縄文人の活動期(縄文時代早期後半、前期、中期)、その3

目次

その1  1、縄文時代の東アジア諸民族

その2  2、日本に渡来した女性技能者達

その3  3、弓矢の生産と矢尻街道

その4  4、石材加工と石材の貨幣化

その5  5、海洋民族の海外交易

その6  6、縄文社会と縄文経済

7、縄文時代の人口

 

3、弓矢の生産と矢尻街道

日本のY-C3狩猟民族と関東部族の縄文人が弓矢を製作し、Y-D海洋漁民がそれをシベリアのY-C3狩猟民族の骨や角と交換し、mt-Aがその骨で漁具を作り、Y-D海洋漁民が漁労活動を行った。「縄文文化の形成期」の項で、この経済構造は関東部族とツングースが1万年前(縄文早期中葉)に形成した事を指摘したが、その検証と実態の確認はこの項で行う。歴史を正しく理解する為には発想をと認識を正常化する必要があり、それができずに王朝史観に拘泥しているとこの論理が理解できない事情は、古典力学しか知らない人には天文学が理解できない事情と類似している。

 

3-1 関東部族がシベリアの狩猟民族と弓矢交易を行った証拠

以下に箇条書きに、その証拠を掲げる。

I. 関東の漁民が縄文早期に多数のmt-Aをシベリアから取り込んだ理由は、mt-Aが持っていたシベリア産の獣骨や角を加工する技術が、漁労の生産性を高めたからだ。その結果漁民の元々のペアだったmt-N9bの割合が急速に減少し、稲作者のmt-B4mt-Fが渡来すると更に減少したから、mt-Aは現代日本人に7%も残っているのに、mt-N9b 2%しか残っていない。mt-A7%も残っているのは、関東部族がシベリアの狩猟民族から骨や角を継続的に入手していた事を示すと共に、mt-Aはその加工技能者として職人化し、その技能の有用性が縄文時代を通して継続した事も示している。
 mt-N9bの伝統的な生業は、Y-Dと共に海洋漁労を行い、暇を見付けて骨を加工する事だったが、渡来したmt-Aは海洋漁労を行わず、陸上に留まって獣骨の加工に専念したから、その技能がmt-N9bには遥かに及ばない域に達した事と、Y-Dがその漁具を使う事によって漁獲量が高まると、mt-Amt-N9bに浸潤した事を示している。これは母から娘に技能が伝達されていた石器時代の一般側だから、栽培系狩猟民族だけではなく狩猟民族や漁労民族も、女性の生業事情は同じだった事になる。
銛や釣り針は石器時代に限らず主要な漁具であり、石器時代の素材は獣骨や角だったから、Y-Dが漁労活動を継続する限り、mt-Aの技能への需要は衰えなかった。
 交易的な海洋民族社会では、男女の分業化が進んで女性も技能者として扱われ、交換経済を基本とする社会の技能者になったたから、これはmt-Aだけの話ではなく、稲作者だったmt-B4mt-Fも同様の存在だった。非経済的な道徳観や法律が規制している現代社会は、縄文時代より交易的な社会であるとは必ずしも言えないが、夫婦が異なる職業に就業すれば同じ状態を形成する事になる。縄文人は不足する食料を全員参加型の経済活動によって得ながら、交換経済を活性化させて季節的な過不足を調整していたから、ある意味では現代より交易的な社会だった。それを認知すれば経済的な因果関係の帰結として、上記を理解する事ができるだろう。
 mt-AY-C3狩猟民族と共に日本列島を南下したと主張する史学者がいるが、北海道と東北の縄文人の遺体にはmt-Aは含まれていないから、関東縄文人のmt-Aはそれらの地域を飛び越え、シベリアから関東に多数渡来した事になり、この主張は明らかに矛盾している。

II. 縄文時代の2大石材加工産業は、北陸産の蛇紋岩から磨製石斧や石製装飾品を製作した石斧工房と、八ヶ岳山麓で採取した上質の黒曜石で矢尻を作り、それらを組み立てて弓矢を生産する複合的な産業体だった。
 八ヶ岳山麓に多数の集落が集積し、その集落跡から住民の豊かさを示す多彩な土器と多数のヒスイ加工品や琥珀が発掘され、それらが出土する遺跡は八ヶ岳山麓だけではなく、矢尻が関東方面と新潟方面に運ばれた事を示す街道の存在を示しながら、連なっている事が、弓矢を生産する複合的な産業体が存在した事を示している。八ヶ岳山麓で生産された矢尻は、北陸部族と関東部族の集積地に運搬され、両地域で最終的に弓矢のセットになってシベリアに出荷された。

III. 八ヶ岳山麓で発掘されたヒスイ加工品の多さと秀逸性が、その地域の豊かさを示しているが、そのミニチュア的な豊かさが那珂川流域などの高原山の山麓でも発掘されている。高原山は八ヶ岳山麓に次ぐ黒曜石の産地で、高原山から流れ出す那珂川の支流の沢などでも、黒曜石の採掘遺構が発掘されている。これは那珂川流域を中心とした高原山の山麓でも、黒曜石の矢尻を使った弓矢を生産し、それによる豊かさを享受していた集落があった事を示し、矢尻と弓矢の生産が縄文時代の東日本の主要産業だった事を示している。それらの地域で生産された弓矢を、日本の狩猟者だけが消費したと想定するのであれば、産業立地の多さと各地域の豊かさは説明できない。

IV. 氷期には北海道の白滝産の黒曜石で尖頭器が盛んに作られたが、縄文時代に矢尻に加工されたのは、八ヶ岳山麓や高原山などの関東周辺の黒曜石が圧倒的に多く、北海道の産地は見向きもされない状況があった。北海道の黒曜性も質が高く、尖頭器だけではなく矢尻にも相応しい品質があった筈だが、矢尻の生産が関東周辺に集中したのは、その矢尻は日本列島内の狩猟民族の需要を満たす為ではなく、関東部族と北陸部族が交易品として生産していた弓矢の、基幹部品だったからだと考える必要がある。
  弓矢を生産したのはmt-Aが多数渡来した後だから、関東部族はシベリアの狩猟民族と交易関係があったと考える必要があり、その帰結として弓矢の主要な輸出先は、シベリアだったとの想定に帰着する。その交易の為に上質の黒曜石の矢尻が多量に必要だったから、上質の黒曜石の産地だった八ヶ岳山麓に、特殊技能を持った矢尻職人が集積し、弓矢の部品需要に応えていたと想定する事も必然的な帰結になる。
 諏訪湖は湖底から温泉が湧き出している富栄養湖だから、豊かな漁獲を期待する事が可能であり、弓矢の生産に従事していた者達に豊かな食料を提供する事が可能だった。この様に人口が集積できる環境や、関東の漁民の集積地に近い地理的な環境から、八ヶ岳山麓の黒曜石が選ばれ、北海道の黒曜石は選ばれなかったと考えられる。つまり多数の縄文人がいた関東や北陸に近い霧ヶ峰が、矢尻の生産地に選ばれたのは、中部山岳地帯に多数の動物が生息していたからではなく、多数の縄文人がその矢尻を使う産業に従事していたからであって、その産業はシベリアの狩猟民族に弓矢を支給し、彼らから獣骨を得る事を目的としていた。

V. 氷期のシベリアではマンモスやヘラジカの様な大型動物が狩猟対象だったが、温暖化してそれらの動物が絶滅すると、狩猟対象はトナカイや森林の鹿などの小型動物に変わらざるを得なかった。従って狩猟具も細石刃を装着した棍棒や尖頭器を装着した槍から、弓矢や投げ槍に変える必要があった。
 氷期の白滝で黒曜石の尖頭器を多量に作り、渡島半島にシベリア産の装飾品が持ち込まれていた事は、シベリアの狩猟民族は氷期から秀逸な狩猟具を得るために、交易を行っていた事を示している。その様な狩猟民族の狩猟環境が、後氷期の温暖化に伴って森林に住む小型獣に変わると、シベリアでも弓矢の需要が高まった事は間違いない。しかしシベリアではアサや黒曜石の矢尻は生産できなかったから、シベリアの狩猟民族が弓矢を使う為には、交易に頼らざるを得なかった。
  栽培系狩猟民族の栽培者が必要とした石器は、土を掘り起こすものが主だったから、石材に大きな優劣はなく、石材に対する拘りはなかった。彼らの狩猟は栽培者と共生する事を前提とし、不猟期には栽培の成果に依存する事ができたから、概して狩猟具への拘りは強くなかった。しかしシベリアのY-C3狩猟民族は、食料の全てを狩猟の獲物に依存し、狩猟に使う道具への拘りを氷期から高めていた事を、北海道の白滝に遺された夥しい数の黒曜石片が示している。
 シベリアのY-C3狩猟民族のこの様な特徴は、シベリアの平原を季節的に南北遊動し、その遊動距離が極めて長かった事から広い地域の情報を集め、適切な素材を選定したからであると考えられる。彼らの遊動路が交差すれば、多数の他集団と情報を交換する事ができたが、それは栽培地に結び付いた栽培系狩猟民族には不可能な事だった。

VI. 現代でも中部山岳地や関東平野の畠で、黒曜石の矢尻を見付ける事ができるのは、縄文人が精巧な矢尻を効率的に量産する技量を確立し、膨大な数の矢尻を作ったからだと考えられる。八ヶ岳山麓の縄文集落跡から新潟県の職人が製作したヒスイ加工品や、銚子で採掘された琥珀が多数発掘された事は、矢尻の量産技術を確立した縄文人が、矢尻の量産によって豊かになった事情を示している。新潟県に磨製石斧の工房があり、そこで製作されたヒスイの加工品が、八ヶ岳山麓の集落跡から多数発掘され、逆に新潟県の工房や青森の三内丸山遺跡から、八ヶ岳山麓で加工された矢尻が発掘される事は、矢尻も工房で職人が集中的に生産していた事を示唆している。

VII. 新石器時代の狩猟者が矢尻の材質に拘ったのは、日本だけの事情ではなかった。西欧でもフリントと呼ばれる石材から多量の矢尻が製作され、優れた素材を産出するベルギーのスピエンヌには、フリントを得るために掘削した坑道の跡があり、矢尻の生産が交易に結び付いていた事を示している。フリントは黒曜石より鋭利さは劣るが加工は容易だから、原石が流通した可能性が高い。
 西欧ではフリントが原石で流通したが、日本でも下呂石やサヌカイトの原石が交易され、地域集落で矢尻に仕立てられた事が、遺跡の発掘から明らかになっている。従って原石が流通し、各地で矢尻や尖頭器を製作する交易は世界各地にあり、日本でも行われていた事になる。しかし八ヶ岳山麓に矢尻職人が集積していた事は、それとは異なった状況を示し、それを必要とする特殊な事情があった事になる。それを解明する事が、東日本で盛行した矢尻生産の本質を解く鍵になる。

VIII. 西欧沿海部でのフリントの流通は6千年前に始まり、4千年前に始まった青銅器時代に終焉した。八ヶ岳山麓の矢尻生産は縄文早期(1万年前)に始まり、縄文後期まで6千年間続き、製作された矢尻は世界最高の品質だった。

IX. シベリアを含む東ユーラシアは安定した大陸地殻の上にあるから、造山帯で生まれる黒曜石は採掘できなかった。
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国別の、黒曜石の産地の数   ウィキペディア 黒曜石から転写

霧ヶ峰周辺の黒曜石は霧ヶ峰が諏訪湖の湖底だった時代に、噴出した溶岩が湖水に触れて急冷され、非晶質の岩石になった事に由来する。日本列島にはその様な黒曜石の産地が沢山あるが、縄文人はその中から良質の黒曜石の産地を厳選し、その黒曜石から作った矢尻で矢を生産した。その様な産地として八ヶ岳山麓(長野)、高原山(栃木)、神津島(東京都)、隠岐の島(島根)、腰岳(佐賀)、姫島(大分)が知られているが、八ヶ岳産の黒曜石から作られた矢尻の発掘事例は群を抜いて多い。中部山岳地に多い縄文中期の大集落は、八ヶ岳山麓を中心に展開していただけではなく、八ヶ岳と関東や北陸を結ぶ街道沿いにも連なり、矢尻などの弓矢の素材や生産者への食料の運搬などが、縄文人の重要な生業になっていた事を示している。

X. これらの集落は縄文後期に衰退し、縄文晩期には無人に近い状態になる。これは大陸に青銅器が普及した時期と合致し、狩猟民族が青銅製の鏃を採用する事により、黒曜石の矢尻の需要が衰退した事を示している。日本では石斧の素材に優れた蛇紋岩が豊富に産出し、青銅器の需要がなかったので青銅器時代もなかったから、この一致は黒曜石の矢尻の主要な需要は大陸にあった事を示し、日本列島内の需要ではなかった事を示している。
 縄文晩期に人口が激減したから、中部山岳地帯の人口も激減したと主張する考古学者がいるが、堅果類を栽培していた縄文人の遺跡しか発掘できない、考古学者の戯言に過ぎない。気候が多少冷涼化しても、漁民や狩猟民族の人口が激減した筈はなく、縄文人の人口が激減した様に見えるのは、彼らが稲作の為に低湿地や河川流域に移動したからだ。考古学者はその痕跡を発掘できないから、錯覚しているに過ぎない。縄文後期~晩期に稲作者が低湿地や河川流域に移動したのは、海進期だった縄文中期までの海岸には沖積平野がなく、縄文後期に海退が進む事によって沖積平野が生れ、晩期にその面積が拡大したからだ。
 稲作者の痕跡が発掘できない最大の理由は、主要な沖積平野は100年間で30㎝以上沈降し、縄文後期~晩期(3千年以上前)の沖積地の遺跡は、当時より9m以上沈降しているからだ。その上に沖積平野の土砂が堆積しているだけではなく、縄文人は畔を作らずに低湿地で稲作する事しかできず、緩斜面にさえ稲作地を形成する事ができなかったからだ。考古学者が縄文後期~晩期に人口が激減したと主張している事と、これらの事情との因果関係を理解する必要がある。弥生時代になると畔を伴う水田が生れたから、考古学者にも水田の痕跡を発掘できる状態が生れたが、弥生時代になっても皆が畔を作ったわけではないから、畔を使用する水田の拡散事情を追跡しても、温帯ジャポニカの稲作の普及事情を追跡できるわけではない。特に稲作先進地だった関東の先進的な稲作者だったmt-Fは、稲作の生産性を低下させる畔は使わなかったから、関東では畔を持つ水田の普及が遅れた。考古学者はそれを見て、関東は稲作後進地だったと戯言を主張している。

 

以上の論拠により八ヶ岳や高原山で生産された矢尻は、関東部族や北陸部族が海外との交易の為に生産し、その一部が日本列島内でも使われたと考えられる。八ヶ岳産の黒曜石は3万年以上前から関東に流出し、Y-C3狩猟民族の使用実績を示しているから、矢尻もY-C3狩猟民族が生産していたと推測される。八ヶ岳山麓から新潟と関東の双方に矢尻が運び出された事は、どちらの部族にも属さないY-C3狩猟民族が、その生産を担っていた事を示し、部族文化とも整合している。

高原山の黒曜石は神津島のものより品質が劣るにも拘らず、北関東で多量に使われたのも、矢尻職人はY-DY-O2b1ではなく、Y-C3だったとの推測に傍証を与える。矢尻職人だったY-C3は黒曜石の原石を精選する事により、高品質の矢尻の生産性を高める必要があったから、船でしか行けない神津島での採掘の困難さが、神津島産を忌避する原因になったと考えられるからだ。また神津島の黒曜石は関東部族のY-Dの利権が及ぶもので、霧ヶ峰の黒曜石はY-C3に採掘権がある状態が氷期から続いていた事も、霧ヶ峰の黒曜石が使われた理由であると考えられる。

従ってY-C3狩猟民族が製作した黒曜石の矢尻を、関東と北陸の縄文人が弓矢に仕立て、漁民がそれをシベリアに持ち込んで獣骨と交換する役割分担が存在し、それらの役割を効率的に完遂する為に、各役割に対応する更に細分化した職能組織が部族毎に形成されたと想定される。それは王朝的な身分組織ではなく、情報伝達と合議を重視する職能組織だったと考えられる。現代社会でも高度な技能を持った人達の活動には、重層的な管理組織は必要なく、却って邪魔になる場合が多いからだ。

 

関東部族とY-C3狩猟民族が黒曜石の矢尻に拘わった背景

シベリアの狩猟民族は矢尻を動物の角や骨から作る事もできたから、彼らにとって黒曜石の矢尻は必需品ではなく、シベリアで入手できない弓矢の素材は、弓の素材になるアサだけだった。一歩譲っても、弓の強度を担保する張りの強い木材までが、輸入する必要がある素材だった。しかし関東部族はシベリア産の骨を多量に欲しかったから、アサや木材だけでは交易量が釣り合わないし、矢尻に使った余りの獣骨では量が不足すると考え、黒曜石の矢尻を装着した矢を多量にシベリアに送り込み、シベリアの狩猟者が骨や角を消費しない上に、進んで骨や角を提供する独特の仕組みを作り上げた。

骨や角には様々な用途があり、打刻して成形する石材より削る事ができる骨の方が、応用範囲は広いから、シベリアの狩猟民族にとっても漁労民族にとっても価値がある物品だった。矢尻という特定用途に着目しても、骨の方が矢に固定する構造を容易に作る事ができるし、矢尻を固定する接着剤は必要なかった。また刃部が摩耗した場合に骨は削り直せるが、石材加工には技量が必要だから、できなければ捨てるしかない。従ってシベリアの狩猟者にとっては、石材より自分が生産する骨の方が矢尻の素材として優れていた。

彼らはいずれそれに気付くだろうから、関東部族はシベリアの狩猟者がそれに気付いて骨を矢尻に加工し、骨を消費してしまう状態が生れる前に、黒曜石の矢尻が付いた矢を大量に生産し、潤沢に配給する事により、黒曜石の矢尻を使用する状態を恒久化したと考えられる。その為には先ず弓矢の機能を高め、狩猟民族の必需品にした後で、多量に量産してシベリアに送り込み続ける必要があった。

この様な発想は不自然ではないし、古代人が見付けにくい難解な因果関係ではなく、知恵があれば容易に気付く事だったが、そこに至るには幾つかの曲折があった。またシベリアの狩猟民族に黒曜石の矢尻を使わせる事は、日本のY-C3狩猟民族がこの交易に技能者として参加する事を意味したから、Y-C3狩猟民族にとっても是非実現したい案件だった。1万年前の関東の漁民が、Y-C3狩猟民族と縄文人をこの交易に参加させる事により、Y-C3狩猟民族から関東平野の狩猟の縄張りを縄文人に譲って貰う事に繋げたのは、栽培系狩猟民族だった多数の縄文人を、九州から関東に呼び込みたい希望があったからだ。黒曜石の矢尻を使う事が3者の必須案件になったのは、33様の必然性があったからだ。

彼らがそれを実現した経緯を、宝貝貨の誕生仮説の様にマーケティング手順で想定すると、以下になる。

縄文早期前半の関東部族の漁民がシベリアの狩猟者に、弓矢の交換品として沢山の骨を要求すると、狩猟者から「自分が使うからこれ以上はだめだ」と言い返される様な事態は、有触れた会話の一つだったと想定される。それに対する縄文人の対策は、品質に優れた矢を作って交換価値を高める事だったと想定されるが、それに気付いても直ぐに実現した筈はない。しかしこの様な問答が繰り返されながら、関東部族の漁民は関東に移住して来た縄文人や、矢尻を提供していた狩猟民族に性能の向上を迫り、成功報酬として多量の海産物を提供したから、縄文人や狩猟民族もそれに応えて奮起し、長い年月を掛けて徐々に性能を向上したと推測される。この過程では品質向上だけが意識され、上記のような思惑は未だ生まれていなかった可能性が高い。

狩猟民族に矢を潤沢に供給すると言っても、彼らはそれを狩猟具として使うだけで、戦争に使ったのではないから、それほど多くの矢は必要としなかった。狩猟では1発必殺が必須だったから、命中精度の高い矢が必要だったが、矢は回収できるから多くを必要としてはいなかった。しかし黒曜石の矢尻は鋭利さを失うと再生できなかったから、狩猟者にとっては消耗品になり、新しい矢を得るために獣骨を生産する必要に迫られた。

漁民は釣り針や離頭銛の素材として骨や角を必要としたが、釣り針や銛は消耗品だから、定期的に骨や角を入手できなければ、漁労の継続的な生産性は確保できなかった。釣り針や離頭銛を貝殻や石で作る事は難しいから、漁民は骨や角の旺盛な需要者であり続けるしかなかった。東北では石製の離頭銛の発掘例もあるらしいが、骨製の方が高性能である事は間違いないから、海外交易を行わなかった東北縄文人の苦肉の策だったと推測される。

日本列島で狩猟民族が産出する骨では、人口が増えた漁民には十分な量ではなかったから、関東部族の漁民はシベリア産で補充する必要に慢性的に迫られていた。従ってシベリアの狩猟者との弓矢交易を拡大するには、高性能の矢を大量生産する必要があるとの結論に至った事は、当然の帰結だった。当初の矢に装着された矢尻は、九州縄文人が使っていた各種石材を使うもので、黒曜石は使っていなかった疑いもあるが、高性能の弓矢を実現する為に各地の漁民、縄文人、狩猟民の代表が話し合い、喧々諤々の議論を長い間重ねて試行錯誤した末に、八ヶ岳産の黒曜石を矢尻に使う事を含め、妥当な結論に至ったと想定され、各生産者がそれぞれの役割を果たす中で、矢尻が中核部品であると認識したから、その生産を支える為に中部山岳地帯に、豊かな縄文社会が出現したと考えられる。

関東の漁民がシベリアに弓矢を持ち込み始めた当初は、シベリアの狩猟者は使い始めた珍しい弓矢を、骨と気前よく交換してくれたかもしれないが、やがてシベリアの狩猟者も矢尻は骨でも作れる事に気付いたから、関東部族はその流れを阻止する為に、高品質の矢尻を装着した矢を、多量に供給する必要があると認識したのではなかろうか。湿潤化して森林化したシベリアには、各種の樹木が生育し始めていたから、木製の弓も同様な状態に陥る危険があった。

その為には、矢だけではなく弓も品質を向上させる必要に迫られ、それと同時に生産性を飛躍的に向上させる必要性を痛感し、時代に進展と共にそれを実現していったから、縄文人が作る弓矢がシベリアの狩猟者の必需品として定着したと想定される。

鋭利な刃部が得られる黒曜石の加工は特に難しく、それを量産する事は更に難しかったから、その職人が八ヶ岳山麓に集住すると彼らの食生活を支える人々も集住し、八ヶ岳山麓の賑わいが生れたと想定される。西日本にも良質の黒曜石の産地はあるが、西日本の縄文人が多用したのは黒曜石ではなく、サヌカイトと呼ばれる安山岩系の岩石で、産出量が豊富で黒曜石より加工が容易な石材だった。しかし東日本の縄文人は、最高品質の矢尻が製作できる八ヶ岳産の黒曜石に拘った。それがシベリアの狩猟民族との弓矢交易の、要の部品だったからだ。

方向性がその様に決まっても、品質を高めながら量産性も高め事は、矛盾した目的を同時に達成する事だから、矢尻の加工技術を格別に高める必要があり、その鍵を握る熟練技能者を、多数確保する必要があった。縄文人はその為には、矢尻職人の食生活を画期的に改善する必要があると感じ、八ヶ岳山麓に多数の縄文人を集め、矢尻職人の経済的な豊かさを保証しながら、それを分けて貰う仕組みを形成する事により、豊かな集落を多数生みだしたと推測される。これは現代の近代的な経済活動にとって、余りにも当然の事だから、敢えて証明する必要はないだろう。

この様な生産システムを運営する事は、縄文人にとっては画期的な経済活動だったから、その経済環境に多数の縄文人が引き付けられ、八ヶ岳山麓の周囲と北陸や関東を繋ぐ街道沿いに、宿場の機能も果たす大集落が多数形成されたと考えられる。これらの集落が形成された時期は、北海道やシベリアで石刃鏃が使われなくなった時期でもあるから、弓矢の量産が軌道に乗って広域的に普及すると、獣骨の取集実績が高まると共に弓矢の価値が下がり、日本列島に近い地域での獣骨不足が解消されたから、河川漁労者も獣骨を使う事ができる様になったと考えられる。

関東部族だけでは足りなかった供給力を、北陸部族も弓矢の製作に参加する事によって高め、この状態を実現したから、シベリアでの需給関係が均衡状態になったと考えられ、矢尻街道が北陸にも形成された事がその事情を示している。関東部族がその状態を当初から望んでいたのではなく、現代社会では有触れた需要と生産の罠に陥ったからではなかろうか。激しく経済活動を競っていた両部族としては、この様な協業的な関係の形成は極めて珍しい状態に見えるからだ。

需要と生産の罠について説明すると、供給者と需要者の関係が11でしかなく、その状態で需要が右肩上がりに増加すると、次第に需要者の声が大きくなる事から始まる。その製品が需要者の生命線になってしまった場合には、殆どその様な状態になる。供給者がそれに応えて増産体制を整えると、やがて膨大な規模の生産体制を整える事になるから、供給者はその体制が維持できるのか不安になる。それでも需要者の声が高まり続けると、供給者は恐怖を感じながら増産投資を絞り始め、両者の関係が悪化する事態も生まれる。代替品が生れると需要者はそちらに容易に移行できるが、供給者にもそれができる保証はなく、実際に縄文後期に大陸が青銅器時代になると、その様な事態が生れて中部山岳地帯は無人に近い地域になった。

現代社会の需要者はそれを避けるために、複数社購買を原則としている。特に大型商品になりそうなカテゴリーでは、需要者は生産者になりそうな企業を選定し、新たな供給者になる事を勧誘するし、生産者も複数の企業が競合している状態を、商品市況が安定的に展開する状態であると認識し、過剰な設備投資は控える様になる。

八ヶ岳産の矢尻を使って弓矢に仕立てていたのは、縄文早期までは関東部族だけだったが、縄文前期になると北陸部族もこの事業に参加し、関東部族と同様に縄文中期末まで継続した。

縄文人の技術的な成果は、職人が厳選された黒曜石から鋭利な矢尻を作り、真直ぐで強度が高い竹の矢柄にそれを装着した事によって得られたが、矢と矢尻を強固に接合する接着剤として、良質の漆を開発する必要もあった。ウルシの歴史は以下の様なものだったと想定される。

12千年前の九州縄文人の矢尻に、三角形の無茎石鏃が含まれているから、この時代には既にウルシを使って矢尻を固定していた事を示している。世界標準の矢尻には茎と呼ばれる長い突起があり、刃部と反対の方向に突出していた。それを矢の素材に挟んで紐で固定する事により、矢柄と矢尻を固定していたからだ。従ってウルシを使う事を前提とした、茎がない矢尻は縄文人特有の形状だった。

考古学者は、「狩猟時代には軽い矢尻が使われたが、人が争う様になると、殺傷力を高めるために矢尻が大型化した」と説明するが、この解釈には疑問がある。狩猟時代の狩猟対象が、ウサギや小鳥などの小動物だけだったのであればこの様な解釈でも良いが、イノシシやシカも狩猟対象だったから、狩猟用の矢尻にも高い殺傷力は必要だった。従って闘争用の矢尻が大型化した理由を解明するためには、狩猟と戦闘の違いを考慮する必要がある。両者の根本的な違いとして、戦闘では放つ矢の数が圧倒的に多かった事と、戦闘で弓矢を扱ったのは狩猟者ではなく、農耕民だった事に注目すべきだろう。

狩猟の場合は無暗に矢を放つのではなく、一発必中の技が必要だったから、猟師には数本の矢があれば良く、弓矢には確実に的に当たる高い能性が要求された。それに対して戦闘の場合には、威嚇目的で多数の矢を放つ事が多く、放った矢は回収できないから、一本の矢の品質の高さより粗製乱造できる事の方が重要だった。

戦闘時の射手は狩猟者ではなく、射芸に習熟していない農民だったから、戦闘の際には数十人の戦闘員に合計千本以上の矢が用意されただろう。従って戦闘目的で作った矢尻が大きいのは、粗製乱造しても殺傷力が維持される、目的に見合った構造が必要だったからだと考えられる。硬い石から小型の矢尻を作る事は、腕の良い職人でなければできなかったから、農民が身近な石で矢尻を沢山作ると必然的に大型の矢尻になった事も、矢尻が大型化した理由の一つだったが、他にも重大な理由があった。

猟師が使った精度の良い矢は、軽い矢尻をウルシで矢柄に固定していたのに対し、戦闘目的で作った矢は矢柄に紐で矢尻を結えた程度の、粗雑なものだったと考えられる。その構造では矢柄の重さが打撃力に加わりにくいから、殺傷力を高めるには矢尻を重くする必要があった。矢柄と矢尻が硬く固定された狩猟用の高価な矢は、矢柄の重さも殺傷力に加わるから、軽い矢尻でも高い殺傷力が得られただけではなく、矢尻を小さくして全重量を軽くした矢は、初速が速く命中精度が高かったと考えられる。

日本で無茎石鏃が多量に製作された理由も、それに関連していた可能性が高い。黒曜石で作った極めて薄い石鏃は、矢柄に固定するための茎を付けても、茎が折れて役に立たなかったと考えられるからだ。矢尻を接着剤で装着するのであれば茎は必要なく、茎がない矢尻は量産性が高いから、その技を極めた矢尻は単純な三角形ではなく、ブーメラン型の2重三角形になった。矢柄の先端に溝を彫り、薄い矢尻をそこに嵌めてウルシで固定すれば、強い固定強度が得られたと推測される。単純な三角形から不要な部分が削ぎ落された、軽量な矢尻であると共に、離れた2点で矢柄に固定する事により、固定強度を高める仕様だったと想定されるからだ。

漆には素材としての強度はないが、接着力は強いからこの様な用途に向いていた。ウルシもアサと同様にシベリアでは入手できない素材だったから、ウルシを巧妙に使って弓矢の性能を高めると、弓矢はシベリアの狩猟者にとって必需品になり、縄文人が支給する高度な狩猟具になった。

漆は縄文草創期に、縄文人が沖縄から持ち込んだ植生だったと考えられるが、当初の用途が装飾目的だった筈はないから、原縄文人が琉球岬や沖縄にいた時代から、矢尻を固定する素材だった可能性が高い。しかし弓矢の発明者だったと想定される、Y-C1がいなかった筈の北陸部族の領域だった、鳥取県の鳥浜貝塚からウルシの木片が発掘され、12千年前のものだったと判定されているから、原縄文人が石垣島と台湾に分かれる以前に、Y-O2b1共通の他の用途があり、矢柄に矢尻を固定したのはその派生用途だったと想定される。従って時代を更に遡り、原縄文人共通の用途を探す必要があり、石斧を柄に固定する素材だった可能性に帰着する。

原日本人はシナノキのロープを持っていたから、それを使って石斧を柄に固定していたと想定され、その様な剛性が高い樹皮や植物繊維を持っていなかった原縄文人は、冷温帯性の堅果類の樹林を形成する為に、自然林を伐採する必須アイテムとして、磨製石斧が重要な道具であると認識すると、その作成と性能向上を目指しただろう。その為に柄と磨製石斧を固定するアサを見付けたが、アサは繊維が柔らかく、柄に固定する用途としてはシナノキノの樹皮に劣った。それ故にアサに剛性を与える素材としてウルシが見出され、アサと共に栽培化された可能性が高い。

この想定は原縄文人が何故アサやウルシを栽培していたのか、何故それを沖縄や日本に渡来する際に後生大事に持ち込んだのか、答えを与えてくれる重要な仮説になる。当時の堅果類は現在山野に自生しているものと比較し、遥かに生産性が劣るものだったから、縄文人が堅果類を主要な食料とする為には、広大な樹林を形成する必要があった。現在われわれが目にするドングリは、縄文人が2万年以上掛けて品種改良し、生産性を高めると共に毒性を低減したものだからだ。従って樹木の高い伐採能力は、原縄文人の食生活の改善には必須技能だった。

この仮説から導かれる派生仮説として、ウルシが弓矢に使われる様になったのは、Y-C1狩猟民族が南シナ海沿岸でY-Dに出逢い、勧誘されて原縄文人の一員として琉球岬で暮らしている内に、mt-M7aが生産するアサで弓の弦を作り、ウルシで矢尻を固定する様になったから、弓矢の性能が画期的に向上し、水鳥を捕獲する玩具のような狩猟具から、シカやイノシシまでを狩猟対象とする実用的な狩猟具になったとの仮説が生まれる。

つまり弓矢の発明者はY-C1だったが、当初は小動物や水鳥を狩る程度の威力しかない、玩具の様な道具だったから、Y-C1が東南アジアにいた時代には、他の民族に拡散する様な有効な狩猟具ではなかったが、原縄文人の共生社会が実用的な狩猟具に仕立てたから交易品になり、後氷期に温暖化して森林化したシベリアの狩猟者の、必須アイテムになったと考えられる。

漆はしばしば糸屑に染み込ませた状態で発掘されるが、それは矢尻を矢柄に固定する素材に相応しい。固化した接着剤そのものに強度はなくても、接着力さえ強ければ他の素材と混合し、強度を高める事ができるからだ。現代の素材で言えば、アロンアルファがそれにあたる。

縄文人が矢尻を矢柄に固定する際の手作業に、ウルシを素手で扱ったとは考えにくいから、箸を使って上記の糸屑を扱った可能性が高いが、上記の作業は矢尻職人の分担ではなく、関東部族の縄文人の役割だったと考えられる。日本人の器用な箸さばきはその様な細かい作業から派生し、漆塗りの箸もその派生品として生まれた可能性がある。「箸」は竹冠だから、古代には先端を細くした竹を指したと考えられ、この作業に相応しい道具になる。「箸」の竹冠を取った「者」は、「台上に柴を集めて火をたく」象形だから、竹を炙って油を抜く作業を指したと考えられる。

生の竹を火で炙って油を抜く事は、保存性を高めために多くの竹製品に応用されているから、シベリアに出荷する矢の製作にも欠かせない作業だったと考えられる。「箸」は煮え立った土器から、食べ物を取り出す道具として生れた可能性もあるが、その用途には大型の木製スプーンの方が相応しいし、東アジアでしか使われていない上に、使う為には特殊な技能を要する箸が、その用途の為に生まれたと考える事には合理性がない。漢字の成立経緯については、経済活動の成熟期の項で検証する。

東京都の縄文中期の遺跡として八王子・五日市・国分寺・町田・都区部などの、武蔵野台地や多摩丘陵にヒスイ加工品の発掘例が多数あり、その豊かさは内陸に拡散した縄文人が、アサや竹を栽培し、Y-C1狩猟民が鳥を狩って矢羽根を集め、それらを持ち寄って弓矢を製作していた事を示唆している。

奈良時代まで信濃が弓の有力な産地だった事は、八ヶ岳山麓を中心に展開していた狩猟民が、梓弓の素材であるミズメ(梓)を栽培していた事を示唆し、松本盆地に流れ込む梓川が、嘗てミズメの産地だったと想定される上高地から流れ出ている事も、その傍証になる。

「縄文文化の形成期」の項で、縄文人はシベリアの狩猟者が矢を消耗品として使い捨てるために、矢をできるだけ細い竹で短く作り、先端を破壊すると矢柄として再生できない様にすると同時に、弓を強力にして短い矢でも殺傷力を高める工夫をしたと指摘した。和弓は弓の長さが長大で使う矢も長いが、大陸の弓は概して短弓であるのは、その伝統が尾を引いたからである可能性があるとも指摘した。その仮説を「梓弓」に適用すると、日本には梓弓という言葉はあるが、和弓とは異なって現在その実態さえ明らかではないのは、輸出用に生産された短弓を梓弓と呼んだからではなかろうか。それが事実であれば、石器時代の狩猟民族は自らも短弓を使いながら輸出用に量産し、その性能を確認していたが、輸出が途絶えて生産しなくなるとその弓の使用を止めたから、日本では使わない弓なった事になる。和弓の起源は弓矢交易を行わなかった、西日本にあったのかもしれない。

世界の長弓として、和弓と共にイングランドのロングボウが知られているが、どちらも海洋民族の弓だから、海洋民族ではなかった森の狩猟者には、短弓の方が使い易かったと考えられる事も、これらの論考の根拠なるかもしれない。

関東縄文人が八ヶ岳山麓で製作した矢尻を入手し、多摩丘陵や武蔵野台地で最終製品に仕上げると、漁民が多摩川を使ってそれを集積し、東京湾からシベリアに出荷していたと推測される。ヒスイ加工が発掘されるエリアが広い事は、加工者が特殊な技能集団を形成していたのではなく、多数の職人が各地の集落に散在し、膨大な数の弓矢を製作していた事を示唆している。

現在の多摩川は川底に砂礫が溜まり、船の往来は難しいが、縄文海進期には砂礫は未だ堆積していなかったから、深い谷底に水を湛えた川が流れ、漁民の船がそれを水路として上記の内陸を巡回し、矢を集めていたと想定される。

この時代のアサには現在ほどの耐寒性はなく、縄文人がアサの栽培を企業秘密にし、寒冷なシベリアでは栽培できない状態を維持していたと推測される。現在アサは沿海州を北限としているが、それを言い換えると、北海道と同じ緯度までしか栽培できない事になるから、道南に渡ったmt-M7aが栽培し、縄文早期以降以降の寒冷化の中で耐寒性を得たアサが、それほど古くない時代に沿海州に伝わったから、現在の北限が沿海州である可能性が高い。シベリアには河川漁労民族や狩猟民族と共生する栽培民族が多数いたから、アサの栽培が縄文時代に彼らに伝わったのであれば、彼らが必需品として耐寒改良した筈だから。

アサは冷温帯性の植生だから、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7bmt-M7cも、栽培していなかった可能性が高く、華南では近世まで黄麻(ジュート)から南京袋が作られていた事が、その証拠になるだろう。従って縄文時代にはmt-M7aがアサの唯一の栽培者だったが、交易品として盛んにシベリアに出荷され、シベリアの水上交易者が大陸各地に配布したと想定されるから、アサや弓矢が見付かっただけでは、そこでアサが栽培されていたとは言えない。

西ユーラシアの弓の歴史としては、亜麻(リネン)の栽培史を研究する必要があるだろう。現在の亜麻の産地は、北フランスなどのあまり気候が温暖ではない地域だから、その様な気候地域で栽培化された可能性が高い。亜麻は連作ができない程に栽培化が進んでいるから、その栽培史はかなり古い時代に遡る可能性が高い。

 

3-2 八ヶ岳山麓の矢尻生産システム

諏訪湖周辺の地理環境

多数の縄文遺跡が発掘されている八ヶ岳西部と南部は、標高800m以上の冷涼な地域なので、耐寒建築である竪穴住居が使われた。その様な集落の住居跡から、芸術的な土器やヒスイ加工品が多数出土し、住民の豊かさを示している。此処に集住した縄文人は、和田峠と星糞峠で採取した良質の黒曜石から膨大な数の矢尻を製作し、気候が温暖になった関東では栽培できない、ウルシ樹も栽培していた。但し集まったのはそれらの職人だけではなく、彼らに良好な生活環境を提供する人々も集り、この地域と関東や新潟を結ぶ街道には、大きな宿場も形成された。それらの街道を含む地域の大型集落跡と、出土するヒスイ加工品や独特の器形を持つ華麗な土器が、弓矢産業の往時の繁栄を示している。

矢尻職人が集住した集落跡や、彼らに漁獲を提供した漁民の集落跡は発掘されていないが、集落の配置や出土遺物から、当時の人々の活動状況を復元する事ができる。矢尻を製作していた集落は、現在の下諏訪町から諏訪市域にあたる、当時の巨大な諏訪湖の北東岸に散在していた。下の地図では小さな湖が現在の諏訪湖で、縄文早期の諏訪湖を標高900mの等高線の内側として水色で再現し、矢尻職人の集落の候補地を赤とピンクの丸印で示した。

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諏訪湖の標高を900mとしたのは、諏訪市と書かれた文字の西北に大きな川洲の痕跡として、桜ヶ丘と呼ばれる現在の標高が878mの丘が遺されている事による。水量があまり多くない角間川が膨大な堆積物を残したが、桜ケ丘はその僅かな一部に過ぎないから、湖面の標高が900m近辺だった期間が継続していた事を示しているからだ。従ってこの地図では、桜ケ丘は諏訪湖に含まれている。

氷期には降雨が少なかったから、雨による地形の変化は殆どなかったが、ヤンガードリアス期に豪雨が続いて地理的な環境が変化した。その後の超温暖期に降雨は激減したが、太平洋の湿潤化が始まった9千年前から増加し、8千年前に太平洋が湿潤化すると再び降雨期になり、それに対応して再び湖面が上昇したが、その後は流出口の浸食によって低下し続けた。従って豪雨に見舞われる機会が多かったヤンガードリアス期と、太平洋が湿潤化した時期に現在よりかなり水量が多くなった角間川が、桜ケ丘を含む大きな川洲を形成したと想定される。

特にヤンガードリアス期に降雨が激増した事を示す痕跡が、諏訪湖岸だけではなく周囲の盆地にも残っている。2万年前に後氷期の温暖化が始まり、北太平洋がそれから7千年間温められた後で、大陸の大気が急冷したから、再び海を覆っていた大気が海洋を冷却するプロセスに入り、それによる豪雨の爪痕が各地に残っている。

ヤンガードリアス期は理論的には降雨が激増した時期だが、欧米人にはそれに関する認識が薄く、低温化だけが強調されているので、縄文文化の形成期の項では低温化を指摘するに留めた。大西洋では温暖化の開始が遅く、ヤンガードリアス期になっても降雨はそれほど増えなかったので、それが世界の認識になっている疑いがあるが、太平洋に隣接している日本では激しい降雨があった事が、諏訪湖の湖面標高の変遷から明らかになる。

それと同時にヤンガードリアス期に入る前の気候は、かなり温暖だった事が指摘できる。諏訪湖近辺に標高1000mの地遺跡地がある事は、2000m以上の高山にも激しい降雨があった事を示唆しているからだ。これは各種の歴史事情とも合致するので、日本近辺ではヤンガードリアス期に7℃もの低温化は起きなかったが、代わりに激しい降雨があった事は、海洋が厳しく低温化していなかった事を示し、縄文時代の導入項に示した鹿島沖の水温事情とも合致する。

諏訪湖が上の地図の水色で示す状態だったのは、流出河口の浸食が進行していなかった縄文早期だが、ヤンガードリアス期や太平洋の湿潤化による豪雨が湖岸に土砂を堆積したから、湖の面積は局部的に減少していたが、それは現在の地形から再現する事ができない。また縄文前期以降は流出河口の浸食が進み、湖面は徐々に低下していった。

従って現在の900m等高線が示す諏訪湖岸は、太平洋の湿潤化による降雨が増える前の、9千年前の状態に近いが、正確に当時の湖の輪郭を示しているわけではない。湖岸に川洲が広がると湖面積は縮小したが、その後湖面が大幅に低下すると山の斜面を覆っていた堆積土砂は、標高が低い新たな扇状地や沖積平野の土砂に変わったからだ。しかしそれは一部の地域の事であり、縄文前期以降に形成された川洲が湖面の低下によって失われると、岩盤が示す900mの標高線が再び露出し、古い時代の湖岸を再現したから、縄文早期の状態を再現する最も適切な方法は900mの等高線を結ぶものになる。

湖面の低下と共に古い川洲はテラスになり、その軟らかい堆積土壌は侵食されて元の岩肌に戻ったから、縄文時代の湖岸に形成された川洲上の集落は、痕跡を留めていない。矢尻職人はその様な川洲を居住域にしたので、彼らの工房は発見できないが、地形の状態によっては残っているテラスもあり、湖面標高の推移を追跡する有益な情報を提供している。また八ヶ岳山麓は溶岩台地なので、河川に浸食されずに平坦面が残っている部分には、縄文人の遺跡が多数遺されている。

 

諏訪湖の湖面標高の変遷

諏訪湖の湖面標高の変遷は、ヤンガードリアス期の気候を含む色々な痕跡を残しているので、後氷期の環境史に色々な情報を提供している。特に縄文早期以降の諏訪湖の湖面標高の変遷は、縄文史に深く関わる重要な案件なので詳しく検証する。

上記の桜ケ丘を形成した諏訪市街を流れる角間川の上流には、標高900m以上の小さな川洲の痕跡が何段もあり、上端は標高1100m付近から始まっている。諏訪湖が形成されてから何回も湖面が急速に低下し、その都度この川の河口に川洲ができた後で長期間900m程度に保たれ、桜ヶ丘に膨大な土砂が堆積した様に見えるが、角間川の上流は標高16001700mの霧ヶ峰に連なり、霧ヶ峰は周辺より速い速度で隆起しているので、標高が高い川洲はその影響によって隆起した可能性が高く、諏訪湖の湖面標高の変遷を検証する地形にはならない。

国土省が発表している最近100年間の地殻変動では、霧ヶ峰の隆起は20㎝程度なので、このペースで隆起すれば12千年前から現在までの間に25m程隆起した事になるが、霧ヶ峰の成因を考察するとその程度の隆起速度だったとは考え難い。霧ヶ峰の山頂には広い範囲に亘って平坦な地形があり、13万年前の前回の間氷期に形成された、湖の湖底と周辺の沖積地が13万年間に1000m隆起し、それによって生まれた地形であると想定されるから、平均隆起速度は100年で1m程度だった事になる。

従って大きな川洲が形成される様な、激しい降雨があったヤンガードリアス期から、霧ヶ峰が100年で1mの速度で隆起したとすると、霧ヶ峰に近い角間川の上流の現在の1100m地点は、13千年前に始まったヤンガードリアス期には標高1000mだった事になる。

霧ヶ峰の隆起が進行してもその過程で浸食が進めば、深い谷を持つ有触れた山岳地になった筈だが、現在の霧ヶ峰は山頂に広い平坦な地形を遺している。これは前回の間氷期の降雨によって平坦な水成地形が生れ、その地域が氷期に隆起したが、氷期には降雨がなく侵食が進まなかった事を示している。後氷期なって降雨が多くなった時期には、周囲の山より高い平坦な台地になっていたから、河川による浸食が進まずに現在に至っている事になり、武蔵野と類似した状態が霧ヶ峰にも発生した事になる。霧ヶ峰の隆起速度は武蔵野の20倍も速かったが、周辺にマグマの急速な冷却によって生まれる黒曜石の産地が散在している事は、霧ヶ峰の急速な局部隆起は、この地域の地下にマグマの突起が存在し、それが局地的な隆起を引き起こしている事を示唆している。武蔵野や多摩丘陵はプレートの圧迫によって地殻が褶曲し、それによって隆起していると考えられるから、隆起速度が異なる事に違和感はない。八ヶ岳周辺には局部隆起を示している場所が複数あり、諏訪湖の湖面標高の変遷の追跡を困難にしてはいるが、いずれも広範囲に亘る隆起ではない。

霧ヶ峰が隆起していた氷期に、土砂が堆積しただけの平坦な地形が殆ど侵食を受けなかった事は、氷期には沖積土砂を侵食する程の降雨量はなく、寒冷な山岳地は僅かな雪に覆われ、浸食から保護されていた事を示している。これは武蔵野についても同様だから、氷期には降雨が少なく河川の侵食は殆ど進まなかった事になり、以下の検証に重要な知見を提供する。

諏訪湖の湖面標高の変遷の検証には、隆起している霧ヶ峰周辺の地形は参照できないので、他の川洲の痕跡を探す必要がある。角間川から見ると霧ヶ峰とは反対側の20㎞南西の、富士見町の御射山神戸地区に標高900m程度の平坦な沖積地があり、湖面標高が900mだった時期が長期間続いた事を示している。従ってそれらを根拠に、縄文早期の湖面標高は900mだったと想定したが、角間川上流の事情とは整合しないから、諏訪湖を囲む地形の変遷を、富士見町全体の地形から検証する。

諏訪湖は八ヶ岳の噴火による、熔岩流によって堰き止められた湖で、富士見町の市街地を形成している溶岩台地が、富士見町の西の山岳地である入笠山まで連なっているから、それが現在も諏訪湖に流れ込んでいる諸河川を堰き止め、諏訪湖が形成されたと考えられる。それ以前のこの地域の河川は、甲府盆地に流れていたと指摘されているからでもある。

溶岩は風化し易く湖水の流出口は急速に侵食されたから、それによって湖面標高が低下した事を、富士見町の溶岩台地の地形は示しているが、ある時期に湖面の標高が流出口より低下し、富士見町の溶岩流の堰が諏訪湖の流出口ではなくなるという、驚くべき変化があった事も示している。

現在の地形から過去の地形を復元する場合、谷筋の状態の検証は一つの手段だが、谷は侵食された地形だから、必ずしも最良の手段とは言えない。特に溶岩台地の岩塊は侵食され易く、時代の経過と共に地形が大きく変化したから、この地域では谷筋の変化を追跡するのではなく、湖面が形成した川洲の痕跡から、過去の湖面標高を復元する事が有効になる。川洲の痕跡である平坦地は、過去の湖面の水位を確実に遺しているからだ。

ウィキペディアは扇状地について、山の斜面に形成される地形であって、湖がなくても形成されると記しているが、諏訪湖に関わる扇状地はその様なものではなく、湖面の低下を示す地形であると考えられる。その論拠の説明は複雑だから、甲府盆地に形成された釈迦堂遺跡の説明の中で検証する。

富士見町の御射山神戸と低い丘陵を挟み、南側に位置する武智川流域の若宮地区に、標高950mの堆積を示す扇状地があり、その上端は標高1000mに達している。従って八ヶ岳の溶岩流が形成した諏訪湖は、標高1000mの湖面を持つ湖だったが、溶岩台地が侵食されて湖面が950mに低下していく中で、若宮地区の扇状地が拡大した事を示している事になる。古い時期の湖面標高が1000mだった事は、角間川に関する推測結果と符合するから、事実認定できる可能性が高まるが、その時期に関する情報は地形から得る事はできない。

しかし霧ヶ峰の隆起事情から、氷期には山岳地の浸食が進まなかった事を前提にすると、湖面標高の変遷を追跡するのであれば、とりあえずは八ヶ岳が氷期に噴火した事だけ認識し、後氷期になった2万年前以降の降雨を起因とする、湖面標高の変遷を追跡すれば良い事になる。

現在の武智川は釜無川流れ込み、釜無川は富士川の支流として甲府盆地に流れているが、諏訪湖の湖面が標高1000mだった時期には、諏訪湖に流れ込んでいた事になる。現在の釜無川は富士見町の西の山岳地である、赤石山脈の北端から流れ出し、諏訪湖を形成した溶岩塊の残渣である急斜面に沿って流れ、標高を徐々に低下させながら甲府盆地に流れている。従って釜無川は、溶岩が流出した直後から甲府盆地に流れ、溶岩の塊を浸食し続けて現在の流れに至ったと想定されるから、溶岩塊を浸食する前の釜無川の状態を復元すると、武智川の河水が諏訪湖の南端に流入して扇状地を形成した時期には、湖水は武智川の河水も集めた後で溶岩台地上を山梨県側に流出し、何処かで釜無川と合流していた事になる。分かり易く言えば、当時の釜無川は溶岩流の上を流れ、その河道は現在より200m高かったから、諏訪湖に流れ込んでいた武智川から釜無川に水が流れ込んでも、静かな流れだったから、武智川の下流に諏訪湖の湖面に見合った堆積が生れた事になる。

従って諏訪湖の湖面標高が1000m950mだった時代は、釜無川が諏訪湖の流出河川になり、上記の御射山神戸地区と若宮地区を区切る丘陵の、突起の頂部の標高は1000mだから、それが侵食される前は諏訪湖と武智川河口をその丘陵が隔てていたが、流路として浸食されたから、丘陵の谷間に950mの平坦な地形を形成したと想定される。

その流路に武智川が扇状地を形成した事は、其処を流れる水は緩やかに流れていたが、やがて武智川やその北の河川が形成した扇状地が境界になり、武智川は釜無川に流出する状態を変えなかったが、武智川の北側の河川は諏訪湖に流れる川になったと考えられる。

氷期にはこの溶岩台地は殆ど浸食されなかった筈であり、後氷期になっても昇温期は気候が乾燥し、山岳地を削る程の降雨があったとは考え難いから、武智川や角間川に標高1000m950mの沖積地が形成された時期は、ヤンガードリアス期だった可能性が高い。13,500年前にヤンガードリアス期が始まると、大陸の気温が低下したが、2万年前から昇温していた太平洋は直ぐに冷却されなかったから、海洋より大陸の方が極度に気温が低い状態が生れ、東ユーラシアの中緯度地域の沿海部に豪雨をもたらしたからだ。これによって武智川などの河川が川洲を急速に形成し、諏訪湖を堰き止めていた溶岩台地を急速に浸食したから、ヤンガードリアス期の1500年間に、諏訪湖の湖面は標高1000mから950mに低下したと考えられる。

この様な豪雨をもたらしたヤンガードリアス期の急速な低温化は、西ユーラシアの冷気がトリガーではあったが、東ユーラシア大陸では海洋より低温になった大気が海洋の水を蒸発させて大陸を雲で覆い、自律的に大陸の大気を低温化させたから、雲を発生させて大陸の大気温を低下させる状況がスパイラル的に生まれ、豪雨期になったと想定される。

12千年前にヤンガードリアス期が終了すると、超温暖期になって大陸の中緯度地域が極度に乾燥したから、日本でも降雨が激減し、この時期には溶岩台地は浸食されなかったが、9千年前に湿潤化が再び始まった時期の諏訪湖は、湖面標高が900mに低下していたから、流出路が富士見から川岸地区に変わったと想定される。桜ヶ丘の川洲もヤンガードリアス期に標高1000mの川洲として形成されたが、その後の降雨と湖面の低下によって主要部分は盆地に流出し、桜ケ丘として残った部分も現在の標高まで低下したと考えられる。

従って溶岩台地は浸食されなかったのに、湖面が900mまで低下した理由を探る必要があるが、その前に富士見の流出口の標高が950mで停滞し、それ以上進行しなかった理由を探す必要がある。

若宮地区から北東に1.5㎞離れた溶岩台地上に、現在の富士見町の街地の西端があり、富士見町の市街地は溶岩流が形成した、標高950m以上の緩斜面上にある。富士見町を形成している溶岩流が、諏訪湖を形成した堰だったとすると、若宮地区の扇状地が標高1000mから始まっている事とは整合しない。

若宮地区の扇状地の上端と同様の、標高1000mの堆積地形の痕跡が、富士見町の街地の西にある乙事(おっこと)や、南西に7㎞離れた葛窪などにも見られるから、八ヶ岳から流出した溶岩流が堰き止めたのは、現在の富士見町の地下の溶岩流ではなく、更に南の山梨県域にあった事を示しているから、この課題に対する答えを提供している。

つまり諏訪湖の標高が1000mだった時期に堰を形成していたのは、現在も標高が1100m以上ある信濃堺から小淵沢の八ヶ岳山麓にある溶岩流から、対向する西の山岳地に連なっていた溶岩流で、現在は釜無川に浸食されて存在しないが、当時は現在の標高が1100mの地域から余り標高を下げずに、対向する赤石山脈まで延伸していた溶岩台地だったと推測される。

従って標高950m以上の富士見町の街地は、ヤンガードリアス期が始まった頃は諏訪湖の湖底だったが、ヤンガードリアス期が終わった頃に湖岸になった事になる。

国道20号の富士見峠は標高950mで、富士見町の市街地の西南端にあるから、此処が諏訪湖の流出口だった様に見えるが、武智川の側にも流出口があった事は既に指摘した。富士見峠と武智川の流出口は標高990mの岩石塊が形成する丘によって隔てられているから、この岩石塊は諏訪湖の湖面が1000mの時代から、湖面から頭を出して流路を二分し、富士見峠の川底の標高が950mになっても、武智川の水も標高950mの釜無川に流入し、流路を2分する状態を継続していた事になる。

厳密に言えば、若宮地区の北にも別の岩塊があり、流路は3本あった事を示しているが、赤石山系から流れて来る武智川などの河川が、扇状地を形成して西の流路を遮ったので、中央の流路と国道20号の富士見峠の流路が、ヤンガードリアス期が終わった頃の流路だった。

二つの流路の標高は950mで完全に同一だから、ヤンガードリアス期に湖面が低下していく中で、両方の流路上の溶岩が流出水によって均等に侵食され、ヤンガードリアス期の終末期になっても、二つの流出路が併存していた事になる。

浸食され易い溶岩台地の河川だから、いずれはどちらかの浸食が優り、流出河川が一本化しても不思議ではない状態だった筈だが、この状態でヤンガードリアス期を終えた後に湖面が900mに低下すると、両流出路の底部が950mに揃った状態を、化石の様に明瞭に残した事は、この流路の先に湖の様な地形があり、その湖面標高が950m以下にならなかったから、2つの流路が950mに維持された事を示唆している。

湖の様な地形があった事は、乙事や葛窪に標高1000mの堆積の痕跡と整合するから、当時の諏訪湖の本当の流出口は現在の白州市域にあった事になる。その地域と釜無川が流れ込んでいる甲府盆地の北端にある、標高400m未満の韮崎市域とは30㎞しか離れていないから、平均落差が20m/1㎞の、河川の浸食が進む勾配になる。現在は釜無川が流域の溶岩を完全に除去し、国道20号線が幅1㎞程の谷を走っているから、ヤンガードリアス期の豪雨の中で、その湖の出口が侵食されずに標高950mの湖面を維持した事は、釜無川の途中に溶岩塊ではなく、通常の岩石地帯を流れる流路があった事になる。つまりそこが侵食による湖面標高の低下を止めていたから、富士見地域とその部分の間に湖の様な地形が生れ、富士見峠と武智川の流路の浸食がその湖によって標高950mで停止したから、ヤンガードリアス期が終わるまで流路が両立していた事になる。

八ヶ岳の溶岩流の標高が最も高いのは小淵沢駅付近だから、その延長線上にある西の山塊を見るとそれに相応しい地形がある。白州市下教来石の西に標高1200mの山塊があり、その裏に平久保池を含む異様な谷があるからだ。現在の谷底の最高部の標高は1100mだが、過去100年に50㎝隆起した赤石山脈の一部だから、12千年前の標高が950mだったと想定する事に違和感はなく、上記の話と整合する。

従ってヤンガードリアス期に湖面標高の低下が50mで済んだのは、此処が河道だったからだと考えられ、他にも証拠があるので順次説明する。

以上を一旦纏めると、ヤンガードリアス期の豪雨が始まった13,500千年前は、諏訪湖の湖面標高は1000mだったが、ヤンガードリアス期の豪雨によって950mに低下した。太平洋が湿潤化した8千年前には、湖面標高が900mに低下していたので、その標高の沖積地として御射山神戸の沖積地が生れ、上の地図の900mの等高線は、太平洋が湿潤化して豪雨期になった8000年~7500年前の湖岸を示している事になる。

通説では湖面が900mに低下した理由は、それ以降の流出路になった川岸地区の岩盤が崩落したからだと説明しているが、川岸地区の地形にはそれを示す証拠がないだけではなく、標高970m1020mの広いテラス状の地形があり、ヤンガードリアス期にこの地形の基になる扇状地が形成された事を示しているので、全く別の状況を想定する必要がある。

現在このテラスはゴルフ場(諏訪レイクヒルCC)になっているので、この様なゴルフ場やテラス状の地形の存在が、この時期の湖面標高を示していると考え、他地域の事情を検証すると、全く別の想定が浮上する。

結論から言えば、標高が1000mだった時代も900mだった時代も、川岸地区は諏訪湖の境界ではなく、諏訪湖は古松本湖、古箕輪湖、古飯田湖と水路で繋がっていたが、その後それらの湖はそれぞれに分離し、標高差が異なる別の湖になった。現在は縮小した諏訪湖しかなく、古松本湖は松本盆地になり、古箕輪湖と古飯田湖は伊那盆地になったが、平坦地は水成地形だから、嘗てそこに湖があった事を示している。

古松本湖のテラスとしては、岡谷市と塩尻市と松本市を区切っている横峯の麓に、標高1000mの松本CCがある。また安曇野市で犀川に合流している鳥川の盆地への出口に、標高850m950mのテラスがあり、その上に「あずみ野CC」があるが、このテラスの上端は標高1000m以上に達しているから、諏訪レイクヒルCCの標高にほぼ一致する。

蓑輪町で天竜川に流れ込んでいる大泉川や、伊那市で天竜川に流れ込んでいる小沢川と小黒川についても、テラスの上端は950mだが、川に沿ったテラスの先端は1000mをやや超える状態を示しているから、これらの標高の一致は偶然の産物ではなく、ヤンガードリアス期にこれらの湖が連結していた事を示している。

天竜川沿いに下った駒ケ根の小田切川では、テラスの上端は950mまでしか確認できないし、その南の小河川でも状況は類似している。

松川町の片桐松川ではテラスの上端は830mに低下するが、「高森CC」がある大沢川では河岸段丘に1000m以上の端部がある。但し「高森CC」は標高800m880mのテラス上にあり、諏訪湖の標高が1000m950mだった時期には湖面水位を共有したが、その後は湖が分離して湖面が急速に低下した事を示唆している。

飯田市の二ツ山に対向する緩斜面に、標高900mから始まる扇状地の痕跡があるが、むしろ標高850m程度の湖面が長期間維持され、その後徐々に湖面が低下して行った事を示している。

以上から言える事は、現在の伊那盆地は一様に連なっているが、縄文時代には少なくとも伊那市を含む古箕輪湖と、飯田市を中心に下条村や泰阜村を含む古飯田湖に分れ、その間に幾つかの小さな湖があったが、天竜川がその痕跡を消してしまったと考えられる。

もう少し具体的に言うと、氷期に八ヶ岳の溶岩流が富士見に流れ出し、標高1000mの湖面を維持する状態を形成すると、これらの湖は標高1000mの湖面を共有したが、ヤンガードリアス期の豪雨によって古飯田湖の湖面が低下し始めると、古箕輪湖とは異なる湖面標高を維持する湖になり、中間に古駒ケ根湖や古松川湖などが生れた。古飯田湖の湖面が低下すると、それが徐々に上流に及び、古箕輪湖の湖面も徐々に低下したが、諏訪湖の湖面標高は川岸の岩塊によって維持され、湖面の低下が遅れたから、現在も唯一の湖として残っていると考えられる。

古松本湖と諏訪湖のこの時期の関係を検証すると、標高870mの善知鳥(うとう)峠の地形は、此処が古い時代の水路だった事を示しているから、古箕輪湖と古松本湖善知鳥峠で繋がり、諏訪湖は川岸を介して古箕輪湖と繋がっていたが、古箕輪湖か古松本湖のいずれかの湖面がこの標高より低くなると、片方の湖から水が流れ込む様になり、両方の湖面標高が870mを切ると、湖の連携が失われたと想定される。

従って湖面が標高1000mから950mに低下したヤンガードリアス期にはこれらの湖は全て繋がり、900mに低下していた太平洋の湿潤期にも水位調整の水が流れたから、この地域の山塊が浸食され、善知鳥峠の水路状地形が形成されたと想定される。

善知鳥峠の東に1096mの峰があり、西には1210mの大柴山があるから、この地域は硬い岩石によって形成されていたと考えられ、その底部を870mまで浸食した事は、ヤンガードリアス期と太平洋の湿潤期の古松本湖と古箕輪湖の間に、多量の水流があった事を示している。870mは水路の底の標高だから、巨大な湖の湖面標高を互いに調整する際に多量の水が流れた事を考慮すると、どちらかの湖面が900m付近に維持されていた時代が長かったから、この水路が形成されたと考えられる。善知鳥峠は古松本湖に近く、古箕輪湖側に緩やかに傾斜した水路状の地形が残っている事は、ヤンガードリアス期には古松本湖から古箕輪湖に多量の水流があり、太平洋が湿潤化した時期には古松本湖の標高がかなり低下していたから、古松本湖側に深い谷が形成されたと考えられる。

諏訪湖の水位が低下していった時期と事情を、正確に把握する事はできないが、参考になる事情が幾つかある。

古箕輪湖の事情として、伊那市の八人塚遺跡などの縄文前期~中期の遺跡は、標高860m以上の台地上にあるが、縄文中期中葉(5千年前)に始まった南箕輪村の久保上ノ平遺跡は、現在の段丘の端の標高700m余の地点にある。標高860m以上の台地上の遺跡は、アワ栽培者の集落だったと考えられるが、久保上ノ平遺跡は温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fの集落だった事を、遺された多数の遺物が示唆している。mt-Fは湖面に近い沖積地を湿田にしていた筈だから、5000年前の湖箕輪湖の水位は、標高700mだったと考えられる。

飯田市に隣接する喬木(たかぎ)村の段丘上にある、伊久間遺跡の発掘報告書に、標高488m地点の堆積土の断面調査の結果が記載されている。これによると標高は488mの伊久間遺跡の表層は、アカホヤ火山灰(7300年前)が撹乱された状態で堆積し、その中に姶良火山灰も混入していると指摘されているので、太平洋が湿潤化した後の豪雨期の終末期である7300年前の、古飯田湖の湖面標高は488m近辺だった事になる。従って縄文中期(5000年前)に湖面標高700mだった古箕輪湖とは、異なる水位だった事になる。

この報告書では486m以下の砂礫は堆積層であると指摘し、太平洋が湿潤化した80007500年前に形成された事を示唆しているが、表層の2mに関する記述の曖昧さは、この河岸段丘は隆起地形であるとの錯覚から脱していない事を示唆している。

氷期には土砂が堆積しただけの軟弱土壌だった霧ヶ峰でさえ、全く浸食を受けなかったのだから、これらの河岸段丘の土砂は、氷期の堆積物ではないと断言しても良いだろう。喬木村の奥にある山間地の河川と、盆地の西にある木曽山脈の河川の状態が大きく異なっている事が、この盆地の周囲の山岳地の形成事情を示しているからだ。木曽山脈の岩石塊を浸食した河川は直線的で支流が少ないが、松川町から天龍村に至るまでの天竜川の東岸はそれとは全く異なり、河川が蛇行しながら多数の支流の水を集める状態が、山間地の奥から続いている。つまりこれらの標高1000m未満の山は、ヤンガードリアス期に形成された沖積地だから、河川が柔らかい土壌を浸食しながら沢山の谷を形成している。

同じ沖積台地を流れる川であっても、多摩丘陵や武蔵野台地の河川は、松川町から天龍村に至るまでの伊那盆地東部の山間地の川とは異なり、河川の状態は木曽山脈の状態に近い、直線的な流れになっている。つまり同じ沖積台地ではあっても、伊那盆地東部の山間地の土砂は13万年前の前回の間氷期以前にできた武蔵野の土砂と比較し、極めて軟弱な土質である事を示しているから、これらの山間地の多くはヤンガードリアス期の豪雨によって堆積した、新しい故に固化が不十分な堆積地だった事を示している。

ヤンガードリアス期の豪雨がどの程度凄かったのかを示すものは、縄文時代の導入ページに掲げた「鹿島沖の海底堆積物が示す海面水温の変化」しかないが、13千年前から12千年前まで2℃以上低下した事を示しているだけで、13千年前より古い時代は観測されていない。ヤンガードリアス期は13千年以上前に始まったので、通期では4℃ほど低下した可能性がある。1600年周期の気候変動でも大気温は34℃上下動したが、短期間に大気温度が上下動しても海洋の温度は追従しなかったから、それによる海洋の温度変化は1℃程度で、海洋と大気の温度差は2℃未満だった。

しかしヤンガードリアス期には、それまで海水温を高めていた大陸の大気温が突然急冷し、海洋温度を大幅に下回ると、海洋がそれに引き摺られて4℃低温化した事は、1600年周期の気候変動とは比較にならない異常な状態だった。海水が極度に低温化した大気に覆われ、未曽有の豪雨期になったと想定される。

但し「鹿島沖の海底堆積物が示す海面水温の変化」を見ただけでは、それを指摘する事はできない。太平洋亜熱帯循環の海水温を変化させた可能性がある場所は、東ユーラシア沿岸だけではなく、アメリカ大陸東岸や赤道近辺、或いはアリューシャン列島の南にもあったからだ。また冬季に寒気団が南下すると北陸に豪雪が降り、梅雨時には別の原因で豪雨が降るが、年間降雨量とそれらの豪雨量は必ずしも連動しないから、局地的な豪雨の存在はマクロ的には予言できない。しかし膨大な沖積地が形成されれば、その時期の降雨量を推測する事ができる。但しこの時期は海面上昇期だったから、海岸に沖積平野を形成してもその後の海面上昇に飲み込まれ、我々はそれを見る事ができない。盆地を形成した湖はそれとは逆の存在になり、湖面標高は時間の経過と共に低下していくから、条件が良ければ沖積地がテラスとして遺されたからだ。

上記を纏めると、12千年前にヤンガードリアス期が終わると、次の雨季である太平洋の湿潤化が9千年前に始まるまでは、諏訪湖と古松本湖は標高880mの善知鳥(うとう)峠の水路を介し、水量を調整しながら徐々に湖面を低下させ、その頃の川岸地区の天竜川の標高は880m以下だったから、諏訪湖と古箕輪湖は連結し、善知鳥峠を介して古松本湖にも繋がっていたと推測される。標高差がない状態で硬い岩盤を浸食し、善知鳥峠の水路を形成する為には、多量の水が流れる必要があったが、古飯田湖は連結から早々に離脱し、古箕輪湖はヤンガードリアス期の堆積によって湖面積を大幅に減少させていたから、その様な多量の水を供給できたのは、古松本湖と諏訪湖だけだったと考えられるが、古飯田湖は既に浜松に抜ける天竜川が湖面積を低下させていたから、最終的にそれらの水が排出された先は、古飯田湖から浜松に流れていた天竜川だった。

古箕輪湖と古飯田湖の間の障壁になったのは岩盤ではなく、ヤンガードリアス期に木曽山脈と赤石山脈から流出した河川が形成した砂礫だったと考えられる。単なる砂では直ぐに浸食されるが、この砂礫は両山脈が迫っていた宮田村~駒ケ根市の10㎞の谷を埋めた、巨岩を含むものだったので、古箕輪湖が水流を調整した緩やかな流れでは、数千年間堰の役割を維持し続けたと考えられる。

後世の天竜川になった川岸の水路は、この時期の浸食によって大幅に開削されたのか、元々山塊の標高がそれ以下だったので連続した湖だったのかは明らかではないが、川岸地区の東に標高970m1020mのテラスがあり、これを形成した川の水源が浅く堆積量は少なかったと考えられるし、早い流れがあれば沖積地は形成されなかった筈だから、その下の岩塊の標高は900m程度で、それが水路の底の標高でもあったから、湖面標高が950mの時代には一体の湖だったと想定される。

縄文中期の岡谷市の遺跡は標高850m辺りに点在しているが、八ヶ岳山麓の遺跡は800m辺りまで下がっているから、縄文中期末の諏訪湖の湖面標高は800m近辺まで下がり、塩嶺峠の標高がその後の5千年間に50m程度隆起した事を示唆している。従ってこの地殻に近い天竜川の川底も、5千年間に50mほど隆起した可能性が高く、この隆起が諏訪湖の湖面標高の維持に大きく寄与した可能性がある。

現在の諏訪大社の上社前宮、下社の二つの神社、手長神社、足長神社の標高は皆同じだから、神社が重視され始めた奈良時代に、これらの神社が諏訪湖の湖岸に作られたとすると、その時代の湖面標高は790m程度だった事になり、縄文中期から標高が低下しなかったとすると、塩嶺峠~川岸地区の隆起が原因だった可能性がある。縄文時代から弥生時代の遺跡にはこれらより標高が低いものが多数あるが、諏訪湖の湖面の低下に従って地下水が失われると、それによって沖積地の標高が減少したものや、それに地震が重なって、山際から地滑りした痕跡がある遺跡などがあり、事実確認は困難な状況にある。従って弓矢交易を失った縄文晩期以降の、湖面標高に関する曖昧さは免れない。

現在の諏訪湖の標高は759mだから、縄文早期後葉に900mだったものが、縄文中期末までの4000年間に、古箕輪湖の湖面の低下によって100m低下し、その後の2000年間は川岸地区の隆起によって低下が抑止されたが、湖寿命の終末期になった弥生時代以降の3000年で、30m低下した事になる。

八ヶ岳が噴火して標高1000mの諏訪湖を形成した時期について、阿久尻遺跡の発掘報告書はこの地域の火山灰の堆積状況として、「風成テフラ層は4 5mの厚さがあり、御岳第 1テ フラまでが見られる。」と記しているから、八ヶ岳が噴火して多量の溶岩を流出したのは、御岳山の噴火が始まった7.39.5 万年より古く、阿蘇の降灰がなければ8.9万年前より新しい事になるから、一応8万年前だった事にする。

八ヶ岳の溶岩が堰き止めた水が、古松本湖から古飯田湖に及んだ際に、それらの湖の湖面が元々どの程度の標高で、それぞれの流出口が何処にあったのかが疑問になるが、これらの湖は氷期の寒冷期には通年氷結し、温暖期になっても標高1000mの高地の湖の氷が、どの程度融解したのかは明らかではない。氷結した湖の冷却効果を考慮すると、平地より10℃以上寒冷な大気に覆われていたからだ。氷期の温暖期のピーク時の気温は、現在より4℃ほど低温だったと推測されるから、夏季になると氷の表面が融解する状態だったが、氷期の寒冷期には通年氷結していたと考えられる。

いずれにしても氷期には、浸食は殆ど起きなかったと考えられるので、それを前提に古松本湖の排出路を探すと、青木湖の南東にある権現山(1222m)と鹿島槍スキー場(1200m)に挟まれた水路が、当時の古松本湖の排水路だった可能性があるが、ヤンガードリアス期に激しい浸食を受けたから、現在の水路(820m)が氷期の状態を示しているわけではないが、古松本湖の湖面標高が820mに低下すると、この水路は機能しなくなった事になる。

氷期の最後の寒冷期には全ての湖が氷結し、後氷期に温暖化しても氷結は直ぐには解けなかった。黒潮の温度が低く、それに影響された日本列島は昇温が遅かったからだ。沖縄は特にその影響が顕著だったから、原縄文人が漆を栽培する事ができたと考えられる。縄文人が九州に上陸したのは16千年前だったとすると、その頃までの沖縄はウルシ樹を栽培できる、現在の青森の様な気候だった事になる。

中部山岳地帯の標高1000mの湖の周辺は、標高差で臨海地より6℃低温化していただけではなく、標高1000mの大湖沼群が全面氷結し、日光を反射して昇温しない状態も発生していたから、山岳地の雪が解けるのも遅れていた。それによって標高差から更に5℃程度低温化したと推測されるから、16千年前に縄文人が北九州に上陸した際の、北九州の気候が現在の関東と同じ程度まで昇温していたとしても、黒潮の温度が低かった時期の関東は北九州より5℃ほど低温で、中部山岳地帯にあった湖の当時の気温は、現在の関東より16℃低温の年平均気温-2℃だったから、夏になると一部の氷が融ける程度だった。

しかしヤンガードリアス期に激しい堆積が生れた事は、ヤンガードリアス期が始まった13,500年前には湖の氷が融けていただけではなく、標高2000m辺りにも激しい降雨があった事になる。16千年前から13千年前までの間に、黒潮の温度は5℃以上昇温した事になり、大陸の気候が激しく乾燥した事を示唆しているが、高緯度地域の温暖化が始まり、北アメリカ大陸の東岸で北太平洋亜熱帯純化を、冷却するメカニズムが働くなった事も意味しているから、全ての原因が東ユーラシアにあったわけではない。

従ってヤンガードリアス期の豪雨が湖面標高を数十メートル高くすると共に、その水が溢れ出した周囲の山岳地を浸食し、やがて湖の排水路が形成されると、その水路の浸食が急速に進んだと考えられる。但し単に湖水が溢れて排水路が形成されたのではなく、激しい降雨によって山岳地全体が著しく浸食されたから、その過程で特定の排水路が形成されたと考えるべきだろう。

古松本湖には木崎湖~青木湖を経る排水ルートがありながら、山岳地を流れる犀川流路が生れたのは、木崎湖と青木湖のルートが塞がれていたからではなく、木崎湖と青木湖のルートだけでは、ヤンガードリアス期の豪雨によって古松本湖に集まった水を排水できなくなり、古松本湖の水位が1000m以上に上昇する事により、犀川流路が並行的に生れたと推測される。犀川は長野市と松本市の山岳地を、直線距離で30㎞近く流れている川だが、この山岳地で標高1000m以上の山としては、長野市と松本市の境界に標高1000m1500mの峰が連なっているだけだから、古松本湖の標高が1000m以上になると、この連山にも排水路が生れた事に違和感はない。

犀川の河道が生れると、岩盤が固く狭い水路だった木崎湖~青木湖のルートと併存したが、ヤンガードリアス期が終わる頃に、浸食され易い岩塊の山岳地を流れていた犀川が浸食され、古松本湖の水位を830m程度に下げていたから、諏訪湖と古松本湖は現在より標高が高かった善知鳥峠により、分断される状態になっていたと想定される。しかしこの時期の諏訪湖の湖面標高は、この時期の善知鳥峠の標高を越える950mだったから、諏訪湖の湖水が古箕輪湖を経由して古松本湖に溢れ出し、それによって浸食された善知鳥峠の標高が、現在の状態である880mまで低下したと想定され、これはヤンガードリアス期に起こった事になる。

従ってヤンガードリアス期が始まった頃には、諏訪湖だけではなく古飯田湖までを含む全ての湖水は、標高900m程度だった善知鳥峠を超えて連結され、古松本湖から木崎湖~青木湖を経るルートと、富士見を超えて釜無川に流れるルートだけが排水路だったから、ヤンガードリアス期の初期の諏訪湖の湖面標高は1000mになったが、ヤンガードリアス期の終末期には、飯田から浜松に抜ける天竜川と松本から長野に抜ける犀川が生れていたから、950mを更に下回る状態になって、富士見の排水路も機能しなくなっていたと考えられる。

これが先に、富士見地区で検証した状態になるが、富士見~小淵沢の間では流出口は950mに低下し、白州市下教来石の西にある平久保池を含む谷では、浸食が進まずに停滞していたから、飯田と浜松を結ぶ天竜川と松本と長野を結ぶ犀川の浸食が進むと、ヤンガードリアス期の終末期には、諏訪湖の湖水は富士見を超えなくなっていたと考えられる。但しこの状態が、ヤンガードリアス期の豪雨期の早い時期に到来すると、赤石山脈から流れ出ていた釜無川が富士見の溶岩を浸食し、諏訪湖に流れ込む状態に流路を形成しただろうから、ヤンガードリアス期が終了した時点の古松本湖の湖面は900mに近い状態で、川岸の堰を超えた諏訪湖の水が、善知鳥峠から盛んに流れ込む状態だったが、湖面標高950mの諏訪湖の湖面を、それ以上低下させるほどではなかったと想定される。

但しヤンガードリアス期の終末期は酷く低温化したから、再び湖が氷結した事によって釜無川の流れも凍結され、諏訪湖への流入路が形成されなかった可能性もあるが、これは全ての流入河川に共通する事情だったから、降雨が終わったにせよ河川が凍結したにせよ、それがこれらの地形が示すヤンガードリアス期の終了時だった。

古飯田湖でも古松本湖に犀川流路が生れた事情がヤンガードリアス期に生れ、現在の天竜川が浜松に流れる流路が生れたから、その流路が徐々に浸食されると古飯田湖の水位が他の湖より早く低下し、7300年前の標高は488m近辺になっていた事になる。

現在の犀川流域はかなり浸食が進んでいるから、この地域の岩質は他の山岳地より脆く、河川の浸食が急速に進んで古松本湖の消失を速めたと考えられる。古松湖の水位が900m以下になると、古箕輪湖から善知鳥峠超えて古松本湖に流入する経路が細くなり、古箕輪湖の水は古飯田湖から浜松に抜けるものが主になったから、諏訪湖の湖水の主要な流出口も古飯田湖経由の天竜川に変わり、古松本湖の水位が更に低下しても、古箕輪湖と諏訪湖の水位は安定的に推移する状態になったと想定される。

しかし8千年前に太平洋が湿潤化すると、古飯田湖の水位が低下すると共に古箕輪湖と古飯田湖の間の障壁が低下したから、古箕輪湖の水位も急速に低下し、5千年前(縄文中期中葉)には700mまで低下した。これによって諏訪湖の水位は、川岸地区の天竜川の河床標高によって維持される状態になったが、この障壁は岩盤が維持していたので、縄文早期後葉になっても諏訪湖の湖面標高は880m前後だった事を、以下に順次説明する。

以上の論点で最も重要な事項は、ヤンガードリアス期の豪雨によって「諏訪レイクヒルCC」「松本CC」「あずみ野CC」などの広いテラスが、1500年という短い期間に形成され、ヤンガードリアス期の豪雨が如何に凄まじいものだったのかを示している事になる。「あずみ野CC」が立地するテラスは、湖面が低下するに従って崩れながら東に延伸し、反対側の山岳地に達するほどだったと想定されるが、その扇状地の長さはそれを形成した鳥川の流域長とほぼ同じであり、支流を含めた鳥川の降雨面積は扇状地の面積より狭いから、この様な膨大な土砂を形成したヤンガードリアス期の豪雨が、如何に激しいものだったのかを示している。箕輪の西部にもその様な扇状地が並んでいるから、飯田盆地の西部でもヤンガードリアス期に類似した状態が生れ、東部の山岳地の土砂も赤石山脈からこの時期に流れ出たものであると想定される。古飯田湖は湖面の低下が早く、太平洋の湿潤化による降雨期の末期に標高488mになったから、ヤンガードリアス期に堆積した土砂をその時期の降雨が崩し、2次沖積地を形成したものが、現在の天竜画沿いの河岸段丘であると想定される。ヤンガードリアス期に形成された沖積地はこの降雨によって浸食され、平面的な面影は失われたが、河川に細かく刻まれた谷間と、河川の頻繁な蛇行が土壌の軟らかさを示し、ヤンガードリアス期に堆積した土砂である事を示している。

従って16千年前に九州に上陸した縄文人が、ヤンガードリアス期に九州南端に逼塞したのは、大陸から吹き寄せる寒気から逃れる為だけではなく、九州西部に到来していた黒潮から生まれた、冬季の豪雪を避ける為でもあったと推測される。

気候の話は以上で一旦切り上げ、この地域の縄文人の生活痕を確認した後で、それによって分かる気候変異の痕跡を交えて検証する。

 

湖岸にあった矢尻工房

矢尻工房の痕跡は遺跡としては発掘されていないが、諏訪湖の湖底にある曽根遺跡から発掘された多数の矢尻が、その近辺に矢尻工房があった事を示している。曽根遺跡は工房が湖底にあった事を示しているのではなく、曽根遺跡がある湖底と対面している谷の斜面から、諏訪湖に張り出していた川洲があり、その川洲の上に工房集落があった事を示している。

上掲の地図に即して言えば、谷状に凹んでいる場所に縄文時代の川洲があり、それが現在の湖岸辺りまで張り出していたから、それが崩落して土砂が湖底に流れ込み、湖底の曽根遺跡になったと考えられる。現在の地図上の凹みは川洲を形成した川が、川洲が崩落した後で標高が低下した湖面に流れながら、侵食して形成した谷状地形だから、当時の川洲には現在の地形から想定される奥行きはなく、現在の山肌より湖岸に近い斜面に張り付き、その先端が現在の湖岸に達する状態だったから、崩落すると現在の湖底に遺物を遺したと考えられる。

この洲を形成した川は水源が浅いから、大雨で川が氾濫して土砂が流れ出たのではなく、数千年に一度の大地震に見舞われ、堆積した川洲の土砂が液状化現象を起こし、川洲の上にあった集落と共に湖底に大崩落したから、湖底に多量の遺物が遺されたと考えられる。

川洲が崩壊した原因が川の氾濫であれば、湖底の遺物はその後の土砂の堆積に埋もれた筈だが、遺物は現在も湖底の表面から採取できるから、地震による液状化で川洲の大崩落が起こった際に、土砂が川洲の荷重によって湖底に雪崩れ込んだ事により、その後の川の堆積物が届かない沖合に散乱した遺物は、現在も湖底に露出した状態だから採取が可能であると考えられる。

この湖底遺跡から他の縄文遺跡には見られない、膨大な数の黒曜石の矢尻が発見されている。遺跡の存在が確認されたのも、シジミ漁のために湖底を浚っていた籠が、沢山の矢尻や土器を引き上げていたからで、湖底に埋もれた矢尻の全量は分からないが、登録されたものだけで数千点もある。従って湖底に埋蔵されている矢尻の総数は、控えめに見積もっても数万点、常識的に考えれば数十万点はあると考えられ、川洲の上に工房があった事は間違いない。以下ではその幻の川洲の方を、「曽根遺跡」と呼ぶ。

曽根遺跡の立地は、黒曜石の産出地である和田峠や星糞峠に登るには最適な場所だが、この近辺には同格の条件を持つ川洲が少なくとも他に4箇所あるので、地図にその場所をピンクの丸で示した。そのいずれの場所も曽根遺跡より大きな川が流れ、大きな洲があったと考えられるから、むしろそちらに大きな工房集落があり、曽根遺跡は比較的小さな工房集落だった可能性が高い。しかしそれらの川洲は曽根遺跡とは異なり、後世に遺物を遺す条件を備えていなかった。

曽根遺跡と同様に川洲が崩落したとしても、現在の縮小した諏訪湖底には遺物を遺さず、現在の市街地の地中に遺したからだ。川洲が崩落しなかったとしても、諏訪湖の湖面が低下するとテラスの様な地形になり、川洲を形成した川がその土砂を浸食したから、遺物はその土砂と共に広範な場所にばら撒かれた。湖面が更に低下するとその川洲も同じ運命を辿り、最終的には現在の諏訪盆地を形成する沖積土になったから、遺物は諏訪盆地の地下に広範囲にばら撒かれている。松本盆地や伊那盆地は湖面の低下が急速だったから、沖積土砂を流れる川だけが標高を下げ、現在もテラスが広範に残されているが、諏訪湖の湖面の低下は緩慢だったので、現在の諏訪盆地にはその様なテラスは殆ど残されていない。

曽根遺跡以外のすべての候補地にも工房があり、曽根遺跡と同様に矢尻が蓄えられていたとすると、全体では百万個以上の矢尻が蓄えられていた事になり、それが仮に1年間の出荷量だったとしても、矢尻製作に従事していた職人の数は非常に多かった事になる。職人が一人一日20個製作したとし、山に分け入って黒曜石を採掘する作業もあった事を考慮し、矢尻を製作したのは1年に200日だったとすると、一人が一年間に製作した矢尻の数は4000個だから、仮に1年間に20万個の矢尻を製作していた工房があったとすると、其処には50人以上の職人がいた計算になる。1年分の矢尻を蓄えて置く必然性はないから、この職人の数は極めて控え目な見積になる。

曽根遺跡は矢尻職人の集落としては小規模のものだった可能性が高く、仮に縄文時代の諏訪湖岸に500人の矢尻職人が居住していたとすると、その家族も併せて3千人程度の人口を抱える、当時としては巨大な集落群が散在していた事になる。彼らに食料を提供していた人々の生産性が、平均20%の余剰を生んでいたとすると、矢尻職人に食料を供給していた人の数は、その家族を含めて15千人もいた事になる。

湖底の遺物が縄文草創期の爪型紋土器を含んでいるから、この遺跡は縄文草創期の遺跡だと宣伝されているが、草創期にこれだけの数の矢尻を製作していたとは考え難く、出土遺物には縄文中期や後期の土器も僅かに含まれているとの事なので、縄文草創期からこの川洲の上に人が住んではいたが、川洲が崩落したのは縄文後期だったと考えられる。

大陸では縄文中期から青銅器が出回り始め、縄文後期には青銅器時代になったから、矢尻の需要が低調になり、折角矢尻を作っても在庫が捌けない状況になったから、川洲の崩落によって膨大に溜まっていた在庫が流出したとすると、数の多さとの辻褄も合う。八ヶ岳山麓に住居が密集していた縄文前期や中期には、生産と販売が好調に推移していたから、1年分の生産物を溜め込む必要はなかったが、縄文後期の震災による川洲の崩落だったとすると、膨大な在庫を持っていた事情も説明できるから、この判定は外せない。

3千人の消費者が諏訪湖の北東岸に集住していたとすれば、そこには食料以外の消費財も集積しただろうから、少なく見積もっても当時の諏訪湖岸には、5千人程度の縄文人が集住する巨大都市があったと想定される。但し城壁に囲まれた中世的な都市ではなく、現在の地方の小さな町から連想される様な、湖岸に集落が点在する状態だったと想定される。

これは矢尻生産だけの話であって、八ヶ岳山麓にはウルシ樹を栽培する集落もあり、霧ヶ峰でシナノキを栽培していた集落もあった。従って旧諏訪郡内の人口は、1万人を超えていた可能性が高い。これに加えて矢尻の製作より多くの労働を必要とする弓矢の生産者や、部材や生産物を諏訪から関東平野に運ぶ物流業者も別にいたから、弓矢産業に参加した全ての人々を合計すると、十万人以上が参加する巨大な産業システムだったと想定される。更にその生産物をシベリアに運んで交易し、それによって得た獣骨や角で漁具を作っていたmt-Aと、それを使って漁労を行っていた漁民まで合わせると、数十万人もの人々が参加する大事業だったと考えられる。

但しこの産業に従事した人々は現代人の様に、その産業の成果だけで総ての生計を賄ったわけではなく、食料の主体はドングリや身近に得られる魚介類としながら、それ以上の豊かさを求めて交易に参加していたと想定され、驚きはあっても不合理な想定ではない。

矢尻生産の最盛期だった縄文前期~中期には、年間数百万個の矢尻が生産され、それが現在の東京都を中心とした関東地方に出荷され、在地の縄文人によって矢に仕立てられていたとすれば、多摩地域の内陸でもヒスイ加工品が出土する理由を説明できる。手慣れた職人が矢尻を製作する手間より、縄文人が竹やウルシを栽培し、狩猟民が鳥の羽を集め、それ等を全て集めて矢を製作した手間の方が大きかった筈だから、弓矢の最終製品化には矢尻の生産より多くの人が参加していたと想定されるからだ。

ヒスイの加工品が多摩地域の各所で出土する事は、矢の製作者は一カ所に集住していたのではなく、都内一円に散在していた事を示している。それは問屋制家内工業の形態だから、原初的な生産に適した仕組みだった。東京湾岸に点在する巨大な貝塚群の存在理由も、これによって合理的に説明できる。生産された干貝は彼らが作業の合間に間食する、スナックの様なものだった事になるからだ。それらの流通手段として、膨大に生産された矢尻の一部が少額貨幣として使われ、流通経済を活性化していたとの想定にも妥当性がある。彼らは矢尻を扱っていたし、出来高払いの労働者だったから、彼らへの支払い手段が必要だったからだ。

八ヶ岳山麓の集落跡やこれらの地域から発掘されるヒスイ加工品は、周辺を研磨した石塊に一つの円孔を穿った規格生産品に見えるから、その製作目的は装飾品ではなく、定額財貨にする為だったと考えられる。しかしその製作には手間が掛かったから、矢尻の様な日常的な需要に応える少額貨幣ではなく、矢尻との交換レートが決められた、高額財貨としての貨幣機能を持つものだったと想定される。

諏訪地域での生産活動を詳細に検証する為に、上掲の地図の範囲を拡大し、矢尻を製作していた集落の地理環境を下に示す。諏訪湖は現在の形状で示す。

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黒曜石の採掘所は和田峠や星糞峠を中心に複数個所あり、曽根遺跡などのピンクの輪で示した地域は、これらの採掘地の最寄りの場所だが、尖石遺跡群、阿久遺跡、井戸尻遺跡群は黒曜石を加工する職人の集落としては、不自然な場所に立地している。尖石遺跡群については、第3の採掘地と言われる麦草峠に近いから、その加工者の集落だった可能性もあるが、工房の存在を示唆する遺物や多量の矢尻が発掘されたわけではない。

巨大なストーンサークルで著名な阿久遺跡は、黒曜石の加工とは直接関係がない集落に見える。黒曜石の採掘地から数10㎞も離れた井戸尻遺跡群は、更に不思議な立地になる。大きな黒曜石の原石塊を一回採取すれば、1か月分の仕事には困らなかっただろうから、採掘地から遠い矢尻職人の集落だった可能性はあるが、諏訪湖畔に住んだ方が効率的である事は間違いなく、工房の存在を示唆する遺物や多量の矢尻は発掘されていないから、その想定には違和感がある。

井戸尻考古館の職員の方が、井戸尻遺跡群で発掘された打製石器は農具だったと主張している事は、極めて深い示唆を与えてくれる。

http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/isiguwa3.gif  http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/sekki2.gif 耕起具(左:石鍬)と除草具(右:除草用小型鍬) by井戸尻考古館

寒冷な山奥で農耕を行っていた事に疑問を感じるが、諏訪湖畔の矢尻職人の需要に応えていたとすれば、その疑念は解消する。

諏訪盆地からやや距離がある伊那谷からも、ヒスイ加工品が沢山発掘されているが、蛇紋岩の産地である伊那谷で多数の磨製石斧が発掘されているから、アワなどの雑穀を焼畑農耕で生産していたと考えられる。従って井戸尻もクリや雑穀の供給地だったとの想定もあり得るが、磨製石斧が多量に発掘されたわけではないから、此処の主要な栽培種は雑穀や堅果類ではなく、所謂近郊農業として根菜類や野菜類を栽培していたと想定される。矢尻職人に豊かさを満喫させるためには、野菜や山菜も重要な農産物だった事になり、それらを特産品として栽培する事に経済財合理性が生れるほど、この地域の経済活動が活性化していた事になる。日本中がこの様な状態だったのではなく、この地域独特の経済事情だった事を、この地域の豊かさと独特の装飾的な土器が示している。

井戸尻遺跡は八ヶ岳山麓の吹き曝しの裾野にあったのではなく、なだらかな溶岩台地の裾が途切れ、急斜面になっている地域の上段にある。南向きの谷筋を川が流れ、狭い沖積地を形成していた場所だから、標高が高い割には温暖な気候が得られた可能性がある。考古学者はこの様な辺鄙な谷合に、縄文人が集住した理由の解釈に苦しんでいるが、現代日本人の多くは中世農民の子孫で、自分に割り当てられた農地に長い間しがみ付いていた人々子孫でもあるから、自然地形から栽培地を選定する能力を完全に失っている故に、この立地を評価できない。その根底には王朝史観に毒された、古代人を蔑視する意識が蔓延しているのではなかろうか。

この時代の栽培者だった女性達は、後氷期の温暖化によって大陸の故郷を追い出され、流浪しながら長躯北上した祖先の記憶を受け継ぎ、優良な栽培地の獲得に苦労していた人々だったから、優良な栽培地を探し出す技能を継承発展させていただろう。その様な女性達が山野を歩き回り、豊かな収穫が得られる栽培地として選定したのだから、現代人には分からない理由で判断した事は間違いない。

井戸尻遺跡に集落が形成された縄文中期の関東には、栽培系の女性として縄文人のmt-M7a、台湾から渡来したmt-B4+M7c、河南省から渡来したmt-Fがいたが、井戸尻遺跡の女性はmt-Fだった可能性が高く、温暖な湖北省の蔬菜類を栽培していたと想定されるから、寒冷な地域でそれらを栽培する為には、栽培地の選定は死活問題だった。

井戸尻遺跡は矢尻製作者の集落とは離れていたが、先に論考した諏訪湖の地理的な変遷を適用すると、標高860mの平坦地にあるこの遺跡は、諏訪湖の流出口の外にあった釜無川の河道上の湖の標高が、950mだった12千年前から7千年経って河道の標高が850mに低下する過程で、川が蛇行して背後の溶岩台地より100m低い平坦地を、1㎞四方ほどの広さで生み出した場所にある。この集落が営まれた時期には蛇行が解消され、釜無川は離れた場所にあった標高850m程度の川筋を流れ、溶岩台地から流れる小川が、蛇行によって生まれた河道に扇状地を形成していた。従って5千年前の釜無川の河面の標高は850m程度で、溶岩を急速に浸食しながら標高を低下させ始めた時期だった。ちなみに井戸尻の崖下の現在の河道の標高は720mで、5㎞下流の教来石で660mだから、谷間で河川漁労を行うには手狭な川だったと想定され、この集落の住民は他の場所から魚を得る必要があった。

諏訪湖岸の北東にあった矢尻の職人集落は、井戸尻遺跡から直線距離で20㎞以上あり、当時の人は現代人よりかなり健脚だったとしても、蔬菜類の重い収穫物を新鮮な状態で背負い、日帰りで運ぶ事は難しかった様に見える。しかし阿久遺跡はその半分の距離にあるから、日帰りは可能だった。井戸尻の集落から台地に登ると、釜無川の谷沿いに等高線に沿うルートが選択できたから、朝取りした野菜を阿久遺跡付近の船着き場に運び、代わりに諏訪湖で獲れた鯉やフナを持ち帰って調理すれば、夕食の食膳に供する事が出来ただろう。

阿久遺跡は縄文前期の遺跡で、井戸尻遺跡は縄文中期の遺跡だから、併存していたわけではないが、縄文中期の諏訪湖岸にも同等の集落が点在し、河川漁民だったY-O3a2aが湖で漁を行っていたとすれば、彼らが矢尻職人の集落に漁獲を供給できだけでなく、井戸尻の生鮮野菜を受け取って矢尻職人の集落に船で運ぶ事ができた。当時の関東部族の船は、トカラ海峡を横断する為に10/hの速度を出す事ができたから、その船で波がない湖面を快速航行すれば、矢尻職人の集落に魚や新鮮な野菜を届け、彼らの夕食に間に合わせる事ができただろう。

縄文中期の各地の集落には、その様な交換経済を実践する為の異なる役割があったとすると、湖岸に近い場所にも大集落があった状態で、湖岸から8㎞も離れた吹き曝しの平坦地の尖石集落で、クリなどの堅果類を栽培していたとの想定では存在意義は説明できない。地理的な環境から推測すると、シナノキの栽培集団だった可能性が高い。シナノキの樹皮は水に強く、船を組み立てるロープとして最適な素材だから、海洋漁民の必需品だったが、冷涼な気候を必要とする植生だから、温暖化した縄文早期以降は高山で栽培する必要があった。

現在の関東周辺の野生のシナノキは、標高1000m以上の高山植物になっている。寒冷期だった縄文中期でも現在より3℃以上温暖だったから、標高差100m0.6℃低温化する法則を適用すると、縄文中期の生育下限は1500mで、縄文前期の下限は2000mだった事になる。霧ヶ峰には16001700mの広い平坦地があり、周囲にそれ以上の高地はないから吹き曝しの冷却効果も加味すると、縄文時代の霧ヶ峰はシナノキの栽培適地だったと推測される。

中部山岳地帯の標高が高い平坦地は霧ヶ峰が最大規模だから、堅果類の樹林を形成していた縄文人が霧ヶ峰をシナノキの栽培地にする事は、合理的な判断だった。縄文人が霧ヶ峰でシナノキを栽培していた傍証として、長野県を信濃と呼ぶのは科野が語源である事が挙げられる。「科」はシナノキを意味し、科の木が群生した「野」と言えば、霧ヶ峰がその名称に相応しいからだ。現在も霧ヶ峰の南麓に「科の木」と呼ぶ地名がある事も、その傍証になる。現在の霧ヶ峰頂部は寒冷過ぎて樹木が生育しないから、現在より温暖だった縄文時代には、シナノキの樹林を形成する適地になっただろう。

従って日本列島も超温暖期になった1万年前に、関東に渡来した縄文人が漁民の委託を受け、尖石遺跡の前身集落を形成した可能性は極めて高い。しかし尖石遺跡は八ヶ岳山麓の標高1050m地点にあり、諏訪湖の湖面標高が900mになった1万年前には、湖岸から2㎞離れた高台の集落であり、河川を遡上しても船では辿り着けない場所だった。

尖り石遺跡の前身集落が生れたのは、其処が湖岸だったからだと想定すると、前身集落の成立時期をヤンガードリアス期より古い時代に求める必要があるが、ヤンガードリアス期直前の関東も温暖化し、周辺の山ではシナノキは生育しない状態になっていたから、標高1000m以上の山岳地が必要になっていた事も事実であり、ヤンガードリアス期以前に、シナノキの栽培者が八ヶ岳山麓に入植していたとの想定は、極めて順当な認識になる。またその栽培者が縄文人だったと想定する事も、極めて順当な判断になる。

16千年前に九州に入植した縄文人が、14千年前に八ヶ岳山麓でシナノキの栽培を始めたとすると、その時代の湖面標高は分からないが、ヤンガードリアス期に豪雨によって湖面標高が1000mになったから、仮に標高が1000mより低い当時の湖岸に入植したとしても、豪雨による反乱を避けながら尖り石遺跡の高台に移住した事になるから、尖り石遺跡の1050mの標高をシナノキの栽培者の集落とするのは合理的な解釈になる。

縄文人は狩猟民族と縄張りに関する合意を得た筈だから、シベリア的な価値観として、尖り石遺跡の丘は入植した縄文人の集落地であると一旦決めると、その利権は後世まで継承されたと考えられるからだ。

入植がその様な経緯で実施されたとしても、ヤンガードリアス期の最寒冷期になると、標高1000m以上の高地ではシナノキの栽培者もできなくなった疑いがある。ヤンガードリアス期の最寒冷期には、九州の南端で辛うじて堅果類が栽培できる状態だったから、現在より5℃程度低温化した。それは森林限界が標高1700mの霧ヶ峰から、標高900mに低下する事を意味するが、諏訪湖の氷結が厳しくなければ八ヶ岳山麓の気候は、山頂である霧ヶ峰より温暖だった筈だから、尖り石遺跡はヤンガードリアス期以前からヤンガードリアス期の終了時まで、シナノキの集積地であり続ける事ができた。

北向きの斜面の谷間にあった釜無川が氷結しても、南向きの斜面を形成していた八ヶ岳山麓の裾野は太陽光を浴びる時間が長く、夏季を待たずに積雪や氷結が融解する気候地域だったと考えられる上に、ヤンガードリアス期には湿った大気が上昇して雲を多量に発生していたから、上昇気流には水蒸気の凝固熱が多量に発生し、標高が100m高くなると0.6℃低温化する法則は、かなり緩和されていた可能性が高い。つまり標高1000mでも平地との気温差は5℃以内で、ヤンガードリアス期の最寒冷期であっても、八ヶ岳山麓はシナノキの栽培適地であり続けた可能性が高い。

最も寒冷化した12千年前であっても、九州の南端で堅果類や竹が栽培できたから、関東の平地でシナノキが栽培できるほど寒冷化した訳ではなく、一旦栽培地にした八ヶ岳山麓の樹林は、縄文人が知恵を絞って死守する必要があった事も、付記する必要があるだろう。

縄文早期に温暖化すると、シナノキの栽培地は霧ヶ峰に移る必要が生れ、湖面は900m程度に低下して尖り石の丘から遠退いた。しかしヤンガードリアス期の激しい降雨によって湖面が上昇し、河川が増水した怖い経験を経ていた縄文人は、また海面上昇を恐れていた縄文人としては、湖岸に集落を移す気にならなかったとしても不思議ではない。激しい降雨による水流が高台の脇に水路を形成したから、海洋民族は組み立て式の船をばらし、舷側版や船底材を個々に集落に運び、組み立てた船にシナノキを満載して川を下る事により、湖岸の集落としての機能を維持したのではなかろうか。尖り石遺跡の立地には別の利点もあったからだ。

溶岩台地には複数の川が流れ、それらが合流して渋川になる場所が、霧ヶ峰の登山口だから、降雨期になった8千年前に再び河道が不安定なり、傾斜がある溶岩台地であっても、川の傍や平坦な場所は集落の設営には危険な場所になった。従って溶岩流が形成した緩斜面の微高地として、登山口から3㎞離れている尖石遺跡は、作業場である霧ヶ峰に近い場所として、集落の適地になったと推測される。霧ヶ峰に栽培地が移ると、作業の為に霧ヶ峰と集落を往復する距離の方が、湖岸との距離より重要になったからだ。言い換えると、大陸が超温暖期になった縄文早期以降の尖り石遺跡は、集荷した樹皮の一時置き場になり、ヤンガードリアス期以前の様に周囲で栽培したシナノキの枝を集め、樹皮に加工する場ではなくなったからだ。

本務は霧ヶ峰に登って作業する事だったシナノキの栽培者は、湖岸にY-O3a2aの湊集落が生まれると、尖り石に集荷した樹皮をそこに運べば良かった。彼らが温暖期になって入植したウルシ樹の栽培者と、居住地に関して改めて縄張りを調整する段になると、先住者として快適な集落の立地を求め、高台を占拠し続けた可能性も高い。新たに入植したウルシ樹の栽培者は、湖面が低下した後に遺された肥沃な土壌を求め、湖岸に近い場所に栽培地を形成したと考えられるから、それはウルシ樹の栽培者の希望でもあっただろう。

北陸部族もシナノキの栽培地を信濃に求めたとすると、松本盆地の東にある美ヶ原が候補地になるが、平坦地の広さは霧ヶ峰には遥かに及ばないし、北陸部族勢力圏になり得る信濃川流域から20㎞以上離れ、その道程は急峻な山岳地だったから、尖り石と霧ヶ峰の様な便利な地理関係はなかった。

北陸部族のシナノキの栽培地は、神通川を船で富山湾に下る事ができる、飛騨高山だった可能性が高い。郡上市の「ひるがの高原」やその東の高山市の、庄川上流を東西に挟む山間地は標高1000m以上の高原だからだ。この地域は新しい隆起地で、嘗ての平坦な地形を山頂部に残しているから、縄文時代は現在より谷が浅く、標高1000m以上の広い高原域を提供していた可能性が高く、ウルシ樹の栽培には適していた。シナノキの栽培地として更に冷涼な地域を求めたとすれば、飛騨山脈の乗鞍岳の西方、或いは烏帽子岳の西方に標高2000m級の緩斜面があり、運搬には現在より深い谷を流れていた神通川を使う事ができた。

尖石遺跡群は縄文中期の湖岸から8㎞離れていたから、湖岸が宿場の適地だったとすれば、矢尻生産とは関係がない集落だった事になるが、縄文人の経済活動を担う集落には変わりがなかったから、地域文化は同質方向に収斂した事を、尖り石遺跡から発掘される、矢尻街道と同質の装飾的な土器が示している。

八ヶ岳山麓に散在しているその他の集落跡の多くは、ウルシ樹の栽培者の集落だった可能性が高い。

 

上記の地図の圏外の集落

伊那谷で磨製石斧とヒスイ加工品が沢山発掘されるのは、この地域の住民が矢尻職人に、アワなどの雑穀を供給していたからだと推測される。伊那から諏訪に至るルートとして、現在は上の地図に示す国道152号線上の杖突峠を使うが、縄文時代の諏訪湖は現在より巨大で、杖突峠を降っても諏訪湖に往く手を遮られ、佐久に抜けるルートである八ヶ岳山麓や、長野方面に抜ける和田峠に行くには遠回りだったから、杖突峠の南西5㎞ほどの金沢峠を使ったと推測される。金沢峠を下ると、阿久遺跡から500mほど離れた幅の狭い諏訪湖の入り江の対岸か、諏訪湖に流れ込んでいた宮川の岸に着いたからだ。阿久遺跡の集落が八ヶ岳側に形成されたのは、矢尻職人、尖り石遺跡群、ウルシの栽培者の集落と陸路で連結していたからだと推測され、阿久遺跡の近傍にY-O3a2a縄文人がいれば、船で対岸に渡る事に問題はなかった。

考古学者の示す土器編年では、ストーンサークルができた縄文前期末は阿久遺跡の終末期で、焼畑農耕者が伊那谷に入植し始めた頃になり、伊那谷にアワ栽培者が集積したのは縄文前期後葉~縄文中期だった事になるが、それについては再考する必要がある。

下図は阿久遺跡の近傍を示す拡大図で、880mの等高線を茶色の太線とし、縄文早期の湖岸を示す。

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右の平坦部が八ヶ岳の溶岩流が形成した台地で、左の茶色の線は対岸を示しているが、これは縄文時代の地形を示したものではない。8万年前の溶岩流は左の山岳地に及び、ヤンガードリアス期になると、西側から流れ込んでいた河川がその上に川洲を形成したが、湖面が900mに低下するとその軟らかい土砂を宮川が侵食し、縄文早期には湖岸の様な河口を形成していたからだ。

縄文中期に湖面の標高が800mに低下したから、溶岩と川洲が宮川に浸食されて河谷が形成されていたが、現在の木船地域の標高は諏訪湖の湖面より60m以上高いから、縄文中期の宮川の右岸は溶岩台地に連なる緩斜面で、左岸も現在ほどの傾斜はなかった。標高880mの線が入り組んでいるのは、宮川が浸食した河谷に、東西から流れ込む小川が崖を侵食した地形だから、縄文早期後葉の湖岸は茶色の線の先端を結ぶ直線的なもので、間隔はもっと狭かった。

考古学者は阿久遺跡の始原を縄文草創期としているが、その時期のこの地域は湖底だったから、考古学者の指摘が正しければ、狩猟民族は縄文早期になっても、縄文草創期の土器や道具を使っていた事になる。ヤンガードリアス期が終わると、あまり時間を経ずに諏訪湖の湖面標高が900mに低下したとすれば、ヤンガードリアス期の豪雨に傷め付けられていた狩猟民族には、文化を更新する余裕がなかった事になるからだ。

諏訪地域の全景を示した地図では900mの等高線を湖岸にしたが、この地図で880mの等高線を湖岸にしたのは、縄文前期の遺跡とされている阿久遺跡と並行して存在した、阿久尻遺跡を陸上の遺跡とする必要があるからだ。阿久尻遺跡には縄文早期の住居址があり、縄文早期の関東で使われた尖底土器に類似した土器が発掘され、関東部族の入植地だった事を示す重要な遺跡になる。

阿久尻遺跡の概略は https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1759.html を参照。

縄文早期に阿久尻遺跡が建造され、その後阿久遺跡に一本化された事は、集落が湖岸から後退した事になるから、その時期に湖面が上昇した事を示している。この事態に関する最も素直な発想は、太平洋が湿潤化して再び豪雨期になり、諏訪湖の湖面が十メートル以上上昇したから、湖面が880m以下の時期に建設した阿久尻遺跡は水没したと考えられるからだ。この遺跡の機能は別の場所に移転したが、この場所は金沢峠を経て伊那谷に繋がる交通の要所だったから、やがて阿久遺跡は復活したと考えられる。

考古学者は八ヶ岳山麓の遺跡年代を引下げたがっているが、ツングースと弓矢交易を始めたのは1万年前で、九州にいた縄文人が関東に集結したのもその頃だから、多数の縄文人が八ヶ岳山麓に入植したのもその時期になる。阿久尻遺跡は矢尻やウルシ樹の増産に対応すると共に、弓の搬出ルートだった古箕輪湖と諏訪湖を繋ぐ交通の要衝に、物資の集積基地として建設した施設だったが、8千年前に始まった豪雨期に諏訪湖の湖面が上昇し、建物が水没してしまった事を示している。

阿久尻遺跡の機能は標高が高い場所に移転したが、阿久尻遺跡の立地の便利さは捨てられなかったから、降雨期が終了した7500年前に阿久尻遺跡に隣接した阿久遺跡を再建したとすると、全ての辻褄が合うが、この詳細は2-3縄文土器と矢尻街道の土器の節で説明する。

阿久遺跡の立地に拘ったのは、古箕輪湖から金沢峠を越えて運び込んでいた物品が、弓矢交易の要になるものだったからだ。縄文人が弓の素材としていたのは、カバノキ科の落葉高木であるミズメで、縄文人はそれを「梓=あずさ」と呼んでいたから、その産地は梓川の上流だった可能性が高い。古上高地湖は標高1500mにあり、その周辺はミズメの栽培適地だったからだ。カバノキ科には白樺やダケカンバなどがあり、シナノキと類似した寒冷な気候を好む植生で、ミズメは湿気を好むからだ。

それを栽培・採取していたのは狩猟民族で、その狩猟民族のペアは、苗木の栽培を生業にしていたmt-M7aだった可能性が高い。関東部族はその狩猟民族に、ドングリや古松本湖で得た漁獲などを提供し、見返りに弓を得ていたと想定されるからだ。

梓川の最上段のダム湖である梓湖の標高は980mだから、縄文早期の梓川は沢渡辺りまで船で遡上できた可能性が高い。其処から標高1500mの湖上高地湖までの登坂は、尖り石から霧ヶ峰への登坂より長距離だが、狩猟民族には日帰りが可能だったかもしれない。いずれにしても弓の素材を担いで降る事は、相当な重労働だったが、当時の交易はその様な重労働の支えによって成立する厳しい実態があり、従事者は安定的な食材の確保が可能になった。

阿久遺跡はその輸送路として、古松本湖~古箕輪湖~諏訪湖を結ぶ水上交通の要衝だったが、この議論には金沢峠に関する地理的な検証が必要になる。

金沢峠と杖突峠の間にゴルフ場(中央道晴ヶ峰CC)があり、平坦部の最高点は1350mもある。これはヤンガードリアス期の豪雨によって生まれた地形だから、その後の13千年間に350mも隆起した事になり、この隆起は金沢峠を含んで細長く南に及んでいる。この隆起速度が一定だったとすると、8千年前の金沢峠の標高は現在の1300mではなく、1100m程度だったと考えられ、霧ヶ峰より狭い隆起だが隆起速度は5倍以上速い。

この隆起は現在の国道152号線から金沢峠に向かう、分岐点である御堂垣外の周辺まで及んでいるから、8千年前の御堂垣外の標高は700m程度だった事になり、古箕輪湖の縄文中期(5千年前)の湖面標高である700mと同じだった。つまり縄文早期後葉の古箕輪湖の湖面標高は700m以上だったから、御堂垣外は古箕輪湖から船で到達できる場所で、船便の終着点ではなかった。更に松倉川を貯水池辺りまで遡上できたとすると、金沢峠までは直線で3㎞しかない場所が船便の終点になり、金沢峠を越えると湖岸までは急斜面を200m降れば良かった。

縄文早期後葉の箕輪湖の標高を、高めに見積もって800mだったとしても、標高880mの善知鳥(うとう)峠の水路は絶たれていたから、関東部族の船は数㎞の陸路に耐え、古箕輪湖と古松本湖を船で往来しなければならなかった。但しツングースがシベリアで使っていた交易路は、もっと長い陸路を幾つも越えるものだったから、この状態は海洋民族にとって大した問題ではなかった。

一番の問題は、湖面標高が900mだった諏訪湖と、湖面標高が800mに低下していた古箕輪湖を繋ぐ、川岸地区の天竜川だった。弓矢交易を始めた1万年前には、古箕輪湖と諏訪湖の水位は殆ど変わらず、船に弓を満載して漕ぎ上がる事ができたかもしれないが、古箕輪湖の標高が800mに低下すると、10㎞未満で100mも標高差がある状態になり、平均流速は10/hになったから船で漕ぎ上げる事はできなくなった。ちなみに古箕輪湖が完全消滅した後、川岸地区の天竜川が侵食されて諏訪湖の湖面標高が低下した結果として、現在の標高差は50mに縮小している。

縄文早期には古箕輪湖の湖面低下が早く、諏訪湖の湖面低下は緩慢だったから、諏訪湖と古箕輪湖の標高差は時代が進むほど拡大していた。従って1万年前には古箕輪湖から諏訪湖に遡上できたかもしれないが、9千年前にそれが不可能になると、梓弓を搬出する為に別のルートを選択する必要が生れ、古箕輪湖から高遠を経由して御堂垣外に至り、金沢峠を越えるルートが最短ルートになった。それ故に金沢峠の降り口に対向する阿久尻遺跡や阿久遺跡の場所が、交易の要所になったと考えられる。

阿久遺跡が縄文前期末に途絶えたのも、諏訪湖の湖面標高が低下して湖岸から阿久遺跡までの距離が数キロに拡大した事より、古箕輪湖の湖面標高が低下して、船では御堂垣外にも到達できなくなり、金沢峠を越えて運ぶ陸路が15㎞以上になったから、別のルートを開拓したからであるとすると、阿久集落の設置と廃絶には一貫性があった事になる。

別ルートの有力候補としては、標高1000mの塩尻峠を越えて、標高700mの塩尻盆地に至るものだったと考えられる。古松本湖の西岸だった中山と高遠山の山麓に、この時期の縄文集落が拡大した痕跡があり、岡谷側にもこの頃、梨久保遺跡や目切遺跡などが生れたからだ。古松本湖の集落は水運と漁労を担ったY-O3a2a集団のものだった可能性があり、梨久保遺跡や目切遺跡などは、諏訪湖側の陸運労務者の集積地だった可能性が高い。いずれにしても労務者の為の食料調達の利便性を考慮すれば、漁民集落に近接した場所に集落を設ける必要があっただろう。

関東部族は古箕輪湖の水位が更に下がると輸送路を切り替えたが、北陸部族が伊那谷で栽培したアワを矢尻職人に届ける為には、依然として金沢峠を越えるルートしかなかった。伊那市富県(とみがた)にある縄文中期中葉~後期の御殿場遺跡は、標高720mの段丘上にあり、背後の丘陵地は箕輪湖が標高1000mだったヤンガードリアス期の堆積土砂になる。この遺跡から見える標高690m750mの扇状地が、現在は高遠から天竜川に向かってラッパ上に広がっているが、これは三峯(みぶ)川がヤンガードリアス期に標高1000m級の扇状地を形成した後で、太平洋が湿潤化した8千年前になると、低下した湖面に合わせて標高1000mの扇状地の一部を浸食し、改めて湖面の低下に合わせ標高780m700mの扇状地にしたものになる。つまりこの地形は削平された扇状地であって堆積した扇状地ではなく、河川の様に南北に細長くなった古箕輪湖にこの堆積土砂が溜まり、古箕輪湖から御堂垣外に船で遡上する為には、三峯川を遡る状態が縄文早期から続いていた。

縄文中期の御殿場遺跡は、三峯川を遡上して高遠に向かう船を送り出す拠点だったとも考えられるが、高遠から藤沢川を遡っても御堂垣外に辿り着けなかった上に、北陸縄文人が苦手とした川の遡上になるから、此処が金沢峠に向かう陸路の起点だった可能性もある。いずれにしても金沢峠を越えて諏訪湖岸にアワを届ける為には、長い陸路を踏破する必要が生れていた。

この観点で古箕輪湖の変遷を考察すると、ヤンガードリアス期が終了した時点で、現在の天竜川を挟む様に赤石山脈側に1000mの沖積地があり、比較的沖積地が狭い木曽山脈側に、湖が残っている状態だったと想定される。木曽山脈から流れ出る河川は急峻な山岳地を、直線的な急流が下って荒い砂を堆積したが、赤石山脈から流れ出る河川は、山塊に遮られながら複雑な流路を経たので、粒子が細かい土砂を堆積したと想定される。従ってその後の湖面の低下で再浸食されると、一方的に赤石山脈側が侵食され、木曽山脈側にはヤンガードリアス期から続く堆積が残されているが、赤石山脈側は天竜川や湖岸に寄せる波に削られ、原形を留めていないだけではなく、太平洋の湿潤期に扇状地の再生が始まったと考えられる。

ヤンガードリアス期以降の古箕輪湖は小さな湖になり、古飯田湖に繋がる流路の途上には、両山脈から流れ出る河川によって小さな湖が多数で生まれ、それらの湖を区切っていたのは、両側の山脈から流れ出た、岩石が多い土砂によって形成された多数の扇状地だった。これらの地域では赤石山脈川の河川も、急流を下るものが多く、砂だけではなく川原石も含んでいたからだ。それ故に堰の状態が長期間維持され、古箕輪湖は古飯田湖とは間別の湖である状態を長期間維持した。

古飯田湖から流出する天竜川がその堰より早速度で浸食され、古飯田湖の湖面が急速に低下したのは、古飯田湖もヤンガードリアス期の豪雨によって古面積が大幅に縮小していただけではなく、湖の出口になっていた泰阜村、下条村、阿南町が扇状地になっていたから、天竜川の水流が多量の土砂を含み、それがサンドペーパーの様な働きをして流域の浸食を速めたからだと考えられる。

それによって古飯田湖に蓄えられた多量の土砂が天竜川を流れ下ったから、三方ヶ原と磐田原を含む浜松平野が生れた。三方ヶ原と磐田原は8千年間に始まった豪雨期に流れ出した多量の土砂が堆積し、赤石山脈の隆起によって台地になったが、天竜川沿いの台地が再び浸食されて浜松平野が生れた。三方ヶ原は標高100m以上の部分もあるが、標高80mの地域から広域になり、それ以降が太平洋の湿潤期の堆積である事を示唆している。8千年間の隆起速度は80mになり、最近100年間の隆起速度の2倍になるが、これはヤンガードリアス期に釜無川の浸食を止めていた水路の隆起速度が、最近100年間の隆起速度の2倍になる事と一致する。この一致は偶然ではなく、それが過去1万年間の赤石山系の隆起速度だったのではなかろうか。

八ヶ岳山麓の黒曜石は、旧石器時代からY-C3狩猟民族が盛んに使用していたから、矢尻職人も狩猟民だった可能性が高く、矢尻が関東と北陸に出荷されていた事も、どちらの部族にも属さない狩猟民族が生産していた事を示唆している。海洋民族の掟では交易に関わる水運は自由航行だったが、諏訪湖、古箕輪湖、古松本湖の漁業権は、弓矢交易に先行した関東部族の縄張りだったと想定される。

縄文人が内陸を通行する為には、狩猟民の縄張り内の街道を使う必要があったが、焼畑農耕地やシナノキの栽培地は各部族の縄文人のテリトリーになったと推測され、狩猟民族が縄文人の進出を排斥しなかったのは、縄文人が弓矢交易の為にそれらの通路や栽培地を使ったからで、それ以外の用途に使う事に寛容だったのか否かは分からない。シベリア系民族の縄張り認識については、(1)魏志倭人伝の項に掲載した濊伝の記述を参照。

関東部族の拠点的な宿場が湖沼の付近に設置されたのは、関東縄文人には河川漁民のY-O3a2aが含まれていたからで、現代までY-O3a2aが沖縄人と同じ比率で温存されているのは、関東に入植した沖縄系縄文人は中部山岳地帯に入植しても、沖縄系縄文人としての自立的な生活文化を維持し、各単位集団の3民族の比率が決まっていたからだと推測される。

 

阿久遺跡

考古学者が設定した阿久遺跡や阿久尻遺跡の時期に疑念があるが、それを崩すと以下の説明が難しくなるので、これは考古学者の設定に従って行い、時期の前後関係を確認した後の、2-3縄文土器と矢尻街道の土器の節で、時代設定に関する疑念を論考する。

阿久遺跡では縄文前期初頭に30軒の住居と8基の方形柱列が作られ、前期中葉に20軒近い住居や土壙墓群が営まれ、前期末に丘陵中央に大環状集石群が構築された。環状集石群の長径は120メートル、短径は90メートルで、幅30メートルのドーナッツ状の集石エリアには、こぶし大から人頭大の河原石が約20万個置かれ、その中央に立石構造がある。直径23メートルの河原石を円形に積んだ、多数の集石遺構が周囲を取り巻き、人骨を埋葬したと思われる土壙墓が700基余りあると推定されている。この大掛りな集石遺構は一つの集落が造ったのではなく、この地域の集落群の労働力を集中したと推測されている。

阿久遺跡は物流の要衝にあり、矢尻職人に提供する物資の集積地でもあったから、遺跡の規模に違和感はないが、縄文人は農耕民族の様に強力な権力者を戴く習俗は持っていなかったから、環状集石群は権力を誇示するものではない。農耕民族基準では人口が多かった割には小さな遺跡だった筈だが、海洋民族が環状集石群を遺した事には特別な理由があった。

それを考察する前に、矢尻街道の宿場が示す縄文人の活動事情を検証する。

江戸時代に江戸と諏訪を結んだ街道を甲州街道と呼ぶが、この時代の諏訪と多摩を結んでいた街道は、江戸時代の甲州街道とは全く異なるルートだったので、縄文時代のルートを矢尻街道と呼ぶ。井戸尻遺跡群は矢尻街道の宿場集落でもあり、上の地図の下端に示した山梨県北杜市の天神遺跡も、矢尻街道の宿場集落だったと考えられる。天神遺跡が八ヶ岳のなだらかな裾野にある事は、尖石遺跡や井戸尻遺跡の集落群と共通しているが、共通点はそれだけではなく、隣接する井戸尻遺跡とほぼ同じ標高の850mに位置し、矢尻街道は八ヶ岳の裾野を等高線沿いに延伸する所謂鉢巻道路で、集落群はその様な街道上の宿場集落だった事を示している。それらの集落から規格生産型のヒスイ加工品が多数発掘され、天神遺跡から日本最古のヒスイ加工品が発掘された事は、街道の宿場集落の成立事情を検証する上で重要な意味を持つ。天神遺跡は関東に向かう矢尻街道の重要な宿場だっただけではなく、北陸に向かう矢尻街道の宿場の人々と地域的な交流があった事を、天神遺跡から発掘された日本最古の、原初的な形態のヒスイ加工品が示唆しているからだ。

矢尻街道が八ヶ岳の等高線沿いに延伸していた事は、地形的に最も合理的なルートが設定された事を示し、江戸時代の甲州街道の様に、既存の谷間の集落を連結したのではない事を示している。つまり地形上最も合理的な往還道が先に設定され、その街道筋に宿場集落が形成された事になる。栽培の生産性向上を志向していた縄文人にとって、寒冷な中部山岳地帯は居住適地ではなかったが、諏訪から矢尻、ウルシ、弓などの物資を運び出す必要があったから、日頃は彼らが住まない狩猟民族の縄張りに最短距離の街道を設定し、その街道に沿って人工的な集落を形成した事を示している。

その様な宿場で極めて装飾的で独創的な土器が多数作られた事は、街道の経済的な繁栄を示すと共に、活発な人の往来があった事を示唆している。つまりそれらの土器は不特定多数の人に見せる為に作ったのであって、根暗の縄文人が秘かに作ったものでない。

甲府盆地の東端に巨大な釈迦堂遺跡があり、ここからも八ヶ岳山麓の土器に類似した、独創的な器形の土器が多数発掘されている。従って釈迦堂遺跡も井戸尻遺跡や天神遺跡と共に、矢尻街道の宿場として繁栄した集落だったと想定される。釈迦堂遺跡は背後の達沢山から流れ出る京戸川の、扇状地の標高450m地点にある。

縄文人の海洋性と石材加工の項に示した「縄文時代の硬玉」の地図が示す、ヒスイが発掘された場所を見ると、関東に向かう矢尻街道の宿場は、諏訪湖から釈迦堂まで一本の街道沿いに点在していた様に見えるが、釈迦堂から関東平野に至る場所には、繁栄した宿場の痕跡を示すヒスイ加工品が、発掘された遺跡がない。

諏訪湖岸から関東に至る幹線街道は、江戸時代には中山道だったが、1万年前に矢尻街道が設定されてから縄文後期にそれが途絶えるまで、諏訪から多摩地域に至る矢尻街道は、釈迦堂を経由するものだった事を、釈迦堂の繁栄を示す多数の住居址と華麗な土器が示しているから、釈迦堂を重要な交易拠点としたこの時代の街道事情を推測する必要がある。江戸時代や現代の甲州街道は釈迦堂~笹子峠~大月~八王子だが、甲州街道には標高は1100mの笹子峠が難所として存在したから、それを避ける為に中山道が使われたと言われている。笹戸峠は登山道になる東西が急斜面で、南北には高山が迫っているから、縄文時代の笹子峠はもっと急峻で標高も高かった可能性が高く、八ヶ岳の鉢巻き道路を使っていた縄文人が選択するルートではなかった。

脇道となる柳沢峠は1500mで、甲府側は急斜面だが奥多摩側の傾斜は緩く、丸川峠や大菩薩峠などの更なる脇道もあり、古代から人が行き交った痕跡はあるが、釈迦堂遺跡を重要な宿場とする街道はそれとは異なるルートだった。当時の甲府盆地は湖だったから、その様な街道から古甲府湖に降り立った場合、釈迦堂は拠点としての適地ではなかったからだ。結論から言えば、中世の街道から連想する釈迦堂~柳沢峠~奥多摩~青梅や、御坂峠~河口湖~道志~相模原ではなかったから、判定できる遺跡は発掘されていない。

この議論を進める為には、縄文時代の甲府盆地を再現する必要がある。甲府盆地には多数の扇状地があるが、ウィキベディアはこれらの扇状地について、「山間の狭い谷間の水流は開口部で水深を減じ、土砂の運搬力が落ちるから、その様な谷川が土砂を堆積した地形であって、其処に湖が存在したわけではない。」と説明しているが、この説明には疑問がある。

海岸付近に形成された扇状地は、山間の谷合から平野部への遷移地域に堆積した、平野部の裾部と見做す事ができる。ヤンガードリアス期の海面は現在より60mも低かったから、この時期の堆積は上昇した海面に覆われ、現在はその痕跡を残していない。海面上昇が終了した8000年前に太平洋が湿潤化したから、それ以前には海が川筋に入り込む入り江だった場所に、次第に堆積土砂が蓄積して小さなデルタが形成され、それが次第に発達した地形が海岸の扇状地になる。この場合の扇状地の形成には、海が関与している事は間違いなく、内陸の扇状地の多くは湖が関与していた筈だ。

扇状地には大きく分けて二通りあり、平坦地が奥深い場所まで続く標高が低い沖積平野になるか、扇状地の根元(扇頂)の標高が高く、裾に扇状地的な落差がある平野になるが、その違いは川が運んで来た土砂の性質に依存する。砂礫が多い川では、根元の標高が高い典型的な扇状地が形成され、粒子が細かい場合には、扇状地と言える地形がない平坦な沖積平野を形成した。粒子の粗さは上流の岩石や川筋の長さに依存し、川が長ければ流路の河原に堆積した粒子が、再度の濁流によって微小化して扇状地を形成しない川になった。

つまり荒い砂が多いと流れが緩やかになる河口に堆積しやすく、その状態で沖積地が延伸すると河口部の標高が高くなり、河道にも堆積物が積もって標高が押し上げられ、扇頂の標高が高い典型的な扇状地になるが、河川の流域長が長く細かな粒子しか流し出さない川は、扇状地と言える地形がない沖積平野を形成した。いずれにしても、河川が海や湖の水面に触れる事によってできる地形で、川の中流域や滝のような場所に扇状地ができる事はない。

河川が流れ込む海や湖の標高が変わらなければ、以上の様な状態が維持されたが、湖の湖面標高は時間の経過と共に低下したから、扇状地と言える典型的な地形が各所に生まれた。従って盆地の縁に形成された扇状地は、湖面の低下状況を推測する手段として使う事が望ましいく、粒子の荒い扇状地は過去の履歴を忠実に遺している可能性がある。

甲府盆地には湖はなかったとの説が流布し、甲府盆地にある多数の扇状地は水成地形ではない事を前提に、扇状地の成因を説明しなければならなくなった事も、錯覚を起こした原因かもしれないが、滝が進化して扇状地になった例があるのであれば、示して貰いたいものだ。古甲府湖の流出河川だった富士川流域は、隆起しているとの主張が散見され、甲府盆地が湖になった事はないとの主張とセットになっているが、国土地理院が発行した100年間の地殻上下動では、この地域は隆起も沈降もない地域になっている。厳密に言えば地殻が隆起している南アルプス域と、地殻が沈降している関東域の丁度中間にある。

甲府盆地の東の端にある山梨市の、平坦な水成地形の山際の標高は300330mで、西の端にある甲斐市でも山際の標高は310330mだから、甲府盆地の東西の平坦地の標高に整合性がある事は、古甲府湖があった事を示していると考える以外に答えがない。

甲府盆地に流れ込む河川の流出口である富士川は、標高400m程度の丘陵地を貫流しているから、1万年前の古甲府湖の湖面標高は400m程度だった可能性があるが、富士川の中流の身延では、両岸に標高500m以上の山が連なっているから、これらの山塊が侵食されていなかったヤンガードリアス期以前の甲府盆地は、京戸川の扇状地の頂部が示す、標高600mの湖面を有していた可能性が高い。従ってこの扇状地の急峻な傾斜は、京戸川の急流が荒い土砂を流し出し、ヤンガードリアス期以降の古甲府湖が湖面を低下させた痕跡であるとすると、縄文中期の釈迦堂遺跡は水辺の集落で、当時の古甲府湖の標高は440m程度だった事になる。

つまりヤンガードリアス期が始まった時期に、古甲府湖は湖面標高は600m以上あったが、ヤンガードリアス期と太平洋の湿潤化を経た後の縄文中期には、湖面標高が440mに低下していた事になり、矢尻街道が生れた1万年の湖面標高は500m程度だったと考えられる。

釈迦堂遺跡が立地する京戸川の扇状地は頂部の標高が600mで、底部の甲府盆地の標高は300mに満たず、扇端は甲州市の山間部を水源とする日川に抉られているが、日川はこの扇状地を避ける様に扇端を周回し、この扇状地は土砂の砂粒が荒く浸食されにくい土質である事を示している。この地域では大きな川である日川は、扇状地の頂部の標高は500mしかなく、日川の扇状地の南半分は京戸川の扇状地になっている。

日川は流路が長く堆積土砂が微粒子化される川だから、大きな川であるにも関わらず扇状地の発達は著しくないが、京戸川は4㎞南の標高1358mの達沢山を水源とする急峻な川で、運んだ土砂は粒子が荒かったから、極めて狭い水源地しか持たない京戸川の扇頂が保護されただけではなく、扇状地全体が他の河川に浸食され難い状態を生んでいる。

日川が運んだ粒子が細かい土砂は、日川の扇状地の形成にはあまり使われず、流れが緩やかだった古甲府湖岸に沖積し、甲府盆地の形成に使われた事になる。この事情は日川と京戸川の間だけではなく、これらの河川と合流している笛吹川にもあり、笛吹川は奥深い関東山地から流れ出ている流域が長い川だから、京戸川の扇状地を避ける様に反対側の山地に近い平野部を流れている。従って縄文時代の古甲府湖は甲州市の平坦部を覆い、塩山は湖岸に浮かぶ島だったと考えられる。

多摩地域から古甲府湖に至る為に柳沢峠を越えたのであれば、笛吹川の支流である重川が形成した扇状地が、宿場に相応しい場所になり、御坂峠を越えて来るのであれば、金川の扇状地が相応しい場所だった。従って釈迦堂遺跡を宿場にした縄文人は、どちらの峠を越える道も、矢尻街道にはしなかった事になる。

この観点を笹子峠を越えるルートに適用すると、このルートでは古甲府湖に流れ込む日川の河口に出たが、それであれば勝沼の方が拠点に相応しく、釈迦堂まで歩いて湖岸を移動する必要はなかったから、笹子峠だった可能性も低い。

釈迦堂に至る峠超えのルートを追跡する前に、諏訪から釈迦堂までのルートを確認し、そのルート上の問題点を解決して置く必要がある。関東縄文人は古甲府湖の水運を利用した筈だから、関東から甲府盆地に入ると船に乗り換え、古甲府湖を西に進んで釜無川に至り、大武川との合流地点(標高550m)まで釜無川を遡上し、釜無川が形成した崖を真直ぐ登って八ヶ岳の溶岩台地に至ると、天神遺跡があった大泉になる。従ってこのルートを矢尻街道とした縄文人は、自然地形を最も合理的に利用していたと想定される。

この想定と矛盾する事例として、甲府盆地の西にある鋳物師屋遺跡の存在があるから、この課題を解決する必要がある。この遺跡から奇抜な意匠が施された縄文中期の土器が発掘され、世間の注目を集めているが、遺跡の標高は280290mで現在の扇状地の末端に縄文時代の遺跡がある。この時代の湖面標高が440mだったのであれば、この遺跡は湖底遺跡になって論理矛盾に陥るが、曽根遺跡の例を思い出す必要がある。縄文後期にこの地域を襲った巨大地震があり、諏訪湖ではそれによって曽根遺跡の川洲が崩落したが、類似した扇状地にあった鋳物師屋遺跡も、同じ地震で地滑りを起こして湖底に滑り込んだのであれば、矛盾はないからだ。鋳物師屋遺跡の発掘報告書に以下の様に記されているので、概略を青字で示す。

縄文時代の遺物が発掘された層の全体的な特徴として、言い換えると縄文時代の遺構のほとんどは、人頭大の礫が大量に流入し、住居址の炉石よりも高く露出するほどだった。遺跡の地層の上層が、平安時代の遺物を含む土層と直結している場所と、間に何層もの堆積層を挟む場合があり、縄文時代の地層は上部の削平が激しく、遺構の基底部しか検出できないものが多い。住居址の床面は非常に軟弱で凹凸が激しく、厳密な意味での床面の検出は困難であった。

現在は鋳物師屋遺跡の両側に漆川と坪川が流れ、その間に挟まれた扇状地に遺跡はあるが、二つの川は標高420m以上の丘に挟まれた、巾300m程度の狭間から流れ出ている。従って縄文中期に遺跡があった川洲は、この狭間から標高440m程度の古甲府湖の湖面に張り出し、その沖の湖底の標高は280m以下だったと想定する事に違和感はない。縄文後期の大地震によって狭間からはみ出していた沖積地が滑落したが、転がり落ちる岩石の上を土層が滑り落ちたから、土器は水中に放り出される事によって形状が保存され、住居址は底部の形状を歪めながら側面を残したと考えられる。

上層が平安時代の遺物を含む土層と直結している場所と、間に何層もの堆積層を挟む場合がある事は、扇状地の崩落は一度だけではなく、平安時代以降にも発生し、平安時代の古甲府湖の湖面標高も300m以上に維持されていた事を示している。扇状地は伏流水を含んでいるから、大雨の後の地震で地盤が液状化し易かった事を示唆しているが、この様な事を繰り返したこの遺跡の立地には、極めて特殊な事情があった。扇状地を形成した川の河口の沖1㎞程の地点に、幾つかの岩塊があって河口を囲む様に並んでいた。従って通常の扇状地にはならず、それらの岩塊の内側に小さな沖積地を形成し、沖積地に堆積しなかった細かな粒子の土砂を岩塊の隙間から溢れ出させ、湖岸の斜面に堆積したと想定される。細かな粒子は液状化しやすいから、岩塊の外側まで沖積地が溢れ出す度に、地震による液状化を原因とする崩落が発生したと想定され、鋳物師屋遺跡の直上に、その堆積が張り出していた状態を想定できる事が、この仮説の有力な証拠になる。

現在の甲府市街地の標高は250m270mで、戦国時代の武田氏の居館跡は高所である標高342m、江戸時代にできた甲府城は標高270mの場所にあるから、古甲府湖は平安時代~鎌倉時代に終末期を迎え、それ以降は急速に湖面標高を下げていった事を示唆している。武田氏は沼地になった古甲府湖が水嵩を増すのを避け、高台に居館を建設した事になるからだ。

従って信玄堤にも小難しい理屈は必要なく、標高270m程度の平坦な沖積地に流れ込む釜無川の氾濫から沖積平野を守る為に、標高280m程度の長い堤を釜無川に沿って建設し、それを広大な沖積地と釜無川の氾濫水域との仕切りとし、広大な水田の形成を可能にした事になる。つまり氾濫に苦しめられていた地域を救ったのではなく、長い堤防を作って広大な水田を新たに形成した事になる。

湖面積が縮小すると雨で水嵩が増すから、それを受けた釜無川の河口の川面が更に上昇し、湖面より標高が高い沖積平野にも氾濫を起こしていたと想定されるから、その対策として川の左岸だけに長い堤を築き、右岸は氾濫の逃げ場にした。それが偉大な判断だったのか疑問だが、この事業には膨大な労力が必要だったから、築堤に至った決断力と行動力は高く評価される。しかしそれ以前に、これを計画した測量技術に敬服する必要がある。

いずれにしても古甲府湖が僅かに残存し、釜無川が其処に流れ込む事によって湖面の上昇が抑圧された事が、この堤防の効果を保証した事になるが、湖北省の荊が行っていた治水も、この様なものを含んでいた可能性がある。縄文中期の甲府盆地西部はmt-Fの入植地だったから、その伝統が甲府盆地西部の稲作者に残り、釜無川に信玄堤が形成された可能性もある。

以上の結論として1万年前の関東縄文人は、古甲府湖の湖岸に降り立つ場所として釈迦堂遺跡があった扇状地を選定し、そこから船で古甲府湖を横切って西岸に至り、鋳物師屋遺跡の上段にあった集落を中継地とし、韮崎市の南端にあった入り江から武川の合流地点(標高450m)まで釜無川を遡上し、そこから八ヶ岳山麓の溶岩台地を垂直に上り、標高850mの天神遺跡に至ったと想定される。

以上の観点から釈迦堂遺跡の立地を見ると、京戸川の河筋を遡上して達沢山に近い1300mの峠に至り、そこから標高1400m程度のなだらかな山の尾根伝いに歩くと、笹子川上流の狩屋野川を望む標高1000mの場所に着く。なだらかな稜線には笹子峠の様な難所はなく、其処から笹子川を下って大月に出る事もできるが、大月から流れ出る桂川沿いには難所が多いから、谷筋に下る事は得策ではない。

登山家が稜線を歩くのは一番歩き易いルートだからで、縄文人もその様に考えたとすると大月までは下らずに、初狩から都留に抜けて朝日川を遡上し、秋山川を下って津久井に出るルートが、最も無難な選択だったと推測される。都留は長い間湖だった地形を示しているから、縄文前期~中期には未だ湖だったとすると船便が使えたから、朝日川を大平まで船で遡上したかもしれない。其処から北の稜線に登ると標高700m900mの稜線が延々と秋山まで続き、秋山から津久井に行くのにも石老山の稜線を使えば道志川に至り、川を渡れば多摩丘陵の一部である、津久井湖南部の丘陵に至った。

稜線が最も起伏が少ないルートである理由は、元々平坦な沖積だった地形が隆起し、河川によって浸食された地形が現在の山岳地には多いから、河川の浸食が激しくなければ、稜線は元の平坦地の状態を留めているからだ。

従って縄文人は笹子峠も御坂峠も越えずに、つまり集落を繋ぐ様に作られた中世的な谷筋の街道は使わずに、自然地形上の最も歩き易いルートとして稜線を活用し、湖も最大限活用し、多摩から諏訪湖に至る矢尻街道を設定したと想定される。農耕民族ではなかった縄文人には、狭い農地を求めて谷筋に展開する習俗はなかったから、中世的な配慮は必要なかったと言う事もできるだろう。この結論として多摩から諏訪湖に至る最適ルートでは、陸路から水路に切り替える拠点として釈迦堂が重要になるから、縄文人が其処を拠点集落にした事になり、八ヶ岳の鉢巻道路を使った事と共に縄文人の活動事情を示している。

つまり関東縄文人は沿海部で漁民と共生したかったが、弓矢産業を活性化させる必要に迫られ、諏訪湖岸と多摩を結ぶ太い輸送路が必要になったから、その街道は無人だった地域に引かれたと考えられる。人が重い荷物を担いで運ぶことを前提に、労力を最小限に抑える最短ルートを選定し、拠点の宿場に人が集住したのは、馬を持たなかった縄文人の陸送は、人力に依存せざるを得なかったからだ。

限られた人数で事業を拡大する為には極力水運を使い、歩路は稜線を使う事が最も適切な判断だった。それを交易活動と言えば聞こえは良いが、人々は厳しい運搬労務に耐えていた。

 

北陸部族の矢尻街道

縄文人の海洋性と石材加工の項に掲げたヒスイ加工品の出土状況は、諏訪から新潟方面に行くには和田峠を越え、千曲川流域に出てから三方面の街道があった事を示している。一つは小布施から上越市に向かうルート、二つ目は飯山から柏崎に出る山越えルート、三つ目は信濃川下流域に展開していた北陸部族の拠点集落だった、小千谷、長岡、三条に至る幹線ルートで、最終的には阿賀野川下流域に至るものだったが、海進期には長岡まで海だったから、陸路は長岡が終点だった。

前二つは和田峠を越えて千曲川流域を西に向かうものだったが、幹線は千曲川流域を東に向かった。幹線はその後浅間山麓に登り、傾斜が緩やかな溶岩台地の裾野を等高線沿いに進み、標高900mの御代田町から浅間山の裾野を周回する様に、進行方向を東北に変えて小浅間の東の標高1200mの峠を越えた。峠を越えると浅間山麓を周回する事は止め、緩斜面を北に向かって長野原に下り、そこから再び山地を北上して無名の峠を越え、中津川流域を下って津南町に至ると信濃川を渡り、対岸の山中を経て再び信濃川流域の段丘上にある十日町に至り、信濃川流域の河岸段丘を利用して長岡に至るものだった。このルートも尾根筋を多用したとすると、中津川は川筋を下ったのではなく、傾斜が緩やかな草津峠から尾根道を白砂山に進み、其処から北に向かって苗場高原に出たのではなかろうか。標高1800m2000mの苗場高原には霧ヶ峰と同じ環境があり、シナノキが栽培できたから、北陸部族の栽培地として往還道も整備されていた可能性がある。苗場の北には標高1300m1500mの古松原があり、此処でウルシ樹を栽培する事も出来たからだ。従って津南町の信濃川右岸の段丘上の集落は、その作業者の集落を兼ねていた可能性がある。

十日町と長岡から発掘されている壮麗な火炎土器も、矢尻街道とその周辺地域に特徴的な土器だったと考えられるが、関東圏の宿場の土器の多様性と比較すると、北陸部族の土器の意匠は類似している。土器に関する論考は、3-3縄文土器と矢尻街道の土器参照。

壮麗な火炎土器が発掘された十日町の笹山遺跡や野首遺跡は、信濃川の川面より100mほど高い段丘上にある。津南町の堂平遺跡も段丘上にあるが、その段丘は信濃川の川面より200m高い。これらの段丘は13万年前の間氷期に、信濃川流域にあった湖の痕跡で、氷期初頭とヤンガードリアス期の豪雨が湖の障壁を破壊したが、信濃川の河道が低下した際に段丘が良好な状態で遺されたのは、古長野湖が水量を調整するダム湖の役割を果たし、濁流を阻止したからだと想定される。石器時代の人々も平坦地に居住する事を好んだから、この河岸段丘には縄文時代だけではなく、旧石器時代の遺跡も多数遺されている。

この段丘上に矢尻街道の拠点的な宿場遺跡が点在している事は、北陸部族は関東部族の様に、湖や沼の畔に宿場を形成しなかった事を示している。関東部族のY-O3a2aの様な湖沼漁民が、北陸部族にはいなかったからだと推測されるが、街道に相応しい地域に湖沼がなかっただけかもしれない。いずれにしても壮麗な火炎土器が宿場の繁栄を示し、宿場の住民は狩猟民からアワと引き換えに十分な獣肉を得ていたと推測される。焼畑農耕者を抱えていた北陸部族には、それが可能だったからだ。

鳥浜貝塚から発掘された赤い漆が塗られた縄文前期の櫛も、この様な経済関係から読み解く必要がある。食糧自給が完結していた山陰のアワ栽培者との交易には、奢侈品を使う必要があった事と、それを東北部族から調達した事を示唆しているからだ。

矢尻街道の拠点的な宿場の痕跡は、御代田町の川原田遺跡と滝沢遺跡にもあり、関東に向かう矢尻街道の拠点的な宿場と同等な、繁栄振りを示している。

「縄文文化の形成期」の項で、15千年前の十日町の河岸段丘の遺跡で、北陸の海洋漁民が狩猟民に干魚と土器を提供し、獣骨を回収していた事を示したが、気候が湿潤化して草木が繁茂する様になると、シカやイノシシが繁殖し、弓矢が普及して狩猟民の獣肉の生産量が増えたから、狩猟民族がアワと引き換えに獣肉を提供する交換が成立し、矢尻職人にもそれらの獣肉が提供されていたと想定される。

関東部族が生産していた熱帯ジャポニカは、焼畑農耕で生産するアワより生産性が低く、栽培地も限られたから、関東部族の穀類の総生産量は北陸部族のアワと比較すると、桁違いに少なかったと想定される。従って関東部族は北陸部族の様に、狩猟民から獣肉を得る事ができなかったが、河川・湖沼漁民だったY-O3a2aや、狩猟を行いながら水鳥を捕獲するY-C1がいた上に、街道上に湖や沼が点在していたから、その近傍に拠点集落を形成した。

諏訪湖に面した阿久や、阿久から漁獲を運ぶ事ができた井戸尻に蔬菜類の栽培拠点が建設され、古甲府湖岸に釈迦堂などの拠点が設定されたが、天神遺跡群があった八ヶ岳山麓には湖はなかった。しかし地形を分析すると、縄文時代に沼地があった場所に隣接していたことが分かる。釈迦堂~多摩川水系の間にも古都留湖があれば、健脚だった縄文人の拠点的な宿場は、それらで全てだった可能性がある。

石垣系の原縄文人を子孫とする北陸縄文人にY-C1はいなかったから、北陸部族は狩猟民族を介して弓矢の存在を知ったと想定され、北陸部族がシベリア交易に弓矢を使い始めた時期は、関東部族よりかなり遅かったと考えられる。従ってシベリアの人々にとって弓矢は関東部族の特産品で、北陸部族の特産品はアムール川流域のオシポフカ文化遺跡から発掘される石錘が示す、漁網用のアサだった可能性が高い。北陸部族のアワ栽培者は、縄文早期には弓矢の存在を知っていた事を、アワ栽培者の文化系譜である西日本の縄文遺跡が示しているが、彼らがそれをシベリアとの交易品としていたとは考え難い。アワ栽培者は海洋交易には関心が薄く、自給自足経済を目指していたと考えられるからだ。

アワ栽培者の草分け的な存在である桑野遺跡では、石錘が336点出土して漁労が活発に行われていた事を示唆しているが、矢尻238点では黒曜石より下呂石やチャートが多用されていた。矢尻は基部の抉りが小さく、抉りが全くないものもあり、矢尻と矢の製作に精通していなかった事を示唆している。

そもそも論として、山間地は狩猟民族の縄張だったから、石垣系縄文人が日本列島に上陸してから、狩猟を生計の資とした時期があったとは考え難く、弓矢は害獣から身を守る護身用具だった可能性が高い。

しかしその様な北陸部族が縄文前期~中期には、関東部族に匹敵する規模の矢尻の消費者になった事、即ちシベリアに矢を輸出する様になっていた事を、矢尻街道に遺された華麗な火炎土器や、御代田町に遺された街道文化的な土器が示している。

海洋民族は、類似した事業を後発的に手掛ける事は稀だったから、この場合に限った特殊事情があったと想定される。つまり関東部族が部族を挙げて矢の増産に取り組んでも、シベリアの需要増加に追付かない状態が長期間継続したから、縄文早期後半に他部族の参入を促す判断が下され、北陸部族もこの交易に参加したと考えられる。その様な北陸部族の矢尻街道は3本もあり、諏訪と長岡を結ぶ中核的な街道の繁栄が、諏訪と多摩を結ぶ関東部族の街道宿場の繁栄に匹敵したのは、弓矢に対するシベリアの狩猟民族の需要が、如何に大きかったのかを示している。

単一事業に傾斜すると、需要が失われた場合のダメージが大きいから、関東部族がそれを回避する為に、北陸部族に声を掛けた可能性がある。関東部族の南方系集団はフィリッピンに拠点を移した海洋民族と交易し、縄文前期には湖北省の稲作民との交易も始めたから、関東部族はシベリア交易だけに特化する状況ではなかった事も、その要因として挙げられる。自分達の勢力が削減さる事に反発した南方派と、シベリア交易を拡大したかった北方派の間で、部族勢力の分配に関する論争があった事は間違いないだろう。

しかし縄文中期初頭に渡来したmt-Fが井戸尻遺跡にも入植し、矢尻街道の機能を高めた事は、南方派と北方派の間に論争はあっても、深刻な利害対立を起こしてはいなかった事を示している。その様な事情の中で、部族の全精力を傾けて弓矢の生産に取り組む事は、それが崩壊した場合のリスクが大き過ぎるから、関東部族は北陸部族を引き入れる事にしたと考える事もできる。

関東部族が矢の増産に拘ったのは、それを求めるシベリアの狩猟民族の声が、ツングースを介して届いていたからである事も間違いない。弓矢が不足したシベリアの狩猟民が自分達で独自の弓矢文化を形成し、獣骨の入手難に陥る事態に発展する事に危惧があった事も、大きな要因だったと考えられる。シベリアの狩猟民が自分達で矢尻を作る為に獣骨を消費し、海洋民族に回る量が激減する可能性があったからだ。

その様な判断を下したのは、日本にいたシベリア系狩猟民族の子孫だった可能性が高い。彼らが弓矢生産の技術統括であり、マーケティング主任でもあったからで、この様な役割の人々の意見が無視できない事は、時代に関わらない事実だった事も間違いないからだ。

この様な大きな判断が下される場合、複数の原因が背後にある事も世の常であり、関与していた集団毎に異なる理由があった筈だから、生産を担当した縄文人の立場を明らかにできないと、事態を推測する条件に欠けているとも言える。関東縄文人の生産活動が順調に展開していれば、彼らが北陸部族の参入を許したとは考え難いが、狩猟民族による増産への督促が常在し、それに疲れていたとすれば、その様な事態を歓迎した可能性がある。矢尻街道の文化的な繁栄を示す多彩な土器が作られたのは、北陸部族が参入した後である事がそれを示唆しているとも言えるから、この可能性は追跡する意味がある。

縄文早期のアワ栽培系集落である桑野遺跡や、糸魚川の石斧工房だった大角地遺跡から、霧ヶ峰産の矢尻が発掘された事は、矢尻の生産体制は縄文早期の早い時期に整い、矢柄や矢羽根の増産が追い付いていなかった事を示唆し、上記の関東縄文人の事情を裏打ちしている。つまり弓矢生産の技術統括兼マーケティング主任だった狩猟民族は、矢尻の増産が遅れる事によって生れる増産遅延は、意地でも起こしたくなかったから兎に角増産を急いだが、矢尻の増産だけが順調に進んでも、矢柄や矢羽根の増産が追い付かない状態になって矢尻の余剰が生まれたから、余った矢尻が縄文早期の北陸部族にも流れた事を、上記の発掘が示している。

その様な狩猟民族が、北陸部族に弓矢交易への参入を促した事が、北陸部族も参入する直接的な契機になったと想定される。石斧工房は北陸部族の石材加工センターとしての機能を持っていたから、生産の可否を検討する為に、矢尻が持ち込まれた可能性もあるだろう。

穀物栽培は母から娘に伝承された高度な技能だったから、穀物栽培とミトコンドリア遺伝子を紐付ける事ができるが、関東部族がシベリアに出荷していた弓矢も、目的に見合った高度なものだった筈だから、関東部族から北陸部族にその技術がスムーズに移転されたとすると、女性は技能の伝承に閉鎖的だったが、男性は高度な技術であっても部族を超えて伝えた事になり、男女の意識に大きな差があった様に見える。

しかしどちらの部族にも属さない狩猟民族が、弓矢の生産技術を統括していたとすると、この様な比較は無意味になる。従って弓矢の製作に関する関東部族と北陸部族の違いは、生産システムの構築や量産技能の高低には現れたが、矢の構造は同じだったと考えられる。従って両者の街道の繁栄状態に差がなければ、それ以上検証できる物証はない。

鳥浜遺跡の赤い櫛が北陸部族と東北部族の交易事情を示唆し、三内丸山遺跡のヒスイ加工品もそれを示唆しているが、両者の交易関係は矢の生産を介して密接になった可能性が高い。北陸縄文人も竹を生産していたと想定されるが、水鳥を狩る事に長けたY-C1を欠き、矢羽根の生産性に難点があったからだ。日本海側の東北部族だった対馬部族や隠岐部族は、縄文早期前葉の九州でY-C3狩猟民族との縄張り争いに不満を持った、Y-C1を中核とした縄文人と共に東北に移住したから、北陸部族が矢を増産する為に鳥の羽が必要になると、それらの東北縄文人との交易が必要になったと想定されるからだ。

沿海州で発掘される黒曜石の矢尻は、隠岐産の黒曜石が多いとの指摘があるから、それを機に隠岐部族も矢の生産に参入した事になり、一連の話が整合する。矢尻を生産していた狩猟民族には隠岐に渡る希望はなくても、包括的なシベリア交易を成功考させる為には、東北部族にも参入させる必要があると判断したとすれば、諏訪の矢尻職人の一部を隠岐に移住させたとしても不思議ではないからだ。

隠岐産の黒曜石で作られた矢尻の出土は沿海州や樺太に集中し、この時代の隠岐部族の海洋航行能力の限界を示している。彼らには関東部族や北陸部族の様に、氷期から必要に迫られて鍛え抜かれた、遠洋まで渡航する航行能力はなかったからだ。東北から発掘された縄文人のミトコンドリア遺伝子には、縄文時代に大陸から渡来したミトコンドリア遺伝子は含まれていない事とも整合する。

その2で神戸の森林相の変遷を紹介した際に、鬼界アカホヤ火山灰の降灰(7300年前)後にクスノキが多量に栽培された事は、船を大型化して運送力を高めた事を示唆していると指摘したが、背後に弓矢の増産事情があったとすれば、「必要は発明の母」という状態が生れていた事になる。海上の船だけではなく、古甲府湖、諏訪湖、古松本湖でも船を大型化し、積載量を増加させる必要があったからだ。

経済の成熟期の項で説明するが、関東部族は縄文時代が終わるまでツングースと太い交易関係を維持した。北陸部族は後氷期になった直後に、日本海北岸に移住して来たツングースの祖先と交易を始めたから、彼らとの交易史は関東部族より長かったが、関東部族が1万年前に弓矢交易を本格化させると大ヒットし、縄文早期に両部族がシベリア交易を競う状態が生れた。

この時代の北陸部族の特産品は磨製石斧と漁網で、沿海部やアムール川流域の漁民を交易相手としていたのに対し、関東部族はアムール川流域には立ち入らず、河口でツングースと交易したと想定されるが、その交易量は短期間に北陸部族を大きく凌駕する状態になっただろう。北陸部族も交易の最終目的は獣骨の入手だった筈だが、彼らの交易品は河川漁民の需要を満たすもので、狩猟民族と直接交易するものではなかったからだ。関東部族の交易は狩猟民族の需要を直接満たすものだから、ツングースが仲介しても獣骨との変換効率は極めて高く、出荷した物量如何に関わらず獣骨の入手量は格段に多かったと想定される。

その様な交易を推進した事は、関東部族の大きな誇りになっていたと推測されるが、狩猟民族に押し切られて北陸部族もそれに参加する事を認めると、北陸に向かう矢尻街道も関東に向かう街道の様に繁栄した事を、街道の遺跡が示している。その背景には北陸部族が、関東部族には真似できないアワ栽培を強みに、狩猟民族との連携を強めただけではなく、東北の隠岐部族や対馬部族も傘下に収めた事も含まれ、関東部族の心中は穏やかではなかったと推測される。

関東部族はシベリア交易を拡大する過程で、既に東北の伊予部族や北海道の壱岐部族を傘下に収め、弓矢交易の利益を分け合っていたが、北陸部族の急速な台頭に嫉妬もあっただろうが、深刻だったのは、その原因が関東部族と狩猟民族が共同で開発した弓矢交易であり、弓は元々関東部族が九州に渡来させた沖縄系縄文人の特産品だったからだ。その観点では関東縄文人の方が、北陸部族の参入に強い違和感を持ったかもしれない。

縄文時代の海洋民族の交易は、特産品を開発する事によって獣骨交易を活性化し、日々の生活を豊かにする事を目的にしていたから、シベリア交易は彼らの生命線になっていた。その為に大義が優先する社会になり、色々な不満は抑え込まれただろう。

伊那谷への焼畑農耕者の入植は、考古学的には縄文前期後葉に始まった事になっているから、縄文前期前葉に気候が冷涼化して関東の稲作が不振になると、矢尻職人に支給できるコメの量が減少したから、それを見た北陸部族が矢尻職人の為に、伊那谷に焼畑農耕者を送り込んで穀類の不足を補充した事になるが、その時期や因果関係は明らかではない。いずれにしても縄文中期寒冷期になると、伊那谷の焼畑農耕者の集落規模は大きく拡大した。これは八ヶ岳山麓の動向と一致し、縄文後期に急速に縮小する事も一致しているから、伊那谷の焼畑農耕者は北陸部族が弓矢産業に参入した頃に入植し、弓矢産業が衰退すると伊那谷を離れた事になる。

標高が高い山間地である伊那谷に焼畑農耕者が大量入植した事は、縄文早期以降の西日本の焼畑農耕者の挙動からは想像できない。中国山地の焼畑農耕者は阿波に入植し、九州縄文人にmt-Dが浸潤した事と比較すると、異様な事態だからだ。しかし経済的な利益があれば分からない話ではない事と、伊那谷に入植したアワ栽培者は、寒冷化によって中国山地から阿波に南下した人々とは別系統の、名古屋から三河に拡散した焼畑農耕者だったと考えられる。伊那谷の初期の土器は東海系で、粕畑式に続く上ノ山式土器であるとの指摘もこの事情を補強する。

伊那谷に入植しても古箕輪湖や古飯田湖はそれほど大きな湖ではなく、温泉が湧き出して富栄養化している諏訪湖の様に、豊かな漁獲が見込める湖でもなかったから、彼らの食生活を保証する仕組みが必要だった。縄文前期の古飯田湖の排水口は天竜村にあり、三河湾は長篠まで湾入していたと想定されるので、両地点を繋ぐ陸路は50㎞程度しかなかったから、関東部族が八ヶ岳山麓や諏訪湖岸に海産物を届けるより遥かに楽な陸路だったが、湖沼漁労が期待できない地域だから、量を多くせざるを得なかった。その陸路として、阿南町の緩やかな丘陵地が使われたと想定され、縄文前期~中期に繁栄して後期に衰退した根吹遺跡が、その拠点的な宿場集落だったと推測される。

この遺跡の土器は破片が多く原形を留めているものは少ないが、矢尻街道で発達した香炉状の土器が発見された事も、この集落が伊那谷に入植したアワ栽培者に海産物や塩を届ける為の、主要な街道宿場だった事を示唆している。この遺跡から石錘も発掘され、当時は脇を流れる売木川が古飯田湖の一部だった事を示唆している。

現在の売木川の川底には土砂が堆積し、根吹遺跡直下の河床が標高400mだから、縄文前期の古飯田湖の湖面標高が400m程度だったとすると、これらの事情と一致し、古飯田湖の出水口に向かって緩やかにながれていた天竜川から、入り江だった現在の和知野川を奥に進むと、古飯田湖の船便の最終点だった根吹遺跡に着いた事になり、飯田と三河を繋ぐ交通の要所としての、立地条件を備えていた。

従って弓矢交易に参加した北陸部族は、伊勢湾や三河湾に移動して漁労活動を行い、その漁獲を三河の縄文人が飯田に運ぶことにより、伊那谷のアワ栽培者の食生活を補完したと考えられる。北陸部族も獣骨が欲しかったから、一部が三河に定住する事に積極的に取り組んだだろう。

渥美半島の太平洋岸は関東部族が太平洋沿岸を南下する際の通路だったが、半島の岸壁には岩肌が起立していたから、関東部族の拠点は半島の先端にしかなかった。水深30mの伊勢湾が生れたのは1万年前、水深15mの三河湾が生れたのは8500年前だから、伊勢湾や三河湾は9千年前に沿岸に入植したアワ栽培者に漁業権があり、三河湾が拡大した縄文早期に北陸部族の漁民が入植し、漁獲を伊那谷に送り込む体制を整えたと推測される。

これによって渥美半島の先端が関東部族と北陸部族の接点になり、漁民同士の接点が生れた可能性があり、縄文早期の関東の雷下遺跡から発掘された、上ノ山式土器風の模様がその事情を示唆している。この事情によって三河湾が若狭湾に次ぐ北陸部族の拠点になったから、弥生時代の濃尾平野も北陸部族の拠点的な地域になっていたと考えられる。

当時の箕輪盆地の標高は720m以上あったから、焼畑農耕者はできるだけ温暖な気候を求め、標高500m以下の飯田盆地に集まったが、箕輪盆地に入植した焼畑農耕者も多数いた事を、この地域に遺された多数の縄文遺跡が示している。アワは栽培期間が100日程度と短いから、真夏には沿海部より高温にもなる内陸の盆地での栽培は適切な播種期を選べば、阿波と比較しても遜色ない収穫が見込めた可能性がある。

飯田は標高が低く比較的温暖だが、ヤンガードリアス期に形成された標高1000mの沖積地は、8千年前の豪雨期に浸食が進んで急斜面を含む丘陵地になり、その際に生まれた低い段丘が栽培だった。この段丘は面積が狭かったが、古箕輪湖岸にはヤンガードリアス期に形成された扇状地が平坦な地形を残し、広い栽培地を提供していたから、気候は冷涼だったがアワ栽培者には魅力的だった。この様に広い平坦面は、当時は中国山地や阿波にはなかった。琵琶湖岸にはあったが、付近に蛇紋岩の産地がなかった。

伊奈は蛇紋岩の産地だから、多量の磨製石斧を使って広い焼畑を形成する事が可能になり、それによって栽培地を広くする事により、気候の冷涼化に依る減収分を挽回できた事が、多数の焼畑農耕者が伊那市域や箕輪に入植した理由だったと考えられる。

縄文前期末に寒冷化が進行すると、関東の稲作では漁民分としても不足し、諏訪に送り込む量は先細りしたから、諏訪湖の水利権を持っていた関東部族の船が、コメの代わりに北陸部族が生産した雑穀を、矢尻職人の集落に届ける状態になっただろう。北陸部族が伊那谷から諏訪湖岸にアワを運ぶ輸送路は、金沢峠を越えて阿久遺跡の対岸に持ち込む事で、其処から湖岸の矢尻職人の集落までの水運は、諏訪湖の水運を仕切っていた関東部族が担ったからだ。

関東部族は弓矢の生産を立ち上げ、それを使ったシベリア交易を開拓した事に自負があったが、北陸部族が矢尻職人の食料事情を支える事業力を相対的に高め、矢尻職人と関東部族の経済関係に強力に食い込み始めると、後発の北陸部族がアワという資本力を武器にして、先発の関東部族を押し退ける状態になり、関東部族に失望感と屈辱感を与えたと推測される。

この時代には相応しくない近代的な近郊農業が、縄文中期の井戸尻に生まれたのも、その様な状態に陥った関東部族が部族の名誉を託し、野菜農園を設立したからである疑いがある。富山の小竹貝塚から発掘された、縄文前期の北陸部族の栽培系ミトコンドリア遺伝子は、mt-M7amt-M9mt-Gだった事が示す様に、北陸部族の蔬菜類は冷温帯性の植生を基本にしていたから、関東部族のmt-B4+M7bmt-Fが持ち込んだ亜熱帯性や暖温帯性の蔬菜類は、矢尻職人にも魅力的な食物だったと推測される。これらを寒冷期だった縄文中期に標高が高い地域で栽培する事は、栽培者にも困難があった筈だが、敢えてその栽培者を井戸尻に入植させたのは、関東部族の意志が強く働いたからだと推測され、同時に矢尻職人の経済的な地位の高さも示している。

矢尻街道に展開した華麗な土器は、関東部族のテリトリーでは縄文前期から盛んに作られたが、北陸部族の宿場から火炎土器が出土するのは縄文中期だから、関東圏に生まれた華麗な土器は、関東部族の存在感を誇示する意識が示されていたとすると、後発の北陸部族もそれに対抗する意識から、独自の火炎土器を作り上げた事になる。

競争意識が経済を活性化する事や、純粋な経済関活動だけではなく、文化の面でも大いに発揮された事は世界の共通歴史認識だから、これについて敢えて説明する必要はないだろう。関東圏の矢尻街道にいたのは、関東部族の縄文人だけではなく他部族の縄文人もいたし、一部の縄文人は街道の旅を楽しんでいたと想定されるから、街道の華麗な土器は個人的な情緒の発露ではなく、経済活動を活性化する手段であると共に、部族文化を誇示する手段でもあったと考えられる。

関東部族が街道特有の優雅な土器を生み出した縄文前期後葉は、北陸部族が伊那谷で生産した穀物を、上記の過程を経て運び込み始めていた時期だったから、それが関東部族の対抗意識を高めて華麗な土器を生み出したとすると、時期的に一致する。やがてそれが北陸部族を刺激して、彼らも独自の華麗な土器を生み出すという、経済活動と表裏一体の関係にあった事も、この頃の経済事情と整合する。

華麗な土器が関東部族の生産拠点や街道の宿場に生まれた事は、縄文人は生産拠点や街道の宿場に集住し、その他の地域の人口は希薄だった事を示している。つまり海産物を基礎食料としていた縄文人は、漁村へのアクセスが不便な場所には住まなかったから、矢尻産業が興隆すると生産拠点にした八ヶ岳山麓に集住し、街道は自然地形を利用する場所に設定され、それらの点と線で結ばれる地域に独特の縄文文化が生まれた。その様な集落に生活物資を届ける事は街道の重要な役割だったから、矢尻街道は現在の谷間の集落を結ぶ街道ではなく、重い生活物資の移動が最も容易な経路だった。

奈良・平安時代以降の街道は、農耕民族が居住していた谷間の集落を結ぶもので、農耕民族は農地が得られる場所であれば、不便を厭わずに入植したから、街道はその様な農業地帯を結ぶものになった。縄文時代には農耕だけで自立できる農業技術はなかったから、中世に沢山生まれた谷合いの集落は縄文時代にはなく、矢尻街道を設定する際には、中世的な配慮は必要がなかったから、荷役の運搬が最も容易な経路が選定された。従ってその街道を使って運ぶ荷持の過半は食料で、それを人が背負って運搬したから、後世の街道とは趣が異なっていたと考える必要もある。つまり日本人が農耕民族化した時代には、人々は農地を求めて狭い谷間にも拡散したが、縄文時代にはその様な地域は無人地帯だった。

農業の生産性が低かった縄文時代の人々は、食料を途切れなく得る為に交易に参加し、日々の食料の不足を補っていたからだ。日本列島は自然に恵まれていたから、人々は食料に恵まれて豊かに暮らしていたとの印象は、幻想に過ぎない。鉄器時代になって農業の生産性が高まり、貯蔵可能な穀類を各地域で生産できる様になると、人々はその苦しい荷役から解放される為に、狭い谷間であっても農耕民族として自立できるのであれば、内陸の奥深くまで拡散したからだ。

鉄器が普及して農業の生産性が高まった飛鳥時代に、古代的な交易者の時代が終わって農民の時代になり、倭人政権が崩壊したが、上記の事情はその理由を考える上で重要な論点になる。つまり苦しい荷役労務から解放される為には、十分な広さの農地を確保する必要があったから、鉄器時代になって農地を開墾する事が可能になり、それによって農民として自立できる技術的な環境が整うと、人々は農地を求めて内陸の各地に拡散した。

そして獲得した農地の耕作権を占有する為に、それを保証してくれる政権を求めたから、交易者の為の政権から農民の為の政権に移行する必要があった。それが倭人政権の崩壊と奈良朝の成立に繋がったと考える必要があり、矢尻産業の経済的な繁栄は、その様な苦しい労務負担を伴うものだった。

矢尻街道の宿場の繁栄は、大陸に青銅器が普及し始めた縄文後期に下火になり、大陸が青銅器時代になった縄文晩期には、嘗ての矢尻街道の宿場は無人に近い状態になった事が、中部山岳地に人々が集住したのは、矢尻とウルシが弓矢産業の基幹部品だった事を示している。つまり八ヶ岳山麓の質の高い黒曜石とウルシを使って大量生産した弓矢が、食料の生産に欠かせない重要な交易品になったが、高品質の矢尻を生産していたのは漁民の部族に属さない狩猟民族だったから、部族内生産ではなく民族間交易になった事が、矢尻に特別に高い交換価値が生れる原因になったと考えられる。

狩猟民族が矢尻交易を活性化する為に、北陸部族にも交易に参加する道を開いたから、関東部族と北陸部族は部族対抗的な経済活動を強いられた。その緊張関係の結果として、生産拠点や宿場に華麗な土器を生み、宿場事情を華やかなものにしたと考えられる。この様な事情は日本列島には他になかったから、それを見る為に訪れる他部族の人々も生み出し、それも文化交流や経済の活性化に貢献したと想定される。別途論考するが、文化交流は物見遊山に伴って生まれたのではなく、関東部族の募集に応じて街道の運送業務に参加する事も、他部族の人には重要な文化交流の一環になった。

湖北省の稲作民族と海洋漁民の関係を検証する中で、関東部族の南方派の指導者が、漁民の労力を集める為に観光ツアーを企画した事を指摘したが、縄文人も矢尻街道の文化的な繁栄を体験する観光ツアーとして、不足する運送労力を補ったから、矢尻街道の華麗な土器が生れたと考える必要もある。不特定多数の人々に見せる機会がなければ、極めて凝った器形の土器を創作する動機は生れないからだ。それは単なる娯楽ではなく、労働力を供出する責務の遂行だったが、それに対する労いの努力も為されと考える必要があり、政治的な力はまだ生れていなかったとすると、日本人の同調圧力はこの様な縄文人に起源があった可能性も指摘できる。

 

矢尻の生産構造

土器を素材にした街道文化論は、土器や土偶の画像を示しながら2-3節で行い、この節ではヒスイ加工品と琥珀の財貨としての特性の違いを検証し、ヒスイ加工品を選択した弓矢産業の構造と、その背景にあった縄文人の価値観を推測する。

最も富裕な人々だった矢尻職人は、堅果類は食べずに獣肉と穀類を基本食料とし、彼らの集落には湖の鮮魚と新鮮な蔬菜類が毎日入荷していた事を、遺跡の配置から読み取る事ができる。その様な矢尻職人の集落には、矢尻産業の豊かさを示す物品が沢山あった筈だが、彼らの集落は川洲の流出と共に失われてしまった。しかし彼らに物資を提供していた人々の集落から、ヒスイや琥珀などの財貨が沢山発掘され、矢尻職人が生み出した富の大きさを示しているから、矢尻職人の豪華な生活の実態は分からなくても、彼らを取り巻いていた複合的な産業構造を推測する事はできる。

壊れた土器は廃棄され、移住の際には遺棄されて残ったから、膨大な数の土器が発掘されている。ヒスイや琥珀などの財貨は移住の際に持ち出した筈だが、特別な事情によって遺されたものが発掘されたと考える必要があり、ヒスイ加工品などの財貨が一つ発掘されれば、その集落の住民は数百倍或いは数千倍の、ヒスイ加工品を持っていたと想定する必要がある。その視点で関東圏の遺跡を広域的に見ると、ヒスイ加工品が多数発掘された那珂川流域は、黒曜石の産地だった高原山を水源とする河川流域だから、弓矢の製造が盛んな地域だった可能性が高く、弓産業に参加する事が食料の安定確保に繋がっていた事を示している。しかしその様な場所は、関東部族と北陸部族の領域内に限られ、弓矢産業は両部族の独占的な事業だった事を示唆している。但し東北にも発掘地が散在している事は、東北部族は弓矢交易に協力的な勢力だった事を示している。

東京都下のヒスイ加工品の発掘地は、武蔵野台地の末端の青梅や、多摩丘陵の縁辺部まで広がっているから、都下に在住していた縄文前・中期の縄文人が、竹やウルシを栽培して弓矢を製作し、交換経済を活性化しながら、関東圏の経済活動を盛り上げていた事を示している。

 

弓矢産業から自然発生的に生まれた矢尻通貨

矢尻が通貨として流通し始めた時期を判定する材料として、桑野遺跡や大角地遺跡から発掘された矢尻が挙げられる。輸出用の弓矢の基幹部品として生産されていた矢尻が、その生産とは関係がない地域で発掘された事は、矢尻の生産が過剰状態になり、通貨として流通した事を示唆しているからだ。

弓矢を組み立てていた縄文人の手元には矢尻が沢山あり、彼らは出来高払いの仕事をしていたのだから、その労務費の支払いに矢尻が使われ、その矢尻を介して彼らが調達したい物品を入手する事は、極めて自然な流れだったから、それについて証明する必要はないだろう。

しかし矢尻は弓矢の基幹部品だったから、それが流通に回る事は、矢尻の需給が逼迫した時期には矢の生産を阻害した。従って矢尻の生産が過剰になった時期に、一時的に通貨の役割を果たしたとしても、他の部品の生産が軌道に乗れば流通しなくなるものだった。

矢尻の生産工程では仕損品が発生したから、矢尻の生産が逼迫した場合にそれを代用通貨とすれば、恒常的に通貨として流通しただろう。関東や中部山岳地帯の畑では、現在も矢尻を拾う事ができるが、拾った矢尻の中に明らかな欠損品が混入している事は、良く知られている。従って時期は明らかではないが、通貨として使っていた矢尻の需給が逼迫した際に、本来は廃棄するべき欠損品や、黒曜石塊の材質を確認する為に作った試作品などが、使用可能な矢尻の代わりに通貨になった可能性がある。

これに関し、飯田に隣接する喬木村の伊久間原遺跡の発掘報告書に、興味深い記述がある。

縄文時代前期の87号住居址について、石器は「石鏃 4、石匙 1、打石器横刃形石器28、 黒曜石片80個 が出土」

101号住居址から「石鏃 6、打石斧横刃石器32、 黒曜石片124点 が出土」

114号住居址から「石鏃 7、石匙 1、 黒曜石片234点 が出土」

119号住居址から「石鏃10、石匙 4、スクレーパー4、 打石器92、 黒曜石片324点が出土」

などと記され、石鏃には素人目にも欠損品と分かるものが多々ある。黒曜石の矢尻は簡単に欠損するものではないし、狩猟に使った欠損品を持ち帰る必要はないから、全てが最初から欠損品だった疑いが濃く、石鏃とは認められない黒曜石片にも通貨価値があった可能性が高い。

同じ遺跡群の他の区画の発掘状況をまとめた表に、縄文前期~中期の36件の住居址から出土した物品の一覧として、石鏃は総計で3個しか記載されていないが、黒曜石片は136個発掘された事を示している。この地域の住民は狩猟や護身に使う弓矢を、家の中に持ち込んでいなかった事を示唆しているが、それについて考察する必要がある。

我々は縄文人が弓矢で狩猟を行ったと思い込んでいるが、弓矢を使って狩猟を行うには、百発百中の高度な技能が必要だから、アワを栽培していた縄文人は、弓矢を使って狩猟を行う技能は持っていなかった可能性があり、上の表はそれを示唆している。しかしオオカミやヤマネコ類が徘徊し、クマと装具する事も珍しくなかった時代だから、護身用として必要だった可能性はある。

縄文人は全員弓矢を持っていたが、移住の際には必ず持ち出すものだったから、住居址には残っていないのかもしれないが、それであっても住居址に、欠損品の矢尻や黒曜石片が多数残されていた事は、狩猟や護身に使うものではなかった事を示している。通貨が住居跡に多数遺されている事に、違和感があるかもしれないが、弓矢産業地域だった伊那から、その産業圏ではなかった三河以西に移住する際には、持ち出す意味がないものだった可能性もある。つまり弓矢産業に従事している者達の間では、黒曜石の欠片も矢尻の代用品として通用したが、他地域では価値がないものだったとすれば、当然遺棄して移住しただろう。

伊久間原遺跡の報告書には、黒曜石片に関する具体的な記述はないが、茅野市の梨木遺跡の報告書では、縄文前期から中期までの115の住居址号の中に、多数の黒曜石の欠片を含むものが2住居あり、一つは前期後葉のもので、一つは中期中葉のものとして、発掘時の写真が添付されている。到底矢尻とは言えない唯の黒曜石片だが、この様な黒曜石の欠片も通貨として通用していた事を示唆している。

梨木遺跡は標高900m以上のなだらかな溶岩台地にあり、縄文早期から諏訪湖岸の居住地としての立地条件を満たしていた筈だが、縄文前期の住居址の発掘は4棟で、縄文中期の住居址は102棟もあり、不明が9棟ある異様な状態を示している。これは八ヶ岳山麓の他の遺跡にも共通した状況で、関東部族は1万年前から営々と弓矢の増産に取り組んできた筈であり、縄文早期の阿久尻遺跡の規模や、縄文前期末の阿久遺跡の集石遺構の規模から考えれば、八ヶ岳山麓の人口は縄文早期から徐々に増えていた筈なのに、考古学者のイメージでは縄文中期に突如として大集落群が生れた事になっている。地理的な環境の変遷を考慮すると、この不自然さは以下の様に説明できる。

八ヶ岳の溶岩流は極めて流動性が高かったので、裾野に平坦に近い地形を形成した事は、現在の地形を見ても明らかだ。氷期が終わった時点での諏訪湖の湖面標高は明らかではないが、ヤンガードリアス期の豪雨によって八ヶ岳山麓は標高1000mまで湖水に覆われ、ヤンガードリアス期が終わった時点で標高950mまで湖水に覆われていた事は既に指摘した。その後太平洋が湿潤化する前までは、雨は殆ど降らなかったから、湖面標高は870m程度に低下しただろうが、その時期には川によって地形が侵食される状態も殆ど生れなかった。これは現在も八ヶ岳山麓から諏訪湖に流れている、川の様子から検証する事ができる。

それらの川は標高1000m以上の地点で深い谷を形成し、標高13000m以上の地点では小さな谷も深く抉られ、粘性が低い溶岩が流れた痕跡は失われている。つまりヤンガードリアス期の激しい浸食が、標高1300m以上の山麓に示されているが、当時の湖面に近かった標高1300m1000mの地点では、大きな川が深い谷を形成した状態を示し、ヤンガードリアス期の浸食の凄まじさを示している。標高1000m地点で一旦それ等の谷の形成が解消され、それ以下の地点では、下流になる程深い谷が形成されているから、諏訪湖の湖面の低下と共にそれらの谷が形成された事を示している。

これは特定の河川の状態ではなく、八ヶ岳から茅野市と原村に流れている全ての河川の事情だから、ヤンガードリアス期に上記の様な状態が発生した事は間違いない。

ヤンガードリアス期が終わって大陸が超温暖期になると、一転して降雨が激減し、諏訪湖の湖面は870m程度に低下した事を、標高880mに立地している阿久尻遺跡が示し、太平洋が湿潤化すると890m程度に上昇した事も、阿久尻遺跡が廃棄された事情が示しているが、それに関する分析は3-3節で示す。

太平洋の湿潤期が終わると現在より温暖で降雨も多い縄文時代の気候になり、古飯田湖の湖面低下が古箕輪湖にも及び、古箕輪湖の湖面標高が急速に低下したから、諏訪湖の湖面標高も徐々に低下し、縄文前期末には800m近くまで低下した。ウルシ樹を栽培していた縄文人は、湖岸の水草が形成した腐葉土に富んだ地域を求め、湖岸に近い場所に集落を形成したと想定され、縄文早期~縄文前期には標高800m900mの地点に集落を形成したと考えられる。

伊那谷の扇状地は沖積土砂だったから、縄文早期~縄文前期に湖面が低下していく中で、土砂が浸食されて深い川筋が生れたが、八ヶ岳山麓の溶岩は堆積土砂より遥かに硬いから、八ヶ岳山麓の標高1000m以下の地点では、激しくなかった降雨の下で溶岩流の形状が保存され、各地に深い谷筋が生れなかった可能性が高い。

縄文前期の終末期は1600年周期の温暖期の終焉時期であると共に、太平洋の湿潤化以降の、それに関わる気候の周期変動の湿潤期でもあり、両者が重なって気温が急低下した時期だから、太平洋が湿潤化した時期ほどではなかったとしても、大雨が降り続いた時期だったと想定される。それによって湖面が10m近く上昇したかもしれないが、この時期にそれより深刻だった事は、太平洋が湿潤化した時期は湖面より標高が低く、その豪雨期が終わった後で湖底から現れた溶岩台地には、縄文前期末の降雨期には、川筋が明確に刻まれていなかった事ではなかろうか。

縄文前期末の降雨期には、縄文人が2千年以上経験していなかった大雨が降った時期だから、標高1000m800mの底が浅い河川が各所で氾濫し、表層の腐葉土を剥ぎ取ると共に、縄文前期までの縄文人の痕跡を殆ど消してしまったと想定されるからだ。

この時期の縄文人が何処に退避したのか明らかではないが、度重なる被害に困惑していた可能性は高い。縄文中期になって降雨が安定すると、梨木遺跡に再び縄文人が集落を形成したが、それ以降にはその様な豪雨期はなかった上に、湖面が更に低下して河川が深い谷を刻み始めたから、縄文中期以降の遺跡は保存され、考古学者には縄文中期の八型山麓に忽然と縄文人が集結し、多数の集落が形成された様に見えるのではなかろうか。

ヤンガードリアス期が終了した時点で、八ヶ岳山麓の標高1000m以上の地域は殆ど禿山になり、その後湖面が低下していく中で、各時代に湖岸になった地域に肥沃な土壌が生れたから、縄文人が土壌の豊かな地域に栽培地を求めると、縄文前期末までの集落遺構は縄文前期末の降雨によって殆ど消滅した地域だったから、縄文中期に突如として人口の集積が生れた様に見える状態が、取り分け強調される事情が生れていたと考えられる。

黒曜石の貨幣化の話しに戻ると、黒曜石の矢尻が貨幣として使われる段階から、仕損品や欠片が貨幣として使われる段階に、縄文前期には移行していた事と、数百個の黒曜石の欠片が遺棄された住居が複数あり、彼らの移住先にはそれらを持ち込む価値がなかった事を示唆している。喬木村の伊久間原遺跡の場合は、三河に移住するとその価値が認められなかったから、住居に遺棄した可能性が高いが、八型山麓の梨ノ木遺跡の場合は、関東では神津島産や高原山の黒曜石で作った矢尻モドキが流通し、黒曜石の欠片には価値がなかったからである可能性が高い。つまり縄文人が住居を遺棄したのは、近隣に移住したからだけではなく、遠隔地に移住する場合もあった事を示唆し、アワ栽培は移住頻度が高かったが、八ヶ岳山麓の人々にも遠距離移住者がいた事を示している。

八ヶ岳山麓の縄文人は、黒曜石の欠片を容易に入手できた筈だと考えるかもしれないが、黒曜石が採掘できる場所は限られ、その採掘権は狩猟民族が握っていたから、彼らを介さなければ縄文人には入手できないものだった。この様な狩猟民族の秩序意識は、シベリア起源の濊について記した魏志濊伝に、「人々の性格は生真面目で欲は少なく、廉恥を知って物乞いはしない。」「その俗は山川を重んじ、山川には各々が(所有する)部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。」と示されている。

従って富裕な矢尻職人が経済力を背景に、黒曜石の欠片を矢尻の代用品とすれば、彼らの信用力を背景に貨幣化する事は可能だったが、価値がない物品だから流通範囲は限られた。八ヶ岳山麓はその様な狩猟民族の膝元であり、伊那谷はその様な狩猟民族にアワを供給していた人々の集積地だった。

以上を纏めると、伊那谷では縄文前期後葉から矢尻の欠損品や黒曜石の欠片が通貨として使われ、八ヶ岳山麓でも縄文前期後葉に黒曜石の欠片が使われていた。これと縄文早期末の桑野遺跡や大角地遺跡から、本物らしい霧ヶ峰産の矢尻が発掘された事を合成すると、1万年前から矢尻を扱っていた狩猟民族と関東部族には、縄文早期末には磨製石斧の工房だった大角地遺跡や、アワ栽培者の桑野遺跡に矢尻を放出する余剰が生れていた事になる。これは矢尻を通貨として使う状況が生れていた事にもなるが、縄文前期に北陸部族も矢の生産に参入すると、矢尻の需給が厳しくなる状況が生れたから、縄文前期にはそれを欠損品や欠片に置き換え、貨幣として流通させた事になる。

アワ栽培者と関東縄文人が共に通貨として使うと、価値の統一が必要になったが、関東部族は交換価値をコメの量で換算し、北陸部族はアワの量で換算していれば、関東部族と北陸部族の間に交易関係が生れなければ、問題になる事はなかった。しかし北陸部族が諏訪湖岸にアワを運び込み、其処で他の物資の交換を始めると、アワとコメの交換価値は変えずに、他の物品の価値を統合する流れが生れただろう。塩などの共通の必需品を取引する場合には、価値の統一は必須要件になった。

その様な統合過程で色々な混乱はあったかもしれないが、それらを克服して統一通貨になる事に、何百年もの時間を費やす事はなかっただろう。逆に言えばそれが実現したから縄文前期の伊那谷と八ヶ岳山麓で、欠損品の矢尻や黒曜石の欠片が流通した事になる。

 

ヒスイ加工品が標準財貨になった経緯を、経済面から論考する。

ヒスイ加工品は北陸部族の特産品で、関東部族には類似の特産品として銚子産の琥珀があった。琥珀もこの地域の多くの遺跡から発掘され、ヒスイ加工品と共に財貨としての価値があった事を示している。ヒスイ加工品は縄文前期に登場したから、矢尻を通貨にする習俗が生まれて交換経済が活性化した後で、高額財貨が必要になった事によって登場したと推測されるが、琥珀は古い時代から使われていたから、矢尻より早い時期から財貨価値があったと考えられる。

縄文前期の遺跡から矢尻の仕損品や黒曜石の欠片が発掘され、一つの住居址から何百個も発掘された例もある事は、これらは低額貨幣だった事と、庶民的なアワ栽培者にもその程度の富裕者が登場した事を示し、高賃金労働者だった矢尻職人に支払う財貨として、高額な貨幣が必要になった事を示唆している。

ヒスイ加工品が登場し、高額貨幣として琥珀と並立する様になると、両者の間にデファクトスタンダード競争が生まれる事は必然的な結果だった。

琥珀は地中から掘り出す事によって得られる貴重品で、1万年以上前の北海道の遺跡から発掘されているから、当初は矢尻と琥珀が通過だったが、ヒスイ加工品が登場する事により、両者が並立する状態が生れたと考えられる。透閃石製の石製装飾品が多数発掘された桑野遺跡から、ヒスイ加工品は発掘されていないから、縄文早期には存在しなかったと推測される。

ヒスイ加工品が登場した時期は、天神遺跡から発掘された縄文前期中葉のヒスイ加工品が示唆している。沢山発掘された縄文中期のヒスイ加工品は、全体形状の成形に手が掛かっているが、天神遺跡から発掘されたヒスイ加工品は、奇麗な穴が一つ開いている事は共通だが、形状の成形にはあまり手を掛けない原初的な形態を示しているからだ。つまりこの原初的なヒスイ加工品は、北陸部族圏では縄文前期前葉から流通していたもので、その外形形状は縄文中期のヒスイ加工品の様に丁寧に研磨したものではなかったと考えられる。

天神遺跡は関東に向かう矢尻街道の宿場であり、北陸に向かう矢尻街道の宿場と、八ヶ岳の東の裾野を介して往来できる唯一の位置にあったから、そこから最古のヒスイ加工品が発掘された事は、北陸部族でしか使われていなかったヒスイ加工品が、関東部族の宿場に持ち込まれた事を示唆している。従って極めて稀な事情によって遺棄された故に、関東部族の宿場の住居址から発掘されたと推測される。

縄文早期末~前期初頭の大角地遺跡では、未だヒスイを加工していた痕跡はないから、ヒスイ加工品は縄文前期に登場した事になる。北陸部族が矢の製作を始め、黒曜石の欠片を通貨として受容すると、その上位高額貨幣として関東部族が使っていた琥珀に対抗する為に、ヒスイ加工品を生み出して北陸部族内で流通させたと考えられる。北陸部族には琥珀を大量に入手する手段はなかったから、彼らにとっては当然の事だった。

縄文早期の遺跡である阿久尻遺跡や、縄文前期初頭の阿久遺跡などは、矢尻やウルシに関する経済活動を行っていた筈であり、縄文前期から始まる独特の器形の華麗な土器が、経済活動が活発に行われた事を示しているから、関東部族はその時期から、矢尻や黒曜石の欠片を低額通貨とし、琥珀を高額財貨として使用していたと想定され、北陸部族はその様な関東部族の習俗を模倣する為に、ヒスイ加工品を生み出したと考えられる。

矢尻には物品としての使用価値があったが、黒曜石の欠片にはそれがなく、その価値は発行者である狩猟民族が担保していたのに対し、琥珀は関東部族が提供する財貨だったから、北陸部族は琥珀に相当する財貨として、ヒスイ加工品を製作した事になる。北陸部族には透閃石岩や緑閃石岩の石製装飾品を作る文化があったが、それでは価値が不足していると考え、ヒスイ加工品を生み出したと推測される。

低額通貨だった黒曜石の欠片を狩猟民族が発行した理由は、狩猟民族が縄文人から食料などを調達する際に、当初は使用価値がある矢尻を渡していたが、矢尻の需給が逼迫するとそれができなくなり、黒曜石の欠片で代用したからだと考えられる。その際の狩猟民族としては、縄文人が請求すればそれを正規の矢尻と交換するが、通貨として使うだけであればその必要はないから、狩猟民族しか製作できない黒曜石の欠片を矢尻の代用にした事になる。

つまり黒曜石の欠片は正規の矢尻を兌換品とし、狩猟民族によって発行された通貨だった。紙幣やコインなどの近代通貨が金本位制で運用された事情と変わらない状態が、この時代にも生れていた事になる。通貨としての機能を果たす基本条件が整っていた事になるから、黒曜石の欠片が通貨として流通した事に違和感はなく、狩猟民族が必要な物資を調達する際に使われただけではなく、縄文人同士の物資の交換にも使われた事情が、縄文遺跡から発掘されている事になる。

西ユーラシアでもこの頃琥珀が財貨化されたから、ツングースの交易圏でも琥珀が財貨として使われ、世界標準の財貨になっていたと想定される。従って関東部族はその伝統の中で標準財貨として扱い、シベリアの狩猟民族との交易にも使用していたと想定される。日本の狩猟民族はマーケティング活動の為に、しばしばシベリアを訪問していた筈だから、彼らも琥珀の財貨性に疑念を持っていなかっただろう。

琥珀は関東部族が矢尻職人から矢尻を調達する際に、必要不可欠な財貨だったと想定される。関東部族は矢尻職人から矢尻を受領する際に、基本的には干した魚介類、ドングリの粉、コメ、塩などを交換材にしただろうが、不足分は琥珀で支払っていたと想定されるからだ。狩猟民が入手した琥珀は必要な時期にまとめて交換する際に使用し、適宜の細かい調達は黒曜石の欠片で行ったが、矢尻職人が身内の狩猟民族から獣肉を調達する際にも同様な支払い手段を使うと、矢尻職人ではない狩猟民族も必要な物資を縄文人から適宜調達する事ができた。

縄文人も狩猟民族も、食料を完全自給できない人達だったから、彼らが食料の交換に通貨を使う様になると、通貨の流通量は爆発的に増えたと想定され、縄文人の住居址の発掘結果がそれを示している。

琥珀を多量に入手できなかった北陸部族は、別の財貨を創造する必要があった。蛇紋岩系の石材に穴を開けた石製装飾品も、狩猟民族の標準的な財貨だった事を、21万年前の道南の遺跡から発掘された遺物が示しているから、硬い石に綺麗な穴を開けたヒスイ加工品の形状も、縄文前期に突然登場したのではなく、シベリア起源の標準財貨の亜流として登場したと考えられる。しかし氷期とは異なって使用者が豊かになっていた上に、更に硬い石に綺麗な穴を開ける事が技術的に可能になっていたから、それに相応しい物品としてヒスイ加工品の原初的な形状が生まれ、それが関東部族も含めた矢尻産業機構全体が使う標準財貨になると、全体の形状も整えられた縄文中期のヒスイ加工品の形状に収斂したと考えられる。

ヒスイ加工品の外形寸法は多彩だから、現代人はそれが標準形状である事に違和感を持つかもしれないが、一つの奇麗な穴が開いている事に貨幣価値があり、外形を整える事は付加的な行為であると考えれば、すべてのヒスイ加工品は単一的な価値を持つ基準通貨である事が認知できるだろう。形状を定型に仕上る為には穴を開ける事に等しい労力が掛かり、それには財貨価値を付与しなかったからだ。

ヒスイの原石は糸魚川や朝日町の海岸で拾えるから、原石に価値がなかった事は間違いない。ヒスイに奇麗な円孔を開けるには、竹に研磨剤を塗布して回転させたが、それには極めて高度な技能が必要だったから、その穴に価値があったと考えられる。これに紐を付け、首に賭けている縄文人の絵が流布しているが、奇麗な穴が価値の源泉だったから、縄文人はそれを紐で摩耗させる様な事はしなかったと考えられる。

矢尻産業を指導したのはシベリア起源の狩猟民族で、関東部族や北陸部族は彼らから矢尻を得る為に、この様な財貨を使ったのだから、狩猟民族の財貨感が両部族の財貨認識を規定し、琥珀とヒスイ加工品が流通財貨になったと考えるべきかもしれない。関東部族も北陸部族もその文化の後継者であり、シベリアの狩猟民族との交流は氷期から連綿と続いていたから、自然に決まる感性の共通性はあっただろう。

関東部族の交易圏では琥珀が流通し、北陸部族の交易圏ではヒスイ加工品が、縄文前期の早い時期から流通する様になると、矢尻職人は当座必要とする物資以上の価値の矢尻を生産すると、ヒスイ加工品や琥珀を蓄え、適宜双方が提供する物資と交換したと想定される。その時期の黒曜石の欠片は、矢尻だけではなくその様な財貨も兌換材とする通貨として、流通していたと考えられる。つまり共通の通貨は黒曜石の欠片で、ヒスイ加工品と琥珀が両部族のそれぞれの高額財貨である時代が生れた。

縄文中期の関東部族圏からヒスイ加工品が多数発掘された事は、矢尻職人の集落内で流通財貨が一本化され、ヒスイ加工品が貨幣のデファクトスタンダードになった事を示しているが、其処に至るまでには紆余曲折があっただろう。しかし関東圏の矢尻街道の宿場だけではなく、多摩地域や那珂川流域でも多数のヒスイ加工品が発掘された事は、その結果としての縄文中期の事情を示し、ヒスイ加工品が標準通貨のポジションを得た事を示している。

関東部族が推した琥珀がヒスイ加工品にデファクトスタンダード競争で敗れ、関東部族がその悔しさから北陸部族との接点だった阿久に、巨大なストーンサークルを作り、関東部族の存在感を北陸部族に誇示したと考える事は、時期や地理的な事情とも整合するから、順当な判断であると考えられる。

巨大なストーンサークルが建造されたのは縄文前期末で、天神遺跡の一つを例外とすれば、縄文前期の関東部族圏の遺跡から、ヒスイ加工品は発掘されていないし、天神遺跡から発掘された原初的な形態のヒスイ加工品も、発掘されていないからだ。またこの事情が、ヒスイ加工品が矢尻産業の標準通貨として、認定された時期を暗示しているとすると、矢尻産業が井戸尻遺跡群などの周辺産業も含む、複合的な経済活動として興隆した時期と整合し、高額通貨の標準化によって交換経済が活性化した事を示している事になり、各種の出土品との整合性も生まれ、体系的な歴史認識にも繋がる。

具体的に言えば、琥珀とヒスイ加工品がそれぞれの部族内で流通し、両部族は公式には相手部族の財貨を認知していない時期が長く続いたが、その時期に部族間の経済活動が民間レベルで高まり、両者のデファクトスタンダード競争が始まっていた事を、天神遺跡のヒスイ加工品が示している事になり、矢尻職人の意思によってスタンダード化したのではない事にもなる。両部族の協力を得たかった狩猟民族が、無理やりその様な事をした筈はないからであり、特に長年世話になった関東部族を裏切って、北陸部族のヒスイ加工品を採用する事はできなかった筈だから。

黒曜石の欠片は関東部族でも北陸部族でもない狩猟民族が、矢尻の生産によって蓄えた富を背景に貨幣化したから、両部族は抵抗なくそれを受け入れる事ができたが、琥珀とヒスイ加工品はそれぞれ関東部族と北陸部族の特産品だったから、両者は自分が使う通貨の標準化を望んだ筈だ。それは単なる感情論ではなく、弓矢産業の基幹部品である矢尻の実質的な価格を左右する事態だったから、容易に妥協できるものではなかっただろう。

関東部族が琥珀を入手する為には、それを探す労力を投入する必要があり、北陸部族がヒスイ加工品を入手する為には、ヒスイを加工する石材加工職人の労力を投入する必要があったが、どちらも自分の部族員の労力だったから、部族員の労力によって矢尻を入手できた。しかし相手部族の財貨を入手する為には、交易によって得た利潤を投入する必要があった。この大きな違いは現代社会であっても、製造業に勤務した経験があれば容易に理解できる。

従って相手の通貨は使わない状態が長期間続いた筈だが、民間レベルでの取引では徐々に両者が使われる様になり、次第に貨幣としての優劣が明確になっていったと推測される。

ヒスイ加工品が琥珀を押し退け、標準通貨に選定された事には必然性があり、その選択には経済的な合理性があった。それを現代的な感覚で説明すると利点が二つあり、一つはヒスイ加工品の価値が均一で、黒曜石の欠片との交換比率が決まっていた事になる。琥珀は重量がマチマチで品質にも差があり、その価値の評定には専門の鑑定士が必要だったから、誰でも容易に使えるものではなかった。

二つ目は、ヒスイ加工品は通貨の供給量を意識的に調節できた上に、発行量を無限に増やす事も可能だったが、琥珀の価値は金や銀と同様に存在の稀薄性を根拠にしているから、それらの通貨の供給量は供給者の裁量の範囲外になり易い。

これを具体的に言えば、ヒスイの原石は当時の糸魚川周辺に豊富にあり、原石には価値がなかったが、その堅い原石を職人が加工して奇麗な円孔を形成する事により、ヒスイ加工品の価値が生まれた。つまり職人の技量と加工に費やされた時間に価値があり、通貨の新規発行量は投入労働量によって決める事ができた。しかし琥珀はその材質が貴重品だから、経済が活性化して需要が増えると、産地で必死に探しても必要量を揃えられる保証はなかった。

これを現代的に表現すると、縄文人はマネーサプライの重要性を認識していた事になる。当然ながら縄文人が経済理論からその結論を得た筈はなく、その様な結論に至る過程があった事になるが、それは矢尻産業の運営過程で必然的に発生する事情だった。

その具体例として天神遺跡から発掘されたヒスイ加工品について推測すると、土器に収められた状態で発掘されたのは、このヒスイ加工品の所持者が関東部族の掟に抵触し、密貿易を行った事を示唆している。密かに土器の中に隠し持っていたが、周囲にそれを知らせずに亡くなったから、6000年後に発掘される事になったと想定されるからだ。これは事実ではなかったとしても、一連の事情説明を棄損するわけではなく、この様な事情であれば、デファクトスタンダード競争の実態を説明する事ができる想定になる。

関東部族にとって価値が一定していたヒスイ加工品は通貨として使い易く、北陸部族との密交易にも使う事ができたが、価値を判定できる者がいなければ使う事ができない琥珀では、部族間の秘かな取引には使えなかったからだ。

両部族の間に秘密の交易が発生する素地は、多分にあった。霧ヶ峰はシナノキの大産地であり、八ヶ岳山麓はウルシの大産地で、北陸部族も栽培していたが栽培履歴に大きな違いがあった。関東部族は氷期から一貫して関東に居住していたから、後氷期に温暖化すると一部の縄文人を関東に入植させ、八ヶ岳山麓や霧ヶ峰で栽培する事ができた。しかし石垣島を拠点にした北陸部族には、それは出来なかったから、石垣島時代には苦肉の策があり、後氷期に北陸に戻った際にも苦労があっただろう。従って生産規模だけではなく、栽培地の選定や品種改良に遅れがあった事は否めない。

特にウルシに関しては悲惨な状況があった。北陸部族の用途は磨製石斧や細石刃の固定用だったが、沖縄系縄文人は氷期から矢尻の固定用に使い、それに相応しい品種改良が別々に為されていただろう。矢尻を矢柄に固定する場合の接点は、磨製石斧や細石刃より遥かに狭いが、使用時の応力は圧倒的に強いから、ウルシの接着力を高める必要があり、それは長年の品種改良の成果に帰着せざるを得なかった。北陸部族はそれらを東北部族から入手した可能性もあるが、いずれにしても北陸部族にとっては、関東部族の良質のシナノキの樹皮やウルシは垂涎の的だっただろう。それを関東部族が知らなかった筈はなく、戦略物資として禁輸品に指定していた可能性が高い。

天神遺跡はそれらの物資を、八ヶ岳山麓から関東に運ぶ街道上にあり、北陸部族の矢尻街道があった佐久に最も近い宿場でもあった。これらの戦略物資を北陸部族に闇で流せば、大きな利益を得る事ができただろう。天神遺跡群は小さな沼の脇にあったが、食糧事情には恵まれていなかったから、北陸部族からアワを入手する事や、狩猟民族から獣肉を入手する原資として、それらの闇取引が行われていたとすれば、原初的なヒスイ加工品を所持していた動機も明らかになる。これはマーケティング的な推測だから、真偽を確認する必要はなく、その様な者がいても不思議ではない状況を指摘できる事が重要になる。

従って縄文前期中葉の天神遺跡の土器の中から、原初的な形状のヒスイ加工品が発掘された事は、ストーンサークルが建造された縄文前期末より早い時期に、本来は琥珀を使っていた筈の関東部族の宿場に、北陸部族の財貨であるヒスイ加工品が貯蔵されていた事は、民間レベルの交易が行われていた事を示し、民間レベルのデファクトスタンダード化進展していた事を示唆している。

話しを阿久遺跡のストーンサークルに転じると、これは多分日本で初めて作られた巨大石造施設で、関東部族の拠点だった阿久遺跡の付属施設だから、関東部族が何らかの目的で作った施設になる。

発見されている世界で最も古いストーンサークルは、トルコ南東部にある11600年~1万年前のギョベクリ・テペ遺跡だから、関東部族や北陸部族がツングースを介して西ユーラシアの情報を得ていたとすると、阿久遺跡のストーンサークルはその情報を得た関東部族が、北陸部族に対する示威的な建造物として作った可能性がある。この起源論は不確かではあるが、突然巨大なストーンサークルを作った関東部族が、その後も同様の遺構を各地に遺したわけではないから、石造物の建築は彼らの習俗ではなく、単発的な行為だった。海洋民族としては異例の心理が働いた結果として、巨大なストーンサークルを作ったとも言える。

この時期の関東部族と北陸部族のテリトリー境界については、関東系の尖底土器に類似した土器が阿久尻遺跡から発掘され、関東系の矢尻街道の宿場に特徴的な形状の土器が、尖石遺跡まで連なっている事は、山梨県~阿久遺跡~尖石遺跡までは関東縄文人の部族テリトリーだった事を示し、ストーンサークルは関東縄文人が作った事になる。

北陸縄文人の矢尻街道の上記3ルートは、何れも和田峠を越えて諏訪湖岸にアクセスするものだったが、和田峠は前後に急峻な山道がある標高1520mの峠であるのに対し、八ヶ岳のなだらかな山麓を周回して標高1370mの緩斜面で野辺山を超えると、流れが緩やかな千曲川沿いに佐久に出る事が可能であり、千曲川を渡って浅間山麓の緩やかな斜面を登れば、幹線的な矢尻街道の宿場があった、御代田町に行く事ができた。つまり北陸部族の矢尻街道も合理的に設定されたとすれば、八ヶ岳山麓を周回する方が合理的だったが、彼らは和田峠を越えたと推測される。江戸時代の中山道も和田峠を越えたが、それは中山道も集落を結ぶ中世の街道であって、地形的な合理性だけでルートが決まった、縄文時代の街道ではない事に留意する必要がある。

つまり北陸部族としては、八ヶ岳の南側の山麓は関東部族のテリトリーだったから、其処を避けて諏訪湖岸に達するルートとして、和田峠を越える必要があったと考えられ、矢尻街道を使った北陸部族はストーンサークルを見る事ができなかった。

伊那谷に入植した焼畑農耕者が生産したアワは、北陸部族の船が高遠か御堂垣外まで運び、そこから標高1000m程度だった金沢峠を越えて阿久に届け、それを関東部族の船が矢尻工房の集落に届けたと想定される。その様な北陸部族の運搬者が金沢峠を越えると、関東部族が建造したストーンサークルが目の前に展開していたから、阿久にストーンサークルを作ったのは、アワを運んで来た北陸部族に見せる為だった可能性が高い。ストーンサークルを眺望できる他の高台は、関東部族のテリトリーだった八ヶ岳山麓にはなく、全景を近くから見る事ができたのは金沢峠に登った人だけだったからだ。

関東部族の人々にストーンサークルを見せ、部族意識を高揚したかったのであれば、標高1115mの大泉山の東に標高1050の溶岩台地があり、そこが最も相応しいのに、其処ではなかった事は、ストーンサークルは部族内の人々に見せる為ではなく、北陸部族の人々に見せる為に建造した事になる。

大泉山からストーンサークルを見ると、標高差200m7㎞遠方にあるが、縄文前期末(5500年前)の金沢峠の標高は1150m以上あり、金沢峠から阿久遺跡を見ると標高差250m5㎞遠方にあった。金沢峠は「中央道晴が峰CC」と一体になったテラスで、隆起しなかったこのテラスの端が、現在の鏡湖を含む標高1000m程度のテラスであると想定される。現在は宮川がそのテラスの縁を流れているから、テラスはかなり浸食されて後退しているが、当時は宮川の河岸ではなく諏訪湖岸だったから、テラスは現在の国道20号辺りまで延伸し、その縁から眺めると、標高差100m1㎞先のストーンサークルを見る状況だったと想定される。

従ってストーンサークルの建造は、関東部族が北陸部族に示した示威行為だった可能性が高い。海洋交易で競合していた両部族の間に、深刻な感情の対立があったとすると、経済問題が深く絡んでいた可能性が高く、ヒスイ加工品が矢尻産業の標準財貨になり、関東部族が従来から使っていた琥珀が補助的な財貨物品になった事が、この様な事態を引き起こしたと推測する事に違和感はない。それによって矢尻産業の複合的な生産構造の中で、関東部族と北陸部族の経済的な立場が変化し、北陸部族の優位性が劇的に高まったからだ。

弓矢生産は問屋制家内工業の様な形態で行われ、縄文人の貴族層がその物流を差配する為に、各地の物流網を手分けして整備していたと考えられる。その様な仕組みの中では、部材の生産や完成品の組み立ては、各家族や一族単位の賃仕事にならざるを得ず、その代価の支払いとして原初的な時代に何が使われていたのか明らかではないが、矢尻が使える様になった縄文早期末には、矢尻を使ったと推測される。

しかし北陸部族が矢の生産に参入すると、即座に矢尻の需給が逼迫したから、流通していた矢尻を回収してその需要に充て、代わりに不良品を賃仕事の報酬に使ったが、その数も足りなくなると、大量に作る事ができる黒曜石の欠片を使う様になり、それが縄文前期中葉の事情だったと考えられる。従って黒曜石の欠片を使う必要があったのは、狩猟民族だけではなく縄文人の側にもあったから、物流を差配していた縄文人の貴族層が矢尻を生産していた狩猟民族と協議し、この様な状態を形成したと想定される。これらは場当たり的な弥縫策でもあり、未経験者が必然的に辿り着く状態でもあったが、黒曜石の欠片に矢尻の兌換性が付与され、それを縄文人も認知した事が、黒曜石の欠片を通貨とする事に安定性を付与し、膨大な数の流通に繋がったと考えられる。

縄文早期末~前期初頭の石斧工房だった大角地遺跡に、霧ヶ峰産の矢尻があった事は、縄文前期初頭に北陸部族が矢の生産に参入し、矢尻の逼迫状態が縄文前期に生まれたと想定される事と整合する。この段階で矢尻職人には2千年以上の量産経験があり、常に増産の掛け声が響き渡っていたから、生産性は徐々に必然性を以て高まっていた。また生産が逼迫した2千年前の矢尻職人は、食料さえ保証して貰えれば毎日生産に励む状態だったとしても不思議ではない。その様な矢尻の生産性が縄文前期に数倍になれば、それ以降の矢尻生産者は優雅な生活者になっただろう。

量産品は大量に売れることが分かると、設備投資が進んで生産性が向上し、製品価格が低下する事が常態ではあるが、製品価格が低下する理由は、生産者が市場競争に勝ち残る為に販売価格を下げ、薄利多売に走ってしまうからだ。しかし縄文時代の矢尻生産には競合する生産者はなく、需要は常に逼迫していたから、矢尻の単価が下がる理由はなかった。これを当時の事情に即して言えば、矢尻の生産性が高まっても、矢尻とコメやアワとの交換比率は変わらなかった。

矢を生産する縄文人の数が多かった事は、多数の縄文遺跡の存在が示しているから、矢を生産していた縄文人も生産性を高めていただろう。その結果として増産が進んだから、縄文前期の北海道やアムール川流域で、7千年前には石刃鏃が使われなくなったと考えられる。これは獣骨に対する弓矢の交換価値が下落した事を意味するから、矢尻以外の部材や組み立て単価が下る事により、矢の単価が下落した可能性が高い事になる。それを顕著に引き起こした理由は、関東部族の競合として北陸部族が参入したからであるかもしれないが、考古学者が示す土器年代はこの想定と一致しない。

矢尻を生産していた狩猟民族は、北陸部族を参入させる事によって矢尻の需給を逼迫させ、矢尻の市場価値を高める事に成功したが、関東部族にとっては競合者が登場する事により、弓矢の単価を引き下げざるを得なくなった。しかし生産技術や生産構造の改善によってそれを乗り切ったから、矢尻街道の繁栄を生み出した事になる。部族が一体になって取り組んでいた事業だから、改善項目には漁労技術や輸送の為の操船・造船に関わるものまで含まれただろう。

矢竹や弓の弦にするアサなどは、弓矢の歴史が長い沖縄系縄文人の方が優れた栽培種を持っていたから、北陸部族が参入したからと言って、関東部族の生産力の優位性は揺るがなかったと推測されるが、北陸部族の参入は価格破壊を引き起こした可能性が高い。それが市場の一般的な法則だから。

いずれにしてもこれらの状況の積み重ねとして、矢尻職人の経済事情が時間の経過と共に豊かになり、貨幣経済の必然的な結果として、それを当然視する風潮が生れたと想定される。北陸部族が伊那谷に阿波の栽培者を入植させ、矢尻職人の食生活を豊かにすると、それに危機感を抱いた関東部族が井戸尻にmt-Fを入植させ、蔬菜類を栽培させて矢尻職人の食卓を豊かにした事が、それを如実に示している。土器の説明の説で触れるが、組織に対する忠誠心が高かったmt-Fは、蔬菜類を栽培する為に井戸尻に入植しただけではなく、コメを栽培する為に甲府盆地や箕輪にも入植した。穀類の生産が経済運営の要だった事を示唆する、事例であるとも言える。

関東部族も北陸部族もこの様な経済活動の活性化の中で、矢尻職人に支払う手段として高額財貨が必要になる事は必然的な結果だった。その際に北陸部族はヒスイ加工品を考案し、関東部族は既存の財貨だった琥珀を増産したから、暫くはそれらがそれぞれの街道の通貨として使われ、それぞれの使用法がそれぞれの地域で進化したと推測される。

ヒスイは石斧を作るには硬すぎる石だから、石斧職人が加工具に使うか、石製装飾品を作る素材以外には用途が乏しい石材で、新潟南部や富山西部の産出量は無尽蔵に近かった。ヒスイ加工品は北陸部族の労働により、それを財貨に仕立てた物品だから、それが標準財貨になれば北陸部族にとって矢尻は、部族員の労働の成果として無尽蔵に得られる物品になった。課題はその需要の多寡だったが、矢の需要が右肩上がりに増加して経済活動も急速に活性化していた縄文前期には、いくら作っても作り切れない需要があると感じても、不思議ではない状態があった。発掘されたヒスイ加工品の陰には、縄文人が移住の際に持ち出した膨大な数のヒスイ加工品があった筈だから、各地で発掘されるヒスイ加工品は少なくても、その分布圏の広さから往時の数量を見積る事もできるだろう。

関東部族にとっては、琥珀を幾ら探し回っても必要量が充足できない状態になり、ヒスイ加工品が矢尻との主要な交換材になると、部族間交易によって得た利潤を使ってヒスイ加工品を入手しなければ、十分な数の矢尻を入手する事ができなくなった。

縄文早期の関東部族にとっては、八ヶ岳山麓に入植した縄文人が生産したドングリ、蔬菜類、鮮魚などを提供すれば、必要な量の矢尻を入手できたが、縄文前期になると矢尻職人に渡す追加物資がなければ、銚子で採取できる琥珀を代用する必要性が高まり、弓矢の生産量が増えて琥珀では対処できない段階に至ると、北陸部族との経済格差が露わになったと想定されるが、それが縄文前期末だったと推測される。

この様な事態になると、関東部族はヒスイ加工品を得る為に北陸部族と交易を行う必要が生れたが、矢尻職人が欲しがる物資を探し出し、それを矢尻職人に直接提供する事ができれば、ヒスイ加工品や矢尻を入手する簡便な手段になった。縄文中期に井戸尻集落の人口が急膨張した事は、その様な状態に追い込まれた関東部族が、矢尻職人との直接交易を求めた事を示している。

しかしそれだけでは膨大な数の矢尻の対価として微々たるものだったから、mt-Fが甲府盆地や箕輪盆地で稲作を行い、干貝、干魚、塩なども提供カタログに載せただろう。この頃浙江省の稲作者が、湖北省の稲作者の為に製塩を始めたから、その一部を持ち帰っていた可能性もある。東南アジアや大陸から物品を取り寄せる交易も行い、それを矢尻職人に販売する流れも生まれたと想定される。北陸部族もアワとヒスイ加工品を矢尻職人に提供しただけではなく、色々な商品も提供したと想定されるが、矢尻職人の住居跡が失われているので確かな事は何も言えない。

矢尻街道の遺跡は縄文中期に最も繁栄し、集落が拡大して土器の多様性高まったから、関東部族はこの課題をクリアした事になるが、交易に対する考え方を転換する必要に迫られた。それ以前の海洋民族の交易活動は、食料に余裕がある漁民の文化活動的な色彩が濃かったが、利潤追求型に転換する必要が生まれたからだ。生産した弓矢やシベリアで得た獣骨を、台湾起源の海洋民族に販売するとか、大陸の稲作民に磨製石斧を販売する様な、利益追求型の交易を開拓したと推測される。

その2で指摘した様に、縄文前期までの交易は利益に無頓着で、交易活動の推進の適否を部族内の労働量で対応できるか否かによって決めたから、経済的には無償労働に近くても、文化的な交流が必要であると感じれば、それだけで湖北省に塩を運び上げる事も可能だった。しかし縄文中期以降の交易活動には、利潤の多寡も重要な判断基準に加わっただろう。しかしそれだからと言って、関東部族が伝統的な交易活動を止めてしまう事はなかった。

以上を前提にストーンサークルについて再考すると、必要な量の琥珀の供給が途切れた事を契機に、関東部族の交易圏にヒスイ加工品が流入すると、北陸部族に対する関東部族の感情が抑え切れなくなり、関東部族の結束を高めて対抗意識を和らげるために、北陸部族に誇示する様に壮大な石造建造物を作ったと推測される。ヒスイ加工品の流入は、一旦始まると劇的に進行したと想定されるからだ。

矢尻職人は狩猟民族だったから、彼らがシカやイノシシの獣肉を好んで食べたとすると、家族を含めた数千人の需要は膨大になり、周囲の狩猟民の収穫では間に合わなくなって価格が吊り上がった事は間違いない。その様な状況で狩猟民族の懐具合が豊かになると、狩猟民族の人口が増えただろうし、他地域の狩猟民族が、矢尻職人に獣肉を届ける事ができる範囲内に流入する事も、必然的な結果だった。燻製や干し肉などを作る技能が向上してその範囲が広がると、中部山岳地帯には豊かな狩猟民族が多数生れたと想定される。

豊かになった狩猟民族はアワの大口需要者になり、北陸部族からアワを入手する際にヒスイ加工品を使う様になると、矢尻職人から受け取る通貨もヒスイ加工品を望む様になっただろう。北陸部族の漁労には網漁を多用し、関東部族は刺殺漁や釣漁が多かったとすると、狩猟民族にとって関東部族は獣骨を買ってくれるお得意様だったが、獣骨や鹿の角を纏めて放出する際に、黒曜石の欠片では高額過ぎて決済できなかったが、関東部族の琥珀ではアワ栽培者が受け取りを渋ったから、狩猟民族は関東部族にヒスイ加工品の認定を迫っていたと想定される。

狩猟民族が不猟に見舞われると、広大な湖だった諏訪湖や古松本湖の漁獲が必要になる場合もあり、遠路運ばれて来た海産物の干物が必要になる場合もあっただろう。その様な場合には諏訪湖や古松本湖の漁労権を持ち、物流網が整備された関東部族を頼りたかったが、手持ちの財貨がヒスイ加工品しか無ければ、関東部族に交換を渋られる事もあっただろう。

その様な大きな話ではなくても、中部山岳地帯の狩猟民は関東や北陸を往来していたから、財貨が2本立てである事に不便を感じ、琥珀の流入量が増加しない中で手持ちの財貨の殆どがヒスイ加工品になると、関東文化圏でもヒスイ加工品が使える事を強く要求する様になっただろう。北陸部族にはそれを拒否する理由はなかったから、狩猟民族と関東部族の話し合いでそれが許されると、ヒスイ加工品が雪崩を打った様に関東文化圏に流入したと想定される。

ストーンサークルが作られた縄文前期末には、上記以外にも関東部族に深刻な状況が生れていた。

縄文前期温暖期には、関東産の熱帯ジャポニカも狩猟民に多量に提供されていたかもしれないが、縄文前期の終末期に気候が寒冷化して関東の稲作は壊滅的な打撃を被り、経済的な苦境に陥った。その様な時期に通貨統合によるヒスイ加工品への標準化が進むと、衝撃は倍加したと想定される。逆に言えばこの様な事態に至って琥珀が払底したから、ヒス加工品による通貨統合が生まれた蓋然性も高く、「泣きっ面に蜂」状態だった。

 

別の観点から、ヒスイ加工品の貨幣化の流れを追跡する

基礎食料が配給されていた矢尻職人が、矢尻の生産量が増えて余剰の製品を蓄える様になると、それを原資に配給食糧より良質の食材を消費したくなる事は万国共通の経済傾向だから、敢えて証明する必要はないだろう。その状況が矢尻の生産システムの中で発生し、周囲の縄文人がそれに応える様になった結果が、縄文前期~中期に起こった経済的な繁栄であり、黒曜石の欠片やヒスイ加工品の普及や蓄積だったとすると、経済活動が法則通りに順調に拡大した事になり、矢尻職人だけではなくすべての生産業務の従事者に、出来高払いで報酬を与える状況になっただろう。適切な条件が整えば、それ通貨を使う事は必然的な結果だった。

縄文人は食料をすべて自前で生産する事ができず、日々の食料の一部は交換によって得ていたから、通貨が生れればそれを介した交換が生れる事は必然的な結果だった。彼らが日々の食料を得る為には、何らかの作業を行って食料を獲得する必要があったから、その作業に通貨が介在する事も、通貨があれば必然的な結果だった。しかし縄文社会に通貨が生れる事は、容易な事ではなかっただろう。矢尻産業圏以外の縄文社会に、通貨が生れた証拠はないからだ。

通貨が生れた過程の第一段階は、縄文人が矢尻職人に生産された矢尻見合った食料を提供する事から、生産性の向上によって矢尻に余剰が生れ、矢尻職人と周囲の縄文人がそれを貨幣代わりに使い始めた段階である事は既に指摘した。矢尻職人の手元に余剰の矢尻が生れると、彼らはそれを使って周囲の縄文人から好みの食材や日用品を入手する様になる事は、必然的な結果だから。

やがて矢尻の生産性が高まって在庫が溜まると、通貨的に流通する矢尻の量も膨大になったが、それは矢尻の増産と比較した矢の生産体制増強の遅れも意味したから、狩猟民族は関東部族の増産の遅れに苛立ち、北陸部族を参入させる交渉を行い、縄文前期初頭に北陸部族の参入が決まったと推測される。

それが実現して北陸部族の生産が軌道に乗ると、今度は矢尻の需給が逼迫したから、狩猟民族は市場から矢尻を回収する為に流通している矢尻を仕損品と交換したが、それだけでは市場に出回っていた矢尻を全て回収するには至らなかったので、黒曜石の欠片を多量に作り、それを使って市場に出回っていた矢尻を全て回収した結果、市場では黒曜石の欠片が流通する様になったと想定される。

この過程も縄文前期前葉には終了していたから、縄文前期の遺跡から多量の黒曜石の欠片が出土した事になる。

縄文前期~中期には、関東部族と北陸部族が競い合いながら増産に励んだから、矢尻の需給がタイトな状況が慢性的に続き、それによって豊かになった矢尻職人に対し、関東部族も北陸部族も食料を配給する仕組みを停止し、成果に応じて対価が支払われる出来高払の傾向を強めると、彼らが恣意的に食料を調達する環境が生れ、貨幣経済が実質的に成立したと考えられる。矢尻の需給が逼迫した状態が継続すれば、両部族はより多くの矢尻を得る為に、生産性が高い矢尻職人にインセンティブを与える様になる事も、必然的に起こる増産刺激策になる。

腕の良い矢尻職人が豊かになる状態が恒常化すると、矢尻生産にも技術革新が恒常的に生まれて生産性が高まるが、矢尻と穀類の交換比率が固定されていれば、矢尻職人は周囲の縄文人と比較して極めて豊かな人々になり、彼らに奉仕して代価を得る縄文人が登場する事も、交換経済の中では必然的な成り行きになる。

矢尻職人が更に生産性を高めると、やがて食料の為だけに矢尻を生産する状態から脱却し、より豊かな生活を求める様になる事も必然的な結果だった。

職人の数が増えながら、彼らの本来の食料である獣肉志向を強めると、獣肉の価格が高騰して狩猟民族にも恩恵が生き渡っただろう。その際の通貨として需給がタイトな矢尻は使えなかったから、矢尻と同数の黒曜石の欠片を使ったと推測されるが、その数を無制限に増やす事に危機感を抱けば、何らかの抑制策が生れる必要があった。

超額貨幣の流通量が膨大になると、高額貨幣が誕生する事は必然的な結果出ると言えるのか、論理的には明らかではないが、数の勘定が面倒になる事は間違いない。但し琥珀の価値は定額ではなかったから、琥珀を使う方が便利だったとは言えない。

宝貝貨の成立過程の説明で、使用者である荊の高い倫理観と信頼関係、及び関東部族との信頼関係が必要だった事を指摘したが、通貨の使用者である矢尻の生産者が黒曜石の欠片を作ったから、この様な状態の矢尻職人の倫理観と相互の信頼関係、及び縄文人との信頼関係は更に高度なものが必要だった。自身で簡単に製作できる黒曜石片を矢尻と同数だけ通貨として使用し、その状態を厳守しなければならなかったからだ。矢尻の製作者がそれを厳守している事を、縄文人が認知している事も必要不可欠だった。縄文時代を研究している考古学者は、肝に銘じて欲しい事実になる。

関東部族が提供する琥珀が、矢尻職人に支払う高額貨幣の役目を一応果たしてはいたが、琥珀には量の制限があったから、矢尻職人の手元に黒曜石片が溢れる状態は恒常化し、事態は年々悪化の方向に進んだと想定される。

北陸部族が供給量に柔軟性があるヒスイ加工品を矢尻職人に提供し始めると、この問題を解決する糸口が生れ、北陸部族がヒスイ加工品の増産に走る事は必然的な結果だった。北陸部族が増産に走っていたのは縄文前期の中葉だった事を、天神遺跡から発掘された原初的なヒスイ加工品が示している。

それによって琥珀が高額貨幣としての価値を喪失したのか否かに関わらず、北陸部族が矢尻職人に支払う高額貨幣はヒスイ加工品に収斂し、関東部族にも狩猟民族を経て、ヒスイ加工品の流通圧力が高まったと推測される。

関東部族がそれを認めなければ、やがて関東部族の経済が混乱する事態が予見できる状態になると、関東部族は渋々それを認めざるを得なかったが、一旦認めると狩猟民族の手を経てヒスイ加工品が一斉に流入したから、関東部族はその悔しさを抑え切れずに関東部族の存在感や、弓矢交易を始めたのは関東部族である事を北陸部族に誇示する為に、阿久遺跡に隣接する場所にストーンサークルを建造したと推測される。

ヒスイ加工品が高額財貨として登場した段階で、矢尻との交換比率は決まっていたと推測される。琥珀は重量や材質がまちまちで、交換比率は個別に設定しなければならなかったから、ヒスイ加工品が登場すると便利さの上でも標準財貨としての価値を失い、目利きの鑑定を必要とする財産になった可能性が高い。豊かな社会では、その様な物品の財産価値が高まる傾向があるから、それはそれで所持する別の意味があったかもしれない。

伝統文化を維持する事に熱心だった日本人の祖先は、その比率を矢尻の生産が終息するまで墨守し続けたと想定される。つまり矢尻の価値が低下すると、それと共にヒスイ加工品の価値が減価したから、大陸が青銅器時代になった縄文後期に矢尻の需給がだぶついて価値が下がると、それとの交換比率が固定していたヒスイ加工品の価値が低下したから、それに変わる物品として勾玉が生れたと考えられる。

勾玉はヒスイ加工品より軽量だから、ヒスイ加工品より価値が低かったと考えるのは、縄文人の価値観に理解がない判断であると言わざるを得ない。彼らの価値観では、加工に手間が掛かるほど価値が高かったから、穴が一つしかなく外形はサービスとして整形されたヒスイ加工品より、外形も規格化された勾玉の方が価値は高かったと考えられるからだ。

ヒスイ加工品の大きな穴より勾玉の小さな穴の方が、加工は難しかったと考えられる事もその根拠になる。大きな穴は粒度が荒い研磨剤で成形できるが、小さな穴を奇麗に開ける為には粒度が細かい研磨剤を精製する必要があり、研磨剤の生成工程の高度化が必要になっただけではなく、研磨剤の粒子が細かければ研磨速度は劣化するからだ。膨大な数のヒスイ加工品が流通した筈だが、価値を失った時代の廃棄物として沢山発掘されないのは、回収されて勾玉になったからである疑いがある。

関東部族は荊と共に宝貝貨を貨幣化し、ツングースの為に別の貝貨を作ったが、このデファクトスタンダード競争に敗れた事を、新しい貨幣制度の創設に際して教訓にした様に見える。沖縄で無尽蔵に採取できる宝貝や、太平洋の沿岸で無尽蔵に採取できるビノズガイを採用したからだ。どちらも供給量に制限がない事に加え、加工者が使用の一員である必要はないのと認識に類似性があった。

従って上記の指摘は経済諭を弄ぶ者の単なる思い付きではなく、古代人の知恵の深さを考慮して正しく歴史を解釈すると、必然的に帰結する事態であると考えられる。古代人が子孫に伝えた伝承は、要点を正確に捉えていた事を指摘する教材にもなるだろう。これに関しては経済活動の成熟期の項で、最古の史書である竹書紀年を解釈しながら再度指摘するが、その対象は倭人ではなく、夏王朝を運営した荊や浙江省起源の製塩者になり、古代人が正しい情報や信義を重んじた状況は、東アジアの他の民族にも見られる現象だった。

現在流布している王朝史観は、古代人を原始的な人達だったと貶めているが、交易に関わった民族はこの様な驚異的な交易システムを構築していたから、古代人の実情を正しく把握する為には、王朝史観から脱却して事実を直視する必要があると共に、この様な古代人を虚偽に満ちたプロパガンダ塗れの人々に変えたのは、農耕民族化による耕作権の奪い合いであり、それを配分する為に生まれた政権の腐敗や権力闘争だった事も認知する必要がある。王朝史観はその様な農耕民族の社会から生まれた事も、正しく把握する必要があるだろう。

 

ヒスイ加工品に財貨性を付与した縄文社会

縄文社会は豊かだった様に見えても、各種の産業が生まれて経済が発展するほどには、食料の生産性は高くなかった。保存可能な穀類の生産性は不十分で、食料の多くを保存性が劣悪な海産物に頼っていたから、その日暮らしの生活を強いられていた事が、この時代の人々を交易的な民族に仕立てたと考える必要がある。従って食料の生産性が低い社会の当然の帰結として、交易目的は食料の確保に留まり、漁民社会では漁労の生産性を高める獣骨の取得に偏重した。

漁労を主体としていた東日本では、特にその傾向が強かった事も必然的な結果だが、それに成功して連続的な食料生産が可能になると、栽培系狩猟民族の社会より、豊かな生活を享受する事ができる様になった。その結果として、関東や北陸が世界有数の人口密集地になった事も、漁労の生産性の高さを考慮すれば当然の帰結だった。

ヒスイ加工品の発掘例が東日本に多いのは、それが矢尻産業の裾野に拡散した財貨だったからであり、その事実が東日本の縄文人の、海産物依存度の高さを示している。つまり東日本の縄文人は漁獲を維持拡大する為に、その生産者だった漁民を支援する必要があると認識し、漁民を基盤とした海洋民族の経済活動に積極的に協力した事を、ヒスイ加工品の発掘事例が示している事になる。従って弓矢産業は巨大な産業システムになったが、現代的な感覚での自由経済の拡大ではなく、飽くまでも食料を安定的に生産する為の巨大な協業体制に過ぎなかった。

農耕の生産性維持・発展は基本的に個人が行うもので、必要に応じて灌漑や農地の整備を集団的に行ったが、それは稲作社会の特徴だった。焼畑農耕には磨製石斧の供給システムが必要だったが、それも焼畑農耕に限定される仕組みであって、畑作で天水農耕を行うアワや麦の栽培者には、共同作業体は必要なかった。

海洋民族化した縄文社会では、漁労の生産性の維持・向上は、総掛かりで遂行しなければ実現できなかったから、巨大な産業ステムとして弓矢産業が生れたが、食料生産から離れた経済活動を活発に行う食料の余裕はなかったから、一致団結してその企業化に取り組んだが、社会目的が変われば解散してしまう仕組みだった。その変化が起こる最大要件は、栽培技術の進化による農耕の生産性向上と、鉄器の普及による農地の拡大だった。

厳しい労働に耐える事により、日々の生活の資を得ていた縄文人にとって、最も価値があるものは労働行為だった。また厳しい自然に立ち向かっていた縄文人にとって、先祖伝来の技能は生活の資を得る貴重な財産だったから、それを集めていた職人が労力を掛けた人工物に価値を見出した事についても、古代人は知恵に満ちた人々だった事を認めれば、多くの議論を必要としないだろう。つまり縄文人にとって通貨の価値は、質の良い労働の結晶と見做す事によって生まれたと考えられる。

ヒスイ加工品の価値は選ばれた職人の労働の成果物で、簡単に拾える原石には価値がないと考える事は、この発想の必然的な帰結だった。荊が使った宝貝やツングースが使った貝貨は、その様な縄文人が作り上げた貨幣概念を輸入し、安定的な利便性を求める為に合理性を付加した制度になったが、貨幣制度を無から立ち上げた縄文人が、貨幣に実物的な価値がなければならないと考える事は、必然的な結果だったと考えられる。

日本では石で作った貨幣が根強く残り、金銀の価値があまり重視されなかったのは、この様な理由があったからだと推測される。物品の価値は労働と技能の蓄積によって生まれると考えていたからだ。日本人が細部の品質に拘るのは、その方が使い易いからではなく、細部まで手が掛かっている物品の方が、価値が高いと認識しているからだと指摘されると、納得する日本人が多いのではなかろうか。つまり同じ定価が付与されていれば、価値が高いものを選ぶのは当然の行為だからだ。これを逆に言えば、労働によって有形無形の価値を生み出す人が尊敬され、それができない人は見下される社会を形成したからでもある。

狩猟民族が琥珀を財貨としたのは、異なる発想があったからだと考えられる。海洋漁民ほどの機動力がなかった故に、交易によって得られる狩猟具や石材に重要な価値があり、その入手には万難を排す必要があったから、入手し難い物品を財貨にする事が発想の根底にあったのではなかろうか。つまり漁民も縄文人も、事の帰結はすべて投入した労力と知恵の如何によって決すると考えたが、シベリアの狩猟民族にとってそれは真実ではなく、交易によって外部から導入する石材や弓矢に大きな価値があった。

ドングリの毒性から逃れたかった縄文人にとって、西日本で生産されたアワは海産物に匹敵する品質があったから、東日本の縄文人の様に多量の海産物を求める必要はなく、海産物を増産する機運が高まらなかった事が、東西の生活文化だけではなく社会構造も異なる状況にしたと考えられる。

東日本と西日本の文化を異なるものした別の要素として、東日本の縄文人が主要な食料にし続けた堅果類は、栽培に多くの労力を要さなかったから、海洋民族的な活動に参加する時間的な余裕があったが、焼畑農耕でアワを栽培する事は重労働だったから、西日本の栽培者には文化力を高める時間的な余裕がなかった事も挙げられる。東日本にも穀物栽培者はいたが、交易の為の厳しい労働を強いられたのは男性達で、栽培を生業とする女性達の食糧確保に関する負担が軽かったが、食料を穀類に依存する度合いが高かった西日本では、女性の労働負担が重かったから、女性が作る土器に大きな違いが生れたと考えられ、東西の文化比較に土器を用いる事には、再考の必要があるだろう。鳥浜貝塚から赤い漆が塗られた櫛が発見された事は、彼らの豊かさを示しているからだ。

部族内で職能的な組織が必要になると、交換経済を発展させていた共生社会を基盤として、既存組織が自律的に発展したと想定される。その基底には優れた者を指導者とする、貴族性が生れていた事は間違いない。「大夫」と呼ばれる原初的な階層名称が後世まで遺されていた事が、その事情を窺わせる。

大型魚を追う集団的な漁法を発展させていた漁民や、堅果類の樹林を共同で形成する習俗を持っていた縄文人には、それに対応する組織的な基盤があった。3民族が異なった役割を担う、独自の共生文化を発展させていた沖縄系縄文人は、その発展への順応力が強かったから、弓矢製作の産業化を主体的に推進したと想定され、弥生時代以降の関東部族は北陸部族と比較し、階層的な身分制度の発達が見られなかったのは、関東部族の沖縄系縄文人の、精神文化的な伝統に依るところが大きかったと考えられる。

民族共生を実現していた縄文人の交易社会では、職能化した各民族の目的が明確になれば、専門家集団として職能的に組織化される事は、必然的な結果だったと考えられる。有効な役割分担が形成されると状況の変化に柔軟に対応できるし、その際に強力なリーダーは必要ないからだ。それが日本型企業の特徴でもあるから、日本人の組織論は弓矢生産を起源にしている疑いもある。

具体的に言えば、明確な目的を持った代表者の話し合いで、各組織の責務とノルマが調整されただろう。それ以上の情報はないが民間企業の経験者は、組織階層がなくても明確な目的があれば、組織化は不可能ではないと認識しているだろうから、突飛な事を言っているのではない。弓矢産業の様に目的が明確な事業では、全員の意思が一致する事に大きな意味があったから、全員が一致するまで話し合いを行う日本人独特の習俗も、縄文社会から生まれた可能性が高い。

王朝史観を信奉する史学者は身分階層に関わる記述を好むが、実務者の世界では肩書は余り意味を持たない。固定的な階級社会を必要としたのは、農地の耕作権に固執する農耕民族を支配する組織であり、官僚制を駆使する王朝はその最右翼的な存在だった。王朝の組織は賄賂や権力闘争に塗れ、権威を飾る儀式の運営に精力を傾け、機能的に運営されなかった事は周知の事実だから、その様な王朝が文明的であり、縄文人の組織は未開だったと決め付ける事に疑問を持つべきだろう。

 

発掘に関わる追加的な事情

八ヶ岳山麓では縄文後期になると集落が急速に衰退し、伊那谷の遺跡も縄文後期になると殆ど放棄される。曽根遺跡に多量の矢尻が残された事は、矢尻加工が継続していた事を示し、それを支える集落も縄文後期まで存続したが、伊那谷の廃村化が急速に進展したのは、穀類が依然として矢尻の価値を基本とした、公定価格で取引されていたからである疑いがある。縄文後期になると大陸が青銅器時代になり、矢尻の販売が不振になって過剰生産状態が生まれ、矢尻の実勢価値が下がったから、公定数で取引されていなかった物産は、インフレを起こして対応したと想定されるが、雑穀は依然として公定の矢尻数で販売していたとすれば、生産者の収支が合わなくなったからだ。

ヒスイや琥珀が沢山発掘される地域として、関東では多摩地域の他に那珂川流域がある。那珂川の上流には黒曜石の産地である高原山があり、縄文人が黒曜石を採掘した跡が那珂川の支流で発見されている。高原山の黒曜石も矢尻に加工され、北関東で流通した事が分かっているから、那珂川流域の縄文人も弓矢を製作してシベリアに輸出し、豊かな食生活を享受していた事を示唆している。那珂川流域で発掘されたヒスイ加工品は、彼らの矢尻にも公定価格が適用されてヒスイ加工品と交換された事を示している。

南関東では神津島や箱根の黒曜石で製作した矢尻が流通し、高品質な神津島の黒曜石は搬入地だった伊豆半島東岸に遺物が残っているが、箱根や伊豆半島ではヒスイ加工品は殆ど発掘されない。これらの地域の矢尻は輸出用の矢に装着するものではなく、国内向けに生産されたものだったから、弓矢交易とは縁がない人達が使う物品の産地として、ヒスイ加工品が流通しなかったとも考えられるが、別の答えもある。

八ヶ岳山麓の矢尻は輸出用途が主で、国内にはあまり出回らなかったから、神津島や箱根の黒曜石で製作した矢尻が流通した様に見えるが、それらは本当に狩猟用だったのか、それとも他の用途だったのか考える必要がある。八ヶ岳産の矢尻は輸出用の矢に使う高品質品だったから、それを貨幣的な流通媒体として使う事に経済合理性がなく、縄文前期に北陸部族が矢の生産に参入すると矢尻の需給がタイトになり、その代わりに仕損品や黒曜石の欠片が流通した事を、関東まで拡大して考える必要があるからだ。

つまり諏訪湖岸や伊那谷では黒曜石の欠片が流通したが、関東部族は昔から箱根や神津島の黒曜石を使っていたから、それらの欠片と区別する必要があり、関東では霧ヶ峰産の黒曜石の欠片ではなく、神津島や箱根の黒曜石で本物らしい形状のものを作り、通貨にした可能性が高いからだ。その為には矢尻に類似した形状のものを大量生産する必要があったから、価値が低い模造品を粗製乱造していた集落が富裕になる事はなく、ヒスイ加工品の蓄積には至らなかったと想定される。八ヶ岳山麓で発掘された住居址に、多量の黒曜石片が残されていているものが含まれているが、全てではなくい状態は、その住民が関東平野に移住したからだとすれば、辻褄が合うからでもある。

この推論の帰結として、現在の関東の畠で多量に採取できる矢尻は、通貨として使われたものであり、その量の多さから、流通量を推測する事ができる事になる。その観点で現在も畑で拾える矢尻を見ると、製作時の不良品だったと素人目にも分かるものが含まれ、出荷時の選別不良品だった疑いが濃い。

諏訪湖岸や伊那谷でも仕損品を通貨としていたが、それほど多量に発生するものではなかった事は、縄文遺跡の出土状況から明らかだから、「良貨は悪貨を駆逐する」という法則を適用すると、これらの地域から発掘された矢尻の欠損品と黒曜石の欠片の数量比は、実際に流通した比率ではなく、矢尻の形状のものがあれば使わずに保存し、唯の黒曜石の欠片を使っていたと考える必要がある。従って実際には、八ヶ岳山麓や伊那谷の遺跡から発掘される矢尻形状の黒曜石の、何十倍~何百倍もの黒曜石の欠片が縄文社会で流通していたと考えられる。

縄文後期に矢尻産業が衰退すると、矢尻を製作していた狩猟民の経済力も凋落した。矢尻モドキや黒曜石の欠片は、狩猟民の経済力が兌換性を保証する事によって流通していたから、彼らがそれに耐えられなくなれば、「以後はその様な事ができない」と一斉に触れ回る必要があった。それまで矢尻モドキや黒曜石の欠片を大切に蓄えていた人々が、それを聞いて憤り、野原にばら撒いたものを、現在の小学生などが拾い集めていると推測される。諏訪や伊那の小学生は黒曜石片には見向きもせずに矢尻モドキを拾い集めるが、それでも総計は膨大な数になるから、この地域では多量の黒曜石片が通貨として貯蔵されていた事になる。

それ以降の日本人は江戸期に至るまで、この苦い教訓を語り継いで、貨幣を使わない経済活動に切り替えた可能性が高い。特に痛い目を見た東日本では、通貨を使わない信用経済が発達したと推測され、後世に遺された習俗の幾つかをその証拠として挙げる事ができる。

勾玉を通貨として積極的に活用した痕跡が、あまり見られない事が第一に挙げられる。また皇朝十二銭と呼ばれる銅貨を発行しても、殆ど流通しなかった事も指摘できる。江戸時代末期に至っても、庶民の一般的な決済方法は歳末に決算する掛け売りだった事も挙げられる。

特に掛け売りは高度な信用システムで、庶民にも当たり前の様に普及していた事は、貨幣経済が発達する以前に成立していた事を示唆している。つまり矢尻モドキが貨幣価値を喪失した事を契機に、新たに発達した交換経済の仕様が、掛け売りを基本とする高度な信用システムだった可能性が高い。ちなみに関東部族が荊と共に宝貝貨の制度化を推進し、ツングースが貝貨の制度を発足させたのは縄文後期前葉だから、この時期にはまだ黒曜石片は通貨としての機能を維持していた。

掛け売りの始原的な手法としては、特産品を交換し合う場合にその場では決済せず、年末に1年の収支を勘案して過不足を判定し、それで支払うのではなく、収支バランスが得られる様に次年度の数量を調整し合うものだったと想定される。共生民族間の食料収支や物品収支は、共生が始まった時からその様なものだった筈だから、それがこの時代にも制度的に継続していた事は、当然の事情として考慮する事ができるだろう。縄文人や漁民は身内の勘定であっても、その様な手法を多用していた筈だから、その様な社会に貨幣が浸透し、やがて消滅したと考える必要がある。この交換の実態は、お中元をお歳暮で返す様な発想だから、難しい事ではなく、その際に価格を釣り合わせる発想は、この仕組みの名残である疑いもある。

遠方の集落であっても、機会を得て歳時的な交換関係を結ぶ事ができれば、毎年それを安定的に入手できたと同時に、その対価も自分達の特産品で安定的に支払う事ができたから、市とは別の機能として経済活動の発展に寄与しただろう。市が開催されて近隣各地から特産品が持ち込まれても、農産物や魚介類は毎年同じ商品が出展された筈だから、それを知っていた人々にとってはその市では欠品状態であっても、1年を通した交換交渉は容易に成立しただろう。つまり市の機能は、即物的な交換機能だったと決め付ける事に問題があり、むしろ見本市の様相が高かったのかもしれない。その様な社会では地域経済が発展し、むしろ都市経済は貧弱になるから、都市の貴族は地域経済に依存する事を望み、都市の物品販売機能は成長しないが、王朝時代まで都市はその様なものだった疑いもある。

いずれにしてもこの制度を運用する為には、貨幣経済を運営する事と比較し、特段に厳しい信頼感が必要だから、それに対応できる倫理観を当事者全員が共有する必要があった。日本人はその様な感性を江戸時代まで持っていた事を、来日した外国人の手記も示している。

この様な制度では売り切りという概念はないから、生産者は市で売る以上に商品の評判に神経質にならざるを得ず、商品品質に厳しい日本人独特の国民性を生み出した可能性もある。またこの様な制度下では経済単位になった集落や家族が、交換に耐えられる特産品を作らざるを得ないから、商品経済の発展を促進し、勤勉な生産者を多数生み出したと推測される。誰がどの様な交換経済に参加しているのか、容易に分かる制度だったからだ。

王朝期や中世の農民や商人が、神社を中心に「座」と呼ぶ組織を作り、王朝の統治とは別の管理組織を維持していたのも、彼らの自治意識の強さだけが理由ではなく、信用経済の運用には地域の実情に精通している必要があったからだとすれば、地域分断型の小政権が生れた理由を提供する。

日本人の価値観には非農耕民族的なものが多く、王朝期以前の伝統に由来すると考えざるを得ないから、その起源は縄文社会にあると考える必要がある。

 

2-3 縄文土器と矢尻街道の土器

2-3-1 東北の土器

三内丸山遺跡の土器と石器は、縄文早期前葉の九州縄文人のものと類似し、縄文文化の形成期の項に示した様に九州に拡散した沖縄系縄文人が、縄文早期前葉に九州土着の原日本人と共に、東北に入植した事を示唆している。縄文早期に九州から関東に入植した沖縄系縄文人は、九州式よりずん胴で底部が尖った茅山下層式~打越式の尖底土器を使い、九州縄文人も関東からmt-B5+M7bが入植すると、轟式から始まる関東風の土器に変えた。

石垣系縄文人が拡散した日本海沿岸では彼ら独自の土器を使い、アワ栽培者は粕畑式から石山式に至る土器を使ったから、九州直系の縄文土器を使用した三内丸山の縄文人は、関東や北陸を経て北上したのではなく、九州土着の原日本人の船で直接東北に移住した事になる。

三内丸山遺跡出土の土器と石器(縄文前期、中期)

筒型形と口縁部の突起が、九州の縄文土器と類似

鹿児島県定塚遺跡出土遺物

11,500年~10,000年前(縄文早期前葉)

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大陸では縄文早期は超温暖期だったが、黒潮の昇温が遅かった為に日本列島では縄文早期後葉から超温暖期になった。定塚遺跡が営まれた縄文早期前葉の九州は、温暖にはなったが超温暖期と言えるほどの暑さはなかったが、縄文早期後葉には極めて温暖になり、それに伴う環境変化に応じて土器の形状が多彩になった。縄文早期前葉の形状を示している三内丸山遺跡の土器は、彼が東北に移住したのは1万年以上前だった事を示し、1万年前に九州縄文人が関東に大量移住した事と整合する。

東北縄文人は、冷温帯気候から暖温帯気候に変わる前の九州から、冷温帯域の東北に移住したから、定塚遺跡時代の生活様式を変える必要がなく、縄文中期まで同じ気候域で生活したから、土器を含めた道具類に変化がなかったと考えられる。東北縄文人は他地域の縄文人より人口が少なかった事も、土器様式が変化しない原因だったと考えられる。

彼らは山形以北の日本海沿岸に移住したが、7千年前から対馬暖流が定常的に流れる様になると、海岸砂丘が発達して海洋漁民の生活環境が失われたから、北東北に追い出されたが、三内丸山遺跡が縄文前期(7千年前~)から営まれたのは、その結果である可能性が高い。

関東部族や北陸部族は大陸の各処から多数の女性を招き、多彩なミトコンドリア遺伝子を遺したが、東北縄文人のミトコンドリア遺伝子はそれとは対照的に、縄文時代を通して原日本人のmt-N9bと原縄文人のmt-M7aを主体に、シベリアの狩猟民族起源のmt-Dが少数混入していただけで、大陸の女性が流入しなかった事も、他地域の様に土器の様式が変わらない原因になったと考えられる。

関東に移住した九州縄文人は尖底土器を使う様になったが、この地域には関東の様な水郷的な環境がなかった事も、東北・道南に移住した縄文人が土器の形状を変えなかった理由の一つに挙げられる。海岸砂丘が内陸に巨大な湖を生み出したので、河川の川洲さえも失われたからだ。

三内丸山遺跡から海洋性の魚骨が沢山出土し、クジラの骨製品も発掘され、海洋漁民の集落が近くにあった事を窺わせている。突くだけの銛や釣り針などの簡単な漁具しか出土せず、離頭銛や魚網用品は出土していないが、クリを多量に栽培していたから、漁民との交換によって海産物を入手していた縄文人の遺跡である事を示している。食用とした野獣の骨は野うさぎやムササビなどの小型獣が多く、鹿や猪の骨は少ないから、狩猟者だったY-C1は別の集落にいた事になり、白神山地東麓遺跡群がその有力候補地になる。

当時の津軽平野は巨大な湖だったから、多数の円筒土器が発掘された石神遺跡はY-O3a2aの集落で、この遺跡が縄文中期に絶えたのは海岸砂丘が形成した古津軽湖の水位が上昇し、遺跡があった丘が水没したからだと考えられる。津軽平野の山際の平坦地は標高40mもあるが、遺跡がある丘の標高は20m程度しかないからだ。従って古津軽湖の湖面は縄文中期に最高位になったと想定され、湖を形成した海岸砂丘は徐々に標高を高めた事を示している。

三内丸山から北海道産の石を使った磨製石斧や尖頭器、長野県産の黒曜石の矢尻、新潟産のヒスイを含む石製装身具や漆器が発掘され、鹿の角や骨を加工して製品を作っていた痕跡も発掘されている。秋田のアスファルトや岩手の琥珀も発見され、交易のために特産品を生産する3民族の分業体制が、東北でも形成されていた事を示している。新潟産のヒスイや八ヶ岳山麓の黒曜石は、北陸部族との交易があった事を示しているが、物資の多くは東北や北海道の物産で、磨製石斧は新潟産ではなく北海道の日高産の石だから、彼らの交易範囲はあまり広くなかった事を示唆している。九州や山陰の原日本人には海洋交易に対する積極性が欠如し、海洋航行の力も限定的だった上に、海洋民族化するには不可欠だったY-O2b1の数が少なかったからだと考えられる。他の地域には多数のY-C3狩猟民がいたが、東北の狩猟民の多くは縄文人のY-C1だったと想定されるからだ。

三内丸山で栽培されていたクリは、ナラ類より温暖な気候に適した樹種だが、縄文前期は現在より56℃高温だったから、現在の関東南部や西日本の様な気候だった青森でも、クリの栽培が可能だった。現在の茨城県は栗の産地だから、縄文前期~中期の青森の三内丸山遺跡、是川遺跡、函館の大船遺跡でもクリの収穫を維持できた。

しかし縄文中期に寒冷化すると、これらの地域はクリ栽培の北限になったから、生産性に危機感が生れてヒエの栽培化が進んだと推測される。根釧台地に黒ボク土が分布し、伊予部族のmt-M7aがヒエを栽培した事を示唆しているからだ。しかし彼女達は縄文晩期寒冷期に北海道でのヒエ栽培を諦め、東北に移住したと推測される。

秋田や山形では北陸系の土器が使われた時期もあり、部族境界が安定していなかった事を示唆している。これは厳格な部族主義者だった漁民の習俗と矛盾するが、対馬海流が形成した海岸砂丘が八郎潟以南の海岸に発達し、海洋漁民は住めない地域になったから、東北部族が縄張りを放棄した事を示唆している。

日本海沿岸にいたのは対馬部族と隠岐部族で、三内丸山遺跡と石神遺跡、及び白神山地東麓遺跡群は、古津軽湖の周辺の遺跡だから、白神山地などのY-C1が生産した獣骨を石神遺跡などの湖沼漁民が集荷し、三内丸山遺跡の北西海岸にあった漁民集落に運び、共生集団を形成していたと想定される。八ヶ岳山麓や矢尻街道の様な、縄文人が集積する特段の事情がなければ、この様な分散形態が彼らに相応しいライフスタイルだった事を示唆している。

日本海沿岸の東北部族には、海岸砂丘によって巨大な湖になった古米代湖を活動域にした集団もあり、能代市の竹生(たこう)川が形成した湖は狭く、海岸砂丘が早い時期に失われたので、その河口にあった漁民集落の漁民と、古能代湖を活用していた縄文人が共生集団を形成していたと推測されるが、それらの詳細は経済活動の成熟期の項で検証する。

三内丸山は遺跡が保存される環境に恵まれていたから、現在までその姿を遺しているだけではなく、縄文中期末まで継続したので遺物も遺されているが、竹生川流域にある杉沢台遺跡は縄文前期~中期の間に断絶し、その住民だった縄文人の移転先は不明なので、遺物も発掘されていない。

三内丸山遺跡は下北半島と津軽半島に守られた陸奥湾の奥にあり、数百年に一度の大津波の被害を免れただけでなく、周囲を低い山で囲まれ、遺跡の脇を流れる小川は水源まで数キロしかないから、川が多量の土砂を堆積して遺跡を埋めたり、土砂と共に遺跡を流したりする事がなかった。青森平野を形成した他の複数の河川は、平野が形成されても遺跡から離れた場所を流れ、遺跡を埋め立てる事もなかった。津軽半島は隆起地形だから、地盤が沈下して埋もれる事もなかった。

この様な優良な保存条件を備えた海岸平野は、東北地方のみならず日本全国にも殆どない。伊予部族の拠点集落だった是川遺跡も、標高40m程の丘に挟まれた新井田川の隘路の奥にあり、縄文時代には太平洋の荒波を遮る狭い水路の奥の、小さな湖の畔にある天然の良港だったが、新井田川が沖積地を形成する過程で拠点的な集落跡は破壊されてしまった疑いが濃い。函館の大船遺跡も是川遺跡に類似した環境に漁民集落があり、発掘された遺跡はその近傍の縄文人集落だったと推測されるが、山の斜面にある狭い平坦地の集落だったから、大規模集団ではなかった疑いがある。

三内丸山と杉沢台は、いずれかが対馬部族の集落で、他方が隠岐部族の集落だったと推測されるが、決め手になる証拠はない。強いて言えば三内丸山遺跡に霧ヶ峰産の矢尻が遺されている事が、輸出用の矢に使う矢尻に興味があった事を示唆し、隠岐の黒曜石を使った矢を沿海州の狩猟民族に出荷していた、隠岐部族らしさを示唆している。現在の島根県人の中に津軽弁に親近感を感じる人がいるから、それらが傍証になるかもしれない。

最上川の上流に巨大な古山形湖があり、Y-O3a2aが展開できる環境があったから、そこにY-O2b1Y-C1も集まり、沖縄系縄文人の共生集団を形成していた。彼らと海洋漁民の連絡路だった最上川は、縄文前期には河口に海岸砂丘が形成され、巨大な古庄内湖の付近には能代市の竹生川の様に、砂丘を破って日本海に注ぐ川が生れなかったから、海洋漁民は上記の地域に北上した。

古山形湖の周囲にいた縄文人はこの様な状態に遭遇すると、古福島湖に進出して那須にいた関東部族の縄文人と親交を深めたと想定される。関東周辺の黒ボク土は、mt-B4が熱帯ジャポニカを栽培した痕跡であると考えられ、それが那須高原まで広がっている事は、mt-B4は縄文前期温暖期に那須高原まで北上したと考えられるからだ。この地域から関東系の土器が出土する事も、それを示唆している。

縄文後期になると、東北縄文人は稲作者になる為に九州や中国地方の山地に入植し、東日本的な環状集落と東北的な土器を遺したから、その土器の製作者だったmt-M7aの中に、関東のmt-B4伝来の熱帯ジャポニカの栽培者がいた事になる。山形盆地は夏季には那須より温暖になるから、この地域のmt-M7aが関東のmt-B4と接し、東北の稲作者になっていたと考えざるを得ない。但し青森で縄文中期末まで円筒土器が使われた事は、青森は余りにも関東や山形から遠く、縄文人の交流範囲は限定的だった事を示している。

その様な状態であれば、青森にいた東北部族が山形で稲作を行っていたmt-M7aと共に、九州や山陰に入植した事を奇異に思う人がいるかもしれない。

部族意識が強かった関東部族と北陸部族は、経済活動で競合していただけではなく、両部族の縄文人は沖縄系と石垣系という大きな違いがあったが、東北縄文人はそれぞれの海洋漁民と連帯し、部族意識を形成していたのか、沖縄系縄文人という意識しかなく、関東を含めて同じ民族であると認識していたのか、判断できる確かな証拠はない。

関東部族に拡散したmt-Aや稲作系のミトコンドリア遺伝子が、また北陸にいたmt-Gmt-M9mt-Aが、東北縄文人から発見されていない事が、異なる部族だった証拠にはなっているが、それを活動範囲が狭かった縄文人の部族意識と解釈する事の、妥当性にも疑問がある。

関東部族の縄文人と、通婚するほどの一体感はなかったとしても、同じ沖縄系縄文人としての親近感から文化的な交流があった事を、青森にいた対馬部族(宗像)と隠岐部族(出雲)が縄文後期に、稲作者として九州と山陰に入植した事が示していると考えるべきかもしれない。山形の縄文人は対馬部族や隠岐部族の漁民と共に東北に移住した縄文人だから、対馬部族や隠岐部族の漁民もできる限りの事はしていただろう。

東北縄文人が編み出したウルシを使う装飾技術は、彼らが共生文化を維持していただけではなく、他地域の海洋民族と交易する際の特産品にしていた事を、鳥浜貝塚から発見された赤い漆を塗った櫛が示している。しかし東北縄文人には伝統的な遺伝子しかなかったから、彼らの交易相手は日本列島の人々だけだった様に見えるが、沿海州から発掘される黒曜石の矢尻に、隠岐の黒曜石で作ったものが多数含まれている事は、沿海州の狩猟民族との交易事情を示しているから、漆器もシベリアに輸出していたと考える必要がある。また縄文前期に弓矢産業に参入したのは、北陸縄文人だけではなかった事になる。

沿海州は元々北陸部族の商圏だった事を、チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴で発掘された6000年前の石製装飾品が示唆しているが、そこが隠岐部族の商圏に変わった事は、北陸部族と隠岐部族の間に取引があった事を示唆し、隠岐部族が支給する矢羽根が、北陸部族には必要不可欠な部材だった事も示唆し、北陸部族が隠岐部族や対馬部族を自分の文化圏に囲い込んだ事を示唆している。従って彼らが縄文後期に出雲や宗像に移住した後も、倭人時代が終わるまで北陸文化圏の人々の様に振舞った素地が、この時代に形成された事になる。

 

2-3-2 矢尻街道の土器

中部山岳地から発掘される縄文前期~中期の多彩な土器の造形は、この地域の豊かさを示すと共に、海外から渡来した女性達が此処に集まり、国際色豊かな意匠を生み出した事を示している。関東部族の縄文人のmt-M7aは、同じmt-M7aであってもY-O2b1Y-O3a2aY-C1をペアにする事により、異なった民族としての多様性を内包していた。そこにmt-Aが渡来し、更にmt-B4+M7cが渡来し、縄文中期初頭にはmt-Fも渡来したから、関東部族の女性達の感性は多様だった。mt-B4+M7cも統合された文化を持つ女性ではなく、B4M7cはそれぞれの母から異なった栽培思想を受け継ぎ、それに基づく感性を持った女性達だった。

この様な装飾的な土器は大陸から発掘されていないから、彼女達が接した縄文社会の豊かさが彼女達に創造性を発揮させると共に、異文化の女性達に対する競争心が、多彩な装飾土器を生み出す原動力になったと推測されるが、それらに関する具体的な話に入る前に、指摘して置きたい事がある。

考古学者は縄文遺跡を発掘する際に、遺跡の年代を確定する手段として、土器形式を参照している。21世紀にはC14年代が多用される様になったが、20世紀にはこの測定に酷く時間が掛かり、安易に行う事は出来なかったから、遺跡の年次決定は土器の編年のみで行われた。考古学者はその精度を高める為に、各地の遺跡の層序から前後関係を割り出すなどの、膨大な作業を経て標準土器を決め、土器時計とも云うべき表を作成した。

遺跡から出土する土器は欠片しかない事が多いから、土器の形状では土器時計を設定できず、欠片の模様を使うしかなかった。従って土器の編年は模様で行われるが、形状より安易に設定できるものだから、判定に曖昧さがある事は否めない。更に言えば土器には地域性があり、その拡散の層序は絶対年代を示さないから、土器時計には地域性があるだけではなく、諸説がある状態から免れていない。

八ヶ岳山麓は縄文遺跡が多く、著名な遺跡は20世紀に発掘されたので、標準土器が発掘された遺跡でさえも、C14年代が確定している遺跡は殆どない。20世紀の考古学者はそれらの遺跡から新しい模様の土器が発掘されると、既に確定している標準土器を参照し、その前後関係から新しい土器の年代を決めたが、八ヶ岳山麓に多数の人が住み始めたのは縄文前期であるとの先入観があり、八ヶ岳山麓で標準化された土器形式は縄文前期を遡らない傾向がある。

八ヶ岳山麓起源の標準土器になった神 ノ木遺跡の土器と、この遺跡に隣接する広井出遺跡の発掘報告書を参照し、その辺りの事情を示す。

広井出遺跡の発掘報告書に以下の様に記されている。

土器は縄文時代早期、前期、後期のものが検出されている。 この中のほとんどは、住居時期決定の左証となった、縄文時代前期前半の資料である。この時期のものは、大きく2時期に区分が想定可能であり、前出とみられるものを前期初頭、後出とみられるものを前期前葉として、帰属時期を示した。前期は他に末葉のものが少量検出されている。早期のものには押型文、貝殻沈線文、絡条体圧痕文、条痕文土器がみられ、後期は前半のものとみられる。いずれも破片が少量検出されている。

これに続いて主要な住居址の発掘事情が記され、住居毎に発掘された土器に関する記述があるが、縄文前期の標準土器が含まれるとの記述はなく、繊維土器に縄文が施されているものを縄文前期の土器と判定している様に見える。

その中の4号住居址に関する記述は興味深い。

「本址は一回建て替えられていると考えられるので、旧住居址と新住居址とに分けて報告する。内部に50号土坑があるが、検出状況から旧住居上の施設と考えられるものである。」

「土器は60点を示した。復元された第21 5 6 7 3個体はいずれ も無繊維である。 5は波状口縁部に垂紐が貼付される。 6は指頭圧痕を残す薄手土器で、口縁部を2段の刺突文が巡る。内外に成形痕が観察 される。 7は地文が無節縄文、口縁部に補修孔が 2ケ ある。第221632も無繊維である。2425は口縁部に垂紐が貼付される。2628沈線による格子目文が施される。32は指頭圧痕を残す薄手上器で細線文が描かれる。第223336・第231 29は繊維土器である。第223334は無文、3536は表面が条痕状である。第2317は縄文沈線文、ボタン状貼付文によって施文される。 829は地文に縄文が施される。 817は羽状構成となる。23の底部は上げ底となり、接地面にも縄文が施される。28の縄文原体は反撚り、29はループ文である。第23303350号土坑から出土したものである。いずれ も無繊維である。3031は無文、32は指頭圧痕を残す薄手土器である。33は貝殻腹縁により施文されるもので、縄文早期に比定されようか。

 上記の土器の特徴は縄文早期のもので、貝殻紋は縄文早期前半の九州縄文人の土器に使われた模様だから、これらが示しているのは1万年前にツングースとの弓矢交易が始まると直ぐに、或いはカムチャッカの狩猟民族との獣骨交易が始まった12千年前に、九州縄文人の一部が八ヶ岳山麓に移住して関東の漁民の為に、冷涼な気候でなければ生育しないウルシ樹を栽培した事を示唆している。この遺跡から黒曜石製の刃物石器が多数発掘され、ウルシ樹に刻みを入れて樹液を採取する道具だった事も示唆している。

神ノ木遺跡の報告書には、「出土した土器は中越式、関山式、黒浜式、木島式、北白川下層 I式に比定される土器群と共に、櫛歯状工具による施文土器があり、これが昭和31年に検討分類され、「神 ノ木式」土器の標識土器として認識された。」と記されている。しかし広井出遺跡の発掘報告書と併せ、これらの施文が本当に時間的な順序を以て特定の住居内で使われたのか、甚だ疑問であると言わざるを得ない。

縄文遺跡は溶岩台地上にあり、時代の経過と共に湖面標高が低下し、縄文人も湖岸を求めて低地に移動していった筈だから、山麓の遺跡にはその年代層序が認められるはずだが、実際には段丘末端の標高800m付近の遺跡が縄文前期のものとされたり、それより高所にあるものが縄文中期の遺跡とされたりするなど、大幅に乱れている。

阿久尻遺跡の発掘報告書には、驚くべき事が記されている。

  阿久尻遺跡から発掘された土器

本遺跡からは、A区で16軒 、BC区で24軒の住居址が検出されている。この中にはA区の平安住居址 1軒、 BC区の縄文早期住居址 1軒、縄文中期住居址7軒を含んでいる。それ以外の住居址は、地文に縄文をもつ神ノ木式期かと思われるものもあるものの、いずれも縄文時代前期前半の中越式上器を伴っている。

この遺跡には太い柱を使った、高床式と思われる矩形の建物跡があり、その柱の跡と思われる穴に地殻変動によると考えられる地割れが発生しているので、この建築物は地殻変動が起こる前に作られた事になる。地殻変動が起こった時期を推測する為に、地割れを埋めている土壌を分析すると、姶良火山灰(3万年前)が含まれているが鬼界アカホヤ火山灰(7300年前)は含まれていないので、この建築物は7300年前を遡る時期のものになる。

この様な遺跡の一般的な状態として柱穴に木柱痕が残り、その腐食によって土壌化するから、炭素の含有量が多い。その炭素からC14年代が測定できる事を期待し、穴の中や周囲の土壌成分を分析したが、穴の中の土壌に特に炭素含有量が多い状態はなかった。調査を委託された人もそれに困惑し、

「柱材が柱穴内で自然に朽ちた可能性は低いと考える。このような分析調査事例は、これまでにほとんど行われておらず、試料の採取方法や分析項目の選択など、調査方法に関 しても検討の余地が残される。」「分析手法ばかりでなく、土質工学、建築学などの観点からも検討を加え、堆積構造を理解 して、今回の調査結果を再評価する必要があろう。」と驚きを示している。

太平洋の湿潤化によって豪雨期が始まり、それまで安全だと思われていた湖岸の高台が浸水し、屋根や梁がしっかり固定されていた高床式の住居が完全に冠水すれば、木造の建物全体に浮力が掛かり、この様な事態が起こっても不思議ではない。豪雨期初頭の激しい降雨によって突然湖の一部になったから、建物が流水によって横向きの力を受ける事もなく、柱が真直ぐ上方に引き上げられたのではなかろうか。

従ってこの建物は、太平洋が湿潤化した8000年前には建てられていた可能性が高く、この建物の周囲にあった住居址から発掘された土器に、上掲の様な完形が含まれている事とも符合する。従って中越式上器縄文時代前期前半ではなく8千年以上前の土器で、それより古い神ノ木遺跡は九州の上野原遺跡と並行期の遺跡になる。その様に解釈すれば、八ヶ岳山麓の遺跡から九州的な貝殻紋や施条紋土器が発掘される事を、合理的に説明できる。

つまり遅くとも九州縄文人が大挙して関東に移住した1万年前に、八ヶ岳山麓にも縄文人が入植して弓矢生産に参加した事を、神ノ木遺跡や広井出遺跡などの標高1000m以上にある八ヶ岳山麓の遺跡が示している事になる。この解釈は歴史事実と整合するから、異論を挟む余地はない。

阿久尻遺跡の住居址はそれより新しく、標高880mの溶岩台地に作った高床式の建造物を囲んで、8千年以上前の住居があった事になる。

九州縄文人にとってウルシ樹は重要な栽培種だったから、温暖化が始まった12千年前には、八ヶ岳山麓で栽培する必要性に迫られていただろう。但しそれが事実化すると、ヤンガードリアス期が始まる直前の13千年前も同様な気候状態だった筈だから、それ以前に八ヶ岳山麓に入植しとしても不思議ではない。更に話を敷衍すると、16千年前に縄文人が九州に上陸した際に、原縄文人は沖縄で既に同じ問題に悩んでいた筈だから、九州に上陸した先遣隊の先頭集団は堅果類の栽培者ではなく、ウルシ樹の栽培者だった可能性が高い。ウルシ樹は堅果類の高い生産性が期待できる温暖な気候地域では、生産性が低下するから、縄文人が沖縄から九州に上陸するとウルシ樹の栽培者は関東に移住し、温暖化が進むと八ヶ岳山麓に移住したと考えられるからだ。

神ノ木遺跡や広井出遺跡は標高1000m以上の溶岩台地上にあるから、ヤンガードリアス期に諏訪湖の湖面が1000mに急上昇した際に、もっと低い場所から逃げ上がった縄文人の集落になり、それ以前の集落址は理論的に発掘できないから、発掘できない事はなかった事を意味しない。

ヤンガードリアス期の末期の低温化は、九州南部を現在の青森の様な気候にしたから、その時期の八ヶ岳山麓の標高1000mは森林限界になり、ウルシ樹の栽培者がいたとしても関東近辺に移住し、シナノキの栽培者がこの地に居住していた事になる。

ヤンガードリアス期が終わると気温は急上昇し、再び標高1000m地点がウルシ樹の栽培地になっただろう。諏訪湖の湖面は950mに低下していたが、神ノ木遺跡や広井出遺跡の地理的な環境としては、湖東(こひがし)から流れ出る今は失われた川が芹沢に流れ込み、その頃の芹沢には現在の厚い堆積土はなく、湖岸の湿地だったと想定されるから、広井出遺跡の人々が水場の土器である尖底土器を使う環境があり、発掘事情と整合性がある。

以上に雑駁な可能性を指摘したが、神ノ木遺跡や広井出遺跡の土器には縄文早期土器で、中には更に古いものがあるとすると、上記の可能性が現実的になり、縄文人の八ヶ岳山麓への入植は縄文草創期に始まっていた可能性が高い。ヤンガードリアス期以前の遺跡は豪雨によって失われてしまったから、何も発掘されなくても入植していた可能性が高いからだ。

以上の事情を纏めると、関東縄文人が八ヶ岳山麓に初めて入植したのは15千年~13千年前で、最初の目的はシナノキの栽培で、やがてウルシ樹も栽培する様になったが、その遺跡はヤンガードリアス期の豪雨によって失われた。大陸が超温暖期になった1万2千年前に、八ヶ岳山麓の栽培種はウルシ樹になり、シナノキの栽培地は霧ヶ峰に変わった。ウルシ樹の栽培者は、標高1000m以上の神ノ木遺跡や広井出遺跡を集落とし、シナノキの栽培者は集荷拠点を標高1050mの尖り石に設定した。ウルシ樹の栽培者には湖岸近い地域の腐葉土が必要だったが、シナノキの栽培者は安全性を求め、標高が高い微高地を選定したからだ。

1万年前に弓矢の増産に大号令が掛かり、9千年前に古箕輪湖の湖面が低下して天竜川を遡上できなくなると、弓の出荷拠点として阿久遺跡を設営した。阿久尻遺跡は阿久遺跡に隣接した場所にあるが、太い柱を使った高床式らしい遺構は梨木遺跡でも7棟分が発掘されているから、弓の貯蔵庫ではなかったと考えられる。梨木遺跡は標高910m930mにあり、この様な集落跡はウルシ樹の栽培者の集落だったと想定されるから、高床式らしい遺構はウルシの保管庫だったと考えられるからだ。

従って阿久尻遺跡は阿久遺跡に隣接したウルシの保管庫で、弓の集荷とは関係なく、阿久地区は全ての物資を集積する拠点だった。

8万年前に太平洋が湿潤化して豪雨期になると、標高884mの阿久尻遺跡に建設した高床式の竪穴住居は水没し、標高904mの阿久遺跡は、集落の両側を流れる阿久川と大早川が氾濫して水浸しになったから、この二つの拠点は標高が高い他所に移転したと考えられる。

阿久遺跡を復活させた理由は、金沢峠を越えて弓を運び込む為には、この場所に搬送拠点を設置する必要があったからだが、危険な場所だったから梨木集落の様な大集落にはならなかった。阿久遺跡は縄文前期末に廃絶したから、伊那谷にアワ栽培者が入植してアワを運び込む様になった事は、阿久遺跡を復活させた理由ではない。

 阿久尻遺跡の発掘報告書には、柱穴の土壌を分析すると、黒ボク土が流入していると記されている。黒ボク土はmt-B4が火山灰性の台地で稲作を行った痕跡だから、超温暖期の関東に渡来した9千年前のmt-B4は、標高1000mの冷涼な高原でもイネの原生種を盛んに栽培した事になる。関東の平野で台地が不足したから、八ヶ岳山麓に栽培地を求めた事になるが、この様な高地で稲作を行った事に驚きがある。mt-B4は台湾起源の海洋民族を主導した遺伝子だから、関東部族の交易活動に興味を持つと積極的に参加したが、稲作も忘れられなかったから、標高1000mの台地で両立を図ったと推測される。

mt-B4が中南米でトウモロコシを栽培化した期間が、極めて短期間である事に驚きを禁じ得ないが、イネの原生種の北限を超えていた関東平野より、更に6℃も気候が冷涼な八ヶ岳山麓で、耐寒性が乏しいイネの原生種を盛んに栽培した事に、彼女達のバイタリティーの凄さを感じざるを得ない。mt-B4mt-Dとは全く異なる性格の女性だった事を示し、9千年前の日本列島はかなり温暖だった事も示している。

八ヶ岳山麓に定住した縄文人は、沖縄系縄文人に特徴的な3民族の共生社会を形成し、シナノキやウルシ樹を栽培していた筈たから、シナノキやウルシ樹の栽培者はY-O2b1の男性で、Y-O3a2aが諏訪湖で漁労を行い、Y-C1が水鳥を狩っていた事になる。

これらを前提に土器を編年しなければ、八ヶ岳山麓の縄文史は構築できないが、考古学会は阿久尻遺跡を、縄文前期の遺跡であると決め付けている。茅野市のHPはそれを以下の様に示している。

「阿久尻遺跡では、縄文時代前期前半(6700年から6450年前)の竪穴住居がもっとも多く見つかっている。」「竪穴住居以外に、大人一人がすっぽり入るくらいの穴が数個、正方形や長方形に並ぶ謎の施設が20か所あり、この遺跡の大きな特徴になっている。この「謎の施設」は、いつごろ作られたのさえはっきりしないが、縄文前期前半の竪穴住居とセットになっていたと考えると、遺跡内の施設の配置がしっくりくるので、縄文時代前期前半のものと考えている。」「ひびを埋めていた黒土の中に、南九州で約7300年前に降った鬼界アカホヤ火山灰は含まれていないことがわかり、このひびは鬼界アカホヤ火山灰が降り積もる前にできて黒い土が詰まったことになる。」「阿久尻遺跡の集落を構成していたと考えている「謎の施設」が先に作られ、そして地震が起きてひびができたことがわかったと記したが、年代では「謎の施設」の年代=67006450年前であるのに対し、地震の年代が約7300年前に降り積もった火山灰よりも古いことになってしまい、おかしな話になってしまう。「謎の施設」だけ、作られた年代を古くして考える必要があるかもしれません。」

考古学会が桑野遺跡を縄文早期末の遺跡であるとし、正しい時代に繰り上げる事を頑なに拒否しているのは、世界最古の石製装飾品は、中国で発見されている事にしたいからだと指摘したが、阿久尻遺跡の高床式住居の年代を、縄文前期に押し留めて置きたいのは、河姆渡遺跡から発掘された高床式の住居址を、世界最古の高床式の住居址にして置きたいからだろう。

ウィキペディアは河姆渡遺跡について、「中国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した、新石器時代の文化。」としている。

世界大百科事典第2版は以下の様に解説している。

「中国東部,杭州湾南岸,浙江省余姚県河姆渡村に存する中国新石器時代早期の遺跡。197374年に発掘された。遺跡は丘陵と平原の過渡地にあり,4層からなっている。最下層の第4層には高床式建築遺構の基礎と考えられる円柱,方柱,板などを打ち込んだ13の杭列が発見された。遺跡が沼沢地に面していたことに高床の原因があるらしい。用材には枘(ほぞ)や枘穴があり,建築工芸のさえが見られる。これらの加工には石斧と石鑿が使われたが,刃部磨製の初期段階のものである。」

河姆渡遺跡の高床式建築は住居址だが、阿久尻遺跡のものは太い柱を使った倉庫群だから、仮に同じ時代であっても技術は阿久尻遺跡の方が高度で、それを多数建造する政治体制が整っていた事になる。阿久尻遺跡の発掘報告書は、「方形柱穴列はA区で1棟、BC区で19棟の計20棟が検出されている。検出されたのは台地のほぼ平坦になっている箇所で、その外側である、台地の平坦面から斜面にかかる位置に住居址がある。」と指摘している。

中華至上主義を堅持している考古学者は、この様な不都合な事実は一切認めないが、桑野遺跡はアワ栽培者の痕跡の鍵になる遺跡で、阿久遺跡と阿久尻遺跡は八ヶ岳山麓に展開した弓矢産業の、実態解明に欠かせない遺跡だから、年代を胡麻化している人達に縄文史を語る資格がない事は明らかだ。遺跡があると開発事業を休止させ、発掘は義務であると主張している人達の実態がこの様なものであれば、何をしているのか分からなくなる。

八ヶ岳山麓から出土する土器の器形は多彩だから、色々な感性を持った女性達が集まっていたと考えられ、それは上記と一致するが、井戸尻遺跡群から出土した土器群は、八ヶ岳山麓や釈迦堂遺跡の土器群とは、趣が異なる独特の感性を示しているから、新たな女性が井戸尻に入植した事を示している。南箕輪村の久保上ノ平遺跡と、甲府盆地の鋳物師屋遺跡の土器にも類似した感性があり、両遺跡は井戸尻遺跡群にはない扇状地上の遺跡で、稲作者の存在を連想させる共通性があるから、井戸尻を含めたこれらの遺跡はmt-Fの入植地だった事を示している。

久保上ノ平遺跡は標高700m地点にある縄文中期寒冷期の遺跡だから、耐寒性に難点があった温帯ジャポニカの栽培が可能だったのか疑問があるが、南箕輪村には特殊な地理環境があった。気候が温暖だったのではなく、温帯ジャポニカの弱点だった短日性を狂わせ、平地より1か月早く開花する事により、一か月早い収穫が可能になる要素があり、晩秋の寒さによって不稔になるリスクを低減していたと想定されるからだ。

南箕輪村では標高700mの扇状地の南西15㎞ほどの場所に、標高2500以上の木曽山脈の高峰が連なっているから、温帯ジャポニカの短日性は、昼と夜の時間が同じになる秋分に開花するものだったとすると、この峰が8月の日照時間を20分短縮した。南東の赤石山脈の峰が更に10分短縮すると、この地域では8月下旬に昼と夜の時間が同じになり、温帯ジャポニカが平地より1か月早く開花した可能性が高い。鋳物師屋遺跡も南西に標高2000mの櫛形山の峰が連なり、こちらは南西だけの効果だが距離が近いから、木曽山脈より大きな短縮効果が期待できた。つまり古甲府湖の西岸でもその様な効果が期待できたから、鋳物師屋遺跡などの川洲にmt-Fが入植したと考えられる。播種期を1か月早める必要があったが、太陽暦を使った海洋民族には対応する天文知識があった。

矢尻街道から外れていた伊那谷でも、矢尻街道沿いの集落に似た多彩な器形の土器が作られたが、街道文化の劣化模倣の様に見える。矢尻街道の宿場だった山梨県の釈迦堂遺跡は、八ヶ岳山麓から伊那谷より遥かに離れていたが、独創的で多彩な土器が発掘されているからだ。

北陸部族の主要な矢尻街道だった信濃川流域(十日町・長岡)では、火炎土器が多数発掘され、関東部族の街道文化の影響を受けた北陸部族が、彼らの象徴として火炎土器を生み出した事を示唆している。北陸陸部族は宿場の土器を、火炎土器に定型化する傾向があった事を、北陸陸部族の文化が波及した地域で、類似の土器が発掘されている事が示している。

ウィキペディアが火炎土器の出土地について、以下の様に説明している。

信濃川流域の新潟県、長野県北部、阿賀野川流域の福島県西部の出土数が多く、富山県、山形県南部、群馬県、栃木県から少数出土することがある。出土点数の大半は信濃川中流域に集中し、長岡市の馬の高遺跡、十日町市の笹山遺跡や野首遺跡などで、特に多く出土した。

阿賀野川流域の福島県西部は奥会津と呼ばれる地域で、其処を流れる阿賀野川の支流である阿賀川の源流は、黒曜石の産地だった高原山に連なる山岳地だから、会津側にも黒曜石の採掘地があり、奥会津と新潟の間にも矢尻街道が設定されていた事を示唆し、ヒスイ加工品の分布と一致する。

蛇紋岩の産地だった群馬は、関東でありながら焼畑農耕者の入植地だった事は、律令制下で群馬を上野(上ツ毛(食)国)と呼び、栃木を下野と呼でいた事と合致する。毛(食)は北陸部族がアワを指した言葉だからだ。群馬は蛇紋岩の産地だが栃木では産出しないから、縄文時代に群馬に焼畑農耕者が入植し、鉄器時代になってから栃木に拡散した事情を示している。律令制下では都に近い国か遠い国かは「前」「後」で識別し、近江国(近淡海/琵琶湖)と遠江国(遠淡海/浜名湖)は遠近で区別したから、それらと異なる上野と下野は、地域住民の認識を基本にしたと想定されるからだ。

焼畑農耕が行われた伊那谷には火炎土器がなく、八ヶ岳山麓の劣化模倣品が出土するのは、宿場文化の中心地に近いので、その文化に圧倒された事を示唆している。アワを背負った伊那の女性達が金沢峠を越えて諏訪湖岸に至ると、宿場にも出向いて多彩な土器が並べられた光景を何度も見たからだろう。

北陸に向かう幹線的な矢尻街道は、十日町以降は信濃川に沿った河岸段丘上に設定され、宿場集落で火炎土器が作られたが、この街道の長野県や群馬県の宿場では、火炎土器と類似しているが装飾が異なる土器が作られた。

http://w2.avis.ne.jp/~jomon/culture/img/ph_16.jpg

焼町(やけまち)土器 長野県北佐久郡御代田(みよた)町、川原田遺跡出土 

焼町土器は浅間山麓を中心に中信地方と群馬県に分布し、その代表的な遺跡である川原田遺跡は、十日町に向かう矢尻街道上にあった。この土器の基本形は火炎土器と同じだが、装飾の意匠は火炎土器とは異なる。川原田遺跡を含む塩野西遺跡群について、川原田遺跡の発掘報告書に以下の記載がある。

縄文早期に複数の遺跡があり、塚田遺跡から山形文・楕円文・格子目文の押型文土器、完形に復元された鵜ケ島台式土器、山梨県古屋敷遺跡のⅣ群と類似した縄文施文の尖底土器、田戸上層式土器や、東海系の木島式土器の破片も出土し、多様である。下荒田遺跡では、早期後半の沈線文系土器群が数多く出土 している。

縄文前期初頭の遺構として、下弥堂遺跡から竪穴住居址14軒と土坑16基、塚田遺跡で竪穴住居址12軒の集落が検出された。両遺跡出土の尖底土器は従来「中道式」 と呼称されたが、塚田遺跡の資料によって「塚田式」との型式設定があらためてなされた。

縄文前期の遺跡としては、本遺跡および塚田遺跡などがある。塚田遺跡は神ノ木式土器および関山Ⅱ式を伴う集落で、本遺跡の南側約 l kmに位置する。城之腰遺跡では、神ノ木式土器を含む竪穴住居址が5軒検出されている。

縄文中期の遺跡としては、本川原田遺跡のほか城之腰遺跡と滝沢遺跡がある。滝沢遺跡では中期初頭の五領ヶ台式並行の土器や、深沢類型とされる土器を出土した住居がみられる。中葉~後葉前半の遺構は、隣接する城之腰遺跡でも住居数軒が検出されているが、本川原田遺跡での竪穴住居址46軒の検出は、注目されるところであろう。出土した中期中葉の「焼町土器」は長野・群馬を中心に分布し、本遺跡から出土した「焼町土器」は質量ともにこれまでのものを上回り、充実した資料となった。

中期後葉としては、滝沢遺跡で加曽利E34段階の土器をもつ敷石住居が検出され、良好な資料となっている。

縄文後期の前葉では、同じく滝沢遺跡において称名寺式・堀之内 I・Ⅱ式土器等が充実 して出土 している。 また西荒神遺跡でも、称名寺式土器をもつ竪穴住居址が検出された。

縄文晩期の遺跡は、本遺跡の2km南にある戻場遺跡が確認されているにすぎない。

川原田遺跡を含む塩野西遺跡群の人口が縄文前期~中期に増え、縄文後期に衰退が始まり、晩期に無人に近くなった事情は、矢尻街道の宿場の特徴を備えているから、北陸部族の人々がこの地に集まった縄文早期に、矢尻街道が発足したと考える必要があるが、この報告書が縄文前期としている神ノ木式土器は、縄文早期の土器で、それより早い「塚田式」は縄文早期中葉に比定するべきだろう。

塩野西遺跡群の縄文早期中葉の土器が多彩で東海系の土器も含まれている事は、北陸部族が矢の生産に参入する際に、名古屋近辺を含む各地から縄文人を集めた事を示している。矢の生産システムは関東部族が既に形成していたから、それを真似る為に多数の縄文人が必要だった事を示唆し、南関東の鵜ケ島台式土器や、山梨県古屋敷遺跡のⅣ群と類似した縄文施文の尖底土器が含まれていた事は、街道の運営に関するノウハウを関東部族から得ていた事を示し、神ノ木式土器が出土した事は関東の沖縄系縄文人から、沖縄系ウルシ樹の栽培技法の伝授があった事を示している。

この遺跡群の標高は900m950mで、八ヶ岳山麓のこの時期の遺跡と一致している事も、この想定を傍証し、この地域の遺跡から発掘される石匙状の鋭利な石器に八ヶ岳山麓との共通性がある事も、ウルシを採取する道具だった事を示唆している。また阿久尻遺跡や梨木遺跡で発掘された掘立柱が1基発見され、「住居の分布しない広場的空間に位置する点からして、公共的な建物であった可能性」が指摘されている事もその可能性を高めるが、1基しかなかった事は、この付近で大々的にウルシ樹が栽培されたのではない事を示している。

ウルシを保管する為に高床式の建築物を使ったのは、空気が乾燥した状態を得る為だったと推測される。ウルシは空気中の水分と反応して固化するから、床が土の倉庫では土中から蒸気が発散し、湿度が高まってウルシの劣化速度が速まるが、高床式の倉庫ではその状態から免れるから、ウルシの保管倉庫を高床式にしたと想定される。従って高床式の堅牢な住居の起源は、沖縄系縄文人だった可能性が高い。

ウルシの実から蠟が採取できるから、それで土器を封印してウルシの劣化を防ぐ事も、同時期に開発したかもしれないが、低温で焼く縄文土器では通気を完全に遮断できなかったと推測される。運搬時には土器の蓋や側面に蠟を塗ったものが使われた可能性が高く、街道の宿場遺跡から発掘される灯火用途らしい土器は、蝋を燃して灯りを得るものだった可能性がある。

北陸部族は石斧や細石刃にウルシを使っていたが、接着力が弱く手も間に合うから、矢尻を固定する為に品種改良された沖縄系縄文人のウルシ樹が必要になり、八ヶ岳山麓から浅間山麓にウルシ樹が移転された事を、神ノ木式土器の存在が示している事になる。従って塩野西遺跡群の発祥は、その様なウルシ樹の栽培者の集落だった可能性が指摘できる。但しその2で説明した様に、浅間山麓は北陸部族にとって交通の便が悪かったから、北陸部族のウルシ樹やシナノキの栽培地は、やがて飛騨高山に移ったと推測される。

川原田遺跡の縄文前期~中期の遺跡からも、多数の矢尻の欠損品と黒曜石の欠片が発掘され、それらを貨幣として使った矢尻街道の特色を示している。但し矢尻にはならない低品質の黒曜石の欠片が一部混入し、付近の山間地から採取された黒曜石であるとの指摘があるから、農耕民族化したアワ栽培者の中に不心得者がいた事を示唆している。

実用的な刃物石器は黒曜石ではなく、付記で採取できるガラス質黒色安山岩が使用されているとの指摘があり、矢尻の欠損品と黒曜石の欠片だけが、多量に遠方から持ち込まれた事になり、それらの用途が通貨だった事の別の証拠を提示している。

川原田遺跡から500m離れた滝沢遺跡には、45km遠方から運ばれた敷石を敷き詰めた住居址が4軒あり、敷石の中には20kgを超える重い石もあるから、宿場によって客のもてなし方に色々な工夫があり、この辺りの街道文化は信濃川流域とは異なっていた事を示唆している。ブリタニカ国際大百科事典は敷石住居址について、「平たい石を円形,あるいは部分的に敷いた床をもつ住居址。縄文時代中期の後半から後期の初めにかけての短い期間のもので,東京,神奈川,静岡,山梨,長野,群馬などに分布する,きわめて特殊な遺構である。なかには炉跡もなく,あっても火を使った痕跡のないものもあり,一般住居として用いられていなかったものもあると考えられている。」と指摘しているから、関東の宿場文化がこの地域に導入された事を示し、報告書が指摘する縄文中期後葉の称名寺式土器が、関東系の土器である事もそれを示している。

川原田遺跡を含む塩野西遺跡群の地理的な位置は、八ヶ岳山に類似する溶岩台地の浅間山麓にあり、既に八ヶ岳山の南麓に関東系の矢尻街道が設定されていたから、北陸部族も浅間山麓に鉢巻き道路として矢尻街道を設定したと考えられる。彼らが八ヶ岳の東麓にも鉢巻道路を設定すると、川原田遺跡から南佐久郡を経て、最古のヒスイ加工品が発掘された天神遺跡に往く事ができた。