縄文人の活動期(縄文時代早期後半、前期、中期) その1

8千年前に海面上昇が停止し、縄文海進の時代になった。弓矢産業が興隆する一方で華南の稲作民族との交易も進行し、温帯ジャポニカの栽培者が渡来した。

 

目次

その1 

1、  縄文時代の東アジア諸民族

その2

2、  日本に渡来した女性技能者達

 その3

2、   海洋民族になった縄文人の活動

3、   海洋民族の交易活動

4、   縄文時代の人口推定

 

1、日本人のミトコンドリア遺伝子分布から、縄文人の活動歴を読み解く

縄文時代初頭の日本人のY遺伝子は、原日本人のY-D、原縄文人のY-O2b1Y-C1Y-O3a2a2、狩猟民のY-C3で、この構成は縄文時代を通して変わらなかった。依然として多数派を占めていた漁民が縄文経済を主導し、原日本人由来の部族制を維持したので、縄文人は共生する漁民の部族に属し、狩猟民族は独自の部族を形成していた。各民族は氷期から続く伝統的な生業を維持し、生産物を交換しながら経済活動を活性化していたが、通婚もしたから、Y遺伝子が示す民族は生業が異なる生産集団に変質した。

海進後の日本列島は海に囲まれた孤島になり、海洋船がなければ大陸と往来できなくなったが、石器時代人には波浪や海流がある海を船で移動する事は難しかったから、縄文時代の東アジアで海洋船を運用したのは原日本人系譜の漁民と、彼らから海洋技能を習得した、ツングースと台湾起源の海洋民族しかいなかった。従って縄文時代に導入した大陸文化は、原日本人系譜の交易者が選択的に取り込んだものしかなく、大陸民族の移住によって持ち込まれる事はなかった。取り込んだ大陸文化は色々あった筈だが、現代日本人や縄文人のミトコンドリア遺伝子から確認できるのは、多数の女性によって持ち込まれた代表的なものしかない。しかしそれらを明らかにする事により、縄文時代の歴史の流れが検証できる。

縄文草創期の関東部族のミトコンドリア遺伝子は、原日本人のmt-N9bだけだったが、縄文早期に縄文人がmt-M7aを伴って関東に移住し、台湾のmt-B4+M7cと浙江省のmt-B5+M7bを招き、縄文中期に温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fも加わった。

石器時代には農耕の生産性が低く、狩猟や漁労に食糧の多くを頼っていたから、それらの生産性を高める必要があり、その為の交易は死活的な必須事項だった。狩猟や漁労には優れた道具が必要で、その優劣が民族の生存条件を規定したからだ。例えば漁労民族は漁具に獣骨を使ったから、獣骨を生産する狩猟民族と交易する必要があり、狩猟民族は温暖化によって大陸が森林化すると、弓矢が不可欠な狩猟具になったが、両者はそれらの素材を自分達の手で生産する事が出来なかった。

従って通説から発想を切り替え、石器時代には交易が重視されていた事と、農耕が発達すると交易の必要性が薄れて自給自足的な社会に移行した事を、識別する必要がある。現在流布している王朝史観は、王朝の権威を高めて強権的な統治に民衆を従わせる為に、王朝の成立によって文化が進化したと主張する必要性から生まれたもので、石器時代に存在した交易社会とその成果を否定し、手柄を独り占めにする嘘の歴史を吹聴しているからだ。

石器時代に交易が活発に行われた一つの理由に、石器時代の道具には耐久性がなく、頻繁に更新する必要があった事が挙げられる。交易の輸送手段は船だったが、石器時代の船は小さく手漕ぎが主流で、輸送力が乏しかったから、交易活動に投じる労力も膨大になった。それ故に、石器時代は交易期の時代だったと言える状況が生れただけではなく、それを円滑に行う為に人々の組織化が進展し、その在り方に知恵を絞った時代でもあった。

その様な交易活動には多大な労務負担を必要としていたから、農耕の生産性を高めて労務負担を軽減する事は、石器時代の人々の願望でもあった。漁労や狩猟の生産性は低くはなかったが、その生産物は腐敗しやすく貯蔵できなかったから、恒常的に過剰な生産活動を続ける必要があったのに対し、農耕は繁忙期以外は植生の成長を待てば良く、労務負担を軽減できる生業だったからだ。

しかし石器時代の穀物栽培は自然の地形を利用するもので、栽培地の選定を含めた高度な技術が必要だったから、技能を伝承された者にしかできなかった。それ故に縄文人は、大陸から栽培技能者を招く事に熱心だったが、大陸の栽培者は危機に遭わなければ、日本への渡来は決意しなかった。

大陸には色々な栽培者がいて、種々の穀類を栽培していたが、縄文人は知っている範囲内の最高の穀類の栽培者を、選択的に日本に招いた。

 

1-1 東アジアの諸民族

下表に縄文前期温暖期の東ユーラシアの民族状況を示し、右端欄に縄文中期末の移住・拡散先を示す。

民族名/文化名

居住地

Y遺伝子

ミトコンドリア遺伝子

主要な栽培穀物種

縄文中期末の移動・拡散先

ツングース(息慎)

シベリア

C3

Y

 

 

ツングース(粛慎)

オホーツク海沿岸

C3N

YG

なし

なし

トルコ系民族(北扶余)

シベリア

C3NQ

AN9aZCD

蔬菜類、雑穀

濊(共生民族)が遼東に移住

モンゴル系民族(東胡)

モンゴル高原

C3O3

M10CD

蔬菜類、雑穀

なし

遼河文化(殷人)

遼河台地

NQ

D4D5

アワ

華北(拡散)

仰韶文化(秦)

甘粛、陝西、河南

R

R

大麦

甘粛・中央アジア(撤退)

韓族

河北、遼寧

O2b

M7aDが浸潤

堅果類、アワ

遼東に残存

漢族

山東

O3

M8aDが浸潤

?、アワ

河北、河南

湖北、陝西、河南

O

F

イネ(温帯ジャポニカ)

湖北に収束

浙江

O

B5+M7b

イネ(ジャバ二カ)

フィリピンに拡散

オーストロネシア語族

台湾、フィリピン

O

B4+M7c

亜熱帯性の植生

太平洋の島嶼に拡散

括弧内を含む漢字の民族名は、中華の史書に記されたこの表の民族の子孫の民族名。

 

1-1-1 ツングース(息慎・粛慎)

後氷期に原日本人から漁労技術と造船技術を獲得し、北東ユーラシア沿海部の河川漁民になった。超温暖期にオホーツク海沿岸に北上したが、1万年前にシベリアの超温暖期が終わって寒冷化と湿潤化が始まると、オホーツク海北岸のツングース集団(息慎)は居住環境を失った。彼らはアムール川流域に居たトルコ系漁民に、内陸に拡散して狩猟民族が生産する獣骨を集めさせ、その獣骨を関東部族に渡す仲介交易を始めた。関東部族から漁労に必要な器具や、狩猟に必要な弓矢を受領し、それをトルコ系漁民に渡す事により、ツングースの仲介交易が成立したからだ。

ツングースは先進的な漁労技術と船舶技術を、原日本人から直接学んでいたから、アムール川流域に遅れて集まったトルコ系漁民に、先輩技能者として漁労技術を伝授していた。ツングースはその状態の拡張として、操船能力を駆使してシベリアの河川を往来し、内陸に移住したトルコ系漁民に漁労や造船に必要な機材を配布したから、新しい交易はスムーズに立ち上がって広範囲に広がり、シベリアの交易構造の基底になった。

トルコ系漁民はシベリアの河川流域に交易拠点を形成し、次第にシベリアの奥深くまで拡散したから、やがてシベリアの内陸にトルコ系漁民の集落が点在する状態が生れた。彼らはアムール川流域で共生していたY-NY-Q民族を共生者として招いたから、漁民と栽培民の生活が安定して人口が増え、ツングースは交易圏を拡大してユーラシア大陸の東西を結ぶ水上交易者になった。

寒冷なシベリアの森林では、海洋船の船材に相応しい樹種は育たなかったから、ツングースには海洋を航行する大型船は作れなかったが、小型の船を駆使する事によって、シベリア平原を北に流れる河川を横断する、長距離交易者になった。従ってツングースは河川交易者に留まり、海洋交易者にはならなかった。

その様なツングースとは別に、オホーツク海沿岸に留まって漁民であり続けた人々(粛慎)もいた。縄文晩期にシベリア経済が崩壊して息慎が消滅すると、それに代わって粛慎が東アジアの水上交易者として登場したが、その事情は経済活動の成熟期の項で扱う。

1万年前にはまだ親潮が発達していなかったから、北太平洋亜熱帯循環(黒潮)がオホーツク海に北上していた。地軸の傾きが極大化した時期でもあったから、シベリアが寒冷化したと言っても、現在より温暖で湿潤だった。ツングースがその様なシベリアの内陸部を巡っていた事を、シベリア全域で発掘される櫛目紋土器が示している。ウラル語族の文化圏でも櫛目紋土器が発掘されているが、現在のバルト海沿岸にはY-Nが高頻度に展開しているから、黒海~バルト海も彼らの交易圏で、其処にも河川漁民の集落があったと想定される。現在のこれらの地域では狩猟民族も漁労民族も失われ、栽培系狩猟民族だったY-Nだけが残っているのは、シベリア全域に共通した現象なので、その理由は順次説明する。

ツングースが独占的な広域交易者になったシベリアで、櫛目紋土器が広域的に流布した事は、海洋民族とは異なった社会を形成していた事を示している。海洋民族は多数の部族に分かれ、各々が特定の民族を専属的な交易相手とし、経済同盟を結ぶ傾向があったが、ツングースは特定の民族と同盟関係は形成せずに、シベリア全土を差配する広域交易者になった事を示唆しているからだ。

縄文時代にはモンゴル系民族もツングースの交易圏に属し、ツングースの交易圏には少なくとも4つの言語族がいたと想定される。トルコ系、ウラル系、モンゴル、アイヌ語と同系統のユカギール系があり、トルコ系漁民の拠点が点在する地域の狩猟民族はトルコ系の言語話者になり、その他はシベリア経済圏としては、辺境の狩猟民族だったと推測される。狩猟民族がトルコ語話者になった事は、魏志東夷伝が示す濊や高句麗は3民族の共生集団でありながら、ツングースとは異なる言語話者であると指摘しているからだ。従ってツングース語がそれら諸民族の公用語になる事により、独自の言語を維持したと推測される。

ツングースが縄文早期以降のシベリアの交易者だったと考える理由は、ツングース系の言語話者がシベリアに広域的に拡散している事、ツングース系だったと考えられている粛慎が中華世界で古代の名族とされている事、歴史時代に満州を拠点として大勢力を形成し、清王朝を形成した事などが挙げられる。

縄文時代のシベリアの人口構成を経済ピラミッドとして推測すると、商品である獣骨の生産者だった狩猟民族が最大人口を擁し、それを集荷するトルコ系漁民がそれに次ぎ、トルコ系民族と共生していた栽培系狩猟民族は、3番手の人口を擁していた事になるが、ツングースの人口比を計算する根拠は乏しい。経済ピラミッドの頂点にいたとすれば、栽培系狩猟民族より数が少なかった可能性もあるが、石器時代の交易には多大な労務負担が必要だったし、彼らは漁民として食料を調達する事も可能だったから、意外に大きな人口比を占めていた可能性もあるからだ。

縄文時代の交易では栽培種の移転や拡散が重視されていた事は、この項で繰り返し何度も言及するが、その観点で日本の野菜類の在来種を見ると、西ユーラシアから北回りで伝わったと考えられる品種が多数あり、それらはツングースの交易活動の成果だったと考えられるから、それもシベリアで活発な交易活動が展開されていた証拠になる。また(8)隋書の項で指摘した様に、トルコ系民族だった高句麗は、隋が支配する華北のアワ栽培民族より多くの租税を納めていた事も、シベリアの活発な交易事情を示している。モンゴル系の王朝だった唐代に華北で小麦の栽培が始まり、トルコ系の王朝だった宋代に華北がアワ栽培地から小麦の生産地に変わった事も、シベリアの活発な交易事情を示している。シベリアより温暖な華北の農民より、冷涼なシベリアから南下した民族の方が、生産性が高い農耕を展開していた事になるからだ。

このような事態が発生したのは、mt-Dがアワ栽培者になってシベリアの共生社会を離脱した後、ツングースがシベリア社会に各種の穀類を持ち込み、mt-Zがそれを栽培しながら生産性を高めたからだと考えられる。従って縄文晩期寒冷にシベリア経済が崩壊した際に、トルコ系栽培民族の南下圧力が高まった筈だが、殷週革命によって殷王朝を倒した周王朝が、殷王朝と同じトルコ系民族を排斥したから、mt-Zは華北に南下する事が出来なかった。殷王朝は漢族の政権を育てたから、漢代までの華北は漢族の世界になり、その漢族は周の政策を踏襲したから、漢王朝系譜の王朝が河北を支配している限り、シベリアの栽培者は華北に南下できなかった。

しかし古墳寒冷期に華北のアワ栽培が崩壊し、中華王朝の晋が崩壊すると、先ずシベリア系騎馬民族が華北に南下して北朝を形成し、シベリアの栽培系民族の南下が始まったと考えられる。それによって華北の農業生産が復活したから、寒冷期の末期に隋が中華を統一し、温暖期なると唐が形成され、温暖期の盛時になると多数派になった栽培系民族が、宋王朝を形成したと考えられる。従ってシベリア系民族の方が、華北のアワ栽培者より高い農業生産性を実現していた事は間違いない。冷涼なシベリアの小麦栽培と温暖な華北のアワ栽培を比較すれば、華北のアワ栽培の方が生産性は高かったかもしれないが、栽培技術の高度化の観点ではシベリアの方が優っていたから、彼らが河北に南下するとアワ栽培者の生産性を凌ぐ状態になったと考えられる。

シベリアで形成された共生社会は、アワ栽培者が形成していた単一民族の農耕社会より、高度な栽培技能を発展させていた事になるが、それは栽培に限らず全ての産業について言えることで、産業的な生産性の向上速度は単一民族社会より共生社会の方が速いという、必然的な結果が生れたと考える必要がある。

朝鮮半島でのツングースの痕跡は1万年前に始まり、ソウル近郊の岩寺先史遺跡から6千年前の竪穴住居跡と共に櫛目紋土器が発掘され、ツングースの交易基地が形成されていた事を示している。これはツングースの交易路が松花江~遼河に延伸し、渤海から遼東半島を周回して黄海に至り、当時の漢江の河口に交易基地を設定した事を示している。松花江と遼河は丘陵地を分水嶺にして南北に流れる川だが、シベリアの東西交易路にはその様な場所は幾つもあったから、ツングースにとっては容易に越えられる丘陵だったと考えられる。縄文人の海洋性と石材加工の項と、縄文文化の形成期の項で説明した様に、原日本人や海洋民族の船は組み立て式だったから、その技術を得たツングースも容易に分水嶺を超えたと想定されるからだ。古代の交易には、その様な労務負担が付き物だったと考える必要もある。

朝鮮半島南部には特別な鉱物資源は無く、後世の馬韓や百済にも特別な物産はなかったから、漢江流域は何かを生産する拠点ではなく、九州に渡航して九州縄文人と交易する為の、中継地だった可能性が高い。この時期の朝鮮半島と九州で、「結合式釣り針」、「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」などの、両地域共通の文化要素が発掘され、「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」は日本列島起源とされているからだ。

魏志東夷伝は河川漁労や農耕に適した朝鮮半島西部に、トルコ系民族は定住していなかった事を示しているから、縄文前期に朝鮮半島に南下したのはツングースだけだったと想定される。魏志東夷伝は朝鮮半島西北部を楽浪郡、西南部を韓族の地域であると指摘している。魏略は春秋戦国時代の遼東以南は、箕子朝鮮の領域だったと記している。

ツングースが九州縄文人と交易を行った目的は、九州縄文人に獣骨を渡してアサや磨製石斧を入手する為でもあったが、最大の目的はシベリアで使う大型船の、船材を入手する為だったと推測される。アムール川経由で関東部族との交易が活性化しても、ツングースは大型船の素材になる巨木を、その交易によって入手する事はできなかったが、九州産の巨木を使って大型船を製作し、硬い樫で櫂を作れば、シベリアの河川交易の効率が高まったからだ。

ツングースは渤海や黄海の沿岸各地に宿場的な集落を形成し、その交易に対応しただろうから、岩寺先史遺跡はその一つだったと想定される。考古学的な発掘で、櫛目紋土器を伴う文化は3500年ほど前に途絶えたと指摘されているから、殷人が華北を支配した時期と一致し、武断的な殷人がツングースの交易を妨害したと想定する、歴史の流れと整合するから、上記の想定の重要な証拠になる。その事績を具体的に言えば、殷人の勢力が拡大した夏王朝期の末期に、彼らによって交易路を遮られたツングース(息慎)は、九州との交易路にしていた朝鮮半島西岸から撤退したと考えられる。その経緯の検証は、経済活動の成熟期の項を参照。

 

1-1-2 モンゴル族

8千年前に太平洋が湿潤化すると、シベリア全域が湿潤化したから、モンゴル高原やバイカル湖の周囲にも漁労系狩猟文化が拡散した。その地域の石刃鏃がその時期に増えた事が、その事情を示している。モンゴル系民族の動向としては、縄文晩期に多数のmt-M10が関東に渡来し、その子孫が現代日本人の1.3%を占めている事が、モンゴル系民族の歴史を解く鍵になる。

篠田氏はバイカル湖の周囲のmt-M10が、日本人のmt-M10と同系であると指摘しているから、縄文晩期の関東に多数渡来したmt-M10の故郷は、モンゴル系民族の居住地だったと考えられる。関東に渡来したmt-M10は、取手市の中妻遺跡(縄文後期末~晩期)で多数発掘されているから、毛皮の加工職人として渡来し、特定地域に集住していたと想定される。その根拠の詳細は、「経済活動の成熟期」の項を参照。

この事情は縄文時代のモンゴル系民族の地域では狩猟民族の人口が多く、狩猟を基盤にした産業が興隆していた事を示唆している。後世のモンゴル族が草原地域の遊牧騎馬民族(東胡/鮮卑)になった事や、現在のモンゴル人の半分は狩猟民族の遺伝子であるY-C3を継承し、残りの半分は堅果類の栽培者だったが、ヤンガードリアス期に堅果類の栽培に行き詰り、Y-Nのペアに浸潤されたY-O3であると考えられる。つまりmt-M10は元々Y-Nのペアだったが、超温暖期にY-O3のペアとしてモンゴル高原に北上したと想定される。

現在のモンゴル系民族は、南部のモンゴル高原ではY-C3Y-O3の混成で、遊牧民族の子孫である状態を示しているが、バイカル湖周辺に住んでいるブリヤートはY-C3主体で、栽培系としてはY-Nが含まれている。従ってモンゴル語の起源民族は漁労系狩猟民族だったY-C3で、南部のモンゴル高原に栽培系狩猟民族のY-O3mt-M10ペアがいて、北部にY-Nとそのペアがいた事になる。

バイカル湖周辺のY-Nは、縄文時代にはトルコ系漁民と共生していた筈だが、縄文晩期寒冷期に漁労文化が崩壊した後で、モンゴル語を使っていた漁労系狩猟民族の共生者に変わった可能性がある。漁労系狩猟民族が騎馬民族になると、彼らの優位性を認めたからではなかろうか。ツングースが支配していた満州でも、弥生時代以降にこの様な現象が発生している。

ミトコンドリア遺伝子の分布状態は、Y-O3が多い南部にはmt-M10がなく、北部の主要民族であるブリヤートにはY-Nと行動を共にしたmt-Dmt-Cが多く、mt-M10が少し含まれている。従ってmt-M10Y-O3のペアとしてモンゴル地域の南部に定着したが、南部では浸潤によってその遺伝子が完全に失われ、Y-N民族に浸透した僅かな遺伝子だけが残っている事になる。

この様な変則的な事態に追い込まれたmt-M10だが、関東に渡来した時期にはY-O3のペアだったとすると、彼女達か渡来した背景には悲惨な事情があったと考えざるを得ない。

考古学的な発掘では、中央アジアは縄文後期に森林から草原に変わったと指摘されているから、その時期にモンゴル高原も乾燥して草原化し、栽培者だったmt-M10には厳しい環境になったと想定される。それに続く縄文晩期には厳しい寒冷化に襲われ、冬季の氷結によって河川漁労が厳しくなり、シベリアの経済活動が崩壊した。

mt-M10が関東に渡来した理由は、縄文後期末から気候が寒冷化し始め、東日本の縄文人は毛皮の衣類を必要としたから、その需要に応えるためにmt-M10がバイカル湖畔から渡来した可能性が高く、わざわざその様な遠方から渡来したのは、毛皮をなめして高級な毛皮の衣類を製作する、高度な技能者だったからだと考えられる。

縄文中期までのmt-M10は、Y-O3のペアとしてモンゴル高原で栽培に従事していたと推測されるが、Y-N民族に拡散する浸潤力が、オホーツク海沿岸で栽培力を高めたmt-Cmt-Dに優る、高度な栽培力だったとは考え難く、モンゴル高原の狩猟民族が捕獲した野獣の、毛皮を加工する技能だったと推測される。

しかし栽培系狩猟民族の女性だったmt-M10が、その様な技能を獲得した事にも理由が必要になるだろう。

このY-O3は温暖化し始めた2万年前に、気候の乾燥化に追われて海洋の沿岸を南北移動し始めたY-Nとは異なり、本格的に温暖化した16千年前以降にヴェトナムから広東に北上した、暖温帯性の堅果類の栽培者だったと推測され、堅果類の栽培者ではなかったmt-M10は、ヤンガードリアス期にはY-Nのペアだったと想定される。広東の暖温帯性堅果類が全滅ししたヤンガードリアス期に、何らかのイネ科植物を栽培していたmt-M10Y-O3に浸潤し、超温暖期に北上したとすると、比較的温暖な内陸を北上して湖北省に至るものだったと想定される。mt-Fの節で詳しく説明するがこのルートを選択した事は、mt-M10の栽培種は、比較的温暖な地域に適した栽培種だった事を示唆している。

しかし湖北省には強力な栽培者だったmt-Fも北上したから、彼らは湖北省を逃れて更に北上し、モンゴル高原に至ったと推測される。この時期の中華大陸は極めて乾燥していたが、氷河の融水で巨大湖が生れていた中央アジア由来の降雨が、彼らのモンゴル高原への北上を可能にしたと想定される。しかしこの経緯だけでは彼らは偶然生き延びた人々に過ぎず、後世の歴史に残る様な大民族になる要素は見いだせないから、彼らが人口を増やしたその後の経緯を検証する。

1万年前にシベリアが湿潤化すると、漁労系狩猟民族がアムール川流域から内陸に拡散し、8千年前に太平洋が湿潤化すると、漁労系狩猟民族がモンゴル高原の山裾の河川流域に拡散したから、石刃鏃がその辺りから発掘されている。これはモンゴル高原全域が、この時期に草原や樹林に覆われた事を意味するから、河川の流量が乏しく漁労系狩猟民族が縄張りにしない地域が、モンゴル高原には広大にあり、Y-O3はそれらの地域に拡散したと推測される。

モンゴル高原が冷涼化すると、比較的温暖な気候に適した植生の栽培者だったmt-M10は、生産性が高い栽培者になる事はできなかった可能性が高い。従って栽培系狩猟民族とは言いながら、彼らは漁労系狩猟民族より生産性が高い狩猟者にならざるを得なかったが、獣骨と弓矢の交易者になったトルコ系漁民が、バイカル湖の支流に遡上して来たから、その弓矢を得て高原の専業狩猟者になったのではなかろうか。

モンゴル高原からバイカル湖に流れるセレンガ川には多数の支流があり、水量が豊かな地域は漁労系狩猟民族が占拠していただろうが、その様な河川が流れていない支流域や草原をY-O3が狩猟場とし、漁労系狩猟民族の集落を訪れるトルコ系漁民と交易を始めると、Y-O3の狩猟効率の高さを評価したトルコ系漁民が、彼らの為に専用の交易場を設定した可能性も高い。最も草原化し易いモンゴル高原は、縄文時代を通して疎林と草原に覆われた大型草食獣の宝庫だったが、漁労系狩猟民族はその様な地域には居住しなかったとすると、先住のmt-A系狩猟民族の北方の縄張りとは、漁労系狩猟民族の縄張りによって遮られていたモンゴル高原は、Y-O3の独壇場になっただろう。

トルコ系漁民にとって漁労の生産性やツングースとの交易の観点では、河川の水量が豊かな平野部の方が好ましかっただろうが、その様な地域は中小型獣の生息地だったから、狩猟民族の獣骨の生産性は高くなく、獣骨をできるだけ多量に収集したかったトルコ系漁民は、丘陵地や高原の奥深くに船を進め、その様な地域の狩猟民族と交易する事にも積極的だったから、Y-O3mt-M10は獣骨の生産性を高めながら人口を増やしたと推測される。

シベリア経済が活性化すると人々は何らかの交易品を生産する様になり、mt-M10も特産物を生産する機会が与えられると、逆に何らかの特産品を生産しなければ、mt-Cmt-Dに浸潤される危機感を持ったかもしれない。いずれにしても栽培技能に劣っていたmt-M10は、商品化経済の流れの中で、毛皮の加工者になる事は必然的な結果だった。モンゴル高原北東部はユーラシア大陸で最高級の毛皮とされる、クロテンやオオヤマネコの生息地でもあるからだ。シベリアの経済が活性化すると、ツングースが高級毛皮を重要商品にした事も必然的な結果だから、mt-M10の高級毛皮の加工技術も、母から娘に伝えられながら高度化していったと想定される。多数のmt-M10が日本に渡来した事は、栽培の第2段階に至った状態と類似し、職人の数を増やす事によって互いの技能の向上を図る段階を、既に経過していた事を示している。

現在のブリヤートの栽培系遺伝子はY-Nで、Y-O3は数%しかいない事は、Y-O3のペアだったmt-M10の栽培能力が、Y-Nのペアだったmt-Dmt-Cより劣っていたから、バイカル湖近辺の豊かな漁労民族から、縄文後期までは共生オファーが殆どなかった事を示している。つまりmt-M10は栽培技能が低かったので、漁労民族から相手にされず、狩猟民族化したY-O3民族のペアとして生きていたと想定され、mt-Dmt-Cの浸潤脅威に晒され続けていた事を示唆している。その様なmt-M10が起死回生の生き残り策として毛皮の加工技術を生み出すと、mt-Dmt-Cを見返す事ができる様になったと想定される。

これが意味する事は、mt-M10のペアだったY-O3が広東にいた時代には、mt-M10以外のミトコンドリア遺伝子もペアにしていたかもしれないが、モンゴル高原に辿り着く前に幾分の純化があった事と、モンゴル高原でも複数のミトコンドリア遺伝子があったかもしれないが、mt-M10が毛皮の加工技術を樹立すると、少なくとも一部の地域ではmt-M10に純化され、Y-Nにも浸潤する浸潤力を獲得した事になる。

縄文後期までのシベリアは温暖で、通年の河川漁労が可能だったから、シベリア経済は縄文後期に最も充実した。その様子は「経済活動の成熟期」を参照。しかし縄文晩期寒冷期になると、河川が冬季に氷結する様になって漁労が壊滅し、それによってシベリア経済が崩壊した。この時期に西ユーラシアの経済活動も壊滅した事が、地中海沿岸の発掘によって明らかになっている。それによって高級毛皮の市場が失われたから、その製作を生業にしていたmt-M10は技能を発揮する場がなくなり、乾燥したモンゴル高原では栽培者として生き残る事も難しくなったと推測される。

mt-M10が関東に大挙渡来したのは、高級毛皮を有力な商品としていたツングースが、彼女達の優れた技能が絶える事を惜しみ、彼女達も生計の路を求めて故郷を離れる事を、決断をしたからだと推測される。日本の本州にはクロテンは生息していないが、ホンドテンと呼ぶ種が多数生息し、毛皮は現在も商品になっているから、縄文社会が豊かさを維持していたのであれば、mt-M10が関東に渡来する事に意味があった。

mt-M10は現代日本人の1.3%だが、縄文晩期には関東にしかいなかった筈で、この時期の関東の人口は日本全体の2割程度だったと推測されるから、渡来したmt-M10の子孫が関東の人口の6%ほどを占めていた事になり、この時期の関東には、mt-M10が集住する集落が多数あったと想定される。言い換えると縄文晩期の関東は、経済的に困窮していたわけではなかった事になる。歴史学者は縄文晩期に人口が激減したと主張しているが、歴史学者が発掘できない湿田式の水稲稲作が、この時期の関東に広がり、人々が集落を低湿地に移動させた事により、考古学的に発掘できない状態になった事が、人口が激減したとの主張を生んでいると考えられる。考古学者は畔で仕切った水田しか発掘できないので、自分達の無能力が露呈する事や王朝史観が崩壊する事を恐れ、縄文稲作を必死に否定しているが、その様な拘りから解放されると上記の矛盾からも解放される。縄文稲作については、経済活動の成熟期の項を参照。

Y-O3比率が高い南のモンゴル族にmt-M10が残っていない事は、縄文晩期にモンゴル高原に残ったmt-M10に、過酷な運命が降り掛かった事を示唆している。モンゴル高原では狩猟民族も栽培民族も遊牧民族化し、Y-C3Y-O3が混在しているが、馬に乗る技術が開発されたのは鉄器時代になってからで、弥生時代になってからだと想定されるから、縄文晩期の遊牧民は貧しかったと推測される。その様な状態では、栽培技能が劣るmt-M10が子孫を遺す余地がなくなり、本家でありながら遺伝子が絶えた事を示している。

具体的に言えば、シベリアが寒冷化してモンゴル高原が乾燥化すると、モンゴル高原では狩猟の獲物が激減した上に漁民の漁獲が減り、高級毛皮は売れなくなったから、Y-O3が貧しい遊牧民に零落して人口を激減させると、その際に必要なペアの技能はmt-M10が持つ高級毛皮の加工技能ではなくなり、mt-Dmt-Cより劣る栽培技能でもなくなったと推測される。

その様に貧しかった遊牧民が騎馬民族化すると、飼養できる羊の数が桁違い増えたので、再び豊かになって人口が増加したが、騎馬民族化するには鉄器が必要だったから、再び高級毛皮の必要性が高まったが、高級毛皮の加工技術を持ったmt-M10は、モンゴル高原には残っていなかった可能性が高い。

バイカル湖岸に僅かにmt-M10が残っているのは、高級毛皮の需要が旺盛で羽振りが良かった縄文後期に、経済を活性化する技術者として、バイカル湖周辺の民族に迎えられた事を示唆している。現在も漁労ができるバイカル湖岸には、mt-M10が現代まで残る豊かさがあった事になる。

但しこの地域のmt-M10の殆ど全てが、縄文晩期に関東に渡来したのではない事を、現代の朝鮮半島や遼寧にも無視できない割合で、mt-M10が含まれている事が示している。

騎馬民族が豊かになると再びmt-M10の技能を求めたから、バイカル湖沿岸に僅かにしか残っていなかったmt-M10の需要が高まり、朝鮮半島や遼寧に無視できない割合で残っているとも言えるが、モンゴル高原を離れたmt-M10は、関東以外の地域でも彼女達の技能を生かする路を得ていたから、高級毛皮の需要の高まりと共に、人口を増やしたと考える必要があるだろう。バイカル湖沿岸のmt-M10の人口はそれほど多くはないが、朝鮮半島のmt-M10の人口は5%近くあり、山東・遼寧でも3%あるから、技能者として迎え入れて優遇した日本より人口比が高いからだ。

その有力候補地は気候が寒冷化しても漁労が可能な、オホーツク海南岸~日本海北岸だったと想定される。これらのmt-M10は古墳寒冷期に交易国家になった高句麗で、高級毛皮を生産していた女性達だったと推測されるからだ。高句麗に付いては次節で説明するが、粛慎と連携して寒冷期の交易国家として栄えた事は、高級毛皮を主力商品にしていた可能性が高い。

 

1-1-3 トルコ系民族(北扶余)

1万年前にインド洋が湿潤化しシベリアが湿潤化すると、内陸の河川でも漁労が可能になったので、トルコ系漁民がY-Nと共に内陸の河川流域に拡散し、mt-A系狩猟民族と交易し始めた事は既に説明した。現在のシベリアでは、狩猟民族や漁労民族だったY-C3より栽培系狩猟民族だったY-Nの方が多いのは、縄文晩期寒冷期にシベリアの河川が冬季に凍結する様になると、シベリア経済が崩壊して交易構造が壊れたからだ。漁労民族も狩猟民族も交易によって生業の道具を得ていたから、生業を継続する術を失ったが、畜産を始めていた栽培民族は、交易が失われても生業を継続する事ができたからだが、シベリアの人口は大幅に減少し、殆どの栽培民族は中緯度地域に南下した。

モンゴル高原のY-O3も牧畜を併用しながら生き延びたが、鉄器時代に騎馬民族化すると豊かになり、モンゴル系の騎馬民族文化を先導したと想定される。シベリアのY-C3は気候が寒冷化するとツングースの領域だった満州に南下し、Y-C3主体のツングース系民族を形成したが、彼らは縄文後期までトルコ系民族だった疑いが濃い。彼らが騎馬民族化して政権を樹立したのは、金を樹立したツングース系女真族が嚆矢だったが、羊を飼養する騎馬民族だったのかについては疑問がある。

トルコ系民族については、縄文中期に遼東に南下して後世の朝鮮になった濊が、中華世界に登場したトルコ系民族の嚆矢だったと考えられる。魏志東夷伝は、濊は3民族の共生集団だった事、弥生温暖期の末期に南下した高句麗も、3民族の共生集団だった事を示唆している。

縄文晩期寒冷期前半の華北は殷王朝が支配し、ツングースの交易活動を妨害していたから、シベリアのトルコ人は華北に南下できなかったと推測される。殷王朝は縄文晩期寒冷期の中頃に周王朝に倒されたが、周王朝は漢族を屯田兵として各地に入植させ、粗暴な殷人を華北から追放したから、同じトルコ系だったシベリアの栽培民族(北扶余)も、殷人の同類と見做して華北への南下を阻止し、濊貊、或いは北狄と呼んで蔑視した。周王朝によって華北から追放された殷人は、吉林省に逃亡して扶余と呼ばれる集団を形成したが、春秋時代に文明化した漢族が、最初に認識したトルコ系民族は扶余だったから、漢族にとってシベリアのトルコ系民族は「北扶余」になった。

この名称は、漢民族が北方の文明圏の事情に疎かった事を示している。モンゴル系の騎馬民族が樹立した唐が、この歴史観を訂正しなかったのは、モンゴル系騎馬民族の母体がY-O3栽培系狩猟民族だったから、自身をシベリア文明の後継者であると、認識していなかったからだと推測される。

春秋戦国時代に漢族の政権が華北に割拠する様になったが、漢族も周の方針を継承してトルコ系民族を排斥したから、華北王朝の晋が滅亡するまで華北に南下する事ができなかった。それ故に古墳寒冷期なって再び南下機運が高まると、シベリアのトルコ系民族は漢族の武力が及ばない、日本海に流入する豆満江などの河川流域に沃沮(よくそ)が定住し、農耕に適さない満鮮境界の山間地に高句麗が生れた。

高句麗の好太王碑文の冒頭に、「始祖は鄒牟(すうむ)王。北扶余の出身。鄒牟王は天帝の子で、母は河の神の娘。」と記され、高句麗の郷里だった北扶余には漁労民族が含まれていた事を示唆している。高句麗と呼ばれた集団の政治的な主導権は、漁労民族ではなく狩猟民族か栽培民族に移転していた事も示している。

「扶余の奄利大水(松花江)を南下」したとも記され、松花江流域である黒竜江省は扶余の地であると認識しているから、北扶余の故郷はアムール川流域か、それより北のシベリアかオホーツ海沿岸だった事を示している。魏志東夷伝は、扶余の北には粛慎と同じ言語民族である挹婁がいると記しているから、黒竜江省の北部やアムール川流域はツングース系民族の領域だったと推測される。オホーツク海沿岸はツングースの故地だったと想定されるから、北扶余はバイカル湖周辺のモンゴル系民族の領域を除く、レナ川やエニセイ川の支流域を中心とする、シベリアを指す言葉だった可能性が高い。

魏志高句麗伝は、「方二千里(1000㎞四方)、戸三万。大きな山や深い谷が多く、原や沢は無く、山谷にそって居し、澗水を食す。良田無く、佃作につとめているが、口腹をみたすには不足している。」と記している。澗水を食すを、「谷川の水()を飲んでいる」と訳す例が多いが、それでは意味が通じないから「川の魚を食べている」と意訳するべきだろう。高句麗の拠点だった卒本や集安は、鴨緑江の支流域にあり、この記述と整合するからだ。

その様な高句麗が、金銀で衣服を飾る豊かさを得ていたのは、ツングース(粛慎)と提携して毛皮を販売していたからだと想定され、高句麗の歴史から、トルコ系民族だった北扶余の交易事情を窺う事ができる。シベリアでは弥生温暖期なっても、河川漁民の方が優勢だったかもしれないが、河川が乏しい華北で毛皮を販売する事は、水上交易者だったツングースやトルコ系漁民には出来なかったから、高句麗が毛皮や皮革を組織的に販売する為には、Y-N栽培集団かY-C3狩猟民族が主導権を握る必要があった事を、母は河の神の娘との記述が示していると考えられる。

魏志高句麗伝には、「其民は歌舞を喜び、国中の邑落で暮夜に男女が群聚し、相就いて歌戲する」とも記され、栽培系民族が高句麗の主導権を握っていた事を示唆している。部族主義的な狩猟民族は秩序感に厳格だったから、魏志濊伝に示されている濊の習俗が、狩猟民族的な価値観を示していると考えられるからだ。

3民族が共生していた濊や高句麗では、mt-Zが農耕の主体者で、mt-M10が高級毛皮の衣料などを生産し、mt-Gがアザラシや魚の皮革を生産し、シベリア型の産業社会を形成していたと想定され、現代韓国人にその遺伝子が遺されている。魏志濊伝は濊の特産品として、班魚の皮、ヒョウの毛皮、果下馬(小型の馬)を挙げ、漁労、狩猟、栽培と牧畜を行う民族が共生していた事を示唆している。

高句麗は魏代には、交易で繁栄する交易国家になっていたから、金銀で衣服を飾る豊かさを得ていた事になるが、組織的な交易集団が突然生まれた筈はなく、シベリア型の産業社会を継承していたと考えられる。毛皮の交易を組織的に行う交易国家を形成したと言っても、現代人には実態が理解できないと考えられるので、現代社会に例えてその産業構造を説明する。

現代の雑貨はスーパーで販売され、自動車の様な高級品はメーカーの系列販売店で販売される。この時代にも同様な商業事情があり、日常的な食料や雑貨は地産地消的な商品を交換していたが、高句麗は高級衣料の生産者だったと考えられる。気候が寒冷化した弥生時代末期~古墳寒冷期の華北では、毛皮の需要が高まったから、それを高価格で販売する事により、交易国家としての高句麗の繁栄が生み出されたと考えられる。毛皮は高価な物品でありながら、皆が必要とする必需品でもあったから、取引額が嵩んでいたと想定される。現代社会のその様な物品の代表例である自動車は、多数の従業員を雇用しながら高い収益を上げているが、古代社会でそれに匹敵するものが毛皮だったと想定される。

但しそれだけでは毛皮を組織的に販売する、交易国家を形成するには至らなかっただろう。高句麗が実現した交易国家では、高句麗人以上に高級な毛皮衣料は他の誰も製造出来ない状態を組織的に形成し、毛皮の価値を熟知した高句麗人がそれを組織的に販売する事により、高級な毛皮を高価な物品として販売する事ができた。現代社会で云うブランド品の生産と販売になり、その販売にはブランド戦略と呼ばれる特殊な商流が必要になる。シベリアではツングースが広域的な交易社会を形成したから、その様な社会に適応した産業構造として、その様なものが形成されていたと考える必要がある。

中華の史書の嘘に踊らされるとこの時代の歴史を誤るが、それを排して分かり易く説明すると、「文明度が高かったシベリア出自の高句麗人が、高級毛皮の価値を説明すると、文明の谷間にいた華北の漢族が有難がり、高価格で購入していた」と記述する事ができる。

農耕民族が捏造した史書を読み込み、それをウィキベディアに転記している人がいるが、典型的な「論語読みの論語知らず」であると言わざるを得ない。少し歴史を研究すれば、文明の谷間にいた漢族が劣等感を隠すために、現代韓国人の様に歴史をコリエイトした事が分かからだ。その様な史書を参照し、歴史を解説するのは止めた方が良いだろう。ちなみに遺伝子分布は、現代韓国人の41%の祖先は漢族である事を示しているから、古墳時代まではシベリア系の文明を継承していた朝鮮半島が、彼らの武力的な支配によって文明の谷間に堕された事になる。

周代~晋代までは周王朝と漢族が、トルコ系民族の華北への南下を阻止していたが、騎馬民族になった鮮卑族が隋・唐王朝を樹立すると、彼らはアワより小麦を好んだので、トルコ系の栽培民族が次々に南下した。唐が滅亡するとトルコ系の宋王朝が生まれた事は、華北のトルコ系民族の人口が増え、政治の主導権がトルコ系民族に移転した事を示している。

宋代に華北の主要穀物が、漢族が栽培していたアワからトルコ系民族が持ち込んだ小麦に変わった事は、トルコ系民族がシベリアで養った農業力が、極めて高かった事を示している。高句麗の亡命者が集積した埼玉県高麗郡の高麗神社では、小麦を神聖な穀物としているから、高句麗人は初唐期に小麦を栽培していた事を示唆し、中華世界の小麦栽培に関する話が整合する。

漁労民族に支えられた栽培民族の商業的な農業力は、農耕民族が形成したモノカルチャー社会より高まる事は必然的な結果だから、シベリアの様な冷涼な地域であっても、その成果が顕著に表れた事になる。その詳細な事情は、縄文文化の成熟期の項で詳しく説明する。

現代韓国人のY-N4%しかないのに、Y-C314%も含まれている事は、高句麗、沃沮、濊などのトルコ系民族は、Y-NよりY-C3の方が多かった事を示唆している。つまり日本海北岸や朝鮮半島に南下した時点では、Y-C3が担務していた漁労が食料の多くを生産し、Y-C3は水上運送も担っていた事になるから、魏志高句麗伝が示す上掲の澗水を食すを、「川の魚を食べている」と意訳する事の正統性を示している。

現在の朝鮮半島や山東遼寧にはY-Nmt-Zが少なく、山東遼寧については漢民族が排斥したとして説明できるかもしれないが、朝鮮半島でも少ない事は説明できない。この異常性については、高句麗が滅亡した際に栽培系の人々だけが、関東に亡命した可能性を示唆している。狩猟民族か漁労民族だったY-C3は縄張り意識が強く、既に漁民や狩猟民族がいる関東に亡命する発想はなかったが、広域的な縄張り意識がない栽培民族には、亡国の際には亡命する意欲があっただろう。古墳寒冷期の関東の栽培者は稲作者が多数派で、小麦や雑穀の栽培が可能な土地は遊休化していたから、栽培系の高句麗人を受け入れる余地は十分にあった。高麗神社がある埼玉県の高麗郡は、正にその様な地域だった様に見える。

高句麗の亡命者は万単位だったと推測され、高句麗人の無視できない割合を占めたから、朝鮮半島にY-Nmt-Zペアが少ないのは日本に亡命したからだとの仮説は、現実離れした想定ではない。日本に亡命した高句麗人の首領は高句麗王系譜ではないとの指摘があるが、3民族の共生集団だった高句麗にはそれぞれの首領がいた筈だから、日本に亡命したのは栽培民族とその首領だったのであれば、高句麗王朝を仕切ったのは狩猟民族の首領だった事になり、周囲を敵性民族に囲まれていた高句麗にとって、狩猟民族が高句麗の騎馬軍団を編成する事は必然的な国家運営だったとも言える。

現在のトルコ系民族の北限はヤクートと呼ばれる北シベリアの民族で、Y-C3よりY-Nの方が多いのは、寒冷化しても南下しなかった共生民族が、牧畜によって生き延びた栽培系狩猟民族が主体になっている事を示している。共生していた狩猟・漁労民族は寒冷化によってシベリア経済が崩壊すると、交易環境が失われて生業を維持する道具の入手が困難になり、生存条件が失われたからだと考えられる。しかしY-N比率が高いヤクートがトルコ系言語話者である事は、彼らの祖先は共生していた河川漁民の言語に同化していた事を示している。つまり古墳寒冷期にシベリア東部の共生民族が、満州・日本海北岸・朝鮮半島に南下し、晋が滅亡すると華北に南下したが、シベリアに留まっていた人もいたから、その様な人々がヤクートとして残っていると考えられる。

現在のトルコ系言語話者は、西に行くほどY-R比率が高くなるのは、中央アジアにいたY-Rの一部もシベリアの共生者になり、トルコ系栽培民族になったからだと推測される。中央アジアは縄文中期まで森林に覆われ、Y-R栽培系狩猟民族が割拠していたが、縄文後期温暖期に気候が乾燥して草原化し、農耕には向かない地域になったから、YRは東西南北全ての方向に拡散した。その際にY-Nより優れた南方系の栽培者として、Y-Rがシベリア社会に浸潤した可能性が高い。

 

1-1-4 遼河文化人と殷人、扶余

8千年前の遼河上流の台地上にシベリア文化圏では異端的な、漁労民族と共生しないアワ栽培者の集団が生まれた。彼らのY遺伝子はY-NY-Qで、ミトコンドリア遺伝子はアワを栽培化したmt-Dだったから、強力な栽培者が複数のY遺伝子の血族集団に跨る状態が発声したのは、mt-M7だけの現象ではなかった事になり、ミトコンドリア遺伝子の浸潤理論の典型例になる。

彼らの狩猟技能とmt-Dのアワ栽培だけでは、シベリアの人々と比較した食料の生産性は低く、シベリア文化圏の南端に孤立的に存在する貧しい異端集団だった。

縄文前期に朝鮮半島西岸を経由し、九州に南下したツングースにとって、遼河台地に隣接する渤海は交易路だったから、此処にいたアワ栽培者はシベリアの交易社会から完全に孤立していたのではなく、ツングースとの接触は継続していた事を、遼河台地から発掘された櫛目紋土器が示している。

しかし縄文中期寒冷期にアワ栽培者が華北に南下すると、彼らはツングースの交易路から離れてシベリア文化圏から完全に離脱した民族になり、遼河文化とは異なる、龍山文化を形成した。漢代までの華北の主要穀物はアワだったから、遼河文化は華北のアワ栽培文化の源流とも言えるが、一貫して華北の住民だったのはmt-Dだけだった。Y-NY-Qは周代に華北から追放され、mt-Dが浸潤したY-O3が華北の主要遺伝子になったからだ。

 

アワ栽培の起源

北陸部族が招いたmt-D1万年前にアムール川流域に居た事を、縄文文化の形成期の項で検証したが、此処ではmt-Dが東アジアの代表的なアワ栽培者だった事を、改めて検証する。歴史事象の分析では、結果として起こった事からその原因事象を想定する場合が多くならざるを得ないから、話の順序は逆になるが、縄文文化の形成期の項で原因事象を検証し、此処では結果として起こったアワ栽培の状態を検証する。

現在の通説ではアワの栽培起源地は特定できず、遼河台地は起源地ではないとの説も有力視されている。それに対する回答として、アワを栽培化したのは氷期に東シナ海の沿海部にいたmt-Zで、mt-Zは後氷期の温暖化によって日本海北岸やアムール川流域に北上したが、ヤンガードリアス期にmt-D4mt-D5がオホーツク海沿岸からアムール川流域に南下し、mt-Zに浸潤する事によってアワの栽培技術を得たと考えると、通説を包含する仮説が得られる事は既に指摘した。

しかし1万年前のアムール川流域で、アワを栽培していたのはmt-D4mt-D5だけになり、そのmt-Dが華北に南下してアワ栽培者になると共に、北陸にも渡来して焼畑農耕者になった事を、以下では結果として起こった事として事実検証する。

中央アジアは気候が乾燥した地域だから、遺跡の保存性が高い。その様な地域で一番古い発掘事例があったとしても、それを以てアワ栽培の起源地とする事は出来ない。アワに限らず他の栽培種についても同様だが、中央アジアは内陸にあるから、海水温が低かった氷期の降雨は、極めて限定的だったと推測されるからだ。氷期の寒冷センターだった北西ユーラシアに近接していたから、氷期の温暖期に氷床の融解が進展しても、冷涼な気候に覆われていたと想定されるし、氷床の融水に乏しかった氷期の寒冷期には、気候が乾燥して砂漠化していた可能性が高い。

後氷期になって大陸が温暖化すると、カスピ海やアラル海は氷床の融水によって巨大湖化したが、ヤンガードリアス期には湖から蒸発した水が周囲に薄い氷床を形成し、やがて巨大湖も通年氷結した事が、ヤンガードリアス期の冷涼な気候の原因だったと考えられるから、ヤンガードリアス期が終了する12千年前までの中央アジアには、温帯性の樹木や雑草が繁茂する継続的な環境はなかったと想定される。つまりイネ科植物の栽培者が長期間留まり、栽培化を進める事ができる環境ではなかったから、気候が安定していた他地域で栽培化された植生が、持ち込まれる環境が11千年前に生まれたと想定される。

考古学的な発掘では、中央アジアが湿潤化して樹林に覆われたのは、11千年前だったと指摘されているが、それは12千年前に東ユーラシアが超温暖期になり、それによって西ユーラシアの氷床の融解が進み、中央アジアに巨大な湖が誕生してから千年を経た時期だから、順当な指摘であると考えられる。巨大湖から生まれた水蒸気が周囲に降雨をもたらしても、森林化する為には土壌の形成が必要だから、中央アジアが森林に覆われるには千年程度は掛ったと考えられるからだ。

Y-R民族がパキスタンから北上して中央アジアの大麦栽培者になったが、大麦は秋に播種して冬季の降雨を期待する冬作物になる。中央アジアは気候が乾燥しているが冬季に降雨があるから、大麦の栽培には適している。この事情は基本的には12千年前から変わらず、西ユーラシアの氷床の融解量が激減した1万年前以降は、現在と類似した気候になったと推測される。

アワは晩春~初夏に播種して秋に収穫する夏作物だから、アワが中央アジアで栽培化された筈はない。中央アジアのタシュケントは11月から5月までが降雨期で、冬型の作物の栽培地である事を示しているからだ。夏のモンスーン型の降雨が期待される東アジアは、夏作物の栽培に相応しい気候帯だから、アワの原生種であるエノコログサが繁茂しやすく、アワの栽培化に適した地域でもある。アワが栽培化されたのは後氷期になってからだとすれば、湿潤な気候を求めてオホーツク海まで北上したmt-Dが栽培化した事になるが、縄文時代の日本にはエノコログサはなかったと指摘されているから、冷温帯性の堅果類の栽培者だった縄文人は、エノコログサを持ち込まなかった事になり、氷期~後氷期にエノコログサが繁茂していた地域は、冷温帯性の堅果類の群生地より南の温暖な地域だったと考えられる。

従ってエノコログサはモンスーン地域原産の植生だったと考えられるが、Y-Nとペアだったmt-M群の、最北端に位置したmt-Dが栽培化したと考える事には無理がある。

現在のmt-Dは多彩な遺伝子で、Y-Qと共にアメリカ大陸に渡ったグループ、シベリアに残ってY-Nと共に共生民族になったグループ、そしてアワの栽培者になったグループがあり、アワの栽培者になったグループはmt-D4が主体で、15%ほどのmt-D5を含んでいる。この状態は他の穀物種の栽培化遺伝子とは異なり、2種の遺伝子が中核になっている事に特徴がある。つまり栽培化の第一段階で栽培種を選定する為に、遺伝子が純化された他の栽培系ミトコンドリア遺伝子とは異なり、mt-Dには純化段階を経ていない様な履歴があるのは、氷期には別の栽培種を標準化する為にmt-Dに純化したが、他の事由によってmt-D4mt-D5だけがアワ栽培者になり、その他のmt-Dはアワ栽培者にならなかったから、北米やシベリアに拡散したと推測される。

これらの事だけで断定的な判断はできないが、アワを栽培化したのは他の遺伝子で、その遺伝子群にmt-D4mt-D5が浸潤したと仮定すると、色々な歴史事象と整合する。気候が安定していた時代や地域では、栽培種の生産性が劣るmt-Dが、生産性が高い種を栽培していた女性に浸潤する事はなかったが、後氷期のmt-Mは気候が不安定な地域を南北移動したから、温暖な地域の出自の栽培者が、気候が冷涼化して栽培が不可能になった場合に、冷涼な気候でも栽培できる種の生産性を維持していたmt-Dが浸潤する事は、極めてあり得る事情だったからだ。

最も可能性が高い事例は、ヤンガードリアス期のオシポフカ文化圏になり、この想定は他の歴史事情と整合する。土器が発掘されている事は、この文化圏にmt-Zがいた事を示唆し、ヤンガードリアス期の急激な低温化は、この地域にmt-Dも南下していた可能性を高めるからだ。狩猟民族に浸潤して日本列島に南下したmt-Dは、土器を持っていなかった事は、日本の狩猟民族の12千年前以前の遺跡から明らかだから、オシポフカ文化圏の土器はmt-D以外の女性の文化だった事になる。またmt-Gmt-Cが拡散したカムチャッカ半島には、縄文時代には土器はなかったから、オシポフカ文化圏の土器はmt-Zの文化だった可能性が高い。

mt-CZmt-M8から分岐した遺伝子だが、mt-M8は氷期が終わるまで広東にいて、mt-M8aに純化したと推測されるから、氷期の広東でエノコログサを栽培していたmt-M8が、氷期に東シナ海の沿海部に北上するとmt-CZになり、エノコログサは繁茂していなかったが、手を掛ければ栽培が不可能ではないアワの栽培化に適した気候帯に移住した事になる。

上記の証拠として、アワの原生種であるエノコログサは、縄文時代の日本にはなかったと言われている事が挙げられる。

冷温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7aが琉球岬にいた時代に、彼女の周囲にはエノコログサは生えていなかった事になり、当時のエノコログサは暖温帯地域の雑草だったと考えざるを得ない。現在は冷温帯地位にも繁茂しているが、超温暖期にエノコログサの北限が現在の冷温帯域に北上した後、徐々に気候が寒冷化して現在に至ったと想定されるから、北上したエノコログサが気候適応性を高めた結果が、現在のエノコログサの分布域になったとすれば、氷期~後氷期前半のエノコログサは、暖温帯性の雑草だったと想定する事に違和感はない。

アワの生産性の高さと耐寒性の低さも、上記の証拠として挙げる事ができる。生産性が高い穀類の原生種は、温暖な地域の植生だった事が期待され、アワの耐寒性の低さはその証拠になるからだ。具体的に言えば、古墳寒冷期の華北でアワ栽培が壊滅した事が、アワの耐寒性の低さを示し、日本ではアワは西日本の穀類であると考えられていた事も、アワの原生種は温暖な地域の植生だった事を示唆している。

縄文文化の形成期の項で指摘したが、mt-Zの母体であるmt-M843万年前に広東にいて、北方に移動してmt-Cmt-Zに分岐したから、32万年前のmt-Zが、エノコログサの花粉の影響がない東シナ海沿岸でアワの耐寒性を高め、栽培化の第二段階に進んだと想定する事に合理性がある。

アワを栽培化したのはmt-CZではなく、アワの栽培化によって純化したmt-Zだったと考えられ、氷期の東シナ海沿岸にはY-O2bmt-M7aのペアが、堅果類の栽培者として展開していたから、mt-Zは彼らから土器文化を受領する機会があった。

以上の検証により、アワ栽培の起源者はmt-Zで、mt-Dは浸潤によってアワの栽培技術を入手したと、結論付ける事ができる。

この結論を普遍化すると、遺伝子が2倍体の穀類であるアワ、コメ(温帯ジャポニカ)、大麦は、いずれも氷期の最後の寒冷期に栽培化が始まったと考えられ、2倍体の穀類の栽培化には数万年の時間が掛かった事を、普遍的な事実とする事ができる。逆に言えば後氷期なってから栽培化された種は、特殊なものを除いて現在のメジャーな穀類として認定されていない事になり、その理由の一つとして栽培化の時期が短く、栽培種として成熟していない事が挙げられる。

mt-Dに純化した女性達が栽培していた植生については、周礼や漢書地理誌が示す中華の穀類は、稲、麦、黍、稷で、黍はキビを、稷はアワを指したと考えられる事と、漢書地理志に雍州と冀州について、「穀は黍、稷が良い」と記されている事がヒントになる。アワとキビが遼河文化期から栽培され、漢代までの華北の主要穀物はアワだった事を示唆しているだけではなく、キビにはアワほどの生産性はないにも拘らず、アワよりキビを先に記しているからだ。これは漢書の著者の認識ではなく、穀類を黍稷と表現する習俗が古い時代からアワ栽培者にあった事を示唆している。黍稷(しょしょく)は五穀と同義語であると、古代から言われている事もこの類の話になる。

キビにはアワほどの生産性はないが、乾燥や冷涼な気候に強いから、アワを補完する穀類だったとも言えるが、東アジアの女性達は、特定種の栽培化によって人口を増やし、浸潤によって栽培メニューを増やしたから、mt-Dがキビを語順の先に置いた事は、最も重要な穀物であると認識していた事になる。mt-Dが祖先伝来の穀物として、キビを特別視していたからだとも言えるが、mt-D1万年前から、この語順で穀物を表現していた可能性が高い。

堅果類の栽培者に浸潤したmt-Bや、稲作の専業者だったmt-Fが、最も生産が高い品種として特定のイネを栽培化したのは、その方が生産性を高める事に有効だったからだ。アワを天水農耕で栽培していた民族は、多種類の穀物を栽培して干害や虫害に備えたのかもしれないが、どちらでも栽培できる場所であれば、生産性の高いアワに特化する方が高い収穫を得る事は間違いない。それでありながらキビを重視していた事も、上記の証拠になるだろう。

現在のオホーツク海沿岸にmt-Zが殆どいない事は、超温暖期になってもアムール川流域を栽培北限として、トルコ系の漁民と共生していた事を示唆している。従ってトルコ系漁民がシベリアの内陸に移住する際に、栽培メニューが豊富なmt-Zの同伴を希望し、アワしか目立ったメニューがなかったmt-Dを敬遠したと想定すると、mt-Zがシベリアに拡散した理由が明らかになると共に、アワが栽培化されたのは中央アジアだったとの誤解も解消する。

mt-Dが浸潤して獲得したのはmt-Zの主要な栽培種だけで、全ての栽培種を受け継いだわけではなかったから、母から娘に伝承されたmt-Z固有の栽培種が多数あった事や、トルコ系民族から見たmt-Dmt-Zには性格の違いがあった事などが、両者の運命を分けたと想定される。

現在の華北の主要穀物である小麦は、唐代から華北に移住し始めたトルコ系民族が持ち込み、トルコ系の王朝だった宋代に栽培が本格化したもので、それ以前の華北の状態を記している周礼や漢書は、青州(山東省西部と河南省東部)だけはコメと麦の産地であると記しているが、それ以外の地域ではアワとキビを主要な穀物とし、アワとキビがmt-Dの主要な栽培種だった事を示している。ちなみにこの麦は大麦を指し、青州で大麦を栽培していたのは、次節に示す仰韶文化系譜のY-R民族だった。

現在も麦が主要な穀物である西ユーラシアは、冬季に降雨が多い地域だから、夏植物であるアワより冬植物である麦の方が生産性は高く、アワ栽培だったmt-Zは、温暖な地域では麦の栽培者だったmt-Rに浸潤されてしまったが、モンスーン気候故に夏季に雨が多い東アジアでは、アワ栽培者だったmt-Dが最大勢力になり、麦は伝統的な麦栽培者が入植していた青州のみが主要な産地だった事を、礼記や漢書地理志が示している。

 

遼河文化

遼河文化は太平洋が湿潤化した8千年前に始まり、最初の文化期である興隆窪(こうりゅうわ)文化期に、環濠集落が生れていた。太平洋が湿潤化する以前は、この地域は砂漠に近い環境だったから、この文化圏でアワが栽培化されたと想定するには、時間が足りない事は明らかだ。従ってアワは他所で栽培化され、その民族が遼河上流域に移動し、遼河文化を形成したと考える必要がある。

湿潤化によって乾燥した台地が栽培適地に変わる以前は、アワ栽培者は乾燥し難い松花江の河谷にいたから、気候が湿潤化して河川が増水すると栽培地にしていた川底の平坦部が失われ、栽培者が河谷から追い出された時期に、遼河文化が誕生したと考える必要がある。興隆窪文化の開始期を8200年前とする記述が散見されるが、中国人が設定する時代は可能性の最大値である場合が多いから注意を要する。

興隆窪文化時代は狩猟が主な食料源で、7400年前に始まった趙宝溝文化期に農耕時代が始まり、6700年前に始まった紅山文化期に本格的な農耕時代になったと説明されているが、この文化を理解するためには、1万年前にアムール川流域でアワを栽培し、一部が北陸に渡来してアワ栽培を継続した女性達がいて、それは華北に最も多い遺伝子であるmt-Dmt-D4mt-D5)だった事を認める必要があるから、それを改めて検証する。

桑野遺跡の住民の豊かさを示す石製装飾品の背景には、生産性が高い焼畑農耕があったと想定され、北陸に磨製石斧の工房が多数生まれた事は、焼畑農耕に必要な磨製石斧を量産する為だったと考えられる。それ以外の事情では、これらの関係が説明できない事は既に指摘した。

アワはキビより湿潤で温暖な気候に適し、アワはキビより生産性が高いから、日本では焼畑農耕によるアワの栽培に適していた。その結果日本では、アワはコメに次ぐ重要な穀物になった証拠が、古事記や続日本紀に記載されている。古事記の記述は、縄文時代の事情を多分に含んでいる事は既に指摘した。

天孫降臨の元になる事績は縄文後期の出来事だったが、それに先立つ時代の記事として、古事記は徳島県をアワ国とし、「おおけつひめ」の国であると記している。「おおけつひめ」を漢字交じりの現代語に直訳すれば、「大食の姫」になり、意訳すれば「真正な食料の女神」になる。「大」は真正である事を意味し、「大麦」「大豆」「大御神」などと同じ用法になるからだ。従って古事記のこの文章は、縄文時代の阿波ではアワが主要な穀物だった事を示している。阿波は倭人の国ではなく、日本海系の縄文人の国だったから、縄文時代の北陸部族はコメよりアワを重視していた事を示している。弥生時代以降は阿波もコメの産地になった筈だから、アワが主要な食料だった時代は縄文時代だった事になり、その時代の北陸部族にとって食()はアワだった事を示している。

食=「け」=アワの感覚は、現代日本人が食事を取る事を「ご飯を食べる」と表現する感覚に近く、縄文時代の北陸部族は現代日本人がコメに対して持っている感覚を、アワに対して持っていた事を示している。万葉仮名には「食」を「け」と読む用例があるが、諸国の歌を集めた万葉集にしかなく、コメを重視した倭人系譜の貴人が著述した、古事記にはこの用例がない事が、その事情を示している。

続日本紀に、奈良朝三代目の元正天皇が即位の詔で、「租税としてコメを納める事ができなければ、代わりにアワを納める事を許可せよ」と訓示したと記されているから、奈良時代のコメは租税の対象になる高級な食料で、庶民はアワも食べていた事を示唆している。

縄文時代末期の日本人にはmt-D+M7a3割以上あり、栽培系の遺伝子はすべて、特定の穀物や栽培種に紐付ける事ができるから、彼女達の栽培種がアワだったのでなければ、日本人の遺伝子分布は説明できない。その代表例としては、mt-B4は熱帯ジャポニカの栽培者で、mt-Fは温帯ジャポニカの栽培者だったが、それより多かったmt-D+M7aの栽培種は、焼畑農耕によるアワだったと考えざるを得ないからだ。稲作が盛んになった縄文後期以降、関東のmt-M7a比率は極度に低下したが、北陸部族ではmt-Dがアワの栽培者で、mt-M7aは焼畑農耕に必要な樹林の管理技能を持っていたと考えられるからだ。

但し現代日本人のmt-Dの由来は、1万年前に北陸に渡来した女性以外に、8千年前に遼河文化圏から渡来したmt-D、縄文晩期に渡来した漢族のmt-D+M8a、古墳寒冷期に帰化した韓族のmt-D+M7aと、漢族のmt-D+M8aがあるから、それぞれを分離する必要がある。しかし1万年前に渡来したmt-Dと遼河文化圏から渡来したmt-Dは区別できないから、両者合算するしかない。他の遺伝子は分離が可能だが、それには連立方程式を解く必要があるので、その詳細はこの頁の後段に譲り、此処では縄文末期の日本人の祖先には、焼畑農耕者だったmt-D+M7a3割以上含まれていた事を指摘して置く。

 

縄文前期以降のアワ栽培民族

縄文前期になると遼河文化は趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか)期になり、河北省北部にも文化圏が広がった。この時代には、現在の河北南部の平原は渤海だったから、アワ栽培者が華北にも拡散した事を示している。興隆窪遺跡は2万平方メートルだったが、趙宝溝遺跡は9万平方メートルの広さがある。この文化の遺跡から石鋤や石包丁などが発掘され、農耕が進化した事を示唆している。

遼寧省瀋陽で発掘された新楽遺跡も、趙宝溝文化期に並行する時期の遺跡で、巨大化していた渤海の東側にもアワ栽培者がいた事を示している。瀋陽がある遼東は、遼河対地から見ると渤海の対岸にあり、この地域は遼河台地より気候が湿潤だから、8千年前に気候が湿潤化すると森林に覆われたと考えられる。従って磨製石斧を持たなかった遼河文化圏の人々の遺跡ではなく、mt-Dが浸潤した韓族の祖先の遺跡だったと考えられる。遼東半島では磨製石斧の素材に相応しい岫岩が産出し、それを使って石斧を製作していた事が、考古学的に確認されているからだ。

渤海はツングースの交易路だったから、遼河台地や華北北部のアワ栽培者は、ツングースを介してシベリア文化と接する事が出来た。縄文中期の紅山文化期の遺跡から、濊の祖先が製作したと推測される玉器が出土した事は、遼河文化圏はツングースを介してシベリア文化圏に含まれていた事を示している。

縄文中期寒冷期なると、遼河台地には紅山文化が営まれたが、黄河流域に龍山文化が生れ、アワ栽培者の一部が黄河流域に南下した事を示唆している。

黄河流域に南下するとツングースとの交易関係がなくなり、シベリア的な秩序感が失しなわれて異様な社会が形成された事を、龍山文化期の遺跡が示している。遺跡には豊かさを示す器物も貧富の拡大を示す遺物もないが、集落が防塁に囲まれて闘争用の武器が作られ、損傷した遺体が発掘されているからだ。

シベリアの共生社会の秩序意識がどの様なものだったのかは、(1)魏志倭人伝/魏志東夷伝が示す東夷諸族/濊を参照して頂きたいが、特に「人々の性格は生真面目で欲は少なく、廉恥を知って物乞いはしない。」「山川には各々が(所有する)部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。」「寇盜は少ない。」との記述に着目する必要がある。シベリアの部族文化の継承者だった濊は、厳格な秩序意識を持っていたからだ。

黄河流域に南下したアワ栽培者の社会が、シベリアの共生民族社会とは全く異質な極めて暴力的な社会になったのは、アワの生産性が高まると人口が増え、一人当たりの狩猟の獲物が減少して食料をアワに依存する度合いが高まる中で、アワの優良な栽培地や収穫を、闘争的に争奪する社会になったからだと想定される。その背景として、シベリアの狩猟民族から学んだ部族的な縄張り秩序が崩壊し、それに代わる秩序観が形成できなかったから、社会が混乱状態になった事を示唆している。

遼河文化初頭の遺跡である興隆窪遺跡は、防御のためと思われる環壕に囲まれ、その内側に100棟もの住居址があるから、その傾向は遼河文化期の初頭からあった様に見えるが、興隆窪文化期には降雨が多く、遼河台地は樹林や草原に覆われていたから、草食獣が多かった事は間違いない。それらを捕食するトラやヒョウなどの肉食獣も徘徊していたから、環壕はそれらの害獣から集落を守る施設だった可能性も高い。狩猟民族と共生していれば、その様な害獣は狩猟民族が駆除した可能性が高いが、Y-NY-Qの狩猟能力ではトラやオオカミに対処できなかった可能性も高いからだ。この時期のシベリアの狩猟民族は弓矢を持っていたが、シベリア経済から疎外されていた遼河台地の人々には、弓矢を入手する交易手段が乏しかったからでもある。

いずれにしても確かな事は言えないから、遼河文化期に暴力的な習俗が芽生え、華北に南下するとそれが強調された可能性もあるが、環壕の存在を文明の所産とする見解は笑止であると言わざるを得ない。

食料の過半を腐敗しやすい獣肉に頼っていた時代には、狩猟能力を高める事が本質的な課題だったから、アワの争奪があっても一時的で、突発的な事態でしかなかった筈だが、アワ栽培者が温暖な華北に南下して生産性が高まり、アワへの依存度が高まって人口密度が高まると、貯蔵性が高いアワが主要な食料になった事が仇になり、栽培地を巡る利権争いが生れ、保存が可能な収穫物であるアワの争奪が高まったと推測される。それが恒常的な社会現象になると、アワの強奪が生業の一部になる危険も生んだだろう。いずれにしても龍山文化期の殺伐とした事情は、シベリア的な秩序認識が失われた事を示している。

シベリア的な秩序には狩猟や漁労の縄張りを決める認識しかなかったから、アワの栽培地の分配に関しては新しい秩序認識が芽生え、それを民族認識として合意する必要があった。その様な集団が生産性を高めれば、やがて周囲に同調を求める事になり、同業者の文化として定着したと想定され、シベリアの秩序認識もその様な経緯から生まれた可能性もあるが、その様な集団が生れなければ、暴力的な社会になっただろう。

首領の縄張りは広域的だったが、野生動物は更に広域的に移動していたから、縄張りの質に関しては、それほど神経質になる必要はなかったし、質を比較する事は難しかったから、ある程度の広さの領域を分け合うしかなかった。河川漁労についても、同様な状態だったと推測される。しかし優良な栽培地は特定地域に集中する場合が多く、栽培地の質の高低は一目瞭然だったから、栽培地の獲得には狩猟の縄張りの獲得とは独立した概念が必要になった。狩猟民族が狩猟を主体的に行いながら、配偶者の栽培地を確定する事は極めて難しかっただろう。水辺の作物であるイネは栽培地が限られていたが、アワは丘陵でも栽培できる畑作物だったから、栽培地と狩猟地を分離する事が難しいという、困難な事情もあっただろう。

これは殆ど全ての栽培系狩猟民族が、遅かれ早かれ到達した課題ではあったが、それぞれの民族の経過や結果には大きな差があった。従って華北のアワ栽培民族が特に暴力的になった事については、彼らの特殊性に関する説明が必要になる。

栽培系狩猟民族だったY-F系は、血族集団を形成した事が遺伝子分布から読み取れるが、シベリアには部族文化があったから、それとは矛盾する血族主義はなかった事が、Y-C3系譜の遺伝子分から読み取る事ができる。この時代の東アジアで最も高度な秩序認識を持っていた、シベリアの共生民族集団から派生したアワ栽培民族が、東アジアで最も武断的で暴力的な民族になったのは、部族主義者にも血族主義者にもなれなかったY-Nの、必然的な末路だったと言えるかもしれないが、それだけで全てを説明できるわけではない。

貯蔵性が高いアワを主要な食料にすれば、収穫の大量貯蔵とその争奪が結び付き易くなるが、腐敗しやすい水産物を主要な食料にしていたシベリアには、その様な状態を防止する秩序観は存在しなかったから、遼河台地を起源とするアワ栽培者は、全く異なる概念に基づいて社会秩序を形成する必要があった。縄文時代のシベリアは漁労の生産性が高く、その結果として華北より経済が活性化していたから、シベリアの栽培者は穀類の生産に固執しなくても済んだからだ。

mt-M10が広域的な商品を生産する事により、シベリア経済の有力な担い手になった事は既に指摘したが、その背景には多数の商品とその生産者がいたと考えるべきだろう。アワの生産性が斜陽化した筈の紅山文化圏で、濊の祖先が製作したと推測される玉器が発掘されながら、龍山文化圏でその様な遺物として黒陶が生れた時期が遅れたのは、交易社会との距離が生み出した現象である様に見える。つまり紅山文化圏の人々は過度にアワ栽培に依存せず、狩猟民族としての側面を維持しながら獣骨交易に参加し、シベリア経済の一翼を担っていたが、ツングースの交易圏外だった華北にはその様な経済構造がなく、独自の経済活動を促す食料の余剰もなかった上に、シベリアの文化圏から疎外された状況に陥ったから、殺伐とした社会に傾斜していったと想定される。

縄張りを形成して民族秩序を維持する体制は、元々男性が差配していた狩猟文化に属すものだったから、栽培系の女性達はそれに馴染んでいなかったが、農地も一種の縄張りであり、その適地の選定権は栽培技術者である女性が握っていたから、事情は更に錯綜した。栽培が原初的な状態に留まり、狩猟の縄張りが広大だった時期には、栽培地の獲得は男性達の狩猟の縄張り内で起こった、一族の揉め事に過ぎなかったから、少ない人数の女性達の争いによって栽培地が確定していた。

しかしアワの生産性が高まって狩猟の重要性が薄れ、その結果として女性達の発言力が高まっても、女性達を巻き込んだ新たな民族秩序が生まれなかったと想定される。その様な状態で、狩猟民族的な秩序を維持できなくなった男性達に残された道は、女性達の栽培地の獲得意欲を満たすために、近隣に威勢を示して栽培地を確保する事だったとすれば、その行き着く先は武闘しかなかっただろう。女性は平和を愛したが男性達が暴力的になったのではなく、女性達に煽られた男性達が暴力的になった可能性が高い。

龍山文化期に始まった暴力的な習俗が、殷代に最高潮に達した事を、殷墟の近傍の王墓から発掘された夥しい惨殺死体が示している。その様な暴力的な習俗は殷王朝が滅んだ後も継続し、残党集団だった扶余にその遺習が色濃く残っていた事を、魏志扶余伝が示している。

それらの歴史的な経緯を簡単に説明すると、華北のアワ栽培者だったY-Nmt-Dペアが歴史時代の殷人になり、縄文後期末に華北から稲作民を暴力的に追い出し、アワ栽培者の民族王朝として殷王朝を形成した。しかしその凶暴な習俗を嫌った稲作民が、殷周革命を起こして殷王朝を滅ぼし、華北の支配を周王朝に任せた。周は殷人を華北から追放する為に、殷人に抑圧されて文明化していなかった漢族を優遇し、彼らに地域政権を形成させて殷人を圧迫し、華北から追放した。その結果Y-NY-Qの殷人が歴史の表舞台から消え、華北の多数派は漢族のY-O3に変わったが、Y-O3には殷人のmt-Dが浸潤してmt-D+M8aを形成していたから、Y遺伝子が形成していた民族はである殷人は華北から追放されたが、華北の主要なミトコンドリア遺伝子は、アワ栽培者だったmt-Dである状態は継続した。

周王朝はY-O3漢族を使ってエスニッククレンジングを行ったので、Y-NY-Qは満州に逃れ、扶余集団を形成した。周代と春秋時代に漢族の人口が増え、華北の多数派になって現在に至っているから、殷代以前の遺跡から発掘された遺骨は殆どがY-NY-Qで、Y-O3は殆どないという不可解な状態になっている。殷人にY-NY-Qが含まれている事は、彼らはY-F系の血族秩序を再現したわけでもなく、シベリア的な部族主義も部分的に継承していた事を示唆している。

 

歴史時代の書籍から、縄文時代のシベリア事情を推測する

縄文前期~中期のシベリア事情は、考古遺物から直接推測する事が出来ないので、歴史時代の史書から類推する事になるが、史書との一致に関する分析は、時代が近い縄文後期~晩期を扱った経済活動の成熟期の項で行う。此処ではその中から縄文前期~中期に遡れる事情を抜粋し、この時代を推測する資料にする。

歴史時代のモンゴル高原にはモンゴル系の騎馬民族がいて、漢末には東湖、烏丸、鮮卑などと呼ばれていた。魏代の吉林省には殷人の末裔だった扶余、朝鮮半島には縄文中期にシベリアから南下した濊、満鮮境界には弥生温暖期の終末期にシベリアから南下した高句麗、日本海北岸にシベリアから南下した沃沮、沿海州に粛慎がいた事と、黒竜江省にはツングース語使う民族がいた事を、魏志東夷伝が示している。

扶余、高句麗、沃沮、濊は言語が同じだが、粛慎(挹婁)は違う」と記し、シベリアから南下した時期も経緯も違う、粛慎以外のこれらの民族は、ツングースとは異る言語を使うと指摘しているから、トルコ系の民族だった事になる。濊伝に、「その俗は山川を重んじ、山川には各々が(所有する)部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。麻布があり養蚕している。楽浪の檀弓として知られている弓は、この土地の産物である。海からは斑模様の魚の皮が、陸からは沢山の豹皮が出荷される。果下馬を産し、漢の桓帝の時に之を献上した。」などと記され、3民族の混成集団だった事を示唆している。朝鮮半島の少数民族でありながら、激動の時代を生き抜いて高句麗の繁栄をもたらした軍事力や、高句麗が滅んだ後の新羅を支えた濊の軍事力は、騎射に優れた狩猟民族が提供していた可能性が高い。韓国に残されたシベリア系のミトコンドリア遺伝子の中で、mt-Aが最多である事がその事情を示唆しているからだ。

シベリア主要部の民族は殆どがアルタイ語族で、アルタイ語族には、トルコ語、ツングース語、モンゴル語があるから、扶余、高句麗、沃沮、濊はトルコ系、粛慎はツングース系、遊牧騎馬民族になった鮮卑はモンゴル系だったと想定される。

魏志東夷伝が「扶余は殷の暦を使い、白色を尊ぶ。」「古老が扶余は亡命民族であると言っている。」と指摘し、史記が殷人は「白色を尊ぶ」と記しているから、扶余は殷人系譜の民族だったと考えられる。濊は後世に「白」と呼ばれ、高句麗の民族起源を示唆する「貊」や「狛」も旁は白だから、トルコ系民族は白色を高貴な色としていたと考えられる。

魏志東夷伝が「粛慎は高句麗と密接な関係にあった」事を指摘し、その後の史書も、高句麗と挹婁・靺鞨(どちらもツングース語話者)は提携関係にあったと記している。粛慎は殷週革命時に、殷を滅ぼした周に何度も朝貢した事が竹書紀年に記され、殷代以降のシベリア交易を主宰していた事を示唆している。高句麗が史書に登場するのは漢代以降だから、高句麗は弥生温暖期が終わり始めた時期に登場した事になる。従ってシベリア交易を主宰していた粛慎が、古墳寒冷期なって需要が高まった毛皮の衣類を華北の人々に販売するために、トルコ系の共生民族をシベリアから誘致した事になる。

沿海州やオホーツク海沿岸にいた粛慎は、縄文後期までは沿海部のローカルな交易者だったが、縄文晩期にシベリアの内陸の経済が崩壊し、東西ユーラシアを結ぶ交易者だった息慎が消滅したから、代わって登場した漁民を主体とする交易者民族だった。従って縄文後期までのシベリア経済を支えていた栽培民族や狩猟民族は、粛慎の指揮下にあった民族ではなかったが、華北で毛皮を製造販売する好機であると考え、その為にトルコ系民族をシベリアの内陸から誘致し、高句麗を形成させたと考えられる。

寒冷なシベリアでは重厚な毛皮の衣類が必要だが、華北では軽装の衣類の需要が高かったから、高句麗は華北で毛皮を販売しながらマーケティング活動を行い、華北で需要がある製品に仕立てていたと想定される。ツングースはシベリアから毛皮や海獣の皮革を持ち込むだけではなく、高句麗の販売担当者と共に、華北の河川水運も担ったと想定される。高句麗の女性達は製品の加工者だった事を、現在の韓国人のシベリア系のミトコンドリア遺伝子である、mt-M10mt-Gmt-N9aの存在が示唆している。mt-Gはオホーツク海沿岸に多い遺伝子だから、オットセイやアザラシの皮革の加工者で、mt-N9aは毛皮の加工者だったと想定されるから、シベリア経済が活性化した縄文前期~中期に、この様な職業が発生したと考えられる。

ツングース系の陸上民族として、満州族が知られている。その前身は漢代に挹婁(ゆうろう)と呼ばれ、魏志東夷伝にも栽培系民族として描かれているが、沿海州にいた粛慎とは異質な民族だったと考えられ、魏志東夷伝には粛慎に関する民俗的な記述はないが、「沃沮は毎年粛慎によって海から襲撃され、沃沮は粛慎を非常に恐れている」と記している。粛慎の根拠地だった沿海州には、魏の役人は旅行もした事がなかったからだと考えられるが、粛慎の海洋航行能力が高かった事を示している。

挹婁の呼称は隋代に靺鞨になり、宋代に女真と呼ばれて金を形成し、最終的に満州族になって清王朝を樹立した。この様な民族名の変遷は、粛慎と呼ばれる輝かしい民族名を持っていた交易民族としては、不可解な事であると言わざるを得ない。

満州族は栽培系狩猟民族の様に見え乍ら、主体的な遺伝子はY-NではなくY-C3である事と、魏志東夷伝は挹婁を栽培民族らしく描いているが、高句麗の様に高度な農耕民族らしく描かれていない事から推測すると、彼らはシベリア経済が崩壊してから南下した、栽培に習熟していない狩猟民族や漁労民族だった可能性が高い。つまり縄文晩期寒冷期にシベリアの河川が冬季に氷結する様になり、河川漁労が壊滅して経済活動が崩壊した頃か、鉄器時代になって海洋民族の獣骨需要も失われ、更にシベリア経済が疲弊した頃に、漁民や狩猟民だった人々が満州に南下し、豚を飼養する栽培民族になった可能性が高い。俄仕立ての栽培民族だったので、文化的には極めて未熟な状態にあった事を示唆しているからだ。

彼らは元々はトルコ系民族だった筈だが、満州はツングースの占有地だったからツングースの言葉に転化し、ツングース系の挹婁が生れたと想定される。その後も満州にはシベリアからY-C3民族が南下し続けたから、その状況に応じて靺鞨、女真、満州族などと名称を変えたと考えられる。彼らは満州族になっても純粋な農耕民族ではなく、共生民族的な文化を維持していたから、歴史家は満州族を狩猟採取を行っていた野蛮な民族だったと喧伝しているが、縄文時代に先進的な文明圏を形成していたシベリア系民族の、最後の集積地だったと考えるべきだろう。Y-O3が主体のモンゴル系騎馬民族は、シベリア経済が活性化していた時代には外郭団体的な民族だったが、満州族にはシベリアの本流民族の末裔が集まっていたとも言えるだろう。

それ故に清王朝は、歴代の征服王朝の中で最も安定した統治を実現したが、3民族の共生社会と中華的な農耕社会は全く異質な社会だから、中華的な価値観に惑わされて統治能力を失い、滅亡する運命を辿ったと推測される。中華の王朝は秦に始まって清まで続いたが、広義の中華民族まで拡張しても、100年以上続いた王朝は明だけで、他は全て征服王朝だっただけではなく、全てがシベリア系民族の征服王朝だった事に特徴がある。唐はモンゴル系の鮮卑族、宋はトルコ系の栽培民族、元はモンゴル系遊牧民族、清はツングース系の共生民族だったからだ。

中華民族は彼らを蛮族であるかの様に喧伝するが、縄文時代のシベリアはユーラシア大陸の文明中心だったから、中華世界は彼らに統治される事によって社会が安定し、明が興っても民族主義は生れずに清に代わったと考える必要がある。シベリア文明が最も発展した時期は、縄文前期~後期だったと考えられる。

 

1-1-5 仰韶文化

氷期には東南アジアの北西部にいたY-Rmt-Rxペアは、後氷期に温暖化するとインダス川流域に達した。12千年前にユーラシア北西部の氷床が融解し始め、アラル海やカスピ海が巨大化すると、その湖水によって中央アジア西部が湿潤化したので、彼らはパキスタンの山岳地を経てタジキスタン、キルギス、カザフスタンに北上したたが、極度の乾燥状態にあった東ユーラシアには東進できなかった。

しかし8千年前に太平洋が湿潤化すると東ユーラシアの内陸部も湿潤化したので、彼らは甘粛省や陝西省に東進して大地湾や老官台に7千年以上前の遺跡を遺した。縄文前期に仰韶文化(7千~5千年前)を形成したこの民族の、主要な栽培種は六条大麦だったと考えられ、この文化を特徴付ける精緻な彩陶土器やトルコ石の装飾品と、環濠を回らした住居址が、陝西省を中心に山西省や河南省北部で発掘され、権力機構が発生していた事を窺わせている。

縄文中期になるとこの文化の中心は甘粛や青海に後退し、馬家窯文化(ばかようぶんか;51004700年前)などを生んだが、この文化を担った人々はヒツジを飼う畜産民になっていた。この時代には騎馬民族はいなかったから、徒歩で羊の飼養をしても高い生産性は得られなかったと推測されるが、大麦の生産性向上と羊の飼養により、栽培系狩猟民族から農耕牧畜民族に脱皮しつつあった事を示唆している。

縄文前期の華北では西部に仰韶文化圏があり、東部には堅果類の栽培者だったY-O2bmt-M7aペアの、磁山文化(じさんぶんか)や裴李崗文化(はいりこうぶんか)が展開したが、縄文中期の華北ではそれらの文化系譜が失われ、アワ栽培者のY-N/Y-Qmt-Dペアが形成した龍山文化圏に変わった。これはY-RY-O2bが暴力的なアワ栽培者に圧迫された事により、Y-Rは乾燥して栽培に不向きになった甘粛や青海に武闘的に押し出され、河北の堅果類栽培者は四散したからだと推測される。

出土遺物は仰韶文化や裴李崗文化の方が秀逸だから、Y-RY-O2bの方が人口密度は高かった可能性があるが、彼らが敗退してY-N/Y-Qが華北を制した事は、Y-N/Y-Qの暴力性と集団志向性が、既存の文化圏の人々より優っていた事を示している。

Y-Rは縄文前期温暖期に、北上して来た湖北省起源の稲作民族と共生していたが、縄文中期寒冷期に稲作民が湖北省に南下すると、共生民族としての総人口が激減した結果として、或いは交易環境が失われた結果として、武闘的な勢力に駆逐された可能性が高い。Y-O2bの動向については別途検証する。

シベリアに留まってトルコ系漁民と共生していたY-N/Y-Qは、華北のアワ栽培者になったY-N/Y-Qの様に暴力的ではなかった事を、魏志濊伝、高句麗伝、沃沮伝が示している。一方魏志扶余伝は、殷人の末裔だった扶余が暴力的な民族だった事を示している。アワ栽培者が暴力的な社会を形成した証拠は他にも色々あるから、Y-N/Y-QY-Rを乾燥し始めた西域に暴力的に追放し、Y-O2bの文化を断絶させたと推測される。

既に説明した様にこの民族抗争は、Y-N/Y-Q男性の恣意的な闘争行為ではなく、優良な農地を確保したかったmt-Dの意を受けた男性達の、栽培地を巡る闘争がエスカレートした結果である疑いが濃い。その第一の理由として、同じ自然環境を栽培地とするmt-Rxmt-Dに関し、どちらかが他方に浸潤した痕跡がない事が挙げられる。つまりmt-Dが仰韶文化圏に浸潤した際に、Y-N/Y-Qも随伴していた事を示唆している。これは北欧に残っているシベリア系のY-Nmt-Zペアにも見える特徴だから、この栽培系狩猟民族の特徴的な行動パターンだったとも言えるが、mt-Dが東アジア最大の遺伝子になった理由にも、この性格が強かったからである可能性が高い事が挙げられる。mt-Dには民族的な意識があった様に見えるが、多民族への浸潤例は多々あるから、防御的な民族意識が高かった事になる。従ってmt-Dの有力な栽培地に対する執着の強さが、大麦を栽培していたmt-Rxより強く、そのために男性達を扇動する力が強かった事が、これらの事象の根底にあったと推測される。

2の理由として、mt-Rxmt-Dが求める栽培地は、共に乾燥して疎林化した地域であり、大きな差がなく栽培地が競合した事が、この様な事態の根底にあったと推測される。大麦は冬作物でアワは夏作物だから、その境界線上にあった当時の陝西の気候環境が、どちらの栽培に有利だったのかによって、両者の勢力関係が決まった可能性もあるが、太平洋が湿潤化した後のユーラシア大陸は徐々に乾燥化していったから、むしろ大麦栽培が有力なっていく環境だったと推測され、気候の乾湿が両者の栽培の優位性に大きな影響を与え、両者の栽培地が決まった可能性は低い。

大麦は67ヶ月の栽培期間が必要であるのに対し、アワの生育期間は35ヶ月で比較的短いから、アワの方が栽培地の選定に柔軟性があった可能性もあるが、両者の栽培時期が異なった事が、mt-Rxの休耕地をmt-Dが勝手に使う様な事態生み、揉め事が頻発した可能性もある。いずれにしても石器時代に、農地の適否を決めたのは女性達だった。

羊の飼養を始めたY-Rと、狩猟しか行わなかったY-N/Y-Qを比較すると、Y-N/Y-Qは広い狩猟の縄張りを必要としたから、両者が混在すると縄張りを決める文化が整合しなかった事も、両者の反目を助長した可能がある。

仰韶文化圏に稲作とアワ栽培の痕跡が見えるのは、湖北省の稲作民が縄文前期温暖期に陝西省に北上した事を意味するが、Y-N/Y-Qmt-Dペアの南下にはその様な必然性はなかったから、彼らはY-Rの社会秩序に従う、少数民族だった可能性が高い。仰韶文化を担ったY-R3種の穀物の栽培者だった筈はないし、ミトコンドリア遺伝子の浸潤関係があった痕跡も乏しいから、3民族が共存していたと考える必要がある。

湖北省の稲作民は、麦栽培者と栽培地を争わない稲作方法を採用していたから、仰韶文化人との共生が可能だった事は間違いない。仰韶文化の土器は湖北省の稲作民のものだった可能性が高い事も、彼らが共生していた可能を高める。炎天下で稲作を行う為には塩が必要になるから、仰韶文化人が青海湖の塩を稲作者にもたらしていた事が、両者の共存関係を緊密にしていた可能性が高い。後述する様に青海湖の塩は、陝西、山西、河南北東部に北上した稲作者の必需品だったからであり、仰韶文化の彩色土器が示す権力機構の萌芽も、塩の交易が生んだ事情だったと考えると歴史の流れに整合するからでもある。

しかしアワ栽培者と大麦栽培者は栽培地が競合し、大麦栽培者がアワ栽培者から得る文化的なメリットは見いだせないから、アワ栽培者がこの地域に入植した結果としてアワ栽培者の人口が増えると、栽培地を巡る暴力的な敵対関係に発展した可能性が高い。

上記を確認する為にY-Rのその後の動静を追跡すると、縄文後期温暖期に中央アジアが草原化し、殆どの地域で農耕ができなくなったので、南下した人々はインド・イラン・アナトリアに浸潤してアーリア人と呼ばれ、西に進んだ人々は東欧に入植し、北上した人々はトルコ系民族かスラブ人になったと推測される。甘粛省に残った集団もあり、甘粛彩陶文化と云われる秀麗な土器を遺した馬家窯文化(ばかようぶんか)期を経て、縄文後期温暖期に再び稲作民族の北上を迎えると、甘粛省蘭州市一帯を中心として東は陝西省の渭水上流に及ぶ、斉家文化(せいかぶんか)を生んだ。この文化圏には、東方のポンペイとも言われる華麗な文化を遺した喇家遺跡(らつかいせき)も含まれ、塩の交易で栄えた痕跡を留めている。斉家文化は3900年頃に衰退したが、これは越人が渤海沿岸で製塩を始め、その棟梁だった禹が夏王朝を形成した時期になり、中華の塩が渤海産の塩に席巻された時期と整合するから、この文化系譜の人々が、製塩と塩の販売によって経済的に潤っていたと考えられる。

周礼や漢書地理誌が、春秋戦国時代の青州(山東省と河南省・江蘇省の一部)はイネと麦の産地であると記し甘粛省のY-Rの一部が青州に移住した事を示している。彼らが大麦の栽培には必ずしも適地とは言えなかった青州に移住したのは、陝西省を根拠地にしていた周王朝が殷人を抑圧するのに、未開な漢族だけでは心許なかったので、特に殷人(淮夷)の根拠地だった徐州を牽制するために、文明的な人々だったY-Rを青州(山東)に入植させたからだと推測される。

周礼や漢書が記した春秋戦国時代は、弥生温暖期だったから、青州はコメと麦の産地になっていたが、周代は縄文晩期寒冷期で青州に稲作民はいなかったから、周王朝は徐州の淮夷を抑圧するために、隣接する青州にY-Rを入植させ、暴力的な淮夷を組織的に抑圧させたと想定される。

この様に記すとY-Rは周の支配下の民族だった様に感じるが、周は越系民族とY-Rの統合政権だったが、春秋時代にY-R系譜の秦と華北を統治する周に分裂し、春秋時代の周は洛陽を根拠地としていた。周王朝創立時の根拠地だった西安を引き続き根拠地にしたのは、秦だった事がその事情を示している。つまり弥生温暖期だった春秋時代に華北のアワの生産性が高まると、古墳寒冷期に成立した周王朝は、アワ栽培者を統治するために洛陽に移った周王朝と、塩の製造販売を継続した秦に分裂し、秦の基幹民族はY-Rだった考えられる。

低湿地の稲作と台地上の麦栽培は両立が可能だから、周礼や漢書は青州を稲と麦の産地と記しているが、大麦とアワの栽培地は競合した。周礼や漢書地理志が青州の栽培種としてアワを記載していない事が、アワ栽培者だった淮夷がY-Rによって青州から追放されていた事を意味する。つまり縄文前期に陝西省の渭水(いすい)流域に稲作民が入植してY-Rと共存し、アワ栽培者のその地域への入植を拒否していた状態が、弥生温暖期の青州で再現されていた事になる。

秦の始皇帝の容貌はY-R的だったとの指摘があるが、それは正しかった事を、上記の歴史が示している。春秋戦国期の山東には、アーリア人的骨格を持つ人がいたとの発掘結果も、この事情を示している。

秦が滅ぶと社会が混乱し、淮夷系譜の漢が暴力的に中華を征服すると、今度は逆にY-Rが青州から逃散しなければなり、Y-R民族は東アジアの歴史から消え去ったが、古墳寒冷期に向かって青州の稲作民の人口が減少していた時期だから、Y-Rには協力者がいなくなった事も、縄文中期初頭の事情と重なる。日本の6条大麦は周代~春秋戦国時代に、青州のY-Rから伝来したと想定され、それらの詳細は「経済活動の成熟期」の項参照。

仰韶文化の陶器が優れた彩色や形状を示しているのは、塩を入手したかった湖北省の稲作民が製作したからで、その意匠がY-R的であるのは、土器の発注者がY-Rだったからだと考えられる。稲作には炎天下の重労働が必要だから、塩を恒常的に消費する必要があり、それを青海湖から供給していたのがY-Rだったから、仰韶文化は稲作民族の高い農業生産によって支えられる事により、高度な交易文化を実現したと考える必要がある。農耕民族の古代社会の権力は、概ね塩の取引を契機として発生したものだったから、仰韶文化もその典型的な一例だった事になる。その詳細は、「1-1-7 荊(湖北省の稲作民)」の節で説明する。

 

1-1-6 漢族

以下では「漢族」を、春秋戦国時代に華北でアワを栽培していたY-O3民族と定義し、華南の稲作民族と区別する。彼らが歴史に登場したのは周代以降で、それ以前は未開の民族だったから、それ以前の事績を記した史書にはこの民族に関する記載がない。春秋時代になっても、彼らには周から賦与された封建領主としての政権名しかなく、秦・漢代になると王朝に支配される民衆になったから、特徴的な文化や政権を持った民族としての名称は付与されていない。

漢民族の名は宋代~元王朝期に生まれ、宋代には華北のアワ栽培民族を指したが、元王朝は騎馬民族ではない中華系全ての農耕民族を漢民族としたから、漢民族の呼称は所謂民族名ではなく、漢王朝に支配された雑多な民族を意味した。しかし歴史を説明する際に集団名がない事は不便なので、縄文中期末から華北に居たY-O3mt-D+M8aペアを漢族とする。

縄文中期末以前の漢族の痕跡は消去法で探すしかないが、北辛文化(7300年~7100年前)から始まる山東の新石器文化が、その痕跡の嚆矢である可能性が高い。山東は縄文海進期だった9000年~5000年前は大陸と切り離された島だったから、漢族の祖先だったY-O3mt-M8aが山東に漂着したのは、山東が大陸と陸続きだったそれ以前の時代になる。

Y-O3mt-M8aペアは後氷期の温暖化によって、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7Y-O3ペアが広東に北上し、ヤンガードリアス期に暖温帯性の堅果類が実らなくなると、mt-M8aの浸潤を受ける事によって生まれたと推測される。mt-M7Y-O3のペアには、ソバの栽培者だったmt-M9が含まれていたから、mt-M8aはソバより生産性が高い穀物種か、イモ類を栽培していたと推測される。

縄文人は海洋の機動力を駆使して多くの民族と交易し、東アジアの有用な植生を各地から集めたから、その中にmt-M8aの栽培種が含まれ、現在も栽培が継続しているとすると、mt-M8aの栽培種は里芋だった可能性が高い。里芋は現在熱帯地方や亜熱帯地方で栽培されてタロイモと呼ばれているが、冷温帯域である長野県でも野生化しているから、原生種は冷温帯域と暖温帯域の境界付近の植生だった疑いがある。サトイモ科の植生は根茎に有毒なシュウ酸カルシュウムを含むから、そのままでは食用にならないが、ドングリのアク抜きの要領で灰を混ぜて煮沸すると、シュウ酸カルシュウムをある程度除去できる事も、この推測の根拠になる。

つまり氷期のmt-M8aの居住域は、暖温帯性の堅果類の栽培北限を超える地域で、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7に浸潤されない環境で、狩猟の縄張りを確保していた狩猟民族の遺伝子だったとすると、土器を作ってアク抜きする技術がM7から移転されれば、毒性があった里芋の原生種を、ドングリと同じ要領で毒を除去する事が可能だった。その状態を継続しながら品種改良し、毒性がない里芋を生み出したとすると話は整合する。

通説では日本への伝播は縄文後期だったとされているから、遺伝子分布から縄文後期に漢族のmt-D+M8aが多数渡来し、北九州と関東に定住した事が読み取れる事から、それらの地域から日本各地に拡散したとすると、こちらも整合する。

縄文海進期に山東が離島になると後李文化(85007500年前)が生まれたが、この文化系譜の遺跡から、炭化米が出土したとの主張がある。超温暖期には稲作者も東シナ海沿岸に北上した事を示しているが、太平洋が湿潤化して気候が寒冷化すると、孤島化した山東では稲の原生種の栽培は不可能になったから、稲作者の子孫がその後どの様な運命を辿ったのか明らかではない。しかし里芋が栽培できる気候は継続したから、mt-M8aが山東の主要な栽培者になったとすると、上記の事情と整合する。但し里芋は湿潤な気候を好む植生だから、気候が乾燥している現在の華北に、里芋の栽培者はいないかもしれない。

従って現在の華北のY-O3漢民族に5%ほど含まれるmt-M8aが、ヤンガードリアス期~縄文前期までは、漢族の祖先の主要ミトコンドリア遺伝子だったと想定される。

北辛文化に続く大汶口文化は、早期(61005500年前)、中期(5500~5000年前)、後期(5000年~4600年前)に分類され、早期のmt-M8aは孤島の栽培者だったが、中期に河南省と陸地で繋がると華北のmt-Dが浸潤し、アワ栽培者の漢族が誕生したと推測される。mt-Dが山東に浸潤する以前に、大陸と山東の間にできた陸橋を経て、華北に拡散した漢族の祖先にmt-Dが浸潤し、mt-D+M8aになった可能性も高い。アワしか栽培種がなかった殷人と比較すると、温暖な地域の出自である漢族には栽培メニューが複数あったから、殷人より広域に拡散する事が可能だったと想定され、彼らは堅果類の栽培者と接触した可能性もあり、漢族のmt-Dは堅果類の栽培者を介して浸潤した可能性もあるが、華北は縄文中期初頭に龍山文化圏になり、山東は縄文中期後半に龍山文化圏になったから、山東は殷人系譜の淮夷によって暴力的に征服され、漢族は被支配民族になったと推測される。

その結果として、優良なアワ栽培地は殷人に占拠され、漢族はアワの生産性が低い低湿地などを栽培地にしながら、殷人に労働力として徴発されていたと推測される。この時代の低湿地は、現在は数十メートルの地下になっているから、彼らの痕跡が発掘される事はないだろう。

殷墟の近くの王墓から発掘される多数の殉葬者は、その様な漢族の人口が増えて対抗勢力になる事を恐れた殷人が、定期的に人狩りを行った痕跡である疑いが濃い。暴力的な民族は周囲の民族の恨みを買うから、その報復から防衛するために一層暴力性を高め、結果としては恒常的に、暴力的な民族であり続ける必要が生れたと考えられる。その様な民族は、民族内の抗争も頻繁に繰り広げていたと推測される。

殷人は縄文後期に青州に北上した稲作民から、統治文化を学んだが、やがて稲作民を青州から追い出して殷人の王朝を形成した。しかしその王朝の暴力性に閉口した稲作民が、殷王朝の後継者として周を推挙して殷週革命を起し、殷王朝を滅した。周は殷人を圧迫するために漢族の地域政権を育成し、漢族の人口を増加させたから、弥生温暖期になった春秋戦国時代に漢族の人口が急増したが、後世の漢族は周王朝の期待も空しく、三国志の著者だった陳寿が嘆くほどの暴力的な民族になっていた。三国時代の3政権はいずれも、漢王朝期に官僚になった人々が樹立した地域政権だったからだ。

漢民族も暴力的な民族になった理由の一つとして、殷人と漢族の双方がアワ栽培者のmt-Dをペアにしていた事が挙げられる。篠田氏はmt-Dが東アジアの主要遺伝子になったのは、mt-Dの生命力が高かったから」との説を紹介しているが、ミトコンドリア遺伝子の変異は単なるマーカーに過ぎず、生命力や淘汰力を規定する細胞核の遺伝子ではない。しかしミトコンドリア遺伝子は、母から娘に伝承された知識体系とリンクしている。それは栽培のスキルや知識の集成だけではなく、それを支える根源的な感情や思想も含んでいたから、それが民族性にも大きな影響を与えたからだ。従ってそれらの総合的な成果により、mt-Dが東アジア最大の遺伝子になったと考える方が合理的だろう。

殷人の暴力的な習俗が漢族に引き継がれたのは、アワ栽培者だったmt-Dの農耕に対する強い執着心が、両者の民族性に影響したからだと推測される。石器時代のアワ栽培は乾燥した疎林地帯を栽培適地とし、野焼してから播種するものだったと想定され、稲作や焼畑農耕の様に栽培地の造成に手間が掛かるらなかったから、栽培適地の選定手段は生えている雑草の種類や繁茂状況を確認するだけのもので、誰が見ても容易に判断可能だったからであり、石器時代が終わらない限りその状況は変わらなかったからだ。その様な場合に栽培権が制度的に確定していなければ、女性達の選定を男性が追認するしかなかったが、男性達の狩猟の縄張りと栽培適地の偏在は一致しなかったから、栽培権の確定に悶着が起こった事は容易に推測できる。

狩猟民族の縄張り形成に関しては、自然条件は容易に変化しないから、一旦確定すればそれを守り合う事によって秩序が維持されただろう。しかしアワの生産性が高まって人口密度が高まると、狩猟の縄張りの再配分が必要になっただけではなく、アワ栽培者の生産性を高める負担も高まり、mt-D個々人が栽培地を確保してアワの収穫を確保しなければ、家族の生存が脅かされる境遇に陥ったと想定される。アワはmt-Dの努力によって徐々に生産性が高まり、栽培可能な地域も拡大したから、その都度栽培地や狩猟の縄張りを再配分する必要が生れただろう。

しかし栽培地の選定権を持っていた女性達には、栽培地の配分を行う歴史的な制度がなかったから、危機感が高まる度に暴力的な民族性が醸成され、それがmt-Dの思想に新たに付加され続けた結果として、龍山文化期の暴力的な発想が生まれたと考えられる。それが漢族のmt-Dにも引き継がれ、上記の事情を生み出したとの推測には必然性がある。これは栽培系狩猟民族が、いずれは通過しなければならない状態だったとも言えるが、その事情は地域、栽培種、栽培技術を含む民族文化によって大きく異なった。

日本に渡ったmt-Dは堅果類の栽培民族に触発され、焼畑農耕を開発して栽培地を形成する技能を身に着けた。焼畑農耕には樹林を伐採する重労働が必要になり、男性の労働が必要不可欠になっただけではなく、磨製石斧を量産する工房も必要なった。男性達が狩猟から解放される為には、漁民の海産物に支援される必要があったが、漁民の国だった日本列島では、獣骨が入手できればその供給は潤沢だった。

日本に渡来したmt-Dはその様な環境を得て豊かなアワ栽培者になったが、北陸の漁民と洗練された商品交換を行っていたmt-Gと反目し、福井や山陰に集団で移住してしまった事を、福井県の桑野遺跡の石製装飾品や、鳥取県の鳥浜遺跡の漆塗りの櫛などが示唆し、富山県の縄文前期の貝塚から発掘された遺骨に、mt-Dが含まれていない事が示している。両者の遺伝子は全く同じ系譜だから、外見上の違いはなかった筈だが、文化の違いから衣服や髪形に差があったかもしれないし、分岐してから2万年以上経ていたから、顔立ちや身長も異なった可能性もあるが、一番の違いは使用言語だった可能性が高い。mt-Gはオホーツク海でツングース系の言語を使い、mt-Dはアムール川流域でトルコ系の言語を使っていたから、縄文人や漁民の言語に同化しても訛りがあり、取り入れた単語や表現に違いがあった可能性も高い。

mt-Dは縄文前期温暖期に山陰に拡散し、九州縄文人と隣人になるとmt-B5から稲作を習得し、焼畑農耕による陸稲栽培を始めた。mt-Dはヤンガードリアス期のアムール川流域で、mt-Zの栽培種だったアワの栽培技術を入手したが、山陰でもmt-B5の稲作を取り込んだ事は、この様な行為がmt-Dの特技だった事を示し、この特技によって東アジア最大の遺伝子集団になったと考えられる。

このmt-Dは縄文中期寒冷期になると、アワ栽培者として九州縄文人のmt-B5に浸潤し、九州縄文人の遺伝子をmt-D+B5+M7bに変えた。一部は四国に南下移住してアワ栽培を継続したが、稲作を継続したかった者はフィリッピンに移住した。

九州縄文人になったmt-Dは、縄文後期温暖期に温帯ジャポニカの稲作者だったmt-Fの稲作を真似、縄文晩期に関東から移住したmt-B4が、耐寒性が高い日本式の稲作を開発する端緒を形成した事により、北九州の主要な稲作者の地位を確立した事を、北九州の甕棺に葬られた人々の遺骨が示している。

日本列島のmt-Dの上記の様な八面六臂の大活躍を見ると、有力な栽培種を栽培化した遺伝子ではなくても、機会を捉えて他のミトコンドリア遺伝子が開発した栽培種を取り込み、それを他の栽培者と協力しながら栽培技術を高める事に優れていれば、多数の遺伝子を遺す事が出来たことが分かる。フィリッピンに渡ったのはmt-Dだけではなく、その1/21/3mt-M7aを伴っていた事は、毛色が違う他の栽培系の女性と連携する、特異な才能を持っていた事を示している。mt-M7aの役割は、使い終わった焼畑に何をどの様に植樹するかという様な、基本技術を担務していた事を示唆している。mt-M7aは樹林を切り開いてアサを栽培していたから、その技術が転用されたと推測され、磨製石斧で樹林を切り開く重労働を軽減する為に、休耕地に植える樹種の選定やその苗の育成をmt-M7aが担っていたと想定される。

母から娘に伝えられたmt-Dの栽培思想には、これらの偉業を成す栽培柄の強い拘りが含まれ、与えられた環境の中で頑張り抜く気力や、事態の打開に積極的に対応する斬新な発想力も、含まれていた事を示している。但しこの様な長所を持っている反面、排他的な習俗も維持していた事が、他の優位な栽培種が拡散してもmt-Dが残った、最大の理由であるとも言える。意地の悪い言い方をすれば、mt-Dが排他的な社会を形成する為に採用した手段が、美徳として挙げた上記の活動だったとも言える。

現在東アジアで勤勉な国民と見做されている民族は、それが受験戦争に偏っている特徴も併せ、概ねmt-D比率が高い民族である事は、mt-Dの基本的な属性が現代にも引き継がれている様に見える。

従って華北に南下したmt-Dの拘りが、農地や収穫物を巡る暴力的な社会を生み出し、地域の混乱を招いた一つの大きな要因だったと推測する事に、根拠があると言えるだろう。華北のmt-Dも同様な拘りを持ち、アワの生産性向上に取り組んだ結果として、男性達が何度も縄張りの再設定をする必要に迫られると、その度にmt-Dの発言力が高まると共に男性達も暴力的になり、徒党を組んで活動する人々なっていったと考える事ができるからだ。男性達もmt-Dの子供だったから、幼児期からmt-Dの思想の薫陶を受けていた事は間違いないのだから。

東アジアの最多遺伝子であるmt-Dにはその様な属性があったと指摘すれば、西ユーラシアの主要遺伝子であるmt-R系遺伝子についても、論考する価値があるだろう。現在の世界の主要穀物である小麦、大麦、温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカ、インディカ米の全ては、mt-R系遺伝子によって開発されたと想定されるからだ。トウモロコシもmt-B4が開発した可能性が高いから、世界の主要穀類は全てmt-R系が栽培化したと言っても過言ではない。この様な偉業を成し遂げたmt-R系の女性達にも、特徴的な農業思想があっただろう。

mt-Rの特徴的な行動を挙げると、5万年前のミャンマーの山岳地でY-C1とペアになっていたが、栽培に理解があるmt-Hを見付けると多数の女性が浸潤し、彼らにスンダランドへの南下を促した。後氷期にパキスタンから北上したY-Rは、大麦を栽培化していたmt-Rをペアにしていた故に中央アジアに留ったが、mt-MをペアにしていたY-Qはシベリアに北上し、沿海部に北上していたmt-Cmt-Dをペアにした。

mt-R系の女性が属した民族は、栽培種に適した温暖な地域の栽培系狩猟民族になり、寒冷な地域には決して北上しなかった事が、現在に繋がる優良な穀物の栽培化に成功した理由だったとも言えるが、その様な女性達にY-R男性達が従った事も事実だから、男女の思想が相互に影響し合ったとも言える。

海洋民族として積極的に活動したmt-B4mt-R系だから、冒険的な海洋民族になって世界中から栽培種を集めた事も、mt-Rが持っていた基本的な栽培思想の一部だった可能性がある。東南アジアから最も遠い西ユーラシアやアフリカ大陸に拡散したのは、mt-R系譜だけだったからだ。現在の世界の主要な穀物の遺伝的な性質は一様ではなく、栽培化には多彩な栽培化手法が必要だったから、mt-Rは学術探求型の性格も持っていた様に見える。

 これは母から娘に文化が伝えられると、並行的に伝えられたミトコンドリア遺伝子の話であって、人類の身体的な形質を規定する核遺伝子の話ではない。5万年前にY-Fに浸潤したmt-Rの子孫の、核細胞の遺伝子の半分以上はmt-Mと同じだったからだ。浸潤第一世代のmt-Rが浸潤されたmt-Mの数%であっても、mt-Rの栽培力が評価されてその民族内に拡散すると、やがてその民族のミトコンドリア遺伝子はmt-R一色になっただろう。しかしその民族が持っていた核遺伝子に、数%の異民族の各遺伝子が浸潤したに過ぎない場合が、殆どだったと想定されるから、ミトコンドリア遺伝子による民族分類は、外観から判断する人種区分とは全く別物になる。

9万年前にアフリカを出たY-Cmt-Nペアの、純粋な核遺伝子を遺しているのは、シベリア北東部やカナダ北東部にいるY-C3mt-Aペアだけの民族しかいない。5万年前にアフリカを出たY-Fmt-Mの最も純度が高い核遺伝子は、漢族の子孫であるY-O3mt-DM8aペアだと考えられるが、堅果類の栽培者の子孫もmt-Bに起因する核遺伝子は僅かで、殆どがY-Fmt-M系譜であると推測される。

日本人にはY-EY-FY-Cと、mt-Lmt-Nmt-Rmt-Mの核遺伝子の要素が混在する、最も混在度が高い民族の一つだから、各細胞を分析して人種起源の真相を解明する前に、ミトコンドリア遺伝子とY遺伝子の歴史的な経緯を明らかにし、混在比率を想定して置く必要がある。ユーラシア大陸を東西に分け、コーカソイドとモンゴロイドに分類されているが、これはミトコンドリア遺伝子の多数派が、どちらだったのかを区分しているだけで、核遺伝子の区分ではない事に留意する必要がある。つまりコーカソイドとモンゴロイドの違いは、母から娘に伝えられた栽培思想の違いによって生まれた事になるからだ。

 

1-1-7 荊(湖北省の稲作民)

温帯ジャポニカは湖北省にいたmt-Fが栽培化し、ジャバ二カは浙江省にいたmt-B5が栽培化し、熱帯ジャポニカは関東に渡来したmt-B4が栽培化したと考えられるので、先ずその根拠を明らかにする。

現在の共通認識として、「稲作の起源地は揚子江流域で、最古の稲作遺跡として浙江省の河姆渡遺跡や馬家浜文化遺跡(縄文前期)がある。」と言われている。日本最古の稲作の痕跡として、「岡山市の彦崎貝塚で、縄文前期(6000年前)の地層からイネのプラントオパールが多量に出土し、同市の朝寝鼻遺跡でも同時期の同様の発見例があり、縄文前期には岡山でイネが栽培されていた事を示している。」 一部の頑迷な考古学者が、これは未だ学会で認知されていないと主張するかもしれないが、王朝史観的なプロパガンダを平気で垂れ流している学会に、事実認識を依存する事は馬鹿げている。

ジャバ二カと熱帯ジャポニカは同じ原生種から栽培化された類縁種で、栽培化された地域が隔絶していたから、別の栽培種になったと考えられる。現在ジャバ二カが栽培されているのは、熱帯地方であるインドネシアやフィリッピンに限られているから、ジャバ二カが栽培化された地域は、熱帯ジャポニカが栽培化された地域より温暖だった事を示している。但し稲作がインドネシアに南下したのは縄文晩期以降で、縄文後期までの稲作の南限は大陸では福建省だった。福建省南部以南にはイネの原生種が繁茂し、原生種に近い栽培種と交配すると稲作が崩壊したからだ。現在それらの地域でインディカが栽培されているのも、原生種の影響を排除する為である可能性がある。

イネの原生種は熱帯~亜熱帯地域の植生で、原生種が繁茂している地域では栽培化できないから、イネは暖温帯域で栽培化されたと考える必要がある。揚子江流域は、超温暖期にはイネの原生種が繁茂できる亜熱帯性の気候になり、太平洋の湿潤化による寒冷化で、イネの原生種の北限を越える暖温帯性の気候になったから、イネが栽培化される気候条件を満たしていた。従って現在の共通認識は、イネの栽培化条件と合致している。

熱帯ジャポニカは雲南でも栽培されていた実績があり、縄文中期までの日本は熱帯ジャポニカの栽培地だったから、熱帯ジャポニカは比較的冷涼な地域で栽培化された事を示している。

縄文早期の東ユーラシアは現在より4℃以上温暖だったから、現在のイネの原生種の北限を亜熱帯域の北限と定義し、栽培化が可能な地域を暖温帯性の地域とすると、最古級の稲作遺跡が集中している浙江省は、縄文早期には暖温帯性地域の南限で、関東も暖温帯性の気候地域と言える状態だったから、浙江省でジャバ二カが栽培化され、関東で熱帯ジャポニカが栽培化されたと考える事に問題はない。

浙江省の稲作者は、超温暖期にイネの原生種を栽培しながら北上し、8千年前に気候が冷涼化すると原生種の北限から外れたから、必然的にイネの栽培化を始めたと考えられるが、関東ではどの様な必然性があったのかを検証する必要がある。

超温暖期になっても黒潮の温度は直ぐに上昇しないで、徐々に昇温していったから、関東の気候は12千年前から温暖化し始め、気温は関東の超温暖期の末期である9千年前に最高になり、現在より8℃ほど高温になった。これは現在のイネの原生種の北限である、厦門より温暖だった事を示しているから、イネの原生種の栽培者が関東に渡来する事が出来た。そして8千年前には、原生種は繁茂できない暖温帯性の地域になったから、9千年前にイネの原生種の栽培者が関東に渡来していれば、イネが栽培化される必然性があった。

1万年~9千年前に台湾からmt-B4が関東に渡来したと考えられ、その根拠は「1-1-9 オーストロネシア語族(南太平洋とインド洋の海洋民族)」の節に示す。

浙江省のイネの栽培化事情は、以下の様なものだったと考えられる。中国の行政区分は、歴史を説明する上で酷く煩雑なので、以下では揚子江以南の江蘇省は浙江省に含める。その広域的な浙江省が、銭塘江台地になるからだ。

浙江省の北には、現在は江蘇省や安徽省の平原があるが、縄文海進期だった縄文早期後半~縄文前期には、東シナ海が湾入して海になっていた。稲作には平坦な地形か丘陵地が必要だが、縄文海進期の浙江省の周囲にはその様な地域はなかったから、ジャバニカが栽培化された地域と、熱帯ジャポニカが栽培化された地域として挙げられる二つの候補地はない。関東には武蔵野台地と多摩丘陵があり、両者を合計すると銭塘江台地の1/5程の広さがある。浙江省にいたmt-B5がジャバ二カを栽培化したとすると、関東に渡来したmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培化したと想定せざるを得ないが、この想定は以下の断片的な事実と整合する。

温帯ジャポニカとジャバニカは交配可能な近縁種だが、形状が異なる別種だから、別の民族が隔離された地域で栽培化したと考えられる。温帯ジャポニカの耐寒性には特異な特徴があり、日本で栽培化されたとは考えられないから、共に揚子江流域で栽培化されたとしても、交配の機会がない隔絶した地域で栽培化されたと考えられる。揚子江中流域(湖北省)と下流域(浙江省、安徽省)で異なった農耕用石器が使われていた事は、この事実と整合する。

浙江省と湖北省の様な近接した地域で、異なった農耕用石器が使われる事は、漁労民族ではあり得ない現象だったが、栽培地に固着されていた石器時代の稲作民族には、それが一般的な状態だった。湖北省の稲作民族は、縄文前期温暖期に陝西省まで稲作地を膨張させたが、浙江省の北は海だったから、膨張する余地がなかった。

従って温帯ジャポニカとジャバニカは超温暖期に、別の女性群がそれぞれの種を持って北上し、湖北省と浙江省で独自に栽培化したが、縄文後期まで両者の栽培地が隔離され、民族間の直接の交流がなかったから、この様な事情が生まれたと考えられる。

日本列島で縄文早期に熱帯ジャポニカが栽培化され、縄文中期に温帯ジャポニカが導入されると、寒冷化した縄文晩期に両者の遺伝子が交換され、耐寒性が高い日本式のイネと稲作が成立したと考えると、縄文人、北九州弥生人、現代人のミトコンドリア遺伝子の分布事情を説明する事ができる。詳細は経済活動の成熟期の項で説明するが、農学者の佐藤氏が想定する日本式のイネと稲作の成立には、大陸では両者の交配が組織的に行われなかった事が前提になり、上記の諸事情と整合する。イネは自家受粉率が高く、花粉の飛距離は短いから、異品種を交配させるためには混載する必要がある事も、佐藤氏は指摘しているからだ。

以上の結論としては、揚子江流域の二大稲作地である浙江省と湖北省では、それぞれ異なった民族の女性群がジャバ二カと温帯ジャポニカを栽培化し、民族的な交流はなかった事になる。それらの稲作を行っていたと考えられる遺伝子は、mt-Fmt-Bしか候補がないから、mt-Fが湖北省で温帯ジャポニカを栽培化し、同じ原生種を栽培していたmt-B4mt-B5が、超温暖期に沿海部を北上してジャバ二カと熱帯ジャポニカを栽培化したと考えられる。それに必要な詳細条件を吟味すると、mt-B5は浙江省でジャバ二カを栽培化したが、原生種が繁茂できる気候になった台湾に閉じ込められたmt-B4は、台湾では栽培化できなかったが、偶然関東に渡来したmt-B4が熱帯ジャポニカを栽培化したと考えると、矛盾がない説明になる。

関東に渡来せずに台湾に留まったmt-B4もいた事は間違いなく、その様なmt-B4の方が多数派だった可能性もあるが、台湾にはイネの栽培化を実現する条件がなかったから、彼女達は別の路を歩まざるを得なかったとすると、その後の歴史事情と整合する。

沿海部を北上したmt-Bの経路は分かり易いが、mt-Fも東南アジアから湖北省に北上する経路は複数あり、トンキン湾の北岸から桂林を抜けて長沙に達するルートが有力になり、揚子江流域である湖北省と浙江省に二大稲作起源地があったとすると、その後の歴史事情とも整合する。

農学者の佐藤氏は序論でも示した様に、「温帯ジャポニカは短日性が強いために、寒冷な気候に弱いが、短日性がない熱帯ジャポニカと交配すると短日性を失い、耐寒性が高い品種になる。」と指摘している。しかし氷期に温帯ジャポニカの原生種が繁茂していたヴェトナム南部は、赤道直下に近い値域だから、原生種が短日性を活用して繁殖力を高めていたとは考えられず、短日性は栽培化の過程で付加された性質だったと考えられる。一斉に開花する性質を利用すると、播種時期や収穫時期を斉一化できるから、開花時期を含めた温帯ジャポニカの短日性が、縄文早期までの湖北省の自然環境下で生産性を高め、収穫の効率化にも繋がったが、温帯ジャポニカの耐寒性が徐々に高まると、やがて短日性がそれ以上の耐寒改良の障害なったから、佐藤氏が指摘した様な状況が生れたと考える必要があるだろう。

元々は温帯ジャポニカの原生種の方が、熱帯ジャポニカの原生種より耐寒性が高かっただけではなく、温帯ジャポニカの栽培化がヴェトナム南部である程度進んでいたから、mt-Fは北上する原生種の脅威から逃れるために、ヴェトナムや広東の民族分布さえ無視する状態で、堅果類の栽培者を失っていたY-Oと共に北上したが、黒潮の温度がまだ上昇していない時期だったから、稲作地が確保し易い沿海部ではなく、内陸を北上したと考えられる事は既に指摘した。mt-Fには堅果類はなく、狩猟と河川漁労に多くを頼る必要があったが、栽培化の進展によって生産が高い稲作になっていたと考えられる。

mt-Bが北上したのはそれより千以上遅く、北太平洋亜熱帯循環の水温が高まりつつあった時期に北上したから、広東以北の沿海部の気候が温暖化していた故に、稲作地を探し易い沿海部を北上したと考えられる事も既に指摘した。mt-Bが原生種の北上を恐れていなかった事は、原生種を栽培していた事を示しているから、超温暖期のmt-B5mt-B4も生産性が高い稲作者ではなかったと考えられる。しかし彼女達には堅果類があったから、食糧事情は良好だった。

日本列島で栽培された熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカは、異なった時期に異なった栽培者が持ち込んだ別種である事は間違いない。従って遺伝子分布を解析してその出自と渡来時期を識別すると、彼女達の故郷だった大陸の稲作事情も明らかになり、上記の仮説との整合性が更に明確になる。

縄文前期の岡山で熱帯ジャポニカが栽培されていた事は、一つのヒントを与えている。縄文時代の岡山は、関東部族の飛び地だったからだ。「経済活動の成熟期」の項で詳しく説明するが、日本列島では温帯ジャポニカの方が栽培に適し、後世の主力栽培種になったのにも拘らず、熱帯ジャポニカが先に栽培化されて日本の各地に広がったから、温帯ジャポニカを主体とする品種に統一されたのは後世の事だったとの見解についても、異論はないだろう。

関東縄文人から、各々の品種の稲作者の遺伝子だったと考えられるmt-B4mt-Fが発見されているから、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが関東で栽培された事は間違いなく、関東部族の大陸民族との交渉歴が分かれば、渡来前の各イネの産地と関東部族がそこに渡来した時期が分かると共に、関東部族が岡山や北九州などの西日本各地域に拡散した時期も明らかになる。

これをマクロ的に言えば、現代日本人には稲作者だったと想定される、南方系のミトコンドリア遺伝子としてmt-Bmt-Fが含まれ、両遺伝子の保持者は関東縄文人から複数見付かっている。関東部族は縄文早期に先ず台湾に至り、その後で台湾から福建省に渡り、北上して浙江省に至り、縄文前期には湖北省に至ったと想定されるから、熱帯ジャポニカが台湾か浙江省からもたらされ、温帯ジャポニカが湖北省からもたらされたとすると、両地域の距離感と渡来順序は整合する。

関東部族が縄文前期に、揚子江を遡上して湖北省に到達していた事は、陝西省の仰韶文化期の遺跡から、沖縄産と考えられる宝貝が発掘されている事と、宝貝は塩の取引を媒介する財貨だった事が明らかになれば、確度が高い事績と見做す事ができるだろう。それを前提に日本や大陸の歴史を分析すると、他の詳細な諸事情とも整合するから、これらのマクロ的な視点を確実な事績の骨格であると見做す事ができる。

現在の大陸や周辺の島嶼にmt-Bmt-Fが満遍なく分布し、それを見ても何も判断できない事が、大陸の歴史事情を判り難くしているが、大陸から孤立していた日本の稲作史は、かなりの事が遺伝子分布からから明らかになり、その結果を援用する事によって大陸の稲作史も明らかになる。

大陸の男性達は地域の環境に適応した漁労や狩猟を生業とし、縄張りを確定するために言語を共有する民族を形成していたから、稲作技術を持った女性と一緒に日本列島に渡来する事はなく、女性達が単身で渡来した事が、ミトコンドリア遺伝子の渡来と移動の追跡によって明らかになる。暖温帯性の堅果類を栽培していた民族のY-Oは、堅果類の栽培地に固着していたmt-M7を中心に展開したので、mt-M7はその下位系譜の移動まで明らかになるが、Y-O1Y-O3は混成集団として移動したので、堅果類の栽培者から発展した稲作民族に関しては、遺伝子分布と民族の整合性が取れない状態になった。ヤンガードリアス期に堅果類の栽培者を失い、少数の血族民族化して北上した漢族やモンゴル系騎馬民族が、Y-O3まで分類できる状態になっているが、これも稲作民のY-O3と区分する事はできていない。

従ってミトコンドリア遺伝子の移動が追跡できても、大陸での彼女達のペアを特定する事は難しいが、その作業は縄文人の歴史探究には必要ないだけではなく、大陸での民族移動の検証にも役に立たないので、このHPでは中華世界のY遺伝子の移動履歴は論考しないが、朝鮮半島に関しては北方系と中華系を区分する必要がある。

以上を前提に、湖北省の稲作民族になった荊の成立史を検証する。

氷期には海面が120m以上低下していたから、沖積平野の標高はその海面に見合う高さまで、流れる河川によって削平されたが、削平の程度は降雨量が多い地域ほど激しく、氷期が終了した直後の揚子江流域の沖積平野の標高は、縄文海進時の海面より50m以上低かったと考えられる。現在の武漢の標高は、30mほどだから、海面を120m下げれば-90mになり、この推測は常識的なものである事が理解できるだろう。

従って縄文早期末に縄文海進期が始まると、海水が湖北盆地に侵入してその全域を覆い、奥深い内湾を形成したと想定されるので、このHPではそれを古揚子江湾と呼ぶ。

縄文海進期に先立つ1万年前に、インド洋が湿潤化して揚子江上流域の雲南が豪雨に見舞われ、揚子江の水流が激増すると、海面上昇が未完だった古揚子江湾を激しく埋め立てただろう。その豪雨は千年ほどで沈静化し、上昇した海面がそのデルタを覆うと遠浅の海岸になったが、8千年前に太平洋が湿潤化すると、再び揚子江の水流が激増して湾内は殆ど埋め立てられ、現在の領域を持つ沖積平野が誕生した。その時期の湖北平原の標高は殆ど当時の海抜0mで、古揚子江湾は完全に消失したのではなく、縄文前期前半まで僅かに残っていたと考えられる。

この想定は歴史事実を根拠にし、地質学的な証拠は参照していないが、再三指摘している様に地質学には歴史分析ほどの精度は期待できないから、このHPでは正当な推論であると考える。歴史事実とは湖北省に稲作文化が生れた事であり、この稲作文化の中核地には海塩の支給が必要だから、その能力を持った関東部族がこの地域に到達するまでは、荊の祖先が古湖北省湾で海塩を精製できる事情が必要だったからだ。

現在の揚子江は湖北盆地の末端の黄石市で、幅数㎞の狭い地峡になり、その下流の九江から合肥まで幅数10㎞の広い地峡になり、その先は江蘇省の広い平原になっている。古揚子江湾が黄石市に後退した頃までは、九江まで拡大していた東シナ海と狭い地峡で隔てられていたから、古湖北省湾内では潮の干満による海面の上下動はなく、満潮時に塩水を被る故に草が生えない砂浜は、波が届く範囲の狭いものになっていただろう。従って現在の平野部に真水が流れる平坦な川洲が広がり、イネの水耕栽培が可能な場所が広大に広がっていた。但し河川が分流したり蛇行したりしながら頻繁に氾濫したから、広い面積に亘る洪水が頻発する危険があり、稲作者は山際に集落を形成したと推測される。

その様な環境では、大河が氾濫すると稲作に被害が及んだが、水が引いた後には肥沃な稲作可能地が広大に遺された。荊はこの様な状態を逆手に取り、森林の伐採や整地などの必要がない、広大な稲作適地を得て豊かな稲作者になったと想定される。荊は堅果類の栽培者ではなかったのに、縄文前期には塩を得る為の余剰のコメを生み出し、交易品にしていたから、特殊な稲作技術を持っていたと考える必要があるからだ。

氷期に形成された海岸の沖積平野は海面上昇によって全て水没したから、縄文海進期の各地の海岸は波が山肌を洗う状態になり、海岸に沖積平野はなかったが、1万年前以降の湖北省では上記の理由により、広大な沖積平野が形成されていた。特に海面上昇が終了した8千年前に太平洋が湿潤化したから、この時期に古湖北省湾内に沖積平野が急拡大し、荊は無尽蔵に近い稲作地を活用して稲作の生産性を高めたと想定される。後述するが、揚子江や湖南省から流れ込む湘江は沖積土砂が少なく、湘江の下流域に洞庭湖が生れたが、漢水は揚子江の流れを湖北盆地の南縁に押しやる、多量の沖積土を生み出していたからだ。漢水の水源は内陸の中緯度地域だから、この川の水流が激増するのは、8千年前の太平洋の湿潤化を待たねばならなかったと考えられる。

世界中の栽培民族が海岸の広い沖積平野を得たのは、縄文後期に海退が始まったからで、それ以前は広大な農地を獲得する事が難しかったが、荊は例外的な民族として、縄文早期から使い切れない稲作地を得ていた事になる。

その様な沖積平野を活用するためには、しばしば起こる洪水を覚悟しなければならず、災害から復旧する土木工事を年中行事の様に行う必要があった。しかし荊の祖先は人々の組織化を進めて堤防を建設し、被害を最小限に食い止めただけではなく、復旧時間を短縮して翌年の播種に間に合わせ、豊かな収穫を得ながら文明度を高める方策を、縄文前期には確立していたと推測される。

荊のこの様な環境は、ナイル流域の人々と類似した環境に恵まれたとも言えるが、湖北省の洪水は農地の殆どを含む広域的ものではなく、毎年同じ洪水に襲われた訳でもなかった。蛇行する大河の氾濫が頻発したと想定されるから、被害地域は限られて復旧工事はその地域の住民の課題になり、組織化は地域主権的な共同体を形成する方向に向かったから、巨大な王権を飾る巨大建造物は作らなかったと推測される。稲作民族の遺跡は縄文中期以降のものしか発掘されていないが、強力な王権を示す巨大な遺構は発掘されていないからだ。

揚子江や漢水は大河だから、その洪水には対処できず、中小河川の治水によって稲作地を確保していたと想定されるが、それでも日本人の感覚では大きな川だから、河川の治水には多大な労力が必要になり、それに相応しい人口の集積と組織化を実現したと推測される。

ナイルの河谷に人々が集積したのは、サヘル地域が砂漠化し始めた縄文前期以降だから、それより3千年早い時期にこの様な環境が生れたと考えられるが、当時の稲作地やその周辺の集落はその後の土砂の堆積によってすべて埋もれたから、縄文中期の丘の上に作られた遺跡が、この稲作文化の最古のものとして発掘されている。

彼らが湖北省の稲作者になった経緯を再現すると、mt-Fが湖北省に北上したのは、ヤンガードリアス期が終わって超温暖期が始まった直後の、12千~11千年前だったと推測される。その根拠は12千年前に超温暖期が始まり、稲作者が北上する気候条件が整った事が、mt-Fの北上期の上限になり、1万年前にインド洋が湿潤化して揚子江の水流が激増したから、揚子江を渡って湖北省の平原に至る事ができなくなった事が、湖北省に至ったmt-Fの北上期の下限になりからだ。つまり湖南省にはその後もmt-Fが北上したかもしれないが、彼らは先進的な稲作者になった荊の祖先ではなかった。

彼らが揚子江を渡った時期は、雲南や湖南省も含めた地域の気候が最も乾燥し、揚子江が殆ど干上がったと想定される時期だから、大陸の気温が急上昇したのに、海面の昇温がそれに追従できない時期だったと推測され、超温暖期の初頭がその条件に該当する。11千年前に中央アジアに巨大湖が生れ、周囲が森林化したと考えられているから、その頃には揚子江にも水流が復活していた可能性が高く、荊の祖先が揚子江を渡る事が出来なくなっていた可能性が高いから、12千年~11千年前に、荊の祖先が揚子江を渡った可能性が高い。

しかし降雨が全くなければ稲作は出来ないから、南シナ海と揚子江に挟まれた地域には、ある程度の降雨があったと推測される。

12千年前の南シナ海は閉じた海で、台湾とルソン島の間の350㎞程が、北太平洋亜熱帯循環が流れていたフィリッピン海と、南シナ海を繋ぐ唯一に近い海峡だった。従って南シナ海は大陸の温暖化によって急速に昇温し、まだ昇温が始まったばかりの太平洋が生み出す、夏の強烈な高気圧の影響を受けると、夏季には多くの降雨を南シナ海北岸に降らせていたと想定される。荊の祖先はその様なモンスーン性の降雨に助けられ、稲作を行いながらトンキン湾北岸から湖南省に北上し、冬季になると殆ど干上がった揚子江を、湖北省と四川省の間の山岳地で渡って湖北省に入植したと推測される。

1万年前にインド洋が湿潤化して豊かな降雨を得ると、栽培化途上の温帯ジャポニカの広い栽培地を獲得し、狩猟や河川漁労の生産性も高まって人口が膨張したが、8千年前に太平洋が湿潤化して気候が寒冷化すると、湖北省はイネの原生種の北限を越えた地域になって稲作者は減収に晒されたが、揚子江が彼らの南下を遮っていたから、イネの収穫を増大する必要が生まれて品種改良が急速に進んだと想定される。

温帯ジャポニカは短日性が強い事に特徴があるが、その遺伝子が純化されたのは、この時期の気候がそれに適していたからだと推測される。具体的に言えば夏季の降雨が始まって大地が十分湿り、気温も高まった5月末~6月初旬に播種し、未だ気温が高い9月末に開花し、降雨量が急減する10月に結実させ、気温が急低下する11月初旬に収穫する品種として栽培したが、その際に重要な事は、このカレンダーに従って栽培が進行する事だったと推測されるからだ。

播種後の幼苗は夜間の低温に弱く、開花期までは日中の高温が必要であるとすると、現在の武漢の平均的な気候では、5月中旬に最低温度が20℃以上になり、10月末に最高気温が20℃を下回るから、秋分が過ぎると開花する温帯ジャポニカの短日性は、武漢の気候に適合するものだった可能性が高く、栽培化による耐寒性の向上が不十分だった時期に、このスケジューで栽培する為の必須な性質として、多感性の遺伝子が純化された可能性が高い。従ってこの植生の細胞が正常に機能する温度は20℃である事になるが、尾瀬の花粉は縄文早期の末期の気温は、現在より4℃高温だった事を示しているから、縄文早期の湖北省では一貫して同様な気候だったとすると、品種改良以前の温帯ジャポニカの細胞の増殖活動には、24℃以上の気温が必要だった事になる。ちなみにこの植生の原生種の故郷だったと推測される、現在のホーチミン市の月間平均最低気温が21℃を下回る季節はない。

現在の稲の原生種の北限は福建省南部だから、現在より4℃温暖だった縄文早期後半の北限は、丁度揚子江流域になった。従って8千年前までの揚子江流域は、原生種が生育できる環境だったから、浙江省の熱帯ジャポニカは原生種として栽培していたと想定されるが、栽培化途上の温帯ジャポニカには相応しくない気候だった。従って揚子江が原生種の北上を止めていたと考えられるが、mt-Fが栽培していた栽培化途上の種も容易に野生化したから、栽培化の進展は浙江省でも停滞していたが、8千年前に気候が冷涼化して野生種が根絶すると、温帯ジャポニカの栽培化が急速に進展したと考えられる。

超温暖期に湖北省に北上したmt-Fの一部は、野生種から逃れる為に更に北上し、陝西省の渭水の沖積地で稲作を行った可能性がある。陝西省は現在草原的な気候地域だから、太平洋が湿潤化する以前の渭水にどの程度の水が流れ、この地域にどの程度の降雨があったのか不明だが、其処にも沖積平野があった事と、縄文前期に仰韶文化圏で稲作が行われた事から、あり得ない話として切り捨てる事は難しい。いずれにしても太平洋が湿潤化して気候が冷涼化すると、渭水の稲作者は湖北省に南下する必要があった。

原生種の北限を越えた冷涼な地域であってもイネが生育しないわけではないが、他の耐寒性が高い植生との生存競争に耐えられなくなって消滅するのだから、人がそれらの雑草を取り除いて育成環境を整備すれば、原生種であっても栽培化途上のイネであっても、栽培する事はできたが生産性は低下した。しかし原生種や野生種の花粉に汚染されなくなったから、優良な稲穂を選んでその籾を播種する事を繰り返し、栽培種の耐寒性を高めながら稲穂に着くモミの数を増やし、モミのサイズを大きくしていく事が、イネの栽培化であり品種改良だった。

いずれにしてもmt-Fが超温暖期になった直後に北上を開始し、水系が異なる河川流域を何度も縦断して湖北省に至ったのは、原生種や栽培化途上に生まれた野生種の影響を避ける為だったとすれば、11千年前に湖北省まで急北上した理由になる。11千年前に湖北省に達したのは、その様なmt-Fの先頭集団だった可能性が高い。後述するが揚子江以南の地域である湖南省にも、1万年前から稲作者がいたからだ。

11千年前の湖南省にmt-Fが散在していたとすると、湖北省に急北上したmt-Fは彼女達の先頭集団として、混在し始めた原生種や野生種を突き放す事に、特に熱心な女性達だったと考える事もできる。その様な先頭集団が湖北省に入植した後、揚子江の水流が増すと原生種や野生種は揚子江に阻まれ、北上できない状態になっただろう。その時点でmt-Fが栽培していた品種が、栽培化が十分に進んで野生化できない状態になっていれば、それ以降は品種改良を進めるだけの状態になっていたとも言える。いずれにしても8千年前に太平洋が湿潤化し、気候が冷涼になると野生種は壊滅したから、湖北省のmt-Fは花粉の汚染がない環境で栽培化を進める事ができた。

 

穀物の栽培史は縄文史にとって重要な要素になるが、穀類の栽培化には色々なパターンがあり、特にイネとパン小麦の違いは大きいから、その違いを明らかにしてから稲作史の検証を進める必要がある。両者の栽培化事情が決定的に異なった理由は、コメの遺伝子は原生種と同じ2倍体であるのに、パン小麦は2倍体の原生種の3種の遺伝子が重合した6倍体だからだ。原生種も栽培種も2倍体であるコメの栽培化には、原生種の北限を外れた冷涼な環境が必要だったが、6倍体のパン小麦には交配可能な原生種が存在しないから、パン小麦の栽培化にはその様な特殊な環境を必要としなかったからだ。従って遺伝子の倍体に関する理解は、栽培化を論考する上で重要な認識になる。

パン小麦の栽培化過程では、先ず4倍体のエンマ小麦が生まれ、最終的に6倍体のパン小麦が生まれた。4倍体や6倍体は一種の奇形だから、自然界での生存競争に勝ち抜く生命力が弱い種である事が一般的だが、栽培の為に形成された保護的な環境では、生育が可能なものもあり、その様な種を見付ける事が出来れば、2倍体の原生種が雑草として繁茂する環境でも栽培化が進むだけではなく、品種の改良速度が早い。

2倍体であるイネ、アワ、大麦は、原生種や野生種が繁茂できない北限の環境でなければ、栽培化はできなかったから、栽培化が進んで自家受粉率が高まっても、原生種が繁茂する地域には容易に南下できなかった。これは植生が生育しにくい寒冷地で栽培する必要があった事を意味し、栽培化過程での品種改良は、生産性の向上と耐寒性の改良の同時進行になった。従って理論的には、コメはパン小麦より品種改良に時間が掛った。

2万年~15千年前の状況としては、2倍体であるイネ、アワ、大麦の栽培化はかなり進展していたが、パン小麦を栽培化した女性達は、有力な栽培種を未だ得ていたかったから、生産性が低い多品種の麦類を雑多に栽培していたと考えられる事は既に指摘した。その様な栽培環境から4倍体のエンマ小麦が生れたが、エンマ小麦の野生種は現在も雑草化しているから、その栽培地で更に品種改良する事は難しかっただろう。それ故にエンマ小麦の生産性は、他の麦類よりずば抜けて高くはならなかったから、女性達が相変わらず多品種栽培を続けていた結果として、6倍体のパン小麦が生れたと想定される。

現在はエンマ小麦も栽培化されてマカロニ小麦と呼ばれているのは、パン小麦がアフリカで栽培化された12千年以降は、海進によってレバントとアフリカが分離されたから、レバントに残った栽培者がエンマ小麦の品種改良を進めた結果、マカロニ小麦が生れたと想定される。その様なマカロニ小麦はパン小麦程の生産性が得られなかったから、マイナーな品種になったと考えられる。

従って現在も栽培されている生産性が高い2倍体の穀類は、氷期に栽培化が進んで後氷期の初頭には、栽培者が栽培資源をそれに集中するほどに、他の原生種とは生産性に差があったと考えられる。しかしパン小麦を栽培化した集団にはその様な品種がなく、後氷期になっても雑多な麦類を栽培していたから、その結果としてパン小麦を生み出したと想定され、パン小麦の生産性がアワや大麦の生産性を凌ぐ様になったのは、比較的新しい時代だったと考えられる。

パン小麦が北アフリカ栽培化されたと想定するのは、1万年前に北アフリカで土器が生まれたからであり、パン小麦とエンマ小麦が両者共に栽培化の第二段階を経ている事は、エンマ小麦が栽培化された地域は、エンマ小麦が栽培化された地域とは隔絶されていたと考えられるからだ。

サヘル地域は12千年前に湿潤化したが、森林に覆われたのではなく疎林化した程度だったから、磨製石斧を持たない小麦栽培者の栽培適地になった事もその証拠になる。

サハラに関するウィキベディアの説明を簡略化すると、「サハラは12000年前から湿潤化し始め、8000年前に最も湿潤な時期を迎え、サバンナやステップになって森林も誕生し、5000年前まで湿潤な気候が続いたがその後徐々に乾燥していった。」 としている。サバンナについてコトバンクは、「熱帯・亜熱帯地方にみられる乾性の草原。明瞭な乾季と雨季がある。年降雨量は2001000ミリメートルで、丈の高いイネ科植物が密生し、低木が点在する。」と説明し、ステップについては、「大陸温帯の半乾燥気候下に発達する草原地帯。湿潤な森林地帯と砂漠との中間帯。植生は丈の短い草を主とし,春の雨で繁茂し,夏の乾季に枯死する。」と説明しているから、亜熱帯のサハラに関しては、「冬の雨で丈の短い草が繁茂し,夏の乾季に枯死する。」になるだろう。磨製石斧を持たなかった栽培者が小麦を栽培化する為には、サヘル地域は格好の地域だったから、湿潤な時期のサハラがパン小麦の栽培化に大きな役割を果たした事は間違いない。

地理的な事情としても、海面上昇期の末期である1万年前から、海面上昇が終了した8千年前までは、世界の沖積平野が上昇した海面に飲み込まれた時期だから、メソポタミアの肥沃な三日月地帯は存在せず、ペルシャ湾がバクダッドまで湾入する状況になり、オリエント地域には農耕に適さない山岳地しかなかったと推測される。しかし海面上昇が停止してから千年を経た7千年前になると、河川の河口に狭いながらも沖積平野が形成され始め、農地になり得る場所が生れ始めた。

一方サハラ砂漠を含むサヘル地域は、海岸に面していない平坦な台地だから、この地域がある程度湿潤化すると、小麦の栽培者に広大な栽培適地を提供した。従ってその様な地域が、小麦の栽培地にならない筈はなかった。

以上から言える事は、パン小麦の栽培化が始まったのは、サハラが湿潤化した直後の12千年前で、オリエント世界で小麦栽培が始まったのは、サハラが乾燥化して小麦栽培者が北アフリカ蚊から追い出され始めた頃であると共に、北西ユーラシアの氷床が消失してオリエントも温暖化し始めた頃だから、気候変動に関する事情とも整合する。

1万年以上前にスエズが海峡化し、レバントとアフリカは往来できない状態になったが、地殻変動が激しいアナトリアに多数の湖沼が生れていたから、冷涼な気候を好む漁民が集積していた。その地域の気候が徐々に温暖化すると、漁民にとって栽培者が魅力的な共生者になったから、地中海沿岸やチグリス・ユーフラテス川の河口に沖積平野が生れると、漁民は小麦の栽培者を船でアフリカから招き、レバントに入植させたと想定される。考古学的にそれが7千年前だったと想定される事は、海面上昇の停止による沖積平野の形成が、レバントに栽培者が定着した基本事情だった事を示している。

パン小麦の栽培化はそれより早かった事を、考古学者が示唆している事は、1万年前の北アフリカに土器が生れた事情とリンクしている。

サハラの山岳地のタッシリ・ナジェール遺跡の、壁に描かれた壁画に衣服を付けた人物が描かれている事は、この地域の人々が豊かな食生活を得ていた事を示唆している。この遺跡は、豊かな水流の痕跡を留める地形に囲まれているが、標高は千メートルを超える場所にあるから、乾燥が進んで温暖な低地は乾燥し、小麦の栽培に向かない地域になった時期の遺跡であると考えられる。

サハラが12千年前に湿潤化したのは、中央アジアと同様に、氷床の融水によって巨大化したカスピ海や、黒海以北の湖沼化が影響していたとすると、太平洋の湿潤化が終了した時期に氷床の融解も終了したから、それ以降は急速に乾燥化が進んだと想定される。俺に伴ってナイルの流域に人が集まったり、レバントへの人の移動が激しくなったと考えられる。

北アフリカで1万年前に出現した土器は、小麦の栽培化に伴う穀類の大量摂取が、塩分補給の必要性を生み出したから、それに対応する為の海水を汲む道具として、土器が生まれた事を示唆している。狩猟によって得られる獣肉には微量の塩分が含まれているが、穀類には全く含まれていないから、穀類を多食する様になると、塩分の補給が必須になるからだ。土器が一旦生まれると用途は多彩になるが、農耕が生れる為には土器が必須である事も明記して置く必要がある。

従ってオリエント地域での土器の出土例が7千年前しか遡らない事は、それ以前のオリエント地域には特筆すべき農耕はなく、アフリカの栽培者がオリエントに北上した時期を示していると考えられる。その頃サハラが砂漠化し始めたから、栽培文化の中心が次第に北上していく中で、栽培者の一部がオリエントに移動したと解釈できるからだ。8千年前に海面上昇が停止したから、大河の下流域に沖積地が生まれ始めた頃だった事も、その傍証になる。

小麦の栽培地が北アフリカから北欧やロシアにまで拡大した事は、驚異的な耐寒性を獲得して北進した様に見えるが、1万年前の西ユーラシアは氷床の残渣に覆われ、地中海北岸はツンドラ気候から脱した直後だから、北アフリカは現在ほど温暖ではなく、パン小麦の栽培は西ユーラシアの温暖化と共に北上したと考える必要がある。つまり西ユーラシア西部のローカルな気候としては、後氷期に至る時期も他地域より1万年遅く、後氷期なっても徐々に温暖化していったから、現在の気候は歴史上最も高温な時期になったが、それは北半球の気候実態ではない。南極の氷床でさえ、東ユーラシアの超温暖期の気候を反映した、温暖化を示しているのだから。

従って小麦栽培に関するオリエント地域の役割は、後氷期に東南アジアを出発した原初的な小麦栽培者が、サハラに到達するための経路であり、サハラで栽培化されたパン小麦が、西ユーラシアに拡散する経由地に過ぎなかった。しかしオリエント地域は王朝文化の揺籃の地になり、王朝文化に纏わる華麗な出土品の宝庫になったから、西欧人が歴史を見誤る原因になった。

旧約聖書の創世記第一章に、「神はまた言われた。『わたしは全ての地のおもてにある、種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木を、あなたがたに与える。これはあなたがたの食料になるだろう。』」と記され、第二章に、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」と記されているから、これに反する発想はキリスト教徒やユダヤ教徒には受け入れられない事が、問題を複雑化している。彼らがオリエント地域の古い農耕遺跡を懸命に探し、小麦の野生種を分類して栽培起源を探究しながら、タッシリ・ナジェール遺跡を無視している事が、彼らの宗教的な姿勢を示しているからだ。

欧米の研究者はこの発想に従い、オリエントで小麦の原生種の存在を確認し、考古学的な発掘をそれに重ねる事により、オリエントを農耕の起源地にしたがっているが、その様な発想は6倍体の遺伝子を持つ、パン小麦にしか適応できない事は無視している。コメ、アワ、大麦などの、2倍体の穀類の栽培化過程の検証には全く役に立たない発想だが、欧米の研究手法は最も科学的であると信じられているので、すべての栽培起源に同じ発想を用いる風潮が蔓延し、歴史解釈に支障が生じている。

話を温帯ジャポニカの栽培化に戻すと、仰韶文化期(6千年前)に高度な彩色土器が出現し、同時期のオリエントの陶器より先進的なものだったから、それは温帯ジャポニカの栽培者だった、荊の文化だったと想定される。ユーラシアの麦栽培者は、大麦の栽培者であるか小麦の栽培者であるかに関わらず、7千年前まで土器文化を持たなかったからだ。従って温帯ジャポニカの栽培者だった荊の祖先が、この土器を陝西省に持ち込んだと考える必要があるが、荊は堅果類の栽培者ではなかったから、彼らが土器を必要とする様になった時期、即ち温帯ジャポニカの栽培化が、8千年前の気候の冷涼化と共に始まったとするスケジュールでは、高度な彩色土器の存在を説明できない。また彩色土器だけを交易品としていたのでは、稲作者に必要な量の塩が入手できたとは考えられないから、塩を得るための主要な交易品はコメだったと考える必要がある。従って縄文前期の荊は、塩を得るために余剰のコメを交易に回すほどの高い生産性を得ていた事になり、土器の製作も温帯ジャポニカの栽培化も、縄文前期を遥かに遡る時代に始まったと考えざるを得ない。

従ってこれらの事情と、2倍体である温帯ジャポニカは、6倍体であるパン小麦より栽培化速度は遅かった事も加味すると、縄文文化の形成期の項で指摘した様に、氷期のヴェトナム南部で温帯ジャポニカの原生種を栽培していたmt-Fは、氷期の最寒冷期に原生種の北限を超えた栽培環境に見舞われ、栽培化を進展させたと考える必要がある。

mt-Fmt-R1次分岐ではなく、ボトルネックを経験した2次分岐である事も、mt-Fが栽培化途上で危機に陥った事を示唆している。気候が温暖化すると即座に北上した事も、超温暖期初頭の急激な温暖化により、急北上した原生種の花粉の影響を避ける為だったとすれば、その様な異常な北上の動機も明らかになる。mt-Bが遅れて北上したのは、彼女達の栽培種は原生種の花粉の影響を受けない、優良な原生種程度の種だったからだとすれば、彼女達には急いで北上する必要性がなかったから、海面が上昇して栽培地が水没するまでヴェトナム南部に留まり、堅果類の栽培者と一緒にゆっくり北上したと考えられる状況と一致する。

従ってこの仮説により、mt-Fmt-Bの北上時期の違いが説明できるだけではなく、最終的に東アジアの稲作が、温帯ジャポニカに集約された理由も明瞭に示しているから、極めて整合性が高い仮説になる。

mt-B4mt-B5も堅果類の栽培者に浸潤した遺伝子だが、mt-Fが北上した際に暖温帯性の堅果類の栽培者を帯同していなかったから、湖北省周辺の遺跡から堅果類は発掘されないが、mt-Fは氷期には堅果類の栽培者だったY-Oをペアにしていた事も、明瞭に説明できる。このY-Oは漢族の祖先になったY-O3や、モンゴルの騎馬民族になったY-O3の様に、後氷期になると広東に北上したが、ヤンガードリア期に暖温帯性の堅果類が栽培できなくなり、Y-Nとペアだったmt-Mに浸潤されたY-Oだったと考えられるからだ。このY-Oはヤンガードリアス期にペアを変え、超温暖期になるとmt-Fに再び変えた事になるが、荊の多数派はY-O2だったとすると、Y-Oの序列は北から大まかに、Y-O3Y-O2Y-O1だったと推測される。但し南方系の民族には、3者が混在していたと考えられる。

イネと同じ2倍体であるアワも同様に、シベリアが寒冷化し始めた1万年前より古い時期に栽培化されていたと考えられ、氷期の寒冷期にmt-Zが栽培化を進めとの想定に至る事は既に指摘した。

大麦の栽培化経緯は、東アジア史を解明しても明らかにならないが、冷涼な地域では大麦の栽培が残っているから、大麦はパン小麦との生産性競争に最終的に敗退したが、その境界の北上経緯を検証すると、ローマ帝政期には大麦も重要な穀物だった事情に至る。つまり地中海北岸で大麦と小麦の生産性が逆転したのは、弥生温暖期だったと推測する根拠になるからだ。スコットランドでウィスキーが生産され、ドイツでビールが生産される様になったのは、中世以降の事だろうから、それまでは大麦が主力の生産品だったとすると、それが西欧での境界の北上経緯を示唆している。

つまり2倍体である大麦の品種改良は遅かったから、6倍体のパン小麦が急速に生産性を高め、耐寒性が徐々に向上して栽培北限が北上していくと、その地域の大麦の栽培が駆逐されたと考えられる。オリエント世界でそれが起こったのは、上記の関係系から逆算すると縄文後期温暖期だった可能性が高く、オリエントに都市国家が生れた時期と重なる事が、この可能性を更に高める。つまりパン小麦は先ずエンマ小麦の栽培地に浸潤し、次いで大麦の栽培地に浸潤しながら北上を続けたと考えられる。

 

以上を前提にしても、湖北省に至ったmt-Fの温帯ジャポニカの栽培化事情を検証するには、温帯ジャポニカに関する知識を補強して置く必要がある。

温帯ジャポニカは短日性が強く、縄文後期以降はこの性質が耐寒性改良のネックになったので、先ずそれについて説明する。

植物が持つ短日性は、一日の日照時間が短くなる事を感知して開花する性質で、温帯ジャポニカの場合は秋分を過ぎてから開花し、11月初旬に結実するものだったと推測される。熱帯ジャポニカにはこの性質はなく、播種してから一定時間が経過すると結実するが、温帯ジャポニカには強い短日性があった。これは多くの植生が持つ性質だから、温帯ジャポニカの原生種も遺伝子に内在していた事になる。しかし昼と夜の長さが1年を通して殆ど変わらない、ヴェトナム南部に原生種が繁茂していた時期には、この機能の存在には意味がなかった筈から、原生種のこの遺伝子は休眠状態にあったと考えられる。

この性質は高緯度地域の植生には有用だから、温帯ジャポニカの原生種が高緯度地域で繁茂していた時期には、この性質を顕在化させていたと考えられる。

温帯ジャポニカの原生種が高緯度地域まで繁茂できた温暖な時期は、150万年以上前には存在したから、この種が熱帯地方に南下した時期は100万年以上前だったと考えられる。その後は短日性の機能は使わなくなったから、他のイネ科の植物と交配する中でその性質を失っていったと推測される。農学者の佐藤氏は、熱帯ジャポニカと交配させると温帯ジャポニカの短日性は失われると指摘しているので、短日性は遺伝子対が共にこの遺伝子を持たなければ発現しない、劣性遺伝子であると推測される。

劣性遺伝子であれば隠された機能遺伝子が存在しても、その存在確立が極めて低ければ、その種の特性とは見做されない状態になるが、稀に発現する個体が生れる事になる。しかしその性質が有用ではなかったり、生存条件に不利な状況を生み出したりすれば、その個体は淘汰されるから、種全体としてその遺伝子の比率は、時間の経過と共に低下していく。熱帯ジャポニカの原生種はその結果として生まれた種だったから、短日性遺伝子の存在率は極めて低く、熱帯ジャポニカと交配するとその実は短日性を発現しない事が、上記の佐藤氏の表現に繋がると考えられる。

従ってmt-Fが湖北省に入植した12千年前には、mt-Fが持っていた温帯ジャポニカの中で、短日性遺伝子が含まれていたものの割合は、極めて低かったと想定される。湖北省に北上する過程の気候は、上記の武漢の様な冷涼な気候ではなく、原生種が繁茂できる気候だったと考えられるからであり、mt-Fがその気候に乗って湖北省に達した後も、湖北省の気候は更に温暖化したと推測されるからだ。

しかし8千年前に太平洋が湿潤化して気候が急速に冷涼化し、湖北省はmt-Fの栽培種にとって過酷な環境になった。湖北省のmt-Fは温暖な湖南省や広東省への南下を揚子江に阻まれていたから、湖北省で稲作を続けるしかなかった。その際に短日性が発現した温帯ジャポニカが発見され、それが湖北省の稲作に有効に機能したから、短日性を発現した穂を選んでその実を播種した結果、その遺伝子割合が徐々に増加した結果、遅くとも縄文中期には100%になったと想定される。劣性遺伝子をこの様に選別すると、その遺伝子割合は100%になるからだ。

栽培化に有用な遺伝子の多くは、劣性遺伝子だったと推測される。自家受粉するとその形質が顕在化しやすいから、劣性遺伝子を集める事が自家受粉率を高める事にもなり、それが品種改良の実態だったと考えられ、自家受粉率が高まるまでは品種改良は遅々として進まなかったが、自家受粉率を高めると品種改良は急速に進んだと考えられる。但し自家受粉率を制御している遺伝子が幾つあるとか、それが優勢遺伝子なのか劣性遺伝子なのかについては明らかではない。

いずれにしても温帯ジャポニカの短日性も、栽培化に有用な性質であると見做された事により、品種改良によって遺伝子が純化されたと考えられる。古代の温帯ジャポニカの播種期が6月初頭(芒種)だった事が、それに関連していた疑いがある事は既に指摘した、短日性は一斉に出穂するという、栽培種としては別の利点も付随していたから、そちらの性質を求めるためにも遺伝子が純化された可能性がある。

自然界の植生には一斉に出穂する種は少なく、出穂してもその花が一斉に開花する種は少ない。順に開花する事によって種を散布する時間的な機会を増やす事が、自然界に繁茂する植生の基本的な特性だからだ。しかしこの性質は収穫作業を煩雑にするから、現在栽培されている穀物は全て栽培化の過程で、その対策となる遺伝子の純化が行われた。この対策として最も一般的な遺伝子変異は、熟した実が穂から離脱する機能を失わせるもので、専門用語で「離層の喪失」と呼ばれている。

「離層の喪失」は収穫の効率性を高める一般的な形質で、熟しても種が穂から離れない形質を指す。植物が種子を形成する為には、結実するまで養分を送り続ける必要があるが、その機構が残存していると成熟した種子が穂から離脱しないから、種子が熟すとその機構を消滅させる作用が働くので、それを「離層」と呼んでいる。従って「離層」を失った種子は半永久的に穂に固着され、現在の稲穂の形状になる。

自然界の植生は繁殖の機会を増やすため、穂に着いた実は一斉に熟さず、時間をかけて順次熟していく事が一般的だから、種子が熟した順に離層が作用して茎から離れ、落下したり風で飛ばされたりする。栽培化してこの離層が働かない種にすると、熟しても種は穂に固着された状態を維持するから、自然界では生存できない栽培種になる。穀物種がこの様な状態になると、栽培者は穂首狩り器が必要になり、考古学者が石包丁と呼ぶ石器が登場した。従って考古学者は石包丁の出土に注目し、大陸ではアワやイネの栽培化の進度を推測する目安とし、日本では稲作の導入時期の目安にしている。

mt-Fが日本に温帯ジャポニカを持ち込んだのは、縄文中期初頭(5500年前)だったと考えられ、佐藤氏は短日性を持つものを本来の温帯ジャポニカであるとしているので、温帯ジャポニカは縄文前期には、短日性を持つものに純化されていた事になる。大陸の温帯ジャポニカの稲作者の南北移動も、少なくとも縄文中期以降は、短日性が顕在化した状態と整合しているが、縄文前期温暖期に陝西省に北上し、縄文中期寒冷期に湖北省に南下後退した理由も、この性質に依存していた可能性が高い。つまり気候が冷涼化した8千年前から6千年前の間に、湖北省の温帯ジャポニカは短日性を標準装備した品種になったと考えられる。

湖北省での石包丁の普及はアワを栽培していた華北よりかなり遅く、熱帯ジャポニカを栽培していた浙江省より遅く、縄文中期以降だったと指摘されている。この指摘によって湖北省のイネの栽培化は、他地域より遅れていたと見做されているが、短日性が強い品種に純化して穂の結実を斉一化すると、穂首を刈らずに穂をしごくだけで効率的に収穫できたから、短日性を高める事を優先したmt-Fは、離層を退化させる必要性の認識に遅れがあり、その様な栽培種の純化が遅れたから、穂首刈器の採用も遅れた可能性が高い。

浙江省のジャバ二カについては、縄文前期の遺跡から発掘された籾に、離層の退化が見られると指摘されているから、本格的な栽培化が始まってからこの形質を獲得するまでに、2千年ほどしか掛からなかった事になる。仰韶文化(縄文前期)や竜山文化(縄文中期)の遺跡から石包丁が発掘され、湖北省では石包丁の普及が遅れたと指摘されているが、その事実がイネの栽培化の遅れを示しているのではないと考える必要がある。

日本で温帯ジャポニカが栽培され始めた時期に関しても、同様の誤解から時代を繰り下げる見解が幅を利かせているが、遺伝子分布はmt-Fの渡来は縄文中期だった事を示し、歴史を検証すると縄文中期初頭だった可能性が高いから、日本に渡来したmt-Fは、穂首刈器を使わない稲作文化を持ち込んだと想定される。この想定は他の考古学的な発掘実績とも合致し、遺伝子分布が示す日本列島の稲作事情とも整合するから、偶然に左右される考古学的な推論より確度が高い。日本の稲作事情に関しては、「経済活動の成熟期」の項で詳しく論考する。

従って穂首刈器の出土の有無やその形状は、稲作の有無の指標にはならない。関東部族のmt-B4は縄文早期から稲作を行っていたし、縄文前期から浙江省や湖北省の稲作者と交易活動を行っていた。焼畑農耕を行うアワ栽培者も縄文早期に出現していたから、穂首刈器の様な道具は使っていた可能性が高いが、石器ではなく竹や木片を使っていたとすれば、発掘される事はないだろう。関東部族も北陸部族も大陸と交易を行っていたから、石器の穂首刈器が必要になり、大陸のものが優れていると認識すれば、容易に交易対象になっただろう。従って石製の穂首刈器の分布から、栽培文化の色分けを行う事には慎重になる必要がある。

そもそも日本で焼畑農耕者が使っていた農具は、全くと言ってよい程発掘できていないのだから、穂首刈器の有無や形状を、稲作や穀物栽培の有無の指標にすること自体がナンセンスだ。

日本で石包丁が出土するのは縄文晩期からなので、考古学者はその頃から温帯ジャポニカの栽培が始まり、本格的な稲作は弥生時代に始まったと主張しているが、日本にmt-Fが渡来したのは、それより2千年前の縄文中期初頭で、湖北省から石包丁が発掘されるのは縄文中期以降だから、日本に温帯ジャポニカを持ち込んだmt-Fは石包丁を使っていなかった可能性が高く、石包丁の出土の有無は稲作の開始期を示していない。

縄文晩期は日本式の稲作が開待った時期だから、それによって石包丁が必要になった事を示唆し、弥生時代に盛んに使われた事は、日本式の稲作が弥生時代に普及した事を示していると考える必要がある。日本式の稲作は、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの交配によって生まれたから、それによって離層が消失した温帯ジャポニカが生まれ、日本式稲作の温帯ジャポニカとして定着した事を示しているからだ。つまり日本で出土する石包丁に関は、縄文後期までの日本の稲作は湖北省の縄文前期の稲作と連動し、縄文後期以降の日本の稲作は、その温帯ジャポニカの栽培を中心に回転した事になるが、縄文中期は寒冷期だったから関東の稲作は低調だった。

その頃の関東では熱帯ジャポニカが栽培され、縄文晩期~弥生時代になっても関東では、日本式稲作を継続する為に熱帯ジャポニカを栽培し続けていたと想定されるが、関東では石包丁の代用として使われた石器すら発掘できていない。考古学者はこの様な状況を認識し、発掘実績を先入観なく報告する役割に徹し、怪しげな稲作史を主張する事は控えるべきだろう。

現在の稲作事情に至った歴史は、以下の様なものだったと考えられる。その根拠は縄文後期から弥生時代の分析から生まれるから、詳細はそれに従って順に説明する必要がある。従って此処では概要を示し、上記の説明と矛盾がない事を確認する。

縄文前期には浙江省でジャバ二カ、関東で熱帯ジャポニカ、湖北省で温帯ジャポニカが栽培されていたが、縄文中期寒冷期にジャバ二カの栽培地がフィリッピンに南下し、浙江省の稲作は耐寒性が高い熱帯ジャポニカの栽培に変わった。縄文後期温暖期になると、中華の稲作地は生産性が高い温帯ジャポニカの栽培に傾斜したが、縄文晩期寒冷期には再び熱帯ジャポニカが主流になった。弥生温暖期に再び温帯ジャポニカが復活したが、古墳寒冷期に中華の温帯ジャポニカは壊滅し、多くの稲作者が東南アジアに入植した。

揚子江以南で栽培されているインディカは、東南アジアの山岳地で栽培されていた品種で、東南アジアに入植した稲作者がその栽培に切り替えたから、平安温暖期に華南に導入されて現在に至っている。亜熱帯地域ではインディカの生産性が最も高い事と、ジャポニカの原生種が繁茂する地域で、ジャポニカ系の稲作を行う事には支障があるからだと推測される。

ジャバ二カが亜熱帯~熱帯地域の栽培種になり、現在もフィリッピンやインドネシアで栽培されているのは、ジャバ二カは縄文時代の暖温帯性地域、現在の気候感覚では亜熱帯地域で栽培化されたから、それらの地域の気候に適しているからだと考えられるが、温帯ジャポニカと比較すると栽培化が未熟で、遺伝子の純化が不完全だったから、栽培化が進んだ温帯ジャポニカが南下できない亜熱帯や熱帯地域でも、生産が可能な栽培種にリメークできたからだと考えられる。

インディカは氷期には赤道直下の植生だったが、海面上昇によってスンダランドから追い出された女性達が、ヒマラヤの麓で栽培化したと想定される。ヒマラヤ山麓の標高差が、緯度の南北差と同様な環境を形成したから、標高が高いネパールで栽培化が進み、気候の寒冷化に従って徐々に山を下りながら、適度の標高を選んで栽培化を進める事ができた。従って平地で稲作を行い、長躯南北移動していたジャポニカの栽培者より、有利な栽培化環境を得ていた可能性が高い。

 

mt-Fが温帯ジャポニカを栽培化した事情を、縄文早期から検証する

11千年前に中央アジアが湿潤化して森林化すると、水流が増した揚子江は新たな渡河者を拒み、1万年前にインド洋が湿潤化すると、雲南を水源とする揚子江は水量を激増させ、mt-Fの移動だけではなく、南北の植生も分断したと想定される。その様な揚子江は古揚子江湾にデルタを形成し始め、湖北省の稲作者に稲作適地を提供したと想定される。

古揚子江湾に流れ込む中小河川にも、無数の川洲が形成されて稲作適地が生まれたが、海面が急上昇していた8千年前までは河洲は拡大せず、河口の狭い川洲に留まっていた。古揚子江湾は狭い地峡を介して東シナ海に繋がっていたから、揚子江が多量の水を流し込んでも海面は上昇せず、東シナ海と繋がっていた地峡が干満の潮位変動を遮っていたから、満潮時になっても海面が上昇する事はなかった。それによって海面と河川の水位が安定し、標高0mの低湿地でも、海岸以外では海水を被る事はなく、河川が氾濫しても大洪水に襲われる事もない、稲作適地が各所に生まれていたと推測される。河川漁労は狩猟の何倍もの生産性があるから、稲の栽培化の進展と共に河川漁労が盛んになると、食料事情が良好になって人口が安定的に増加したと推測される。

8千年前に太平洋が湿潤化すると、揚子江は再び水量を激増させ、漢水の水位量が激増して古揚子江湾を急速に埋め立てた。8千年前に海面上昇が停止して縄文海進期が始まったから、揚子江のデルタは海水の上昇によって水没する事はなくなり、デルタの面積が急速に拡大すると、古揚子江湾は急速に狭くなっていった。

太平洋が湿潤化すると気候が冷涼化し、イネの生産性は劣化したが、湖北省の稲作民は揚子江によって南下を阻まれたから、湖北省で稲作を継続するしかなかった。気候が冷涼化すると、栽培化途上で野生化したイネの北限が揚子江より南に南下したから、稲作者が形成した保護的な環境で生育するイネだけが、湖北省のデルタで生息する状態になり、栽培化が急速に進むと共に、温帯ジャポニカに短日性が付加されたと推測される。

現在の湖北省の平坦部は海抜30mだが、当時の沖積平野は海抜0mだったから、この時代の遺跡が発掘される事はない。揚子江や漢水が形成したデルタが広大になると、それらの河川は蛇行する暴れ川になって各所で反乱を繰り返したから、30mもの土砂が満遍なく積り、現在に至っていると考える必要がある。

その様な状況になると、稲作民は洪水から逃れるために高台に避難したが、湖北省の平原の標高がある程度高くなるまで洪水に襲われ続けたから、当時の高台に避難した住民の痕跡もやがて埋もれてしまった。稲作民は山際に住居を形成し、氾濫によって肥沃になった沖積地を利用しながら、温帯ジャポニカの完成度を高めてイネの生産性を高めたと想定されるから、その様な環境に置かれた稲作者の必然的な結果として、集団作業によって洪水の被害を最小限に留め、洪水の被害に遭った跡地を再び水田化する文化を発展させ、広い栽培地を確保したと想定される。

古揚子江湾は縄文前期の中頃に全て埋め尽くされ、その後も揚子江が氾濫を続けて標高を高めていったが、湖北省盆地の揚子江は河川の形態を取り始めると、湖北省を埋め立てて標高を嵩上げし始める一方で、下流の安徽省や江蘇省南部にも土砂を流出し始め、東シナ海も埋め立て始めた。それによって湖北省を流れる揚子江や漢水の氾濫が収まったわけではなく、氾濫を繰り返して沖積平野の標高を嵩上げし続け、縄文前期の稲作民が避難していた高台の痕跡を埋め尽くし、縄文中期になってもその状況が繰り返されたと推測される。

縄文中期の屈家嶺遺跡は現在の平野部の端にあり、標高41mの丘陵の鼻部の、標高3234mの場所に遺されている。武漢の標高は30mだから、辛うじて埋没から免れた遺跡だった事を示唆している。屈家嶺文化圏の西端が、縄文中期には長沙に及んだ事は、彼らが揚子江を渡っていた事を示し、関東部族の船が湖北省に達していた事を示唆している。

屈家嶺遺跡の墳墓の副葬品として卵殻黒陶が多数出土し、黒陶を焼成したらしい窯跡も発掘され、この頃の大陸の高級陶器だった黒陶は、荊が生産したものだった事を示している。また彩色した紡錘車や原初的な煉瓦も発掘され、この時代としては先進的な文化の営みが、この地域に展開されていた事も示している。先に述べた理由により、この文化圏が内包していた、高度な文化の一部が検出されただけであると考えられるが、歴史的に重要な遺物を含んでいる。

縄文中期までの荊に関し、考古学的に言える事は多くないが、彼らが生産性の高い稲作を背景に高度な農耕文化を形成したと想定しなければ、その後の東アジアの歴史は、合理的に説明する事が出来ない。従ってそれを前提に、後世の事情などから湖北省の事情を窺う事にする。

流れが緩やかな河川には魚が繁殖していたから、男性達がその捕獲に専念する事により、豊かな食生活を享受できたと推測されるが、災害の復旧に男性達が主体的に関わる様になると、女性が自分の責任で稲作地を求める事情は失われた。その結果として乾燥地のアワ栽培者の様に、収穫の多寡に対する責任が女性だけの双肩に重くのしかかる事はなく、稲作の生産性が高まっても、女権が過度に発達する社会にはならなかったと想定される。温帯ジャポニカの稲作地になり、瑞穂の国であると自称した日本のmt-Fの割合が、雑穀栽培が中心で稲作が貧弱だった韓国と同程度で、畑作地だった山東・遼寧より少ない事は、彼女達の浸潤力が弱かった事を示唆し、この想定と合致する。つまり日本に渡来したmt-Fは、稲作地を求めて多民族の男性に浸潤する習俗がなかっただけではなく、稲作地を形成する技能を持った男性にしか浸潤しなかったから、低い割合に留まっていると考えられる。

韓国のmt-Fは山東・遼寧の比率の半分程度だから、歴史時代になってから朝鮮半島に南下した、漢族の遺伝子であると想定され、朝鮮半島は稲作者が入植する様な地域ではなかった事を示唆している。山東・遼寧のmt-F比率が高い事は、鉄器時代になって水田を開墾できる様になった弥生温暖期の末期に、山東に北上した稲作者が漢族に浸潤した事を示している。

弥生時代の山東の周辺地域は気候が乾燥し始めていたから、アワ栽培地が多く稲作地は限られていたが、それでもmt-B4と併せた稲作女性の人口が20%に達している事は、稲作は漢族の伝統的なアワ栽培より生産性が高かった事を示している。それだけではなく、古墳寒冷期に稲作が不可能になっても、mt-Dに逆浸潤されないで残った事は、mt-Fは容易にアワ栽培者に転換できた事を示唆している。具体的に言えば、鉄器時代になって男性達が農地を整備する時代になると、稲作者がアワ栽培者に転換する事は難しくなかった事も示している。

周礼に春秋戦国時代の、温帯ジャポニカの栽培方法が記されている。雑草が繁茂する6月初頭(芒種)に播種すると記されているが、播種する前に雑草を除く必要があったから、土手を作って水を溜め、雑草を水中に踏み込んで根絶すると記されている。大陸の夏は日本より1か月早いから、日本人の感覚では7月の炎天下に、この様な除草作業をする必要があった事を示している。稲の生育期にも除草の必要がある事は、水田の近くに住んでいれば分かるが、最近は除草剤を多用しているから実感が湧かないかもしれない。

いずれにしてもその様な稲作作業には、塩分の補給が欠かせない。従って湖北省で稲作が確立した事は、縄文早期には古揚子江湾の海水から、塩を摂取する事ができた事を意味する。しかし古揚子江湾が急速に縮小し始めた8千年前以降は、海から遠くなった稲作地もあっただろうから、海岸で製塩を行う必要が生れた筈だ。

海岸が近くにあった時期には、海岸に出向いて海水を飲む事もできたが、揚子江や漢水が急速に海岸を埋め立てると、海が稲作地から離れていったから、何らかの製塩手段が必要になった。海岸を追いながら稲作を行った時期があったかもしれないが、稲作と河川漁労の進化が荊の人口を増やすと、内陸でも稲作を行う人々が生まれ、製塩の必要性が高まった事は間違いない。

当初は土器に海水を汲んで蓄えたかもしれないが、それには海水が染み出さない堅牢な土器が必要になるから、土器の発達史から考えれば、水を長期間保存する事は難しい焼成温度が低い土器で、煮詰めて製塩する方が先だった可能性が高い。

その技術が確立すると内陸の沖積地にも拡散できる様になったが、縄文前期の仰韶文化期に稲作民が河南省や陝西省に北上した事は、その様な製塩技能が生まれていた事を示している。従ってその様な土器の製作技能を応用し、仰韶文化期の彩色土器が作られたと想定する必要がある。

麦作文化圏で土器が使われ始めたのはサヘル地域で、その土器技術がもたらされたのは7千年前だから、仰韶文化期の高度な土器文化が、大麦の栽培者だったY-Rの文化から生まれたとは考え難いからだ。

湖北省の稲作民が土器を作り始めた契機を考察すると、揚子江下流域に堅果類の栽培者だったmt-M7bがいたから、彼女達から土器文化を学んだ可能性もあるが、北アフリカで小麦の生産性が高まって塩が必要になると、自然発生的に土器が生まれたと考えられ、12千年前にサヘル地域で麦の栽培が可能になると、1万年前には土器が生れていた事になるから、土器が生れる為には必要性が高まる必要があるが、必要が高まると必然的に生まれたとも言える。従って土器文化の発生そのものに、大きな文化的な意味を持たせる必要はないかもしれない。

但しそのようなものとは別の発想として、ヴェトナム時代のmt-Fの稲作地が、堅果類の栽培者の居住域の南に隣接していたから、氷期から土器を作っていた可能性もあるし、北上途上で浸潤したY-Oは元々堅果類の栽培者だったから、Y-Oに浸潤する事によって獲得した可能性もある。いずれにしても湖北省の稲作民は、稲作を行うために土器文化を必要としていたから、その製法を発達させる必然性があった事は間違いない。

大渓文化と呼ばれる遺跡が山間地に遺され、それが荊の稲作文化の一端を示している様に見えるが、山間の小さな沖積地では、荊の集団的な稲作技法は通用しないから、その様な異端的な地域にいた民族が、荊の本流だったとは考え難く、荊文化の検証に値する遺跡は発掘できないと諦める必要がある。考古学者は発掘事実だけで論理を組み立てたがるが、発掘できない事も明らかにして論理を組み立てるべきだ。

それとは逆の例として、揚子江の反対側の湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡や八十遺跡(はちじっとういせき)で、栽培化途上のコメが発見され、この時代の稲作民の代表的な遺跡であると考えられているが、揚子江で隔てられた湖南省と湖北省の稲作文化は、全く異なるものだったと考えられる。その理由は既に説明した11千年前の事情だけではなく、湖南省の稲作者は気候が寒冷化すると南下する事ができたから、諸事情に切羽詰まって新しい技法を開発し、それが生産性の向上に結び付いていた湖北省の稲作者とは、イネの栽培化の進捗や栽培技法が大きく異なっていた疑いが濃いからだ。

彭頭山遺跡や八十遺跡の立地条件を検証すると、湖北盆地に流れ込む揚子江の主要な支流として、北から流れ込む漢水と南の長沙から流れ込む湘江があり、揚子江が湖北盆地の南縁を流れているのは、漢水が多量の土砂を堆積する事により、揚子江の流れを南に押し下げているのに対し、湘江は洞庭湖を介して揚子江に流入しているから、土砂の堆積力が弱い事を示している。つまり洪水の被害と引き換えに肥沃な稲作地を得る環境が、揚子江の南の稲作者にはなかった事を示唆している。

つまり湘江流域の稲作民は狭い沖積地を使わざるを得ない状況にあり、稲作技術の進化に大きな違いがあった。彭頭山遺跡は湘江の流域ではなく、盆地の西の山岳地から流れ出る澧水(れいすい)流域の、標高44mの扇状地にあり、湖北盆地北側の山沿いに形成されたと想定される、荊の稲作地や集落とは全く異なる立地だった。

標高44mの扇状地が今次の間氷期に形成されたとは考え難いから、前回の間氷期に形成された扇状地が、この地域の地殻の隆起によって氷期に浸食を免れ、その結果氷期になって海面が低下した状態になっても、浸食を免れたと考えられる地形に見える。これはmt-Bが稲作地にした様な、台地上の稲作地だったと考えられるから、荊の稲作手法を採用していなかった事は間違いない。

この扇状地についてもう少し検証すると、前回の間氷期は今次の間氷期より、海面が数十メートル高かったから、古揚子江湾の海水準もその分高くなったと考えられるが、それでも標高44mは高過ぎる。前回の間氷期かその前の間氷期には、今次の縄文海進期初頭には地峡を介し、古揚子江湾と東シナ海を連結した黄石市辺りの丘陵地の浸食が未達成で、湖北盆地は湾ではなく湖だったとすれば、標高44mの扇状地が形成された原因になるだろう。いずれにしてもその様な台地の稲作民になった事は、mt-B型の稲作者になった事を意味し、mt-F型の稲作者ではなかった事を示唆している。

この稲作民の歴史時代の痕跡を探すと、史書に苗族と呼ばれる稲作民族らしい名称が登場し、彼らは揚子江の南側の稲作民族だった可能性が高いから、歴史時代初頭まで、その様な民族がいた事を示唆している。これは揚子江の南北の稲作民が、分断されていた証拠にもなる。苗族が記された文献資料については、経済活動の成熟期を参照。

湖南省にはこの様な扇状地や丘陵が多く、遺跡が遺り易い地域だから、外にも遺跡が発見されるかもしれないが、それを以て湖北省の稲作事情を推測する事はできない。

中国人は歴史認識に対する厳密性に欠け、歴史を民族意識の高揚の素材にする為に誤差を大きく見積もり、その範囲内で古さを誇張する傾向があるから、それを前提に不明確な彭頭山文化の時期を見積もり、縄文早期末の温暖期(77007000年前)だったとすると、原初的な稲作者が温暖期に、湖南省に北上した事を示していると解釈する事もできる。しかし太平洋の湿潤化によって気候が冷涼化した後だから、稲作者が北上した事に疑念はある。

尾瀬の花粉はこの温暖期は、太平洋の湿潤化による影響を受けて余り温暖化しなかった事を示している事が、上記の疑念の根拠だが、尾瀬の花粉は沿海部である日本の気候を示しているから、内陸の湖北省や湖南省では、太平洋の湿潤化による低温化は日本ほど大きくはなく、尾瀬の花粉グラフに示した「縄文早期温暖期甲」の温暖期にも、縄文前期温暖期に匹敵する温暖期があった可能性もある。

縄文早期末の、湖北省の稲作技術が高度な段階に達していなければ、次の温暖期である、仰韶文化期の先進的で華麗な土器文化の存在は説明できないし、縄文中期に渡来したmt-Fの温帯ジャポニカの生産性が、縄文後期温暖期に熱帯ジャポニカの生産性を圧倒した故に、日本の稲作が温帯ジャポニカに傾斜した事を契機に、縄文晩期寒冷期に日本式の稲作が開発され、弥生温暖期に日本列島が稲作列島になった事も説明できない。1600年周期の寒冷期が稲作地の南下後退を引き起こし、それが変革を求める原動力になったから、次の温暖期が新しい稲作技術の成果を発揮する場になり、そのサイクルで荊の稲作技術が進化して稲作地を拡大した軌跡を、追跡する事ができるからだ。弥生温暖期以降はそのサイクルが関東部族にも引き継がれ、古墳寒冷期に大陸の稲作者が東南アジアに移住してそのサイクルから離脱すると、温帯ジャポニカの生産向上は日本列島の課題になったからでもある。

従って温帯ジャポニカの栽培化時期はかなり早く、熱帯ジャポニカの栽培化が第二段階に入った9千年前には、第二段階を終了して新しい栽培化の段階に達していたと考えられる。その新しい段階の実態は先に指摘した様に、不定期的に発生する洪水に対処する為の稲作民の組織化だったと考えられる。

彼らが組織的に行った行動に関する直接的な文献資料はないが、荊の統治組織には地域分権的な要素が乏しかった事から推測すると、大規模な人員を動員するものだったとの想定に結び付く。従って湖北省全体を統括する組織があった可能性もあるが、地域単位に組織的な纏まりがあり、洪水の規模やそれが影響した範囲に応じて動員される地域単位が異なったとしても、その都度全体組織が再構築されたとすれば、地域的な連携を維持しながら統合的な組織意識が生れる素地となり、後世の統合的な組織意識に至った可能性は高い。全組織の認識が共通化されている必要は、その様な状態でも発生したからだ。

荊が春秋時代までの中華文明の牽引者だったから、その結果として地域自治を否定する、東アジアでは異端的な組織論である中華思想が、生れる基盤になった可能性に繋がるからだ。春秋時代の荊は呉と楚に分かれて記述されているが、それらは地域名称に過ぎなかった疑いもあり、中華に安定的な地域政権が生れなかったのも、文化を牽引していた多数派の荊が、その様な統治思想を持っていたからである可能性が高い。

従って荊の具体的な治水方法は、中規模河川の治水によって稲作地を確保し、稲作地の周囲に土塁を作って揚子江や漢水の氾濫を、堰き止めるものだったと推測される。古揚子江湾が健在な時期は、洪水の水の殆どは湾の海水に流れ込み、揚子江や漢水の流れから離れた地域では、何メートルにも及ぶ洪水はなかったと想定されるからだ。中小河川の流路に土砂が溜まるとやがてそれが氾濫し、流路を変えながら平坦なデルタを形成していくが、その際に意図的に決壊させて流路を導く事により、氾濫が及ばない地域を作り出して短期的な稲作地にする事が出来ただろう。

それを繰り返しながら稲作地を変えていけば、比較的安定した稲作地を得る事が出来たと想定されるが、その為には地形を見極める技能を発達させる必要があった。古湖北省湾が完全に埋め立てられた縄文前期以降は、その様な単純な手法では治水は完結しなかっただろうが、それに対処した古代人の高度な知恵を、素人の現代人があれこれ言うのはおこがましいから論評はしない。

縄文中期に古湖北省湾が消滅したと推測する証拠は、歴史的な事実から追跡する事ができる。縄文中期の浙江省に生まれた良渚文化は、縄文中期末に洪水で滅んだが、その理由については明らかにされていない。しかし上記の湖北省の状況から、洪水が起きた原因は古揚子江湾が縄文前期に埋め立てられ、揚子江の河口が安徽省や江蘇省南部に後退すると、揚子江の土砂が湾入した東シナ海に堆積し始め、その土砂の重みによって地殻が沈降して、各地の河川が氾濫し始めたからである可能性が高いからだ。

「1-2-4 浙江省の栽培者だったmt-B5+M7bに掲げる国土地理院の地図が、最近100年間の地殻の上下動を示しているが、日本の主要な沖積平野は軒並み、100年で30㎝程度沈降している。つまり堆積土砂の荷重負荷が強く掛かる大きな沖積平野では、沈降が発生している事を示している。現在のそれらの地域の殆どは、過去に堆積した土砂によって平野化し、現在は沖積平野の拡張期は終了している地域だが、それでも上記の様な沈降が発生している事は、土砂の堆積時には更に大きな沈降があったと想定される。海進によって東シナ海が現在の平野部を覆うと、銭塘江が形成した丘陵地も、周囲の沖積地の荷重の影響を受けて沈降し始めただろう。

揚子江が現在の安徽省に沖積平野を形成すると、海水より23倍重い土砂が沈降を加速させたと考えられる。海水準が上昇していた時期でも、丘陵地化していた銭塘江デルタの周囲に海水の荷重が加わり、台地の地下水位が上昇して土壌の重みも増し、沈降が始まっていたと想定されるが、銭塘江デルタは東シナ海に付き出した形状の丘陵地だったから、周囲に沖積平野が生れるとその荷重も加わって沈降が加速し、河川の洪水に晒される様になったと想定される。従ってこの時期に突然沈降が始まったのではなく、沈降が加速された時期だったと想定される。

縄文前期末~中期に揚子江の下流域だった安徽省や江蘇省南部に堆積した土砂は、日本の河川の十倍を軽く超えただろうから、その重圧による沈降は日本の小さな平野の状況を、数段上回る深刻なものだったと想定され、千年間で10m以上沈降しても論理的な正当性がある。良渚文化を形成していた稲作民族は、灌漑施設を作って稲作地に水を供給していたから、それが破壊されると深刻な事態になって文明が滅んだが、その事情は荊の様に、洪水に対処する稲作文化は持っていなかった事を示している。

良渚遺跡が立地していた銭塘江の沖積地は、前回の間氷期に銭塘江が形成した海抜20m程の丘陵地で、特に河川の沖積土砂に覆われた揚子江下流域では、稲作民の文化的な繁栄は壊滅的な被害を受けたと推測される。しかし南部ではその影響が軽微だったから、縄文前期の河姆渡遺跡から発掘されているが、湖北省のその様な遺跡群は厚い堆積土砂に埋もれたから、ある程度堆積度土が積もって標高が高くなった縄文中期の、屈家嶺遺跡から発掘される様になったと考える必要がある。

日本の稲作の考古学的な痕跡の発見は、縄文前期の岡山で栽培された熱帯ジャポニカのプラントオパールが嚆矢になるが、弥生稲作の中核は温帯ジャポニカだったから、両者の導入時期と導入先を特定する必要がある。王朝史観を幾ら捏ね回してもその回答は得られないが、関東縄文人が示すミトコンドリア遺伝子には稲作者だったmt-B4mt-Fが含まれ、関東部族の交易実績を示しているから、それらの遺伝子の流入時期を特定すると、彼女達が固有の稲作技術持って渡来した時期が判明するだけではなく、関東部族の交易範囲が拡大した経緯も明らかになる。

その詳細は縄文時代の各項目で明らかにするが、その結論を簡潔に記すと、関東部族は1万年前に台湾に達し、熱帯ジャポニカの原生種を栽培していたmt-B4を台湾から招き、mt-B4がそれを関東で栽培化した事が判明する。

次いで8千年前にmt-B5+M7bを湖北省から招いたが、mt-B5mt-B4の稲作技術に及ばなかったので、浙江省と気候が類似していた九州に移動し、九州縄文人に浸潤した。

関東部族は縄文前期(70005500年前)には湖北省に達していた事が、荊が縄文前期に北上した仰韶文化圏から沖縄産の宝貝が発掘された事が示している。しかし関東部族が温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fを招いたのは、寒冷化し始めた縄文中期寒冷期初頭だった。

湖北省の稲作者は揚子江によって南下を遮られたが、北には広大な平原が各地にあったから、北上しながら耐寒改良する事に意味があった。しかし浙江省の稲作者は江蘇省や安徽省に侵入していた東シナ海に、北上を妨げられていたから、ジャバニカの耐寒改良には意味を見出せなかった。それ故に縄文中期寒冷期になると、浙江省での稲作を諦めざるを得なくなってフィリッピンに渡った。これらの稲作者達の挙動は必然的なものだから、自分達が得た環境を最大限に活用していた事を示している。

古揚子江湾は縄文前期にすべて埋め立てられ、その時期の海面は現在より5mほど高かったから、その時期の沖積平野の標高は5mだった。その沖積平野が現在の標高30mになるまで、揚子江や漢水が各地で氾濫を繰り返しながら土砂を堆積したから、稲作者には厳しい環境になったが、従来の技術を更に向上させると、樹林が形成されていない広大な沖積平野を与えてくれる福の神になった。荊がそれを利用した稲作によって豊かな収穫を得たと想定する根拠を、縄文前期の仰韶文化遺跡から発掘された宝貝と、夏王朝期以降の華北から多数発掘される貨幣化した宝貝が示している。また仰韶文化遺跡から発掘された宝貝は、揚子江流域で関東部族と行っていた塩の交易手法を、陝西省にも持ち込んでいた事を示しているから、Y-R民族が青海湖から運んで来た塩を、荊が形成した組織が稲作民に配布していた事を示唆している。この手法が塩の交易者の販売効率を高めたから、彼らがそれによって得た富が大きかった事を、仰韶文化の華麗な彩色土器が示している。

つまり湖北省の周辺地域で縄文前期に発生した華麗な土器群は、荊が塩を得る為に製作したものだったと考えられ、縄文中期寒冷期に稲作者が南下してしまった陝西省では、その後の発展がみられないが、縄文中期に開花した良渚文化が玉器に溢れた華麗な文化になったのは、縄文中期寒冷期なっても湖北省の稲作は健在だった事を示し、良渚文化は浙江省の製塩業者が、湖北省の稲作者の為に製塩する事によって得た、利益によって支えられていた文化だったと考えられる。仰韶文化と比較した良渚文化の桁違いの豊かさは、縄文中期寒冷期になっても湖北省の稲作は健在であり、それに対応した浙江省の製塩業の規模の大きさを示している事になる。この事実は尾瀬の花粉が示す気候の変遷と一致するから、尾瀬の花粉が示す気候の変遷の信憑性を高めるだけではなく、類推した気温の絶対値の信憑性も高めている。

湖北省の稲作民は、縄文後期には「荊」と呼ばれていた。「荊」は「いばら」を意味するから、畠や田を「いばら」で区切って農地の所有を確定していた人々が、「荊」と呼ばれたと推測される。現代日本にも、丈が低くとげのある樹木で農地を区切る風習が残っている地域があるから、渡来したmt-Fがそれを含む荊の稲作文化を持ち込み、それが現在まで引き継がれていると推測される。

周代に生まれた「楚」は、「荊」と同じ「いばら」を意味する漢字だから、荊の発祥地だった湖北省を基盤とした稲作民が「楚」を名乗った事を示し、楚ではない荊は揚子江下流域の呉の人だった事になる。漢代に湖北省と湖南省を荊州と呼んだ事がその事情を示し、信頼出来る史書は縄文後期の湖北省の稲作民が、荊と呼ばれていた事を示している。縄文後期に東シナ海沿岸に進出した稲作民は、春秋時代に「呉」と呼ばれて「楚」と対置されているが、それぞれの地域に独立した政権があったのか否かは、確かめる事が難しい。現存する史書はすべて荊を敵視した政権が作ったものなので、意図的な脱落や捏造が酷い状態にあるからだ。

 

1-1-8 越(銭塘江が形成した台地の稲作民)

1万年前に浙江省で暖温帯性の堅果類を栽培していたY-Omt-M7bは、氷期には現在のヴェトナム中部で暖温帯性の堅果類を栽培していた。2万年前に温暖化すると、その一部が広東まで北上し、ヤンガードリアス期に堅果類が壊滅するとY-N系のmt-M遺伝子の浸潤を受け、漢族や荊の祖先になった可能性があるが、ヤンガードリアス期に広東に北上したのは台湾に北上したヴェトナム北部の堅果類栽培者で、この民族はヴェトナム中部に留まっていた可能性がある。荊の言語系譜であると考えられるタイ語が、ヴェトナム北部~台湾に移住したオーストロネシア語に近いのか、ヴェトナム中部に留まっていた越の言語系譜である粤語に近いのか分かれば、その結論が出るかもしれない。

12千年前に超温暖期になると、先ずヴェトナム北部にいた暖温帯性の堅果類の栽培者が北上し始めて台湾に北上し、ヴェトナム中部にいた粤人の祖先はその後を追う様に北上し、1万年前には銭塘江台地に展開していたと推測される。その頃の東シナ海は安徽省の奥深くに侵入していたから、それ以上は北上せずに前回の間氷期に銭塘江が形成したデルタの痕跡である、なだらかな丘陵地(現在の紹興~上海とその内陸部=銭塘江台地)に定着した。

子の堅果類の栽培者に含めれていたmt-B5の氷期のペアは分からないが、同時期に台湾に北上した堅果類の栽培者はmt-M7bに純化され、浸潤した稲作者はmt-B4に純化されていたのに対し、銭塘江に北上した堅果類の栽培者はmt-M7bに純化され、浸潤した女性はmt-B5に純化されていた事は、この時期の彼らの移動や拡散を推測する重要な指標になる。

1万年前のmt-B5が栽培していたのはイネの原生種だから、その収穫は堅果類の収量には遥かに及ばなかったが、Y-Oに浸潤したmt-B5の優位点はコメの栽培だった可能性が高い。しかし台湾のY-Omt-M7cペアに浸潤していたmt-B4は、稲作者にはならずに海洋民族になったが、その時点でかなりの人口を擁していた事が、mt-B41次分岐の多彩さから想定されるから、mt-B5も浙江省に北上した時点では、稲作者と言える状態ではなかったが、人口は徐々に増えていたと想定される。

氷期の堅果類の栽培者には、ソバの栽培者だったmt-M9が含まれていた事は既に指摘した。不猟期が続いて堅果類しか食べるものがなくなった際に、堅果類の毒性を弱める為に穀類も食べる必要があり、mt-M9aはその役割を担っていたと想定される。沖縄人のmt-M9mt-M7a10%だから、それが堅果類の栽培者が欲した穀類の栽培者の比率だったとすると、堅果類の栽培者はmt-M71割程度の、穀類の栽培者を含んでいたと推測される。ソバはコメと比較して栽培地の獲得が容易だから、それがコメを栽培化する以前のmt-B5割合の最大値だった可能性がある。しかし現在の台湾や広東にはmt-M9は殆どいないから、浙江省では稲作者になったmt-B5に浸潤されたと推測される。

mt-B4とmt-B5が堅果類の栽培者に浸潤した過程については、堅果類の栽培者が北上した後でmt-B4とmt-B5が別の集団として北上し、それぞれが台湾と浙江省の堅果類の栽培者に浸潤した可能性もあるが、1万年~9千年前に日本に渡来したmt-B4には10種以上の娘遺伝子があったから、浸潤時期は1万年をかなり遡る時代だった可能性が高い。

従って温暖化し始めた2万年前に、mt-B4とmt-B5の共通母体であってmt-Bの娘遺伝子であるmt-B45が、南方の堅果類の栽培者(ヴェトナム中部)のmt-M9に浸潤したが、その浸潤力は極めて弱く、僅かな割合に留まりながら北の堅果類の栽培者にも浸潤したと想定すると、全ての遺伝子分を総合的に説明できる。浸潤力が弱かったのは、ヴェトナム中部には山岳地が多く、稲作が可能な沖積地は乏しかったからだと考えられる。それ故に後氷期の温暖化は進展すると、それに伴って北の堅果類の栽培地(紅河流域)にも浸潤したが、この地域には沖積平野があったから、mt-B45の状態で増殖したと想定される。

稲作者の母体だったmt-B集団も後氷期の温暖化の恩恵を受け、人口を増やしていた筈だが、その後の海面上昇と東南アジアの山岳地の密林化により、石器時代人が住むには困難な環境になったから、母集団は消滅してしまったと推測される。

15千年前から気候の急速な温暖化と乾燥化が始まり、海面の急上昇も始まったから、ヴェトナム中部の堅果類の栽培者に浸潤していたmt-B45は、栽培地の減少に苦しみながら人口を減らし、mt-B5に純化したと想定される。紅河流域に北上したmt-B45は広い沖積平野を得たから、後氷期の温暖化に伴って生産量を拡大し、mt-M9に浸潤して独占的な穀類栽培者になったかもしれないが、13千年前にヤンガードリアス期が始まると、紅河流域ではイネの原生種の生産性が激減したから、この地域のmt-B45は堅果類の栽培者との共生関係が劣化する中で人口が減少し、mt-B4に純化したと想定される。

12千年前に超温暖期が始まると、先ず紅河流域の堅果類の栽培者だったY-Omt-M7cペアが、mt-B4を伴って徐々に北上し、最終的に台湾に至ったと推測される。台湾では磨製石斧が得られた上に海水塩を利用する事が出来たから、生産性を高めていた堅果類の栽培者にとって、優先順位が高い北上先だったと考えられるからだ。ヴェトナム中部の堅果類の栽培者だったY-Omt-M7bペアは、先に北上した堅果類の栽培者を追う様に、mt-B5を伴って広州まで北上すると、台湾には先住者がいたからそちらに向かう事が出来ず、しかし海水塩が得られる海岸から離れたくなかったから、1万年前までは厦門までしか北上しなかった可能性もあるが、黒潮が温暖化して更に北上する事が可能になると、銭塘江台地に北上した事になり、それは未だ台湾が陸続きだった時期かもしれない。

mt-B52万年前から銭塘江台地に至る1万年前まで、恒常的に稲作地の不足に悩んでいたから、劣等感が強い消極的な性格になったのに対し、mt-B4は紅河流域での成功体験があり、堅果類の栽培者の中でもそれが語り継がれていたから、海洋民族になる事も厭わない大胆な性格になったとすれば、その観点でも上記の話と整合する。

浙江省の銭塘江台地に拡散したmt-B5は豊富な稲作地を得たから、この堅果類栽培集団の唯一の穀類栽培者になったと推測される。しかし8千年前に太平洋が湿潤化して気候が冷涼化すると、銭塘江台地はイネの原生種の北限から外れる地域になったが、北上して来た南シナ海沿岸や東シナ海沿岸の沖積平野は、海面上昇によって完全に海洋に覆われ、波が山裾の岸壁を洗う状態だったから、mt-B5が南下する退路は絶たれていた。

mt-B5が仕方なく銭塘江台地の谷間でジャバ二カの栽培化を進めたが、降雨が激増して稲作地が流出したり、樹林が繁茂して林間に冷気を溜める様になり、日照などの関係で冷涼になる谷では栽培が不可能になったりしたから、栽培地を失ったmt-B5が多数発生しただろう。その頃関東部族は浙江省に到達していたから、関東部族の招きに応じて一旦関東に渡航したmt-B5+M7bが多数いたと推測されるが、その証拠とその後の経緯は後述する。

mt-B5が本格的な稲作に取り組み始めてから千年後の、縄文早期末~前期前半に河姆渡文化や馬家浜文化が生まれた。銭塘江台地は氷期に削平が進んで標高が低くなっていた上に、モンスーン気候や太平洋の湿潤化による降雨でも削平が進み、現在は江蘇省の平原と一体化している様に見えるが、1万年前は現在の揚子江を北限とする、低い丘陵が連なる台地だったと推測される。

高床の木造建築を伴う河姆渡文化は、現在の銭塘江の河口域にあり、海洋民族との交易によって彼らが磨製石斧や玉器を入手していた事を示唆している。その様なものを伴わない太湖周辺の馬家浜文化は、海洋民族との接触が乏しかった内陸の稲作の痕跡であると考えられる。縄文前期の関東部族は湖北省に達し、荊との交易を始めていたから、銭塘江の河口は関東部族の交易路の途上にあった故に、交易が成立していたが、当時は内陸だった太湖の近辺には関東部族が近寄る理由がなかったからだ。この頃の関東部族はシベリアから使い切れない程の獣骨を得ていたから、南下した関東部族の分派が、獣骨を入手ために狩猟系栽培民族を探す動機は失われ、稲作を含む稲作文化圏から、新しい交易材を探す状態だったと考えられるからだ。湖北省の稲作者はそれに該当するレベルが高い文化を形成していたが、馬家浜文化圏には目ぼしいものがなかったと推測される。

銭塘江台地では寒冷期だった縄文前期前半(7千~6千年前)に、河姆渡遺跡群や馬家浜文化などの原初的な稲作集落が生まれ、温暖期になった前期後半に出土品のレベルが著しく向上し、崧沢(すうたく)文化期になった。この時期には製塩業が始まっていたからそれによる蓄財が進み、豊かになった製塩者との交易を求め、台湾起源の海洋民族も寄港する様になったからだ。

縄文中期に文明の曙光とも言える良渚文化期になるが、彼らは依然としてドングリも食べていたと想定される。この時代の堅果類の栽培者の子孫の食生活としては、気候が類似している上にmt-B5+M7bが浸潤していた九州縄文人が比較の対象になるが、海産物に恵まれた九州縄文人の方が豊かだったと考えられる。しかしその様な九州縄文人でさえも、縄文後期まで多数のドングリピットを形成していたからだ。経済活動の成熟期の項でそれについて詳しく説明するが、簡単に言えば以下になる。

代表的な堅果類には冷温帯性のナラ類と暖温帯性のカシ類があり、縄文人が15千年前に日本列島に持ち込んだのは、冷温帯性のナラ類だったが、縄文前期の九州縄文人は暖温帯性のカシ類のドングリを食べていた事を、九州に多数遺されたドングリピットが示している。縄文前期の九州に暖温帯性の植生を持ち込んだのは、一旦関東に渡来したmt-B5+M7bだったが、その根拠については女性達の渡来後の動静を解説する、次節で説明する。

暖温帯性のドングリにも色々な種類があり、クヌギは生産性が高いがアクを抜く必要があり、イチイガシはアクを抜かなくても食べられるほどタンニンの含有量が少ない。九州に多数遺されたドングリピットの内容物は殆どがイチイガシだったから、縄文前期の九州縄文人はイチイガシしか食べなかった事を示しているが、同時代の河姆渡遺跡群から発掘されるドングリは、生産性は高いがアクを抜く必要があるドングリが主体だった。

暖流に洗われる九州は浙江省と同程度に温暖だから、植生の生産性は同じだったと考えられる。従って海洋漁民が食料の過半を賄っていた九州縄文人の食卓は、それを欠いていた浙江省の稲作民の食卓より、遥かに豊かだった事を、イチイガシしか食べなかった九州縄文人の嗜好が示している。

稲作が導入されるとドングリは救荒食や補助食料になったが、それはカロリーの過半をドングリに頼る事はが、健康上の理由で好ましくなかったからでもある。それ故に稲作の生産性が低い時期には、獣肉や魚肉も食べる必要が継続していた。ドングリの栽培者が穀類の栽培者に転換する必然性も、この事情から生まれたが、ドングリの栽培を必要としなくなる程度に稲作の生産性が高まったのは、鉄器時代になって稲作地を整備する事ができる様になってからだった。つまり水田を整備する事ができる様になった、弥生時代以降の事だったが、弥生温暖期にその様な状態になっても、気候が冷涼化した弥生時代末期には、再びドングリを必要とする時期があった。

縄文遺跡から頻繁にドングリピットが発掘されるのは、堅果類も生産性を高める品種改良が為された結果、ドングリが生産過剰気味になった事を示唆している。つまりドングリピットは救荒食の貯蔵庫だった事を示しているのであって、それを以て縄文人が常食していたと考える事は早計になる。

従って縄文前期以降の九州縄文人は、先ず海産物とコメを食べ、不足する分をドングリで賄ったが、そのドングリは生産性が高いクヌギではなく、アクは少ないが生産性は低いイチイガシでも、十分な量が得られたと解釈する必要がある。

縄文前期の九州縄文人のペアはmt-M7aではなく、mt-B5+M7bに浸潤されていたから、九州では暖温帯性の堅果類が栽培されていたと考えられ、これは浙江省の女性達と同じ組み合わせのミトコンドリア遺伝子だった。従って縄文前期の九州ではイチイガシのドングリを食べていたのに、浙江省ではアク抜きを必要とするドングリを食べていた事は、九州縄文人の方が豊かな食生活を享受していた事を示している。

中国人は中華文明の偉大さを強調したい衝動に駆られ、稲作文化の発掘に熱狂してドングリの重要性を無視するが、ジャバ二カを栽培していた浙江省では、縄文中期までドングリの栽培を止められなかっただけではなく、ドングリへの依存度は縄文人より高かったと推測されるので、その詳細をその2で検証する。

浙江省では縄文前期末から先進的な黒陶が発掘されるが、それは湖北省の荊が製作したものだったと想定される。既に指摘した様に、湖北省では独特の稲作技術を駆使し、栽培化の完成度が高い温帯ジャポニカを栽培していたが、縄文前期に古揚子江湾が消滅すると塩が入手できなくなったから、浙江省で生産した塩を湖北省に運び上げる必要があり、浙江省の製塩者はその代価として、コメだけではなく湖北省の特産品を色々受け取っていたから、その中に黒陶も含まれていたと考えられるからだ。つまり華麗な良渚文化を生み出した経済力は、製塩によって得られたものであって、コメは輸入に頼っていたと推測される。つまり貴族達はコメを食べていたかもしれないが、庶民の食生活にはドングリが組み込まれていたと考える必要がある。

揚子江を使ってその様な交易を仲介する事ができたのは、縄文前期には関東部族しかいなかった。沖縄産だったと考えられる宝貝が、仰韶文化圏から発掘された事が、その事情を示している。つまり関東部族と荊は、浙江省の塩を荊と取引する際に、その媒体として宝貝を使ったから、青海湖の塩を得ていた渭水流域の稲作者も、塩の取引の媒体として宝貝を使った事を示している。従って仰韶文化期の華麗な彩色土器も、荊が塩の代価としてY-Rに提供したものだったと考える事の合理性が高まる。

二つの文化圏の土器に類似性がないのは、荊が自分の文化圏の土器を出荷したのではなく、両文化圏の使用者が好む器形や彩色の土器を、商業的に生産していた事を示していると考える必要がある。この時代からロクロが使用されていたが、それは民生品を生産する為ではなく、高価な商品の生産の為に使っていたと考える必要があり、荊が土器を商品化したのは、土器は女性が作る生活必需品であると考えていた、堅果類の栽培者ではなかったからである事に気付く必要がある。つまり日本の土器の商品化が遅れたのは、土器は堅果類のアクを抜いていた女性の持ち物であり、男性達がその製作や使用に容喙すべきではないという認識が、縄文文化の中に色濃く滲んでいたからだ。

中華の陶磁器は世界的に著名だが、その文化の萌芽を此処に見る事もできるだろう。

 

1-1-9 オーストロネシア語族(南太平洋とインド洋の海洋民族)

氷期にヴェトナムの紅河流域で堅果類を栽培していたY-Omt-M7cペアの一部は、後氷期になって温暖化すると広東に北上したが、ヤンガードリアス期の寒冷化によって堅果類を失い、mt-M8aをペアにした漢族の祖先Y-O3mt-M10をペアにしたモンゴル人の祖先のY-O3を生み出したが、mt-Fをペアにした荊にはY-O3も含まれていたが、Y-O2が主体だった可能性が高い。ヤンガードリアス期まで紅河流域に留まっていた人々は、超温暖期になると少数のmt-B4が浸潤した状態で徐々に北上し、11千年前頃には台湾に北上していたと想定され、この集団にはY-O1Y-O3までの全ての遺伝子が含まれていたと想定されるが、ミトコンドリア遺伝子はmt-B4+M7cだけで、北上過程でmt-B4比率が徐々に高まったと推測される。

1万~9千年前にmt-B4が関東に大挙渡来した際に、mt-B4には10種以上の娘分岐が生れていたからで、堅果類の栽培者は移動が苦手だが、mt-B4には機動力があった事が、その背景にあったかもしれない。移動が早ければ台湾で優良な地域を先拠し、縄張りを宣言できたと考えられるからだ。

台湾は海面上昇によって1万年前に大陸から離れたが、既に超温暖期になって2千年経っていたから、台湾にも亜熱帯性の植物が拡散していただろう。mt-B4+M7cは亜熱帯性と暖温帯性の植生を栽培していたから、彼女達が台湾に持ち込んだ植生も色々あったと推測される。海面上昇によって1万年前に島になった台湾は、その後も島の面積が急速に縮小していったから、狩猟の縄張りが極めて窮屈な状態になる中で、緊張感が高まっていたと推測される。

台湾も8千年前に冷涼化したが、イネの原生種の北限にはならなかったので、mt-B4が持ち込んだイネの原生種が台湾内で雑草化し、mt-B5の様に本格的な稲作者になる事はできなかった。mt-B4が拡散した南太平洋の島々には稲作がない事が、その事情を示している。海洋民族になったmt-B4は、アメリカ大陸を含む世界各地から植生を集め、それをインドネシアやインド洋沿岸に配布したが、縄文時代はその様な行為が最も先進的な交易行為で、人々が交易者に求める物品でもあったから、時代の寵児になった事を自覚し、南太平洋とインド洋を股に掛ける大交易民族になったと想定される。

この海洋民族のY遺伝子にはY-O1Y-O3が含まれている事と、Y-F系の男性は血族集団を形成していた事から推測すると、海洋民族になる事に積極的だったのはmt-B4で、その動機付けをしたのは、各地の人々が有用な栽培種を求めていた事に応えるという、使命感だったと推測される。超温暖期に急激に温暖化すると、mt-B4の故郷だったヴェトナム南部の気候が中緯度地域まで拡大したが、それに相応しい栽培種を持っていたのはmt-B4だけだったからだ。次に温暖な気候地域にいたmt-M7cには海洋民族になる意思がなく、北陸部族のmt-M7aは冷温帯性の植生の栽培者だった。従って東南アジアの有用な植生を見つけ出し、それを各地に配布する事は、mt-B4が適任者だった事は間違いなく、その通りの事態が発生した事に、交易を求めていた古代人の、適正な常識の存在を感じる必要があるだろう。

彼らが海洋民族になった契機は、台湾の台地にいたY-Omt-B4+M7cペアが、1万年前に再び台湾に南下した関東部族の漁民と接触した事から始まった。彼らが関東部族から海洋漁労技術を習得して食料危機を脱すると、Y-O1mt-M7cペアが狩猟者になり、Y-O2O3mt-M7cペアが栽培系狩猟民族に留まる事により、疑似的な3民族の共生社会を形成し、独自の海洋民文化を形成したと想定される。

暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7Y-Oペアの中で、台湾のY-Omt-B4+M7cペアだけが海洋民族化し、大陸のY-Omt-B5+M7bは海洋漁民化しなかった最大の理由は、台湾は蛇紋岩の産地だったが、大陸では蛇紋岩が採取できなかったからだと考えられるが、海面上昇に伴って台湾が孤島化し、台湾の面積が急速に縮小して狩猟地が急速に狭くなっただけではなく、堅果類の樹林も水没して食料危機に見舞われたから、それによって高まった危機意識も、彼らの海洋漁民化への意欲を高めたからだと想定される。

1万年~9千年前に多数のmt-B4M7cが関東に流入し、縄文前期には関東部族の4 割が、mt-B4の子孫になったと推測される。

縄文前期~中期の関東部族の遺伝子分布を、現在も遺していると考えられる沖縄人の遺伝分布は、mt-N9bmt-Amt-B4247になっている。関東のmt-M7aは冷温帯性の堅果類は栽培できない沖縄には渡来しなかったとすると、この時期の関東のmt-M7a比率は分からないが、その他の関東部族の遺伝子分布は、沖縄人の上記の比に近いものだったと想定される。mt-N9bは時間の経過と共に比率が低下した遺伝子だから、当時のmt-N9b比率は現在の2倍だったとしても、mt-B47/15を占める最大遺伝子だった。関東のmt-M7aもドングリの消費量の現象に伴って、時間の経過と共に減少した遺伝子だから、仮に関東部族の30%程度を占めていたとしても、mt-B5はそれに匹敵する割合に上昇していた。実際にはmt-M7a比率はもっと低く、mt-B4は最多遺伝子になっていたと想定される。

現在の本土日本人のmt-N9bmt-A3割しかなく、沖縄人の半部になっているのは、mt-B4が浸潤した相手はmt-N9bで、mt-Aには浸潤しなかった事を示している。その理由は既に説明した様に、1万年前に台湾に渡航した関東部族の漁民は、ペアで航行していたから、その集団がmt-B4を取り込むとmt-N9bの割合がその分減少したからだと推測される。渡来したmt-B4が関東で稲作の生産性を高めると、mt-B4の浸潤力が高まったからでもあるが、mt-Aの技能は海洋漁民にとって必須のものになっていたからでもある。この事情は、海洋漁民がどの様な漁を盛んに行っていたのかを示唆している。獣骨を素材にして作られる漁具は銛と釣り針であるが、その他の代表的な漁具として漁網があり、こちらの製作にはmt-M7amt-N9bの方が適していた筈だから、海洋漁民が盛んに行っていた漁法は、大型魚を銛で仕留めるか、中・小型魚を釣り上げるもので、漁網はあまり使わなかった事を示唆している。魏志倭人伝も漁民の集落だった末盧国に関する説明で、「魚・あわびを捉えることを好み、水が深くても浅くても、皆水にもぐって之を取る。」と記しているから、上記の事情と一致している。

台湾に達した1万年前の関東部族の漁民がペアで航行していた事は、関東部族の指導の下で海洋民族化したmt-B4を含む海洋民族が、その後家族で航行する海洋民族になった事を、mt-B4が海洋民関の代表的な遺伝子になった事が示している。つまり台湾の民族が海洋文化を学んだ際に、関東部族の漁民がmt-N9bを帯同していたから、海洋文化を教えられたmt-B4も、夫婦一緒に海洋に出掛ける事を常とする、原日本人型の海洋民族になった事を、太平洋の島々に遺された純度が高いmt-B4遺伝子が示している。

これを関東部族の漁民の側から見ると、この時期の関東部族の漁民は、季節に応じて家族で遊動していた原日本人時代の海洋文化を、台湾に渡航した1万年年前になっても維持していたから、台湾の民族に造船、航海、漁労技術を教えると共に、その習俗文化も伝授した事を示している。

北方系の漁民がオホーツク海でmt-Aを取り込んでから2千年経ていたが、南下組のmt-N9bも北上組がmt-Aを取り込んだのと同じ感覚で、mt-B4の栽培文化を家族に欠けている文化要素として、積極的に取り込んだ事を示していると共に、関東の漁民は南方系と北方系に分かれていた事も示している。

台湾で海洋民族になったmt-B4はその様なmt-N9bから、海洋文化の中で女性が担う役割を学び、それを実践しながら大洋に拡散したが、海洋文化を教えた関東部族のmt-N9bはその後激減し、原日本人的な海洋文化は失われた。それに代わって登場したのは、海洋漁労や海洋交易は男性達が担い、女性達は陸上で漁具を生産したり栽培に従事したりする、新しい分業体制に基づく海洋民族の文化だった。

その様な文化体系に移行すると、陸上では稲作者になったmt-B4や骨を加工して漁具を作るmt-Aの活動が目立つ様になり、それと比較したmt-N9bの役割は、男性達と一緒に漁に出掛けるか、漁獲を干物にするだけになった。潜水漁法で魚や貝を捕獲する事は、男性並みこなしていたかもしれないが、関東部族が交易を重視する海洋民族に変質すると、自分や家族の食料を確保するだけの役割になり、交易活動から疎外され易い存在になった事が、mt-N9bの比率を徐々に低下させていく原因になったと想定される。交易活動が活性化すると各技能が高度化し、それによって異なった役割を分担し、相互に補完する方が生産性は高まる時代になり、それを皆が自覚する様になると、重要な役割から疎外されたmt-N9bは比率を低下せざるを得ない状態になったと推測される。これを現代風に言えば、女性達が続々と社会進出する中で、専業主婦になるべく育てられた女性の人気が低下し、人口比率を下げていったという様な状態だろうか。

mt-N9bの人生哲学では、一族や家族の繁栄を願う要素が強く、同類と群れて自分の居場所を求める意識が希薄だった事も、この様な状態に拍車をかけたと推測される。漁労は危険な海で行う作業だから致死率も高く、ペアで漁労を行っていたmt-N9bは漁民的な団結意識を共有していたから、それによって彼女達の意識は一族重視になり、或いは更に上位の集団の一員としての意識が強く、個人的な欲望の主張を潔良しとしない習俗も持っていたと推測される。

mt-Aの代表的な漁具は、大型魚を捕獲する為の優れた銛だった可能性が高いから、mt-Aが製作した漁具を使う事によって漁獲の生産性が高まると、漁民はmt-Aを取り込む事に更に積極的になると共に、男性達が集団で大型魚やイルカを追う漁労が重視されただろう。それによってmt-N9bも参加していた従来型の漁労が陳腐化し、mt-N9bの役割は低下していていたと想定される。

mt-B4を一族の構成員として取り込んだmt-N9bは、保存性が高い高級な食料を生産する稲作を重視しただけではなく、南方由来の蔬菜類によってビタミンの補給効果を高める事にも期待したと想定される。それによって貯蔵が可能な干物を多量に作って常食する事ができる様になったからだ。北方系の漁民が取り込んだmt-Aが漁労の生産性を高め、南方系の漁民が取り込んだmt-B4が漁獲の備蓄能力を高めると、農耕民族とは異なる食料の備蓄体制が生れたが、干した程度の漁獲には穀類ほどの保存性はないから、状態が改善されただけで、穀類を備蓄する農耕民族的な財産認識には至らなかったと想定されるが、それでも大きな意識革命ではあった。

稲作が盛んになった縄文後期以降の関東部族は、徐々に海洋民族的な文化を失ったから、古墳時代に海洋民族として最も活躍したのは、縄文中期まで穀物生産にも南方系のミトコンドリア遺伝子にも無縁だった、東北の部族だったからだ。

関東部族の漁民はmt-B4を取り込む事により、mt-N9b比率を極端に低下させたが、オーストロネシア語族がmt-B4を維持し続けたのは、mt-B4が最強の栽培者だったmt-R系譜の女性の中でも、際立って有能の女性達だったからだとも言える。つまり栽培系狩猟民族の系譜でもあるこの海洋民族には、他民族の栽培系の女性を取り込む必要はなかったからであって、原日本人的な習俗を守っていた結果ではなかった。

彼らにmt-Aに相当する遺伝子がない事は、南の海には大型魚を集団で捕獲する必要がない豊かさがあった事と同時に、陸上で生活する人々の分まで食料を賄うまで、漁労技能を高める必要がないかった事を示唆している。その様な身軽さが、広い大洋の島嶼に次々に拡散していく行動力を生み出したと考えられる。

彼らは磨製石斧さえあれば、船を作って漁労が可能になる状況を作り上げていた。フィリッピンにはマニラアサがり、これがシナノキを代用させるために彼らが開発した、繊維素材だったと考えられるからだ。中米のサイザルアサは中南米では原生種が見付かっていないから、彼らが何処かで開発し、この地域に持ち込んだ繊維素材である可能性が高い。

中小型魚を刺殺するだけであれば、竹を加工して銛先にする事も出来たから、彼らは必ずしも狩猟民族と共生する必要はなかった。しかし東南アジアの島嶼でY-C3が検出されれば、それは海洋民族に招かれて渡来した狩猟民族の遺伝子であると考えられる。

mt-B4はオーストロネシア語族海洋民の遺伝子である事を、篠田氏が以下の図で指摘している。

  図中の白色がmt-B  黒色がmt-A 中間色がその他 mt-B4mt-B5を区別していないが、南太平洋を経由して中南米に渡ったのはmt-B4

フィリッピンやインドネシアのオーストロネシア語族民は海洋民族の子孫だけではなく、彼らが移住させた栽培民族や狩猟民族の子孫も含んでいるから、海洋民族の遺伝子を確認するためには、南太平洋の島嶼部に拡散した人々の遺伝子に注目する必要がある。それが殆ど純粋なmt-B4である事は、海洋民族の女性は純粋なmt-B4だった事を示し、台湾にいたmt-B4+M7cの中で、海洋民族の航海者になったのはmt-B4だけだった事を示唆している。mt-B4の栽培思想に影響された要素が、多分に含まれていたと考えられる。

海洋民族のY遺伝子が確定できない事は、オーストロネシ語族民の海洋民族化を積極的に推進したのは、mt-B4の栽培思想だった可能性を高める。

オーストロネシア語族が太平洋の島々に拡散した後で、海洋民族としての活動が衰えると、それらの島が孤立して島民の言語が方言化した時期が、言語分析によって以下の様に推定されている。常識的に考えると、言語分析で分かるのは彼らが孤立した時期であって、到達時期は確定できない筈だが、オーストロネシア語族を貶めるプロパガンダの一環として、彼らの拡散時期が遅かったと誤解させるために、これを到達時期だと主張する解説が散見され、彼らが稚拙な航海術で冒険的に到達したから、孤立した島民になったと誤解させるプロパガンダも浸透している。しかし常識的に考えれば、次々に新しい島に渡航していた人々が、遭難した漂流者とその末裔だったとは考え難く、前方に拡散した人がいれば後方と連絡を取っていた人もいた筈であり、冒険的に前進だけをしていた筈はないからだ。中継地点で物資の補給を担務していた人々が、冒険者の何倍もいた筈だ。

ウィキペディアから転写  マイナス表示はBC年代を示す。

この図の注目点として第一に、彼らが台湾を起点として拡散した事が挙げられる。沖縄から南下した関東部族の漁民から、海洋技術を身に着けた事を示しているからだ。縄文前期(7000年~5500年前)の九州の土器が沖縄で発見されているから、縄文人はその頃には台湾にも達していたと想定され、上図と土器の発掘実績が整合する事は、この海洋民族が成立した時期の検証が重要な課題になる。

台湾は1万年前まで大陸と繋がっていたが、大陸には鉄器時代になっても海洋民族的な活動をする人々がいなかった事も、オーストロネシア語族の海洋技術のルーツは、原日本人だった事を確信させる。台湾が分離されるまでは、生業が同じだった福建省や浙江省の人々には、歴史時代になっても海洋性が皆無だった事になるから、それは確定的な証拠になる。

フィリッピンの言語が4000年前に方言化したのは、インド洋交易が盛んになるとインドネシアが拠点として相応しい島になり、海洋民族の中核地がフィリッピンからインドネシアに変わったからだが、その背後には複雑な経済事情が絡んでいたから、それについては順次説明し、経済活動の成熟期の項でも説明する。

石器時代の造船には磨製石斧が必要不可欠だが、その素材になる蛇紋岩は台湾にはあるが、大陸にはない事がその様な結果を生んだとも考えられる。この海洋民族が拡散したフィリッピン、インドネシア、フィジーまでは、環太平洋造山帯上の島嶼として、蛇紋岩が豊富に産出する事もそれを示している。上図ではフィジー以西が環太平洋造山帯の島になり、南米アンデス山脈もその一環になる。つまり南米に渡航した海洋民族は、造船基地を南米に設置するしかなかったが、彼らは根拠地を安全な島嶼に設定する習俗があったから、それを南米沿岸の島嶼に求めたが、南北アメリカの沿岸にはそれに相応しい島がない。結局ハワイとポリネシアが彼らの基地になったらしい事は、彼らの根拠地にはある程度の広さの陸地が必要だった事を示しているから、ハワイの海洋民族がメキシコ地域の文化圏と交易し、ポリネシアの海洋民族がアンデス山地の文化圏と交易していたのではなかろうか。

ハワイとメキシコ沿岸は5000㎞離れ、ポリネシア諸島とイースター島は3000㎞、イースター島とペルーは3800㎞離れているが、この程度の距離はインドネシアからペルシャ湾までの沿岸航行距離が1万㎞に及んでいる事と比較すると、彼らには航行可能な距離だったと推測されるからだ。関東から湖北省までの航行距離も、4000㎞以上ある。

フィジーがBC1500年に孤立し、島の言語が方言化した理由は、上記に至った歴史の流れから明らかになる。縄文中期までのオーストロネシア語族は利用可能な栽培種を世界各地で見付け、それを交易材にする事を主要な目的として、世界各地を広範囲に往来していたが、オリエントとインドの青銅器文化が進化してインド洋の沿海部に富裕者が増えると、インドネシアの海洋民族の関心が栽培種を拡散する交易から、商品価値が高い絹布や香辛料を生産して文明的な奢侈品と交換する、利益率の高い交易に切り替えたからだ。フィジーが孤立したBC1500年は、インド洋の沿海部や地中海東岸の経済が最も活性化していた、縄文後期温暖期の終末期だった。

縄文後期温暖期は4500年前に始まり、海退による沖積平野の拡大が始まった時期でもあったから、農地の拡大と穀類の生産性向上が世界規模で起り、農業地帯になった地域の経済が極度に活性化した。インカ文明やマヤ文明の進化はインド洋沿海部より遅れていたから、先進的なオリエントやインドと交易したかったインドネシアの海洋民族は、アメリカ大陸との交易に興味が薄れ、アメリカへの渡航経路だった南太平洋の島々との関係が薄れていったと考えられる。台湾起源の海洋民族集団はそれによってアメリカ派とインド洋派に分裂し、東西の海洋民族の接点だったフィジーがインドネシアと疎遠になったのが、BC1500年だったと推測される。

フィジーがその様な状態になると、アメリカ派の海洋民族にも渡航価値がなくなり、フィジーの言語が孤立した後、アメリカの地域文化がメキシコとベルーでそれぞれ独立して進化すると、ハワイとポリネシアもそれぞれとの関係を深める中で疎遠になり、AD500年にはハワイとポリネシアの相互往来も少なくなっていた事を示している。

この海洋民族は余りにも広い海域に拡散したから、交易活動が組織されると東西に分裂する宿命にあった。縄文後期からインド洋交易に集中した西の民族は、インドネシアを拠点にしていたから、アメリ交易を重視した東の民族がフィジーを西限として、徐々に南米に集約していった事は、地理的な必然性を示している。南米の古代文化に青銅器が含まれていない事は、ユーラシアに青銅器文化が拡散した縄文後期以前に、彼らの東西分離が発生した事を示しているが、それは正にインド洋交易が活性化した時期でもあった。つまり縄文中期までの海洋民族は、小さな集団単位で恣意的な交易を行っていたから、東西の文化交流が自然発生していたが、インド洋交易が組織的に行われる様になると、この交易者達もインド洋沿岸の青銅器文化圏の人々になったが、この交易者達は組織化されていた為に、フィジーに出向く事はなかったから、東の海洋民族には青銅器文化も鉄器文化も伝搬しなかったと想定される。

 

台湾に海洋民族が生れた時期

この海洋民族には民族名がないが、縄文時代の東アジアの海洋民族は、原日本人起源の海洋民族と台湾起源の海洋民族だけだったので、原日本人起源の海洋民族は部族名で記し、台湾起源の海洋民族は単に「海洋民族」と記し、必要に応じて拠点地域を限定する。

彼らが海洋民族になったのは縄文早期だった事を、関東から出土した遺物が示している。

千葉県市川市の雷下遺跡で、縄文早期(7500年前)の丸木船と櫂が発掘され、丸木船はムクノキを刳り貫いたものだった。現在のムクノキの生息地は、関東以西の本州から、四国、九州、沖縄、台湾、フィリッピン、ヴェトナムで、暖温帯性~亜熱帯性の樹種だから、15千年前に縄文人が日本列島に持ち込んだ冷温帯性の樹種ではなく、縄文早期に台湾かフィリッピンから持ち込んだ樹種であると考えられる。ムクノキ属まで検索範囲を広げると、マダガスカル、東南アジア、メキシコ、オーストラリアに分布し、海洋民族の活動域と重なる。植物学的な原産地はフィリッピンだった可能性が高いから、堅果類を栽培していたオーストロネシア語族民が、台湾で関東部族の漁民に出逢った事から始まり、彼らが関東部族から海洋技術を学んで台湾周辺の海洋漁民になり、やがて遠洋航海に乗り出してフィリッピンに到達し、海洋船の船底材に相応しいムクノキを見付けて先ず彼らが使い、それを見た海洋縄文人が関東に植樹すると、それが巨木に育って丸木船に加工したと考えられるから、それまでに掛った時間を考えれば、海洋民族が生れたのは8千年前より古い時代だった事は間違いない。

その時期のもう少し厳密な特定は、海洋縄文人と当時の台湾の栽培民族が出会った場面の想定から、割り出す事ができる。彼らが海洋民族になる為には、台湾に南下した関東部族の漁民と遭遇した場所があったから、それを特定する事と、彼らが操船技能や漁労技能を高めるためには、波が穏やかな練習の場が必要だったから、それを特定する事ができるからだ。

海面上昇によって大陸から切り離された1万年前の台湾では、新竹から高尾に至る現在の平野部は全て水没し、山麓の裾部には殆ど平坦地がなく、波が山裾の岸壁を洗う状況だった。この様な台湾島に、Y-Omt-M7cペアが父祖から継承した堅果類の樹林があったが、海岸に近い平坦部にあった樹林は海面上昇によって次々に水没したから、山地の裾の緩斜面に樹林を移動せざるを得ない状況になり、mt-B4の稲作地になる平坦地も次々に水没していった。

しかし台湾の北西端にある桃園市域の扇状地だけは、ある程度の広さの準平坦地として残っていた。この扇状地は、武蔵野台地や多摩丘陵の様な隆起性の扇状地で、堅果類の樹林を形成したり稲作を行ったりするのに相応しい地域だった。現在の地形から推測すると、多摩丘陵の様な起伏に富んだ丘陵地ではなく、武蔵野台地の様に谷間の形成が不完全な平坦な地形で、各所に小さな人工池が散在しているから、mt-B4にはイネの原生種の栽培地だけではなく、亜熱帯性の植生の栽培地も提供していたと推測される。

縄文草創期や早期の縄文人は、海面上昇への恐怖感から台地上に集落を形成したが、この扇状地は武蔵野の何倍もの速度で隆起し、1万年前には標高100m以上の台地になっていたから、この台地の堅果類の栽培者はあまりその恐怖を感じることなく、扇状地に集落を形成していたと想定される。当時の台湾には、平坦な地形は此処しかなかったから、堅果類の栽培者は島の全域に拡散していたかもしれないが、mt-B4は此処に集住していたと考えられる。

海流が温暖化して温暖化が進展しても、台湾に閉じ込められたY-Omt-B4+M7cペアには北上する選択肢はなかったから、温暖になり過ぎて亜熱帯性の雑草が蔓延する様になると、mt-M7cが持っていた暖温帯性の植生は生産性が低下し、その一方でmt-B4が保持していた亜熱帯性の植生は生産性が高まっていたから、この扇状地ではmt-B4mt-M7cへの浸潤が進展していた可能性が高い。氷期のヴェトナム南部で両者の栽培文化圏を区切っていた気候境界は、1万年前には日本の関東以北に北上してしまっていたからだ。

台湾全体がこの様な状態になると、mt-M7cは亜熱帯性の気候から逃れるために、山岳地に登る様になったと推測される。Y-O1がそれに付き合ったから、現在の台湾の山岳地でY-O1が山岳民族を形成し、後世に栽培系のミトコンドリア遺伝子に浸潤されたから、現在はmt-Bmt-Fmt-Dの順に最多遺伝子を形成していると想定される。堅果類の栽培者もmt-M7cよりmt-M7bの方が多いが、それはその様な状態になる歴史的な経緯を経たからで、その経緯についてはその2で説明する。

1万年前のY-O1mt-M7cペアがその様な状態になっていた結果として、台湾が海洋民族の島になると、Y-O1は海洋漁民に獣骨を供給する役割を担ったと想定され、その証拠として韓国人に、Y-O13%)とmt-M7c3%)が含まれている事が挙げられる。これは弥生時代末期に、朝鮮半島南部に移住した越系の製鉄集団が、Y-O1mt-M7c比率が高い集団だったからであると考えられるからだ。

具体的に言えば、製鉄に必要な鉱石を山間地で探し、製鉄に必要な多量の木材を山間から調達する作業は、栽培民族より狩猟民族の方が達者だったし、海洋民族が関東部族を介して縄張り文化も移入していた場合には、製鉄業には狩猟者しか従事できなかったから、フリッピンやインドネシアに拡散した海洋民族と共に、それらの島に移住したY-O1は、獣骨需要がなくなった鉄器時代に製鉄民族化したと考えられるからだ。

シベリアや西ユーラシアの狩猟民族は、鉄器時代になって獣骨の需要が失われると滅んでしまったが、東南アジアの狩猟民族が転身に成功したのは、海洋民族と彼らの連携状態が異なったからだと推測される。内陸の狩猟民族には獣骨しか商品がなかった上に、彼らは海洋漁民とは別の民族だったが、南の島嶼の民族には海洋民族と提携して生業を拡張する余地があり、漁民と狩猟民族は出自が同じ共生民族だったからだ。例えばインド洋交易では亀甲が重視され、ベッコウの原料であるタイマイには高い価値があったが、それを採取していたのは狩猟民族だった可能性が高い。また伽羅(きゃら)などの香木も、主要な産地はインドネシアとインドシナ半島で、これらの樹木は山間の奥深い樹林で採取されたから、Y-O1狩猟民族が開発した商品だった可能性が高い。

1万年前の台湾の話に戻ると、暖温帯性の堅果類の最大の栽培者だった、ヴェトナム北部起源のmt-M7cの人口規模は、依然として暖温帯性の堅果類の栽培者の中で、最大規模を誇る状態だったと推測され、少数遺伝子だったmt-B4が桃園の扇状地に拡散すると、この地域では急速にmt-M7cに置き換わっていたと想定される。

これはmt-B5にも言える事だが、その場合のこれらの民族の細胞核の遺伝子は、堅果類を栽培していたヴェトナム時代のものと、殆ど変わらなかったが、mt-B4のミトコンドリア遺伝子と栽培技術だけが、この民族に拡散し、mt-B4が持っていた栽培思想も、母から娘に確実に伝えられたと考える必要がある。上図に示す様に海洋民族になったのはmt-B4だけだが、製鉄民族などになった内陸民族の事情を、韓国のY-O1mt-M7cが示しているとすれば、mt-M7cは海洋に乗り出す思想は持っていなかったが、内陸で商品を生産する事に相応しい思想を持っていた事になる。縄文時代の導入項にも示したが、海洋民族は海洋漁民だけで成立していたのではなく、この様な内陸民族の活動によって支えられていたと考える必要がある。従って南太平洋にmt-B4しかいない事は、東の海洋民族はこの様な商品開発を必要とする時代になる以前に、東の海洋民族として分離した事になり、インド洋交易が盛んになった縄文後期以前に、彼らが東西分裂した事を示している。

以上を前提に、関東部族と海洋民族の祖先との出会いを検証する。

1万年前の台湾には山岳地や丘陵地しかなく、堅果類の栽培者も比較的なだらかな丘陵地を求めていたとすると、堅果類の栽培者も桃園県とその南の新竹県や苗栗県に広がる丘陵地に集住し、東海岸で石器の石材を採取し、東海岸の花蓮で蛇紋岩を採取していたと想定される。丘陵地は西海岸に、硬い岩石や蛇紋岩は東海岸にあるからだ。

桃園の扇状地の広さは20㎞四方しかなく、武蔵野台地の半分以下だから、彼らの食料事情は極めて窮屈な状態だった。桃園の扇状地の東に現在の台北市と新北市があり、それらの市街地を形成している平野部は、氷期には沖積土が基隆河と新店渓に削平され、標高が低い平地なっていた。従って1万年前には海水が侵入し、内湾になっていたと推測されるので、この内湾を古台北湾と呼ぶ。

台北市と新北市の市街地を貫流している淡水河の支流には、基隆河、新店渓、桃園県から流れ込んでいる大漢渓があり、大漢渓は13万年の前回の間氷期には、桃園の扇状地を形成した河だったが、前回の間氷期に急速に扇状地が形成され、扇状地上部の標高が高まると流れが扇状地側部の丘陵地を超え、丘陵地を浸食して古台北湾に流れ込む現在の河道に変わった。つまり銭塘江台地と同じ状況が発生したから、この扇状地は氷期初頭の豪雨期に浸食を免れ、桃園県に台地を残した。

当時の扇状地の標高は、現在の海面より数10m高かった当時の海面に見合ったもので、50m以下だった。その頂部は大漢渓によって削平されたが、残った扇状地である現在の桃園市の標高は、高い場所で160mほどある。つまり最終氷期と今次の間氷期を合わせた13万年間に、この地域は100m程度隆起した事になるが、隆起が原因で同時期に形成された武蔵野台地上の、立川の標高は90m程度だから、13万年間に50m程度だったと推測される武蔵野台地の隆起と比較し、桃園扇状地の隆起の大きさが目立つ。

台湾島が激しく隆起しているのは、ユーラシアプレートにフィリッピンプレートが衝突している接点に、台湾があるからだ。台湾の東側ではフィリッピンプレートが海底に潜り、それによって押し上げられた岩塊で東の山脈が構成されている。これは日本列島に類似した構造だから、花蓮などで蛇紋岩が採取できるが、西側は海底にあったユーラシアプレートが褶曲して生まれた山塊で、海底の堆積土が堆積岩になる前に隆起した為に、脆い岩塊で構成されている。そためにさほど大河でもない大漢渓が、広大な桃園扇状地を形成し、過剰な沖積土の堆積によって流路を変え、古台北湾に流れ込む様になったと考えられる。

新竹県や苗栗県に広がる丘陵地も、その様な浸食されやすい岩石帯だから、東の急峻な山脈とは異なる地形として形成された。

大漢渓は後氷期になって水量が増大すると、脆い山塊を削った土砂だけではなく、扇状地を削った膨大な量の土砂も古台北湾に流し込んだが、海面が上昇していた時期には、古台北湾に広い沖積平野は形成されなかったと想定される。しかし8千年前に海面上昇が停止し、太平洋が湿潤化して豪雨期になると、古台北湾は短期間で消滅したと考えられる。

台湾に進出して獣骨を集めようとした関東部族には、シベリアのトルコ系漁民やツングースの様な仲介者はいなかったから、漁民が直接集落に出向く必要があった。従って桃園県から苗栗県に広がる扇状地や丘陵地に集住していた、堅果類の栽培者との直接的で効率が悪い交易を行う為には、船が停泊できる拠点を設定する必要があった。淡水河によって埋め立てられる前の古台北湾は、桃園県から苗栗県に広がる丘陵地に出向く為の格好の湊を提供したと考えられるが、桃園扇状地の奥深い場所にあった集落に出向いて獣骨と弓矢を交換する為には、大漢渓を遡上して交易を行ったと想定される。

淡水河によって埋め立てられる前の古台北湾は、狭い出入り口を持つ袋状の湾だったから、海が荒れた場合の退避場所として最適だっただけではなく、最も人口密度が高かったと推測される桃園扇状地は、海岸が単調で隆起した扇状地の端が崖を形成していたから、交易を行う場所も海が荒れた際に避難する場所もなかったからだ。新竹県と苗栗県には小さな入り江があったから、それを利用する事も出来たが、台湾に南下すると真っ先に到着する島の北端にあるから、拠点にするには最適な場所だった。

古台北湾には大漢渓がデルタを形成していたから、桃園扇状地のY-Omt-B4+M7cも干潟で貝を拾ったり魚を捉えたりして、不足する食料を補っていたと想定され、獣骨交易だけではなく、漁労に関する情報も交換しながら、両者が接触できる場所だった。従ってその様な接触を機縁に、海洋文化を伝達するのに相応しい場所であり、あまり広くなかった古台北湾は波が穏やかで、初心者が海洋漁労を試す事ができる海だったから、それを機縁に古台北湾の周囲に、多数の集落が生れたと想定される。

古台北湾は外洋との出入り口が狭かったから、浜名湖の様に海水と淡水が入り混じる、豊かな漁獲が見込める湖だったかもしれない。豊かな海産資源と流れ込む川が形成する川洲が、多くのY-Omt-B4ペアを海岸に引き付けると、関東部族が寄港する度に漁獲方法や船の作り方を聞き、新しい漁法を獲得しながら生産性を高めていったと想定できる地形環境は、この時期の台湾には古台北湾しかなかった。

関東部族が南下した主要目的は、狩猟民族から獣骨を調達する為だったと考えられるから、関東部族が台湾に到着したのは、シベリアでの交易が未だ軌道に乗っていなかった、11千年~1万年前だったと想定される。その上限が超温暖期になってから千年後の、11千年前になるのは、関東の樹林が温暖化によって巨木が育つ様になり、航行能力の高い船を作る事ができる様になった時期になるからであり、ヤンガードリアス期の痛手から回復した九州縄文人が、多量のアサや矢竹を供給し始め、弓矢を交易材とする獣骨交易が可能になった時期になるからだ。

その下限が1万年前になるのは、それ以降はシベリアから獣骨を多量に入手する目途が付き、獣骨の入手を目的とした南下目的では、南下意欲が委縮し始めたと考えられるからだ。従って遅くとも1万年前に台湾に到着していなければ、多数のY-Omt-B4ペアを、海洋民族化する事はできなかったと考えられるからだが、以下のシナリオが成立しない事も重要な判断基準になる。

関東部族には北上派と南下派あり、両者共も獣骨の不足に悩み、日本列島産だけでは需要が満たせない状態だった。11千年前までは北上派がもたらすシベリア産の獣骨しか海外産はなかったから、南下組は沖縄に南下して沖縄の縄文人から入手し始めたが、沖縄産の獣骨は量が少なく、縄文人との人間関係の調整に手間取ったから、更に南下して台湾での獣骨交易に活路を求めていたと推測される。

しかし1万年前以降はシベリア産の獣骨が豊富に出回る様になり、獣骨の価値が下がったから、トカラ海峡を横断する無理な南下によって得る獣骨は、その価値に対抗する事が出来なくなったと想定される。

南下組も北方組もそれぞれ自分達が使う獣骨を入手し、それぞれの漁労に使っていたのであれば、価値の上下は問題にならなかったが、獣骨を得るために生産していた弓矢は縄文人と狩猟民族が生産していたし、交易が活性化するとその他の物品も彼らと交換し、それをシベリアや台湾に持ち込む必要があった。その2で検証するが、海洋漁民が船を作る為の必須素材だったシナノキの樹皮も、超温暖期になると縄文人が生産する様になった可能性が高く、それらも海産物と交換する必要があったから、南下組も北方組も独立した経済財基盤を持っていたのではなく、両者は関東部族の経済圏の中で活動する、経済的に独立した企業集団だった。この2派の分立は鉄器時代になるまで続き、両者を統合して天皇制が生れたと考えられるので、それについては経済活動の成熟期の項で検証する。

1万年前にシベリア交易の大転換が始まり、使い切れない程の獣骨がもたらされたので、南下組は台湾の堅果類栽培者と、弓矢と獣骨を交換する交易から手を引かざるを得なくなったから、その代わりに台湾からmt-B4を招き、コメの原生種を栽培して関東部族内に供出する経済活動に転換し、縄文人にもコメの生産を奨励したと考えられるからだ。この時期の関東の穀類性の食料としては、ドングリしか選択肢がなかったが、同じ堅果類の栽培者だった台湾の住民が、コメを重視している状況を見ていたし、自身もコメを食べると、堅果類を食べる気がしなくなる魅力的な食料だったから、コメを商品にして獣骨を入手する方針に転換し、その経済力によって多数のmt-Aも獲得できたと考えられる。

縄文前期~中期の南方派の関東部族の、遺伝子分布を保存している沖縄人に含まれている多数のmt-Aが、その事実を示している。また尾瀬の花粉は、9千年前の関東が亜熱帯性の気候になり、8500年前を限度に、イネの原生種の栽培が可能だった事を示している。尾瀬の花粉は9200年前以降の気候しか示していないが、黒潮が急速に昇温していた時期で、10600年前~10200年前が温暖期だったから、10600年前以降はmt-B4の渡来が可能な気候だったと推測される。

つまり1万年~9千年前には、関東部族の南下組はこの様に方針転換し、桃園扇状地にいたmt-B4M7cに大募集を掛けたから、多数のmt-B4がこの時期に関東に渡来したと考えられる。

経済活動の成熟期の項で、mt-B4の下位遺伝子の分布を検証するが、日本人には殆ど全ての下位遺伝子が含まれているから、この時期に多数のmt-B4が渡来した事は間違いなく、mt-B4の現在の総合的な下位分布は、関東への渡来者が台湾を遥かに凌ぐ状態になった様な状態を示している。堅果類の栽培者は台湾が狭くなる事に恐怖を感じ始めていたし、mt-B4の栽培地は、標高が高くなり過ぎて水流が乏しくなっていた扇状台地上には乏しく、水流があった大漢渓流域の低湿地は、極めて限定的な面積しかなかったから、mt-B4には新しい稲作地を求める動機があったから、それがこの時代の出来事だった様に見えるが、異なった見方もできる。

mt-B4の下位分類には11種あり、いずれにも分類できないものも含めて12種が認知されているが、その中で日本、中国、東南アジア、南太平洋の島々の全て発見されている大きな種が二つあり、mt-B4amt-B4bとして記号化されている。つまり海洋民族にも多数のmt-B4が参加したが、新しい生活様式を身に着ける事は、過酷な状況でもあったから、文化的な淘汰が発生して弱いボトルネック効果があった事を示唆している。この海洋民族には独自の海洋文化があったから、その形成にmt-B4が主体的に関わっていた可能性が高く、その文化が母から娘に伝搬される際に、栽培民族や狩猟民族で起きた出来事が此処でも発生し、遺伝子の純化が進行した可能性もある。

南太平洋の島々にはmt-B4amt-B4bが拡散したが、アメリカ大陸に上陸してY-Qに浸潤したのはmt-B4b2だけで、mt-B4b2は島嶼には残っていない。またmt-B4b1は島嶼の遺伝子で、アメリカ大陸にはいない。この事はmt-B4amt-B4bが、異なる海洋文化を持っていた事を示唆している。

この状態を共生文化論から解釈すると、海洋を航行していたのはmt-B4aだったから、mt-B4aが南米のY-Qに浸潤する事はなかったが、mt-B4bは栽培者だったから、南米のY-Qに浸潤したと推測される。海面が上昇した直後の島嶼は岩石に覆われ、栽培地と言えるような場所に乏しかったから、同行していたmt-B4b2は困難な栽培活動を強いられていたが、南米には栽培に相応しい豊かな環境が各地にあったから、mt-B4b2は次々に南米のY-Qに浸潤し、人口を増やしたと想定される。

海面上昇が終了して数千年経つと、南太平洋の島々にも沖積地が生れたから、それに応じて海洋民族が、栽培者をフィリッピンやインドネシアから新たに募集すると、それがmt-B4b1だったと推測される。海洋交易が盛んだった時代には、島嶼に少数のmt-B4b2も残っていたかもしれないが、島嶼の人々が各々の島に孤立し、人口規模が一定状態を維持する時代が長く続くと、その結果として少数遺伝子が消滅し、多数遺伝子だけになる事は遺伝子分布の一般的な法則になる。

アメリカ大陸にmt-B4b2が多数いる事情を、アラスカ回りでアメリカに拡散した遺伝子であると強弁する人がいるが、上記を読めば無理筋である事が理解できるから、プロパガンダとして無視する必要がある。

関東部族がmt-B4を台湾から招いた事情として、上記の仮説は外せないが、関東部族の南下派はその後浙江省に到達し、浙江省でもmt-B5+M7bに大募集を掛けた事が、九州がmt-B5+M7bの集積地になった事に繋がるから、この観点でも上記の仮説は外せない。

つまり9千~8千年前の南方系の関東部族は、関東には稲作可能地は十分にあるが、稲作者の数が足りないと考えていた事を示している。また北方系の関東部族のコメに対する需要が強く、生産を増強しても需要を満たしていないと考えていた事にもなる。彼女達が渡来し始めたのは、8500年前に関東の気候が急速に冷涼化し、暖温帯性の気候地域になった頃だったと推測される。それによってmt-B4の生産性が劣化したから、それに危機感を持った南方系の関東部族が、新たな稲作者としてmt-B5+M7bを募集したと考えられるからだ。浙江省のこの時期の気候変動の時期は、関東とは異なっていたと想定されるが、沿海部である関東が85008000年前に急速に冷涼化したから、沿海部だった浙江省も亜熱帯地域が湿潤化した8000年を待たずに湿潤化し、気候の冷涼化が始まったと考えられる。気候の冷涼化によって稲作の生産性が極度に低下する以前に、海面上昇によって稲作地が水没し、苦境に陥ったmt-B5も多数発生していただろう。漁獲の豊かさに釣られて関東に移住し始め、やがて気候の冷涼化による生産性の低下が発生すると、それによって苦境になったmt-B5も関東に続々移住したと推測されるが、既に気候の冷涼化が進んでしまっていた関東で、原生種に近い種を栽培する事に無理があっただけではなく、既に栽培化を開始していたmt-B4に、対抗できる生産性を得る事は到底出来ず、浙江省と気候が類似した九州に移住した。mt-B5+M7bが九州に移住し、九州縄文人のmt-M7aに浸潤した証拠については、その2で検証する。

 

台湾から南太平洋に拡散したオーストロネシア語族の海洋民族

台湾起源の海洋民族が生れた時期を、古台北湾の事情から検証する。

現在の淡水河の河口は海に向かってラッパ型に開いているから、海洋の波を奥深くまで引き込む形状になっている。従って海面が上昇して湾が殆ど消滅した8千年前には、海洋漁民が活動する場所ではなくなり、関東部族は古台北湾に寄港しなくなり、台湾起源の海洋民族も、殆どがこの地を去っていたと推測される。それ以前に海洋民族化していたと想定すると、関東で発掘された最古の丸木船が、7500年前のムクノキで作られていた事と整合する。

外洋に進出したY-Omt-B4ペアは先ず台湾の沿岸に拡散し、やがて台湾の南端から150㎞以上離れたフィリッピンのイトバヤット島に達し、バタン諸島を南下するとサブタン島に達し、そこから80㎞南下するとハブヤン諸島のバブヤン島に至る。従ってイトバヤット島に達しさえすれば、後は目視航行で島伝いにフィリッピンに渡る事ができるが、台湾の南端からイトバヤット島までは島影を見ない航行が必要になり、天文学的な知識によって船の位置や進路を認識する必要があった。関東部族から造船と操船の技能を学ぶのには、それほどの時間は掛からかなかったかもしれないが、この様な航行技能を習得するまでには、海洋漁民化しても時間が掛かっただろう。一旦航路が確定すれば、其の航行に必要な知識は限定的だが、未知の航路を開拓する為には、その何倍もの知識が必要になるからだ。関東部族の中でも高度な技能の保有者は極めて限られ、千島列島を北上する航路を開拓した北方系の人々が、その様な技能を発展させていたからだ。

台湾起源の海洋民族はその様な高度な技能を得てフィリッピンに移住し、既に説明した手順でフリッピン原産のムクノキが日本に移植され、それが7500年前には船底材として使えるまでに成長した事と、上記の関東部族の交易事情は、時系列的に整合する。彼らがフィリッピンに渡航するまでの期間が、あまり長くなかったと想定される事は、フィリッピンは既に関東部族によって発見され、最初の遠距離航行は関東部族の指導の下に行われた事を示唆している。台湾に達した関東部族は次に大陸への渡航を目指したと考えたくなるが、台湾西部には高山がないから、台湾から未知の大陸を発見する行為と、高山がある台湾南部からイトバヤット島を発見する行為に、大きな差はなかった。

海洋民族が成立した時期を別の観点から推測すると、古台北湾の東は山岳地で、その反対側の海岸に現在の基隆港があり、基隆は島に囲まれて防波効果が期待できるから、海洋漁民に良好な湊を提供したが、基隆の周辺に良好な湊になる地形が生まれたのは、海進がかなり進んだ9000年前頃だったと想定される。従って9千年前以降の関東部族にとって、古台北湾は退避湊としての価値が下がり、関東部族の船溜まりは基隆に代わったと推測される。但し基隆は海洋民族の船溜まりとしては適地だったが、稚拙な技術しか持たない海洋漁民に波が穏やかな広い漁場を提供する場ではないから、この地域が海洋漁民を育てた海域だったとは考えにくい。

従って台湾起源の海洋民族の祖先が、関東部族の漁民が荒天を避ける湊として古台北湾に寄港した際に、それを好機として造船、操船、漁労技術を獲得できたのは、基隆に海水が侵入した9000年前より古い時代だったと推測される。

また別の経済原則から検証すると、台湾には蛇紋岩と巨木は十分にあったが、彼らがマニラアサを見付けるまでは、船に必要不可欠な素材であるアサがなかった。従って彼らが海洋民族化するためには、関東部族からシナノキの樹皮を融通して貰う必要があった。その代価として台湾から出荷された物品は、初期には獣骨だったかもしれないが、彼らが海洋漁民化すると獣骨の消費者になったから、関東部族に彼らを海洋漁民化する動機が生れたのは、シベリアから獣骨が多量に入荷された1万年前以降だったと考えられる。

それによって堅果類の栽培者が獣骨を交易品にしなくなっても、関東部族がシナノキの樹皮を提供し続けなければ、彼らはフィリッピンに渡航できなかっただけではなく、台湾の漁民になる事もできなかっただろう。しかしmt-B4が稲作者として関東に渡来するのであれば、その支度金として関東産の物品を渡す事に、関東の漁民は糸目を付けなかったから、台湾発祥の海洋民族が生れたと考えざるを得ないから、関東部族のシベリア交易の立ち上がりと、台湾から多数のmt-B4が渡来した経緯はリンクしていたと考える必要がある。

また関東部族としては、台湾の南方にフィリッピンがあり、更に南方に大きな島がある事が分かったが、それらの島の島民を探し出し、その人々と交易を行う事は、彼らの航行能力では難しかったから、台湾の海洋漁民にそれを代行して貰う意識があった可能性も高い。ツングースがトルコ系漁民と提携し、高度な交易活動に邁進している事は、南方系の関東部族も知っていたから、南方にもトルコ系漁民の様な人々を育成する事は、関東部族全体のコンセンサスだった可能性は高い。

海洋民族の活動がその様に動機付けされていたのであれば、彼らが南太平洋の島々に急速に拡散した理由の一端を提供する事になる。シベリアのY-C3 Y-C1の縄張りに至ってトルコ系民族の拡散を止めたが、海洋民族にはその様な限界はなかったからだ。

mt-B4の日本への流入は1万~9千年前頃をピークとし、彼らが海洋民族化しても関東部族との交流は継続し、むしろ拡大していったが、海産物によって食料事情が安定したmt-B4+M7cが、更に関東に流入する事はなくなったと推測される。台湾は山岳地が多く丘陵地さえも少ないが、フィリッピンには標高が低い丘陵地が多いから、多数のmt-B4M7cがフィリッピンに入植したと想定されるからだ。

この仮説はオーストロネシア語族の南太平洋への拡散や、mt-B4b1のアメリカ大陸への進出事情と整合し、アメリカ原産と考えられる綿花が、縄文後期にインダス文明域で栽培され、魏志倭人伝に、「倭人の男は皆かぶりものを用いず、木綿ではちまきをしている。」と記されているが、古墳時代の中華の史書に、「インドネシアは綿花(吉貝)の産地である」と記され、中華の人々は綿花を知らなかったから、梁書がそれを解説している事とも整合する。

更に言えばマヤ文明やインカ文明の地は、mt-B4が集積している地域である事とも整合する。つまりトウモロコシはmt-B4が栽培化した可能性が高く、栽培化に必要な時間を考慮すると、mt-B4は遅くとも6千年前にはアメリカに上陸していた事になり、それとも整合する。

トウモロコシの栽培化過程が議論されているが、この海洋民族が中南米の太平洋沿岸を南北移動しながら栽培化したとすると、原生種の花粉の汚染がない場所を沿岸の各所に探しただろうから、それを追跡する事は難しい。野生種と原生種は区別できないから、原生地は栽培化した当事者しか分からない。

台湾発祥の海洋民族は大発展を成し遂げたが、彼らに海洋文化を伝達した関東部族は日本列島に留まり、他の島に入植する意思は持っていなかったから、その違いが生まれた理由を検証する。

関東部族は縄文前期~中期に、大陸から招いた女性の子孫を同伴して沖縄に入植したが、それ以外の島には男性達だけであっても入植しなかったから、Y-D2は日本人独特の遺伝子に留まっている。一方オーストロネシア語族の人々は、南太平洋の島々やマダガスカルに次々に入植したから、無人島への入植に関しては関東部族と考えが違っていた。

シベリアの狩猟民族から学んだ原日本人の部族文化が、他民族の地に入植する事を自重させていた事は間違いなく、海洋民族にはその様な文化意識がなかった事が、その第一の理由として挙げられる。また狭くなった台湾から脱出したオーストロネシア語族民と、集住して海洋文化を高めていた日本列島の漁民の間に、海洋民族の在り方に関する意識の違いがあった事も挙げられる。関東部族の漁民は原日本人時代から4万年間、東京湾を中心に集住し、人口の集中よる海洋文化の発展を意識しながら、営々と海洋文化を高めてきたが、台湾で生まれた海洋民族の海洋文化は、他の民族から与えられたものだったから、その更なる進化に営々と取り組むより、学んだ成果を最大限発揮してみたかったと推測される。

オーストロネシア語族民は、海洋文化をパッケージとして関東部族から受け取り、家族で航行する習俗を身に着けたが、そのmt-B4mt-N9bより過激な海洋民族の女性になり、夫婦が連れだって島影を見ない海洋を何日も航行する事も恐れなかった。関東部族や北陸部族が決して入植しなかった、南太平洋の多数の無人島に、mt-B4比率が極めて高い状態で次々と定着していった事が、その事情を示している。

台湾起源の海洋民族も、大陸民族が先住する地域には入植せず、無人の孤島に入植した事は、原日本人の海洋文化を継承していたとも言えるが、現実問題として大陸は危険な場所だったから、同じ行動原理を採用したに過ぎないとも言える。

mt-N9bは多数の外来ミトコンドリア遺伝子を一族に取り込み、旧来の生活環境を改善していったが、mt-B4は極めて対照的な状態を示している。南太平洋の島々に拡散した海洋民族にとっては、何処に行ってもmt-B4は最強の栽培技能者だったから、栽培技能を持つ女性を取り込む動機がなかった事が、その様な判断に結び付いているとも言えるが、東南アジアのミトコンドリア遺伝子は穀物の栽培者一色で、唯一の例外は、養蚕と絹布の生産を推進した身内とも言える、mt-M7b+B5+Fである事に注目する必要がある。

ペアで航行していた原日本人のmt-N9bが、他民族の女性を技能者として導入する道を開いた事が、その様な違いを生み出したと考えられるが、関東に渡来した大陸起源の女性達は、日本列島への渡航の際に、乗った事もない海洋船の長い航行の途上で酷い体験をしたから、彼女の娘達も船に乗りたがらなかった事が、その様な方向に必然的に向かったとも言える。いずれにしてもシベリアの狩猟民族のmt-Aを取り込み、台湾のmt-B4+M7cや浙江省のmt-B5+M7bを取り込み、海洋縄文人のmt-N9b比率が極度に低下すると、縄文早期末以降の海洋活動は男性の仕事になった事が、ツングースも含めたこれらの海洋民族との大きな違いになり、その後の海洋文化の発展に違いを生んだ。

この違いの結果として、日本では内陸に男性の職人集団が生れた。魏志倭人伝は、「海南島では男性が農耕を行い、女性が養蚕と織布を行う」性的分業の段階だったと記している漢書を引用し、「倭では男性もそれらの職務に従事し、高級な絹布を生産している」と指摘し、高度な技能を擁する職人集団が生れていた事を示唆している。

縄文早期までは男女の分業さえも発達していなかった原日本人が、この様な状態を多民族より早く実現したのは、海外から技能を持った女性達を招く事によって男女の分業を実現し、生産技能を重視する社会を形成した上で、豊かな海産物と稲作によって堅果類の価値を低下させる事により、縄文人男性を堅果類の樹林の管理や狩猟から解放すると、折良く弓矢産業が興隆して男性の職人集団が生れたからだと推測される。但し現代日本人のmt-A比率が高い事は、伝統的な産業にもそれを適用したのではなく、伝統を守りながら新しく生まれた産業にその手法を取り入れ、mt-Aはその産業後続に組み込まれていた事を示している。

東南アジアの海洋民族も産業化が遅れていたのではなく、縄文後期になると、海洋交易を担うインドネシアの海洋民族と、交易品を生産する越が生れ、弥生時代には日本列島以上の経済的な繁栄を実現した。一国主義と国際経済の違いが弥生時代に大きな差を生み出したが、国際経済は環境の変化に弱く、古墳寒冷期に崩壊してしまったが、一国主義を採用した日本が新たな局面に向かった事が、現代の違いに現れているとも言える。

mt-B4が拡散した南太平洋の島々に稲作がない事が、1万年前の台湾にいたmt-B4は未だ稲作者になっていなかった事を示している。現在のインドネシアでジャバ二カが栽培されているが、イネの原生種が繁茂するインドネシアで稲作ができる為には、栽培技術が進化して遺伝子の純化が進み、自家受粉率が高まって周囲の原生種と交配しなくなるだけではなく、交配を阻止する栽培技術も必要だった。それが実現したのは4千年前以降だった事が、広東省の出土遺物から明らかになっているから、氷期に大陸と繋がっていたインドネシアでも、同様だった事を示唆している。南太平洋の島々にはイネの原生種はなかったから、海洋民族になったmt-B4に稲作が含まれていれば、稲作を行う事が出来たが南太、平洋の島々に稲作がない事は、海洋民族になった時点のmt-B4は稲作者ではなかった事になり、台湾起源の海洋民族が9千~1万年前に成立した事と整合するだけではなく、南太平洋に拡散した栽培者は縄文後期までインドネシアにいた栽培者だったから、南太平洋には稲作がない事になる。

島影を見ずに何日も航海するには、天文知識が不可欠である事は間違いなく、時計がなかった時代の海洋民族が自分の船の位置を知る手段は、緯度を正確に認識する事だったと考えられる。目的とする島より東にいるのか西にいるのか分かっていれば、その島に辿り着く事ができるからだ。緯度を知る手段として直ぐに思い付くのは、北極星の高度を測定する事だが、南太平洋では北極星は見えないから、海洋民族が用いた緯度の測定手段は、星座の位置から判断する事だったと考えられる。

彼らが南太平洋を東に猛進したのは、海洋民族になってから数千年しか経ていない時期だから、その天文知識は彼らが開発したのではなく、関東部族から伝授されたものだった事は間違いない。関東部族は3万年前の沖縄と琉球岬の往来に始まり、沖縄から台湾に至る前に宮古島に渡る航路を発見している必要があったから、島影を見ない状態で航行する技能を獲得していた事も間違いない。

宮古島がある事さえ知らなかった関東部族が、宮古島を発見したのは、沖縄の周囲を冒険者が探索したからだと考える必要があり、その際に宮古島と等距離の、大東島も発見していただろう。関東部族の目的は狩猟民族を探す事だったが、朝鮮半島を含む日本海沿岸は北陸部族の縄張りだったから、関東部族は関東を起点に、全方位的な探索を行った筈であり、宮古島を発見する以前に、伊豆諸島を南下して鳥島辺りには達していただろう。その様な航行の際には天文知識が必須だから、関東部族は台湾に航行する1万年以上前から、天文知識を徐々に高めていたと想定される。

海洋民族の天文知識が優れていた故に、彼らは南太平洋の島々を横断する航路を開設する事ができたのだから、それに必要な知識を神聖視していた事も間違いない。彼らと交易を行ったアメリカ中南部の民族も、天文知識を重視して、それにまつわる遺跡を各所に遺した。しかしアメリカは余りにも遠いので、何らかの契機によって海洋民族が東西に分裂する要因を孕んでいた。

中南米の古代文明にはヒスイを高貴な石とする文化や、金銀を高価な金属とする文化は伝わっているから、それらを財貨と見做し始めた時期には、東西の海洋民族の間に交流があった事を示唆している。

中南米のヒスイを宝石としていた文化は、日本の文化が海洋民族を介して伝搬したものであり、海洋民族が重視する蛇紋岩の鉱脈から発見される石でもあった。北陸部族が開発したヒスイ加工品を財貨とする認識は、縄文前期に生まれた事を、山梨県から発掘された原初的な形状のヒスイ加工品が示している。北陸部族が台湾に渡航し始めたのも縄文前期だったと考えられるから、北陸部族のヒスイ文化が加工技術を含め、縄文前期~中期に東の海洋民族に伝わったと考えられる。この文化のヒスイは中華で持て囃された角閃石系の軟らかい翡翠ではなく、ヒスイ輝石を含む蛇紋岩系鉱物だから、海洋民族が質の良い磨製石斧を多数作る為に、角閃石系の蛇紋岩が豊富に含まれる鉱脈を求めた際に、副次的に発見されやすい鉱物で、北陸産のヒスイは正しくその様な鉱物になる。

インダス文明地域にメキシコから綿布が伝わったと考えられるので、縄文後期の前半までは東西の交流があった事になり、東西の海洋民族が決定的に分裂した時期として、インダス文明が3900年前に衰亡した事と、東西の海洋民族の接点だったと考えられるフィジーの方言化が、言語分析によって3500年前だったと推定されている事が回答を示している。

海洋民族が東西に分裂したのは、縄文後期に海退が始まって農地が拡大し、縄文後期温暖期(45003400年前)になって農耕の生産性が高まったからだと推測される。それによってインド洋交易が活性化すると、その恩恵を受けた西の海洋民族は羽振りが良くなり、東の海洋民族との交流を軽視する様になったと考えられるからだ。具体的な事情はその3で説明するが、チグリス・ユーフラテス川やナイル川が形成した沖積平野が広がり、その地域の農耕が盛んになると、海洋民族の主要な交易相手がインダス川流域からオリエント世界に代わり、インダス文化圏が海洋民族の交易圏ではなくなった。インダス文化圏に到達するにはインダス川の急流を遡上する必要があり、小型の快速船が必要だったが、それより遥かに遠方の、オリエントやエジプトでの交易を求める様になると、積み荷を増やす事ができる大型船が多用される様になり、インドネシアの海洋民族の集中と選択が始まったから、低緯度地域である故に寒冷化の影響は乏しいインダス文明が、縄文晩期寒冷期を待たずに衰亡したと考えられる。

つまりインダス文明の衰亡は、インドネシアを拠点としていた海洋民族が、交易先をオリエントに切り替えた事によって発生したと推測され、同様の選択と集中が東の海洋民族との関係にも生れた可能性が高い。東の海洋民族にも同様な事情があり、メキシコやペルーに文明が勃興すると、その地域との交易に忙しくなり、東西交易に興味を失った可能性もあるし、西の海洋民族が東との交易に消極的なった事に反発し、アメリカ大陸との交易に専念する様になった可能性もあるが、その事情を現代人が詮索する事は難しい。

東の海洋民族は蛇紋岩が豊富な中南米地域と交易し、優秀な磨製石斧を使っていたから、青銅器を必要としていなかったと考えられる。中南米の人々も磨製石斧を容易に入手できたから、トウモロコシの生産性が高まる事により、この時期の海洋民族は東西の文明に、大きなレベル差はないと判断していた可能性もある。従ってユーラシア大陸が青銅器時代になっても、東の海洋民族は青銅器文化を軽視していただろう。

しかし鉄器時代になる前に、東西の海洋民族は決定的な分裂状態に陥ったから、アメリカ大陸には鉄器文化が伝わらなかった。その事がユーラシアとアメリカに大きな文明落差を生んだ事は、敢えて説明する必要はないだろう。北アメリカの東岸にはY-R遺伝子を持つ人が多く、北欧の海洋民族も北大西洋を北回りに周回し、この頃北米の東海岸に定住した事を示唆しているが、北欧の海洋民族も地中海世界の経済発展に伴い、地中海沿岸やオリエント世界との交易を求め始め、文明圏が生れなかった北アメリカ東部への植民を放棄したのは、縄文後期だったと考えられるからだ。

アメリカシナノキがカナダ東部からアメリカ北東部に分布し、ニューファンドランドランドには蛇紋岩帯が存在するから、この海洋民族が中米産のサイザルアサを求めて南下する事は、極めて自然な流れであり、この推測を補強する。太平洋は台湾起源の海洋民族のテリトリーだったが、メキシコ湾やカリブ海はこのY-R海洋民族のテリトリーだったとすると、アステカの古伝承に登場する肌の白い人々は、この海洋民族の子孫だった疑いが濃くなる。

ポリネシアの方言化がAD300年で、ハワイの方言化もAD500年である事は、海洋民族の基地が両地域にあり、西欧人が中南米の文化を破壊するまでは、これらの海洋民族が中南米の文化を支える、海洋交易者だった事を示唆している。どちらの島もアメリカ大陸から酷く離れているが、アメリカ大陸の西海岸には海洋民族が拠点化できる島がないからだ。ハワイとメキシコ南部は5000㎞以上離れているが、西の海洋民族は直線距離で5000㎞、航路としては1万㎞も離れたペルシャ湾に航行していたし、関東部族も台湾まで直線距離で2000㎞、台湾から揚子江の河口まで1000㎞、揚子江を武漢まで1000㎞遡上していたから、航路上で海産物を獲得できる海洋民族にとっては、往来が不可能な距離ではなかったからでもある。

 

南太平洋の島民が示す紙の起源

ポリネシアやハワイなどでは100年ほど前まで、梶の木の皮を剝いで棒で叩き、タパと呼ばれる不織布を作って衣類にしていた。梶の原生地は東南アジアの島嶼だったと想定されるが、具体的な場所は分かっていない。梶は一般の日本人には馴染みが薄い樹木だが、和紙の原料であるコウゾの類縁で、古代紙は梶で作られたと聞けば馴染みが湧くだろう。

戦国時代末期の日本を観察した宣教師であるルイス・フロイスが、「日本人は紙の服を着ている」と本国に報告しているから、日本には戦国時代まで、梶やコウゾを衣類の原料とする習俗があった事が分かる。梶の繊維を織った太布(タフ)と呼ばれる粗布が、徳島県や高知県の山間部で生産され、穀物などを入れる袋や仕事着などに用いられた事が、その名残を留めている。倭文(しとり)と呼ばれた古代の布は、梶の繊維とアサで織られたと指摘されている。

日本の古代紙は繊維が白い梶を原料にしたから、遣唐使がその紙を中国に持ち込むと、中国人が「繭の様に白くて艶があり、見た事もない紙だ」と驚いた事が、新唐書に記されている。中国の古代紙は梶以外の樹皮やアサから作られていたから、梶の樹皮で作った和紙の様に、白くなかった事を示している。中国では紙の原料に梶が用いられなかった事は、中国人は梶の樹皮から繊維が得られる事を、知らなかった事を示している。つまり中国では唐代に至るまで、衣類の原料として梶を持ち込んだ女性がいなかった事を示している。つまり梶の樹皮で衣服を作っていたオーストロネシア語族の女性は、日本には渡来して梶を伝えたが、中国には渡来したかった事になる。

ちなみに唐代から現代までの中国では、書画に用いる紙は宣紙を上質としていた。これは青檀と呼ばれる樹の樹皮を原料にするが、唐代には皇帝への献上品となるほどの貴重品だった。縄文時代から梶があった日本では、青檀は栽培されていない。

中国では古代から竹簡が多用され、漢代から木簡も使われた。漢代初頭の貴族墓である馬王堆から、竹簡と帛書及び木簡は発掘されたが、紙に書かれた文献は発掘されていない。ウィキペディアは、「紙の普及に伴い、中国では東晋の桓玄の命によって公の場から竹簡が排除されたと言われている。だが、代わって竹で作られた紙である竹紙が作られ、現在も一部分野で用いられている。」と指摘している。つまり東晋(317 420年)の時代になっても、中国では樹皮を使った紙は普及していなかったが、日本では奈良時代(710794年)に上質の和紙が作られていただけではなく、それを使った印刷(百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに))も行われていた。

梶の樹皮を叩いて不織布を作る習俗が、日本中に持ち込まれて拡散したのは、衣類の原料がアサや苧麻に変わる前、即ちそれらを織る技術が普及する前だったと推測されるから、絹布が作られ始めた縄文後期より、古い時代だったと推測される。ムクノキが伝来したのは8千年前だから、梶の樹が伝来した時期の第一候補はその頃になる。関東部族の船には、シナノキの樹皮から作ったロープが使われていたから、台湾起源の海洋民族も、同様の機能を持つ樹皮を探す過程で、梶の木の樹皮も試した可能性が高いからだ。古代人の知恵の深さを認知すれば、台湾やフィリッピンにあった色々な樹種の樹皮を、片端から試し、最終的にマニラアサに落ち着いたと考える事は、極めて常識的だからだ。

梶の樹皮の繊維は船のロープに使えるほどの強度はなかったが、何かに利用したから、やがて衣類にも使った可能性は高い。東西の海洋民族の交流が4千年前頃に失われたから、梶の木が衣類の素材として、東の海洋民族と日本に拡散したのは、8千年前から4千年前の間だった事になる。

縄文草創期の相谷熊原遺跡の土偶は、裸体の女性を示しているが、縄文中期の土偶である縄文のビーナスや縄文の女神は、下半身にズボンの様なものを着け、縄文後期の土偶である仮面のビーナスは、全身着衣した女性を示しているから、これらの衣類は梶の繊維で作られていた可能性がある。

縄文後期後半の合掌土偶が、青森県の是川遺跡から発掘されているが、この土偶には着衣がない。梶は熱帯~亜熱帯域の東南アジアが原産で、青森の様な冷涼な地域では栽培できない事も、土偶の着衣が梶の繊維で作られていた可能性を高める。縄文のビーナスや仮面のビーナスが発掘された八ヶ岳山麓の気候は、青森と同程度に冷涼だから、この地域で梶が栽培されていた可能性は低いが、八ヶ岳山麓は関東部族の流通圏だったから、八ヶ岳山麓の人々が梶の繊維で作った衣類を身に着ける為に、この地域で梶を栽培する必要はなかった。

しかし諏訪神社の神木が梶である事は、気候が合わなくても無理に栽培していた事を示唆している。諏訪神社には上社と下社があるが、縄文時代から継続している神社は、黒曜石の産地に近い下社であると推測される。下社の神は八坂刀売(やさかとめ)と呼ばれ、記紀には登場しない女神である上に、記紀が比売(ひめ)と記している尊称を刀売(とめ)としているから、土偶時代の文化を継承した女神である可能性もある。

樹皮や笹を使って籠を編む技術は縄文早期にはあったから、アサや苧麻を同様に編んで布を作る事はできただろう。しかし縄文草創期の女性は、毛皮を着る必要がない季節には裸体だったから、相谷熊原遺跡の土偶は裸像だったと推測される。

アサなどを織って布にする、高度な織布技術を使った衣類が普及する前に、安易に形成できる梶の不織布が広がっていなければ、日本列島に東南アジア原生の梶や楮が繁茂し、その繊維で布を織る文化が残っている事は説明できない。従って梶が日本に伝わったのは縄文早期末~中期だったと推測され、伝来した梶の用途は不織布の衣類を女性が着る為だったと考えられる。

漢字が生れた経緯に関する検証は、経済活動の成熟期の項を参照して頂きたいが、その結論としては、漢字は荊と関東部族の合作によって生まれたと考えられるので、以下はそれを前提に説明する。

文字を何かに書く場合に、不織布を糊付すれば紙になるから、その類の紙の発祥地は梶が伝わった日本か、梶の発見者だった東南アジアの人々だったと考えられる。東南アジアの島嶼には漢字文化や筆文化がなく、越人も漢字を使わずに木片に文字を刻んでいた事を、中国の史書が示唆しているから、紙や筆で漢字を書き始めたのは関東部族だった可能性が高い。越人が漢字を使っていなかった事は、越人の子孫は木片に表音文字を刻んでいた事を、梁書や隋書が示唆しているからで、関東部族と共に漢字を開発したと考えられる、荊や越の製塩業者がいた華南では、上記の様に紙の発達が遅かったから、彼らが漢字を書いたのは紙ではなく竹簡だったと推測される。漢代の墓である馬王堆から竹簡や木簡、文字が記された絹は発掘されているが、文字が記された紙は発掘されていない事が、その事情を示している。

平らに削った竹であれば、熱した金属棒で複雑な漢字を黒く書く事ができるから、特殊な事情がない限り、紙や筆が筆記具になる必然性はなかったが、関東部族には梶の繊維で不織布を作る習俗があったから、それを糊付けして文字を書く発想が生れる事には必然性があった。しかし紙には、熱した金属棒で複雑な文字を書く事は難しいから、それにも複雑な文字を書きたかった関東部族には、筆と硯を開発する動機があったと言えるだろう。

もう少し視点を広げると、オリエントで粘土板を筆記具にする事が発明されたが、これは便利な筆記具であるから、それに相応しい楔形文字が生れる事に必然性があった。インドネシアの海洋民族を含む越系の人々は、オリエント世界でアラム文字と言われる、アルファベットの様な音素文字を使っていたから、熱した金属棒も使う必要がなく、竹片や木片に金属棒で傷を付けるだけで、文章を作成する事が出来た。これは音素文字が支持された要件の中で、重要な要素だったと考えられる。

象形文字である漢字は複雑な字体になったから、それを使っていた大陸の荊や一部の越人は、熱した金属棒で竹簡に漢字を記述した。これには合理性があったから、関東部族も当初はそれと同じ手法で漢字を記述していただろう。しかし関東部族は梶の不織布を使っていたから、それも筆記具にするために不織布を糊付けしたが、熱した金属棒では竹の様に鮮明に描けなかったから、筆と硯を発明したと推測する事が、最も合理的な推論になる。つまり竹簡を使っている限り、文字がそれより大きくなってしまう筆と硯を発明する動機は、生れなかったと考えられる。紙は竹より幅が広い台紙が容易に形成できるから、当初は多数の人に漢字を示す為に使ったのかもしれないが、筆を細くして事態を小さくする事は容易であるし、熱した金属棒より文化的な匂いがする事は、古代人も感じただろう。それ故に竹簡にも筆が使われた事を、馬王堆の遺物が示している事になる。

墨汁が煤や木炭の粉から作られた理由も、熱した金属棒で竹簡に文字を記していた荊や越人の感性を重視し、同じ色の字体にする事を目指したものだったとすると、発展の経緯が分り易い。縄文時代から顔料として丹が知られていたから、それを水に溶いて文字を書く方が印象的で文化的だった筈だが、敢えて丹を使わずに炭を使ったのは、竹簡に記された炭化文字と、同じ書風を求めたからだと考えられるからだ。

殷人が骨や甲羅に線刻文字を刻んだのは、荊から上記の漢字文化が移転したが、華北には竹はなかったからだと考えられる。殷人は交易用の獣骨と亀甲を多量に持っていたから、それを重要な記録に用いた事から、甲骨文字が生れたのではなかろうか。

奈良時代の日本で、世界最古の印刷(百万塔 陀羅尼)が行なわれたが、印刷には質の高い紙が必要だから、印刷技術が生まれる前に長い製紙の歴史があった事になり、唐代の和紙の白さが群を抜いていた事と併せ、日本の製紙技術が大陸より先行していた事は間違いない。

中韓民族の起源論の如何わしさを知っている現代人は、紙は後漢の宦官が発明したとの主張も、その一つであると指摘されても驚かないだろう。漢王朝は稲作民の先進文化を簒奪した、アワ栽培者の政権であり、先進的な交易民族に囲まれた未開民族の王朝だったから、その劣等感の発露として、嘘の起源説話を乱発したと推測される。その状態は現在の中華や朝鮮半島と類似し、根本的な発想は変わっていないから、彼らは漢代からその様な民族性を持っていたと指摘されても、現代人は驚かないだろう。史記もその類の捏造史書だから、それも冷静に受け入れる必要がある。

 

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