縄文文化の形成期(旧石器時代、縄文草創期、早期前半) その1

縄文文化の形成期の目次

創生期 湖沼漁民だった原日本人がシベリアから日本列島に漂着し、海洋漁民に変貌するまで。

1、人類のアフリカ脱出とユーラシア大陸への拡散

2、原日本人の日本列島漂着と海洋漁民化

先縄文時代 原日本人が原縄文人と台湾近辺で出会い、原縄文人を九州に上陸させるまで。

3、原縄文人の起源と原縄文人集団の形成

縄文草創期~早期前半:縄文人が九州などに上陸した15千年前から、気候が安定して縄文人が本州に拡散した1万年前まで。 (その2)

4、縄文時代の幕開け

5、縄文文化の開花

 

1、 人類のアフリカ脱出とユーラシア大陸への拡散

遺伝子分布は歴史の通説に誤りが多い事を示し、史学は科学ではない事を実感させるが、史学が科学を訂正しなければならない場合もある。古気候学は科学の分野に属しているが、断片的な事象から大胆な推測を導いているから、歴史事実も参照しなければ誤った判断に陥り易い。その判断は歴史解釈に大きな影響を与えるから、史学者も古気候学の成果の妥当性を検証する必要がある。

 

1-1 人類の出アフリカ事情から、氷期の気候と海水準を検証する

古気候に関する通説の問題点を緑字で指摘し、黒字でそれを解説する。

通説では氷期に北大西洋両岸の氷床が徐々に厚くなり、23万年前の最寒冷期に極大に達し、海水準が現在より120m低い極小期になったと説明している。史学者はそれを前提に、人類は6万年前にアフリカを出て、インド洋を周回して東南アジアに達したと推理している。

人類は54万年前に欧州に進出し、オーリニャック文化と呼ばれる旧石器文化が、43万年前に生れたと考えられているから、人類はそれ以前にアフリカを出た事は間違いなく、海面が氷期に徐々に低下したのであれば、海面が100mも低下していない状態で、幅10㎞の紅海を渡った事になるから、どの様に渡ったのかが難問になっている。出来るだけ低い海面を想定する為にできる限り遅い時期を設定し、6万年前にアフリカを出た事にしたが、それでも紅海を渡った方法を推測できないだけではなく、6万年前より古い人類の痕跡がインド洋沿岸やオーストラリアで発見され、解釈が行き詰っている。

氷期の10万年間に徐々に寒冷化が進んだとする通説では、上記の矛盾が発生するだけではなく、氷期の寒冷化が始まった原因も、後氷期に突然温暖化した理由も説明できない。しかし北大西洋両岸の厚い氷床が氷期初頭に形成され、それが氷期の寒冷な気候を生んだのであれば、人類史の矛盾が解決するだけではなく、氷期が始まった理由も、氷期に低温化が進行した理由も、氷期が突然終わった理由も説明できる。つまり氷床は徐々に厚くなったのではなく、氷期初頭に極大化した氷床が氷期の間に徐々に融解したから、その面積が縮小して臨界点に達すると、後氷期の温暖化が始まって残った氷床も急速に融解したと想定すると、上の説明できない疑問はすべて解消する。6万年前の海面は120m以上低下していた事になり、出アフリカ問題が解決すると共に、氷期が終わっても厚い氷床が残り、後氷期の温暖化によってそれが融解したから、海面が2万年前から120mも上昇した事になり、古気候の解釈にも問題がないからだ。

氷期初頭に氷床が急成長した事と、その時期が寒冷化の極点ではなく、寒冷化の始点でしかなかった事に違和感があるかもしれないが、後者については、北半球の局所でしかない北大西洋両岸に、突然巨大な氷床が生まれても、熱容量が大きい世界の海洋は、直ぐには冷却されなかったと考える事に合理性がある。氷床が生み出す冷気が徐々に海洋を冷却し、氷期の最寒冷期に至るのに、10万年を要したと想定する事も不合理ではない。この想定に立てば、過去120万年間の氷期の期間が一定ではなく、次第に長期化していた事も説明できるし、南半球にあるアンデス山脈では、氷期になっても大きな氷床が生まれなかった理由も説明できるからだ。

これらに関する詳細な論考は、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理(B)周期的な気候変動に譲り、此処ではその理論の概略を説明し、この新しい仮説によって上記の人類史の矛盾も、古気候に関する通説が抱える矛盾も解消する事を示す。

 

12万年前の氷期初頭の短期間に、北大西洋の西岸に膨大な氷床が形成された理由

地軸の傾きが大きくなると、高緯度地域に陸地が多い北半球では、陸地が受ける太陽エネルギーが増加して地球の大気が温暖化する事は、氷期と間氷期が周期的に発生した原因を、天文学的に説明する試みとしての、ミランコビッチサイクルの最大変動要素として知られている。しかしミランコビッチサイクルが示す温暖化と寒冷化の要因だけでは、氷期と間氷期の大きな温度差や、変動サイクルが徐々に長期化した事は説明できない。特に最近の120万年間に、氷期と関氷期が10万年に近い周期で繰り返された事については、ミランコビッチサイクルとは別の原因を探す必要がある。

ミランコビッチサイクルの最大変動要素は、4.1万年周期で繰り返される地軸の傾きの変動で、12万年前の前回の間氷期の終焉は、これによる寒冷化がトリガーになった事は通説も認めている。しかしミランコビッチサイクルの次の温暖期に間氷期にならず、2回目にもならず、3回目の温暖期に漸く間氷期になった事は、通説では説明できない。

このHPが提唱する新しい仮説は、氷期が発生した理由を以下の様に想定するが、現在の観測データからこの結論を導く事ができると主張するのではなく、人類がアフリカから拡散した過程を検証すると、このような結論にならざるを得ないからだ。従って新しい仮説に関する以下の説明は、通説の様な現実と明らかに矛盾する問題はない事を示し、これを提案する根拠としている。

新しい仮説は13万年前の間氷期の終末期に、地軸の傾きが減少して北大西洋北部が寒冷化すると、暖流であるメキシコ湾流の上空を冷たい大気が覆い、北大西洋の北部東岸が激しい降雪に見舞われた事により、前回の間氷期の温暖な気候が終焉したと想定する。ノルウェー海の海水が冬の冷えた大気によってある程度冷却されても、海流が北上してそれより冷たい風が海面を覆えば、水蒸気が巻き上げられて膨大な雪が降る事は、冬の日本海沿岸を連想すると分かり易い。現在のスカンジナビア半島でも毎冬同じ事情が発生し、冬季のフランスの洪水もこの現象に起因する。

地軸の傾きが緩やかになり、北半球の大気温が低温化していく中で、千年に一度起こる様な極寒の寒気団が生まれると、スカンジナビア半島やロシア平原が大雪に見舞われるだろう。メキシコ湾流の北上力は、大気が寒冷化すると強くなるから、北大西洋北部の海水温や大気温が低下しても、海面が凍結しない限りメキシコ湾流の北上は止まらない。言い換えると北極海の海氷が、メキシコ湾流の北上によって徐々に融解すると、メキシコ湾流の北上力は高まっていく。北欧はこの現象により、後氷期に徐々に温暖化してきたから、ミランコビッチサイクルが示す地球の寒冷化とは、逆行する現象を示している。

現在の地軸の傾きは9千年前の極大期を過ぎた後の、寒冷化の途上にあり、極大と極小の中間に近付きつつあるから、寒冷期が始まる前の温暖期の終末期になる。前回の間氷期が始まった時期は、地軸の傾きが増加していた時期、即ちミランコビッチサイクルが示す温暖化期で、前回の間氷期が終わった13万年前は、地軸の傾きの減少期、即ちミランコビッチサイクルが示す寒冷化期だった。今回の間氷期も地軸の傾きが増加していた温暖化期に始まり、現在は傾きが減少している寒冷化期になる。過去の間氷期はすべて、ミランコビッチサイクルの一つの温暖期の範囲内で終わったから、今次の間氷期も、長く見積もっても数千年以内に終焉すると想定される。

現在の北欧の気候は、間氷期の終焉事情を内在しているが、近未来に間氷期が終了する事を明示しているわけではない。北極海の氷の融解が進行しているから、地球全体が温暖化している様に見えるが、北極海の海氷の融解は、メキシコ湾流の北上力が強まった事を示しているだけで、地球規模の温暖化を示しているのではない。尾瀬の花粉が縄文中期以降の東ユーラシアは、ミランコビッチサイクルに従って寒冷化してきた事を示しているからだ。最近50年ほどの微弱な温暖化が、文明活動によって引き起こされた可能性まで否定する必要はないが、北極圏の大気が寒冷化するとメキシコ湾流の北上力が強化されるから、地球規模の寒冷化が進行しても西欧は相対的に温暖化する、逆行現象が起こり易いから、西欧の温暖化には注意が必要になる。つまり世界が温暖化しているのか寒冷化しているのかは、北大西洋沿岸地域を除いた、北半球に関するデータが重要になる。しかし100年程度のデータでは、期間が短すぎて判定できないから、9千年前から連続的な気候変化を示している尾瀬の花粉データが、重要な判断材料になる。

この一見矛盾した状態を理解する為には、北大西洋を北上するメキシコ湾流は気候が寒冷化すると北上力を強め、高緯度地域の海水温を上昇させる特異な暖流である事を認識し、そのメカニズムを確認する事が、この新しい仮説の重要な要素になる。

暖流は水温が高いから、多量の水が蒸発して塩分濃度が高まり易いが、温暖な地域では降雨と相殺されてその作用には限界がある。しかし暖流が北極圏に北上する過程で、暖流を横切って西から吹く寒冷な大気が、多量の水分を蒸発させるから、それが西欧や北欧の大地に雨になって降る。しかし陸から流れ出す川は、暖流とは関係がない海域に流れ込んでいるから、暖流は極めて塩分濃度が高い状態が維持されている。その終着点であるグリーンランド海で、北極圏の大気によって4℃に冷却されると、世界で最も塩分濃度が高く、最も重い海水になって海底に沈む。

それがグリーンランド海の海底に溜まり、その特異な海水の表面が水深400m位になると、アイスランドとグリーンランドの間の海底に横たわる水深400mの海嶺を越え、大西洋の3千メートルの深海底に滝の様に流れ込む。その落下によってグリーンランド海の海水が欠乏すると、それを補う力がメキシコ湾流の北上力を形成する。グリーンランド海と北極海は3千メートルの海溝で繋がっているから、巨大な容量を持つ北極海の広い海底が、塩分濃度が高く冷たい海水を溜め込み、それが徐々に大西洋の深海底に滝流し、世界の大洋の深海に比重が重い深層水を供給している。それ故にメキシコ湾流は夏季になっても北上するし、太平洋の海水もベーリング海峡から北極海に流入している。但し深層水が爆流しているのはアイスランド沖だから、ベーリング海峡の海流よりメキシコ湾流の北上力の方が圧倒的に強い。

地軸の傾きが小さくなって地球が現在より寒冷化すると、ノルウェー海を流れるメキシコ湾流の上空で発生した厚い雲が、太陽光を遮る期間が長くなり、陸上に積もった雪が太陽光を反射する期間も長くなるから、春になっても陸地が暖まらない状態が現在より長くなり、北欧の大気は寒冷化するが、間氷期である限りは春になると雲が減少し、積雪が融解して四季が巡っている。

今回の間氷期は、前回の間氷期の2倍の長さを過ぎ様としているが、それでも終了する気配は見えていない。その理由は今次の間氷期の開始が、ミランコビッチサイクルの温暖期になった直後で、前回の間氷期より時期が早かったからだと考えられる。つまり間氷期の開始が速かった分、地軸が温暖化方向に十分傾いていなかったから、間氷期の開始直後の急激な温暖化が不十分な状態で終わり、間氷期になっても北欧の厚い氷床がなかなか融けず、北極圏の海氷の融解は更に遅かったからだと考えられる。そのためにメキシコ湾流として北上した海流が、北極圏の海氷によって北上を妨げられ、海流が冷却される海域が間狭いエリアに制限されていた時期が、長かったからだ。海流が冷却されるエリアが狭ければ、重い深層水の生成効率が高まらないから、メキシコ湾流の北上力も高まらず、冬季の雲の発生量や降雪量も増えないからだ。今次の間氷期にこの様な現象が生れたのは、即ち後氷期の温暖化プロセスの進行が緩慢だったのは、氷期が終了するまでの期間が、前回の氷期よりミランコビッチサイクルが1周期多かったからだ。それによって氷期の温暖期が始る準備が過剰に進んでいたから、氷期の温暖期が始まると直ぐに間氷期が始まったが、ミランコビッチサイクルの温暖期が始まった直後の進行では、プロセス終了間際の超温暖化ブーストが働かず、異常に温度が低い間氷期になったからだ。

南極の氷床は、前回の間氷期は今次の間氷期より温度が高かった事を示し、地理学者は前回の間氷期の海水面は現在より数十メートル高かった事、即ちグリーンランドの氷床は融け去り、南極の氷床もかなり融けた事を示唆しているから、南極の氷床と同じ事を示している。つまり氷期が長くなった事は、過去120万年間に地球が徐々に寒冷化している事を示しているに過ぎず、今次の間氷期に何か特別な事が起きた事は示していないから、今次の間氷期は更に1万年続くかもしれないという期待は幻想になる。纏めて言えば、北極海の海氷の融解の遅れがメキシコ湾流の北上を阻止し続け、冷たく重い海水が高緯度地域で効率的に生成される状況が、なかなか生まれないから、間氷期の完全終了が遅れている事が、今次の間氷期の長期化に繋がったと想定される。言い換えると、13万年前に終了した前回の間氷期は短かったが、昇温速度は今次の間氷期より早く、気温も今次の間氷期より高かったから、北極圏の海氷が急速に融解して間氷期プロセスの進行が急速に進み、終了も早かったと想定される。前回の間氷期の終了時の気温は現在よりかなり高かったから、間氷期の終了条件として、気候が温暖であるか否かは重要な要因ではなかった事を示唆している。

これらの諸条件を勘案すると、メキシコ湾流が北極海に侵入して海流の冷却効率を最大化する事により、間氷期の終了プロセスが始まると想定される。

13万年前に間氷期が終了したメカニズムとして、メキシコ湾流が北極海の奥深くまで侵入し、それによって暖流の流量が増加してノルウェー沖の海流温度が上昇すると、スカンジナビア半島の冬季の降雪量が増加したと想定される。地軸の傾きが緩和して寒冷化が進行した或る時期に、千年に一度程度の寒冷な寒気団が極域に発生すると、その年の北欧の上空を雲が厚く覆い、降雪量が激増した事が、間氷期終焉のトリガーになったと考えられる。春になると陸上に注がれる太陽光が、なかなか融けない積雪によって反射され続けると、大地が温まらず大気温も上昇しない状態が生れ、それが雲を生み続けて気温が上昇しないと、夏になっても雲が減少して太陽光が雪解けを促す事態も起こらず、再び秋になって豪雪期が始まると、北大西洋の北東岸に氷床が形成され始めたと想定される。これは正帰還現象だから、一旦閾値を超えると加速度的に進行する。この場合の閾値は、どの程度南方まで豪雪に見舞われるか、或いはどの程度の積雪量になるかという様な、状態値になる。

現在のメキシコ湾流は、北緯78度のツバールバル諸島で南に回転し、グリーンランド海に南下している。北極海の氷が融けると北緯80度以上の地域を周回し、グリーンランド海に南下する様になるだろうから、それによって北欧の冬季降雪量が徐々に増加していけば、突発的な事象がなくても、今次の間氷期は終焉する可能性がある。この場合は純粋な自然現象だから、閾値という概念はなく、自然体で氷期に突入する事になる。

いずれにしても、何らかの契機によって間氷期の終了プロセスが始まると、低温化要件が次々に重なり始め、この地域の大気は加速度的に低温化すると想定されるが、メキシコ湾流の北上力はそれによって強化されるから、雲や雪は増え続けて正帰還状態になり、氷期に突入すると考えられる。

地軸の傾きが緩和され、北半球の高緯度地域の大気温が低温化しても、熱帯域で暖流を温める太陽光が減少するわけではないから、メキシコ湾流の温暖力の根源である熱帯地域や亜熱帯地域の加熱力は低下しない。メキシコ湾流はブラジル沖で加熱が始まるから、北半球の大気が寒冷化しても、南半急の温暖化力は北大西洋の寒冷化とは関係なく、暖流は恒常的に温められるから、それがグリーンランド海に流れ込む現象も継続する。

正帰還状態になると雲や積雪が増えて気温が下がり、気温が下がると雲や積雪が更に増えるから、降雪現象は一気に加速すると共に、北大西洋東岸の寒冷化も急速に進行したが、低緯度地域は即座にそれに反応せず、海洋の低温化は遅々として進まなかったから、北大西洋東岸に巨大な氷床が形成され、氷床は北米大陸にも広がったが、北米大陸の氷床形成は、冷却されていない太平洋の海流の上を、北大西洋東岸で発生した冷気が覆ったからで、これは上記の正帰還状態と同時に起こったのではなく、むしろ終末期~氷期の期間中に、太平洋の冷却プロセスとして継続的に起きた事だったと想定される。

縄文時代の導入項で説明した様に、後氷期の急激な温暖化により、温暖化の正帰還現象が起こると、大洋が湿潤化するまで超温暖期が続いたから、その結果として北ユーラシアと北米大陸の氷床が完全に融解し、氷期は完全に終了した。

地球上ではこの二つの正帰還が交互に発生する事により、氷期と間氷期の双安定状態が生れたと考えられる。電子工学ではありふれた現象だから、その応用からこの様な発想が生まれるが、自然科学者にはこの視点が欠けている様に見える。

地球の寒冷化の終点を決めたバランス点は、以下のようなものだったと想定される。新しい仮説から導かれる推論を以下に展開するが、確認された事実ではないから、「考えられる」とか「推測される」との表現が相応しいが、それでは書く方も読む方も煩雑だから、文章上は断定形で表記する。

現在の安定した気候の下では、気温が下がるとやがて海水温も下がり、水蒸気の蒸発量が減少して空が晴れる。空が晴れると大地や海洋が太陽光を浴びて昇温するから、気候はこのバランス点を中心に微振動を繰り返している。しかし上記の様な正帰還が発生して大雪が降り、北大西洋の東岸に膨大な氷床が生まれると、その奥のウラル地域やシベリアにも厚い氷床や冷たい巨大湖が形成され、それらが高緯度地域の大気を冷却するから、氷期の開始期にそれが正帰還として暴走すると考えられる。

シベリアを流れる大河は北極海に注いでいるから、北極圏が厳しい冷気に覆われると河口が凍結して巨大な氷の堰を形成するから、シベリアは巨大な水溜りになる。シベリアには大平原が幾つもあるから、それぞれが氷結した巨大湖を維持すると、北大西洋東岸に形成された厚い氷床以上に、高緯度地域の大気を冷却した可能性が高い。

前回の氷期初頭のこの急激な寒冷化は、メキシコ湾流の北上の停止によって終焉した。その理由としては、ノルウェー海が海氷に覆われてメキシコ湾流が北上できなくなったからである可能性もあるが、陸上に巨大氷床を形成した結果として海面が大きく低下し、塩分濃度が高く冷たい深層水がアイスランド近辺の海嶺から爆流しなくなったから、メキシコ湾流を北上させる力が失われた可能性もある。いずれにしてもメキシコ湾流の北上が停止すると、シベリアや北大西洋の両岸に氷床を形成するプロセスは停止し、ユーラシア大陸の高緯度地域に巨大氷床を抱える氷期の安定状態が生れた。

厚い氷床は高緯度地域の大気温を低下させたが、膨大な熱容量を持つ海洋は、氷期のバランス点まで冷えるのに時間が掛かったから、海洋を含めた地球全体の冷却化はこの状態が起点になった。太平洋やインド洋は熱帯の海と繋がり、熱帯で温められた海流が北上していたからだ。

極域の冷気が太平洋に流れ込むと、太平洋沿岸でも膨大な水蒸気が発生して厚い雲が生れ、大降雨時代になったから、シベリア東部やアメリカ大陸の東岸にも氷床が形成され、それによって北極圏の気温は更に低下しただろう。その結果、北半球の高緯度地域のほぼ全域が氷床に覆われ、その氷雪が太陽光を反射すると北半球全体の気温が低下し、北半球の亜熱帯循環が冷却されていく過程が新たに始まった。

北太平洋では親潮が消滅し、北太平洋亜熱帯循環がカムチャッカ半島やアリューシャン列島まで北上したから、その上を冷たい西風が吹くと、北アメリカ大陸の北西岸にも巨大氷床が生れた。氷床が生み出す冷気と低緯度地域の温暖な気候が、極端な温度差でせめぎあう状態になったから、氷期の不安定な気候が生れたと考えられる。親潮が消滅したのは、以下の理由による。親潮の水源は海底の深層水が、アリューシャン列島の南海域に湧き出したもので、深層水の殆どの水源は、北上したメキシコ湾流がグリーンランド海で冷却され、沈降した海水だからだ。従って氷期初頭にこのメカニズムが消滅すると、親潮も消滅した。

氷期の寒冷化は北半球で起こり、その原因は北大西洋と北ユーラシアに局在していたから、熱容量が大きい広大な海を抱える南半球が、北半球の高緯度地域の寒冷化の影響を受けて低温化するには長い時間が掛った。北半球と南半球の大気は赤道を介して交換されるから、北半球の極域が寒冷化しても、その影響が直接南半球に及んだわけではないからだ。また海流は南半球と北半球に分かれ、それぞれが独立して循環しているから、海流が気候を直接交換する事もないからだ。アンデス山脈には大氷河が生れなかったかった事が、その事情を示している。

氷期初頭の大降雨時代は、高緯度地域の太洋が過冷却状態になるまで続いたから、間氷期に形成された海岸の沖積平野の土砂は、その豪雨によって海面が低下していく海に流れ出し、前回の間氷期に形成された現在の様な沖積平野は、この時代に跡形もなく失われ、氷期の低下した海面に見合った新しい沖積平野が形成された。大陸内部の湖沼も日本列島の湖沼も、この時期に殆ど消滅したから、現在の湖沼や氷期の湖沼は、その後の造山運動によって生まれたと考えられる。

高緯度地域の大洋が過冷却状態になると雲の発生が停止し、大洋の海水が陽光を浴びてある程度昇温すると再び雲が発生したから、高緯度地域の気温の急低下が終了すると、気候の振動期になった。南極の氷床が、その振動周期は5千年ほどだった事を示しているが、南極は寒冷センターから遠く赤道を挟んでいた上に、南半球には北半球とは異なる独自の気候安定化システムがあるから、南極の気温の低下幅はかなり圧縮され、北半球の気温の低下がどの程度だったのかは示していない。北半球では地域差が大きく、北太平洋亜熱帯循環はカムチャッカ半島やアリューシャン列島に北上したから、氷期にはかなり冷却されたと想定されるが、北大西洋亜熱帯循環はスペイン沖で南下するから、氷期には余り冷却されなかった様だ。スペインや南フランスに氷期の最寒冷期の狩猟者の遺跡が残されているのは、その為だった疑いがある。

中央アジアとシベリアを覆った巨大湖は、氷期の寒冷期には全面氷結したが、氷期の温暖期には南部の氷が融けて水が蒸発し、巨大湖の面積は徐々に減少していった。6万年前に氷期の2回目の温暖期が始まったが、巨大湖は未だ水や氷を十分蓄えていたから、後氷期の気候条件は生まれなかったが、2万年前の温暖期時にはそれらの巨大湖の多くが干上がっていたから、北大西洋両岸には巨大氷床が残ってはいたが、太陽光を浴びたシベリア東部の大地が東ユーラシアの大気温を上昇させたから、それがトリガーになって後氷期の急激な温暖化が始まったと考えられる。厳密に言えば、2万年前に氷期の温暖期が始まり、シベリアや中央アジアに残存していた最後の湖沼群が消滅したから、地軸の傾きに由来する気候が温暖期になる15千年前に、温暖化の正帰還が始動して急激な温暖化が始まったと考えられる。

大気の昇温と共に太陽光を反射する氷雪が融け、それによって太陽光を浴びた大地も、大気温を急上昇させる勢力に加わると、暖かい大気が冷たい海水を覆って雲の発生を抑圧したから、大気の昇温が更に加速された。しかし熱容量が大きい海水温はなかなか昇温しなかったから、海水の昇温が正帰還的に進行した事を、縄文時代の導入項で説明した。

この新しい仮説が正しければ、何度も氷期と間氷期を繰り返した120万年間に、人類がアフリカだけで進化した理由や、直近の氷期が始まってからユーラシア大陸に拡散した現生人類が、歴史的な経緯を経て現在の遺伝子分布に至った理由を、無理なく説明する事ができる。それだけではなく、冒頭に提起した人類の出アフリカ時の疑問も氷解し、後氷期の急激な温暖化の後に寒冷なヤンガードリアス期になった理由も提示できる。

ヤンガードリアス期に寒冷化したのは、1万5千年前に始まった後氷期初頭の急激な温暖化により、北西ユーラシアに残存していた厚い氷床が急激に融け、中央アジアや西ユーラシアの一部に巨大湖が再生したからだ。その湖水が、氷床から吹き抜けて来る冷たい風に晒されると、雲を発生させたり大雪を降らせたりして氷期の寒冷化事情を局部的に再現したが、その様な湖が再生したのは、北大西洋の両岸に厚く堆積していた氷床の融水が流れ込んだ、中央アジア西部と西シベリア及びアメリカの平原だけで、氷床が失われていた東シベリアや中央アジア東部では湖沼が再現しなかった。それ故にやがて東ユーラシアの暖気が、西ユーラシアに再生した湖の氷を解かして太陽光を吸収する水にしてしまうと、水の蒸発が急速に進展して正帰還状態になり、再び急激な温暖化に向かったと想定される。

この新しい仮説に従えば、氷期初頭の海面は200m以上低下した事になる。

氷期の最寒冷期が終了した2万年前から、後氷期の本格的な温暖化が始まった15千年前に至るまでの、まだ氷期の温暖期に過ぎなかった5千年間に、海面は20mほど上昇した。これは氷期の温暖期の現象であって、後氷期の本格的な温暖化現象ではなかった事を、南極の氷床が示す南半球の気候から読み取る事ができる。6万年前に始まった氷期の2回目の温暖期は、後氷期の温暖化に至らずに2万年続いたから、最終氷期終了時の氷期の温暖期の5千年間の、4倍の期間に海面は少なくとも80m上昇したと見込まれる。この算定は地軸の傾きが示す温暖期の初期の事情を基本にし、氷期の温暖期のピーク時に、更に高温化した事情は勘案していないから控えめな数値になるが、一応これを基準にして以下の計算を進める。

108万年前の温暖期にも80m上昇したとすると、氷期初頭の海面は80mX2120m280m低下した事になり、控えめな見積である事を勘案すると、氷期初頭の海面は現在より300m以上低下した可能性が高い。メキシコ湾流の北上力を生んでいる、グリーンランド海と北大西洋の間の海嶺の深さは400mだから、氷期初頭にメキシコ湾流の北上が停止したのはノルウェー海が氷結したからではなく、海面の低下によって北極海の海底の重い海水が、北大西洋の深海底に滝流しなくなったからである可能性が高く、突発的な現象に依存せずに自然に推移する現象として仮説が完結するから、氷床の形成を止めた要因としてノルウェー海の氷結仮説より有力になる。

氷期にメキシコ湾流の北上が停止し、グリーンランド海で深層水が形成される現象も停止すると、深層水が北太平洋で沸き上がる現象もなくなり、親潮が消滅した。その結果北太平洋亜熱帯循環である黒潮が、氷期にはカムチャッカ半島まで北上すると、東シベリアは動物群の楽園が生まれる環境になったから、マンモス動物群が繁殖していた氷期のシベリア事情を合理的に説明する。

通説では氷期の気候が徐々に寒冷化し、北大西洋両岸の氷床はそれにつれて成長したと主張している。北大西洋の海底泥の観測値が、氷期に海の表面温度が徐々に低下した事を示しているから、それが通説の背景データになっているが、北大西洋の亜熱帯循環は氷期にも継続的に存在し、スペイン沖に北上する程度だから、北大西洋の表面温度はその海流の温度を示している疑いが濃い。その海流は低緯度地域で温められてから、北大西洋を循環したから、北大西洋北部の大気が急冷しても急冷はせずに、徐々に冷えていったと推測される。従って北大西洋の表面温度が徐々に寒冷化した事は、新しい仮説とは矛盾しない。

通説の本質的な課題は、地球全体が同様に寒冷化したり温暖化したりした事を、前提にしている点にある。尾瀬の花粉は、縄文早期以降の東ユーラシアの気候は、西欧の気候とは全く異なっていた事を示しているから、それに対する明瞭な回答がない限り、通説は受け入れられる主張にはならない。

新しい仮説にも色々な反論が予測されるので、それに関する答えを準備する必要があるが、既に指摘した様にこの新しい仮説は、人類の拡散事情を合理的に説明する事を目的にしているから、仮説を支持するデータが揃っているわけではない。不可解であると思われている現象を、遺伝子分布を含む諸現象と共に、矛盾なく説明できる仮説として提示しているだけだから、反論がある事は当然だ。従って通説の様な矛盾は孕んでいない事を示し、この仮説の正当性を主張する事になる。

例えばグリーンランドの氷床は、氷期にも成長していた事が観測され、通説を支持する根拠になっている。従ってこの新しい仮説と、矛盾している様に見えるかもしれない。その根拠はグリーンランドの氷床の下部に、氷期初頭の厚い氷層が発見されていない事になるだろう。現在の地熱から計算される氷床下部の融解速度より、氷期の氷床の成長速度の方が格段に速かったから、グリーンランドの氷床は氷期に成長したと考えられている。従ってそれに伴って気候も徐々に寒冷化したとする通説の方が、現実に即しているとの反論が予測されるからだ。

厚さ数㎞の氷床の下部には太陽光が届かないから、そこで融解する氷の熱源は、地熱しか考え付かない事に異論はないが、誤解を招きやすい事実だから論点を明確にする必要がある。新しい仮説では、氷期の温暖期に氷床が融解して海面が上昇したと考え、最寒冷期であっても氷床が成長したとは考えないが、通説と新しい仮説は氷期初頭に膨大な降雪があった場所と、氷期にそれがどのように融けたかに関し、視点が異なっているからだ。

前回の間氷期は現在より高温だったから、グリーンランドの氷床の大半は、前回の間氷期に融けてしまったと推測され、南極の氷床の様に数回の氷期の氷を積み重ねた構造にはなっていない。つまり氷期初頭に厚い氷床が生まれたか否かを、直接判定できない氷床である事を先ず指摘して置く必要がある。

現在冬季の降雨が卓越しているのは、スカンジナビア半島とそれ以東の地域で、北大西洋の対岸のモントリオールでは、冬季の降雨が卓越する現象は見られない。グリーンランドやアイスランドも同様に、冬季の降雨量は少ないから、氷期初頭にメキシコ湾流が供給した膨大な量の降雪は、グリーンランドにはほとんど降らなかった可能性が高い。つまり氷期初頭に、メキシコ湾流の蒸気を吸い上げた極地の高気圧は、西から東に風を送り続けていたから、現在のメキシコ湾流の影響によって温暖・湿潤化している西ユーラシアや西北シベリアには、氷期初頭に巨大氷床が生まれたが、他の地域はその後の氷期の期間を通して、その氷床による寒冷化の影響を受け、万年雪が徐々に蓄積して現在の氷床になった可能性が高い。従ってグリーランドの氷床の検査が、この仮説の真偽を検証する適切な手段になるのか否かは、明らかではない。

仮にある程度の厚さの氷床が生れても、氷期の間に融けてしまった可能性も高い。その第一の理由として、現在の地熱量では厚い氷床を融かしてしまう熱量はないが、その熱量は氷期と同じであるのか検証する必要があるからだ。厚い氷床が地殻に強力な圧力を加え、地殻全体が沈降していた氷期と、それがなくなって地殻が上昇している現代と比較すると、地殻が供給する熱量に大きな差があったと考えられるからだ。

スカンジナビア半島やグリーンランドは、海底のマントル移動によって隆起している筈の地域だから、本来であれば火山帯を形成すべき地域なのに、北欧にはその兆候が見られない。スカンジナビア半島には激しい地殻変動の痕跡である、蛇紋岩の露頭が複数あり、本来は激しい火山活動を伴う地震の多発地域である筈だが、付近に火山活動の痕跡がないのは、地殻が氷床の圧力から解放される状態が何万年も続き、激しい地殻変動が観測されない特殊な地域になっている疑いがある。つまり地殻が厚い氷床に覆われていた時代には、多量の熱が地殻から供給されたが、地殻が膨張している現在は、極めて限られた熱量しか発散していない疑いがある。

厚い氷床の底面は極めて高圧になり、氷の物性が変化する事も、氷床の状態を判断する重要な観点になる。高圧下では氷の融点が低下し、融解熱も変化するから、超高圧の融水が氷床下部を液化した状態の物理現象の解明には、難しい問題が山積している。つまり氷期初頭に厚い氷床が形成されても、それは氷期の10万年間に失われ、現在の氷床の状態が生れて維持されている可能性も否定できない。

この様なグリーンランドの状態と、氷期初頭にグリーンランドとは比較にならない厚い氷床が形成された、ユーラシア西部の氷床では異なる状態が進行したと想定される。

氷床が地球全域を覆っていたわけではないから、厚い氷床の南端には薄い氷床があった事は間違いない。その地域の氷床は底面まで太陽光が届く状態だったから、透過した太陽光に温められた地表が、氷床底面を融解した事は間違いない。流体である氷床が高い絶壁を形成し続ける事はなく、端面ではそれが崩れて薄い氷床が形成されるから、氷期初頭に西欧に展開した氷床は南端から融解し、氷床端面は徐々に北上した。氷期の最寒冷期だった32万年前に中・南欧は氷床には覆われず、永久凍土に覆われてツンドラになっていた事は、この想定と一致する。氷床が徐々に拡大したと主張する通説では、この様な状態を説明できないのではなかろうか。

南極の高山にある厚い氷床には、数回の氷期・間氷期サイクルの痕跡が残っているが、氷期初頭に厚い氷床が形成された痕跡はない事が、新しい仮説と矛盾すると指摘されるかもしれない。しかし新しい仮説では、氷床の形成は北大西洋西岸の限定的な出来事で、そこから派生する氷期・間氷期サイクルの原因事象も、すべて北半球の高緯度地域の現象だったと想定するから、矛盾する事はない。北半球が寒冷化するとその影響が南半球に及んだ事は、南極の氷床が示しているが、氷期初頭の南極に厚い氷床が形成される要因はなく、その痕跡は当然残っていないからだ。

特定地域の断片的な物理現象を拾い上げても、それだけでは抜け漏れがあるから、通説や新しい仮説の真偽を検証する事はできないが、古気候学者が信じている世界の気候は一様に変化したとの思い込みが、尾瀬の花粉によって完全に否定された事は、断片的な物理現象だけに、過度に依存する事の危険性を示している。新しい仮説は物理現象に加え、人類の拡散事情も加味しているから、より広い視野で古気候を評価できる。その成果として氷期の発生や終焉も説明できる、氷期理論の有力候補を生み出し、尾瀬の花粉が示す古気候と世界的な気候変動を整合させるだけではなく、歴史解釈に画期的な成果をもたらすので、詳細は縄文時代の各項を参照。

 

アフリカから拡散した人類の足跡が、古気候の検証手段になる

氷期初頭の海面が300m以上低下した事を前提にすると、それに付随する説明に抵抗を感じるかもしれない。人類の本格的な出アフリカは5万年前で、その頃の海面低下は160m程度だったと想定されるから、第一陣が拡散した9万年前も「200m以上」と表現し、違和感を解消する事にする。この数値の厳密性は、人類の拡散史には必要ないからだ。

氷期の寒冷期に北半球は極度に低温・乾燥化し、人類は既存環境の中で生きる事に精一杯だったから、寒冷期に長距離移動したとは考えにくい。氷期の温暖期も初頭の四半期は、昇温期として極度に乾燥したから、人類が長躯移動して移住先の新しい環境に適応する事は難しかった。従って人類が長距離移動に耐える事ができた時期は、温暖期だった108万年前と64万年前の各2万年間の、極めて乾燥した前半の5千年間と、寒冷化し始めた末期の5千年間を除いた時期だったと想定される。言い換えると9万年前±5千年と、5万年前±5千年だったと想定され、論理的に検証できるわけではないが、その様に考えると現在の遺伝子分布から過去の移動歴を説明しやすい。人のする事には恣意性があり、それが僥倖を生む場合も多かったと想定されるが、旧石器時代の人類については長い時間の経過を単位として扱うから、偶然の僥倖による効果はやがて薄れ、集団的に行動して生業文化を高めた者達の子孫だけが、現生人類の多数派になったと考え、その様な人々の移動をマクロ的に捉える必要がある。

少数グループが生み出したノイズが、考古学的に発掘される事例や遺伝子の混入を引き起こした事例は、は少なからずあっただろうが、マクロ的な視点でそれを排除する事も重要な作業になる。周期的な気候変動の項でも説明したが、マーケティング手順や数値解析では、法則的な挙動と関連がない突発事象は、ノイズと見做して分析手順から排除する。以下でもその手法を継承し、歴史現象を法則的に把握する事に努める。

特に遺伝子分布を解析する場合は数値解析である事を重視し、考古学的な事実への過度の傾斜は避ける必要がある。遺跡を遺した人々であっても、現代に子孫を残さなかった場合もあるし、逆に氷期の海岸に住んでいた原日本人の様に、遺跡が全く残っていない場合もあるからだ。数値解析を数学的な手順であると誤解されないために、敢えて説明すると、遺伝子分布の数値は法則性の把握や、起こった事象と法則の関連性の検証に使うのであって、数学的な手順を駆使するものではない。

東南アジアは氷期でも温暖・湿潤な気候が継続していたから、気候が適切な時期にアフリカを出てインド洋を周回した人類が、最終的に到達すべきゴールだったと考えられる。上記の期限内に東南アジアに到達できなければ、そのルート上の生活環境が悪化したから、移動路は常に存在したわけではなかった。現在のアラビア海周辺は降雨量が少なく、氷期にはこの状態が悪化していたと想定されるから、上記以外の時期には砂漠化していた疑いが濃く、水量が乏しい河川の流域に人の痕跡があっても、この時期の人類集団が高めていた道具文化や生業文化から、疎外されていたと想定される。従ってその様な人々が僅かな子孫を現代に遺していても、歴史の流れに登場する人々ではなかったと考えられるから、遺伝子解析の対象から外れる人々になる。

期限内に東南アジアに到達した人々は、温暖・湿潤な気候に恵まれてアフリカでは生まれなかった栽培を始め、氷期の最寒冷期でも食生活を安定させて人口が増加したから、人類史を概観する場合には、それらの人々に着目する必要がある。

東南アジアが氷期でも温暖だったのは低緯度地域だからで、湿潤だったのはモンスーン気候帯だからだ。但し海水温は現在より低かったから、降雨量は現在ほど多くはなく、モンスーン地域も現在より狭かった。これについては、先縄文時代の章で検証する。

アフリカでは生まれなかった栽培が東南アジアで生まれたのは、降雨量が多く植生が豊かだっただけではなく、アフリカより気候が安定していたからだ。アフリカの気候が不安定だったのは、気候が乾燥した時期には砂漠が広範囲に広がり、冷却された南北大西洋がそれに拍車を掛けていたからだ。その上に、氷床に覆われて強烈な寒気を発生していた北ユーラシアに近く、気候が不安定だった。アフリカには安定した降雨をもたらす、モンスーン気候を生み出す地形もなかった。

新しい仮説に従うと、人類がアフリカを出る機会は連続的にあった事になるが、インド洋を周回して東南アジアに到達する経路が、人類の生存適していたのは、9万±5千年前と5万±5千年前の期間に限定された。最初に原生人類がアフリカを出て東南アジアに達した9万年前は、紅海は完全に干上がっていたから、通過に問題はなかった。

通説ではその通過が問題になり、僥倖に恵まれた数百人だけが、幅10㎞の紅海を渡る事が出来たから、インド洋を周回する長い旅に出たと説明している。新しい仮説では多数の人類がアフリカを出て、インド洋沿岸に集落を点在させながら東に拡散し、その先端が東南アジアに達した事になる。温暖・湿潤な時期でなければアラビア海沿岸は極度に乾燥し、集落が点在する環境は失われたから、移動が可能な時期が過ぎるとアフリカに戻るか東南アジアに達する以外に、文化を発展させ得る大集団が生き残る途はなかった。

46万年前の温暖期に海面が80m上昇し、紅海が生まれたから、アフリカに残っていた人類がインド洋を周回するルートは、この温暖期の後半に失われた。

9万年前の温暖期に東南アジアに達した人類は、生存に適した環境で人口を増やし、その分派が湿潤なユーラシア大陸東岸を北上し、冷涼でありながら氷期を通して湿潤なシベリアに達した。オーストラリアに渡った人もいたが、現在の東南アジアの島嶼とオーストラリアの間には、1000m以上深い海があるので、海面が300m低下していたとしても、彼らがオセアニアに到達したルートは再現できない。但しこれは一度限りの事として説明が付くから、津波に流された上に、海流や潮流が作用したなどの奇遇を含め、何万年に一度程度の僥倖が起きた可能性もあるが、地殻変動が激しい地域だから、9万年前は現在と地形が異なっていた可能性も高い。彼らはユーラシアの人類とは交流しなかったから、彼らの渡航手段をこれ以上詮索する必要はない。

人類の出アフリカは少なくとも3回あったと想定しなければ、現在の遺伝子分布や歴史的な発掘事情は説明できないから、紅海が人々が超える事ができない状態だったのであれば、歴史を復元する上で大問題になる。

以下に通説の矛盾を指摘し(緑字)、新しい仮説の合理性を説明する。(黒字)

通説では、アフリカを出た人類の祖先がユーラシア大陸に拡散した際に、紅海を渡る事ができた事情として、極めて稀な僥倖を得た小集団がそれに成功したと説明している。その際の海面低下は100m以下だったと仮定しているから、アフリカを出た人類の前に幅10㎞の紅海が横たわっていた事になり、旧石器時代の人類が持っていた手段では、紅海を渡る事はできなかった。しかしその小集団は我々の想像も及ばない、極めて稀な僥倖に恵まれて紅海を渡ったから、人類の出アフリカはその一回しかなく、小集団だったと説明せざるを得ない状況にある。その集団の子孫がイランで2派に分岐し、インド洋を周回してインドシナ半島に達した人と、欧州に達した人がいたと説明し、西欧への人類の拡散時期と整合させている。

時代が遡るほど海面は高かったという前提があるから、余り古い時代には僥倖さえも非現実的になるが、54万年前に西欧に人類が拡散し、やがてオーリニャック文化が生れた事実に間に合わせる必要があり、6万年前とする妥協案になった。しかし6万年前より古い人類の痕跡がユーラシア大陸やオセアニア大陸で発見され、7万年前のトバ火山(スマトラ島)の影響を遺伝子の分岐仮説に盛り込む必要もあり、最終判断ではない事になる。

紅海の海底地形を見ると、アフリカとアラビア半島の間に水深40mほどの古い沖積平野の痕跡があり、その平野の中央部に深い河谷の痕跡が刻まれている。河谷は平野から100200m低く、紅海からアラビア海に水が流れ出た痕跡も示しているから、水深40mの平原を形成したいずれかの過去の間氷期の後に、海面が200300m低下した新しい氷期があり、その氷期の川が河谷を形成した事を示唆している。つまり水深40mの古い沖積平野は、前回の間氷期~今回の氷期には既に存在していた事になる。

河谷の両側の水深100m線には、概ね10㎞以上の幅があり、紅海の湾口部の狭い場所は8㎞未満だが、7㎞未満の場所は見付からない。紅海はアフリカとアラビア半島を切り裂いている地溝帯なので、この河谷はその裂け目でもあるが、湾口部の裂け目には土砂が堆積した河川の痕跡がある。その河川の堆積面は水深200m以上あり、直近の氷期に形成された河川の痕跡である可能性が高いが、地形だけでは断定できない。いずれにしても、海面が200m以上低下した氷期があった事は間違いない。

氷期が長期化して短い間氷期と長い氷期が生れ、それが明確に分離される様になったのは120万年前で、12万年前に始まった直近の氷期は、その120万年間で最も長い氷期だった。従って最も海面が低下した氷期だった可能性が高く、アラビア海の湾口にある河川の痕跡は、今回の氷期の初頭に海面が200m以上低下した事を示唆している。

紅海の様に砂漠に囲まれた海では、海面が低下した状態で巨大な河谷が形成される機会は、氷期初頭に発生した豪雨期か、後氷期初頭のインド洋の湿潤化期以外は考え難い。インド洋が湿潤化した1万年前の海面は、現在より40m低い状態だった。それによって水深40mの平野が形成されたのであれば、水深200mの谷は埋まった筈だから、インド洋の湿潤化は紅海の海底に、何も変化を引き起こさなかったと考えられる。従って水深200mの谷は直近の氷期の初頭に、海面が200m以上低下した痕跡である可能性が高い。

以上から導かれる一番尤もらしい推測は、今次の氷期初頭の大豪雨期に、水深200m程度の河谷の平坦面が形成され、豪雨期の終末期に海面が水深300m辺りに低下すると、その時期の河川堆積の痕跡がジブチ沖に残ったというものになる。紅海のこの様な海底事情は新しい仮説と一致し、9万年前の温暖期にアフリカを出た人類は、砂漠化していた紅海を横切ってインド洋沿岸に拡散し、その先端が東南アジアに達した可能性を高める。

古気候学者がその様な想定を許さないから、歴史学者はそれに従って人類の出アフリカは一回しかなく、それを極めて幸運な小集団の出来事だったとして6万年前に設定した。その結果下記の様な不可解な解釈を強いられているので、その苦しさを説明するために、アフリカを出た人類の簡略化した遺伝子系統樹を下に示す。不可解な解釈を敢えて説明するのは、新しい古気候仮説の正統性を説明する為であって、歴史学者を貶める為ではない。

新しい仮説から導かれる無理のない解釈を先に説明すると、9万年前にアフリカを出て東南アジアに達した人達は、Y遺伝子がY-Cでミトコンドリア遺伝子はmt-Nだった。5万年前にアフリカを出て東南アジアに達した人達は、Y遺伝子がY-Fでミトコンドリア遺伝子はmt-Mだった。この事実を認定すると人類の拡散過程は極めて単純化され、人類がユーラシア大陸に拡散した過程を明快に説明できる。

しかし通説はこの様な簡明な説明ができず、苦しみが滲み出ている以下の状態にある。

アフリカを出た人類のミトコンドリア遺伝子には、mt-N系とmt-M系がある。アフリカを出る機会は一度しかなかったと制約されると、アフリカを出た奇跡の集団の中に、mt-Nmt-Mが半々いたと想定せざるを得ない。しかし現在の両者の分布を見ると、アフリカを出た当初から両者が混在していたとは到底考えられない。また現在のアフリカにはmt-N系の1次分岐はいないが、mt-M系の1次分岐は残存しているから、両者はアフリカ時代から別系統だった可能性が高く、益々説明が難しくなる。

しかし古気候学者が、氷期の海面は徐々に低下したと主張している以上、歴史学者はその枠内で解釈しなければならない。歴史学者に課された個々の課題は、別々に考えればそれぞれに、絶対に有り得ないとは言えない説明が付くかもしれない。それ故に史学者が、物理学者に論理的なクレームを提起する事は難しいかもしれないが、その様な事象が重なると、確率的に殆どあり得ない事になる。状況を複雑にしている根本原因は、紅海の渡り方とその時期になる。

地球物理学者が拘っているのは、歴史問題ではなくCO2温暖化説との連携である様に見える。CO2温暖化説を普及させたい人にとって、氷期に突入する際の気候変動がマイルドでなければ、人々が恐怖感から理性を失う恐れがあり、間氷期の終了時に300mも海面が低下する、気候の大変動があるとの説は、到底受け入れられないだろう。また西欧を温暖化しているメキシコ湾流の北上が、氷期の寒冷気候を発生させる根本原因である事や、西欧が真っ先に人の住めない寒冷な地域になるとの予測も、受け入れられないだろう。氷期の到来は突然起こるのではなく、間氷期の終焉は少なくとも千年以上先だと言われても、「掛替えのない地球」というスローガンが空しくなり、道徳的な頽廃を危惧する必要が生まれる。その様な事態を予測してこの仮説に反発する人は、地球温暖化論者に留まらないだろう。

下記の合理的な推論が新しい仮説から成立する事を示し、通説への反論とする。

人類の出アフリカには9万年前と5万年の2回のチャンスがあり、9万年前にアフリカを出たY-Cmt-Nは、植生が豊かな東南アジアで人口を増やし、その後シベリアを含むユーラシア大陸各地やオーストラリアに拡散した。しかし8万年前に氷期の寒冷期が始まると、ユーラシア大陸の自然環境は人類の拡散移動に厳しくなり、温暖湿潤な東南アジアと、巨大湖の湖岸に多数の野生動物が生息していたシベリアだけが、現生人類が集団として生存し、生業文化を発展させる事ができる地域になった。

氷期の寒冷期には、シベリア全域が厳寒の地になったと考える人が多いが、氷期には冷たい深層水を生成するメキシコ湾流が消滅していたから、冷たい深層水の湧き出しである親潮も消滅し、それに伴って北太平洋亜寒帯循環も消滅したから、黒潮を生み出している北太平洋亜熱帯循環が、カムチャッカ半島を洗う様に北上していた。その影響で氷期のシベリア東部はそれほど寒くなく、氷期の最寒冷期でもシベリア南部にはマンモスやヘラジカの生存圏が存在し、人類の生存圏も確保されていた。遺伝子分もこの推測を強く肯定する。

氷期には海水温が低下して降雨量が少なかったから、大陸内部は砂漠化してシベリアも草原化したが、シベリアの低地は氷期初頭に形成された巨大湖に覆われていた。その入り江が豊かな植生を育み、草原に森が点在する環境が、寒冷な気候に適応した動植物に楽園を提供し、狩猟者にも生存環境を提供していた。しかし東ユーラシアの中緯度地域は、シベリアより強い日差しによって湖が干上がってしまった上に、巨大湖が形成される地形もないから、シベリア並みの降雨があっても乾燥して砂漠化し、人類が集団で生存する環境を欠いていた。

尾瀬の花粉は、32万年前の氷期の最寒冷期の東アジアは、現在より12℃低下した事を示している。同様な寒冷期だった76万年前に、どの程度低温化したのか想定する根拠は乏しいが、それに近い温度まで低温化したと想定しなければ、氷期初頭の海面低下の見積を更に大きく下げる必要が生まれる。しかしアイスランド近傍の海嶺の深さは、400m以上の低下はなかった事を示唆しているから、32万年前の寒冷期と同様に、現在より12℃近く低温化したと想定される。南極でその様な低温化が観測されていない事は、北半球の寒冷気候が南半球に及ぶのに、極めて長い時間が掛かった事を示している。

色々な人の花粉分析を総合すると、両寒冷期の気温に大きな差はなかったが、日本列島は76万年前の寒冷期の方が、32万年前の寒冷期より幾分温暖・湿潤だったと想定され、時代を遡る方が太平洋の海水温が高かったと想定される事と整合する。つまり北米大陸に生まれ氷床は、北太平洋亜熱帯循環を西から横切る冷風によって形成され、氷期の間に北米大陸の氷床が成長する事により、次第に寒冷センターとしての機能を強化し、東シベリアでその機能が弱まっていく状態を補完していたから、32万年前の寒冷期が氷期の最寒冷期になったと推測される。

人類の遺伝子分布は日本の様な局所的な例外を除くと、氷期には東南アジアとシベリアで大きな人口を維持し、東南アジアの遺伝子に最大の多様性が生まれた事を示している。つまり氷期の人類最大の生存圏は、東南アジアだった事を示している。新しい仮説ではその様な極めて常識的な判断を背景に、現在の遺伝子分布を無理なく説明できるが、8万年前に氷期の寒冷期が始まって人類の生活環境が厳しくなり、移動が最も難しくなった氷期の最寒冷期の初頭である7万年前に、スマトラ島のトバ火山が大爆発し、東南アジアの人類が壊滅的な被害を受けた影響も、十分加味する必要がある。その結果東南アジアは人類が希薄な地域になり、次の出アフリカが可能になるまで、人類の生存中心はシベリアに変わったからだ。

 

1-2、 6万年前に始まった氷期の温暖期に、人類は再びアフリカから拡散した。

通説では氷期の東南アジアには人類の居住域はなく、人類の中核的な遺伝子であるY-F系は、氷期のインドで人口を増やした事になっている。その様な通説であっても、Y-Fの子孫であるY-IY-Jが中近東に多く、分岐の末端にあるY-Rが西欧人の主流になった事は説明できるが、Y-Rと近縁のY-Oが東アジア人の主流でありながら、西ユーラシアに全くいない事は説明できない。

32万年前の2度目の最寒冷期に、西ユーラシアは再び極寒の地になり、人類が希薄な地域になった。中央アジアと中国大陸内部は、2万年前に始まった昇温期に極度に乾燥し、人類が集団で生存できない状態が継続し、少数の例外を除けば人類の長期的な生存圏ではなくなった。しかし多数のY-NOが氷期が終わった2万年前から、東アジアに拡散し始めた事実は揺るがない。

それだけではなく、東ユーラシアから2万年近く遡る土器が出土し、2万年前から長期間遡った時代から東ユーラシア南部の沿海部に、人類の安定的な生存環境が存在していた事を示している。つまり人類の最大の生存圏は南アジアだったと主張するのであれば、明らかに人類の生存圏だった南シナ海沿岸と両所に挟まれた東南アジアも、人類の生存圏だった事になり、実はその中心である東南アジアこそが、氷期の人類の最大の生存圏だったとの結論に帰着せざるを得ない。しかし西欧人はそれを認めたくないらしく、南アジア説に固執している。これは地球物理学の制約がその方向に誘導しているのではなく、歴史家のイデオロギーに起因しているらしく、例え氷期であっても文明中心が東ユーラシアにあった事を、認めたくない人が欧米には多数いる様だ。

この問題に対し、新しい仮説は以下の様な合理的な想定を可能にする。

現生人類がアフリカを出る機会は連続的に存在し、氷期の温暖期が終わる45千年前までに、多数の現生人類の祖先候補がアフリカを出たが、後氷期まで生き残ったのはY-FY-CY-Dの3グループだけだった。Y-C 9万年前のアフリカ東岸で優勢になり、紅海を渡ってインド洋沿岸に拡散したが、5万年前のアフリカ東岸ではY-Fが優勢になっていたから、Y-F5万年前に紅海を渡ってインド洋沿岸に拡散した。Y-DE 5万年前のアフリカ北部で優勢になっていたが、9万年前の事情は明らかではない。9万年前の西ユーラシアは南欧まで厚い氷床に覆われ、北アフリカから東欧に北上する事はできなかったから、9万年前の事情は明らかではないからだ。5万年前の温暖期には、西ユーラシアの氷床は北に後退していたので、東欧に拡散したY-Dが中央アジアやシベリアにも拡散した。

9万年前に東南アジアに達したY-Cは、東南アジアで人口を増やしたが、トバ火山によって東南アジアの生存圏は壊滅し、シベリアに拡散したY-C3がユーラシア大陸の主流になった。5万年前にY-Fが東南アジアに到達すると、人口を増やして東南アジアの覇者になり、再び東南アジアを現生人類最大の生存圏にしたが、9万年前のY-Cの様にシベリアに北上する事はなかった。その理由として、Y-C3が既にシベリアの先住狩猟民として縄張りを設定していたから、Y-Fは北上できなかったとも考えられるが、栽培者だったmt-Rをペアにした事により、北上への興味を失ったからである可能性も高い。シベリアのY-C3Y-Fの到着より早く東南アジアに南下しなかったのは、トバ火山の災害に遭っても生き残ったY-C1がいたから、彼らの縄張りを犯す事を躊躇したとも想定されるが、狩猟民族化したY-C3にとって温暖で肉が腐敗しやすい東南アジアは、関心が薄い地域だった可能性も高い。若し前者であれば、Y-Fはその様な縄張り文化を持たなかった故に、東南アジアに拡散して人口を増やした事になるが、後述する様にY-Fの中核は、Y-C1が希薄な東南アジア南部にmt-Rと共に南下し、mt-Fの中では異色な集団だったY-ONが、イネ科の植物の種子が採取できる、或いは栽培できる北限に、栽培系狩猟民族として展開した。栽培者だった彼らの北限が、Y-C3狩猟専業民族の南限になったと考えられる。

Y-Fが東南アジアで人口を増やしたのは、東南アジアの豊かな植生を利用したからだが、温暖湿潤で豊かな森林に覆われていた事だけでは、シベリアより有利な狩猟者の生存域だったとは考えにくい。氷期の温暖期には、東南アジアの亜熱帯性の密林よりシベリアの疎林を含む乾燥した草原の方が、狩猟適地だった可能性が高いからだ。採取や栽培によって植生を有効に利用する文化を持たない狩猟専業者にとって、肉が腐敗しやすく大型獣が少ない温暖湿潤な気候は、あまり好ましい環境ではなかったと想定されるから、東南アジアはY-Cにとって住みやすい地域ではなかった可能性が高い。氷期の西欧の遺跡から発掘される遺体は、東南アジアの狩猟民族だったY-C1が圧倒的に多い事は、冷涼な西欧にいたY-C1は温暖な東南アジアにあまり魅力を感じていなかった事を示唆し、この理論の合理性を示している。

従ってY-Fが東南アジアに到着した直後の5万年前には、シベリアの狩猟集団の方が人口は多かった可能性が高く、Y-C3がシベリアで狩猟文化を高めたのは、偶々トバ火山の噴火から生き残ったからではなく、狩猟の適地を求めて沿海部を北上した集団が、Y-Cの最大集団になった可能性が高い。

氷期が終わった東南アジアで生き残っていたのはY-F系だけで、Y-C系は絶えてしまったのは、東南アジアはY-Fの生存適地だったがY-Cにとっては必ずしも適地ではなかった事になる。Y-Fだけが植生を有効に利用する文化を持っていたから、この様な結果になったと考えられるが、人類が豊かな植生を利用する最も有効な手段は、植物を栽培する事だった事に誰も異論はないだろう。従ってそれが、何時どの様な形で始まったのか解明する必要があるが、氷期の人々が食料の多くを植生に頼っていたと過大評価する必要はなく、生存に重要な役割を担う補助食料だった事を前提に論考する必要がある。

狩猟の獲物は捕獲量が不安定だから、狩猟に頼っていた人々に長い不猟期が発生すると、深刻な問題になっただろう。温暖・湿潤な地域では動物の密度は高かったかもしれないが、肉が腐敗しやすいから、前回の獲物が腐敗する前に新しい獲物を捕獲する必要があった。寒冷なシベリアでは獲物の密度が低く、不猟期の長さは温暖・湿潤な地域より長かったかもしれないが、寒冷な気候下では肉の腐敗が遅く、寒気が厳しければ肉を凍らせて干し肉にする事もできたから、不猟期を耐えるには有利な環境だった。

シベリアの狩猟民族はこの優位点を活用する事により、氷期の有力な狩猟者になったと推測されるから、論考の課題は温暖・湿潤な地域の狩猟民が、植物性の補助食料をどの程度必要としたのかになる。仮に1年に数回、10日以上の不猟期があり、狩猟者が肉を貯蔵できる限界は5日だったとすると、狩猟だけに頼っていれば年に数回5日以上の絶食期間が生まれ、幼児を含む家族の存続に危機的な状況が生まれただろう。植物採取がそれを補完したが、採取の生産性は狩猟より極めて劣ったから、採取者に何の対策もなければその5日間は貧弱な補助食料に頼るしかなく、体力の衰弱は免れなかった。しかし貯蔵可能な植物資源の蓄えがあれば、事情はかなり異なった。

新石器時代に生まれた穀類は全てイネ科植物の種子だった事は、石器時代の採取者が貯蔵可能な補助カロリーを、不猟期の対策として着目していた事を示している。保存可能な食料の代表は種子だから、できるだけ多くの種子を蓄えた賢い採取者が、生存率の高さを担保した事は間違いなく、それに相応しい植生が栽培されたから、後氷期にそれが穀類になったというシナリオは妥当性が高い。その証拠は遺伝子分布から得られるが、その話の前に幾つかの前提条件を確認する。

採取者が栽培行為を始めると、補完食料の準備率は高まったが、発祥時の栽培行為は現代人が想定する様なものではなく、群生地を拡大したり、繁殖密度を高めるために雑草を除去したり、河水を繁殖地に導いたりする程度の、簡単な行為だったと推測される。それであっても栽培が、年間を通した家族の存続に重大な違いをもたらせば、原初的な栽培が始まったと考えられる。現在の穀類は殆どがイネ科の植物だから、最終的にはイネ科の植物を重視した事になるが、ソバの様にイネ科ではない種もあるから、栽培が始まった頃には色々な種が試されたと推測される。

栽培者の栽培技量が高まって収穫が増え、種子の蓄えの有無が一家生存の重要事案になった時点でも、栽培による食糧補填率は、通年のカロリーベースで1割を上回る必要はなかったと想定され、理由は以下になる。

肉類の保存性が劣悪な温暖・湿潤な地域で、年に数回深刻な不猟期が発生した場合に、それに耐えられるか否かを確率論的に計算すると、備蓄量が少ない場合には、生存率と備蓄量の間に極めて急峻な関係が生まれる。つまり不猟の長期化という非常時に備え、常にイネ科植物の種の収集に留意していた賢い女性達の子孫は、生き残る可能性が高まって人口が増えたが、逆の場合には厳しい事になった事情が、確率論的な計算から明らかになる。以下は無作為に起きる事象を扱うポワソン分布を使った単純化モデルで、上記の単純な仮定を数式化しただけだから、感覚的に見る必要がある。気候が安定して毎年同じ事が繰り返されたのであれば、グラフはこれよりシャープなS字曲線になる。

横軸は当該家族の縄張りで、不猟期が発生する年間平均頻度。平均より多い年もあり、少ない年もあっただろう。

縦軸は集めた種子によって、不良期を切り抜ける事ができる確率。 0.9の場合は10年に一度、困難な場面に遭遇した事を意味する。

各グラフ曲線は、1年間に集めた種子が何回の不猟期を切り抜けられるかを示す備蓄量で、不猟期の回数を備蓄数量の単位にした。

危機が起きると真っ先に乳幼児が死亡したから、不猟期を切り抜ける確率が0.8以下になると、子孫を残す事は難しかったと推測される。

備蓄量が増えると不猟を原因とする絶滅リスクは低下したが、賢い女性が増えて人口密度が高まると、狩猟者個々人の狩猟の獲物が減ったから、不猟期が発生する頻度が高まった。栽培によって備蓄量が増えると、獲物が少なかったり不猟期が長かったりした故に、進出できなかった地域にも人類が拡散する様になり、人類の生存圏は拡大した。上のグラフに使った単純なモデルでは、1回の不猟期を5日分の食料で賄ったとすると、6回分の食料として1年間に30日分の収穫があれば、不猟期が1年に数回発生する地域に進出する事が可能になった。つまり栽培の収穫が狩猟の獲物の1割未満であっても、人類の人口増加に大きく貢献した事が分かる。

温暖な地域の狩猟者の人口が増えるためには、イネ科植物の栽培が不可欠になり、やがて栽培の支援がなければ生存出来ない家族が、東南アジアに定住したY-Fの主流になったと想定される。そのようなY-Fに対し、Y-Cが栽培に対する関心が薄い狩猟民族であり続けた場合、人口格差や縄張りの在り方に大きな差異が生れ、東南アジアを共通の縄張りとする事が困難になっただろう。

人口密度が増加すると個々の狩猟者の獲物は減少したから、人口増加を支えていた女性達は、同性間の栽培競争に巻き込まれる様になり、栽培技術の向上が生存競争の重要な要素になる事は、必然的な結果だった。女性達がその意識に目覚めると、イネ科植物の栽培技能は急速に進化したと想定される。

イネ科植物の備蓄カロリーの必要量は、栽培が始原的な段階では狩猟の数%程度でも有効だったから、その様な状態では家族全員が、その必要性を自覚していなかったかもしれない。しかし種子の備蓄の多寡による人口淘汰は、静かに始まっていただろう。その様な状態でも人口密度は増加し、獲物の密度が減少する状態は徐々に進行したから、それによる不猟期の発生頻度が高まると、栽培の生産性を高める必要を自覚した家族と、無自覚な家族の生存事情に格差が生れ、自覚した人達の間で栽培技能の向上競争が始まると、生存に必要な備蓄量が増えていった一方で、狩猟者が従来は生存できなかった地域に拡散していった状態を、上のグラフが数値的に示しているとも言える。

野原を駆け巡る事により、栽培者より多くの種子を集める女性がいたとしても、栽培技術が進化するとその様な女性達も栽培者にならなければ、生存競争から脱落せざるを得なくなったから、その様な女性達の活動にについて論考する事は、歴史的な価値がない。

栽培の原初段階では色々なイネ科の種が注目されたが、次第に栽培しやすい特定種に収斂していったと想定される。その様な特定栽培種に、多くの女性達が従事する様になった段階で、栽培は一つの画期に到達し、その種を栽培するミトコンドリア遺伝子が増加し、その種の栽培が上手なミトコンドリア遺伝子が増加すると、遺伝子の純化が進行した。その様にして群生地を拡大する技能は高まったが、原生種の花粉が飛び交う地域では、改良品種は原生種の花粉に汚染され、先祖返りしてしまったから、穀物化への品種改良の試みは実を結ばなかった。つまり栽培者が狭い東南アジアに逼塞していた氷期には、栽培種を穀物に進化させる事はできなかったが、雑草などを除いた群生地で繁殖する、生命力が高い種に改良する事までは可能だったから、女性達はその様な種を栽培しながら、栽培技能を高めて収穫量を増やしていったが、栽培種が特殊化してそれを栽培する技能が高度化し、母から娘にそれらが伝承される様になると、ミトコンドリア遺伝子が特定の栽培種に結び付く様になり、栽培種が純化されると同時に遺伝子も純化されていったと考えられる。

通説では後氷期になって温暖化し、人口密度が高まって狩猟の獲物が減ると、人々は農耕を始めたと主張している。しかし氷期でも東南アジアは温暖湿潤だったから、そこで栽培が行われていたとの想定は素直な発想になる。しかし西欧人は農耕について、エデンの地で神から与えられたとする聖書の記述を重視し、農耕の起源を合理的に考える事を放棄しながら、メソポタミアで突然農耕が始まったと確信している様に見える。しかし氷期のメソポタミアは寒冷な砂漠だったから、これには合理性がない。日本の生物学者や農学者は、氷期のメソポタミアは麦の原生種が繁茂する様な、温暖で湿潤な環境ではなかった事は承知しているが、西欧の専門家に敬意を払ってその事には触れず、農耕の起源については曖昧な状態で放置している。

遺伝子分布を解析すると、トバ火山によって東南アジアの人類はほぼ壊滅したが、僅かに生き残っていた人々がいて、その遺伝子がY-C1mt-Rだった事が分かる。5万年前に東南アジアに到達したY-Fと、そのmt-Rの間で以下の事情が展開したから、東南アジアでY-Fの優位が確定したと考えられる。

6万年前に氷期の温暖期が始まり、55千年前頃から気候が湿潤化し始めると、アフリカ東部にいたY-Fmt-Mが砂漠化していた紅海を越え、インド洋沿岸を拡散し、その先端が東南アジア西部に達した。しかし5万年前頃から紅海に海水が侵入し始め、渡る事ができなくなったので、更に新しい人類がアフリカを出る事はなくなった。その後のアフリカではY-Eが優勢になったが、彼らがインド洋沿岸に拡散する事はなかった。

氷期の東南アジアで農耕が行われていた事を示す、状況証拠は色々あるが、一番確からしいものは遺伝子分布から得られる。

2万年前に台湾平原を北上した原縄文人には、シベリア系やオーストラリア系とは異なる、氷期の西ユーラシアから検出されているY-C12割含まれ、現代日本人にも数%含まれている。その事から推測される歴史事実は、9万年前に東南アジアに達したY-Cから、シベリアに北上したY-C3とオセアニアに渡ったY-C2が分離したが、Y-C1は東南アジアに留まり、5万年前には氷床が後退した西ユーラシア南部にも拡散した事になる。

Y-Cがアフリカを出た際のペアはmt-Nで、シベリアに北上したY-C3のペアは、mt-Nからmt-Amt-N9などに分岐した。東南アジアに残ったY-C1のペアは、更に多彩な1次分岐を生み出したと想定されるが、それらはトバ火山の噴火によって壊滅し、東南アジアの縁辺部にいたmt-Rだけが生き残ったと想定される。Y-C1と共に西欧に拡散したmt-Nも、複数の分岐を生み出したかもしれないが、西欧に拡散したY-C1は殆ど絶え、僅かに残ったmt-N系遺伝子は後氷期に、東南アジアから拡散したmt-R系の栽培者の遺伝子に浸潤されたから、現在は残っていない。オセアニアに渡ったmt-Nは、後氷期にオーストロネシア語族の海洋民族が連れ込んだ、栽培系のミトコンドリア遺伝子に浸潤されたから、現在どの程度残っているのか明らかではない。

つまりmt-Fが拡散する直前の、トバ火山の噴火から回復した6万年前の東南アジアにY-C1mt-N系譜のmt-Rペアがいたから、mt-Fとの確執の後に東南アジアに僅かに残っていたY-C1が、氷期の終末期だった2万年前に台湾平原に北上し、原縄文人の一部になった。しかし温暖化して栽培が可能になったユーラシア大陸南部では、栽培民族化できなかったY-C1は絶えたから、現在は縄文人の一部になったY-C1だけが日本に残っている。最近の調査で、インドネシアにもY-C1が残っているとの報告があり、それはこの想定の証拠になる。熱帯雨林に覆われたインドネシアの山岳地では、Y-C1が栽培系民族に圧迫される環境は形成されなかったからだ。

Y-C1とペアだった東南アジア起源のmt-N系譜が、現在はmt-Rしか残っていない事は、mt-Rがトバ火山噴火後の東南アジアに、僅かに生き残ったmt-N系遺伝子だった事を示している。

上記だけでは推論の根拠として不十分だが、縄文時代の導入項に示したミトコンドリア遺伝子の拡散理論を適用すると、東南アジアで起こった事象が明瞭に浮かび上がり、上記の推論の証拠になる。

9万年前にアフリカを出たmt-N系の一次分岐として、mt-R以外には、シベリアの狩猟民系譜のmt-N9mt-Aなどがあるが、植生が豊かな東南アジアにmt-Rしかいなかった事は、5万年前以降の東南アジアの遺伝子分岐が極めて多様であった事と比較し、mt-Nの一次分岐のバリエーションが少な過ぎる。Y-Fから始まる遺伝子分岐が多様であることも然ることながら、同じミトコンドリア遺伝子と比較しても、5万年前に東南アジアに達したmt-Mには現在も15種の1次変異があり、5万年前の東南アジアにいたmt-Rには、10種の1次変異が残っているからだ。

この様なアンバランスな状態が生れたのは、トバ火山の災害から生き残った栽培系遺伝子は、mt-Rだけだったからであると考えられ、史家が想定するトバ火山の甚大な被災状況と整合する。厳密にいえば、東南アジアで栽培系狩猟民族になっていたmt-N系には、7万年前には多彩なバリエーションが生れていたが、温暖湿潤な東南アジアにいた中核的な遺伝子群は、トバ火山の噴火によって壊滅し、栽培環境が良くない縁辺部にいたmt-Rだけが生き残り、6万年前には再びY-C1と共に東南アジアに拡散していたと想定される。

mt-Rが新たに東南アジアに来たY-Fに浸潤し、現代の西ユーラシア人の有力な遺伝子になった事情は、後氷期になって温暖化したユーラシア大陸東部で、何度も繰り返された栽培系ミトコンドリア遺伝子の、他民族への浸潤事情から説明できる。優秀な栽培種を得たミトコンドリア遺伝子が、他の民族に浸透した状況と酷似しているからだ。栽培技量に優れたmt-RY-Fに浸透し、Y-Fの既存ペア遺伝子だったmt-Mを駆逐した事情を、西ユーラシアにmt-M系がいない事が示しているとも言える。

mt-R系譜が優れた栽培者として、後氷期の温暖化と共にユーラシアに拡散した結果、現代の遺伝子分布が生まれたとすると、その様なmt-Rは氷期の東南アジアで生まれ、氷期が終わる前の東南アジア内部に広範囲に拡散していた事情が明らかになる。現在西ユーラシアで麦を栽培しているミトコンドリア遺伝子は、総てmt-R系譜であり、東アジアでジャポニカ米を栽培化したmt-Bmt-Fmt-R系譜で、インディカ米を栽培化したのも、現在の東南アジアに集積している、mt-Rxだった可能性が高いからだ。言い換えると、トバ火山の噴火後にmt-Rが生き残っていなければ、現代社会にはコメも麦もない状態になるほどに、mt-Rは優れた栽培者だった。

氷期の東南アジでmt-Rから分岐した女性達だけが、後世に残る立派な業績を挙げた事は、分岐前のmt-Rが既に立派な栽培者だったからだと考える事も自然な発想になる。つまり5万年前のmt-Rは既に栽培者だったから、Y-F集団に浸潤してmt-Mの比率を減少させたとの想定が、氷期のmt-M7や後氷期のmt-Bが行った浸潤事情から連想される。言い換えると、穀類の栽培化途上にあったミトコンドリア遺伝子の浸潤的な営みが、5万年前に始まったmt-Rの営みと類似している事を、遺伝子分布は強く示唆している。これを敷衍すると諸事象が合理的に説明できるから、間違いないとの確信に至る。

Y-Fの当初のペアだったmt-Mが、優秀な栽培者だったmt-Rの浸潤を受け、現在の西ユーラシア人の祖先集団から駆逐されたのは、アフリカ時代のmt-Mには栽培技術がなく、東南アジアに着いて間もない時期だったから、mt-Rとの間に大きな技能差があったからだと推測される。5万年前に東南アジアに到達したmt-Mにとって、東南アジア独特の植生環境での採取に熟練する、栽培以前の問題を抱えていた。その様なmt-Mを迎えたmt-Rは、母から娘に伝えられた優秀な栽培技術を駆使し、Y-Fが生き残る有効な手段を提供する事が出来た。この様な環境でmt-RY-Fに強力に浸透する事は、ミトコンドリア遺伝子の拡散理論の典型的な適応例になる。西ユーラシアにmt-M系譜がいないのは、mt-Mが西から東南アジア西部に到達した時点で、既に優秀な栽培者だったmt-Rの濃厚な浸潤を受け、そこを通過してmt-Rの密度が薄いスンダランド南部や南シナ海・東シナ海沿岸に至った集団だけが、mt-Mを残していると考える事ができるからだ。

Y-Fmt-Rの技能を有効に利用し、優秀な栽培者に成長したmt-Rを独占した結果、東南アジアのY-C1集団が消滅し、Y-Fが東南アジアの覇者になったと想定され、Y-Fがその様な競争的な生存条件を獲得できたのは、Y-FY-C1それぞれの習俗や文化の違いに起因したと想定される。

Y-Fmt-Rが拘った栽培適地に定住したが、Y-C1はそれに対する寛容性が乏しかった事が、その様な結果を生んだと推測される。Y-Fの子孫は現代の農耕民族になり、Y-Cを中核とする民族は近代まで遊牧民族や狩猟民族だったから、その違いがY-Fの栽培民族的な習俗の存在を証明し、mt-Rが栽培者だった事の証拠にもなる。この様に事実である可能性が高い事象から、整合的な論理を形成する演繹的な証明手法は、マーケティングや数値解析に多用されるが、これに数学的な要素を加味すれば科学的な手法になる。

東南アジアに到着した直後のY-Fは、純粋な狩猟社会を形成していたと想定され、その伴侶だったmt-Mは、Y-Fに適した狩猟文化を長い間支えてきたから、他者にはできないY-Fにとって有利な技能や習俗を色々持っていた筈だが、それを熟知していなかった異民族のmt-Rを配偶者にする事により、東南アジアのサバイバル競争に成功した事は、mt-Rをペアにすると狩猟の生産性には阻害要因になっても、mt-Rが持っていた栽培技能の生産性は、それを補って余りあった事がこの様な現象を生んだと考えられる。

単に植物採取が上手だったという優位性では、東南アジア西部で殆どのmt-Mが、mt-Rに置き換わった現象は説明できないから、5万年前のmt-Rは既にイネ科植物の高度な栽培技能を持っていたと考えざるを得ない。但し西ユーラシアに拡散したmt-Rの分岐集団は麦の栽培者になったが、同じmt-R系でもmt-Bmt-Fmt-Rxはコメの栽培者になったから、5万年前のmt-Rは麦の原生種の栽培者だったと決め付ける事はできない。つまり母から娘に伝えた栽培思想が優れていたから、何処に拡散しても、その地の有力なイネ科植物を栽培したと考えられる。原生種の栽培を行うのであれば、移住先に繁茂している雑草を栽培する事が、最も生産性が高い栽培になる可能性が高いから、それは氷期の東南アジアに相応しい栽培手法だった。後氷期になってから栽培化に成功した女性達は、栽培種とミトコンドリア遺伝子をセットで考えられる状態になっていたが、原生種の花粉が飛び交っていた氷期の東南アジアでは、栽培種を固定化するより地域の気候に適した植生の繁殖を助ける方が、栽培効率が高まった事を示している。但し後氷期に北上した小麦の栽培者以外の女性達は、既にミトコンドリア遺伝子と栽培者が紐付けできる状態になっていたから、Y-Fという適切なペアを得たmt-Rは、5万年前から2万年前までの間に栽培技能を高度化させ、生産性が高い特定品種の栽培者になっていた事を示している。但しそれが単一品種だったのか、不作を避けるために複数品種を並行的に栽培していたのかについては、現在検証する手段がない。浸潤した女性達が、浸潤された女性達の栽培種を取り込む事も一般的な現象だったからだ。

氷期の東南アジアの栽培方法は、与えられた環境で最も繁茂するイネ科植物の原生種を選び、群生を拡大したり、他の候補地に群生させたりする事だったと考えられる。類似した気候地域内でそのような行為が繰り返されたから、最も生産性が高い原生種に統合されていく過程で、植生の遺伝子もミトコンドリア遺伝子も純化され、超温暖期に台湾に北上したmt-B4と浙江省に北上したmt-B5は、氷期の東南アジアでは異なった栽培集団として、それぞれが独自の栽培種に収斂した。しかし近接した地域の女性達だったから、類似した原生種を栽培していた事により、現代の農学者はそれぞれが栽培化した熱帯ジャポニカとジャバニカを、同種のコメであると見做している。熱帯ジャポニカとジャバニカは後世になって交配されたから、無数の交配品種が生れ、品種区分が難しい状態になっているから、厳密な事は言えないからだ。

いずれにしてもこの事例が氷期の東南アジアで起こった事と、後氷期の栽培化事情を示し、栽培種とミトコンドリア遺伝子が固定される状態に至った事情を示している。従ってイネに関して言えば、栽培種とミトコンドリア遺伝子が共に純化される状態は、既に氷期に生まれていたと想定される。

栽培の重要性を認識した男性は、当初はY-Fの少数派だったかもしれない。しかしその男性が優位な生存条件を得て子孫を増やすと、それが子孫の習俗になって民族を形成し、彼らが繁栄して地域の覇者になったと考えられる。栽培の重要性を理解しなかったY-C1は、Y-F系民族との縄張り争いが生れると、衆寡敵せず敗退して絶えた事になる。狩猟が食料の過半を占めていた時代には、狩猟文化が異なる狩猟民族が、それぞれの縄張りを持ちながら混在する事は難しく、Y-C1Y-Fは両立できない民族だったと推測される。

導入項で説明した様に、原縄文人の母集団がヴェトナムで堅果類を栽培し始めたのは4万年前頃で、そのY遺伝子は既にY-Oになっていたと想定される。原縄文人集団が生まれた3万年前にY-O2b1ISOGG分類ではO1b2a1a1)までクラスター分岐が進んでいた事は、Y-RY-OY-F系遺伝子の系統樹の大分類の末端にはあるが、これらの大クラスターが分岐した時期は、Y-Fが東南アジアに至ってから1万年は経ていない、4万年前より早い時期だった事になる。つまりY-Fmt-Rの浸潤を受けて栽培系狩猟民族になったのは、Y-F5万年前に東南アジアに到着した直後だったと想定される。<ウィキペディアには、ISOGG分類のO1b228,300年前に中国で生まれたと、出鱈目が書かれているから注意を要する>

後氷期に温暖化してからmt-R系譜が移住した12千年前のシリアやパレスチナで、栽培化途上のエンマ小麦が発見されている。エンマ小麦は立派な栽培種で、その原生種はクサビ小麦と一粒小麦だった。それらの原生種が現在もオリエント地域で野生種として繁茂している事は、東南アジアから拡散したmt-Rは、原生種が存在しなかったオリエントにこの種を持ち込んで栽培し、栽培品種を絞りながら栽培化を進展させていた事を示している。つまり小麦の栽培化については、氷期の東南アジアでは栽培種の統合が進展せず、後氷期に女性達が東南アジアを離れる事により、栽培化が漸く進展し始めた事を示している。現在の主力栽培種であるパン小麦は、複数の栽培種の遺伝子が融合している種だから、エンマ小麦を含めてそのような融合が起こるためには、複数の種を混載していた事になり、クサビ小麦と一粒小麦がシリアやパレスチナで雑草化している事と整合する。つまり一種に収斂できない生産性の低い種を無造作に混載していたから、遺伝子が融合した種が生れたと推測され、融合前の種と混載していた事は、東南アジアでは栽培化が進展していなかった事を示している。

温帯ジャポニカの栽培者だったmt-Fについては、1万年前には既に特定栽培種の栽培者になっていただけではなく、栽培化の途上にあったと想定され、小麦とは異なって栽培種は一種類に収斂していた。この様な温帯ジャポニカも含め、コメには遺伝子が融合している種はないから、栽培種は早い時期に特定種に収斂していた事を示している。原生種の品種が単一ではなく、異なる地域で異なる品種が栽培されていた事も示している。

台湾から関東に1万~9千年前に渡来したmt-B4は、台湾時代には原生種の栽培であって、稲作者にはなっていなかったと想定される。東南アジアの海洋民族の遺伝子は、全てmt-B4だったにも拘らず、海洋民族が拡散した南太平洋の島々には稲作者がいないからだ。従って関東に渡来したmt-B4が、関東で熱帯ジャポニカを栽培化したと想定され、原生種の栽培者ではあったが、単一種に収斂していた事例になる。浙江省に北上したmt-B4も、1万年前には同様な状態だったと推測されるから、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカは栽培化の歴史が異なっていた。温帯ジャポニカの栽培化が先行していたと考えるのは、温帯ジャポニカが日本に渡来して栽培可能な温暖期になると、熱帯ジャポニカの栽培地だった日本が温帯ジャポニカの栽培地になった事は、生産性の圧倒的な差を示している事になり、栽培化以降の歴史の長さに大きな差があった事を示唆しているからだ。

mt-Rの話は一旦休止し、出アフリカの際にはY-Fのペアだったmt-Mの動向を追跡すると、東南アジアでmt-Rに触発はされたが、それで栽培技能がmt-R並みに向上したわけではく、浸潤される前に東南アジア西部から追われる様に去り、栽培者になるために東アジアで奮闘した事情が、遺伝子分布から浮かび上がる。詳細は後述するが、遺伝子分布によって判る事の概略は以下になる。

氷期の東南アジアでmt-Rの浸潤が進行すると、mt-Mはそれを避けて東北に移動し、それに付き合った男性がY-NOだった。彼らは4万年前には南シナ海沿岸にいて、Y-NOはそこでY-OY-Nに分離し、Y-Omt-M7ペアは暖温帯性の堅果類の栽培者になり、Y-NO集団の最も南の集団として、人口を増やした。そこから分岐したY-O2bmt-M7aペアが、3万年前に台湾や福建省に北上して原縄文人と原韓族になった。母集団のY-Omt-M7ペアは、後氷期になって温暖化すると暖温帯性の堅果類の栽培を継続しながら、浙江省に北上した集団はmt-M7bに純化し、台湾に北上した集団はmt-M7cに純化した。

超温暖期になるとmt-R系のmt-Bが沿海部を北上し、mt-B4は台湾に北上してmt-M7cに浸潤したが、台湾では稲作者になれずに1万年前に海洋縄文人と出会うと、海洋文化を得て海洋民族になった女性と、関東に渡来して熱帯ジャポニカを栽培化した女性に分かれた。mt-B5は浙江省に北上してmt-M7bに浸潤し、太平洋が湿潤化して低温化した8千年前にジャヴァ二カの栽培化に着手した。

他のmt-MY-OY-Nと共に、氷期の早い時期にインドシナ半島の高地や華南に北上し、それぞれが定着した地域でmt-M8M10mt-CDGなどに分岐し、mt-M8は更にmt-M8amt-Zに分岐した。

mt-M7を除くこれらの女性達の中で、最も南に位置したのはmt-M8amt-M9で、mt-M8aY-O3とペアになって漢族の祖先になった。mt-M9はソバの栽培者になったが、ペア遺伝子は明らかではない。

mt-M10Y-O3と共に内陸に展開したが、展開した場所は明らかではない。

他のmt-M系はY-Nと共に氷期を華南で過ごし、最北のペアは山東半島付近まで北上したが、氷期の再寒冷期には華南に南下したと推測される。後氷期なると浙江省以北の中国大陸が極度に乾燥したので、比較的湿潤な沿海部をオホーツク海沿岸まで北上し、狩猟民族と共生していた河川漁民に遭遇すると、3民族の共生社会を形成した。現在の東アジアに最も多いmt-Dは、この一群の最北の栽培者としてシベリアに北上すると、一部はmt-Cと共にベーリング陸橋を経てアメリに渡った。mt-Dの残余の一部は、シベリアの湿潤化が始まった1万年前にオホーツク海沿岸に南下し、アワ栽培者になった。キビもY-Nとペアだったmt-Mが栽培した種であると推測され、mt-M7以外の女性達は、冷温帯性の生産性が低いイネ科の植物の、原生種を栽培していたと推測される。

Y-Nは東南アジアより冷涼な気候地域に北上したから、栽培の生産性が低くても、肉が腐敗しにくい地域の不猟期の飢餓を補うことができれば、経済的な収支は釣り合ったから、この女性達が栽培者である事に価値があった。栽培の補助を受ければ、シベリアのY-C3より総合的な生産性が高い狩猟者になり、狩猟巧者だったY-C3の南下に怯える必要はなくなったからだ。従って栽培する価値があるイネ科の植生の北限が、Y-Nmt-M系ペアの北上限界になり、Y-C3の南下限界になったと想定される。

mt-M集団は遺伝子毎に纏まって行動した痕跡があるから、彼女達も栽培集団を結成していた事になる。多分北上した過程では、mt-Rの栽培技能を曲がりなりにも獲得していた女性は極少数者だったから、その女性の子孫を核に栽培者集団が生れ、浸潤を繰り返しながら遺伝子を純化した結果、栽培種の違いによる疑似民族が生れた事が、その様な結果を生んだと想定される。漁労民族と共生して栽培者の発言力が高まると、言語や共生文化は漁労民族のものになったから、栽培種の違いによる民族が生れた事を、特定の遺伝子が特定地域に集まっている現在のミトコンドリア遺伝子の分布が示している。

mt-M7がいたヴェトナムは、mt-Mが拡散した地域の南端にあり、湖北省に北上して温帯ジャポニカを栽培化したmt-R系のmt-Fや、沿海部に北上して熱帯ジャポニカの栽培者になったmt-Bなどがいた、生産効率が良いイネ科の原生種が繁茂していた地域に隣接しながら、その北の優良なイネ科植物が繁茂しない地域だった。イネの原生種が育つ温暖なスンダランドは、栽培巧者のmt-Rに占有されたから、mt-M系は気候が冷涼で有用なイネ科の植生に乏しい北方地域に展開したが、温暖湿潤で植生が豊かな東南アジア地域は、面積が限られていたから、各民族の居住域が隣接する過密状態だった。

mt-Mの中では最も南にいたmt-M7だけが、イネ科植物の栽培者にならずに土器を発明し、堅果類の栽培者に転じた事は、mt-Rに接する位置にいたmt-M7に、強い危機意識があった事を示唆している。mt-M全体の祖先は5万年前に東南アジア西部に到着し、mt-Rの浸潤を受けながらヴェトナムに達したから、浸潤したmt-Rと接触して危機意識を醸成し、その脅威から逃れる様に、mt-Rが浸潤しない冷涼な地域だったヴェトナム中部以北に、定住したと考えられる。他のmt-Mは更に冷涼な地域に北上し、日常的にmt-R系の女性と接する事はなくなり、イネ科植物の栽培者になったが、ヴェトナムに定住したmt-M7mt-Rを身近な存在として認識し続けた故に、その北上の脅威に晒されていた緊張感から、イネ科の植生の栽培とは異質な、堅果類の栽培という異常な解決策に至ったのではなかろうか。堅果類栽培の基幹技術は、土器を使ってドングリを解毒する手法だった。

 

1-3 更に論考すると、驚くべき結論に至る。

氷期が終わって温暖化と湿潤化が始まった後氷期初頭には、ユーラシアの人口が人類の拡散源だったアフリカを凌ぎ、非アフリカ人類の文化がアフリカ人類の文化より優勢になっていたから、後氷期は非アフリカ人の時代になった。氷期であっても間氷期であっても、東南アジアはアフリカより温暖湿潤な地域が広く植生も豊かだから、氷期末期には東南アジアの人口がアフリカの人口を凌ぎ、その差が後氷期に拡大した事に、疑問を差し挟む余地はない。

視点を過去120万年間に広げると、10回ほど繰り返された氷期と間氷期サイクルの際に、アフリカとユーラシアの各地の自然環境の変化は、毎回同じ事の繰り返しだった筈だが、現生人類はアフリカだけで進化し続け、東南アジアは現生人類の発祥地に転換しなかった。これは極めて奇異な現象だから、何らかの解釈が要るだろう。前回の間氷期やそれ以前にも、原人や旧人がアフリカからユーラシアに何度も拡散した事を、発掘された原人や旧人の痕跡が示しているのに、東南アジアは人類進化の中心地にならず、直近の氷期だけが成功事例になった事については、特別な理由があったと考えざるを得ないからだ。

その特別な理由とは、直近120万年間の人類の祖先に永続的な生存環境を与えたのは、アフリカだけだったからだと考えざるを得ない。言い換えれば、ユーラシア大陸の人類の生存環境には断絶期があった事になり、その有力候補は氷期の開始期の、過酷な環境だったと想定される。トバ火山の様な氷期の大災害が、ユーラシア大陸の全人類を壊滅させたという類の指摘には、説得力がないからだ。トバ火山では災害から生き残った人々がいたし、その影響がなかったシベリアや日本列島にも、人類の生存圏があったからだ。

この議論の延長として、直近の氷期に遺跡を遺したネアンデルタール人などの旧人も、過去の氷期や間氷期にアフリカを出た旧人の子孫ではなく、現生人類と同様に、直近の氷期にアフリカを出た旧人だった事になるが、通説が拘っている僥倖的な出アフリカ説が否定されれば、この課題に対する回答として問題はない。逆に言えば僥倖的な出アフリカ説が否定されなければ、前回の氷期の事であっても今次の氷期の事であっても、旧人や原人がユーラシア大陸に拡散した事を、論理的に説明できないから、この観点でも僥倖的な出アフリカ説は、否定されるべき珍説にならざるを得ない。僥倖的な出アフリカに際し、浮き袋などの知能的な道具を使ったと説明するのであれば、原人や旧人のユーラシア大陸への拡散は不可能だった事になるからだ。その上に旧人にはネアンデルタール人とデニソワ人がいたのであれば、彼らにはそれぞれ少なくとも各1度、合計2度の出アフリカの機会があった事になり、僥倖説は破綻する。

以上の結論として言える事は、13万年前の間氷期にユーラシア大陸にいた新旧人類は、13万年前に始まった氷期初頭の過酷な環境で全滅し、直近の氷期にユーラシア大陸にいた旧人類と現生人類は、直近の氷期が始まってからアフリカを出て、ユーラシア大陸に拡散した事になる。つまりユーラシア大陸には、人類の祖先が全滅する様な過酷なイベントが、間氷期から氷期に変わる気候の激変期に毎回発生した事になる。

但し全ての生命が根絶する程の事態ではなく、現代に繋がっているその他の動植物は生き残る程度の、過酷な環境だった事になる。人類の祖先がその環境の激変に耐えられず、毎回滅亡した原因として、脚力が弱いにも拘らず脳がエネルギーを多量に消費する、環境の激変に適応できない肉食獣だったからだとの推測は論理的に矛盾しない。安定的な環境であれば知恵が使えるから、環境に適応して効率的に食料を獲得する手段を探し、増殖する事はできたが、気候の激変によって動植物の密度が激減すると、その特性が仇になって滅亡したと想定されるからだ。最近の100万年間、陸上に大型の肉食獣が生まれなかった事が、その事情を示している様に見える。

最近の遺伝子研究により、ほぼすべての生物種が、10万年~20万年前に地球に登場した様に見えるとの指摘があり、これも13万年前の氷期初頭の過酷な出来事に起因しているとすれば、辻褄が合う発見になる。この研究では米ロックフェラー大学のマーク・ストークル氏と、スイス・バーゼル大学のデービッド・セイラー氏の研究チームが、世界中の研究者数百人が10万種の動物から採取し、米政府の遺伝子データベースに蓄積したミトコンドリア遺伝子を解析し、現在地球上に生息する生物種のうち、ヒトを含む全体の9割が20万年前~10万年前に出現した事を明らかにした。具体的に言えばヒトを含む全体の9割には、類縁の遺伝子群から進化論的に進化した事を示す、周辺的な遺伝子を持つ生物がいない事を指摘している。但し原初的な生物から、突然高度な種が生まれたと言っているのではない。

構造が簡単なミトコンドリアDNAは、全遺伝子を比較しやすいから、この様な作業が可能になる。特定の遺伝子片の中で、生存に有利にも不利にもならない中立的な遺伝子変異に着目すると、それは自然淘汰や性淘汰に無関係だから、その類似性から生物種が分岐した後の経過年が分かる。それを調べると現生の生物群の間には、明確な遺伝的境界があり、遺伝子群の中間種はほぼ皆無である事が判明したから、個々の種群の祖先が生まれた年代を推測すると、9割が20万年前~10万年前に出現したとこの研究は指摘している。つまり何らかのイベントによって大量絶滅が起きない限り、このような事態は説明できない。

ストークル氏は地球上の大量絶滅は、陸生恐竜と地球上の全生命の半数を死滅させた、6550万年前の小惑星の衝突を最後に、地球上では起きていない事を前提にして、ダーウィンの進化論に疑念を提示したが、間氷期終了時に毎回カタストロフィーが発生したのであれば話は変わる。最終氷期は最も長い氷期だったから、北大西洋の東岸に発生した巨大氷床は、過去120万年間の最大量だったと推測され、その初頭に最も過酷なイベントが発生したと推測される。6550万年前の小惑星の衝突に関しては、この様な遺伝子解析は為されていないから、氷期初頭の過酷なイベントが小惑星の衝突に匹敵したのか否かは明らかではない。

氷期初頭の苛酷なイベントの直接の原因は、氷期に突入した際の北欧やシベリアの急速な寒冷化と、それが引き起こした豪雨による地理的な環境変化と、それらに影響された植生の激変だったと想定される。但しこれは北半球に限定された現象だったから、赤道を挟んで広大な大洋を有している南半球では、北半球ほどの気候の激変はなかったと想定される。従ってアフリカでは人類の祖先が南半球に退避するか、元々南北アフリカに拡散していた人類の祖先の内、南半球の人類の祖先が生き残る事により、人類全体としては気候の激変を耐え抜く事ができたと考えられる。この想定により、人類の進化がアフリカに限定された事を、合理的に説明できる。言い換えると上記の研究は現在の古気候学の通説を否定し、新しい仮説の正統性を示し、氷期に向かう寒冷化は通説が主張する様に徐々に進行したのではなく、氷期の初頭に気候の激変があった事を示している。

この恐ろしいイベントが始まるのは遠い先の事かもしれないが、現在はその前段階の終末期である事は間違いなく、既に最終局面が始まっているかもしれないが、それを判断できるデータは揃っていない。いずれにしてもCO2温暖化論に偏向している気候議論を転換し、北大西洋に関するデータを集め、現状認識力を高めて対策を検討する必要がある。現代の工業力を駆使すれば対策がないわけではないから、過度に恐怖感を煽らず、冷静にそのプロジェクトを進める必要があるだろう。その対策の一例を、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動に示したが、何らかの対策が成功すれば、人類は氷期の寒冷気候を永久に経験しないで済む可能性もある。

 

1-4 氷期の東南アジア

氷期の東南アジアの気候に関する認識の曖昧さも、氷期の人類史の解釈を混乱させている。

後氷期に温暖化すると、東南アジアは極めて温暖・湿潤な地域になり、鉄器がなければ切り開く事ができない密林に覆われた。それ故に鉄器時代になって、稲作民族が再入植する事によって人類の生存圏になったが、降雨量が少なかった氷期の密林地域は、限定的だったと考えられる。南アジアの古気候に関しては考察も少なく、偶にあっても明確な論拠が示されていないので、尾瀬の花粉が示す氷期最寒冷期の日本列島が、現在より12℃低温だった事と、氷期の寒冷期と温暖期の寒暖差は8℃だった事から、氷期の最寒冷期の東南アジアの気候を推測する。

海洋に囲まれている地域では、気温が上昇して海水温が高まると、蒸発が促進されて海洋の昇温が抑圧されるが、温暖な地域であるほどその抑圧効果は大きい。従って氷期と間氷期の温度差は、緯度が高い日本の方が東南アジアより大きかったと想定される。

シンガポールやホーチミン市の現在の平均気温は28℃だから、12℃低下させると16℃になって現在の鹿児島程度になるが、これは上記の理由で温度差を過大に見積っている事になるから、氷期のホーチミン市は現在の台湾程度の気温で、赤道直下のシンガポールはもっと温暖だったと推測される。その程度に温暖でなければ、現在福建省南部を北限としている稲の原生種が、氷期に生き残る事ができなかったからだ。つまり氷期のシンガポールは現在の台南(24度)より温暖で、熱帯地域の氷期最寒冷期の平均的な気温低下は、日本列島の1/34℃程度だったと推測され、気温の低下はさほどではなくても海水の蒸発量は激減していた。

氷期の降雨量は、氷期に形成された沖積平野の規模から推測できる。

上掲の地図は、白地図に現在の水深120m線を赤線で加筆したもので、23万年前の海岸線を示している。

マレー半島とカリマンタン島に挟まれた浅い海は、氷期の豊かな降雨が、氷期の低い水面に合わせて土砂を堆積した痕跡なので、氷期の陸地としてスンダランドと呼ばれている。ミャンマー以西にこの様な広い海底沖積地はないから、氷期のベンガル湾東部の降雨は、スンダランドを囲む地域ほどには多くなかった事を示している。それらの地域にも氷期の沖積平野の痕跡は見えるが、その程度の広さであれば、前回の間氷期に現在の平野部に堆積した沖積土が、今次の氷期初頭の大豪雨によって流出し、形成されたものだった可能性が高い。従って氷期のミャンマー沿岸の沖積平野には豊かな降雨はなく、草原に疎林が点在するサバンナ気候になり、麦の原生種が繁茂していたと想定される。現在の海岸線と赤線の間だけが氷期の平原だったのではなく、ミャンマーの平原は現在の平野部も含むから、北方に少し切れ込んだ現在の海岸線をベンガル湾の北端の緯度まで拡大すると、麦の原生種が繁茂していた平原の規模が、巨大であった事を復元できる。氷期の最寒冷期のこの平原の南方は、暖温帯性の気候地域としてパン小麦系の原生種が繁茂し、北方は冷温帯性の気候地域として大麦系の原生種が繁茂し、人類に広い生存圏を与えていたと推測される。

大麦の遺伝子は自然界に一般的に存在する2倍体だから、氷期の寒冷期にこの地域の気候が寒冷化すると、大麦の栽培者が栽培種の遺伝子の改良に着手する様な、栽培化の後半段階に達していた可能性がある。Y遺伝子の分布は、大麦を栽培化したY-Rmt-Rペアが、後氷期の温暖化によって中央アジアに北上したが、シベリアには北上しなかった事を示している。当時の中央アジアが大麦栽培の北限だったとすると、この推測と歴史事象が整合するからだ。平原南部では氷期の最寒冷期になっても、多種類の麦の原生種が繁茂していたから、栽培種を統一する栽培化の前半段階である、栽培種の絞り込みに至らなかったから、そこから拡散した小麦の原生種の栽培者は、後氷期なっても多品種を混載する栽培法を、長い間継続していたと想定され、これも歴史事象と整合するから詳細を順次説明する。

氷期の台湾は大陸と陸続きになり、台湾の南北に台湾平原が広がり、台湾平原から沖縄に向かって半島状の地形が突き出ていた。これは氷期の揚子江デルタの痕跡らしいが、原縄文人にとって重要な地形なので、以降は琉球岬と呼ぶ。氷期の黒潮は、沖縄の東を流れていたと考えられる。その根拠は、原日本人が沖縄を経由して台湾に渡っていたと考えられるからだが、黒潮が沖縄の西を流れていたのであれば、この様な岬は形成されなかった筈だから、この岬の存在も、氷期の黒潮は沖縄の東を流れていた証拠になる。従って後氷期に黒潮が沖縄の西を流れる様になると、黒潮の深さは数100mに及ぶから、河川の様に琉球岬の先端を削り取ったと考えられる。従って氷期の琉球岬は上図の赤い線から、更に沖縄に向かって張り出していたと想定される。沖縄の西には深い沖縄トラフがあるから、琉球岬と久米島は氷期を通して海に隔てられていた事は間違いなく、現在の海底地形から類推すると、久米島と琉球岬の距離は150㎞程だったと考えられる。久米島は沖縄本島と、陸続きだった可能性が高い。

黄海も氷期には広大な沖積平野だったが、氷期の華北は一貫して乾燥していたから、この平原を形成した土壌は氷期に堆積したのではなく、氷期初頭の大豪雨期に、広大な華北平原が黄河によって削られ、その土砂が堆積した平原であると想定される。氷期初頭にあった華北平原の膨大な土砂は、前回の間氷期に黄河が新疆から運び出し、現在の様な華北平原を形成していたもので、氷期と間氷期は何度も繰り返されたから、黄海の浅い海はその蓄積によって形成されたと考えられる。

上の地図はインド以西を表示していないが、インド以西のインド洋には広い沖積平野はなく、氷期のアラビア海沿岸は極めて乾燥していた事を示している。従って氷期に豊かな降雨があったのは、現在のモンスーン地域を一回り縮小した地域だけで、現在乾燥気味の地域は、海水温が低かった氷期には更に乾燥していたと推測される。それであってもインド洋が極度に温暖化しなかったのは、北ユーラシアの氷床が冷気を発散し、それが北太平洋亜熱帯循環を冷却し、その上を吹く風が南太平洋亜熱帯循環を冷却したから、それが南氷洋を介してインド洋を冷却したからだと推測される。氷期後半には南大西洋も冷たい海になり、それもインド洋を冷却したと想定される。

北半球の高緯度地域で発生した大気も、海洋を冷却したと想定されるが、話が複雑過ぎて解釈不能だからここでは言及しないが、大きな影響は与えなかった可能性が高い。南極の氷床は南半球が徐々に冷えていった事を示しているから、海洋は容易に低温化しなかった事を示唆し、熱帯を介した北半球と南半球の熱の交換は、それほど進行していなかった事を示しているからだ。

具体的に言えば氷期には、メキシコ湾流が消滅して北大西洋の海流と南大西洋の海流は互いに干渉しない離れた海流にったから、北大西洋の冷気が海洋を介して、赤道を跨いだ南大西洋に及ぶのには何万年も掛かったと推測され、スンダランドが生れて太平洋とインド洋も分断されたから、北半球の冷気が海洋を介して南半球に及ぶのには、何万年も掛かったと推測される。その事情が南極の氷床が示す氷期の、遅い上に圧縮された低温化事情と合致しているからだ。大気の循環による熱伝導は早いが、その伝導経路は機能していなかったと想定される。赤道近辺では氷期の最寒冷期でも気温は4℃ほどしか低温化しなかったが、南極の氷床は氷期の最寒冷期に8℃低温化したからだ。

 

モンスーン気候の原因を把握し、氷期の降雨事情を検証する。

インド洋を起源とするモンスーンでは、夏のインド洋に海洋性の高気圧が生まれ、そこから噴き出す時計回りの冷たい風が、温暖化したベンガル湾で吸湿して大陸に吹き上げ、東南アジアに豪雨をもたらしている。夏の日光が大陸を温め、海洋より高温の大気を生み出す気候現象は、氷期であっても発生していた筈だから、太陽光が最も強く照射する4月以降にベンガル湾の海水が周囲の陸地によって温められ、その後インド洋に夏の高気圧が発生して東南アジアに降雨をもたらす状況は、氷期にも変わらず存在したと考えられる。ガンジス川流域やミャンマーが乾燥していた事は、その規模がかなり小さかった事を示しているが、タイ以東や以南でモンスーン気候や熱帯性の降雨が発生したから、スンダランドが生まれたと考えられる。広大なスンダランドを形成したタイのチャオプラヤー川やメコン川は、モンスーン気候による河水が流れ、カリマンタン島のカプアス川やバリト川、スマトラ島のカンパル川やハリ川は、熱帯性の降雨に恵まれて多量の土砂を排出した事は、これらの地域は氷期も湿潤だったから、氷期の海水面に合わせてスンダランドが形成された事を示している。

氷期の海水面に合わせた事には、解説が必要になる。スンダランドの現在の水深は5070mだから、これは氷期初頭に300m以上低下した時期の海面ではなく、氷期の最寒冷期に120m低下していた海面でもない。氷期の最寒冷期の末期に、120m低下していた海面に合わせて形成された沖積平野は、当時の標高で0m40m程度だったと推測され、それ以降の海面上昇によって既に形成されていた沖積平野が上塗りされ、水深5070mの沖積平野が形成されたが、その後の海面上昇が急速に進んだから、この水深の平原が海底に残されたと考えられる。その時期の海面が80m程度低下した状態であれば、この様な結果になった筈だから、ヤンガードリアス期の低温期に海面上昇が停滞し、気温の急激な低下がこの地域に豪雨をもたらしたから、沖積平野の上塗りが進行し、ヤンガードリアス期が終わって大陸の気温が急上昇すると、海面上昇は再び急速に進み始めたが、降雨量が減少して沖積平野の上塗りが進まなかった結果、現在の海底標高が生れたと想定される。

石器が採取できるスンダランドの縁辺部にいたイネの原生種の栽培者が、海面上昇によって栽培地を追い出されたのはこの豪雨期ではなく、超温暖期が始まった12千年以降に、彼らが栽培地にしていた沖積平野や漁労を行っていた河川が、海に飲み込まれたからだと想定される。この想定により、氷期にイネの原生種が繁茂していたスンダランドから栽培者が北上し、現在の暖温帯性の気候地域に稲作が生れたシナリオを、時系列的に追跡する事ができる。超温暖期になる前に海面が上昇してしまっていれば、東アジアに稲作が生れなかったかもしれない。

モンスーン気候は陸に囲まれた南シナ海でも発生し、夏になると陸上の大気によってその海水が温められ、太平洋高気圧から吹き出す時計回りの風が南シナ海やフィリッピン海の海上を北に噴き上げ、黒潮の上も吹き抜けて氷期の台湾平原と日本列島に降雨をもたらし続けたと考えられる。日本列島では氷期から人類の痕跡が絶えず、遺跡密度が極めて高く、その状態が時間的に連続している事がそれを証明している。

間氷期である現在の気候が、地球環境の安定的なバランス状態だが、氷期には西ユーラシアを中心に北米や北シベリアに厚く堆積した氷床が、太陽光を反射して冷気を生産していたから、それによって北半球が低温化し、氷期の寒冷気候が生れたと想定される。その事情を具体的に推測すると、上記以外の地域の寒冷な気候は、巨大氷床が生み出す冷気が高緯度地域で北太平洋と北大西洋を強力に冷却し、その影響によって地球全域の海洋が徐々に低温化し、それによって氷期の寒冷な気候が広範な地域に徐々に拡大していったと推測される。高緯度地域で多量の雲が発生したが、その際の海流も大気も極めて低温だったから、後氷期の熱帯で発生している雲より水分含有量が少なく、降雨量も少なかったと想定される。その様な雲が低緯度地域に拡散する事により、太陽光が遮られて大気と海洋が低温化し、冷涼で降雨量が少ない氷期の気候が生れたと想定される。従って中緯度以南の大陸内部は広範囲に砂漠化したと想定され、雲の発生源から遠い地域では、その雲が太陽光を遮って陸地の昇温を抑える事も少なかっただろう。つまり氷期であっても大陸内部では、昼は焼付く様な暑さが生れ、夜は北方から吹く冷気で低温化する様な、熱風と寒風が混在する不安定な気候だったと考えられる。

 

1-5 氷期の東南アジアで行われた栽培。

氷期の東南アジアでは、イネ科植物は原生種しか栽培できなかったから、栽培地は自然の群落を拡大するものにならざるを得ず、現代人がイメージする農地で穀類が栽培される景色からは、かけ離れた状態だった。しかし遺伝子分布はmt-Rが東南アジア西部やスンダランドで優勢になった事を示し、原生種の栽培であっても補助食料を獲得する重要な手段だった事を示している。

穀類の原生種では農耕と言えるような高い生産性は得られないから、緊急時の保存食料としては重要だったが、日常的な食料に占める比率は低く、野菜、根菜、イモ類の方が栽培種としての生産性は高かったと推測される。それらの中には、原生種の花粉が飛散する環境でも品種改良できる種があり、その栽培化が先行した可能性が高いが、平地がすべて水没した後に、当時の山間地だけが長期間原生林に覆われた東南アジアに、栽培者の痕跡は残っていないだろう。考古学者は、「発掘できないものはなかった事を前提に歴史を考察するべきだ」と主張するが、遺伝子分布は旧石器時代から、栽培は重要な食料獲得手段だった事を示している。

縄文人の活動期の項で詳しく説明するが、従来の考古学では原初的な稲作や焼畑農耕の痕跡も検出できない。しかし遺伝子分布は、縄文早期から稲作や焼畑農耕が行われた事を示している。考古学の新しい手法として、プラントオパールや花粉の分析が始まると、縄文稲作や縄文栽培の存在が明らかになり、遺伝子分布が示す歴史の正しさを証明し始めたが、これらの手法には遺伝子分布ほどの正確さはないから、石器時代史の骨格は遺伝子分布によって組み立て、考古学はそれをサポートする立場に転換するべきだろう。特に東南アジアの栽培史については、遺伝子分布から論考を進める方が事実を正確に把握できる。

以下では氷期の東南アジアで栽培が始まり、容易に真似できない技量や栽培思想が生れ、それが母から娘に伝授されながら、高度な栽培段階に至った事を前提に話を進める。但し此処で云う東南アジアは現在の国境線とは異なり、西はバングラデシュ~東は台湾・浙江省を含む地域とする。

東南アジアで始まった最初の穀物栽培は、植物の採取者が有用な植生の群生を見付けると、雑草を除去して有用な植生の密度を高め、その他の環境も整えて群生地を拡大する事だったと考えられる。イネ科に限らず種子は栄養価が高い保存食料であり、折角採取した種子を地面に撒いてしまう行為は雑草の除去より高度な栽培技能だから、播種する栽培はかなり遅れて発生したと考えられるからだ。言い換えると播種は新しい群生地を形成する行為で、失敗すれば撒いた種を無駄に捨てる事になるから、群生地を拡大する技量に自信が生まれなければ、発生し得ない行為だったと考えられるからだ。従って種子の食料価値が高いイネ科植物の播種には、特に慎重だったと想定される。

新しい群生地を形成するためには、雑草を除去するだけではなく、土質やその湿り具合を見極めて栽培適地を見付ける技能と、その土地を整備する技能が必要だったが、栽培適地であればあるほど雑草が繁茂していただろうし、雑草を抜いて播種した後に新たな雑草が芽生え易い場所でもあった。雑草を有効に除去する為には個々の植生を理解する必要があり、植物学的な知識の集積も必要だった。但しこの程度の作業であれば気候が不安定なアフリカであっても、女性達が挑戦していた可能性があり、5万年前に東南アジアに達したmt-Mもその程度の事は行っていた可能性が高い。

その様なmt-MをペアにしていたY-Fから見ると、mt-Rの技能の優秀さが際立ったから、それに惹かれてペアをmt-Rに変えたと考える方が実態に合っているだろう。元々Y-C1のペアだったmt-Rが浸潤する相手としても、その様なmt-MY-Fを想定する方が合理的だからだ。新しい群生地を形成する試みは、既存の群生を拡大した豊富な経験がなければ成功率は高くならない高度な技量だから、mt-Rにはそれに関する高い技量があったが、mt-Mにはなかったという様な技能の差が、mt-Rmt-Mのその後の運命を決めたのではなかろうか。

比較的乾燥した地域には、樹木を伐採しなくても植物を栽培できる場所が各処にあり、栽培を始める事は容易だったが、降雨を有効に使う必要があった。そのために小川を堰き止めて灌水するとか、氾濫する季節と栽培できる季節を河原毎に見極め、適切な場所に堰を形成して栽培地を形成するとか、大河の下流の湿原に適切な栽培地を求める様な知恵を使った栽培法を、mt-Rは生み出していたと推測される。植物に関する知識が蓄積されれば、神経質に除去しなければならない雑草と、放置していても問題にならない雑草の区分が可能になり、群生地を有効に拡大できただろう。

氷期の東南アジア北西部は比較的乾燥し、mt-Rにとって栽培地を見出しやすい環境だったし、Y-Fにとっては草原の狩猟者になる環境が得られたから、両者のペアが定着しやすい環境だった様に見えるが、遺伝子分布はその環境を選択したY-Gだけで、中核集団は更に南進してスンダランドに至り、分派集団がその後北進して東南アジア北西部に戻った事を示している。つまり南の温暖湿潤な地域の方が栽培の生産性が高く、漁労活動を交えた方が狩猟と漁労の総合的な生産性が高いことが分かると、Y-Fの中核はmt-Rの能力を最大限引き出すべく、石器の素材が採取できる、スンダランドの縁辺部に南下した事を示唆している。インディカの栽培者になったmt-Rxやジャポニカの栽培者になったmt-Bmt-Fは、その様な人々の地域集団の女性だったと想定されるからであり、後氷期になってユーラシア全域に拡散する際に、分岐が古いほど南方に拡散したからだ。

つまり麦の栽培者になった人々は、温暖・湿潤で栽培や漁労が可能なスンダランドの余剰人口として北上し、末端のY-Rは北上した人々の更なる余剰人口として、ミャンマーの北部に北上した人々だったと想定される。麦の栽培者になったmt-R系の女性達も、南の集団の過剰人口として栽培には不利だった、温帯性の気候地域に北上した人々の子孫だった。

東南アジアでの栽培は、原生種の栽培環境を整えるものだったから、周囲に原生種が繁茂している環境で栽培していた。その様な環境では優良な種を選んで播種しても、野生の原生種と交配して先祖返りしてしまうから、遺伝子変異を選別して栽培品種に仕立てる努力は台無しになった。従って氷期の東南アジアでは穀物の栽培化は進まず、原生種を栽培する段階で停滞したが、彼女達が熱心に栽培に取り組んでいなければ、後氷期の温暖化によってユーラシア大陸に拡散した際に、優良な種子を携帯して移動する動機は生まれず、穀類の栽培化には至らなかった。

稲作民族のミトコンドリア遺伝子は、栽培の第一段階である栽培種の純化が、氷期の東南アジアで進行していた事を示しているから、この想定と整合している。大麦の栽培者もこの段階を終了していた可能性が高いが、小麦の栽培者は氷期が終わって1万年近く経っても、多数の品種を混合栽培する段階に留まっていたから、氷期の栽培は多様な状態が混在していた。後氷期になってユーラシア大陸の各地に拡散した女性達は、移住先で自分の栽培種が原生種の花粉に汚染されない環境を得ると、ミトコンドリア遺伝子毎に、それぞれの栽培種を各地に定着させた流れは、稲作民族と大麦の栽培者では明確だったからだ。しかし小麦の栽培化には紆余曲折があり、その栽培化プロセスに関する各ミトコンドリア遺伝子の関りは、稲作民族ほど単純ではなかった。小麦の栽培化プロセスに関し、麦の遺伝子の遷移は分かっているので、それについては稲作との比較論として後述するが、それに関わったミトコンドリア遺伝子の役割に関する考察は難解なものになる。そのプロセスは東アジアの歴史とは関係ないから、このHPでは扱わない。

石器時代の栽培は先端産業で、現在の先端産業の様に革新的な技術が生れるとデファクトスタンダード化したが、その様な事態が何度も繰り返されて現在の栽培種に至ったと考えられる事を、縄文時代の導入項で指摘した。つまり改善された栽培種や栽培技術を、先端技術として生み出した女性達の子孫だけが繁栄し、その他の女性達の子孫は絶えたと想定され、その様な女性達とペアになる機会を得なかった一般的な男性達にも、同様な事態が生れたと想定される。農耕民族は男女の人倫が乱れ、地母神信仰が盛んだったと指摘する人がいるが、この様な事情が常在すれば頷ける話でもある。婚姻に関する社会秩序が生れていても、優れた栽培者になった女性は、その秩序を破ってでも獲得したい人材だったからであり、それに成功した子孫が繁栄したからだ。

小麦の栽培者の遺伝子はmt-Rから分岐したが、麦栽培者の人口が多い割には1次分岐者の数が少なく、2次以降の分岐バリエーションも少なく、遺伝子が純化された事を示唆している。mt-Uが大麦栽培者の遺伝子だったとすると、小麦の栽培者として広く拡散しているmt-R系の遺伝子には、mt-R1次分岐は存在しない事になり、何度もボトルネック効果を経験した事を示唆している。

ボトルネック効果とは、食料危機などに遭って人口が激減し、遺伝子の多様性が失われた後で再び人口が増加した状態を指す。その理由として小麦の栽培者は、東南アジアから遠路北アフリカに拡散した事が挙げられるだろうが、移動距離が長かっただけではなく栽培過程にも紆余曲折があった事が、この様な結果を生んだと想定される。最後には栽培化に成功して人口が激増したが、その過程で適当な栽培種や栽培地に恵まれない状態が長く続き、保存食料に乏しい状態で狩猟に頼らざるを得ない、過酷な環境を経験した事を示唆し、小麦の遺伝子が示す栽培化過程と連動している。

その対極が、現在も東南アジアからネパールに散在している、インディカ米の栽培に成功したと推測されるmt-Rx群で、1次分岐の多彩なバリエーションを含んでいるから、共同作業によって栽培化に成功した事を示唆している。彼女達はヒマラヤ山脈の南麓で、自分達が持っていた生産性が高い原生種の栽培化に成功し、長い放浪の旅に出る事も免除されたから、その幸福度が遺伝子分布に反映していると考えられる。その様な地域から温和な仏教が生まれ、西ユーラシアの小麦栽培地から苛烈な一神教が生まれた事も、この文脈から類推できるかもしれない。

以上から言える事は、氷期の東南アジア南部にいたY-Fmt-Rペアは、生産性が高い漁労活動とイネの原生種の栽培により、それほど過酷ではない生活を享受していたが、東南アジア北西部の乾燥地域にいた人々は、南部にいた人々より過酷な生活を強いられていたと推測される。つまり氷期のY-Fmt-Rペアの主流は、温暖湿潤なスンダランを拠点にして、生産性が高いイネの原生種と河川漁労の恩恵によって人口を膨張させたが、そこからはみ出したY-Fmt-Rペアは、現在のミャンマーやバングラデシュの冷涼な草原に北上し、男性は漁労と比較して生産性が低い狩猟の専業者になり、女性もイネの原生種より生産性が低い麦の原生種を栽培したと考えられる。コメの原生種は15千年前には集約されていたが、小麦の原生種は集約が進まなかったから、多品種を混載する事によって4倍体のエンマ小麦や6倍体のパン小麦が生れたと想定される。それらの倍体の小麦を獲得すると、自然界に存在する2倍体の原生種や野生種の花粉の被害を免れ、あらゆる地域で栽培化する事が可能になったから、1万年前に栽培穀物と言える状態になった。以下の発掘事例はその事情を示している。

 

1-6 最も古い麦栽培者の遺跡から分かる事

シリアの内陸にある11,000年以上前のテル・アブ・フレイラ遺跡に、エンマ小麦が栽培されていた痕跡があり、野菜にもなるヒユ、レンズマメ、ピスタチオも発掘され、色々な種の栽培を併用していた事が分かった。ピスタチオは堅果類の一種で、東地中海沿岸が原産地であると主張されているが、氷期の最寒冷期だった23万年前の地中海沿岸は極めて寒冷だったから、ヤンガードリアス期が終わった直後の11千年前に、その様な樹木が地中海沿岸に生えていた筈はなく、東南アジア原産の植生だった可能性が高い。東南アジアの気候もその後激変したから、現在の東南アジアの原生種の有無から、原生地を判定する事に意味はないからだ。11,000年前のテル・アブ・フレイラ遺跡が示しているのは、長い栽培の前史に支えられた栽培者が、ここまで辿り着いた事になる。エンマ小麦の存在はパン小麦に至る前史として、既に長い栽培史を経ていた事を示しているからだ。

旧約聖書に「農耕は神によってエデンの住民に与えられた」と書かれているから、メソポタミアを聖地と見做す人々は、メソポタミアで小麦栽培が突然始まった事によって世界の農耕が始まったと信じ、それ以前に栽培があった事を認めない様に見える。恐竜時代があったか否かとか、進化論は正しいか否かという議論も聖書の記述と対立するが、農耕の起源を科学的に推論する事は、聖書に記述された文章そのものを否定する事になり、西欧人は慎重にならざるを得ない様に見える。

日本の農学者もその心情を忖度し、日本の学者がパン小麦に至る遺伝子遷移を突き止めたにも拘らず、氷期には寒冷な砂漠だったメソポタミアに、小麦の原生種が生息していた筈がない事については沈黙している。

エンマ小麦はパン小麦の母体種の一つだが、クサビ小麦と一粒小麦の遺伝子が合体した、4倍体の遺伝子を持っているから、既に高度な栽培種だったと考えられる。通常の種は1対の遺伝子を持つ2倍体だから、この様な変則的な遺伝子は、通常は雑草としての生命力が弱く、群生する事は稀になる。野生のエンマ小麦の群生地も、極めて限られた地域に偏在している。

原生種と野生種の定義は異なり、原生種は栽培化以前から存在した種を指し、野生種は栽培化途上に拡散して野生化した種を指す。現在でもエンマ小麦を栽培している地域があり、その栽培種をマカロニ小麦とも呼ぶが、この時期のエンマ小麦は栽培化途上で、現在のマカロニ小麦ほどの生産性はなかったと想定される。野生種が存在する環境でマカロニ小麦が栽培化できたのは、野生種の生命力が弱く、栽培化を攪乱する力を失っていたからだと考えられる。

テル・アブ・フレイラ遺跡時代の千年前である、12千年前にサハラが湿潤化し始めたから、クサビ小麦と一粒小麦を混合栽培していた栽培者がレヴァント(地中海東部)に辿り着き、まだ海峡化していなかったスエズを渡り、レヴァントより温暖なサヘル地域に拡散したと推測されるから、レヴァントはその通過点だった。レヴァントには現在もクサビ小麦や一粒小麦が群生し、エンマ小麦の野生種より繁茂しているから、エンマ小麦はその頃に栽培種として生まれはしたたが、生産性はクサビ小麦や一粒小麦と大差がなかったから、それらと分離せずに混合栽培していた事になる。野生種の花粉の脅威が少ないエンマ小麦は、実りが良い穂の種子を翌年撒く古典的な品種改良を続けると、生産性が高まる種として注目されていたから、住居址に蓄えられていたと考えられる。

この地の栽培者は、エンマ小麦の生産性が多少高くなっても、不順な気候に対応するために複数の品種を栽培し、不作リスクを低減していたから、彼女達が栽培していたクサビ小麦と一粒小麦が野生化し、現在の状態が生れたと推測される。クサビ小麦や一粒小麦は容易に野生化し、花粉を撒き散らして栽培者の栽培品種化を阻害したが、エンマ小麦の野生種は生命力が弱く、栽培化をあまり攪乱しなかったから、優良な種を選んで毎年撒き続けるだけの原初的な品種改良を続けると、野生種の花粉に影響されないエンマ小麦だけが、徐々に穀粒が大きくなり、穂に着く実の数が多くなったと推測される。テル・アブ・フレイラ遺跡の人々は、既にイネ科植物の栽培をエンマ小麦に集約させていたかもしれないが、彼女達の祖先がレヴァントに到着した頃には、クサビ小麦や一粒小麦も栽培していたから、現在のレヴァントにはそれらの野生種が残っている事になる。

栽培小麦の遺伝子には倍体化という特殊事情があり、コメやアワにはその特殊事情がないから、両者の栽培化には大きな違いがあった事を示している。西欧人は穀類の栽培化を推測する際に、宗教的な観点から小麦の栽培化事情を一般論化し、コメやアワにもその誤った考え方を適用したので、栽培史に混乱が生まれた。具体的に言えば、聖書に「種のある草は神が与えた」と記されているから、オリエントで小麦が栽培化されたと信じたい事情から、小麦は原生種が繁茂しているオリエントで栽培化されたとの、錯覚が誘導された。その影響で東洋史の解釈まで混迷している。

東洋の農学者は、稲は揚子江流域で栽培化されたと認定したが、現在の稲の原生種の北限は福建省南部だから、揚子江はそれより遥かに北に在り、上記の西欧人の感覚では矛盾している事になる。その結果原生種が繁茂する場所ではなく、原生種が生存できない冷涼な地域で栽培化された事を、不可解な事であると言い始めた。しかし4倍体種ではないコメが栽培化された場所としては、揚子江流域は極めて妥当な場所だった。農学者はその事情を知っている筈だが、西欧人の心情を忖度して何もコメントしないから、変な歴史学者がイネの原生種が繁茂している場所を見付け、稲作の発祥地を発見したと騒ぐ状況まで生まれた。しかしそれでも農学者は、イネの栽培化に関する見解を公開していない。

以下に小麦の特殊性を説明し、それ以外の2倍体の穀類は、原生種の北限より北の地域で栽培化された事情を説明する。

通常の植物は一対の遺伝子索を持つ2倍体だが、それが合体して4倍体になっているものもある。その様な変異種は生命力が弱いから、自然界で生き残る事は少ないが、自然界に4倍体が存在しないわけではない。栽培種に4倍体が多いのは、自然界の雑草と交配しないから、優良な種子を選別する手法で品種改良し易い事が、その理由であると推測される。コメやアワには4倍体が存在しないので、原生種の花粉に汚染されると栽培化が阻害されるが、栽培されている小麦は4倍体か6倍体なので、野生種の花粉には汚染されにくい。パン小麦が栽培化過程で複数の原生種と合体した経緯は、遺伝子の振る舞いとしては明らかになっているが、上記の理由により、何処で誰が合体遺伝子を栽培化したのかについては、明らかになっていない。

小麦に倍体が生まれたのは、原生種の栽培段階で多品種を混栽していた期間が長かったから、雑種としての4倍体が生まれ易い環境が整っていたからだと推測される。小麦類の原生種には沢山の品種があったから、混合栽培が一般的だったが、コメやアワは原生種の栽培段階で単一品種に絞られていたから、4倍体は生まれなかったと推測される。その背景として、氷期の東南アジアでは麦類の原生地が広範な地域に及び、そこに多数の品種が混在していたが、コメの原生種は品種毎に狭い地域に原生していたから、この様な違いが生れたとも想定されるが、氷期の小麦類には有力な栽培種がなかったから、この様な状態が長期間継続したとも言える。

つまり小麦はいずれの原生種も生産性が低く、氷期の東南アジアで特定種に収斂しなかったから、後氷期になっても多品種の混栽を継続していたと推測される。麦類の原生地は温帯性気候の草原だったが、コメ類の原生地は現在の気候感覚では亜熱帯性の、氷期の感覚では高温多湿の熱帯地域の、樹林に隔離された川洲だった事が、この様な違いを生んだと推測される。アワの原生地も冷温帯性の草原だったが、その栽培化過程には特殊な事情があったので、縄文人の活動期の項で詳しく論考する。

現在栽培されているパン小麦は、4倍体のエンマ小麦と2倍体のタルホ小麦の遺伝子が合体した6倍体で、それによって野生化する資質を完全に失ったから、パン小麦の野生種は自然界には存在しない。それ故にパン小麦の栽培者は、野生化した種に邪魔されずに品種改良を行い、優良な栽培種に仕立てる事ができたが、種としては生命力が弱い植生だから、誕生した直後のパン小麦の生産性がエンマ小麦を上回っていたとは考え難く、エンマ小麦と同様に、混合栽培の中で徐々に頭角を現していったと想定される。言い換えると小麦の原生種はすべて生産性が低かったから、いつまで経っても多品種の原生種を栽培している状況から脱出できず、栽培者は各種の生産性には拘らずに多種の麦類を栽培していたが、品種毎に実りが良い種を選定する、細かい配慮もあった事を示している。すべての栽培者がその様な女性達だったのではなく、その様な配慮をしていた女性の母系譜の中から、エンマ小麦やパン小麦が生れたと想定される。

その様な栽培者から見たパン小麦の発生過程は、次の様なものだったと推測される。

エンマ小麦とタルホ小麦を混在させて栽培し、両者の優良な穂を選別してその種子を播種する行為を、何百世代にも亘って繰り返していると、発生当初はエンマ小麦と比べて生産性は高くなかったが、エンマ小麦と同程度の生産性を示すパン小麦が生まれたから、それを種モミにしたと想定される。野生種が存在しない環境では栽培化が進むから、やがてエンマ小麦より生産性が高い品種になったと想定されるが、栽培化の後半過程で穀物らしくなる為には、多数の栽培者による遺伝子変異の蓄積の他に、自家受粉率が高まる必要があった。

野生種は他家受粉による自然交配により、遺伝子の多様性を維持し、環境が多少変化しても種の持続性を担保するが、栽培化過程で遺伝子変異を蓄積する為には、それが邪魔になるから、自家受粉率を高める必要があった。有用な遺伝子変異が劣性遺伝である場合には、他家受粉では発現しないが、自家受粉であれば発現率が高いからだ。

後氷期の初頭には、栽培種を一本化するに至っていなかった小麦類が、目覚ましい品種改良効果によって7千年前には、生産性が高いパン小麦に至っていたと推測されているのは、多数の栽培者がパン小麦の栽培化に関わっていただけではなく、パン小麦には自家受粉率が極めて高くなる、何らかの事情があったと想定される。6倍体になって総体的な生命力が劣化する中で、受粉能力も劣化したから、自分のオシベによる受粉が一般的になったのではなかろうか。一般論として、品種改良を行えば自家受粉率は高まるが、具体的な比率は種によって異なり、早く自家受粉率が高まった種の栽培化は早く進展し、なかなか自家受粉率が高まらない種は栽培化が遅れる。現在の栽培種は皆その関門を通過した品種ではあるが、その中にも優劣はあり、パン小麦はその事情が優れていた事を示唆している。

パン小麦が生まれたのは、オリエント地域だったと信じられているが、栽培化が進展して生産性が高まったのは、サヘル地域だったと推測される。その理由は、北アフリカでは東アジアとは関係なく独自に、1万年前頃から土器が使われていたからだ。穀類には塩分が含まれていないから、穀類の生産性が高まって植物性の澱粉を多食する様になると、その他の手段で塩分を摂取する必要が生まれる。そのために海水から塩分を補給する必要が生れ、海水を煮詰めて運搬する事が必要になると、製塩土器が必要になったからだ。その詳細な事情については、原縄文人に関する説明の中で論考する。

通説では、エンマ小麦とタルホ小麦の遺伝子が合体する機会は、自然界に存在したと説明しているが、完全には野生化できないエンマ小麦が、自然界を拡散した筈はないし、そこから生まれたパン小麦が野生化できた可能性は極度に低い。エンマ小麦の遺伝子と合体してパン小麦を生み出したタルホ小麦は、中央アジアの雑草であると見做され、その繁殖地の西端がメソポタミアに及んでいる事が、通説の根拠になっているが、タルホ小麦の分布は西欧人の祖先であるY-Rが、農耕を行いながら中央アジアを東西に移動した軌跡と一致するから、Y-Rとペアだったmt-Rが栽培していた種である可能性が高く、エンマ小麦とタルホ小麦を混合栽培した女性は、この系譜の女性だったと想定され、メソポタミアやサヘルにもこのY-Rmt-Rペアがいたから、パン小麦が生れたと想定される。

タルホ小麦が東南アジアから拡散した経緯を追跡すると、Y-Rが移動していた中央アジアは11千年前に森林化したが、それ以前のヤンガードリアス期は冷涼な草原か砂漠だったから、Y-R11千年前以降に、インド西部から湿潤化した中央アジアに北上したと想定される。その東端は7千年前に陝西省に達し、仰韶文化を形成したが、西端は1万年以上前にカスピ海南部を経て、オリエントやサヘルに達したと推測すると、全ての話が整合する。8千年前に太平洋が湿潤化すると、ユーラシア大陸は全域が湿潤化したが、それ以前の陝西省は極めて乾燥していたから、仰韶文化が8千年前以降に生まれた事と整合するが、西ユーラシアはインド洋の湿潤化の前兆として、1万年以上前にある程度湿潤化したと想定され、サハラも1万年前に湿潤化が始まったと考えられているから、湿潤化前線に乗ってサヘル地域に進出した女性達が、パン小麦を栽培化したと推測され、これらの気候条件も上記の話と整合する。小麦は草原の植生だから、湿潤化し過ぎて森林化した地域では栽培化できない。湿潤化の最前線で、過度に湿潤化しない気候を追い求めていた女性達が、サヘル地域でパン小麦を栽培したとの想定は、かなり現実味がある話になる。

中央アジアに北上したY-Rのペア遺伝子は、mt-Rだったこと以外は明らかになっていないが、氷期の冷涼な西ユーラシアの遺跡からmt-Uの遺体が発掘されているから、mt-Rの中でも冷涼な気候を好む遺伝子だった可能性が高く、栽培者の北辺にいたY-Rのペアとしては相応しい遺伝子になる。いずれにしても彼女達は大麦を栽培化した人達だから、大麦を主要栽培種としながらも収穫リスクを低減するために、色々な品種の麦を栽培していたと想定され、その中にタルホ小麦も含まれていたと想定される。中央アジアのY-Rは縄文前期の陝西省で仰韶文化を形成した後、縄文中期以降は中央アジアに戻ったが、春秋戦国時代の山東で大麦を栽培していた集団も居た。彼らが日本に六条大麦を伝えたと推測され、歴史時代以前には小麦より大麦の方が生産性は高かったから、大麦(真正の麦)と呼ばれたと推測される。

大麦は2倍体だから、氷期には栽培種が一本化される状態に至り、その後の栽培化過程を歩んだと推測されるが、原生種は冷温帯性の植生だったから、原生種の生産性はクサビ小麦や一粒小麦より劣っていた可能性が高い。それが大麦と呼ばれるまでに生産性をためていたのは、大麦の栽培化はかなり早い時期に始まり、栽培化の歴史が長かった事を示唆している。氷期の最寒冷期にY-Rの居住域が冷涼になり、原生種の北限を超えた地域になったから、栽培化が始まる現象が生まれたのではなかろうか。大麦の遺伝子は2倍体だから、その様な環境が生れなければ栽培化の第二段階には進めない品種だった。

パン小麦の栽培化の話に戻ると、現在の北アフリカにもY-Rmt-Uがいるから、中央アジアを経てからサヘルに達したのか、直接インドから西に進んだのかは不明だが、タルホコムギを持ってサヘルに移住したY-Rmt-Rがいたから、北アフリカでパン小麦が生れたと想定される。1万年前には栽培化が進展して土器が生れ、8千年前に太平洋が湿潤化すると、サヘル地域が更に湿潤化して栽培化が進行したが、7千年前にサヘル地域が乾燥し始めると、栽培者の大勢はナイル川流域に退避してエジプト文明を生んだが、一部がメソポタミアに北上したとする有力なシナリオが生れる。メソポタミアで土器が使われ始めた7千年前は、サヘル地域が砂漠化し始めた時期と一致するからだ。

サヘル地域で栽培化が進んだと考える理由は他にもあり、元々生産性が低かった小麦類が、遺伝子変異を蓄積して生産性が高いパン小麦になる為には、栽培化の第二段階として多数の女性達が、パン小麦を栽培する事が必須要件になるからだ。多数の女性達が同種の穀物を栽培し、種子を交換しながら生産性が高い種を選定し続けると、それによって多数の遺伝子変異が蓄積され、粒径が大きくなって穂に付く実の数が増えるからだ。

1万年前~7千年前は海進期だったから、現在存在している海岸の沖積平野はすべて水没し、波が岩肌を洗う状態だったから、レヴァントは山岳地になり、海水がバクダッド辺りまで侵入していたと想定される。つまり肥沃な三日月地帯と呼ばれるメソポタミアは、海進が進んだ1万年前から終了した直後の7千年前には、海だったと想定される。11千年前のテル・アブ・フレイラ遺跡が、河川の中流域にある事もその事情を示唆し、パン小麦の生産性が高まっていた時期のレヴァント地域では、小麦の栽培可能地は極めて限定的だった。サヘル地域には広大な丘陵が広がり、降雨があれば広大な栽培地を提供したと想定されるから、サヘルがなければパン小麦は栽培化されなかったと言っても過言ではない状況だった。

 

1-7 栽培者になった女性と、狩猟者だった男性の関係

栽培系ミトコンドリア遺伝子の分布は、石器時代の栽培者は女性だった事を示している。栽培技能は母から娘に伝達されたから、それがミトコンドリア遺伝子の拡散と重なり、両者の拡散過程を追跡しやすい状況が生れた。それを追跡すると、ミトコンドリア遺伝子の拡散には法則性があり、有力な栽培種を持った女性が栽培適地を求めて移動し、異民族にも浸潤して先住遺伝子と置き換わった事を示している。但し先住のミトコンドリア遺伝子を少数遺したので、その後の彼女達の拡散は、浸潤されながらも少数残った遺伝子をマーカーにして、特定民族に浸潤した遺伝子として追跡する事ができる。つまり同じ穀物の栽培者を民族毎に細分化し、それぞれの移動を追跡しながら法則性を確認する事ができる。その様な遺伝子は、例えば台湾の堅果類の栽培者だったmt-M7cに、イネの原生種を栽培していたmt-B4が浸潤した場合は、mt-B4+M7cと表現する事ができる。

その様な女性達の拡散を追跡すると、男性達はその様な女性達を受け入れながら、民族枠を維持していた事も分る。男性が維持していた民族枠は、男性の生業だった狩猟・漁労技能を発展させるための情報網を構築する事と、縄張り文化を共有して無用な摩擦を避けるために存続していたと想定され、その為には言語の共有化が必要だから、民族言語を共有していたと考えられる。但しその維持と変遷には幾つかのパターンがあり、一つの代表例として、共通言語を維持し続けたY-R印欧語族があり、他の代表例として有力集団と共生し、相手の言語に同化した栽培系のトルコ系民族が挙げられる。後者には多数の事例があり、その嚆矢として原日本人の、シベリア狩猟民への言語同化があった。縄文人がその原日本人の言語に同化した事も、その類型として挙げる事ができる。

縄文時代には漁労民族の文化が卓越していたから、縄文人は原日本人に言語同化したと考えられ、その様な事情が言語同化の一般的な事情だったと想定される。原日本人は5万年前のシベリア時代に、シベリアの狩猟民族の言語に同化したが、縄文時代初頭に日本に渡来したシベリア系の狩猟民族は、現在は日本語に同化しているから、文化的な高位者の言語に同化するだけではなく、多数派の言語に同化した事例もあった。いずれにしても石器時代は、食料確保に汲々としていた時代だから、多数の人口を養える生業文化が上位文化だったとも言える。

旧石器時代の東ユーラシア大陸や中央アジアで、Y-Dの人口が卓越した時期があったとの説があるが、原日本人がシベリア系の言語に同化した事は、その説を否定する証拠になる。従って氷期のシベリアでは狩猟民が多数派で、原日本人は彼らとの共生により、継続的な衣食住が可能な少数民族だったと推測される。シベリアが寒冷化して湖沼漁労が難しくなると、シベリアの狩猟民族の情報網が原日本人に避寒先を教えたから、日本に多数の湖沼漁民が生まれ、シベリアでの居住地別に原日本人の部族が生まれたと想定される。アイヌ語の祖語は氷期のシベリアの東北部方言で、日本語の祖語は西南部方言だったと推測される事が、その事情を示唆している。

これはシベリアの狩猟民族の情報網が、極めて広域的だった事を示すと同時に、シベリアの狩猟民族の面倒見の良さは、彼らが文化的な優位者だった事を示唆している。この詳細は、以下の章で順次説明する。

 

1-8 氷期の東アジアで起こった事のまとめ

9万年前の氷期の温暖・湿潤期に、東アフリカで優勢になったY-Cmt-Nペアがアフリカを出て、インド洋周辺に拡散しって東南アジアに達し、人口を増やすとシベリアやオーストラリアに拡散した。寒冷期にトバ火山が大爆発し、東南アジアの人類が壊滅すると、巨大湖が豊かな植生を育んでいたシベリアが、生き残った人々の中核地になった。

シベリアの狩猟民族は、動物の毛皮で作った住居や衣類を使う事により、寒冷な地域に適応する文化を構築したから、獣骨を削って針を作り、防寒衣類を製作する女性達の技能は、彼らの生存に欠かせない文化要素になった。極めて冷涼なシベリアでは、生の獣肉を寒気に晒せば干し肉になり、干し肉からカロリーやミネラルだけでなく、ビタミン類も摂取できたから、狩猟民にとって厳しい寒気は歓迎すべき気候だった。若しマンモスが冬眠する動物だったのであれば、冬季に冬眠中のマンモスを1頭仕留めれば、1年間の家族の基礎食料が得られたかもしれない。

シベリアにはマンモスなどを狩る北方民族と、その南でヘラジカなどを狩る民族が南北に重層化し、両者は季節の変化に合わせて南北に遊動していたと想定される。ミトコンドリア遺伝子にmt-A系とmt-N9系があり、mt-Aは後氷期にアメリカに渡り、現在もエスキモーの様な北方系民族に多いが、mt-N9系は南方の民族にも拡散し、アメリカにはいなからだ。栽培系の民族ではなくても、気候の寒冷化の程度に応じてミトコンドリア遺伝子が異なっていた事は、栽培に限らず女性が持つ技術は、母から娘に移転するものだった事を示唆している。Y遺伝子にその傾向が顕著に見えないのは、男性達は集団で行動した上に情報網を必要としたから、技能の伝達に多様性があったからだと想定される。先に説明したシベリアの方言も、この2層化した南北集団のそれぞれの言語だった可能性が高い。5万年前には中央アジアにいたと推測されるチベット人に、mt-Aを濃厚に含む集団がある事は、冷涼だった西ユーラシアに近い中央アジアでは、比較的温暖だった東シベリアよりmt-A集団が南下していた事を示唆しているからだ。

5万年前の温暖・湿潤期になると、その時点で東アフリカで優勢になっていたY-Fmt-Mペアもアフリカから出て、インド洋周辺に拡散して東南アジアに達し、人口を増やした。

低緯度地域の温暖な気候は、寒冷なシベリアとは対極的な環境を提供し、肉の腐敗が急速に進行する地域だったから、狩猟は必ずしも効率が良い生業ではなく、Y-Cは狩猟民族としてシベリアで繁栄したが、Y-Fは東南アジアの気候に適応する事により、東南アジアの栽培民族になった。縄文草創期の九州縄文人が立派な燻製施設を持っていた事は、温暖な地域の狩猟者には肉の腐敗対策が必要だった事を示しているから、その技術が確立する以前の熱帯域や亜熱帯域の狩猟者が、肉の腐敗問題に悩まされていた事は間違いないだろう。

燻製にしても干し肉ほどには長期保存できないから、低緯度地域の狩猟の総合的な生産性はシベリアより低く、栽培は重要な食料の補完手段だったと想定され、現実問題としても氷期の東南アジアに同時期のシベリアより、多くの人口が生存していた証拠はない。栽培者になったY-Fの遺伝子分布が多彩で、民族的な遺伝子クラスターが識別できるのは、後氷期になってからコメや麦の栽培者がユーラシアの各地に分散し、栽培の生産性の高さが人口を爆発的に増加させたからだ。シベリアの狩猟・漁労民族だったY-C3はシベリアから拡散しなかった上に、シベリアが寒冷化した縄文晩期に人口が激減したから、遺伝子のクラスターが分離されていない事が、過去の人口を少なく見せているだけである可能性もあるからだ。

シベリア系のY-C3は氷期に繁栄した狩猟民族で、後氷期にも河川漁労民族として繁栄したが、後氷期に温暖化して栽培の重要性が高まると、相対的に人口規模が小さくなり、シベリアの寒冷化がそれに追い打ちを掛けた。氷期の東南アジアや西ユーラシアにはY-C1がいたが、彼らはY-Fより狩猟に対するこだわりが強かったから、温暖な東南アジアではそれが仇になり、元々mt-Rを配偶者にしていたにも拘らず、mt-RをペアにしたY-Fとの生存競争に敗れて滅んでしまった。Y-FにはY-Cほど狩猟に対する強いこだわりがなかったから、シベリアに北上して狩猟民族になる事はなく、温暖・湿潤な東南アジアに留まり、一部は河川漁労民族化も志向しながらmt-Rと共に栽培文化を高め、後氷期に温暖化すると膨大な人口を擁するに至ったと想定される。

遺伝子変異のクラスターを精緻化すれば、分岐時期や人口動態が分ると主張する人がいるが、民族の生業の歴史的な実態や、婚姻習俗、栽培技能の向上過程などを加味しなければ、遺伝子の分岐に関する確実な知見は生まれない事を、事例を交えて後述する。

以上の想定を基に現在の遺伝子分布から、氷期の東南アジア事情を或る程度推測する事ができる。

7万年前のトバ火山の噴火により、人類の生存圏はインドまで壊滅したと推測されているから、パキスタン以西にいた僅かな数の栽培系女性がmt-Rの祖先として生き残り、彼女達がY-C1と共に再び東南アジア西部に戻って栽培を行っていると、インドから東進してきたY-Fmt-Mペアに遭遇し、その集団に浸潤した。

Y-Fの主流はmt-Rの浸潤を受けながら、マレー半島の山岳地を抜けてスンダランドの縁辺部に定住し、mt-Rはイネの原生種を栽培し始めたと想定される。スンダランドそのものは、石器の素材が採取できない沖積平野だったから、彼らは石器の素材が採取できる現在の海岸線に沿った地域で、狩猟より河川漁労を中核とし、mt-Rが栽培するコメの原生種を補助食料にし、人口が増やえるとY-NOY-Pまで急速に分岐したと想定される。

それらの遺伝子変異を持つ父系集団に分岐する事により、東南アジアでの民族区分が形成され、それぞれの縄張りが確定し、それぞれの民族文化が発展したと想定される。

その結果として後氷期に起こった事と、その原因になったと推測される氷期の事情を、以下に列挙する。

現在の西ユーラシアには、Y-Oを除くY-F系の遺伝子とmt-Rの子孫が偏在し、麦を主要な穀物にしているから、彼らの祖先は氷期の東南アジア西北部で、生産性があまり高くない麦の原生種を栽培していたmt-Rと共に、広い縄張りを必要とする狩猟を生業にしていたと推測される。

現在の東アジアにはY-Oが圧倒的に多く、新石器時代の彼らの主要な農産物は、mt-Bmt-Fが栽培化したコメと、mt-Dが栽培化したアワだった。それに至る事情として、スンダランドでmt-Bmt-Fがコメの原生種を栽培し、ヴェトナムでY-Omt-M7が堅果類を栽培し、その北方でY-Nmt-Mが温帯性のイネ科植物を栽培していたと推測される。mt-Fmt-Bの氷期のペアだった男性は、現在は遺伝子を残していないから不明だが、Y-Oではなかった可能性もある。

mt-M系は現在のインドにも多数いる。彼女達は氷期の東南アジア南部にいて温暖な気候に順応していたから、後氷期になっても冷涼な地域には拡散せず、インドに留まったと想定される。従って氷期の東南アジア南部では、コメの原生種を栽培していたmt-R系がスンダランドの縁辺部にいて、スンダランドを囲んでいた山岳地帯(現在の陸地)に、mt-Rに浸潤されなかったmt-M系がいたと想定される。イネの原生種を栽培していたmt-Rは平坦地にいただろうから、mt-M系はイネの原生種の栽培は不可能だが河川漁労や狩猟が可能な、丘陵地や山岳地の谷間にいたのではなかろうか。mt-Rはその様な地域の人々には浸潤しなかったから、スンダランドの縁辺部ではmt-Mが温存されたと推測される。

その様になった経緯を想定すると、スンダランドの低地で血縁部族毎に河川漁労や狩猟の縄張りが設定され、生業が安定して人口が増えると過剰人口が発生した。スンダランドに南下した直後のY-Fのペアには、mt-Rmt-Mが混在していたが、この人口膨張圧力に敗れた人達は、丘陵地や山岳地の谷に住まざるを得なくなり、その人達に付き合った女性はmt-Mだったから、その様な地域の生業技能を発展させる文化が生れ、その普及と共に民族が形成されたと推測される。

西ユーラシアに拡散した人達についての話は複雑なので、先ず後氷期の東南アジア全般の事情を整理する。これらの詳細な分析については、縄文時代の該当項を参照。

2万年前に温暖化し始めると、高緯度地域は急速に温暖化したから、麦類の栽培が可能な地域が急速に北に広がった。それによって東南アジア北西部で麦類を栽培していたY-Rmt-Rが、まだ幾分冷涼で乾燥していたパキスタン方面に拡散した。

東南アジア東北部(浙江省付近)で雑穀を栽培していたmt-Mは、沿海部を中緯度地域に北上した。

それにやや遅れ、東南アジア東部で堅果類を栽培していたmt-M7が、浙江省と台湾に北上した。

最後に超温暖期になると、東南アジア南部でコメの原生種を栽培していたmt-Rが、浙江省と台湾に北上して先に北上していたmt-M7に浸潤した。

原縄文人になったY-O2bmt-M7aの北上は、氷期の最寒冷期初頭の、3万年前に敢行された特殊なケースなので、それについては原縄文人の章で説明する。

スンダランドの縁辺部にいたmt-Rと山岳地にいたmt-Mは、最も遅れてインド方面に北上した。彼らは温暖化したから北上したのではなく、海面上昇や熱帯雨林化によって居住域から追い出されたと想定される。

スンダランドの縁辺部でインディカ米の原生種を栽培していたmt-Rは、ヒマラヤ山脈の麓に至って稲作者になった。

mt-Mはインド方面に拡散したが、何を栽培していたのか明らかではない。

Y-Fを出自とした民族は、遺伝子に対応して綺麗に東西に分かれたから、インド以西にY-Oはなく、東アジアにY-IY-Jはいない。現在の遺伝子分布では、Y-RY-QY-Nは、その様な東西分類に該当しない様に見えるが、彼らは氷期の東南アジアでは明瞭に東西に分かれ、歴史的な経緯を経て東西に再分岐したと考えられる。つまりY-RY-Qはパキスタンから中央アジアに北上し、Y-Nは太平洋の沿海部を北上したと考えられるから、氷期のインドネシアでは奇麗に東西に分かれていたからだ。つまり彼らの共通祖先であるY-F2までは、後氷期に温暖化するとインド方面に西進する位置にいたが、Y-NOだけは、後氷期の温暖化によって南シナ海の沿海部を北上する位置である、ヴェトナム以北の沿海部にいたと考えられる。

氷期のY-Oはヴェトナムで堅果類の栽培者になったが、氷期のY-Nは太平洋の沿海部を華南に北上し、超温暖期にはシベリアに北上し、西に拡散してその先端が北欧に至った。Y-Oは超温暖期には、台湾や華南に北上していた。

Y-Qはパキスタンから中央アジアを経てシベリアに北上し、超温暖期にアメリカ大陸に渡ったが、その後の寒冷化によって沿海部を南下した。

Y-Rは中央アジアで北上を止め、東進した人々は縄文前期に仰韶文化を形成した。その一部が歴史時代になってから山東に移住したので、現代の東アジア人にもY-Rが含まれてはいるが、民族としての痕跡は留めていない。

Y-Gは後氷期になっても暫く冷涼な気候が残っていた、欧州に拡散した。

Y-IY-Jは、Y-GY-RY-Qより温暖な地域にいた血縁部族として、パキスタンを経由してレバント~北アフリカに拡散し、小麦を栽培化した人達の遺伝子になった。

以上をもう少し詳細に解析すると、インド洋沿岸の現在のY遺伝子分布として、Y-Fから分岐した歴史が最も古い遺伝子の一つであるY-Hが、ドラビダ系としてインド東南部に集積し、次世代のY-IY-JY-LY-Tは比較的温暖なオリエントに拡散し、最も末端分岐のY-RY-Qは中央アジアに北上した。これらの拡散事情は、ペアになった女性達が栽培していた植生の、耐寒性に影響されたからだと推測される。つまりY-Fの中核集団は温暖なスンダランドに南下し、ペアになった女性達も温暖な地域の植生を栽培したが、人口過剰状態になると過剰人口は北方に拡散せざるを得なかったから、血縁集団として分岐した者は北方に拡散した事を示唆している。Y-IY-Jから発生した余剰人口であるY-RY-Qは、更に北方に拡散せざるを得なかったから、それぞれの血族集団が南北格差を特徴とする地域民族になり、それが後氷期の南北格差になったと想定される。

Y-Hの兄弟であるY-Gは、Y-IY-JY-LY-Tなどの遺伝子より北の西欧で、縄文前期~中期の民族として発掘されているから、氷期のY-GY-Qに近い状態にあり、余剰人口を想定した南北分布には馴染まない。従ってY-Gはスンダランドに南下せず、ミャンマーやバングラデシュに留まっていたと想定され、ある程度冷涼な地域で狩猟を生業にする事を、Y-G集団は5万年前に選んだと推測される。

これを時系列的に示すと、5万年前の東南アジアに拡散していたY-C1は南部の温暖な地域にいたのではなく、肉が腐敗しにくい現在のミャンマーやタイの北部の冷涼な高原で、狩猟を行っていたと想定される。モンスーン地域から多少外れていても高原であれば、草食動物を養う植生が豊かだったからだ。その様なY-C1のペアだったmt-Rは、冷温帯性の植物を栽培していたと推測される。その様なY-C1ペアの集団にY-F集団が接近すると、Y-Fの中で最も北にいたY-G集団にmt-Rが浸潤し、Y-Gmt-Rのペアが生れ、そのmt-Rの多くは冷涼な気候を好んだmt-Uだったと推測される。その他のmt-RY-Gより南にいたY-HIJKに浸潤し、彼らはそのmt-Rに導かれる様にマレー半島の脊梁を超えてスンダランドに南下した。Y-Hのペアだったmt-Rxがスンダランドの縁辺部で、イネの原生種を栽培して人口を増やすとY-H血族集団の勢力が拡大し、Y-IJKはそれに押されて小麦の原生地帯まで北上した。それに随伴したのは、スンダランドから北上したmt-R0mt-preJTだったと想定される。そこでY-IJKの人口が過剰になると、Y-RY-Qが更に北方に進出し、Y-RにはY-Gのペアだったmt-Uが浸潤したが、Y-Qは更に北方に進出したので浸潤するmt-Rがなく、mt-Mが継続的なペアになっていたと推測される。

その様な東南アジアでの栽培者の序列が、後氷期に温暖化した際のユーラシア大陸での拡散範囲を規定したから、最も冷涼な地域にいたY-Qは後氷期にシベリアに北上し、Y-Nのペアだったmt-Dmt-Cに浸潤され、その一部がベーリング陸橋を経てアメリカに渡った。Y-Qのペアはmt-Mだったと想定されるが、シベリアでmt-Dmt-Cに浸潤されたので、Y-Qのペア遺伝子は残っていない。

Y-Qの南にいたY-Rは、大麦の栽培者になったmt-Uと共に中央アジアに北上したが、大麦が栽培できないシベリアには北上しなかった。

Y-Rの南にいたY-I Jは、アラビア海沿岸を西進してレヴァントに至ったが、海進によって氷期の平野部は海になっていたから山岳地しかなく、更に西進してサヘルに至ったと想定される。その中にタルホコムギを栽培していたmt-Uも含まれ、そのペアだったmt-Rも含まれていたのは、小麦の原生種は栽培種として統一されていない状態だったから、ミトコンドリア遺伝子も多種に及んでいたからだ。しかし中央アジアに北上したY-Rは、大麦を栽培化したmt-Uをペアにしていたから、そのペアとしてのY-R血族集団も純化されていたと推測される。

Y-Qも同様に純化されていた様に見えるが、ペア遺伝子の栽培能力が低く少数の血縁集団しかいなかった事が、純化されていた様に見えるのではなかろうか。つまりY-Qが人口を増やしたのは、シベリアに北上してmt-Dmt-Cの浸潤を受け、Y-N並みの生活力を得た後だった可能性がある。

ヒマラヤ山脈の麓に至り、インディカを栽培化したmt-RxのペアはY-Hだった可能性が高いが、Y-Hにはmt-Mをペアにしてスンダランドの山岳地にいた人々もいて、彼らはインドに広く拡散したと想定される。

東南アジア東部に、多数のmt-Mと共に移住したY-NOも、Y-IJFの余剰人口だったが、スンダランドから単純に北上する地域には、Y-Rが先住者として既に展開していたから、Y-Qの様に更に北上するのではなく、先住者のいない地域を求めてヴェトナムの山岳地を超え、その裏側になるインドシナ半島東端に展開した。タイやミャンマーの平原に北上したY-Rにはmt-Uが浸潤したが、山脈の裏側に去ったY-NOには、小麦や大麦の原生種を栽培していたmt-R系譜は浸潤しなかったから、Y-NOのペアはmt-Mだった。Y-Rのペアはmt-Uだったとすれば、Y-RY-IJに追い出されて北上した際のペアはmt-Mで、北上後にY-G集団のmt-Uが浸潤した事になるから、Y-NOが分離した際のペアもmt-Mだった事になり、このmt-M群は多彩な1次変異として、mt-M7mt-M8mt-M9mt-M10mt-Dmt-Gを含んでいる事に注目する必要がある。

Y-NOY-Rが北上した時期には、Y-IJ集団にはまだ多彩なmt-Mが含まれていた事を示唆し、mt-RY-HIJK集団に浸潤してから、それほど時間が経っていない時期だった事を示唆しているからだ。つまりY-Fが東南アジアに達したのが5万年前だったとすると、Y-NOY-Rが北上した時期は、遅くともその数千年後だった可能性が高く、それによって東南アジアの縄張りが確定した事を示唆している。後氷期に起こったミトコンドリア遺伝子の浸潤は、特定民族を対象にした場合には千年未満で終了したと考えられるからだ。

現在のインドにいるmt-Mmt-31mt-41で、Y-NOと行動を共にしたmt-Mとは重ならないから、5万年前に東南アジアに達したmt-Mに含まれていた多数の変異が、男性達が多数の血族部族に分裂する中で、部族毎に分割されていった事を示している。YF遺伝子の1次変異は4種しかなく、実質的にはY-GHIJが独占し、Y-GHIJ1次変異もY-GY-IJKしかない事は、ミトコンドリア遺伝子の状態と対照的だから、何らかの説明が要るだろう。彼女達もY-Nのペアになったmt-M群の様に、特徴的な栽培種を持っていた可能性もあるが、Y-Hが他の血族集団をスンダランドから追い出した事から推測すると、排他的な血族集団が部族社会を構成していた事が、この様な事態を引き起こした可能性がある。血族集団間には武闘的な争いがあったが、女性達の婚姻は広域的に実現していたから、ミトコンドリア遺伝子は多様性を維持したのではなかろうか。ヒマラヤの麓でインディカを栽培化した女性達が、mt-R1次変異を複数遺しているのも、この事情と関係しているのかもしれない。つまり気候が温暖で均質的だったスンダランドでは、女性達が特定地域にこだわる必要はなかったから、広域的な婚姻は可能だったが、男性達はシベリア的な秩序ある部族社会を形成していなかったから、縄張りを守るだけでなく、縄張りを奪い合う闘争も頻発し、それによって男性達の血族秩序が維持されていた事が、この様な結果を生み出した可能性が高い。シベリアの狩猟民族は季節に応じて南北遊動する必要があり、広域的な秩序を必要としていたが、スンダランドでは1年中固定的な縄張りを守っていたから、縄張り意識が過剰に高まった事が、この様な事態を引き起こしたと言えるかもしれない。いずれにしてもY-Fが部族外の女性と婚姻する習俗を持っていた事は、栽培技能に優れたmt-Rを取り込みやすかった事は間違いなく、Y-Fが栽培民族化する上で必要な資質だったとも言える。シベリアのY-C3は部族内で婚姻していたらしい事を指摘したが、両者のこの様な違いも、栽培民族化する際に際立った差が生れる要因だった。

氷期のミャンマーやバングラデシュは気候が乾燥し、イネ科の植生が繁茂する草原が広がっていたが、ヴェトナム中部では山岳地が海に迫って沖積平野がほとんどなかったし、ヴェトナム北部は暖温帯性の森林に覆われ、イネ科の植生が繁茂する環境に乏しかったから、麦の原生種を栽培していた女性は浸潤しなかったと想定される。それ故にmt-M7は堅果類の栽培者になり、そのペアのY-Oが分岐してY-O1O3を形成したが、Y-O1O3は混在していた。堅果類の栽培は生産性が高いから、Y-Oの下位分岐であるY-O1O3も早い時期に生まれたが、それぞれが特色ある民族を形成したのではなく、集団の中心は堅果類の樹林を管理していたmt-M7だったから、個々の集団にY-O1O3が混在していたと考えられる。これらを独立した民族集団として扱う試みが、曖昧な結論しか引き出せないのは、それ故であると考えられる。

その実態を示すと、冷温帯性の堅果類の栽培者になった縄文人はmt-M7aに集約され、後氷期に台湾に北上したmt-M7mt-M7cに集約され、浙江省に北上したmt-M7mt-M7bに集約された事は、稲作者と同様なミトコンドリア遺伝子の純化が進行した事を示しているが、Y-O系は縄文人のY-O2b1や韓族のY-O2b以外は、Y遺伝子の識別は曖昧になっている。強力な栽培者だったミトコンドリア遺伝子が、複数のY-遺伝子を統合して民族化した事は間違いないから、その法則を堅果類の栽培者にも適用すると、堅果類の主力栽培種は単一種だった事になるが、堅果類の樹種が多数ある事から、その法則適用は事実を説明していないとすると、土器を使ってアク抜きをする技術の進化が栽培化の前半段階に匹敵する、ミトコンドリア遺伝子の純化要素になった可能性が指摘できる。それについては話が複雑になるので、章を改めて論考する。

Y-Nは堅果類の栽培者が集住していた森林地帯を抜けて北上し、冷涼で乾燥した揚子江流域で狩猟民族になり、ペアのmt-Mは冷温帯性のイネ科植物の栽培者になったと想定される。

Y-OY-Nと行動を共にしたmt-Mは、アフリカから東南アジアに来て間もない女性達で、東南アジアでの生活歴が長く栽培巧者だったmt-Rから見ると、栽培技量に習熟していない上に、適切な栽培種にも恵まれていない女性達だった。その様なmt-RY-Fmt-Mのペア集団に浸潤すると、次第に集落の中の居場所を失しなっていったから、狩猟や漁労の縄張りが得られない過剰人口になったY-NO集団と共に、新天地を開拓するために南シナ海や東シナ海沿岸に移住し、現在まで子孫を残している事になる。

栽培条件が不利だと分かっている地域への移住は、mt-Rが首を縦に振らなかったから、mt-Rを伴う北上集団を結成する事は難しかったが、mt-Mは一声掛けただけで喜んで北上に同行する者が多数いたから、北上集団の数は多かったが、栽培の支援が乏しい地域で成功する確率は低かったから、ヴェトナムに展開した多数の血族集団の中の幸運を掴んだ僅かな成功者だけが、北上して生業を維持する状態に至ったと想定される。しかし堅果類の栽培は画期的な生産性をもたらしたので、現在は世界有数の遺伝子群になっているが、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」的な状況だった可能性が高い。遺伝子変異がそれを示している事を、後述する。

暖温帯性の堅果類の栽培者が堅果類の樹林を中心に集落を形成し、生産性の高さ故に人口が増えると、それらの居住地周辺の縄張りを得る事が出来ず、新しい集落が生れる状態が繰り返され、暖温帯性の堅果類が栽培可能な地域が満たされると、そこからからはみ出す集団が生れ、その中から冷温帯性の堅果類の栽培者になった、mt-M7aが生れたと考えられる。mt-M7a 27千年前の石垣島で発見されているから、mt-M7aが台湾に北上したのは、遅くとも3万年前だったと想定される。従ってその母集団がヴェトナムに定着したのは、4万年前頃だったと想定され、堅果類の樹林の生産性を高めて土器を改良し、人口を増やして各地に樹林を形成し続け、暖温帯性の堅果類が栽培できたヴェトナムが集落で満たされた結果、狩猟の縄張りが不足する状態になったのはその1万年後だったと想定すると、概ね氷期の時間感覚に合致するだろう。Y-Fが東南アジアに到着した5万年前から1万年ほどの間に、Y-FY-RY-Oまで分岐しただけではなく、それぞれの地域ポジションと生業の在り方も決まった事になる。

遺伝子分岐の年代推定は、この様な作業によって決める必要があり、単純な確率計算から根拠不明な数値を弾き出すと、却って歴史解釈を混乱させる事になる。

氷期の東南アジアで既得権益者になった遺伝子と、はみ出し者になった遺伝子の関係は、mt-R系のミトコンドリア遺伝子にも見られる。

mt-R系譜が栽培化した穀類の多彩さは、彼女達がイネ科植物全般の植生に対して、優れた栽培技能と栽培思想を持っていた事を示している。氷期のmt-Rは特定の栽培種の栽培者ではなく、拡散先の実情に合った穀類の原生種を栽培していたのは、原生種の花粉が飛散していた東南アジアでは、その様な栽培にならざるを得なかったからだ。5~4万年前にスンダランドの縁辺部に拡散したmt-Rxは、スンダランドで最高の生産性を示していた、インディカ米の原生種を栽培する事ができたが、麦類やジャポニカ米を栽培化したmt-Rは、それが栽培できる地域では過剰人口になり、それを栽培できない地域に北上せざるを得なかった女性達が、手掛けた栽培種だったと想定される事も、この想定に傍証を与える。

氷期のスンダランドではY-Hmt-Rxが、既得権益的にインディカの原生地に展開していたから、このmt-Rxが海面上昇によってスンダランドから追い出されると、ヒマラヤの麓に北上してインディカ米を栽培化したと推測されるからだ。この集団にはmt-R1次分岐が複数あり、食糧危機によって生まれるボトルネック効果を、一度も経験した事がなかった事を示している。平穏に暮らしていても遺伝子変異は発生するから、1次分岐が複数ある事は、食糧危機を経験することなく現在に至った事を示唆し、インディカは原生種の段階で生産性が際立って高かった事を示している。mt-R1次分岐が複数ある事は、栽培品種を集約する過程である栽培化の前段階が、彼女達の中では発生しなかった事も示している。それが意味するのは、スンダランドでイネ科の栽培種を選ぶとすれば、インディカの原生種が最適である事に誰も疑問を持たなかった事と、インディカの原生種はスンダランドの広い地域に繁茂していた事になる。インディカの原生種は、ジャポニカの原生種より温暖な気候の植生だったと考えられるから、この想定はその事情を説明している事にもなる。

熱帯ジャポニカの栽培者になったmt-Bは、mt-R1次分岐ではあるが、一つの種類の1次分岐でしかないから、栽培種の選定作業が存在した事を示唆している。温帯ジャポニカの栽培者になったmt-Fは、mt-R1次分岐ではなく2次分岐だから、1回以上のボトルネック、即ち食糧危機を経験した事を示しているから、これも上記の想定の証拠になる。つまりmt-Bはインディカの原生種が栽培できない地域に北上したから、それに代わる栽培種を見つける過程で、栽培化の前段階を経験してmt-Bに収斂したと想定される。mt-Fの祖先はその作業も中々実現せず、食糧危機を経験する羽目になったと想定される。

従って氷期の稲作者の祖先として、mt-Fは最北の女性だったと推測される。それ故に後氷期に温暖化すると最も早く北上したから、東シナ海の沿海部ではなく広東省や湖南省の内陸を北上し、湖北省に達したと想定される。mt-Fが北上したのは超温暖期が始まった直後だったから、ヤンガードリアス期が終了した直後でもあり、縄文時代の導入項に示した様に、黒潮の海水温が低かったから沿海部の気候はまだ冷涼で、イネの原生種が栽培できる環境ではなかったが、内陸は素早く温暖化していた12千年~11千年前だったと想定される。11千年前に中央アジアが湿潤化し、1万年前にはインド洋が湿潤化したから、nt-Fが揚子江を渡って湖北省の稲作者になる為には、11千年前には湖北省に到達している必要があり、諸事情が示す時期は合致している。

mt-Bが沿海部を北上したのは、黒潮が温暖化して現在と同じ温度になった、11千年~1万年前だったと想定される。現在の台湾は、イネの原生種が繁茂する気候であり、超温暖期の陸上は現在より温暖だったから、推定される古気候もこの想定と合致し、稲作者になったmt-Fmt-Bの北上に関する、上記の推測の確度は高い。

mt-Bmt-Fが南シナ海沿岸を北上した事は、彼女達の氷期の栽培地は、ヴェトナムの山岳地の東部を北上する位置にあった事になる。後氷期の北上地を東西に分けたのは、ヴェトナム西部を南北に走っている山脈だったと考えられるので、mt-Bは石器が入手できる最南端にいたとすると、ホーチミン市東部のバリア=ブンタウ省の丘陵地から、石器の素材を入手できる場所だった事になる。

山岳地の東部の稲作可能な場所は、現在のヴェトナムの海岸線の海側で、1-4に掲げた地図が示すホーチミン市以南の、南に出っ張った地域はメコン川のデルタだから、スンダランドの北端で石材の採取が可能な栽培地は、ホーチミン市の西の海岸から北東に細長く延伸した地域で、スンダランドの北面としては最も南にある場所だった。

山岳地の裏側のカンボジア側にも、イネの原生種の栽培者がいたかもしれないが、其処にいた栽培者は海面が上昇すると、タイの平原に逃避したと想定される。其処も水没すると、ミャンマーの平原に至る事が出来たからだ。ミャンマーの平原であるマンダレー地域は、海岸平野ではなく巨大湖が消滅した盆地だから、氷期の平原も現在の海抜と同じ200300mだった筈で、亜熱帯雨林になってしまうまでは稲作が可能な場所だった。スンダランド南部でインディカを栽培していたmt-Rもスンダランドが水没すると、稲作者には無難なこのルートで北上し、最終的にヒマラヤ山麓に到達したと推測される。この地域は造山帯だから氷期に多数の湖が生れたと想定され、その最大の湖の痕跡であるカトマンズ盆地は標高1300mにあり、温帯性の気候地域とされている。現在も稲作地だから、この様な地域でインディカが超温暖期~縄文前期頃に栽培化され、その後の低温化に従って徐々にインド平原に南下したと想定される。

mt-Bがスンダランド北面の最南端にいたとすると、同じ緯度地域に居た筈はないmt-Fは、それより北のビントゥアン省北部~ニントゥアン省にいた事になるが、mt-M7の集落があったと推測されるヴェトナム中部とは200㎞程度しか離れていないから、イネの原生種が生育する北限だった。一方のmt-M7mt-Fの浸潤怯えていたから、イネ科植物は諦めて堅果類のアクを抜くという異色な手段を追求した事は既に指摘したが、この距離がそれを示している事になる。氷期にもヴェトナム中部には沖積平野がなかったから、その様な地形がmt-Fの遡上を阻んでいた事をmt-M7は自覚していたが、それでも恐怖感は拭えなかった事を示唆している。

温帯ジャポニカの耐寒性の高さも、この様なmt-Fの氷期のポジションから生まれた可能性が高い。mt-Fが氷期の温暖期の末期である4.54万年前に此処に定着したとすると、氷期の最寒冷期にはmt-Fが栽培していた原生種は、北限を外れて生息できない地域になったから、それを機縁に温帯ジャポニカの栽培化が進展した可能性が高い。温帯ジャポニカは熱帯ジャポニカと比較して、栽培化の成熟度が高かったが、その理由を後氷期の栽培化プロセスだけに求めると、北上過程で栽培化が進んだと考える必要があったが、やや苦しい説明になる事は否めなかった。しかし氷期の最寒冷期に栽培化プロセスの後半としての、原生種が存在しない環境での遺伝子の選別が始まっていたとすると、話の辻褄が無理なく整合する。

インディカの原生種が見つかっていない事は、温暖・湿潤なスンダランド南部に、限定的に繁茂していた種だった事を示唆している。後氷期に原生種が北上する前に、海面上昇によって生息地が水没してしまったから、インディカの原生種が見付かっていない事情と整合するからだ。しかし北辺の種だったジャポニカの原生種は温暖化すると、栽培者と共にヴェトナム南部から沿海部を北上し、現在に至っているとすると、原生種の存在状態としても辻褄が合う。

現在の農学者の解釈として、インディカの栽培種の発掘が2000年以上遡らないのに対し、ジャポニカは7千年程度の歴史があるので、インディカはジャポニカの派生種であると考えている様だが、インディカが栽培化されたヒマラヤ山麓は後氷期になると熱帯雨林に囲まれ、鉄器時代にならないと稲作者と海洋民族との出会いが生れなかったから、秘境の栽培種だったと想定される。これらの地域は北に急峻な山嶺群を控え、南は熱帯雨林のジャングルだったから、インディカの存在が海洋民族に知られる事はなく、鉄器時代になってジャングルが切り開かれる様になって初めて、世間に知られる様になったとしても不思議ではない。ネパールは釈迦が生れた地だが、仏教の高邁な思想は、豊かな稲作を背景にして生まれたと考えるべきだから、ネパールは豊かな稲作地だったと考える必要があり、古くから稲作があったと考えるべきだろう。つまりmt-Rx群は後氷期になって海面が上昇すると、スンダランドの縁辺部からヒマラヤの麓に北上し、インディカを栽培化したと想定される。

東南アジアの乾燥した北西部は、氷期には大草原になっていたから、そこに麦栽培者の祖先になったmt-R系譜がスンダランドから北上したが、麦栽培者のミトコンドリア遺伝子として、mt-R1次分岐はmt-Uしかなく、多数派であるmt-HVmt-JTには2次分岐しかないから、最低一回のボトルネックを経験している事になり、Y-Nと共に東アジアの沿海部を北上したmt-M群と比較すると、1次分岐や2次分岐の種類が極めて少ない。彼女達は後氷期に温暖化するとオリエントに向かい、オリエントでエンマ小麦を栽培化した者と、サヘル地域に拡散してパン小麦を栽培化した者がいたが、小麦の原生種は生産性が低かったから、後氷期前半の小麦栽培者の境遇は極めて厳しかったと想定される。広大なサヘルに拡散した女性達が6倍体のパン小麦を獲得し、栽培の後期課程を効率良く進展させる事により、初めて生産性が高いパン小麦を生みだすまで、消滅した遺伝子が幾つあったのかは分からない状況が展開した事を、これらのミトコンドリア遺伝子群が示している。大麦の栽培者は氷期の寒冷期に、栽培化の後半期に入る事によって生産性を高めたとすると、現在のmt-Uはその成果によって1次分岐者の遺伝子を遺している可能性があり、小麦の栽培者候補からその様なmt-Uの一部を除くと、更に悲惨な事実が浮かび上がる可能性もある。

Y-OY-Nと共に東南アジア東部に移住したmt-Mは、東南アジアの秩序が4万年前に確定する過程で、mt-Rに浸潤されつつあった地域から逃れる様にヴェトナムの山岳地を超え、mt-M7は堅果類の栽培者になったが、その他にもmt-M8mt-M10mt-Dmt-Gなどの1次分岐があった。ヴェトナムに留まったmt-M7は土器を発明して堅果類の栽培集団になり、Y-O1O3を糾合して疑似的な民族を形成し、mt-M系の最南端に位置したが、ヴェトナムから北上したmt-M8は、mt-M8amt-Cmt-Zに分岐した。mt-M8aY-O3と共に超温暖期に山東に北上し、後世の漢族の母体を形成したが、mt-M8aの栽培種は明らかではない。氷期の栽培種を栽培化する事はできず、縄文中期末にアワを栽培していたmt-Dの浸潤を受け、漢族特有のmt-D+M8aになったからだ。

この様なY-O集団は他にもあり、超温暖期が終了した時点で、Y-O3と共にモンゴル高原にいたmt-M10や、mt-Fと共に湖北省に北上したY-O群があるが、これらのY-Oは元々暖温帯性の堅果類を栽培していた、mtM7のペアだった可能性が高い。15千年前に後氷期の急激な温暖化が始まると、暖温帯性の堅果類の栽培者も広東省辺りまで北上したと想定されるが、13千年前にヤンガードリアス期が始まると、暖温帯性の堅果類の北限はヴェトナム北部辺りまで後退し、南シナ海北岸では栽培できなくなったと想定されるからだ。その様な状態になるとY-Oは他の栽培種に頼る必要が生れ、mt-M8amt-M10が増殖した可能性がある。原縄文人にはソバの栽培者だったmt-M9が含まれていたから、mt-M8amt-M10も、堅果類の栽培集団に含まれていた他の栽培種の栽培者で、ヤンガードリアス期の広東でmt-M7に代わり、Y-Oの血縁集団の主役になった遺伝子である可能性が高いからだ。mt-M9はヤンガードリアス期の北陸や山陰で、mt-M7aを凌ぐ最多遺伝子になった可能性が高いから、mt-M8amt-M10もその様な遺伝子だったと考える事に違和感はない。堅果類は生産性が高かったが味覚や毒性に問題があり、他の生産性が低い原生種も必要としていたから、この様な状態が生れたと推測される。

湖北省に北上したmt-Fは強力な栽培者だったから、その様なY-O集団に浸潤すると、従前のmt-M遺伝子は完全に駆逐してしまったが、mt-Dが浸潤した漢族には15%ほど残り、mt-M10mt-Cmt-Dに浸潤されながら残り、Y-O集団は多数の遺伝子が残されている事が、上記の事情と整合するからだ。

mt-M8から分岐したmt-Cmt-Zや、mt-M1次分岐であるmt-Dmt-Gは、Y-Nと共にヴェトナムから北上し、華南~山東辺りで冷温帯性のイネ科植物の原生種を栽培した。その詳細は縄文人の活動期を参照して頂きたいが、栽培種が不明なmt-M8aを除いたこのグループはmt-Rと同様に、イネ科植物を穀物化したと推測される。しかし冷温帯性のイネ科植物は、栽培化しても高い生産性が得られず、現在まで継続的に栽培されている穀物はない。

mt-Rが浸潤した地域と境界を接していたmt-M7は、浸潤の脅威に晒されて異色の栽培戦略を採用したが、mt-M7の北にいてmt-Rの浸潤を恐れる必要がなかったmt-M系は、mt-Rと同じイネ科の植物を栽培した。mt-Rの生産性と比較すれば見劣りしたが、冷涼な気候下では肉の腐敗が遅いから、不猟期の頻発に苦しむ頻度は東南アジアの狩猟者より低く、食料の安定性が劣化したとは言えない状態だったと推測される。Y-Nとペアになったmt-Mは後世に多数の遺伝子クラスターを残したから、氷期にもそれなりの人口規模を有していたと想定されるからだ。

土器かそれに類似する道具がなければ、堅果類のアクを抜く事は効率良くできなかったから、mt-M74万年前には土器を発明していたと推測される。他者の土器使用から3万年以上先行した、極めて画期的な発明だった事になり、その背後には彼女達の筆舌に尽くし難い困難があったと推測される。多くの集団が湿潤な樹林を抜けて更に北上し、イネ科植物の栽培者になった事は、その技量の揺籃期には、他の女性達に見込みがない技術を開発していると見做された事を示唆しているからだ。

土器は堅果類のアク抜きには必須の道具だが、現在の堅果類にはアク抜きが必要ない種や、水に晒したり加熱したりするだけでアクが抜ける種があり、土器の必要性を必ずしも実感できない。しかし堅果類は何万年間も栽培されたから、その過程で徐々に、アクが弱い種に改良されたと想定する必要がある。堅果類のアクは虫に食われないための防御機能だから、原生種の堅果類はアクを抜かなければ食料にならなかったと推測されるが、日本の堅果類は原縄文人が15千年間栽培した樹種を、縄文人が日本列島に移植して更に1万年改良したものだから、それを調べても事実は分からない。原縄文人は、日本の固有種であるミズナラは栽培していなかったが、そのアクについてウィキペディアは次の様に指摘している。

ドングリの中では灰汁抜きが面倒なほうに入り、粉にしないで水にさらすだけでは、3か月たってもわずかに渋みが残る。鈴木忠司の実験で、水さらしだけでかすかな弱い渋みを残すまでになるのに、丸ごとで101日、粗割りで88日かかった。粗い粉にしてから水にさらすと期間が短縮される。もっと短くするためには長時間煮てから水さらしするが、それでも処理には何日もかかる。

日本の固有種であるミズナラは、冷温帯域の北限の樹種だから、昆虫被害は暖温帯地域より軽微だった筈だが、それでもこの状態であると考える必要がある。

堅果類は他家受粉だから、集中的に栽培して味や生産性を比較し、優良な品種を残して伐採した後の樹林で、互いに受粉させて品種改良する事ができた。樹林を形成すると品種改良が進んだと考えられ、原生地であっても品種改良が可能だった。原縄文人はそれを理解して品種改良し、アクを抜かなくても食べられる複数の樹種を生み出し、クリはその最高傑作だったと考えられる。暖温帯性の堅果類にもイチイガシやシイの様に、アクを抜かなくても煮たり焼いたりするだけで、アクが変質して食べられる樹種がある。九州縄文人がイチイガシを集中的に栽培していた事は、その様な種を好んで栽培していた事を示しているが、それはアク抜き技術を持っていた縄文人の為ではなく、技術がなかった漁民の需要に応えた事から、その需要に応えている内に、その種の生産性が高まって栽培が一般化したと想定される。それについては、縄文人の活動期の項を参照。

 

2 原日本人の日本列島漂着と海洋漁民化

2-1 原日本人の日本列島漂着

5万年前頃に西欧に人類が出現し、34万年前の東欧に、オーリニャック文化と呼ばれる旧石器文化が広がった。5万年前に遡る遺跡は発見されていないが、南極の氷床と尾瀬の花粉が、5万年前は地軸の傾きに起因する4.1万年周期の、温暖・湿潤期だった事を示唆しているから、5.5万年~4.5万年前には、人類がユーラシア大陸を横断できる温暖・湿潤期が出現したと推測され、オーリニャック文化の出現がその証拠を示している。厳密にいえば原日本人は4万年前には日本列島に到着していたので、オーリニャック文化を形成した人々に原日本人の祖先は含まれていないが、この文化圏が、アフリカを出発した原日本人の通路だった事を示唆しているので、以下に紹介する。

この文化圏は中央アジア~シベリアに広がり、ユーラシア大陸の広範な地域に、同質の人類の生存圏が拡大した事を示している。この遺跡から石器と共に、骨角器の針、錐、銛などが発掘され、狩猟と河川漁労が行われていた事を示している。9万年前に東南アジアに拡散した、Y-C1遺伝子を示す遺体が複数発掘され、トバ火山の大噴火時に生き残ったY-C1が、温暖化して氷床が後退した西ユーラシアにも拡散した事を示しているが、これらの遺跡の遺物は、この温暖期に欧州で河川漁労が行われていた事を示している。

この時代の海面は現在より160mほど低く、川の水面もその海面に見合って低下していたから、氷床から解け出した水が深い峡谷に豊かな水流を提供していた。海面が上昇すると谷は堆積土砂で埋まったから、河川漁労民族の痕跡は深い土砂に埋もれ、発掘はできないが、漁労の痕跡が見られる事は、谷間で盛んに漁労が行われた事を示唆している。氷期であっても温暖期になると氷床が激しく融解し、河川に豊かな水が溢れ、豊かな漁獲が見込める状態になったからだ。狩猟にも漁労にも高度な技量が必要だから、どちらかの生業は専業民族の模倣に留まっていたと推測され、狩猟と漁労の両方の痕跡があれば、二つの民族が共存していた可能性が高い。河川漁民は銛を作る為に獣骨が必要だったから、狩猟民と漁労民の間に交換が成立していた可能性も高い。

 ウィキペディア  オーリニャック文化から転写

氷期の温暖期には北欧の氷床の融解が激しく進行し、その膨大な水が黒海とカスピ海に流れ込んだから、黒海は現在の規模に近い湖になり、カスピ海は現在の10倍程度の面積を有する、巨大湖になったと考えられる。

河川漁民だった原日本人の祖先が、5万年前にアフリカを出てこの文化圏を通り、シベリアに拡散して日本列島に達した可能性が高いが、この遺跡からY-DEの遺体は発掘されていない。しかしその痕跡は当時の深い谷に埋もれて発掘できない状況にあるから、発掘されなくてもこの推測は否定されない。多数の状況証拠が、この文化圏の先史時代の河谷に原日本人の祖先がいて、シベリア方面に拡散した事を示しているから、以下にそれを説明する。

現在の北アフリカの主要遺伝子で、地中海の東岸や北岸にも分布するY-Eは、原日本人のY-Dと兄弟関係にあるから、Y-Dがアフリカを出たルートはY-CY-Fとは異なり、地中海の東岸を北上するものだったと考えられる。縄文時代初頭の海洋漁民のミトコンドリア遺伝子はmt-N9で、シベリアの水上交易民族だったY-C3ツングースのmt-Yと同系であり、マンモスハンターの遺伝子であるとされるmt-Aとも同系だから、日本人のmt-N9bは原日本人が氷期に、シベリアのY-C3民族と交流した痕跡を示している事になり、原日本人の日本列島への拡散経路は、オーリニャック文化圏からシベリアを経由したものだった可能性が高い。

遺伝子の系統樹が最近急速に整備され、ISOGG分類のチベット人はD1a1で、日本人とアンダマン諸島人はD1a2だから、日本のY-Dはアンダマン諸島の人々と一緒にインド洋を周回したと主張する人がいるが、遺伝子の系統樹だけを見て歴史を解釈する、不毛な議論であると言わざるを得ない。Y-D5万年以上前に生まれたから、アフリカ時代のY-D集団には各種のクラスターがあった筈で、その各々がどの様なルートでアフリカを出たのか、気候条件や地理条件を勘案して決める必要があるからだ。不確かな分岐推定年を導入すれば、日本のY-DD1a2a)とアンダマン諸島のY-D(D1a2b)は、インド洋沿岸で分岐したと主張する事もできるだろうが、背景事情は全く説明できないから、数字や記号だけを弄ぶ机上の空論であると言わざるを得ない。

アンダマン諸島のY-Dは、Y-Fと一緒にインド洋沿岸を周回した事を、アンダマン諸島のY-Dのペアがmt-Mである事が示している。原日本人のペアはmt-N9bだから、両者は父系の血族は近縁であっても、全く違ったルートで目的地に到達した事になる。彼らのアフリカ時代だった5万年以上前にD1a2aD1a2bは分岐した血族集団になり、5万年前には異なった地域の異なった集団として活動していたから、日本のY-Dの祖先は東欧に拡散し、アンダマン諸島のY-Dの祖先はインド洋を周回したと想定される。

原日本人とチベット人の共通の祖先であるY-DD1a)は、D1aになった時点で既に河川・湖沼漁民になっていたと想定され、その起源はナイルの漁民だった可能性が高い。D1a の祖先が活動した76万年前の氷期の寒冷期に、河川漁労を行う事ができた地域は、ナイル川流域以外に候補地がないからだ。アフリカに残ったY-Eもナイルで漁労技術を進化させ、後氷期直前にはアフリカの覇者になっていたとすると、後氷期に湖沼が発達した地域や地中海沿海部に、現在もY-Eが分布している事と整合する。つまりY-DE全体が湖沼漁民として、5万年以上前から人口を増やしていた可能性がある。日本列島の場合には、4万年前には湖沼漁民の方が狩猟民族より生産性が高い生業になっていたと考えられるから、高度な漁労技能を獲得する事ができれば、漁労は狩猟より生産性が高い生業になり得るものだったからだ。その証拠については後述する。

氷期のY-DEが狩猟民族と漁労民族に分化し、共生していたのであれば、オーリニャック文化圏からY-DEが発見される可能性もあるが、その痕跡は発掘されていない。その事はアフリカのY-DEが共生民族だった事を否定するわけではなく、狩猟民族には強固な縄張りがあるから、西ユーラシアにはY-C1Y-C3の縄張りが先行し、狩猟民族とは縄張りを争わないY-Dだけが、ユーラシアに拡散したと想定する事に問題はないからだ。

人類が野獣を狩る文化は何十万年も前から存在したが、獣骨を削って銛を作り、それで得た漁獲で生活を賄う文化は、比較的新しい文化だったと想定される。Y-DEはその文化を発展させることにより、5万年前に北アフリカの覇者になり、後氷期の初頭にアフリカ全域の覇者になったと想定する事に合理性があり、傍証は沢山ある。アフリカ地域での漁労技能の発達については、2-4 ナイルの河川漁民の痕跡の節で論考する。

縄文時代の導入項で指摘したが、原日本人は河川・湖沼漁民だったと想定されるから、彼らの移動経路は河川に豊富な水が流れていた場所か、湖沼が点在していた地域に限定された。氷期は海水の温度が低く、中緯度地域や低緯度地域は乾燥していたから、河川や湖沼が連続して存在したのは高緯度地域だったから、そこが原日本人の祖先の移動ルートだったと想定される。

従って氷期であっても、温暖期には北欧の氷床から豊かな水が流れ出し、河川漁労が可能だったオーリニャック文化圏が、原日本人の移動経路だったと想定する事に妥当性がある。シベリアのY-C3狩猟民も、氷期の温暖期には漁労を行ったかもしれないが、寒冷期にはシベリアの河川や湖沼は長期間凍結し、温暖期であっても冬季には氷結したから、単一民族としては狩猟専業者にならざるを得ず、彼らの漁労技術の進化には制約があった。しかしY-Dがナイルの漁民だったのであれば、継続的に河川漁労に従事する事ができたから、5万年前のY-Dの漁労技能は、冷涼な地域のY-C3狩猟民族より、格段に優れていただろう。シベリアのY-C3はその様なY-Dが、自分の狩猟の縄張り内に拡散する事を歓迎したと想定される。

オーリニャック文化圏のY-C1もシベリアのY-C3も狩猟民族だったから、Y-Dが漁労民族であれば、Y-C1の縄張りが張り巡らされたオーリニャック文化圏や、Y-C3の集積地だったシベリアを経て、日本列島に辿り着く事ができたが、Y-Dが狩猟民族であればそれはできなかっただろう。更に言えば氷期には、温暖期であっても冬季のシベリアでは河川が氷結し、その期間は漁労ができなったから、その期間の食料を狩猟民に頼る必要があったと想定され、夏季に豊漁を得て狩猟民に奉仕できる民族であれば、共生生活が成立したと想定される。つまり通年の漁労が可能なナイル河畔で、狩猟民族と共生できる漁労民族としての技量が確立していれば、中央アジアやシベリアを横断する事ができたが、漁労技能が確立している事が必須だった。その様なナイル河畔にいたY-Dのペアには、シベリアの寒気に耐える防寒衣料を作る事はできなかったから、シベリアを抜けて原日本人の祖先になったY-Dには、シベリア系の女性がペアになっている必要があり、それがmt-N9bだった。

2章でアナトリアのギョベクリ・テペ遺跡やチャタル・ヒュユク遺跡について説明するが、これらの遺跡は後氷期になってサハラが一時的に湿潤化した時期に、湖岸に生まれた集落だったと考えられるので、アフリカに残ったY-Eも漁労技術を高めていた事を示している。

通説は東地中海には、人類が周回した痕跡がないと主張している。レバノンでは山が海に迫っているから、移動経路は成立しなかったと考えているからだ。

東地中海の海岸には、海面が100m以上低下していた時代にテラスになっていた様な地形が、海底にある。従ってこの時期の海面が160m以上低下していた事を前提にすれば、Y-Dの移動経路には課題はなかった。船がなかった時代だから、むしろシベリアの大河を横断する方が、課題は大きかったと想定されるが、降雨が極めて少なかった氷期には、氷床の融水以外に大河を形成する事情はなかったから、氷床がなかった中央アジア南部の山岳地の北縁を経れば、シベリアの湖沼地帯に拡散する事は可能だった。

Y-DE時代のベアだったミトコンドリア遺伝子は、mt-Nmt-Mに分化していないmt-L3だったと推測され、L3は現在もアフリカや地中海東部に残っている。しかし原日本人のペアはシベリア起源のmt-N9bだった事と、日本語がシベリア系アルタイ語族の言語と同系である事は、原日本人がシベリアの狩猟民族と共生し、狩猟民族のペアだったmt-N9が作った防寒性が高い毛皮の衣服で、シベリアの厳しい寒さを凌ぎ、Y-C3と共生して河川が凍結した冬の食料を賄ったから、彼らの言語に同化したとの仮説に妥当性を与える。

Y-C3Y-Dの出自を整理すると、Y-Cmt-N9万年前に北東アフリカの主要集団になり、その一部がユーラシアに拡散して東南アジアでY-C1になったが、Y-C3は太平洋の沿海部を北上してシベリアに至り、寒冷地の狩猟民族になった。5万年前に2回目の温暖期になると、北東アフリカの主要集団がY-Fmt-Mに変わり、北アフリカではY-DY-Eが分離し、そのペアはmt-L3だった。Y-F9万年前のY-Cと同様のルートで、Y-Cが希薄になっていたインド洋沿岸を周回して東南アジアに達したが、Y-Dmt-L3と共に地中海東岸を周回し、東欧や中央アジアを経てシベリアに至ったが、ペアをmt-N9bに変えたY-Dだけが寒冷なシベリアを横断し、日本列島に達したと想定される。従ってY-Dがシベリアを通過した時期には、Y-C3の狩猟文化は確立した状態でなければならず、Y-C3の出アフリカが9万年前だったのでなければ、Y-Dは日本列島に到着する事ができなかった。オーリニャック文化がY-C1の文化だった事は、西ユーラシアはY-C1狩猟民族の縄張りだった事を示唆し、Y-C3の北上経路が太平洋沿岸だった事の傍証になると共に、原日本人の祖先になったY-Dは二つの狩猟文化圏を横断した事になる。チベット人の祖先になったY-Dは、原日本人の様にシベリアには北上せず、Y-C1文化圏だったかもしれないカザフスタン辺りから、氷期の温暖期が終わるとチベットに南下したと想定される。現在のチベット高原は極めて冷涼だから、実際に南下したのは四川省や雲南を含む温暖な地域で、増産運動が盛んである故に湖沼が散在していた地域だったと推測されるが、現在チベット以外のそれらの地域では稲作民族が多数派になっているから、Y-Dが拡散した実際のエリアを同定する事は難しい。これらの地域の住民にY-Dが含まれている事は、元々は広大な地域にY-Dが拡散していた事を示唆しているが、それを考慮すると話が複雑になるから、以降はそれらの地域を含む前提でチベットを使う。

Y-Cmt-N9万年前にアフリカを出た様に、Y-DEL39万年前にアフリカから東欧に北上したかもしれないが、9万年前と5万年前では事情が異なった。9万年前には西ユーラシアの氷床が西欧に厚く張り出していたから、彼らの移動路を氷床が遮っていた可能性もあるが、最大の違いは、9万年前にはシベリアに狩猟民族がいなかった事になる。5万年前の原日本人は、シベリアの狩猟民の援助を受ける事が出来たから、中央アジアやシベリアに拡散する事ができたと想定されるからだ。その根拠として、原日本人のペアは全員がシベリア起源のmt-N9bだった事と、日本語はシベリアの狩猟民族系譜の言語である事が挙げられる。石器時代の共生民族は、食料の生産性が最も高い民族の言語に同化したからだ。

具体的に言えば、アフリカ時代のY-Dの言語はアフロ・アジア語族系だったと推測され、その原日本人がシベリアの言語に同化した事は、Y-C3狩猟・漁労民の方が寒冷な気候に対する衣食住の適応性が高く、シベリアでの食料生産性も高かったから、Y-Dがシベリアで生き残るためには、彼らの世話になる必要があった事を示している。従ってY-Dのシベリア横断が可能だった時期は、既にY-C3がシベリアに展開し、温暖期になった5.54.5万年前だったと考えられる。

以上に付随した話として、シベリアの動物群は季節に応じて南北移動していたから、狩猟民も季節に応じて南北を長距離遊動していたと想定される。その様な狩猟民族の移動途中に、異なる血族集団がキャンプ地を共有する場合もあり、それによって形成される情報ネットワークを通して、季節毎の動物の移動情報や狩猟の経験談などを、交換していたと想定される。その様な情報の中にY-Dの漁労に関するものや、シベリアの河川や湖沼の位置に関するものが含まれていたから、Y-Dはその情報を得て広大なシベリアを、横断的に拡散する事ができたと推測される。つまり宛てもない旅によって無作為に、シベリアの次の河川や湖沼に至ったのではないと推測される。河川漁労民族には広域的な地理感はなく、何百キロも先に大河や湖沼がある事を、単独行動によって認識する事はできなかったと考えられるからだ。

Y-DY-C3狩猟民と一緒に、季節に応じて南北移動したと想定されるが、Y-C3の移動経路はヘラジカなどの移動路のトレースで、Y-Dは湖沼を辿る移動路を選択しただろうから、完全には一致していなかったと想定される。その様なY-Dは、夏季には多くの漁獲を得てY-C3にも配分したが、冬季になると、南下しても厳寒の数か月は河川が氷結し、漁労ができずにY-C3の世話になる必要があったと推測される。シベリアでも夏季には肉が腐敗したから、温暖期の夏季に安定的な収穫が得られる漁労は、彼らの食生活を安定させたから、Y-C3としては夏季限定であっても多量の漁獲を得る事にメリットがあり、近隣にY-Dを招いて共生する事に積極的だったと推測される。この様な具体的な想定を提起するのは、寒冷化して日本列島に結集したY-D5つ以上の部族があり、そのそれぞれに共生した狩猟民族の部族文化と、それに付随した異なる方言が移植されたと考えられるからだ。

現在の日本語は関東の原日本人の言葉を祖語にしているが、それは現在のシベリアで使われているウラル・アルタイ語の文法だから、氷期のシベリアの西部方言だったと考えられる一方、アイヌの祖先になった原日本人の言葉は、アメリカ原住民の言語との共通性が指摘され、氷期のシベリア東部の方言だったと考えられるから、原日本人の方言の範囲は、シベリアの東西に亘るものだったと想定される。

縄文時代の日本列島では、道北部族、道南・東東北部族、西東北部族、関東部族、北陸部族などに分かれていたから、これらの部族はシベリアでの原住所が異なり、共生していたY-C3狩猟民の言語と文化が、それぞれ幾分異なっていた事により、日本列島に南下してもこれを根底として集団活動を行ったから、原日本人の部族が生れたと想定される。

アイヌの言葉は氷期のシベリアの東部方言だったと推測する根拠は、アイヌ語の特徴である抱合語は、現在はシベリア東北部~アメリカ大陸に分布しているからだ。シベリア東部の狩猟民族は、後氷期の超温暖期に寒冷な気候を求め、アメリカ大陸に渡ったから、東部方言はシベリア北東部~アメリカに移動したと想定され、日本語と同じ膠着語を話す現在のシベリアのY-C3は、氷期にはシベリア西部の住民だったと想定される。氷期の末期にシベリア東部の湖沼が失われ、漁労活動を行う余地が失われたが、シベリア西部や中央アジアには融解した氷床の水が流れ込んでいから、シベリア西部には継続的に漁労活動を行う環境があった。

縄文早期以降のシベリアは降雨に恵まれ、湖沼漁民の文化が卓越したが、素の漁民のルーツは、継続的に漁労活動を行うことができた、西シベリアや中央アジアだったと考えられるからだ。その様な漁民の言語だったアルタイ諸語にも、ツングース語族とトルコ語族があり、更に西にはウラル語族あるから、西シベリアにも方言があった事は間違いないが、アイヌ語はアルタイ語族には含まれない異色の言語だから、氷期のシベリアには東西に2大言語族がいた事になる。

つまり氷期の温暖期が終わった4万年前に日本列島に南下していたのは、シベリア東部にいたY-Dだけではなく、西部のY-Dも日本列島に集まった事になり、氷期のシベリアの狩猟民族には、広域的な情報網があった事を示している。言語だけでは証拠が弱いが、氷期にはアイヌの祖先は九州にいたと想定されるから、5万年前にシベリア東部から真っ先に南下し、日本列島の最南端に近い最も温暖な湖沼に定着したと想定される事と、アイヌが抱合語を残している事を結びつけると、証拠能力が高まる。アイヌの祖先が氷期には九州にいたと言われても、俄には信じられないかもしれないが、氷期の北海道と東北はY-C3狩猟民族の世界だったのに、後氷期になると縄文文化圏になった事は、誰かが縄文文化を北海道や東北に持ち込んだ事を示しているから、その縄文人は何処から北上したのかが問題になる。北海道と東北の縄文人のミトコンドリア遺伝子から、彼らは関東や北陸の縄文人とは通婚しなかった事が判明しているから、これらの隣接部族が拡散的に北上したのではなく、15千年前に西日本が温暖になり過ぎると、其処にいた部族が西日本から北海道や樺太に避寒した事になる。それを含めた諸事情を勘案すると、アイヌの祖先は氷期に北九州西部にいた部族で、その部族が15千年前に北海道に移住し、北海道の縄文人になったと想定される。その詳細は、適切な課題と共に順次検証する。

以上を纏めると、温暖化した5万年前にY-Dがアフリカから北上し、オーリニャック文化圏に拡散して河川・湖沼漁労を行い、獣骨を得るために狩猟民族と共生したと想定される。狩猟民族の広域的な情報網により、この共生にメリットがある事が知れ渡ると、Y-Dは湖沼が広がっていたシベリアにも拡散したが、温暖期が終了して寒冷化が始まると、湖沼が氷結する期間が長くなっただけではなく、中央アジアやシベリアの湖沼群が徐々に干上がって湖沼漁労が難しくなったので、原日本人は狩猟民族の情報網を活用してシベリアを放棄し、日本列島に集結したと想定される。気候が寒冷化すると夏季の肉の腐敗問題も低減したから、Y-C3狩猟民族はY-Dとの共生メリットを失いつつある中で、冬季の食料負担が重くなっていったから、Y-Dの日本列島への南下を推奨したと想定される。

チベットは標高が高いが多数の湖を有し、Y-Dが生業を継続できる環境があったから、中央アジアからチベット高原に集結したY-D湖沼漁民が、チベット人の祖先になったと想定される。現在のチベット人には湖沼漁民の面影が薄く、言語も支那チベット語族になっているのは、新石器時代に稲作民族と共生する様になり、鉄器時代に水田が形成できる様になると、稲作民族化したからだと推測される。日本人も鉄器時代に稲作民族化したから、稲作民族化する事に特別の事情はなかったが、日本語がシベリア系であるのにチベット語が稲作民族の言語になったのは、日本とは異なる事情があったからだ。チベットには湖沼漁労しかなく、それだけでは文化力が高まらなかったから、稲作文化が卓越すると共生していた稲作民に同化したからだと考えられる。

原日本人が日本列島に集結した話に戻ると、Y-Dはシベリアへの北上途上でY-C3との共生関係を形成し、防寒衣類やテントを縫製する技能を持ったmt-N9女性とペアになる事により、寒冷なシベリアを横断する事ができたと推測され、mt-N95万年前にはmt-Nから分化していたから、Y-Dとペアになった女性がmt-N9bになり、それが原日本人の遺伝子になったと考えられる。mt-N9系にはツングースの遺伝子だったmt-Yと、シベリア南部の狩猟民族の遺伝子だったmt-N9aがあり、mt-N9aY-C3ペアは稲作民族の地域にも拡散したから、現在はシベリア起源ではない様に見える。5万年前のmt-Nmt-N9だけではなく、mt-Amt-Xにも1次分化し、mt-N9が比較的南方の民族だったのに対し、mt-Amt-Xはれ両な気候地域の遺伝子だった。 この様な分岐状態が5万年前に成立していた事は、mt-NY-Cペアの出アフリカは、5万年前より一周期早い9万年前の温暖期だったと想定され、それを前提にしなければ原日本人の遺伝子構成は説明できない。

狩猟民族も環境に応じてミトコンドリア遺伝子がクラスター化した事は、狩猟民族の女性の技能だったと想定される毛皮を鞣す技能やそれを縫製する技能が、母から娘に伝わり、婚姻によってその技能が拡散した事を示唆している。つまり栽培系の女性が栽培種を統合する過程で起こった遺伝子純化が、狩猟民族の女性にも発生した事を示唆し、栽培系であっても狩猟系であっても、女性の技能は基本的に母から娘に伝達されるものだった事を示唆している。氷期のその様な遺伝子純化の進行には時間が掛かったと想定されるから、5万年前にmt-N9mt-A2大ミトコンドリア遺伝子群を形成していた事は、その様な女性達の文化が確立していた事を示唆し、長い前史があった事を示唆しているからだ。

シベリアにいたY-C3には狩猟を専業とする北方民族と、温暖期には河川・湖沼漁労を併用する南方民族がいて、アメリカに渡ったmt-Amt-XとペアだったY-C3は、寒冷な北シベリアを中心に展開した、マンモスハンターと呼ばれる狩猟民だった。それに対してシベリア南部には、mt-N9系譜をペアとして河川・湖沼漁労を併用する民族がいて、ツングースはその子孫であると考えられる。ツングースは縄文時代にシベリア全域の河川交易者になったが、彼らが濃厚に含んでいるmt-Y mt-N9の娘遺伝子だから、mt-N9系民族は漁労活動が可能なシベリア南部の狩猟民族で、その中には河川漁労に理解がある女性達が含まれていたから、Y-Dmt-N9bをペアにする事ができたと推測される。

但し現在のシベリアにmt-N9bは殆どなく、縄文人にmt-Yが含まれていなかった事は、原日本人もシベリアの狩猟民族も頻繁に通婚する事はなく、mt-N9bをペアにできたY-Dは、幸運な河川漁民だった事になる。つまり幸運な河川漁民だけがシベリアに拡散し、原日本人の祖先になったと想定される。

ツングースの祖先が氷期の寒冷期に、何処で何をしていたのか明らかではないが、西ユーラシア南部には氷床が融解して水量が多い河川があったから、彼らがY-C3狩猟民族と共生しながら、氷期の最寒冷期を凌いでいた可能性はある。シベリアが温暖化すると東シベリアの北部からアメリカに渡ったのは、mt-Amt-Xとペアだった狩猟民であって、アメリカにはmt-N9系譜の遺伝子はないから、彼らは河川漁民とは共生しない狩猟民族だった事になるが、mt-Xは現在西ユーラシアに広く薄く分布しているから、ツングースと共生していた狩猟民族の遺伝子だった可能性があり、Y-C1に拡散していた可能性もある。

氷期の温暖期が終末期を迎えると、シベリアの河川や湖沼の凍結期間が長くなり、河川・湖沼漁民と狩猟民族との共生が難しくなったから、シベリアのY-Dは日本列島に南下したが、それは45千年前頃だったと推定される。原日本人が湖沼漁労を行っていた痕跡が、日本各の43万年前の遺物として発掘されているが、中部・関東を北限とし、東北や北海道では発見されていないからだ。つまり東北や北海道は日本型の湖沼漁労に適さない気候地域として、Y-C3狩猟民の活動域になっていた事を、北海道の白滝で黒曜石を採取し、尖頭器などを製作していた巨大遺跡や、細石刃などを含む道南の巨大遺跡が示している。

Y-Dが樺太・北海道・東北を通過して関東以南に集住した事は、関東以南に居住適地があるとの情報を、狩猟民族から得たからだと推測されるが、それらの地域の気候がシベリアより格段に温暖である事は、最初に西日本に南下した湖沼漁民が温暖な地域で湖沼漁労文化を高め、人口を増やして文化力を高めたから、後続者が南下するとその文化が徐々に北上したが、その文化は関東中部を北限としてそれ以上北上できなかった事が、この様な状態を生んだと想定される。

この現象を経済的な観点から説明すると、シベリアでは少数のY-Dが多数の狩猟民族と共生し、冬季の食料を狩猟民族に依存していたが、関東・中部以西で盛んになった日本式の湖沼漁労では、Y-Dの方が多数派になる成果を上げ、冬季になっても狩猟民に頼らない漁労活動を必要とするものだったから、その気候条件を満たすことができなかった東北以北には、原日本人が活動しなかったからだと想定される。つまり45千年前の日本の気候下で、日本式の湖沼漁労文化の北限は、冬季なっても湖沼が氷結しない地域だった事を、彼らの痕跡である磨製石斧や台形石器の分布が示していると考えられる。

45千年前の気候は現在より7度ほど低温で、関東は道北の様な気候だったと想定される。北海道には不凍湖である支笏湖と洞爺湖があり、これらが氷結しないのは湖の容積が大きいからだ。つまり氷結しない巨大湖があれば日本式の湖沼漁労を行い、冬季になっても狩猟民族から獣肉を分けてもらう必要がなかった事を示唆し、冬季に大きな湖が凍結してしまう北限が関東・中部だったとの想定と一致する。

部族候補になり得る後続の南下集団が多数あったかもしれないが、彼らは東北や北海道でシベリア型の共生者に留まるか、他部族に吸収されない限り原日本人になれなかった。関東には巨大な東京湾があった事、原日本人集団の人口規模が大きかった事、彼らの活動歴は他部族より極めて活発だった事から考えると、それらの人々も吸収した集団だった可能性がある。北陸の原日本人にもその様な傾向があり、北限の両集団はその様な雑多な部族だった事が、漁労文化やその他の文化を高める原動力になった可能性がある。

関東や北陸に定着した部族集団が生れた後も、後続として南下した部族候補があったかもしれないが、彼らは東北や北海道に定着しなければならず、そこでは日本式の湖沼漁労はできなかったから、狩猟民族より数が少ないY-D漁民になる、シベリア式の共生しかできなかった。氷期の最寒冷期になると、彼らは東北以北では生活できない人々になったから、その後の消息は絶えた事になる。

それらの事と、湖沼漁民が定着した後の西日本や関東中部で、関東部族、北陸部族、北九州部族などに分かれ、部族テリトリーが明確になっていただけではなく、各部族がそれぞれ特有のシベリア方言を使っていた事を説明する為には、最も早く南下した部族が西日本で新しい漁労文化を開発し、後発の南下部族もそれを真似ながら、次第に北方の地域をテリトリー化していったと想定する必要がある。

4万年前に部族テリトリーが安定的に存在し、関東・中部以西に同質の石器を遺した事は、最初の部族が東シベリアから九州南部に移住し、人口を増やしながら漁労文化を高めた時期から、後続の部族が西シベリアから関東に集結するまでの間に、長い時間が掛かった事を示唆している。当時の日本列島には、漁労が通年可能な湖沼が多数あったから、多数のY-Dを受け入れる余地があったからだ。従って4.5万年前を移動開始時期とし、4万年前を移動終了時と想定する事に妥当性があるだろう。

気候と地理の観点から見ると、氷期の北太平洋では以下の事情が進行していたと推測される。

尾瀬の花粉は、氷期の最温暖期だった5万年前の日本列島は、現在より4℃ほど低温だった事を示唆しているが、太平洋亜熱帯循環(黒潮)がカムチャッカ半島まで北上していたから、シベリア東部は氷期の高緯度地域として、他に例がない温暖な気候に恵まれていたが、太平洋亜熱帯循環の海水温は現在より4℃以上低下していたから、低緯度地域で発生する雲の量は少なく、シベリアは現在より乾燥して草原が広がっていたと想定される。北極圏や高緯度地域の大気は、北大西洋の両岸に広がった氷床が冷却していたから、それがアラスカや北米大陸西岸で北太平洋の亜熱帯循環と接触し、太平洋海岸山脈に大雪を降らせ、北米大陸に氷床を堆積させていた。これによって北太平洋亜熱帯循環が冷却され、海流が太平洋沿岸域に冷涼な気候をもたらした状態が、氷期の寒冷気候の一つの原因だったと推測される。

大洋を冷却する仕組みは多量の雲の発生を伴うが、高緯度地域で発生した雲は、熱帯域や亜熱帯域で発生する雲と比較して水分が少ないから、それが地球を覆って太陽光を反射し、地球を冷却する効果を発揮しても降雨には結び付き難かったから、気候が乾燥化した事が氷期のもう一つの特徴だったと想定される。

北太平洋亜熱帯循環を冷却した寒気は、カナダのセイントイライアス山地に厚い氷床を形成し、その大氷床がロッキー山脈まで覆い、氷床が中央平原に流出したから、氷期の進展と共に北米大陸の北半は氷床に覆われていった。それらが北大西洋を寒冷中心とする寒気団を形成し、北太平洋亜熱帯循環を一層冷却しながら氷床を厚くし、氷床面積を拡大していたから、それがシベリアを除く北太平洋沿岸地域を、現在より寒冷な気候に導いた。

シベリアには氷床によって北極海への出口を塞がれた、巨大湖が各地に広がっていたから、夏期にはその南部の氷が融け、漁民に豊かな漁場を提供していた。これらの巨大湖が氷結すると太陽光を反射し、氷期の冷涼な寒気団を形成していたが、温暖な東シベリアではそれらの巨大湖が徐々に失われ、氷期を終わらせる準備を進めていた。しかし北米大陸では逆に、氷期の寒気を形成する氷床が成長していたから、氷期初頭の寒冷センターは西ユーラシア~シベリアにあったが、5万年前にはそれが北大西洋両岸地域に移行していたと想定される。つまり東シベリアでは巨大湖が北方に後退し、狩猟民族の密度が高まる環境を提供していたと想定される。

4万年前に氷期の温暖期が終了し、5万年前より4℃低下すると、シベリア南部であっても湖沼の氷結は長期化し、冬季の漁労活動不可能期が、長期化したと想定される。冬季に氷結する現在のバイカル湖周辺の気温が、4℃低下した状態を想定すれば良いだろう。

4.54万年前に日本列島に南下した原日本人は、多数の湖沼を発見した筈だが、現在の日本列島には湖沼が少ないから、現代人には実感が湧かない。降雨量が激増した9500年前以降に、殆どの湖が消滅したからだ。雨が多い本州以南の地域では、後氷期の一般的な湖の寿命は数千年だったと云われている。冷涼な北海道ではその寿命が少し長かったから、湖が幾つも残っているが、縄文時代に降雨量が増えた事情は本州と変わらないから、湖は減少傾向にある。4万年前の日本列島には、現在の北海道とも比較にならない程多数の巨大湖が各地にあったと推測される。

日本列島は地殻変動が激しいから、万年単位で見れば湖は恒常的に発生している。前回の間氷期にも殆どの湖沼が消滅し、氷期初頭の豪雨が止めを刺したから、氷期初頭には湖沼が殆どない状態になったが、雨量が少なかった氷期は湖沼の消滅速度が極端に遅かったから、新しく誕生する頻度が消滅する頻度に優り、湖沼が徐々に増えていたと考えられる。原日本人が日本列島に辿り着いた5万年前は、湖沼が増える状態が6万年以上続いた後だから、各地に多数の湖沼があったと想定される。

シベリアでは巨大湖が北に後退していたが、中央アジアでは64万年前の温暖期に、氷床を水源としていなかったアラル海以東の湖は、干上がり始めていたと想定される。次の温暖期が始まった2万年前に氷期の温暖化プロセスが始まり、その数千年後に氷期の終了プロセスが始まる為には、それが必要条件だったからだ。

チベットと日本列島に至ったY-Dだけが、寒冷期が始まった43万年前以降まで生き延びた湖沼漁民だが、彼らは偶然チベットや日本列島に辿り着いたから、生き延びたのはなく、シベリアの狩猟民に情報伝達手段があったから、中央アジアやシベリアの湖沼漁民はその情報を得て、日本列島とチベットに退避したと考えられる事は既に指摘したが、その根拠は当時の気候や人々の経済活動によるものだから、証拠としては不十分だろう。

以下ではその理由を、文化論から説明する。

現在のシベリアで、言語がウラル・アルタイ語族に広域的に統一されている事は、Y-C3狩猟・漁労民族の歴史的な情報伝達機能が、極めて広域的で密接だった事を示している。現在のシベリアにはツングース諸語、トルコ諸語、モンゴル語、ウラル語と呼ばれる言語族しかなく、それらの言語の祖語と5万年前に分岐した日本語は、現在でもそれらの言語との類似点が多い。その事は5万年前のシベリアのY-C3狩猟民族の言語も、普及域が広く完成度が高かった事を示している。安定的な食料を継続的に確保できた事情が、それを支えていた事を示しているとも言える。

その様なシベリアの狩猟民族の言語力の高さと、それに付随した情報伝達力を勘案すると、シベリアが寒冷化した際に、日本列島にY-Dの新天地があるとの情報がシベリア内部に拡散し、それを得たY-Dmt-N9bペアが日本列島に集結したと想定する事に、違和感はないだろう。実際にはそれに千年程度掛かったかもしれないが、それを確認する為には、先縄文時代以降の部族制の実態を紐解く必要がある。但し此処では項目の列挙に留め、詳細な説明は各時代の章で行う。

東北縄文人と関東縄文人にはミトコンドリア遺伝子の分布に大きな違いがあり、彼らに明確な部族意識があった事を示している。それが縄文時代の、1万年以上の期間を通して継続していた事は、その起源が氷期に遡る事を示唆している。その様な厳格な部族制を前提に後氷期の歴史を論考すると、アイヌや東北縄文人の先祖だった部族は、旧石器時代には九州や西日本にいたが、急激に温暖化した縄文早期前半に東北や北海道に移住したと考えなければ、辻褄が合わない。旧石器時代の東北や北海道はY-C3狩猟民族のテリトリーだったから、移住した縄文人の各部族は、その空白地帯に縄張りを設定したと考えられるからだ。しかし縄文時代になっても北海道や東北には狩猟民族がいたから、温暖化して北上した縄文人は狩猟民族と共存できる、漁労民族や栽培民族でなければならなかった。三内丸山遺跡の細長い土器の器形や、ドングリを粉末する石器の形状は、縄文早期の九州系譜である事を示し、彼らの故郷が九州だった事を示しているから、狩猟民族の縄張りだった東北や北海道に北上したのは、堅果類の栽培者だった縄文人と漁民だった事になる。

最も早く北上した人々の言語であるアイヌ語は、抱合語と呼ばれ、一単語として文を作るものだが、シベリア北部の人々や北米インディアンにも見られる言語構造だから、氷期のシベリアの東部方言だったと考えられる。膠着語である日本語は抱合語ではないが、SVO言語である事は共通し、それがシベリア系言語の特徴でもある。膠着語は現在のシベリアで使われているウラル・アルタイ語族に共通し、氷期のシベリアでは西部方言だったと考えられる。抱合語も膠着語もそれぞれの言語が内在した方向に進化し、現在の言語になったと想定されるから、両者は5万年前のシベリアでは方言程度の違いだった可能性もあり、言語族の広さと歴史的尾な長さがシベリア文化の継続性と、この地域の文化力と交易性の高さを示している。縄文時代に関するこのHPの説明を読めば、石器時代の文化力と交易力は表裏の関係にあり、シベリアの狩猟民族や漁労民族がそれを実現していた事を、この様な言語事情からも読み解くことができるだろう。

縄文草創期~早期に起きた部族移動として、九州と西日本にいた2つ以上の部族が、部族単位で北海道と東北に移動し、北海道道縄文人と道南・東北縄文人になったと想定される。彼らが移動した動機は、気候が温暖になって海産物の腐敗が酷くなり、冷涼な気候地域に移動する必要が生じたからだと考えられる。

シベリア東部にいた原日本人が先に日本列島に南下し、最も温暖な九州や西日本に縄張りを設定したが、シベリア西部にいた原日本人は遅れて日本列島に南下し、冷涼な関東や北陸に定着せざるを得なかった事情から紐解くと、45千年前に日本列島に漂着てから、原日本人の部族単位の歴史が始まった事になる。

船がなかった時代の湖沼漁民が湖岸に定着すると、湖岸の長さが漁民の最大数を決めただろうが、湖に流れ込む川が生活環境を向上したから、湖畔で貝類が拾える条件の良い川洲から、徐々に定員を満たしていったと想定され、径が10㎞ほどある湖でも、多数の人口を養うことは難しかっただろう。日本式の湖沼漁労によって人口が増えると、大きな湖を部族毎にテリトリー化していったと想定される。従って遅れて南下した集団は、九州や西日本に定住する事は出来ず、冷涼な関東や北陸に定着せざるを得なかったと推測される。

当時の日本列島には、琵琶湖クラスの湖が多数存在したから、それらを個々に縄張りにしていくと、冷涼な地域に定住しなければならない部族が生まれた事は、シベリアから日本列島に移住した人々の数より、湖沼の周囲で増えた人の数が多かった事を示している。湖沼漁民は血族集団として南下した筈だが、後世の各部族が一団となって南下したのではなく、南下した個々の集団には先行者が確保していた行き先があったのではなかろうか。その情報も、日本列島に南下遊動していた狩猟民族から得る事が出来ただろうから。狩猟民族にしても従来は捨てるだけだった獣骨を、魚と交換してくれる漁民が増える事は歓迎すべき事態だったからだ。

日本列島を狩猟場にしていたY-C3狩猟民には漁労技能はなく、狩猟の専業者だったから、多数のY-D部族の南下を受け入れたと推測される。彼らが漁労も積極的に行っていたのであれば、日本のY遺伝子分布は現在の様にY-C3が少なく、Y-Dに偏重した状態にはならなかったからだ。

現代日本人の数%を占めるY-C3の過半は、この時期の狩猟民族の子孫ではなく、後氷期になってから日本に南下して細石刃文化を遺した、別の狩猟民族の子孫であると考えられるから、この時期の狩猟民族の遺伝子は、現在の日本には殆ど残っていないと想定される。つまり日本列島に南下したY-Dが漁労文化を高めていても、狩猟民族が一緒に人口を増やす事はなかった。シベリアで漁労を兼業していたかもしれない狩猟民族も、その様な人達と同様な狩猟民族だったと想定され、この時代の狩猟民族と漁労民族の双方が、既に生業を交換する事ができない高度な技量を持っていた事になる。その技能は父親から息子に伝承され、幼少期から鍛錬された高度なもので、それによって得た食料で生計を賄う事が、シベリア文化が生み出した狩猟民族の秩序意識だったと想定される。つまりY-Dの食糧事情が豊かになって人口が大幅に増加しても、Y-C3は狩猟者の人口を維持したから、漁獲の一部を得る機会を得る事により、多少の増加はあったとしても、地域の獲物が許容する狩猟者の人口枠を超える事はなく、大して増えなかったと想定される。

Y-Dが海洋漁民になって更に豊かになると、温暖化した15千年前に縄文人を日本列島に迎え入れ、漁具の有力な材料だったアサの入手量を増やす事に成功したが、その頃に津軽海峡が生れたから、シベリアのY-C3は本州に南下遊動しなくなった。それによって獣骨の入手難に陥ったY-D漁民は、シベリアから新たなY-C3狩猟民族を招いたから、やがてシベリアから渡来したY-C3の方が多くなり、元々のY-C3は渡来者の中に埋もれてしまったと推測される。縄文人が日本列島に上陸した15千年前から、細石刃を伴う遺跡が急増する事と、魚を煮たと想定される土器が内陸で多数発掘される事が、新しい狩猟民族が原日本人の招聘により、日本に渡来した事を示唆しているからだ。但しこの頃の狩猟民族が使った洞穴に、伝統的な尖頭器を使う狩猟民族が残した土層と、細石刃を使う狩猟民族が残した土層が、積層状態で残っているものがあるが、必ずしも細石刃層が上層であるとは限らないから、従前の狩猟民族も日本にいた事を示唆している。従って15千年前から細石刃を伴う遺跡が激増した事は、この頃の狩猟民族の民族構成を示している事になる。

漁具の素材として獣骨を必要としていた海洋漁民が、津軽海峡が形成されてY-C3の南下が止まった状態になっても、本州に残っていたY-C3に豊富な漁獲を提供し、彼らの人口が徐々に増える状態を形成すれば、細石刃を伴う遺跡が突然激増する状態は生まれなかった可能性がある。漁民がシベリアから狩猟民族を多数招いた事は、彼らが狩る事によって獣骨の供給量を増やす事ができる野生動物は、日本列島に多数生息していた事になるからだ。つまり日本にいた狩猟民族の年間の食料収支は、不猟期の捕獲量に依存したから、狩猟民族の人口はそれによって規定される少数者だったが、豊かになった海洋漁民が不猟期の食料を補填すれば、多数の狩猟民族が日本列島で生活する事ができたから、新たにシベリアから南下してきた狩猟民族は、シベリア古来の秩序感を持っていない人達だった事になる。

それについては章を改めて論考するが、日本列島に定着した原日本人と南下遊動していたシベリアの狩猟民族は、シベリア東部の狩猟民族の秩序文化を継承していたが、原日本人の招聘によって新たに日本列島に南下した狩猟民族は、異なる価値観を持っていた事になる。つまり漁労民族との交易が可能であれば自給的な食糧の獲得には拘らない、西シベリア起源の交易的な狩猟民族だった可能性がある。

縄文時代のシベリアは、氷期には西シベリアにいた人々が多数派になり、アルタイ語族の地域になったと想定されるので、彼らが何時東シベリアに拡散したのか推測する事が、一つの課題になる。河川漁民としては最も早くオホーツク海沿岸に登場した、ツングースの活動歴の解明が、その課題を解析する一つの糸口になるが、それとは別にオシポフカ文化やグロマトウーハ文化と呼ばれる、ヤンガードリアス期とそれ以降の13千~1万年前の、アムール川流域に形成された遺跡が、河川漁労に依存していた人々の存在を示唆していると共に、土器と細石刃を伴っているから、狩猟民族と栽培民族が共生していた事を示している。つまりこの文化圏の狩猟民族と縄文草創期に細石刃を残した狩猟民族には、漁労民族と密接に共生していたという共通性がある。つまり15千年前頃に、漁労民族と狩猟民族が一緒に西シベリアから東進し、アムール川やオホーツク海沿岸の河川で共生していた事を、日本に急増した細石刃を伴う遺跡と、これらの遺跡の存在が示している事になる。従って日本に細石刃を残した狩猟民族も、漁労民族と共生する事を習俗とする、西シベリア起源の狩猟民族だった可能性が高い。

これらの事から、後氷期になった2万年前以降の東シベリアの狩猟民族は、河川・湖沼漁民との共生経験に乏しく、狩猟者としての自立意識が高い人達だったと推測される。北太平洋亜熱帯循環の影響で温暖だった東シベリアでは、氷床は早い時期に失われ、5万年前には巨大湖沼も北方に後退していたから、アイヌの祖先だけが東シベリアの東北部で、東シベリアの南方系狩猟民族と共生していた事を示唆し、この事情と整合している。アイヌ語だけが東シベリア方言である事がその証拠になると共に、後氷期になると西シベリアから新たな集団が拡散して来たと想定される事が、新たな証拠を示しているからだ。つまり東シベリアが後氷期に温暖化すると、夏季の肉の腐敗問題が顕在化したから、沿海部の中小河川やアムール川の様な大河川の沿岸で、漁労民族と共生しなければ、狩猟民族としての生業が成り立たない状態になったと想定される。氷期の温暖期だった5万年前に、Y-Dが狩猟民族と共生した経済事情や、原日本人にはアルタイ系の言語部族が多かった事情にも繋がり、関東や北陸の原日本人は自分達の文化に近い、西シベリア系の狩猟民族との交流を深め、日本列島に狩猟民族を招いたのに対し、東シベリアの狩猟文化に馴染んでいたアイヌの祖先は、彼らが南下して来なくなった九州を15千年前に捨て、彼らが南下して来る北海道に移住したと推測される。

部族制は縄文人の実態を分析するキーワードになり、この制度はシベリアの狩猟民族起源とするものだったと考えられるので、部族制について説明する。

中国の史書はシベリア系民族に部族制があり、具体的にその構成を説明している例が複数あるので、部族単位で活動する文化は、シベリア起源の文化だった事を示唆している。中国の史書はそれを未開民族の制度の様に記しているから、日本の史家にもその受け売りをしている人がいるが、部族制は地域自治の根幹であり、その集合として民族文化があったと考えられるから、むしろ文明的な制度だったと考える必要がある。その様な地域文化を形成できなかった漢族は、発展性のない王朝制しか採用できなかったからであり、シベリア文化の西端に接していた西欧に小国分立状態が温存されているのは、現代版の部族制と見る事もできるからだ。シベリア文化の南端だった黒海沿岸に多数のポリスを建設したギリシャ人も、その文化を受け入れた人々だった可能性がある。

関東縄文人のミトコンドリア遺伝子は多様性に富んでいたが、東北縄文人のミトコンドリア遺伝子は漁民と縄文人の遺伝子に、僅かな狩猟民族の遺伝子が加わっているだけだった。北海道縄文人のミトコンドリア遺伝子には、原日本人とシベリアの狩猟民族の遺伝子しかなかった。この様な遺伝子分布の極端な違いは、各部族が互いに通婚しなかった事を示しているだけではなく、特殊技能を持った女性を海外から受け入れるか否かという、文化的な活動にも大きな違いがあった事を示している。しかし各部族は互いに孤立的な状態だったのではなく、盛んに交易活動を行った証拠が考古学的に発掘されているし、他部族の交易活動に協力していた証拠もあるから、各部族はその様な交易関係を持ちながらも、互いに通婚しなかった事を銘記する必要がある。関東では漁民と縄文人が盛んに通婚したから、民族の枠を超える通婚は頻繁に行われたが、同じ海洋漁民同士でも、部族が違えば通婚しなかった事に、縄文人の部族の特徴があった。

関東や北陸に渡来した栽培系のミトコンドリア遺伝子は、大陸では部族の境界を越えて拡散し、日本列島には女性だけで渡来したが、一旦日本列島に渡来するとその様な女性達も、部族の壁を越えて拡散する事は殆どなかった。原日本人がシベリアの狩猟民族から引き継いだ、峻厳な部族認識は、栽培系女性が大陸で示した行動さえ禁止する厳しさがあった事になる。部族制は原日本人を起源とする漁労民の文化だったが、彼らに招かれて渡来した縄文人や、大陸から渡来した栽培系の女性達も強く拘束する、峻厳な秩序認識だった。排他的で狭隘な精神だったとも言えるが、それが平和な縄文時代を演出しただけではなく、部族の交易活動を部族同士の経済競争に高め、積極的に大陸交易に進出する原動力になったから、物事は両面から見る必要がある。

日本列島で増殖したmt-N9bは、日本列島に南下してから生まれたローカルグループではなく、5万年前の大陸にmt-N9が存在し、狩猟民族の部族間でも婚姻は稀だったから、Y-Dとペアになった一人の女性が持っていた遺伝子変異が、シベリアで増殖してmt-N9bクラスターを形成し、Y-Dをペアとする湖沼漁民の遺伝子になった可能性が高い。シベリアにmt-N9bは殆どなく、mt-N9b の姉妹であるmt-Yはツングースのペアに偏在し、アメリカにはmt-Amt-Xしかいないから、Y-Dがシベリアに拡散しても、狩猟民族と通婚しなかった事を示している。縄文人に共通するミトコンドリア遺伝子は、縄文人のmt-M7aと原日本人のmt-N9bだけだったから、狩猟民族の女性もY-Dとは婚姻しなかった事を示し、シベリアの狩猟民族の部族制がどの様なものだったのかを示している。

その様なシベリア文化を引き継いだ東北や北海道の縄文人に、Y-C3のペアだったmt-Amt-N9amt-Ymt-Xが存在しない事は、その様な部族制の結果だったとして説明できるが、関東の漁民は民族同化した縄文人と通婚したのに、シベリアの狩猟民族は民族同化して言語を変えた、原日本人の祖先とも通婚していなかった事になり、シベリアの部族制は縄文人の部族制より峻厳だった事を示唆している。経済活動の成熟期の項で説明するが、縄文時代のシベリアの共生民族は、縄文人以上に自制的で道徳的だったと考えられるので、この推測には根拠がある。

関東部族が海外から特殊技能を持った女性を迎え入れたのは、温暖化した縄文時代に、漁具を生産する技能を持ったmt-Aが嚆矢だった。それを皮切りに栽培系のミトコンドリア遺伝子を多数迎え入れたが、縄文人と通婚したのもそれ以降だった可能性がある。しかし一旦それに弾みが付くと、台湾からmt-B4を受け入れ、湖北省からmt-Fを受け入れ、華北からmt-D+M8aを受け入れただけではなく、毛皮やアザラシの皮革を加工する技能者も受け入れたから、原日本人のペアだったmt-N9bはそれらのミトコンドリア遺伝子に浸潤され、現代日本人には僅か2%しか残っていない。

ミトコンドリア遺伝子の浸潤・拡散法則は、栽培技能だけではなく技能全般に関わっていた事を示し、石器時代の女性は子育てする専業主婦ではなく、生活に必須な技能を有していた者として浸潤に晒され続けた事になるが、この様な事情が頻発したのは再三指摘した様に、女性の技能が母から娘に伝承されていたからでもある。師匠が弟子に秘儀を伝授する様に、栽培技術や加工技術が母から娘に伝承されていたからで、女性達が判断していた子孫繁栄の秘訣が、その様なものだったからだ。その様な女性達の中でも、血族系譜を意識しながら技能を共有し、広域的に技能を高めた集団が、栽培系では特定穀物の栽培集団になり、狩猟系は寒冷地に対応する技能を高めたから、特定遺伝子が技能集団を形成した事になる。

一方の男性達については、東南アジアのY-Fは強固な血族集団を形成し、各々が集団でサバイバル闘争を展開した事を示しているが、Y-C3Y-Dには特定の血族集団が膨張した痕跡は見えない。その理由の一つに、各遺伝子変異の出現時期を誤り、時代が下り過ぎている事が挙げられる。実際は何万年も古い時期に血族集団が生れたのに、特定地域に土着する事によって遺伝子変異が生れ、クラスター化したと信じ込んでいるからだ。それにしてもY-C3Y-Dでは、遺伝子変異が混在している事は間違いなく、活動の単位は血族集団ではあったが、それらが古い時代に再編成された事を示唆している。言い換えると、Y-Fの様な強い血族意識はなかった事と、臨機応変に部族が再編成された事を示唆している。

Y-Dに関して言えば、特定の血族集団としてアフリカを出た事は間違いないが、シベリアに拡散して狩猟民族の各部族に、共生者として参加する過程で、分岐していた小集団の再編成があり、縄文人として生まれた各部族のY-Dは、再編後の姿を示していると考えられる。日本人のY-D一部にアフリカを出た際には別の血族集団だった、チベット系のY-Dが含まれている事が、その様な状況があった事を示しているからだ。

シベリアの狩猟民族が形成していた部族には多数の小集団が存在し、その小集団が個々別々にY-Dの小集団を招聘したから、この様な状態になったと想定され、Y-C3Y-Dも、祖先を共有する大きな血族集団の一員である事を意識せず、経済活動の最適化に重点を置いていた事を示唆している。言い換えると、その様な判断ができる平和な社会だった事を示唆している。

チベット人にmt-Aが多数含まれている事は、Y-Dが日本人になるかチベット人になるかについて、Y-C3部族の意向が働いていた事も示唆している。チベット人になったY-C3部族は、Y-Dとの共生関係をチベットに持ち込んだ事を示唆しているからだ。日本人になったY-Dと共生していた部族は、気候が寒冷化して共生のメリットが薄れると、Y-Dが日本列島に南下する事を推奨したらしい事は既に指摘した。Y-C3狩猟民族にとってチベットはフロンティアだったが、日本列島には既にY-C3民族の縄張りが設定されていたから、Y-Dと共生していたシベリアの奥地のY-C3にとって、Y-Dと一緒に移住する場所ではなかった事が、この様な判断の違いを生んだ可能性が高い。この想定も、Y-C39万年前に東アジアの沿海部を北上した証拠になる。

現在の東ユーラシア大陸には、mt-N9から分岐したmt-N9amt-Yが広く分布し、mt-Yは漁労交易民族だったツングースの主要遺伝子になっている。mt-N9aは山東・遼寧や韓国で4%を占め、その地の地域でもY-C3比率の40%ほどだから、氷期~縄文時代にはシベリア南部の狩猟・漁労民のペアとして、広く大陸に拡散していたと想定される。広東にも1%分布しているから、シベリア起源のY-C3mt-N9aペアは、氷期の最寒冷期には華南まで南下し、温暖化しても北の狩猟民の縄張りには北上できず、定住した地域に留まった事を示唆している。mt-N9aは日本人の4.5%を占め、2.1%を占めるmt-N9bより多いが、縄文人から発見されていない理由については、経済活動の成熟期の項で説明する。

 

2-2 原日本人の海洋民族化

原日本人は温暖な気候を求め、シベリアの狩猟民との共生から離脱して日本列島に南下したが、日本列島に南下遊動していた狩猟民族と再び共生関係を構築した。日本列島の温暖な湖沼で漁獲が増えると、漁民人口が増加して冬季の食料も自前で確保する必要が生まれ、それが実現すると狩猟民族から冬季に獣肉を得る関係から、通年獣骨を得る共生経済に変わった。温暖な日本の湖沼漁民になったY-Dは、日本列島特産の蛇紋岩を使って磨製石斧を製作し、樹木を伐採して仕掛けや筏などを作って漁労の生産性を高めたから、冬季でも漁労が可能な関東や中部山岳地帯が、4万年前の湖沼漁民の北限になった。

湖沼漁民の道具だったと想定される磨製石斧と台形石器が、北関東や野尻湖を北限とする43万年前の遺跡から発掘され、原日本人は氷期の寒冷期が始まった4万年前には、日本列島に南下していた事を示している。

原日本人の食料が湖沼漁労への依存度を高めると、湖岸に集住して高い人口密度を実現し、日本列島の環境に適応する新しい歩みとして、日本独自の漁労文化を強力に発展させていった。この時期の遺物が内陸から発掘されるのは、内陸に巨大湖が形成されていたからだが、湖沼の氷結には湖の深さや地理的な位置が関係し、水深が深いと表面の冷たい水が沈降して氷結しにくいから、多少標高が高くても内陸の盆地にある深い湖が、彼らの生活の場になった。

尾瀬の花粉は35千年前の日本列島は、5万年前より6℃、現在より10℃低下した事を示しているから、磨製石斧と台形石器が発掘された前橋付近は現在の稚内より寒く、巨大湖であっても通年の湖沼漁労は不可能になっていた。つまり関東中部を北限とする湖沼群は、45千年前には冬季も氷結しない湖沼群だったが、その後の寒冷化で冬季に氷結する様になると、夏季には波が穏やかな湖沼で漁労を行い、冬季には海洋で漁労を行う状態になり、徐々に海洋漁労の生産性を高め、3万年前には本格的な海洋漁民になっていたと推測される。淡水が流れる河口も、3万年前には長期間氷結する様になったから、海洋漁労を行う為の必須技術は、波があっても航行できる海洋船の開発だった事は間違いない。

3万年前に氷期の最寒冷期が始まり、現在より12℃低温になると、東日本では磨製石斧と台形石器が発掘されなくなる。この時期には鹿児島が現在の稚内の様な気候になり、日本列島は現在の樺太やカムチャッカ半島の様な気候になったから、湖沼は長期間氷結して漁労が不可能になり、海洋漁民にならざるを得なかった事になり、原日本人の挙動は尾瀬の花粉が示す気候と一致している。

43万年前の野尻湖近傍の遺跡から、多数の台形石器と局部磨製石器が発掘された。下の画像は野尻湖に近い日向林B遺跡から発掘された磨製石斧と台形石器で、他に例がない膨大な数の磨製石斧が一カ所から出土し、製作者の専業化が進んでいた事を示唆している。右下の窪んだ石は、石斧の刃部を研ぎ出す石だったと考えられ、一部又は殆ど全てが、制作途上の未完成品である疑いがある。

局部磨製石器の素材は、直線距離で40km離れた白馬で採取された角閃石岩(蛇紋岩系岩石)で、台形石器の黒曜石は70㎞離れた霧ヶ峰産だった事が判明している。縄文時代には角閃石岩の磨製石斧が、樹木を効率的に伐採する道具として量産されたから、原日本人もそれらの磨製石斧を樹木の伐採具として使い、淡水魚を捕獲する仕掛けや、湖に乗りだして魚を刺殺する為の筏を作ったと推測される。骨で作った銛で魚を突く漁法は古い時代からあり、この時代にもそれが主流だった可能性が高いが、酸性土壌の日本では骨製の銛は発掘されない。仕掛けや銛に使う紐の素材として、日本列島には亜寒帯性のシナノキがあり、その樹皮から作る縄はアサほどの柔軟性はないが、水に漬けても劣化しない特徴があり、湖沼漁民は大いに利用したと想定される。シナノキは日本の固有種なので、原日本人はシベリアにはなかった多彩な樹木と、それを伐採する蛇紋岩製の優れた磨製石斧と、漁民が使うのに相応しいシナノキの紐を手に入れ、湖沼漁労の技能を高めると共に、海洋漁民化する為に必要な素材を揃えた事になる。

多量の磨製石斧の用途は、浅瀬に柵を作って追い込み漁を行ったり、筏を使って銛で魚を突いたりするためだったと考えられるが、丸木船があれば移動速度が増して漁場が広がったから、磨製石斧が多彩であるのはそのためだった可能性もある。しかし発掘された全ての石斧の用途が異なり、それぞれに使い分けていた様には見えないから、40㎞離れた白馬に出向いて石材を集め、石斧に加工する専業者がいた事を示唆している。狩猟に使う打製石器が混在していない事は、この石器の製作者は専業的な漁労集団に属していた事を示している。

現代日本人のY-D比率が、狩猟民だったY-C310倍以上ある事は、海洋漁労と狩猟の生産性の違いを示しているが、日本のY-C3は先に述べた様に、海産物の支援を得ることを条件に、獣骨を生産する為に大陸から渡来した狩猟者の子孫だから、狩猟だけで生活していた氷期のシベリアの狩猟者の、数倍の人口密度になっていたと想定される。従って純粋な狩猟者と海洋漁民の人口比は、数十倍の差があった事になる。海洋漁民には至っていなかった半湖沼漁民の段階でも、生産性に大きな差が生まれていた事を、この遺跡の石器の豊富さが示している。広い湖に多数の漁民が集まり、情報を交換しながら漁労技量を高め、豊かな漁獲を得ていた事を連想させ、漁民特有の高い人口密度が生れ、漁労文化を発展させていた事も示唆している。

漁労に限らず文化の発展には、人口の集積が基底要素になるから、豊富な漁獲が得られる広い湖の湖岸に集住した事が、原日本人が漁労文化を急速に高める原動力になった事も示唆している。温暖な地域の湖の方が魚の成長や増殖が速いから、当初の日本式の漁法は、シベリア方式の効率化に留まっていたかもしれないが、蛇紋岩性の磨製石斧を得て樹木を伐採し、仕掛けや筏を作って効率的な漁法を編み出した事は、適切な素材を得た道具の進化が文化の向上に寄与したとも言える。

内陸の湖沼で漁労文化が発展していた43万年前に、海洋漁労文化も並行的に進化していた証拠として、伊豆半島から50㎞離れた神津島の黒曜石が、本州の内陸の遺跡から沢山発見されている事が挙げられる。関東エリアの3万年以上前の遺跡から発掘された、総出土数2万点以上の黒曜石の中の、870点ほどが神津島の黒曜石だからだ。最も多いのは霧ヶ峰産の18千点、次いで箱根・天城の3千点になる。高原山の黒曜石も北関東を中心に流通し、この傾向は縄文時代まで続いた。

神津島の黒曜石が発見された遺跡は、38千年前の静岡県沼津市の井出丸山遺跡、32千年前の東京武蔵台の遺跡、野尻湖遺跡群、2万年前の神奈川県月見野遺跡、長野県野辺山高原の矢出川遺跡の細石刃石核などがあり、神津島の黒曜石の流通は4万年前に始まり、日本列島のYC3狩猟民がそれと獣骨を交換していた事を示し、交換経済が食料の交換から、生産用具の素材を交換する段階に至っていた事を示している。

神津島に渡って黒曜石を採掘するには、太平洋の波浪に耐える船が必要だが、氷期の人がその様な高性能の船を、漁労以外の目的で作ったとは考えられない。縄文時代の導入項で説明したが、角閃石岩を研磨した石斧は青銅より硬く、用途や加工方法によっては青銅を凌ぐ性能が得られるから、原日本人は氷期から、青銅器時代の船に匹敵する海洋船を作る事ができた。これは論理的な表現だが、神津島産の黒曜石の分布は、原日本人は論理的に可能な作業を実際に行っていた事を示している。

黒曜石が発掘された内陸の遺跡は、石槍や細石刃などの狩猟民の道具を伴っているから、狩猟民と狩猟民の間に交易があり、漁民と狩猟民も交易していた事を示している。漁民が銛を作るためには骨や鹿の角が必要になり、防寒用の毛皮も必要だったから、豊かな水産物や海産物を対価に狩猟民と交易を行ったと推測されるが、箱根・天城産の低質の黒曜石を使っていた狩猟民に、高品質の神津島産の黒曜石を提供した事は、狩猟民が感じていた黒曜石の質の違いを漁民も理解し、高品質の黒曜石を遠方から持ち込む交易が生まれていた事を示している。

霧ヶ峰でも高品質の黒曜石が採取できたが、その付近の遺跡の遺物に神津島産が紛れ込んでいた事は、狩猟者は自分が使う黒曜石の全量を、霧ヶ峰に出掛けて採取していたのではなく、狩猟民同士の交易でも得ていた事を示し、霧ヶ峰産に匹敵する品質の黒曜石が、神津島でも採取できる事を漁民が知っていた事も示している。単に生活上の過不足を交換するのではなく、素材によって交換価値が異なる事を理解していた人々が、高級な交易材を開発する行為が生まれていた事になる。狩猟の獲物は素早く動くから、一撃必殺を得られる道具が必要であり、漁民が銛で魚を刺殺する場合も同様だから、両者の道具への拘りが素材の質を交易要素にした事になり、狩猟民族や漁労民族の高い交易意識の発生は、必然的なものだったと考えるべきだろう。簡単に言えば、道具の優劣が生産性に直結する生業者は、氷期から素材の交易に高い関心を持っている人々だった。

神津島産の割合が少ないのは、漁民がその交易に熱中していたのではなく、普段は海産物で交易を行っていたが、海産物が不足した分を黒曜石で補ったと想定され、漁民も黒曜石を使って台形石器を作っていたから、その黒曜石は神津島産だった事が、この様な状態を遺していると推測される。当時の漁民の遺跡は後氷期の海面上昇によって全て失われたから、この状態を確認する事は出来ないが、当時の関東の人口は漁民の方が圧倒的に多かったから、仮に漁民の遺跡が海底から発掘されたとすると、そちらの黒曜石は圧倒的に神津島産だったと推測される。品質が良い黒曜石は加工が難しいから、箱根や天城の黒曜石を使っていた狩猟民には加工が難しく、手慣れた漁民が尖頭器なども製作していたとすると、狩猟民はそれを優先的に使って山野で消耗しただろうから、それによって遺物が少ない状態になった可能性もある。

34万年前の磨製石斧や台形石器が多数発掘された場所として、南から宮崎県中央部、北九州、静岡県沼津・三島、多摩丘陵・武蔵野台地、千葉県北西部、群馬県平野部、野尻湖近辺などがある。それらの地域の氷期の地形を検証すると、宮崎県の西都原、玄界灘、静岡県の三島は、4万年前に大きな湖があった事を示唆する丘陵地形に囲まれている。群馬県の平坦部も湖沼だった可能性が高く、東京湾は現在の規模に匹敵する湾入地形だった可能性が高い。

磨製石斧が多数発掘された日向林B遺跡は、野尻湖に面していたのではなく、信濃町全体を湖底とする別の湖の湖岸だったと考えられる。野尻湖はナウマンゾウのキルサイトがあった場所として有名だが、それを遺したのはY-C3狩猟民だった可能性が高く、狩猟を行わないY-Dと、狩猟民だったY-C3の共生実態を示していると考えるべきだろう。つまりそれぞれの民族がキャンプ地を隣接する事に支障はなく、それぞれが必要な物資を交換していた事を示している。従って日向林B遺跡から発掘された、磨製石斧の素材である蛇紋岩や霧ヶ峰産の黒曜石も、Y-Dが採取したと決め付ける必要はない。それらの採掘地は狩猟民族の縄張りであり、歴史時代の史書である魏志濊伝に、「山川を重んじ、山川には各々の部分があり、みだりに相渉入する事を得ず」と記され、シベリア系民族の秩序感が示されているからだ。

日向林B遺跡が面していた古代湖を、以下では古信濃町湖と呼ぶ。当時はその西に古信濃町湖より巨大な古松本湖が、北東には古善光寺平湖があり、日向林B遺跡は巨大湖が連なった丘陵地の湖岸に散在していた、多数の夏季の漁民集落の一つだった可能性が高い。それらの湖には多数の川が流れ込み、小さな川洲が湖岸の各所にあったから、原日本人がそこに集落を形成して漁労を行い、川洲で貝を採取し、仕掛けで捉えた魚を放し飼いにする池を作り、半定住生活を送っていたと想定される。この頃の気候は現在より10℃ほど低く、古信濃町湖は現在の稚内より寒かったと想定されるから、漁民は湖が氷結する冬季には海岸に移住していた。それ故に「半定住生活」を使ったが、限りなく定住に近かったと考えるべきだろう。狩猟民より漁民の方が圧倒的に多かったから、彼らが毛皮を入手してテントを使う事は難しかった可能性が高く、野宿する事はできない寒冷な気候だったから、樹木を伐採する能力を駆使して竪穴住居を使っていた可能性が高い。漁民と竪穴住居の関係については後述する。

海洋漁民化するには、湖沼漁民としての経験の蓄積が必要だったから、縄文時代に海洋民族化する為には、氷期に湖沼漁民だった事が必要条件になる。東アジアに限定すると、氷期に継続的な湖沼漁労が可能だった地域は、スンダランドを除けば青海・チベット地域と日本列島しかなかった。沖積平野であるスンダランドでは河川漁労が中心で、湖沼漁労ができる場所はなかったと推測される。シベリアより低緯度地域は気候が乾燥し、継続的な河川漁労も望めなかったら、漁労文化が発展する余地はなかった。降雨に恵まれたスンダランドは後氷期に水没してしまい、周囲は熱帯雨林に覆われたから、氷期の河川漁労の実態は分からないが、この系譜の海洋民族が出現した痕跡はない。次章で説明するが、原縄文人の構成要素になったY-O3a2aは、スンダランド系漁民だったと考えられるが、Y-Oはヴェトナム中部以北にいた民族だから、スンダランド漁労の主流民族だったY-Hとは異なる人達だった。彼らには海洋性がなかった事を、現代日本人と沖縄人の遺伝子分布が示しているから、スンダランド系漁民は海洋民族化しなかったと考えられる。

縄文時代を含む石器時代に海洋民族化した事例として、東南アジアの海洋民族が挙げられるが、彼らの技能は縄文人の海洋文化の移転を受けたものだから、海洋文化の発生に関して言えば、日本列島は唯一の発生地だった。その様な状態が日本列島で生まれた理由として、湖が沢山あり、その湖が海岸に近かった事も挙げられるが、気候の寒冷化が原日本人に海洋漁民化を強いた事、原日本人には海洋漁民化するための資源があった事も挙げられ、海洋漁民が海洋民族化する為には、シベリア起源の交易性と部族主義的な秩序主義も必要だった。この様な極めて稀な事象の組み合わせにより、海洋漁民が生れた事になる。

湖沼漁労の痕跡は極めて残り難く、氷期の海面は現在より120m以上低かった事が、漁労文化に関する議論を難しくしている。

湖の流出河川が侵食されて湖面が低下すると、山間の湖岸に形成された川洲の、柔らかい堆積土は雨に流されて痕跡を留めないからだ。日向林B遺跡は川洲ではなく、偶々河岸の丘の上にあったので、湖が消滅しても痕跡が残ったと想定され、この遺跡の存在が確認できても湖沼漁民の全般的な事情は分らない。

海洋漁民になった原日本人の痕跡は後氷期の海面上昇によって破壊され、現在水深100m以上の海底にあるから、発掘される事はない。従って石器時代の歴史のアウトラインを描く素材は、考古学的な遺物ではなく遺伝子分布になるが、遺伝子分布の専門家を自称している人達が、現在の遺伝子分布に矢印を書き入れ、氷期の民族移動を再現できたかの様に主張している実態は、知性の堕落であると言わざるを得ない。

 

2-3 湖沼漁民と海洋民族を生み出した日本列島の自然環境

縄文時代に河川・湖沼漁民が海洋漁民になった例として粛慎があり、東南アジアの海洋民族として南太平洋に拡散した民族の起源は栽培民族だったが、彼らは原日本人や海洋縄文人から海洋文化の移転を受けた人々で、海洋文化の起源者は原日本人だった。中華大陸に海洋文化がなかった事は、縄文人の海洋性と石材加工の項で指摘した。

歴史学者と称する人達は、中華大陸の民族が日本に渡航して日本人の祖先になったと、証拠もなく主張しているが、実際にはあり得ないお伽噺に過ぎない。「発掘遺物がなければ歴史事実と認定するな」と主張する考古学者が、磨製石斧が発掘されていない大陸から、日本人の祖先が丸木船で日本に渡航したと主張し、大陸に海洋船があった証拠もなく、渡来者の遺伝子も特定できないのに、稲作民族が大陸から日本に渡来して弥生人になったと主張するのは、ダブルスタンダードという生易しい話ではなく、大陸民族に迎合するプロパガンダの発信者である事を露呈している。

この節では、何故原日本人が氷期の東アジアで唯一の海洋漁民になったのか、その理由を論考するが、先に指摘した様に原日本人の祖先は元々漁民だったとか、文化の先進地だったシベリアの狩猟民族から、文化的な薫陶を受けたからであるという話は、分かり難い上に決定的な証拠にはならないから、湖沼漁民から海洋漁民になる事ができる環境があったのは、氷期や後氷期の東アジアでは日本列島だけだった事を示す。石器時代には海洋文化を持っている民族でなければ、海洋を航行する事はできなかったから、海洋文化の発祥地として捉える必要がある。

日本の湖沼は造山帯の地殻変動によって形成された自然の堰が、山間地に作り出したものだから、降雨量が少なかった氷期の巨大湖は水位が安定し、湖岸に定住して漁労を行う事ができた。氷期には豪雨は殆どなく、河川の氾濫は稀だったから、川洲に居住しても危険は少なかった。

造山帯特有の岩石である蛇紋岩は磨製石斧の素材として優れ、船を造る道具に相応しかった。台湾やインドネシアも造山帯だから、蛇紋岩は産出するが海洋漁民は生れなかった。台湾以南では氷期にも降雨があり、造山運動によって湖が形成されても、数千年の寿命で消滅したからだ。台湾以南に降雨があった事は、沿海部に堅果類の栽培者がいた事によって証明される。

日本の固有種であるシナノキは、剛性が高く水に濡れても劣化しにくい樹皮を、綱の素材として提供し、その綱は船を組立てる素材として優れていた。

日本列島はモンスーン気候帯にあり、樹林に恵まれていた。氷期の日本列島は草原に覆われ、疎林が散在する程度だったと主張する人がいるが、現在まで保存されている氷期の平地は殆どなく、斜面の土砂は縄文時代の降雨によって削り取られたから、氷期の日本の植生を再現できる場所は殆どなく、その様な主張には根拠がない。氷期の最寒冷期の日本列島は現在の樺太の様な気候だったから、現在の樺太を参照すると、戦前の樺太は島の面積の8割を原始林に覆われ、パルプの原木が盛んに出荷されて、製紙工場も建設された。氷期は海水温が低かったから、氷期の温暖期はかなり乾燥し、降雨は南シナ海のモンスーンに頼るしかない状態だった可能性はあるが、寒冷期になると海水温より大気温の方が低くなったから、少なくとも太平洋側には夏の降雨があったと想定される。

従って原日本人は日本列島の湖沼で漁労技術を磨き、季節応じて海洋に進出できる地理的な環境に恵まれていた。

縄文時代まで時間を繰り下げても、東アジアの海洋漁民は3グループしかなかった事が、言語圏の分布から証明できる。原日本人がいた日本列島は日本語圏である事は当然として、フィリッピン・インドネシア・南太平洋の島嶼・マダガスカル島など、石器時代に孤島だった地域はすべてオーストロネシア語族の言語圏だから、これらの島の近くの大陸に、海洋民族はいなかった事になる。シベリアの河川交易者だったツングースは、大陸の沿岸を航行して朝鮮半島から九州に渡来したり、オホーツク海沿岸を航行したりする事は出来たが、それ以上の海洋活動は行わなかった。従って新石器時代の太平洋とインド洋には二つの海洋民族しかいなかった事になるが、オーストロネシア語族海洋民族は、縄文早期に台湾で海洋縄文人と接触し、海洋技術を習得して海洋民族になった人々だから、縄文草創期までの原日本人は太平洋とインド洋の範囲内で、唯一の海洋漁民だった事になる。

西ユーラシアで石器時代に海洋民族になったのは、北海沿岸のゲルマン民族だけだったと推測される。氷期の北海は厚い氷床に閉ざされていたから、木製の船を操る海洋漁民が存在できる状況にはなく、西欧の氷床が融解した縄文時代に、漁民の先祖が何処かから移住して来た事になる。カスピ海や黒海は縄文早期に氷床の融水によって拡大し、その北岸にツングース系の河川漁民が進出したと想定されるから、ゲルマン民族はツングース系河川漁民から、河川・湖沼漁労技術を獲得した可能性が高い。西欧にシベリア起源風の部族主義が存続している事は既に指摘したが、北欧から櫛目紋土器が発掘される事は、ツングースの交易圏が北欧に達していた事を示しているし、ヴァイキングがドラゴンを崇拝していた事は、シベリア文化の波及を示しているからだ。

シベリアは15千年前までは寒冷で乾燥していたから、それが終わって温暖化しても、ツングース系民族に巨木を削って船を建造する技能はなく、彼らの航行技能も温暖化した縄文早期に、オホーツク海に北上した原日本人から伝来した技術だった可能性が高い。氷期のシベリアに木造の海洋船の素材になる巨木が、森林を形成していたとは考えられないからだ。

従ってカスピ海の北岸でツングースから河川漁労技術を得た人々が、東欧を経て北海に進出して海洋漁民になったと考えられる。縄文早期は海面上昇期だったから、氷床が激しく融解して東欧や北欧は水浸しになっていた上に、当時の地形は現在とは異なり、厚い氷床の重圧で地殻が沈降していた状態が継続し、現在の低地は湖沼や湿地になっていたから、多数の河川水路が走り、湖沼漁民がバルト海や北海に進出する事は容易だった。当時のバルト海は湖で、北海はバルト海の水が流れ込む複雑な入り江を持つ海だったから、海洋漁民が誕生しやすい環境を提供していた。但し彼らが海洋漁民になるためには、海洋縄文人から基幹的な技術の移転を受ける必要があり、その代表例としてシナノキの樹皮の活用と、蛇紋岩製の磨製石斧の製作が挙げられる。

西欧人がセイヨウシナノキを重視するのは、海洋縄文人の文化がツングースを経て、西欧に伝来したからである疑いが濃い。現在もセイヨウシナノキの繊維を利用する民芸品があり、植物学者カール・フォン・リンネの姓の由来はシナノキ(独語で Lindenbaum)だから、石器時代の西欧人もシナノキの繊維を重視した事を示唆している。

ノルウェーには蛇紋岩の露頭が多く、トロールと呼ばれる蛇紋岩帯が観光地として知られている。イングランドのコーンウォール半島リザード岬も、蛇紋岩地帯として知られている。蛇紋岩は海洋プレートが大陸に沈み込む場所で生成された含水変成岩だから、これらの地域に蛇紋岩帯がある事は当然だが、安定陸塊であるユーラシア大陸の内部では産出しない。東アジアの海洋民族が、火山列島である日本列島~台湾~フィリッピン~インドネシアを拠点にしたのも、それらの地域が蛇紋岩の産地だったと想定されるから、西欧の海洋民族もスカンジナビア半島~イングランドの蛇紋岩を利用し、木造船を作った可能性が高い。つまり北欧には日本列島と同様な、海洋漁民を育てる環境があったが、その成立は後氷期なってからだった。しかし一旦海洋漁民が成立すると、彼らが北米大陸にも拡散した痕跡が北アメリカ大陸沿海部の原住民の、Y-R遺伝子として遺されている。この様な急激な海洋漁民化と航行技能の向上は、既存の高度な海洋技術に触発された事を示唆している。台湾起源の海洋民族は数千年海洋民族化が先行したが、彼らは多民族の共生によって文化力を高めていた上に、亜熱帯の樹林に恵まれていたから、縄文前期に広大な南太平洋に拡散した事と比較すると、Y-Rの海洋民族化事情と整合するだけではなく、当時の先端技術だった海洋文化が、どの程度のものだったのかを示している。また両者は東南アジアでは最も不遇だったY-K系譜で、ミトコンドリア遺伝子もY-R系譜だった事にも共通性があり、民族性にも共通点があったかもしれない。

シベリアの狩猟民族は氷期から、狩猟技能の高度化に資する物産の交易に高い関心を持っていた事を、北海道の白滝や関東・中部の黒曜石が、広範囲に交易された事が示している。15千年前に温暖化するとシベリア沿海部の交易文化の牽引者は、東北部の狩猟民族から南西部の河川漁民に代わり、湿潤な沿海部に北上したY-N栽培民族と共に3民族共生文化を形成した。この漁労民族は12千年前に超温暖期が始まると、オホーツク海に北上した関東の海洋縄文人と接触して造船技術を入手し、1万年前にインド洋が湿潤化してシベリアの内陸部が湿潤化すると、ベリアの奥地に進出してトルコ系漁労民族を中央アジア~西シベリアから呼び込み、彼らを栽培民族の共生者として拡散させ、自らはシベリア全域を版図にする河川交易者になり、ツングース民族を形成した。このツングースが海洋文化の東西伝搬者になり、植物栽培の拡散が交易の重要要素だった縄文時代に、樹木栽培や造船技術を北欧に伝えたと想定される。

交易者になったツングースの最大の関心事は、中央アジア~シベリア西部のトルコ系民族の小集団だった狩猟・漁労民族を、シベリア全域の先進的な河川・湖沼漁民に仕立てるために、日本列島から仕入れた必要な物資を支給しながら、原日本人や海洋縄文人に獣骨を供給する事だった。シベリアには繊維素材も蛇紋岩もなかったから、海洋縄文人からアサと磨製石斧を入手し、狩猟民族には弓矢を支給して獣骨を供出させるものだったと想定される。彼らの交易路は次第に西に延伸し、黒海やカスピ海の北岸に至ると、そこにいたゲルマン民族の祖先もツングースの交易相手になり、その一部が河川漁民になったと想定される。当初は狩猟者が過半だったかもしれないが、漁労の生産性の高さに気付くと漁労者が圧倒的な多数派になり、バルト海や北海に進出してY-Rb1を形成したと想定される。

欧州人の主要遺伝子であるY-Rは、11千年前にパキスタンから湿潤化した中央アジアに北上し、東に向かった集団は六条大麦を栽培し、仰韶文化を形成した。西向かった集団はカスピ海や黒海の周辺に展開し、二条大麦を栽培化したから、彼らが縄文早期(11,0007,000年前)にツングースと接触する事は必然的な結果であり、河川・湖沼漁民になると氷床が融け続けて水浸しになっていた東欧と北欧を経て、北海に達してゲルマン系海洋民族になった人々がY-Rb1mt-Uペアで、多数派だったY-Rb2mt-Uペアは、黒海やカスピ海沿岸で大麦の栽培に拘っていたと想定される。

1万年前のバルト海はまだ湖で、その水が流れ出していた北海は、現在より小さい入り組んだ湾入地形だったから、氷期最寒冷期の日本列島の様に、湖沼漁民から海洋漁民が生まれ易い環境を提供していた。ノルウェー南端のリーセフィヨルドの奥に、蛇紋岩が露出している場所があるから、ここで磨製石斧を製作して海洋漁船を作る事もできた。温暖化したイングランドを樹木の産地として使い、コーンウォールの蛇紋岩で大型の船を作る事もできた。1万年前の西欧には殆ど樹木がなかったが、中央アジアは11千年前から樹林が形成され始めたから、超温暖化した東ユーラシアの影響を受け、黒海沿岸などの内陸部には樹林が形成され始めていた可能性が高く、それらの物資が交易によって調達されれば、個々の素材が遠隔地にあったとしても、海洋民族の形成に大きな支障はなかったと推測される。栽培民族と共生しない漁民や狩猟民族は、魚や肉の腐敗を防ぐために寒冷な気候を好んだから、黒海やカスピ海の沿岸に漁労民族が生れれば、冷涼な地域で生産した獣骨と黒海周辺の木材の交易が成立しただろう。

既に指摘した様に、マダガスカル島が台湾起源の海洋民族の島になった事は、地中海や紅海を発祥地とする海洋民族は、後氷期なっても生れなかった事を意味する。地中海の海洋民族になったかもしれない候補者は、5万年前にY-Dを生み出したナイルの河川漁民になる。彼らが海洋漁民化する条件を整理すると、以下の様なものになる。

ナイル河の下流は砂漠の中を流れているのではなく、東岸は山岳地だから漁民が岩石の不足に悩む事はなかった。氷期のナイルは現在と類似した河道を流れていたと想定されるから、ナイルの下流域に河川漁民が多数いた事は間違いないだろう。しかし寒冷な気候によって河川漁民を海洋民族化させる圧力は、ナイル川にはなかったし、ナイルは地中海と垂直的な位置関係にあるから、多くの河川漁民にとって海は未知の世界だったから、彼らが海洋漁民化する動機は乏しかった。後氷期なって海面が上昇し、ナイルの河谷に海水が流入する高さになると、ナイルの河谷に水が溢れて良好な漁場を形成したが、河口部分は狭く、河川漁民が海洋に進出する状況は生まれなかった。現在のナイルのデルタは、河谷が堆積土砂に埋まってから形成されたもので、デルタが形成され始めたのは海進期の末期だったと想定される。デルタが形成され始めるまでに河谷が埋まるとナイルの氾濫が始まり、氾濫した肥沃な土地を農民に再配分する為に、強力な王朝が生れてピラミッドが建設されたからだ。

その様なナイルの河谷に樹林も生まれていたかもしれないが、磨製石斧の素材として優れた蛇紋岩はなかったし、アサの様な強靭な繊維が入手できたのかについても疑問がある。大麻は日本原産、苧麻は東アジア原産、ジュートはベンガル原産、マニラアサはフリッピン原産、サイザルアサはメキシコ原産なので、石器時代のナイル川流域に強靭なロープの素材があったのか疑問になる。ピラミッド建設の想像図にロープが使われているが、その素材は何だったのか明らかにする必要がある。大麻は日本原産であると指摘すると驚く人がいるかもしれないが、それについては「3、原縄文人の起源とその集団化」の章で説明する。

エジプトのミイラが亜麻(リネン)で包まれていたので、亜麻はエジプトやレヴァントで栽培化されたと主張している人がいるが、現在の亜麻の産地はノルマンジーの様な冷涼な地域だから、亜麻の産地は冷温帯性の気候地域だったと想定される。従って最も有力な産地は、黒海周辺だった可能性が高い。エジプトに王朝が生れた頃には、黒海周辺はツングースなどのシベリア系水上交易者の交易拠点になっていたから、其処から搬出されたと想定する事に何の問題もない。亜麻の現在の栽培種は、作付けすると地力が衰えるから数年は栽培できないから、栽培化がかなり進んだ種であると想定され、交易民族の主要な交易品として盛んに栽培された事を示唆している事も、縄文時代の早い時期にアサの代替品として、湖沼漁民の為に盛んに栽培された事を示唆し、生産地は黒海周辺だった可能性が高い。つまりピラミッドを建設する為に使ったロープの素材は、亜麻だった可能性もあるが、台湾起源の海洋民族がマダガスカルにいたとすれば、フィリッピン原産のマニラ麻だった可能性もある。マニラ麻は強靭なロープの素材になるから、台湾起源の海洋民族が船を作る際に、必須の素材として開発されたものだったと想定されるが、ピラミッド用の巨石を牽引する際にも相応しい素材だった。歴史学者は地産地消を信じて疑わない様だが、縄文前期以降の海洋交易者の活動を視野に入れ、考えを変える必要があるだろう。つまりマダガスカルに多数のオーストロネシア語の話者がいる事は、其処で何らかの生産活動が行われていたと考える必要があり、フィリッピンと類似した気候である事を考慮すると、マニラ麻の生産拠点にしていた可能性が高いと考える必要がある。香辛料などは越系民族の栽培種だったから、海洋民族には移植する権限はなかったが、マニラ麻は海洋民族の栽培種だったから、彼らに移植する権利があった事が基底になる。

ナイル川流域で漁労文化が発達しなかった理由は、他にもあったと考えられる。ナイル川流域は赤道直下に近く、氷期も温暖な気候地域だったから、腐敗しやすい水産物は有力な食料資源になり得なかった事が、漁労文化の進化を妨げていたと想定される。氷期の日本列島は亜寒帯性の気候地域だったから、腐敗問題は深刻ではなかったが、ナイル川流域はその問題から免れる事ができなかったから、栽培者と共生する必要があったが、氷期のアフリカには栽培者はいなかったから、漁労文化の発展には限界があった事が、アフリカで海洋民族が生れなかった原因であると考えられる。

ベンガル湾の東部にアンダマン諸島があり、そこにもY-Dがいるが、彼らが海洋漁民にならなかったのは、温暖な地域の湖沼漁労の生産性の低さ故に、人口を増やすことができなかった事情を示唆している。彼らの祖先も5万年前にアフリカを出たが、中央アジアには北上せずにインド洋沿岸を周回し、アンダマン諸島に到達したと推測される。5万年前のアンダマン諸島はインドシナ半島と陸続きで、アンダマン海は湖沼を含む奥深い湾だった。造山活動が活発な地域だから、各地に湖沼が散在し、ナイル起源の河川・湖沼漁民には楽園だったと推測される。従ってインド洋を周回したY-Dの方が、中央アジアやシベリアに拡散したY-Dより多かった可能性もあるが、インド洋を周回したY-Dはこの巨大な湖沼群に定着してしまい、スンダランドには南下しなかったと想定される。スンダランドで河川漁労を行ったと推測されるY-Hに、Y-Dが混入しているという報告がないからだ。

同時期に東南アジアに達したY-Fには、彼らと共生する文化はなかった上に、温暖な低地に定着してしまったから、高地にいたmt-Rと接触する機会もなく、海洋進出が達成できない状態で後氷期を迎えると、海面上昇によってY-D民族は大陸と島嶼に分断された。孤島に取り残された集団はY-D遺伝子を遺したが、大陸に残った民族は環境適応力を失い、Y-Fの子孫との生存競争に敗退し、Y-C1と同様に消滅したと想定される。原日本人の様に海洋漁民化に成功すれば、インドネシアなどに進出する事も出来ただろうが、巨大な湖沼群が海岸にあったこと以外には、原日本人が経験した多様な事情はなかった事が、この様な結果を導いたと考えられる。

現在のアンダマン諸島の先住民の、ミトコンドリア遺伝子はmt-M系だから、彼らの祖先は5万年前にアフリカを出て、Y-Fmt-Mペアと同じ経路でインド洋を周回した際に、ペアをmt-L3からmt-Mに変えた可能性を示唆しているが、アフリカ時代に浸潤したmt-Mと共に紅海を越え、インド洋を周回した可能性もある。5万年前の東アフリカでは、mt-Mが卓越していたと想定されるからだ。湖沼漁民は狩猟民族より定着性が高く、湿潤な地域を好んだから、mt-Rの拡散先としてはY-Fより適切な民族だった筈だが、その様なY-Dmt-Rが拡散しなかった事から、5万年前のmt-Rの分布は、冷涼な高地に偏在していた事を示唆し、Y-FY-C1の想定ヒストリーと整合する。つまりY-C1は冷涼な気候を好む狩猟民族だったから、東南アジアでも比較的冷涼な高原地帯にいたが、Y-Dは河川・湖沼漁労の適地を求めていたから、インド洋沿岸の低地を進んでアンダマン海の湖沼に到着したから、mt-RY-Dに浸潤する機会を得なかったと想定される。

現在のアンダマン諸島には湖もないから、島に残ったY-Dは海面上昇期に湖沼漁労を放棄し、狩猟民族に転化する事によって人口が急減し、辛うじて子孫を繋いで現在に至っていると推測される。

 

2-4 ナイルの河川漁民の痕跡

43万年前に東欧は寒冷化し、河川漁民は生息できない環境になった。現代の地中海沿岸にY-Dが存在しない事は、この地域で漁労をしていたY-Dはアフリカを含め、子孫が絶えた事になる。欧州は氷期の最寒冷期に永久凍土に覆われたから、漁労民族の生存は論外だったが、アフリカでも絶えた事は、Y-DY-Eに対して少数派だった事を示唆し、Y-D3か所に拡散した事は、アフリカから追い出される事情があった事を示唆している。人口過剰問題だったとすると、アフリカではこの時期までに狩猟民族と併存する河川漁労文化が生れ、人口が急増して余剰人口が生れたから、劣性だった部族がアフリカを出た事になる。

氷期の温暖期が2万年前に始まり、サハラが砂漠化して北アフリカやアラビア海北岸は厳しい乾燥状態になったから、河川漁民はナイルの上流域に籠らざるを得なくなり、漁民人口が激減したと想定されるから、アフリカに残ったY-Dはこの時期に絶えた疑いもある。後氷期の温暖化が始まった15千年前には更に乾燥化したから、漁民人口は更に減少しただろう。

13千年前に始まったヤンガードリアス期の寒冷化は、ナイルの流域に多量の降雨をもたらし、再び河川漁民が増加したと想定される。12千年前にヤンガードリアス期が終わると、インド洋の温暖化が始まってサハラが湿潤化し、中央アジアも11千年前に湿潤化したから、12千年~11千年前に北アフリカ~中央アジアに降雨期が到来した事になる。

トルコ南東部にあるギョベクリ・テペ遺跡は、11600年~1万年前の遺跡だから、この地域の湿潤化と共に生まれた事を示している。アナトリア半島は日本列島と同様に地殻変動が激しい造山帯だから、久々の降雨によって多数の湖沼が生まれた筈だから、ギョベクリ・テペはその様な湖の湖岸に形成された湖沼漁民の集落だったと考えられる。西ユーラシア北部にはまだ厚い氷床が残り、北アメリカには温暖化の兆しがなかったから、西ユーラシアの高緯度地域は寒冷な気候が続いていたが、アナトリア半島南部はアフリカ系漁労民族が進出できる地域になった。冷涼な気候は漁獲の腐敗を遅くするから、アフリカ系の湖沼漁民にとっては、最も漁労に適した地域になったと推測される。

ギョベクリ・テペ遺跡では、6メートル以上の巨大な石柱が円を描くように並べられ、その重さは各々20トンもあり、基盤岩に穿たれた穴に嵌め込まれている。物理探査によって石柱の円が20列確認され、石柱の総数は200本以上ある。この遺跡を作った人達は狩猟者だったと誤解している人もいるが、縄張りを持っていた狩猟民族が多数集まって暮らしていたとは考え難いから、ナイルから北上した漁労民族の集落だったと考えるべきだろう。現在のアナトリア高原は極めて乾燥して砂漠化しているが、ヤンガードリアス期が終わった直後には、温暖化途上のインド洋と寒冷な西ユーラシア北部の気候が接する、サハラやエジプトより湿潤な地域だったと推測される。湖沼漁労に必要な降雨量は、蒸発量と地中への浸透量を上回りさえすれば良いのだから、多量の降雨は必要なかったが以下に示す理由により、降雨量は多かったと想定される。降雨量が多ければ湖の富栄養化が進み、多くの魚が生息していただろう。

ナイル上流からこの遺跡があったアナトリアへの移動経路として、ナイル川下流域にこの遺跡以前の漁民集落があったとしても、氷期の低い海面に見合った深い河谷に作られた筈だから、現在は100メートル近い厚さの土砂に覆われ、発掘される見込みはない。この時期に降り出した雨が、造山帯の標高が高い地域に大きな湖を形成し、その湖岸に作られた遺跡が発見されたと考えられるが、湖には寿命があるから、1万年前に湖が縮小すると集落は放棄されたと考えられる。

この遺跡が消滅した1万年前は、インド洋が湿潤化した時期である事も、この集落が湖沼漁民のものだったとの推測の根拠になる。激しい降雨が続くと湖の出口が侵食され、湖の水位が低下し始めるが、湖面の標高が失われて湖面積が縮小すると、湖の容量が失われて降雨による水位の増減が大きくなり、流出河川の浸食が激しくなって湖は急速に縮小するからだ。それによって漁労が不可能になったから、遺跡が放棄されたと考えると、インド洋が湿潤化した1万年前に遺跡が断絶した事は、環境変化の流れと整合する。

子の漁民が石材加工の技術に優れていた事は、木材加工の技術は高くなかった事を示唆し、後世のエジプトに巨石文化が生れた事と併せて考えると、この地域の漁労民族の船は貧弱なものだったと想定され、この地域に海洋文化が生れなかった事情を示唆している。

2000年ほど時代が降った遺跡として、チャタル・ヒュユク遺跡が発見されている事は、一つの湖が消滅しても、彼らの文明は消滅しなかった事を示している。この8850年~8300年前の遺跡は、高原の湖に浮かぶ島に立地していたと推測され、人口が密集していた集落には高度に装飾された居住空間がある。煉瓦で作られた住居に漆喰が使われ、依然として木材の加工技術が進化していなかった事を示唆しているが、住居址は狩猟民族的な遺物で埋められ、次第に農耕民族化していった軌跡を示しているから、漁村は他の地域にあった可能性が高い。漁村が発掘されない事には理由があるから、発掘されない事がなかった事を示しているわけではなく、この時代に狩猟系農耕民族が集住していた事に、漁労の存在を想定するべきだろう。この遺跡から小麦や大麦の他にエンドウマメ、アーモンド、ピスタチオや果物の痕跡が、時代が下る付近の遺跡から彩文土器が発掘され、アフリカ系の土器を持った小麦栽培者が移住していた事と、大麦を栽培化したmt-Uがアフリカにも移住し、彼女達の栽培していたタルホコムギが、パン小麦を生み出した事情を示唆している。9千年前には現在の海水準に近付き、スエズは海峡になっていたから、これらの狩猟系栽培者をアフリカから連れ出す為には、漁民の船が必要だったと想定される。

この豊な遺跡の終焉も、8100年前に始まった太平洋の湿潤化に同期している様に見えるが、湖はいずれ消滅するからそれにこだわる必要はない。むしろこの様に偶然残った遺跡だけではなく、ナイル流域や他の河川流域に多数の集落が形成され、この造山帯域の湖や入り江に、広い文明圏が形成されたと考える必要がある。ナイルの上流にも湖は多数あるが、赤道直下の気候では魚が腐敗しやすい。しかしアナトリア南部の高原の冷涼な気候は、漁労民族に適切な気候環境を提供したから、新たな文明中心が生れたと解釈する必要がある。

1万年前の海面は現在より40m低く、8千年前に現在の海面まで上昇したが、多くの河谷は氷期の深さを維持していたから、そこに海水が侵入して奥深い入り江を形成していた。その様な地域にも漁労文化が拡散し、入り江の奥に集落を形成していたと推測されるが、その様な集落跡は現在厚い土砂に覆われているから、その様な集落の方が多くの人口を養っていたとしても、この地域の文化は山間の文明だった印象を与えてしまうだろう。

ギョベクリ・テペの柱に掘られた動物は害獣が多く、周囲の自然に対する畏怖が感じられるが、チャタル・ヒュユクでは牧畜を含む農耕民族的な形態に変化し、上層部(新しい時代)で母神像が発掘されているが、「4-4ヤンガードリアス期の東ユーラシア大陸」の節で示す様に、シベリアでは漁労民族と栽培民族の共生が13千年前には始まっていたから、北アフリカや小アジアではその発生が数千年遅れ、8千年前に始まった事になる。入り江の奥に河川が川洲を形成し始め、其処に栽培民族が移住し始めると、漁労文化が共生文化に変質したとすれば、自然環境の推移と同期した流れになる。

栽培者は12千年前からこの地域に拡散し、遺跡を遺してはいるが、漁労民族との共生がシベリアの狩猟・漁労民族より遅かったのは、以下の事情が起因したからだと想定される。

東ユーラシアでは後氷期になるとY-Nmt-Mペアの栽培系狩猟民族が、乾燥化した華南から湿潤なオホーツク海沿岸に北上したが、それ以上に彼らの生存適地はなく、この地で漁労民族と共生する事が最適解だったから、共生関係は順調に進展した。しかし氷期に東南アジアの西北にいた栽培民族は、レヴァントの先に栽培適地である北アフリカがあったから、北アフリカに散開してパン小麦の栽培化に成功した。1万年前には土器を製作するほどに栽培化に成功したが、海面上昇期の終末期だった1万前の中近東の海岸は、沖積平野が完全に失われた状態で、海岸は山肌を波が洗う状態だったから、栽培民族の人口は極め希薄で、漁民と共生文化を形成する集団力がなかったと想定される。シベリアの漁労民族は民族共生文化を持っていたが、北アフリカの漁労民族には元々共生文化がなかったから、共生文化の形成が遅れたと推測される。1万年前には黒海沿岸にツングース系民族が出没し始めていたから、アナトリアにいたアフリカ系漁労民族が彼らから共生文化を学び、レヴァントに共生文化が生れた可能性も高い。

以上を広い視点から考えると、メソポタミアで土器が盛んに作られる様になったのは、サハラが乾燥し始めた7千年前以降だから、この頃小麦の栽培者が北アフリカから中近東に移住した事を示唆している。小麦の栽培者にはY-IJRが多かったと想定され、この頃の欧州に多かったY-Gは穀類の栽培化に熱心ではない民族だったから、後氷期の民族拡散のルートとして、アラビア海の沿岸を周回したY-F系民族の内、Y-Gはレヴァントからアナトリアを経て冷涼な欧州に拡散したが、Y-IJRはレヴァントから湿潤化した温暖なサヘル地域に拡散したから、1万年前の中近東にいたのはY-Gで、彼らには漁民と共生文化を形成する意欲はなかったから、レヴァントの漁民はアフリカから栽培民族を呼んだのではなかろうか。小麦栽培者がレヴァントに移住した9千年前以降は、スエズは海峡になって栽培者には超えられなかったが、中近東の漁労民族が小麦栽培者をアフリカから招いたから、中近東に小麦栽培文化が拡散したのだとすれば、最初に拡散したのはその様な漁民がいた奥まった入り江の川洲だった可能性が高いが、その遺跡が発掘される事はないから、サヘルが乾燥して大量移民が発生した7千年前以降の、丘陵地の遺跡だけが発掘されている可能性がある。

海面上昇が最終局面に入ると、海水が河谷の奥深くに侵入して河幅が広がり、河川の水量が豊かになったから、チャタル・ヒュユクなどの湖畔にいた漁民は湖が消滅していく中で、海水の侵入によって川面が上昇して水量が豊かになったユーフラテス川の下流に降り、漁労を続けたと推測される。つまり形成途上のメソポタミアのデルタ地帯に進出し、小麦栽培者と共生して食糧事情が豊かになると、文明を新しい段階に引き上げたと推測される。古代シュメール文化(最古は7500年前のウバイド期/縄文海進期が始まった頃)の形成は、丁度その時期になる。デルタを流れる川は水産資源が豊富で、海洋性の波はなく、簡単な筏や船でも漁労が可能だった。

彼らが海洋漁民化したのであれば、造船技術に必要な木工技術への関心が高まり、石で神殿を作る発想は生まれなかったと考えられるから、この地域や古代エジプトで石造の神殿やピラミッドを多数生み出した事は、ギョベクリ・テペ以来の石造建造物への高い関心が継続し、海洋漁民は生まれなかった事を示唆している。シベリアの漁労民族が出没していた黒海沿岸では、西ユーラシアの青銅器文化を牽引し、北欧産の琥珀が財貨として流通したが、巨大な石造建築は生れなかったからだ。つまりエジプトやメソポタミアの巨大石造建築は、農耕民族化したY-IJRではなく、ナイルの漁民だったY-Eの価値観が生み出したものだったと推測される。漁労と石材の関連は連想し難いが、温暖な地域で安定的な漁獲を得るために河川の一部を石で囲って遊漁池として、不漁期の対策にしていた可能性もあるし、原日本人が磨製石斧で樹木を伐採し、追い込み漁の策を形成していた様に、磨製石斧を持たないナイルの漁民が石で追い込み漁の仕掛けを作っていた可能性もあり、漁民にとっては石材が重要な生産財だった可能性はあるだろう。レヴァントと北アフリカで使われているアフロ・アジア語族の言語は、漁労民族だったY-Eの言語だったとすると、話は整合するからだ。

ここまで指摘すると、Y-Hの言語だったと推測されるドラヴィダ語についても、考察する必要があるだろう。ドラヴィダ度は多数の方言に分かれ、農耕民族としての長い歴史を経ている事を示している。農耕民族化すると交易性が薄れ、狭い土地に土着して移動しなくなるからだ。従ってドラヴィダ語の範囲を確定する事が難しくなっているが、インド南部の言語はドラヴィダ系として認知されている。インド洋交易が彼らの交流を促し、言語の統一に寄与したからだと推測される。

ウィキペディアはドラヴィダ語の特徴を以下の様に指摘している。

ドラヴィダ語はフィンランド語と似て、有声閉鎖音と無声閉鎖音の間に区別がない。タミル語には、有声閉鎖音と無声閉鎖音とを区別して示す記号がない。またタミル語には、帯気閉鎖音と無気閉鎖音とを区別して示す記号もない。ドラヴィダ諸語(とりわけ、マラヤラム語、カンナダ語、そしてテルグ語)は、有声音と無声音、および帯気音と無気音のあいだで明瞭な区別を行うサンスクリット語や、その他の印欧語から非常に多数の借用語を取り込んでいる一方で、このような単語はしばしばドラヴィダ諸語の話者によって、ドラヴィダ語族の音韻に合うような調整を受けた発音をされている。

ドラヴィダ語とフィンランド語の類似性は、以下の様に説明できる。

フィンランド語はウラル語族の言語だから、ウラル語族の起源はY-C3アルタイ語族と、氷期の欧州で優勢だったY-C1の言語が混合したもの、或いはY-C1の言語そのもので、Y-C1の言語には有声閉鎖音と無声閉鎖音の間に区別がなかったから、Y-H集団に5万年前に浸潤したmt-Rの言語も、その様な言語だった可能性が指摘できる。北欧にはY-C系民族がほとんど残っていないから判断が難しいが、ウラル語族はY-C1の言語だったとすると話はスッキリする。

Y-H民族では女性の栽培の生産性が高かったから、先ずこの訛りが女性語になり、やがてY-H全体の訛りになったと考える事ができる。この女性達はY-GをスキップしてY-Hに拡散し、Y-Hをスンダランドに導いたから、極めて個性的な女性達だった事が、彼女達が自分の発音を矯正しなかった事を示唆し、上記のウィキペディアの指摘の様な単語変換が行われた事になる。Y-C1とペアだったmt-R系の女性達の1次変異中で、mt-Uだけが冷涼な気候に順応し、その他の現存している10種余りの1次変異が、全てスンダランド系である事は、元々のmt-Rはその様な女性達で、mt-Uが異色の女性だった事も示唆している。

mt-Uが拡散したY-Rにこの特徴がないのは、冷涼な地域の狩猟民族の中では女性の地位が高くなかった事の他に、Y-Rmt-UY-G民族から拡散した女性であって、Y-C1から直接拡散した女性ではなかった事も挙げられる。

これにより、ウラル語族の起源も明らかになるだけではなく、Y-F系の言語を比較的純粋な形で遺しているのはY-Rで、レヴァントではY-Eの言語に同化し、Y-Hは農耕民族化する以前にY-C1の影響を受け、農耕民族化すると方言化して多様な言語に変質した事になる。

 

2-5 原日本人の海洋文化

原日本人の海洋文化を推測する遺物として、縄文時代の丸木船様の船底材が参考になる。

日本で発掘された最古の丸木船様の船底材は7500年前のものだが、ムクノキの巨木をくり抜いて作った事は、原日本人の海洋文化だけではなく、海洋民族の起源を探る鍵にもなる。ムクノキは亜熱帯性の常緑樹だから、氷期の日本列島にはなかった樹種である事は間違いなく、それを日本列島に移植できた時期は、12千年前に始まった超温暖期以降になる。ムクノキはオーストロネシア語族の海洋民族が拡散した島に今でも現存し、マダガスカル島にもあるから、原産地はフィリッピンだった可能性が高く、植物学者のその様な指摘もある。

ムクノキが日本列島に導入されたシナリオとしては、縄文人が台湾に渡航し、その地の堅果類の栽培者だったオーストロネシア語族を海洋民族に育て、彼らがフィリッピンに至ってムクノキを探して自分達の海洋船に使い、船底材として優れている事に共感した縄文人がそれを日本列島に移植し、それが巨木に育って7500年前の船底材になった事になる。それらの個々の経緯は縄文人の活動期の項で論考するが、縄文人が台湾でオーストロネシア語族民に出会い、彼らに海洋文化を移転したのは1万~9千年前だったと推測されるから、7500年前のムクノキの巨木は日本列島で育てた第一世代か、それに近いものだった可能性が高い。従って原日本人の船底材やそれ以前の縄文人の船底材は、日本の固有種である杉か檜だった可能性が高い。船底材は海洋船には必須の素材だから、それが何時生まれたのかを議論する事は、原日本人が何時海洋漁民になったのかを議論する事に等しく、3万年以上前の神津島の黒曜石が内陸で発掘されている事は、その時点で原日本人は構造船を持っていた事を示している。

蛇紋岩の磨製石斧があれば、樹木を伐採して割裂く事が可能であり、砂岩などの石で割り裂いた粗面を磨けば、丸木船様の船底材や舷側版を形成できるだけではなく、船底材と舷側版を密着する形状に加工する事も出来た。それらをシナノキの樹皮から得た綱で締め上げれば、海洋の荒波に耐えられる構造船を作る事が出来ただろう。神津島と浦賀水道を往復する為には櫂も必要だったが、上記の素材で製作する事が出来ただろう。従って原日本人の海洋文化と海洋縄文人の海洋文化は、基本的には同じ構造の船を使い、縄文人の船はそれを発展させたものだったと想定される。

海洋縄文人が船を改良する事ができたのは、上記の様に亜熱帯性や温帯性の多彩な樹種を使い、用途に応じて最適化する事が出来た事と、縄文人が生産するアサを存分に使う事ができたからであって、革命的な出来事ではなかったと考えられるからだ。つまり超温暖期になって気候が激変すると樹木が巨木化し、大きな船底材を使える様になって船を大型化し、航行能力を高め、海洋民族化すると多様な植生を素材として使う事ができたから、船の構造を最適化できただけで、造船技術は一貫して同種の技術だった可能性が高い。

氷期の日本列島や後氷期になった直後の日本列島には、亜寒帯性の気候に絶え得る植生しかなかったが、縄文人のこの様な努力によって、植生が豊かな現在の日本列島になった事は間違いない。氷期が終わった時点で豊かな植生に恵まれていたのは、東南アジアの他にはアフリカと南アメリカ程度だったと推測されるから、これは世界の交易民族に共通の話になり、東南アジア起源の麦とコメ、南アメリカ起源のトウモロコシとジャガイモが世界の主要な穀物である事は、その様な地域の多様な植生の中から、mt-R系の女性が厳選して栽培化した結果になる。気候が温暖化すると東南アジアの栽培者がユーラシア大陸に拡散し、色々な栽培種を世界に拡散したが、彼女達が長旅の末にそれぞれの地域に持ち込んだ種は、それほど多様なものではなかったと推測されるが、海洋縄文人が交易によって入手した植生は極めて多様なものだった事を、現在の日本の豊かな自然が示している。

後氷期の海洋民族の交易は、それらの地域独特の栽培種を交換する事であり、その最先端に穀物の生産技術があったと考える必要がある。従って世界の植生に関しても、自然に拡散したものより1万年掛けて人類が持ち込んだ種の方が、圧倒的に多いと推測される。有用な栽培種の交易に伴って混入した、雑草の種も拡散した事を含めての話だが。

原日本人の子孫である海洋縄文人が、その様な交易を熱心に行ったのは、原縄文人の直接の影響を受けてその様になったのではなく、原縄文人に接した経験が影響したからだと考えられる。亜寒帯地域にいた原日本人にとって、温帯域の植生が珍しかっただけではなく、その中から有用な植生を探し出して栽培する原縄文人の文化に、驚きと憧れがあった事は間違いないからだ。

 

3、原縄文人の起源と原縄文人集団の形成

3-1 台湾平原で堅果類が栽培されていた証拠

氷期の東南アジアで栽培が始まった事を、遺伝子分布から検証したが、15千年前に九州に上陸した縄文人の主要食料は、彼らが台湾平原から持ち込んだコナラのドングリだった事を、植生の分布から検証する。此処までの説明で、原縄文人は堅果類の栽培者だったと無前提に説明したが、此処ではそれを改めて検証し、事実確認する。

ナラ類の代表的な樹種であるコナラは、朝鮮半島、中国、日本の自然林に存在し、日本では北海道中部が北限になっている。日本の固有種である杉やシナノキも、北海道中部を北限としている事は、コナラは日本列島に自然に拡散したのではなく、大陸から持ち込まれた外来種である事を示している。杉やシナノキが日本の固有種になったのは、氷期の日本列島が樺太を経由してシベリアに繋がり、朝鮮半島とは繋がっていなかったからだ。従ってそれらと気候条件が近いコナラが、大陸と同種である事は、大陸から持ち込まれた種である事になり、縄文草創期から日本列島にコナラが存在した事は、縄文人が持ち込んだ事を示している。

ヒノキも日本の固有種で、現在の北限は杉より南の東北中部だが、水月湖の花粉分析では降雨が少なかった氷期の最寒冷期に、杉を駆逐して繁殖していた事を示している。従って気温だけを比較して北限を議論しても、氷期の事情は再現できない事になるから、類似の樹種やその他の樹種を俯瞰し、総合的に判断する必要がある。

コナラ属にはコナラより耐寒性が高いミズナラがあり、山岳地や東北に多い。近縁種は北東アジアに存在するが、日本のミズナラは日本の固有種と言っても良い状態にあるから、氷期の日本列島の寒冷な気候に適応したコナラ属の一種が、ミズナラであると推測される。現在のミズナラの北限は樺太だから、ミズナラ程度に耐寒性が高い樹種であっても、少なくとも直近の氷期の温暖期に北上しても、大陸と種を共有する事はできなかった事になる。直近の氷期の最温暖期は、現在より4℃低温だったから、その頃のミズナラの北限は北海道だった事になり、大陸と種を共有できなかった事情が数値的に整合する。また氷期の朝鮮半島と九州には、陸橋が存在しなかった事を示している。つまりコナラ族に関しては、氷期の日本列島にはミズナラしかなく、コナラは生息していなかった可能性が高い。

スギやヒノキの様に、大陸に類縁がない日本の固有種があり、類縁はあるが固有種に近い樹種もある事は、最近の120万年間に繰り返された氷期と間氷期サイクルの中で、毎回全く同じ気候が繰り返されたのではなく、氷期に海面が低下して日本列島とシベリアが陸続きなった事は同じであっても、各氷期の気候は微妙に違っていた事を示している。従ってミズナラは何回か前の氷期には、寒冷な樺太を介して大陸と植生を共有する事ができたが、耐寒性が弱かったスギやヒノキはそれができなかったから、大陸に類縁がない樹種になったと考えられる。直近の氷期は過去120万年間で最大の長さだったから、東ユーラシアで最も気温が低下した氷期だった可能性が高く、それ故にミズナラの様な樹種が現存していると考えられる。

ミズナラより寒冷な気候に適応するダケカンバ、エゾマツ、トドマツは、北東アジアと植生を共有しているから、直近の氷期に樺太を経由した植生の交換があった事は間違いない。氷期の最温暖期は現在より4℃程低温になっただけである事を、ミズナラが示している事は、尾瀬の花粉事情と整合する。具体的に言えば、尾瀬の花粉は9千年前以降の温暖な気候と、氷期の最寒冷期の気温は現在より12℃低温だった事を示しているだけだが、地軸の傾きによる温度振幅は8℃だった事を示唆し、氷期メカニズムの作動に依る寒冷化は、氷期の最寒冷期には8℃だったとの算出を導くから、それがミズナラなどの樹種の気候環境の履歴と整合する事は、一連の計算が氷期の気候変動に対応している事を示している。従って原縄文人がヴェトナム~台湾~沖縄~日本列島に移住した軌跡は、この温度変化に対応していたと考える事ができる。但しこの気候は、日本列島を含む極東アジアの沿海部と島嶼の気候であって、大陸の気候を示しているのではないが、東ユーラシアの気候変動の傾向は示唆している。

以上の論考により、杉、ミズナラ、ダケカンバなどの環境履歴から、冷温帯性の植生であるナラ類は、大陸から日本列島に自然に拡散した樹種ではなく、縄文人が持ち込んだ種である事が確定する。また縄文人がコナラを栽培していなかったのであれば、縄文人が日本列島にコナラを持ち込んだ筈はなく、縄文人は九州上陸以前に堅果類を栽培していた事になる。

縄文人が樹木を栽培していた直接の証拠として、三内丸山遺跡の周囲を囲むクリ林の樹木に、栽培種に特徴的な遺伝子の斉一性が見られる事が、農学者の佐藤氏によって指摘されている。クリも縄文人が縄文前期以前に大陸から持ち込んだ事になり、縄文早期の九州の遺跡でも発見されているから、縄文早期以前に縄文人が持ち込んだ可能性が高まる。日本のクリは日本と朝鮮半島南部の固有種だから、縄文人のクリはY-O2bmt-M7aペアの栽培種だった事を示し、クリも縄文人が九州上陸時に持ち込んだ可能性が高い事になる。

堅果類を磨り潰す道具だったと考えられる石器と、アクを抜くために必要だった土器のセットが、九州では縄文草創期から存在していたから、縄文人は縄文草創期から堅果類を食べていたと考えられる事も、縄文人が堅果類を持ち込んだ事を示唆している。

他の栽培種についても検証し、九州に上陸した縄文人は各種の植生の栽培者だった事が論証できれば、堅果類も栽培していた事が確実になる。

日本列島の大麻の栽培史は古く、縄文前期の鳥浜貝塚からアサの実物が発掘されている。アサは弓を構成する必須素材だから、矢尻が発掘されれば弓があり、大麻があったと想定され、矢尻は12000年前には縄文人の道具になっていたから、アサもそれ以前に日本列島に持ち込まれ、栽培されていた事になる。

アサの栽培北限はコナラの北限とほぼ重なるから、アサも氷期の日本列島に自生していたのではなく、縄文人が持ち込んだ可能性が高い。1年生の重要な栽培種の北限は、原生種の群生地よりかなり北上する事が常だから、この確度は極めて高いと言えるだろう。つまりコナラを栽培していた縄文人が、コナラより耐寒性が低かったアサを栽培していたから、現在のコナラの北限とアサの北限が重なっている可能性が高い。

必要な栽培種の耐寒性向上の努力が為されたのは、穀類に限った事ではなかった筈だが、平安時代に作られた延喜式に依れば、アサは千葉県を中心とする関東の特産品だったから、ドングリと比較すると耐寒性の向上努力は余り為されなかった様に見える。関東より温暖な地域では、平安時代には養蚕や紙が特産品になっていたが、アサはそれを特産品とは出来ない冷涼な地方の物産だった様に見える事も、上記の一般論を証拠付け、暖温帯性地域と冷温帯性地域の境界に、原生種の北限があった事を示唆している。

稲作が青森まで北上した平安温暖期に、良質のアサの北限が関東だったとすると、いささか腑に落ちない事情に見えるが、縄文時代は平安温暖期より平均的に4℃ほど温暖だったから、縄文時代の良質のアサの北限は青森だった事になり、栽培者だった縄文人が拡散した北限までしか、耐寒性の向上努力は為されなかったし、縄文人はアサの北限までしか北上しなかった事を示しているとして、納得できるだろう。つまり縄文人も弥生人も耐寒性を高める努力は、自分の居住域内に留めたが、稲作に対してはその努力が破格的に集中したから、弥生時代~平安時代に栽培北限が逆転し、平安時代末期に奥州藤原氏が繁栄した事になり、その事情は経済活動の成熟期の項で説明する。

現在の大麻の栽培北限は、大陸では沿海州であると言われているが、それは北海道と同じ緯度だから、縄文人やアイヌが品種改良して耐寒性を高めた以上に、耐寒性が高い大麻は存在しない事を示している。言い換えると縄文人の祖先が氷期の台湾で大麻を栽培し、日本列島に持ち込んでから耐寒性を高めると、栽培北限は北海道まで北上したが、大陸では一般的な栽培種ではなかったから、それ以上耐寒性を高める努力をした人がいなかった事を示唆している。従って東アジアのアサの栽培起源者は、原縄文人だった可能性が高く、中国では麻の栽培史が縄文時代まで遡れなくても、その時期の日本にアサがなかった事にはならない。

縄文前期にアサがあった事は考古学的に確認されているから、アサも縄文人が持ち込んだ可能性が高く、縄文時代の大陸でアサが栽培されていなかった事は、アサは日本に渡来したmt-M7aの栽培種であって、大陸に残ったmt-M7aはアサを栽培していなかった事になる。アサは極めて有用な植生だったから、原日本人は漁具の重要な素材として入手に意欲的だった。大陸にはその様な需要がなかったから、栽培が普及しなかったとは考え難いから、これについては3-3-2 原縄文人はどの様な人達だったのか」の節で論考し、「縄文人の活動期」の項でも論考する。

ウルシについては揚子江流域に自然林があるが、日本列島には野生のウルシの林はないから、氷期の日本列島に自生していた可能性は皆無に近いと指摘されている。但しウルシには現在栽培されているウルシ種と、山野に自生している野ウルシがあり、栽培過程で2種に分岐した可能性が高い。また揚子江流域の自然林と記すと、暖温帯性の気候地域であると錯覚するが、華南のウルシ樹は標高が高い山間地の植生だから、誤解しない必要がある。「経済活動の成熟期」の項で検証するが、中国では縄文時代に漆を使って矢尻を固定した痕跡がなく、時代が下ると日本で漆器に使っていたウルシ樹とは異なるウルシ樹が栽培され、それが漆器の製作にも使われている。つまり日本で矢尻の固定用に縄文時代に栽培され、現在は栽培されていないから野ウルシしかない栽培種が、大陸に移植されてウルシ樹になると共に、現在の野生種にもなった疑いがある。つまり縄文時代にウルシ樹を栽培していたのは、縄文人だけだった可能性が高い。漆器は東北縄文人が開発した可能性が高いが、その理由は気候が温暖だった縄文時代のウルシ樹の南限が、平地では青森辺りだったからだと想定される。つまり温暖な華南にウルシ樹が自生している事は、山間地であっても不自然だからでもある。既に指摘した様に、縄文時代の海洋民族は植生を交易品にしていたから、植生の拡散についての判断は慎重に行う必要があり、原生種と野生種を識別する事は困難だから、野生種があるから原生地であるとの判断は慎重に行う必要がある。

福井県の鳥浜貝塚から、縄文草創期(約 12600 年前)のウルシの木が発掘され、縄文前期の遺跡から漆を塗った加工品が発掘されている事は、ウルシも堅果類と一緒に縄文人が持ち込んだ事を示唆している。但し縄文草創期のウルシが、工芸品の装飾に使う為に栽培されていたとは考えられないから、当初の用途は他にあったと想定される。ウルシを染み込ませた糸屑が発掘されているから、矢尻を矢に固定するなどの、接着剤として使っていた可能性が高い。石の矢尻は矢柄に接着剤で強固に固定する必要があった事を、「縄文人の活動期」の項で詳しく論考するので、そちらを参照して頂きたい。

縄文人が人為的に持ち込まなくても、黒潮によって自然に漂着する機会は無数にあり、日本列島は後氷期の温暖化と共に自然に、温帯性の植生に覆われたと誤解させている人がいるが、狭い朝鮮海峡が隔てただけで、氷期の日本と大陸の植生は異なっていたのだから、これは真摯な論考に対する言い掛かりに過ぎない。下記の事例は、その様な言い掛かりを否定する証拠になる。

沖縄に沢山あるアカギは成長が早く、樹高は1525mになって直系1-1.5㎝の実が生り、食用にもなる。極相林を形成するので、戦前に植樹した小笠原島では繁茂し過ぎ、在来種を駆逐する樹種として問題になっている。極相林は既に形成された森林の中の、乏しい太陽光の下でも芽吹くことが出来る、陰樹と呼ばれる樹種だけで形成された林で、一旦極相林が形成されると、太陽光が差し込まなければ成長しない陽樹は駆逐され、半永久的に陰樹に固定された樹林になる。奄美にもアカギがあるが、人為的に持ち込まれた樹種であると見做され、在来種の植物相を破壊する樹種として問題視されている。この事は沖縄本島に近い奄美でさえも、沖縄から海流に乗って種子が漂着し、樹林を形成する事は極めて難しい事を示している。従ってコナラ属やウルシは台湾平原で栽培していた縄文人が、日本列島に持ち込んだと考える必要がある。

堅果類の代表種であるコナラのドングリは、有毒のタンニンを多量に含むから、アクを抜かなければ食べられない。その様な堅果類を食料としなかった西ユーラシアでは、1.65万年前に土器が確実に存在した東アジアと比較し、極めてその出現が遅かった。西ユーラシアの主要な食糧だった麦類には毒性がなく、粉にして水で捏ねれば石に張り付けて火で炙る事ができる。縄文人も堅果類を粉にする石器は1万年以上前には持っていたが、ドングリが含んでいるアクは毒性が強く、粉にして捏ねるだけではなくアクを抜くために加熱する必要があり、その為には土器が必要だった。

堅果類は他家受粉だけで繁殖するから、栽培者が多数の幼樹から実りの豊かさや味を試して、優れた樹木を残して他を伐採する事を繰り返せば、生産性が高くアクが少ない樹種の樹林を形成する事ができる。磨製石斧があれば、樹林の周囲に生えている原生種や野生種を排除し、選ばれた樹木同士の受粉によって品種を改良する事ができる。従ってコメやアワなどの穀類とは異なり、原生種が繁茂している地域でも容易に品種改良ができる。

氷期の自然林に生えていた堅果類は、虫に食われない防御機構として強いアクを含んでいたから、その時代の堅果類の栽培者にとって最も難しい命題は、ドングリからアクを抜く手法の確立だったと考えられる。穀類を栽培化した女性達は品種改良と栽培地の選定に苦労したが、それとは大きく異なる栽培化過程だった。氷期の大陸でmt-M系の最南端に分布していたmt-M7は、mt-R系の女性と接する機会があり、イネ科植物の栽培技能はmt-Rに及ばない事を自覚していたから、起死回生の技能として土器を発明し、そのハンディを克服したと推測される。石器時代には異色の植物利用手法だったが、植物性のデンプンの生産者としては最も生産性が高い技術を確立した。厳密にいえば栽培系狩猟民族としては、最も生産性が高い栽培技術を得たが、毒性があって味覚が劣悪だから食料の過半を堅果類に頼る事が出来ず、農業化の対象にはなり得なかった。

mt-M7より北にいたmt-Mが栽培化したのは、mt-Rが栽培化したのと同じイネ科植物だったが、生産性が高い亜熱帯性の植生ではなく、生産性が劣る温帯性のイネ科植物だった。彼女達はmt-Rと直接接する事がなく、mt-Rに浸潤される恐れがなかったから、その様な選択が許された上に、冷涼な気候は肉類の腐敗を遅らせたから、南の狩猟栽培民族ほど植物性の食料に依存しなかった事も、他のmt-Mのその様な選択が許された理由であると考えられる。従って彼女達も基本的には土器を必要としなかったが、mt-M7と接する地域の女性達の中には、土器を使う者が生まれていた。しかし彼女達の土器の使い方は、mt-M7とは根本的に違っていた事を、1万~12千年前のアムール川流域の遺跡から出土する、使途不明の土器群が示している。その詳細は「その2 4-4 ヤンガードリアス期の東ユーラシア大陸」で説明する。

東アジアで土器が生まれたのは、ドングリを食料とする栽培者がいたからだと考えられるが、ドングリを食料としたのは縄文人だけだったと思わせる風潮が、縄文人を野蛮人だったとして貶めたい日本の史学会にあり、堅果類の栽培と土器の結び付きを合理的に説明していない。稲作民の遺跡だった浙江省の河姆渡遺跡群に、堅果類が貯蔵されていたとの報告があり、mt-M7bも堅果類の栽培者だった事を示している。つまり縄文人のmt-M7aと浙江省のmt-M7bが、共に稲作者になったmt-Bに浸潤された事は、古代人には堅果類とイネの優劣を明確に認識していた事を示している。浙江省の方が関東より温暖だったから、河姆渡遺跡は稲作者の遺跡だったと判定したい様だが、関東の稲作事情は考古学的に全く発掘されていないから、その議論するのは時期尚早になる。考古学者は自分の発掘能力の乏しさを棚に上げ、「発掘できないものはなかった事にして歴史を組み立てるべきだ」と主張するが、関東縄文人からmt-B4が複数検出されているから、自分たちの非を認める必要がある。しかし発掘能力がない事を糊塗する為に、縄文人の食生活を貶めている現状が、ドングリに対する評価にも影響している。つまり稲作技術の揺籃期には堅果類の補助が必要で、稲作がその状態から脱却できたのは弥生時代だったが、これは日本の特殊性ではなく東アジア全体の事情だった事を、理解できない状態を生んでいる。

mt-M7系であるmt-M7a(日本)mt-M7b(華南)、mt-M7c(台湾、フィッリピン、インドネシア)は、氷期には陸続きだった台湾と浙江省を北限として、堅果類を栽培していた女性達の遺伝子だった。ミトコンドリア遺伝子がこの様に明確に分かれているのは、Y遺伝子が決める民族が、彼女達が形成した樹林の周囲に集まり、母系民族が生まれていた事を示している。穀物の栽培集団では生産性が高い栽培種の選定と、その栽培技術の確立に成功した女性達が周囲に拡散し、ミトコンドリア遺伝子群を形成したが、堅果類の栽培者にはその様な動きは取れず、形成した樹林と母系家族が一体化する必要があったからだ。

但し母系民族と母系家族は、別の概念である事に注意する必要がある。樹林を中心に男性達の狩猟の縄張りが形成され、その秩序を維持する為に男性達が形成した父系の血族集団が、狩猟の縄張りを差配していたからだ。縄文人にはY-O2b1しかいなかった事は、男性達の秩序意識に基づくこの様な血族集団が、堅果類の栽培集団内に存在した事を示しているが、暖温帯性の堅果類を栽培していたmt-M7のペアには、Y-O1Y-O3までの雑多な血族集団が生れていたから、母系家族ではあっても母系民族ではなかった。話が混乱するが後世の2大稲作民族である荊と越は、これらの混沌とした状態の結果として、荊は母系民族に、越は父系民族になったと推測される。

但し上記は暖温帯性の堅果類の栽培者の話であって、原縄文人は冷温帯性の堅果類の栽培者になると父系社会を形成した。その必然性については、以下順次説明する。

現在それらの地域のmt-M7割合が低いのは、台湾・華南・東南アジアでは稲作技術を持ったmt-Bが浸潤したからだ。日本では更に複雑な浸潤があったから、その経過は縄文人の活動期の項で詳しく説明し、此処ではmt-M7の成立事情を検証する。

氷期のヴェトナムでmt-M7が暖温帯性の堅果類の栽培に成功し、人口が増えると分村しながらY-O1Y-O3を生んでいったが、やがて人口過剰状態が生れると、暖温帯性の堅果類の生産性が劣悪なヴェトナム北部~海南島に、余剰人口としてのY-O2b血族集団とmt-M7aが生れた。その小集団だったY-O2b1が海岸に縄張りを持ち、船で南下して来た北陸の原日本人と出会うと、蛇紋岩性の磨製石斧の威力を知り、冷温帯性の堅果類の栽培手法を確立した。しかしヴェトナムや海南島で得られる磨製石斧は、原日本人が持参したものだけだったから、彼らは冷温帯性の堅果類の栽培者になるために、蛇紋岩が産出する台湾付近に北上した。従って徐々に北上したのではなく、台湾を目指して北上したと想定され、それに必要な情報は北陸の原日本人から得たと想定される。

ヴェトナムにいたmt-M7は、氷期の間は暖温帯性の堅果類の栽培者であり続け、後氷期の温暖化が本格化すると暖温帯性の堅果類の栽培地を求め、mt-M7bは浙江省に北上し、mt-M7cは原縄文人が琉球岬や沖縄に北上した後の、台湾に北上した。

mt-M7bmt-M7cのペアだったY遺伝子は、北上した後もそれぞれの縄張りを維持する社会を形成し、超温暖期に沿海部を北上して来たmt-Bを取り込んだ。mt-Bにも複数の民族構成があり、台湾に北上したmt-B4mt-M7cに浸潤してmt-B4+M7cになり、一部のmt-B4は海洋民族になったが、多くのmt-B4は関東に渡来した。浙江省に北上したmt-B5mt-M7bに浸潤してmt-B5+M7bになり、太平洋が湿潤化して超温暖期が終わると、堅果類を補助食料とする稲作民族になった。どちらもmt-M7を残したから、両者をmt-B5+M7bmt-B4M7cに区分し、それぞれの民族の後継集団として追跡する事ができる。

女性達のこの様な振る舞いは、典型的な栽培系ミトコンドリア遺伝の浸潤として説明できるが、mt-M7とペアになっていたY遺伝子の活動歴は、追跡する事が極めて難しい。その様な男女の違いが生れたのは、生業としての狩猟は自然に対して受け身で、その痕跡は打製石器しかないだけではなく、縄文時代の終焉と共にその生業が廃れたのに対し、栽培は自然環境を改善する文明的な試みで、この時代の先端産業だった上に、その技術や成果が現代に引き継がれているからだ。

Y-O2bは氷期末期に、石垣島系原縄文人、沖縄系原縄文人、韓族系の堅果類の栽培者の三つの集団に分かれた。遺伝子分岐としては、大陸に残って後世の韓族系になったY-O2b系譜が主流で、沖縄系と石垣島系になったY-O2b1は、その中の特定の血族集団だった事を示している。

 

3-2  3万年前から27千年前までの、台湾平原と南西諸島の歴史

mt-M74万年前に現在のヴェトナムで、堅果類の栽培者になった。そこが暖温帯性の堅果類の原生種の、当時の北限だったからだ。彼らは氷期の温暖期の末期~寒冷期の初頭に、暖温帯性の堅果類の栽培者になったから、気候が寒冷化していく途上だった。植物性食料が徐々に生産性を落としていく状況に悩まされた結果として、ドングリを食料化する為に土器を発明した過程は、想像を逞しくすれば色々なシナリオは成り立つが、検証は出来ないから原初的な食料化が可能になった時期から、話を始める。

生産性が高い樹林を形成するために、優良な若木を残して他を除去する行為は、栽培地の雑草を除いたり間引いたりする行為の延長線上だから、その様な栽培方法を知っていた女性には、暖温帯性の堅果類の栽培は難しくなかった。暖温帯性の堅果類は陰樹だから、多少陽が当たる場所にドングリを埋め、苗木を育てる事ができるからだ。やがてそれが成樹になれば、ドングリを収穫する事が出来た。従って樹木の栽培化に長い時間は必要なく、ドングリの栽培化によって収穫量は激増し、ヴェトナムは人口の集積地になったと想定される。

暖温帯性の堅果類の代表的な品種であるカシ類は、石斧がなくても堅果類の樹林を形成する事ができる。彼らには打製石斧しかなかったと想定され、石で敲けば剥片化する石材で作った石斧は、硬い樫の木に打ち下ろすと剥片化してしまい、樹木の伐採には使えなかっただろう。打ち欠いても剥片化しない、砂岩などで石斧を作る事は可能だが、石斧に成型に手間が掛かる割には、斧としての切れ味は期待できないから、mt-M7がヴェトナムで行っていた堅果類の樹林形成は、既存の樹林の日が当たらない地面に堅果類を植え、それが成長して樹林の主要な樹木になる事を待つものだったと想定される。それ以外の幼樹をすべて抜いてしまえば、やがて堅果類の樹林になるから、不安定な栽培法ではなかったが、陰樹の幼樹は成長が遅いから、樹林の形成に時間が掛かった上に品種改良の効率が低かった。冷温帯性の堅果類は陽樹だから、日光が当たる場所でなければ幼樹が育たないから、mt-M7の栽培対象ではなかったが、陽樹は幼樹の成長が早いから、樹林の形成期間は短く品種改良も早く進展する。

mt-M7がそれに耐えて樹林の規模を拡大すると、mt-M7の人口が増えて人口圧力が高まり、生存競争に敗退して暖温帯性の堅果類の栽培地からはみ出した小集団が生れたが、彼らが冷温帯性の堅果類の栽培者になったのは、冷温帯性の堅果類の生産性が高かったからではなく、苦肉の策としての結果だった可能性が高い。

はみ出した小集団だったと考える根拠は、mt-M7bmt-M7cのペアはY-O1~O3で、mt-M7aのペアはY-O2bだけだったから、小集団だった事は間違いなく、狩猟民族間の縄張り争いが絡んでいたと想定する事に、違和感はないからだ。堅果類の樹林を形成するだけであれば、さほど広い地域は必要ないが、食料の過半は狩猟によって得る必要があったから、狩猟者の縄張りが獲得できなかったY-O2bが、mt-M7aと共に冷温帯性の堅果類の栽培者になったと推測される。

苦肉の策だったと考えるのは、冷温帯性の堅果類の方が暖温帯性の堅果類より生産性が高い現在の状態は、品種改良の結果であって原生種は逆だった可能性が高いからだ。類似した植生比較の一般的な常識として、温暖な地域の植生の方が生産性が低い状態は、自然界の摂理に反しているが、栽培の結果であれば極めて常識的だからだ。

Y-O2bは複数の血縁集団として北上したが、皆が共通のmt-M7aをペアにしていた事は、この集団の女性はヴェトナム離脱時に、mt-M7aに純化されていた事になる。つまりmt-M7aの母系家族に、多数のY-O2b血縁集団がぶら下がっていた事になり、実際には母系家族が分離して、それぞれの血縁集団とのペアを形成していた事になる。冷涼な地域にはみ出さざるを得なかった集団として、暖温帯性の堅果類の樹林の形成に難渋し、それをクリアする技能を得たmt-M7a母系集団が、ヴェトナム北部の唯一の母系集団になった事を示唆している。ミトコンドリア遺伝子の拡散法則から言えば、偶々そのペアだったY-O2b血族集団が、その地域の縄張りを差配する狩猟者になった事になる。

しかし4万年前から徐々に冷涼化していったから、ドングリの生産性は徐々に低下し、それを補うために栽培地を増やしても、全体の収穫は低下していく状態に陥っていたと想定される。

その中の小さな血族集団だったY-O2b1が、海岸に狩猟の縄張りを持っていたから、南下して来た北陸の原日本人と遭遇し、原日本人から蛇紋岩性の磨製石斧を入手し、樹林を伐採して冷温帯性の堅果類を栽培する事に成功した事から、原縄文人の祖先の北上が始まったと想定される。

Y-O2b1が更に多数の磨製石斧を要求すると、原日本人が台湾への北上を促した事から、Y-O2b1mt-M7aペアの台湾北上が実現し、台湾に自生していた冷温帯性の堅果類を栽培化する事により、安定的な生活の目途が立つと、後続の北上が続いてY-O2b1集団が成立したと想定される。

他の血族集団であるY-O2bmt-M7aペアも、それを聞き付けると冷温帯性の堅果類の栽培者になる事を目指し、冷温帯性の堅果類が繁茂している地域に北上したが、内陸の草原にバッファローやオーロックスが群れている事を知ると、海岸にいたY-O2b1とは異なる集団として、内陸の疎林地域で堅果類の栽培者になったと想定される。樹林が密集する海岸より内陸の草原の方が、狩猟の生産性は高かったからではなかろうか。疎林地域では磨製石斧を使わなくても、小さな樹林を燃やしてしまえば、そこに冷温帯性の堅果類の樹林を作る事ができただろう。

森林地帯で一年生の植生を栽培する事は、石斧がない限りできなかったが、この時代の石斧は大陸から発掘されていないので、堅果類の樹林が繁茂していた沿海部には、イネ科植物の栽培者の生存圏はなく、石器の素材がない沖積平野にも、彼らの生活圏はなかった。従ってこの地域に限定する事なく、イネ科の植物を栽培していたmt-Mは、樹木を伐採する必要がない疎林や草原にいたと想定される。つまり沿海部の樹林帯には堅果類の栽培者だけがいて、内陸の疎林や草原にはイネ科植物の栽培者がいたが、その境界部で堅果類栽培者の狩猟の縄張りと、イネ科植物の栽培者の縄張りが接していたと考えられる。

堅果類の栽培はイネ科の原生種の栽培より格段に生産性が高かったから、イネ科の原生種の栽培者には縄張り化できない、獲物の不猟期が長い地域にも、堅果類の栽培者が進出する事が出来たし、狩猟の獲物が多い地域であれば、堅果類の栽培者は人口密度を高める事が出来たから、この地域に展開していたY-Nを恐れる必要はなかったと想定される。

八重山・宮古群島と沖縄本島は、縄文時代には異なる文化圏だった上に、現在も八重山・宮古群島はY-O2b1が殆どであるのに対し、沖縄本島にはY-DY-C1Y-O3a2aが混住し、多数派はY-DであってY-O2b1ではないから、その起源は3万年前の台湾時代の、それぞれのY-O2b1mt-M7aの帰属に起因すると推測される。つまり八重山・宮古群島の原縄文人は北陸部族に属し、沖縄本島に渡った原縄文人は関東部族に属したと想定される。

その根拠を提示する為には、両部族の台湾渡航路の想定から始める必要がある。

27千年前の石垣島の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から、mt-M7の遺伝子を持つ人骨が発掘されているから、原縄文人の子孫は3万年前には、台湾に北上していたと想定される。

3万年前に遡る南西諸島の遺跡が多数発掘されているが、それらは海洋漁民になった関東の原日本人が、寒冷な気候を避けて南下した痕跡であると考えられる。しかしその様な遺跡は、関東の原日本人が台湾に南下した証拠にはなっても、関東の原日本人と原縄文人が、台湾近傍で接触した証拠にはならない。関東の原日本人は3万年以上前に、伊豆半島から50㎞沖にある神津島から、黒曜石を持ち帰る高度な海洋能力を確立していたから、その航海術を使って南西諸島に島伝いに南下遊動する事は、革新的な技術を必要とする行為ではなかったからだ。

それについて具体的に指摘すると、3万年前から氷期の最寒冷期になり、関東は現在の樺太中部の様な気候になったから、大陸の狩猟民族が季節に応じて南北遊動した様に、冬季になると避寒のために南西諸島に遊動した事は、特筆すべき事績ではない。海面が120m以上低下していた時期に沖縄から台湾に渡る最短渡航路は、沖縄から宮古島に渡るルートではなく、沖縄と陸続きなっていた久米島から琉球岬に渡り、台湾平原沿いに南下するルートだったと想定される。久米島と琉球岬は150㎞ほどの海峡によって隔てられていたから、関東の原日本人が台湾に達する為には、この海峡を越える必要があったが、その航行には陸地を確認できない区間があり、神津島と浦賀水道を往復する技術だけでは実現できなかった。つまりこの海峡を越える強い意志がなければ、安定した航路の開拓には至らなかったと想定される。

沖縄系の原縄文人にはY-C1Y-O3a2aが含まれていたが、沖縄系にしか含まれていないから、3万年前に原縄文人集団が形成された後に、沖縄系原縄文人集団に参加した少数民族で、Y-O3a2aは河川漁労者だったと推測される。

沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から、23000年前の貝殻製の釣り針が発掘され、関東の原日本人と原縄文人が接触した時期の、下限を示している。釣り針には釣り糸が必要だから、この時既に関東の原日本人が原縄文人と接触し、アサや竹を入手していた事を示しているからだ。原日本人もシナノキやオヒョウなどのロープの素材は持っていたが、それらは太い頑丈なロープには適していたが、細い紐の製作には不向きであり、釣りには竹竿も必要だから、釣り針を使って魚を得る漁法はアサと竹を栽培していた、原縄文人の文化だった可能性が高い。竹はタケノコを産し、アサはアサの実を産する重要な食料資源だったから、原縄文人が栽培していても不思議ではない植生だが、事実は確認する必要がある。アサについては既に指摘したが、縄文人が竹を栽培していたと想定する根拠もある。しかし直接の証拠ではなく話が込み入るから、縄文時代の幕開けの章で説明する。

以上の結論として、沖縄のサキタリ洞遺跡の23千年前の貝殻製の釣り針は、関東の原日本人が既に台湾の原縄文人と接触していた事を示すと共に、mt-M7aが既にアサを栽培していた事も示している。

海洋漁民だった関東の原日本人が、大陸の栽培者だった原縄文人と出会ったのは、原縄文人が台湾の海岸で生活していたからだと考えられる。石器時代の人は石材が採取できる場所に居住する必要があったから、原縄文人は台湾平原の唯一の山岳地だった台湾近傍の海岸にいた事は間違いない。氷期の最寒冷期の台湾はコナラ属が群生する冷温帯性の気候だった事になるが、現在の台南市の平均気温は24℃だから、氷期の最寒冷期に12℃低温化すれば12℃になり、現在の東北南部の気候になる。低緯度地域での気温低下は日本列島ほどではなかったとすれば、現在の関東の気候に近く、平均気温20.4℃の台北市が、現在の東北中部の様な気候地域だったかもしれない。

関東には暖温帯性の樹木(照葉樹)があり、上記の条件設定と矛盾していると感じるかもしれないが、氷期の寒冷期の気温が一定だったわけではなく、間氷期である現在より気温の変化は激しかった。この時期の栽培種の耐寒性は、現在の日本の栽培種や野生種より低かったと想定される事も考慮すれば、台湾南部にいた原縄文人が冷温帯性の植生を栽培していたとの想定が、尾瀬の花粉が示す古気候と整合する。

氷期の最寒冷期だった32万年前の気候に関し、尾瀬の花粉が示す気候と台湾平原にいた原縄文人の栽培種が一致する事を手掛かりに、この頃の台湾近辺の自然環境を推測すると、沿海部には堅果類が生育できる降雨があったが、福建省や浙江省などの海岸から300㎞~500㎞離れた内陸の岩石地帯は、乾燥して疎林や草原になっていたと想定される。その辺りにmt-Zがいて、mt-Dmt-Cmt-Gなどは現在の華南の低地で、冷温帯性のイネ科植物の、原生種を栽培していたと考えられる。但し内陸は晴天が続いて乾燥していた事は、日光を浴びて沿海部より温暖になっていた事も示唆するから、mt-Dmt-Cmt-Gなどは山東辺りまで北上していた可能性もある。

蛇紋岩が磨製石斧の素材として優れているのは、石綿様の鉱物繊維から形成された石材だから、打撃を与えても割れる事はなく、蛇紋岩系鉱物である角閃石は鉄に匹敵する硬度があるから、刃部を研磨すれば性能が良い石斧になるからだ。角閃石は蛇紋岩帯の岩石中に含まれ、探せば見つける事ができる程度の希少性がある。野尻湖で発見された磨製石斧は角閃石で作られていたと指摘されているから、原日本人は角閃石を探し、高性能の磨製石斧を作っていた。

原日本人が台湾から南下し、石器時代の栽培系狩猟民族だった原縄文人の祖先と遭遇できたのは、沖積平野の発達が貧弱で、海岸で石器が採取できる場所である事が必要条件になるから、暖温帯性の樹林の北限だったと想定される海南島か、暖温帯性の堅果類は繁茂していたと想定されるヴェトナム中部の海岸のいずれかに、原日本人の冒険者が南下した事になる。それらの地域では海面上昇と共に波が遺跡を破壊し、現在は海底になっているから考古学的には何も分からないが、北陸縄文人にmt-M9が含まれていた事からこの様な選択肢が生れるが、話は単純ではない。

mt-M9について分かっている事は、現在のネパールやチベットに多く、その他の東ユーラシアにも薄く広く拡散している事と、日本海沿岸の縄文人や弥生人の発掘遺体から、この遺伝子が複数発見されている事だけだが、大陸のソバの栽培地がmt-M9の分布とほぼ一致し、縄文晩期の北陸以北の日本海沿岸で、ソバの栽培の痕跡を示す多量の花粉が発見されている事が、mt-M9はソバの栽培者だったと想定する証拠になる。

以上をもう少し詳しく分析すると、北陸縄文人がソバ栽培していた事は確かだが、北陸縄文人は1万年前にアワ栽培者だったmt-Dを取り込んだから、アワより生産性も味覚も劣るソバの栽培者の導入は、それ以前だった可能性が高い。縄文前期の富山の小竹貝塚からmt-M9が検出され、栽培系ではmt-M7a(2個体)を凌ぐ3個体もあったから、縄文時代のソバは、アワが栽培できなかった地域の重要な栽培種だった事を示している。

ソバは栽培期間が3か月程度と短く、気候が寒冷化しても夏だけ温暖であれば栽培できるから、ヤンガードリアス期に北陸が寒冷化してコナラでさえも収穫できなかった時期に、ソバの栽培に頼った可能性が高い事を考慮すると、縄文前期の富山でmt-M7aを凌ぐ分布を示している事と、縄文晩期の富山の栽培種としてソバの花粉が多量に検出されている事がリンクし、mt-M9は石垣系の原縄文人に含まれていた事を、合理的に説明できる。

現代本土日本人にmt-M9は殆どいないが、沖縄には3%ほどいる。ソバの栽培は弥生時代以降低調になり、平安時代には穀物と見做されていなかったから、日本本土でmt-M9が絶えてしまった事と整合する。韓国人にも3%含まれ、遼寧・山東にも同程度含まれているから、の原縄文人の祖先は、Y-O2bmt-M7aだけではなくmt-M9も含んでいたと推測され、mt-M9は1万5千年前に日本に上陸したすべての縄文人に、ソバの栽培者として含まれていたと想定される。つまり原縄文人の祖先が台湾近辺に北上する前に、既にヴェトナムでmt-M9aの浸潤を受けていた事になる。

mt-M9は現在チベットやネパールなどに多く、モンゴルにも拡散しているが、氷期の寒冷期にもそこにいたと考えるのは馬鹿げているから、mt-M9の起源も東南アジアに求める必要がある。堅果類は原生種が繁茂する気候の中で品種改良を行い、生産性を高める事ができたが、ソバを含む穀類の栽培化は、原生種が繁茂していない冷涼な気候地域に、栽培者が北上する事によって初めて栽培化できる事を考慮する必要がある。

従って氷期のソバの原生種は、暖温帯性の堅果類の栽培地で栽培する品種だった事になり、冷温帯性の堅果類の栽培地は原生地より幾分冷涼だから、手を掛ければ栽培できただけではなく、ソバの栽培化が進展する地域だったと推測される。その様なソバが寒冷地の栽培種になったのは、ヤンガードリアス期の寒冷化の中で、mt-M9がソバを栽培種に仕立てる事に成功したからだと推測されるが、日本ソバと韃靼ソバは3万年以上前に栽培者が分離したから、それぞれが異なった栽培種になった。日本ソバが現在でも日本人に愛好されているのは、原縄文人が台湾に北上する事によって3万年前に栽培化が始まり、ヤンガードリアス期に栽培化された韃靼ソバより栽培化が2万年も早かったから、穀類としての完成度が高いからではなかろうか。

ネパールやチベットに北上した民族は、堅果類の栽培者が生れた4万年前に、東南アジアの山岳地を活動の場とする人々としてソバを栽培していたとすると、原縄文人に浸潤したmt-M9を擁していた部族は、山岳地が海岸に張り出していたダナンの後背地の、標高500mの山岳地で活動していたと想定すると、全ての話が整合する。

海岸にいた堅果類の栽培集団にmt-M9が浸潤しやすい位置だっただけではなく、氷期にヴェトナムの山岳地にいた民族は、後氷期前半の温暖化期には山岳地の民族として、山地を選んで北上したとすると、ラオスやミャンマーの山岳地を経てネパールに至った筈だからだ。その先のチベットに北上する事も想定内になり、諸事情が符合する。

暖温帯性の堅果類の栽培者と行動を共にしたmt-M9は、永久に栽培化の機会を失ったから、コメの栽培者だったmt-Bにとって最も浸潤しやすいミトコンドリア遺伝子になり、mt-B4+M7cmt-B5+M7bになった時点で、堅果類の栽培者から失われる遺伝子だった。沖縄にはmt-M9がいるが、関東の縄文人にはいなかった事情も、この文脈から捉える事ができるだろう。北陸にmt-M9が残っていたのは、北陸の縄文人に浸潤したアワ栽培者のmt-Dが、浸潤途上で温暖な山陰に南下してしまい、北陸にmt-M9が取り残される状態が生れたからだ。

mt-M9が浸潤したのは原縄文人の祖先ではなく、暖温帯性の堅果類を栽培していた集団だったとすると、原縄文人と原日本人が最初に遭遇したのは、海南島近辺だった可能性が高まる。mt-M9がソバの栽培者として、暖温帯性の堅果類の栽培者に浸潤した場所はヴェトナムだったとしても、其処から分岐北上した原縄文人の祖先集団は、Y遺伝子が純化された特殊集団だったから、彼らがヴェトナム中部の、岩石帯が張り出して沖積平野が発達していなかった領域の北端にいたのであれば、暖温帯性の堅果類の栽培者の居住域の緯度帯が極度に狭くなり、Y-O1Y-O3を生み出すほどの人口増加と結び付かないからだ。

つまりヴェトナム北部の人口集積地であるソンコイ川流域(ハノイ)まで、暖温帯性の堅果類の栽培者が展開していたと考えなければ、堅果類の栽培がY-O1Y-O3を生み出したとの想定に結び付かないから、氷期の気候を詳しく検証する必要がある。海南島はそれらの地域より緯度は南になるが、海岸にあった事が重要な視点になる。東アジアの氷期の冷涼な気候は、北アメリカ大陸の西岸を南下していた北太平洋亜熱帯循環が、北米大陸の冷気によって極度に冷却された事に起因し、黒潮が極度に低温化していた事に依るから、海から冷涼な風が吹き付ける海南島は、夏の気温が上がらない地域だったが、内陸のソンコイ川流域は海南島の山岳地のフェーン現象もあり、日射が確保されて比較的温暖だったと想定する必要がある。つまりソンコイ川流域から海南島の南シナ海沿岸への移住は、冷涼な沿海部への移住になったが、雨が多く冷温帯性の樹林が密生する地域への移住だったと解釈すると、上記の矛盾は解消する。

島の西側では暖温帯性の堅果類も栽培できたが、その中の小集団だったY-O2b1は、余剰人口として海南島の東側に溢れ出た血族だったとすると、彼らが原日本人から磨製石斧を入手してその威力に驚き、冷温帯性の堅果類の栽培者になる為に、蛇紋岩が産出する台湾への移住を決意した事情も、理解しやすいものになるだろう。

北陸縄文人や山陰の弥生人はmt-M9の遺体を遺し、ソバを栽培していた痕跡を遺したが、関東の縄文人からmt-M9は検出されていない。しかし沖縄にはmt-M93%ほどいるから、関東には北陸と異なる栽培事情があった事になる。北陸縄文人に浸潤してアワの栽培者になったmt-Dは、温暖な地域で生産性を高めるために、縄文前期には山陰に南下していたから、北陸に残った栽培者はmt-M9mt-M7amt-Gだった事を、縄文前期の小竹貝塚の発掘遺体が示している。関東にはmt-B4が渡来して熱帯ジャポニカを栽培化したが、mt-B4が関東に渡来したのは、海面上昇の終末期だった1万~9千年前には、海岸には沖積平野がなく、あるのは前回の間氷期形成された沖積台地だけで、武蔵野や多摩丘陵は東アジア有数の規模の沖積台地だったから、mt-B4には生産性を向上する為に他所に移住する気はなく、同じ穀類の栽培者だったmt-M9に浸潤したから、関東縄文人からmt-M9は失われたと想定される。

海南島に南下して原縄文人の祖先と接触し、磨製石斧の存在を教え、台湾でその素材になる蛇紋岩が採取できることを教えたのは、北陸の原日本人だったのか、関東の原日本人だったのか判定する事は難しい。しかし3万年前の北陸の原日本人には、石垣島に移住しなければならない切実な問題があり、北陸から台湾は常識的な航行が可能な航路で繋がっていたから、海南島に最初に南下したのは北陸の原日本人だった可能性が高い。

北陸の原日本人が海南島に達する航路は、日本海沿岸~朝鮮海峡~陸地化していた黄海沿岸~台湾平原の沿岸~海南島で、陸地の沿海部を移動するものである上に、大陸の沿岸は砂浜だったから、南下遊動し易い航路だった。関東の原日本人の南下航路は、太平洋沿岸を九州に至るまでは砂浜の沿岸だったが、南西諸島の沿岸は波が岸壁を洗う状態だったから、航行技術の高度化が必要だった。沖縄から大陸に渡る為には、久米島から150㎞離れた琉球岬に渡る必要があり、航行技術だけではなく天文知識も必要だった。台湾に原縄文人がいるとの情報があって初めて、この150㎞を渡る気になった可能性がある。

当時は宮古島と沖縄本島の間に小島があり、その位置は宮古島の北東50㎞、沖縄から170㎞だったから、沖縄から台湾に渡るには琉球岬を経由する方が距離は短く、目標を誤っても漕ぎ進めば陸や島に辿り着いたから格段に安全だった。

北陸の原日本人が石垣島に移住したのは、32万年前の氷期の最寒冷期に、日本海が氷結して海洋漁労が不可能になったからだ。その結果として石垣島を本拠地にした痕跡が、石垣島の洞穴から発掘された27千年前の、原縄文人の骨(mt-M7a)であると考えられる。海洋性がなかった原縄文人を石垣島に運んだのは、原日本人だったと想定する必要があり、死者を埋葬し続けた彼らの豊かさは、海洋漁民との共生によって得られたと考えられるからだ。

北陸の原日本人が台湾ではなく石垣島に拠点を形成した事には、明確な理由があった。海洋民族はいつの時代でも無人島に根拠地を形成し、大陸を拠点にする事はなかったからだ。大陸には雑多な狩猟民族がいたから、彼らに襲撃される事を恐れていたからだと想定される。石垣島には海洋漁民が北陸から総出で移住していたから、島に移住した原縄文人は堅果類やソバと魚を交換し、狩猟を行う必要もない状態で多数の人口を維持していたと想定される。台湾には蛇紋岩の産地があるのに、蛇紋岩が採取できない不便さに甘んじても石垣島に定住したのは、大陸には堅果類の栽培者だけではなく、Y-N系やY-O系の異民族が徘徊していたからだと推測される。

北陸の原日本人は氷期の最寒冷期(32万年前)に、部族を挙げて石垣島に移住する必要があったが、以前から冬季に南下誘導しながらその予兆を感じ、石垣島への避寒遊動を活発化させていただろう。従って冒険者が海南島にも南下した事に違和感はないが、関東の原日本人が台湾に南下する際には、南西諸島の島々を徐々に南下しても、大陸に渡る事には障害があった。一方の北陸の原日本人は、南下遊動の際には関東の原日本人の部族テリトリーになっていた、沖縄以北の南西諸島を避ける必要もあり、それ故に大陸の沿海部を南下した北陸の原日本人が、当時は一つの島になっていた八重山諸島をテリトリー化したと想定される。既に示した様に、沖縄から宮古島に渡る為には島影が見えない海を航行する必要があったから、関東の原日本人の南下遊動は北陸の原日本人より先行していたとしても、彼らの遊動路は沖縄で行き止まりになっていたと考えられるから、台湾から島伝いに渡航できる八重山や宮古は、北陸の原日本人のテリトリーになりやすい位置にあった。

縄文人の部族制には先住者のテリトリー意識が付随していたから、この時代にもそれが働き、八重山諸島が北陸の原日本人の先住テリトリーだったとすると、台湾に先に南下したのは北陸の原日本人だった事になり、彼らが海南島に先着したとの想定の証拠になる。

関東の原日本人が台湾に渡航する様になったのは、北陸の原日本人が拠点化した石垣島に原縄文人を移住させた際に、台湾での安定的な食生活によって人口が膨張していた全ての原縄文人を、石垣島に収容する事が出来なかったからである可能性が高い。その逆の事例が、縄早期に始まったシベリアの狩猟民族との弓矢交易にあり、交易対象者の人口規模が大き過ぎて手に負えなくなると、交易の一部を他部族に委ねる発想は、彼らの伝統的な価値観の範囲内だったと推測される。同時期にツングースがシベリアの広域的な河川交易者になり、地域交易はトルコ系の漁民に委ねた事も、その範疇の出来事である様に見えるから、この発想はシベリアの部族制に起源があったと推測される。

その様な申し出を受けた関東の原日本人が、沖縄と繋がっていた久米島から琉球岬に渡る航路を開拓し、台湾に残っていた原縄文人との交流を始めたと想定される。琉球岬以南では、北陸部族と関東部族の航路が重なったが、縄文時代の海洋縄文人もその様な状態を認め、航路上では他部族の湊も利用しているから、氷期にもその様な規範があったと想定される。シベリアの狩猟民族も南北遊動に際し、遊動路が交錯する事もあっただろうし、他部族の拠点を経由して更に北方や南方に移動する事もあっただろうから、シベリア的な部族秩序から逸脱したわけではなく、それもシベリア起源の部族制の一部だったと推測される。

当時の原縄文人は原日本人と価値観を共有していなかったから、彼らはシベリア起源の厳格な部族意識は持っていなかったし、原日本人には大陸を拠点化する意志はなかったから、大陸の縄張り秩序は原縄文人の規範に依っていたと考えられる。

原縄文人の祖先は3万年前頃に、北陸の原日本人の先導によって海南島から台湾南部に移住し、原縄文人集団を形成したと想定される事を起点に、彼らの北上手順を検証するが、詳細な証拠は順次後述する。

原縄文人になったのはY-O2b1で、その他のY-O2bは大陸に残り、超温暖期~太平洋が湿潤化した時期には、華北に北上していた。しかし歴史時代まで纏まった集団として残ったのは、魏志東夷伝に記された韓族だけだった。Y-O2b1は海岸で生活しながら原日本人と交流したから、沖縄に日本に渡って縄文人になったが、その他のY-O2bは当時の福建省や台湾の背面にいたから、原縄文人にはならずに大陸に残ったと考えられる。

沿海部は降雨量が多く樹林が密生していたから、狩猟の獲物はシカやイノシシの様な小型獣だったが、堅果類の生産性は高かったから、安定した食生活が得られたと想定される。気候が乾燥した内陸は疎林地域だったから、堅果類の生産性は低かったが草原にバイソンやオーロックスがいて、狩猟の生産性は高かったと推測される。多くのY-O2bは狩猟者として内陸に移住し、多数の部族を形成したが、Y-O2b1部族は海岸に留まって人口を増やしたと想定される。

人が行った事だから気紛れもあったかもしれないが、以下の様な事情が必然的な結果として生まれ、両者はそれぞれに別の特徴を持った堅果類の栽培者になり、当時の東アジアの大民族と呼べる状態になったと考えられる。

人は塩分の補給がなければ生きていけない動物だが、その理由は尿や汗で塩分を輩出してしまうからだ。従って常時一定量の塩分の補給を必要とするが、製塩や塩の流通がなかった時代には、他の手段で塩分を補給する必要があり、それが獣肉を食べる事だった。草食動物は塩分を輩出しないから、土などを食べて僅かな塩分を補給するだけで生きる事ができる。人類は雑食性の動物であると言われているが、植物は塩分を含んでいないから、石器時代の人は狩猟や漁労を生業にしなければ、生きることができなかった。

従ってドングリを多食するためには、海岸で生活して海水から塩分を補給する必要があった。海岸に定住した原縄文人は磨製石斧を使って原生林を伐採し、堅果類の樹林を形成して効率良く品種改良し、生産性が高い樹種に仕立てたと想定される。冷温帯性のドングリは生産性が高い事が指摘されているが、暖温帯性の樹種より生産性が高い事に疑問を持つ必要がある。気候が温暖な地域の植生の方が果実の生産性が高い事は、一般的な常識であるにも関わらず、日本では冷温帯性の落葉樹林の方が、ドングリの生産性が高い事が常識になっているからだ。しかしそれは原縄文人や縄文人が、冷温帯性の堅果類の生産性を改良した結果であるとすると、違和感は解消する。

暖温帯性の堅果類は樹林の下の薄暗い地面にドングリを埋め、成長が遅い幼樹の成長を待つ必要があったが、磨製石斧を持っていた原縄文人や縄文人は、陽樹である冷温帯性の堅果類のドングリを、樹木を伐採して陽当たりを良くした場所に埋め、幼樹の早い成長によって素早く品種改良を進める事が出来た。磨製石斧の威力はそれに留まらず、他家受粉する栽培種を外来花粉から守る為に、形成した堅果類の樹林の周囲に生えていた原生種や野生種を伐採し、品種改良した樹林内部で交配させる事により、品種改良を確実なものにする事ができた。冷温帯性の堅果類の代表であるコナラは、ドングリの生産性は高いがアクを抜かなければ食べられないのは、生産性を高める事に注力したからで、アクを抜かずに食べる事ができるクリやブナは、より多くの堅果類を食べるために生まれた種であると推測され、いずれも品種改良の結果生まれたと考えられる。

ドングリの生産性を高めた原縄文人は、海岸に居住する民族として人口を増やしたが、原縄文人にも複数の部族が生れ、北陸の原縄文人と共に八重山群島で共生文化を形成した石垣系部族と、台湾近傍に残って関東の原日本人と交流を続けた沖縄系部族が生れたのは、石垣島の洞窟に縄文人が埋葬された27千年より、古い時代だったと考えられる。海洋漁民と共生しなかった沖縄系部族は、動物性の食料を補充する為にY-C1Y-O3a2aを取り込んだ。

 

3-3  2万年前に氷期の温暖期になると、大陸が乾燥して栽培民族の移動が始まり、原縄文人は台湾から琉球岬に移住した。

3-3-1 原縄文人の移住

3万年前に地軸の傾きが極小になり、氷期の最寒冷期が始まったが、地軸の傾きが拡大方向の中間点を越えた2万年前に、北半球は氷期の温暖化プロセスに入った。この様な気候の遅れは、冬至になってから冬の寒冷化が厳しくなり、春分を過ぎると温暖化が際立つ事情に似ている。日本列島は沿海地域だから、沿海部の気候は尾瀬の花粉によって再現できるが、大陸内部は現在でも海洋気候より1か月早いから、日本人が感じる春分より温暖化のテンポは速い。南極の氷床は氷期の温暖期になると、急速に昇温した事を示唆している。つまり大陸内部では気候が乾燥して日射量が増える正帰還が働き始め、温暖化と乾燥化が急速に進んだ事を示唆している。サハラが2万年前に砂漠化した事が、その事情を示している。海水の温度は急速には変化しないので、沿海部の気候は急激には変化しなかったが、気候は乾燥化しただろう。石器が採取できない台湾平原には、狩猟民族の縄張りはなかったが、現在の山塊が並ぶ内陸部にいたY-N系やY-O系の栽培系狩猟民族は、乾燥化に見舞われて民族移動を余儀なくされただろう。

彼らは草原や疎林で1年生のイネ科植物などを栽培していたから、植物の栽培者としては移動が容易な民族として、気候が温暖化して乾燥化していく中で新たな生活拠点を模索する必要に迫られた。同じ気候帯の湿潤な地域に正しく移動したとすると、沿海部の岩石帯を北上した筈だが、多分実際は異なり、状況が分からない中で無秩序に生存圏を求め、テリトリーを争奪し合う闘争的な状態が生まれたと想定される。堅果類の栽培者も乾燥し難い地域を求めただろうが、生産性が高い樹林の形成には時間が掛ったから、イネ科植物の栽培者と比較すると極めて緩慢な移住にならざるを得なかった。

堅果類の栽培者の遠隔地への移住は計画的に行う必要があったから、移住に対する考え方にもイネ科の植物の栽培者とは大きな違いがあった。温帯性のイネ科植物を栽培していたmt-M民族は、後氷期の気候変動期に栽培種の適正気候を得るために、驚くほどの遠距離を移動したから、彼らには広い地域の情報を集める集団力があったと推測されるが、その様な集団力を備えていた民族だけが、後氷期の気候激変期を生き延びたとも言える。

王朝史観に毒されるとこの様な視点に盲目になり易いが、古代人は必要に迫られた結果として、現代人と同じ脳容量を持つまでに進化したのだから、現代人の様な科学技術は持っていなかった代わりに、自然現象を合理的に捉えて判断する能力は、現代人以上のものを持っていたと考えるべきだ。その様に考えると現在は発展途上地域の人々であっても、幾多の困難を合理的な判断で乗り越えて来た人々の子孫であると見做す事ができるが、王朝史観は彼らを一貫して未開の闇にあった人々であると見做すから、人種差別主義者でもある事に気付くべきだろう。

台湾に残って関東の原日本人と交流していた原縄文人も、乾燥化に伴う堅果類の生産性の低下に悩み始めただけではなく、この様な動乱の中で周辺民族の不意の闖入に脅かされる様になった。原縄文人も移住の必要性を認識し始めたが、原日本人にとっては、漁具の重要な素材になっていたアサを入手できる民族が、混乱の中で海岸から消えてしまう事は大きな損失だったから、是非とも海岸に引き留めたかった。両者が検討したのは、石器の素材に乏しい課題を克服できれば、無人地域だった沖積平野の沿海部に北上すると乾燥化が和らぐ上に、競争的な狩猟系栽培者との軋轢から免れる事ができる事だった。手付かずの広大な狩猟テリトリーも確保できる、魅力的な地域だったからだ。

台湾にいた原縄文人と関東の原日本人が、どの様な話し合いをしたのかは分からないが、磨製石斧の石材を海洋漁民が運ぶ先例は、石垣島の縄文人が既に1万年ほど継続していたから、それが参考になった事は間違いないだろう。彼らが北上した琉球岬は石材が全く採取できなかったが、台湾に行けば蛇紋岩も採取できたし、原日本人の船で沖縄に渡って石材を得る事もできた。琉球岬は沖縄より広大な狩猟テリトリーを提供し、原縄文人は陸上での移動を確保できたから、この時期に直接沖縄に渡った可能性は低い。関東の原日本人の貧弱な輸送力では、琉球岬から150㎞も離れた沖縄への大量移民は不可能だった事や、大陸では狩猟の獲物が豊富だったが、孤島だった沖縄の動物や植生は貧弱だった事が、原縄文人の移動先を琉球岬に留めたと想定されるが、それだけでは根拠が乏しい。

琉球岬を中継地として数千年過ごしたのでなければ、原縄文人が九州に移住するまでのシナリオを、合理的に描けない事が有力な証拠になる。特に篠田氏が「沖縄は最もmt-M7aの多様性に富んでいる」と指摘している事が、この想定の確かな根拠になる。

篠田氏のこの指摘は、「台湾から沖縄に多数の原縄文人が移住した」と指摘している事にもなり、その様な大集団が原日本人の船で、台湾から沖縄へ直接移住する事は、緊急避難的な移住としては困難が多過ぎたと考える事も、琉球岬に一旦移住したと考える一つの根拠になるが、篠田氏の言葉を引用する決定打ではない。しかし移動の困難さを検証する事は、重要な証拠固めになる。

台湾から大陸の沿岸を琉球岬に移動する行為と、琉球岬から沖縄に海洋を横断する行為は、全く異質の移動や航行だったから、当時の原日本人の貧弱な海上輸送力で二つを同時に実施する事は、負担が大きかった。台湾から琉球岬への輸送路は500㎞もあったが、原縄文人が歩いて移動する事も可能だったし、原縄文人の家族や物資を船に積んで沿岸を航行する場合でも、波が荒れれば接岸する事ができたが、琉球岬から沖縄に渡る場合は事情が全く異なったからだ。

久米島と沖縄本島は陸続きだった可能性が高いが、琉球岬と久米島は東シナ海によって150㎞以上隔てられていたから、その航行の際には天候を選んで一気に渡る必要があった。原日本人は女性も櫂を使っていたと推測されるが、船で海上を移動する経験に乏しかった原縄文人を、彼らの荷物と一緒に乗せて移動すれば、天候が不測の事態に至った場合の危機回避策は、女性も櫂を使うことができた状況と比較した危険度が、極度に高まったと想定される。

この課題を更に検証する前に、北陸の原日本人がこの1万年前になる3万年前に敢行した、原縄文人の石垣・西表島への移住を検証する。石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)から、27千年前~15千年前の人骨が発掘され、ミトコンドリア遺伝子はmt-M7aだから、石垣系原縄文人はこの時期に既に石垣島に移住していた。この頃の石垣島は西表島と陸続きで、東西80㎞の島だったから、現在の沖縄本島を一回り小さくした程の面積があり、ある程度の人員収容力があった。この洞穴は埋葬場所だったと考えられ、27千年前~15千年前の原縄文人は死者を山の洞穴に埋葬するほど、豊かで安定した生活を享受していた事を示している。15千年前に埋葬が途絶えたのは、海面の急上昇が始まった事に人々が危機感を抱き、温暖化した本土に渡航したからだと考えられる。

台湾から石垣・西表島まで170㎞だが、途中の与那国島まで100㎞で、与那国島から石垣・西表島までが60㎞になる。与那国島には現在の標高で231mの山があり、後氷期の降雨で山頂が削られた事を考慮すると、当時の標高は250mを越えていたと想定され、当時の海面は100m以上低かったから海抜350m以上の山だった。その先端は70㎞先の海上から見え、台湾の沿海部には1500m級の峰があるから、台湾と与那国島は目視で往来する事が可能だった。西表島には現在の標高で400m以上の峰が連なっているから、与那国島と西表島の間も目視で航行が可能になり、台湾から石垣・西表島に航行する場合には目視で最短コースを選定できた。

3万年前に石垣島に渡航した原縄文人の数は明らかではないが、3万年前に日本海が氷結すると、北陸の原日本人集団は石垣島に拠点を移さざるを得なかったから、多数の原日本人が石垣島と台湾を往復する事が可能だった。従ってその人数が数千人規模であっても、時間を掛ければ不可能ではなかった。石垣島に渡来した原縄文人は、樹林が形成できるまで原日本人の漁獲によって生活出来たし、小集団が何度か渡来して堅果類の樹林を形成した後で、徐々に渡来者の数を増やしていく事もできた。発掘人骨がその結果を示しているから、これらの過程に多少の疑念があっても、成果に疑問を持つ必要はないから深くは追及しない。

本土日本人と沖縄の人々の遺伝子分布の類似性は、本土縄文人は沖縄からの移住者が多く、石垣島系は少数派だった事を示しているが、1.52倍程度で圧倒的な差ではない。長い間孤島だった石垣島には狩猟対象になる動物が少なく、河川漁労によって豊漁が期待できる大きな川もなく、多数の原縄文人の定住は難しかった事を示唆しているが、彼らは上記の豊かさを得ていたのだから、彼らには原日本人の漁獲による厚いサポートがあり、相応の人口が本土に移住したと想定される。この計算方法は後述する。

石垣島の原縄文人の豊かさは、氷期の最寒冷期だった32万年に日本海が凍結し、海洋漁労ができなくなった北陸の原日本人が石垣島に避寒退避し、定住した事に依って得ていたと想定される。その根拠は色々な時代の事情から抽出できるので、此処では結論だけを指摘し、証拠は各時代の説明に際して適宜提示するが、腐敗しやすい魚肉を常食していた原日本人にとって、保存できる堅果類やソバは必須の補助食だったから、石垣島に移住した直後に原縄文人を島に招いたと想定される。その原縄文人の豊かさを羨んだ台湾の原縄文人が渡航を希望し、やがて島の定員である原日本人の水産物の供給限界を超えたが、台湾にはまだ多数のY-O2b1がいたので、彼らを関東の原日本人に委ねたのではなかろうか。

沖縄も石垣島もある程度の標高地域までは、サンゴ礁の残骸に覆われた絶海の孤島で、土器を作る優良な粘土が得られない上に、台湾平原の様な豊かな植生がなく、それを食料にする草食動物群や河川魚も種類が貧弱だったから、季節毎に色々な食料が得られる大陸の様な、自然の恵みの豊かさは望めなかった。それ故に台湾平原の方が、狩猟と採集を生業とする人々には相応しい場所だった。

従って原縄文人の主流は石垣島や沖縄に渡航せずに大陸で過ごし、後氷期に温暖化すると、縄張りを争う必要がない広大なエリアを提供する琉球岬に北上し、沿海部にコロニーを作って堅果類の樹林を中心に、安定した定住生活を営んだと想定される。関東の原日本人は海洋文化を向上させるためには、漁民の集住が必要であると考え、関東の原日本人が集住する場所は関東しかないと考える、部族主義的な視点を強く持っていたから、氷結しなかった東京湾や浦賀水道を捨て、無人島だった沖縄に移住する事はなかった。同じ思想を持っていた北陸の原日本人も、氷期の最寒冷期の拠点は石垣島にせざるを得なかったが、温暖化すると北陸に戻ったので、それらの状況証拠は逐次提示するが、沖縄系縄文人が自立生活を志向したのに対し、石垣島系の縄文人が豊かな生活を志向した事は、両者のその後の民族性に大きな影響を与えたと想定される。

但し沖縄系縄文人が琉球岬に移住したと考える根拠は、直接沖縄に移住したとすると、沖縄を含む現代日本人の遺伝子分布を説明できないからで、琉球岬に移住したと考える歴史的な必然性があったわけではない。その検証には地形や気候とは異質の論考を必要とするから、この節では続けて当時の地形と気候を検証し、次節と次々節に琉球岬に移住した根拠を示す。

取り敢えず以上を纏めると、沖縄系原縄文人は2万年~18千年前頃に、一旦琉球岬に移住して人口を増やしたが、17千年前頃に海面が上昇して琉球岬が消滅し始め、大陸が沖縄から徐々に離れていったので、ある程度の準備期間を経てから、大挙して沖縄に移住したと想定される。

 

沖縄を囲む海について検証する。

氷期の黒潮は沖縄の東の太平洋上を流れていたが、海面が急上昇し始めた後氷期初頭に、沖縄の西を流れる様になって現在に至っていると考えられる。それに関する定説はなく、氷期にも沖縄の西を流れていたと主張する人もいるが、その根拠は明確ではない。氷期の黒潮が沖縄の西を流れ、現在の様にトカラ海峡から流出していたのであれば、原日本人が台湾に渡航する際に平均流速5㎞の黒潮を乗り切り、九州から沖縄に渡った後再度黒潮を横切り、久米島から琉球岬に渡った事になり、高速な船がなければ実現できないから、氷期の黒潮は沖縄の東を流れていたと想定せざるを得ない。

縄文時代の九州と沖縄には共通する文化要素が多々あり、縄文時代の漁民は黒潮を横切って沖縄に渡っていた事は間違いない。氷期も縄文時代も石器時代である事は同じだったが、縄文人が原日本人より高度な造船技術を得たのは、縄文時代は温暖だったからだ。温暖化した日本列島でスギやヒノキが巨木になり、大きな船を作る事がでる様になった事が、その一つの理由になる。船は大型であるほど、多くの漕ぎ手が乗船して高速化できるからだ。縄文人が東南アジアから亜熱帯性や暖温帯性の樹木を持ち込み、栽培して船材として使う様になると、その効果が一層高まった。フィリッピン産のムクノキで船底材を作り、堅牢なカシの木で櫂や舵を作れば、氷期の原日本人より高速な操船が可能になった事は、常識的に理解できるだろう。その上に漁民が縄文人と共生すると、縄文人が色々な道具や加工品を漁民に提供したから、船の形状や付属品を工夫する事が容易になった。つまり氷期の原日本人は総てを自前で賄っていた事も、操船技術に限界があった理由として挙げられる。

その様な原日本人ではあったが、3万年以上前に伊豆半島から50㎞離れた神津島から、黒曜石を採取して使い、狩猟民に交易品として提供していたから、台湾に渡航する航行能力は、その時既に得ていたと言える。原縄文人が琉球岬に移住した2万年前は、それから更に1万年経ていたから、海洋航行能力は更に高まっていたと推測され、原縄文人と2万年前に接触していた原日本人は、3万年前の冒険的な航海者ではなく、家族で遊動する漁民団になっていたと想定される。その様な海洋漁民の動向については5章で扱い、「縄文人の活動期」の項でも詳しく説明するが、これらは遺伝子分布から読み取り可能な事情であって、単なる推測ではない。

それらを前提に150㎞離れていた琉球岬と久米島の間を、原日本人の船がどの様に往来したのか検証する。

久米島には当時の標高で600m程度の山があり、90㎞沖から山頂が見えたから、その威容が航海者に航路の目標を与えたと想定される。琉球岬に高さ30mの巨木があれば、20㎞沖からその頂点が見えたから、150㎞あった全航路の内で、何も目標物が見えない区間は40㎞ほどだった。時速5㎞で漕ぐことができても、150㎞航行するのに30時間掛かったから、琉球岬から久米島に向かう場合には、昼前に琉球岬を出て巨木と西日を目印に東に漕ぎ進み、夜は星座を見ながら東に漕ぎ進むと、夜明けと共に久米島の山頂を探す事ができた。30時間も漕ぎ続ける事は難しかっただろうし、時速5㎞で漕ぐ事もできなかったかもしれないが、黒潮が流れていなければ色々な知恵を付加する事により、可能な航法だったと想定される。彼らが実際にその様に行動した証拠として、この時代の人骨と思われる遺物が、久米島や沖縄本島から発掘されている。これらの人骨は当時の東南アジア的な形質、即ち原縄文人的な形質であると指摘されている。既に指摘した様に、現在の東南アジアから発掘される遺体は、当時の山岳地の人々の痕跡だから、Y-Fmt-Mペアのものになり、原縄文人もY-F系のY-O2b1mt-M7aのペアだったから、人種的には同一だった事になり、東南アジア的な形質が原縄文人の特徴だった。石垣島の人骨は完全に東南アジア系だった筈だが、沖縄で発見された港川人はY-C1だった可能性が高い。但しmt-M7aをペアにしていたから、東南アジア的な形質も濃厚に含んでいた可能性が高い。

この時代の海洋を航行していたのは原日本人だけだったが、航海者には星座とその運行に関する知識が不可欠だった事を、上記の例から実感できるだろう。星座に関する知識は栽培者には必要なかったから、古代の天文的な知識は海洋民族発祥であると考える必要がある。農民王朝が形成した王朝史観に拘る人には、信じられないかもしれないが、既に1万年以上海洋を航行していた原日本人が、星を見て方角を決めた事を否定する方が、非常識だと考えるべきだろう。操船に手慣れていれば闇夜でも櫂は操作できただろうから、沖に出かけて帰路に暗くなってしまった漁民は、星を頼りに船を進める事もあっただろう。

従って琉球岬と沖縄を結ぶ航路が発見された事の重要性は、その間をどの様に航行すれば良いのか分かった事ではなく、久米島から西北西に航行すれば琉球岬に至ると予測する地理認識と、東西南北を認識する方位観が生まれていた事だった。農耕文化に方位観がなかった事は、山海経の項で指摘した。

「縄文人の海洋性と石材加工」の項で示した構造船は、磨製石斧とシナノキの樹皮と砂岩があれば製作できたから、原日本人が知恵を使えばできる事だった。縄文人が使った構造船の船底材は、海面上昇が終わった直後の7500年前のものが発掘されているから、更に古い時代から作られていた事は間違いないが、海面上昇によって遺物は失われている。発掘至上主義の考古学者でも、「海底から発掘されなければ、それより古い船底材があったとは言えない」とは、恥かしくて言えないと思うのだが。

「構造船は発掘されていない」と反論する人がいるが、「縄文人の海洋性と石材加工」の項で示した構造船は、シナノキのロープで締め上げる事によって初めて構造船の形状になるから、使用する際にはその構造に仕立て、使わない時期には、バラバラの素材として保管していたとしても何の不思議もない。海上で長期間使用すればロープが緩むから、陸上で保管する場合には素材を別々に保管し、使用する直前に組み立てた可能性が高い。この様な構造船は波に揉まれるとロープが緩むから、長い航海の途上で、何度も船を組み立て直した可能性も高い。

 

3-3-2 沖縄系原縄文人はどの様な人達だったのか

本土人と沖縄人のY遺伝子分布を比較すると、O2b1O3a2aC13種の分布比率が類似し、この遺伝子分布を持った人々が沖縄から、縄文人として日本列島に渡来した事を示唆している。この結論を導き出した解析は、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(C)日本人の遺伝子分布とその由来を参照頂きたいが、その骨子は以下。

沖縄人のO2b1O3a2aC13種のY遺伝子は、本土人とほぼ同じ比率になっている。但し本土人のY-O2b1は、Y-O2b1しかなかった石垣系縄文人も含んでいるから、補正する必要がある。縄文人の活動期の項で説明するが、日本海沿岸のY-O2b1mt-M7a+M9と共に石垣島から渡来したが、縄文早期に渡来したアワ栽培者のmt-Dと共に焼畑農耕を開発すると、生産性が高まってY-O2b1mt-D+M7aペアの人口が増えたので、現在の本土人のY-O2b1の半分は、焼畑農耕者を起源とする石垣系縄文人に由来しているからだ。

Y-O2b1の沖縄系と石垣系の正確な配分比は分からないが、半々として補正すると、他の遺伝子に対する本土人の遺伝子比率は、Y-O2b1は沖縄人の0.6倍、Y-O3a2a0.6倍、Y-C10.4倍になり、狩猟系民族の比率は弥生時代以降に低下したと想定すると、本土人と沖縄人の3種の遺伝子比率は酷似している。従って沖縄系縄文人は3民族構成で、彼らはその比率を維持して日本に渡来し、上陸後もその比率を維持したと考えられる。

沖縄から九州に渡った原縄文人が3民族の混生集団だった事は、琉球岬~沖縄で構築した原縄文人の生活文化を維持する為には、その民族比が必要だった事と、九州上陸後もその生活を維持する為に、渡航者は民族比に従って選抜された事を示している。彼らが渡来してから15千年も経ているのに、沖縄と本土双方でその人口比が維持されている事は、沖縄に残留した縄文人の数が多かった事と、沖縄から日本列島に渡航した縄文人の数も、民族構成を長期間保存するのに十分な人数だった事を示している。縄文人は民族抗争による覇権を目指さず、平和に共存する文化を持っていた事も示しているが、これは栽培系狩猟民族や農耕民族にはない特徴だった。琉球岬時代に、この様な民族共生文化を形成したと想定される。

生産性が高い堅果類の樹林形成は、移住してから完成するまでに何百年も掛かるから、縄文人は沖縄から九州への遠距離移住を、計画的に実施する必要があった。先ず少数の先遣隊を派遣して堅果類の樹林を小規模に形成し、それが完成すると本格的な移民を開始し、樹林が拡大するにつれて順次増派する必要があり、全員の移民が完了するまでに長い時間が掛かった。先遣隊を含めた移住者の生活の質を維持するには、派遣隊にも後続隊にも各共生民族を適宜含ませ、それぞれの人数割合を調整する必要があった事を、遺伝子分布が示している事になる。沖縄系原縄文人の3民族はそれぞれ異なる生業を持ち、それを基底とする役割があったから、渡航者は3民族の合意の下で、組織的に選抜されたと推測される。これは沖縄系縄文人の事であって、石垣系縄文人にはこの様な構造はなかったが、両者のこの違いは縄文時代が終了するまで、部族制の下で継続した可能性が高い。縄文人も穀物栽培を取り入れると次第に農耕民族化したが、関東部族と北陸部族は非常に異なった過程を経過した。北陸から拡散した日本海系民族は、弥生時代以降身分差が激しい農耕民族的な統治制度に傾斜していったが、沖縄系縄文人を基底とする関東部族は、魏志倭人伝が示す様に階級差を極小化し、話し合いで物事を決める非農耕民族的な習俗を維持していたから、関東部族でこの遺伝子比率が維持され、現在の遺伝子分布に繋がっていると考えられる。

沖縄から九州への渡航が成功した先遣隊と、ある程度の数の後続部隊の定住が完了した段階で、航路が途絶して大半の縄文人は渡航できなかった事を、篠田氏が指摘する、「沖縄のmt-M7aは本土より多様性がある」状態が示している。

3民族の遺伝子割合が現在まで本土で維持された事は、九州に渡航した各民族の合計は、少なくとも千人単位だった事を示唆している。しかし渡航した人達より沖縄に残った人達の方が圧倒的に多かったから、「沖縄のmt-M7aは本土より多様性がある」事になり、沖縄に残った人々は少なくとも万人単位だった事になる。

沖縄の原縄文人がその様に大きな人口規模になったのは、琉球岬に定住している間に各民族の人口が増え、海面が上昇して琉球岬と沖縄が離れ始めると、時間を掛けて全員が沖縄に移住したからだと推測される。その際には沖縄への移住準備として、大陸にあった有用な植生や狩猟対象になる動物を、順次沖縄に運び込んで増殖したから、狩猟系栽培民族だった3民族が、沖縄で安定的な人口を維持したと推測される。オオカミがいない島にシカを放った事になるから、沖縄や周辺の島々に牧場的な環境が生まれ、シカなどが繁殖して多数の縄文人を養ったと想定される。牧場環境を形成する手法は、27千年前の石垣島で既に先行していた可能性が高く、沖縄系縄文時は時間を掛けて、それを計画的に再現したと想定される。伊江島の遺跡からこの頃のものと思われる、多量のシカの骨が発掘されている事が、その事情を示唆している。

この時代の沖縄の人口が万単位だったとの想定は、多過ぎると感じるかもしれないが、縄文時代に完成された堅果類栽培の、投入労働量に対するカロリーベースの生産性は、中世の農業に匹敵した可能性が高いから、不合理な数値ではない。一本の樹木からどの程度のドングリが得られるのか、堅果類の樹林で観察すれば実感できるだろう。現在の山林に生えているコナラは、野生化して生産性が低下している種だが、縄文人が栽培していた時期にはその数倍のドングリが実ったと推測される。縄文人が多数のドングリピットを作った事から分かる様に、ドングリは保存性に優れているから、不猟や不作の年があっても貯蔵の切り崩しによって乗り切る事ができた。ドングリに含まれるアクが保存剤としての役割を果たしていたから、縄文人はコナラからアクを除去する改良を行わなかったのかもしれない。

堅果類の生産性に関する歴史を紐解くと、34万年前のmt-M7が樹林の形成に成功した頃の暖温帯性の堅果類の生産性は、その時代の人々の総カロリーの1割程度を満たすものに過ぎなかったかもしれないが、アクが強い堅果類は貯蔵性に優れているから、その程度でも不猟期の食料事情を改善し、食料の安定性確保に大きな効果を挙げたと推測される。従って栽培者が貯蔵性に重点を置き過ぎた結果、穀類が登場するとその補助食料になり、農業化の波に乗れなかったと考える事もできる。

堅果類の栽培によって人口が増えると、分村する形式で新たな樹林を形成しながら、狩猟の縄張りを形成するために離れた場所に集落を増やしていったと想定されるが、石斧がない状態で、暖温帯性の樫などの堅い樹木を伐採する事は困難だったから、短期間に人口が急増する事はなかったが、山間地でも樹林が形成でるから、イネ科植物の栽培地より融通性があり、イネ科植物の栽培者より高い人口密度を維持した事は間違いない。インドにもY-Oが少なからずいる事は、氷期の堅果類の栽培者はヴェトナム西部の山嶺を超え、タイにも進出していた事を示唆している。つまり氷期の暖温帯性堅果類の栽培地は、氷期最大の人口集積地になった可能性が高い。

堅果類の樹林の形成には時間が掛かるから、後氷期の急激な温暖化やヤンガードリアス期の寒冷化は、彼らの人口を激減させた可能性が高い。またY-Oの分布が東アジアに偏り、mt-M7系遺伝子の分布が更に局在しているのは、堅果類の樹林の移動限界を示しているとも言える。

堅果類の栽培者の別の食料限界は、狩猟の獲物の限界、即ち縄張りの拡張範囲の限界だったから、その臨界点まで人口が増加したと考える事もできるが、堅果類栽培者の人口増加を抑制した要素は他にもあった。mt-M7a,b,cの移動経路は、すべて沿海部だった事がそれを示唆している。mt-M7aは臨海部にいたから、海洋漁民だった原日本人と遭遇したのであり、mt-B5に浸潤された浙江省のmt-M7bは、河姆渡遺跡などを遺した後世の越系稲作民族の母体だったと想定されるから、彼らも沿海部を北上して浙江省に至った事になる。mt-M7cは後氷期初頭に台湾に北上し、mt-B4に浸潤された後で最終的には海洋民族になったから、彼らも臨海部の民族だった。つまり塩分を含まない植物性食料を多食する様になると、海水から塩分を補給する必要があり、生産性を高めた堅果類の栽培者は、沿海部から離れる事ができなくなった。

堅果類を栽培していなかった民族として、中華世界の最大の稲作民族になった、湖北省の温帯ジャポニカの栽培民族が挙げられるが、彼らは広東辺りから内陸を北上して湖北省に至ったと推測され、北上路は沿海部ではなかったから、湖北省に到達する以前のコメは、主要者食料源ではなかった事になる。海進が進むと湖北省は内湾になり、海水塩が摂取できる状態になったから、そこで稲作が本格化したと想定される。大麦を栽培化して仰韶文化を形成した民族は、青海湖の塩を入手できたから、縄文前期温暖期に陝西省に北上した湖北省の稲作者も、その塩を入手する事により、仰韶文化の彩色土器を生み出したと考えられる。華北のアワ栽培者も内陸の栽培系狩猟民族だったが、彼らは農耕民族化した縄文中期以降に塩の入手経路を確保したから、その頃にアワの生産性が高まった事を示唆している。つまり華北のアワ栽培者の、アワの生産性の高まりによる文明化の流れは、縄文中期に曙光を迎えた事になる。

堅果類の栽培者は、穀類が栽培化される以前の氷期~後氷期に、既に移動経路が臨海部に限定されていた事は、氷期のヴェトナムでも臨海部で膨大な人口を抱えていた事に繋がる。つまり後氷期になった直後の内陸には、堅果類の栽培者の痕跡と推測される土器の出土事例が乏しく、海進途上の沿海部に限られていた事は、堅果類の栽培者の食料に占める堅果類の比率が、塩分の補給を必要とするレベルに達していた事を示している。

内陸に拡散した集団が堅果類の生産性を高め、堅果類の消費を増大させると、それが仇になって塩分の摂取量が不足した事を示唆しているから、海水から塩分を摂取する必要性に気付く機会がなければ、子孫が絶えてしまった事になる。沿海部にいたmt-M7a,b,cはそれに気付いていたから、後世に遺伝子を遺した事になる。

石器時代に内陸で活動していた狩猟民族は、獣肉に含まれる塩分によって塩分を補給していたが、その摂取量は十分なものではなかった。食塩の塩素は胃酸の主要成分で、ナトリウムは腸壁が糖やアミノ酸を吸収する際に必要な元素だから、生命力を維持するためには必須成分だが、人類は草食動物とは異なり、尿や汗と共に塩分を輩出してしまうから、塩分を常時補給し続ける必要がある。

植物性の食料は塩分を全く含まないから、草食動物は土を食べて僅かな塩分を補給し、塩分を排出せずに生命を維持しているが、人類は塩分を排出してしまうから、植物性の食料だけでは生命を維持できない。内陸の狩猟民であり続ける為には、塩分を極力輩出しない体質を獲得する必要があるが、それによって獣肉で十分な体質を得たとは言えないから、塩は古代の重要商品になった。しかし内陸に狩猟民族がいた事は、獣肉だけでも生存は可能だった事を示している。

Y-O2bmt-M7aが栽培した冷温帯性の堅果類は、栽培化によって暖温帯性の堅果類より生産性が高まり易かったから、3万年前を大きく下らない時期に、海水塩を摂取する必要がある段階に至った可能性が高い。従って2万年前に原縄文人が移住した琉球岬の人口規模は、氷期の終末期としては異常な高さになったと想定され、3民族の遺伝子割合が維持された事がそれを証明し、彼らが沖縄に移住する際に万全の対策を採った事も証明している。

堅果類の栽培者にはアク抜くための土器が必要だったが、海岸に出て海水を汲み溜めて置く容器としても、堅果類栽培者には必須の道具だった可能性が高いから、土器文化は堅果類のアクを抜く為だけに進化したのではなく、海水を汲んで内陸に運ぶためにも必要だった。健脚だった古代人にとって海岸から百キロ圏までは、堅果類の栽培地になり得たが、それより奥地は難しかったと想定される。堅果類の栽培者は世界に先駆けて、植物性のデンプンを多量に摂取した民族だから、塩を摂取する必要性の認識にはなかなか至らなかったと想定されるが、摂取カロリーの半分を堅果類に依存する為には、アク抜きを効率的に行う土器と海水を溜めて置く土器が必要だった。

この想定は、西ユーラシアで土器が普及し始めた7千年前は、エジプトの小麦栽培者がレヴァントに移住し、獣肉主体の食料から麦のデンプンを多量に摂取する食生活に、変化した時期だったとの想定と整合する。また北アフリカでは1万年前から土器が使用されていたとの指摘があり、1万年前には台湾起源の海洋民族は生まれていなかったから、小麦栽培地への土器文化の拡散は東アジアからの移転ではなかった。従って土器の発明そのものに技術的な革新性は小さく、植物性のデンプンの摂取量が増加して塩の摂取が必要になり、海岸から離れた地域で土器を必要とする様になると、土器は自然発生的に生まれた事を示唆している。つまり東南アジアから栽培者が拡散し始めたのは、後氷期が始まった2万年前だが、西に拡散した栽培者の中で最も早く農耕の生産性を高めたのは、北アフリカに拡散した人々だったと想定すると、後氷期の気候変化と整合する。

サハラは12千年前に湿潤化したから、サハラの疎林地域が磨製石斧を持たなかった栽培者に、広い麦の栽培地を与えただろう。8千年前に最も湿潤化してサハラが緑に覆われた頃に、パン小麦の栽培化が進展したのであれば、パン小麦の想定栽培化時期とも一致する。

7千年前に北アフリカが砂漠化し始めると、土器を生み出した先進的なパン小麦栽培者がナイル川流域に集まり、パン小麦の遺伝子変異の集積に拍車がかかったと推測されるから、それはエジプトの古代王朝の発生と整合する。

オリエントにいた河川漁民が船でスエズ海峡を渡り、海面上昇が終了して形成され始めた川洲にパン小麦の栽培者を招聘し、オリエントにも小麦栽培が拡散したから、7千年前から土器が使われる様になったと考えると、全てが整合する。アフリカにはY-R遺伝子やmt-U遺伝子が残っているから、彼らがパン小麦の遺伝子要素であるタルホコムギを北アフリカに持ち込んだとすれば、栽培史のミッシングリンクも明らかになるが、これは旧約聖書の記述とは相容れない不都合な事実でもある。

琉球岬の原縄文人の話に戻ると、篠田氏が指摘する「本土より沖縄の方がmt-M7aに多様性がある」状態を説明する為には、琉球岬を中心に巨大な人口の集積が実現し、その状態が沖縄に移住しても維持された事を前提にする必要があり、その具体的な論考から琉球岬の原縄文人の状況が明らかになる。

遺伝子変異の多様性の増加速度は人数と時間の積に比例するから、九州に上陸した後の縄文人に独自の遺伝子変異が生まれ、多様性は徐々に増加した。1万年前から現在までの本土縄文人の人口は、少なく見積もっても沖縄縄文人の10倍以上だったと考えられる。沖縄の現在のmt-M7a人口は35万人で、本土の900万人には遠く及ばないから、10倍では係数が小さ過ぎるが、計算の信頼性を高めるために10倍とすると、十万年で多様性が同格になるが、mt-M7aの変異が生れてから長く見積もっても5万年しか経ていないと推測されるから、この不合理を説明する為に以下の五つの推論が生れる。

その一つは、mt-M7が誕生して堅果類の栽培が始まったのは、mt-M5万年前に東南アジアに拡散した直後で、アフリカ時代に生まれていた変異が既にmt-M7aを形成し、5万年前にはクラスターになっていた可能性になる。しかし古代人の生殖寿命が現代人の半分以下で、世代交代も半分以下の時間で完了したとしても、縄文人が本土と沖縄に分かれてから15千年経過しているから、本土より沖縄の方が多様性に優る状態には至らない。つまりmt-M7aが発生した時代を繰り上げるだけでは、回答にならない。

二つ目は、栄養状態によって遺伝子変異の発生率が変わり、栄養が偏っていた旧石器時代の原縄文人は、本土で豊かな海産物を賞味した縄文人より、遺伝子変異の発生率が異常に高かった可能性になる。遺伝子変異の発生率が食生活に大きく依存する事は、現在流布している遺伝子変異の推定分枝時期は、全て無意味になるが可能性は否定できない。

三つ目は、人類が何万年かに一度多量に宇宙線を浴び、それによって遺伝子の多様性が桁違いに増加した可能性になる。mt-M7からmt-M7aが分岐した3万年前から、本土日本人のmt-M7aが分岐した15千年前にそれが起り、15千年前から現在までは一度も起きなかった事はあり得るが、この場合も、現在流布している遺伝子の推定分枝時期は全て無意味になる。

四つ目は、本土日本人の人口増加率が高く、限られた数のサンプリングでは、沖縄の多様性が本土人では薄まり、本土人のサンプリング数が不足した故の、誤解である可能性。

最後の5つ目は、遺伝子変異の抽出に特殊性があり、上記の議論そのものが無意味である可能性。遺伝子変異の抽出に際し、共通性をグルーピングできるものだけを抽出しているから、クラスター化が進んだ遺伝子だけを比較しているのであって、全ての遺伝子変異を抽出しているのではないという事。遺伝子変異を探す作業の歴史を振り返ると、この可能性が最も高いが、それであれば系統樹は適切であっても、分岐年代を推測する事は論理的に不可能になる。歴史学者は何か勘違いしているのではなかろうか。

これらの真偽は倭人の歴史を追跡する上で重要事項ではないので、これ以上は詮索しないが、いずれであっても琉球岬や沖縄の原縄文人の人口は少なくとも万単位で、15千年前に沖縄から本土に渡航した縄文人は千人単位で、沖縄に残った縄文人の方が圧倒的に多かった事は間違いない。

 

原縄文人と韓族の共通祖先であるY-O2bが、海南島から北上した後の軌跡を検証する。

原縄文人になったY-O2b1Y-O2b集団の分派だったから、後世の韓族などになったY-O2b本体は、沿海部にいたY-O2b1とは離れた地域で、独自の道を歩んだ事になる。彼らが大陸に残った事は、湿潤で樹林に覆われた沿海部より、良好な狩猟環境を提供していた草原的な内陸を好み、福建省や浙江省などの岩石地帯にいたからだと想定される。つまり堅果類の生産性を高めるより、バッファローやオーロックスなどが群れる草原で、狩猟の生産性を高める事を重視していたから、草原の中に樹林が点在している様な環境を選んで、堅果類を栽培していたと想定される。その様な場所では陽樹である冷温帯性の堅果類は、自然の樹林に火を掛けて燃やしてしまうだけで、冷温帯性の堅果類の樹林が容易に形成できたから、彼らには磨製石斧も必要なかった可能性が高い。必要があれば原縄文人の集落に出向き、収取る事も出来ただろう。

沿海部で堅果類の生産性向上に努めたY-O2b1の方が、当時の人常識では変り者だったから、原縄文人はY-O2b1に集約されたと推測される。現代日本人にY-O2bも含まれているが、これは古墳時代に帰化した韓族の遺伝子であると推測される。

2019-2020年版のISOGGInternational Society of Genetic Genealogy)の遺伝子ツリーでは、Y-O2b1はO1b2a1a1CTS713変異(47z)によって区分されるクラスター)になり、Y-O2b O1b2a1a2O1b2a1a3だけでなく、未分離のO1b2を加えたものに分類される。つまりISOGGの遺伝子ツリーも、Y-O2b1の起源はY-O2bの中の特異な小集団だった事を示している。

ウィキペディアには、O1b2が生まれたのは約28,500年前(95% CI 26,20030,900)で、O1b2a1aは約8,200年前(95% CI 6,30010,200)に誕生したと記されているが、原縄文人の祖先集団(O1b2a1a1)が誕生したのは3万年以上前だから、分岐年代は無視する必要がある。誤差が4倍もあるから、これを参照すると歴史を大きく誤る事になり、百害あって一利もない数値であると言わざるを得ない。

無前提に「無視する必要がある」と主張すると、「科学的根拠を否定している」とのそしりを受けるから、その理由を説明する必要があるだろう。以下に3つのモデルを提示し、遺伝子の分岐時期予測は、単純な確率論には馴染まない事を示す。

第一のモデルは、食料事情が厳しかった狩猟民の血族集団の場合で、その集団にX0X1X2の多様性があったとすると、食料危機に遭って人口が急減した際には(ボトルネック効果)、多数派だったX0の中の少数者だけが生き残る確率が高かったから、この様な事態が石器時代に頻発するとX0に純化され、その下位集団だけの集団になり易かった。その様な状態でX01X02が併存する時期があっても、次の食糧危機で生き残ったX01X02のいずれかしかない血族集団になったから、遺伝子分岐と言える状態は起こらなかった。ISOGGの遺伝子ツリーでは、特定の遺伝子群の頂点にある分類名に、それを特徴付ける遺伝子変異が多数ある事は、この様な歴史が繰り返された事を示している。この様な状態が繰り返されると、変異が特定個人に発生してから世代交代が進んでいない時期に、即ちX01がまだ多数になっていない時期に次の食糧危機が起きた場合には、単純な純化が発生した確率が高いから、その集団がX0からX01に変化するだけでも、長い時間が掛かったと推測される。

第二のモデルは、栽培系の女性が浸潤した集団で、元々の狩猟集団にY0Y1Y2の多様性があったとすると、そこに栽培系女性が浸潤して食料事情が安定し、人口が増えると、狩猟の生産性は低いが有望な栽培地に生存圏を拡大したから、集団は急速に分裂していった。それぞれの集団はやがてY01Y02Y03集団、Y10Y11Y12集団、Y20Y21Y22集団になり、それを繰り返している内に更に生産性が高い栽培技能を持った女性が生れると、そのミトコンドリア遺伝子がそれらの集団に浸潤し、人口が増えると共に血族集団の分裂が更に加速しただろう。その結果として、Y0Y1Y2を基幹的な遺伝子とする遺伝子グループになり、その下位分類がクラスター集団を形成する状態になった。

5万年前に東南アジアに至ったY-Fが、到着すると即座にmt-Rの浸潤を受け、この状態になったと想定されるから、遺伝子分類上の分岐が急速に進行し、現在の基幹ツリーの末端を形成するY-OY-Rに至るまでに、1万年は掛からなかったと推測される。

5万年前のmt-Rが高度な栽培技術を持っていた事と、その栽培技術がY-Fとペアになる事によって開花し、肉の腐敗を恐れてY-C1狩猟民族が避けていた、温暖湿潤なスンダランドに彼らが拡散した事が前提になるが、それは既述の歴史検証の中で指摘した様に、諸事情と整合する。

氷期に栽培が始まった事を歴史学者が認めないから、分岐時期予測の確率計算をする際に、第一のモデルの様な状態を前提としている様だが、栽培要素を加味するとクラスターの分岐速度が桁違いに早くなる事は、容易に理解できるだろう。

Y-F系の栽培系狩猟民族は、血族集団間で激しい縄張り争いを行ったから、Y-FからY-OY-Rに至る単純な遺伝子ツリーが生れたと想定され、その様な民族性も遺伝子ツリーを作成する際に、見落としてはならない観点になる。mt-Mmt-R1次分岐に多様性があるのに、Y-F系には多様性がない事が示している事は、既に指摘した。

第三のモデルはシベリアの狩猟民族で、5万年前には既に完成度が高い部族秩序を形成していた。部族制が存在した事は、個々の集団の縄張りが固定されていた事を意味するから、Z0Z1Z2を内包した集団が存在した場合、良好な食料事情に支えられてその状態を維持する事ができたが、集団の人口には上限があったから、徐々にZ01Z13Z20の様に変化してはいったが、特定遺伝子群の多様性は増加しなかった。これらの集団は隣接集団との交流に乏しく、遺伝子は容易に交換されなかったから、遺伝子の大クラスター群は発生せず、小スラスターが多数存在する状態になった。従って彼らの子孫である現代人の遺伝子変異をグループ化しても、類似例が少ない個別変異として扱う事しかできないから、遺伝子分岐のツリーは貧弱なものになった。無理にツリーを形成しても、特定グループの遺伝子変異を持つ人は多くないから、分岐時期予測は実態より酷く新しいものとして算出される。純粋な狩猟民族や漁労民族の、発生時期を誤る原因になるだろう。

従ってこの様な不確かな数値を科学的推論と称して喧伝する事は、歴史学会を混乱させるだけだから慎むべきだ。それを理解せずにウィキペディアに掲げる事は、数学に関する認識の欠如を世間に個人的に公表している事になる。

シベリアの漁労・狩猟民族については、分岐状態や分岐時期を混乱させる、更に深刻な事情があった。彼らは互いの縄張りを尊重する人達だったから、縄文晩期にシベリアが寒冷化して漁労活動が難しくなると、多数の集団が縄張り内で死滅したと想定されるからだ。Y-C3系のシベリアの漁民は、縄文時代の人口の多数派を形成していたと想定されるが、現在は共生していた栽培系民族であるトルコ系言語話者の、Y-NY-QY-RY-Oの合計より圧倒的に少ないが、トルコ系言語のルーツを形成していたシベリアの漁労民族のY-C3は、栽培系のトルコ系民族より格段に多かったと考えられる。現代日本人の最大遺伝子群である海洋漁民のY-Dは、漁労が生業の中核だった縄文時代には、人口の6070%を占めていたと想定されるが、日本より気候が寒冷なシベリアでは、その比率はもっと多かった可能性が高いからだ。従って現代のトルコ系民族の人口規模から推測すると、縄文時代には世界の最多遺伝子だった可能性が高い。しかしISOGGの遺伝子分類では、それを読み取る事は出来ないだろう。

東南アジアにいた栽培系の遺伝子も、氷期の末期には可成りの人口を擁していた筈だが、彼らについても、確率論が適用できる様な状態ではなかっただろう。その中で2大人口を擁していたのは、堅果類の栽培者のY-Oと、スンダランドの栽培系漁労者のY-Hだったと想定されるが、これもISOGGの遺伝子分類から読み取る事は難しい。

5万年前にY-Fがアフリカから東南アジアに到達し、Y-Oに分岐する間に発生した遺伝子変異は15個未満しか発見されていないから、Y-FからY-Oまでは短期間に分岐した事を示唆している。

しかしY-Oが成立するまでに生まれた変異は50個ほどあり、第一のモデルで示したボトルネックを何100回も経験し、50回以上の遺伝子遷移があった事を示唆している。mt-M7が堅果類の栽培者になるまでは、苦闘の連続だったという事だろう。しかし一旦その食生活が確立するとY-O1Y-O3が生れ、分村した集落の盛衰によって下位分岐が優勢になっていった事を示している。O1Y-O1Y-O2)には5個、O2Y-O3)には9個しかないからだが、このくらいの数になると単純な遺伝子遷移なのか、食糧危機が何度もあったのか判断するのは難しい。

ISOGGがその下位として示すO1には5個、O1b9個、O1b22個、O1b2a3個だが、O1b2a19個、O1b2a1a10個と多い。O1b2以降がY-O2bだから、豊かなO1集団の中でO1b2aまでの変異が生れた事を示唆しているが、Y-O集団と比較すると極めて規模が小さい血縁集団として、Y-O2b が海南島に入植したとすると、遺伝子変異は限定的になるから、O1b2a1aに至るまでに苦労があった事を示唆している。つまりヴェトナムから海南島に移住した際に、何度か食糧危機を迎えた事を示唆している。O1b2a1a1Y-O2b1だが、これも9個と多いのは、海南島の冷涼な東斜面に移動し、何度か食糧危機を迎えた事を示唆している。

O1b2a1a23個、O1b2a1a36個(これらはY-O2b)の変異を含み、Y-O2b1より少ないのは、Y-O2b1が台湾に北上して冷温帯性の堅果類の栽培に成功した後で、海南島の温暖な西側斜面から、狩猟の獲物が多い内陸に移住したからではなかろうか。それらの地域でY-O2bY-O2b1も人口を増やしたから、それ以降の変異数に関しては、食糧危機と遺伝子遷移の区分けは難しい。

ISOGGY-O2b1に関し、O1b2a1a1以下はO1b2a1a1a1までしか示していない。この分類作業を継続すると、少なくとも30文字程度を使わないと現代人には至らず、そのクラスター数は百万個単位になるが、その作業には意味がないからしないという事だろう。

毎年改定している事は、必要と思われる分類をしているのだが、まだすべての変異が網羅されていない事を示している。Y遺伝子の変異の古典的な分類は、多くの人が持っている共通の変異を分類し、系統樹を作成する事だったが、人の遺伝子に関する統一的な雛形ができれば、その様な作業は必要がなくなる。しかし現在もこの古典的な手法が使われているのは、共通の変異を分類する以外に、遺伝子変異を扱う手法が確立していないからではなかろうか。つまり全の遺伝子変異を発見して人類の祖先の状態を復元し、それを統一的な雛形とする状態には至っていないが、作業者にはそこまでする意思がないのではなかろうか。

分岐時期を統計的に予測するのであれば、それが完了していなければならないが、それを待たずに予測値が発表されている事は、推計学的にはあり得ない気がする。不合理な無理をするから、意味不明な分岐予測をしている様にも見えるが、数学の権威は既にこの作業を放棄している筈だから、誰が数値を公表しているのか疑問になる。怪しいデータを根拠にした主張には論拠がない事になるが、事実だと強弁する材料や、プロパガンダのネタになっている事は間違いない。嘘を重ねながら人々を机上の空論に導く行為は、早々に止めるべきだろう。

ISOGGの系統樹には信憑性があるから、3万年前に福建省や浙江省の岩石地帯に北上したY-O2bについて、それを参考にすると色々な事が判明する。但しISOGGの分類は記述が長過ぎて、個々の記号を識別する事が面倒なので、7桁目のaから下の区分で示すと、日本人に多いa1系(Y-O2b1)の下位グループとして、a1aa1ba1cがある。a1a だけがa1a1まで分類されているから、a1aY-O2b1の多数派だったと推測される沖縄系縄文人である可能性もあるが、少数派ながら人口規模では沖縄系に劣らない、石垣島系縄文人である可能性もある。日本列島内の分布が分からないから何とも言えないが、沖縄と宮古・八重山の違いを比較すれば、簡単に判明するのではなかろうか。

a1Y-O2b1)には3種の分岐があり、典型的な第二のモデルだから、食料危機に見舞われずに順調に人口を増やした事を示している。

古墳時代に韓族が帰化人として流入したから、日本人にもa1ba1cなどが含まれて話を分かり難くしているが、古い分類法であるY-O2b1Y-O2bに区分しても、ここまでの事情は十分に推測可能だから、ISOGGの分類法を採用する意義は見出せないが、以下はISOGGの分類がなければ分からない。

朝鮮半島や満州・沿海州にa2の下位グループがあり、現在の韓国人の遺伝子群でもある。a21次分岐はa2aしかなく、2次も一つしかなく、3次に至って漸く人口の増加を示唆するクラスターの併設がある。これは食料危機に見舞われ、ボトルネック効果を経験しながら生き延びた事を示唆しているが、a3ほど悲惨な状態ではない。a2の主流だったと思われる韓族については、「縄文人の活動期」「縄文文化の成熟期」の項で説明し、朝鮮半島北部を中心に満州に多く、北東ユーラシアに広く拡散しているa3については、この項の「4-4 ヤンガードリアス期の東ユーラシア大陸」で説明するが、簡単に説明すると以下になる。

a2a3は超温暖期に現在の河北省~遼寧省に北上したが、遼寧省の平坦部は8千年前の海進期に渤海に飲み込まれ、遼東半島だけが残ったから、a3は河北省や河南省北東部に、a2は遼東に分断されたと考えられる。河北省や河南省北東部のa3は、大陸に残った冷温帯性堅果類の最大栽培者集団として、裴李崗文化 (はいりこうぶんか)や磁山文化(じさんぶんか)の遺跡を各地に残したが、縄文中期に後世の殷人(龍山文化人)に征服されて四散し、或いは殷人に取り込まれて従属民になったと推測される。その結果、民族としての実体を歴史時代に残せなかった事を、a3の遺伝子分布が示している。

縄文早期の遼東は韓族の根拠地になり、a2mt-M7aペアがアワ栽培者だったmt-Dの浸潤を受け、樹林地帯のアワ栽培民族になった。遼東は縄文時代になっても気候が湿潤だったから、渤海と樹林によって殷人の進出が阻まれ、民族的な集団を維持する事が出来たから、魏志東夷伝に韓と呼ばれる民族として記録を残した。

縄文後期温暖期に稲作民が華北に北上すると、韓族祖先であるa2の一部(a2b)が、北上した稲作民と共に山西や陝西に移住し、青海湖や解池の塩を商う交易集団のアワ栽培者になった。気候が冷涼な山西や陝西では、コメの生産性が低かったから、最も優秀なアワ栽培者として、この交易集団に食糧を供給する為だった。この交易集団が縄文晩期寒冷期に、華南の稲作民の支援を得て殷王朝を倒し、周王朝を樹立した。a2bは周王朝の基幹民族の一つだったから、華北に散在していたa3遺民を、自分の拠点集落に集めたかもしれない。しかし彼らは周王朝の滅亡と共に離散してしまったが、遺伝子分は弥生温暖期に遼寧・満州・モンゴルに拡散して生き延びた事を示しているから、故郷に近い地域に集まった可能性がある。

更に言えば魏志韓伝に、秦代に長城建設の役務から逃れるために、陝西省から楽浪に移住していた民族があり、漢王朝が成立するとその一部が南下し、韓族の許可を得て辰韓に移住したと記されている。韓族がこの様な厚遇を与えたのは、この人々が自分達と同祖であると認識していていたからである疑いがある。

原縄文人ついて、ISOGGの遺伝子ツリーから言える事は以下になる。

2万年前の台湾平原にa1a2a3がいて、沿海部にいたa1が原縄文人になり、内陸にいたa2a3は栽培系の狩猟集団を形成した。超温暖期になると、a2a3は大陸の沿海部を北上したが、a2a3の遺伝子系統樹はa1より不安定な分岐を示し、a1より生存環境が厳しかった事を示唆している。従って2万年前の内陸にはa4a5もいたが、その後の大陸環境の厳しさの中で子孫が絶えた可能性が高い。下位分岐がないbの存在を示している事が、その様な事情を示しているとも言える。

Y-O2b1Y-O2bの少人数分派として沿海部にいたから、原縄文人になって安定的に人口を増やし、その一部が日本に渡来して人口を更に増やした事は、気候環境と地理的な事情を分析した結果として、このHPでは何年も前から説明していた事なので、新しい知見はないが、確信を持って原縄文人の北上ストーリーを説明できるので、以下がその纏めになる。

ヴェトナム中部以北の暖温帯性の堅果類の栽培集団の中で、北端の小集団だったY-O2bmt-M7aペアは、冷涼な気候によって生産性の劣化に苦しんでいたが、温暖な南方は先住者に占拠されていたので、海南島に移住して起死回生を図ったが、ボトルネック効果によって遺伝子が純化される様な苦境から、脱却できない状態が続いていた。しかし人口が徐々に増えていたので、その中のY-O2b1血族集団が狩猟の縄張りを確保するために、海南島の冷涼な東斜面に移住した。そこは南シナ海に面していたので、冒険的な原日本人と遭遇して磨製石斧の存在を知ると、自然林を伐採する事によって樹林を形成しやすく、冷涼な気候でも安定的な生産が期待できる、冷温帯性の堅果類に目を付け、その栽培化に成功した。樹林の規模を拡大する為に磨製石斧を多数入手する事を望み、原日本人にそれを相談すると、冷温帯性の堅果類の繁殖地である台湾で、蛇紋岩がんが産出するとの情報を得たので、氷期の寒冷期が始まって気候の寒冷化が進んでいたにも関わらず、台湾近辺に北上した。気候が湿潤で森林に覆われていた台湾には、Y-Nの狩猟の縄張りは存在しなかったと想定される。

このパイオニア集団が、苦闘の末に冷温帯性の堅果類の栽培化に道筋を付けると、それを知ったY-O2b1の後続集団が、原日本人との接触が容易な台湾の沿海部に北上し、それを知った多数のY-O2bも北上したが、Y-O2bは狩猟の生産性を重視して内陸に展開したので、特殊な血族集団だったY-O2b1と、多数派のY-O2bが生まれたと推測される。

この様な階層状態をY-Omt-M7集団にも敷衍すると、最南部で生産性が高い栽培者のポジションをY-O3が確保し、其処で発生した余剰血族集団であるY-O2がヴェトナム北部に展開し、其処で発生した余剰集団が冷涼な海南島に東進し、Y-O2bmt-M7aペアに純化されたと推測される。湖北省に北上して稲作民になった集団は、Y-O2比率が高かったと推測されるが、この階層化はその説明に役立つから、縄文人の活動期の項でも検証する。

Y-O2b本体は降雨量が多く樹木が密生していた海岸を避け、狩猟に適した福建省近辺の岩石帯に集住したが、Y-O2b1は原日本人との接触を容易にするため、海岸にあった台湾山嶺近辺に集落を形成し続けたとすれば、Y-O2b1も本音では福建省に定住したかった事になるが、これを経済的に解釈すれば、生産性が高い堅果類の栽培者に成長したY-O2b1は、海水塩を必要とする状態になったから、海岸に定住し続けた事になる。前者が原因で後者が結果だったのかもしれないが、3万年前に日本海が氷結すると、北陸の原日本人は石垣島を拠点化し、Y-O2b1との共生を始めたから、もう少し複雑な事情があった可能性が高い。

Y-O2b1mt-M7a集団の中の、一つの家族程度の小集団が、北陸の原日本人に導かれて台湾に北上し、最初の冷温帯性堅果類の栽培者になったが、その過程での食糧危機を原日本人の海産物で乗り切った可能性がある。3万年前に日本海が氷結したから、北陸の原日本人はその予兆が生れ始めた頃から、石垣島に移住し始めたと推測されるからだ。従ってこの家族は磨製石斧が採取できる台湾の沿岸で、海洋漁民から通年の食糧援助を受けた可能性がある。彼らが形成した樹林が実り始めると、その成功を聞き知った海南島のY-O2b1mt-M7aも台湾近傍に移住し始め、台湾の人口が急膨張したので、北陸の原日本人がその一部に石垣島への移住を促したとすると、話に無理がない。原日本人もドングリを補助食料にすると、植生が安定したからだ。温帯性の気候地域では海産物の腐敗が早いから、保存できる補助食料がなければ食生活が不安定化する事情は、狩猟民族より漁民の方が深刻だった可能性が高い。

従って日本海の氷結の恐怖に怯えていた北陸の原日本人は、多数の原縄文人を移住させる事に熱心になり、原縄文人の移住に伴って原日本人も北陸から移住する、一時的な特殊事情が生れたと想定される。その特殊事情は、北陸の原日本の過半が石垣島に移住すると終了したが、台湾の原縄文人が石垣島に移住した人の様子を聞くと、狩猟ができない石垣島では、原日本人が海産物を支給してくれるので、食糧事情は台湾よりかなり良いとの事なので、希望者が増え続ける状態が生れ、北陸の原日本人の手に負えなくなったから、関東の原日本人に台湾への遊動を促した可能性がある。

原縄文人との交流を原日本人に魅力的に感じさせた最大の理由は、原縄文人がアサを栽培していたからだと想定される。アサは色々な目的に応じて柔軟に漁具に活用できる、貴重な植物資源だったからだ。アサは冷温帯性の植生だから、原縄文人が台湾に北上してから発見した植生で、mt-M7aが栽培化したと想定され、関東の原日本人も台湾に南下する様になった3万年前頃に、既にアサが栽培化されていたのか疑問になるが、植生の多様性に乏しかった石垣島に移住した石垣系原縄文人の子孫である、北陸縄文人の居住地だった鳥取の縄文前期の遺跡から、アサが発掘されているから、石垣系縄文人がアサを栽培し始めたのは、大陸と陸続きで植生が豊かな台湾だったと想定される。つまり原縄文人は台湾に北上した直後に、アサを栽培し始めたと想定される。それらを含めた原縄文人の文化については、別途検証する。

アサが栽培されている事を知った関東の原日本人は、冬季に南下遊動していた沖縄から、台湾岬に渡航する航路を開拓し、Y-O2b1の入植地に殺到する様になったと想定される。冬季に南下遊動していた原日本人が台湾近辺に滞在したのは、冬季の数か月間だったとしても、原縄文人は冬季に海産物を飽食して体力を蓄える事が出来ただろう。

降雨が多く樹林の生産性が高く、十分な数の磨製石斧も製作できた台湾では、堅果類の生産性が急速に高まったと想定され、台湾に残っていた原縄文人もやがて堅果類の生産性に満足し、人口が急速に増えて分村が進んだと推測される。

九州に上陸した縄文人は高度な燻製炉を持っていた事が、遺跡の発掘から判明している。南下した原日本人から海産物を得る事が出来た冬季に、原縄文人が得た獲物は余剰になったから、それを保存する為に原縄文人が発明したものだった可能性がある。石垣島にいた原縄文人は冬季に限らず海産物が入手できたから、その様な配慮の必要はなかったから、縄文草創期や早期の燻製炉の発掘事例が九州や太平洋沿岸に偏っているとすると、この推測の確度が高まるからだ。

沖縄系の原縄文人には、Y-O2b1以外にY-O3a2aY-C1が含まれていた。暖温帯性の堅果類の栽培者はmt-M7だったと想定されるが、冷温帯性の堅果類の栽培には樹木を石斧で伐採する重労働が伴うから、Y-O2b1は狩猟と樹林形成の二つの労務を兼ねる必要があった。狩猟の生産性がそれによって低下したから、Y-O3a2aY-C1はそれを補う民族だったと想定される。彼らとの共生が進化すると、Y-O2b1は樹林の専属的な形成者になった可能性もある。縄文時代の堅果類の生産は高く、Y-O2b1の主要な生業は漁民のサポートになっていたが、栽培を始めた直後である3万年前の冷温帯性の堅果類の生産性は、縄文時代の12割程度だった可能性が高い。その上に堅果類の栽培者ではなかった、Y-O3a2aY-C1の分まで生産する為には、Y-O2b1が樹林を形成したり管理したりする労働も厳しかったと想定されるからだ。

氷期のY-O3a2aは、ヴェトナムで暖温帯性の堅果類を栽培する、mt-M7をペアとする血族集団だったと考えられる。現在の福建省にはY-O3a1c25%、Y-O3a2c20%いるが、Y-O3a2a4%未満しかいないから、Y-O3a2aも少数集団の悲哀を余儀なくされていたかもしれない。狩猟者だったY-O2b1Y-O3a2aを受け入れたのだから、Y-O3a2aの特技は河川漁労だったと推測される。沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から、23千年前の釣り針と思われる貝製品が発掘され、原日本人が釣りの技術を習得していた事を示しているが、釣りにはアサの紐や竹竿が必要だから、これは原日本人と原縄文人の文化交流の痕跡を示していると考えられるからだ。また縄文草創期の縄文人の遺跡から、丸木船をくり抜くための石器が発掘され、縄文人も漁労技術を持っていた事を示しているからだ。23千年前の釣り針は、暖温帯性の堅果類の栽培者だった筈のY-O3a2aが、氷期の最寒冷期に北上して原縄文人集団に参加した事を示している。

関東の原日本人がヴェトナムまで南下遊動し、この人達を連れて来た可能性が高い。北陸の原日本人は3万年前に、原縄文人の祖先をヴェトナムから台湾に誘導したから、23千年前の関東の原日本人も同様な事をしたとても、不思議な事ではないからだ。陸続きだったから船に乗せる必要はなく、海岸の砂浜を歩けば良かったが、途上の食料は原日本人が調達する必要があっただろう。関東の原日本人は、彼らが北上してしまう夏季にも原縄文人が漁獲を得る事ができる様に、Y-O2b1Y-O3a2aとの共生を推奨したとすれば、Y-O3a2aが氷期の最寒冷期に、暖温帯性の堅果類が栽培できない台湾に北上した理由になる。関東の原日本人の中の冒険者がヴェトナムに南下し、Y-O3a2aと丸木船の作り方や銛の使い方を技術交換し、釣り針の使い方を教えて貰ったのかもしれないが、釣りにはmt-M7aが栽培していたアサの糸が必要だから、Y-O3a2aが釣りの技術を開発したのは原縄文人との共生の成果だったと考えられる。従ってY-O3a2aは遅くとも23千年前には、台湾の原日本人集団に参加していた事になる。

原縄文人に含まれたY-C19万年前に東南アジアに入植し、優れた栽培者だったmt-Rをペアにしながら、東南アジアで生き残る事ができなかった民族だった。Y-C3が優秀な狩猟民族として、氷期のシベリアで人口を増やした事から類推すると、Y-C1も狩猟に強い拘りを持つ民族だったと想定される。mt-Rのために栽培地を確保する事より、自分が行う狩猟の適地に拘り、東南アジアで自滅した民族だったからだと推測され、現在もY-C系の農耕民族は存在しない事がこの推測を確かなものにする。現代的に言えば、極めて相性が悪い男女ペアだった。

Y-C1は弓を使う狩猟者として水鳥などを捕獲し、Y-O2b1とは獲物が異なったので、Y-O2b1は食生活を豊かにする集団として、共生に迎え入れたと推測される。Y-C1は草食動物が多い東南アジアの湿潤な気候を好んだが、肉が腐敗しやすい温暖な気候を嫌い、高原や高山地帯にいたと推測されるので、彼らは海洋漁民と接触する機会は殆どなかったが、Y-C1は弓を使って河川の河口で水鳥を捕獲する、異色の狩猟者だった事が、原日本人との接触に繋がったと推測される。

新石器時代の西ユーラシアでは投げ槍が発達し、石の矢尻の発掘事例は少ない。シベリアでも1万年前まで細石刃が使われていた事を、1万年前の道南の遺跡が示している。青森の大平山元I遺跡で発掘された矢尻は、原縄文人が16500年前に弓矢を持っていた事を示しているが、この時代の弓矢は一般的な狩猟具ではなかったと推測される。つまり弓矢を作る文化を生み出したのは極めてローカルな狩猟民族で、日本列島では12千年前の縄文人が弓矢を使っていたが、シベリアの狩猟民族は1万年前まで弓矢を使っていなかった事になり、弓矢の起源は縄文人に含まれたY-C1にあった可能性が高い。従って2万年前には東南アジアにいたY-C1が、弓矢の起源者の有力候補になる。

氷期のY-C1は、東南アジアの高原や山岳地に広く拡散していたと推測されるから、弓矢を作る文化は彼らと接触していたY-G系を介し、後氷期の西ユーラシアに広がっていても良さそうに感じるが、実態は異なっていた。その理由として、温暖期が始まった2万年前のY-C1の弓矢はまだ完成した技術ではなかったから、Y-F系民族には広がらなかったからだと考えられる。未完成の弓矢は玩具の様な威力しか発揮できず、小鳥や水鳥を射落とす程度の道具でしかなかったから、大型獣の捕獲には使えず、投げ槍ほど有効な狩猟具ではなかったからだと推測される。

その様なY-C1がアサやウルシと遭遇する事により、弓の強度を高める事に成功して強力な狩猟具になったから、原縄文人が弓矢を使う様になったと想定する事は、諸事情と整合するが、縄文人が九州に上陸した15千年前~12千年前までは、狩猟民族の遺跡から発掘される狩猟具は細石刃だった事と整合させる必要がある。つまり弓矢が有効な狩猟具として狩猟民族に認知されるためには、日本で一段の進化を遂げる必要があり、その最終要素は、黒曜石の鋭利な矢尻を採用する事だった可能性がある。石器時代の人は優れた石器の加工者ではったが、ガラス質の黒曜石から小さな矢尻を打ち欠く技術は、容易に得られなかったからだと推測されるからだ。その他の可能性として、アサの繊維強度が不十分だった可能性もある。アサが原生種の段階で、現在の様な強度を持っていたと考える事は馬鹿げているからだ。アサは3万年も栽培し続けられていた事になるが、その間の最大の品種改良項目は繊維強度の向上だった筈だ。栽培地を変えて原生種と隔離される栽培化の条件を、何度も満たしたから、時代の進展と共に繊維強度が高まった可能性は極めて高いからだ。

弓とアサの関係は、弓を見るだけで明確に分かるし、矢に装着する矢羽根は、Y-C1が自給できた。矢尻と矢柄を接着するウルシの重要性は、矢を見るだけでは分かり難いが、説明が長くなるので詳細は縄文人の活動期の項を参照。縄文人は2万年前には弓を作る必要条件を満たしていたのだから、縄文人が弓矢の開発者だった可能性は極めて高く、それはY-C1だったと事実認定しても良いだろう。縄文人はシベリアの狩猟民族に、1万年前頃から弓矢を渡し始めたと想定されるので、西ユーラシアにはシベリア経由で伝わったと推測される。シベリアが全面的に湿潤化し、東西交易が活性化した8千年前以降に、シベリア経由で西ユーラシアに伝わったと想定される。先に紹介した亜麻は、弓に使う為に黒海沿岸で栽培化された疑いもある。

以下の章で説明する様に、12千年~1万年前のアムール川流域で、mt-DGCの文化圏だった事を想定させる、土器を含む遺跡が発掘され、矢尻と見做されている石器の発掘例があるが、細石刃を伴う遺跡だからその使い方や用途が不明確であり、後氷期初頭のシベリア文化圏で弓矢が使われた可能性は低い。一方日本では12千年前から矢尻の出土例が急増し始めるから、矢尻を使い始めた時期も使用量も、日本列島が世界の先端レベルを維持し続けていた。

従って弓矢は、3民族の文化が融合した原縄文人の固有文化だった可能性が高く、その進化を支えたのは堅果類の生産性の高さに裏打ちされた人口規模と、異民族が共生する事によって生まれた文化の融合だったと考えられる。原縄文人の固有文化の代表種であるウルシは、栽培に手間が掛かるが食用には不向きな植生だから、食料に余裕がなければ生まれない技術だったが、石の矢尻を使う弓矢文化には必須の技術だった。

このHPは、イネ科植物を穀物に仕立てたmt-R系譜の女性達の、高い栽培化能力を褒めちぎっているが、mt-Rは穀類の栽培化に熱心な余り、アサやウルシの様な雑技的な栽培には関心が向かず、穀類栽培を重視する農耕至上主義的な人々だった様に見える。mt-M系の女性は穀類の栽培化に出遅れ、最高位の穀類はアワに留まったが、mt-M7aはアサやウルシを栽培化し、焼畑農耕の発明にも貢献した。

 

3-3-3 琉球岬の原縄文人コロニー

後氷期の温暖化が始まった2万年前の台湾平原とその近傍を概観すると、暖温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7のペアだったY-O1O2O3それぞれが、更に細分化された遺伝子の血族集団を形成し、ヴェトナムから広東方面への北上過程にあった。福建省や浙江省には、冷温帯性の堅果類の栽培者だったmt-M7aY-O2bペアが拡散し、その背後に栽培系狩猟民族とY-Nと雑多なmt-Mペアが、広域的に展開していたと考えられる。

暖温帯性の堅果類の栽培者の中では、現在は台湾の山岳地に多いY-O1は、打製石器の素材になる岩石が確保できる山岳地の狩猟民として展開し、超温暖期に湖北省に北上して稲作民の多数派になったY-O2aは、河川漁労が可能な谷間に展開していたと想定されるが、これらは各Y-Oの絶対的な民族性ではなく、集団が展開した地域の事情に合った多彩な狩猟文化や、河川漁労文化を発展させていたと推測される。温暖多雨な地域では湖の寿命が短いから、湖沼漁民はいなかったと推測される。

日本列島で既にシベリア系の狩猟民族と共生していた関東の原縄文人にとって、異民族との共生に違和感はなく、共生のメリットを原縄文人に推奨する立場にあったから、船で遊動する機動力を駆使して台湾から更に南下し、Y-O3a2aY-C1を見付けて原縄文人に共生する事を推奨し、2万年前には3民族の原初的な共生が実現していたと想定される。

冷温帯性のコナラは里山を形成する要領で老樹を伐採し、優良な若木を生育する必要があり、樹林を管理するには専業的な熟練を要した。樹木の伐採は重労働だったから、それはY-O2b1が担務してY-O3a2aY-C1の分も生産したと想定されるが、その作業をmt-M7aとどの様に分業したのかは明らかではない。既に縄文時代のミニチュア版だったとすれば、Y-O3a2aY-C1は漁労や狩猟に精を出し、その獲物と引き換えに堅果類を受け取っていた事になる。作業を専門的に担務すると、個々の作業の生産効率が上がるだけではなく、総合的な生産性も向上するから、原縄文人もそれに気付く事により、民族の共生関係を深めたと推測される。沖縄に移住した時点でそれが完成していた事を、沖縄人と本土人のY遺伝子比率の類似性が示している事は既に指摘した。

その様な成熟した共生関係が生れたのは琉球岬に移住してからで、台湾時代にはそれぞれの民族が、自分に相応しい生業の場に居住していたと推測される。琉球岬は揚子江が形成したデルタにあり、現在の様な豊富な水量はなかったと推測されるが、一応大河のデルタだったから、河川漁労や水鳥の捕獲が可能な場所は多数あり、堅果類の樹林を形成するに相応しい小高い地形も散在していたと推測されるが、台湾ではその様な場所は離散していたと考えられるからだ。Y-O2b1が蛇紋岩の産地である花蓮市にいて、Y-O3a2aY-C1蘭陽渓がある宜蘭県にいたとすると、両者は直線距離で80㎞離れた場所にいた事になる。

彼らの縄張り意識がどの様なものだったのか明らかではないが、それぞれが狩猟も行う民族だったすれば、互いに縄張りを設定して別々に集落を形成していた可能性もあるし、時間の経過と共に集落を隣接させ、食料を交換し合う感懐を深めていった可能性もあるが、その様な3民族が計画的に移住した琉球岬とは、異なった共生関係を構築していた可能性が高い。

Y-C1Y-O2b1から堅果類を受け取っても、アクを抜かなければ食べられなかったから、彼らが堅果類を消費するためには、mt-M7aをペアにしてその作業をして貰う必要があり、縄文人のミトコンドリア遺伝子がmt-M7aに統合された理由も、それによって説明できるが、琉球岬でその関係が成立したとしても、蘭陽渓時代にはアクを抜いた粉を受け取っていた可能性が高い。

Y-O3a2aのペアだった女性は、元々暖温帯性の堅果類の栽培者だったから、ドングリのアクを抜く事は出来たかもしれないが、最終的にmt-M7aに浸潤されたのは、mt-M7aはアクを抜く事だけを生業にしていた女性ではなく、堅果類の樹林の形成にも関与していたからだと推測される。優良なドングリを選定して幼樹を育て、多数の幼樹の実を賞味して成長させるものを選定する作業は、mt-M7aが行っていたからではなかろうか。縄文時代のmt-M7aは焼畑農耕に不可欠な人材だった事が、遺伝子分布から分かっているから、これは単なる推測ではない。焼畑農耕では数年栽培して地力が衰えると、森林に戻して地力を回復させるが、その際に苗木の生産を含めた植樹を、mt-M7aが行っていた可能性が高いからだ。従って堅果類の樹林の生成や管理にも、重要な役割を果たしていたと考えられる。

但しY-O3a2aのペアだった女性のミトコンドリア遺伝子が消滅しても、彼女達が持っていた栽培文化や細胞核の遺伝子は、mt-M7aが持っていたものと混在したから、同じmt-M7aではあってもY-O3a2aのペアになったmt-M7aは、生業習俗が異なる由来する多様性を維持していたと想定されるが、その様なmt-M7aが生れたとしても、それによってミトコンドリア遺伝子変異の多様性が増加したわけではない。

3万年前から15千年前の彼らの生活や文化について、現代人が推測する手掛かりは、縄文遺跡から発掘される遺物だけだが、そのルーツは原縄文人の文化だったと考えられるものは多数ある。原縄文人は全員が琉球岬から沖縄に移住した事により、琉球岬の文化が沖縄に移転し、更に九州に持ち込まれたと推測される。3民族の遺伝子比率が、沖縄と本州双方で、維持された事が示唆ししているからだ。また旧石器時代の民族としては、極めて多彩な文化要素を含んでいた事も、その証拠になる。

多彩な文化要素の実態を列挙すると、土器はmt-M7aに属す共通文化として除外しても、弓矢と独特の無茎石鏃、蒸し焼き石と燻製炉、アサの栽培、竹の栽培、漆の使用、豆類の栽培、丸鑿などの上質な磨製石器、釣り針を使う文化などがあった。7500年前の東名遺跡(ひがしみょういせき)の高度な編籠を、縄文人の海洋性と石材加工の項で紹介したが、ドングリを拾い集める為に生まれた籠が、河川漁民の漁獲を収める魚籠などに発展し、更に多彩な用途向けに色々な形状を持つ籠として進化していたから、原縄文文化の一つの要素として発展したものだったと言えるだろう。

イネ科の植物の種子を集めるのであれば、皮のポシェットでも間に合ったかもしれないが、ドングリを拾い集める為には籠は必需品だったと想定されるから、籠の使用は堅果類の栽培が始まった頃まで遡ると推測される。縄文時代のmt-M7amt-M7bmt-M7cは、それぞれが異なった素材から籠を編んでいた事が、考古学的な調査から判明しているから、Y-O3a2aがいたヴェトナムにも別系統の籠文化があり、3民族が共生した琉球岬の豊かさが用途に応じた色々な編み方を生み出し、縄文早期の九州で海洋漁民と共生して生まれた一層の豊かさが、装飾的な編み方に進化させたと想定する必要がある。

現在は海底にある遺跡の話だから、推測するしかない事案ではあるが、縄文人の持っていたこの様な多彩な文化要素を勘案すると、原縄文人は原日本人の船で移住する際に、多彩な文化要素を多数の籠に区分けして収め、沖縄や日本列島に持ち込んだと推測される。

mt-M7aの堅果類を栽培する文化と、Y-O2b1も持っていたと想定される、尖頭器を使う普遍的な狩猟文化を除外し、琉球岬時代の原縄文人を構成していた、異なる民族に属した経緯を持つ男性の民族文化は、弓矢で鳥や小動物を捕獲する狩猟文化と、丸木船や釣り道具で河川漁労を行う漁労文化があった。それに加えて磨製石斧を作って樹木を伐採し、堅果類の樹林を形成するY-O2b1の文化があったと想定されるから、それらは元々異なる民族文化だったが、原縄文人の共生社会の中で再構成されて高度化し、原縄文人の固有文化になったと推測する事の妥当性を、改めて確認する事ができるだろう。

縄文人の四季と称した如何わしい表が流布し、単一民族だった縄文人が堅果類の栽培、狩猟、漁労を全て、四季に応じて行っていたかの様な説明がなされているが、石器時代の人がすべてを行うことなどできた筈はなく、いずれかが本業で、その他は他民族の真似事程度だったと考える必要がある。狩猟や漁労には道具としての石器があり、それを固定する為の棒を作る別の石器があり、船を作るためには更に別の石器が必要になり、それぞれの素材の選定や作り方や使い方が、石器時代の一つの文化だったのだから。当然ながら、それを使って獲物を仕留める技量が必要だった。

従って改めて、原縄文人のどの民族が何を生業にしていたのか確認すると、堅果類の栽培はmt-M7aY-O2b1の技能だった事は間違いないから、弓矢を使う狩猟文化がY-C1のものだったのであれば、釣り針や丸鑿を使う河川漁労はY-O3a2aの文化だった事になる。

篠田氏が「本土より沖縄の方がmt-M7aの多様性がある」と指摘している事が、縄文時代初頭に沖縄から九州に渡来したのは、沖縄にいた縄文人の中の少数者だった事を示している事は、既に指摘した。石垣系縄文人は少数派だったから、彼らが全員北陸に上陸したとしても、日本人のmt-M7aの多様性を、大きく増加させなかったと考える事はできる。しかし本土のmt-M7aには、古墳時代の帰化人として渡来した韓族のmt-D+M7aも含まれているから、本土のmt-M7aの方が多様性に富んでいなければ、話が合わない事になる。具体的に言えば、帰化韓族の子孫は日本人の8%ほどであると想定されるから、日本人のmt-M7a比率の7.5%の内、2%は韓族系であると推測され、これは現在の沖縄のmt-M7a人口より多いからだ。古墳時代にこの様な大量帰化が実施されたのは、古墳寒冷期になると、朝鮮半島北部でアワが栽培できなくなったからだ。前漢代に6万戸、40万人を擁した楽浪郡が、晋代には8600戸になり、晋の滅亡と共に楽浪郡が消滅した事が、寒冷化の厳しさを示している。

韓族のmt-M7aの多様性については、mt-M7aがヴェトナム北部から海南島への移住によって生れた後、その一部が原縄文人になっただけで、多数派は内陸の栽培系狩猟民族になったのだから、その子孫である韓族の方が遺伝子の多様性があってもおかしくはない。何回かのボトルネック効果によって、韓族のmt-M7aの多様性がある程度失われたかもしれないが、ISOGGの系統樹は韓族のY遺伝子は、酷いボトルネックは経験しなかった事を示唆しているからだ。弥生時代末期の韓族は馬韓に住み、魏志韓伝は10万余戸だったと記している。韓族が渡来した古墳時代の日本の人口は、500万人ほどだったと想定されるから、40万人ほどの韓族が帰化した事になり、弥生時代末期の10万余戸が100万人程度だったとしても、全人口の4割が帰化する大移動だったから、韓族のmt-M7aの多様性は日本本土に移転したと考えて良いだろう。ちなみに韓族のmt-M7a比率は2割程度だったと考えられるので、8万人のmt-M7aが、mt-M7a女性は4万人が帰化した事になる。

韓族を受け入れた本土人の事情を検証すると、魏志倭人伝は西日本の大国だった邪馬台国が7万余戸、投馬国5万余戸、奴国2万余戸で、邪馬台国は30国を従えていたと記しているから、西日本の倭人国は全体で2030万戸、関東などの70余国を合わせるとその倍以上になり、日本海勢力や九州・東北勢力を加えると百万戸は降らなかったと推測されるから、日本の本土のmt-M7aは、縄文時代から渡来遺伝子の浸潤を受けて低下していたが、本土のmt-M7a人口は韓族のmt-M7aの人口の23倍はあったと推測される。

縄文時代後期以降は、穀類を栽培する時代になったので、mt-M7aの動向は分かり難くなったが、焼畑農耕の重要性は近世まで続いた。縄文時代の焼畑農耕はmt-M7aの樹木に関する知識を必要としていたので、縄文時代末期のmt-M7a67割は、石垣系のmt-M7aだったかもしれない。従って3万年前に分岐した少数者の子孫である、石垣系縄文人には遺伝子の多様性がなく、韓族のmt-M7aにも遺伝子の多様性がなかった事は間違いなく、沖縄系の本土縄文人は沖縄に残った縄文人の少数派だったから、沖縄系の本土縄文人にも多様性がなかった事になる。

篠田氏が抽出した遺伝子変異は、この様な状態で沖縄のmt-M7aの遺伝子に多様性があると指摘している事になり、ヴェトナム時代~台湾・福建省時代に既に存在していた遺伝子変異で、クラスター化しているものを抽出している事になる。言い換えると遺伝子変異の追跡手法として、サンプリングした遺伝子に存在する共通変異を分類し、本土人と沖縄人の系統樹を作成すると、本土人は特定クラスターに集中しているが、沖縄人独特のクラスターが複数あるという事だろう。もう少し詳しく言うと、系統樹の作成に寄与する様な古い遺伝子変異は、ヴェトナム時代~台湾・福建省時代に既に存在していたものが多く、それより新しいものはクラスターを膨大なものにしてしまうから、古い遺伝子変異で作った系統樹を見ると、沖縄のmt-M7aには多くのクラスター候補があるが、本土日本人のmt-M7aにはその様なものが少ないと推測される。

この推測は、「当たらずといえども遠からず」程度のものでも構わないが、いずれにしても篠田氏は韓族のmt-M7aにも、沖縄系の原縄文人ほどの多様性がなかったと指摘している事になる。常識的な解釈では、この難問には答えが出ない。

しかしミトコンドリア遺伝子の浸潤理論を拡大適用すると、この異常な事態の解釈が可能になる。内陸のmt-M7aは堅果類の樹林を自分で管理し、土器を作って堅果類のアクを抜く技能者だったから、冷温帯性の堅果類の管理者としては、沿岸にいたmt-M7aより広い範囲をカバーする技能者だったからだ。つまり内陸のmt-M7aが沿海部のmt-M7aの代わりとして、それまでmt-M7aがペアではなかった原縄文人のY-O3a2aY-C1に浸潤する事は、イネ科の植生を栽培していた女性達が、他部族や他民族へ浸潤する様な状態だったからだ。

氷期の温暖期が始まると大陸の気候が乾燥し、晴天が続いて海洋の温度が上昇するが、南極の氷床は寒冷化の極点は26千年前頃にあり、それ以降は徐々に温暖化し、19千年前から急激な温暖化が始まった事を示している。北半球はそれに先行して温暖化し、大陸の乾燥化は更に先行した筈だから、内陸のmt-M7aが堅果類を栽培していた疎林地域は22千年前頃から徐々に草原化し、更に内陸は25千年前頃から草原が砂漠化していたと推測される。つまりY-O2bの生存域が徐々に沿海部に後退し、Y-N系の狩猟民族がその跡地を占有する状態が進行していた。

この様な現象が進行する場合、疎林域や草原域の面積は縮小していった筈だから、mt-M7aが栽培地としていた疎林は徐々に数が減り、堅果樹を栽培できないmt-M7aが連続的に発生する状態が生れた。イネ科の植生を栽培していた女性達は、自分の存在を賭けて、栽培地を確保する為に争っていた事は既に説明したが、mt-M7aにとってもその事情は変わりなく、樹林の存在がmt-M7aの存在価値を決める状態になっていたから、追い詰められた彼女達の打開策は、磨製石斧を使って沿海部に形成されていた樹林を使い、自分の技能を生かす事だった。

状況が安定していれば、その様なmt-M7aが受け入れられる状況は生れなかったが、気候の乾燥化に追われた内陸の民族が沿海部にも出没し、台湾近辺の治安が悪化して来ると、台湾にいた原縄文人集団は琉球岬への移住を考慮し、先遣隊を派遣し始めただろう。入植地に堅果類の樹林を形成するには時間が掛かるから、先ずY-O2b1mt-M7aが植林のために台湾を離れると、台湾でY-C1の為にアクを抜くmt-M7aが不足した。その様なY-C1集落に内陸のmt-M7aが浸潤する事は、双方にとってWin-Winの関係になった。琉球岬に移住したY-O2b1mt-M7aペアは、台湾の堅果類の樹林を放置したから、浸潤したmt-M7aはその樹林でドングリを拾う権利を継承し、Y-C1に手伝わせて樹林の管理の真似事を始める事もできただろう。

Y-O3a2aのペアは暖温帯性の堅果類の栽培技術しかなかったから、樹木を伐採して樹林を形成する冷温帯性の樹林は、管理していなかった可能性が高い。従ってドングリを拾う権利もなかったと推測される。Y-O2b1mt-M7aペアの琉球岬への移住が進むと、Y-O3a2aにドングリを供給するmt-M7aも足りなくなっただろう。従って内陸のmt-M7aが浸潤する機会はこちらにも生まれ、内陸のmt-M7aの大量浸潤が始まったと想定される。

琉球岬にある程度の規模の樹林が形成されると、Y-C1Y-O3a2aも移住し始めたと想定されるが、mt-M7aをペアにした人々に移住の優先順位が与えられると、台湾に残ったY-C1Y-O3a2aに、堅果類を食料として供給するmt-M7aが不足する状態が継続したと想定される。琉球岬では新しい秩序が形成されていなかったから、混乱を避ける為にその様な優先順位になった事に、違和感はないだろう。

Y-C1Y-O3a2aのペアとして台湾に残ったmt-M7aは、Y-O2b1が遺棄した樹林を管理していたから、多量のドングリを入手する事が可能だった。それ以前のY-C1Y-O3a2aは多量の獲物をY-O2b1に渡す事により、応分のドングリを得ていたかもしれないが、それに比較すると新規にペアになったmt-M7aは、何倍もの澱粉を提供しただろうから、mt-M7aをペアにする事によって人口が増加したと想定される。ドングリの樹林はあるのにmt-M7aが不足している状態になれば、mt-M7a自身が内陸に出向き、内陸で樹林を失っていたmt-M7aをリクルートする事もあったかもしれない。Y-C1Y-O3a2aが内陸に出向いて技量が拙いmt-M7aを勧誘すると、そのツケが自分に回って来る事になったからだ。

気候の乾燥化が進むと台湾の斜面の土壌が乾燥し、疎林化し始めた可能性もある。斜面は雨が降っても水が流れてしまい、水分の蓄積が進まないからだ。その様な斜面では内陸のmt-M7a流の樹林形成が可能になったから、内陸のmt-M7aが浸潤しやすい環境が進んでいたとも言える。琉球岬は大河の河口にある平坦地で、気候は台湾より冷涼だったから、後氷期初頭の乾燥化の進行は、原縄文人の新しいコロニーにとって深刻な問題ではなかったと想定される。

後氷期の乾燥化が進むとY-O2bの狩猟の獲物が減少し、Y-N系民族が秩序を撹乱する状態にも耐えなければならなかったから、余剰人口化したmt-M7aの沿海部への移住希望者は、益々増加する状態になり、台湾に残ったY-C1Y-O3a2aの人口は、移住者を輩出しても減らない状態が長期間継続したと想定される。元々台湾にはある程度の人口を養う事ができる食料資源があったのだから、移住が急速に進まない限り、台湾の人口は維持されただろう。Y-C1Y-O3a2aの移住者の数が、琉球岬で必要としている数に留まっていたとすると、Y-O2b1の人口が増えない限り新規の募集はなく、先に移住していたY-C1Y-O3a2aも人口を増やしていたから、新しい共生文化が生れなければ、上記の状態は無間に続いたかもしれない。

上記の状態が終息した条件として、以下の三つが考えられる。

1、  新しい共生文化が生れてY-C1Y-O3a2aの不足感が生れ、台湾にはY-C1Y-O3a2aがいなくなった。

2、  琉球岬の人口規模が台湾の10倍を超え、台湾のY-C1Y-O3a2aを吸収してしまう余力が生れた。

3、  内陸のY-O2bmt-M7aが生存適地を求めて移住すると、台湾のY-C1Y-O3a2aへのmt-M7aの供給源が失われた。内陸のY-O2bmt-M7aは超温暖期の華北沿海部で人口を爆発させたから、何処かに安全な地域を見付けて移住したと想定され、彼らが遠方に集住するとmt-M7aの大量放出は停止した。但し彼らの試練はこれで終わったのではなく、次にヤンガードリアス期の寒冷化があり、超温暖期の乾燥化があった。内陸のY-O2bは狩猟を重視していたから、堅果類の生産性が低下する寒冷化は、大きな試練にならなかったかもしれない。韓国にはmt-M7aとほぼ同率のmt-M9がいるから、その起源のすべてが韓族ではなかったとしても、彼らにはソバを栽培する選択肢もあったからだ。気候の温暖化と寒冷化に襲われた際には、遼東半島や朝鮮半島の石材が利用できる黄海平原に移住した可能性が高いが、彼らの遺跡は現在海底にあるから確認出来ない。

沖縄人のmt-M7aが韓族の子孫のmt-M7aより多彩な遺伝子クラスターを形成している事は、この様な現象が起きなければ説明できない。つまり台湾近傍にいた原縄文人集団が琉球岬への移住を決意すると、先ず少数の先遣隊が琉球岬に小さな樹林を形成し、樹林の拡大と共に本格的な移住を進行させたが、最後のグループの移住が完了したのは樹林の規模が台湾時代の何倍にも拡大してからだった。

原縄文人の総人口が安定していれば、移住プロセスの進行に伴って移住元の人口が減少し、移住先の人口が増大したが、その様な移住の進行の傍らで台湾では、mt-M7aを取り込みながらY-O3a2aY-C1の人口が増加し、それによってmt-M7aの浸潤が更に進行した。台湾時代のY-C1のペアはアク抜き技法など知らない女性達で、Y-O3a2aのペアは暖温帯性の堅果類のアクを抜く事はできたが、冷温帯性の堅果類は栽培できなかったからだ。従って台湾のY-O2b1とmt-M7aの人口が減少すると、台湾に残されたY-O3a2aY-Cのために堅果類のアク抜きを行い、放置された樹林を管理するmt-M7a女性が不足したからでもある。台湾近傍のmt-M7aの数が不足しても、琉球岬への移住を待っていいたmt-M7aにしてみれば、この期に及んで台湾の他民族に浸潤する事など論外だっただろう。

この背景として、台湾時代には3民族が共生する原縄文化の形成が不十分で、Y-O2b1だけが移住の実効主体になり、移住先の樹林形成に注力していたからだと想定される。Y-O2b1が管理していた台湾の堅果類の樹林は、手入れをしなくても収穫が急減する事はなく、毎年Y-O3a2aY-C1の需要を満たす実を付けたから、当初はアク抜き加工するmt-M7aが不足するだけだったが、気候が乾燥化すると内陸式の栽培が可能になり、樹林を燃してしまう様な乱暴な事をしても、誰も咎めなかったから、内陸と同様にmt-M7aが樹林の形成者になった事が、mt-M7aの浸潤を加速したと想定される。

mt-M7aの遺伝子クラスターが失われるほどの、激しい浸潤が発生した事に疑念があるかもしれないが、これには先例があった。5万年前にY-Fが東南アジアに達した時点で、Y-C1は冷涼な高原に、Y-Gはそれに準じる丘陵地に、その他のY-F系は低地にいたから、Y-C1のペアだったmt-Rが先ずY-Gに浸潤し、Y-Gを介してその他のY-Fに浸潤したと想定される。Y-Gはその様な女性達の経路にはなったが、Y-G集団に残ったmt-R1次分岐はmt-Uだけで、10種以上の他の1次分岐はその他のY-Fと共にスンダランドに南下したと想定されるからだ。東南アジアにいたmt-Rは栽培になりたかったから、この様な行動を採ったと推測される。mt-Rは栽培技術が稚拙なこの時期のmt-Mと接し、強烈な自信を付けてこの様な挙動に出たと想定される。多数のmt-Mに囲まれていた時代のmt-Rは、自分の祖先集落に出向いて盛んにリクルート活動を行ったと想定され、異色の性格を母から受け継いでいたmt-U以外は、このリクルート活動によってY-G集団からいなくなった事を示唆している。

その様な事情が2万年前の大陸のmt-M7aに起きたとしても、不思議ではない。大陸のmt-M7aの浸潤先は、冷温帯性の堅果類は栽培できないY-O3a2aのペアと、アクを抜くこともできないY-C1のペアだったからだ。堅果類の栽培者は、4万年前から栽培に自信を持つ女性達になり、3万年前から冷温帯性の堅果類の栽培者が、その頂点に君臨していたから、彼女達も5万年前のmt-Rに劣らない、強い優越感を持っていたと想定されるからだ。

内陸のmt-M7aは樹林を管理する役割を担い続けていたから、樹林の周囲に母系家族を形成していた可能性が高い事も、この状態を加速した可能性が高い。つまり一般の栽培系狩猟民族とは異なり、母系集団を形成していたと想定されるからだ。男性達はこの母系家族の周囲で狩猟を行っていたから、気候が乾燥して樹林が消滅し、周囲に樹林を再生できる適地がなければ、男性達は樹林を維持していた母系家族に移籍する事が出来たが、樹林を失った母系家族は路頭に迷う事になったから、その様なミトコンドリア遺伝子のクラスター集団が丸ごと沿海部に移住し、Y-C1Y-O3a2aの為に堅果類の樹林を管理する女性達になった可能性も高い。この様な事態が頻発すると、内陸のY-O2b集団のペアだったmt-M7aの遺伝子クラスターの多様性は失われただろう。

琉球岬に移住した3民族の様子を、九州に上陸した縄文人の遺物から推測すると、以下の様なものだったと想定される。

異なった生業を持つ3民族が琉球岬で混在し、各民族が生業を維持しながら共生して食料や生産財の過不足を補い合う事は、豊かな社会を形成する基礎条件である事を、現代人は容易に理解できる。九州に上陸した縄文人が3民族の混生集団だった事は、それが実現していた事を示唆している。従って琉球岬から沖縄や久米島に赴いて石器の素材を入手していたのは、何度も使えば摩耗して鋭利さを失う、狩猟用の打製石器を多量に消費するY-C1だった可能性が高い。Y-O2b1が欲しい石材は、台湾で採取できる蛇紋岩だったからだ。17千年前の人骨である沖縄の港川人は、Y-C1mt-M7aペアだったと推測されるが、mt-M7aは浸潤した遺伝子だから、mt-M7aが浸潤する前のY-C1のペアがmt-Rだったとすると、港川人が縄文人以上に、東南アジア的な風貌を持っていた事と矛盾する。従って原縄文人集団に参加した時点で、Y-C1は繰り返しmt-Mの浸潤を受け、モンゴロイド的になっていた事を示唆している。元々のY-C1mt-Rは、コーカソイド+アボリジニ―的な風貌だった筈だからだ。

現在の考古学者が東南アジアで発掘している人骨は、当時の山岳地帯の住民のものだから、Y-Fmt-Mペアのものだった可能性が高い。従って原縄文人になったY-C1は、繰り返しmt-Mの浸潤を受けてモンゴロイド的になっていた事になるが、Y-C1の遺伝子が殆どすべて置き換わったとは考えにくい。

世界の栽培系民族は殆どがY-F系で、西ユーラシアに多いY-Rと東アジアに多いY-Oは、アルファベットで分類された遺伝子クラスターの末端だから、西ユーラシア人と東アジアの人の風貌や身体的な違いを決めたのは、Y遺伝子ではないと考えられる。ミトコンドリア遺伝子は西ユーラシアに多いmt-Rと、東アジアに多いmt-Mに明瞭に区分できるから、東西の風貌や身体的な特徴の違いを生み出したのは、mt-Rmt-Mだったとしか考えられない。しかし彼女達の浸潤で、遺伝子の殆ど全が置き替わったとは考えにくいから、ユーラシアの東西の人達の風貌の違いは、女性達の思想に起因していると考えざるを得ない。

つまりモンゴロイド的な風貌や身体事情は、mt-Mの選別思想が強く働いた結果であり、コーカソイド的な風貌はmt-Rの影響が強く働いた結果であり、アフリカを出た直後のY-Fmt-Mは、モンゴロイド的な風貌と身体を持っていたと考えざるを得ない。東アジアではmt-Mが優勢だから、それが東アジアの人々の身体的な特徴になり、西ユーラシアではmt-Rが優勢だから、コーカソイド的な風貌に選択的に収斂したとすると、女性の思想が民族性に大きな景況を与えた好例になる。乳幼児の死亡率が高かった時代に、女性が大切にした子供とそれ以外の子供の、外観上の違いがこの様な結果を生んだのではなかろうか。西欧の人々は西ユーラシア的な起伏の多い顔面や、青い目やカラフルな髪の毛を好んだから、その様な好みがアーリア人思想に結び付いたと想定される。

現代日本人のミトコンドリア遺伝子分布は60%がmt-M系だが、日本人の20%mt-Mの帰化人だから、縄文時代にはmt-Mmt-Rが半々だった。縄文時代のmt-Mの過半は、アワ栽培者だった北陸系のmt-Dmt-Maや、縄文後期以降に養蚕を伝えたmt-M7bだったから、関東の縄文時代人の殆どは、mt-Bmt-Fmt-R系の稲作者と、シベリア系のmt-NAN9b)だった。

アイヌは西欧的な風貌であると言われているから、mt-Nmt-Rに近い嗜好を持っていた事になり、原日本人の風貌を残していると考えられる。従って北陸部族以外はコーカソイド的な風貌だったと推測される。縄文前期~中期に沖縄に移住した漁民は、殆どがmt-R系とシベリア系のmt-Nだったから、彼らも含めた関東部族の縄文人は、アイヌの様な風貌の人々だったと想定される。

関東の原日本人が琉球岬や沖縄に入植しなかったのは、関東に集住して海洋文化の向上を追求し続け、それに乗り遅れる事を恐れる習性を、身に付けていたからだと想定される。この姿勢は南太平洋に雄飛した台湾起源の海洋民族とは、対照的な行動性向であり、農耕が盛んになった縄文後期まで続いた原日本人起源の、共通の特徴だった。この発想は東京への人口集中を続けている、現代日本人には理解できるが、狩猟の縄張りを求めたり栽培のための農地を求めたりしていた人々には、理解できない心情だった。日本人は許容される人と人の間合いが狭いと言われるが、それもこの様な原日本人起源の特徴である可能性がある。

縄文早期前半までの原縄文人と原日本人も、互いに通婚する事はなかった可能性が高い。それぞれが別の民族であり、全く別の生業体系の中で生活し、活動拠点も異なっていたからだ。しかし1万年前にシベリアからmt-Aを取り込み、台湾から稲作者になったmt-B4が渡来すると事情は一変した。沖縄には縄文前期~中期に、関東のY-D漁民だけが移住したから、沖縄の最多Y遺伝子はY-Dになったが、そのペアとして遺されている現在の沖縄の遺伝子は、現代の沖縄人からmt-M7a+M9mt-Dを除いた遺伝子になるが、縄文後期以降に日本に渡来した遺伝子を除いた、関東部族の遺伝子構成や、その中核的な子孫である現代日本人の遺伝子分布と、極めて類似しているからだ。

 

3-3-4 原縄文人の移住経路と移住時期

原縄文人の移動時期は、下図の海面上昇グラフを参照すると分かり易い。

海面上昇は2万年前には微妙に進行していたが、氷期の温暖期になると速度を速めた。1万5千年前までは人が感知できる速さではなかったが、17千年前に2万年前より10m上昇すると、琉球岬が水没して沖縄と大陸の距離が拡大していた。関東の原日本人はこの様な状態になる以前に、琉球岬への渡航に困難を感じ始め、原縄文人も形成した樹林が水没する事を恐れ、原日本人は沖縄に移住したと考えられる。

15千年前に東ユーラシアが急激に温暖化すると、北大西洋両岸の氷床の融解速度が急加速し、世界の海面が急上昇し始めたから、原縄文人にも祖先伝承と現実が異なる事を実感できる状態になり、沖縄島の面積が急速に縮小し始めた事を実感すると、原縄文人は強い恐怖感を抱き始めたと想定される。原日本人から山岳地が連なる九州でも、温暖化して冷温帯性の植生が栽培できると聞くと、沖縄から九州に移住する決意を固めたが、実際に移住したのは縄文人の極一部だった。

石垣島で発掘された遺跡は、原縄文人が27千年前に石垣島に移住していた事を示し、北陸の原日本人と共生生活を始めていた事を示唆している。その時代から漁民と縄文人が共生する縄文時代が始まったと定義する事も可能だが、縄文時代をもう少し厳密に定義し、「原日本人、原縄文人、シベリア系狩猟民の3民族が共生し、海洋民族として活動した時代」であるとすると、縄文時代は15千年前に始まった事になる。このHPは現在の学会動向を尊重し、厳密な後者の定義を採用する。

原縄文人の台湾から琉球岬への北上は、温暖化し始めた2万年前頃に始まったと考えられるが、2万年前とする根拠はサハラが砂漠化した事と、南極の氷床が示す温度曲線が、19千年前から急激な温暖化が始まった事を示しているからで、東ユーラシアはそれらの地域とは異なる気候帯だったから、東ユーラシアの温暖化はそれより数千年早く始まった可能性が高い。東ユーラシアは後氷期の温暖化中心だったからだ。

上図のグラフが15千年前に海面が急上昇し始めた事を示しているが、これも氷床があった北西ユーラシアや北アメリカの温暖化事情を示しているのであって、東ユーラシアの温暖化はもっと早い時期に始まった可能性が高い。従って沖縄系原縄文人は、遅くとも18千年前には琉球岬への移住を完了し、海面が10m上昇して琉球岬が水没し始めると、17千年前には3民族が揃って沖縄に渡っていたと推測され、それらを始めた時期は2千年以上遡っていた可能性もある。

縄文時代の石垣島の土器は、台湾系であると指摘されているが、その事が石垣島に縄文人がいなかった事を示しているのではないので、その理由を以下に示す。

サンゴは水深30m未満の温暖な海に生息する。沖縄や石垣島がサンゴ礁の残渣に覆われているのは、前回の間氷期の水面が現在の水面より数十メートル高く、その時期に海底になった場所にサンゴ礁の残骸が堆積しているからだ。この土壌は土器の製作には向かないが、沖縄や石垣島の縄文海進期以降の沖積地の土壌には、侵食されたサンゴ礁の破片が混入しているから、沖縄の縄文人は土器の製作に苦労した。八重山諸島ではその程度が酷かったから、土器を他地域から入手する必要があり、その候補地は台湾と沖縄だったと推測される。八重山諸島の縄文人は沖縄の貧弱な粘土を用いた土器ではなく、粘土の質が高い台湾製を交易品として入手したから、八重山諸島から台湾産の土器が発掘されると考えられる。

17千年前の海面は現在より100m以上低かったから、当時の人々が海岸に立つと標高80m以上の台地に、サンゴ礁の痕跡があったが、海岸近辺の低地にはなかったから、土器の素材には不自由しなかったと推測される。しかし海面が上昇した1万年前には、氷期の海岸の低地は海中に没し、海面がサンゴ礁の残渣の下限に迫ったから、土器の素材になる粘土の採取が困難になったと推測される。仕方なくサンゴ礁の残渣を含む粘土で土器を焼いたが、特殊な技能を進化させる必要があり、それでも土器の質は良くなかった。

北陸縄文人が石垣島に戻った時期は不明だが、土器が出土すればそれが台湾の土器であっても、縄文人が戻っていた証拠になる。15千年前には全員が北陸に移住し、北陸や山陰で海洋民族化した人々が、縄文前期頃に石垣島に再入植したと想定されるから、沖縄の縄文人の様に質の悪い粘土で土器を生成し、苦闘しながら技術を進化させた経験もなかったから、海洋交易によって土器を得る方が、自然な選択だっただろう。

海洋縄文人も台湾起源の海洋民族も、シベリアで生まれた縄張り文化を重視する人達だったから、石垣島は北陸の海洋民族の島である事が認定され、他者が敢えて入植する事はなかったと想定される。関東のY-D海洋民族は縄文前期~中期に沖縄に入植し、沖縄の多数派になったが、彼らは石垣島には入植しなかったから、石垣島は現在もY-O2b1が主体で、Y-Dが殆ど居ない島になっていると考えられるからだ。縄文人の活動期の項で詳しく説明するが、北陸部族は縄文時代アワを栽培し、その生産性が極めて高かったので、アワの栽培者は農耕民族化して山陰に移住し、農耕の為に海洋交易を担う者が出現したが、沿岸を往来する程度の交易で、海洋民族の活動とは言えないものだった。それを担ったのはY-O2b1だったと推測され、その様な縄文人が石垣島に帰還したから、目視を目安に往来できる台湾との交易も、Y-O2b1が担う事は可能だったと推測される。

沖縄の縄文人にはその様な履歴はなく、海洋性は皆無だったから、関東の漁民が沖縄の沿海部に港を作り、大陸との交易の為に定住した。縄文前期~中期に関東の漁民が沖縄に多数移住したのは、関東縄文人特有の交易事情だったが、その交易事情には複雑な経緯があったから、縄文人の活動期の項で説明する。

石垣島や宮古島が北陸部族の島であり続けた証拠として、宮古上布や八重山上布を挙げる事ができる。上布は苧麻を織った布で、近世まで絹布に次ぐ上質の布と見做され、その産地は本土では、北陸部族の拠点だった新潟県を中心に展開した。上杉謙信はそれを重要な財源とし、現在も小千谷縮(おぢやちぢみ)として知られている。能登上布や近江上布などもあるが、能登も近江も北陸部族のテリトリーだったから、八重山諸島と宮古島も古代から上布の産地だった事は、北陸部族の特産品を産出していた事になる。「東の越後、西の宮古」と呼ばれて、日本を代表する織物になったのも、上布の生産が始まった時代まで、縄文時代の部族制が継続していたからだ。

八重山群島や宮古島が北陸部族に属した起源が、27千年前の原縄文人の石垣島入植に遡る事に、驚きはあっても違和感はない。縄文時代の沖縄縄文人は、関東部族の縄文人とは別部族であると認識していたが、石垣や宮古の縄文人は沖縄縄文人とは異なり、北陸部族の縄文人と同じ部族であると認識し、上布文化を共有した事になるからだ。この違いを生んだ最大の理由は、沖縄に取り残された縄文人は5千年間、関東の縄文人と音信不通だったのに対し、石垣系縄文人は氷期の最寒冷期に北陸の原日本人と共生し、北陸に移住した後も関東縄文人とは異なり、沿岸交易者になった事が挙げられる。

15千年前から1万年前までの間に、沖縄に縄文人がいた事は間違いないが、石垣島にも縄文人が居住していたのか定かではない。居住していなかったとすると、石垣島が彼らのテリトリーである事を5千年間伝承していた事になり、驚くべき事ではあるが、北陸の原日本人は氷期の最寒冷期の1万年間石垣島を拠点にしていても、北陸が自分達の故郷である事を忘れていなかったから、古代人の伝承力に驚嘆するが、定期的に故郷巡りをして記憶を維持していた可能性が高い。経済活動の成熟期の項でそれを検証するが、15千年前から1万年前までの5千年間は、黒潮に阻まれて渡航できなかった時期だから、伝承だけだった事になる。

しかしそれに驚いていては、古事記のイザナギとイザナミの国生み神話に記された、生まれた島の順序を解釈する事が出来ない。真っ先に掲げた淡路は、改定時に邪馬台国発祥地として挿入された疑いが濃いから、それを無視すると、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州(関東)の順に記されているが、これは原日本人が日本列島に定着した5万年前の、各部族の到着先と到着順を示唆しているからだ。

5万年前には瀬戸内海は陸だったが、伊予灘や燧灘は巨大湖だったと想定されるから、南下して日本式の漁労技術を身に着けた原日本人にとって、最良の湖だっただろう。他にも幾つかの湖があった可能性が高い。氷期の中国地方の日本海沿岸は隠岐まで陸地化していたから、伊予灘の湖沼漁民が海洋民族化すると、四国と九州に挟まれた豊後水道の南端が、彼らを海洋漁民に育てた場所だったと想定される。豊後水道は水深が100m以下だから、氷期には平原だったと想定されるからだ。つまり伊予灘に定住した湖沼漁民が宿毛湾(すくもわん)を根拠にして海洋漁民化した可能性が高い。古事記は「(淡路の)次に伊予の二名島を生んだ」と記しているからだ。二名島は宿毛湾を太平洋と隔てていた沖ノ島を指し、縄文時代に海進が進んで連山が鵜来島(うぐるしま)に分かれたとすると、話は整合する。「次に隠岐の三子島」だから、燧灘の漁民が日本海に進出した事を示唆している。隠岐には4つの島があるが、中ノ島、西ノ島、知夫里は、三子島と言っても良いほどに接近している。次に壱岐、対馬、佐渡(北陸)、本州(関東)が生れたと記し、それぞれの部族が海洋漁民化した際に、内海を形成して航行の安全を担保した、神聖な山を指している可能性が高い。当時は陸の一部だったが、海進によって島になったから、古事記は島であると記している。

古事記のこの記述順序は、45千年前に原日本人が日本列島に南下した際に、南の温暖な地域にあった巨大湖から、先に南下して占拠していった事情と整合する。本州(関東)と佐渡が最後になった理由は既に説明し、これ以上北に漁民部族がいないかった事とも整合する。ちなみに壱岐が北海道部族の故地だったと想定されるから、天武天皇はアイヌも原日本人の子孫とし、日本人であると認識していた事になる。蝦夷が日本ではない様な扱いを受けたのは、稲作民の王朝だった奈良朝が、稲作が普及していなかった蝦夷を版図外にした事に起因すると推測され、天武天皇は内需交易の活性化を目論んでいたから、北海道部族も日本人であると認知していたと考えられる。

現代人は1500年前まで続いた倭人時代の様子を全く知らないが、その様になったのは、弥生時代に始まった日本人の農耕民族化に起因し、鉄器が普及して農民が自立した古墳時代に、地域紛争や部族間紛争が多発し、海洋民族が統治能力を失ったからだ。直接的に言えば飛鳥時代に古事記が生れ、部族意識を解消して平和な時代を到来させる事と引き換えに、縄文時代~倭人時代に関するすべての記憶が抹消されたからだ。それを再び明らかにする事が、このHPの主題になる。

 

海洋漁民が部族化していた証拠を整理すると、以下になる。

縄文早期初頭に東ユーラシアが極度に温暖化すると、関東の漁民は遊動先をオホーツク海沿岸に変え、シベリアの狩猟民族のmt-Aを濃厚に取り込んだので、関東縄文人の遺体からmt-Aが何体も検出されている。mt-Aが関東に陸路で来たのであれば、その経路になった筈の東北や北海道の縄文人からmt-Aが検出されるはずだが、実際は全く検出されていない。従って関東縄文人のmt-Aはシベリアから船で渡来し、東北と北海道の縄文人は関東縄文人と通婚関係が無かった事、即ち別の部族だった事が分かる。関東縄文人の船が寄港地も無くシベリアと関東を往来した筈はないから、他部族であっても寄港の便宜は供与したが、婚姻関係はなかった事になる。

関東縄文人は縄文早期後半に台湾に進出し、台湾で多数のmt-B4M7cを取り込んだ。関東縄文人はそれ以降も、大陸起源の栽培系ミトコンドリア遺伝子を色々取り込んだが、そのどれも東北や北海道から発見されていない。関東と東北は隣接しているにも拘らず、また栽培系の女性達は栽培地を求めて浸潤する傾向があったにも拘らず、7千年間婚姻関係がなかったのは、両者に強い部族意識があったからだと考えられる。

北陸系縄文人はmt-Dを取り込んで焼畑農耕によるアワ栽培に成功し、mt-Dを縄文人の最大遺伝子にしたが、そのmt-Dは縄文時代を通して関東に浸潤しなかった。北陸縄文人のmt-Dは漢族特有のmt-M8aを含まないが、関東縄文人からmt-Dmt-M8が検出されているから、関東縄文人は縄文後期末に、大陸から漢族女性のmt-D+M8aを招いてアワを栽培したと想定される。従って関東縄文人と北陸縄文人も、互いに強い部族意識を持っていた事が分かる。

関東にmt-Aが渡来したのは1万年以上前だったと想定されるから、部族意識は縄文時代に生まれたのではなく、氷期の原日本人に強い部族意識があり、それが各地の縄文人に継承されたと想定される。

石垣島で発掘された27千年前のmt-M7aは、石垣島に北陸系の原縄文人が移住していた事を示し、石垣島では現在も北陸系文化である宮古上布や八重山上布が作られている事は、関東の原日本人と北陸の原日本人は3万年以上前から部族意識があった事を示唆し、原日本人は成立時に部族意識を持っていた事を示唆している。

中国の史書はシベリア系民族だった高句麗や靺鞨には部族組織があると記し、他の史書はモンゴル系の鮮卑や蒙古にも部族制があったと記しているから、部族の起源はシベリアの狩猟民族の部族制だったと想定される。従って原日本人の部族意識は、5万年前のシベリアの狩猟民族に起源があった事を事実認定しても良いだろう。

シベリアの狩猟民族に部族が生まれたのは、狩猟の縄張りを安定させるためだったと推測され、5万年前のシベリアに部族文化が定着していたから、シベリアの広い範囲で彼らと共生した原日本人が、それを原日本人の共通文化として取り込んだと考えられる。

この想定が成立するためには、シベリアの狩猟民族がシベリアに入植したのは、9万年前の温暖期だった事を前提にする必要がある。氷期より文化的に進化した筈である後氷期の多数の民族が、氷期のシベリアの狩猟民族が創造した部族制を、時代の風雪に耐えながら5万年間維持していたのだから、完成度が高い制度だった事は間違いない。その様な制度が一朝一夕にできた筈はなく、9万年前にシベリアに展開した狩猟民族が、5万年掛けて完成させた制度だったと考えざるを得ないからだ。

それを前提に日本の部族制の歴史を概観すると、シベリアの湖沼漁民だった原日本人の祖先が、シベリアの狩猟民族に拡散した際に、多数の部族の狩猟民族と共生したから、言語や習俗に多少の違いが生れ、日本列島に南下すると狩猟民族の部族単位に原日本人の部族が生れたと推測される。日本語はウラル語族に類似した言語なのに、アイヌ語はシベリア北東部やアメリカに移住した狩猟民族と同系統の言語背ある事が、その事情を示しているからだ。

彼らは海洋漁民化しても部族制を維持し、縄文人と共生して多民族の融合文化を形成しても部族制を維持し、縄文人の方がその部族制に同調したから、大陸から栽培系の女性を取り込んでも、アワ栽培者のmt-Dが関東に浸潤しなかった様に、彼女達にも部族制に同調させ、日本列島が稲作列島になって稲作農民が台頭しても、各部族が勢力争いを繰り広げ、部族や地域のパンパワーを誇示する為に古墳が林立したが、古事記の登場によって部族制が終焉し、全員が日本人になった。

これを前提に氷期末期の日本史を概観すると、その時期の日本列島の事情が明らかになる。

津軽半島の16500年前の高台の遺跡(現在の標高は10m)から、土器や矢尻が発掘されたが、その遺跡は当時の標高で120mの段丘斜面にあり、海から何十㎞も離れていたから原日本人の集落ではなく、Y-C3狩猟民族の集落だったと考えられる。北海道の渡島半島には細石刃などの狩猟文化を示す遺跡が、12000年前まで連続的に発掘されているからだ。北海道を除く氷期の日本列島にマンモスはいなかったが、マンモス動物群のヘラジカが生息していたから、氷期の津軽海峡は陸橋化していたと考えられ、上記の津軽半島の遺跡でY-C3狩猟民が生活していた頃は、まだ津軽陸橋が存在していた可能性が高い。

従って16500年前の津軽半島の土器は、沖縄の原縄文人が作成したものを関東の原日本人が持ち帰り、津軽のシベリア系狩猟民と角や骨と交換した際に、渡したものだったと考えられる。矢尻があった事は、北陸の原日本人が持ち込んだものではなく、関東の原日本人が持ち込んだ事を示している。

16,500年前の津軽半島の狩猟民族が、舶来の土器や矢尻を得る豊かさを享受できたのは、冬季になるとシベリアのヘラジカが、津軽陸橋を通って本州に南下していたから、その移動路上の隘路が狩猟民に絶好の狩猟地を与え、豊かな収穫を得ていたからだと考えられる。現在のJR津軽線は、当時のヘラジカの南下路に沿っている様に谷間を走り、この遺跡はその大平駅の近傍にあるからだ。津軽半島先端の丘陵地から流れ出る川が遺跡の眼前の谷間を形成し、遺跡はそこを通るヘラジカの群れを常時監視できる場所だったと想定される。この様な事情がこの地の狩猟民族に、舶来品を入手する豊かさを与えていた事になる。

16,500年前までの北海道と東北は、Y-C3狩猟民が活躍する世界だったが、15千年前頃に陸橋が消滅して津軽海峡が生まれると、シベリア系の狩猟民族の遊動は北海道が南限になった。渡島半島も隘路だから南下するヘラジカの絶好の狩猟場になったが、津軽陸橋が失われるとその価値が後退したと想定される。しかし多くのヘラジカは元の習性に従い、渡島半島まで南下して行き止まりの半島にたむろしていたらしく、渡島半島の狩猟民の遺跡は12千年前まで継続した。この遺跡が途絶えた12000年前は、樺太と北海道を繋いでいた陸橋が消滅して宗谷海峡が生まれた時期だから、ヘラジカがシベリアから北海道に南下しなくなった時期に該当するが、超温暖期が始まった時期でもあるから、シベリアの気候が温暖化して動物の生息域が北上したからである可能性もあり、両方の原因によって北海道全域の動植物環境が変わり、Y-C3狩猟民族の生活形態も変化した事は間違いない。

東北・道南縄文人と北海道縄文人のルーツを検証するためには、両縄文人と関東縄文人のミトコンドリア遺伝子を比較する必要がある。

北海道縄文人のミトコンドリア遺伝子は、原日本人Y-Dのペアだったmt-N9b65%、当時のシベリアのY-C3狩猟民族のペアだったmt-D17%、同じくmt-G11%で、東北・道南縄文人起源のmt-M7a7%だから、北海道縄文人は漁民だった原日本人を主体に、3割程度の狩猟民族を含んでいたと考えられる。北海道と樺太が切り離されて、Y-C3狩猟民族がいなくなる前に原日本人が北海道に移住し、狩猟民族と共生して北海道部族を形成したから、東北より狩猟民族が多い北海道縄文人が生れたと考えられる。道南は北海道部族のテリトリーではなく、東北縄文人のテリトリーだったから、mt-M7aは浸潤したのではなく、道南にいた東北縄文人の遺伝子である可能性もあるが、個々の遺伝子の発掘場所が公開されていないので判断できない。

漁民は狩猟民族と生業が競合しないから、温暖化によってY-C3が北上したか否かに拘わらず、共生が可能な組み合わせだった。従って原日本人が北海道に入植した際に、シベリア起源のY-C3がいたのか如何かは、原日本人が北海道に入植した時期を決める要件にならないが、Y-C3狩猟民族の残存率が高い事は、彼らの北上時期は宗谷海峡が形成される以前だった事を示唆している。漁労民族だった原日本人は狩猟民族から獣骨の提供を受け、それを素材として銛を作る必要があったから、狩猟民族と漁労民族の共生によって狩猟民族の食生活が改善されると、宗谷岬が生まれて北海道がシベリアから切り離されても、遊動する狩猟形態を放棄して北海道に定住する狩猟民族がいた事を示している。これは津軽海峡が形成されてから原日本人と縄文人が入植した、東北縄文人とは異なる状態だったから、遺伝子分布がその違いを明瞭に示している。

東北縄文人にはシベリア起源のmt-D7%しかなく、mt-Gはいないから、16千年前以降に津軽海峡が生まれ、シベリアの狩猟民族の南下遊動が不可能になった頃には、原日本人はまだ東北に入植していなかった事と、津軽海峡が失われた東北には、狩猟民族は殆どいなかった事を示している。

北海道縄文人はmt-Gを含み、東北縄文人はmt-Gを含んでいないのは、後氷期の温暖化によってY-Nmt-Mペアがシベリアに北上した際に、mt-Dは栽培系の最北遺伝子だったから、15千年前より早い時期に北上してY-C3狩猟民族に浸潤したが、mt-Gはその南に位置していたから北上が遅れ、15千年前にはY-C3狩猟民族に浸潤していなかった事を示している。シベリアからアメリカ大陸に渡ったのはmt-Dmt-Cだから、Y-Dは沿海部の最北の栽培者だったとの想定と一致する。

mt-Cは沿海部を好まない女性達だったらしく、現在も内陸の遺伝子であり続け、縄文人の遺伝子としては発掘されていないから、この時代の日本の話から除外しても良いと考えられる。mt-Gは現在もシベリア沿海部の遺伝子だから、北海道縄文人にmt-Gが含まれている事は、沿海部のY-C3狩猟民族に浸潤した事と整合する。従って15千年前の東ユーラシアの沿海部では、温暖化に追われてシベリアに北上したY-Nmt-Dのペアが既に存在し、宗谷海峡が消滅した12千年前にはmt-Gもシベリアに北上していたから、北海道に南下した狩猟民族にmt-Gが含まれていた事になる。

つまりmt-Gを欠く東北縄文人の遺伝子分布は、北海道の狩猟民族より古い、シベリア系Y-C3狩猟民族の遺伝子を含んでいる事になり、この時期の北東アジアの事情も示している。これらのmt-M系遺伝子の北上に関しては、「その2 4-4 ヤンガードリアス期の東ユーラシア大陸」の節で説明する。

氷期の寒冷期の現日本人の北限は、関東と新潟だったから、北海道と東北は狩猟民族の世界だった。しかし後氷期に温暖化すると、原日本人や縄文人が北海道や東北に移住したから、それらの地域にも縄文文化が開花した事になる。その際の時代の目安として、上の遺伝子分布が示しているのは、北海道は12千年より前に原日本人と狩猟民族との共生地になり、東北は15千年前より新しい時代に、縄文人と海洋漁民の居住地になった事になる。それとは別の観点で遺伝子分布を考察すると、北海道縄文人は原日本人が単独で北上した事によって生まれ、東北縄文人は原日本人が縄文人と一緒に北上して生まれた事を示しているから、北海道縄文人は縄文人が九州に上陸する以前に北上し、東北縄文人は縄文人が九州に拡散した後に北上したと想定される。

北海道に九州の原日本人が北上したのは、15千年前の温暖化によって海産物の腐敗が激しくなり、冷凍保存できなくなって食料危機が起り、北海道への移住を決意したと想定されるから、温暖化が急速に進展した大陸に近い、北九州の原日本人だった可能性が高い。この時代の黄海は未だ大陸の一部で、五島列島は九州と繋がっていたから、北九州は狭い海峡を挟んで大陸と接する地域で、大陸の一部と言っても良い気候だったから、後氷期が始まった15千年前に急激に温暖化したと想定されるからだ。それとは対照的に、太平洋の温暖化は急速には進展しなかったから、太平洋の沿岸にあった宮崎や四国東部は、緩やかに温暖化する程度だったと推測される。従って古事記が示す壱岐を神聖化していた部族か、対馬を神聖化していた部族のいずれかが、北海道に移住したと想定される。

縄文後期以降の諸事情から、北九州は二つの部族テリトリーに分かれていたと想定される。遠賀川の上流域に東日本的な集落が発見されている事と、古事記が宗像に政治勢力があった事を示唆しているからであり、縄文後期に宗像に帰還した部族があって、この部族は北海道縄文人ではなかった事から、宗像の他方の部族が北海道部族の祖先だったとすると、壱岐が北海道部族の故地だったと想定される。

これらから想定される4.5万年前の事情として、北海道部族の祖先になった原日本人は、湖だった現在の大村湾に到着し、他の原日本人の様に海洋漁民化する際に、壱岐を山頂とする連山の南部に湾入していた、波の穏やかな海で海洋漁労の技能を高めたが、その後の海面上昇によって壱岐だけが島になって残ると、壱岐を神聖視する部族になったと推測される。この海域は対馬海流が流れる様になると海底地形が変わり、現在の海底には当時の地形は残っていないので、壱岐と対馬の関係は必ずしも明確ではないが、この部族の15千年前までのテリトリーは、五島列島を東端とする当時の北九州東岸だったと想定すると、縄文人が沖縄から九州に移住した際のシナリオが描き易い。

つまり沖縄系縄文人の九州上陸が、北海道部族の北上を待って行われたために、石垣系縄文人の北陸上陸より遅れがあり、沖縄の縄文人の極一部しか九州に上陸できなかったと推測される事と、15千年前から数千年間の縄文人の痕跡が、長崎県の山中から発見されている事と整合するから確度が高い。沖縄系縄文人の九州上陸に関しては、その2を参照。

東北縄文人のミトコンドリア遺伝子分布は、原日本人の遺伝子だったmt-N9b59%、縄文人の遺伝子だったmt-M7a34%、Y-C3狩猟民の遺伝子だったと考えられるmt-D7%だから、九州に縄文人が拡散した縄文早期に、九州縄文人になった沖縄系縄文人を伴って、狩猟民族が希薄化していた東北と道南に移住したと考えられる。先に北海道に移住した原日本人と彼らと共生した狩猟民族は、縄文人の堅果類を補助食料にできなかったから、魚や肉が腐敗しない冷涼な気候地域に居住する必要があり、彼らの居住適地は道北や樺太だったから、超温暖期になってから東北縄文人が道南に入植する事に、クレームを付けなかったと推測される。

海洋漁民は部族テリトリーを確定する際に、海峡の両岸をテリトリー化する例が多かったから、東北部族が津軽海峡を挟んで両岸をテリトリー化する事は、既定路線だったと想定される。これは彼らが揺籃期の漁民だった時代に、平行する陸地に挟まれて波が穏やかな海峡や湾を漁場にしたから、それが習俗になっていたと想定される。つまり津軽海峡を挟んで青森と道南に移住したのは、四国と九州に挟まれた豊後水道を漁場にしていた、伊予を起源とする部族だった可能性が高い。超温暖期が始まった12千年前の豊後水道は、佐田岬まで海進が進んでいたからだ。

三内丸山遺跡の土器が縄文早期の九州系土器の形状を示し、堅果類をすり潰す石器の形状も似ている事や、沖縄系縄文人に特徴的なY-C1遺伝子が東北に多い事は、東北・道南縄文人は沖縄系縄文人だった事を示している。東北縄文人にはシベリア系のY-C3狩猟民が少なかった事は、狩猟民族の不足を縄文人のY-C1が補っていた事を示唆している。漁労民族は狩猟民族が提供する獣骨や角がなければ、銛や釣り針を作る事ができなかったから、東北縄文人にも北海道縄文人程度の狩猟民族が混在しなければ、獣骨の需要が賄えなかったとすると、東北縄文人の34%mt-M7aの内、半分がY-C1のペアだった可能性もある。

九州にいたY-C1狩猟民は、九州にいたY-C3狩猟民族の既存の縄張りに阻まれ、狩猟の獲物が十分に得られなかったから、琉球岬や沖縄での共生環境を得るために、堅果類の樹林を形成してくれるY-O2b1縄文人を誘い、Y-C3狩猟民族が希薄になっていた東北に、意欲的に進出したと考える事も出来る。縄文早期になると弓矢の技術が進化し、狩猟民族も弓矢を使うようになったから、その発明者だったY-C1は従来捕獲できなかった、大型獣も容易に捕獲できるようになった事に自信を深めていただろう。従って温暖化した故に、東北や道南でもアサやウルシ樹を栽培できる事を確認し、Y-O2b1にも堅果類が栽培できるようになった事を確認して貰い、Y-C1が東北への移住を決意したと想定する事もできる。

超温暖期になって黒潮の温暖化に苦しんでいた九州の原日本人部族が、それに応じたとも言えるが、東北の情報は原日本人がもたらしたものだから、魚介類の腐敗問題に苦しんでいた原日本人の方が、移住に積極的だった可能性も高い。後世の東北縄文人には多数のY-O2b1が含まれていたと想定されるが、縄文早期に東北に移住した時点では、Y-O2b1は極めて少数だった可能性も高い。

Y-O2b1が多かった縄文人の、九州から関東への移住は、太平洋沿岸を徐々に北上するもので、その痕跡が太平洋沿岸の各地に遺されて黒潮の路と呼ばれている、大掛かりで時間が掛かるものだったのに対し、東北縄文人の東北への移住は、その様な途中経路を遺していないから、縄文早期に急速に温暖化すると素早く九州から東北に移住したと想定されるからだ。琉球岬的な共生に慣れていた3民族が、その生活を各地で復活させると、民族の人口バランスは地域の実情に合わせて自然に補正された筈だから、東北縄文人のミトコンドリア遺伝子の分布は、その結果を示している事になるが、東北縄文人のY-C1人口は、そのバランスを崩すほど多かったと想定される。

経済活動の成熟期の項で詳しく検証するが、彼らが北上した縄文早期は海進途上で、周防灘はまだ陸地だったから、北九州や山陰を拠点にしていた部族は東北の日本海沿岸に北上し、伊予を起源として豊後水道を漁場にしていた部族は太平洋沿岸を北上した。しかし山形や秋田の日本海沿岸は、1万年前~7千年前に対馬海流が生れる様になると、海流が海岸に砂丘を形成し始め、海洋漁民の生活圏に適さなくなった。その為にそれらの部族は、砂丘が発達しにくい能代や津軽海峡沿いの北方に展開し、三内丸山遺跡を生んだと考えられる。

最上川の河口である酒田に一旦定住した東北部族の中で、海洋漁民は砂丘が生れると青森に北上したが、縄文人の一部は最上川を遡上して古山形湖の畔に定住し、東北縄文人最大の集積地を形成した可能性がある。注目される土偶が山形から発見されているのは、山形盆地を形成した古山形湖は巨大湖だったから、Y-O3a2aがその湖沼漁労を担う事により、人口の集積が形成されていたと想定されるからだ。日本海沿岸に北上した部族は、地理的な関係から北陸部族との交流を深めた事を、三内丸山遺跡から発掘されたヒスイの加工品が示している。

太平洋沿岸に北上した部族は、福島~道南の入り江に拠点集落を形成し、関東部族が海洋民族化してシベリアの河川漁民や狩猟民族と交易する様になると、その交易路上の湊を提供する事により、シベリア産の獣骨を入手する様になったと推測される。

54万年前に原日本人が日本列島に南下した時代には、彼らは湖の畔に居住する湖沼漁民だったから、湖岸の漁場には定員があった。従って部族的な発想で漁場の縄張りを確定する事は、湖沼漁民の秩序形成に有効に働いたと推測されるが、海洋漁民化して船で沖合の漁場を求める様になると、漁労の縄張りを主張する必要はなくなった筈だが、その様な状態になって久しい縄文時代になっても、原日本人の子孫達は強烈な部族意識を維持し、部族を越えて通婚しなかった事が、関東縄文人と東北・北海道縄文人のミトコンドリア遺伝子分布の、極端な違いによって明らかになる。

部族意識を狭量な排他性と解釈するか、文化を発展させやすい地域分権主義と解釈するかは、ケースバイケースの判断になる。関東と北陸の二大縄文人勢力は、倭人時代が終わるまで部族意識を維持していた。元々の部族文化は、狩猟民族が武力抗争を避けるために生み出したものだから、それが経済的な競争文化に変形し、相互に刺激し合って海洋文化を発展させる原動力になった時代には、肯定的に捉えられる事例が多数生まれた。

中国の史書は北方民族の部族制を、未開民族の制度である様に描いているが、それは典型的な王朝史観であって、事実を正確に捉えた認識ではない。部族制は地域単位の自治制度であり、近代的な地域主権主義の原型でもあるからだ。江戸時代の幕藩体制は、奈良朝以降の王朝的な中央集権制から、倭人時代の部族意識に戻った事を示唆し、幕藩体制の成立によって平和な日本に戻ったから、日本人の統治意識もこの部族制を基底にしていると考える必要がある。

華北の漢族は、部族制に至る文明の発展段階を経ずに、未開状態から王朝支配下の民衆になった事により、住民主権を実現できない民族になった。日本の史家にも、中華的な王朝史観に追従して北方民族の部族制を、未開な制度だと見做す人が多いが、現在の北欧や西欧の小国は、シベリア起源の部族制を採用して現在に至っているとも言えるから、発展途上の民族の制度と見做すのは適切ではない。

民族は言語を共有する集団であると定義すると、言語を共有したのは男性で、その目的は狩猟文化を共有し、縄張りを調整するためだったと捉える事ができる。部族はその様な民族の中に生まれた、細分化された地域主権の単位だから、現代にも通用する制度だった。一口に狩猟と言っても、地域によって狩猟対象になる動物の種類や密度が異なるから、狩猟民族が縄張りを設定するためには、地域毎に異なる法規が必要になり、それを決める単位が部族だったから、その話し合いには共通言語が必要だった。従って部族は先進的な狩猟民族によって形成され、それに追従できなかった狩猟民族は、未開な民族に留まったとも言える。

栽培系狩猟民族は、栽培技術の向上と共に狩猟可能なエリアを拡大したから、栽培の生産性が高い民族が人口を膨張させると、地域の人口密度が流動的になり、狩猟の縄張りも流動的になった。栽培系狩猟民族はその様な状態を繰り返したから、安定した民族テリトリーを構築する事は難しく、栽培の生産力に優れる民族が、既存の民族を置き換える状態が恒常化したから、安定的な地域自治を継続させる事も難しかっただろう。西ユーラシアでは氷期にY-C1が卓越し、後氷期になるとY-Gがそれに代わり、気候が温暖化して農耕技術が進化するとY-Rが覇権を握ったのは、その様な状態が進んだからだと推測される。

しかし氷期のシベリアでは自然環境と生業が恒常的に安定していたから、狩猟民族が部族主義を採用する事により、秩序主義的で平和的な社会を形成した。縄文時代には河川・湖沼漁民がそれを継承し、部族主義的な統治文化を高度化した。その実態については、魏志濊伝を参照して頂きたい。

その様な部族主義の基本思想が、地域主権と先取権の尊重だった。先取権の尊重は、一旦或る部族が先取権を主張すると、そこは他部族にとって不可侵の地になる事により、その部族の安定的な存在が保証される制度だった。現代社会の国家観にこの発想が継承されているのは、シベリア文化の影響を受けた西欧人が世界秩序を先導しているからであって、農耕民族には馴染まない考え方だから、最も農耕的な中国人が勝手に南シナ海の領有権を主張していると見る事もできる。

部族が生まれると言語が部族毎に方言化する事も、止むを得ない流れだったと考えられる。しかし狩猟民族や漁労民族の言語は、部族間の交渉や交易にも用いる必要があり、広域化する必要があった。現在のシベリアの民族には、ウラル・アルタイ語と呼ばれる類縁的な言語しかない事が、その事情を示している。

一方移動範囲が狭かった農耕民族の言語は、極めて狭いエリアで方言化したから、農耕民族の言語は多様性に富んでいる。日本で地域言語が方言化したのは、農業社会化した奈良時代以降で、海洋民族が支配していた縄文時代の言語は、部族内で統一されていたと推測される。

 

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