6、縄文社会
6-1 農耕民族と海洋民族
日本に農耕民族的な政権が生れたのは1300年前で、それまでは海洋民族の時代だった。その中核的な時代が縄文時代だが、王朝史観に拘る史学者は農耕が文明を形成したと主張し、海洋民族の時代を無視している。海洋民族の社会と、王朝史観が礼賛する農民社会を比較し、それぞれの特徴を明らかにする。
6-1-1 農耕民族
日本には純粋な農耕民族はいなかったが、弥生時代~古墳時代に農民が増えて社会の多数派になり、奈良時代に成立した王朝が大陸から農耕民族的な思想や制度を導入し、国家を運営する政権の基本思想にしたから、王朝が崩壊して封建制になっても、農耕民族的な思想と制度が依然として残っていた。
農耕社会の主要な構成員は、農地を耕作して穀物を生産する農民と、農民から租税を得て政権を形成する者達だった。農民の究極的な要求は、農地の耕作権を確保する事だが、耕作権に論理的な根拠はなく農地は有限だから、必然的に奪い合いが発生した。「一所懸命」はその様な状態を示す言葉として、現在にも伝えられている。
その様な農民社会に秩序を与え、安定した社会にする為には、個々の農民の耕作権を確定する必要があり、その為には強力な権力機構を形成する必要があった。農民はその様な権力者から耕作権を認定して貰わなければ、安定的に農耕を営む事ができなかったから、農民と権力機構は相互依存関係にあった。
農民が権力機構と安定的な関係を結ぶ最も有効な手段は、権力者に年貢を納めてそれを受け取って貰う事だった。仕組みとしてはそれ以上適切な手段はなく、現在も固定資産税がその機能を果たしているが、現代社会は農耕社会ではないから、税負担は軽い。農耕社会では権力者と農民双方にとって、農産物が唯一の生活資源だったから、租税負担は重く、租税額の決定には慎重な合意形成を要した。
日本最後の農耕社会である幕藩体制の、農耕民族的な要素を抽出すると以下になる。
各藩領は、武力的に農地を獲得した藩主の所有地だった。
藩の武力と経済力は、藩内の農民が生産するコメの量として石高で示した。1石は人が1年間に食べるコメの量を示し、石高を基準に藩が格付けされた。
藩士の俸禄はコメで支払われた。つまり経済の基軸媒体はコメだった。
農民は年貢としてコメを貢納し、その代償として農地の耕作権を得ていた。
各藩は農地の拡充に努め、制度改革はこの制度の綻びを補正するものだった。
農耕民族にとって穀物が如何に重要な物品だったのか、以上から理解できると共に、流通価値があったのは最高グレードの穀物だけで、それが租税の対象だった事も分かる。
権力者が年貢を原資にして権力を装飾する事は、農耕社会では必要不可欠な事だった。権力者の権威を安定させる為には、権力を実力以上のものに見せる必要があり、その為に権力を装飾する必要があったからだ。その為の租税の使い方として、騒乱時には兵や武器を集める原資になり、騒乱を禁じられた江戸時代の各藩は、権力を偉大に見せる為に贅を競った。
権力を偉大に見せる手段として、武器と軍隊の集積は分かり易いが、戦時であっても豪華な物品を集めて華麗な建造物を作り、麗々しい儀礼を挙行し、権力を輝かしい存在に見せる必要があった。目に見えるものだけではなく、身分制を創作して人々を階級化し、権力者をその頂点に位置付ける事も、重要な権力の装飾手段だった。農民は権力者のその様な行為に協力する事により、農地の所有権や耕作権を確実にした。
農民にとって農地は欠く事ができない生産手段だから、農地の耕作権を守る事は当然だが、隙があれば他者の農地を我がものにして、自分の農地を増やしたい欲望も常在したから、それに纏わる紛争が熾烈になれば暴力沙汰も起こった。権力者にはその調整を行う義務があり、その為には強い統治力と武力が必要だった。
年貢はそれらの必要経費でもあったから、それを収奪としか考えない唯物論者は的外れの議論をしている。農民にとっては、耕作権を認定して貰っている権力者が統治力を失えば、自分の耕作権が危機に瀕する場合もあり、その様な事態を防止する為にも、権力者が権勢を装飾する事は農民にも必要な事だった。
農民の理解が進んで統治者は威厳を示す必要があると認識すれば、権力の濫用であってもそれが権力の存在を周知させる働きがあれば、必要悪と認識する必要もあった。若し権力者がその様な粗雑な行為の代わりに、財力を使って権力を飾る方法を採用すれば、農民はその財力基盤になる租税の納入に、積極的にならざるを得なかった。権力が行事を創作して農民を参加させる場合も、社会の仕組みを理解していた農民は積極的に参加しただろう。
権力を維持する制度が安定すると、権力の安定性に安住した権力者が権力を濫用し、民衆の反発を買う事態も頻発しただろうが、権力機構の揺籃期の農民は権力を正常に機能させる為に、政権を盛り立てる努力に積極的に参加しただろう。いずれにしても既得権益者として十分な農地を保有している人々には、権力の安定的な継続は切実な要望事項だった。
耕作権や領主権には論理的な根拠はないが、それらの設定には理由が必要だから、既得権などの理由付けを体系化する創作的な論理も必要だった。つまり農民は創作された領主権を肯定し、その権力によって耕作権を設定して貰う以外に、営農を安定化する手段がなかった。
権力者の威厳を飾る最も有効で基本的な手段は、権力への尊敬を示す美辞麗句だった。権力者にとっても農民にとっても、それが最も安上がりな手段であり、基本的な手段でもあったから、優先的に多用されただろう。その結果として事実を隠して権力を修飾する行為が、農耕民族の普遍的な価値観や習俗になり、彼らの倫理観に大きな影響を与えた。個々の農民の耕作権には既得権以上の論拠はなく、制度化された専制権力にも論理的な根拠はなく、慣習的な制度や武力によって支えられる以外に、その存在を肯定する論拠はなかったからだ。
従って何らかの事情によって慣習的な制度が破綻すると、残った手段は武力的な領主権の設定しかなくなった。その状態が、室町時代後期に発生した戦国乱世だった。但し関ヶ原の合戦の際に、農民が手弁当で観戦した事が事実であれば、日本では領主権に混乱が生れていたが、個々の農民の耕作権に大きな混乱は生れていなかった事になる。江戸時代の国替えが混乱なく実施されたのも、この状態が継続していたからだと考えられ、神社を核にした農民自治が健在だったから、領主層に動乱状態が生れても、個々の農民の耕作権は自治的な体制によって保護されていた事になる。
日本人はその様な自治意識を伝統的に持っているが、現在の中国人や朝鮮人にはその様な背景がなかったから、彼らと日本人との間に根本的な違いが生れている。それは海洋民族の自治意識に裏打ちされた法治国家の国民と、その様な背景を持たない純粋な農耕民族起源の国の国民との、伝統文化の違いであると認識する必要がある。伝統文化を全く持たない人は動物に過ぎないから、文化的に生きている現代人は民族固有の伝統文化を基底に、思考したり行動したりしていると考える必要もある。
大陸国家の国民は、農耕民族的な習俗に何千年も馴染み、海洋民族的な発想や社会の在り方を知らないから、両者の間には大きな文化ギャップがある。中国人も豊かになると、海洋民族的な制度を受け入れると期待した人もいたが、その期待には歴史に関する理解が欠如していた。
鉄器時代になって農耕の生産性が高まると、世界の殆どの民族は農耕民族化したが、その権力機構には地域主権的な封建権力と、官僚主義的な王朝制の二種類があり、海洋民族の子孫は王朝制を一時的に受け入れても、やがて封建主義的になる傾向があり、純粋な農耕民族は王朝制を採用すると、その制度を継続した。海洋民族が形成した交易経社会では地域自治が重視され、官僚制は非効率である事を皆が理解していたから、それを継承した地域では分権的な志向が高まり、封建制の採用を促したが、農耕社会には、その様な理解に至る経緯も経済的な背景もなかったから、領地の争奪が始まると最終勝者が決まるまで、武力闘争が繰り広げられ、官僚が運営する広域的な王朝にならざるを得なかったからだ。
封建制を経験した社会は民主化が早く、経済的に発展し易いと言われるが、むしろ石器時代に交易社会を形成した民族が封建社会を形成し、その経験が乏しかった民族には、王朝しか選択肢がなかったと考える方が実態に近い。日本で奈良~平安時代に一時的に王朝が形成されたのは、海洋民族の政権が崩壊した際に新しい政権あり方に混乱が生れ、初の農民政権になった奈良朝が安易な唐王朝の模倣に走ったからだ。
従ってその体制に合理性がない事が発覚すると、王朝制はなし崩し的に崩壊し始め、縄文社会を継承した倭人体制に近い制度として、封建制に徐々に移行した。江戸時代の幕藩制は、両者の折衷的な体制だったと言えるだろう。
中華世界では現在の北朝鮮の金王朝の様な、武力至上主義的な王朝国家が繰り返し樹立され、地域主権的な封建制に移行する兆候がなかった事を、現在の朝鮮半島の人々の、情に基づくと批判される発言が示している。彼らが声闘と呼ぶ権力闘争に執着しているのは、その主張が正常な思想や正義感に基づいているからではなく、農耕民族的な権力闘争の、延長線上にある事を示しているからだ。
また金王朝が健在である事は、当該地域で最高の武威を示す統治者に迎合する、前世代的な農耕民族の習俗が健在である事を示し、その様な北朝鮮に同調する韓国人が多い事も、その証拠を示している。
この事情を敷衍すると、大陸的な農耕民族社会の習俗を継承している場合には、形式的に民主化されて発言の自由が許される様になっても、その主張は前世代的な農耕民族の枠を出ない事になるから、大陸の漢民族も民主化すれば同様の習俗が顕在化する危惧がある。
日本の史を概観すると、奈良時代に中央集権的な農民政権が生まれたのは、倭人的な地域分権化による経済性の追求が、海洋民族的な価値観の喪失に繋がる流れを生み、体制が崩壊する要素を醸成していたからで、その予兆は縄文後期に生まれた。
関東部族が弓矢交易に励んでいた時代には、それが食料を安定的に得る最良の手段である事を、皆が一様に理解していた。それ故に部族の全力を傾注する事ができたが、倭人の時代になって経済主体が乱立すると、部族の一体感は失われていった。倭人時代になっても弥生時代末期までは、漁民が経済活動を先導する必要性が存続していたから、漁民の伝統的な価値観である部族制も維持されたが、西日本に移住した人々が農耕民族化すると、関東部族としての連帯感が薄れて部族制も崩壊し始めた。
海洋民族の体制や部族制の崩壊は徐々に進行し、古墳寒冷に大陸の経済不況が顕在化すると、海洋民族が主導する経済の合理性が失われている事が明確になり、政権が崩壊した。その背景には古墳時代に鉄器が普及し、稲作や焼畑農耕の生産性が高まっていた事が挙げられる。それによって農民の経済的な自立が達成されると、海洋漁民が経済活動を先導する必要性が失われたからだ。
日本では王朝が樹立されても地域主権は残ったから、その力が王朝を打倒して封建主義を生み出したが、中央集権体制の下では権力が中央に集まり、権力を形成する文化の発展も中央が独占したから、王朝制度には地域主権的な発想を生み出す素地はなかった。現在の大陸の農耕民族の末裔達が、それを明確に示している。従って日本人の地域主権主義は、縄文人や倭人が形成した伝統的なものだったと考える必要がある。
平安王朝にもその様な傾向はあったが、我々が学校で教えられている華麗な平安文化は、王朝を礼賛する貴族の自画自賛に過ぎず、その影響は狭い範囲の地域にしか及ばなかったから、地方には海洋民族的な地域分権を基調とする文化が残り、両者の権力闘争の中で、王朝の崩壊と封建制的な制度の形成が同時並行的に進行した。封建制が確立した江戸時代の文化中心は、必ずしも江戸ではなく地方に分散していた事が、それを示しているだけではなく、明治維新が地域から盛り上がった文化革命であり、江戸はその形成に殆ど関与しなかった事も、日本人が地域主権的な民族文化を堅持していた事を示している。
大陸の歴史を概観すると、荊は中央集権的な民俗を持っていたので、中華の地域分権的な発想は浙江省の製塩業者に起源があると考えられる。複数存在した浙江省の製塩業者が、灌漑水利を整備して農地を開発する事により、分散型の権力機構によって稲作が行われる事情があったからだが、彼らは中央集権的な荊の秩序をモデルにした上に、同じ経済モデルが乱立していただけだから、地域毎に特徴的な活動をして競い合う、本格的な地域分権と言えるものではなかった。
その支流として百粤と呼ばれる地域分権が生れたのであれば、共同で灌漑施設を形成する必要があった稲作民族の、生業維持的な地域政権だった可能性もあるが、敢えて荊の統治体制に異を唱えていたとすれば、権力者は庶民の目が届く範囲内に居なければならないという、権力機構の限界を弁えた判断が基底にあった可能性もあり、地域分権化の一つの流れを形成していた事は間違いない。
周が封建制を採用したのも、製塩業者が中核にいたからであると推測されるが、その制度下で封建領主化した河北のアワ栽培民族には、地域主権的な発想がなかったから、周王朝の力が衰えると地域政権が武力統合され、戦国時代には4つの武闘権力に統合されていた。秦帝国の誕生経緯は捏造史書に記されたものしかなく、秦は中華にとって異民族だったから、その統一や崩壊の経緯はこの議論には馴染まないが、荊が形成した夏王朝に代わる、統一的な中華を形成した事は事実らしい。
稲作民族の中核的な存在だった荊は、大河が形成した広大な沖積地で灌漑事業を行う、中央集権的な習俗を持っていたから、中華が武力統一されると荊の習俗が優先され、アワ栽培者の武力統合志向も形式的には同質だったから、百粤は滅ぼされて王朝の支配地域になり、地域分権的な発想は完全に失われた。その後の中華世界は王朝の崩壊と新生を2千年間繰り返したが、現在の共産党政権も王朝制の変形であるとすると、王朝制は農耕民族が自律的に収斂していく政体であるとも言える。西欧の人々がロシアを異端視するのも、その様な理由によるのではなかろうか。
王朝の中央集権的な施策は地域の実情に適切に対応できず、その腐敗や横暴に民衆が対処できない事は、現代の常識でもあるが、地域分権社会では文化が限りなく同質であっても、小国の経済的な利害が一致しない故に武力的な連合や統合が難しく、征服され易い体制になる。従って武力的な強者が領土の拡張に狂奔する時代になると、地域分権的な体制は消滅せざるを得なかった。
その様な王朝に関する比喩的な事例を挙げると、日本では奈良時代以降の歴史的な建築物や遺品が多数遺されているから、中国人や韓国人はそれらを見る為に訪れ、祖先の文化遺産として鑑賞するらしいが、中国や朝鮮半島にそれらが遺されていない事は、武力を基底にした王朝支配の結果であると考える必要がある。新しく生まれた王朝は前世代の王朝支配を否定し、地域政権が支配した痕跡を消す為に遺品や遺物を破壊してしまったが、地域分権的な日本人は縄文時代や倭人時代の遺習を堅持し、異質な価値観を強制する王朝と対峙したから、古い制度や文化遺物を保存する事に熱心だった。その違いが彼我の差として残っているのであれば、遺物に共通性はあってもそれを囲む環境は全く異質だったと考える必要もあるだろう。
中華思想では古代の聖賢の時代を尊ぶが、実際の中国人はそれと真逆の事を行い、余り老人を尊重しない日本人が、実は祖先の実績に敬意を払っていた事にも繋がる。
王朝の形成過程は以上とし、次に王朝の特徴を検証する。
王朝は官僚によって運営されたが、官吏は経済活動を行わず、耕作権の配分と年貢の収集を中核とした王朝体制の維持が主務だったから、成果評定はできず身分制を採用する必要があった。しかしある程度の能力評定は必要だから、それが権力闘争の温床になった。
権力闘争の典型的な手法は、嫌がらせと依怙贔屓による派閥の結成だが、嘘を厭わない農耕民族的な民族性の中でその技法が進化し、現代日本人には想像できない権力闘争文化が形成された。大陸から漏れてくる異様な感性や発言からその一端を窺う事はできるが、海洋民族の子孫には、それらの真意は殆ど理解できない。その弊害から社会秩序を守る為に、大陸の農耕民族が採用した統治原理は、身分秩序の形成だった。
現代日本人はその内幕を知らないから、権力闘争に慣れた人達から依怙贔屓の対象に選定されると、極めて友好的で良い人達であると感じ、嫌がらせの対象になると、理不尽で粘着性が強い人達である事を思い知る。権力闘争に長けた人はそのどちらをするにしても、効果を最大限に高める事を重視して、社会秩序に与える影響には配慮しないから、日本人的な感性で受け取ると判断を誤る。権力闘争としての嫌がらせでは、自分が上位者である事を思い知らせるまで手加減する事はないから、それを理解して交際する必要がある。
その様な人々が権力闘争を繰り広げると、自ずと仁義や仕来りが生れて文化らしい様相を呈するが、それは海洋民族の子孫が目指すものとは全く異なる。
日本史の追求する際にそれらを検証する必要はないが、奈良時代以降の日本人はその影響を受け続け、現代日本人の歴史観に大きな爪痕を残しているので、このHPが指摘する王朝史観はその一部に過ぎない。
王朝史観とは異なる大陸人の歴史認識として、政権が捏造した歴史を、民衆が安易に受け入れる事が挙げられる。これは権力に迎合する農民社会の習俗が、現在も色濃く反映している事を示しているだけではなく、農地を守る為には常に闘争的である必要があった、農耕民族の本質も示している。
農耕民族にとって農地や領土の保全は至上命題であり、その確実な実現手段として、自分達を身分上の上位者に設定する必要があるから、コストが発生しない言葉による攻撃や防御は、競争者に対して何を措いても先ず試すべき事柄になり、それをしないで負ける事は人格の否定になり、許される事ではなかった。従って競争者である周囲の人々に限らず、他の国や民族に対して攻撃しながら防御線を形成する事は、農耕民族の日常であり、その様な農耕民族の政権である王朝には義務になると共に、それを示さなければ弱い政権として民衆の支持を失った。
それが農耕民族の状態である以上、農耕社会には緊張感が常在し、平和で牧歌的な社会は幻想に過ぎなかった。農耕民族の政権が周囲の国や民族に対して行う理不尽で攻撃的な姿勢は、過去何千年も農地の耕作権を争い続け、それを権力に保証して貰い続けた農民の習俗であり、その様な民衆を抱える政権の義務でもあったから、その点に限れば両者の利害関係は一致しやすかった。しかし王朝や官僚と農民の間にも、緊張関係が常在する社会でもあった。
封建社会では地域の実情に合わせ、領主と地域農民の間で物事を決める事ができたが、王朝は地域の実情に関わらず一律の法規を施行して政令を発出したから、官僚は民衆に政策意図を納得させる事が難しく、権威主義的にならざるを得なかったし、不合理性に気付いても保守的になって改革は進まなかった。
王朝は武力によって樹立された政権であるが故に、対立勢力の発生を恐れて地域主権を認めなかったから、上記の事情と併せ、民意を得る事は極めて難しかったから、物事を強権的に進めざるを得なかった。腐敗を生み易い権力機構でもあり、行政機能は極めて非効率だったから、政権の論理基盤は極めて脆弱だった。
その様な王朝が政権の権威を民衆に周知させる為には、意図的に王権を強める必要が常在した。王朝はその為に華美を極め、武力を整え、無意味で仰々しい式典を繰り返し行ったが、それらの手段の一つとして王朝史観があったから、その役目は重かった。
王朝史観の至上命題は華々しい王朝の成立史を創作する事であり、その為には王朝の成立以前の事情を徹底的に貶す必用があり、それらの物語通して王朝を賛美し、華麗に装飾する事だった。
但し王朝史観は上に述べた様な、明らかに嘘と分かる歴史であっても王朝が唱えると、大陸の農耕民族がそれに迎合する類の、常在的に周囲を攻撃する農耕民族の習俗に起因した嘘とは、性質も起源も異なる。大陸民族のその様な習俗から生まれた思想は、華夷秩序観などの現世的なものであって、王朝史観はその論理基盤となる哲学だからだ。
王朝史観の特徴は、王朝が成立する以前は未開な時代だったと決め付け、中央集権的な王朝が成立する事によって文明が進化したと主張する、文明の起源論を濃厚に含んでいる点にある。日本の王朝史観を形成している日本書紀は、分立していた野蛮で狭小な地域政権を大和朝廷が統合し、日本全土を文明化したと主張している点で、典型的な王朝史観的な書籍になっている。
実際の歴史はその様に進展したのではなく、関東部族は弓矢交易の興隆と共に統一的な政権を形成し、部族を挙げてその推進に取り組んだのだが、弓矢交易が崩壊すると経済活動の多様性に活路を求める必要性が生れ、西日本への稲作者の入植もその一環として進めた。その結果として分権化の方向に向かったので、漢書地理志になどに百余国あると記されたのであって、日本書紀の歴史認識は誤っている。未開だったから小国に分立していたのではなく、地域的な経済合理性を追求した結果として、統一的だった部族集団が分裂した状態だった。
中華の王朝史観を形成した史記も、中華の農耕民族の周囲に、交易的な海洋民族がいた事は無視し、農耕民族の政権が華北で自律的に形成され、それが漢帝国に発展したと歴史を創作した。史記が編纂された時代には、まだ海洋民族は健在だったから、史記の編者は海洋民族についてはひたすら無視を決め込み、農耕民族の政権が生れる前には文明はなかったと、控え目に主張している。海洋民族から疎外されていたアワ栽培民族にとっては、それは部分的な事実でもあったが、アワ栽培民族を文明化した稲作民族を歴史の脇役に仕立てている事が、空疎な捏造史である事を示している。
史記に事実らしさを与えているのは、漢族などのアワ栽培民族には、交易社会の実態を理解する事ができなかったから、理解できない事は全て除外して農耕民族的な秩序の形成に話を絞った事が、机上の空論しか理解できない後世の史家の共感を得て、却って史記の名声を高める原動力になった可能性がある。三国志/東夷伝で論理性の鋭さを示している陳寿でさえも、海洋民族が形成していた交易社会の実態についっては、殆ど理解していなかったからだ。交易に供出される特産物を、<「有無」=余っているものと不足しているもの=交換されるべき物品>と表現している事などがそれを示しているが、現代の史家にも理解していない人がいる。
華夷秩序観を明確に打ち出したのは、騎馬民族の征服王朝である唐王朝だった。彼らは西ユーラシア経済が疲弊し、海洋民族の交易活動が破綻した後に中華世界を征服し、内陸の交易利権を入手したから、海洋民族に対する優越意識が高まり、周囲の民族を見下す様になった。それによってシルクロードの美名が喧伝された事は既に指摘したが、海洋民族に対する優越意識と、農耕民族が持っていた闘争的な習俗が結び付いた事により、周囲の民族を蛮族と見做す独善的な華夷意識が高まった。農耕民族にもナショナリズムは古代から存在したから、華夷意識は突然生まれたのではないが、民族意識として高揚したのは唐代だったと考えられる。唐は武力によって成立した征服王朝だから、海洋民族には武力がない事を見抜いていた事も、この意識を高める大きな要因だったと考えられる。
日本の王朝史観の形成は、古事記から始まった。
それ以前は海洋民族の時代だったから、王朝史観を基底とする捏造史は、必要がない時代だった。
創作史書である古事記が、壬申の革命の直後に生れた経緯については、創作した側にも弁明の余地があり、それは経済活動の成熟期の項で説明する。しかしその古事記を、王朝にとって都合がよいものに改訂し、それを下敷きに更に捏造して唐王朝に提出した事は、王朝の権力を装飾する為に偽史を創作したとしか言い様がない。唐が滅んで旧唐書が編纂されると、その偽史との齟齬が発見されたから、平安王朝が改めて「年代記」を作成したが、宋代に新唐書が編纂されると更に齟齬が発見され、「年代記」を償却して補修し続けたが、神学論争になって収拾が付かなくなった事を、江戸時代初頭に編纂された日本書紀が示している。この日本書紀は、唐に提出した日本紀であると主張している史家がいるが、新唐書に記された日本紀から転記された天皇系譜と、日本書紀が示す天皇系譜は異なっているから、誰にでも分かる子供騙し的な手法で、日本史を歪める事は止めるべきだ。
奈良時代以降の日本で戦乱が相次いだ事が、武力を基本として成立した王朝の本質を示しているが、王朝の武力征服を礼賛している王朝史観が、その様な社会を当然視した面も見逃せない。足利時代後半の戦国時代に王朝の残渣が一掃されると、戦乱が収まって日本の民族文化が高揚した時代になった事が、その証拠を示している。藩が分立した江戸時代に平和な時代が到来した事は、小国が分立していた倭人時代に回帰した事が、平和な社会を生み出した事を示しているとも言えるし、奈良時代以降の歴史が王朝制の欠陥を示しているとも言える。
6-2-2 漁民の社会
日本的な発想は、大陸の農耕民族のものとは極めて異なるから、縄文時代~倭人時代の海洋民族が形成したと考える必要があり、それに異を唱え得る歴史事象は発見されていない。それを誤魔化し、帰化人などを引き合いに出している歴史家には、真実を探求する姿勢が欠如していると言っても過言ではない。
奈良時代に始まった王朝は、日本人に中華化を強いたが、王朝制度は400年後に崩壊し、地域主権を志向する武士が治安を担務する鎌倉時代になった。しかし王朝権力や中央集権制の残渣は戦国時代まで残ったから、鎌倉時代と室町時代は王朝制の崩壊過程として位置付けられる。日本人を特徴付ける文明的な発想が、その様な時代に自然発生的に生まれた筈はない。以下に示す様に、日本人的な発想は平和な社会の根幹を規定するものであって、抵抗思想ではないからだ。
日本的な分権制度が確立した江戸時代に、日本は再び経済的な活況を呈したが、藩の財政規模を石高で示し、改革と称して商工業を圧迫した事は、王朝的な価値観から完全に脱却していなかった事を示しているから、この時代に大陸とは異なる日本人的な発想が生れたとは考えにくい。
明治政府は統治制度を中央集権制に戻したから、地域分権的な価値観の一部は毀損されたが、地域主権の代わりに株式会社の制度が導入されたから、経済制度は海洋民族の時代に戻った。それによって経済力は急上昇したが、統治手法に関しては混迷を続けている。中央集権的な明治政府を樹立できたのは、日本人が農耕民族化していたからである可能性もあるから、その評価には入念な研究が必要だろう。
この説明は天皇制を否定している様に見えるが、天皇は海洋民族が生み出した概念であって、王朝はそれを権力の装飾として利用しただけだから、その価値観を論評しているわけではない。天皇の起源については「経済活動の成熟期」の項で検証するが、このHPは民衆史を経済的な側面から追求するもので、政治制度の変遷については、他の方の貢献を期待する立場にある。従ってこのHPでは、日本人の感性も天皇制も縄文時代に生まれたもので、飛鳥時代~奈良時代にその評価が変わった事を検証する。
王朝史観にしがみ付いている史家は、日本の文明力が中国を凌いでいる理由を説明できないから、戦国時代までは中華の方が経済的に発展していたが、その後逆転したと曖昧に誤魔化し、統計的な根拠があるかの様な嘘を言っているが、その様な嘘から脱却して歴史を冷静に判断する必要がある。
日本人の精神文化は縄文文化に起源がある事は、上記の様な消去法では理解が得難いから、肯定的な手法で検証する。
先ず海洋民族の文化を検証する必要があるが、海洋民族を構成していたのは漁民だけではなく、縄文人と狩猟民族も含んでいたから、多様性がある文化だった事は間違いない。海洋文化を先導したのは漁民だったから、彼らの統治概念を検証する事が肝要になる。関東部族は弓矢交易を創出し、荊の為に湖北省に塩を組織的に運び上げたから、彼らは烏合の衆ではなく指導者と民衆に分化し、権力や統治に関する何らかの概念を持っていた事は間違いない。
10万年以上前から多くの民族が行っていた狩猟にしても、集団で行えば指導者が必要になるし、槍の名人がいれば不得手の者が勢子になる様な事は、当たり前の様に行われていた筈だから、集団の中に身分や役割がある状態は、10万年以上前から存在したと考える必要もある。Y-F系集団が明確な遺伝子分岐を示している事は、彼らは血族集団として行動していた事を示しているが、それを「血族は群れ易いから」であると安易に解釈するのではなく、「血族の方が組織的な行動に賛意が得られ易かったから」であると解釈する必要があるのではなかろうか。
Y-Rは血族集団の状態で交易民族を形成した事を、Y-R1aとY-R1bの分布が示し、Y-Oにその傾向がなかったのはmt-M7の堅果類栽培に依存する、特異な栽培系狩猟民族社会を形成したからであると考えられ、それぞれの理由が明確であるからだ。また部族制社会は血族主義的ではなかった事を、Y-C3やY-D2(D1a2a)遺伝子の分岐事情が示し、血族主義は部族主義と並置される組織原理だったと考えられるからでもある。
海洋漁民は回遊する魚を追っていたから、操作性が高い船や優良な漁具を獲得する為に、その素材となる物品を獲得する手段として交易を求めた事と、部族間で交易を行う文化の起源は、シベリアの狩猟民族にあった事は再三指摘した。海洋漁民が交易を介して入手した物品は、氷期には獣骨やアサなどの、素材に限定されていたが、後氷期になると素材を生産する民族を日本列島に招く様になり、やがて漁具や交易品を製作する女性技能者を招く様になり、穀類の栽培技能者も招いた事も既に指摘した。
それによって海洋漁民の交易範囲は拡大したが、独占的な耕作地を求めた栽培系狩猟民族とは異なり、海を区画して漁場を占有する必要はなかった。海は広いから原初的な漁法で回遊魚を獲り尽くす事など、あり得ない事情が根底にあったが、海洋漁民には異なる観点があった。漁労の生産性を向上する為には、漁労技能を高める必要があったからだ。
海面下に隠れて見えない魚群を見付け、それを捕獲する為には、漁法の改良や発明が必要であり、それを有効に発展させる為には漁期、漁獲場所、漁法に関する豊富な情報が必要だから、その為には漁場を共有する仲間を増やし、情報量を豊かにする必要があった。
栽培系狩猟民族は広い縄張りを確保する為に、数家族を単位として分散する必要があり、女性達の栽培技能が高まると、栽培地を確保する為に異なった分散を志向する必要があったが、日本の海洋漁漁民は漁獲高を高める為に、高密度状態で集住し続けた。その海洋文化を学んだ東南アジアの海洋民族にはその傾向が乏しく、太平洋やインド洋の島々に拡散した。
その事実は、高密度状態での集住志向は、日本の海洋漁民独特の思想だった事を示している。アサがなかった氷期に、稚拙な海洋文化を徐々に高めていた日本の漁民にとっては、それが必須事項だったから、気候が温暖化してもその習俗を堅持していた事が、その様な違いを生み出したと考えられる。
人類に関する普遍的な事柄として、同じ生業を持つ人々が集住すれば、技能や制度文化が高まる事は真理とも言える法則的事実だから、日本の海洋民族のこの様な姿勢に違和感はなく、冷涼な気候の下で漁獲だけを頼りに生き残りを賭けてきた人々にとっては、これは紛れもない真実だったが、植物性食料も入手できた台湾起源の海洋民族が、その技術を入手してするべき事は日本の海洋漁民と違っていた事も、歴史の必然として解釈することができる。
その様な日本の海洋漁民に着目すると、漁労に関する海洋情報には正確性が求められ、生命の危険さえ生み出しかねない嘘は、常に排斥する必要があった事は間違いなく、真理を求める姿勢を、当然と見做す習俗が生まれた事は、証明する必要がない事実だろう。
魚群が明確に見える事は滅多にないから、漁場情報の発信には、試行的な漁労活動が必要になった。それによって得られる情報の収集も、極めて重要な漁労活動だったし、海流や潮の流れも操船上の重要な情報だったが、その全貌を見極める事は難しかったから、バカ正直な単体情報ではなく、分析や状況判断を伴う高度な情報が求められる事も必然的な事情だった。それらの知見を総合しながら漁場を広げ、捕獲する魚種を増やし、魚種に相応しい漁法を開発する事が、漁労文化を高めて漁獲量を増やす事や、不漁期が少ない安定的な漁労活動の開拓に繋がったからだ。
農耕民族も元々は狩猟を主体とした民族ではあったが、狩猟は目に見える獲物を狩ったのに対し、海洋漁民は見えない魚群を追ったから、両者は氷期から異なる価値観を持って活動していたと考える必要がある。栽培技術が高まって農耕民族化が進むと、その乖離が更に激しくなり、耕作地を確保するために権力者に媚び、虚言によって権力者を高貴な人であると喧伝する必要が生まれたから、変遷期の狩猟民族の実態は分かり難いが、シベリア文化は狩猟民族が形成したものだから、元々の狩猟民族の生態は海洋漁民に近いものだった筈だが、縄張りを厳格に守る必要があった事と、分散して生活する必要があった事に大きな相違点があった。但し長躯南北遊動していたシベリアの狩猟民族は、大集団を形成していた可能性が高く、シベリアの高度な部族文化もその様な大集団が生み出した可能性が高い。
日本人も農民民族化すると大陸の農耕民族と同じ立場に立ったが、その様な漁労民族を祖先に持っていた日本人は、虚言を排斥して合理性を重視する習俗を大きく棄損しなかったから、現代日本人は大陸人とは異なる価値観を持っていると考えられる。
それについてもう少し分析すると、大型魚を追う集団では異なる役割分担を通し、集団に貢献する価値観が生まれた筈だ。その様な習俗は狩猟民族も持っていた筈だが、必要な情報を皆が正確に共有する必要は、漁労活動では更に高まったから、それを義務化する要求事項も詳細になり、抽象的な事項も多分に含まれた。漁民は大型魚を追う為に職能集団を結成したが、漁労の成果は偶然に左右される事が多かったから、機会を逃さない有能な指導者が求められると共に、各役割分担者にも粗漏の無い役割の遂行が求められただろう。役割を分担した個人のミスが全体の成果を台無しにするリスクが高かったから、その必然的な結果として、多様な能力を求める能力主義的な発想が生まれたと想定される。
縄文人が鯨、イルカ、マグロなどの大型魚を追っていた事は、遺跡から発掘される魚骨から明らかだが、浜に打ち上げられた死肉を食べていたなどと、縄文人を貶める発言を好む歴史学者がいる。しかし関東部族が弓矢交易によって得た獣骨は、大型魚を捕獲する離頭銛や釣り針の素材であり、それを加工していたmt-Aの比率はかなり高かったから、関東部族の漁法は大型魚の捕獲を中心とするものだった可能性が高い。厳密に言えばアサを入手出来るようになってから、その様な漁法が主流になっていったと考えられる。
北陸部族系の遺跡から石錘の出土が多く、関東や東北の太平洋岸では離頭銛などの出土が多いのは、氷期から縄文人と共生していた北陸部族と、台湾や琉球岬に遊動してアサを入手していた関東部族や、その余禄に与かっていた伊予部族の、アサの使用量を節約する漁法の違いだった可能性もある。それが事実であれば、関東部族や伊予部族の主要な漁法は、大型魚や小型クジラを銛で仕留めるものが主流だったと考えられる。縄文人も弓矢交易に積極的に参入した事は、その傍証になるだろう。また北陸部族も弓矢交易に積極的だった事は、銛漁の方が網漁より効率が高かった事を示している。
大型魚は浜で解体しただろうから、当然住居址の周囲や貝塚にその骨は残っていない。従って発掘された魚骨の量を検分し、主要な食糧になった魚種を推測する手法には不確実性が高いから、魚骨を検分して沿岸魚漁業が中心だったと主張する事は控えるべきだろう。
海洋民族化して交易社会を形成すると、役割を更に分割する必要があった。その実現によって経済活動が活性化した事により、弓矢交易を実現できたが、各部族が経済活動の成果を競う時代になっていたから、その価値観は更に高度化されていった。
日本人の産業社会に適した発想は、その様な縄文人の発想を受け継ぐ事により、発揮されていると考える必要もある。
縄文時代の漁民の技能では、広い漁場の魚を取り尽す事はなかったから、漁業権という概念はなく、むしろ多数の人間が同じ漁場で同じ漁を行う事により、漁場の情報が豊かになって漁具や漁法が進化し、それが個々の漁民に利益をもたらしたから、それを認識していた原日本人系の漁民は集住する事に意欲的なったが、人が集まると物質文化だけではなく制度文化も高まる。大型魚の捕獲に際しては、捕獲対象になる大型魚を発見する為にも多数の船が必要であり、捕獲には役割を分担した共同作業が必要だったから、参加人数が多い方が捕獲確率は高かった。従って大型魚の捕獲技術は、現代人が想像できないレベルにまで高まっていた可能性が高い。
集住したのは漁民だけではなく、生産性が高い堅果類を栽培していた縄文人も、その様な漁民との共生に適した栽培者だったから、関東は異様に縄文遺跡が多い地域になったと考える必要もあり、縄文人が形成した漁民とは異なる文化にも注目する必要がある。
彼らの習俗が、一定の広さの私有的な耕地を求め、個人的な作業を基本とする農作業を行っていた農民社会の人々とは、決定的な違いを生んでいた事は間違いない。大陸民族が示す習俗が農耕民族的であり、日本人が示す習俗が漁労民族的である事は、日本人の基底的な習俗が形成されたのは、価値観を漁民が支配していた海洋民族の時代、即ち縄文中期以前であると考えざるを得ない。以下にその証拠を更に積み上げ、検証する。
海洋漁民は農地などの固定資産を必要としなかったから、それらの私有権を確立する為に権力者を生み出す必要も、権力を装飾的して保証力を高める必要もなかった。海産物には穀物の様な貯蔵性がなく、漁民には船と漁具を一式揃える以上に、富を集中させる動機が弱かったから、貧富の差はこれらの資産と交易によって稼いだ富に留ったから、農耕民族の様に権力者に意図的に富を集積させる手段は乏しく、権力に正統性を与える根拠は、それらの生産性を向上する事に絞られた。社会が騒乱状態になると権力者への権力の集中は進んだ筈だが、富を集中させて貧富の格差を拡大する動機には乏しかった。
共同で得た漁獲の分配に際しても、腐敗し易い漁獲を過分に獲得する事に意味はないから、分配にはある程度の公平性が維持されたと想定されるからだ。個人的な漁労が豊漁に恵まれても、過分に得た魚は腐敗する前に、近隣に配る以外に処分方法がなかったから、蓄財概念は生まれ難かった事も、その発想を強化し、武力によって他人の資産を奪う動機は、生れる事情がなかった。
その結果として海洋民族の習俗は、優れた漁具を得るための交易に関心を高め、それを発展させて帰属集団の生活や文化の向上を目指す、利他的な成果を競う精神文化に発展する事は、必然的な結果だった。日本人に大富豪が少ないのは、直接的にはこの様な漁民的な習俗を受け継いでいるからだが、農耕社会になってもその社会習俗が各地に残っていたから、騒乱状態の過激化が抑止された事により、権力者への富の集中が限定的になったからだと考えられる。
それを権力者の視点で見ると、権力基盤が不安定な権力者は、意図的に社会を騒乱状態にする事によって権力を集中させ、権力基盤の安定化を求める心理が働く場合も多々あっただろう。従って戦後時代になるとその様な権力者達が、騒乱状態を更に増幅する事によって戦国大名や地方豪族の地位を窺い、その為の戦力を高めた実態の一面下克上だったが、その様な社会では元々の倫理観の差が増幅されたから、海洋民族社会を基底に持たなかった民族との間に、大きな差が生れたと考えると同時に、その様な社会が戦国時代に突然生まれたのではなく、社会を不安定化される要因は既に存在し、それがなし崩し的進行した結果として、戦国時代にそれが最も過激化したと考える必要がある。
そまりその様な兆しは日本人が徐々に農耕民族化した弥生時代に始まり、農耕の生産性が高まるに従って社会が不穏な状態になっていったが、王朝が生れた奈良時代に急速に社会不安が高まったから、戦国時代までそれが加速度的に進展して最後に戦国の乱世になったと解釈すると、豊臣秀吉の富に対する執着も理解できるし、弥生時代から安土桃山時代までの間は、日本人的な平等観が形成される時代ではなかったとの結論に至る。
それと同時に日本人が絶える事ができる乱世の状態は、戦国時代が極限状態だったから、織豊政権以降の収束の時代が生れたと解釈する事もできるだろう。此処で云う日本人は戦国大名やその有力武将ではなく、営農や商工業によって生計を営んでいた民衆になる。歴史学者は歴史を解釈する際に文献に頼るが、地域を回って商品と共に情報を拡散していた商業者が、世論の形成に大きく寄与した事にも配慮する必要がある。商工業者の情報力が戦国の乱世を収束に向かわせたとすると、商工業者の情報力の強さも社会体制に大きな影響を与えた事になるが、その元を辿れば日本の商工業の始点は、海洋民族の経済活動だったと考える必要もある。
6-2-3 海洋民族の社会
海洋民族は海洋漁民だけで形成されていたのではなく、栽培民族や狩猟民族も参加する複合的な民族集団で、集団意識を海洋交易の活性化に統一していた事に特徴があった。漁労活動の生産性が突出して高く、栽培民族や狩猟民族の食生活も漁労活動に依存していたからだ。縄文人の植物性食料が穀物種ではなく、生産性は高いが毒性を除去し切れないドングリに依存していた事が、海洋民族の時代を長期化させた。縄文人や狩猟民族が海産物を得る事により、食糧事情が安定して海洋民族的な活動に時間を割く余裕が生れ、食糧事情を豊かにする為に漁民の活動に協力すると、漁労の生産が高まって依存関係が更に高まり、3民族が一体になった海洋民族が生れた。
但しこれは正しい順序ではなく、沖縄系縄文人は漁民が日本列島に招いた民族であり、縄文時代の狩猟民族も縄文人の日本への移住に合わせ、シベリアから海洋民族が招いた人達が主流だった。しかし縄文時代初頭の海洋漁民の意図がどの様なものであったにせよ、3民族は融合して一体的な海洋民族を形成した。しかし各々の民族の生業は維持し、民族内の多様性を形成した。沖縄系縄文人は既に3民族が共生する社会を形成していたが、海洋漁民は海外から多様な技能を持つ女性達を招いたから、社会の多様性は更に高まったが、それは多彩な経済活動を行う為のもので、その様な多様性が更に経済の多様性を生み出す事は、現代人であれば無前提に理解できるだろう。
フィリッピンやインドネシアで活動した台湾起源の海洋民族も、堅果類の栽培者だったmt-M7cを抱え続けていた事を、現代のフィリッピンやインドネシアの人々の遺伝子分布が示し、堅果類の栽培は海洋民族にとって必要な生業だった事を示唆している。ドングリは毒性があるから救荒食や嗜好的な食料にしかならなかったが、それによって食糧の安定性が確保され、海洋民族的な活動に集中する事ができたからだ。
現代韓国人がmt-M7cを3%以上含み、台湾の山岳地に多いY-O1も3%含んでいる事は、それらは東南アジア起源の製鉄者の遺伝子である事を示唆し、mt-M7cが狩猟民族のペアとして、山岳地の女性になった事を示唆している。但し日本のmt-M7aは焼畑農耕者と、稲作者になった東北縄文人の子孫だったと想定され、日本人のmt-M7cは1%未満だから、日本の製鉄者は東南アジア起源の民族ではなく、日本の狩猟民族を起源とする人々でもなかった事を示し、民族共生の在り方が異なっていた事を示唆している。日本の製鉄原料は砂鉄だったが、一般的な製鉄は山岳地の鉱石を原料としていた事を、これらの事情が示唆している。
シベリアの河川漁民と共生した栽培者には、堅果類の栽培者は含まれていなかったから、3民族が共生する社会としては同質であっても、気候地域によって共生の仕方が異なっていたのは当然であるとも言える。
しかし海洋民族には、穀物栽培者を排斥する姿勢に共通性があった。その具体例は各海洋民族にあり、超温暖期になってツングースの祖先がアムール川流域からオホーツク海沿岸に北上した際に、アワを栽培していたmt-Dとmt-Zがアムール川流域に遺された事がその嚆矢になる。mt-Zはアワ栽培を諦めてシベリアに拡散したが、アワ栽培に固執したmt-Dはアムール川流域に取り残されからだ。
日本でもmt-Dが北陸部族の海洋民族社会から離脱し、西日本でアワ栽培者の社会を形成した事が挙げられる。
台湾起源の海洋民族も、フィリッピンに移住したmt-Dとの共生を嫌ってインドネシアに拠点を移した事が挙げられる。
シベリアの漁労民族を含めた海洋民族の社会では、穀物栽培に熱心になって海洋活動に協力しなくなった栽培民族を、排斥した事を示している。これは穀物栽培には多大な労力を必要とし、それに熱中すると海洋民族的な活動に消極的になったのは、女性達だけではなかった事を示しているだけではなく、海洋民族的な活動には女性の参加も不可欠だった事を示唆している。
超温暖期のアムール川流域でのアワ栽培に、男性が参加していたとは考え難いから、漁労活動には女性の器用な手も必要だったと考える方が順当だろう。現代日本人にmt-Aが7%も含まれている事が、mt-Aは海洋漁民にとって不可欠な人材だった事を示しているが、それは一例に過ぎないと考える必要がある。馬橋遺跡遺された縄文土器が、女性達が宝貝に穴を開ける作業者だった事を示し、その様な事情を示唆している。
以上の事例から考えると、シベリアの狩猟民族が生み出した部族社会には、民族間交易を重視する文化要素が濃厚にあり、その文化を継承した海洋民族も同様の行動に走った可能性が高い。
仰韶文化圏でアワが栽培されたのはシベリアに拡散したmt-Zが、Y-R1民族に浸潤した結果である事を、タクラマカン砂漠周辺の山岳地にmt-Zが分布している事が示唆しているが、このmt-Zはシベリアの共生民族になった後も、アワ栽培への未練を断ち切れずに、南に接していた「メヘルガル・仰韶文化」圏に浸潤したと考える事ができる。フィンランドなどの冷涼な地域に残ったmt-Zもいたが、アワ栽培に執着してシベリア南部に留まった故に、シベリア文化圏から排斥されたり自主的に離脱したりして、Y-R1民族に浸潤したと推測される。
アワは栽培期間が短い事を既に指摘したが、アワを栽培していた女性達は短期集中的にアワを栽培したのではなく、播種期をずらしながら通年栽培し、不作リスクを低減していたから、海洋民族的な活動に参加しなかった事を示唆している。石器時代の栽培は自然地形を利用するものだったから、早春であれば野焼きによって栽培地の整備が可能だったが、その様な通年栽培の場合には、陽気が温暖になった晩春以降も播種する必要があり、除草した土壌に播種したとすれば栽培地の整備には手間が掛かった。石器時代のアワはその様なものだったとすると、この話が整合するだけではなく、原初的なアワ栽培の合理的な栽培方法も示唆している。
堅果類は毒性が強く、幾ら生産性を高めても主要な食料にはならなかったから、堅果類しか生産できなかった東日本の縄文人は、海洋民族の基幹構成員になって海洋文化を高める必然性があった。縄文中期までの稲作は生産性が低かったから、海洋文化を阻害するには至らなかったと考えられる事も、この事情と整合する。mt-B4は稲作者ではあったが、冷涼な関東では稲作の生産性が低かった上に、mt-B4は海洋民族的な特異な性格の保有者でもあり、海洋文化の向上に貢献する遺伝子だったと考えられる。八ヶ岳の裾野に遺された黒ボク土が、稲作より海洋民族的な活動に積極的だった、mt-B4の性格を示しているからだ。
東ユーラシアの石器時代だった縄文中期までは、漁民は最も生産性が高い食料生産者だったから、漁民が弓矢交易の成果によって得た漁具を使い、漁労技術を向上させながら漁獲を確保する事が至上命題であり、それを達成する為に経済を効率的に運用し、それに必要な体制を整備する事が、海洋民族の究極的な目標だった事は間違いない。何千年もその様な体制を維持発展させていれば、それに必要な組織も徐々に複雑化していった事も間違いないだろう。
関東部族の海洋活動がその目的に焦点化されていれば、稲作民族との交易は必要なかった筈だが、北方派の漁民が主導する弓矢交易が、繁栄を謳歌している傍らで、南方派はそれとは異なる新たな活動目標を探し、結果的に稲作民族との交流に向かった様に見える。
南方派が台湾に南下した1万1千年前には、南方から獣骨を得る必要性が認識されていたが、1万年前に北方派がシベリア交易の活性化に成功すると、その目的を転換して台湾の堅果類栽培者との交流を深め、彼らが海洋民族化すると更に交流を深めると共に、台湾から多数のmt-B4を招く事によって新たな稲作産業を始めた様に見えるからだ。台湾起源の海洋民族は縄文後期になっても、フィリッピン越との共生を嫌ってインドネシアに南下したから、南方派も穀物栽培者を嫌う部族主義者だった筈だが、縄文中期寒冷期の初頭に、稲作の生産性が高いmt-Fを招いた事は、海洋民族のとしては一見矛盾した習性を示している様に見える。
mt-B4は海洋民族的な女性だったから、mt-B4を招聘しても海洋民族の活動に支障はないと判断した可能性はあるが、縄文前期の南陽盆地で稲作をしていたmt-Fは、稲作によって家計を賄う事ができる生産性を得ていたから、海洋民族が嫌う稲作者だった筈だが、その様なmt-Fを受け入れた関東部族には、海洋文化の劣化に対する危惧はなかったのか、甚だ疑問になる。
台湾起源の海洋民族が、mt-D+M7aの招聘は失敗であると気付いたのは縄文中期後半だから、縄文中期初頭にmt-Fを招いた段階では、穀物生産者に対する警戒心はなかった可能性はある。しかし北陸部族のmt-Dが、海洋民族社会を離脱したのは縄文早期であり、それによる北陸部族の海洋民族としての混乱は、時代の進展と共に悪化していたから、関東部族がそれを知らなかった筈はない。北陸部族が弓矢交易に参加した段階で、両者の情報交換は頻繁に行われていたのだから。
しかし関東部族にとっては、稲作も海洋民族として活動の一環だったとすると、その証拠は沢山あるからこの課題は氷解する。コメの消費者だったのは関東部族の漁民だけではなく、矢尻を生産していた狩猟民族も消費者だったから、コメは狩猟民族が生産する矢尻と交換する、主要な交換品だったからだ。
mt-B4が関東に渡来した1万年~9千年前は、弓矢交易が活性化し始めた時期であり、矢尻の生産量が激増した時期であり、狩猟民族の矢尻の生産拠点である霧ヶ峰周辺は海から遠く、新鮮な海産物を届ける事は不可能だから、矢尻の交換品としては海産物の干物か、諏訪湖の魚介で我慢して貰うしかなかったが、矢尻を生産する為の特殊技能化が進み、大量生産の必要が生れて高度な技能者を増強する必要に迫られると、供給する食料のグレードを上げる必要が生れ、稲作者が必要になったから、mt-B4を多数招いたと考える事ができる。
気候が冷涼化した8千年前にmt-B5を招いたのも、mt-B4の稲作の生産性が低下する中で、気候の湿潤化によってシベリアの漁民の人口が増え、交易可能な狩猟民族の数が増えたから、弓矢の一層の増産が必要になり、それと共にコメの必要量も増加した事が、背景にあったと考える事ができる。
縄文中期初頭にmt-Fを招聘したのも、縄文中期寒冷期に向かう中で、mt-B4の生産性が低下していたからだと考えられる。縄文中期寒冷期のmt-B4が、稲作地を求めて栃木の北境まで北上した事は既に指摘したが、これは関東部族内でコメが不足していた事を意味し、その不測の程度が如何程であったのかを示していると考える事もできる。
矢尻を多量に入手する為にはコメを増産する必要があり、その為にmt-Fの招聘が必要だったとすれば、北方派と南方派は一体的に活動していた事になり、mt-Fの関東渡来にmt-B4が異論を唱えなかった事にも繋がる。mt-B4とmt-Fは稲作地が異なっていたから、mt-B4の稲作地が失われる事はなく、コメの増産圧力に苛立っていたmt-B4にとって、mt-Fは歓迎すべき助人だった事になるからだ。関東部族の生命線である弓矢交易の活性化にとって、コメは必須商品になっていたのであれば、既に検証したmt-Fを交えた縄文史とも整合する。また縄文中期の栃木北部の事情としても、関東部族の漁民にとって必要だったのは、冷涼な何耕地(いずこうち)で稲作を行っていたmt-B4の収穫だったから、古大田原の漁民が彼女達のサポートを十分行っているのであれば、彼らがアワ栽培者と何を取引しても不問にせざるを得なかったからだ。
しかし縄文後期温暖期にmt-Fの稲作の生産性が急激に高まると、縄文中期までの海洋民族の在り方に激震が走った。弓矢交易が衰退してコメの必要性が減少する中で、mt-Fの生産性が突出して高まるとmt-B4とのバランスを著しく欠き、mt-B4がそれに対抗して稲作に向かうと、伝統的な海洋民族文化は崩壊の危機に瀕したからだ。
関東部族が稲作地を求めて大阪湾岸や北九州に入植すると、これは海洋文化の本質的な転換点になったから、その詳細は経済活動の成熟期の項で検証するが、それによって関東部族も縄文早期の北陸部族の様に、栽培者を西日本に移住させる状態になった。関東部族の海洋活動には痛手だった筈だが、荊が中華の支配民族になった上に、その交易を関東部族が独占する状態が生れたから、シベリアの弓矢交易が青銅器時代になって消滅する傍らで、荊やアワ栽培者が飼育する家畜の獣骨が多量に入手可能になり、関東部族の経済的な危機は回避された。
インドネシアの海洋民族も縄文晩期寒冷期~弥生温暖期に稲作者を導入したが、これは海洋文化の先達だった関東部族の成功事例を見て、関東部族の海洋文化の変質に追従したからである可能性が高い。縄文晩期寒冷期~弥生温暖期に鉄器時代が始まったが、鉄器時代の初期には鉄は貴重品だったから、海洋船を建造する労力を始めとする、栽培民族の協賛的な労働の軽減には役立ったが、農耕の生産性を高めるには至っていなかったから、危機感は薄かった可能性が高い。
しかしこれにより、東アジアの海洋文化は実質的に壊滅したとも言える。弥生温暖期に稲作の生産性が高まり、鉄器の普及がそれに追い打ちを掛けると、日本の海洋民族も東南アジアの海洋民族も、海洋活動に協力しない稲作者を抱える海洋交易者になったからだ。
しかし弥生温暖になると、インド洋交易が嘗てない活況を呈したので、海洋交易活動は却って活性化され、商業的な交易によって得た利益で、海洋民族の政権が維持される状態になり、稲作民族になった栽培者とは縁が薄い商工業政権として、稲作者の農地争いを調整する機能は高めず、交易者の貧富の差が拡大する方向に向かった。
それ故に海洋民族の政権は、弥生温暖期に活性化した交易を古墳寒冷期に失うと、稲作民から疎まれる政権になり、平安温暖期が始まった飛鳥時代に政権が崩壊した。これについても経済活動の成熟期の項で検証するが、農耕の生産性が低かった北欧では海洋文化が存続した事も、上記の歴史観の証拠になるだろう。気候が冷涼な東北では、主要部族は栽培者と共に縄文後期に西日本に移住し、縄文人がいなかった北海道を含め、栽培系縄文人が空洞化していたから、北欧の様な状態にはならなかった。弥生温暖期の末期に成立した奥州平泉の勢力は、交易者としての面影は残していたが、平泉に遺された華麗な建築物は、彼らが農耕民族化していた事を示している。
縄文中期までを記述するこの項で縄文後期以降の事績を追跡するのは、後世の民族事情に関する記事や事績から、縄文中期かそれ以前の事情を推測できるからだ。その際の海洋民族の活動歴は、経済活動の軌跡を追求する事によって明らかになるが、鉄器時代になって経済的に自立し、農地や領土を求めて権力闘争に明け暮れる様になった、農耕民族の活動歴の追跡には、嘘に塗れた史書を読み解く以外に有効な手段がない。
従って史書に記述された事項には、逐一の検証が必要になる。また記述そのものは正確であっても、権力闘争に関心が偏ってしまった人々の記述には、経済的な必然性を読み取る始点が欠如しているから、有史以前の歴史を追求する以上の困難がある。融資時代であっても海洋民族の経済活動が存続していた時代は、彼らが経済的な必然性を示しているから、その派生事項としての事実性を検証し、史書の真実性と欺瞞性を明らかにする事ができる。
従って先ず事実を記している史書を特定する必要があるが、それだけでは海洋民族の実態は分からないから、その知見を基に日本人の民族性を検証し、その特殊性から海洋民族の実態に迫る。
事実を記している史書
縄文時代の事績を記している竹書紀年と、縄文時代の事情を示唆する三国志東夷伝が、事実を記している史書としての選定対象になり、漢代~後漢代に記された史書は、記事毎の事実検証を必要とする捏造史書に分類される。
南朝期に成立した後漢書東夷列伝は、晋代に記された三国志東夷伝を否定する為に記述され、理論武装の為に陳寿が知らなかった事を挙げているから、参考にはなるが、不確かな伝聞情報である事に留意する必要がある。
いずれにしても朝議録の転写であると見做せる文章は、選択的な転写ではあるが、朝議録としての事実であると考えられる。
事実を記している史書を検証する場合、包括的に解説している三国志東夷伝から始めると分かり易い。
魏志東夷伝/倭人伝は、倭の小国の官僚には「官と副」しかなく、戸数7万の邪馬台国でも官階は4段階しかないと記している。倭人諸国の副の名称には類似性があり、女王卑弥呼が任命した監査的な職務だったと推測されるから、小国には一人の頭目しかいなかった事になる。
後漢書は朝議録の転写として、「倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。光武賜うに印綬を以てする。」と記し、魏志倭人伝が奴国について「官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰い、二万余古有り。」と記している事と整合しないから、それを検証する必要がある。
魏志倭人伝の元になった魏の使者の報告書は、卑弥呼が邪馬台国連合の女王だから、各国の王は卑弥呼の下僚であると解釈し、王ではなく上記の表現にしたが、後漢書は倭について「凡百余国。武帝が朝鮮を滅ぼしてから、漢に使駅を通じる者が三十ばかりあり、国は皆王を称し、世世統を伝えている。其の大倭王が邪馬台国に居す。」と記し、後漢書の著者に倭の事情を説明した古墳時代の倭人の認識では、魏志倭人伝に記された官は王だった。王朝の官僚組織しか知らなかった中国人には、倭の連合国的な統治は理解できなった事を示している。
両者を参照しながら歴史を再構築すると、倭の30国が体制秩序の危機に陥った際に、諸王の推挙によって卑弥呼が女王になり、邪馬台国連合が結成されたが、それ以前の倭連合の大王は伊都国王だったと考えられる。倭には100余国あり、その内の30国が邪馬台国同盟を結成した事になるが、漢に使駅を通じる者が三十ばかりある状況と国の数が一致し、魏志倭人伝が邪馬台国連合の国として列挙した国名と総数が同じだから、邪馬台国が成立する以前の奴国王は独立した国王として、後漢に朝貢する為に大夫を派遣した事になる。しかし魏の役人はそれを知らなかったから、報告書に記載しなかったと考えられる。
邪馬台国が成立する以前は北九州の伊都国王が30国を統括していたが、魏の使者にその経緯を話すと卑弥呼の権威が棄損されると考えた、女王の取り巻きが曖昧に話したか、魏の使者には平和的な禅譲が理解できなかったから、「其の国本亦男子を王としていたが、その七八十年間に倭国が乱れ、相攻伐すること歷年、乃ち共に一女子を立て王と為す、名を卑弥呼と曰う。」と記述した。周代に共和伯の事績があったから、類似したものとして理解したのであれば後者になる。
従って定常状態では倭の各国に王がいて、その膝下に統治制度上は役職が規定されない大夫がいたから、奴国王の指示で大夫が後漢に朝貢するなどの、重要業務が実行された事になる。邪馬台国でも複数の大夫から適任者を指名し、重要業務を担務させていた事を、「倭の女王が大夫難升米等を遣して郡に詣で、天子を詣でる朝献を求めた。」「倭王は復た大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使した。」などと記し、重要な政務である魏との交渉は、大夫が担務した事を示している。
大夫の記載がない者については、「倭の載斯、烏越等を遣して郡を詣で、相攻擊する狀を說く。」と記し、郡に出向くだけの軽い任務に起用した事を示している。邪馬台国の官僚組織について倭人が魏の使者に説明する際には、大夫身分がある事は申告しなかったが、突発的な重要政務には官僚組織外の大夫が起用された事になり、その事情から邪馬台国の統治体制が推測できる。
戸数7万の邪馬台国に4階層の官僚がいたが、戸数2万の奴国には官僚がいなかった事は、この官僚は邪馬台国連合30国を統括する官僚であって、少なくとも邪馬台国の外交関係は、大夫が仕切っていた事を示している。また郡の太守に言い訳する際に大夫が起用されなかった事は、少ない数の大夫が重要政務を担務した事を示している。交易立国だった倭人諸国の外交を大夫が担っていた事は、大夫が重要な任務を務める真の実力者だった事を示している。複数の交易組織があれば、外交交渉の適任者は案件によって異なるから、必要に応じて交渉責任者を任命する事は不自然ではない。
交易立国であった倭人諸国の実力者は、恒常的に交易業務に従事していた筈だから、常任者を任命するより合理的な仕組みだったとも言える。
魏志倭人伝は夏王朝期の事績を示唆する一連の文章に、「古以来より,其の使が中国を詣でるに,皆自から大夫を称す。」との記述を挿入し、大夫の身分制は縄文後期には関東部族の統治体系に組み込まれ、同様に機能していた事を示している。但し夏王朝期は、関東部族の弓矢交易は完全に終了していなかった時期で、正確に言えば部族を挙げて弓矢交易に注力してはいたが、その崩壊懸念は高まっていたから、南方派の重点交易である宝貝貨の制度を立ち上げていた時代だから、交易の多角化を目指して百余国に分裂する状態に、まだ至っていない時代だった。
つまり関東部族が総力挙げ、それらの交易に取り組んでいた時代に、それらを仕切っていた貴族を倭人は大夫と呼んでいたが、その数はあまり多くはなかった事になるから、大夫には下部組織があったと想定される。しかし漁民の能力主義的な習俗から考えると、その身分は血統的に固定されてはいなかったと考えられる。漁民は船団を組んで大型魚を捕獲したが、漁が終われば船団が解散し、船団の指導者も庶人になった様に、必要な任務が発生すると適任者が委任され、その任務を遂行すると役割が解かれたからだ。
但し国は皆王を称し、世世統を伝えていた事は、限られた系譜から大夫や王が選定されていた事を示唆している。交易を統括する者と漁労活動の船団長が、同じ人物だったとは考え難いから、それぞれの技能や知識に応じて選任されたとすると、漁労と交易にはそれぞれ別の系譜から選任された可能性も高い。但し多数の庶人から無前提に選任する事は難しいから、人材を輩出する家系は限られ、その家系が血統的な貴族層を形成していたと考えられる。
王朝史観を崇拝する人はこの様な形態の組織を、原初的な統治組織と見做すかもしれないが、海洋民族の成果を考慮するとこの様に単純な組織であっても、それを実現できる機能性があった事は間違いない。弓矢交易や宝貝貨の制度の支援組織は、その組織が実現したからだ。当然その背景には単純な組織を機能させる習俗的な組織と、それを支える倫理観や価値観があったと考えざるを得ない。
魏志倭人伝は、「渡海して中国を詣でるに、恒に一人を使い、頭を梳らず、しらみをとらず、衣服は垢で污れ、肉を食べず、婦人を近づけずに喪人の如きにして持衰と呼ぶ。若し行者に吉善あれば、共に其の生口や財物を顧るが、若し疾病があったり暴害に遭ったりすると、其れは持衰の不謹であると謂って之を殺そうとする。」と記し、魏の官僚には滞在期間中に、倭人の交易活動の実態を垣間見る機会があり、交易組織の実情は理解できなかったが、陸に上がった交易者が最初に行った事が特徴的だったから、それを描写した事を示唆している。つまり交易組織は外交を行った統治組織とは別の存在だったから、倭人はそれについては説明しなかった事を示している。
これを現在的に言えば、交易立国としての企業活動が盛んで、外交には民間人が起用されていたから、内務的な統治組織は貧弱なものだったが、魏の役人に説明したのは内務的な統治組織の事情だけだったから、魏の役人の報告書にはそれに関する記述は殆どなく、倭人の経済活動や習俗に関するものが主要な記述になったが、それに関する体系的な説明はなかったから、見た目で判断する印象的なものになった。
魏の役人は王朝の官僚だったから、王朝をモデルとした統治組織が一般的なものであると考え、民間組織はその民族の習俗として捉え、倭人もその様に説明したから、交易国家だった邪馬台国でさえも、卑弥呼の統治制度の埒外の人だった交易者については、私的な活動として認識していたが、逆に言えばそれであるからこそ、複雑な統治機構は必要なかった。
王朝にとっての最重要課題は、農地の分筆とその所有者を確定し、毎年決まった量の租税を納めさせる事だから、それには膨大な数の官吏が必要になり、彼らを動員して集めた租税の一部は俸禄として官僚に分配し、残りを王朝の財政基盤として、王朝の権威を高める儀式を挙行する必要があり、それにも官僚が必要だった上に軍備には膨大な経費が掛かった。従って官僚機構が肥大化し、その経費が国家財政を圧迫する事は必然的な結果だったが、当時の交易立国の収入は企業献金で賄われ、漁民には出張旅費を支払う必要がなく、政権の権威を飾る必要もなかったから、行政祖組織は極めて簡素だったと考えられる。
現在の官僚機構にそれを当て嵌めると、官僚には実務能力はないから実務はすべて外注で行い、その外注先の組織は統治機構とは無関係だったから、倭人時代には現在の官僚組織は必要なく、決定された政策を国内に伝達する人がいれば十分だった事を、各国には官が一人しかいなかった事が示している。民間の漁労組織と交易組織が自律的に機能し、農地の利権争いがないのであれば、合理的で効率的な組織だったと言わざるを得ない。
現在も存在する、社員の私生活まで面倒を見る一家主義的な社長が、当時の大夫や指導者だったから、大夫や指導者が集まって政策方針を決めれば、政策官僚は不要だったとも言える。
但しこれらは、縄文晩期寒冷期かそれ以降に経済活動が多様化し、百余国が生れた後の事情であって、部族全員の経済活動が弓矢交易に焦点化していた時代の事情ではない。しかし海洋漁民が単位集団として船団を組み、漁労活動と交易活動を行っていたのであれば、弓矢交易の海洋輸送もその単位集団が運営していたのであれば、事態は何も変わらなかった事になる。
つまり漁民の単位集団が縄文人から弓矢を受け取り、シベリアに航行して獣骨を持ち帰り、それを使って漁労活動を行った結果としての漁獲を、弓矢を生産した縄文人に渡せば、海洋漁民としての交易活動は経済的に完結した。魏志倭人伝や後漢書が示す倭人の組織は、これ以上に単純な統治組織はないと言えるもので、最もシンプルで合理的な経済活動でもあるから、その様な交易が縄文時代から一貫した、海洋民族の活動姿勢だったと考えられる。
つまり関東部族やその子孫の倭人の交易活動には、階層的な統治組織は必要なく、経済収支を完結できる集団が、それぞれの役割に応じて活動する事により、部族総体としての大きな活動が完結していたから、それを継承して小国に分かれた倭人各国も、交易組織としての情報を伝達する連絡員的な指導者はいたが、階層的な組織は存在しなかったと想定される。連絡員的な指導者が意思決定の合議に参加し、関東部族全体の意思決定が為されれば、部族としての組織的な活動も可能だったから、それが縄文時代の組織的な海洋交易の仕組みで、関東部族はその組織認識を邪馬台国時代まで維持していたと考えられる。
大夫は関東部族の中核的な存在であると共に、中華の稲作民社会にも浸透した仕組みだったから、春秋戦国時代の諸国にも採用された事を史書が示している。中華人にも優れた組織である事が認知されていた事になるが、王朝期が始まった秦・漢代以降の中華にはこの職名はなく、上意下達を基本とする複雑な官僚組織が生れていた。
大陸で大夫制が消滅したのは、王朝が成立して複雑な官僚機構が採用され、それに対応する固定的な身分制が生れたからだが、発祥地である日本では、奈良朝と平安朝が大陸の王朝制度を採用して形式的な役職を整備したが、実務を担う高位貴族の尊称として大夫呼称が存続した事は、特記するべきだろう。つまり徴税組織は大陸から輸入したが、能力主義的な日本人に馴染みやすい土俗的で属人的な制度として、大夫制も機能していた。
大夫制が古代的な貴族制でもあったとすると、これ以上簡略化できない組織だから、少なくとも縄文中期まではその様な組織が弓矢交易や稲作技術の導入を推進し、湖北省に塩を運び上げた事になる。単純な組織であっても大夫と称する貴族の合議で方針を決め、任務遂行者を任命して役割を明確にすれば、役割意識を持った海洋漁民が組織的な活動を支える事により、大きな企画も実現できた。
現代社会でも、経済活動の目的と役割分担が明確であれば、階層化されていない集団であっても、商業活動ができると考えるビジネスマンは多いだろう。その際に役割意識が有効に機能する事は、実務経験がある人には理解できるからだ。しかしその様な組織は権力志向の強い人によって毀損され易い事も、経験しているかもしれない。つまり海洋民族がmt-Dの差配する農耕民族的な人々との共生を嫌ったのは、農地の獲得に執念を燃やす我欲の強い人達の存在は、その様な組織に有害である事を認識していたからではなかろうか。石器時代の人々は、日々の厳しい労務負担に耐えていたが、人格を多様化する情報に乏しかったから感性に共通点が多く、他者の特徴には敏感だったと考えられるからだ。
西欧人も海洋民族の子孫ではあるが、西欧人は契約的な上下関係に忠実で、有能な指導者のリーダーシップを重視する。日本人は役割分担を重視し、各機能組織は自律的に活動するから、リーダーを神輿として担ぐ傾向がある。いずれも組織を機能的に運営する手法だが、西欧では価値観が異なる多数の部族が乱立し、日本では強力な関東部族の下で価値観が統一されていた事を示唆している。
王朝的な官僚組織は権力闘争の要素に満ちていたから、定型的な業務の遂行は可能だったが、突発事態に機動的に対処する事は難しく、効率的な経済活動の実現は難しかった。それが分かっていた日本の王朝では、大夫の制度を存続させ、王朝の運営実態は大夫制に依存していた可能性が高い。日本の王朝制度の実態が分かり難いのは、大夫の合議結果が記録されていないからではなかろうか。
史書から分かる事はこの程度だから、現代日本人独特の行動性向から、その起源となった縄文文化を検証する。このHPの用語の定義では、民族文化として形成された精神構造が「文明」で、文化は物質の進化状態を示すが、「縄文文明」は聞き慣れない言葉だから縄文文化を使うが、縄文文明は孤立的な文明ではなく、シベリア文明の派生である事は銘記して置く必要がある。
日本人独特の行動性向
日本人独特の伝統的な組織論として、権限と権力を区分する概念があり、これは極めて日本人的で大陸にはないから、海洋民族が培った文化遺産であると考えられる。この概念は役割意識と不可分の関係にあり、日本人の組織論の両輪になっている。
権限は職務の遂行に伴って発生する意思決定権であると共に、他部門に対する強制権でもあるが、職務を遂行していない時期には効力を持たない。権力にはその様な制限はなく、権力者と言えば四六時中強制権を保持しているイメージがある。役割は権限を発生させる根源的な担務状態を指し、役割を担った者はその役割の範囲内で無制限の権限行使が許され、それに関する上司の許可は必要ないから、指導者が神輿に乗る状態が生れる。つまり指導者の根源的な権限は、役割を担う者を任命する権限に限定され、職務の遂行者の行為に口を挟む権限はないから、神輿の上から職務の遂行状態を眺める事しかできない。
これは業務遂行時に逐一報告し、上司の方針との一致を確認する西欧的な手法と著しく異なり、日本的な組織の特徴を形成している。日本的な役割には上司の罷免権があるから、役割の遂行者が上司と相談する事も必須事項ではあるが、役割の遂行者には、上司の方針と合致している事を逐一確認する必要はなく、上司は最終方針さえ合致していれば、途上での齟齬を咎める事は控えなければならない。
西欧式と日本式にはそれぞれ一長一短があり、どちらの方が優れていると言える状況にはないが、日本式が機能する為には多くの合意事項が必要になる。
権限と権力を分離させる概念は、地域集団が時宜に応じて統合された際に、期限付きの統合状態である事を前提として生まれたと推測され、個人レベルでも集団間の協業の際にも使われる。指導者を神輿として祭り上げる状態にも活用されているのは、漁民集団が一旦陸を離れると、上位指導者の指示を仰ぐことは不可能になるから、その様な交易集団の事情を反映していたと考えられる。西欧では船長の権限を意図的に強調しているのは、その様な職務は例外的だった事を示唆し、日本的な発想は交易集団の実態を反映している可能性が高い。西欧の交易は内陸に依拠していたが、日本の海洋民族の交易対象はシベリアや中華大陸だったから、その距離の違いを反映していると考えられるからだ。
権力と権限を分離する概念は、典型的な海洋民族だったイングランド人の英語にはなく、それと連動する役割の概念も英語にはないから、明治時代に生まれた翻訳概念ではない事は明らかだ。その起源は研究されていないが、「役割」に使われる「役」漢字は、中国では苦役などに使われて好ましくない労働を指しているだけで、日本語が持つ「役割」「役場」「役目」という公共性は意味しない。この様な日本人独特の使い方は、漢字と共に日本に導入された概念ではない。
日本人的な感性では、指導者の身分も職務遂行上の役割に過ぎないから、その職務を遂行する際には権限を行使できるが、職務の執行時に限定される属職的な権限であって、属人的な概念である権力とは全く異なる。海洋民族の社会がその様な構造になっていたから、王朝期の日本人もその区分を文化遺産として意識し、現代に伝えていると考えられる。
それを区分しない大陸文化が奈良時代から入り込み、日本の伝統的な精神文化を混乱させた事情から考えると、縄文人を起源とする概念だったと考える事に合理性がある。これを反対の側面から見ると、二つの概念が古代社会に並立していたとは考え難く、身分の上下関係によって生まれる権力概念は、少なくとも関東部族には存在せず、漢字文化の流入と共に日本に受け入れられたと想定される。
大陸の権力概念は身分の上下関係付随し、24時間機能する属人的なもので、職務を執行している時間内に限定される、属職的な権限とは異質なものだから、大陸人と接した日本人の多くが、権力志向が強い大陸の習俗は、日本人の感性とは異なっていると指摘している事も、この推測の傍証になる。つまり奈良時代に大陸から農耕文化が流入した際に、それまで認識していなかった権力と従来倭人が使っていた権限を分離する為に、二つの概念が生れた可能性が高いが、それを分離する漢字が明治の翻訳語しかない事は、江戸時代までの日本人には権限の概念しかなかった可能性も示唆している。しかしそれも不自然だから、「お上と下々」という様な言葉で、曖昧に使い分けていたと推測される。但し魏志倭人伝などが、倭人時代にも厳格な身分制があった事を指摘しているが、魏志倭人伝の具体的な記述は、「下戸(身分の低い者)が大人と道路で相い逢うと、逡巡して草に入る。辞説を伝える際には,或いは蹲し、或いは跪き、両手を地に據し、恭敬を為す。対応する声は噫(はい)と曰い、然諾(引き受ける)する如き。」だから、権限の行使だった可能性が高い。
朝鮮人が国家の上下関係に拘り、日本人の謝罪は十分ではないと言い続ける感性は、権力概念しか知らなかった習俗が基底にあると考えれば理解し易い。謝罪は下位身分の者が上位身分の者に対して行う行為で、それによって身分の上下関係が確定すると考えているから、謝罪すれば済むと考える日本人とは永遠に合意できないからだ。権限意識が強い日本人は、権限を持つ者が職能として謝罪し、場を取り繕う事を美談であると考えるから、必然的に意識のズレが拡大していく。交易を重視して流動的な物流事情を常態としていた海洋民族と、農地や領土の権利関係の固定を至上命題とし、その争奪には嘘も武器としながら一歩も引かない姿勢を重視する農耕民族とは、習俗や価値観が違うから話し合いで解決する事ではない。
英語では権力の行使を、AuthrityとPowerに分離している様に見える。Authrityは根拠が明確な理性を示し、Powerは威圧による強制を意味するから、現実的な発想であるとも言える。権力を制限する共通点から、Authrityを権限と訳している例もあるが、根元的には全く異なる概念になる。
「役割」に使う漢字の「役」は「やく」と読み、「役場」「役目」「役職」「役得」などに使って公共への奉仕を意味し、「えき」と読む場合には「懲役」「役務」「文永の役」などの用例が示す様に、苦難を伴う労働を意味する。現代日本人もこの二つを明確に使い分けている事を、上記の用例が示している。
「やく」は呉音で「えき」は漢音だから、古い時代の「役」は「やく」の意味を持つ漢字だったが、奈良朝が導入した中華概念として「えき」の読みと意味が追加された事になり、上記の想定と合致する。海洋民族だけが「やく」の概念を持っていたのではなく、稲作民もその概念を持っていたから、夏王朝期に漢字化されて呉音が生れたが、アワ栽培民族には「やく」の概念が理解できなかったから、アワ栽培者の言葉だった「えき」の意味に役の漢字が転化し、漢音が生れたと考えられるからだ。
それを厳密に考証すると、荊には「やく」の概念があったが、法治主義者になった製塩業者には、その概念がなかった可能性が高い。周王朝は製塩業者が中核になって樹立した政権で、漢音の漢字体系は周王朝が起源者だったと考えられるからだ。
更に考証すると、現在の大陸には「えき」の意味しか残っていないのは、大陸では稲作民族の文化が失われると共に、「やく」の概念が忘れ去られた事になるが、それについては疑念が残る。つまり荊が土俗的に持っていた概念だったのであれば、容易にその意味を失いはしなかった筈だが、関東部族から輸入した概念だから大陸に残った荊社会もその意味を失い、現在では起源者の日本人だけが明瞭に区別しているから、日本語の読みには現在も誤用がないと考えられる。
この場合の役割の原義は、職務を分担して漁を行った漁民の概念だったと推測されるから、「やく」は呉音ではなく、漢字化された日本語だったと考えられる。荊の文化について確証的な事は言えないが、上意下達的な文化だったと推測されるから、「やく」という認識を、土俗的に生み出す社会ではなかった可能性が高いからでもある。漢字の成立に関東部族がどの様に関わったのかについては、「経済活動の成熟期」の項を参照。
海洋民族を起源とする言語であっても、英語には権力と権限の区分がないだけではなく、その基底となる役割を示す言葉もないから、これらは日本的な漁民の倫理観として、縄文人から引き継いだ概念であって、明治以降に流入した西欧文明の要素ではない事は、シベリアにもない概念だったと考えられる。この想定は魏志濊伝に、「其の俗は山川を重んじ、山川には各々の部分が有り、妄りに相涉入するを得ず。」と記されている事とも整合する。
シベリアの共生社会では各民族それぞれに確固とした縄張りがあり、妄りに他民族が入る事はできなかったが、縄文人と海洋漁民にその様な禁止認識はなく、日常的に出入りしていたから、通婚が進んだと考えられる。シベリアの栽培民族は栽培系狩猟民族で、漁民は河川・湖沼漁民だったから、狩猟者と共生していた3民族は、互いの縄張りに闖入し合って獲物を得る事が可能だった。それ故にシベリアでは各民族の縄張りを、厳密に区分する必要があったが、海洋漁民と縄文人には生業技能に大きな違いがあった。湖沼漁労を生業とする縄文人もいたが、海洋漁労とは異質な生業だったから、海洋漁民は縄文人との間で縄張りを厳密に区分する必要がなかった。それによって漁民と縄文人の集落が入り混じって通婚も急速に進み、シベリアではそれぞれの民族が果たしていた役割分担が、縄文社会では個人的な段階に及んでいた。その結果として「やく」が個人的な概念として生れ、それが日常的に使われた事により、日常的な概念として役割意識が生れたと考えられるが、実際はその様な単純な理由ではなかった。
縄文人の民族構成だけでシベリアの民族構成と同じだった上に、日本にはそれに加えてシベリア系の狩猟民族もいたから、陸上民族の縄張り関係はシベリアより複雑な状態にあったからだ。沖縄系縄文人には堅果類の栽培者、水鳥も狩る狩猟者、河川湖沼漁民が混在していたが、Y遺伝子の割合が沖縄と本土で類似しているから、各々の役割が明確に区分されていたと考えられ、事情を更に複雑化している。
その様な状態から、シベリアにはない日本的な役割が生れたのは、縄文人が極度に海洋民族化したからだと考えられる。つまり彼らの縄張りは海洋民族としての活動への寄与度に応じて決められ、それを役割として規定する事によって縄張り関係が決められたと想定する以外に、「役割」という特殊な概念が常識化するほど、強固なものになる理由は考えられないからだ。
それを八ヶ岳山麓の事情に当て嵌めると、山麓の緩斜面でウルシ樹を栽培したり、霧が峰高原でシナノキを栽培したりする縄文人には栽培権があり、諏訪湖や古松本湖での漁労には湖沼漁民に漁労権があり、水鳥の捕獲には縄文系狩猟民族の狩猟権があり、狩猟民族には獣骨が漁具に使用される動物の狩猟権があった事になる。その様な役割を担っている者には、それを実現する為の権限は無制限にあるが、役割を離れればその権限は霧散してしまう事に類似性があり、地域の上位者からそれに関する干渉を受ける筋合いはない、と考える事にも共通性があるからだ。
八ヶ岳山麓の火山性土壌は酸性が強く、骨を残さないのでこの検証ができないが、三内丸山遺跡の動物遺骨にその傾向が明瞭に示され、これは日本の海洋民族に共通する習俗だった事を示唆している。つまり海洋民族と縄文人の間に生まれた個人的な役割意識は、縄文人によって生業者の役割意識に変換され、現代日本人に伝承されている事になる。ちなみにこの仮説が成立すると、三内丸山の縄文人は鹿やイノシシの肉も食べていたが、それは狩猟民族が獣骨を回収してから持ち込んだ肉だから、骨は残っていない事になる。
日本では明治の開国と共に欧米化が進展したが、大陸の農耕民族が現在も西欧文化に拒否的であるのは、日本人には海洋民族的な発想が溢れ、同じく海洋民族を起源とする欧米文化と、類似する概念が沢山あるからだと考えられる。日本の急激な欧米化により、日本古来の文化要素と導入された欧米的な発想の区別が曖昧になっているが、英語にはない海洋民族的な概念が堅持されている場合には、欧米化する以前から日本にあった概念として分類する事ができる。
日本人は役所に対し、役目を果たすための権限は認めるが、役人が属人的な権力を持つ事は否定する。この感性は日本人の特徴であって大陸にはないが、英語には類似の働きをする単語としてサービスやデディケイトがある。これらも公共機関が人民に奉仕する概念を示しているが、その用例は日本人の組織論とは異なっているから、権限と役割で公務を運営する日本人には、人民の権利とか義務とかの西欧的な概念は馴染まないし、必要ないと言っても良い場合もある。
実際の公務の運営に際して日本的な発想には無理がないが、欧米的な発想では社会の持続性に関し、矛盾を抱えている様に見える場合があるからだ。過度な権利意識を否定できないとか、自己責任を正しく判断できない事などがその例になり、それは日本の特殊事情ではなく、欧米でも問題視されている事に制度上の危惧もあるからだ。
縄文社会が交易社会だった事は再三説明したが、縄文人はその仕組みに参加する事により、個人の社会的な役割を得ていたから、「世間に感謝して生きる」倫理観が生まれ、「世間体を気にする」習俗が生まれたと考えられる。つまり縄文時代~古墳時代の人々は交易社会に生きていたから、個々人が異なる役割を持って社会に参加する事が当たり前になり、交易社会=世間がその様な個人を受け入れて生活を保障したから、この様な倫理観が生まれたと考えられる。
逆に言えば、個人的な作業である農耕に明け暮れていた人々に、社会的な絆を重視する発想が生まれた筈はないから、農耕社会になった奈良時代以降に、この様な概念や倫理観が生まれた筈はない。農耕社会になった弥生時代についても、交易社会だった縄文時代にはなかった交易者的な概念体系が、新たに生れたと考える事に合理性がない。
この様な「世間」概念は、人々が交易活動によって生活の資を得ていた、縄文時代に相応しい概念であると共に、華々しく活躍していた漁民だけではなく、海洋民族の社会では従属的な生業に従事していた縄文人にとって、「世間」という概念は自分の存在感を示す場であったと考えられる。漁網作りや籠作りを生業にしていた人々であっても、必要な物品の生産者として社会に貢献している人であると見做し、互いにその様な多様性と相互貢献を認める事により、生活に潤いを求める認識だったと考えられるからだ。つまり海洋民族の社会が円滑に運営される事を目指し、縄文人が生み出した概念が、「世間」だったと考えられる。
個人的な生業に埋没する穀物栽培者を、忌避する社会からその様な人間関係が生れたとすれば、それは海洋民族社会の理想を示す認識でもあったが、漁民ではなく縄文人から生まれた概念だったとすると、その想定に疑問を感じる人もいるかもしれない。しかし穀物栽培は特定の女性しかできない生業であり、必ずしも生産性が高い生業でもなかったから、関東部族の多くの縄文人は縄文中期まで、専業的な穀物栽培者になりたいとは思っていなかった可能性が高い。
「世間」概念はその様な個人の生業の貴賤を問う以前の事情として、世間が必要とする職業には誇りを持って従事できるし、必ずしもその要件を満たしていなくても、世間が受け入れればその職業に誇りを持つこともできるから、多様な生業を必要とした海洋民族社会に相応しい発想だった。この概念は敢えて職業選択の自由を唱える必要のない、多様な生業者を抱える社会を形成するから、それを継承していた江戸時代の、江戸の町人の職業は極めて多様性に富んでいた。江戸の町では究極的なエコ社会を形成していたと言われているが、人々がこの様な価値観に従っていれば、その様な社会が必然的に生れたとも言える。
日本人は無神論者だと言われるが、この様な海洋民族の子孫は、経済活動を通して世間に貢献している事を認識し、世間もその活動を有益であると認めと、個人が世間によって生かされている状態が生まれるから、それを価値観として認識していた日本人は、秩序ある社会に自分の存在を認知して貰う手段として、特段の宗教を必要としなかった。
その様な社会の存在価値を認めると、世間を神格化すると共に、世間の健全な発達や維持に貢献した偉人も、神として崇める日本独特の宗教が生れ、それが多神教に発展したと考えられる。その様な縄文社会が終わった後で、創作神話である古事記が生れ、王朝の権威に対抗する為に人々が神社に結束して座を形成したから、日本人の信仰の在り方がかなり歪んだが、縄文人や弥生人が尊敬の対象にしたのは、古代社会の健全性に貢献した人々であり、その人達の偉大な業績を伝承によって伝える事により、社会の健全性を担保していた社会だったから、元々の神々は過去の偉人だったと考えられる。
世間を神格化する信仰心を端的に示している言葉が、日本人が頻繁に使う「もったいない」であると考えられる。世間に参加している人々の生産物である、食物や物品を粗末に扱う事は、それを生産する事によって世間に参加している人々を冒涜する事になるから、その様な行為を戒める為に、「もったいない」と思う習俗が生まれたと想定されるからだ。
これは節約を推奨している言葉ではなく、世間に参加する人々の活動に対する、尊敬の念を示す言葉だからだ。近世まで上位者や尊敬する者の行為に対し、「もったいなくも」とか「かたじけなくも」と云っていた事が示す様に、「もったいない」は他者の行為に対する最高の礼節を示す言葉だから、物品や食物に対してこの言葉を使う事は、生産者に敬意を示す言葉として発足したと解釈される。
つまり人々がこの様な共生社会を世間と呼び、皆が世間を大切にする事により、個人の尊厳が相互関係的に担保されたから、日本人は宗教を必要としない人々になったと考えられる。日本人が八百万の神々を尊ぶのも、多様な生産物のそれぞれの生産者に対する尊敬の念を基底にして、生産物の素材を提供している自然界の森羅万象にも尊敬の念を拡大した意識が、根底にあると考えられる。クジラを祭る行為は当にそれに該当し、クジラを殺して食べた事に対する贖罪ではなく、クジラを生み出した自然界と、それを捕獲した漁師に留まらず、それを食卓に届けた物流業者や、調理した身近な人に至る全ての自然現象や人々に、感謝する行為だったと考えられる。それを十羽一絡げの様にアニミズムと呼んでしまうと、日本人の宗教観を見失う事になるし、誤解している欧米人を説得できない事にもなる。
この様な習俗を生んだ社会では、社会的な役割を持つ事が一人前の人格である事の前提になったから、江戸時代の様子を示す落語などで、「船頭さん」「番頭さん」「越後屋さん」「お奉行」などと、社会的な役割で呼び合っていた世情も、その名残であると考えられる。現代でもお医者さん、先生、お巡りさんなどの、公的な職業にその名残が残っている。
この様な社会では、本名で呼ばれる事は社会的な役割がない事を意味し、恥辱的な存在である事も意味したから、職業で呼ぶ事が求められたと推測される。年貢や税金を徴収した為政者を役人と呼んだのも、為政者の役割には、人民の福利に意を尽くす業務を含んでいるとの認識から、「役人」呼称が生まれた事になり、為政者と民衆の相互認識を反映した言葉だった筈だ。
この様な高度な倫理観は、後世になってから生まれたと考えたい人もいるだろうが、状況証拠はそれを肯定しない。
縄文後期から関東部族の縄文人も次第に農耕民族化し、海洋漁民も共生社会の共通目標を見失って商業民族的な方向に流れ、共生社会は分裂に向かっていたから、上記の様な世間が崩壊していく過程だった。またこの様な世間概念を形成した主役は、共生社会で指導的な役割を演じていた漁民集団ではなく、食料生産の分野で後れを取り、劣等感に苛まれていた縄文人が心の拠り所として生み出した、人生哲学だったと考えられるからだ。縄文人は海洋文化を高める為に多様な生業を生み出したが、漁民の生業には多彩なバリエーションがなかったからだ。その様な縄文人が農耕民族化すると、社会の多様性が失われただけではなく、互いに農地を争奪し合う競合関係に変化していったからでもある。
関東部族の縄文人の多くは、縄文後期になると生産性が高い稲作者になる為に、北九州、吉備、大阪湾岸に入植したから、日本人全体が共有する高度な思潮を形成する機会は、彼らが関東に集住していた縄文中期以前にしかなかった。従ってこの様な価値観は、縄文中期以前の関東で生まれた可能性が高い。伊予部族の経済活動は関東部族との一体性が高かったから、彼らも同質の価値観を形成していた可能性が高い。
縄文社会には闘争的な要素が乏しかったと言われているが、その様な社会は偶然生まれたのではなく、漁民優位の社会が形成されると縄文人の人口が、漁民の人口以下になる様に制限された事により、栽培者が栽培地を奪い合う環境が生れなかったからである事は既に指摘したが、縄文人よって「世間」を重視する倫理観が形成された事により、弥生時代になっても関東系の部族は平和な社会を形成していた理由に繋がる。
他部族は異なった価値観を持っていた筈だが、シベリア起源の海洋民族という共通性があり、関東のmt-B4が日本式の稲作を日本列島に拡散した際に、稲作技術と共にこの思想も拡散した筈だから、地域的な濃淡はあっても、日本の稲作者の共通認識になったと考えられる。
しかし北陸部族は越文化の推進者だったから、その影響を受けた日本海系の部族も、法治主義的になって身分が階層化し、関東系とは異なる社会になっていた事を隋書が以下の様に示している。
八十戸に一つのイナキを置くが、これは里長の様なもので、十のイナキが一つのクニに属す。クニが一百二十人有り,中国の牧宰(地方官)の様なもの。
魏志倭人伝は、邪馬台国にこの様な制度があったと記していないから、これは越系文化の影響だったと考えられ、農耕民族化した社会を形成していた事を示している。
「殺人強盜、及び姦(不倫)は皆死(罪)、盜者は奪った物を計り、無財者は身を沒して奴にする。その他の罪は軽重に応じて流(罪)、或いは杖。獄訟を訊究する際に、承引しない者には木で膝を圧し,或いは強弓を張って弦で其の項(うなじ)を鋸す。」
これらの文章が、宗像系の飛鳥国で法治主義的な統治が行われていた事を示し、刑罰が簡素だった邪馬台国と比較すると、その実施手続きまで定型化されていた事を示している。裏を返すと、政権がそれを必要とするまでに社会が不穏だった事を示している。日本海沿岸では青谷上寺地遺跡から多数の惨殺体が発掘され、濃尾平野の朝日遺跡から逆茂木が置かれた環濠が発掘された事は、古事記が描写している因幡や出雲の殺伐とした社会事情と一致し、アワ栽培者を起源とする人々や、その付近に移住した人々が農耕民族化した事を示している。
飛鳥国に関する隋書の以下の記述は、身分が階層化されて格差が拡大し、それによる貧富の差も激しかった事を示している。
(王の)後宮に女六七百人有り」、「内官に十二等有り/員の定数無し」、「男子は裙襦を着ているが,其の袖は微小で,履物に漆を塗り脚に紐で付ける。
婦人は髮を後に束ね、裙襦を着ているがその裳には皆流行の襈(ふちどり)が付いている。
庶人は裸足が多く、金銀で飾る事はできない。
隋に至って制冠を始め、(冠は)錦綵で作り、金銀鏤花の飾りがある。
最後の隋に至って制冠を始めたとの記述の前に、邪馬台国では簡素な衣類を用いていた事を挙げ、その違いを説明する為にこの記述を挿入した事を示している。邪馬台国は関東部族の国だったから、隋代に倭王になった越系部族とは習俗が異なったが、隋の使者を迎えた倭王は「倭の正当な王朝」である事を主張し、継続性を胡麻化す為にこの様な説明をしたのであって、越系部族はもっと早い時期から、この様な階級制を採用していたと考えられる。
日本書紀が中華の史書との辻褄を合わせる為にこの記述を事実化し、この時代に冠位十二階の制度が始まった事にしたので、捏造史である日本書紀を金科玉条の様に崇めている歴史学者が、それを基に日本史を組み立てている事は、笑止な行為であると言わざるを得ない。
奈良や京都は日本海系の文化地域だったから、奈良王朝や平安王朝には日本海系文化が色濃く影響したが、それは日本固有の文化ではなかった。平安時代末期に武士が台頭し、鎌倉幕府以降は関東の武士が繰り返し政権を担ったのは、関東部族の末裔達は、王朝が示す越系文化を嫌っていたからだと考えられる。越系文化が及んでいなかった関東の武士が、次々と政治改革を目指したので、それを恐れた王朝貴族が関東蔑視に狂奔したが、歴史学者はこの事情についても沈黙している。何を研究しているのだろうか。
7 縄文時代の人口
竪穴住居跡の数から推測した縄文時代の人口が、尤もらしい数値として流布しているが、ミトコンドリア遺伝子の分布から推測した事実性が高い縄文史とは、完全に異なるものになっている。縄文人の食料は堅果類を基底にしてはいたが、女性達は穀類を栽培し、漁民が海産物を得ていたから、大陸の農耕民族と比較すると、食料の多様性と豊かさに恵まれていただけではなく、格段の安定性があったから、縄文人の人口密度は大陸より格段に高かった。関東の縄文遺跡の異様な密度の高さが、それを証明している。関東には地殻の沈降帯が多く、多くの縄文遺跡が土中に埋没している事を考慮すれば、その状況は更に甚しかったと考える必要がある。
日本人に最も多いY遺伝子であるY-D2とY-O2b1は、日本の固有遺伝子だから、大陸民族が大挙して日本に渡来したのではなく、日本人の大半は海洋漁民と縄文人の子孫である事を示している。ミトコンドリア遺伝子の分布を解析すると、縄文史を合理的に構築できるから、このHPはその一端を示すが、歴史学者と称する人達が唱えている通説の多くは、歴史認識を悪戯に混乱させている。
その様な史家の数少ない根拠の一つが、Y-O2b1の誤った分岐年代の妄信だから、Y-O2b1が稲作民族として渡来したと主張しているが、大陸にはY-O2b1の痕跡すら見付かっていない。それでありながら、何処かにいた筈だと言い続けている姿は、滑稽であるとしか言い様がない。「縄文文化の形成期」の項で指摘したが、石器時代の歴史が明らかになり、彼らの生活実態を推測する事ができなければ、遺伝子の分岐年は分からないのだから。
竪穴住居跡の数から縄文時代の人口を割り出した通説にも矛盾が多く、多数ある欠陥の一つとして、竪穴住居が耐寒建築物だった事を無視している事が挙げられる。現在より温暖だった縄文時代の西日本では、竪穴住居は殆ど使わなかったと考えられる、西日本の人口を過小評価しているからだ。それ以上の欠陥として、発掘された竪穴住居跡は縄文人のものが殆どで、海岸に住んでいた海洋漁民が最大人口を擁していたにも拘らず、その住居址は全く発掘されていない事が挙げられる。従って沿海部で彼らと共生していた縄文人の遺跡も、同様に発掘できない可能性が高い。
その様な通説を上記の指摘に従い、地理的な観点から補正すると以下の表になる。
従来の縄文時代の推定人口 |
上記の補正を加えた縄文時代の推定人口 |
||||||
縄文前期 |
中期 |
後期 |
縄文前期 |
中期 |
後期 |
||
東北 |
19,398 |
47,492 |
44,147 |
東北 |
58,194 |
142,476 |
132,442 |
関東 |
42,146 |
97,260 |
51,872 |
関東 |
337,168 |
429,224 |
|
北陸 |
2,146 |
12,622 |
8,078 |
北陸 |
101,150 |
233,424 |
128,767 |
中部 |
22,031 |
62,946 |
19,126 |
中部 |
22,031 |
62,946 |
19,126 |
東海 |
5,174 |
13,710 |
7,890 |
東海 |
31,042 |
82,260 |
47,338 |
近畿 |
1,367 |
2,187 |
3,554 |
近畿 |
15,857 |
38,823 |
226,731 |
中国 |
1,277 |
1,277 |
2,554 |
中国 |
37,027 |
90,653 |
281,584 |
四国 |
366 |
183 |
2,562 |
四国 |
21,228 |
51,972 |
64,050 |
九州 |
4,990 |
4,633 |
8,554 |
九州 |
41,342 |
101,218 |
280,356 |
計 |
98,894 |
242,310 |
148,337 |
計 |
665,040 |
1,581,851 |
1,609,618 |
漁民の人口が算入されていない → |
漁民人口が縄文人の2倍だったとすれば、全体で3倍になる |
||||||
関東には平地式住居もあった → |
関東縄文人の人口を、通説の2倍にした |
||||||
関東は海洋漁民の集積地だった → |
関東の漁民人口を縄文人の3倍にした |
||||||
北陸部族の拠点だった北陸の人口が少なすぎる → |
関東の3割にした |
||||||
西日本では補正数値が大き過ぎ、意味がある数値にならない → |
近畿地方の人口密度を東北地方の2倍にした。 |
||||||
近畿を除く西日本の人口密度を、東北地方の4倍にした。 |
縄文後期はこの項の対象外だが、関東縄文人が稲作のために西日本の沖積平野に移住したから、関東の人口を減らして西日本の人口に回した。稲作は主要な食料の生産手段ではなかったから、稲作の生産性が高まった事が、人口増加に繋がったとは言えないからだ。
縄文中期の人口が前期の2.5倍に増えているが、これは通説の東日本の人口が急増しているからで、縄文中期は縄文前期より3℃以上寒冷化したから、東北縄文人の人口が増加したとは考え難く、むしろシベリアでの弓矢交易が最も順調な時期だった縄文前期の方が、人口は多かった可能性もある。
通説の根拠となる竪穴住居は耐寒建築だから、現在より5℃以上温暖だった縄文前期には少なく、縄文中期寒冷期になると東北や中部山岳地帯で使用者が増加した事が、縄文前期と中期の住居址の数に反映されていると考えられる。縄文前期温暖期の仙台は、現在の鹿児島程度の気候だったからだ。
東北では縄文遺跡の発掘事例が多く、考古学者はその理由を、落葉樹である冷温帯性の堅果類は生産性が高く、暖温帯性の堅果類は生産性が低いからだと説明しているが、これは諸事情を考慮していない。冷温帯性の堅果類であっても、森林を開けば暖温帯性の地域でも栽培できるからだ。その他にも縄文人が毒性の高い堅果類を主要な食料にしていたとか、縄文人には堅果樹を栽培する技能がなかったとの誤解が重畳され、意味不明な説明が為されている。
誤解は他にもあり、隠岐部族や対馬部族が縄文早期に多数の縄文人を伴い、九州や山陰から日本海沿岸に北上したが、縄文前期になると対馬海流が日本海沿岸に海岸砂丘を形成し、それに阻まれて海岸に定住する事ができなくなった結果、海洋漁民は青森に逼塞せざるを得なくなったが、山形や秋田にあった巨大湖の畔に定住した縄文人は其処に留まり、生活が安定すると福島にも進出したから、海岸より遺跡が残り易い湖畔に縄文遺跡が多数遺された。
その逆の事情として、北陸部族が集積していた新潟では、水量が格段に多い信濃川と阿賀野川が海岸砂丘を破壊し、沿海部の海洋民族の拠点は維持されたが、沿海部の遺跡は堆積土砂に埋もれて遺り難く、特に信濃川と阿賀野川は沖積土砂が多い河川だから、人口の集積地だった事さえ分からなくなっている。
中部山岳地帯に人口が集積したのは、矢尻やウルシ樹の生産量を増やす為で、その生産は縄文早期に始まったから、縄文前期にも人口の集積があった筈だが、住居址は縄文中期に急増した様に見えている。縄文前期から中期に向かう寒冷化が、太平洋の乾湿周期と重なって降雨量が多い時期になったから、激しい降雨によって縄文前期の遺跡が流され、消失してしまった事は既に指摘した。その事情も含め、縄文前期~後期に人口を大きく増減させる事情は発生しなかったから、縄文前期にも中期並みの人口があったと推測されるが、その様な事情を無視している通説には高い精度は期待できないから、上表では縄文前期の人口を、中期に倣って補正する事はしない。
補正に関する説明が不十分なので、以下に説明を追加する。
現代日本人のメジャー遺伝子である漁民由来のY-Dは、縄文人由来のY遺伝子の合計の1.6倍ある。弥生時代以降に農耕者の人口比が増加し、縄文人系譜の割合が高まった筈だから、縄文時代のY-D2比率は1.6倍より大幅に高く、海洋文化が維持されていた関東、北陸、東北では更に高かったと考えられる。従って控えめな見積として、縄文時代の東北で2倍、関東は漁民の集積地だった事を根拠に3倍にした。縄文時代の日本列島では海洋漁民が多数派だったにも拘らず、その集落は全く発掘されていないから、単純にそれらの倍率の漁民人口を、縄文人の人口に加算した。
多摩地域には、生活痕はあるが竪穴住居址が発見されない縄文遺跡が約半数あり、それらは平地式の簡易住居しかなかった集落だったと想定される。平地式住居しかなかった集落は、竪穴住居を伴う集落より発見率が低い事が疑われ、実数は竪穴住居を伴う集落の何倍もあったかもしれないし、竪穴住居址が発見された集落に平地式の簡易住居が混在していた可能性もあり、竪穴住居址から見積った人口よりかなり多かった可能性が高い。しかしこれも控えめに見積る方針から関東縄文人の人口は、竪穴住居数から見積もったものの2倍だったと想定した。関東より温暖な地域が多い東海も、控えめに関東と同じ2倍にした。
北陸の人口見積が異様に小さく、海洋民族の存在が実感できないのは、信濃川と阿賀野川の土砂の堆積によって住居址が埋没したからだと考えられる。関東部族と北陸部族の海洋民族の活動規模が、それぞれの人口規模に比例していたとすると、北陸の総人口は関東の3割以上あったと推測される。
中部山岳地帯は青森以上に寒冷な地域で、海洋漁民は居なかったから、通説の数値その儘とした。中部山岳地帯であっても、湖の川洲に作られた集落の痕跡は、曽根遺跡やその周辺の遺跡の様に消失したから、実数は発見数の数倍あった筈だが、控えめに見積る方針に従って変更しない。
上記の方法では西日本の人口は推定できないので、近畿の人口密度を東北地方の2倍とした。西日本では漁民より縄文人の方が人口は多かった筈だが、人口が東北に集積していたとの通説から大きく逸脱しない様に、全縄文人の人口を東北縄文人の10倍程度として、西日本の人口を調整した。全縄文人の人口を東北縄文人の10倍程度とする根拠は、ミトコンドリア遺伝子の解析から得られた直感的なものだから、その複雑な根拠はここには示さない。
近畿地方は西日本の中で最も人口密度が高い地域だったと勘違いし易いが、縄文時代には大阪平野は存在せず、奈良盆地や京都盆地は湖沼状態だったから、山岳地が多く海岸線が乏しい地域である上に蛇紋岩の産地は日本海沿岸にしかなかったから、海洋漁民と共生する縄文人の居住適地は少なく、アワ栽培者の数も多くなかった。
畿内の人口が増えたのは、鉄器時代になって蛇紋岩の産地であるか否かが問われなくなり、奈良や京都が盆地になったからだと想定され、古事記が奈良や京都に多い加茂社の発祥を、北九州の宗像であると指摘している事と整合する。東北部族が宗像に移住したのは縄文後期だから、宗像から奈良や京都に集団移住したのは弥生時代だったと推測され、縄文時代中期には居住者がいなかった事を示しているからだ。
中国地方には急峻な山岳地が少なく、海岸線は畿内より遥かに長く、蛇紋岩の産地も各所にあるから、焼畑農耕者が漁民と共生できる地域が多数あった。従って人口密度を近畿の2倍、即ち東北の4倍にした。
縄文後期はこの項では扱わないが、温暖化した縄文後期に海退が始まって沖積平野が広がり始め、低湿地や台地で稲作が盛んになったから、東日本の縄文人の多くが、共生していた漁民集団と共に西日本に移住した。それによって西日本の人口が増えて東日本の人口が減少したから、総人口を変えずに移動だけを盛り込み、縄文後期の人口とした。従って上表の注目点は、縄文中期と後期になる。
7-2 遺伝子分を加味し、通説を修正する控えめな人口推定
「経済活動の成熟期」の項で説明するが、堅果類を栽培していた人々が稲作を始めても、ドングリを含む穀類の生産性が高まったわけではなく、稲作は投入労働に対するカロリー生産性を極度に劣化させたから、稲作を始めた事による人口の増加は、殆どなかったと考えられる。縄文人が労働生産性の低い稲作を目指したのは、ドングリは海産物との交換価値が極めて低く、漁民は一定量のコメが得られるとドングリと海産物の交換を拒否したから、気候が温暖化して稲作の生産性が高まった縄文後期の縄文人が、必要な量の海産物を安定的に得る為には、稲作者になる必要が生れたからだ。
しかし稲作地は限られていたから、縄文人が稲作を始めても、漁民と共生する必要性も、海洋活動を援助する必要性も継続していたが、生産性が高い稲作民になれば、漁民に対する従属性は軽減されて経済的な自立性が高まったから、工芸技術などの特技に自信がなかった多くの多くの縄文人は、稲作民になりたかっただろう。
しかし縄文人の多くがその様な稲作民になると、海洋民族的な価値観が希薄化したから、海洋漁民はその様な事態を歓迎しなかった事は既に指摘した。本格的な鉄器時代になるまでは、稲作では自立した生計を営むほどの生産性は得られなかったから、コメを食べたかった海洋漁民も妥協し、海洋民族の時代は継続した。
弥生時代に鉄器時代が始まったが、貴重な鉄器を使って木製農具を作る程度だったから、弥生時代も海洋民族の時代だった。しかし漁民はコメの生産性が高まるとコメの消費量を増やし、それに従って海産物の提供量も増えたから、稲作の生産性が高まると共に稲作者の人口は増えていっただろう。鉄器時代になると漁労の生産性も高まったから、海洋漁民はその負担に耐える事ができたし、漁船を増産する事によって漁民人口も増加したと推測されるが、漁労の生産性が画期的に高まった証拠はなく、人口は漸増だった可能性が高い。
理論的には漁労の生産性が変わらなければ、稲作の生産性が高まってもドングリの消費がゼロになるまでは、人口は増えなかった筈だが、その達成に地域差があれば、人口は徐々に増えていったと推測される。ドングリの消費がゼロになった段階で、海洋漁労と稲作の生産性が2:1だったとすると、農地の拡大も含めた稲作の生産性が2倍になると、食糧事情が許す人口は4/3倍に増えた事になる。更に稲作の生産性が高まってその2倍になると、人口は6/3倍になる事が可能だった。
弥生時代の鉄器の普及状況としては、造船関係に優先的に及んだ筈だから、船の数が増えて性能が高まる事により、漁労の生産性が高まったと想定される。ドングリの消費がゼロになった段階で、漁労の生産性が1.5倍になったとすると、人口は4/3倍に増えた事になる。そこから稲作の生産性が2倍になると、人口は更に5/3倍になり、更に稲作の生産性が2倍になると、7/3倍になった。つまり稲作民が経済的に自立できるまでの人口は、急激な増産が見込めない漁労に依存した上に、漁労活動は労務負担が厳しい生業だったから、稲作の生産性がある程度高まると、稲作に転向する漁民も出現したと想定され、弥生時代に人口が爆発的に増加した可能性は高くない。
現代日本人の遺伝子分布は、関東縄文人が日本人の中核的な祖先の一つだった事を示している。その理由は、関東縄文人が追及していた稲作の生産性が、縄文後期温暖期に急速に高まった上に、海退が顕著になって日本各地に沖積平野が生まれ始め、関東縄文人が大阪湾岸、備讃瀬戸、北九州などに形成され始めた沖積平野や、湖面が低下する事によって拡大した川洲、河川の浸食によって広い谷が形成されつつあった段丘などに入植し、鉄器が普及した古墳時代以降に人口を増やしたからだ。
関東部族が入植した地域は、魏志倭人伝が示す倭人地域と一致し、古事記が示す縄文史とも一致し、それらの地域は現在大きな沖積平野を形成しているから、それらの地域で関東部族の子孫が増えた事が、現在の遺伝子分布に繋がっていると考えられる。出雲や宗像には日本海系の東北部族が入植し、四国や九州の中南部には伊予部族が入植した。それについては、経済活動の成熟期の項で検証する。
北陸部族は焼畑農耕を縄文早期に確立し、中国地方、四国、濃尾平野にアワ栽培者として拡散したから、縄文中期までのアワ栽培者を含めた人口は、関東部族より圧倒的に多かったが、縄文後期に日本列島が稲作列島に変貌すると、関東部族系の人々の人口も増え、東北部族の遺伝子も加わって現代日本人の遺伝子分布が形成された。
日本人にmt-Dが多い事が、アワ栽培の生産性の高さを示しているが、古墳時代に帰化した大陸の漢族と、朝鮮半島の韓族のミトコンドリア遺伝子は殆どがmt-Dだった。漢族の遺伝子はmt-D+M8aだから、D/M8aの比とmt-M8aの比率から、漢族起源のmt-Dの比率が判明する。韓族の遺伝子はmt-D+M7aで、mt-M7aは縄文人の遺伝子だから、この手法では産出できないが、韓族のY遺伝子はY-O2bだから、日本人のY-O2b割合と韓族のD/M7aが分かると、韓族のmt-D割合も計算できる。その結果として、現代日本人のmt-Dが37%で、その内の21%が北陸部族起源で、14%が帰化人系になる。
その他の候補遺伝子を集めると、北陸部族起源のミトコンドリア遺伝子は現代日本人の39%になり、24%の関東系より多かった事になる。
縄文晩期寒冷期に、mt-B4が耐寒性の高い日本式の稲作技術を開発し、弥生時代の早い時期にそれを全国に拡散したから、鉄器時代が始まって自然地形を利用する必要性が薄れ、特定の栽培種を特定のミトコンドリア遺伝子が独占する状態が、解消しつつあった事と併せ、稲作が普及した弥生時代に、縄文時代の遺伝子構成が温存された事により、それが現代日本人に伝承されていると考えられる。
稲作者の遺伝子であるmt-B4やmt-Fが圧倒的に多ければ、浸潤によって人口比が大きく変わった可能性が高まり、この前提は崩壊するが、弥生時代に稲作が盛んになった割には、稲作者だったmt-B4は現代日本人の9%しかなく、mt-Fも5%しかないから、この危惧に関する誤差はそれほど大きくない事が期待できる。
但しこれにまつまる推測は、ミトコンドリア遺伝子の起源を示すだけであって、西日本に移住した東北縄文人に稲作者として浸潤した関東部族起源のミトコンドリア遺伝子や、養蚕の技術者として浸潤したmt-B5+M7bは、関東部族と北陸部族にカウントする。つまりミトコンドリア遺伝子から弥生時代の人口を推移する場合、縄文中期の人口構成を推測する途中データであって、弥生時代の地域的な人口構成を推測するデータではない事に注意を要する。
つまり縄文晩期に毛皮の加工者として東北に渡来したmt-N9aが、弥生時代に西日本の東北部族の下に再移動し、mt-B4の指導の下で稲作者になったとすれば、それは弥生時代には西日本の遺伝子になっていたが、縄文中期の東北にこのmt-N9aを受け入れる狩猟者や漁労者がいたから、それを縄文中期の東北部族の人口に組み入れる事になる。
既に何度も説明した様に縄文中期までの栽培者は、漁労の生産性によって人口が抑制されていたから、人口の過半を有していた漁民男性の人口が、縄文時代の日本列島の人口を規定していた。その考えに基づく縄文中期の地域別の人口比は、漁民を主体とした地域毎の人口比を示している事になるからだ。部族内で通婚が進んでいた事がその前提になるが、東北縄文人のmt-N9bは60%近くあり、その条件を満たしていたと推測される。
従って期待したmt-B4の稲作普及活動が支障なく実施されたとすると、現代人から古墳時代の帰化人を除いた弥生時代の人口構成は、北陸部族系が九州縄文人を含めて51%で、その半分以上が焼畑農耕者だった事になり、関東部族の子孫は32%程度に留まり、東北部族は縄文後期に西日本に移住した人と、東北や道南に残っていた人を併せて17%だった。
先の地域的な推測では、東北縄文人は全縄文人の10%であると見積もったから、17%という数値に矛盾を感じるかもしれないが、遺伝子分が示す東北縄文人には道南~釧路平原にいた伊予部族も含まれ、地理的に東北と規定した場合には含まれない事に留意する必要がある。日高山脈の西から根釧台地に至る北海道南部の黒ボク土は、伊予部族のmt-M7aがヒエを栽培した痕跡である可能性が高いから、伊予部族は福島~下北半島の太平洋沿岸で関東部族に湊を提供していただけではなく、根室半島までの各所にも湊を開設し、その内陸に多数の縄文人がいたと考えられる。従って縄文後期までの伊予部族の根拠地は、道東の太平洋沿岸だった可能性が高く、それも含めた東北・北海道地域の遺伝子人口が、縄文人の17%を占めていた事に違和感はない。
上記の数値を縄文中期の事情に焼き直す為に、アワ栽培者が多かった北陸部族の人口比を1.2倍にしながら、関東部族と東北・道南部族の相互比を温存すると、北陸部族が61%、関東部族が25%、東北・道南部族が14%を占めていた事になる。関東部族と東北部族の比を温存したのは、両部族の食料の過半は海洋漁民が賄い、男性達の食料生産力が人口比を決めていたから、縄文後期以降も両者の人口比は維持された可能性が高いからだ。
北海道でヒエを栽培していたmt-M7aが、縄文後期~晩期に九州や四国に移住して稲作者になったと想定される。その過程は明らかではないが、ヒエと熱帯ジャポニカは栽培方法が類似していたから、mt-M7aは種子を交換するだけで、稲作者になる事ができた可能性もある。山形や福島で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-M7aも、伊予部族と共に九州中南部や四国南部に移住したと想定されるから、一緒に入植したり遅れて入植したりする事により、徐々に稲作者に転換した可能性もある。
もう少し現実的な推測として、北海道のmt-M7aは縄文後期温暖期には北海道でヒエを栽培していたが、福島や山形で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-M7aの一部が、縄文後期に伊予部族の一部と共に九州中南部や四国南部に移住したから、晩期寒冷期になって北海道のヒエの生産性が激減し、シベリア交易が壊滅して伊予部族の役目が終了した時点で、北海道のmt-M7aの一部が東北に南下し、多数派は既に伊予部族が入植していた九州中南部や四国南部に、漁民と一緒に移住したとすれば、これが最も可能性が高い想定になる。
縄文中期の北陸部族の人口占有率を、弥生時代の1.2倍にした根拠は曖昧だが、焼畑農耕者の生産性が高かったと言っても、漁労活動から完全に独立できていたわけではないから、その比が2倍を超えていたとは考え難く、この比は西日本の人口を推測する根拠になるから、控え目な数値として1.2を選択した。
穀類の生産性は気候の変動に左右されたが、漁労の生産性は気候変動に対する柔軟性があり、食料事情の安定性を増幅していたから、縄文時代の日本列島は東アジア有数の人口集積地だった事は間違いない。関東の縄文遺跡の密度の高さがそれを示しているから、自虐史観的な人口推計は改める必要がある。
以上の計算によって部族の人口比が推測できても、人口は推測できないから、地理的な推測で使用した関東部族の、縄文中期の人口である77万人を使用すると、北陸部族は188万人、東北・道南部族は43万人で、縄文前期~中期の合計人口は308万人になる。西日本のアワ栽培者は102万人で、関東部族や北陸部族の海洋民族より人口は多かったが、漁民がコメを食べる様になった縄文後期以降は、海洋民族の歴史的な展開には寄与しなくなった。むしろ王朝期になってから、年貢を納めると生活ができない稲作者にアワを支給し、その代価としてコメや金銭を得る事によって経済活動に参加し、農民人口を増やす事によって人口増加に寄与し、交換したコメで年貢を納める事により、王朝のコメ収入や幕藩体制下の藩財政を下支えした。飛騨の匠の様に現金収入を求め、商工業を活性化させた人々もいたと想定される。
7-3 弓矢交易から見積もる縄文人の人口
その3(弓矢の生産と矢尻街道)の項で人口規模を見積ったので、その観点から関東部族の人口を見積る。
湖底遺跡である曽根遺跡から数千点の矢尻が既に発見されているから、湖底に埋蔵されている総数は控えめに見積もって数万点、常識的には数十万点あると考えられる。曽根遺跡の近辺には、同格の条件を持つ川洲が少なくとも他に4箇所あり、いずれも曽根遺跡より大きな川が流れ、大きな洲があったと考えられるから、むしろそちらに大きな工房集落があり、曽根遺跡は比較的小さな工房集落だった可能性が高いが、それらの川洲は曽根遺跡とは異なり、後世に遺物を遺す条件を備えていなかった。
曽根遺跡以外のすべての候補地にも工房があり、曽根遺跡と同様に矢尻が蓄えられていたとすると、全体では百万個以上の矢尻が蓄えられていた事になり、それが仮に1年間の出荷量だったとしても、矢尻製作に従事していた職人の数は非常に多かった。職人が一人一日20個製作したとし、山に分け入って黒曜石を採掘する作業もあった事を考慮し、矢尻を製作したのは1年に200日だったとすると、一人が一年間に製作した矢尻の数は4000個だから、仮に1年間に20万個の矢尻を製作する工房があったとすると、其処には50人の職人がいた計算になる。
1年分の矢尻を蓄えて置く必然性はないが、この遺跡が崩落したのは縄文後期だから、1年分以上の矢尻を蓄えていた可能性も高い。しかし弓矢交易が斜陽産業になって職人の数が減った時期だから、最盛時の年間生産量は更に多かった可能性が高い。上表の住居址計算では、縄文後期の人口は中期の1/3以下に減少しているからだ。しかし矢尻職人の生産数などに不確かな仮定を使ったから、50人を控え目に見積もった縄文中期の曽根遺跡の職人数とする。
曽根遺跡は矢尻職人の集落としては小規模で、縄文時代の諏訪湖岸に500人の矢尻職人が居住していたとすると、その家族も併せて3千人程度の人口を抱える、当時としては巨大な集落群が散在していた事になる。彼らに食料を提供していた人々の生産性が、平均20%の余剰を生んでいたとすると、矢尻職人に食料を供給していた人の数は、その家族を含めて1万5千人いた事になる。
3千人の消費者が諏訪湖の北東岸に集住していたとすれば、そこには食料以外の消費財も集積しただろうから、少なく見積もっても当時の諏訪湖岸には、5千人程度の縄文人が集住する巨大都市があったと想定される。
以上は矢尻生産だけの話で、八ヶ岳山麓にはウルシ樹を栽培する集落もあり、霧ヶ峰でシナノキを栽培していた集落もあった。彼らは矢尻職人の様な贅沢はしていなかったとしても、彼らに諏訪湖の鮮魚を提供し、東京湾から海産物や塩を運び込む人は必要だった。ウルシは矢尻の固定だけではなく石斧の固定にも使い、岡山で製作した石斧にも必要だったから、ウルシ樹の栽培者の数は矢尻職人の数に匹敵した可能性が高く、シナノキの栽培者と併せて3千人いたとすると、諏訪地方の関東部族の縄文人の人口は、諏訪湖と古松本湖の漁民も併せて2万人以上だったと想定される。
弓矢を組み立てる為の生産には、矢尻の製作より多くの労働を必要とした。矢羽根を採取する者、竹を栽培する者、それらを組み上げて矢に仕上げる者が必要だったが、それらの総労働には矢尻の製作より多くの時間が掛ったから、その総数は少なくとも矢尻職人の3~5倍はいただろう。つまり関東には弓矢職人とその家族だけで1万人以上いた筈だが、海洋民族だった縄文人には石斧の組み立て、船材の製作、漁網や綱の製作、各種の交易品の製作などの仕事もあった。また稲作地に散在していた故に、それらの業務に参加しない縄文人も多数いたから、弓矢職人は縄文人の2割程度だったとすると、関東にいた縄文人は5万ほどだった事になる。
これに諏訪地方の2万人と、矢尻街道の宿場の人々や、荷物を背負って物資を運搬していた人を加え、岡山の稲作者や磨製石斧の製作者を加えると、関東部族の縄文人は10万人程度で、海洋漁民は30万人ほどいたと推測されるが、弓矢産業が衰退していた縄文後期の矢尻在庫が、弓矢交易が活性化していた縄文前期~中期の生産量と同じだった筈はなく、経済活動を弓矢の生産に焦点化し、2割以上の人材を専念させる事ができるほど、縄文人の経済活動に余裕があったのかも疑わしいから、上記の1.5倍~2倍が関東部族の総数だったとすると60万~80万人になり、地理的な推測から導いた77万人と類似した数になる。但しこれらは控え目の数値だから、値が一致する事に大きな意味はない。
縄文文化が現代日本人の考え方や行動に深い影響を遺しているから、その事象から考えればこの程度の人口は自然であり、通説の少ない人数では到底できない事だから、どちらが正しいのかは自明になる。縄文前期~中期の日本で、矢尻の生産に使った黒曜石は八ヶ岳山麓のものだけではなく、北陸部族も関東部族も高原山の黒曜石を併用していたし、隠岐部族は隠岐産の黒曜石も使っていたから、それらも併せた年間の矢の生産量は、少なく見積もっても300万本だったと想定され、この数は次節の話しにも繋がる。
7-4 東ユーラシアの人口動態
鉄器時代になって農業が経済的に自立すると、中国と日本の人口容量比は概ね10:1になったから、漢代に6000万の人口を擁した中国と比較し、弥生時代の人口を600万と見積る事にある程度の妥当性はあるが、農耕技術が未熟だった上に沖積平野が殆どなかった縄文時代には、この比率は適用できない。
弥生温暖期になっても、海産物の豊かさが食生活を支えていた日本列島に対し、中華にはそれが欠けていたから、完全な鉄器時代になっていなかった春秋時代の、中華世界と日本の人口比は、贔屓眼に見ても精々4:1程度だったと推測される。
縄文後期に沖積平野が広がって稲作地が拡大し、彼我の食料事情の差は大幅に縮小したが、縄文前期~中期の両者の人口は、同程度だった可能性が高い。つまり縄文中期の荊の人口は日本列島の半分未満で、縄文後期に黄河デルタに入植する事によって同格になり、弥生温暖期に2倍になったと推測されるから、浙江省起源の稲作者も併せて3倍、アワ栽培者も加えて4倍程度だったと想定される。
弥生温暖期の末期である漢代の、荊州の人口は165万だったが、アワ栽培者に支配される事によって灌漑土木事業が阻害され、人口は春秋時代より大幅に減少していた疑いが濃いから、仮に春秋時代は300万人だったとすると、それが湖北省と湖南省を合わせた地域の稲作地が養う事ができる、稲作者の総人口だった事になる。石器時代の生産性はその半分以下だったとすると、縄文中期の荊の人口は100万人程度で、関東部族とほぼ同数だった事になり、両者が親密に交流するに足る、両者の人口規模になる。この人口は西日本のアワ栽培者とほぼ同じだから、フィリッピンの稲作者も同程度の数だったと推測され、インドネシアの海洋民族には稲作者がいなかったから、インドネシアやマレー半島に限ればそれより数が少なかったと推測される。
稲作民族に限らず大陸の栽培民族は単一民族で、食料生産に関する分業はなかったから、海産物を主要な食料として多民族が共生していた海洋民族と比較し、食料の多様性に乏しく飢饉の影響が顕在化し易かったから、海洋民族が集積していた日本列島、台湾、フィリッピン、インドネシアを併せた海洋民族の人口は、縄文中期までは中華世界の農耕民族の人口を、遥かに上回っていた事は間違いない。
縄文時代のシベリアの人口を推測する為には、現在のトルコ系民族の総数を参照する事が有効になる。その多さを勘案すれば、縄文時代のシベリアには海洋民族の総数に匹敵する規模の、人口の集積があったと推測されるからだ。それらを全て勘案した縄文時代の東ユーラシアは、漁労民族を中核とした交易民族が活躍した時代だった事に関し、実感が湧くだろう。
現在のトルコ系民族の祖先として、シベリアに散開していた栽培者は南北方向に3層に分かれ、南端で穀物栽培を主体としていた民族が、縄文晩期寒冷期~古墳寒冷期に、穀物栽培者としてシベリアの文化圏外に南下し、現在の中央アジア~アナトリアのトルコ系民族になったと推測される。最北の栽培者はフィンランド人の祖先や北極海に近い地域に残存している、穀物は殆ど栽培しない栽培民族だったと想定され、その中間に多数派がいたと考えられる。その地域は雨が多く森林に覆われ、広い面積を必要とする穀物栽培には向かない地域だったが、湖沼漁民や狩猟民族が活躍する場だったから、それがトルコ系栽培民族の多数派になる事は、必然的な結果だったからだ。
彼らも縄文晩期寒冷期以降は、南下の必要性を痛感していた筈だが、時代が進むにつれて海洋の温度が徐々に低下し、内陸は徐々に乾燥化していたから、漁民と共に南下する事はできなかった。従って騎馬民族が生れた縄文晩期寒冷期のトルコ系の栽培民族が、南の穀物栽培者を先頭に騎馬民族と共生し、穀物の生産性を高めながら南下を開始したと想定される。
匈奴は純粋な遊牧騎馬民族だったと考えられているが、その遺跡から栽培民族の痕跡も発掘されているから、シベリアから南下した栽培民族と遊牧騎馬民族の、共生集団だった可能性が高い。騎馬民族の実態は世界帝国を樹立したモンゴル人から連想し、匈奴の実態についても同様だったと推測されているが、シベリアのトルコ系栽培民族が、華北や中央アジアに最後に南下したのは古墳寒冷期だった。従ってモンゴル人がチンギスハーンに率いられて大帝国を形成したのは、トルコ系の栽培民族がシベリアから南下してしまった後の事になり、彼らはモンゴル高原に残っていた純粋な騎馬民族だった。
トルコ系の栽培民族は弥生温暖期にはシベリアにいた筈だから、匈奴と呼ばれた集団は民族としては騎馬民族だったとしても、栽培民族と共生する集団だった可能性が高い。
彼の共生によって遊牧民族は穀物や蔬菜類を入手し、栽培民族は羊の肉や乳製品を得たが、栽培民族が得たものはそれだけではなく、嘗てのツングースや河川漁民が行っていた情報の蒐集を、騎馬の機動力によって得る事ができた。また栽培民族の生産性が高まると塩を入手する必要が生れたが、それも騎馬民族との共生によって可能になった。その様な共生によって騎馬民族が優位者になれば、部外者には単一の騎馬民族に見えただろうし、シベリアの共生は混在する事を意味しなかったから、栽培者は栽培適地に集住していただろう。
逆に言えばこの様な共生を想定しない場合、栽培系のトルコ民族が大挙してシベリアから南下した手段を、別途探す必要がある。しかし騎馬民族の存在は既知だから、彼らと共生しながら一緒に南下したと想定する事が、最も素直な発想になる。
鮮卑もその様な民族だったのであれば、騎馬民族だった鮮卑が強勢になった漢末以降、トルコ系の栽培者が彼らと共に華北に南下し、小麦を盛んに栽培して農業生産力を高めた事に繋がる。またその生産力よって鮮卑が唐王朝を樹立し、唐王朝が倒れるとトルコ系の栽培民族が宋を建国した事になり、その背があったから、華北がアワ栽培地から小麦の栽培地に変わったと考える事に合理性がある。
同時期に中央アジアに南下したトルコ系民族が、Y-R民族を追放して中央アジアをトルコ語圏にしたから、この民族移動は大規模に同時発生した現象だった。具体的に言えばAD3世紀~6世紀の間に、ユーラシア大陸全域で起きた民族の大移動は、西のフン族・ゲルマン民族から東の東湖まで広範囲に亘ったが、これは1600年周期の気候変動により、古墳寒冷期になってシベリア経済が壊滅したから、シベリアのトルコ系栽培民族が騎馬民族と共に大挙南した事により発生した、一連の出来事として説明できる。
従って歴史書に記されている民族名は騎馬民族であっても、その背後にトルコ系の栽培民族がいて、騎馬民族はその物質的な支援を得ていたか、或いはトルコ人自身が騎馬民族化して南下したから、民族勢力としても武力的にも極めて強勢になったと考える事もできる。
南下したトルコ系栽培民族の現在の人口規模から推測すると、シベリアには多数の栽培系民族がいた事になるが、穀物を栽培しながら南下した栽培系民族は、必ずしもシベリアの栽培者の中で多数派だったわけでない。穀物栽培や牧畜によって生計を立てていた人々は、漁労の支援が十分ではないシベリア南部の少数派だったからだ。
縄文晩期寒冷期以降は、漁民の支援が期待できない栽培民族が増え、その一部が南下して牧畜系栽培民族になったとしても、人口はそれ以前と比較して大幅に減少せざるを得なかった筈だから、共生関係が安定していた縄文中期~後期の人口と比較すれば、縄文晩期~古墳寒冷期に南下した栽培者の数は少なかっただろう。更に言えば南下したからと言って、人口が直ぐに回復したわけでもないから、縄文中期~後期の栽培者の人口規模が如何に大きかったのかを示している。
その状況に縄文人と海洋漁民の人口比を当て嵌めると、その様な膨大の数の栽培者に対し、水産物を提供する湖沼漁民の人口規模は、3倍以上だった事になる。また彼らの経済活動を支える狩猟民族も別途いた。
関東部族と北陸部族が1年間に300万本の矢を生産し、狩猟者一人の矢の消費が1年に30本だったとすると、シベリアには10万人の狩猟者がいた計算になり、その家族を含めて50万人の人口規模を有していた。漁労の生産性の高さは狩猟を遥かに凌いでいたから、漁民は少なくともその数倍の人口を擁していたと考えられる。アイヌのY遺伝子では、漁労者のY-Dと狩猟者のY-C比は10:1だが、湖沼漁民の場合はそこまで大きくなく、5倍だったとしても250万人になり、栽培民族も50万人だったとしても、合わせて400万程度だった事になる。個々の数値の信憑性は高くないが、日本とシベリアの人口が桁レベルで整合し、現在のトルコ語話者の膨大な人口とも整合する。
従って縄文時代最大の人口集積地はシベリアで、日本列島がそれに次いでいたと考えられる。またシベリアも含めた東ユーラシアの、海洋民族の人口規模は1千万人を上回っていた可能性が高く、それが一つの文明圏を形成していたから、海洋文化が縄文時代の文明を牽引したとも言える。黒海沿岸~北海沿岸にも類似した巨大な文明圏があり、漁労が可能な地域の広さはシベリアに匹敵したから、その人口集積によって青銅器文化が生れたと考える必要がある。
以上の雑駁な推測では個々のデータの信憑性に疑問があるが、全体の整合性から確度が高まると考える事ができるから、縄文前期~中期の関東部族の人口は50~100万人、アワ栽培者は100万人、北陸部族の海洋民族にも、関東部族に匹敵する人口規模があったが、アワ栽培者への対応に勢力が割かれて人口が分散し、海洋文化の進化が遅れた事になる。
伊予部族の人口も関東部族の半分程度あり、彼らが関東部族の弓矢交易に積極的に協力する事により、関東部族は南進にも勢力を割く事ができたと想定される。従って伊予部族の貢献も加味した関東部族系の海洋民族は、数の上でも北陸部族を凌駕していた事になり、部族勢力の歴史的な伸長に合理的な指標を示している。古事記の記述には伊予部族への言及が乏しいが、それもこの様な背景があったからだとすると理解し易い。
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