縄文人の活動期(縄文時代早期後半、前期、中期)、その4

4、石材加工と石材の貨幣化

 

4-1 磨製石斧

 

4-1-1 飛騨外縁帯と呼ばれる蛇紋岩帯

アワ栽培者が縄文早期~前期に使った磨製石斧は、飛騨山脈の北縁に散在する蛇紋岩を豊富に含む高山で、河川が急流を形成して海岸に流し出した蛇紋岩を素材とするものだった。その代表的な河川である姫川は、支流である小滝川や大所川が蛇紋岩帯から流出し、姫川がその岩石を糸魚川市の海岸に運んで堆積した。その西の田海(とうみ)川や青海(おうみ)川は、直接日本海に流れ出して蛇紋岩を堆積したから、現在も糸魚川市の海岸で蛇紋岩やヒスイを拾う事ができる。これらの河川の上流域にある蛇紋岩帯は飛騨外縁帯と呼ばれ、ヒスイや角閃石を含む良質の蛇紋岩が多量に含まれている。

糸魚川市の海岸では、これらの河川の河口から離れた場所にも蛇紋岩やヒスイが散乱し、その理由を説明できない状態にある。更に不思議な事は、これらの河川とは親不知の断崖によって隔てられている、朝日町東部の海岸にも蛇紋岩やヒスイが散乱し、ヒスイ海岸と呼ばれているが、その事情は地質学者も説明できない状態にある。朝日町に流れ込んでいる境川や小川の上流には、目立った蛇紋岩の露頭がないからだ。

海中に蛇紋岩の露頭があり、それが打ち上げられたとの説もあるが、能登半島によって遮られた対馬暖流の分流が富山湾を流れ、海岸から土砂を運び去っているので、海砂さえも堆積しない状況があり、誤った説であると言わざるを得ない。

この疑問に地質学者が答えられないのは、ヤンガードリアス期は豪雨だった事が認知されていないからだと考えられる。ヤンガードリアス期の豪雨は日本列島特有の現象だったから、欧米の地質学者はそれに気付いていない上に、地球温暖化論がこの現象の認知を意図的に避けている事情が疑われるからだ。

ヤンガードリアス期の北大西洋では、まだ海水の温暖化が始まっていなかったから、西ユーラシアはヤンガードリアス期に酷く寒冷化したが、冷えた大気が冷たい大西洋を覆っても、豪雨や豪雪は発生しなかった可能性が高い。しかし北太平洋亜熱帯循環は、2万年前に温暖化が始まって海水温が上昇したから、ヤンガードリアス期の日本列島の気温低下は西ユーラシアの半分だったが、低温化した大気が温暖化した太平洋から多量の水を巻き上げ、前後に例を見ない大豪雨期になった事をその3で指摘した。

この豪雨は山脈の山容を変えるほどに激しかったが、その程度は山脈の岩石の種類や地理的な環境によって異なり、大きく山容を変えた山脈もあれば、霧ヶ峰の様に殆ど山頂の地形が変化しない山もあった。

富山湾の東端に流れ込む黒部川には、飛騨山脈を水源とする急峻な支流が沢山あり、それらの水源地は蓮華―八方―唐松岳などの蛇紋岩帯を含む、飛騨外縁帯にあるが、中核的な蛇紋岩帯である白馬地域とは唐松岳を挟んだ背面になる。白馬地域には蛇紋岩帯が濃密に分布しているが、唐松岳の西の黒部川支流域に目立った蛇紋岩の露頭がなく、異なる岩石帯であると考えられているが、朝日町や黒部市にも白馬連山高山植物帯が分布している事が、この地域にも蛇紋岩帯がある事を示している。

この高山植物帯は、森林限界以下の山域であるにも関わらず、樹林が形成されない為に高山植物が群落を形成している場所で、森林が形成されないのは岩盤が蛇紋岩だからだ。それ故にその様な地域でも生育できる、独特の高山植物が繁茂して「お花畑」を形成する地域を、高山植物帯と呼んでいる。つまり黒部川支流域にも蛇紋岩帯はあるが、河川が浸食した谷間には蛇紋岩の露頭がないから、蛇紋岩帯と言えるほどには、蛇紋岩の露頭密度が高くない様に見えている疑いがある。

飛騨外縁帯は飛騨変成帯と呼ばれる変成岩帯の一部で、日本で最古の化石を産出する古生代の堆積(たいせき)岩や、低温高圧型変成岩、斑糲(はんれい)岩、蛇紋岩などが分布している。飛騨外縁帯の岩石は飛騨変成帯の岩石と共に、美濃(みの)‐丹波(たんば)帯を形成している中世代の堆積物の上に衝上している。

唐松岳の東には蛇紋岩帯が多いので、飛騨変成帯とは別に飛騨外縁帯と呼ばれ、飛騨変成帯は飛騨山脈北部~福井~隠岐に連なっているのに対し、飛騨外縁帯は糸魚川~白馬~富山県山岳部・岐阜県飛騨地方~九頭竜川上流域に限定され、南限は上高地付近にあると推測されている。

唐松岳の西も飛騨外縁帯の一部だが、こちらには蛇紋岩の露頭が少なく、船津花崗岩と呼ばれる花崗岩の岩石帯になっている。この花崗岩は巨大な岩体(マントル)が固体に近い冷えた状態で、高い圧力の下に古生代の堆積層に下から貫入し、飛騨外縁帯に広範囲に接触変成作用を及ぼし、蛇紋岩類も形成したが、貫入速度が速かったので周囲の岩石とは成分の交換を行わず、高い圧力による変成作用を起こしながら、飛騨変成帯の岩石を覆う様に急速に隆起し、マグマが船津花崗岩として地表に露出したと考えられている。つまりマグマの上層にあった岩石は、河川の浸食によって失われている事になる。

蛇紋岩帯には色々な様態があり、他の岩石の割れ目に侵入している貫入型と、既存の岩体の一部が蛇紋岩化した複合岩体と、複数の蛇紋岩帯が入り組むメランジュ(混合・ごちゃまぜという意味)があり、飛騨外縁帯の蛇紋岩帯はメランジュに分類されている。つまり複数の蛇紋岩帯が広域的に展開し、それぞれが地域的に分離している。

以上を簡単に纏めると、元々古生代の堆積層があった場所に、中生代にマントルが上昇して古生代の堆積層の下部を高圧変成したので、飛騨外縁帯が形成されたが、飛騨外縁帯を特徴付ける蛇紋岩帯は飛騨山脈の分水嶺の東部にしかなく、西部にはマントルが固化した船津花崗岩が露出し、花崗岩は貫入固結後に急速に地表に露出した様に見えている。

もう少し具体的に言うと、古生代に堆積した厚い堆積層の下部にマントルが急速に広く上昇したので、古生代の堆積層の下部が変成を受け、蛇紋岩を含む変成岩になった。上昇するマントルが岩体を更に押し上げ、隆起して高地になると降雨による浸食を受け、堆積層の上部が失われたので、唐松岳の東では下部の変成帯が露出しているが、唐松岳の西ではその変成帯も浸食されて船津花崗岩が露出している。しかし変成帯が侵食されずに残っている場所に蛇紋岩が露出しているから、高山植物帯を形成している。

蛇紋岩が形成される為には水が必要だから、マグマと接した堆積岩が地下水を含み、地下水が特に豊富だったエリアに蛇紋岩帯が発達したから、メランジュになったと想定される。

隆起後の浸食については、氷期に突入した直後の豪雨が最も激しい浸食を起こしたと想定されるが、過去120万年間に何度も繰り返された事象だから、それによる変化を追跡する事は出来ない。但しヒスイ海岸の成因を追跡する為には、直近のヤンガードリアス期の状態が重要になるから、それについて検証する。

豪雨期だったヤンガードリアス期に、蛇紋岩帯がどの様な状態になったのか推測する為には、蛇紋岩に関する知識が必要になる。蛇紋岩は粘土鉱物と言われる岩石で、水と反応して分解し易いので岩石の風化が早く、地滑りや山崩れなどを起こしやすい。小滝川や大所川の流域にはその様な場所が多いので、土木局や森林管理局が鋼製透過型砂防ダムなどを建設している。つまり蛇紋岩帯は豪雨によって浸食され易く、これらの河川は急斜面を流れているから、各所で降雨による崩落がある。

花崗岩も風化する岩石ではあるが、蛇紋岩と比較すると風化速度は遅く、船津花崗岩については、露頭の表面は風化しているがハンマーで敲いた鮮部は硬質な岩石であると指摘されている。つまり船津花崗岩の表面も長期間露出していたわけではなく、余り古くない時期に露頭を形成した事を示している。

唐松岳の西の黒部川支流域と、東の姫川流域を比較すると、唐松岳(2695m)の西には餓鬼山(2128m)や中背山(2075m)などの、名前からして急峻な山があり、その峰の間に深い祖父(じじ)谷と急峻な猿候沢がある。猿候沢の頂部(1368m)は唐松岳から3㎞しか離れていないから、その間はほぼ崖と言っても良い状態で、猿候沢も2㎞で250m降る超急流になっている。祖父谷もやや蛇行しながら2㎞で250m降り、標高750m地点で祖母(ばば)谷と合体する。此処でやや川らしくなるが、3㎞流れて標高550mの黒部川中流と合流するから、急傾斜の流れである状態は変わらない。

この合流地点の黒部川は、黒部ダムから15㎞も下流だから、ヤンガードリアス期には多数の支流の水も集めて流量が膨大になり、巨大な岩石も押し流す流れだったと想定される。小さな川である小滝川や大所川でも、傾斜がある河原には径10m以上の岩が散乱しているから、ヤンガードリアス期に唐松岳の西側の斜面に蛇紋岩帯があれば、巨岩のまま崩落して黒部川の大水流に流され、富山平野まで押し流されたと想定される。

つまり唐松岳の西の斜面は浸食が激しいから、ヤンガードリアス期以前の唐松岳は、現在より西に更に高い峰があり、黒部川とその支流によって浸食されたから、現在の唐松岳になったと想定され、ヤンガードリアス期以前の唐松岳の西の斜面は、現在より更に急峻だったと考えられる。この様な状態を引き起こした根本原因は、北アルプスの東には高山が連なって河川の傾斜を緩くしているが、西の河川である黒部川やその南の河川は、沈降地殻である富山湾に流れ込んでいるから、河川の傾斜が急峻になり、河川の流水が山容を変えるほどの岩石流出を引き起こしたからだと考えられる。

唐松岳の東では松川が15㎞離れた標高650mの姫川に流れ込んでいるが、この川の流域は崩壊が激しいから、砂防ダムが30か所設置されている。これは現在の状況で、ヤンガードリアス期のこの地域は湖面標高が800m程度の湖だったので、標高1500m以下の八方尾根には、浸食されなかった蛇紋岩が残っている。その3で、ヤンガードリアス期の古松本湖の湖水が姫川に流れても、古松本湖の水が溢れて犀川が形成された事を指摘したが、古松本湖の水位が白馬まで及んでいたとすると、ヤンガードリアス期の古白馬湖の湖面標高は1000m以上あり、その湖水の一部が古松本湖に流れ込んでいた可能性もある。

これは小滝川や大所川にも言える事で、これらの河川の合流点の姫川は、現在は数100m浸食された谷を流れているが、ヤンガードリアス期にはこの様な谷はなく、小滝川や大所川の流れが、標高が高い場所を流れていた姫川によって落差が制限されたので、浸食が進まずに現在も残された蛇紋岩が、崩落を繰り返していると考えられる。

以上から唐松岳の西の飛騨変成岩帯では、3000m級の連山の脇に黒部川などの急流があった特殊性から、ヤンガードリアス期に飛騨変成岩帯を形成していた花崗岩と蛇紋岩の中から、表層にあった蛇紋岩を選択的に浸食し、下流に流し出してしまったから、この地域の露頭には花崗岩しかないと推測される。しかし河川の流域ではない場所では、蛇紋岩帯が露出していても浸食されずに残っているから、白馬連山高山植物帯が形成されたと考えられる。

深い谷が形成されて雨水が集まると、集積された水量が侵食力を極度に高めるから、谷が益々深くなって周囲の山肌の崩落を促し、浸食が急速に進むが、平坦な地形域では霧ヶ峰の様に、殆ど浸食が進まなかった。つまり形成された谷の落差が侵食力を高めるから、唐松岳の西ではその条件が満たされて浸食が進んだが、東にはその様な条件が乏しかったから、浸食が進まずに蛇紋岩の露頭が多数残されていると考えられる。

ヤンガードリアス期の黒部川が、径数十メートルの岩石を黒部市域の扇状地に多量に流出しても、当時の海面は現在より80m低かったから、黒部川は現在の海岸付近にあった海に流れ込み、流し出した岩石の殆どは海に流れ込んでしまっただろう。しかし扇状地が形成されると河川の傾斜が緩やかになったから、例えば径50m以上の岩石は扇頂に残し、更に数キロ流れる間に径30m以上の岩石は流さなくなる状況で、15㎞離れた海岸に到達した頃には、径1m以下の小岩しか含まない流れになったのではなかろうか。扇状地の先は水深100m以上の海だったから、扇状地の延伸は現在の海岸線の3㎞程沖の地点で止まり、扇端を砂が覆う様な状態は生れなかったと考えられる。

これは海や湖がない場所に形成された扇状地になり、異色の存在になる。現在の黒部川の扇状地が山岳地の開口部に標高100m以上の扇頂を有し、海岸までの15㎞を傾斜がある扇状地にしている状態も、地下に当時の岩石扇状地がある為に、扇頂の標高が嵩上げされている可能性を示唆している。いずれにしてもヤンガードリアス期が終わった頃のこの扇状地は、末端まで径1m以上の岩石で覆われる状態だったと想定される。

現在の黒部川の扇状地の東北端がヒスイ海岸に接している事が、この仮説の証拠になると共に、縄文早期~前期の富山平野の縁辺部に、複数の石斧工房が生まれた事を説明できる唯一の仮説だから、以降はこの仮説が正しいとすれば、付帯条件は何であるかを列挙し、それが縄文史や現状の地理的な事情と矛盾しない事を確認する。

現在はヤンガードリアス期から海面が80m上昇し、扇状地の下部を海が覆っているから、海流が流れてその砂を除去してしまうと、砂だけが除去された海岸に大きな岩石が残っている事になる。波がそれらを砕いて海岸の石にしてしまった状態が、現在のヒスイ海岸の状態であると考えられるが、朝日町の東端だけがヒスイ海岸になり、それより扇状地の堆積が厚かった筈の西の海岸には、蛇紋岩が残っていない理由も必要な付帯条件になる。

一般論として、富山湾の様な大きな湾は沈降地殻上にあり、能登半島の様な幅が広い半島は隆起地殻上にあると想定される。富山湾の海底には溺れ山脈が広がっているから、これは事実認定しても良いだろう。また飛騨山脈に連なるヒスイ海岸は、隆起地殻上にあると考えても良いだろう。

それらの沈降速度や隆起速度を見積る事が課題になるが、富山湾の沈降速度を類推する事は難しい。国土地理院が観測した最近100年間の七尾湾の沈降は50㎝ほどだから、これが富山湾の沈降速度だったとすると、13千年前のヤンガードリアス期の富山平野に形成され、現在の黒部川の扇状地の先端になっている部位は、ヤンガードリアス期から75mほど沈下し、その上に現在の扇状地が形成されている事になる。

扇状地の末端だった朝日町のヒスイ海岸は、現在は城山と呼ばれる山の麓の陰になっているが、この山が飛騨山脈と一緒に100年で10㎝ほど隆起したとすると、13千年間に13m隆起した事になり、当時の扇状地の扇央下部である現在の海岸線部分の標高が、東北端にあったヒスイ海岸部より80m以上高い状態でなければ、ヒスイ海岸の様に蛇紋岩が散乱した状態にはならない事になる。13千年前の扇状地が、現在の海岸線から数キロ先にしか伸びていなかった事から考えると、仮説は現在の状態と矛盾しない事になる。つまり現在のヒスイ海岸部より数10m高かったとしても、蛇紋岩を含む岩塊層は、現在は地下50mほどの場所に埋もれていることになるからだ。

従ってヤンガードリアス期以降の縄文人は、海岸で簡単に蛇紋岩やヒスイを拾う事ができただけではなく、質の悪い蛇紋岩は流水に砕かれ、角閃石やヒスイの含有率が高く硬度が高いものが自然に選別された状態で、河原や海岸で蛇紋岩を拾う事ができた。つまり蛇紋岩の露頭から採取するより効率的に、質が良いものを集めていたと考えられる。

 

4-1-2 石斧工房の進化

磨製石斧は樹木を伐採する為の石器だから、材質には刃部を形成できる硬度と、研ぎ出すことができる研磨性と、樹木に激突しても割れない粘性が必要だった。利器として作られた打製石器には、打ち割って鋭利な刃を形成できる石材が必要だったから、敲けば劈開する性質が求められ、両者の石材の性質は異なっていた。農具にも打製石器が使われたのは、劈開する性質を持った石を打ち欠く方が、成型技術があれば加工が容易だったからだ。

磨製石斧の素材は唯の蛇紋岩ではなく、透閃石、緑閃石、透緑閃石などの含有率が高く、硬い石材が好まれた。これらも蛇紋岩帯で得られる鉱物で、同様に繊維状の鉱物だから粘性が高い。蛇紋岩帯に豊富にある蛇紋岩は硬度が低いが、透閃石、緑閃石、透緑閃石を含むと硬度が高まり、鋭利な刃部を研ぎ出す事ができる。それらの岩石を厳密に区分する事は難しいので、以下では一括して蛇紋岩と呼ぶ。ヒスイも蛇紋岩帯の岩石だが、それに含まれるヒスイ輝石は繊維状鉱物ではないので、ヒスイは蛇紋岩とは呼ばない。縄文人はヒスイや透閃石岩を割る場合、火で加熱した後一部を水に漬け、体積膨張による歪を利用したのではないかと指摘されている。

蛇紋岩の一般的な形成過程を鉱物学的に説明すると、海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込み、海水を含んだ岩石が加水変成すると、水酸基を含む繊維鉱物である蛇紋岩が生まれる。飛騨外縁帯の蛇紋岩は、マグマが海中の堆積層や海面近くにあった堆積層まで上昇し、地下水が豊富に存在する環境で堆積層が変成を受けたと想定される。

この変成プロセスに色々な種類の母岩が晒されると、蛇紋岩、透閃石岩、緑閃石岩、透緑閃石岩などが形成され、地殻変動がそれらを押し上げ、河川の浸食が深部の岩石に達すると露頭になる。つまり急速な露頭の形成は急激な隆起だけではなく、激しい降雨によって形成されたと考える必要がある。

蛇紋岩は地殻変動が激しいプレート境界特有の岩石だから、環太平洋火山列島ではありふれた岩石だが、安定陸塊である大陸には稀な岩石になる。

蛇紋岩の硬度は3だが、透閃石岩や緑閃石岩は硬度が56で、鋭利な磨製石斧の材質になる。鉄のナイフの刃は硬度5.5だから、上手に研ぎ出せば硬度4の青銅器より鋭利な刃部になるが、粘性は鉄や青銅より劣るから刃部の耐摩耗性はそれらの金属より劣り、細身のナイフや包丁は作れないが、斧の様な鈍器には向いている。但し刃部の摩耗が早いから頻繁に取り換える必要があり、素人には研磨が難しかったから多数の工房が営まれた。

道具の優劣は磨製石斧に限らず、素材の優劣だけではなく作り方や使い方にも関係するから、現代人が安易に模倣品を作っても、作り慣れ使い慣れた縄文人と同じ性能が引き出せるわけではない。日本に青銅器時代がなかったのは、縄文人が青銅と同等な性能を石材から引き出したからだと推測され、蛇紋岩製の磨製石斧の性能の高さを示している。

大陸では青銅器時代になると青銅が鏃や斧の素材になったが、日本列島には黒曜石とウルシがあり、矢尻にも青銅は必要がなかった事が、日本に青銅器時代がなかった原因だったと推測される。青銅器時代には釘も出現したが日本には竹釘があり、青銅の出番はなかった。竹でナイフを作る事もできた上に、その刃部を石で磨けば再生できた。

竹は暖温帯性の植生だから、華南では重要な素材だったが華北では入手できなかった。日本では冷温帯域である青森や高冷地にも竹が生えているが、縄文人が耐寒性を高めた種であると推測される。厳密に言えば原縄文人が冷温帯域に北上した際に、耐寒性を高めながら栽培を維持した種であると考えられる。筍は重要な食材だったからではなかろうか。大陸には暖温帯性の樹木を栽培していた女性が、冷温帯域に北上した例は、原縄文人以外には見付かっていない。

34万年前の野尻湖に近い遺跡から、蛇紋岩で作られた局部磨製石斧が多量に発掘され、原日本人は3万年以上前から蛇紋岩製の磨製石斧を使っていた事を示している。但し質の良い蛇紋岩は何処にでもあるのではなく、野尻湖近辺で発掘された磨製石斧は、白馬の山中から採取した蛇紋岩で作られたと考えられている。

縄文草創期の栫ノ原(かこいのはら)遺跡や縄文早期の定塚(じょうづか)遺跡でも、磨製石斧が発掘されているから、縄文人も縄文草創期から磨製石斧を使っていた事が分かるが、その材質は蛇紋岩ではなかった。冷温帯性の堅果類の栽培者には磨製石斧は必須アイテムだったが、総ての堅果類の栽培者が蛇紋岩製の磨製石斧を持っていたとは限らない事は、堅果類の樹林を形成するだけであれば、高性能の磨製石斧は必ずしも必要なかった事を示唆している。

34万年前の原日本人が蛇紋岩製の磨製石斧に拘ったのは、樹木を頻繁に伐採して加工していたからだと推測され、その用途が筏や仕掛けを作る事から、丸木船の製作に進化していたからだと推測される。北陸の原日本人は3万年前に台湾に達し、関東部族は神津島に渡っていたのだから、それは当然の流れだった。

縄文早期に糸魚川の縄文人が製作し、福井の焼畑農耕者が使っていた磨製石斧も、刃部だけを研ぎ出したものだった事を、大角地遺跡の石斧工房から発掘された多数の磨製石斧が示している。

糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡から縄文早期の石斧工房が発掘され、刃部を研ぎ出しただけの磨製石斧が発掘されているからだ。

http://www.maibun.net/center/H23kikakuogakuti7.jpg ⇦ 新潟県埋蔵文化財センター 平成23年度企画展示

 

磨製石斧の機能としてはそれで十分であり、それ以上の整形加工は不自然な行為だから、下の写真の様に全体を美しく整形した事には理由があった。

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蛇紋岩製磨製石斧 右画像の台状の大石は、石斧を研ぎ出した石。

全体を美しく整形したのは、交易の際に競争力を高める必要があり、その為の付加価値を付与する為だったと考えられる。現代風に言えば、商品価値を高めるために見栄えも良くしたと考えられる。糸魚川市や朝日町には多数の石斧工房跡があり、同業者が多数いた事を示しているから、競争原理が働く中で販売量を向上し、交換価値を高める為に付加価値を付けた事になるが、縄文中期にこの様な磨製石斧が登場した理由は、単純ではなかった。

考古学者が重視している土器編年には混乱があり、歴史事情と一致しない状況が多々あるので、以下では土器編年から離れて時代を考証する。

発見された石斧工房の中で、最古のものであると考えられる大角地(おがくち)遺跡は、糸魚川市の田海(とうみ)川の河口域の、標高5mの位置に立地している。この工房の石斧職人は姫川の河原や海岸に散乱していた蛇紋岩を拾い、磨製石斧を製作していたと考えられるが、現在の標高が5mである事は、海進時の標高は0m付近だった事になり、縄文海進期だった7千年前以降の遺跡であるとは考え難い。太平洋が湿潤化した時期に、河原の様な場所に作業場があったとも考え難いし、それ以前の海進を恐れていた縄文早期後葉の縄文人のものだったとも考え難い。従ってこの工房はまだ海面上昇が続いていた、縄文早期中葉(9千年以上前)以前の工房だったと推測される。類似した時期の同業者のものらしい富山県の極楽寺遺跡は標高110mで、やや時代が下るが同業者の遺跡である長者ヶ原遺跡は、標高90mの高台にあるからだ。縄文中期の寺地遺跡は標高10m未満の低地にあるが、それには理由があったので後述する。

太平洋が湿潤化すると風害が酷くなり、縄文人は低地に移動したから、それについても考慮する必要があるが、大角地遺跡は日本海に面した海岸にあり、風や波の被害をまともに受ける場所だったから、風害を避ける場所だったとは言えない。

この遺跡から滑石で作った石製装飾品の失敗作や、製作途上のものが多数発掘され、緑泥石岩のものも少数含まれている。滑石は硬度1で緑泥石岩は硬度2だから、硬い石に挑戦し始めた事を示唆しているが、主体は滑石だから古い時代の遺跡であると考えられる事も、上記の推測と一致する。

富山県上市町の河岸段丘にある極楽寺遺跡には、風倒木痕が多数あり、それらの中に住居址の遺構を破壊しているものがあるから、8千年前に風害が激しくなると、工房が放棄された事を示唆しているが、その時代の遺物は発見されていない。長い期間を経て再び人が居住する様になり、その人々が遺した遺物が発掘されているが、再入居した人々は蛇紋岩から磨製石斧を作る職人で、蛇紋岩製の石製装飾品も製作していた事を示しているから、風倒木が発生する以前の住居址も石斧工房の跡で、大角地遺跡の石斧工房と同時代に運営されていたものだったと考えられる。

極楽寺遺跡の住居址には遺物がなく、石斧工房に関連した人々の住居址であると想定する証拠はないが、再入植した人々が石斧職人だった事は、この地域で蛇紋岩が採取できた事を示しているから、縄文人が住居址に居住した動機も同じだったと推測される。当時の極楽寺遺跡は富山湾に流れ込む上市川の、河口に近い河岸段丘上にあった。上市川は黒部川より25㎞も西を流れる川だが、現在の川原石は殆どが花崗岩である事は、この川の源流は飛騨外縁帯にある事を示している。従って仮説に従えば、蛇紋岩が採取できる川だった事になるから、此処は石斧工房が稼働できた場所になり、発掘遺物がそれを証明している。

つまりヤンガードリアス期に、上市川から富山湾に多数の蛇紋岩塊が流出したから、縄文時代の極楽寺の段丘下の上市川の河原には、蛇紋岩が散乱していた事になり、それを拾う事によって石斧工房が稼働していたが、ヤンガードリアス期以降の上市川では花崗岩だけが流出する状態になり、河原に徐々に花崗岩が堆積する傍らで、風化が早い蛇紋岩は次々に消滅し、蛇紋岩より風化が遅い花崗岩だけが遺されたから、現在の河原には花崗岩しかないと考えられる。縄文前期末にはそれに近い状態になったから、この工房が放棄されたと考えられるが、石斧工房のその後の立地条件の遷移についても検証する。

ヤンガードリアス期から数千年経つと、色々な原因によって当時の堆積面の上に新たな土壌が堆積していたから、石斧工房が営まれた時代であっても、蛇紋岩を拾う事ができたのはある程度の流量がある河川の河原か、海岸に限定されていたと考えられる。従って石斧工房の立地条件を満たす場所は、広範な地域に散在していたのではなく、沢山拾う事ができた場所は限られていたから、極楽寺は数少ないその様な場所の一つだったと考えられる。従って極楽寺遺跡の住居址の住民も、再入植した人々も、アワ栽培者の為に磨製石斧を製作していた人々だったと考えられる。

極楽寺遺跡に再入植した人々が遺した遺物について、発掘報告書は「床面より20 30cmほど浮き上がった状態で、いわゆる吹上パターンと称される遺物廃棄の状況を示している。」と指摘し、一旦放棄した地域に石斧職人が再入植した事を示唆している。

最入植者が遺した石器には、磨製石斧の完成品の他に製作途上のものが多数あり、石斧工房だった事を示唆しているが、「手ごろな大きさの原礫に調整剥離を加えることなく直接刃部を研ぎ出 したもの」があると指摘し、蛇紋岩資源が豊富だった事を示唆している。また「非常に美しい薄緑色を呈する石材を用い、幅に比して薄いつくりで、全面に丁寧な研磨が及んでいる」ものがあると指摘し、販路が多様化していた事を示唆している。

石製装飾品には滑石性もあるが、多くは蛇紋岩製で、「美しい緑色を呈し、本遺跡で磨製石斧に供されている蛇紋岩とは、一見して違いは明らかである。意図的に集められたものであろう。」と指摘している。蛇紋岩は硬度3だから、石製装飾品に関する加工技能が、大角地遺跡の時代より画期的に向上していた事を示している。また「二つの土製の狭状耳飾はいずれも欠損品であるが、ともに一端に明瞭な擦切り面をもち、耳栓・滑車形耳飾との区分は明瞭である。2点ともベンガラと考えられる赤彩がほぼ全面に施されている。」と指摘し、石製装飾品の商品価値が高まっていた事と、素材のバリエーションが多彩になっていた事を示している。

太平洋の湿潤化による豪雨が終了した縄文早期末に、再入植した人達の遺物であると推測される。

縄文前期になると石斧工房の立地条件が変わった事を、朝日町の柳田遺跡が示している。これも約3.9hの拡がりが確認される石斧工房の遺跡で、現在の地理認識では小川 と黒部川の扇状地が重なる地域の、小川の支流である舟川と、同じく小川の支流である無名の小さな川に挟まれた場所にある。現在の小川や船川の川面は、標高40m程度の遺跡面から数メートル下がる程度だが、当時の小川の扇状地は未形成で、小川と舟川の河床は現在より低く、河原で蛇紋岩を拾う事ができたと推測される。

礫で形成された黒部川の扇状地は、容易に川の流れが変わる危険な場所だったと推測され、8千年前の降雨期には、黒部川が流れを変えながら激しく流れ、砂礫に覆われる状態にしたから、柳田地域を含めて黒部川の扇状地は危険な場所として、人々は居住しなかったが、降雨期が終わって黒部川の流れが安定した縄文前期に、被覆した土壌を剥ぎ取っていた小川や舟川の河原で、蛇紋岩を採取する事ができたと想定される。

石斧工房が洪水の危険を冒して黒部川の扇状地に進出したのは、今市川などの中小河川の河口では蛇紋岩資源が枯渇し、資源が豊富な黒部川の扇状地に進出せざるを得なくなったからだと推測される。

現在の黒部川の扇状地の扇頂では、右岸に小さな川が2本流れ出し、更に2㎞程離れた場所に舟川が流れ出しているから、これらの川が各々小さな堆積を形成すると、黒部川はそれを避けて流れる様になり、その結果として現在の様に、扇状地の南端を流れる様になったと推測される。具体的に説明すると、太平洋が湿潤化した豪雨期には、増水した黒部川がそれらの小さな堆積丘を押し流してしまったが、豪雨期が終わって舟川が堆積物を増すと、黒部川の水は柳田遺跡の場所に及ばなくなったから、少なくとも舟川より北側には流れなくなった時点で、磨製石斧の職人が柳田に定住したと想定される。従って彼らの定住は、縄文早期末~前期初頭だったと考えられる。

当時の柳田集落は黒部川の扇状地上にあり、小川の扇状地は未だこの地域には及ばず、小川は遺跡の近くを流れながら黒部川の扇状地の砂礫や、火山灰が形成した土壌を下流に流し、ヤンガードリアス期に形成された礫面を剥き出しにして河原を形成していたから、この遺跡の人々は小川の河原で蛇紋岩を拾い、磨製石斧や石製装飾品を盛んに作っていたと推測される。

柳田遺跡の1km南に不動堂遺跡があり、この地域には珍しい大型の住居址が発掘されているから、それがこの地の石斧職人の豊かさを示しているのではなかろうか。三内丸山遺跡の遺構より小さいが、この地域の人々には石斧製作という忙しい生業があったのに対し、三内丸山の人々が仮に漆工芸品を製作していたとしても、生産財ではない物品の生産だったから、需要者から頻繁に督促される大きな市場はなく、余暇時間があったから大型建造物を作ったと考えられ、単純に比較する事はできないからだ。

この時期の小川は、遺跡の対岸の山麓から流れ出る小河川が吐き出した土砂により、山麓から徐々に離れながら自身も河原に土砂を堆積していたから、やがてこの立地でも蛇紋岩が拾えなくなり、石斧工房は海岸に進出する必要に迫られたと考えられる。柳田地区では小川の広い河原で蛇紋岩を拾う事ができたが、海岸では海岸線上でしか石材を拾う事ができなかったから、採取可能な資源が先細りしていく状態だったと想定される。

上市川の河原から蛇紋岩を拾っていた極楽寺遺跡は、柳田遺跡より早い時期に石材の採取が困難になったと想定される。上市川の扇状地が発達すると、海だった下流域には多数の河川が流れ込んでいたから、それぞれの河川に形成された扇状地が繋がって富山平野を形成し始めると、上市川の扇頂の標高が高くなり、蛇紋岩が露出する河原は失われたと考えられるからだ。

比較的早い時期に極楽寺に石斧職人が定住したのは、8千年前までの縄文人は海面上昇を恐れ、110mの河岸段丘に安全な居住域を確保したからだと推測され、以上の状況を概観すると、磨製石斧の主要な生産地は富山県であって、糸魚川市は副次的な生産地だった可能性が高まる。

その観点で糸魚川地区を見ると、大角地の石斧職人は海面が5m以上低かった時代に、姫川が形成した疑似扇状地で蛇紋岩礫を拾っていたが、海面が上昇すると長者ヶ原遺跡がある台地に登ったと推測される。8千年前に豪雨と暴風の時代になっても、この地域には適切な谷間の避難場所がなかったが、森林に覆われた長者ヶ原の平坦な台地は、吹き曝しの河岸段丘より安全だったと考えられるからだ。

姫川がヤンガードリアス期に流し出した巨岩は、縄文早期には河口から10㎞遡った根知まで累々と転がっていたかもしれないが、8千年前に始まった豪雨期にはそれが一掃され、姫川の河原では蛇紋岩を拾う事が難しくなり、長者ヶ原か見下ろす海岸で拾わなければならなくなったと想定される。太平洋が湿潤化した程度の豪雨では、奥の山から岩石が転がり出す事はなく、砂や小石を主体とした堆積物が形成されたと考えられるからだ。従ってこの状況に至ると資源はかなり乏しくなった可能性が高く、長者ヶ原の前面の海岸の資源は縄文前期末に枯渇したから、縄文中期になると採石地を海岸を変える為に、寺地に工房を移動したと推測される。

長者ヶ原の磨製石斧は刃部だけを研ぐものだったが、寺地遺跡の時代になると手を掛けて研磨し始めたのは、両者の時代が違っていた事を示唆している。つまり資源が枯渇して石斧の生産量が減った為に、手を掛けて高級品に仕立てる必要が生れたと推測されるからだ。

以下の写真は縄文中期の寺地遺跡の発掘品で、磨製石斧が極めて商品的に整形されていた事を示している。

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中国山地には蛇紋岩の露頭が沢山あるから、縄文前期には北陸の工房と競合する焼畑農耕者の為の石斧工房が、中国山地にも多数生まれていたと想定される。中国山地に拡散した焼畑農耕者に石斧を運搬する場合、そこで生産した磨製石斧の方がコスト的に有利だから、それらの工房が生産活動を活発化すると、北陸の工房は競争力を失ったと考えられる。その結果北陸産の磨製石斧の主要な需要者は、福井や琵琶湖周辺のアワ栽培者だけになったと想定される。

縄文中期に寒冷化すると中国山地の焼畑農耕者の過半は、蛇紋岩が産出する徳島に南下移住し、山陰のmt-Dの一部は九州西部の蛇紋岩帯に浸潤し、フィリッピンにも移住したから、寺地の工房で綺麗に成形された磨製石斧が、これらの西日本の焼畑農耕者に供給するものだったとは考えにくい。三河では伊那谷の矢尻産業を支える活動があり、海洋漁民が海産物の生産を高めていたから、彼らが使う石斧は伊那谷から支給されたと推測される。

北陸産の石斧の伝統的な需要者だった福井や琵琶湖周辺には、特にその様な交易的な活動はなく、Y-O2b1漁民がアワ栽培者を支える構図は、寒冷化によるアワの生産性の低下だけではなく、他地域との相対的な経済活動の劣位状況が顕著になる中で、維持が難しくなっていった疑いもある。

従って寺地の工房で高級な磨製石斧が生産されたのは、極楽寺遺跡で発掘された高級磨製石斧の使用者だった人達の、石斧需要が高まったからで、その筆頭候補は、縄文後期に経済的な活況を示したシベリアだった可能性が高い。シベリアの石斧需要にはトルコ系漁民の大量需要と、ツングースの高級品志向があり、ツングースは交易品を長躯して運ぶ必要があったから、船の大型化に関心が高かった。シベリア経済が活性化すると、その様なツングースの為に造船の専業者が生れる事も、必然的な結果だったと考えられる。専業者は造船する船の質を高めて競争力を確保する為に、切れ味が良い磨製石斧を求めただろうから、高級石斧の需要が高まっていた事も間違いない。

関東部族が生産していた、岡山産の磨製石斧がトルコ系漁民の大量需要を賄い、北陸産がツングースの高級品志向品を賄っていたが、シベリア経済の活性化によって高級品の需要が高まったから、寺地の石斧工房はその需要に生産を特化したのではなかろうか。蛇紋岩資源が枯渇し始めていたから、品質が良い蛇紋岩を最大限活用する事は、彼らの石斧事業にとっても重要な方針になったからだ。縄文前期にヒスイを鏡面加工する技術が生れたから、その技術が成熟した縄文中期には、透閃石岩の中でも硬い石材を選び、鋭利な刃部を研ぎ出すだけではなく、石斧の広い面も鏡面加工する事が可能になり、この様な磨製石斧が生れたと考えられる。

寺地遺跡は標高10m未満の田海川の海岸段丘上にあり、海進期が終わった縄文中期中頃の海面は、現在より5mほど高かった筈だから、石斧工房は海岸から400m離れた標高5m未満の場所に立地していた事になる。津波や台風による高潮の被害を受けやすい場所だから、石斧工房の立地としては不自然だったが、必要に迫られて此処を工房にしたとすれば、その理由は以下の様なものだったと考えられる。

縄文中期になると、長者ヶ原遺跡から見下ろす海岸の蛇紋岩資源は払底し、青海川と田海側に挟まれた長さ2㎞の海岸と、両河川の流域に散在する蛇紋岩が採取可能な状態になっていたと想定される。資源が払底すると質の良くない素材も使わなければならなくなったが、高級磨製石斧を生産する為には素材を厳選する必要があったから、その矛盾を解決する為に良質な部分を含んでいる石を工房に運び、火に掛けて加熱した後に急冷して劈開させ、良質な部分を切り取る必要があったとすれば、工房は資源の採取地に近い海岸に進出せざるを得なかった。

寺地遺跡が立地していた海岸段丘を検証すると、この時代の地理事情が明らかになるだけではなく、大角地遺跡が保存された理由も明らかになる。

対馬海流の分流が富山湾から海砂を運び去っていたが、糸魚川市の沿岸でそれが僅かに堆積し始め、上越市に至ると場所によっては高さ20m以上の、海岸砂丘を形成している。上越市では過去の砂丘が崩れている状況を示しているから、縄文時代には砂丘が発達していたが、時代の経過と共にそれが侵食された事を示唆している。田海川の河口域では、寺地遺跡がある左岸の標高は10m以上あるが、右岸の標高は5m以下で、長い間低湿地だった事を示唆し、大角地遺跡はそのエリアにある。

海岸から寺地遺跡までは標高10m以上の台地だから、その起源は海岸砂丘だったと推測され、海岸砂丘が発達していた時代には、海岸砂丘が田海川の河口を閉ざしたが、大きな川である姫川は砂丘を恒常的に突き破っていたから、河水の流出を阻まれた田海川は姫川の河口に流れ、その河水と共に日本海に流出していたと考えられる。現在も田海川の水が流れたと考えられる地域の標高が低い事も、田海川の河道が海岸砂丘の裏側にあった事を示唆している。

海岸砂丘は対馬海流が運んだ砂によって生まれたから、砂丘が発達したのは対馬海流が安定的に流れ始めた、7千年以上前の事になる。海岸砂丘の裏側を田海川が流れる様になると、大角地遺跡は川底になったから、遺構や遺物が遺され易くなったと考えられる。従って大角地遺跡の場所に工房が立地する条件は、対馬海流が流れ始めた時期より前になり、太平洋が湿潤化して田海川の河水が増えた8千年より、古い時代に遡る事は間違いないから、海面が現在の水準より10m以上低かった9千年以上前に、石斧工房が運営されていたと考えられる。この工房では長期に亘って、磨製石斧や石製装飾品を作っていたと想定されるから、9千年~8千年前の工房だったと考える事が適切だろう。その時期の海面は現在より30m10m低かったからだ。

海岸砂丘は内側に湖が発達すると次第に高くなっていったが、この地域では姫川が恒常的に砂丘を破り、湖が発達する事を阻止していたから、砂丘は縄文時代を通して維持され、時代が進むと砂丘の高さは増してはいったが、砂丘が雨や風で侵食されない為には、丘の上に松林が形成される必要があった。その維持の為には田海川の河水が必要だったが、田海川は姫川に流れ込んで川面が上昇しなかったから、寺地遺跡の後背地に形成された10mの段丘が、砂丘が成長する限度だったと想定される。

現在の砂丘は縄文時代のものより貧弱な状態だから、田海川が砂丘を破って日本海に直接流れているが、この様な状態になったのは砂丘を発達させる砂の発生量が、縄文晩期以降徐々に低下してきたからだと考えられる。糸魚川の砂丘の砂は富山湾に流れ込む河川が供給しているが、8千年前をピークに海洋の温度が徐々に低下したから、それによって降雨量が減少し、河川が排出する砂の量が漸減したから、それによって砂丘を形成する砂の供給量が減少すると、砂丘の形成速度より風雨による浸食の方が速くなり、砂丘は衰退期に入ったからだと考えられる。従って9千~8千年前に運営された大角地遺跡は、海面が上昇しても海岸砂丘に守られていると認識できれば、工房が維持されたかもしれないが、8千年前に豪雨期が始まると工房は洪水で水没し、豪雨期が終わると海岸砂丘が田海川の河口を塞ぎ、田海川の川底になったと考えられる。

従って大角地遺跡の石斧工房は、アワ栽培者が福井に拡散した事によって生まれたと考えられる。

縄文中期の寺地遺跡の立地は、北陸部族の船が姫川の河口に入り、田海川水系に沿って海岸砂丘の裏側を進むと、寺地遺跡の前面の船溜まりに接岸する事になったから、磨製石斧を積み込んでシベリアに向かうのに適した場所だった。

石斧職人が蛇紋岩の母岩から質の良い部分を分離する為に、母岩を火で加熱した後田海川の水に漬けていたとすれば、工房の標高は当時の川面に近い状態だった可能性もある。

縄文前期~中期の北陸の工房では、隆盛になった矢尻産業がヒスイ加工品を標準財貨とし、その需要が急増していた中で、磨製石斧の過剰品質化も同時に進行していた事に着目する必要がある。縄文中期の工房は急増したヒスイ加工品の需要に対応する為に、繁忙を極めていた筈だから、磨製石斧の製作に手が回らなくなった筈でもあるが、それと並行的に手間が掛る美的に成形した磨製石斧を製作していた事になる。

本来であれば各地の蛇紋岩産地の工房に、磨製石斧の生産を委ねる事により、寺地ではヒスイ加工品の製作に特化する事が自然の流れだが、地方の蛇紋岩の産地の工房はアワの栽培者の為に稼働していた一方で、この様に手が掛かる磨製石斧が生産されていたのは、特殊な状況下で特殊な需要に支えられていた事を示している。

 

縄文前期以降の石斧工房の変化

多数の工房職人がヒスイ加工品の生産に従事する様になると、工房の状態や環境が変ったと考えられるので、それを二つの要素に分解する。一つはヒスイ加工品の需要が高まる事により、高度な加工技能を持った技能者が生れ、矢尻の加工者と同様に待遇の改善が進行した可能性がある事で、もう一つは安定した大量発注により、石斧工房の原初的な資本の蓄積が始まり、職制の階層化と組織化が進んだと想定される事になる。

原初的な資本の蓄積は、親方的な人々が生れて生産機能を組織化する事から始まったが、それは高度なヒスイ加工技術に対応する為に、工房を拡張して加工具を揃える事であり、高度な技術がその集団に帰属する事によって、特殊な技能集団が生れる事でもあった。

従って磨製石斧の生産の為に研磨臼などを準備した事は、むしろヒスイの加工の為の生産が機能化した故に生まれた、派生的な生産技術だった可能性もある。磨製石斧の外形を整える事と、ヒスイ加工品の外形を整える事には、多くの共通技術があったからだ。異なる商品の生産技術が融合して高度化する事は、近代産業でも頻出する事例だから、石斧工房でもそれが起こる事は当然であり、事情も類似していた。

つまり効率的な生産の為に使い易い道具や部材が開発され、それを整える作業にも専業的な人手が配置されると、彼らが集めた道具や部材にも価値が生れ、それらを扱う職人集団を工房に集める事も、一種の資本の蓄積になった。その様な集団は一つではなく、複数の集団が生産性や製品の品質を競い合うと、相互に刺激し合って技能レベルを高めるが、それが一つの集団に統合される事はなく、多数の集団が技能を高める競争を繰り広げながら、時には手の内を見せ合って共存を図る事は、近代になって各地に族生した地場産業の実態でもあるから、石斧工房にもその様な事情が生れた事は、必然的な結果だったと考えられる。

黒曜石の欠片が貨幣として認知されたのは、矢尻職人がその価値を保証し、矢尻職人が自分の生産した矢尻と同じ数量の黒曜石の欠片を、市場に放出する事を縄文人も認知していたからだと指摘したが、膨大な数の矢尻を生産すれば市場に流通する黒曜石の欠片も膨大な数になり、やがてインフレを起こす恐れがあった。しかし実際にそれが何千年も流通したのは、縄文社会では現代的な貨幣経済が機能していたのではなく、殆どの取引は物々交換的な信用経済によって回転していたからである事も指摘した。

しかしそれであっても、縄文人の各個人の住居に膨大な数の黒曜石の欠片が溜まると、通貨価値は減価する恐れがあっただろう。実際にその様な事態にならなかったのは、職人の食料の多くが矢尻と直接交換される原初的な交換社会だったから、実際には生産した矢尻と同じ数の黒曜石の欠片が流通したのではなく、極一部に過ぎなかった事と、皆が黒曜石の欠片を膨大な数になるまで溜め込む前に、ヒスイ加工品が登場して矢尻職人に支払われる貨幣になったからだと推測される。矢尻職人はその様な事態に至ると、黒曜石の欠片を市場に放出しなくなったと想定されるからだ。縄文遺跡の住居址から発掘される黒曜石の欠片が、最大でも数百個に過ぎない事が、その事情を示唆している。

ヒスイ加工品が流通する通貨の価値の過半を占める様になると、矢尻職人が通貨の価値を保証する必要はなくなり、北陸部族がヒスイ加工品の価値を保証する必要が生れた。北陸部族はヒスイ加工品の価値を保証する手段として、一定量のアワとの交換比率を決めただろう。それによって自動的に正規の矢尻とヒスイ加工品の交換比率も決まり、黒曜石の欠片との交換比率も決まったと想定されるが、それらの価値を保障する主体は北陸部族に変わった。

天神遺跡で発掘された原初的な形態のヒスイ加工品が、縄文中期には出回らなかった事は、北陸部族がヒスイ加工品の形態を統合し、ヒスイ加工品の価値を規格化した事を示唆している。つまり原初的な形状のヒスイ加工品の価値は、矢尻の製作者と北陸部族の何らかの取り決めによって決められたが、更に原初的なものが存在したり、形状にバリエーションがあったりして、何らかの不備がある状態だったから、縄文中期には出回らなかったと推測される。

規格が統合される前に、工房でヒスイ加工品が恣意的に生産されていたとすれば、それを禁止して統一通貨にしなければ、関東部族にも使わせる統合的な流通財貨にできなかった。統治的な組織が未発達だった縄文社会で、ヒスイ加工品の様な通貨の形状や価値の統合が、実現した事に違和感があるが、関東部族はヒスイ加工品が統合通貨になる事を嫌がっていたから、狩猟民族も交えた3者の話し合いの中でそれらが決まったとすれば、事態は必然的に進行したと考える事ができる。

つまり統治組織がヒスイ加工品の貨幣化を企画し、流通価値を統制したのではなく、北陸部族が使い始めた価値が曖昧だったヒスイ加工品は、発行数量を恣意的に増加させる事ができる高額貨幣だから、そこに利便性があるとの認知が先にあり、当初は琥珀ほどではないにしても多様な形状と価値があったが、穴が一つである統一的な形状のものに統合すると、便利に使えるとの認識が拡散し、矢尻職人がそれを受領する旨を宣言したから、標準通貨になったと想定される。

つまり原初的なヒスイ加工品には、穴が二つ空いているものもあり、材質が透閃石であるものも流通し、石製装飾品の発展形の様なものも流通していたかもしれないが、先ず北陸部族の中でそれらの統合が進む必要があった。

それが進行していた傍らで矢尻の増産が進行し、関東部族の琥珀が不足する状態が深刻になり、支払いの一部が滞る様になると、狩猟民族が関東部族にもヒスイ加工品の採用を迫っただろう。それを受けた関東部族が色々な難癖を付け、それを回避しようとする事は世の常だから、縄文時代にもその様な事態が生れたとしても違和感はない。しかし狩猟民族の要求は正当なものだったから、関東部族と北陸部族の間で話し合いが何度も交わされ、関東部族は北陸部族が呑めない要求も出しただろう。

ヒスイ加工品を関東部族にも採用して欲しかった狩猟民族が、北陸部族に関東部族の要求を呑む様に要求する同時に、関東部族にも不合理な要求を慎む様に諭した結果として、縄文中期に流通したヒスイ加工品の形状が生れ、交換比率が固定化したとすれば、計画的に貨幣を発行する政治体制も、強権的な統治主体も必要なく、必然的に高額通貨が生れた事情が理解できるだろう。話し合いの中から生まれた相手の要求は、強力な権力者の指示より強制力が強い事は、現代の産業界では常識的な事象だからだ。それをこの時代に敷衍すると、関東部族も北陸部族も烏合の集団だったとしても、相手部族の要求である事が周知されれば、容易に統一目標になったと考えられるからだ。

ヒスイ加工品には実用的な価値はないから、それを高額貨幣にする為には、発行量を管理するだけではなく、貨幣の製作者だった石斧職人に何を支払って代価とするのかは、重要な問題になっただろう。黒曜石の欠片で支払うとそれが市場から消えてしまうし、全てをアワで支払うと、磨製石斧の職人に不必要な膨大な量のアワが集まる事になった。つまり単純な交換形式では、石斧職人にヒスイ加工品の加工賃を支払う事ができなかった。現代社会でもそれは同様で、通貨は流通を円滑にする媒体に過ぎず、それ自身には何の価値もないから、造幣局の職員に高額な賃金を支払う事はできない。現代には税制があるから、その一部で造幣局の職員の賃金を賄う事ができるが、この時代には税制はなかった。

関東部族に帰属していた縄文人は、矢尻産業に参加する事によって衣食住が保証される仕組みだったから、労務負担の高低によって出来高払いの賃料に多少の色を付け、調整する事が可能だったが、北陸部族の海洋民族と石斧職人とアワ栽培者はそれぞれが独立した経済集団で、互いに生産物を交易する関係だったから、それぞれの集団内では調整が可能だったが、集団間の物品の授受は交易として扱う必要があり、ヒスイ加工品にも定額の物品を供与する必要があった。

従って北陸部族の中でヒスイ加工品を生産し、その数量を統制し、数量に見合った食料などを支給する為には、何らかの付加的な仕組みが必要になり、ヒスイ加工品を生産する工房が機能する条件として、不必要な化粧を施した磨製石斧が生産されたのではなかろうか。

石製装飾品を作っていた工房は多数あったかもしれないが、高度な技術を要するヒスイ加工品を製作できる工房は、精々数十程度になっていたと想定される。技術が高度化すると共に資本の蓄積が必要になると、数が限られる事は世の常だからだ。彼らと北陸の海洋民族との間に何らかの協定が生れれば、経済的には不合理な事でも実践する事ができただろう。

高度な技術を必要とするヒスイの加工者も、矢尻の製作者の様に富裕になった筈だが、石斧工房から正規のヒスイ加工品が発掘されないのは、「李下に冠を正さず」との認識の下に、ヒスイの加工者はヒスイ加工品を通貨として使う事が禁止され、代わりに琥珀を使う様になったからである可能性もあるが、それはこの議論の本質的な問題ではない。

現代の造幣局が印刷した紙幣の価値で利益を上げる事ができないのと同様に、ヒスイ加工品の製作対価は、それが生み出す価値と等価なものにはできなかった。矢尻の製作者が矢尻の価値を全て手にする事ができたのは、矢尻を装着した矢に価値があり、その部品にも相応の使用価値があったからだが、使用価値がない貨幣であるヒスイ加工品の製作者が、矢尻の流通を円滑にするために付与した価値を製作者自身の為に具体化する事は、交換経済の下では成立しない事情だった。

現代の造幣局の費用は税金で賄っているが、交換経済しかなかった縄文時代には、彼らに利益を上げさせる手段を直接的な交換経済から生み出す事はできなかったから、北陸部族は石斧工房にヒスイの加工による利益を与えたのではなく、代わりに利益を上げる事ができる商品として、極度に成形された磨製石斧を製作させ、その販売代価として石斧工房に報酬を与えたのではなかろうか。矢尻産業が目指した漁獲を高める事業に関しては、ヒスイ加工者は何の貢献もしない人々だったから、その分け前を配分する名目がなかったからだ。

漁獲を得る事を最終目的とした矢尻産業の仕組みには、彼らに高い対価を支払う余剰的な経済力があったのかも疑問ではある。この仕組みの中で縄文人は厳しい労働に耐え、日々の食料を得ていたのだから、その配分の仕組みの中に、ヒスイの加工者が入り込む余地はなかった可能性が高いからだ。従って交換経済しかなかった縄文時代には、ヒスイの加工者の為に利益を上げさせる交換経済を別途用意しなければ、ヒスイの加工者が無報酬になる恐れがあった。

この状況を報酬の観点から見ると、ヒスイ加工品の需要が増えて工房が活況を呈すると、職人を増員する必要が生まれたが、彼らは特殊技能者だったから、同様に特殊技能者だった矢尻職人に準じた、好待遇を求める思潮もあっただろう。好待遇を与えなければ腕の良いヒスイ加工職人が集まらなかった事情は、矢尻工房と類似していたと推測されるからだ。その様な事情になると、ヒスイ職人と同じ工房で磨製石斧を製作していた石斧職人も、同様の待遇が与えられなければ、ヒスイ職人が増えて磨製石斧の職人はいなくなっただろう。

実際の工房ではヒスイ加工品を製作する傍らで、不必要に美しく成形された磨製石斧も多量に生産していた。同じ職人が兼務していたのか、別々の職人がそれぞれの製品を製作していたのかに関わらず、これを現代的に言えば、時給が高い職人が時間をかけて製作した高価な石斧が、工房で多量に生産されていた事になる。その様な石斧が焼畑農耕者向けに生産されても、刃部だけを研磨した磨製石斧の価格に対抗できたとは到底考えられない。

しかし石斧工房の経営者の基本的な考え方が、「ヒスイ加工では利益が得られないから、磨製石斧で利潤を上げて工房の運営費を賄う」事だったとすれば、磨き上げた磨製石斧は生産する必要がある商品だった。

その様な特殊な磨製石斧の需要者は、経済活動が活性化していたシベリアで交易活動を行っていた、ツングースだった可能性が高い。シベリアでは岡山で生産された関東系の石斧が廉価販売されていた事が、この想定の根幹になる。製品の輸送路が長ければ、最終価格に占める輸送費の割合が高くなり、製品の付加価値を高める事に費やされた付加的なコストは薄まり、性能や耐久性が高い方が商品価値は高かったとすると、北陸産の磨製石斧を欲しがったツングースは、プレミア価格で取引しただろう。その様な差別化を際立たせる方策として、製品の美的な外観によって高性能である事を印象付ける、ブランド戦略を採用した結果として、石斧を磨く事と価格が連動したとすれば、北陸部族が受け取る獣骨の量が安定的に増加しただろう。

しかし事実関係としては、北陸部族の漁民はヒスイ加工品が矢尻の取得を容易にし、その結果として多量の獣骨を入手できる因果関係を確認し、磨製石斧の実際の価値には関係なく、石斧工房に多量の海産物を送り込んでいたかもしれない。磨製石斧がシベリアで人気を博している事実があれば、現代企業の様に原価を計算して利潤を算出してはいなかったから、磨製石斧の対価として得た獣骨の量に関係なく、石斧工房には慰労も兼ねて多量の海産物を届けたとしても、不思議ではないからだ。

この事情をもう少し深堀すると、狩猟民族に請われて矢の生産に参入した北陸部族は、それに加えてヒスイ加工品も生産する事になったが、交換経済の下でその生産コストを賄うために、石斧工房に何かを販売させて利潤を挙げさせる必要が生れた事に対し、諸手を挙げて喜ぶべき事だったのか疑問がある。

通貨価値を保証する義務も生まれたから、その負担が重荷になった可能性があり、慣れない事態に対する恐怖感もあっただろう。現実問題として、ヒスイ加工品の流通は弓矢の生産の終焉と共に停止したから、その際の軋轢を一手に引き受けたと推測され、最終的な負担が大きかった事は間違いなく、その予兆が何処かで生まれていた事も間違いない。

黒曜石の欠片の価値が失効したこと以上に、深刻な問題を引き起こした筈だから、人々の非難の矛先が北陸部族に向かった状況は、その何倍も激しかったと推測されるからだ。

但し北陸の石斧工房にとっては、蛇紋岩の原石資源が枯渇する状況下で、歓迎すべき事態だった事は間違いない。

関東部族は北陸部族より高い海運力があっただけではなく、中国山地の露頭から蛇紋岩を採取していたから、質は劣るが蛇紋岩原料は豊富にあった。トルコ系漁民の需要に応える為には、相当量の石斧が必要だったと考えられるが、縄文中期~後期にシベリア経済が好調になった事は、それが満たされていた事になるからだ。

その様な石斧市場に北陸部族の高性能な磨製石斧が食い込んだ事を、縄文中期の石斧工房が示しているとすると、商品を差別化するブランド戦略が有効に機能した事になる。また高価な高品質磨製石斧が、廉価な低品質石斧市場にも浸透していた事になるから、シベリアでは高性能な造船具を必要としていた事になり、ツングースの為の造船が産業化していた事を示唆している。シベリアの造船職人が同業者と生産競争を演じていたとすれば、彼らにとって道具の良し悪しは死活問題になったからだ。産業化した現代社会に生きている現代日本人には、容易に類推できる産業構造だが、王朝史観に拘っている史学者には理解できないもしれない。

富山の小竹貝塚から発見された縄文前期の遺品の中に、骨製品が多数含まれていた事は、石斧工房が沢山あった富山では、骨を奢侈品として消費する社会が生まれていた事を示し、北陸部族が弓矢交易に参入した成果が、石斧工房まで浸透していた事を示している。

北陸産の磨製石斧の主要な需要者は、縄文前期までは西日本のアワ栽培者だったから、磨製石斧を西日本に送った見返りにアワを入手し、それを新潟の海洋民族に提供する事により、富山に獣骨が流入していた事を示している。小竹貝塚は海岸に近い遺跡だから、石斧工房が付近にあったのではなく、それらの交易に関わっていた人々の生活痕であると考えられ、石斧工房の富がこの地域にまで溢れていた事を示唆している。

この貝塚を構成している貝が淡水性のヤマトシジミである事は、沈降性の地殻上にあった上に、対馬海流の分流が海岸の砂を運び去ってしまう富山湾では、海岸砂浜の発達が遅く、河川の河口にしか砂浜がなかったから、塩水性の貝類が捕獲できなかった事を示唆している。

海洋民族が石斧・ヒスイ工房に利益を上げさせた手段は、奇麗に磨き上げた磨製石斧だけではなく、他にもあった。翡翠(透閃石岩や緑閃石岩の事であってヒスイではない)の加工技術に活路を求め、それを権力の装飾に用いた大陸の農耕民族との交易にも、傾斜していったからだ。北陸部族はこれによって関東部族より一足早く、交易に高い利潤を求める経済活動を志向する様になった事を示唆している。

彼らがその様な志向に至ったのは、弓矢産業を円滑に運営する経済活動には、ヒスイ加工品の製作の様なコストが発生する事に、いち早く気付いたからかもしれない。関東部族も早晩それに気付いたから、彼らが海外で立ち上げた宝貝貨はこの反省の上に立脚し、通貨の素材は極めて安価なものを選択した。宝貝貨はその代表的なものだが、北海道縄文人に礼文島で製作させたツングース貝貨も、メノウで貝を加工する安易な加工品だったし、粗削りな状態を示す発掘遺物は、仕上がりに手間を掛けなかった事を示している。硬度が高く加工しにくいヒスイに綺麗な円孔を開け、形状も整えたヒスイ加工品と比較すれば、雲泥の違いがある物品だった。これらの詳細はその5と、経済活動の成熟期の項で説明する。

以上の検証により、飛騨山脈西部の飛騨外縁帯からヤンガードリアス期に多量の蛇紋岩が流出し、縄文早期以降の富山では質の良い蛇紋岩を河原や海岸で拾う事が可能になったから、蛇紋岩資源が豊富にあった縄文早期の富山に、多数の石斧工房が生れたとの仮説は、歴史事象と整合する事になる。むしろこの仮説が成立しなければ富山の縄文史は説明できないから、それを前提に焼畑農耕の起源を検証する事ができる。

蛇紋岩の産地の近くで縄文早期中葉に焼畑農耕が始まり、その集落で石製装飾品が進化したのであれば、海面上昇期の末期だから、氷期に形成された海岸の沖積平野は全て水没し、海水が山間地の周辺の谷間に流入している状態だった。ヤンガードリアス期に形成された扇状地も、その後の海面上昇によって水没し、それでも水没しなかった黒部川の扇状地などは、巨岩が散乱する上に洪水の危険がある場所だったから、アワが栽培できる地域ではなかった。

従って富山や新潟の海岸には沖積地は全くなく、上記の様な特殊な地域を除けば、波が急峻な山肌を洗うリアス式海岸の様な景観が一般的だった。糸魚川市周辺にはアワを栽培する適地はなかったから、この地域でアワ栽培が始まった可能性は低い。現代人の感覚では焼畑農耕は斜面でもできるが、縄文人にとっては焼畑農耕の適地は、前回の間氷期に形成された台地だった事を、桑野遺跡がその様な河岸段丘にあった事が示している。

それには理由があったから、先ずそれについて説明する。この時代は氷期が終わってから1万年以上経っていたから、温帯性の植生が繁茂できる気候環境は継続的に存在していたが、乾燥した気候が続いたから、植生が豊かに繁茂する環境が継続していたとは言えない状態だった。つまり山の斜面では腐葉土の蓄積が不十分で、ヤンガードリアス期の豪雨がそれも流してしまったから、山岳地の斜面には植生が乏しく、岩肌が露出していただろう。

雨が降っても土壌が流れ出さない緩やかな丘陵地では、土壌にある程度の保水性も維持され、森林が発達していたと想定される。アワだけではなくドングリやアサの栽培にも、その様な環境が必要だったと想定されるが、海面上昇期の末期である縄文早期には、その様な場所は殆どなかった。

信濃川流域の河岸段丘は、この時代にも存在していた事を既に指摘したが、糸魚川から信濃川流域に船で到達するには、新潟市の南西端にある角田山を周回する必要があり、直線距離から大きく迂回する必要があった。一方この時代の能登半島には、七尾湾と羽咋を結ぶ水路があったから、糸魚川から見るとあわら市には十日町より短い航路で到達する事ができたが、何倍も差があったのではなくやや近い程度で、海洋民族の船であっても日帰りで往復できる距離ではなかった。

桑野遺跡がある河岸段丘は、海水面が現在より数10m高かった前回の間氷期に、九頭竜川が形成した沖積平野の痕跡であると考えられ、成因は武蔵野台地や銭塘江台地に類似しているが、侵食されずに残った理由は土地の隆起や河川の流路変化ではなく、福井平野の端にあって背後に分水嶺が迫っている地理的な事情により、氷期初頭の豪雨期に九頭竜川などの河川の浸食を受けず、福井平野の断片として残存した台地だった。

桑野遺跡の標高は20m程度だが、13万年前の間氷期末期の福井平野の標高は、現在の標高換算で50m程だったと推測される。桑野遺跡から宮谷川を挟んだ対岸の、段丘の標高は40m以上あり、それが北潟湖まで延伸しているからだ。この付近の地殻が氷期に数十m隆起したから、その平坦面が洪積台地を形成していると考えられる。

具体的に説明すると、前回の間氷期に九頭竜川などによって形成された福井平野の主要部は、氷期初頭の豪雨やヤンガードリアス期の豪雨に侵食され、土砂は海面が50m以上低下していた日本海に流出したが、福井平野の端にあったあわら市の台地は、九頭竜川の浸食を免れただけではなく、後背地の分水嶺が台地に近い場所にあり、台地を侵食する中小河川が付近になかったから、丘陵地として現在まで残った。従って後氷期に温暖化すると軟らかい堆積土砂が豊かな植生を養い、森林が発達して肥沃な土壌を形成していたと想定される。

この様な台地とは成因が異なる沖積地が、ヤンガードリアス期以降の内陸湖の畔に形成されたから、其処もアワ栽培者が入植できる場所だった。新潟県にはその様場所が何カ所もあり、五泉市、三条市、長岡市の山間地にはその痕跡があるが、それらの沖積地の主要部は、湖沼の消滅によって土壌が侵食されたから、アワ栽培者が入植したとしても痕跡は遺っていない。

従って其処にmt-Dが焼畑農耕者として入植していたのか、それらの山間地はmt-Gmt-M7aの栽培地になっていたのかは、明らかにする事が難しい。しかしそれらの沖積地に行くにも、弥彦山の北にある角田山の岬を周回する必要があったから、糸魚川から海路で行く旅程は福井より遠かった。

従って石斧工房とアワ栽培者の関係が成立した事情としては、糸魚川を起点に考えるのではなく、富山に適切な場所を求める方が現実的になる。

富山でアワ栽培が可能だったと想定される台地として、射水(いずみ)市の南端にゴルフ場が集積している射水丘陵があり、標高70100mの台地が散在している。浸食が進んで平坦地は分散しているが、極楽寺遺跡から海路で30㎞程の場所にあり、磨製石斧の運搬も容易だったから、此処が焼畑農耕の発祥地だった可能性が高い。蛇紋岩の産出量がそれほど多かったとは思えない、上市川の河口の極楽寺に磨製石斧の工房が生れ、太平洋の湿潤期が終わると石斧職人が再入植した理由も、射水丘陵がアワ栽培者の起源地だったのであれば、全ての歴史事象が繋がるからだ。

この丘陵の北端にある、上野南IB遺跡から縄文土器が出土しているが、古墳時代の製鉄跡を発掘する一環としての出土品なので、発掘報告書には縄文遺跡に関する詳しい考察はない。土器の模様から縄文中期と判定しているが、縄文中期まで此処にアワ栽培者がいたとしても不思議ではなく、また考古学者の土器編年には疑問もあるから、詳細は不明と言わざるを得ないが、状況証拠から以下の事情を想定する事ができる。

mt-D11千年~1万年前に新潟に渡来し、焼畑農耕を開発してアワの生産性向上に目途が付くと、mt-DのベアだったY-O2b1が、磨製石斧の大量入手を目指し、極楽寺遺跡から磨製石斧を大量に入手する事を前提に、射水丘陵に入植した事が、焼畑農耕による本格的なアワ栽培の始まりだったと考えられる。従って大角地に磨製石斧工房が生れたのは、アワ栽培者が福井に拡散して石斧の運搬路が遠くなり、糸魚川にも石斧工房が生れる地理的な環境が整ってからだと考えられる。

富山に石斧工房が多数生れなかったのは、黒部川の扇状地には蛇紋岩の巨石が散乱していたが、川の流路が変わって工房が冠水する危険があり、この地域に進出する状況ではなかったからだと推測される。それ故に石斧の需要が増加して工房の拡大が必要になると、極楽寺から大角地に移住する石斧職人も生れたと考えられる。

この時代の船は沿岸航行を主体としていたから、桑野遺跡がある台地までの距離は極楽寺の方が近く、大角地はその2倍ほどの距離だったから、新規参入の大角地の工房は距離のハンディキャップを克服する為に、富山では採取できない滑石で何らかの装飾品を製作し、石斧の付加価値として販売を促進したと推測すると、磨製石斧の工房と石製装飾品の誕生史と発展史を、合理的に解釈する事ができる。

 

4-1-3 磨製石斧の全国的な産地

日本列島に分布する蛇紋岩の産地は、CO2地中封入対象の岩盤として調査され、蛇紋岩の岩盤地域(赤いドット)として下図に示されている。

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Research Institute of Innovative Technology for the Earth (RITE) 

蛇紋岩の露頭があるのは、変成を受けた岩盤帯の一部ではあるが、関東・新潟以西の広域変成帯には、飛騨、領家、三波川、三郡、黒瀬川などの名称があり、それぞれに蛇紋岩の産地がある。日本列島は海洋プレートが沈み込む場所として造山運動を繰り返したから、プレートが沈み込む際に海水を撒き込むと、そこに含水性の変成岩としての蛇紋岩が生れた。また玄武岩質のマントルの中で、比重が軽い花崗岩質のマグマが浮上する際にも造山運動が生れ、浮上するマグマが地下水脈を持つ堆積岩と接触すると、蛇紋岩帯が形成された。それらが隆起すると降雨による浸食を受け、深部にあった変成岩の上位岩石が失われると、蛇紋岩などの変成岩の露頭が生れた。

飛騨変成帯(糸魚川、岐阜北部、富山,石川,福井,隠岐)と領家変成帯(筑波・阿武隈~紀伊半島北部~瀬戸内海~熊本県八代まで、中央構造線の北側に分布)は、透閃石岩を豊富に含む質が良い低圧高温型の蛇紋岩帯で、三郡変成帯(北九州~中国山地東部)と三波川変成帯(群馬~上伊那の露頭、中央構造線の南側に分布)は、質が良くない高圧低温型の蛇紋岩帯になる。

低圧高温型の蛇紋岩帯の下部には花崗岩があるから、高温のマグマが形成した変成帯の蛇紋岩は質が良く、プレートの移動によって形成された高圧低温型の蛇紋岩帯は、質良くないと考える事ができる。比重が軽い花崗岩は大陸塊の基本的な岩石だから、日本列島の形成過程としては、最初に最も古い花崗岩である飛騨帯が生れ、それによって大陸的な地質構造が萌芽したから、大陸に沈み込むプレート境界が太平洋側に移動して三郡変成帯が生れ、そのフレートの圧迫により、新たなマグマが絞り出される様に浮上し、領家変成帯の下部の花崗岩が生れ、それによってプレート境界が更に太平洋側に移動して三波川変成帯が生れ、そのプレートの圧迫によって丹沢の花崗岩露頭の形成に至ったのではなかろうか。

高温低圧型の蛇紋岩帯がそれらの花崗岩帯の上にあり、それに挟まれる様に高圧低温帯の蛇紋岩層がある事が、この推測の一つの傍証になるが、このモデルによって富山湾が沈降している理由も説明できるから、確度が高まる。つまり飛騨変成帯の下部に極めて厚い花崗岩マグマがあり、実は観察できないもっと古い花崗岩層が、能登半島の地下一帯にあるとすると、海洋プレートの残渣である比重が重い玄武岩層が、比重が軽い花崗岩層に挟まれる状態になっているから、それが富山湾の海底構造であるとすると、富山湾が徐々に沈降している状況を説明する事ができる。またこの仮説により、富山湾が1万年間に50m以上の早い速度で沈下しているにも拘らず、富山湾周辺には地震が少ない事も、半ば熔けた溶岩の中を玄武岩が沈降し、断層が生れない現象として説明する事ができる。

これを敷衍すると、隆起帯の中に陥没帯が生れる事象も、プレートの圧迫依る褶曲とこの様な沈降のいずれかによって説明が可能になり、このHPが提唱する岩盤の崩落ではない天竜川の成因にも繋がる。地盤の沈降はありふれた現象だが、それらの沈降速度は最大でも1万年で100m程度だから、岩盤の崩落は極めて稀な現象になり、地形の成因にその様な事象を添加する事に慎重になる必然性が生れる。隆起には必要な空間が十分あり、更に早い隆起も溶岩流の噴出もあり得るが、岩盤の崩落には地中の空間が必要になり、プレートが圧迫している地殻中に空間が存在するとは考え難いからでもある。

関東部族が原日本人時代から利用したと想定される三浦半島や房総半島南端の蛇紋岩は、四万十帯と呼ばれる新しい変成岩体に属している。四万十変成帯に大きな蛇紋岩帯がないのは、最も新しい地殻として浸食が進んでおらず、深部の変成層の露出部が少ないからだと推測されるが、プレートの移動によって生まれた高圧低温型の変成帯だから、露出した蛇紋岩の品質は良くない。従って関東部族が弓矢交易を始めた時期に、古松本湖の漁労権を持っていた事から類推すると、関東部族は氷期から、白馬の蛇紋岩を入手していた可能性が浮上する。

この可能性の検証は、此処まで行ってきた分析とは少し異なる発想が必要になる。此処までは遺伝子分布を含む全ての事象を説明する為に、必要最小限の仮説を設定するものだったが、この検証は其処から一歩踏み出し、確定的な仮説の組み合わせから生まれる論理体系を根拠にするからだ。

関東部族が白馬の蛇紋岩を入手していたとすると、その起源は氷期の寒冷期だったと推測する必要があるが、海洋漁民が山岳地の長い陸路を踏破したか否かについては、疑念があるかもしれない。しかし仮に狩猟民族から入手したとしても、入手自体が可能だった事は野尻湖に近い日向林B遺跡から発掘された、磨製石斧と台形石器が示している。3万年前の遺物は湖沼漁民の持ち物であり、蛇紋岩は遠隔地の白馬で採取し、黒曜石も遠隔地である霧ヶ峰で採取したものだったからだ。

後氷期に諏訪湖や古松本湖の氷結が解除されると、山梨県の北杜市から白馬まで船で往来する事が可能になった。釈迦堂から韮崎の間も古甲府湖を船で往来する事によって実現し、ヤンガードリアス期以前の桂川流域には都留、大月、上野原にそれぞれ湖面標高が異なる湖があったと想定されるから、現在の相模湖付近まで歩けば船で湖を梯子しながら、都留まで遡上する事が可能だった。再三指摘した様に彼らの船は組み立て式だったから、分解して運び上げる事は難しくなかった。

従って全旅程の7割以上が船の移動になっただけではなく、帰路は蛇紋岩を積んで河川の下流に向かう旅程だったから、漕ぎ上がる事ができない急流であっても流れ下る事ができた。従って関東部族にとって白馬は酷い遠方ではなく、北陸部族の旅程と大きな差はなかったが、1万年前に瀬戸内海が生れると、淡路島や中国山地を蛇紋岩の採取地にしたから、陸路を挟むと運搬量が限定された事を示唆している。しかし造船用の高級石斧には、白馬の蛇紋岩で作った石斧を使い続けていた可能性が高い。

それらの推測の背景には、関東部族が示した優れた海運力を考慮すると、北陸部族より性能が劣る磨製石斧を使っていたとは考え難い事情がある。北陸部族に関する縄文時代の船底材の発掘例が、福井県に集中しているのは、舞鶴近辺の質の良い蛇紋岩を使ったからだと推測される事がその根拠になる。関東部族が使った船底材は千葉県から多数発掘されているのに対し、北陸部族の集積地だった新潟県の発掘例が乏しいのは、千葉県は地殻の隆起帯であるのに対し、信濃川や阿賀野川流域は沈降帯だから、土砂に埋没しているからである可能性が高いが、北陸部族の造船地は糸魚川ではなく福井だった可能性もあるからだ。

つまり交換経済が発達した縄文前期以降、両部族の造船は各漁民集落で行われたのではなく、造船集団が確立していた可能性が高い事を、福井から多数発掘される船底材が示しているとも言えるし、高性能の磨製石斧が必須である工程は、硬い巨木から船底材を刳り出す工程であって、柔らかな樹木から舷側版を作成する工程は別の集団が担っていたとすると、発掘地から舷側版が発掘されない事情が生れた可能性もある。但し櫂には船底材より硬い樹木が必要だったから、これも蛇紋岩の産地で加工した可能性は高い。

糸魚川市や朝日町には海の湾入部がなく、良好な湊を得にくい地形だが、舞鶴近辺には良好な湊の候補地がある。その様な地形上の課題だけではなく、富山や糸魚川の蛇紋岩の採掘権は、石斧工房に帰属していたとすると、資源が枯渇した縄文中期以降は、海洋民族が蛇紋岩の磨製石斧を得にくい環境が生れたから、北陸部族の造船地が福井に集約された可能性もある。

石斧工房が生産していたアワ栽培者の為の磨製石斧と、海洋民族が造船の為に使っていた磨製石斧は異なっていたと想定され、蛇紋岩の露頭が海岸にある舞鶴では海洋民族が自由に蛇紋岩を採掘できたから、其処が造船基地になる要素は濃厚にあったと推測される。アワ栽培者が伐採していた樹木の殆どは、幹が細く樹木が軟らかい樹齢20年~30年のものだったが、海洋民族が船底材として求めたものは、幹が堅牢な樹種で樹齢数百年の太いものだったから、石斧のサイズや形状は全く異なるものだったと考えられる。

いずれにしても縄文早期以前の北陸部族には、糸魚川の河原で拾う事ができた蛇紋岩の為に白馬まで出向く必要性はなく、後氷期になると直ぐに関東部族が白馬を縄張りにしても、クレーを付ける筋合いはなかった可能性が高い。分水嶺を以て両部族の河川水域が確定していたとしても、ヤンガードリアス期以前の古松本湖は姫川の水源であると同時に、釜無川の水源でもあったから、それを北陸部族に主張する事が可能だった。

以上の仮説が成立すると、関東部族が冷涼な気候を必要とするシナノキやウルシの栽培地を、八ヶ岳山麓に求めた事情も明らかになる。ヤンガードリアス期以前には、白馬まで至るこの旅程の中で、栽培に適した平坦地は八ヶ岳山麓しかなかっただけではなく、湖の漁労権は湖岸の使用権も含んでいた筈だから、八ヶ岳山麓の溶岩台地の使用権は、狩猟民族ではなく関東部族に属していた事になり、16千年前に縄文人が沖縄から九州に上陸した際に、一部の縄文人が八ヶ岳山麓に入植してシナノキやウルシを栽培する権利が、既に関東部族に帰属していたからだ。これを発展されると、関東部族の縄文人と海洋漁民の交換経済は、ドングリと海産物を交換する事によって生まれ、発展したのではなく、得意な技能を生かして職掌を分担する事から始まり、その過程で食料の交換が必然的に発生したと考える事ができる。

以上の仮説を前提にすると、弓矢産業に纏わる八ヶ岳山麓の位置付けが鮮明になり、史学の論理性を確立する事ができるだろう。海洋民族の活動を追跡する為には、史学の論理性は欠かす事ができない視点になるから、それを発展させる為にはこの様な論考は必須事項であるとも言える。

中国山地に展開した焼畑農耕者の需要を満たすにも、舞鶴~兵庫県北部の蛇紋岩が適し、三郡変成帯である山口~岡山北部~兵庫西部の蛇紋岩は余り質が良くなかったが、北九州ほど低質ではなく磨製石斧の製作が可能だったのは、形成温度に違いがあったからだと考えられる。また焼畑農耕者が使う磨製石斧に、加工に時間が掛かる硬度が高い透閃石岩を使う必要があったのか否かも問題になる。

質が低い蛇紋岩を産出する伊那谷でも、縄文遺跡から蛇紋岩製の磨製石斧が多数出土し、焼畑農耕が矢尻生産を支える食料供給システムの、一翼を担っていた事がその一つの答えになるだろう。また諏訪に最も近い蛇紋岩の産地は伊那谷である事が、この地図によって確認できると共に、秩父や群馬県南部の縄文集落でも磨製石斧とヒスイ加工品が多数出土する事は、蛇紋岩の産地に焼畑農民が集積し、アワの交易によって豊かさを得ていた事を示している。

つまり特別な物産を産出したとは思えない地域でも、蛇紋岩が産出する地域は、焼畑農耕者によって豊かな縄文集落が形成されたからだと考える事ができる。徳島県を阿波(あわ)と呼ぶのも、北陸部族が拡散可能な範囲内で、最も温暖な蛇紋岩の産地だったからである事を示唆している。

これらの事象は縄文前期に、磨製石斧の量産技術が各地に拡散した事を示しているが、その契機は工房がヒスイ加工品の生産を手掛けたからであると考えるのは、産業の進化過程から連想できる重要な視点になる。つまりヒスイの加工技術が進化すると、磨製石斧の量産技術が必要以上に進化したから、縄文中期の寺地の石斧工房は過剰品質的な磨製石斧を生み出したが、地方に分散して廉価な磨製石斧を作り続けた石斧職人と、北陸に残って高度な加工技術を駆使した石斧職人が生れた背景には、普遍的な事象があったと考えられるからだ。

普遍的な事象とは、難易度が高いヒスイの加工技術が進化すると、従来の技術でも事足りていた低位の生産技術である磨製石斧の生産技術も高度化し、それによって高品質の磨製石斧を生産する工房が生れる一方で、従来程度の品質で良ければ製作に難しい技術は要らない状況も生まれ、需要があれば粗製乱造する集団が多数生れた事象を指す。この法則を石斧製造に適用すると、寺地の石斧工房では研磨技術を高め、従来は加工が難しかった硬度が高い透閃石岩を加工し、性能が高い磨製石斧を作ったが、それでも技術的な余裕があったから全面研磨までしたと考えられるから、その技術で従来の硬度が低い蛇紋岩を使えば、従来型の石斧は粗製乱造する事ができたし、熟練度が低い職人でも硬度が低い蛇紋岩から、アワ栽培者には商品価値がある石斧を製作できる様になった。その様な事態が起こる事により、石斧の生産技術が伊那、群馬、阿波などに拡散したと考える事ができるからだ。

その背景にはアワの増産活動の進展があり、それに伴う石斧職人の人口増大と並行し、ヒスイ加工技術を含めた研磨技能の高度化があったから、技能や職能のレベル差による職人の階層化が進み、上位技能者になれなかった職人が中小企業群を形成する環境が生れると、その集団が他の蛇紋岩産地に拡散した事情が想定される。

土器による時代編年に従えば、その流れが生れたのが縄文前期で、縄文中期になると高度に研磨した磨製石斧が北陸で生産されると共に、地場で生産された磨製石斧を使うアワ栽培集団が、各地に生れた事になる。しかし土器編年の縄文前期は縄文早期前半を含み、早期と前期の境界が曖昧だから、実際には太平洋の湿潤化による豪雨期が終わった7500年前に、各地のアワ栽培者の活動が活発化し始め、石斧職人の拡散が始まった可能性が高い。

豪雨期には各地で山崩れや洪水が発生し、未経験な地域への移住に恐怖が生れ、焼畑農耕者の拡散が抑止されただけではなく、湖沼の水位が上昇して湖岸の扇状地を冠水させ、比較的乾燥した栽培地を必要とするアワ栽培に打撃を与えていたからだ。しかし豪雨期であっても研磨技能は向上し、蛇紋岩製の石製装飾品を作る事ができる様になっていた事を、極楽寺遺跡の発掘品が示している。

需要が低迷すると生産技術が画期的に向上する事は、現代社会でもよくある現象だから、それに関する違和感はない。つまり花崗岩で研磨していたのは8500年くらい前迄で、研磨剤を使って効率的に研磨する技術が豪雨期に進化したから、7000年前には研磨剤を使う段階に達していた事になる。それ以降の研磨剤の進化については、石製装飾品の進化の節で検証する。

従って伊那谷へのアワ栽培者と石斧職人の拡散は縄文早期末に始まり、阿波や群馬への拡散も縄文前期には始まっていた可能性が高く、縄文中期寒冷期に阿波が焼畑農耕者の中核地になったのは、寒冷期にアワ栽培者の拠点が阿波に移動したと考える必要があるだろう。阿波で生産したアワが三河に運ばれ、伊那谷を経由して諏訪に運ばれたとすれば、阿波の発展史にも曙光が射す可能性があるからだ。

それを示す大水崎遺跡が紀伊半島南端の串本駅の近くにあり、発掘報告書に以下の様に記されている。(抄録)

小破片で不明瞭ではあるが前期末の大歳山式を最古とし、後期中葉の一乗寺K式で途絶える。中期の土器は深鉢を主体にする、西日本の系統を持つ船元・里木式をベースに、北陸系の新崎式、東日本の五領ヶ台式、東海系などが割合を占め、また勝坂1式かと考えられる中部高地系の土器なども出土している。

中期の土器は基盤を近畿・瀬戸内としながらも、関東・中部・東海・北陸系の文様形態をもつものが多く、広範囲な交易を営んでいたことが考えられる。この状況は一旦中期後葉に途絶えるが、後期初頭から再び活況を呈する様になり、中葉まで続けられる。ただし近畿・瀬戸内が主流となる。その後縄文後期後葉から弥生後期前葉まで、この砂丘は放棄されたのであろうか空白期を迎える。この空白の間には、津波でもあろうか砂丘南西部に水害の痕跡がみられる。

土坑はあるが集落の遺構は明らかになっていない。

この遺跡は海岸の砂丘上にあり、地表最高所でも標高は4.5mしかない。対岸に紀伊大島があるが現在の島のサイズでは、縄文海進期の太平洋の荒波を防いでいたとは考えられない。しかし紀伊大島の北の海域は極めて浅く、嘗ては紀伊半島に接する状態だったが、波に浸食されて島の北半が失われたと推測されるから、縄文中期中葉までのこの遺跡は島に囲まれた安全な湊として、交通の要所になっていたと推測される。

紀伊半島の先端が交通の要所になった事は、紀伊水道と伊勢湾の間に活発な物流があった事を示し、阿波のアワを伊勢湾に運ぶ運送路だった事を示唆している。縄文中期に東日本風の文様が盛行した事は、縄文中期寒冷期に伊那谷のアワが不足し、それを阿波のアワで補った事を示唆している。東日本の漁民が阿波のアワを求めてこの地域に入植した事を、土器の文様が示唆しているからだ。しかし寒冷化した縄文中期になる以前から、アワは阿波から三河に運ばれていた事を、縄文前期のアワ栽培者の土器だったと考えられる大歳山式の出土が示している。

温暖化した縄文後期になると、近畿・瀬戸内(の土器)が主流になった事は、東日本の人々は阿波のアワに興味を示さなくなったが、阿波の人達は東日本にアワを出荷する為に、自分達が運送を担っていた事を示している。縄文後期温暖期になると阿波のアワの生産性が高まったが、東日本では弓矢産業が衰退して矢尻職人の需要が失われた上に、関東では温帯ジャポニカの生産性が高まってアワの価値が減退していたからだ。

発掘された矢尻5点は欠損品だから、矢尻経済が此処まで及んでいた事を示唆している。

砂岩製の磨製石斧が発掘され、蛇紋岩が産出しない地域では、砂岩製の磨製石斧が使われていた事を示唆しているが、石斧の形状に至らないものも多いから、樹木の伐採用ではなく砂丘を掘り起こす為に使った可能性がある。大陸起源の女性達はその用途に打製石器を使ったが、アワ栽培者や北陸部族は打製石器の使用に習熟していなかったとすれば、打製石斧を製作する要領で磨製の土堀具を製作した疑いがあるからだ。つまりこの地域の石材加工者は富山から拡散した石材加工職人だったから、彼らが石材加工を担うとこの様な事態になった可能性があり、技能が低い石材加工職人が過剰になっていた事を示唆している。

上記は土器編年に従った解釈だが、大歳山式土器を持ち込んだのは阿波のアワ栽培者だったとすれば、縄文前期に阿波への入植が進んでいた事になる。土器編年の縄文前期後葉は縄文早期末まで含むとすると、北陸部族は伊那谷にアワ栽培者を入植させると同時に、阿波に入植した人々からもアワを調達した事になる。土器編年の時代観であっても、ヒスイ加工品は縄文前期中葉には存在していたから、事態が突然起こって急減に立ち上がったのでなければ、アワ栽培者と石斧職人の蛇紋岩産地への入植は、縄文早期末から前期前葉に活発化したと想定する事に妥当性があり、この想定は豪雨期の終焉時期とも一致する。つまりアワ栽培者が気候の冷涼化を避けてアワに入植したのは、縄文中期寒冷期ではなく縄文前期前半の寒冷期だった可能性が高く、北陸部族がヒスイ加工品を矢尻産業の共通通貨に採用させる決断を下したのは、縄文前期後半の温暖期になってアワの生産性が高まり、アワ栽培者もこの時代の需給関係としては過剰生産状態になったから、兌換性に自信を持った事が背景にあったとすれば、全ての歴史事情が整合するからだ。

その自信が縄文中期寒冷期に揺らいだから、阿波からのアワの輸送を重視した事が、大水崎遺跡の遺物に示されている可能性がある。北陸系の新崎式は土器編年の縄文中期前半の土器であり、東日本の五領ヶ台式は土器編年の縄文中期初頭の土器だから。

 

4-4-3 東ユーラシアの磨製石斧

プレート境界である環太平洋の島々には蛇紋岩の露頭が各所にあるが、安定陸塊である大陸にはない。木造船を作って海洋民族になる為には、蛇紋岩製の磨製石斧が必要だったから、原日本人系の漁民と接した民族の中で、海洋民族になったのは台湾のオーストロネシア語族民だけだった。彼らがフィリッピンやインドネシアに拡散したのも、蛇紋岩が採取できたからだ。

大陸の栽培民族が樹木を伐採する為には、堆積岩の石斧を使わなければならず、堅い樹木が生い茂る照葉樹林帯にいた稲作民は、海洋民族が磨製石斧を供給する以前には、稲作地の開墾に難渋していたと想定される。

従って大陸で焼畑農耕を行うためには、青銅器や鉄器の普及を待たねばならなかったが、稲作地を開墾する程度であれば、交易で入手した磨製石斧で間に合った。砂岩や泥岩で作った磨製石斧でも森林を拓く事は可能だったが、その効率は蛇紋岩製より遥かに劣るから、広い稲作地を開墾する事は難しかったと推測される。縄文前期の浙江省の河姆渡遺跡から、磨製石斧や石製装飾品が発掘された事は、浙江省の沿海部に海洋民族が出没していた事を示している。太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化は、同じ稲作民の文化ではあったが、東シナ海に接していなかった内陸の稲作民の文化だったから、海洋民族と接したか否かによって、使用する道具類が異なっていた事を示している。

台湾起源の海洋民族は栽培系狩猟民族でもあったから、漁獲に依存しながらも蛇紋岩製の磨製石斧を使って栽培を広げ、フィリッピンや台湾では焼畑農耕によって高い農業生産性を得ていたから、環太平洋の島嶼の住民が、東アジアで最も豊かな食生活を享受していた。日本列島を含むそれらの島々とシベリアの間で交易が盛んに行われ、環ユーラシア交易圏を形成していたが、縄文前以降は海洋文化が大陸にも及び始め、縄文中期には交易経済が発展した事を、良渚文化などの浙江省の遺物が示している。その詳細はその5に譲るが、縄文前期以降の北陸の石斧工房は、石材が枯渇して磨製石斧の出荷が困難になると、石材加工技術の輸出に傾斜していった。台湾の花蓮県から産出する蛇紋岩は質が高く、南方交易では蛇紋岩製の磨製石斧は商品にならない事を、北陸部族は台湾に達した時点で悟ったから、台湾起源の海洋民族に高度な石材加工技術を移転したと考えられる。中南米にヒスイを宝石とする文化が生れ、縄文中期の浙江省に玉器を多用する良渚文化が生れた事が、その事情を示しているからだ。また縄文前期末以降の浙江省の磨製石斧が、有孔石斧になった事もその事情を示している。

有孔石斧は磨製石斧の柄と石斧を固定する為に、石斧に穴を開けたもので、ウルシで石斧を柄に固定していた縄文人には不要な技術だったが、台湾では漆が生産できなかったから、台湾の海洋民族は石斧に穴を開けていたと考えられる。それが後世の中華大陸の斧の主流になった事は、縄文前期以降に大陸に出回った石斧は台湾産だった事を示している。

以上から言える事は、北陸の蛇紋岩石材が枯渇し始めた縄文前期以降、シベリアに多量に出荷された磨製石斧は岡山産の蛇紋岩を使った関東部族のもので、その品質には改善の余地があったから、北陸部族が供給する高級石斧にも安定需要があり、その出荷がピークに達した縄文中期に多数の工房が生まれたが、この工房はヒスイ加工品を製作する事を主眼としていたから、石斧交易の帳尻が合っている必要はなかった。

関東部族が出荷していた石斧も、交易事情としては同様のものだった疑いがある。関東部族は弓矢と獣骨の交換が円滑に行われる事に関心があり、石斧を出荷する事によってトルコ系漁民の活動が活性化されれば、狩猟民族との交易が円滑に進む事は分かっていたから、敢えて石斧にまで交易の利潤を求める必要はなかったからだ。もう少し厳密に言えば、この時代の交易では個々の商品の原価を計算する発想はなく、総合的な収支が合えばそれで良かった筈だから、中核的な交易になっていた弓矢と獣骨の交換が円滑でありさえすれば、他の商品はそれを補完する位置付けだったと推測される。

 

4-2 石製装飾品の誕生と石材加工技術の進化

4-2-1 規格生産的な石製装飾品の誕生

「縄文人の海洋性と石材加工」の項で、交易に石製装飾品を利用する発想のルーツは、シベリアの狩猟民族にあった事を指摘した。縄文人はそれを規格品として生産し、最終的に通貨に仕立てたので、そこに至った技術的な経緯を検証する。

シベリアの狩猟民族は、石のリングや琥珀の玉を装飾品として使用したのではなく、何らかの意味を持つ交易品だったと考えられるが、発掘例は多くはない。バイカル湖近辺の石材から作られたものの出土例もあり、使い方は明らかではないが、交換価値を担保する財貨ではなく、集団間の誓約の証として交換し合う様な、特殊な意味を持たせた物品だった可能性が高い。いずれにしても明らかに人工品であると分かる石材加工品に、何らかの価値を見出す認識は、シベリアの狩猟民族に起源があると考えられる。

2万年~1万年前のシベリア系狩猟民が使った、穴が開いた石と玉として磨き上げた琥珀が、縄文人の財貨認識と一致していた事になるから、それらを「装飾品」と呼ぶ事に躊躇があるが、考古学者が「石製装飾品」と呼んでいるので、このHPでもこの呼称を使う。

日本で規格生産された石製装飾品の最初の需要者は、アワの栽培者だった事は既に指摘した。アワの栽培者はシベリアから渡来したmt-Dだったから、彼女達のシベリアでの経験が北陸にもたらされた可能性もあるが、原日本人はシベリアの狩猟民族から強い文化的な影響を受け、シベリア起源の狩猟民も日本にいたから、縄文社会はシベリア文化圏にあったと考える事に妥当性がある。縄文人は南方系の多彩な物質文化を持ち込んだが、石製装飾品を伴う精神文化が、当時の先進的な文化圏だったシベリアの影響を示している事は、北陸縄文人は自分達が持ち込んだ多彩な南方的な物質文化の上位に、シベリア的な秩序観があると認識していた事になるからだ。但しこれは北陸部族の事であって、関東部族も同じだったと主張するものではないが、関東部族が琥珀を財貨とした事も、シベリア的な価値観に立脚していた事を示している。

大角地遺跡は石斧工房として機能する傍らで、副業として滑石製の石製装飾品を生産していた。福井県桑野遺跡の出土品が、その需要者はアワ栽培者だった事を示し、数量が多く形状が規格化されていた事は、この人工的な物品がアワ栽培者に広く好まれて彼らの文化の一部になり、その起源は桑野遺跡の墓葬時代を遥かに遡る事を示している。言い換えると、桑野遺跡が生れて間もなく原初的な石製装飾品が生れ、アワ栽培者によって形状の進化と規格化が進められた頃、アワ栽培者の墓に石製装飾品を副葬する習俗が生れ、集落が廃絶されるまでその習俗が継続したと考えられる。

以下は「(6)宝貝と玉文化」の項で示した、桑野遺跡(福井県あわら市)の出土品。

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工房の職人が製作した石製装飾品が規格化されていた事は、製作者と需要者が多数いた事と、製作地と需要地が離れていた事を示している。旧石器時代のものより品質が格段に高まっている事は、複数の製作者が需要の拡大を求めて競争し、製品の意匠や品質を競う段階に至っていた事を示している。

シベリア系譜の狩猟民族が彼らの行動圏の南端だった北海道南部に、元祖的な石製装飾品を遺したのは2万~1.4万年前で、桑野遺跡と大角地遺跡は9千年前の遺跡だから、この時代としては急速な技術の進化が発生した事になる。

始原的な社会でこの段階に到達するには長い時間が掛った筈だから、磨製石斧の工房が生まれたのは1万年前に遡る可能性が高く、焼畑農耕の発生は更に古い時代に遡る事は間違いない。

従ってmt-Dが渡来したのは11千年~1万年前だった事になり、超温暖期になってアムール川流域にいたツングースの祖先が、12千年前にオホーツク海沿岸に北上し、空席になったアムール川流域にトルコ系漁民が集まると、mt-DY-Nペアがトルコ系漁民と共生した時代に、mt-Dが渡来し始めた事になる。アムール川流域にいたトルコ系漁民の生産性が低く、それに失望した少数のmt-Dが、11千~1万年前に三々五々北陸に渡来したと考えられる。従前のツングース系漁民と比較すると交換によって得られる漁獲が少なく、優良栽培地を得ていなかったmt-Dは、食生活の維持が困難になったからだと想定されるからだ。

1万年前にシベリアの湿潤化が始まってトルコ系漁民が平原に移住すると、一緒に移動する誘いを受けなかったmt-DY-Nペアは生存環境を失ったから、それに困窮したmt-Dの一部が大挙して新潟に渡来したと想定されるが、既に渡来していたmt-Dが原初的な焼畑農耕を始めていたから、北陸部族はその栽培地を拡大する為に、多数のmt-Dを迎え入れたと考えられる。つまり原初的な焼畑農耕は1万年以上前に成立していたから、1万年前に多数のmt-Dが渡来すると、その大量需要に合わせて磨製石斧の工房が生れたと考えられる。mt-Dはアワの栽培者で、焼畑農地を形成していたのはY-O2b1mt-M7aだったから、栽培適地の限度までmt-Dを迎え入れる事ができたからだ。

この頃mt-Gも多数渡来した事を、縄文前期の小竹遺跡の遺骨が示しているが、mt-Gはオホーツク海沿岸の気候が冷涼化するまでは、ツングース系漁民と共生していた漁民に人気のある女性達だったから、mt-Dが三々五々渡来していた11千年~1万年前には渡来していなかったが、1万年前にオホーツク海沿岸が冷涼化してmt-Gも新潟に大挙渡来すると、それを契機にmt-Dmt-Gとの共存を避ける様に、蛇紋岩が豊富だった富山に集積したとも言える。

多数の人々が行った事であり、数百年以上の期間を経た結果だから、それぞれに色々な動機があった筈であり、上記はその主要な一端だったと考える必要があるだろう。

9千年前の石製装飾品の原石は、蛇紋岩系鉱物である滑石だったが、福井平野の周囲には蛇紋岩の露頭はないから、需要者と製作者は日常的に交流できない遠隔地にいた事になる。この様な場合の経済論としては、大量生産される大衆向けの嗜好品だった石製装飾品は、実用品だった磨製石斧とは異なる商品だったと見做し、それぞれの進化を検証する必要がある。

大角地遺跡の発掘報告書は、「蛇紋岩製磨製石斧や滑石製装身具の未製品が多数出土したことは、それらの製作に特化した遺跡の性格を反映している。製品はほとんど出土しておらず、すでに遺跡外に搬出されたものとみられる。蛇紋岩帯という豊かな石材環境を背景に、遺跡外へ搬出することを前提とした、大量生産が行われた可能性を指摘できる。」と指摘し、冷静な判断を示している。

「装身具には、玦状耳飾と勾玉・管玉・垂玉・丸玉・礫玉がある。勾玉・礫玉を除けば北陸地方の代表的事例である、富山県極楽寺遺跡・石川県三引遺跡と共通する形態構成といえる。また、飴色と黒色の滑石が用いられていることも両遺跡と共通し、特に極楽寺遺跡出土資料とは、使用される滑石の質・色調の構成が酷似する。」「状耳飾は穿孔部が大きいいわゆる円環状をなしており、該期の形態的特徴を表している。」とも指摘している。

三引遺跡は能登半島の七尾湾内にあり、当時の富山湾から福井に向かう航路は、七尾から羽咋に至るものではなく、川尻から羽咋に至るものだった事を示唆している。海面が低く未だこの水路はなかったヤンガードリアス期に、大谷川が川洲を形成して七尾から羽咋に至る地溝を塞いだが、その後海面が上昇して二宮川が侵食した谷に海水が流れ込み、縄文時代の水路を形成したから、七尾湾と羽咋は海水路として完全に連結していたと推測され、三引遺跡の存在は地理的な環境と合致する。つまり三引遺跡は富山湾と福井を繋ぐ海路の要衝にあり、アワ栽培者ではなかった三引遺跡の住人にも、石製装飾品を蒐集する豊かさがあった事になる。

極楽寺遺跡の成立は大角地遺跡より古かった筈だが、大角地遺跡の石製装飾品は殆どが硬度1の滑石で、僅かに硬度2の緑泥石が使われ、桑野遺跡の石製装飾品は滑石と透閃石で作られていた事は、各々の遺跡時代を継ぎ接ぎする必要がある事を示している。

極楽寺遺跡は蛇紋岩製の磨製石斧を製作する工房として1万年前に始まったが、豪雨期の後に再入植した7千年前の職人が製作した石製装飾品は、素材の過半が硬度3の蛇紋岩に変わっていたからだ。つまり太平洋が湿潤化した頃から7年年前までの間に、素材を硬度1から硬度3に変える事ができる状態にまで、加工技術が進化していた。8千年前に断絶したと推測される桑野遺跡から、透閃石の石製装飾品が出土した事は、8千年前には硬度4以上の素材も加工できた事になるから、それらの錯綜した関係を解明する必要がある。

9千年前の大角地遺跡の状態は、「石材は106 点中100 点(94 %)が滑石と判断された。これらには半透明で飴色をなすものが特徴的に認められ、不透明で黒色・緑色のものがわずかに認められた。肉眼観察による滑石の色調・質感の構成は、極楽寺遺跡出土資料とよく共通する。この滑石の産地については今のところ明らかでないが、磨製石斧の製作に関連する石材のように、遺跡周辺の海岸や河川で採取できるものとは考えられない。軟質であるがために、海岸や河川の下流域までたどり着くことは考えにくいからだ。実際河川で滑石を採取できるのは、上流域に限られる。

遺跡から出土した滑石の原石の状況は、板状をなした扁平な角礫である。滑石の原産地のひとつ姫川支流の牛巻沢の源流部では、拳大の原石を採取できるものの、すでに円磨が進行しているから、本遺跡から出土した角礫の原石は、河川では採集することは困難と考えられる。また出土資料の滑石原石の表面に剥離面が確認されるが、その切りあい関係は明瞭でなく、表面がやや擦れた感がある。このような状況を総合的に判断すれば、原石は路頭から採取された可能性が高い。また滑石は蛇紋岩帯に帯状に産出するとされるが、遺跡から半径 5km にはそれが存在しない。即ち装身具の素材である滑石は、磨製石斧等の素材とは異なり、ごく近隣では採取できないものと考えられる。」

石斧工房では元々磨製石斧しか生産していなかったが、石斧の需要者から要求があり、遠隔地の露頭から滑石を探し出して石製装飾品を製作した事になるから、石斧の生産を始めた時期から石製装飾品を作り始めた時期に至るまでに、相当程度の時間があった事になる。厳密に言うと、極楽寺遺跡で磨製石斧を製作し始めた時期と、大角地遺跡で磨製石斧や石製装飾品を作り始めた時期には違いがあったと考えられる。

遺跡の発掘実績から分かる事は、極楽寺遺跡の住居址に8000年~7500年前の風倒木痕があるから、8千年以上前から石斧を作っていた事と、大角地遺跡で磨製石斧や石製装飾品を作り始めた時期には、未だ海面が現在の海水準に上昇していなかったから、標高が5m未満の場所に立地している事だが、他の状況証拠と突き合わせると、大角地遺跡は9千年前と見積もる必要があり、極楽寺遺跡で磨製石斧を作り始めたのは、1万年くらい前だったと見積もる必要がある。極楽寺遺跡の場合は、発掘された住居址の時期を示すものは何もないし、発掘された住居址は8千年前に近い時期のものだったかもしれないが、それ本質的な問題ではなく、一群の遺跡として他の状況証拠と整合させる事が重要になる。

9千年前に海水準が現在より20m低い程度にまで上昇し、三引の水路が形成されると富山の焼畑農耕者が、磨製石が船で送られてくることを前提に、大挙して福井に移住したと想定される。これによって糸魚川が石斧工房の立地として、極楽寺と比較して圧倒的に不利な状況ではなくなったから、大角地遺跡の石斧工房が稼働し始めたが、輸送路が長いハンディキャップは依然として存在したから、富山では採取できない滑石製のリングを「おまけ」に付ける事により、競争力を高めたと想定されるからだ。

「素材となる滑石は、遺跡に搬入されている原石の形状から、露頭の「ズリ」が用いられた可能性が高い。この原石から節理面に沿うように、板状の剥片が剥離されたと考えられるが、素材となりうる大きさの剥片は出土していない。いずれにしても扁平な素材が用いられたとみられ、扁平な素材は研磨されて成形される。この段階で表面により膨らみをもたせ、裏面をより平坦に仕上げている。このような断面形態は、極楽寺遺跡・三引遺跡にも認められる。これを平面円形に仕上げ、円盤状の形状が作出され、玦状耳飾の形状・大きさの概略が決定される。

円盤状の素材に対して穿孔が為されるが、穿孔部分は楕円形を為し、穿孔が中央部分からややずれている特徴があるから、複数の孔を穿ってそれを連結させたものとみられる。この穿孔は表裏から施されるが、擦痕の観察から、一般的な回転穿孔とは異なるものと理解される。短い単位の擦痕が連続的に形成されており、鋭利な剥片などによって繰り返し削りとったかのようである。穿孔によって作出された円環状の素材の一端に、スリットが刻まれ、スリット部分の擦痕は弧状を為すものがある。このような擦痕のありようから、「糸切り技法」の存在を窺うことができるが、一見弧状に見えるものであっても「ハ」の字をなすようなものもあり、スリット形成段階とみられる資料には、鋭い刃部が複数回にわたって接触した直線的な擦痕が認められる。この状況から判断すれば本遺跡においては、一部の資料をもって「糸切り技法」を普遍化させることは難しい。

これらの過程を経て玦玦状耳飾が形成されるが、粗い擦痕が認められる資料が多い中において、一部の資料の表面は滑らかで深い擦痕が認められない。このような表面は、出土している砂岩製の砥石から作り出すことはできず、動物の皮革や木製砥石などで仕上げ砥が為された可能性がある。また仕上げ砥の段階に達した資料の穿孔痕は、回転方向と直交する擦痕によって打ち消されているものがある。反復回転抉り穿孔による粗い擦痕を、磨き消したものと考えられる。ただし、その擦痕は仕上げ砥のようにきめ細かなものではない。」

滑石に穴を開ける際には尖った石器で抉り、リングにスリットを形成する際にも剥片状の石器を使い、鏡面を形成する為には動物の皮革や木製砥石を使った可能性が指摘されている。これは研磨剤が発明されていなかった段階の加工事情を示し、硬度1の滑石では加工が可能であっても、硬度2の緑泥石では時間が掛かる加工方法だった事を示唆している。

一般的には、石を磨いて鏡面を形成する場合には研磨剤を使うが、石材が柔らかければ布や皮革で磨いて鏡面を出す事もできるから、それによって鏡面を形成していた事になるが、これには長い時間が必要になり、硬度2以上では現実的ではなかった。従ってそれらの事情と発掘実績は一致している。

蛇紋岩で石製装飾品を製作していた極楽寺遺跡の出土土器について、発掘報告書に以下の記載がある。

「底部破片は4点 出上 しており、丸底のものと平底のものが認められる。このうち丸底中央部に径 6mmほどの穴が貫通 しているものがある。同様のものは過去の調査や採集品でも確認されており、その意図については不明であるが注目される。」

丸底中央部に開けられた径 6mmほどの穴は、研磨剤を精製する為に使う土器だった事を示唆している。河原の砂を集めて土器の中で水と攪拌し、放置すると砂は粒度と素材の比重に応じて層状に沈殿する。粒度が荒いものが先に沈殿するから、底の穴を塞いだ状態で攪拌した後、穴を開放して粒度が荒いものを抜き取り、途中で穴を塞いで細かいものを遺す事ができる。それを繰り返す事により、粒度が細かい研磨剤を精製したと考えられる。この工程には平底ではなく丸底の土器が必要だから、発掘実績は実情に即している。

花崗岩質の砂には色々な鉱物が含まれているが、これによって比重が軽い石英と長石を、それらと比較して比重が重い雲母、角閃石、輝石などから、分離する事もできたと考えられる。それだけでは石英と長石は分離できなかったが、両者の硬度は67で類似している。彼らが何らかの手法で石英と長石、或いは非結晶石英と結晶石英を分離できたとすると、硬度7の研磨剤を入手する事に成功していた事になる。それができなかったとしても、硬度7の鉱物粒子を含む研磨剤を得ていた事になるから、硬度3の蛇紋岩を研磨する事に問題はなかったが、硬度5以下の透閃石岩を選んでも研磨に時間が掛かり、実用的ではなかった。

縄文早期末の極楽寺の石斧工房ではこの発明に依り、蛇紋岩を素材にした石製装飾品を作る事ができたと考えられる。精錬された研磨剤を濡れた状態で皮革に塗布すれば、曲面的な装飾品の表面を繰り返し研磨する事により、鏡面に仕上げる事が可能になったからだ。

研磨剤を精製する際に、沈殿土砂の表層を掬う技法もあるが、道具立ては複雑になる。しかし一旦技法が成立すると、細かい粒子の研磨剤を効率的に量産できるから、底に穴が開いた土器はやがて使われなくなった可能性もあるが、縄文早期末の技法を確認する貴重な指摘になる。

考古学者は糸切技法に興味を集中させる傾向があるが、その糸にはアサの繊維を使ったと想定されるから、研磨剤を塗布する素材を皮革から麻に変えた事も意味する。但しその前段階として、研磨に使う布状の道具を皮革から麻布に変えた筈だ。麻縄を束ねただけの布とは言えないものから出発したかもしれないが、細い紐を編み上げて布状にするまでに、それほど時間は掛からなかっただろう。皮革より麻布の方が格段に耐久力はあり、力を込めて磨く事が可能になるから、彼らはその使用に積極的になった筈であり、籠を編む技能は元々あったからだ。堅果類の栽培者にとって、ドングリを拾う際には籠は必須アイテムだったからだ。

従って8千年前に断絶した桑野遺跡に、多数の透閃石製の石製装飾品があった事は、研磨剤が誕生した当初は透閃石岩も素材としたが、加工に時間が掛り過ぎるので、7千年前には素材を蛇紋岩にしていた事になる。但し素人が目視しただけでは、蛇紋岩と透閃石岩は見分けが付かない場合が多く、透閃石岩は透閃石の含有率によって硬度が変わる事に注意する必要がある。

 

石製装飾品が規格品になった経緯

実用性がない装飾品は価値を認めて買う人がいなければ、職人は労力を投入しないタイプの商品だから、近世までその様な商品は注文生産が一般的だった。従って石製装飾品を生産した際に、注文生産の仕組みが既に存在していれば、規格大量生産は行われない商品だった。

桑野遺跡などから出土した石製装飾品の規格量産的な形状は、需給関係を基に遠隔地の工房で生産されたものであって、注文生産された高価な装飾品ではなかった事を示している。従ってその起源は、糸魚川の石斧職人が蛇紋岩の露頭の分布状況を検分する為に、山中に分け入って滑石の露頭から気紛れに持ち帰り、何らかの形状に成型して石斧の「おまけ」としたものが起源だったと推測される。福井のアワ栽培者がそれを高く評価したから、形状を変えながら沢山作る羽目になった結果として、桑野遺跡の状態を導いたと想定される。

石斧工房の本務は石斧を製作してアワ栽培者に提供し、生産したアワの分け前を得る事だったから、石斧工房がその様な生産性がない石製装飾品に価値を見出した筈はなく、飽くまでも余技としての商品だった。しかし工房の意図に反し、アワ栽培者が工房の意図しない価値を見出したから、工房はアワ栽培者の要求に従って増産しただけではなく、石製装飾品の価値を高める為に生産技術を改良し、やがて磨製石斧の生産技術より高度な生産技術を確立してしまった事に、石製装飾品人気の異常さがあったと考える必要がある。

その起源を具体的に推測すると、全員に行き渡らない中途半端な数を提供する事により、自分も欲しいと騒ぎ出すアワ栽培者が多数生れ、却ってブームに火をつける結果になったとすれば、何時の時代にも起こり得る出来事になる。此処で抽出すべき論点は、価値が認知されていなかった石製装飾品に、アワ栽培者の興味が集中した理由の解明になるが、その議論は後段に譲り、先ずは石製装飾品の形状が進化した経緯を検証する。

初期段階で規格的な形状が生れていたとは考え難く、特に玦状耳飾の様なものは、使用者の意見が反映されない限り製品化には至らない商品になる。竹ひごなどを耳に刺す習俗は、近代になっても未開民族に見られたから、この時代にもその様な習俗が先行していたかもしれないが、それを玦状耳飾に変える為には使用者の意向が反映される必要があったからだ。

糸魚川と福井は離れた場所にあるから、需要者と石斧工房の意思疎通は、磨製石斧とアワを運ぶ廻船業者だった漁民に委ねられた事が、桑野遺跡に見られる様な、需要者の要望が集約されて形状が規格化された状態を、時間を掛けて生み出したと考えられる。

磨製石斧にも大小のサイズがあり、厚さにもバリエーションがあったから、石斧職人は各々の需給を個別に勘案し、適切な数量を見積もって市場に投入する事に慣れていた事も、石製装飾品の形状や材質が進化する必須条件だったと考えられる。

桑野遺跡の石製装飾品が透閃石岩の段階に進んでいたのに、富山や新潟でそれを製作した工房跡が発見されないのは、8千年前に始まった湿潤期に大雨で失われてしまう様な、危険な場所に立地していたからだと推測される。川砂から研磨剤を精製する技法が確立すると、それに使う砂が得やすい河川の河口に工房を設置したから、太平洋の湿潤期に濁流によって流出し、或いは土砂に埋もれてしまったと推測されるからだ。

硬度67の石英粒を含む研磨剤を使えば、硬度56の透閃石岩を磨く事は論理的には可能だが、酷く時間が掛かる事は否めない。石斧職人が硬度5に満たない透閃石岩を探し出し、桑野遺跡のアワ栽培者の需要に応えたとしても、石斧の製作に支障が出るにも拘らず、その製作に労力を投入していた事を意味するから、豪雨期の工房の労働力に余裕が生れていた事を示している。

その理由としては、降雨期になるとアワ栽培者の拡散が緩慢になり、石斧が過剰生産気味になったから、需要が減少した石斧工房もアワ栽培者の機嫌を取る為に、透閃石製の装飾品も生産せざるを得なかったとすれば、上記の事情は環境条件と整合する。このような場合に加工技術が向上する事は、現代社会で不況期に生産工程が合理化されたり、新製品が生れたりする事情と一致する。

降雨期が終わってアワ栽培者の拡散が活発になり、磨製石斧の需要がタイトになると、石斧工房から余剰労働力が失われ、石製装飾品は硬度3の蛇紋岩に戻ったが、その頃には桑野遺跡があった丘の集落は断絶していたから、桑野遺跡では蛇紋岩製の石製装飾品が発掘されなかったと考えられる事も、環境条件と整合する。つまり縄文早期末の石斧工房の認識は、工房が需給に応じて生産しなければならない主要製品は石斧であって、石製装飾品は余剰労働力が許す範囲で生産するべきものだった。アワ栽培者にも同様な自覚があったから、縄文早期末の石製装飾品は蛇紋岩製に戻った事になる。

但し磨製石斧の生産に関しても、石製装飾品を生産する為に開発した研磨剤を使うと、刃部の加工時間が短縮されて生産性は飛躍的に向上したと想定され、縄文早期末には磨製石斧の供給が潤沢になり、使用する蛇紋岩系鉱物の硬度が高くなり、刃部が鋭利になった事により、焼畑農耕の生産性も高まったと想定される。逆に言うと、それまではアワ栽培者も砥石を持っていれば、研磨してある程度刃部を再生する事ができたが、石斧工房が研磨剤を使う様になると、アワ栽培者にはそれができなくなった事を意味し、石斧工房は繁忙を極める様になったとも言える。

それらを受けてアワ栽培者の伊那谷への入植が始まり、職人も伊那谷に入植すると、伊那谷だけではなく三河の石斧需要も伊那谷の職人が賄う様になったと推測される。その時代に柳田遺跡の職人も繁忙を極めていたとすると、石斧職人の数は不足していた事になる。

生産者と消費者の間に密接な意思疎通がなく、生産者が需要を見越して生産する商品を、現代社会ではコモディティと呼ぶ。現代社会にはその様な商品が溢れているが、これは高い生産性と発達した物流機構を前提として初めて成り立つ、大量生産型の商品概念だから、石製装飾品の生産様式は縄文時代の生産形態としては不自然だが、複数の磨製石斧を規格量産していた石斧工房と、それを前提に購入していたアワ栽培者の間の出来事だから、両者の間にその様な関係が生れる事は異様な事態ではなかった。関東部族は弓矢の大量生産を既に開始していたから、石斧職人にもアワ栽培者にもこの生産方式に違和感がなかった可能性が高い。

石斧工房は複数あり、それが富山と糸魚川に分散していたし、アワ栽培者も福井から中国山地や琵琶湖岸、更には三河に拡散し始めていたから、アワ栽培者と石斧工房を仲介するマーケティング実務を担ったのは、三引遺跡を拠点にして物流を担っていた、漁民だった可能性が高い。従って三引遺跡から発掘された石製装飾品は、彼らが使ったものではなく、商品見本だったと考える必要もある。漁労活動には素早い動作が求められるから、漁民には石製装飾品を使う習俗はなかった可能性が高いからだ。

縄文前期の遺跡である富山の小竹貝塚から採取された13個体のミトコンドリア遺伝子の内、最も多いのはmt-N9b5個体だから、北陸部族の漁民はmt-N9b比率が高かった事を示唆している。つまり北陸部族の漁民はペアで漁労活動を行い、交易にもペアで従事していた可能性が高いから、装身具は女性が使うものだったとしても、漁民の女性は装着していなかった可能性が高いからだ。

磨製石斧は機能商品だから、その形状や材質は機能を高める為に特定の形状に収斂し、その結果として規格量産品になったと想定されるが、石製装飾品は機能性を根拠にした物品ではなかったから、特定の形状に収斂する為にはそれに相応しい理由が必要だった。始原的な形状はシベリア的な価値観に基づき、単純なリングや玉だったと推測されるが、その形状が精緻化したのではなく、多彩な形状が生まれる事によって製作技術が進化し、その後で特定の形状群に収斂した事を、桑野遺跡の製品群は示唆している。

桑野遺跡の遺物は当時のハイテク製品だったから、小さな穴を開ける為にも特殊な工具が必要になり、その工具を製作する技能は、滑石製の石製装飾品を作る技能より高度なものだっただろう。石材加工技術の高度化の本質は、形成された形状にあるのではなく、工具や研磨材を製作する技術の進化だから、製品の形態からそれらを見極める必要がある。

石製装飾品が特定の形状に収斂していく過程には、幾つもの段階があったと想定される。最初の段階では狩猟民族の伝統を踏んだ、石のリングに仕上げる技能の高度化があり、やがてその応用技術品として各種の形状バリエーションが生まれ、需要者の嗜好を伝達する者を介し、それらの個別の需給関係が生産者に伝わると、生産者は需要の高いものの形状を改良しながら、それぞれの生産数量を決める段階に進んだだろう。

この過程が進行し、規格品が大量生産される事態に至った経過事情として、アワを栽培していた女性達が休憩時間などに、石製装飾品の使用方法や形状に関する議論に花を咲かせ、それに熱中する状態が生れたと想定する事に合理性があるだろう。娯楽がなかった時代だから、石製装飾品を持ち込んだ漁民が石斧職人の製作事情を伝えた際に、「希望する形状があれば検討する」意図も伝達すれば、休憩時間の女性達の話題になった事は容易に想像できるからだ。その様な話題について話し合う事を、女性達が極めて文化的であると見做した事も、容易に推測できるだろう。

アワ栽培者の興味が石製装飾品に集中した理由を、この様な話しで済ませば単純なものになるが、此処まで進化した理由はそれだけでなく、財貨意識も高まった背景にはアワ栽培者の屈曲した意識が投影されていたと推測される。

何らかの意識の基にアワ栽培者と石斧職人が、漁民を介した情報のキャッチボールの末に、石製装飾品の定型が生れたとすれば、桑野遺跡の遺物の量産に至る事は、現代的な感覚では必然的な結果だったと言えるだろう。しかし石製装飾品はこの時代の特別なオリジナル商品で、それが規格量産品に至る異例の進化を遂げた話だから、その萌芽から桑野遺跡の遺物の段階に至るまでには、長い時間が掛かったと推測される。

需要が多かったものが標準品化し、それが桑野遺跡に蓄えられたと考えられるが、形状に複数のバリエーションがあるのは、競合する工房が各々独自の形状を提案し、それらが各々の独特の形状に収斂した事を示唆している。現代社会でも同様な事態が頻発し、需要家が規格量産品に対して具体的な要求を出す事は難しく、漠然とした要求を受けて製造者が試作した物品から、気に入ったものを選ぶ事しかできないからだ。

大角地遺跡と極楽寺から複数の異なる形状の石製装飾品が発掘され、それらが各々類似した形状である事は、量産品の形状が定まると各工房に見本が配布され、更に製作技術や感性に磨きが掛かる事によって統一的な汎用品になった事を示している。それを逆に言えば、気に入った形状に進化しない事に苛立ったアワ栽培者が、各工房に強い要求を発していた事を示唆している。

近隣で滑石を採取する環境に恵まれていたのは糸魚川の石斧職人だけで、富山の石斧職人にとっては、必要があれば数日を掛けて採取に出掛けるほどの、遠い場所にしか滑石の露頭はなかった。極楽寺の石斧職人が露頭のある姫川流域に出向く為には、船で朝日町に出て小川を遡上し、稜線を歩いて初雪岳から犬ヶ岳に至る必要があった。犬ヶ岳の東は姫川の支流である小滝川の源流域で、蛇紋岩の露頭が散在している地域だから、糸魚川の職人の滑石採取と比較して酷く手間が掛かる状況ではなく、糸魚川の職人の縄張りを荒らす行為でもなかったが、旅程が長く途中で野宿する必要があったから、採取する意思がなければ出掛けない場所だった。従って極楽寺の職人にそこまでさせた、アワ栽培者の石製装飾品に掛けた執念は、何を根拠にしていたのか探求する必要があるだろう。

糸魚川で滑石を加工していた石斧職人が、船で漁労も使う縄文人だったとしても、アワの栽培地は上記の旅程より遥かに遠方だったから、彼らが自身の船で出掛ける事ができる距離ではなく、アワ栽培者の希望を知る為には、海洋漁民の仲介を必要としていただろう。その様な状況下で同じ形状の石製装飾品が、桑野遺跡、三引遺跡、大角地遺跡、極楽遺跡から出土し、それぞれの形状に紐付けられる特定の産地がなかった事情は、石製装飾品が規格化されてから、アワ栽培者が福井平野に移動したのではなく、富山で成立した焼畑農耕が栽培適地を求めて福井に拡散した後で、石製装飾品の形状が規格化された事を示唆している。

これは極楽寺の石斧工房が石斧工房の発祥地の工房であり、大角地の石斧工房は石斧の生産者としては後発者だったが、滑石製の石製装飾品は大角地の石斧職人が作ったものがオリジナルで、石製装飾品は滑石製から始まったとの想定と整合する。富山では滑石は入手できないと間接的に指摘している、大角地遺跡の発掘報告書とも一致する。

石斧職人とアワ栽培者の双方は、この非生産的な商品開発に試行錯誤的に取り組み続けるほどの、食料の余剰を確保していた事になるが、これは統制がとれた農耕社会での現象ではなく、権威とは無縁の趣味的な発想に端を発していた事は間違いない。また共通化が進展しながら規格大量生産に至った事情と、滑石を容易に入手できなかった極楽寺でも滑石製の装飾品を作った事と、極楽寺の職人は滑石の代替品として、蛇紋岩を使う為に研磨剤を開発した事は、石製装飾品はこの時代のアワ栽培者にとって、何らかの希望に極めて合致する物品だった事を示している。

つまりアワ栽培者にとっては単なるアクセサリーではなく、それ以上の意味を持つ物品だったから、規格大量生産されながら墓に副葬される物品になった事になる。

厳しい自然と対峙していた縄文人が、不確かな宗教観に陥っていたとは考え難いから、複数保有する事が社会の安定や生産性の向上に貢献していたか、少なくとも彼らはその様に考えていたとすれば、その解釈の幅はあまり広くない。石製装飾品には類似した形状や色彩のものが多数あり、財貨として貯めながら保有していた事を示唆しているからだ。

シベリアの伝統的な財貨意識は、獣肉や毛皮などとの交換価値がある物品ではなく、信任の証の様な、象徴的な意思を伝達するものだった可能性が高いから、石製装飾品に関する財貨意識はアワ栽培者独特のものだったと考えられる。言い換えると、彼らが創作した財貨意識だったと考えられる。

多量に生産されて蓄えられた石製装飾品から、財貨としてのヒスイ加工品に発展した事から考えると、石製装飾品もアワ栽培者の財貨意識に裏打ちされた物品だったと考えられる。彼らは保存可能なアワを生産していたから、アワを兌換品とする財貨的な認識が石製装飾品に付与される余地があっただけではなく、アワを媒介として石斧職人から石製装飾品を入手していたから、同様にアワを媒介として、仲間内でそれらを交換し合う習俗を発展させ、石製装飾品を財貨に仕立てる事も可能だったからだ。

但しそれは基本条件であって、石製装飾品が趣味的な装飾品の域を脱し、類似品を複数持つ財貨に至る必要条件にはならない。一昔前の子供は遊びに使ったビー玉やおはじきを溜めていたが、それを他の物品と交換する際の媒体にする様な、財貨意識ではなかった。縄文早期の石製装飾品もその様なものだった可能性はあるが、子供の受動的な趣味とは異なり、石斧工房の職人を巻き込んで最終的にヒスイ加工品に進化させた事は、石製装飾品にはそれに至る素地があった事になり、単純な趣味の世界とは異なる認識があったと考えられる。

富山の石斧職人に、滑石を採取する為に泊り掛けで姫川の上流に出向かせ、それを避けるために素材を蛇紋岩にする必要を認識させ、研磨剤の開発に至らせた事は、その認識がアワ栽培者にとって極めて重要なものだった事を示している。

やがて石斧職人はヒスイ加工品を作り出すが、それには更に高度な技術と長い製作時間が必要だったから、石斧職人にその様な動機を与えたのは、アワの栽培者にそれらを財貨として溜め込む習俗が生れていた事と、その習俗が石斧職人を含む周囲の人々に周知されていた事と、ヒスイ加工品の財貨性は、これらのアワ栽培者の認識に支えられていた事を示している。

つまり石製装飾品を製作していた縄文早期までの石斧職人は、石斧作りに忙しくなれば石製装飾品の製作を手抜きする程度の認識しかなかったが、矢尻産業を介して琥珀に関する財貨認識がアワ栽培者まで及ぶと、石斧職人がその代替品としてヒスイ加工品を提案するほどに、石製装飾品に対するアワ栽培者の財貨認識が高まっていた事になる。ヒスイ加工品が矢尻職人に財貨として支払われたのも、実質的にはアワの代用品だったからだとすれば、その価値をアワ栽培者が無意識裏に保証していた事になり、ヒスイ加工品が琥珀の代用通貨になる条件は、この様な前提の下に揃っていた事になる。

アワ栽培者がその様な認識に至ったのは、財貨を持ちたいと願う願望があったからだとすると、その理由は容易に推測できる。堅果類の栽培者は、何百年も掛けて生産性が高い樹林を形成し、それを受け継いだ人々は、それを管理して子孫に遺したから、樹林を形成した祖先に強い尊崇の念があったと想定される。それが社会秩序の維持に貢献していた事は、容易に推測できるだろう。祖先の教訓が箴言として遺り、人々がそれに従っていたとすると、疑似的な法規に律せられた社会になっていたからだ。

しかし焼畑農耕によってアワを栽培する者達は、新たに形成された発展途上の社会に生きていたから、革新性を重視する必要があった上に、堅果類の栽培者の樹林の様に、子孫に遺す具体的で視覚的なものは何もなかった。田畑を形成すればそれを子孫に遺す事ができたが、焼畑農耕者には恒久的な田畑は無かったからだ。焼畑農耕者だけの世界に住んでいたのであれば、それに危機感を持つ事はなかっただろうが、焼畑農耕者は堅果類の樹林を維持している集団と混在する社会にいたから、その違いは誰の目にも明らかだっただろう。

北陸縄文人は全員が一斉にアワ栽培者になったのではなく、堅果類の栽培者とアワの栽培者が混在していた事を、桑野遺跡と同時期に併存した河岸段丘上の集落址が示している。農作業に忙しかったアワ栽培者は、海洋民族の経済圏から離脱していた様に見えるが、アワ栽培集団全体の経済収支として、全てのドングリを置き換えるほどの生産性はアワにはなかったし、堅果類の栽培者がアサなどの物資を生産しなければ、アワ栽培者が必要とする海産物を得る事もできなかったからだ。

海洋民族と共生していた縄文人は、海洋民族が求める物資の生産者になり、その貢献によって多量の海産物を得ていたから、アワ栽培者の方が豊かであるとは必ずしも言えない状況があり、北陸部族でも縄文晩期まで堅果類の栽培者が残っていた事を、栗を多量に栽培していた遺跡の存在が示している。

従ってアワ栽培者の社会にも厳しい現実があり、成功者はある程度豊かになったが、分村に失敗して貧しいアワ栽培者に転落するリスクは常在していた。職人的な技能が重視されていた海洋民族の世界では、アワ栽培の失敗者が容易に戻れるほど甘いものではなく、豊かさをもとめるアワ栽培者が新たな優良栽培地を求め、西日本の各地に移住する事は必然的な事象だった。

岐阜県の御望A遺跡の発掘結果は、焼畑農耕であっても火山灰が積もった台地上で長期間焼畑農耕を続けると、土壌が黒ボク土化して生産が行き詰まる事を示唆しているから、アワ栽培者も沖積平野に進出する必要があった。しかし海面上昇が続いていた、縄文時代早期や前期の海岸には沖積平野はなく、山間地の斜面には岩肌が露出していたから、アワ栽培者が入植できる場所は極めて限られていた。

この様な厳しい現実の中で、努力の末にある程度の成功を収めたアワ栽培者が、自分達を堅果類の栽培者と比較し、豊かになった代わりに失ったものを見出す事も必然的な事象だっただろう。堅果類の栽培者の集落では、全員の協業によって樹林が維持され、それを核にして団結力が堅持されていたが、アワ栽培者は家族経営的な小集団に分裂する事によって生産効率を高めていたから、堅果類の栽培者の様な集団的な団結力や協調性を失い、縄文人的な秩序は維持できなくなっていただろう。農耕の生産性を高める為には家族労働に依存しなければならない事は、共産化したソ連や中国の農業の生産性が劣化し、結局個人経営に戻らざるを得なくなった事が示しているからだ。

アワ栽培者が家族主義的になった事が、集団的な秩序感を薄れさせて集団力を低下させ、アワの生産技術に関する女性達の情報の収集力にも、悪影響が及んでいた事を自覚し始めていた可能性が高い。男性達には元々縄張りを決める習俗があり、栽培地の分割に際してそれが機能し、磨製石斧の供給体制とも連動していた筈だが、女性達は男性達がその成果として、樹林を伐採して農地化した耕地を使用していたから、mt-Dは狭い地域社会の中でアワを栽培する状態になり、嘗ての狩猟系栽培民族的な社会に逆行した状態に陥り、それに危機感を抱いていたと推測される。

狩猟系栽培民族の社会では、栽培情報の交換は狩猟の縄張り内で行われ、栽培者の遺伝子の純化プロセスが進む状態だった。穀物種などを優良な栽培種に育て上げる事に成功した女性達の集団は、その殻を破って女性達の交換ネットワークを形成し、優良な遺伝子の集積と栽培種の純化を進めたから、その殻を破って栽培者になったmt-Dにも、有効な女性社会を形成する習俗を、母から娘に伝承された栽培思想として、潜在的に持っていただろう。mt-Dの場合にはそれが過剰にあり過ぎて、帰属社会を過度に農耕民族化し、他の栽培者に対して排他的な行動を取りがちだったから、焼畑農耕者になったmt-Dはアワ栽培者として成功すればするほど、焼畑農耕者の社会が母から娘に伝えられた栽培思とは、異なる状態に向かっている事に気付き、その状態に危機感を持っていた可能性が高い。

シベリア時代のmt-Dはアワを漁民に売る為に漁村に出掛け、その交易の中で社会との接点を確保していたが、焼畑農耕者になると磨製石斧を得る手段も、その代価として支払うアワの販路も、男性達に帰属する事になった上に、アワ栽培者の周囲にいた海洋民族化した漁民は、交易に積極的だったから、mt-Dが遠路を往来しながら何らかの活動する必要性は薄れていた。農耕の生産性向上に執心していたmt-Dは、特にその傾向を強めていただろう。稲作者でありながら冷涼な八ヶ岳山麓に移住したmt-B4と比較すると、その違いは明らかだ。

アワ栽培が家族労働に依存する様になると、mt-Dは栽培者としてのネットワークを維持する為に、新たな手段を講じる必要に迫られただろう。その様な状況下で原初的な石製装飾品が持ち込まれ、海洋漁民によって職人のコメントがmt-Dに伝達され、形状は好みに応じて如何様にもできることが分かると、女性達の話題に相応しい素材として取り上げられた可能性が高い。

mt-Dが情報ネットワークを形成する際に、アワ栽培に関する話題に石製装飾品の形状や使い方に関するものが加わると、情報交換の場に活気が生れ、アワ栽培に関する情報伝達もスムーズになった可能性が高いからだ。この様な意図を持ったmt-Dの情報交換により、形状に関する価値観が様々な議論を経て糸魚川の石斧職人に伝達されると、石斧職人も石斧を買って貰える期待を基に、希望された形状に近付ける努力を競っただろう。mt-Dの議論は装飾価値を高めるだけの単純な目的の為ではなく、議論をする事そのものに価値があったとすれば、要求する形状にも色々なバリエーションが生れ、用途も多彩になっただろう。桑野遺跡などで発掘される多彩な形状は、その様な状態を髣髴とさせるものである事を示唆している。

考古学者はそれらの用途の説明に困惑しているが、上記のような状態だったのであれば、その解明に拘泥する必要はないだろう。彼女達にとってさえも、奇抜なものが含まれていただろうし、宗教性も実用性もなかったからだ。しかしmt-Dにとっては、その様な議論をする行為が極めて文化的であると感じていたであろう事に、異論を唱える人はいないだろう。これは矢尻街道の宿場で多彩な土器を製作した、関東部族の女性達も持っていたであろう価値観だから、縄文女性に普遍的な価値観だったと考える事もできるし、現代人にもその様人は沢山いると考える事もできるからだ。

その様な話題が活性化すると、好みに合わせて手持ちの石製装飾品を交換する習俗も生まれ、交換価値の過不足をアワで補充する習俗が生れると、石製装飾品には財貨価値が生れた。石製装飾品に光沢を与える事も、それにまつわる要求の一つだったと考えられる。女性達が毎日熱心に滑石の表面を拭いていれば、やがて鏡面になる素材だったから、それに価値を見出した女性が石斧工房に出した要求が、石製装飾品を光沢加工する事の普遍化に結び付き、やがて研磨剤の発明に結び付いたと想定されるからだ。

この様な過程を経て石製装飾品の形状が規格化され、各部位の微妙な違いが価値の違いを生み出す様になると、同じ形状ものに収斂していくと同時に、価値が統一される流れが生れ、職人もそれに近づける努力を続ける事により、次第に財貨化していっただろう。

mt-Dにとっては皮肉な事に、この活動に主体的に参加する為には石製装飾品を入手し続ける必要が生れ、その原資であるアワを確保する為に、更にアワ栽培の生産性の向上を推進する必要が生れた。その結果としてアワ栽培が更に家族労働的になり、堅果類の栽培者の社会との違いを際立たせる方向に向かったから、更に新しい対策を講じる必要に迫られた。その結果として、石製装飾品の財貨化が推進されたと推測される。

堅果類の栽培者には子孫に遺す樹林があり、それを受け継いだ者達が、祖先に感謝しながら先輩達が語る伝承を重視していた事が、彼らの集団的な絆を深めると同時に謙虚な人格を醸成していたから、家族経営に移行していたアワ栽培者がそれに気付けば、子孫に遺す財産が欲しくなり、石製装飾品の資産化に目を付ける事は必然的な結果だった。彼ら自身の財貨認識が不十分であれば、それを意図的に高める必然性も内包していたからだ。子孫に財産を遺す事への満足感は普遍的なものだが、物が溢れる社会に生きる現代人より、人工物に乏しかった縄文人の方が強い意欲を持っていた可能性が高いからでもある。

基礎食料の堅果類依存度が高かった東日本では、大規模な環状集落が形成されたが、アワ栽培が拡散した西日本にはその様な集落が生まれなかった事が、堅果類の栽培者とアワ栽培者の習俗の違いを示し、上記の論考の参考になるだろう。

同じアワ栽培者であっても伊那谷に入植した人々の遺跡が、比較的良好に発掘されているのは、彼らが海洋民族的な活動に組み込まれ、集団的な活動を必要とする状態になったから、アワ栽培者の上記の様な課題を忘れていたからではなかろうか。

経済理論的にもmt-Dの特性から言っても、上記は必然的な結果だったと想定される。アワ栽培が盛んになった西日本には散村的な集落しかなかった事、弥生時代に名古屋近傍にあった朝日遺跡の防御的な遺構、青谷上寺地遺跡の残酷な闘争の痕跡、古事記が示す出雲世界の暴力的な描写などは、上記の様な集団的な行動原理を失った、アワ栽培者の社会が行き着いた先を示しているからでもある。

子孫に資産を遺す発想を宗教と見做す考え方もあるかもしれないが、富裕な親が子に遺産を遺す事は家族の絆を高めると信じる習俗は、宗教とは関係なく現在も続いている事象だから、石製装飾品が墓に埋納された事を以て、宗教遺物と見做す事も適切ではない。またその様な状態になった物品を、装飾品と呼ぶのも不適切である可能性が高いが、縄文人の意識を確認する事はできないから「石製装飾品」の名称を使う。

この段階でのアワ栽培者の石製装飾品に対する認識は、通貨の様な交換媒体ではなく、蓄えて置くだけの財宝だったと推測されるが、北陸縄文人は縄文前期に、ヒスイの規格的な加工品を作って財貨にしたから、桑野遺跡の時代にもその意識の萌芽があった可能性が高く、身体を飾る習俗が桑野遺跡時代にも継続していたとしても、遺物がその用途に使われる状況は、日常的なものではなかった可能性がある。

桑野遺跡の時代が終了した8千年前には、加工技術は硬度が低い透閃石を加工する段階に至っていたが、その千年後にはヒスイを加工できる段階に至っていた事を、以下の遺物が示している。

縄文中期の財貨化したヒスイ加工品は、綺麗な削孔を必ず一つ備えているだけではなく、外形も綺麗に成形されていたが、天神遺跡から出土した原初的なヒスイ加工品は、角を取っただけの原石に近いものに、職人技を示す奇麗な穴が一つだけ空いている。従って本来のヒスイ加工品の価値には、外形の美しさは必須の案件ではなく、精巧な鑽孔にあった事を示している。ヒスイの加工としてはこれが最も難易度が高いものだったから、その職人技に価値があった事を示している。

image016←天神遺跡出土のヒスイ加工品

この孔を形成する為には、断面を整形した竹の先端に研磨剤を塗布し、竹を回転して削孔したと考えられている。この奇麗な孔の開口に加工技術の粋が凝結されていた事に、異論を挟む余地はないだろう。北陸縄文人が石製装飾品に求めた価値は、見掛けの雅さや美しさではなく、高度な職人技だった事を示している。孔に紐を通してペンダントにしたと説明する人がいるが、その様な事をすれば高度な職人技を紐で隠すだけではなく、摩耗させて価値を棄損する事になって本来の趣旨に反するから、既に装飾品と見做すものではなかった事を示していると考えるべきだろう。

女性達には高価な装飾品を身に着ける願望はなく、装飾品は精々蛇紋岩製で十分であると考えていた事になるが、上記の趣旨に従えば、話題の素材とする為には安易に製作できる廉価品でなければならなかったから、mt-Dはヒスイの装飾品は望んでいなかった事になる。

しかし工房の石斧職人は、職人の常態として素材の高度化に取り組み、その結果としてヒスイの加工に至った事になる。その技術が成熟して廉価品を製造できる様になれば、女性達が話題にする大衆的な装飾品になったが、ヒスイではそれを実現する技術革新を得られなかったから、職人やアワ栽培者の意図に反し、高額財貨になる道を進んだと推測される。

以上は北陸縄文人に関する論考だから、同じ縄文人であっても関東縄文人とは区分する必要がある。関東縄文人は材質に価値がある琥珀を財貨としたのに対し、北陸縄文人は職人の技能に財貨としての価値を認めた事になり、両者の認識には違いがあったからだ。

北陸縄文人は焼畑農耕に多用する磨製石斧の生産性を重視し、その製作によって鍛えられた職人の石材加工技術を評価していたから、その認識が彼らの財貨意識を醸成したとも言える。つまり関東部族にはその様なものはなかったとも言えるし、類似した意識はあったが其処に至る過程がなかったとも言える。関東部族が推進した弓矢産業には色々な技術要素が集積され、最も重要な技能は狩猟民族が持つ矢尻の製作技術だったからだ。

別の角度から言えば、玉器の加工は汎世界的な高度技術になったが、弓矢の増産に没頭していた関東部族の縄文人には、広域的に技能を拡散させる様な、特徴的な技能者はいなかったとも言える。この事情は現代社会にも引き継がれ、関東部族が拡散した地域では組織的な企業が活動し、北陸部族が拡散した地域には特徴的な地場産業が生れている様に見える。

 

4-2-2 石製装飾品の進化

縄文早期中葉に生まれた原初的な石製装飾品は、硬度1の滑石を素材として光沢を出す為に皮革を使用し、硬度2の緑泥石岩にも挑戦したが、滑石を置き換える事はできなかった。これらを作成した大角地の石斧工房は、先行していた富山の石斧工房の後発として参入する際に、富山では入手できない滑石で「おまけ」を作り、石斧産業に参入する足掛かりを掴んだと推測される。

その「おまけ」がmt-Dに評価されると、極楽寺の工房は姫川の上流に遠路出向いて滑石を採取する羽目に陥ったが、研磨剤を精製する技術を確立し、付近で採取できる軟質透閃石で作った製品を、桑野遺跡のアワ栽培者に提供したと想定される。極楽寺の工房は太平洋が湿潤化する以前にその加工技術を確立し、桑野遺跡のアワ栽培者に提供したから、桑野遺跡に軟質透閃石で作った製品が遺されたが、研磨剤の精製に労力が掛かり、透閃石の加工には更に労力が掛かったので、石斧需要が低調だった太平洋の湿潤期にはそれを作ったが、太平洋の湿潤期が終わってアワ栽培者の拡散が活性化し、磨製石斧の需要がタイトになると、石製装飾品の主流は蛇紋岩になったと推測される。mt-Dは石製装飾品の需要者であり続けたが、単価が上昇する事を望まなかったからだ。

北陸部族の弓矢産業への参入が本格化すると、関東部族の琥珀に匹敵する財貨が必要になったが、石英の研磨剤で量産可能な蛇紋岩や透閃石製の加工品は、既に確定していたアワとの交換比率が低く、琥珀に匹敵する価値がなかったので、アワ栽培者が趣味で購入する事ができない高価なヒスイ加工品を使う事に決め、その為の研磨剤を探したと推測される。研磨剤は既に知られていたが、富山や糸魚川では入手できないものだったから、ヒスイの加工は実現していなかったのかもしれない。

いずれにしても石斧工房が、硬度7のヒスイを加工する技術を確立していた事を、矢尻街道の宿場だった天神遺跡の出土品が示している。その技術を透閃石に使えば、複雑な形状のものを作る事ができたが、ヒスイを選択して形状をシンプルにした事は、製作目的は装飾品ではなく、琥珀に対抗できる財貨にする為だった事を示している。

加工集団が新機軸を次々に繰り出して商品を高品質化していく事は、時代に関わらない経済原則だから、石製装飾品の素材の硬度を上げると生産性が劣化したが、技術の高度化でそれを克服し、従前の需要を従前の価格で取り戻した事は、産業社会では必然的に生まれる事象だったと言える。技術革新によって次第に生産性を高め、生産原価を低減させて販売価格を抑えると、従来品の価格を下回る場合もある。滑石性が次第に姿を消して蛇紋岩製に変わった事は、正しくこの事象を示している。

極楽寺の職人が付近で拾える蛇紋岩を素材にする為に、河原の砂を精製して対応したのに対し、大角地の職人が滑石を皮革で磨いていたとすると、正しく上記の事情が発生し、極楽寺の石斧職人に勝利が転がり込んだ事になるが、趣味的な需要には多様性が求められるから、直ぐに蛇紋岩製に収斂しなかった事を、縄文早期後葉の極楽寺の遺物に滑石製のものが含まれている事が示唆している。但しこの時期には糸魚川の海岸では海岸砂丘が発達し、大角地遺跡は田海川の川底になったから、石斧職人は長者ヶ原の台地に拠点を移したと推測され、発掘が進んでいない長者ヶ原の状態を鑑みると、同時期の糸魚川の工房事情を窺う事はできない。

この時期の糸魚川の職人は、富山から研磨剤の精製技術を導入したのか、大角地系譜の工房は途絶し、富山から新たな石斧職人が長者ヶ原に入植したのかについては、長者ヶ原の発掘が進まなければその事情が明らかにならないからだ。現在の考古学者の時代認識では、詳細が明らかにならない危惧もあるが。

趣味的な規格生産品であっても頻繁に世代交代する事を、現代人は常識であると考えるが、これは産業社会の属性であって普遍的な必然性ではない。石製装飾品の石材の変化が、産業化された自由経済の様相を示している事は、北陸部族の石斧産業が、産業社会化の道を歩んでいたからだと考える必要がある。関東部族の弓矢産業は食料の安定確保に特化した産業だったが、石製装飾品は必要不可欠な物資ではなかった点で、関東部族の弓矢産業より近代的な要素を含んでいた。

その様な流れの中で、最終的に到達したヒスイの形状が、滑石製や蛇紋岩製のものよりシンプルである事は、求められたものは装飾機能ではなく財貨性だった事を示し、難易度が高い加工に価値を付与していた事を示しているが、日本列島には水晶や瑪瑙などの、磨けば美しく硬度も類似している石材は他にも色々ある。それにも関わらずヒスイだけが選ばれ続けたのは、蛇紋岩系鉱物を加工していた集団の技術力が、北陸縄文人に評価されていたからだと考えられる。

この事情を現代的に言えば、有力な生産者が新商品を提案し、需要者がそれを受け入れる事によって商品需要が高まった事を意味するから、これも工業社会の典型的な様相を示している。つまり北陸の石斧工房の職人の技術には、北陸で産出す蛇紋岩系鉱物を加工する石材加工集団としての、ブランド力があった事になる。

ヒスイ加工品の形状バリエーションが乏しくなった事は、装飾品ではなく財貨だった事を示すと共に、石製装飾品とは異なる需要者の為に製作した事を示している。縄文中期の石斧工房が全面研磨していた石斧も、焼畑農耕者を顧客とするものではなく、シベリアの造船業者を顧客とするものに変わった事は、両者が連動していた事を示唆している。つまり石斧工房が重要顧客に奉仕するために、「おまけ」として石製装飾品を製作した時代が終了し、財貨にするために制作したから審美的な要素が顧慮されなくなったが、それとは真逆の方向として、シベリアに送る磨製石斧は全面加工したから、それぞれに理由に応じて、目的に合致した形態の商品を生産した事になる。

伊那谷や群馬で発掘されたヒスイ加工品は、伊那谷のアワ栽培者が代表していた東日本の焼畑農耕者が、石製装飾品を必要とした事情を失っていた事を示し、ヒスイ加工品を蒐集する方針に切り替えたのは、彼らが海洋民族的な交易活動に組み込まれ、新たな交流の機会に恵まれたからだと推測される。伊那谷や佐久で製作された街道風の華麗な土器が、その事情を示唆している。

これはヒスイが採取できない地域に拡散した石斧職人が、アワ栽培者の為に石製装飾品を作らなくなった事も意味し、石斧職人が目的別に二つに分離した事を示唆している。糸魚川や富山の石斧職人は北陸部族の海洋民族に属す組織体になり、ヒスイ加工を含む加工技術の高度化を推進しながら、海洋民族化も進めてシベリアに石斧を輸出し、台湾、良渚文化圏、遼東に加工技術を輸出する様にもなったが、地方に拡散した石材加工者は、地域的なアワ栽培者の下部組織的な加工集団になったと考えられるからだ。

石製装飾品は発足時の縄文早期には、近代的な商品感覚や生産感覚に基づいて発展したが、縄文前期の石斧職人は食料の生産組織である弓矢産業にも取り込まれ、アワ栽培者を支える従来的な生業を維持しながら、海洋漁労やアワ栽培を支える基幹産業の従事者にもなった。これは石斧の需要者が遠隔地に拡散するのに伴い、各地に石斧産業が生れる状態を生み出すと共に、発祥地だった北陸の石斧産業が相対的に衰退するリスクを生み出していた。縄文前期の中頃までは、北陸の石斧工房は加工技術の技術センターだったが、それ以降の加工技術は磨製石斧にとっては不必要なまでに高度化し、高度化した技術の向かう先は石製装飾品しかなく、石材にはヒスイを選択する必然性があった。しかし北陸の石斧産業が副業としていた石製装飾品は、感性に基づく需給が不安定な商品だった上に、石斧の原材料が枯渇し始めたから、北陸の石斧工房の職人の身分は更に不安定な状態になった。

弓矢産業を始めとする海洋民族の交易活動は、現代的に言えば基幹産業的な位置付けになり、相対的に需給が安定していたから、ヒスイ加工品の製作になって弓矢産業に深く組み込まれと、石斧職人の収入も安定的に増加していったと推測される。これを現代的に言えば不安定な中小企業状態から、官制的な基幹産業の従事者になった事により、安定的な生業の従事者になった事を意味した。

需要者であるアワ栽培者と生産者の石斧職人が遠隔地に離れ、需給見通しを立て難い状況があったから、アワ栽培者の近傍に移住する石斧職人が生れれば、北陸の石斧職人の存立が危うくなる事は必然的な結果だった。石製装飾品の需要が異様に高まり、重要な付加価値になってしまった事が、却って石斧職人の生業者としての立場を危うくしていたから、必然的な帰結でもあったと考えられる。石製装飾品は需給が不安定だったから過当競争に陥りやすく、技術革新によって市場構造が激変するリスクもあったが、海洋民族に依存するとその不安定さが解消し、彼らの機動力を生かした高いマーケティング力が、確度の高い需給見通しの下に生産をコントロールし、組織的に生産力を高める事を可能にしたから、北陸の石斧職人が海洋民族に依存する事は、産業社会の高度化の中で発生する必然的な流れだったとも考えられる。

明治維新以降の日本の産業化を商社が牽引した事と、類似した事情であると捉える事もできる。明治の財閥には生産系、金融系、商社系があったが、この時代には金融系はなかったから、弓矢産業を推進していた関東部族には生産系集団を支える弓矢産業があり、商社系を追求した北陸部族は後に越同盟を結成したと考える事もできる。王朝史観に拘っているとこの様な発想は生まれないが、縄文人は交易によって豊かさを求めていた人達だった事が分かれば、その社会は産業化した現代社会のミニュチュア版だったと想定して、彼らの活動を解釈する事も可能になる。

石材は遺物として遺り易いから、歴史を検証する重要な素材ではあるが、縄文社会を産業社会化していた多くの生産物は木製品だったから、遺物として残っていないと考える必要もある。

 

4-2-3 石製装飾品の加工技術の進化

歴史学者の土器編年に依ると、天神遺跡から縄文前期中葉(6千年前頃)の土器と共に、原初的な形状のヒスイ加工品が発掘された事になる。形を整形して綺麗な円孔を一つ持つ定型が、既にこの時代のヒスイ加工品の特徴になっていた事を示し、この時代にはヒスイに綺麗な穴を開ける事が、画期的な技術革新の成果だった事を示している。

この極めて人工的な円形削孔がヒスイ加工品の価値を決め、海岸で容易に拾う事ができた原石には価値はなかったと考えられる。ヒスイの加工には、容易に入手できる石英の研磨剤では硬度不足だから、硬い岩石を素材にした研磨剤を探す必要があり、それが石材加工具の画期的な技術革新に繋がったから、この様な発想が生れたと考えられる。

工学に縁が薄い人は、技術の成果である精緻な仕上がりや創造物の巨大さに価値を求め勝ちだが、石材加工を検証する場合には加工技術の革新状態を確認する必要がある。ヒスイの加工にも石英の研磨剤を使ったとのデマを流している人がいるが、石英は研磨剤にならない事は下表から明らかだ。研磨剤の素材は中華大陸にはないから、加工技術も中華大陸で生まれた筈はないが、それを胡麻化し、翡翠加工の起源は中華大使陸にあったと強弁したい為の、デマであると推測される。

 

研磨剤の素材

日本では古代から、金剛砂と呼ばれるザクロ石の研磨剤が使われていた。日本列島にはザクロ石の産地が何カ所もあり、黒曜石を採掘していた和田峠は柘榴石の産地としても知られている。柘榴石は蛇紋岩と同類の変成岩だから、大陸では殆ど産出しないが日本列島には多数の産地がある。北陸でも採取できた可能性はあるが、石斧工房での発掘実績は公表されていない。和田峠は北陸に向かう矢尻街道の経路だったから、柘榴石が採取できる事は北陸縄文人にも古くから知られていただろう。

黒曜石はガラス質の岩石だから、矢尻を製作する際に柘榴石で傷を付け、薄片化していた可能性が高く、霧ヶ峰の周辺で矢尻を大量生産したのは、工具としての柘榴石が採取できたからである可能性が高い。現在のガラス加工にはダイヤモンドを使うが、それが入手できなかった縄文時代には、鋭利な形状に結晶化した柘榴石で、黒曜石に傷を付けて薄片化する事が、最も合理的な矢尻の製作方法だったからだ。

従って諏訪湖岸の矢尻職人から矢尻を得ていた北陸縄文人が、柘榴石はヒスイより硬い事を知らなかった筈はないが、ヒスイを加工する意志がなかった時代には、柘榴石は無用の長物でしかなかった。また北陸縄文人の活動エリア外の地域から、石斧職人が柘榴石や金剛砂を得る為には、海洋民族の組織的な交易力が必要だった可能性が高い。海洋民族は巨木を伐採して船底材を作っていたから、彼らは縄文早期以前から金剛砂を使っていた可能性もあるが、漁民が使っていたものは粒子が荒く、使う為には別の技能が必要であったり、少量で良かったから専業の採取者がいなかったりしたから、北陸の磨製石斧の職人には検討の対象外だったと考えられる。言い換えると海洋民族に大量入手の意思がなければ、縄文社会に出回るものではなかった。

このHPがこれまで示してきた石の硬度は、タイヤモンドを10とする旧モース硬度だが、ダイヤモンドを硬度15とする修正モース硬度があり、これを見ると研磨剤としてのザクロ石の有効性が分かる。石英でヒスイを削孔できない事はこの表でも直感的に分かるが、岩石の硬さを示す指標には衝撃耐性を示す靭性もある。ヒスイは8に対して石英は7.5と低く、研磨時に石英の微粒子がヒスイに衝突すると石英が割れるから、石英粒子でヒスイを研磨加工する事は極めて困難である。

透閃石や緑閃石も靭性が高いから、結晶石英を含む研磨剤で長時間研げば、刃部を形成する事はできたが、全体を研磨して成形するのであれば、ザクロ石系の研磨剤がなければ成形に酷く時間が掛かった。従って寺地遺跡の全面が研磨された磨製石斧は、金剛砂で研磨したと想定され、縄文中期のヒスイ加工品と磨製石斧は、同じ研磨技術で製作された事になるが、使った研磨剤の粒度は異なっていたと考えられる。

石英は地球上で最もありふれた鉱物の一つで、砂や埃には石英粒子が多量に含まれているから、その様な素材を含む石で擦ったり、埃が付着した布で拭いたりしても、結晶面や研磨面の輝きが失われない石を宝石と呼ぶが、ヒスイや水晶は辛うじてその領域にあり、現在も宝石として扱われている。つまり石英粒子では研磨できないものが宝石になる。

ヒスイが採取できない中国大陸では、透閃石岩や緑閃石岩を翡翠と呼んで珍重したから、それらを加工した道具の素材を推測する場合、それより硬い結晶石英でも理論上は加工が可能だが、硬度が近い上に靭性が弱く、切っ先が刃毀れし易いから、複雑な玉器を削り出す事は難しい。日本の考古学者が石英を使ってヒスイを加工したとのデマを流すのは、以下の理由に依ると推測される。

その5で説明する良渚文化の玉器製作には、柘榴石級の固い石材が必要だったから、その入手経緯を明らかにしなければ良渚文化は正当に評価できないが、中国人は中華思想を守る為に正当な評価を拒否しているから、王朝史観を守りたい史家はそれに同調する必要がある。王朝史観では、王朝文化の起源は中国にあった事にする必要があるから、日本にも一時的に存在した王朝制度を正統化する為には、中華王朝の尊厳を守る必要があるからだ。大角地遺跡、桑野遺跡、阿久尻遺跡の年代を誤魔化しているのも同様な動機であると推測され、王朝史観の信奉者には真実の探求より、史学を王朝の権威付けの論拠にする方が重要である事を示している。

鉄は旧モース硬度が5.5で、青銅は4だから、硬度56の透閃石や緑閃石を研磨した磨製石斧は、青銅の斧より樹木の伐採性能が高かった事や、黒曜石の矢尻は青銅の矢尻より殺傷能力が高かった事が、下の表から分かるだろう。

修正モース硬度

旧モース硬度

鉱物

1

1

滑石

2

2

石膏・緑泥石

3

3

方解石・蛇紋岩

4

4

蛍石・青銅

5

5

燐灰石

透閃石・緑閃石

黒曜石

6

6

正長石・

7

石英(非結晶)

 

8

7

水晶(結晶石英)

ヒスイ

9

8

黄玉(トパーズ)

10

柘榴石

11

溶融ジルコニア(自然界には存在しない)

12

9

溶融アルミナ(ルビー、サファイア)

13

炭化ケイ素(自然界には存在しない)

14

炭化ホウ素(自然界には存在しない)

15

10

ダイヤモンド

 

以下は新潟県の遺跡から発掘されたヒスイの加工品。

image093

この項で「ヒスイ加工品」と呼ぶのは中央の緑色のものだけで、左下の濃緑色の加工品は、縄文遺跡に遺されたものとは異色の形状であり、色も縄文人の好みとはかけ離れている。遼寧省の縄文中期の玉器は、縄文人の嗜好とは異なる意匠のものだったから、北陸の工房の顧客は縄文人だけではなかった事を示唆している。柘榴石や金剛砂を使えばヒスイを装飾品に加工する事も出来たが、それらは作らずに定型のヒスイ加工品しか作らなかった事は、ヒスイ加工品が定額財貨だった事を示している。

中国で発掘される玉器は透閃石岩などを加工したものだから、それらを「翡翠」の玉器と呼んで日本の玉器と区別し、ヒスイ輝石を含むヒスイから製作された日本の玉器の素材を「ヒスイ」と呼ぶ。下の画像は、山東龍山文化期(縄文中期末)の遺跡から発掘された翡翠の玉器。

image095

ヒスイ加工品は日本全国から発掘されるが、縄文時代の遺跡から発掘されるヒスイ加工品の産地は、飛騨外縁帯から流れ出る河川の流域だけだったから、広域に亘る交易があった事を示している。全国で発掘されたヒスイ加工品は、新潟県の発掘品より秀逸な作品が多く、ヒスイ加工品が財貨として流通させる事を目的に製作された事を示している。下図は新潟県以外の地域で発掘された、ヒスイ加工品の例。

image069

http://inoues.net/study/8gatake_yayoi.html

 

ヒスイを円筒状に削孔するには、硬い研磨剤を竹の断面に塗布し、錐の様に回転させたと推測されている。それを含めた鑽孔技術が確立すると、滑石や蛇紋岩を加工していた時代にはできなかった、綺麗な円孔を形成できる様になった。研磨剤には粒径が揃った細かい粒子が必要だから、水を使って粒度を揃える技術も必要だが、その基本形は縄文早期末には確立していた事を、極楽寺遺跡の底に穴が開いた土器が示している。

蛇紋岩より硬い蛇紋岩鉱物として透閃石岩(硬度56)があるが、日本には透閃石岩を使った玉器は少なく、これを飛ばしてヒスイ加工品に至ったのは、技術的には以下の様な事情があったからだと推測される。

極楽寺で磨製石斧の製作を始めた職人は、河原に散乱していた花崗岩を砥石として磨製石斧を作ったと推測され、花崗岩には石英が豊富に含まれているから、極楽寺の石斧職人は河原で拾った蛇紋岩と花崗岩で、磨製石斧を作っていた事になる。花崗岩が風化したり河水で研磨されたりすると、石英を含む砂になるから、この砂から石英を精製する技術を発明すると、彼らはそれで硬度3の蛇紋岩を研磨し、蛇紋岩製の石製装飾品を作ったことになり、身近にあった原材料で全てを賄う事ができた。

透閃石の装飾品を作る際には研磨剤の硬度の限界が露呈し、加工速度が極端に劣化したが、桑野遺跡から透閃石の石製装飾品が多数発掘された事は、それでも透閃石の加工は可能だった事を示している。しかし縄文早期末以降の主流が蛇紋岩に変わった事は、加工速度が極端に劣化して量産性に乏しかった事を示している。これはモース硬度が示す事実と一致するから、歴史事象はこの事実から紐解く事ができる。

太平洋が湿潤化した豪雨期にはアワ栽培者の拡散活動が低迷する一方で、研磨剤の精製技術を確立した石斧職人の生産性は向上し、磨製石斧の需給が緩んで工房の労力に余剰が生れたから、透閃石の石製装飾品も製作したが、豪雨期が終わってアワ栽培者の活動が再び活発になり、磨製石斧の需要が高まると、労力に余裕がなくなった石斧工房は石製装飾品の素材を蛇紋岩に戻し、透閃石岩を素材とするものは減少したと想定される。アワ栽培者も石製装飾品が安価に入手できる事を重視し、磨製石斧の生産量を落として石製装飾品を製作する事は論外だったから、彼らの思惑は一致していた。

透析石岩で作成した石製装飾品の価値は、この様な事情によって既にアワ栽培者に決められていたから、彼らが容易に入手できる価格帯に留まっていた素材のものに、琥珀に対抗できる財貨価値はなかった。石製装飾品に用いた透閃石岩は硬度が低いものを選だから、硬度が高いものを使えば技術期には革新的であるとも言えたかもしれないが、利用者にはその区別は付かないから、アワ栽培者には従前の価値しか与えられなかった事は明らかだ。

従って琥珀と対抗できる価値がある作品の製作を求められた石斧工房には、ヒスイを素材とするものしか答えがなかった。彼らが柘榴石の存在を知っていれば、金剛砂を使う事は必然的な結果だった。金剛砂の産地として奈良県香芝市の二上山山麓が有名だが、産地は他にもあった。北陸の海洋民族が原料を入手した場所は明らかではないが、海洋民族の要望によって製作したのだから、海洋民族の交易力に依存すれば、柘榴石や金剛砂を使うヒスイの加工技術が生れる事に、大きな支障はなかったと想定される。岡山にも柘榴石の産地があるから、関東部族は既に使用していた可能性もある。

矢尻を製作していた狩猟民族と交流した際に、矢尻職人から、「我々は最高の品質の黒曜石を使い、それを柘榴石で加工している。その矢尻と等価な石製品を作るのであれば、最高に硬いヒスイを柘榴石で加工して欲しい」と言われた可能性も否定できない。

それが矢尻産業の標準財貨になった後であっても、ヒスイを素材にした高価な装飾品を生産する道もあった筈だが、弓矢産業に組み込まれたアワ栽培者には、標準化された財貨需要しかなかったから、定型的なヒスイ加工品だけが作られたと推測される。この事実は、ヒスイ加工品は装飾品ではなく、矢尻産業が必要とした財貨だった事を示しているが、西日本の出土例としてヒスイ加工品より全面研磨した磨製石斧の方が多い場合は、アワ栽培者はヒスイ加工品ではなく全面研磨した磨製石斧を、高額通貨として利用した可能性が浮上する。ヒスイ加工品は弓矢産業に関わる者達の財貨で、西日本のアワ栽培者は弓矢産業に直接関与していなかった上に、彼らには廉価な石製装飾品の一種にしか見えなかったからだ。従って彼らにも高額貨幣の需要があったとすれば、全面研磨した石斧の方が高額貨幣としての実感があり、刃部だけを研磨した石斧を使っていたアワ栽培者にとって、全面研磨の価値は実感として受け入れ易かったと考えられるからだ。

関東部族の矢尻街道の宿場だった、天神遺跡から出土した縄文前期の原初的なヒスイ加工品は、形状が規格された直後は一つの円孔だけで良く、外形にはあまり拘らなかった事を示しているから、縄文中期の遺跡から出土するものはそれとは異なり、外形の整形に手間を掛けたものである事は、関東部族を含む広域的な財貨にするために、関東部族の注文に従って価値を統一したもので、世代が異なるものである事を示している。原初的な形態の時代には異なる価値のものが混在していたから、外観を統一して世代交代させる為に、全面研磨する必要があったと推測される。

考古学者が北陸一円でヒスイ加工が行われていたと指摘している事は、外形の整形を工房が外注化していた事を示唆している。外形の整形は熟練度が低くてもできる作業だから、その工程を外注化する事は、熟練した職人の作業効率を高める手段になったからだ。外形を整形した中間品に工房の職人が最終工程として円孔を形成すると、そこで初めてヒスイ加工品の価値が生まれたから、外注作業者には価値を創造する事ができず、石斧工房の組合が運営していたヒスイ加工品の数量管理システムが、棄損する恐れはなかったからだ。需要が急増して生産が間に合わない状態が続くと、その流れが定常化した可能性が高い。北陸部族としても、高賃金労働者だった石斧工房の職人の、数が増える事に抵抗感があった筈だから、その流れを推進する必然性があった。

工程の分散によって分業体制が複雑化すると、商品生産の実体が見えなくなる事は現代のサプライチェーンでも起こっている。ヒスイ加工品の生産性向上が時代の進展と共に達成され、市場に供給される数が増加していったが、ヒスイの原石の採取や成形作業が請負仕事として拡散し、誰が何をしているのか分からない状態になっても、職人が手間を掛けた工程を経なければ最終形にはならなかったから、生産管理が杜撰であっても高額財貨の希少性が維持され、価値を失わずに長期間流通したと推測される。この様な状態が生れていたとすると、ヒスイ加工品の矢尻との交換比率はかなり高かった事になる。

 

まとめ

以上の流れから推測すると、ヒスイ加工品の価値を保証した物品は矢尻ではなく、北陸部族が供給するアワだったと考えられ、この事情は北陸部族のヒスイ加工品の大量発行に、厳しい制限を加えた可能性が高い。狩猟民族がアワの大量消費者になる恐れがあったが、アワの生産力には限界があった上に、北陸部族の海洋民族とアワ栽培者は一体の関係にあったわけではなく、海洋民族は物品を提供する交易行為を介さなければ、西日本のアワ栽培者からアワを入手できなかった可能性が高いからだ。石斧職人でさえアワと石斧を物々交換していたと想定されるから、石斧職人より疎遠だった海洋民族の号令で、アワ栽培者がアワを供出したとは考え難いからだ。

矢尻職人は自身の手で恒常的に矢尻を生産していたから、その様な心配をする必要はなかったが、石斧工房と共に自給自足的な生活をしていたアワ栽培者と、漁労活動の円滑な遂行の為に交易を行っていた海洋民族の間には、密接な経済関係を維持する動機がなかったからでもある。

従って北陸部族はアワを安定的に調達する為に、アワ栽培者の必需品を探し出してその需要を喚起しながら、その物品を調達する必要があった。鳥浜貝塚から発掘された漆塗りの赤い櫛などは、その代表的な物産だった可能性がある。関東部族はヒスイ加工品が標準財貨になった事により、ヒス加工品を入手する為の交易に邁進し、その利潤を高める事に努力する必要があったが、最悪の場合にはシベリアから調達した獣骨の一部を北陸部族に提供し、ヒスイ加工品を入手する事もできたが、北陸部族にはその様な手段はなかったから、交易によって利潤を上げる必要性は関東部族より高くなり、利潤を追求する交易者に急速に変質していった可能性が高い。

関東部族はコメの生産量の確保に難渋していたと想定されるが、琥珀の流通量は限られていたし、その価値は狩猟民族も認めていたから、北陸部族の様な悩みを抱える必要はなかった。関東部族のmt-B4は交易活動に積極的に参加するタイプの女性であり、mt-Fも集団的な規律に積極的に従う女性達だったから、海洋民族と一体化した生産者として必要なコメを供出したと推測され、蔬菜類の栽培にも励んでいたから、この件に関する不安を持たずに経済活動を推進できた事が、却って関東部族圏の経済活動を活性化した可能性がある。つまり弓矢産業に必要な物資の生産は、部族内の賃労働として成果の漁獲を公平に分配し、縄文人の労働の成果は各自の収入とし、それを自由に使う経済を部族内に展開する事ができたからだ。

北陸部族は磨製石斧の製作者を海洋民族化する事により、アワの入手を容易にする積りだったのかもしれないが、石斧職人にはそれに従って海洋民族化した者達と、地方に拡散してアワ栽培者に従属する者達に分裂したから、思惑通りには行かなかった事を示唆していると共に、アワ栽培者の反感を買った結果である可能性もある。いずれにしても石斧職人が二極化した事は、重要な収益源を失う事に繋がったから、その結果として北陸部族の海洋民族は益々アワの入手難に陥り、漁民を各所に派遣して海産物を提供する事などにより、アワの入手に奔走せざるを得なくなった可能性がある。

北陸部族のこの様な状態は、海洋文化の発展の阻害要因になったから、関東部族と比較して海洋文化が劣勢になった、一つの原因になった可能性がある。日本の海洋民族と言えば「倭=関東部族」であるとの認識が、後世の東アジアで高まったからだ。

関東部族も北陸部族も矢尻産業の成果によって漁獲を高め、矢尻産業に従事する縄文人に食料を提供するという、基本的な生産構造は同じだったが、アワと海産物の交換比率がアワに有利に傾いていた事により、アワ栽培が経済的に成立していた事情から考えると、北陸部族は弓矢の生産とは関係がない人々の為に、過剰に海産物を生産する必要に迫られていた事になり、ヒスイ加工品を提供する事により却って弓矢産業の原価を高める事になった可能性が高いからだ。

いずれにしてもヒスイ加工品は千年以上の間、高額通貨として供給量を増加させながら悪性インフレは起こらなかった事を、各地から発掘された多数のヒスイ加工品が示している。無制限にヒスイ加工品が生産され、北陸部族にはそれを適宜回収する手段がなかったから、やがて悪性インフレが起こる事に一種の必然性があったが、千年間それが起きなかった事は、北陸部族の自制以外にも特別な要因があったと考えざるを得ない。

関東圏は経済規模が大きかったのに、琥珀の希少性が経済の活性化を制限していたから、ヒスイ加工品の導入によってそれが解放されると、経済が活性化して通貨需要が高まった事が、通貨の吸収力が大きかった理由として挙げられるが、それ以外の理由として、財貨意識が生れても通貨意識の醸成は貧弱だったから、一人当たりの退蔵量が増えながら退蔵する人も増えた事により、需給バランスが維持されていた可能性も高い。

しかし関東部族が参画して縄文後期に成立した大陸の貝貨は、高価なヒスイ加工品とは真逆の、廉価な素材を使用した少額貨幣だった事に、ヒスイ加工品を高額代価とする制度には、運営上の欠陥があった事を示唆している。関東部族が関与した宝貝貨は、塩を兌換材とした優れた貨幣制度だった事については、経済活動の成熟期の項で検証する。この様な制度の場合、製塩業者が塩の放出によって通貨を回収する事ができるから、悪性インフレを回避する事が可能だった。彼らの学習効果があったから、優れた貨幣制度になったと考える事はできるだろう。

諏訪湖の湖底に遺された曽根遺跡は、縄文後期の矢尻職人の手元には膨大な数の矢尻が、不良在庫として蓄積されていた事を示唆している。矢尻がその様な状態になると、低額貨幣として流通していた黒曜石片や矢尻モドキは価値を失っただろう。矢尻と交換比率が固定していたヒスイ加工品も、価値も低下して使えなくなったと推測されるが、価値が下がっていた黒曜石片や矢尻モドキより先に使えなくなったと想定される。黒曜石片や矢尻モドキは、実態としての価値がある矢尻と交換できる前提があったが、ヒスイ加工品は伊那谷のアワ栽培者が、定められた分量のアワとの交換を拒否すれば、何の価値もない物品になったからだ。

つまり矢尻モドキ通貨はインフレを起こす事により、通貨機能を存続させる事が可能だったが、ヒスイ加工品とアワの交換量が固定し、矢尻との交換比率も固定されて変わらなければ、アワとヒスイ加工品の交換は真っ先に破綻せざるを得なくなり、北陸部族としてヒスイ加工品とアワの交換を停止せざる得なくなったからだ。黒曜石片や矢尻モドキは縄文後期前葉になっても通貨として機能したが、ヒスイ加工品はこの事情により、早々に高額通貨としての機能を失ったと想定される。宝貝貨などの大陸の通貨制度が成立した縄文後期前葉は、その様な時代だった可能性が高い。

縄文後期になると八ヶ岳山麓の縄文集落の縮小が始まるが、伊那谷の縮小が急速に進んだのはその様な事情があったからである可能性が高い。

縄文後期温暖期になると、関東ではmt-Fmt-B4の稲作の生産性が高まり、それによって関東部族のコメの供給量が高まると、アワの価値が相対的に減価し、ヒスイ加工品の価値が凋落した事も、ヒスイの加工品に関わる通貨制度が混乱した原因の一つとして挙げる事ができるだろう。

勾玉は縄文中期から出現するが、縄文時代の勾玉は定型化されなかった事が、この時期の北陸部族の混乱状況を示唆している。定型化された勾玉の出土量が増えるのは弥生時代である事が、この混乱が長期間続いた事を示唆している。北陸部族が受けたダメージは、相当大きかったと想定されるからだ。

ヒスイ加工品や黒曜石の欠片を通貨としていた人々は、多量に蓄積していた通貨の価値が失われると、通貨そのものに対する疑念を深めた事は間違いなく、通貨を蓄積する事は勿論、使う事にも躊躇いを感じる様になっただろう。特に矢尻交易に深く関わっていた関東と北陸の人々は、これ以降は通貨を使う事を極度に回避する様になり、東日本では勾玉も積極的に使用されなかったと想定される。

しかし縄文人の食生活は交易経済に依存していたし、稲作の生産性が高まった縄文後期の経済活動は、中期より活発化していた筈だから、貨幣の流通は停滞しても交換経済は拡大し、勾玉の発掘の多寡は交換経済の活性度とは連動しない時代になったと考えられる。

この検証には縄文後期の交易事情の検証が必要だが、それは「経済の成熟期」の項に譲り、此処ではその結論を踏まえて通貨制度に限定して論考する。

縄文時代後期以降の日本経済は、上記の理由によって脱貨幣化に向かったから、基礎食料を交易に依存していた縄文人がそれに対する対応を迫られると、経済活動の基礎概念を信用取引に戻し、その高度化に向かった可能性が高く、現代日本人が世界に類例がない、高度な信用取引を実践している事の起源を、これに求める事ができる可能性が高いからだ。

縄文人は貨幣がない時代から、活発に食料を交換していたから、その時代に戻ったとも言えるが、一旦貨幣経済の便利さに慣れた人々が再び貨幣制度を忌避した場合には、新たな体制に移行する際に独特な習俗を生み出した筈だから、それを後世の経済活動の在り方から推測し、西欧化以前の日本人独特の習俗をピックアップする事ができれば、有力な手掛かりになるだろう。

江戸時代に行われていた年末の掛け取りは、極めて高度な信用取引だったから、西欧文化が流入する以前の日本経済は、信用取引によって回転していたと想定される。これは互いの信頼関係を重視する商習慣だから、利己的に農地を奪い合う農民が樹立した、奈良朝以降の農耕民族的な政権の下で、独自に発達したとは考えにくいから、これは弥生時代以前に始まったと考えられる事が上記の有力な証拠になる。

現在の韓国や中国を見れば明らかな様に、農業国家の下では個人的な信頼関係は発達しないからだ。従って日本的な高度な信用取引のルーツは、農民が経済的な指導力を得る前の、漁民の価値観が支配していた縄文時代に求める事は、極めて論理的な帰結になる。江戸時代に庶民にまで信用経済が浸透していた事も、時代を遡る地方経済下で、それが盛んに行われていた事を示唆している。

西欧人は契約を重視するが、これは価値観が異なる民族間の信用経済の運営方法として、極めて合理的な発想であり、日本では関東部族と北陸部族が交換経済の価値観を主導したが、両者の価値観に大きな差がなく共有する土壌があったから、その基盤の上に日本的な交換経済が成立したとすると、日本人も西欧人も同じ信用経済を重視したと考える事ができる。北欧は近世まで海洋民族が活動する場だったから、シベリア文化を継承して交易を発展させた海洋民族の共通の価値観が、信用取引だったと考える事もできる。

その観点から推測すると、縄文人が採用した信用取引の形態は、地域村落間や家族間で1年の収支の帳尻が合えば、歳時的な生産物をその範囲内で適宜授受するものだったと考えられる。その様な交換には通貨は必要なく、民族共生社会だった縄文社会では通貨がなかった時代から、その様な交換経済が発達していた筈だから、縄文中期末に通貨を失うとその様な仕組みに戻り、習俗を高度化したとすれば歴史の流れとしても順当だろう。

現代の様に新商品が次々に登場するわけではなく、遠隔地の物資が突発的に流入する事は稀だったから、季節に応じて必要な物資を特産物として配布し合い、豊漁があればそれを分け合う社会であれば、1年を通じて交換するものは毎年同じだから、その交換が習俗化する事は必然的な結果だったし、それを清算する為には1年間を単位とする必要があるから、歳末に帳尻を合わせる事も必然的な結果だった。遠隔地との交易も、富山の薬売りの様に1年の決まった時期に交換と清算を行うのであれば、その手段について決めて置けば良かった。現在の地方の地域社会には、突拍子もない遠隔地の村落と交流している例があり、それがこの様な発想の残渣である可能性も高い。

その様な社会にも経済発展があり、交換数量を増やすだけではなく、新たな交換関係を構築する為に見本市を開催する事もできただろう。王朝史観に染まると、市と言えば物々交換の場だったと連想し勝ちだが、季節的な特産物を展示する事により、新たな歳時的交換関係を形成する場だった可能性もある。この市は見本を提供する場だから、集まった人々はそれを賞味しながら意見を交換する場にもなり、人々が楽しみを求める場にもなっただろう。

日本では織豊政権時代になるまで、本格的な貨幣経済が回転した証拠に乏しく、奈良時代から平安時代に発行された12種の貨幣は、殆ど流通しなかったと言われている。しかしそれを以て、日本の経済が低迷していたと断じるのは早計だろう。日本の経済は確実に進化していたからだ。中国の貨幣が流通異していたのは、中国との交易に必要だったからであって、日本の流通経済には基本的に必要なかったと考えられるからだ。庶民が貨幣を必要としていたのであれば、発行原価以上の価値を与える事により、発行主体になった政府に利益をもたらした筈だが、その動きがなかった事は庶民が貨幣を必要としていなかった事を示唆している。奈良朝が和同開珎を発行すると直ぐに偽造通貨が流通し、政府がその対策に追われた事は、日本には通貨を鋳造する技術も素材も十分にあった事を示し、通貨を発行する事そのものに課題はなかった事を示しているからだ。王朝史観ではこの状態を貨幣経済が発達していた中華と比較し、発展途上段階だったと解釈している様だが、無知に基づくイデオロギーに過ぎないと考えられる。

 

追記

縄文中期の北陸の海岸に石斧工房が多数生れ、全面を研磨した華麗な磨製石斧を作った事は、縄文中期の矢尻街道が高度な発達を見せていた事を示す、華麗な土器が多数作られた事と併せて、その様な状態に比例して人々が豊かになったと想定したくなるが、それには大きな疑念がある。縄文中期寒冷期には関東の熱帯ジャポニカの生産が壊滅的な打撃を受け、関東縄文人の食生活は堅果類と海産物の2本立ての生活に、逆戻りせざるを得なかったからだ。

基礎食料の中で、毒性がある堅果類の比率を高める事に気が進まなかった縄文人は、海産物比率を高める以外に有効な手段がなかったから、稲作の生産性が劣化するとシベリア交易を活性化する必要が高まり、八ヶ岳山麓の矢尻の生産力を高めざるを得なかった。それ故に矢尻街道が繁栄したのであって、縄文人の食生活が豊かになったから繁栄したのではなかったからだ。特定の地域文化は終末期に最も華麗な様相を見せるという、一般的な法則に従っていただけであるとも言える。

縄文中期にアワ栽培者が徳島に大量移住し、多数のmt-Dが九州縄文人に浸潤した事は、アワ栽培者にも危機が訪れていた事を示唆しているが、その様なアワ栽培者の立場から見ても、東日本の縄文人の食生活が豊かであるとは、到底言えなかった可能性が高いからでもある。

北陸部族がヒスイ加工品を発行する様になると、以前と比較して矢尻の入手が容易になったが、関東部族はヒスイ加工品を入手する為に北陸部族と交易を行う必要に迫られた。しかし弓矢産業に匹敵する交易は容易には生れなかったから、その殆どは獣骨で支払ったと推測される。これによって関東部族は本来自分達が使う筈の獣骨の一部を、北陸部族に奪われる関係になった。ヒスイ加工品の流通によって経済が活性化し、矢の生産量が増えた事による獣骨の増収の方が、失う分より多かったとすれば、結果としては関東部族にもメリットはあったが、それを素直に認められないのは人の世の常だから、関東部族と北陸部族の間で交易利権に関わる競争が熾烈になる事も、避けられない事態だったと考えられる。

それらを含めて矢尻交易が活性化すると、関東部族と北陸部族の関係に大きな変化が生まれ、北陸部族は日本海沿岸の北陸部族の関係を密接にし、関東部族も太平洋沿岸の伊予部族との経済関係を高めたが、それぞれの古き良き時代の温和な関係が失われ、利潤を求める交易を競争的に展開する新たな部族関係が生れたと推測される。

 

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