縄文文化の形成期(旧石器時代、縄文草創期、早期前半) その2

目次

創生期:湖沼漁民だった原日本人がシベリアから日本列島に漂着し、海洋漁民に変貌するまで。 (その1)

1、人類のアフリカ脱出とユーラシア大陸への拡散

2、原日本人の日本列島漂着と海洋漁民化

先縄文時代:原日本人が原縄文人と台湾近辺で出会い、原縄文人を九州に上陸させるまで。 (その1)

3、原縄文人の起源と原縄文人集団の形成

縄文時代草創期~早期前半:縄文人が九州などに上陸した15千年前から、気候が安定して縄文人が本州に拡散した1万年前まで。 (その2)

4、縄文時代の幕開け

5、縄文文化の開花

 

4 縄文時代の幕開け

4-1 縄文人の九州渡来

15千年前に急激に温暖化すると、それまで亜寒帯性の気候だった西日本は冷温帯性の気候に変わった。石垣島で原縄文人と共生していた北陸の原日本人が、豊かな共生社会を形成していた事を知っていた関東の原日本人は、原縄文人が九州以北に移住し、アサなどの植物資源の入手が容易になる事を望んでいたから、その機会が来たことを喜んだだろう。

北陸の原日本人には日本海の凍結という厳しい事情があり、最寒冷期には石垣島に移住せざるを得なかった事も知っていた関東の原日本人は、当初はそれを憐れむ立場にあったが、北陸の原日本人が石垣島で豊かな生活を享受すると羨望に変わっただろう。しかし狭い石垣島に移住した栽培系狩猟民族には狩猟の生産性は期待できなかったから、石垣島の原日本人は獣骨の入手に奔走しなければならなかった。海洋漁民は東南アジア起源の狩猟民族が徘徊していた大陸を、危険地域と見做していたから、定住する場所は八重山諸島や宮古島しかなく、日本列島などの安全な島嶼に帰還する事は彼らの願望だった。漁民が獣骨を必要とする状況は、縄文時代を通して継続したから、この時代にもその状態は存在していたと推測される。

この頃の日本海に関する情報(青字)を参照し、北陸縄文人が石垣島に移住した経緯と、原縄文人が九州に渡来した、15千年前の沖縄周辺の海洋事情を検証する。

32万年前に日本海の表層水は低塩分になり, 海水の層構造が発達して鉛直混合がほとんどなくなり, 海底は酸欠状態になった。

21万年前に、表層水(低塩分濃度の水)が、対馬海峡から流出した時期があった可能性がある。

氷期の最寒冷期に海水の層構造が発達したのは、日本海が氷結して表層水と深海の海水が循環しなくなり、海底堆積物が無酸素状態になった事を示し、それが完全に解消したのは2万年前以降だった事を示している。日本海が氷結すると海洋漁民は漁労活動ができなくなったから、北陸の原日本人はその兆候が生れると台湾平原の沿岸を南下し、それが解消するまで石垣島にいたと推測される。石垣島より沖縄の方が日本列島から近かったが、沖縄は冬季に関東の原日本人が遊動する島だったから、関東の原日本人のテリトリーとして諦め、石垣島に移住したと想定される。この頃の華南は、東南アジアから北上したY-N民族が狩猟テリトリーにしていたし、後氷期の温暖化の中で消滅してしまった民族が他にもいたかもしれないから、海洋漁民にとって安全な場は大陸から離れた島嶼だった。

沖縄含む南西諸島に移住すると、蛇紋岩の採取地を台湾に求める必要があったから、その観点では石垣島の方が拠点として相応しかった事も、彼らの石垣島選定の根拠だったのかもしれないが、その1で説明した様に沖縄と宮古島付近の島は170㎞離れ、島影を見ない海洋を、星の位置を頼りに航行する必要があったから、当時の天文技術では渡航できなかった可能性が高い。一方陸地化した黄海や台湾平原の沿岸では陸を見ながら航行すれば良く、大陸の岩石地帯から離れていたから、大陸の狩猟民族が往来する危険な場所ではなかった事も、石垣島を選んだ理由として挙げる事ができるだろう。

上の青字は、後氷期になって氷結していた日本海の氷が融けても、海底の無酸素状態は直ぐに解消されなかった事を示している。つまり解消される為には、表層に残った塩分濃度が低く比重が軽い海水が失われ、海水の上下循環が再生する必要があった。

海水の上下循環が起きる原理は、秋から冬にかけて冷却された表層水が、深海の海水より重くなって沈殿する現象だから、表面が低塩分の比重が軽い水に覆われていると、表層水が冷却されても深層水より重くならず、上下循環しない。その表層水が対馬海峡から流れ出る事により、海水の上下循環が再生したとの指摘は、重要な意味を持っている。風が起こす波は海面下数十mの深さまで攪拌するから、塩分濃度が低い表層水の厚さは、それでは解消しない深さに達していた事になり、100m以上あったと推測される。その様な厚さは単年では達成できないし、日本海が部分的にその様な状態になっても、風が攪拌して海水を均質化するから、氷期の最寒冷期には、夏になっても融けない氷が日本海を覆い、その氷の上に100m以上雪が積もっていた事を示唆している。

但し古事記が示す対馬の漁民と隠岐の漁民は、氷期の最寒冷期になっても石垣島や宮古島に移住しなかったから、その結果として北陸部族ではない東北部族を遺したと考えられ、氷期の最寒冷期になっても北九州東部や山陰西部の海岸は、氷結しなかった事を示唆している。九州と四国の山岳地の間を吹き抜けた夏の暖気が、流氷を融解してしまったのかもしれない。しかし黄河が済州島の北を流れ、狭くなっていた対馬海峡に流れ出ていたから、五島列島の北に黄河で生まれた流氷が流れ込み、海面の氷結現象が発生した可能性がある。その様な状態になっても、海水は海の高低差に従って氷床の下を流れたから、深い場所では高塩分濃度が維持されたが、その流動は酷く緩慢だったから、海底の低酸素状態が維持されたと想定される。

対馬海峡がこの様な状態になると、北九州西部の原日本人も対馬海峡の沿岸に居住する事は難しくなり、氷結を免れていた東シナ海沿岸に移動したと想定される。現在の黄海は陸地化していたから氷期の最寒冷期には、冬になると冷たい風が大陸から吹き出し、関東より寒冷になったかもしれない。彼らの移動先は、九州と繋がっていた5島列島の福江島から鹿児島の甑島に至る海岸の、何処かだったと推測される。

その様な寒冷な地域に適応していた原日本人だから、15千年前に急激に大陸が温暖化し、大陸の夏の暖気が陸化していた黄海から吹き込むと、漁獲の腐敗が早まる事に耐えられず、結氷が解除された日本海を北上して北海道に移住したと想定する事もできるが、4.5万年前に定住した湖沼の規模が彼らの人口を規定していたとすると、他の部族より人口規模が少なかったから、急激な気候変動に対応する知恵の開発が遅れたが、その反面意思決定が早かったからである可能性もある。

その後で関東縄文が九州西部に進出し、彼らが移住した跡地に沖縄の縄文人を入植させたと想定されるが、急激に温暖化して縄文人の渡来が可能になっても、何らかの引継ぎ契約が為され、北九州の原日本人の北海道移住が完了しなければ、沖縄から原縄文人を入植させる事はできなかったから、縄文人の入植は温暖化直後ではなく、遅れがあったと推測される。従って北海道縄文人が北海道に入植したのは、九州の縄文時代が始まった15千年前より古い時期だったと推測される。この推測はその1で示した、津軽海峡や宗谷海峡が形成された時期と、それに関わる遺伝子分布の状態と、考古学的な発掘事実と整合する。従って西ユーラシアが温暖化して巨大氷床が融け、海面が急上昇し始めたのは15千年前だが、東ユーラシアの急激な昇温は少なくともそれより千年早い、16千年前頃に始まったと推測される。

それに関する別の証拠として、Y-Nとペアになってシベリアに北上した栽培民族の、最北の栽培者だったmt-Dが東北縄文人の一部を形成していた事が挙げられる。つまりそのmt-D15千年前より古い時期に、オホーツク海南岸のシベリア系狩猟民族の、主要遺伝子になっていた事になるからだ。具体的に言えば、このmt-Dは氷期の最寒冷期には冷温帯域の北限だった浙江省にいたが、氷期の温暖期になると日本海沿岸に北上し、15千年前に始まったと考えている後氷期の急激な温暖化により、オホーツク海南岸に北上してY-C3狩猟民族に浸潤した結果として、東北に南下したY-C3のペアは元々のmt-N系ではなくmt-Dになっていた事を、東北縄文人のミトコンドリア遺伝子が示しているからだ。つまり海面の急上昇によって津軽海峡が生れたとすると、東ユーラシア大陸の急激な温暖化はそれ以前に始まっていたから、mt-D15千年前にはシベリアに北上していた事になるからだ。

mt-Dの北上と北九州の原日本人の九州から北海道への移住は、同じ原因に起因したと想定されるから同期していたとすると、双方共16千年前に起きた出来事である可能性がある。15千年前に氷床が急激に融解して海面の急上昇が起こったのだから、そちらに同期して然るべきなのに、それを千年遡らせる上記の推測に疑問を感じるかもしれないが、これには理由がある。ユーラシア大陸中西部の氷床は、ユーラシア大陸の温暖化と共に急激に融解したかもしれないが、東アジアが温暖化して黒潮の水温が上昇すると、それが北米大陸を南下する過程で、北アメリカ大陸の氷床形成を激化させた筈だから、それによって総合的に見ると、ユーラシア大陸の急激な昇温と海面の急上昇は、同期していなかった可能性が高いから、この考察はその様な現象が発生した事を推測する手段になる。南極の氷床が示す後氷期の急激な昇温は、18千年前に始まって12千年前まで昇温し続け、途中ヤンガードリアス期に停滞があった事を示しているだけなので、15千年前に海面が急上昇し始めたのは、この時期に急激な昇温があったのではなく、上記の二つの相反する現象のバランスが急激に崩れ、海面が急上昇した可能性があるからだ。

但し考古学的な事情としては、縄文人の痕跡は15千年前までしか遡れていないので、以下では15千年前に縄文人が九州に渡来した事にして、九州縄文人の起源を検証する。

15千年前の沖縄の原縄文人は、突然始まった海面上昇に恐怖を感じただけではなく、狩猟場が狭くなり始める経済的な危機もあった。この頃には、氷期の寒冷期だった2万年間に海面が余り上昇しなかった故に、その時期に形成された沖積平野が海岸に広がっていたから、海進によってその平野の面積が急激に狭くなると、海進を実感しやすい状態になった。従って再び全員が大挙して移住する、機運が盛り上がったと想定される。

しかし実際には篠田氏が、mt-M7aは現在の沖縄に最も多様性が遺されている」と指摘する様に、原日本人の船で九州に渡ったのは沖縄の原縄文人の極一部で、殆どは沖縄に残留した。それには深刻な理由があったからだ。

原日本人が遊動していた氷期とは異なる事態が、15千年前に沖縄付近の海で発生し、九州と沖縄の往来が危険な状態になったから、極一部が移住した段階で移住計画が頓挫し、大半の原縄文人が沖縄に取り残されたと推測される。

その理由を追跡するために、日本海の状況に関する事情を整理する。

2万年~1万年前に、表層水(低塩分濃度の水)が対馬海峡から流出したのは、結氷していた氷が融けた後に、海面上昇によって海水準が高くなった東シナ海から、海水が流入し始めた事を示唆している。海面が上昇して東シナ海の海面が高くなる速さと、日本海に流入した河川が蒸発量を上回って日本海の海面を高めた速さは、どちらが勝っていたのか分からないが、短期的には潮汐流によって東シナ海と海水の出入りがあり、東シナ海から流入した海水の塩分濃度は日本海の表層水より高かったから、流入した海水は日本海の海底に沈み、逆の潮汐流として東シナ海に流出した日本海の海水は、塩分濃度が低い表層水だったから、塩分濃度が低い表層水は徐々に日本海の表面から失われた。つまりこの時期には対馬海流らしいものはなかったから、日本海の海水が東シナ海に流れ出た事を示唆している。

それが完了して日本海が正常な状態になると、北陸の原日本人は北陸に戻って海洋漁労を再開した事になるが、気候が温暖化するまでは、石垣島と北陸を往復してアサなどの植物資源を入手し、北陸が温暖化すると直ちに、原縄文人を石垣島から北陸に移住させたと想定される。この時間差によって、北陸の原日本人は石垣島の縄文人の希望者全員を、日本海沿岸に入植させる事ができたが、関東の原日本人はそれができなかったと推測される。

沖縄の原縄文人も九州への移住に期待していたのに、ある時期から原日本人の船団が渡来しなくなり、それ以降何千年もなしのつぶてだったから、関東の原日本人に不信感を持ってもおかしくない状況になった。しかし関東の原日本人としては、最後の移民船団が海難で遭難し、僅かな漂流者が辛うじて日本に漂着する状態になると、それ以上の移民船団の派遣は困難になったと想定され、以下の日本海の状況がその原因を示唆している。

21万年前に、対馬海峡や津軽海峡から日本海に海流が流入した時期があった。

15千年前から急激な海面上昇が始まったから、それが潮汐流の流入を強めたとも言えるが、外洋の海流が日本海に流入するためには、その海流の流出口もなければならない。出口が生れると、表層水が残っていてもその流れにより、即座に排出されてしまった筈だから、塩分濃度が低い表層水が日本海から失われた後に、対馬海峡や津軽海峡から日本海に海流が流入した筈だから、その原因は他にあったと考えられる。

津軽海峡は15千年前頃に生まれたと想定されるから、その津軽海峡から海水が流れ込んだ事は、未だ黒潮がオホーツク海沿岸まで北上していた事を示唆している。現在の日本海沿岸に対馬海流が流れているのは、黒潮の内面である太平洋は海水準が高く、その外側である親潮領域は海水準が低いからだ。具体的に言えば、海水準が高い黒潮の分流が朝鮮海峡から日本海に流れ込み、黒潮が親潮によって北上を遮られている故に海水準が低い、青森沖の太平洋に流れ出ている。

1万年前から、対馬暖流が断続的に日本海に流入し始めた。

1万年前は未だ海面上昇期だったが、親潮が発生して黒潮の北上が遮られる事態が断続的に発生し、対馬暖流が断続的に日本海に流入し始めた事になる。対馬海流が流れる為には親潮の発生が必要だから、既に黒潮の一部が流れ込む状態があり、1万年前に親潮が発生する事によって対馬海流が生れたと想定される。黒潮が対馬海峡に分流する為には、沖縄の西を流れてトカラ海峡から太平洋に流出する必要があるから、1万年前には現在の様な状態になっていた事になる。

これは氷期には沖縄の東を流れていた海流が、15千年前頃から沖縄を洗い始めて徐々に流路を東に変え、1万年前には現在の状態に極めて近い流れになっていた事を示唆している。従って関東の原日本人が15千年前に沖縄への渡航を断念したのは、黒潮によって安全な航行が阻害されたからだと想定される。

親潮が発生する為には、深層水の供給源であるメキシコ湾流の北上が必要だから、メキシコ湾流の北上は1万年以上前に始まった事になるが、西欧は1万年前まで樹木が生えない程に寒冷だった事情を考慮すると、それを包含する説明が必要になる。

また15千年前に東ユーラシアの氷期が終了し、西ユーラシアの厚い氷床が東から融解し始めたが、グリーンランドの氷床はその事情を記録していないから、それも包含した説明になる必要もある。その1で、グリーンランドの気候は北米の気候と一体化し、西ユーラシアの気候とは異なっていた事を説明したから、その事情を此処にも援用すると、東ユーラシアの温暖化が西ユーラシアに及び、西ユーラシア東部の氷床が融解し始めても、15千年前の北米大陸には温暖化の兆しはなかったから、グリーンランドの氷床にはその温暖化の痕跡は残されていない事になる。

この話を敷衍すると、東ユーラシアの温暖化によって北太平洋亜熱帯循環の海水温が上昇すると、カナダの西岸やロッキー山脈で多量の雲が発生し、それが東に流れて北米大陸の上空が厚い雲に覆われ、雲や降雪が太陽光を反射したから北米大陸の気温は却って低下し、最後の寒冷センターになったと想定される。従ってその影響を濃厚に受けていたグリーンランドに昇温の兆しはなく、偏西風の影響を受けた西欧も気温の上昇は鈍かったと推測される。

メキシコ湾流の北上はその様な気候下で始まり、北大西洋で生まれた深層水が数千年も掛けて深海に厚く堆積し、1万年前にそれがアリューシャン列島の南に湧き出す事により、親潮が生まれたと考えなければ、深層水の湧き出しが1万年前に始まった事と結びつかない。

これらを北大西洋の現象として解釈すると、海面が急上昇し始めた15千年前に、メキシコ湾流の北上が始まる事件が発生した事になる。15千年前に海面の急上昇が始まったのは、北米の寒気の影響を受けていた西欧を除く、西ユーラシア東部の氷床が激しく融解し始め、その水が黒海を経て地中海に流入し、ジブラルタル海峡から北大西洋に流れ出始めたからだ。その真水の様な海水は表層海流になり、北大西洋亜熱帯循環によってアフリカ沖に運ばれたから、北大西洋の表層に真水が堆積する現象は生れなかったと想定される。大洋に海水準を高める様な過剰な水が存在すれば、海流になって急速に拡散した筈だから、この真水は赤道を超えて南大西洋に流れ、喜望峰沖を経てインド洋や太平洋に拡散しただろう。北太平洋の亜熱帯循環は、カナダ西部の山脈やロッキー山脈に多量の降雪をもたらしていたから、海水が減少する状態にあり、地中海から流出した真水の吸飲者になっていたと想定される。従ってこの均衡が破れて氷床の融解が激化する事により、世界の海水準を押し上げ始めたと考えられる。

この様なイレギュラーな真水の海流が発生し、北大西洋の亜熱帯循環の南流に加わって海水準が局地的に高まると、亜熱帯循環の流れが大きく乱れ、循環流が北西方向に押し上げられただろう。その結果疑似的なノルウェー海流が発生し、ノルウェー沖で塩分濃度が高い深層水を生成し始めた可能性が高い。15千年以上前からその現象が何度も繰り返され、現在の様な定常的なメキシコ湾流の北上が生れたのではなかろうか。

13千年前にヤンガードリアス期になったのは、北米大陸が寒冷センターとして健在な時期に、西ユーラシアの巨大氷床が融解してカスピ海や黒海が巨大化し、そこから蒸発した水が雲を発生して周辺の丘陵が降雪に覆われ、氷期の地理的な状態が再現したからだとも想定されるが、メキシコ湾流の北上が始まっていたとすれば、それらは原因ではなく結果だった事になり、ヤンガードリアス期に低温化した真の原因は、北米大陸で発生した冷気が、流路が乱れた北大西洋亜熱帯循環の上を通過し、水蒸気を巻き上げて西欧に多量の降雪をもたらしたからだと想定される。つまり北上していた微弱なメキシコ湾流の塩分濃度を高め、グリーンランド海の海底に塩分濃度が高く寒冷な深層水予備軍を溜め込み、メキシコ湾流の北上を安定した状態に仕立てたのが、ヤンガードリアス期の寒冷化現象だったとも言える。

西欧が1万年前に漸く温暖な気候になったのは、寒冷センターだった北米の氷床が融け始めたからではなく、ヤンガードリアス期が終わった12千年前に、安定的に北上し始めていたメキシコ湾流が、西欧を温め始めたからだと推測される。最後の寒冷センターだった北アメリカ大陸の温暖化は、西欧の温暖化より遅かったと推測されるからだ。

その後の西欧の温暖化は海洋の温暖化が牽引したから、縄文前期温暖期(6千年前~)のイングランドで穀物栽培が始まったが、それは対馬海流が現在の様に安定した流れになった7千年前と時期的に整合するのは、原因が共通する事象だから、偶然の一致ではないだろう。メキシコ湾流の北上は時代の進展と共に強化され、西欧の農業地域もそれに応じて北上・西進したが、黒潮の北上が阻まれたオホーツク海沿岸は急速に寒冷化した。

以上の状況証拠の整合性から、原日本人の沖縄渡航が困難なったのは、沖縄の東を流れていた黒潮が海面上昇によって西に移動し、15千年前に沖縄を断続的に洗う様になったからだと想定される。この仮説に基づくと、この時代の縄文人の渡航事情だけでなく、氷期から継続した歴史の流れと整合するから、事実認定しても良いだろう。

つまり氷期の黒潮は沖縄の東を流れていたから、原日本人は黒潮の影響がない東シナ海で、沖縄や台湾に南下遊動する事ができたが、黒潮が少し西に移動して沖縄を洗い始めた15千年前に、沖縄周辺の海流が異常な流れを示して海難事故が頻発したから、関東の原日本人はそれに強い懸念を持って渡航を中止した。そのために殆どの原縄文人が、九州に渡航できずに沖縄に取り残された。

沖縄系原縄文人の九州への渡来事情を細分化すると、先遣隊になった縄文人の一団が色々な植生の種子を携え、15千年前に九州に上陸すると、九州の縄文時代が始まったが、後続は海流に流されて行方不明になるなどの海難事故に遭ったから、殆どの原縄文人を沖縄に残した状態で移住は中止になり、原日本人が沖縄に遊動する事もできなくなったと想定される。黒潮の流れが変わると、それまでの渡航経験が全て無効になり、沖縄の周辺に近寄る事さえ危険になったから、冒険者の渡航さえも困難になったと考えられる。

以上の想定は沖縄系縄文人の履歴と合致し、沖縄系縄文人と関東部族の関係が、石垣系縄文人と北陸部族の関係と異なっていた事も説明できる。

石垣島から北陸縄文人が渡来した時期は、沖縄から九州に関東系縄文人が渡来した時期より、早かったと想定される。その様に想定する理由は、沖縄に遺された縄文人と縄文時代早期に再渡航した漁民は、同一部族であるとの認識を持たなかった事を、漁民が多数派になっている現在の遺伝子分布が示しているのに、現在の石垣島や宮古島の人々は殆どが縄文人のY-O2b1で、北陸部族と親和的だった事を示している証拠もあるから、同一部族としての認識を共有していたと考えられるからだ。つまり石垣島の原縄文人は、15千年以上前に少なくとも希望者は全員北陸に上陸したから、その後の人間関係も良好に保たれたと推測される。

石垣島の原縄文人が全員北陸に移住できたのは、移住した北陸は北陸部族の縄張りだったから、先住部族がなく、思い立てば即座に移住する事ができたからだ。後氷期の温暖化は大陸が先行し、太平洋の温暖化は遅れたから、北陸の方が九州の沿海部より温暖化が早かった可能性が高い事も、移住の決断が早かった理由として挙げられる。また現在の黒潮の流路を見ると、石垣島が黒潮に洗われた時期は沖縄より遅かったと想定されるから、石垣島から北陸への移住は問題なく実施されたと想定される。

以上の歴史的な整合が、黒潮の流路が変わった事の傍証になる。

 

九州縄文人の誕生

長崎県の福井洞窟の15000年前の土層から、縄文土器を含む遺物が発掘されている。津軽半島の16500年前の土器は、進化の系譜が不明な土器だが、この洞窟のそれより上の層から、より進化した爪型紋土器が発掘されたから、進化の跡が読み取れる正真正銘の縄文土器になる。長崎県の泉福寺洞穴からも、この頃の縄文土器が発掘されているから、縄文人が上陸して定住したのは、五島列島と長崎の間にあって在は海底になっている、平地を含む丘陵地だったと推測される。温暖化した直後で未だ海水温が低く、大陸が先に高温化したから、大陸に近い平坦地として選ばれた可能性もあるが、移住のために積み荷を満載した船が黒潮に航路を乱されたので、黒潮が流れ始めた南西諸島の島伝いの航路を避け、九州北部に上陸せざるを得なかったからである可能性もある。

具体的に航路を説明すると、先縄文時代の関東の原日本人は、南西諸島を飛び石的に航行していたが、黒潮が迫るとそれが不可能になったから、沖縄から原縄文人を海送していた時期の後半には、黒潮が沖縄を洗い始めた太平洋側を避け、沖縄の最も西の島である久米島から西に向かって航行し、台湾平原の海岸に達してから沿岸を北上し、陸地化していた黄海の沿海部を周回して九州に達したとすると、真っ先に五島列島に至った。従ってその航路を選んだ結果として、長崎沖の平原に多数の縄文人が上陸した可能性もあり、流れを変えた黒潮が九州南部にも迫っていたから、大量の移民が安全に入植できる唯一の場所が、五島列島付近の平原だった可能性がある。

それとは別の発想になるが、移住地として太平洋の冷気を避ける温暖な気候を求めると、現在の五島列島の中通島と平戸島の海域が、この時代の縄文人に堅果類の樹林が形成できる平坦な地形の候補になる。この辺りの水深は浅い所で現在50mあり、北に向かって徐々に深くなっているから、当時の海岸は平戸島の現在の海岸を30㎞ほど拡張した辺りにあったと推測され、航路と気候の両面からこの盆地が適地だった可能性が高いからだ。福井洞穴の付近を流れる佐々川も、泉福寺洞穴の付近を流れる相浦川も、この時代には丘陵地に流れ出て合流し、五島列島の南側の平坦地を流れていたが、佐々川も相浦川も縄文人が入植した盆地とは「程良い距離」にある。

福井洞穴の更に下層の19000年~18000年前の土層から、細石刃が多数発掘され、13千年~15千年前の土器も細石刃と共に発掘されているから、この洞穴は狩猟民の住居址だった事を示している。細石刃はシベリア系Y-C3狩猟民の文化遺物だから、その頃にはシベリア系狩猟民がこの付近にいた事になる。「程良い距離」と記したのは、縄文人も狩猟民族だったから、彼らが縄文人の縄張りで起居する事はなかった筈だが、シベリア系の狩猟文化とは全く異なる縄文人の文化に、強い関心を持っていたと推測されるからだ。

細石刃の出土状況については、「発掘された日本列島」文化庁〔編〕に以下の様に記されている。

最深部の15層・14層(19千年以前)は安山岩の石器が多い。13層(19千年前)で多数の細石刃が発掘され、12層(18千選前)で炉の跡も発掘された。97層(17千年前)では細石刃とは異なる小型の不定形な剥片が出土した。4層(16千年前)になって再び細石刃が出土し、3層(15千年前)に至って初めて縄文土器が出土した。2層(13千年前)から土器と細石刃が出土した。

15千年前以降の細石刃は、19千年~18千年前のものと比較すると長さはあまり変わらないが、幅や厚さは半分以下になっている。

津軽陸橋は16500年前までは存在していたから、最深部の15層・14層と17千年前の97層は、シベリアから南下遊動した狩猟民族の遺物であると考えられる。シベリア西南部の狩猟民族は、19千年前に日本列島に定住し始めたが、17千年前にシベリア北東部の狩猟民族が南下遊動して来ると、彼らに洞穴を明け渡した事を示唆している。

細石刃を使ったシベリア西南部の狩猟民族は、定住した狩猟民族であると判断する根拠は、津軽海峡が生れた15千年前以降も日本列島に居住し、細石刃遺跡を伴う遺跡を多数遺したからだ。従って細石刃を使用していた狩猟民族は、シベリア東北部から南下誘導して来る狩猟民族と競合しない様に、彼らの縄張りを尊重するだけではなく、彼らとは異なる獲物を狩っていた可能性が高い。両者はシベリアの狩猟民族としてシベリアの規約に拘束されていた筈だから、シベリア東北部の狩猟民族はヘラジカなどの大型獣を獲物にし、細石刃を使った狩猟者はニホンジカやイノシシを捕獲し、それ故に使用する石器が異なっていたと考えられる。

狩猟だけで生活する為には、シベリア北東部の狩猟民族の様に南北遊動する必要があったが、細石刃を使った狩猟者が日本列島で通年狩猟する狩猟民族になる事が出来たのは、獲物の獣骨を原日本人と交換する事により、食生活を賄う事ができたからだと推測される。

17千年前にシベリアの狩猟民族が優勢になったのは、氷期の温暖期が始まって急速に温暖化すると、後氷期が始まってヤンガードリアス期の寒冷化が起こった様に、寒の戻りが発生したからか、1600年周期の寒冷期になり、氷期型の狩猟が復活したからではなかろうか。このHPが提唱する氷期・間氷期モデルでは、17千年前にも寒の戻りが発生した可能性は否定できないからだ。

つまり後氷期の温暖化が始まると、シベリアの狩猟民族は九州まで南下しなくなったから、九州の原日本人はシベリア西南部の狩猟民族を招いて獣骨の需要を賄ったが、17千年前に気候が寒冷化すると、シベリア東北部の狩猟民族が再び南下遊動して来たが、16千年前に再び温暖化すると九州に南下しなくなったから、細石刃の遺跡が復活したと想定される。15千年前には縄文人も九州に渡来していたから、土器も遺物に含まれたと考えられる。

日本最古の土器が出土した津軽半島の大平山元I遺跡では、矢尻は発掘されているが細石刃はなく、石刃や尖頭器を使う狩猟民族だった事を示しているから、シベリア東北部の狩猟民族が、16千年前に津軽海峡を越えて本州に南下していた事になり、福井洞穴の発掘事情と整合する。

ウィキペディアは細石刃文化について、以下の様に記している。

細石刃文化期(14,30012,000年前)の遺跡は、全国で500個所を優に超える。特に遺跡密度が高いのは北海道と九州で、近畿地方では遺跡数が極端に少ない。石材は黒曜石、砂岩、チャート、流紋岩、ガラス質安山岩、硬質頁岩などの、その地域で利用できる岩石が用いられた。この文化は、細石刃核の形態や製作技術に地域的な変化が顕著で、大きく分けると北東日本の楔形細石刃と、南西日本の野岳・休場型や船野型細石刃の二つの分布圏に分かれる。

以上から明らかな様に、細石刃の使用者はマンモス動物群の南北移動に伴って、長躯遊動するシベリア東北部の狩猟民族ではなく、一定地域に縄張りを設定して通年その地域で狩猟を行う、南方型の狩猟者だった。北海道にこの遺跡が多いのは、この狩猟民族がシベリアから南下して来た際の玄関口として、北海道部族と共生していたからだと想定され、九州にこの遺跡が多いのは、九州~山陰東部が原日本人部族の集積地だったのに、後氷期に温暖化すると、シベリア東北部の狩猟民族が西日本まで南下して来なくなったから、他の狩猟者から獣骨を得る必要に迫られたからで、狩猟者から見ると多数の需要者がいたからだと想定される。

近畿地方の遺跡数が極端に少ないのは、原日本人部族が近畿地方にいなかった事を示す、古事記の記述と一致している。4万年前には琵琶湖はなく、古京都湖も古奈良湖も存在しなかった事になる。播磨灘は湖ではなかったと想定され、その根拠については経済の成熟期の項で説明するが、4万年前の機内には巨大湖が存在しなかったから、原日本人の部族が定住しなかった事を示している。

以上から細石刃を用いたのは、シベリア南西部の遊動しない狩猟民族で、彼らがその様な習俗を身に着けたのは、温暖なシベリア西南部で、河川・湖沼漁民と共生していたからだと推測される。2万年前に氷期の温暖期が始まり、シベリア北東部の狩猟民族が日本列島に南下しなくなったから、九州の原日本人は獣骨の入手難に陥り、シベリア西南部の狩猟民族を九州に招いたから、この狩猟民族の縄張りが九州を中心にした西日本になり、野岳・休場型や船野型の細石刃の分布圏を形成したと考えられる。

考古学者が細石刃文化期を14,30012,000年前としているのは、津軽海峡が形成されてシベリアの狩猟民族が南下しなくなっただけではなく、縄文人が日本列島に上陸して人口を増やし、アサの生産力が高まって漁労の生産性が高まったから、原日本人の人口が増えて獣骨の需要量が増加し、狩猟民族が生産する獣骨の需要が増えた事を示している。その1で示した様にシベリアから南下遊動して来た狩猟民族は、狩猟だけで生業を賄える、少ない人口しか維持していなかった上に、夏季にはシベリアに北上してしまったから、人口当たりの獣骨の生産性は極めて低かった。しかし日本列島で通年狩猟を行い、得た獣骨は全て原日本人に提供してくれる狩猟民族は、極めて獣骨の生産性が高い狩猟民族だった。

原縄文人は琉球岬入植から九州上陸までの活動により、人口が格段に増えていたから、沖縄や琉球岬に遊動していた原日本人は、沖縄や琉球岬に殺到する事によってアサを確保する事ができた。その成果として漁具を充実させ、漁獲を高めていたから、原日本人の人口が増えて必要な漁具の数も増えると、必要な獣骨の量も増える経済循環が回転していた。その結果として、南下して来る狩猟民の生産量では獣骨が不足したが、2万年前に温暖化すると日本列島の植生が徐々に豊かになり、シカやイノシシなどの草食性の野生動物が増えていたから、日本列島に南方型の狩猟民を迎え入れる条件が整ったと判断した原日本人が、細石刃を使う狩猟者を招き入れたが、縄文人が九州に上陸してアサの入手が更に容易になると、細石刃を使う狩猟民の数が増えたと考えられる。津軽海峡が生れるまでは先住の狩猟民族と混在し、細石刃文化の担い手に遠慮があったが、津軽海峡が生れてシベリア東北部の狩猟民族が南下遊動しなくなると、細石刃文化の時代になった事を、遺跡数が激増した事が示している。それを真っ先に実施したのは関東の原日本人ではなく九州の原日本人で、九州が細石刃文化の一つの中心地になった事は、関東や北陸の原日本人は、北海道部族と共生していた狩猟民族から獣骨を調達する事ができたが、九州や山陰の原日本人は、その地域に招いた狩猟民族から調達した事を示している。

北海道では2万年前から細石刃が使われていた事は、シベリア南西部の狩猟民族は2万年前に北海道に入植し、九州の原日本人が彼らの獣骨を北海道で入手していた事を示唆し、その狩猟民族の一部を九州に入植させた痕跡が、福井洞穴に残されたと考えられる。

その様な九州の原日本人の或る部族が、急激に温暖化した15千年前に冷涼な気候を求め、北海道に移住した事は既に説明した。アサの大量入手が漁民人口を増加させ、獣骨の需要も高めていたとすると、先陣を切って北陸に入植した原縄文人集団のアサが、北陸の原日本人の人口を増加させ、獣骨の需要爆発を起こしていた故に、入手難に陥った九州の原日本人の一部族が北海道に入植し、狩猟民族と共生したと想定する事もできる。この場合は彼らが北海道に移住した理由として、気候だけではなく獣骨の供給量を確保する為だった可能性も提起される。

津軽半島から16500年前の土器と矢尻が、細石刃を使う狩猟民族の遺跡ではなく、季節遊動していたと想定されるシベリア東北部の狩猟民族の遺跡から発掘された事は、関東の原日本人はこの時代まで、季節遊動していたシベリア東北部の狩猟民族から、獣骨を入手していた事を示唆している。ヘラジカなどの大型草食獣は角も骨も大型だから、多数の漁具を作る事ができ、関東の原日本人はそれに満足していた可能性もある。シカやイノシシの骨は小さいから、細石刃を使う狩猟者の生産性が必ずしも高くはなかったと推測されるが、気候が温暖化して植生が豊かになれば捕獲頭数が激増し、総合的な状況は変わっただろう。

以上の錯綜した状況を整理すると、北九州の部族が北海道に移住するに際しては、沖縄から縄文人を招きたかった関東の原日本人と、アサと獣骨の定常的な交換を約定した後で、シベリア東北部の狩猟民族が宗谷陸橋を経て南下遊動していた北海道に、部族を挙げて移住したと想定される。つまり北海道部族になると獣骨が多量に入手できた上に、自分達と同じシベリア東部方言を使う狩猟民族が南下遊動して来る地域に移住できた上に、アサを交易品として入手する算段も付いたと想定される。九州時代の北海道部族がどの様な手段でアサを入手していたのか定かではないが、関東の原日本人から縄張りの通過料として、僅かな量を受領していた可能性が高い。従って北海道に移住すると、通行料として関東部族から少量のアサ分けて貰う状態ではなく、交易の対価として多量に入手できる状態に変化したから、活動力に劣る弱小部族には悪くない選択だった。

彼らが北海道に移住したタイミングは、津軽海峡が誕生して本州と北海道が断絶し、シベリアの狩猟民の遊動路が北海道で行き止まりになった時期だったと想定される。本州に南下遊動する狩猟民族がいなくなり、彼らが持参していた獣骨を、本州以南の漁民が入手できなくなった事を商機として、南下する狩猟民と漁民双方の便宜を図る交易者として、部族の地位を高める絶好の好機だったからだ。

冬季に南下遊動していた狩猟民族は、原日本人から海産物を得る事によって食料の一部を賄っていたから、その様な狩猟民が北海道で行き止まりになっても、北海道部族がいれば海産物が得られたからだ。現代のビジネス社会ではこの様な関係を3者のwin-win関係と呼び、革新的な商機を獲得する高度な戦術として評価するが、15千年前の北海道部族は、その様な商機を見出して北海道に勇躍したと想定される。温暖化による魚肉の腐敗に苦しんでいた事が、その背景にあった事は間違いないが、転んでも只では起きない逞しい商魂があった事になる。

更に言えば、北海道部族のこの英断により、彼らの縄張りだった西北九州に縄文人が入植すれば、関東部族のアサの入手量が格段に増えたから、それによって北海道部族も一層潤う期待があっただろう。彼らもアサが多量に欲しかったから、この取引に応じたと推測されるが、北九州に入植したかった沖縄系縄文人の希望も叶える、4者のwin-win関係とも言えるものだった。12千年前に宗谷海峡が生れると、シベリアの狩猟民族は北海道にも南下できなくなったが、北海道縄文人の3割が狩猟民族のミトコンドリア遺伝子だった事は、超温暖期になって狩猟民族の生業形態に変革を迫れていた時期に、遊動を諦めて北海道に定住した狩猟民族が多数いた事を示唆している。間宮海峡は未だ形成されていなかったから、遊動を継続していた狩猟民族もいたと想定され、北海道部族の一部が樺太に移住して彼らを迎えたと推測される。

細石刃を使う狩猟民が通年日本列島に居住すると、南北遊動していた故に冬季にしかいなかった狩猟民族と比較し、見掛けの遺跡数は増えたから、それを考慮する必要がある事は言うまでもない。しかし細石刃を伴う遺跡の数は、それでは説明できないほどに増えた。その理由は、気候が温暖化して植生が豊かになった日本列島で、草食獣の数が増加したからであると共に、原日本人が海産物の補給を条件に、狩猟民族をシベリアから招いたからだ。

原日本人が狩猟民の日本列島永住を望む場合には、狩猟だけでは生活できない彼らの食料不足を、原日本人が保証しなければならなかった。具体的に言えば、彼らが狩る獲物の獣肉では不足する分を、獣骨や骨と交換する海産物によって補充する必要があり、そのための交易環境を原日本人が整備し、適時交換を保証する必要があった。原日本人がそれを履行したから、シベリア型の細石刃を伴う遺跡が急増したと考えられるが、その証拠遺物が16千年~14千年前の遺跡から多数発掘されているから、これは単なる経済史上の想定事項ではなく事実だった。

新潟県十日町市の信濃川流域の多数の遺跡から、15千~14千年前の土器が発掘された。久保寺南遺跡などから発掘された、100点以上の土器の付着物を分析した結果、魚の脂が付着している事が分かった。この事は広く知られているが、何故なのか解説している記事はない。しかし上記の経済事情を想定すれば、信濃川流域にいた内陸の狩猟民にも、原日本人から魚が支給されていた事が分かる。十日町は奥深い内陸にあり、この時代の新潟平野は現在より広かったが、氷期の低い海面に合わせて深い谷が形成されていたから、海面が氷期より20mほど上昇していたこの時期の信濃川の流れは、現在より緩やかだったと想定される。従って15千年前の十日町は、海洋漁民が船で遡上できる最も上流に位置していたと想定される。従って海洋漁民が水揚げした魚介類を天日で干し、堅い干物にして保存性を確保してから、船で信濃川を遡上して十日町に至り、其処を中部山岳地帯を狩猟場としていた狩猟民との交易場として、獣骨と交換した痕跡が、土器に付着していた魚の脂であると考えられる。

保存性を考慮して堅い干物にした海産物は、消化を良くするために水を加えて煮戻す必要があり、そのために土器を使ったと考えられる。スナックや酒の肴にするのであれば干物でも良いが、主食にする為には消化を良くする必要があり、その為に煮戻していたと想定される。北陸の原日本人はその目的の為に、渡来した縄文人に土器を発注し、狩猟民にその土器を支給したと考えられる。煮戻す行為は交易場だった十日町で行われただけではなく、山中の狩猟民のキャンプでも行われ、海産物が狩猟民の主食の一部になっていたと推測される。信濃川で獲れた魚を調理するのであれば、木の枝に刺して焼けば良く、わざわざ入手困難な土器で煮る必要はなかったから、土器を使って干物を煮戻していた可能性が高い。

茨城県ひたちなか市の後野遺跡から、15,50016,000年前と計測された無紋土器が、剥片石器と青森産の黒曜石(矢尻ではない)と共に発掘され、近傍の遺跡から細石刃文化を示す石器群も発掘された。信濃川流域の土器は北陸縄文人が作ったものだが、ひたちなか市の土器は関東の原日本人が、この地の狩猟民に支給したものだったと想定される。この頃はまだ温暖化したとは断言できない時期だから、原縄文人は未だ九州に上陸していなかったのであれば、この土器は沖縄産だった事になる。

しかし15千年前に海面が急上昇し始めた事は、北大西洋沿岸の気温が上昇した事を示しているのであって、九州の気温を示しているわけではないから、東ユーラシアの温暖化はもっと早かった可能性がある事は既に指摘した。つまり海面の急上昇が始まっていなかった時期に、縄文人の先遣隊が温暖化した九州に上陸していた可能性も否定できないから、15,50016,000年前後野遺跡の土器も、九州で作られた可能性は否定できない。この時期の海岸の遺跡は全て、その後の海面上昇で失われてしまったから、これらの出来事の正確な年代を決める事はできないが、以下のシナリオが最も可能性が高い。

東ユーラシアでは16千年前に急激な温暖化が始まったから、関東の原日本人が上記のお膳立てを実行し、沖縄の原縄文人の先遣隊が九州に入植し始めたが、未だ海面の急上昇が始まっていない時期の沖縄の原縄文人は、沖縄で安定した生活を営んでいた故に移住への熱意が薄く、関東の原日本人が督促しても、北九州に小さな分村を作る程度に留まっていたとすると、沖縄系縄文人の渡航遅れの理由が際立ち、歴史の解釈に現実性が増す。

つまり温暖になっただけでは北九州への移住者は殆どなく、海面が急上昇し始めると移住希望者が急増したが、沖縄と九州は離れているから当時の原日本人の海運力では、膨大な人口に膨れ上がっていた沖縄の原日本人を、全て移住させるには時間が掛かったし、堅果類の樹林形成が進展しなければ、多数の縄文人を九州に迎える事も出来なかった。そうこうしている内に黒潮が沖縄の沿岸に迫り、殆どの原日本人が沖縄に取り残される結果になったとすると、理論的な推理から生まれる無味乾燥なストーリーに、視覚的な現実性が加味される。

上記の想定ではひたちなか市の土器は、九州に入植した先遣隊が製作した事になるが、発掘量が信濃川流域と比較して貧弱なのは、遺跡を保存した場所として、十日町の河岸段丘の様な適地がなかったからである可能性はあるが、それだけではなく、提供できる土器の数が少なかったからである可能性もある。北陸縄文人は新潟に入植したから、新潟の原日本人の要望に応えて次々に土器を製作し、狩猟民に配布する事ができたが、関東の原日本人は九州から土器を持ち込まなければならなかったから、その数に限りがあった疑いもあるし、九州に上陸した縄文人は新潟に上陸した縄文人より数が少なかったから、土器の供給量自体が少なかった可能性もある。

縄文中期の八ヶ岳山麓から発掘された多彩な土器を見ると、土器製作にそれほどの労力は必要なかった様に見えるが、入植直後の多忙な日々を過ごしていたmt-M7aが、自分の生活に関係がない土器を次々に生産する、時間的な余裕は乏しかっただろう。この時代の土器が脆く壊れ易かった事は、土器の製作に歩留があった可能性も示唆している。歩留の概念は消費者や物流業者には分かり難いが、土器も工業製品だから粘土の材質や焼き上がり具合の可否により、最終工程で既に破損していたものや、使い慣れた者には完成品とは見做せない不具合品が、無視できない割合で含まれていた可能性もある。mt-M7aが良心的な女性であれば、他人に譲渡する土器は厳しい評価に耐えられる、上質のものでなければならないと考えていた可能性もあるだろう。

関東の原日本人の土器の供給力が明らかに劣っていた場合、どちらの部族にも属していなかった狩猟民は、土器の配布が潤沢な新潟の原日本人と交易する為に、信濃川流域に集まっていた疑いは拭えない。北陸の原日本人は日本海の氷結が解消すると、シベリアから南下して来る狩猟民族と接触して獣骨を入手するために、一部が北陸に帰還し始め、日本海が正常な海になると、続々北陸に帰還して石垣島の原縄文人の食糧事情が、厳しくなる事態に陥った可能性が高い。従って新潟の気候が堅果類を栽培できるまで温暖化すると、直ぐに多数の縄文人が入植したと想定される。従って15千年前頃の日本の縄文人人口は、新潟の方が圧倒的に多かった可能性がある。

氷期の寒冷な気候は、北アメリカの西岸で極度に冷やされた北太平洋亜熱帯循環が、冷たい暖流として北上し、寒冷な気候をもたらしていたから、黒潮に洗われる太平洋沿岸は特に冷涼だったが、その冷気が中部山岳地帯で遮られ、温暖化した大陸の気候の影響を受け易かった日本海沿岸は、後氷期の温暖期は九州より温暖だった可能性が高い。つまり石垣系縄文人は沖縄系縄文人に先駆け、新潟への移住を開始したが、その開始時期は沖縄系縄文人より千年以上早かった可能性がある。

その様な時期が過ぎた13000年前から、神子柴系石器群と呼ばれる狩猟民の遺跡が登場し、細石刃文化を塗り替える様に北海道から本州に拡散した。大型で丸鑿の形をした片刃の磨製石斧、大型で木の葉形をした槍先形尖頭器、石刃を素材とするスクレイパーと彫刻刀形石器があり、断面が三角形の錐、半月系の石器、有茎尖頭器、矢柄研磨機、石鏃などを伴い、土器を含む遺跡もある。この石器文化の保有者は磨製石斧を使って樹木を伐採していた事と、細石刃を使わない代わりに、矢柄研磨機と石鏃を伴っていた事に特徴がある。細石刃文化の要素も継続していたから、細石刃文化は大陸起源であると主張する考古学者は、アムール川流域から沿海州に起源をもつと言っているらしいが、この文化を生み出したのは細石刃文化を持った信越地方の集団で、それが日本各地に拡散したとの見解もある。

後者が正しければ、縄文人を日本列島に入植させて人口を増やした、関東部族と北陸部族の双方から旺盛な獣骨の需要に応える為に、信越地方に集住した狩猟民族が、この文化を生み出した事になる。矢柄研磨機と石鏃が出土する事は、狩猟具が細石刃を埋め込んだ棍棒から弓矢に変わった事を示唆しているが、弓矢は関東部族が呼び込んだ沖縄系縄文人の文化だから、土器の配布が遅れた為に獣骨の入手に困難を感じていた関東部族が、起死回生の策として打ち出した狩猟民族との交易手段が、弓矢技術の提供だったと推測され、それらによる狩猟文化の高まりが御子柴系石器文化を生んだのであれば、歴史的に整合した見解になる。

既に指摘した様に、アサは縄文人の栽培種になっていたから、用途に応じて品種改良されていたと想定され、弓矢や釣り針を持たない石垣島系縄文人が栽培していたアサの主用途は、磨製石斧固定する用途から離頭銛や造船に拡大されていたとしても、太い綱を提供する事だったと想定される。沖縄系縄文人はその用途に加え、弓の弦や釣り糸用のアサも栽培していたから、それに対応できる品種として極めて細いが強度が高い紐にもなる、繊維が細いアサも栽培していたと考えられる。

苧麻(からむし)から作る上布が北陸部族の特産品になった事は、縄文時代の北陸部族には苧麻が必要だった事を示唆しているが、縄文時代の早い時期に彼らが苧麻を必要とした理由は、関東部族の様な細い麻紐を作れるアサを、栽培できなかったからだとすれば話は整合する。

狩猟民族の狩猟具が細石刃から弓矢に変わった事は、関東部族が獣骨の収集力を高める為に、弓矢を支給して劣勢を巻き返した事を示唆している。九州に沖縄系縄文人が入植してから2千年経っていたから、沖縄系縄文人の数が増えてアサが多量に生産できていただけではなく、土器も多量に生産して狩猟民族に配布していた事になるが、ヤンガードリアス期の寒冷化が始まると北陸が九州より寒冷になり、北陸から福井に南下しなければならない混乱状態が生れたから、北陸部族と関東部族の力関係が逆転した可能性ある。九州縄文人もヤンガードリアス期の寒冷化に苦しめられたが、それを凌いだ状況は節を改めて検証する。

細石刃時代の狩猟民族の遺跡からは、土器が発掘されていないのに、御子柴系石器時代の遺跡から土器が発掘されるのは、沖縄系縄文人の土器の生産量が北陸系縄文人のそれを凌いだ事を示唆している。北陸部族の縄文人はY-O2b1だけだったが、九州縄文人にはY-C1Y-O3a2aも共生していたから、食料生産の安定性に優れていた上に、九州縄文は関東部族以外の複数の漁民部族から援助を受けていたから、豊富な海産物を得ていたとも言える。従ってヤンガードリアス期が始まった13千年前には、沖縄系縄文人の人口は石垣島系縄文人の人口を凌ぎ、ヤンガードリアス期が終わった12千年前には大差が付いていた可能性が高い。

超温暖期になると九州と山陰の三つの漁民部族が、九州縄文人の一部と共に東北に移住したから、ヤンガードリアス期は彼らが九州縄文人と、良好な人間関係を構築する絶好の機会だったと考えられるし、逆にそれがなければ、温暖になると早々に一緒に東北に移住した事を説明できない。

御子柴系石器群には投げ槍に使ったと想定される有茎尖頭器も含まれているから、弓矢が主要な狩猟具になっていたのか否かは定かではない。弓矢を扱う事はできたが高度な操作技術を得ていなかったから、使い慣れた投げ槍を多用した可能性もあるし、矢柄研磨機では真直ぐな矢が作れなかったから、命中精度に難があった可能性もある。いずれにしても狩猟民族が使い慣れた黒曜石で矢尻を作り始めた事により、黒曜石の存在を知らなかった沖縄系縄文人が使っていた弓矢が、一層強力な狩猟具になった事は間違いない。

海洋漁民がアサを多量に欲しがった理由は、獲物に刺さると抜けない様に返しを付けた銛に、綱を付けて投げ槍の様に使い、魚を手繰り寄せる為だったと想定される。縄文時代には、回転離頭銛と呼ばれる大型魚を捕獲する漁具があったが、この頃の銛も回転しながら獲物に食い込むと抜けなくなる高度なものだったのか、返しを付けただけの単純なものだったのか分からないが、いずれにしてもこの頃には離頭銛があり、アサがその為の必需品になっていたと想定される。海洋漁民が縄文人との共生を強く願った理由になる物品は、それ以外には想定できないからだ。

回転離頭銛は脱着可能な柄が付いた銛で、それを投げて獲物に刺さると、柄は銛から抜け落ちるが銛が獲物に食い込み、抜けない構造になっているから、長いロープを銛に付ければ大型魚を手繰り寄せる事ができる。柄を固定した銛は、大型魚やイルカが暴れると柄が折れてしまうから、離頭銛は大型魚や海獣を捕獲する漁具だった。

離頭銛を使う為には細く長いロープが必要だから、良質なアサの大量入手が必要だった。シナノキのロープは剛性が高く、投げた際の命中精度が極度に低下するから、大型魚を獲物にしていた海洋漁民には縄文人のアサが必要だった。原日本人は骨で作った返しのある銛を使ったと想定されるから、その進化の先に離頭銛があったと想定されるが、原縄文人からアサが支給されて初めて、綱を付けた離頭銛が生れた可能性が高い。

性能が良い離頭銛は石器では作れないから、大型獣の獣骨や角が必要だったが、アサが更に多量にあれば漁網を使う漁法も生まれ、延縄の様に多数の釣り針を使う漁法も生れたと考えられる。縄文早期の佐賀県の東名遺跡から優れた網籠が発掘された事は、網を使う漁法も縄文人の発明だった可能性が高く、既にアサを持っていた縄文人が網を編んでいたと考える事は、極めて常識的な推測になる。考古学者は発見事例がなければ存在を認めないが、その様な発想は古代人を貶める事に繋り、考古学者としての資質を問われる事にも繋る。

 

4-2 九州に上陸した縄文人

15000年前は五島列島と九州が陸続きで、その間に沖積平野が広がっていた。縄文人は五島列島と平戸島の間の盆地に定着し、堅果類の樹林を形成したと想定されるが、今は海底だから痕跡は発掘できない。狩猟民が獲物と土器を交換したから、その土器が長崎県の福井洞窟や泉福寺洞穴から発掘されたが、その狩猟民が細石刃を使い、弓矢を使っていなかった事は興味深い。原縄文人の弓矢は小動物を捕獲する道具に過ぎなかったから、獣骨に商品価値がある大きな動物を狙っていた狩猟民には、興味がなかったのかもしれないが、縄文人が狩猟民に警戒心を抱き、弓矢の技術を伝授しなかった様にも見える。

縄文人とシベリア系狩猟民は全く異文化の狩猟者で、積極的に交換したい物品はなかったから、縄張り意識が先立って互いに警戒していた可能性は高い。Y-C1は純粋な狩猟民族で、Y-O2b1も栽培系狩猟民族だった。入植した当初のY-O2b1は堅果類の樹林形成だけでなく、海洋漁民が待ち焦がれていたアサを栽培する場所も、樹林を伐採して確保する必要があったから、狩猟に手が回っていなかったかもしれない。しかし長崎県は蛇紋岩の産地だから、磨製石斧の製作に不自由はなく、入植当初は原生林の伐採に精を出していたかもしれないが、入植して何百年も経てば狩猟者に戻っていただろう。

従って両者の縄張りの調整には、原日本人が仲介の労を取る必要があった。縄文人はアサの栽培者であり、漁民がそれを使う事によって獣骨や角の需要を高めていたから、狩猟民族が縄張りを主張して縄文人を排斥する事はできなかったが、海面上昇によって陸地が狭くなっていく時代だったから、両狩猟者の縄張りの調整は難しかったと推測される。Y-O2b1は堅果類の樹林形成に専念し続け、Y-O3a2aは河川漁労に専念していたとしても、狩猟民族だったY-C1は民族存続の危機に立たされた。しかし縄文人のY遺伝子比率が現在まで保存されている事は、調停が成功した事を示している。

縄文人が上陸した頃の北九州は現在の関東の様な気候で、沖縄時代より豊かな石材や大きな河川が、食料生産の幅を広げていたから、縄文人は徐々に人口を増やしたが、九州への渡航者が度重なる海難に遭って後続が絶たれたから、沖縄に帰還する道が閉ざされた事に不安もあっただろう。

この時期の縄文人が北陸より南にある関東に渡来しなかったのは、関東では夏になると冷たい太平洋の風が吹き、気温が上がらなかったからだと推測される。海水温が低かった時期には夏の太平洋高気圧が極めて強力で、冷たい風を日本列島の太平洋沿岸に吹き出していたからだ。

ヤンガードリアス期に大陸が寒冷化するとこの事情が逆転し、北陸が大きく寒冷化したから、石垣系縄文人は温暖な地域に南下する必要に迫られたが、北陸の原日本人の縄張りの範囲内では、北陸より多少温暖な山陰しか選択肢がなかった。出雲には別の部族がいたから、福井が石垣系縄文人の集積地の南限になり、まだ僅かに平地が残っていた海岸の低地で、ブナ、コナラ、オニグルミなどを栽培したと想定される。それ以前の福井には、亜寒帯性の氷期の気候に耐えた植物しかなかったが、縄文人が持ち込んだ南方的な植物要素が、この時期の福井に突然急増したから、水月湖の湖底の花粉を分析している人が、それを気温の上昇と勘違いしている疑いがある。しかしその花粉は温暖化を示すものではなく、北陸が寒冷化した事を示すものだから、日本の気候評価を混乱させている。歴史学者が縄文史を偽る事により、古気候学者が混乱する典型的な事例と言えるだろう。

水月湖の湖底に残されたコナラの花粉とされているものは、実はミズナラの誤読である可能性もある。この時期の石垣系北陸縄文人が、入手できる範囲内で最も耐寒性が高い堅果類を栽培していたのであれば、それはコナラではなくミズナラだったからだが、コナラも懸命に栽培していただろうから、混在している可能性が高い。栽培化されていなかったミズナラの生産性は低く、気候の寒冷化によって生産性が落ちたコナラと比較し、それほど有利な栽培種ではなかったと想定されるからだ。

気候が寒冷化して堅果類の栽培が困難になっても、彼らがアサを栽培している限り、原日本人の掛替えのない共生者だったから、その様な縄文人は原日本人から海産物の支給を受け、飢える事はなかっただろう。しかし九州に上陸した沖縄系縄文人と比較すると、植物性食料の自給率はかなり低下し、人口の増加は抑圧されたと想定される。北陸縄文人に多数のmt-M9が含まれていたのは、ソバの生産性はこの時期にも大きく落ちなかったから、mt-M9mt-M7aを浸潤した事を示唆している。

現代沖縄人にはmt-M9が含まれているのに、関東縄文人にmt-M9が含まれていないのは、縄文早期に台湾から渡来したmt-B4mt-M9を浸潤したからだと想定する場合には、九州に上陸した縄文人にはmt-M9が含まれていた事が前提になるが、堅果類の樹林を形成する為の先遣隊には、mt-M9は含まれていなかった可能性もあり、この観点に立てばmt-M9を含んでいた北陸縄文人は、石垣島から全員が北陸に渡来した証拠を示している事になる。

関東部族と東北部族は縄文時代に大陸から穀物栽培を取り入れたが、北陸部族はアワなどの冷温帯性の植生を取り入れ、関東部族は稲作などの暖温帯性の植生に拘った。ヤンガードリアス期が終わったのは1万2千年前で、北陸部族がアワ栽培者だったmt-Dを取り込んだのは1万年前、関東部族がmt-B4を台湾から迎えたのは1万年~9千年前だったから、ヤンガードリアス期の経験の違いが、両者のその後の方針に影響した疑いがある。

九州に上陸した沖縄系縄文人の話に戻ると、15千年前に九州に上陸してから温暖な気候が2千年続いたが、13千年前にヤンガードリアス期が始まると、九州も寒冷化した。それによって堅果類の生産性が低下し始めた頃に、九州に入植してから営々と作り上げてきた堅果類の樹林が、海面上昇によって水没した。原日本人は漁民だったから、海面上昇に対する恐怖感は乏しかったが、生産性が高い樹林を形成するのに何百年も掛かった縄文人には、極めて深刻な問題だった。沖縄にいた頃にも、島が徐々に狭くなって行く事を経験し、それを恐れて九州に上陸した様に見えるが、九州に上陸した縄文人の多数派は、それを経験する前に沖縄を離れた開拓精神が旺盛な人々の子孫だったかもしれないし、沖縄では島が海に沈み込んでいると錯覚していたかもしれない。

しかし彼らが入植した平原も水没し始めると、海面が上昇している事に改めて気付き、海に対する恐怖感が募った。その後の5千年間海面が上昇し続けると、縄文人はその恐怖感を持ち続け、住居と樹林を海抜100m以上の高台に形成した。

福井県の縄文早期の遺跡も、当時の海抜で100m程度の高台に営まれたから、北陸の縄文人も同じ経験を共有したと推測されるが、この恐怖感は堅果類の栽培者に特有のものであって、イネ科植物を栽培していた民族にはなかった。

この時代の縄文人は九州に上陸して形成した樹林を、海面上昇によって失う挫折感を経験すると、それを子孫に伝承していた事は間違いない。それが何千年も伝承された事に疑問を感じるかもしれないが、堅果類が豊かに実る樹林は、何十世代にも亘って継承されたから、祖先の偉業に対する尊敬の念は他の栽培民族より格段に強く、祖先の履歴を強力に伝承する事が、堅果類栽培者の特徴だったと想定される。それがこの時代の縄文人の、一つの文明観だったと言っても良いだろう。此処で云う「文明」は社会秩序を形成性する意識体系を指し、物質文化を進化させる知的体系である「文化」とは区別している。縄文人のその様な文明観を示唆する事例は、縄文時代になっても発揮されたから、縄文人の活動期の項でも触れる。この文明観は漁民が持っていた、シベリア的な部族主義と並置するべきものだった。

堅果類の栽培者が先進的な文明観を持っていた事は、mt-M7cを母体とした台湾の民族が、南太平洋とインド洋を股に掛ける大海洋民族になり、mt-M7bを母体とした浙江省の民族が良渚文化を形成し、中華的な法治主義の起源民族になった事が証明している。

シベリア起源の秩序観である部族主義を守っていた海洋漁民が、その様な文明観を持った縄文人を統括した地域が日本列島だった。それ故に、縄文人独自の文明観は見え難く、文化の変遷は追い易いから、縄文文化が稲作文化に転換した事に着目し勝ちになる。つまり日本列島を東洋一の稲作列島に変えたのは、湖北省から渡来したmt-Fが持ち込んだ温帯ジャポニカで、それを台湾から渡来したmt-B4が自分が栽培化した熱帯ジャポニカと交配させ、品種と農法を改良して、日本式稲作として日本列島に定着させた歴史に注目すると、縄文文化は稲作文化の前段階で、稲作が始まると縄文文化は後退した様に見える。しかし漁民と共生して縄文文化を確立し、日本列島を産業社会化したのは、堅果類の栽培者の子孫である縄文人の文明的な下支えがあったからだと考える必要がある。

その様に言われても実感が湧かないかもしれないが、中国人が歴史に拘り、それを文明の重要な局面としているのは、越人の歴史観を歪な形で継承しているからである事を理解すれば、少し実感が湧くかもしれない。経済活動の成熟期の項で説明するが、秦が越人を追放してしまった後の中華世界に、越人が残した歴史観が現在の形で残存している事を知れば、実感が湧くだろう。越人の文明観では、正しい歴史認識が社会秩序の根源だったからだ。

「文明」という言葉は王朝史観によって作られ、農耕の発展による都市の形成や、文字の使用を前提に規定されているから、その意味を伴う言葉はこのHPの歴史観には馴染まないが、新たに造語すると却って理解し難いから、このHPでは社会秩序を形成する知識体系を「文明」と呼び、社会を豊かにする物質の生産技能を主体とする知識体系を「文化」と呼ぶ。この定義に従うと、15千年前の九州縄文人は祖先伝承を基底とする文明を維持していた事になり、北陸部族のアワ栽培者もその文明を共有していたから、この文明は3万年前の原縄文人が持っていた事になり、上に示した暖温帯性の堅果類の栽培者とも共有していた可能性が高い。従って堅果類の栽培が始まった4万年前に、この文明が萌芽した可能性を指摘できる。

シベリアの狩猟民族は原縄文人の祖先と共生した5万年前に、既に部族秩序を基底として他民族との共生を許容する、独自の文明を形成していた事になる。部族秩序には先取権主義があり、それにも祖先伝承は関与するが、事実認識だから、それを秩序認識に結び付ける発想とは違う事は、容易に理解できるだろう。

Y-ON以外の Y-Fについては、Y遺伝子の系譜と民族の興亡がリンクし、血族集団の歴史としてその軌跡を追跡できる事を、遺伝子分布が示している。つまりY-F系の民族では、共通の男性祖先を持つ血族集団の組織力が、民族の興亡史を形成したと考えられるが、縄文人や倭人の歴史とは関係がない歴史なので、その実態は検証しない。Y-ONはその文明の後継者だったが、堅果類の栽培者として独自の文明を生み、シベリア文明の影響も受けて秩序認識を変えたからだ。それ故にY-OY-Nは一部の例外を除き、民族の興亡とY遺伝子の分布が一致しない。その最右翼である縄文人の場合、共生していたY遺伝子群は比率まで温存し、特定のY 遺伝子が他者を排斥した痕跡はないが、部族の興亡を縄文史として追跡する事ができる。

 

4-3 ヤンガードリアス期に気候が寒冷化し、北陸縄文人は各地に南下した

13千年前にヤンガードリアス期が始まり、気候が冷涼化した。北陸に上陸した石垣系縄文人は漁民との共生生活が長く、自活できる狩猟系栽培民族ではなくなっていたから、日本海沿岸を南下したと想定されるが、隠岐を中心とする山陰には北陸部族ではない別の部族がいたから、彼らの南下は福井止まりだったと想定される。

13千年前の滋賀県の相谷熊原遺跡から、5棟の大型竪穴住居跡が発見され、その中から土偶、土器、矢柄研磨器、石鏃が発見された。後氷期初頭に急速に温暖化した後、13千年前から寒冷なヤンガードリアス期が始まったが、未だ酷い寒冷期に至っていなかった頃のこの集落は、多くの情報をもたらしてくれる。

相谷熊原遺跡は琵琶湖から離れた盆地の端の、標高200m余の斜面上にある。現在の琵琶湖の水位は海抜84mだが、縄文草創期には現在の盆地の平坦部全てが、琵琶湖の湖底だったと考えられるから、この集落は当時の琵琶湖畔で、漁労を行っていた人々の住居址だったと想定される。発掘された遺物の中に土偶があった事は、Y-D系の男性がいた事を示唆しているからだが、堅果類をすり潰したと思われる石器や土器が含まれている事は、mt-M7a女性もいた事を示している。竪穴式住居の深さが1mもあって気候が寒冷だった事を示しているから、堅果類が高い生産性を得るには冷涼だったが、縄文人が漁民と共生する事によって基底的な縄文文化を維持しながら、漁労によって食料を得ていた人々の集落だったと考えられる。

相谷熊原遺跡の土器は形式が古いものだけなので、土器の製作技術が進化したヤンガードリアス期の最寒冷期には、住民は此処を離れたと考えられているが、それについては再考する必要がある。原日本人のどの部族も拠点化していなかった琵琶湖畔に、漁民と縄文人がいたという変則的な事態に何らかの説明が要るからだ。

最も可能性が高いのは、北陸が寒冷化して堅果類の栽培が不可能になった北陸縄文人が、この地域に南下して堅果類の栽培を継続していたとの想定になる。北陸縄文人は石垣島での共生生活により、ドングリの栽培と狩猟だけで自活的な生活をする事は出来ない人達になっていたから、彼らが避寒地としてこの地域を選択した場合、海洋漁民が琵琶湖に出向いて漁労を行い、石垣島系縄文人の食生活を支援しながらアサの栽培を期待していたとすれば、ヤンガードリアス期の寒冷期の初期段階として、あり得る事だったからだ。

ヤンガードリアス期になると大陸は直ぐに冷涼化し、北陸もその影響を受けて冷涼化したが、黒潮は直ぐには低温化しなかったから、太平洋沿岸の方が相対的に温暖になったと想定されるが、北陸部族は太平洋沿岸に進出する事はできなかったから、琵琶湖岸で我慢したとすれば、部族行動としても理解できる。

住居址から漁具は発掘されていないから、立地条件だけで住民に漁民が含まれていたと考える事に、疑念があるかもしれないが、琵琶湖岸に立地を求めた事は、漁労との関係があった事を示唆している。それだけではなく、縄文草創期の九州縄文人の遺跡にはなかった大型竪穴式住居があり、それは原日本人の住居形式だったと考えられるので、住民の男性に漁民が含まれていたと考えられる。

その根拠として、狩猟民族はテントや洞穴で暮らしていた筈であり、この時期の九州縄文人の遺跡から立派な燻製炉は見付かっているが、竪穴式住居跡は発掘されていないから、原縄文人には竪穴式住居を作る習俗はなかったと推測され、消去法で考えると、竪穴式住居は漁民の住居だったと考えられ、それを詳しく論考すると以下になる。

相谷熊原遺跡より千年時代が降る九州縄文人の遺跡から、立派な燻製炉だけではなく、この遺跡の土器より先進的な土器が発掘されているが、竪穴式住居は発掘されていないから、原縄文人には竪穴式住居を使う習俗はなかったと推測される。南方から来た縄文人に耐寒建築である竪穴式住居の起源があったとは考え難い事も、この推測に妥当性を与える。しかし北陸に上陸して海洋漁民と共生していた石垣系縄文人は、北陸の原日本人に倣って竪穴式の住居を使っていた可能性があり、それが相谷熊原遺跡にも引き継がれた可能性がある。

氷期から後氷期初頭の狩猟民は、磨製石斧を使った痕跡がないから、彼らには木造建築物を作る習俗はなく、長崎県の遺跡の様な洞窟や、毛皮で作ったテントに居住していたと考えられる。北海道の氷期の遺跡や細石刃を伴う遺跡でも、竪穴式住居は発見されていないから、シベリアの狩猟民族には竪穴式住居を作る文化はなかったと考えられる。この時代の細石刃を伴う本州の狩猟民族の遺跡も、竪穴式住居を伴っていなかった事が考古学的に指摘されている。

従って温暖化した縄文早期の北海道で竪穴式住居が作られ始めたのは、九州から移住した原日本人の習俗に依ったと考えられ、縄文草創期の竪穴式住居は漁民の住居だった可能性が高い。再三述べてきた様に、漁民は氷期から磨製石斧を使って海洋を航行する木造船を作っていたから、木材を多用する竪穴式住居は、技術系譜としても漁民発祥であると考える事が妥当であり、狩猟民や堅果類栽培者が起源だったとは考え難い。冷温帯性の堅果類の栽培者にも、磨製石斧を使って樹木を伐採する技能はあったが、太い木材を使って木造船を製作していた原日本人には、それとは比較にならない高度な技能があったからだ。

視野を広げて考察すると、寒冷な気候から身体を保護するためには、狩猟民族は毛皮を使って住居や衣類を作る事ができたが、毛皮を豊富に持たない漁民にはできなかったから、氷期の最寒冷期になった3万年前以降、漁民が選択できる耐寒性の高い住居は、竪穴式しかなかった。海上で櫂や漁具を使う海洋漁民の衣類は、陸上で獲物を追う狩猟民族より貧弱なものだったと推測されるし、漁労の最中に冷たい水に濡れれば、帰宅して室内で火を焚く以外に暖を取る手段はなかった。従って漁民式の竪穴式住居は、3万年前を待たずに生まれていた可能性が高く、その1で示唆した様に北陸や関東の原日本人は、日本列島に南下して狩猟民族から経済的に独立し、湖沼漁民になった時点で竪穴式住居を使わざるを得なかった可能性が高い。

その様な住居を建設する場合、濡れた体を乾かして温める為に、狭い住居で火を焚くと煙が室内に充満するから、室内を広くする事も必須だった。そのために多数の材木を伐採する必要があったが、原日本人はそれに必要な技能を備えていた。堅果類の栽培者が樹林を形成するためには、樹木を伐採して除けば良いだけで、それを何かの素材として使う必要はなかったから、木材の加工に高い関心を持つ必要はなかったが、船や仕掛けを作る必要があった湖沼漁民は、樹木や萱などの伐採能力や、植生の材質に関する用途別の知識を、豊富に持っていたと考えられる。

海岸で生活していた漁民の住居址は、上昇した海面に飲み込まれて消滅したが、相谷熊原遺跡の住民は湖岸で漁労を行ったから、漁民の住居様式が発掘される機会を得たと考えられる。湖は流出口が侵食されて湖面が低下していくから、この時期の海岸とは逆の環境にあり、遺跡が湖水に飲み込まれる事はなかった。しかし住居が川洲の上にあった場合は、湖面が低下すると川洲は痕跡を遺さずに消滅したから、集落跡は残らなかったが、幸いにも川洲ではなく地盤が固い丘陵上にあれば、その部分だけは保存された。従って相谷熊原遺跡の住民は湖沼漁民を含んでいたが、湖沼漁民の住居があった川洲は消失し、縄文人の住居址だけが残っている可能性も高く、竪穴式住居を作る文化は海洋漁民と共有していたと考える事に支障はない。

魏志東夷伝に記された挹婁(ツングース系民族)の住居は竪穴式で、「階段で降りるほどの深さによって寒さを防ぎ、中に便所がある汚い空間」だったが、焚火で温められる空間を形成していたから、氷期の原日本人の竪穴住居もその様なものだった可能性が高い。挹婁は「ブタの脂を体に塗って寒さを凌いでいた」とも記され、波が被る海洋や河川で漁労を行うのに相応しい防寒技術だから、挹婁の文化はシベリアの河川漁民のものだった可能性が高い。海洋漁民も古い時代から同様な文化を持っていたとすると、アザラシなどの海獣から得ていた可能性もあり、4万年前の湖沼漁民の時代にその文化が生れたとすると、シベリアの狩猟民族との交易品だった可能性もある。

現在より冷涼だった縄文草創期が終わり、縄文早期になって現在よりかなり温暖になると、九州の縄文遺跡から、それまでなかった竪穴式住居跡が発掘される様になる。気候が冷涼だった縄文草創期末の遺跡では、その様な遺構は発見されていないから、温暖化して生活に余裕が生まれた事により、竪穴式住居を使う習俗が生まれた事になる。竪穴式住居は耐寒建築物だから、温暖化した縄文早期に使い始めた事は辻褄が合わないが、縄文人の元々の住居は海洋漁民の住居より酷くみすぼらしかったから、生活に余裕ができると漁民の住居を真似て竪穴式住居を作ったと推測される。従ってそれは耐寒建築物ではなく、食料に余裕が生まれた縄文人が単婚家族化し、プライバシーを重視し始めた事を示唆している。沖縄系縄文人は栽培系狩猟民族として毛皮は十分に持っていた筈だから、雑木で作った簡単な住居の中で雨露を凌ぎながら毛皮の衣類を着け、寒い冬を過ごしていたのではなかろうか。

東日本で作られた縄文時代の竪穴住居は、土で覆われていたと指摘する人がいるが、縄文早期の九州の竪穴式住居はその様なものではなく、簾で視界を遮る程度のものだったのではなかろうか。縄文人に海産物を支給し、縄文人が収穫したアサを関東に届けていた漁民が、極めて温暖化した縄文早期にその様な住居を作り始めたから、縄文人がそれを真似たと想定されるが、真似された漁民集落は海面上昇に飲み込まれて残っていない。

相谷熊原遺跡から矢尻と矢柄研磨器が出土したが、この時期の九州縄文人の遺跡では、矢尻は発掘されるが矢柄研磨器は発掘されない。矢柄研磨器は縄文草創期の代表的な石器で、九州以外の遺跡から多数発掘されるが、弓矢文化を日本にもたらした縄文人は使っていなかった。温暖化した縄文早期になると、本州でも矢柄研磨器は発掘されなくなり、その理由は謎とされている。

九州縄文人は矢柄研磨器を使う必要がなかったが、アサが入手可能になって弓矢文化が普及した縄文草創期の、本州や四国(本州や九州と陸続きだった)の狩猟民には矢柄研磨器が必要だったとすると、その謎は容易に解ける。

後世の事だが邪馬台国を訪れた魏の役人は、「倭人は竹の矢を使っている」と記している。古墳寒冷期に向かっていた時期の、冷涼な華北には竹が生えていなかったから、魏の役人には竹の矢が珍しく見えたから、この記事を特記したと推測される。矢を作る際に竹があれば竹を使うが、竹がなければ木製にするしかないから、華北から来た魏の役人には竹の矢が珍しかった事を示している。

氷期が終わった直後の日本列島はまだ寒く、温帯性の植物である竹は移植できなかったから、本州の狩猟民は木製の矢柄を使わざるを得なかったが、縄文人は台湾から竹も持ち込んでいたから、九州にいた縄文人だけが竹の矢を使い、木製の矢柄を使う必要がなかったと想定すると上記の謎が解ける。

相谷熊原遺跡の矢柄研磨器は砂岩系の石材で作られ、被熱した痕跡を遺しているから、生木の枝から矢柄を削り出す際に、矢柄研磨器を加熱して樹皮や突起の研磨効率を上げ、矢の直線的な形状を形成したと想定される。しかし縄文早期に温暖化して東日本でも竹が栽培できる様になると、或いは九州産の竹が豊富に出回る様になると、その必要はなくなった事になる。

具体的に言えば、縄文早期になると東北地方にも竹を移植する事が可能になり、木製の矢柄を使う必要がなくなったから、矢柄研磨器も不要になったと考えられる。日本に多いマダケの現在の北限は青森だから、現在より4℃程温暖になった縄文早期後半には、北限は青森以北に北上したと考えられ、東北縄文人が入植した道南が北限だったと推測される。従ってまだ海洋が温暖化途上にあった、縄文早期初頭の真竹需要は九州縄文人が賄い、温暖化するに従って北上したとすると、東北縄文人が北海道南部に入植したのは1万年前頃だったと想定される。

13千年前の琵琶湖畔は、竪穴式住居の穴が1mも掘られる程に冷涼だったから、現在の青森の様な気候になり、堅果類の栽培が限界的な状況で、竹は生育しなかったと推測される。コナラより竹の方が寒冷な気候に弱いから、当時の琵琶湖畔ではコナラは実を付けたが、タケは生育しない気候だった事になる。

上記の関係からヤンガードリアス期の気候を復元すると、初期の平均気温は現在より3℃ほど低く、九州南端に縄文人が閉じ込められた最寒冷期には更に3℃低下し、鹿児島の気候が仙台~青森の気候になったと想定される。それを当時の竹の栽培の適否に当て嵌めると、九州南端でも竹の北限を僅かに下回る気候だったが、矢柄に使う程度の細い竹であれば、栽培はできたと想定される。自然界の北限はその種の生存北限ではなく、耐寒性が高い他種との生存競争に勝てなくなる北限だから、人が人為的に他の植生を除いて環境を整えれば、北限は北に延びる。従って縄文人は竹も縄文文化として持ち込み、矢柄の素材にしたり筍を食べたりした事が明らかになる。

相谷熊原遺跡が石垣系縄文人と北陸部族の漁民の集落だったとすれば、13千年前に矢尻と矢柄研磨機を使い始めたのは、御子柴系石器を使ったシベリア系狩猟民族だけではなく、石垣系縄文人にも弓矢が普及していた事になる。その場合には、矢柄研磨器を発明したのは北陸縄文人だった可能性も浮上する。石垣島系縄文人も竹を栽培していた可能性が高く、漆を栽培していた証拠もあるから、弓矢を作成する素材は揃っていたからだ。細石刃や尖頭器を扱って獲物を仕留めるには、高度な狩猟技能が必要だが、石垣系のY-O2b1にはその様な技能がなかった上に、石垣島にはいなかった、日本列島の多彩な動物を狩らねばならなかったから、彼らも知恵を絞る必要があったからだ。弓矢を使う一人前の狩猟民族になる事は難しかったが、細石刃や尖頭器より取っ付き易い狩猟具である事は、直感的に分かるだろう。

その様な石垣系縄文人はヤンガードリアス期になって竹の収穫が見込めなくなると、矢柄研磨機を発明せざるを得なくなった。この発明に依り、細石刃を使っていた狩猟民族が弓矢を使い始めたのであれば、北陸部族には痛い誤算だった。

縄文人の九州上陸以降の気候と、縄文人の移動の軌跡を改めて確認すると、15000年前に現在の関東地方の様な気候の、長崎・五島列島の間の丘陵に上陸したが、ヤンガードリアス期の最寒冷期になると現在の青森より寒冷化したから、九州南端に退避せざるを得なくなり、堅果類だけでなくアサや竹の栽培にも難渋したが、アサの栽培や土器の製作を続けて原日本人に供給したから、細石刃文化に属す狩猟民族の遺跡が増加して御子柴系石器文化が生れたが、九州縄文人は自分の使用分しか矢竹を生産しなかったから、アサを使って弓を作り始めた狩猟民族は矢柄研磨機を使った事になる。この流れの中で矢柄研磨機が突然登場するためには、北陸にいた石垣系縄文人の登場が必要になるのではなかろうか。温暖化した後の九州縄文人の遺跡から、矢柄研磨機より大型ではあるが、同様の機能を持つ石器が発掘されたから、原縄文人がこの機能を石斧の柄などの製作に使っていた可能性が高い事も、上の想定の証拠になる。

日本列島の狩猟民族が弓矢を使い始めたのは、13千年前に始まった御子柴系石器文化期からで、この文化は青森まで拡散し、この文化期に矢柄研磨機が使われた。12千年前に気候が温暖化すると、御子柴系石器文化期が終わると共に矢柄研磨機は発掘されなくなり、弓矢が日本列島に本格的に普及した。御子柴系石器文化期の狩猟民族が黒曜石の矢尻を製作する技術を高め、九州で矢竹が増産されたから、それによって弓矢文化が完成して日本全国に普及したと考えられる。

弓矢文化の普及に伴って矢竹の栽培北限も北上したが、一朝一夕に青森まで北上したのではなく、耐寒性の向上も必要だった。1万年前に東北・道南部族が生れ、その際の栽培北限が道南になった事は、ヤンガードリアス期とそれ以降の耐寒性向上努力があり、魏の役人が倭人の竹の矢を奇異に感じた事は、日本の矢竹の北限と、中華の矢竹の北限が大きく異なっていた事を示唆しているからだ。当時の魏の領域は淮河の流域に至り、その気候は西日本に近いものだったが、魏の領域では矢竹を生産していなかった事になるからだ。

明治時代以降の日本の画家の作品が、海外の人の眼に触れる様になると、竹林に雪が積もっている絵は自然観が歪んでいると言われたが、日本には四季があるからと胡麻化したらしい。その様な情景は日本の特殊事情であるとすると、その原因はこの時代から矢竹が日本全国で生産されたからであると推測され、魏の役人の話と整合する。つまり縄文時代に気候が次第に冷涼化する中で、矢竹の需要が旺盛だった日本では矢竹の耐寒性を高めていったが、縄文時代に弓矢を使っていなかった中華では、竹の耐寒改良が行われなかったと想定されるからだ。つまり縄文時代の中華には弓矢文化がなかったから、この様な事態が生れたと考えられる。中華には縄文中期まで弓矢文化がなかった事は、経済活動の成熟期の項で改めて論考する。

琵琶湖岸に遺された相谷熊原遺跡と、南さつま市の志風頭遺跡や栫ノ原遺跡などを比較すると、未だ大陸時代の生活様式を残していた沖縄系九州縄文人と、漁民との共生が進んでいた北陸の石垣系縄文人の習俗を、比較することができる。南さつま市の遺跡には燻製を作る施設が沢山あったが、相谷熊原遺跡からその様な施設は発掘されていない事も、この遺跡の住民は沖縄系縄文人ではなく、石垣系縄文人だった事を示唆している。いずれにしても漁民が魚を貯蔵する方法は、燻製ではなく干物にする事だったと想定され、その事情は縄文草創期の東日本で使われた、魚脂痕のある土器の利用方法に繋がり、現在もその伝統が続いている。

⇐ 滋賀県の相谷熊原遺跡から発掘された土偶

相谷熊原遺跡を著名にした出土物に、造形美に優れた土偶がある。土偶は九州の縄文遺跡では発掘されていないから、九州に上陸した沖縄系縄文人には土偶を製作する習俗がなかったが、琵琶湖畔では漁民の造形文化と石垣系縄文人の土器文化が融合し、土偶が製作された事を示している。従って偶像の製作は、氷期から日本列島に居住していた原日本人の習俗だった事になるが、これを宗教遺物と決め付ける事は、縄文人が迷信世界に生きていたと誤解させる、不適切な解釈や表現に繋がる可能性がある。

粘土を捏ねて焼くだけであれば、土器を作る程の技量は必要ないから、この土偶を作ったのは男性だった可能性が高い。豊満な女性の肢体表現は、後の縄文時代の土偶だけでなく、ヴィーナス像を作ったオーリニャック文化との共通性も感じられ、原日本人がオーリニャック文化人と関係があった可能性も高める。但し現在発掘されるオーリニャック文化はY-C1狩猟民族の痕跡だから、100m以上深い谷底で漁労を営んでいた、河川・湖沼漁民の文化実態は分からない。

縄文時代のシベリアの狩猟民族や漁労民族は、独自の文化を高めた造形品は遺していないから、この文化はエジプトやオリエントの造形文化に繋がる、河川漁労民族の文化系譜だった可能性が高い。

 

土器の製作は縄文時代から弥生時代まで一貫して女性の仕事だったが、縄文時代を通して土偶を製作したのは男性だったと考えられるから、相谷熊原遺跡の土偶も男性が製作した可能性が高い。土偶に付いては縄文人の活動期の項で論考するが、概略以下の様な論点になる。

八ヶ岳山麓から秀逸な土偶が発掘され、極めて装飾的な土器も多量に発掘されるから、八ヶ岳山麓の土偶も女性が作ったと考えたくなるが、装飾的な土器を製作した女性達は、大陸時代にはその様な土器を全く作っていなかったから、日本列島に来てから、造形に関する創作意欲を高めた事になる。彼女達が造形美に目覚めたのは、Y-Dの造形文化に刺激されたからだと考える事に、合理性があるだろう。従ってY-Dの造形文化の一つの形態が土偶だったとすると、土偶の製作に流行期と下火になった時期があった事も説明しやすい。つまり男性の造形の基本は、遺物に残らない骨や角の彫刻で、土器を使う事に流行り廃りがあったと考える事ができるからだ。珊瑚の残骸が低地を覆っている沖縄では骨や角の保存性が良いから、日本列島では残らなかった骨を削った造形品が、沖縄の遺跡から発掘される事がその事情を示唆している。

漁労民族にとって獣骨は神聖な素材だったから、それを刻んで何かの象徴にする事には、宗教的な意味があっただろう。土器は縄文人の文化だから、土を捏ねる事によって造形美を発揮する事が出来ても、それは宗教性が薄れた人物像になり、獣骨の像とは異なった使い方が生れていたと想定される。

古墳時代の埴輪も男性が製作した可能性が高い事も、古墳時代の項で論考するが、集団意識の高揚を目的とした事は間違いない。しかしその意識が特定の偶像に収斂するのではなく、多数存在する事に意味があったとすれば、それは民衆の意識を重視する極めて日本的な特徴であると言えるだろう。

粘土を使ったY-Dの造形が、文字を持たなかった時代の情感の発露だったとすれば、宗教的なものではなかった可能性が高い。相谷熊原遺跡の土偶に関して言えば、胸の形が美しい女性を伴侶とした男性が、出掛ける際に伴侶を同伴する様な意識で持ち歩いたと云う様な、現実的な用途だった可能性があるからだ。

古代人が迷信的だったという認識は、古代人を貶めるために創作された王朝史観の空想的な産物だが、それが古代に対するロマンチシズムを刺激し、猟奇的な文学志向を生み出しているから、歴史を正しく認識する為には、その様なものから脱却する必要がある。厳しい自然と対峙していた石器代の人は、それに対処する総ての手段を自分の判断力に頼る必要があり、それに優れた者だけが生き残る厳しい時代を生きていたから、現代人顔負けの合理性や知恵を持っていた筈であり、その判断に迷信が入り込む余地はなかったと考えられる。

むしろ現代人の方が、言葉が発達し過ぎた時代に生きる人類として、また自分の判断に責任を持つ必要性が薄い時代に生きる人類として、実態のない認識が空疎な言葉で伝達され、抽象的な虚構を創っている。実態がないイデオロギーが流布され、人々がその真偽を論争しているからだ。常に事実に立脚して判断せざるを得なかった古代人には、想像もできない堕落した社会と言う事もできる。現代人は科学技術の進化だけを文明の進歩と捉える傾向があるが、その延長線上で石器時代の人の認識は解釈できない。

教義が整備されている宗教が高級な宗教で、野蛮な人類が進化する事により、その様な高級な宗教を持つに至ったとする主張も事実ではない。その様な宗教に浸ると、「野蛮な古代世界では迷信が蔓延り、人々はそれに苦しめられていたが、進んだ宗教の教義によって救われた」という迷信に至り、古代人を貶める様になるが、その様な宗教が悲惨な戦争を起こした事を忘れてはならない。

翻って日本人を見ると未だに多神教徒だが、それが戦争に繋がる事はない。多神教が科学的な思考を妨げるわけでもなく、その信徒の社会秩序の維持については、経典に書かれた宗教に囚われず、事情に即して判断する発想の自由を保護しているとも言える。多神教が社会の進化や福利の妨げになる事もないし、むしろ先進的な社会の形成に有利に働いている例を、日本文化に見る事ができる。

一神教にも存在理由はあり、古代人の知恵を現在に伝えている面はあるだろう。それを重視する事には意味があるが、その教義を伝えるために権威付けした絶対神が独り歩きし、その絶対性を争ったり冒涜されたと言って暴力に走る事は、本末転倒であると言わざるを得ない。

王朝史観に浸っている史学者は、「土偶を通して古代人の宗教観を解明する」と言うが、無責任な類推は幾らでもできるから、言った本人もそれが可能であるとは考えていないだろう。それによって古代人の合理的な感性を貶め、蒙昧だった古代人を王朝が文明化したとのプロパガンダに、利用しているだけの様に見える。

 

4-4 ヤンガードリアス期の九州縄文人

13千年前にヤンガードリアス期が始まって気候が冷涼化すると、九州縄文人は水没し始めた長崎県の入植地を放棄し、温暖な気候を求めて薩摩半島の南端(南さつま市)に逼塞した。大陸が寒冷化すると相対的に海洋の方が温暖になり、九州の南端が最も温暖な地域になったが、堅果類を栽培するには厳しい気候だった。彼らはそれにもかかわらず、海岸の吹き曝しの小高い丘の上に集落を形成した。

谷間は暖かく丘陵上は寒いから、気候が寒冷化している中で丘陵の頂上に住む事は、樹林の生産性の観点では不利な選択だった。自然環境に敏感だったこの時代の人が、その程度の事を知らなかった筈はないが、それでも丘陵上に集落を形成した事は、彼らの海面上昇に対する強い恐怖感を示してはいるが、それだけが理由だったとは考えにくい。恐怖感と共に高まった望郷の念を、原日本人に訴えていたのではなかろうか。彼らの集落は当時の入り江の奥まった場所にある、急斜面上の丘の頂部にあったからだ。

温暖化した後の縄文早期の遺跡ではあるが、彼らが移住した多摩丘陵の遺跡は丘陵裾部の小高い平坦地にあり、福井にある北陸縄文人の遺跡も、入り江に流れ込む川に面した急斜面上の平坦地に形成されたから、それらとは異なる特殊な場所だった。

南さつま市の志風頭(しかぜかしら)遺跡が営まれた12千年前は、ヤンガードリアス期の最寒冷期だった。この時代の気候は(10)縄文時代の導入項に示した、鹿島沖の水温から窺う事ができる。暖流の温度は現在より5℃低温化していた事を示しているから、鹿児島の気温が水温と同様に5℃低下していたとすると仙台の気候になるが、大陸から吹き出す風が更に気候を寒冷化しただろうから、現在の青森の様な気候になっていたと想定される。その様な気候ではコナラの生産性は極度に低下したから、栽培に慣れていなかった日本原産のミズナラも栽培し、堅果類の不足を補ったと推測されるが、ミズナラは栽培化されていなかったから、生産性は低かったと推測される。冷涼な気候帯の植生であるミズナラが、現在も西日本の山野に生えているのは、この苦しかった時代の記憶を失わなかった縄文人が、後世までミズナラを大切に栽培したからである疑いもある。

九州に上陸してから3千年経過し、縄文人の人口が増えていたから、関東部族の注文によって大量生産されていた土器は、生産過剰になっていた疑いがある。堅果類の生産性の低下に苦しんでいた縄文人は、海産物を多量に必要としていたから、それと交換するアサや土器の生産に励んでいたが、アサの生産性も低下していたから、土器が九州縄文人の主力生産品になったと想定される。下の画像に示す12000年前の土器は、集中的な大量生産によって焼成技術が高まった事を示し、この想定を裏付けている。しかしこの土器には、大量生産から生まれる規格統一的な商品意識ではなく、茶器の様な秀逸な形式美が備わり、それに相応しい装飾が付加されている。

この状態を経済的に解釈すれば、過剰生産状態になっても需要生み出す必要があったから、買い替え需要を求めるために器形を用途別に区分し、装飾を施して見た目の需要を喚起した事になるが、土中に埋められたこの土器を作った動機は、それだけではなかったのではなかろうか。

隆帯文土器
1
2000年前
志風頭(しかぜかしら)遺跡出土
鹿児島県加世田市(南さつま市)教育委員会蔵

国立科学博物館HPより転写

隆帯紋で土器を装飾し、価値を高めようとした意図が強く感じられる。

下の画像もこの時期の縄文遺跡から発見された石器で、丸木船をくり抜く道具だったと推測される丸ノミ形石斧だが、製作者が自ら使う道具としては不必要なほどに形が整っているから、原日本人の為に製作した可能性が高い。原縄文人は石材が乏しい琉球岬に長い間居たから、石材を丁寧に研磨する技法を会得していたと想定されるが、それにしてもここまで美しく成形した事には、何らかの理由が必要になる。

丸ノミ形石斧
1
2000年前
栫ノ原(かこいのはら)遺跡出土
鹿児島県加世田市教育委員会蔵

国立科学博物館HPより転写

志風頭遺跡も栫ノ原遺跡も、現在は低地を見下ろす小高い丘の上にあるが、当時はその様な景観ではなかった。現在その遺跡の近傍を流れている加世田川や万之瀬川は、氷期には100m以上川底が低下し、周囲の地形はその様な川に相応しい谷を形成していたからだ。12000年前の海面は氷期から60m上昇し、現在より60m低い状態だったから、氷期に形成された谷に海水が侵入し、リアス式海岸の様な景観になっていたから、加世田川や万之瀬川は細長い入り江になっていた。その入り江の奥にあった志風頭遺跡は、現在の海抜で60mの小高い丘の上にあり、栫ノ原は30mの丘の上にあるから、当時の志風頭遺跡は入り江の海面から120m、栫ノ原遺跡は90mの高さの急峻な斜面を有する、入り江の奥の丘の上の集落だった。戦国時代の山城の様なこの景観は、彼らが海面上昇を恐れていた事を示し、近辺の低地はいずれ海面に飲み込まれるという、恐怖を募らせていた事を示している。それでも山奥に籠らなかったのは、原日本人が船で来ることを期待していたからだろう。海産物を持参してくれる事を期待していただけでなく、寒冷化がこれ以上進展すれば、命を懸けてでも沖縄に逆戻りする事を真剣に考えねばならない状況だった。

上の画像の丸鑿や茶碗様の土器は、自分が使うために作ったとするには形が整い過ぎているから、交換品として製作した可能性もあるが、茶碗様の土器が完全な形で発掘されたのは、当時の最も確実な保管方法として、軟らかい土中に埋めたからだと推測される。つまり自分が使うものではなく、焼き上がっても直ぐに誰かに渡す積りがなかった事を示唆し、我々が想像できそうなドラマが展開していた様に見える。

想像を逞しくしての話になるが、頼りの漁民に渡して良好な関係を続け、できれば一族を沖縄に連れ帰って貰いたいという気持ちが、これらの整った形に凝縮している様に見える。道具の製作にこの様に手を掛けた事は、製作者が食料に困窮していなかった事を示唆しているから、彼らは気候が寒冷化しても食料の多くを漁民に頼る事に依り、食料には不自由していなかったと推測される。

アサなどと引き換えに、原日本人が沢山の海産物を持参していたと推測されるが、寒冷な気候によってアサも不作になり、弱気になった時期もあっただろう。この時代の人々は現代人が想像できないほどに、自活力を重視していたと考えられるから、アサが不作になって原日本人から見返り無しに海産物を貰う事態になれば、それを絶えられない状態であると感じていたと推測される。石器しか持たなかった時代に、厳しい自然の中を生き延びる為には、自活力に拘る強い精神力が必要だった事は間違いなく、それに基づいた営みを何万年も続けてきた人々だけが、現在まで子孫を遺している事は間違いないからだ。

特に沖縄系縄文人は琉球岬時代も沖縄時代も、海洋漁民の海産物に頼ることなく3民族の共生によって自活し、豊かな社会を形成していたから、その感覚が強く、九州に上陸してもそのライフスタイルを崩さなかったと想定され、沖縄人と本土人の3民族の遺伝子比率が類似している事が、その事情を示している。現代人はその様な感性をプライドと認識するが、この時代の沖縄系縄文人にとって、自活力が生存の基本条件だったから、堅果類だけではなくアサの収穫も不十分になった年には、根源的な自己人格の否定に陥ったと推測される。

九州に上陸した沖縄系縄文人にとって、ヤンガードリアス期の寒冷な気候は、自活力が試された時代だったが、縄文人が持ち込んだ堅果類やアサなどの植生の、耐寒性が飛躍的に高まった時期でもあった。大陸の栽培者は気候が冷涼化すると、南下移住する事ができたが、九州の縄文人にとって薩摩半島は南下の終着点だった。

秀逸な土器や丸鑿が未使用状態で発見されたのは、何本も作ったから一本だけ残ったのか、渡したい相手が遂に来なかったから日の目を見ずに放棄されたかの、いずれかだったと想定される。それを作成した縄文人の意図を漁民が察知すれば、既に沖縄や奄美に渡航する事は困難になっていたのだから、受け取りたくはなかっただろう。この頃の漁民はある程度統制的な集団活動をしていた筈だから、リーダー格の漁民がいたと推測され、その様な漁民が受け取る事を避けていたから、或いは縄文が色よい返事を貰えたら、それを確実にするために即座に渡し、具体的な話を引き出すための取って置きの物品として用意していたが、その様な機会は遂に訪れなかったから、秀逸な土器や丸鑿が小高い丘の上の縄文集落に、使われる事もなく残される羽目になったと推測される。

この時期の縄文人と漁民は、「沖縄に帰る」「それはできない」という様な口論を日常的に展開していた筈だが、その様な縄文人が密かにこの様な物品を用意していたのであれば、現代人にも劣らない繊細な心の襞を持っていたと言えるだろう。

愛媛県の山中に12千年ほど前の生活痕を残す上黒岩岩陰遺跡があり、そこからこの系譜の土器と共に、矢柄研磨器が発掘された。この遺跡から女神像などを刻んだ線刻礫が多数発掘された事は、住民の精神文化に狩猟民族の影響があった事を窺わせ、土器の存在は、狩猟民と通婚したmt-M7aがいた事を示唆している。寒冷化によって縄文人の母集団が九州南端に逼塞させられていた時期に、そこから随分離れた山中にこの遺跡が営まれた事は、この地の女性は堅果類の栽培を諦めて狩猟民と暮らし、生活物資を自らの手で得る事により、九州縄文人が甘受していた物心両面の困窮から逃れていた様に見える。矢柄研磨器が発掘された事は、竹が栽培できない気候だった事を示唆している。

 

4-5 ヤンガードリアス期の東ユーラシア大陸

アムール川流域の13千~1万年前の遺跡から土器が出土し、下流域はオシポフカ文化、中流域はグロマトウーハ文化と呼ばれている。気候が寒冷化したヤンガードリアス期には、冷温帯性の堅果類の栽培者だった縄文人でさえ、生産性の低下に苦しんでいたから、日本より寒冷なアムール川流域で発掘されるこれらの土器は、堅果類の栽培者のものではなく、堅果類の栽培者から土器文化が伝わったmt-M系の栽培系狩猟民族が、河川漁労民族や狩猟民族と共生した痕跡であると考えられる。

「極東における土器出現の年代と初期の用途(谷口康浩)」より転写

15千前に東ユーラシア大陸が急激に温暖化して乾燥化すると、東シナ海沿岸の栽培系狩猟民族だったY-Nmt-Mペアは、乾燥化から逃れるために湿潤な日本海沿岸や、オホーツク海沿岸に北上したと想定される。津軽海峡が生れた15千年前に本州に南下していたシベリア系の狩猟民族が、このmt-Mの北限の栽培者だったmt-Dをペアにしていたから、東北部族のmt-Dとして遺された事と、12千年前に宗谷海峡が生れて北海道に取り残されたシベリア系の狩猟民族が、mt-Dmt-Gを残した事は既に指摘したが、この事情と上図を総合すると以下の事情が浮上する。

降雨があるか否かは大陸と海洋の温度差によって決まり、大陸の低緯度地域は突然の高温化によって極度に乾燥したが、黒潮の北上によって海水温が均質化されていた海洋では、緯度による温度差は相対的に少なかったから、寒冷な高緯度地域には降雨があり、冷涼な気候が蒸発を抑えたから比較的湿潤だった。従って後氷期の温暖化が始まると乾燥した地域の北限は北上し、ヤンガードリアス期に寒冷化するとその北限が南下し、超温暖期になると再び北上したが、1万年前にインド洋が湿潤化すると共に黒潮の北上が親潮の発生を妨げ始めると、この地域の気候は複雑化した。

従って13千年前から1万年前は、超温暖期にオホーツク海沿岸に北上した共生民族が、栽培民族の北限の南下と乾燥気候の北限の南下を受け、オホーツク海沿岸から南下した時期から、超温暖期に再びオホーツク海沿岸に北上した後、気候の寒冷化によって再び南下した時期に、アムール川流域で営まれた生活痕を示している事になる。

それを栽培系狩猟民族だったY-Nから見ると、2万年前に氷期の温暖期になって乾燥化が始まると、栽培文化を維持するために湿潤な地域の南限を求めて日本海沿岸に北上し、シベリア西部から移動して来た漁労民族と狩猟民族の共生社会に出会い、3民族の共生社会を形成したと推測される。

16千年前に東ユーラシアの後氷期が始まると、大陸が更に温暖化して乾燥化したから、共生民族はオホーツ海沿岸に達したから、この共生集団はシベリア北東部のmt-A系狩猟民族集団の南北遊動路に進出した格好になり、mt-A系狩猟民族集団がこの共生集団の領域を通過する際には、4民族の共生が生れたと想定される。その様に想定しなければ、mt-M系の女性がmtA系の狩猟集団に浸潤した理由を説明できないからだ。単に浸潤しただけではなく、北海道部族や東北部族にmt-Aがない事は、かなりの高率で浸潤した事を示唆している。但し全てのmt-Aが置き替わったわけではなく、mt-Mを浸潤させて温暖な気候に適応できる様になった集団が、温暖化する中で日本列島に南下し続けたから、その様な集団が最終的に日本列島に閉じ込められたと考えるべきだろう。

宗谷海洋が12千年前に生まれ、シベリアと北海道が切り離されたが、その際のシベリア系狩猟民族を含んでいた北海道部族に、mt-Gが多数含まれていた事も既に指摘したが、15千年前~12千年前までの間に、北限の栽培者ではなかったmt-Gまでが南北遊動していた狩猟民族か、細石刃を使っていた狩猟民族に浸潤したから、その狩猟民族が樺太を経由して北海道に南下した事になり、後氷期になった16千年前からヤンガードリアス期になる13千年前までの間に、mt-Gがオホーツク海沿岸まで北上するほどに大陸が温暖化していた事になる。

従ってヤンガードリアス期にアムール川流域まで南下した共生民族の痕跡が、上図の様な分布だったと考えられる。

1万年以上前の中~高緯度地域の土器の発掘例が、シベリア南部と日本列島に限定されている事は、この時期の大陸の中緯度地域は、激しく乾燥していた事を示している。上の地図は、ヤンガードリアス期を挟む1.65万年~1万年前に、土器が出土した遺跡を網羅的に示しているから、その事情も読み取る事ができる。

ナンパ―10201.3万~1万年前の遺跡が、ヤンガードリアス期以降のY-Nmt-M系ペアの栽培系狩猟民族を含む、3民族が共生していた遺跡になる。1.3万年以前は海面が極度に低下していたから、オホーツク海沿岸にあったと推測される、後氷期が始まってからヤンガードリアス期に至るまでの彼らの痕跡は、現在は海底になっている当時の低地にあり、発掘できないと考える必要がある。

ナンパ―2123の南庄頭遺跡などの華北の遺跡は、ヤンガードリアス期が終わった超温暖期に、黄海が海進によって水没する中で、拡大し始めた渤海沿岸に北上したY-O2bmt-M7aペアの、堅果類の栽培者の遺跡だったと推測される。彼らは渤海が拡大すると河南省北部に裴李崗文化 (はいりこうぶんか)9千年~7千年前)と呼ばれる文化を形成し、太平洋が湿潤化すると河北省南部に磁山文化(じさんぶんか)(8千年~7500年前)を形成したと推測される。

9千年前の海面は現在より20m低い程度だったから、現在の水深が70mの黄海は既に水没し、水深2030mの渤海湾にも海水が侵入し始めていたから、これらの遺跡は内湾になった渤海の、臨海部にあったと想定される。その12万年~15千年前のY-O2bmt-M7aペアは、気候が乾燥した福建省や浙江省から湿潤な気候を求め、陸地化していた黄海に移住したが、その居住域は朝鮮半島南部の石器を採取できる地域だった可能性が高い事を指摘した。琉球岬より北になるが、大陸の温暖化が先行していた時期だから、冷温帯性の堅果類を栽培できる北限だったと想定され、気候の温暖化と海進に伴い、朝鮮半島に沿って北上したと推測される。

ヤンガードリアス期は気候が寒冷化した代わりに湿潤化したから、再び浙江省や福建省に南下し、超温暖期に再び沿海部を北上したとすると、海進が進むに連れて黄海に黄河が形成した沖積平野が失われていったから、その中でも標高が高い場所を選び続けると渤海に至り、行き着く先は必然的に河北省や河南省になった。

1万年前の渤海は現在より水深が深く、現在の華北平原を呑み込み始めていたと想定されるから、彼らは山間に残された僅かな沖積平野を探し、堅果類の樹林を形成したと想定され、それが南庄頭遺跡などだったのではなかろうか。これらの遺跡の土器は脆く、文化遺産も貧弱だったのは、長い流浪の途上にあった事を示唆している。

裴李崗文化期には渤海が拡大して山東省が島になり、海峡部分では太平洋とは異なる大陸性の水温になったから、この地域が湿潤化して植生が豊かになり、堅果類の栽培者は河北省や河南省東部だけではなく、遼寧省にも拡散したと想定される。中国では堅果類の栽培を軽視し、雑穀や稲作に拘泥する風潮があるので、高度化した土器や磨製石斧、ドングリをすり潰したらしい石器類が発掘された磁山文化について、確かな事は言えないが、彼らは堅果類の栽培者だった可能性が高い。磁山文化が始まった8千年前は、アワ栽培者が遼河文化(8千年前~)を形成した時期だから、その文化圏から華北の堅果類栽培者にmt-Dが浸潤した可能性がある。遼河文化の遺跡からクルミが発掘されているから、文化交流もあった可能性があり、この文化期にアワが栽培された可能性は高いが、それを以て裴李崗文化や磁山文化が雑穀栽培者の文化だったとか、黄河流域の文化の起源だったと決め付けているのは、如何にも中国人らしい解釈であると言わざるを得ない。その1で示した様に、2万年前に原縄文人と別れて大陸に残ったY-O2bが、大陸で辛酸を舐めた痕跡が遺伝子クラスターの構成に刻まれ、縄文中期の華北が龍山文化圏になり、アワ栽培者になった暴力的なY-NY-Qに席巻された事を示しているからだ。

磁山文化から鼎形土器が出土しているから、樹木が不足する中で燃焼効率を上げる仕組みが、この時期に生まれていた事を示唆している。それはこれらの地域が乾燥していた事を示唆しているが、8千年前に太平洋が湿潤化するとこの地域も一様に湿潤化したから、むしろ超温暖期に黄海や渤海の海底になっている平地で過ごした時代の土器形式が、この時代にも使われていたと考えた他方が合理的だろう。

堅果類栽培者は、アクを抜くために長時間湯温を維持する必要があり、薪に使う樹木を多量に使用したから、暖温帯性の堅果類の栽培者も含めた堅果類の栽培者は、気候が乾燥していた氷期に鼎形土器を使用した可能性もあるからだ。それであれば鼎型の土器の伝統が華北に残り、それと無縁の状態で華南に生まれた事と整合するからだ。縄文土器に鼎型がないのは、湿潤な沿海部で磨製石斧を多用していたY-O2b1mt-M7aペアには、器形が複雑で壊れやすい鼎形土器を使う必要はなかったから、筒形のシンプルな土器を使ったと考える事ができるからでもある。

ナンパ―2は日本最古の土器が発掘された津軽の遺跡で、この土器は沖縄から持ち込まれたと推測される。

ナンパ―2を除く1~6の日本の土器は縄文草創期のもので、先に説明した様に原日本人が干した海産物を狩猟民族に渡した際に、煮戻すために使ったと考えられる土器だから、発掘地で作られたのではなく、本土に上陸した縄文人が製作した土器を、原日本人が狩猟民に支給したものだった。この時期の縄文人は、海岸の平坦地で堅果類を栽培していたから、彼らの遺跡はその後の海面上昇に飲み込まれて発掘できない。

ナンバー7、8については既に説明した様に、九州に上陸した沖縄系縄文人が作成し、狩猟民族の洞穴遺物として発掘されたものになる。

ナンバー9の帖地遺跡は、志風頭遺跡や栫ノ原遺跡と同時期の、沖縄系縄文人がヤンガードリアス期に南下した遺跡。

アムール川流域を中心に散在している土器を伴う遺跡の話に戻ると、17の遺跡はその北のハンカ湖に注いでいた河川の流域か、現在より巨大だったハンカ湖の湖畔にあり、18の遺跡は日本海に流れ出る河川流域か、その川が形成した小さな湖の湖畔にあったと推測され、1020全てが大河の流域や湖畔の遺跡になり、漁労文化に関わった人々の遺跡である事を示している。

アムール川下流域のオシポフカ文化圏の遺跡から、専業的な狩猟民族の存在を示す細石刃、栽培系狩猟民族の存在を示す土器、漁労民族の存在を示す石錘が発掘されているので、3民族の共生文化が成立していた事を示唆している。

低緯度地域のこの時代の河川は、氷期形成された深い峡谷を流れたから、漁労民族の遺跡は発掘されない事が一般的だが、この時期のアムール川の川面は現在より幾分標高が高かったので、アムール川流域には幾つもの湖様の広さを持つ流れがあり、その脇の段丘様の平坦地に漁労の痕跡が遺されたと指摘されている。この様なアムール川の流れは後氷期に生まれたのではなく、氷期から継続していたとも指摘されている。

これを古気候の観点から解釈すると、シベリアの東南端でも氷河が生れた時期があり、氷床の移動によってアムール川の河道が変形し、沖積土による堰が生れた為に、海面が現在より120mも低かった氷期のアムール川の河道が、現在より高かった事になる。

9万年前にY-C3がシベリアに辿り着いた時代には、その氷床はなかった筈であり、氷期初頭の豪雨期にアムール川流域の沖積土が河口に流れてしまえば、その様な堰は容易に形成されなかった筈だから、氷期初頭に西ユーラシアが氷床に覆われた時期に、シベリアも全域が氷床に覆われたが、黒潮が北上してシベリア沿海部を温めたから、遅くとも9万年前にはその氷床は融解してしまったと推測される。

この様な冷涼な地域に栽培者を含む共生文化が生まれた事に、違和感があるかもしれないが、この時代の栽培の生産性は温暖であるか否かに拘わらず、あまり高くはなく、穀物は主要な食糧ではなかった。しかしイネ科の植物の種は保存食料として重要だったし、その他の植生も肉を焼いて食べていた狩猟民族にとっては、栄養バランスを高める補完食としての価値が高く、特に蔬菜類はビタミンCの補給源として重要だった。

氷期のシベリアの狩猟民族は厳しい寒さを利用し、生肉を保存してビタミンCを摂取することができたし、肉を冷気に晒して乾燥させればビタミンCを保存する事もできたが、温暖化すると腐敗問題が生じ、肉や魚を生で保存できなくなったが、焼いて食べるとビタミンCの摂取に深刻な問題が生まれた。漁労民族にも同様な事態が発生し、保存する為に天日干しするとビタミンCなどが失われたから、蔬菜類を摂取する必要が生れた。日本人の祖先は氷期~後氷期初頭に栽培民族と共生していなかったが、海藻を食べてそれらの栄養素を摂取していたと想定される。

当時の人には栄養学的な知識はなかったが、シベリアが温暖化すると栽培民族との共生の有無が、生業に向けた活力に有意差を生む事は認識できたから、シベリア南部では後氷期の温暖化に伴って、狩猟民族の配偶者が栽培系民族の女性に変る動きが活発化した事になる。その証拠として15千年前より古い時代から、シベリアから日本列島に南下した狩猟民族の配偶者が、すべてmt-Dmt-Gだった事が挙げられる。日本列島に南下する行為は、その様な配偶者を持ったY-C3でなければ不可能だったから、その様な事態になったと想定される。東北と北海道の縄文人の遺体からmt-Dmt-Gは発見されても、シベリアの狩猟民族の氷期の配偶者だったmt-Amt-N9amt-Yは発見されていないからだ。

従って漁労民族の生産性が高く、干物を基本的な食料とする事が出来れば、3民族が共生する事は健康で文化的な生活を送る必須条件だったから、シベリアでは13千年前にこの文化が生れていた事に、違和感はないだろう。従ってその起源を追跡する必要があるが、その前に幾つかの重要な指摘がある。

漁労文化に石錘が含まれていた事は、その用途は漁網か釣りの錘だったと想定されるから、彼らはそれに必要な繊維素材を入手していた事になり、アサが交易品になっていた事を示唆している。つまりこの時期に彼らは関東部族、北陸部族、北海道部族のいずれか、或いは全てと交易関係を持っていた事になる。

細石刃が存在した事は、それを棍棒に接着する接着剤があった事になる。この時代に存在した接着剤はウルシか膠だから、日本列島の狩猟民族が使った細石刃用の接着剤はウルシだった可能性があるが、アムール川流域の狩猟民族がウルシを使っていた筈はないから、膠を使っていた事になる。つまりこれらの遺跡から発掘される土器は、元々はどのような用途だったのか分からないが、膠を作る道具としても使われていた可能性が高い。

つまり元々はウルシで装着していた細石刃を、大陸の狩猟民族が自作する為には膠を発明する必要があり、その製作技術が13千年前には確立していたから、オシポフカ文化やグロマトウーハ文化の遺跡から、土器が発掘されると考える事もできる。膠は少量の土器さえあれば作れるから、彼らは他の用途の土器も作ったが、それは煮沸用ではなかったと考えられている。縄文人は毎日ドングリのアク抜きをしなければならなかったから、殆どの縄文土器は煤に塗れているが、当然それとは違う用途だった。

いずれにしてもオシポフカ文化圏やグロマトウーハ文化圏の狩猟民族は、肉を焼いて食べる為だけではなく、土器を入手する為にもmt-Mを必要としていた事になるが、オシポフカ文化圏の土器は縄文土器と形状が異なるだけではなく、土器が脆く砕片化しているから、焼成温度も縄文土器より低かったと推測され、土器製作者の系譜が異なっていた事になる。

オシポフカ文化の遺跡から、矢尻と思われる石器も出土している。日本の御子柴系石器遺跡は細石刃を欠いていたが、同時期のオシポフカ文化圏では依然として細石刃が使われていたのは、彼らが作る膠は接着力が弱く、細石刃には有効に使う事が出来ても、矢尻を固定するには接着力が不十分だったから、特殊な用途には弓矢を使ったが、狩猟の主役は細石刃を装着した棍棒だった事を示唆している。

御子柴系石器遺跡を残した狩猟民族が使った接着剤については、既に縄文人がいた時代の事だから、ウルシだったかもしれないし、縄文人が焼いた高性能の土器を使えば、接着力が高い膠を作る事が出来たかもしれないから、その解明は今後の研究課題になる。

以上を前提に細石刃を使った狩猟民族と、彼らと共生していた漁労民族の素性を追跡すると、以下のような仮説が生れる。

シベリア南西部にいた湖沼漁労民族は、氷期最寒冷期には漁労文化が弱体化し、後氷期の温暖化と共に湖沼が干上がり始めたから、共生していた狩猟民族と共に東進して日本海沿岸かオホーツク海沿岸に至ったから、狩猟民族は細石刃文化を形成して日本列島にも渡来(19千年前)したが、漁労民族は日本海沿岸かオホーツク海沿岸で河川漁労を行い、氷期の温暖期になって北上して来たY-Nmt-M系の栽培系狩猟民族と共生し、後氷期の温暖期になった16千年前にはオホーツク海沿岸に北上したが、気候が寒冷化したヤンガードリアス期にオシポフカ文化やグロマトウーハ文化を形成したと想定される。

従って16千年~13千年前のこの文化の中心は、オホーツク海沿岸の沖積平野にあったが、その頃の河川流域は既に水没しているから、13千年以降の遺跡が発掘される最も古い遺跡になると考えられる。長崎県の福井洞穴で細石刃が発掘された最古層は19千年前だから、栽培系狩猟民族との共生が始まっていたか否かに関わらず、氷期にシベリア西南部で漁労民族と共生していた狩猟民族は、氷期の最後の温暖期が始まった2万年前には、日本海沿岸かオホーツク海沿岸に着いていた事になる。

河川漁民と共生していた狩猟民族が、19千年前に日本列島に移住した事は、その時期の狩猟民族の人口は漁民と比較して過剰状態にあったか、漁民の漁労技術が貧弱だったから、出稼ぎをしなければならなかった事を示唆している。

13千年前のオシポフカ文化やグロマトウーハ文化時代の漁労民族が、栽培系狩猟民族も養うほどに技能が向上していた事と比較すると、2万年前から15千年前頃の河川漁民の漁労能力は、余り高くなかったと推測され、彼らがその後漁労技能を向上させた要因として、北陸の原日本人と日本海沿岸で接触したか、オホーツク海沿岸で関東の原日本人と接触し、高度な漁労技能を獲得したかのいずれかになる。

その根拠として日本列島に細石刃を使う狩猟民族が、19千年前の九州に登場し、彼らは九州や山陰の複数の原日本人部族に獣骨を供給し、人口を増やした事は既に挙げ、オシポフカ文化圏で石錘が使われていた事は、北陸部族、関東部族、北海道部族と交易していた可能性が高い事も既に指摘したが、証拠はそれだけではない。

遅くともシベリア全域が湿潤化した1万年前には、彼らの漁労技術は船を使うまでに向上していたと考えられるからだ。彼らが操船技術を駆使し、縦横に流れ始めたシベリアの河川を疾駆して東西交易を担ったと考えなければ、縄文史は成立しないだけではなく、北海沿岸に海洋民族が生れた事情も説明できないからだ。その事情は順次説明するが、この海洋民族は縄文前期温暖期(6千年前)には栽培民族をイングランドに招き、後期温暖期にはその栽培民族がストーンヘンジを形成したと考えられるので、東西交易を担ったツングースは1万年前には、造船技術と操船技術を得ていたと考えざるを得ない。

シベリアの沿海部であるオホーツク海沿岸に、シベリアの河川や湖沼を疾駆できる高速船を作る事ができる、巨木が生え始めたのは超温暖期になった12千年前以降だったと考えられるから、彼らの船の歴史はそこまでしか遡れない筈だが、その時期に突然原日本人と接触し始めたのではない事を、福井洞穴の19千年前の細石刃が示している。従って氷期の原日本人が発展させた湖沼漁労を技術や、海洋漁労から応用できる漁法をこの漁労民族に伝授するプロセスは、2万年前には始まっていたと考える必要がある。

そのプロセスに関する考察には別の観点が必要だから、此処では以上の指摘に留めて上図の解釈に戻る。

上図は土器を伴う文化として、アムール川流域を中心に1018の遺跡を示しているが、バイカル湖近辺の1920は土器を伴っていない。従ってすべてのmt-Mが土器を作ったのではなく、土器を作ったのは栽培系mt-Mの一部だった事を示唆しているが、マクロ的に見るとこの文化の中心は沿海部にあり、内陸の狩猟民族はその文化要素の一部を実現する状態だったとも言える。

日本の各地に細石刃を遺した狩猟民の遺跡は、土器を含んでいないから、この時期のmt-Dに土器文化はなかったと想定される。カムチャッカ半島に閉じ込められたmt-Gも土器を製作しなかったらしく、カムチャッカ半島で土器が作られた歴史は2千年以上遡らないから、この時代に土器を作っていたのはmt-Zだけで、それより北にいたmt-Gmt-Dmt-Cや、内陸を北上したmt-M10は、土器文化を持っていなかったと考えられる。つまり最も南にいたmt-Zは、内陸の堅果類の栽培者だったmt-M7aと接する機会があり、土器文化を入手していたと想定される。2万年前に温暖化すると栽培系狩猟民族はシベリア方面に北上し、内陸の堅果類の栽培者は沿海部の湿潤な気候を求め、陸地化していた黄海に東進したと推測されるから、このmt-Zの土器技術は2万年前の堅果類の栽培者のものだったと想定すると、この文化圏の土器の品質が未熟だった事と整合する。

mt-Dmt-Cは、キビを含む雑穀を栽培していたと想定される。キビの原生種は世界から失われ、栽培種と野生種しか現存していないが、アワやその原生種であるエノコログサより耐寒性や耐乾燥性が高く、ベーリング陸橋を経てアメリカにも拡散したから、栽培系狩猟民族のmt-Mは各種のイネ科植物の原生種を栽培していたと推測される。氷期の最寒冷期にはその様な栽培種を抱えて華南に南下した筈だから、一部の品種は栽培化が始まっていた可能性がある。栽培と言っても乾燥や冷害を免れ易い谷の斜面で、雑草を除いて栽培地を形成する程度だったと推測されるが、有用な種子を母から娘に伝承していた事を含め、シベリアの狩猟民族の女性にはできない先端技術だった。

乾燥化に追われて北上したY-N狩猟民族が、シベリアの狩猟民族が持っていた伝統的な狩猟技能を持たずに、シベリアで単独で生活する事は難しく、漁労民族と共生して栽培物を多量の水産物と交換する事により、厳しい環境を生き抜く生活スタイルを形成しなければ、多数の遺跡を遺す程の人口規模に達する事は不可能だったと推測される。日本列島の縄文人も漁民との共生によってヤンガードリアス期を乗り切ったが、その様な民族共生は日本列島だけではなく、シベリア南部にも形成されたと想定される。異なる生業を持つ民族が共生する文明要素は、5万年前のシベリアの狩猟民族が既に持っていたから、原日本人を含むシベリア文明の継承者は一様に、後氷期なると栽培系民族を加えた3民族の共生文化を形成したが、その開始時期には地域的な事情があったと考える事は、マクロ的な文明論として違和感がない。

その嚆矢は3万年前から石垣島で原縄文時と共生していた北陸部族で、彼らが16千年前に北陸に上陸してどの様な社会を形成したのかについては、13千年前の琵琶湖岸に形成された、相谷熊原遺跡の遺物から推測できる事になる。

九州に上陸した沖縄系縄文人がそれに続いたとすると、15千年前の事だから、日本海北岸やオホーツク海沿岸にも、その頃には3民族の共生文化が生れたと考える必要がある。

シベリアには既に東北部の狩猟民族の縄張りがあったが、温暖化して雑木林が発達した沿海部の低地には、草原の狩猟者だったmt-A系狩猟民族の縄張りはなかったから、そこにシベリア南西部から移住した南西部の狩猟民族が、河川漁民と共に進出したと推測される。その様な雑木林や九州の樹林にはシカやイノシシなどの中型獣が生息していたから、それを通年細石刃で狩る新参の狩猟者と、南北遊動しながら尖頭器でヘラジカやバイソンなどの大型獣を狩る、シベリアの東北部の狩猟民族は、日本列島と同様に共存が可能だったと推測される。

そこにY-Nが狩猟民族として加わると、日本列島のY-C1Y-O2b1の様な状態になったが、日本列島と同様に、漁労民族が豊かな水産物を背景に調停すると、栽培系狩猟民族であるY-Nも参加する、新しい民族共生が生れた事になる。この時代に日本列島に南下した狩猟民族のペアが、mt-Dmt-Gだった事がそれを示している。氷期の温暖期になって気候が温暖化し、後氷期になって更に気候が温暖化すると、獣肉が腐敗しやすくなって焼いて食べる習俗が生れたから、イネ科植物の種子を栽培して蓄える技能だけではなく、生肉や乾燥した肉から得ていたビタミンCの摂取を補給する為の、植生に関するmt-Mの知識は必要不可欠だった。これは狩猟民族の場合だが、漁労民族が魚を干して保存する様になると、同じ状態に陥った事は既に指摘した。

細石刃を装着した狩猟具を駆使していた狩猟民族は、獣骨と水産物の交換を生業の一部とする狩猟民族だったが、旧態然としたY-Nの狩猟具で狩る大型動物は、シベリア東部の南北遊動する狩猟民族の縄張りにいたから、慣れない森林に住み始めたY-Nが狩る事ができた獲物は、ウサギなどの小動物や川辺の小魚程度だったと想定される。しかし栽培物と水産物を交換する仕組みは河川漁民にも必要だったから、河川漁民がこの地域の経済的な主導権を握っていれば、3民族の共生は実現可能だっただろう。その様なY-Nは一時的に、mt-Mに扶養される立場になったと推測される。関東部族のY-O2b1も、堅果類の樹林の生産性が高まった上に稲作が始まった縄文早期以降は、シベリアのY-Nの様に従来の生業を追求する道を失ったが、漁具や工芸品を生産して海洋文化を高めたから、シベリアのY-Nもその様な役割を担う様になった可能性が高い。

縄文時代早期以降のトルコ系民族は、その様な生活スタイルの下でY-C3漁労民族、Y-C3狩猟民族、Y-N栽培民族の共生を主導する漁労民族として、1万年前頃に湿潤化したシベリアの内陸部に定住した人々だったと想定され、2万年前から12千年前までの沿海部の河川漁民はツングースだったと想定される。彼らはトルコ系民族ではなく、水上交易者になってシベリア内部に入植したトルコ系の共生集団を育成した。その結果として東西交易を活性化させ、シベリア全体の文明度を高める民族になったと推測される。厳密に言うと後世に粛慎と言われた人々が、この時代の沿海部の河川漁民の子孫で、シベリアの水上交易者として活躍したのは、粛慎の祖先から分岐した息慎と呼ばれる人々だった。

氷期の華南でY-Nのペアになっていた女性達の中で、mt-Dは最北の栽培者だったから、古い時代の狩猟民族と共生した東北縄文人にはmt-Dしかなく、時代が降ってY-N民族の北上が盛んになっていた時期に、シベリアから南下した狩猟民族と共生した北海道縄文人には、mt-Gが含まれる事になった。mt-Dが最北の栽培者だった事を示唆しているのは日本のこの様な状況証拠だけではなく、超温暖期にベーリング陸橋を越えてアメリカに渡ったのは、mt-Dmt-Cだけだった事も、別の状況証拠になる。この仮説は他の歴史事象や現在の遺伝子分布とも整合し、事実認定しても良い確度がある。

日本に南下したmt-Dは東北縄文人に遺伝子を遺し、北海道縄文人にmt-Dmt-Gを遺したのは、シベリア東部で長距離の南北遊動をこなしていた狩猟民族か、日本に細石刃文化を持ち込んだシベリア西南部の狩猟民族だったのかにより、mt-Dの北上位置に関する解釈が異なる。氷期に樺太を経由して本州に南下遊動した狩猟民族だったのであれば、彼らの夏季のキャンプ地はアムール川流域より北にあり、それより南の狩猟民族が日本海を北に周回し、日本列島に南下遊動していたとは考えにくいからだ。

日本に細石刃文化を持ち込んだ狩猟民族だったとすれば、彼らは日本海沿岸でmt-Dの浸潤を受けた後で、日本列島への移住を目的とし、日本海を北に周回して樺太から日本列島に南下した可能性もある。この狩猟民族はY-Nmt-Dペアと共生関係を形成し、それによってmt-Dの浸潤を受けた事になり、シベリア東部の長距離南北移動をしていた狩猟民族は、細石刃を使った狩猟民族が12千年前にオホーツク海沿岸に再北上するまでは、mt-Mの浸潤を受けていなかった可能性もあるから、単純に考えると、細石刃を使っていた狩猟民族の遺伝子が、東北縄文人や北海道縄文人に遺されたmt-M系遺伝子である様に見える。

しかしシベリア東部で南北遊動していた狩猟民族は、厳しい部族制によって原日本人とは通婚しなかったら、この時期の原日本人には彼らの遺伝子は浸潤していないが、津軽海峡が生れて本州に閉じ込められると、その後に極度に温暖化した本州では、東北縄文人として遺伝子を遺したと考える方が、詳細な実情には合致している。

氷期より大幅に人口が増えた縄文時代になっても、mt-Dを検出可能な状態で東北縄文人の中に遺した事は、過失として津軽海峡を越えなかった小集団があったのではなく、彼らが南下していた冬季に地震や津波によって陸橋の一部が破壊された様な、突発的な事態があった可能性が指摘できるが、縄文早期に温暖化すると九州から東北部族と一緒に東北に移住した狩猟民族は、細石刃を使っていたシベリア系の狩猟民族ではなく、Y-C1狩猟民族だったと推測されるからだ。つまり縄文早期の東北には、細石刃を使った狩猟民族や南北遊動していた狩猟民族の子孫が希薄だったから、弓矢文化を持ったY-C1が多数入植したと想定されるからだ。

本州に細石刃文化が拡散したのは、津軽海峡が生れて本州と北海道を狩猟民族が往来できなくなった後だから、それ以前の本州にいた狩猟民族の多数派は、南北遊動していたシベリア東部の狩猟民族だった可能性が高い事も、上記の理由として挙げられる。

従って東北縄文人に遺されたmt-Dは、南北遊動していたシベリア東部の狩猟民族の遺伝子だった可能性が高く、それとの継続性がある北海道縄文人のmt-Dmt-Gも、12千年前に宗谷海峡が生れる以前の寒冷なヤンガードリアス期に、北海道を南限として南北遊動していたシベリア東部の狩猟民族だった可能性が高い。現代の北海道の冬の気候から、狩猟民族が冬季に南下して来た事は想像し難いが、この時代には黒潮が千島列島まで北上して一部はオホーツク海に分流していたから、北海道は当然ながらシベリアより温暖だった。従ってシベリアの狩猟民族が南北遊動する終着地になっても、不思議ではない状況だった。黒潮の温度はヤンガードリアス期の最寒冷期には、現在より6℃程度低くなったが、後氷期の温暖化によって現在より3℃低い状態まで温暖化したから、それによって九州~東海までは冷涼な気候になっていたとしても、北海道の冬は現在より温暖だったと推測される。

日本海が結氷していた氷期の最寒冷期の沿海州やウラジオストック以南の沿海部は、極めて寒冷で乾燥した地域になり、シベリア東部の狩猟民族が冬季に南下する地域ではなかったと想定される。従って2万年前に氷期の最寒冷期が終わって温暖化し、日本海の結氷が融けると、乾燥化した内陸から沿海部に東進して来た、シベリア南西部の狩猟民族と河川漁民は、結氷が終わった日本海沿岸に狩猟の縄張りを設定する事ができただろう。それ故に原日本人と遭遇し、漁民が原日本人から本格的な河川漁労を伝授されるプロセスが始まったと想定すると、歴史ストーリーが構築し易くなる。彼らが日本海沿岸で河川漁労技術を高めると、シベリア東北部の狩猟民族が縄張りとしていなかったオホーツク海沿岸の、湿潤で森林化していた低地に、温暖化に伴って北上できる様になったと考えられ、彼らのオホーツク海沿岸への道筋が整うからだ。

つまり細石刃を使用して狩猟を行っていた狩猟民族は、日本海沿岸で人口を増やした漁労民族の援助を受け、安定的な食料の調達が可能になったが、その様な状態に至っていなかった19千年前には、気候の温暖化によって九州に南下しなくなったシベリア東北部の狩猟民族に代わり、九州の原日本人に獣骨を供給する狩猟民族として、九州に渡ったと考える事ができるからだ。それは伝統的な狩猟民族の縄張り秩序を乱すものだったから、彼らが使わない細石刃を使って非伝統的な狩猟を行い、彼らが獲物としない中型獣であるニホンジカやイノシシを狩ったと考える事ができる。

つまり原日本人から漁労技術を伝授された河川漁労民族は、その様な狩猟民族から多量の獣骨を供給して貰わなければ、河川漁労が成り立たない漁民になったから、シベリア西南部時代からの共生民族だった狩猟民族が、細石刃を使って狩猟効率を高める一方で、漁労技術の向上が不十分だった時代には、狩猟民族が九州に出稼ぎに行く必要があった事になる。河川漁労民族は原日本人と接して徐々に漁労文化を高める事により、オホーツク海北岸に北上する文化力を高めながら、狩猟民族との相互依存性を更に高めたと想定される。

この漁労民族に最初に漁労技術を伝授した原日本人の候補は、九州の原日本人だったかもしれないが、日本海の氷結が融けると北陸に戻った原日本人だったかもしれない。九州の原日本人だったとすれば、16千年前に北海道に移住した北海道部族だった可能性が高いが、他の原日本人だった可能性もある。但しこの時期にはシベリアから五島列島まで陸続きだったから、太平洋沿岸の漁民だった伊予部族や関東部族だった可能性は低い。

それを更に探求する前に、氷期~後氷期前半に、シベリアで起こった事を整理する。

氷期の終了過程でも後氷期初頭の温暖化過程でも、北大西洋両岸は寒冷な地域に留まっていたから、現在も北米大陸北東部にmt-Amt-Xが多い事に繋がり、mt-Ymt-N9amt-N9bがアメリカ大陸にいないのは、氷期の終了時まで西南部の漁労民族や狩猟民族の遺伝子だったと考えられ、mt-Amt-Xは俗に言うマンモスハンターとして、北シベリアにいた狩猟民族の遺伝子だったと想定される。

チベット人にはmt-Aが含まれるが、mt-Xmt-N9は検出されていない。原日本人の祖先はmt-N9bとペアになって5万年前のシベリアに拡散したが、チベット人の祖先Y-D 5万年前に中央アジアにいて、チベットや雲南に拡散したと想定されるが、彼らはmt-Aをペアにしていた事になり、原日本人とは異なった共生形態を取っていた可能性がある。従って5万年前の中央アジアはmt-Aが主流の地域だった事になり、mt-N9系民族の祖先の故地は、更に西方だった可能性があるが、シベリア南部にもmt-N9の飛び地があったから、mt-N9bを得た原日本人の祖先は、中央アジアを経由してシベリアに拡散した事になる。いずれにしてもシベリアのmt-A系狩猟民族は、5万年前に氷期の温暖期であるにも関わらず、中央アジアにも拡散していた事になる。5万年前のオビ川やエニセイ川の流域は厚い氷床に覆われていたから、mt-A系狩猟民族は最北の狩猟民族として中央アジアにいたが、レナ川の流域には草原が広がっていたから、そちらのmt-A系狩猟民族は、夏季にはレナ川の流域で狩猟を行っていたと考えられる。

最北の狩猟民族だったmt-A系狩猟民族の事情を推測する為には、9万年前の氷期の温暖期にシベリアに北上したY-C3mt-Nペアの時代まで遡る必要がある。シベリア南部では狩猟と漁労によって人口を増やしたmt-N9系民族が生れ、北方にmt-X系民族が生れたが、7万年前に寒冷化するとシベリア東部にmt-A系民族が生れ、彼らの生活様式が最も優れていたから、最終氷期にはシベリア最大の狩猟集団になったのではなかろうか。

その様に考える根拠は、mt-Xは欧州から北米大陸まで広く拡散しているのに対し、mt-Aは西ユーラシアにはなく、アメリカ大陸での密度はmt-Xより高いからだ。つまり北方の狩猟民族がmt-X系狩猟文化を形成した後で、ユーラシア大陸東北部にmt-A系狩猟文化が生れ、生産性が高かったので人口を増やしたが、地域限定の文化だったので西ユーラシアには拡散しなかったと考えられる。

地域限定だった理由は、東ユーラシアでは夏季にはレナ川流域に北上し、冬季には日本列島に南下する事が出来たから、南北遊動な可能な地域に拡散したが、北は氷床に覆われ、南は高い山脈に遮られていた西ユーラシアには、拡散できなかったからだと想定される。中央アジアはその例外的な地域として、夏季には中央アジアの湖沼群を囲む平原で過ごし、冬季には四川や雲南の湖沼群を囲む山岳地や丘陵地に南下する事が出来た。湖沼漁民が中央アジアからチベット周辺の湖沼群に南下する事は、単独ではできなかったと想定されるが、長躯南北遊動する狩猟民族の共生者として移動したのであれば、気候が寒冷化すると南の湖沼群に定住した事になり、無理がない歴史の流れになる。

この狩猟民族が南北移動したのは、南北移動する草食獣を追って移動すると、その様なルートになったと想定され、その移動に耐える文化を形成する事が出来れば、長期の不猟期が発生するリスクを低減するだけではなく、定常的に獲物を得る事ができる生産性が高い狩猟文化だった。シベリアが厳冬になる冬季は日本列島に南下していたとすれば、厳冬に耐えるテントや衣類は必要なく、それらを軽量にする事によって移動を可能にしていたのではなかろうか。それであれば栽培民族の様に、そのテントの製作技術を有していたmt-Aに遺伝子が純化したと想定される。シベリア東部で長距離の南北遊動を行っていたmt-A系狩猟民族は、冬季は日本列島に南下していたから、この狩猟民族は日本に湖沼群が存在する事を知っていた事になる。

漁労民族と共生していたmt-N9系狩猟民族の居住地は、カスピ海~バイカル湖に連なるシベリア南縁の湖沼群だったと想定され、中央アジアを夏の狩猟地としていたmt-A系民族に東西に分断された状態になっていたが、5万年前に原日本人の祖先が散開していた地域はその西部の、まだ北極圏への流路が氷の堰によって塞がれ、巨大湖を形成していたエニセイ川の上流域になる、アルタイ地方~バイカル湖の湖岸だったのではなかろうか。

2万年前に東進したmt-N9系民族の故地は、現在のアラル海以東の地域で、2万年前~16千年前に氷期の温暖期になり、エニセイ川が夏になると北極海に流れ込み始め、湖面が北に大きく後退し、アラル海以東の湖も干上がると、湖沼や河川を求めて東に移動せざるを得なくなり、日本海沿岸に至ったと考えられる。氷期の最寒冷期に、それらの湖の沿岸で漁労ができた事に疑念があるかもしれないが、氷期の寒冷な気候は海洋が冷却される事によって生まれていたから、大陸の内部それほど酷く寒冷化しなかったと考えられるが、漁民と言える人々の人口は減少していただろうし、夏季だけ漁労を行う状態になっていたかもしれない。

以上の想定は、言語の分布状態と整合する。

アイヌ語がアメリカ原住民の一部の言語と同系譜である事は、5万年前にアイヌの祖先と共生したシベリア東北部の狩猟民族は、シベリア東部方言を使っていた事になり、mt-A系狩猟民族の言語だった可能性がある。ツングースは別系統であるアルタイ語族だから、東部方言を使っていた狩猟民族は、後氷期の温暖化によって東シベリアから徐々に撤退し、空白になった地域に、アルタイ語を使うシベリア南西部の漁労・狩猟民族が移住して来たと想定されるからだ。

現在のシベリアがアルタイ語に統一されているのは、シベリア東部の狩猟民族が全くいなくなったからではなく、生産性が高い漁労民族の言語に統一され、アルタイ語族になったからだと考えられる。つまり現在の東ユーラシアで氷期のシベリア東部方言を残しているのは、シベリア北東部で狩猟を行っている少数民族とアイヌだけだが、この言語は氷期のシベリアの最大勢力だったmt-A系狩猟民族の言語で、縄文時代のシベリアの交易民族になったツングースや、縄文時代の最大の民族になったトルコ系漁労民族などのアルタイ系言語話者の民族は、後氷期に西から移住して来た民族だったと考えられる。アルタイ語族であるモンゴル人がシベリアの南苑にいる事が、氷期の分布域を示唆しているとも言える。

現在の日本に残っているシベリア東部方言はアイヌ語しかないが、原日本人が日本列島に拡散した時点では、アルタイ語話者は関東部族と北陸部族だけで、その他の部族は東部方言を使っていた疑いがある。

「出雲」の語源には諸説あるが、学術的であると考えられるのは、アイヌ語の権威である金田一京助氏の説だけで、

島根半島には十六島(うっぷるい)や恵曇(えとも)といった、アイヌ語の語感に近い地名が残されているから、「いずも」もアイヌ語系の言語から生まれた可能性が高く、アイヌ語では岬のことを「エツ」と言い、静かな所もしくは湾港のことを「モイ」と言うから、二つの言葉が合わさってエツモイになり、イツモに変化した可能性がある。

アイヌ語で岬のことを「エンムル」と呼ぶから、これがイツモに変化したとの主張もある。島根半島の日本海側はリアス式の複雑な海岸だから、アイヌ語のetu()moi()があわさったetu-moi(エツモイ)、あるいはetumui(曲がった場所)があわさったetu-mui(エツムイ)から、イヅモになった可能性もある。

古事記の国生み説話の記述順番は、伊予、隠岐(出雲)、九州、壱岐(アイヌ)、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(関東)で、シベリア東部にいた部族から先着順に、西日本の有力な湖を占拠したとすると、伊予灘、響灘(出雲)、九州(周防灘?)、壱岐(大村湾)までの湖の規模の順位が、シベリア東部から南下した順序だったと想定されるから、原日本人の出雲部族がシベリア東部の出自であるとすると、シベリア東部から南下した部族が先着し、有利な湖を得た事と、古事記の記述順が合致する。対馬(玄界灘)は壱岐と隣接しているから、対馬部族も東部方言だったとすると、北陸部族と関東部族だけがアルタイ語族圏の出自だった事になり、彼らは遠路日本列島に遅れて到着したから、日本型湖沼漁労文化圏の北限の地に定着せざるを得なかった事になり、その1に示した事情と整合する。

彼らは氷期の最寒冷期に沖縄に南下遊動したり、石垣島に南下移住したりする事を余儀なくされたが、それを梃にして海洋文化を高め、最終的に日本列島の覇者になったから、現在は彼らの言語が標準的な日本語になっていると解釈する事に違和感はない。

先着した部族は南下して来る狩猟民族の冬季キャンプを形成し、数か月掛けて獣骨と漁獲を交換する事が出来たが、関東部族が南下遊動する際には、晩秋に狩猟民族が南下遊動して来るのを経路上で待ち受け、短期間に僅かな獣骨を得ると厳寒期を沖縄で過ごすために、自分達が南下遊動するという様な生活を送っていたのではなかろうか。従って先着した部族には南下遊動する機会はなく、沖縄や台湾に出向く事はなかったと想定され、彼らが季節遊動したとすれば、夏季にカムチャッカ半島方面に北上したと考えられる。氷期に沖縄や台湾に南下していたのは、北陸部族と関東部族だけだったと想定されるが、その有力な理由はこれだった可能性が高く、関東部族が台湾に熱心に南下したのは、アサを得る為だけではなく、獣骨を得る事も重要な目的だった可能性が高い。

日本海の結氷が融け始めた2万年前に、ツングースの祖先が日本海北岸に達したとすると、彼らは偶然日本海沿岸に移住したのではなく、狩猟民族の情報網が健在であった時代の出来事として、彼らの移動事情を考察する必要がある。縄張りが確定していなかった日本海沿岸に出向けば、漁労技術に長けている原日本人から、漁労技術を習得できるとの情報が、南北遊動していた狩猟民族から、ツングースの祖先にもたらされた可能性が高いからだ。つまり両者は偶然出会ったのではなく、出会うべき場所で出会った事になるから、豆満江流域かウラジオストック近辺だった可能性が高い。日本海北岸には山が海に迫っている場所が多く、河川漁労ができる大きな川は其処にしかないからだ。

これらの仮説が成立すると、不可解な各種の状況が明快に説明できる様になる。

 2万年前に石垣島から北陸に帰還した原日本人は、1万年間日本列島に南下遊動していたmt-A系狩猟民族とご無沙汰していたから、この祖先系譜の狩猟民族から獣骨を入手する必要があり、ツングースがその見返りとして北陸の原日本人から漁労技術を学び、この時代の大陸に細石刃文化が拡散した事になる。そのツングースが漁労技術を得て徐々に北上し、16千年前にはオホーツク海沿岸まで北上したが、16千年前に九州の原日本人が北海道や樺太に入植したから、沿海州やオホーツク海に北上したツングースは、北海道部族から漁労文化を学ぶ事もできた。北海道には蛇紋岩が豊富にあり、その頃の北海道は令温帯性の樹林に覆われていたから、簡単な船を作って漁労を行う技能も、北海道部族から学んだ可能性が高い。

栽培系の遺伝子であるmt-Dmt-Dが、南北遊動していたシベリアの狩猟民族に浸潤した過程が不明だったが、彼女達は先ずツングースと共生していた狩猟民族の共生者になり、この狩猟民族に浸潤した後、この狩猟民族から南北遊動していた狩猟民族に浸潤したと想定される。配偶者としてではなく栽培ができる技能者として、言い換えると狩猟民族の間を渡り歩く女性として、両狩猟民族に浸潤したと推測されるからだ。

その様なツングースが15千年前のオホーツク海沿岸で、狩猟民とY-Nmt-Mペアの栽培者を糾合し、3民族の共生文化を形成したが、ヤンガードリアス期になるとオホーツク海沿岸では栽培が不可能になったから、アムール川流域や日本海北岸が共生文化の中心地になったと想定される。この共生文化には南限と北限があり、北限は栽培者の北限で、河川漁労が可能な湿潤な気候帯を南限としていた。後氷期の前半期は大陸が極度に乾燥したから、共生文化の南限も高緯度地域にあった。

後氷期の温暖化は大陸から始まり、東ユーラシアの温暖化は西ユーラシアや北アフリカの温暖化より先行したから、サハラ砂漠が最大化した2万年前より数千年早い時期に、日本海の氷は大陸の沿岸から融解していったと考えられる。望郷の念が強かった石垣島の原日本人の一部は、日本海の氷が融けて北陸でも漁労ができる様になると、石垣島から北陸に戻ったと考えられる。

この頃にツングース系の漁民と狩猟民族が、豆満江流域やウラジオストック近辺に登場した事になるが、彼らがそこに移住したとの情報は、九州にいた原日本人はシベリアから南下遊動して来た狩猟民族から得る事が出来たが、それが石垣島にいた原日本人に伝わった可能性は低く、最初にツングースと接触したのは壱岐、対馬、隠岐の原日本人だったのかもしれない。

この議論を進める為には、別の課題を解決する必要がある。

細石刃の使い方として、獣骨に埋め込んで鋭利な狩猟具にしたとの説があるが、その様な短い棍棒で、尖頭器を装着した槍より有効に動物を捕獲できたとは考えにくい。ある程度の長さの木製の棍棒の先端に、小さいが鋭利な石刃を多数埋め込むと、重い尖頭器を装着した石槍より全体が軽いから、それを振り回して敏捷な動物を倒すことができただろう。棒の先端に集中的に細石刃を埋め込んで槍の代用としても、全体が軽量だから獲物の素早い動きに対応できた。石槍には刃面が2方向にしかなく、それが動物に有効な打撃を加えなければ、獲物に有効な傷を負わせることができなかったが、4面以上に細石刃を埋め込めば、石刃の打撃面を配慮する事による動作の遅れもなかった。つまり森林の敏捷な動物を捕獲する為には、尖頭器を付けた槍より有効な狩猟具だったと想定され、鹿の角は漁具の素材として優れているから、細石刃を使った狩猟者が狙ったのは、海産物との交価値が高い鹿だったのではなかろうか。それであれば細石刃を装着した棍棒で顔面や首を強打する事により、尖頭器が付いた槍より狩猟の効率を高める事が出来ただろう。

歴史学者は馬鹿の一つ覚えの様に、この狩猟具は大陸起源であると言い張っているが、その主張には大きな矛盾がある。細石刃を骨や棒に埋め込む際の接着剤は何だったのかとの問いに、答えがないからだ。接着剤がなければ細石刃は使えないと言っても、過言ではないだろう。

土器がない時代の狩猟民族が膠を使っていた筈はないから、2万年前にあった強力な接着剤はウルシだけだった。松脂にも接着効果があり、尖頭器などの大型の狩猟具の接着には氷期から松脂を使っていた可能性があるが、細石刃や矢尻の様に小さな石器に強大な力が掛かる狩猟具を松脂で製作しても、有効な狩猟具になり得たのか疑問がある。

Y-O2b1はウルシを使って石斧と柄を固着し、Y-C1はウルシを使って矢柄と矢尻を固着していたから、彼らだけが細石刃を装着した狩猟具を、最初に完成させる事ができた。接着剤としてのウルシには使用期限があり、使い方も難しいから交易品にはできない。従って細石刃は交易されたとしても、当初の完成品は原縄文人しか作れなかった。

漆の起源については、縄文時代の各項で折に触れて何度も説明するが、それらの結論として言える事は、ウルシはmt-O2b1mt-M7aペアの固有の文化で、石垣島系縄文人も沖縄系縄文人も栽培していたが、縄文中期までの大陸にはない文化だった。良著文化の遺跡から漆器が発掘されているが、ウルシは冷温帯性の植生だから、暖温帯性の堅果類の栽培者を起源とする浙江省の稲作民の文化ではなく、日本から輸入したものだったと考えられる。縄文時代の大陸には、ウルシを必要とする文化要素がなかったからだ。

原縄文人は樹木の伐採に磨製石斧を必要としたから、石斧と柄を固着させるためにアサを使ったと考えられる。彼らに磨製石斧の使い方を教えた原日本人の磨製石斧は、シナノキの繊維で柄に固着されていたと想定され、アサにはシナノキの様な剛性がないから、アサの固定能力は劣っていたと考えられる。湿潤な台湾沿海部の鬱蒼とした樹林を切り開くには、高性能の磨製石斧が必要だったから、原日本人は磨製石斧を固着したアサにウルシを垂らし、シナノキに勝る剛性を得ていたと考えられ、矢尻を固定する機能はその派生として生まれたと考えられる。

沖縄系縄文人の代表的な狩猟具は弓矢だったから、彼らが細石刃を装着した狩猟具も作ったとは考え難く、石垣島系の原縄文人が細石刃付きの狩猟具を創出し、その生産に当たっていたと考えられる。石垣島の原日本人も、狩猟具に使う獣骨を入手する必要があったから、石垣島時代には台湾にいた沖縄系原縄文人から、獣骨を入手していたと想定される。台湾に遊動していた関東の原日本人は、台湾の原縄文人から獣骨を入手しなくても、関東に南下して来る狩猟民族から入手出来たから、台湾にいた沖縄系原縄文人にとって、石垣島の原日本人はお得意様になっていただろう。しかし沖縄系縄文人は、遅くとも18千年前には琉球岬に移住してしまっていたから、石垣島の原日本人は新たな入手先を手当てする必要があった疑いがあるし、遅くとも17千年前には沖縄に移住してしまったから、石垣島の原日本人がこのルートで獣骨を得る道は絶たれた。

2万年前に北陸に帰還した原日本人も、1万年以上交易関係がなかったシベリアの狩猟民族と、新たな交易を始めるに際しては、色々な課題を克服しなければならなかっただろう。温暖化して南下遊動する狩猟民族の数は減っていたのに、日本列島の漁民人口は減ってはいなかったからだ。

それらの必然的な帰結として、付加価値が高い物品を石垣島で製作し、高価な獣骨と交換するしかなかった。当時の狩猟民にとって最も価値がある物品として、細石刃を装着した棍棒や槍を商品化する事は、石垣島の人々と北陸に帰還した原日本人にとって、必然的な帰結だった。つまり19千年前~15千年前の細石刃文化は、石垣島が製造拠点になり、使用者はツングース系の狩猟民族だった可能性が高い。15千年前~13千年前に激増した細石刃需要を支えたのは、北陸に上陸した石垣系縄文人だったと想定される。

3万年前に石垣島に移住した北陸系原日本人は、その時期から獣骨の入手に難渋しただろうが、シベリアから南下して来た狩猟民族の獣骨は、日本列島の原日本人に渡ってしまったから、彼らの交易相手にはならなかった。ウルシを使った細石刃型の狩猟具の原型を色々生み出した末に、細石刃に行き着いたと想定されるが、その時期の彼らの交易相手は、台湾にいた原縄文人だったと想定される。内陸にいたY-O2bは大型獣の狩猟者だったから、細石刃型の狩猟具の優良な需要者ではなかったと推測されるからだ。しかし台湾にいた沖縄系原縄文人には、それと同様な狩猟具を作る事ができたから、誰でも作れる様な安易な狩猟具では交易品とは認めなかっただろう。結局台湾の原縄文人から獣骨を得る最大の交易品は、海産物になってしまった可能性が高い。台湾の原縄文人集団に河川漁民だったY-O3a2aが加わると、彼らの海産物需要も低下した可能性が高い。しかしその様な苦しい環境であればあるほど、商品に磨きが掛かる事は世の常だから、追い詰められた石垣島の原縄文人が細石刃文化を編み出した事に、違和感はない。

石垣島には優良な石材がなかったから、狩猟民族が使っていた初期の細石刃は狩猟民族が製作し、石垣島の原縄文人がそれを棍棒に装着する事により、完成品になっていた可能性もある。コナラよりウルシ樹の方が耐寒性は格段に高いから、北陸に最初に北上した植生は堅果類の樹林ではなく、ウルシ樹だった可能性は高い。生産性が高い堅果類の樹林は、Y-O2b1が丹精を込めて形成する必要があったが、mt-M7aが漁民と通婚し始めていたとすると、漁民とペアになったmt-M7aが北陸に上陸すればウルシ樹の疎林が形成できる気候が、19千年前の北陸に生まれていた可能性があるからだ。

細石刃が登場した19千年前の九州は、氷期より温暖湿潤な気候になって森林に覆われたから、森林の動物を狩る狩猟具が必要になったとも言える。大陸が乾燥したのに九州が湿潤になったのは、モンスーン気候帯だったからだろう。15千年前に細石刃文化が日本列島に拡散した事は、シベリアから狩猟民族が南下遊動しなくなったからでもあるが、本州が森林に覆われていた事も示唆している。

日本に渡来したツングース系の狩猟民族は細石刃を使ったが、16500年の津軽半島にいたシベリア東部の狩猟民族は、細石刃は使わずに矢尻を使っていたから、関東部族から弓に使うアサを支給されていた事になるが、彼らが矢を矢尻に固着する為に漆を使ったとは考え難い。土器が出土しているから、彼らには膠を作る道具があった事になり、この時代には膠を作る技術も生まれていた可能性が高い。つまり13千年前の御子柴系石器を遺した狩猟民族が土器を持っていたのは、干魚を煮戻す為だけではなく、膠を作る為だった可能性があり、この頃膠を作る技術が狩猟民族に拡散した可能性を指摘できるが、この技術をどの民族が生み出したのかは定かではない。

13千年前になると、アムール川流域で細石刃を使っていたツングース系の狩猟民族も弓矢を使う様になったが、彼らの主要な狩猟具は依然として細石刃で、弓矢が主要な狩猟具にならなかったのは、御子柴系石器を遺した日本の狩猟民族には入手できたが、アムール川流域では入手できない弓矢の素材があった事になる。石錘が出土しているから、アサは入手できた事を示している。矢柄研磨機がない事は、弓に大きな期待を抱いていなかった事を示唆するだけで、重要な要因だったとは考え難いから、この地域の交易を仕切っていたのは弓矢文化を取り入れた直後の北陸部族であって、弓矢文化の起源者である沖縄系縄文人を擁していた関東部族ではなかった事が、この違いを生んでいた可能性が高い。縄文人活動期の項で検証するが、北陸部族がアワ栽培者だったmt-Dを取り込んだ地域は、オホーツク海南岸~アムール川下流域だったと想定され、13千年前にはこの地域が北陸部族の商圏になっていた可能性が高いからだ。

沖縄系縄文人は弓の弦に適したアサを、1万年間改良し続けていたのに対し、石垣系縄文人のアサは磨製石斧の固着用だったから、弓の弦は沖縄系縄文人の特産品になっていただろう。つまり石垣系縄文人のアサは漁網などを作る事には使えたが、弓の弦としては強度が不足し、太い弦にしなければならなかったから、有効な狩猟具にならなかった可能性が高い。その様なアサであれば、釣りに使う事も難しかった可能性も高い。沖縄系縄文人はY-C1Y-O3a2aの要望を受けて、アサの品種を改良していた筈だからだ。Y-O2b1のペアだったmt-M7aではなく、Y-C1Y-O3a2aのペアになったmt-M7aが生業に関わる重要事項として、その様な改良に集中的に挑戦していたと想定される。

 

オホーツク海沿岸に北上したY-Nmt-Mペア

Y-Nmt-Mペアは、栽培系民族としては異例な寒冷地であると言っても過言ではない、オホーツク海沿岸まで北上した。15千年前のオホーツク海沿岸の気候は明らかではないが、現代人が考える農耕適地ではなかっただろう。

Y-Nmt-Mペアが栽培の限界の様な冷涼な地域に北上したのは、狩猟民族や漁労民族にとっては気候が寒冷である方が、獣肉や魚肉が腐敗し難く食生活が安定したからで、Y-Nmt-Mペアの食生活が漁労民族の生産物に依存していた以上、漁民の南限を超えて南下する事ができなかったからだ。狩猟民族は氷期から続く伝統的な生活様式を維持しているだけだったが、漁労民族には気候が湿潤で河川の水量が豊かで、漁獲が見込める高緯度地域しか、選択肢がなかったからだ。漁獲が見込める地域で必要だった栽培は、イネ科の種の保存を重視する南方型ではなく、魚肉が腐敗しやすい夏場に耐寒性が高い蔬菜類でビタミンCを補給するものだった。漁獲が豊かになって干魚を多量に作る様になると、ビタミンCなどの補給は通年必要になったが、冬季には鮮魚を生で食べる必要も継続し、保存性が高い根菜類が特に好まれた可能性が高い。

海に近ければ凍結期間は短く、秋にはサケが遡上したから、冬季に河川が凍結してもその蓄えによって、短期間であれば耐えられただろう。3民族がその様な環境で共生の経済性を追求すると、北上志向が高まったから、栽培の北限地域まで北上したと想定される。最北の栽培者だったmt-Dが、この時期の最多遺伝子だったと想定される事も、その様な事情を反映している。そのmt-Dがアワを栽培化した事は、その様な境遇に置かれてもイネ科植物の栽培を諦めていなかった事を示していると共に、mt-Dは原生種の北限より北の地域でエノコログサを栽培していたから、アワの栽培化はこの時期に進展したと考えられる。

寒冷なヤンガードリアス期にアムール川流域や日本海北岸で、オシポフカ文化圏やグロマトウーハ文化圏の土器を遺した人々は、遅くともそれ以前の温暖な時期に、オホーツク海南岸で3民族の共生文化を成立させていたと考えられる。遅れて北上したmt-Cmt-Gmt-Zもその民族共生に参加したから、mt-Mの南限の栽培者としてmt-M7aから土器文化を受容していたmt-Zが、この文化圏の土器を作ったと考えられるが、この時代の雑穀栽培者が土器を発明する必然性はなかったから、製作技法は堅果類の最北の栽培者だったmt-M7aから伝わったものだと考えられる。日本の細石刃文化が土器を伴っていなかった事は、mt-Dには土器文化なく、超温暖期以降にmt-Gが集積したカムチャッカ半島にも縄文時代の土器がない事は、mt-Dmt-Gには土器文化がなかった事を示しているからだ。但し既に交換経済が発達していたから、オシポフカ文化圏やグロマトウーハ文化圏の各集落に、mt-Zが必ずいたと考える必要はない。

オホーツク海沿岸の遺跡が発掘されないのは、15千年前の共生者は海岸の河川流域にいたから、遺跡がすべて水没しているからだと推測される。栽培者の最南端にいたmt-Zは、2万年前に福建省辺りから北上する前に、mt-M7aと接して土器の製作技法を伝授されたと考えられる。2万年前に華南が温暖化して乾燥化すると、Y-Nmt-Mはシベリア方面に北上し、堅果類の栽培者だったY-O2bmt-M7aペアは黄海に残っていた沖積平野に移住したと想定されるから、mt-Zが土器文化を身に着ける機会は、氷期の最寒冷期だった2万年前より古い時代だったと考えられるからだ。

堅果類を栽培していなかったmt-Zは土器の使用頻度が低く、何かを煮炊きする事は稀だったから、オシポフカ文化圏やグロマトウーハ文化圏の土器にはその痕跡がなく、その様なmt-Zは土器文化の進化に貢献する事もなかったから、その製作技法は日本最古の土器より古い時代のものだったと推測される。出土した土器は小さな砕片に分かれて脆さを示している事が、この推測を支持している。

上の地図に戻ると、漁労民がいたのはシベリア南部~沿海州だったが、比較的低緯度地域では遺跡分布が沿海部に偏り、カムチャッカ半島まで北上していた黒潮や、閉じた海である日本海の夏季の温暖化と、それによる局所的な湿潤化を期待していた事を示している。華北以南の中緯度地域に1万年以上遡る遺跡がないのは、この時期は乾燥して漁労ができなかっただけではなく、1万年前にインド洋が湿潤化し、渤海に海水が侵入するまでは、堅果類の樹林形成も不可能だった事を示している。

以上を纏めると、この遺跡分布は栽培や狩猟の適地を示しているのではなく、漁民が集積していた場所を示し、漁労の生産性の高さが他民族の食生活を支えていた事を示している。つまりこの時期の東アジアの栽培系狩猟民族と狩猟専業の民族は、食料の過半を河川漁労に依存していたから、土器を含む遺跡がこの様に分布したと考える必要がある。現在のロシア人の都市は過疎的に点在し、都市の近郊だけが発掘地されているから、この時代のアムール川流域には、多数の共生集落が点在していたと考えられる。

ツングースと共生していた狩猟民族の遺伝子はmt-N9aだったと想定され、この遺伝子が現在は華南まで広範囲に分布している事は、縄文時代になってもアワ栽培の適地ではなかった地域などに、狩猟民族が南下した事を示唆している。現在の中国エリアに一旦南下したY-C3狩猟民族は、気候が温暖化しても縄張りがない地域に北上する事はできず、縄張りの範囲内で生き抜ぬかなければならなかったからだ。アワ栽培者は縄文時代を通して狩猟民族でもあり続けたから、アワ栽培地が広がると彼らの縄張りは失われたが、農耕に専念し始めた稲作民族との共生が可能になると狩猟民族の生存圏が華南に生まれ、彼らの遺伝子分布が南方に偏った可能性がある。また海洋民族が成立すると、原日本人が日本列島に狩猟民族を招いて獣骨の供給を確保した様に、フィリッピンやインドネシアの海洋民族も彼らの島にY-C3mt-N9aを招いた可能性も高い。シベリアでは縄文晩期寒冷期に河川漁労が壊滅して人口が激減したから、その様な理由が重なる事により、mt-N9aは南方系の遺伝子であると誤解されているのではなかろうか。

ヤンガードリアス期が終わって温暖化すると、栽培民族の北上が可能になったから、共生集団は再びオホーツク海沿岸に北上した。15千年前に北上した際には、漁民は沖積平野の河口を漁場にしていたが、12千年前には海面が上昇して沖積平野は水没していた。しかし氷期の深い河谷に海水が侵入し、深い入り江を形成していたから、その様な場所が新たな漁場になったと想定される。

1万年前にインド洋が湿潤化すると、シベリアの内陸部も多量の降雨に恵まれ、三民族の共生集団が進出したが、その漁民はツングースではなくトルコ系漁民だった。ツングースの故地だったシベリア西南部には、ツングース系の河川漁民と狩猟者がいたがけではなく、トルコ語話者もいたからだと推測される。むしろトルコ語話者の方が多数派だったと推測され、5万年前に東西に分かれていた南方系狩猟・漁労民族の、東西の言語だった可能性を示唆している。それらの経緯については、縄文人の活動期の項を参照。

バイカル湖近辺の遺跡から土器が発掘されていない事は、栽培民族を欠いていた様に見えるが、栽培系狩猟民族の全てが土器を持っていたのではなく、南端のmt-Zが製作していたから、土器の頒布が遠方では薄くなった事が、その様な状況を生み出していた可能性があり、この時代の狩猟民族には自活力がなかった事を考慮すると、そこにも漁労・狩猟民族と栽培民族との共生社会があった可能性が高い。

現在のバイカル湖周辺はモンゴル系民族の居住域で、沿岸部を北上した女性達とは別種のmt-M10がいる。モンゴル系民族は河川漁労より狩猟が卓越した、シベリア南部の高原地域のY-C3民族だったと考えられるので、氷期のシベリア南部の狩猟民族の言語を維持している可能性がある。

この時期にもバイカル湖付近にmt-M10がいたのか明らかではないが、そのペアは現在もこの地域に多いY-O3だったと想定され、この時代のバイカル湖付近にいた栽培系狩猟民族もY-NではなくY-O3だった可能性がある。東ユーラシアの気候は後氷期に激しく変動し、温暖化と冷涼化を繰り返したから、遺跡を遺した民族がその地に定住していたわけではないが、Y-O3mt-M10が長躯北上する機会は、後氷期直後の温暖化と超温暖期の2回しかなかったから、Y-O3mt-M10がモンゴル系民族と共生していた遺跡である可能性が高い。その遺跡も河川流域にある事は、モンゴル系民族も河川漁民と共生していた事を示唆しているが、彼らの漁労技術の成立経緯を窺う材料は乏しい。

一番可能性が高いのは、2万年前に日本海北岸に達した西シベリアの漁労民族の東進ルートが、バイカル湖やアムール川経由するものだったから、ルート上の河川に漁民が残っていた事、彼らは同族として漁労技術を共有し、沿海部の漁民と類似した生産性を得ていた事だろうか。共生していた狩猟民族から広域的な情報を獲得する事が可能だったから、漁労技術がアムール川流域から拡散した可能性もあるが、それであればアムール川流域は漁民の過密地域になっていた事になる。

以上から言える事は後氷期に温暖すると温暖、温暖な低緯度地域では栽培系狩猟民族が優位になり、栽培技術の優劣によって栽培系狩猟民族の興亡が左右される時代になったが、気候が冷涼な高緯度地域では漁労が最も有利な生業になり、漁労民族が狩猟民族や栽培系狩猟民族を共生者として抱え、イネ科植物を重視した温暖な地域の栽培とは、異なった栽培技術を進化させた。いずれの地域でも、狩猟民族が狩猟の優位性だけで生業を維持する時代は、終わりを迎えていた事になる。

栽培系狩猟民族のこの時期の北上史を纏めると、以下になる。

Y-Nのペアは沿海部では北から順にmt-D mt-Gmt-Zが分布していたと推測され、mt-Cは内陸の栽培者だったので、この順位の何処に相当するのか明らかではないが、mt-Dと共にアメリカ大陸に渡ったから、mt-Dと類似した気候帯にいたと推測される。彼女達は氷期の居住地から固有の栽培種を持ち込んだから、この様な南北序列が生れたと考えられ、氷期にもこの序列で中華大陸に展開していたと想定される。

最北端にいたY-Nmt-Dペアは、氷期の温暖期が始まった2万年前に沿海州に北上し、15千年前にはオホーツク海沿岸に達していたから、東北縄文人にmt-Dが含まれていると考えられる。後氷期の急激な温暖化が始まった16千年前には、その南にいたmt-Gmt-Zもオホーツク海南岸に北上したから、ヤンガードリアス期に彼女達が南下したアムール川流域から、土器が出土する事になる。

ヤンガードリアス期が終わった12千年前に宗谷岬が生まれ、狩猟民族は北海道に南下できなくなったが、北海道縄文人にmt-Gが含まれている事は、ヤンガードリアス期の最寒冷期であっても、mt-Dだけではなくmt-Gもオホーツク海南岸にいた事になる。ヤンガードリアス期には黒潮も低温化し、九州縄文人は気候の冷涼化に苦しめられたが、北上する暖流が低温化すると途上の雲の発生量が減り、高緯度地域での低温化は鹿島沖ほどには大きくなかった可能性がある。つまりヤンガードリアス期になってもオホーツク海沿岸の低温化はそれほど酷くはなく、栽培化によって耐寒性を高めた蔬菜類の中には、栽培可能な種があった事になる。カブや小松菜などは、一か月ほど10℃以上の気温が続けば成熟し、気温が氷点下以下になっても草などを被せて保温すれば鮮度を保つことができるから、その様な蔬菜類を栽培していたのではなかろうか。

魚を保存する手段としては天日干しが一般的だが、それによってビタミンC、ビタミンA、葉酸などが失われるから、漁民が干した魚を多食する様になると、これらのビタミン類を蔬菜類から摂取する必要があった。氷期の漁民や狩猟民は生魚や生肉を食べていたと推測され、寒冷な気候下では冷凍させて保存する事もできたが、気候が温暖になって干した魚や焼いた魚を食べる様になると、栽培系の女性の技能が必須になり、mt-Mは必要不可欠な技能を持つ共生者になったと推測される。

12千年前に超温暖期が始まると、Y-Nは中央アジアから北上したY-Qも仲間に引き入れ、河川漁民と共生する栽培民族を再構成した。その様な流れとは別に狩猟者であり続けたY-Qにもmt-Dmt-Cが浸潤し、彼らはベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸に渡った。この事実によっても沿海部では、mt-Dが最北の栽培者だった事が分かるが、mt-DY-Qと共に北米に渡った経緯は次節で詳しく説明する。

ヤンガードリアス期のアムール川流域の土器は、製作技術や使い方が縄文文化とは異なっていた。出土量は少なく土器がない遺跡もあり、堅牢さに欠けるために細かく割れていて、火に掛けた痕跡がない。食生活に余裕があったから生活の質を改善する為に、必需品ではない土器を作った事を示唆し、豊かな漁労文化が彼女達の生活を支えていた事を示している。mt-Zの北上過程にも色々な困難があった筈だが、その間に土器の製作技法を失わなかったのは、イネ科の植物の種を集めて貯蔵する際に便利な道具だったからかもしれないが、寒冷な気候の中で蔬菜類を一時貯蔵する様な、現代人には気付かない意外な使い方があったと推測される。

温暖化に直面したシベリアの狩猟民族も、植物性の食料を摂取する必要に迫られた結果、防寒衣料の縫製には優れていたが植物性食料を調達できなかった、それまでのペアであるmt-Amt-N9aから、栽培系のmt-ZGCDに変えていったと想定される。しかし水上交易民族だったツングースは、現在も氷期の伴侶だったmt-Yを濃厚に温存している。ツングースは原日本人から造船と河川漁労文化を直接取得し、シベリアで最も高度な技能を持つ水上民族になると、氷期の原日本人が家族で海洋を南北に遊動した様に、家族で水上を移動する文化を原日本人から受け継ぎ、栽培系の女性を受け入れなかったとも言えるが、それ以前にオホーツク海沿岸の漁民だった時期にも、民族共生は盛んに実現しても他民族とは通婚しなかったから、mt-Yを濃厚に維持していると考えられる。

その理由として考えられるのは、漁民は集住する事が出来たから栽培系狩猟民族と集団単位で共生していたが、狩猟民族は過疎地に縄張りを設定して活動する都合上、温暖化対策の為には配偶者としてmt-Mを受け入れる必要があったと推測され、東北縄文人や北海道縄文人にmt-Dmt-Gが含まれているが、mt-N9amt-Aは含まれていない事が、それを示唆している。

関東部族や北陸部族の漁民は、多数の栽培女性を浸潤させたから、その漁労文化を受け継いだツングースが、栽培系ミトコンドリア遺伝子の浸潤を受けなかった事は一見矛盾する様に見えるが、関東部族の漁民が海洋文化を伝授したもう一つの民族である、台湾起源のオーストロネシア語族の海洋民族は、発足当初のmt-B4を維持し続けたから、関東や北陸の漁民の方が異色の存在だった。

東北縄文人や北海道縄文人も海洋民族であったにも拘らず、海外のミトコンドリア遺伝子や他部族のミトコンドリア遺伝子は受け入れなかったから、海洋民族になった漁民の習俗は本来その様なもので、関東部族の漁民が他民族の女性を受け入れた経緯には、特殊事情があった。関東部族は海外から栽培などの技術者を招く事に特化し、その技術者だった女性が縄文人とペアになったのであって、部族外の女性と一般的な通婚を行ったのではない。この時期のシベリア系の狩猟民族も、その様な経緯で技能者を受け入れたら、やがてそれが標準遺伝子になったと考えるべきかもしれない。

ツングースが海洋漁民の様に集住し、栽培系の女性が蔬菜類を彼らの集落に持参していたから、漁労活動に理解が深いmt-Yがペアの座を譲る事はなかったとすると、彼らは銛や投げ網を持って移動していたのではなく、海洋漁民の様に湊に集住して船を使っていた可能性が高い。

縄文時代のツングースは、シベリア各地を家族単位で移動し、シベリアの東西を結ぶ交易者になった。その目的はシベリア各地にトルコ系漁民と狩猟者を入植させ、Y-Nを含む3民族の共生社会を形成させながら、狩猟民族が生産した獣骨を集め、その代価として彼らに漁労に必要な物資を支給する事だった。従って彼らの移動生活には栽培を行う機会がなく、栽培者が浸潤する余地がなかった。彼らは交易先のトルコ系民族の居住地で、植物性の食料を入手する事が可能だったから、mt-Y以外のペアは必要なかったと想定される。

 

4-5 シベリアの狩猟民族の系譜

シベリアの狩猟民族は部族に分かれ、縄張りを遵守しながら活動していた故に血族集団の盛衰は起きなかったから、Y遺伝子の変異を分類しても特定の遺伝子クラスターが拡大し、子クラスターや孫クラスターを形成した痕跡は発見できない。それ故にISOGGの分類を解析しても、C2Y-C3)にはC2amt-A系)とC2bmt-N9系)があり、日本のY-C3mt-N9系(細石刃を使った狩猟民族)が多い事と、モンゴル人や縄文時代のトルコ系漁労民族のY-C3は、mt-N9系だった事しか分からない。それに対してミトコンドリア遺伝子の変異は、Y遺伝子より発生頻度が低い故に長期間に亘る民族の盛衰を追跡し易いだけでなく、mt-Xが別途分類され、mt-N9は下位クラスターとしてmt-N9amt-N9bmt-Yがあり、異なる民族の遺伝子として分離できるので、民族の興亡を追跡する指標として優れている。

栽培系狩猟民族のミトコンドリア遺伝子分布から、栽培種の開発動向や拡散動向を推測できる事は既に指摘したが、狩猟民族のミトコンドリア遺伝子にも同様の傾向がみられ、女性の技能が北方の狩猟民族の文化圏の形成に、重要な役割を果たしていた事を示している。具体的に言えば栽培系のミトコンドリア遺伝子と同様に、技能の進化過程で遺伝子の純化があり、それが現在の遺伝子分布に繋がったと考える事ができる。つまりその技能は栽培系の女性と同様に、母から娘に伝達された事を示しているから、寒冷地の狩猟民族の技能として、防寒衣料の縫製やテントの製作だけではなく、食料の保存方法や狩猟方法にも及んでいた事を示唆している。つまりこれらのミトコンドリア遺伝子の分布は、氷期の寒冷な気候下のシベリアの狩猟民族が狩猟文化を発展させた主要技術は、女性達が開発した耐寒性が高い生活様式だったと言っても、過言ではない状態を示している。従って以下の説明は、ミトコンドリア遺伝子の分類記号によって行う。

9万年前に東アジアの沿海部を北上したmt-N集団は、シベリア南部で漁労も兼ねるmt-N9系と、北部で狩猟を行うmt-XA系に分かれ、当初優勢だったmt-Xがシベリア北部に展開したから、現在mt-Xが欧州から北アメリカに広域的に分布している。その後mt-Aがオホーツク海沿海部を中心とする東シベリアで優勢になったが、彼らの文化は暖流が気候を温暖湿潤にしていたシベリア東部に適合したものだったから、mt-Aは西ユーラシアには拡散しなかったが、後氷期に温暖化してこの文化が崩壊すると、mt-Xと共に寒冷な気候が残っていたアメリカに移住した。

mt-Xが生み出した狩猟文化は、北極圏の冷気が河川の水を氷の堤防によって堰き止め、それによって形成された巨大湖沼が広がっていた時代の、氷床の南に生まれた草原の動物を狩るものだったが、黒潮の北上によって氷期の比較的早い時期に、東シベリアの氷床が消失してレナ川の河水の過半が北極圏に解放され、東シベリアに大平原が生れたから、mt-Aはその平原の動物密度が増加した事に適応する、新たな狩猟文化を創設したと考えられる。獲物の増加に伴って狩猟民族の人口が増加したが、それを更に安定的に増加させる為には、不猟期を生まない対策が重要になる事は、温暖な地域の狩猟民族を含めた普遍的な事実だった。

東シベリアに生まれた新しい環境は、草食動物が季節に応じて南北移動し、途切れのない豊かな食料を確保する習性の獲得を促したから、季節に応じて南北を誘導する様になっただろう。その様な草食動物は体格が良くなり、長距離移動に耐えるために大型化したと想定される。彼らがその様な動物群を、季節的な切れ目がない状態で捕獲する為には、狩猟民族も長躯南北移動する狩猟形態の構築が必要になり、それに成功する事によって始めて、安定的な食料の確保が可能になったと想定される。当初の遊動距離は短かったかもしれないが、それを繰り返す内に次第に距離が長くなり、常識的な人が驚く距離になる事は、文化の発展としては常道になる。南北移動していた動物群も、移動距離を延ばす事によって害獣や昆虫の被害を低減し、個体数を増やしていった可能性が高い。

シベリア東部の狩猟民族は、環境の変化によってその様な狩猟形態を強いられたが、南北遊動する狩猟文化を完成する事により、最も生産性が高い狩猟民族になる事ができたと考えられる。シベリアの平原を北上して北極海に流れ込む3大河川の内、最も東にあるレナ川だけが巨大な川洲を形成しているから、6万年前に始まった氷期の温暖期の早い時期に、この様な状態が生れた可能性が高い。原日本人の多数の部族が、この文化を形成した狩猟民族と共生していたと考えられるので、氷期の温暖期の昇温期だった6万年~55千前に、この文化が形成されたと考えられる。

シベリア東部の狩猟民族が長距離南北遊動する文化を生み出していたとすると、此処まで説明して来た各民族の遺伝子分布や細石刃文化の拡散が、合理的に説明できるだけではなく、多数の原日本人が部族単位で日本列島に南下したプロセスが、詳細に再現できるし、チベット人の祖先がチベットの周辺に南下したプロセスも説明できる。レナ川の湖沼が北に後退していたシベリア東部から、湖沼が多かった北海道に達する為には、湖沼が殆どなかったシベリア南東部や樺太を経由する必要があるから、湖沼漁民が単独で、その様な地域を拡散的に移動する事は難しかった筈だが、南北遊動していた狩猟民族と共生的に移動したのであれば、その問題が解決されるからだ。小集団が移動するのであれば、彼らの気紛れ的な冒険に依った可能性もあるが、部族として纏まった行動を採り、その部族構成が縄文時代まで継続していた事を説明する為には、組織的な移動を想定する必要があるからだ。

レナ川の湖沼が北に後退すると、レナ川流域の低地からアムール川の河川域に南下する為には、標高数百メートルの丘陵地を超える必要があるが、その距離は直線で1200㎞ある。樺太は造山帯の島ではないから、氷期にも湖沼はなかったと想定され、湖沼漁民だったY-Dがアムール川流域から北海道に南下する為には、その様な樺太を更に1000㎞縦断する必要があった。湖沼漁民が単独で移動できる距離ではないが、mt-Aと一緒であれば遊動できる距離だった。

彼らの冬季の最終的な移動先が、西日本に達していたのであれば、寒冷化してシベリアの湖沼の凍結期間が長くなる前に、Y-Dは西日本の湖沼に定住する事が出来た。共生していたY-Dの一部が、冬季になっても氷結しない西日本の湖沼に定住し、冬季に南下して来た狩猟民族を豊かな漁獲で迎えたとすると、狩猟民族にとっても心地よい冬季キャンプになったからだ。従ってmt-Aと共生し始めたY-Dの一部は、シベリアが寒冷化する前に日本の湖沼で通年漁労を始め、生産性が高い日本式の湖沼漁労文化を形成する事が出来た。老齢化して長距離移動に耐えられなくなった人々が、棄民としてこの湖沼に残った事が、日本式の通年漁労が生れる端緒だったとすると、話に無理がない。

シベリア南西部でmt-N9と共生していた関東部族と北陸部族は、その様な恩恵を受ける事が出来なかったから、日本列島には通年漁労が可能な湖沼群があるとの情報を得ても、シベリアが寒冷化しなければ、日本列島に南下する大義名分が得られなかったかもしれない。しかし寒冷化が進むとシベリアでの漁季が短くなり、冬季の食料を提供していた狩猟民族の負担が重くなると、彼らも日本列島に南下する事を決意し、mt-A民族に一時的な共生を依頼しただろう。

mt-A民族の回答は、以下のようなものだったと推測される。

「巨大湖沼であれば冬季に氷結しない北限が関東や北陸に繋がる中部山岳地帯で、そこに巨大湖が複数あるが、彼らと共生していたY-Dはその様な地を避け、小さな湖であっても氷結しない西日本に定住していたから、その湖に南下するのであれば世話をしても良い。」という様なものだったと想定される。mt-A民族にとっては、その地域に辿り着くだけで魚を飽食する事ができるのであれば、歓迎すべき事態だったからだ。但し彼らが持参する獣骨の殆どは、西日本に定住しているY-Dへの土産だったから、関東部族や北陸部族に分ける分は僅少にならざるを得ない事も、事前に申し渡していただろう。

従って北陸部族や関東部族が盛んに南下遊動したのは、氷期の最寒冷期に向かう寒冷化の中で、関東や北陸が耐え難い寒さになったからだけではなく、南方の狩猟民族から獣骨を得る目的もあった可能性が高い。つまり北陸部族が海南島まで南下したのも、彼らの必死の行動の結果であって、冒険者が偶然南下したのではなかった事になり、関東部族の南下路が沖縄止まりになった事は、彼らの大きな不幸だった。

但しカムチャッカ半島にmt-Xがいれば、関東部族はmt-Aからの情報を得て、夏季にはそちらに向かって北上していたかもしれない。mt-Aが晩秋に南下路の途上で立ち寄り、初春に北上路の途上で立ち寄ったから、この時期には総出で漁労実績を上げる必要があり、その時期は避けなければならなかったとすれば、関東部族は北上できる時間の方が長かったからだ。氷期の日本海は北に出口がなく、北陸部族には南方に向かう選択肢しかなかったから、夏季にも南下する事によって原縄文人の祖先に出遭った事になる。

関東部族や北陸部族だけが、縄文時代に競う様に大陸民族に交易を求めた原因も、この様な事情が起因していた事として想定できるが、部族と言ってもそれほど統制が取れた集団がったのか疑問もあり、個々の小集団はそれぞれの思惑で活動していたと考えるべきだろう。

この様なmt-A狩猟民族の遊動路は極めて長く、レナ川が形成した低地から西日本まで3500㎞もあるが、その低地からオホーツク海南岸までの、1000㎞の間に横たわる標高数百メートルの丘陵地を超えさえすれば、後は海岸の沖積平野を移動する事が出来たから、距離が長い割には困難な移動ではなかったと推測される。片道に5ヵ月掛けたとしても1か月に700㎞、1日平均22㎞移動する強行軍だったが、健脚だった古代人には可能な移動だったと推測される。

火山列島である日本には黒曜石などの資源が豊富にあり、狩猟具やテントを作る樹木もシベリアより豊かだったし、内陸の狩猟民族には不足しがちな塩分も、途上の海水から補給する事が出来たから、この遊動によって得られる物も多かった。シベリアにいたmt-Xには、それらの入手に困難があったと推測される。彼らには漁労技術がなかったが、Y-Dを伴っていれば各地で漁獲が得られたし、冬のキャンプ地にY-Dが集積していれば、1か月ほど体を休める事もできた。

北海道の白滝や長野県の霧ヶ峰は、彼らが遊動途上で狩猟具を調達する場になり、渡島半島はヘラジカなどの南下する動物が集まる隘路として、重要な中継狩猟地だっただろう。

彼らが移動時に運ばなければならなかった最大の荷物は、寒冷な気候に耐えるためのテントと防寒衣料、そして遊動途上で得た肉と、Y-Dへの手土産にする獣骨だったが、Y-Dが随伴していれば漁労具に加工して軽量化してしまっただろう。従って最も重い荷物はテントだったが、彼らが日本列島で冬季を過ごしたのであれば、シベリアで冬季を過ごす狩猟民族と比較して、極めて軽量のテントで間に合わせる事が出来たし、衣類も夏用冬用として色々持ち歩く必要はなかった。従ってその様なテントを開発し、男性達が狩猟を行っている傍らで、自ら担いで次のキャンプ地に移動していた女性達が、mt-Aだったと想定される。部族が違う漁民とは通婚しなかったから、当時の遺伝子は日本列島には残っていない。

この様な狩猟民族が、東シベリアの全ての狩猟民族ではなかった事は、mt-Xもアメリカ大陸に渡った事が示唆しているが、内陸のmt-Aもこの様な狩猟に移行した事を、チベット人にmt-Aが含まれている事が示している。つまり中央アジア~四川・雲南の湖沼群の間の山岳地を、長距離遊動していたmt-Aもいた事を示している。この想定により、山岳地で隔てられていた四川・雲南の湖沼群に、中央アジアの湖沼漁民だったY-Dが移動した経緯も明らかになるから、mt-A系の狩猟文化がその様な長距離遊動を伴うものだったとの仮説は、諸事情と整合するだけではなく、氷期の日本史も分かり易くする。

この仮説の信憑性を更に検証する為、氷期のシベリアを広域的に俯瞰し、全ての狩猟民族系mt-Nの拡散事情を追跡すると、氷期の西ユーラシアに拡散したY-C1のペアはmt-Uだったと推測されるから、現在の欧州に残っているmt-Xは、Y-C1に浸潤したmt-Xだったと考えられる。

ウラル語族であるフィンランド語は、ドラビダ系の言語と発音に共通性がある事は、5万年前の東南アジア北西部で、Y-C1のペアだったmt-Rが濃厚にY-Hに浸潤した際に、mt-Rの発音がY-Hに残り、それがドラビダ語に残されたからだと考えられる事は、既に指摘した。従ってウラル語族はY-C1の言語で、氷期のウラル山脈以東はY-C1の縄張りだったとすると、全ての辻褄が合う。

mt-Xの方が狩猟のサポーターとして優れていたから、mt-XY-C1に浸潤した後、Y-C1が西ユーラシアの覇権をY-Rに譲ったから、現在はmt-XY-C1も希少な遺伝子になったと考えられるからだ。

Y-C1には漁労技術がなかったか、あってもツングースと比較するとかなり劣っていたので、ツングースから漁労技術を獲得したY-Rが、黒海北岸から北海に及ぶ地域の漁業権を得たと想定され、Y-C1Y-Rに滅ぼされたのではなく、漁民になったY-Rに獣骨を供給する狩猟民族になり、ウラル語を遺した事になるからだ。

Y-C1が漁民だったY-Rの言語に同化しなかったのは、Y-C1狩猟民族の狩猟技能が高く、Y-Rとは別の部族を形成していたからだと考えられる。類似した状況としてモンゴル諸語の存在があり、縄文時代の日本列島でも栽培民族は漁民の部族に属したが、狩猟民族は属さずに独自の部族を形成し、漁民が形成した各部族の調整役を果たしていたと想定されるから、それが縄文時代のシベリア系文化の一般的な習俗だったと推測され、Y-RY-C1は生業が異なる民族として、平和的に共存関係を構築した事になる。

現在のシベリアの少数民族には、Y-Nを主体とする民族が多数あり、フィン人もその様な栽培系民族の集団として現在に至っている。ウィキペディアはフィンランド人の遺伝子構成は、N1a1 (61%), I (29%), R1a (5%) , R1b (3.5%)であるとし、ノルマン人のスウェーデン人による北方十字軍の征服を受け、キリスト教化してヨーロッパ世界に組み込まれた。スウェーデン人による支配は長く続き、宗教や文化などで強い影響を受けている。その後19世紀にスラブ人のロシア帝国の支配を受けると、ようやく民族主義が高まり、帝政ロシア崩壊直後の1918年にはフィンランド共和国を樹立したとも指摘している。

元々彼らは海洋民族的な共生民族だったから、海洋民族国家だったスウェーデンによる支配には抵抗がなく、農業国家であるロシアの支配を受け入れなかった事になり、此処で想定する彼らの歴史と合致する。

もう一つの有力なウラル語族であるマジャール人も、現在は栽培系の遺伝子のY-R1aY-R1bY-Iで、フィン人と同様の状態になっている。Y-C3が少し含まれているのは、黒海の漁民にはY-C3も含まれていたからだと考えられる。

これらの民族が、現在は栽培系狩猟民族の遺伝子だけになっているのは、青銅器時代や鉄器時代になって海洋漁民の獣骨需要が失われると、Y-C1狩猟民族の生業が失われ、専業の狩猟民族がこの地域にいなくなったからだと考えられる。しかしその時代まではY-C1が支配的な民族だったから、栽培民族はY-C1の言語に同化した事になり、これはシベリアのトルコ系民族と同様の状態になる。シベリアでは縄文晩期寒冷期以降、河川や湖沼が凍結する様になり、真っ先に漁労系のY-C3が狩猟民族以下の人口規模に激減した。現在のシベリアのツングースには水上文化も失われているが、縄文時代のシベリアの水上文化の基底だった船具や漁具は、交易によって入手していたから、シベリア経済が崩壊するとそれらの入手も困難になり、気候変動以上の悪影響を及ぼした疑いがある。

従って西ユーラシアに分布しているmt-Xは、Y-C1のペアとして狩猟民族を構成していた痕跡であると考えられ、Y-C1と比較して数が多く広範囲に分布しているのは、日本にmt-Aが多数遺されているのと同様に、獣骨の加工技能者としての需要があり、漁労民族に拡散したからではなかろうか。

以上は北欧の事情を精査した結論ではなく、東アジアの歴史の考証から生まれた法則を適用した推測に過ぎないが、同じシベリアの部族文化を継承し、漁労文化が卓越した時代を経過した類似文化として検証する事ができるから、確度は高い。従って以上の検証により、氷期のシベリア事情や、mt-Xとは異なる狩猟文化を形成したmt-Aの立場が明らかになる。

彼らは後氷期の温暖化によって北方に退避し、更に温暖化すると冷涼な気候が残るアメリカに渡り、クローヴィス文化(12千年前~)やそれに続くフォルサム文化を形成した。両文化の遺跡は北アメリカ大陸の広範な場所で発掘され、アメリカ大陸に渡っても南北遊動を行った事を示唆している。

12千年前にクローヴィス文化が生れたのは、東ユーラシア大陸の超温暖期が始まり、mt-A型の狩猟文化が立ち行かなくなったからだと想定されるが、15千年前に津軽海峡が生れて彼らの南下が北海道止まりになり、宗谷海峡を渡って北海道部族の漁獲を当てにする状態と、ヤンガードリアス期の寒冷化によって持ち堪えたが、12千年前に超温暖期が始まると共に宗谷岬が生れ、冬季に南下する意味も失われると、アメリカに渡ってクローヴィス文化やフォルサム文化を形成した可能性もある。

これらの認識はこのHPが提唱する、氷期・間氷期サイクルの成因にも合致する。つまり北半球の氷期の寒冷な気候を維持したのは、シベリアと北米に形成された厚い氷床で、東シベリアの湖沼群が最も早く消失したから、mt-A系狩猟民族が南北遊動による生産性が高い狩猟を実現し、2万年前に湖沼の消失が中央アジアに及んだから、mt-N9aが日本海沿岸に東進し、氷期の温暖期の急激な昇温が始まったと考えられる。

15千年前に西シベリアや中央アジアの巨大湖が全て干上がると、ユーラシア大陸東部の気温が急上昇して氷期が終わり、それによって北大西洋両岸の氷床が急速に融け始めたから、海水面の急上昇が始まった。しかし北欧や北米の氷床が急激に融解し、その融水がカスピ海や五大湖に巨大湖沼を再現すると、その湖水が周囲を銀世界に変え、湖が氷結して再び寒冷なヤンガードリアス期になったが、アラル海以西には水源がなかったので巨大湖の広がりは限定的で、寒の戻りは一時的なものに留まった。東ユーラシアで12千年前に再び気温が急上昇し、超温暖期になると氷期の残渣は一掃される方向に向かったが、それが完了して世界の海面が安定する8千年前まで4千年掛かり、その時期の欧州や北米には氷床が残っていたから、温暖化は緩やかなものだった。

8千年前に太平洋が湿潤化したのは、8千年前に北米の氷床が殆どなくなり、北太平洋亜熱帯循環を冷却する機構が完全に失われた事と、親潮が発生して黒潮が青森まで北上しなくなった事、即ちメキシコ湾流がノルウェー沖まで安定的に北上し始めたからだと考えられる。8600年前から7900年前までの間に黒潮の温度が急上昇し、3℃も温暖化したからだ。

 

4-6 ヤンガードリアス期が終了した後のシベリア

ヤンガードリアス期が終了すると、東ユーラシアは超温暖期になった。超温暖期になったと考える直接の証拠は、尾瀬の花粉が9千年前の異常な高温を示している事と、鹿島沖の海面温度が12千年前に急上昇し始めた事だが、日本列島は昇温が遅かった太平洋に接しているから、大陸の昇温は尾瀬より早く過激だったと推測される。東シベリアのY-C3mt-Aペアが、その気候を避けて冷涼なアメリカに渡った事は既に指摘したが、栽培系狩猟民族だったY-Qと栽培系のミトコンドリア遺伝子のmt-Dmt-Cが、この超温暖期にシベリアからアメリカ大陸に渡った経緯も合理的に説明できるから、それも状況証拠になる。

東ユーラシアは12千年前に最も寒冷になり、その直後から大陸の気温は急上昇したが、寒冷な太平洋に接していた日本列島は、昇温が2千年ほど遅れた黒潮の影響を受けていたから、東アジアと一口に言っても、ヤンガードリアス期の終了時期を画一的に判定する事は難しい。

ヤンガードリアス期にシベリア南部に避寒していた共生民族は、11千年前にはシベリア北部まで北上していたから、mt-M系の女性達が西から来たY-Qに拡散し、Y-Nだけだった共生文化の栽培系狩猟民族の参加者を増やし、Y-Qの一部はmt-Dmt-Cと共にベーリング海峡を越え、アメリカ大陸に渡ったと考えられる。海面が上昇してベーリング陸橋は1万年前に失われたから、超温暖期が始まった12千年前から1万年前までの2千年間に、これらの出来事が完了した事になる。

超温暖期になるとオホーツク海の沿海部も急激に温暖化し、海水温が上昇すると草原だった内陸にも樹林が広がり、細石刃を使う狩猟者の活動範囲を広げたから、漁労民族もオホーツク海北岸に進出した証拠が、現在のカムチャッカ半島に濃厚に分布しているmt-Gの存在であると考えられる。森林の狩猟者になってしまっていたY-Nにも、その余禄程度の狩猟環境を提供したと想定されるが、既に共生文化に馴染んで漁労に依存していたY-Nには、再び栽培系狩猟民族に戻る気はなかった事を、アメリカ原住民にY-Nが含まれていない事が示している。しかしY-N型の共生民族にならなかったY-Qは、mt-Dmt-C に浸潤されても共生民族にはならず、彼らに適した狩猟環境を求め、冷涼なアメリカに渡ったと考えられる。

その様なY-NY-Qの違いは、共生文化に新参であったのか否かという事情の他に、両者の狩猟具の違いによるものだったと推測される。Y-Qは人口稠密地域だった東南アジアの、栽培者の支援が最も貧弱な栽培系狩猟民族だったから、Y-QY-C1Y-GY-Rなどと隣接する縄張りで、十分な獲物を獲得する必要があったが、Y-Nは氷期から特に競争相手がない状態で、広い中華平野に拡散していたからだ。Y-O2bY-Nの強力なライバルではあったが、Y-O2bの狩猟地は冷温帯性の堅果類が栽培できる地域に限定され、草原に進出する事はなかったからだ。

mt-Dmt-Cの南の栽培者だったmt-Gは、アメリカには渡らなかった。その様なmt-Gでも超温暖期が終わって気候が冷涼化すると、Y-QY-Nと共にカムチャッカ半島に南下し、現在はカムチャッカ半島の主要な原住民になっている。各ミトコンドリア遺伝子の北上の程度は、彼女達の栽培種の耐寒力に依存し、それは氷期の彼女達の南北ポジションを反映していたと想定されるから、彼女達の栽培種の耐寒性の高さは、北からmt-Dmt-Gmt-Zだったと考えられる。

これは農耕が成立する様な温暖な気候下での栽培の話をしているのではなく、高緯度地域しか湿潤な気候が得られなかったこの時代に、高い漁獲が見込めた漁労民族に付き合う為に、どれ程寒冷な気候で蔬菜類を栽培する事ができたのかを、層別に示している事になる。彼女達の主力栽培種は、魚を干して貯蔵する漁民にビタミンCなどの栄養素を補給するための、蔬菜類や漿果類が中心になり、イネ科を中心としたカロリーの補給品は、蔬菜類ほどには重要ではなかった。その様な栽培種のメニューをどの程度持っていたのか、即ち氷期の中華平原で彼女達の祖先が、どれだけの栽培種の種を集めていたのかが、彼女達が層別された根拠になった。つまり氷期の華北平原時代の南北準が、この時代の女性達の南北順位を決めていたと推測される。

mt-Dが最北の栽培者だった事態は、2万年前から1万年前まで続いていたから、この様な序列が長期間維持されたのは、耐寒性が高い植生を栽培できた女性の方が、豊かな漁獲を得る可能性が高まった事を示している。温暖化が急速に進展していたから、彼女達の栽培地は直前まで極めて冷涼で、植生に乏しい土壌だったから、彼女達が南方から持ち込んだ栽培種には、繁殖を妨げる雑草がなく、漁民は豊かな河水を求めたから、土壌は十分に湿っていた。その様な土地に種を撒くと望外な豊作が得られたと同時に、栽培種の品種改良が進み、生産性が高まったと推測される。

豊かな漁獲を得る漁民との共生求めた女性達は、オホーツク海の海水温の上昇と共に北上し、常に漁民が集積する栽培極限の寒冷地で栽培したから、彼女達の栽培種の耐寒性も急速に向上したと想定される。

Y-Nがアメリカに渡らなかった理由をもう少し深く詮索すると、漁労民族はオホーツク海北岸まで北上したが、ベーリング海沿岸には進出しなかったから、Y-Nもベーリング陸橋を越えてアメリカに渡らなかった様に見える。この時代にはカムチャッカ半島まで黒潮が北上し、択捉島の北からオホーツク海にも分流し、温禰古丹島(おんねこたんとう)の北から流出していたと想定される。両所はそれに必要な深さを有しているからだ。それによってオホーツ海が少し暖かい海になり、周囲に降雨をもたらしたと想定しなければ、氷期のシベリアが温暖・湿潤だった事は説明できないからでもある。

しかしアリューシャン列島には、その深さがある島と島の間隙がないから、ベーリング海は氷期の期間中も後氷期の前半期も、降雨も温暖な気候も提供しない冷たい海だったと想定される。北大西洋亜熱帯循環と接していたカナダ西岸の山脈には、氷期に巨大な氷河が生れたが、アラスカには氷河はなかった事がその事情を示している。その様な乾燥した気候が、河川漁民のベーリング海進出を阻み、Y-Nと共生する地域を限定していたと考えられる。つまりY-Nには、ベーリング陸橋に近づく意思も動機もなかった。

アメリカに渡った栽培系民族はY-Qだけだから、Y-QにはY-Cに迫る特殊な狩猟技能があり、Y-C3と並行する様に、mt-Dmt-Cと共にアメリカに渡ったとも言えるが、河川漁民との共生から疎外された集団が、アメリカに渡ったとも言える。Y-Qに浸潤したのはmt-Dだけではなく、mt-Cも浸潤した事は、Y-Qの狩猟技能は漁労の補助を必要としない程に高度だった事が、誰の眼にも明らかだった事も示唆している。つまりこの時期にはmt-A系の狩猟民族も、伝統的な狩猟技能が発揮できない状態にあり、必ずしも優れた狩猟者とは言えなかったから、一部は北米に移住して新天地を求めたが、残留していた者は、河川漁民に獣骨を提供しながら食い繋いでいる状況もあり、Y-Qはその様な状態にならない高度な狩猟技能を持っていたと推測される。

これは経済論に立脚した筋書きだが、人には情緒や感情もあるから、一旦mt-Dmt-Cとペアになって漁労民族と共生したY-Qが、共生集団の中で自分の役割を見出せなかった故に、それに対して忸怩たる思いを抱いて再び狩猟民になったとの想定も、マーケティング手順としては重視する必要がある。それとは別の観点として、Y-NY-Qと共にアメリカ大陸に渡ったが、気候が寒冷化してアメリカの自然が厳しくなっても、ベーリング海峡が生まれて引き返す事ができなくなった結果として、狩猟技能に優れていたY-Qだけがアメリカ大陸で生き残った可能性もある。

感情論になると色々な要素が生れ、混乱期には色々な行動を採る人々がいた事を認める必要があるが、アメリカに渡った気紛れなY-Nもいたとしても、その子孫は絶えてしまったとすれば、歴史の流れを解釈する立場としてはそれを無視し、後継者を遺した人々の挙動を評価するしかない。しかしその様なY-Nがある程度いて、彼らが北米に考古遺物を残したとすれば、考古学者を混乱させる事は間違いない。

mt-Cは縄文人の遺伝子に含まれていないので、彼女達の栽培思想は明らかではないから、この項では触れないが、mt-D2mt-D3がアワを栽培化した事は確からしいので、mt-Dがアメリカに渡ったのにmt-Gが渡らなかった理由は、栽培思想に基づく経済論から解釈できる。mt-Gがカムチャッカ半島の現在の多数派である事は、mt-Gにもアメリカに渡るチャンスはあったのに、彼女達はアメリカに渡らなかった事になるから、mt-Dとは何らかの違いがあり、それは母から娘達に伝えられた栽培思想と、氷期から引き継いでいた栽培種の違いに基づくものだったと考えられるからだ。

mt-D2mt-D3がアワの栽培者になった事は、mt-D全体の傾向として、イネ科の植生の栽培に固執する栽培思想を持っていた事を示唆している。一方のmt-Gは、カムチャッカ半島の最大遺伝子になった事が示す様に、漁民の要望に応えて蔬菜類や漿果類の栽培に注力する、商機に敏感に対応する思想があったと考えられる。それが栽培種のメニューにも表れ、栽培化の進展の程度にも表れていたとすると、漁民はmt-GをペアにしていたY-Nに共生を求め、mt-Dはその選に漏れやすかったと想定される。

その結果として、漁民等の共生に参加する商機を失ったmt-Dが、止むを得ずY-Qに浸潤した可能性は無視できない。Y-Cも同様に、Y-G程に商機に敏感ではなかったと考えると、mt-Dmt-Cだけがアメリカ大陸に渡った有力な理由になる。しかし本当にそれだけだったのかについては、疑念が残るから、感情論にも踏み込む必要がある。感情的な動機は後世のmt-Dの行動にも発現したので、別途説明する。

Y-Qmt-Dmt-Cペアがアメリカ大陸に渡ると、原初的な農耕を始めたので、考古学者はその時代を古期(1万年前~)と呼んでいると、ウィキペディアは指摘している。従ってアメリカで農耕的な活動が始まった時期と、彼らの渡米時期は一致している。しかしこの時期の栽培を農耕と呼ぶべきではない事は、その1を呼んだ人には理解できるだろう。農耕と呼ぶ営みには、必要カロリーの半分以上を栽培によって賄うイメージがあるから、石器時代の栽培の呼称としては相応しくないからだ。

古期の中期(8千年前~)に定着型集落が出現したと指摘しているが、東アジアの最も古い栽培文化の遺跡が発掘された、遼河文化の開始期と同じ時代だから、栽培の源流は東ユーラシアにあり、両者が同じ経緯を経て、農耕者への道を歩み始めた事を示している。両者の栽培種は異なっていたが、栽培者をその様に導いた気候環境が、太平洋の東西で同時期に起こった事を示している。具体的に言えば、8千年前までは大陸内部の気候が乾燥していたから、栽培者は谷底を流れる河川の流域にいたが、太平洋が湿潤化して降雨量が激増し、海面上昇によって川の水面が上昇すると、栽培者は谷から追い出されて台地上に栽培地を形成する様になり、遺跡が発見され易くなったからだ。その状況が生まれた事由が、アメリカと東アジアで一致している事を、上記のウィキペディアが指摘している事になるが、アジアで遼河文化を生み出したのはmt-Dだから、アメリカに遺跡を遺した栽培者もmt-Dだったのであれば、栽培者の系譜も同じだった。

アメリカ原産の農産物としてトウモロコシが著名だが、それはmt-Dが栽培化したものではなかったと考えられる。

オーストロネシア語族海洋民族になったmt-B4が、7千年前頃に南米に上陸し、それ以降のアメリカには2系統の農耕が併存したと考えられるからだ。日本では北陸のmt-Dと関東のmt-B4が、アワとコメの栽培化を競っていたし、中華世界ではmt-Bmt-Fの稲作文化と、mt-Dのアワ栽培文化が南北に展開していたから、中南米にも同じ遺伝子の組み合わせの2極化構造があった可能性が高い。

マヤ文明やインカ文明が発生した地域は、mt-B4の分布が濃厚な地域だから、彼女達がアメリカの文明的な農耕史を切り開いた可能性が高いが、アメリカの考古学界では2系統の農耕は分離されていない。遺伝子分布の権威と称する人達が根拠もなく、mt-B4もベーリング陸橋を経てアメリカに渡ったと主張しているから、その悪影響が農学分野にも及んでいると推測され、mt-B4もベーリング陸橋を経てアメリカに渡ったとの主張は、縄文時代に東南アジアの海洋民族が活躍した事を認めたくない、白人至上主義の影響である様に見える。

東アジアと南アジアでは、氷期にイネの原生種を栽培していたmt-Rは、例外なく湿式栽培する稲作者になったが、アメリカ大陸で乾式栽培するトウモロコシを栽培化したのは、彼らが到達したアメリカ大陸の東岸は山脈が迫り、縄文早期~前期は海進が終了した時期だったから、沖積平野がなかったからだと考えられる。急流が太平洋に注いでいたから、前回の間氷期に形成された大地もなかった。

トウモロコシはイネとは異なり他家受粉が基本だから、品種改良は堅果類に類似した手法になる。1年生だから堅果類の様に熟した実を評価し、植生本体を選別する事は出来ないが、厳選した種子の雄花だけ残して他の株の雄花を摘み取ってしまえば、品種改良はイネより急速に進んだだろう。海洋民族になったのはmt-B4だけだったと考えられているが、混入していたmt-M7cがこの技法を編み出し、トウモロコシが栽培種になった可能性がある。手法が確立するとmt-B4にもできる事だから、多数のmt-M7cは必要なかった。イネの完全な栽培化には1万年以上掛かったが、トウモロコシの栽培化には5千年未満しか掛からなかった事は、この様な違いを反映していた可能性が高い。

シベリアに残ったmt-Dの話に戻ると、アワの栽培化に成功したmt-D4mt-D5は栽培品種別の南北ポジションを変えて急速に南下し、mt-Zを差し置いて最南端の栽培者になった。但しアワを栽培化したのはmt-D4mt-D5だけで、その他のmt-Dは現在もシベリアやモンゴルに残っている。mt-D4mt-D5がごぼう抜きに最北端から最南端にポジションを変えたのは、アワの生産性を高める為だったと考えられる。

mt-D4mt-D5はアメリカ大陸には殆どなく、mt-Dの別のクラスターが主体だから、アメリカに渡ったmt-Dはオホーツク海北岸でアワを栽培していたのではなく、別の栽培種を栽培していたと想定される。つまりmt-Dの中にも複数の栽培集団があり、mt-D4mt-D5はアワの栽培者に純化された集団で、2種の遺伝子を含んでいる事は栽培化の前段階である栽培種の集約が完了し、栽培者が増える後半段階に進んでいた事を示唆している。クラスターの頂点となる遺伝子が2種ある事に違和感があるが、mt-Dは氷期から近世に至るまで、一貫して父系家族を維持していた集団の女性だから、家族単位で栽培に従事していた事が、この様な結果を生んだと考えられる。mt-Dは父系家族の女性だったと判断する理由は、縄文人の活動期の項を参照。

アメリカでキビが栽培された可能性が指摘されているから、超温暖期のベーリング陸橋(北緯65度)付近は、キビの栽培が可能だった事を示唆している。キビはアワより冷涼な気候でも育つから、この時期のオホーツク海北岸(北緯59度)にいたmt-Dが、アワを栽培できる環境にあり、それより北のアワを栽培できない環境で、キビを栽培していた女性がアメリカに渡った可能性が高い。緯度の6度の違いは、日本で云えば青森と千葉県の館山の違いになるから、この想定に違和感はない。

縄文時代の導入項に示した黒潮の温度は、1万年前には現在より2℃以上温暖化していたから、黒潮によって温暖化されたオホーツク海北岸と、黒潮が流れていなかったベーリング海の北にあった陸橋付近の温度差はもっと大きく、オホーツク海北岸でアワが栽培できたと考える事にも違和感はない。オホーツク海で漁労を行っていた河川漁民には、それ以上北上する余地がなかったから、温暖な気候による魚の腐敗に悩まされながら魚を乾燥させて保存していると、mt-Gmt-Zには蔬菜類の栽培者として共生希望が殺到していただろう。温暖な気候下でmt-Gの栽培種は、mt-Dの栽培種より豊かな収穫をもたらしていたからだ。mt-Zも北上した可能性があるこの環境でmt-Dが穀類の栽培化に注力していたのであれば、魚の腐敗によって発生する不漁期の対策として、穀類にも一定の需要はあったが、一部が漁民集落から離れてベーリング海の北岸に居住する様な、過剰供給状態にあったと想定される。

これをY-Qから見ると、オホーツク海沿岸には細石刃を使うmt-N9a系の狩猟者がいたから、その縄張りを避けて内陸やベーリング海北岸に縄張りを設定するには、従来のペアの栽培種では耐寒性が不十分だったから、積極的にmt-Dmt-Cの浸潤を受けていた事になる。Y-Qがその様な栽培系狩猟者になると、アメリカに渡らずにシベリアに残っていたmt-Amt-X狩猟民族も、mt-Dmt-Cの浸潤を受けなければ少数派に転落し、生き残れない環境になっていただろう。

しかし1万年前にインド洋が湿潤化し、黒潮がオホーツク海に流入しなくなると事情が一変した。シベリアは全域が湿潤化して徐々に冷涼化したが、暖流の流れが断続的になったオホーツク海沿岸は急速に寒冷化したから、全ての女性達が、オホーツク海沿岸を南下する必要に迫られたと推測され、それによって漁民も南下せざるを得なくなった。その結果を受け、最北の栽培者だったmt-D4mt-D5が、最南端の栽培者だったmt-Zを抜いて最南端に至り、最終的にY-Nと共に漁労民族と決別し、アワを栽培する農耕者になる道を歩み始めた。

mt-D4mt-D5がその様な行動に出た理由は、再び気候の冷涼化に見舞われた漁労民族が、冷涼であるが故に漁獲が腐敗しにくい冷涼な気候を求め続け、できるだけ南下しない状態に拘ったから、mt-Gmt-Zの需要が急速に高まった一方で、mt-Dが得意とするイネ科植物の需要が、極端に低下したからだと考えられる。冷涼化して腐敗対策の必要性が軽減する一方で、降雨量が増えて河川が増水すると漁獲量が増えたから、冷涼な気候帯の漁民は不漁期の対策であるイネ科植物の種子より、漁獲を保存する事によって失われる栄養バランスの補給に、栽培者であるmt-M女性の価値を見出していたからだ。

現在の様な科学的な知識はなくても、mt-Gmt-Zが提供する蔬菜類を食べると元気が出る事は、体力の限界に挑戦する様な生業に励んでいた漁民は、容易に気付いただろう。時代の進展と共にこの地域の漁労技術が進化し、漁獲の不猟期が減少していく一方で、魚を干して貯蔵する技術が進化していくと、この傾向は益々高まった。

mt-Zからmt-Dまでの南北順を決めていたのは、女性達の自主的な判断ではなく、漁労民族が栽培者とその栽培種を判断し、選択的に共生者として招聘した結果として層別されたから、1万年前までのmt-Zmt-Dは栽培者特有の浸潤を起こさず、各々が自分達の栽培種と栽培テリトリーを維持していたと想定される。アワを栽培化したmt-D4mt-D5は、気候が冷涼化してもアワの生産性向上に拘泥していたから、漁労民族が差配していた秩序から疎外される事になり、南下せざるを得なくなったが、他のmt-Dは依然として北限の栽培者であり続け、南北に分断される状態が生れたと推測される。

mt-D4mt-D5が栽培していたアワに対する需要は、腐敗が深刻だった南方の漁民にしか生まれない状態になった事が、mt-D4mt-D5の南下を強いたのであって、アワの生産性を高めるためではなくかった。つまり温暖な地域の漁民しかmt-Dの技能を欲しない状態が発生し、気候の寒冷化と共にその程度が激しくなったから、mt-D4mt-D5mt-Gmt-Zより南の栽培者にならざるを得なくなり、実際に南限の栽培者になったと推測される。

mt-Dより温暖な地域の栽培者だったmt-Gmt-Zは、mt-Dより豊かな栽培メニューを持っていたから、温暖な地域ではそれが更に強調され、蔬菜類の栽培競争ではmt-Dは太刀打ちできなかった事が、mt-D4mt-D5を南限の漁民と共生する女性にしたが、気候の冷涼化と漁労技術の進化によってオホーツク海沿岸には南限がなくなると、更に南限の漁労集団を求めてアムール川流域を南下したと想定される。

1万年前にシベリアが湿潤化して内陸河川の水が豊かになり、森林が発達してmt-N9a狩猟民族の狩猟適地になると、ツングースはオホーツク海沿岸から樺太には南下せず、シベリアの内陸部に展開する様になる。オシポフカ文化圏で発掘される1万年前頃の遺跡はその痕跡を留めていると想定され、オシポフカ文化圏の遺跡はヤンガードリアス期のものと区分する必要がある。いずれにしても共生集団はレナ川やエニセイ川の流域に入植したが、その漁民はツングースではなくトルコ系だった事が、シベリアをトルコ系民族が優勢な地域にしたと想定され、その様な状態が生れたのは、ツングースが彼らに高度な漁労文化を配布する者に変わったからだと考えられる。山が迫った海岸の小さな川で漁労を行うより、シベリアの大河で行う方が生産性は高い事は、敢えて指摘する必要はないだろう。狩猟民族にとっても急峻な山岳地より、シベリアの大平原の方が生産性が高かったと推測される。

mt-Dがアワなどの穀類の栽培に拘ったのは、最北端の栽培者として穀類の生産性に劣等感を持ち、母から娘に穀類の重要性を繰り返し聞かされていたからかもしれないが、オホーツク海北岸で漁民に層別される事により、この傾向が高まった可能性が高い。先に指摘した様に、超温暖期の末期の最高温期にmt-Dの一つのグループは、冷涼なベーリング海北岸でキビを栽培し、別のグループは温暖なオホーツク海北岸でアワを栽培していたからだ。

アメリカに渡ったmt-Dとアワを栽培化したmt-Dには、ミトコンドリア遺伝子のクラスターに共通性が殆どないから、同じmt-Dでもアワの栽培集団とキビの栽培集団は、別の純化過程を経た事を示唆している。しかし後世の漢族になったmt-Dはキビも重要な穀物であると考えていたから、まだオホーツク海が冷涼だった時代に、キビを栽培化する為に純化された遺伝子群が、オホーツク海北岸で漁民との共生集団を形成していると、この集団の南方でアワを栽培化していた集団が、一層の温暖化に乗って北上し、この集団に浸潤してキビも栽培するアワ栽培集団になったと想定される。

後世の漢族になったmt-Dは、オホーツク海北岸でアワを栽培していたmt-D4mt-D5なので、以降は話を複雑にしないために彼女達をアワ栽培者のmt-Dと呼び、誤解が生れる場合には注釈を付ける事にする。

更に温暖化してmt-Gがオホーツク海北岸に達しても、mt-Dmt-Gに浸潤されることなく、頑なにmt-D固有の栽培種を守り続けた事になるが、これはmt-D独特の感情的な習俗に起因する現象だった。この様な現象は後世のmt-Dの行動にしばしば現れ、ミトコンドリア遺伝子の拡散法則に反する行動を採り、歴史を複雑にする要因を形成した。簡単に言えば穀物栽培への強い拘りと、それに関わる同族の結束だが、それを裏面から見ると、交易社会に対する拒否的な姿勢と集団的な排他主義になる。

キビ栽培集団はオホーツク海の豊かな共生社会に参加できなかったから、Y-Qと共に内陸で栽培系狩猟集団を形成していたと考えられ、生産性が高いアワを栽培していた集団は漁民に受け入れられ、オホーツク海北岸の共生社会に参加していたが、漁民の主要な需要が徐々に蔬菜類に代わっていく中で、その有力種を持たなかったmt-Dはアワの栽培化に注力しながら、寒冷化を待たずに徐々に南下していった可能性が高い。それはmt-D集団にとって屈辱的な撤退だったから、母から娘に伝承される栽培思想の中に、それが色濃く投影される事になったと推測される。これ以降のmt-Dはアワ栽培に賭ける女性達になっただけではなく、交易社会に背を向ける女性達になったからだ。

交易性に背を向ける女性になった事には、解説が要るかもしれない。オホーツク海北岸の交易社会では、mt-Gmt-Dが漁民に多彩な蔬菜類を提供していたから、それぞれに異なった交換価値があったと想定される。その価値を決めたのは漁民の需要だったが、女性達の売り込み姿勢や作物の出来栄えにも影響したから、その様な状況に有効に適応できたmt-Gmt-Zは、交易的な性格を高めたと想定される。一方のmt-Dは、交換価値が固定し易いアワを提供していたから、漁獲を値切る程度の交渉しか行う事が出来ず、行き過ぎると吝嗇であると見なされるリスクもあった。既に説明した様に、この地域のアワの需要は時代が進むと共に低下していったから、価格交渉も厳しかった。

その様なmt-Dの後世の奮起により、アワは縄文時代の東アジアの最有力栽培種になったが、日本は弥生時代からコメを経済基盤にする地域なったから、現代人はそれを実感できない。しかし華北では、宋代に小麦が導入されるまで主要な栽培種だったし、日本では江戸時代まで、最も生産性が高い穀物だった疑いがある。

mt-Dは悔しさをバネに、アワの栽培化に真剣に取り組んだ事は間違いないだろう。この様なシベリア的な栽培秩序に反感を持ち、交易社会に背を向ける性格を涵養した可能性も高い。漁民から疎外されただけではなく、栽培者の間でも優劣に関する自覚が高まり、彼女達に劣等感を植え付ける様な行為が横行した可能性もある。植生が豊かな南の集団が、植生が貧弱な北の集団を見下すことは、歴史上何処にでもあった話であり、その傾向は現在もあるから、この時代にもあったと考える事に合理性がある。卑近な例では奈良朝が、稲作ができなかった東北と北海道を日本から除外し、蝦夷(えぞ)、蝦夷(えみし)などと呼んで見下した。

以上の想定と、既にソバを栽培していた北陸縄文人が9千年~1万年前にアワ栽培を導入し、その生産性の向上に狂奔した事情から、1万年前のアワは既に栽培化がかなり進んでいたと考えられる。つまり2万年前にmt-Dが北上を開始すると、エノコログサが生えていなかった地域に進出した事になるから、それによって栽培化が進展した可能性がある。更に言えば氷期の温暖期に、山東辺りに北上してエノコログサの栽培を始め、氷期の最寒冷期に華南に南下した段階で、栽培化が始まっていた可能性も高い。

その後のmt-D9千年前頃に漁民との共生を離脱し、アワの生産性が高い温暖な地域を求めて松花江を南に遡上し、Y-NY-Qと共にアワを栽培する栽培系狩猟民族になった。アワ栽培が農耕として自立できる様になったのは、鉄器時代になってからである可能性が高く、その様に判断する理由は経済活動の成熟期の項を参照。

mt-Zmt-Gは縄文時代が終わるまで、漁労民族と共生する栽培系狩猟民族であり続け、mt-Zは北欧まで拡散した。南部に留まったmt-Zは穀類の栽培者として農業生産性も高めたが、その余力は経済を発展させる、文化的な活動に向けられていたと推測される。しかし縄文晩期にシベリアが極度に寒冷化し、漁労が壊滅すると、mt-Zは生産性を高めた農耕技術を活用し、農業地域に南下してトルコ系の農耕民族になったが、mt-Dの地域に南下したのでミトコンドリア遺伝子の拡散法則の例外になり、少数遺伝子に転落した。mt-Gはオホーツク海沿岸を中心としたシベリア東部の遺伝子になり、現在に至っている。

縄文時代のツングースが交易力を高め、ユーラシアシア各地から耐寒性が高い栽培種を集めたので、mt-Zmt-M起源ではない栽培種により、シベリアの農業生産性を高めたので、シベリア栽培民族も穀物を栽培する農耕民族になった。トルコ系民族の交易国家だった高句麗が滅亡し、その亡命者が集積した埼玉県の高麗神社で、最も重要な栽培種として小麦を神聖視している事は、トルコ系民族は最終的に小麦の栽培になった事を示唆している。隋書は高句麗の農耕の生産性が、華北のアワ栽培者より高かった事を示唆し、華北が小麦の栽培地になったのは、トルコ系民族の王朝が樹立された宋代だった事は、この推測を補強する。しかし華北の主要遺伝子は現在もmt-Dで、mt-Zは僅かしかいない事が、先に説明したmt-Dの穀物栽培に対する積極性と、栽培思想が合致しない女性に対する排他性を示している。

彼らはシベリアの漁民が高い漁獲を維持している限り、南下して貧しい農民になる動きは示さなかったが、縄文晩期に急激に寒冷化してシベリアの漁労経済が崩壊すると、トルコ系民族は南下して農耕者になった。乾燥化が進んだモンゴル高原では遊牧民化し、歴史時代の民族として史書に記されたが、それは近世の3千年に満たない歴史に過ぎず、1万年続いた彼らの輝かしい縄文時代の活動の、最終章の数ページに過ぎない。縄文時代は日本の特殊な歴史時代ではなく、東ユーラシアの石器時代史の一部だった。縄文時代を○○文化期という様な不可解な区分にせず、縄文人の日本列島上陸以来の一貫した時代として規定している事は、東アジア史に拡張できる極めて有意義な時代区分になっている。縄文時代の導入項に示した様に、縄文時代の区分が気候変動に伴うものである事は、東アジアの歴史を包括的に区分する指標になるからだ。

王朝史観に毒された史学者は、王朝成立以前を未開の時代として軽視し、文明は王朝の成立によって生まれたと主張するが、王朝史も4千年の歴史しかなく、前半の2千年は石器時代の経済活動を受け継いだ古典的な王朝だった。後半の2千年の近代的な王朝では、権力闘争に塗れて古代人が築いた文明を劣化させたから、その様な王朝史を使って文明の進化を論じる事は、歪んだ歴史観であると言わざるを得ない。

 

5 縄文文化の開花

5-1  12千年前に急激な温暖化が始まり、沖縄系縄文人が九州全域に拡散した。(縄文草創期が終わり、早期になった)

草創期から早期にまたがる宮崎県清武町の上猪ノ原(かみいのはら)遺跡から、隆帯文土器に加えて土器装飾の進化を示す、貝殻押圧文土器も出土した。この遺跡は清武川に面する標高60mのシラス台地上にあり、縄文人が依然として海面上昇を恐れていた事を示している。この集落の当時の景観は、日向灘に面した清武川(当時は入り江)を数キロ入り、最初に見える標高100mほどの小高い丘の上にあった。

下の画像は上猪ノ原遺跡から発掘された石器で、「九州最古の矢柄研磨器が発掘され、本州の縄文人との交流を示す」と解釈されているが、矢柄研磨器の様に見える石器は矢柄を作るには仕上がりが太すぎるから、手槍や斧の柄を作る石器だったと想定される。

気候が温暖化して食糧事情が改善された縄文人は、九州全域に拡散して多彩な縄文文化を展開した。温暖化は大陸が先行し、縄文早期初頭に現在より8℃以上高温になったと推測されるが、黒潮の温暖化には時間が掛かったから、海洋性の気候地域である日本列島は徐々に温暖化し、1万年前にインド洋が湿潤化すると温暖化が停滞した。しかし9000年前以降の日本列島の気候を示す尾瀬の花粉は、9千年前は現在より8℃高温だった事を示している。直ぐに湿潤化して4℃低温化した事も示しているが、それでも現在より4℃高温で、鹿児島は現在の那覇に近い気候で、前橋は現在の鹿児島より温暖だった。

急激に温暖化すると、縄文人が台湾平原から持ち込んだ植生が大繁殖し、堅果類の生産性が高まってアサも豊作に恵まれ、縄文人の人口が急増して九州全域に拡散した。この頃の遺跡の発掘結果が、九州縄文人が竪穴住居を使い始めた事を示しているが、耐寒建築物として竪穴住居が欲しかったのではなく、原日本人の住居を先進的であると見做し、自分達の住居として採用したからだと考えられる。

縄文草創期までの縄文人は、細い材木を組み合わせただけの貧相な住居を使っていたから、太い丸太を組み合わせた原日本人の広い家を、以前から先進的で文化的であると評価し、温暖化によって食糧事情に余裕ができた事を契機に、手間が掛かる竪穴住居を作り始めたと推測される。極めて温暖になったこの時代の九州では、柱の間を簾の様なもので囲う程度で十分だったと想定され、プライバシーが守られる広い空間を確保する事が、この建物を採用した理由だったと推測される。その様な生活を文化的であると考えるのは、時代を問わない普遍的な意識だろう。高台では台風の暴風被害を危惧する必要があるが、大陸が高温で海水温が低かったこの時代には、台風の発生頻度は低かったと推測される。

鹿児島県定塚(じょうづか)遺跡出土遺物

縄文早期前半(11,500年~10,000年前)

標高227mの台地上の遺跡

埋蔵文化財発掘調査報告書より転写

 

筒型で貝殻文や押し型紋のある細長い土器が、縄文早期前半の特徴。早期後半になると器形が多様になる。石器も豊富に揃っているが、草創期の遺跡にあった丸ノミ形石斧はなく、Y-O3a2aと集落を分けた事を示唆している。

定塚遺跡には住居址だったと推測される竪穴が、大型のものは97基、小型のものは272基検出されたが、太い柱の痕跡がない事が、漁民の住居の完全な模倣ではなかった事を示し、竪穴内部に炉跡がない事が、耐寒建築物ではなかった事を示している。

縄文早期の遺跡として知られる上野原遺跡は、標高250mの台地上に営まれた縄文早期後半(9500年~7500年前)の遺跡になり、上猪ノ原遺跡と併せ、縄文早期後半になっても海面が上昇している事に対し、相変わらず強い恐怖感があった事を示している。

上野原遺跡が7500年前に断絶した事は、8千年前に海面上昇が停止した事により、それに対する恐怖感がなくなって、台地上から低地に移住した事を示している。臨海遺跡である佐賀県の東名遺跡(ひがしみょういせき)が7500年前に営まれた事が、その事情を示している。

8千年前に太平洋が湿潤化し、大陸の大気温と海水温が逆転する事により、台風の襲来頻度が高まったからだと推測される。定塚遺跡の敷地内土壌に多数の倒木痕があり、丘の上の集落の危険性を示唆しているからだ。

縄文早期に急激に温暖化すると、縄文人の食料事情が好転して人口が急膨張し、九州全域に拡散した事を左図が示している。

定塚遺跡では石蒸し料理施設の集石100基以上、燻製用の土抗(炉穴)は200基以上あり、連穴土抗も15基あった。

上野原遺跡では石蒸し料理施設の集石39基、燻製料理用の連穴土抗(炉穴)が19基あり、同時代の本州にはない先進性があったと解釈されている。しかし定塚遺跡と比較すると、人口密度は低下していた。

本州で発掘される縄文草創期や早期前半の遺跡は、九州の遺跡と比較して土器や燻製施設が稚拙であると指摘されているが、それらは沖縄系縄文人の集落ではなく、石垣系縄文人かY-C3狩猟民のものだったと考えられる。

狩猟民は生業の性質上集住しなかったから、独自の文化を高度化する事は難しく、狩猟技能以外の分野では、人口密度が高かった縄文人や漁民の文化要素を、劣化模倣せざるを得なかったと推測されるからだ。石垣系縄文人がこれらの施設を作ったのか否かは、明らかではない。

九州縄文人は縄文早期中頃に本州に拡散し始めたから、1万年前には多摩丘陵の高台に多数の縄文人集落が作られていた。彼らの石蒸し料理施設や燻製料理用の連穴土抗が、九州縄文人のものより劣っているのであれば、彼らの食生活が堅果類と獣肉から堅果類と海産物に切り替わった事を示している事になる。

上図の遺跡分布は、縄文人が玄界灘や西都原近辺を避け、鹿児島と熊本に集中的に拡散した事を示している様に見える。宮崎県の遺跡は南部が中心だから、鹿児島文化圏として括ると、大分県の遺跡は国東半島周辺と熊本県に近い山岳地に分布している事は、道南や東北に移住した伊予部族の跡地は、進出の対象外になった様に見える。

蛇紋岩が採取できる熊本・長崎方面に積極的に進出したとも言えるが、蛇紋岩が採取できない国東半島周辺に集落が展開していた事は、原日本人の無住地域だったからだと推測され、原日本人の縄張りを縄文人も意識していた可能性が高い。国東半島は海面上昇によって海岸化し、瀬戸内海に囲まれる地域になったから、狩猟民族が縄張りを放棄した結果として、河川漁民や水鳥を追う狩猟系縄文人が縄張りを確保し、人口密集地になった可能性がある。沖縄系縄文人には自活力があったから、海洋漁民との共生に拘っていなかったと考えられるからだ。長崎は祖先が入植に失敗した地として、避けていた可能性がある。

九州は独特の細石刃文化が集積していた地域だが、縄文人も栽培系狩猟民族だったから、縄文人が九州に拡散した事は、mt-N9a系の狩猟民族が縄張りを失った様に見える。関門海峡の最深部は水深47mだから、1万年前に九州が本州と切り離されたからかもしれないが、関東や北陸の漁民は旺盛な獣骨の需要を示していたから、彼らは東日本に移住した可能性もある。縄文草創期までの日本列島は樹林が貧弱で、草食動物の密度が低かったが、温暖化して樹木が密生するとシカやイノシシなどが増えた一方で、九州から伊予部族が撤退して獣骨の需要が減少していたから、九州を縄文人に譲る事は苦痛ではなかった可能性が高いからだ。その様な状態になった狩猟民族にmt-M7aが浸潤する事により、彼らも縄文人化した可能性もある。

伊予部族は縄文早期になると早々に、縄文人と共に東北の太平洋岸に移住した可能性が高い。その経緯は別途検証するが、彼らは九州の南東部の沿岸も縄張りにしていたから、ヤンガードリアス期に彼らを頼った縄文人もいたと想定され、縄文人と共に移住し易い立場にあったからだ。九州北部や山陰にいた対馬部族や隠岐部族は、ヤンガードリアス期に縄文人との接触がなく、縄文早期になって漸く親交を持つ様になったから、彼らの東北の日本海沿岸への進出は縄文早期中葉になったと推測される。それを逆に言えば、九州縄文人が山陰に進出する為には、その地域のY-C3狩猟民族との縄張り交渉が、何らかの形で決着する必要があったから、山陰への進出は遅れたと推測される。

弓矢を使い始めたY-C3狩猟民族にmt-M7aが浸潤すれば、Y-C1狩猟民族と大差ない人々になり、Y-C3狩猟民族が縄文人化したとすると、Y-O2b1Y-O3a2aはその様なY-C3と共生する事が可能だったが、Y-C1はその様な地域に進出できない不具合が発生した。

それに不満を持ったY-C1Y-O2b1Y-O3a2aを誘い、狩猟民族が希薄だった東北の日本海沿岸に、対馬部族や隠岐部族と共に進出した可能性がある。Y-O3a2aにとっても冷涼なヤンガードリアス期には降雨が見込めたが、温暖化が進展すると河川の水量が減少したから、河川の水量が豊かで巨大湖がある東北は魅力的な地域だった。縄文前期の九州はmt-B5+M7bが入植する事により、暖温帯性の堅果類の栽培地になったから、冷温帯性の堅果類の栽培者だったY-O2b1mt-M7aにも、住みにくい環境になりつつあった可能性が高い。

現代日本人の遺伝子分布では、東日本のY-C1比率が高く、九州では比率が低い事が、この仮説の第一の根拠になる。

沖縄人と比較した本土人の縄文系Y遺伝子で、Y-C1の比率だけが他の二つの遺伝子より低いのは、元々日本列島にいたY-C3との縄張り調整問題に起因していたとすれば、第二の根拠になる。

九州縄文人の関東への拡散には時間が掛かり、何カ所もの道中経路があったが、東北縄文人は関東より北にある東北に、九州から一気に移住したと想定される事が、第三の根拠を与える。東北縄文人にmt-Dが含まれる事は縄文時代になっても、mt-Dに浸潤されたmt-A系の狩猟民族が残っていた事を示唆しているが、その比率が北海道縄文人の1/4程度である事は、縄文人が入植する前の東北には、移住した海洋漁民の需要を満たす数の、狩猟民族がいなかった事を示唆している。従って海洋漁民が必要としていた獣骨や角の補充を、東北ではY-C1が担務していた可能性が高い事が、第四の根拠になる。

伊予部族と行動を共にした沖縄系縄文人は、東北や道南に縄文文化を拡散したが、彼らは関東部族がシベリアから調達した獣骨を得る事が出来たし、道南では北海道部族から得る事もできたから、彼らはY-C1狩猟民族と共に北上する必要はなかった。しかし関東や北陸の原日本人とは異なる部族だったから、縄文時代を通して関東や北陸の縄文人とは通婚しなかった。

隠岐部族や対馬部族はヤンガードリアス期に縄文人と親しくなる機会がなく、東北への移住に出遅れたが、Y-C1だけではなくY-O3a2aY-O2b1の不満を汲み上げる事により、東北の日本海沿岸への移住を、遅ればせながら敢行する事ができたと考えられる。但し彼らの縄文前期~中期の集落跡であると考えられる三内丸山遺跡の土器は、定塚遺跡から発掘された縄文早期前葉の、貝殻文円筒形土器の系譜を示す形状だから、1万年前には移住を完了していた事を示唆している。

縄文早期後葉の九州土器である、上野原遺跡の土器は形状が多様化しているのに、青森では同じ形状が維持されたのは、縄文早期後葉の九州が異常な高温状態になり、植生を含めた環境変化に対応する為に多様な土器が生れたが、縄文早期後葉~縄文中期までの青森は、黒潮の温度が低かった縄文早期前葉の、九州の気候を再現していたから、環境の変化に対応する必要がなかった事を示唆している。

九州では縄文早期末から暖温帯性の堅果類が貯蔵される様になった事は、関東部族が台湾や浙江省に至ってmt-B4+M7cmt-B5+M7bを招いたから、彼女達が九州縄文人に浸潤した事を示している。また熊本の縄文前期の曽畑(そばた)式土器や、その前駆となる轟(とどろき)B式土器は、関東の縄文早期末の打越(おっこし)式土器が起源であると考えられる事も、関東から多数の女性が九州縄文人に浸潤した事を示唆している。

長崎県多良見町の縄文前期前葉の伊木力(いきりき)遺跡から、暖温帯性の堅果類やモモの種が発掘された事は、この様な浸潤が縄文早期に始まっていた事を示唆している。九州縄文人には、その浸潤を受け入れて暖温帯性の堅果類を栽培するグループと、冷温帯性の堅果類を栽培し続けたいグループに分かれ、後者が東北に入植した可能性もあるが、上記の土器形式から考えると、縄文早期後葉まで九州に残っていた縄文人は、mt-B5+M7bの浸潤を受けて暖温帯性の堅果類の栽培者になったと考えられる。

九州縄文人に浸潤したのは、先に台湾から渡来したmt-B4+M7cではなく、浙江省から渡来したmt-B5+M7bだったと考えられる事は、縄文人の活動期の項で検証するが、縄文前期以降の九州から発掘されるドングリピットは、暖温帯性の堅果類一色になり、特に生産性は低いがアク抜きが不要な、イチイガシが大半を占めている事は、栽培種をその様な品種に絞る過程を縄文早期に経ていた事になり、mt-B5+M7bが浙江省から渡来したのは、縄文早期後葉だったと考えられる。

以上を纏めると、東北縄文人の東北移住は以下の様な状況だったと想定される。

伊予部族はヤンガードリアス期に九州縄文人との関係を深め、縄文早期の早い時期に、九州縄文人と共に東北の太平洋沿岸や道南に移住したと想定され、函館市の垣ノ島B遺跡から9千年前の漆器が発掘され、標高50mほどの高台に聖地の様な遺構を遺した事は、海面上昇期に移住した事を示唆している。太平洋沿岸に散在していた彼らの遺跡は、関東部族が獣骨を入手する為にシベリアに航行する際に、湊を提供して獣骨の一部を入手していた事を示唆しているが、それに先行して北海道の狩猟民族にウルシを供給する為に、函館に縄文人を入植させた可能性もある。伊予部族は関東部族ほどには航行技能が高くなかったが、縄文早期の温暖化を契機に、多様な商機を獲得した事になる。

日本海沿岸の対馬部族や隠岐部族は、沖縄系縄文人と接触した時期が遅かったので、縄文人と一緒に東北に進出する企画も遅れたが、沖縄系縄文人が既存のY-C3の縄張り問題や、九州の温暖化によって河川漁労や冷温帯性の堅果類の栽培に問題が起こり、人口の過密状態がそれに輪を掛け始めた時期に、彼らの不満を汲み上げて東北の日本海沿岸に入植した。

この様な騒動の中で、九州縄文人の関東への移住も実行された。

 

5-2 九州縄文人の一部が関東に移住した。

縄文早期の四万十川流域に、九州から拡散した縄文人が集落を形成した痕跡があり、紀伊半島の田辺川流域の高山寺貝塚も、この時期に縄文人の集落があった事を示している。静岡県の黄瀬川流域の乾草峠遺跡から、縄文早期の住居址が10棟発掘され、その近辺にも縄文早期に盛んに集落が形成された痕跡があるが、これらの遺跡は縄文早期が終る前に絶えた。従ってこれらの遺跡は、九州縄文人が関東に移住する際の、途中経路の痕跡だったと推測される。

関東の原日本人は東京湾岸に集住し、多数の人々の交流の中で新しい漁法を開発し、生産性を高めながら海洋文化を発展させていた。彼らは九州縄文人の関東移住により、豊富な植物資源を獲得して更に海洋文化を発展させたかったから、温暖化した縄文早期にそのチャンスが到来した事になる。九州縄文人は温暖化した九州各地に拡散したが、縄文文化を更に発展させる為には、狩猟者の縄張りを含めた広い地域が必要になったから、人口の膨張圧力が高まると新たな入植地を求める必然性があった。

しかし温暖化したとは言っても、縄文早期前葉の東日本の太平洋沿岸は温暖化が不十分な黒潮に接する、日本列島内では寒冷な地域だったから、堅果類の生産性が劣化する危惧があった。ヤンガードリアス期の寒冷な気候に苦しんだ祖先の記憶も、海進に対する恐怖感と一緒に伝承していたから、寒冷地への移住には慎重だっただろう。関東の原日本人はその様な縄文人を関東に導くため、出来るだけ関東に近い場所を漁民と縄文人の共生地とし、縄文人との妥協の中で順次設定していった様に見える。

その結果、縄文人は九州から太平洋の沿岸に拡散する様に、縄文人集落を展開しながら徐々に北上していった。漁労文化の発展を目指していた原日本人には、縄文人の小さな村々を多数形成し、それに対応して鄙びた漁村を展開していく事には耐えられなかったから、それを避けるために九州から飛び石的な共生拠点を作り、そこで縄文人に気候を含む栽培事情を確認させながら、共生拠点を次第に関東に近付けていく事が、関東の原日本人と九州縄文人の妥協点だったと想定される。

その拠点集落の痕跡が現代まで鮮やかに遺ったから、歴史家は黒潮の路と呼んだが、暖かい黒潮の流れに乗って縄文人が移動したのではなく、冷たい暖流だった黒潮が徐々に温暖化し、太平洋の沿岸地域が温暖化するのを待つ、気長な旅程だった。この時期の黒潮の温暖化がどの様に進んだのか、縄文時代の導入項に掲げた、鹿島沖の水温の推移を確認すると、12千年前から1万年前までの期間に水温が56℃上場した。縄文人はその温度上昇に合わせ、四国~南紀~東海~関東に進んだのではなかろうか。

但し1万年前の海水温は現在より2℃高温だったから、大陸が高温状態になっていた事を勘案すると、関東の気候は現在より4℃以上高温化していたと想定され、その様な関東に入植した縄文人は大満足だっただろうが、海洋民族だった関東部族には海産物の腐敗問題が勃発し、存亡の危機に立たされていた。縄文人が関東に到達すれば、蔬菜類もドングリも十分に入手できたから、それまでの辛抱だと割り切っていたのかもしれないが、1万年前まで待つ必要はなかった様に見える。

話しを縄文人に限定すると、彼らが関東の気候に満足すると、漁民の人口が多い関東に集住し始めたから、途上の中継地で共生していた漁民も、その村を継続する意欲を失って順次撤収し、漁労文化の中核地である関東に再集合したから、縄文人も中継地を引き払って関東に集約したと考えられる。縄文早期限定の遺跡群が、太平洋沿岸の各地に生まれてやがて消滅したのは、その様な事情だったと考えられる。

温度計がなかった時代の人である縄文人には、気候の違いは肌感覚でしか分からず、関東が九州より冷涼である事は認識していた。温暖化したから大丈夫だと言われても、ヤンガードリアス期の九州より温暖なのか否かは、堅果類の樹林を形成してみなければ分からないという判断は、理解できない話ではない。堅果類の栽培者が事実を確認するには、生産性が高い樹林を形成する時間として、100年以上待たねばならなかった。それ故に順次その様な拠点を形成し、生産性を確認しながら徐々に東北方向に進み、関東の気候に問題がないと確認する事は、確実な手段ではあるが千年近い歳月が必要だった。黒潮の温暖化もそのテンポで進んだから、縄文人は頑迷だったとは言えないが、関東の漁民が腐敗問題に苦しんでいた状況を尻目に、石橋を叩いた感は否めない。

尾瀬の花粉は、1万年前は現在より4℃程高かったらしい事を示唆し、鹿島沖の堆積物は、黒潮の海水温が現在の水温を越えたのは、11千年前だった事を示しているから、それによって関東で冷温帯性の堅果類が栽培できる事は、温度計がない縄文人にも分かっていたと推測され、移住が長期間を要したのは、他にも事情があったからだと考えられる。

九州縄文人が全員関東に移住したのではなく、伊予部族、対馬部族、隠岐部族などと共に東北や道南に移住した事は、九州縄文人の中に関東部族と反目する流れが生れていた事を示唆しているから、九州縄文人と関東部族の間に、人間関係の軋みが生れていた事は間違いない。

その一つの具体例として、関東の漁民はヤンガードリアス期の最寒冷期に、縄文人に散々恨み言を言われた事が挙げられる。関東部族はアサの支給を継続して欲しかったから、その様な苦情に対しては受け身に回っていたから、縄文人の中に不満が鬱積していたと想定され、温暖化してもその人間関係が継続していたから、この様な事態を生んだ可能性は否定できない。

関東の原日本人には縄文人を沖縄から九州に上陸させた責任があり、責められる立場だったが、伊予部族はその様な縄文人をヤンガードリアス期に助ける役割を演じたから、縄文人の好意的な感情を得ていた可能性が高く、対馬部族や隠岐部族もその様な非難から免れ、中立的な立場だった事が、九州縄文人を東北に勧誘する際の助けになった可能性もある。

原日本人は旧石器時代から縄文時代に掛けて、多数の大陸民族と活発に友好関係を形成し、それらがツボに嵌って大成功したから、最終的に日本を東アジア有数の稲作列島にしたのだが、実は内気で傷付きやすい人達だった様にも見える。この頃に再開した沖縄への渡航で、沖縄の縄文人との人間関係の構築に失敗した事からも、その様な関東の原日本人の心情が窺えるからだ。

ここで一旦沖縄への再渡航の話に転じると、温暖化すると樹木の生育が盛んになり、大きな船底材が得られる様になった上に、縄文人の存在が身近になって良質のアサの供給量も激増したから、関東の海洋漁民は操船能力を高め、トカラ海峡を横断して奄美や沖縄に再渡航した。縄文人の活動期の項で検証するが、1万年前には台湾に再渡航していたと考えられるから、沖縄には11千年前頃に再渡航したと推測される。しかし沖縄と宮古島は220㎞以上離れ、目視で航行する事は出来なかったから、沖縄から宮古島への航路の開拓は、氷期を含めて前人未到の領域だったと推測され、星の位置を頼りに航行する新しい海洋技術が必要だった。その手法は琉球岬と沖縄の間を航行した際にも使ったが、目標が大きい大陸や沖縄とは異なり、宮古島は小さな孤島になりつつあったから、格段に高いレベルの天文知識が必要になった。従ってこの航路の開設には、少なくとも数百年掛かったと想定されるから、1万年前に台湾に渡航していたと考えられる事から逆算すると、11千年前頃には冒険者が沖縄に再渡航していた可能性が高い。

しかし沖縄への渡航は4千年絶えていたから、再渡航した際に沖縄の縄文人との関係が酷く悪化した事が、沖縄の遺伝子分布に示されている。沖縄の原縄文人系のY遺伝子である、Y-O2b1Y-O3a2aY-C1の合計は4割弱で、そのミトコンドリア遺伝子であるmt-M7a+M927%だから、その一部はアワ栽培者のmt-D(36%)に浸潤されているとすると、沖縄では現在に至っても、原縄文人のペア遺伝子が同数近く残っている事になるからだ。関東縄文人は部族内で漁民と盛んに通婚し、現代本土人はmt-M7a比率を7.5%にまで低下させている。現代日本人のmt-M7aは、焼畑農耕者だった北陸縄文人の遺伝子と、古墳時代に帰化した韓族由来のものが殆どだから、関東部族由来のmt-M7aは殆ど残っていない。つまり関東部族はmt-M7a比率を5%未満に低下させた事と比較し、沖縄は古墳時代まで関東部族の島だった事を考慮すると、沖縄のこの状態は特異であると言わざるを得ない。従って沖縄では海洋漁民が島の人口の2/3になった、縄文中期から5千年以上経っても、両者は殆ど通婚しなかった事になり、双方が別部族であると認識していた事になる。この様な状態に関係が冷却していた原因は、11千年前の再会時にあったと想定されるから、双方が別部族であると認識する状態を、1万年間維持した事になる。他の部族も別部族であれば通婚しなかったから、沖縄の縄文人と関東部族は同一部族であるとの認識が生れなければ、この様な状態であっても不思議ではなかった。

原日本人が再渡航して面会した沖縄の縄文人は、5千年前に原日本人が突然渡来を止め、沖縄の縄文人を見捨てた事に対する恨みを、口々に言い立てたのではなかろうか。同行した九州縄文人が、ヤンガードリアス期には九州縄文人も寒冷化に苦しんだが、沖縄にはそれはなかったという様な話をしても、それには耳を貸さずに一方的に被害者の立場でまくし立てたから、原日本人は沖縄縄文人の高圧的な苦情に対し、言い訳を重ねるしかなかったと推測される。

15千年前に沖縄に残された縄文人は、徐々に高まる海面に沖縄島が飲み込まれていく状態を実感し続け、その恐怖感は尋常ではなかっただろう。島の面積が氷期の1割程度まで縮小しながら、海面はまだ上昇を続けていた時期だから、沖縄の共生社会が激しく軋んでいただろう。その様な状況下で再会した原日本人に、激しく苦情を言った事は間違いないだろう。それに対する海洋漁民の応答は漁民文化に特徴的な、正しい情報伝達を重視する精神に基づいた、事の真偽を重視する受け応えに終始し、沖縄に残された縄文人の苦しみを忖度する姿勢に欠けていたのであれば、沖縄の縄文人が更に激昂した可能性は高い。

その結果として両者の交流が断絶し、全く通婚しない異部族の様な関係になり、居住域を分離して有志が接触する程度の関係が続いたと考えられる。部族制社会で異部族であると認定すると、身内意識がなくなって交渉的な交流になり、その関係が1万年存続したと推測される。

被害者意識に囚われて苦情を言い出し、人間関係を喪失する事例は現代社会にもあり、日本と韓国の関係や沖縄人と本土人の関係にも見られる、人間社会に有り勝ちな事ではある。特に苦情を言う側が多民族で構成されている場合は、身内の混乱を収集できずに一方的に捲し立てるから、政治問題化する傾向がある。1万年前の沖縄縄文人は3民族の混成集団だったから、関東の原日本人と再会した際に民族間の揉め事も、一緒に噴出した可能性は高い。

11千年前の関東の原日本人は、沖縄への再渡航と九州縄文人の関東移住を並行的に進めていたが、獣骨を継続的取得する算段として、ツングースやシベリアのmt-A系狩猟民族との交渉も継続していたから、それらの混沌とした状態の中で、沖縄縄文人と九州縄文人のこの様な我儘が重なると、縄文人との人間関係全般について考える所があった様にも見える。関東の原日本人はその様な人間関係の中で、関東より北の東北・道南に移住した縄文人が、堅果類の栽培に成功した事を知っていても、それを持ち出して沖縄縄文人と人間関係が悪化した様に、九州縄文人との関係が決裂する事を恐れ、九州縄文人の関東移住に際しては、縄文人の我儘を最大限許したのではなかろうか。

関東の原日本人が沖縄に到達した時期は不明だが、九州縄文人の関東移住が完了する前に、沖縄に到達していた可能性が高い。

縄文早期後半になると、多摩丘陵や武蔵野台地に多数の縄文人集落が展開した。それらを貫流している多摩川や入間川は、この時代には深い入り江を形成していたから、入り江に流れ込む中小河川を囲む丘陵上や谷合に、縄文人集落が多数形成された。

縄文早期後半の九州縄文人には、九州に残った人々、伊予部族と一緒に東北・北海道の太平洋岸に移住した人々、対馬部族・隠岐部族と共に東北の日本海沿岸に移住した人々、そして関東に移住した人々に分かれたから、最大多数が関東に移住したのか否かは分からないが、縄文時代前期以降の関東は最大の人口集積地なった。

その様な多数の縄文人が関東に移住する為には、彼らの狩猟の縄張りも確保する必要があった。関東周辺には関東部族に獣骨を供給していた、mt-N9a系の狩猟民族が、関東部族から弓矢を支給されて狩猟活動をしていた筈だから、彼らとの関係が調整される必要があった。端的に言えば関東周辺に関し、mt-N9a系の狩猟民族が縄文人に縄張りを明け渡す必要があった。

シベリアに出荷していた弓矢の需要が急増した事が、この事態を解決に導いた可能性が高い。矢尻の原料である黒曜石は、狩猟民族の縄張りである霧ヶ峰周辺から産出するものが最も品質が良く、それを多用していたが、原石の採掘権だけではなく矢尻の製作も、この狩猟民族が行っていたと考えられるからだ。梓弓の素材であるミズメも、狩猟民族が好んで使っていたとすると、狩猟民族に浸潤したmt-M7aが栽培していた可能性もある。シベリアの狩猟民族にこの弓矢を浸透させるためには、弓矢の品質を高める必要があり、現地に赴いてマーケティング活動を行う必要もあっただろう。

つまり弓矢交易の仕組みとして、交易主体は関東部族の漁民だったが、どの様な弓を作るのかというエンジニアリングとマーケティングは狩猟民族が担い、アサや矢竹を生産して最終製品に仕立てる量産型のマニュファクチャーは縄文人で、それをアムール川下流域まで運ぶのは海洋漁民だったが、ツングースに販売するのは誰だったのか、考えてみる必要がある。近代的な企業では、量産品を顧客に渡す物流と代金の回収は営業が行うが、商品の認定と取引の可否は技術部門が行うから、この時代の漁民が営業業務を行ったのかについては、疑問があるからだ。つまりこの時代には、営業という職務は存在しなかったと推測されるから、事業主体がエンジニアリング部門に移行する事は、ある種の必然性があったと考えられる。但しシベリアとの交易に必要な最も高度な技能は、海洋漁民が持っていた航行技能だった事は間違いないが、ツングースとの取引の現場では、狩猟民族が事業主体の様に振舞っていただろう。これは時代に関係がない、普遍的な真理だから。

技術が固まってトコロテン式に弓矢が規格量産される様になったのは、早く見積っても縄文前期だったと推測され、縄文早期に弓矢交易に駆り出された狩猟民族は、エンジニアリング部門としての立場を確立する為に、多忙な毎日を過ごしていたと想定される。

彼らにしてみると、自分たちが生産していた獣骨の何倍、何十倍、やがて何百倍もの獣骨がシベリアから持ち込まれる中で、従来の狩猟に拘って縄張りを主張するより、原料を生産して仕上げ工程を担務してくれるだけではなく、量産効率を高める為の協力を惜しまない縄文人の、関東平野への移住は推奨するべき事に変わっただろう。つまりシベリアへの弓矢の出荷が軌道に乗り始めた1万年前には、狩猟民族は縄文が必要とする関東周辺の縄張りを縄文人に明け渡し、縄文人の関東への移住をえっ極的に推進する人々に変貌したから、関東に多数の縄文人が移住した事になる。

その様な時代の兆しも見えなかった11千年前に、九州縄文人の人口が爆発状態になり、関東には僅かな数の縄文人しか移住できなかったから、黒潮の道の各所に狩猟民族の縄張りを避けながら拠点を形成していたが、九州縄文人の人口爆発を吸収できるものではなかったから、多数の九州縄文人が対馬部族や隠岐部族の誘いに乗って、東北の日本海沿岸に移住したと想定される。東北の日本海沿岸には縄文遺跡が少なく、青森まで北上すると遺跡密度が高まるのは、11千年前にはなかった対馬暖流が流れると、大きな川の河口を形成する湾入部の沖に、海岸砂丘が発達し始めたからだ。これによって庄内平野と秋田平野近辺は、海洋民族が居住できない地域になったが、この時代にはその予兆もなく、縄文人には山が海岸に迫っていた太平洋沿岸より、好ましい環境を与えていたと推測される。

九州に残った縄文人は、関東部族の漁民の分派と共生した事は間違いないが、その他の部族の漁民が全員東北や北海道に移住したのか、残留者がいたのかについては明らかではない。これらの部族は縄文後期初頭に、東北縄文人と共に稲作地を求めて故地に帰還したから、残留者がいた可能性もある。

横浜市の花見山遺跡はその先陣だった可能性が高く、縄文人の関東移住は12千年間に始まった事を示唆している。鶴見川が氷期に形成した谷に海水が流入し、この遺跡はその深い入り江に流れ込む川の畔の、当時の標高が100mほどの丘の上にあったからだ。

関東に移住した縄文人は底が尖った尖底深鉢型の土器を作り始め、時代の進展と共に底の尖りが鋭くなり、7500年前頃になると九州の定塚遺跡の土器と同様に、四隅に隆起を持つが、ずん胴な打越(おっこし)式土器を生みだした。その分布域は、西は静岡県の黄瀬川流域の乾草峠遺跡、東は房総半島に広がり、関東が九州縄文人の第二の集積地になった事を示している。

底部が砲弾型の土器は地上に置く事ができないから、水中に浮かせて使用するか、船で曳いて堅果類や液体を運搬する道具だったと推測される。縄文前期以降の関東縄文人が多用した、アズマネザサの様な籠を編む植物素材に乏しければ、土器を運搬時の容器としても使う必要があったから、尖底深鉢型の土器が多用されたと想定される。土器の遮水性が高ければ、大型土器を作っても水中に置けば壊れ難く、暑い夏には冷蔵庫代わりにもなっただろう。この時代の川には土砂が堆積した河原が殆どなく、川岸まで深い流れが迫っていたから、土器に収めた物品を遠隔地に運ぶ際に、水中に浮かせて船で引く事は合理的な選択だった。

この時代の関東平野も他地域と同様に、リアス式海岸の様に海が入り込んでいたが、武蔵野や山丘陵では台地の下に海に流れ込む、流れが緩やかな中小河川が各所にあったから、この時期の関東平野は、一種の水郷の様な環境を形成していた可能性が高く、尖底深鉢型の土器の形状は、水辺で暮らす縄文人が開発した道具だったと想定される。

シベリアの水上民族が使った櫛目紋土器は、花見山遺跡の土器から始まって打越式土器に至る、尖底深鉢型の土器を真似たものであると推測され、両者が便利に使った事も、河川を活用した生活者の土器だったと想定する根拠になる。関東ではアズマネザサを使った網籠が多用される様になると、籠を船に乗せる生活様式に移行し、尖底深鉢型土器の使用頻度は低下したが、シベリアには網籠の素材になる良質な植生がなかったから、櫛目紋土器が長い間使われたと推測される。竹籠は更に便利だが、竹を細い籤状に裁断して籠を作る様になったのは金属器時代になってからで、石器時代にはアズマネザサが最も優れた籠材だったと推測される。アズマネザサを関東に持ち込んだのは、台湾から渡来したmt-B4+M7cだったと考えられる。

関東に移住した縄文早期の縄文人は、堅果類の樹林に囲まれた高台に住居を構える、九州以来の伝統的な生活と、水辺の環境に親しむ日常生活との、2面性を持っていたと推測される。海面上昇の終末期に近かった縄文早期の九州の水辺には、岩肌が斜面を形成する急峻な地形が多かったが、多摩丘陵や武蔵野台地の脆い堆積土壌を流れる川は、水辺に平たんな地形を作り易いからだ。尖底深鉢型の土器が生れたのも、その様な環境があったからだと想定される。

従って高台に住居跡があったとしても、本当にそこで寝泊まりしたのか怪しいが、堅果類の樹林を形成する場所は高台でなければならなかったから、縄文人は多摩丘陵や武蔵野台地に集住したと想定され、日常生活の場だった低地の遺物は海面上昇や土砂の堆積によって埋もれ、高台の住環境だけが発掘されているのではなかろうか。海洋漁民の集落は東京湾岸にあったから、その痕跡が発掘される見込みもない。考古学者は、痕跡が発掘できない漁民はいなかった事にして、縄文時代史を構築しろと主張するが、その様な誤った方法論を堅持していては、何時まで待っても縄文史が解明できないだけではなく、意図的なプロパガンダに振り回される状態から脱却する事も出来ない。

九州に残った縄文人は、15千年前に渡来してから継続的に原日本人と共生していたから、沖縄系縄文人としては真っ先に共生文化が生れた地域だった。7500年前の佐賀県の東名遺跡がその様な縄文文化を示し、縄文前期(70005500年前)に打越式土器に似た曽畑式土器を作った。曽畑式土器は熊本県と鹿児島県を中心に沖縄まで拡散したから、それが九州漁民の活動域だったと推測される。7300年前の鬼界カルデラの大噴火により、鹿児島の縄文人は壊滅的な被害を受けたから、居住域の重心が熊本に移行した。

何でも大陸から伝来したと言い立てる考古学者が、曽畑式土器は櫛目紋土器の影響を受けて進化したと主張しているが、土器製作の元祖である縄文人が、土器の後発地域だったシベリアの土器を真似た筈はない。ヤンガードリアス期(縄文草創期)のアムール川流域の土器は、脆く壊れやすい土器だったから、それを櫛目紋土器に進化させるためには、焼成方法を含めた堅牢な土器の製作技法の開発が必要だった。1万年前の関東部族はシベリアとの交易を本格させていたから、ツングースがそれを介して製法を会得したと想定されるが、ツングースには九州に出向く理由があったので、ペアで移動していたツングースの女性が、九州縄文人から土器の製作技法を学んだ可能性もある。

その真偽を確認する為には、発見された最古の櫛目紋土器は、遼河台地の興隆窪文化期(80007500年前)の遺跡から発掘された事を前提にすると、その頃の関東には既に尖底深鉢型の土器があったが、その文化が九州に伝わった時期を検証する必要がある。遼河文化の遺跡は乾燥した台地にあり、遺跡の発掘が容易である上に、興隆窪文化は遼河台地の最古期の文化だから、これ以上年代が遡る事はないが、曽畑式土器は関東から九州に入植したmt-B5+M7bが、水辺で稲作を行う為に使った土器だと考えられるから、当時の遺跡は河川の土砂に埋もれて発掘が極めて困難な状態にある。従って遼河台地の発掘年代はそのまま採用するが、曽畑式土器やその原型とされる轟式の土器が生れた時期は、mt-B5+M7bがこの地域に入植した時期になる。

この地域に入植したのはmt-B5+M7bだけで、mt-B4+M7cは入植しなかった事は、彼女達が使った籠材から明らかになる。九州からアズマネザサを使った籠は発掘されないが、暖温帯性の樹木を使った籠が発掘されているから、九州には耐水性がある堅牢な籠がなく、長い間尖底深鉢型の土器が使われていたと考えられるからだ。縄文人の活動期の項に、佐々木由香氏が示す籠素材の分布図を掲載したが、九州縄文人はムクロジの樹皮を使っていたと指摘している。ムクロジは南アジア、東南アジア、東アジアの熱帯から亜熱帯域に分布する樹種だから、冷温帯性の堅果類の栽培者だった縄文人が日本に持ち込んだ樹木ではなく、実は食料にはならないから、暖温帯性の堅果類とジャバニカの稲作を九州に持ち込んだ女性達が、籠を編む素材として一緒に持ち込んだと考えられる。

樹皮から作る籠は形が定まらない袋状のものになるから、船で物品を運ぶための運搬具として、船上で使う事に不便があり、尖底深鉢型の曽畑式土器を多用せざるを得なかったと考えられる。関東部族は1万~9千年前にmt-B4+M7cを台湾から渡来させ、8千~7千年前に浙江省からmt-B5+M7bも渡来させたが、mt-B5+M7bは先着していたmt-B4+M7cの稲作力に太刀打ちできず、便利なアズマネザサの栽培方法や使い方を習得する間もなく、関東から九州に移住したが、便利な尖底深鉢型の土器は持参したから、それに類似した曽畑式土器が生れた事になる。

8千年前に太平洋が湿潤化し、mt-B5+M7bがいた浙江省はイネの原生種の北限を外れたから、栽培化の時期を迎えていたが、当事者であるmt-B5+M7bにしてみれば、イネの原生種も暖温帯性の堅果類も、生産性が極度に低下した時期だから、危機に落ちっていただろう。それで関東に渡来した事に違和感があるが、浙江省が湿潤化の最前線にあった時期は8千年前で、関東が湿潤化したのは8500年前だから、湿潤化前線が通過して晴天が増えた関東と、雨天が続いていて気温が上昇しなかった浙江省を比較する必要があるかもしれない。更に言えば、大陸が冷涼になって海洋が相対的に温暖になった時期だから、あまり気候は変わらなかった可能性が高い。従って海洋漁民が食糧事情を保証すると、多数のmt-B5+M7bが関東に渡来したと想定され、その時期は80007500年前だったと推測される。

しかし関東のmt-B4mt-B5に千年先行して、同じ品種のイネの栽培化に取り組んでいたから、mt-B5は関東の稲作者になる事を諦め、九州入植を決意したと推測される。武蔵野台地や多摩丘陵は、この時代には殆どなかった優良稲作地だったが、九州にはその様な場所は殆どなかったから、mt-B4+M7cはそれには追従しなかった事を、上記の籠素材が示している事になる。従ってmt-B4+M7cが九州に移住したのは、75007000年前だった可能性が高い。但し海面上昇が終了した直後の九州の海岸は、山肌の岩石を海岸の波が洗う状態だったから、海岸ではなく内陸の湖の畔に定住した可能性が高い。人吉盆地はその筆頭候補になるが、縄文前期前葉の遺跡が発掘される長崎県多良見町の伊木力遺跡や、熊本県宇土市曽畑は、前回の間氷期に形成された沖積平野の残渣が残る地形だから、その様な地域には縄文早期末には入植していた可能性がある。縄文前期の伊木力遺跡から発掘されたドングリピットには、樹種を選定した痕跡として、イチイガシが収蔵されていたからだ。

イチイガシは九州に多い樹種で、野生化する繁殖力を失っているから、mt-B4+M7cの関東での滞在時間が短かった事と、縄文前期前葉にはある程度の長さの九州滞在歴があった事を示唆しているから、上記の想定と合致する。従って遼河文化の興隆窪文化期に発掘された櫛目紋土器のルーツは、関東の尖底深鉢型の土器だった事になるが、九州にはツングースがペアで渡来して来ていたから、相互に影響し合った事は間違いないだろう。

ツングースが九州に渡来したルートは、アムール川~松花江~遼河~渤海~黄海~九州だったと想定され、九州には縄文人やmt-B5+M7bが持ち込んだ多彩な樹種が繁茂していたから、彼らが船を造る際にそれらを使ったと想定され、熊本や長崎で産出した蛇紋岩製の磨製石斧も、彼らが持ち込む獣骨と交換する主要な交易品だったと想定される。彼らが外洋である黄海や東シナ海を航行できたのも、九州産の大型の樹木を活用する事が、できたからである可能性が高い。つまり九州縄文人は関東部族とは別に、独自の交易ルートを得ていた事になる。

以上の事実は、縄文早期~前期の九州西部の漁民は、関東部族の一員だった事を示しているが、関東部族から離脱する要因も孕んでいた。縄文後期に関東から北九州に移住した人々は、後世の倭人になったが、曽畑式土器が発掘された熊本は後世の熊襲の地域になり、倭人国にはならなかったからだ。

彼らは関東から分岐移住した時期が早かったから、関東の漁民との一体感が薄れ、倭人集団に参加しなかった事になるが、話はそれほど単純ではない。分岐時期はこの集団が15千年前で、関東部族の岡山への入植は8千年以上前、北九州や大阪湾岸への入植は4500年前だったから、3千年前に結成された倭人集団に対する同族意識は、他地域と大きく異なっていた事は間違いないが、それ以外にも理由があったからだ。

関東からmt-B5+M7bが流入した事を端緒に、関東の古株だったmt-B4+M7cとの関係が悪化し、縄文中期寒冷期に北陸系のmt-Dを導入するに至り、決定的な亀裂が生れた。しかし九州縄文人のミトコンドリア遺伝子がmt-Dに変わってしまうと、人間関係はある程度修復されたが、mt-Dは北陸部族の女性だったから、九州縄文人は関東部族ではなくなった。その詳細は、縄文人の活動期経済活動の成熟期の項を参照。

 

5-3 氷期の日本列島に海洋漁民が生まれた事情を、関東と北陸の事情に即して検証する

氷期に遡る話になるが、ある程度話を進めてから遡らないと全体像が把握できないので、その1を含む纏めとして氷期~後氷期の事情を振り返る。

東京湾で生まれた原日本人集団が、日本を代表する関東の海洋民族集団になり、最終的に倭人と呼ばれた集団の起源になった事、また新潟で生まれた原日本人集団が、関東部族と競合する海洋民族集団になり、最終的に越と呼ばれた国際集団の一翼を担ったのは、地域的な特殊性が彼らを育んだからだと考えられるので、それを検証する。

関東の原日本人は3万年以上前に海洋漁民になった事を、内陸の3万年以上前の遺跡から発掘される神津島の黒曜石が示している事は、既に指摘した。本土から離れた小島の黒曜石として、隠岐の黒曜石も知られているが、旧石器時代に遡るのは神津島産だけで、隠岐産には同様の事例はなく、関東には海洋漁民文化の先進性があった様に見える。内陸の湖沼が氷結してしまう時代が早く始まったから、その様な事態に早くから追い込まれたとも言えるし、狩猟民族が通過点としていた地域では、十分な量の獣骨が入手できなかった事が、彼らの海洋文化を高めたとも言えるが、海洋漁民を育てる地理的な環境に優位性があった事も、重要な要因として考慮する必要がある。

北陸の原日本人については、関東ほどの考古学的な蓄積がない上に、32万年前に日本海が凍結し、日本海では活動できなくなったから、その時代の活動歴は日本列島には遺されていない。しかし石垣島の27千年前の遺跡が、日本海が凍結した3万年前以降の彼らの活動歴を示し、その頃の彼らの活動域には、関東の海洋漁民以上の広域性があった様に見合える。従って内陸で発掘される神津島の黒曜石は、関東部族の海洋文化の先進性だけを示しているのではなく、この時代の北陸の原日本人の漁労活動能力も、示していると考える必要がある。

奄美大島や徳之島から沖縄に連なる南西諸島の、23万年前の遺跡は、避寒のために冬季に遊動した関東の原日本人の痕跡で、北陸の原日本人が台湾や石垣島に至ったルートは、日本海から対馬海峡を抜け、陸化していた黄海の沿岸を南下して台湾に至り、そこから石垣島に渡るだけではなく、海南島に至る航行能力を備えていた。

南西諸島を飛び石的に航行した関東の原日本人は、沿岸に砂浜がない孤島の岸壁を頼りに、島伝いに航行する航路を選択したから、大陸沿岸の砂浜沿いに南下した北陸縄文人と比較し、高い海洋航行技能が必要だった事は間違いない。何10㎞もの間隔がある島伝いに航行する際に、天候の急変に対応する必要があったが、岸壁に囲まれていた小島は海が荒れれば、何処にでも接岸できるわけではなかったからだ。

甲乙付け難い先進的な漁民文化を生んだ地理的な環境として、先ず関東の状況を検証する。

関東は氷期から遺跡密度が高く、人口密集地だった事を示している。無尽蔵の海洋資源を得ていた海洋漁民は、人口密度が高いほど情報交換が活発化し、海洋文化が進化する事を自覚し、集住していた。南北遊動していた狩猟民族も関東に長期間滞在し、台地上に多数の痕跡を遺した事により、遺跡密度が高まったと考えられる。霧ヶ峰で良質の黒曜石が採取できることも知っていたから、関東にはその残渣が散乱している事になる。関東の漁民が漁獲を高めるほど、遊動していた狩猟民族が長期滞在し、より多くの獣骨を提供してくれただろうから、その時期には自分の食料を充足するだけではなく、漁労の生産性をその何倍も高める事が至上命題だった。その様な厳しい環境が、関東部族の漁労能力を高めただろう。

野尻湖近くの3万年以上前の遺跡から多量の石器が発掘され、内陸の湖沼漁民でさえも、旧石器時代としては異例な豊かさを示しているから、関東の海洋漁民はそれ以上の豊かさを得ていただろう。世界に例がない程に遺跡密度が高い事が、その証拠を提供しているが、当時の海岸にあった彼らの痕跡は全て厚い土砂に埋もれているから、発掘する事はできない。

その様な豊かな漁労環境は、広い古東京湾が存在した事が前提になる。内陸の湖沼にはない豊富な魚種が得られただけではなく、回遊魚が無尽蔵の漁獲を可能としたから、漁民は無制限に集住する事ができたからだ。また古東京湾が現在の様な海岸線を形成していのであれば、外洋への航行機会が日常的にあり、湖沼漁民の海洋漁民への転換は早かっただろう。

関東の漁民が3万年以上前に海洋漁民になった事は事実だから、古東京湾も現在の東京湾の様に海水で満たされていた事、中小の河川が入り江や洲を形成し、穏やかな入り江で漁労が可能だったから、原初的な湖沼漁民が次第に大きな湖に挑戦し、やがて海洋漁民に成長したとの想定も、極めて現実的なものになる。その様な古東京湾から浦賀水道を通って太平洋に出る事もできれば、冒険的な漁民は外洋の航行に日常的に挑戦し、海洋文化の進化に貢献する事ができただろう。つまり原初的な湖沼漁民が徐々に漁労技能を高め、最後には太平洋の波も乗り切る事ができる海洋漁民になるまで、一つの場所で環境の切れ目がなく、順を追って成長して行くことが可能だった。

浦賀水道を出ると、相模湾の沿岸を航行して伊豆半島から神津島に渡り、黒曜石を持ち帰る事もできたが、氷期の房総半島は現在より南東に5㎞ほど延伸していたから、その先端から、当時の標高が800mほどだった伊豆大島を目前に望む事ができた。そちらを経由すれば、最長島間距離は20㎞程度で済んだから、海洋に出た当初から冒険者の挑戦が続いていただろう。

その航路は太平洋の荒波をまともに受けるから、海洋の荒波を乗り切る船が必要になったが、冒険的な若者が危険な行為に競って挑戦し、数度の失敗にめげずに工夫を凝らして再挑戦する事は、何時の時代にも当り前にある事だから、それについて検証する必要はないだろう。房総半島や三浦半島には蛇紋岩の露頭があり、それを使った磨製石斧で樹木を伐採し、砂岩で研磨すれば船底材や舷側板を作る事は容易だから、船材を加工する石材は整っていた。当時の東京湾岸は北海道の様な寒さだったから、ダケカンバやシラカンバなどが船材を提供し、日本の固有樹種であるシナノキも繁茂していただろう。シナノキの樹皮は彼らに良質のロープを提供したから、船材を海洋の航行に耐える構造に組み上げる事が可能だった。

古東京湾が塩水で満たされていれば、氷期の最寒冷期になっても氷結しなかったから、季節に関わらず湾内の漁船が、浦賀水道を経て太平洋に出る事ができた。仮に浦賀水道が狭く、古東京湾が塩水で満たされずに冬季に凍結したとしても、房総半島が廂の様に浦賀水道沖に張り出していたから、冬はその陰になる南房総西部の海岸に退避すれば、船を大型化しても1年中同じ船を使い回しながら、古東京湾と外洋を往復する事ができた。従って氷期の寒冷期が始まった4万年前から氷期が終わるまで、古東京湾の漁民は通年同じ船を使い続け、漁労技能を高める事ができた。伊予灘や燧灘の湖沼漁民が、湖から離れた海洋に進出した際の煩雑さを考えると、これは大きなメリットだった。川によって海に繋がっていても、途中に急流があれば外洋との往来は簡単ではなかったからだ。

以上の様な前提がなければ、関東の原日本人が3万年前に海洋漁民になり、台湾まで南下できる海洋文化は形成できなかったと想定されるから、歴史事実としての確度は高いが、地理的な証拠や古地形に関する証拠も加え、氷期の古東京湾の状態を想定する必要がある。

現在の東京湾の水深は数10mで、氷期の海面は120m以上低下していたから、上記の想定は一見矛盾している様に見えるが、東京湾中央部の岩盤が沈降し続け、それと共に海底に堆積物が積り続けているから、現在の状態から氷期の古東京湾を連想する事は適切ではなく、諸事情を慎重に検証する必要がある。

現在の東京湾の北部は堆積が早いが、湾口に近い南部は年間3㎜~13㎜しか堆積していない。その数値を使った単純計算で15千年前の湾口部の底は、現在より45m200m低かった事になり、湾口に近い南部には、古東京湾が形成されていた事を示している。湾の奥にある堆積が早い北部も氷期の海面より低く、氷期にも海底を形成していた可能性が高い。

縄文早期後葉以降は、現在より温暖・多雨で台風の襲来頻度も高く、堆積速度は現在より早かった筈だから、縄文時代に形成された東京湾の海底泥の厚さは200mを越えたと推測され、15千年前の古東京湾は、現在と同程度の広さだったと想定する事に違和感はない。

浦賀水道から江戸川河口までの地域は、現在でも100年間に30㎝ほど沈降している。降雨が少なかった氷期には、堆積より岩盤の沈降が優っていた筈だから、25万年前の古東京湾は現在より巨大で、塩水で満たされていた可能性が高い。

氷期の東京湾では多摩川、荒川、江戸川が合流して古東京川になり、浦賀水道から流れ出ていたと主張する説もある。しかしこれは現在の海底地形を根拠にしているから、上記の堆積を考慮すれば、根拠に乏しい推論になる。この説が古東京川の河道だったと主張する、浦賀水道の海底谷は潮汐流の流路でもあるから、潮汐流によって堆積が阻害されている場所を、古い時代の河道の痕跡と見做している疑いが濃く、敢えて反論する必要がない駄説に見える。

このHPが提唱する氷期・間氷期サイクル説に従えば、氷期初頭に海面が300mほど低下した際に、現在の様な状況だった東京湾の土砂が浦賀水道から相模灘に排出され、その後の海面上昇によって再び古東京湾が生れ、45千年前に関東部族を受け入れたと想定される。関東部族もいきなり、湖沼漁労とは勝手が違う東京湾で漁労はせずに、中部山岳地帯や現在の前橋辺りの湖沼で漁労を行い、徐々に魚種が異なる東京湾岸に集住していったのではなかろうか。

西日本の原日本人は冬季に氷結しない湖の漁労期間が長く、瀬戸内の巨大湖を起源とする伊予(伊予灘)、隠岐(響灘)、対馬(周防灘)の原日本人は、海洋と離れた地域の湖の湖畔にいたから、これらの当時の大部族の海洋民族化には、関東部族と比較すると大きな遅れがあったと想定され、原日本人の海洋文化の起源は、関東にあった可能性が高い。

北陸の海洋漁民の起源地だったと想定される場所にも、海洋漁民化が容易な地形があったから、関東とは別の海洋文化が生まれた可能性が高い。

海面が現在より120m以上低かった34万年前には、信濃川と阿賀野川が形成した広大な沖積平野が佐渡の西に迫り、佐渡とその沖積平野に挟まれた細長い海峡が、幅数キロの水道を形成していたと推測され、疑似的な奥深い内湾になっていた可能性が高い。佐渡の南西岸には水深300mを越える海溝があり、そこは海だったと想定されるから、そちらは富山湾に向き合う開口部で、西北は日本海に開口部があったから、厳密に言えば湾ではないが外洋の高波が及ばない環境だった。沖積平野には古信濃川や古阿賀野川が流れていたから、多摩川、荒川、利根川、鬼怒川などが流れ込んでいた東京湾に類似する、湖沼漁民が海洋漁民化する要素を連続的に提供する環境を形成していたが、その規模は東京湾には及ばなかった。

日本海には以下の状況が発生した。

85,00030,000年前の日本海は、水温が低く対馬暖流の流入はなかったが、黄河の影響を受けた九州西方の、表層海水が流入していた。

30,00020,000年前になると、日本海の表層水は低塩分になり, 海水の層構造が発達して鉛直混合がほとんどなくなり, 海底は酸欠状態になった。

20,00010,000年前に、海流が津軽海峡から日本海に流入し, 表層水が対馬海峡から流出した時期があった可能性がある。

既出の下2行は、氷期の最寒冷期だった32万年前に日本海が凍結し、2万年前に氷結は解除されたが、氷が融けた表層水は暫く日本海の表面を覆っていた事、15千年前に津軽海峡が生れた事、1万年前まで黒潮がカムチャッカ半島に北上していた事を示している。

85,00030,000年前に、黄河の影響を受けた九州西方の表層海水が流入していた事は、氷期の日本海と東シナ海は海水が出入りする海峡で繋がり、九州と朝鮮半島は陸橋で繋がらなかった事を示している。氷期の日本海の流出口は対馬海峡だけで、黄河は東シナ海に流れ出ていたのではなく、済州島と五島列島の間に形成されていた細長い海峡に、済州島の北を回って流れ出ていた。北陸の原日本人が黄海の沿岸を経て台湾に達する航路は、85千年前から存在していた事を示していると同時に、海洋漁民化していなかった原日本人が日本列島に辿り着く陸路は、北海道経由しかなかった事を示している。

現在の津軽海峡の最深部の水深は140m程度で、対馬海峡の最深部も同じだから、氷期の津軽海峡は陸橋になり、対馬海峡は日本海と繋がっていた事情に違和感があるが、対馬海流が鳥取砂丘の砂を供給し、新潟平野、庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野の海岸砂丘を形成し、津軽海峡から流出している事を知れば、違和感は解消するだろう。日本海に流れ込んでいる河川が、沖積平野を形成する筈の土砂を海流が削り取り、海岸砂丘として堆積する浸食と堆積を、対馬海流が行っているからだ。つまり両海峡の深度は、津軽海峡が生れてから形成されたものであって、それが存在しなかった氷期の地形を塗り替えてしまったのだ。

前回の間氷期は今次の間氷期より海面が数十メートル高く、期間も短かったから、親潮の発生が脆弱になって黒潮が青森沖まで北上していたとすると、対馬暖流の出口は津軽海峡ではなく、宗谷海峡になった可能性がある。その場合には津軽海峡部分にも、海岸砂丘が発生していた可能性が高い。それであれば、氷期初頭の豪雨雨期にその砂丘を削る河川はなく、降雨によって崩れただけだから、丘陵の残渣が氷期の陸橋を形成していた事になる。海面上昇によってそれが水没し、対馬海流が流れると、海流は海底を浸食しながら流路を確保したから、津軽海峡の水深が140mに削られた事に違和感はない。海岸砂丘は竜飛岬から白神岬の間の20㎞に形成された事になるが、津軽半島の西にある七里長浜では30㎞に亘って海岸砂丘が形成されているから、前回の間氷期の想定事情を含め、この推論は無理なく歴史事実を再現する。

以上を前提に85,00030,000年前に、黄河の影響を受けた九州西方の表層海水が流入していた事を検証すると、閉じた日本海に東シナ海の海水が流入していた可能性があり、少なくとも日本海から水が流出する状態にはなかった事を示している。この状態に対応するのは、6万年前に始まった氷期の温暖期初頭に、日本海に流入する川の水より、日本海から蒸発する水の量の方が多かった時期が存在した事を示唆している。氷期の温暖期初頭は海水温が最も低く、大陸が急激に昇温し始めた時期だから、中緯度地域が極度に乾燥した事はこのHPで何度も指摘したが、それがどの程度のものだったのか示している事になる。中緯度地域が砂漠化したと言っても、過言ではない状況が生れた事になる。

同様な氷期の温暖期の初頭である2万年前に、同じ事が起きなかったのは、6万年前の日本海は氷結していなかったが、2万年前の日本海は氷結していたからだと考えられる。氷結した氷によって太陽光が反射され、この地域の昇温が遅れたから、日本海の水収支が負に転じる事情がほとんど発生しなかったと考えられ、極端に乾燥するのは昇温期の初頭だった事になり、このHPが提唱する氷期・間氷期気候モデルと整合する。

6万年間と2万年前の違いは、その様な極端な乾燥化は長続きしなかった事も示しているが、氷期の温暖期初頭の昇温期に、大陸の中緯度地域が極度に乾燥した事を示しているから、後氷期の昇温期にも類似の事情が発生したと想定するこのHPの論拠に、強力な証拠を提示しているとも言える。しかし話はそれに留まらず、古気候や古地理の詳細を検証する為には、正しい歴史認識に基づいた歴史の解析が必要不可欠である事を示している。しかし現状の史学はプロパガンダに塗れ、古気候学はCO2温暖化論のウソに塗れているから、双方が正しい言説を否定し合いながら、事態を混沌化の方向に推し進めている。

 

5-4  12千年前に急速な温暖化が始まると、関東の漁民は遊動先をオホーツク海に変えた。

関東部族が多数のmt-Aを取り込んだのは、超温暖期に遊動先を、オホーツク海沿岸に変えたからである可能性が高いが、関東縄文人にはmt-Aが濃厚に含まれ、既に形成されていた東北縄文人や北海道縄文人にはmt-Aが全く含まれていない事は、関東部族だけがオホーツク海沿岸に遊動し、北海道部族も東北や道南の太平洋沿岸に展開した伊予部族も、オホーツク海沿岸には遊動しなかった事を示している。縄文前期~中期の関東部族の漁民の遺伝子分を、現代沖縄人の遺伝子分から類推すると、mt-N9bの半分近くがmt-Aに置き換わった事を示唆しているから、関東の漁民にとって大変な出来事だった事を示している。他民族の女性技能者を招く最初のイベントでもあったから、先ずその時期と場所を特定する必要がある。

東北縄文人や北海道縄文人にmt-Aが全く含まれていない事は、mt-A系狩猟民族が南下遊動していた際には、原日本人との間に通婚はなかった事を示している。15千年前に津軽陸橋が失われると、本州に残された狩猟民族の遺伝子はmt-Dだけだった事を、東北縄文人の遺伝子分布が示しているから、mt-Dmt-Gに浸潤されずにmt-Aを温存していた狩猟民族は、15千年前のシベリア南部にはいなかった事になるが、アメリカでクローヴィス文化(12千年前~)やそれに続くフォルサム文化を形成したのは、mt-A主体のmt-A系狩猟民族だった可能性が高いから、それらの文化がアメリカ大陸に生まれた12千年前のシベリアには、mt-Mに浸潤される機会がなかったmt-A系民族が、まだ多数残っていた事になる。言い換えると、温暖化した日本列島への南下遊動を止めたmt-A系民族や、元々日本列島まで南下していなかったmt-A系民族が多数あり、それらが超温暖期になった12千年前以降に、アメリカ大陸に大移動した事になる。

経済活動の成熟期/その3の項で示すが、西日本を元郷とする原日本人部族として、北海道部族や隠岐部族はアイヌ語系だったと考えられるが、伊予部族はそれらとは異なる言語系譜だったと考えられ、その事はmt-A系民族には、少なくとも二つの異なる言語を使う民族がいた事を示している。異なった狩猟民族にmt-Aが浸潤していたとすれば、その様な事態が発生していた事に違和感はない。

栽培系狩猟民族の間では、この様な浸潤は珍しくなかったが、狩猟民族にも同様な事態があった事を示す事例になる。栽培する種子や栽培技術が母から娘に伝達された様に、長躯移動する生活技術も母から娘に伝達されたのであれば、驚くべき事ではないかもしれないが、栽培は一人でもできる行為だったのに対し、南北遊動は集団で行う必要があったから、浸潤の形態は異なっていたと想定される。

栽培系狩猟民族で発生した浸潤は、ペアになった男女の個人的な行為としても成立は可能だったが、mt-A系狩猟民族として南北遊動を開始する場合は、浸潤した女性がその集団の指導権を握る必要があったからだ。集団間の話し合いでそれが粛然と行われ、新しい集団内で徐々に浸潤が進んだと想定され、mt-N系狩猟民族の婚姻には、その様な意識が底辺にあったと推測される。つまりシベリアの狩猟民族は、女性の生活技能を集団にとって必要不可欠な技能であると認識し、技能者の授受が集団間で行われる事が、潜在意識として婚姻の裏面に存在したと考えられ、原日本人の女性もmt-N系だった事に留意する必要がある。現代人は親が結婚相手を決めると、人権無視だと言って騒ぐが、この時代の人々にとってこの様な政略結婚は、名誉を伴うものだったと認識する必要があり、縄文時代の通婚にもこの意識が背景にあったと考えられる。言い換えると女性の技能が高く評価されていた時代の習俗であり、女性の技能の必要性が低下した結果として、また農耕民族的な婚姻が幅を利かせた結果として、自由恋愛が強調される様になったと考えられる。略奪婚の起源はその様な農耕民族が生み出した、栽培技能者を力で奪う習俗だった疑いが濃い。略奪婚の被害に遭った女性は、期せずして優良な栽培地を入手する事が多々あったたから、彼女達とっても必ずしも憎むべき習俗ではなかった事が、この様な婚姻が長い間続いた理由ではなかろうか。

これらの事情を加味して氷期のシベリア事情を推測すると、黒潮によって温められていたシベリア東部では、6万年前に氷期の温暖期になった時点で、高緯度地域まで氷床の融解が進んで北極海に流れ込む河川が復活し、それらの河川の流域では夏季に草原が広がったから、南北遊動するmt-A系の民族が生れたと推測される。この地域の最大の河川だったレナ川の流域には、元々の狩猟形態が異なる二つの狩猟民族がいたが、それが川沿いに南北遊動する民族と、川の上流を北限として日本列島に南下遊動する民族が生れたとすると、上記の懸案は解決する。

それを日本の事情に拡大すると、壱岐部族(北海道部族)と隠岐部族(出雲)は、レナ川の流域を南北遊動していた民族と共生し、伊予部族はレナ川の上流を北限とし、日本列島に南下遊動していた民族と共生していたと推測される。レナ川の流域を南北遊動していた民族は、シベリア東北部やアメリカの古代民族に民族言語を遺したが、日本列島に南下遊動していた民族の多数派は最終的に北海道に留まったから、縄文時代に経済的な主導権を握った北海道部族の言語、即ちアイヌ語に同化したと想定されるからだ。

日本列島に南下遊動していた民族は、15千年前にはmt-Dの浸潤を受けていたから、その一部は15千年前に津軽海峡が生れると本州に閉じ込められた。12千年前に宗谷海峡が生れると、その一部はシベリアに帰るのを諦め、北海道部族との共生を選択したと考えられる。東北縄文人が東北に移住した際に、東北にいた狩猟民族は南北遊動していた狩猟民族だったと想定するのは、東北に北上して狩猟民族になったY-C1が、東北を新天地であると認識する為には、そこにはmt-N9a系の狩猟民族はいなかったと推測する必要があるからだ。mt-N9a系狩猟民族は、漁民と共生する狩猟者だったから、関東や北陸から離れて海産物を運ぶことが困難な、東北北部にはいなかったと想定される事もその根拠になる。既に何度も指摘したが、mt-A系狩猟民族は漁労民族のサポートなしに、狩猟だけで生活する狩猟民族だったから、彼らがその様な東北で細々と生活していた事に違和感はない。

レナ川や他の河川を南北遊動していたシベリア北部の民族は、12千年前までは栽培系の女性に浸潤されることなく、氷期から継続していた狩猟活を行っていたと推測される。獣肉の腐敗問題が発生する夏季は、北極海の沿岸まで北上していたから、mt-M系の女性が浸潤する環境はなかっただろう。

オホーツク海北岸には、背後に標高1000m前後の山岳地帯があり、その北は北極海に注ぐヤナ川、インディギルカ川、コリマ川の3本の大河と、小河川の上流域になっている。従ってこれらの川沿いを南北遊動するmt-A系狩猟民族や、小河川の流域に居住するmt-X系狩猟民族がいたと想定され、12千年前に超温暖期になると、ツングース系漁労民族がオホーツク海北岸に北上すると、冬季に南下して来るmt-A系狩猟民族と獣骨の交易を始めたと推測される。この時期にオホーツク海北岸~山岳地帯南部が森林化したのであれば、細石刃を使う狩猟民族も北上した筈だが、温暖化は乾燥化に結び付くから、森林で細石刃を使う狩猟民族が北上しても、ツングース系漁労民族が満足できるほどの、獣骨の供給力はなかったと想定されるからだ。mt-M系の女性は元々草原の栽培者だったから、その様な気候地域を絶好の栽培地と捉えていただろう。

温暖化した12千年前以降は、mt-A系狩猟民族にとっても草原の草が増え、草食動物が繁茂する環境を得たが、伝統的な生活習俗を維持して冬季の食料保存を確保する為に、冷涼な高原を冬のキャンプ地にしていた可能性が高く、ツングース系漁労民族との交易が成立し易い状況にあった。

関東の原日本人が、夏季の猛暑を避けるためにオホーツク海北岸に遊動しても、このmt-A系狩猟民族と接触する機会はなかったと想定される。夏季に北上した原日本人と接触した可能性が高いのは、カムチャッカ半島を南北遊動していた狩猟民族になる。上記の河川流域を南北遊動していた狩猟民族の南北遊動路は、半島に南下しなくても直線距離で2000㎞以上あり、カムチャッカ半島の付け根の低地に至るには、更に標高500m前後の山岳地を超える必要があり、それはキャンプ地ではなく単なる移動経路だから、レナ川の下流域から日本列島に南下していた民族の移動経路より、動物も人も困難を伴うものだった可能性が高い。従ってオホーツク海北岸の山岳地の裏面~北極海に至る、シベリア内陸部を遊動する北方系と、カムチャッカ半島北部の低地~半島の先端までを遊動する、南方系の2派に分かれていた可能性が高い。

現在はオホーツク海東北部にシェリホフ湾があり、その奥に細長く湾入するペンジナ湾があり、全長 713kmのペンジナ川が北東からペンジナ湾に流入している。この川の流域や支流域には広大な低地や丘陵地が広がっているから、氷期の夏季には草食性の野生動物が群れ、冬季にはカムチャッカ半島に南下していたとの想定には現実味がある。この平原は暖流域の北東にあり、その流路から1000㎞以上離れていたから、氷期の冬季には不毛の凍った台地になったと想定されるからだ。

栽培系のmt-Dmt-CY-Qと共に、ベーリング陸橋を渡ってアメリ大陸に渡ったのは、大陸が超温暖化した12千年前から、ベーリング陸橋が存在した1万年前の2千年間だったし、mt-A系狩猟民族もこの時期に、寒冷な気候が続いていた北アメリカに移動したと考えられるから、それ等の人の流れがその頃の温暖化事情を示している。

現在のシベリアにはmt-Amt-M9a/bが少ないが、それはシベリアに残った北方の狩猟民族の多くが、そのペアを旧石器時代のペアだったmt-Amt-Xから、栽培者のmt-M(DCGZM10)に変えたからではなく、縄文晩期にシベリア経済が崩壊すると、mt-Amt-N9aが激減したからだと考えられる。その様に考える理由は、韓国人のmt-A比率が10%もあり、mt-N9a5%もあるのは、縄文中期に遼東に南下した濊に多数のmt-Amt-N9aが含まれ、高句麗・渤海などの交易民族も、その種の民族女性を集積していたと考えられるからだ。

しかしそれ等の遺伝子が残ったのはシベリア中西部であって、オホーツク海沿岸を主要部とする東部では事情が異なり、超温暖期以前からmt-Mに浸潤される機会が豊富にあったから、超温暖期が終了した時点でmt-Amt-Xは殆ど残らず、シベリアに残った狩猟民族はmt-Mに浸潤され、アメリカに渡った狩猟民族がmt-Amt-Xを温存した。カムチャッカの民族にはmt-Aが殆どなく、mt-Gmt-Cが主要な遺伝子になっている事が、その事情を物語っている。

関東縄文人からmt-Aは複数検出されているが、mt-N9aは検出されていない。またアメリカに渡ったのはmt-Aだけで、mt-N9aはアメリカに渡っていないから、超温暖期の関東の原日本人がオホーツク海の北岸に遊動し、mt-Aを多数取り込んだとすれば、オホーツク海沿海部からmt-A系狩猟民族がいなくなる前の、12千~11千年前だったと想定される。

クローヴィス文化は12千年前に始まり、フォルサム文化が11千年前に始まって、クローヴィス文化を塗り替えたと考えられているので、それをシベリアの事情に焼き直すと、先ずベーリング陸橋に近いオホーツク海東北部の狩猟民族が、超温暖期に最も温暖化した地域の民族としてアメリカに渡り、その後レナ川流域を南北移動していた民族も、アメリカに移動したと想定される。つまりペンジナ川流域を含むカムチャッカ地域を南北遊動していた狩猟民族が、真っ先にアメリカに渡ってクローヴィス文化を形成したとすると、彼らの移動は12千年前に始まった事になる。

クローヴィス文化はもっと早い時期に始まったとの主張もある様だが、シベリアから小集団がアメリに渡る機会は、2万年前に温暖化が始まった時期から存在したから、最古の遺跡を求めてピックアップするのではなく、特徴的な遺跡が幾つも発見される時代を、この文化の成立期として捉える必要がある。アメリカ大陸はこの文化の発祥地ではないから、発掘された遺跡の古さを競う事に意味がないからだ。

原日本人の動向をこれに合わせて想定すると、超温暖期が始まると即座に、伊予部族が東北や道南の太平洋側に展開し、関東部族は氷期に台湾に南下していた時代の様に、伊予部族が形成した拠点湊を経由し、千島列島からカムチャッカ半島を北上し、オホーツク海沿岸でツングースから獣骨を入手しようとしたが、ツングースの需要と競合して十分な量が得られなかったと推測される。従って獣骨を更に得る為にペンジナ川を遡上し、カムチャッカ地域を南北遊動していた狩猟民族の夏季キャンプに至り、漸く豊富な獣骨の入手に成功したと推測されるが、これは上記の理由から、超温暖期が始まった12千年前から余り時間が経っていない時期だったと考えられる。

カムチャッカ地域を南北遊動していた狩猟民族は、最初は一部が偵察的にアメリカ大陸に渡り、動物群の季節移動の状態などを確認してから、本体が移動してクローヴィス文化を形成したと想定される。彼らが居なくなって縄張りが空くと、レナ川流域を南北移動していた民族がその地域を経て、アメリカに渡ってフォルサム文化が生れたと考えられるからだ。従って原日本人が多数取り込んだmt-Aは、その時期のレナ川流域の民族の遺伝子も含んでいた可能性があるが、圧倒的な多数派は、カムチャッカの狩猟民族の遺伝子だったと推測される。

氷期の伊予部族は、関東部族が台湾に渡航する際に航路上の湊を提供し、帰路にアサを分けて貰っていたと想定され、超温暖期になると即座に北方航路の湊を形成し、関東部族に提供したのは、彼らの航行技能では台湾やシベリアには渡航できなかったが、帰路の関東部族から余禄を貰いたかったからだと推測される。海洋資源は無尽蔵に近く、狩猟資源には限界があったから、縄文人の活動が活発になってアサが豊富に入手できる様になれば、次に不足するのは獣骨である事は誰の目にも明らかだっただろう。伊予部族は目敏くそれに目を付け、彼ら独自の行動を採った事になる。超温暖期になって腐敗問題が発生すると、日本の南海の部族は真っ先にそれに耐えられなくなり、東北に移住したという側面もあったが、伊予部族の東北移住には経済的な打算もあったと考えられる。

関東部族はヤンガードリアス期までは、北海道に南下遊動して来る狩猟民族を迎えていた北海道部族から、獣骨を得ていたと推測されるが、12千年前に宗谷海峡が生れた上に、超温暖期になって狩猟民族が樺太にも南下しなくなると、北海道部族が提供できる獣骨は減少しただろうから、関東部族は新たな調達先を探す必要に迫られていた。超温暖期なるより先に宗谷海峡が生れたのであれば、関東部族がカムチャッカの狩猟民族と交易を始めたのは、ツングースがオホーツク海北岸で漁労活動を始める前だった可能性もある。カムチャッカには半島に南下する狩猟民族がいるとの情報は、レナ川上流域から南下して来た狩猟民族から得る事が出来ただろうから。

千島列島は島が切れ目なく繋がり、最大島間距離は70㎞だから、沖縄と宮古島が240㎞も離れている南西諸島と比較すると、目視だけでカムチャッカ半島まで行ける航行が容易な航路だった。それ故にアイヌは近世までカムチャッカ半島に出掛け、千島列島北端の占守(しむしゅ)島はアイヌ語名になっている。関東部族は1万年前に台湾に出掛け、多数のmt-B4を関東に招いたから、12千年前の彼らの航行能力に問題はなかった。

 

超温暖期のシベリア事情を、原日本人視点でオホーツク海側から見る

河川漁労民族になっていたツングースとその共生民族は、超温暖期になった12千年前にオホーツク海北岸に至り、漁労文化を高度化させながら人口を増やしていたが、1万年前にオホーツク海北岸が寒冷化し、同時にシベリアが湿潤化し始めると、トルコ系の漁労民族を招いて先進的なツングースの河川漁労技術を伝え、共生していたY-N栽培民族と共に内陸に拡散させた。

このY-N民族を介し、シベリアの狩猟民族や漁労民族に栽培系ミトコンドリア遺伝子が拡散したと推測されるが、ツングース自身は水上交易民族になり、家族単位でシベリア各地を巡って氷期のペアだったmt-Yを温存した。彼らは縄文時代にユーラシア大陸の東西交易を担ったから、シベリアを経由して西ユーラシアの文化が日本にも伝来し、中華では彼らを古代の名族として粛慎と呼んだ。

ツングースが駆使した先進的な漁労技術や操船技術は、2万年前の日本海北岸で北陸の原日本人から学び、16千年前に北海道や樺太に移住した原日本人からも学び、超温暖期にオホーツク海に北上すると関東の原日本人から学び、その技能を高めていったと考えられる。その理由は以下になる。

氷期のシベリアには船を製作するための樹木が乏しく、狩猟と漁労を兼務した民族の漁労は夏季に限定されていたから、刺殺漁労を主体とするものに限定されていたと想定される。シベリアでは磨製石斧の優れた素材である、蛇紋岩が産出しなかった上に、ロープの素材になるシナノキも生育していなかったから、海洋民族化を目指した西欧のY-Rには、シナノキが移植されたと想定されるが、シベリアでシナノキを栽培した痕跡はない。

従ってオシポフカ文化圏の遺跡から石錘が発掘されているが、漁網を使うにはアサが必要だから、この漁労技術も北陸部族か北海道部族から、アサの入手と共に伝わったと想定される。関東の原日本人は沖縄系縄文人から、釣りを行う技能も学んでいたから、それもツングースがオホーツク海北岸で関東部族から学んだと推測される。北陸部族が釣りの技術を得たのは、弓矢が普及した13千年前の、御子柴文化期以降だったと推測されるからだ。

その様なツングースが東西ユーラシアの文化交流を主導し、粛慎と呼ばれる古代の名族になったのだから、それに必要な水上技能の急激な向上は、原日本人や縄文人から学ぶ事によって得られたと考えられる。その契機は2万年前の日本海北岸にあったとしても、最終仕上げはシベリアの樹木の生育が盛んになった、超温暖期だったと考える事に合理性があるだろう。ツングースがシベリアでシナノキを栽培した痕跡がなければ、彼らは海洋縄文人から得たアサで船体を組み立てていた事になり、海洋漁民化は目指していなかった事になる。ツングースは栽培系の民族ではなかったから、アサやシナノキの栽培が苦手だった事は間違いなく、蛇紋岩製の磨製石斧も縄文人から入手していたから、何か一つだけをシベリアで生産する事に熱意はなかっただろう。シベリアには獣骨という強力な商品があったから、交易を活性化させる方が得策である事は、交易社会に生きる現代人であれば容易に理解できるだろう。

彼らがシベリアの河川交易者になったのは、トルコ系のY-C3民族にも高度な漁労技術を伝達し、それに必要な資材を支給したかったからだと想定される。湖沼漁民が生産性の高い漁労を確立すれば、その周囲に獣骨を持参した狩猟民族が集まったから、ツングースはその様な漁民から獣骨を集めて原日本人と交易する事に依り、原日本人が生み出した海洋文化をシベリアに実現する為の資源を、原日本人から入手するための原資を得る事が出来た。1万年前以降のツングースは、その様な交易構造を構築する為に奔走していた。

トルコ系の漁労民族が最初に集結したのは、12千年前にツングースがオホーツク海に北上する事により、空き家になったアムール川下流域だったと想定される。アワの栽培者になったmt-DY-Nペアが、アムール川を南下して松花江を遡上したと想定されるが、魏志東夷伝は彼らの子孫である扶余は、トルコ系言語話者だった事を示唆しているからだ。つまり彼らがトルコ系言語話者だったのは、ツングースがいなくなったアムール川下流域で、トルコ系漁民と共生していたからだと考える事以外に、理由が見出せないからだ。

歴史時代の満州は、南部の吉林省は扶余の地域で、北部の黒竜江省はツングースの領域だったが、やがて満州全域がツングースの領域になったから、アムール川の下流域は昔からツングースの縄張りだったと誤解しやすいが、華北のアワ栽培者がトルコ語話者だった事は、1万年前にはトルコ系漁民の領域だった事になる。つまりmt-DY-Nペアは、アムール川下流域でトルコ系の漁民と共生していたから、トルコ語話者になった事になる。魏志挹婁伝が、歴史時代の沿海州やオホーツク海沿岸はツングースの領域だった事を示しているから、沿海州やオホーツク海沿岸は一貫してツングースの地域だったと考えられ、アワ栽培を得意としたmt-Dの一部は、気候の寒冷化を待たずにアワの需要者を求め、オホーツク海からアムール川流域に南下していたと想定される。

これが意味する事は、ヤンガードリアス期にオシポフカ文化を形成したのはツングース系漁民だったが、1万年前に同じアムール川流域に遺跡を残したのは、トルコ系漁民を中核とする民族共生だった事になり、超温暖期以降に遺跡を残したのも、ツングースではなくトルコ系民族だった可能性が高まる。つまり気候が寒冷化してシベリアが降雨に恵まれる以前に、オホーツク海沿岸で高度な漁労文化を確立したツングースの下に、トルコ系民族が集まる流れが生れたから、ツングースが捨てたアムール川流域に、トルコ系の漁民が集まっていたと想定される。

超温暖期が始まった当初は黒潮の海水温が低く、降雨が増えないのに温暖化してアムール川や支流の水位が低下したから、ツングースは豊かな水量と冷涼な気候を求めてオホーツク海北岸にまで北上したが、黒潮の温度が上昇すると降雨が徐々に増えたから、トルコ系漁民もツングースの様な優れた漁民になる為に、アムール川の下流域に移住して来たと考えられる。超温暖期の西ユーラシアでは高緯度地域の氷床が盛んに融解し、黒海やカスピ海に流れ込む河川には水が溢れていたから、漁場には不自由していなかったこの地域の漁民が、敢えてアムール川流域に集結していたのは、ツングースの漁労文化に惹かれて西に移動して来たと考えるべきだろう。

従って11千年前頃のシベリア沿海部には、オホーツク海沿岸を漁場にしていたツングースと、アムール川下流域に集まって来たトルコ系漁労民族という、民族領域を形成する構図が生れ、漁労技術の向上が不十分だったトルコ系漁労民族が、不猟期の食料不足を補うためにアワ栽培者と共生したから、そこにアワ栽培者の集積地が生れたと想定される。蔬菜類の優れた栽培者だったmt-Gmt-Zはツングースに好まれていたから、オホーツク海沿岸に次々に北上したが、mt-Dはトルコ系漁民との共生に甘んじなければならなかったとも言えるし、mt-Dは最北の栽培者として先陣を切って北上したが、黒潮が温暖化して降雨量が増えた11千年前頃に、ツングースの漁獲が飛躍的に増えると、オホーツク海北岸はmt-Gの独壇場に、オホーツク海西岸はmt-Zの独壇場になったから、ツングースの需要を失ったmt-Dはその頃アムール川下流域に集結し始めたトルコ系漁民に、共生者を求めざるを得なくなったとも言える。人間の営みは多様だから、それぞれのmt-Dがいたのかもしれない。

原日本人の獣骨需要が高まると、北陸の原日本人はその様なトルコ系民族の領域にも交易を求めたから、それがmt-Dが北陸に渡来する契機になったと想定される。その契機が具体化したのは、シベリアが湿潤化して内陸にもトルコ系民族の居住域が広がり、ツングースが内陸に移動したトルコ系民族に漁労文化を積極的に伝達し、その代償として獣骨を回収する交易者に転換するために、組織的な活動を始めたからだと想定される。

1万年前に気候が寒冷化するとオホーツク海北岸では栽培が不可能になり、共生民族は再び南下を強いられたが、アムール川流域には既にトルコ系の漁民がいたから、ツングースは漁場を失う危機に見舞われ、それが実現すると共生民族は共生漁民を失う羽目になったが、其処に登場した起死回生の策が、ツングースの余剰漁民はシベリア内陸部の河川交易者になり、余剰になった栽培者と狩猟民族に、内陸に移住するトルコ系漁民との共生を推奨する事だったと想定される。

これによってオホーツク海沿岸の余剰人口に行き先が生れただけではなく、ツングースから片手間の技術指導を受けていたトルコ系漁民は、内陸に拡散しても先導者から受ける授業時間を長くして貰う事が出来た上に、必要な資材も優先的に供給して貰う事が出来た。優秀な栽培者を紹介して貰って内陸の適切な地域に展開する事も、可能になった。但しトルコ系民族はその為の原資として、シベリア奥地の狩猟民族の獣骨を集め、それをツングースに提供する必要があった。つまりツングースがその様な民族になる為には、関東部族や北陸部族の旺盛な獣骨需要があった事になり、それによって参加者全員の経済的な利害関係が、win-winの関係になった。

但し狩猟民族に関しては、内陸の草原にmt-A系狩猟民族の縄張りがあったから、単純には進行しなかったかもしれない。森林化が進行すると細石刃を使う狩猟民族は進出できたが、mt-A系狩猟民族からクレームが付いた可能性は高い。アメリカに渡らずに残留していたmt-A系狩猟民族が、温暖化に苦しみながら多数残留していたからだ。しかし両者を納得させる狩猟具が、この時期のシベリアに登場した。それは関東部族が支給する、高性能狩猟具である弓矢だった。

12千年前以降の関東部族は、竹の矢柄にウルシで黒曜石の矢尻を装着した高性能の矢を、狩猟者に提供する体制を縄文人の協力の下に整えていた。九州縄文人の一部が関東に移住していた事を、横浜の花見山遺跡の出土土器が示している事は既に指摘した。日本列島の狩猟者が12千年前に矢柄研磨機を使わなくなったのは、それによって矢の供給体制が整ったからだと考えられる。

従って関東部族が十分な量の弓矢を、シベリアの狩猟民族に供給できれば、mt-A系狩猟民族も新しい狩猟方法を確立し、草原の狩猟者から森の狩猟者に転換しても、生活に不安がない狩猟者になる事が出来た。細石刃を使っていた狩猟民族も弓矢によって狩猟の生産性を高めると、従来は狩猟民族としては不適格地で、mt-A系狩猟民族の縄張りではなかった地域であっても、森林化して環境が変わっていたのか否かに関わらず、漁労民族と共に進出する事が出来た。

つまり1万年前にシベリアが湿潤化すると、それに応じて内陸に共生民族が急速に拡散した主要条件は、ツングースの交易民族化ではあったが、それを陰で支えていたのは、原日本人の旺盛な獣骨需要と関東部族が支給する弓矢だった。

アワ栽培者だったmt-Dは、この様な経済の急展開に取り残された、唯一の被害者だったと推測される。アムール川流域からトルコ系漁民が次々にシベリア内部に移住すると、共生していた漁民から見捨てられてしまったからだ。漁労文化を高める為には多量の獣骨が必要だったから、狩猟者は広い縄張りを求める必要があり、アムール川流域もその例外ではなかったとすれば、狩猟民族の人口密度も減少していっただろう。

そもそもヤンガードリアス期のアムール川は、氷期初頭に生まれた氷床によって堰が作られ、水位が高まって好漁場を形成していたから、降雨量が増えた1万年前以降は、堰の浸食が進んで水位が徐々に低下し、漁獲にも悪影響を与えていただろう。その一方でシベリア内部の平原には、多数の大河が生れていたから、目端が利くトルコ系漁民や狩猟民族は続々と、シベリアの内陸部に移動していっただろう。

その移動に従順に従ったのが、mt-ZY-Nペアだったと推測される。彼らはシベリア全域に拡散し、栽培限界の様な高緯度地域にも進出したが、縄文晩期の寒冷化でシベリア経済が崩壊し、漁労民族と狩猟民族が壊滅すると、その準備ができていなかった民族として一緒に壊滅し、現在は西ユーラシア北辺の遺伝子の様な状態になっている。シベリア南部のmt-Zは縄文時代に穀物栽培者になり、高句麗の主要な遺伝子にもなり、隋代~宋代の華北に小麦栽培をもたらしたりもしたが、その後の華北でmt-Dの排斥に遭って遺伝子は減少した。鉄器時代になると農耕の主体者が男性に変わり、石器時代の様な浸潤力は失われていたからだと推測される。

mt-DとペアになっていたY-Nが、アムール川流域でトルコ系の漁民と共生していた時代にmt-Zを招き、浸潤を促進していれば、彼らもシベリアの豊かな栽培民族になった筈だが、mt-DとペアになっていたY-Nがそれをせず、貧しいアワ栽培者になったのは、この時期のmt-M系の栽培系狩猟民族が、母系民族になっていたからではない。mt-Dmt-CY-Qに浸潤したのは、彼らが父系家族だったからだと考えられるし、縄文人の活動期の項で検証するが、アワ栽培者になったmt-Dが純然とした父系家族を形成していた事は、遺伝子分布からも明らかだから、mt-Dは他民族には盛んに浸潤するが、自民族内に他民族の女性が浸潤する事を許さない、極めて排他的な思想を持つ女性達だったからだと考えられる。この思想も母から娘に伝承されたものである事は間違いないが、栽培思想とは言えないので、このHPでは「感情」と表現する。他のミトコンドリア遺伝子にも別の感情があり、mt-Zは自分の多彩な栽培力に自信があり、頼まれると断れない性格、mt-Gは交易的な社会を好んだ故に、文明中心だったオホーツク海沿岸から離れる事を嫌う女性だった。

アワ栽培者になったmt-DY-Nのペアは、1万年前のアムール川流域で栽培系狩猟民族に戻らざるを得なくなり、アワの生産性を高める為に南下して松花江流域に至り、8千年前に太平洋が湿潤化して満州や内蒙古の河川に水が溢れる様になると、河川の谷から追い出されて丘に上がり、遼河文化を形成したと考えられる。

歴史時代の満州がツングースの領域になっていたのは、アムール川流域からトルコ系民族がいなくなったからだと推測される。アムール川の下流域は、シベリア系漁労文化圏の南限より南にあったからであり、其処がツングースの拠点になったのは、温暖湿潤な地域であるほど船を作るための多彩な樹木が、生育し易かったからだと推測される。原日本人の船にも船底材、舷側板、横木、櫂などの部品があり、それぞれが異なった材質の樹木から作られていたと想定されるからだ。

シベリアが1万年前に湿潤化して河川が縦横に流れる様になると、シベリアを横断する交易圏が生まれ、漁労文化がシベリア全域に拡散して水上交易者としてのツングースの地位が確立し、カスピ海や北海沿岸とオホーツク海や渤海を繋ぐ交易者になった。彼らは船を使って家族単位で移動したから、mt-Yを濃厚に温存したと考えられる。河川交易路に設定した宿場では、トルコ系漁民がmt-M系の浸潤を受けて蔬菜類を生産していたから、ツングースが自身で生産する必要はなかったから、栽培者ではないmt-Yを温存したと推測される。逆に言えば、ツングースが栽培系ミトコンドリア遺伝子の浸潤を受けかった事は、その様な交易者だったからだと考える以外に回答がない。

 

関東の原日本人が多数のmt-Aを取り込んだ理由。

理由を検証する前に、諸状況を整理する。

超温暖期になって漁獲の腐敗問題が深刻になると、関東の原日本人は夏季にオホーツク海北岸に北上してmt-Aを多量に取り込んだが、シベリア南部の狩猟民族だったm-N9a、漁労民族のmt-Y、栽培民族のmt-Dmt-Cmt-Gmt-Zは取り込まなかった。mt-Gは関東縄文人から見付かっているが、関東部族が縄文前期~中期に多数移住した沖縄には極めて少なく、北陸部族系の宮古・八重山から拡散した疑いもある上に、縄文後期の分派である北九州弥生人には検出例がないから、関東縄文人に含まれるmt-Gは、オットセイなどの海獣の皮をなめす加工者として、縄文晩期に関東に渡来した女性の遺伝子だったと推測される。

縄文人の活動期の項でも繰り返し説明するが、大陸の女性達が日本に渡来したのは、彼女達が何らかの理由で酷く困窮していた時期に限定され、彼女達は日本では得られない特技を持つ技能者だった。原日本人や海洋縄文人の船で、見た事もない地域に渡来するには大変な決断を要したから、非常事態によって追い詰められない限り、渡来する事はなかった。上記のmt-A以外の遺伝子は、漁労民族と共生する事によって豊かな生活を得ていた、栽培民族、狩猟民族、漁労民族の遺伝子だから、それらの女性達が渡来しないのは当然だったとも言える。

九州縄文人が1万年前に関東に移住すると、関東の漁民は堅果類や蔬菜類を補助食料にする事が可能になり、不漁期が続いても補助食料に頼る事や、干物に頼っても栄養バランスを確保できる様になったから、関東部族の北上形態が遊動から交易を目的とするものに変質し、mt-Aを取り込まなくなったと推測される。漁民の遊動は家族を最小単位としていたから、家族や一族にmt-Aを受け入れる意思がなければ、mt-Aが関東に渡来する事はなかったと想定される。小さな船に乗せて移動する場合には、操船技能がないmt-Aは他の漕ぎ手の荷重負担になり、狭い船内の空間も占有したから、他民族の女性の取り込みは、狩猟民族以上に慎重だった事は間違いない。

関東部族は無制限にmt-Aを取り込んだのではなく、必要な人数に達すると取り込みを止めた筈だから、mt-Aを取り込まなくなった時期と家族での遊動を停止した時期は、必ずしも一致しない筈だが、mt-Aは最初に取り込んだ他民族女性だから、家族で遊動していた時期に取り込んだ可能性が高い。

原日本人の遊動履歴を気候の変化から考えると、氷期の最寒冷期の台湾への遊動や、15千年前までの沖縄への遊動は、避寒的な要素が強かったと推測されるが、それ以降はヤンガードリアス期を含め、冬季に九州に南下遊動してアサを入手する為だった想定される。しかし超温暖期になると夏季の腐敗問題に悩まされたから、夏季にオホーツク海沿岸に北上遊動する様になったと想定される。

この時期に九州縄文人を関東に移住させる事業も行い、九州への遊動も盛んに行っていた筈だから、同じ家族が南北を駆け巡っていたのではなく、北上組と南下組は別の集団が担務していたと想定される。南下組がドングリを持ち帰っていたとすると、アクを抜いてもらうためにmt-M7aを取り込む事もあったのではなかろうか。原日本人は海藻を食べていたから、多少温暖化してもビタミン類の補給に大きな問題はなかったと考えられるが、mt-M7aが関東でも植生の栽培を行えば、魚を干したり焼いて食べたりする事への対策は万全だったと推測される。従って他民族の女性を取り込んだ実質的な嚆矢は、mt-M7aだった可能性が高いが、原日本人と縄文人は同じ部族であるとの認識が縄文前期には生まれていたから、縄文早期にもその様な意識があったとすれば、部族的な禁忌に触れるもではなかった事になる。しかしmt-Aは他民族の女性であると共に他部族の女性だったから、同列に扱う事はできない。

mt-B4+M7cが渡来する以前の、関東部族の漁民のミトコンドリア遺伝子分布を、現代沖縄人の遺伝子分布と、発掘された縄文人の遺伝子分布を参照して復元すると、mt-Amt-M7aの合計がmt-N9bに匹敵する割合まで増加し、mt-Amt-M7aの割合は拮抗していたと推測される。mt-Amt-M7aが等分割的な割合を示している事は、この時期の漁民は単婚家族ではなく、大家族の構成員が南北遊動組に分かれてリスク分散を図っていた事を示唆している。つまり漁民集団の中に多彩な技能者がいて、それぞれが特技に応じて役割を分担する事により、集団の生業や生活の質を高めていたと想定され、その様な状態は、交易的な機能が高度に発達しなければ実現しない事から考えると、大家族の中で役割を分担していたと推測される。

現代日本人のmt-M7a7.5%、mt-A6.9%で拮抗しているが、現代日本人のmt-M7aは北陸縄文人系のアワ栽培者の遺伝子と、古墳時代に帰化した韓族の遺伝子が殆どなので、南方系の遊動集団が台湾に至ってmt-B4+M7cを多数受け入れると、mt-B4が漁民のmt-M7aだけではなく、縄文人のmt-M7aにも浸潤したと考えられる事が、上記の想定の一つの根拠になる。台湾から渡来したmt-B4+M7cは、元々は堅果類の栽培者だったmt-M7cに、イネの原生種を栽培していたmt-B4が浸潤して生まれた遺伝子群だから、それが関東に渡来してmt-M7aを浸潤する事態は、必然的に発生する事でもあった。その様な状態でmt-Aが浸潤されずに残ったのは、mt-Aは漁民にとって必要不可欠な技能の持ち主だった事を示している。

関東部族の漁民が超温暖期にオホーツク海沿岸に北上しなければならかった事情を、気温として検証すると、沖縄に遊動していた2万年前の関東は、現在の樺太の様な気候だった。縄文人を九州に迎えた1万5千年前の関東は、現在の東北南部の様な気候になったと推測されるが、ヤンガードリアス期の最寒冷期には現在の小樽の様な気候になったと想定される。そこまでは不確かな推測の域を出ないが、本当に検証したい12千年前から1万年前までは、尾瀬の花粉データがないので明らかではない。しかし黒潮が急速に温暖化した時期だから、それに連れて急激に気温が上昇したと推測される。尾瀬の花粉は9千年前に台湾の様な気候になった事を示しているから、1万年前には鹿児島・沖縄の様な気候だったと推測される。つまり12千年前に北海道の様な気候になり、その後の2千年間で鹿児島の様な気候に急上昇していったと想定される。

急激に温暖化すると捕獲可能な魚種が変わるだけではなく、採取できる海藻の種類も変わっただろうが、もっと深刻な問題は、夏期になると海産物の腐敗が進み、遠い海で漁獲を得ても帰路に腐敗する事態が頻出しただろう。生で魚を食べていた原日本人が、魚を焼いて食べなければならなくなると、栄養バランスも深刻な課題になったと考えられる。

九州縄文人が関東に入植する以前は、関東の漁民の植物性食料は海藻や川岸の水草だったと推測されるから、急激に温暖化すると食べ慣れていた植物性食料が探せなくなり、それによってビタミンCなどが不足した可能性もあり、漁民が寒冷な気候を求める必然性は色々あった。

一般論としても、堅果類や穀類の補助がない石器時代の漁民や狩猟者は、漁獲や獲物が腐敗しない寒冷な気候を求める必要があったが、特に海産物は腐敗しやすいから、漁民にはその傾向が強かったと考えられる。氷期にシベリアの狩猟民族が生産性を高めて高度な文明を生み出した事情も、ツングースがオホーツク海の北岸に北上したのも、トルコ系漁民が冷涼なシベリアに生活の拠点を求めたのも、その様な事情に起因していたと想定されるから、関東の漁民もその例外ではなかったと考えられる。日本で最も温暖な地域にいた伊予部族は、それ故に真っ先に東北や道南に移住したと想定される。

北海道部族のミトコンドリア遺伝子はmt-N9bを濃厚に遺し、他には狩猟民族のmt-Dmt-Gしかなかったから、北海道の海洋漁民は超温暖期になっても、深刻な温暖化問題には見舞われず、樺太や千島に北上する事はあっても、オホーツク海北岸には遊動しなかった事を示している。

壱岐部族は15千年前に現在の熊本近辺にいたと想定されるから、そこから北海部族になって稚内に北上すると、現在の日本の気候事情では11℃低温化する。氷期の最寒冷期と超温暖期の気温差は16℃ほどだったと推測されるから、北九州の原日本人にとって、氷期の最寒冷期は3℃程低温であり過ぎ、超温暖期の北海道北部は2℃高温過ぎた程度であれば、超温暖期は問題にするほどの高温化ではなかった。北海道縄文人は氷期の伝統として海産物を生で食べ、温暖化した黒潮に乗って北上した海藻は、伝統的な食材の範囲内になったから、温暖化によるビタミンCの欠乏も問題にならなかっただろう。狩猟民族のmt-Dmt-Gが蔬菜類を栽培していただろうから、共生者としてそれも食べたかもしれない。現代人としては、彼らを北海道縄文人と呼ばざるを得ないが、彼らは樺太の沿岸もテリトリー化していたから、稚内の夏が暑ければ樺太を避暑地にする事もできた。つまり北海道部族にとって、超温暖期に北上遊動する動機はなかった。

日本海沿岸の東北縄文人は、超温暖期に九州から東北に北上した原日本人と縄文人で、温暖化が厳しくなった11千年前には、縄文人と共に東北に移住していたから、温暖化によるビタミンCの欠乏は問題にならなかった。堅果類を補助食料にする事もできたから、腐敗も深刻な問題にはならなかったと推測される。

超温暖期のオホーツク海沿岸の気温を概算すると、オホーツク海の北端にあるオホーツクの現在の8月の平均気温は13.5℃だから、これが1万年前に8℃以上上昇していたとすると、22℃を越えて現在の函館の夏の気候になるから、ヤンガードリアス期の関東の夏の気候より温暖になっていた。従って関東の漁民が夏季にオホーツク海北岸に遊動した事は、夏季の気候をヤンガードリアス期の状態に復元した事になり、オホーツク海に北上してmt-Aを大量に導入した事は、気候条件としては妥当な選択の下に行われた事になる。しかし長躯北上する事は大変な労務負担だから、理想的な気候まで求める必要があったのか考えてみる必要がある。

北海道縄文人や東北縄文人がmt-Aを全く含んでいない事は、mt-Aは陸路で関東に来た狩猟民族の遺伝子ではなく、関東の原日本人の船で渡来した遺伝子だった事を示すと同時に、この時代の北海道部族や東北部族がオホーツク海北岸より遥かに温暖な地域で夏季を過ごしていたのに、関東の漁民だけがオホーツク海北岸まで北上した事は、本当に避暑だけが目的だったのか疑問が生まれる。

これは3万年前に台湾に達し、原縄文人と交流した原日本人についても言える事で、彼らが河川漁労を行っていた4万年前の関東の気候を求めたとしても、沖縄に南下するだけで十分だったが、琉球岬に渡って台湾にいた原縄文と交流した事も、避寒だけが目的だったとは考え難いからだ。それがアサの入手に繋がり、最終的には九州に縄文人を招く事になったのだから、それが目的だったと誤解しやすいが、台湾に遊動し始めた当初からその様な事まで考えていたのかは甚だ疑問であり、精々獣骨が入手できる見込みがあるという程度の事だった可能性が高いが、北陸の原日本人も台湾の原縄文人から獣骨を入手する必要があったから、獣骨の入手は北陸部族の既得権だった可能性もある。

氷期の関東部族は血眼になって、獣骨を供給してくれる狩猟民族を求めていたから、何らかの情報があるとそこに殺到した可能性もあるが、縄文時代まで降って関東部族の習性を考察すると、移動限界まで遊動した先に望ましい民族がいれば、航行能力が許す最大限の距離まで行く事が、彼らの習俗になっていた可能性が高い。彼らが使っていた船の性能が高く、それを使いこなすと行動範囲が広がることが分かっていた場合には、これは人間の一般的な性向でもあるから、船の性能を確認する以上に、それに敢えて疑問を挟む必要はないだろう。つまり彼らが大挙して行った故に、遺伝子分布まで変えた遊動範囲は、家族的な集団行動の可動範囲を示し、若者達が冒険的な行動を採った拡張的な範囲は、更に広範なものだったと想定する必要がある。最初は必要に迫られてであっても、それをクリアするとより高度な段階を目指す事は、現代でも随所に見られる事例だから、時代の進歩と共に可動範囲が拡大した事も敢えて証明する必要はなく、その範囲が飛躍的に拡大した場合に限り、環境条件の変化を検証するだけで良いだろう。逆に言えばそれだけで、この時代の人々の活動状況が明瞭に浮かび上がるのは、この時代の人々が厳しい自然環境の中で、気候環境が劇的に変化したにも関わらず、石器しか持たない貧弱な準備状態で、極めて理性的に集団活動をマネージしていた事を示している。これは日本列島の各部族だけではなく、シベリアの民族や東南アジアの民族にも言える事だった。

以上を総合すると、次の推論が成り立つ。

冒険者が交流する必要がある民族を見付けると、遊動していた漁民全体がその民族の居住地に向かいたがったから、遊動先は必要以上に遠距離になった。石垣島に遊動していた北陸の原日本人は、冒険者が海南島の海岸で原縄文人に出逢ったから、その習俗によって原縄文人の台湾近傍への北上を援助し、石垣島で共生する事になった。石垣島の白保竿根田原遺跡から、mt-B4mt-R(分類できない個体)も検出されているから、彼らはヴェトナムの南端まで遊動し、稲作者も共生に参加させた事を示唆しているから、彼らの実際の活動範囲の広さを示している事になる。この稲作系遺伝子は、15千年前の北陸では活動できなかった上に、ヤンガードリアス期の寒冷な気候には全く耐えられなかったから、絶えてしまった事になる。縄文中期までの北陸部族が稲作には興味を示さず、アワ栽培に全力投球したのは、その様な経験もあったからだと推測される。いずれにしても単なる獣骨交易を求めただけではなく、遊動先の民族との深い交流を求めた事は、上記の習性の一つの発露であると考える事ができる。

関東の原日本人もその習俗を発露し、氷期の沖縄に遊動した事から始まり、琉球岬に渡って台湾に遊動し、台湾の原縄文人と交流してアサを入手しながら、南シナ海沿岸を南下してY-C1Y-O3a2aを探し出し、原縄文人集団に加えて獣肉の捕獲量を増加させ、彼らが北上してしまう夏の水産資源を確保させた。台湾の治安が悪くなると琉球岬に原縄文人を導き、海面が上昇すると沖縄に移住させ、温暖化すると九州に入植させた。超温暖期に冒険者がオホーツク海北岸に北上すると、接触した事がない北方の狩猟民族との交流が生まれ、関東の原日本人の最大の遊動目的になるほどの、有益な交流になった。アメリカのクローヴィス文化遺跡からマンモスの骨が発掘されているから、彼らとの交易品の中には、マンモスの骨や牙も含まれていた可能性が高い。

 

南方進出から分かる、関東部族の漁民事情

関東部族の漁民が南方に進出した際の台湾事情は、縄文人の活動期の項で説明するが、その分析から判明するこの頃の漁民事情を、簡単に説明する。

関東部族から海洋技術を学んだオーストロネシア語族の海洋民族は、mt-B4を高率に含む事を特徴とし、南太平洋の島々でそれが顕著である事は、この海洋民族は家族で航行する習俗を持っていた事を示している。これはツングースと同じ習俗だから、原日本人がその様な習俗を持ち、それを海洋文化のパッケージの一つとして両民族に伝えた事を示している。

先に述べた様に、縄文早期の関東部族の漁民の遺伝子分布は、半分がmt-N9bで残りがmt-M7amt-Aだったと想定され、縄文前期~中期の関東部族の遺伝子分を遺している現代沖縄人が、そのmt-N9bの半分以上が、mt-B4+M7cに置き換わっていた事を示している。つまりmt-M7amt-Aを配偶者にした漁民は、家族で遠距離遊動する事を止めたが、Y-D2mt-N9bペアは依然として、遠距離遊動の旅に出ていたから、そのmt-N9bが他の遺伝子に置き替わった事を示している。具体的に言えば、ペアが揃って漁労活動を行えば、男性が単独で行う場合より生産性が高く、揃って櫂を操れば船の速度が増したから、Y-D2mt-N9bペアだけが遠距離遊動を行い、操船技能がなかったmt-M7amt-Aを配偶者にしていた漁民は、二人分の漁獲を得る為に毎日漁労活動に従事する、忙しい日々を過ごしていた事を示唆している。

Y-D2mt-N9bペアが揃って櫂を操れば、どの程度の速度が得られたのかを含め、縄文人の活動期の項に示す内容も簡単にプレビューする。

関東沖縄人のミトコンドリア遺伝子は、縄文早期に関東に渡来したmt-Aと共に、それに2千年ほど遅れて渡来したmt-B4も濃厚に含んでいる。稲作者としては、縄文早期後半に台湾から渡来したmt-B4+M7cと、浙江省に達してから取り込んだ稲作民のmt-B5+M7bがあったが、関東縄文人からmt-B4が複数検出され、mt-B5は検出されていない。沖縄人もmt-B4が主体でmt-B5の比率が低く、関東縄文人と類似している事は、沖縄人の祖先の半分近くは、関東から移住した漁民だった事を示唆している。沖縄人のY-D2比率も、これらの関東系ミトコンドリア遺伝子の合計比率に近く、沖縄人には関東部族が縄文後期以降に取り込んだ遺伝子がない事が、この想定の事実性を高める。歴史事象もそれを支持するから、沖縄人の祖先の半分近くは関東から移住した漁民だったとの仮説は、事実認定できるほどに確度が高い。

関東縄文人のmt-B5比率が極めて低かった経緯は既に簡単に説明したが、その検証過程は極めて複雑な作業になるから、詳細は縄文人の活動期の項と、経済活動の成熟期の項で説明する。

mt-Amt-B4が流入した時期の前後関係は、遺伝子分布だけでは分からないが、関東の漁民が南北に航行する難易度には大きな差があったから、その関係から推測する事は一つの手段になる。縄文早期にはトカラ海峡から黒潮が流出していた事と、沖縄本島と宮古島は目視で航行できない程に離れている事が、重要な観点になるからだ。黒潮を乗り切るには10/h程度の速度が必要になり、航行技術の大きな技術革新が必要だった。目視で航行できない航路を進む為には、高度な天文知識が必要だったが、オホーツク海への遊動にはそれらは必要なかったから、オホーツク海への北上が先だったと想定される。

この想定は、気候の変遷を含む諸事情とも合致する。温暖化直後の漁民は腐敗問題に苦しんだから、北上遊動する必然性があり、縄文人と共生するとその必然性が薄らいだ事は、北上が先だった事を示唆している。温暖化してヒノキやスギが巨木化すると、それを素材にして船を大型化する事が可能になり、大型の船ほど漕ぎ手の数が増えて速度が向上したと想定されるから、両者の時間差がこの想定と合致する。つまりオホーツク海に北上したのは単婚家族単位だったかもしれないが、台湾に南下したのは多数が乗り組む船だったから、黒潮を乗り切る事ができたと考えられる。

また温暖化に苦しんだ漁民の心境として、関東に縄文人が定着して夏季の食料事情が安定しなければ、漁民にとって大敵である更に温暖な気候地域には、渡航する気にはなれなかったと想定される事も、オホーツク海への北上が先だったと考える根拠になる。現代人は温暖な南方の方が容易に航行できたと考えがちだが、漁獲しか食べる事が出来なかった海洋漁民にとっては、魚が腐敗しやすい温暖な気候地域の方が、危険度は高かったと考える必要がある。言い換えると新航路の開拓は、その航路上で漁獲を得る手段の開拓でもあり、温暖な地域では多数の漁獲ポイントを開拓する必要があった。

沖縄に再渡航したのは11千年前だったとすると、カムチャッカ半島を南北遊動していたmt-A系狩猟民族がいなくなり、レナ川流域で南北遊動していたmt-A系狩猟民族も、カムチャッカを経てアメリカに去りつつあった時期で、ツングースがトルコ系漁民を指導して内陸に拡散させる以前だから、関東部族が獣骨を供給してくれる狩猟民族を完全に失った頃だから、新しい狩猟民族を探す事が沖縄に再渡航した事を含め、南方に進出した主要目的だった可能性が高い。この頃渤海が形成され始め、その沿岸にY-O2bmt-M7aペアが定住し始めていたが、渤海沿岸は北陸部族のテリトリーだったと推測されるから、関東部族は沖縄以南に進出する以外に、大陸の狩猟民族と接触する場がなかった可能性が高い。

関東部族が辿り着いた台湾には、Y-Omt-B4+M7cペアがいた。彼らは稲作者ではなく、暖温帯性の堅果類を栽培する栽培系狩猟民族だったから、関東部族は台湾に至ってその目的を達成した事になる。

沖縄人のミトコンドリア遺伝子分布から、縄文前期~中期の関東縄文人の遺伝子分を復元すると、mt-Amt-Bそれぞれが、mt-N9bより多くなっていた事が分かる。従って台湾に渡航してmt-B4M7cを取り込む前の関東縄文人は、既に2割を超えるmt-Aを含んでいたと想定され、原日本人がオホーツク海沿岸に北上していた期間が長く、北上者が多かった事を示している。

 

関東部族が評価したmt-Aの特技

超温暖期の出来事だから、多数のmt-Aを取り込んだ漁民が評価したのは、彼女達の皮革加工技術ではなく、獣骨や角を加工して優れた漁具を製作する為の、高度な加工技能を評価したと推測される。彼女達はシベリアの大型動物の骨や角の特性を熟知し、強度の高い縫い針を削り出し、厚い皮革の防寒衣料を縫製していただけではなく、テントや狩猟具の製作も行っていたから、その技術を転用すると、秀逸な釣り針や離頭銛を製作できた事が、漁民がmt-Aを取り込む契機になったと推測される。マンモスの牙が注目商品だったとすると、骨より硬い象牙を加工する技能は、彼女達しか持っていなかった可能性もある。その技能の転用によって、獣骨の微細加工が可能になったとすれば、漁具の進化を促した可能性も高いが、遺物が残っていないから検証は出来ない。

日本列島に南下したmt-Dには、南北遊動する狩猟民の女性が持っていた、骨や角を加工する優れた技能がなかったから、日本列島に南下していたY-C3のペアのmt-Dが居たにも拘らず、関東部族はオホーツク海北岸に遊動した際に、mt-Aを取り込んだ事になる。狩猟民族に浸潤して数世代を経ても、栽培系の女性は生え抜きの狩猟民族の女性とは異なり、母から譲り受けた高度な技能は身に着けていなかった事になる。

篠田氏の指摘に依れば、オホーツク文化期のアイヌに浸潤したツングースの遺伝子は、mt-Yが圧倒的に多く、次にオホーツク海沿岸に多いmt-Gで、mt-A10%程度だった。現代日本人は関東部族から高率のmt-Aを引き継いでいるが、近世のアイヌにはmt-A2%しか含まれていないから、ツングースに浸潤したmt-Aは、この高度な技能を失っていた事になる。mt-Aのこの技能はツングースの河川漁労には効果がなく、関東部族の漁民の海洋漁労にはとても有効だったから、海洋漁民は多数のmt-Aを取り込んだが、超温暖期にオホーツク海北岸に展開していたツングースは、mt-Aの取り込みには熱心ではなかった事になる。

河川漁民も骨製の銛を使用していた筈だから、両漁民のmt-Aに対する対応の違いが非常に大きかった事は、mt-Aの技能は、河川漁労で捕獲する中・小型の魚に使う、釣り針や銛の製作には不要なもので、海洋の大型魚の捕獲に使う離頭銛や、大型の釣り針の製作に有効な技能だった事になる。縄文時代の漁民はイルカやマグロなどの、海洋性の大型魚を捕獲していたが、この時期の漁民もその様な大型魚を捕獲する為に、mt-Aの技能を必要としていた事を示唆している。

シベリア文化の影響を強く受けていた原日本人の習俗として、獣骨製の漁労具を製作していたのは女性達だった可能性が高かったとすると、ツングースに原日本人が漁労技術を伝授していた時期に、最も優れた獣骨製の漁具の製作者はmt-N9bだったから、mt-Ymt-N9bからその製作技術を伝授されたと想定される。12千年前の海洋漁民の事情としては、その様なmt-N9bを家族とする原日本人が、mt-Aの技能を必要としていた事になる。

しかしこのmt-Aは狩猟民族の女性であり、シベリアの狩猟民族がアサを持っていた筈はないから、釣り針や離頭銛を作っていた筈はない。つまりmt-Aはその後関東に渡来した他の女性達とは異なり、狩猟民族だったmt-Aの製作物が直接漁労に役立ったのではなく、mt-Aの加工技能を使えば、原日本人が欲しい漁具を作る事が出た事になる。このような事情は、高い技能を持つ職人と高度な製作物を求める需要者の間に、何らかの合意があれば実現は可能だが、需要者に具体的な要求がある場合に限られる。

いずれにしてもその漁具によって漁労の生産性が高まり、それが普及すると、消耗品であるその漁具を適宜補充する必要が生まれ、mt-Aが漁民にとって必要不可欠な技能者になった事は間違いない。但し漁民全員がmt-Aをペアにする必要はなく、一族に数人いる事が必要不可欠になったから、mt-Aの遺伝子の割合は急増したが、mt-N9bも保存されたと想定される。

しかしその技術はmt-N9bには移転しなかったから、現代日本人に占めるmt-A7%だが、mt-N9b2%しかいない事になる。単なる加工技術だけではなく、その為の道具を作る事や、獣骨の部位毎の品質を見極める事に高度な技術が必要だったから、母から娘に移転するのに時間が掛かったと想定されるが、現代人には納得できないだろう。その様な技術伝承の在り方が、当時の人々には当然の様に受け入れられていた事になり、栽培系狩猟民族の女性達も同様の傾向を示していた。

多数のmt-Aが渡来した事は、単なる個人技量ではなく民族文化として皆が高めていた技能でもあった事になるし、栽培化の後半過程で同様な事態が生れていたから、どちらの女性達も閉鎖的だったのではなく、役割とその継承方法に関する社会常識が生れていた事になる。此処で注意しなければならないのは、大陸にはmt-Aが無視できない比率で残存しているが、それは狩猟民族の遺伝子であって、漁労民族の遺伝子ではないから、この議論の対象外の遺伝子である事になる。

北陸部族の動静として、縄文前期の富山市の小竹貝塚から78体の遺体が発掘され、ミトコンドリア遺伝子が判明した13遺体中の、2遺体のミトコンドリア遺伝子がmt-Aだった事が挙げられる。彼らの遺伝子分布は関東部族とは異なり、関東部族にはなかった遺伝子も含まれているから、彼らの習俗や大陸交易の仕方は、関東部族とは異なっていたと想定されるが、mt-Aの技能に関しては共通の需要があったと考えるべきだろう。

小竹貝塚のmt-Aの割合は、縄文前期の関東部族の想定割合より少ないが、mt-Aが存在する事は、北陸部族も超温暖期に関東部族と同様な行動を採った事を示し、小竹貝塚から発掘された多数の骨製品が、彼女達が活躍していた事を示しているからだ。縄文時代に骨製の髪飾りが流行したとすれば、mt-Aがその発信者だった可能性が高い。漁民が獣骨の獲得に熱心だったのは、漁獲を高める為だったから、縄文時代の獣骨は極めて貴重な輸入品だった。従って装飾品などに使うのは、特殊な事情に限られたと想定され、髪飾りなどの骨製品はmt-Aが漁具を製作する際に発生した、端材を利用したものだったと想定される。

その様な事情は彼女達が作業を始めてから、それほど時代が経ていない時期には生まれていた可能性が高い。漁労活動に参加しなかったmt-Aには、この時代の人には珍しい余暇時間があったと推測されるからであり、その事情は縄文時代を通して、大きく変化しなかったと考えられるからだ。7500年前の九州の東名遺跡から世界最古の櫛が発掘されたが、髪飾りの派生品として櫛が生まれたのであれば、mt-B5+M7bが関東から九州に入植した際に、関東から持ち込んだ可能性が高い。

 

関東部族がmt-Aを取り込んだ経緯

関東部族が大陸民族と交流し、ミトコンドリア遺伝子だけを取り込んだのはmt-Aが最初だった。注目点はそれだけではなく、関東部族の漁民は狩猟民族のmt-Aが作っていた物品が欲しかったのではなく、彼女の技能を必要としたと想定されるので、その経緯を特殊事情として検証する必要もある。関東の原日本人は同時並行的に、九州に上陸したmt-M7aの技能を取り込み、解毒したドングリを不漁期の食料にする事も始めたと想定されるが、縄文人は同部族だったから、mt-Aの導入と比較すれば心理的な抵抗感は大きくなかったと考えられる。

既に指摘した様に、関東に渡来した女性達は全て、大陸で極めて悲惨な窮状に陥った事を契機に渡来したから、mt-Aにも苦しい事情があったと想定される。12千年前に始まった急速な温暖化は、寒冷な気候に順応していた北シベリアの狩猟民に、従来の習俗の改変では生き残れない厳しい環境を課した事は既に指摘したが、mt-Aに関するものを抽出すると以下の事情が想定される。

南北遊動していた狩猟民族は冷気の中で干した生肉を貯蔵し、ビタミンCを安定的に摂取していたが、温暖化して肉が腐敗しやすくなると焼いて食べる必要が生じ、ビタミンCなどを植物から摂取しなければならなくなった。それにより、植生に詳しい栽培系の女性を浸潤させる必要が生まれ、日本列島に南下していた狩猟民族に関しては、15千年前にはそれが完了していた。

狩猟民がその様な科学的な知識を持っていた筈はないが、栽培に長けた女性を取り込んだ集団が、活力や健康を維持して病気にならなければ、直ぐに気付く事だった。現在のオホーツク海沿岸の民族にはmt-A割合が少なく、栽培系のmt-Dmt-Gmt-Cが多数派になっている事と、後氷期になっても長い間寒冷だった北アメリカに、mt-Aが濃厚に残っている事がその事情を示している。

南北遊動していた民族に栽培者が混入する事は、一見矛盾する様に見えるが、遊動経路上にあった栽培可能な場所に、適切な種子を播種して置けば、季節に応じて南北遊動する際に収穫できただろうから、毎年同じ時期に同じルートを遊動していれば、難しい事ではなかった。北辺の栽培者だったmt-Dの中には、氷期からその様な栽培をしていた者がいた可能性も高い。

狩猟民族や栽培系狩猟は早い時期から、男女の分業が成立していたと想定されるが、氷期の海洋漁民は家族で遊動し、mt-N9bも櫂を操作して銛を使っていたと推測されるから、狩猟民族と比較すると、原日本人の男女分業は未分離だった可能性が高い。しかし関東に流入したmt-Aには操船技能や漁労技能はなかったから、遊動には参加しなかったと想定される。従ってmt-A を取り込んだ集団は漁労の生産性が低下した筈だが、実際はmt-N9bの比率が急低下したから、その方が漁労の生産性が高かった事になる。

mt-M7aを取り込んだ漁民にも言える事だが、mt-M7aには堅果類を食料化する技能があり、食料の生産性の観点ではmt-Aより有益だった。しかし海洋漁民が多数のmt-Aを導入した事は、それによって生産性が高まった事を示している。男女が異なる技能を担務する分業文化を受け入れると、生産性が高まる事に初めて気付いた事になる。具体的に言えば、狩猟民族の男女が分業化したのは、大型獣を狩るには重労働が必要であり、それには男性の方が向いていたからだと推測される。その事情を海洋漁民にも敷衍すると、漁労活動に男女差がなかった時代の原日本人が捕獲していた魚は、重労働を必要としない中小型魚だったが、mt-Aを導入する事によって重労働を必要とする大型魚の捕獲が可能になったから、生産性が高まったと考える事ができる。大型魚を捕獲する船には、獲物を追跡できる速度が求められるから、漕船が最も重い労働だった可能性が高いが、銛を遠方まで飛ばす腕力や訓練された技能、更には集団で漁労に取り組む組織体制も必要になっただろう。

しかし皮肉な事に、男女がペアで漁労を行っていた原日本人から海洋文化を受け入れた、ツングースや台湾起源のオーストロネシア語族海洋民族は、海洋文化を受け入れる以前のミトコンドリア遺伝子を、現在に伝えている民族になった。つまり女性が櫂を操る原日本人の海洋文化を受領したから、それが民族文化として長い間継承され、海洋民族になった人々は発足当初のミトコンドリア遺伝子を、渡航先の島々に濃厚に遺した。

ツングースは河川・湖沼漁民だったから、大型魚を追わない水上文化に疑念を持たなかっただろうが、海洋民族化した他の民族は、その後の関東部族の大型魚を追う漁労手法を見ても、それも真似る事には合理性を見出さなかった事になる。つまり彼らが子孫に伝えたのは原日本人から得た海洋交易文化であって、海洋漁労文化ではなかったと考えられる。原日本人の子孫達は日本列島に居住し続ける事に拘ったから、日本近海での漁労の生産性向上に拘ったが、台湾起源の海洋民族は南太平洋やインド洋で、交易活動に従事ながらペアで広く拡散したから、彼らのその様な判断の結果を示している事になる。これは彼らの合理性がどこにあったのか、明示しているとも言えるが、それはmt-N9bmt-B4の違いを反映していたとも言える。

但し厳密に言えば、フィリッピンやインドネシアの離島で、近世までクジラ漁に励んでいた人々がいた事は、縄文早期に海洋民族化した人々は、単一の目標に向かったのではなく、海洋漁労文化を高めていた人もいた事を示している。

これらの事情は、原日本人の海洋文化に2面性があった事を示しているから、関東部族がそれぞれをどの様に高度化したのかについては、縄文史の重要なテーマになる。その一方のテーマである漁労文化の向上については、氷期には男女の分業がどの様に行われ、それがmt-Aを導入する事によってどの様に変わったのかが、此処での検証課題になるが、その後は多民族の共生時代になったから、漁労文化が民族間の分業としてどの様に進化していったのかについても、この項で検証すべき重要なテーマになる。

その起源的な存在だったY-D2mt-N9bペアについては、Y-D2は元々河川漁民だった事は措いてmt-N9bについて検証すると、mt-N9bはシベリアの狩猟文化の継承者であり、毎年南下遊動して来たmt-A系狩猟民族と接していたのだから、男女の分業が経済効率を高める事は知っていただろうし、同じ女性としてmt-Aと加工技能を交換する機会もあっただろう。従って海洋漁民になったmt-N9bもシベリアの狩猟民族の女性達の様に、獣骨の加工者だった可能性が高く、男性達が船を作る傍らで、女性達が獣骨の加工を担務していた可能性が高い。

もう一つの重要な問題として、漁民の南北遊動は狩猟民族の様に、全員で行う年中行事だったのかという疑問がある。それであれば、mt-Amt-M7aの取り込みに重大な支障が生れたと想定されるが、縄文早期後半に両者の取り込みがスムーズに進行した事は、南北遊動は全員が行っていたのではなく、一部の者達の行為だったと考えざるを得ないから、沿岸漁労と遠洋漁労を行う者達が別々にいて、遠洋漁労者が季節誘導したと想定される。

漁民の中に敢えて遠洋漁労を行う者がいたのは、その方が生産性が高かったからだと推測されるが、それには体力が必要だから、年齢に依ったか、元々一族の中にその様な区分があったのかは分からないが、それを前提にしなければ漁労活動ができないmt-Aを、季節遊動していた漁民が取り込む事はできなかったから、これらの想定をパッケージとして認定する必要がある。

現在のカムチャッカ半島のミトコンドリア遺伝子の殆どが、mt-Gmt-Cである事は、超温暖期にmt-Aが危機に追い込まれた地域である事を示している。現在のカムチャッカ半島は極めて寒冷で、栽培文化は殆ど残存していないが、カムチャッカ半島の代表的な民族であるコリャークのY遺伝子は、Y-C360%、Y-N20%、Y-Q20%になっているとの報告がある。コリャークも含めたカムチャッカの民族も、その北東のベーリング海北岸の民族も、ロシア化する以前の北東シベリアの、中心的な言語だったチュクチ語を使っている。それにサハリンのギリヤーク人の言語とアイヌ語も含め、皆が抱合語グループに属すから、氷期の東北シベリアではmt-A系狩猟民族の言語として、抱合語を使っていた事になる。それが現代に残った経緯としては、超温暖期のオホーツク海北岸にツングース漁民とY-N集団が入植したから、カムチャッカを含むこの地域のmt-A系狩猟民族に、Y-Nのペアだったmt-Gmt-Cが浸潤したが、1万年前に気候が寒冷化すると、交易者を志向したツングースはオホーツク海北岸からいなくなったから、mt-A系狩猟民族が文化的な上位者になり、その時代が長く続いたから、Y-NY-Qが抱合語を使う様になったと考えられる。

これは現在もカムチャッカに残っている民族の事で、彼らは超温暖期にmt-Gmt-Cペア が浸潤したmt-A系狩猟民族として、この地域に留まる事が出来たが、Y-C3mt-Aペアを維持していた狩猟民族は、超温暖期になるとこの地域を去らざるを得なくなったと考えられる。この地域の超温暖期は12千年前から1万年前まで続き、黒潮の温暖化によって温暖化の程度が酷くなっていったが、アメリカでクローヴィス文化が始まったのが12千年前だから、アメリカに最も近い地域だったオホーツク海北岸にいたmt-A系狩猟民族は、12千年前にアメリカに渡ったと推測される。最も温暖な地域だったカムチャッカにいたmt-A系狩猟民族は、真っ先にアメリカに渡ったと想定され、この地域に残った人々の子孫がコリャークである可能性が高い。

この地域のmt-A系狩猟民族が単純にその様に分かれたのではなく、冷涼な北極海近辺には、原日本人から弓矢を得て狩猟方法を変えたY-C3mt-Aペアが、残存していたかもしれないが、シベリアが寒冷化すると、内陸に残存していたmt-Aの環境も改善され、漁民と共生しながら弓矢を使う新しい狩猟民族になった一方で、ツングースが南下するとオホーツク海北岸やカムチャッカ半島は交易環境を失ったから、残存していたY-C3mt-Aペアはその交易に参加する為に、この地域から離れざるを得なかったと推測される。しかしmt-Gmt-Cに浸潤されたY-C3にはその必然性がなく、従来の様に南北遊動する事が出来たから、相変わらずカムチャッカに残ってコリャークなどになったと考えられる。

カムチャッカには近世まで土器文化がなかった事は、交易者になったツングースの交易圏外だった事、即ち暖流が北上しなくなったカムチャッカでは、狩猟の生産性が氷期より低下したから、ツングースが相手にしない辺鄙な陸の孤島になった事を示唆している。mt-Gmt-Cが浸潤して食生活の安定性を得た故に、気候が次第に冷涼化する中でジリ貧になり、人口を徐々に減少させていく羽目になった可能性が高い。

黒潮の北上が完全に止まって更に低温化すると、これらの栽培系女性はカムチャッカ半島を南下せざるを得なくなったが、南下限界に追い詰められても更に寒冷化したから、袋小路に閉じ込められて栽培を半ば放棄し、狩猟民の遺伝子の様な状態で現在まで生き延びていると考えられる。

この集団にmt-Aが再び浸潤しなかったのは、此処に残っていた女性達にもmt-Dに類似する排他性があったのか、mt-Aには他民族に浸潤する習俗がなかったかの、いずれかである事を示している。栽培系女性には浸潤力と排他性があったが、mt-Amt-N9系の狩猟民族の女性にはそれが弱かったから、現在の遺伝子割合も希薄であると考えられ、それがこの様な結果を招いたように見えるが、アメリカ大陸に渡ったエスキモーの遺伝子は、もう少し複雑な事情を示している。

エスキモーはY-C3Y-Q比率が高く、ミトコンドリア遺伝子はmt-A比率が極めて高いから、mt-Aが狩猟民族としてのY-Qには浸潤した事になる。しかしもう少し広く解釈すると、Y-C3Y-Qを共生者として迎えたから、mt-AY-Qのペアになったと解釈する事ができる。カムチャッカに残った狩猟民族にはなかったが、アメリカに渡ったmt-A系狩猟民族にはあった特殊な事情が、この様な事態を引き起こした事を示唆しているからだ。

この特殊な事情は5万年前にシベリアの入口に到着したY-Dが、mt-N9bとペアになった事情を髣髴とさせる。Y-C3は異なる狩猟文化を持つ民族を、自分の集団内に取り込む習俗を持っていたから、シベリアからアメリカ大陸に渡った際にも、異なる狩猟文化を持っていたY-C3Y-Qの、共生が実現した事を示唆しているからだ。mt-A系狩猟民族はシベリアの平原で南北遊動し、平原の大型獣を狩る事に長けていたが、Y-Qは東南アジアの山岳地の狩猟民族だったから、両者の狩猟方法には大きな違いがあり、移動の過程で両者が協力する事により、不猟期がない食料確保を可能にしたとの推測は不合理ではないだろう。

従ってミトコンドリア遺伝子の拡散の違いは、母から娘に伝達された習俗的な思想だけではなく、男性も含む民族的な秩序感にも起因していたと考える必要がある。その様な包括的な解釈により、この時期の原日本人からmt-N9bが急速に失われた事も、シベリアのY-Cmt-Nペアが生み出したこの様な倫理感が、共通的な部族文化の基底に存在した事を前提にすれば、より現実的な解釈が可能になるだろう。

mt-N9bが多数派ではなくなった関東部族は、婚姻意識が徐々に農耕民族的に変質していったから、多数の民族の女性を取り込んだが、mt-Aを取り込んだ理由をその嚆矢となった特殊事情として探る事もできる。東北部族や北海道部族は縄文時代が終わるまで、部族外の他民族女性を取り込む事はなかったから、それが原日本人の基本的な倫理観だったと考えられるからだ。

遊動に参加していたmt-N9bが、mt-Amt-B4+M7cを多数取り込む事により、関東部族のmt-N9bは急速にその割合を低下させたが、特にmt-Aを取り込んだmt-N9bの場合は、男性達がmt-Aの作品を評価したのではなく、mt-N9bが同じ獣骨の加工者として、mt-Aの技能を評価したのでなければ、mt-Aが優れた漁具を製作する以前に、彼らが日常的に使っていた漁具を製作する事もできなかっただろう。従って最初にmt-Aを漁労集団に招く判断をしたのは、mt-N9bだった可能性が高い。その様なmt-N9bは、一族が海洋漁民として繁栄するためには何が必要なのか、私欲を離れて冷静に判断したからだと推測される。現代人にとってはある意味当たり前の事かもしれないが、部族的な価値観の中で、伝統的な手法によって厳しい自然と対峙していた古代人にとっては、画期的な判断だった。この様な事例は縄文人に関しては、他には見当たらないからだ。

先に現在の西ユーラシアに拡散しているmt-Xも、同様な加工者として残存した可能性が高い事を指摘したが、1万年前に関東部族がツングースに示した漁労文化のパッケージの中に、寒冷地の狩猟民族の女性の加工技能の高さを活用する項目が加わっていたのであれば、それが西ユーラシアにも拡散した結果である可能性があり、東アジアの中緯度地域のmt-A比率の高さにも繋がっている可能性がある。

狩猟民族の女性達は部族や一族の生存に高い関心を持っていたが、栽培系の女性達は後氷期の前半に気候変動に翻弄され、南北に長躯移動したから、その都度栽培地の獲得の為に、隣人と争わなければならない場面が多々あったと想定される。特に超温暖期は海面上昇が進んでいた時期だったから、元々沖積平野が狭かったオホーツク海沿岸では、氷期の谷間に海水が入り込み、河川漁労民族には豊かな漁場を提供していたが、水量が豊かな水辺には岸壁しかない状態だったから、漁労民族の集落の付近で栽培地を探す事が、困難になっていた可能性が高い。

栽培系狩猟民族だったY-Nは、狩猟では十分な食料を得る事ができなかった故に、漁労民族との共生を強いられていたから、男性達は食料の調達に関して頼りになる存在ではなかった上に、広い狩猟地を縄張りにする事もしなかっただろう。漁労民族には細石刃を狩猟具にしていた狩猟民族との共生の方が、頼もしい狩猟者だったからだ。その様な環境の中で、mt-M系の女性達が漁民の需要に応える栽培を行う事により、不足する食料を賄っていたのだから、彼女達にとって優良な栽培地の獲得は死活問題だった上に、栽培地の獲得は彼女達が自力で行わなければならなかった。その様な栽培地を巡る争いで、精神的に荒んだ女性達が狩猟社会に浸潤する状況を、目の当たりにした海洋漁民のmt-N9bが、シベリア的な社会秩序を継承していた原日本人の部族員として、何を感じたのか検証する事も、mt-N9bmt-Aの取り込みにゴーサインを出した一つの要因だったと想定され、それはmt-N9bの感情論になるだろう。

原日本人は5万年前にシベリアの部族秩序を受け入れ、シベリアのmt-N9b女性を配偶者にし、日本列島にその文化を移植しただけではなく、日本列島でもmt-A系狩猟民と交流を続け、再びmt-N9系(N9aY)とも再開したのだから、それまでは狩猟民族の文化を体現していたmt-N系女性の存在だけが、多民族的な世界の姿だった。唯一の例外としてmt-M7aがいたが、堅果類の栽培者として母系的な社会を形成していたから、雑穀や蔬菜類を栽培していた女性達とは全く異質な、栽培地を他者とは争わない優雅な女性達だったからだ。mt-M7aの価値観はY-Nのペアだった女性達と比較すると、遥かにmt-N9bに近いものだったと推測される。

つまりオホーツク海の北岸でmt-N9bが見たものは、自分達が同調できる文化的な狩猟民族の女性が、粗暴な栽培民女性によって駆逐されていく状態だった。それを不条理であると感じ、正義感を根拠に多数のmt-A女性を受け入れた可能性も否定できない。

漁民社会では男女の職能的な差が乏しく、女性も漁労活動の重要な戦力だったとしても、出産や育児には女性同士の協力が不可欠だったから、海洋漁民が関東に戻った場合に、男は毎日漁労に出掛けたとしても、陸上には漁具の制作などの、手作業を営む女性社会が遺された筈だから、彼女達がその社会にmt-Aの参加を許さなければ、mt-Aは漁民とペアになる事はできなかったし、多数の遺伝子を後世に遺す事は更に難しかったと推測されるからだ。

従って狩猟民族のmt-A女性達が男性達に受け入れられず、栽培系の女性の浸潤を受けながら、日陰の存在になっていく事を理不尽に感じたのは、漁民男性もさることながら、むしろ女性達だった可能性が高い。シベリア文化の亜流として原日本人の文化を形成していたmt-N9bから見ると、本場シベリアのmt-Aの文化秩序は、原日本人社会を生きていた自分達より、洗練されていると感じたのではなかろうか。日本にいた狩猟民族は既に栽培系のmt-Dを配偶者にしていたから、この時代のmt-N9bにとって純粋なシベリア文化を見るのは、mt-Yをペアにしていたツングース以外には初めての民族だった。ツングースもシベリア南部に縄張り持っていた民族だが、Y-Nと共生する事によってシベリア的な秩序を失いかけていた可能性もあるが、カムチャッカのmt-Aはシベリアの本流民族の女性だった。女性達が支えなければ、シベリアの狩猟文化が成り立たない事を良く知っていた上で、それを実践していた誇り高い女性達だったとも言える。シベリアに北上した栽培系の女性達にとって、男性達は髪結いの亭主の様な存在だったが、mt-Aにとって男性達は、自分たちが支える事によって狩猟活動に励むことができる、励ますべき存在だったとも言える。

しかし狩猟民族の女性だったmt-Aは、海洋漁民の漁労具を製作する技能を持っていた訳ではないから、特定のmt-N9bが試しにmt-Aに漁具を作らせると、それが海洋漁民の必須アイテムになった事になり、話に大きな飛躍がある。

その飛躍を埋めなければマーケティング理論としては検証が進まないが、それを論理的に考察すると、可能性を羅列する難解な話になるから、マーケティング手法独特の小説的な手法で説明する。一字一句違わずにその様な事が起ったと主張する必要はなく、実現性が高い原因と結果が想定できれば、行動に多様性がある人間の性向を重視する、マーケッティング手法の一つの手段になるからだ。

古代人は蒙昧な人々だったと貶める王朝史観では想像できない手法だが、古代人は現代人以上に合理性を尊ぶ人々だったとの歴史観に立てば、現代人の合理性によって古代人の行動性向を理解する事は不自然ではない。つまり現代人が、その様な事が起こっても不思議ではないと感じるのであれば、類似の事が起こったと想定する事ができる。

農耕民族の女性には拡散・浸潤する必然性があったが、mt-Aは栽培系の女性ではなかったから、mt-A自身には個人的に浸潤する性向はなかったと推測される。その様なmt-Amt-N9bが家族に迎えた事になるから、当時の常識では前例がない画期的な事態を引き起こしたのは、mt-N9bの方だったと推測される。言い換えると、栽培系の女性には集団内に恒常的な膨張圧力があり、彼女達の浸潤を受け入れた狩猟民族は、膨張圧力を受け入れる側面もあったが、mt-A集団はその様な膨張圧力を内在していなかったから、mt-N9bmt-Aを取り込む積極的な意思がなければ、mt-Aの取り込みは実現しなかったと想定される。

それも前提に一つのケースを想定すると、以下の様なものが考えられる。

関東から毎年遥々出掛けていた海洋漁民の遊動には目的地があり、それは無人のキャンプ地ではなく、特定のツングース漁民やmt-N9a系狩猟民の集落を、プレゼントを携えて親善訪問したり、短期的に共生して食料や物資を交換したりする事ができる場所だったと想定される。琉球岬や沖縄の原縄文人ともその様な関係を継続していたから、ツングースの祖先にも同様に接し、海洋型の銛を手土産に漁労技術を交換し、磨製石斧を提供しながら造船や操船技術を伝授しながら、彼らが冬季にmt-A狩猟民族と交換した獣骨の一部を、分けて貰っていたと想定されるからだ。mt-N9a系狩猟民族にも接点があれば、この頃日本列島で流行し始めた弓矢を手土産に、漁獲と骨を交換したと考えられる。そしてmt-A系狩猟民族の存在を知ると、シェリホフ湾からペンジナ川を400㎞遡上して彼らの夏季のキャンプを訪れ、多量の獣骨を得る事に成功したと想定される。

但しこれはmt-Aを盛んに取り込んでいた時期の話であって、獣骨の加工技術の交流に付いてはその発端を、別途考察する必要がある。mt-N9bも元を辿ればシベリアの狩猟民族起源の女性で、原日本人社会でも骨を削って漁具を製作する役割を担っていた事を前提にすると、mt-Aの高い加工技能を最初に発見したのはmt-N9bだった可能性が高く、mt-Aが最初に自分の技能を披歴した相手は、mt-N9bだった可能性が高い事を前提に、話を進める。同じ技術を共有する者の会話が弾む事は、時代と場所を問わない共通事項である事を、敢えて説明する必要はないだろう。事実は分からないが此処ではそれに加え、関東部族が南北遊動していたmt-A系狩猟民族の、夏のキャンプ地を見付けた話も混ぜる事にする。

関東の原日本人がオホーツク海北岸に遊動し始めた頃の彼らのキャンプ地は、オホーツク海北東岸で最も大きな河川だった、ペンジナ川の川辺にあったツングース系漁民の居住地だったと推測される。既に指摘した様に、季節に応じて南北遊動していたmt-A系の狩猟民族が、夏季に北上していた海洋漁民と接触する機会はなかったから、その時期の海洋漁民が入手していた獣骨は、自身も獣骨の需要者だったツングースを介して間接的に入手していただろう。

カムチャッカ半島を南北遊動していたmt-A系狩猟民族は、ペンジナ川流域を夏季のキャンプ地としていたと想定される事は既に指摘した。12千年前の海面は現在より60m低かったから、シェリホフ湾の周辺部は殆ど陸地化し、狩猟民族の北上経路の一部になっていたが、ペンジナ川は北方の平原からオホーツク海に流れ出る大河として、現在のシェリホフ湾の北部に、豊かな水を蓄える大河の河口を形成していた。超温暖期のこの地域の降雨は多くなかったから、ツングースが漁労を行う事が出来たのは、ペンジナ川の下流域に限定されていたと想定されるから、下流域には多数のツングース漁民の集落があり、その周囲にY-Nの栽培地が点在していたが、ペンジナ川の中流域や支流域に広がる平原は、mt-A系狩猟民族の夏季キャンプになっていたと想定される。

温暖化する事によって南北遊動していた狩猟民族が困惑したのは、この夏季キャンプ地で獣肉が腐敗するために、焼いて食べる必要が生れていた事だった。その為に蔬菜類を必要としたから、mt-Gmt-Cの浸潤を受ける必要が生れていた。彼女達がキャンプ地で蔬菜類を栽培して置けば、冬季に半島の南端に南下しても、翌年の夏に北上した際に収穫する事が出来ただろう。従って一旦浸潤が始まると、それが止めどもなく拡散する必然性があった。気候が温暖化すると草原の草が繁茂する様になり、草食獣の数は増えていただろうから、彼らが食料不足に陥る事はなかったが、mt-Gmt-Cが夏季に提供する蔬菜類の方が、mt-Aが持つ耐寒生活技術より重要になった事は、誰の眼にも明らかだった。

この様な状況下でmt-Aのパートナー探しが困難になっていたが、彼女達は一族の為に活動する習俗は忘れず、遊動中に得た獣骨からツングースの為に河川漁労用の銛などを製作し、遊動途上でツングースの集落を訪れ、見返りに新鮮な河川魚を得ていたと想定される。この民族に浸潤したmt-M系の女性は、この様なmt-Aと並行して交易活動をしていたのであれば、Y-Nの集落を訪れて獣肉や防寒衣料と蔬菜類を交換していたかもしれない。

ツングースの集落に滞在していたmt-N9bがその銛の優れた出来栄えを見て、狩猟民のキャンプに遡上してmt-Aと製作技能を交換した事が、両者の接触が始まる契機になった可能性がある。彼女の一族も獣骨を得る事ができるかもしれない、狩猟民族のキャンプを訪れる事に異議はなかっただろう。漁労活動に制約があった中上流域には、短期的な遡上しかできなかった疑いがあるが、現在のペンジナ川の河口域には異様な深さがあり、12千年前には直径20㎞ほどの湖だった可能性が高いだけではなく、この地域には直径1㎞程の沼が点在しているから、夏季に長期間滞在する事も可能な地域だったが、オホーツク海の暖流から離れていたから冬季に長期間氷結し、ツングースが活動できる地域ではなかった。

ペンジナ川を遡上して狩猟民族の集落を訪問し、mt-Aと面会してその技を見た海洋漁民の年配女性が、素材の素晴らしさと娘の技能を褒めながら、手振り身振りを交えて娘の話を聞くと、褒められた嬉しさから娘が多弁になっただろう。この女性の言語は北海道部族と同じ抱合語だったから、北海道東岸を経由して北上していた関東部族の中に、抱合語を使える者が含まれていた可能性はあるからだ。

娘の話が自分の一身上の話題に及び、栽培系の女性が浸透する事により、狩猟民族の女性が配偶者として忌避されていた事や、それに伴う不幸がその娘に降りかかっていた状況を話すと、その娘の狩猟民族としての高い文化的な振る舞いを認識していたmt-N9bが、娘の哀れな事情に同情すると同時に、娘の技能が漁民の生業に役立つと判断した事を根拠に、自分の息子の配偶者に推挙したと云う様な激情的な行動が、従来の原日本人社会の慣習を大きく逸脱する端緒になった可能性がある。

テントの外で待っていた息子がこの娘の兄と丘に登り、この地域の地形を教えて貰う途上で、持っていた弓で小動物を仕留めたとすれば、この狩猟民族が弓矢に興味を持つ契機になっただろう。何時の時代にも何かを得たい人が、それがある場所に出向く事が基本になるが、この場合には獣骨を加工する技能を得たかったmt-N9bの行動を契機に、狩猟民族が弓矢の存在を知る事になったという話だが、既にmt-N9a系狩猟民族が使っていたから、これを契機にmt-A系狩猟民族が、その入手先が原日本人である事を知ったと想定する事もできる。実際は違っていたかもしれないが、多数の起こり得る事の一つであれば良いから、その事は大きな問題ではない。

その結果としてmt-A女性が優れた漁具を製作し、その成果を見た他の家族もそれを真似てmt-Aを取り込んだから、多数のmt-Aが漁民のペアになった事は間違いないが、狩猟民族の女性だったmt-Aが、最初から優れた海洋性の漁具の製作技能を持っていた筈はないから、mt-N9bmt-Aが技術交流を始めた段階では、画期的な漁具は存在しなかったと想定される。

しかしその結果として生まれた漁具が画期的だったから、多数のmt-Aが渡来した事になるが、それが画期的な漁具であればあるほど、その形状や製作技能が確立するのに長い時間が掛かっただろう。従って最初に渡来したmt-Aは、彼女を誘ったmt-N9bの家族の中で生活しながら試作品を作り続け、次第に優れた漁具に仕立ていったと考えられ、そのmt-Aが画期的な漁具を生み出す事ができたのは、慣習を破って最初にmt-Aを受け入れたmt-N9bに執念に近い思い入れがあり、それがmt-Aや息子にも伝わったからだと推測せざるを得ない。このmt-N9bにはmt-Aの技能を見る前から、画期的な漁具に関する腹案があったが、自分の技能では実現できないと思っていたのかもしれないが、その形状が実現しただけで期待通りの性能が得られる事は、技術的な製品の世界ではほとんどないからだ。最終的には当初案とかなり異なったものになる事の方が、圧倒的に多いとも言える。

掟破りであるという様な周囲の非難を跳ね返すには、成果で示すしかないと云う様な追い詰められた事情があったかもしれない。家族で遊動していた海洋漁民が、操船技能も漁労技能も持たない女性を家族に迎える事は、狩猟民族が栽培系女性を配偶者にする事と比較して、その障壁は格段に高かったと考えられるからだ。

mt-Aは栽培系の女性の様な直接生産者ではないし、この時代には狩猟民族の女性の浸潤を受け入れた例は殆どなかった。mt-A狩猟民族と接していた河川漁民のツングースでさえ、mt-Aを殆ど含んでいない事を斟酌すると、常軌を逸した慣習破りだった可能性が高い。逆に言えばその様なmt-Aが編み出した技能は、海洋漁民には画期的なものだったと考えざるを得ない。

大型魚を捕獲したかった海洋漁労には、中・小型魚を追っていた河川漁労には必要がない、異質で高度な漁労技術を必要とする事情が厳然と存在し、原日本人はそれに気付いていたから、優れた道具を重視する海洋漁労文化を持っていた事は間違いない。その様な漁具の筆頭は離頭銛だったと考えられ、尖った返しを必要としない代わりに、獲物の肉に深く浸透する銛、即ち獲物に刺さった状態で放置すると、肉が締まって抜けなくなるものだったと推測される。つまり離頭銛に付けた綱で直ぐに引っ張らず、船で追跡しながら暫く放置してから捕獲するものだったと推測される。単純な構造は遠投した場合の貫通力を高めるから、大型魚の捕獲に最も適した漁具だったと推測される。狩猟民族は大型獣に刺さった石槍は、直ぐに抜かないと抜けなくなる事を知っていたから、mt-Aがそれを逆用して離頭銛を考案した可能性もあるが、狩猟民族はロープを持っていなかったから、離頭銛は純粋な漁具だった。

この時代のmt-N9bは家族と共に遊動していたから、その様なmt-N9bmt-Aを受け入れる事により、関東部族のmt-Aが急増してmt-N9bが減少した事情は、台湾からmt-B4を受け入れた場合にも発生した。それらが完了した縄文前期~中期の関東部族の遺伝子分布は、それを温存している現代沖縄人の遺伝子分布から推測する事ができる。沖縄人のmt-N9bAB4122.5だから、mt-N9bは漁民の遺伝子としては、縄文前期~中期には少数派になっていた。現代日本人はmt-N9bAB413.54.5だから、縄文中期以降もmt-Amt-B4の比率はあまり変わらなかったが、mt-N9bは相対的に大きく減少した。つまりmt-N9bは他民族の女性が浸潤すると、真っ先に減少していく遺伝子だった。現代の沖縄人の遺伝子分布も、その様なmt-N9bの減少過程を経たものであるとすると、縄文中期にはmt-Amt-B4と同数だった可能性がある。

mt-Dはその対極的な性格を持つ女性の遺伝子だったから、現在の東アジアで最大の人口を誇っている。栽培系の遺伝子には多かれ少なかれその傾向があった筈だが、mt-Dはその中の最右翼の性格を持つ遺伝子だったから、現在の状況に至っていると考えられ、mt-Dの性格については、このHPの一つの検証テーマにもなっている。

シベリア系の狩猟民族がmt-M系の浸潤を受けた際にも、同様の事態が発生したと想定されるが、この様な集団主義がシベリア社会の通念になっていたから、浸潤が速やかに進行したと想定される。部族文化の継続力は、その様な集団的な社会の一つの側面だったとも言えるからだ。

関東に渡来したmt-Aやその娘達には操船技能がなく、次の遊動には参加しなかっただろうから、相変わらず遊動していた家族のmt-N9bが次第にmt-Aに置き換わり、mt-N9b比率が急速に低下していったと想定される。南方に遊動したmt-N9bも同様な発想でmt-B4+M7cを取り込んだから、縄文中期には沖縄人が示す比率になり、その後のmt-N9bにもその思想が受け継がれたから、時代の経過を経て現代日本人の2.13%にまで激減したと考えられる。他の部族のmt-N9bも、農耕民族化した縄文後期以降に激減したから、現代日本人の2.13%になった事になり、mt-N9bの思想は部族に関わらずに存在した事になるから、その起源は原日本人のシベリア時代だった5万年前に、シベリアの狩猟民族から受け継いだものだった事になる。

台湾に南下した原日本人が家族で遊動していた証拠として、原日本人から海洋文化を伝授されたオーストロネシア語族海洋民族のmt-B4が、南太平洋の島々に遺されている事が挙げられる事は既に指摘した。南太平洋の島々のmt-B4比率が極めて高い事は、彼らが原日本人から学んだ海洋文化は、例え冒険的な航海であっても、夫婦同伴を習俗とするものだった事を示しているからだ。その様な一族のmt-N9bにはmt-Amt-Bが持つ技能がなった事が、その技能の取り込みに熱心になる動機になったと解釈されるが、それは一族全員が、女性を技能者と見做す習俗を持っていた事も示している。つまりmt-N9bは櫂を操る女性ではあったが、女性が担うべき役割の技能者であると自認していた事も示している。つまり多数のmt-B4を取り込んだmt-N9bは、食料を保存する行為は女性の役割であると、認識していた事を示唆している。具体的には海藻を採取したり干物を作ったりする作業が、それに該当しただろう。

このHPでは現在の事情として、役割意識は日本文化の特徴であると解釈するが、その起源はシベリアの部族文化にあり、それが海洋民族社会で発展したものが、日本的な役割意識であると考えられる。役割については別の項で検証する。

海洋漁民のmt-N9bが激減したのとは対照的に、台湾起源のmt-B4が重視されて遺伝子比率が拡大したのは、縄文時代は栽培技術が世界に拡散した時代であり、先進的な栽培技術は人々の垂涎の的だったから、関東部族はその技術の取り込みに熱心だった事も示している。mt-B4は縄文時代末期には、東アジアで最も優秀な栽培者になったが、交易的な性格も持っていたから、関東部族の代表的な栽培遺伝子になり、東アジアの稲作者の遺伝子として、温帯ジャポニカを栽培化したmt-Fと双璧を形成している。

オーストロネシア語族海洋民族の女性は、最強の栽培者だったmt-R系譜のmt-B4であると共に、関東では姉妹遺伝子であるmt-B5を駆逐してしまう強者だったから、彼らは他の栽培女性を受け入れる必要はなく、mt-B4が中核遺伝子であり続けた事にも必然性があった。

 

5-5 関東の漁民とシベリアの狩猟民族の新しい関係

超温暖期が始まると、関東の海洋漁民はオホーツク海北岸に遊動し始め、シベリアでマンモスなどの大型獣を狩っていた狩猟民は、温暖化によって従来の地域では狩猟活動ができなくなったので、最北の地に北上した。更に温暖化すると、その一部は寒冷な気候が残っていたアメリカ大陸に移動したが、多数派はシベリア北部に残留していたと推測される。

1万年前にシベリアが湿潤化すると内陸に森林が生れ、小動物や鳥類を狩る事ができる弓矢が、最も効率的な狩猟具になった。その様な地域にトルコ系漁民が拡散し、弓矢と獣骨を交易する交易者になったが、その背後にはトルコ系漁民に漁労技術を与えながら、トルコ系漁民が集めた獣骨と弓矢を交易するツングースがいた。ツングースは集めた獣骨を関東部族に渡し、その見返りに漁労具や弓矢を受領する交易者になった。

この様な交易システムは、超温暖期にアムール川流域に集まったトルコ系漁民と、オホーツク海沿岸のツングースの間に既に生まれていたが、シベリアの湿潤化と寒冷化が進展し、オホーツク海北岸では栽培が不可能になると、オホーツク海沿全域としては漁民人口が過剰になったから、それを契機にトルコ系漁民の内陸進出と、それを支えるツングースの交易システムの構築が活性化した事は既に指摘した。

ツングースの過剰人口を解消する手段は、自分達がシベリア内部に進出して狩猟民族から獣骨を集めるのではなく、トルコ系漁民がシベリアの内陸に生まれた大河の漁民になる事を支援し、その見返りに狩猟民族から獣骨を集めて貰う事により、原日本人との交易を成立させるもので、関東部族の海運力ではアムール川の河口までが限界だったから、その先の内陸部はツングースが担う事は、極めて合理的な選択だった。アムール川流域は北陸部族の商圏だったから、それが交易事情を限定した可能性もあるが、交易が活性化して長時間が経過すると、合理的な方向に修正する力が働く事は一般的な経済法則だから、それについて深く詮索する必要はないだろう。

その様な経済活動が順調に流れる様になるまでには、色々な事が起こったが、全てを把握する事は難しい。超温暖期の初頭に関東部族が千島列島からカムチャッカに北上し、mt-Aを取り込んだ事と、シベリアの超温暖期が終わって寒冷化し始めた頃、北陸部族がアムール川流域からアワ栽培者のmt-Dを取り込んだ事を事実認定すると、当時のオホーツク海西岸~アムール川流域は北陸部族の商圏で、関東部族は超温暖期になってから遅れてオホーツク海北岸に達し、その頃オホーツク海北岸に北上して来たツングースと初めて接触したと想定されるから、其処から検証を始める事ができるだろう。

カムチャッカ半島を南北遊動していた狩猟民族の主流は、11千年前にはアメリカ大陸に渡ってしまっていたから、それ以降の関東部族の交易相手は、mt-Gmt-Cを取り込んでいた故にアメリカに渡らなかった、残余の狩猟民族になっていた。

1万年前にシベリアが寒冷化すると、真っ先に困ったのはオホーツク海北岸にいたmt-M系の栽培者で、彼女達と共生していたツングースも蔬菜類の入手難に困惑し、南下を余儀なくされたが、関東部族はそれ以前から、狩猟民族の遊動路の北上による獣骨の入手難に陥っていたと推測される。1万年前には海面上昇が進み、カムチャッカ半島に南下する狩猟民族の遊動路が狭くなっていた上に、彼らが気候の温暖化に苦しみ始めると、夏のキャンプをアナディリ川流域に北上させたと推測されるからだ。アナディリ川はベーリング海北部に流れ込む川で、ペンジナ川流域から標高200m未満の峠を越えた400㎞程北東にあり、標高500m以上の峰が連なる山脈が北極海との間に横たわっているから、氷期の気候は極めて寒冷だったと想定され、この地域に伝統的な縄張りを持っていた狩猟民族はいなかったと考えられるからだ。

関東部族が彼らの夏季キャンプを訪問する為には、ベーリング海を北西端まで北上してから、アナディリ川を200㎞以上遡上する必要があった。超温暖期のベーリング海西岸の気候は、氷期の関東の気候より温暖だったと推測されるから、関東部族の遊動者が北上できない環境ではなかったが、家族連れではその長距離に耐えられなかったと考えられるが、既にmt-Aを取り込んで遊動者が減っていた時期だから、獣骨を入手する為に男性だけで編成した集団が生れ、それがベーリング海に北上していたのであれば、この地域の狩猟民族と交易する事は可能だった。

mt-A比率を高めた関東部族は、多量の獣骨を入手しながら漁労の生産性を高める方向に走り出していたから、より多くの獣骨を集める必要性に迫られ、男性だけで構成された船団を編成する機運は高まっていたと推測される。逆に言えばその様な体制を強化する為にmt-A比率を高め、より多くの獣骨を使いながら漁労の生産性を高めていた可能性もある。多数の男性達が獣骨を得るために長期間留守にすれば、漁労活動を行わないmt-Aなどのその期間の食料を賄う者達は、漁労の生産性を一層高める必要があったからだ。それが技術動向としてその集団に認知されると、新たに工夫される技術は、その利便性の向上を目的とするものに集中する事は、洋の東西を問わない普遍的な真理でもある。

超温暖期になって樹木の生育が盛んになり、太い木材が容易に入手できる様になると、船を大型化して漕ぎ手を増やす事が可能になり、船の高速化と積み荷の大容量化が実現した事は、漁労にも交易にも有益だった上に、乗員の男性化が進展しやすい環境を形成していたと想定される。

これが事実だった可能性が高い事を示す証拠は、mt-A比率がこの時期の関東部族内で高まったという不確かなものだけではなく、mt-N9bが依然として漁労を担務していたのか否かに関わらず、男性が交易業務を引き受けて女性は関東に留まるという、関東部族独特の習俗が生れる機縁になったと想定できるからだ。南方組でもmt-B4を取り込む事によってそれが進展したが、それはmt-B4が関東で高い割合を占める様になった9千年前以降の事だったと推測され、北方交易で男性が交易者になったと想定される1万年前より、千年以上遅い時期の事だから、北方組の交易者が男性に集約された契機は、この様な事情に求める事が妥当であると想定される。但し男性達が交易業務を担ったとしても、アナディリ川流域で十分な量の獣骨が得られていたのか疑問がある。そこで得られた獣骨の量は、1万年前以降に得た獣骨の1%未満に過ぎなかったと想定されるからだ。

関東部族がアナディリ川流域の狩猟民族に弓矢を渡し、獣骨の入手に努めていたとすると、彼らを発信者として弓矢の存在を知識化した狩猟民族が、シベリアに多数生まれたと推測される。弓矢の実物がこの狩猟民族から他の狩猟民族に流れていたとすると、トルコ系漁民がシベリアの内陸部に拡散し、弓矢を提供して獣骨を収集する交易者になる条件が、事前に整備されていた事になる。

関東部族はこのルートの拡大により、獣骨交易を拡大する方策を練っていたかもしれないが、シベリアの広大な平原を流れる川は全て北極海に注ぎ、オホーツク海に流れ込んでいる川はないから、海洋交易者だった関東部族には困難な選択だった。1万年前に気候が寒冷化し、ツングースと共生していたmt-Gがオホーツク海北岸から南下し始めると、其処を縄張りにししていたツングースは困惑し、彼らの新しい生業としての上記の交易システムを、関東部族に提案したと推測される。

その結果として歴史時代に息慎と呼ばれた交易集団が生れ、シベリアの内陸で東西交易を担いながら渤海にも進出していたが、このツングースは1万年前にオホーツク海北岸にいた河川漁民だったと想定される。彼らは超温暖期のオホーツク海北岸で関東部族と親和的になり、北上遊動して来た関東部族から、水上航行技能を獲得した事を機縁にシベリアの水上交易者になったが、シベリアが冷涼化してもオホーツク海西岸やカムチャッカ半島に残った人々もいたから、現在に至ってもオホーツク海沿岸にはmt-Gが多い。オホーツク海沿岸に残ったツングースは歴史時代に粛慎と呼ばれ、沿海州やオホーツク海西岸を版図にしていた。1万年前の粛慎の祖先の交易相手は、北陸部族だったと想定される。

現在の間宮海峡は極めて浅く水深10m未満の場所が多いが、海底の土砂はアムール川が吐き出したものであると推測されるから、アムール川の土砂が排斥されていなかった12千年前も、海峡だった可能性が高い。つまりオホーツク海から日本海に流入している海流が、間宮海峡の狭隘部に堆積させた土砂であると推測されるから、海峡が生れてから現在に至るまで、間宮海峡の水深は現在と類似した状態だった可能性が高い。

従って北陸部族は12千年前から、日本海を北上して間宮海峡を通る事によってアムール川河口に至っていたから、オホーツク海西岸も自動的に、彼らの交易圏になる条件が整っていたと考えられる。縄文時代のツングース内部には、彼らを細分化する部族がなかった事を経済活動の成熟期の項で検証するが、既に指摘した様に関東部族と北陸部族には厳然と存在したから、北陸部族はアムール川の下流域まで商圏にしていた事により、関東部族はアムール川の河口で、息慎と交易する状態になったと推測される。その様に考える最大の根拠は、北陸部族だけがアワ栽培者だったmt-Dを取り込んだ事になる。華北に南下してアワ栽培者になったY-Nmt-Dペアはトルコ語話者だったから、アムール川流域のトルコ系漁民と共生していたと想定されるが、北陸部族が取り込んだのはその様なmt-Dだけではなく、オホーツク海沿岸に多い故に、ツングースとの共生に拘ってオホーツク海沿岸に残留し、トルコ系漁民が拡散したシベリア内部には拡散しなかった、mt-Gも取り込んでいたからだ。

ツングースに部族意識がなく、5万年前にはツングースと類似した状態にあった原日本人に部族意識があった事を、奇異に感じるかもしれないが、シベリアのY-C3漁労民族が湖沼や河川に張り付いていたとすると、狩猟民族の様な強い境界意識を伴う、広域的な縄張り意識を持つ必要はなかった事は、理解できるだろう。原日本人が認識していた部族意識は、異なった部族の狩猟民族と共生していた人々が日本列島に集合したから、狩猟民族の部族意識を日本列島に移植する事になったと考えると、奇異な感覚は解消するだろう。つまり部族意識は、縄張りを調整する必要があった狩猟民族の文化であって、元々は漁労民族の文化ではなかったが、異なった部族の狩猟民族共生していた原日本人が日本列島に集まった結果として、狩猟民族の部族文化を日本列島に持ち込んだと考えられる。

トルコ系の漁民が獣骨を集めた狩猟民族には、シベリア東南部を新天地として拡散したmt-N9a系狩猟民族と、従来からシベリアにいたmt-A系狩猟民族があり、mt-N9a系狩猟民族にはmt-Cmt-Dが浸潤していたと想定される。オホーツク海沿岸に多いmt-Gは、ツングースと共生していた狩猟民族には拡散したが、内陸の狩猟民族には拡散しなかったと想定されるからだ。アワ栽培者になったmt-Dは東アジア最大の遺伝子になったが、それとは別にこの時代に狩猟民族に拡散した遺伝子もあったが、東アジアに偏在しているのは、トルコ系漁民の需要がmt-Z程には多くなかったからだと考えられる。

朝鮮半島には縄文時代に濊が南下し、弥生時代末期に高句麗が南下したが、彼らは3民族の共生集団だったと想定されるから、朝鮮半島の遺伝子分布から、mt-N9a系狩猟民族とmt-A系狩猟民族の人口比を推測する事ができる。現在のシベリアの遺伝子分布ではそれができないのは、縄文晩期寒冷期にシベリア経済が崩壊し、交易構造が破壊されてシベリアの漁労民族と狩猟民族が壊滅してしまったと考えられるからだ。

高句麗の発祥地はオホーツク海西岸であると想定されるから、mt-Gはこの推測の対象から除く必要があり、mt-M10はモンゴル系民族の遺伝子だったと想定されるから、それも除くとmt-Amt-N9a2倍もある。mt-CZとされている遺伝子も、mt-N9a系狩猟民族の遺伝子だったとして加えると、mt-N9a系はmt-Aとほぼ同率になる。但しmt-ZY-Nとペアだった栽培者の遺伝子なので、シベリアの平原にいた狩猟民族の多数派は、mt-A系狩猟民族だった可能性が高いが、モンゴル系民族がmt-M9a系狩猟民族の子孫であるとすると、朝鮮半島に南下した狩猟民族の遺伝子は、mt-N9a系とmt-A系が半々だった可能性がある。

モンゴル系民族の出自が不明である事と、トルコ系の漁民と共生したmt-M9a系狩猟民族は、トルコ系の言語話者になった可能性が高い事から考えると、モンゴル系民族がmt-M9a系狩猟民族の真の末裔である可能性は捨て切れないが、断定するには証拠が乏しい。

いずれにしてもmt-A系民族は北方に多く、mt-N9a系は彼らの縄張りを避けて南方に拡散したと推測されるから、朝鮮半島の様な温暖な地域に南下した人々には、南方系の共生集団が多かった可能性が高い事を考慮すると、1万年前以降のシベリア全体の狩猟民族の人口は、mt-A系民族が多数派だった可能性が高く、上記の交易が急速に拡大した根拠になる。

日本の狩猟民族が、13千年前に始まった御子柴文化期に弓矢を使い始めたのは、寒冷化による堅果類の生産性の低下に苦しみ始めた九州縄文人が、海産物をより多く入手する為に、アサを増産したからだと推測される。12千年前に弓矢が急速に普及したのは、気候が温暖化してアサの生産性が高まった上に、縄文人が九州一円に拡散して人口を増やしたから、アサが豊富に出回る様になったからだと推測される。

その様な状況になった12千年前に、関東部族がオホーツク海沿岸の狩猟民族にも弓矢を供給し、その見返りとして多量の大型獣の獣骨や角を入手する様になったと想定されるから、その交易の流れは時間の経過と共に拡大していったと考えられる。日本に渡来したmt-Aの子孫が増えると、彼女達が日本で加工する漁具も増えたから、その素材としてより多くの獣骨が必要になっただろう。その見返りに提供する物品として、弓矢の生産量を拡大する必要が生じると、アサだけではなく矢竹やウルシの生産も増加させる必要があった。

12千年前から1万年前は、関東部族が九州縄文人に関東への入植を促していた時期だが、その時期の関東に縄文人が一人もいなかったのではなく、冒険的な縄文人は温暖化すると即座に関東に移住した事を、横浜市の丘陵上の花見山遺跡から出土した、12千年前の尖底深鉢型の土器が示している事は既に指摘した。この状況は縄文人がアサ、矢竹、ウルシを関東で栽培し始めた傍らで、mt-Aが登場して漁民の漁獲量が飛躍的に増加した状況を示唆するから、彼らの活動によって多数の縄文人を関東に招聘するための、食糧事情が整ったとも言えるが、急激な温暖化が進行すると九州縄文人の側にも、冷温帯性の堅果類の栽培適地になった関東への、移住を求める圧力が高まった事も間違いない。縄文前期の九州は、暖温帯性の堅果類の栽培地になってしまったのだから。

関東に縄文集落が多数生まれると、縄文人が生産する植物性食料がビタミンCの補給源になったから、海産物を干物にしたり焼いて食べたりする事が可能になったと同時に、堅果類が保存可能な補助食料になったから、関東部族の食生活が飛躍的に安定し、海産物の腐敗を避けるためにオホーツク海に遊動する必要はなくなった。その様な環境下では、mt-N9bは干物を作ったり漁網を作ったりする事に忙しくなり、mt-N9b比率の急減は一旦停止したと想定される。

3民族の完全な共生状態が形成されると、食糧事情が改善して人口が増えたから、縄文人の食料の半分を占めていた獣肉が魚介類に変わり、それに見合った量の海産物を得る必要が生れると、獣骨の供給量を増やす活動を活発化させる必要が生れた。その解決策は、縄文人の関東移住を受け入れた狩猟民族によって既に準備されていたから、縄文人にとってはより多くの弓矢を生産する事に単純化されていた。漁民にとっても海運力を高め、それをシベリアに持ち込んでより多くの獣骨を持ち帰り、それによって作られた漁具を使って漁獲量を高めるという、単純なものになっていた。

ツングースが構築したシベリアの交易システムが、弓矢の右肩上がりの増産を要求し、それに見合った獣骨の提供を保証していたから、それに応えて増産の音頭を取った狩猟民族が、関東周辺の縄張りを開放して九州縄文人を歓迎した事が、その背景にあった。従ってシベリアが湿潤化した1万年前に、縄文人が関東に次々に入植したから、関東にも縄文文化が開花したのであり、外部的な要因によって縄文人の民族移動が発生した事になる。

霧ヶ峰の黒曜石の採掘権を持つ狩猟民族が、この事業のテクニカルリーダーになったのは、獣骨の生産によって得る食糧事情より、矢尻や弓の製作によって保証される食糧事情の方が、圧倒的に豊かだったからだ。従って関東平野とその近傍の山岳地をY-C1狩猟民族に明け渡し、内陸の湖の周囲も、野鳥を捕獲して矢羽根を生産する事に長けた彼らに明け渡したと推測される。その様な湖にY-O3a2aが展開すると、狩猟民族の食糧事情が更に良化した事は言うまでもないが、霧ヶ峰の麓に狩猟民族が集積して矢尻を量産する為には、Y-O3a2aが諏訪湖岸に展開する必要があった事も、彼らが関東に沖縄系縄文人を呼び込む大きな動機になったと想定される。

それを沖縄系縄文人の側から見ると、彼らは自活力に拘り続けていたから、その活力の重要な一角であるY-C1狩猟民族や、Y-O3a2a漁労民族との共生を重視していただろう。特にY-C1狩猟民族が移住する為には、関東周辺で関東部族に獣骨を提供していた、mt-N9a系の狩猟民族と縄張りを調整しなければならなかったが、それは特殊な事情がない限り実現しなかった。沖縄系縄文人の総意としては、Y-C1だけを九州に残して関東に移住する事には、抵抗があったと想定される。隠岐部族や対馬部族がY-C1と共に東北の日本海沿岸に展開したのは、この様なドサクサが解決する以前の11千年~1万年前の出来事だった事を、青森の三内丸山遺跡から発掘された筒形土器が、縄文早期前葉の定塚遺跡から発掘される筒形土器と類似し、石器も類似している事が示している。また現代九州人のY-C3比率が高い事は、12千年以降にmt-M7aが浸潤して半ば縄文人化した九州のY-C3は、沖縄系縄文人が運命共同体と見做す人々ではなく、関東に移住する共同体のメンバーとは見做されていなかった事を示唆している。また現代九州人のY-C1比率が低い事は、沖縄系縄文人だったY-C1は九州のY-C3の縄張りも犯す事が出来なかったから、機会を得て九州から脱出してしまった事を示唆している。

九州縄文人が関東に移住すると、漁民の食料が安定してオホーツク海に遊動する動機が失われたから、家族の遊動とは異なる交易形態として、男性によって構成された海洋交易者が交易物資を船に満載し、アムール川の河口に出向いてツングースと交易を行う様になったと考えられるが、話はそれほど単純ではなかった。11千年以上前に始まった、ベーリング海を北上してアナディリ川の流域に達する弓矢交易が、男性達の操船に特化した船でなければ実現できない状態になっていたから、その延長線上でアムール川の河口に向かった一方で、家族で遊動していたオホーツク海北岸にはツングースがいなくなったから、見掛け上その様な状態に変化したと推測される。その様に推測する根拠として、ツングースは家族で移動する交易者だった事が挙げられる。つまり1万年前までツングースと接していたのは、家族で遊動していた原日本人だったから、ツングースはシベリアの交易者になってもその習俗を維持していたと考えられるからだ。

また南方に向かった原日本人の遊動者が、1万~9千年前に台湾からmt-B4+M7cを迎え、8千年前頃に浙江省からmt-B5+M7bを迎えたのは、mt-N9bの主導によるものだったと想定されるからだ。つまり北方への遊動者は、南方への遊動者と比較して3千年も早い時期に、交易主体を男性だけが搭乗する船に切り替えていたが、北方系の漁民が遊動と交易を分離したと言っても、それによって家族で遊動する漁民がなくなったわけではなく、活動的なmt-N9bは家族単位の遊動を果敢に続けていたと想定される。

シベリア東部が1万年前に湿潤化し、河川の水量が激増して多数の湖沼が生まれると、トルコ系漁族に広大な居住地を提供したが、冷涼なシベリア北部の湿潤化も、同時期に急速に進んだと想定される。オホーツク海に侵入していた黒潮の支流は低温下せず、シベリアの大気だけが低温化したからだ。氷期のレナ川は黒潮の影響によって北極海に沖積平野を形成していたから、1万年前にもレナ川流域まで湿潤化が急速に及んだと考えられる。

その頃のエニセイ川河口やオビ川河口には、まだ氷の堰堤が残っていたとすると、その流域には巨大湖が残っていたから、トルコ系漁民が進出しやすい値域になった。氷の堰堤が融解してしまっていたとすると、降雨に恵まれるまでは草原化していただろうから、多数のmt-A系狩猟民族に新たな狩猟地を与え、トルコ系漁民の登場が期待される地域になっただろう。

その南縁にある湖沼群を西進すると、カザフスタンの北東部に至る。其処には氷床が残っていたウラル山脈の東斜面から、膨大な水が流れ込んでいたから、アラル海が巨大湖になっていた。その北縁を西進すると、ウラル山脈の西斜面に堆積していた氷床の、膨大な水を集めていたボルガ川に至った。ボルガ川が流れ込むカスピ海は巨大化し、その水が黒海に流れ込んでいた。

黒海北岸以西はY-C1狩猟民族の縄張りだったから、Y-C3トルコ系漁民の拡散はカスピ海の北岸で止まったが、ツングースは交易者としてバルト海沿岸に至った事を、バルト海沿岸やフィンランドから発掘される、6200年前の櫛目紋土器が示している。

黒海沿岸に至ったツングースは、Y-C3トルコ系漁民とは異なる漁労民族を探し、トルコ系漁民の代役を求めたとすると、その第一候補はY-C1狩猟民族だったが、Y-C1mt-A系狩猟民族の様な人々だったから、漁労民族になる気はなかった様だ。ツングースは彼らの了解の下に、Y-Rを河川漁労民族に仕立てたと想定される。同時期に台湾に南進した関東部族も、台湾の堅果類栽培者を海洋民族に仕立てたから、その地域以遠の狩猟民族から獣骨を集める手段として、適切な民族に漁労文化を伝授し、交易パートナーになる事を期待する事は、縄張り意識が強いシベリア系文化の一つの特徴として捉える事ができるだろう。

ツングースがY-R民族に漁労技術を伝授したのは、1万年前だったと想定しなければその後の西欧史と整合しないから、シベリアの河川や湖沼は上記の様な状態だったから、ツングースとトルコ系民族の拡散は、短期間の内にカスピ海に至ったと想定される。

後の西欧史として想定されるのは、Y-R漁民が氷床の融水によって水浸しになっていたロシア平原やポーランドに拡散し、短期間でバルト海に達して湖沼漁民になり、やがて北海の海洋民族になって磨製石斧の産地であるイングランドに定着すると共に、何処かから栽培民族を探し出して民族共生を実現すると、6千年前にはその栽培民族が穀物を生産していたからだ。

フィン人に多数のY-Nがありmt-Zもいる事は、ツングースがY-C1Y-Nとの共生を勧めた事を示し、フィンランド人がウラル語族である事は、この地域がY-C1の縄張りだった事を示唆している。ツングースがY-C1狩猟民族にY-Nとの共生を勧めた事は、Y-C1に河川漁民化を促していた事と、一部のY-C1はそれに応じていた事を示唆している。

バルト海沿岸やフンランドから6200年前の櫛目紋土器が発掘されている事は、その地域がY-Rの集積地であっても、ツングースがその地域で交易していた事を示唆しているが、西欧にシナノキが移植されると、Y-Rが本格的な海洋漁民になったと推測されるから、それ以降の歴史はシベリア史から独立したものになっただろう。

Y-Rが定着しなかった北欧やロシア平原では、彼らに獣骨を供給していたY-C1狩猟民族が最高位文明者になったから、彼らの言語がウラル語族として現在まで残っていると想定される。東アジアでは、モンゴル人がその様な人々だったと想定され、モンゴル高原は河川漁民が集積するような場所ではなかった事が、その様な状況を生んだと考えられるから、それから類推すると、ハンガリーは東欧の高原地帯として狩猟民族が卓越する地域になり、北欧やロシア平原では大河川や湖でも冬季に氷結するために河川漁民が生れず、それらの地域が狩猟民族の地になった事が、ウラル語が現在まで残っている理由ではなかろうか。つまりY-C1は夏季には漁労も行う狩猟民族になり、mt-ZをペアにしていたY-Nと共生したと推測される。Y-Nも狩猟民族の端くれではあったが、Y-C1からmt-Zの栽培地の周囲を縄張りにする事を許されていたのに対し、Y-C1は広域的な狩猟者としてY-Rに獣骨を提供していたとすれば、両者の共存は可能だった。

青銅器時代~鉄器時代になると、獣骨を生産していたY-C1狩猟民族の存在価値がなくなったから、ウラル語に同化していた栽培系狩猟民族が農耕技術を高め、マジャール人やフィン人になったが、Y-C1とは共生していなかった栽培系狩猟民族が、Y-C1の支配力が失われた鉄器時代にそれらの地域に多数入植したから、現在スラブ語を使っていると推測される。言い換えるとシベリアのY-C3漁民は、縄文晩期寒冷期に壊滅的な打撃を受けたが、メキシコ湾流に温められている西欧では気候の激変がなかったから、スラブ系民族の拡散を除けば、石器時代の民族言語の痕跡を現在に残している可能性がある。

従って13世紀のモンゴル軍の征服は、シベリア文化圏の再征服を企図したものである可能性があり、宋王朝を含めたトルコ文化圏の征服も、その文脈から検証する必要がある。モンゴル帝国は嘗てツングースが経済支配していた大シベリア帝国を、再興する意図を持っていた事になるからだ。その様な大義名分がなければ、諸民族を糾合して大帝国を建設する事は難しかったと考えられる事も、その根拠になる。1万年前のツングースは画期的な新文化の伝道者で、その商圏の人々は新しい生活手段を獲得したが、モンゴル帝国は商圏を再構築しただけで、伝導するべき新文化はなかった事が、帝国の瓦解に繋がったと考えると現実感が高まる。

1万年前の話に戻ると、ツングースがシベリア内陸部に商圏を急拡大すると、関東部族は弓矢需要の急増に嬉しい悲鳴を上げたが、弓矢の増産が新たな課題になった。その結果として生まれた生産機構が、八ヶ岳山麓の黒曜石で矢尻を製作する産業、ウルシ樹を栽培する産業、関東で竹の矢柄を生産する産業、Y-C1が矢羽根を集める産業、それらを素材として矢に組み立てる産業と、弓を製作する産業だった。

中部山岳地帯に多数の縄文人が集住したのは、矢尻を量産すると共に、それを矢に装着する材料であるウルシを栽培する為であり、各々の職人が作業に専念する為に、食糧を生産・供給する仕組みを作るためだったと想定される。縄文早期末(7千年前)にはその活動が既に始まっていた事を、新潟県の大角地(おがくち)遺跡から発掘された黒曜石の矢尻が示し、それが櫛目紋土器の普及時期(8千年以上前)と一致している事が、これらの想定の傍証になる。

縄文早期末(7千年前)の磨製石斧の工房だった大角地遺跡から、八ヶ岳山麓で作られた矢尻が発掘された事は、その時期には既に八ヶ岳山麓の矢尻生産が活性化していた事を示しているから、矢尻産業が芽生えたのはもっと早い時期だった事になる。着目するべき事は、矢尻の生産者でも矢の製作者でもなかった磨製石斧の工房に、八ヶ岳山麓に生まれた輸出産業で生産された矢尻が、持ち込まれていた事であり、矢尻が生産過剰状態にあった事を示唆しているからだ。

後で説明するが、縄文人が自分で使う弓矢に八ヶ岳産の高級な矢尻を使う理由はなく、八ヶ岳産の矢尻の製作者はシベリアに弓矢を輸出するための、特殊な矢尻を製作していたのだから、それを他部族の縄文人に分け与える事は、矢尻の生産者にとっても矢の生産者にとっても無駄な行為であり、矢尻が過剰生産状態になっていた事を示唆している。但し一般的に言う過剰生産には二つの意味があり、単純に作り過ぎる場合と、他の部品や素材の増産が間に合わずに、特定の部品が一時的な過剰生産状態になる場合があり、縄文前期~中期の八ヶ岳山麓の活況から考えると、後者だった可能性が高い。

つまり弓矢の生産システムが生れた状況と、縄文中期まで生産が右肩上がりで増加した状況から考えると、シベリアの狩猟民族の需要に応え過ぎて、矢が過剰生産状態になったのではなく、矢柄、矢羽、ウルシなどの何れかの素材の生産がネックになり、矢尻が見掛け上生産過剰状態になった可能性が高い。近代的な生産システムでも、諸部品が独立した工場で生産される場合、急激な増産過程でその様な現象がしばしば起こるからだ。シベリアの狩猟民の需要が、7000年前に停滞期に入った可能性も否定はできないが、シベリアの広さと、弓矢需要は縄文中期まで右肩上がりに増加した事を勘案すると、他の部品の増産に支障が生じていた可能性が高い。

元々関東部族の生産品だった弓矢の部品が、北陸の磨製石斧の工房に存在した事にも、着目する必要がある。つまり関東部族だけではシベリアの需要が賄い切れなくなり、北陸部族に応援を求めた過程で、北陸の代表的な作業場である石斧工房に、矢尻が持ち込まれた事になるからだ。言い換えると関東部族内の増産過程で、部族内の生産力にミスマッチが生れていたから、関東部族には属していなかったが、関東部族と連携して弓矢の増産に邁進していた狩猟民族が、北陸部族も弓矢生産に参加する事を打診するために、石斧工房に検討資料として矢を持ち込んだ可能性が高い。霧ヶ峰の黒曜石の採掘権を持っていた狩猟民族は、弓矢生産のテクノクラートとして、すべての産業を牽引する役割も担っていたから、自身の原因で生産が停滞する事を恐れ、矢尻の増産に積極的に取り組んでいただろう。その様な事情は現代社会でも常識の範疇に入る事だから、この時代の狩猟民族にもその様な感覚があった事を、敢えて検証する必要はないだろう。

その様な事情で矢尻の在庫は十分にあったが、彼らの指導を受けて増産に励んでいた縄文人には、狩猟民族ほどの意気込みはなかったから、彼らが生産していた矢羽根、矢柄、ウルシのいずれかの生産が間に合わなくなる事も、現代人には容易に理解できる。その様な状態でシベリアの需要に対する充足感が失われたから、北陸部族にも矢の生産を依頼した可能性が高い。

関東部族と北陸部族は競争し合う関係だったから、彼らが直接連携交渉に臨んだとは考え難いが、関東部族を説得する際にはツングースの矛先を彼らに向かわせたり、査察団を受け入れたりしただろう。現代の産業社会では、増産を督促されている事を周知する一般的な手段なのだから。その様なツングースが家族揃って関東に渡来すれば、ツングースのmt-Yが関東のmt-M7aから尖底土器の製作技法を学ぶ機会が生れ、シベリアに帰ったmt-Yが櫛目紋土器を製作したと想定する事に違和感はない。

縄文前期になると、八ヶ岳山麓に大型の集石遺構で知られる阿久遺跡(あきゅういせき)が営まれ、集石遺構の規模がこの地域の人口集積の高さを示している。つまり阿久遺跡の集石遺構が、この地域の矢尻産業が時代の進展と共に重要性を増し、増産体制を整えていった事を示している。

縄文後期に中部山岳地帯の繁栄が衰え、晩期に無人地帯になった事は、大陸に青銅器文化が拡散した時期と符合する。つまり青銅製の矢尻が大陸に出回ると、八ヶ岳山麓の黒曜石の矢尻産業が衰退し、中部山岳地帯から集落が失われたと考えると、矢尻生産の開始期と終焉期が合理的に判定できる。従って八ヶ岳山麓の人口集積は、黒曜石の矢尻とそれを装着した矢の生産を目的とし、その生産者と彼らを支える食料生産者のもので、生産された矢はシベリアに輸出する商品だったと考えられる。

弓矢産業の詳細な構造については、八ヶ岳山麓で矢尻とウルシが生産され、諏訪湖や古甲府湖で得た水鳥の羽と、関東平野で生産された矢竹が主要部材だった。この地域で最終製品である矢に仕立てた可能性もあるが、ウルシは空気を遮断すると長期保存が可能だから、土器に封印して獣脂などで空気を遮断し、関東に運んで組み立てていた可能性もある。300㎞近い山岳地の街道を、担いで運んでいた労力から勘案すると、重量がある最終製品は関東で生産し、その部品である軽い矢尻や接着剤を八ヶ岳山麓から運ぶ方が合理的だから、竹を生産していたと推測される関東で矢柄と矢尻を固着していた可能性が高い。八ヶ岳山麓でウルシ樹を栽培していたと想定する根拠は、ウルシ樹は冷涼な気候地域でしか栽培できないからだ。諏訪湖岸は漆器の発祥地である函館や青森と類似した気候地域だから、八ヶ岳山麓に散在した多数の集落の一部は、ウルシ樹の栽培集落だったと想定される。

つまり12千年前に九州から関東に渡来した縄文人の一部は、日本の狩猟民族にウルシを供給する為に周囲の山岳地に居住したが、気候が温暖化すると冷涼な気候を求めて標高を高め、最終的には八ヶ岳の広い裾野の標高1000m辺りの地域を、関東部族のウルシ樹の栽培地にしたと考えられる。

多摩地域ではアサを栽培し、弓弦を生産する産業も生まれていたと推測される。続日本紀が信濃は弓の産地であると記しているから、梓弓が八ヶ岳山麓で生産されていた可能性もあるが、松本盆地に流れる梓川流域が、原木の産地だった可能性もある。この「梓」は現在「アズサ」と呼ばれている樹種ではなく、現在は「ミズメ」と呼ばれている日本の固有種だったと指摘されている。

それらの産業地域では、手の込んだ独特の装飾が施された土器が製作された事も、その経済活動によって多数の縄文人が潤った事を示しているが、この経済活動を主導した海洋漁民の集落は多摩川や信濃川の河口にあったから、地盤の沈降と土砂の堆積によって埋もれてしまっている。

この時代の財貨だったヒスイ加工品がこの地域から多数発掘され、経済的に繁栄していた事を示しているが、関東でも多数発掘されているから、シベリアに持ち込んで狩猟民族が生産した獣骨や角と交換する海洋交易の為の弓矢の生産や、その産業を支える食料の生産が、それが発掘される地域で盛んに行われていたと想定される。

mt-Aがシベリア産の獣骨や角を漁具に削り出すと、多数の漁民がその漁具を使って海産物を多量に捕獲し、弓矢の生産に関与した縄文人に提供していたと推測される。この時代としては破格的に複合的な産業構造だが、同様なものは阿賀野川や那珂川の流域にも生まれ、その矢尻には北関東の高原山の山麓で採取された黒曜石が使われた。類似したミニ産業地帯が北陸や北関東にも生まれた事は、シベリアの弓矢需要が膨大なものだった事を示唆している。

縄文早期末のシベリア事情として、温暖化してマンモスが絶滅した上に、森林化してヘラジカも激減したから、狩猟対象は森林に生息する中小型獣や水鳥に移行した。従って関東部族が供給する弓矢がなければ、日々の食生活が立ち行かない状態になり、弓矢需要が膨大になったとも言えるが、実際の交易はその様に単純なものではなかった。

シベリアの狩猟民が骨や角を削れば、矢柄に固定する為の強靭な茎を持つ、黒曜石製とは別の形状の矢尻を作る事ができた。彼らがその様な矢尻を使えば必須の交易品は、黒曜石の矢尻が装着された矢ではなく、矢柄と矢を固定したり弓の弦にしたりする、アサだけで良かった。矢尻の「茎」は、矢尻と矢柄を固定する為に矢尻の刃部とは逆方向に伸びている突起で、これが長いほど矢柄と矢尻が強固に固定され、弓矢の殺傷力が増す。縄文時代の矢尻が単純な三角形であったり、茎のあるべき場所が逆に凹んでいたりするのは、縄文人は茎がなくても矢柄に矢尻を強固に接着できる、独自の技法を持っていたからで、その技法は強力な接着剤としてウルシを使う事だった。

縄文人が用いた矢尻はその様な形状のものが多いが、これはウルシを生産していた縄文人の固有の形状だったと考える必要がある。シベリアにはウルシはないが、獣骨を素材にすれば長い茎を持つ矢尻を削り出す事は難しくなかった。

縄文人にとって骨は貴重品な交易品だったから、矢尻を石で作って骨を節約していたが、石には柔軟性や粘性がなく、長い茎を付けても折れやすいから、石の矢尻を使う場合はウルシが必需品になった。縄文草創期の九州縄文人が、既に三角形の石の矢尻を使っていた事は、獣骨を海洋漁民に渡す交易が既に始まっていた事を示唆しているが、氷期に水鳥を狩っていたY-C1は獣骨を使っていた筈だから、Y-C1は何時から石の矢尻を使う様になったのか、論考する価値はある。琉球岬や沖縄では貝殻を使った可能もあるからだが、彼らの遺跡は海面上昇によって失われ、検証する事は出来ない。

新石器時代の世界の狩猟民族が、石製の矢尻と獣骨製の矢尻をどの様な比率で作り、どの様に使い分けていたのか、考古学者はあまり触れたがらないので良く分からないが、魏志倭人伝に「倭人は骨で作った矢尻も使っている」と記されているから、鉄器時代になっても骨で作った矢尻には価値があった事になり、骨で作った矢尻は黒曜石の矢尻より優良だった事を示している。倭人が骨の矢尻を使っていたのは、鉄は海上で錆びやすいからだと考えられ、鉄器時代になっても骨の矢尻を使う事は、海洋民族独特の習俗だったと考えられる。

つまり弥生時代の倭人は、骨の矢尻は使っていたが、同様に錆びない黒曜石製の矢尻は使っていなかった事に着目する必要がある。骨の矢尻は鉄器時代の必需品ではなかったが、釣り針や離頭銛などの複雑な器形は、鉄器時代になっても直ぐには鉄で作る事はできなかったから、その様な道具には骨の加工技術が長い間残存していたと考えられる。それが鉄器時代になって間もない頃の、海洋民族の共通習俗だったから、漢書地理志の粤の条にも、「(海洋民族である)海南島の住民は、獣骨の矢尻を使う」と記されている。陳寿がそれを意識し、倭人の習俗も同じだと指摘したのだが、東南アジアの海洋民族と倭人の文化が類似している事は、漢代以前から知られていたから、漢や魏の役人もそれを確認して報告書に記し、陳寿がそれを倭人伝に転記したと考えられる。

つまり鉄器時代になっても海洋民族は骨の矢尻を使っていたから、他民族もそれを海洋民族の独特の習俗として知っていたが、黒曜石の矢尻にはそれに匹敵する価値がなかったから、倭人は使っていなかった事になる。つまりウルシを使っていた倭人であっても、黒曜石より獣骨の方が、矢尻の素材として優れていると認識していた事になる。シベリアの狩猟民族から獣骨を得るために、黒曜石の矢尻が付いた矢を量産した事は、その矛盾を敢えて実践していた事になり、その背後には特殊な事情があった事を示唆している。言い換えると縄文人が石の矢尻を使っていた事情を、関東部族はシベリアの狩猟民族にも適用した事になる。更に言い換えると関東部族はシベリアの狩猟民族にも、獣骨を節約して黒曜石の矢尻で我慢してもらう事を、強いていた事になる。しかしシベリアの狩猟民族は関東部族の人ではなく、関東の事情も知らない人達だったから、ツングースを通してお願いしただけで、それが実現した筈はない。

縄文時代は海洋漁民が食料の主要な生産者であり、彼らは骨や角で作成した漁具を、消耗品として多量に消費していた。従って縄文人を含めた関東部族の人口を増加させる為には、獣骨を得るための交易を発展させる必要性があった。言い換えると豊漁によって人口を増やしていた関東部族は、獣骨の交易量を右肩上がりに年々増加させるべく、黒曜石の矢尻が付いた矢を増産して、それをシベリアの狩猟民族に使って貰う必要があった。

それらの背景事情として考えるべき事は、シベリアで生産できないアサは関東部族が供給する必要があったが、アサだけでは誰が見ても、膨大な骨や角との交換品として貧弱だから、性能を高めた弓矢も提供していたとも言える。その際に関東部族が留意するべき事は、矢尻の製作に獣骨が消費されれば、関東部族の取り分はその分減少したから、それを阻止する為に高品質の黒曜石の矢尻を大量生産し、それを装着した矢を多量にシベリアに送り込んでいたとすると、黒曜石の産地だった八ヶ岳山麓を中心に縄文人が集住し、豊かな縄文文化を形成していた事に結び付く。この地域に多数の縄文人が集積していた事は、多数の遺跡の存在が証明しているが、彼らが海から遠い冷涼な高原に集住した目的も明らかにする必要がある。彼らが不便な山奥に集住した目的は、矢尻の生産とウルシ樹の栽培しか考えられないし、大陸に青銅器文化が広がると集住社会が消滅した事は、上記の交易上のからくりに結びつかざるを得ない。青銅で鏃を作れば、長くて折れない茎を容易に形成できるからだ。

多量の獣骨や角が欲しかった関東部族は、シベリアの狩猟民に黒曜石の矢尻が付いた矢を多量に供給する事により、狩猟民が獣骨や角で矢尻を作る事を阻止し、それを交易品として獲得していた事を立証する事が、以下の話の骨子になる。「阻止」と云うと、友好的な狩猟民族に意地悪をしたというイメージが生まれるが、彼らが自分で矢尻を削り出す以上の利便性を与えるために、縄文人が積極的に活動したと言い換える事もできる。しかしその活動の裏には打算もあった。

狩猟民族が骨を削って矢尻を作れば、黒曜石の矢尻以上の性能が生まれる可能性があった上に、黒曜石製の矢尻は何度も使うと、鋭利さが失われる消耗品だった。骨の矢尻は削り直せば何度も鋭利さを再生できたから、シベリアの狩猟社会の経済性から言えば、骨で矢尻を作る方が合理的だった。しかし骨や角が多量に欲しかった関東部族は、黒曜石の矢尻を装着した矢を多量に製作し、それをシベリアの狩猟民に提供して多量の獣骨と交換するために、色々な工夫をした。

それを順序立てて説明すると、先ずその様な交易を実現した上で、その状態を長期間継続させる必要があった。その為には黒曜石の矢尻の形状を工夫して品質を高め、加工の仕方を工夫して量産性を高める必要があった。その様な矢尻の生産には特殊技能が必要だったから、特殊技能を持った職人を育成する必要が生れた。性能の向上を図りながら矢の生産を重ねると、その様な矢尻が弓矢産業の最重要部品になったから、特殊技能を持った職人が多数必要になり、彼らの食料を生産する人々も必要になったから、縄文前期~中期の八ヶ岳山麓の経済的な繁栄が生れたと考えられる。

関東部族の至上命題は、シベリアの狩猟者が自身の手で骨から矢尻を作り、それを彼らが自身で装着した矢より、格段に性能が良い矢を日本列島で量産し、それをシベリアの狩猟民族に大量供給する事だった。現在も行われている日本型の規格大量生産が、この時代に始まったと言う事もできるだろう。

その実現に努力した狩猟民族や縄文人の立場から考えると、先ずは矢の品質を向上するために、矢柄を日本でしか生産できない竹で作る事だった。竹の矢柄の方が直線性や強度に優れている上に軽いから、超温暖期になった12千年前に日本の遺跡から、矢柄研磨機が出土しなくなった事は既に指摘した。

黒曜石の矢尻の鋭利さが消耗すると、骨の矢尻に代えられてしまう構造の矢柄では、彼らの目的が果たせないから、竹と矢尻を簡単に分離できない様に矢柄まで漆で固めた結果、その用途に相応しい独特の無茎石鏃が生まれ、日本列島で使う場合もその方式が有力になったと推測される。茎がないどころか逆に凹んでいる形状が、その代表的なものだったのではなかろうか。

矢をできるだけ細い竹で短く作り、先端を破壊すると矢柄として再生できない構造にした上で、弓を強力にして短い矢でも殺傷力を高めると云う様な、色々な工夫があったと推測される。弓矢は小型である方が運搬上も有利だったから、その方針は堅持されただろう。和弓は弓の長さが長大で矢も長いが、大陸の弓が概して短弓であるのは、その伝統が尾を引いたからである疑いもある。

いずれにしても黒曜石の矢尻を付けた矢の総合的な性能が、木製の矢柄に骨の矢尻を付けた矢より大幅に優れている事が、矢の製作を担務した狩猟民や縄文人に課せられた至上命題だった。そのための矢尻の製作には、特別な技能者が多数必要になったから、八ヶ岳山麓に優れた職人を集め、彼らを優遇して性能や量産性を一段と高めるために、彼らをサポートする多数の集落も生まれたと考えられる。

この交易に参加していなかった西日本では、矢尻の素材は黒曜石ではなくサヌカイトが流通していた。サヌカイトには黒曜石程の鋭利さはないが、加工は黒曜石より容易だったから、村の腕自慢でも矢尻を作る事が可能だったと推測される。つまり本来の矢尻の性能は、村の腕自慢が作る程度の品質で十分だった事を示しているから、八ヶ岳山麓の生産の仕組みの仰々しさには、特別な理由が必要になり、上記の推測を証拠付けている。八ヶ岳山麓での矢尻の生産と、それをサポートしていた人々の詳細は、縄文人の活動期の項を参照。

縄文早期に始まった弓矢の生産と交易は、集落を近接させて共生し始めた漁民、縄文人、狩猟民が、組織的に取り組んだ最初の海外交易であり、海洋民族としての最初の経済活動だった。彼らがこれを始めた当初は、大規模な産業に発展するとは誰も思っていなかったのかもしれないが、シベリアが余りにも広大で、後氷期の温暖化や森林化に苦しんでいた狩猟民族が多数いたから、トルコ系漁民が交易拠点者として展開すると、弓矢を得て安定的な狩猟民族になる事を希望する者が殺到したと推測される。

それを経済論的に表現すると、シベリアには弓矢の莫大な潜在需要があったから、ツングースがトルコ系民族の内陸展開を推進すると、その需要が次々に顕在化した。その結果として関東部族に爆発的な発注が降り注ぎ、幾ら増産しても追い付かない状況になったから、北陸部族にも応援を頼まざるを得なくなったと想定される。

関東部族に湊を提供していた伊予部族も、この活況によって多量の獣骨を入手し、漁労活動を活発化させて食糧事情を豊かにしたから、縄文早期の北海道の遺跡に、漆工芸品を遺す事ができたと推測される。9千年前の漆工芸品が発掘された垣ノ島遺跡や、その隣の大船遺跡は、関東部族のシベリア交易路に湊を提供する位置にあるから、シベリア交易は9千年前には活況を呈していた事を示している。垣ノ島遺跡で発掘された、漆を塗った赤い糸で編んだ装飾品などの漆工芸品は、東北・道南に移住した伊予部族の特産品だったと考えられるから、移住してから漆工芸品の製作に至るまでの時間を考慮すると、彼らは超温暖期になった12千年前に、この地域に移住した事を示唆している。

函館に移住した伊予部族は、当初は北海道部族の為にアサやウルシを生産したと想定されるが、北海道部族の需要だけではウルシが余ったから、漆工芸品に転用したと考えられる。北海道とシベリアでは面積が大きく異なるが、函館ではウルシ樹は平地で栽培できるから、ウルシが余る状態が生れたと想定される。関東部族は広い八ヶ岳山麓でウルシ樹を生産したから、八ヶ岳山麓に縄文遺跡が点在していると想定されるが、その集落の数が多い事が、生産していた弓矢の数が膨大だった事を推測させる。

関東部族が弓矢生産の産業化を推進し、交易を活性化させた目的は、漁労の生産性を高めて日々の食料を確保する為であって、近代的な産業社会を形成し、経済活動を活性化するものではなかった。つまり縄文中期までの産業化は、飢えを回避するために食糧を増産するもので、それが成功して人口が増えると、その人口規模を維持する事に目的が転嫁する、石器時代独特の食生活に密着した産業化だった。多民族が共生する日本列島だから、それが可能だったとも言えるが、シベリアの需要が余りにも膨大だったので、従業者の規模は近代産業に匹敵するほどに拡大した事は、単なる民族共生だけではなく、社会秩序としての文明観にも先進的なものがあったからだと想定される。その基底になった部族制はシベリアで生まれたが、海洋漁民がそれを経済制度として発展させ、海洋民族の文化に高める事ができたのは、海洋漁民独特の価値観が付加されたからだと考えられる。縄文人の活動期の項でそれを検証するが、王朝史観では想像もできない縄文社会が、弓矢産業から生まれていた事を認識する必要がある。

 

弓矢交易が盛んになり始めた頃のシベリア事情

1万年前にインド洋が湿潤化すると、シベリアが北東部から森林化し始め、湿潤化前線が沿海部を徐々に南下すると共に内陸にも浸透したから、大型獣の獣骨の生産地は徐々に西北に移動していった。しかし関東部族は迷路のような内陸河川には踏み込まず、その交易はツングースに委任し、その為の高度な造船・操船技術を伝授したと想定される。その動きは1万年前に始まったが、8000年前に太平洋が湿潤化すると、シベリアが全面的に森林化しただけではなく、河川や湖に水が溢れて漁労観環境が改善されると共に、ツングースの東西移動も容易になったから、それに伴って八ヶ岳山麓の矢尻産業が活発化した。

先に縄文前期(7千年前~)の石造物遺跡として阿久遺跡を挙げたが、隣接する阿久尻(あきゅうじり)遺跡には、太い柱を立て並べた遺構があり、土壌分析から、九州の鬼界アカホヤ火山の噴火(7300年前)以前に建設された事が明らかになっているので、8千年前に弓矢需要が急増した事を受け、矢尻やウルシの増産が本格化した事と関連した、巨大建造物である事を示唆している。この遺跡から、打越式土器(おっこししきどき)に極めて類似した土器が発掘された事は、関東部族が巨大建造物の建設に関与していた事を示し、上記の推測の証拠を提示している。

寒冷なシベリアでは巨木は育たず、樹木を伐採して船に仕立てる為に、必須の道具である磨製石斧の、石材になる蛇紋岩も産出しなかったから、ツングースは海洋交易民族になる事はできず、小さな船で河川や湖沼を往来する水上交易民族に留まっていた。シベリアにシナノキがない事は、彼らは船を組み立てる際にアサを使っていた事を示している。従ってトルコ系漁労民族も、関東部族や北陸部族との交易で得た磨製石斧やアサを使い、漁労や地域的な交易活動に使っていたと推測される。歴史時代のツングースが満州を拠点にしていた事は、シベリアで最も温暖なアムール川流域や松花江流域で、できるだけ大きな樹木を伐採し、トルコ系漁労民族の船より大型の交易船を作って、荷物と共に家族で移動していたと想定される。つまり満州がツングースの拠点地域になったのは、樹木を得る地域にしていたからだと推測される。

縄文人の海洋性と石材加工の項で示した船であれば、船底材と麻縄さえあれば船を組立てる事ができた。波浪が高い巨大湖でも使えたし、河川が北上しているシベリアを東西に横断する際には、河川の分水嶺を何か所も越えなければならなかったが、船をばらして積み荷と一緒に担いで越えてから、目的地の川原で再び組立てる事ができた。

シベリアの地図を詳細に見れば明らかな様に、地形が平坦なシベリアの平原では河川が縦横に走っているから、降雨量が現在より格段に多かった8千年前以降は、河川交易者が積み荷を満載した船を操り、幾つかの低い峠を越えるだけで、シベリアを横断する事が可能だった。交易路の途上にはトルコ系漁民がY-Nと共生し、宿場を形成して東西交易をサポートし、峠超えの人足を提供していたと想定される。

トルコ系漁民は漁獲を高める為に、ツングースからアサや磨製石斧の供給を受け、周囲の狩猟民族に弓矢を供給して獣骨を受け取る、交易の中継地の役割を果たしながら、オホーツク海沿岸でツングースと共生していたY-Nmt-ZCGDを招き、シベリア型の共生社会を形成した。トルコ系漁民は漁獲に応じてY-N集団を招き、獣骨を持参した狩猟民族に植物性食料を振舞い、多数の狩猟民族が交易拠点に参集する事を期待しただろう。その状態が活性化すると、狩猟民族は従来のペアであるmt-Aを確保し続ける事が容易になったから、朝鮮半島に南下した濊や高句麗は、mt-Amt-N9aの二倍の割合で温存したと考えられる。現代韓国人にはその遺伝子が、無視できない割合で残っているからだ。

韓国人に含まれるmt-M系遺伝子の内、mt-Gは高句麗人の故郷だったオホーツク海沿岸の遺伝子で、mt-CZはそれ以外のシベリア系の遺伝子であると想定されるが、mt-Dの殆どはアワ栽培者だった韓族と漢族の遺伝子なので、mt-Dからシベリア系を抽出する事はできない。Y遺伝子はY-C310%、Y-N4%だから、その合計である14%はmt-CZmt-Gmt-Amt-N9amt-Yの合計である23%より少なく、浸潤では説明できない事態が発生した事を示唆している。いずれにしても朝鮮半島にmt-A8%もいる事は、縄文時代のシベリアには多数のmt-Aがいた事を示唆しているから、現在のシベリアにmt-Aが少ない理由は、縄文後期以降に獣骨交易が激減した事と、縄文晩期寒冷期にシベリア経済が崩壊した際に、栽培系狩猟民族だけが生き残る様な過酷な環境に見舞われたからだと推測される。

ツングースが使ったと推測される櫛目紋土器が、縄文前期の北欧から朝鮮半島まで分布し、この経済圏が広域化していた事を示している。シベリア文化を主導したツングースは、関東部族と交流する水上生活者だったから、入り江が多かった関東の縄文土器文化が彼らの土器文化に影響した事は間違いなく、打越式土器と類似するずん胴で底面が尖った器形は、ツングースが宿営地とした河岸の船溜まりで、草木が繁茂する湿地や岸辺に置くのに相応しい形状だった事が、普及した理由だったと想定される。人が住んでいない宿営地には起伏があっただろうから、底面が尖った土器を柔らかい土壌に差し込んだ方が、底面が狭い平底の土器より座りが良かったのではなかろうか。水上では更に座りが良く、土器が壊れる事を危惧せずに移動可能な器形だった。栽培系民族は定住していたから、地面を平坦にして生活空間を調整すれば、平底土器の方が使い易かったかもしれないが、起伏がある湿地に移動していた交易者にとっては、平底土器は使いにくかった可能性は高い。

水上民族の小さな船の上には、大きな土器を置くスペースはなかったが、土器に木枠を付けて水上運搬具にする事もできただろう。尖底化すると重心が下部に移動し、水上で横転しない上に、船で曳く際の水の抵抗を極小化できるからだ。焼成温度が低い土器は水が浸透するが、煤を付けたり獣脂を塗ったりする事によって、防水効果を高める事ができただろう。背負子に括り付ければ背負いやすい器形でもあったから、担いで峠を越える際にも扱いやすい器形だった。籠を編む技能が未発達で、タケ亜科などの籠材に向いた植生が乏しいシベリアでは、皮革と土器が全ての運搬具を兼ねていた可能性が高く、水上民族だったツングースにとっては、土器も重要な運搬具だったと想定される。関東縄文人が製作したアズマネザサの籠も、交易品として入手していたかもしれないが、それはツングースにとっても高級な舶来品だった。

ツングースの活動範囲が西ユーラシアに及ぶと、彼らは巨大化していたカスピ海の北岸に進出し、ゲルマン民族に水上文化を伝えたと推測される。黒海北岸はY-C1民族の縄張りだったから、彼らはトルコ系漁民を、黒海北岸以西の地域に入植させる事はしなかったが、交易者としてはバルト海沿岸まで達した。Y-Rゲルマン民族はY-C1の漁労民族化が進まない事を好機と捉え、高緯度地域に残っていた氷床が融解して水浸しになっていた、黒海沿岸~東欧に拡散してヴェリーカヤ川を下り、バルト海に至ったと想定される。そこで半ば海洋漁民化してから、北海沿岸を拠点にする海洋漁民になり、北大西洋の海洋文化を進化させる人々になったのではなかろうか。

ヴェリーカヤ川があるロシア西端や、黒海に流れ込んでいるドニエプル川の上流域は、氷期には厚さ数千メートルの氷床に覆われ、その荷重で沈降していた地域だから、現在でも地殻は年間数センチメートル隆起している。単純計算でも1万年前の標高は、現在より数100メートル低く、そこに氷河の融水が多量に流れ込んでいたから、黒海からドニエプル川を遡上すると、バルト海までは多島海の様な淡水湖群が展開していた可能性が高い。

ノルウェー南端のリーセフィヨルドの奥に蛇紋岩が露出している地域があり、河川・湖沼漁民だったゲルマン民族が、海洋漁民になる資源を提供していた。彼らがツングースを介して日本列島原生のシナノキを入手すれば、河川漁民から海洋漁民に脱皮する道具が揃った。現在の西欧でリンデンバウム(セイヨウシナノキ)の樹皮の繊維が利用されているが、氷期の欧州にこの樹木が生えていた筈はないから、自然に北上したのでなければ誰かが持ち込んだ事になり、シナノキの交配種である疑いがある。

黒海沿岸では縄文前期に銅が生産され、縄文中期に青銅器文化が生まれた事は、この地域の水上交易文化との関係が連想される。縄文前期には高緯度地域の氷床も完全に失われ、バルト海と黒海の水上交易路が劣化したから、北海沿岸で産出した磨製石斧の河川交易路が劣化した事により、黒海沿岸の人々が代替品を求めた疑いがあるからだ。バルト海沿岸で産出する琥珀が貨幣化し、その流通がこの地域まで及んでいた事は、北海やバルト海沿岸の海洋民族が、この地域の交易も差配していた事を示唆しているからでもある。財貨になる物品は交易を主導している民族の、拠点地域で生産できる貴重品から選定されなければ、交易財貨としての価値を付与する事ができなかったと考えられるからだ。

鉄器文化の発祥とされるヒッタイトは、メソポタミアほど温暖ではないアナトリア北部の民族だから、縄文後期温暖期にオリエントの小麦栽培が北上し、黒海沿岸の交易文化と融合し、ヒッタイト文化が生まれたと考えられる。この頃の西ユーラシア文明の中心は、メソポタミアではなく黒海沿岸だったと考えられるが、それを解明するためには聖書に記された、王朝史観から脱却する必要がある。旧約聖書も「神から農耕が与えられた事により、人類が文明化した」と明記し、東西を問わず農耕民族が政権を握ると、貧弱な栽培を農耕に育てた交易民族の歴史を抹殺し、「アダムの肋骨からエヴァが生れた」と記し、栽培技術を農耕技術に高めた女性の貢献も抹殺した事を示している。

メルカトール図法の地図を見ると、オホーツク海とカスピ海は酷く離れていると錯覚するが、シベリアは東西ユーラシアを繋げる最短経路だから、波が穏やかな河川を往来する事ができれば、大陸の東西を最短で繋ぐことができた。縄文時代のシベリアは現在より温暖で、現在の何倍も雨が降って河川や湖沼に水が溢れていたから、河川交易者の往来は容易だった。シベリアの地図を詳細に見れば、その頃には大河だったと考えられる地形が各処に見られる。

従って西ユーラシアの青銅器文化を真っ先に東アジアにもたらしたのは、ツングースだったと考えられるが、縄文晩期寒冷期にシベリアの河川が冬季に氷結する様になると、シベリア経済が崩壊して交易者が希薄になり、弥生時代にシベリアが乾燥化すると水上交易路も失われた。弥生温暖期に中央アジアが砂漠化すると、そちらが陸の交易路になったから、唐を建国した騎馬民族が自分の存在を誇示するため、シルクロードを東西の交易路として過大に宣伝した事により、シベリアの水上交易路は忘れ去られた。アラビア商人達もそれに同調した事を(8)隋書の項で指摘した。

 

5-6 シベリア南部の漁労具が、石刃鏃になった

1万年前から6千年前のアムール川流域の遺跡から、石刃鏃と呼ばれる特異な石器が発掘される。石刃鏃はモンゴル高原や樺太にも拡散し、縄文早期末(87千年前)の道東にも出現する。道東では石鏃を使用する文化と、石刃鏃と尖頭器を併用する二つの文化が併存していた。同時代のアムール川流域より多量の石刃鏃が作られたが、その素材は黒曜石だった。つまり石鏃と石刃鏃は、異なる民族が使った狩猟具と漁労具だった。

石鏃は三角形の平面を持つ石器だが、石刃鏃は極めて細長い形状だから、棒の先端に付けて弓で射出するものではなかったと考えられる。弓を使うと打撃力は高まるが、的に当たると石鏃に大きな応力が加わる。三角形の石鏃はそれでも割れないが、細長い石刃鏃はその打撃で折れそうな形状をしているから、遠方に飛ばす道具ではなかったと考えられる。

シベリアは1万年前に東北部から湿潤化し始め、8500年前に日本列島中央部が湿潤化したから、アムール川流域も1万年~9千年前に湿潤化し、9千年前には北海道が湿潤化したと想定される。湿潤化すると河川の水が豊かになり、河川漁労の生産性が高まると共に、森林も豊かになってウサギなどの小動物の捕獲も容易になったから、石刃鏃はそれら捕獲の為に使う、細槍の先端に装着した一種の尖頭器だったと推測される。

河川漁労に細槍を使う事は常識的だが、森林で野ウサギなどの小動物を捕獲する際にも、出会い頭に逃げる間を与えずに即座に刺殺するには、弓より軽い槍の方が効率的だった可能性が高く、弓はシカやイノシシなどの大型獣を、開放的な空間で狩る狩猟具だったと推測される。更に言えば弓矢は高価な狩猟具だったから、小動物に使う事に躊躇いがあった可能性が高い。

大陸の石刃族の分布は、細石刃を使っていたmt-N9a狩猟民が、ツングースなどの漁労民族と共に拡散した地域と重なるから、mt-N9a民族は狩猟の傍らで、その様な漁労も行う狩猟者だったと想定され、河川の水位が増して魚が増えると、改めて古典的な漁法で河川漁労を行った事を示唆している。

道東では石鏃を使う民族と、石刃鏃を使う民族が併存していた事と、石刃鏃がシベリアや樺太より多量に作られた事は、弓矢を使って獣骨と獣肉を生産していたmt-A系民族と、石刃鏃を使って河川漁労を行っていたmt-N9a系民族がいて、双方の人口密度が高かった事を示唆している。彼らは北海道部族と共生し、北海道部族から獣骨と引き換えに漁獲を得る事も可能だったが、それでも敢えて石刃鏃を使っていた事になる。それであってもmt-N9a系民族が、弓矢を使わない河川漁労の専業者だったとは考え難いから、彼らが石刃鏃を使ったのは、彼らなりの理由があったからだと考えられる。

シベリアの狩猟民族の一般論としては、弓矢が普及した段階でmt-A系の狩猟者の技能が優り、獣骨を多量に生産する人々になった一方で、mt-N9a系の技能はそれに及ばなかったから、シベリアが湿潤化してトルコ系漁民が内陸に拡散すると、彼らの主要な交易相手はmt-A系になったと推測される。

既に説明した様にmt-A系狩猟者は、狩猟だけで自活する覚悟を持っていたから、技能の向上対する意気込みが強かったと想定されるからでもあり、元々獣骨の生産性が高い草原の大型獣を狩る狩猟者だったからでもある。それに対してmt-N9a系狩猟民族は、漁労民族の補助を得る事を前提とする狩猟者だった上に、森林の中小動物を狩る狩猟者だったから、獣骨の生産性は余り高くない狩猟者だった。

シベリアが1万年前に森林化したと言っても、それまで草原だった地域では腐葉土の堆積が不十分だったから、森林は徐々に拡大していく程度で、特に腐葉土の堆積が遅い北方には、広大な草原が残っていたと推測される。従って1万年前のシベリアでは、草原の大型獣を狩っていたmt-A系狩猟民族の方が、獣骨の生産性は高かったと想定されるし、シベリア北部には依然としてmt-A系狩猟民族の縄張りが存在したから、mt-N9a系狩猟民族は森林化が早かったシベリア南部に拡散し、石刃鏃もその様に分布していると考えられる。

1万年以上前のアムール川流域では、mt-N9a系民族がトルコ系漁民と共生し、獣骨を供給していた筈だから、アムール川流域で発掘される1万以上遡る細石刃は、その様なmt-N9a系狩猟民族の遺物だったと考えられる。それ以降の遺跡から発掘される石刃鏃は、トルコ系漁民が去った後のアムール川流域で、mt-N9aが石刃鏃を使って漁労を行っていた事を示唆している。

彼らがトルコ系漁民と共にシベリアの内陸部に移動しなかったのは、シベリアの内陸部はmt-A系狩猟民族の縄張りだっただけではなく、トルコ系漁民が、大型獣を狩る事に長けていた故に獣骨の生産性が高いmt-A系民族との交易を求め、シベリア内部に拡散したからだと考えられる。彼らの狩猟技能が優れていれば、トルコ系漁民がわざわざ内陸部に移住する必要はなかったからだ。アムール川流域はツングースの拠点になったが、彼らは交易の為に殆ど出払ってしまい、僅かな人々が船を作ったり、河口で関東部族と物資の交換をしたりしていたが、mt-N9a狩猟民族と安定的な共生関係は形成できなかったと想定される。しかし弓矢を使って森林の野獣を狩り、水量が増した河川で漁労を行う事ができれば、1万年以上前にトルコ系漁民と共生していた時代より、豊かな生活を享受できていた可能性も高い。

石刃鏃がモンゴル高原にも拡散した事は、mt-A系民族は超温暖期にシベリア北部に退避したから、モンゴル高原には彼らの縄張りがなく、mt-N9a系民族が拡散できる地域だったからだと推測されるが、トルコ系漁民との共生は実現していなかった可能性が高い。つまりオホーツク海沿岸にいたmt-N9a民族は、1万年前以降も引き続きオホーツク海沿岸でツングースと共生していたが、オホーツク海北岸でツングースと共生していたmt-N9a民族と、アムール川流域でトルコ系漁民と共生していたmt-N9a民族は、共生する漁民を失って自活する事を迫られたが、弓矢を得た事と河川の水が増加した事により、狩猟も行う漁労民族として自活できる場所がシベリア南部に散在していたから、その様な場所に拡散したと想定される。

彼らが弓矢を入手する為にはツングースかトルコ系漁民のいずれかが、獣骨と交換する為に船で来着できる場所でなければならなかったが、その様な水辺では漁労も出来たから、彼らもその様な場所を好んで生活していたと想定される。

北海道にはmt-A系民族とmt-N9a系民族が混在していたが、北海道のmt-A系狩猟民族は既にmt-Dmt-Gに浸潤され、遺伝子としてのmt-Aは保持していなかった。mt-N9a系も同様な状態だったと想定されるが、話を簡明にするためにmt-A系とmt-N9a系の狩猟民族と記述する。

北海道にも原野が広大に残っていたのであれば、狩猟技能に優れたmt-A系は獣骨と弓矢を交換し、北海道部族が生産した海産物も十分に獲得できたが、mt-N9a系民族の狩猟の生産は低かったから、獣肉では不足するカロリーを、石刃鏃の漁労で補っていたと推測される。mt-A系民族が使った矢尻は関東産ではなく、自作だった可能性が高いが、道南に伊予部族が入植していたから、アサ、竹、ウルシを入手する事が出来た。当然それらは獣骨との交換になったから、優れた狩猟民族だったmt-A系はそれらの交易圏で、狩猟だけで完結する経済活動を行っていたが、mt-N9aは河川漁労も行う必要があったと考えられる。

以上を市場経済の観点から解釈すると、話が分かり易くなる。mt-N9a系民族も狩猟民族として獣骨交易に参加していたが、mt-A系より生産量が乏しかったから、獣骨はアサなどの交易品を入手する為に使い、漁労や小動物を狩る為には、石刃鏃を使っていたと推測される。社会福祉の恩恵を当然の様に受けている現代人には分かり難いが、純粋な市場原理が展開していたこの時代の経済活動は、強者の基準によって運営されていたから、獣骨と弓矢の交換基準はmt-A系狩猟民族が満足するレベルに設定されていたから、mt-N9a系民族には厳しいものだった。

1万年前から縄文早期末まで、弓矢の生産は需要に追い付かない状態だったから、弓矢と獣骨の交換レートは、弓矢優位に偏っていたと想定される。つまり6千年前に弓矢の生産力が高まって需給が緩むまでは、弓矢はmt-A系狩猟民族にとってギリギリ許される交換レートに張り付いていた。それ故にmt-N9aの狩猟民族は弓矢を入手する為に、弓矢を使って狩った獲物の獣骨は全て、弓矢の不足を補充する為に使う必要があったが、それでは十分な獣肉が得られなかったから、漁労を行って不足する食料を補っていたと推測される。その際に本来であれば獣骨で銛を作るべきだったが、乏しい獣骨は全て弓矢との交換に提供していたから、石刃鏃を作って漁労を行っていたと考えられる。

柔軟性がある骨や角で石刃鏃を作れば、長い茎を付加して柄に固く装着できるから、実際にはそれらが多用され、石刃鏃の使用は限定的だった可能性もあるが、骨は遺物として遺りにくいから、実態は不明であると言わざるを得ない。しかし石刃鏃の製作には高度な石材加工技術が必要だから、シベリアやモンゴル高原、樺太・北海道でそれが沢山使われた事は、それを製作した技能者が多数いた事になり、ある程度普及した漁労・狩猟具だった事を示している。つまり河川で刺殺漁労を行い、森林の小動物を狩っていたmt-N9a系狩猟民族は、北海道も含めて骨が慢性的に不足していた事を示している。

この事情を細分化すると、弓矢の入手が比較的に容易だった北海道では、mt-N9a系の狩猟・漁労民族は交易品となる獣骨を節約する為に、黒曜石で石刃鏃を作って漁労を行っていたが、大陸のmt-N9a系民族は効率が劣る石材の石刃鏃を使いながら、漁労に対する食糧依存が高い状態になっていた可能性が高い。1万年前から6千年前まで石刃鏃が使われた事は、日本列島の弓矢産業の供給力の拡大と表裏一体の関係だった事を示しているからだ。つまり彼らの生活の困窮度合いは、弓矢の入手の困難さに比例していた事を示唆しているからだ。北海道には矢尻の原料になる黒曜石があり、東北部族がその他の素材も提供していたから、原材料費が格安だった上に、中間マージンを取る漁民がいなかった。一方のシベリアでは、トルコ系漁民とツングースの仲介によって弓矢を入手していたから、弓矢の価格には中間マージンが上乗せされていたからだ。

北海道で多数の石刃鏃が製作された事は、それを使っていた民族の人口が多かった事を示し、大陸では最低限の生活を強いられていた故に、人口が増えなかったmt-N9a民族も、北海道では上記の様な相対的な豊かさがあり、人口が増えていた事も示している。彼らの遺跡には漁労具や尖頭器だけが遺され、矢尻はないと指摘されているが、彼らにとって弓矢は貴重品だったから、遺跡には残っていないと考えるべきではなかろうか。彼らの為に弓矢を作っていたのは、mt-A系狩猟民族だった可能性もあるからだ。

1万年前に石刃鏃が生まれた事は、シベリアの寒冷化と湿潤化が始まった時期と一致し、シベリアに弓矢が普及し始めた時期とも一致しているから、関東部族が弓矢産業を生み出したのは1万年前だった事を示唆している。弓矢の交易が生れてトルコ系民族が内陸に拡散し、在地のmt-A系狩猟民族と獣骨交易を始めると、矢の供給体制が需要増加に追い付かなくなり、慢性的な品不足状態を招いたから、弓矢が希少品になって獣骨の価値が相対的に下がり、狩猟民族が弓矢を入手する為には多分の獣骨を提供しなければならかかった事を、河川漁民が石刃鏃の使用を余儀なくされた事が示している。

石刃鏃文化が終了した6千年前は、阿久遺跡(あきゅういせき)に環状列石が作られた時期で、この遺跡は北陸部族も矢の生産に参加していた事を示すものだから、この頃に矢の供給不足状態が解消し、河川漁民が獣骨製の漁具を使う事ができる様になったと考える事ができる。状況証拠が乏しいから断定的な事は言えないが、この頃から八ヶ岳山麓に住居址が急増し、矢の増産が軌道に乗った事を示しているから、双方の時期的な一致を考慮すると、石刃鏃文化の消滅と八ヶ岳山麓の急速な産業社会化に、深い関係があった事は間違いなく、経済理論的には極めて妥当な因果関係であると言える。

 

5-6 超温暖期の栽培系狩猟民族

氷期の終末期である2万年前に華南にいたmt-M系栽培民は、後氷期に温暖化すると気候の寒暖と湿潤に応じ、北東アジアの沿海部を南北移動したので、そのミトコンドリア遺伝子とY遺伝子について説明する。

左端が5万年前にアフリカを出た時の遺伝子で、右端が東アジアの沿海部を南北移動した遺伝子。12千年前にオホーツク海沿岸に展開した人々は、栽培種の北限的な地域に層別的に展開したので、右端にその南北ポジションを、中間に24万年前の南北ポジションを北から順に並べ、堅果類の栽培者も列記した。

この系統樹と状況証拠を突き合わせると、以下の事情が判明する。

氷期のヴェトナム中部~華南にいたのはY-NY-Oだけで、Y-Oは北ヴェトナムで堅果類を栽培する栽培系狩猟民族である事を継続し、Y-Nは中華地域で雑穀を栽培する栽培系狩猟民族だった。2万年前に温暖化が始まると、Y-Omt-M7bcと共に南シナ海北岸に拡散し、Y-Nmt-Zmt-Gmt-Cmt-Dと共に日本海北岸に北上し、ツングース漁民の共生者になってオホーツク海沿岸まで北上した。ヤンガードリアス期にアムール川流域や日本海の北岸に南下したが、超温暖期に再び北上してオホーツク海の西岸や北岸に達した。

11千年前にインド洋の湿潤化の予兆が中央アジアに波及すると、Y-RY-Qがパキスタンから中央アジアに北上した。Y-Rは中央アジアに留まったが、Y-Qはシベリアに北上してペアをmt-Dmt-Cに代え、一部はベーリング陸橋を越えてアメリカに渡ったが、残余はY-Nと共に河川漁民と共生する狩猟系栽培民族になった。

Y-Rは中央アジアに留まって栽培系狩猟民族になったが、乾燥した中華地域の内陸には東進できなかったので、湿潤な気候を求めて巨大化していたアラル海やカスピ海方面に拡散した。沿海部の遺伝子にはならなかったので、序列から除外して下端に示した。11千年前に中央アジアが湿潤化したのは、インド洋の湿潤化の予兆と言うより、氷床が融解する水を集めたこれらの巨大湖が、中央アジアを湿潤化した可能性が高い。

1万年前にシベリアが湿潤化して寒冷化すると、オホーツク海北岸のツングース漁民が交易民族化し、内陸にトルコ系漁労民族を拡散させたので、Y-NY-Qはその集落に拡散して共生民族になった。そのペアだったmt-Gはオホーツク海の沿岸に留まる一方、Y-Nmt-Zペアはシベリア内陸部に拡散したトルコ系漁民の共生者になり、西に拡散してウラル語族の元祖であるY-C1とも共生した。トルコ系漁民から声が掛からなかったmt-Dは、そのペアだったY-NY-Qと共にアムール川流域から離脱し、松花江を南下した。Y-NY-Qmt-M9a系のY-C3狩猟民族と縄張りが競合していたから、Y-C3より狩猟技能が劣るY-NY-Qは、アムール川流域に留まる事ができなかったからだ。

Y-O4万年前にmt-M7a,b,cと共に堅果類の栽培者になったが、この集団はソバを栽培するmt-M9を取り込んでいた。mt-M9の浸潤を受けたのか、mt-M9mt-M7が浸潤したのか明らかではないが、mt-M7+M9と表記すると浸潤の法則から、mt-M7が浸潤した可能性が高い。その場合にはmt-M9民族がmt-M7の浸潤から逃れる為に、暖温帯性の堅果類は栽培できない冷涼な山岳地の民族になった可能性もある。現在のインドにもY-Oがいて、Y-Oがこの山岳地を超えてカンボジアやタイの平原にも進出した事を示唆しているから、mt-M9民族は堅果類の栽培者に挟まれた山岳地にいた事になり、スンダランドの周囲の山岳地にいたmt-M系民族と同様の状態になるから、堅果類の栽培者になったmt-M7に浸潤された可能性が高い。

氷期のY-Nmt-M8ペアは、堅果類の栽培者Y-Oの北限と接するY-Nの南限の雑穀栽培者で、その一部が冷涼な気候を求めて北上し、Y-Nmt-CZペアになった。彼らは更に分岐し、mt-Cは乾燥した内陸の栽培者に、mt-Zは湿潤な沿海部の栽培者になった。mt-Z3万年前に大陸に拡散したmt-M7aと接し、土器文化を受領したと推測される。広東に残ったY-Nのペアはmt-M8aに純化され、彼らは後氷期の温暖化と乾燥化の洗礼を受けても、モンスーン気候による降雨があった広東に留まった。つまりY-O3漢族の元々のペア遺伝子だった様に見えるmt-M8aは、15千年前にはY-Nのペアだった。

氷期にY-Oとペアだった女性達は、暖温帯性堅果類の栽培を継続したmt-M7b/M7cと、冷温帯性の堅果類の栽培者になったmt-M7aに分離した事は、既に説明した。

後氷期に温暖化するとY-Omt-M7b/M7cペアも南シナ海北岸に拡散したが、ヤンガードリアス期に寒冷化すると、南シナ海北岸に北上した人々の堅果類が壊滅したから、彼らのペアからmt-M7が欠落してmt-M9だけになったが、Y-O3の一部はmt-M8aの浸潤を受けた。

<以下の計算の根は縄文人の活動期の項を読まなければ理解できないが、敢えて此処に記す。>

Y-O3mt-M8aペアは超温暖期に山東に北上し、縄文中期にアワ栽培者になっていたmt-Dの浸潤を受けてmt-D+M8aになり、後世の漢族に なった。広東に留まっていたY-Nmt-M8aペアは歴史の表舞台には登場しないが、Y-Nは現在も、華南や東南アジアの山岳地の少数民族として残っている。篠田氏の集計では広東にmt-M8a3%いるが、これは歴史時代に広東に南下した漢族のmt-D+M8aも含んでいる。広東のmt-Dの殆どは、台湾から焼畑農耕者として渡来した女性の子孫だから、広東の漢族のmt-D+M8aの割合は、台湾のmt-D4mt-D5比のズレから計算できる。そのmt-Dと広東のM8a比は、漢族のmt-D+M8aより大幅に過大だから、広東にいるM8a3%の内、2%程度はY-Nのペアだったmt-M8aの子孫のものであると考えられる。Wikipediaは広東のY-Nの濃度は210%であると指摘しているので、稲作者になったmt-B4mt-Fの浸潤を受けているであろう事を考慮すると、上記の推測には数値上の整合性がある。

超温暖期なると、Y-O3mt-M8aペアは山東に北上し、海進によって山東が孤島になると、山東島の栽培系狩猟民族になった。彼らが漢族になった経緯は複雑なので、縄文人の活動期の項と経済活動の成熟期の項を参照。

氷期に暖温帯性の堅果類の栽培者の南端に接し、温帯ジャポニカを栽培していたmt-Fは、超温暖期なると南シナ海北岸に北上し、堅果類を失っていたY-Oに浸潤した。浸潤した相手はmt-M8amt-M9だったと推測される。強力な栽培者だったmt-Fmt-M系を駆逐した後、内陸を湖北省に北上して堅果類を栽培しない稲作者になった。

氷期にはヴェトナムの高原地帯の民族だったmt-M9は、後氷期の温暖化によって山岳地を北上すると、自動的にネパールやチベットに至ったので、東アジア沿海部の主要遺伝子にはならなかった。しかし日本を除く大陸地域では、韓国を含めてmt-M7abcそれぞれより高い割合を占めているから、大陸のソバは日本のソバより品質が劣っているにも関わらず、重要な穀物の一つだった時代が近世まで続いた事を示唆している。

ソバは日本人特有の食品と見做されているが、日本ではソバの栽培だったmt-M9は浸潤されて絶え、浸潤した女性達が副業的に栽培していた。それが食べ方の工夫によって国民食の一つに復活したが、大陸では主要な作物としていた地域が各所にあった事になる。日本は近世に至るまで、農耕的に貧しい地域だった様に喧伝されているが、実は東アジアで最も豊かな農耕地域の一つだった事を示している。広東にもmt-M9はいないから、稲作地にはこの遺伝子は残らなかった事を示しているが、山東・遼寧の様な雑穀栽培地には6%もいる。

超温暖期まで上掲の表の南北序列でオホーツク海沿岸やアムール川流域に展開し、ツングース漁民やトルコ系漁民と共生していたmt-M系は、1万年前に気候が寒冷化するとそれぞれの女性達の立場や気質に従い、特徴的な地域分布を形成した。

mt-Gはオホーツク海沿岸でツングースとの共生を継続したから、現在もオホーツク海沿岸に集中的に分布している。mt-Gは商才に長けていたから、漁労文明の中心地だったオホーツク海沿岸に留まり、当時のフロンティアだったシベリアの内陸部には移住しなかった。

mt-Dmt-Cだけが拡散してアメリカに渡ったY-Qは、純粋な栽培系狩猟民族だった。mt-Dmt-Cは栽培技能が余り高くない女性達だったから、ツングース漁民から声が掛からなかった事が、Y-Qに浸潤した理由だった可能性が高い。アワ栽培者にならなかったmt-Dmt-Cの現在の分布が、シベリア東部に限定されている事は、内陸に拡散したトルコ系民族の需要が、余り高くなかった事を示唆しているからだ。

長い氷期を湿潤な沿海部で過ごし、mt-M7aから土器の作り方の指導を受け、その際に栽培種も交換したと推測されるmt-Zは、他のmt-M系とは対極的にシベリアの奥深くまで拡散し、漁民と共生する栽培系狩猟民族の主要遺伝子になった。栽培種が豊富で土器も作る事ができる文化的な女性として、トルコ系漁民に尊重されたからではなかろうか。Y-Nmt-Zペアは北欧や東欧にも拡散したが、歴史時代になると大麦や小麦を栽培するmt-R系に浸潤されたから、それ等の遺伝子が及ばない高緯度地域に濃厚に残存する遺伝子になり、北方の遺伝子であると誤解される様になったと推測される。

高緯度地域に拡散したmt-Zは、蔬菜類を主体に栽培する女性だったが、シベリア南部のmt-Zはツングースの交易力を活用し、生産性が高い小麦の栽培者になったと想定される。その様なmt-Zは縄文晩期寒冷期以降、中華世界への南下を何度も試みたが、周王朝の政策によってそれを阻まれていた。古墳寒冷期に華北のアワ栽培が崩壊し、華北にシベリア系の騎馬民族が南下すると、漸くmt-Zも南下する機会を得た。平安温暖期生れた宋は、Y-Nmt-Zを主体とする王朝だった筈だが、シベリア起源の民族同士の抗争が生れて北宋が滅亡し、北宋を滅ぼした満州族の金がモンゴル系の元に滅ぼされる動乱の中で、民族主義者になっていた漢族のmt-DY-O3ペアに排斥され、希少遺伝子に転落したと推測される。

これらの女性達は皆Y-Nのペアだったから、それぞれが異なる経済活動に向かった民族性の違いは、女性達の気質の違いから生まれた可能性がある。

アワ栽培者になったmt-Dは、共生を志向したこれらの女性達とは異なり、漁民との共生から離脱して単独で生きる栽培系狩猟民族に戻り、松花江流域を南下して遼河台地のアワ栽培者になった。

 

アワ栽培者になったmt-D

トルコ系漁民が1万年前にアムール川下流域から去ると、この地域に残ったmt-N9a狩猟民が縄張りを確保し、石刃鏃を使って漁労も行ったと想定される。アワ栽培するか否かに関わらず、mt-N9a狩猟民のペアはmt-Dmt-Gだったから、漁労も行う栽培系狩猟民族になり、mt-DとペアになっていたY-NY-Qとの共生は成立しなかった。mt-N9a系狩猟民族は何千年も前からこの地域を縄張りとし、狩猟技能も漁労技能もY-NY-Qより優れていたから、Y-NY-Qはこの地域の栽培系狩猟民族になる事はできなかった。アムール川支流の中で、水量が豊かだったウスリー川にもトルコ系漁民がいたから、彼らと共生していたmt-N9a系狩猟民が縄張りを確保していた。内陸から流出している松花江は水量が乏しく漁労が不可能だったから、Y-NY-Qmt-N9a系狩猟民族の縄張りではなかった、この河川流域に南下せざるを得なかった。気候が温暖な地域に南下するとアワの生産性が高まったから、mt-Dにとっては、松花江流域に南下する事は不都合ではなかった。

松花江が流れる満州平原は内陸なので、8千年前に太平洋が湿潤化するまでは、降雨はあまりなかったと推測されるが、黒潮は徐々に温暖化する傍らで、寒冷・湿潤化前線は徐々に南下していたから、アワを栽培する栽培系狩猟民族にとって満州平原は、徐々に住みやすい環境に変化していたと推測される。

満州平原にはシベリアに近い北方から流れて来る嫩江(のんこう)、沿海部の山岳地から流れて来る松花江の上流域、牡丹江などが流れていたから、松花江の川底でそれらの河水を利用しながらアワを栽培していたと推測される。氷期のアムール川下流域は、水面標高が現在より高かったとの指摘があるので、現在の松花江も氷期の水面を温存している可能性はあるが、平原を流れる川は蛇行して流路を変えるから、彼らの痕跡が満州平原で発掘される事は期待できない。

狩猟民は見晴らしの良い高台に集落を営んだから、その痕跡は多数発見されている。それを見た考古学者は、この時代は狩猟民族の時代だったと錯覚するかもしれないが、実際の人口は河谷に集積し、漁労が行われる傍らでイネ科植物が栽培される時代だったと想定される。松花江流域に南下したY-NY-Qを比較すると、長い間漁労民族と共生していたY-Nより、直近まで栽培系狩猟民族だったY-Qの方が、狩猟技能は高かったと推測されるが、遼河文化期以降に発掘される人骨はY-Nの方が多いから、Y-Nは河川漁労を主体とする狩猟者で、松花江流域では狩猟より河川漁労の方が重要な食料源だった事を示唆している。

8千年前に太平洋が湿潤化すると、内モンゴルと遼寧の境界にあって、遼河の水源地になっている遼河台地がアワの栽培適地になったから、彼らはそこに移住した。遼河文化の中心地だった赤峰市は標高500m以上の台地上にあるから、この地域の降雨量が激増した8千年前に松花江流域で手酷い水害に遭い、それを避ける為に水害の危険がない高原に居住したと推測される。黒竜江省南部を流れる松花江の、上流域の標高は140m程度で、満州平原から流れ出ているハルビンの標高は120mだから、8千年前に始まった降雨期には、満州平原全体が沼地になったと推測されるからだ。

8千年前以降は、長春がある東の山岳地は森林地帯になったから、磨製石斧を持たなかったこの民族が、アワを栽培しながら狩猟や漁労が出来たのは、比較的降雨量が少なく疎林地だった西の山岳地しかなく、遼河台地が彼らの集積地になったと想定される。農耕文化の草分け的な存在として遼河文化と呼ばれているが、河川漁労には適さない高原地域だから、Y-Nは漁労を断念して栽培系狩猟民族に戻ったが、草食獣も増えたから彼らの人口は増えたと想定される。

8千年前は海面上昇の終末期だから、遼河の下流域の平原である現在の遼寧省や吉林省南部には渤海が北上し、長春が満州平原と渤海の境界になっていたと推測される。海進期の海岸はリアス式海岸の様な景観で、砂浜はなく波が山肌を洗う状態だったから、彼らが安全に暮らせる最南端の地域が、遼河台地だったと考えられる。

遼河台地の南西には峻険な燕山山脈があり、それを越えると華北に至るが、彼らが其処まで南下しなかったのは、当時の華北には冷温帯性の堅果類の栽培者のY-O2bmt-M7aペアがいたから、彼らの狩猟の縄張りを犯す事ができなかったからである可能性もあるが、アワの原生種であるエノコログサなどが繁茂していた華北では、アワを栽培する事が出来なかった可能性もある。アワ栽培者が華北に南下して龍山文化を形成したのは、この時代より23℃低温化した縄文中期寒冷期だから、アワ栽培の南限説が有力になる。

南限説について説明すると、イネ科植物の多くは異種でも交配し、それによって実った種子は、同種の花粉と交配した種子と区別が付かないが、異種交配した種は発芽しないか、発芽しても生育が悪く結実しない。従って交配可能なイネ科植物が雑草化していると、アワ栽培の妨げになった。高度に栽培化された穀類は他家受粉率が低いが、稲作農家でさえイネ科の雑草を嫌い、見付け次第除去しているのだから、この時代のmt-Dも同様のリスクに晒されていたと考える必要がある。

野草はその様な交配によって遺伝子の多様性を維持し、気候変動による環境変化を耐えている。栽培化途上の栽培種は原生種に近く、他家受粉率が高かったから、色々な種のイネ科の雑草が繁茂しているだけで、栽培化途上のアワの栽培が妨げられた可能性もある。栽培種の自家受粉率が高まる事により、有用な遺伝子変異を拾いやすくなる事は既に指摘したが、有用な遺伝子を集める行為は自家受粉した種子を集める行為でもあるから、品種改良によって自家受粉率が高まると共に生産性も高まっていった。

8千年前のmt-Dが栽培していた原初的なアワは、丹念に雑草を除きながら栽培されていたとは考えられないから、厳しい南限があったと想定される。遼河文化時代にアワ栽培が始まったと考えている人が多いが、アワの栽培化の第二段階は、アムール川流域に南下する前に完了していたと推測され、その根拠として以下の2点が挙げられる。

1、縄文草創期までは漁民と共生する北限の栽培者だったmt-Dが、縄文早期末に南限の栽培者に変わると共にアワの栽培者になった。

2、日本最古の石製装飾品が出土した福井県の桑野遺跡は、北陸縄文人になったmt-Dが、焼畑農耕によるアワ栽培に成功した痕跡であると考えられる。

12千年前にmt-Dがオホーツク海の北岸に北上したが、超温暖期の過激な温暖化は、オホーツク海北岸をmt-Gの栽培地にしてしまった。ツングース系漁民にはそれ以上北上する場所がなかったから、漁民の需要を失ったmt-Dは狩猟民族だったY-Qに浸潤し、その一部はアメリカ大陸に渡った。アワの栽培化に成功していたmt-D4mt-D5の一部はオホーツク海北岸に北上したが、大勢は温暖過ぎて魚が腐敗しやすく食糧事情が不安定だった故に、ツングース漁民が敬遠したアムール川流域に集積し、ツングースから漁労技術を獲得していたトルコ系漁民の共生者になった可能性が高い。アワの栽培化に注力していたmt-Dには、アムール川流域に集積したトルコ系漁民の需要はあったが、冷涼な地域で漁獲を高めたかったツングース漁民の中に、共生を求める集団は殆どいなかったと想定される事は既に指摘した。従って1万前にアムール川流域にいたmt-D4mt-D5は、既にアワの栽培化に目途を付けていたと想定される。

日本のmt-D4mt-D5の比と、山東・遼寧のmt-D4mt-D5の比が一致している事は、アワ栽培者にはmt-D4mt-D52系統の母系が混在し、この状態がアムール川流域時代に既に確定していた事を示しているから、1万年前には栽培化の第二段階である、遺伝子変異の集積段階にあった事を示唆し、これも1万年以上にアワが栽培化されていた証拠になる。栽培化の第二段階とは、栽培者の数が多いほど栽培化が進展する事を、栽培者が認識していた段階で、本格的な栽培化の段階に至っていた事を意味する。これについては2番目の根拠である、北陸部族のアワ栽培の導入事情が明らかになると、重要な証拠になる。

但し栽培化の第2段階を終了した事と、農耕民族化できるほどに生産性が高まった事は、同義ではない。このHPでは農耕民族化した状態を、男性達が狩猟によって食糧を調達する必要がなくなり、農耕の主体的な担務者になった状態であると定義するが、アワ栽培者がその様な状態になったのは、鉄器時代になった秦・漢代以降だったと想定されるので、詳細は経済活動の成熟期の項を参照。

桑野遺跡はアワを栽培する焼畑農耕者の集落だったと想定する理由は、磨製石斧の工房が縄文早期の北陸に生まれ、その工房で製作された石製装飾品が桑野遺跡から多数発掘されている事と、遺跡の遺物である石製装飾品が、縄文早期としては異例の豊かさを示し、堅果類の栽培者の遺跡ではない事を示しているからだ。磨製石斧を工房で大量に生産した目的は、焼畑農耕に必要な樹林の伐採以外には考え難く、その磨製石斧の工房で製作された石製装飾品が、桑野遺跡から多量に発掘された事は、焼畑農耕に成功した縄文人の集落だったとしか考えられないからであるが、焼畑農耕によって異様な豊かさを生みだす事が出来た栽培種は、アワ以外には考えられない事も、上記の想定の強力な根拠になる。既にソバはあったから、それより高い生産性が得られていた事になるからだ。

桑野遺跡は、海面上昇に恐怖を抱いていた縄文人が、段丘上に形成した集落の一つだから、その推定年代は、海面上昇が止まった8千年前より古いと考える必要がある。縄文人が8千年前に丘陵上や段丘上の集落を捨て、海岸の集落に下った理由は、海面上昇が停止したからという単純なものではなかった事が分かると、段丘上の遺跡は8千年前より古い時代のものであるとの指摘が、より鮮明になるだろう。

8千年前に太平洋が湿潤化すると、降雨が増えただけではなく、海面温度が現在より4℃も高温でありながら、大気温はそれとバランスが取れない程に冷涼化したから、その状態がもたらした気候の変化を検証する必要がある。典型的な事例として、毎年台風が頻発していた可能性が高い事が指摘できる。それ以前の時代は高温の大気が低温の海面を覆っていたから、台風だけではなく海洋性の低気圧の発生も少なく、嵐の様な気象現象は少なかった。それ故に降雨は少なかったが、風当たりが強い高台に住む事に大きなリスクはなかった。

しかし太平洋が湿潤化すると気候が不安定になり、毎年多数の台風や嵐に襲われる様になったから、丘陵上や段丘上の家屋は倒壊する危険に晒され、不意の強風によって人が飛ばされ、斜面から転落するリスクも伴う危険な場所になった。雨が増えると河川の流域は鉄砲水や増水に見舞われ、従前の経験では安全が得られない状態になった。その様な気候状態で最も安全な低地は、洪水の被害が少ない海岸の樹林の中だったと推測される。縄文人はそれを理解し、海岸に移住したと想定されるから、縄文早期末(8千年前)以降の縄文人は海岸に集落を形成したとの指摘は、気候的な観点で妥当性がある。台風銀座になった九州の定塚遺跡の発掘報告に、倒木による地層の倒錯が記されている事は、その事情を示していると言えるだろう。

海面上昇が停止したから縄文人が海岸に降りたとも言えるが、その時期と太平洋の湿潤化時期が偶然一致したから、人々が一斉に海岸に下った様に見えると考えられる。

その様な正当な指摘を無視し、7千年前の遺跡だと言い張る似非考古学者がいる事は、縄文人の海洋性と石材加工の項で指摘した。以下ではその年代を違った観点から検証する手段として、mt-Dが北陸に渡来してから桑野遺跡に石製装飾品が蓄積されるまでに、どの程度の時間が掛かったのかを見積る。それに必要な時間を、段階として表現すると以下になる。

北陸部族が多数のmt-Dを大陸から北陸に渡来させた段階、それによって北陸でアワ栽培がある程度成功するまでの段階、焼畑農耕を開発してアワの増産に成功した段階、その農法が定型化して栽培者の人口が増えた段階、それによって磨製石斧の需要が高まり、磨製石斧を専業的に生産する工房が生まれた段階、焼畑農耕に成功したmt-Dmt-M7aY-O2b1が、栽培適地を求めて福井に移住した段階、福井でも焼畑農耕によるアワ栽培に成功し、北陸産の磨製石斧を福井に提供する交易ルートが生れた段階、新潟の石斧工房の職人がアワ栽培者のために、石製装飾品を生産し始めた段階、アワの収穫によって富裕化したmt-Dが、石製装飾品の定型化を進めた段階、それを桑野遺跡の住民が溜め込んだ事により、纏まった数の石製装飾品が蓄積された段階を経て、夥しい数の石製装飾品が発掘された。

前例がない生産形態と分業状態を作り上げたのだから、各段階には数百年を要したと想定すると、上記の10段階に数千年を要した事になり、桑野遺跡の年代を、その下限である海面上昇が終了して太平洋が湿潤化した8千年前としても、mt-Dが日本にアワの栽培技術を持って渡来したのは、1万年以上前だった事になる。この年代想定はシベリアで起こった出来事と時期も整合するから、最初のmt-Dの渡来は1万年以上前だったが、多数のmt-Dが渡来したのは彼女達に危機が訪れた、1万年前だったと想定する事が可能になる。

従って上記の結論としてmt-Dが北陸に渡来した事情を想定すると、オホーツク海沿岸でmt-Dの余剰が鮮明になったのは11千年前で、アムール川の流域からトルコ系漁民がいなくなり、mt-Dが栽培していたアワの需要が完全に失われた1万年前に、mt-Dは民族存亡の危機に立たされたから、多数の女性が北陸に渡来したと考えられる。

mt-Dが北陸に渡来する機会を得たのは、アムール川流域にトルコ系漁民がいなくなり、松花江流域に南下してしまう以前だったから、1万年前が下限だった事がシベリア事情から窺えるが、桑野遺跡の石製装飾品がそれを証明している事になる。

mt-Dを導入してアワを栽培したのは、日本では北陸部族だけだった。北陸に渡来した石垣系縄文人は、ヤンガードリアス期に気候が寒冷化しても、日本海沿岸を福井~鳥取に南下しただけで、九州縄文人の様に鹿児島の南端まで南下する事はできなかったから、厳しい寒冷化に耐えなければならなかった。縄文前期の富山の小竹貝塚から発掘された多数の遺体の中で、遺伝子が特定できたのは13個体で、その中の5個体がmt-M9で、3個体のmt-M7aより多かった事が、寒冷化の厳しさを示唆している。つまりヤンガードリアス期に冷温帯性の堅果類の生産性が激減し、栽培化途上のソバの生産性にも至らなかった事を示唆しているから、その経験が彼らの穀物種の選択に大きな影響を与え、関東部族の様に南から稲作者を招聘する事に否定的になり、アワ栽培に傾斜した可能性があるからだ。

ヤンガードリアス期の最寒冷期は12千年前で、mt-Dが渡来したのは11千年~1万年前だから、ヤンガードリアス期の記憶が残っていた可能性は高い。石垣島の洞穴遺跡から発掘された人骨は、2万年前のmt-M7aだけではなく、mt-B4も発掘されているから、北陸に上陸した石垣系縄文人にも、ヴェトナム南部でイネの原生種を栽培していたmt-B4が含まれていた事を示唆しているが、15千年前の北陸で、イネの原生種が栽培できた可能性は低いから、mt-B4はヤンガードリアス期に間違いなく浸潤され、遺伝子が存在した痕跡は消滅しただろう。しかしその記憶は残っていたとすると、1万年前の北陸部族は稲作に忌避的になっていた可能性もある。

石垣島の洞穴遺跡から2万年前のmt-B4が発掘された事は、東アジアの温暖化は、2万年前より早い時期に始まっていた事も示唆している。つまり西ユーラシアでは氷期の最寒冷期は23千年前だったと考えられているが、その頃の東アジアでは温暖化が始まっていた可能性がある。但しその事は、このHPの歴史認識には何も影響しない。

北陸部族が多数のmt-Dを渡来させたのは、日本海沿岸で最も操船技術に長けていたからだと推測される。つまりツングースや細石刃を使っていたmt-N9a系狩猟民族や、後にそれに参加して共生集団を形成したY-N栽培系狩猟民族が、まだオホーツク海沿岸に北上していなかった、2万年前~15千年前の日本海北岸時代に、北陸部族は彼らの主要な交易相手になっていただけではなく、ツングースに漁労技術を教えていたと考えられる。その様な人間関係の延長として、超温暖期になってもアムール川流域に出入りしていたと推測され、ヤンガードリアス期のアムール川下流の漁労文化も、北陸部族との交易から生まれたものだった可能性が高い。その様な北陸部族は、石垣島時代から栽培系狩猟民族である縄文人と共生していたから、栽培に関する理解も深く、1万年以上前に多数のmt-Dを招く事に繋がったと考えられる。

この時期の関東部族の北方遊動組は、まだ縄文人との共生が実現していなかったから、栽培に関する基本的な知識にも乏しく、オホーツク海北岸にいたmt-Dに渡来を招聘する状態ではなかった可能性が高い。またツングースや栽培系狩猟民族と遭遇した時期は、北陸部族より1万年ほど遅かったから、1万年前のアムール川流域に深く入り込む事はなく、アワ栽培者になっていたmt-Dと、接する機会はなかった可能性が高い。つまり関東部族には、アワ栽培者になっていたmt-Dを招聘する機会がなかった。

逆に北陸部族について言えば、彼らには稲作民族の女性を招聘する機会がなかった。北陸部族が台湾に到達したのは、縄文前期だったと想定されるからだ。台湾のmt-B49千年前に海洋民族化し、フィリッピンなどの南の島に南下してしまった後だから、縄文前期に台湾に残っていたmt-B4がいたとしても、切迫して日本に渡来するという動機はなかった。しかし関東に渡来する直前だった1万年前のmt-B4は、孤島になった台湾の面積が急速に縮小していく中で、栽培地の確保に汲々とする状態だった。

mt-B5+M7bがイネを栽培していた浙江省に、北陸部族が達したのは縄文中期だった。この時期のmt-B5は気候の寒冷化による生産性の劣化に苦しみ、フィリッピンへの移住を検討していたから、mt-B5が北陸や山陰に渡来する筈はなかった。つまり関東部族と比較した海洋航行能力が劣り、縄文前期までトカラ海峡を横断できなかった北陸部族には、南方から稲作者を招聘する機会がなかった。

富山県の小竹貝塚から検出された13個体のミトコンドリア遺伝子は、mt-N9b5個体、mt-M7a2個体、mt-M9a3個体、mt-G1個体、mt-A2個体で、これが焼畑農耕者になったmt-Dが北陸から福井や鳥取に去った後の、北陸のミトコンドリア遺伝子の分布事情を示している。

mt-N9b4割を占めている事は、北陸部族の原日本人女性は関東部族の様に季節遊動しなかったから、一族に有用な女性を取り込む機会がなかった事を示唆している。また西日本に移住してアワを栽培していた縄文人達に、海産物を提供したり海運の便宜を与えたりしていたのは、Y-Dmt-N9bペアではなく、Y-O2b1縄文人だった事を示唆している。つまり海洋で船を使っていたのは必ずしもY-Dではなく、Y-O2b1も船を使っていた事を示唆しているから、アムール川流域からmt-Dを連れて来たのは、Y-O2b1だった可能性もある。現在の石垣島の住民は、殆どがY-O2b1である北陸部族の事情は、沖縄に渡って現在の沖縄人に子孫を遺したのは、全てY-Dだった事を示している関東部族の事情と異なっている事を、富山県の小竹貝塚から検出された13個体のミトコンドリア遺伝子も示している。

石垣島で1万5千年も共生した後に北陸に帰還し、更に1万年近く経過していた縄文前期の北陸部族には、Y-Dだけが海洋漁民であるという状態は失われ、関東部族の様に縄文人と漁民は通婚したが、縄文時代が終わるまで生業が異なる別の民族だった人達とは、考え方が違っていた。違う習俗を持っていた様に見えるが、部族が民族の上位概念にあったという点で、全ての原日本人と同じ習俗を持っていた事になり、この発想はシベリアの狩猟民族に起源があったと考えられる。これを現代的な感覚で云えば、異なる民族が集まって国家を形成した場合には、国家が上位概念になり、民族を基底にした分派的な行動は採らないが、異なる生業体系に従事する場合には、部族内に経済的な分派を形成するというものだった。

焼畑農耕にはmt-Dの半分程度のmt-M7aも必要としたので、多数のmt-M7amt-Dと共に山陰に移住してしまったから、北陸に残ったmt-M7aは余り多くなかった事を示唆している。焼畑農耕については、縄文人の活動期の項を参照。

mt-M9a3個体もある事は、ヤンガードリアス期に堅果類の生産性が極度に低下し、ソバが重要な食料になった事を示唆している。但し縄文晩期の低湿地遺跡の分析で、富山ではソバの花粉が多量に見付かっているから、富山は縄文前期からソバの産地だった事に起因している疑いもある。

mt-Gも渡来していた事は、オホーツク海沿岸に留まる事に拘っていたmt-Gも、1万年前に寒冷化すると栽培地が縮小し、ツングース漁民もいなくなって共生する漁民集団の不足に苦しんでいた事を示唆し、1万年前のオホーツク海沿岸の想定事情と整合する。富山は北陸部族の本拠地ではないから、mt-Gは本拠地だった新潟に集積していたと推測される。

mt-Aがどの様な経緯で北陸に渡来したのか、特定する事は難しい。北陸部族は15千年前に北陸に帰還してから、縄文人との共生が常態だったから、超温暖期になっても海産物の腐敗対策として、夏季に家族で北上遊動する必要はなかったと想定される。従って彼らには3万年前から季節遊動する習俗が失われ、交易者だけが季節に関係なく活動していたと想定されるから、関東部族がいなくなった季節にカムチャッカに出向き、mt-A系狩猟民族と交易した可能性もあるが、この話は現実性が乏しい。伝統的な漁労民族だった関東部族と比較した北陸部族の航行能力は劣り、トカラ海峡を横断できる様になった時期は、関東部族より4千年ほど遅れたから、1万年前になっても北陸部族は、オホーツク海北岸には到達できなかった可能性が高いからだ。それ故にオホーツク海北岸に北上したツングース漁民が、関東部族と親しく接する様になったとすると、1万年前以降の関東部族とツングースの協調的な交易関係に結び付く。

従って北陸部族がmt-Aを取り込んだ経緯は、関東部族の漁労情報を得てから、内陸に拡散したトルコ系漁民とツングースの仲介で、獣骨の加工者として北陸に招いた可能性が高い。北陸部族は弓矢の供給者ではなかったが、漁網用のアサや磨製石斧の供給者として、獣骨交易に参加していたからであり、トルコ系漁民と初めて接したmt-A系狩猟民族は、狩猟環境の激変に困惑し、食糧事情の劣化によって困窮していたからだ。従って北陸部族がmt-Aを取り込んだのは、1万~9千年前頃だったと想定される。

小竹貝塚からmt-Dが発掘されないのは、12千年前~1万年前のオホーツク海沿岸で進行したmt-M栽培者の南北層序が、日本列島にも持ち込まれた事を示唆している。つまり気候が相対的に冷涼だが、海洋漁民が集積する北陸にmt-Gが残り、気候が温暖でアワの生産性は高いが、海洋漁民がいない福井や鳥取に、mt-Dが南下した事情は、ツングース漁民が活動していたオホーツク海沿岸にmt-Gが拘り、アワを栽培するmt-Dはトルコ系漁民と共生した事情、更にアワの生産性向上を求めて松花江を南下した状況と、全く同じだからだ。

商才に長けたmt-Gは、新潟の漁民の希望に沿って多彩な蔬菜類を栽培したが、アワの栽培に執着したmt-Dは、気候が温暖で魚が腐敗しやすい山陰に活路を求めてY-O2b1mt-M7aと移住し、新しい経済体制を築いたと想定される。北陸部族が縄文前期~中期に再入植した、石垣島や宮古島の主要遺伝子はY-O2b1で、Y-Dは少数派だから、北陸部族では海洋活動はY-Dだけの経済活動ではなかった事を示しているが、その兆候は縄文早期に既に発現していたとすると、mt-Dと共に福井や鳥取に南下した漁民や石斧の交易者は、Y-O2b1だった可能性が高まる。小竹貝塚から発掘されたミトコンドリア遺伝子も、その事情を示唆している。その様な状態が始まった時期は分からないが、ヤンガードリアス期に堅果類の収穫を諦めたY-O2b1が、海洋漁民になって食料を調達せざるを得なくなり、この傾向を助長した可能性は無視できない。

この様な状態を引き起こしたmt-Gと、北陸に残ったmt-Dの関係の分析は、マーケティング手法の得意とするところになる。

mt-Gはハイセンスな女性達で、オホーツク海沿岸時代のmt-Gは漁労技術を高めたツングースに、彼らが最も好んだ蔬菜類を栽培していた。彼女達は各種の蔬菜類を栽培して日々漁村を訪れ、それを水産物と交換する商行為を展開したと想定される。mt-Gは豊富な栽培種を持っていただけではなく、交換交渉にも長けていたから、言葉巧みに漁民に売り込んで、多くの漁獲を得ていただろう。

それに対してアワ栽培一筋の泥臭い女性だったmt-Dが、漁村に持ち込むのはアワだけだった上に、それを値切るのは漁民の方だったから、言語能力が乏しい女性になっていただろう。アワは貯蔵性が高く旬という概念がないから、mt-Dが特定の漁村を訪れる頻度は少なくなったが、彼女達も日々の食料としての漁獲が必要だったから、遠隔地の漁村まで出掛ける困難も引き受けざるを得なかったと推測される。

その様なmt-Gはツングース漁民との軽妙な交渉を好み、ツングースと別れて漁労技術に劣る上に、辺鄙な内陸出身のトルコ系民族とは、一緒に内陸に移動する気にならなかったとしても、現代人には彼女達の気持ちが良く分かるだろう。現代的な表現をすれば、1万年前のオホーツク海沿岸は都会だったが、シベリアの内陸は辺鄙な田舎だった。栽培系の女性は栽培の第二段階で、同じ栽培種を持つ女性を糾合して有用な遺伝子を集積した事は既に指摘したが、その様女性達の性格の裏面として、その活動に同調しない女性達を排斥する性格があった事も、否定できないだろう。その様な女性達の栽培種は品種改良が進み、その段階に進まなかった女性達の栽培種は、原生種の状態から脱皮できなかったのだから、優れた栽培種を持った女性達には皆その傾向があったと言えるだろう。シベリアで層別された女性達のその後の活動歴が、遺伝子毎にその様な同調性を持っていた事を示しているからだ。

北陸に渡来してもその関係が継続したから、海洋漁民の集積地に留まったmt-Gと、その様なmt-Gを避ける為に、集団で福井や鳥取に移住したmt-Dが生れたとすると、それはシベリア事情の再現でもあった。オホーツク海沿岸で需要を失ったmt-DY-Nと共に、トルコ系漁民が集まっていたアムール川の流域に南下し、北陸のmt-DY-O2b1と共に山陰に南下したからだ。この際のY-NY-O2b1も、共にmt-Dの息子達だった事に留意する必要がある。

従ってmt-GとペアになったY-O2b1は、交易を重視する極めて海洋民族的な人々になり、造船や商品開発に邁進して北陸の海洋文化の高度化を支えたが、農耕民族的なmt-DとペアになったY-O2b1は、交易を焼畑農耕を支える手段にしたから、焼畑農耕の為に磨製石斧の工房が生れ、その工房で石製装飾品が作られたと想定される。

現代日本人にmt-CZは殆どなく、僅かな割合であるmt-Zの過半は、古墳時代に日本に亡命した高句麗人由来であると考えられるので、1万年前に北陸に渡来したのは、mt-Dmt-Gだけだった可能性が高い。内陸に移住したトルコ系漁民の需要がmt-Zに集中していたから、北陸への渡来を望む女性がいなかったとすると、日本人の遺伝子分布は1万年前のシベリア事情と整合する。

古代人の食生活の基本条件をこの様に設定し、気候条件と地理条件の変動をそれに加味すると、諸事情がジグーソーパズルのピースの様にピッタリ嵌るのは、直面した気候変動に古代人が適切に対応した事を示している。つまり古代人は知恵に満ち、極めて高度な経済合理性を持っていた事を認知しなければ、石器時代の歴史は理解できないし、その歴史を継承した金属器時代も解明できない。

それに関連する事柄として、指摘して置きたい事がある。現代社会には歴史を捉える潮流が概略3流あり、権力闘争の為のプロパガンダ、宗教の教義を形成する思想の根拠、歴史から教訓を得る為の事実追及に分類される。前2者は王朝史観と聖書史観であるとも言え、後者はこのHPの立場になる。

現在のそれぞれの流れを見ると、王朝史観派と聖書派が連携して事実追究派に対峙している様に見えるから、このHPでもその趣旨の記述を各所で行ったが、現在の聖書派のあるべき姿としては、事実追及派と連携する必要があるのではなかろうか。科学技術が聖書の歴史的な記述内容を否定している現状では、それに影響された人々が教義に懐疑的になり、宗教本体が死滅に至る流れを生み出しているからだ。

しかしこのHPが示す様に古代人は知恵に溢れ、経済活動に邁進しながら秩序感にも敏感な人達だったとすれば、彼らが記録として遺した価値観を現代人が重視する事は、極めて道理に叶った行為になる。つまり聖書に記された歴史観や絶対神に対する忠誠心の要求は、古代人の有益な言葉を広める手段に過ぎなかった事を認めると、宗教の本来あるべき状態である、高い倫理観を持って生きる事を推奨する教えの布教に、人々が肯定的になる事ができるからだ。

世界の大宗教が生れた事情を忖度すると、弥生温暖期の大陸で農耕の生産性が高まると、その結果として農耕政権が生れた。その様な時代に権力闘争文化が生れ、石器時代的な秩序感が崩壊したから、大宗教が示す教義が石器時代的な秩序感と、新しい時代に即した考え方の調和を提起したのであれば、傾聴に値するだろう。老子の教えが現代日本人の感性に適合し、孔子の箴言が現代日本人の共感を呼ぶのは、その様な背景があるからだと考えられるからだ。

 

5-7  8千年前に太平洋が湿潤化すると気候が安定し、海面上昇も止まって縄文海進の時代になり、自然環境が安定した。

8千年前に太平洋が湿潤化すると、現在より4℃ほど温暖な状態で気候が安定した。海面上昇もその頃に停止して縄文海進の時代になり、対馬海流が日本海に安定的に流れ込む様になったので、現在の状態に近い日本列島になった。

縄文海進期の海岸の景観は現在とは全く異なり、現在沖積平野が広がっている地域はすべて海に覆われ、現在の山裾の岩肌を波が洗う状態になり、海岸はリアス式の地形になっていた。内陸には多数の湖沼があったが、その周囲に形成された小さな川洲以外は、氷期に深く削られた峻険な谷に囲まれた深い山地に覆われ、平坦な地形は殆どなかった。従ってその様な時代には、仮に栽培の生産性が高まっていても、農業が主要な生業になる状態ではなかった。

しかし関東には武蔵野台地や多摩丘陵が広がり、平坦な地形や低い丘陵を形成していたから、多数の縄文人がそこに入植した。武蔵野台地や多摩丘陵は地殻の隆起によって生まれた極めて特殊な地形で、過去の間氷期に沖積平野を形成した河川が、間氷期が終わる前に隆起によって押し上げられた沖積平野の周囲を流れる様になったから、氷期初頭の豪雨期にその川が沖積土砂を浸食して海面が低下した海に流し出す状態にならず、平坦な地形が残っていたからだ。

関東に入植した縄文人は海面上昇が停止するまで、海に恐怖感を持って台地上に集落を形成したが、海面上昇が止ると海岸の低地に集落を遷した。しかしそれらの地域は堆積物に覆われているから、遺跡は発見され難い。東京湾沿岸は地殻の沈降地帯である上に、多摩川、荒川、利根川が多量の土砂を堆積し、その荷重も加わって広範囲に地殻が沈降しているからだ。武蔵野台地や多摩丘陵は、沖積土砂が堆積した柔らかい地盤だから、海面が低かった氷期~縄文早期までに多数の河谷が刻まれ、海進期にはその谷に海水が侵入したから、縄文人は小河川の流域に形成された狭い河原で生活し、丘陵上に堅果類の樹林を形成していたと想定される。当時の河谷は堆積土砂に埋もれたから、丘陵上の遺跡だけが発掘されている。

1万年前に縄文人がその地域に展開すると、数千年後に台湾からmt-B4+M7cが多数渡来したが、低湿地で稲作を行ったので彼女達の生活の痕跡は発掘されない。彼女達の故郷だった台湾は、地殻が急速に隆起している地域なので、台湾時代のmt-B4+M7cは海面上昇を実感していなかった上に、堅果類の栽培者でもなかったからだ。従って丘陵上の遺跡だけで縄文人の生活を類推すると、偏った味方に陥る。考古学者が関東で縄文稲作が行われた事を認知できないのは、それだけが理由ではないが、一つの要因にはなっているだろう。

縄文時代の最大人口を占めていた漁民の集落は、海岸にあったから全く発掘されていない。従って考古学的な実績だけで、縄文時代を語る事に意味はないが、考古学者は発掘至上主義者だから、発掘成果だけで歴史を論評したがる。遺伝子解析ができなかった時代には、それも仕方がなかったが、遺伝子分布が明らかになった現在は、認識を変える必要がある。

 

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