縄文人の活動期(縄文時代早期後半、前期、中期)、その5

 

5、海洋民族の海外交易

関東部族は11千年前まで、トカラ列島から太平洋に噴出する様になった黒潮に遮られ、沖縄や台湾に渡航できない状態に陥っていた。しかし12千年前にヤンガードリアス期が終わって温暖化し、巨木が育って船の大型化が可能になると、漕ぎ手を増やして船を高速化し、沖縄や台湾に再び渡航した。温暖化がアサの生産性を高めると漁法が進化し、漁労の生産性が高まると縄文人も漁獲への依存度を高め、船の大型化や操作性の向上に積極的に貢献し始めた。

関東部族が南方に再進出すると台湾起源にも海洋民族が生まれ、彼らはフィリッピン、インドネシア、南太平洋に拡散した。mt-B4+M7cが台湾から関東に渡来すると、彼女達は熱帯ジャポニカを栽培化した。浙江省に進んだ関東部族は堅果類の栽培者と交流し、mt-B5+M7bを関東に招いたが、彼女達は先住のmt-B4+M7cと稲作競争を展開し、それに敗退すると浙江省と気候が類似する九州に移住した。

mt-N9bmt-B4+M7cmt-Aの浸潤を受け、女性達が陸上の生活者になると、漁労や交易が男性の生業になって船の航行能力が高まり、湖北省に進んで本格的な稲作民族と交流した。

 

5-1 沖縄と華南の事情

後漢書は「大陸人は日本列島に往く事は出来ないが、倭人や東鯷人は会稽(浙江省+福建省)に来る。」と記し、海洋民族だった倭人や東鯷人が、一方的に大陸に出掛けていた事を示している。魏志倭人伝は「邪馬台国は正に会稽の東に在る。」と記し、倭人が会稽(浙江省と福建省)を大陸の窓口にしていた事を示している。鉄器時代になっても大陸の人々は海洋に乗り出す意思はなく、東シナ海や南シナ海は海洋民族の海だった事を、これらの史書が示している。

日本の海洋民族が中華大陸に出向く際には、沖縄・台湾を経由する航路を使った事も示しているが、日本列島から南西諸島を経て台湾に至るには、トカラ海峡の難所を超える必要があった。この時代に開拓された航路を歴史時代まで使い続けたのは、海洋文化を共有する人々の島が、航路の安全を担保していたからだと推測される。

漢書地理誌/粤の条は、「海南島の習俗は東南アジアの海洋民族と同じである」と記し、魏志倭人伝はそれを引用して「倭人の風俗や産物は、海南島の住民と同じである」と記し、倭人と東南アジアの海洋民族が海洋文化を共有していたと指摘している。海洋に疎かった中華人のこの認識は、彼らと交易していた海洋民族の認識でもあり、大陸の農耕文化圏と海洋文化圏が、東アジアの2大文化圏だった事を示唆している。

 

5-1-1 沖縄

関東部族が沖縄への渡航を断念した15千年前は、海面が現在より100m以上低く沖縄と慶良間諸島は陸続きで、ルカン礁を岬とする湾を形成し、久米島とも繋がっていた可能性もある。関東部族が沖縄に再渡航した11千年前は、海面が現在より60m低い状態まで上昇し、慶良間諸島は沖縄本島とは別の島になり始め、沖縄本島は東西35kmほどに縮小していた。

15千年前に原日本人の渡航が途絶え、沖縄に取り残された縄文人は、次第に島が縮小して行く事に恐怖感を高めながら、原日本人に見捨てられたと考えざるを得ない状態で、4千年間も過ごしていた。海面は50年で1mの速さで上昇していたから、祖先伝承を重視していた堅果類の栽培者は、命の次に大切な堅果類の樹林が次々に水没するのを眺めながら、海進に恐れおののいていただろう。

現在の沖縄人にはmt-M7a24%、mt-M92%いて、先縄文時代のペアだったY-O2b1O3a2aC1の合計が38%だから、関東縄文人の様にmt-B4などの浸潤を受けず、原縄文人の遺伝子構成を維持していた事を示している。

沖縄にはmt-D36%いるが、mt-M8aがいないから漢族起源ではなく、焼畑農耕者のmt-Dである事は間違いない。

蛇紋岩が採取できない沖縄に、縄文時代のmt-Dが渡航したとは考え難いから、鉄器時代に渡航した焼畑農耕者の遺伝子である可能性が高く、そのmt-Dmt-M7a+M9の一部に浸潤したとすると、縄文時代の沖縄では原縄文人の遺伝子構成を保存し、mt-M7a+M9Y-O2b1O3a2aC1は同数だった可能性が高い。

沖縄人のD4/D5比率は本土の2倍あり、渡航者はあまり多くなかった事を示しているから、関東部族の島だった沖縄に焼畑農耕者が渡来する機会は、極めて乏しかった事と整合する。

焼畑農耕者だったmt-D1/3が、原縄文人の遺伝子構成を遺していた集団に浸潤し、2/3は関東から移住した人々に浸潤したとすると、その時代まで原縄文人の遺伝子構成を保持していた集団が存在した事になり、原縄文人の遺伝子構成を遺していた集団も、漁民だったY-Dも焼畑農耕者になった事を示唆している。

この様な現象は鉄器時代になって男性が主要な農耕者になってから、少数の焼畑農耕者が本土から移住し、沖縄の山間地で人口を増やした事を前提にする必要がある。本土が鉄器時代になった古墳時代には、海洋文化の先進地だった沖縄でも農耕社会化が進展しただろうから、mt-Dの移住は古墳時代以降の事で、縄文時代の沖縄には原縄文人の遺伝子構造を堅持していた集団がいたと考えられる。

九州縄文人は縄文中期にmt-Dの浸潤を受け入れ、mt-D+M7bの焼畑農耕者になったから、縄文早期~前期の北陸の海洋漁民が、糸魚川から福井に磨製石斧を届けた様に、九州の漁民が熊本や長崎で製作した磨製石斧を、沖縄に供給した可能性もあり得るが、mt-Dの集団的な行動原理から考えると、僅かのmt-Dが沖縄に移住した事には疑問がある。また沖縄縄文人の既得権も考慮すると、その可能性は極めて低い。従って鉄器時代になってから我々が窺い知れない偶然の事情により、僅かな数のmt-Dが沖縄に渡り、沖縄の焼畑農耕者になった可能性が高い。

それ以外の現代沖縄人の遺伝子構造は関東縄文人のものと類似し、縄文後期以降に渡来した遺伝子は含んでいないから、現代沖縄人のその遺伝子構造は、縄文中期の関東部族の遺伝子分布を保存している事になる。沖縄人に多いY-Dが縄文中期に沖縄に移住したのは漁民だった事を示し、関東部族内では漁民と縄文人が盛んに通婚していた事を示しているが、沖縄ではそれが全く為されなかった事になる。

長期間沖縄に放置された沖縄縄文人は、縄文前期~中期に関東部族の漁民が沖縄に移住し、沖縄の多数派になっても、縄文時代を通して関東部族の漁民と通婚しなかった事になるから、4千年間沖縄に放置された恨みが縄文時代を通して継続し、両者の関係が険悪な状態になったと言えば大袈裟かもしれないが、両者が人間関係の再構築に躓いた事は間違いない。

縄文時代の沖縄の原縄文人の子孫が、自分達は関東部族であるとは考えずに共生を拒否していた事になるが、孤立していた時期に温暖化した島で食料の生産性を高め、原縄文人の3民族共生型の社会を発展させた結果、漁民との交換経済を背景にしたmt-B4の稲作を受け入れず、原縄文人型の遺伝子分布を遺したと推測される。これは古山形湖や古福島湖の畔に定住した、沖縄系縄文人と同様の生活スタイルだったから、関東部族にも大きな違和感はなかったのかもしれない。

現在の沖縄に多数生息している堅果類には、イタジイ、マテバシイ、オキナワウラジロガシ、アマミアラカシなどの、暖温帯性のブナ科植物や亜熱帯性のアカギがある。沖縄にはmt-M7b5%もいるしmt-M7cも僅かにいるから、縄文早期後葉に関東に渡来したmt-B4+M7cmt-B5M7bの、mt-M7cmt-M7bが沖縄縄文人にも浸潤し、これらの樹種をmt-M7aに伝えた可能性が高い。関東部族は沖縄縄文人との人間関係を棄損したが、これらの仲介によって関係の修復を図ったのではなかろうか。

九州縄文人はmt-B5+M7bの浸潤を受けるとmt-M7aがいなくなった事を、mt-M7aを欠いている九州弥生人の遺伝子分布が示しているが、沖縄ではmt-M7aが多くmt-M7cmt-M7bは少数派だから、沖縄縄文人が関東部族と通婚しなかった事情が、ここにも現れている事になる。つまり沖縄縄文人の一部はmt-M7cmt-M7bを受け入れたが、大勢は受け入れた人々との婚姻も拒否していた事になる。

沖縄の事情を検証する際には、九州縄文人の成立の由来と彼らの活動実績も、一緒に検証する必要がある。場所が近いだけではなく、縄文前期の沖縄の遺跡から九州起源の曽畑式土器が発掘されているからだ。

縄文時代の熊本や長崎の漁民は、16千年前に縄文人が沖縄から九州に上陸した際に、彼らと共生する為に関東から移住した漁民の、子孫だったと想定される。沖縄系縄文人は3民族が共生する事により、自活力が極めて高い人々ではあったが、ヤンガードリアス期に九州南部に逼塞していた時期の彼らの食生活は、海産物によって維持されたと考えられるからだ。従って関東系の漁民としては最も早く、縄文人との共生社会を形成した人々だった。

九州に上陸した沖縄系縄文人の大半は、温暖化した縄文早期に関東や東北に移住したが、九州に残った縄文人もいたから、彼らと共生し続けた漁民もいたと想定されるからだ。縄文早期に関東の漁民が台湾や浙江省に渡る際に、九州の漁民も行動を共にした事が、熊本や長崎にmt-B5+M7bを招く契機になった可能性がある。台湾から渡来したmt-B4+M7cは、稲作地が豊富にあった関東の洪積台地に渡来し、山岳地しかなかった九州には入植しなかったが、mt-B5+M7bが関東に渡来すると、先着していたmt-B4+M7cとの稲作競争に敗れ、mt-B5+M7bが浙江省と気候が類似していた九州に移住し、九州縄文人に浸潤したからだ。

その証拠は色々あり、九州縄文人は縄文前期から暖温帯性のイチイガシを、集中的に栽培していた事がその第一の証拠になる。16千年前に渡来したmt-M7aは冷温帯性の堅果類の栽培者だが、九州独特の事情として、殆どのドングリピットには暖温帯性のイチイガシが貯蔵されていたからだ。

この事情を検証する為には、イチイガシなどの暖温帯性の堅果類を九州に持ち込んだのは、mt-B4+M7cだったのかmt-B5+M7bだったのか明らかにする必要があるが、下図が九州縄文人のベアはmt-B5+M7bだった事を示している。

下図が示す縄文時代の竹籠素材の地域性で、沖縄で使っていたタケ亜科の割り裂き材を、関東を中心とする地域でも使っていた事は、沖縄縄文人以外の沖縄人のミトコンドリア遺伝子分布が、縄文中期の関東部族の遺伝子に類似している事情と一致し、沖縄人の多数派であるY-Dは、沖縄に移住した関東の漁民の遺伝子である事を示し、関東の漁民に多数のmt-B4が含まれていた事になるから、漁民はmt-B4が生産したコメを食べていた事も示している。

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「縄文人の植物利用」 工藤雄一郎/国立民族博物館編 新泉社 佐々木由香氏執筆 

ドングリを拾い集める籠は堅果類の栽培者の必須アイテムだったから、籠を編む文化は氷期のmt-M7時代に発生し、mt-M7am7bm7cに分岐すると素材が分化した事も示唆している。東北と九州が共に本木植物を多用し、それぞれが使った落葉樹と照葉樹は地域固有の植生だったから、mt-M7を起源とする古い文化では、本木植物を使っていた事を示唆しているからだ。東北はmt-M7aの文化圏だったから、消去法で九州はmt-M7bの文化圏だった事になる。

縄文早期にmt-B4+M7cmt-B5+M7bが関東に渡来した筈だが、関東縄文人から複数のmt-B4が検出されるがmt-B5は検出されない事と、関東と九州では異なる籠文化になった事が、その事情を示しているからだ。つまり関東はmt-B4+M7cのアズマネザサ文化圏になり、九州はmt-B5+M7bのムクロジ文化圏になった事になる。

北陸~山陰は石垣系縄文人の地域だから、そのmt-M7aは針葉樹とつる植物文化圏を形成し、東北は沖縄系縄文人のmt-M7aが落葉広葉樹文化圏を形成した事になる。つまり関東の籠文化はmt-M7a文化からmt-B4+M7c文化に変わった事になり、気候が温暖化した縄文早期以降の関東以西では、暖温帯性堅果類の栽培者の文化が、冷温帯性堅果類の栽培者の文化を置き換えた事を示している。

但し原縄文人の時代から続いていたアサやウルシは、縄文時代を通して重要な栽培種だったから、異文化が融合したと捉えるべきだろう。

佐賀県の7500年前の東名遺跡では、イヌビワの割り裂き材、ツヅラフジ、ムクロジが使われたが、イヌビワは熱帯性の種が多いイチジク属の中で、落葉性を獲得して台湾や韓国にも自生し、3万年前に北上したmt-M7aの栽培樹種だった事を示唆している。ツヅラフジは台湾、中国、タイ、ネパール、インド北部などに分布する暖温帯~亜熱帯の種で、実は食用にならないから、籠材としてmt-M7bが持ち込んだ可能性が高い。ムクロジも食用にならない暖温帯性の樹種だから、これもmt-M7bが籠材として持ち込んだ可能性が高い。

従って7500年前の東名遺跡では、mt-M7aの文化とmt-B5+M7bの文化が混在し、mt-B5+M7bが九州に移住した直後には、mt-M7aの文化も残っていた事を示唆している。

樹種が豊富な暖温帯性地域には、籠材に適した樹種が色々あった事を示唆しているが、mt-B4M7bが食用にならないムクロジやツヅラフジを九州で栽培し、籠を編む素材として愛用していた事は、その目的で浙江省から九州に持ち込んだ事になる。アズマネザサにも同様の事が言えるから、暖温帯性の堅果類の栽培者はドングリを拾い集める為に、色々な籠を製作しながらその素材に拘っていた事を示している。

暖温帯性の堅果類の栽培者には磨製石斧がなかったから、縄文人の様に樹林を形成する事はできなかった。陰樹を選択して薄暗い林間で幼樹を育てるしかなかったから、適地は離散的な場所しかなく、それ故にドングリ拾いが広域的な作業になり、籠材を厳選する必要があったと考えられる。籠の素材に拘っていた事が、その事情を示唆している。陰樹は成長が遅かっただけではなく、離散的な栽培では優良品種間の交配が難しいから、がん温帯性の堅果類の品種改良も遅れ、生産性が低い樹を沢山管理する必要があった事が、籠の素材に拘っていた真の理由だったと考えられる。

我々は経験的に暖温帯性の樹木には陰樹が多く、冷温帯性の樹木には陽樹が多いとか、冷温帯性のドングリは生産性が高い事を知っているが、これは堅果類の栽培者が生み出した偏りである可能性が高い。

いずれにしても籠材の分布がこのHPが指摘する縄文人の履歴と一致する事は、遺伝子分布から読み解く縄文人の活動史の正しさを立証している。

関東に渡来したmt-B4+M7cが、籠材として優れたタケ亜科(アズマネザサ)を持ち込んだのに、九州縄文人がそれを使わなかった事は、mt-B4+M7cは九州に移住せずに終始関東にいた事と、関東に渡来したmt-B5+M7bはアズマネザサの栽培技術を獲得する暇もなく、あわただしく九州に移住した事を示している。アズマネザサは後世の西日本に拡散し、各地に独自の亜種が生れたほどに、籠の素材として優れていた。鉄器時代には竹が最良の籠材になったが、竹を自在に利用できなかった石器時代には、石器で刈る事ができるアズマネザサは優れた籠材だった。アズマネザサは近世まで籠材として利用された事が、素材の秀逸性を示している。

北陸にもタケ亜科を使った地域があり、それが信濃川や阿賀野川の河口域である事は、北陸でタケ亜科を使っていたのは、北陸の海洋民族の拠点地域だった事になるから、南西諸島でタケ亜科の存在を知った北陸部族が、北陸に帰ってもその篭を作り続けた事を示唆し、この想定の確かさを担保する。

従ってこの栽培技術を獲得する間もなく九州に移住したmt-B5+M7bは、mt-B4が栽培化した稲作の栽培技術も獲得せず、mt-B4が浙江省から持ち込んだ稲作技術と共に、慌ただしく九州に移住した事になり、彼女達が九州に持ち込んだ稲作は熱帯ジャポニカではなく、自分達が浙江省から持ち込んだジャバニカの原生種だった事も示している。

mt-B4が温暖な九州に移住せずに関東に留まっていたのは、稲作地の獲得が最大の関心事で、関東には武蔵野台地や常総台地などの稲作適地があったが、九州には広い台地がなかったからだと考えられる。

mt-B4は温暖な台湾から関東に渡来し、mt-B5は台湾より冷涼な浙江省から渡来したが、関東の気候に適合した熱帯ジャポニカを素早く栽培化し、太平洋の湿潤化によって気候冷涼化するとmt-B5が渡来するまでの500年間に、浙江省より冷涼な関東でも栽培できる耐寒性が高い品種に育て上げた事を示している。

これをmt-B4mt-B5の能力差として矮小化せずに、背景事情の差が原因だった考えると、銭塘江台地より関東平野の方が、実質的な栽培地は広かった可能性に帰着する。熱帯ジャポニカとジャバニカの原生種は類似品種だから、品種改良や栽培方法の進化速度は栽培者の数に比例したからだ。

以上の結論として、台湾起源のmt-B4+M7cがタケ亜科の籠材を関東に持ち込み、熱帯ジャポニカを栽培化し、浙江省起源のmt-B5+M7bが九州に移住したが、台湾起源のmt-B4+M7cは九州には移住しなかったから、九州で盛んに栽培されたイチイガシなどの暖温帯性の堅果類は、浙江省起源のmt-B5+M7bがジャバニカの原生種と共に持ち込んだ事になる。

縄文前期の浙江省では、イチイガシより生産性は高いがアクが強いドングリが栽培されていた。九州縄文人はそれより生産性は劣るが、アクを抜かずに食べられるイチイガシの栽培に専念したのは、九州縄文人は食料の多くを海産物に頼る事ができたから、ドングリの生産性に拘る必要がなかった一方で、ジャバニカは生産性が低かったから漁民もドングリを食べる必要があり、アクを抜く必要がないドングリが求められたからだと推測される。

縄文中期の関東の漁民が、mt-B4の生産性が高い稲作に依存してドングリを食べなかった事は、縄文前期温暖期にその食習慣が定着したと考えられるから、関東ではコナラ、クヌギ、カシ、カシワなどの、生産性は高いがアクがある樹種が栽培され、アク抜きを当然としていた縄文人がドングリを消費していたと考えられる。つまり洪積台地に恵まれていた関東では、mt-M7cよりmt-B5の数が圧倒的に多かったが、稲作地に乏しかった九州ではmt-B5の数が限定され、mt-M7bの方が多かった可能性が高い。

縄文前期の関東や九州の漁民は、沖縄の伊礼原などを中継湊にして台湾や浙江省に渡航した。伊礼原はサンゴ礁に囲まれた水路の奥の、標高50100mの台地の縁にあり、遺跡は現在の漁港を見下ろす海抜7mの緩斜面上にある。海進期だった縄文前期の伊礼原は湊に隣接する集落だったと考えられ、土器や骨器と共に沖縄独自の土器も発掘され、関東部族の漁民や沖縄縄文人が伊礼原にいた事を示唆しているが、曾畑式と呼ばれる九州の縄文前期の土器も発掘されている。

曾畑式土器は関東の尖底土器を真似た形状だから、関東の水辺にいた縄文人と同様に、水辺で生活していた人々の土器だったと考えられる。九州でもこの土器が多数発掘される曾畑は、当時の水辺にあったから、稲作者だったmt-B4+M7bの土器だったと考えられる。

伊礼原の後背地は、現在も人口が集中している台地状の平坦地だから、沖縄縄文人が集住する地域だったと推測され、関東部族の拠点は沖縄の縄文人の集積地を避ける様に、僻地に拠点湊を設定したわけではなかった。伊礼原の縄文人はmt-M7cmt-M7bを受け入れ、関東部族と交流して土器を提供していたが、彼らとは別の多数の縄文人がmt-M7aの栽培ネットワークを堅持し、mt-M7cmt-M7bの浸潤を拒否していたと推測される。

土器は女性が作るものだったから、沖縄に曾畑式の土器が多数残されている事は、mt-B5+M7bが沖縄に移住した事を示唆しているが、海進期の初頭だった縄文前期の沖縄には、沖積平野は全くと言って良いほどなく、mt-B5+M7bが稲作を行っていたとは考え難いから、彼女達が沖縄に渡ったのは、浙江省に行く為だった疑いが濃い。

九州では稲作者だったmt-B5の人口が少なく、ジャバニカの栽培技術の進化は遅かったから、九州のmt-B5は先進的な品種と栽培技術を、浙江省から導入する必要があったと推測される。ジャバニカと熱帯ジャポニカは同じ原生種から生れたから、九州のmt-B5は関東や岡山のmt-B4から、新品種や栽培技術を導入する事も可能だったが、九州のmt-B5はそれをしなかった事も、上図が示している。

mt-B5が関東から九州に移住する際に、mt-B4との間にかなりの確執があり、それがmt-M7cmt-M7bにも波及した事を示唆している。

一つの部族に類似した栽培種を持つ女性は共存できなかったから、栽培化が第二段階に進んで情報ネットワークを形成した女性達は、個人として活動するのではなく部族内に疑似民族を形成した事が、この様な事態を引き起こしたと推測される。北陸部族でmt-Dmt-Gが反目したのも、その様な事情があったからだと想定され、法則の様にその様な現象が発生したのは、優良な突然変異遺伝子や栽培情報を集める為には、栽培者間の緊密な情報ネットワークが必要だったから、彼女達の成功体験が人間関係を緊密化する習俗を生み、ネットワークから疎外される事を恐れる習俗が、そこから派生したからだと推測される。

mt-M7aは冷温帯性の堅果類の栽培者として、冷涼な中部山岳地帯では欠く事ができない人材であり、海洋民族にとって欠く事ができないアサの栽培者でもあったから、関東ではmt-M7cと反目する必要はなかったが、九州縄文人からmt-M7aが失われたのは、mt-M7bとの勢力争いの結果だった疑いもある。その背景として温暖化した縄文前期の九州では、冷温帯性の植生であるアサやウルシが栽培できなくなっていた可能性が高い。

 

5-1-2 関東部族の遺伝子構成

現代沖縄人のミトコンドリア遺伝子分布は、アワ栽培者だったmt-Dと、沖縄縄文人のmt-M7a+M9、養蚕の技能者だったmt-M9b+B5を除くと、関東縄文人から検出された渡来遺伝子群との共通性が高く、構成割合も類似しているが、関東縄文人の発掘遺体数は分布割合が示せる程には多くない。

本土日本人の遺伝子の5割以上は関東部族起源だから、それを調整して比較する事が現実的になる。調整要因としては3割ほどが北陸部族起源の遺伝子で、その他の部族の遺伝子が2割ほど含まれる。古墳時代の渡来人の遺伝子が2割含まれるが、その主要な遺伝子は漢族のmt-D+M8aと韓族のmt-D+M7aで、mt-M7a以外は縄文時代の関東部族には含まれていなかった遺伝子だから、本土日本人と沖縄人の関東部族由来の遺伝子の構成割合を比較すると、関東部族が沖縄に渡った時期を特定するだけではなく、色々な情報が得られる。

mt-M7aを除外するのは、温暖過ぎてアサも栽培できなかった沖縄に移住する理由はなく、先に示した沖縄の事情から考えても、mt-M7aが沖縄に渡航する理由はなかったから、沖縄人のmt-M7a+M9は原縄文人由来の遺伝子構成を維持していた、沖縄縄文人の遺伝子であると考えられるからだ。

関東縄文人のmt-Dmt-D+M8aで、これは華北のアワ栽培者が殷人の横暴を避ける為に、縄文後期後葉に関東に流入した遺伝子だから、沖縄にはmt-M8aがいない。つまり関東部族の沖縄移住はそれ以前に終わっていた事を示し、沖縄のmt-Dは焼畑農耕者を起源とする遺伝子で、関東部族の遺伝子ではない事になる。

沖縄には北陸系のmt-Gmt-N9aが少数いるが、北陸部族の島だった宮古島や石垣島の人々や、それらの島から沖縄本島に流入した人達の遺伝子である可能性が高いから、それらも検証対象から除外し、関東部族起源である可能が高い以下の4遺伝子の相互関係を検証する。

沖縄人のmt-N9b比率が本土人の2倍である事は、関東のmt-N9bはその後に流入した遺伝子の浸潤対象になり易く、割合が低下した事を示している。縄文前期の小竹貝塚の遺骨はmt-N9b比率が高く、北陸部族のmt-N9bは関東部族ほどには、他の遺伝子の浸潤対象ではなかった事を示しているから、現代日本人のmt-N9bの多くは北陸部族か東北部族の遺伝子で、関東部族のmt-N9bの減少速度はこのグラフが示す状態より速かった可能性が高い。

沖縄人と本土人のmt-Aの比率が類似しているのは、北陸部族にもmt-Aが浸潤していたから、現代日本人の比率は他に3遺伝子より影響が少なかった事と、色々な遺伝子が関東部族に流入しても、mt-Aは浸潤しなかった事を示唆している。栽培と獣骨加工では生業が異なり、海洋漁民にとって漁具を製作するmt-Aは必要な人材だったから、この傾向には合理性がある。

mt-B4は関東部族特有の遺伝子で、北陸部族や東北部族にはいなかったから、沖縄人の比率が高い事に合理性があると共に、日本が稲作列島になった弥生時代に、日本式の稲作を日本全国に普及させたmt-B4が、浸潤しながら普及させたのではなく、技術だけを普及させた事を示している。言い換えるとmt-B4のその様な行為により、本土日本人に縄文時代の遺伝子分布が温存されている事になる。その詳細は経済活動の成熟期の項を参照。

鳥取県の青谷上寺地遺跡の弥生時代後葉の出土骨から、mt-B4は僅かに検出されたが、mt-Fは検出されていない事がその事情を示している。つまり温帯ジャポニカを日本に持ち込んだのはmt-Fだったが、熱帯ジャポニカと混載して田植えをする日本式の稲作は、mt-B4が浸潤ではなく技術移転によって普及させた事を示している。

関東に流入した主要遺伝子であるmt-B4mt-Fmt-Aを比較すると、mt-Fの比率だけが極めて低く、温帯ジャポニカを持ち込んだmt-Fが関東で活躍し、人口を増やした縄文後期温暖期には、関東から沖縄への移住者は途絶えていた事を示し、沖縄にmt-M7aがいない事情と整合している。

mt-Fは縄文中期初頭に渡来したが、縄文中期寒冷期のmt-Fの人口は少なかったから、関東部族の漁民が沖縄に渡ったのは、縄文中期を主体としていた事になるが、縄文前期にも移住者がいた可能性もある。但し縄文前期の海岸には沖積地が殆どなかったから、mt-A以外は縄文中期に移住したと考えられる。

沖縄に移住した漁民のペアの半分が、稲作者だったmt-B4mt-Fで、残りの半分は漁具を製作するmt-Amt-N9bだった事になる。縄文中期になると海面上昇は完全に停止し、中期後半には海退が始まったから、降雨量が多い沖縄では沖積平野が生れ始め、稲作が可能になった事を示すと共に、縄文中期の漁民は魚とコメを主食にしていた事を示している。沖積平野は新しく生まれた栽培地で、堅果類の栽培には適さない場所だから、縄文人の縄張りを侵す事なく入植できたのが、これらの女性達だったと考える事もできる。

考古学者は水田の痕跡に拘り、沖縄は発展途上地域だったと印象付ける為に、沖縄の農耕は弥生時代まで低調だったと主張しているが、縄文時代の沖縄は大陸との交易の要衝だったから、関東から移住したmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培し、mt-Fが温帯ジャポニカを栽培し、古墳時代以降はmt-Dが焼畑農耕者になった事を、沖縄人の遺伝子分布が示している。

畔を伴った水田は、弥生時代の本土でも普及率は高くなかったと推測されるから、認識を根本から変える必要がある。mt-B4mt-Fが稲作を行っていた関東で、畔を作り始めたのは弥生時代末期である事がそれを示しているからだ。木製農具で畔を作るのは大変な作業だから、鉄器が普及しなければ畔の形成は普及しなかった事も示している。

つまり弥生時代の狭い水田は、稲作後進地域で稲作を行った女性達が、大規模湿田の形成方法が分からずに、畔を作って小さな水田を形成した可能性が高く、むしろ畔の存在は稲作の後進地域である事を示している可能性が高い。弥生時代の畔で区切られた水田は、概して面積が狭小で、本格的な稲作者の水田だったとは考え難い事も、この推測を確かなものにする。従ってmt-B4mt-Fが稲作を行っていた沖縄は、関東や岡山と並ぶ稲作先進地だったと考える必要がある。

現在に至っても沖縄の民情が安定せず、少数民族論が跳梁している背景として、原縄文人の子孫と海洋民族の子孫の部族対立モドキが、尾を引いている可能性がある。琉球王朝は海洋民族の政権だったから、原縄文人系が被差別民として扱われ、明治維新後の沖縄にもその意識が継続していた事を、遺伝子分が示しているからだ。現在の韓国と事情は類似しているが、韓国では出地が異なる民族問題であるのに対し、沖縄人と本土人は同一民族の共生集団だから、広義の部族問題に過ぎない。

 

5-1-3  台湾

南西諸島を南下した関東部族の漁民が、11千年前に台湾の北端に達すると、水没した北ヴェトナムの平原から北上した、堅果類の栽培者だったY-Omt-B4+M7cペアに遭遇した。台湾は海面上昇によって1万年前に大陸から切り離され、急速に島の面積が縮小していたから、彼らはその危機感の中で関東部族から海洋技術を熱心に学び、赤道直下の太平洋上の島々に入植した。

氷期から海洋文化の向上に集団的で取り組んでいた関東部族は、関東から離脱して日本列島以外の島に入植する意思はなかったが、台湾起源の海洋民族は獲得した海洋技術の高さに陶酔し、その活用に熱心になった事が、両者の違いを生んだと推測される。海洋文化を向上させる為には集住する必要があったが、活動的な栽培思想を持ったmt-B4の才能が、温暖化した後氷期の時代要請に合致したから、新しい栽培種を獲得する為に未知の世界への探求心を高め、植生が豊かな温暖な地域に拡散したとも言える。南太平洋の島々に特徴的な遺伝子はmt-B4で、特徴的なY遺伝子が存在しない事と、海洋民族化して南太平洋に拡散した人々に、mt-M7cが含まれていないからだ。

民族としての海洋民族化を遊動したのは、mt-B4だった可能性が高い事は、暖温帯系の堅果類の栽培者には、民族の命運を賭ける方針の大転換に際し、女性の発言を重視する習俗があった事を示唆している。

台湾でmt-B4に接した関東部族が多数のmt-B4+M7cを日本に招聘すると、関東の漁民のmt-N9bの比率が2割程度まで低下した事を、沖縄人の遺伝子分布が示している。

最強の栽培者だったmt-B4が、この民族の海洋民族化を牽引したが、ミトコンドリア遺伝子の変異は単なるマーカーであって、身体形状を規定する機能は細胞の核遺伝子が担っているから、母から娘に伝えられた栽培思想や生活規範が、ミトコンドリア遺伝子と共に継承され、mt-B4の気質が生れた事になる。

人間の脳細胞の神経組織は幼児期に取捨選択されるが、その際に母から受ける影響が、人格形成の大きな要素になるのではなかろうか。つまり民族文化や民族性は、その民族のミトコンドリア遺伝子分布に大きく影響され、それは現代にも繋がっていると考える必要がある。

台湾起源の海洋民族は9千年前に生まれたので、同時期に関東に移住して稲作者になったmt-B4とは異なるmt-B4が、フィリッピン・インドネシアを経て南太平洋の島々に拡散した事になり、イネの原生種が存在しない島も多数あったが、押しなべて稲作がない事と整合する。つまり関東に渡ったmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培化したが、同じmt-B4であっても情報共有はしなかったから、アメリカ大陸に渡ったmt-B4b2がトウモロコシを栽培化した事になる。mt-B4b2は海洋民族のパイオニアとしてアメリカ大陸に直行したから、アジアや南太平洋の島嶼にも残っていない。後続のmt-B4a1aは台湾やフィリッピンを含む太平洋の島々に分布しているが、mt-B4b2の姉妹であるmt-B4b1は、東アジアと東南アジアに広く分布している。

以上の遺伝子分布は、mt-B4b2mt-B4b1が分離した後でmt-B4b2だけが海洋民族になり、mt-B4b1は栽培者になった事を示し、mt-B4の大勢は栽培者になったが、限られた数のmt-B4が海洋民族になった事を示している。また海洋民族の太平洋東進には二つの波があり、先陣はアメリカ大陸の沿岸に達して内陸のmt-Dなどに浸潤したが、現在の南太平洋の島々には暫く台湾やフィリッピンで人口を増やしていた、後続のmt-B4a1aが上塗りする様に拡散し、そのmt-B4a1aと先陣のmt-B4b2には、情報を共有する民族内民族的な関係がなかった事を示している。

mt-B4が縄文早期に先着して熱帯ジャポニカを栽培化したが、縄文中期初頭に渡来したmt-Fの温帯ジャポニカの方が生産性は高かったので、弥生時代以降の日本は温帯ジャポニカを栽培する島になったが、日本人のmt-F5.3%でmt-B49%だから、mt-B4mt-F2倍の人口があり、浸潤関係が崩れている。両者の遺伝子の合計が15%に満たず、瑞穂の国と言われる日本には相応しくない遺伝子構成である事と併せ、奇異に感じるかもしれない。しかしmt-Fmt-B4は農法が異なっていた故に稲作地が全く異なり、縄文後期温暖期が終るまで両者は異なる稲作地で共存していた。

 

5-1-4 浙江省の稲作民族

12千年前に超温暖期が始まると、ヴェトナム中部で暖温帯性の堅果類を栽培していたmt-M7bY-Oのペアが、浙江省の銭塘江台地に北上した。彼らに含まれていたmt-B5が丘陵地の谷間でジャバ二カの原生種を栽培し、遺伝子比率を高めたと考えられるが、mt-B4と比較したmt-B51次分岐が少ない事が、ヴェトナム時代のmt-B5の栽培環境の劣悪性を示唆している。つまりmt-B4が帰属した民族は北ヴェトナムの平原で堅果類を栽培していたが、mt-B5が帰属した民族はヴェトナム中部の山が迫った地域にいたから、mt-B5の栽培地が限定的だった事を示唆している。

銭塘江台地は1万年前まで、江蘇省の平原を介して山東に繋がっていたから、彼らの一部は山東まで北上し、冷温帯性の堅果類の栽培者やmt-M8aと接したかもしれないが、8千年前に始まった海進期には東シナ海が安徽省まで侵入し、銭塘江台地を東シナ海に突き出る半島にしていた。

8千年前に太平洋が湿潤化して超温暖期が終わると、浙江省はイネの原生種の北限を超える冷涼な地域になったが、福建省の海岸は波が山肌を洗う状態で沖積平野はなかったから、イネの原生種を栽培していたmt-B5に南下する選択肢はなく、栽培化を進めて生産性を高める以外に稲作者として生き残る道はなかった。

銭塘江台地は杭州、常州、上海を結ぶ三角形を中核とした、1200㎞ほどの三角形になり、標高2030mの台地に小川が小谷を形成する丘陵地になり、8千年前の豪雨がその谷に沖積平野を形成したから、mt-B5は豊かな稲作地を得てジャバ二カを栽培化した。

縄文前期前半の河姆渡(かぼと)遺跡群や馬家浜文化圏の遺跡から、粒形が大型化して離層が消失しつつあるモミが発掘され、栽培化が始まって千年後の稲作事情を示しているが、コメが主要な植物性食料になったとは言えない状態で、堅果類の栽培者だった事を示すドングリピットが、河姆渡遺跡群に多数遺されている。

河姆渡遺跡群から発掘された農耕具には石器の使用例が乏しく、本来であれば石器で作る鍬を獣骨で作っていた事は、浙江省の暖温帯性の堅果類の栽培者は、打製石器の製作や使用に習熟していなかった事を示している。暖温帯性の堅果類の栽培者は、磨製石斧を使っていなかったと推測されるが、起耕具に打製石器を使っていなかった事は、堅果類の植樹にはドングリを土中に埋めて済ませ、イネの原生種の栽培には既存の湿地に種を蒔く程度で、起耕具は小枝や獣骨で済ませていた事を示唆している。陰樹である暖温帯性の堅果類の育成には、樹林を形成したのではなく一本毎に適地を探し、離散的な樹林を形成していたと想定したが、その事情を獣骨の起工具も示している。八ヶ岳山麓の井戸尻遺跡群では、mt-Fが作ったと推測される精巧な打製石器が多数発掘されたが、その製作技術は土木工事を必要としたmt-Fの固有技術であって、石器時代の全ての栽培系狩猟民族が共有する技術ではなかった。

海面上昇が終了すると同時に太平洋が湿潤化して豪雨期になったから、銭塘江台地では各地に低湿地が生れ、大した農具は必要がない大規模稲作が可能になったが、従来の稲作地は極めて限定的だった事も、獣骨で起工具を作っていた事が示唆している。河姆渡遺跡群の稲作者はドングリも食べる栽培系狩猟民族だったが、「家畜もいたが、植物性食料の補完は河川・湖沼漁労に依存していた」と考えられているから、銭塘江台地に北上して漁労資源が豊かになると、狩猟もあまり行わなくなった事を、発掘された多数の鯉の骨が示し、獣骨が豊富にあった様には見えないからだ。

打製石器で起耕具を製作する為には高度な石器製作技能が必要だが、豪雨期以前の栽培系狩猟民族には獣骨が十分にあったから、この集団の祖先は石器技術を開発・伝承する必要性を認識せず、獣骨で間に合わせていた事になる。

関東部族がその様な民族と遭遇した時期は、シベリアとの獣骨交易が盛んになっていた時代だったから、敢えて浙江省から獣骨を調達する必要がなく、台湾の海洋民族もその余禄を受け、獣骨の入手に積極的ではなかった事を示唆している。

獣骨で製作した銛の様なものが発掘されているが、北陸部族が多用した石錘は発掘されていないから、この民族には関東部族の刺殺漁労文化が伝搬していた事と、台湾起源の海洋民族も、その漁法を活用していた事を示唆している。竹が採取できる地域だから、竹製の銛が活用されていた筈だが、竹は腐敗が早く遺物として遺り難いから、考古学的に漁具が見付からない事に違和感はない。この状態は縄文前期に台湾~浙江省に到達したのは、関東部族だけだった事を示している。

高床式の住居址が発掘され、石斧を使って高床式の住居を作った事を示しているが、磨製石斧は打製石斧より後発的な文化遺物だから、稲作者が石材の知識に疎く、農具に石器を使わなかった事と矛盾し、石斧やその使用技術は海洋民族から得た事を示唆している。沿海部の河姆渡遺跡群がこの様な文化状況を示し、銭塘江台地の内陸に展開した馬家浜文化圏では、同じ稲作文化でありながらこの様な遺物が発見されない事は、海洋文化が銭塘江台地に及び始めた時期の事情を示している事になる。

既に指摘した様に縄文早期の関東部族は、ウルシを保管する為に高床式の倉庫を使っていたから、磨製石斧は台湾起源の海洋民族から入手したとしても、高床式の建造物は関東部族の仕様だった可能性が高い。

亜熱帯地域では虫害や蛇の害を除去する為に、高床式の住居を使う場合があったとしても、後世の華南の住居は高床式ではないから、河姆渡遺跡に高床式の建造物があった事に違和感がある。縄文前期の台湾起源の海洋民族は、磨製石斧を使って船を作る様になって3千年経ていたから、後世のインドネシア人の様に高床式住居を使っていたとしても違和感はないが、河南の標準的な住居として進化した痕跡はないから、住居だったのか疑問がある。

弥生時代の高床式の建造物は、ネズミなどに穀物を食い荒らされない為に、ネズミ返しを付けた穀物倉庫だった。河姆渡文化圏でもその様な建物として、湿地に高床式建造物を建てたのではなかろうか。縄文人や弥生人はネズミの害を避ける為に、壺型の穴を掘って穀物倉庫にしたが、優秀な打製石器がなければその様な貯蔵施設は作れないから、水が浸ってネズミが往来しない湿地に高床式の倉庫を建て、コメを保管する事が最善の策だったのではなかろうか。

リスが木の実を土中に埋めるのは、ネズミの害に遭わないからだと推測され、木の実を土中に埋める事は有効な保管方法になる。家ネズミにはクマネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミがあり、東南アジア発祥のクマネズミは巣穴を掘らないから、堅果類の栽培者には木の実を土中に埋める対策が有効だった。ちなみに穴を掘るドブネズミは肉食性が強く、ドングリは食べない可能性が高い。ハツカネズミが何時日本に渡来したのか不明だが、縄文時代の東アジアにはいなかった可能性がある。

縄文人もドングリピットを盛んに作ったから、ドングリはその様な保存方法に耐えるもので、河姆渡遺跡群でも多数発掘されているが、コメにはその保存方法が適用できなかったから、稲作者になり始めた河姆渡遺跡群の人々には新たな保存方法が必要だった。その為に高床式建造物の存在を海洋民族から学び、ネズミが往来できない湿地に建てたのではなかろうか。

馬家浜文化圏では高床式住居もドングリピットも発見されない事が、それらが海洋文化だった事を示唆している。暖温帯性の堅果類の栽培者は、優れた編み籠を持っていたから、馬家浜文化圏ではそれにドングリやコメを納めて木に吊るし、ネズミの害を防いでいたとすると、それが氷期以来の暖温帯性の堅果類の栽培者の、ドングリやコメの貯蔵方法だった事になる。この想定によって河姆渡文化圏と馬家浜文化圏の違いが明らかになるだけではなく、mt-M7bmt-M7cが編み籠の素材に拘った理由が更に鮮明になって確度が高まる。

縄文人がドングリピットを使ったのは、磨製石斧を多用して樹林を形成する事により、優良種との交配が容易になってドングリの生産性を極度に高めた結果、余ったドングリを湿った土中に埋納するという、栽培者としては異様な着想に至ったからではなかろうか。

8000年前に低温化が始まったが、それでも現在より4℃ほど温暖だった。しかし浙江省はそれにより、イネの原生種が繁茂しない冷涼な気候になったから、原生種の花粉に汚染されない環境を得て、ジャバニカの栽培品種化が始まった。mt-B4+M7bが関東に渡来し、更に九州に入植したのは太平洋の湿潤期(80007500年前)だった事を、長崎県多良見町の伊木力遺跡が示している。

伊木力遺跡は大村湾に流れ込む、伊木力川河口部の標高2030mの沖積地にあり、轟A式と轟B式の土器が出土する最下層と、曽畑式を主体とするその上層と、更に上層が発掘されている。最下層は1mにも及ぶ厚い沖積層で、繰り返された洪水によって流された堆積物の層だが、同時代のドングリピットが多数発掘され、波状的な豪雨に襲われた事を示している。ドングリピットから暖温帯性の堅果類であるイチイガシが発掘され、また周辺から網代、石錘、丸木船、桃の実が発掘され、海産資源を重視した低湿地遺跡である事と、暖温帯性の堅果類や木の実がある事から、この遺跡は漁民と共生したmt-B5+M7bの痕跡であると考えられる。

A式はアカホヤ火山降灰(7300年前)前の土器だから、この低湿地の利用は縄文早期後葉に始まり、曽畑式の時代である縄文前期まで継続した事になる。

伊木力遺跡の発掘報告書は、「塞ノ神式土器などの影響を受けたと考えられるものもある」と指摘している。

平底土器だった塞ノ神式は、尖底・丸底土器である轟A式の前代の土器で、太平洋が湿潤化した8千年頃に始まる。

A式は豪雨期が終わった7600年前頃に始まり、縄文早期末の7千年前に終焉する。

縄文前期前半の寒冷期に轟B式に変わり、縄文前期後半の温暖期に曽畑式になる。

A式~曽畑式が尖底・丸底土器で、九州縄文文化の変質を示している。

「県内の遺跡で石匙が出土するのは早期後葉以後で、早期には石匙が多量に出土する。轟B式土器・曽畑式土器を出土する遺跡が、海岸部に近いところを占拠するのに対し、早期後葉の遺跡はやや高地に位置し、狩猟採集経済に依拠していた姿が浮き上がってくる。石匙の使用方法については,動物の解体や毛皮をなめすなどといわれている。」との指摘は、轟式土器をもたらしたmt-B5+M7bが海岸の水辺に定住したのに対し、それ以前の縄文人は山間地に住んでいた事になり、轟A式土器を使うmt-B5+M7c縄文人は、塞ノ神式土器を作るmt-M7a縄文人と共生的に活動していた事を示唆している。この年代観は、7500年前の東名遺跡から、ムクロジを素材とする編み籠が発掘された事情と整合する。

mt-B4+M7cは関東に渡来すると土器を関東風の尖底土器に変え、その方式を九州に持ち込んで轟式を使用したから、mt-M7aが作っていた塞ノ神式が轟式に変わった事は、mt-M7amt-B5+M7cに浸潤された事を示している。九州は既に亜熱帯と言える気候になっていたから、冷温帯性の堅果類の栽培者が、暖温帯性の植生と稲作を持った女性に浸潤される事は、必然的な結果だったと推測される。

「この遺跡には縄文中期の九州に普及した、阿高式の土器は少量しかない」との指摘は、縄文中期寒冷期に稲作者がいなくなった事を示唆し、西日本のアワ栽培者の土器だったと考えられる、「船元式土器が対岸の遺跡から少量発掘された」と指摘されている事は、縄文中期にmt-B5mt-Dに浸潤され、九州縄文人の主要な食料が生産の高いアワに変わると、生産性が低い稲作地が放棄された事を示唆している。

「後期阿高式系土器である、坂の下式土器の出土は多い」との指摘は、縄文後期温暖期に稲作が復活した事を示唆しているが、この稲作者はmt-B5に浸潤したmt-Dだったと想定され、詳細な事情は経済活動の成熟期の項で説明する。

以上の検証からmt-B5が九州に移住したのは、太平洋が湿潤化し始めた80007600年前になり、まだ原生種を栽培している状態だった。それでも稲作者としてのプライドがあり、mt-B4の風下に立つことを嫌って九州に移住した事は、稲作系の女性達は原生種を栽培していた氷期から、その様な意気込みを持っていた事を示唆している。

これはmt-Zのアワ栽培を受容したmt-Dとは異なる性格だから、この様な性格になったmt-B5の事情を忖度すると、生産性が高い堅果類の栽培者に囲まれながら、生産性が低い少数栽培者として稲作技術を伝承していたから、他の優位な栽培種に誘惑されずに自身の稲作技能を堅持する、強固な信念の持ち主になっていたと考えられる。mt-B4にもその様な性格はあったかもしれないが、それを発揮した事例は見られず、むしろ逆に日本式の稲作を開発した際には、mt-Fの栽培種だった温帯ジャポニカの高い生産性を生かす為に、熱帯ジャポニカを使って短日性を失わせたからあまり強くなかった。

北陸に渡来したmt-M9aも堅果類の栽培者の中で、少数の独自栽培者である状態を3万年以上続けたソバの栽培者だったから、その様な性格を濃厚に持っていたが、ソバはアワに太刀打ちできない現実に直面し、ペアのY-O2b1が石斧職人になる事を全力で支援したから、北陸部族の高度な石材加工技術が生れたとすると、全く別の方面に突破口を求めた点でmt-B5が養蚕の技能者になった事情と類似し、海洋民族になったmt-B4にもこの気質があったかもしれない。

河姆渡文化期より千年以上早く九州縄文人に浸潤したmt-B5+M7bは、浙江省と類似した気候環境で生活したが、その他の環境は浙江省と大きく違っていた。彼女達は蛇紋岩製の磨製石斧で切り開いた低湿地で、縄文人が作った打製石斧(土堀具)で湿田の土を調整し、稲作を行ったからだ。河姆渡遺跡の土器は、黒陶系を除けば優れた土器はなかったから、関東のmt-M7aから学んだ水辺の尖底土器として、轟式土器を考案したと推測される。河姆渡遺跡の黒陶の実用性に乏しい器形と絵画的な模様は、仰韶文化の彩陶との類似性を示し、湖北省の荊が塩の代価にしたものである事を示唆しているからだ。

浙江省に北上した堅果類の栽培者は、台湾の堅果類の栽培者と比較した氷期~後氷期の人口が少なかったから、この様な事態を招いたと考えられる。台湾に北上した堅果類の栽培者は、氷期には紅河平原やトンキン湾にあった広い平野を占有していたが、中部ヴェトナムには山岳地が多く、南のメコンデルタは稲作系民族の縄張りだったからだ。これは遺伝子分布から推測する氷期の民族分布や、後氷期の民族移動と栽培女性達の挙動と整合する。

彼らの一部は縄文前期に製塩業者になり、財力を蓄えて歴史時代に名を遺す民族になった。他の一部は海洋民族の招聘に応じてフィリッピンに渡り、島嶼の稲作民族になってから海洋民族化し、こちらも歴史時代に名を遺す民族になったが、民族文化の立ち上がりは縄文中期まで降る。

かれらと比較すると、台湾に北上した堅果類の栽培者は文化力の立ち上がりが素早く、9千年前に関東部族に招かれたmt-B4+M7cは、即座に熱帯ジャポニカの栽培者になり、関東部族の交易活動に貢献した。台湾に残ったmt-B4は素早く海洋民族化し、フィリッピン、インドネシア、南太平洋の島嶼、インド洋沿岸に驚異的な速さで拡散し、民族の文化力が元々高かった事を示している。

以上を纏めて補足すると、以下の歴史的な流れが想定される。

関東が8500年前に低温化してmt-B4の稲作の生産性が低下すると、米食に慣れた海洋漁民は栽培地がまだ十分にあると判断し、浙江省からmt-B5+M7bを招いたが、実際に彼女達が渡来したのは太平洋が湿潤化して豪雨期になり、稲作地にしていた浙江省の谷が水没して路頭に迷うmt-B5+M7bが出現してからだった。台湾は稲作地が乏しかったからmt-B4+M7cは招きに応じて即座に渡来したが、銭塘江台地には稲作地が豊富にあったから必然的な結果だったが、出遅れたmt-B5には過酷な運命が待っていた。

関東に渡来したmt-B5が栽培していたのはイネの原生種だったが、mt-B4は栽培化を進展させて生産性を高めていたから、漁民や縄文人はmt-B5mt-B4と同じ栽培者になる事を期待したが、mt-B5はそれを拒否して九州に移住した。

mt-B5+M7bは短期間しか関東にいなかったので、土器の製作技法は刷新したが栽培技術は何も得ずに去った。関東に渡来したmt-B5+M7bは、先ず漁民のmt-N9bに浸潤する事によって定住し、縄文人のmt-M7aに浸潤を試みたが、mt-B4が既に浸潤していた集落と対立し、九州に去ったと推測される。

本土人にmt-M7c1%しかなく、沖縄人には更に少ない上に、関東縄文人からmt-M7bが検出され、mt-M7cは検出されていないから、mt-M7cが関東に渡来して暖温帯性の樹木やアズマネザサを持ち込みはしたが、その数は少なかった上に、mt-B4mt-M7cの関係は濃密ではなかったから、稲作に関わる関東の遺伝子構成はmt-B4+M7aに変わっていた可能性が高い。つまり9千年前に多数渡来したのは殆どがmt-B4で、mt-M7cは関東に魅力を感じていなかった事になるが、暖温帯性の堅果類の栽培者としては当然の選択だったと言えるだろう。

mt-M7aにはアサやウルシ樹を栽培する役割があったが、mt-M7cには目立った役割がなかったから、渡来後にmt-M7aに浸潤された可能性もある。

いずれにしても関東ではmt-B5mt-B4の対立があり、mt-B5が九州に移住すると一部のmt-M7bも同行したが、関東に残ったmt-M7bもいて、その数はmt-M7cより多かった事になる。堅果類の栽培者は稲作者だったmt-Bの様な、激しい気性の持ち主ではなかったからではなかろうか。

 

5-1-5 磨製石斧の交易

台湾には蛇紋岩があったが浙江省にはなかった事が、磨製石斧の威力に驚いた浙江省のmt-M7bの、多数の渡来を促した可能性がある。関東縄文人にmt-M7bが含まれていた事は、浙江省から渡来した女性はmt-M7bが多数派で、mt-B5の数は少なかった可能性を示唆している。関東部族は沖縄や関東の植生改善の為には、希望者が少ななかった台湾のmt-M7cでは人数が不十分であると考え、浙江省でmt-M7bをリクルートして沖縄や関東に送り込んだが、豪雨期になるとmt-B5のリクルートにも成功する様になったのではなかろうか。

銭塘江台地では稲作地が豊富にあり、mt-M7bの人口が過剰になっていた事がその背景にあったとすれば、歴史の流れが論理的になる。堅果類の栽培者も、毒性があるドングリを多量に食べる事は忌避し、この様な事情が生れた事と、その集団にmt-Bやソバの栽培者だったmt-M9aが共生していた事が、堅果類の栽培者の食糧事情を明らかにするからだ。

関東部族の磨製石斧は白馬から調達していたが、遠路運ぶ量は限定的だったから、縄文人も関東に移住すると磨製石斧が不足する様になっただろう。瀬戸内海が形成され始めたのは1万年前だから、関東部族はそれ以前から、紀伊水道をから淡路島に入植して蛇紋岩を入手していたと推測される。こちらの方が白馬より入州が容易だったからだ。しかしシベリアの内陸に多数のトルコ系漁民が拡散して生産性の高い漁労に従事し、狩猟民族から獣骨を集める為に多数の船が必要になり、その製作に多量の磨製石斧の需要が生れたから、9千年前に海面が更に上昇して瀬戸内海らしくなると、岡山をシベリア向けの石斧の生産拠点にした事が、岡山にも稲作の痕跡が遺される事情に繋がった。

岡山の蛇紋岩は産出量が多いが質が悪く、淡路島の上質の石材は産出量が少なかったが、樹木を伐採するだけであれば岡山産で十分であり、質が悪い蛇紋岩の方が研磨速度は速く生産性は高かったから、浙江省に持ち込んだ石斧は岡山産だったと推測される。

8千年前の関東部族は船に何十個もの磨製石斧を積み、浙江省に赴いてmt-B5+M7bを連れて帰る事が一つの交易形態になったが、mt-B5が九州に移住してしまうと関東部族は目標を変え、稲作の生産性が高い湖北省の稲作民との交流に向かった。

その結果浙江省の稲作民族に製塩を依頼し、塩が不足していた湖北省にその塩を運び上げる様になったから、河姆渡文化期の浙江省に黒陶が持ち込まれたと考えられる。つまり河姆渡文化圏の人々が海洋民族や湖北省から、色々な物資や文化を入手し始めたのは、製塩を始めたからだと推測される。

堅果類の栽培者には熱湯でドングリのアクを抜く技術があり、製塩業者になる事に技術的な障害はなかったから、浙江省の稲作民族から製塩技術が伝わると、直ぐに製塩者になったと推測される。彼らの製塩地は稲作地から離れた海岸にあったから、その遺構が発掘される事はないだろうが、黒陶や高床式の建築物がその証拠になる。

青海湖の塩を華北に送り込んだと想定されるY-R民族の痕跡は、老官台文化期から始まる。甘粛省秦安県の大地湾遺跡が7300年前に栄え、陝西省宝鶏市の北首嶺下層遺跡が7300年~7000年前の間に栄えた事は、縄文早期末の温暖期に荊が渭水流域に北上した事を示唆し、製塩技術はそれ以前に生れていた事を示唆しているからだ。

彩陶、黒陶、白陶などの高級な陶器が、華北であるか華南であるかを問わず、また沿海部であるか内陸であるかを問わず、縄文前期以降の各地の遺跡から発掘されるのは、高い稲作技術を背景に製陶文化を高めた湖北省の荊が、その製作者だったからだと考えられる。荊は炎天下の稲作作業の為に多量の塩を必要としたが、古湖北省湾が失われた縄文前期初頭に塩を入手する場所を完全に失ったから、これらの高級陶器が塩を入手する手段の一つとして、開発されたと考えられるからだ。

塩と交換する最大の物品はコメだったが、それを節約する為に色々な手段を模索し、高級陶器の生産を始めたと考えられる。時間的な順序としては、7700年前に始まった縄文早期末の温暖期に、余剰米を生み出す稲作技術と製塩技術を確立していた荊が、Y-Rが青海湖の塩を供給してくれる事を期待し、渭水流域に北上したと推測される。古湖北省湾西部が埋め立てられ、製塩地を失っていたその地域の稲作民に、Y-Rが既に塩を提供していた事がその前提になる。

Y-Rはヤンガードリアス期が終了してカスピ海やアラル海が巨大化すると、それによって湿潤化した中央アジアに北上し、1万年前にツングースと接触して漁労技術を獲得したと想定されるから、それによって交易民族化したとすれば時間的にも環境的にも整合する。それに関してはこの項の末尾の、インダス文明に関する節で検証する。

台湾で生まれた海洋民族の活動歴は、雷下遺跡から発掘された7500年前の船底材が、フィリッピン原産のムクノキで作られていた事が示している。これは彼らも台湾やフィリッピンの蛇紋岩で作った磨製石斧を、9千年前から造船に使っていた事を示し、縄文前期には浙江省で交易を行っていた事を示唆している。

但しウルシもアサもなかった台湾やフィリッピンで、磨製石斧を柄に固定する為には有孔石斧を使うか、彼らが開発したマニラアサで硬く縛る以外に手段がなかった。石斧は単独で販売されたのではなく、柄に固定されていた可能性が高いが、縄文前期後葉の崧沢文化期に有孔石斧が登場した事に注目する必要がある。

稲作には温暖多雨な気候が必要だから、その様な地域に群生するカシなどの固い樹木を多分に含む、照葉樹林を伐採して稲作地を広げる必要があったが、その為には磨製石斧が必要だった。しかし浙江省の稲作民は、その素材になる蛇紋岩を採取できなかっただけではなく、彼らの自給自足的な経済環境では、それを入手する交易を自発的に創造する契機もなかった事を、馬家浜文化の事情が示している。

湖北省の稲作民族だった荊は、河川の氾濫域を稲作地にしたから磨製石斧は必須な農具ではなかったが、生産性が高い稲作技術を得てから塩を入手する手段を失ったから、その為の交易に邁進する必要が生れて高級陶器を発明したが、三方を海に囲まれていた浙江省の稲作民は、磨製石斧がなければ稲作地を拡大できず、生産性が高い稲作者になる基本要件を欠いていた。しかし運良く揚子江の上流に荊がいたから、彼らの為に製塩事業を興す事によって交易の足掛かりを得た事を、河姆渡文化期から良渚文化期に掛けての驚異的な発展が示している。

縄文前期の浙江省には河姆渡文化圏と馬家浜文化圏があり、河姆渡文化圏は銭塘江の河口に近い海浜にあり、馬家浜文化圏は内陸にあった。河姆渡文化圏には磨製石斧や石製装飾品などの文化遺物が遺され、末期には湖北省産の黒陶も遺されたが、馬家浜文化圏にはそれらの文化要素はなく、両者の地理的な環境が生み出した、海洋民族との接触頻度の違いを示している。縄文前期末に崧沢文化期になると、河姆渡時代より進化した黒陶、玉器、有孔石斧などが墓に副葬され、縄文中期前葉に良渚期になると、高度な加工技術を示す透閃石岩の玉器が唐突に登場し、その数も急増した事が、異文化の流入による急速な発展を示しているからだ。

玉器の加工技術に注目すると、浙江省には加工技術の進化の道筋を示す遺物はなく、進化を牽引した文化的な必然性も見いだせないし、透閃石岩を加工できる硬度が高い石材も採取できないから、この地域で自立的に発展したとは考えられない事も上記の証拠になる。

河姆渡文化期や崧沢文化期には塩の交易によって、関東部族や台湾起源の海洋民族から石斧や原初的な玉器を入手し、良渚文化期に北陸部族の高度な石材加工技術を受け入れ、独特の玉器文化を発展させたと考えざるを得ないからだ。北陸部族は関東部族や台湾の海洋民族に遅れ、縄文中期に浙江省に到達したから、そのタイミングで先ず有孔石斧が流入し、やがて良渚文化の高度な玉器が生まれたとすると、その流れが海洋民族の歴史と整合する事も上記の証拠になる。

縄文早期~前期前葉には、操船技術に優れた関東部族だけが浙江省で交易を行ったから、磨製石斧は日本型しかなかったが、縄文前期後葉に台湾の海洋民族も交易に参加したから、崧沢文化期の磨製石斧に有孔石斧が登場した事になり、これは北陸部族が台湾やフィリッピンに進出した時期と整合する。北陸部族の磨製石斧の量産技術や竹で穴を開ける鑽孔技術が、金剛砂と共に台湾に縄文前期後葉に拡散したから、それによって浙江省の磨製石斧が台湾産の有孔石斧に変わり始め、それを追う様に縄文中期の浙江省に北陸部族の石材加工技術が及んだと考えられるからだ。

縄文中期にmt-D+M7aがフィリッピンに大量移住した事は、その前段階として磨製石斧の大量生産技術が、北陸から台湾やフリッピンに縄文前期後葉に拡散した筈だから、それと上記の事情の流れが一致する。金剛砂を使う磨製石斧の大量産技術は縄文前期前葉に生まれたから、その流れと前期の一連の流れも整合する。つまり北陸部族は磨製石斧の量産技術を橋頭保にして、縄文前期後葉に台湾の海洋民族との交易を活性化させ、その結果として縄文中期にmt-D+M7aのフィリッピン入植と、良渚文化圏への石材加工技術の移転を達成した事になる。

縄文前期後葉の北陸部族は、飛騨外縁帯を起源とする蛇紋岩の資源枯渇に苦しみ始めていたから、台湾の花連から豊富に産出する優れた蛇紋の存在を知ると、磨製石斧を南方に出荷する事は諦め、花連に量産技術を移転する交易に切り替えた事が、上記の事態が発生した遠因になる。石材加工には優れた道具や研磨剤が必要になり、その製作には高度な技術が必要だったから、それらの輸出によって利益を得る事ができたからだ。

但し台湾からアメリ大陸にヒスイ加工技術が伝わった事と併せて考えると、北陸部族の台湾での収益源はヒスイ加工であって、磨製石斧の量産技術は金剛砂の精製を含めて現地化したから、mt-D+M7aが縄文中期のフィリッピンに多数移住したと考えられる。それでは石斧職人の利益が薄かったので、柘榴石や金剛砂が採取できない浙江省では、透閃石の加工技術を移転すると共に工具や金剛砂を販売し、利益を確保した疑いがある。

尋常ではない加工技術の進展の速さも、上記の想定の証拠になる。鋤に骨器を多用していた縄文前期前半の稲作民社会に、滑石や蛍石の玉器が突然登場した事、崧沢文化期に北陸的な軟玉製の始原的な玉器が登場した事、良渚文化期に精巧な軟玉製の玉器が多数作られ、滑石製の原初的な装飾品の誕生から精巧な玉器の生産まで千年しか経ていない事は、外来技術を想定しなければその経緯を説明できないからだ。

日本列島では磨製石斧を使って船を作る時代が3万年続いた後で、1万年前に焼畑農耕が始まって磨製石斧の工房が生まれ、9千年前にその工房が滑石の装飾品を作り始めた。8千年前に石英製の研磨剤を精製する技術が生れると、石製装飾品の素材が滑石から蛇紋岩に変わると共に、磨製石斧の生産性も高まった。精製した研磨剤を使えば、花崗岩などで刃部を研ぐより効率が高まるからだ。金剛砂を使い始めた時期は明らかではないが、6千年前にはそれを使ってヒスイに円孔を開ける技術が確立していた。

柘榴石や金剛砂も蛇紋岩と同じ変成岩鉱物で、日本を含むプレート境界の島々ではありふれた石材だが、花崗岩を基調とする大陸塊には殆どない。

縄文中期の良渚文化で使われた、竹に研磨剤を塗布して翡翠に円孔を穿つ技術は、縄文前期に生まれた北陸のヒスイ加工技術と同じで、その出現は良渚文化期以前である事と、透閃石岩より硬いヒスイの加工の方が高度な技術である事と、浙江省は塩の交易によって発展した地域である事から考えれば、技術移転があった事は間違いない。

浙江省の稲作民族は農耕民族になる前に、製塩を基調とする交易民族になってしまったから、この事情がこの民族のその後の性格を規定し、稲作系交易民族と呼ぶべき異色の民族になった事も特筆する必要がある。

浙江省の沿海部では製塩者の先導によって灌漑施設の建造が進み、製塩者が支配する稲作地域になったから、縄文後期の農業革命の時代に農耕民族特有の人口膨張を起こさなかった。その結果大陸では交易的な少数民族になり、現在はその子孫の痕跡も失われている。

彼らは塩を中核とする交易利権の獲得に注目し、農地の獲得に邁進しなかったから、農耕民族的な人口膨張に至らなかった事が、この民族の大陸での将来を決めたからだ。指導層の意向に沿って民族が活動した結果、この様な事態に至ったが、この稲作民族は荊と比較すると文化的には後発民族だったから、荊を含めた他の民族も同様な行動原理で、指導層の意向に沿って活動したと考えられる。荊の指導者は極めて農耕民族的に活動したから、荊は人口爆発して中華の稲作民族の先祖になり、その子孫は現在も農耕民族的な価値観を維持している。

崧沢文化圏と良渚文化圏では、日本でも発掘される無孔石斧と、日本では発掘されない有孔石斧が出土し、中華では最終的に戉(まさかり)型の有孔石斧に統一される。良渚文化期の戉の画像を下に示すが、扁平な形状の斧に穴が開いている。良渚文化期に権力の象徴として装飾的な戉が用いられた事は、この石斧の性能が高く使い易かったから、浙江省の稲作民が尊重した事を示している。

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孔が開いた石斧は柄に強固に固定できるから、石斧としての機能は高まるが、製作には手間が掛かる。台湾や華南にはウルシがなかったから、台湾の海洋民族は石斧を柄に強固に固定する為に、石斧に孔を開ける必要があった。この石斧が高級石斧として拡散した事は、浙江省にもウルシがなかった事を示し、良渚文化期の遺跡から発掘された漆器は、日本から輸入したものである事を示唆している。

日本の焼畑農耕者は、成長が早く木材が軟らかいコナラやクスノキなどを休耕地に植樹し、伐採の効率を上げながら磨製石斧を沢山使ったから、高性能であっても高価な石斧には需要がなかった。ウルシを使って石斧を固定していた縄文人は、それ以上に強固な固定手段を必要としなかったから、この型の石斧は日本列島には流通しなかった。

遺物として遺り易い石斧の進化から、北陸部族の石材加工技術の進化を追跡したが、磨製石斧産業はウルシも必要としていたのであれば、石斧工房だけではなくウルシ栽培も含む複合産業だったと考える必要がある。ウルシを栽培できる冷涼な地域で、栽培できる穀物はソバしかなかったから、北陸部族の石斧産業とウルシ樹の栽培者はソバの栽培者であったとすると、石斧工房とウルシ樹の栽培者は同一集団だった事になる。

焼畑農耕の発祥地だったと想定される射水台地は、縄文早期~前期には庄川の河口に近い富山湾岸にあったから、庄川の上流にある白川郷の後背地にある、標高700m800mの緩斜面を有する馬狩地区が、この集団のウルシ樹の栽培地だった可能性がある。また射水台地に縄文中期の大集落があった理由は、此処が依然として磨製石斧を柄に装着して仕上げる、伝統的な産業地域だったからである可能性もある。

日本の漆産業の発祥地が東北北部と北海道南部だった事は、ウルシ樹はY-O2b1mt-M7aを起源とする冷温帯性の植生で、冷温帯性の堅果類の北限の栽培種だった事を示唆している。縄文早期前葉に東北部族が生れ、その中核がY-C1だった事をそれに関連付けると、Y-C1が必要とした接着力が強いウルシは、温暖化した縄文早期の九州では栽培できなくなった事がY-C1の東北移住に繋がり、九州にいたその他の縄文人も大半が関東に移住したのも、八ヶ岳山麓に広大なウルシ樹の栽培地が確保されていた事が、重要な要因になっていたと考えられる。

この因果関係は黒潮が温暖化した16千年前に、縄文人が沖縄から九州に移住した動機にも繋がり、その後九州が温暖化すると先行的に関東部族になった縄文人が、八ヶ岳山麓に入植した事にも繋がる。八ヶ岳山麓は、東北北部や北海道南部と類似した気候地域だから、縄文時代を通してウルシ樹の栽培地になり、縄文中期の繁栄を生み出した事になる。

従って良渚遺跡のウルシ工芸品は縄文人が作ったもので、同時代の東北産の漆器より技術が劣っているのは、関東部族か北陸部族が持ち込んだものである事を示唆しているが、河姆渡遺跡から出土した漆器らしい木片は、関東部族が持ち込んだ事になる。縄文早期後葉の雷下遺跡から、漆器らしい木片が発掘されたから、これらの状況は整合する。

 

5-1-6 現代日本人のmt-B5mt-M7b

縄文中期の関東部族の遺伝子構造を保存している現代沖縄人と、縄文後期以降に関東に流入した遺伝子と、北陸部族や東北部族も含む本土人の、mt-B4/mt-Aは、沖縄が1.43で本土は1.31で殆ど変わらないから、mt-Amt-B4の関東への渡来は、縄文前期以前に途絶え、両者はこれらの遺伝子分布の相互関係を、現在まで維持した事を示している。北陸部族は網と石錘を主体とした漁労を行っていたから、銛や釣り針の製作者だったmt-Aの割合は、関東部族ほど多くなかったかもしれないが、小竹遺跡の遺骨からmt-Aも発見され、北陸部族も獣骨を入手する為に弓矢交易を積極的に行ったから、彼らのmt-Aも関東部族に準じる割合を占め、それを含めても本土人のmt-B4/mt-Aに大きな影響を与えなかったと推測される。

mt-B5にはこの様な整合関係がなく、mt-B5/mt-Aは沖縄人が0.29で本土人は0.62になる。関東縄文人にはmt-B5の発見例がないから、沖縄人は関東縄文人には稀だったmt-B5比を、関東縄文人の遺伝子として少数温存しているとしても、本土人には関東縄文人起源ではないmt-B5が半分以上含まれている。これは日本海系部族の遺伝子になるから、この様な場合には、沖縄のmt-B5も関東部族起源だったのか疑う必要がある。

北陸部族が良渚文化期に越人と交易を始めたから、その後mt-B5が日本海沿岸に渡来したと想定されるが、良渚文化が繁栄した縄文中期は寒冷期だから、稲作者が温暖な浙江省から冷涼な日本列島に渡来した筈はない。縄文後期温暖期については「経済活動の成熟期」の項で説明するが、日本列島では温帯ジャポニカの生産性が高まり、山陰や福井でも栽培されたから、mt-B5が稲作者として渡来する道は閉ざされていた。弥生時代以降は日本が稲作先進地になったから、北陸部族のmt-B5は稲作者として渡来したのではない。

稲作とは異なる文化の伝道者として渡来したmt-B5は、養蚕の技術者だった可能性が高い。漢書に「海南島では男性が稲作を行って苧麻を栽培し、女性は養蚕をして絹布を織っている」「(黄支までの島嶼)の民俗は概略、海南島と相い類す。」と記された様に、海洋民族の地域だった島嶼では弥生時代まで、海洋民族の女性が養蚕を行う事は普遍的な状態で、魏志倭人も養蚕が盛んに行われていた事を指摘しているからだ。漢書は絹布が換金的な商品だった事も指摘し、魏志倭人伝は「高級な絹布や苧麻布を輸出している」と記し、極めて流通性が高い商品だった事を示している。

養蚕には桑の栽培が必要だから、養蚕技能者はmt-B5+M7bとして渡来したと推測されるから、mt-M7bの動向も検証する為に、沖縄と本土のmt-A比をmt-M7bにも適用すると、沖縄は0.56で本土は0.71になり、本土の方がやや高いが割合は接近する。沖縄のmt-M7bには暖温帯性の堅果類の栽培者として、原縄文人の子孫に拡散した分も含まれるから、それらを総合すると本土のmt-M7b比は沖縄より高い。つまり本土には日本海文化圏に渡来したmt-B5+M7bが含まれ、mt-B5+M7bは沖縄にも渡来したが、人口割合は北陸の方が圧倒的に多かった可能性が高まる。

本土人のmt-B54.3%mt-M7b4.5%でほぼ同数、沖縄人のmt-M7bmt-B52倍だから、沖縄人のmt-M7bの半数は、暖温帯性の堅果類を持ち込んだ縄文早期の渡来者の子孫で、縄文後期以降に養蚕技術者として渡来したmt-B5+M7bは、mt-B5mt-M7bを半々含んでいたとすると、沖縄と本土の違いも説明できる。

この前提として、九州縄文人のmt-B5は縄文中期にmt-Dに浸潤されて消滅した事と、養蚕技術は南方から台湾~沖縄~日本の順に、島嶼を北上した事が挙げられるが、前者はこの項で検証し、後者は養蚕技術の拡散事情と整合する事を、経済活動の成熟期の項で説明する。

九州縄文人のmt-M7bについては、本土の内数としてカウントする必要はないと考えられる。本土のmt-M7aの一部は古墳時代に帰化した韓族の遺伝子だから、縄文人由来のmt-M7aの残存率は低く、本土人の5%未満であると考えられる上に、これは焼畑農耕者の遺伝子だけではなく、熱帯ジャポニカの栽培者になった東北縄文人の遺伝子も含んでいるから、九州の焼畑農耕者になったmt-M7bは鉄器時代に消滅の危機に瀕し、殆ど残っていないと考えられるからだ。

現在の東アジアにmt-B4は多いがmt-B5は少ない事も、稲作者として劣位の地位に甘んじ続けていたmt-B5は、mt-B4mt-Fmt-Dなどに浸潤された事を示している。当時の穀物栽培は先端産業だったから、先端産業独特の先陣争いで、稲作者としてのmt-B5は敗者になり、東アジアから退場せざるを得なかったが、養蚕の担い手になったmt-B5+M7bは隙間産業の担い手として、多数の子孫を遺したと考えられる。

但しmt-B5+M7bは養蚕の担い手であって、上質の絹布に仕上げたのは大陸ではmt-Fだった事を、於越が琅邪を都にした事が示唆している。また日本の養蚕と織布の担い手は、海洋民族の男性職人だった事を、魏志倭人伝が示している。弥生時代の日本の女性は、東アジアで最強の稲作者だったからだ。

 

5-1-7 湖北省の陶器が中華世界に拡散した経緯

縄文前期には関東部族が湖北省に達していた事を、仰韶文化期の遺跡から発掘された宝貝が示しているが、仰韶文化圏の遺跡から発掘された事は、関東部族が浙江省から塩を運び上げる様になってから長い時間を経ていた事も示し、それが河姆渡文化期に始まった事と整合する。

仰韶文化圏からコメが発掘されている事は、荊が縄文前期温暖期に渭水流域に北上していた事を示し、仰韶文化圏から発掘されたアワはmt-D由来ではなく、既にシベリア文化と接していたY-Rが、シベリアからmt-Zを受け入れた結果である可能性が高い。現在は砂漠化した新疆を囲む山岳地に、mt-Zの分布域が広がっているからだ。他地域のmt-Zは麦の栽培者に浸潤されたが、それらの辺鄙な地域では浸潤がなく、mt-Zが保存されたと考えられる。

中国の考古学会では、焼成温度が低く酸化雰囲気で焼成された土器を紅陶(酸化鉄の色)と呼び、焼成温度が高い高度な陶器を灰陶、黒陶、白陶と呼ぶが、高度な彩文土器(彩陶)もこの範疇に入れる必要がある。

灰陶と黒陶は還元炎(密閉窯)で焼成したものだが、灰陶は土の色、黒陶は器面に炭素が吸着したものになる。白陶はカオリン(景徳鎮の陶土)を含む粘土を、高温(1100℃以上)で焼いたもので、胎土の精製と高火度で長時間焼成する技術が必要になる。

縄文中期の湖北省の荊が、高度な黒陶を製作していた事を、屈家嶺遺跡から発掘された多量の卵殻黒陶と、製陶窯が示している。高度な陶器の出現が最も早いのは、縄文前期の湖北省大渓文化期の黒陶と白陶で、縄文前期後葉には大汶口文化圏の灰陶、黒陶、彩陶や、河姆渡・馬家浜・崧沢文化期の灰陶、黒陶、更に仰韶文化圏の彩陶があり、これらの製陶技術を発明者して製作者したのは、稲作の高い生産性を達成した荊であると考える事に矛盾はない。

湖北省西部の荊が塩を入手する相手は、青海湖の塩を持ち込んで仰韶文化を担った民族であるとの想定は、陝西省の遺跡から宝貝が発掘された事と整合するからだ。この民族が宝貝を貴重品としたのは、荊がコメの兌換品として渡した事を示唆し、関東部族と湖北省東部の荊との塩の交易は、それより遥か以前に始まっていた事、遺伝子分布、浙江省の事情などと整合する。

荊と日常的に接したY-R民族は豊富に彩陶を持っていたから、彩陶を日常用具として使ったが、大汶口文化圏では富裕者が墓に埋納していた事が、両者の立場の違いを示している。海に囲まれていた縄文前期の山東では、これらの高級陶器は海洋民族が運び込む貴重な交易品で、その代価として多量の獣骨を提供する必要があったから、富裕者が持つ貴重品になったと想定できるからだ。

仰韶文化圏の彩陶として後期に区分される、廟底溝類に類似する模様が大汶口文化圏で採用されたが、より精緻で複雑になっている事が、その事情を示唆している。また縄文前期温暖期に黄河流域に北上した荊は、既に塩の入手先を関東部族にも拡大していたから、大汶口文化圏から華北仕様の模様が出土した事になる。湖北省西部の荊が陝西省に北上し、仰韶文化圏の彩陶を作成して塩と交換する一方、湖北省東部の荊は灰陶と黒陶を作り、関東部族がそれを浙江省に持ち込んで塩との交換品にしたが、浙江省の製塩業者が引き取らない余剰分は、山東の大汶口文化圏で獣骨に替えたと考えられるからだ。

浙江省で発掘される黒陶は、製塩した塩を海洋縄文人が湖北省に運び上げた代価として、コメなどと共に浙江省に持ち帰ったが、浙江省のmt-M7bは縄文人のmt-M7aと同様に、土器の発明者だったmt-M7の子孫である事を自負し、縄文社会と同様に、稲作者にも土器製作を男性職人の手に委ねる事は許さなかったと想定されるが、彼女達は製塩土器の量産に追われ、製塩業者がこれらの土器を受け入れた事になる。

しかしこの事情を緩和する為に、mt-M7bが製作するものとは明らかに異なる高級な陶器にする為に、ロクロを使って高温で薄く仕上げ、生活臭がない精巧な陶器に変貌させた結果として、彩陶とは全く異なる高度な陶器が生れたと考える事もできる。

日常品として彩陶を使っていた仰韶文化人には、その様な陶器は人気がなかったが、関東部族が獣骨の入手先にしていた、大汶口文化圏の人々の要求と合致したから、彼らの需要に合わせて灰陶と黒陶の焼成技術を進化させ、更に高温が必要な白陶の生産に繋がったとすると、高度な陶器を開発する動機は複合的だったからだ。

日本のmt-M7aは弥生時代末期まで、土器の製作権を手放さなかったから、日本では窯を使った製陶技術は生まれなかったし、関東部族が荊の陶器を持ち帰る事もなかったと推測される。その慣行が破れて土師器や須恵器が生れたのは、鉄器が普及して稲作の生産性が高まった時期と一致し、事象の変化に法則性があった事を示している。

この慣行が破れたのは男性達が鉄製農具で水田を形成し、それが稲作の生産性の決定的な要因になると、自然地形を利用する女性達の伝統的な稲作が陳腐化し、稲作の主導権が男性に移転したからだ。大型古墳が造営された事は鉄器が普及して土木技術が進化した事を示し、その様な時代になって初めて男性達が職人として、土師器と須恵器を作り始めたと解釈できる事が、その根拠になる。考古学者はこの事情を見て、日本は文化後進地域だったと主張しているが、歴史解釈に論理性が欠如していると言わざるを得ない。

東日本の縄文人女性は盛んに華麗な形状の土器を作ったが、その器形には地域的な特徴があり、広域に流通する商品ではなかった事を示しているのに対し、東日本の工房で作られて広域的に流通した、矢尻、磨製石斧、石製装身具には技術革新が生まれて規格生産された事は、技術の進化に跛行性があった事を示している。それに対して縄文土器は製作技術や焼成技術の進化に乏しく、工房も発掘されていないのは、女性達が作成する生活用具は交易品ではなかった事と、荊が作成した陶器は奢侈品であって日用品ではなかった事を示している。縄文土器や弥生土器と文化比較するのであれば、庶民が使った日用品的な土器で行うべきだ。

稲作民族になったmt-B5+M7bも、台湾発の海洋民族になったmt-B4+M7cも、堅果類の栽培者を起源とする民族だから、フィリッピンやインドネシアも含めたこれらの地域には、職人が精緻な土器を作る習俗は生まれなかったが、それだからこそ堅果類の栽培者を出自としないmt-Fが稲作者だった荊には、土器を産業化する素地があった上に、それを産業化する環境もあったと考える必要がある。

荊は陶器を生活用具として生産したのではなく、関東部族が弓矢を作ったり北陸縄文人が石製装飾品を作ったりした様に、需要に応じた交易品として生産したから、それを荊社会の特徴として捉える必要はあるが、大陸の文化が進んでいた証拠であると考えるのは、背景を無視した極めて王朝史観的な解釈であると言わざるを得ない。

荊はしばしば発生した揚子江の氾濫を逆手に取り、氾濫が収まった後の肥沃な沖積平野を早急に稲作地に復旧する、独特の制度を確立する事によって稲作の生産性を高めたが、荊には沖積土を起耕する打製石器しかなく、物資を運ぶ水運力も弓矢もなかったから、彼らの文化も跛行状態だった。

荊は稲作に欠かせない塩を得る為に陶器を開発して販売したから、その産業化には民族を挙げて取り組んだと想定され、この事情は漁労に欠かせない獣骨を得る為に、弓矢交易に取り組んだ関東部族と類似している。荊の組織的な稲作手法は、交易品の産業化に際しても組織的に取り組む事を可能にし、高級な陶器群を生みだしたが、その基本技術である陶土の精製、ロクロを使う成形、高温で焼成する窯は共通技術だから、それが目先を変えて灰陶、黒陶、白陶になった事に、異なる意味合いを持たせる必要はない。

考古学者に産業社会に対する理解力があれば、高級陶器を作成したのは特定の民族で、東ユーラシアの民族構成を検証すれば、製作者は荊であるとの結論に帰着するだろう。

 

5-1-8 河姆渡文化、崧沢文化、良渚文化

縄文前期前半の河姆渡文化圏で、滑石や蛍石の石製装飾品が発掘されたが、同時期の北陸と比較すると加工技量が稚拙だから、台湾製だった疑いが濃い。河姆渡文化は貧富の差がない自給自足的な稲作社会だったから、陶器も含めて珍しいと云う以上の価値はなかった様に見える。堅果類の栽培者でもあった浙江省の人々の稲作地は、焼畑農耕地の様に自然に戻す資産ではなかったから、子孫に遺すために石製装飾品を溜め込む意識も強くはなかっただろう。

崧沢文化期になると発掘された石製装飾品が、彼らの価値観が変化した事を示している。製塩者が磨製石斧を入手して農地を開墾すると、農地の賃貸関係が成立して富裕者が生れ、軟玉製の玉器や黒陶を墓に埋納する様になったと想定される。同時代の北陸と比較する加工は稚拙だが、玉器の形状に北陸のものとの類似性があるから、北陸の加工技術が台湾に拡散した際に、石製装飾品の雛形も一緒に持ち込まれたと推測され、この事情は河姆渡文化期から継続している。

堅果類の栽培者でもあった浙江省の稲作社会が、富を装飾する器物として、生活臭を失うほどに高級化した黒陶を受け入れたとすれば、それが山東の栽培系狩猟民族に拡散した事にも、拡大的な必然性があったと考えられる。

製陶技術を高度化して塩を入手する手段にしていた荊は、生活用具としていた仰韶文化圏向けとは全く異なる物品として、黒陶などの高級陶器を開発したが、それを浙江省の稲作民族や山東の栽培系狩猟民族に販売したのは、堅果類の栽培者の事情を知っていた関東部族だったから、マーケティング理論から言えば、高級な黒陶が富裕者の権威を飾る文化認識は、陶器を売る為に関東部族が創作した文化になるからだ。

この背景には荊の高度な統治文化や物質文化があり、荊の指導者だった貴族達も陶器を使い、自分達の権威を飾る手法を知っていた事が前提になる。但し荊の貴族にとって、黒陶は既成の秩序を装飾する物品に過ぎず、むしろ他民族から塩を入手する手段になる商品力の高さが、荊の製陶を担務していた貴族の権威を高めていた筈だが、荊の貴族が醸していたこの雰囲気を、高度な組織文化と共に高級陶器のセット文化として販売すれば、単品を販売するより販売力も収益力も高まると、販売を担務した関東部族が考える事は、商品経済の基本的な手順になる。浙江省や華北で発掘された高級陶器は、それが成功した事を示している。

この様な商品販売の基本戦略は、販売担当だった関東部族のマーケティングによって策定され、それに荊が賛同すれば、拡販時には荊の貴族が物品を持参して商品の説明をするだけではなく、関東部族の協賛の下に荊の文化を大袈裟に披露し、顧客の要望を聞いて商品に反映させる事だった。これは現在の企業でも行われている拡販戦略であると共に、大口顧客もそれを当然とする商慣習にさえなっている。具体的に言えば、販売、開発、生産の各責任者は、営業担当者の仲介によって定期的に顧客を訪問し、担当部署の事情を説明すると共に顧客の要望や需要見通しを聴取している。これは交易があれば普遍的根事象であると共に自然発生的な事象だから、発掘された陶器の精巧で多彩な器形を見れば、必然的に生まれる発想になる。

発掘された黒陶の多彩な形状と焼成技術の急速な進化も、その様な販売戦略が採用された事を示唆している。縄文前期以降はアワの生産性も高まり、優良な栽培地の奪い合いが発生していたから、それを調整する必要があった栽培系狩猟民族の権力者は、これによって権力を飾る手段を入手する事ができただけではなく、権力の行使手法を学ぶこともできたからだ。関東部族は効果を高める為に荊の貴族が数人の配下を引き連れる事を推奨し、荊の組織力を見せ付ける様な事もしたかもしれない。

誰も見ていないのに事実らしく説明したのは、商品経済の鉄則に近い事情から生まれる想定だから、これに対する考古学的な証拠としては、荊の高度な文化力と高級で多彩な陶器の発掘実績があれば十分だ。関東部族が協力した事については、関東縄文人から検出された多彩な遺伝子が証拠になる。

荊のこの方針は浙江省にも適用され、浙江省にも黒陶などが拡散したが、この背景として縄文前期には、荊は高度な組織力と稲作文化を成立させていたが、浙江省の稲作民族はようやくその緒に就いたばかりで、荊の文化を真似て統治文化を発展させる以外に手段がなかった事と、真似をする者の特徴として、急速に文化レベルを発展させた事を看取する必要がある。但しその道程は単純ではなかった。

浙江省の稲作民族は、稲作地を拡大する為に照葉樹林を切り開く必要があり、その為には交易によって磨製石斧を得る必要性が高まったから、先ずはそれに専念して製塩活動を活性化した時期が、河姆渡文化期と崧沢文化期だったが、製塩業者が一部の稲作民を囲い始めた程度の時期だったと想定される。

しかし縄文中期寒冷期になると荊が湖北省に南下・集積し、湖北省の塩の需要が一気に高まったから、関東部族もそれに合わせて沖縄に輸送力を集結した。この事態を受けて浙江省の製塩業者が忙しくなると共に、湖北省から多量のコメが流入する様になった。その一方で稲作民は寒冷化による稲作の不振に見舞われ、浙江省に残るかフィリッピンに移住するのか選択を迫られていた。

この様な良渚期に墓から精緻な玉器が多数発掘され、黒陶の存在は霞む様になった事は、浙江省の稲作民社会の権力機構が急速に発達し、権力を飾る必要性も急速に高まった事を示し、黒陶ではその用途に不十分だった事を示唆している。彼らの玉器には定型品もあるが、最高級品は一品料理的な精巧さと複雑さを示し、新しい文化を創造する意欲を示している。言い換えると浙江省の稲作民族でも上位下達的な身分階層化が進み、農地の形成と耕作権の確保を至上命題にする様になり、荊の秩序文化が強力に拡散しながら、それとは異なる文化を急速に創造した事を示している。

この時期の製塩業者は、灌漑設備を構築して稲作地を拡張したから、水利権と稲作地の耕作権を統括する事が必要になり、それを合理的に確立する為に玉器を使った。つまり権力を強力なものにする為には、権力を装飾する儀式とそれに用いる玉器が必要になったが、それを使う過程は荊の文化にはなかったから、黒陶の存在が霞んだ事になり、荊の秩序文化を単純に模倣するのではない新しい統治文化が生れた事を示唆している。

既に指摘した様に荊には伝統的な統治文化があり、それを支えていたのは民衆が持っていた高い倫理意識だったが、そのどちらもない浙江省の稲作民族を製塩業者が統治する為には、新しい統治文化を創造する必要があった。黒陶の存在が霞んだのは、荊とは異なる文化を創造するという、製塩業者の意気込みの表れだったのかもしれない。

同じ縄文中期のアワ栽培者の社会に、卵殻黒陶などの精巧な黒陶が拡散した事は、浙江省の稲作民族が荊の模倣状態を脱却したのに対し、アワ栽培民族は荊文化的な秩序主義を模倣する、周回遅れの文明化段階に入った事を示している。

高級陶器を使ってアワ栽培民族から獣骨を集める交易が盛んになると、高級陶器を求めて湖北省に遡上する関東部族の船が増え、その船の下りの積み荷に重量が軽い高級陶器が多数含まれる様になると、沖縄に関東部族の船が多数集積し、浙江省の製塩者が受け取るコメの量が急増した。これによって製塩業者は堅果類を食べなくなり、その周囲の人々も米食に転換した事が、却って製塩業者が稲作地の地主になる傾向を助長した可能性もあるが、この時代の荊以外の民族には、稲作者全員がコメだけで生活できる稲作技術はなく、一般の稲作民は堅果類も食べていたと考えられる。

この様な事態を迎えた荊も海洋民族も、浙江省の稲作民族に高級陶器を売るより、アワ栽培者により多くの高級陶器を販売する方向に転換し、華北への黒陶販売を促進したと考えられる。縄文中期の華北の遺跡から発掘され、龍山文化を特徴付けている黒陶は、この様な事情によって華北に拡散したと想定される。

石製装飾品の加工技術を提供した北陸部族の到来が、浙江省の製塩業者を高級陶器重視から、石製装飾品重視に転向させた主要な理由だが、単に北陸部族の加工技術が優れていたからではなく、農耕民族化したアワ栽培者を、部族内に抱えていた北陸部族の秩序文化に、浙江省の稲作民族との整合性があったからだと考えられる。稲作であるか焼畑農耕者であるかに関わらず、農耕民族的な秩序観に理解があった海洋民族は、この時代には北陸部族しかいなかったからだ。

荊は製陶技術を他民族に拡散しなかったが、北陸部族は加工技術を稲作民族に与え、加工具を販売する交易モデルに転換していたから、良渚文化期の華麗な玉器が生れた。独自の秩序思想を形成したかった浙江省の製塩業者にとって、それも重要な要素だっただろう。

浙江省の稲作文化は荊の影響を受け、上意下達的な権力機構によって運営されると共に、製塩業者の資本主義的な農耕社会として成長したから、荊の秩序観より北陸部族の秩序観に共感するものが多かったとも言える。北陸部族の海洋民族は、西日本のアワ栽培者の為の海洋交易者の側面があり、アワ栽培者は地域毎に独立した集団を形成していたから、製塩業者が乱立した浙江省にも類似の事情が生れていたからだ。但し類似していたとは言っても、かなり異なっていた事を改めて検証する。

製塩業者はこの過程で独特の法治思想を生み出したが、その権力機構を支える精神文化の一端が、華麗な玉器を使って荘厳な儀式を挙行し、集団の一体感を高める事だったと考えられる。農地の耕作権を保証する事により、社会秩序を安定させる必要がある農耕社会には、農地の分配を差配する権力は必須機能だから、農耕社会が成熟するとそれを生み出す必然性があった。浙江省の稲作民社会の変化を論考したが、この説明だけでは実感が湧かないだろうから、大陸の農耕民族の政権について説明する。

 

5-2 大陸の農耕民族

一般論としての農耕民族は、人口密度が高まると農地の獲得が競争状態になり、民族内に緊張関係が生まれた。その時期や状況は民族によって異なり、荊は縄文早期に独自の秩序を生み出したが、縄文前期~中期に多数の民族がその状態になり、それぞれが独自の路を進み始めた。稲作民族は上記の過程を経たが、アワ栽培民族は全く異なる進路を辿った。

 

5-2-1 稲作民族

縄文前期の荊はY-R民族と関東部族から塩を入手し、その代価としてコメを支払っていたが、相手民族の好みに合わせた陶器なども生産し、それらの民族と文化的な交流も行った。

浙江省の稲作民族も荊の統治手法を知り、当初の到達目標を荊の統治組織としていたが、荊には数千年に及ぶ統治の実績があり、玉器の存在を知る以前から発展させてきたもので、彩陶を含む高度な陶器もその文化が生み出したものだから、今更玉器や儀式を仰々しく活用する必要はなかった。指導層はそれを保持する事に否定的ではなかったから、それらを所持する程度だったと推測される。縄文中期~後期の荊文化を示す遺跡から発掘されている玉器は、良渚文化期のものと比較すると意匠も技巧も高度なものとは言えない事が、その事情を示唆している。

むしろ荊はその高次の段階として、組織力を駆使して民族を産業化し、交易によって塩を得る段階に進んでいた。縄文中期の荊の遺跡からトルコ石が発掘されているから、荊は関東部族が支給した宝貝と同様な意識で、Y-Rとの塩の取引にトルコ石を使っていた可能性もあり、通貨を使用する段階まで進化していたとも言える。

後発的な浙江省では、荊の様な秩序に早急に近付ける努力が求められ、指導者の権威を高める為に玉器を使う儀式が有効になったから、製塩業で得た財力を傾け、その高度化に邁進したと考えられる。儀礼と玉器の中華文明が良渚文化を起源にしている様に見えるのは、多民族が混在する地域になった統一後の中華世界では、後発的な遅れを取り戻す為に浙江省で開発された形式的な文化しか、秩序形成に使えるものがなかったからだと考えられる。

浙江省を起源とする秩序観は法治を基本とし、法の執行者の権威を高める為に、外形を整える文化がそれに併設された。稲作民族の統治文化は夏王朝期に統合されたが、それに関する文献資料は極めて乏しく、それを否定する捏造史が多数創作されたから、それらを厳選して検証しながら、縄文中期以前の状況を確認する必要がある。

多くの史書に、「禹が夏王朝の最初の指導者」になったと記されている。禹は浙江省出身の製塩業者で、渤海南岸に移住して夏王朝の中核的な製塩業者になった事が、夏王朝期の製塩業者の役割を示している。

この時期の中華の稲作は温帯ジャポニカを中核としていた事が、夏王朝の主体は荊だった事を示し、夏王朝の法治を製塩業者が担務する事により、経済的な繁栄を謳歌するに至った事になるが、夏王朝は自治的な民族の集合体であって、王朝の法規は民族間の交易規約に過ぎなかったから、荊は自身の民族的な慣習法に従う事と、禹を指導者にする事に矛盾を感じずに、「禹が夏王朝の最初の指導者」になる事を許容したと考えられる。

但し民族間の交易規約を民族内に周知徹底する事も、夏王朝に参加する資格案件だったから、その手順や手法も夏王朝の法規の重要な要素になり、各民族の民族統治に大きな影響を及ぼした。荊の様な先進的な民族には大した問題ではなかったが、統治機構が未整備だった未開民族には、その体制を夏王朝の法規に従って整備する事が求められ、内政干渉とも言える強烈な作用を及ぼした。

製塩業者の法規は禁止事項と罰則規定の羅列ではなく、推奨手続きを多分に含む秩序誘導型の法規だった事に特徴があり、これが浙江省の製塩業者を起源とする、法治主義の神髄だったからだ。浙江省の製塩業者が発明した儀礼文化も、国威を発揚する類の虚飾的なものではなく、参加者に上下秩序を理解させる実用性を伴っていたと推測される。玉器は厳かに挙行される儀典を重厚に装飾し、主催する権力者を絶対化する事により、その権力が発した法規を順守させる、法治的な農耕社会を実現する事だったと推測されるからだ。

厳かな儀典が権威を確立する有効な手段である事は、天皇の即位式もこの文化の系譜であり、宮廷貴族の特権の中に式次第の継承権が含まれていた事が、その事情を示唆している。

農地争いが熾烈になり易い農耕社会では、この様な厳格な統治が必要だった事を、この時代の稲作民族は気付いていた事になる。農耕社会では権力者の力が強大であるほど、社会秩序が安定する事を既に認識していたとも言える。

アワ栽培の社会にはその様な文化が生まれず、欲しいものを武力で奪う習俗が常態化し、支配者と被支配者の関係も暴力が生み出す社会になった事を、縄文中期の華北竜山文化期の遺跡、殷王朝の墳墓、その後の征服王朝の統治実績が示している。

初期の龍山文化期の遺跡から、貧富の差を示す奢侈品もないのに、農地や収穫を武力的に争奪していた事を示唆する遺物や、惨殺された遺体が発掘された事が、彼らの始原的な社会の暴力性を示している。また彼らの文化的な子孫が武力だけを根拠とする、征服王朝を繰り返し樹立した事がその事実を示している。その様な社会では武力によって平和が維持されても、政権内部には権力闘争が常在したから、それが外部に噴出すると武力闘争になり、恒久的な平和を維持する事は難しかったし、専制国家では現在もその様な事情を内在している。

日本でも平安時代からその様な社会になったのは、日本社会も農耕民族的な社会になったからだ。その様な社会が非暴力的な明治維新によって終了したのは、縄文人的な交易文化を潜在的に継承していたからだ。歴史学者が示す日本史が権力闘争史に傾倒しているのは、彼らが王朝史観に拘泥しているからだ。

夏王朝が中華の王朝の嚆矢として、縄文後期に誕生したのは、海進期には海だった河南省東部に、黄河が広大な低湿地を形成し、荊がそこに入植して人口を膨張させたからだ。荊は多民族を統合する為には法治文化が必要である事を認め、製塩業者の棟梁だった禹を夏王朝の統治者にしたが、夏王朝は各民族を直接統治する政権ではなく、各民族には自治権があったから、禹は連合政権の議長に過ぎなかった。

但しこの体制は数代で終わり、夏王朝の議長は荊が担う様になった。周辺のアワ栽培民族との軋轢が高まると、軍事力が必要になったからだ。

既に述べた状況にこの事情を加えると、湖北省時代の荊の統治文化が鮮明になる。

荊の文化は洪水からの急速な復旧と、復旧した地域で大規模稲作を行う為に生まれ、一人の指導者の周囲に多数の貴族がいて、上意下達的な指示系統の中で組織的に活動していた。荊が形成した高度な産業社会も、塩を得て稲作を継続する事に目的化され、それぞれが異なる役割を担った貴族層が組織的に活動した。これは関東部族が弓矢産業に邁進する為に、部族民を挙げて対応した事情と似ていたから、縄文中期までの関東部族と荊には互いに通じるものがあり、関東部族は利益を度外視して荊の為に活動した。

但し関東部族と荊には大きく異なる点もあり、関東部族は複数民族の集合体だったのに対し、荊は純粋な稲作民族の単一的な集合体だった。関東部族には漁民と縄文人という大区分があっただけではなく、沖縄系縄文人にはY-O2b1Y-C1Y-O3a2aの職掌的な民族区分があり、女性達のmt-M7amt-Amt-B4+M7cmt-Fなどの出自民族の違いが、部族内民族を形成していた事は既に指摘したが、彼女達と縄文人や漁民のペアとしての組み合わせも、社会構造を極めて多様性に富んだものにしていた。しかし荊は温帯ジャポニカを栽培する単一稲作民族で、Y-O系の遺伝子が幾つかあったから、それぞれがある程度の職掌を持っていたとしても、同じ稲作手法で同じ種を栽培する民族で、女性はmt-Fだけだった。

関東部族には北方系と南方系の二つの流れがあり、北方系にはシベリアから獣骨を入手する大目的があり、南方系には稲作を導入する使命があったが、荊にはその様な複眼的な活動目標はなく、民族全体の方向性は稲作地の確保と塩の入手に焦点化していた。

荊の民族意識はその様な大目標の下に統一され、民族活動もそれに規定されていたが、黄河下流の低湿地に入植し、其処に製塩者も入植すると、塩を入手する大目標が失われた。それによって民族としての一体性を確保する事が困難になり、沿海部の呉と湖北省の楚に分裂したと推測される。特に呉では人々の活動が、経済性を追求する個人的な活動に傾斜し始めた疑いが濃い。宝貝を使っていた時期に生まれた漢字に、それを示唆する文字が多数あるからだ。

夏王朝が生まれると華北のアワ栽培民族もそれに参加したから、法規によって権威を形成する統治文化を採用させると、彼らは武闘的な勢力を形成し、縄文後期温暖期が終了して華北の稲作者の人口が希薄になると、夏王朝を暴力的に追放して殷人の王朝を華北に形成した。それは他民族の連合政権ではなかったから、統治範囲はアワ栽培民族が展開していた華北に限られた。

夏王朝は殷人によって華北から追い出されたが、稲作民族の地域だった華南は依然として荊を中核とした夏王朝が統治し、支配地域は四川や雲南に及んでいた。殷王朝の統治が常軌を逸した暴力的なものだったので、各地の稲作民族が連合して殷王朝を武力的に倒し、陝西省の塩商人だった周に華北統治を委任した。殷王朝を倒した稲作民族にそれらの地域の民族が含まれていた事や、明代になっても雲南で宝貝貨が使われていた事がその事情を示している。

周王朝を構成したのは浙江省起源の製塩集団だけではなく、青海湖の塩を商うY-Rなども含む混成民族だった。華北を統治した周の国力が衰えたから、春秋戦国時代になったと言われているが、それは稲作民族を無視した捏造史の時代区分に過ぎない。

春秋時代(弥生温暖期)に中華の経済が高揚すると、統治原理を巡る議論が盛んになった。荊は稲作民族の指導的な民族だったが、荊の倫理観は湖北省の厳しい自然の中で生まれたもので、洪水の危険がない河南省東部のデルタではそれが発揮できなかった。また縄文晩期寒冷期に温帯ジャポニカの稲作が難しくなると、熱帯ジャポニカを導入して凌いだから、荊の女性達にも多様性が生れた。民族秩序を伝統的な倫理観で律していた荊が、多民族社会になっていた中華の指導的な民族になる事の難しさは、弥生温暖期を迎えて中華世界の経済活動が活発化する事によって露呈したが、経済活動が活性化すると荊の伝統的な倫理観が崩壊し始め、問題が深刻化した。

浙江省の稲作民が発明した統治手法は、暴力を伴わずに権力を生み出す仕組みや考え方ではあったが、荊の様な高度な秩序を実現する安直な手法であり、統治の根本になる倫理観を規定するものではなかったから、中華世界を律すべき制度について議論しても、根本的な解決策にはならなかったからだ。

弥生温暖期の荊の秩序観は上意下達的で農耕民族的な秩序観だった事を、春秋時代の荊の思想を反映している老子道徳教が示唆している。

最善の君主の下では、民衆は“君主がいる”と知るだけである。

次善の君主の下では、民衆は君主を敬愛する。

その下位の君主だと、民衆は恐れおののき、更にその下の君主に対しては、民衆はあしざまにののしる。

民衆の信義を育てない君主は、民衆からの己への信義をつなぎ止められずに、事ごとに民衆に宣誓させるという手段に訴える!

 一方、最善の君主の場合はその仕事はなめらかに成就し、民衆は“おれたちが仕事を成し遂げた”と言うだろう。

絶対的な君主の存在を前提にして無為を説いている事を、この記述から読み取る事ができる。荊の社会は上意下達的な秩序が支配し、洪水と戦う必要がなくなっても高度な倫理観は維持されていたが、権力無用論が生れる状態になっていた。

中華世界で多数派を占め、文化的にも最も先進的だった荊が秦帝国の中華征服を許した理由は難解なので、具体的な検証は経済活動の成熟期以降の項に譲り、此処では荊の縄文中期までの民族性を、春秋時代までの経緯から検証する。

文献に遺された呉の地名は区呉、鹿呉、漆呉などで、呉の地域を区分するもので、越常、越裳、倭奴(国)などの様に、分権的な政権を意味するものではなく、最上位者を頂く上意下達的な組織だった。湖北省の治水事情は共通的な課題に満ち、多数の労働力を集積する必要が常在し、洪水の規模によっては広域的な動員が必要だったから、荊の治水組織は広域的なものになって、地域主権的な権力は形成されなかったと考えられ、荊の稲作が高い生産性を得ていた理由としても確度が高く、後世の実情と整合する。

荊には強固な組織力があったが、原初的な宝貝貨の運営さえも関東部族に任せた事により、関東部族が価値を保証する宝貝貨が生れたと考えられるから、荊の組織には全方位的な指向性はなく、稲作地の保全に特化した統治組織だったと考えられる。縄文早期から中期までの荊は、堅果類などの補助的な作物を持たない中で、耐寒性に乏しい稲作に全面依存する中で、氾濫を制御し続けなければならない湖北省の厳しい環境と、塩を入手する為の換金性の高い商品開発に追われ、組織化と民衆の倫理観の向上によって乗り切る必要があった。それに成功する事によって中華最大の民族になると共に、独特の文化の高度化にも成功したが、彼らの統治は特定の目標に焦点化し、多様性を欠いていた。

また高度な組織化には意思決定機構の貴族層への集中と、盲目的な上意下達の徹底が、不可欠な要素として含まれていた。

民衆は“君主がいる”と知るだけであるという表現は、春秋時代になっても租税制度がなかった事を示唆している。つまり荊の君主の財源は、塩を得る活動経費から捻出する事から始まり、経済活動が活性化すると、加工産業を統括する事によって得ていた事を意味している。

荊の統治組織に租税制度がなかった事は、河川の氾濫が常在する湖北省を統治する荊の指導者は、余り裕福ではなかった事を示唆しているが、良渚文化が示す製塩業者の巨大な財力が、交易は巨富の形成を可能にするものだった事を示している。

荊に租税制度がなかったのであれば、浙江省にもその制度はなかった筈だが、製塩業者が塩や石斧の配布価格を適切に設定すれば、コメを租税の様に集める事は可能だから、流通を掌握している限り租税制度は必要なかった。仰韶文化圏を含めた古代政権は、塩の交易から得た財力を基盤にしていたから、古代政権の一般的な成立事情として、法則化できる事を示唆している。

つまり荊の政権も塩を得る為に起こした産業社会を収益基盤としていたから、塩の獲得に奔走しなければならなかった湖北省時代には、富を蓄積する事はできず、それが荊の民衆の支持を高めたから、強い倫理観を生み出す事ができただろう。

その様な荊が高度な産業社会を内包する様になると、必然的に大きな矛盾を内包する様になっただろう。産業資本が農耕民族を支配する状態になったが、産業資本は塩を得るという目標を失い、農耕民族が氾濫に共同で対処する場を失うと、民族を維持する共通目標が失われたからだ。

河南省東部などの沿海部に進出すると、政権が塩を得る為に奔走する必要はなくなったが、産業力を高める要求は周囲の民族からも高まったから、それに応じる事によって政権も富を蓄積しただろう。その産業に従事する者と稲作者は、異なる経済と倫理観を持つ人々に分離し、政権は民衆を代表するものではなくなった事を、上記の老子道徳教が示している。農民が納める租税は耕作権を認めて貰う対価だったが、政権がそれをしなかった事は、政権が統治したのは産業化した稲作事業だった事になり、巨大な土地所有者の出現を促して彼らを統治する様な政権に、帰着せざるを得なかった事を示唆している。

春秋時代に新しい統治思想が生れ、老荘思想の他に法家、儒家、墨子教団が挙げられているが、儒家の始祖である孔子は九夷を理想社会としていたから、海洋民族的な社会を志向していた事になり、墨子教団はシベリア的な価値観の導入を志向した様に見えるので、荊の倫理観が失われる中で新しい統治理念を求めた人々は、周囲の民族の倫理観から最良のモデルを選ぶ為に、百家争鳴の議論していた事になる。つまり荊の倫理観に揺らぎが生れて社会不安が増大したから、新しい統治原理が求められる様になった事になり、上記の歴史の流れと整合する。

秦が暴力的に中華全土を征服すると、上記の議論は空しく潰えて夏王朝は消滅した。秦は周の法治主義を継承し、秦王朝は法治理論に従って運営されたが、稲作民族には受け入れられず、秦王朝は短命に終わった。秦の法治は、秩序観が乏しいアワ栽培民族を統治する為に作られた峻厳なものだったから、稲作民族には過酷過ぎたが、帝国内で同じ法を運用したからではなかろうか。この時代を記した史書は捏造書籍しかないので、事実は分からないのだが。

秦帝国滅亡後の混乱の中から生まれた漢王朝は、主義主張も経済合理性もなく暴力だけで中華世界を征服したから、稲作民的な上意下達の統治を継承し、海洋民族的な儒教を統治原理にした。民衆に支持される筈はなかったから、漢王朝は暴力的に樹立した王朝の、正統性を主張する為に歴史を捏造したから、嘘が蔓延する社会になった。その様な社会は一旦乱れると止めどもなく混乱が広がり、三国志の著者だった陳寿が嘆く「倫理観が失われた」社会になった。

古墳寒冷期に華北王朝が滅び、揚子江流域に南朝が生まれると、稲作民族が復権する機会が訪れたが、稲作民族はそれを生かす事ができず、政治的な混迷の中で騎馬民族が樹立した北朝に滅ぼされ、隋唐王朝が生まれた。南朝では貧富の差が際立っていたが、荊の民族性に依るものだった疑いがある。

 

5-2-2 アワ栽培民族

暴力的な民族性を生み出した理由

史記を捏造した華北のアワ栽培民族の権力機構が未熟で、民族性が暴力的だったのは、集団で農地を形成する必要がない天水農耕者だった上に、アワの生産性が低く、収穫量は天候に左右され易かったからだ。彼らにとっては、王朝は文明の牽引者だったが、それは彼らの個人的な体験であって、元々文明化していた民族にとっては笑止な話だから、彼らが生み出した王朝史観の信奉者は、滑稽な役割を演じているとしか言い様がない。

稲作文化は海洋文化に触れて文明化し、健全な権力機構の下で多様な経験を積みながら、統治制度を熟成させたが、アワ栽培民族はそのプロセスを経験せずに縄文後期を迎え、夏王朝に参加する事によって文明化し始めたが、華北の征服王朝には文明を高度化する文化力が欠如していたから、自発的な権力を形成する文化要素が生れなかった。進歩的な文化を生み出した他国の習俗を、単純に真似る事ができない民族であると実感する原因は其処にある。

アワ栽培者は気候が湿潤化した8千年前に遼河台地に登り、縄文前期に華北東部で、冷温帯性堅果類の栽培者を征服し、気候が寒冷化した縄文中期に華北西部で、仰韶文化を形成していた麦栽培者を甘粛に追放し、華北竜山文化を形成した。彼らの遺跡から収穫を武力的に争奪していた事を示す遺物や遺体が発掘され、暴力的な社会になっていた事を示している。

稲作民族は集団的な労働によって農地を創造し、それを効率的に機能させる政権を創造したが、天水農法では労働力を集積しても農地の拡大や生産性の向上に結びつかなかった事が、この様な事態を生んだ1次的な理由だった。しかしアワ栽培者がこの様な状態に陥った理由は、他にもあった。

草原や疎林地のアワ栽培は単位面積当たりの生産性が低く、輪作すると地力が衰えるから、農耕民族化する為には戸毎に広大な農地が必要だった。1万年以上前に栽培化されたアワは、栽培化による遺伝子の純化が進んでいたから、天候不順による不作が起き易く、雑草との闘いも深刻になり易かった。また天水農法には、旱魃などの収穫を不安定にする要因があった。栽培者は収穫が多い穀物種に収斂し、その改良によって生産性を高める傾向があったが、華北のアワ栽培者がアワとキビを2大作物としていたのは、生産性は低いが干ばつに強いキビの作付けを、止める事ができなかったからだと推測される。

食料事情の不安定さが社会を不穏にする事は、遼河文化期から存在した課題だった。アワ栽培者がシベリアの漁民との共生から疎外され、満州平原を南下した時点で顕在化した課題だった。Y-Nは狩猟民族より狩猟技能が劣り、漁労民族より漁労技能が劣ったからだが、mt-Dの奮闘によってアワの生産性が向上したから、現在の華北に漢族のmt-D+M8aがいる。

mt-Dの奮闘によって人口が増加すると、一人当たりの狩猟の獲物が減少してアワ栽培への傾斜が深まり、食料獲得手段の多様性が劣化すると食料の調達力が不安定化する、悪循環に陥った。

豊作が続くと人口が増えたが、天候が不順になって不作が続くと増加した人口を養う事が途端に困難になり、それが継続的に反復する状態が生れた。石器時代の女性がイネ科植物を穀類に仕立てたのは、狩猟の獲物に頼る不安定な食生活を克服する為だったが、アワ栽培が食料生産の中核になると、天水農耕の欠点が露呈する事により、栽培技術が未熟だった栽培系狩猟民族より、食料調達力の安定性が悪化した。漁労や堅果類の支援がない状態で、穀物の生産性が中途半端に高まると、この様な危機的な状態が必然的に生れただろう。

この様な状態に陥った稲作民族はなく、荊は生産性が高い稲作を実現したし、浙江省の稲作民族は堅果類の栽培者でもあり、水が豊かな稲作地では漁獲も期待できたが、華北のアワ栽培者にはそのいずれもなかったからだ。

食料の過半を狩猟に頼っていた栽培系狩猟民族の狩猟者は、何としてでも獲物を得ようと努力し続け、家族もそれに期待して数日間の飢えに耐えただろうが、穀物生産が食料の半分を賄う時代になると、穀物が不作になれば次の収穫まで1年待つ必要があり、それに対する備えがなければ飢えに襲われる事は、誰にも分かる自明の事だった。つまりその様な運命に見舞われた一族が、次の収穫まで生き延びる為には、他者から盗むしか手段がない事も、一族の皆が認知できる自明の事だった。アワは貯蔵性が高い穀物だから、栽培地の優劣が貯蔵の多寡に反映され、それによる生存確率に雲泥の差が生まれたから、飢饉になると社会が暴力的になる必然性があった。

この様な民族の末裔である扶余について、魏志扶余伝に以下の記述がある。

旧(昔の)扶余の俗は、気候が不順で五穀が熟さないと、その咎を王に帰し、或いは当に王を変えるべきである言い、或いは当に王を殺すべきであると言った。麻世が死んでその子の依慮、六歳を立てて王にした。

農耕民族にとって気候は、生産性を左右する宿命的な存在だったが、彼らには何ともできなかったし、天水農耕では天候不順に対する対策の立案も難しかったから、天に祈るしかなかった。農耕民族の文化には迷信が蔓延る素地が多分にあり、天に祈る際に人命を供する事も農耕民族の特徴だった。この文章は扶余王麻世が死んだ理由を説明するもので、王の不手際によって民族に危機が訪れた事が、王が死んだ原因だったが、この民族の殺伐とした習俗を示している。

縄文時代のアワ栽培民族の更なる問題点として、原初的なアワ栽培には男性の労働力は必要なく、狩猟に出掛けても十分な獲物がない事が分かっていた男性達は、群盗に転じる敷居が低かった事が挙げられる。焼畑農耕や稲作には男性の労働力も不可欠だったが、石器時代の天水農耕によるアワ栽培では、栽培適地を野焼して播種し、後は収穫を待つ以外の手段がなく、男性達が関与する余地がなかったからだ。

華北に南下したアワ栽培者にとって、権力機構が健全に形成される事を妨げていた事情は、それだけではなかった。シベリアの漁民や狩猟民族は伝統的な習俗に忠実だったから、アワ栽培者も共生時代にはそれに従い、安定した民族関係や社会秩序を形成していたが、それはY-N独自の文化ではなく、シベリアのY-C狩猟・漁労民族の文化だった。その文化圏から離脱した華北のアワ栽培者は、新しい秩序観を独自に形成する必要があったが、男性達は自分達で秩序文化を形成する事に慣れていなかった。

アワの生産性が低く狩猟が重要だった時期には、シベリア時代の倫理観を維持する事によって準安定社会を維持していたとしても、食料生産がアワ栽培に傾斜して栽培地の争奪が始まると、狩猟民族や漁労民族の秩序観は全く通用しなくなった。栽培地の優劣の判定にはmt-Dの知識が必要だったから、狩猟時代の様に男性達だけの話し合いで決める事もできなかった。

その様なmt-Dの栽培思想が、彼らの秩序形成に大きな影響を与えた筈だが、父系的な習俗を堅持していたmt-Dではあっても、社会秩序の形成に主体的に参加した実績はなかったから、状況が危機的になっても、主体的に参加しなかった疑いが濃い。mt-Dは最北の栽培者の子孫として、生産物に占める狩猟の割合が高い時代を長期間経験していたから、その習俗の延長線上にあったとすれば、民族秩序の形成に関する思想は持っていなかった可能性が高いからだ。

シベリア時代のmt-Dは有力な栽培者として、女性達の栽培情報の交換ネットワークを発達させていたし、漁民相手の商売を主体的に行ってもいたが、それらは縄張りに関する掟や倫理観を必要とする、広域的な社会秩序とは無縁の経験だった。更に言えばmt-Dmt-Gmt-Zと比較すると、言語文化の発展に関心が薄かったから、利害を調整する話し合いの場を避ける傾向があった可能性が高い。

その結果龍山文化期初頭のアワ栽培民族は、新たな仕組みや習俗を形成できなかった故に、富の蓄積が進んだ段階に至っていなかったにも拘らず、言い変えると交易が生み出す富と権力機構が未発達な状態で、大型化した矢尻を多数準備し、集落単位に障壁を回らして防衛する暴力的な社会を生み出した。城壁で囲んだ都市は稲作社会の遺跡にも見られるが、人々が野獣の危険がない高度の安全を求め、それらを防ぐ為に都市が城壁で守られた場合には、社会が暴力的になった事は意味しない。しかし華北の遺跡から惨殺遺体が発掘される事は珍しくなく、武器や防御施設が準備された理由を示し、社会が暴力的になった事を示唆している。

魏志扶余伝に「最も(女性の)妬を憎み、已に殺した上に之を南の山上に並べて晒し、腐乱させる。」と記されている。は女性の狂乱状態を指したと推測され、女性達が農作業を担っていたのに、抑圧されていた事を示唆している。男性達が暴力的に農地の所有者になり、男尊女卑社会を形成したから、その社会秩序を維持する為に女性を抑圧する手段が、社会を暴力的にする事だったと考えられるからだ。つまり男性達は意図的に社会の尚武傾向を高め、民族内で騒乱を繰り返しながら男尊女卑社会を維持したと推測される。この様な社会では、個人的にそれを止める事はできないから、スパイラル的に社会が暴力的になっていっただろう。日本でも奈良時代から戦国時代まで、つまりアワ栽培者の王朝文化を受け入れてからそれが終焉するまで、世間が武力的な傾向を高めていった事が、それに該当すると言えるだろう。

日本のmt-Dが従事した焼畑農耕は、播種前の樹林の伐採と樹木の乾燥から始まり、畑の焼成を含む事前の段取りが必要だった上に、栽培中は除草に追われたから、男女の役割分担があっただけではなく、一緒に汗を流す必要もあった。数年使った畠を樹林に戻す場合には、石斧で伐採できる樹幹が柔らかい樹種を選ぶ必要があり、mt-M7aの樹木の植栽知識も必要だったから、焼畑農耕はmt-D+M7aの共同作業だった。つまり栽培思想が異なる異民族的な女性との協業も必要だったし、四季に追われる種々の作業を手際よく処理する必要もあった。

しかし華北のアワ栽培者にはそれらの要素も希薄で、栽培者は単一民族だった上に、天水農耕では母と娘の共同作業の枠を超える集団作業は必要なかったから、華北のmt-Dも栽培者のネットワークは維持していただろうが、栽培思想は個人主義的なものに偏らざるを得なかった。

これは麦栽培者にも言える事情だが、麦は播種から収穫まで6~7ヶ月もかかり、播種時期のブレには自由度が乏しいから、栽培者には緊密な情報共有が必要だった。しかしアワは播種から収穫まで34か月と短く、播種時期には個人的な気紛れが許された。

日本の北陸部族には、ソバの栽培者だったmt-M9が多数いたが、現代日本ではその遺伝子が殆ど絶えている。弥生時代以降コメやアワが重視され、ソバが軽視された事情を反映してはいるが、mt-Aも含む他の女性達が稲作者に転換する中で、mt-M9だけが絶えたのは、アワより栽培期間が短いソバの栽培者の恣意性が、時代の進化に適応できない人格を形成していた疑いがある。

弥生時代の青谷上寺地遺跡から4体も発掘されたにも拘らず、現代日本人には殆ど含まれていないのは、彼女達が弥生時代末期~古墳時代に姿を消した事を意味している。鉄器の普及によって水田形成が男性達の仕事になり、稲作者ではなかった女性達も稲作者になる機会を得る中で、mt-B4が日本式の稲作の普及に尽力したが、その波に乗れなかった事を示唆しているからだ。mt-M9のペアが石斧職人だった事もそれに輪を掛けた疑いはあるが、縄文晩期の富山では盛んにソバが栽培されたから、稲作が普及する前の縄文晩期の富山では、mt-M9は依然として有力な栽培者だった事は間違いない。

 

アワ栽培者の他民族征服

8000年前に遼河台地に登ったアワ栽培者の他民族征服は、縄文早期後葉~前期に河北~河南省東北部に南下する事から始まった。

河北省南部の磁山文化や河南省の裴李崗文化は、冷温帯性の堅果類の栽培者の痕跡であると推測されるが、河北の磁山文化が7500年前に滅び、その南の河南省東部の裴李崗文化が7000年前に滅んだのは、暴力的なアワ栽培者がこの地域に南下したからだと推測される。この文化圏からアワやキビの栽培痕が発掘されるのであれば、大汶口文化の状況から連想される事情と同様に、先ずmt-Dが拡散して堅果類の栽培者がアワ栽培者に転換し、やがてアワ栽培民族に蹂躙された可能性が高い。浸潤したmt-Dがアワ栽培地を形成すると、それも栽培地の争奪対象になったからではなかろうか。大汶口文化が縄文中期後葉まで継続したのは、山東は縄文中期初頭まで、大陸と海で隔てられた孤島だったからだ。

縄文中期になると大麦の栽培者だったY-Rが、華北から甘粛省に追放されたのも、アワ栽培者の暴力による結果だったと想定される。この民族は甘粛省に追放されると、羊を飼養する様になったと指摘されているが、Y-Rが羊の飼養を始めたのは、1万年前に中央アジアに北上する際の事だったと推測される。縄文時代の中央アジアやタリム盆地には湖があり、漁労にも期待できたから、彼らの食料には多様性があり、麦やアワに依存する程度は華北のmt-D民族ほど高くなかった。アワ栽培民族の征服が遅れたのは、縄文前期の華北西部には荊が北上していたからだと推測される。人口密度は荊の方が、圧倒的に高かったからだ。

山東には北辛文化があり、土器が発掘されている事から、磁山文化や裴李崗文化と類似した文化であるとも指摘されているが、mt-M8aは土器文化を持っていた筈だから、6100年前まで継続して大汶口文化に転換した事は、縄文前期温暖期に里芋の生産性が高まり、文化が新しい局面を迎えた可能性もあるが、この文化層の終末期に灰陶や黒陶が出現した事は、関東部族から弓矢を得て狩猟の生産性が高まった事により、大汶口文化期になった可能性が高い。

大汶口文化期(61004600年前)が縄文中期後葉に終焉し、華北と類似した龍山文化圏になったのも、漢族の祖先(Y-O3)が華北のアワ栽培者になったY-NY-Q民族に、暴力的に制圧されたからだと推測される。

ウィキペディアは、大汶口文化は早期(6100年~5500年前)、中期(5500年~5000年前)、後期(5000年~4600年前)に区分され、早期は階級差がない母系氏族共同体で、中期に入ると灰陶・黒陶が増え、社会が父系氏族共同体へ移行したと指摘している。

唯物論者は栽培民族の発展段階として、先ず母系社会が形成され、貧富の差の発生と共に父系社会に移行したと主張するが、既に指摘した様にmt-Dが多数拡散した集団はmt-D4/mt-D5が一致しているから、彼女達がマジョリティを形成した社会は一貫して父系社会だった。中期に山東が豊かになると共に習俗が大幅に変わったのは、mt-Dが浸潤してこの民族の遺伝子構造がmt-D+M8aになり、食生活が豊かになったからだと考えられる。

栽培系狩猟民族だった早期に、本当に母系社会を形成していたのか検証する必要がある。狩猟の獲物が主要な食料だった栽培系狩猟民族が、狩猟の縄張りを確保していた父系ではなく、縄張り内の栽培者だった女性を中心に母系社会を形成したとは考え難いからだ。栽培の生産性が高まって不猟期の食糧事情に貢献する様になると、女性の発言権が高まった事は間違いなく、それを踏まえた栽培の第二段階になると、女性達が縄張りを超えたネットワークを形成した事も間違いない。その状態にならなければ、栽培種の遺伝子改良が進まなかったからだ。

しかし栽培系の女性が他民族に浸潤する為には、拡散元の民族も浸潤先の民族も、共に父系である場合に限って越境的な浸潤が成立した筈だから、女性達の浸潤によって栽培文化が発展した事情から考えると、子孫が現存している栽培系狩猟民族は一貫して父系だった可能性が高く、原初的な農耕民族は母系家族だったとの推論には疑問がある。

暖温帯性の堅果類の栽培者についても、mt-B4+M7cmt-B5+M7bが関東に渡来した事は、彼らが父系社会から渡来し、受け入れた漁民も縄文人も父系社会形成していた事を示している。

堅果類の栽培者のY遺伝子はY-O1Y-O3まで多彩だが、ミトコンドリア遺伝子はmt-M7amt-M7bmt-M7cに整然と分かれているから、この状態は母系を示唆している様に見えるが、3万年前に分かれたmt-M7aのペアはY-O2bだけだから、4万年~3万年前にY-O1Y-O3の下位まで分岐し、それぞれが地域集団を形成していたと考えられるから、ミトコンドリア遺伝子が地域毎にmt-M7amt-M7bmt-M7cに整然と分かれているのは、栽培種の統合や土器の形成技術の進化過程で、女性達の情報ネットワークの形成に、排他的な要素があったからだと考える必要がある。

以上の結論としては、シベリアの狩猟文化とY-ON系譜の民族文化には、母系的な婚姻制度はなかったと考えられるから、大汶口文化を担った人々は一貫して父系だったと考えられ、女性の方が厚く葬られていたのであれば、栽培者としての地位が高まっていた事になる。シベリアの狩猟民族の様に、縄張りを形成していた一族内で婚姻を完結させていた可能性もあるが、mt-M8aが栽培化したと考えられる里芋の、栽培種としての完成度の高さから考えると、縄文前期のmt-M7aは栽培の第一段階である他の一族への浸潤期を完了し、栽培の第二段階である栽培者のネットワークを形成していた筈であるし、mt-Dが浸潤した事から考えても母系だった可能性は極めて低い。

但し雲南に母系家族が存在している事も事実だから、荊は母系家族だった疑いがあり、荊の男性はY-Oだからmt-Fが母系だった可能性がある。mt-FmtBと共に氷期のメコンデルタやその周辺でイネの原生種を栽培していたが、その時代の稲作者は母系だった可能性がある。堅果類の栽培者と数万年共生していたmt-B4mt-B5は、それを検証する対象にはならないが、チベット、インドの南の一部の地方、ネパール、ブータン、スリランカなどに一妻多夫が残存している事が、この事象と関連している可能性がある。

大汶口文化の話しに戻ると、山東半島は縄文早期後葉~前期まで島だったが、縄文中期初頭に黄河が形成した川洲が拡大し、半島状に突き出していた鄭州と山東の間に陸橋を形成したから、それを経由してmt-Dが拡散する事によって山東の人々がアワ栽培民族化し、食料事情が良化して人口が更に増えたから、関東部族が陶器と獣骨を交易する条件が整い、大汶口文化圏の繁栄に至ったと考えられる。

彼らにはアワを栽培する以前から里芋があり、華北のアワ栽培者より豊かだったから、同時期の華北に先行して獣骨と高級陶器を交換する背景があった。

大汶口文化が縄文中期後葉に終焉し、山東も華北と類似した龍山文化圏になったのは、華北のアワ栽培者になったY-NY-Q民族に、漢族の祖先が暴力的に制圧されたからだと推測される。縄文中期初頭の陸橋は繋がったり離れたりする状態だったから、土地勘がある山東の人々には往来が可能だったが、大陸で武力抗争に忙しかったアワ栽培民族には、山東に侵攻する余力はなかったが、縄文中期末に陸橋が拡大して山東が大陸と一体になると、アワ栽培者が山東を制圧したと推測される。

冷温帯性の堅果類の栽培者は霧散してしまったが、漢族が現在まで民族的な纏まりを遺しているのは、湿潤な気候に適した里芋の栽培者は、乾燥した気候を必要とするアワ栽培者が拡散できない地域に、退避する事ができたからではなかろうか。堅果類は樹林の移動が困難だから、堅果類の栽培者には退避策もなく集落が蹂躙されて四散した。

この暴力的なアワ栽培民族が後世の殷人になり、縄文晩期まで華北を支配したから、縄文早期以降の華北から発掘される人骨には、Y-NY-Qが圧倒的に多いが、現在の華北では漢族起源のY-O3が多数派で、Y-NY-Qは極めて少ない。その理由は縄文後期に夏王朝を樹立した稲作民族を、縄文後期後葉にY-NY-Qが華北から武力的に追放し、殷人の王朝を樹立したが、この民族の暴力性に危機感を抱いた稲作民族が、縄文晩期に殷周革命を起こし、殷王朝を倒した事による。稲作民族に支援されて華北の支配者になった周王朝は、漢族を各地に屯田させて殷人を華北から追放したから、漢族の人口が殷人を遥かに上回る状態になって現在に至ったからだ。殷人は満州に逃れて扶余を形成したので、扶余には殷人の習俗が遺され、魏志扶余伝に記された民族性を温存していた。これらの詳細は経済活動の成熟期の項で説明する。

周代までの漢族は殷人に抑圧される非暴力的な民族だったから、周王朝は漢族を優遇して殷人を華北から追放したが、その後の漢族は殷人に近い暴力性を発揮する様になった。その理由として殷人のmt-Dが拡散した事も挙げられるが、漢族には民族政権を形成した経験がなく、周の封建制度化下の地域政権として政権の形成を始めたから、周の威令によって政権の形を整えた事も挙げられる。また殷人の集落が点在する地域に屯田兵として入植し、殷人を追放する過程で暴力的な習俗を身に着け、屯田兵の司令部として発足した軍事政権の構成員になった事も、民族自決的な民治を行わずに軍事に傾斜していた事も、漢族の民族性の形成に影を落とした。

漢族の地域政権は春秋時代になると周の意図から離れ、先祖返りする様に暴力的になり、地域的に細分化されていた軍事集団を武力統合し、「戦国の七雄」と言われる軍事強国を形成した。但し秦はY-R民族の政権で、楚は荊の政権で、斉は両者が混在する政権だったから、漢族の政権は華北の韓、魏、趙、燕だったと考えられる。

史記が記す春秋戦国時代は、その様な漢族の乱世を基に捏造し、アワ栽培民族を中華文明の形成者にすり替える歴史であり、稲作民を野蛮な民族として貶めながら、その歴史を抹殺した創作物語に過ぎない。

 

5-3 中華世界と海洋文化

5-3-1 良著文化の中の海洋文化

ヤンガードリアス期以降の浙江省の歴史は、超温暖期になって漢族の祖先の北上経路になった事から始まり、次に暖温帯性堅果類の栽培者が北上して浙江省を中心に展開し、海面が低かった1万年前には、その北端は山東に及んでいた。

海面が上昇すると彼らの痕跡は失われ、銭塘江の河口域は多島海になったが、海面上昇が終った8千年前から暖温帯性堅果類の栽培者の痕跡が発見される様になり、跨湖橋文化と呼ばれている。この文化圏から発掘された丸木船が、海洋民族と接触があった事を示唆し、mt-B5+M7bの渡来時期と整合している。

太平洋が湿潤化して豪雨期になると、河川が多量の土砂を堆積して多島海の狭間に低湿地が生れ、豪雨期が終わって河川の水位が低下するとそこが稲作適地になったから、臨海地域に河姆渡文化圏が形成された。しかしこれらの低湿地は堆積した土砂の荷重で地盤が沈降し、縄文海進期に海面が現在より数メートル上昇したので、河姆渡遺跡群は一旦海面下に水没した。それが再び地表になり、地殻が上昇したり下降したりする複雑な動きを示したのは、氷期に標高100m以上の台地を支えていた地殻が局部的に沈降し、後氷期に海面が上昇したり周囲に土砂が堆積したりして周囲の地殻が沈降すると、クサビの様に沈降していた台地下の地殻が逆に押し上げられ、複雑な地殻の挙動が生まれた可能性がある。

豪雨期が終わった7500年前から500年経過した、縄文前期前半に河姆渡文化圏が生れ、製塩を介した海洋民族との交易が始まった事を示す、黒陶や石製装飾品が発掘されている。発掘された石製装飾品の質は高くないから、この頃の稲作民族にとって石製装飾品は、光る貴重品ていどの価値しかなかった事を示唆している。縄文前期後葉(崧沢文化期)になると、墓に石斧や簡単な玉器が副葬される様になり、縄文中期(良渚文化期)になると複雑な器形を彫り込んだ玉器が副葬され、宮廷文化の萌芽を示しているが、良渚文化は縄文中期末に洪水によって滅んだ。

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http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-02/23/content_248040.htm 良渚文化期の遺跡マップ。

海進期になった縄文前期~中期の銭塘江台地は、東シナ海に囲まれる岬の様な状態になり、良渚文化圏が杭州~上海~常州に広がっていた様に見えるが、揚子江以北の地域でも遺跡が発掘されるのは、銭塘江台地の北端が現在の揚子江以北まで延伸していた事を示している。氷期の揚子江はその様な銭塘江台地の北を流れていたが、上昇した海面に合わせて揚子江が土砂を堆積し、沈降した銭塘江台地を横切る現在の流路が生れた事を示している。

銭塘江のデルタは13万年前の前回の間氷期に、現在より30mほど高かった海面に見合った標高の沖積地が形成され、このデルタの扇頂の標高が高まると流路が現在の河口に変わった。その為に氷期初頭の豪雨期の銭塘江が、低下した海面にデルタの土砂を輩出する事情が失われ、氷期に標高150m以上の台地になった。

後氷期に再び海面が上昇すると、氷期に形成された沖積平野は全て海面下に水没したから、世界中の海岸から沖積平野が失われ、波が急峻な岩肌を洗う殺風景な景観に覆われたが、この台地は関東平野の台地と共に、例外的な存在として縄文早期~前期の稲作民に栽培地を提供した。

ヤンガードリアス期に台地が浸食されて丘陵地になり、その土砂は現在より60m低い海面に流れ去ったが、太平洋の湿潤期の豪雨は、現在の海面標高の海に土砂を流し出したから、沖積平野の形成が始まった。銭塘江台地はそれらの豪雨によって丘陵地になり、ヤンガードリアス期に形成された谷を太平洋の湿潤期の豪雨が埋めると、稲作適地になる低湿地が生れた。河姆渡文化圏が銭塘江の河口付近に生まれ、銭塘江台地に馬家浜文化圏が生れ、河姆渡文化圏ではドングリピットが発掘されたが、馬家浜文化圏では発掘されていないから、銭塘江台地には稲作が可能な広い低湿地にあったとの指摘があるが、稲作の生産性は河姆渡遺跡群と変わらない未熟な状態だった筈だから、馬家浜文化人にコメを主食にできる高い生産性があったとは考え難い。

馬家浜文化圏からドングリピットが発掘されないのは、ドングリを地中に埋めて保存する手法も、海洋民族起源(縄文人起源)だったからである事は既にしたが、仮にその知識が伝搬しても堅果類を栽培する女性が骨器しか使っていなかった民族には、狩猟する男性は打製石器を作っていても、土を掘る為の打製石器を製作する技術がなく、ドングリピットを作る事ができなかったと推測される。

mt-B5+M7bが浸潤した九州縄文人がドングリピットにイチイガシを貯蔵した事は、ドングリピットの方が便利だった事を示しているから、河姆渡遺跡群の人々はドングリピットの存在を知ってから、それに切り替えたと考えるべきだろう。ドングリピットを作る文化が海洋民族から伝搬した事は、河姆渡遺跡群で栽培していたドングリの一部は、台湾に北上したmt-M7c起源の樹種だった可能性もある。それが九州縄文人に伝番した可能性も高く、栽培化された堅果類の起源を究明する事の難さを示している。

縄文前期になると、安徽省の西端に揚子江の土砂が堆積し始め、銭塘江台地の北回りに沖積平野が形成され始めたが、洪水に対処する土木技術を持たなかった浙江省の稲作者は、それに伴う洪水から逃れる事しかできなかった。フィリッピンに移住しなければ稲作を継続できない状態に追い込まれたが、それは銭塘江台地の北縁から始まった出来事だから、銭塘江台地の南にあった銭塘江の河口周辺では、縄文中期末まで良渚文化期が継続したと考えられる。

良渚文化期の宮殿跡と思われる遺構が莫角山にあり、反山と瑤山に多数の墓があるが、これらは銭塘江の河口付近にあり、河姆渡文化期以降の製塩業者の集積地だったから、良渚文化の中核地でもあったと推測される。

墓の標準的な長さは3m、幅2m、深さ1.3mで、地下に木材で作られた部屋に、遺体を納めた木棺が安置された。数百点の副葬品を収めた墓もあり、副葬品の殆どが玉器だった。墓に葬られた人々はこの地域の支配層だったが、強大な権力者ではなく共同墓地に埋葬される人達だった。

良渚文化のもう一つの特徴として、利水のための大規模な土木工事が行われ、その遺構が遺されている事が挙げられる。

これらの副葬品が権力者の誕生を示しているが、縄文時代の稲作民の権力者は、一貫してこの程度の権力を持つ人達で、強大な権力を誇示した殷代のアワ栽培民族の権力者とは、性格が異なっていた。彼らには荊の社会をモデルにした、上意下達的な社会秩序の確立を早急に目指す必要はあったが、彼らの権力の根源は製塩による財力だったから、権力を過度に装飾する必要はなかった事をこの墓制が示している。精巧な玉器を使う荘厳な儀式を創作した事は、財力や海洋民族との交易力を誇示する目的に合致していたから、合理的な発想だったとも言える。アワ栽培民族の権力者にはこの様な特殊事情はなく、他者と権力者を区分する装飾はできる限り華美にする必要があったからだ。

浙江省の稲作民族には海産物を得る手段がなかったから、食生活を改善する為には食料に占めるコメの比重を高める必要があった。交易で得た磨製石斧を使って樹林を切り拓き、稲作地を形成したが、崧沢文化期の製塩業者が得た富は、石斧や原初的な玉器を副葬する程度のものだった。しかし良渚文化期には事態が急展開し、大規模な灌漑設備を作って稲作地を急拡大させると共に、華麗な玉器が生まれた。

縄文中期に荊の人口が湖北省に集中し、塩の需要が急増した事に加え、灌漑工事を行う土木技術を荊から導入し、ジャバニカより生産性が高かった熱帯ジャポニカを関東部族から導入し、富裕度を示す物品が、この地域では入手できない高価な舶来品になったからだ。

後世の中華王朝が玉器を重視した事は、玉器を使って権力を装飾しながら厳かな儀式を開催し、権力を強化する手法を良渚文化から継承した事になる。中華の最初の王朝である夏王朝が、この地域の製塩業者の子孫である、禹によって開設された事がその直接の原因だが、その背景には重要な視点が隠れている。

中華で最大の人口を擁し、最も高度な統治を実現していた荊の秩序文化は、荊の民族文化に大きく依存していた故に汎用性がなかった。製塩業者が創造した儀礼文化と法治主義は、未開民族を含む多数の民族が共有できる手法だったから、多民族主義的な夏王朝の統治方針に適合した。それ故に禹が夏王朝の初代の后(議長)になったが、皮肉な事に荊は、この夏王朝に参加する事によって民族的な倫理観が衰退し、価値観が混乱して文化的な衰退を招いた。

最後にはアワ栽培民族に支配される民族になったが、アワ栽培民族を起源とする漢王朝が、儀礼文化を更に発展させて武力征服王朝の権威を高めた事は、歴史の皮肉と言っても良いだろう。

製塩業者が創作した権力の形成手法は、武力で威嚇して労働力を徴発するのではではなく、他者には入手できない精緻な玉器を使い、荘厳な儀典を開催して権力の存在を周知させ、政権が形成する秩序に人々を参加させる事だった。無秩序に活動していた人々を結集する際に、少人数であれば言葉による説得でも間に合ったかもしれないが、多数を説得する為には玉器の精巧さと、それを使った厳かな儀典が必要だった事になる。これは現代でも応用されている、普遍的な価値観でもある。

エジプトで最初のピラミッドが形成されたのは4700年前で、良渚文化は5000年以上前に生まれて4500年前に消滅したから、洋の東西でほぼ同時代に同様な民族文化が生まれた事になるが、遺品は大きく異なっている。

浙江省の稲作民族は中小河川の水利権を核とし、小規模な政権を多数形成したから、個々の政権への帰属者が少なく遺品は小型になったが、精緻になった。農地の所有者になった製塩業者が意図的に生み出した文化だから、入手できる技術メニューの中から最良のものを選んだが、必要最小限の物品だった。

以下は良渚文化期の代表的な玉器で、装身具しかなかった崧沢文化期から多種の儀式的な玉器を創作するまでに、加工技術が驚異的に進化した事を示している。これらの玉器を加工した基本技術は、北陸部族が提供したヒスイ加工技術だったが、造形の複雑化は彼らの目的に適合したものだった。北陸部族は加工技術そのものを重視し、最も硬いヒスイに奇麗な円孔を開けたが、製塩業者は大きな軟玉に、精巧な模様を形成して富を誇示したからだ。この造形から宗教性を読み解こうとする人がいるが、これは宗教遺物ではなく意図的に精巧な器形を創造したものだから、宗教的な伝承からヒントを得ていたとしても、この造形を拡大解釈しない方が良いだろう。

製塩業者の固有技術としては、富の創造を可能にした製塩技術の進化を議論すべきだが、史学者の関心は玉器の形状に向いている。

image105  image107玉琮

image109玉璧(蛇紋岩?)

  image113 (まさかり)

 

を王権の象徴とする認識が、此処に始まったとする指摘がある。青銅器時代以降の鉞は罪人の首を切り落とす為にも使われ、の象形である「王」漢字は甲骨文字ではhttp://www.vividict.com/UserFiles/Image/==CF--wuli==/--CF1--dao(zu)--/010wang/12jia00.gifと刻まれ、刃部が下端にあったが金文の時代に「王」になった。従って「王」は法に従って裁断する者を示したが、農耕社会の統治者にはその様な強い権力が求められ、それがしばしば行使された事を示している。

製塩業者が精巧なを作った事は、刑罰によって法規に従わせる者が最上位者になる法治的な習俗が、良渚文化期には生まれていた事を示している浙江省の製塩業者が法規文化を生み出し、それを中華世界に普及させたが、良渚文化期にどの程度のものになっていたのかをこの戉が示している。夏王朝期以降にはこの秩序観から生まれた「王」を、行政的な統治者と見做す法秩序が形成され事を、殷王朝でも周王朝でも最高権力者は「王」だった事が示している。

但し「王」は各民族固有の法を施行する最高権力者で、民族間の交易を規定する国際条約的な法規は、夏王朝の「帝」によって決定された。秦の始皇帝が最高権力者の名称に「帝」を加えたのは、「王」と「帝」を分離していた夏王朝の法体系を否定する行為だったから、始皇帝の即位を以て夏王朝の法規は完全に失効した事になり、逆に始皇帝がその名称を選んだ事は、曲がりなりにも夏王朝の法規が残存していた事を意味する。その詳細は「経済活動の成熟期」の項で論考するが、「皇」は諸王の中の大王を意味する。

良渚期の墓から発掘された多数の玉器の原石は、江蘇省小梅嶺産の透閃石だったとの主張がある一方、良渚遺跡の多様な石材は、複数の遠隔地から運び込まれなければ揃わなかったとの指摘もあり、状況は混乱しているが、個々の翡翠の搬入元が特定されているわけではない。上の写真の玉璧は蛇紋岩である疑いが濃い事、蛇紋岩の大産地である日本や台湾から海洋民族が渡航していた事、遼東半島の翡翠である岫玉(しゅうぎょく)も、この頃には玉器としての利用が始まっていた事などから考えると、それらの産地から多様な翡翠が運び込まれたと考えるべきだろう。

それらの翡翠の産地を特定する事に史学的な重要性はないが、加工技術の出自は明らかにする必要がある。古代文明は加工産業と交易に支えられていたから、加工技術の出自は古代の産業史だけではなく、諸民族の交易史を明らかにする資料にもなるからだ。産業史を論考する場合には、何時の時代であっても組立て加工地の特定は必須事項ではなく、加工技術の開発経緯とそれにまつわる市場環境の評価が重要になる事は、弓矢産業や磨製石斧の説明で明らかにした。

これらの玉器の最も高度な加工技術は、竹に研磨剤を塗布して回転させる削孔技術で、これは良渚文化期の1500年前に北陸で完成し、翡翠より硬いヒスイを加工し、規格量産型のヒスイ加工品を製作するものだった。良渚期の複雑な器形を軟玉である翡翠から形成する事は、その技術を用いれば可能だった。

改定モース硬度表で指摘した様に、石英の研磨剤では透閃石岩に大きな穴を開ける事は難しく、硬い研磨剤が必要になる。浙江省でその素材が入手できたとの報告はなく、北陸部族が柘榴石と金剛砂を供給した可能性が高い。これは北陸部族の固有技術だったから、北陸部族も縄文中期には浙江省に達して石材加工技術を移転したが、北陸から浙江省に渡航したのは漁民だけでなく、石材加工の職人も含まれていた事になる。

この状況を工学的な観点から説明すると、玉器加工の基本技術は硬い石材を加工する技術で、良渚期の精緻な玉器はその技術で加工した量産品に過ぎない。先端技術は部品や製造装置に含まれ、組立加工産業の存在は、先端技術の存在を示すものではないからだ。つまり玉琮の複雑な形を掘り出す為には、硬い石材を使った鋭利な工具が必要であり、玉璧に穴を穿つ為には特殊な研磨剤が必要だから、柘榴石を使った工具や金剛砂が使われた可能性が高い。柘榴石は変成岩鉱物だから、日本には複数の産地があるが中華大陸には乏しい。

北陸部族はこの交易により、精巧な加工品の受託製造だけではなく、加工技術を移転した故に必要になる高価な加工具の販売と、精選した透閃石岩の販売から利益を得る事ができた。加工具は軽量である上に単価が高く、精選した透閃石岩の価値も高まったから、操船技術に劣る北陸部族に適した交易だった。

シベリアの造船者の為に過剰品質気味の磨製石斧を生産していた時期に、浙江省で更に利益率が高い生産財を販売していた事は、加工技術の移転は単なる物の交換より付加価値が高く、利益率を格段に高める事が可能である事に気付いていた事を意味し、北陸部族の利益感覚は関東部族より先行していた事も示している。

海運力が貧弱だった古代交易では、主要な交易品は生産財になる傾向が高く、弓矢や磨製石斧はそれに該当するが、これは一般的な庶民に販売するもので、薄利多売的な規格量産品だった。しかし石材加工具や美的な翡翠石材は、農耕民族の富裕者や権力者に販売するものだったから、奢侈品交易の先駆的な交易だった。考古学者は墓から奢侈品を発掘して喜んでいるが、それは古物商人の鑑定士になり、古代史を矮小化していると言わざるを得ない。

利益を度外視して湖北省に塩を運び上げていた関東部族の南方派は、荊の社会が高度に産業化すると、多角的な交易関係から利益を引き出す交易者になったが、荊が生産した高級陶器を販売する商社的な機能だけで、生産技術に関与するものではなかったから、古典的な交易者の状態に留まっていた。操船力に優れた関東部族の長所を生かした交易ではあったが、産業社会では生産者が交易のキャスティングボードを握る法則は、縄文時代にも生きていたから、石器時代の産業だった弓矢交易が衰退すると先進的な交易者の地位を失った。

 

5-3―2 関東部族と北陸部族の海洋文化

北陸部族の海洋技術に遅れが目立つ様になったのは、アワ栽培者が分離してマンパワーが分散し、海洋民族の人口規模が関東部族より小さくなった事が、その一つの原因である事は既に指摘したが、他にも色々な原因があった。例えば古事記が示す東の海から日が昇る場所は、海洋民族の必須技術だった星座による船の位置を割り出す為の、天体観測地に相応しい場所だったが、日本海沿岸にはその様な場所がなかった事も、両者の海洋技術に差が生まれた原因の一つだった可能性が高い。関東部族はそれに相応しい場所として、日立を重要な拠点にしていた事を、日立の大甕倭文神社が天甕星を祭っている事や、天武天皇が日立にちなんだ「日本」を国名にした事が示している。

台湾発の海洋民族は南太平洋を横断してアメリカ大陸に達し、インド洋沿岸を航行してインダス文明圏やオリエントに達したが、これらの海洋民族の天文知識は関東部族起源だった事は間違いない。海洋文化はそれも含んで高度化したから、北陸部族の立地は海洋文化の進化にハンディキャップを与えた。

海洋民族には太陽暦が必要だったから、太陽の運行を精密に観測する場所が必要だったが、農耕民族が使った太陰暦は、冬至の日が分かりさえすれば月齢をそれと組み合わせ、1年を分割した暦を毎年改定すれば良いから、精度が高い星の観測は必要なかった。

海洋民族に太陽暦が必要だったのは、星座の位置から緯度を観測する必要があり、それに使った東の水平線上の曙光直前の星は、日毎に変わったからだ。縄文時代の天体観測地として知られている岐阜県下呂市の金山遺跡は、北陸部族がシナノキノやウルシ樹を栽培していた飛騨高山から、山を隔てた南向きの斜面の谷間にある。遺跡の脇を流れる馬瀬川は飛騨川の支流で、飛騨川はアワ栽培者が入植した美濃~三河に流れているから、この地域は北陸部族のテリトリーだった。

日立には星の神である天甕星を祭る大甕倭文神社(おおみかしとりじんじゃ)があり、その御神体が東の海に臨む四囲が急峻な巨岩で、樹木に遮られない良好な観測所である事が、東の水平線から朝日が昇る地を、古事記が神聖視した理由を示している。星座の位置から緯度や日付を割り出す事は、太平洋やインド洋を航行する為には必須だったが、それに必要な知識量は膨大だったから、関東部族は天甕星や日立を神聖視したが、その知識は北陸部族にも必要だった事を金山遺跡が示している。

太陽の運行から正確な日付を割り出した巨石が谷間にあったのは、観測点が微動もしない巨石を用いる必要性から、その移動が可能な場所である谷間に置いたが、星座を観測した場所は山の峰だった。付近の最高峰である八尾山が観測地だったとすると、東方の視界は木曽山脈によって遮られるが、東南~南の尾根を水平線に見立てる事は可能だった。遠方にある観測地より低い峰は、その先の水平線に含まれるからだ。

関東部族はオホーツク海にも出掛けたから、北東の水平線上の星の詳細情報も必要だったが、北陸部族の活動圏は九州以南だったから、南東の詳細な視界が必要だったとすれば、八尾山で必要な情報を得ていた可能性がある。

 

5-3-3 北陸部族とフィリッピン

フィリッピンは海面が低下した氷期でも絶海の孤島だったから、事故によって漂着した少数の人々以外に住民はいなかった。台湾で生れた海洋民族が8千年前にはフィリッピンにいた事を、雷下遺跡から発掘された7500年前のムクノキ製の船底材が示している。

大陸起源の栽培民族の入植は、揚子江が銭塘江台地の周辺に土砂を堆積し、地盤の沈下と洪水を引き起こし始めた縄文前期に始まり、本格的な移住はジャバニカの生産性が低下した縄文中期寒冷期だったと推測される。三方を東シナ海に囲まれて半島状になっていた銭塘江台地の稲作者には、北上する機会はなかったから、縄文中期寒冷期に向かって気候が冷涼化し始めると、銭塘江台地の稲作者がジャバニカの栽培を続ける為に、フィリッピンに移住し始めたと推測される。原生種が福建省まで北上していたから大陸には南下する場所がなかったが、氷期も孤島だったフィリッピンにはイネの原生種が存在しなかったからだ。当初は台湾への移住が試みられたが、台湾はmt-B4が既に原生種を持ち込んでいた島だった。

フリッピンに多数のmt-D+M7aが移住した事を、現代フィリッピン人がこれらの遺伝子を濃厚に含んでいる事が示している。フィリッピンの海洋民族は関東部族と海洋文化を共有していたが、北陸部族がフリッピンに多数のmt-Dを送り込んだのは、台湾やフィリッピンに磨製石斧の量産技術を移転しただけではなく、浙江省の稲作民族との連携を深めていたからである事を、浙江省の稲作民族が北陸部族の石材加工技術を受容し、玉器を熱心に製作した事が示している。

関東部族が荊の文化に惚れ込んだ様に、北陸部族も浙江省の製塩業者や稲作民族と親和的になったとも言えるが、製塩業者は関東部族を交易相手にしていたから、北陸部族の文化にのめり込む事はできなかった筈だ。従って製塩業者から派生した農耕民族的な権力が北陸部族と提携した事になり、農耕民族的な権力者が稲作民族的な文化を形成したが、その稲作民にはフィリッピンへの移住者も含まれていた事になるが、洪水を避けて移住した者も、冷涼な気候から逃れる為に移住した者も、移住の過半は縄文前期後葉から縄文中期初頭に移住した筈だから、フィリッピンへの移住は良渚文化期が始まる前に終了していた可能性が高い。

つまり玉器としては稚拙な段階だった崧沢文化期に、稲作民族としての精神的な民族文化が形成され、良渚文化期の精緻な玉器が果たした儀礼的な権威主義は、既に形成されていた秩序観に形を与えただけだった。考古学者は肝に銘じて置くべき重要な事実は、精神文化の形成は物質文化の形成に先行し、その時期は一致していなかった事になる。これは製塩業者がその後も関東部族と行動を共にし、フィリッピン越が北陸部族と密接な関係を維持した事と整合し、製塩業者が農耕民族的な人口増加に興味を示さなかった事とも整合する。

これを浙江省の稲作民族から見ると、縄文前期温暖期にジャバニカの生産性が高まると、荊の文化を模倣した秩序主義が台頭して儀礼文化を生み出し、製塩業者が法治主義を生み出したから、両者が融合した良渚文化期に、製塩業者が中華文明の基本思想を生み出したが、稲作民族は必ずしも法治主義を採用せずに、新たな越文化を形成した疑いがある。「越」には王の象徴であるを含む漢字が与えられているが、竹書紀年は越の旗艦国だった於越の指導者を「於越子」と記し、呉と越が合体すると於越の指導者の名称は「君」に変わり、「王」は名乗らなかったからだ。「子」は「孔子」や「墨子」が示す様に、集団の代表者を意味する呼称で、「君」は宗教性が強い名称だった。

関東部族が主導していた弓矢交易は、沖縄系縄文人が開発した技術を活用した交易だったが、北陸部族の石材加工技術も、アワ栽培者や石材加工職人になった縄文人の技術を活用した。良著文化期の派手な石材加工に目を奪われるが、フィリッピンにmt-D+M7aを起こり込んだ背景に、金剛砂を使って研磨効率を高めた石斧の量産技術の移転があった。

台湾産の穿孔石斧にある円形の穴が、その加工技術が台湾に移転した事を示し、北陸部族が縄文前期の早い時期に開発したその技法が、縄文前期末の浙江省に登場した事は、北陸部族は関東部族より4千年遅れて、縄文前期中葉に台湾~フィリッピンに達した事になり、それがこの時期の北陸部族の操船能力を示している。

フリッピンに移住したのは稲作者だけで、浙江省には製塩業者と共生する稲作者が残った。縄文後期になると製塩業者が、荊が入植した渤海南岸に徐々に拠点を移し、共生していた稲作者は疎外されたから、彼らは四川の成都に移住して本格的な稲作者になり、蜀と呼ばれる民族になった。彼らが形成した青銅器は、良渚文化期の玉器とは全く異なる形状を造形し、玉器や青銅器の形状を時代や素材に合わせて創作した事を示している。

その後も浙江省に残っていた稲作者は、縄文後期温暖期が終わると広東に南下し、台湾で開発された焼畑農耕を取り入れて青銅の斧を使い、粤と呼ばれる民族を形成した。台湾から広東へのmt-D+M7bの移動は北陸部族の支援の下に行われ、台湾に残っていた海洋民族も越の一員として、それを支援したと推測される。

フリッピンに渡航した浙江省起源の稲作者が密林の開墾に難渋すると、多数のmt-D+M7aが渡航して焼畑農耕を定着させた事を、mt-DD5/D4比が示し、オーストロネシア語族の方言の分岐事情が、このイベントによって縄文中期に台湾とフィリッピンの言語が分裂した事を示し、フリッピンを拠点していた海洋民族が焼畑農耕の農耕民族化に不満を持ち、縄文後期前葉に拠点をインドネシアに移した事を示している。

mt-B5+M7bが台湾や日本養蚕を伝える為に、縄文後期以降に渡来したと想定される事が、フリッピンに渡航した稲作者の新しい活動の痕跡を示している事を確認する為に、広東と台湾の焼畑農耕者だったmt-D+M7bの構成比を、広東のD/M7b=4として台湾先住民のmt-M7bから除くと、残りのmt-M7bmt-B5と同数になり、日本や沖縄の遺伝子分布から推測した、養蚕技術者のmt-B5+M7bの遺伝子構成と一致する。

山東遼寧にもほぼ同数のmt-B5+M7bがいるが、全体に占める構成比はこれらの島嶼より少ないから、青銅器時代を含む石器時代の養蚕はこれらの島嶼で盛んに行われ、大陸では低調だった事を示している。つまり養蚕技術はフィリッピンから台湾や沖縄などの島嶼を経て、日本本土に伝来した事を示している。

漢書や後漢書に記された東鯷人=「東の鯷人」という呼称は、春秋時代に琅邪を拠点とした越人の地理感覚を示している様に見える。鯷は目刺や煮干の原料になるカタクチイワシを指し、大衆的な魚を主食にしていた海洋民族に相応しい民族名になるが、大陸人が腐敗しやすいイワシを食べていたとは考え難いからだ。「鯷人」は海洋民族を、ユーモラスに表現した名称であると考えられ、古代人がこの様な命名を好んだ事は経済活動の成熟期の項で説明する。

東鯷人は北陸越の海洋民族を指したと考えられるが、北陸越だけが海洋民族だったのであれば単なる鯷人でも良かった筈だが、越の都になった琅邪の越人が東にある北陸を東鯷と呼んだのであれば、フィリッピン越の漁民を南鯷人と呼んだ事を示唆している。南鯷人が中華の史書に登場しないのは、中華世界ではフリッピン越を「越裳」と呼んだからだと推測される。

北陸は美味しい魚の宝庫で、北陸部族の海洋漁民は獣骨を盛んに消費したから、北陸の漁民が東鯷人と呼ばれた事に違和感がある。従って海洋漁民がフリッピンからインドネシアに去ってしまうと、フィリッピン越は漁網を使う古代的な漁労に戻り、美味しくないカタクチイワシを多量に食べざるを得なくなったから、それを揶揄する鯷人呼称が先に生まれ、その対句として東鯷人呼称が生まれたとすれば、合理的な解釈になるだろう。

北陸の漁民は実態に合わないユーモラスな呼称を楽しんだが、痛い所を突かれたフィリッピン越が反発して「越裳」に拘ったから、中華世界では北陸越だけが東鯷人と呼ばれた事になるからだ。

北陸部族が「越」を名乗った事は、「越」は民族名ではなくフリッピンに入植した稲作民族を中核とする、交易同盟の名称だった事になる。荊と関東部族が遠隔地で共生する海洋民族になった様に、フリッピン越と北陸越も同盟的な共生関係を形成したと考えられ、それが縄文後期以降の海洋民族の標準的な民族関係だったと考えられる。

ヴェトナムを越南と記すのは、越同盟の参加集団の標準的な表記になり、論衡に記された「越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ」との記事は、フィリッピンに雉はいない事からから推測すると、北陸越が「越常」だった事を示唆する。但し雉は北海道にはいなかったから、氷期から継続して日本にいた種ではなく、海洋民族が大陸から持ち込んでから長い期間を経て、日本の固有種になったと考えられる。つまり海洋民族は日本の自然を豊かにする為に、山野草だけではなく美しい鳥も日本に持ち込んだ事を示している。

 

5-3-4 荊と関東部族

屈家嶺文化と呼ばれる縄文中期の遺跡が湖北省に散在し、発掘された遺物が荊文化の発展状況を垣間見せている。屈家嶺(くつかりょう)は武漢の西100㎞ほどの、盆地に突き出た丘陵の先端にあり、陶窯遺跡と卵殻黒陶と呼ばれる精緻な陶器が多数発見され、荊が高級陶器の製作を産業化していた事を示している。荊の代表的な製作物が量産的な高級陶器だった事は、それを使って政権の権力を高めたのではなく、商品経済の発展を志向していた事になる。塩の対価として高価な物品を製造する必要性から、製陶技術を高度化したとの想定の大きな根拠になる。政権の権力を強化する為には、唯一性が高い高級品を独占する必要があるからだ。

浙江省の稲作民族は洪水に見舞われるとフリッピンに逃散したが、荊は湖北省の閉じた盆地で、5千年以上洪水に立ち向かいながら稲作文化を発展させ、最終的に中華の主要な稲作民族になった。湖北盆地のその様な事情が荊の精神文化に大きな影響を与え、温帯ジャポニカの高い生産性に支えられた経済力が、荊を産業志向的な民族に仕立てたからだ。

関東部族が荊の高級陶器を日本列島に持ち込まなかったのは、堅果類栽培の伝統を持つ縄文人が陸上の経済活動を差配し、土器は女性が作る生活用具であるとの価値観を守っていたからだ。この伝統は弥生時代まで続き、職人が窯で焼く製陶業は古墳時代になって漸く生まれた。

荊は堅果類の栽培者ではなかったから、製陶を産業化する事に抵抗感はなく、男性達が職人化して産業化に尽力した結果、製陶産業が生まれたと想定される。塩の代価として高級陶器を受け取った関東部族は、それを大陸で売り捌くしかなかったから、縄文前期の河姆渡文化期や崧沢文化期の高級陶器は、その様な経緯で製塩業者にもたらされたが、浙江省の稲作民族も堅果類の栽培者を祖先とする民族だから、縄文人と同じ伝統が生きていれば、黒陶はあまり歓迎しなかっただろう。

荊はその事情を察し、生活臭を消した精巧な陶器に仕上げたから、それが荊の製陶技術を更に高め、実用性が皆無の卵殻黒陶を生み出した。山東の栽培系狩猟民族が高度な陶器を求めたから、縄文前期後葉の山東からそれが発掘され、縄文中になると華北でも精巧な黒陶が出土する様になのは、塩の代価として受領した関東部族が浙江省の製塩業者への販売から、栽培系狩猟民族への販売に転向したからだと推測される。

それが華北の遺跡から多数発掘されるのは、華北の栽培系狩猟民族の権力者の高級品志向が、関東部族の獣骨需要と整合したからだ。それが荊の製陶業を更に高度化して卵殻黒陶を生み出したのは、関東部族は陶器を単なる転売品として売ったのではなく、高度な荊文化をパッケージとして添付し、栽培系狩猟民族の有力者の権威を高める有力な物品に仕立てたからで、卵殻黒陶はその代表的な物品だったと想定される。

関東部族には弓矢という強力な商品力があったから、先ずそれによって販路を開拓し、その後高級陶器だけではなく、暖温帯性の植生を素材にした多彩な商品を品揃えしていた荊と、華北市場の開拓を進めたと想定される。具体的に言えば、荊の貴族が関東部族のその様な助言を聞き入れ、関東部族と同行して華北の栽培系狩猟民族の有力者の集落に出向き、持参した物品を並べると、湖北省の工芸品の文化力に驚いた栽培系狩猟民族の有力者がそれらを求め、関東部族が多量の獣骨を獲得したと想定される。その様な交易関係が樹立されると、栽培系狩猟民族には獣骨を集める交易者が生れ、財力を得て交易者に転化しながら権力を高めると、アワ栽培者の社会に富裕な権力者が生れ、それに伴って広域的な社会秩序が生れたと推測される。

関東部族はこの様にして獣骨を得る交易を多角化したが、交易の仕組みは複雑化していった。関東(弓矢)→岡山(石斧)→浙江省(塩)→湖北省(コメ、黒陶)→浙江省(コメを下ろす)→華北(獣骨)→関東という図式だけではなく、荊の貴族や職人が華北の有力者の要望を聴く為に、湖北省と華北を往来する必要が生れたからだ。関東部族の多数の漁民が縄文中期に沖縄に移住したのは、これらの運送作業を歳時業務として行う必要があり、関東から出向いていたのではそれができなかったからだと推測される。従事した漁民が安定的に食料を得る為には、歳時業務化は必須事項だったと考えられる。

夏王朝が異民族を夷と記したのは、関東部族が弓矢を販売した民族だったからだと考えられる。「夷」は「人」と「弓」の合成漢字だからで、竹書紀年に記された夷の多さは、陶器と弓矢のどちらの販売量が多かったのか、分からない事情を示している。

この頃の大陸でブタが飼養される様になったが、豚は草食動物である牛や羊とは違って飼料が人間の食料と競合するから、食料生産の観点でその経済性に疑問を持つ人がいる。しかし獣骨が商品として弓矢の獲得手段になったのであれば、その回答になる。繁殖力が強いブタは、獣骨の生産性が高い動物だからだ。

黄河下流域では、冷温帯性の堅果類の栽培者の裴李崗文化が、アワ栽培者の暴力によって消滅していたが、彼らが遺した堅果類が野生化して各地に残存していたから、アワ栽培者はドングリを食べなかったが、ブタの飼料にはなっただろう。浙江省では堅果類の栽培者が稲作民族になったから、堅果類に余剰が生れると豚の飼養を始める事は必然的な結果だった。樹林に覆われた華南では草地は少なく、草食動物は小型で敏捷な種が多かったから、稲作者にとって豚は有益な家畜になったからだ。

冷温帯性の堅果類の栽培者が遺した堅果樹が野生化していれば、その文化がアワ栽培民族に普及する事は必然的な結果だった。関東縄文人は生産性が高い冷温帯性の堅果類を栽培していたから、関東部族と交易したアワ栽培民族がその種子を入手し、豚の飼養に励む事も必然的な結果だった。従って現在の華北で野生化しているコナラ、クヌギ、ブナなどは、超温暖期に華南から北上した種と、2万年前に原縄文人と決別した冷温帯性の堅果類の栽培者が持ち込んだ種と、縄文中期に関東部族が持ち込んだ種の、ハイブリット種が野生化していると考える必要がある。

荊が創り出した商品として屈家嶺遺跡から、織布産業の興隆を連想させる彩色した紡錘車も発掘された。塩の獲得と織布が結び付く事を理解した荊の指導層が、織布を奨励する事によって産業化したとすると、紡錘車は荊の発明だった可能性もある。仰韶文化圏でも紡錘車が発掘されたと指摘されているが、陶器と同様に荊を起源とする文化だった可能性もある。

起源論に大した意味はないが、古事記が呉は優れた織布技術を持っていた事を渋々認めた事と、日本人が優雅な衣装を呉服と呼んでいる事は、荊が高度な織布技術を持っていた事を示している。この呉は三国時代の呉ではなく、河南省東部の黄河デルタに縄文後期に入植した沿海部の荊の名称で、その際に湖北省に残留した楚と並び称される存在だった。

荊は稲作の為に人々を組織化し、その稲作組織を保全する為に組織力を使って産業力を高め、周囲の民族から塩を得ていた。その様な荊の産業化は関東部族の弓矢産業と同様に、人々の自発的な経済発展から生まれたのではなく、食料の生産体制を維持する為に人為的に生み出したものだった。従って個別の交易の利益を求めるのではなく、民族全員が塩を獲得する事が目標になり、統治組織はその収益で運営され、個人もその産業活動の範囲内で豊かさを求める、全体主義的な産業社会だった。

関東部族はシベリア的な秩序観を維持していたが、社会秩序が個人的な倫理観に依存していた点では荊の社会と類似し、それが生産活動の拡大と共に進化した事も類似していた。農耕民族的な秩序観は、農地の耕作権の分配とその保証を基底とし、それを保全する権力は人工的で虚構的なものにならざるを得なかったが、政権や統治組織が生産活動に直接関与する事は稀だったから、実務を基底とした荊や関東部族の倫理観や秩序観とは全く異なった。浙江省で灌漑用の土木事業が行われた事は、彼らが荊の生産方式を真似た事を示唆しているが、政権の直接的な生産行為は水利事業止まりだったと推測される。

荊は稲作民族でありながら、農法が特殊だったのでこの様な民族文化を発展させたが、類似した民族意識を持っていた関東部族と、共生的な交易集団として発展する素地があった。荊が栽培していた温帯ジャポニカは、先進的な稲作技術が欲しかった関東部族の垂涎の的ではあったが、関東にmt-Fが渡来した後も両者が高級陶器の拡販に努めた事は、交易パートナーとしての適格性を高める努力を、両者が重ねていたとも言える。

武蔵野台地で熱帯ジャポニカを栽培していたmt-B4にとっても、mt-Fは関東に迎えてみたい稲作技術者だったのかもしれない。栽培女性は特定栽培種の栽培情報を共有するネットワークを形成したから、北陸部族内ではmt-D+M7amt-G+M7aと栽培地を隔て、mt-M9a+M7aは石斧職人化したが、関東では多数のmt-Fが縄文中期初頭に渡来すると、mt-B4は丘陵地や谷間の稲作者、mt-Fは氾濫がある沖積平野の稲作者として共存し、mt-B4が展開していた矢尻街道の宿場業務にmt-Fも参加した。

mt-B4は他の栽培系の女性達とは、異質な性格を持っていた事は間違いない。その具体例を列挙すると、縄文前期~中期に東北部族のmt-M7aに稲作を伝えたから、それが縄文後期温暖期になると、東北部族の西日本への大量移住に繋がった。日本式の稲作を開発したが、それは温帯ジャポニカを基本として熱帯ジャポニカと混載するものだった。その稲作を弥生時代に日本全土に広めたが、その対象は他部族の色々なミトコンドリア遺伝子の持ち主だった。

台湾起源の海洋民族の交易活動を先導したのも、台湾で別れたmt-B4だった事から考えると、その様なmt-B4の存在が、荊と関東部族の関係を裏で支えていた可能性が高い。

浙江省の稲作民族と北陸部族の交流も、両者の関係が初めから完成していたのではなく、互いの努力の積み重ねの結果として越同盟を結成し、弥生温暖期の繁栄に導いたと考える必要があり、フィリッピンに渡ったmt-D+M7aも同様の役割を演じていたと想定されるが、こちらは主要遺伝子を共有する関係だった。

いずれにしても海洋民族は大陸に相応しいパートナー民族を見付け、相互の協力によって文化力を高める事が、大きな活動方針になっていた。インドネシアの海洋民族とインダス文明圏の間にも、その様な関係が生れていたと推測されるので、この項の末尾で紹介する。

 

5-3-5 北陸部族と良渚文化

良渚遺跡から発掘された石器には、精巧な石剣も含まれている。

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良渚文化期の石剣 <http://art.big5.enorth.com.cn/ysbwg/tbzt/guobao/gb1-10.htm

 

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縄文時代の石棒 <ウィキペディア 「石棒」>

石材で武器を作る場合には槍や斧が相応しい形状になり、石剣の存在には違和感がある。西ユーラシアでは青銅器時代に青銅で剣を作ったが、縄文中期には貴重品だった青銅の剣は権力者の象徴になり、それを海洋民族が良渚文化圏に持ち込むと、その形状を模倣して石剣が作られたと考えられる。珍奇な海外文化の入手を権威の表象としていた良渚文化圏では、一つしかなかった青銅の剣は門外不出の宝物になったから、王や貴族がそれを石剣として複製したとすれば、実用性を伴う玉器だった事になる。

しかし折れ易い石剣が石斧や石槍より有効な武器として、実際の戦闘に使われたとは考え難いから、「戉」が法規に従って罪人を処断する王を象徴した様に、それとは異なる権威の行使を象徴的に示した可能性が高い。王や貴族が農地の配分を実施する際に、分配者の権威を示すために使用したとすれば、ものを切り裂く機能がある剣は、農地の分配機能を象徴するものとして視覚的に受け入れ易く、北陸縄文人がそれを真似て石棒を作った理由にも繋がる。

縄文人が何を考えて石棒を沢山作ったのか謎に包まれているが、農耕民族化し始めていた北陸部族の縄文人も、浙江省の稲作民族と同様に栽培地の分配問題を抱えていたとすると、両者の最大の課題は、それに関する納得を当事者から得る事だった。荊には何千年も続いた伝統があり、その方法は確立されていたが、製塩業者にとっては新しい試みで、灌漑事業によって形成した稲作地には水利権が付随し、利害の調整が錯綜していた可能性が高い。

焼畑農耕者の社会でも縄文前期後葉に石斧職人が各地に拡散し、彼らを迎えた焼畑農耕者が新しい栽培地に入植したから、その様な地域で栽培地の配分に関する揉め事が生れた可能性が高い。石斧職人が拡散する以前は磨製石が不足していた地域だから、相対的な関係として焼畑農耕地は十分にあったが、石斧工房が各地に生まれると焼畑農耕者の人口が増え、栽培地が不足する様になったからだ。その際の指導者の権威の象徴として、焼畑農耕者も浙江省の稲作民に倣い、石剣モドキとして石棒を使ったとすると話が整合する。

石棒には男根を象ったものが多数あり、浙江省の稲作民族と縄文人には権力に対する認識の違いがあっただけではなく、他者を威圧する手段も異なっていた事を示唆しているからだ。浙江省の稲作民族と北陸部族は、農耕民族的な感性が合致したと言っても、実際にはこの程度だったと云う実例にもなるだろう。

石棒の出土地を検証する際には、関東部族の地域と北陸部族の地域を区分する必要があり、群馬、栃木、秩父は現代人の地理感覚では関東だが、北陸部族の領域が散在していた。山梨県と諏訪・松本盆地を除く中部山岳地帯にも、北陸縄文人が展開していた事を念頭に、以下のウィキペディアの転記を読む必要がある。

石棒は東日本に多く、西日本ではまれにしか出土しない。中期になって大型品が出現する。直径が10cmを超え、長さが2mに及ぶものがあり、北陸・中部・関東に多い。佐渡の長者ヶ平遺跡の中期前半の例のように、単頭石棒の頭部を写実的な亀頭形としたものがあり、石棒が男根の表象であることを示唆する。中期半ばには北陸を中心に、大型で頭部にめぐる隆起帯の上下または下に、いわゆる三叉文帯を彫る特徴的なものが発達し、これを女性器の表現とみる説もある。完形品は極めて希で、多くは半分に折れた状態で出土する。縄文中期後半に作られた長野県南佐久郡佐久穂町の石棒が最大で、佐久石(志賀溶結凝灰岩)を用いて作られ、全長2.23メートル、直径25センチメートル。

石棒の出土地は北陸縄文人のテリトリーだから、その用途の常識的な推測として以下が成り立つ。

農耕民族化していた北陸縄文人は、縄文中期には栽培地の分配に悩む様になっていたから、北陸の石材加工職人が越人から石剣の製作を依頼された際に、完成品を地域の縄文人に披露しながらその用途を説明すると、縄文人もそれが自分達の悩みを解決してくれる方策であると考え、石剣に伴う制度思想を導入したのではなかろうか。

浙江省では石剣が「戉」に次ぐ権威の象徴として、耕作権の裁可を実務的に行う者の携行品になったが、平和な日本には石剣や木剣などの武器概念がなく、縄文人はその形状にも実感がなかった。しかし農地の配分者の権力を象徴するものとして、目的と手段の概念は採用し、農耕の実務者として農地の獲得に執着していた女性達に対し、争いに発展する事を諫めたかった男性達が、威厳を示す石剣の劣化模倣品として石棒の形状を考案したとすれば、違和感がない説明になる。

縄文人が物事を決める際には、大陸人ほど権威主義的になる必要はなく、地域の人々は皆顔見知りだったから、農地の検定者が石棒を持ち歩く必要はなく、郡佐久穂町の石棒の様に皆が見える場所に建て、権威の表章に仕立てたのではなかろうか。巨大石棒を作った集団が裁定者の背後にいるのだから、その指導に従うべきであるという、共同体を重視した縄文人的な発想になるからだ。

それが殆ど破壊されたのは、農地の分配関係が改訂された際に、旧習の表象だった石棒を皆の前で破壊したからだとすると、それも縄文社会特有の習俗に変わった事を意味する。浙江省の稲作者にとって石剣はそれを持つ者の権威を示したから、破壊する事はあり得なかったが、権威や権力の概念が乏しかった縄文人は、石棒を土地分配の約束事を示す表象的な存在にしたから、皆が見える場所に約束事の表象として展示され、その約束事が改定時に無効になると廃棄したと考えられるからだ。大陸の権威は人が人を強制する根拠だったが、日本人の祖先である縄文人の農地の配分は、衆議の末の皆の約束事だったからだ。

これは縄文中期に新開地に入植した東日本のアワ栽培者の必要性であって、西日本のアワ栽培者には縄文早期以来の伝統的な分配法があったから、西日本には普及しなかった。

佐久は蛇紋岩の産地ではないから、焼畑農耕者が集積していた地域ではなかった疑いもあるが、矢尻街道に接する交通の要衝だったから、街道の宿場に雑穀を供給する準焼畑農耕地だった可能性は高い。蛇紋岩が採掘できなくてもその代用になる石材を使っていた可能性もあり、矢尻街道の宿場に雑穀を供給する為であれば、群馬から磨製石斧を運び込んでも経済的な帳尻が合った可能性も高い。先に指摘した様に、浅間山麓でウルシ樹が栽培されていたからだ。

 

5-3-6 関東部族と良渚文化

縄文中期寒冷期は縄文前期温暖期から3℃以上低温化したが、浙江省では縄文前期末の崧沢文化より高度な良渚文化が、縄文中期寒冷期に生まれた事は、気候に敏感な稲作に傾斜した民族としては明らかな矛盾があった。荊の稲作は縄文前期温暖期に陝西省や河南省に北上し、温帯ジャポニカの耐寒性を高めていたから、縄文中期温暖期には湖北省に南下して気候の冷涼化に耐えたが、河南省の南陽盆地に北上していたmt-Fは関東への移住を余儀なくされ、日本人のmt-Fの先祖になった事が示す厳しい状態があった。

しかし縄文後期温暖期になると再び華北に北上し、河南省東北部の黄河デルタに入植して人口を大幅に増やしたが、縄文晩期寒冷期になると揚子江以南に南下した事が、大陸の稲作民族の宿命を示している。

縄文前期温暖期の浙江省の稲作民族は、東シナ海に北上を阻まれていたから、イネの耐寒性を高める機会がなかっただけではなく、ジャバニカの栽培化が始まった8千年前から縄文前期が終了するまで、縄文中期の様な冷涼な気候は一度も経験していなかった。従って縄文中期寒冷期になって始まった良渚文化期に、急速に文化レベルが高まった事は、浙江省だけの事情では説明できない。

ジャバニカより耐寒性が高い温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fでさえ、気候の寒暖と一致した移動を繰り返して稲作の生産性を確保していたのに、浙江省の稲作民が同じ浙江省で、縄文中期にジャバニカの生産を継続できた筈はないからだ。

従って浙江省の殆どの稲作民族は縄文中期寒冷期になると、フィリッピンに移住したと推測されるが、浙江省に残って稲作を継続し、良渚文化を支えた稲作者もいた事を、良渚文化期に灌漑用の土木事業が行われた事が示している。この不可思議な動きを説明する為には、関東や岡山で栽培されていた熱帯ジャポニカとその農法が、縄文中期の浙江省に移転したと想定するしかない。

岡山は上海と同じ気候だから、岡山の稲作が浙江省に移転しても、浙江省の稲作の冷涼化対策にはならなかったが、関東と上海の平均気温は34℃異なり、縄文前期と中期の気温差も34℃だったから、関東の熱帯ジャポニカを浙江省に導入すれば、縄文前期温暖期の関東と同じ生産性が、縄文中期寒冷期の浙江省で得られた。つまり寒冷化した縄文中期に関東で耐寒性を高めた稲作が岡山に流入し、その生産性を確認して浙江省に移植したとすれば、上記の話は完結する。

岡山では温暖期だった縄文前期より、寒冷化した縄文中期の方が多数の地点で稲作の痕跡が確認されているから、関東で稲作の生産性が低下すると、稲作の拠点を岡山に移動した事になり、関東部族は合理的な判断をしていた事になる。

逆に良渚文化が生まれた背景として、関東から稲作を導入しなければ、崧沢文化期より高度な良渚文化が生れた前提が破綻する。

関東の稲作者だったmt-B4も、縄文中期寒冷期に収穫の激減に見舞われた筈だが、それでも次節に示す様に、栃木県北部の内陸の盆地で稲作を行っていたから、熱帯ジャポニカの耐寒性がかなり高まっていた事と、台地上ではなく湿地の稲作に切り替えていた事を示している。内陸の盆地では時間の経過と共に湖面標高が低下し、湖岸に沖積地が続々と生れていたからだ。

崧沢文化を大幅に上回る良渚文化の高い文化性は、稲作の高い生産性に支えられていた筈だから、稲作地を拡大していた浙江省の製塩業者が熱帯ジャポニカを小作農民に栽培させると、縄文前期以上の生産性を得た可能性が高い。縄文前期の九州で栽培されたジャバニカも、稲作は海岸の低湿地で行われた事を、前掲の伊木力遺跡が示しているから、灌漑工事は稲作地を拡大して生産量を増やす為であって、生産性の向上を狙ったものではない事になるからだ。

これは縄文前期温暖期に関東で栽培された熱帯ジャポニカの生産性は、同時期に浙江省で栽培されていたジャバニカと比較して、遜色がなかった事を示唆している。浙江省の稲作民は縄文中期寒冷期に、製塩業者の小作になるかフリッピンに移住するか、2者択一を迫られたが、熱帯ジャポニカの高い生産性を示されると、製塩業者の傘下になる稲作者も多数いたから、それが後世の蜀や粤が生れた理由に繋がり、歴史事象は整合する。

製塩業者と浙江省に残留した稲作民の利害が一致すると、製塩業者は縄文前期と比較して桁違いの数の稲作民を傘下に収め、その労働力を駆使して干害事業を行ったから、稲作者としての富を追求する者が出現し、それと共に膨大な数の稲作民を統率する必要が生れ、玉器を多数製作した良渚文化が突然生れたとすると、歴史事象の整合性が更に高まる。

浙江省に熱帯ジャポニカが移植された際に、関東からmt-B4が入植した可能性もあるが、熱帯ジャポニカとジャバニカは同じ原生種から生まれた栽培種で、武蔵野台地や常総台地の地理的な環境は、銭塘江台地と類似していたから、浙江省の稲作民にとっての熱帯ジャポニカは、mt-B4が入植しなければ栽培できないものではなかった。従って入植したmt-B4がいたとしても、その数は多くなかったと想定される。

フィリッピンに入植した稲作者はジャバニカを栽培し、熱帯ジャポニカは栽培しなかったから、現在もインドネシアやフリッピンでジャバニカが栽培されていると考えられる。熱帯ジャポニカがフィリッピンに拡散しなかったのは、冷涼な地域で栽培化が進んだ熱帯ジャポニカは、冷涼な地域に適した遺伝子に純化され、フィリッピンには南下できなかった可能性、フィリッピンでは縄文前期温暖期の浙江省と同等か、それ以上の生産性が得られたから、フリッピンに入植したmt-B5mt-D+M7aも、熱帯ジャポニカの導入に積極的ではなかった可能性、焼畑農耕では陸稲栽培しかできなかったから、水稲仕様になっていたなっていた熱帯ジャポニカは、mt-Dには栽培できなかった可能性などがあり、それらの複合的な要因が熱帯ジャポニカのフリッピンへの南下を阻止したと考えられる。

熱帯ジャポニカが高い耐寒性を得たのは、海洋民族と共生した穀物栽培者は、特殊な栽培環境に置かれたからで、それを一口で言えば関東では、コメは希少性が高い高級食材として過分な海産物と交換されたから、寒冷化して生産性が低下しても、mt-B4の生産意欲は衰えなかったからだ。

 

5-3-7 海洋民族の穀物栽培

稲作技術の高度化は稲作民族が行い、日本ではそれを導入する事によって稲作の生産性を高めたと考える人が多いが、実態は全く異なった。イネの優れた品種である温帯ジャポニカを生み出したのは、大陸時代のmt-Fだった事は間違いないが、それを現代まで継がる高度な栽培品種として、生産性を安定的に高めたのは海洋民族のmt-B4だったからだ。焼畑農耕によるアワ栽培にも言える事だが、農学者はアワ栽培を研究対象にしないので、稲作に絞って話を進める。

縄文前期までのmt-B4の活動については考古遺物が乏しく、黒ボク土の分布しか追跡できないが、縄文中期から情報量が増えるのでそれ以降のmt-B4について検証する。

縄文中期寒冷期になると、関東のmt-B4も減収に見舞われた筈だが、それによってコメの希少性が高まる中で、微妙に寒冷化した程度では海産物の水揚げは減少しなかったから、交換できる海産物の量は商品市況としての需給関係で決まり、カロリーベースでのmt-B4の実質的な取り分は、殆ど変わらなかったと推測される。海洋漁労の生産性は高く、時代の進展と共に漁労技術が高度化していたから、漁民はコメの交換価値が高まると、その分漁労に精を出す必要があった程度で、彼らの対応可能な範囲内の出来事だった。漁獲が不足すれば、生産性が低いマグロなどの高級魚を追う事を止め、生産性が高いアジ・サバ・イワシなどの漁労に集中すれば良かったからだ。

堅果類の栽培者でもあったmt-B4+M7cは、ドングリの高い生産性にも支えられて飢える心配はなく、漁民の期待に応え乍ら熱帯ジャポニカの生産性を高めた事を、栃木県で縄文中期の遺跡が多数発掘された事が示している。

特に最北の那須町何耕地(いずこうち)遺跡、大田原市湯坂遺跡、平林真子遺跡などで、縄文中期寒冷期の関東系の土器が発掘されている事が、mt-B4の稲作事情を示している。標高256m何耕地遺跡は規模が大きく、眼下を流れる三蔵川が形成した川洲が、彼女達に稲作地を提供していたと想定される。三蔵川の本流である余笹川(よささがわ)が大戸で遮られて湖を形成し、その湖の湖面標高が徐々に低下していたから、縄文中期の三蔵川の川洲が稲作に適した低湿地になっていたと想定される。

余笹川には黒川や奈良川などの支流もあるが、余笹川本流も含めて広い沖積湿地を形成したのは三蔵川だけだったと想定され、その湿地を望む丘の上にあった何耕地遺跡は、稲作者の遺跡だった可能性が高い。考古学者は縄文中期に限らず、縄文時代の関東で稲作が行われた筈はないと信じ込んでいるから、この遺跡の立地条件を評価できないが、何耕地遺跡の規模の大きさが、稲作適地だった事を示していると考える必要がある。

縄文早期後葉に稲作活動を始めたmt-B4は、当初は台地上の森林を切り払って稲作地にしたから、関東一円に黒ボク土が分布する状態が生れたが、土壌が黒ボク土化すると生産性は劣化するが、時間の経過と共に湖沼の湖面標高が低下し、沖積地が低湿地を提供する様になったから、縄文中期の何耕地遺跡は、mt-B4の稲作地が沖積湿地に変わっていた事を示している。

この地域の気温は東京湾岸より2℃以上低いが、縄文中期寒冷期にmt-B4が此処に稲作地を求めた事は、気候の寒暖より稲作に適した地理的な環境を求め、関東部族の領域の北限まで北上していた事になり、この時期の熱帯ジャポニカの耐寒性を測る重要な遺跡になる。

この遺跡の西の、那珂川を挟んだ対岸の丘陵地に、別の縄文遺跡群である長者ヶ平遺跡があり、其処から火炎土器系の土器が発掘され、焼畑農耕者の集落があった事を示している。こちらの丘陵地には湖があった痕跡も、沖積地低湿地が存在した痕跡もないから、それぞれの栽培者が栽培適地を分け合っていた事を示唆し、縄文中期寒冷期の東日本でも、アワ栽培者の栽培地の不足が問題になっていた事も示している。この丘陵は関東系の土器が発掘された湯坂遺跡の、脇を流れる小川の水源地域であり、二つの遺跡の距離は4㎞程しか離れていないから、部族が異なる二つの集落の間に、何らかの関係が生れていた事を示している。

何耕地遺跡の稲作者は古余笹湖で漁労を行い、それでも不足するカロリーを堅果類で補っていたと想定されるが、那珂川の河口には関東部族の重要拠点があったから、そこで水揚げした海産物も那珂川を遡上して運ばれ、稲作者に提供されていた事になる。つまり何耕地の稲作者は日立の漁民の期待に応え、生産したコメと海産物を交換していたと考えられる。

部族が異なる丘陵地のアワ栽培者には、海産物は提供されなかったから、彼らは堅果類とアワを主要な食料とし、狩猟民族の獣肉とアワを交換しながら基礎食料を賄っていたが、当時の東日本のアワ栽培が、漁労の支援がない状態で生活できたとは考え難い。

蛇紋岩が産出しないこの地にアワ栽培者が入植したのは、標高900m地点まで緩斜面が続く那須高原で、ウルシ樹を栽培できたからではなかろうか。石斧工房で柄が付いた状態まで仕上げると、運搬の労力が高まったが、群馬で加工した石斧だけをこの地に持ち込み、柄と石斧を接着する作業はこの地で行えば、運搬に要する労力を軽減する事ができたからだ。この辺りで採取した砂から研磨剤を精製すれば、消耗した石斧の刃部を研ぎ直す事もできたから、頻繁に群馬に出向く必要はなかっただろう。群馬や秩父の蛇紋岩は、透閃石岩の含有量が少ない軟らかい石材だから、金剛砂がなくても研磨に多大な労力を必要としなかったからだ。

那須高原にアワ栽培者が入植したのは、那須高原でウルシ樹を栽培する為だったとすると、その漆は群馬や秩父の石斧職人に提供するものだったと考えられる。浅間山麓でもウルシ樹は栽培されていたが、その規模は大きくなかった事は既に指摘した。従って群馬や秩父の蛇紋岩帯に多数の焼畑農耕者が入植すると、彼らの使うウルシは北陸部族のウルシ樹の栽培地だった、飛騨から取り寄せる必要が生れたが、飛騨は余りにも遠かったから、那須高原に入植する事に合理性があった。植生の栽培地の適否は容易に判定できないから、この仮説が正しいという証拠は乏しいが、長者ヶ平遺跡は出土品が多く、その理由をとして上記の仮説が有力になる。

湯坂遺跡の付近には、稲作適地になる広い湿地があった痕跡はないから、住民は古大田原湖の水運と漁労を行っていた、Y-O3a2amt-M7aのペアだった可能性が高い。内陸の稲作者と沿海部の漁民の組み合わせには、両者の水運を仲介する湖沼漁民が必要だったからだ。従って当時の古大田原湖の湖岸が、湯坂遺跡付近の標高190m程度の場所にあった事になる。

現在の地図を参照すると、嘗て古大田原湖が存在した事は認められるが、それを形成した堰の痕跡が示されていないから、標高190mの湖面を有した事に疑念が生れる。しかしヤンガードリアス期と太平洋の湿潤期の豪雨が、日本列島の湖沼回りの地形を大きく変えた事は既に指摘したから、この地域でも類似した事態が発生したとすれば、あり得ない話ではない。但し古大田原湖の消滅過程は、縄文史に大きな影響を与えなかったので、詳細検討は省略して可能性の提示に留める。

那珂川や蛇尾(さび)川が高原山系の溶岩台地に谷を形成し、標高250m以下の地域で水成地形を形成しているから、嘗てはこの地域まで巨大湖が覆っていた事は間違いない。阿武隈高地と越後山脈~足尾山地に挟まれ、東京湾から那須野原に至る陥没地形は、太平洋部プレートに圧迫されて褶曲した地峡の様に見える。国土地理院が示す地殻変動図では、この地峡の沈降は示されていないが、古大田原湖の変遷を復元する為にはこの地峡の陥没が重要な要素になる。

那珂川町から矢板市に連なる丘陵が、河川を堰き止めて古大田原湖を形成したと推測されるが、現在のこの山岳地の標高では古大田原湖の湖面標高が250mもあったとは考え難い。しかしこの丘陵を流れる河川の川筋は、那珂川町から矢板市に連なる細長い丘陵を縦に裂く様に流れる、不自然な状態を形成している事が、この疑念に対する答えを提示している。

氷期には現在より標高が高かった丘陵が、高原山の山岳地から流れ出た水を那珂川に流す為に、丘陵上を西に流れる河川が谷を形成していたが、この丘陵は地溝と共に沈降したから、それに連れて古大田原湖も水を溢れさせる様に湖面標高を徐々に低下させていたが、ヤンガードリアス期の豪雨がこの丘陵の西端で古大田原湖を氾濫させたから、溢れ出た水が高原山から流れ出ていた河川と交差し、喜連川水系の流路を丘陵の北から南に変えた事を示している。

つまりヤンガードリアス期の矢板市は現在より100m以上標高が高く、その地形と丘陵が形成していた古大田原湖の堰は、那珂川町にあった谷を排水路にしてはいたが、突然の豪雨によって湖面標高が数十メートル以上高くなると矢板市側にも流路が生れ、高原山を水源にしていた川を横断する水路を形成したから、喜連川水系が形成していた丘陵地の谷は、水源を失った小さな川(江川)になると共に、高原山から流れ出る川は横断水路を介し、現在の喜連川の支流になったと考えられる。

矢板市の平坦地の標高が氷期より100m以上低下したのは、地殻の沈降が主因ではなく半分以上は、ヤンガードリアス期と太平洋の湿潤期の降雨を原因とする、河川の浸食に依るものだったと考えられる。

ヤンガードリアス期が終わると古大田原湖の湖面標高が低下し、湖水は再び那珂川町の地峡だけを経て流出する様になったが、当時の丘陵地の標高は現在より50mほど高く、湖面標高は200m以上の状態を維持したと想定される。その後の地峡の沈下と太平洋の湿潤期の豪雨が、那珂川の流出口の標高を低下させたから、縄文中期の古大田原湖の湖面標高は190m程度になったと想定される。それでも南北20㎞以上の湖面を維持していたが、その後も地峡の沈下と流出口の浸食が進み、やがて終末期の湖になって弥生時代に消滅したと推測される。

湯坂遺跡の湖沼漁民は日立に降って海洋漁民にコメを届け、海産物の干物を稲作者に届ける水運者だったが、古大田原湖の漁獲も何耕地遺跡の稲作者に届ける事により、追加のコメを得ていただろう。縄文中期寒冷期のコメと漁獲の交換レートは、極度に稲作者有利の状態に設定されていたから、湖沼漁民の漁獲では僅かなコメしか得られず、十分な穀類を得る為には、古大田原湖の漁獲を長者ヶ平遺跡の人々のアワと交換する必要があったと想定される。

長者ヶ平遺跡の人々が湖岸に住まなかったのは、古大田原湖の漁労権は関東部族に帰属し、北陸部族が湖岸に住む事は許されなかったからだ。高原山は関東部族の弓矢交易に際し、高原山の黒曜石で作った矢尻がその一翼を担ったから、1万年前に弓矢交易が始まった頃から、日立の関東部族は那珂川を遡上して古大田原湖から高原山に至り、関東部族が諏訪湖や古松本湖で行っていた様に、漁労によって矢尻加工者への報酬を供与する湖だったと考えられる。縄文中期は弓矢生産が最高潮になった時期だから、湯坂遺跡の湖沼漁民は、古大田原湖の北岸を担務する湖沼漁民でもあったと考えられる。

従って古大田原湖の漁労権は関東部族にあり、北陸部族は湖岸に集落を作る事はできなかったが、両部族の縄文人の地域交易は禁止されていなかったから、湯坂遺跡などの湖沼漁民は、長者ヶ平遺跡の人々のアワと漁獲を交換したと想定される。

両者の交易関係が数百年間継続する事により、長者ヶ平遺跡にアワ栽培者が集住する状態が定常化し、アワ栽培者の人口が増えると湯坂遺跡などの漁民は、アワと漁獲を交換するだけではなく、アワ栽培者の為に矢板市域から石斧を運び、生産したウルシを矢板市域に送る作業なども行い、アワを得ていた可能性もある。

群馬の縄文人は現在ほど標高が高くなかった鬼怒川を遡上し、さくら市域まで石斧を運び上げていたと想定されるから、長者ヶ平遺跡の人々にとって古大田原湖の水運が使える事は、陸路の大幅な短縮になった。長者ヶ平遺跡の人々の食糧はアワ栽培が支えていたが、何耕地遺跡の稲作者や湖沼漁労者より、ドングリへの依存度が高い貧弱なものだったかもしれないが、縄文中期寒冷期のアワの生産者当たりの生産量は、重量ベースで稲作の何倍もあったから、この様な共存が可能だった。

つまり冷涼ではあっても栽培が可能な地域に漁民がいて、栽培者が生存できる穀類と漁獲の交換レートが設定されると、栽培者がその地域に進出する事ができた。しかしその地域の限られた漁民の穀物需要を満たすと、栽培者は漁獲を得る事ができなかったら、栽培者の人口には上限があり、漁民の半数を超える事はできなかっただろう。石器時代の稲作者やアワ栽培者の生産性は低く、農耕民族として自立できるレベルにはなかったからだ。

海洋民族との共生による栽培者の地位が確立しても、栽培者の人口が漁民の生産性によって制限される状態は、栽培者の農地争いの発生を制限し、農耕民族的な権力の確立を必要としなかったが、生産性を高める競争は栽培者の間に常在した。栽培者の生産性は漁労や狩猟程に、個人の能力と生産性の格差を生まなかったが、むしろそれ故に栽培者間に格差が生れる事を恐れ、機会の平等に対する合意要求が集団内に生れた事が、石棒の発生を促したと推測される。しかし栽培地の平準化が幾ら進んでも、個人的な競争は不断に行われただろう。

石剣と石棒についての説明で、縄文社会は平和だったと指摘したが、この様な栽培者の社会では、栽培地が不足して奪い合いになる事は少なく、特に気候が冷涼で栽培者の自立が難しかった東日本で、農耕民族的な農地の争奪が発生せずに平和が維持されていた根底に、この様な事情があったと考えられる。

海洋資源が豊かであっても漁民人口が急増しなかったのは、獣骨の入手量に制約があった事も挙げられるが、高度な漁労技術が求められると、それに見合った能力を持つ者の出現率に課題があり、海難事故の多発もその事情に拍車を掛けたと推測される。これは遺伝子の多様性に抑圧的な作用を及ぼしたから、遺伝子の分岐頻度や分岐年に影響を与えた筈だが、歴史を正しく評価できない人達にその解析の進化は期待できない。

大陸の農耕民族は必要な農地を広域的に確保する為に、人口を膨張させて集団力を高める必要があり、それを実現する多産的な文化を生んだが、海洋漁民は高度な技能を子孫に伝承する必要があったから、多産を歓迎しなかった可能性も高い。

海洋民族と共生した栽培者は、漁民の需要によって人口が制限されただけではなく、相場的な交換レートで多量の漁獲を得る為に、穀類の生産性を高める必要があったから、彼らの自意識は栽培の生産性を個人的に競う事に重点化された。しかし栽培地は漁民集落と往来できる距離に設定されたから、個人的な生産性競争はその生活圏内で繰り広げられ、栽培者の情報ネットワークより狭い局所的な競争社会になったから、情報ネットワークの秘匿性が失われ、多様な情報が流れたと想定される。

海洋民族と共生する東日本の栽培者の、穀物の生産性を高める行為は耐寒性の向上と実質的に同義だった。石器時代の品種改良は実りの良い穂の籾を選んで翌年播種する事を繰り返し、遺伝子変異の出現によって生産性が高まる事を期待するものだったから、これは品種改良に関しては、大陸の栽培系狩猟民族の栽培者と同じだった。しかし大陸の栽培者は気候が冷涼化すると、栽培の生産性を求めて南下し、気候が温暖化すると北上したから、品種改良の主要目的は耐寒性の改良ではなく生産性の向上だった。

この様な状態では大陸の栽培者の方が、常に生産性は高かったと考えたくなるが、冷涼な地域の方が雑草や病害虫が少なく、洪水や旱魃が起こりにくいから、耐寒性を高めた品種を冷涼な地域で栽培する方が生産性は安定し、むしろ生産性が高まる事例も多かった。西ユーラシアでは小麦の栽培地が徐々に北上し、農耕文化圏の中心もそれに連れて徐々に北上したのは、その様な理由があったからだと推測される。東ユーラシアでも温帯ジャポニカの生産中心は冷涼な日本になり、主要な稲作地が東日本に多い事や、猛暑になると稲作の生産性が低下する事が、その事情を示している。

海洋民族と共生していた栽培者は、気候が冷涼化して生産性が低下しても、漁民との共生を継続する事が第一命題になり、漁労民族と協議して交換レートを変更する必要が生れたが、海産資源が豊富な海洋漁民にはそれが可能だったから、海洋民族が移動する必要性を認識しなければ、移動する必要はなかった。

しかし気候が冷涼化すると生産性の低下に個人差が生れ、冷涼化の程度が激しければ劇的な個人差が生れたが、漁民は平均的な栽培者を対象にして交換レートを設定したから、栽培者にはそれに備えて準備を怠らない事が求められた。日本列島には豊かに実る堅果類があったから、気候が冷涼化して穀類の生産性が低下しても、その準備によって飢える事はなく、冷害対策に時間を掛ける事は可能だったが、何十年も待てる状況ではなかっただろう。関東に移住したmt-B4mt-Fはそれを乗り越えたから、現在の日本の稲作と遺伝子分布がある。

冷涼な地域で耐寒性を高める為には、気候が冷涼化しても結実する穂を探し、その種子を翌年播種する事を繰り返し、長い時間を掛けて遺伝子を純化する事が唯一の品種改良手段だった。栽培技術にも進化があった筈だが、それを検出する事は難しいから、以下の議論は栽培種に限定するが、種子の選別技術も重要な品種改良技術だったから、急激な寒冷化による収穫量の激減は、選別技術の向上にも大きく貢献しただろう。その際に女性達が集まって衆議を尽くした事を、山岳に遮られて日照時間が短い古甲府湖の東岸や箕輪湖の沖積地に、短日性が強い温帯ジャポニカの栽培者が入植した事が示している。

耐寒性を向上させるにしても、栽培地以上に寒冷な気候に適応する種にはできないから、耐寒性を高める為には寒冷な地域で栽培する必要があり、海洋民族の栽培者の一部は常にその様な状況に直面し、温暖な地域でも気候変動によってそのリスクに晒された。関東で熱帯ジャポニカを栽培化したmt-B4は、mt-Dとは異なって海洋民族との共生を好んだから、結果としてそれらの環境に恵まれる事になり、熱帯ジャポニカは最も冷涼な気候に耐えるイネになったが、生産性は焼畑農耕で栽培するアワより劣っていた。但しこれは単位面積当たりの生産性の問題ではなく、焼畑農耕と比較した栽培可能な土地の面積が格段に狭かったからで、単位面積当たりの生産性は熱帯ジャポニカの方が優れていた可能性が高い。

大陸の稲作者は専業的な稲作民族だったから、家族の必要量を確保する事が最優先課題になり、冷涼な場所では稲作は行わず、気候が冷涼化すると温暖な地域に移動せざるを得なかった。稲作の耐寒性を高める為には、寒冷期の南下だけではなく温暖期に北上する必要があり、荊は縄文早期末から弥生温暖期まで4回それを繰り返したが、寒冷期の度に気候の冷涼化が厳しくなる中で、古墳寒冷期に挫折して東南アジアに移住した。しかし日本列島では古墳寒冷期に大型古墳が多数建造され、経済的な繁栄を謳歌した。この違いに日本式の稲作の耐寒性の高さを見る事ができるが、それは海洋民族になったmt-B4mt-Fが営々と築いてきた、耐寒性品種や耐寒技術の蓄積があったからだと考える必要がある。

関東の漁民は稲作の生産性向上に期待していたから、海産物との高い交換比率をカロリーベースで認め、生産性が低い冷涼な場所でも漁民集団の拠点があれば、稲作者が付近に北上して稲作を強行する事を求めたから、耐寒性改良が画期的に進展した事を、縄文中期寒冷期の何耕地遺跡が示している。

この様な環境下では寒冷期の苦肉の策として、革新的な手法を試す機会も豊富にあり、失敗を基にした改善策などの新技術が、蓄積され易い環境になった。その具体例は確認できないが、古墳寒冷期以降には大陸の専業的な稲作民族だった、荊を凌ぐ生産性を得たから、この様な過程があった事は間違いない。

 

5-3-8 良渚文化が失われた後の上海

揚子江が古揚子江湾を縄文前期に完全に埋め立て、縄文中期に安徽省や江蘇省南部の東シナ海を埋め立てると、銭塘江が形成した台地の北辺が沖積土砂の堆積に囲まれ、その荷重で地盤が沈下し、揚子江や各地の河水が溢れて洪水に襲われる様になると、稲作文化だった良渚文化は4500年前(縄文中期末)に消滅した。台地の稲作者が関東と類似した気候の成都高原に移住した事も、彼らが熱帯ジャポニカの栽培者になっていた事を示し、依然として堅果類を食べていた事も示唆している。

銭塘江台地は縄文海進期以前から、周囲に押し寄せた海水の荷重によって沈降し始めていた筈だが、その頃の海岸の沈降は海面上昇と区別できないから、その時期の話しは措いて、縄文海進期に海になった安徽省や江蘇省の話しから始めると、沖積土砂は海水の23倍の重さがあるから、それによって地盤の沈下が加速した事が、良渚文化が劇的に消滅した原因だったと考えられる。

国土地理院の地殻の変化図は、信濃川の河口が100年間で40㎝沈降した事を示しているが、揚子江が埋め立てた地域は広大で、その土砂の総量は膨大だから、この頃の南京の近傍では、100年間に1m以上沈降した時期があったかもしれない。

杭州湾岸では湾口から南に小さな多数の島が広がり、沈降性の岩盤上にある事を示唆している。杭州湾全域の水深が510mと一様に浅い事は、嘗ての沖積地が水没した様相を呈し、太平洋の湿潤期以降に10m以上沈下した事を示しているから、少なくとも数万年間、この地域は沈降し続けていた事を示唆している。但し8000年で10m沈降する程度の緩慢な動きだから、日本列島基準では殆ど上下動していない。

それを加味して杭州湾の変遷を推測すると、8千年前に太平洋が湿潤化して銭塘江が多量の土砂を輩出し、杭州湾を沖積平野にしたが、その後徐々に沈降して杭州湾が拡大し、遠浅の海浜を形成した事になる。この様な地形は入浜式の製塩地に適しているから、此処が大規模製塩業の発祥地だった可能性が高い。

つまり製塩業者は現在の杭州湾に集積していたから、良渚の大規模遺跡は偶然残った文化遺跡ではなく、良渚文化の中核地の遺跡だった事になる。銭塘江台地の稲作民が居なくなっても、杭州湾の湾岸には製塩業者が残っていた事を竹書紀年が示唆している。禹が渤海南岸の製塩業者として夏王朝を形成する際に、「製塩者の棟梁から宝物を譲り受け、夏王朝が生れると塗山と会稽で諸侯(製塩業者)と会い、その直後に会稽で亡くなった」と記し、製塩業の中心地が杭州湾岸にあった事を示しているからだ。

稲作文化としての良渚文化は縄文中期末に滅亡したが、湖北省に運び上げる塩は浙江省で製塩されたから、湖北省に稲作民がいた状態で製塩業者が浙江省から去る事はかった。荊が縄文後期温暖期初頭に河南省北東部の黄河デルタに移住すると、製塩業者もその塩需要を狙って続々と渤海南岸に移住したから、銭塘江の河口で製塩者の人口が希薄になった事と、渤海南岸に移住した製塩者と共生していた稲作者も、一部が成都に移住した事が、良渚文化が滅亡した様に見える事情を誇張している疑いがある。

但し4000年前の杭州湾の沿岸は、現在は海底だから、彼らの遺跡が発掘される事はない。

銭塘江台地だった上海市域から、4000年~2700年前(縄文後期~晩期)の遺物が出土し、馬橋文化と呼ばれている。馬橋は標高4m程度の、杭州湾と揚子江河口域の中間にある遺跡で、馬橋文化層は良渚文化層の上にある。

考古学者の諏訪春雄氏は、「馬橋遺跡から出土する土器は、縄文土器と区別が付かないほどに類似している」「馬橋遺跡は五層に分かれ、一番深い第五層から良渚文化の遺跡、その上の第四層が馬橋文化で、その上の第三層は春秋戦国時代の文化で、馬橋文化と良渚文化との大きな違いは玉器が出ないことである。」と指摘している。銭塘台地の地盤が沈下すると、上海市域は揚子江などの河川が形成した湿地に囲まれる孤島になったが、海岸に近いから、湿地の水嵩が上がって洪水になる恐れはない場所だった。

稲作民が銭塘江台地からいなくなった後に、その様な場所に留まっていた人達は製塩業者か海洋民族だったと推測され、縄文土器が出土した事は、関東部族の集落が形成されていた事を示唆している。孤島的な環境であれば治安は良好だったから、海洋民族が拠点とするのに相応しい場所だったからだ。

女性が土器を作る習俗を持っていた、縄文人の土器が遺されていた事は、縄文人の家族が移住していた事を示唆している。浙江省から塩を運び上げていたのは海洋漁民の男性だったから、彼らは現地の土器を使っただろう。従って関東部族が馬橋を沖縄に準じる交易拠点にしたから、縄文人女性もそこに入植したと想定される。

馬橋時代が始まった4000年前は、4500年前に温暖期が始まり、荊の本流が河南省東部の黄河デルタに入植してから500年経過し、黄河デルタの経済が活性化し始めていた時期であり、五帝代~夏王朝期への変遷期だったから、それを受けた関東部族が馬橋を交易の要衝にしたと考える事に違和感はなく、馬橋遺跡がBC700年頃に廃絶した理由も、倭人の交易活動の流れとして説明できる。

弥生温暖期が始まって200年経過したBC700年頃は、縄文晩期寒冷期に揚子江以南に南下した稲作民族が、再度渤海南岸迄まで北上した時期であり、周の権威が衰えて春秋時代になった時期でもあった。この時期の重要な出来事として、経済が活性化すると宝貝貨のインフレが進行し、デノミ貨幣である銅製の楚貝貨が生れた事が挙げられる。倭人が提供していた、宝貝貨の流通が終了したからだ。

倭人の鉄器時代はBC1000年頃に始まったと想定されるから、船が大型化して長距離航行が可能になった事も、拠点としての馬橋がBC700年に不要になった理由として挙げられる。

馬橋遺跡の上層部に春秋時代の遺跡が存在する事は、海退が進むと共に銭塘江台地が数メートル隆起し、この地域が現在の地形に近い状態になった事を示唆している。従って陸からの侵入者がいない孤島ではなくなった事も、馬橋が海洋民族の拠点ではなくなった理由として挙げられるが、いずれも海洋民族だった関東部族の事情になる。

馬橋遺跡が関東部族の交易拠点だったとしても、女性が入植した理由は別途検証する必要がある。銭塘江台地に稲作民がいなくなって土器が不足したとしても、荊や製塩業者から入手できたから、理由は他に求める必要があるからだ。

縄文前期に湖北省に持ち込んだ宝貝は、優先購入権を保障するものだったから、宝貝を入手した者が他の手段で塩を入手すれば、手放しても惜しくはないものだった。しかし縄文中期の湖北省の遺跡から、トルコ石が発掘されている事は、荊は華北から湖北省に南下しても青海湖の塩も消費していた事を示し、仰韶文化圏に宝貝が拡散した経緯も示している。つまり当時の宝貝は塩の交易に関する物品として、またトルコ石と同等の価値を有する財貨として、Y-R民族に拡散した事を示唆しているからだ。

縄文中期寒冷期になると、荊が陝西省や河南省から湖北省に南下して武漢周辺の人口密度が高まり、関東部族が運び上げる塩の需要が増加したから、宝貝は塩と交換する権利を保障するものから、先ず1年分の塩と等価な交換品になり、それがトルコ石と共に貨幣として流通する様になったから、トルコ石が縄文中期の遺跡から発掘されたと考えられる。塩の交易に従事していた貴族層が、それらを溜め込む様になった事も意味するから、宝貝の必要量は激増しただろう。

トルコ石の発掘事例としては、裴李岡文化期の遺跡から計86点出土したが、この文化系譜はその後途絶える。Y-Rの文化系譜としては、仰韶文化期の半坡類型段階で133点発見され、甘粛省では馬家窯文化期(51004700年前)以降も発掘されるが、龍山文化圏では9か所の遺跡から15点が発見されただけで、トルコ石装飾品が急激に減少する。これはY-Rが殷人に追い出されただけではなく、交易も殆ど行われなかった事を示している。

トルコ石の最古の発掘事例は、インダス文明圏の前駆文化であるメヘルガルI期(9000年前~7500年前)のものが最古になり、Y-R文化の起源を示しているので、これについては下節で説明する。

大渓文化圏で纏まった数のトルコ石片が発掘され、その遺跡は漢水流域に多い事、河姆渡遺跡群以降の浙江省でも僅かな数ではあるが、トルコ石が発掘されている事も、宝貝と並置されるべき、塩の流通に関係した物品だった事を示唆している。縄文中期以前のトルコ石片の特徴として、台形状の砕片の端に小孔が開けられ、ペンダントや首輪にしたと想定されるものや、小円盤の中央に小孔が開けられた財貨様のものが含まれているが、青銅器時代には浙江省の製塩業者が好んだ玉器とは異なる進化を遂げ、象嵌加工の基材になった。

トルコ石は透閃石岩と同じ硬度56のものが多いが、透閃石岩と比較すると加工が容易だから、高度な技術や工具が入手できない地域で使われた。トルコ石でも加工できない地域では、更に柔らかく入手が容易な孔雀石が使われ、翡翠に次ぐ宝石として扱われたから、トルコ石に財貨概念があった事を示唆している。

縄文前期には交換の優先権を保障する物品に過ぎなかった宝貝が、宝貝貨と呼ぶべき通貨に進化した過程は、既に説明したが、その後の宝貝貨の普及事情と馬橋遺跡に縄文土器が遺された理由を、以下に説明する。

3700年前の夏王朝期の遺跡として、洛陽盆地の二里頭遺跡があり、宮殿内の墓と周辺の墓に多数の宝貝が副葬され、宝貝貨が流通していた事を示している。殷墟の貴族墓から多数の宝貝貨が発掘され、流通量が増加した事を示している。周の都だった西安の遺跡では、庶民の墓から宝貝貨が発掘され、流通量が激増してインフレが進行していた事を示している。従って更にインフレが進んだ春秋時代に、銅貨を発行してデノミを行う必要が生れた事を示唆している。

漢字の中でも財貨関係の文字は悉くと言っても良いほどに、宝貝の象形である「貝」が含まれ、漢字が作られたのは宝貝が貨幣として流通していた時代だった事を示している。

時代は降るが明が雲南を征服すると、依然として宝貝貨が使われていた事から、役人に宝貝貨を支給する為に沖縄から600万個の宝貝を調達した。それが意味する事は、雲南の稲作民は青銅貨が普及した漢代以降も王朝が発行した銭を受容せず、伝統的な宝貝貨を使い続けていた事になり、雲南の入り口である四川省では春秋時代まで宝貝貨を使っていた事を示唆している。

関東部族が湖北省に塩を運び上げる必要が継続し、浙江省の製塩業者も引き続き製塩を続けていた事が、上記の事態に繋がったと考えられ、関東部族の交易圏が四川や雲南に及んでいた事を示している。

従って関東部族の馬橋拠点は、浙江省で塩を仕入れて内陸に運び上げる、漁民の集積地だった可能性もあるが、それだけでは縄文人女性が入植した理由は説明できない。

馬橋は発足した4000年前は、良渚文化が消滅してから何百年も経っていたから、浙江省に残留していた製塩業者や、内陸の稲作民との交易の為であれば、入植した時期と整合しないから、宝貝貨の使い方に変化が生れ、彼女達はそれに対応する為に入植したと想定される。宝貝貨の安定的な運用は関東部族の重要な関心事だったから、その使い方に何らかの変化があれば、関東部族がそれに対処する事に必然性があったからだ。

宝貝は沖縄で無尽蔵に採取できたから、経済の活性化に対応して流通量を増やす事は容易だったが、購入予約やコメを預けた証文だった時期には、一個の価値が極めて高く、多量の宝貝を供給する必要はなかった。しかし貨幣として使う利便性を考慮すると、宝貝貨一つの価値が高過ぎると使い難い事は、ヒスイ加工品の実績から明らかだった。縄文中期の宝貝貨1個の価値は、1年分の塩の量だったと推測され、その根拠はそれ以下にする必要がなかったからだ。厳密に言えば宝貝貨の価値は製塩土器一壺の塩の量で、それが稲作民の家族の1年分の消費量でもあったと想定され、宝貝貨の価値を細分化する必要はなかった。

関東部族は3千年間使い続けた矢尻貨の利便性に、宝貝貨も合わせる必要性を感じていたから、従来支給していた価値が高い宝貝貨と、多量に流通させるために新規に投入する価値が低い宝貝貨を、一見して区別できる様に細工する必要があった。

発掘される宝貝は全て穴が開けられ、その加工には手間が掛けられていた事を、(6)宝貝と玉文化の項で示した。縄文人女性が馬橋に入植して縄文土器を遺した理由は、この穴開け作業を行う為だったとすると諸事情が整合するだけではなく、BC7世紀に馬橋拠点が閉鎖された理由にも繋がる。宝貝貨の支給がその頃終了し、新規に発行された貨幣は宝貝の形状を模した、楚貝貨と呼ばれる青銅貨に変わったからだ。

多量の宝貝に穴を開ける細かい作業は、櫂を使って船を疾走させていた海洋漁民にはできなかったから、縄文人がその作業をする必要があった。穴開け作業を実際に行ったのは、縄文人男性だったのか女性だったのか明らかではないが、多数の縄文人が夫婦で移住してその作業に長期間従事したから、馬橋に縄文土器が遺されたと想定する事に合理性がある。その作業は沖縄でもできた筈だが、以下の理由で沖縄を避け、馬橋を作業場にしたと考えられる。

宝貝貨に使用した貝殻は浜で拾う抜け殻ではなく、完全な形状が得られる生きた貝だったと考えられている。従って宝貝貨を作る為には生きた貝を多量に集め、真水に漬けて死滅させてから肉を腐らせ、洗浄して肉片を除去してから穴を開けたと想定される。その作業場は悪臭に満ち、使用した川は汚染されたから、綺麗な海に囲まれた沖縄の人々に嫌われただろう。荊の経済活動が活性化した縄文後期温暖期初頭から、穴が開いた宝貝貨を発行するまでの経緯は明らかではないが、穴が開いた宝貝貨の需要が高まって処理量が増加すると、沖縄では清澄な河川や海が汚染される事を嫌がる人々が増え、作業場を沖縄から上海に代える事によって沖縄の人々の苦情を解決したと推測される。

馬橋を作業場とした場合は、沖縄から上海への航海中には籠を海水中に置いて生かした状態にし、馬橋に着いてから揚子江の濁った真水に晒して死滅させ、腐らせてから濁った揚子江の水で洗えば、作業者にも罪悪感は生れなかっただろう。揚子江の濁った水には雑菌が多く、貝肉の腐敗が早い利点もあったし、揚子江の河水が河口域の海水を押し出すと、海の悪臭も素早く四散しただろうから、小さな川で処理していた沖縄時代と比較すると、作業者の悪臭被害も軽減されたと推測される。

縄文中期の湖北省の荊は穴が開けられていない宝貝を使っていたが、塩の供給が慢性的に不足し、皆が宝貝を握りしめて塩の到着を待っていた時代であり、宝貝は1年分の塩を得るために、河岸の市に持ち込んだコメの代用品だったから、極めて価値が高く、庶民の経済活動には無縁の物品だった。従って庶民が宝貝貨を使う事は稀で、富裕な貴族層だけが塩以外の物流にも、便利な交換媒体として宝貝を使う状態だった。

河南省北部の黄河デルタに入植し、渤海南岸に製塩業者が入植して塩の供給が潤沢になると、この様な用途の宝貝は不要になったが、宝貝を交換媒体とする利便性に慣れてしまった荊の貴族層は、引き続き使用したと想定される。しかしその様な利便性を維持する為には、宝貝貨に兌換性を与え続けて価値を安定させる必要があり、その為には製塩業者が関与する夏王朝が成立する必要があった。それについては経済活動の成熟期の項で検証する。

矢尻を通過として使っていた関東部族は、宝貝貨を恒久的な貨幣にする為には、その価値を下げて矢尻貨の様に便利に使う事を提案し、夏王朝の新しい法規にそれが盛り込まれたが、既に荊の貴族層が溜め込んでいた高価な宝貝と区別する必要があった。

宝貝を無尽蔵に集める事ができた関東部族は、その目的の為に穴を開けた宝貝貨を新たに発行する事を提案し、提案者の責任として宝貝貨の加工を担務したと想定される。宝貝を採取できない荊にとっては、高価な宝貝を廉価なものに加工する事はできたが、その逆は出来ない合理的な識別方法だった。

既に製塩業者が渤海南岸に移住していたから、彼らとも合意した仕組みにしなければならなかったが、関東部族が穴あけ加工した宝貝を供給するのであれば、製塩業者に反対する理由はなかった。製塩業者は荊の求めに応じ、新旧何れの宝貝でも規定量の塩と交換したから、穴あけ加工した宝貝は兌換性が保証された通貨として流通し、従来の宝貝は摩耗の程度に応じ、製塩業者によって廃棄されたと推測される。

荊や製塩業者にとっては完璧な通貨制度だったが、宝貝貨の穴あけ加工を引き受けた関東部族には大きな負担増でしかなかった。縄文前期の関東部族の漁民は、体験ツアーの様な労務に従事したが、縄文中期の漁民は浙江省~湖北省~浙江省~華北を巡る多角的な交易により、アワ栽培民族から獣骨を得る様になっていていた。しかしその交易は必ずしも関東部族の都合によるものではなく、荊の事情に適応させたものである事を、塩の需要が高まった縄文中期に、沖縄に多数の増員を派遣した事が示している。

縄文中期は矢尻街道が最盛期を迎えた時期だから、関東部族が追加の獣骨を必要としていたとは考え難い時期だったが、気候が寒冷化して華北の稲作民が湖北省に南下したから、湖北省の塩の需要は間違いなく増加し、その需要に対する塩の供給を交易とする為には、荊が生産する高級陶器をアワ栽培者に販売する交易を、盛り上げる必要があった。従って沖縄への増派は荊の事情に配慮したもので、関東部族と荊の関係がどの様なものだったのかを示している。

つまり宝貝の穴開け程度の負担増は、関東部族にとっては衝撃的なものではなかった。

西ユーラシアは縄文中期に青銅器時代になったから、やがてその影響がシベリアにも及び、黒曜石の矢尻を装着した矢の需要が失われる事を、関東部族が千年前に察知していたから、沖縄に漁民を派遣して新たな獣骨の入手先を確保したと想定する事もできるが、その解釈は関東部族を高く評価し過ぎている。宝貝貨の穴あけ作業まで引き受けた事に、荊との親交を強く希望していた関東部族の心情を読み取り、荊に対する格別の奉仕精神を推量するべきだろう。

荊の文化には関東の漁民にその様な行動を起こさせる、高尚な要素があったからだ。

これらの想定は、マーケティング手順や工業的な数値解析から得られるから、古典的な歴史解釈に慣れている人には馴染めないかもしれないが、因果関係から仮説を展開し、必然性を求めながら論理体系を形成する手法は、自然科学でも多用されているから、歴史家も歴史理論の構築に努める必要がある。それには色々な手法があるが、マーケティング手順は人間社会の猥雑さを前提にするから、歴史の流れを説明する際の強力な解析ツールになる。特に縄文社会や海洋民族の活動はビジネスライクに展開され、経済理論に適合する様に発展したから、それを評価する最適な手法であるとも言える。

古代フェニキア人に多大な富をもたらした貝紫について、ウィキペディアは以下の様に説明している。

紀元前1600年ごろから古代東地中海のフェニキア諸都市は、地中海産のシリアツブリガイ (Bolinus brandaris) を用いた染物を始め、紀元前1000年ごろには高価な特産物として輸出して経済的に繁栄し、ローマ帝国などでは非常に高価な染物として特権階級に相応しいものとして持て囃された。

カエサルの紫のマント、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世の旗艦の帆が、この貝紫に染められていたことは有名・・。

ティルスでは貝紫での染織を秘伝とした為、ローマ人達はこの貝紫の製法を知らず、何度も国産化を試みたが成功しなかった。

ビザンティン帝国(東ローマ帝国)でも皇帝や皇后、高位の聖職者の服の色として親しまれた。

中国などの東アジア世界にはあまり広まらず、日本では近縁のイボニシ、アカニシで海女が手ぬぐいに模様を描くなど限定された利用法しか見られない。

しかし、吉野ヶ里遺跡で発見された古代の布に貝の色素が発見されていることから、上古において中国との交易に用いられた「倭錦」は織りこそ未熟だが茜や貝紫で彩られた美しいものだったかもしれない。

例によって証拠もなく、上古において中国との交易に用いられた「倭錦」は織りこそ未熟だが、などと嘘を記している。魏倭人伝は「稲、紵麻,桑を植え、それを織って目が細かい紵(上布)や上質の絹布を出荷する」と記し、台与は魏の使者に「異文雑錦」「見た事がない紋様が入り混じった錦(雑は多数を意味し、否定的な意味はない)」を贈ったと記し、日本産の絹や錦は質が良かったと指摘しているから、不勉強による自虐史観の押し売りは止めて貰いたい。

貝紫の染色場では多量の貝を死滅させ、内臓を布に浸したので悪臭が漂っていた。その様な染色技術の発祥は宝貝貨の製造過程にあったと考える事が、マーケティング的な発想になる。フェニキア人が貝紫を使ったのはBC1600年で、宝貝貨を多量に作り始めたのはBC2000年頃だから、貝の内臓を原料とする染料の発見者は、関東縄文人だった可能性が高い。吉野ヶ里遺跡に貝紫で染められた布地があった事は、それを繋ぐミッシングリンクの一つになる。

紫色の染料は上記の種類に限らず、アクキガイ科の大部分の種類から採取でき,染色工芸家の間ではアカニシ,チリメンボラ,イボニシ,レイシガイ,エゾチヂミボラなどが使われる。(コトバンク)

 

5-3-10 箕子朝鮮(濊)

魏志濊伝に「(箕子)の後四十余世、朝鮮侯の淮が勝手に王を称した。」「珠玉を宝としない。」と記され、魏志韓伝に「侯の準が勝手に王を称していたが、燕から亡命した衞満に攻奪され、其の左右の宮人を率いて海に入って逃走し、韓の地で自ら韓王を名乗った。」「珠玉を財宝として衣服を飾り、首、耳飾りとし、金や銀の縫い取りのある綾絹を珍重しない。」と記されている。

箕子の後継民族である濊が珠玉を宝としないのに、朝鮮侯の淮が亡命した韓族が珠玉を財宝としている事に、不自然さを感じた陳寿は、伝承事実を記す文章に珠玉を宝としないと注釈を挿入した。陳寿だけではなく魏の役人もその様に感じたから、濊伝にこの文章が挿入されたと推測される。

縄文中期の紅山文化圏から多数の玉器が発掘され、殷墟からも多数の玉器が発掘されているから、その製作者はこれらの民族と同じ、シベリア文化圏を出自とする濊の祖先だったと考えられる。玉器の加工者は同じ民族であるか、同系譜の文化的上位者だった筈だから、アワ栽培者と同じトルコ語話者だった濊の祖先が、古い時代には玉器の生産者だったが、後に玉器の製作者が韓族に変わった事を示唆している。周王朝がトルコ語話者だった殷人を華北から追放したから、濊もその同類と見做されて玉器の製作者の地位を失ったと想定され、陳寿がそれを知っていたのか否かに関わらず、歴史的には必然性がある事象だった。周にも玉器の需要はあったから、それを韓族が製作したであろう事も歴史的な必然性だった。朝鮮侯の領地は遼東にあり、遼東は翡翠の産地だったからだ。

紅山文化期は良渚文化期と同じ縄文中期だから、北陸部族は良渚文化圏に石材加工技術を移転するだけではなく、箕子朝鮮の先祖にも石材加工技術を移転したと考えられる。箕子朝鮮の先祖はツングースに導かれ、韓族のテリトリーだった遼東半島に移住したから、上記の事情が生れたと考えられる。

冷温帯性の堅果類の栽培者だった韓族の祖先は、縄文早期に遼東に北上したが、磁山文化や裴李崗文化が遺された河北や河南とは、巨大化した渤海によって隔てられていたから、アワ栽培者に征服される事もなく、韓と呼ばれる民族として魏代まで残存した。韓族の祖先は縄文早期末に、遼河台地から渤海を経て北陸に向かうmt-Dと、瀋陽近辺で遭遇して浸潤を受け、アワ栽培者になって新楽文化を形成したが、遼東半島で産出する軟玉(岫岩)で石斧を作り、樹木の伐採能力を高めて朝鮮半島を南下した。

箕子朝鮮の先祖も、遼東半島で産出する岫岩を翡翠の原材とし、玉器の加工職人になったが、それには北陸部族、ツングース、韓族の祖先、そして濊の祖先の間に、約定が形成される必要があった。濊の祖先の玉器の販売先は、シベリアのトルコ系漁民だったと考えられるが、ツングースと交易を行っていた紅山文化圏(遼河台地)のアワ栽培者は、シベリア文化が先進的である事を知っていたから、箕子朝鮮が製作した玉器を権力のシンボルにしたと想定される。

縄文中期の華北の遺跡から発掘される黒陶と玉器が、アワ栽培者の社会にも富裕者が生れた事を示しているが、これらは獣骨との交換品だったから、黒陶や玉器の保有者は、獣骨の集荷を担務する交易者だった可能性もあり、農耕民族的な権力者だったとは言えない。つまり縄文中期の華北は栽培系狩猟民族の世界であって、アワ栽培者の農耕社会だったと主張する証拠はない。

箕子朝鮮が製作したのか北陸部族が製作したのか分からないが、遼東半島や山東半島の沿海部でも玉器が発掘されているから、荊が作成した陶器が出土する地域と玉器が出土する地域の分布は、関東部族と北陸部族の、それぞれの交易圏を示している事になる。

 

5-4 東南アジアの海洋民族(台湾起源の海洋民族)

5-4-1 概論

台湾起源の海洋民族も安全な島嶼や半島の先端を拠点とし、武闘的な民族と遭遇する可能性がある大陸沿海部は避けていた。縄文前期~中期に浙江省の稲作民族がフィリッピンに移住すると、彼らも栽培民族を抱える海洋民族になった。縄文人もシベリアの漁労民族も、3民族の共生社会を形成していたから、それが海洋民族の一般的な姿だったからだ。

海洋民族には高度な漁労技術があり、それが共生する栽培民族や狩猟民族の食料事情を保証したから、大陸の農耕民族より豊かな食生活を享受する事ができた。浙江省起源の稲作民族は海洋文化の高度化に貢献し、その過程で海洋民族の言語話者になったが、海洋民族も稲作民族も堅果類の栽培者を起源とした民族だから、彼らの言語であるオーストロネシア語は、現存する堅果類の栽培者系譜の純度が高い言語になる。

海洋民族に関する考古学的な知見は日本を含めて極めて乏しいので、文献記録である漢書や三国志などを参照し、縄文時代の海洋民族の動静はそれを遡る事によって探る必要がある。最も古いものは漢書の王莽伝と地理志で、王莽伝に以下の文章がある。

「越裳氏は白雉を献じ、黃支は三萬里先から生きた犀を貢じ、東夷王は大海を度って国珍を奉じた。」

前漢末期に王莽が権力を握ると、海洋民族が王莽に賄賂を贈って何かを求めたが、何を求めたのかは記されていない。前漢代初頭に弥生温暖期が終わり、王莽が登場した頃には気候が寒冷化し始め、山東省や江蘇省では稲作の収穫量が激減していた。海洋民族はこれをビジネスチャンスと捉え、戸籍によって地域に縛り付けられていた稲作民を東南アジアに南下移住させる為、便宜を図って貰う為に王莽に賄賂を贈ったと考えられる。

東南アジアの密林は、鉄器がなければ広範囲に開墾できなかったから、鉄器が貴重品だった縄文晩期寒冷期の稲作民族は、東南イジアに入植する事ができなかった。しかし古墳寒冷期には鉄器が普及していたから、沿海部の稲作民は東南アジアに移民した。(7)宋書・好太王碑の項に示す、前漢代と古墳寒冷期の晋代の戸籍の比較で、沿海部の青州、兗州、徐州、豫州の人口が漢代の10%程度に激減したのは、その為であると考えられる。荊州全体の人口は増えたが、激増したのは湖南省で、湖北省の人口は減少した。

王莽政権は赤眉の乱で崩壊するが、3大海洋民族がこぞって王莽に接近したのは、彼らに大きな目的があったからだ。

王莽政権が倒れたのは、先ず湖北省と河南省に跨る江夏郡で緑林軍が蜂起し、河南省の南陽郡で平林軍が蜂起し、遂に山東の琅邪(徐州)から赤眉の乱が広がったのは、王莽政権が海洋民族の背景にいた、稲作民族の要求に応えなかったからであると解釈される。江夏郡や南陽郡は高緯度地域の冷涼な稲作地であり、琅邪はそれらより更に高緯度地域であると共に、漢書が春秋時代以降の稲作地であると記した青州に近く、春秋時代には海洋民族だった越の拠点都市だったからだ。

海洋民族との交渉が成立した琅邪付近の人々、言い換えると沿海部の冷涼な地域の人々が反乱の狼煙を上げると、王莽政権が妥当されたと想定される事がその根拠になると共に、その地域の反乱の名称を取って「赤眉の乱」と命名し、緑林の乱とは呼ばれなかった事にも何らかの意味を感じる。

「赤眉の乱」の本質に迫る為には、嘘を交えて実情を胡麻化した漢書とは、如何なる史書だったのかを明らかにする必要がある。

史記が捏造史書である事は再三指摘したが、夏王朝の正当性を主張する点では、漢書も史記と同類の書籍だった。史記が前漢代に編纂されたが、後漢代に編纂された漢書の役割は、批判された史記の矛盾を胡麻化す為の、綻びの辻褄を合わせる捏造史書だった。従って漢書の記述を無前提に史実認定する事はできないが、ウィキペディアなどは無批判的に転写しているから注意を要する。

漢書は「是の、赤眉の力子都や樊崇などが飢饉で集まり、琅邪で決起した。略奪を繰り返し乍ら数万の数になり、(王莽は)使者を派遣して郡国の兵を発し之を撃ったが、勝てなかった。」と記し、一応の事実を羅列しているが、真実を書いているわけではないと考える必要がある。つまり飢饉が起こったのは気候の冷涼化による稲作の不作だったのか、辺り構わず略奪した匪賊的な暴徒だったのか、秩序がある反乱者が官衙を襲撃しただけだったのかは、分からないからだ。

最終的な歴史事実は王莽が反乱軍に殺され、その後の混乱の中から劉秀が後漢を樹立した事になるが、その期間中の中華は無政府状態になったから、荊の子孫である稲作民は大手を振って、海洋民族の手引きによって集団で南下移住した事は間違いない。

現在のタイ人の多数派は、この時期に南下した荊の子孫であると考えられるが、荊はフィリッピンやインドネシアにも入植した事を、現在のそれらの地域にいる多数のmt-Fが示している。つまりフィリッピンの越裳氏とインドネシアの黃支は、この時期に多数の稲作民を東南アジアに移住させた事を示している。

漢書地理志/粤の条には、東南アジアに大量の移民がいたとは記していないから、それ以後の出来事である事は間違いなく、晋代には既に沿海部の人口は激減していたから、稲作民族は王莽時代~三国時代に東南アジアに移住した事は間違いないが、前漢代に急激な寒冷化が進展したから、王莽時代は移民圧力が最も高い時期だった。

東夷王は倭国王を指したと考えられるが、漢書は倭国王の存在を認めたくなかったから、意図的に東夷王と記したと考えられる。倭国王の存在を認めなかったのは、中華世界に倭が関与していた歴史を明らかにすると、黄河文明と称する虚構を創作した史記の捏造が成立しないから、史記の編纂の基本方針だったからだ。

古墳寒冷期に向かっていた時期の倭国王には、中華の稲作民の南下移住を受け入れる環境はなかったが、関東部族の指導者は稲作に行き詰った荊の事情を憂いていたから、南下移住する荊の為に、多数の船を派遣した事は間違いない。

その後の中国では荊の民族的な活動が全く見られず、タイでは遅くとも13世紀以降に、民族運動が活発していた事は、この時期に荊の指導層が新天地を求め、タイに移住してしまった事を示唆している。タイ人が形成した王朝に、広東の中国人が出入りしていたと指摘されているが、古墳寒冷期以降の広東人は粤ではなく、南下した荊が多数派になった事を、現代の広東人の遺伝子分布が示している。珠江デルタが拡大していたが、焼畑農耕者には利用できない地域だったから、海洋民族が東シナ海沿岸部の荊を此処に入植させた可能性が高い。

中世の日本で、タイのソントー鉱山の鉛を使用して灰吹き法で金銀を精錬したり、鉄砲の弾を製作したりしていたとの指摘がある事や、江戸時代初頭に山田長政がタイ国の高官になった事なども、この延長線上で考える必要がある。

漢書に記された黃支は、インドネシアを拠点にした台湾起源の海洋民族の国だったと推測される。漢書地理志/粤の条に王莽の使者が黃支に出向いた際の、報告書の抜粋が掲載されている。(1)魏志倭人伝/魏志倭人伝が示す倭人文化の系譜にそれを掲載したが、そこに越裳氏の存在を示す記述はない。しかし王莽伝に記された3者が漢代の東アジアの3大海洋民族だから、越裳氏の拠点は広東から渡航するインドネシアやマレーシアではなく、mt-D+M7aが多数入植して北陸越と連合し、台湾から南下する位置にあるフィリッピン以外に地理的な候補地がない。繰り返しになるが、史記や漢書が示す呉越の話は創作であって史実ではないから、その積りで以下の分析を読んで頂きたい。

琅邪を都にした於越が秦に滅ぼされると、その残党が朝鮮半島南端などに亡命したが、周初(古墳寒冷期)の事績を記した論衡や竹書紀年に登場する越裳氏が、漢代末期になっても健在だった事も、越裳氏はフィリッピン越だった事を確信させる。越裳氏の拠点はヴェトナムにあったとの俗説もあるが、蛇紋岩が採取できない地域は、縄文時代から継続していた3大海洋民族の拠点には相応しくない。

漢書王莽伝に「越裳氏は通訳を重ねて白雉を献上した」と記され、文章だけで意味が通じる漢字文化圏に属していなかった事を示している。他の史書も越系民族は漢字文化圏に属していなかった事を示唆しているから、それらの文献と整合すると、越裳氏はインドネシアの海洋民族を主要な交易仲介者として、インド洋交易を行っていたと考えられる。

黃支は海洋民族だったから、中華の言葉を使える者もいたが、越裳氏単独では海洋民族ではなく、彼らの海洋活動は北陸部族が担っていたから、越裳氏の使者には通訳が必要だった。通訳はフィリッピン越→北陸越→(倭人)→中華だったと想定される。

越裳氏が王莽に働き掛けた目的は、山東や江蘇の、織布技術に優れた呉の女性を獲得する事だったが、北陸越にはその必要がなかったから、北陸越の王は通訳を提供したが、自身は王莽に使者を送らなかった。現代フィリッピン人にはmt-Fが濃厚に含まれるがmt-B4は殆どいないから、フリッピンに移住したのは織布技術に優れた荊の本流のmt-Fだけで、稲作者だったmt-B4はフィリッピンに移住しなかった事を示しているからだ。

縄文晩期以降の荊にmt-B4が多数含まれ、現代中国人にも多数含まれている理由は、経済活動の成熟期の項で検証し、北陸越が絹布の生産に興味を示さなかった理由は弥生時代の項で検証する。

黃支も荊を受け入れる事に意欲的だったのは、越裳氏と同様に荊の産業力を評価し、mt-Fの織布技能に期待していたからだと推測される。

中華世界では後漢代以降に気候が更に寒冷化し、三国時代~南北朝時代の動乱期に購買力が激減したが、地中海沿岸の寒冷化は東ユーラシアより数百年遅く、ローマ帝国は五賢帝の時代(AD96180年)に最盛期を迎えたから、前漢末期に織布技能者を得た越裳氏黃支はその後200年ほど、秦・漢代に不足していた良質の絹布を地中海世界に多量に輸出し、大いに利益を上げたと推測されるからだ。

地中海沿岸の寒冷化が遅かったのは、中華大陸は1600年周期の気候変動が直接影響する地域だが、西欧はメキシコ湾流によって温暖化している地域だから、大陸が寒冷化しても海流の温度変化には数百年の遅れがあったからだと考えられる。縄文時代の北大西洋は温暖化が遅れていたから、1600年周期の気候変動に比較的連動したが、地塾の傾きが緩和されて大陸が冷涼化していくと、海洋の方が温暖になる事情が恒常化し、現在では高緯度地域でも温暖な気候地域が目立っていると推測される。

しかしやがて地中海世界も寒冷化し、ゲルマン民族の南下圧力が高まると、統治体制が混乱して交易需要は激減したから、市場を失った3大海洋民族の政権は揃って滅亡した。

後漢書は中華民族に海運力が欠如していた事情を、以下の様に記している。

(亶洲の)所在が絶遠だから、(中華人は)往き来できない。

亶洲は東鯷人(日本越)が拠点としていた地域だから、日本の本州を指したと考えられ、海洋民族の島が何処にあるのか知らなかったのは、南北朝時代(5世紀)になっても大陸人は海洋に乗り出さなかった事を示している。また邪馬台国の位置についても以下の様に記し、倭国王の使者から倭の事情を聴いた状態が、以下の様のものだった事を示している。

韓の東南の大海中の、山が多い島に居る。凡そ百余国があり、武帝が朝鮮を滅してから、三十ばかりの国が使駅を通して漢にくる。国には皆王を称する者がいて、世世統を伝えている。其の大倭王は邪馬台国にいる。楽浪郡の境界から12千里(5000㎞)、(朝鮮半島の南端にある)拘邪韓国から七千余里(3000㎞)。其の地は大略会稽東冶之東に在り、朱崖、儋耳(海南島)に近いから,其その法俗に同じものが多い。

従って中華の史書が越裳氏の所在地について記していても、確度が高い情報であると見做す事はできない。

魏志倭人伝に以下の記述があり、後漢書の著者に倭の状況を説明した倭国王の使者は、邪馬台国が魏の使者を騙した際の手口を踏襲していた事が分かる。

「(邪馬台国は)その道里を計るに、当に会稽・東冶(福州)の東に在る。」

「婦人は髪をばらし屈して束ね、衣を作ること単被の如く、その中央を穿って頭を貫き之を着る。」

「禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種え、蚕桑して繭を集めて織り、細い苧麻や上質の絹布を出荷する。」

「有無する所(特産品)は擔耳・朱崖(海南島の2郡)と同じ。」

魏志倭人伝は、読者が漢書地理誌/粤の条を読んでいる事を前提にしているので、漢書地理誌の該当部分を以下に示す。漢書地理誌が記すは、広東以南~ヴェトナム北部を指している。漢書地理志/粤の条は邪馬台国への旅程以上に、不確かで遠い距離が示されている事に留意されたい。つまり漢民族に嘘の距離を示したのは、邪馬台国の倭人が初めてではなく、200年以上前の東南アジアの海洋民族はもっと酷く王莽の使者を騙していた。

「(粤の地は)海に近く、犀、象、毒冒(たいまい)、珠璣(しゅき:大小さまざまの美玉)、銀、銅、果、布の湊が多く、中国から往く商賈の者は多く富を取る。 番禺(広東)はその第一の都会なり。」

「合浦(トンキン湾の北の郡)の徐聞(海南島に向かって突き出している半島の先端にあった県)から南に海に入り、大州(海南島)を得た(征服した)。(海南島は)東西南北方千里(400㎞四方)で、武帝の元封元年に略し(侵略し)、擔耳・朱崖郡と為した。 民は皆、布を服(き)るに、単被の如き形状の中央を穿ち貫頭と為す。 男子は耕農し、禾稲・紵麻を種(栽培)し、女子は桑蚕織績する。

「日南の障塞である徐聞郡の合浦より船行五ヶ月ばかりにして、都元國(とがこく)有り。 また船行四ヶ月にして、邑盧沒國(ゆうろぼつこく)有り。 また船行二十余日にして、諶離國(しんりこく)有り。 歩行十余日にして夫甘都盧國(ふかんとろこく)有り。 夫甘都盧國より船行二ヶ月余にして黄支国(こうしこく)有り。 民の俗は略そ朱崖と相類す。 その州(黄支国)は広大で戸口多く、異物(中華にはない物品)が多く、武帝より以来皆献見する。」

「黄門に属す(黄支国の役人?)訳長(通訳者の長)がいて、応募者と一緒に海に入り、明珠(透明で曇りのない玉)、璧流離(ガラス)、奇石異物を、黄金と色々な色の絹布を持って来る人と交易する。交易が終わると彼らは往ってしまう。」

東南アジアの海洋民族は、海上の方位を漢の使者に教えなかっただけではなく、距離も不自然に長い事に留意されたい。倭人が魏の使者を騙した様に、彼らも王莽の使者に過大な距離を申告したからだ。倭人は魏の役人に、邪馬台国は朝鮮半島の遥か南にあると思わせたかったから、嘘の方位も提供したが、彼らは漢民族の侵攻に対する恐怖が薄かったから、嘘の方位を提供するには至らなかったと推測される。

漢書地理誌と魏志倭人伝を纏めて要約すると、以下になる。

「トンキン湾から船出して幾つかの島を経て、1年ほどの長い船旅で大国である黄支国の島に至る。その習俗は海南島の住民と一緒で、人口が多く珍しい物産が沢山あり、武帝の時代から使者を送って来た。広東の商人は珠玉や財宝を黄金や絹布と交換し、多くの利益を得ているが、交易は海洋民族の都合で一方的に行われ、彼らは必要なものを入手すると海に去ってしまう。(漢書)」

「倭人の習俗や物産は海南島と同じだから、倭人と南シナ海沿岸の海洋民族は同じ文化圏の人である。(男は違うが)倭人女性の服装は海南島の男女と同じである。(魏志倭人伝)」

分かり易く言い直すと以下になる。

「(弥生時代後葉の)倭人は、東南アジアの海洋民族と文化を共有し、海洋文化圏を形成している。海洋民族の栽培者は稲作民族で、その女性は盛んに絹布を生産している。黄支国の文化は先進的で、大陸にはない工芸品が沢山あり、それを扱う大陸の商人は富を得ているが、海洋民族が船で来るから交易が成立している。倭でも上質の苧麻布や絹布を生産して出荷するが、女性も稲作を行い、男性も絹布を織っている。」

漢書に記された漢代の海洋民族は、ペルシャやローマを対象としたインド洋交易に忙しく、貧しいアワ栽培者が支配する漢王朝の都には、交易の為に出向いて来ないから、漢民族は辺境の広州を交易地にせざるを得なかった。

華北起源のアワ栽培者にとって、南方交易はその様なものでしかなく、海洋民族のアクセスを待つ必要があったから、彼らと交易ができる広東に商人が集まっていた。揚子江以北の栽培民族に海洋文化を提供していたのは、弥生時代までは荊と連携していた倭人だった。秦に征服される以前の中華では、養蚕を行っていたフィリッピン越が、織布技能が高い荊に絹布の生産を依頼し、その絹布をインドネシアの海洋民族がオリエント世界に輸出していたが、秦が越人を琅邪などの沿海部から追い出したから、漢代の南方交易の窓口は広東になっていた。

従って王莽政権になるとフィリッピン越が絹布を織る女性を求め、インドネシアの海洋民族も良質の絹布が不足したから、王莽の話しに繋がったと想定される。

古墳寒冷期にローマ帝国が衰退し、パルティアが滅亡してインド洋交易が不振になると、インドネシアやインド洋周辺の海洋民族が、卑屈な姿勢を示しながら隋や唐に交易を求めたから、それによって中華思想が肥大化した事を隋書唐書の項で説明した。唐を建国した騎馬民族はシルクロードを自慢したが、元を訪れたマルコポーロは海路もある事を知ると帰路は海路を使った事が、元代になっても海路が主要な交易路だった事を示している。但し元代には海洋民族の政権は失われ、その残党とも云うべき交易商人が活動していた。

 

5-4-2 フィリッピンとインドネシア

フィリッピンを拠点にしていた海洋民族は、フリッピンに移住したmt-Dが海洋民族に相応しい性格を備えていない事に不満を持ち、インドネシアに移住してしまったのは4千年前(縄文後期)である事を、オーストロネシア語の言語分析が示している。

インドネシア西部の島々は氷期の海面低下時に大陸と繋がっていたから、イネの原生種が繁茂していた。従って稲作の南下は、原生種の花粉に対応できる技術が生まれるまで実現しなかった。インドネシアにはmt-Dが殆どいない事は、インドネシアを拠点とした海洋民族は、mt-Dの入植を受け入れなかった事を示しているが、現在のインドネシアでは焼畑農耕が盛んに行われているから、インドネシアの海洋民族はmt-Dではない焼畑農耕者を移民させた事になる。

縄文晩期寒冷期に浙江省や福建省から広東に南下した粤人が、台湾からmt-D+M7bを迎えて焼畑農耕者になった事を、広東人の遺伝子分布が示しているから、インドネシアの海洋民族はその技術を受けた粤人の中から、mt-B5+M7bを選択的に受け入れる事により、稲作民族を内包する海洋民族になったと考えられる。これは養蚕技術者の遺伝子でもあったから、海南島の稲作民族もその系譜の人々として養蚕を行い、漢書は男性が稲作者になった鉄器時代の様相を示している事になる。

インドネシア人の祖先は原マレー人だったと指摘する説は、この流れと合致する。現在のマレー半島にはインド系や中国系もいるので、元からマレー半島にいた人々を原マレー人と呼ぶが、現在のインドネシアやマレー半島の農耕民族が、上記のmt-B5+M7bを中核民族にしているとすれば、話が整合するからだ。

但し焼畑農耕を会得した粤がインドシナ半島を南下し、マレー人になったと考える事には無理がある。農耕民族がジャングルに覆われたカンボジアやタイを横切り、マレー半島に南下できたのは鉄器時代になってからだと考えられるからだ。従って広東近傍にいたmt-B5が海洋民族にリクルートされ、海洋民族にとって安全地帯であるマレー半島やインドネシアに移住し、それらの地域の焼畑農耕者がmt-B5+M7cになったと推測される。

現代のマレー人にはmt-B5+M7c以外に、氷期のスンダランドの山岳地にいたmt-M系、ヒマラヤ山麓でインディカを栽培化したmt-R系、華南で稲作民族と共生していたシベリア系狩猟民族のmt-N9aなどが含まれ、上記の事情は分かり難いが、因果関係が明確だからシナリオに合理性がある。

マレー半島やインドネシアにmt-Dが殆どいないとすると、粤になったmt-Dと元々の粤人のmt-B5は、それぞれ民族内民族を形成していたから、海洋民族だったmt-B4に識別されたmt-B5だけが、選択的にマレー半島やインドネシアに移住したと考えられる。

これは関東に渡来したmt-B4の一部が岡山に移住しても、関東と岡山で栽培者としての連携を維持し、焼畑農耕者と対峙していた事情と一緒だから、奇異な現象であると見做す必要はない。穀物の生産性向上に必死に取り組んでいた当時の女性達にとって、突然変異遺伝子を集積する為の当然の行為であり、優良な穀物の栽培化競争の勝者には、当然備わっているべき積極性でもあったからだ。

歴史学者は品種改良が自然に進んだ様に説明するが、その陰にはこの様な女性達の逞しい努力があったと考える必要がある。mt-Dはそれが特に強い女性だったから、東アジア最大の遺伝子になったと評価するべきだろう。

 

絹布の発祥を検証する

殆どの植生の品種改良は、女性達が行った民族的な活動の成果だから、桑の栽培を伴う養蚕の誕生も同様の活動の成果として検証する必要がある事を、海南島では「女子が桑蚕織績」していた事と、それが東南アジアの海洋民族の習俗だった事が示唆している。

フィリッピンの島々やインドネシアのスラウェシ島は、氷期に海面が低下しても大陸とは繋がらず、独自の植生が展開島々だったが、氷期に一つの陸塊になったからそれらの島の動植物は、インドシナ半島に準じる激しい生存競争の中で、多様な植生を生み出しただろう。縄文早期に船底材として使われたムクノキも、その様なフィリッピン原産の植生の一つだった。

しかし海面が低下した氷期であっても、孤島であり続けた小さな島も多数あり、その様な島にはそれぞれ独特の生物界が展開したが、現在までそれが保存されているわけではないから、起源が不明の植生や昆虫の出自は、その様な島だった可能性がある。起源地が不明な亜熱帯産の動植物の場合は、真っ先にそれを疑うべきだろう。

浙江省湖州市の銭山漾(せんざんよう)遺跡から、4300年前の絹布が発掘され、此処が養蚕の起源地であるかの様に宣伝されているが、生命力が弱く生存可能な気候範囲が狭い蚕の原生種の生息地は、氷期にも大陸から切り離されていた亜熱帯地方の孤島の密林だった可能性が高い。従って氷期になっても孤立していたフィリッピンの孤島が、蚕の原生地だったと推測されるが、桑もその島の植生だった可能性は低い。

葉の生産性が高く蚕が好んで食べる桑と、木に登る事ができない蚕の不思議な組み合わせは、人為的に作られた可能性が高いからだ。また飛翔力が弱い蚕の成虫蛾も、捕食する鳥類が飛来しない、絶海の孤島の昆虫だった事を示唆している。

孤立していた小さな島に蚕の原生種がいて、フィリッピンに入植した人が始原的な養蚕を始めたとすると、蚕の原生種が食べていた植物の群落は小さく、多量の採取には手間が掛かったから、桑の葉を食べる蚕に品種改良されたと推測する事に合理性がある。

蚕は木に登れないから、原生種の食料は丈の低い草だったと推測され、その草と味覚が似た木の葉である桑の葉を原生種の餌に混ぜて与えると、中に食べる蚕が僅かにいたので、植生の品種改良を行う様に、桑の葉で育つ蚕に品種改良したのではなかろうか。桑の実は果実になり葉も食べる事ができるから、縄文時代には食料として栽培されていた可能性が高く、蚕の品種改良プロセスは穀類と同じであり、桑の改良は堅果類などと同じだったからだ。

豊かな食料を得た蚕の体形が大きくなり、大きな繭を作る様になると、世代を経て遺伝子が純化されたた蚕は桑の葉しか食べない種になったと想定される。

気温変化が大きい大陸で養蚕ができる様になる為には、品種改良や技術革新に長い期間が必要だった筈だから、初期の養蚕は気温変化が少ない島嶼の産業だったと推測される。遺伝子分がその事情を示しているが、漢代になっても大陸では良質の絹布が生産できなかったから、それを入手する為に海南島を征服したと考えられる事が、決定的な証拠を示している。