縄文人の活動期(縄文時代早期後半、前期、中期) その2

目次

その1 

1、  縄文時代の東アジア諸民族

その2

2、  日本に渡来した女性技能者達

 その3

2、   海洋民族になった縄文人の活動

3、   海洋民族の交易活動

4、   縄文時代の人口推定

  

2 日本に渡来した女性技能者達

生産性が高い穀類の栽培は新石器時代の先端技術になり、それを担う人材は栽培系狩猟民族の女性達だったから、関東部族は稲作者だった女性達に日本列島への渡来を促したが、大陸の女性達は遠い日本列島への渡航には慎重な姿勢を示し、渡来したのは彼女達が危機的な状況に陥った時期だけだった。mt-Amt-Dmt-B4+M7cmt-B5+M7bが、その様な状態に陥って渡来した事は既に説明した。

これらの事情から、女性達は暴力的に拉致されたのではなく、彼女達の意志に基づいて渡来した事が明らかになる。彼女達が栽培していたのは穀類だけでなく、多数の栽培種を伴って渡来したから、それが現在の日本の豊かな山菜や野草として遺されている筈であり、渡来に際して女性達がそれらの種子を準備する必要があった筈だから、この観点でも、彼女達が自分の意志に基づいて渡来した事を示唆している。

氷期に亜寒帯性の気候に覆われていた日本列島では、栽培に適したイネ科の種は自生していなかったから、女性達が穀類の栽培化に取り組む環境がなく、栽培技能を持った女性は大陸で探す必要があった。15千年前に縄文人を受け入れた原日本人の子孫達は、栽培化が進んでいた大陸から先進的な栽培者を招いたが、その道程は容易なものではなく、彼らが選んだ手段は海洋交易を行い、それを通して女性達が属す大陸民族と深く交流し、その成果として先進的な栽培技術を取り込む事だった。

大陸の稲作者は気候の寒暖に合わせて南北移動し、生産性を維持していたが、関東に渡来した稲作者は漁民と共生する為に関東に定住したから、気候が寒冷化すると栽培種の耐寒性を高める必要があった。彼女達の食生活は海産物と堅果類によって安定していたから、落ち着いて品種改良に取り組む余裕があり、最終的には関東を豊かな稲作地にする事に成功したが、それは弥生時代になってからの事だった。縄文時代の稲作は気候の寒暖に振り回される厳しいものだったが、稲作は女性達の仕事だったから、耐寒性の向上は女性達の双肩に掛かっていた。この項が扱う縄文中期までは、関東の稲作は熱帯ジャポニカが担い、縄文中期寒冷期に渡来したmt-Fの温帯ジャポニカには出番がなかった。

 

1-2-1 縄文早期~縄文後期に渡来した女性達の一覧

性が持ち込んだ技術

女性の原住地

ミトコンドリア遺伝子

受け入れた集団・場所

女性が渡来した時期

骨や角から漁具を作る技術

シベリア

A

関東部族、北陸部族

12千~11千年前

アワ・蔬菜類の栽培技術

アムール川河口域

D+G

北陸縄文人

1万年前

熱帯ジャポニカの原生種

台湾

B4M7c

関東縄文人

1万~9千年前

ジャバニカの原生種

浙江省

B5M7b

関東→九州縄文人

8千年前

温帯ジャポニカ

湖北省

F

関東、岡山

5,500年前

アワ・里芋の畑作

華北

D+M8a

関東縄文人

3,500年前

遺伝子分布の解析手順は(0)序論に示したので、この節では彼女達の渡来事情、受け入れた縄文人の事情、渡来後の彼女達の動向を検証する。シベリアから渡来したmt-Aについては、縄文文化の形成期の項で説明したので、以下の節ではアワ栽培者だったmt-Dから説明する。

女性達の大量渡航は気紛れな僅かな数の女性達から始まり、その子孫が海洋漁民になって栽培民族の集落を訪問し、渡航者の栽培事情が伝達されて安心感が広がると、後に続く女性達が徐々に増えていったと推測される。それでも渡来したのはその民族の少数者で、現代日本人にその遺伝子が濃厚に含まれているのは、栽培技術が評価される事によって既存の遺伝子に浸潤し、子孫が増えたからだと推測される。

渡来した女性達の側から見ると、栽培地を欲しがる願望が他者より強かった事が、渡来を決断した最大の理由だった事は間違いなく、その背景には未知の自然環境に単身で飛び込んでも、栽培の継続は可能であると考える、自身の技能に対する強い自信と、新しい事に挑戦する気概があっただろう。日本列島はその様な栽培技能と栽培思想を持った、個性的な女性達が集積する場だったとも言える。

 

1-2-2 北陸に渡来したミトコンドリア遺伝子D

mt-Dは東アジアで最も多く華北に分布の偏りがあるから、歴史的に華北の重要な穀物だったアワの、栽培者の遺伝子だったと考えられる。但し北海道や東北の縄文人から検出されるmt-Dは、後氷期初頭にシベリアに北上し、Y-C3狩猟民に浸潤してペアとして日本に南下した遺伝子だから、アワ栽培者の遺伝子ではない。アワ栽培者にならなかったmt-Dは、1万年以上前にアメリカに渡り、現在シベリアにもいる。従ってアワはmt-Dに純化した遺伝子の栽培種ではなく、他の遺伝子に浸潤したmt-Dだけが獲得した2次的な栽培種で、アワを栽培化したのはmt-Zだったと考えられる事は既に指摘した。

アムール川流域でアワの栽培者になったmt-Dの一部が、1万年前にその北陸に渡来したが、残りは松花江流域を南下して満州平原に至った。8千年前に内陸も湿潤化すると、遼河台地に登って興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)を形成した。その東端にある査海遺跡に石製装飾品が遺され、mt-Dを受け入れた北陸部族が遼河台地のmt-Dと、何らかの交渉を行った事を示している。縄文人の海洋性と石材加工の項で示した地図から、査海遺跡は遼河台地の東端にある事が分かる。この時代の渤海は、現在の遼寧や吉林の平坦地をすべて覆っていたから、査海遺跡は渤海からアクセス可能な入り江の奥にあった。

遼河文化の中核地から石製装飾品は殆ど発掘されず、査海遺跡から発掘された事は、遼河文化圏では査海の様な沿海部が、海洋漁民との接点になっていた事を示唆している。査海遺跡の石製装飾品は7800年前の遺物とされているから、その時期に遼河文化を支えていたmt-Dが、北陸部族と接触した事を示唆している。

査海遺跡は浙江省の縄文前期(7000年~5500年前)の河姆渡遺跡より古いが、発掘された石製装飾品の完成度はそれより高いから、査海遺跡に出向いたのは北陸部族で、河姆渡遺跡の稚拙な石製装飾品は、海洋民族が模倣したものである事を示唆している。新潟県糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡(縄文早期~前期初頭/7千年前)から発掘された工房址が、滑石を素材にして石製装飾品を製作していた痕跡を残しているから、査海遺跡の石製装飾品を作ったのも、北陸の磨製石斧の工房だったと考えられるからだ。

大角地遺跡は発掘された磨製石斧の工房としては最も古いものだが、縄文海進期が始まった頃の海岸の工房だから、海面が低かった時期には更に古い前駆的な工房があり、それらは水没したから発掘されないと考える事は、極めて常識的な判断になる。工房が海岸にあったのは、この地域では磨製石斧の素材になる透閃石岩を、海岸の砂浜で拾う事ができるからだ。

日本最古の石製装飾品は、大角地遺跡より古い時代である、縄文早期の桑野遺跡(福井県)から発掘されているが、その量の多さに圧倒される状況があるから、極めて常識的な判断はやはり正しい事になる。

縄文人の海洋性と石材加工の項で、国土交通省近畿地方整備局のHPに、以下の記述がある事を指摘した。

九頭竜川流域の縄文早期の遺跡として、勝山市古宮遺跡・破入遺跡・三室遺跡、金津町桑野遺跡がある。縄文早期の遺跡は、九頭竜川の河岸段丘や扇状地に集中して存在している。海面上昇が停止した縄文早期末以降の遺跡は、当時の海岸に近い場所に形成された。

縄文早期は海面上昇の最終段階だったから、その頃の海水は現在の福井平野を覆い尽し、九頭竜川が氷期に形成した深い河谷にも海進した海水が侵入した。従って現在は山間地になっている勝山市まで、当時は入り江が及んでいた可能性が高い。勝山市の古宮遺跡、破入遺跡、三室遺跡の集落は、入り江の岸から急斜面を標高差100mほど登った、段丘上に形成されていた。この様な高地性の集落は縄文早期の縄文人が、海面上昇を恐れていた事を示す典型例になる。しかし金津町の桑野遺跡は当時の海を臨む、標高20mほどの台地上に立地している。勝山市の遺跡群と際立った違いを見せるこの特徴は、桑野遺跡の縄文人は、海面上昇を恐れていなかった事を示している。

縄文人が海面上昇を極度に恐れ、高台に住居を設営したのは、生産性が高い堅果類の樹林は形成に数百年も掛り、その樹林の維持によって安定した食料を確保していたからだが、桑野遺跡の縄文人に恐怖感がなかった事は、彼らは堅果類の樹林を維持していたのではなく、1年生の植生であるアワを栽培していた事を示唆している。

桑野遺跡が8千年以上前の遺跡である事は、桑野遺跡の立地条件から判定する事ができる。遺跡の標高は20m程度と低いが、当時の海から吹き上げる風がまともに当たる、海辺の台地上にあったからだ。既に指摘した様に8千年前に太平洋が湿潤化すると、日本列島では強い台風の被害が頻発する様になったから、台地上や山の斜面の集落は危険な状態になり、住居だけではなく樹林も低地に形成する様になったと想定される。海面上昇が停止した縄文早期末以降の遺跡は、当時の海岸に近い場所に形成されたとの指摘は、正しくその事情を示唆しているから、桑野遺跡は8千年以上前の遺跡であると考えられる。

上記から以下の仮説が生まれる。

桑野遺跡の住人が焼畑農耕でアワを栽培していたとすると、多量の樹木を短期間に伐採する必要があったから、磨製石斧を消耗品として多量に消費したと考えられる。その様な焼畑農耕者の需要に応え、蛇紋岩の産地である糸魚川の磨製石斧の工房が、糸魚川流域で採取できる蛇紋岩系鉱物の透閃石で磨製石斧を製作し、それを供給しながら同じく蛇紋岩系鉱物である滑石から石製装飾品も作り、桑野遺跡の人々に渡していたとの想定は必然的に生まれる。

焼畑農耕の実態を知らないと、この時期の北陸縄文人の活動は理解できないので、鉄器を使っている現代の焼畑農耕について説明する。焼畑農耕は無形文化なので、当時の焼畑農耕を再現する事はできないが、現代の焼畑農耕も樹木の伐採以外には農具を使わないから、鉄器を石器に置き換える事により、石器時代の焼畑農耕をある程度類推できるだからだ。

焼畑を形成するには先ず樹木をすべて伐採し、それを放置して乾燥させ、周囲に防火帯を形成して乾燥した樹木を一気に燃やし尽す。それによって雑草の種子や地中の虫が根絶され、土壌が柔らかくなり、灰が肥料になる。穀類を輪作すると土壌が劣化するが、その大きな要因として、植生に必要な種々の元素が消費される事が挙げられる。休耕地に草が生えるだけでは、それらの元素の復元に時間が掛かるが、樹木は地中深く根を張って必要な元素を取り込むから、樹木の灰にそれらの元素が含まれているだけではなく、それらを有効に使って生育した樹木の葉が腐葉土を形成するから、休耕地を樹林にする事には大きな意味がある。

焼畑は森林に囲まれているから、雑草の種子や病原菌の飛来が抑止され、大陸でしばしば問題になった蝗害もない。4年ほど作付けすると畑に雑草が蔓延り、土壌の生産性も低下するから、次の焼畑を形成する。これは雨が多く樹林が容易に再生される地域に有効な農法で、面積当たりの生産性が高く旱魃は少ないから、乾燥地のオープンな畠の様に広くなくても、安定した収穫が得られる。雑草を除去する重労働を強いられると指摘されているが、これは鉄器を使って樹林を伐採する現在の焼畑農法の話であって、磨製石斧で伐採していた石器時代の焼畑農耕では、最も重い労働は樹木の伐採だったと推測される。

4年間栽培して生産性が低下し、雑草も蔓延る様になった畠は20年ほど放置し、森林に戻してから再び焼畑にする。従って焼畑の5倍の広さの森林に耕作権があれば、持続可能な農業が成立する。焼畑は播種の直前に形成する必要があるから、樹木の伐採に時間が掛かる石器時代の焼畑農耕では、毎年狭い焼畑を形成していたと推測される。

現在の農業者は科学肥料や除草剤を使っているから、焼畑農法の面倒臭さだけが目につき、原始的な農法であると見做されやすいが、化学肥料や除草剤がなかった時代には、温暖で雨が多い地域では水田稲作と並ぶ優れた農法だったから、日本では戦前まで盛んに焼畑が作られていた。戦後になって焼畑農法が廃れたのは、戦時の配給食糧がコメに偏った為に、戦後の日本人の食生活が米食一辺倒になり、アワの需要が失われたからであって、生産性の問題ではなかったとの主張もある。戦略的な備蓄食料がコメだった事が、この様な事態になった主因であると考えられるが、男性達が徴兵されると、焼畑農耕に不可欠な樹木の伐採に必要な、男手が失われてアワの生産量が激減したが、稲作は銃後の女性達が担う事も出来たから、従来のアワの消費地でも戦時の食料がコメに変わった事が、その主因だったのではなかろうか。

余談になるが戦国時代の戦には季節があり、田植えの季節には戦争ができなかったとの指摘が多いが、実は焼畑の形成の方が重要な要件だった疑いもある。日本は昔から稲作地帯だったとの先入観が、この様な誤解を招いた可能性が高いからだ。江戸時代までの日本の農民は、食料の多くをアワで賄っていた可能性が高いからだが、それについては項を改めて検証する。

縄文時代の磨製石斧の工房の話に戻ると、堅果類の樹林を形成するだけであれば、工房を作って量産する程の、多量の磨製石斧を必要としたとは考えられず、縄文人の集落が集積していた他の地域に、その様な例は発見されていない。従って北陸の磨製石斧の工房は、焼畑農耕のために運営されていたと考えられ、他に磨製石斧の大量消費を想定できる事情はないから、この仮説は極めて確度が高い。

福井県では良質の蛇紋岩は入手できないから、桑野遺跡の縄文人に磨製石斧と石製装飾品を提供したのは、蛇紋岩の産地である富山西部~新潟南部の工房だった筈だが、縄文早期の大角地遺跡の工房は、桑野遺跡が営まれた時代にはなかった。従って海面上昇に飲み込まれて失われた前時代の工房が、海岸で同様に営まれていたと考える事も、極めて常識的な判断になる。海岸である事を特筆するのは、糸魚川市や富山西部では、海岸で蛇紋岩やヒスイを拾う事ができるからだ。糸魚川市の山間部には蛇紋岩の露頭があるが、河口ではない海岸にも散乱している理由は、現在も分かっていない。

桑野遺跡に関する報告書が2019年に上梓されたので、以下にそれを紹介する。有益な情報が色々記載されているが、桑野遺跡の年代についての公式見解は、縄文早期末であるとの頑な態度を崩していない。遺跡の年代を二つの観点から推測しているので、先ずそれについて検証するが、現在この遺跡は破壊されて存在しないので、1994年以前の発掘成果を纏めたものである事に留意する必要がある。

遺跡の年代測定は、台地の斜面にあった標高8mの貝塚からヤマトシジミと炭化材を採取し、C14年代を測定している。その結果を<6800 y.B.P.>と記しているが、<6800 cal.y.B.P.>ではない事に留意する必要がある。(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動の項でも指摘したが、20世紀のC14測定年代は単なる計算値で、年輪分析などによる補正は為されていない。その補正が為されると<cal>が付加されるが、上記の年代はそれが為されていない事になる。6800年前を縄文早期であると記している事も、それを示している。B)周期的な気候変動の項で使った、簡便な補正式をこれにも当て嵌めると、貝塚の年代は7800年前だった事になる。

太平洋の本格的な湿潤化は7900年前に始まり、77007600年前に黒潮の温度が急低下したので、77007600年前には大型台風が多数襲来したと想定され、この数値はその状況と一応辻褄が合う。「一応」と記したのは、8千年前頃に海面上昇が停止したが、その頃もそれ以前も海岸は、リアス式海岸の様に入り江が入り組み、波打ち際では嘗ての山肌が岸壁になったから、貝が採取できる砂浜は存在しなかった。日本列島では8500年前から降雨量が増えたが、海面が上昇している時期には、入り江の奥に形成された小さな沖積地さえも、海面上昇に呑み込まれる状態だったから、縄文人が貝を採取できる環境はなかった。

海面上昇が停止して降雨量が激増した8千年前に、入り江の奥に沖積地が形成され始めたが、これは一般論的な話で、桑野遺跡が立地する台地は12万年前の沖積土砂によって形成されたものだから、比較的早い時期に砂の堆積が岸辺に生れ、ヤマトシジミが繁殖し始めたと想定される。つまり貝塚が営まれた78000年前は、この遺跡が維持されていた終末期になるが、その頃の人々はヤマトシジミを採取する事ができた事を示している。従ってこの貝塚が示す年代が、桑野遺跡に集落が営まれた時代の、開始期を示しているわけでもなく、石製装飾品が土壙墓に収められた時代の、終末期の事情を示しているに過ぎない。

この報告書が年代の推測に使用しているもう一つの観点は、土器の編年になっている。桑野遺跡から多様な土器が発掘され、他地域との共通性が認められる土器が多数あると指摘している。この台地から出土した土器は、縄文時代の広い時期に跨っているが、早期末から前期初頭期に関わる土器は東海地域の諸型式に類似し、認定できる最も古い段階の土器型式に、名古屋市緑区の粕畑(かずばた)遺跡を標準とする粕畑式があると指摘している。粕畑式に後続する「上ノ山式、入海式、石山式に類似する土器もあり、入海Ⅱ式・石山式に比定される土器が主体を占めている」とも指摘している。

名古屋市域の内陸部は、縄文時代には北陸部族のアワ栽培者の領域だった可能性が高く、弥生時代になってもその状態は変わらなかったから、防御的な環濠に囲まれた朝日遺跡は、同じ北陸部族のアワ栽培者の領域だった鳥取県の青谷上寺地遺跡から、多数の惨殺遺体が発掘された状況と共通し、社会に濃厚な武断性があった事を示している。

福井県のあわら市と名古屋市は離れた場所にあるが、九頭竜川を遡上して標高800mの油坂峠を越えると、濃尾平野に流れる長良川水系に出るから、福井のアワ栽培者にとって、名古屋市域は身近な地域だったと推測される。粕畑遺跡や上ノ山遺跡がある名古屋市緑区の笠寺台地は、この時代には広大になっていた伊勢湾を望む、なだらかな丘陵地だったと想定され、縄文早期には希少な栽培適地だった。

粕畑貝塚、上ノ山貝塚、入海貝塚はいずれも愛知県にあり、滋賀県大津市石山寺辺町にある石山貝塚について、世界大百科事典 第2版は以下の様に解説している。

(貝塚の)厚さは深い部分で2mをはかり、68層にわかれる。下層から順に押型文土器,茅山式並行、粕畑式、上ノ山式、入海I式、入海II式、石山式が出土し、近畿地方における縄文早期後半条痕文土器の編年が確立した。

考古学者は既に発見された遺跡の年代に関し、校正されていないC14年代を使う場合が多々あり、地方自治体が開設しているHPの地域の遺跡に関する説明でも、20世紀に案内されたこの数値を、現在も修正しないで記載しているものが圧倒的に多い。ウィキペディアにもこの年代を用いている記述が散見され、注意を要する。考古学者としては、既に失われた遺跡からサンプルを抽出する事はできないし、現存していても実年代を再調査する事は出来ないから、訂正する事が出来ないという言い訳があるかもしれないが、間違った記載に関する責任は考古学者側にあると言わざるを得ない。

この報告書はその様な混乱を都合良く使い、桑野遺跡を縄文早期末の遺跡であるかのように偽装しているが、粕畑式は縄文早期(12千~7千年前)後半の土器で、その後に上ノ山式、入海I式、入海II式、石山式が続き、これらは全て縄文早期の土器であるとされている。従って粕畑式が縄文早期後半の中頃の土器だったとしても、8千年以上前の土器だった事になる。桑野遺跡から出土した土器に関しては、それが最古の土器だったと断言できるわけでもないから、桑野遺跡では9千年前から焼畑農耕を行っていた可能性も否定できない。

上記の土器の編年から言える事は、新潟で生まれた焼畑農耕者が真っ先に移住したのは、海路で結ばれた福井県か、琵琶湖の畔の滋賀県か、名古屋市の緑区の笠寺台地だった事になるが、拡散経路は新潟から海路で結ばれた福井県が先だった事は間違いないから、押型文土器が発掘された琵琶湖岸より早い時期に、焼畑農耕者は桑野遺跡があった台地に入植したと想定する事も、極めて常識的になる。つまり桑野遺跡がある台地に焼畑農耕者が入植したのは、9千年以上前だったとすると、愛知県で使われた土器が粕畑式から始まった事が説明でき、琵琶湖岸への入植がそれに先行していた事になり、桑野遺跡に焼畑農耕者入植したのは、押型文土器の時代以前だった事になる。

押型文土器、茅山式並行、粕畑式、上ノ山式などへの土器の変化は、土器の装飾が次第に凝ったものに変化していく過程だったとすれば、北陸部族のアワ栽培者が、次第に豊かになっていった事情を示している事になり、それを意識した土器の時代編年も、意味のあるものになるだろう。

縄文海進期に新潟から福井に船で行く際には、能登半島は周回せずに、七尾から羽咋に抜ける事が出来たと推測される。七尾から羽咋に広がる低湿地は、河川によって後世に堆積したものであると考えられるからだ。従って蛇紋岩の産地である朝日町からであれば、富山湾を横切って観音崎を周回すれば七尾に至ったから、殆ど直線的な沿岸航行で磨製石斧を運搬する事が出来た。それを琵琶湖岸に運んだ事は理解できるから、その移住が先行した事も納得できるが、名古屋まで運んだ事には驚かざるを得ない。

アワの栽培適地を見付ける事に懸命だったからだと推測されるが、船の直行便が使えた桑野遺跡の人々が最も豊かなアワ栽培者になり、その富を分配する様に栽培者が拡散した事は、焼畑農耕によるアワ栽培が画期的な技術革新だったとすれば、必然的な結果であると言えるだろう。従ってその中核的な存在だった桑野遺跡から、多数の石製装飾品が発掘された事と、土器編年が示す事情は整合するが、桑野遺跡の成立は縄文早期中頃(~9千年前)だったと結論付ける必要がある。

この報告には中国の考古学者の投稿も掲載され、合理性に欠ける中華至上主義を主張する、相変わらずの状態を示しているが、興味深い指摘があり、その概要は以下。

黒竜江省饒河県の小南山遺跡がウスリー江の岸辺にあり、1991年に大量の玉器を副葬した40基余りの墓が発見された。墓坑あるいは封土の石積みの中から、玉器が出土した。これらの遺跡からオシポフカ文化と類似した土器が発掘され、校正年代は877595.4%)8595Cal BP913595.4%)9010Cal BP.となり、オシポフカ文化期と一致する。

縄文文化の形成期/その2で、水量が豊かだったウスリー川流域にはY-C3漁労系狩猟民族がいたから、アワ栽培者になったmt-Dは彼らの居住域を避け、松花江を南下遡上したと指摘したが、9千年前のこのY-C3漁労系狩猟民族も、墓を形成する程に豊かになっただけではなく、石製装飾品も入手していた事を示している。それをウスリー川流域に持ち込んだのは、獣骨交易を行っていたツングースだった可能性が高いが、北陸部族がウスリー川流域まで遡上していた可能性も否定できない。

上記の文章で重要な事は、9千年前には石製装飾品が作られていた事になる。mt-D1万年前にアムール川流域から北陸に渡来したが、その千年後には焼畑農耕が成立していただけではなく、磨製石斧を製作する工房が成立し、その工房で石製装飾品を製作する段階まで、産業化が進んでいた事になるからだ。9千年前という年期は、桑野遺跡に焼畑農耕者が入植した時期と合致するが、入植時に石製装飾品が生れていた事を示唆している点で、画期的な発見であると言える。

桑野遺跡の多数の墓壙は、台地上で最も高位に位置する標高21m前後の場所の、東西約15m南北約15mの範囲にあり、その中の27基から石製装飾品が発掘された。その内訳は玦状耳飾71点、箆状垂飾5点、棒状垂飾1点、鰹節形垂飾1点、腕輪状垂飾1点、管玉3点、異形石器2点、水晶1点になり、玦状耳飾が多いが種類や材質が多彩である事は、装飾品は規格化途上だった事を示唆している。

工房で製作された磨製石斧と石製装飾品が、桑野遺跡の縄文人に多量に支給されたと想定されるが、消耗品だった磨製石斧は使い終わると山野に放置され、貴重品だった石製装飾品だけが集落に大切に保管され、その一部が墓壙に埋納された事になる。 磨製石斧は49点出土しているが後世のものもあり、縄文早期の桑野遺跡時代の遺物であるか否かを、区別する事はできない。鳥浜貝塚では打製石斧が23点に対し、磨製石斧はその3倍の76点出土している事と比較すると、明らかに少ないと指摘している。縄文前期になると岸辺に砂浜が生れ、貝塚がゴミ捨て場として連続的に使われたが、桑野遺跡では終焉期に貝塚が形成されたから、それ以前の使い古しの磨製石斧は、山野に捨てられたのではなかろうか。

所謂狭義の凹石が49点、敲石が33点出土し、ドングリを磨り潰して食べていた事を示している。アワは交換品として生産し、アワ栽培者の主な植物性食料は、ドングリだった事を示唆している。

大角地遺跡に遺された石製装飾品や加工途上のものは、滑石で作られたと説明されているが、それより古い桑野遺跡の石製装飾品の半分は、純白色か白色系の透閃石で作られていた。石製装飾品の発達過程として、先ず最も柔らかい滑石から始まり、次にやや硬い蛇紋岩に至り、透閃石を経てヒスイに至ったと考えたくなるが、初期段階の桑野遺跡で、透閃石製の石製装飾品が多数発掘された事には驚きがある。

桑野遺跡から発掘された滑石製の石製装飾品は、褐色の材質から作られ、透閃石岩のものは白色系である事は、アワ栽培者は褐色より白色のものを好んだが、透閃石を加工するには時間が掛かったから、高価な石製装飾品になっていた事を示唆している。玦状耳飾の大きさと素材の関係を調べると、小型のものには透閃石系が多く、大型になると滑石のものが増えると指摘しているから、報告者もそれに気付いている様だが、明確な指摘はない。

以上が報告書の概要だが、透閃石岩関する必要な事項を付記する。透閃石岩は磨製石斧の素材として盛んに用いられたが、後世の大角地遺跡の工房では、石製装飾品は滑石で作っていたと報告されているので、以下の解釈が必要になるからだ。

桑野遺跡の時代は石製装飾品の揺籃期だったので、後世には作られなくなった器形や素材も色々採用されたが、それらは試行錯誤の時代の作品だったので、透閃石系の素材も使われたと考えられる。しかし石斧や石製装飾品の需要が増加すると、生産効率が重視される様になり、縄文早期末の大角地遺跡の時代には、滑石製が主流になったと考えられる。大角地遺跡の工房の発掘報告では、工具にヒスイが使われていたとの事なので、理論的には透閃石までの硬度の石材は、石製装飾品に加工する事は可能だったからだ。

大角地遺跡に遺された未完成状態の石材を、考古学者は滑石であると言っているが、縄文人の海洋性と石材加工の項で写真を示した様に、中には白色系の素材も含まれている。この事は縄文早期の早い時期には、白色系の滑石の鉱脈は知られていなかったが、縄文早期末にはその様な滑石が入手可能になったから、白色系の透閃石を使う必要がなくなった事を示唆している。純度が高い滑石は蝋石とも言われる白色だから、桑野遺跡の石製装飾品に使われた褐色の滑石は、含有していた鉄などの金属が、変成時に酸化して発色したものだと考えられる。従って工房の職人が白色系の滑石の鉱脈を発見する事は、時間の問題だったとも言えるが、桑野遺跡の遺物に使われた滑石は色が類似しているから、当時の工房の付近にあった鉱脈には、この色の滑石しかなかった可能性が高い。

従って上記を時系列的に言えば、当初は手近な場所にあった褐色の滑石を使っていたが、白い磨製石斧もある事を知っていたアワ栽培者が、同じ色の装飾品を求めたので、仕方なく白色系の透閃石岩を使ったが、手間が掛かったので白色の活性軌を探したが、容易に見付からなかったと推測される。やがて遠方で白い滑石が発見されると、それが主流になったから、大角地遺跡の石斧工房では標準的な素材にしたと想定される。大角地遺跡の工房に遺された未完成品には濃い色のものもあるが、それは習作の遺物だった疑いもあるから、この仮説の真偽を判定する為には、実際に装飾品として使われた遺跡の発掘品を精査する必要がある。

この様な検証を行う場合に、滑石も蛇紋岩も透閃石も、蛇紋岩帯の石材の中に混在している事に留意する必要がある。滑石は蛇紋岩が弱い変成を受けたものだから、蛇紋岩や透閃石岩とは生成条件は異なるが、両者が隔離された場所にあったとは限らないからだ。また蛇紋岩と透閃石は組成が異なる石だが、透閃石を含む透閃石岩は、蛇紋岩とは異なる純粋な組成を持っているとは限らない事も、銘記して置く必要がある。

蛇紋岩と透閃石は共に水酸基を持つ珪酸化合物で、含まれる金属がマグネシウムだけであれば蛇紋岩、それに鉄とカルシウムが加わると透閃石になり、鉄が多いと緑閃石になる。地中の元素配分はこれらの岩石の形成時に、高純度の岩石を形成する配合比ではない場合が多かったから、蛇紋岩成分と透閃石成分は形成された岩石中に混在している。透閃石岩の硬度が56の範囲を示しているのも、その様な事情に起因していると考えられる。蛇紋岩も純度が高いものは白色系の色調になるが、不純物が析出するので蛇紋岩特有の斑模様が生れる。

新潟県の蛇紋岩帯は透閃石の含有率が高い上に、ヒスイ輝石を含む岩石も稀に存在するが、それでも純度が高い透閃石岩は希少品であって、蛇紋岩ほどにありふれた岩石ではない。

蛇紋岩系鉱物を素材とした加工技術の進化については、その4で詳しく説明するが、縄文早期の加工職人は硬度7のヒスイを加工具にしていたから、硬度が56の透閃石岩の加工には時間が掛かったと想定される。蛇紋岩の硬度は3だから、桑野遺跡から出土した透閃石岩製と見做されているものの素材には、硬度4以下の混合石材が使われていた疑いもある。磨製石斧工房の職人は、磨製石斧に相応しい硬い岩石を使ったと想定されるが、彼らの選定眼によって選ばれて石製装飾品の素材になった透閃石岩は、磨製石斧の素材ほどの硬度はないが、見掛けは透閃石岩の様な白色系を示す素材だった可能性が高いからだ。

以上が桑野遺跡の発掘報告書に関する直接的な検証になるが、桑野遺跡に関する総合的な検証を別途行う必要がある。

桑野遺跡の住民は数年で畑地を変える焼畑農耕者だったから、堅果類の栽培者が持っていた海面上昇に対する恐怖感はなく、土壌が肥沃な低い段丘を焼畑にする為に海岸に定住し、新潟の工房で生産された磨製石斧や、漁民が生産した海産物を入手する利便性の高さを享受した。氷期が終了して温暖化してから1万年を経ていたが、8500年前までは降雨が少なかったから、山の斜面には腐葉土の堆積が乏しく、急斜面にも樹林が密生している現在の山容は、当時は未だ生れていなかった可能性が高い。従って丘陵状の平坦地があるこの段丘は、雨が降っても腐葉土が流出しない場所として、早い時期から樹林が生れていたから、焼畑農耕の適地を形成していたと考えられる。

沢山の石製装飾品を入手した桑野遺跡の縄文人の異常な豊かさは、アワ栽培の成功によって説明できる。勝山市に散在していた他の集落の縄文人は、堅果類を栽培しながら漁民にアサを供給していたが、アワ栽培の黎明期だったこの時代には、1万年以上栽培されてきたアサより、アワは格段に商品価値が高かった。それはmt-M7amt-M9には栽培できない、高度な栽培物だった事が、勝山市の遺跡では発掘されない石製装飾品が、桑野遺跡から多量に出土した理由を明らかにしている。

彼らは焼畑を形成するために多量の磨製石斧を使ったから、磨製石斧の工房で副業的に生産された石製装飾品も、磨製石斧と共にアワの交換品として多量に入手できたと考える事も、極めて常識的な想定になり、この一連の合理的な想定に疑念を挟む余地はない。

以上を前提に、この時代の状況を検証する。桑野遺跡は縄文早期末のものだと言い張る考古学者には、全くできない事だから、慎重に進める必要があるが、自分の思考範囲を狭める虚偽に拘り、その状態に耐えている考古学者とは如何なる存在なのか、検証する場でもある。

桑野遺跡から発掘された定型的な石製装飾品は、縄文人の要望で作られたのか漁民の要望で作られたのかを詮索する事も、mt-Dの栽培事情を判定する重要案件になる。縄文前期~中期の漁民集落である能登半島の真脇遺跡と、縄文人の遺跡だった桑野遺跡を比較すると、その答えが出る。真脇遺跡から色々な石器が出土しているが、縄文早期から前期に流行した石製装飾品は、僅かに耳飾りの破片が出土するだけだから、石製装飾品に対する漁民の需要は乏しかった事を示している。従って糸魚川の石斧工房が、磨製石斧と石製装飾品を盛んに作ったのは、桑野遺跡の住民の様に、アワ栽培に取り組んでいた縄文人の需要に応える為だったと考えられる。縄文早期後半には、琵琶湖岸や濃尾平野にもアワ栽培が拡散したのだから、磨製石斧の需要が旺盛だった事も容易に推測され、石斧工房が繁忙を極めた事情に繋がる。

従って磨製石斧の工房の職人は、海産物を提供してくれる漁民のために、磨製石斧や石製装飾品を作ったのではなく、アワを生産していた故に最大の顧客だった縄文人のために、奢侈品である石製装飾品も製作した事になる。製作し始めた当初は透閃石岩も素材にしたが、やがて滑石に収斂した事は、磨製石斧の需要に応える為には止むを得ない措置だった事を示唆しているから、石製装飾品は磨製石斧を買ってくれる顧客に対する、サービス品だった事も示唆している。工房の職人には他に主たる生業があり、石斧の加工は余技だったとすれば、この様な事はしなかっただろうから、石斧工房の職人は専業的な人々だったと考えられる。

これらの状況が示す縄文早期後半の北陸縄文人は、海産物を入手するために漁民が使う漁具や工芸品を製作し、それを海産物と交換していた時代を卒業し、アワを栽培する縄文人の為に、磨製石斧と石製装飾品を製作していた事になる。言い変えれば漁民であるか縄文人であるかに拘わらず、富裕者の需要に応じて物産と流通が多様化し、穀物の栽培に成功した桑野遺跡の縄文人は、その様な富裕者になった事を示している。これは縄文時代の一貫した経済原則だったから、アワ栽培者になった北陸縄文人は、真っ先にその地位を得た事になる。

これが現代日本人のmt-D比率が高い一つの理由であるが、焼畑農耕を成功に導いたのは、mt-Dが持ち込んだアワの栽培技術だけではなく、Y-O2b1mt-M7aペアが蓄積していた、樹木の栽培技術や効率的な伐採技術や、それ応用したアサの栽培技術があった。具体的に言えば堅果類の栽培技術は、堅果類の樹木を循環的に伐採し、生産性が高い若木に満ちた里山を形成する必要があった。アサを多量に栽培する為には、樹林を拓いて畑地を形成する必要があったから、アワ栽培がそれらと融合する事によって焼畑農耕が成立したと考えられる。

1万年前にmt-Dが渡来し、9千年前には石製装飾品が製作されたという、この時代としては異例の速さで事態が進展したのは、焼畑農耕の前駆的な形態がアサの栽培に適用されていたからである可能性が高い。つまりアサの畑であっても、樹林を伐採した直後は生産性が高い事を、mt-M7aが知っていた可能性が高い。穀類は品種改良して生産性が高まると輪作が難しくなる傾向があるから、アワが既にその域に達していたとすると、mt-Dを受け入れたY-O2b1mt-M7aペアは、農業革命と言えるような大発明をしたのではなく、輪作によって生産性が急速に劣化していくアワを見て、畑の更生期間を短縮する事によって生産性を高める必要性に気付き、焼畑農耕という形態に改良した可能性が高い。それであればmt-Dが渡来してから短期間に、焼畑農耕が成立した理由を説明できるからだ。

焼畑農耕が成立する重要な要素として、北陸部族の根拠地が、質の良い蛇紋岩の産地だった事も忘れてはならない。

蛇紋岩の生成過程を鉱物学的に説明すると、地殻のプレート境界で岩石が海底に沈み込み、地下で含水変成を受けて生れる変成岩だから、日本列島には沢山の蛇紋岩の露頭があるが、安定な大陸塊である中国大陸にはない鉱物だから、大陸では透閃石岩を翡翠と呼んで宝石扱いした。従って焼畑農耕は気候的には、大陸の照葉樹林帯にも適している農法だが、蛇紋岩が産出しない大陸で、焼畑農耕が発生した可能性は極めて低く、日本列島で生まれた可能性が極めて高い。

mt-Dが北陸でアワ栽培に成功すると、先ず同業のmt-M9に浸潤し、次いでmt-M7aにも浸潤したと想定されるが、mt-Dmt-Gの様に海洋漁民と活発な交換を営む、交易者的な生活はできなかったから、mt-Gと反目しながら早々に新潟を離れ、福井以西の山陰に拡散した。富山の大竹貝塚から出土した、mt-M9mt-M7amt-GmtAmt-N9bは含むが、mt-Dは含まない遺骨群がその事情を示している。

焼畑農耕の生産性を高める為には、数年栽培して輪作期限になった畑の土壌を、樹林を形成して再生する必要があった。そのために植栽する樹種は、磨製石斧で伐採しやすく土壌の再生に適したものである必要があったから、mt-M7aがその苗木を育成していたらしい事を、縄文中期にフィリッピンに移住したmt-D+M7aが示している。

焼畑農耕によるアワ栽培だけでは、縄文人の食料を賄う事はできなかったから、縄文時代が終わるまで堅果類も栽培されていた。従って海産物が主要な食料である状況も変わらず、焼畑農耕だけで食料を賄う事ができる様になったのは、鉄器時代になって樹木の伐採効率が格段に向上してからだったと考えられる。従って堅果類を栽培する為に、mt-M7aもフィリッピンに渡った可能性もあるが、フィリッピンには温暖な気候に適した堅果類を栽培するmt-M7bmt-M7cがいたから、それだけの理由でmt-M7aが多数渡り、mt-M7bmt-M7cに匹敵する人口になったとは考え難く、mt-M7aは石器時代の焼畑農耕には、欠く事ができない人材だったと考えられる。

その様な低い生産性しかなかったアワだが、その栽培者だったmt-D+M7aが格別の豊かさを享受できたのは、アワが交換経済下で流通商品になっていたからだ。現代的に言えば換金作物になったから、それを栽培していたmt-D+M7aは、自分では生産できない磨製石斧と共に、奢侈品である装飾品も入手する豊かさを得ていた。焼畑農耕者はドングリも生産しなかった事を、標高が低い台地に居住していた事が示唆しているが、遺跡から多数の凹み石や敲き石が発掘された事は、海岸で漁民と頻繁に接触できる利点を活用し、勝山市の縄文人との流通経済の中でドングリを入手していたと想定される。

渡来した直後のmt-Dは、北陸部族の根拠地であり優れた磨製石斧の産地でもあった、新潟県に入植したと想定される。彼女達が福井に移住したのは、磨製石斧を沢山使う焼畑農耕技術が確立した後に、mt-Gとの混住を避けて北陸より温暖な福井に、彼女達が大陸で示した様に集団で入植したと想定される。北陸部族の漁民が海運力を駆使し、磨製石斧を福井に船で運んでmt-D+M7aの要望に応えたから、彼女達の福井への移住が可能になった事は間違いない。

関東部族が九州縄文人を関東に移住させる際に、色々な苦労をしなければならなかった経緯を、その1で説明したが、北陸部族はアワ栽培者を南に移住させる事に、何の抵抗感もなかった様に見えるから、違和感があるかもしれない。しかし既に指摘した様に氷期の北陸部族は、原日本人と原縄文人として2万年以上共生生活を継続していたから、縄文早期になってから共生を始めた関東部族とは、立場も発想も異なっていた。つまり北陸部族では早い時期に両民族間の婚姻関係が生れ、縄文人が沿岸漁労を行ったり、漁民が堅果類の樹林を形成したりする事に対する、違和感が薄れていた可能性が高い。

特にヤンガードリアス期の北陸や山陰では、ドングリの生産性が極度に低下したから、縄文人も海洋漁労を行い、食料の不足を補う必要が生れたと想定される。従って縄文早期になっても北陸部族の沿岸漁民には、Y-O2b1が多数含まれていた可能性が高い。現在の石垣島にはY-Dが少なく、殆どがY-O2b1である事が、その事情を示唆している。

先に検証した桑野遺跡の発掘報告書に、「貝塚に投棄されていた漁骨を分析すると、鯉などの淡水魚や内湾性の魚類が多いが、外洋の魚類は稀である」と記されている事が、桑野遺跡の周囲にいた漁民の海洋技術を示し、北陸部族のY-O2b1漁民の漁労技術を示しているとも言えるだろう。

この様な俄作りのY-O2b1近海漁民は、Y-Dの様に海洋を遠方まで航行する事はできなかったから、mt-D+M7aと一緒に福井に移住して沿岸漁民になり、アワと引き換えに鮮魚を供給する漁業者になると共に、糸魚川から磨製石斧を運搬する運送業を引き受けていたとすると、勝山市の山間部に住んでいた縄文人は、彼らにアサやドングリを供給する人々として、アワ栽培者や漁民と一緒に移住して来た事になる。

この様な条件設定がなければ、伝統的な生業を維持しながら漁民と共生していた縄文人が、勝山市の山中に居住した理由は説明できないから、桑野遺跡のアワ栽培集団は単独で存在したのではなく、沿岸漁民、焼畑農耕者、アサを栽培する縄文人が、共生集団を結成していたと考えられる。それに磨製石斧の工房が遠隔参加する事により、大陸との交易を志向していた海洋民族とは異なるが、疑似的な多民族の共生集団として、独自の経済活動を活性化していた事になる。この共生集団には漁民も含まれていたが、経済的には大陸の栽培民族の様に、自己完結型の集団だった事に特徴があり、海外民族との交易を目指していた海洋民族とは対極的な存在だった。

縄文早期の人々の生活を現代人のものと比較すれば、工業製品は皆無で物質的な豊かさには極めて乏しかったが、この時代のmt-Dは周囲から尊重され、鮮魚の焼き魚を腹一杯食べられる、至福の時代を過ごしていたと推測される。彼女達にも祖先伝承があったとすれば、2万年前の温暖化によって故郷が砂漠化し、流浪の旅に出なければならない宿命を負い、オホーツク海沿岸に北上して河川漁民と共生したが、河川漁民はmt-Gmt-Zを尊重してmt-Dを粗略に扱った。しかし北陸に渡来して焼畑農耕に成功すると、嫌いなmt-Gとも決別して福井に南下し、周囲から尊重される焼畑農耕者になる事により、繁栄への道が開けたと言えるだろう。彼女達には、琵琶湖岸や濃尾平野に南下する路も開けていたから、前途は洋々としていた。

その幸せを象徴する物品が、石製装飾品だったと考えられる。従ってこの文化はmt-Dがシベリアから持ち込んだ、シベリア民族の感性に基づくものだった可能性が高い。それ故にY-C3狩猟民族も、墓に埋納したのではなかろうか。従って北陸部族の漁民がそれを査海遺跡の、アワ栽培者の集落に持ち込んだ意味も重要になる。

mt-Dの共通祖先がいた1万年前のアムール川流域では、栽培系狩猟民族だったY-NY-Qは悲惨な生活を強いられていたから、mt-Dが北陸に渡来した事は既に指摘した。水量が豊かなアムール川流域で生活し、狩猟技能に優れたY-C3漁労系狩猟民族であっても、1万年前以降は狩猟用の弓矢を得る為に、石刃鏃を使わざるを得ない程に獣骨の価値は低下していた。これも縄文文化の形成期の項に示したが、具体的に言えば、mt-Dのアワ栽培では主要な食料にはならなかったから、Y-NY-Qが狩猟や漁労で得た収穫が、彼らの主要な食料だった。しかし彼らの貧弱な狩猟能力で得た獣骨では、Y-C3漁労系狩猟民族が生産した量には到底及ばす、その結果として弓矢も殆ど得られずに、スパイラル的に厳しい食生活に陥っていた可能性が高い。

アムール川流域から南下し、2千年後に遼河台地に定住した栽培系狩猟民族が、その状況から大きく改善していたとは考え難い。南下すればアワの生産性は高まったが、獣肉や漁獲は腐敗しやすくなったから、主要な食料が獣肉や漁獲だった時代の出来事として、両者のメリットとデメリットを相殺すると、食生活が目立って改善していたとは考え難いからだ。遼河台地から櫛目紋土器が発掘されている事は、ツングースが獣骨交易の為に遼河台地も訪問した事を示しているが、遼河台地の栽培系狩猟民族が獣骨と交換したかった物品は、弓矢を含む生活必需品であって、Y-C3狩猟民族の様に、石製装飾品を入手できる豊かさを得ていた可能性は低い。次段で説明する様に、遼河台地から福井に渡来したmt-Dが少なからずいたと考えられる事も、遼河台地での生活も、困窮状態から脱していたとは言えないものだった事を示唆している。この時代の東アジアで最も食糧事情が貧弱な民族だった事は、この項を通読すれば分かるだろう。但しこれは、現代まで子孫を遺している民族に関する比較ではある。

従って査海から出土した石製装飾品は、福井で成功したmt-Dが故郷に遺した民族の、その後の事情を窺う為の挨拶状だった可能性もあるが、査海から福井に渡来したmt-Dが、故郷に錦を飾る便りだった可能性もある。いずれにしてもそれを持ち込んだのは、北陸部族のY-D漁民だったと想定され、彼らの意図はアワの栽培技術者を遼河台地からリクルートし、福井のアワ栽培者の数を増やす事だったと推測される。

堅果類しか栽培していなかった勝山の縄文人集落には、Y-O2b1mt-M7aペアがいたから、mt-Dが渡来すれば、彼らもアワ栽培者になる事が出来たからだ。この様な動静から、当時の福井の人口構成を類推する事ができる。査海遺跡から出土した石製装飾品は、沿岸漁労を伝統的な生業にしていたY-O2b1漁民の人口と、堅果類を栽培しながら漁民にアサを供給していた縄文人の人口が過剰状態で、アワを栽培するmt-Dの数が少なかった事を示唆しているからだ。

これが7800年前の事情だったとすると、9千年前にアワの栽培に成功していたmt-Dは、未だ縄文人の多数派にはなっていなかった事になる。つまり北陸縄文人はヤンガードリアス期に、人口が大幅に減少するほどの痛手を受けたが、その後の温暖化で人口を大幅に増やしたから、1万年前に数千人のmt-Dが渡来して9千年前から縄文人に浸潤し始めていても、千年後のmt-Dの人口は、未だ北陸縄文人の半数程度だった事になる。数千人のmt-Dが渡来したと推測する根拠は、この節の後段で示す。

控え目に見積もる為に1世代で1mt-Dの人口が増えたとし、25年で世代交代したとすると、1000年で40世代が交替して人口は45倍になったが、それでも北陸縄文人の半数程度だったとすると、9千年前のmt-Dの人口が千人だったとしても、8千年前のmt-Dの人口は55千になり、北陸縄文人の女性人口は10万人に迫っていた事になる。海洋漁民の男女も合わせた北陸部族は、少なくとも30万人規模の人口を擁していた事になる。温暖化して堅果類の生産性が高まり、海には採りきれない魚がいたから、食糧事情に困窮しない状態で経済活動が活性化した事が、この様な人口の増加を促したと考える事もできるが、北陸部族がリクルート活動を行ったのは7800年前だった事に留意する必要がある。

北陸の気候が8500年前に湿潤化し、8000年前以降は降雨量が激増したから、それに従って北陸の森林の様相が大きく変化したからだ。それが焼畑農耕に与えた影響を具体的に列挙できるほどには、石器時代の焼畑農耕に関する情報はないが、8500年前の降雨は樹林を急速に再生するには不足していたから、縄文人はアサやアワを栽培する為に新しい樹林を次々に伐採し、畑を形成していたが、8500年前に樹林再生型の焼畑農耕に変わり、豪雨期になった8千年前に焼畑農耕の様相が、画期的に変化した可能性はあるだろう。

つまり8千前までのアワは栽培地の確保が難しく、北陸縄文人はドングリに頼る生活が主体だったから、mt-M7aが人口の主体を形成する状態から脱していなかったが、8千年前に降雨が激増して森林の再生力が高まり、焼畑農耕の生産性が画期的に変化すると、アワが穀物性の食料の過半とする状態に、切り替える事が可能になった可能性はある。

単純に8千年前に焼畑農耕の手法に技術革新があり、従来はmt-DよりmtM7a比率が高い状態でなければ、広い焼畑の面積が確保できずに焼畑農耕が成立しなかったが、降雨の激増によってその状態が変化した可能性もある。

或いは原初的な焼畑農耕によってmt-M7aがアサを栽培していたが、8千年前までは焼畑農耕の全般的な生産性が低く、食料の生命線である漁労に必要な量を確保するために、アワの栽培に割り当てられる焼畑は限定されていたが、豪雨期の襲来と共に焼畑農耕全般の生産性が高まり、アサの供給も十分になったから、アワの増産に向かった可能性がある。

転機が訪れる場合の原因は、複合的である事が多いから、上記の様な要因が複雑に絡み合った結果として、アワ栽培者の社会内部にmt-Dの比率を高める機運が盛り上がり、短期的に不足したmt-Dを遼河台地に求めた可能性もある。過少見積もりした人口でも、30万人もいた事に違和感を持つのであれば、この様な想定を加味する必要があるが、いずれにしても縄文早期後半の北陸部族の人口を、10万人以下に値切る事はできないだろう。9千年前には磨製石斧の工房で、石製装飾品が作られていたからだ。

いずれにしてもmt-Dが優遇されて人口が増えたから、その結果としてアワ栽培者が山陰や琵琶湖岸、濃尾平野に進出し、彼らと一緒に伝統的な縄文人やY-O2b1漁民も移住した事を、この時代の土器の共通性が示している。現在の地理感覚では、琵琶湖岸と濃尾平野は関ヶ原を介して近接しているが、この時代の伊勢湾は大垣市から北方町まで湾入していたから、関ヶ原から名古屋市緑区に至るには、濃尾平野の山裾を周回して長良川と木曽川を渡る必要があり、近い場所にあるとは言えない状態だった。

しかし河川に土砂が堆積していなかった8千年前には、長良川を船で郡上辺りまで遡上できた可能性が高く、その様な交通の利便性から考えると、琵琶湖岸と名古屋市緑区のアワ栽培者は、福井から放射状に拡散したと想定され、磨製石斧の荷揚げ地だった福井が、アワ栽培者の中核地だった可能性が高い。しかし時代の進展と共に、広い栽培地が広がっていた琵琶湖岸や名古屋市域が独自の文化圏を形成し、アワ栽培者の更なる拡散源になっただろう。

北陸部族が遼河台地に出向いたのは、遼河台地にアワ栽培者がいるとの情報を、ツングースから得たからだと推測される。彼らが遼河台地を訪問した当初の目的は、そこで生産されている品種と生産技術を、参考にするためだったのかもしれない。その為に日本のmt-Dを伴って渡航したかもしれないが、遼河台地は新潟や福井より寒冷で乾燥した地域だから、その栽培品種も生産技術も、日本のアワ栽培には役に立たなかっただろう。それを検証するために、両者の栽培事情を検証する。

ウィキペディアは遼河台地が湿潤化した直後の事情を、興隆窪(こうりゅうわ)文化期(査海遺跡を含む)は、雑穀があった証拠が発見され、唯一の農業の存在の証拠となっている。」と記し、食料の多くを狩猟や漁労に依存していた事を示唆しているが、500年後の趙宝溝文化期になると、「遺跡が河北省北部の灤河流域、およびシラムレン川とラオハ川沿いの地域(遼河上流域)で発見される様になり、石鋤や石包丁などといった磨製石器や打製石器が出土し、農耕も行ったとみられる。」と解説している。

数百年の間にアワの生産性が急速に高まり、農耕集落化していった事を示唆しているが、アワの栽培地を石鋤で耕していた筈はないから、蔬菜類の栽培に使っていた可能性が高い。それであってもその数が増えたり形状が改善されたりした事は、農耕民族化が急速に進展した事を示している。従ってアワの生産性が急速に高まった理由を求める必要があるが、縄文前期寒冷期に向かって気候が冷涼化していた時期だから、特別の事情がなければその様な事態の発生は想定し難い。従って日本で品種改良された生産が高い種が導入され、在地の品種と交配して彼らの品種が改良されたから、アワの生産性が急速に向上したと考えざるを得ない。

大陸のアワ栽培者が縄文中期初頭まで、遼河上流の台地から華北に南下できなかったのは、原生種であるエノコログサが繁茂していたからだと想定される。しかしエノコログサがなかった日本列島には、アワ栽培の南限はなかったから、北陸時代からアワの品種改良が進み、生産性はシベリア時代や興隆窪期から画期的に改善されたと想定される。

更に温暖な福井や山陰に拡散して栽培した日本のアワは、中華のアワ栽培とは全く異なった気候条件下で進化し、異なる品種になったと考えられる。その生産性が遼河台地を起源とするアワより格段に高まったと推測する根拠は、他の栽培種から類推する事によって得られる。

パン小麦が栽培狩れるとその生産性が急速に高まり、それより栽培化の歴史が古いエンマ小麦や大麦を駆逐していったのは、温暖でありながら原生種が繁茂していなかった、北アフリカで栽培化されたからだと先に指摘したが、日本のアワも同様の状態にあった。その上に日本のアワの品種改良は、焼畑農耕による狭い栽培地の優良な土壌を使い、単位面積当たりの生産性を高める努力が続けられた事に特徴があった。つまり個体の実りの豊かさを求める品種改良を行っていたから、1万年前に分岐した7800年前の遼河台地のアワとは、2千年以上別の環境で栽培された結果として、別の品種の様な状態になっていただろう。

遼河台地のmt-Dと北陸部族の交流が生れれば、種子の交換が行われた可能性は高いが、日本の品種が遼河台地で栽培できたのか否かは別にして、栽培化の第二段階以降の女性達は優良な遺伝子を集める技能を持っていたから、日本の栽培種が獲得していた生産性を高める遺伝子を取り込み、遼河台地に新たな栽培種を生み出す事は難しくなかっただろう。

華北は漢代までアワの栽培地だったが、乾燥した地域で施肥もなく栽培していた品種は、それほど生産性が高くなかった事をその後の歴史が示している。唐代に小麦栽培が浸透し始め、宋代の華北は小麦の栽培地に代わって現在に至っているからだ。これを聞くとアワの生産性は低かったと感じるが、これは華北のアワ栽培の話であって、この話から日本のアワ栽培を連想する事は適切ではない。日本のアワは焼畑農耕によって温暖な地域で1万年前から栽培され、生産性が高い品種に変わったからだ。同様の例は熱帯ジャポニカとジャバニカにもあり、同じ原生種から栽培化されたが栽培化された場所が異なったので、別の品種になった。アワについては栽培化以降の分岐時期が更に古く、栽培手法が全く異なったから、日本種と華北種にはそれ以上の違いがあったと考える必要がある。類似した例として、パン小麦とエンマ小麦の違いも挙げる事ができるだろう。

 

アワ栽培者の山陰への拡散

この時代の代表的な遺跡として、鳥浜貝塚がある。鳥浜貝塚がある三方湖の湖岸には、アワの栽培適地が広がっていたので、此処があわら市域の次の入植地になったと考えられる。先に琵琶湖岸にも入植した事を指摘したが、三方湖の一山西に小浜市を流れる北川があり、北川を遡上して標高280mの水坂峠を越えると琵琶湖に流れる石田川の水系に至るから、アワ栽培者の移住や磨製石斧の運搬はこのルートで実施されたと推測され、名古屋市緑区に至るより容易なルートだから、琵琶湖岸への入植が先行したと想定される。但しこの時期の石田川下流に平地はなく、水坂峠直下の石田川流域に堆積していた狭い沖積地が、アワの栽培地になっていたと想定される。その理由は後述する。

縄文早期後半の北陸部族を形成した原日本人の子孫は、新潟に集住して海洋文化を高めていたと想定されるが、福井を中心とした西日本には海洋民族とは異なる、アワ栽培者を中核にした、北陸縄文人起源の文化が生れた事になる。この文化の中心は縄文早期末には、桑野遺跡の台地より広い平坦地があり、鳥浜貝塚を擁する若狭町に移っていたと推測される。この平坦地は標高数100mの山に挟まれた谷間にあり、台風の被害も軽微だったからだ。

この平坦地を流れる川は水源が浅く、その川が流れ込む三方湖は狭い水路を経て水月湖に繋がり、更に狭隘な谷を経て久々子湖(くぐしこ)に繋がっている。前回の間氷期に、これらの湖の原型となる地形が形成され、前回の間氷期の水位は現在の海面より数十メートル高かったから、流出口が殆ど浸食されない状態で氷期初頭の大豪雨期を迎えたと推測される。豪雨期に3つの湖が連続したダムを形成し、最上段の三方湖の水位が現在と同様な状態に維持されたから、若狭町の平坦地が保存されたから、海面上昇が停止した直後だけではなく、海面上昇期だったヤンガードリアス期にも、縄文人に土壌が肥沃な栽培地を提供したと考えられる。鳥浜貝塚に125百年前の遺物が遺され、縄文前期の遺物として漆塗りの赤い櫛が遺されたのは、この様な理由があったからだ。

彼らはY-Dを中核とした原日本人的な集団ではなかったから、部族意識が希薄な状態で新しい蛇紋岩帯を求め、海面上昇が終了した中国山地の山陰側に、谷合の小さな沖積地を探しながら展開したと考えられる。例えば由良川流域の場合、福知山まで海水が侵入していたが土師川流域の丹波市域には、アワが栽培できる沖積地が形成され始めていたと推測される。由良川の支流である牧川を西に遡上し、標高210mの分水嶺を超えると養父市を流れる丸山水系に至り、中国山地の巨大な蛇紋岩帯の東端に達した事になる。

北陸部族の縄張りは若狭湾まで延伸していたから、鳥浜も由良川の河口も北陸部族のY-D漁民が、磨製石斧の運搬などでサポートできるエリアだったが、山陰は隠岐部族の故地だったから、彼らが九州縄文人と共に東北に移住してしまい、山陰は留守にしていたからだと言っても、山陰の沿海部は隠岐部族の縄張りだった可能性が高い。沿海州から隠岐産の黒曜石で作られた矢尻が多数発掘されているから、それらは隠岐部族の交易活動の成果だったと想定されるからだ。海洋漁民は漁場としての海が縄張りだったから、海面が上昇して海岸線の地形が変わっても、この状態は変わっていなかった可能性が高い。

従ってアワ栽培者は中国山地の内陸を、水系を超える様に拡散していく必要があったが、それでは北陸産の蛇紋岩の輸送路が、伸び切ってしまう問題があった。しかし中国山地の蛇紋岩帯を発見する事により、この問題が解決されたと考えられる。それにしても山口県まで拡散するには、何らかのトラブルがあった可能性もあるが、アワ栽培者は縄文前期温暖期に山陰に北上した、九州縄文人と交流したと考えられるから、山陰の内陸部はアワ栽培者のテリトリーになったと推測される。海洋民族は交易に関する海域の通行権や、湊の使用権は相互に認め合っていたから、北陸部族の船が河川を遡上してアワ栽培者の集落と物資を交換する事は、問題にはならなかったと推測される。

この時代の山陰海岸は他地域の海岸と同様に、波が海岸の斜面の岩肌を洗い、氷期には河川だった谷に海水が入り込み、その様な谷は内陸に数10㎞も食い込む深い入り江を形成していたから、現在の様に開けた海岸はなく、アワ栽培者の定住地は、その様な入り江の奥深くに形成され始めた狭い川洲ではなく、氷期に形成された湖の畔の川洲だったと想定される。その残渣である川洲は標高が高いから、縄文前期以降に形成された川洲と区別する事ができる。但し山塊の岩石が脆く浸食が激しかった河川でも、川洲の標高が高くなっているから、周囲の地形を注意深く分析する必要がある。

アワ栽培者がこの様に広域に拡散した結果、日本人のmt-D比率が高まった。

日本人にはアワ栽培者の遺伝子だったmt-D37%、mt-M7a8%もいて、温帯ジャポニカの稲作者だったmt-Fと熱帯ジャポニカの栽培者だったmt-Bの合計は19%だから、瑞穂の国と言うほどに稲作者の遺伝子が多いわけではない。但し日本人の遺伝子分布には歴史的な経緯があり、弥生時代の稲作者はmt-Fmt-Bだけではなかった。また古墳時代に帰化した漢族と韓族の遺伝子が現代日本人に2割近く含まれ、渡来時にmt-Dを濃厚に含み、mt-M7aも含んでいたから、アワ栽培者だったmt-D+M7aの子孫は、弥生時代末期には2530%程度だったと推測される。

現代日本人の遺伝子分布から割り出される、弥生時代初頭のmt-B49%、mt-F5%だったと推測され、縄文稲作者の子孫は14%しかいなかった事になるから、縄文時代にアワを栽培していたmt-D+M7aは、mt-B4+F2倍近い人口を擁していた事になる。

弥生時代初頭を基準にするのは、鉄器時代になると稲作の生産性を高める重要な要素が、鉄製農具や鉄器で製作された木製農具による、水田の形成技術に変化したから、農具を入手した男性達の稲作地の形成が重要になり、稲作者の遺伝子ではなくても稲作を行う事が可能になったからだ。関東部族のmt-B4がその時流に乗り、日本式の稲作を日本全国に広めてその傾向を助長したので、弥生時代の稲作者は相変わらず女性達だったが、遺伝子に依存しない状態になった。

mt-D+M7amt-B4+F2倍の人口を擁し、その構成が弥生時代以降も続いた理由は、稲作が本格的に導入された弥生時代なっても、温暖な西日本での生産性でさえ焼畑農耕に及ばなかったからだと考えられる。コメの方が商品価値は高かったから、栽培者はコメを作りたかったが、稲作地は平坦な沖積平野に限定されたのに対し、焼畑農耕が可能な山野はその何十倍もの面積があったから、mt-D+M7aの多くが、焼畑農耕者であり続けたからだ。

鉄器時代になると稲作の生産性が高まり、日本列島の経済はコメを基軸に回転した事は事実だが、焼畑農耕の生産性も鉄器時代に高まり、一人当たりの穀物生産量は稲作を大きく上回っていたと想定される。化学肥料が使われていた戦前まで、多くの焼畑農耕者が残っていた事がその証拠になる。つまり弥生時代に稲作が盛んになった様に見えても、実際には焼畑農耕者の人口の方が多かった事を、上記の遺伝子分布が示している。

焼畑農耕を行っていたアワ栽培者は、コメ経済が主流になった弥生時代以降は、換金性の高い穀類生産者の座から転落したが、流通経済が発達していた日本列島では、商品を生産する手段は色々あり、他の商品生産によって流通経済に参加する事も可能だった。従って弥生時代以降に営まれた山間の集落の殆どは、その様な人々の集落だったと考えられる。その様に考えなければ、現在も散在している山間地の集落の、戦前の人口規模は説明できないからだ。

更に言えば江戸時代が終わるまで、日常的にコメを食べる事ができない農民が、多数いたと言われているが、農民はコメで年貢を収めていた。つまり貧しい農民であってもコメを生産し、年貢を納めた後の余りを換金し、入手した貨幣で多量のアワを購入し、自分の食料にしていたと推測される。その背景にはアワの流通があり、焼畑農耕者はその様な貧しい稲作民にアワを提供する、余剰生産が可能な人達だったと推測される。

換金性が低いアワの生産者に稲作者以上の生産性がなければ、稲作者と同等な換金性は得られなかったから、この様な経済が成立する為には稲作者に匹敵する数の焼畑農耕者がいて、貧しい稲作者にアワを供給していた事になる。戦前まで多数の焼畑農耕者がいた事は、江戸時代にはその何倍もの焼畑農耕者がいた筈だから、江戸時代までの穀物経済は、その様な焼畑農耕者を含めた状態で回転していた事になる。温暖な地域では麦の裏作がそれを補っていたかもしれないが、一毛作を強いられた冷涼な地域ではこの様な経済が回っていたと考えざるを得ない。

これを簡便に言えば、生産性が低い稲作者より標準的なアワ栽培者の方が、カロリーベースで高い生産性を得ていたのでなければ、日本の多数派だった貧しい稲作農民が、雑穀を食べながら年貢としてコメを供出し、余ったコメで商品経済に参加する様な穀物経済は、回転していなかった事になる。

 

アワ栽培者の南下移住

アワ栽培者は縄文中期に阿波に南下したと考えられるので、その経緯を検証する。その様に考える理由はこの地域がアワと呼ばれているだけでなく、四国山地の東部は蛇紋岩の産地である事と、古事記がイザナギ・イザナミ伝説で「(四国の)粟国はオオゲツヒメと謂う」と記している事にも依る。オオゲツヒメは「本当のアワの女神」を意味するから、古事記の著者は阿波が、アワ栽培者の中核地であり起源地でもあると認識していたからだ。つまり気候が温暖で良質の蛇紋岩が採取できる阿波が、縄文時代のある時期にアワ栽培の中核地になったと考えられる。

縄文中期に気候が冷涼化すると、アワの栽培者がこの様な南下を敢行した事は、アワの原生種が繁茂していた地域の気候を示唆し、同様な気候下で、原生種の花粉の影響を受けずに品種改良が進むと、生産性が高まった事も示唆している。つまり栽培化されたアワの原生種は、暖温帯性の堅果類が繁茂する温暖な地域に繁茂していた事を示唆し、氷期にmt-M8がいた広東近辺は当時のエノコログサの北限だった事になる。mt-M8の一部がそこから揚子江流域辺りに北上し、エノコログサの北限を超えた地域でアワを栽培化する過程で、mt-Zに純化した事を示唆している。

9千年前の新潟はその様な気候だったから、其処でアワの生産性の高さに気付いたアワ栽培者が、同じ気候を求めてアワの栽培地を選定していたとすれば、彼らが阿波に南下したのは縄文中期寒冷期だった事になると共に、アワの生産性向上に拘っていた、mt-Dの執念を窺う事になる。縄文中期寒冷期になっても関東で熱帯ジャポニカを生産していたmt-B4と比較すると、mt-Dの性格は際立っていると言わざるを得ない。大陸では気候が変動すると栽培地を変える事が一般的だったが、日本に渡来した稲作者は関東に定住し、mt-Gも北陸に留まっていたから、mt-Dだけがその規範を逸脱していた事になる。古事記が、「高天原を追放されたスサノオノミコトに、オオゲツヒメが鼻、口、尻から食物を取り出したので、汚いものを食べさせると誤解してオオゲツヒメを殺した」と記しているのは、周囲の海洋民族と阿波に南下したアワ栽培者の間に、いずれかの時代に何らかの悶着があった事と、mt-Dは汚物が肥料になる事を知っていた事を示唆している。

アワ栽培者の阿波への南下は、大阪湾岸を経由するものだったと推測されるが、原日本人時代にはなかった瀬戸内海が縄文早期に生れると、播磨灘は関東部族のテリトリーになり、吉備、讃岐、淡路は関東縄文人の入植地になった上に、縄文時代には大阪平野はなく、大阪湾が高槻市や枚方市まで湾入していたから、大阪湾岸のアワ栽培地は神戸だった可能性が高い。現在の神戸の山際には標高3040mの台地があり、前回の間氷期に形成された大阪平野の残渣だったと考えられるから、縄文海進が始まった頃のアワ栽培者に、狭いながらもある程度の纏まった栽培地を提供したと考えられるからだ。

アワ栽培者が福井から神戸に至る経路は、大津から瀬田川を下るものだった可能性もあるが、当時の京都分地は山崎で堰き止められた巨大湖だったから、現在の盆地の北縁を周回しなければ神戸に行けなかった。アワ栽培者は内陸に拡散し、湖沼群の畔に形成された川洲で栽培したと推測されるので、内陸を経由するルートも有力候補になる。例えば若狭湾に流れ込む由良川を遡上して支流の高屋川に至り、古京丹波湖の川洲にいたアワを栽培者が、標高250mの観音峠を越えて古亀山湖に至れば、其処に流れ込んでいた園部川を遡上し、分水嶺を超えると大路次川に至るから、その川を下れば伊丹に至ったからだ。

但し史書は大阪湾岸や大津は倭人の地域、即ち関東部族のテリトリーだった事を示唆しているから、関東部族は縄文早期に播磨灘だけではなく、大阪湾もテリトリーとしていた事になり、神戸に拡散したアワ栽培者は、漁民の部族制に従わない人々だった事になる。北陸部族の船は大阪湾岸では活動できなかったから、神戸のアワ栽培者は内陸の交易ルートで、磨製石斧を入手する必要があった。養父に達したアワ栽培者は其処で磨製石斧を製作する事により、神戸への供給を確保したかもしれないが、縄文中期のアワ栽培者は蛇紋岩の産地に集住する様になったから、神戸も縄文中期初頭に撤収して阿波に南下したとすれば、この動向と一致する。これには北陸の石斧工房の生産動向が関係し、縄文中期に工房の数が増えて生産が過剰気味になったので、職人が全国に拡散した事がこの様事情の背景にあった。縄文中期の石斧工房が新潟で多数発掘されると共に、長野の伊那谷や群馬などに磨製石斧を伴う縄文集落が生れた事が、その事情を示唆している。

神戸近郊の低地と山地の樹相が、7千年前頃に大きく変わったとの報告がある。

鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)の降灰前には,ムクノキ、ケヤキ、イヌシデを主体とし、モミとカヤを交える落葉広葉樹林が存在したが、降灰後にはアカガシ亜属とクスノキを主体とし、多様な針葉樹や広葉樹を交えた照葉樹林が成立した。

6千年前からコナラ属の樹林が減少してアカガシが増え、その状態が継続した。

7300年前に鬼界カルデラが大噴火し、九州南部は壊滅的な被害を受けた。それ以前の神戸には氷期から日本に生えていたモミやカヤに加え、縄文人が持ち込んだ冷温帯性の落葉広葉樹であるケヤキやイヌシデが加わった林が広がり、関東部族が船底材としてフリッピンから持ち込んだ、ムクノキも繁茂していた。縄文人の主要な食料だったドングリを採取するコナラもあった事は、関東部族が岡山に入植した事により、関東部族が栽培する樹木が神戸にも広がっていた事を示唆している。コナラはアワ栽培者も栽培していたから、その樹林が神戸にもあった可能性がある。

降灰後に主要な樹種が暖温帯性のアカガシに変わり、縄文中期寒冷期になっても戻らなかったのは、照葉樹林に相応しい温暖な気候が続いていた事により、アカガシの林が徐々に拡大して極相林を形成したからだと想定される。

クスノキが増えたのは、関東部族が船の舷側板の素材に使う為に植えた事を示唆している。クスノキは元々日本にはない暖温帯性の樹種だから、関東部族が船の舷側板に多用する為、東南アジアから持ち込んで植林した可能性が高いからだ。海洋漁民の木材需要は船底材としてのムクノキ、舷側板用のクスノキだったと想定されるから、クスノキが増えた事は船が大型化した事を示唆している。クスノキは人の手が入らない森林ではあまり見かけない樹種だから、ムクノキやアカガシの様な強い繁殖力は無く、人が植えた可能性が高いいからだ。

クスノキは生育が早く木材が柔らかいから、海洋縄文人が船の舷側板に多用した理由は、加工しやすかっただけではなく板をシナノキのロープで締め上げると、密着性が高まって水漏れしないから、大型船の建造に適していたからだと推測される。古墳時代の遺跡から、クスノキで船底材や舷側板を作った船が発掘されているのも、その様な事情によって湖や近海を航行する船に多用したからだと考えられるが、強度を必要とする海洋船の船底材には不向きだったと考えられる。

この6千年前は未校正値であると考えられるので、6500年前にコナラ属の樹林が減少してアカガシが増えた事になる。これは神戸に入植したアワ栽培者が、縄文前期寒冷期まではドングリを多量に消費していたが、縄文前期温暖期になるとアワの生産性が高まってドングリの消費量が減ったから、放置した堅果類の樹林がアカガシの極相林に変化していった事を示唆している。

暖温帯性の樹種であるアカガシも、元々は日本列島になかった樹木だから、mt-B4+M7cmt-B5+M7bが持ち込んだと想定されるが、陰樹の樹林は形成に時間が掛かるから、アカガシの拡散は鬼界アカホヤ火山の大噴火とは関係なく、上記の女性達をペアにしていた関東系縄文人の集落から、徐々に拡散したと推測される。

関東部族はクスノキを船の舷側版に使ったが、神戸に拡散したアワ栽培者は、関東部族が栽培していたクスノキを見て、別の用途に転用した疑いがある。焼畑にした農地を再生する場合に、虫害に強く樹林化が早いメリットがあっただけではく、石斧で伐採する際の労力の低減にも役立ち、焼畑の土壌を再生する樹種としても適していたからだ。鉄器時代の焼畑農耕を観察した文化人類学者は、雑草の除去が最も過酷な労働であると報告しているが、石器時代には切り倒せる樹木の量が栽培地の面積を決めたから、焼畑農耕者はその様な樹種に敏感だったと考えられる。

蛇紋岩は繊維質(石綿)の鉱物を含む粘性が高い岩石だから、打撃を受けても割れない上に斧の刃を研ぎ出す事ができる、磨製石斧には最適の岩石だった。青銅の硬度は34しかなく、蛇紋岩帯の主要鉱物である蛇紋岩は硬度3だが、同じ系譜の透閃石岩は硬度が56もあって鉄に匹敵するから、工房の職人が作った透閃石岩製の磨製石斧は、青銅の斧より高性能だった可能性が高い。但し粘性は青銅や鉄には及ばないから、青銅器や鉄器の様に鋭利な刃を研ぎ出す事はできないし、刃部の摩耗も早いが、斧の様な鈍器的な道具には向いている。鋭利な刃部の維持には研ぎ直しが必要だが、それに職人技が必要であれば磨製石斧は消耗品になり、焼畑農耕には多数の磨製石斧が必要になった。

日本列島には蛇紋岩を産出する場所が多数あり、新潟県南部~富山県西部のものは透閃石岩の含有率が高かったから、そこに磨製石斧の工房が沢山営まれたが、他にも伊那谷、秩父・群馬西部、中国山地、四国、長崎・熊本など、アワ栽培が可能な地域に多数の産地が散在し、それらの地域で磨製石斧が出土している。縄文時代中期に焼畑農耕者がそれらの地域に集中的に拡散した事を、これらの石斧が示しているが、縄文早期には福井、大津、名古屋などの、付近に蛇紋岩が産出しない場所にもアワの栽培者が進出した。これは縄文早期には磨製石斧の加工職人が、糸魚川市や朝日町に集住していたが、縄文中期には各地の蛇紋岩の産地に、磨製石斧の加工職人が拡散した事を示している。

縄文前期の富山にmt-Dがいなかった事は、糸魚川近辺で始まった焼畑農耕によるアワ栽培が、富山を飛ばして福井に南下した事を示し、mt-Dは生産性が高い温暖な地域に一斉に南下する特性があった事を示している。これは大陸のmt-Dと同じ振る舞いだから、縄文前期の神戸近辺に焼畑農耕者が進出していたのであれば、彼らは気候が寒冷化した縄文中期に神戸を捨て、蛇紋岩が産出する阿波に一斉に移動したと推測する事に根拠を与える。

経済活動の成熟期の項で説明する様に、神戸や大津は遅くとも縄文後期初頭には、関東部族のテリトリーになっていたと考えられる事も、遅くとも縄文中期にはこれらの地域のアワの栽培者が、阿波に移動していた事を示している。

これらの地域の地理的な環境を復元し、上記を検証すると以下になる。

縄文時代の神戸には沖積平野が無かっただけではなく、大阪平野もなかった。京都盆地も奈良盆地も湖で、古京都湖は木津市まで広がっていた。古京都湖に桂川、宇治川、木津川が流れ込んでいたが、桂川の上流には古亀山湖があり、宇治川の上流には琵琶湖があり、木津川の上流には古伊賀湖があったから、大雨の際にはこれらの湖が水量を調節するダムの役割を果たし、古京都湖の流出口だった山崎の堰は、縄文時代を通して堅牢な状態を維持していた。またこれらの湖が土砂を堆積していたから、古京都湖に土砂が蓄積して川洲が拡大する速度は、極めて限定的だった。古亀山湖が消滅したのは古墳時代だったと推測されるので、古伊賀湖が消滅して土砂が多量に排出された事により、古京都湖が急速に湖面を狭めて山崎の堰が決壊したのは、弥生時代だったと考えられる。

縄文文化の形成期/その2で、13,500年前の相谷熊原遺跡は、琵琶湖から離れた盆地の端の標高210mの斜面上にあり、現在の琵琶湖の水位は海抜84mだが、縄文草創期には現在の盆地の平坦部全てが、琵琶湖の湖底だったと考えられると指摘したが、大津市の石山貝塚の標高は90m余である事は、説明が矛盾している様に見えるだろう。しかし次節に示す国土地理院の地図を見ると、その疑問が解消する。大津から大阪湾に至る地域は日本で最も沈降が激しい地域の一つで、100年間に50㎝も沈降しているからだ。

瀬戸内海は隆起している四国と中国地方に挟まれた、沈降地域に生まれた海だが、この沈降帯が大津にまで及んで激しい沈降を示す事により、琵琶湖の流出口である大津や、瀬田川が流れる山岳地も沈降した事が、琵琶湖の水位を低下させたと推測される。このペースで沈降すると13,500年間に70m沈降した事になり、この定常的な沈降だけで矛盾の半分以上が解消するからだ。地殻の上下動は地震によって加速されるから、一様にこのペースで沈降したわけではなく、変動範囲が±100%以内であればこれを原因と見做す事に違和感はない。従ってこの一見矛盾した現象は、瀬田川流域の地殻の沈降によって起きたと想定される。

古京都湖を堰き止めていた山崎の堰も、同様の沈降によって低くなっていったと想定されるが、桂川の上流には古亀山湖があり、瀬田川の上流は琵琶湖で、木津川の上流には古伊賀湖があったから、古京都湖の水位は大雨に遭っても殆ど変わらず、流出口の浸食は緩慢だったと推測される。その動きとは関係なく、湖底に溜まった土砂が堰の流出口まで高まり、湖が沼地の様になって溜まった土砂が流出し始めると、その土砂が流出口を削る研磨剤として働き、流出口の浸食が急速に進展し始める。この様な状態になると幅が狭かった山崎の堰は、短期間に破壊されると共に、古京都湖に溜まった土砂が急激に排出されたから、それまで殆ど存在しなかった大阪平野が、弥生時代に急成長したと考えられる。

山崎の堰が破壊されたのは弥生時代だから、縄文時代について考察する場合には巨大な古京都湖が存在した事と、降雨量が増えた8500年前以降の琵琶湖は、湖面を徐々に低下させていた故に、周囲に沖積平野が急速に拡大していた事を前提にする必要がある。

従って琵琶湖岸も縄文早期からアワ栽培者の集積地なった可能性が高いが、湖面が低下すると沖積平野を形成した川が、今度はその沖積平野を削平してしまうから、アワ栽培者の痕跡を発見する事は難しく、その様な考古学的な報告もないが、琵琶湖の流出口である大津市に石山貝塚が遺されている事は、それが地形学的に唯一残存した貝塚である事を示し、往時の琵琶湖周辺に集落が散在していた事を示唆している。

古事記は京都や奈良の「カモ社」を、宗像の「アジスキタカヒコネ神」を祭る神社で、宗像の海洋民族は対馬部族が7千年を経て、東北から故郷に戻った事を示唆しているから、縄文早期~前期の古京都湖には琵琶湖岸の様な広い沖積平野はなく、アワ栽培者の集積もなかったと推測される。弥生時代以降の琵琶湖岸には出自が明らかではない稲作集団がいたから、この時期のアワ栽培者の子孫だった可能性があるが、琵琶湖岸には蛇紋岩帯がなかったから磨製石斧を糸魚川や朝日町に頼る必要があり、蛇紋岩帯に人口が集積した縄文中期には、人口が減少した可能性がある。

阿波の吉野川は広い水源域を有する雨が多い南国の川で、支流に湖がない川だったから、土砂の蓄積は海面上昇が停止して豪雨期になった8千年前から始まり、縄文中期初頭には阿波市域まで沖積平野が及んだと想定される。阿波市に隣接する神山町の山間地に、蛇紋岩の露頭があるから、アワ栽培者は縄文中期寒冷期に琵琶湖岸や神戸から一斉に、徳島に移住したのではなかろうか。琵琶湖岸には多数の焼畑農耕者がいたから、縄文中期には北陸産の磨製石斧の流通手段が確立していたと想定され、それに頼って残った焼畑農耕者もいたかもしれない。しかし神戸には少数のアワ栽培者しかいなかった上に、大阪湾は北陸部族の海ではなかったから、神山町の磨製石斧の流通圏にできなかった事が、焼畑農耕者が移住した原因だった可能性が高く、遅くとも縄文中期には彼らはいなくなっていたと考えられる。これは縄文後期に関東から稲作者が、大阪湾岸や讃岐に移住した事と整合する。関東から稲作者が移住した経緯は、「経済活動の成熟期」を参照。

mt-Dが集団で一斉に移住する習性が、日本の栽培史を特徴付ける事になったが、mt-Dのその様な習俗が大陸のアワ栽培史にも示された事は、母から娘に伝えられた栽培思想が、mt-Dをその様な行動に駆り立てたからだと想定される。アワ栽培者が阿波に移住する為には、磨製石斧を安定的に供給する体制が追従して移動する必要があったが、縄文中期には群馬、秩父、伊那谷などの蛇紋岩の産地にもアワの栽培地が拡大しただけではなく、北陸の石斧工房で生産される磨製石斧が異様に手の込んだものになった事が、縄文中期の北陸では磨製石斧の生産が盛んになった事を示し、石斧工房の人材が豊富になってアワにも石斧工房が生れた事を示唆している。縄文中期の石斧工房ではヒスイの加工も盛んに行われる様になったが、ヒスイの加工には高度な技量が必要だったから、その選に漏れた職人が職場を求め、地方に下向する流れがあった事も想定される。これに関する経済論は複雑になるので、その4で改めて論考する。

 

ソバの栽培

縄文文化の形成期の項では、ソバはmt-M9の栽培種だった事を前提に歴史を検証したが、此処で改めてその真偽を確認する。

「日本人起源論」(篠田謙一著)は、富山の小竹貝塚から発掘された91個体の人骨の内、13個体のミトコンドリア遺伝子が確認され、mt-N9b5体に次いでmt-M9a 3体あったと指摘している。mt-M9aは現在の日本には極めて少ないが、弥生時代の山陰の遺跡でも複数発掘されているから、弥生時代末期以降に激減した事になる。縄文晩期後葉の富山県の低湿地遺跡から、キビ属のプラントオパールと共に、多量のソバ属の花粉が検出されているから、縄文時代に盛んに栽培されたが後世に見捨てられた栽培種として、mt-M9の栽培種はソバだった可能性が高い。

キビ属が栽培された痕跡はアメリカでも発見されているから、キビはmt-Dmt-Cの栽培種だったと想定され、mt-M9の栽培種は他に求める必要があるからだ。キビの原産地は中央アジアだと主張する人がいるが、キビも春に種を撒く夏作物だから、栽培化されたのは東ユーラシアの沿海部だったと考えられる。

mt-Gが北陸にもたらした栽培文化は、シベリアの河川漁民のために栽培していた種を引き継ぎ、栽培思想も継続していた可能性が高いから、得意な栽培種は穀類ではなく、近郊農業的な蔬菜類や漿果類だった可能性が高い。その経済手法が北陸部族の漁民にも受け入れられ、彼らの拠点だった小千谷(信濃川河口)や阿賀野川の河口地域には、多数のmt-Gがいたと推測される。mt-DmtZの栽培種だったアワを取り込んだ様に、mt-Gがシベリアか北陸で、mt-Dの栽培種だったキビを取り込んだとしても違和感はないから、縄文晩期に富山でキビを栽培していたのはmt-Gだったと推測されるが、キビもアワと同様に、大陸のものと異なる栽培種になっていた可能性が高い。

篠田氏が記すmt-M9aは、ウィキペディアなどが示すmt-M9の一部だから、現在はネパールやチベットに濃密に分布し、韓国や遼寧にも3%ほどいるmt-M9と、同様の栽培者だったと考えられる。沖縄にもmt-M9がいるから、石垣系縄文人と沖縄系縄文に共通する遺伝子だった事になり、既に説明したチベットへの、ソバの拡散経路に関する事情も加味すると、氷期のmt-M9集団はmt-M7集団と隣接した地域にいて、ソバを栽培していたと推測される。

mt-M9aが弥生時代末以降に絶えた理由が、その栽培種にあったとすると、ソバは経済的な観点から、焼畑農耕者が栽培意欲を持つほどに生産性が高い種ではなかった事が挙げられる。従って日本の穀物市場が最終的にコメとアワに収斂した後、アワ栽培者や稲作者の浸潤を受けて消滅した事に違和感はない。

現代日本人はソバを沢山食べるが、これは江戸時代に麺に加工した蕎麦が、独特のつゆと共に普及した事に依るもので、それ以前には他の穀類が生産できない寒冷地で作付けする、最も下等な穀類だった。この下等であると定義は、商品性がないから穀物市場に供出しても買い手が付かない穀物だった事を意味し、商品経済に参加していた農民が、主要な生産物とする事ができなかった穀物種を指す。しかし栽培期間が短く、寒冷地でも栽培できる穀物だから、寒冷地の農家の自家消費用途には、盛んに栽培されていた。これは温暖な地域で二毛作を行っていた事と、同様な行為だったと考えられる。

ソバは単位面積当たりの収穫が少ないから、アワが栽培化された後の焼畑農耕者は、ソバの栽培には消極的だったと考えられる。有力な穀物は全てイネ科だが、ソバはイネ科の植物ではないから穀類としての生産性に限界があり、他の有力な穀類が誕生すると劣勢になった事が、日本からmt-M9が失われた理由の一つになったと想定される。

ソバはヒマラヤ山麓に起源があると主張する人がいるが、その主張は現在の野生種の分布状況を根拠にしたもので、後氷期の気候変化や栽培化過程は検証していないから、確度が高い指摘であるとは言えないが、野生種が現在のヒマラヤ山麓に分布している事は事実だろうから、mt-M9は氷期の南シナ海沿岸でソバを栽培し、後氷期に温暖化すると、冷涼なヒマラヤ山脈に登った事を示唆している。mt-M9は氷期のヴェトナムの山岳地の民族だったとすると、温暖な低地にいた堅果類の栽培者に浸潤し、mt-M7M9を形成する遺伝子になったが、元の民族は後氷期の温暖化の際にも山岳地を北上したとすると、自動的にヒマラヤ山麓に北上した筈であり、低地にいた堅果類の栽培者は沿海部を北上した筈だから、後氷期の民族移動として自然な流れになる。

堅果類の栽培の方がデンプンの生産性は高かったが、堅果類には毒性があるから不猟期の食料として、ソバも備蓄して置くことは賢明な判断だった。狩猟民族にとって肉の腐敗が早い温暖な地域は、好ましい居住地とは言えなかったが、豊かな食物性食料の支援があれば、獲物が多い地域として豊かな生活が可能だった。それ故に東アジアには、堅果類の栽培者の子孫であるY-Oが多い。氷期のmtM9a集団のY遺伝子は明らかではないが、冷涼な山岳地の狩猟者としてmt-M9が栽培するソバの支援を受けていたとすると、堅果類の栽培者とは異なる経済合理性を追求していた栽培系狩猟民族だった事になる。彼らが後氷期の温暖化が進展する中で、冷涼な気候地域を求めながら山岳地を移動してヒマラヤ山麓に達した事は、一貫した経済合理性の追求だった。

ソバは寒冷地の栽培種と見做されているから、mt-M9mt-M7aより南方にいた事は不自然に見えるが、ソバが寒冷地でも栽培できるのは、生育に必要な期間が短いからだ。つまり夏の期間だけ高温であれば栽培できるからであって、それだけでソバの原生種が寒冷な地域の植生だったとは言えない。自然界で他の植生と競合する場合には、既に群生している植生の中に飛来した種子が、そこで芽吹く事はかなり困難だから、原生地だったと考えられる地域の、気候条件を精査しなければ原生地を特定する事は難しい。

原生種であっても野生種であっても、新しい環境で最初に群生する事が出来れば、遺伝子の多様性を生み出しながら新しい環境に適合することができるから、mt-M9が後氷期に長距離移動し、温暖化直後の植生が貧弱なヒマラヤ山麓にソバの野生種をバラ撒くと、それが繁茂する事は極めて自然な現象だったと考えられる。従ってヒマラヤ山麓に群生しているソバの野生種の特性が、必ずしも氷期のヴェトナムの山岳地に原生していた種と、同じ特性を持っているとも限らない。いずれにしてもソバの生育期間が短い事から推測すると、温暖な地域で他の植生が群生し始める前の早春に、いち早く芽吹く種だった可能性が高い。その様な群生の中から2番手、3番手が芽吹いたとすると、女性達が栽培種として選定し易い植生の特徴に結び付く。

一方栽培種になったソバは、適切な時期に除草して他の植生を駆除した後で播種すれば、かなり広範な気候条件で栽培する事が可能になる。耐寒性が弱くても栽培期間が短いから、本来であれば雑草が蔓延っている盛夏に、雑草を除去して播種する事が可能だからだ。

ソバが日本に伝来した経緯としては、縄文時代にシベリア経由で渡来した可能性もあるが、穀類の栽培は難しいから移転には栽培技能者の移動が必要になり、何らかの遺伝子と紐付けする必要がある。縄文人とシベリアの栽培者は共に豊かだったから、蔬菜類の種子が交易によって移転する事はあっても、穀類の栽培は容易に移転しなかったと推測される。ソバがシベリアで栽培されていたのであれば、昭和の満州の開拓者が見た満州の穀類に、ソバも含まれていた筈だが、満州には高粱などの日本人が知らない栽培種が多かった事も、それを証拠付けるからシベリア経由の可能性は低い。沖縄にmt-M9がいる事実も、その可能性を否定する。

もう少し根源的な事情として、アワ栽培が盛んになった後に、ソバの栽培技能者が渡来したとは考え難いから、石垣系縄文人が日本に渡来した際に、堅果類と一緒にソバも持ち込んだ可能性が極めて高い。沖縄人に2%ほど含まれているmt-M9が、原縄文人由来の遺伝子だったとすると、原縄文人にはmt-M7a10%ほどの、mt-M9が含まれていた事になるからだ。韓国人にも3%ほど含まれているから、元々のmt-M7にもその程度のmt-M9が含まれていた可能性が高く、堅果類の栽培者はソバの栽培者と共生する事により、不猟期にドングリを過剰摂取する事を避けていたと想定される。暖温帯性の堅果類の栽培者が、稲作者を含んでいたのも同じ理由だったと考えられ、堅果類の栽培者はドングリの過剰摂取による健康障害に、かなり早い時期から悩まされていた事を示唆している。堅果類を栽培する事によって毒性が徐々に除去されたから、担任をほとんど含まない堅果類も生まれたが、氷期の堅果類の栽培者は毒性が強いドングリを食べていたから、アクを抜いても残留した毒性に悩まされていた事になる。

関東縄文人にmt-M9が含まれていない事は、先陣として九州に上陸した縄文人は、育成に時間が掛かる堅果類の樹林を形成する人達だったから、mt-M9が渡来する以前に後続が絶たれた事により、九州には渡来しなかった可能性が高い。渡来した後の関東や九州で、稲作者に浸潤されてしまった可能性もあるが、沖縄系縄文人と一緒に東北や北海道に移住した部族の地域から、mt-M9が含まれる縄文人の遺骨が発見されていない事は、前者だった可能性を高める。縄文晩期の青森でソバが栽培されていたとの指摘があるが、縄文後期以降の日本列島では穀類の栽培が盛んになると共に、部族認識が混乱し始めていたから、亀ヶ岡文化を生み出して経済的に豊かになった東北に、北陸のmt-M9が浸潤した可能性が高い。経済活動の成熟期の項で説明するが、東北縄文人は漁民が形成した部族に対し、帰属意識が曖昧な人達が多数いたと考えられるからだ。

縄文前期の富山では、mt-M7a2個体に対してmt-M93個体もあり、mt-G1個体あった事は、アワが栽培されていない地域では、mt-M9を浸潤する遺伝子がなかった事を示唆し、mt-Gは穀類の栽培者ではなかった事を示している。mt-M9mt-M7aより多かった事は、ヤンガードリアス期に堅果類の栽培が壊滅的な状態になり、mt-M9mt-M7aを浸潤した可能性を示唆し、mt-M7aとほぼ同率だった事は、ソバを生産する事によって堅果類への依存性を低下させていた事を示している。

従ってmt-M9がソバの栽培者だったとすると、全ての遺伝子分布を数値的に説明できるし、歴史的な矛盾もない。

縄文晩期の富山でソバが多量に栽培されたのは、富山は海洋に近い場所から急峻な中部山岳地帯に連なる地域だったから、縄文前期温暖期のmt-M9a集団が、海洋漁民の集落の近くに住居を求めながら、冷涼な山間地を栽培地にしていた事を示唆している。従って縄文前期のソバの栽培者は富山に集中し、漁民が集積していた新潟中部では稀な遺伝子になっていた可能性が高い。

 

小竹貝塚のミトコンドリア遺伝子が示す、北陸部族の状態

小竹貝塚から発掘された縄文前期のこの地域の縄文人の遺伝子分布は、13体中mt-N9b5体、mt-m9a3体、mt-M7a2体、mt-A2体、mt-G1体だから、ソバの栽培者が多いのは富山独特の事情だったとすると、他の穀物栽培者はmt-G1体しかないから、冷涼な北陸部族の域内では、穀類は生産も消費も低調で漁労のウエートが高かった事になる。これはオホーツク海沿岸のツングースと同じ状況だから、違和感を抱くほどではないが、磨製石斧の生産が盛んだった事は、西日本のアワ栽培地からアワが入荷していた事も意味するから、オホーツク海沿岸のツングースとは異なり、アワもそれなりに消費していた事になる。

つまり小竹貝塚の人々は磨製石斧を生産する事により、骨製の簪や櫛を持つ豊かさを得ていた事になるが、mt-N9b5体もあった事は、この地域の漁労を支えていたのはY-O2b1漁民ではなく、本格的な海洋漁民のY-Dだった事を示している。従って小竹貝塚は磨製石斧の工房とは離れた地域にあるが、豊かになった磨製石斧の工房の職人に、地産地消的な物資を供給する人達として、その豊かさを共有していた人達だったと考えられる。縄文前期~中期にその様な経済構造が発達した事は、八ヶ岳山麓を代表例としてその3に紹介するが、矢尻と並ぶ流通市場を得ていた磨製石斧も、生産者の周囲に交易的に活動する人々が参集していた事を示している。

富山の人は海産物を中心に食生活を展開し、アワを入手する為に磨製石斧を生産しながら、自身ではソバを栽培する一見矛盾した状態を示している事は、富山の人々はアワの栽培者を主要な交易者にしてはいたが、彼らの交易主体は必ずしもアワ栽培者ではなかった事を示唆している。つまり彼らにはアワ以上に欲しいものが沢山あったから、磨製石斧の代価として西日本から流入したアワは商品として海洋民族の拠点に送り、彼らが欲しい獣骨などの物資を海洋民族から得ていた事になり、交易が複合的になっていた事を示している。この状態はコメとアワの経済関係を示した先の説明と同様に、北陸ではアワが高級食材として流通し、ソバやキビが地産地消の食品になっていた事を示唆しているからだ。

この事情を更に深堀りすると、磨製石斧の職人はmt-M9aをペアにしたY-O2b1だった事を示唆している。縄文早期に焼畑農耕者になったY-O2b1は、焼畑農耕の為の栽培地を形成する為に、樹木の伐採に忙しい日々を過ごしていたし、Y-O2b1漁民は漁労に忙しかったが、ソバを栽培していたmt-M9aをペアにしていたY-O2b1には、その様な忙しい仕事は生れなかったからだ。アワの栽培が広まって人々が豊かになっていく際に、mt-M9aをペアにしていたY-O2b1も何らかの役割を担い、その経済活動の発展に寄与したくなれば、磨製石斧の職人になる事は打って付けの役割だったからだ。既に説明した様に、磨製石斧を柄に固着する際にはウルシが必要だったが、ウルシ樹は冷涼な地域でしか生育しないから、ウルシ樹を栽培しながら栽培できるデンプン質の植生は、堅果類とソバしかなかった事も、mt-M9aを磨製石斧の職人のペアに相応しい人材にした。

これが事実であれば、日本のmt-M9aが激減した理由はソバの生産性の低さだけではなく、鉄器時代になって磨製石斧の需要がなくなった時代に、コメやアワの生産性が革命的に高まったから、mt-M9aが激減する事情が重なった事になる。彼らの一部は玉造部として存続したが、その妻達がソバを栽培し続けていたのか疑問があるし、奈良時代以降の日本では玉を製作しなくなったから、それに携わっていた人々が失業して離散した事も、mt-M9aの人口を更に減らしたと推測される。

弥生時代後期の青谷上寺地遺跡から多数の惨殺遺体が発掘され、その1割以上がmt-M9aだったとの報告があるが、その理由として豊かな稲作地になった鳥取で、稲作による富の蓄積が始まり、玉造の加工集団が富山や糸魚川から出雲に移動し、出雲産のメノウや水晶を加工し始めた事が挙げられる。高価な玉は出雲の工房で製作されたが、周囲の弥生集落にも玉作り職人が拡散した事を示唆しているからだ。

 

海外のミトコンドリア遺伝子の分布が示すmt-Dの拡散事情

大陸のアワ栽培地だった内モンゴルや遼寧は、東日本のアワ栽培地より寒冷な気候であり、アワ栽培者が南下して龍山文化が生まれた陝西、山西、河南省も、西日本や九州・四国ほどには温暖ではない。従って東日本にもアワ栽培が拡散しても不思議ではなかったが、温暖な西日本以南にしか広がらなかったのは、石器時代の焼畑農耕では栽培地の面積が限られ、必要な生産性が得られる地域でしか、アワを栽培しなかったからだと考えられる。しかし気候だけでは説明し切れない状況があり、それを担ったmt-Dの性格にも、この様な事情を生んだ原因があったと考えられる。

日本で品種改良されたアワは日本独特の品種になり、温暖な地域では生産性が高いが、大陸でアワが栽培されていた冷涼な地域では生産性が劣化する、温暖地仕様の品種になった事は既に指摘したが、その様な品種になった原因はmt-Dの性格にも起因していたと考えられるからだ。稲作者になったmt-B4mt-Fは拠点的な栽培地を定め、耐寒性を高めて気候の寒冷化に耐えながら、その地域で稲作地を拡大したが、mt-Dはひたすら生産性の向上を目指して温暖な地域に拡散し、栽培拠点を変更していったからだ。

下のグラフは「日本人になった祖先達」篠田謙一著(NHKブックス)から転写した、各地域のミトコンドリア遺伝子の分布構成。

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このグラフに掲載されていない栽培系民族のmt-Dも、mt-D4mt-D5が混在しているから、mt-Dがアワの栽培者になった時点で、mt-D4mt-D5が混在していた事を示している。従ってmt-D4mt-D5の比をオリジナル集団と比較し、類似しているか乖離しているかによって他民族に拡散した際に、真水としてどの程度の人数が浸透したのか、推測する事ができる。つまり大陸の本格的なアワ栽培地だった山東・遼寧のmt-D4mt-D5の比を、アワ栽培者になったmt-Dの根源的なmt-D4mt-D5の比であるとすると、多数が浸透した場合は元の比が保存されたが、少数者が浸透した場合には偏りがあると想定できるからだ。

その観点で上のグラフを見ると、日本と山東・遼寧の比は少し異なっているが、日本には古墳時代に帰化したmt-Dが混入しているから、それを以下の計算から補正すると、縄文人の比は山東・遼寧の比にかなり近かった事が分かる。古墳時代に帰化したのは華北の漢族と、馬韓にいた韓族だが、華北の漢族は山東・遼寧のD4/D5だから、韓族の比を確認する必要がある。

現在の韓国のmt-D比は漢族のmt-D+M8a+B4+Fと韓族のmt-D+M7aの合計値で、朝鮮半島に流入した漢族は遼寧や河北の人々だったから、これを前提に韓族のD4/D5を計算する事ができる。D4/D5は山東・遼寧が5.5倍、韓国は8.3倍だから、韓族のmt-Dにはmt-D5が極めて少なかったことが分かる。韓族のY遺伝子はY-O2bで、漢族のY遺伝子はY-O3だったから、現在の韓国のY-O2b22%、Y-O341%である事から韓族のD4/ D5の概略を推測することができる。

山東・遼寧のmt-D42%、mt-M8a6%、mt-B410%、mt-F8%だから、漢族のmt-D比率は64%だったと推測される。韓国のmt-M7a3%だが、韓国内の韓族のmt-D比は分からないので、仮に韓国のmt-D32%の内の、40%の14%が韓族起源であるとすると、韓族のmt-D比率は79%になる。

これを上記のY遺伝子分布に適用すると、韓国の韓族起源のmt-D17%、漢族起源のmt-D26%になり、韓国のmt-Dの内の39%が韓族起源だった事になり、仮に設定した40%に近くなるから、韓族のmt-D+M7amt-M7a比率は18%だった事になる。

韓族起源のmt-D17%の内訳として16%がmt-D4だったとすると、現在の韓国内のD4/D57.6倍になり、8.3倍を実現する為には、韓族起源のmt-DD4/D525倍程度が必要になるから、韓族起源のmt-D にはmt-D5が殆どいなかった事になる。これは極めて少数のmt-Dが韓族に浸潤した結果として、韓族のmt-D+M7aが形成されてアワ栽培者になった事を示している。

これに合致する歴史事情を探すと、遼東にある新楽文化(72006800年前)が遼河台地のアワ栽培者とは異なった文化を示し、この様な遺伝子分布を示す韓族の遺跡だった事を示唆している。この頃には渤海が最も巨大化し、遼河台地と遼東を分断していたから、遼東に遼河台地とは異なる文化が生れていた事に、違和感はない。

遼河台地は疎林が展開する乾燥した気候で、石斧を持たなかったアワ栽培者の栽培適地だったが、遼東の気候は湿潤で深い森林に覆われていたから、磨製石斧を使う堅果類の栽培者以外には、居住できない環境だったと考えられる。新楽遺跡の住居跡から土器・石器の他に木彫品が出土した事も、石斧を使う堅果類の栽培者の遺跡だった事を示唆している。

この地域の人々が遼東で産出する岫岩を石斧としていた事も指摘されているから、この森林は超温暖期に華北に北上した堅果類の栽培者とは別に、遼東に北上した堅果類の栽培者もいた事を示している。超温暖期に堅果類の栽培者が黄海を北上した際には、遼東に北上した人々はその分派に過ぎなかったが、海面上昇が進んで渤海が巨大化すると、河北と遼東は完全に分断されて往来するできなくなったから、独自の冷温帯性の堅果類の栽培民族として、韓族の祖先が生れたと考えられる。

アワ栽培者が8千年前に遼河台地に登った頃は、渤海が巨大化していただけではなく、吉林省や黒竜江省の東部は多雨地域になり、樹林が密生する様になったから、遼河台地の人々は遼東に行く事は出来なくなったと想定される。超温暖期になっても日本列島の冷温帯性の堅果類の北限は道南だったから、同じ冷温帯性の堅果類を栽培していた韓族の祖先の居住北限も、遼東と満州の境界辺りだったと想定される。渤海の北岸になっていた吉林省の北部は、それより冷涼な気候地域だったから、韓族の祖先がその地域に北上する事もなく、8千年前の遼河台地のアワ栽培者と韓族の祖先は互いの交渉がない民族だった事が、韓族の遺伝子分布をmt-D5が殆どいない異様なものにしたと考えられる。

しかしその状態ではmt-Dは一人も韓族の祖先に浸潤できなかったから、何らかの事象が発生する必要があった。北陸部族が遼河台地のmt-Dをリクルートするためには、遼東の沿岸を航行して渤海を北回りで周回する必要があったから、北陸部族の船で遼河台地から福井に向かう予定だったmt-Dの中に、偶然の出来事によって遼東で下船してしまったmt-Dがいたとすれば、それが韓族のmt-Dの祖先に相応しい女性になる。山東・遼寧の比率でmt-D4mt-D5が混在していた女性が、その様な経緯で韓族に浸潤し、その中にmt-D5がいなかったとすると、漢族に浸潤した女性は10人未満だった可能性が高い。

当時の渤海は日本海の半分ほどの広さだったから、天候が荒れて船が波に揉まれると、それ以上の航行を拒否して遼東の韓族に引き取られた女性が、韓族のmt-Dの祖先になったのではなかろうか。北陸に渡来する為に彼女達が持参していた栽培用の種は、アワだけではなく各種の栽培種があっただろうから、韓族は南北の有用な植生を入手しただろう。北陸部族が頻繁に遼河台地を訪れていたとすれば、北陸部族のmt-Dが栽培していたアワの種子も入手する事ができただろう。

新楽文化(72006800年前)の開始時期は、査海遺跡から発掘された石製装飾品(7800年前)の時代から600年経過しているから、アワ栽培者になった韓族が豊かさを示す文化遺物を遺す様になった時期に相応しい。新楽文化が終了した6800年前は縄文前期寒冷期が始まった頃だから、堅果類とアワの生産性が劣化した事によって南下移住したとすれば、終了時期は気候変動と一致する。

樹林を栽培地にした韓族が福井のアワを栽培したとすると、焼畑農耕も採用した可能性があるが、岫岩の産出量はそれほど多くはないし、雨が多いと言っても遼東の気候は北陸より乾燥し、冷涼だから樹林が容易に再生する状態ではなく、焼畑農耕の適地ではなかったから、その可能性は極めて低い。

現代日本人のmt-Dの内訳として、帰化人として流入したのは山東・遼寧の漢族と、馬関にいた韓族で、漢族の子孫であると考えられるY-O3は現代日本人の1割程度、韓族のY-O2b8%で、両帰化人のミトコンドリア遺伝子の大半はmt-Dだったから、韓族にはmt-D5がいなかった事を前提に、現代日本人のD4/D5=6.6を補正する為に、18% mt-M7aを除いた韓族のmt-D46.5%だったとすると、現代日本人のmt-D432.2%、mt-D54.9%だから、縄文人のD4/D5を推測すると5.2になり、山東・遼寧の5.5にかなり近かった事になる。

フィリッピン人のmt-Dの由来については別途説明するが、この表にはないフィリッピン人のD4/D5も、縄文人や山東・遼寧の比と類似している。篠田氏はフィリッピンのmt-D418.8%で、mt-D53.1%としているので、D4/D56.1倍になるからだ。フィリッピンのD4/D5はサンプル数が少ない故の、誤差を含んでいる可能性もあるが、古墳時代の百済は韓族を奴隷として東南アジアに販売していた疑いが濃く、ヴェトナムのY-O2bはその子孫である可能性が高いので、フィリッピンにも少数の韓族女性が流入した結果であるとすると、縄文時代にフィリッピンに渡航したmt-DD4/D5は、更に縄文人や山東・遼寧と類似していた可能性がある。

3者のこの様な類似は推計学的には偶然の一致とは言えないから、アワ栽培者になったmt-Dが北陸やフリッピンに移住した事は、否定できない歴史的な事実になり、比が類似している事は渡航者の数が極めて多かった事を示している。日本のmt-Dと大陸のmt-D1万年前に分離したが、それでも現在のD4/D5比の差が10%未満である事は、韓族の様に10人未満のmt-Dが移住した場合には、mt-D5が含まれない可能性が高い状態で、mt-D4mt-D5が混在していた事から考えると、少なくとも数千人単位の女性が移動した事になるからだ。

これは歴史的な事象とも整合するから、mt-Dにはこの比を維持する習俗があったと考えざるを得ない。

この議論を進める為に論点を簡潔に纏めると、山東・遼寧と日本では1万年の時を経てもこの比が維持され、フィリッピンでも5千年間維持された事は、それぞれのmt-Dの祖先の数が極めて多かったから、長い時間が経てもその比が変化しなかったと共に、その背後にこの比を維持するmt-Dの習俗があった事になる。

これを歴史的に説明すると、アワ栽培に成功したmt-D1万年前に北陸に渡来し、アワ栽培に成功して相当な数になっていたが、それでもアワ栽培者が不足した時期があったから、8千年前に遼河台地に南下したmt-Dが北陸部族の勧誘によって来着したが、元々のmt-Dも追加のmt-Dも同じ比だったから、縄文人の比は変化しなかった事になる。つまりこの比を維持するmt-Dの習俗は1万年前には確立していた事になり、その後も維持されたから、分岐集団がそれぞれ異なった経緯を経てもその比は微動もしなかった事になる。mt-Dの習性として集団的に行動する事と、長距離移動を敢行する行動力があった事は既に指摘したが、その他にもあった特徴的な習性がD4/D5比を保存したと考えられる。

mt-DD4/D5比率が維持された事に関し、別の観点でも確認して置く必要がある。北陸縄文人のmt-Dの細胞核の遺伝子の過半は、浸潤されたY-O2b1と、mt-M7amt-M9aペアの遺伝子で、山東・遼寧のmt-Dの細胞核の遺伝子の過半は、浸潤されたY-O3mt-M8aの遺伝子であると考えられるから、此処で問題にしているのは各民族固有の核遺伝子や習俗ではなく、母から娘に伝えられた思想や習性と共に拡散したミトコンドリア遺伝子である、mt-Dの履歴になる。

思想や習性には地域的な適応能力や、生業が異なる異性に対する嗜好も含まれ、それが各民族の淘汰に影響したが、mt-D4mt-D5はそれに関しても、差がない均質の遺伝子として振る舞った事になる。つまりmt-D4mt-D51万年前から極めて均質に混在し、両者の習性には差がなかった事になる。

この様な比を維持した習俗としては、母系家族が分裂しながら人口を拡大したのではなく、完全な父系習俗の下で、異系の家族でも隔たりなく婚姻した事が前提になる。現在の中国や韓国では同姓は結婚しない習俗を堅持しているから、大陸ではそれがD4/D5の比を維持した要因になるが、日本でも遺伝子割合が維持されている事は、日本の習俗に関する検証が必要になる。日本の古代には妻訪婚があり、母系的な習俗があったとの説もあるし、奈良朝の天皇は近親婚だったが、アワ栽培者には父系の同姓とは結婚しない習俗があった事は間違いない。

隋書倭国伝に「婚家には同姓を取らず、男女相悦ぶ者は即ち婚を為す。」と記されているから、隋代の倭王を輩出した日本海系の民族は、D4/D5を維持する習俗を持っていた事になる。フィリッピンでもD4/D5が維持されている事は、mt-D+M7aを受け入れたフィリッピン人の祖先も、同様の婚姻制度だった事になる。

雲南には母系制を遺している集落があるから、堅果類の栽培者や稲作民族は母系家族だった疑いがあるが、いずれにしてもmt-Dが浸潤した後は父系になっていた事になる。北陸縄文人に浸潤したmt-Dは、北陸縄文人の母系的な堅果衣類栽培社会を、父系のアワ栽培社会に変えた可能性もあるが、必ずしもmt-Dが習俗の変化を強制したのではなく、樹林を切り払って焼畑を形成するのは男性の作業だったから、農地を形成する事が農耕の中核になった事により、父系制に変わった可能性もある。

鉄器時代になると鉄器で形成した農地の良し悪しが、農耕の生産性に直結する様になったから、鉄製農具を入手して農地を整備した男性が農耕の主体者になると共に、農地の所有権者としての父系に転換する事は、経済原則としては一般的な現象だったと考えられる。後世のこの様な事情と同様な理由で、焼畑農耕民族が父系になったとも想定されるが、堅果類の栽培者は元々父系だった可能性も否定できない。

奈良朝や新羅では王族が近親結婚を繰り返し、mt-Dとは異質な婚姻形態だった事を示しているが、奈良朝と新羅に同じ習俗が見られるのは、越系文化の影響だったと考えられる。越の中核だったフィリッピンにこの習俗がなかった事は、越人の文化であると考えられる近親婚は、弥生時代の山東でこの文化に染まった結果である事を示唆し、その起源は山東の内陸にいた荊である疑いがある。母系制を遺している雲南の集落も、荊の習俗を遺しているとすれば辻褄が合うからだ。つまり奈良朝や新羅では、王族や貴族が越文化を模倣して近親婚を採用していたが、アワ栽培系の庶民や稲作者の転じたmt-Dは父系を維持していたと考えられる。

礼文島で発見された縄文後期の北海道縄文人は、近親結婚を繰り返した痕跡があると指摘されているが、北海道部族は純粋な原日本人とシベリア系狩猟民族の混合集団だったから、その文化的なルーツはシベリアにあったと考えられる。シベリアの狩猟民族は広大な地域を一族の縄張りにしていたから、婚姻が一族内で完結する事が一般的だったとしても不思議ではなく、それは母系でも父系でもないが、mt-Dが示す婚姻形態ではなかった。

以上の纏めとしては、mt-Dは一貫して父系社会の女性だったが、階級的な社会ではなく婚姻に際しては自由恋愛で、婚姻の際に同族を避けていた事になる。この様なY-Nとシベリアで共生し、文化的な上位者だった狩猟民族や漁労民族は、その様な婚姻形態ではなかったと推測されるが、Y-Nmt-Dペアは独自の婚姻形態を維持していた事になり、それに拘る何らかの理由があったと考えざるを得ない。Y-Nmt-Dペアは彼らの言語を、漁民の言語だったトルコ語に変えたにも拘らず、婚姻習俗は独自の方式を堅持した事になるからだ。

彼らが近親結婚に対し、遺伝子の欠陥に関する問題意識を持っていたから、この習俗を堅持したとは考え難いから、別の答えを用意する必要がある。シベリア時代のmt-Dは一族の縄張り内で栽培していたが、個人的には一族の縄張り内で栽培地を取り合いながら、個々人が対立し合う関係にあったから、娘達に他の一族の地に栽培地を求めさせる事により、親世代の互いの宿怨を清算したとの想定が、一番尤もらしい答えになる。mt-Dがその様な習俗を持っていたとすると、mt-Dが示した浸潤力や団結力の強さにも根拠を与えるからだ。

この様な関係から、強い団結力が生れる事に関しては説明が要るかもしれない。一族の外に婚家を求めると、嫁に入ってからの人間関係に苦労する事は万国共通の問題だろう。その際に女性が自分を被害者に見立て、涙を見せながら同情を求めると、被害者同盟が結成されやすい事も万国共通の事象だろう。女性の涙戦略のルーツはかなり古いと考えられる事も、万国共通の認識だろう。つまり個々のmt-Dは栽培地を取り合う競合関係にあったから、一族の内部では反目する関係が形成され易かったが、競合関係から離脱した親族に対しては同調的になり、他の一族に嫁入りした女性の保護同盟を結成し、利害関係を清算した状態で互いに連携し合っていた可能性が高い。このような場合には血縁的であるか否かに関わらず、価値観を共有する女性連盟の様なものが結成され、男性達に対して共同で意見を言う事が出来たからだ。

これを普遍的な状態として解釈すると、栽培技術が未熟で生産性が低かった時代には、広い縄張りを少ない数の栽培系狩猟民族が確保し、女性達はその縄張り内で栽培地を探したから、女性達には内紛はなかったかもしれない。その場合の婚姻は一族内で完結していた可能性が高く、上記の北海道部族やシベリア系狩猟民族の婚姻習俗に類似していたと推測される。

しかし栽培の生産性が高まって人口密度が高まると、狩猟の縄張り内で女性達が優良な栽培地を巡って争う様になり、その争いの怨恨が深まる事を恐れた女性達が、父系制下の外婚制に切り替えざるを得なくなった可能性に至る。この場合には栽培の重要性が高まって女性優位社会に転化していなければ、女性達は安心して族外に婚姻相手を求める事が出来なかったから、女性同盟を結成して男性達に女性の権利を保障させる必要があった。栽培の生産性がある程度高まり、栽培を抜きにした食生活は考えられない状態になっていれば、この様な習俗は容易に生まれただろう。つまり栽培系狩猟民族の父系制社会は、女性の発言権が強い社会環境で生まれた可能性が高い。

超温暖期のシベリアでmt-Dmt-Zmt-Gmt-CY-Nをペアとして共有しながら、全く異なる民族の様に行動した事は、栽培者だった女性が民族性を仕切り、婚姻関係も仕切っていた事を意味する。その状態がこの様な婚姻関係から生まれていたとすると、女性達の価値観が異なった故に、別の民族の様に振舞い、価値観を共有しない女性を排斥した事情も説明できる。また文化的な上位者だった狩猟民族や漁労民族の習俗に、同化できなかった理由も説明できる。経済的な実権を握っていた女性の発言権が強かった筈なのに、一貫して父系を維持した理由にも繋がる。つまり父系を維持する事は男性の権威を認めたからではなく、女性達の団結を維持して社会を安定化する為に、必要な制度だったからだと考えられる。

暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7にとっては、堅果類は極めて生産性が高く、その栽培地の取得に苦労する必要はなかったから、この様な必要性はなかった。しかし縄文文化の形成期の項で示した様に、2万年前に内陸が乾燥して内陸の堅果類の栽培が行き詰まった際に、内陸のmt-M7aが原縄文人集団に多数浸潤した事は、堅果類の栽培者も父系だった事を示唆している。つまり樹林は一族の共有財産だったから、嫁いだ女性は義母からドングリの取得権を委譲され、自分の代に新しい樹を育てて追加する様な婚姻形態だった事になる。それによって栽培文化や土器の形成文化が拡散したから、栽培系の女性達はその様な状態にもメリットを見出していたのではなかろうか。穀類であっても堅果類であっても、多数の女性達が栽培技術を共有する事によって技術が進化したから、外婚制を習俗化した女性達が、それを習俗化しなかった女性達より有利に技術を進化させ、その様女性達が淘汰される事によって父系制の習俗が一般化した可能性もある。言い換えると女性が栽培文化の推進者だった時代には、父系制は栽培文化を共有する重要な手段だったから、それを採用して栽培文化を高めた女性達が、現代人の主要な祖先になったと考えられる。

しかし栽培民族には母系的な要素もあった疑いもあるから、堅果類の栽培者父系制とmt-Dの父系制に関し、両者の執着度の違いを評価する為には、沖縄と本土に共通するmt-M7aのサブグループを複数探し出し、それが韓国やフィリッピンにはない事を確認し、韓族や北陸部族の影響を排除した後で、各サブグループの人口比を比較すれば、沖縄系の堅果類の栽培者に関する情報が得られるかもしれないが、現在はその様なデータはない。遺伝子分布を分析している人達は、渡来系と縄文系という虚構を守り続ける為に、矛盾した解釈に拘って議論を進化させる事ができないからだ。

洪水に頻繁に襲われていた荊の社会では、復興した農地を再配分する際に公的な規範に依っただろうから、mt-Fは個人的に農地を確保する必要はなく、婚姻を一族外に求める必要もなかった。この習俗はmt-Fの浸潤力の弱さに関する理由を与えると共に、稲作の生産性を急速に高め、労働力を挑発しやすい社会を目指した結果として、母系社会に転換した可能性が高い。つまり土木工事の労働力を男性の労力として挑発する際に、母系社会が食料生産の責任を負っていれば、男性達は土木工事に専念できたからだ。但しそれだからと言って、社会的に女の発言力が高まったわけではなく、むしろ社会の産業化の進展に女性達が参加できない事情を生み出したと想定される。荊の女性は優れた織布職人になったが、織布作業は個人的な業務になり易く、日本の戦前の女工を連想させる仕事でもあるから、その職業に就いていたからと言って、社会の産業化に積極的に参加していたとは必ずしも言えないからだ。

 

この様なmt-Dの習俗は、ミトコンドリア遺伝子の拡散法則に貴重な情報を提供するので、mt-Dのシベリア時代を再度検証する。

ヤンガードリアス期にアムール川流域に逼塞していたmt-Dmt-Zmt-Gの各集団は、超温暖期に再び離散ながらmt-Dmt-Gはオホーツク海沿岸に北上したが、mt-Zmt-D4mt-D5は温暖なアムール川流域に留まった。mt-Zは自己の栽培種が超温暖期のアムール川流域の気候に適合したから、自然体としてアムール川流域に留まったが、mt-D4mt-D5は従前の自分の栽培より新たに獲得したアワを重視し、アムール川流域に留まって同一の栽培民族である事を自任していたが、両者はmt-Zとは別の民族であるとも認識していたから、mt-Zとは全く異なる運命を切り開く事になった。

mt-D4mt-D5が互いに同じ民族であると認識していた事は、共同で栽培化を進める栽培化の第二段階になって久しかった事を示し、アワを栽培していたmt-Zとは別の民族であると認識していた事は、必ずしも主要な栽培種の共有が、栽培民族の女性の意識を規定していたのではなかった事を示している。これはmt-Z mt-Gも同様だったと考えられ、北陸に渡来したmt-Dmt-Gもこの認識を継続していたから、mt-G は北陸に留まったがmt-Dは西日本に移住したと考えられる。中核的な穀物栽培を共有しても同じ民族とは見做さなかった事は、他の栽培種も含めた総合評価が民族意識を決めた可能性もあるが、一旦形成された民族意識は、容易に変わらなかった事も示唆している。つまりこのHPmt-D+M7aと記しても、mt-Dmt-M7aは全く違う植生の栽培者である事は既に指摘したが、同様に様にmt-B4+M7cとかmt-B5+M7bと記しても、mt-B4mt-M7cは異質の栽培者である状態を堅持していた事になる。ある比率でその状態が堅持される事が、男性を含めた民族全体にとって、都合が良かったと想定される。これは富山のmt-M9がソバの栽培者であり続けた事とも繋がり、その背景には石器時代の栽培が如何に困難なもので、母から娘に伝承された技術体系が如何に高度なものだったのかを示している。田畑を形成すれば、栽培は誰にでもある程度可能になるが、全くの自然環境から栽培適地を選定する事と、そこを栽培地にして適切な収穫を得る事が、如何に難しい事だったのかを示しているとも言える。

mt-Dは父系社会の女性ではあったが、各民族の民族意識はmt-Dであるかmt-Zであるかの違いから生まれていた事は、主要な栽培種だった穀物の栽培技術を共有しても、共同生活を運営する為の社会規範が異なると、同じ民族とは見做さない風潮が確固として存在していた事になる。アワ栽培者として華北に南下したのはmt-Dだけだったが、Y遺伝子はY-NだけではなくY-Qも含まれていた事は、その主要な社会規範は栽培に関するものであって、男性達の縄張り規範は重要な要素ではなかった事を明示している。

つまり父系社会でありながら、女性の親族系譜が形成していた社会規範が、民族的な行動を規定していた事になる。狩猟民族は縄張りを男性達が決め、父系的な血統主義がY-F民族の特徴だったが、其処から派生したY-Nのペアになったmt-M系の女性達は、その様な伝統的な父系の習俗を踏襲しながら、栽培の生産性向上を重視する女性達が形成した規範が、民族社会を差配していた事になる。つまり栽培がこの時代の先端産業になり、それを交易社会に投入するとより多くのカロリーを獲得できる様になると、女性達が交換経済の主導権を握る様になったから、その様な社会的な優位性を得た女性達が、民族規範を差配した事になる。

この様な女性達が、先端技術の塊である栽培の手法を磨き上げていく根本要件は、種子を交換し合う広域的なネットワークに参加する事だったから、それが社会の在り方を規定していたとも言える。つまりmt-D4とmt-D5は同じネットワークに属し、mt-Zはそれとは異なるネットワークを形成していたから、両者は異なる栽培民族として別の路を歩んだ事になる。これらのmt-M系の女性達は、漁民と共生する事によって栽培の成果を水増しできたから、漁民とは共生していなかった栽培系狩猟民族には該当しないと思うかもしれないが、穀物を栽培していた女性達の生産性が高まれば、同じ道を歩んだ可能性が高いから、このmt-M達は異様な環境によって、図らずも先進的な状態に押し出された女性達だったと考える事もできる。

これらの民族の食糧事情は女性達の栽培行為によって成立していたから、その生産性を高める習俗を形成する事が、民族文化を形成・維持する上で最重要課題だったからだが、この様な社会でも父系制が厳然と維持されたのは、稼ぎ頭だったmt-M個々人にとっても、父系制の方が都合は良かったからだと考えざるを得ない。乏しい栽培地を有効に使う為には、mt-Dの移動の自由度が高まる父系制の方が、有利だったという解釈もあり得るが、狩猟の縄張りと優良な栽培地が、相互の関連が乏しい中でそれぞれ偏在し、それらの栽培地を男性達が所有していたとは考え難い時代だったから、この想定には説得力がない。しかし便宜的に栽培地を男性の一族に紐付けると、上記の怨恨関係を解消する事が出来たから、女性達が父系を利用したのは婚姻制度だけではなく、栽培地の所有権をその様に規定する事により、女性の血統主義による抜き差しならない怨恨関係から解放される事を企図していた疑いも濃い。

この様な婚姻性には他にも利点があり、例えば民族社会から疎外され易かった男性達に、狩猟や漁労に励んで貰う為には、父系制によって家族の食生活に責任感を持たせる事が、最も有効であると考えていたと想定する事にも説得力がある。

更に言えば、農耕技術の進化を速める手段としても、父系制の方が有利だった可能性がある。若い優秀な女性が育っても、母と栽培地を共有している限り若い女性には腕を振るう場がなかったが、老齢になって一線を退く直前の女性がその若い女性を引き取れば、若い柔軟な発想で栽培技術を進化させる事ができたからだ。老害に悩む現代社会の組織事情から見ても、この制度が活用されれば技術の進化が早まる事は間違いなく、この時代の女性達に先端技術を開発している意識があれば、同様の感慨を持ったとしても不思議ではない。現代の様な甘い社会ではなかった石器時代の人々が、生存競争が厳しい環境の中でこの様な結論に至ったとしても、違和感を持つ必要はないのではなかろうか。

この時代の人々は全ての社会制度や習俗の良否を、自分達の経験と合理性によって判断し、維持しなければならなかったから、全ての社会制度を政府が決める現代社会とは、全く異なっていた事を想起する必要がある。その集大成が民族文化だったが、mt-Mに決定権があったシベリア系の栽培系狩猟民族の社会では、父系制は経済的な実権を握った女性達が推奨する制度だった。唯物論者が主張する、「男権の高まりと共に家父長制が生れ、それが女権を抑圧する制度になった」との主張は、的外れである事は明らかだから、現代女性も適切な家族制度ついて再考する必要があるだろう。

 

D4/D5比率が異なる他の民族

本土から沖縄に渡ったmt-Dは大陸から渡来した人数ほど多くはなかったが、韓族に浸潤したmt-Dの様に極端に少ない人数ではなかった。

台湾に渡ったmt-Dはあまり多くなかったが、台湾と広東の比が類似している事が意味している事は、先ず少ない人数のmt-Dが縄文時代に、蛇紋岩が産出する台湾に渡って焼畑農耕に成功し、それによって人口が増えて台湾固有のD4/D5が確定し、金属器時代になって大陸でも焼畑農耕ができる様になってから、多数のmt-Dが台湾から広東に渡った事を示している。

フィリッピンや台湾にY-O2b1はいないから、mt-D女性だけが縄文時代にそれらの地域に入植した事になる。日本列島への稲作民女性の渡来と併せ、この時代の栽培系の女性達の積極性に驚くべきだろう。栽培に優れた女性を技術者として招聘する事は、日本の海洋民族だけが行ったのではなく、台湾起源の海洋民族も同様に活動した事を、フィリッピンだけではなく台湾や広東の遺伝子分布が示している。

少ない数のmt-Dが台湾に渡って焼畑農耕に成功した事は、既に日本列島でイネの栽培技術を習得したmt-Dが、台湾に渡航した事を示唆している。フィリッピンには多数のmt-Dが渡航したが、台湾には少数者しか渡航しなかったのは、台湾では稲作が難しかったからだ。11千年前にmt-B4が堅果類の栽培者と共に台湾に入植し、イネの原生種を栽培した事により、その野生種が繁茂して稲作ができない地域になっていたからだ。

フィリッピンは氷期も孤島だったので、イネの原生種は全く生存していなかったから、野生化できない栽培化後のイネを持ち込んでも、原生種や野生種に苦しめられる事はなかった。それ故にフィリッピンは、温暖でありながら稲作が可能な島だった上に、平坦地や丘陵状の地形が多い稲作者の理想郷だった。フィリッピンではアワよりイネの方が生産性は高いから、このmt-Dはイネを栽培する為にフィリッピンに渡ったと想定される。mt-Dが台湾に組織的に渡航しなかったのは、イネの原生種が繁茂していたからだと考えられ、この事情もフィリッピンに組織的に渡航したmt-Dの目的は、稲作だった事を示している。従って縄文前期のmt-Dの一部は、焼畑農耕によるイネの栽培も手掛け始めていた事になる。

台湾はフィリッピンへの航路上にあるから、何らかの理由によって台湾に上陸したmt-Dが、フィリッピンに行かずに台湾に居付いてしまった事を、D4/D5比率が極度に異なる状態が示している。しかしこのmt-Dは原生種の花粉が飛び交う台湾で、焼畑農耕による稲作に成功したから、縄文後期末~晩期寒冷期に青銅が廉価になり、蛇紋岩が産出しない大陸でも焼畑農耕ができる様になると、台湾から広東に多数のmt-Dが移住した事を、広東と台湾のD4/D5比率の類似が示している。

広東に渡ったmt-Dは弥生時代に多数派になったから、漢書地理志が書かれた漢代はその様な時代だったが、mt-Dは古墳寒冷期に少数派に転落した。その経緯の詳細は、経済活動の成熟期の項で説明する。

石器時代のミトコンドリア遺伝子は遺伝子と栽培種が対応していたが、この様に主要な栽培種を乗り換えたmt-Dは、極めて異色の栽培者だった。mt-Dはヤンガードリアス期にキビの栽培者からアワの栽培者に転身しただけではなく、日本列島でアワの栽培者からジャバニカの栽培者に転身したからだが、縄文後期にジャバニカから温帯ジャポニカに切り替えたmt-Dがいた。

栽培者が新しい栽培種を入手する事は、劣位の栽培者に浸潤してその種の栽培方法を獲得する事が一般的だったが、mt-Dがその様な僥倖を得て上位のアワ栽培者に転身したのは、ヤンガードリアス期にアワの生産性が劣化した事が契機だった。稲作の技術を獲得したのは、縄文前期温暖に九州から山陰西部に北上したmt-B5から、ジャバニカを得たからだと推測される。関東から岡山に移住したmt-B4から、部族の壁を越えて、熱帯ジャポニカの栽培技術を獲得した可能性は低いからだ。ジャバニカは熱帯ジャポニカと同じ原生種だったが、mt-B4が栽培化した熱帯ジャポニカとは別種のイネだった。それに対する検証はその4で行い、此処では事実関係だけを略記する。

関東部族と北陸部族は対抗意識が強かったから、縄文中期にmt-Dが群馬に入植したのに、関東部族は縄文晩期に稲作が不振になると、漢族のmt-D+M8aを関東に招いたので、関東縄文人からmt-D+M8aが検出される。

九州の漁民と縄文人の起源は、15千年前に沖縄系縄文人が九州に上陸した事から始まる。その際に縄文人に海産物を提供してアサを受け取る為に、関東の漁民が九州に移住した。九州の縄文人は1万年前に関東に移住して関東部族になった人々だけではなく、その移住に従わずに九州に残った人々がいて、彼らと共に九州に住み着いた漁民もいた。沖縄系縄文人を沖縄から九州に運んだのは関東部族だったが、九州に残った縄文人には関東部族であるという認識が育たなかった事は、東北部族の縄文人になった人々もいた事が示している。

九州の漁民も15千年前に関東から九州に移住したから、3民族の共生を関東より5千年も早く始めていた事になり、漁労文化を共有する関東部族であるという意識は、弱かったと想定される。北陸部族もその様に見做していたから、北陸部族から半ば自立したアワ栽培者には、その意識が更に希薄になり、山陰に北上した九州縄文人とは、競合する部族として張り合う意識はなかったと考えられる。

浙江省の栽培者だったmt-B5+M7bは、気候が冷涼化した8千年前に関東に渡来したと想定されるが、栽培化の開始が遅れていたmt-B5の稲作は、関東の熱帯ジャポニカの栽培化より千年遅れていたから、既に栽培化に取り組んでいたmt-B4の生産性には到底及ばなかったと推測される。従って関東に渡来したmt-B5+M7bmt-B4+M7cに追い出される様な状況で、浙江省と気候が類似している事を理由にmt-B5+M7bを受け入れた九州に、不本意ながら移住した経緯があった。mt-B4が九州に移住しなかったのは、海面上昇が終了した直後の九州には急峻な山肌しかなく、稲作ができる低湿地は殆どなかったからだ。

九州縄文人が関東部族への帰属意識を更に低下させた原因には、このmt-B5+M7bの意向が強く働いていた疑いが濃い。8千年前には同じ部族内としてmt-B5+M7bが移住したのに、縄文中期の九州縄文人はmt-Dを受け入れてしまったからだ。

mt-B5が九州で栽培したのはジャバニカ系のイネだった筈だが、栽培化途上で渡来したから、その後浙江省で栽培化されたジャバニカより、栽培化が極めて未熟な状態だった。浙江省では多数の稲作者が連携し、有用な遺伝子変異を探していたが、九州の稲作地の面積は極めて限られていたから、その作業の進捗は緩慢になり、九州のmt-B5と関東のmt-B4の生産性の差は、時代が進むと共に拡大していったと考えられる。

大陸では栽培系の女性達が広域的な情報ネットワークを形成していたから、九州のmt-B5も広域的なネットワークを求めたとすると、彼女達が求めた連携先は浙江省のmt-B5だった。九州の漁民が先進的な漁労技術を持つ、関東の漁民と連携したかった事は言うまでもないだろう。しかし九州では漁民と縄文人の間に、この様な意識の乖離が生れていた。

縄文前期温暖期になると稲作の生産性が高まったから、稲作地の不足に苦しんだmt-B5+M7bは稲作地を求め、山容がなだらかで谷間に沖積地が生れ始めていた、中国山地の西部に北上したから、中国山地を東部から拡散して来たY-O2b1mt-D+M7aペアの、アワ栽培者と接する様になったと推測される。アワは比較的乾燥した土壌を好み、イネは湿潤な土壌を好むから、両者には栽培地の競合は発生しなかったと想定されるが、mt-DM7aが栽培するアワは、mt-B5の稲作の数倍の生産性があったと推測される。縄文前期温暖期の終末期が近づいて気候が冷涼化すると、mt-B5の稲作は壊滅状態になり、mt-Dが九州縄文人に浸潤したと推測される。このmt-Dはアワ栽培を主体としながらイネも栽培する焼畑農耕者になったから、冷涼化してイネの収穫が不安定になっても、穀物としての価値が高いイネの栽培を併用してリスクを低減し、焼畑農耕に適した品種に改良したと推測される。

そのイネはmt-Dのネットワークに乗って山陰東部まで拡散し、山陰全体がイネも栽培する焼畑農耕者の居住域になると、栽培者が激増した事によって品種改良が進展し、耐寒性も多少高まったと想定されるが、縄文中期寒冷期になるとイネの生産性は激減したから、多数のmt-D+M7aがフィリッピンに移住したと推測される。

中国山地のmt-D+M7aは縄文中期寒冷期になると、稲作を継続する為に南の島に渡るか、日本列島内でアワ栽培者になるのかの選択を迫られた事を、多数のmt-D+M7aがフィリッピンに渡航した事が示している。上のグラフには示されていないが、篠田氏は同じ本の中で、フィリッピンではmt-D23%、mt-B16%、mt-F12.5%、mt-M7a9.4%含まれていると指摘している。mt-D+M7aの組み合わせは、北陸起源の焼畑農耕者である事を示し、彼女達がフィリッピンに渡航した事は、焼畑農耕によってジャバニカを栽培する積りだった事を示している。

フィリッピンにはmt-M7aはいるがmt-M8aはいないから、遼寧山東のmt-D+M8aが渡ったのではなく、日本海系縄文人のmt-D+M7aが渡航した事を示している。フィリッピンにはmt-M7cmt-M7bなどの、暖温帯性の堅果類の栽培者が既にいたから、mt-Dと共にmt-M7aも渡航したのは、堅果類の補助なしには食生活が成り立たなかったからではなく、mt-M7aが焼畑農耕に相応しい、樹幹が柔らかで成長が早い樹種の苗木を支給していたからだと推測される。

フィリッピンのミトコンドリア遺伝子はmt-D+M7a32.4%と多く、mt-Bmt-F の合計は28.5%だから、mt-Bmt-Fが多い台湾や広東とは異なり、日本と類似した北東アジア型の分布を示している。mt-M7a9.4%も含まれている事は、フィリッピンのmt-D+M7aは日本でイネの栽培技能を獲得してからフィリッピンに渡航し、優秀な焼畑農耕者としてフィリッピンのmt-B5M7bに浸潤した事を示している。フィリッピンにはmt-B4M7cもいたが、mt-Dは海洋民族には浸潤しなかったから、彼女達の多くは浸潤対象ではなかった。フィリッピンのmt-Fは、弥生温暖期の末期~古墳寒冷期に移住したと考えられるから、mt-D+M7aが渡航する以前のフィリッピンはmt-B5M7bが多い島だったが、縄文中期にmt-D+M7aが浸潤すると、栽培者はmt-D+M7a+B5+M7bの島になり、その後mt-Fに浸潤されて現在の遺伝子分布になったと想定される。

現代のインドネシアは、焼畑農耕が盛んであるにも拘らずmt-D比率は低い。その理由は、ジャワ島やスマトラ島が氷期にスンダランドを介して大陸と一体化し、イネの原生種が繁茂する島だったから、縄文時代には稲作が南下できず、それ故にmt-Dも南下しなかったからだと推測される。フリッピンは氷期も大陸と離れていたからイネの原生種が存在しなかった故に、稲作は容易に南下できたが、原生種が繁茂していたインドネシアには、縄文晩期まで南下できなかった事がmt-D比率が低い理由であると考えられる。

フィリッピンに南下したmt-Dは、日本のmt-B5が栽培していたイネから、浙江省のmt-B5が栽培化したジャバ二カに変え、その稲作者になったと推測される。日本でmt-Dが栽培していたイネもアワも、日本には原生種が存在しない種だったから、原生種が存在しない地域の栽培者になっていたmt-D+M7aは、原生種が繁茂していなかったフィリッピンでは浙江省起源のmt-B5に浸潤し、有力な栽培者になる事ができたが、原生種の花粉汚染からイネを守る技術は知らなかった故に、インドネシアには南下できなかったと推測される。

それとは対極的な存在として台湾のmt-Dの焼畑農耕技術が、原生種が繁茂していた広東に拡散したのは、縄文晩期寒冷期に向かう冷涼化の中で、稲作の生産性が劣化しているのに、原生種に阻まれて広東に南下できなかった福建省北部のmt-B5M7bに、台湾のmt-D+M7bが浸潤する事によって南下が可能になったからだと推測される。台湾や広東にはmt-M7bが多いが、mt-M7aはいない事が、台湾でmt-Dが焼畑農耕を改良し、原生種の花粉に汚染されない稲作技術を生んだ際の相棒は、mt-M7aではなくmt-M7bだった事になる。

フィリッピンや台湾にmt-B5+M7bが渡った経緯は、良渚文化の章で説明するが、フィリッピンに渡ったmt-B5+M7bは稲作者になったが、台湾に渡ったmt-B5+M7bは原生種の繁茂に悩まされ、稲作者としては成功していなかったと想定される。台湾の樹種は大陸と共有するものが多かったから、暖温帯域や亜熱帯域の樹木に関する知識が豊富なmt-M7bは、水辺や草地に繁茂していたイネの原生種から栽培稲の花粉汚染を遮断するには、焼畑農耕が有効である事は直ぐに気付いただろう。従って台湾で焼畑農耕を、原生種が繁茂する地域向けに改良する為に、mt-D+M7bの組み合わせが生れる事は、必然的な結果だったとも言える。台湾から広東に移住した焼畑農耕者はmt-D+M7bだった事を、ミトコンドリア遺伝子の分布が示しているからだ。

現在の広東の主流のミトコンドリア遺伝子が、mt-B4mt-Fになっているのは、古墳寒冷期に荊が広東に南下したからだと考えられる。つまり漢書地理志は広東を粤=越人の地、つまり浙江省起源の稲作者の地域であると記したが、古墳寒冷期に荊が南下した事により、荊が多数派を占める地域になった事を示している。

荊の遺伝子は元々mt-Fだったが、縄文晩期寒冷期に温帯ジャポニカの生産性が極度に劣化したから、関東起源のmt-B4が耐寒性の高い熱帯ジャポニカの栽培者として浸潤し、mt-B4mt-Fが半々の民族になったと考えられる。その根拠は、経済活動の成熟期の項を参照。

現在の広東ではインディカが栽培され、ジャポニカ系のイネの原生種の花粉被害から、免れる状態を形成している。古墳寒冷期に南下した荊が、どの様な稲作を行ったのか明らかではないが、インディカが普及したのは平安時代だったと考えられているので、稲作が困難だった時期が暫くあった可能性がある。しずれにしてもインディカの導入によってmt-D+M7bの焼畑農耕は後退し、水田稲作が行われる地域になったから、mt-Fmt-B4が多数派になったと想定される。

ラオスの山岳地に現在も焼畑農耕を行っている民族がいるのは、この名残であると考えられる。彼らがタイ語を使っている事は、古墳寒冷期に南下した荊も、一時的に焼畑農耕者になった事を示唆している。タイ人の主流は古墳寒冷期に海洋民族の船で、海路タイに移住した荊の末裔であると推測され、彼らがタイ語を話すタイ人の主流になっているが、弥生時代の荊は中華世界の覇者だったから、タイ人の出自は中華世界の広い地域に亘っている。つまり同じタイ語話者であっても、出身地が異なると異なる民族であるとの認識に至り、現在の国境を形成している疑いがある。

現在もインドネシアで焼畑農耕が盛んに行われているのは、その技術の基底にmt-D+M7bが開発した、焼畑農耕技術がある事を示してはいるが、その稲作技術を持ってインドネシアに移住したのは、mt-D+M7bではなかった事を、インドネシアにはmt-Dが少ない事が示している。鉄器時代になると農耕技術の移植には、石器時代ほどの高度な基礎知識は必要なくなり、ミトコンドリア遺伝子と栽培種の紐付けが失われたから、この事情を遺伝子分布から解明する事はできない。

此処までmt-Dの業績を顕彰すれば、彼女達の性格の裏面を論考する事も許されるだろう。

 

mt-Dが形成したアワ栽培者の民族性

遼河台地のmt-Dはアワ栽培の生産性を高めていったが、それによって人口密度が高まると、個々の狩猟者の縄張りが狭くなり、獲物が減ってアワの食料依存度が高まった。その様な状況になるとシベリア的な狩猟の縄張り秩序は失しなわれ、乱獲が始まると狩猟の獲物は更に減少し、mt-Dは優良な栽培地の確保に懸命にならざるを得なくなった。その為に男性達に暴力的な行動を促す様になると、社会が急速に暴力的になったと推測される。栽培は女性達の役割だったから、栽培地の確保も従来は女性達の責務であり、彼女達の確執の末に栽培地が割り当てられていた筈だが、男性達が栽培地を整備する様になる金属器時代を待たずに暴力的な社会が生れた事は、異常な事態であると考えられる。

大麦を栽培していた仰韶文化の人々は、羊の飼養などの牧畜を行って食料危機を乗り越える手段を多様化すると共に、他民族との交易による物資の交換も進めていたが、交易手段が希薄な華北でアワ栽培に傾斜すると、生業の多様性による逃げ道がなかった事も、暴力的な社会の形成を促進したと考えられる。

華北のアワ栽培は原生種に南下を阻まれていたから、冷涼な地域での生産性向上には限界があったが、中央アジアの大麦栽培にはその制限はなかったから、大麦の方が生産性の向上は早かった可能性がある。しかし大麦の栽培者だったmt-Rxが、アワ栽培集団に浸潤した形跡がないのは、mt-Dの排他性に起因していた疑いもある。

アワ栽培者は、縄文前期末の寒冷化に伴って華北に南下し、縄文中期寒冷期に龍山文化圏を形成した。遼河台地に遺された縄文中期の紅山文化には、ツングースとの交易によると思われるシベリア文化の影響を遺しているが、龍山文化にはシベリア文化の影響は及ばなかった。考古学者は権力が遺した奢侈品で文化を比較する風潮があり、龍山文化圏に遺された黒陶と、シベリア的な玉器の違いが強調されているが、それらは外部から持ち込まれた物品だから、両文化の実態は何も変わっていなかった疑いもある。

龍山文化圏で発掘される黒陶から、龍山文化の文化レベルを査定する人がいるが、黒陶は塩と交換する為に荊が作った商品で、それを関東部族が華北に持ち込み、獣骨と交換した結果として遺されたと考えられる。紅山文化圏から発掘される玉器も、縄文中期に遼東に移住したシベリア系民族が、北陸部族の加工文化を習得して製作した作品だったと考えられる。この民族は魏志濊伝に濊と記されたシベリア系共生民族の、祖先だったと考えられるからだ。紅山文化圏のアワ栽培者が、シベリア文化圏の影響を受け続けている限り、シベリア的な秩序もある程度維持されていた可能性はあるが、遼河台地の紅山文化は縄文中期末に消滅し、周辺に遺されたその後継文化も、縄文後期末に消滅したので、アワ栽培者の文化系譜としては華北に南下して龍山文化を形成した、華北のアワ栽培者の評価から始める必要がある。

龍山文化圏から発掘された遺物には、防衛的な障壁で囲まれた住居群、戦闘に用いたと考えられる大型の矢尻、殺害された考えられる遺体などの、暴力的な痕跡が多い事が指摘されている。更に言えば仰韶文化人を陝西省から放逐した暴力性や、山東の大汶口文化を消滅させた征服力は、華北に南下したアワ栽培者が、農地や収穫を奪い合う社会を形成した結果として生まれた、アワ栽培者の特徴的な状態だったと考えざるを得ない。

アワ栽培者がその様な状態になった具体的な経緯として、暴力に優れた男性が農地の占有権を主張する習俗が生まれると、対抗する男性達が徒党を組む状態に進化し、占有権を維持するために暴力に依存する状態が恒常化すると、最後には暴力に依存して農地問題を解決る習俗が生れ、龍山文化の暴力的な体質になったと想定される。

アワの生産力が高まって農耕民族的な状態に移行しながら、栽培系狩猟民族としての生活習俗も残存していた段階で、この様な習俗を形成してしまうと、事態は更に複雑になったと想定される。栽培系狩猟民族の生活圏は広大に存在しながら、アワの生産性が高い地域は、その一部に過ぎない状態が生れたからだ。栽培系狩猟民族の多数の集団が、優良な農地を含む地域の覇権を巡って争う様になると、優良な農地を含む地域で農耕民族的社会を形成する為には、武力で領域を守る必要が生れたからだ。農耕が進化すると農耕者だけの閉じた社会が生れ、その秩序が生れたと想定されるが、その様な状態になる機会が失われ、後世の中華世界に繰り返し登場した匪賊の様な集団に狩猟系栽培民族が転化し、優良な農地では農民を囲い込む軍閥の様な小組織が生れ、有力なアワ栽培地を奪い合う状態が生れたからだ。龍山文化期に貧しい集落が丈夫な障壁で守られている状態が生れたが、これはその様な状態が恒常化していた事を示唆している。

縄文時代のシベリア文化圏、海洋民族文化圏、稲作文化圏ではそれぞれの歴史的な事情が生み出した環境の中で、それぞれが独自の社会秩序を形成したが、アワ栽培文化圏には秩序文化が生れずに闘争至上主義的な社会になった根底に、上記の様な事情があったと考えられるが、一旦この様な社会が形成されると社会が更に過激化した事を、考古遺物や史書が示している。

それを参照しながらこの社会の特徴を考察すると、以下の様な事情があったと想定される。

この様な暴力的な社会が形成されると、男性達には暴力的な組織を結成し続ける必要が生れ、その様な男性達が農地の所有権を主張すると、女性優位だった栽培系狩猟民族社会の主導権を、男性達が握るようになったと考えられる。一旦そのような状態が生れると、今度は男性達の中にその状態を維持する力が働き、自分達の尊厳を求める為に社会を意図的に暴力的な状態にし続ける力が、男性達の間に働く様になったと考えられるからだ。根拠がない男尊女卑的な社会を生みだす事も、必然的な結果だったと考えられる。

アワ栽培社会がこの様な状態になっても、男性達は食料の生産者としての経済的背景を持たない状態は、変わらなかったから、男性達は優位性を維持するために、意図的に暴力的な社会を形成して、徒党を組む状態を習俗化し事に伴い、女性達に男尊女卑の習俗を押し付けざるを得なくなったと想定される。実質的な生産者だった女性達は、その状態に不満を募らせ、色々な場面で男性達と対立する状態が生まれただろう。食料生産への貢献度が低い男性達が、農地の所有権だけを根拠に徒食している状態でありながら、社会の主導権を暴力的に握ろうとしたのだから、汗水流して働いていた女性達に、不満がない方が不思議だったと言える。それは経済の実質的な運営者を、暴力的な権力が押さえつける状態だから、更に社会を混乱させる原因を生み出すと共に、周囲の民族と共生して交易を行う環境の喪失にも繋がったと推測される。

史書に記されたこの想定の根拠は以下になる。

史記が記すアワ栽培者の軍団は、兵士の数が不自然に多く、特に楚漢戦争時に稲作民を率いた項羽軍と比較した、アワ栽培民を集めた劉邦軍の兵士の数が異常に多い事が、その事情を示唆している。つまり実質的なアワ栽培者は女性達で、アワの栽培に関する男性達の存在感は依然として希薄だったから、動乱が起こると万単位の男性達が即座に集まる中華世界の異常性が、歴史時代になっても継続していた事を示唆している。

これが意味する歴史的な事情は、縄文後期後半に夏王朝が生れると、アワ栽培者にも文明化の波が及び始め、稲作民の組織手法がアワ栽培者にも伝わったから、アワ栽培者も組織的な統治を行い、軍隊を運営する様になったが、生産性が低いアワ栽培者は各地に離散していた上に、武器を整える財力もなかったから、稲作民族にとっては大きな脅威ではなかったが、鉄器時代になって金属器の価格が低下し、それが庶民にも普及し始めると、アワ栽培者の人口が増えて徒党を組む様になり、稲作民とアワ栽培者の武器の質にも差がなくなったから、稲作民の職業的な軍人や農作業を投げ打って参加する少数の義勇軍では、数に優るアワ栽培者の集団に太刀打ちできなくなり、アワ栽培者の暴力と無秩序が支配する中華世界が生れたと想定される。つまり楚漢戦争によって最終的にアワ栽培者勝利し、アワ栽培者が中華世界の支配者になったのは、歴史の必然だった。

それが現実になった嚆矢は秦の中華統一であり、それを再確認させたのが、項羽軍を破った劉邦軍の実態だったと推測される。但し事実はそれほど単純ではなく、暴力的な社会に常在していたアワ栽培者の言葉には真実がなく、謀略としての嘘を連発したが、灌漑施設などの建設や維持を共同作業で行い、商業による生活の質の向上を目指していた稲作民は、社会的な信用を重視していた故にアワ栽培者の謀略に騙され、内部分裂を起こした事も、楚漢戦争の帰趨に重大な影響を及ぼしたと考えられる。史記の筆致は、渋々ながらそれを認めている様に見えるからだ。

更に時代は降るが、魏志扶余伝は扶余を以下の様に描いている。扶余は周によって華北から追放された殷人の、最後の集団だった事は既に指摘したが、それに関する論証は「経済活動の成熟期」の項で詳しく説明する。記述された時代は下るが、捏造した物語を連ねる史記とは異なり、魏志の著者は事実を克明に記述しているから、縄文時代の華北のアワ栽培者の実態を示していると言えるだろう。

家にはそれぞれ鎧と武器があり、武器には弓矢、刀、矛がある。

貴族が死ぬと人を殺して殉葬する。多い場合は数百人を殉葬する。

刑は厳しく、殺人と不倫は死刑、窃盗は12倍にして返させる。

男女の淫行と女性の妒は、皆これを殺す。女性の妒を最も憎み、殺した上に死体を山の上で腐乱させる。

昔は不作になるとその責任は王にあるとして、王を変えろと主張したり王を殺せと主張したりした。

他国を略奪しないとも記しているが、彼らの戦争の仕方を具体的に記しているから、王がいたにも拘らず部族同士の戦争があった事を示している。魏の役人が、扶余は他国を略奪しないと見立てたのは、扶余は漢王朝に従順だったという実績に影響されたからだと推測される。漢王朝の始祖である劉邦は、周に迫害されても華北に残り、地下組織を形成していた殷人の頭目だったから、漢王朝が扶余と友好的になるのは必然的な結果だった。しかし魏は漢民族の王朝だったから、官僚は扶余に関する上記の様な辛辣な報告を記し、事実を重視した陳寿がそれを魏志東夷伝に収録した。

殷人も扶余の様な民族だったから、王墓に何百人もの殉葬者を殺して埋めたと推測され、考古学的な事実と整合する。恒常的に暴力性を維持する必要性が、この様な習俗を生んだと想定される。華北のアワ栽培民族を起源としないその他の東夷に関しては、この様な記述はない事が、殷人の特徴を示している。

殷周革命によって殷王朝を倒した周は、暴力的だった殷人を抑圧して漢族の政権を育成したから、漢族が華北の多数派になったが、その漢族もmt-Dが浸潤した民族だった故に、秦や劉邦に多数の兵士を供給し、暴力だけを根拠にした征服王朝を樹立したと想定される。その様な漢王朝が倒れると、三国志を編纂した陳寿を嘆かせる非情の乱世を生んだのは、殷文化を形成したmt-Dが漢族にも浸潤していたからだと考えざるを得ない。先に指摘した様な縄文時代の暴力的な遺物や遺構が遺されているのは、アワ栽培者の子孫が集積した地域に限られるからだ。

 

日本のmt-D

焼畑農耕は自然発生的に父系制が生まれる生業だったから、男性が自らの尊厳を守るために暴力的になる必要はなかったが、農耕社会であった以上農地の獲得競争は不可避だった。アワ栽培者やその後継集団には統制的で暴力的な社会が生まれたから、考古学的にも闘争の痕跡が発掘されている。鳥取市の青谷上寺地遺跡の多数の惨殺死体や、名古屋の朝日遺跡の防御的な環濠は、その典型的な例であると言えるだろう。これらは稲作時代になった弥生時代の遺跡だから、農耕民族化した人々の必然的な帰結だったとも言えるが、文化的な蓄積がこの様な事態を他の地域より早い時期に、引き起こしたと想定される。魏志倭人伝が記す倭人系の邪馬台国と、隋書が記す日本海系文化の拠点だった飛鳥の違いも、この文脈から捉えることができる。

古事記も出雲社会は男尊女卑的で暴力的だったと記しているから、関東部族が形成した倭人的な稲作社会より、男尊女卑的で暴力的だった事は間違いないだろう。但し飛鳥に渡来した隋の使者は、「平和で秩序がある社会」と報告したから、日本海文化圏は暴力的だったと言っても、極めて平和だった関東の倭人社会と比較しているに過ぎない。

弥生時代の考古学的な発掘から、考古学者はアワ栽培者の後継域について、首長の統制力が強まっていたと指摘している。

四国北部、山陽・山陰、近畿北部、北陸の諸集団は、弥生後期前葉以降に、集団の指導者の権能を強化する方策を採り、各種の公共職務を執行する集団指導者層の、権能・利害調整機能を強化していった。(日本歴史第一巻、東アジアにおける弥生文化、岩永省三、岩波講座)

但し日本の考古学者は王朝史観に埋没し、海洋民族の動向を何も把握していないから、上記は縄文人系の稲作民の動向を示しているだけで、海洋民族の活動状況を示しているわけではない。北陸が日本海系部族の中核地だった縄文中期までは、北陸部族は海洋民族的な関東部族と歩調を合わせ、海外交易に邁進していたから、関東部族と類似した社会を形成していたと考えられる。しかし縄文後期に日本列島が農耕化の志向を高め、アワ栽培によって農業化に先行していた山陰の経済力が高まると、日本海系部族の中枢が北陸から山陰に移行した。それによって日本列島の経済活動は活性化したが、山陰の稲作の生産力が高まると、日本海系の文化が農耕民族的な色彩を強め、暴力的な社会に傾斜していったと推測される。古事記が出雲の大国主の前半生を、暴力的な社会に生きた神として描き、鳥取東部を「イナバ=稲場」と記している事や、山陰を統括した大国主が糸魚川の「ヌナカワヒメ」を娶った事が、その事情を示唆している。

古事記は関東部族の出身者が創作したから、平和で秩序がある高天原の描写は、関東の古き良き時代である縄文社会を反映したものだったと考えられる。但し古事記の作者はそれを前面には出さず、高天原は日本全国の縄文中期以前の社会であるとし、全ての部族の支持を得た。出雲をその様な関東と比較し、男尊女卑的で暴力的な社会であると描写しただけではなく、国譲り神話では出雲の大国主を、「(国を)うしはく=私的に所有する」者とし、関東系譜の天照大御神の子孫は国を「知らす=法規と情報によって統制する」と主張し、大国主に統治権の移譲を迫ったと記して壬申の乱を神話化した。

当時の「主」の訓読みは「うし」で、「はく=佩く」は身に着ける事を意味し、「大」は「正しく」を意味するから、パロディー化した説話の配役の名称である「大国主」が、稲作地の所有権を争って財産の私有を重視する、この地域の社会的な特徴を示している。他の配役にも「事代主=王権を一時的に委譲された代理の王」「建御名方=その名を知らぬ者がいない有名な武将」と命名し、飛鳥時代に実在した人物を象徴化し、庶民受けを狙っている。

「うしはく」「知らす」は農耕民族的な日本海の部族と、交易的な関東部族との違いを的確に表現しているから、この時代の人々の知恵は侮れない。古事記は民衆の意識を変える為に創作した物語だから、古事記の著者は民衆が理解できる表現を使ったが、観察眼の適格性に驚かざるを得ない。つまり交易的だった海洋民族の目から見ると、アワ栽培者が築いた日本海系の農耕社会は、「うしはく」事を重視する社会、つまり農地の所有権を重視するが、その所有権は暴力によって決まる社会だった。

「知らす」は、話し合いで決められた法規を周知させる事を意味し、話し合いと法規によって統治する交易的な社会を指している。異民族と交易する為には価値観を統一する必要があり、それを民族間の話し合いで決めたものを周知させる事が、「知らす」の原義だったと想定される。古代人を未開人だったと決め付ける王朝史観では、古事記は解釈できない事は明らかだろう。古事記については経済活動の成熟期の項で説明するが、詳細は(15)古事記・日本書記が書かれた背景を参照。

アワの生産性も含め、栽培の生産性が低かった縄文中期までは、北陸部族の海洋民族化した人々が、漁労の生産性の高さを根拠に経済活動を牽引したが、日本列島が農業化し始めた縄文後期以降はアワ栽培者の社会にも稲作が導入され、穀類と海産物の交換が経済的な重要性を増していったから、農耕民族特有の農地問題が発生した。農業化が進んでいたアワ栽培者の社会では、縄文時代に武闘的になった疑いもある。農耕民族の生業は農地の耕作権に立脚するから、農民が耕作権を守るために武闘的になる事は、必然的な成り行きだったからだ。

但し稲作が盛んになっても、灌漑水路を必要とする水田の形成は男性の役割だったし、焼畑農耕は男女の共同参加型だったから、男性達が武闘的な習俗を身に付ける必要はなかった。しかしそれであっても、農地争いの際に武力行使が必要になる程度には、アワ栽培者には土地に対する執着があっただろう。稲作が盛んになった弥生時代になると、その伝統を受け継いだ地域は、統治体制の統制色を強めざるを得なったと考えられるからだ。耕作権には論理的な根拠はないから、耕作者は耕作権の根拠を、武力を伴う権力に求めざるを得なかったからだ。古事記が大国主の闘争が、「因幡=稲場=穀倉地帯の八上比売を争う事から始まった」と記しているのは、正しくそれを指摘している事になり、大国主が支配する出雲社会の本質を突いている。

以上から言える事は日本に渡来したmt-Dは、他の女性達が社会の海洋民族化を支持しながら活動していた事を尻目に、アワの栽培に拘ってその様な社会から離脱し、農耕民族的な社会を形成していたから、稲作がもてはやされる時代になると素早く稲作者になり、農耕民族的な社会を維持したと想定される。農耕社会に農地争いは付き物だから、それによる武闘的な事態は、アワ栽培者の社会では縄文時代から発生していた可能性高いが、それが考古学的に発掘される様になるのは、稲作が普及して農地が限定的になり、農業者の集落が発掘しやすくなった弥生時代になってからの事になったと推測される。

この観点から縄文時代を概観すると、焼畑農耕者になったmt-Dは、北陸部族や関東部族が海洋民族化していく世相を尻目に、縄文早期に福井を起点にして琵琶湖岸、山陰、阿波、濃尾平野に拡散し、漁民中心の社会を形成して海洋民族化した関東部族や北陸部族とは異なる、農耕民族的な社会を形成したと考えられる。

多数のmt-D+M7aがフィリッピンに入植した事は、北陸部族とフィリッピンを拠点にしていた海洋民族に、密接な関係が生れていた事を示している。この時期の海洋民族は関東部族や北陸部族の様に、多数の栽培系民族を内陸に抱える本格的な海洋民族になりたかったから、この様な事業を推進したと想定される。

但し農耕民族のフィリッピン移住は、mt-D+M7aが先陣を切ったのではなく、縄文前期後半から銭塘江台地の北側の東シナ海に、揚子江の沖積平野が拡大して地盤の沈下が始まっていたから、それに伴う洪水が発生すると、mt-B5+M7bをフィリッピンに入植させ始めていた。縄文中期寒冷期になると浙江省の稲作が行き詰まったから、フィリッピンを拠点化していた海洋民族は多数のこの稲作民を、フィリッピンに入植させたと想定される。その4で説明するが、この想定は歴史事象と合致するから、確度が高い。その状態が先行していなければ、多数のmt-D+M7aがフィリッピンの稲作者に浸潤し、人口を増大させる条件は整っていなかった事も、この想定と合致する。

浙江省からフィリッピンに入植した稲作者は、密林に覆われた丘陵地で稲作に苦戦したから、焼畑農耕者だったmt-D+M7aがその救援隊として渡航した事が、多数の入植者を生んだと想定される。台湾の言語が5千年前(縄文中期中頃)に方言化した事は、これらの一連の事情により、台湾の言語とフィリッピンの言語が異なる状態になった事を示し、この想定に状況証拠を提供している。しかしフィリッピンの言語が4千年前(縄文後期中頃)に方言化した事は、海洋民族はこの農耕民族を嫌い、稲作ができないインドネシアに拠点を移してしまった事を示している。

海洋民族が活動する為の船や交易品の製作を、栽培民族にサポートしてもらう為には、栽培民族が農耕に忙しくなっては困るし、栽培の生産性が高まって海産物の重要性を認知しなくなっても困るから、海洋民族の内陸いた栽培民族は、堅果類の栽培者である事が理想的だった。フィリッピンの海洋民族がインドネシアに移住したのは、経済的にはその様な背景があったと考えられるが、此処にもmt-Dの極めて農耕民族的な発想が、影を落としていた可能性が高い。

フィリッピンに残った稲作民族は、インドネシアの海洋民族との連携は維持したが、身近な海洋交易を継続する為に北陸部族と連携した。その機縁によって後世に生まれた交易同盟がだったから、日本人も北陸部族をと呼んだと考えられる。その根拠の詳細は、経済活動の成熟期の項で説明するが、概要は以下になる。

中国の複数の史書が、越裳と呼ぶ交易集団が縄文晩期以降に存在した事を示し、前漢末に王莽に使者を送った事が漢書/王莽伝に記され、その使者には通訳が必要だったと指摘している。漢字文化圏の民族には通訳は必要なかったから、越裳は中華世界の民族ではなかった事になる。インドネシアの海洋民族の旗艦国だった黄支についてさえも、その様な記述はないから、越裳はインドネシアの海洋民族とは異質な集団だった事になる。

越人が王族だった考える新羅についても、漢字化が極めて遅かった事を、梁書と隋書が示唆している。隋書は日本海文化圏の人々も、表音文字を使っていた事を示唆しているから、日本海沿岸は古墳時代まで、越系の文化圏だった可能性が高い。

中華世界の人は越裳が何処にあるのか知らなかったが、漢書が越裳黄支と倭と併記される様な、巨大な海洋交易民族だった事を示しているから、その候補地はフィリッピンしか考えられない。海洋民族は、大陸に拠点を持つことに慎重だったからだ。越は春秋時代に、大陸の片隅にあった山東の琅邪を拠点にしたが、秦の中華統一によって琅邪は失われたから、改めて大陸拠点の怖さを痛感しただろう。漢書に記された越裳は、琅邪から追い出された後の越裳だったから、フィリッピン以外にその拠点を求める事は難しい。フィリッピンに多いmt-D+M7aが、その証拠を示していると考える事にも妥当性があるだろう。

漢書地理志は、会稽に来航する海洋民族の中に東鯷人と呼ばれる集団があり、倭人と同じビジネスモデルで交易していた事を示している。後漢書はそれが、日本の海洋民族だった事を示唆している。当時の中華人には海上の地理認識は皆無だったから、示唆する事しかできなかったからだ。

邪馬台国は会稽の真東にあると判断したその様な中華人が、東西南北を示す名称を使用していたとすると、この名称は中華人が与えたものではなく、海洋民族が付与したものだったと考えられる。従ってこの様な名称を採用した海洋民族は、山東の琅邪を拠点としていた於越(越の旗艦国)だったと考えられる。北陸は山東の真東にあるから、海洋民族の地理認識に相応しい名称になるからだ。「東の鯷人」を意味するこの名称は、フィリッピン人を「南鯷人」と呼んでいた可能性を示唆するが、「南鯷人」が越裳であれば、この名称は中華の史書には出てこないだろう。

北陸部族が越集団の内部で「東鯷人」と呼ばれたのであれば、民族名を表に出さないこの異様な名称の起源も、内部呼称だったとして説明できるし、北陸をと別称する理由にも繋がる。また縄文時代から続く北陸部族の縄張りは、海岸の西端が福井だった事を、縄文草創期や早期の遺物が示しているし、それが後世の越の地名域と合致する事も、状況証拠として挙げられる。

海洋民族が拠点をフィリッピンからフィリッピンに移動し、フィリッピン方言が生れた背景には、海洋民族の主要な交易品が絹布や香辛料などの、亜熱帯性や熱帯性の農産物の加工品や、香木、玳瑁(タイマイ)、宝石などの奢侈品に移行した事が挙げられる。縄文後期温暖期に海退が始まったから、インド洋やペルシャ湾の沿海部の沖積平野が急拡大し、農耕が盛んになって富裕者が増えたから、その様な交易が活性化したと考えられる。フィリッピンが方言化したBC2000年(縄文後期中葉)は、その様な交易が拡大している最中だった事が状況証拠になる。

海洋民族がインドネシアに拠点を移したのは、フィリッピン越が農耕民族的な色彩を強め、内陸の生産者集団になったから、海洋民族の拠点になったインドネシアと、交易材を生産するフィリッピン越に分かれたと言えばそれまでだが、彼らがその様な形で分離した事には、経済合理性が見られない。インドネシアの方が市場に近い事は間違いないが、商品をフィリッピンで仕入れるのであれば、海運事情はあまり変わらないからだ。フィリッピンに残ったフィリッピン越は海洋交易者を新たに必要としたから、北陸部族に依存する事によってそれを解決し、それを機縁に越同盟が生れた事は、インドネシアの海洋民族が交易の活性化を目指す上で、マイナス要因になったと考えられるからでもある。

縄文中期の北陸部族はヒスイの加工文化を売り出し、それが東アジアだけではなくアメリカ来陸にも伝わったから、北陸部族が有力な交易集団になった事は間違いないが、縄文後期になるとインドネシアの海洋民族はヒスイ文化を捨て、インド洋沿岸の交易には多彩な宝石や玳瑁などを投入し、依然としてヒスイ文化を継承していたアメリカ大陸との交易を遮断してしまった事も、北陸部族との関係を好感していなかった事を示唆している。

その4で検証するが、縄文後期のインドネシアの海洋民族は、北陸部族ではなく関東部族の海洋文化をモデルとして、インド洋交易を行っていたと考えられる事も、フィリッピン越と関係を深めた北陸部族に、好意的な態度を示していなかった事を示唆している。拠点をフィリッピンに移した事自体が、堅果類の栽培者を背景に海洋文化を高めていた、関東部族の模倣の様に見えるからでもある。

海洋民族がフィリッピンとインドネシアに分かれた理由を、経済的な観点から敢えて探すと、優れた工芸品を製作する地域に経済の主体が移行し、海洋交易は従属的な立場になったから、海洋交易者の拠点は海上輸送の利便性だけを考慮し、双方の経済合理性を追求した結果であると考える事もできる。弥生温暖期にはその体制で、インドネシアの海洋民族もフィリッピン越も空前絶後の経済的な繁栄を享受したから、その先駆状態を、縄文後期に形成したとも言えるが、日本でもmt-Dが拡散した地域は海洋交易活動が低調になったから、mt-Dと海洋民族の相性の悪さが、海洋民族をインドネシアに追い遣った疑いが濃い。

その理由を裏付ける事象として、弥生温暖期にフィリッピン越と海洋民族が、経済的な繁栄を享受した原動力の一つに、絹布の生産があった事が挙げられる。蚕は温度環境の変化に弱く、木に登る事が出来ない幼虫だから、元々は氷期にも隔絶されていたフィリッピンの小島の、ひっそりとした樹林で地表を這い回っていた、草食昆虫だった可能性が高い。積もった葉の陰で小さな繭を作っていたから、フィリッピン人がそれを集めて糸を得ていたのではなかろうか。

現在の蚕が食べる桑は葉肉が薄い落葉樹だから、氷期には冷温帯性の落葉樹だったと想定される。桑の実は食用になり、甘みがあって現代人の味覚にも耐えられるから、フィリッピンに入植したmt-M7aが持ち込んだ可能性が高く、桑の葉も縄文人は食用にしていた可能性が高いから、蚕の原虫が食べていた草と味覚が類似ている事を発見し、桑を食べる蚕に品種改良すると同時に、蚕が食べやすい桑に品種改良したのも、フィリッピンに入植したmt-M7aだった可能性が高い。しかし遺伝子分布は、養蚕を産業化して東アジアに拡散したのは、mt-M7b+B5だった事を示唆している。つまりmt-Dは穀類の生産性向上に執念を燃やし、社会の交易化や産業化には関心がなかったから、同僚だったmt-M7aにもその様な傾向が乏しく、折角桑を食べる蚕を生み出しはしたが、それを活用して産業社会に打って出る事は、mt-Dの影響によって断念したのではなかろうか。

穀類の栽培化に特化してしまうmt-Dのこの様な行動性向は、華北のアワ栽培者の暴力的な社会を作ったmt-Dの行動性向と、類似性が高い。農耕社会は平和で、交易社会は武闘的だと主張する人がいるが、東アジアでは全く逆で、特に大陸のアワ栽培社会は極端だったからだ。交易社会には色々な食料のメニューがあり、穀物の生産性が低い時代には、水産物を中心とする事も可能だった。

その様な漁労を支える交換経済が発達し、豊かな食料事情が生れると、その交換経済が色々な生業を生み出し、食料を獲得する手段を多彩にした。その様な産業社会では、農耕に拘泥して農地の獲得に血眼になる必要はなかったし、異民族と恒常的な交易関係を継続する為には、民族間の交流に関する文化も生まれ、互いの信頼関係を重視する文化も生まれた。

しかし人々が農耕に拘泥すると、元々何の根拠もない耕作権の永続性を主張する必要が生れ、その利権を争奪する紛争に発展したから、武力闘争は農耕社会の付帯条件になった。その武闘は農地の獲得に始まり、貯蔵性が高い穀類の争奪に発展し、やがて農地を領有する者達の領土争いに拡大した。

華北のアワ栽培者の社会が暴力的になると、周囲の交易者から敬遠されて孤立を深めたから、生業の多様性も生まれずに農地に執着するしかないという、悪循環に陥ったと推測される。その証拠は経済活動の成熟期の項で提示するが、話を完結するために特記事項を付記すると、縄文時代の交易社会は倭人時代にも継承されたが、倭人時代には品種改良によって稲作の生産性が高まり、鉄器時代になって農地を水田や畑として整備する様になったから、農民が経済的に自立できる様になって耕作権の争奪に走らざるを得なくなり、その解決策として利権を積極的に統括する政権を求め、農耕民族的な秩序を求める様になった。海洋民族が支配していた日本列島でも稲作民の経済力が高まり、稲作地をめぐる紛争が頻発する状態になると、交易を求めて活動する海洋民族だった、倭人の時代が終わった。

稲作民の代表を自認した奈良朝に、日本列島が統治される時代になると、中華王朝の使者が絶賛した平和な社会は、日本列島から失われ、領土権の獲得競争や領土権を認知する政権の権力闘争が錯綜する、戦乱の時代になった事も、農耕社会の暴力性を示している。交易者の政権も交易者間の利害を調整したが、交易には発展性や自由度があり、一つの交易利権に固執する事は必ずしも得策ではなかった。しかし農民社会の政権にその様な自由度はなく、限られた優良な農地を獲得する以外に農民の生きる道はなかったから、その熾烈な争いを調停する政権には、武力を備えると共に権力を装飾して尊大に見せる必要があった。その財源が必要だったから、個々の農民の耕作権を保証する見返りに高い租税を要求し、それを原資にして武力を整え、権力を装飾しながら、論理的な根拠がない耕作権を分配する必要があった。

必ずしも有能ではない官僚や貴族が、その余禄を貪って栄華に耽り、権力闘争によって身分を争奪する社会になると、社会が理性を失って暴力的になるのは、必然的な結果だった。

稲作の生産性が高まると、日本列島もその様な状態になって王朝や封建領主が生れたが、それより遥か以前のmt-Dが拡散したそれぞれの地域に、農耕社会を形成した事は特筆すべきだろう。桑野遺跡から出土した石製装飾品は、この時代から栽培地を争っていた事を示すのか、石製装飾品の様な物品は栽培者が農地争いを始める以前から、栽培系狩猟民族や農耕民族が好む物品だったのか判断に迷うが、これについてはその4で改めて論考する。

 

1-2-3 台湾から渡来したmt-B4+M7c

台湾起源の海洋民族のミトコンドリア遺伝子は、mt-B4である事が判明しているから、関東部族の漁民が台湾に至って堅果類の栽培者と接触した11千年年前から、この堅果類の栽培者が海洋民族になって南の海に拡散し始めた9千年前の間に、mt-B4M7cが台湾から関東に渡来したと想定される。浙江省から渡来したのはmt-B5+M7bだったと推測されるが、現在の中華大陸や東南アジアでは両者が複雑に混在しているので、大陸の事情を幾ら分析しても、両者の起源や歴史的な経緯は追跡できないだろう。

日本、韓国、台湾のmt-B5比率は大陸より高いが、関東縄文人からmt-B5は発見されていない。しかし弥生時代の鳥取の青谷上寺地遺跡から、mt-B5mt-B4と同数発見されると共に、両者の合計と同数のmt-M7bが発見されている。アワ栽培を重視していた北陸文化圏に、稲作者だったmt-B4mt-B5が渡来したと考え難いから、現代日本人のmt-M7b+B5の祖先は縄文後期~弥生時代の間に、養蚕技術を持って日本海文化圏に渡来した可能性が高い。台湾のmt-M7bには台湾起源の焼畑農耕者になったmt-D+M7bと、養蚕を行ったmt-M7b+B5が含まれているが、大陸性の寒暖が激しい広東で、縄文時代に養蚕が行われた可能性は低く、広東には焼畑農耕者しかいなかったと考えられるから、広東と比較して過剰な台湾のmt-M7bは、養蚕を行ったmt-M7b+B5だったと推測される。養蚕は温度変化弱い蚕を育てる作業だから、その拡散は先ずフィリッピンを起点に島嶼を北上していったと想定される。台湾や沖縄などの島嶼では、mt-M7bmt-B5より多い傾向があり、この想定と合致する。山東・遼寧もmt-M7bの方がmt-B5より多いのは、弥生時代の山東でも養蚕が行われた痕跡を示唆しているが、どちらも韓国の比より少ないから、朝鮮半島から拡散した遺伝子である疑いもある。いずれにしても山東・遼寧のmt-M7b+B5は、人口比で島嶼部より大幅に少なく、養蚕か活発だったのは島嶼部だった事を示し、論理的な状況証拠を形成している。

島嶼部で養蚕が盛んになったのは、北上すると気候は冷涼化するが蚕室を作って温度管理すれば、冷涼な気候は克服できるからだ。しかし盛夏に猛暑に襲われる大陸で、養蚕ができる様になる為には、蚕の品種改良と蚕室の大幅な改善が必要だったと考えられる。それが可能になったのは弥生温暖期だったが、大陸産の絹布は質が劣った事がその後の歴史に大きな影響を与えたと考えられる。これらの推論の根拠は、漢書が「海南島では女性が養蚕を行って絹布を織っている」「漢の武帝が海南島を領土化した」と指摘し、後漢書が「その目的は幅広の布(上質の絹布)」だった事を指摘し、魏志倭人伝が「倭では良質の絹布や錦を商業的に生産している」と指摘しているからだ。

これらの記述については経済の成熟期の項と、弥生時代の項で検証するが、これらの言葉の意味を意訳すれば、「漢代(弥生温暖期の終末期)の海南島では女性達が上質の絹布を生産しているから、漢の武帝が海南島を征服した」という事であり、それは中華世界では良質の絹布が生産できなかった事を意味している。倭で良質の絹布を生産していた事は、絹布の生産がフィリッピンから島嶼部を北上した事を意味している。

養蚕は桑の木の栽培が基本技術になるから、稲作者だったmt-B5より堅果類を中心とする樹木栽培者だったmt-M7bの方が、養蚕に向いていたと推測され、青谷上寺地遺跡からmt-B5より多くのmt-M7bが見付かっている事が、その事情を示唆している。島嶼の遺伝子分布が概ねその傾向にある事も、その事情を示唆している。

青谷上寺地遺跡からmt-B4が検出された理由は、焼畑農耕によるアワ栽培はmt-Dが主導し、自身が栽培者である状況は譲らなかったが、関東部族のmt-B4は温帯ジャポニカの耐寒性を高め、日本式の稲作技術の技術を開発したが、それを独占する事はせず、日本列島全域にその技術を拡散したからだ。弥生時代は鉄器で水田を開発する時代だったから、女性達が持っていた最大の栽培技術である、自然地形を利用して稲作を行う時代ではなくなっていた事がその背景にあり、関東のmt-B4はその様な時代の流れを感知していたからだと考えられるが、mt-Dとは真逆のmt-B4の交易的な性格が、彼女達をその様な行動に向かわせたと考えられる。技術指導するにしても各地に数人は常駐する必要があり、その子孫が青谷上寺地遺跡の集落にもいたと推測される。

韓国ではmt-M7bよりmt-B5が多いが、その理由は朝鮮半島の南端にあった弁韓が、越人の居住域だったからだと考えられる。稲作者で交易民族だった越人は、弥生時代に山東の琅邪を都として於越を形成したが、秦の始皇帝が中華を統一した際に大陸から逃亡したから、その一部が弁韓に移住して弁韓人になったと考えられる。その系譜が韓国のmt-B5+M7bだが、養蚕を行うmt-M7b+B5と混在していたから、韓国のmt-M7bmt-B5よりやや少ない状態になっている。フィリッピンに多数のmt-Dが移住したが、フィリッピン越の交易者として活躍した人々のペアは、浙江省から移住したmt-B5+M7bだった事は、此処までの記述から納得できるだろう。

韓国のmt-B4は山東・遼寧のmt-B4より少ないから、韓国のmt-B4は大陸から流入した漢族の遺伝子であると考えられ、これは韓国のmt-Fについても言える。

以上の検証から、浙江省起源の稲作者は全員がmt-B5+M7bだったと推測され、これは栽培系ミトコンドリア遺伝子の純化法則とも合致するから、浙江省起源の稲作者はmt-B5、台湾起源の稲作者はmt-B4だったとして、以下の検証を行う。

現在の中華世界にmt-B4が多いのは、縄文中期寒冷期に浙江省のジャバニカが壊滅し、関東で栽培化されて耐寒性が高かった、熱帯ジャポニカに切り替えざるを得なかった事と、縄文後期に荊が栽培する温帯ジャポニカが、揚子江下流域を含めた中華世界を席巻したが、縄文晩期寒冷期になると揚子江流域の温帯ジャポニカさえも壊滅し、荊も熱帯ジャポニカを導入せざるを得なくなったからだ。その為には日本からmt-B4を招く必要があり、縄文晩期寒冷期には相当数のmt-B4が、荊のmt-Fに浸潤したと考えられる。熱帯ジャポニカの栽培は縄文後期に西日本に拡散し、関東のmt-B4も後世の倭人地域である、大阪湾岸、讃岐、岡山、北九州に拡散したから、それらの地域のmt-B4が華南に入植したと想定される。

このmt-B4+Fが弥生温暖期に華北に北上し、沿海部の漢族に浸潤してその遺伝子をmt-D+B4+F+M8に変えた。飛鳥時代に高句麗が滅亡すると、河北や遼寧の漢族が朝鮮半島に南下したから、それらが現在の韓国の遺伝子構造の多数派になり、31%を占めているが、Y-O341%である事と比較して少ないのは、他の遺伝子に浸潤された事を示唆している。半島の方が文化レベルは高かったから、違和感を持つ事情ではないが、弥生時代の漢族には他の遺伝子も含まれていた可能性もある。

古墳寒冷期が始まった前漢末に、今まで稲作者が経験した事がない厳しい寒冷期になったから、再び揚子江流域の温帯ジャポニカが壊滅し、多数の荊が中華での稲作を諦め、フィリッピン、インドネシア、ヴェトナム、タイなどに移住したが、一部は広東にも南下したから、広東の多数派は荊のmt-B4+Fになった。しかしmt-D+M7bの焼畑農耕者の子孫も、1/3ほど残っている。

漢代の広東が粤=越と呼ばれたのは、台湾のmt-D+M7bが浸潤した相手が、浙江省起源のmt-B5+M7bだったからだと考えられ、漢書に記された粤の実態は、mt-D+M7bを主体とする焼畑農耕者だったと想定される。

越南と記されたヴェトナムにmt-B5が多い事は、mt-D+M7bが南下できる限度がヴェトナム北部までだったから、その南に南下したmt-B5がいた事を示唆している。言い換えると台湾起源の焼畑農耕による稲作が、ヴェトナム中南部やインドネシアに南下する為には、更に品種や農法を改良する必要があった事を示唆している。縄文晩期のmt-B5が稲作者として、ヴェトナムに南下した筈はないから、縄文時代に浙江省から福建省に南下したmt-B5が、広東から北上したmt-M8aから入手した、ヤムイモやタロイモを栽培していたのではなかろうか。

寒冷化が厳しかった古墳寒冷期に大陸の稲作者の多くは、中華世界での稲作を諦めて海洋民族の船で東南アジア各地に入植したから、東南アジアには日本列島以上に複雑な、栽培者と民族のモザイクが生まれた。タイ人は山越えでタイに南下したと信じられているが、むしろ海洋民族の船で沿岸部に入植し、そこから内陸に広がった可能性が高い。フィリッピン、インドネシア、マレー半島は海洋民族の本拠地だったから、彼らは大陸の稲作民族を選択的に招き入れた事を、遺伝子分布が示している。従ってそれらの民族の遺伝子分布から、稲作者のルーツを探る事はできない。

現代日本人には、大陸の稲作民族のY遺伝子を持つ者は皆無に近く、関東部族が招いた稲作技術者の女性の子孫しかいない。それ故に日本人と縄文人のミトコンドリア遺伝子分布に、歴史事象が温存される事になったから、東アジアの稲作史と稲作民族史を解明する為には、日本人と関東縄文人のミトコンドリア遺伝子分布を解析する事が有効になる。

mt-B4+M7cが関東に渡来した1万年~9千年前は、黒潮が温暖化して日本列島も超温暖期になっていから、尾瀬の花粉は9千年前の関東は、現在より68℃も温暖になった事を示し、その後も縄文早期を通して、関東は現在より4℃程温暖だった事を示している。現在の関東が6℃温暖化すると沖縄の様な気候になり、8℃温暖化すると台北市の様な気候になるから、イネの原生種を栽培していたmt-B4にとってこの時期の関東は、栽培環境を整えれば栽培が可能な気候だった。イネの原生種が雑草化する為には、現在より8℃以上の高温が必要だったと推測されるから、関東に渡来したmt-B4は理想的な栽培化環境を得た事になる。

彼女達が渡来してから千年間は、現在より68℃も温暖な気候が続き、8500年前から8000年前の間に低温化して現在より4℃温暖な状態になったが、黒潮は依然として昇温過程にあったから、尾瀬より海に近い関東平野はそれほど低温化しなかったかもしれない。やがて関東が現在より4℃温暖な状態に低温化すると、現在の鹿児島よりやや温暖な気候になった。

この程度の低温化が数百年掛かって進展したから、mt-B4が手掛けた栽培化の進展によって克服できたから、耐寒性が高い熱帯ジャポニカが生れた。8000年~7500年前の太平洋の湿潤化期には、1600年周期の気候変動の温暖期が重なったから、関東はあまり低温化しなかった事を尾瀬の花粉が示している。この様な気候に育まれた熱帯ジャポニカは徐々に生産性を高め、縄文前期後半に温暖期になると関東は再び沖縄の様な気候になったから、mt-B4は熱帯ジャポニカの栽培者と言える様な高い生産性を得たと推測される。

mt-B4は関東だけにいたのではなく、播磨灘を抱える岡山にも入植した。氷期の播磨灘は陸地だったが、1万年前から海水が侵入し始め、9千年前には現在の播磨灘程度の広さの海域が生れたから、関東部族は氷期には誰も利権を持っていなかったこの海域を、関東部族の海であると宣言したと推測される。海洋漁民にとっては漁労を行う海域に利権があり、その周辺の海岸にある湊の適地も、その利権に含まれるものだったと推測される。

関東部族が播磨灘をテリトリー化した目的は、縄文人が岡山に入植して中国山地の蛇紋岩を採取し、作った磨製石斧はツングースを介してシベリアのトルコ系漁民に、船を作る道具として提供する為だったと想定される。北陸部族もこの頃磨製石斧の工房を作り始め、焼畑農耕者に提供し始めたから、磨製石斧の工房を作るアイデアは、どちらの部族が先だったのか明らかではないが、蛇紋岩は北陸産の方が良質だったから、ツングースは北陸産の磨製石斧を使っていた可能性が高い。

いずれにしても1万年前に、トルコ系漁民がシベリアの内陸部に拡散し始めると、アサと磨製石斧の需要が急増した事は間違いなく、その供給責任は、弓矢交易を始めた関東部族が負う必要があっただろう。磨製石斧の供給が不十分であれば、弓矢交易が頓挫して仕舞うからだ。縄文人の関東入植が弓矢交易の激増によって加速した事は、既に指摘したが、関東部族の岡山入植もその頃だったと考えられるから、岡山へは九州縄文人が直接入植し、mt-B4はその縄文人に浸潤したと考えられる。川洲が各所にあった岡山にはmt-B4が入植した事が、九州と岡山のその後の歴史を大きく変える事になった。

気候が冷涼な北陸では大型の石斧工房が竪穴住居内に設置されたから、多数の工房跡が発掘されたが、瀬戸内では住居址が発掘される事すら稀で、発掘される遺跡は貝塚しかないのは、温暖で降雪がなかった瀬戸内の住居は耐寒建築である竪穴式ではなく、地面に細い棒を指すだけの平地式だったからだと推測される。九州で竪穴式の住居が採用され始めた縄文早期前半には、岡山の縄文人は岡山に移住していまっていたのではなかろうか。その時代の岡山には海がなかったとすると、彼らが高地に住居や堅果類の樹林を形成する、動機が生れなかった可能性もある。従って北陸と瀬戸内を単純に比較する事は出来ないが、北陸の石斧工房も、未だ海面上昇期だった9千年前のものは発掘されていないから、この時期の岡山の遺跡が発掘される事はないだろう。

台湾にも蛇紋岩の産地があるから、岡山産の磨製石斧を台湾の堅果類の栽培者との交易に使ったとは考え難いから、岡山で磨製石斧を製作したのは北方系の関東部族だったと考えられる。しかし南方系の関東部族が縄文前期~中期に入植した沖縄には、多数のmt-Aが遺されているから、関東部族の南方派と北方派の間では、技術者の交換は早い時期に始まっていたと想定され、関東より温暖な岡山にはmt-B4が早々に移住したと推測される。従って岡山で発掘された稲作の痕跡は、縄文前期後半の温暖期のものしか確認されていないが、mt-B4は縄文早期末には岡山に入植していた可能性が高い。

 

縄文早期の稲作適地は極めて限定的な状態だった

mt-B5が浙江省でジャバ二カを栽培化したが、それは銭塘江が形成した広大な扇状台地があり、その緩やかな谷間の湿地が稲作地を提供していたからであって、海面上昇が終了した直後である縄文早期~前期には、沿海部にはその様な台地や丘陵地しか平坦な地形がなかったから、この時期にイネの栽培化が進展する為には、地理的な環境条件が最も重要な要件だった。イネに限らず穀類の栽培化には、多数の女性が参加して種子を交換し、有用な遺伝子変異を集積する事が重要な要件だったからだ。その結果として稲穂に稔る種子の数を増やし、モミのサイズを大きくしていく事ができた。少数者では効率が悪く栽培化の進展は遅かったから、その様な栽培種は現在まで残る穀類には進化しなかっただろう。この時代の銭塘江台地は東アジア最大の丘陵地だった事が、ジャバニカが生れる必要条件だったと考えられる。

関東にも多摩川が形成した扇状台地である武蔵野台地があり、その隣には相模川が形成した多摩丘陵が展開していた上に、大宮台地や常総台地などの洪積台地があったから、イネの栽培化が進展する地理的な環境は整っていた。この時代の東アジア沿海部にあった丘陵台地として、銭塘江台地(東西南北200㎞)に次ぐ規模(東西南北100㎞)があった。大陸でも日本列島でも、氷期には海岸の沖積平野だった平坦な地域は、海面上昇によって全て水没しただけではなく、海水が氷期にその平野を形成した川の河谷に侵入し、入り江を形成したから、中・下流の川洲も海に飲み込まれ、海の波が山麓の岩肌を洗う状況だった。しかし関東には上記の様な洪積台地があったから、やや冷涼な地域だったにも拘わらず、多数のmt-B4が台湾から渡来して稲作起源地を形成した。

台湾にも桃園扇状地(東西南北20㎞)があったから、其処で人口を増やしたmt-B4の一部が、稲作地を求めて関東に渡来したとも言えるが、桃園扇状地は標高が高く地下水脈に問題があったから、稲作に必要な保水性に難点があった可能性が高い。しかし武蔵野の標高100m以下の台地にはその様な課題はなかったから、mt-B4には理想的な栽培地に見えた可能性が高い。現存している遺伝子クラスターから判断すると、桃園扇状地にいたmt-B4の少なくとも過半数は、関東に移住したと想定される。関東縄文人の遺体から検出される多数のmt-B4もその事情を示し、台湾で余剰人口になった少数のmt-B4が渡来したのではなく、我も我もと関東に押し寄せる状況だったと想定される。

関東の丘陵地には黒ボク土が多く、稲作には向かないとの指摘があるが、黒ボク土の特徴を把握する必要がある。黒ボク土は「火山性の降灰土壌の上に、イネ科植物が最低数百年間繁茂した事によって形成され、その形成史は、1万年以上は遡らない。1万年前以降の関東の土壌環境は、人が何もしなければ森林に覆われていた筈だから、森林土壌が形成された筈だが、実際には黒ボク土が広域的に形成されている。この事は広い範囲に亘って人工的に森林が失われ、草原化した事を意味している。」と指摘され、土壌の研究者はその解釈に困惑しているからだ。

NARO(農研機構)HPより転写 赤い部分が黒ボク土が分布する地域

上掲の地図を素直に解釈すると、9千年前にmt-B4が渡来した頃の関東の台地には、黒ボク土は存在せずに樹林が発達し、火山灰土壌の表層は森林土に覆われていたが、焼畑農耕者ではなかったmt-B4は、森林を伐採するか焼き払う事によって草原化し、台地上の平面で天水による稲作を行ったから、それによって黒ボク土が形成されたと考えざるを得ない。

黒ボク土が分布する地域は関東に集中しているが、厳密に言えば関東部族の領域だったと考えられる静岡東部、山梨、長野県の旧諏訪郡域を含めた地域に集中し、焼畑農耕が行われたと推測される地域には少ない事も、この想定を補強する。この地図は縄文海進期の関東で、どの様に台地が広がっていたのかを示しているから、台地上でmt-B4が盛んに稲作を行った事を示しているとも言える。住宅地が広がっている武蔵野には、考古学的な発掘が行われる機会は豊富にある筈だが、稲作に関する報告が何もないのは、考古学者が関東で縄文稲作が行われた筈はないとの、先入観を持っているからではなかろうか。

青森と北海道に集中している黒ボク土の分布は、ヒエを栽培した痕跡である可能性が高い。ヒエは縄文後期の北海道で栽培化され、縄文晩期寒冷期には青森にもヒエ栽培が南下したと考えられるからだ。縄文後期温暖期は現在より4℃ほど温暖だったから、当時の室蘭は仙台のような気候で、道東南部は現在の北東北の様な気候だったと想定される。従って縄文中期にヒエを栽培化した道南の縄文人は、縄文後期に道東南部に進出して盛んにヒエを栽培したとしても、不思議な事ではない。

彼らも焼畑農耕者ではなかったから、鉄器時代になって焼畑農耕が浸透するまでは、森林を伐採して草原化し、ヒエを栽培していたと考えられる。栽培化が始まってから穀物としての完成度が高まるまでは、広い栽培地に多数の栽培者が展開し、遺伝子変異を集積する必要があったから、五穀とまで言われたヒエが誕生する為には、この程度の広範な地域で栽培される必要があったと想定する事に、違和感はない。縄文後期温暖期に道東でヒエを栽培したmt-M7aは、縄文晩期寒冷期に東北に南下し、弥生温暖期にmt-B4の指導を受けて稲作者に転換したから、再び北海道に戻る事はなく、古墳寒冷期にはヒエの栽培を復活させて凌いだとすると、アイヌにはmt-M7aが含まれていない理由も無理なく提供する。一旦穀物栽培者になったmt-M7aは、mt-Dと同様に穀物栽培に拘り、堅果類の栽培者には戻りたくなかっただろうから、現状を説明する歴史解釈としての合理性があり、青森以南に拡散している黒ボク土は、ヒエを栽培した痕跡であると考えられる。縄文前期温暖期に稲作の生産性を高めた関東のmt-B4の、事情を伝え聞いた道南のmt-M7aが函館東部の傾斜が緩やかな斜面の谷間で、イヌビエを栽培し始めた事が発端だったのではなかろうか。縄文前期温暖期の函館は、現在の千葉の様な気候だったと想定され、縄文中期寒冷期にイヌビエが野生化しなくなると栽培化が進展点したと想定され、ヒエの栽培化過程としても無理がない。

栃木県の北端までがmt-B4の栽培地になった事は、大田原市域の扇状地から関東系の縄文土器が発掘されている事と整合するが、東北系の土器が発掘される、福島や山形の事情については解説が要る。詳細は経済活動の成熟期の項で検証するが、その概要は以下になる。

山形盆地を流れる最上川は日本海に流れる川だから、縄文早期前半に東北に移住した東北縄文人の一部は、最上川を遡上して巨大な古山形湖の湖畔に定住したと想定される。しかし対馬海流が安定的に流れ始めた7千年前から、海流が酒田盆地の外縁に海岸砂丘を形成し、その内側に巨大な古酒田湖を形成してしまったから、東北部族の海洋漁民は沿海部に湊を形成できなくなり、秋田や青森の沿海部に北上せざるを得なくなり、三内丸山遺跡などを形成した。

これによって山形盆地の縄文人は、日本海沿岸との船舶交通が遮断され、一緒に東北に入植した漁民部族との関係が希薄になったから、陸路による関東部族との文化交流を求めたと想定される。それによって関東の稲作技術が古山形湖の周辺にも拡散し、その稲作者はmt-M7aだったと推測される。この推測の根拠は、山形盆地の夏は北関東より温暖である事と、縄文後期に東北部族が西日本や九州に移住して稲作を始めた際に、稲作人材を山形の縄文人が提供したと考えられるからだ。また縄文後期の西日本に突然生まれた東日本的な縄文集落から、東北系の土器が発掘されている事がそれを示している。つまり福島の中通から山形盆地に至る黒ボク土回廊は、その様なmt-M7aが形成した可能性が高い。「縄文の女神」の様な関東部族的な土偶が、山形で作られた事もこの想定と整合する。

岡山で縄文前期の稲作の痕跡が複数発見されながら、黒ボク土が存在しない事は、岡山には広い台地や丘陵地はなかったという、地理的な特殊性に起因していると考えられる。岡山の山際には古い時代の湖沼の痕跡が多数あるから、その様な湖沼の沖積地で稲作が行われ、黒ボク土が遺される様な火山灰が積もった台地では、稲作は行われなかったと想定されるからだ。縄文後期には西日本にも稲作が広がり、熱帯ジャポニカも盛んに栽培されたが、西日本には黒ボク土に覆われた地域が少ないのは、縄文後期には生産性が高い沖積地での稲作が主流になり、生産性が低い台地上の稲作は廃れていたからだと考えられる。

この観点で関東の台地事情を検証すると、武蔵野台地には至る所に黒ボク土があるが、関東の台地上で行われた稲作は必ずしも陸稲ではなかった可能性に至る。武蔵野台地は13万年前の間氷期に形成された沖積平野だが、隆起地形上だったので多摩川が園扇状地を周回する様になり、氷期初頭の豪雨に土砂が流出しなかったから、平坦な台地が残されたと考えられる。その後降雨が少ない氷期に徐々に隆起したから、13万年前の平坦面がそれによって歪められたが、氷期の少ない降雨は沼地を形成するだけで、流出口の浸食による谷間の形成には至らず、隆起による歪みを温存していたと推測される。後氷期に温暖化してその様な台地が深い森林になると、沼地の流出口の浸食は緩慢になり、ローム層に覆われた土壌は森林土壌や沼地の土壌になって肥沃化したが、隆起に起因する多数の沼地が散在する状態は崩れなかったから、関東に入植したmt-B4が簡単な堤防を形成して沼地を復元できる様な、広大な稲作適地を提供したと想定されるからだ。その後降雨が増えた1万年間に、武蔵野台地の平坦面は殆ど浸食されずに恋ヶ窪の様な沼地を残したから、これは極めて順当な推測になる。

台湾や銭塘江台地には氷期にもモンスーン性の降雨があり、降雨量は関東より圧倒的に多かっただろうから、台地上に多数の川筋が生れて湖沼は失われたが、9千年前の関東の台地上には多数の湖沼が温存されていた故に、台地が黒ボク土に覆われる状態が生れたとすると、関東の台地面積は銭塘江台地の1/4程度だが、稲作が可能な場所は関東の方が広かった可能性もある。ジャバニカより熱帯ジャポニカの方が、イネとしての完成度が高かった様に見えるのは、これが起因していた疑いもある。

沼地の流出口が侵食されて沼が消滅し、周囲の土壌も侵食されると深い谷が形成され、それが徐々に広がって平坦な台地が丘陵地に変化したから、稲作が行われた事を示す直接的な痕跡が、保存されている可能性は高くはないが、同様の台地である銭塘江台地では、多数の遺跡が発掘されているから、この様な言い方は考古学者の言い訳を代弁しているに過ぎないとも言える。

いずれにしても台地の土壌が黒ボク土に変わると、リンが不足して稲作は難しくなったから、稲作地は徐々に柔らかい沖積台地が侵食された、谷間の沖積地に移動したと考えられる。

大宮台地や常総台地も武蔵野台地や多摩丘陵と同様に隆起地形上にあり、それらの標高は武蔵野台地に類似しているから、武蔵野台地と同時期に形成された疑いがあるが、丘陵の浸食は多摩丘陵の様に進んで多数の河谷を形成しているから、隆起速度の違いや堆積した土砂の性質の違いにより、その様な地形のバリエーションが生れた可能性もあるから、それらの形成史を推測する為には精密な調査が必要になる。地球の気候史が確定していない現在、精密調査にも限度があるから、詳細は後世の課題にせざるを得ない。

いずれにしても関東にこの様な洪積台地が散在しているのは、最終氷期初頭の大豪雨期に、関東平野の外縁が低い山地に囲まれていたからだと考えられる。その山岳地は利根川の河口で途切れている様に見えるが、河口の下部にも岩塊が連なっていれば、氷期初頭の海面低下時にそれが露出したから、それが関東平野を巨大な水溜りにする事により、関東平野から沖積土壌が流失する事を阻止しただろう。

それであっても浦賀水道が現在の様な状態であれば、そこから関東平野の土壌は流出してしまった筈だが、多摩丘陵と武蔵野台地が残存している事は、最終氷期の初頭だけではなくその一つ前の氷期にも、浦賀水道も関東平野の土壌流出を阻止した事を示唆している。武蔵野台地は前回の間氷期に形成されたと推測されるが、隣接する多摩丘陵は標高が高いから、一つ前の間氷期に形成されたと考えられるからだ。前回の間氷期の海面は、現在の海面より数十メートル高かったから、その標高で形成された沖積平野が隆起して武蔵野台地が生れると、その後の間氷期の降雨によってこの台地が浸食される事から免れ、隣接する多摩丘陵の谷を、河川が埋めてしまう状態だったと推測される。しかし後氷期初頭に豪雨期が発生し、それと共に海面は急低下したから、それらの沖積平野を形成した川が低下した海面に奔流の様に注ぐと、沖積平野の土砂は洗い流されてしまったと想定される。

しかし13万年前の浦賀水道が、関東平野に水を溜め込む様な標高だったのであれば、これらの台地の一部は多摩川や相模川、或いは鬼怒川や荒川に浸食されたが、広域的な湖が残れば、川筋は浸食されてもその他の広い台地は温存されたと考えられるから、浦賀水道の変遷を検証する必要がある。

氷期初頭の浦賀水道は現在の標高で0mだったとしても、その後の7万年間に200mほど沈降すれば、5万年前に関東部族が東京湾岸に集住した頃の古東京湾は、現在の様な広さの湾内に海水を湛えていただろう。7万年間に200m沈降する速度は100年間に30㎝沈降する速度になり、次節に示すこの周囲の沈降速度と変わらないから、この想定に違和感はない。

山塊の堰は現在の相模川が流れ込んでいる、相模湾岸にも必要だった。此処から太平洋に土砂が流れ込んで仕舞っても、上記の台地は温存されなかったと考えられるからだ。相模湾は他の湾入地形と同様に、沈降地形によって形成されたもので、次節に示す地図も100年間に50㎝程の地殻の沈降を示しているから、13万年間に600m以上の沈降があった事になり、現在の鎌倉の山間地の東端と平塚の海岸にある高麗山の間の15㎞程の距離が、山塊で塞がれていれば、関東平野を湖にする事が出来た。江の島、姥島、平島は当時の山塊が沈降して溺れ山になり、山頂だけが残っている状態を示していると考えられるから、この想定にも無理がない。

これらの推測の詳細には不明な点が多いが、いずれにしても関東平野の洪積台地は極めて特殊な条件下で生まれ、東アジアでは希少な存在だったから、その様な関東平野に魅せられたmt-B4が、稲作地を求めて多数渡来したと想定する事に違和感はない。

岡山に入植したmt-B4が稲作を行った場所は、関東平野とは全く異なっていた。現在の岡山平野は縄文中期まで海に覆われ、沈降地形に特有な多島海を形成し、海岸には稲作地になり得る沖積地はなかった。地殻の沈降地帯であるが故に瀬戸内海が存在するのだから、数百万年前には山岳地の峰や尾根だった部分が、地殻の沈降と共に標高を低下させた地形だったから、海面が上昇すると瀬戸内海に近い部分では多島海を形成し、内陸では中小河川が流れていた谷が、不均一な沈降によって各所で堰き止められ、多数の小さな湖を形成していた。その湖に流れ込む河川が、8千年前に始まった豪雨期に川洲を形成し、小さな湖の河口は急速に侵食されて湖面が低下していたから、川洲がある程度の広さを持つ扇状地に変わり、その水辺に稲作適地を形成していた。

一つ一つの稲作地は広くなかったが、その様な湖が点在して稲作地と言える環境を形成していたと想定される。イネのプラントオパールが発掘された岡山理科大の門の辺りは、当時の湖の湖畔だったと推測される事も、この想定の根拠になる。水辺での稲作は生産性が高いから、関東より温暖な気候である事と相俟って有力な稲作地になっただろう。稲作と言えば温帯ジャポニカの栽培を想像する現代人は、小さな湖の畔では水害に遭い易いと危惧するが、熱帯ジャポニカの草丈は2m近くあり、水辺に生える葦の様に成長したから、熱帯ジャポニカにはその様な水辺が稲作適地だったからだ。

関東に渡来したmt-B4のその後活躍は、縄文晩期に生まれた日本式の稲作の形成過程と、その普及過程の検証によって明らかにする必要があるので、「経済活動の成熟期」の項で検証する。

 

1-2-4 浙江省の栽培者だったmt-B5+M7b

mt-B5+M7bが関東に渡来したのは、mt-B4+M7cが渡来した後で、7千年前頃に始まった河姆渡時代の前だったと想定される。浙江省では河姆渡文化期、崧沢文化期、良渚文化期と連続的に急速に進化し、稲作文化は安定的に発展した事を示しているから、浙江省にはmt-B5+M7bが渡来する様な危機は、その期間はなかったと想定されるからだ。浙江省の稲作民に訪れた危機は、8千年前に始まった太平洋の湿潤化により、豪雨によって稲作地が流され、気候が冷涼化してイネの原生種の収穫が減少した事だった可能性が高い。関東で稲作を行っていたmt-B4の収穫も減少したが、台湾やフィリッピンのmt-B4は既に海洋民族になり、台湾島が狭くなっていく事に関する危機感もなくなっていたから、関東部族の南方派は稲作の増収を図る為、浙江省のmt-B4+M7bをリクルートしたとすると、両者の動機が一致する。関東平野には未墾の台地が各所にあったから、mt-B4+M7bが渡来すれば稲作の生産量が増えると考えるのは自然な発想だった。

北陸部族が残したと考えられる査海遺跡の石製装飾品は7800年前のものだから、穀物の減収を補うために新たな稲作者をリクルートする試みは、関東部族の方が先行していた可能性があるが、いずれにしても関東部族と北陸部族が同期して大陸から栽培者をリクルートした事は、この時代の日本列島が第一次の穀物ブームに沸いていた事を示唆している。

しかし関東縄文人からmt-B5は検出されていないから、関東のmt-B5mt-B4に浸潤されて消滅し、九州に移住して九州縄文人に浸潤したmt-B5だけが、縄文前期までジャバ二カの別種を栽培したと推測される。浙江省のmt-B58千年前に太平洋が湿潤化した事により、低温化に見舞われてイネの栽培化を始めたから、関東にmt-B5が渡来したのはその直後だった。浙江省でも気候が冷涼化して減収に悩んでいたから、関東の更に冷涼な気候に絶望した上に、mt-B4が耐寒性の高い熱帯ジャポニカの栽培化を進めていたから、落胆して浙江省と気候が同じ九州に移住せざるを得なくなる事は、ある意味では必然的な帰結だったが、福井のmt-Dとは異なる状況になった。

遼河台地から福井に渡来したmt-Dを、北陸で焼畑農耕を開発したmt-Dが暖かく迎え入れたのか、確証はないが、査海遺跡の石製装飾品は遼河台地から渡来したmt-Dが、故郷に錦を飾ったものである可能性がある事と、縄文後期末~晩期に関東に渡来した漢族のmt-D+M8aが、九州縄文人のmt-Dと共に最大多数派になっていた事から推測すると、mt-Dには感性が合う女性を好む思想を持ち、7千年の時を経てもmt-D同志は思想を共有していたから、北陸のmt-Dも遼河台地のmt-Dを暖かく迎え入れた可能性が高い。その背景には海洋民族に囲まれながら、異質な思想を堅持していたmt-Dの孤独感が、同類を求めていた可能性もある。

九州には15千年前から、九州縄文人と共生していた関東系の漁民がいたから、関東にいた殆どのmt-B5が同じ部族内の移住として、関東から九州に移住したと推測される。mt-B4mt-B53万年以上前に分かれたから、それぞれが属していた堅果類の栽培集団の違いや栽培環境の違いにより、mt-Dmt-Zは栽培種が同じになっても異なる民族だったのと同様に、社会秩序を共有する事が出来ない異民族だった可能性が高い。それ故にmt-B4mt-B5を熱帯ジャポニカの栽培者にする事はなく、mt-B5は九州に移住するしかなかったのではなかろうか。氷期の女性達は母から娘に伝えられた種子と栽培思想を堅持していたが、温暖化して栽培の重要性が高まった1万年前には、母から娘に伝えていたのは栽培思想だけではなく、民族毎に特化した社会秩序に関する思想も、伝承していた事を示唆している。つまり漁民には漁民の秩序観があり、縄文人には縄文人の秩序観があったが、それとは別にmt-B4+M7b独自の秩序認識があり、それらが部族内で共存していた事になる。日本人は話し合いで物事を決める習俗を持っていたが、その起源はこの時代にあった事になる。

九州では縄文前期初頭から、暖温帯性の堅果類が貯蔵されたドングリピットが多数発掘され、mt-B4+M7cmt-B5+M7bのいずれかが、九州に移住した事を示しているから、九州に移住したのはmt-B5+M7bだった事を確認する必要がある。

3-1 沖縄と華南の事情に示す「縄文人の植物利用」の画像で、関東と沖縄では籠を編む素材にアズマネザサを使ったが、九州西部では暖温帯性の樹木の樹皮を、籠の素材にしていた事が示されているから、関東文化圏とは籠の素材が異なっていた事示している。関東がmt-B4+M7cの文化圏だった事は、発掘された遺体のミトコンドリア遺伝子が示しているから、九州はmt-B5+M7bの文化圏だった事になり、この判定は歴史的な諸事情と整合する。

8千年前の関東部族の漁民には、気候が温暖な浙江省のジャバ二カは、関東のmt-B4が栽培化を進めていた熱帯ジャポニカより、生産性が高く見えたかもしれないが、同じ関東で栽培してみると、栽培化が千年以上先行していた熱帯ジャポニカに優位性があったから、mt-B5は関東での稲作を諦め、受け入れを表明した九州縄文人に浸潤したと考えられる。九州縄文人はmt-B5+M7bを迎える事により、関東や岡山の様に稲作者を抱える事が出来たから、浸潤を歓迎しただろう。

mt-B4が九州に移住しなかったのは、九州の沿海部には台地が殆どなく、遺伝子変異を蓄積して生産性を高める事ができる様な、多数の稲作者を受容する稲作地がなかったからだと想定され、この時期のmt-B4が最も必要としたのは広い稲作地で、気候は副次的な問題だった事を示し、栽培化の第二段階では遺伝変異の蓄積が重要である事を、痛感していた事になる。関東の漁民はその様な思想の基に数万年間を過ごしてきたから、その思想がmt-B4にも影響していた可能性もあるが、後述するmt-Fも同様な思想を持っていたと考えられるので、稲作に成功した女性達はその様な思想を持っていた事になる。

mt-B5+M7bが九州に移住した結果、九州縄文人のmt-M7aは浸潤されて消滅したと想定される。九州西部の編み籠の材質が暖温帯性の樹種に変わっただけではなく、発掘されるドングリピットの内容物も、暖温帯性のイチイガシ一色になり、冷温帯性のドングリは含まれなくなったからだ。九州の気候は浙江省と類似しているから、温暖化した九州ではmt-B5+M7bに勝算があった事を示している。mt-B4+M7bの渡来に関しては、九州の漁民の独自の海洋活動により、直接浙江省から招聘した可能性を指摘する人がいるかもしれないが、九州の分派的な漁民の人口は関東部族より極めて少なかったから、関東の漁民の様に、独自の海洋文化を生み出す力はなかったと推測される。東北部族に大陸女性のミトコンドリア遺伝子が浸潤しなかったのも、それが理由の一つだったと考えられるからだ。

mt-B5+M7bの故郷だった浙江省の、縄文前期前半の河姆渡遺跡から石製装飾品が発掘されたが、遼河台地でmt-Dをリクルートした北陸縄文人のものより時代が下りながら、その出来栄えは稚拙だから、台湾の海洋民族が製作したものである可能性が高い。河姆渡遺跡の次の時代である縄文前期後半の崧沢文化期に、日本では製作されなかった有孔石斧が使われる様になった事が、台湾製の加工品が浙江省に流入した事を示しているからだ。北陸部族が台湾に到達すると、彼らのヒスイ加工文化が南米にも伝達されたから、北陸部族も縄文前期には台湾に到達し、台湾の海洋民族にヒスイの加工技術を伝えていたと考えられる。海洋民族は縄文後期には東西に分裂したから、ヒスイの加工技術がアメリカ大陸に伝搬した時期は、縄文前期と中期しかなかったからだ。

九州の漁民も縄文前期にはトカラ海峡を超えられる様になったから、縄文前期の沖縄の遺跡から、九州系の縄文土器が多数発掘される様になったと考えられ、航行技能が向上する様な何らかの技術革新が、縄文前期に日本列島全域に及んだ事を示している。縄文前期にシベリアとの交易量が拡大した事を、八ヶ岳山麓に多数の集落が生れた事が示しているから、関東部族の海運力が縄文前期に高まった事は間違いなく、その技術が拡散した可能性が高い。海洋文化には考古学的な発掘が全く及んでいないから、考古学的な証拠は何もないが、アワ栽培者の動向を検証した際に、神戸では7300年前の鬼界アカホヤ火山の降灰後、クスノキが増えたと指摘されている事を紹介した。

クスノキの木材は軟らかいから、海洋船の船底材には向かないが、舷側板にしてシナノキのロープで締め上げれば、水漏れしない大型船を建造する事が出来ただろう。関東部族は温暖な岡山でクスノキやムクノキを栽培し、冷涼な霧ヶ峰でシナノキを栽培し、多数の大型船を建造して輸送力を高めたから、九州部族も縄文前期にそれを採用する事により、航行能力を高めたと想定する事に違和感はないが、温暖な九州ではクスノキやムクノキを栽培することはできても、冷涼な気候が必要なシナノキの栽培はできなかったから、海洋文化の進化を、関東部族に依存する状況は変わらなかった。

九州縄文人も海洋文化の進化を取り入れ、浙江省に渡って稲作文化を取り込んだかもしれないが、浙江省のmt-B5をリクルートでき様な切羽詰まった事情は、縄文前期の浙江省にはなかった。種籾を入手する機会はあっただろうから、それによって九州のmt-B5の栽培化の遅れを、補填する事は出来ただろう。九州のmt-B5が浙江省に赴き、ジャバニカの栽培事情を視察する事も出来たかもしれない。

海進期の九州の海岸には沖積平野がなく、岸壁が波に洗われている状態が一般的だったから、イネの栽培地は極めて限定的だった。縄文前期の曽畑貝塚は現在の海岸から10㎞も内陸に入った、小さな扇状地の縁にあるが、縄文前期にはこの狭い扇状地が、海岸の稲作可能地だったと考えられる。地形が入り組んだ九州西岸には、この様な扇状地の他にも、13万年前に形成された沖積地の残渣が、テラスの様に散在していたが、関東や浙江省と比較すると、稲作地は格段に少なく狭かった。稲作地が狭くそれぞれが離れている事は、栽培化を進める上で大きなハンディキャップになったから、浙江省から新しい種や栽培者を取り込まない限り、栽培種や栽培技術の相対的な遅れは、時間の推移と共に拡大しただろう。

縄文前期に浙江省の稲作の生産性が高まり、それによって河姆渡文化や馬家浜文化(ばかほうぶんか)が生れると、九州と比較した生産性の差は歴然としただろう。九州縄文人はその栽培種と栽培技術を取り込む必要に迫られ、浙江省に出向いて稲作技術の取得に努めたと推測される。これによって九州の稲作の生産性が高まると、九州の栽培種はジャバニカニになり、mt-B5+M7bの稲作技術の母体は浙江省の稲作民になった。

沖縄の読谷(よみたん)村などに遺された曽畑式土器は、九州縄文人のその様な活動の痕跡だった可能性が高い。浙江省に航行する際の最大の難所は、黒潮が太平洋に噴き出すトカラ海峡だから、九州の漁民が沖縄に渡る事が出来た事は、浙江省にも航行できた事を示しているからだ。その様な航行能力を得た九州の漁民が、先進的な稲作を求めて浙江省に渡航する事は、自然な成り行きであり、しなかったと考える方に無理があるだろう。但し沖縄から宮古島に渡ったり帰還したりする際には、天文知識を持っていた関東部族の渡航に、同行する必要はあったかもしれない。それを待つために沖縄に駐在していた証拠が、発掘された曽畑式土器である疑いもある。沖縄は関東部族の拠点湊になっていたから、九州の漁民や縄文人がその湊の片隅で自炊していた痕跡が、曽畑式土器である疑いもあるからだ。

漁労技術と航行技能を関東の漁民に依存していた九州の海洋漁民と、ジャバニカの導入によって浙江省との連携を求めた九州縄文人の帰属意識が、上記の様な事情によって股裂かれ状態になると、九州縄文人は関東部族への帰属意識を弱め、独立部族の様に振舞う様になったからでもある。

「縄文農耕の世界」佐藤洋一郎著(2000年:PHP新書)に、日本の稲作事情を纏めた表が掲載されているので、それに最近の事情を加筆して下表を作成した。考古学者は日本の稲作は西日本から始まったと信じているから、発掘事例も西日本のものしかないが、縄文中期寒冷期になっても、九州より冷涼な岡山が稲作の中心地の様に見えるのは、九州では未熟なジャバニカもどきが栽培されていたのに対し、岡山では耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していたからだと考えられる。縄文中期になると浙江省でジャバニカを栽培していた稲作者は、フィリッピンに移住してしまったから、浙江省から稲作技術を取得する事も出来なくなった。

時期

遺跡

所在地

試料

地形

縄文前期

朝寝鼻貝塚

岡山市

土器包含層のプラントオパール

縄文時代の地形は不明

彦崎貝塚

岡山県灘崎町

多量のプラントオパール

海岸の沖積地

縄文中期

姫笹原

岡山県真庭郡美甘村

土器胎土のプラントオパール

蛇紋岩の露頭が多い山間部

矢部貝塚

岡山県倉敷市矢部

土器胎土のプラントオパール

縄文時代の地形は不明

福田貝塚

岡山県倉敷市福田古城

土器胎土のプラントオパール

縄文時代の地形は不明

長縄手

岡山県備前市西片上

土器包含層のプラントオパール

扇状地

古閑原貝塚

熊本県玉名市岱明町

炭化米

菊池川河口

大矢遺跡

熊本県天草市

土器のモミ殻痕

広瀬川の河口

鹿児島大学構内

鹿児島市

土器包含層のプラントオパール

甲突川の川洲に小川が流れ込む場所

縄文前期の岡山で、熱帯ジャポニカが栽培されていた事を示しているが、縄文前期~中期の関東縄文人は、30%以上がmt-B4だったと想定されるから、日本最大の稲作地は関東だった。九州の稲作は縄文中期に始まった様に見えるが、九州の稲作も縄文前期には始まっていたと想定され、その詳細は経済活動の成熟期を参照。

岡山の蛇紋岩帯について概説すると、兵庫県養父市~鳥取県~岡山県新見に連なる露頭群があり、日本海沿岸に近い地域だから、山陰や中国山地の河川流域にいたアワ栽培者の為に、縄文中期を待たずに、磨製石斧を製作する工房が生まれていたと推測される。しかし岡山県新見は日本海と瀬戸内海の中央に位置し、分水嶺から見れば露頭は岡山側にあるから、関東部族がアワ栽培者の縄張りを尊重しつつ新見を蛇紋岩の採取地にするため、原日本人由来の部族的な縄張りが確定していなかった岡山を拠点にした様に見える。しかし岡山はアワ栽培者が山陰に展開する以前に、関東部族の入植地になっていた可能が高く、むしろアワ栽培者が、関東部族のテリトリーだった岡山を避け、中国山地を西進していたと推測される。

岡山は弥生時代に倭人の国になっていたから、魏志倭人伝に投馬国と記された。備讃瀬戸と呼ばれる対岸の讃岐だけではなく、淡路、大阪湾岸も倭人国だったと想定されるから、これらの海域が関東部族の漁業テリトリーだった事になる。淡路と大阪湾岸も関東部族のテリトリーになったのは、まだ播磨灘が海になっていなかった1万年以上前に、関東では産出量が少なかった蛇紋岩を採取する為に、大阪湾側から淡路島に上陸して蛇紋岩を採取し、播磨灘が生れると、採取地を岡山に移したと考えられる。この時代の漁民は海岸をテリトリーにしたのではなく、漁場になる海域をテリトリーとしたから、海進が進むと先ず大阪湾をテリトリー化して淡路島にアクセスし、播磨灘が生れると、その海域も関東部族が漁労を行う海にしながら、岡山を拠点にしたと考えられる。播磨灘の西に連なる燧灘や伊予灘は他部族のテリトリーだったから、瀬戸内海をそれ以上奥には進まなかった事を、魏志倭人伝が間接的に示している。「九州の不弥国から南(実際には東)に船で十日、投馬国に至る。」と記され、陸路の記載がない事が、九州とは海で経だった瀬戸内である事を示し、途上には倭人国がなかった事を示しているからだ。

 九州縄文人は縄文前期初頭から、暖温帯性の堅果類であるイチイガシを生産し、稲作が可能な低湿地にドングリピットを作って貯蔵していた。イチイガシが納められたドングリピットは、曽畑式土器が発掘された曽畑遺跡でも多数発掘され、コメ、ドングリ、海産物が九州縄文人の主要な食料だった事を示している。

熊本の山間地、西彼杵半島、長崎半島などの一帯に蛇紋岩の露頭が広く分布しているから、磨製石斧を作って船を製作し、稲作地を開墾していたと考えられるが、九州にはシナノキやウルシ樹が栽培できる冷涼な地域はなかったから、彼らの海洋文化は関東や北陸と比較して限定的なものになり、技術だけではなく物資の面でも、関東部族への依存度は高かったと考えられる。

縄文前期温暖期に九州と浙江省で稲作の生産性が高まり、九州の稲作者にとっては平穏な時期になったから、九州の山岳地より傾斜がなだらかな、中国山地の西部に北上して山間の川洲に、新たな稲作地を求めたと想定される。

mt-B5+M7bの主要な稲作地だった銭塘江台地の北は、縄文前期には東シナ海が安徽省まで侵入していたから、ジャバニカの栽培地は現在の揚子江辺りが北限だった。従って縄文前期温暖期に幾ら温暖化しても、浙江省の稲作者は気候が冷涼な地域に北上する機会はなく、縄文前期温暖期に陝西省に北上した湖北省の稲作者とは、イネの耐寒性の観点で大きな違いを生んでいた。湖北省の稲作者は縄文前期温暖期に、陝西省に北上して温帯ジャポニカの耐寒性を高める事が出来たから、縄文中期寒冷期になると湖北省に南下し、この地域の稲作民族であり続ける事ができたが、浙江省の稲作者にはその様な機会がなかった。

縄文前期前半は寒冷期だったが、縄文中期寒冷期ほどには冷涼ではなかったから、浙江省のmt-B5+M7bは稲作を続けて河姆渡文化や馬家浜文化を形成したが、その時期の集落は規模が小さく、発掘された遺物は農作業と身近な生活に関わるものが多かった。縄文前期後半に温暖期になるとイネの生産性が高まったから、発掘された遺物も文化の高まりを示す崧沢文化期になったが、その様な遺物が急増した理由は稲作の増収によるもではなく、海洋交易活動に参加したからだと考えられる。縄文中期寒冷期になっても経済発展を続け、華麗な良渚文化期になったからだ。

湖北省の稲作者は縄文中期寒冷期になると、陝西省で耐寒性を高めた品種を湖北省で栽培すれば良かったが、銭塘江台地の稲作者にはそれができなかったから、ジャバニカの栽培を続ける為にはフィリッピンに南下移住する必要があり、浙江省に留まる為には耐寒性が高い品種を導入する必要があった。その様な品種の選択肢は、関東で栽培化された熱帯ジャポニカしかなかったから、良渚文化を支えたのは熱帯ジャポニカだったと考えざるを得ない。良渚文化は海洋交易で発展したものだったから、関東部族から種籾や稲作技術を入手する事に不都合はなかったからだ。

九州縄文人も縄文中期寒冷期に稲作の減収に見舞われたが、彼らは熱帯ジャポニカを導入せずに、焼畑農耕でアワとジャバニカを栽培していたmt-Dを招いた。上表の縄文中期の九州の稲作事情は、その様な状態を示していると考えられ、アワには関心がなく、稲作に拘泥している日本の考古学事情を示しているとも言える。

縄文中期の状況を確認する為には、日本各地の平均最高気温を上海と比較する必要があり、関東の代表として千葉を選んだ。武蔵野台地にある都市を選ぶ方が一見合理的だが、現在の武蔵野台地には住宅が密集し、都市化によるヒートアイランド現象が顕著だから、当時の気候を復元するために海岸に近い千葉市を選んだ。

冷涼な関東では稲作の生産性が低かったから、縄文中期には多数のmt-B4が岡山に入植したと推測される。このグラフを見ると、関東のmt-B4の苦労がひと際偲ばれるからだが、関東に残った多数のmt-B4の頑張りが、その後の東アジアの歴史を大きく変える事になった。

上海は大陸性の気候だから、春の昇温や秋の降温は海洋性気候の日本より早いが、岡山と類似した気候であると言っても良いだろう。岡山で収穫が得られる熱帯ジャポニカであれば、少し温暖な上海で栽培する事に問題はなかった。縄文中期寒冷期には、縄文前期温暖期より23℃低温化したが、千葉で栽培していた品種を岡山に持ち込めば、そのまま栽培する事が可能だった。しかし関東は北限の栽培地だったから、mt-B4は減収に苦しんだだろう。しかしmt-B4のその際の奮闘が、耐寒性が高い日本式の稲作を生み出し、史上最も寒冷だった古墳寒冷期を乗り切る原動力になった。古墳寒冷期に大陸の稲作は壊滅したのに、西日本だけではなく関東でも、大型古墳が多数作られた事がその事情を示している。

遺伝子分布が示す縄文史と、考古学者の主張に大きな乖離があるのは、考古学的な発掘遺物は発掘が可能な遺品に偏り、日本の人口の半数以上を占めていた海洋漁民や、稲作者と同等な人口規模があったアワ栽培者が、遺品を遺していない故に、考古学者から軽視されて来た事もその理由の一つではあるだろう。考古学者がそれを正しく認識せずに、「発掘できないのだから、その様な人々はいなかったと考える事が科学的な手法だ」と主張し、発掘できる住居址と水田の畔の痕跡だけで、縄文史や弥生史を解釈しようとしている事も、別の意味で大きな原因になっている。

考古学者が縄文史を正しく理解できない根本的な理由として、稲作地も含めた文化の先進地域は、地殻の沈降帯にあった事が挙げられる。

以下に国土地理院が発表した、最近100年間の地殻変動を示す。

新潟平野、関東平野、濃尾平野、大阪湾岸、瀬戸内、筑紫平野は、極めて速い速度で沈降している。100年間で30㎝沈降すれば千年で3mになり、3千年前に終了した縄文時代末期の遺跡面でさえ、現在は9m沈下してその厚さの土砂に覆われている。従ってそれ以前の海岸や沖積平野にあった集落跡は、発掘される見込みは殆どないと言っても過言ではない。岡山で稲作の痕跡が発掘されたのは、地殻の沈降帯である瀬戸内でも偶然沈降が少ない地域だった上に、小さな湖を使う特殊な稲作が行われたからだと考えられる。

岡山を含む瀬戸内や中国山地の、縄文時代の事情が考古学的に明らかにならないのは、この地域が沈降地形だからである事も大きな理由であるが、瀬戸内で発掘事例が多い貝塚は、海岸の砂浜に形成されたのではなく、台地上にあった居住域の近くに形成されたが、温暖な地域では貝塚しか発見できないと考える必要がある。日本人のmt-D比率が極めて高い事は多数のアワ栽培者が、生産性の高い温暖な気候を求めて西日本移住した事を示しているが、それが考古学的に認知できない事も、考古学の別の課題を示している。

考古学者が重視する住居址は竪穴住居を伴うものだが、竪穴住居は耐寒建築なので冷涼な地域の住民しか使わなかった。それでありながら縄文人は竪穴住居を使う事が、日常的な事情であったかの様な見識が罷り通っているのは、竪穴住居しか発掘できない能力限界を、糊塗しているからであるとしか考えられない。その誤解が深まると、石斧工房があったのは新潟県だけだとの見解が生まれ、多数の工房があった縄文時代の産業構造を解釈できない状況に至っている。

多数の大型工房が発掘された新潟県は、高品質の蛇紋岩の産地であると同時に、耐寒建築である竪穴住居が必要な冷涼な地域として、考古学的に発見されやすい竪穴住居を多用していた事が、工房が発掘された大きな理由だと考えられる。しかし常識的に考えれば、石器時代の工房に相応しい環境は、屋根だけの明るいオープンな空間だった筈だから、住居以上に発掘され難い筈だが、新潟で工房が多数発掘された事は、異様な事態であると考える必要がある。通年稼働する必要がある程に繁忙を極める中で、勤勉な北陸縄文人が寒い冬も屋内で作業を続けていたから、その遺構が発掘されていると考える必要があるだろう。つまり何重もの以上時代が重なった事により、北陸の磨製石斧の工房は発掘される状態を遺したが、一般的には縄文時代の工房は発掘されないものだから、発掘されない事を以てなかった事にするのは、考古学者の思考的な欠陥であると判定せざるを得ない。岡山では磨製石斧の工房は発掘されていないが、それは工房がなかったからではなく、発掘される状態を遺していないからだと考える必要があるからだ。

この様な誤認の根底に、縄文時代の瀬戸内は人口が希薄だったと見做している状況があるが、温暖な西日本では竪穴住居は使わなかったから、それが考古学的な発掘を困難にし、発掘至上主義者である考古学者の、視界を狭くしているからであると考えざるを得ない。

否定的な事について説明したが、上記に関連した肯定的な話題も提起したい。考古学者は、「大陸は稲作国家に向かって進化していたが、縄文人はドングリなどの自然物を食べる、原始的な生活をしていた。」という誤った幻想を振りまいて平然としているから、事実関係を明らかにして置く必要がある。縄文時代のイネの生産性は焼畑農耕で生産するアワより劣ったから、関東では堅果類の重要性が縄文中期まで継続し、救荒食としては弥生時代まで継続していたと想定されるが、その状態を文化の未熟性と捉える事は勘違いである事を指摘し、事実認識を正す事がこのHPの一つの重要な課題でもある。堅果類の栽培者はドングリの毒性に苦しみ、海産物をできるだけ多く食べる為に、漁民の漁労活動や交易活動を熱心に支援し、最強の海洋民族だった関東部族を陰で支えたから、それが海洋文化の発展に繋がったが、アワの栽培者は穀物の生産性が高くなるとその様な交易活動に参加しなくなり、文明の進化から取り残される状況を生んだからだ。

華南は縄文時代から稲作地だったから、稲作に成功した稲作民はコメを食べていたが、縄文人はドングリを食べていたと決め付けるのは、王朝史観に基づく縄文人蔑視主義者の、根拠のないイデオロギーに過ぎない。河姆渡遺跡群でも貯蔵されたドングリが発掘されているだけではなく、そのドングリは沢山実を付けるがアク抜きが必要なドングリだからだ。同時代の九州縄文人は、アク抜きの必要がないイチイガシを食べていたから、九州縄文人の方が豊かな食生活を享受していた事を示している。つまり縄文前期の九州縄文人より、河姆渡遺跡の稲作民の方がより多くのドングリを食べていただけではなく、そのドングリは九州縄文人が食べていたものより、生産性は高いがアクが強いものだった。

稲作技術に限らず全般的な分野の一般的な現象として、石器時代の交換経済は海洋民族が発達させたから、その結果として海洋民族の食生活には余裕が生れていた。海洋民族が交換経済を活性化させたのは、より多くの獣骨を獲得して海産物を多量に捕獲し、食生活を向上させる為だったから、海洋民族には交易が不可欠だった。関東の縄文人はその様な必要性に最も迫られていたから、経済を発展させて高度化する事により、豊かな食生活を可能にしていたとも言える。その様な社会では、稲作技術の進化も経済活動の一部になり、コメを含む交換品の価値は需給状況によって決まったから、縄文中期にmt-B4が栽培していた熱帯ジャポニカの生産性が低下しても、実質的に彼女達が受け取る海産物の量は大きくは変わらなかった。しかし栽培環境が厳しくなると生産性と技能の優劣が直結したから、稲作者を含むそれぞれの交換品の生産者は、技能を高める必要性を日頃から実感していた。従って関東のmt-B4による熱帯ジャポニカの耐寒性向上は、必然的な結果として成果を生み出し続けていた。

大陸の稲作者は、海産物が豊富に得られる縄文人より厳しい食生活を強いられていた上に、イネの生産性は気候に敏感だったから、寒冷期になると大きく南に後退せざるを得なかった。

その観点から見ると、縄文中期寒冷期の浙江省が縄文前期温暖期から変わらない、不動の北限稲作地になっていた事には極めて大きな違和感がある。更に不可解なのは、温暖期だった縄文前期の崧沢文化より、格段に先進的な良渚文化が縄文中期寒冷期に生まれた事には、更に大きな違和感がある。湖北省で生まれた温帯ジャポニカの稲作地は、縄文前期には陝西省の仰韶文化圏まで北上したが、縄文中期寒冷期になると陝西省から撤退して湖北省に戻ったから、湖北省の稲作者である事を継続する事が出来た。更に言えばこの稲作者は、縄文後期温暖期に河南省まで北上したが、縄文晩期寒冷期には浙江省以南に後退した。それ以降もこの稲作者は温暖期の北進と寒冷期の南下を継続したが、浙江省の稲作者だけが縄文中期寒冷期になっても、ジャバ二カの栽培地であり続けた事は常識的にはあり得ない。

寒冷地に対応できる関東で栽培化された熱帯ジャポニカが、浙江省に移入されればこの状態を維持できたが、それ以外には、良渚文化期の浙江省が繁栄した理由は考えられない。上掲の気候グラフがより具体的に示している事は、縄文前期の関東で熱帯ジャポニカの栽培化に成功していれば、それを岡山の稲作者が採用する事により、岡山の稲作生産性は維持された。それを無修正で浙江省に移入すれば、浙江省では岡山と同等の生産性を維持する事ができたからだ。後述する様に、良渚文化は関東部族と塩を交易する事によって生まれた文化だったから、その様な事態を生み出す蓋然性もあった。

ジャバニカと熱帯ジャポニカは同じ原生種から生まれ、異なった地域で栽培化しただけの別品種だから、浙江省に熱帯ジャポニカが導入された際に、敢えて関東のmt-B4が入植する必要はなかったかもしれない。但しこの時期の浙江省に、岡山からmt-B4が渡航したとしても不思議ではないし、良渚文化期に観が施設を整えたのは、岡山流の水耕栽培によって生産性を高めるという、明確な目的意識があったからだとすると、この時期に突然大規模な灌漑設備が整備された理由も明らかになる。またその様な工事の必要性が権力の集中を促し、墓に精緻な玉器を納める様な、明確な身分制に進化した事にも繋がるだろう。

mt-D+M7aが焼畑農耕技術を持って、多数フィリッピンに渡航した事を、現代フィリッピン人のミトコンドリア遺伝子が示しているが、稲作の方が気候の冷涼化に敏感だから、関東のmt-B4が浙江省に渡航した経緯が先にあり、それに刺激された北陸部族がフィリッピンに渡航するmt-D+M7aを募り、組織的な入植に繋がった可能性が高い。

縄文中期寒冷期に岡山のmt-B4が浙江省に渡航したとすれば、それは岡山では稲作が順調に行われていたが、岡山より温暖な浙江省で稲作が不振になった状況下の、成功が保証された移住だったから、多数のmt-B4が参加しても不思議ではない事情があったが、中国山地のmt-D+M7aが渡航したフィリッピンは、焼畑農耕が行われた実績がない地域で、気候も中国山地とは酷く異なっていたから、移住には岡山のmt-B5より高いリスクがあった。また良渚文化の遺跡に灌漑工事の痕跡がある事は、岡山の稲作は水辺の稲作だった事と関連がある疑いもあり、浙江省の受け入れ者には、技術移転を受け入れる積極性があった。しかしフィリッピンに移住して稲作地の開墾に苦労していた浙江省起源の稲作者が、未知の農耕者だったmt-D+M7aを積極的に受け入れるには、それに至る特殊な事情があったと考えざるを得ない。その特殊な事情は岡山のmt-B4の成功例だけでは、不十分であるとも考えざるを得ない。

九州縄文人は浙江省の稲作技術を母体としていたから、この舞台に登場する資格はなかった。彼らは縄文中期寒冷期に稲作の生産性が劣化すると、中国山地のアワ栽培者を九州に招いた事がその事情を示唆している。この様に考える最大の根拠は、北九州弥生人に多数のmt-Dが含まれている事になる。そのmt-Dには漢族のmt-D+M8aも含まれていたが、それでは説明できない多数のmt-Dが含まれているだけではなく、漢族女性が稲作者になる事は容易ではなかった筈なのに、北九州弥生人の半数近くがmt-Dmt-D+M8aだった事は、九州縄文人の遺伝子の主体が、mt-Dだったからだと考えざるを得ないからだ。残りの半分は関東縄文人タイプの遺伝子構成だから、関東部族が稲作を行う為に北九州に入植した事を示し、後に北九州が倭人地域になった事と整合する。

北九州弥生人のmt-D比率は、現代日本人より多い。現代日本人のmt-Dの半分は、古墳時代に帰化した漢族や韓族の遺伝子であると考えられるから、弥生時代の北九州のmt-D比率は異常高かった事は、縄文時代末期の九州縄文人の遺伝子は、mt-Dを主体とする状態になっていたと考えざるを得ない根拠を補強する。従って縄文前期温暖期に中国山地のアワ栽培者だったmt-Dが、縄文中期寒冷期に九州縄文人に浸潤したと考えざるを得ない。

長崎や熊本は蛇紋岩が豊富に産出する地域だから、縄文中期にmt-Dが栽培地を拡大した地域が、蛇紋岩の産地に偏向していた事とも合致する。縄文後期になっても九州では、ドングリピットには相変わらずイチイガシが収められていた事が、九州縄文人の遺伝子構成は、mt-Dが浸潤する事によってmt-D+M7bになったと想定され、北九州弥生人にmt-M7aが含まれていない事と合致する。台湾に上陸したmt-Dが、焼畑農耕の相棒をmt-M7aからmt-M7bに変えたが、それが同時代の九州でも起こったと考える事に、違和感はない。フィリッピンではmt-M7aが活躍したから、気候が温暖な九州でmt-M7aの技能が通用しなかったわけではなく、農耕の生産性に執念を燃やしていたmt-Dが、温暖な九州では相棒を変える非情な判断をした疑いがあるが、部族制を認知していた北陸系のmt-M7aには、関東系の九州縄文人に浸潤する決断ができなかった可能性もあり、この判断は難しい。いずれにしても上記の仮説と遺伝子分布は整合する。

九州縄文人にも、関東から熱帯ジャポニカを導入する選択肢はあったが、それをせずにアワ栽培者だったmt-Dを導入したのは、九州のmt-B5の祖先がこの2千年前に、関東から逃れる様に九州に移住させられた事に対する怨念が、この時代にも継続していたからである疑いがある。mt-B5が熱帯ジャポニカを導入すれば、九州で稲作を継続する事は出来た筈だが、アワ栽培を導入した結果mt-Dに完全に浸潤され、九州のmt-B5は縄文中期寒冷期に絶えてしまった疑いがある。いずれにしても九州の漁民はこの変化により、益々関東部族との一体感を喪失し、交易的な活動も沈滞させていっただろう。

良著文化人は湖北省の稲作を導入した可能性もあるとして、熱帯ジャポニカの導入を疑う人がいるかもしれないが、良渚文化期に堤防を形成し、稲作地を造成した痕跡がある事は、湖北省的な稲作ではなかった事を示している。縄文中期の石器は、揚子江の中流域と下流域で異なっていた事も、mt-Fが浙江省に浸潤しなかった証拠になる。良渚文化は洪水によって滅んだと考えられている事も、湖北省型の稲作が行われなかった証拠になる。湖北省のmt-Fは洪水が頻発する地域で、それを逆手にとって広大な稲作地を確保する農法を採用し、高い生産性を得ていたと考えられるからだ。従って銭塘江台地の稲作には不向きな稲作者だった上に、mt-Fがその様な稲作ができない他民族に浸潤する必然性はなかった。

その様なmt-Fが縄文中期に関東に渡来した事を、関東沖縄人の遺伝子分布が示している。関東に渡来したmt-Fが定着したのは、湖北省に類似した地理環境があった鬼怒川、荒川、利根川などが、沖積平野を形成していた地域だったと想定される。環状集落を形成して集団的な秩序を維持していた縄文人は、組織的な作業に慣れた人達だったから、mt-Fが渡航の決断を下す際の後押しになっただろう。ちなみに蛇紋岩が産出しない浙江省の堅果類の栽培は、依然としてmt-M7bが樹林を管理する状態だった可能性が高く、河姆渡遺跡に生産性は高いが毒性も強い堅果類が貯蔵されていた事が、その事情を示唆している。

良渚文化については3章で説明するが、この文化は台湾の海洋民族、関東部族、北陸部族の交易活動によって支えられ、この文化を担った稲作民のコメの需給は、塩の代価として湖北省のコメを受け取る事によって不足分を補っていた。しかし関東には豊富にあった海産物がなかったから、食生活は関東縄文人より窮屈だった可能性が高く、稲作者だった庶民は主食の多くを堅果類に頼る必要があったと想定される。

その理由は、この地域の稲作者は縄文後期に四川の成都に移住し、三星堆などの文化を遺したが、四川の山中では塩は生産できなかったから、コメの不足をドングリに頼る必要があったからだ。それを承知で移住した事は、浙江省に残っていた縄文中期の稲作民は、ドングリを併用していたと考えざるを得ない。成都の気候は関東と類似する冷涼なものだから、縄文中期に彼らが栽培していたのも熱帯ジャポニカだったと考えられ、それを持って成都に移住した事を示唆している。しかし熱帯ジャポニカには、コメだけで必要なカロリーを賄える生産性はなかったから、この観点でもドングリを多量に食べていた可能性が高い。縄文後期の成都の人々は、生産性が高い温帯ジャポニカではなく、生産性に難はあるが耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していたと考える証拠は、他にもあるので経済活動の成熟期の項で検証する。

良渚文化は縄文中期後半に揚子江の洪水によって滅びるが、良渚文化を担った人々の逃避先は明らかにされていない。しかし常識的に考えれば、海洋民族が支えていた良渚文化人の逃散先は、フィリッピン以外には考えられない。広東以南にはイネの原生種が繁茂していたから、縄文中期になっても稲作民族が南下した痕跡はないが、氷期にも大陸と切り離されていたフィリッピンには、イネの原生種と交配できるイネ科植物はなく、栽培化された稲を持ち込んでも野生化しなかったからだ。丘陵地が多い地形が、稲作の高い生産性を期待させたであろう事も、その理由として挙げられる。

気候が温暖なフィリッピンへの移住は、浙江省に洪水が及ぶ遥か以前の、縄文前期温暖期の末期に始まっていたとしても不思議ではないが、縄文中期寒冷期になると、移住者が激増したと想定される。台湾起源の海洋民族が活躍していた時代だから、その流れが生まれる事に必然性があり、この時期に焼畑農耕者のmt-D+M7aが、女性だけでフィリッピンに渡航した事は決定的な証拠になる。

mt-D+M7aのフリッピンへの渡航には北陸部族が深く関わっていたから、フィリッピンが越の拠点になると北陸も「越」と呼ばれる様になったと考えられ、その経緯を遡るとmt-D+M7aのフィリッピンへの渡航は、縄文中期だった可能性を高める。

フィリッピンに移住したmt-B5+M7bは、豊富に産出する蛇紋岩から磨製石斧を作り、それを駆使して亜熱帯性の密林に覆われた島を開墾したが、浙江省とは異なる樹林の中で開拓に行き詰り、焼畑農耕を導入する事によってそれを克服したと想定すると、その痕跡がフリッピン人に多いmt-D+M7aとして遺され、D4/D5比率が縄文人の比に極めて近い事が、多数のmt-D+M7aが中国山地からフリッピンに移住した事に明瞭に繋がるからだ。つまりmt-D+M7aの移住は石器時代だった事になり、東アジアの青銅器時代は縄文後期から始まるから、mt-D+M7aの移住は縄文中期だった可能性が高まる。

多数のmt-D+M7aが移住した事は、彼女達の渡航が組織的に行われた事を示唆し、フィリッピンの海洋民族がmt-D+M7aを組織的に移住させた事も示唆している様に見えるが、その海洋民族が縄文後期にインドネシアに移住した事は、この解釈では極めて不自然な流れを示している事になる。しかし縄文後期に海洋民族がインドネシアに移住したから、フィリッピンのタガログ語が方言化したと考える必要があり、それが起こった事は、mt-D+M7aが差配していたフィリピンの海洋的な便宜は、北陸部族が提供しなければならなくなった事を示唆している。従ってそれが北陸とフィリッピン越が「越同盟」を形成する機縁になったと考えると、それ以降の海洋民族の歴史が明快になるが、その背景には複雑事情があった事も示唆している。

経済活動の成熟期の項で詳しく検証するが、浙江省が縄文中期後半に洪水に襲われても、製塩業者と一部の稲作者は残っていた。稲作者は縄文後期に四川の成都に移住したが、製塩業者は縄文後期に渤海沿岸に移住し、禹を始祖とする夏王朝を立ち上げたが、彼らは越とは名乗らなかった。この製塩業者の一部は、陝西や山西に北上して後世の周を形成したが、彼らも越とは名乗らなかった。銭塘江の河口域にいて洪水の被害には遭わず、製塩業者にコメや野菜を提供していた稲作民は、製塩業者が渤海沿岸に移住してしまうと四川省の成都に移住したが、彼らは後世の蜀を形成して越は名乗らなかった。従って良渚文化を形成した人々には、自分達が越であるという認識はなく、越の名称はフィリッピン越と北陸の越の「越同盟」から生まれた名称だった。これは民族名ではなく、経済同盟の名称だったと考えられる。

日本人が「越」と聞くと、捏造書である史記が描いている越を連想するが、実際の「越」は全く異なる存在だった。史記があの様な越を描いたのは、アワ栽培民族に実際の越を示しても、理解できなかったからだとも考えられるが、史記は歴史を捏造しているから、史実として読むと歴史観が混乱する。中華人が記した後世の史書も、史記と同様に権力闘争史しか描写していない事が、彼らの経済に対する極めて低い認識度を示し、中華人には越の存在を正確に認識する能力がなかった事を示している。魏志倭人伝の項でも指摘したが、アワ栽培民族には交易の本質が理解できなかったから、高句麗がなぜ経済的に繁栄していたのかについて、魏志東夷伝にさえも記述がないし、その後の史書にも記述がない。

この状況を細かく分析するには、mt-D+M7aを最初に受け入れたのは、台湾から移住した堅果類の栽培者だったのか、浙江省から移住した稲作民族だったのか検証する必要がある。山陰のmt-D+M7aが最初に浸潤したのは、台湾から移住したmt-B4+M7cだった可能性が高いからだ。

台湾からフィリッピンに移住したmt-B4+M7cは、堅果類を栽培しながらイネの原生種を栽培する状況だったから、余りにも低いイネの生産性を改善する為には、浙江省のmt-B5か、同じ海洋民族だった北陸部族からmt-D+M7aを導入し、稲作の生産性を高める必要があった。北陸部族は縄文前期には台湾に到達していたから、台湾の磨製石斧の加工能力が格段に高まり、崧沢文化圏から日本では生産しなかった、有孔磨製石斧が出土すると考えられる。また縄文時代にアメリカ大陸にヒスイ文化が伝わったと考えられるから、海洋民族と北陸部族のその様な関係から、フィリッピンの海洋民族がmt-B5+M7aを招聘する事は、自然な行為だった。

稲作者になっていたmt-B5+M7bY-Oペアは、海洋民族との共生の歴史が浅かったから、フリッピンに移住した直後にその稲作者の為に、フィリッピンの海洋民族が突然mt-D+M7aを、遠い日本から多数導入する事は極めて不自然な行為だった。しかしmt-D+M7aの稲作の生産性が、浙江省から移住したmt-B5+M7bより高い事を、稲作民族がその目で見て認識すれば、mt-B5+M7bが徐々に浸潤する事により、最終的にフリッピンの稲作がmt-D+M7aの焼畑農耕に統一され、mt-D+M7aがフィリッピンの多数派になった事に違和感はない。従ってmt-D+M7aが多数渡航したのは、Y-Omt-B5+M7bペアがmt-D+M7aの農耕の生産性の高さを認知した後で、稲作者のY-Omt-D+M7aの浸潤を希望したからだと考えられる。mt-D+M7aの導入によってY-Oも稲作に参加できる様になり、Y-Oの社会的な地位が上昇したから、若いY-Oが新たなmt-D+M7aの渡来を、首を長くしながら待つ状況が生れた事が、mt-D+M7aの大量渡航に結び付いたのではなかろうか。

この頃のフィリッピンの海洋民族は、インドネシアや南太平洋の島々にも活動範囲を広げ、遠距離の海洋航行に忙しかったから、航行中の食料は漁労活動によって得る状態が一般的になり、拠点にしていたフィリッピンに、多数の栽培者がいる必要性を認識していなかったと考えられる。台湾起源の海洋民族は、インドネシアや南太平洋の島々にも移住していたから、それらの島にも栽培者になったmt-B4が移住すると、フィリッピンに残っていた栽培者のmt-B4は、あまり多くはなかったと考えられる。従ってフィリッピンの海洋民族が求めたmt-D+M7aは、それらの少数の栽培者の為の極めて少数の女性だったが、浙江省起源の稲作民族が求めた多数のmt-D+M7aは、北陸部族が送り込んだ女性達であって、海洋民族が求めた訳ではなかったとすると、海洋民族がインドネシアに去った理由が明らかになるし、その後のY-Omt-D+M7aペアの海洋に関する便宜を、北陸部族が図らなければならなくなった事も説明できるし、それが後世の越同盟の結成に繋がったとすると、上記のシナリオと整合する。

つまりフィリッピンの海洋民族がmt-D+M7aを招聘したのであれば、mt-D+M7aが浸潤した稲作民族の海洋に関する便宜は、台湾起源の海洋民が負わなければならなかったが、縄文後期にフィリッピンの海洋民族がそれを放棄し、インドネシアに移住してしまった不自然な行為は、フィリッピンのmt-D+M7aは台湾起源の海洋民族の招きで移住したのではなく、北陸部族が送り込んだのであれば全ての話が整合する。北陸部族がmt-D+M7aをフィリッピンに送り込んだのは、浙江省からフィリッピンに移住した稲作者の希望であって、海洋民族はその行為に関与していなかったか、好意的に見ていなかった事を示唆している。

この話を詰める為に、別の角度からこの事情を検証する。現在のフィリッピン人の遺伝子分布は、mt-D+M7a33%、栽培系を主体とした台湾起源の海洋民族と、浙江省の稲作者の合計であるmt-B+M7bc35%で、これらが縄文早期~中期にフィリッピンに渡来した女性達だったと想定される。その他には古墳寒冷期に入植したmt-F12.5%を占め、これでフィリッピン人の遺伝子の8割になるから、大勢は彼女達の帰趨によって決まったと考えても良いだろう。他にはmt-M9mt-Yなどがあり、mt-M9は堅果類の栽培者に含まれていた遺伝子だから、mt-B+M7bcと共フィリッピンに渡ったと考えられるが、ツングース系譜のmt-Yもいる事に驚かされる。

縄文時代のツングースが、渤海と黄海を経て九州に渡来していた事は、ソウル市郊外の遺跡から発掘された櫛目紋土器が示しているが、彼らがフィリッピンにも渡来していた事を、このmt-Yが示している。彼らは夫婦で移動し、漁労ができればどこにでも移住できた事は、mt-B4海洋民族と同様だったから、フィリッピンに渡る冒険者もいた事に、驚くべきではないかもしれない。ツングースは必ずしも、シベリア限定の水上交易者ではなかった事を示しているとも言える。

上記の主要な遺伝子が、フィリッピンに渡来した時期を確定する事が出来れば、mt-D+M7aが渡来した時期も一義的に決められる。その中で鍵になるのはmt-B+M7bcの中の、mt-B5+M7bの渡来時期になる。mt-B4+M7cは海洋民族が生れた縄文早期から、徐々にフィリッピンに移住した事は確定事実と考えて良いからだ。

浙江省の稲作者が多量にフィリッピンに渡航した時期については、縄文中期後半の銭塘江台地は洪水によって無人に近い状態になったから、この稲作民族のフリッピン移住は、縄文中期後半が下限になる。寒冷期なった縄文中期初頭が、最も可能性が高い時期だが、洪水は気候循環とは関係なく発生したから、洪水が発生し始めた縄文前期末から移住が始まり、寒冷期なった中期初頭には洪水に関係なく、多数の移住者が発生したと考えられる。

台湾が稲作民族の移住の流れに取り残されたのは、mt-B4が持ち込んだイネの原生種が繁茂し、稲作者の渡航先としては相応しくないと見做されたからだと考えられるが、それは移住してみて分かった事であって、移住する前から分かっていたとは考えにくい。フリッピンへの渡航を目指したmt-Dの極一部が、航海の途上で荒海に揉まれて台湾から先への航行を拒否し、台湾に住み着く事によってmt-D+M7bの組み合わせが生れ、新しい焼畑農耕を開発したと想定されるが、その為には事前に、mt-B5+M7bが台湾に移住していなければならなかった。ちなみにmt-Dが航行を拒否し、途中の民族に浸潤した事例は他にも複数あり、縄文早期には遼河台地から福井に向かいながら、途上の遼東半島にいた韓族に浸潤したmt-D4がいたし、縄文後期末に華北から関東に向かいながら、北九州に定着したmt-D+M8aもいた。

台湾にmt-D+M7bの組み合わせが生れ、新しい焼畑農耕を開発する事ができたのは、台湾に蛇紋岩が豊富にあったからで、mt-D+M7bが台湾で人口を増やしたから、mt-D4/D5の特殊な比が生れ、金属器時代になった縄文後期に彼女達が広東に移住したから、広東にそのmt-D4/D5の特殊な比が生れたと考えられるから、mt-D+M7bが台湾で新しい焼畑農耕を開発し、人口を増やす為に必要な時間を考慮すると、mt-Dが台湾に上陸したのは、縄文中期初頭だった可能性が高い。言い換えるとmt-D+M7aが山陰の湊からフィリッピンに渡航したのは、縄文中期初頭だった可能性が高い。

以上を総合的に判断すると、フィリッピンを根拠地にした海洋民族は、日本の海洋民族の様に内陸に栽培者を抱える事を企図し、台湾から移住させた堅果類の栽培者に加え、浙江省の稲作民族を招いたが、縄文中期寒冷期になると、台湾から移住した堅果類の栽培者の栽培技術を向上させる為に、北陸部族を介して山陰から焼畑農耕者を招いたと考えられる。縄文中期寒冷期が迫ると、中国山地のアワもイネも生産性が急落していたから、北陸部族のmt-D+M7aには募集に応募する者がいた事になる。

フィリッピンの海洋民族が台湾から移住させた堅果類の栽培者の数は、あまり多くはなかったと想定されるから、海洋民族が招いたmt-D+M7aの数もあまり多くはなかった筈だが、その栽培技術がフィリッピンで大ヒットした為に、浙江省の稲作民族もmt-D+M7aの渡来を求める様になり、mt-D+M7aの大量入植がはじまったが、海洋民族には浙江省の稲作民族が、焼畑農耕を採用して稲作の生産性を高める事には関心がなく、それに関する課題を北陸部族に丸投げしたと想定される。その理由は渡来したmt-Dには海洋民族の交易活動に関心がなく、海洋活動に協力する姿勢さえも全く示ない事から、海洋民族になっていたmt-B4mt-Dとの共生を見限ったからだと考えられる。

海洋民族になったmt-B4は交易活動に極めて積極的な女性だったが、mt-Dはそれとは真逆の性格だったから、海洋漁民になっていたmt-B4は直ぐにそれを見抜き、渡来したmt-Yから華北のアワ栽培者になったmt-Dの芳しくない業績も色々聞き取ると、フィリッピンの海洋民族の総意として、mt-D+M7aを更に招聘する事に消極的になったからだと想定される。この項を読み進めている読者には、この想定は極めてあり得る事情だから、敢えて証明する必要はないだろう。

しかし浙江省から渡来した稲作民族はmt-D+M7aの招聘に積極的だったから、北陸部族がmt-D+M7aの渡来を支援する事によって大量渡航が実現すると、フィリッピンは海洋民族にとって住みにくい島になったから、縄文後期に拠点をインドネシアに移してしまった事により、インドネシアはmt-Dが殆どいない島になったと想定される。この様な事情があれば、南太平洋の島々にも稲作が拡散しなかっただろうから、南太平洋の島々に稲作がなかった理由も明らかになる。南太平洋の島々にはイネの原生種はなかったから、稲作を導入する気になれば難しい事ではなかったが、敢えて南米産のサツマイモを導入して穀物不足を凌いだのは、背景にその様な事情があったとすれば納得性が高まる。

上記は縄文前期の西日本に多数の焼畑農耕者がいて、彼女達はアワと共にジャバニカも栽培していた事と、熱帯ジャポニカは栽培していなかった事が前提になる。耐寒性が高い熱帯ジャポニカを栽培していたのであれば、敢えてフィリッピンに稲作を求める必要はなかったが、耐寒性がないジャバニカを栽培していたから、縄文中期寒冷期に生産性が極度に劣化し、温暖なフィリッピンに稲作地を求める必要が生れたからだ。この時期には浙江省の稲作者もフリッピンに移住したから、ジャバニカの栽培適地はフィリッピンであるという情報が拡散し、ジャバニカの栽培者はフィリッピンを目指す流れが生れていたと想定され、この流れに乗ったmt-D+M7aはジャバニカの栽培者だったと考えて良いだろう。

中国山地のmt-D+M7aは縄文地域寒冷期の気候の冷涼化に耐えられず、温暖な地域への移住を熱望したから、大勢は九州と類似した気候地域である阿波(徳島)に移住し、アワの生産性を復活すると共にジャバニカも栽培したが、九州縄文人に浸潤した女性達もいたし、ジャバニカの栽培を重視してフィリッピンに渡航した女性達もいた事になる。

縄文前期の中国地方では、ジャバニカよりアワの方が生産性は高かったと推測されるが、それでもジャバニカの栽培を重視してフィリッピンに渡航した女性達が多数いた事は、アワの栽培者もコメの方が価値の高い穀物であると認識していた事になる。農業者が穀物を自家消費するだけであれば、この価値観は必ずしも重要ではなかったが、穀物が商品として流通する場合には、決定的な違いを生み出す。既に指摘した様に、江戸時代の農民の中にはアワや大麦などの雑穀を自家消費しながら、コメを作って年貢を納め、余った分を換金して必要な物品の購入に充てる者が多数いた。この事情は縄文時代も同様で、それが人々の価値観を規定していた。つまり穀物の最大の需要者だった漁民は、部族に関わらずアワよりコメを重視していた事になり、コメには食味以上に重要な利点があったからだと想定される。

焼畑農耕によるアワ栽培の中心地は、縄文前期までは福井や中国山地だったが、縄文中期寒冷期にそれらの地域が空洞化し、アワ栽培の中核地は阿波に移行した事を古事記が示唆している。「粟国(阿波国)を大宜都比売と呼ぶ」と記し、阿波がアワの根源的な栽培地であると、古事記の著者は見做していた事を示しているからだ。縄文中期初頭の九州中南部には、未だ栽培可能な沖積平野は殆どなかったが、吉野川流域には沖積平野が形成され始めていたと想定され、古事記の記述と状況が合致している。

日本の考古学者は、縄文人代の西日本の人口は東日本より大幅に少なかったと推定しているから、縄文前期の西日本に多数のアワ栽培者がいた事については、丁寧な検証が必要になる。その根拠が好い加減なものである事は、彼らの矛盾した論拠から明らかだが、発掘至上主義者である考古学者が、発掘実績を根拠にこの推定を見直さないのは、彼らには竪穴式住居しか発掘できない事情があり、それを考古学的な限界であると認めたくないからだ。

縄文人の住居には平地式と呼ばれる、平らな地面に棒を挿して柱にしただけのものもあり、温暖な地域ではこれが多用された筈だが、その痕跡を発掘する事は困難だから、それが多用された西日本では集落跡は殆ど発掘されていない。竪穴式の住居は耐寒建築だから、東日本の冷涼な山間地や東北では多用されたが、温暖な西日本では余り使われなかった。更に言えば、考古学者は焼畑農耕者の痕跡は全く発掘できていない。現在の東南アジアには焼畑農耕が残っているが、彼らは農具としては木の棒しか使わないから、石器さえも遺物として遺さない事が、焼畑農耕者の遺跡の発掘を困難にしている事は間違いない。しかしそれだからと言って、明らかな矛盾を抱える説明を強行し、焼畑農耕者は殆どいなかったと強弁する事には、論理性の欠如を感じざるを得ない。

考古学者の矛盾した説明では、竪穴住居の数が人口規模を示すと決め付け、「縄文中期の東日本で竪穴住居が増加し、縄文後期にそれが減少したのは、縄文中期は温暖だったから人口が増えたが、縄文後期に寒冷化したから人口が減った。」と説明している。この解釈には無理があるから、それを糊塗するために次の様な矛盾した説明をしている。

「西日本で縄文時代の竪穴住居跡の発見例が乏しいのは、西日本が人口稀薄地だったからで、その原因は温暖過ぎて堅果類の生産性が低い、亜熱帯性の照葉樹林に覆われていたからだ。冷涼な東日本は堅果類の生産性が高い、温帯性落葉樹林に覆われていたから、縄文時代の人口は東日本に集中していた。温暖な縄文中期に東日本の人口が増えたが、縄文後期に寒冷化したので人口が減少した。」

温暖化して人口が増えたのであれば、西日本の人口は更に多かった筈であり、寒冷化して植生の生産性が劣化したのであれば、温暖な西日本に移住すれば良いのであって、縄文人にそれが出来なかった筈はない。この様な致命的な矛盾を抱えている通説は、誤った判断であると断定しても良いだろう。

照葉樹林の生産性が低い事は事実だが、三内丸山遺跡が示している様に、縄文人はクリなどの堅果類を栽培していたのだから、西日本でも照葉樹林を伐採すれば、コナラやクヌギが生える里山を容易に形成できただろう。間違った認識を無理に説明しようとして、却って大矛盾を生んでしまう典型的な事例であると言える。比較的冷涼な東日本や中部山岳地帯で、寒冷化した縄文中期に竪穴式住居が増えた事は、竪穴住居は耐寒住宅だった事を示し、温暖だった西日本では考古学的に発見が困難な、平地式住居を使っていたと考えるべきだろう。

上記の矛盾した説明が生れた理由として、「西日本には戸数が少ない散村しかなく、規模が大きい共同墓地はあるが、住居址を伴っていないから集落と見做す事ができないからだ。」と指摘する人もいるが、それがアワ栽培者の典型的な集落形態だった可能性が高い。アワ栽培者も堅果類の栽培者の様に、漁民集落の近くに集住して海産物を多量に入手したい希望はあっただろうが、休耕林を含む焼畑農耕の面積当たりの生産性は、堅果類の樹林よりかなり低かったから、東日本の堅果類の栽培者の様に、環状集落に集住する事はできなかったと考えられるからだ。焼畑農耕でアワやコメを栽培していた地域では、ドングリの商品価値は失われたから、焼畑農耕者は広い栽培地を確保する必要が生れていただろう。それ故に漁民集落から離れた場所で、散村を形成しなければならなくなる事は、経済合理性の観点では必然的な結果だった。

漁民の主食は海産物で、ドングリや穀類の消費量は多くなかったから、アワやコメが登場すると漁民は、味覚に劣る上に毒性があるドングリを食べなくなり、ドングリの商品価値は失われたが、アワやコメの栽培者は堅果類も食べていたと想定される。江戸時代の稲作農民がコメで租税を納めながら、自身は雑穀を食べていた事と基本的には同じ状態だから、縄文時代でもそれが一般的な栽培者の状態だったと考えられる。その様な状態になると堅果類の栽培者の増産意欲は失われたが、高い交換価値があったアワやコメの増産意欲が高まる事は、一般定期経済原則になる。

アワやコメも増産するに連れて単位量当たりの価値は低下したから、焼畑農耕者は益々漁村から離れた場所に、広い農地を獲得する必要が生れただろう。その様な焼畑農耕者は海産物の入手が限定的になったが、広い栽培地を獲得してアワの生産量が増えれば、毒性を除去し切れないドングリの消費を、アワの消費によって抑える事ができたから、mt-Dの思想を継承していたアワ栽培者は、生産性を高める努力を重ねながら広い栽培地を求め、広域的に拡散していたと想定される。石器時代の栽培者には漁民から完全に独立できる生産性はなかったが、鮮魚を諦めて干物で我慢すれば、山村での生活も可能だった。それがmt-Dの理想の生活だった疑いもあるが、漁民にとっては好ましい交易相手ではないから、両者の生活圏は徐々に分離していった疑いが濃い。

東日本でも多数の縄文人が弓矢産業に従事し、山村で生活する事を強いられていたから、鮮魚を求めて海岸の近くで暮らす事は縄文前期以降の縄文人には、一般的なライフスタイルではなくなっていたかもしれない。その様な縄文人の為には干物文化が発達する必要があったが、その遺物が発掘される事もないだろう。漢書地理志に「會稽の海外に東鯷人有り、分かれて二十餘國を為す。時を以って來りて獻見すると云う」と記され、後漢書がこれは日本の海洋民族である事を示唆しているが、は「カタクチイワシ」を指すから、煮干しやめざしの様なものを食べる人々を指していたと推測され、その様なものが山間の縄文人の主要な食料の一角を占めていた可能性を示唆している。

 

1-2-4 温帯ジャポニカの栽培者mt-F

温帯ジャポニカは縄文晩期~弥生時代に伝来したとの通説は、水田址で稲作の痕跡を確認する事しかできない考古学者の誤解であって、遺伝子分布は温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fが、縄文中期の早い時期に渡来した事を示している。

以下では畔で仕切らない水溜りを拡大した様な水田を「湿田」と呼び、畔で区画した水田と区別する。熱帯ジャポニカの一部は陸稲として栽培されたが、温帯ジャポニカは縄文晩期まで湿田で栽培され、弥生時代に水田稲作に変わったと考えられるからだ。水田を形成する目的は、緩斜面を稲作地に変える事だから、石器時代に水田を形成した人もいたかもしれないが、鉄器時代になって鉄器で木製農具を製作するか、鉄器で多数の杭を製作する事により、貯水機能がある畔を容易に形成できる様になった事が、水田が拡散する契機になったと想定される。

しかしその様な水田の形成には労力が掛かるから、湿田が不足する事によって水田を作る動機が生まれたと考えられる。従って水田の普及は各地域の稲作事情に左右され、稲作者の文化系譜の違いにも依存した。鉄器の普及が不十分だった弥生時代前半期には、貧弱な木製の道具で畔を形成しても、小さな水田しか形成できなかったから、その程度の収穫でも満足できる地域では、水田を形成する価値があったのであって、コメを湿田で多量に生産していた地域では、水田の形成は却って遅かったと想定される。特に関東について言えば、mt-B4mt-Fも伝統的な湿田稲作を行っていたから、畔でチマチマ仕切る水田の普及は遅かったとしても、稲作は盛んに行われていた事に留意する必要がある。

縄文晩期~弥生時代の倭人は、造船に活用するために鉄器を早々に入手したが、その木工技術が農具の製作に転用される事は時間の問題だった。鉄器があれば樫の様な堅い木材を加工し、堅牢な農具を作る事ができるから、それによって畔や導排水路を備えた水田を、緩斜面にも形成する事が可能になった。

縄文草創期に矢柄研磨器を作った様に、気紛れな縄文人が焼けた石で樫の棒を加工し、堅牢な木製農具を作っていた可能性も否定はできないが、倭人が鉄器を入手する事が可能になったと想定される、BC11世紀頃から水田が現れ始めたから、鉄器で作った木製農具で水田を形成したと考える方が合理的な判断になる。頑迷な考古学者はその頃の鉄器は発掘されていないと主張するかもしれないが、極めて限定的な発掘能力しかない考古学者のその様な物言いは、捨て置いた方が良い。

海洋民族が入手した鉄器は、東南アジア製でもオリエント製でも良く、製鉄遺跡の存在と鉄器の使用は関係がないからでもあるが、海岸にあった海洋民族の住居址は、全く発掘されていない状況で、彼らが使った鉄器が発掘される筈はないのだから、この判断に考古学的な成果を参照する必要はない。経済活動の成熟期の項で検証するが、関東部族は三陸の砂鉄を使った製鉄を、縄文晩期には始めていたと推測され、この製鉄技術はシベリアから伝搬した可能性が高い。春秋時代の燕には先進的な製鉄技術があったと考えられているが、中華世界では辺境だった燕に先進技術があったとすれば、それはシベリア経由の技術だったと考える必要があるからでもある。

縄文稲作の存在はプラントオパールによって検出され、縄文前期の岡山で稲作が行われた事が分かったが、陸稲栽培もできる熱帯ジャポニカだったから確認できたのであって、水稲が主体だった温帯ジャポニカをこの手法で確認する事は難しい。湿田は低湿地にあった上に、栽培者の住居も沖積地にあった筈だからだ。上掲の国土地理院の地図が示す様に、主要な稲作候補地は殆どが地殻の沈降帯にあるから、3千年以上前の湿田も住居址も現在は10m以上の地中に埋もれ、発掘される可能性は極めて低い。北九州で多数の稲作遺跡が発掘されたから、北九州が日本の稲作の発祥地である様に見做されているが、北九州は隆起地形だから水田遺跡が保存されているに過ぎないと考える必要がある。

その様な北九州でも縄文後期や晩期の遺跡や遺物については、稲作に使ったらしい扁平な打製石器と住居址が発掘されているだけで、直接的な稲作の証拠は何も発見されていない。焼畑農耕には打製石器は使わないから、扁平な打製石器は湿田を形成する道具だったと推測する考古学者もいるが、頑迷な学会はそれを認めていない。

遺伝子分布は縄文早期にmt-B4+M7cが渡来し、縄文中期初頭にmt-Fが関東に渡来した事を示し、これらの遺伝子以外には、日本に稲作を持ち込んだ者の痕跡を明確には残していないが、詳細な解析によってmt-B5+M7bも縄文早期末に渡来した事が分かる。

温帯ジャポニカの栽培者としてmt-Fが渡来したのは縄文中期寒冷期の初頭だから、縄文中期寒冷期には稲作に苦労した筈だが、関東縄文人から複数のmt-Fが検出されているから、彼女達が関東で稲作を継続していた事は間違いない。関東縄文人は海産物を沢山食べていたし、堅果類も栽培していたから、渡来したmt-Fは稲作で生計を賄う必要はなく、温帯ジャポニカの耐寒性向上に努めていたと想定される。

漁民がコメと引き換えに豊かな海産物を提供する環境は、大陸にはなかったから、大陸のmt-Fは毎年多量の収穫を上げる必要があったが、関東に渡来したmt-Fは収穫が貧弱であっても、mt-B4と同等な収穫を得る事が出来さえすれば、飢える事はなかった。寒冷期になると熱帯ジャポニカの生産性も低下したから、コメの交換価値は高まり、なにがしかの収穫を得る事が出来れば、コメを食べたかった漁民達の熱い期待を感じながら、稲作に励む事ができたと推測される。

縄文後期温暖期になるとその様なmt-Fの成果が発揮され、温帯ジャポニカの生産性が高まったから、関東縄文人のmt-F比率が高まったと推測されるが、稲作が行われた考古学的な証拠は全く発見されていない。

mt-Fは荒川、利根川、鬼怒川などの河川が氾濫する沖積地で、湿田で稲作を行い田植えは行っていなかったから、痕跡を探す事は難しいが、時代の進展と共に地盤が沈下していた地域だから、痕跡は深い土中に埋もれている。居住地は台地の裾にあったと推測され、九州では住居址が発掘されているが、洪積台地は土壌が柔らかく浸食され易いから、それらの痕跡も考古学的に発掘する事は難しいかもしれない。しかし関東縄文人の1割がmt-Fだった事は、細々と稲作が行われていたのではない事を示している。

  温帯ジャポニカの栽培が本格化したのは縄文後期温暖期だから、温帯ジャポニカの栽培動向は「経済活動の成熟期」の項で扱い、この項ではmt-Fの郷里だった湖北省の稲作事情と、彼女達の出身民族だった荊の民情と、関東の海洋縄文人と荊の間に生まれた深い関係の由来を、縄文早期に遡って検証する。

関東縄文人、現代沖縄人、現代本土日本人のミトコンドリア遺伝子分布は、関東のmt-B4M7cは縄文前期以前に渡来し、mt-Fは縄文中期に渡来した事を示している。沖縄人の遺伝子分布から原縄文人の遺伝子分布を除外すると、関東縄文人の遺伝子分布に類似したものになるが、縄文後期末~晩期に関東に流入したと想定されるmt-D+M8amt-M10が沖縄人にはないから、縄文前期~中期の関東部族の漁民の遺伝子分布を、沖縄人から復元することができる。その結果としてmt-B4mt-M7b比率は関東縄文人より高いのに、 mt-F比率は関東縄文人より低いから、mt-Fは縄文中期に渡来した事と、それ以外の沖縄人と関東縄文人に共通する遺伝子は、それ以前に渡来したものである事が分かる。沖縄と関東の縄文時代の編み籠の素材は、同じアズマネザサである事に特徴があり、樹皮を使っていた他地域の素材とは異なる事も、この想定の背景証拠になる。つまり縄文人も暖温帯性の堅果類の栽培者も、元々は樹皮を編み籠の素材にしていたが、アズマネザサを関東部族が使う様になると、同じものを沖縄でも使ったと想定される事が、沖縄は関東部族の入植地である事を示しているからだ。

それを手掛かりに歴史事情を紐解き、気候条件に関わる諸事情や経済論理を援用すると、細かな時代区分が可能になる。それによって生れる仮説から派生する仮説を幾つか作り、派生仮説に矛盾がなければ起源仮説の確度が高まる事を根拠に、確からしい派生仮説から更に仮説を派生させる作業を繰り返すと、体系的な歴史観が生れる。これは科学や工学でも多用する普遍的な手法だから、マーケティング手順独特の手法ではないが、実験が出来ないマーケティングではこの手法が重視される。歴史解釈も実験できない事に共通点があり、マーケティング手順と親和性がある。

このHPでは経済理論を基礎とした文明論を展開し、そこから派生する論理性によって歴史観を確認する作業も行う。基礎的な解釈が正しければこの様な展開が進展するが、基礎的な解釈が誤っていると矛盾が噴出して論理展開が混迷するから、この作業によって事実化される歴史事象の集成が、このHPの歴史観の論理的な正当性を担保する。

これを現代の史学者が主張している歴史観にも適用すると、明らかな矛盾が山積し、断片情報にさえ合理的な解釈が付与できないから、通説は嘘である事は直ぐに分かる。矛盾を抱えて混迷する歴史認識を歴史のロマンと言い換え、諸説が乱立する状況を楽しむ事は自由だが、科学や学術とは言えない。

此処で改めてマーケティング手法を説明するのは、関東部族と荊の関係を復元する為には、マーケティング手法を駆使する必要があり、この手法以外に関東部族と荊の関係を解析する手段がないからだ。

縄文後期は温暖期だったから、湖北省の稲作者が河南省東部~山東省西部に北上し、黄河が形成した低湿地に入植した事は、この時代の山東の遺跡から稲モミが発掘されて明らかになっている。これは尾瀬の花粉が示す気候変動や、古地理の復元事情と合致するから、僅かな証拠であっても事実認定する事ができる。従って其処と同じ気候地域である関東でも、縄文後期には温帯ジャポニカが栽培できた事は間違いないから、mt-Fはその頃に河南省東部から渡来したと考えたくなるが、mt-Fが渡来したのは縄文中期寒冷期だった。その判断の根拠は複雑なので経済の成熟期の項で詳しく説明するが、簡単に言えば栽培技術を持った女性達の渡来は、大陸で彼女達が困窮した時期に限られていたから、縄文中期寒冷期になって気候が冷涼な河南省や陝西省で、mt-Fの稲作が行き詰ったからだと想定しなければ、遠路関東に渡来する動機は説明できないし、それは上記の遺伝子分布の解析とも一致する。

また田植えを行う日本式の稲作手法が縄文後期末~晩期に開発された経緯は、mt-Fが温帯ジャポニカの栽培技術を持って、縄文中期に渡来した事を前提にしなければ、この手法の成立過程を説明できないからだ。道具や商品は交易で入手できるが、稲作技術の導入には技術者の渡来が必要だった事が、これらの理論展開の基礎になっている事は言うまでもない。

湖北省の稲作民族は、縄文前期温暖期に陝西省や河南省南部に北上したから、縄文中期寒冷期にそれらの地域の稲作は減収に見舞われた。コメを主食にする稲作民族だった荊は、全員が湖北省に南下する必要があったが、湖北省には先住の稲作者がいたから、即座に南下する事は容易ではなかったと考えられる。その様なmt-Fが多数発生し始めた縄文中期初頭に、関東部族がmt-Fを関東に招いたと考えられるが、陝西省に北上していたmt-Fに対しては、距離が遠過ぎて関東部族も手が出なかったと考えられる。しかし河南省に北上していたmt-Fには、漢水の支流を遡上すればアクセスする事が可能だったから、縄文前期にmt-Fの集積地になっていた南陽盆地から、mt-Fを招いたと推測される。当時の南陽盆地も湖北盆地と同様に現在の様な標高はなく、河川が氾濫しながら沖積地の標高を高めていたから、稲作民族の集積地になっていたと考えられるからだ。

再び河南省でも稲作が可能になった縄文後期温暖期になると、海退が顕著になっていたから、黄河が河南省東部と山東省の間に形成した低湿地が、広大な稲作適地になった。荊はそこに移住して夏王朝を形成する程に人口を増やしたから、縄文後期温暖期のmt-Fは希望に満ち、日本に渡来する意欲も動機もなかったと推測される。

従ってmt-Fが渡来したのは、寒冷化の兆しが見え始めた縄文前期末~中期初頭(5500年前)だったが、関東部族が湖北省に達したのは縄文前期中頃(6千年前)かそれ以前だった事を、西安の姜寨遺跡(7000年~5600年前)や、青海省の仰韶文化(5800年~4000年前)の系譜の墓から、沖縄産だったと考えられる宝貝が発掘されている事が示している。姜寨遺跡の宝貝は、関東部族の湖北省到達は5600年前より古い時期だった事を示しているが、この遺跡に宝貝が持ち込まれた経緯を検証すると、荊と関東部族の関係はそれ以前に発生していた事になるからだ。

宝貝が使われた事情を解明する為には、この時期の荊と関東部族の関係を詳細に検証する必要がある。縄文中期に浙江省が良渚文化期になり、それが中華文明の曙光を示している様に見えるが、湖北省の稲作文化はそれ以上に注目すべき文化だったからだ。

荊の文化が歴史上で顕在化しているのは、4千年前頃に始まった夏王朝期以降の事だが、その様な高度な文明に至るに為には、両者と浙江省の製塩業者の関係が、何千年も続いた結果であると考える必要がある。夏王朝の中核地域は当時の低湿地にあったから、遺跡が発掘できない事によって実在性が疑われているが、低湿地で稲作を行っていた荊の遺跡が発掘できない事は、歴史の検証作業に織り込まなければならない事案になる。現在のこの地域の標高は、武漢の2倍になる60m以上もあるからだ。

夏王朝の実態は、宝貝貨の制度を整備して流通を統括した政権だったが、関東部族がその宝貝を沖縄から組織的に供給し、安定的な貨幣制度の運営に貢献したから、それが実現した事は間違いない。宝貝は温暖な島嶼で繁殖するが、海が汚れた中国の沿海では採取できないから、中華の農耕民族には入手できない事が、貨幣として流通する基本条件だった。しかし海洋民族には容易に採取できるから、海洋民族が関与しなければ成立しない通貨だった事も間違いない。それが中華で千年以上も流通し続け、王朝が変わってもその拠点で使われていた事や、時代が下るほど流通量が増加していた事は、夏王朝期に極めて安定した通貨制度が生れた事を示している。従ってその理由と宝貝貨の成立経緯を検証すれば、荊が高度な文明の保持者であり、関東部族が海洋民族として宝貝貨の制度を支えていた事が明らかになり、姜寨遺跡に宝貝が持ち込まれる千年以上前に、関東部族は湖北省に到達していたと考えざるを得ない事も明らかになる

考古学者は宝貝が安定した通貨だった事を認めたがらないが、財貨に関する漢字にはことごとく、宝貝の象形である「貝」が含まれているから、立派な通貨だった事は衆人環視に晒されている。しかしそれを認めと考古学的な権威が棄損するらしく、曖昧な事を言い続けている。

夏王朝と宝貝貨の関係は経済活動の成熟期の項で詳しく検証するが、縄文前期~中期に湖北省で起きた事は、そこ至る前史として詳しく検証する必要があり、それがこの節の主要なテーマになる。この論考にはマーケティング手順を駆使する必要があり、論理の展開が複雑になるから、本論に入る前に導入的な概論を紹介する。

関東部族が夏王朝に沖縄産の宝貝を支給し、夏王朝がそれを貨幣として制度化したから、宝貝貨に関する漢字は財貨を表すものだけではなく、財貨の蓄積状況や扱い方に関するものも多数生れ、それらの漢字には「貝」が含まれている。これが示している事は、夏王朝が宝貝を貨幣とした手法は、通貨管理の観点で極めて高度なものだった事であり、漢字は現存している唯一の象形文字で、象形文字は異言語を使う民族間の共通語になった場合にのみ、その成果が発揮されたと考えられる事は、複数の民族がその流通に参加し、広い範囲に流通していた事を示している。発掘実績も概ね、その状態を示している。

この様な高度な仕組みが、前駆的な段階もなく突然生まれたとは考え難いから、その様な段階が縄文前期~中期の湖北省にあり、貨幣を使っていた民族がその成立に論理的な基礎条件を与えたから、それが発展的に進化し、王朝が認可する貨幣制度になったと想定される。つまり宝貝貨は夏王朝期に生れたのではなく、その前駆的な仕組みが湖北省時代の荊と関東部族の間に生まれ、その使用状態が湖北省時代にかなり成熟したから、夏王朝期に制度化されると複数の民族に拡散したと考えられる。関東部族と北陸部族は縄文前期に、定型的なヒスイ加工品を高額財貨としていたし、廉価な通貨に転用し易い矢尻を量産していたから、通貨の流通に関する経験を積んでいたと考えられる事も、この想定の証拠になる。

宝貝貨を使用していたのは宝貝を入手できない大陸の民族だったから、その前駆的な民族は、縄文中期まで湖北省に逼塞していた荊以外には考えられないし、荊だった仮定すると極めて合理的な発生過程を想定する事ができる。この仮説によって縄文前期の仰韶文化期の遺跡や、仰韶文化を引き継いだ青海省の遺跡から宝貝が発掘された事も、論理的な推論体系に組み込む事ができる。青海湖は塩湖だから内陸では貴重な塩の、供給地だった事は間違いなく、浙江省の塩を湖北省に運び上げていた、関東部族との関連も明確になるからだ。

王朝史観が説明する古代は、原始的な農耕社会から小さな権力が生まれ、それが武力的に統合されて最後に王朝が生まれると、統一的な権力を得た王朝の指導により、文明が進化したと主張するもので、王朝を権威付ける道具の一つになっている。この様な王朝史観では、王朝期以前には文化の推進者はいなかった事にしなければならないが、この様な考えはイデオロギーではあっても史学ではない。

王朝史観を別の面から捉えると、農業社会しか知らなかった農民に王朝の権威を主張する為に、上記のイデオロギーに基づいて捏造した史書を教本とし、それ以外の文章を禁書にしたり、学者を多数雇って捏造史を乱発したりする事により、武力や書籍の発行力で他者をねじ伏せたものであって、正しい歴史を記しているわけではない事に気付く必要がある。王朝史観は、その様な文章を根拠にする以外に論拠がない歴史観だが、多数の書籍は学者達にそれを読み込む場を提供し、その成果によって学徒であるかの様な錯覚を与えてくれるから、それに拘泥して議論を行えば、学際であるかのような体裁を整えてはくれるが、嘘を突き合わせる事になるから必然的に神学論争に陥る。従ってそれらの嘘から脱却しなければ、真の歴史認識は生れない。

宝貝貨に関する認識はその典型例になり、宝貝貨を運用した夏王朝は史書が示す中華的な王朝とは、全く異なる思想によって生まれた政権だから、王朝史観から脱却しなければ夏王朝の実態は理解できない。中華的な王朝が中華文明を形成したのではなく、古代政権を形成していた交易者達が中華文明を形成し、その集大成として夏王朝を樹立したからだ。

漢王朝以降の中華王朝は、その中華文明を変形しただけではなく、秩序があった古代的な統治文化を破壊してしまった、張本人でもあった。夏王朝を実際に破壊したのはmt-Dが浸潤した漢族で、漢族を扇動して漢王朝を樹立したのは、mt-Dに支えられた龍山文化を発祥とする、殷人の地下組織だった事を経済活動の成熟期の項で検証する。つまり捏造史書の嚆矢が史記で、史記を生み出した漢王朝の目的は、稲作民によって夏王朝が形成された事を否定し、アワ栽培者が華北に黄河文明を形成したとする捏造史を、世間に認知させる事だった。従って史記などに何が書かれているかを研究している現在の文献史学は、神学論争以上のものにはなり得ない。

夏王朝を形成した荊は、縄文後期温暖期に現在の河南省東部~山東省西部の間の、黄河が形成した低湿地に入植していた。この様な荊社会の拡大により、中華の主要な穀物は温帯ジャポニカになると共に、荊が中華の主導的な民族になった。夏王朝は中華大陸最初の統合的な古代政権として、アワ栽培地を含む華北全域を版図にしたが、秦・漢帝国の様な武力統合型の政権ではなく、領土の領有権を主張する政権でもなかった。夏王朝は商業活動を円滑に実施するため、多数の民族の参加を促して、民族間の交易ルールを形成する事を目的とした、交易型の王朝だった。それに対して秦・漢帝国以降の王朝は、武力征服によって領土を広げ、自給自足的な農耕民族を収奪的に統治する為に、民衆から租税を収奪して王朝の財政を支える政権だった。

夏王朝期の各民族は、独自の統治機構と独自の慣習法によって民族を統治していたが、夏王朝はその様な状態を基盤に形成されていたから、彼らが独自の政権を維持する事に干渉しなかったから、広大な領域を包含していた。中華の史書は夏王朝期の版図は広大だったと記し、殷周王朝期の史実めいた記述は華北の事情に限定されているから、文献史家は夏王朝の版図が広かった事を神話世界とし、殷周期の記述が中華王朝の実際の版図を示していると主張しているが、これは捏造史に騙されている状態の典型例になる。

宝貝が貨幣として使われた地域は東西千㎞以上に及び、それには多数の民族が関わっていた事は考古学的な発掘から明らかになっているが、発掘事例が華北の人々の墓に限られている事は、その様な習俗が華北にあった事を示しているだけで、宝貝貨を主に使用していたのは稲作民族だった。特に殷・周代になっても宝貝貨が流通したから、王朝が変わっても制度が千年続いた、稀な成功事例に見えるだけではなく、時代を経る毎に使用量が増加した事は圧倒的な成功事例を示してはいるが、これは史記の捏造を妄信する事によって生まれる、錯覚に過ぎない。夏王朝は統治実態ではなく諸民族の合議体だったから、その統治は春秋時代まで稲作民族の間で継続し、その下で宝貝貨が流通していたからだ。

宝貝の象形である「貝」を含む漢字には、「財」「貨」「貢」、「貴」「賎」「貧」「貪」「負」「賀」、「買」「販」「費」「貯」「賠」「賄」「賂」「賊」「貞」「責」など多数あり、財貨そのものだけではなく、金銭の保有状態や金銭の使い方、或いは金銭の使い方に関する倫理観も表現している。その概念は抽象的で高度な使用方法を表現し、高度な貨幣文化が生まれていた事を示している。夏王朝期から春秋時代までの間にこれらの漢字が生れた事は間違いなく、それを生み出したのは生産性が低いアワの栽培者ではなく、豊かな稲作民族だった事に異論を挟む余地はない。

宝貝が制度的に使用され始めた夏王朝期に、これらの漢字が生まれ始めた事は間違いなく、春秋時代には宝貝貨は使われなくなったし、殷周時代は稲作民族の混乱期だったから、これらの概念の多くは夏王朝期に生まれた可能性が高い。従って宝貝貨の高い実用性が、漢字と共に普及した事を、情味の多様な漢字群が示している。

この時代の中華世界以外の地域の貨幣は、金、銀、ヒスイ、琥珀などの、希少価値がある素材を使用する事が世界標準だった。これらの素材では流通量に限度があり、庶民には普及しなかったから、現代人が想像する様な貨幣制度は生まれなかった。しかし宝貝には数量の制限はなく、兌換品も増産が可能な塩だったたから、現代的に言えば金本位制以降の、発行量を無制限に拡大できる貨幣制度だった。

塩を兌換品にして宝貝貨を普及させた事は、この時代としては画期的な出来事だったから、夏王朝がそれを実現して貨幣の流通を統制・整備すると、中華圏の経済活動が活性化した事は、素人にも分かるだろう。しかし金本位制より高度な通貨制度だったから、その運用には貨幣制度に関する、正しい理解が必要だった事は間違いない。その為には事前に十分な経験を積んで置く必要があり、その知識を基にして夏王朝の宝貝貨が運営されたと考える必要がある。

これを別の側面から見ると、夏王朝に多数の民族が参加する事により、衆議に従って宝貝貨が生まれたのではなく、関東部族と荊による前駆的な宝貝貨の使用実績があり、その流通に合理性が生れていたから、夏王朝期に制度的に整備され、宝貝貨が広範囲に流通したと考える必要がある。

宝貝貨が使われなくなった春秋戦国時代の淮河流域や華南の遺跡から、宝貝を模した青銅貨が沢山発掘され、華北を支配した周王朝の支配域外の方が、多量の宝貝貨が流通していた事を示している。つまり宝貝貨の起源は荊だったから、稲作地域で多数の宝貝貨が流通していた事を示している。

貝貨を模した銅製の通過が流通した理由を常識的に考えれば、宝貝貨の価値が長い間に徐々に低下したから、デノミを行った事を示している。宝貝貨を長い間使っていた人々は、貨幣と宝貝の形状が結び付いていたから、青銅貨も宝貝の形状にしたと考える事に異論はないだろう。

越の経済圏だった山東などの沿海部では、この銅製の貝貨は発掘されていないから、宝貝貨の使用者は内陸の稲作民族だった荊で、沿海部の海洋民族だった越は使わなかった事を示している。フィリッピンを起源とする海洋交易民族の越にとって、宝貝は容易に入手できる物品だったから、越が使用しなかった事に経済合理性があり、宝貝貨の起源は荊だった証拠を固める。

つまり荊は生産性が高い温帯ジャポニカの栽培により、中華の稲作民の多数派を占めると共に、内陸の稲作民の経済を統括していたから、荊が中華世界で宝貝貨を千年間使い続けた事により、経済的に劣勢だった華北の殷や周も、安心して宝貝貨を使ったと考える必要がある。

強力な王権を形成して墓に豪華な奢侈品を副葬したのは、黄河流域のアワ栽培者だけだったから、副葬品として宝貝が発掘されるのは黄河流域の墓に集中しているが、それを以て黄河流域を先進文明地帯だったと誤解するのは、王朝史観の影響であると言わざるを得ない。

宝貝貨の流通を陰で支えていたのは、宝貝貨の素材になる貝を供給していた関東部族だったが、宝貝貨が安定的に使用される為には、関東部族内の不心得者を取り締まるだけでは不十分で、他の海洋民族が偽の宝貝貨を持ち込んで暴利を貪る事は可能だった。しかしその様な不心得者もいなかったから、宝貝貨の制度が千年以上継続した事になり、この時代の海洋民族には仁義があり、海洋民族内の統制も充実していた事を示している。

従ってこの時代の稲作民族は、現代中国人とは全く異質な人々だった事を認知しなければ、この時代の歴史は理解できない。時代の変遷は必ずしも文明を進化させたわけではなく、古代人は知恵を駆使して社会秩序を維持していたが、王朝化によってその文明が劣化した事を認知する必要がある。

この観点で中華の王朝文化を検証すると、稲作民族が樹立した夏王朝は、高い倫理観を基底にして運営されたが、交易文化に出遅れたアワ栽培民族が武力によって王朝を形成すると、その様な倫理観は雲散霧消してしまった事、その様な文化の申し子である史記が、王朝文化を堕落させた一つの象徴的な実態である事を認識する必要がある。それを継承した後世の史書も、現在の中国人や韓国人の様に文明の起源を捏造し、国威発揚のプロパガンダにしながら文明を堕落させ続けたので、何が真実であるのか分からない状態になった。三国志を編纂した陳寿はその流れを変える為に真実を追求したが、一人の努力では如何ともできなかった。

以上を概論とし、以下では縄文前期~中期に宝貝貨の仕組みがどの様に生まれ、進化したのか検証する。

荊が宝貝貨を使い始めたのは、関東部族以外の海洋民族とは交易を行っていなかった時代、即ち湖北省時代だった縄文前期~中期であると考えなければ、宝貝貨の誕生と進化は合理的に説明できない。縄文前期の姜寨遺跡などの、仰韶文化系譜の遺跡に遺された宝貝は、その有力な証拠になる。関東部族が浙江省の塩を湖北省に運び上げていたから、宝貝をその関連物質として支給された荊が、縄文前期温暖期に西安に北上すると、青海湖の塩を流通させていたY-R民族にその使い方を伝えたから、姜寨遺跡などに宝貝が遺されたと考えられるからだ。この地域の人が貴重品として宝貝を墓に副葬した理由は、それ以外には考えられない。

仰韶文化の先進的な土器は、それまで土器を知らなかったY-R民族が、自身の文物として製作したとは考え難い。仰韶文化に稲作が含まれていた事は、荊が製作した土器が、仰韶文化圏に拡散した事を示していると考える必要がある。荊は土器を多用した堅果類の栽培者ではなかったが、氷期には堅果類の栽培者の居住域と接するヴェトナム南部にいたし、後氷期に湖北省に北上した際には、堅果類の栽培者がいたヴェトナムを縦断したから、湖北省に北上する以前から土器の存在を知っていた可能性が高いからだ。

陝西省に北上した荊は、古揚子江湖の塩を入手できなくなったし、古揚子江湖が消滅すると揚子江を遡上して塩を供給した、関東部族の塩も入手できなくなったから、青海湖の塩を入手する必要が生れていた。従ってその際に先進的な彩陶を交易品にした事は、極めてあり得る事情であり、その際に湖北省で使われていた宝貝も使ったと考えられる。

盛夏に農作業をしなればならない稲作民族には、塩は欠くことができないものだったから、塩を入手する為に色々な商品を製作していた事は、極めてあり得る事情になる。また塩を直接入手できなかった内陸の稲作民族が、商品として色々な物品を製作したとすれば、それらは自分達が使う為のものではなく、塩を入手する為のものだったと考える事も、極めて常識的な発想になる。「必要は発明の母」だから、関東部族が獣骨を入手する為に弓矢や磨製石斧を交易品にした様に、湖北省の稲作民族も塩を得る為に、先進的な彩陶や黒陶などの、奢侈品的な文化遺物を製作したと考える必要がある。

民族が交流して文化が交わり、それによって文明が進化する事は、時代に関わらず普遍的な原則であると考える事も、極めて常識的発想になる。多くの民族がその交流に参加すれば、それぞれの民族が文化力を高める事が出来た。しかし暴力的なアワ栽培民族にはその意識が乏しく、文明の輪から阻害されていた事を、縄文中期に辺境に追い出された仰韶文化人や、裴李崗文化、磁山文化、大汶口文化などが縄文前期~中期に消滅した事が示している。

その様なアワ栽培民族の子孫である華北のアワ栽培者が、武力によって中華を征服すると、王権を正統化するために、中華文明は黄河流域で孤立的に発展したと主張し、歴史を捏造した。それを普及させるために多数の史書を作成したから、それを注釈する王朝史観が生れたが、稲作民族の本当の歴史を知る為には、それを捨てて歴史に真実の光を当てる必要がある。

湖北省で宝貝貨が使われた事情を理解するためには、関東部族と湖北省の荊の交流史を把握する必要があり、そのためには先ず縄文早期まで遡って、湖北省の地理的な環境の変遷を再確認する必要がある。しかし湖北省の歴史は厚い沖積土に埋もれているから、明らかになっている下流域の縄文中期の事情から、時代を遡って推測する必要がある。

縄文中期に良渚文化が繁栄したのは、浙江省の稲作民族が湖北省に運び込む塩を製塩し、その塩が利潤を生みだしていたからだが、良渚文化が縄文中期後半に滅んだのは、古揚子江湾の埋め立てが縄文前期に完了し、揚子江が多量の土砂を東シナ海に流出し始めたからだと考えられる。現在の安徽省や江蘇省は沖積平野だが、縄文前期には東シナ海が湾入していたから、揚子江がそれらの地域に広大なデルタを形成すると、銭塘江台地の北辺が土砂で埋まり、その土砂の荷重で地盤が沈下したと考えられる。

海進によって沖積平野が海水に覆われると、その荷重で平野の地殻が沈降する現象は、この地域では1万年前に始まったが、縄文中期に洪水が多発する様になったのは、沖積土の急速な堆積が原因だった可能性が高い。沖積土は海水の23倍の重さがあるから、揚子江のデルタが現在の揚子江下流域に形成されると、周囲に堆積した土砂から水が溢れると共に銭塘江台地の地盤も沈降し、台地全体が洪水の被害を受け易くなったから、銭塘江台地に形成された良渚文化圏が完全に消滅したと推測される。良渚文化期の遺跡は揚子江の北側でも発掘されている事は、当時の銭塘江台地は揚子江の北岸にも延伸していたが、揚子江がそのらの地域に土砂を堆積した後で、当時の銭塘江台地を分断する様に流路を変えた事を示している。

揚子江のその様な変遷を湖北省側から見ると、縄文前期に古揚子江湾が消滅して平原化が完了したから、揚子江や漢水が流し出した土砂の殆どが、湖北省には堆積せずに安徽省や江蘇省南部に流れ出る様になり、東シナ海に沖積地を形成し始めた事になる。但し一部の土砂は、湖北省で洪水を起こしながら平原の標高を徐々に高める事に使われたから、現在はその標高が30m程に達している。その堆積土砂が縄文時代の稲作民の住居址を覆い、発掘が不可能な状態になっている。

mt-Fの稲作は炎天下で除草しながら湿田を整え、種を蒔き、その後も除草を続ける重労働だったから、塩分の補給は必須だった。従って海塩の入手ができなければ、湖北省に高度な稲作文化は生まれなかったと考えられるから、湖北省の稲作文化は古揚子江湾が健在だった時期に成立し、縄文前期前半までは古揚子江湾の沿海部で、製塩が行われていたと推測される。縄文早期までのmt-Fは古揚子江湾の海岸で塩を摂取し、海が遠くなった縄文早期末~前期初頭頃は土器に海水を汲み、それを内陸に運搬して使っていただろう。しかし縄文前期前半に古揚子江湾が縮小すると、洪水から逃れる為に山際に暮らさざるを得なくなり、稲作地も居住地も海岸から遠くなったと想定される。組織的に活動していた荊はその状態になると、製塩業と塩の流通手段を生み出したと想定される。この様な準備が整う事により、稲作民が河南省や陝西省に北上する事が可能になったからだ。

陝西省ではY-Rが塩を供給したから、仰韶文化圏に稲作が拡散し、土器も拡散したと考えられる。塩が流通すると製塩や流通業者が豊かになり、荊に土器を発注したから、塩を入手したかった荊がY-Rの注文に応え、仰韶文化の華麗な彩陶を生み出したと想定される。土器の価値が高ければその分コメを節約できたから、華麗な彩陶が生れるのは必然的な結果だった。

縄文前期後半に古揚子江湾が消滅すると、湖北省の稲作民は塩の確保に苦しむ事になり、揚子江を遡上して塩を運び上げる事ができる、強力な運送力を持った関東部族と関係を強化すると、それに必要な製塩業者が浙江省に誕生し、玉器や黒陶を伴う崧沢文化が先ず生れ、塩の需要が高まる事によって製塩業が発展すると、華麗な良渚文化が生れたと考えられる。

内陸の狩猟民族が生命を維持する程度の塩は、獣肉から摂取する事ができたから、栽培系狩猟民族は穀類の生産性が高まるまで、塩分の不足による健康障害を引き起こす事はなかった。栽培と狩猟が並立していた華北のアワ栽培地では、塩の交易がなくても生活できた時代が長く続いていたが、温暖な地域の夏の炎天下で雑草を除去するなどの、重労働を強いられる稲作には塩の摂取は不可欠だった。稲作の生産性が高まると、食料の比重が微量な塩分を含む獣肉や魚肉から、塩分を全く含まないコメに傾いたから、更に多量の塩を摂取する必要が生まれた。洪水の度に行う土木工事にも、次の稲作に間に合わせるという期限があったから、涼しい朝晩だけでは済まなくなれば、そちらにも多量の塩が必要だった。

この見地から湖北省の稲作史を想定すると、十分な塩が摂取できた縄文早期に稲作文化が生まれ、古揚子江湾が縮小していた時代には、多数の人員を投入して稲作地を整備する、荊方式の稲作技術が成熟していたから、その動員力を背景に海辺に製塩者が生まれ、塩は組織的に配分されていたと考えられる。

製塩業が成立する以前は、海水を汲んだり海岸で海水を煮詰めたりする時代が続き、その必要性に応じて土器の焼成技術が高まったと考えられる。海岸に近い場所に住んでいた縄文人は、海水を長期間保管する必要はなかったから、土器の耐水性向上には関心がなかった疑いがあるが、多量に塩を消費していた荊には、海水を煮詰めて製塩を行う前段階として、海水を汲んで貯蔵する期間があったとすると、縄文人より高度な製陶技術が生まれただろう。また堅果類の栽培者は、土器作りを女性の文化として男性達はそれに関与しなかったが、mt-Fは氷期から稲作者であって堅果類の栽培者ではなかった。mt-Fには女性が土器を作る習俗も先入観もなかった事が、土器の製作を男性のものとした結果、職人化した男性が土器を製作すると商品化し、仰韶文化期の先進的な彩陶文化や、縄文中期の黒陶文化が生れ、ロクロの使用にまで至ったとすると、土器や陶器の歴史に一貫性が生まれる。

古揚子江湾が健在だった時期の荊の男性達は、沿海部で簡単な船を使って漁労も行っていた筈だが、湖北省には磨製石斧の素材になる蛇紋岩はなく、荊は鉄器時代になっても海洋に乗り出さなかったから、荊が船を持っていたとしても、狭い川の渡河や漁労に限定された、重い荷物は積載できない上に速度が遅い船だったと想定される。この時代の船は木材を丈夫な縄で結んだものだったから、シナノキもアサも知らなかった荊は、大した船は持っていなかった可能性が高い。アサは冷温帯性の植生だから、関東部族と交易を始めても揚子江流域には移植できなかった可能性が高い。この地域で多用されていた穀物袋は、近代まで南京袋と呼ばれていたもので、インド原産の黄麻(ジュート)が使われていた事も、荊は丈夫なロープなどを製作する、強度が高い繊維植物を持っていなかった事を示唆しているからだ。

縄文前期に古揚子江湾が全て埋め立てられると、荊の製塩所は揚子江下流域に降っていかざるを得なくなった。具体的に言えば、揚子江の河口が山間部を経て九江に移動したから、盆地になった湖北平原の端から100㎞離れた九江で製塩し、その塩を盆地に運ばねばならなくなった。九江から安徽省の巣湖(そうこ)までの300㎞は地峡の様な広くない谷間だから、揚子江が急速にその地域も埋め立てると、荊が製塩できる海浜は、東シナ海に向かって急速に後退していったと推測される。湖北省の製塩業者はそれに伴い、製塩場所から荷物を背負って陸路を4500㎞運ぶか、雨期になると流速を増す揚子江を、遅い上に積載量が小さい船で、4500㎞も遡上しなければならなくなった。これらは直線距離だから、実際の経路は700㎞以上に及んだだろう。

関東部族は11千年前に台湾に達し、8千年前にはそこから東シナ海を600㎞北上し、紹興や上海に達していたから、其処からmt-B5+M7bをリクルートしたと想定される。従って9千年前の関東部族は、福建省には達していただろう。上海から湖北省に至る為には、現在の揚子江より北方に張り出していた銭塘江台地を、周回しながら当時の東シナ海を西に進み、合肥に至ってから地峡の航行になったと推測される。従って揚子江になり始めていた地峡を含めると、上海から武漢に至るには1000㎞西上する必要があった。関東部族が台湾に達するためには、九州と奄美の間のトカラ海峡を越える必要があり、それには10/h程度の速度が出せる船が必要だったから、仮に稲作民が船を持っていたとしても、関東部族の船はそれより何倍も早かっただけではなく、航行の持続性も高く、荷物を持ったmt-B4mt-B5を載せてトカラ海峡を越え、関東に運ぶ海運力があった。

関東部族の船は常時10/hで航行していたわけではなく、通常は時速5/h程度だったとしても、16時間の航行で30㎞遡上できたから、武漢に至るには上海から1か月、福州から2か月、沖縄から3か月の距離だった。関東から台湾に至るまでに3000㎞も航行して来た関東部族にとって、上海から武漢までの1000㎞は十分到達可能な距離だったが、冒険者が武漢に到達した話ではなく、多数の船が交易に向かった話だから、関東部族の航行技術を検証する必要がある。

1万1千年前に台湾に達した関東部族の交易圏が、8千年前には浙江省に到達していた事は、縄文前期初頭(7千年前)の九州で、暖温帯性の堅果類が栽培されていた事が証明している。その間に南方からムクノキやクスノキなどの新たな樹種が持ち込まれたから、船底材や舷側版が改善されて船が大型化し、乗組員の人数が増えて航行能力が高まっていただろう。航行能力が高まった理由はそれだけではなく、mt-N9bが減少して船員が男性だけになった事も、航行能力の向上に寄与していたと推測される。従って縄文前期には多数の船が湖北省に遡上できるほどに、海運力が向上していたと想定する事は不合理ではない。

関東部族の船の輸送力を具体的に検証すると、台湾や浙江省の稲作民女性をその荷物と共に船に乗せ、太平洋の荒波が打ち寄せるトカラ海峡を横断し、日本列島に運んだ事は間違いないから、大洋の荒波がない揚子江を遡上するのであれば、女性の体重と彼女の荷物の合計荷重の数倍になる、100㎏単位の塩を船に載せ、5/h以上の速度で揚子江を遡上できた事も間違いない。従って湖北省の製塩業者が合肥まで降る事により、湖北省に海塩を搬送する距離が700㎞を越え、稲作民の手に負えなくなる前に、浙江省で磨製石斧や弓矢を交易していた関東部族が、揚子江下流域で仕入れた塩を湖北省に運び上げ、湖北省の稲作民との交易品に仕立て上げる事は、必然的な帰結だった。

関東では熱帯ジャポニカを生産していたが、コメの生産量が不足していたから、植物性食料の過半を堅果類とする状態から脱却できていなかった。従って関東部族の漁民だけではなく縄文人も、生産性の高い温帯ジャポニカの導入に、意欲的だった事は間違いない。冒険的な若者は、縄文早期中葉には湖北省に達し、関東部族は湖北省の事情をある程度知っていたと想定されるから、縄文早期から荊と親密な関係を形成する機会を、窺っていた可能性は高い。

縄文前期~中期に多数の関東部族が沖縄に入植した事を、沖縄人の遺伝子分布が示しているが、遺伝子分布だけではその理由は分からない。しかし湖北省の稲作民の塩の需要に応える為に、多数の船が湖北省に遡上する必要が生まれ、沖縄を前進基地にする事が必要になったとすれば、納得できる説明になるだろう。関東部族は集住する事によって海洋文化を高めていたから、沖縄に大挙して移住する事は異例の事態だったが、沖縄に関東の支部を作る事は、湖北省に多数の船を派遣する必要上必須の事態になったから、そのための移民が募集されたのであれば、合理的な回答になるからだ。

関東から出向いた船は年に1度しか武漢に行けなかったが、沖縄から出向いた船は少なくとも2回、揚子江を遡上できたと想定される。関東の漁民には、集住する事によって海洋文化を高める習俗があったが、沖縄に纏まった数の漁民が出向いただけではなく、関東の漁民も沖縄を経由して浙江省に頻繁に出向いたとすれば、孤立して海洋文化の進化に取り残される危惧はなかった。従って最盛期の沖縄には、現在の遺伝子分布から想定されるY-Dの、何倍もの関東部族が駐屯し、湖北省と沖縄を1年間に何度も往復したと想定される。沖縄にY-Dが多い事は、沖縄に出向いた人々の主体は海洋漁民だった事を示し、この想定の傍証を提示する。

沖縄に移住した海洋漁民は、現代人の様に辞令で赴任したのではなく、有志がペアで沖縄に移住したと想定されるが、この様な組織的な活動が個々人の経済事情だけで、スムーズに進行したとは考えられないから、何らかの組織が生れていた事は間違いない。経済活動の成熟期の項で検証するが、小さな漁民集団それぞれにリーダーがいて、小さな集団単位で組織的な活動をしていたのではなく、南方系と北方系それぞれに指導的な集団があって、その集団が新しい航路を開拓し、遠方の異民族と折衝していたと想定される。漁村毎に指導者はいただろうから、彼らが指導的な集団の行動に追従し、結果として組織的な活動が実現したと考えられる。

この指導的な集団が、後世の「天氏」を形成して天皇家の祖先になったが、縄文中期までの指導的な集団は、必ずしも血縁集団だったのではなく、優秀な若者が広範囲の漁村から参集する様な形態だった可能性が高い。しかし指導的な集団の高度な技能や判断力は、父子伝達の要素が強かったから、指導集団や地域集団に貴族階級が形成されていく流れは、交易先が遠方になり、交易相手が多様化していく中で、それらに関する知識の高度化と共に進展していったと考えられる。

この事業が終焉した時期は、温暖化した縄文後期に湖北省の荊が河南省東部の低湿地に入植し、越人の製塩者が渤海南岸に移住して製塩を始め、荊の移住が進むに連れて塩を運び上げる労務負担が減少した時期だったと想定され、それは縄文後期の早い時期だったと考えられる。その様な労務負担が長期に亘れば、船の構造や操船に技術革新が生まれた筈である事も加味し、概ねその時期だったという事であってそれ以上の精度はない。

北陸部族の浙江省到達は、縄文中期初頭だったと考えられる。従って彼らはこの交易に参加できなかったから、荊と親和的だったのは関東部族だけだったと考えられる。北陸の縄文人を輩出した石垣島や宮古島には、本格的な海洋漁民だったY-Dが少ない事も、この事情と合致する。

 

以上の定性的な推測を、定量的に検証する。

湖北省に運び上げた塩は、浙江省の稲作民が製塩したから、それが浙江省の稲作民の主要な輸出産業になったと想定される。その対価物として、湖北省のコメが浙江省に持ち込まれたから、堅果類から脱却できなかった浙江省の稲作民にとっても、願ってもない交易だった。

当時の塩は製塩土器に入れられた状態で取引されていたとすると、一隻の船が200㎏の荷物を運び上げても、実質的な塩の量は100㎏程度だったと推測される。荊一人が1日に5gの塩を消費したとすると、一隻分の塩は2万人・日=100人・年(農繁期を200日として)の量だった。漢代の荊州は湖南省も含み、その人口は165万人だったと漢書地理志が記しているから、鉄器時代と石器時代の差と、この時代の荊は湖北省限定の稲作民だった事を勘案し、縄文前期~中期の荊の人口はその1/1017万人だったとすると、関東部族の船は年間1700回も揚子江を遡上する必要があった。一隻に5人乗り組んでいたとすると8500人・年になり、その留守家族の生活を支援した漁民と栽培者を含めると、必要な人口は5万人以上になる。塩の運搬を効率化するために漁民が沖縄に移住し、年に2回揚子江を遡上したとしても、万単位の漁民が沖縄に移住する必要があった。製塩土器から塩を取り出し、籠などに収めれば軽くはなったが、雨に当たれば流出してしまうから、雨除けの屋根を設置する必要が生まれ、効率的な運搬手段になったとは考えにくい。

関東部族が荊と極めて親和的だったと考える理由は、日本のコメが最終的に温帯ジャポニカになった事だけではない。夏王朝期に宝貝を貨幣化した事も、関東部族が荊の利便性を高めるために、多大な貢献をしたと言っても過言ではない状態だったからだ。また倭人が使った漢字音が、荊が使っていた呉音になった事や、共通語として生み出した漢字文の文法を荊の言葉に合わせた事も、両者の友好の現われだったと言えるだろう。関東部族のこの様な行動から判断すると、荊の稲作の完成度が熱帯ジャポニカより高かっただけではなく、荊の文明度が高かった事が、交流当初から彼らを特別視して親交に努めた、大きな理由だったと推測される。

交流当初の荊には色々な物品を創作して商品化し、塩を得る代価にする習俗は生れていなかった筈だから、荊が生産する珍しい物品に惹かれたのではなく、稲作の生産性を高めるために彼らが生み出した組織的な文化力と、その結果として得られた豊かなイネの実りに依る食生活の余裕が、彼らの精神文化を高めたからだと推測される。荊にはその様な文明度の高さがあったから、海洋民族と接すると速やかに特産品を創出し、交易活動を活性化する事が出来たと考えられる。

関東部族の交易圏が縄文前期に、揚子江中流域に急速に拡大したのも、最終ゴールを湖北省と決めていたからである疑いさえある。関東部族と荊は縄文中期に湖北省で宝貝を貨幣化したが、同時期に浙江省の稲作民は北陸部族と親和的になり、高度な技術使って多数の玉器を制作する良渚文化を生み出し、後世の中華の玉文化の基礎を築いたが、それは関東部族が荊に傾倒した事に対する、反動だった疑いもあるからだ。良渚文化を形成した富は、関東部族が湖北省に運んだ塩を製塩する事から得たものだったし、その富を使って彼らが整備した水田で栽培したのは、関東起源の熱帯ジャポニカだったから、浙江省の稲作民族の北陸部族との深い連携には、特別の理由が必要になる。

浙江省の稲作民族は経済的には関東部族の交易活動に参加し、権力者の経済的な基盤を築いたが、精神的には北陸部族との親和性を認識したから、権力者の権威を高める精神文化として、玉器文化を共有したと考えられる。単に玉器を使う事を共有したのではなく、その使い方や、その背後の精神性を共有したと考える必要がある。

北陸部族は何千年もアワ栽培者と共存し、彼らの農耕文化の影響を強く受けていたから、浙江省の稲作民族とも共感できるものがあった事が、その背景にあったと考えられる。玉器の文化的なルーツは、アワ栽培者の石製装飾品だったと考えられるから、浙江省の稲作民族は北陸部族の精神文化の中に、玉器を使って権威を高める手法を見出し、その有効性に賛同して北陸部族の加工技術を採用し、良渚文化期に器形を大型化して複雑化する事により、独自の文化として発展させたのではなかろうか。北陸の石斧工房の職人は、アワを栽培していた人達ではなかったが、浙江省の製塩業者は稲作民の指導者でもあったから、実態的な感性を以て玉器文化を発展させたとも言える。アワの栽培者には製塩業者の様な富裕者はいなかったから、アワ栽培者の玉器文化の進化は限定的になり、アメリカ大陸へのヒスイ文化の輸出と共に、北陸部族の関心が南方交易に向かう端緒になった事は間違いない。mt-D+M7aのフィリッピン入植も、この文脈から捉える必要もあるだろう。

それらを逆から見れば、原日本人由来の漁民文化を濃厚に継承していた関東部族と、組織的な土木事業を重視していた荊が親和的になったのは、荊の組織文化を支えていた倫理観と漁民が形成した海洋文化の倫理観に、高い親和性があった事を示唆しているので、これについては経済活動の成熟期の項で詳しく検証する。

その様な荊と関東部族の共同作業として、縄文中期の湖北省で宝貝の原初的な貨幣化が進展したが、その成立過程には、経済的な必然性があった。物品としての価値がない宝貝を貨幣化する為には、胴元の経済力と兌換商品が必要になり、偽造貨幣が出回る事を防ぐ必要もあるが、塩を運び上げていた関東部族はそれらの条件を全て備えていたからだ。

宝貝が貨幣的に使われ始めた経緯は分からないが、その場合のマーケティン手順としては、必然性が高い経緯を想定する事が重視され、それを裏付ける証拠は必ずしも必要としない。人間の行動には色々なパターンがあり、関わる人々の思惑も一様ではなかったから、その過程を論理化できなくても、原因と結果を結び付ける具体的で可能性が高い仮説があれば、それを根拠に原因と結果は真理であると見做し、経過仮説は過程の一つの局面事象に過ぎないと見做す事ができるからだ。言い換えると、AからBに至る道筋は色々あり、多数の人がどの様にその道筋を経たのかは分からなくても、具体的にその道筋の一つを示す事が出来れば、Bに至った事は事実であると見做す事ができる。

従って過程仮説は複数あっても構わないが、状況証拠の精査によって一つに絞る事ができれば、そこから新しい応用理論を展開する事が可能になる。また複数の経過仮説があれば、それらの整合性の検証によって実態に迫る事もできる。従って全くの推測ではあるが、次の様な事情を有力な想定経緯とする。重要な事はこの具体的な仮説から、経緯として必要不可欠な条件を抽出する事になる。

関東部族が湖北省に塩を運び上げ始めると、揚子江の河岸に設定された市に三々五々船が到着し、市に来た稲作民が持参したコメなどと塩を交換しただろう。気候が温暖な揚子江流域には、コメだけではなく植物性の資源やその加工品もあり、それらも交易品になったかもしれないが、その多くは浙江省でも入手できただろうから、湖北省特産の温帯ジャポニカ米が最も重要な交易品になったと想定される。温帯ジャポニカは当時の日本にはなく、下流域のコメだったジャバニカより食味が良かったから、それに特別な価値を見出した関東部族の漁民は、湖北省に塩を運び上げる事に熱心になったと推測される。ここまでは分かり易い話だから、異論はないだろう。

塩は重量比で米の100倍以上の価値があった筈だから、塩を運び上げた船員が、温帯ジャポニカの米食を満喫できた事は間違いないが、昇りと下りの重量差があり過ぎたから、塩と等価のコメを浙江省に持ち帰る事はできなかった。従って運び上げる塩が、湖北省の需要に応えられる量に達するためには、見返りに価値が高い他のものが必要になり、その様な物品がなければ交易は片道通交になった。金銀を財貨とする認識はなかった時代だから、関東部族が荊に求めた見返り品に、珍しい植生や物産も含まれてはいただろうが、運び上げる塩の量が膨大だったから、それでは到底足りなかったと想定される。コメを栽培する技能を持った女性を日本に連れ帰る事は、関東部族の重要な目標ではあったが、縄文前期温暖期にそれに応じたmt-Fは殆どいなかったと考えられる。

縄文前期温暖期のmt-Fは、湖北省から河南省や陝西省に北上すれば、新たな稲作地を獲得する事ができたから、湖北省から酷く離れていた上に、湖北省より冷涼な関東に渡来する意思はなかったと想定される。仮に少数のmt-Fが関東に渡来したとしても、荊が行っていた大規模な土木工事はできず、稲作技術者としての技量を発揮する場もなかったから、mt-Fには関東に渡来する動機は皆無だった。しかしそれだからと言って、温帯ジャポニカの生産の高さや、mt-Fが持っていた高い文化力を導入する事を、関東部族が簡単に諦める事はなかった。

縄文中期寒冷期が始まると、気候が冷涼な河南省や陝西省の稲作は収穫が激減したが、湖北省の適切な栽培地には既得権者がいたから、河南省や陝西省の稲作者が即座に南下する事はできなかった。この時期に栽培地に窮したmt-Fが、日本への渡航を決意したと想定される。関東部族がその様な事情を察知し、縄文中期寒冷期になると武漢から漢水を意欲的に遡上し、河南省で多数のmt-Fをリクルートしたから、関東にも温帯ジャポニカの栽培技術が渡来したと想定される。

膨大な量の塩を運び上げても、等価のコメを持ち帰る事ができない交易の片務性や、その様な交易に多大な労力を投入していた事や、個々の従事者がその労務負担に耐える事に、関東部族としてどの様な経済的なメリットがもたらされたのかは、現代人の感覚では容易に理解できないだろう。独特の稲作文化に育まれた荊の高い文明度が、関東部族の人々に深い民族交流を促した事が、関東部族にこの交易は推進する価値があると思わせたとすれば、南方系のリーダーが企図した交易手法は、関東部族の若い漁民に温帯ジャポニカを満喫しながら荊の高い文明力を示す、観光ツアーの企画だったのかもしれない。

荊の組織的な労働によって形成された広大な水田は、関東では見る事が出来ないものだったから、一見する価値があった事は間違いないだろう。関東の漁民は南方派の指導集団をコンダクターにして、一生に数回その様なツアーに参加する事により、話題が豊富な人になった事も間違いないし、荊は民族を上げて船員を歓迎したから、その話題が次のツアー参加者の募集に、多大な効果を発揮した事も間違いないだろう。それが荊との民族的な交流を加速したとすれば、片務的な交易が継続した理由の一端にはなる。

北方派が主導していたシベリア交易の海運力も、その様な経緯で募集された漁民の労力を充当していた可能性が高いが、北方交易によって得る獣骨は漁民の生命線だったから、経済的な責務に伴う強制力があっただろう。しかしその様な募集方法が制度化していれば、南方派がその制度を転用する事に、漁民達は違和感を持たなかった可能性もある。

塩とコメの交換レートを高くしても、船に積んで持ち帰る事ができるコメの量は限られていたから、揚子江の下りに運ぶ荷物の荷重を上りの2倍に増やしたとしても、それ以上の交換レートにする事に意味がなかった。関東部族がそれで納得していても、製塩業者だった浙江省の稲作民が、それを納得するか否かは別の問題だった。関東部族がその様な浙江省の稲作民に、磨製石斧や弓などを支給する事によって帳尻を合わせた可能性があるが、これは荊との交易の片務性を更に高めた。関東部族はそれを理解しながら、沖縄に漁民を動員する事までして湖北省に塩を運び上げた事は、荊との交流を望んでいた関東部族の意欲の高さを示している事になるが、疑念が残る事は否めない。

それを織り込んだこの時期の関東部族の船は、関東で弓矢を積み込み、岡山で磨製石斧を積み込んで浙江省に辿り着き、浙江省でそれらを下ろして塩を積み込み、湖北省に遡上してコメを満載し、浙江省に戻ってコメを下ろすと、必要があれば浙江省の塩を持ち帰ったと想定される。この様な状況では、岡山で磨製石斧を製作していた者達に対する、謝礼を生み出す事もできなかったから、岡山で暫く漁労を行って集めた海産物と、磨製石斧を交換してから浙江省に向かい、浙江省でも漁労活動行って交易品に加えたのかもしれない。この様な航行で漁民が得たものは、異なる海域で日頃とは異なる漁労を行い、食べた事がない魚を食べ、目的地の湖北省に着けば大歓迎され、温帯ジャポニカを腹いっぱい食べられるという、現代的に言えば高価な観光旅行でしかなかったが、荊の文明度が高く話題も沢山提供してくれるのであれば、一生の内に数回出掛けても良いと考える漁民も少なからずいたかもしれない。

シベリア交易が盛んになって獣骨の供給が十分になり、関東には稲作によってコメを供給してくれるmt-B4がいたから、この時期の関東部族の南方系の指導者には、その様な場を提供する事以外には、大きな役割がなかったのかもしれない。しかし南方系の指導者にも、フィリッピンや東南アジアの海洋民族との交易があり、南方の珍しい植生を関東にもたらす重要な職務があったから、彼らの組織が解散する事はなかった。

いずれにしてもこの様な状況では、縄文前期には沖縄への移住者も殆どなく、この交易が進化して次の段階に至った縄文中期になってから、大量の移住者が生れた可能性もあるが、それであっても荊が消費する塩を充足する為に必要な、多数の人員を確保する必要はあった。縄文中期寒冷期になると浙江省や華南省に北上していた稲作者が、湖北盆地に南下する必要が生れ、湖北省の人口密度が高まったから、この様な交易では到底間に合わなかったから新しい交易手法が生れたが、それには縄文前期の準備段階が必要だったから、この時期にも何らかの手段で人員が確保されていた事は間違いない。

縄文中期寒冷期に陝西省や河南省から湖北省に南下した稲作民は、従来は稲作に適さないと考えられていた、洪水の被害が甚だしい地域を土木技術の高度化によって克服したり、関東部族の船で湖南省に渡って新たな入植地を求めたりする事により、次第に生活圏を確保していったと想定されるから、それにも色々な軋轢があった筈だが、関東部族の経済活動とは関係がない話なので、此処では割愛する。いずれにしても縄文中期になると揚子江中流域の人口密度が高まり、塩の需要も激増したと想定される。それによって湖北省に運び上げる塩の量が増えると、交易品に占めるコメの割合が高まっただろうから、関東部族の収支は誰が見ても明らかな出超になっただろう。

塩の取扱高が相対的に少なかった縄文前期には、関東部族の南方系の指導集団は北方系の漁民も勧誘し、必要な漁民の数を確保していたかもしれないが、縄文中期には弓矢の生産量が増加した事を、八ヶ岳周辺の集落が増加した事が示しているから、シベリア交易に関わる輸送量も増加し、漁民の調達が難しくなっただけではなく、南方系が当てにしていた漁民でさえ北方系に回される事態が生れた可能性もある。これは縄文中期にシベリアの弓矢需要が高まったか否かの問題ではなく、シベリアの弓矢需要は縄文前期まで逼迫していたから、関東部族の生産性が徐々に高まった結果だった可能性が高い。

いずれにしても、関東部族がこの状態を納得していたとしても、むしろ湖北省の稲作民の方がこの状態に納得していなかった可能性が高い。関東部族が観光旅行の副業として、或いは何らかの知識を得た代償として塩を持ち込んでいたのであれば、それは関東部族の一方的な恣意行動だったから、関東部族の都合で恣意的に止めてしまう危険があったからだ。観光産業にはその様な危険が付きものである事は、古代人であっても文明化していた湖北省の稲作民は分かっていただろう。塩を運び上げていた漁民は、観光ツアーの為に湖北省に遡上していたか否かは別にして、一方通行の片務的な交易関係には異常性があり、それに依存する危険性を理解する能力は十分に持っていたと推測される。

関東部族が塩を運び上げる以前は、九江やその下流域の安慶辺りに製塩者が出張し、塩を陸路で運び上げていたと想定されるが、関東部族が運び上げた塩は交換レートの都合上、それよりかなり安価にならざるを得なかったから、次第に関東部族が持ち込む塩の需要が増加し、九江や合肥の製塩所は閉鎖したと想定される。それを見た荊の指導者が、危機感を持つことは極めて当然の事だったが、それに対応できる事は必然ではなかった。荊にはそれに対応できる高い文化力と組織力があった事が、関東部族と荊の絆を経済的な利害関係に昇華し、両者の関係を更に緊密にしたと考えられる。

その新しい経済関係を検証する前に、上記の様な縄文前期の事情から生まれた、宝貝の貨幣化に関する話題に戻る。縄文前期の仰韶文化遺跡から宝貝貨が発掘されているから、宝貝の貨幣化は縄文前期に始まり、縄文中期に新しい経済関係を迎え、制度化の段階に進んだと考えられるからだ。これらの経緯に関する証拠は少ないが、経済原理を応用して道筋を辿る事ができるので、マーケティング手順で検証する。以下はその結論として提起する仮説。

関東部族が運び上げる塩の需要が右肩上がりに高まり、水運力の増強が追い付かなくなると、塩を入手したい稲作民が重いコメ俵を背負って遠路市に来ても、次の船の到着を何日も待つ事が常態化した。漢書地理誌が「倭人は歳時を以て来る」と記したのは、雨期になって河川の水量が増加すると遡上の労務負荷が増大するから、倭人はその時期になると日本列島や沖縄に帰還し、河川の遡上は休止した事を示唆している。つまり海洋民族の到来には季節があり、稲作民が関東部族の船の到来を待っても、それにはタイムリミットがあった。従って市で船の到着を待っていても、遡上期限になって塩を入手できない儘、重い米を持ち帰るしかない事態が頻発する様になった。

100㎞も離れた集落から市に来て、船の到来を待っていた稲作民が遂に塩を入手できずに、米を担いで帰るしかなくなると、その稲作民に同情した関東部族の漁民が、次回の優先購入権を与える為に宝貝を渡した。沖縄を経由して来た漁民は、宝貝などの貝を籠に入れて海中に吊るし、海上の携帯食にしていたから、揚子江を遡上して来た船に食べカスとして貝殻が散乱していた。

美しい貝殻を交易の資にするために、捨てずに持っていたのであれば、過去にもその様な者がいて、宝貝を持っていた稲作民が多数いる恐れがあり、その用途には不向きだったが、貝殻に商品価値があるとはだれも思っていなかったし、携帯食としては真水に変わる揚子江を遡上する前に、食べてしまう必要があった。しかしその漁民の船内に宝貝の貝殻が偶然落ちていたから、漁民はその用途に相応しいと判断し、塩を入手できずに取り残された者に、宝貝の貝殻を一つづつ渡した。その漁民は次の季節に、先頭を切って湖北省に遡上する予定はなかったが、漁民を先導する集団にそれを告げて置けば、次の季節に真っ先に遡上する漁民に、確実に申し送りする事が出来た。

次年度からそれが荊と関東部族の取り決めになり、宝貝を持参した者に優先購入権を認める事が慣例化すると、やがて稲作民の民族内で宝貝が貴重品になり、贈与の対象品になった。それが頻繁に行われる様になり、宝貝の価値が稲作民の間で認知されると、市の近くに住む者が取引の仲介を行う様になった。

仲介者と稲作民の間に信頼関係があれば、関東部族の指導集団がその仲介者に事前に宝貝を渡して置く事により、稲作民は持参したコメを仲介者に渡して宝貝を受け取ると、空手で帰還する利便性が生まれた。これによって次回の優先購入権を示していた宝貝が、入手権を示す物品に切り替わり、財貨と同等の物品になった。この制度は関東部族にもメリットがあり、翌年の一番船が未だ稲作民が市に集まっていない頃に、早々到着してしまっても、市の近くの者が預かっていたコメを積み込み、代わりに塩をその者に預ければ、その者が宝貝を持参した稲作民に後日塩を渡せば良かったから、市で塩を下ろすと即座にコメを積み込んで出港する事ができた。関東から渡来した漁民であっても、これによって1年に2回遡上できる様になった可能性もある。

これは関東部族の効率を高めたが、観光旅行の為に湖北省に出向いた漁民には、不要な効率化だったから、縄文前期にこの段階に至ったとすると、関東部族の交易が縄文中期の新しい交易とは別に、新しい宝貝貨の使用段階に入った事になり、その時期が問題になる。

この習俗が生まれると宝貝に兌換性が与えられ、財貨と同じ価値を得た事になり、宝貝の貨幣化の第一段階が完了した事になる。これを現代的に言えば、宝貝の貨幣化は塩による兌換性が付与された段階に発展した。この段階になると、関東部族としては誰が何時塩を入手できるのかという、優先順位に関する混乱した状況に直面する事がなくなり、塩を運び上げた漁民に問題解決能力がなくても、課題から回避する事ができる様になった。市の近くにいた信用できる稲作民が仲介した宝貝が、塩の入手権の証拠になったからだ。

これによって入れ替わり立ち代わり遡上してくる漁民が、紛糾した事態に介入する必要はなくなったから、関東部族の指導者としては、船の回転効率を上げる事の重大性より、塩の入手難に陥っていた故に紛糾し易かった稲作民同士の揉め事に、関東部族が介入する必要がなくなった事の方が、重大な成果になると考えていたのであれば、この方式は縄文前期の早い時期に採用され、貨幣化の第一段階を完了させた動機になる。貨幣の存在を知らなかったこの時代の稲作民は、全てを手探りで行っていたが、彼らも紛糾した事態の解決に、塩を運び上げてくれた漁民を巻き込む事に不合理性を感じ、申し訳ないと思ったのであれば、第一段階の貨幣化に積極的に賛同しただろう。その結果であれば、宝貝は通貨としての利便性を意図せずに、塩と等価の価値を持つ物品に変わった事になる。

仰韶文化圏にも採用された宝貝の有効性は、どの様なものだったのかを想定する事は難しいが、単なる優先購入権を示す物品では、塩の流通業者が墓に収めるほどの価値はないから、塩と同等の価値を持つことによって、稲作民からコメを入手する権利を持つ財貨としての価値があったから、墓に収められたとすると、縄文前期の内に貨幣化の第一弾が終了していた事になる。つまり仰韶文化圏での宝貝は、荊が青海湖の製塩業者や流通業者に渡し、宝貝とコメの交換を約束していたと考えられるから、宝貝は上記の様な過程を経て、縄文前期には貨幣化の第一段階を終了していたと考えられる。この事は仰韶文化を形成したY-Rにも、荊に類似した倫理観があったから、両者の信用経済が回転していた事を示している。

此処までの話で重要なのは、実用的な価値は全くない宝貝が、疑似貨幣化する過程では、荊の民族内の秩序感や信頼関係が堅牢な状態にあった事が基底にあり、その延長線上に海洋漁民と稲作民の信頼関係が必要だった事になる。それらを基底にして信用経済的な意識が構築されなければ、宝貝の疑似貨幣化は生れなかったと考えられるからだ。つまりそれを認めない者が、現物交換でなければ取引に応じない姿勢を示せば、宝貝は財貨としての社会的な認知は得られなかったが、信頼関係で物流や貸借が成り立っていた社会であれば、疑似貨幣化する事が出来た。

荊社会で宝貝が財貨としての認定を受ける為には、土木工事を行っていた集団の秩序が、その認定の社会化に大きな貢献を果たしたと考えられるが、指導層を形成していた貴族的な人々は、自分達の社会事情を良く知っていただろうから、荊の社会に上記の様な安定性がなければ、彼らも宝貝の貨幣化には慎重になっただろう。

現代社会では貨幣の存在は当たり前だが、まだ誰も貨幣を使っていなかった時代の出来事であるだけではなく、現代社会についても、貨幣の素材が貴金属から脱却できた歴史は数百年しかないのだから、異常な事態が発生した事は間違いなく、その理由は高度な物質文化の成果ではなく、高度な社会秩序を形成していた文明が偶然生み出した、稀な出来事だったと考えるべきだろう。

荊が持っていたこの様な民族性は、河川が氾濫して河道や稲作地の状態が乱れても、即座に復旧して翌年の稲作に間に合わせた組織力にあり、その様な組織力は高い倫理観の上に形成されていた事になる。過酷な労働を強制する場合、暴力や規則・罰則に依る強制、成果に応じて支払われる利益誘導型の強制、役割の分担を遂行させる倫理的な強制があるが、荊と関東部族は共に後者の倫理観を持っていたから、それが合致する事によって両者の関係が緊密になったと考えられる。

市の近くに企業集団的な組織が生れ、漁民から受け取る塩とコメの交換比率に利潤を乗せ、稲作民との交換比率を設定する仲介者として機能すれば、更に効率的な流通の仕組みになり、より高い利便性を得る事が出来た。産業革命以前の商業形態として、問屋制手工業が生れていたと言われるが、これは生産者から商品を安く仕入れ、集荷マージンを上乗せして小売販売者に転売する仕組みだから、塩とコメの交換に際しても、この様な仕組みが生まれても不思議ではない状態ではあった。

この方が経済合理性は格段に高かった筈だが、この様な状態が生れると漁民の決済と稲作民個々人の決済が分断され、漁民が渡す宝貝が荊の社会で貨幣化する状態に、至る道筋は生れなかったから、この状態に至らなかった事は明らかだ。関東部族と遭遇する前の荊はモノカルチャー社会に住む稲作民であって、交易や物流の概念は持っていなかった事になる。

古揚子江湾が健在で、荊自身が製塩していた時代もあった筈だが、この時代の塩の分配は、経済的な仕組みとして実行されていたのではなく、配給制だったからだと想定される。荊の社会がその様な体制だったとすれば、関東部族が持ち込んだ塩は荊の製塩者が作った塩ではなかった事を理由に、荊の貴族層がその流通には荊の組織は関与できないと考え、上記の様な流通が始まったから、宝貝の疑似貨幣化が生れたと考えられる。

従って縄文前期の仰韶文化遺跡に宝貝が遺された時代から、夏王朝が生れて宝貝貨の制度が確立するまでの1500年以上の間、現在では当たり前になっている中間利潤を得て資本を回転させる商業主義が、荊の社会には生れていなかった事になる。コメと塩の交換価値を船の積み荷の量に換算していた関東部族にも、この概念はなかったと想定される。つまり彼らの交易は必要な物資を必要な時期に交換する事によって成り立ち、交易利潤という商業的な概念は、持っていなかったと推測される。彼らのその様な交易から生まれた最初の価値概念は、交換する物品の価値は等価にする必要があるという、互恵意識だったと考えられ、湖北省の塩の価値と浙江省の塩の価値が異なっても、それは各場面で起こる価値観の相違だから、不合理な事態ではないと考えていた可能性がある。

シベリアで弓矢と獣骨を交換した場面でも、同様な認識によって交易が成立していたから、関東部族はシベリアに弓矢を送って獣骨を得ていたが、できるだけ多量の弓矢を送り、できるだけ多量の獣骨を得るという概念しかなかったから、シベリアから要求を受けて弓矢の増産に励んではいたが、増産に見合った獣骨の増量は期待していなかったのではなかろうか。それであっても個々の物品の価値は、需給関係によって自動的に決まるからだ。

しかし縄文後期の越と東南アジアの海洋民族は、原価と利潤の関係を理解し、交易活動を行っていたと考えられる。それを知らなければ海洋交易者の利潤は生れないからであり、特に東南アジアの海洋民族は商品開発に特化した越と、それをインド洋沿岸に持ち込んで交易する事により、交易利潤を得ていた海洋交易者に分かれていたから、両者にこの概念がなければ、交易が成立しなかったからだ。

現代人であれば当たり前の仕組や概念が、荊や関東部族に生まれていなかった事は、その様な交易形態を知らなかったと言えばそれまでだが、疑似的な貨幣経済が進展してもその様な認識が生れなかった事は、両者の民族性に依るものだったと考えざるを得ない。弓矢交易にはその仕組みが該当した筈だとの指摘があるかもしれないが、部族全員が一体となって弓矢の生産~獣骨の入手に至る全ての工程に対処し、獣骨を加工して漁具を製作し、それを使った漁労活動によって食糧を生産する事まで、全てを部族内で賄っていたから、仲介交易者としては必須の認識であっても、関東部族内では生れる必然性がなかった。このような認識を持っていた関東部族だったから、経済的には赤字であるある湖北省への塩の搬入も、荊から何らかの物品や知識が得られるのであれば、継続する意思を捨てなかったとも言えるのではなかろうか。

いずれにしても物品としては何の価値もない宝貝が、極めて特殊な事情が介在する事により、荊の社会で宝貝貨に進化したと考えざるを得ない。特に塩が一方的に不足していた場合に限り、宝貝の貨幣化が成立したと考えられる事に注目する必要がある。塩が十分にあれば塩が交換材になり、この様な制度は進化しなかったと考えられるからだ。つまり関東部族が運び上げる塩が供給の過半を占めながら、湖北省では慢性的に塩不足の状態が続き、稲作民は関東部族から個人的に直接塩を入手する状態を続け、仲介者はそれを単に仲介しただけだったから、この様な制度が慣習化したと推測される。夏王朝が生れると初代の首班(后)に就任した禹が、製塩業者の棟梁だった事は、荊がこの認識を夏王朝期まで継承していた事を示唆し、夏王朝を樹立した当初の目的は、塩を兌換材とする宝貝貨の運用を、円滑に実施する為だった事を示唆している。誤解がない様に付記すると、夏王朝は統治実態ではなく合議の場だったから、禹は夏王朝に参加した諸民族の代表を集め、会議を開催して議長を務め、決まった事を公示しただけであって、荊を統治したのではない。禹が夏王朝の初代の王になったという認識は、史記が捏造した歴史観に過ぎない。

縄文中期になると東シナ海は安徽省に後退し、湖北省の荊は塩の入手先を、関東部族に一本化する状態になっていたが、気候の寒冷化によって陝西省や河南省南部にいた稲作民も湖北省に南下し、湖北省の人口密度が高まったと想定される。土木作業の組織化を完了していた荊は、その活用方法を改善する事により、人口密度の高まりに対応したと考えられるからだ。具体的に言えば、従来は入植が不可能だと考えられていた洪水多発地域にも、土木工事の高度化によって対応できる状態を徐々に実現し、関東部族の船を活用して湖南省にも入植し、揚子江中流域の人口密度を高めたと想定される。その様な状態が生れていなければ、浙江省に華麗な良渚文化は生れなかっただろうし、縄文後期に河南省東部と山東省西部に跨る、黄河が生み出した広大な低湿地に入植した荊が、高度な統治機構を実現して宝貝の貨幣制度を整備し、漢字文化を樹立した事に繋がらないからだ。

宝貝貨の制度化の観点から見ると、湖北省の稲作民の人口が増え、上記の状態が安定的に進化したから、宝貝を入手しても塩の入手を待つ稲作民が頻出する状態が、長期間継続したと考えられる。その間に稲作民の手持ちの宝貝が次第に増える状態が進行したから、他の物品の流通にも転用される様になり、貨幣化が進展したと考えられるからだ。その背景には宝貝一つで交換できる塩の量が、例えば製塩壺一つ分であるという様な、厳格な交換レートがあった事と、入手できる塩の量が限定され、他人の分までは備蓄できない状態が継続している必要があった。言い換えると彼らはそれなりの数の宝貝は持っていたが、塩は十分に持っていなかったから、宝貝を貨幣化する事は出来たが、塩を流通媒体にする気にはならないという状態が、長期間続いていたと想定される。また荊の土木工事の為の組織的が、窮屈な湖北省で稲作地を拡大する為に土木技術力を高め、それに伴って統治機構が進化すると、塩の流通が次第に配給的になり、皆が一様に塩の不足に苦しむ状態が続いていたと想定される。

それを分かり易く現代的に言えば、共産主義体制下のソ連の様に、人々は賃金を得て購買力はあったが、物品の生産力は向上しなかったので慢性的な物不足に陥り、配給が始まると長い行列ができる様な状態が、縄文中期の荊の稲作民の、塩の入手に関わる一般的な状態だったとすれば、宝貝貨を貨幣化する習俗に結び付いた。それを縄文前期の荊の事情に焼き直すと、稲作の生産性が高まってコメは十分にあったが、塩の配給には並ばなければならない状況が生れ、配給所では塩は宝貝と交換されていたとすると、宝貝貨が普及し易い環境を生み出していた。

この様な荊社会の窮状を緩和するため、関東から新たな運送者として沖縄に常駐する漁民が募集されたが、縄文後期にこの混乱が収まって沖縄常駐の必要性が失われると、大勢は関東に帰還したが一部が残留し、沖縄人の祖先の一部になったとすると、現在の沖縄人の遺伝子分布と整合する。当初は数年の駐在だったかもしれないが、それでは足りなくなると長期駐在者が生まれ、一部が永住者になったと想定される。

この様な人員増強を実施する為には根拠が必要になったが、それについては後段で説明し、宝貝の貨幣化に関する事情を更に検証する。

宝貝の主要な用途が塩とコメの交換に使う状態に留まっていれば、貨幣化の条件を完全に満たしたとは言えず、宝貝が多量に出回っていても、慢性的に塩が不足する状態が継続して皆が宝貝を握りしめ、塩の入荷を待つ状態が長く続く必要があった。塩にはそれ自体に価値がある上に、保存性や秤量性が高いから、塩が流通媒体になる事は自然な状態だから、塩が潤沢に出回れば西欧人が報酬をサラリーと云う様に、塩そのものが流通媒体になってしまったからだ。

塩を潤沢に入手できなくても、コメが潤沢にあれば人々は多数の宝貝貨を手にする事ができたから、コメを退蔵できる富裕者はそれを貨幣として使う事が出来たが、使う場も必要だった。塩の流通を除外すれば、荊は自給自足的な稲作民族だったから、その状態では幾ら宝貝貨を持っていても使う場がなかったから、荊の社会で宝貝貨が流通する為には、交換経済が活性化する必要があったが、海洋民族の様に食料を交換する習俗はなかった筈だから、荊の内需に関わる産業的な生産物が、荊之社会内に存在する必要があった。

荊が関東部族に求めたのは塩の搬入であり、塩は慢性的に不足していたから、関東部族が塩以外の物品を持ち込む事を歓迎しなかっただろう。縄文中期の荊は関東部族以外の民族とは交易していなかったから、荊の社会で宝貝貨が流通する為には、荊の社会の内部で流通する内需産業が必要だった。荊の社会にその様な産業が興り、内需経済が回転した事に疑念があっても当然だから、それについて検証する必要がある。

良渚文化は4500年前に洪水によって消滅したが、4000年~2700年前(縄文後期~晩期)の上海市域から、良渚文化の後継文化が存在した事を示す遺物が出土するので、それを馬橋文化と呼んでいる。上海市域は良渚文化期には良渚文化圏だったから、馬橋文化の遺物は良渚文化層の上層に遺され、出土する土器は縄文土器と区別が付かないほどに類似しているので、上海市域が過疎化した縄文後期に、関東部族の縄文人が此処で何らかの作業を行った事を示唆している。

それを探る情報には以下の様なものがある。

縄文後期以降の宝貝貨は全て穴が開けられているので、その実用性については、紐を通して束ねる為だったとの見解があるが、貝貨が壊れてしまう様な加工を使用者が行った筈はないので、流通する前に穴が開けられていた事は間違いない。紐を通して束ねる為だけの理由で、発行者が流通前の宝貝にわざわざ穴を開ける事に、信憑性があるとは考え難い。

宝貝にわざわざ穴を開けた目的が、製塩土器一つの塩と等価だった従前の宝貝と、少額貨幣化して使い易くした宝貝を区別する為だったすると、整合性がある説明が可能になる。縄文後期は宝貝貨が制度化された時期だから、その時期の宝貝貨の需要が膨大であっても不思議ではないが、宝貝貨一つの価値が製塩土器一つの塩と等価だったとすると、貨幣として普及するには高額であり過ぎたから、少額貨幣を作る必要があった。その結果として選択された手段が、同じ宝貝を使うが穴を開けて部分的に削除、或いは棄損した宝貝だったとすると、選択肢としての違和感はない。

宝貝貨を供給していた関東部族がその作業を引き受けたから、上海の馬橋に作業場を設け、其処に関東縄文人が常駐してその作業に当たったとすると、馬橋遺跡が運営された時期とこの加工を必要とした時期が一致するだけではなく、馬橋遺跡に縄文土器が残された理由も明らかになる。それだけではなく、縄文後期~晩期の縄文土器に注口土器が多数含まれたが、それはこの時代の荊の土器の一つの形式だったから、馬橋に移住した縄文人女性が作業の傍らで、荊風土器の製作に習熟してその技術を日本に持ち帰り、縄文土器として形状が進化した疑いが濃いから、この仮説に状況証拠を提供する。また少額貨幣化させる宝貝に穴を開け、貝殻を壊さずに成功したものだけを流通させたとすると、流通に必要な数を供給者の責任で揃える作業になり、古代人でも容易に気付く経済合理性がある。

また宝貝貨の発生経緯からから考えると、その流通単位は製塩土器一壺とする事に合理性があり、それを複数の宝貝で代用する事には経済合理性がない。しかしそれでは稲作民族の庶民にとっては、容易に使う事が出来ない高額貨幣だった事は間違いないだろう。その3で詳しく検証するが、縄文中期の関東部族は高額貨幣としてヒスイ加工品を使い、低額貨幣として矢尻の製作欠損品を使っていたと考えられるので、関東部族のこの経験が宝貝貨にも適用されたとすると、驚くほどの類似性を見出す事ができる。関東部族がこれを提案したとすると、穴あき宝貝貨の供給責任を関東部族が負う事は必然的な結果だった。

つまり縄文中期の浙江省での宝貝貨一つの価値は、製塩土器一壺の塩に相当したから、宝貝貨の発行者が事前に宝貝に穴を開けて棄損し、使用者が従来の高価な宝貝貨に復元できない状態で流通させていた事と、その宝貝貨の発行主体は夏王朝の前駆的な政権だったかもしれないが、その政権に宝貝貨の現物を支給したのは関東部族だった可能性が高い。

以上を纏めると、宝貝という如何わしい物品が塩の代用としての流通媒体になるためには、関東部族が宝貝と塩の交換を保証する必要があったが、その条件は満たされていた。宝貝の機能が優先予約権から実物の交換権に転換する際に、交換価値として宝貝一つを土器一壺と等価としたので、それが湖北省の荊社会に浸透した。これによって貨幣化の第一段階が完了したが、塩が慢性的に不足する時期が長期間続き、その期間は皆が塩を必需品として退蔵したから、塩を交換媒体にする人は稀だったが、皆が数個の宝貝を握り締めながら塩の到着を待っていた。しかしコメを多量に保有していた富裕者の間では、塩との兌換性を保証された宝貝が、塩と交換する物品だったコメの代わりとして流通したから、宝貝を貨幣の様に使う様になった。富裕者がその便利さに慣れて習俗化すると、塩の供給がある程度潤沢になっても、宝貝を流通媒体とする習俗は残ったと考えられる。その様な富裕者が登場する為には、縄文中期の湖北省でコメの生産性が高まる必要があったが、これは後世の荊の活動成果から肯定される。

またモノカルチャー社会を形成していた稲作民族が、貨幣の流通を活性化させる為には、荊の社会が産業化している必要があったが、縄文中期に卵殻黒陶の製作に至った状況や、屈家嶺文化期の遺跡から煉瓦や紡錘車が発掘されている事から、それについても証拠が発掘されていると言える。

またこの様に考えなければ、経済法則的にも宝貝貨の成立は論証できない。

現代の紙幣やコインには政府という強力な保証人がいるから、価値のない物品である紙幣や貨幣が流通媒体になっているが、民族社会を包括的に統治する権力者がいたとは考え難い、縄文前期~中期の話である事に留意する必要がある。稲作地を洪水から復旧させる権力は、縄文早期には生れていたと考えられるが、その人物が経済活動まで統括したとか、経済を統制する能力があったとは考え難いからだ。

土木工事に限らない特定分野の権力者とか、暴力的な権威主義集団とかがあって関東部族との交易権を占有し、コメと塩の交換業者になってしまえば、宝貝が貨幣化する事はなかった。その集団が湖北省全域を統括したのではなく、地域集団に分かれていたとしても、宝貝が貨幣化する事はなかっただろう。しかし事態はその逆だったから、宝貝貨が生れた事になる。つまり皆が等しく塩を得る機会はあったが、配給制によって個人の取得量が制限されていたから、宝貝が貨幣になったと推測される。配給制が成立するためには、荊の習俗にそのための仕組みと、それを支える倫理観が備わっていなければならなかったが、荊の社会はそれを満たしていた事になる。

宝貝貨の制度化は荊が独自に行ったのではなく、荊と関東部族の合作だったが、その様な両者に必要な倫理として、双方の民族内に、互いを信用し合う雰囲気が充満し、私利私欲を追及したり抜け駆けをしたりする者がいなかった事が、必要条件になる。関東部族の漁民は沖縄で幾らでも宝貝を採取できたから、彼らにはそれを許さない秩序があった事は当然として、関東部族の漁民にそれ以外の、たとえ無意識裏ではあっても攪乱的な行動があれば、荊は宝貝の使用者として被害を受けたが、荊は関東部族の漁民を信用していたから、宝貝の貨幣化が実現したと言えるだろう。

その様な荊にとっては、漁民を信用する以前に自身が互いを信じ合える秩序認識を持っていなければ、この仕組みは生まれなかった。古代人を野蛮な人達だったと貶める人達に、この様な崇高な精神はあるのだろうか。中華でも日本でも、この様な文化を破壊したのは王朝の特徴である、利権を巡る権力闘争とそれに付随する嘘だった事は間違いない。

湖北省に孤立していた荊には、関東部族以外には交易相手はなかったが、各地の多様な民族と接していた関東部族の漁民は、荊と交流する事によって初めて感性を共有できる異民族に出逢ったと感じたのだろう。沖縄に移住してでも荊の役に立ちたいと思う漁民が登場したのも、その様な背景があったからだと想定される。

荊が宝貝貨を便利に使っている事を聞き知った、各地の異民族が宝貝の貨幣化を模倣したかもしれないが、その制度が千年も続く成功例はなかった。

荊が宝貝の貨幣化に成功する為の必要な条件として、荊社会の産業化が進展した事も検証する必要がある。宝貝の貨幣化よって流通革命が起こり、産業化が進展して多数の商品が生まれると、それが関東部族の塩と交換できる商品になった事は当然として、それが両者の経済的な絆を形成しながら宝貝貨の流通を促進し、異次元の交易関係を形成したからだ。

権力者やその取り巻きの貴族達だけが余剰の宝貝を持っていても、宝貝を貨幣の様に使う富裕者が多数生れる社会は生れない。自給自足的な農民を権力者が統治する社会では、貨幣は必ずしも必要なものではなかったからだ。財貨の価値は商品が流通する中で、交換価値として生まれたものだから、頻繁な交換がなければ物品と通貨の交換レートが生れず、物々交換より高い利便性を証明する事が出来ないからだ。その様な状態で何の価値もない通貨を、人々が蓄える気になるとは考えられない。つまり貴金属を財貨とする概念も交易社会が形成した価値観であって、農耕社会の権力者は貴金属の交換価値が定まった後でそれを蓄財し、武力を養って権力を装飾しただけであると考える必要がある。

社会が産業化すると商品を生産する人や、その原材料を調達する人が生れて物流が活性化するから、それによって宝貝貨を使う習俗が広がり、宝貝の貨幣化が完成したと考えられる。荊の社会がこの段階に至らなければ、湖北省に塩を運び上げていた関東部族の、経済的な片務性は解消されなかった。

つまり荊の社会に健全な経済活動が生まれ、特産品が次々に生まれる状態になったから、関東部族の経済的な片務性が解消されたと考えられる。しかし関東部族がそれを期待して、宝貝の貨幣化に協力したと考える事は、明らかに考え過ぎになるだろう。いずれにしてもこの経済活動を推進していた関東部族の南方派は、荊社会が産業化する事に依って、関東から多数の漁民を沖縄に移住させる事が可能になり、湖北省に塩を運び上げる体制の強化に邁進した結果が、現在の沖縄人に遺されている多数の関東部族的な遺伝子であると考えられる。

荊社会の産業化は荊自身が主体的に活動しなければ実現しなかったから、荊の人々が塩の入手状況の片務性に気付き、その改善に取り組んだ結果だったとも言える。縄文前期のその様な成果の一端が、浙江省の崧沢文化圏から発掘された精巧な黒陶や、仰韶文化圏で発掘された彩陶だった。これは遺物として残る物品だから考古学的な注目を集めるが、遺物として遺らない木工品や繊維製品も色々作られたと想定される。漢方薬などのルーツも、この時代に遡るものがあっても不思議ではない。いずれにしても荊の商品は、価値に対して軽量である事が必要だったから、荊が興した産業の特徴は奢侈品の製造になった。ロクロの使用なども、この文脈から捉える必要がある。

必要は発明の母という観点で考えれば、塩を得るために交易が必要になった荊は、縄文人が形成していた交易経済に参加する必要を自覚し、新しい商品を積極的に編み出したと推測される。荊社会が産業化すると、関東部族がそれを積極的に支援する為に、主要な交易品として販路を開拓すると、その成果を得た関東部族は望外の恩恵を得たが、その成果が縄文中期に現れたから、それを背景に多数の関東漁民が沖縄に移住したと考えられる。この結果関東部族は荊を関東縄文人と同格の人々であると認識し、関東部族的な共生経済の枠組の中で、荊の交易品開発力にも期待する様になったと想定される。

荊の文化力の高さは、揚子江の洪水に長い間痛めつけられながら、それに対処する過程で身に付けた集団の秩序と、それによって生まれた豊かな社会が形成した高度な倫理観であり、それに付随する根源的な要素として、荊も関東部族も努力すれば報われる環境で、経済的な社会を形成した集団だったが、現在の状況から荊を評価する物差しを求めると、彼らの政治的な状態は全て抹殺されているから、彼らが生み出した産業力しかない。

この論拠は、同時代の他民族との比較から明らかになる。洪水に苦しめられていた点で類似の状況があったエジプトでは、強大な王権がピラミッドや神殿を作ったが、荊の文化はそれとは異なっていた。洪水の被害を受ける度に復旧した広大な湿田が、権力の成果を十分に誇示していたから、権力の装飾として壮大な建造物を多数作る必要はなかったからだ。エジプトのピラミッドや神殿には建造納期はなく、権力を誇示する為に時間を掛ける事が出来たし、時間を掛ける事が権力の誇示にもなったが、湿田の復旧には翌年の播種に間に合わせる納期があり、時間を掛けている余裕はなかった。しかしその実現の為に、信用と秩序を重視する倫理感の形成に努めたから、湖北省時代の荊の文化力は無形文化だった。荊社会の産業化によってそれが顕在化したから、黒陶から始まって現在の磁器に至る高度な製陶文化を生み出したが、最も特徴的な遺物は、王朝が変わっても千年以上続いた、宝貝貨の発明と制度化だったと言っても過言ではないだろう。関東部族はその手助けはしたが、荊に強い意志がなければ到底実現するものではなかったからだ。

洪水に悩まされた点ではエジプトと湖北省は共通していたが、エジプトではナイル川の氾濫が引くと元の農地の所有権が問題になったが、河川の流路が一定せずに氾濫を繰り返していた湖北省では、氾濫は不意に起こり、水が引いても水路を伴う農地は復元できなかった。その結果として新たに稲作地を形成した場合、稲作地の範囲は従前とは異なったし、時には村落を移動して新たな農地を形成する必要もあったから、湿田の配分は一からやり直す必要があっただろう。その様な状況では稲作地を復旧して新たに造成しても、稲作地はその都度再配分しなければならなかったから、農民特有の習俗である農地の所有争いは、生まれる余地がなかった。この状態が1万年近く続いた事が、荊の文化を特異なものにしたと考えられる。

新しい稲作地の配分には復旧作業への貢献度が重視されたから、永続的な所有権を虚構的に生み出す必要はなかったし、それを主張する根拠もなかったからだ。むしろ明日は我が身であると考えた隣村が、復興時に共助する習俗が生まれた事も容易に想定されるから、その様な互助関係が民族全体の統合意識を高めただろう。その様な統合意識は地域自治意識を弱め、湖北省全体の稲作民が同じ価値観や倫理観を共有する方向に、荊の習俗を進化させたと想定される。その結果として、既に地域政権が生れていても緩やかな連帯を持ってそれらが繋がり、湖北省全体を統括する上位組織を生み出す事も、必然的な結果だったと考えられる。

現在の中華民族には自治意識が欠如している事により、民主主義的な政体が生れないと指摘されてはいるが、その原因が明らかにならない状態で、民主主義諸国から彼らの国家観の在り方が懸念されている。春秋時代までの中華文明を牽引していた荊のこの特徴は、王朝期に倫理観を破壊され、自治意識の欠如は矯正される事なく現在に至っているから、それが民主主義諸国の懸念の最大の原因である疑いが濃い。

荊の古代社会は極めて共産主義的な社会だったから、その民族性が現在まで維持されているとすれば、荊の子孫が無意識裏に、共産主義を支持する原初的な思想基盤を温存している可能性がある。その様な荊の子孫の理想が、古代の原始共産制に向かったとしても、権力闘争文化を基調とする華北のアワ栽培者の子孫と、共存する国家を形成すれば、共産主義の権力闘争的な側面が噴出し、彼らが目指す原始共産主義的な社会は、永久に生まれないと断言できるだろう。現代日本人には縄文人的な発想が色濃く残り、それが日本人の民族性にもなっているから、河南の稲作者の子孫も同様であると想定されるからだ。

荊の指導者の統制力には高度な能力の裏打ちがあり、その指導の下に、時には万単位の人々が一斉に作業したから、海洋民族には到底及ばない高度な統制力と、それを可能にする倫理観や統治手法があっただろう。関東部族にとってそれを荊から学ぶことは極めて有益だったから、関東部族の南方派の統治認識に大きな影響を与えた可能性が高く、経済活動の成熟期の項で検証する必要がある。

荊社会の産業化の進展を追跡すると、仰韶文化期の彩陶や浙江省の崧沢文化の黒陶が、荊の製陶技能の高さを示している。縄文前期後半の崧沢文化期の浙江省に、精巧な黒陶が出回った事は、荊が塩の代価となる商品として黒陶を生み出したからだと推測される。黒陶は良渚文化期の遺跡でも発掘されるが、良渚文化圏で最も価値がある物品は、透閃石岩から製作される玉器に変わったから、荊と関東部族は新たな交易を探す必要に迫られた。

浙江省のこの変化は、浙江省の稲作民に対する北陸部族の交易活動が活発化した事を示しているが、浙江省の稲作民族の母体は堅果類の栽培者だったから、彼らの文化にも土器は女性が作るものであるとの認識が強くあり、土器文化の高度化には積極的になれない背景があったから、浙江省の稲作民には黒陶を積極的に受け入れる意思はなかった可能性が高い。

縄文中期に生まれた華北の龍山文化圏から、精緻な黒陶が多数発掘されている事は、商品としての行き場を失った黒陶の販路を、関東部族が龍山文化圏に見出した事を示している。縄文中期と重なる大汶口文化期中期以降の遺跡から、黒陶とは異なる意匠の精巧な土器が発掘されるが、これも荊が作成した土器を関東部族が販売したものである可能性が高い。交易活動が低調な栽培系狩猟民族の文化圏で、縄文中期から一斉に精巧な土器が発掘される事は、偶然の一致ではなく交易活動の結果であると解釈する必要があるからだ。

関東部族がこの販路を開拓したのは、アワを栽培していた栽培系狩猟民族から、獣骨を回収する為だったと考えられる。これによって関東部族の南方派も、獣骨調達力を高める事が可能になったから、それが関東の漁民が沖縄に多数移住する動機を生んだと想定される。この販路で交易された物品は黒陶だけではなく、荊の文化力と産業力を示す各種の商品だったと想定されるが、遺物としては黒陶しか遺っていないと考える必要がある。

荊は縄文前期の仰韶文化圏にも精巧な彩陶を出荷したが、崧沢文化期の黒陶の意匠はそれとは全く異なっている。この違いが生まれたのは、荊は相手民族の好みに合わせて商品を製作する、産業社会的な感覚を既に身に着けていたからだと考えられる。その様な荊の高級土器には民族独自の形状はなく、顧客の要望に応じるために技術力の高度化を目指したから、仰韶文化を担っていた人々と縄文中期に疎遠になり、良渚文化圏の富裕者の購買力も期待できなくなると、華北のアワ栽培者の購買力を刺激するための技術の向上を急ぎ、卵の殻の様に薄い卵殻黒陶の域まで達した事になる。

関東部族の南方派の盛衰が、荊の商品開発力に依存する様になると、荊の産業力の向上に大いに期待しただろう。その期待の表明が縄文後期の、宝貝貨の制度化に対する万全の支援だった可能性は高い。縄文中期に弓矢の増産が実現すると、シベリア産の獣骨の調達コストが相対的に高まっていたが、縄文中期末に青銅器が普及し始めると、黒曜石の矢尻を装着した弓矢の価値が崩壊したから、荊の商品を展開して華北から獣骨を集める事業を展開していた事は、関東部族全体にとっても望外の幸運だったからだ。

武漢郊外の屈家嶺遺跡から紡錘車が発掘された事は、荊は黒陶だけではなく何らかの繊維を使った布も、生産していた事を示している。何から繊維を得ていたのか分からないが、「紵=いちび」「苧=からむし」などの漢字1字で表す草本が、荊の栽培種だった可能性が高い。荊は海洋民族の交易社会に早い時期から属していたから、この植生の起源を湖北省に求める必要はないが、敢えて探しても特定できる証拠は見付かっていない。いずれにしても古事記に、古事記の著者は記したくなかった倭人時代の名称が、「呉服(くれはとり)」として敢えて挙げられているのは、荊の分派だった呉が、織布や縫製に高い技術力を有していた事を示しているから、荊の布が著名な商品になっていたと考えられる。弥生時代の荊の特産品は高級な絹布だったと考えられるが、縄文時代に織布技術高めた繊維は他のものだったと考えられる。

薬草や象牙なども荊の特産品になった可能性が高く、象牙は漁具の素材になるから、関東部族には望ましい交易品だったと推測される。日本の薬草に華南起源の草本が多いのも、この機縁に依るものだった可能性がある。荊が形成した産業社会は新商品を次々に生み出したが、その販売は関東部族が一手に引き受けていたから、受動的な産業化でもあった。漢王朝以降の中華社会が交易的には閉鎖社会になったのも、荊のその様な産業構造や民族精神に起因していた可能性がある。

 

1-2-5 縄文後期後半に関東に入植した漢族のmt-D+M8a

漢族のmt-D+M8aが渡来したのは縄文後期後半だったから、この項で扱う時代より後の事になるが、栽培者として渡来した最後の女性達だったので、受け入れた関東部族の事情はこの項で検証し、彼女達に渡来を決意させた大陸の事情は経済活動の成熟期の項で検証する。

縄文後期温暖期になると関東部族は稲作地を求めて西日本に拡散し、後世の倭人地域でもmt-Fが温帯ジャポニカを栽培し、山間の盆地や台地の河川流域でmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培したが、温暖期が終了すると、稲作者が嘗て経験した事がない冷涼な縄文晩期寒冷期になった。温帯ジャポニカは縄文後期温暖期に主要な稲作に躍り出たが、短日性が強かった事が災いして縄文晩期に収穫が激減した。ドングリを食べる事から解放されていた関東部族の漁民は、穀物不足を補うために華北からアワの栽培者を招いた。華北のアワ栽培者には純粋なmt-Dである殷人と、mt-D+M8aだった漢族がいたが、関東縄文人からmt-M8aが複数体発掘されているから、渡来したのは漢族の女性だったと考えられる。多数の女性が関東への渡来を決意した理由は、夏王朝が崩壊して漢族が危機に見舞われたからである可能性が高い。

漢族の祖先は山東で大汶口文化を形成し、縄文中期にmt-Dの浸潤を受けてアワ栽培者のmt-D+M8aになると、経済的に豊かになって関東部族や北陸部族の交易相手になったが、縄文中期末に殷人に侵略されて大汶口文化は終焉し、山東は殷人が支配する山東龍山文化期になった。

山東がこの様な状態になったのは、縄文中期初頭までは河南省と山東省は海で隔てられていたが、その海は黄河が形成した沖積土に覆われ、縄文中期に陸橋が形成されたからだ。この陸橋は中期初頭にはmt-Dの浸潤に役立つ程度だったものが、縄文中期に徐々に拡大し、中期後半には多数の殷人に山東への侵入を許したから、山東は殷人が支配する地域になった。

縄文後期温暖期になると、黄河が形成した広大な低湿地に荊が入植したから、山東も荊文化の影響を受けて文明化し始めた。それが漢族にどの程度の自由を与えたのかは明らかではないが、竹書紀年には夏王朝に帰属する集団があった事を示唆する記述がある。

しかし縄文後期温暖期が終焉に近付き、気候が冷涼化していくと、荊は揚子江の下流域に形成された低湿地に南下してしまったから、夏王朝が黄河下流の低湿地に形成した秩序は、殷人の暴力によって失われた。これに危機を感じた漢族のmt-D+M8aが関東に多数渡来した事を、関東縄文人の遺体に含まれるmt-D+M8aが示している。関東縄文人に占めるmt-D+M8a2割もあり、mt-F2倍も検出されているから、高台にあったアワ栽培者の痕跡は残り易かった事を考慮しても、多数の漢族女性が渡来した事を示している。

mt-D+M8aが関東縄文人に多数含まれている事は、アワを栽培する北陸部族の女性達が、縄文中期に群馬や秩父の山間地に南下して焼畑農耕をしていたのに、このmt-D+M8aを無視して華北から漢族女性達を招いた事になり、北陸部族と関東部族の経済的な確執は縄文後・晩期になっても継続し、日本の海洋民族全体が強い部族意識を堅持していた事を示唆している。

関東に渡来したmt-D+M8aは焼畑農耕を知らなかったから、他の手段でアワを栽培したと想定される。しかしその生産性は焼畑農耕には遥かに及ばなかったから、彼女達は日本列島の他の地域に拡散する事はなく、ローカルなアワ栽培者に留まった。現代日本人のmt-M8a比率は1.4%しかなく、それが全て古墳時代に帰化した漢族の遺伝子であるとしても、漢族のY-O3系遺伝子から期待される2%より少ないから、関東に渡来したmt-D+M8aを起源とするものではないと考えられるからだ。しかしmt-M8aの栽培種だった里芋は、現在の千葉県で盛んに栽培されているから、安房は彼女達がアワを栽培した事を示す地名であると考えられる。

現代日本人のmt-F比率も関東縄文人の半分しかない事は、mt-B4が日本式の耐寒性が高い稲作を縄文晩期寒冷期に開発し、弥生時代の水田稲作の主導権がmt-B4に移行すると、mt-B4が部族に拘わらず、その稲作技術を日本中に拡散したからだと想定される。それ故にmt-Fは温帯ジャポニカの技術者として渡来したにも拘らず、昭和の時代まで温帯ジャポニカを主食にしていた現代日本人の5%しかいない。mt-B4は浸潤によって稲作を広めるのではなく、部族の隔たりを越えて交易的に稲作技術を拡散したから、現代日本人には縄文人由来の多様な遺伝子が残っていると考えられる。

弥生時代は鉄器時代になり始めた時代で、男性達が鉄器で製作された木製農具を交易的に入手し、稲作地を人工的に拡大したから、女性達が得意としていた自然地形を利用する技能が陳腐化し、ミトコンドリア遺伝子に関わらずに稲作を行う事ができる様になった。関東のmt-B4はその流れを察知し、稲作の普及活動を展開したと考えられるが、その膝元の関東にいたmt-D+M8aが稲作者にならなかったのは、mt-Dの性格が露呈したからである可能性が高い。

mt-Dは他の女性に浸潤してその栽培技術を獲得する事は得意だったが、その機会がない状況では、頭を下げて教えて貰う事には積極的ではなく、むしろ排他的な集団を形成したと推測され、それが災いして集落にmt-B4を受け入れなかった可能性もある。また関東のmt-B4もフィリッピンの海洋民族になっていたmt-B4の様に、mt-Dを避けていた疑いもある。

アワは弥生時代以降も重要な穀物であり続けたが、mt-B4が稲作を普及させた結果として、日本の穀物市場が単一市場化すると、関東に入植したmt-D+M8aは焼畑農耕者と生産性を競う事になった。安房は山間地が多い地域だから、弥生時代に稲作の生産性が高まると、関東に渡来したmt-D+M8aの栽培地が安房に集約された事を示している。

漢族が持ち込んだアワであっても、温暖な地域の方が生産性は高かったから、関東で最も温暖な地域である南房総にアワの栽培者が集まった様に見えるが、アワは栽培期間が4か月未満なので、夏の温暖な気候を求めるのであれば、夏になると猛暑に襲われる内陸の方が栽培に適している。縄文中期寒冷期に群馬や秩父に南下したアワ栽培者も、北関東のその様な特徴に目を付けたからである可能性が高く、現在でも西日本より北関東の方が夏の猛暑日は多い事が、その事情を示している。

mt-D+M8aが南房総に集まったのは、他の作物との二毛作を行う事により、生産性の低さを補ったからである可能性が高い。大豆の早生種として栽培される枝豆も、元々短日性がある大豆から短日性を失わせた種であるが、アワと大豆は中華でも栽培されていたから、安房に集まったmt-D+M8aは早生大豆と晩熟アワの二毛作を行い、アワの生産性が劣る状態を補填していた可能性もある。大豆は縄文中期の関東で栽培化された可能性が高いが、大陸の気温の昇降は海洋性気候の関東より一か月早いから、関東で栽培化された大豆を華北に持ち込むと、短日性が邪魔になって収穫に支障が生れたと想定される。その対策として短日性が失われた大豆が、大陸で生まれた可能性があるから、mt-D+M8aが華北からその種を持ち込んだのであれば、彼女達特有の栽培手法として、アワと大豆の二毛作を生み出していた可能性があるからだ。その結果として安房の地名を遺したとすれば、納得性はあるが証拠はない。

mt-M8aは里芋を栽培していた可能性が高く、千葉県は里芋の出荷量が宮崎県に次いで全国2位だから、現在の里芋の産地も縄文晩期~弥生時代にmt-Dが入植した地域だった可能性がある。関東に渡来する積りで渡来したが、北九州に留まったmt-D+M8aが多数いたからだ。従ってmt-D+M8aはアワ栽培の傍らで、里芋を栽培していた可能性は当然ある。但し里芋は4月から11月まで畑を占有するから二毛作はできない。それであればmt-D+M8aが安房に執着した理由は、里芋の栽培期間である4月から11月まで温暖な気候が続き、生産性が高まる房総半島に執着したからである可能性もある。つまり房総半島のmt-D+M8aは里芋、大豆、アワを輪作し、里芋や大豆はmt-D+M8aが自家消費し、アワを流通市場に供出したから、南房総が安房と呼ばれる様になった可能性もある。

 

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