期に海水温が極大化するから、その様な海を冷涼な大気が覆い始めた温暖期の末期が、降雨の極大期になるからだが、それは大陸の事情であってモンスーン気候帯である日本の事情ではない。

モンゴル帝国が衰退するとトルコ系民族の活動が再び活発化し、先ずティムール朝を樹立し、インドに南下してムガール帝国を樹立し、弥生温暖期まではY-R1bの地域だった中央アジアが、トルコ人の地域に変わっていた事を示している。

古墳寒冷期の中華世界では、モンゴル系の騎馬民族である鮮卑が南下し、晋王朝を河北から追放して彼らの王朝である北朝や隋・唐を樹立すると、その支配地域に農耕民族が南下した様に見えるが、それは王朝の記録に頼る歴史復元の限界を示しているのであって、騎馬民族と一緒に栽培系民族も南下したから、騎馬民族は栽培系民族の経済力を背景に北朝や隋・唐王朝を樹立したと考える必要がある。唐の貴族の食物は小麦だった事が、その事情を示しているからだ。

人口が少なかった騎馬民族が王朝を樹立すると、中華世界に埋没して民族としての統一性を失ったから、騎馬民族の王朝だった唐は崩壊したが、農耕民族は元々多数派だった上に南下すると人口が更に増加したから、彼らが宋王朝を樹立して華北を小麦の栽培地に変えたと考える必要がある。

温暖な地域でこの様な流れが生れていた間に、モンゴル高原に残っていたモンゴル人が再び決起し、モンゴル帝国を樹立すると宋やホラズムはその武力に屈したが、中央アジアや南アジアではモンゴル帝国が衰退すると、多数派になっていたトルコ人のティムール朝やムガール帝国が生まれた。しかし華北ではこの様な動きがなく、現在の華北の遺伝子にはトルコ系民族の残渣も乏しい。華北をこの様な異常な状態にしたのは、漢族の排他的な民族性だったと想定されるが、それについては諸事情を検証した上で考察する必要がある。

トルコ系の栽培民族は、古墳寒冷期になると温暖な栽培地を求めて南下運動を開始したが、シベリア最大の民族だったトルコ系のY-C3漁民は、乾燥した地域に南下しても生業の維持が難しかった上に、縄張りに関する厳しい掟を順守していたから、人口が減少して交易構造が破壊され、必要な物資の入手が困難になると人口が激減し、交易文化も失った。現在シベリアに残っている少数民族は、栽培者や狩猟者を起源とする牧畜民しかいない事が、Y-C3漁労民族の壮絶な終焉を示している。

シベリアの南西に位置するトルキスタンの、現在のトルコ系民族のY-C3比率から、シベリア経済が崩壊した時期のトルコ系漁民の歴史的な動向を推測すると、北方のカザフスタンでは半分がY-C3だが、ウズベキスタンに南下すると1020%に低下し、栽培民族だったY-R比率が高まる。カスピ海周辺やそれ以西にY-C3は殆どいないから、漁労民族だったY-C3の殆どは縄文晩期に寒冷化しても、栽培民族の様に南下せずにシベリアに残った結果として、この遺伝子分布が遺された事になる。現在トルキスタンと呼ばれている地域は、メキシコ湾流の北上による西ユーラシア温暖化の影響を微妙に受け、縄文晩期以降の寒冷化が緩和された地域だが、その影響がなかった東シベリアの気候事情は非情なものだった。

満州族のY-C3比率が高いのは、ツングースの縄張りだった満州に、シベリアの河川漁民や狩猟民族が南下した痕跡であると想定され、魏志挹婁伝が「ツングース系の栽培民族だった満州の挹婁は、濊や高句麗の様な洗練された栽培文化を持っていなかった」事を示し、古墳寒冷期に起きた事情の一端を示している。

縄文時代の満州はツングースの縄張りではあったが、降雨が少なく漁労活動は活発ではなかったから、共生文化が未熟な小規模集団しかいない地域として、ツングースの名ばかりの拠点だったと推測される。ツングースがこれらの河川を交易路にしていたから、その流域もツングースの縄張りになり、僅かな共生集団が交易をサポートする宿場の住民として生活していたが、急遽その地域に南下した多数の人々の参考になる生業ではなかったから、何らかの生業を新たに考案する必要があり、急場の生計手段は未熟な生活者にならざるを得なかった事を示している。

古墳寒冷期にシベリアが寒冷化すると、トルコ系栽培民族の主流は中央アジア方面に南下したから、中央アジアのその後の名称がトルキスタンになったが、極東シベリアのトルコ系民族は、ツングースの指導に従って満州に南下せざるを得なかったから、彼らはその地の支配者であるツングース語に言語を変え、豚を飼う未熟な農耕者になったと考えられる。その様なツングースの指導に従わずに、頑なに共生を維持した3民族集団の一部は、日本海沿岸に南下して沃沮になった。魏志沃沮伝に「挹婁(粛慎)が北沃沮を毎年攻略する」と記されているのは、粛慎が指示に従わない沃沮を咎めたからだと推測されるが、沃沮は文化的な生活を維持していた。

粛慎がトルコ系民族を黒竜江省に移住させたのは、松花江の上流域や遼河の流域を占拠し、交易の上前を撥ねていた扶余に軍事的な圧力を掛ける為だったと推測される。中華の史書は、扶余が滅亡したのは鮮卑族の攻勢にあったからである様に記しているが、実際に扶余を滅ぼしたのは、満州に南下してツングース言語話者になった挹婁であり、彼らはシベリアではトルコ系民族だったと推測され、史書にもそれを示唆する記述がある。古墳寒冷期に滅亡した扶余の最後の居住地は、遼寧省の北端にある鉄嶺市の開原市だから、既に吉林省から追い出されていた事を意味し、扶余を滅ぼしたのはその時期の扶余に略奪行為を行った鮮卑ではなく、黒竜江省を含む満州から扶余を既に追い出していたのは、既に満州に南下していた挹婁だったと考える必要があるからだ。華北の人にはその事情が見えなかった上に、彼らは史記や漢書に騙されて扶余の実態を知らなかったから、魏の役人が見た魏代の扶余の事しか書いていない魏志東夷伝を中心に、実情を探る必要がある。

漢代に挹婁と呼ばれたツングース系の陸上民族は、扶余が滅んでいた隋代に靺鞨と呼ばれ、挹婁と類似した生業を営みながら満州の主要民族になったが、粛慎と提携していた高句麗に敵対した部族もあり、粛慎の方針に無理があった事を示唆している。靺鞨は騎馬民族化した集団も含んでいたから、その様な人々から、縄文時代的な水上交易に拘る粛慎の方針に、異論が生れていたからだと推測される。古墳寒冷期の大陸は、シベリア的な水上交易から騎馬民族による内陸交易の時代に転換しつつあったが、水上交易民族だった粛慎にはその提案に応じる選択肢はなかったからだ。

高句麗の様に朝鮮半島まで南下すると、小麦を栽培する事もできたが、黒竜江省に南下して挹婁(ツングース語話者)になった人々は、魏志挹婁伝に示される様な原初的な農耕者にならざるを得ず、その不満が隋代まで継続していた可能性もある。

縄文前期から大陸の気候は徐々に乾燥化したが、モンゴル高原は草原化した時期が早かったから、縄文晩期寒冷期には草原で羊を飼養する騎馬民族が生れ、モンゴル系騎馬民族も弥生温暖期には生れていたが、湿潤な気候である故に樹林が残っていた満州で、新たにツングース系民族になった人々は、雑穀を栽培しながら豚を飼う以上に生産性が高い生業は見出せなかった。従って満州西部が乾燥化して草原化し、騎馬民族が活躍できる状況になった平安温暖期までは、シベリアから南下した人々が民族的に自立する事は難しかった。

満州に南下してツングース系の言語話者になった人々は、漢代に挹婁と呼ばれ、隋・唐代に靺鞨、宋代以降は女真と呼ばれ、明代に満州族と自称した。挹婁は扶余が彼らに付けた呼称で、靺鞨はモンゴル系民族が呼んでいた呼称だったが、女真(慎)はシベリア事情を知っていたトルコ系民族が付けた呼称だったから、粛慎と同系の名称になったが、他者が彼らを呼ぶ名称でもあった。満州族に至って漸く自分の言語で号を名乗る状況になったから、清王朝を樹立したと推測される。

モンゴル系民族は弥生温暖期に騎馬民族になり、東湖、鮮卑、蒙古などと呼ばれながら活動し、唐や元などの征服王朝を樹立した。彼らより早い時期に登場した騎馬民族の匈奴は、民族系譜が明らかになっていないが、シベリアの民族は縄張り意識が強かったから、モンゴル高原で活動できたのはモンゴル系民族か、シベリアから南下して彼らと共生したトルコ系の栽培民族だけだったとも推測されるが、モンゴル系民族ではなかった可能性もある。

現在のモンゴル人はY-C3Y-O3Y-Nの混成民族にmt-Dmt-Cが浸潤している状態だから、シベリアが寒冷化した縄文晩期に、モンゴル高原にいた狩猟民族Y-C3と栽培系民族Y-O3が遊牧民化し、弥生時代に騎馬民族になったと推測される。

このY-O3は後氷期に沿海部を北上したY-Nとは異なり、内陸をmt-M10と共に北上し、森林系の狩猟民族が集積していたモンゴル高原で、シベリアの民族共生に参加した人々だから、縄文前期まではmt-M10がモンゴル高原の栽培者だった。しかしmt-M10はその後の経済活動の中で、北のY-N民族に拡散した遺伝子だけが残存し、モンゴル高原のmt-M10本体はmt-Cmt-Dに浸潤されて絶えたと推測される事を、縄文人の活動期の項で指摘した。mt-M10は後氷期の北上経路でも、モンゴル高原に定着した後も、栽培技能を高める機会はなかったから、バイカル湖畔のY-N系やY-C3モンゴル人に拡散した際の浸潤力は、mt-Cmt-Dに優る栽培力ではなく、モンゴル高原で森林系の狩猟民族Y-C3と共生していた時代に獲得した、野獣の毛皮を加工する技能だったと想定される。

縄文前期~後期にシベリア経済が活性化していく中で、交易品目の拡大を目指していたツングースが、毛皮着目してmt-M10の加工技能を見出し、その高度化を促したから毛皮がシベリアの特産品になると共に、mt-M10はその頂点となる高級毛皮の加工者になった。森林系狩猟民族Y-C3のペアだったmt-N9aが普及品の加工者に留まったのは、狩猟者のペアとしての仕事が色々あったからで、毛皮の加工者であること以外に何の取柄もないmt-M10は、mt-Cmt-Dに浸潤され易い栽培民族の女性だったから、その技能に全てを賭けるしかなかった事が、その様な結果を招いたと考えられる。産業社会に生きている現代人には、それ以上の説明は必要ないだろう。

この様なmt-M10を生み出した背後に、森林系狩猟民族Y-C3の縄文史が隠されている。トルコ系漁民がアムール川流域からシベリアに拡散した1万年前に、彼らも獣骨を提供する狩猟民の立場を維持したかったが、シベリアの平原は南北誘導するY-C3狩猟民族の縄張りだったから、森林系狩猟民族Y-C3は南部の高原や山岳地に展開した事を示しているからだ。高原や山岳地の河川は川幅が狭く、豊かな漁場ではなかったから、トルコ系漁民の数が少なく、彼らには自分達で漁労を行って食料を調達する必要があった。それによって狩猟を行う時間が制限され、獣骨の生産量が平原の狩猟民族より劣化したから、弓矢の供給が不足して価格が上昇していた縄文早期には、獣骨を弓矢との交換の為に供出すると漁労用が残らず、止む無く石刃鏃を使用する漁労系狩猟民族になったが、縄文前期に関東部族と北陸部族の弓矢の生産量が増えると、その様な状態を脱した後の消息は考古学的に不明だった。しかしmt-M10の登場により、彼らの消息を再現する事ができる。

彼らが石刃鏃を使用していた事は、トルコ系漁民と共生していなかった事を示し、トルコ系漁民は獣骨の生産性が高い、南北誘導するY-C3狩猟民族との交易を重視し、水資源が豊富なシベリア平原に割拠していた事も示している。南北誘導するY-C3狩猟民族は大型獣を捕獲していたから、獣骨や角の生産性は高かったが、それらの動物の毛皮は商品価値が低かったから、モンゴル高原やアムール川の上流域に展開した森林系狩猟民族Y-C3はシベリアの交易が活性化すると、高級毛皮の生産に注力する様になったと考えられる。

その需要を高める為には毛皮の価値を高める高度な加工技術が必要になり、南北誘導するY-C3狩猟民族のペアだった、mt-Aには生産できない高級な毛皮を生産する必要があった。mt-Aと同類のmt-N9aには開発できない高度で手間が掛かる加工技術を、栽培系のmt-M10が実現すると、林系狩猟民族Y-C3はその技能を継承するmt-M10に、存分に活躍してもらう為にそのバックアップに励んだと想定される。つまり高級毛皮の素材になるテンなどの動物を狩り、それをmt-M10の加工工房に送り込む事に注力したと想定される。

騎馬民族の成立には、鉄器時代になって鉄でクツワを作る事が必須要件だったが、Y-C3狩猟民族から転化したモンゴル系民族がその進化に貢献した事が、騎馬民族の成立を速めた可能性がある。クツワやアブミを発明した民族は特定できないが、縄文晩期寒冷期に河川が氷結して高級毛皮の交易路が破壊されると、高級毛皮の生産者になっていたモンゴル系民族が、高級毛皮の市場になっていた西ユーラシアにそれを運ぶ為に、騎乗して長躯する手段を求めた事は間違いないからだ。

ツングースが使用していた河川路は時代の進展と共に次第に干上がり、河川敷が広がっていたから、それを使えば騎馬の機動性が高まり、交易路を復元する事ができただろう。鉄が高価だった縄文晩期寒冷期に、鉄のクツワを入手できたのは富裕な交易者であると共に、その必要性を痛感していた者に限られていた筈だから、彼らの為に鉄のクツワを製作した事が、製鉄技術の進化を促した可能性は無視できない。

別の側面からその事情を説明すると、全ての製品には生産技術が未熟な揺籃期があり、その時代の製品は極めて高価だが、安定した需要がなければ技術の進化は実現しない。鉄が高価だった時代に安定した需要があったとすると、その需要者は高価な商品を扱っていた交易者に帰着するが、シベリアではその代表的な商品が毛皮だった。

高級毛皮の産地がシベリア東南部だった事は、それがモンゴル系の騎馬民族の成立に大きな動機を与えた筈だが、それを以てモンゴル民族が騎馬民族文化の創始者だったとは言えない。製鉄技術が徐々に高度化し、クツワやアブミが普及品になる事によって、羊を飼養する遊牧騎馬民族が生れたと考えられるが、一足飛びにその状態に至る事はなく、文化の発展には段階があったと考える必要がある。

つまり黒海沿岸で製鉄が行われ、クツワやアブミもその脇で製作されていたとすると、その付近にいたY-R民族が廉価になったクツワを使い、騎馬民族という新しい文化を形成した可能性が高いからだ。騎馬民族が飼養した羊は元々Y-R民族の家畜だった事も、騎馬民族の起源は黒海周辺のY-R民族だった事を示唆している。従って黒海周辺で生まれた騎馬遊牧文化が西に拡散し、やがてモンゴル系民族も遊牧騎馬民族になったと推測され、クツワの需要を高めた交易者が、遊牧騎馬民族文化を生み出したのではないとの推測に必然性がある。

水上交易者だったツングースとしては、竹書紀年の五帝時代に息慎が登場し、周代初頭に粛慎が登場する。魏志挹婁伝は満州のツングース系民族と、沿海州の粛慎を区別せずに挹婁と呼び、「(挹婁の居住地は)扶余の東北千余里に在り、大海に浜し、南は北沃沮と接し、未だその北の極まる所を知らない」と沿海州の地理を記しているが、民俗に関する記述は満州にいた農耕民族に関するものしかなく、その中で「古の粛慎氏の国」と記しているから記述が混乱していると言わざるを得ない。東沃沮伝に「挹婁は好んで船に乗って北沃沮を寇鈔する」と記し、沿海州の挹婁は海洋民族だった事を示し、挹婁に関する記述が分散している。

挹婁に関する記述がこの様に分散・混乱しているのは、魏の官僚は沿海州に足を踏み入れた事がなく、吉林省や黒竜江省にいた栽培系の挹婁に関する報告として、其処を訪れた事がある役人の知識に、扶余から聞いた話を加えた役人の報告書を編纂し、挹婁伝にしたからだと考えられる。同じ民族であれば類似した生活様式だったのではないと、勝手に類推した可能性もあるが、陳寿にはそれとは異なる合理的な考え方があった。

魏志沃沮伝は、高句麗王を追って沃沮に侵攻した軍人の報告書の抜粋だから、沃沮から聞いた話として、沿海州の挹婁に関する記載があり、満州にいた挹婁に関する記述は別の報告書の抜粋だった。陳寿は記述の出典を明らかにする事を重視し、東夷伝の構成を一見混乱した様に見える状態にしたが、この編纂方針は陳寿の卓見であると考える必要がある。伝聞事項には不確かな情報も含まれるが、出典を明らかにすれば後世の評価に耐え得るからだ。

魏志東夷伝の挹婁に関する記述がこの様な不条理に陥ったのは、魏の役人も陳寿もシベリアから南下したトルコ系民族は、共生民族である事を知らなかった事も一因であると推測される。高句麗や濊も共生民族だったが、高句麗伝や濊伝にもその認識が示されていないからだ。しかし各民族から聴取した魏の役人の報告を、報告書毎に話を完結させたから、その一見混乱した記述から真の事情を窺う事ができるが、二つの民族が同じ言語を使っていた故に情報が錯綜した挹婁伝には、上記の混乱が生れた。従って以下では満州にいたツングース語話者の共生民族を挹婁とし、沿海州の海洋民族だった挹婁は粛慎と記して区別する。

魏志東夷伝は、沃沮、高句麗、濊の言語は同じであると指摘しているから、彼らは皆トルコ系共生民族で、沃沮は古墳寒冷期にシベリアの河川が寒冷化して漁労ができなくなった故に、東朝鮮湾以北の河川流域に南下した人々だったと想定される。彼らの居住域は川が流れている地域だった筈だから、その北限は豆満江流域かウスリー川流域だったと考えられる。北沃沮はシベリア的な河川漁労を行っていたが、海洋を操船する技能は粛慎より遥かに劣っていたから、沿海州の粛慎に海から襲われていた事になる。

魏志東沃沮伝は、沃沮は農耕民族であるかの様に記述しているが、漁労の話も出てくるから、3民族が揃ってシベリアから南下した共生民族だった事を示唆している。満州などの内陸には漁場になる河川が乏しく、多数の漁民を含む共生民族が南下できたのは、湿潤な沿海部だけだった。それ故に沃沮は、この地への定住を強行したと推測される。その様な沃沮に関する記述には、挹婁の様な蔑視的な記述はないから、シベリアでの生活スタイルを維持してある程度豊かに暮らしていたが、粛慎はトルコ系民族が満州に南下する事を推奨したから、それに従ってツングース語話者になった民族が苦しい生活を強いられていた事を、挹婁伝が示している事になる。粛慎はその指導を無視して南下した沃沮を威嚇し、挹婁になる事を強制していたのではなかろうか。

扶余が挹婁の弓の威力を恐れていた事は、挹婁に狩猟民族が含まれていた事を示しているが、元々ツングースは漁民の単一集団で、狩猟民族は含んでいなかった筈だから、これも挹婁の起源は東シベリアのトルコ系共生民族だった事を示唆している。つまり挹婁はツングースの縄張りに移住したから、シベリアの掟に従って言語を満州の所有者だったツングース語に変え、ツングースの指示に従って扶余を満州から追い出していたと考えられる。

粛慎が挹婁を満州に送り込んだ理由は、扶余が交易路だった松花江や遼河の流域を占拠し、粛慎から高い通行量を徴収して交易利潤をピン撥ねしていたから、その様な暴力的な扶余を軍事的に圧迫し、満州の河川流域から扶余を追放する為だったと考えられる。

この事情を示唆する記述が竹書紀年にあり、周の武王が殷王朝を滅ぼすと、粛慎が周に朝貢し、武王が死ぬと反乱を起こした殷人を、周の成王が鎮圧すると粛慎は周と主従関係を結んだ。この事績は縄文晩期寒冷期の事で、周が満州の交易利権を握っていた殷王朝を倒すと、粛慎はそれを喜んで周王朝に朝貢したが、殷人の反乱によって再び満州が殷人の支配下になったから、周の成王が殷人の反乱を鎮圧すると、粛慎は周の武力に依存する為に主従関係を結んだ事を示している。

しかし周が殷人を華北から追放するのに時間が掛り、やがて周が稲作民と対立する様になると、周の主敵は楚や呉になったから、周は河北から殷人を追放した事に満足するだけで、それ以上には殷人を追撃する事ができなくなった。周に追われた殷人は満州で扶余を建国したが、縄文晩期寒冷期には農耕が振るわず、粛慎の交易利権に干渉できなかったかもしれない。しかし弥生温暖期になると華北は春秋時代になり、周の威勢が衰える一方で扶余が占拠していた吉林省がアワの栽培適地になり、アワの生産性が高まって扶余の人口が増えると、再びツングースの交易路を遮断してその利益を奪ったと考えられる。

河川交易者であるツングースには、暴力的で武断的な扶余に対抗できる武力はなかったから、その状態に耐えるしかなかったが、弥生温暖期が終わって扶余の人口が減少に転じると、シベリアから共生民族を満州に招き入れて扶余の追放を画策し始めた。その為に送り込んだのは、ツングースの参加にあって交易の才覚もある高句麗だった。高句麗は前漢代に南下し、松花江の上流と鴨緑江の支流を繋ぐ交易路を開拓した。その事は、弥生温暖期が終わっていた前漢代になると、冷涼な黒竜江省ではアワの栽培ができなくなり、扶余が吉林省に撤退していた事を意味する。

弥生温暖期に中華世界の経済活動は活性化し、シベリアの物資の需要も高まっていたが、温暖期だった故に扶余の農業生産力も高まって人口が激増していたから、粛慎には満州を占拠した扶余に手が出せず、扶余の言いなりになるしかなかった。しかし弥生温暖期が終わると、黒竜江省はアワの栽培が難しい冷涼な気になり、扶余の人口が激減して勢力が衰える一方で、シベリアでは漁労活動ができなくなったトルコ系の共生民族が激増し、南下を希望する共生民族が多発していた。粛慎はそれらのトルコ系民族を黒竜江省に送り込んで扶余を追放し、高句麗が松花江の上流と鴨緑江の支流を繋ぐ交易路を開拓すると、扶余が未だ占拠していた遼河流域を使わない交易路が完成したが、扶余が黒竜江省に北上する危険性は残存していた。粛慎はそのリスクを軽減する為に、できるだけ多くのトルコ系民族を黒竜江省に送り込みたかったが、それに従わない沃沮がいたから、沃沮に嫌がらせをしていたと推測される。

魏志東夷伝が示す民族分布は、挹婁が扶余を圧迫していた時期の状態を示しているから、魏志挹婁伝は、「(挹婁は)漢代から扶余に臣属しているが、扶余の租賦が重いので、魏代だったAD220年代に叛いた。扶余は何度も討伐した。其の人衆の数は少ないが険しい山に居る上に、隣国の人(扶余)は其の弓矢を恐れているので、征服する事ができなかった。其の国の人は船に乗って寇盜するので、隣国の人はそれを憂いている。」と記している。船に乗って寇盜する事は沃沮伝にも記されているので、此処でも同じ事を繰り返している様に見えるが、隣国の人は沃沮ではなく扶余を指し、其の国の人は挹婁を指しているから、黒竜江省の挹婁には河川漁民も含まれていた事、挹婁になった狩猟民族や栽培民族が彼らの船を使い、扶余の集落を襲撃した事を示している。

魏代には高句麗の活動によって、吉林省を流れる遼河を使わない交易路が生れていたが、古墳寒冷期になったシベリアから、多数のトルコ系共生民族が黒竜江省に南下して来ると、遼河流域の回復にも執着していた粛慎は、扶余を追放する軍事力として多数の挹婁を満州に送り込んだ。彼らは河川を使って吉林省の扶余の集落を襲撃し、陸上でも扶余に対する反乱を仕掛けていた事を、上記の記述が示している。

中華の史書では扶余が滅亡した理由が分からないのは、魏や晋の情報収集力がその程度のものだったからだ。東洋史の研究者は中華の史書を金科玉条の様に崇め、中華の歴史を説明する際に史書を翻訳する様な手法を採るが、農耕民族王朝の情報収集力の限界を勘案しながら、慎重に検証するべきだろう。陳寿は事実の追求に信念を燃やし、官僚の記録から慎重に情報を抜粋したが、陳寿の様に信念に燃えた天才的な史官は稀だから、史書はその前提で読む必要がある。

沃沮が粛慎と親和的ではなかった理由として、シベリア時代の沃沮の故地は息慎集団の縄張りにあり、粛慎集団とは元々疎遠な人々だったからだと想定される。

シベリアはユーラシアの東西交易の要になる地域だったから、河川交易者の活動範囲はかなり広大だった。息慎粛慎は異なる集団だった事を漢字が示しているから、五帝代に渤海交易に従事していた息慎は、シベリアの内陸を交易路とする交易者で、縄文晩期寒冷期以降に登場する粛慎は、内陸の河川を使っていなかった集団、即ち日本海北岸やオホーツク海沿岸を縄張りにしていた、海洋交易集団だったと想定される。

息慎はシベリアの大ツングース組織そのものだったのか、東シベリアを差配する地域集団だったのかは分からないが、粛慎は東西交易を差配する大ツングースの下部組織として、日本海やオホーツク海沿海部の漁民集落を連結する、地域的な海洋交易者だったと想定される。

シベリアは太古に形成された沖積平野で、そこを蛇行しながら流れる大河がツングースの水上交易路になったが、日本海やオホーツク海の沿岸には山岳地が迫り、河川を使う水上交通路は存在し得ない地域だから、物資の流通には海上交易路を使う必要があった。粛慎は海洋交易を担う為に、ツングースとしては特異な技能を進化させ、海洋交易集団になったと想定される。ツングースの縄張りだった沿海部では、高級な敷物になるアシカの皮と、強靭さを必要とする道具の素材になる、アザラシの毛皮を入手できたから、粛慎はその生産者として東西交易を担っていたと想定される。

オホーツク海沿岸は1万年前までツングースの拠点だったから、皮革を得るために海獣を捕獲していたのは、1万年以上前からオホーツク海沿岸にいたツングース系民族で、彼らはY-NY-Qとペアになったmt-Gを栽培者とする共生集団だったが、アシカやアザラシを捕獲する事によって獣肉も得ていたし、獣骨は息慎から交易によって入手する事が可能だったから、共生する狩猟民族はいなかった可能性が高い。弥生時代末期~古墳時代に栄えた道東のオホーツク文化は、その様な人々の痕跡であると考えられ、その文化の興隆を契機に北海道のアイヌに、ツングースの遺伝子であるmt-Yが多量に浸潤した。

アイヌにmt-Yが多量に浸潤したのは、アシカやアザラシの皮を1次加工する技能を、mt-Yが持っていたからだと推測され、関東縄文人にmt-Gが含まれているのは、それらの皮革を最終製品に仕上げる技能者として、関東部族が招いたからだと推測される。アイヌの祖先がその様なオホーツク文化と接する事により、北海道部族内のY-C3遺伝子比率を低下させた可能性も高い。朝鮮半島の遺伝子分布は、シベリアの共生民族の狩猟民族比率は、栽培民族や漁労民族と均等だった事を示唆しているし、縄文早期の北海道にも、石刃鏃文化や弓矢の文化があったからだ。

つまり北海道部族はそれらの皮革の生産で大いに潤ったから、mt-Ymt-Gの比率を高めた事を示している。篠田氏が公表しているデータでは、平安温暖期に重なる擦文時時代にmt-Ymt-Gの比率が低下し、温暖期になって皮革の需要が減少した事と、関東部族が消滅して鎖国的な王朝期になり、海外需要も減少した事を示唆している。平安温暖期が終わってアイヌ時代になると、mt-M7amt-Dなどの栽培系の遺伝子が増えるが、mt-Gの比率が大きく高まった事を示している。それが何を意味するのか明らかではないが、平安温暖期が終わって寒冷化が始まっても、本州では皮革の加工者が温暖期に失われたから、アイヌが最終加工まで行って出荷する為に、mt-Gの技能を必要としたからである可能性があり、北海道部族の遺伝子分布がオホーツク文化の経済的な活況を示していると考える必要がある。

魏志東夷伝に、「扶余、高句麗、沃沮は同じ言語話者だが、挹婁は異なる言語話者である」と記され、高句麗の好太王碑文に、「(高句麗の)始祖は鄒牟(すうむ)、北扶余の出身。鄒牟王天帝で、の神の娘。鄒牟王馬車に乗って扶余の奄利大水(松花江~アムール川)を南下する際、津に臨んで自分の出自(の神の娘)を述べると、亀が浮き上がってそれに答え、沸流谷に渡し場を作ったので、忽本の西の城山の上に都を建てた。」と記され、高句麗の祖先は、シベリアの河川で漁民、狩猟民、栽培民が共生していた、トルコ系民族(北扶余)だった事を示している。また松花江が流れている黒竜江省は、弥生温暖期には扶余の地だった事を示し、高句麗の祖先集団が馬車で黒竜江省を南下した事は、気候が寒冷化すると扶余が黒竜江省から撤退した事を示している。鴨緑江の支流域である忽本の西の城山の上に都を建てた事は、粛慎の助けを得て松花江(~アムール川)を南下し、松花江と鴨緑江を繋ぐ交易路を形成した事を示している。

縄文時代のシベリアでは河川漁民の文化が卓越していたから、共生民族は漁民の言語だったトルコ語の話者になったが、日本海北岸や遼東・朝鮮半島に南下すると、シベリアほどの漁獲は得られなかったから、魏の役人が彼らを栽培系の民族であると誤認する程に、高句麗では栽培者の地位が高まっていた事を示唆しているが、高句麗は軍事国家でもあったから、軍事の中核を担った狩猟民族も重視されていた可能性がある。従って高句麗は天帝を擁する栽培民と狩猟民を主体とする交易集団で、漁民は従属的な存在になったから、母は河の神であると認識していた事になる。

好太王碑に記された「北扶余」の所在地を消去法で探すと、漢代の遼寧省には韓族や漢族がいて、吉林省は扶余の地で、黒竜江省は弥生温暖期まで扶余の地だったから、扶余の奄利大水(松花江~アムール川)を南下した事になる。沿海州は挹婁の縄張りだったから、「北扶余」は現在のシベリアのトルコ系民族の分布域とする以外に、選択肢はない。

複数の史書が高句麗や扶余の出自に言及しているが、それらは他の民族から得た伝聞を記載している、同時代性がないものだから、高句麗が自分の起源を記述した好太王碑文が、唯一絶対の資料になる。魏志東夷伝を編纂した陳寿が、極めて学術的な視点を持っていた事は、(1)魏志倭人伝の項で説明したが、魏志東夷伝と好太王碑文に矛盾がない事も、魏志の信頼性を高める。魏志に先行した魏略には好太王碑文との矛盾があり、多くの史書が魏略や魏略の出典になった論衡を引用している事がその原因だが、魏志はそれらを全く引用していない事も、魏志の信頼性を高める。

歴史の捏造は史記が嚆矢だったのではなく、自説に都合がよい文献の引用は竹書紀年にもあり、周王朝に都合がよい記事を選んで編集し、帝などの用語を差し替えている。しかし竹書紀年の記述には合理性があり、本質的な事績に関する嘘は少ない事を示している。竹書紀年のその様な記述に古代人の誠実さを読み取る事ができると、このHPが主張する「文明は王朝期に劣化した」証拠になる。

高句麗集団がシベリアから南下したのは、粛慎の交易事業をサポートする為だった。満鮮境界の山岳地を根拠地にした事は、漁労民族が活動しにくい地域を選んだ事になるが、高句麗は北魏から渤海の海上交易者であると認定され、南朝の史書も高句麗は船で南京に朝貢したと記しているから、高句麗も漁労民族と共に南下して民族共生の状態を維持していたと考えられる。魏志高句麗伝は「大山深谷多く、原や沢はない。山谷に随って居住し、谷川の水を食べる。」と記しているが、水を食べて生きる事はできないから、谷川の魚を捕獲して食料にしていたと想定され、谷川の水魚を食べるの誤記か、現場を見ていなかった魏の役人が、高句麗人がその様に言った事をその儘、報告書に記したと考えられる。

高句麗が発足時に拠点にした卒本城は、鴨緑江の支流の渾江(こんこう)河畔にあり、その辺りの渾江の川幅は100mほどある。後期の拠点だった丸都は鴨緑江の本流の畔にあり、付近の川幅は300mに及ぶ場所もあり、いずれも流れが緩やかだからシベリア型の河川漁労が可能だった。原や沢は中国人が農地化できる平坦地を指すから、その様な農地がなかった高句麗が、隋代に高い農業生産性を得ていた事に刮目する必要がある。

粛慎が満州に南下した挹婁を交易者にせず、別の北扶余出身の集団を選んで高句麗とし、高句麗は挹婁とは違ってトルコ系の言語話者であり続けたのは、挹婁より交易文化に馴染んでいた集団だった事を示唆している。縄文時代の粛慎にとって利用価値がある交易集団は、交易品の製作集団だったと考えられるから、高句麗の祖先はシベリアで交易品の製作者として活動し、それを粛慎が販売する前歴があったと推測される。

その様な高句麗の祖先の製作物はアシカの皮革だったが、高句麗になった後の主要な交易品はアシカの皮革だけではなく、高級な毛皮やアザラシの皮革なども加わったと想定される。魏志挹婁伝には「赤玉と好貂を出す。今謂う所の挹婁貂は是である。」と記されている。好貂は最高級の貂(テン)である、黒貂の毛皮を指したと推測される。

温暖な縄文時代にはアシカの皮の産地はオホーツク海沿岸だったから、高句麗の祖先はオホーツク海沿岸で、mt-Gが開発した技術で皮革を加工していたが、縄文晩期にmt-M10も受け入れ、毛皮も加工する様になったと想定される。彼らは関東部族と同じ商品の生産者だっただけではなく、販売先が華北である事も同じだったが、販売チャンネルは異なっていた。関東部族はシベリアから1次加工した原材料を仕入れ、関東でmt-M10mt-Gが仕上げ加工を行い、北九州の倭人が華北に販売した。縄文時代に弓矢や塩などの必需品や高級陶器を、獣骨と交換していた商流が漢代以降も継続的に機能し続け、それらに加えて毛皮や皮革も最終需要者に届ける役割を担っていたと考えられる。

ツングースがオホーツク海沿岸の生産者だった高句麗を、満鮮境界の山間地に南下させたのは、彼らがシベリアで既製品を作るより、有望な市場である華北に近い場所で、華北の人々の民族衣装に合わせたオーダー品やセミオーダー品を製作する方が、合理的な生産と販売ができると判断したからだと想定される。

弥生温暖期に農耕の生産性が高まり、弥生時代末期に本格的な鉄器時代になると、商品生産がその様な段階に至った事が一つの理由であり、古墳寒冷期に毛皮などの需要が激増し、両者の販売量が激増すると、北九州の倭人との市場競合が目立つ様になったから、それに対抗する為だったと推測される。突然その様な商流の必要性に気付いたのではなく、それに至る必然性があった事は後述する。

挹婁とは異なり、高句麗がトルコ系の言語話者であり続けた当初の理由は、技術力がある生産集団は文化的な優位者だったからかもしれないが、古墳寒冷期になると華北にトルコ系の栽培民族が続々と南下し、北朝の経済を支えていたから、彼らを重要顧客とする為には、同じ言語話者である必要があった可能性もある。晋が滅亡するまでの華北には、騎馬民族や騎馬民族と共生韓関係にあったトルコ系民族は、理論的には南下できなかったから、史書にはそれらしく記載されているが、華北王朝の北辺は既に騎馬民族に脅かされていたし、トルコ系の栽培民族は気候が冷涼化してアワ栽培ができなくなった地域でも、小麦などを栽培して高い農業生産性を得ていたから、実質的なトルコ系民族の南下は後漢代には始まっていた可能性が高い。

史書が示すトルコ系民族の南下は、唐の安禄山や宋を樹立した趙匡胤の本貫が、河北省~遼寧省だった事が示している。唐代以降に活躍したトルコ系の人々の祖先は、通説ではソグド人と共に西から流入したと説明しているが、趙匡胤の本貫が河北省だった事から推測すると、満州経由のルートが主流だった可能性が高いからでもある。魏志/烏丸鮮卑東夷伝に、「(漢が滅んだ)後、鮮卑の大人軻比能が復た群狄を制御し、匈奴の故地をその盡收め、雲中・五原からそれ以東遼水に至るまで、皆鮮卑の庭にした。塞を犯し辺を寇するは数知れず、幽州と并州は之に苦しんだ」と記されている事がその事情を示している。雲中は内モンゴル自治区フフホト市一帯、五原は現在の内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯だから、比較的湿潤だった内モンゴル東部が漢代の匈奴の故地であり、魏・晋代に鮮卑の庭になっていた事が、その事実を示していると言っても過言ではない。

彼らの更なる南下を食い止めていた魏や西晋が滅ぶと、鮮卑族に保護されたトルコ系栽培民族が大挙して南下する事は、必然的な結果だった。トルコ系民族の南下路には、モンゴル高原を超えて并州(山西)に至るものと、モンゴル高原を東に周回して幽州(河北)に至るものがあったが、シベリアから山西に南下するには標高1000mのモンゴル高原を踏破する必要があり、馬車を使う事は困難だった。しかしモンゴル高原を東に周回すると比較的平坦なルートになり、満州平原を経て河北に至る事ができたから、高句麗の様に馬車を利用して移動していた栽培系民族の多数派は、河北に南下したと推測される。

その際には河川輸送路を確保していた高句麗は、何らかの便宜を提供すると共に、シベリアの技能者を取り込む事が可能性だった。高句麗が滅亡した際に日本に渡来した高句麗人は、栽培系のY-Nmt-Zペアだったと考えられるが、オホーツク海系の栽培者だった高句麗人のオホーツク海時代の栽培系遺伝子は、mt-Gだった筈だから、このmt-Zはシベリアから南下して来た栽培系民族から、高句麗人に浸潤した遺伝子だったと考えられる。

また古墳寒冷期の高句麗の異常な繁栄は、毛皮や海獣の皮革などの交易で得ただけではなく、移民事業にも大いに依存していたと考える必要もあり、高句麗はその移民の中から、高度な商品生産技能を持つ女性達を選別的に取り込む事もできた。韓国に現存するmt-M10mt-Amt-N9aなどの北方系ミトコンドリア遺伝子は、その過程で蓄積されたものだったとすると、その比率の高さを説明できる事もその証拠になる。

魏や晋は漢族の王朝だったから、未だその動きは華北には達していなかったが、魏志東夷伝はその前夜の状況を描写した事になる。

魏志挹婁伝は、「挹婁(粛慎)は扶余の東北千余里(450㎞)に在り、大海に浜し、南は北沃沮と接し、未だその北の極まる所を知らず」と記し、粛慎は日本海北岸の沿海州だけではなく、オホーツク海沿岸も縄張りとする海洋民族だった事を示しているが、扶余の東北千余里と記した吉林省と沿海州の距離感には違和感がある。

東沃沮伝に、沃沮は高句麗に貢納品を「千里担負」すると記されているが、沃沮の南端だった東韓湾沿岸から、高句麗の根拠地だった渾江や鴨緑江中流までの山道は、狼林山脈や妙香山脈の裾を迂回する経路であれば千里(450㎞)に違和感はない。しかし吉林市から沿海州の沿海部に至る経路はこれより遥かに遠いから、魏志挹婁伝の上記の地理感は、扶余から得た曖昧な伝聞事実であって、正確な軍事情報ではなかった。つまり魏が高句麗の拠点だった集安を陥落させ、翌年高句麗王を追って沃沮を征服したが、その軍隊が北沃沮と沿海州の境界まで達した軍路は、楽浪郡から日本海に抜けて沃沮を制圧するものだったから、軍が移動しなかった吉林省と沿海州の距離は、魏には分からなかった事を示している。従って扶余の東北千余里は扶余から得た情報であると推測されるが、沿海州に最も近い距離にある黒竜江省にいた時代の扶余にとっても、東に直線距離で2千余里もあり、軍路としては3千余里以上もあった。

日本海~オホーツク海沿海を航行していた粛慎には、倭人の様な高度な海洋性はなく、天体観測によって距離を測定する技能はなかったから、彼らには日本海と松花江の距離が分からず、従って扶余も分かっていなかった事を示しているが、扶余がその様な短距離であると誤解したのは、粛慎の船の機動性を過小評価していたからだとも考えられる。つまり扶余は黒竜江省や吉林省に侵攻して来る挹婁の中に粛慎も含まれていたと認識し、毎年襲って来る粛慎の居住地が、水路で4千里の彼方にあるとは考えも付かなかったから、精々千余里だと思っていたのではなかろうか。黒竜江省の平原から松花江が流れ出る位置にあるハルビンから、アムール川の河口までの距離が水路で4千里(1700㎞)、北沃沮と粛慎の地の境界が、羅先を河口とする豆満江だったとすると、羅先とアムール川の河口との沿岸距離も4千里あったから、農耕民族の距離感は、海洋民族に距離を教えて貰わない限り不確かなもので、海洋民族の移動距離を過小評価していた事が分かる。

 

1-7 高句麗の交易構造

朝鮮半島の櫛目紋土器の時代が1万年前に始まった事は、ツングースが主導するシベリアの交易文化の開始期と一致し、それが終焉した3500年前は殷人が華北から夏王朝を追放し、殷商王朝を樹立した時期と一致する。従って満州にいた殷人の同族が、ツングースの交易路だった遼河の通行料を収奪するか、交易船を襲って荷物を奪い始めた事により、朝鮮半島西岸に散在していたツングースの痕跡が失われたと考えられる。

息慎はその打開策として、濊に朝鮮半島の横断ルートを開発させたと推測される。

濊は遼東で玉器を生産する加工者として、息慎が送り込んだ集団だったが、共生集団3民族の機動性を発揮すれば、日本海側の東朝鮮湾から川を遡って峠を越え、大同江を下って渤海に抜ける交易路を開拓する事ができたからだ。

ツングースが使っていた縄文人型の船は、板切れに分解する事が可能だから、シベリアの平原を北上する河川を交易路として使いながら、東西に横断する交易路を開設する為には、その様な場所に何度も遭遇していた。従って交易路が丘陵で分離している事は、彼らの交易路としては問題にならなかったから、高句麗の松花江と鴨緑江を結ぶ交易路もその様なルートだった。彼らが荷車を持っていた事と、馬はシベリアの野生動物だった事を勘案すると、荷馬車は彼らが開発した峠を越える手段だったと考えられ、河川を跨ぐ水上交易路を開発する事は、峠を越える道路を開設する事と同義だったと考えられる。殷墟近傍の王墓から発掘された戦車の車輪が、当時のユーラシアで最高の技術水準を示していた事がその傍証になり、シベリアの漁民は船を作る為に木工技術を発達させていた筈だが、アワ栽培者に木工技術があったとは考え難い事がその論理的な根拠になる。

魏志東夷伝が示す濊の北限が東朝鮮湾にあり、濊は極めて交易的な民族だった事が、濊が朝鮮半島の横断ルートを開発したと考える一つの根拠になる。また殷週革命時の粛慎が、殷人勢力の瓦解を喜んだ事は、シベリアの物品は殷王朝期にも交易されていた事を示し、その交易路は濊が開拓した朝鮮半島縦断路だったと推測される事も、その根拠として挙げられる。

好太王碑文に馬車に乗って扶余の奄利大水(松花江)から南下したと記されのは鉄器時代の事だが、青銅器時代だった殷王朝の王墓から優れた車輪を持つ戦車が発掘され、それが同時代の西ユーラシアのものより先進的であると指摘されている事や、縄文中期に中央アジアで農耕を行っていたY-R民族が、車輪が付いた馬車を使っていたと指摘されている事は、青銅器時代に車輪が生れた事を示している。産業力も資本力も乏しかった縄文中期以前の農耕文化圏から、高度な産業の存在を示す荷馬車が生れたとは考え難いが、交易者が峠を越す為に必要だったのであれば、青銅器時代にその技術が生れた事に違和感はなく、ツングースが峠を越える際に荷馬車を使っていた可能性を高める。

馬は氷期にはアメリカ大陸の動物だったが、超温暖期にベーリング陸橋を超えてシベリアに拡散したから、荷馬車の発明者は、ツングースの交易路で峠越えの運送を担っていた、トルコ系民族だった可能性が高いからでもある。

シベリアの共生民族の中で、Y-Nには特定の生業がなかったが、関東部族や北陸部族の中で縄文人が果たした役割を、シベリアではその様なY-Nが果たしていた可能性が高く、交易者の峠越えの労務を担っていたY-Nが、労務の効率化の為に馬車を発明したとすれば、発明の動機と技術の進化過程にも違和感がない。一旦馬車が発明されるとその製作は、トルコ系共生集団の重要な任務になっただろう。

シベリアの漁労民族は船を作る都合上、石器時代から高い木工技能を持っていたが、疎林や草原を栽培地にしていたアワ栽培者に、優れた木工技術があったとは考えられないから、殷人の戦車も殷人が製作したものではなく、シベリアの工人が製作したものである可能性が高く、殷人がその様な戦車を持っていた事が、ツングースからどの程度収奪していたのかを示している。

殷周革命によって殷王朝が滅ぶと、松花江~遼河への交易路が復活した粛慎は周の諸侯になったが、周に迫害された殷人が吉林省に逃れて扶余を再結成し、弥生温暖期になった春秋時代に、吉林省や黒竜江省のアワの収穫が増加して扶余が隆盛になると、粛慎の交易路は再び遮断された。

弥生温暖期が終わって古墳寒冷期に向かう寒冷化が始まると、毛皮や皮革の需要が高まった一方で、扶余の勢力がアワの栽培が不可能になった黒竜江省から、まだアワの栽培が可能だった吉林省に後退したから、粛慎は高句麗集団に黒竜江省を南下させ、松花江の水源地から峠を越えて鴨緑江の支流に荷物を運び、黄海に輸送を繋げるルートを開拓させ、華北への新たな交易ルートを確立した。しかし弥生温暖期が終わる頃に成立した漢王朝は、扶余と親和的だったので、漢王朝期には扶余の軍事力が強化され、粛慎にとっては更に厳しい時代になった。

この時代にはこの二つの事態が並行的に進行していただけではなく、先に述べた様に倭人も北方の物産の交易者であり、濊が形成した朝鮮半島を横断する交易路もあったから、事態は極めて錯綜し、それに起因する紛糾も発生した。

東朝鮮湾から大同江に抜ける交易路を確保していた濊が、粛慎と親和的な集団だったのであれば、粛慎が敢えて高句麗集団を満鮮境界に移住させ、新たな交易路を確立させる必要はなかったが、歴史時代の濊は高句麗と敵対関係にあり、最後には濊を中核勢力としていた新羅が、唐と連携して高句麗を滅ぼした事から考えると、息慎が送り込んだ濊は息慎の為に交易路を開拓したが、縄文晩期寒冷期に息慎が崩壊した際に、濊は粛慎の為の交易者になり切る事ができず、両者の関係は次第に敵対的になっていったからだと考えられる。但しこれは濊と粛慎の利害関係から生まれたのではなく、粛慎の交易方針の稚拙さと、それに振り回された周囲の民族や部族の挙動や思惑が、それを増幅したからだと考えられる。

息慎は内陸の交易者ではあったが、海洋航路としては黄海だけを限定的に航行していたのではなく、フィリッピンにもmt-Y遺伝子を遺す様な海洋航行技能を持っていたから、息慎が健在だった時期には扶余が満州の航路を遮断しても、濊に朝鮮半島を横断する交易路を開発させ、アムール川の河口から東朝鮮湾までの海運は息慎が担ったと想定される。

粛慎にはそれが縄張りの侵害であると感じられ、息慎滅亡後の濊と粛慎の関係を悪化させたとすると、縄文後期から古墳寒冷期までの北東アジアの混沌とした政治情勢を、合理的に解釈する出発点とする事ができる。弓矢交易が崩壊した縄文後期になると、シベリアの交易活動でも経済性を重視し、利益率の向上を求める傾向が高まり、利益の配分過程で利害の対立が生れる状況になった事を、その後の歴史が示唆しているからだ。

縄文後期に農業地域の生産性が高まり、富裕者が生れて奢侈品や高級品の交易が活性化すると、他の海洋民族も利益重視に向かったから、世界同時現象でもあったが、シベリア経済の根幹だった弓矢交易が崩壊した事は、シベリア経済に二重の変革を求める事になった筈だから、激動期でもあったと推測されるが、現在その痕跡は殆ど残されていないから、後世の歴史と他の海洋民族の事情を勘案し、論理的に推測する事しかできない。

ハルビンの東40㎞程にある慶華古城は、粛慎が満州に入るのを阻止する場所として相応しいが、船を使う粛慎が砦を築く理由に乏しい場所だったから、扶余が構築した軍事拠点だったと想定され、弥生温暖期に黒竜江省も扶余の勢力圏になり、粛慎が松花江を使って満州に侵入する事を阻止する拠点だったと考えられる。中緯度地域にある尾瀬の花粉は、前漢代が始まる頃に弥生温暖期が終わった事を示しているが、高緯度地域の寒冷化は尾瀬より早かったと想定される一方、沿海部である日本の気温は、寒冷期に向かう気温の低下が急峻だったと考えられるから、この地域ではほぼグラフ通りの気候変動だったとすると、前漢代初頭に黒竜江省のアワ栽培が難しくなり、扶余の勢力が黒竜江省で減退し始める一方で、シベリアの共生民族の一部には既に南下せざるを得ない状況が生れていたから、粛慎が挹婁集団を結成してハバロフスクから南下し始めていた。慶華古城はその様な挹婁の南下を阻止する拠点として、弥生温暖期の終末期である戦国時代末期~漢代初頭に扶余が形成したとすると、前漢代初期には存在していたとする考古学的な推測と、気候や諸民族の動向が整合する。

魏志挹婁伝に、「(挹婁は)漢代から扶余に臣属する。扶余が重い租賦を課したので、魏代に叛いた。挹婁の人数は少ないが、弓矢の命中率が極めて高く、険しい山にいるので、扶余は征服する事ができなかった。」と記されているが、これらは扶余から聴取した情報だから、扶余が魏の役人に自分達の利益の源泉を正直に申告した筈はなく、交易に疎かった魏の役人には扶余の言葉の裏を読む能力もなかったから、それらも含めた状況証拠は一致している。

扶余が松花江の交易を管理する為であれば、満州平原の南部を流れる松花江の川岸に城を設置した筈だが、慶華古城は松花江が満州平原から流れ出る場所の、松花江から20㎞も離れた山裾にあり、河川交易を管理するのに相応しい場所ではなく、松花江を遡上して黒竜江省を窺う水軍の襲撃から、黒竜江省を守るだけではなく、守備隊の身も守る様な不可思議な地理環境である事も、慶華古城を建設した時期の扶余は挹婁の軍事力に徐々に圧迫されていた事を示している。つまり挹婁の船団が黒竜江省の扶余の集落を襲撃した場合には、その帰路をこの城の守備隊が塞いで船団に打撃を与えるから、軽々しく黒竜江省に出没できない事を警告する為に、この城を築いたと考えられる。

以上を纏めると、弥生温暖期の扶余は黒竜江省にも北上していたが、温暖期の終末期が近づくと黒竜江省の人口が減少し始めたから、慶華古城を建設して黒竜江省を守ったが、急激に寒冷化が進んで黒竜江省ではアワの栽培が不可能になり、前漢代の早い時期に吉林省に後退したと推測される。黒竜江省はそれによって挹婁が占拠する地域になり、挹婁は更に南下する気配を見せたが、扶余に極めて融和的だった漢王朝が成立し、攻撃的な武帝が即位すると、扶余が黒竜江省の挹婁に対して攻撃的な姿勢を示し、松花江の上流域が再び扶余の支配地になった可能性もある。しかし高句麗が前漢代に南下していた事は、高句麗が開発したルートを使う交易が、前漢代に確立していた事を示している。

魏志高句麗伝に、「王莽が初めて高句麗兵を発して胡を伐った。(高句麗は)行かない事を欲したので、(王莽は高句麗を)脅迫して之を遣したが、皆塞から亡出して寇盜を為した。遼西大尹の田譚が之を追撃して殺した。州の郡県はその咎を、句麗侯の騊に帰した。」事から始まる騒動が記され、句麗侯のは王莽の命令で騙し討ちによって殺された。高句麗伝のそれ以降の記述は、高句麗の武闘的な暴虐振りが延々と続くが、どちらに正義があったのかは分からない。いずれにしても高句麗の軍事力が強勢だった事は間違いなく、発足当時の高句麗は、中華世界から見ても軍事組織だった事を示している。

魏志挹婁伝に記された挹婁の未熟な農耕民族的な風貌は、彼らが寒冷な地域の出身者だった事を示してはいるが、深い穴を掘った竪穴住居の中央に便所がある不潔な生活は、豊かな漁獲を得る事ができなくなって切羽詰まった人々の、仮の姿だったと想定される。沃沮の豊かな生活が本来のシベリアでの生活だったとすれば、沃沮は嘗て息慎が支配していた豊かな地域の出身者だった事を示し、挹婁になる事を嫌って日本海北西岸に移住した動機を読み取る事ができる。

魏代には東朝鮮湾を境界にして、南の日本海沿岸が濊の縄張りで、北の日本海沿岸が沃沮の居住地だったから、濊はシベリア時代の故郷の人々でもあった沃沮を、自分達の縄張り内の余剰地域に迎えた可能性が高く、それであれば濊と粛慎の対立感情の根源には、もう少し根深いものがあった事になる。

つまり濊は縄文晩期寒冷期に、故郷から共生集団を日本海沿岸に誘致したが、遅れて南下した北沃沮が沿海州に最も近い場所に定住すると、沃沮のこの地域への定住を快く思わなかった粛慎が、北沃沮に対して嫌がらせの寇略を毎年行った事になる。それは北沃沮に対する単なる嫌がらせではなく、沃沮を自分の縄張りに誘致した、濊に対する対抗意識でもあったと考えられるからだ。高句麗が南下する前後の状態を別の史書から検証する必要があるが、その前に色々な前提状況を確認する必要がある。

竹書紀年は殷週革命によって殷王朝を滅ぼした周の武王の事績に、「周武王十五年、肅慎氏来賓」と記し、息慎ではなく粛慎が交易路の開通を喜んだ事を示し、武王が亡くなると即座に反乱を起こした殷人を成王が鎮圧すると、「成王九年春正月、肅慎氏来朝、王は榮伯を使って肅慎氏に錫を与え、命した(主従関係になった)」と記している。つまり周初に満州を経由して渤海に抜ける交易路を使っていたのは、息慎から粛慎に代わっていた事と、粛慎は扶余が形成される以前から、満州にいた殷人を敵視していた事を示している。

その時代にも高句麗人の祖先が加工品を生産していたとすれば、その歴史は縄文時代に遡り、当初の交易相手はシベリアの共生民族だったとしても、商品経済が発達した縄文後期には、域外の市場を対象とする交易品の生産集団になっていただろう。少なくともアシカの皮革は強力な輸出品になっていた筈だが、mt-M10を取り込んで高級な防寒衣料も製作していたとすれば、その輸出先は華北のアワ栽培民族ではなく、温暖な華南や東南アジアの稲作民族でもなく、黒海やカスピ海沿岸を中心とした西ユーラシアの人々だった可能性が高い。

クロテンの生息地はモンゴル高原の北東部だけではなくオホーツク海沿岸部にもあり、それらの地域にはリンクスの原料になるオオヤマネコもいたし、豊かになったシベリアにはそれらの大市場があったから、毛皮の加工技術を持ったmt-M10の導入は縄文後期には始まっていた可能性が高い。関東部族は縄文早期から女性技能者を導入していたのだから、関東部族と密接に交流していた粛慎が、同様の行動を採らなかったと推測する方が不自然であると考えれば、その時期はもっと早かった可能性も指摘できるだろう。

粛慎はその様な北方の物産を生産する人々の集落を巡回し、生産物を集荷する役割を負った、オホーツク海沿岸や沿海州の海洋交易者だったが、縄文晩期にシベリアの東西交易路が失われて息慎の交易システムが崩壊すると、生産物の販売を担う必要に迫られ、自身の活動範囲である東ユーラシアに市場を求める必要にも迫られた。

その転換過程で関東部族の様に、高句麗人の祖先集団に高級毛皮の加工者だったmt-M10を多数招き入れ、その他にも商品メニューを増やし、中華圏と日本列島を重要市場にしたが、縄文晩期に騎馬民族が出現したから、彼らの主要市場は豊かになった騎馬民族に代わった可能性が高い。その場合に考えられる事は、オホーツク海沿岸の粛慎には騎馬民族を市場とする選択肢があったが、沿海州の粛慎には中華世界の一択しかなかった可能性もある。しかし縄文後期に農耕民族の人口が激増し、気候が冷涼化して農業生産が振るわなかったと言っても、沖積平野は拡大し続けてていたから、中華市場一択であっても巨大市場を狙う事にはなったと考えられる。

縄文晩期の息慎は崩壊過程にあったが、この事情が水上交易に拘っていた息慎系のシベリア民族と、生産物の販売の為に騎馬民族の機動力を活用し始めた、オホーツク海沿岸の粛慎の関係を悪化させていた可能性もある。いずれにしても商流の違いにより、生産者と交易者が対立する関係が縄文後期に生まれ、縄文晩期寒冷期にそれが一気に過激化した事は間違いない。

つまり内陸交易の主要な担務者が水上交易者から騎馬民族に転換する過程で、水上交易者だった故に水上交易組織の維持を図った息慎系のシベリア民族と、毛皮や海獣の皮革の生産者だった故に最も合理的な輸送路の確保に走った粛慎の、利害関係が錯綜したと想定される。しかし息慎は縄文晩期が終わる前に東シベリアから撤退し、粛慎が東北アジアの水辺の生産者を掌握せざるを得なくなったから、オホーツク海沿岸の粛慎の多くは、商品の最大需要者にもなったモンゴル系の騎馬民族との関係を深め、その結果として、息慎の交易体制を完全に崩壊させた可能性が高い。

東アジアの文献は東アジアの水上交易について、縄文晩期には内陸も含めた地域の水上交易は粛慎が担う様になり、弥生温暖期になっても息慎は復活しなかった事を示している。息慎の交易路だった満州も粛慎が支配下に収め、それが古墳寒冷期にも継続していた事が、この事情を示唆している。東アジアは森林が多く、騎馬民族の活動はあまり活発ではなかったが、それでも息慎から粛慎への交代があった事は、草原化して騎馬民族の活動が活発化していた西ユーラシアでも、息慎の交易活動は縄文晩期寒冷期に崩壊し、騎馬民族が交易を担う体制に転換したと考えられる。

東アジアの水上交易者として急浮上した粛慎は、それまでは地域的な生産者を主体とした人々の集まりであり、水上交易者と言っても、地域的な生産者の交易ネットワークを維持していただけ人々だったから、縄文晩期に突然メインプレーヤーになり、生産物の販売も担う様になっても、組織化が状況の変化に追従できなかった可能性が高い。

つまり強力な統一体制の下に結束していたのではなく、沿海州の粛慎とオホーツク海沿岸の粛慎の交易姿勢に温度差があっただけではなく、オホーツク海沿岸の粛慎にも統一性がなかった可能性が高い。沿海州の粛慎は中華世界との交易の最前線に躍り出たが、オホーツク海沿岸の粛慎にはその様な選択肢はなく、商品を買って貰えれば相手は誰でも良い生産者に留まっていたからだ。

その具体的な例示としては、古墳寒冷期に生まれたオホーツク文化の存在がある。地理的な環境や北海道部族の動向を考慮すると、この文化圏のツングースは、関東部族を商品の購入者としていた可能性が高く、その様な関東部族は粛慎・高句麗連合にとって、販売に関する競合者になったからだ。(1)魏志倭人伝の項で、高句麗と邪馬台国連合の間に確執があった事を指摘したが、それがこの結果だった可能性が高い。また高級毛皮の生産に関しても、関東縄文人からmt-M10が発掘されているだけではなく、mt-M10は現代日本人の1%以上を占めているから、彼女達も活発な生産活動を行っていた事になり、沿海州の粛慎と関東部族の関係も競合的だった。しかし高句麗滅亡時に関東部族が多数の亡命者を受け入れた事は、その時期の高句麗と関東部族には親密な関係があった事になり、そのような変化も商流が流動的だった事を示している。

mt-M10が関東に渡来した事情を精査すると、関東部族は粛慎を弓矢交易の窓口にしていた可能性が高く、息慎は北陸部族と関係が深かったから、息慎が育てたmt-M10は本来北陸部族に渡来するのが筋であり、関東部族に渡来した事に違和感があるが、息慎の渤海~黄海ルートは殷人が満州の航路を塞いで失われていたから、それはクロテンやオオヤマネコの毛皮の1次加工品を日本に運ぶルートが失われていた事を意味し、粛慎のルートを使わざるを得なくなっていたからであるとすれば、mt-M10は関東に渡来せざるを得なかった事に繋がる。

つまり縄文晩期寒冷期に寒冷化が厳しくなり、シベリア平原では北極海へ流れる河川の凍結が激しくなり、平原が冬季に水浸しになる状態が生れて息慎の交易路が失われ、息慎の交易システムが機能しなくなると、息慎はmt-M10を粛慎の地に送り込んだが、粛慎の受け入れには限度があったから、クロテンやオオヤマネコの毛皮の1次加工品を送り出す事ができる関東に、粛慎がmt-M10を送り込んだと想定すると、これらの事情は矛盾なく解釈できる。関東部族の支部だった北九州の倭人や九夷が、毛皮の大口需要者であるアワ栽培民族の地域に、効率的な商流を持っていたのに対し、北陸部族は暴力的なアワ栽培民族を嫌って商流は設定しなかった事も、上記の事情に大きな影響を与えたと考えられる。北陸部族はフリッピン越と同盟して絹布の生産に邁進していたから、毛皮の交易には関心が薄かった事も、上記の事情を強めた可能性が高い。

日本にもテンは生息しているが、最上級の毛皮が得られるクロテンではないから、mt-M10の渡来は東シベリアからクロテンやオオヤマネコの1次加工品が輸入される事と、セットだった可能性が高い。それを狩っていたのはモンゴル系のY-C3であり、その交易路を維持していたのは、嘗ては息慎の為に働いていた人々だったと考えられるから、シベリアの狩猟者も含めた生産者と、それを問屋の様に卸す粛慎と、2次加工して最終製品を出荷する関東部族と高句麗がいた事になるが、濊の存在も考慮する必要がある。最終製品の輸送者兼卸業者には、高句麗、濊、北九州の倭があったから、それぞれの思惑が錯綜し、沿海州とオホーツク海沿岸の粛慎の背後には、1次加工品の生産者とその輸送者が散在していたから、それらを粛慎と呼ばれた集団が一元的に統制する状況は生れなかったし、粛慎のそれぞれの地域集団の利害も錯綜し、政治的な纏まりを欠いていたと考えられる。

高句麗集団は漢代に松花江~鴨緑江ルートを使う交易路を開拓し、その輸送路の維持・拡張を目指していたが、気候が冷涼化して中華の毛皮需要が急激に盛り上がった時期だから、本格的な交易集団として活動する為に、2次加工者も兼ねる方向に方針転換した。従って漢代初頭に生まれた高句麗集団が、古墳寒冷になっても同じ系譜の人々によって構成されていたと考える必要はなく、むしろシベリアから増援者が参加して当初の人員構成とは異質なものになる事が、産業社会の常態であるとも言える。つまり好太王碑文は構成員が変質した後の人々の認識を基底として、高句麗の成立史を記録したと考えられ、古代人としては伝承に支障がなかった筈である、600年前の出来事を神話化した事がその事情を示唆している。つまり交易路を建設した主体は粛慎だったが、それを河伯の娘として脇に置き、その後高句麗集団に参加して商品の製造と販売、及び国土防衛に従事した民族を建国主体に仕立てる、創作神話に書き換えた疑いが濃い。

当初の高句麗集団は粛慎の縄張りだった、オホーツク海沿岸から南下した人々によって構成されていたから、栽培系の女性達はmt-Gを主体にしていた筈であり、彼女達が栽培していた穀類の生産性は極めて貧弱だった筈だ。しかし隋代の高句麗は高い農業生産性を示し、高句麗滅亡後に関東に亡命した高句麗集団が、小麦を神聖な食料にしていた事は、どこかの時点で高句麗の農業を担う女性達が変わった事を示している。

古墳寒冷期に華北のアワ栽培が壊滅して西晋が滅亡すると、華北にトルコ系栽培民族が多数流入して農業の生産性を高め、富裕な人々が生れた。この際に生まれた小麦栽培を含む高度な農耕は、トルコ系栽培民族がもたらしたと考えられるが、シベリアに広範囲に拡散していたトルコ系の栽培民族の中で、小麦栽培はシベリア南部の人々が行っていたものだから、華北に小麦栽培をもたらした栽培者は、挹婁とは異なる地域から華北に南下した事になる。彼らがモンゴル高原を周回して満州から河北に南下し、その南下過程で農耕に優れたmt-Zが高句麗に浸潤し、毛皮商品の生産技能に優れていたmt-M10mt-Amt-N9aなども多くの女性達が、その際に追加的に高句麗集団に参加したと推測される。

現代韓国人のミトコンドリア遺伝子には多彩な北方系遺伝子が、無視できない割合で含まれ、それらの遺伝子が遺されている事を示している。その中には濊を起源とする遺伝子も含まれている筈だが、濊は魏志濊伝に2万戸と記され、10余万戸と記された韓族より人口は少なかった。現在の韓国人の多数派は、平安温暖期に流入した漢族だから、現代韓国人に残されている濃密な北方系遺伝子は、濊を起源としていたとは考えられない。但し狩猟系のmt-A+N9aと比較し、栽培系のmt-G+Z比率が極めて低い事は、高句麗や濊の狩猟民族は、栽培系遺伝子の浸潤を受けなかった事と、栽培系遺伝子には大きな流出変動があった事を示している。栽培系でも職人だったmt-Gmt-M10の比率には流出の痕跡がなく、mt-Zの含有率だけが極めて低い事は、穀物栽培者だったmt-Zに限った、特別の流出事情があった事を示している。

それに対する回答としては、高句麗滅亡時に農作業に従事していたY-Nとmt-Zペアだけが、関東に亡命したとの想定が最も有力な仮説になる。高句麗は3民族の共生集団だったから、滅亡時までそれぞれの民族に分かれていた事がその様な事態を招いた事になり、関東に亡命した王の名が中華の史書に記載されていない事とも整合する。

また高句麗は滅亡直前にクーデターが起きて軍事国家化したが、それは軍人の中核を占めていた狩猟民族か、交易を担っていた水上民族が、国家の主導権を得る為に起こしたとの想定に繋がる。つまり高句麗には狩猟系の軍人(mt-A)、栽培系の加工者(mt-G+M10)、栽培系の穀物生産者(mt-Z)、物資を運搬する水上民族(mt-N9a)が民族毎に職掌を分担し、彼らの共生関係によって国家が運営されていた事を示している。

 農耕民族は栽培適地を求めて移動するが、狩猟民族や漁労民族は故地に残留する傾向が高かった事も、この仮説と整合する。当時の関東部族の農耕者は稲作民族になり、稲作地にならない丘陵地は放置していたから、畑作系の高句麗の栽培者を受け入れる余地は十分あったが、狩猟者や漁労者を受け入れる余地はなかったからだ。入植後の高句麗人が集積した埼玉県の高麗郡は、正にその様な地域である事も傍証になるだろう。狛江、駒沢、駒込などの地名も、高句麗人が水田にならない武蔵野台地に定住した痕跡である可能性が高い。

 

1-8 縄文中期~晩期のシベリア経済

氷期には南シベリアの言語だったと推測されるアルタイ系言語の同質性の高さは、ツングースの交易の仕方が、関東部族とは異なっていた事を示している。関東部族の交易相手は東南アジアの島嶼や大陸の諸民族で、交易相手の言語は地域によって異なったから、関東部族もそれに対応する集団に分かれる必要があり、南方派と北方派に分かれていた事は既に指摘したが、南方派は多数の民族と交易を行っていたから、対応する地域や民族に従って組織が細分化されていた可能性がある。

広大なシベリアを交易圏としていたツングースの航路上には、各所に配置したトルコ系漁民が交易拠点を形成し、栽培民族や狩猟民族と共生していたが、これらの共生民族はトルコ語話者になっていた。シベリア古語と呼ばれる言語を使っていた、南北遊動型の狩猟民族の子孫との交易は、トルコ系漁民が仲介していたとすると、ツングースの基本的な交易は、トルコ系漁民やその共生者との対応で賄う事ができた。アルタイ系言語にはツングース系の他にはトルコ系とモンゴル系しかなく、モンゴル系言語は森林系狩猟民族の言語だったと考えられる。但し3民族の共生集団だった濊や高句麗の言語がトルコ系に統一されていた事と、彼らの子孫を含んでいる現代韓国人に、南北遊動型の狩猟民族の遺伝子であるmt-Aと、森林系狩猟民族の遺伝子であるmt-N9aが、類似した比率で遺されている事は、氷期に南北遊動していた狩猟民族も森林系狩猟民族も、トルコ系漁民と交易的に共生すると、トルコ語に同化する者が多かったと想定され、モンゴル語を遺しているのは、トルコ系漁民の数が希薄だった高原地域だったと考えられ、地理感と言語分布も整合する。従って現在もシベリア古語を遺している、南北遊動型の狩猟民族の子孫が多数居住するシベリア北東部も、モンゴル高原と同様にトルコ系漁民の数が希薄な地域だった事になる。

関東部族と北陸部族以外の原日本人とその子孫は、南北遊動していた狩猟民族の古シベリア系言語であるアイヌ系言語を、縄文時代まで使っていたが、関東部族と北陸部族はシベリア時代にアルタイ語族の共通祖先と共生し、5万年前に他の部族に遅れて日本に漂着したから、縄文時代は関東と北陸だけがアルタイ語圏だった。

しかし関東部族と北陸部族が日本列島を代表する海洋民族になり、日本の各地に入植したから、それらが現代日本語の祖語になった。西日本にはアワ栽培者の子孫が多く、関東には関東部族の子孫が多いから、それが西日本方言と関東方言の骨格になったと推測されるが、関東部族や東北部族も縄文後期に西日本に移住し、農耕民族化した弥生時代以降に地域的な方言を形成したから、日本の方言分布は複雑な様相を呈している。

日本語とアルタイ語族は5万年前に分かれたが、それでも近縁言語であると認識できるほどの類似性があり、シベリア系の交易民族は、標準言語の保存に熱心だった事を示している。これは意思疎通を重視した交易民族の特徴であると考えられ、交易性が乏しい農耕民族の言語は方言化し易い事と対比できるが、栽培系の女性が民族内民族を形成して情報交換していた石器時代には、栽培系狩猟民族を含め、現在の様な多様な方言は生れていなかった可能性が高い。

細分化された方言が生れたのは、鉄器時代になって農耕者の主体が男性に代わり、自給自足的な農耕者になって各地に拡散した結果であると考えられる。これが農耕民族化の結果であるとすると、交易社会から農耕民族社会への転換は、自給自足的な農耕者が生れたという経済効果だけではなく、共通文化に関する意識も大きく変わった事を意味する。産業社会に住んでいた古代の人々は、社会全体の動向に高い関心を持つ必要があったが、農耕社会になるとその意識が薄れ、視野の狭い農耕民族になった事を意味するからだ。

シベリアには、ツングース語話者が集積している地域が2カ所あり、一つは粛慎の故地であるオホーツク海を囲むユーラシア北東地域で、もう一つはエニセイ川の中流域にあり、エニセイ川にポドカメンナヤ・ツングースカ川が流れ込んで、ツングースの名前を残している地域にツングース語話者が集積している。

息慎粛慎の名称の違いは、次節に示す様に地域集団を識別する名称だから、息慎の拠点はエニセイ川流域とアムール川流域にあり、粛慎はオホーツク海西岸、沿海州、樺太などに分布し、両者に共通する漢字名であるが、ツングースを示していたと考えられる。但しこれは彼らに与えられた名称漢字であって、彼ら自身が自分達と他者を識別していた言葉だったとは限らない。

ツングースの交易手法は、同質文化を担うトルコ系漁民が必要とする物品を、彼らの拠点に配布する事を主体とし、その交易の起源である縄文人が支給する弓矢、石斧、アサを、狩猟民族や漁労民族に配給し、その対価として狩猟民族が生産した獣骨を回収し、関東部族にその獣骨を支給して必要な物資を一括入手する交易から、大きく変化しなかった事を、長期間継続的に使用された櫛目紋土器が示唆している。

関東部族はその交易に浙江産の塩なども加え、ツングースはシベリア産の毛皮や皮革などを加えただろうが、関東部族や北陸部族が稲作民族との間で展開した多角的な交易は、シベリアで実現する事は難しかった。関東部族や北陸部族の交易は異質な文化圏との交流によって発展させたものであり、温暖な地域の植生が多彩な商品の開発を可能にし、それらが交易を一層活性化させたが、シベリアの冷涼な気候地域では有力商品が生れ難く、主要な交易相手にも変化がなかったから、弓矢産業が最盛期を迎えた縄文中期までは、交易の画期的な変革は生れなかったと想定される。

寒冷なシベリアは植生の豊かさに乏しく、それを加工して得られる工芸品の多彩さにも欠けたが、シベリアの豊かな水資源は安定的で豊富な食料を提供したから、河川漁民は活発な経済活動を展開する事が可能であり、それを広域的に展開する事ができたから、結果的にはユーラシア大陸の東西を結ぶユニークな交易者になった。従って彼らは日本や東南アジアの海洋民族を羨む事はなく、シベリア独自の経済活動を展開したと推測される。

それを歴史的に分解すると、その様な交易手法に目を付けたオホーツク海沿岸のツングースが、獣骨、弓矢、漁労具の交易を基本とする交易ネットワークをシベリアの内陸部に形成し、狩猟民族と栽培民族の共生が各地に生れた事は既に説明したが、それが発展すると各地に地域の商流を統括するトルコ系漁民が登場し、遠隔地を結ぶ交易者だったツングースが、その様な地域商社と交易する広域商社になる事は、経済活動の必然的な結果だった。その交易システムの拡大が縄文中期まで継続した事を、縄文中期の矢尻街道の繁栄が示している。

その様なシベリアの交易では必要な物資の配給が優先され、自由競争的なものではなかった事も、櫛目紋土器が朝鮮半島から北欧まで広がった事が示しているが、その時代が長かった事は商品文化の進化が緩やかだった事も示唆している。日本列島の海洋民族が部族毎に独立した交易集団を結成し、それぞれが多様な民族と交易する為に多彩な商品を開発し、その販売を競った状況とは異なり、広域的な交易者はツングースだけで競争者はなく、交易相手の民族事情に応じて交易の形態を多様化する必要もなかったから、商品の進化や新規発明品の普及は緩慢だったと想定される。

その様な均質的なシベリア社会では、目新しい商品を開発して交易の活性化を目指す事より、遠隔地との交易を担務したツングースがもたらす広域的な情報の価値を重視する、情報社会化が進展したと想定され、その結果としてシベリア言語の均質性が維持されたとも言える。情報を伝達する際に、誰かの発言を原語で伝達する方が、より正確に伝達されるからであり、それを重視する人々は極めて哲学的になり、社会秩序の維持に熱心になっただろう。魏志東夷伝が示す濊の極めて秩序だった社会や、禁忌が多い習俗は、その結果として生まれたものだったと推測される。

トルコ語話者がシベリアの多数派になっても、ツングースが固有言語を維持したのは、その様な情報社会の指導的な民族だったからでもあり、ツングース語がシベリアの共通言語になり、トルコ系民族やモンゴル系民族もツングースと交易を行う際には、ツングース語を使用したからではなかろうか。ツングースが交易の利便性を重視してトルコ語話者になる事は、モンゴル系民族には許せない事態だったとすると、哲学を愛したシベリア人にとって、ツングース語が共通語になる事は必然的な結果だった。

ツングースの交易路が北東シベリアにも及び、ユカギール語やチュクチ語などの古シベリア語系の人々とも交易していたとすれば、ツングース語が公用語になる効果は更に高まった。

その様な交易社会をリードしたツングースが、移動先で地域商社と折衝する際には、情報交換の為の供応が常態化しただろう。それによってツングースは食料の調達に時間を浪費する必要がなくなり、家族で長距離移動する広域交易者になり、共生民族を必要としない漁労民族になると共に、シベリアの東西を長躯する事が可能になったから、息慎はシベリアを一元的に交易する人々になり、それによって得た東西ユーラシアの情報を各地に配布したと想定される。フィリッピンに残されているmt-Yは、その様なツングースの活動の痕跡である可能性もある。

ツングースがこの様な状態になると、シベリア全体の商品開発力は更に低下し、縄文早期にはバルト海沿岸まで進出していた事を、当時の櫛目紋土器が示してはいるが、Y-C1の故地だったカスピ海~ウラル山脈以西では、海洋民族化したY-R1bが台頭すると交易競争に敗退し、彼らの交易圏はオビ川以東に限定される様になったと推測される。Y-C1の縄張りではなかったオビ川流域にはトルコ系漁民が入植していた事を、彼らが南下した現在のトルキスタンの範囲や、現在のトルコ系民族の分布が示しているが、ウラル以西にはY-C3の痕跡は殆ど残されていないからだ。

但しマジャール人の遺伝子にYNY-C3が低頻度ながら見られる事は、彼らが黒海交易に高い興味を持っていた事を示しているから、フィリッピンにmt-Yが遺されている事と併せて考えると、南回りにインド洋を経て地中海に達していた台湾起源の海洋民族と、ユーラシア大陸の西の接点である黒海~地中海でも接し、その状態の維持に高い関心を払っていた可能性が高まり、息慎は南北の交易路が東西で接する地域で情報を集め、それをシベリアの諸民族に提供していた可能性も浮上する。

ハンガリーに入植したY-C3は、母国語を捨ててY-C1言語話者になった事を意味するだけではなく、シベリア系狩猟民族が他民族の縄張りに入植した事になるから、その人にとっても彼らを送り込んだ息慎にとっても画期的な入植だった事を意味し、関東部族が弓矢の増産に邁進し、膨大な需要に応じる事を可能にする生産技術の高度化に苦慮していた頃、その様な事情に煩わされる事がなかった息慎の、向上意欲が向かった先がこの様な状態の達成だったとしても、不思議ではないからだ。

シベリア北部ではエニセイ川流域まで、ウラル語族に分類されるサモエード人が分布しているが、その最も有力な理由は、この地域は嘗てY-C1の縄張りだったからである事になる。つまり氷期~後氷期のY-C1Y-C3より寒冷な地域を縄張りにしたから、後氷期になって狩猟民族が居住できる環境が、シベリア西部の高緯度地域にも生れると、シベリアでも寒冷な高緯度地域はY-C1の縄張りになり、比較的温暖な地域がY-C3の縄張りになったと推測される。現在のサモエード人はY-NY-Qが主体であるのは、鉄器時代になって獣骨の需要が失われると、Y-C1狩猟民族と漁労民族はこの地域から失われ、栽培系民族だけが残ったからだと考えられる。いずれにしてもY-NY-Qが残っている事は、この地域も嘗てはツングースの商圏だった事を示している。

関東部族や北陸部族の交易者はツングースとは異なり、交易路の大半が海上だったから、彼らの旅行途上の食料は、自分達の漁労活動によって賄う必要があった。従ってその観点でも活動の効率性がツングースより劣り、その上に交易相手との言語が異なっていたから、それが円滑な交易活の支障になって交易活動は栽培種や物品の交換に偏り、文化交流の為には技能者をリクルートする必要があった。

しかしツングースはシベリアの情報網を自然発生的に整備し、言語や文化の斉一性を高めたから、櫛目紋土器の広範な普及と長期間の継続に繋がったが、魏志濊伝が示す濊の高貴な精神性を育んだ。しかしそれ故に交易構造が変化してもそれに対する対応力は高まらず、祖先が築いた遺産の上に繫栄を築いた状態になり、縄文晩期寒冷期に未曽有の厄災に襲われると、生産者だった粛慎は活動を継続したのに対し、物流交易一辺倒だった息慎の交易システムは簡単に崩壊してしまった。

この様な事情は現代社会にも頻出し、非効率な猥雑性を含む組織は環境変化に対する対応力があるが、高度に洗練された生産システムや販売システムに依存する老舗企業は、環境変化に対応する変身力が弱体化し、倒産の危機に見舞われるケースが多い。日本の企業経営者はそれを自覚し、新規分野に積極的に参入しながら猥雑性を維持したから、紡績会社が化粧品メーカーに変身したり、フィルムメーカーが多角的な先端企業になったりしたが、その様な事はしないアメリカでは老舗大企業の凋落が珍しくない。

関東部族は多彩な交易によって複数のミトコンドリア遺伝子を導入する事により、部族社会の猥雑性を高めたが、それは交易相手になった大陸民族が多彩だったからであり、それらの女性達が混在した関東では、民族文化が融合すると同時に価値観の混乱も起こり、分裂騒ぎも起こした。しかしシベリアでは栽培系の新規遺伝子を導入する事もなく、諸民族のミトコンドリア遺伝子構成が維持された事を、シベリアに残っている縄文時代初期の遺伝子構造や、高句麗でmt-Zが小麦を栽培していた事が示している。

西ユーラシアのトルコ系民族にmt-Zはいないが、Y遺伝子もY-NではなくY-Rが主体だから、トルコ系漁民が共生する栽培民族として、Y-R系の栽培民族を受け入れた結果である事を示している。つまりオビ川流域のトルコ系漁民はY-R系栽培民族を共生者とし、その中に小麦の栽培者がいたから、エニセイ川流域にいたmt-Zが小麦の栽培技能を弥生温暖期に習得し、古墳寒冷期にモンゴル高原を周回して満州から河北に南下し、中華世界に小麦栽培をもたらしたと想定される。

mt-Zが小麦の栽培者に転身した事はシベリア的な事情であると考えられるが、弥生温暖期は青銅器時代だったから、mt-ZのペアだったY-Nが青銅器の鋤と馬を使って畑を耕し、生産性を高めて農耕の主体者になっていた事が、小麦栽培を導入した主な原因だった可能性もある。弥生温暖期に荊のmt-B4mt-Fが漢族に浸潤した事実もあるが、文明の谷間だった華北と文明の先進地だったシベリアの比較では有効性がない。但し日本に養蚕技術を伝える為に、mt-B5+M7bが渡来したのは弥生温暖期だったであったのであれば、mt-Zが弥生温暖期に小麦の栽培者に転身した事は特徴的な事態だった事になる。

この様なシベリアの人々の均一性は、多彩な特産品を生み出す事には繋がり難かったが、自給自足的な農耕民族とは異なり、関東部族が支給する弓矢、磨製石斧、アサの交易に依存し、それを得る為に獣骨を出荷する必要があったから、極めて活発な交易活に支えられていた。従って特定地域で完結的な商品を作る必要はなく、高度な商品を複数地域の連携によって製作する、高度な製品開発力も保有していた。先に挙げた車輪などはその一例になるが、開発や生産の実態は明らかではない。

生産構造は比較的単純だが分かり易い例として高級毛皮を挙げると、野生動物を狩っていた獣骨の生産者は、毛皮の生産者でもあったから、多少手触りが良い程度の作品はシベリアでは商品になり得なかった。mt-M10mt-Amt-N9aが散在していたシベリアで、希少動物の高級な毛皮を原料とする、高級毛皮の高度な技能者として他者には出来ない技能を駆使し、シベリアを代表する高級商品に仕立てた事になるが、その道程は平坦なものではなかったと考えられる。何を加工の補助材料とし、それを使ってどの様に加工したのか明らかではないが、補助材料や加工情報は息慎の情報網を使えば各地から集める事ができた。それを集積したものがmt-M10の加工技術だったと想定される。

彼女達は現代日本人の1.3%を占めるまでに人口を増やしたから、その数値が彼女達の技能の高さを示している。縄文晩期の関東の人口が、当時の日本全体の10%程度だったとしても、関東部族の10%以上がmt-M10だった事になり、関東では縄文人と漁民の人口が半々だったとしても、関東縄文人の20%以上がmt-M10だった事になるからだ。

縄文晩期に関東に渡来したmt-M10の出身地は、現在もmt-M10を含むモンゴル系民族が居住する、バイカル湖周辺だった事が有力視されているから、mt-M10は元々狩猟者の比率が高く、毛皮の生産量が多かったモンゴル系民族と共生した事により、高級毛皮の加工者になったと想定される。

同時期に亀ヶ岡文化圏に渡来したと想定されるmt-N9aは、現代日本人の4.6%を占め、mt-M103倍以上の人口を擁しているが、彼女達が関東に渡来しなかった事は、東西交易を仕切っていた息慎にとっては、mt-N9aは重要な加工者ではなかった事を示している。mt-N9aの数の多さは、寒冷化した縄文晩期に急激に立ち上がった需要に応える、大衆向けの毛皮の加工者だった事と、シベリアではモンゴル系の狩猟者も縄文晩期に苦しい生活を強いられた事を示しているが、渡来した女性達は盛んに毛皮を生産したから、亀ヶ岡に代表される異色な土偶文化や、独特の土器や漆器が生れ、縄文晩期の文化の牽引者の一角を担った事になる。

mt-N9aは森林系狩猟民族の遺伝子で、mt-M10は栽培系民族の遺伝子だが、どちらもモンゴル系の遺伝子だから、両者が混在する環境では栽培系遺伝子の方が、高度な加工技術者になり易かった事を示し、mt-Gが関東に渡来した事情も、海獣の皮革の加工者だった事を示唆している。栽培系の女性は、栽培技術を高めながら品種を高度化する為に、民族内民族を形成して情報交換を活発に行っていたから、その習俗が加工技術の高度化にも寄与したのではなかろうか。石器時代の男性達は交易に参加していたが、交易活動には厳しい肉体労働を求められたから、男性達には加工技能を習得する肉体的な背景がなく、加工技能は女性が担う事が石器時代の一般的な習俗だったと推測される。

オホーツク文化時代を経た北海道部族の遺伝子に、オホーツク海沿岸で海獣を捕獲していたツングースのmt-Yが多量に流入したが、mt-Gも多量に流入した事が、mt-Gは海獣の皮革の加工者だった事を示している。既に北海道にはヒエがあり、mt-Gが栽培者として浸潤する余地はなかったからだ。縄文時代の関東にはmt-Gしか渡来しなかったのは、その頃のmt-Yには交易者のペアとしての任務があり、加工技能者にはなっていなかった事になり、関東にmt-Yが居なかった事は、mt-G1周期早い縄文晩期寒冷期に関東に渡来した事を示している。

以上の事情をストーリー化すると、mt-M10の故郷だったモンゴル高原は、縄文後期に気候が乾燥して草原に変わり、mt-M10のペアだったY-O3は栽培系の遊牧民になったと考えられる。現在のモンゴル国人の半分がY-O3である事が、その事情を示唆しているが、騎馬民族化していない時期の遊牧民は生産性が低く、日々の食料にも窮する状態だったから、食料を生産しないmt-M10を養う事が困難になり、腕に自信があるmt-M10は毛皮の加工によって食糧難を凌いだが、それ以外のmt-M10は栽培技能に優れたmt-Dmt-Cに浸潤されやすい環境にあった。

縄文晩期にシベリアが寒冷化すると交易環境が破壊され、mt-M10が生産する毛皮の需要が激減した上に、モンゴル人の生活環境が変わって食料の獲得も困難になったから、栽培技能が劣るmt-M10はモンゴル民族として生存する事ができなくなったが、オホーツク海沿岸の食料事情は良好だったから、mt-M10の一部がそちらに移住して毛皮の加工を続け、一部が関東に渡来したと考えられる。息慎が敢えてmt-M10を関東に送り込んだのは、手塩に掛けて育てた高度な加工技術者と認識していたからだ。他の女性達はmt-Cmt-Dに浸潤され、mt-M10は現代モンゴル人の少数遺伝子になった。

現代モンゴル人にはmt-N9aも少ないから、森林系狩猟民族のmt-N9aにも類似した事情が発生し、栽培系のmt-Cmt-Dに浸潤されたと考えられるが、mt-Cmt-Dはもっと早い時期から、森林系狩猟民族に浸潤していた事は既に指摘した。従ってmt-M10のペアだったY-O3に浸潤したのは、その様なmt-Cmt-Dだった可能性もあるが、Y-O3mt-Cmt-Dが浸潤してmt-M10が消滅した事は、森林系狩猟民族に残存していたmt-N9aにも類似した事情が発生した事になる。

その様な事態が発生すると、沿海州を商圏としていた隠岐部族が多数のmt-N9aを青森に送り込み、それによって亀ヶ岡文化が生れた事になり、沿海州から隠岐産の黒曜石で作られた矢尻が多量に発掘される事と、三内丸山遺跡は隠岐部族の縄文人集落だったと想定される事、即ち当時青森に残っていたY-C1mt-N9aが浸潤した事になり、歴史の流れが整合する。

縄文晩期寒冷期になってもバイカル湖畔の漁民には食料事情に余裕があり、毛皮の加工技能があったmt-M10はそこにも浸潤していたから、現在もバイカル湖畔にmt-M10が残存している事になるが、弥生時代に豊かな騎馬民族が生まれて高級毛皮の需要が復活すると、mt-M10の技能が再び脚光を浴びる様になった事を、弥生時代の黒海北岸のスキタイの遺体から、mt-M10が一体見付かった事が示している。

現代モンゴル人のY遺伝子はY-O3Y-C3が半々だから、騎馬民族の起源はY-C3狩猟民族だったのか、牧畜民化したY-O3だったのか検証する必要がある。他の騎馬民族にはトルコ系栽培民族とY-R(スキタイなど)があるが、いずれも栽培系民族で、モンゴル人だけがY-C3を含んでいるから、騎馬民族の起源は牧畜民化したY-O3だった可能性が高い。騎馬民族は草原で羊を飼養するが、牛やトナカイなどの牧畜は栽培系民族の生業だった様に見えるから、その観点でもY-O3が牧畜者から騎馬民族になった可能性が高まる。

既に指摘した様に、クツワを使って馬を制御する事は、Y-C3狩猟民族の発明だった可能性が高いが、羊を飼養する騎馬民族という生業は、栽培系狩猟民族だった黒海周辺のY-Rに起源がある可能性が高く、その文化が伝搬した場合の受容者としても、牧畜業を営んでいたY-O3だった可能性が高い。つまりY-O3が始めた騎馬民族化に、Y-C3も便乗した可能性が高い。

このY-O3はトルコ系漁民とは疎遠な人々だったから、騎馬民族化したモンゴル人は、交易文化を高めたシベリア文化人の直系子孫とは言えない民族だった。言い換えると遊牧騎馬民族文化の起源は栽培系のY-R民族にあり、シベリアの交易文化とは別系統の文化だった。

息慎を失ったシベリアに騎馬民族の文化が急速に広がったのは、情報社会を形成していたトルコ系民族には、息慎に代わる情報提供者が必要であり、それを担っていた交易者の縄張りが、空白状態になっていたからだ。それはY-O3民族でもY-R民族でも構わなかったから、縄文晩期~弥生時代のシベリア西部でトルコ系の栽培民族と共生したのは、Y-R騎馬民族だった可能性が高い。騎馬民族にとっても、騎馬民族がもたらす情報や交易力が穀物などの食料に変わったから、栽培民族との共生は食糧事情の点で大きなメリットがあった。

別の観点から言えば、トルコ系の栽培者だったmt-Zが弥生温暖期に小麦の栽培者になる為には、森林が密生しない乾燥した気候と、騎馬民族の交易的な機動力は不可欠な要素だった。但し共生と言っても居住地が隣接する必要はなく、情報を含む交易的な提携関係があれば十分だったが、栽培者が騎乗技能を獲得しても、それだけで交易的な騎馬民族になれるわけではなく、交易者として活動する複合的な文化が必要だったから、両者の共生には大きなメリットがあったと考える必要がある。

モンゴル高原に生れた揺籃期の騎馬民族だった匈奴は、どの様な民族だったのか謎に包まれているが、文化の伝道者としてY-Rが貴族層を形成し、Y-O3Y-C3が多数を占める混成民族だったとすると、やがてトルコ系栽培民族との共生集団が巨大化し、東湖や鮮卑族などのモンゴル系騎馬民族に代わり、華北への南下圧力を高めたシナリオを無理なく描く事ができる。中華の史書が彼らと戦った騎馬民族の記述に満ちているのは、その背後にトルコ系の栽培民族がいた事に、気付いていなかったからではなかろうか。

 

1-9 粛慎と息慎の関係

息慎は五帝時代最後の帝舜代の記事として、竹書紀年と史記の両方に登場するから、この名称の集団が実在した確度は高い。沿海州にいた粛慎は海洋性のツングースだから、両者が共有しているがツングースである事を示し、息慎は内陸部の集団だったと想定される。縄文晩期寒冷期以降の史書には粛慎しか登場しない事も、この想定と合致する。

漢字名称の命名ルールから、ツングースの組織事情を検証する事ができる。大組織の地域組織の名称に越裳越常があり、語順が同じ句呉、区呉、鹿呉、漆呉などもある。息慎とは語順が逆のは分権的なの集団名で、金印に彫られた倭奴国もこの方式の命名で、倭は100余国に分かれていたから、この語順は分権的な集団の同盟的な帰属を示すものである事が分かる。ツングースと語順が同じ句呉、区呉、鹿呉、漆呉などは荊の分派だった呉の地域名称だから、呉も荊と同様に集権的な集団だったのであれば、統合的な組織内の地域集団の名称だった事になる。

従ってと記されたツングースは統一組織で、粛慎息慎はその組織内の地域集団だった事になるが、均質的なシベリア経済を統括していた交易民族には、相応しい組織形態になる。縄文時代の民族名漢字は殆どが一文字だが、粛慎息慎が二字の民族名である異質性もこの解釈によって解消する。越系民族は漢字を使っていなかったから、越裳越常などの民族名は彼らの自称を音写したものではなく、漢字を使っていた荊や関東部族が、民族名を漢字で表記する為に漢字を付与したものだから、漢字を使っていなかった粛慎にも同様に漢字を割り当てたと考えられ、彼らが「慎」を音で自称していたわけではないと考えられる。

後世のツングースは女真(慎)と呼ばれたが、これにも粛慎息慎と同じ命名則だから、粛慎息慎から始まった名称の継続性を示すと共に、女真粛慎息慎とは統治主体が異なった事を示している。粛慎息慎は漁民の政権だったが、女真の主要な構成員は満州に南下した栽培民と狩猟民だったから、当然の事でもあった。つまり漢代以降の中華人がトルコ語を話す人々を扶余と呼んだから、高句麗は濊の呼称を嫌って自らの出自を北扶余と自称したが、シベリア起源のトルコ系民族の王朝だった宋が、歴史に照らしてツングース語話者をと呼んだ事になる。

以上を纏めると、息慎は縄文後期までシベリアの内陸交易者だったが、縄文晩期に組織が壊滅し、歴史時代のツングースの交易者は沿海州の粛慎だけになったから、一旦は粛慎がツングースの漢字名称になったが、宋代の満州にいたツングース語話者は、自分達は水上交易者だった粛慎の後継者ではないと認識し、宋もそれを認めて改めて女真の名称が付与された事になる。

扶余も一字名称の命名則から外れているが、殷王朝が滅んで周が誕生すると、周は華北から殷人を追放し、追放された人々が扶余になったから、が殷人集団の本来の名称で、はその残党を指したとすれば、この命名則に従っている事になる。

の甲骨文字は二人の男性が並んで立っている形状の象形だが、金文では一人の男性が偏に変わって漢字の原型になった。従って殷王朝期の「夫夫」2大集団から構成されていた華北のトルコ系アワ栽培者を総称し、並んで立っている二人の男性がを表したが、満州に逃れて単一集団になった人々を周が貶める為に、満州に亡命した殷人を孤立無援の集団と見做してに変え、金文では一人の男性を偏に変えて異なる漢字にしてしまったと想定される。つまり殷王朝期の殷人の名称は「夫夫」だったが、周系譜の華北人が満州に逃れた殷人をと書いたから、それが殷人の残党の名称になり、更に「」を追加して亡命政権であると貶めたと推測される。後漢書や魏志東夷伝は「夫餘」と記しているが、扶余の残党が形成した百済が「扶余」を使ったから、現在では扶余が一般的な名称になった。

この民族の名称が余夫ではなく夫余である事も、上記の語順に従っている事になる。つまり殷人には少なくとも2大政権があり、淮夷も存在する状況で分権的な統治を採用していた事を示している。但しこの推測に引用文献があるわけではなく、確証もないから、以降もトルコ系アワ栽培者の一般名称は殷人とする。

トルコ系漁民の拠点を巡回して獣骨を得ていたのは息慎で、沿海部でアシカなどを捕獲していた海洋系の粛慎は、ツングース全体としてとしては主要な交易者ではなかったが、縄文晩期に息慎の組織が崩壊して東シベリアの交易覇権が粛慎に移行すると、関東部族は粛慎と新しい交易関係を形成したとも考えられるが、関東部族の弓矢交易の相手は1万年前から、終始一貫してオホーツク海沿岸を仕切る粛慎だった可能性もある。ツングース全体としては粛慎が母体で、少なくとも弓矢交易が始まった直後は粛慎が関東部族と交易を行っていた筈だから、シベリアの内部まで入り込まなかった関東部族は、1万年前から終始一貫して粛慎を交易相手にしていた可能性が高い。

息慎が太平洋沿岸に出る為の交易路は、1万年前からアムール川~松花江~遼河を経て渤海に至り、朝鮮半島の西岸を経て九州に至るものだったが、アムール川から日本海を経由して九州に至る事も出来たし、その方が水路は短かった可能性が高いから、息慎粛慎の双方がアムール川の下流域は粛慎の領分であると認識していた疑いもある。

1万年前の息慎の祖先しては、12千年~1万年前に突然オホーツク海北岸に登場した関東部族より、後氷期が始まった頃からの長い付き合いだった北陸部族の方が、歴史的な親しみがあったし、シベリアの内陸に拡散した息慎にとっては、関東部族と接した期間は千年程度だったから、関東部族と交易を行っていた粛慎の縄張りは使わずに、敢えて黄海を経由して北陸に渡来した疑いもある。北陸部族が遼河台地からアワ栽培者をリクルートした事や、濊の祖先が遼東に入植して玉器の製作者になった事は、息慎と北陸部族の良好な関係は縄文早期~中期まで継続していた事を示している事も、上記の事情と整合する。

縄文後期の息慎粛慎の関係や、縄文晩期以降の旧息慎系の交易集団と粛慎の関係は、必ずしも良好ではなかった事を後述するが、起源は同じでも経済的な利益が相反すれば、反目する様になる事は歴史の常であるし、その様な場合は個人や細分化された地域集団によって、その度合いに温度差が生れるから、縄文後期以降の北東アジアの歴史はそれを前提に解釈する必要がある。

粛慎と関東部族の関係を検証すると、関東部族がオホーツク海沿岸に弓矢を持ち込む為には、伊予部族の領域だった道南から北海道部族の領域だったオホーツク海沿岸を経由し、その後樺太の沿岸を北上したと想定されるから、粛慎の領域も経由する必要があり、各湊で交流が継続していた事は間違いない。粛慎に帰属する漁民が古墳寒冷期に南下した海獣を捕獲する為に、道東のオホーツク海沿岸や樺太に居住してオホーツク文化を生み出したが、彼らが生産した海獣の皮革の出荷先は、関東部族だった可能性が高い事も、関東部族と粛慎の関係の深さを示している。オホーツク文化については後述する。

但し息慎が健在だった縄文後期に、北海道部族が利尻島で貝貨を製作したが、その使用者は息慎だったと想定されるから、関東部族や北海道部族と粛慎が友好的な関係を維持していただけではなく、息慎と粛慎の関係も良好だった事を示している。この貝貨の詳細については、6、宝貝貨とシベリアの貝貨の章を参照。従って息慎と粛慎の関係が悪化したのは、殷人が満州の河川交易を妨害し始めた、縄文後期末以降の事だったと考えられ、船泊遺跡がBC1500年頃に活動を停止した事と時期が整合する。

粛慎が生み出した高句麗は中華世界を商圏とする毛皮交易を本務とし、邪馬台国連合の中華交易と極めて類似した交易構造を持っていたから、市場で競合した邪馬台国連合の倭人には敵対的だったが、関東に残っていた関東部族(倭人)に対して、同様に敵対的だったとは限らない。むしろ関東にいた関東部族は古墳時代の高句麗に好意的だった事を、高句麗の亡命者の拠点が関東の高麗郡にある事や、新選姓氏録に示される機内の豪族に高句麗系が少ない事が示している。古事記が国譲り説話で政権を握っていた出雲勢力の、高句麗に対する敵意に激しく抗議した事を暗喩している事も、その事情を示唆している。また関東部族は荊と長期に亘る友好関係を築いたが、関東に残った関東部族はその様な部族気質を、古墳時代まで維持していたから、粛慎との関係も重視していた可能性が高い事も、歴史の流れと合致する。

これらを基底にツングースの歴史を構築すると、1万年前にオホーツク海沿岸に残ったツングースが初期の弓矢交易を仕切り、内陸にトルコ系漁民を送り込んで狩猟民族から獣骨を回収し始めたツングースは、その手先の様に働いていたが、内陸のツングースが黒海北岸に至って東西交易を活性化せると、ツングースの主導権が内陸の息慎に移行したと想定され、これは極めて必然的な経済の発展モデルになる。従ってこれを更に敷衍すると、縄文前期に北陸部族や隠岐部族も弓矢交易に参入し、弓矢の供給量が激増して需要が充足される様になると、息慎の交易の中核はトルコ系漁民に弓矢と漁具の素材を配布し、彼らが集めた獣骨を回収する商流に大きく依存する状態になっていた。

しかし縄文後期に青銅気が普及して黒曜石の矢尻が青銅の鏃に変わると、このビジネスモデルが崩壊して経済活動が混乱し、弓矢の授受と獣骨の出荷で太い商流を形成していた息慎粛慎の関係が希薄になる中で、息慎は新たなビジネスモデル構築する必要に迫られたから、この頃経済が活性化し始めていた農耕民族との商業的な交易に注力し、mt-M10を見出して毛皮交易を盛り上げたが、毛皮交易には弓矢交易ほどの市場性はなく、息慎の体質では弓矢交易に代わる巨大なビジネスモデルを生みだす事ができなかったから、ツングース総体としてのビジネスモデルが崩壊過程に入る中で、両者の経済的利害は一致しなくなり、個々の交易では利益相反も生まれていた。弥生温暖期になっても息慎は復活しなかったから、縄文晩期の寒冷化は、ツングースの交易システムの崩壊過程に最後の一撃を与えただけで、真の原因ではなかった疑いが濃い。

この事情を縄文晩期以降の粛慎に当て嵌めると、物流業者に過ぎなかった息慎の組織はあっけなく崩壊し、シベリアの東西交易も崩壊したが、海獣の皮革や毛皮の生産者でもあった粛慎は、それらの商品の新しい市場とそれに向けた交易路を開拓する必要に迫られ、歴史時代の粛慎の活動が生れたと考えられる。つまり縄文晩期以降の粛慎にとって関東部族も濊も、北方の物産の販社にはなったが、いずれの販社も粛慎が抱えていた膨大な生産力を充足できる販売力はなかったから、満州から扶余を追放して巨大市場である中華に直接アクセスする企画を立案し、黒竜江省の扶余の人口が希薄になると挹婁を結成し、黒竜江省が扶余から解放されると高句麗を送り込み、黒竜江省の松花江から鴨緑江に抜ける交易路を開拓させ、販売力の強化に乗り出したと考えられる。

一つの市場に独立した販社を複数設定する事は市場原理に反する行為で、販社間の軋轢を生んで市場が混乱する原因になるが、粛慎はその様な愚かな行為を強引に推し進めた。但しそれは粛慎が蒙昧だったからではなく、殷人の武闘勢力が交易路から無法な利益を収奪する為に、虎視眈々と狙っていた上に、粛慎の居住域は、市場動向を把握できる程に中華世界と近接していなかった事に、大きな原因があった。

縄文後期までは、古代的な交易者が活動する場がユーラシア大陸全域に広がり、シベリアの秩序も維持されていたから、息慎の経済活動も活発に行われ、粛慎は目立つ存在ではなかった。しかし夏王朝期に殷人の勢力が台頭すると、息慎が使っていた松花江や遼河の水路が遮断され、彼らの交易の利益が殷人に奪われ始めた。この様な事態はツングースの交易路だけで起こったのはなく、世界の交易が新しい局面に突入した状況の、一つの局面に過ぎなかった。朝鮮半島の櫛目紋土器の時代がこの頃終わり、それが息慎に関する交易事情を示しているが、西ユーラシアでもクレタ文明が滅亡し、弥生温暖期に暴力的なギリシャ文明が勃興した事が、ユーラシア大陸全域の事情だった事を示唆しているからだ。

縄文後期までは交易者の経済力がユーラシアを支配していたが、縄文晩期になると武闘的な農民勢力が勃興したから、交易活動は武力によって守られる必要が生れ、クレタ文明は暴力によって打倒されたが、粛慎は武力を使って交易路の復活や開拓を企図した。

縄文晩期にシベリア経済が崩壊して息慎が消滅し、粛慎が華北交易を担っても、殷王朝が存続している限り、直接華北にアクセスする事はできず、交易の利益は殷王朝に搾取された。周の武王が殷周革命によって殷王朝を滅ぼすと、喜んだ粛慎が早速武王に朝貢した事が、その事情を示している。武王が死ぬと殷人が反乱を起こしたが、その反乱を成王が鎮圧すると、粛慎は周と主従関係を結んだ事が竹書紀年に記されている。この時代の粛慎には殷人に対抗できる武力がなかったから、周の武力に依存する必要があったからだ。

沿海州の山中には多数の狩猟民族がいたから、彼らを組織化すれば粛慎も強力な武力を備える事ができたが、この時代の狩猟民族にはその様な意識はなく、極めて平和的な人々だったから、粛慎にはそれを企画する事ができなったが、平和な社会を形成していた狩猟民族を軍事組織化する事など、粛慎には想像する事もできなかったのではなかろうか。集団間の武力抗争は農業社会から生まれた文化であり、縄文後期までのシベリアでは漁労の生産性が高く、極めて平和な世界だったからだ。また息慎が形成したシベリア文化は、その様な社会に更に高度な秩序を形成するものだったからだ。

 

1-10 弥生温暖期~平安温期のシベリアと華北

シベリアのトルコ系栽培民族は弥生温暖期になると、騎馬民族と共に南下運動を始めたが、漢代に丁零と呼ばれ、その後は突厥とか鉄勒などと呼ばれ、すべてチュルクの音訳で漢字名称がなく、騎馬民族だった匈奴に漢字名称がある事は、周に統治された春秋時代の漢族が、彼らの南下を阻止していた為だったと考えられる。史記や漢書の記述が正しければ、漢王朝も南下を阻止していたから、華北に南下する事はできなかったが、内モンゴルには南下していた事を魏志烏丸鮮卑伝が示している。

詩経が中華の脅威である北の蛮族が盛んに活動していると記している様に、それらの夷狄が中国の外患になって久しい。秦や漢が成立すると匈奴が害を為したが、武帝の征討によって衰亡した。しかし漢末に烏丸と鮮卑が強盛になると、王朝は反乱があって対応できなかった。後漢の太祖が烏丸と鮮卑を征討すると、辺境は安全になった。その後鮮卑が異民族を統合し、匈奴の故地を手に入れると、内モンゴルと遼河流域も鮮卑の庭になり、幽州(河北省)と并州(山西省)はその侵攻に苦しんだが、魏が鎮圧した。

陳寿は稲作民族系譜の人で、北方の事情に関しては詳しい伝承を得ていなかった事と、秦が中華を統一すると即座に長城を建設した事から推測すると、匈奴に守られたトルコ系の栽培民族の南下圧力が最初に高まったのは、中央アジアや甘粛だったと推測される。小麦を栽培しながら人口を増やしていたとすると、しかし秦は強力な軍隊を用意してそれを阻止していたから、秦漢代のシベリア勢力は南下を阻止されていたが、カザフスタンの北部まで南下していた可能性が高い。

秦は甘粛~キルギス~タジキスタンを領有していたY-R民族の西端集団に過ぎず、このY-R民族は交易集団として南のインダス川河口を経る海路と、カスピ海~黒海に抜ける陸路を使い、荊が生産した絹布を西ユーラシアに運ぶ交易者だったから、強力な軍隊を育成して南下する匈奴と対峙していたと考えられる。中華世界を短期間に征服した軍事力も、その必要性によって準備されていたものだったとすると、歴史に整合性が生れる。

小麦の栽培者になったY-R系トルコ系民族は、カザフスタンから南下する事を目指していたが、彼らと混住して小麦栽培者になったY-Nmt-Zペアのトルコ系民族は中央アジアに南下せず、モンゴル高原を周回して満州から河北への南下を目指したから、高句麗の栽培者がY-Nmt-Zペアになったとすると、Y-R系トルコ系民族は縄文後期に中央アジアが乾燥化すると、シベリアに北上してトルコ系漁民と共生した人々だったから、気候が寒冷化すると祖先の故地である中央アジアへの南下に拘ったが、Y-Nmt-Zペアのトルコ系民族にはその様な拘りがなかったから、モンゴル系騎馬民族と共に内モンゴルや華北への南下を目指した事になるからだ。つまり同じトルコ系民族でもそれぞれに祖先伝承があり、民族系譜が異なる事を認識していたから、その様な違いが生れたと考えられる。

古墳寒冷期が迫ってシベリアが寒冷化しても、トルコ系民族は漢族の王朝だった晋が滅亡するまで華北に南下できなかったが、晋が匈奴の攻撃によって滅亡すると複数の民族が華北に乱入した。その中でも鮮卑(モンゴル系)の勢力が最も強く、彼らと一緒に南下したトルコ系の栽培民族により、南北朝期の華北に先進的な小麦栽培が持ち込まれた。唐王朝の官僚の主要な穀類が小麦だった事が、その事情を示唆しているが、唐代の漢族は依然としてアワを栽培していた。

華北や中央アジアが古墳寒冷期に騎馬民族に征服されると、トルコ系の栽培民族はシベリアから完全撤退し、中緯度地域に南下したから、中央アジアの多数派がY-R系のソグド人からトルコ系に変わった。平安温暖期の末期にモンゴル帝国が台頭し、中華世界と中央アジアや南アジアを支配したが、彼らの政権が崩壊すると中央アジアと南アジアがトルコ系民族の国になった事が、その事情を示している。

トルコ系民族が中央アジアに南下すると即座にイスラム教徒になった事は、彼らには独自の秩序観や統治思想がなかった事を示している。シベリア時代のトルコ系栽培系民族は、漁労民族の秩序観に支配されていたから、農耕民族だけが南下すると、集団の規律を維持する思想が欠けている事に即座に気付いたからではなかろうか。法治主義ではなく宗教に頼ったのは、シベリアの厳しい倫理観が彼らの秩序観の基調を形成している事を、認識していたからだと推測される。その様なトルコ人の姿勢が、イスラム教の在り方に大きな影響を与えた可能性もあるから、トルコ系民族のイスラム教とそれ以外の民族のイスラム教を、同一視しない方が良いのではなかろうか。

唐が滅んでトルコ系民族が宋王朝を樹立すると、華北が小麦の栽培地になった事は、宋王朝が小麦で年貢を納めさせた事により、漢族も小麦栽培に転向せざるを得なかった事を示唆している。唐は騎馬民族の王朝だったので、秦と同様に東西交易を重視して陝西省の長安を都にしたが、宋は水運の利便性を考慮して河南省東部の開封を都にした事も、宋は騎馬民族の王朝ではなく農耕民族の王朝だった事を示し、漢族が生産性の低いアワの栽培に固執している事に、不満と蔑視があった事を示唆している。しかしこれは漢族のmt-Dの琴線に触れる行為だったから、華北のトルコ系民族のその後の歴史に暗い影を投げた疑いが濃い。

トルコ系の栽培民族は長い間騎馬民族と共生し、彼らの情報力と軍事力に依存していたから、むしろ自分達の民族系譜から王朝が生れる事に違和感があった可能性もある。宋がシベリア系の民族だった遼(契丹人/モンゴル系)に毎年絹布と銀を貢納(澶淵の盟)したのは、騎馬民族と農耕民族の共生関係の歴史が、彼らの記憶の中に残存していた事を示唆しているからだ。

しかしその様な経歴を持たなかった金(女真/ツングース系)が台頭し、遼をモンゴル高原から追放して華北にも侵攻したから、宋王朝は華南に後退して南宋を樹立した。但しこれらは政治権力の移行に過ぎず、華北ではトルコ系民族と漢族が農耕を行い、モンゴル高原では蒙古族が遊牧を行っていたと推測されるが、これらの動乱の中でトルコ系民族によって栽培地を失った漢族が、朝鮮半島に流入した疑いがある。朝鮮半島が近世まで小麦の栽培地にならず、アワなどの雑穀の栽培地に留まっていたのは、その様な漢族が朝鮮半島の主要な民族になったからだと考えられるからだ。現在の朝鮮半島の主要な穀物がコメであるのは、日本の統治下で小麦より生産性が高い、日本式の稲作が推奨されたからである事は、記憶に新しい歴史事実だから。

現在の華北にトルコ系民族の遺伝子が少ないのは、周が殷人系譜の民族を排斥したからという単純な図式ではなく、周代にトルコ系民族を排斥する習俗を高めた漢族が、シベリア系の征服王朝が交代する度にそれを発揮し、華北のトルコ系民族を排斥し続けた結果であると推測され、その様な漢族の習性の根底にmt-Dの排他的な性格があったと想定される。その5で詳しく説明するが、宋代に漢族の民族主義が高まった事と、華北の漢族が小麦栽培者になった時期が同期しているから、金や元が華北を征服した動乱にトルコ系民族が、漢族のエスニッククレンジングの被害に遭った可能性が高い。

史書には満州の事情に関する記述が乏しく、その北方のシベリアについては基本情報さえも乏しい。現在も北扶余の子孫が現存しているが、寒冷化と乾燥化に直面して人口が激減し、昔日の面影はないから、民族系譜としての検証も困難な状況にある。

現在のトルコ系Y-N民族の北限である北部ヤクートは、シベリア北部でトナカイを飼育する半遊牧的狩猟民で、南部ヤクートはウマやウシの畜産にも従事している。それが北扶余と呼ばれた民族の現在の北限だが、朝鮮半島にmt-Amt-N9amt-Gmt-M10が残り、漢族が流入する以前にはそれらの遺伝子が高い割合を占めていた事を示しているのは、それがシベリアから南下した人々の遺伝子であり、往時のシベリアにはその様な人々が住んでいた事を示している。

唐代(平安温暖期)に豆莫婁(とうばくろう)と呼ばれた北扶余が、黒竜江省の松花江の支流域で牧畜を行っていたと史書に記されている。現代より温暖だった唐代のシベリアには、多数のトルコ系畜産民族が居住していたと想定されるが、唐の情報網は黒竜江省が北限だったから、北扶余の動静として上記の様な消息が伝えられた事になるが、挹婁の子孫又は遅れて南下したトルコ系民族も、栽培系の畜産民族が主流になっていた事を示唆している。

満州では小麦などの温暖な地域の穀物は栽培できなかったから、畜産を主体とした生業に従事していた事になり、豆莫婁が北扶余であると自称していたのであれば、滅亡した扶余の残党が弥生温暖期に北上したのではなく、ヤクートの様な民族が南下して後世の女真族の一部になった事を示唆している。

満州で彼らの人口が増え、清王朝を樹立するまでに勢力が拡大したのは、高粱(コーリャン)の栽培が伝搬したからである可能性が高い。高粱は熱帯原産の穀物だから植生としての生産性は高いが、耐寒性を高める必要があり、栽培地の北上は緩慢だったから、中国に伝搬したのは唐代だった。戦前の満州に入植した日本人が、満州の主要な穀物は高粱である事を目撃した事は、高粱に目を付けた満州の女真族が満州で栽培できるまでに、高粱を耐寒改良した事を示唆している。

清王朝が生れた1600年代は、平安温暖期が終了して気候が寒冷化し始めた時期だから、平安温暖期に高粱の耐寒改良が完成して高い生産性を獲得し、女真族の人口が爆発的に増えていたとすると、満州族として明代(平安温暖期の末期)に華北に南下する動機があった。満州の北部では気候の冷涼化によって高粱の生産性が低下し、南下圧力が高まったからだ。

しかし彼らの故郷では、近代寒冷期の気候の冷涼化が進展すると、高粱の生産性が満州全域で激減したから、満州は人口希薄な地域になり、20世紀の動乱を経て満州族は消滅してしまった。近代寒冷期になったのは1800年頃だから、清王朝の貴族だった満州族はその頃に、帰る故郷を失った事になる。清王朝が康熙帝・雍正帝・乾隆帝(~1799年)の3代に最盛期を迎えたのは、まだ後背地としての満州が健在だったからで、それ以降の清王朝の凋落は、王朝の武力の背景だった満州の人口が激減したからだとすると、気候変動と歴史の流れが整合する。

 

1-11 仰韶文化を形成したY-Rのその後

Y-Rをこの章で取り上げるのは、縄文中期初頭に殷人の暴力によって甘粛省や青海省に後退させられたY-Rが、縄文晩期~弥生時代の中華の歴史に深く関与したからだ。

六条大麦を栽培するY-R(印欧語族)民族が、縄文前期に陝西省や河南省で仰韶文化を形成したが、現在の西欧では二条大麦を栽培しているので、11千年前に中央アジアに北上したY-Rは東西に分裂し、東に進んだY-Rが仰韶文化を形成した事になる。アワ栽培者の暴力によって縄文中期に華北から追い出され、居住域は青海や甘粛以西に後退したが、馬家窯文化を形成して交易民族の面影を維持した。

縄文後期に中央アジアが乾燥して草原化すると、栽培地を失ったY-Rは周辺地域に拡散したが、青海や甘粛に後退したY-Rはその後も東ユーラシアに留まり、斉家文化を形成した。

縄文人の活動期の項でインダス文明について概説したが、インダス文明圏では9千年前に羊が飼養されていたから、Y-Rの元々の生業は羊の飼養と大麦の栽培で、mt-Zをシベリアから取り込む事によってアワ栽培が追加された。

羊は原生種が絶滅しているので原生地は不明だが、厚い毛を纏っている事から推測すると、原生地は氷期のヒマラヤ山系やカラコルム山系の南麓だった可能性が高い。羊の厚い毛は肉食獣が生存できない寒冷な地域での生存を可能にし、草の根まで食べる習性は寒冷で乾燥した地域に適応し、他の草食獣がいない故に肉食獣も少ない地域の、草食動物だったと推測されるからだ。

氷期のカラコルム山系やヒマラヤ山系の麓はその様な地域だったが、後氷期に温暖化すると冷涼な気候帯は急峻な高山に上昇した。しかし高山に登る事ができない羊の原生種は、生存適地を失しなって絶えたとすると、その様な羊の原生種が生存できた時期は、インド洋が湿潤化した1万年前より遥かに古い時代だから、Y-Rが羊の飼養を始めたのは東ユーラシアの後氷期が始まった、16千年前に遡る事になる。考古学者は出土品で時代考証するが、遺物の発掘には偶然が大きく作用して時期が曖昧になるから、気候変動を加味した方が時期の推測精度は高い。

肉食獣が徘徊する低地で羊を飼養する為には、羊を襲わない犬を飼う必要があった。狩猟民族が犬を飼い始めた時期は明らかではないが、羊を飼養したY-Rに関しては、羊の飼養より犬の家畜化の方が先だったと推測される。

羊も飼養していたY-Rの生産性は、狩猟とアワ栽培に頼っていた殷人より遥かに高かった筈だが、人口密度はアワ栽培者の方が高かった可能性が高い。大麦は生育期間が長い上に連作できないから、栽培地が限定されたが、アワの制約はどちらも緩く可耕地が広かったからだ。粗暴なアワ栽培者がY-Rが飼養していた羊を狙えば、何が起きたのかは明らかだろう。穀類の収穫は1年に一度だが、羊の捕獲は何時でも可能だったからだ。

仰韶文化時代のY-Rが青海省の塩を荊に支給していた事は、大麦栽培者だったY-Rも、塩を必要とするレベルまで生産力を高め、彼らの内需としての流通が始まっていた事が前提になる。つまり荊はその塩のお裾分けを期待し、陝西に北上したと考える必要がある。塩の供給が覚束ない遼河台地にいたアワ栽培者や、塩の供給者だったY-Rを華北から追放したアワ栽培者は、Y-Rのペアが栽培していた大麦より生産性が劣っていた事を、この事情が示している。つまりこの時期のアワの栽培者は、塩の供給を必要としない栽培系狩猟民族の段階に留まっていた事になる。

しかし殷墟から多数の宝貝が発掘された事は、殷王朝期のアワ栽培は生産性を高め、塩の摂取を必要とする段階に至っていた事を示唆している。15千年以上前に始まっていたアワの栽培史から見ると、僅か1500年の間に画期的な生産性の向上を実現した事になるが、それを不可解な事であると切り捨てる事に合理性がある。

アワを栽培していた民族として、西からY-R、殷人、漢族、韓族、濊、北陸部族があったが、これらの民族の中で品種改良の為に種子を交換した可能性が高いのは、韓族や濊と北陸部族で、漢族と北陸部族も可能性があるが、Y-Rと殷人にはなかったと想定されるから、殷人が栽培するアワの生産性は極めて低かった疑いがある。ちなみにY-Rと北陸部族は、息慎を介して種子が交換された可能もあるが、その場合にも殷人は除外されていた可能性が高いからでもある。

縄文後期に夏王朝が成立すると殷人も交易者になったから、その時点で生産性が高いアワの品種を入手できたとすると、この話の一端が示された事になるが、殷墟にいた貴族や富裕な人々は漢族に重税を課し、アワを収奪する事によって塩の多量摂取を必要とする人々になっていた疑いもある。

周が殷王朝を倒して華北の支配者になると、華北のアワ栽培者になった漢族がアワの生産性を高めたから、華北が農業地帯になったと言える状態になったのではなかろうか。しかしBC200年頃の楚漢戦争時に、アワ栽培民族を代表した劉邦の兵の動員力の高さから考えると、男性達はまだ農耕の主体者になっていなかった可能性が高く、華北の粗放なアワ栽培では、その程度の生産性しか得られなかったと推測される。

Y-R民族の話に戻ると、縄文中期の馬家窯文化の精巧な陶器が、活発な商業活動の存在を伺わせ、湖北省に南下してしまった荊の、縄文中期の湖北省の遺跡からトルコ石が発掘される事は、Y-Rは遠路湖北省に赴き、塩の販売を継続していた事を示している。彼らの活動域はシベリア文化圏の南端に接していたから、シベリアの共生民族にも塩を販売していた可能性はあるが、後述する様に夏王朝が成立し、渤海南岸の塩が中華世界を席巻すると斉家文化は衰退したから、縄文後期までは彼らが供給する塩が、山西を経由してシベリアに流れる事はなかったと推測される。シベリアの主要な食料は魚と獣肉だった上に、気候が冷涼な地域の人々は発汗量が少ないから、塩の需要は乏しかったと推測される。

縄文後期の斉家文化圏は陝西省にも拡散し、塩の販売が好調になった事を示しているが、夏王朝が生れて中華の塩の商流が渤海産に統合されると、斉家文化は消滅した。但しこの文化が消滅した事が、Y-Rがこの地域から撤退した事を意味するわけではない。塩の販売量の増大によって豊かな生活を享受できる様になった事と、大麦やアワを栽培しながら羊を飼養する食料の生産性には、直接的な因果関係はなかったからだ。

 

1-12 縄文時代のシベリア文明を、魏代まで遺していた濊

このHPでは新たな物品や製造方法の発明に依って生れた、物質的な豊かさを文化と呼び、社会秩序を維持する為に生まれた倫理体系を文明と呼ぶ。シベリアの人々は高度な社会秩序を形成していたので、それをシベリア文明と呼ぶと、広い意味ではそれを発展させた日本もシベリア文明圏であり、関東部族から海洋文化を受領したインドネシアの海洋民族も、シベリア文明圏の人々になる。

魏志濊伝は、濊の文明度が高句麗より高い事を指摘した上で、「言語法俗、大抵は高句麗と同じ」「「古老は高句麗と同種であると言っている」とも記し、濊と高句麗は同じトルコ系民族だが、出自は違う事を示唆している。濊は玉器の製作者だった、箕子朝鮮の直系子孫であるとも指摘している事は、濊の祖先は縄文中期に遼東に南下し、遼河文化の終末期である紅山文化期のアワ栽培者に、玉器を提供していた事になる。従って漢初に南下した高句麗より3千年早く遼東に南下した事になり、古代人の伝承力の高さに着目する必要がある。現代韓国人は100年前の歴史さえ偽っている事と比較すると、その差の大きさに驚嘆する必要もある。

この話を敷衍すると、民族の歴史を伝承する事がシベリア文明の一つの特徴であり、古老と呼ばれた人達はこの伝承を後世に伝える、特別な役目を負った人達だったと推測される。正しい歴史観は人々の活動に根拠を与え、過去に学ぶ合理的な判断を可能にするから、その様な仕組みも、シベリア文明の一つの特徴だった可能性が高い。

現代人は思い付きの様にポリコレを発明し、それが普遍的な事実である様に喧伝するが、その副作用が激甚である事も経験している。不確かな判断の濫用を防止する一つの知恵が、正しい歴史認識を持つことである事を、このHPの読者は痛感しているだろう。

遼東で産出する翡翠(岫岩)を用いた玉器製作については、「1―13 箕子朝鮮」の節で改めて説明するが、彼らが息慎の手引きで縄文中期初頭に南下し、北陸部族の加工技術を導入して玉器を製作した事は、この時期の息慎と北陸部族は極めて親和的だった事を示している。しかし北陸部部族には軍事力がなかったから、春秋時代に殷人や燕の攻勢を受けると、濊は北九州の倭人と同盟してそれらの民族の侵略に抵抗した事を、北九州の甕棺墓に遺された遺骨に複数のmt-Zが含まれている事が示している。北九州の人々が新羅と親和的だった事も、新羅の軍事力の中核が濊だった事から推測すると、この時期の戦友だった事を機縁に密接な関係を維持していたからだと考える事ができる。

漢民族から暴力的であると評された高句麗は、シベリア文化圏としては辺境にあったオホーツク海沿岸から、シベリア経済の崩壊後に満鮮境界に南下した人々だったから、シベリア経済が活性化していた縄文中期に、シベリア本流の秩序観を持って南下した濊とは、文化意識や秩序観に大きな違いがあった。従って濊の習俗から、シベリア盛時の秩序文化を窺う事ができる。

魏志濊伝は「豹の毛皮、まだら模様の魚の皮、楽浪郡の特産とされいる壇弓は、実は濊の特産物である」と記し、濊は狩猟、漁労、栽培を生業とする3民族が共生する、交易的な集団だった事を示している。魚の皮がどの様な商品価値を持っていたのか、現代人には分かり難いが、当時は衣類の素材の一つだった。

「其の俗は山や川を重視し、山や川には各々が有す部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。」と記し、狩猟民族と漁民にそれぞれの縄張りがあり、その秩序が厳然としていた事を示している。

「性格は生真面目で禁欲的で、恥というものを知り、物乞いはしない。」「同姓は不婚。忌諱が多い。」と記し、縄文前期~中期のシベリアには、互いの生業地域に立ち入る事を許さない厳正な秩序があると共に、人々はその秩序の維持に生真面目に取り組み、それぞれの生業による生計を維持する事によって平和な社会を実現していた事を、忌諱が多い事が示している。

現代韓国人が拘る同姓不婚律は濊が持ち込んだシベリアの倫理観で、アルタイ系言語である朝鮮語は濊の言語系譜だったと考えられるが、朝鮮半島に流入した漢族が多数派になり、直近の千年間漢族に支配された事により、朝鮮半島の諸民族の秩序観や道徳観は極めて農耕民族的になったから、彼らの現在の習俗から往時の濊の倫理観を復元する事はできない。

漢族の大量流入は、朝鮮半島と大陸の民族移動を抑止していた高句麗が、唐と新羅の連合軍によって滅亡した事によって発生し、新羅が滅亡した動乱期に漢族が高麗を樹立し、更に李氏朝鮮を樹立した事によって漢族の半島支配が千年続いた。

現在の韓国人の遺伝子の6割は漢族系で、次に多いのは民族文化が希薄で孤立的な少数民族だった韓族系だから、漢族の王朝が千年間朝鮮半島を支配した事が、この様な結果をもたらしたとも言えるが、濊の子孫は10%に満たないと推測される事も、濊の倫理観が残っていない原因になっているだろう。

夏王朝期の殷人が政治勢力を形成し、息慎の交易路だった遼河や松花江の流域でも勢力を強めると、息慎の物流を阻害してその利益を暴力的に得る様になったから、息慎はその対策として殷人が居ない朝鮮半島に交易路を開拓した。それは東朝鮮湾から河川を遡上して峠を越え、大同江を下って黄海に達する朝鮮半島を横断する交易路で、そのルートの調査と具体的な交易路の形成を濊に依頼したから、濊が形成した箕氏朝鮮の実態は、玉器の製作者ではなく交易路の運営者だったと考えられる。

縄文晩期寒冷期に息慎が消滅すると、その交易は粛慎に引き継がれたが、濊と粛慎は良好な関係を形成できなかった事を複数の史書が示している。

現在の華北に殷人の遺伝子だったY-NY-Qが殆どないのは、凶暴な殷人の王朝が周の武王に倒されると、周王朝が華北から殷人を追放したからだ。それは漢族を屯田兵として華北に展開させ、エスニッククレンジングによって殷人を追放するものだったから、春秋時代の華北は漢族Y-O3が展開する地域になった。周王朝は浙江省起源の製塩業者と、冷涼な山西でアワを栽培した韓族によって構成されていたから、現在の華北にも、それらの遺伝子だったY-O1Y-O2も混在している。

周王朝は濊の様な秩序を持っていたトルコ系民族も、暴力的な殷人と同系譜と見做して白、狄、貊(狛)、濊などと呼んで敵視したから、シベリアが寒冷化しても縄文晩期のトルコ系民族は華北に南下できず、濊も遼西や満州に逃れた殷人の背後の遼東と朝鮮半島に、逼塞するしかなかった。周の権威が凋落した弥生温暖期になっても、周に代って華北の支配者になった漢族が、トルコ系民族の迫害を続けたから、中華圏ではトルコ系民族の集団は消滅した。戦国時代に白狄と呼ばれた集団が河北省の丘陵地に中山国を建国したが、漢族の政権だった趙に滅ぼされた事も、その一例だった。濊も玉器の製作者とは認められなくなったが、その事情には関係なく周の諸侯として朝鮮が存続した事が、その時代の箕氏の実態を示している。

つまり玉器の製作だけに着目すると、殷王朝に一目置かれていた箕氏が玉器を製作していたから、箕子は殷代末期の殷王朝に大きな影響力を持っていた。それを史記と竹書紀年が示しているが、周代になるとトルコ系民族は疎んじられたから、韓族が代わって玉器の製作者になり、朝鮮候も濊から韓族に代わって箕氏は表舞台から引退したから、朝鮮候と記しても箕氏朝鮮と記す史書はない。濊はそれを契機に玉器の加工技術の提供者だった北陸部族と疎遠になったから、北九州の倭人と表立って連携した事を、甕棺墓に遺された遺伝子が示している。

北九州の倭人は、夏王朝期から渤海沿岸で交易を行い、殷王朝期になっても殷人との交易を継続したから、関東部族が提供した宝貝が殷墟から多量に発掘されている。従って濊が朝鮮半島を横断して黄海に持ち込んだ毛皮や皮革の、華北での販売力は北陸部族より関東部族の方が極めて高かった。北陸部族は殷王朝との交易に消極的だったから、北方の物産を売り捌く必要があった濊は、北九州の倭人(殷代は九夷と呼ばれていた)と提携する必然性があり、両者の交易関係は殷代には始まっていたと考えられる。

北九州の倭人はmt-M10を取り込んだ関東部族の販売者として、北方の物産を華北に販売していたが、mt-M10が製作する高級毛皮の生産に特化していたから、濊が粛慎から仕入れて華北に出荷していた毛皮が、mt-Amt-N9aが製作する普及品だったのであれば、九州の倭人は濊と提携する事により、単純に販売メニューを増やす事になり、WIN-WINの関係を形成する事ができた。しかし粛慎もmt-M10を取り込んでいたから、濊のこの方針に不満があった事が、粛慎と濊の関係を悪化させる一つの要因になった可能性もあるが、その様に言い切る事ができる程には、事情は単純ではなかった。

華北の毛皮市場の需要動向を現地で把握していた倭人(九夷)は、その情報を関東部族に提供する事により、高級品を高価格で販売するマーケティング力を得る事ができたが、既成商品を送り込むだけの粛慎・濊の販売チャネルには、高級品市場を形成するマーケティング力はなかったから、仮にmt-M10がオホーツク海沿岸で製作した毛皮の品質が、関東部族のmt-M10が製作したもの同じであっても、華北の人々が好む形状にする事はできなかったから、高級品として売り出す事は難しかった。

それを単純に言えば、シベリアは華北より厳しい寒冷地だから、シベリア風の重厚な防寒衣類は華北では必要なく、その為に多量の毛皮を使って高価なものになっていたとすれば、華北での需要は盛り上がらなかっただろう。北九州の倭人が安価で軽装の毛皮を関東部族のmt-M10に作らせ、アワ栽培者が好む形状も見分けていたとすれば、どちらがより多く売れるのかは自明になる。

濊と粛慎の関係が親密でなければ、濊が粛慎や高句麗の祖先にそれを伝達する事はなく、結果として濊の販売チャンネルではmt-Amt-N9aが製作した、廉価な毛皮だけが売れていたとすれば、濊と九州の倭人は交易の提携によってWin-Winの関係になり、協力関係を深めただろう。クロテンやオオヤマネコを狩っていたモンゴル系狩猟民族も、生産した1次加工品を関東部族と提携していた粛慎に委ねたから、現代日本人の中に1%もmt-M10遺伝子が残っている事になり、粛慎の中にも利害関係が一致しない集団があったと推測される。

偽ブランド品を安く購入している現代人には、ブランドマークに価値があると錯覚している人も多いが、元々そのマークは高品質品の証であり、素人目には類似した商品であっても見る人が見れば、品質の違いは一目瞭然であって、長く使ってみれば耐久性にも差がある商品がブランド品だった。つまり毛皮の玄人が品質を保証する必要があり、その様な玄人を販売市場に投入できるか否かが、マーケティング力の差であると理解すれば話は分かり易い。粛慎・濊の毛皮にはその様な玄人の推奨判断が欠けていたから、高級品であっても普及品として販売する事しかできなかった。一方北九州の倭人は九夷の時代から、しばしば関東のmt-M10の工房を訪れ、品質の見極め方を伝授されていたとすると、この事情の背景が理解できるだろう。

縄文後期温暖期の息慎が、どの様な販売方法で華北市場に向かっていたのか明らかではないが、殷人が満州の河川を塞いだ後に殷王朝が生れ、九夷がその市場に食い込んで上記の販売を始めたとすれば、粛慎にはその様な販売に関する予備知識はなかっただろう。濊の祖先は紅山文化圏のアワ栽培者に多彩な形状の玉を販売したから、濊もその販売に際して類似した販売手法を駆使した筈であり、その観点でも九夷と濊は相性が良い連携者だったが、濊と粛慎の連携が密接でなければ、その販売手法は粛慎には理解できなかった。

粛慎がその不満を解消する為に、最終的に高句麗を送り込む必要性に目覚めたとすると、古墳寒冷期に高句麗が繫栄した理由も理解できるが、この販売競争はその一つ前の寒冷期である、縄文晩期寒冷期には始まっていた。縄文晩期寒冷期に高句麗は存在しなかったが、販売者の競合は既に存在していた。粛慎と関東部族の他にも、亀ヶ岡にmt-N9aを迎え、普及品の毛皮を生産し始めた日本海系の東北部族である、隠岐部族がいたからだ。

隠岐部族の販売チャンネルがどの様なものだったのか明らかではないが、彼らも販売合戦に参加していた事は間違いなく、亀ヶ岡の文化的な繁栄事情を勘案すると、その市場は日本列島内だけではなく、中華世界に及んでいた可能性が高い。しかしその経緯や実態は中華の史書には記されていないから、諸事情から推測するしかない上に話が込み入るから、亀ヶ岡の実態に関しては別の章に譲るが、隠岐部族が発展して生まれた出雲は北九州と同様に新羅を重視したから、亀ヶ岡を中心とした青森西部で生産した普及品の毛皮は、濊を介して日本海から黄海に運ばれ、北九州の倭人が販売していた可能性が高い。

これらの民族の古墳寒冷期の事情を史書参照して説明すると、朝鮮半島は古墳寒冷期の前期に高句麗が優勢になり、沃沮を吸収して商業的に繁栄した。古墳寒冷期の後期に朝鮮半島の三国時代になると、濊は越系民族が形成した新羅王朝に同化し、歴史の表舞台から消えたが、新羅は濊が形成した東朝鮮湾~大同江に抜ける交易路を高句麗から奪還し、高句麗と死闘を繰り返していた。

史書は新羅を、弁辰人を起源とする越系民族の王が統治する国で、王朝の習俗は日本の越系文化国と同じであると記しているが、経済活動は濊に依存していたから、朝鮮語が新羅時代に濊系の言語である、アルタイ語系譜の言語になったと考えられる。

それらを具体的に説明すると、古墳寒冷期の前期の好太王の時代には、高句麗は鴨緑江ルートも大同江ルートも占拠して隆盛を誇っていたが、隋代には新羅軍の中核だった濊は大同江ルートを高句麗から奪回し、新羅の実力者になっていた。それでも新羅王の系譜が濊に変わらなかったのは、濊には複数民族を統治する文化がなかったから、それに優れた越系文化を持っていた弁韓人に、新羅統治を移譲したからだと推測される。当時の先進技術だった弁辰の製鉄は、弁韓人が東南アジアの技術者を招く事によって実現したから、彼らに対するその様な文化コンプレックスも、弁辰人に統治を委ねた大きな理由だったのかもしれない。

濊には朝鮮候を韓族に委譲した前歴があり、韓族を統治する事にも消極的だったから、中華系だった辰韓人も加えた多民族国家を運営する事にも、消極的だった事は間違いない。息慎が形成した均質な情報社会で生まれた濊の民族文化には、多民族の猥雑な主張を包含する許容性がなかった事が、この様な事態を招いた事も指摘できるだろう。

朝鮮半島の三国時代は新羅と唐の連合軍が、百済を滅ぼした事によって半ば終焉し、それによって高句麗が南北から攻撃される状態になると、高句麗が中華の武力から朝鮮半島を守る為に構築した、遼東の防塁群が役に立たなくなって高句麗も滅亡した。高句麗が滅亡してから4年後に日本で壬申の乱が発生し、関東でmt-M10が製作した毛皮が中華市場に送り込まれる事もなくなったから、新羅は高句麗の技能者を吸収して北方交易を独占する事になり、経済的な繁栄を謳歌する状態になったから、新羅語が濊系言語になったと想定する事もできる。

高句麗が滅亡すると遼西や河北から漢族が流入し、やがて朝鮮半島の多数派になったが、この漢族の一部は新羅が労働力として、遼寧や華北から呼び寄せた人達だった疑いがある。多数派の漢族の言語ではなく、少数民族だった濊の言語が統一新羅の標準語になった事情は、異民族との混住に対する許容性が乏しかった濊の、文化力の高さだけでは説明が難しいが、急激増えた商品の物流を捌く必要から漢族を急募し、その荷役労務を監督していた人の言語が濊の言葉だったから、濊の言語が朝鮮半島の標準語になったとすると、歴史の流れに無理がないからだ。

唐が滅亡すると新羅も滅亡して朝鮮半島は再び動乱期になり、華北も動乱状態が続いたが、宋王朝が生れる頃にアワを栽培していた漢族が蔑視され始めると、華北に安住できないと考えた漢族が、先に流入していた漢族の手引きで朝鮮半島に流入したと想定される。元王朝が漢民族という言葉を使い始め、古墳時代に阿利水と呼ばれていた川が、高麗が編纂した三国史記に漢江と記された事が、漢族の民族意識が形成されていた事と、朝鮮半島最大の農業地帯を形成したこの川の流域が、漢族の集積地になっていた事を示しているからだ。

現代日本人が新羅を「しらき」と発音するのは、新羅の発端となった城郭都市である「新羅=新しい羅(大邑)」を、倭人が「白の城=しらき」と呼んでいたからだから、倭人は新羅の本流は濊であると認識していた事になる。「新羅」は弁辰人の拠点だった安羅や加羅とは異なる、弁韓人にとっての新しい羅(拠点)を意味するから、弁辰人はその様な濊の拠点を新羅と呼んだが、それが倭人にとっては濊の拠点である「白の城=しらき」だったから、倭人はそれを「しらき」と呼び、それが国名になっても名称を変えなかった事も、新羅の中核は濊だった事を示している。魏志濊伝は、濊の拠点は東朝鮮湾の南岸にあったと記しているが、高句麗との激闘の中で濊は拠点を南下させる必要があったから、新羅は濊にとっても新しい拠点だった可能性が高いが、その位置は明らかではない。

弁辰人は漢字を使わない民族だったから、弁辰人自身もそれを「しんら」や「しるら」とは呼んでいなかったが、中華世界に向けた漢字文ではその様に表記した。

新羅の支配者は越系民族ではあったが、唐書は「新羅は弁韓の苗裔」であるとしか記していないから、新羅の支配者は大陸から亡命した越人だったとは限らない。弁辰の製鉄者はフィリッピンかインドネシアから来た民族だった事を、韓国人のY-O1mt-M7cが示しているから、新羅王の家系はその民族が輩出した可能性もあるからだ。

魏志濊伝は「魏に朝貢して濊王の称号を貰った者の居処は、民間に雑(居)している。」と記している。つまり濊王の称号を貰った者は特別な権力者ではなく、地域集団の代表者に過ぎなかった。しかし唐書に記された新羅の制度には、隋書に記された倭国(飛鳥/越系文化)と同様の多段階の身分制があり、濊の伝統的な秩序観とは異なるものだった。越系民族と濊がその矛盾をどの様に解決したのか、史書には何も記されていない。

 

1―13 箕子朝鮮

1-13-1 遼東の石材加工者の系譜

遼河文化の終末期である紅山文化(BC4700年~BC2900年)期は、仰韶文化、龍山文化、良渚文化、馬家窯文化との並行期(縄文中期)になり、この文化圏に特徴的な玉器と彩陶が発掘されている。龍の彫刻が施されたものを多数含む多彩な玉器は、文化の先進性を示しているが、この文化圏から発掘される彩陶は、仰韶文化のものと比較すると稚拙感が否めないし、龍山文化の精緻な黒陶や馬家窯文化の精緻な文様を持つ陶器と比較すると、稚拙感は更に高まる。紅山文化圏の精緻な玉器と稚拙な彩陶の技術的なアンバランスは、仰韶文化圏に土器を供給していた荊とは交易関係がなく、北陸縄文人の石材加工技術が伝搬していた、遼東で作られた高度な玉器が持ち込まれた事を示している。つまり荊・関東部族の交易圏だった馬家窯文化圏や龍山文化圏と、息慎・北陸部族の交易圏だった紅山文化圏の違いを示している。

岡村秀典氏は「中国文明 農業と礼制の考古学」(京都大学学術出版会:2008年)で、以下の様に指摘している。

山東半島と遼東半島の距離は100kmほどで、間に廟島列島が点在しているから、船で島伝いに往来する事は可能だが、BC3000年以前には交流の痕跡は見えない。遼東半島には岫岩と呼ばれる玉器の原石の産地があり、(産出量が豊富なので現在中国玉器の60%のシェアを占めている。) 遼東では前5千年紀(縄文前期前葉)から、岫岩を用いて小型の斧や鑿などを作っていたが、加工技術は未熟なままで石器の代用品としての用途に留まり、玉の美しさを生かした装身具は作られなかった。

BC3000年~BC2000年(紅山文化山後期/山東龍山文化期/縄文中期後半~後期前半)になると、山東特有の土器が遼東半島に運ばれると共に、遼東半島で産出する岫岩を加工し、玉器を作り始めた。加工技術には良渚文化の影響が見られ、遼東半島先端の大連の遺跡から、完成した玉器の他に十数点の仕損品が発掘され、玉器の製作工房があった事を示している。

BC3000年~BC2000は良渚文化(~BC2500年)の終末期とそれ以降の時期になり、玉器生産の隆盛は浙江省の良渚文化圏の動向とは一致しない。縄文中期寒冷期に、浙江省の稲作民が山東に北上したとは考え難いし、縄文後期温暖期(BC2500年~)の初頭に、荊が河南省東部に北上した時期とも一致しないから、良渚文化の影響が見られる玉器の製作技術は、良渚文化を担った人が山東に北上した事によって生まれたのではなく、北陸縄文人から技術移転を受けた他の民族が、玉器を製作していた可能性が高い。従って玉器の製作工房を運営したのは、箕子朝鮮の祖先集団だったと推測される。

箕子の初出は史記と竹書紀年にあり、両史書は共に殷末(BC1100年頃)の殷墟にいた箕子が、「殷の紂王に囚われた」と記している。魏略は箕子朝鮮について、「昔の箕子の後嗣が朝鮮侯になり、春秋戦国時代の遼東に居たが、燕や秦に圧迫されて遼東の領土を蚕食された」と記しているが、魏志濊伝は「昔の箕子はに朝鮮に帰り、四十余世を経た朝鮮侯の準が王を称したが、秦末に陳勝が反乱を起こすと、燕、斉、趙の民数万人が朝鮮に流入し、燕人の衛満がその王になった。」と記して、魏略の記述から朝鮮侯箕子の後嗣であるとの記述を落とし、燕人の衛満は朝鮮に流入した数万人の燕、斉、趙の民の王になったのであって、箕氏や濊の王になったとは記していない。

魏志韓伝はその続きとして、「朝鮮侯の準は燕人の衛満に攻撃されると、宮人を率いて海路馬韓に逃げ、自ら韓王と号したがその子孫は絶えた。韓族の中には、いまだに箕子の祭祀を奉じている者がいる。」「(韓族は)珠玉を財宝として衣服を飾り、首や耳を飾るが、金や銀の縫い取りのある綾絹を珍重しない」と指摘し、シベリア起源の民族である扶余、高句麗、濊が金銀を重視する状況とは異なった価値観を持っていると指摘している。従って縄文中期後半の遼東で岫岩を加工し、玉器を作り始めた箕子朝鮮は韓族だったと考えたくなるが、陳寿が魏略から朝鮮侯は箕子の後嗣であるとの記述を落とし、魏志韓伝にその続きとして「朝鮮侯の準は燕人の衛満に攻撃されると、馬韓に逃げて韓王と号した」と記したのは、朝鮮侯の準は韓族に代わっていた事を示したかったからだ。

魏志濊伝は「濊が箕子朝鮮の正統な後継者である」と指摘しているが、玉器の製作集団だった事を連想させる記述はない。魏の官僚の報告書をまとめた陳寿もそれを不思議に思ったらしく、「濊は珠玉を以て宝と為さず」とわざわざ注釈している。文明度が高かった濊は、殷末の文明集団だった箕子朝鮮の後継集団に相応しい民族であり、多分濊の古老もその様に言っていたから、魏の官僚も不思議に思いながら報告書にその様に注釈し、陳寿もそれを尤もな疑いとして、魏志濊伝に転記したと想定される。中華の史書にはあまり見られない合理的な思考を示しているが、陳寿だけではなく魏の官僚にもその様な思考力があったから、報告書にその様に記した事になる。

魏の官僚が韓族の文明度を酷評し、濊とは対極的な未開民族として描写しているのは、文明度が低い韓族が箕子朝鮮の正統な後継者であるとは、到底思えなかったからだと推測されるが、魏の役人と異なる視点からそれを概観すると、彼らの観察眼の鋭さも明らかになる。

高句麗も濊もシベリア交易に参加していた民族だから、シベリア交易で用いられていた財貨である金銀を重視したが、その交易から疎外されていた韓族にはその認識がなく、周代~春秋時代に加工集団になった玉器を、依然として財貨にしていた事になる。つまり周は宝貝貨を財貨にしていたが、春秋時代に宝貝の財貨性は失われ、黄河下流域では刀銭や布銭などの青銅貨が使われたから、黄河流域には金銀を財貨とする認識が広まっていなかった時代の財貨認識を、韓族が維持していた事になる。韓族は秦末に遼東を追い出されたから、岫岩の加工集団ではなくなってから400年以上を経ていたが、それでも春秋時代の価値観を遺していた事になり、交易から疎外されていた韓族の当世事情を示している。

史記は朝鮮の歴史を衛満が王になった衛氏朝鮮から記し、それ以前の朝鮮を未開の地として箕子朝鮮の存在を抹殺した。しかし殷末に箕子がいた事は認めているから、漢書の著者はそれでは捏造が過ぎて話が矛盾すると考え、「武帝が玄菟と楽浪を置いた時は、朝鮮、濊貉、句驪(高句麗)は皆蛮夷だった。殷道が衰えると箕子が之の朝鮮に去り、其の民に礼義を教えた。」と誤魔化し、箕子の存在と箕子朝鮮の高度な文化を渋々認めたが、高度な文化は殷人の箕子が教えたものであって、周代に生まれたものであったかの様に取り繕ったが、嘘で嘘を上塗りしても史記の矛盾を完全に解消する事はできなかった。ちなみに漢書地理志は「殷道が衰えるとxxx」との表現を他にも使い、殷が偉大な王朝であったかの様に印象付けている。漢書の意図が透けて見える表現であるが、その詳細は後述する。漢王朝の実態についてはその2を参照。

魏・晋代になると魏略や魏志が史記史観の嘘を暴いたが、魏志に先行した魏略は真実の把握が不十分だったから、陳寿がその啓蒙思想を完成させたとも言える。東洋史家と称する人達にはそれに関する配慮がなく、無前提に史書や漢書を引用し、歴史解釈を混乱させている事には猛省の必要がある。

以上から言える事は、殷代までは箕氏朝鮮とそれを代表する箕子がいて、殷王朝に影響力を行使しながら玉器を製作していたが、周代になると箕氏は玉器の製作者ではなくなり、東朝鮮湾~大同江流域の交易者になった。それに従って周代の朝鮮は、韓族が経営する玉器の製作集団になり、氏朝鮮とは言えない状態になった。それ故に魏志は朝鮮侯のと記し、魏略も「箕準」とは記していない。濊伝は「大なる君長なし。其の官に候邑君、三老あり。」と記し、濊は3民族の共生集団で、上位者として候邑君はいたが王の様な強い権力者ではなく、シベリアの秩序観がどの様なものだったのかを示唆している。

 

1-13-2 濊の歴史

遼河台地の縄文中期の遺跡である紅山文化圏から、濊の祖先が製作したと想定される、多彩な玉器が多数発掘されている。濊の祖先が玉器の製作者になった目的は、荊が高級陶器を製作したのと同様に、アワ栽培者から獣骨を得る為の商品製作だったのか、シベリアの富裕な交易者のために制作したものの一部が、紅山文化圏にも流れたのかについて、判断できる証拠はないが、岫岩の産出量は日本や台湾の蛇紋岩ほど多くはないから、石斧を量産する傍らで玉器も製作したとは考え難く、玉器の製作者になる為に遼東に入植したと考えられる。

紅山文化圏から発掘される多彩な形状の玉器は、多数の円形穿孔と複雑な曲面の鏡面研磨に特徴があり、北陸部族の研磨剤を駆使する石材加工技術が移転した事を示唆している。磨製石斧も発掘され、その中に北陸縄文人が製作しなかった鑽孔石斧が含まれている。濊にはウルシがなく、ウルシで石斧の柄を固着する事ができなかったから、濊が製作した石斧には鑽孔が必要だった事は間違いないが、これは台湾系の磨製石斧の形状だから、越系交易圏の石斧として鑽孔石斧が流通していた事を示している。従って台湾の海洋民族も、この交易圏から得られる獣骨の需要者だった事を示唆している。インドネシアに南下した海洋民族は、インド洋沿岸で獣骨を調達する事ができたが、台湾やフィリッピンの海洋民族には遼東半島の方が近かったから、紅山文化圏の鑽孔石斧が、彼らも東アジアで獣骨を調達していた事を示しているとも言える。

紅山文化の玉器の出土状況時期から推測すると、濊の祖先は縄文前期末~中期初頭に遼東に移住したと考えられるが、沿海州の6千年前(縄文前期)の遺跡であるチョールタヴィ・ヴァロータ洞穴から、北陸産と思われる石製装飾品が発掘されているから、北陸縄文人は粛慎とも交易関係にあった事を示し、北陸縄文人も息慎粛慎の双方と交易関係を持っていた事になる。隠岐部族も沿海州と交易していた事を、沿海州から発掘される隠岐産の黒曜石が示しているから、台湾と日本列島の海洋民族は、シベリア~華南の大陸民族と複雑な交易関係を形成していた事になる。

縄文後期になると大陸の諸民族は、特定の海洋民族との連携を強化したから、各海洋民族の商圏が固定化した様に見えるが、縄文中期まではその様な傾向は希薄で、各民族がそれぞれ得意な商品を大陸の各民族に無秩序に販売していた事になる。

紅山文化期に遼河台地でアワを栽培していたトルコ系民族から見ると、濊は文化の先進地であるシベリアから移住して来た集団だから、有力者の権威の象徴となる玉器の生産者に相応しい人達だった。濊は魏代になってもそれに誇りを持ち続け、玉器の製作集団の末裔に相応しい矜持を持ち続けていたから、魏の役人や陳寿もそれを認めた事になる。

濊が製作した玉器は、シベリア系の民族だった遼河台地や華北のアワ栽培者には需要があったが、夏王朝期の稲作民族にも需要があったのか否かは分からない。神聖な玉器の製作者が異民族である場合には、文化的な上位者でなければならなかったからだ。殷末の歴史に箕子が重要人物として登場するから、殷王朝も箕子朝鮮が製作した玉器の需要者だったと考えられるが、殷王朝を倒してトルコ系民族を排斥した周王朝が、濊が製作した玉器の需要者になった筈はなく、周のトルコ系民族排斥主義を継承した春秋戦国期の漢族政権も、濊を玉器の製作者とは認めなかっただろう。従って魏代の濊は千年以上玉器を製作していなかった事になり、玉器の生産集団だった朝鮮の指導者が、韓族になる事は必然的な結果だった。

夏王朝期の韓族の事情は不明だが、周王朝期に玉器の製作集団になった事を、魏志濊伝と伝が示している。韓族が運営していた朝鮮は、戦国時代に遼西(遼河の西)を燕に奪われても、朝鮮を名乗り続けていたが、衛氏朝鮮によって遼東半島から追い出されると、朝鮮候と呼ばれる人はいなくなり、韓の地に逃れた朝鮮候は韓王を名乗った。これは遼東で玉器を加工する集団の名称が、「朝鮮」だった事を示している。史記がそれを無視して朝鮮を地名にしたので、史書に記される朝鮮には二つの意味が混在している上に、地名であるなら岫岩が産出する遼東の地名になるべきものが、朝鮮半島の地名に代わってしまったから益々混乱する状態が生れた。

秦末漢初に漢族が鴨緑江を渡って南下し、その漢族を糾合した衛満に大同江流域を占拠されると、朝鮮の最後の候だった準は、馬韓を本拠地にしていた韓族の地に逃げた。濊伝にも韓伝にも、「朝鮮候の準が勝手に王を名乗った」と記しているが、濊伝にはその後「衛満が王になった」事だけが記され、韓伝にはその後「(朝鮮候の準が)衛満に攻撃され、左右の宮人を将いて韓地に逃亡し、自ら韓王と号した。」事だけが記されているのは、濊伝は濊の人から聴取した事を記し、韓伝には韓族から聴取した事を記しているからだ。

濊も韓族も互いに相手の事は言いたくなかったから、両者がそれに関する説明を省いた事が、分かり難い説明になっている事は否めない。陳寿は濊から聴取した役人の報告書と、韓族から聴取した役人の報告書を読み、それを纏めて自分の見解を記述するのではなく、それらを其の儘転記して史書の在り方の一つの基準を示しているので、その積りで読解する必要がある。

これらの一連の騒動の際に、濊が何をしたのかについては濊伝にも記されていないが、濊伝には朝鮮候が王を自称した事、衛満が朝鮮に流入した漢族の王になった事、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして四郡を設置した事を簡単に記しているから、根拠地の日本海沿岸にいた濊はそれらの事績に関与していた事になる。

濊が日本海沿岸にいたと考える根拠は、玉器の加工集団ではなくなった周初に遼東にいる意味がなくなったからであり、殷王朝が滅んでも北方交易は継続的に進行していたから、その為に東朝鮮湾~大同江流域に居住する必要があり、その為には拠点を遼東から東朝鮮湾に移す必要があったと考えられるからだ。更に言えば東朝鮮湾~大同江流域の交易路を建設し、その交易路を運営する為には、遼東の玉器職人とは別に、シベリアから新たな労務者や荷役者が送り込まれた筈だから、魏代の濊の多数派は、交易路を運転する為に送り込まれた人達だった可能性も高い。

漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして四郡を設定したが、それが何処にあったのか諸説ある。漢書地理志は漢王朝の統治領域として、渤海西北岸に右北平郡、渤海北岸に遼西郡、渤海南西岸に遼東郡を設置し、その南東に楽浪郡、遼東郡の内陸に玄兎郡があったが、臨屯郡と真番郡の位置については定説がない。

魏志東夷伝は、楽浪郡は現在の平安道を中心とした地域にあり、玄兎郡は日本海沿岸のトルコ系民族を支配する郡として、東朝鮮湾の北岸に沃沮城が建設されたが、その後「夷貊が侵攻したので」遼東に移されたと記している。

漢書地理志が示す各郡の人口は、右北平郡6万余戸、遼西郡7万余戸、遼東郡5万余戸、楽浪郡6万余戸、遼東に移動した後の玄兎郡45千余戸で、玄兎郡の過半は高句麗人だったから、残余に沃沮や濊が含まれていたとすると、漢族は殆どいなかった事になる。いずれにしても、臨屯郡と真番郡に関する記載はないが、地理志に記載された上記の文章は、玄菟と楽浪は、朝鮮、濊貉、句驪などの蛮夷(の地)だったが、臨屯郡と真番郡は蛮夷の地ではなかったと主張している様に見える。

この文章に先立って「上谷(北京市北部)から遼東は地広く民は希で、胡の寇を被る(事)が数あり、俗は趙と代に相い類す。魚塩棗栗の饒が有り、北隙には烏丸と夫余がいて、東賈と真番の利がある。との意味不明の記載もある。は山西省臨汾市襄汾県にあった周代の諸侯国だから、それが烏丸に関するであれば、真番夫余に関するだった事になるが、この文章だけでは何を意味しているのか分からない。しかし漢書の著者の本音を以下の様に暴くと、当時の世間に知られていた事実を曖昧にして誤魔化す為だった事が分かる。

山西省臨汾市襄汾県は、塩湖である解池の製塩業者がいた地域だったと想定され、烏丸は秦と敵対していたから、青海湖の塩を秦から入手できなかったとすると、烏丸と共生しながら山西北部に南下したトルコ系民族は、この塩を使う以外に塩を入手する手段はなかった。従って真番夫余にとってそれに匹敵する地域だった事になり、現在の遼河の支流域に渤海が湾入して吉林省に達していた時代には、真番夫余にとって唯一の塩の入手地だった事を示唆し、棗栗の饒が穀倉地帯である事を示しているとも読めるが、漢書の文章を文面通りに受け取る事は危険だから、慎重な検証が必要になる。

以下は漢王朝が殷人の王朝だった事を前提にした分析になるが、漢王朝が殷人の王朝だった事については次章で説明する。それを前提に上記の漢書の文章を解釈すると、漢書の著者の認識では、玄菟と楽浪は漢王朝に敵対する未開民族の居住地で、臨屯郡と真番郡は漢王朝に親和的で文明的な民族の居住地だった事になり、蛮夷は文明度の高低を示す言葉ではなく、漢王朝に敵対する東夷民族の総称だった事になる。

臨屯郡と真番郡の位置を推測する為には、漢書武帝紀の「朝鮮では降った其の王右渠を斬り、其の地を楽浪、臨屯、玄菟、真番郡と為す」との記述が参考になる。この時代の朝鮮、衛氏朝鮮の領土だった遼東~朝鮮半島を指すと考えられているが、(1)魏志倭人伝の項で示した様に、三韓の地理が実際より3倍以上過大に見積られている事は、漢族は重要な軍事情報である軍の移動距離を知らなかった事になり、三韓は漢王朝の征服地には含まれていなかった事は明らかだから、朝鮮半島北部がその南限になる。

武帝が衛氏朝鮮を討伐した事に対する漢書の理由説明は、「朝鮮王が遼東都尉を攻殺したので、天下の死罪を募って朝鮮を撃った。」という極めて曖昧なもので、都尉は武官に過ぎないから、5万の大軍を差し向けた理由としては腑に落ちない。詳細な顛末は史記朝鮮列伝に記されているので、漢書はそれを要約した事になるが、腑に落ちない状況に変わりはない。天下の死罪を募ったとの記述も、正規軍を送った事は余りにも大袈裟な行為だったから、この様に記して誤魔化した疑いが濃い。

史記が衛氏朝鮮の始祖である衛満について、「方数千里の真番、臨屯を服属させた」と記している事に注目する必要がある。方数千里1000㎞四方より広い地域を指し、この時代の地理感として山岳地は含まなかった筈だから、その様な広い場所は満州全域を指したと考える以外に、適切な地域はないからだ。魏志扶余伝に「(扶余の地は)北に弱水(松花江)有り、方可二千里」と記されている事が参考になるだろう。「可」はそれを十分超えている事を示していると訳せば、扶余が主張する扶余の領土と同じ面積を、衛満の征服地であると史記は主張している事になる。弱水(松花江)有りは黒竜江省を含むとの認識だから、現代の地図と照らし合わせても妥当な認識になる。

つまり衛満が扶余を征服していた事は、同族の漢王朝にとっては不都合な事態だったから、機会を窺って衛氏朝鮮を撃ったと考えられる。扶余は殷人の逃亡集団だったから、秦代まで青銅器時代の文化を維持していたと想定され、それ故に鉄器で武装した衛満の軍に容易に征服されたのであれば、あり得ない事情ではない。周代以降の扶余は敵性集団である粛慎、燕、濊に囲まれていたから、青銅器の入手も難しかった可能性があるが、青銅器時代の戦闘では棍棒や石斧で殴り合ったり、石鏃を使ったりしても戦争は成立したから、扶余が燕の攻撃をそれらの武器で防いでいたとしても、土地勘がある広大な満州を防衛する事はできた。

戦国時代の衛満は燕の軍人であり、燕は鉄器の導入が早かったから、鉄の武器を使えば扶余を容易に掃討できる事を、衛満が知っていた可能性が高い。魏略は朝鮮の領土だった遼西を燕が奪った際の事情として、「燕の遣將の秦開が其の西方を攻め、取地二千余里、満潘汗に至って界を為す」と記述しているが、二千余里1000㎞だから、起点を燕の拠点だった現在の北京としても、直線距離では吉林省と黒竜江省の境界に至ってしまう。

これは軍の移動距離だから直線距離は700㎞程だったとしても、遼寧省と吉林省の境界に至る。この時代の渤海が何処まで湾入していたのか明らかではないが、瀋陽辺りまで湾入していたとすれば、満潘汗(遼河)を境界とした燕の北端は、扶余の領域に割り込んでいたと想定される。漢民族の政権だった燕は、河北から殷人を追放する事によって成立した政権だから、弥生温暖期の燕の膨張期(巨燕)に、燕の将軍が吉林省に攻め込む事に躊躇する理由はなかった。

二千余里という膨大な距離の辻褄合わせとして、満潘汗を鴨緑江であると解釈する人がいるが、魏略は上記の文章に続けて成立直後の漢王朝について、「漢(王朝)は盧綰を燕王と為し、朝鮮と燕の界を浿水とした。」と記し、鴨緑江は浿と呼ばれる川で、満潘汗ではなかった事を示している。

魏略は更に続け、劉邦の部下だった盧綰が失脚すると衛満が遼東を占拠し、やがて衛満が朝鮮候の準と争って勝利すると、朝鮮候が韓地に逃れた事について経緯を色々と記しているが、陳寿はそれを漢代の創作であると見做したから、魏志濊伝や韓伝には採用していない。魏志は魏略とは異なる視点からこの経緯を示しているが、それは魏略の解説を否定しているからだと考える必要がある。

つまり燕が行った事は扶余にとって厄災以外の何物でもなかったが、盧綰は殷人系譜の人物ではなかったとすると、燕の扶余に対する戦役を咎める認識は全くなく、扶余に恨まれていた将軍やその子弟を登用してこの地域の統治体制を固めると、漢王朝にとっては極めて好ましくない人物になったから盧綰は失脚したが、漢王朝はその理由は公開できなかったから、盧綰の失脚理由は分かり難い状態になっている。中華全土を掌握した漢王朝は、この様な非殷人系の功臣を次々に排斥し、殷人系の人物で王朝を固めたが、その経緯に関する検証も次章で行う。

(1)魏志倭人伝の項で詳しく説明したが、陳寿は漢王朝の嘘を暴く為に事実を指摘してはいるが、読めばわかるという姿勢で淡々と事実を並べているだけだから、陳寿の真意を理解する為には、東夷伝を熟読する必要がある。つまり濊がこの騒動にどの様に関わったのかを理解する為には、濊の主張と韓族の主張を冷静に読み比べる必要がある。

燕は製鉄先進国だったから、燕の将軍だった衛満は鉄の武器の軍事的な使用方法に長け、鉄の武器が多量にあれば扶余を征討できる事を知っていただろう。それを実現する為には多量の鉄が必要だったが、衛満は燕が滅亡した際に貯蔵していた、鉄の武器の所在を知っていた可能性もあるし、交易集団だった濊が提供した可能性もある。弁辰人が製鉄者として弁韓に入植した時期は明らかではないが、琅邪の越人が秦によって追い出された後だから、この時期には弁辰に入植していた可能性もある。周が北方の騎馬民族の動向を気にし始めた事は、騎馬民族に鉄のクツワが普及し始めた事を意味するから、それから千年近く経たBC200年頃に、交易者が多量の鉄を入手できなかった筈はなく、交易者に囲まれていた濊にはそれを実現する手段が複数あったから、歴史を検証する際にそれに拘る必要はなく、むしろ扶余には鉄がなかった事の方が歴史事実としては重要な観点になる。

魏志弁辰伝に記された「国は鉄を出す。韓、濊、倭皆従って之を取る。諸巿買には皆鉄を用い、中国で銭を用いる如し。又以て二郡に供給する。」は、その観点で参照する事ができる。鉄器が普及して大型古墳が作られる様になった弥生時代末期に、楽浪郡と帯方郡の人々が弁辰の鉄を使っていた事は、隣接する遼寧省にも製鉄地がなかった事を意味するから、燕や濊に敵視されながら遼寧以北に閉じ込められ、北の交易者だった粛慎からも敵視されていた秦末漢初の扶余には、鉄器の入手手段がなかった事を示しているからだ。

史記の編者の筆が滑り、真番、臨屯は方数千里と記してしまったが、漢書はそれを胡麻化す為に四郡の名称を併記し、朝鮮内の地名であるかの様に見せ掛けたから、現在も皆が騙されている事に気付く必要がある。言い換えると、史記史観に拘泥している史家は、漢書が記したこの助け舟にしがみ付いているとも言える。

漢書武帝紀に衛氏朝鮮を征討した後の記事として、「朝鮮では其の王右渠が降ると斬り、其の地を以って楽浪、臨屯、玄菟、真番郡と為す。」と記し4郡すべてが朝鮮内にあったかの様に記しただけではなく、満州だった真番臨屯の場所を分からなくする為に、楽浪と玄菟に入れ子にして並べ、史記が重要度順に真番、臨屯と記したのに対し、その順序を逆にする姑息な策を弄しているからだ。魏志韓伝に記された朝鮮半島南部の面積が、実際の34倍になっているのも、韓族と倭人がこの記述を逆手に取って魏の役人を騙したからである可能性が高い。魏志倭人伝に記された距離を、「短里=7590m/里」と主張している日本の史家も、漢書に騙されているだけではなく、それを逆手に取った邪馬台国の倭人にも騙されている事になる。

漢書武帝紀は朝鮮征討に先立つ時期の記事として、「東夷の薉君南閭等、二十八万人が降ったので、蒼海郡と為す」と記し、2年後に蒼海郡を廃止したとも記しているが、これは衛氏朝鮮の圧迫に対して扶余が漢王朝に助けを求めたから、漢王朝は蒼海郡に郡衙(軍事拠点)を設営し、衛氏朝鮮の扶余に対する軍事的な圧迫を排除する積りだったが、何らかの理由でその企画を変更し、衛氏朝鮮の征討に切り替えた事を示唆している。

二十八万人6万余戸に相当し、漢書地理志に記された既存の郡を除けば、これほどの人口を擁する平坦地は、衛氏朝鮮の領土になり得る地域としては吉林省しかない事も、これらの推測と整合する。更に決定的な証拠として、この様な巨大な人口の濊(トルコ系民族)は、満州~朝鮮域(東夷)には扶余しかいなかった事を、魏志東夷伝が示している事が挙げられる。

漢書を編纂した班固は、200年後に陳寿が東夷伝を編纂する事を予想できなかったから、薉君南閭が誰であったとか、蒼海郡は何処にあったのかを曖昧にすれば、漢王朝が扶余を助けた事を誤魔化せると考えたが、その嘘を含めた漢王朝が捏造した多くの嘘を、陳寿が東夷伝で暴いたからだ。

漢王朝としては大軍を使って援助した扶余が、殷人の末裔である事が露見すると、殷代に圧政を敷いて漢族を残酷に扱った故に、漢族の不倶戴天の敵になった殷人の子孫である扶余を、漢王朝が積極的に助けた事になり、漢王朝は殷人の末裔が樹立した事が疑われるから、漢王朝の立場は極めて危い状態になる。それは火を見るより明らかな事態だったから、扶余が殷人の子孫である事は確実に秘匿する必要があった。漢王朝が扶余を助けた事は公然の事実だったから、扶余が殷人の子孫である事を疑われる事情も、未然に潰す必要があり、史記や漢書はそれを胡麻化す道具だった。

先に挙げた漢書地理志の意味不明な文である、「魚塩棗栗の饒が有り、北隙には烏丸と夫余がいて、東賈と真番の利がある。」を上記の事象に即して解釈すると、漢代の漢族の伝承に「烏丸と夫余には東賈と真番の塩栗の利がある」という様な文言があり、烏丸は漢代になっても華北の深刻な脅威だったから、併記されている夫余も嘗て漢族の深刻な脅威だった事が疑われ、史記を読むと扶余は満州に逃げた殷人の子孫で、その拠点は真番であるとの疑いを抱かせるとの指摘が、漢族の有力者から示されていたとすると、漢書地理志はそれを胡麻化す必要があったから、その文言を換骨堕胎して上記の曖昧な文章に仕立てたのではなかろうか。換骨堕胎しても際どい文章だから、伝承されていた原文は更に直截的に、問題点を指摘していたと考えられるからだ。

扶余が漢王朝の祖先集団の末裔だった事を知り、その後も陰に陽に扶余を援助したかった漢王朝は、両者の関係を何らかの形で定義して置く必要があると判断したから、薉君南閭が投降したから庇護したという体裁に収めて置く事にして、史記がそれを試みたが、真番、臨屯は方数千里と記してしまって綻びが出たので、漢書が「朝鮮では其の王右渠が降ると斬り、其の地を以って楽浪、臨屯、玄菟、真番郡と為す。」と記し、蒼海郡真番、臨屯も朝鮮の範囲内にあり、満州ではなかったと主張した事になる。

漢王朝にとっては、扶余は殷人の末裔であるとの漢族の疑念を、払拭する事が喫緊の課題だったから、それに関する資料の隠滅や言論弾圧を徹底的に行い、捏造書籍によってその記憶を意図的に抹消しただろう。史記は秦の始皇帝が焚書坑儒を行ったと主張しているが、実際に書籍を強制的に廃棄して伝承を伝える者を殺し尽くしたのは、史記を編纂する以前の漢王朝だった可能性が高い。秦には商業利権の為に中華を征服する動機があり、周の法治主義の体現者でもあったから、始皇帝が焚書坑儒を行う動機も必要性も見当たらないが、漢王朝には殷人との関係を隠したい強烈な動機があったからだ。

それ故に陳寿も決定的な証拠は持っていなかったが、認識としては確証を持っていたから、魏志扶余伝には扶余を殷人の末裔であると明記せずに、「殷の正月を以て天を祭る。」「国の耆老は自ら古の亡人であると説く。」「衣は白を尚ぶ」と傍証を列記した。殷墟周辺の墳墓から多数の惨殺された遺体が発掘されているが、扶余にも同じ風習があり、魏志扶余伝は「其の死に夏月は皆氷を用い、人を殺して徇葬し、多い者は百で数える。」と記している。陳寿は何らかの伝承により、殷人にもその様な風習があった事を知っていたし、世間にも殷人の被害に遭った漢族の強烈な伝承の残余が、残っていたのかもしれない。

魏志東夷伝に示される扶余を除くトルコ系民族は、すべて3民族の共生集団で、何時シベリアから南下したのか推測できる集団だが、扶余だけは共生民族を持たない農耕民族で、南下した時期も不明だから、その観点でも遼河台地を起源とするアワ栽培者だった可能性が高く、それ以外の可能性は考えられないから、扶余は殷人の末裔だったと考える事に合理性がある。従って殷人と扶余に関する伝承の少なさが、漢代の歴史捏造が激しかった事を示している事になるが、色々な傍証が陳寿の指摘の正しさを示す中で、漢書の誤魔化しは却って事実を露にしているとも言える。

史記朝鮮列伝がうっかり記したのは上記だけではなく、「戦国時代の燕の衛満が真番と朝鮮を略属した」とも記し、真番は朝鮮ではなく、燕の故地でもなく、燕が朝鮮を侵略して得た遼西でもなかった事を示している。つまり燕の衛満が戦闘で攻略して得た地である事を明らかにしてしまった。

従って現在の遼河の下流域が未だ渤海だった時代の真番は、燕が既に侵略していた遼西から、北に連なる吉林省であり、臨屯は秦末漢初に衛満が征服しなかった、黒竜江省である事を示している。前漢代の黒竜江省は既に挹婁の地になっていたから、衛満が征服する必要はない地域だったからだ。史記朝鮮列伝は、衛氏朝鮮は朝鮮と吉林省を領有していたと記しているが、漢書地理志は先に示した様に、四郡はすべて朝鮮にあったかの様に記しているのは、こちらも誤魔化す必要があったからだ。

魏志扶余伝は「扶余の地は方二千里、8万戸」と記し、扶余の地理感が史記の編者と同じである事は、南北が遼寧省から満州平原の北端までで、東西は松花江の出口であるハルビンから遼河台地までが、扶余が主張する春秋時代の扶余の地だった事になり、これを明らかにする事も、史記と漢書の嘘を暴く事になると陳寿が考えていた事を示している。

薉君南閭の支配下の人口が二十八万人(≒6万戸)だった事は、前漢代の前半期にそれに該当する人口規模の濊(トルコ系民族)は、扶余しかいなかった事も魏志東夷伝が示しているから、薉君南閭は扶余の酋長だったと断定しても良いだろう。漢字を使って別称である字を避けた事も、史記の編纂者が扶余を同族と見做していた事を示唆している。

薉君南閭の支配下の人口が魏代の8万戸より少なかった事は、魏代には寒冷化が進み、扶余の人口が減少していたと想定される事を考慮すると、薉君南閭の支配下の人口は漢初の扶余の総数ではなく、設置した蒼海郡の人口は扶余の一部に過ぎなかったと考えられる。高緯度地域である黒竜江省の弥生温暖期は、遅くとも秦代には終末期に入っていたから、前漢代の黒竜江省ではアワは栽培できなくなり、扶余が撤退した地域に挹婁が南下し始めた事は既に指摘した。その頃に高句麗が満鮮境界の山岳地に南下し、松花江と鴨緑江を結ぶ交易路を形成したと考えられるから、衛氏朝鮮の成立と高句麗の南下は類似した目的でありながら、手段が全く異なる対策が同時期に実行された事になる。濊は高句麗の南下を歓迎しなかったから、衛氏朝鮮を設立してその企画を無効にしたかったのだろう。

真番の「番」漢字は畠に種を蒔く象形だから、農耕民族だった扶余の農地を指し、それに「真」を重ねて扶余の本拠地を指し、臨屯は草地を連想させる地名だから、家畜を飼っていた扶余にとって黒竜江省は豊かな牧草地だった事を示していたと想定され、臨屯真番は殷代から漢字を使っていた殷人の、先祖伝来の由緒ある名称だったから、漢王朝はそれを史記に転記したと推測される。

同様の観点で蒼海郡を検証すると、「海」は渤海の最深部が吉林省に達していた状況を示し、彼らの製塩地だった事を示しているから、未だ遼河の堆積が進行していなかった時代の、扶余の地理感によって命名された地名になる。「蒼」漢字は草葺きの穀物倉庫、又はその屋根に草が生えている象形だから、アワ栽培者にとっての穀倉地帯を意味し、縄文後期温暖期の末期に漢字を習得した殷人か、弥生温暖期の扶余が命名した地名であると考えられる。

魏略の記した歴史認識では、戦国時代に濊は燕と激しく戦ったが、その後燕は秦に滅ぼされ、秦が楚に滅ぼされ、楚が漢に滅ぼされる目まぐるしい時代の変遷の中で、嘗ての敵対勢力だった燕の衛満と濊が連携し、衛氏朝鮮を形成して扶余を征討した事になるが、魏略が後者について触れていないのは、漢王朝の歴史の捏造の呪縛から解けていなかった事を示唆している。

この歴史認識に従えば、戦国時代には敵対関係にあっても、衛満は箕氏の末裔である濊と扶余を同じトルコ系民族であっても区別する知識は持っていたから、燕が滅亡すると両者の敵対関係が解消され、両者が衛氏朝鮮を形成する事はWIN-WINの関係になるから、その状態に収まった事になるが、陳寿はそれらの魏略の記事は無視しているから、燕が朝鮮の領土を蚕食した事実はなく、燕が蚕食したのは扶余の領土だった可能性が高い。先に示した魏略の記事は、燕が扶余の領土だった吉林省まで侵攻したと解釈する方が、地理的な妥当性が高いからだ。

この場合には北九州の甕棺墓に葬られた戦士が戦った相手は、燕ではなく扶余だった事になり、弥生温暖期に人口を増やした扶余が、東朝鮮湾から大同江に抜ける交易路も傘下に収める為に、満州から朝鮮半島に南下する勢いを示していた事になる。

東アジアの支石墓はBC1500年頃(夏王朝滅亡期)に遼東半島付近で発生し、吉林省付近に広まった後BC500年頃から半島にも広がり、それ以降多数作られる様になったと言われているから、その時期の濊や韓族の挙動と一致する。つまり扶余が遼東に攻撃を仕掛ける様になり、先ず濊が吉林省でそれに対応したが劣勢になり、遼東が危うくなったので韓族もそれに対応したが、劣勢は挽回できなかったので北九州の倭人が、その支援の為に出兵した事になるからだ。

魏志濊伝は濊の歴史として、「昔箕子は既に朝鮮に適し、八條の教えを作って之を教えたから、門を閉じる民は無く、盜みをしなかった。」と記しているが、これは漢書地理志燕の条に記された「朝鮮、濊貉、句驪は皆蛮夷で、殷道が衰えると箕子は之の朝鮮を去り、其の民に礼義を教えたので、是を以って其の民は終に相盜まず、門を閉しるは無くなった」と記している記事の書き換えだから、それを引用文献として濊伝に記したのは、箕子が濊であり、八條の教えを教えたのも濊だった事を示す為だった。漢書の記述は極めて曖昧で、箕子は朝鮮の人だった事は認めているが、箕子礼義を教えた「其の民」蛮夷ではない民族、即ち扶余だった事を匂わせているからだ。更に言えば、後漢代の扶余の道徳が乱れているのは、漢王朝の支配が及ぶと官吏や商人が悪事を働いたからであるとまで記している事になるが、箕子が教えたのは朝鮮の人々だったとする様な記述もあり、意図的に文意を曖昧にしている疑いが濃い。

陳寿にはこの時期の歴史に関する文献がなかったから、これ以上の事を記す事ができず、魏志韓伝と濊伝が示している史実は、最後の朝鮮候だった準が王を自称した後の歴史になる。それらは韓族と濊から直接聴取した内容を記載した、魏の役人の報告書に基づくもので、確度が高かったからだ。それは裏を返せば、漢書に記された漢代の歴史は嘘であると、陳寿が喝破していた事を示している。

魏志韓伝は韓族の概要を記した後に、秦が滅んで漢帝国が成立した直後の事績から、韓族の歴史を記している。

侯準は既に王を勝手に称していたが、燕の亡人の衞満が攻め奪う所と為った。其の左右の宮人を将いて海に逃走し、韓地に居して自ら韓王を号したが、其の後は絶えた。今の韓人には其の祭祀を奉じる者が猶有る。

最後の朝鮮侯が韓族の下に逃れたのは、その血脈が韓族系だったからである事を示唆し、左右の宮人も韓族だったから皆が韓地に逃れ、宮人の末裔は魏代まで祭祀を奉じていた事を示している。つまり周代以降の玉器の加工集団は韓族になり、朝鮮侯も韓族になった事を示している。燕との経緯を記した魏略の文章を、魏志韓伝に挿入した南朝宋の裴松之もその様に解釈していたから、朝鮮候と燕の交渉記事や戦闘記事を魏志韓伝に追記している。

遼東で玉器を生産していた濊の祖先は、韓族の地に間借りしている状態だったから、周代以降になっても遼東にいた濊は韓族に代わった朝鮮侯に従っていたが、その様な濊の関心事は朝鮮侯に従う者として国際舞台で活動し、国際情勢を見極める事だったと推測される。朝鮮候は周の諸侯だったが、濊は中華世界では敵意を持って除け者にされるトルコ系民族だったからだ。

上記は魏の役人が韓族から聴取した内容で、濊から聴取した事績は濊伝に以下の様に記されている。

侯準は既に王を勝手に称していたが、陳勝等が起って天下が秦に叛いた。燕、斉、趙の民がそれを避ける地として、朝鮮に数万口が集まった。燕人の衞満が魋(さいづちまげの髪)を結い、夷の服を着て復び来て、之の王になった。漢武帝が朝鮮を伐滅すると、其の地を四郡に分けたので、是の後には胡(漢族以外の異民族)と漢は別れて住む様になった。

濊は衞満と争ってはいなかったし、燕、斉、趙の民とも悶着はなかった事を、漢武帝が朝鮮を伐滅した後には、胡と漢は別れて住む様になったとの記述が示している。つまり衛満は東夷の習俗に従って髪を結い、東夷の衣装を着て濊に対する恭順を示しながら亡命した漢族を統治した事になり、その真意を読み解けば、衛満は濊と示し合わせ、王を自称していた朝鮮侯の準を朝鮮から追い出し、それに代わって衛満が王になった事を示している。

少し穿った見方をすると、秦末漢初に朝鮮に流入した燕、斉、趙の民数万人は、急募された軍事関係者だった疑いもある。燕の滅亡時ではなく、秦末漢初の動乱期である事と、その時期に燕、斉、趙の民が遼東に集まる事の関連が見出しにくいからだ。しかし漢王朝の成立に懐疑的だった春秋戦国時代の漢族諸侯の軍人が、活躍の場を求めて朝鮮に集まったとすれば、極めて自然な流れになるからだ。春秋戦国時代の斉にはY-R系の軍人が多数いた筈だが、彼らは劉邦を囲む集団が殷人だった事を知っていた可能性が高いからだが、それについてはその2で検証する。

沃沮は衛氏朝鮮に属していたと沃沮伝に記しているが、濊伝にはその記述はなく、漢が四郡を設置すると玄兎郡に属したと記している。その真意は、衛氏朝鮮時代の濊は衛氏朝鮮と同盟関係にあったから、沃沮は形式的に衛氏朝鮮に属していた事を示唆し、上記の証拠を提示していると共に、濊は衛氏朝鮮の上位者だった事も示唆している。これについて穿った見方をすると、濊の許可を得て日本海沿岸に移住した沃沮は、粛慎に睨まれ続けていたから、その沃沮を、粛慎の為に漢州航路を維持している衛氏朝鮮の下属集団とする事により、粛慎の沃沮に対する嫌がらせを抑止しようとしたのではなかろうか。粛慎としては、彼らの指示で黒竜江省に入植し、苦しい生活に絶えながら扶余の北上を阻止している挹婁に対し、指示に従わない沃沮を痛めつける事は義務的な行為になっていたが、挹婁には更に南下して扶余を攻撃する軍事力はなく、扶余と対峙している前線には不安が渦巻いていたが、その扶余を衛満が軍事制圧したのだから、衛満の下属集団になった沃沮に粛慎が手心を加えても文句を言う筋合いはないという、微妙な心理関係を活用した事になる。

仮に魏略が示す歴史が正しく、嘗ては戦場で戦った衛満と濊だったとしても、燕が滅んでしまった後の衛満は濊の敵将ではなくなったから、衛満の将軍としての資質を認め、清廉な人柄も承知していた濊は、戦闘経験が豊富な衛満と漢族に、扶余だけではなく漢王朝に対する盾としての役割を期待して提携を約定し、衛満は濊の承認の下に朝鮮侯の準を追い出したとしても、取り立てて違和感を持つ必要ない。ビジネス競争社会であっても軍事的な乱世であっても、昨日の敵が今日の味方になる事は珍しくないからだ。

韓族は戦闘が苦手な民族だったから、事態が急展開していた秦末漢初の濊には、朝鮮侯の準が王を名乗って軍事にも口を出す事に、耐えられなっていた可能性が高く、この推測には必然性がある。魏志韓伝も濊伝も起こった事の原因は、朝鮮候の準が勝手に王を名乗った事であるとする様な記述になっているからだ。北九州の倭人もこれを承知していたから、衛満が箕氏朝鮮の宮殿を襲撃する振りをすると、侯準を船に乗せて韓族の地に送り込んだと推測され、その際には濊の宮人は拠点に残り、韓族の宮人だけがその船に同乗したと推測される。

これらの濊の処置は、朝鮮半島の平和と安定の為だったから、韓族も苦情を言う事はできずに処置は粛々と進められたが、魏の使者にこの経緯を聞かれた濊は、韓族の立場を尊重して明言を避けたし、韓族は朝鮮候とその周囲の韓系宮人に降りかかった事しか言わなかったから、陳寿は別々の民族から聞き取った魏の役人の報告書をそれぞれの言い分として、魏志東夷伝のそれぞれの伝に記した。漢王朝が捏造した歴史が蔓延し、事実が分かり難くなっていたから、各民族の主張を併記する事によって歴史の機微を、読者の判断に任せる手法を採用したと考えられる。双方の主張を併記する手法は現代の状況解釈にも通じるから、それを採用した陳寿の非凡な才能に驚嘆するべきだろう。

陳寿は誰が言ったのか分かる様に、各伝に各民族の主張を記述しているが、これは陳寿の合理性だけではなく、この時代の東夷諸族の人々には、現代人が驚嘆するべき矜持があった事も示し、真実を知りたかった魏の役人は、それぞれの主張の要旨を的確に捉えていた事になる。それ故に陳寿は自分の推測は記さず、分かる人には分かる体裁で記した事が分かると、それを前提に東夷伝を熟読する必要がある。今風に言えば、「考えさせる歴史」になるだろう。

漢王朝が扶余を開放する為に楽浪郡や玄兎郡まで征服したのは、そこまでが衛氏朝鮮の領域だと見做したからだが、其処までが扶余を圧迫していた、漢族の居住域だったからでもある。楽浪郡は春秋戦国時代までは韓族のアワ栽培地だったが、漢代に気候が冷涼化すると、韓族の多くは三韓の地域である現在の韓国域に南下していたから、楽浪は衛氏朝鮮が支配する漢族に譲った事により、楽浪も漢族の居住域になっていたからだ。韓族が三韓の地域に南下していた事情は、魏志韓国伝の「(朝鮮候の準は)其の左右の宮人を将いて海に走り入り、韓地に居して自ら韓王と号した。」との記述が示している。

魏志濊伝に「漢武帝が朝鮮を伐って滅し、其の地を四郡に分けると、是の後より胡漢は稍や別れた。」と記され、衛氏朝鮮時代の楽浪郡では、南下した韓族の畑を耕す漢族と残留していた韓族は、雑居していた事を示している。「稍」は「いくらかその傾向を帯びている様子」と説明されているから、衛氏朝鮮時代は完全に雑居状態だったが、四郡に分けると(楽浪郡では)分離している事が分かる状態になったと解釈される。「胡」は濊と韓族を指している事になる。

弥生温暖期だった春秋戦国時代に、アワ栽培者は内モンゴルや満州に北上していたが、漢代初頭に温暖期が終わるとそれらの人々は南下する必要があったが、南下できる空き地があったわけではない。それらの地域にいた漢族にとって、楽浪郡は温暖な地域だったから、冷涼地域で農耕の耐寒性を高めていたアワ栽培者は、ある程度の収穫が望めただろう。

一方遼東を北限としていた韓族のアワ栽培は、弥生温暖期が終わると、より温暖な現在の韓国域に南下する事も必然的な結果だった。しかしまだアワの北限ではなかったから、優良な農地に残留していた韓族もいた事が、この様な事情を生んだと考えられる。

衛氏朝鮮の樹立は、扶余を満州から追放したかった粛慎の望みであり、高句麗の設立を阻止したい濊の戦略でもあったが、殷人の脅威から遼東と朝鮮半島を守る為でもあったから、職業軍人的な漢族を受け入れる事に、楽浪郡に残っていた韓族が妥協した結果でもあった。戦闘が苦手の韓族としては、強力な武力を持った秦や漢王朝と対峙する地域に居住し、防衛戦の前線に立つ事は避けたかったから、濊の提案に妥協せざるを得なかった。

韓族には武力を統括する民族性が皆無だったので、濊がそれを危ぶんで衛満と漢族を遼東や楽浪に招き入れた事になるから、韓族の戦闘能力については次節で検証する。それ故に衛氏朝鮮時代には、漢族、韓族、濊が遼東や楽浪で混住していたが、漢王朝が楽浪を占拠して郡衙を設置すると、胡(漢族以外の異民族)と漢は別れて住む様になったと考えられる。

起こった出来事の順序を整理すると、燕が秦に滅ぼされると衛満が朝鮮侯の傭兵隊長になり、秦末漢初の動乱期に、燕、趙、斉の遺民が衛満を頼って遼東や楽浪に亡命すると、漢族、韓族、濊が遼東や楽浪で混住する様になったから、は勝手に王を称してその統治に乗り出したが、韓族が王になっても辺境の防備はできないと見取った濊が、朝鮮王を軍事力の中核になっていた衛満に変える為に色々画策した結果として、燕人の衞満が魋(さいづちまげに髪を)結い、夷の服を着て復び来て、之の王になると同時に、燕の亡人の衞満が侯準攻めたから、侯準は其の左右の宮人を将いて海に逃走し、韓地に居して自ら韓王を号したと解釈される。濊伝に衛満は復び来て之の王になったと記されているが、この復びを従来は解釈できずに無視していた。しかし上記の話しの順序にすれば、衛満は当初は軍事を仕切る漢族の将軍だったが、濊、倭、粛慎の了解の下に統治方針を決め、朝鮮の王になって朝鮮に君臨する様になったから、復び(姿を変えて)朝鮮に現れた事になる。

侯準が王を勝手に称した際に、将軍だった衛満を専横であるとして罷免したか、衛満が侯準下で戦う事を拒否して辞任したので、侯準韓族を将軍に任命したのであれば、この話は完璧になる。しかし陳寿としては、読者がそこまでのシナリオを想定しなくても、役職が全く異なる事を理由に復び来て之の王になったと記せば、十分であると判断したとしても不自然ではない。要するに話の本質が分かれば良く、枝葉の真偽に拘泥する必要はないからだ。枝葉の真偽に拘泥する現代人に、大きな教訓を遺しているとも言えるだろう。

衛満が満州と遼東を制圧する事により、粛慎の満州交易路が復活したから、この時期の濊と粛慎は敵対的な関係を緩和していたが、武帝の朝鮮征伐によって扶余が復活すると、全てが水泡に帰しただけではなく、大同江の下流に楽浪郡衙を建設した漢王朝が、朝鮮半島を横断する交易路を掌握して粛慎の全ての交易利益を収奪し始めた。

この事情は粛慎が高句麗を満鮮境界の険阻な山岳地に送り込み、別の交易ルートを開拓し始めた事に繋がる。高句麗を南下させる事業は、挹婁が黒竜江省を占拠した秦代には始まっていたかもしれないが、漢王朝の朝鮮征服によって東朝鮮湾と大同江のルートも塞がれたから、それ以降は強力に推進せざるを得なくなった事は間違いなく、史書もそれを示唆している。前漢末の王莽が高句麗を軍事的に使役した事は、高句麗が有力な軍事集団になっていた事を示唆しているからだ。

 

1-13-3 濊の交易路

衛氏朝鮮が満州と遼東を支配していた時期を除き、粛慎が北方の物産を渤海に運ぶ交易路は、高い通行料を課される遼河以外には、朝鮮半島を周回するものしかない様に見えるかもしれない。しかし高句麗と濊は3民族の共生集団だったから、栽培民族が峠を荷車で超える道を開削し、栽培民族と狩猟民族がその道の荷役を負担し、河川漁民が河川運送を担う事によって交易路を運営する事ができた。高句麗は松花江と鴨緑江の間の峠道を開削して交易路に、鴨緑江の支流域に卒本場を築いて交易拠点にしたが、魏志高句麗伝に示される高句麗人の豊かさは、その様な交易を除外して説明する事はできない。

濊にも同じ能力があれば、東朝鮮湾から河川漁民が河川を遡上し、栽培民族と狩猟民族が峠を荷馬車で超え、大同江を船で下る交易路を開設すると、半島の括れた部分を横断する事ができた。魏志東夷伝に記された濊の根拠地である不耐は、東朝鮮湾を望む場所にあるから、濊がその物資の運送に関与していた事を示唆している。

朝鮮半島は付け根の部分が括れ、半島部の背骨になる太白山脈の北端と、北方の山岳地の南端になる狼林山脈の接点である両山脈の境界部は、丘陵地と言える状態になっている。息慎のシベリア交易路にも峠を越える場所が何カ所もあったから、シベリアの交易民族が峠を越える技術を持っていた事は間違いなく、殷墟周辺の王墓から発掘された戦車の先進的な車輪も、彼らの技術によって製作された可能性が高い。従って朝鮮半島でもその技術を使ったと考える事は、極めて自然な発想になる。

朝鮮半島の括れ部の日本海側が東朝鮮湾で、その奥にある永興湾に竜興江が注いでいるが、龍はシベリアの水上民族の信仰のシンボルだったから、この河の名称は濊と縁がある川だった事を連想させる。龍はシベリアの平原を蛇行しながら流れる川を、神格化したものであると想定されるからだ。濊の故地であるシベリア内陸部の平原では、その様な河川が縦横に流れてツングースに交易路を提供していたから、濊にはその様な河川を神格化する動機は十分にあったが、山岳地が海に迫っていた沿海部には流れが短い河川しかなく、その様な地域を縄張りにしていた粛慎や高句麗の祖先には、龍を神格化する動機は薄かったから、この河の名称は濊が付与した可能性が高い。高句麗も一時的にこの地域を占拠していたが、高句麗は粛慎が派遣した沿海部の民族だったから、竜興江と命名したのは高句麗ではなく濊だったと考えられる。

紅山文化圏から発掘される玉器には、龍を象形化したと考えられる形状のものが多い事も、濊の祖先がそれらを製作してアワ栽培者に龍信仰を広めた事を示唆している。その交易を担務したのは息慎だったから、竜興江の名称は、その川が濊と息慎の交易路だった事を示唆している。

竜興江は丘陵地の裾まで船で遡上する事が可能で、更に谷合を遡上して幅10㎞/標高500m程度の峠を越えると、黄海に流れ出る大同江の水系に繋がる。交易路の難所であるこの峠は、高句麗が松花江と鴨緑江の支流を結んだ通商路の峠と比較し、超える難易度はあまり変わらない様に見えるから、高句麗が用いた河川交易路と並行する、同格の交易路になり得るものだった。

息慎が健在な時期にこの交易路を設定したとすると、その作業に慣れた新たなトルコ系の共生3民族が、玉器の製作者だった濊の祖先とは別途投入されただろう。その系譜が魏代の濊の本流になっていたのであれば、濊は玉器の生産者の子孫とは言えない集団になっていたから、それが魏志濊伝の「珠玉を以て宝と為さず」との記述に繋がった可能性がある。

漢の武帝が5万の大軍を派遣して衛氏朝鮮を滅ぼすと、玄兎郡に沃沮城を築いて沃沮と高句麗を支配したが、玄兎郡の郡衙は現在の咸興にあったと考えられている。咸興は東朝鮮湾の北岸にあり、濊の拠点だった不耐は南岸にあるから、漢王朝も濊の交易の利潤に興味があった事を示している。しかし反乱によって玄兎郡の郡衙は維持が困難になり、玄兎郡の郡衙を高句麗の西北にある遼東に移した。これは高句麗と沃沮の支配を強化し、大同江の下流域に設けた楽浪郡の郡衙によって濊の交易も管理し、交易の利益の収奪構造を維持する為だったと考えられる。

漢書地理志は玄菟郡,四万五千六、口二十二萬一千八百四十五。県三:高句麗、上殷台、西蓋馬。」と記しているが、魏志高句麗伝が「高句麗の人口は3万戸」と記しているから、玄兎郡の統治域内の人々の過半は高句麗人だった事になり、玄菟郡を維持した目的は、高句麗の交易を管理する為だった事を示唆している。

楽浪郡も六万二千八百一十二,口四十万六千七百四十八。県二十五」と記しているが、濊が2万戸、東沃沮が5千戸で、韓族も含んでいたから、衛氏朝鮮の遺民だった漢族が数万口=1万戸だったとすると、韓族が3万戸弱の最大人口を擁していた事になる。但しその中には秦代に亡命した辰韓人も含まれていたから、馬韓に南下しないで楽浪に残っていた韓族は2万戸程度で、馬韓の韓族は10万余戸だったから、韓族の中心地は馬韓になっていた。

東朝鮮湾を起点とする輸送路は、楽浪郡の郡衙の脇を流れる大同江を経て黄海に繋がっていたから、漢王朝は玄兎郡の郡衙を高句麗の西北に移動すると、不耐城を楽浪郡の管轄下として東部都尉を置いた。東部都尉は東沃沮も管理したが、実態は交易の利益配分を濊と直談判する為に、その役割を負った軍人を濊の本拠地に送り込んだ事になる。交渉が不調になると楽浪郡の郡衙の兵が濊の予想路を遮断し、貢納の積み増しを要求する事ができたからだ。濊の物流を交易路の入り口と出口で管理する状態を、維持する為だったと考えられる。

大同江流域を漢王朝に抑えられていた濊としては、この軍人の恫喝に応じて金品を差し出さざるを得なかったから、従順な民族である事を装った。その事情を漢王朝の後継王朝だった魏の立場から描いたものが、魏志濊伝の記述であるとも言えるが、魏の役人は交易活動に疎く、これらの事情の背景は分からなかったから、陳寿もこの事情を見抜く事ができなかったとすれば、東夷伝全体に交易に関する記述がない事と整合する。つまり扶余は交易の利益を武力的に収奪する旨味を知っていたから、粛慎の交易路を塞ぎ、扶余と親和的だった漢王朝も扶余から情報を得てそれを享受したが、漢族の王朝である魏や晋はその事情を知らなかった事になる。

漢の武帝が海南島を攻略したのは、上質の絹布を暴力的に収奪する為だった事を、後漢書/南蛮西南夷列伝が暴露している事は既に指摘したが、後漢書/東夷列伝には南朝に朝貢した百済の主張を反映し、以下の様に記述されている。百済は扶余が滅亡した後に、扶余の残党が樹立した政権である事に留意する必要がある。

朝鮮侯の準は自ら王を称し、漢初の大乱で燕、斉、趙人の避地に往く者数万口。燕人衛満が準を撃破して自から朝鮮の王になり、国を伝えて孫の右渠に至る。元朔元年(武帝代)に濊君南閭等が右渠に背き、二十八万口を率いて遼東詣で、内属を希望したので、武帝は其の地を蒼海郡にしたが、数年で罷めて元封三年に朝鮮を滅し、楽浪、臨屯、玄菟、真番四部を分置した。昭帝始元五年(武帝が亡くなって数年後)に至って臨屯、真番を罷め、楽浪、玄菟に并せた。高句麗は玄菟に復した。単単大領の東の沃沮、濊貊は悉く楽浪に属した。境土が広く遠いので、その後復た領東の七県を分け、楽浪の東部都尉を置いた。内属した後は風俗が薄くなり、法禁が多くなって六十余條になった。建武(後漢の光武帝代)六年に都尉の官を省き、遂に東の地を棄領し、悉く其の渠帥を封じて県侯にしたので、皆、時に朝賀する様になった。

上記が百済の主張である事は、扶余に関する歴史が所謂「東明説話」に置き換えられただけではなく(上掲外の記事)、濊と扶余を混同させる意図が露骨に見える事が示している。つまり漢書が記した箕子に関する嘘を更に大胆に上書きし、殷が滅んだ後に箕子が教導したのは、濊君の南閭等が率いる濊で、単単大領の東の沃沮、濊貊の一部だったかの様な記述になっている。

東明説話の一部は以下になる。

北夷索離国の王が出行すると、其の侍兒が妊身したので、王は還ると之を殺そうとした。侍兒曰く、「前に見る天上に気有り。大きな雞子の様なものが我に来降したので有身した。」王が之を囚えた後、遂に男を生んだ。名は東明と曰う。東明は長じて射を善くしたので、王は其の猛を忌み、復た之を殺そうとした。東明は奔走して南の掩水に至り、弓で擊水を撃つと魚鱉が皆聚まって水上に浮き、東明は之に乗って扶余に逃げる事ができたので、扶余の王になった。

この記述は魏志扶余伝で、「扶余は殷人の亡命政権である」と指摘された事を胡麻化す為に、扶余の起源説話を創作した事を示している。史記に記された殷王朝の始祖は、母が玄鳥の卵を呑んで妊娠した子であると記しているから、それに好太王碑文に示された高句麗の起源説話の、一部が取り込まれた説話になっている。扶余には共生する漁民はいなかったから、この起源説話は一部が盗作だが、高句麗と同じトルコ系民族だったから、高句麗の起源説話に類似させる事により、高句麗と同祖であるかのように見せ掛ける為だった。

これが梁書高句麗伝になると「高句麗なる者、其の先は東明より出る。東明は本は北夷橐離王の子・・・夫余に至って王になり焉む。其の後支別し高句麗種に為る」と記し、南朝に朝貢した百済が扶余と高句麗は同祖であると、嘘の宣伝をした事を示している。唐の太宗は政略を有利に運ぶ為、梁書を含む多数の史書を編纂させたが、その中の梁書と隋書は「百済がこの様な嘘を言っていた」と分かる様に編纂し、従来の史書とは異なる歴史観を示している。(8)隋書の項でそれを指摘したが、百済が南朝に朝貢した際に申告した事が朝議録に残されていたから、これらの史書を読めば誰でも分かる様にそれを編纂し、高句麗と百済を離間させる道具にした。

ちなみに隋書高句麗伝では、「高麗之先は夫余より出る。夫余王が嘗て河伯の女を得て室内に閉じこめると、日光がさしこんで之を照らして感じ遂に孕んだ。一つの大きな卵を生むと、一男子が殼を破って出たので、名を朱蒙とした。夫余の臣は、朱蒙はまともな生れの人ではないとして、これを殺すことを請うた。・・・・朱蒙は国を建て、自から高句麗と号した。其の孫の莫來に至って兵を興し、遂に夫余を并わせた。」と記され、百済の隋朝への申告が更に変化していた事を示している。

これは嘘だから、当然高句麗は激怒しただろう。漢王朝と百済は共に扶余人の王朝だが、陰に陽に辺り構わず嘘を言い回る性格が酷似しているから、それが扶余の本質的な性格だったと考えられ、唐の太宗や文人も百済のその様な性格に呆れ、百済を滅ぼす事に正義を感じていた事になる。

後漢書が武帝の海南島征服の内情を暴いたのは、その典拠を海洋民族の誰かが提供したからだが、衛氏朝鮮を滅ぼした内幕を百済の使者から聞き出そうとした故に、百済の使者に逆に騙され、扶余を擁護する記述にしてしまった事になり、漢王朝が衛氏朝鮮を滅ぼした理由に関し、後漢書の記述は参考にならない事を示している。

後漢書の著者の范曄が百済の使者に騙された事を前提に、上記の論考を展開したが、范曄も漢王朝の高官の系譜だったとすると話は異なる。つまり范曄が魏志東夷伝を執拗に否定したのも、魏志扶余伝が、扶余は殷王朝の亡命集団であると指摘した事が気に入らなかった事が、主要な動機だった事になる。華南の稲作民の中には陳寿の様に、古書や竹書紀年を読んで殷王朝が周によって滅ぼされた理由を知っている者がいたから、その者が扶余は殷人の子孫である疑いを持ち、漢王朝が扶余を厚遇した理由もあれこれ推測していたとすると、漢王朝の高官の系譜だった范曄は、身分の尊卑に関わる問題として受け止める必要があった。同様の課題を抱えていた人物は、南朝に多数居ただろう。

南朝の范曄が、後漢王朝の朝議禄を保持していた理由は不明だが、漢王朝ゆかりの者がそれを范曄に提供したとすれば、それは殷王朝期の事績に限れば史記の記述の方が、竹書紀年より確度が高い事情と重なる。つまり殷人にとって王朝の記録は、王朝の復活を願って集まる秘密結社の聖なる書籍だったから、漢王朝の朝議禄を参照する事ができた范曄は、その秘密結社の一員だった事になるからだ。またその秘密結社は漢王朝の様な、殷人の王朝の再興を願っていた筈だから、百済の存在はその一つの可能性であり、希望の星でもあった事になる。それであれば南朝が、百済は倭国王の支配下にある国であるとの倭の五王の主張に対し、異様なまでに百済を庇ってそれを否定し続けた理由にも繋がる。南朝の中の殷人系譜の高官が、陰で百済を支援していた事になるからだ。

漢王朝が蒼海郡の設営を止めて衛氏朝鮮を滅ぼす方針に切り替えたのは、衛氏朝鮮の領土から高級な毛皮が出荷されていたからだと推測する事には合理性があるが、同じ武帝の略奪的な海南島侵攻に関し、後漢書はその内幕を露骨に暴露したのに対し、衛氏朝鮮に関してはそれを黙秘していた事に対し、理由の説明が必要になる。その一つの可能性として、海南島への侵攻は単なる欲望の充足に過ぎず、殷人の感覚では大事ではなかったが、衛氏朝鮮に関わる事案は漢王朝系譜の高官の命運に関わる事だったから、同様な物品強奪に関して海南島の事例を赤裸々に暴露する事により、衛氏朝鮮に関わる物品強奪は、海南島の事例と比較すれば大事ではなく、范曄はその様な事を隠す積りはない事を世間に示す為だった可能性はある。

 

1-13-4 北方交易の実態

高句麗や濊に北方の物産を提供していた粛慎から見ると、春秋時代には扶余に満州を占拠されていたから、濊が運営する朝鮮半島横断路が機能している事が、粛慎の唯一のまともな交易路だったが、衛満の活躍によって秦末漢初に満州路が復活し、交易は活況を呈した。

しかし漢の武帝によって朝鮮半島横断路が占拠され、高句麗を送り込んで開いた鴨緑江ルートも、玄菟郡に支配されて利益が収奪された。漢が扶余に鉄の武器を支給しただろうから、それで武装した扶余に満州ルートも塞がれ、全ての交易路が漢王朝と殷人に支配される事になった。しかし倭人ルートは健在だったから、それが頼みの綱になっていた可能性がある。

縄文晩期にシベリア経済が崩壊した後、粛慎は俄作りの総合商社として台頭したから、その内実は個々バラバラな集団の寄せ集め状態だった可能性が高い。魏志東夷伝は粛慎の拠点が沿海州にあった事を指摘し、その北の境界は何処にあるのか分からないとしているが、オホーツク海沿岸にも同一民族がいた事は間違いないからだ。また息慎の組織は崩壊したが、その残党と云うべき交易民族が東ユーラシアにも多数いた筈であり、彼らが満州に繋がるアムール川交易路を粛慎に譲渡したとしても、隠然とした勢力は残っていた筈だから、縄文晩期には大きく分けても三つの交易勢力が残存し、それらが各地の生産集団と提携する事により、複雑な状況を呈していたと考えられる。

沃沮の様に粛慎の指導を無視した集団がいた事は、粛慎は栽培民族や狩猟民族の統括に成功していなかった事を示しているが、隋書や唐書は粛慎が満州に入植させた集団の中から、粛慎の出先機関だった高句麗に、敵対する部族も出現した事を示している。粛慎内部も統一されていなかったから、高句麗を支援する沿海州の粛慎がいた一方で、息慎との歴史を重視しながら濊との交易を継続する粛慎や、関東部族との交易を継続していた粛慎もいた事になる。それぞれの分派的な粛慎は、歴史的な経緯に基づいた交易相手を重視し、沿海州の粛慎の方針に賛同しない集団だったとしても、彼らも現実的な交易関係を重視し、継続的な交流関係も重視するシベリア的な人々だったと言えるだろう。

粛慎が遠隔交易を担う前の縄文後期末に、殷人が満州を占拠して息慎の交易路を遮断すると、急遽開設した竜興江と大同江を結ぶ河川運輸を担ったのは、当初は濊ではなく息慎本隊だった可能性もあるが、朝鮮半島西部の櫛目紋土器を含む遺跡が、その頃途絶える事から推測すると、河川運輸を担ったのは濊だったと考えられる。濊は土器の製作に熟練したmt-M7aを擁する、韓族と共に遼東に千年以上いた後だから、櫛目紋土器ではない別の土器の使用者になっていただろう。

濊が大同江を使って黄海に荷物を運んでも、その様な状態の息慎には華北で毛皮を販売する能力が失われていただけではなく、大同江から渤海に荷物を運ぶこともできなかった。従って殷人の暴力依って息慎が満州航路を失うと、黄海以降の運送と華北での販売を担ったのは九夷や北陸部族だったと推測される。九夷は渤海沿岸のアワ栽培者に宝貝貨や塩を提供し、殷・商王朝とも交易を行う最有力交易者だったから、北九州の倭人と新羅の親密な関係は、この時期の九夷と濊の関係に端を発していたと想定される。

夏王朝期に九夷が生れたのは、渤海と東シナ海を繋ぐ陸橋が完全に陸化する事により、関東部族が沖縄から山東の西の海峡を経て、渤海に入る事ができなくなったからで、関東部族が北九州の倭人ではなく九夷に渤海沿岸の交易権を委譲したのは、夏王朝期の渤海交易は規模が大きく、北九州に入植した関東部族の船では数が不足したからだと考えられ、九州西部にいた関東部族系譜の九州縄文人と、九州南部に入植した伊予部族などを糾合して九夷を結成したと推測される。

従って九夷は北九州に入植した関東部族を中心に結成されたが、殷末までは複数部族の交易同盟であって、関東部族の別称である倭ではなかった。九夷が生れた夏王朝期の「夷」は、「弓を操る人々の集団」を指したから、彼らの集団名は「九」だった。

九夷は竹書紀年や史記の殷末の記事に九候として登場するから、殷代になっても華北の主要な交易者だった事が分かる。しかし論衡には周の成王の事績としてが登場するから、北九州の関東部族の人々は、殷週革命時に倭に統合されたと考えられる。しかし春秋時代の孔子の言動を記した論語に九夷が登場するから、北九州の倭人が抜けた後も九夷は存続した事になり、「九州」名称の原義は「九の島(洲)」、或いは「九の地域(州)」だったと考えられる。

満州の交易ルートを殷人に奪われた息慎の嘗ての華北の商圏は、九夷に移譲された可能性が高いが、その交易実務の相方である濊は、北陸部族の加工集団傘下の玉器製作集団だったが、北陸部族が殷代に渤海交易を行っていた証拠はなく、殷墟から多数の宝貝が発掘されている事は、華北の交易は九夷が仕切っていた事を示している。

黄河流域は、黒陶を使用していた龍山文化期から関東部族の商圏だったから、殷王朝期に九夷が仕切っていた事に違和感はなく、縄文中期~後期前半の北陸部族のこの付近の商圏は、殷人が占拠した遼河流域だったから、息慎と殷人が敵対関係になった以上、北陸部族が渤海に入る意味は失われていた。従って夏王朝に濊と九夷の交易関係が生れ、息慎と粛慎の毛皮の運搬ルートは日本海沿岸に留まり、濊の陸路を経て九夷(渤海)に渡ったと推測される。

この状態は弥生温暖期が終わるまで継続し、弥生時代末期に挹婁が黒竜江省を占拠し、衛氏朝鮮が吉林省の扶余を制圧すると、満州交易路を復活させる事ができた。気候が冷涼化して毛皮の需要が高まり始めた事を追い風に、粛慎は多量の毛皮を中華世界に供給し始めたが、それを扶余から聞き付けた漢の武帝が、衛氏朝鮮を征討して扶余を開放すると満州ルートが棄損し、楽浪~東朝鮮湾も制圧して激しく収奪すると、このルートでは利益を上げる事ができなくなっただけではなく、収奪によって物流が滞った状態で利益を上げる為には、販売価格を上げる必要が生じたから、このルートで供給する毛皮の需要は沈滞した。

しかし倭人を経るルートにはその影響がなかったから、渤海交易を行っていた九州の倭人(魏代の邪馬台国連合)は、この間隙を縫って販路を大幅に拡大すると共に、この交易を大きな収入源にしたから、(1)魏志倭人伝に示す事態が発生したと想定される。

つまり衛氏朝鮮時代にも大同江は主要な交易路であり続けたから、衛氏朝鮮がその利権を主要な財源にするために王険城(平壌付近)を都にしたが、衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝も楽浪郡の郡衙を大同江流域に設定したから、魏志濊伝に「単単大山嶺以西は楽浪に属し、嶺以東の七県は軍官である都尉が治め、その民は皆濊だった。後に都尉を省いて其の渠帥を侯として封じたから、今の不耐濊は皆、其種である。」と記される状態になった。単単大山嶺は東朝鮮湾と大同江流域を繋ぐ、交易路の峠付近の山塊を指したと推測される。王朝官僚の眼鏡で見た見解として魏志濊伝には、都尉不耐城で濊を統治していた様に記されているが、改めて事実を確認すると史書の実態も明らかになり、統治ではなく収奪だった。

漢の武帝が5万の軍を派遣して楽浪を占領したが、更に南下して温暖肥沃な漢江流域を占拠しなかったのは、武帝の目的が扶余の救済と交易路の奪取にあり、漢江流域などの肥沃な農地を、領土に加える為ではなかった事を示している。従って漢王朝が大同江の下流域に楽浪の郡衙を設置し、日本海沿岸に玄菟の郡衙を築いて沃沮と濊を支配したのは、交易路の出入り口を抑える為だったと推測される。郡衙は政治の中心であると共に、その地域の軍事拠点でもあったからだ。漢王朝としては、楽浪で租税を徴収して官吏や軍人の食料とし、それらの軍人を使って交易者を恫喝し、交易の利益や物産を王朝に持ち帰る事が、この地域を支配する主要な目的だった。

 

これらの仮説を支持する証拠は、日本にもある

北九州の弥生時代の甕棺墓から多数の遺骨が発掘され、その中に戦闘で傷付いた事を示唆するものがあり、現代日本人には1%しか含まれていないmt-Zが、甕棺墓の遺骨には7%ほど含まれている。縄文時代のmt-Zは、シベリア東部のトルコ系栽培民族の主要遺伝子で、濊や古墳時代以降の高句麗の主要な遺伝子の一つでもあった。甕棺墓が造られた弥生中期には、まだ高句麗は形成されていなかったから、甕棺墓のmt-Zは濊の遺伝子だった事になり、弥生時代の北九州に濊の女性が多数流入した事を示している。稲作が盛んに行われていた北九州に、シベリア系の女性が穀類の栽培者として流入した筈はないから、他の理由を求める必要がある。

日本人の他の栽培系のミトコンドリア遺伝子の流入は、コメやアワの栽培者であったり、他の何らかの技能を持った女性の遺伝子であったり、古墳時代の帰化人の遺伝子であったりするが、それらの流入目的や流入時期は識別できるから、北九州のmt-Zは他の理由で流入したと考えざるを得ない。

弥生温暖期に強勢化した扶余の遼東への南下と、戦国時代に強勢化した燕による遼東への侵入が、濊の脅威になっていた筈だから、濊と同盟していた北九州の倭人が、それらを阻止する為に遼寧に出兵した事が、mt-Zの流入に繋がったと想定される。それらの勢力が韓族を蹴散らして遼東を占拠すると、更に半島を南下する恐れがあり、北九州の倭人はそれを未然に防ぐ為に、遼東に出兵したと推測される。多数派の韓族には武闘的な習俗がなく、箕氏朝鮮を構成していた濊の数は少なかったから、北九州の倭人がその戦線に参加せざるを得なかったと考えられる。

その指揮を執ったのは魏志倭人伝が示す、伊都国の大率だったと考えられる。大率の現代語訳が大将軍であるだけではなく、伊都国は交易に関心がない集団だった事を、伊都国の隣国の奴国が単独で、後漢に朝貢した事が示している。また伊都国だったと想定される糸島市に甕棺墓が集中し、葬られた人骨に殺傷痕があるものが含まれている事がその証拠を示している。邪馬台国起源の倭国王を擁した古墳時代の倭が、朝鮮半島に出兵して高句麗と激戦を繰り広げ、その倭が朝鮮半島から撤兵した後は、新羅が楽浪郡公に収まっていた。従ってこの出兵も濊との連携の下に行われた事になるが、それと同じ事が、弥生時代中期にも繰り広げられ、この時期の濊の交戦相手は高句麗ではなく扶余や燕だったと考えられる。

甕棺墓が造られた弥生時代後半期の倭が、濊と共に扶余、燕、漢王朝などと遼寧で戦ったとすれば、濊の根拠地で戦っていた事になるから、戦役を終えて帰還した倭兵の一部が、濊の女性を伴っていたとしても不思議な事ではない。濊は3民族の共生集団だったから、栽培民族の女性だったmt-Zだけが倭兵と共に北九州に来たのではない事を、甕棺墓の遺骨はmt-Amt-N9aも異様に多く含まれている事が示している。逆に言えばこの3種の遺伝子が異様に多い事が、甕棺墓に葬られた3種の遺伝子の、出自を示している事になる。つまり3種の遺伝子を均等に持つ共生民族は、弥生時代中期の朝鮮半島には濊しかいなかったからだ。mt-Aは狩猟民族の遺伝子で、mt-N9aは森林系狩猟民族の遺伝子だったから、mt-N9aはトルコ系漁民に浸潤した遺伝子だったのかもしれないが、河川が少ない遼東や朝鮮半島ではトルコ系漁民の活動の場はないから、漁労も行う森林系狩猟民族が漁民として濊に送り込まれていた可能性もある。

それらの遺伝子もmt-Zと共に北九州に渡来した、濊の女性達の子孫のものだったとすると、甕棺墓に収められた遺体の3割近い人々が濊人女性の子孫だった事になる。この事情は北九州から遼東への出征期間が長く、兵士の兵役期間も長かった事を示していると共に、彼らを迎えた濊が厚くもてなした事や、出兵が長期間に亘って常態化していていた事を示しているが、それにしても濊人女性の子孫の比率が高過ぎる様に見える。

甕棺墓に葬られたのは、戦役で死傷した人々だった事を前提にすると、濊人女性の子孫は出征に積極的で、戦闘に際して勇敢に戦って戦死する比率が高かったのであれば、甕棺墓の人骨が示す遺伝子比率は、必ずしも北九州弥生人の遺伝子比率ではない事になる。しかし戦場の戦死者の遺体の回収率は、50%を割っていたと推測され、死傷者が多い濊はその様な危険な戦闘に参加する比率も高かっただろうから、実際の戦死者の過半は倭人になった濊人女性の子孫だった可能性が高い。それを更に敷衍すると、遼東にいた濊人の戦死者は、かなりの数に達していた事になるから、戦役によって濊の人口構成にひずみが生れた結果として、余剰になった女性が倭人に嫁した可能性も生まれる。

濊にとってかなり激烈な戦闘だった事は間違いないが、甕棺墓の遺体にmt-M7aが含まれていない事は、朝鮮候麾下の人々の多数派だった韓族は、この戦役に極めて消極的だった事を示している。韓族は漢初には、既に大半が半島南部に移住していた事は、弥生温暖期にも南下移住者が韓族の主流だった事になり、韓族の過半は縄文晩期寒冷期に半島南部に移住した事になる。その様な韓族の主流には、遼東での出来事は関心がなかったのかもしれないが、それは殷周革命後に玉器の生産者ではなくなった濊にも言える事で、周代の朝鮮候は韓族だったのだから、甕棺墓の遺体にmt-M7aが含まれていない事は、濊と漢族の違いを示している事になる。

大陸の支石墓の起源はB1500年頃の遼東にあり、その後吉林省に広がっていく事は、華北夏王朝が滅亡して殷人が満州の交易路を妨げ始めた時期から、濊と殷人の間に抗争が生まれ、その戦死者を濊が葬送する墓として、支石墓が生まれた事を示している。その後吉林省に広がっていく事は、気候の冷涼化と共に殷人の勢力が減退した事、周が華北から殷人を追放し始めると、殷人の一部が周の追跡から逃れる為に遼寧に侵攻した事などは、極めてあり得る歴史の流れになるが、遼東は濊や倭人によって守られ、殷人はそれ以上東進できなかったから、縄文晩期寒冷期の満州に北上せざるを得なかった故に、満州を基盤とする扶余が生れたと考えられる。

周代以降の濊も激戦に晒されていた事は、玉器の加工者ではなくなっていた濊が死守したのは、岫岩の産地である遼東ではなく、日本海と黄海を繋ぐ河川路である大同江の前塁としての、遼東だったと考えられる。遼河の東岸と大同江は300㎞程離れているが、両者を隔てている丘陵地は峰の標高が500mに満たないから、軍事的な障壁とは言えないものだった。盛時の高句麗はその丘陵地帯を要塞化して隋や唐の侵略を防いだが、濊の人口ではその様な事は覚束なかったし、戦乱の時代が始まった春秋時代には、鉄器も普及していなかったから、防塁や要塞を構築する土木技術も未熟だったからだ。殷人や扶余の収奪は略奪を主体とするものだったから、大同江の交易路の防衛には遼東を障壁とする必要があった事に異論はないし、満州より温暖な遼東を殷人に渡す事の危険性も理解できる。

現在の韓国域にも多数の支石墓があるから、それがこの時期の韓族の戦死傷者の墓だったとすると、それらの墓の年代を分析する必要があるが、韓族の居住域だったと想定される地域に、異様に多い数の支石墓が遺された事は、戦死者の墓ではなく標準的な豪族の墓だった疑いを高める。

朝鮮半島の付け根を横断する交易路の、他の交易路と比較した価値についても検証する必要がある。

縄文後期までの息慎は、アムール川~松花江~遼河を唯一の交易路としていたと想定されるが、縄文時代には降雨量が多く河川が直線的に流れていたから、それが唯一の選択肢であったとしても、降雨量が減少した弥生時代以降は事情が異なったからだ。

盛時の高句麗が大同江流域に展開し、その時代の遺跡を多数遺したのも、この交易路を活用する為だった可能性が高く、古墳寒冷期には松花江より輸送力が高まっていた事を示唆している。弥生時代以降の松花江は降雨量が減少して水量が少なくなり、蛇行して流路長が長くなっただけではなく、騎馬民族化したモンゴル人の勢力圏が、草原化した松花江流域の西端に及び始め、彼らの略奪の標的になり易くなってもいたからだ。

また全時代的な傾向として、鉄器時代になって船が大型化すると、河川の蛇行が酷くなって距離が迂遠になった河川路より、近道である海路の方が輸送力を増強し易くなっていった。従って高句麗滅亡時に高句麗人が関東に多数亡命し、埼玉県高麗郡にある高句麗神社を遺しているだけではなく、狛江市や駒込の地名も高句麗人集落の名残である可能性が高く、多数の亡命者を引き受ける関係が一朝一夕に生まれたとは考え難い事から考えると、盛時の高句麗の繁栄を支えた海上輸送には、関東倭人の船も参加していた可能性が高い。

その根拠として、古墳時代の高句麗の拠点は3つあったが、全ての所在地が判明しているわけではない事が挙げられる。隋書高麗伝に、「其の国東西二千里(1000㎞)、南北千餘里。都は平壤城にあり、長安城とも云う。東西六里で屈曲した山に隨い、南は浿水(鴨緑江)に臨んでいる。国内城として漢城も有り,之と会う所の都を並べ、其の国の中では「三京」と呼んでいる。」と記されているが、3番目の城については具体的な記述がない。それが日本海沿岸にあったのであれば、隋代の鮮卑族や漢族は所在を知らなかったが、高句麗にとっては交易の重要拠点だった事になる。

漢城は漢の楽浪郡の郡衙があった大同江下流域だったとすると、之と会う所の都は交易路の東端である東朝鮮湾の湾岸だったと解釈され、盛時の高句麗にとって最も重要な交易路は鴨緑江に臨んでいた平壤城ではなく、東朝鮮湾を起点とする大同江だった事を示唆し、海上輸送路の重要性が高まっていた事を示唆しているが、既に説明した様に隋書には新羅の嘘が混入しているので、これが何時の時代の事であるのかは不明。旧唐書の編者も、隋書の高句麗に関する記載は隋代の事ではない事を知っていたので、旧唐書新羅伝に「其の王金真平は隋文帝時に、上開府、楽浪郡公、新羅王を授かった。」「其国、漢の時の楽浪の地に在り、東及南方は大海に限られ、西は百済に接し、北鄰は高麗。東西千里,南北二千里。」と記し、高句麗伝に唐の高祖が「冊建武(高句麗王)を上柱國、遼東郡王、高麗王に冊した。」と記し、百済伝に「(百済は)東北至新羅、西渡海至越州(東シナ海沿岸)、南渡海至倭国、北渡海至高麗」と記した事と整合している。

つまり盛時の高句麗は大同江流域(漢の時の楽浪の地)を抑えていたが、隋代には新羅に奪還されていたから、百済と高句麗は陸続きではなくなっていた。

高句麗は好太王の時代に遼河、鴨緑江、大同江流域を支配したと好太王碑に記され、475年に百済の都だった漢城を陥落させたから、この頃までは高句麗が大同江流域を確保していたが、その後新羅に奪還されたから、隋代(581年~)には新羅が楽浪を支配していた事になる。

新羅の軍事力の中核は高句麗から白と呼ばれた濊だったが、濊が新羅の軍事的な中核勢力として高句麗と対峙し続けたのは、この交易路を高句麗から奪還する為であり、朝鮮半島の三国時代後半には高句麗からその権益を守る状態になっていたとすれば、濊が越系の新羅王を支えていたのは、半島を縦断する交易路を奪還し、維持する為だった事になり、古墳時代の新羅の高句麗の激しい対立の原因が明らかになる。

王朝史観に毒されると、朝鮮半島の三国抗争を領土問題に矮小化してしまうが、高句麗と濊は領土を争っていたのではなく、交易利権を争っていたと考える必要がある。中華の史書を読んでもそれが浮上しないのは、交易に疎い漢族にそれを話しても、理解されない事を魏志東夷伝が示している。つまり周辺の交易的な民族からその様に見做された漢族が、中華の史書を編纂したのだから、その視点は欠けていると考える必要がある。そこに常習的な嘘つきである百済が絡んでいたから、史書に頼っても朝鮮半島の歴史は皆目分からないだろう。

従って全くの推測になるが、百済に楽浪を奪われた高句麗は関東部族と提携して北方の物産を入手し、古墳時代後期~唐代初期までの物流を賄った可能性がある。弥生時代までは、関東で2次加工した高級毛皮を北九州の倭人が華北に販売していたが、古墳時代になると西日本の倭人の統括国は大阪湾岸の邪馬台国になり、彼らは移民事業で暴利を貪ったから、毛皮の販売に対する興味を半ば失っていた可能性があり、新羅と親和的だった北九州の倭人が、それを継続する程度だった可能性が高い。従って関東の倭人としては、北方の物産の販売圧力を粛慎から受けると、原材料が不足していた高句麗にそれを持ち込む事が、最も効果的な解決策になったからだ。

北朝鮮湾の北端に咸興市があり、市内を流れる城川江は狼林山脈から流れ出ている。城川江を標高500mの地点まで遡上し、その北に東西に連なっている狼林山脈の標高1200mの峠を越し、鴨緑江の支流に達するには直線距離で10㎞しかなく、城川江の河口を高句麗が維持していたとすると、半島横断路と比較すれば輸送に困難はあったが、毛皮を高句麗に運び込む事は可能だった。

交易には往路だけではなく復路もあり、毛皮を採取していた人々に送る荷物に多量の穀類が含まれていたとすると、その様な物品を運ぶ事はできなかったが、古墳寒冷期の関東はコメの産地だったから、関東の倭人が高句麗から高価な物品を受領し、それを原資にしてオホーツク海沿岸の粛慎に関東のコメを送り込めば、多角的な交易を実現する事ができた。高句麗が滅亡した際に、高句麗から関東に亡命したY-Nmt-Zペアは少なくとも5万人はいたと推測され、それに使った船の過半は彼らの川船や沿岸漁船だった筈だから、その様な交易拠点がなければ彼らは亡命できなかった筈である事も、この想定の根拠になる。

また古墳時代後半期に新羅と高句麗が激突した際に、新羅に加担したのは北九州の倭人だけではなく、出雲勢力も加担した事を新唐書や古事記が示唆している。出雲風土記に新羅が登場する事も、出雲と新羅の深い関係を示唆しているが、その理由は出雲も東朝鮮湾に毛皮を運び込んでいたからだと推測される。出雲にいた隠岐部族は、縄文晩期に亀ヶ岡文化を生み出した津軽を故郷とする部族だったから、その頃から濊との交易関係を維持していた可能性があり、古墳時代になっても津軽で2次加工した普及品の毛皮を、新羅に送り込んでいた可能性が高い。移民事業が終了した古墳時代後期に出雲勢力が台頭したのも、その交易による利潤が貢献していたからだとすると、古墳時代~飛鳥時代の日本の歴史も明らかになるが、これの詳細については章を改める必要があり、弥生時代~飛鳥時代の大きなテーマにもなる。

 

以上の結論として、以下の事情が推測される。

縄文後期後半に殷人が息慎の遼河の交易路を塞ぐと、息慎は濊の人員を増強して半島を横断する交易路を建設させ、東朝鮮湾から大同江を経て黄海に抜ける交易ルートを形成したが、黄海から渤海に抜けて華北で毛皮を販売する事業は九夷が担った。九夷は海洋民族の仁義を守り、殷人の様に略奪したり暴利を貪ったりしなかったから、それが濊と北九州の倭人の密接な関係が生まれる契機になり、古墳時代まで良好な関係が維持されたが、交易者がこの関係に至る為には、交易上でもWin-Winの関係がなければならなかった。

つまり関東部族を経由して九州に送られて来た毛皮や皮革と、濊が扱っていた毛皮や皮革には違いがあり、両者は品ぞろえを豊富にする関係にあったから、九夷~邪馬台国連合の時代に至るまでそれが維持され、販売量を拡大する事が可能だったと推測される。関東縄文人の遺伝子が、関東にはmt-M10mt-Gがいた事を示し、北九州の甕棺墓が、濊の加工者にはmt-Amt-N9aしかいなかった事を示しているから、それがこの推測の根拠になる。つまり関東では高級毛皮と高級皮革を生産し、濊は普及品の毛皮を生産していた。

九夷や北九州の倭人は消費地である華北の需要動向を調査し、それを関東と濊に伝達したから、毛皮や皮革を加工する女性の技能に重複がなかっただけではなく、売れ筋の商品の動向も製造に反映する事ができたから、それらを販売していた九夷時代から邪馬台国連合時代までの北九州や邪馬台国の倭人は、濊と提携する事によって商品メニューを増やす事ができた。それを言い換えると北九州の倭人にとって、濊は掛け替えのない交易パートナーになったから、扶余の攻勢に対しては濊と共に、この交易構造を死守する動機があったが、韓族には直接関係がない動機でもあった。

関東部族は荊と連携して高級陶器を販売する際に、顧客の要望を聴いて商品製作に反映させる手法を駆使していたし、濊もその様な商法を北陸部族から学び、紅山文化圏のアワ栽培者に対して実践していたから、濊と提携した北九州の倭人も、華北に毛皮や皮革を販売する際にその交易手法を採用しただろう。

衛氏朝鮮に満州航路を開拓して貰った粛慎や、漢代に満鮮境界に南下した頃の高句麗には、その様なマーケティングを行う意識はなかったから、濊の商流には太刀打ちできない状況があった。濊が衛満の活動を支援した事情の背景には濊と粛慎の交易上の反目があり、濊と競合する可能性が高い高句麗利を、粛慎が新たに送り込む事を濊は阻止したかったし、粛慎は濊に頼らない交易を実現したい思惑から、高句麗を送り込む動機があった。但し粛慎には統一性がなく、歴史的な経緯や現実的な打算から、沿海州の粛慎ではなく濊や倭と交易する粛慎も、オホーツク海沿岸には多数いた。

秦代以降は華北の気候も冷涼化し、毛皮の需要が高まっていたが、シベリアで最終加工した毛皮を華北に送り込んでも、需要と供給のミスマッチがあり、濊や倭の商品販売の妨げにはならなかったから、粛慎は廉価な1次加工品を濊や倭に送る事が本務になり、高価な付加価値が付く2次加工品の利益は、濊と倭が得る経済構造になった。

粛慎がそれに気付いて高句麗を満鮮境界に送り込み、販売機能を強化しようとすれば、濊と北九州の倭人の交易同盟と、競合する組織になる事は必然的な結果であり、衛氏朝鮮の設立はそれを阻止する手段だったとすると、倭も濊と協力してその設立に尽力しただろう。

しかし漢の武帝によって衛氏朝鮮は滅亡し、濊と高句麗は不遇な時代を迎えたが、濊・倭連合と高句麗の関係は次第に悪化していった。

高句麗もシベリアで作成した既製品を販売するだけでは、濊・倭連合の商流に対抗できない事を悟り、古墳寒冷期に続々と南下して来たシベリアのトルコ系民族や、オホーツク海南岸に残してきたmt-M10を呼び寄せ、市場調査しながら売れ筋を見極める商法を編み出し、濊・倭連合に対抗し始めたからだ。

現代韓国人の遺伝子は、濊のミトコンドリア遺伝子にmt-M10mt-Gが追加されている構造である事が、その事情を示している。その結果として高句麗は濊・倭連合と真っ向から競合する、強力な毛皮と皮革の販売者になった事を、南北朝期~隋代の高句麗の経済的な繁栄が示している。

卑弥呼が魏に使者を送り、公孫氏の滅亡に貢献したのは、濊の交易路を塞いでいた公孫氏を魏に討滅させ、濊の交易路を復旧させる為だったとすると、その動機が明らかになる。公孫氏が滅亡すると高句麗の鴨緑江ルートも完全に解放されたから、高句麗の販売力も高まって倭・濊連合との市場競争が激しくなり、邪馬台国は魏に高句麗の商圏を抑圧する様に依頼したが、魏には商圏意識がなく対処の仕方が分からなかったから、いきなり高句麗の都を攻撃して陥落させ、翌年には逃亡した高句麗王を追って北沃沮と沿海州の境界まで達した。邪馬台国にとっては、魏のこの様な行為は予想外の事だったから、その代償として呉への攻撃への同調を求められた卑弥呼は困惑し、自ら命を絶つ羽目に追い遣られた。その顛末は(1)魏志倭人伝を参照。

卑弥呼の擁立によって北九州の大率から、西の倭人30国の統率権を継承した邪馬台国は、古墳時代初頭に日本の海洋民族の覇者になった。縄文中期までの関東部族は、部族が一丸となって経済活を行っていたが、縄文後期に一部が稲作地を求め、北九州や大阪湾岸に入植した事から地域的な分裂が始まり、弥生時代になると地域毎の経済的な利害が相反する様になり、古墳時代にそれが武力対立に至った事を、南朝の宋に朝貢した倭国王「武」の表(手紙)が示している。

祖先は昔から自ら甲冑を着て、山川を歩き回って落ち着く間もなく、東の毛人55国を征し、西の衆夷66国を服し、海を渡って北の95国を平らげ、領土は遠く広がった。

 東の毛人55が、関東部族の倭人国などを示していると考えられ、東の毛人55国を征しとの記述は、邪馬台国を基幹国とした西の倭人が、関東の倭人と武力抗争を起こし、関東の倭人を武力で制圧した事を示唆している。

それによって倭国王を自称した邪馬台国王は、再び朝鮮半島に出兵して濊の為に高句麗と戦ったが、その資金の原資は中華大陸での移民事業だった。従ってトルコ系民族が南下して華北の農業生産力が回復し、華北に強力な王朝が出現すると、移民事業は終わって西日本の倭人各国は経済的な豊かさを失った。

経済的な基盤を失った倭兵が朝鮮半島から撤退すると、朝鮮半島の三国時代が始まったが、新羅王は既に楽浪郡王新羅王の称号を得る状態になっていた。つまり朝鮮半島に出兵した倭は濊と協力し、高句麗を楽浪から追い出して濊の交易路を奪還したから、高句麗の交易ルートは満州~鴨緑江と満州~遼河になった。これは高句麗の経済力を削ぎ、滅亡の遠因になったと考えられる。

この様な西日本の倭人の行動は、高句麗と連携していた関東の倭人の利害と対立していたから、九州の大率・邪馬台国連合と関東倭人の対立が、弥生時代後期~古墳時代に激化する一つの原因になっていたと考えられる。

 

1-13-5 濊の文化

魏志濊伝は「(濊の)衣服は高句麗と異なり、男女は丸い襟の衣服を付け、男子は広さ数寸の銀花を繋いだものを、飾りにしている。」と記している。丸い襟の衣服は、清が中華に持ち込んだチャイナドレスの様式だから、その起源はシベリアにあった事になり、挹婁~女真時代に満州に南下した諸民族の主流は、濊と同類のトルコ系共生民族だった事を示している。

高句麗はこの衣裳を採用していなかった事と、高句麗人が公会の場で着る衣類は「金銀で飾った錦繍」であって、銀花を使用していたとは記されていない事は、古墳寒冷期に満州に南下したトルコ系民族の多数派は、高句麗と同じ沿海部の出自ではなく、濊と同じ内陸の出身者だった事を示唆している。

魏志東夷伝が描写した魏代の500年後に、日本海系の倭王の都だった飛鳥を訪れた唐の使者が、「(日本海系の倭人の)婦人は単色の裙(スカート)と長い腰襦(胴着)を着て、8寸ほどの銀花を左右それぞれ数枚帯び、以て貴賤の等級を明らかにする。衣服の制、頗る新羅に類す。」と報告書に記した。銀花を使用していた濊が、越系文化の影響を受けていた可能性もあるが、銀花は濊の固有文化だった可能性が高い。新羅の墳墓から多数発掘された歩揺冠は、この銀花を指していた可能性が高い事と、鮮卑慕容部にも歩揺冠の文化が広がっていたからで、慕容部は満州と遼寧を基盤にして華北にも進出し、五胡十六国時代に建国した国は燕を称した。

最も精巧な歩揺冠が新羅時代の遺跡から多数発掘され、東端の鮮卑だった慕容部の王冠にも採用された事は、濊が製作した歩揺冠が、北東アジアの騎馬民族の王権を装飾した事を意味し、玉器の製作によって示した濊の文化的な権威が、古墳時代まで継続していた事を示唆している。

北朝鮮西部は金や銀の産地だから、濊や韓族がその地域を領有していた時代に、濊がそれを採掘して銀細工品の製作を産業化したのではなかろうか。魏志韓伝に「(韓族は)瓔珠を以て為財寶と為し、綴衣の飾りにしたり、首に縣たり耳から垂らしたりするが,金銀錦繡は珍(貴重品)と為さず。」と記されているから、濊が韓族の地で金銀を採掘しても韓族はそれを咎めなかっただろう。周代に玉器の生産者ではなくなった濊が、シベリアの人々の需要に応えて金銀細工品を製作していたとすると、それも濊の重要な産業の一つになっていたと推測される。中華民族は略奪的な民族だから、濊はそれを魏の役人にも話さなかったから、魏志濊伝にはその話がないとすると辻褄が合う。

また満州に濊と親和的な鮮卑慕容部の勢力が及んでいた事は、高句麗の満州経由の交易路に不都合が発生し、彼らにとっては苦しい状況を生み出していたと想定され、AD342年に慕容氏の前燕が高句麗に侵攻し、首都丸都城が陥落して前燕に臣礼を取らざるを得なくなった事は、その苦境の一端を示し、前燕の高句麗侵攻は濊との連携の結果だった可能性を示唆している。

鮮卑の拓跋部が北魏(386年~ 534年)を形成して慕容氏の燕を傘下に収めると、高句麗はその後勢力を回復し、好太王の時代には朝鮮半島縦断路を奪回して高句麗の最盛時を迎え、その子が北魏に朝貢して多量の財貨を貢納した事は、高句麗が慕容鮮卑と敵対関係にあった事の裏返しになる。しかし北魏が滅亡すると満州はモンゴル系の契丹が勢力を窺う地域になり、交易路としての価値は減退したから、高句麗と沿海州の粛慎は朝鮮半島を縦断する交易路と、関東の倭人の海洋交易力に依存する状態になり、古墳時代中頃に濊と西日本の倭人が朝鮮半島を縦断する交易路を高句麗から奪還すると、高句麗と沿海州の粛慎は関東の倭人と連携し、咸興の城川江を輸送路にする以外の選択肢がなくなった。

中華では漢代から歩揺が使われ、唐代以降は女性の髪飾りとして盛行したとも主張されているが、魏の役人が歩揺などの固有名詞ではなく、普通名詞を組み合わせて銀花と記している事は、歩揺冠の意匠は、漢代の中華のものとは別の系譜だった事を示している。つまり中華で発達した歩揺文化が周辺に広がったとの認識は、何でも中華起源を主張する人達のプロパガンダに過ぎない。

唐代以降の女性の髪飾りとして盛行した歩揺は、金銀を精密に加工できる様になった濊が、周が成立して玉器を製作しなくなった縄文晩期以降に、濊が創作して広めた文化だった可能性が高い事を、魏の役人だけではなく初唐期の唐の役人もそれを銀花と記した事は、初唐期までの歩揺は慕容鮮卑の文化圏や、越系文化圏に拡散していたが、中華世界には拡散していなかった事が示している。唐は拓跋部出身の鮮卑族が樹立した王朝だったとの意見が優勢だが、それは初唐期の唐の役人が歩揺を知らなかった事と整合し、唐代の女性がそれを髪飾りにしたとすれば、唐は拓跋鮮卑でありながら、新羅と連携する慕容鮮卑の政策を採用した結果として、新羅の文化が唐に流入したからであると考えられる。

拓跋鮮卑だった唐が高句麗との連携を捨てて新羅と提携したのは、新羅の経済的な興隆と高句麗の凋落が、中華世界から見ても明らかになっていたからではなかろうか。

 

1-13-6 韓族

縄文中期~晩期までの韓族は箕子朝鮮に帰属していたが、周代には朝鮮候を輩出し、華北の諸侯の一員になった。しかし縄文晩期寒冷期になると、遼東の冷涼な気候は韓族のアワ栽培には向かない地域になり、韓族のmt-Dの習性に従って馬韓に南下すると、韓族の中核的な集住地は馬韓になった。

縄文中期までの韓族は、遼東で採取した岫岩で石斧を作っていたが、北陸部族と親交があったから半島を南下しても、弓矢や磨製石斧を獣骨と交易する事により、弓矢や磨製石斧には不自由していなかった可能性が高い。北陸部族が弓矢交易に参加した縄文前期後葉以降は、湿潤な半島の樹木を伐採して堅果類の樹林を形成したり、アワの栽培地を形成したりする事ができたから、縄文中期寒冷期には、韓族の主流は漢江流域以南に南下していた可能性もあるし、弥生温暖期には錦江流域まで南下していた可能性が高い。しかし大河がない半島は、縄文海進期には沖積平野が乏しい地域だったから、遼河が沖積平野を形成していた渤海沿岸の方が、優良なアワ栽培地が得られる地域だった可能性が高い。従って韓族が本格的に馬韓に南下し始めたのは、縄文後期温暖期~晩期寒冷期だったと推測される。

しかし半島の南端部や東部には晩期寒冷期になっても平原がなかったから、弥生温暖期になってもその地域の韓族の人口は希薄だったと推測される。

弥生時代になると吉林省の扶余の南下圧力が高まり、戦国時代に燕によって遼西を奪われると、韓族のアワ栽培地は遼東以南になったが、温暖な馬韓で生産性を高めた韓族は朝鮮半島を陸続と南下移住し、遼東や大同江流域は韓族人口が希薄な地域になっていった。秦代に陝西や山西の同胞を楽浪に受け入れたのも、その様な事情があったからだと考えられる。秦末漢初に燕、趙、斉の遺民が流入したのは、弥生温暖期が終了すると、遼東や楽浪に残留していた韓族の多くも馬韓に移住し、楽浪に入植した陝西や山西の同胞韓族も辰韓に移住したから、大陸勢力から遼東を防衛する戦力が乏しくなった事を憂慮した濊が、遼東だけではなく大同江流域にも入植させたからだと推測される。

衛満を信用していた濊が、その様な漢族の統治を衛満に委譲し、衛氏朝鮮が生れた。

衛氏朝鮮が漢王朝によって滅ぼされると、遼東と楽浪は漢王朝が支配する郡になったが、遼東には漢王朝によって庇護され、寒冷化した吉林省で農地を失った扶余が入植した可能性が高い。後漢末に遼東を拠点とした公孫氏について、魏志扶余伝に「夫余は本は玄菟に属す。漢末に公孫度が海東に雄張し、外夷を威服すると、夫余王の尉仇台は遼東に更属した。句麗と鮮卑が強(勢)の時、度は夫余が二虜の間に在る以て,(公孫氏の)宗女を以って妻とした。」と記され、晋書の宣帝紀に「(公孫淵を討って公孫氏を滅ぼした司馬懿は)入城すると両標を立て、以って新旧を別けた。男子年十五歳以上七千余人は皆殺し、それを以って京觀を為した。偽の公卿以下も皆伏誅し、其の將軍の畢盛等二千余人を戮し、四万、口三十余万を收めた。」と記されているからだ。司馬懿は陳寿が仕えた晋王朝の創始者の父だったから、陳寿は三国志に司馬懿伝は記さなかった。従って司馬懿については、晋書宣帝紀を参照する必要がある。

陳寿が魏の役人の報告書を読み、扶余は殷人の末裔である事を知ったのだから、魏の廷臣も当然それを知っていたと考えられ、遼東に入植した殷人の政権が公孫氏であり、彼らは漢族が滅ぼすべき相手である事を知っていたから、滅亡した公孫氏の居城内に残っていた殷人を皆殺しにしたとしても、当時の漢族の倫理観としては異常な事ではなかったかもしれない。

但し晋書は唐の太宗が編纂させた多数の史書の一つだから、扶余人の政権だった百済を恫喝する為に、実際の報告書や朝議録には「吉林省に追放したが、穀物が実らない地域では死罪とするに等しい」と書かれていたものを、上記の様に改竄した疑いもある。公孫氏が滅んでから6年後に魏は高句麗を討ったが、その際の出来事として魏志扶余伝に、「幽州刺史毌丘儉が句麗を討つ。遣した玄菟太守の王頎が夫余を詣でると、(扶余王の)位居は大加を遣して郊に迎え、軍糧を供した。」と記されているからだ。しかしこれに不満を抱く者もあり、位居がその者を殺して財産を没収すると、今度は位居が殺されてしまったからだ。

魏が収めた4万戸は全てが漢族ではなく、楽浪に残っていた韓族や、日本海沿岸にいた濊も含まれていたとすると、公孫氏の下には漢族は1万戸もなかった可能性が高く、公孫氏の軍事力の実態は扶余だったと考えられ、既に韓族の殆どは馬韓に南下していた事を示唆している。

魏志弁辰伝に「五穀及び稲を栽培している」と記され、半島の南端で稲作が行われていた事は、弁辰人が稲作民族だった事を示している。春秋時代に琅邪などに入植した越人は、秦帝国が成立すると海外に逃亡したから、その一部が弁韓に入植して弁辰人になったと推測される。弁辰人は濊と並ぶ文明人だったから、その候補は越人と荊の系譜しかなく、荊は秦が成立しても中華に留まっていたから、必然的に越人だったの結論に至る。南北朝期の新羅は漢字を使っていなかった事も、彼らが漢字を使う民族だった荊や製塩業者の系譜ではなく、フィリッピンを起源とする越人だった事を示唆し、この推測の証拠になる。

朝鮮半島の南端は北陸とフィリッピンを繋ぐ航路上にあったから、春秋時代には越人(北陸部族)が半島南端の湊を運営していた事が、秦初に多数の越人を突然受け入れた理由だったと考えられる。但しこの場合の湊の運営者は北陸部族で、弁韓に入植した人々は琅邪系の越人だけではなく、東南アジア系の製鉄者も入植したから、朝鮮半島南端の島嶼や沿海部から弥生式土器が発掘されても、それは北九州の弥生人が入植した痕跡ではないし、稲作民族の遺跡が発掘されても朝鮮半島を南下した人々のものではない。日本海沿岸では縄文晩期から稲作が盛んに行われる様になっていたから、弥生温暖期以降の朝鮮半島の水田技術は日本発祥だったと考えられる事も、考古学者は肝に銘じて置く必要がある。韓族はアワ栽培民族であって、稲作民族ではなかったからだ。

この時期の越人が多数入植したのは、洛東江の沖積平野だったと考えられるので、その形成過程も検証する必要がある。縄文時代には、洛東江の河口を塞いで湖を形成していた岩石帯の堰があり、その内側の湖に土砂が溜まり続けていたからだ。やがて湖が埋め立てられて沼地になり、湖の流出口から水に混ざって土砂も排出される様になると、その土砂を研磨剤として流出口の浸食が急速に進行したから、それに伴って土砂が急速に排出される状況が生れ、洛東江の河口に短期間に沖積平野が形成されたと想定される。

それが起こった時期は分からないが、秦代には洛東江の下流に沖積平野が形成されていたから、そこに弁辰人が入植したと想定される。急拡大期には土砂が急速に上塗りされ、農耕に適さない時期だが、それが終了すると稲作適地が広がり、洛東江の堰の内側も肥沃な盆地になって稲作地を提供したから、タイミングの良い時期に入植した弁辰人が、半島南部に多数定着して弁辰12国を形成し、その他の河川流域に「諸小別邑」も形成したのではなかろうか。韓族との摩擦が少ない状態で入植し、古墳時代に経済的に繁栄した事がその事情を示唆している。

魏志弁辰伝に、「弁辰十二国は辰王に属す。辰王には常に馬韓の人(韓族)を用い、世世相継ぐが、辰王は自立して王になる事はできない。」と記され、韓族の先住地に越人が後から入植し、弁辰十二国を形成した事を示している。韓族は乾燥した畑地を好むアワを栽培し、越人は湿潤な土壌を必要とするイネを栽培したから、両者の栽培地は競合しなかったが、越人が弁辰十二国を形成すると、農業の生産性が高い稲作者の人口が増えたから、韓族は越人が多数派になった地域の住民になった。しかし弁韓は先住民だった韓族が散在する地域だったから、韓族の辰王も統治する二重統治になった結果として、上記の事情が生れたと推測される。

朝鮮半島南部の日本海沿岸を辰韓と呼んでいたが、は東南東を示す方位漢字だから、韓族はアワを栽培する為に漢江流域や錦江流域の平坦地に集住し、山が多い東南の辺境をと呼んでいたと想定される。陝西や山東から秦代に移住した同族が、楽浪から南下して定着した地域が辰韓と呼ばれたのは、正しくその事情を示している。辰韓は現在の慶尚道だったと推測され、漢江や錦江の流域から見ると東南東になるから、秦代以前には「辰国」と呼ぶ山の彼方の辺境の地域を、南下したがった同族に譲ったと考えられる。ちなみに中華圏では「秦」と「辰」の発音は異なるから、秦から移住した事と辰韓に定住した事には関係がない。

漢江や錦江の南東に越人が入植し、加羅などの国を形成した地域は、魏代には弁辰と呼ばれていたが、後世になってこの地域の名称が弁韓になった。その理由は、には辺境であるとのイメージがあるので、越人がそれを嫌ったからだと推測される。つまり弁辰は韓族の呼び名で、越人や倭人は朝鮮半島南端を弁韓と呼んだ。これも語順は粛慎と同じで、韓の地の何処であるかを示している。

卑弥呼に招待された魏の使者は、弁辰を経由して北九州に向かったが、弁辰人は魏の使者とは面会しなかったらしく、弁辰伝には倭人と韓族から聴取したらしい事だけが記されている。例えば国の統治者を臣智と呼ぶのは、韓族諸国と同じ漢字を使っている事を示しているが、弁辰人は漢字を使わなかったから、これは韓族の呼称になるからだ。漢字を使わなかった弁辰人の発音を其の儘記せば、現在の我々には意味不明な漢字の組み合わせになった筈だが、臣智は意味が解釈できる漢字の組み合わせになるからでもある。

多民族が混住していた海洋民族社会では、細分化された地域毎に別の民族が集落を形成し、それぞれの民族毎に統治者がいたから、広域的な地域全体としては二重統治になる事は常態だったが、農本主義的な魏の役人にはそれが理解できなかったから、辰王に関する記述が意味不明なものになったと推測される。辰王の「王」は裁判権を有する者の呼称だったから、韓族の農地争いに関する裁判権を有するが、稲作者の生活には関与しない統治者だったと解釈される。この様な漢字を駆使していた韓族は朝鮮候を輩出した民族で、漢字文明圏の人達だった事を前提にこれらの事情を読み解く必要がある。

弁韓の韓族が朝鮮半島南端に移住したのは、縄文晩期寒冷期に南下圧力が高まったからだが、朝鮮半島南部は縄文中期まで極めて湿潤で、鬱蒼とした森林に覆われていた上に、耕作地になる平坦地が乏しかったから、韓族の大同江以南への南下圧力は鈍かったと考えられ、韓国内陸部の考古遺物が5千年以上遡らない事が、その事情を示唆している。つまり縄文中期までは遼河が沖積地を形成していた瀋陽辺りが、韓族の唯一の可耕地だった。

縄文晩期の寒冷化は厳しかった上に、青銅器時代になって斧の耐久性が向上していたから、多数の韓族が錦江流域まで南下したが、対馬暖流に洗われる半島南端は特に湿潤で森が深く、山岳地が多く栽培適地は限られたから、入植者の数は少なかったと想定される。半島南部にはエノコログサが繁茂していなかったとしても、畠に雑草が蔓延る温暖湿潤な気候は、天水農耕に依存する開放地型のアワ栽培には不適だったからだ。言い換えるとその様な地域のアワ栽培は、焼畑農耕として行う必要があったが、馬韓は焼畑農耕ができるほどには温暖湿潤ではなかった。

同じアワ栽培者だった漢族が楽浪郡に南下し、衛氏朝鮮や楽浪郡を形成して人口を増やしたのに、韓族はその地を譲って馬韓に南下した事に違和感があるが、韓族のアワ栽培の特殊性がその原因だったとすると、腑に落ちる事情になる。韓族は長い間北陸部族と親和的な関係を維持していたから、焼畑農耕者が開発したアワの品種を取り入れ、生産性を高めていた可能性が高いからだ。北陸部族のアワは温暖湿潤な気候帯で品種改良されたから、その様な気候地域で生産性が高まる品種だった。韓族はそれと在来種を交配して栽培したから、漢族が栽培していたアワより生産性は高かったが、耐寒性に乏しい品種だった。それを栽培していた韓族のmt-Dは北陸部族のmt-Dの様に、アワの生産性の向上だけを目指し、遼東が玉器生産の根拠地である事は無視し、勝手に朝鮮半島を南下したと考える事にも合理性がある。

魏志韓伝は嘗て遼東にいた韓族が、遼東から追い出されて500年も経た弥生時代末期になっても、玉器生産に拘っていた事を指摘しているのではなく、縄文中期以降に南下してしまった韓族も、濊の様に金銀を財貨にせずに玉の加工技術が生み出す価値を重視していた事を指摘しているのであり、縄文時代の価値観を維持していた事を、指摘していると考える必要がある。陳寿がその様に指摘しているのではなく、その様に解釈する必要があるという事ではあるが。

韓族は農耕民族的なアワ栽培民族だった故に、交易による文明化には積極的ではなく、交易品になり得る高品質物品の産出に、消極的だった事を示しているからだ。シベリア起源の濊の3民族には、それぞれの民族に特産品があり、中華の役人には秘匿していた重要な産業もあったから、その様な濊との差は歴然としていた。海洋民族との交際歴が長く、漢族より文明化してはいた筈だが、魏の官僚に未開民族扱いされる程に民族文化が未熟だったのは、孤立した少数民族だったからだと考えられる。縄文中期以降は、遼東で何千年も濊と共生していたのだから、濊の文化を学ぶ機会もあった筈だが、それを拒否していた事になる。

濊が玉器を生産しなくなると、北陸部族と朝鮮の関係も希薄になり、北陸部族と交代する様に登場した関東部族は、アワ栽培には関心が薄かったから、北九州の倭人もそれを引き継ぐと、アワの生産性向上に関する情報網も欠落し、鉄器時代のアワの生産技術を共有する民族もいなくなった。濊が衛氏朝鮮の成立に傾くと北九州の倭人もそれに協力した事は、韓族はお荷物扱いだった事を示しているし、濊と衛満の関係を仲介したのは、燕と交易を行っていた北九州の倭人だった疑いもある。

栽培系狩猟民族だった韓族の祖先は、7000年前までは河北省や河南省東北部に展開する大民族として、裴李崗文化や磁山文化を生んだが、遼河台地から南下したアワ栽培者に暴力的に征服されて消滅し、巨大化した渤海と沿海部の深い樹林に守られ、遼東にいた韓族の祖先だけが、堅果類の栽培集団を維持しながら僅かなmt-Dを受け入れ、アワ栽培者に転化したが、孤立する少数民族として縄文時代を過ごさざるを得なかった。

縄文時代の漢族の根拠地だった遼東は翡翠の産地だったが、玉器には民族の宗教性が込められる必要があり、それを製作する資格を有する民族は限定されたから、辺境の未開の少数民族がその製作者になる事はできなかった。これは現代人にも理解できる心情だから、史書に記された殷末の重要人物である箕子は、濊の指導者であって韓族の指導者ではなかったと考えられ、魏志東夷伝もその様に指摘している。

周代に濊が疎んじられた事は、箕氏にとっては画期的な事態だったから、韓族が朝鮮の代表者になって漢族に玉器を提供し続けたと推測されるが、朝鮮の指導者が濊ではなくなった事を知った燕が、隙を見て遼西に侵攻し、朝鮮の領土を蚕食したとしても不思議ではない。それを濊と倭人が防いだが、韓族はそれを傍観していたとすると、濊と倭人が衛氏朝鮮の設立に動く事は、必然的な結果だった。

魏志韓伝に付けられた注釈に「魏略曰く、昔の箕子之後の朝鮮侯が、周の衰えを見た燕が自ら尊(大になって)王であると為り,東に地を略そうとしたので、朝鮮侯も自から王を称し、兵を興して逆に燕を撃ち、周室の尊を示そうとしたが、其の大夫の禮が之を諫めたので、それを止めて禮を使いとして燕を説くと、燕は之を止めて攻めなかった。しかしその後燕は西方を攻め、地二千餘里を取り、満潘汗に至って界を為し、朝鮮は遂に弱くなった。」と記されている。この時期の朝鮮侯だった韓族は、身の程を知らなかった上に、燕を攻める軍として濊を当てにしていたから、濊の禮が之を諫め、朝鮮侯の背後には箕子がいると、燕を説いたのではなかろうか。

「候」の原義は製塩集団や塩商人だから、朝鮮侯の資格は玉器の製作集団の棟梁に過ぎなかったが、「王」は朝鮮にいた濊を含む人々に君臨する者を意味したから、濊も倭もそれを許す事ができなかったと解釈される。魏志韓伝の記述は、韓族から聞き取った内容だから、韓族も事件の原因と結果は理解していた事になるが、濊に対する民族的な反感が縄文時代以降、連綿と継続していた疑いもある。

韓族と濊は遼東で数千年共生したが、韓族はシベリア型の民族共生社会は形成しなかった事を、朝鮮が遼東から追い出されて解散状態になると、濊と韓族は言語や習俗が異なる別の民族に戻り、居住域も半島の東西に分かれたからだ。韓族は高度化していた濊の共生文化に馴染めず、石材の採取者と加工者の関係以外には、交流がない異民族として住居域を分けていた事を示している。

濊にもY-Nとmt-Zペアの栽培系民族がいたから、彼らと韓族の折り合いが悪かった事が、本質的な問題だった可能性もある。mt-Dmt-Zと折り合いが悪かった話はアムール川流域時代に遡るが、水上民族の依頼に応じて気軽に移住したmt-Zと、アワの生産性に拘って半島南部に移住した韓族のmt-Dの性格は、相変わらずだったからだ。春秋時代に殷人や燕の攻勢に遭っても遼東を死守したのは、その様なmt-Zを含む濊だったが、北九州の甕棺墓にmt-M7aが含まれていない事は、漢族のmt-D+M7aは社会情勢に疎く、記紀が迫ると勝手に逃げ出す性格だった事を示し、濊のmt-Zと韓族のmt-Dの相性の悪さを示唆している。

魏志韓伝に、「辰韓は馬韓の東に在り、其の耆老の伝世として、自ら古の亡人であると言う。秦の役を避けて韓国に来適し、馬韓の東界の地を割いて之に与えた。」と記され、辰韓人は秦の人である事を魏の役人がその言語で確認しているから、彼らの出自は陝西か山西だった事は間違いない。

秦は青海の塩を販売していたY-Rの国で、周の起源民族の一つでもあったが、周には浙江省起源の製塩業者と韓族も含まれていたと想定されるので、詳細はその2で検証する。春秋時代初頭に周が東周と秦に分かれ、東周は中華の漢族を支配する農耕民族の政権になり、秦は交易民族の立場を復活して荊との交易を求めた、Y-R民族を主体とする政権だったと考えられるから、戦国時代の強国になった秦が支配した山西や陝西には、韓族起源のアワ栽培者がいて、それが辰韓人の起源だった可能性が高い。

秦は騎馬民族の南下を防ぐ為に長大な長城を建設し、多数の労働者を挑発したが、辰韓人の祖先は河北省や遼寧省に建設した長城の、建設労働者として駆り出された人々だったと想定される。辰韓人の祖先も韓族も、祖先伝承によって両者が同一民族である事を知っていたから、韓族が彼らを亡命者として受け入れたと推測される。

ISOGGの系統樹の解説としてウィキペディアが、O1b2a1a3の最大頻度地域は韓国の江原道で4%みられ、主に北方民族から発見される。満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンのバダフシャーンと南部のバロチ族でも発見されると記しているのは、辰韓人の多くがこの遺伝子を持っていた事、辰韓は高原道の韓国側~慶尚道にあった事、陝西や山西にいた人達の中には、周が滅ぶと居住地を失って華北を大移動した人達もいたが、秦人と一体になって、中央アジア各地に拡散した人もいた事を示唆している。従って魏代までの濊の地は高原道の北朝鮮側の地域で、高原道の南部以南が辰韓だった事になり、東朝鮮湾を囲む地域以南の勢力分布も明らかになる。

秦が燕を滅ぼして中華を統一すると、朝鮮は秦帝国の圏外の地域になったから、朝鮮が継続した事になり、秦帝国の交易的な性格を示している。史記が歴史を創作して真の歴史を改竄したので、秦の歴史は闇に閉ざされているが、秦は絹布の主要な交易者になる事を目指していたから、絹の名称がそれにちなんでシルクになり、中華世界の名称がチャイナになったと考えられる。秦が中華を征服したのは、絹布の交易量を拡大する為だったので、濊が行っていた北方交易に関与する積りはなく、遼寧以東を濊に任せた事を意味するからだ。

韓族は魏志東夷伝に記録を遺した事を最後に、以降の文献には登場しない。魏代の100年後に建立された好太王碑文に、白(扶余と濊)、新羅、百残(百済)、任那、加羅・安羅(弁韓人)は登場するが、韓族と辰韓人は歴史の舞台から消えたからだ。

以上の経緯を総合すると、現代韓国人のミトコンドリア遺伝子のルーツが明らかになり、日本に帰化した韓族の遺伝子構成も明らかになると共に、このHPが示す歴史観の正当性も示す事になる。

下図は縄文人の活動期の項にも示した、「日本人になった祖先達」 篠田謙一著 NHKブックス から転写したもの。

山東・遼寧の漢族と本土日本のD5/D4比率が極めて類似し、遼河文化圏から直接拡散した山東・遼寧の漢族のmt-Dと、アムール川流域から北陸に渡来したmt-Dは、共に数が多かった事と、韓国のD5/D4比率は山東・遼寧の漢族の半分しかないから、韓族にはmt-D5が殆どいなかった事と、韓国人のmt-Dは韓族のmt-Dと漢族のmt-Dが半々である事と、浸潤したmt-Dに姉妹などの血縁関係がなければ、韓族に浸潤したmt-D10人未満だったと考えられる事は既に指摘した。

従って現代韓国人のmt-D4の半分は韓族のmt-D4+M7aで、韓族のmt-D4mt-M7aの比率は4:1であり、残りのmt-Dは漢族起源のmt-D+M8aで、mt-Dmt-M8aの比率は山東・遼寧の比率と同じになる。後漢書に「馬韓人は田蚕を知って綿布を作り、梨の如き大栗を出す。」と記されている事は、百済人が韓族のmt-M7aの特産品を百済の特産品とし、南朝に申告した事を示し、馬韓の韓族が百済に支配されていた事を示している。

現代韓国人のmt-B4mt-Fは、同じmt-DM8aと比較した比率が山東遼寧と同じだから、これらは衛氏朝鮮の成立以降に、朝鮮半島に南下した漢族の遺伝子で、三韓時代までの韓族の遺伝子は純粋なmt-D+M7aだった事になるから、越人が入植する以前の朝鮮半島南部に稲作者はいなかった事になる。現代韓国人に含まれる漢族には衛氏朝鮮を形成した漢族、漢王朝に征服されると楽浪郡や遼東の官吏やそれに付随する移民に加え、高句麗が滅んだ後の平安温暖期に、河北や遼西などから流入して漢江流域を占拠した人々もいた。どれもmt-D+M8a+B4+Fだったから、それらを遺伝子で区別する事はできない。

古墳寒冷期だった晋代の遼東は五千四百戸、楽浪郡は三千七百戸、帯方郡は四千九百戸に激減していたから、それらが全員漢族だったとしても、魏志倭人伝に記された韓族の人口十余万戸と、辰韓人の2万戸程度を合算した人口の1割程度しかないから、現代韓国人の漢族の遺伝子は、高句麗が滅んだ後に南下した漢族が圧倒的な多数派になる。

古墳寒冷期に衛氏朝鮮を形成した漢族が激減したのは、気候の冷涼化によって遼東や楽浪でのアワ栽培が難しくなると、韓族と共に日本に帰化したからだと考えられる。日本に帰化した人がいた事は考古学的にも文献的にも示され、日本のY-O3a2c1Y-O2b遺伝子の存在も、漢族と韓族が帰化した事を示しているから、この移民に関わった日本の海洋民族の主体は邪馬台国連合の倭人で、彼らが帰化したのは西日本だったと考えられる。

邪馬台国連合の倭人にとっては、濊と一緒に漢王朝と戦った衛氏朝鮮系漢族の方が、武力的に頼り甲斐がなかった韓族より親しみがある人達だったから、晋代に遼東や楽浪の人口が激減した理由は、西日本に帰化したからだと考えられるが、その総数は多く見積もっても数万戸程度だったと考えられる。現代日本人のY-O2b10%未満で、Y-O3a2c110%以上だから、古墳時代の日本の人口が500万程度だったとしても、50万人以上の漢族が日本に流入した事になり、衛氏朝鮮系の漢族は日本に帰化したY-O3a2c12割程度だった事を示している。

後漢書は後漢代初頭の倭国王が、後漢の皇帝に生口160人を献上したと記し、魏志倭人伝にも生口の話しが出て来るから、弥生温暖期が終わって華北の農耕が振るわなくなると、商業的に売買された漢族が多数いた事を示し、日本のY-O3a2c1の殆どは、こちらが起源である事を示唆している。漢族系の帰化人の中には、大金を支払って日本に帰化した華北の豪族も多数いた事が、新選姓氏録に示されている。

現代韓国人のミトコンドリア遺伝子構成の話しに戻ると、上記の経緯に濊の共生3民族の遺伝子であるmt-Z+A+N9a、高句麗の共生3民族の遺伝子であるmt-G+A+N9a、高句麗が南下して来たトルコ系民族から取り込んだmt-Z+M10、粛慎のmt-Y、越人のmt-B5+M7b、製鉄者の遺伝子だったmt-M7cを加えると、現代韓国人の主要なミトコンドリア遺伝子の起源が明らかになるから、それぞれの比率が歴史的なイベントの規模を示している事になり、各時代の遺伝子構成を推測する事もできる。

但し高句麗と濊の遺伝子だったmt-G+M10ZAN9aの中で、mt-Zだけが異様に少ないのは、高句麗滅亡時に穀類を栽培していたY-Nmt-Zペアの殆どが、関東に亡命したからだと考えられるから、それを補正する必要がある。

高句麗が滅亡した際に、狩猟民や漁民には故郷を捨てて亡命する習俗がなかったが、栽培系民族は必要に応じて移住した事を、現在のトルコ系民族の殆どは栽培系民族の子孫である事が示しているから、その事に違和感はないが、関東部族が高句麗の栽培民族を関東に受け入れたのは、古墳時代の関東は稲作地で、アワ栽培者が少なく畑地になり得る場所に栽培者がいなかったからだと考えられる。縄文晩期寒冷期に漢族のmt-D+M8aが関東に渡来したが、彼女達の天水農耕に頼る粗放なアワ栽培は、雑草が蔓延り易い湿潤な日本の気候には適合せず、里芋栽培と安房の地名を残しながら、mt-D+M8aの遺伝子は殆ど絶えていたと推測される。日本人に占めるmt-M8aの比率は1.2%しかなく、現代日本人に占める漢族系のY遺伝子が10%以上ある事は、古墳時代に帰化した漢族のmt-D+M8a+B4+Fの、mt-M8a比率が10%程度だったと想定される事と整合し、縄文後期末に関東に移住したmt-D+M8aの遺伝子は、現代日本には殆ど残っていないと考えられるからだ。

 

1-14 漢族

1-14-1 漢族の起源

縄文人の活動期の項でも説明したが、漢族と呼ばれた民族は縄文時代にも弥生時代にも存在しなかった。しかし名称がないと話ができないので、現在の華北の多数派であるY-O3mt-D+M8aペアを漢族と呼ぶ。

山東の山塊は縄文前期中頃までは、陝西省から鄭州に張り出した細長い台地とは、海によって隔てられていたが、黄河のデルタが徐々に広がって陸橋が生まれ、アワ栽培者のmt-Dが漢族の祖先に浸潤し、山東の人々のミトコンドリア遺伝子がmt-D+M8aに変わると、栽培の生産性を高めて中期大汶口文化期になった。縄文中期後葉に後期大汶口文化期になると、墳墓の中に木製の棺が現れ、富裕者が生まれた事を示している。

山東半島にはアワの原生種であるエノコログサがなく、後氷期に温暖化した後に中華大陸に北上した、鬱蒼とした森を形成する樹木もなかったから、開放的な空間でアワ栽培する事が可能な栽培地と、アワの栽培地としては温暖な気候が生産性を高め、山東の経済的な繁栄を生み出したと想定されるが、その繁栄が殷人の暴力的な侵攻を招き、縄文中期末に山東龍山文化圏になった。

華北の龍山文化期の遺跡から大型の矢尻が発掘され、石器時代の集落間の抗争に弓矢を使った事を示し、彼らに弓を与えたのは獣骨交易を行っていた関東部族だった事を示唆している。彼らが抗争を始めると、矢尻が大型化した事が指摘されているが、それは単純に殺傷力を高める為ではなく、製作技量がない者達が戦闘に使う矢を粗製乱造する為に、身近な石を割って矢尻にしたからだと考えられる。彼らにはウルシがなかったから、粗製乱造した矢尻を矢柄に固定する事が難しく、殺傷力に矢柄の荷重を加える事ができなかったから、矢尻を重くして殺傷力を高める必要があった。その様な矢は初速が遅くなるから、飛距離や命中精度に難点があって狩猟用には不向きだったが、戦闘になれば威嚇の為に多数の矢が必要であり、石材加工に習熟していなかった人々には大型の矢尻しか製作できなかったから、戦闘用の矢には大きな矢尻が装着されたと考えられる。

殷人系のアワ栽培者が漢族の祖先を暴力的に迫害し、関東部族との交易圏から追い払ったから、漢族の祖先は弓矢を使えない農耕民族になった可能性もあるが、それでも殷人より豊かな食生活を得ていた可能性もある。殷人の穀物性食料にはアワとキビしかなかったが、漢族にはそれに加えて里芋などの温帯性の植物があり、後述する様にアヒルを飼っていたからだ。アワは乾燥した気候を好むのに対し、里芋は湿潤な沼地のような場所でも栽培できるし、その様な場所はアヒルの飼養地になるから、殷人が華北や山東に拡散しても、漢族人口の方が優勢な地域もあった可能性があるが、その様な漢族の低地の遺跡は、現在は厚い土砂に覆われているから発掘できない。

山東は現在も中国最大の里芋の産地で、中国の在来種の生産性は日本の里芋の生産性を遥かに凌いでいるから、山東には漢族の集落も多数あったと考えられるが、殷人の略奪に怯えながら暮らしていたのではなかろうか。

文献上の漢族の初出は、竹書紀年にと記された人々であると推測される。アワを栽培する栽培系狩猟民族だった殷人は、と記されたからだ。は弓を使う人を意味するから、関東部族との獣骨交易を統括する事により、財力と勢力を得た者を中心にした勢力を、と呼んでいたと考えられる。は戈(矛)を持つ兵士を意味するから、交易ができなかった故に弓を使えなかった民族を、と呼んだと推測されるが、と漢族を同一視する事にはリスクがある。竹書紀年の夏代の記述には殆ど登場しないが、陝西や山西を拠点にした周が王朝を形成した周代の記述には、多数のが登場するからだ。つまり弓は関東部族と交易が可能だった、沿海部の民族の狩猟道具だった事を示し、弓の扱いに習熟した民族は農耕民族ではなく、栽培系狩猟民族だった事を示している。

秦が春秋時代に有力な武装勢力になったが、彼らの主要な武器は弩だったと指摘されている。弩は弓を使う事に習熟していなかった農民が、兵役に駆り出された際に使う武器で、矢を発射してから次の矢を装填するのに時間が掛り、命中精度もあまり高くないが、未熟練者でも操作できる。しかし弓を戦闘に使う為には高度な熟練を要し、日頃の鍛錬が必要だった。

秦が強力な軍隊を保持したのは法治主義的な統治により、多数の農民を兵役に駆り出す事が可能になったからだと推測されるが、秦が弩を主要な武器にした事は、関東部族との交易が希薄だった内陸には、弓の使い手が少なかった事を示している。

 殷人が夏王朝を華北から追放した際に、多数のmt-D+M8aが関東や北九州に渡来した事は、関東部族と漢族との間にも交易があった事を示唆し、竹書紀年に記されたに漢族も含まれていた事を示唆している。関東縄文人のmt-DM8aD/M8a比が、山東遼寧の比と一致している事は、縄文後期末~晩期の関東に渡来したのは漢族のmt-D+M8aだけで、殷人のmt-Dは含まれていなかった事になり、九夷や関東部族は交易に際し、殷人と漢族を明確に区別していただけではなく、縄文時代には漢族と親和的な関係を形成していた事を示している。

 

1-13-2 縄文中期末の漢族

後期大汶口文化期(BC3000BC2600年)に身分階層や貧富の差が生まれ、黒陶や卵殻黒陶も多数出土する様になるが、屈家嶺文化や良渚文化が並行的に存在した時期だから、荊が作成した黒陶や卵殻黒陶を、関東部族が山東に持ち込んだ事を示唆している。大汶口文化が消滅して山東龍山文化(BC2600年~)に変わった事は、殷人が漢族を征服して山東の支配者になった事を示し、それが後世の淮夷になったと推測される。

縄文中期寒冷期の末期に、殷人が鄭州から陸橋を経て山東の漢族を征服した事になるが、現在の淮河流域はこの時代には東シナ海に覆われ、巨大化した渤海が華北平原を覆い、河北、鄭州、山東のアワ栽培者は海に隔てられていた。その時期の殷人の分布を縄文後期後葉の夏王朝基準で記述すると、現在の黄河以北に、鄭州以南の河南省西部にがいて、山東~江蘇北部の山東山塊に進出したが、淮夷を形成したと推測される。

竹書紀年は夏王朝が成立した直後に「淮夷を征討した」と記し、殷周革命の直後に周が殷人の反乱を鎮圧した状況を、「最後に淮夷を征討して反乱を鎮圧した」と記しているから、淮夷は夏王朝を樹立した稲作民や周王朝に、終始敵対した山東~江蘇省北部のアワ栽培者だったと推測される。周に迫害されながらも彼らだけが華北に残ったのは、湾入していた東シナ海によって河南省と山東南部が隔離されていた上に、山東ではアワの生産性が高く、淮夷の人口密度が高かったからだと推測される。

鄭州近辺のアワ栽培者はに統合され、夏王朝と関係を持つ事によって商候の称号を獲得し、やがてもその様な集団になってと呼ばれたが、淮夷は夏王朝と良好な関係を一度も築かず、周代に至っても中華的な集団名がなかった事が、その事情を示唆している。山東の陸橋が生れて山東が殷人に制圧されても、依然として山東に籠っていた漢族は、最も未開だった淮夷と山東に長期間雑居していた事になるが、その事情も確認する必要がある。

殷人の華北征服史を追跡すると、縄文前期寒冷期だった7000年前に河南省東北部に南下し、堅果類の栽培者から狩猟の縄張りを奪って裴李崗文化を消滅させた。5500年前頃にmt-Dが山東に浸潤して中期大汶口文化が生れたが、4600年前にが山東と鄭州の間に形成された陸橋を渡り、山東を征服して淮夷が成立すると山東龍山文化が始まった。つまり5500年前~4600年前の鄭州と山東は陸橋で繋がっていたが、山東の征服には武闘集団の大移動が必要だったから、殷人が山東を征服しなかったとのシナリオも成立するが、事情を細分化して詳しく検証する必要がある。

漢族が縄文中期初頭にmt-Dを取り込み、穀類の生産性を高めて中期大汶口文化(5500BC5000年)を生んだが、mt-Dが陸橋を渡って山東の漢族に浸潤したのではなく、漢族がその時期に河南省側に拡散していたから、mt-Dを取り込だと考える方が順当だろう。里芋の栽培者だった漢族は低湿地を栽培地にしていたから、その時代の漢族の遺跡はその後に堆積した厚い土砂に覆われ、発掘できない事がそれを見落とす原因である可能性もあり、この想定の方が現実性はある。

これと事実を突き合わせると、殷人系アワ栽培者は縄文前期寒冷期に河南省東北部まで南下し、堅果類の栽培者の裴李崗文化を消滅させたが、縄文前期温暖期にエノコログサの北限が微妙に北上すると、殷人系アワ栽培者は渤海の北に後退せざるを得なくなり、漢族はその跡地である鄭州東部の低湿地に入植し、里芋の栽培を行っていたとすると、縄文前期温暖期の終末期に再び殷人系アワ栽培者が南下し、その先端が河南省東北部に達した際には、少数派だった殷人の暴力性は顕著ではなく、そのmt-Dが漢族に浸潤する機会があっただろう。しかし縄文中期寒冷期になると河南省東部の殷人の人口が増え、漢族の身が危うくなったから、mt-Dの浸潤を受けてmt-D+M8aになっていた漢族が、山東に撤収して中期大汶口文化期になり、山塊が多い山東では彼らの遺跡が発掘されているというシナリオが成立する。

この想定では陸橋は縄文前期に形成されたが、低湿地に土地勘があった漢族にはそれが利用できても、乾燥した丘陵でアワしか栽培していなかった殷人には、侵略できない防塁になっていた事になるが、あり得ない話ではない。

それが前期大汶口文化と中期大汶口文化の違いだったとすると、縄文中期寒冷期の最寒冷期だった後期大汶口文化期(50004600年前)に、どの様な変化が起きたのかを探る必要があるが、山東の気候が冷涼化してもアワや里芋の生産性に大きな影響があったとは考えられないから、起こった事やその原因には他の環境要因を探す必要がある。

ウィキペディアは以下の様に記している。

後期に入ると墳墓の中に木製の棺が現れる。大汶口文化も父系氏族共同体の末期に入って階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で大量の副葬品が発見される墳墓もある。土器は灰陶・黒陶が主流となり、土器の厚さは薄く精巧になり、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする(山東)龍山文化に繋がって行く。

縄文中期末はシベリアの弓矢交易の衰退が顕在化し始めた時期だから、関東部族は山東や黄河流域から多量の獣骨を集める必要に迫られていた。それによって山東だけではなく、華北の栽培系狩猟民族との交易量が増えると、最も豊かな山東では大量の副葬品が発見される墳墓も生まれ、土器は荊が製作した高級陶器である灰陶・黒陶が主流となっただけではなく、関東部族が供給品に磨製石斧も追加したから、墳墓の中に木製の棺が現れる状況が生れたと考える事ができる。

シベリアの弓矢交易の衰退傾向が顕在化すると、関東部族の荊に対する立場が、高級陶器も販売してあげる状態から陶器の高級化を依頼する立場に変わったから、それに応えた荊の土器の厚さは薄く精巧になって行き、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする状況になっていったと考えられる。山東が大汶口文化圏から龍山文化圏に変わった事は、この地域を支配する民族が変わった事を意味するが、高級陶器はそれとは関係なく一様に進化した事は、これらの文化や民族の交代とは関係がなかった荊が高級陶器を製作し、関東部族がそれを販売していた事を如実に示している。

関東部族が狩猟に必要な量の何倍もの弓矢を殷人に与え、多量の磨製石斧も与えてしまった事が、殷人の戦闘に多量の武器を提供し、殷人の闘争性を高めて山東征服の意欲を高揚させてしまった事が、山東征服に繋がったと考える事にも違和感はない。豊かになると軍拡に走る民族性を、現在中国人も十分持っているのだから。

現在の華北には漢族系のY-O3が圧倒的に多く、周が漢族を組織的に使役して殷人を追放した事を示しているから、殷人は裴李崗文化を形成したY-O2bの様に、漢族を完膚なきまでに華北から追放したのではなく、集落を形成していた漢族を武力的に制圧し、物資を収奪しながら支配したと考えられる。その様な違いが生れたのは、堅果類の栽培者は樹林から離れる事ができなかったから、適当な場所に避難する事ができなかった事と、ドングリより里芋の方が実質的な生産性が高く、漢族の人口が堅果類の栽培者の人口を、大幅に上回っていたからだと想定される。

その様な漢族は殷人が山東を制圧すると、アワの生産性が低い痩せた土地に放逐され、租税を課せられ、それを殷人集落場に運搬する役務を課され、秦が長城を建設した様に、労務者として徴発されて商代や殷代の巨大な都市や、墳墓を建造させられた疑いが濃い。殷墟近傍の王墓から発掘された多数の殉死遺体も、漢族が被った災厄の酷さを示していると考えられる。

漢族から収穫や労役を暴力的に収奪する行為は、武闘的になっていた殷人が武力を誇示できる格好の場になったから、男性の優位的なポジションを強化する意味でも、殷人の男性達はその様な状態の維持に積極的だった疑いが濃い。つまり漢族の集落を襲って人狩りをしたり、収穫物を奪ったりする事が、彼らの日常的な行為に組み込まれていた疑いがある。

山東が殷人に制圧されてから100年後に縄文後期温暖期が始まり、山東の沿海部にも荊が入植したから、それに威圧されて殷人の暴力性は一時的に影を潜め、夏王朝が形成したこの地域の強制的な秩序観が、更に殷人の暴力性を低減したが、縄文後期温暖期の末期に殷人が荊を華北から暴力的に追い出すと、殷人の暴力性が各地で再び露になった。抑圧されていた殷人の暴力性が一気に噴出し、華北は混乱の渦に巻き込まれたと想定され、竹書紀年はそれらしい記述を遺しているが、史記がそれを嘘で糊塗している事をその2その5で説明する。

縄文後期末に関東に多数渡来したmt-D+M8aは、その様な殷人に支配され始めた漢族の女性が、殷人の暴力的な収奪や凌辱的な迫害から逃れる為に、関東に渡来した事になり、このHPが提唱する大陸の栽培系の女性の習俗として、事情が切迫しなければ日本に渡来しなかったとの法則の範疇に収まる。

 

1-14 縄文中期末の山東

山東龍山文化期の遺跡からイネのモミや炭化米が発見されたが、その遺跡年代にはBC2500年~BC2000年の幅がある。1600年周期の温暖期はBC2500年に始まり、湖北省の稲作民だった荊が河南省東部に入植したから、それ以降の山東龍山文化期の遺跡から発見されたコメの痕跡は、淮夷が交易によって得たものだったと推測される。この時期には河南省東部の黄河のデルタに入植した稲作民と、山東南部の淮夷は狭い海峡を隔てて併存し、関東部族が両者の交易に関与していたと考えられるからだ。

山東龍山文化は精緻な黒陶を特徴とするが、黒陶が発見されただけで窯跡が発掘されたわけではない。湖北省の縄文中期の屈家嶺文化圏で卵殻黒陶が多量に発掘され、黒陶を焼いた窯の跡も発見されているから、関東部族が湖北省の稲作民が製作した黒陶を、浙江省の稲作民や華北のアワ栽培者に販売していたと考えられる。縄文人の活動期の項でその根拠を指摘したが、ここでは極東アジアの交易構造の視点から、改めてそれを検証する。

黒陶は紅山文化の稚拙な彩陶と比較すると極めて高度な土器だから、遼河台地を起源とするアワ栽培者が黒陶を生み出したとは考え難い。縄文前期末の崧沢文化期の遺跡から黒陶が発掘され、殆どの遺跡が土砂に埋没している湖北省の縄文中期の遺跡から、多数の黒陶や焼成窯が発掘された事は、関東部族が縄文前期に湖北省に達すると、荊が塩を入手する為に黒陶などの高級陶器を稲作民族やアワ栽培者の為に製作し、塩を入手する為の交易品としていた事を示唆している。

縄文前期の仰韶遺跡からコメと宝貝が発掘された事は、縄文前期には関東部族が湖北省に達し、荊が縄文前期温暖期に河南省北部や陝西省に北上した事を示し、時代認識も合致する。従って河姆渡期の末期から存在していた高級陶器も荊が製作し、浙江省の臨海部の稲作民族は河姆渡期から製塩者になっていた事を示し、同時期に内陸に展開していた同系の稲作民族の、馬家浜文化とは異なっていた事とも整合する。

関東部族は荊が作成した黒陶を引き続き崧沢文化圏にも持ち込み、浙江省から塩を入手する為の交易品にする事を継続したから、荊の陶器の製作技量は高まった。縄文前期末になると山東にも高級陶器を持ち込み始めたのは、関東部族が獣骨交易を拡大したかったからだと考えられる。縄文中期になると荊が湖北省な湖南省に集住し、塩の需要は高まったが、良渚文化圏の製塩業者は高級陶器より玉器に関心を高めた上に、磨製石斧の市場は台湾製のものに変わっていったから、関東部族には湖北省に塩を運び上げる負担に見合った収益が必要になり、荊が製作する高級陶器の新たな販売先を探す必要が生れた。

華北や山東の栽培系狩猟民族にも黒陶を拡販したのは、その様な交易実態の必然的な結果であり、八ヶ岳山麓の弓矢産業の活性化とも連動している。つまり矢尻街道の繁栄はシベリア交易だけで実現したのではなく、生産された弓矢の一部は華北にも販売されていたから、縄文中期に華北の弓矢交易が活性化すると、八ヶ岳山麓の経済活動は、縄文前期以上の活況に沸いたと考える必要がある。また殷人や漢族の有力者も、獣骨と弓矢の交易によって富裕化したから、その嗜好が黒陶などの奢侈品にも及んだと考えられる。シベリアではトルコ系漁民が行っていた獣骨の集荷を、華北では富裕化した有力者が行ったと推測されるが、効率の点ではトルコ系漁民の水運力があったシベリアより劣り、弓矢の出荷量も獣骨の入手量も、シベリアより少なかったと想定される。

その様なシベリアの巨大市場には、北陸部族だけではなく隠岐部族も参入する余地があり、関東部族内では高原山の黒曜性を使う那珂川流域にも工房が生れたが、八ヶ岳山麓から多摩地域に向かう矢尻街道が縄文中期に際立った繁栄を見せたのは、華北に出荷する弓矢の生産がこの地域に集中したからである可能性も高い。

黒陶の分布域の広さは、その様な状況を想定しなければ合理的に説明できないし、山東龍山文化圏に秀逸な作品が多いのは、揚子江の河口に近かった事がその主要な理由だったと考えられる事も、この仮説の状況証拠になる。

関東から交易に出掛けた船は沖縄と台湾を経由して福建省に至り、北上して杭州湾で塩を積み込み、揚子江を遡上して武漢に至ると塩を下ろしてコメと陶器を積み込み、再び杭州湾に戻ってコメを下ろし、改めて山東に出向いて弓矢や陶器と獣骨を交換し、再び南下して福建省に至ってから、台湾と沖縄を経由して関東に戻る、極めて長い航路だったから、関東部族の船の1年未満の航行では、黄河流域まで出向く事が難しかったと想定されるからだ。

一回の航行は1年未満だったと考えるのは、航路上の各地域は四季の気候によって航行の安全性に違いがあり、特に揚子江の遡上は乾季に実施する必要があったからだ。調達する食料も漁獲を含めて季節性があったから、各地域の航行に適した気候時期を選定して組み合わせると、1年未満の航行にならざるを得なかったからだ。漢書地理志に「倭人は歳時を以て来る」と記されている事も、その事情を示している。

沖縄に移住した漁民であれば浙江省と武漢を2往復したり、河北に出向いて黄河流域の殷人と交易したりする事もできたが、沖縄に移住したのは関東部族の一部だったから、華北に出向く船の数は限られ、交易量は山東よりかなり少なかったと想定される。

黄河流域の殷人は関東部族の来航が少ない事に不満を持っていたから、この様な説明を受けた鄭州のアワ栽培者が、山東を征服する意欲を高めた可能性も高い。嘘を嫌う関東部族が事実を正直に説明したとすれば、それが漢族に災厄をもたらす原因になった可能性も否定できない。その際の関東部族の説明の中に、山東でのアワの生産性の高さも含まれていた可能性も高いからだ。

関東部族としては、「立派にやっている民族が山東にいるから、貴方達も頑張りなさい」という意味合いで殷人に説明しても、殷人の解釈は全く異なっていただろう。彼らの子孫である漢の武帝は、高級な絹布が欲しいという理由で海南島を征服し、高級毛皮が欲しいという理由で衛氏朝鮮を滅ぼしたのだから、彼らの民族文化は2500年経っても本質は変わらなかった事になるし、2500年前の殷人の思考はもっと直截的だっただろうから。

話しは縄文晩期寒冷期に飛ぶが、周は殷人を河北から追放する積りで、漢族を編成して武闘を続けたが、山東南部の淮夷が頑強に持ち堪え、反乱を繰り返していたのは、その地域のアワの生産性が高く、人口密度が高い地域だったからだと推測される。アワ栽培の南限は、原生種であるエノコログサの北限に一致していた筈だから、山東と陸続きだった徐州までアワ栽培地だった事は、山東には超温暖期にエノコログサが北上しなかった事を意味し、現代のエノコログサの分布とは異なっていた事になる。

エノコログサは比較的乾燥した土壌を好むから、中緯度地域の気候が極めて乾燥した超温暖期であっても、ある程度の降雨があった沿海部を北上した筈であり、現在のエノコログサの分布域から想定できるエノコログサの耐寒性は、超温暖期に沿海部を北上しなかった事に違和感を与えるからだ。

エノコログサが山東に北上しなかったのは、超温暖期になっても海水温は直ぐに温まらず、沿海部だった山東では冷涼な気候が続いたからである可能性もあるが、漢族の祖先が山東に北上した事は、山東が里芋を栽培できる気候だったからである事は間違いない。超温暖期初頭の海面は現在より70mほど低く、東シナ海は江蘇省に湾入していた程度だったから、超温暖期のエノコログサは現在より耐寒性が低かった事と、種子が大きいエノコログサは種子の飛散距離が短く、温暖化しても素早く北上する事ができなかった事がその原因だったと推測されるが、それだけでは違和感は拭えない。

超温暖期のエノコログサの耐寒性が、現在繁茂している種と同様だったと考える必要はなく、超温暖期の末期に北上していた地域で、その後気候が冷涼化しても遺伝子の多様性によって、群生を維持した結果として耐寒性を高めた種が生れ、現在我々が知っているエノコログサになった可能性も否定できないが、それでも上記の現象の説明として十分であるとは言えない。

しかし地形的な要因を加味すると、以下のシナリオが成立する。

mt-Zがエノコログサを栽培し始めたのは、mt-M8として広東にいた時代だった事は既に説明した。氷期の寒冷期になると広東はエノコログサの北限を超えたから、mt-Zがアワの栽培化に着手する事が可能になり、それに目途が付いた時期に福建省か浙江省に北上したとすれば、アワの栽培化の歴史として順当なシナリオになる。つまり氷期の最寒冷期のエノコログサの北限は、ヴェトナム北部に後退していたと想定される。

2万年前に東アジアの後氷期が始まるとエノコログサも北上を始めたが、殆ど緯度が変わらない南シナ海の北岸を東に進むのに、何千年も掛かったかもしれない。但しヤンガードリアス期の寒冷化と湿潤化によって再び北限が海南島近辺に下がると、超温暖期になってからの北上路は極めて長いものになったから、千年も掛からなかったとしても事情は変わらない。

エノコログサは湿潤な土壌を嫌うから、河川に行き当たるとその上流を周回する必要があっただけではなく、揚子江に行き当たると四川まで周回する必要があったから、mt-Fの北上路だった内陸経由の方が北上は早かった可能性が高い。

従ってエノコログサの超温暖期の北上は、ヴェトナムを起点に大陸の内陸を周回し、1万年前に安徽省や河南省東部に到達した頃には、東シナ海が安徽省まで入り込んで山東の孤島化が始まっていたから、エノコログサは山東に拡散する事ができなかったと考える事が可能になる。里芋の栽培者になったmt-M8aは、エノコログサやアワを栽培化していなかった事が前提条件になるが、特定の栽培種を栽培化する事によって遺伝子が純化したと考える、ミトコンドリア遺伝子と栽培種の紐付け理論を適用すると、mt-M8aはエノコログサやアワを栽培していなかった事になる。

この様な事象は他の植生にも見られた筈だから、花粉分析によって過去の気候環境を推測する場合にも、これらの事柄に留意する必要があるだろう。つまり植生の変化に寒冷化や温暖化の兆しが見えないとしても、注目する植生の選択に問題がない事を検証する必要がある。このHPが採用した尾瀬の花粉分析は、氷期から一貫して繁茂している至仏山頂のハイマツ花粉を使っているから、この様な事象とは無縁である事は特記して置きたい。

夏王朝期に淮夷と呼ばれたアワ栽培者の中核地の一つが、であったと竹書紀年に記されている。これは現在の徐州であると推測され、彼らは山東山塊の南部にいた事になる。この地域は縄文海進期に多島海になり、山東の山塊から流れ出る河川によって沖積地が生まれると、それを介して嘗ての島が山東山塊に繋がったから、竹書紀年の記述と当時の地理環境は整合する。

多島海が丘陵地に変わると、アワ栽培地としては温暖な山東の中で最も温暖な地域になり、それでありながらエノコログサが存在しないアワの栽培適地になった。従って縄文後期の淮夷は稲作に準じる生産性を誇りながら、夏王朝に敵対し続けたと推測される。

淮夷は山東山塊のアワ栽培者を指していたと考えられるから、漢字の元々の意味は、山東を指す地域名だった可能性がある。

現在の淮河は河南省を流れる支流の水を集め、揚子江に流れ込んでいるが、縄文後期の河南省南東部や安徽省は東シナ海だったから、現在のそれらの淮河の支流は、当時は東シナ海に直接流れ込んでいたと推測される。現在は山東山塊から流れ出る河川は、直接東シナ海に流れ込んでいるが、歴史時代の淮河は沂沭泗河水系と呼ばれ、沂水、沭水、泗水はいずれも山東山塊から流れ出る川だから、淮河は山東山塊の水を集めて東シナ海に注ぐ川だった。従っては山東山塊を指したとの推測と整合する。

「淮」は「準」の略字であると言われているが、夏王朝期には既に成立していた漢字として竹書紀年に記されているから、略字だったとは考えられない。従って漢字の構造をそのまま解釈すると、「隹」は「尾の短いずんぐりした鳥」を指すから、雨が多かった山東の河川には水鳥が多く、それが地名になった可能性が高い。

中華で水鳥と言えばアヒルが連想されるが、野生のマガモの飼育は中国北部に起源があり、4000年前には始まっていたとされているから、漢字が生れた時期に該当する。従ってはアヒルの産地だった山東を指す言葉で、漢族はアヒルの飼育者だった可能性が高い。

アワ栽培者は縄文中期からブタを飼養し始めるが、ブタの飼料は人間の食料と競合するから、食料確保の点では草食動物である牛や羊の飼養の方が有利だった。ブタを飼養する優位点は、毎年多数の子ブタが生まれる生産性の高さだから、人は食べないが豚は食べる食料の栽培が、この時期の華北に広まったと想定される。海洋縄文人が冷温帯性の堅果類の栽培とセットで、ブタの飼養を奨励した可能性も高い。裴李崗文化や磁山文化を遺した堅果類の栽培者がドングリの実る樹木を栽培し、それが野生化していたからだ。縄文人はドングリの実の保存方法を知っていたから、それが伝わる事によって豚の飼養が始まった可能性が高い。

漢族のY-O3は暖温帯性の堅果類の栽培者のペアだったから、その提案に乗り易い民族だった可能性もあるが、大汶口文化圏から多量の高級陶器が発掘される事は、mt-M8aはドングリの栽培者ではなかった事を示唆している。

大陸が青銅器時代になった縄文後期に、大陸の狩猟者の鏃は青銅になり、関東部族や北陸部族はシベリアから獣骨を得る為の交易品を失ったが、それによって関東部族や北陸部族の経済活動が鈍った様には見えないから、獣骨の調達先をこの様な手段で切り替えた可能性が高い。浙江省の稲作民は元々堅果類の栽培者だったから、コメの生産性が高まれば、ドングリを豚の飼料に切り替える事ができたし、華北には冷温帯性の堅果類の栽培者が遺した樹種が野生化していたから、龍山文化圏にも豚の飼養が拡大したと考えられる。

 

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