日本人の遺伝子とイネの遺伝子を解析する 史書が示す倭に戻る

 

遺伝子分布は歴史を明らかにする有力な手段だが、基本認識が誤っていると解釈が混乱し、折角のデータが無駄になる。

マーケティング手法で遺伝子分布を解析すると、有史以前の出来事が明らかになる。

この手法は簡明で実践的だが、背景論理が必要になる。その作成は面倒ではあるが、理論化が実現すれば文献や考古遺物だけを頼りにする、従来の手順では得られない合理的な解釈が得られる。遺伝子群の移動や拡散を法則化する事は、歴史を科学にする手法でもある。

中国の歴代史書が倭人を海洋民族としているから、それを唯一の事実として背景論理を構築すると、考古遺物だけではなく、歴史的な気候変動も包含する論理的な歴史解釈が生まれ、文献が内包する作為も明らかになる。遺伝子分布の精度は統計学的に保証されるから、偶発的な発掘事情に左右される考古学的な誤解や、古文献に含まれる政治的な捏造に左右されない歴史の実態を示し、論理と事実の整合性の高さが、遺伝子分布は歴史の偽らざる証拠である事を示すからだ。

歴史事実は個別に検証する必要があるが、序論では導入項としての概論を示すから、詳細は本論を参照して頂きたい。

遺伝子分布と歴史事実を擦り合わせる項(10)縄文時代~の前に、通説の誤りを指摘するために(1)魏志倭人伝~(9)唐書の項を掲げたが、史書に興味がない方は(10)縄文時代から読み進んで頂きたい。

このHP「倭人の歴史」と題しながら氷期の歴史から紐解くのは、倭人の本質は縄文人であり、縄文人の歴史は氷期から始まっていた事が、遺伝子分布から明らかになるからだ。

 

このページの目次

1、日本人のY遺伝子の由来

2、日本人のミトコンドリア遺伝子の由来

3、イネとヒトの遺伝子から、稲作伝来事情を解析する

 

1、日本人のY遺伝子の由来

Y遺伝子は父親から息子に完全なコピーが伝えられるが、希に変異が起こるから、変異を分類すると過去の民族移動を復元する事ができる。Y遺伝子以外は2本が対になっているから、この用途には使えない。その理由は、祖父母と孫の関係に着目すると分かり易い。孫は4人の祖父母の8本の遺伝子から、偶然選ばれた2本の遺伝子しか受け取らず、彼らの生き残りには遺伝子淘汰が作用したから、風土に適合した遺伝子を受け継いだ孫は生き残り易く、外来遺伝子は世代を経て消滅し易かったと考えられるからだ。

遺伝子索は膨大な遺伝情報を内包しているが、遺伝子として機能しない部位が沢山あり、その変異は自然淘汰に影響しない。Y遺伝子のその部位に着目し、共通性が高い変異をAT20種に大分類して、それに準じる共通性が認められるものを、サブフィックスを付けて更に細分類している。細分類は毎年改定されるので、既存分類の一部は毎年名称を変更する必要がある。毎年最新版に追従し続けると、既存データが表現していない分類名が生まれ、読み替え作業が煩雑になるだけではなく、蓄積されたデータとの比較が困難になる。

その作業を継続するか否かの損得を勘案し、適切な解析環境を確保するため、以下では2007年の論文データを使い、2013年版の分類名に準拠してサブフィックスを決めた。2014年以降の分類に準拠しないのは、系統樹を合理化するために分類を大変革したから、それ以前のデータが参照できなくなったからだ。人の移動を追跡する際に注目するのはマーカーであって、マーカーの精密な系統樹ではない。系統樹を精緻化するために膨大なデータが収集され、複雑な系統樹が定義されているが、出自記憶を失った都市住民のデータが混入すると、系統樹の精度は高まっても地域データに誤りが生まれ、特定の遺伝子を持つ者の移動を追跡できなくなくなるからでもある。

以下は参照した論文のデータをグラフ化したもの。

出典;Y-chromosomal Binary Haplogroups in the Japanese Population and their Relationship to 16 Y-STR Polymorphisms I. Nonaka, K. Minaguchi, and N. Takezaki

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D2は日本人独特の遺伝子で、多数の変異を内包しているから、氷期から日本列島にいた人の遺伝子であると考えられる。O2b1も日本独特の遺伝子で、D2程ではないが多数の変異を内包し、日本列島での歴史が長かった事を示している。O3系は東アジアに広く分布し、膨大な変異が発見されている。C3は北東アジアに多く、氷期のシベリア狩猟民の遺伝子であると考えられる。O2bは朝鮮半島で3割を占め、日本にも分布している。D2O2b1O2bO3a2c1C3の流入イベントを検証すれば、8割以上のY遺伝子の流入経緯をカバーでき、それを基に詳細に分析すると、他の遺伝子の流入イベントも明らかになる。遺伝子の分岐年がまことしやかに流布しているが、分岐年は歴史事象が判明する事によって初めて明らかになる数値だから、機械的に計算した分岐年は歴史を解釈する根拠にはならない。

 

1-1 縄文時代以前の移動(D2O2b1C3、など)

2万年前まで氷期が続き、東ユーラシアでは8千年の過渡期を経て12千年前に、温暖な後氷期になった。11万年続いた氷期には、4.1万年周期の相対的な温暖期と寒冷期があり、64万年前は温暖期で、42万年前は寒冷期だった。氷期の海面は現在より120m以上低く、北海道は樺太を介してシベリアに繋がり、津軽海峡も徒歩で横断できたので、D2はその陸橋を経て、5万年前にシベリアから日本列島に来たと考えられる。朝鮮海峡は氷期も陸橋化しなかったので、半島経由で日本列島に人が来る事はなかった。

下のグラフは氷期が終了した2万年前から現在までの、海面上昇の様子を示している。氷期の11万年間に徐々に海面が低下したのではなく、一貫して120m以上低かったと考えられる。

出典Wikipedia

氷期が終わると北大西洋両岸の厚い氷床が融け始め、海面上昇が始まったが、海面が上昇し続けた期間は、北大西洋両岸に厚い氷床が残っていたから、西ユーラシアや北アメリカ東岸では、後氷期の開始は東ユーラシアより1万年ほど遅かった。東ユーラシアでは15千年前に温暖化が急進展し、その影響によって北大西洋岸の氷床の融解が加速したから、海面の急上昇が始まったが、13千年前に寒の戻りが始まり、氷床の融解が停滞した。この寒が戻った時期を、ヤンガードリアス期と呼ぶ。12千年前に東ユーラシアが再度温暖化し、北大西洋沿岸の高緯度地域の氷床も11千年前から急激に融解し始めたから、海面の急上昇が復活した。8千年前には高緯度地域の氷床の融解が収束し、縄文海進の時代になったが、縄文海進時の5m以下の変化は、このグラフは反映していない。海面が上昇すると、氷期には海岸の平野だった地域が、水深100mの海底になり、その地殻が水圧で沈降したから、その影響は海岸にも及んだ。しかし沈降の程度は岩盤の性質や地形に依存するから、その精密な反映をこのグラフに求める事はできない。

海面が上昇し続けていた8千年前まで、北大西洋の両岸には厚い氷床が残っていたから、その間の北大西洋が寒冷な海であり続けた事が、北大西洋両岸の後氷期を1万年も遅らせた原因だが、氷床の融水が海を冷やしたのではなく、残っていた氷床や融解した水が形成した巨大な淡水湖が、雲や積雪を生み出して太陽光を反射し、大地の温暖化を妨げた事と、海に流れ込んだ淡水が北大西洋の塩分濃度を低下させ、メキシコ湾流の北上を妨げた事による。

日本列島にD2が漂着した54万年前は氷期の温暖期で、東欧からシベリアにかけて、オーリニャック文化と呼ぶ狩猟・漁労文化が展開していたから、D2はその文化に関係した人々だったと考えられる。オーリニャック文化遺跡から検出されたのはC1だが、オーリニャック文化は狩猟民族と漁労民族の、混成文化だった可能性が高い。オーリニャック文化圏の漁労民族は、狩猟民族とは生業が異なる民族として共存が可能だったが、氷期の深い谷底で活動していた河川漁民の痕跡は発掘できないからだ。チベットもD系遺伝子が多い地域で、日本列島と同様に氷期にも湖が散在していたから、D系はチベットと日本列島に分かれる以前から、湖沼漁労を生業とする民族として、氷期の温暖期にはユーラシアの各地に散在していたと考えられる。狩猟民族は南北に遊動できるから、気候が寒冷化したシベリアでも活動が可能だったが、水辺に居る必要があった漁労民族は、シベリアが寒冷化すると南下を強いられたから、Dがシベリアに居住できたのは、氷期の温暖期だけだった。

D254万年前に、シベリアから陸橋を経て日本列島に到着したと考えられるが、シベリアの狩猟民だったC3は、それ以前から日本列島に南下できたから、C3の日本列島への南下はD2より早かった可能性が高い。

旧石器時代の狩猟者は、硬い石を打ち欠いて鋭利な刃部を形成し、それを使って獲物を仕留めたり、毛皮を剥ぎ取って衣類にしたりした。考古学者はそれを打製石器と呼び、狩猟者が存在した証拠にする。日本ではその様な打製石器だけでなく、43万年前の磨製石斧も多数出土する。磨製石斧は、粘性がある石を研いで刃部を形成した石器で、縄文時代には樹木を伐採するために沢山作られた。作成に手間が掛かり、肉を切り裂く鋭利さは得られないから、この時代も樹木を伐採する道具だったと考えられ、D2は氷期の温暖期に筏や追い込み漁の柵を作る文化を生み出し、その技能を高めながら湖沼漁労によって人口を増やしたと推測される。

3万年前から氷期の最寒冷期になり、それと共に磨製石斧を伴う遺跡は発見されなくなった。D2が氷結した湖を捨て、湖沼漁労で獲得した操船技術を応用し、海洋漁民になったからだと考えられる。3万年前の日本列島には、狩猟民族と海洋漁労民族が交易を行った痕跡があるから、C3が狩猟民族として人口を維持し、D2が海洋漁労によって人口を増やした結果、D2が多数派である日本人の基底が形成されたと考えられる。

当時の海岸は、現在は水深120mの海底だから、彼らが漁労を行った海岸では、その痕跡は発掘されないが、23万年前の日本列島に海洋漁民がいた別の痕跡が、考古学的に発掘されている。孤島だった伊豆半島沖の神津島の黒曜石が、この時代の内陸の遺跡から沢山発掘されているからだ。この時代に、伊豆半島から40㎞以上離れた神津島に渡航できたのは、海洋漁民以外には考えられないから、既に海洋漁民が成立していた事を示す確実な証拠になる。

D2が氷期の東アジアで唯一の海洋漁民になったのは、日本列島には独特の自然環境があったからだ。その第一の特殊性は、湖沼が沢山あった事に依る。現在の日本列島には湖沼は殆ど存在しないが、それは後氷期になって降雨が増え、1万年間に殆どの湖が消滅したからで、火山列島である日本では定期的に湖沼が生まれるから、降雨が少なく湖沼寿命が数万年以上あった氷期には、湖沼の形成頻度は消滅頻度を大きく上回っていた。

現在の日本列島でも、九州・中国・四国には湖がなく、北海道に大きな湖が多数ある事は、気候による湖沼寿命の違いを示している。D2が日本列島に辿り着いた54万年前は、氷期が始まって6万年経過していたから、日本列島には巨大湖が沢山あった。氷期の降雨は少なかったが、日本列島は亜寒帯林に覆われていたから、それを維持する降雨はあった事になり、その降雨が湖沼の水を循環させて魚の生育を助け、氷期の温暖期には豊かな漁場を提供しただろう。

東ユーラシアの日本列島以外の島嶼は、湖沼漁民が氷期に生まれる環境に恵まれていなかった。日本でも湖沼漁民から海洋漁民が生まれたのは、関東・新潟以西の地域だったから、その程度に温暖な気候は必要だったことになり、北海道や樺太には湖沼漁民が生まれる環境はなかった事になる。

氷期の台湾は現在の日本列島の様に温暖で、雨が多かったから、湖沼の寿命は数千年程度しかなく、氷期にも湖沼は殆どなかったと想定される。フィリッピンは海面が低下しても孤島だったから、人は到達していなかった。

大陸の大河の河口近辺でも、湖と同様の環境が生まれた様に見えるが、氷期の海水面は現在より120m以上低く、海岸には広大な沖積平野が広がっていた。砂や泥が堆積した沖積平野では、石器の素材になる岩石が得られないから、石器時代の人が住む環境ではなかった。

氷期の海水温は低く、蒸発が抑えられたから、大陸内部では降雨が極端に少なく、砂漠が広がっていたと考えられる。チベット高原は造山帯にあり、モンスーン気候地域でもあるから、氷期にも湖沼が散在していたと想定されるが、付近に海はないから、湖沼漁民が海洋漁民になる状況を欠いていた。

氷期の寒冷期が終わって微妙に暖かくなり始めると、19千年前頃からシベリアで狩猟を行っていたC3が、北から陸路で日本列島に流入し始め、細石刃と呼ばれる石器を各地に遺した。温暖化し始めた時期にシベリアから狩猟民族が南下した事は、気候の変化と民族移動の観点では真逆の方向だから、通常の状態では考えられない事態が発生した事になる。獣骨やシカの角は漁具である釣り針や銛を作るための、唯一と言っても良い貴重な材料だったから、D2漁民の間でその需要が高まると、それらと海産物との交換によって豊かさを得たC3狩猟民族の、日本列島への南下が促されたからだと想定され、以下の様な証拠がその事情を示している。

日本最古の土器は、津軽半島の16500年前の遺跡から発掘されたが、道南にある同時代の巨大な旧石器時代の遺跡は、石製装飾品や琥珀の珠が出土する豊かさを示しながら、その後も数千年間土器を含まない状況が続いた。その不自然さを解く鍵は、土器が発見された津軽半島の遺跡から、同時に発掘された矢尻にある。これもまた、道南の旧石器時代の遺跡からは発掘されていないからだ。

矢を飛ばす弓にはアサなどの植物性繊維が必要だが、未だ氷期が完全に終わっていなかった寒冷な時期に、津軽半島にアサが自生していた筈はなく、交易を介して南の暖かい地域からアサと土器を入手したから、この遺跡の住人だけが土器と矢尻を持っていた事になる。氷期の日本列島は九州まで、亜寒帯の針葉樹林に覆われていたから、アサは沖縄や台湾などの温暖な地域しか自生していなかった。アサが自生する気候であればドングリなどの堅果類も自生できるから、それを食料にする民族には、加熱してアクを抜くための土器が必要だった。従って16500年前の津軽半島の土器と弓は、沖縄以南の地域で堅果類を採取していた民族が供給した事になる。

15千年前に急激な温暖化が始まり、九州は落葉樹や照葉樹が自生できる温暖な気候になったから、堅果類に依存する食文化を持つ民族が、北上できる環境生まれた。それに応じてO2b1が渡来したが、彼らは海洋を航行する技能を持たなかったから、D2が渡航を支援したと考えられる。D2が彼らの渡航を支援したのは、土器や弓矢が欲しかったからではなく、船や漁具の素材になるアサの入手を容易にしたかったからだと考えられる。

この頃から日本列島に、ドングリが実るナラ類の林が広がったが、それはO2b1がアサなどと共に、その種子を持ち込んだからだと考えられ、その証拠は以下になる。

日本には杉やヒノキなどの、冷温帯性の固有樹種が沢山ある。それらの固有樹種が日本列島に存在する事は、氷期と関氷期を繰り返した数十万年間、日本列島のそれらの気候帯の樹種には、大陸と植生を交流する機会がなかった事を示している。従って同じく冷温帯性の樹種で、日本列島の固有種ではないドングリを実らせるナラ類は、誰かが種を持ち込まなければ、日本列島に自然に上陸する事はなかった事になる。それは縄文人だったと考えなければ、日本の植物史は成立しない。

暖温帯性のカシ類は、更にこの条件が厳しいから、誰かが持ち込んだ事は間違いない。それを日本に持ち込んだのは、1万年前以降に渡来した女性達だったと考えられるので、それについてはミトコンドリア遺伝子の章で説明する。

16500年前のD2は海洋を経由して、沖縄以南にいたO2b1からアサや土器を入手したが、O2b1が九州に上陸してアサを栽培し、潤沢な供給環境が生まれると、D2C3も弓矢や土器を使い始め、12000年前には矢尻と土器を使う文化が日本列島に普及していた。

但しその頃の縄文遺跡は、九州に限れば南方から来たO2b1の痕跡だったが、東日本はまだ冷涼だったから、堅果類の栽培者だった、O2b1の痕跡だったとは考えられない。D2漁民の生活痕は、現在海底にあって発掘されないから、この頃の東日本の縄文遺跡は、C3狩猟民の痕跡だった可能性が高い。

土器と矢尻が発掘された16500年前の津軽半島の遺跡は、当時の海岸から20㎞も離れていた上に、当時の標高で140mの地点に営まれたから、漁民から土器やアサを入手した狩猟民の痕跡だったと考えられる。彼らは漁民と交換する物品を持っていたから、それらを入手する事ができたと考える必要があり、それは漁具の素材になる獣骨や、ヘラジカの角だったと想定される。

マンモスの化石は本州から発掘されないが、マンモス動物群であるヘラジカの化石は発掘されるから、当時の北海道と青森は狭い陸橋で繋がり、その経路を崖が遮っていたと想定される。冬季にシベリアから北海道に南下したヘラジカは、狭い陸橋を通って本州に南下したから、陸橋に隣接した隘路が絶好の狩猟場になり、そこに集まった狩猟民と海洋漁民との交易が生まれ、狩猟民のキャンプ場に土器と矢尻が遺されたと想定される。地図を詳細に見ると、その遺跡は隘路を見下ろす台地上にあった事が分かる。

温暖化し始めた1万9千年前に、シベリアから南下した狩猟民も、その様な交換によって海産物を多量に得たから、その豊かさ故に日本列島に定着したと想定される。

 

九州に北上する前の、O2b1の居所と北上経路

氷期の東シナ海は台湾まで陸地化し、台湾の南北は広大な平原だったので、以下それを台湾平原と呼ぶ。台湾平原は沖縄の近くまで張り出していたが、沖縄は氷期も孤島だった。氷期の寒冷期の東ユーラシアの平均気温は、現在より10℃ほど低く、台湾平原は現在の東日本の様な気候だったから、温帯性の落葉樹林が広がっていた。尾瀬の花粉がその想定の根拠を示しているから、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動を参照。

3万年前に氷期の最寒冷期になると、日本列島は現在の樺太の様な気候になり、亜寒帯性の針葉樹林帯になった。D2漁民は海洋に進出せざるを得なくなったが、最北の海洋漁民になった東日本の漁民は特に厳しい寒さに見舞われ、冬季になると船で南下遊動せざるを得なくなった。季節遊動はシベリア系狩猟民族の習性だったから、彼らと接していた海洋漁民の季節遊動は、特記する程の異常事態ではなかった。当初の遊動先は日本列島内だったかもしれないが、寒気が厳しくなると沖縄に南下し、やがて台湾平原に渡ってO2b1と交流し、アサや土器を入手する様になったと想定される。既に異民族のC3狩猟民と交易を行っていたから、新たな異民族との交易にも抵抗はなく、両者の交易の発端は、3万年以上前に遡る可能性が高い。海洋漁民だったD2にとって、それらの民族とは縄張りを争う必要がなく、物資の交換は双方のメリットになったからだ。2.7万~1.5万年前の石垣島の遺跡から、縄文人のミトコンドリア遺伝子を含む骨が発掘された事が、その証拠になる。石垣島は氷期も孤島だったから、海洋漁民の助けがなければ、縄文人が石垣島に渡る事はできなかったからだ。

18000年前に海面上昇が始まり、台湾平原が水没し始めたから、沖縄と台湾平原の距離が長大化した。アサが欲しかったD2O2b1に、沖縄への移住を勧誘したと推測される。

17000年前の人骨である沖縄の港川人は、台湾平原にいた縄文人の祖先が、台湾平原では採取できない石材を、D2の船で沖縄に渡航して採取した痕跡か、既に沖縄に移住していた縄文人の痕跡になる。

16500年前の津軽半島の矢尻は、付近の石で作られていたから、弓に使うアサを交易で入手していたと想定され、直接の交流がない両民族が、弓矢文化を共有していた事になる。

15000年前に海面上昇が激しくなり、沖縄が狭くなる様子が目立ち始めたが、既に沖縄に渡っていた縄文人は、台湾平原が沖縄から遥か遠くに離れていく中で、孤島の住民になっていた。その一部が沖縄が狭くなっていく事に危機意識を持ち、再びD2の勧誘を受けて温暖化した九州に渡海した事を、沖縄人と本土日本人の、O2b1O3a2aC1の相対比率の類似性が示している。生業が違う3民族が共生していた沖縄で、各民族の個々人がそれぞれの役割を果たしていたから、九州でも同質の社会を形成した事により、相対比率が固定化したと考えられる。

長崎県の福井洞窟の15000年前の土層から、縄文土器が発掘され、海面が急上昇し始めた時期に、縄文人が九州に渡来した事を示している。津軽の16500年前の土器は系譜が不明だが、福井洞窟では上層から、より進化した爪型紋土器が発掘され、進化の跡が読み取れる縄文土器だった事を示しているからだ。当時の海水面は現在より110m低く、五島列島と九州は陸続きだったから、O2b1はその中間にあった丘陵地に居住したと想定されるが、その痕跡も海底に沈んでしまった。福井洞窟で土器を使った住人は、縄文人から土器を入手したC3狩猟民だった可能性が高いが、縄文土器の継続的な存在は、O2b1が九州に上陸した事を示している。

ヤンガードリアス期になって寒さが戻ると(1300012000年前)、O2b1は薩摩半島の「栫ノ原遺跡」(かこいのはらいせき)などの九州南端に退避したが、縄文早期(120007000年前)に温暖化すると、鹿児島湾岸の「上の原遺跡」などで縄文集落を営んだ。彼らはD2漁民との交流を重視していたが、海面上昇を極度に恐れていたので、入り江の奥の小高い丘の上に集落を営んだ。それ故に海面上昇期だったにも拘わらず、現在も発見できる縄文遺跡を遺した。O2b1が上陸してから3千年経過していた薩摩半島時代には、上陸直後に入植した五島列島と九州の間の丘陵地は海に飲み込まれていた上に、海面上昇は依然として継続していたから、恐怖を交えてそれを伝承しながら、小高い丘の上に集落を営んだと推測される。

7300年前に九州の南の海底で火山(鬼界カルデラ)が大爆発し、O2b1の中心地だった九州南部は壊滅したが、この時代には現在より遥かに温暖化していたから、O2b1は既に本州に拡散し、D2C3と共生する新しい縄文文化を形成していた。

現在D2O2b1は九州から青森までほぼ均一に分布しているが、関東のD2比率が西日本より高いのは、東日本は西日本より冷涼で植物性の食料が乏しく、食料に占める海産物比率が高かったからだと考えられる。日本人のD2比率が高い事は、縄文時代の最も重要な食料は、海産物だった事を示唆している。日本列島で本格的な農耕が行われた縄文後期以降、栽培者だったO2b1O3a2a02b1と一緒に九州に上陸した遺伝子)の人口比率が高まった上に、古墳時代には他のO系帰化人が2割追加され、D2比率が更に低下したから、縄文中期までのD2比率は現在の2倍以上だったと想定される。従って漁民だけでなく、縄文人の殆ども海岸に住み、海産物を主要な食料にしていたと考えられる。現代日本人の大半が、海藻を消化できる特異な体質の保有者である事も、この想定を支持する。

氷期の黒潮は沖縄の東を流れていたから、D2は沖縄や台湾平原まで遊動する事ができたが、海面が上昇すると黒潮が沖縄の西を流れ、九州と奄美大島の間から太平洋に流出する様になったから、D215千年前以降、沖縄に渡航できなくなった。しかし曽畑式土器と呼ぶ、縄文前期の九州系土器が沖縄から発掘され、海洋漁民はその頃までに沖縄に再進出していた事を示している。海面が上昇すると幅100㎞の黒潮が、屋久島と奄美大島の間の幅200㎞のトカラ海峡を、最大流速7/h、平均流速5/hで太平洋に噴出する様になったから、それを横切るには10/h程度の速度が出る船が必要になった。D2の船がその条件を整えて再進出するまでは、沖縄はO2b1O3a2aC1の島として取り残された。沖縄人と本土日本人のこれらの遺伝子比率は類似しているから、これらが縄文人の遺伝子だったと考えられ、15千年前に九州に渡来する際に、その遺伝子比率で渡来した事は、この3民族も共生社会を形成していた事になる。

トカラ海峡を横断できる機動性の高い船で沖縄に渡ったD2が、沖縄から先に進まなかった筈はなく、縄文早期には台湾や華南に到着していた事を、岡山で発見された縄文前期の稲作の痕跡が示している。氷期の最寒冷期には亜寒帯性の気候だった日本列島に、これらの植生が自生していた筈はないから、大陸からイネの栽培技術を持ち込んだ人がいた事は間違いなく、日本列島の海洋漁民の船以外に、その人達が日本列島に渡航する手段はなかった。

弥生時代~古墳時代に編纂された中国の史書は、倭人の島が福建省福州の沖にあると記している。台湾の北端から大陸に向かうと、福州は最初の寄港地になるから、その記述が倭人の航路を示している。沖縄はその航路の中継基地だったから、多数のD2が移住し、D2比率が高い島になった事に異論はないだろう。

D2の沖縄への渡航時期については、ミトコンドリア遺伝子の項で詳しく説明するが、縄文前期~中期に沖縄に移住した海洋漁民D2の子孫が、沖縄人の多数派になったから、現在の沖縄はD2主体の島になっている。その事実は、縄文時代に海洋交易者だったのはD2だけで、O2b1は海洋に進出していなかった事を示している。日本列島の海岸でO2b1縄文人とD2漁民が共生し、互いに通婚する関係に至っていても、両者は異なる生業を持つ別の民族だった事を示している。

異業種を担う民族が、居住地を近接させながら分業していた事になるが、それが縄文社会の特徴だったと言っても過言ではない。複雑な産業社会に生きる現代人は、社会的な分業が高度な文化の基本要素である事を、実感を以て承知しているが、縄文時代にその様な社会が形成された事を、不思議に思うかもしれない。しかし農耕技術が未発達だった古代社会で、腐敗しやすい海産物を主要な食料としていた漁民は、優れた道具を開発して漁労の生産性を高める必要があり、その素材を得るための交易は、必須要件だった。特にアサと獣骨は必要不可欠な素材で、アサの入手は縄文人の日本列島渡来によって解決したが、獣骨の入手は大陸との交易に頼る必要があった。

中世以降の日本列島の農民は極めて自給自足的になったが、それは彼らが貯蔵性の高い穀類を栽培していたからであって、自給自足経済は農耕社会の特殊性であると考える必要がある。つまり農耕技術が未発達な縄文社会では、食料の多くを腐敗しやすい海産物に頼る必要があり、海産物の安定的な増産には、縄文人が供給するアサの増産と、狩猟民族が供給する獣骨の増加が不可欠だったから、後世の農耕社会とは比較にならないほど、活発な交易活動が展開された。その事実を認めなければ、縄文史は理解できない。

その様な縄文時代に、大陸のY遺伝子が大挙して日本列島に流入した痕跡はない。海洋を渡航する技能を持っていたのは海洋漁民だけで、東アジアの海洋漁民は縄張り文化を持っていたから、大陸からの移民は受け入れなかったからだ。日本に多いY遺伝子は、D2O2b1O3a2aC1などの縄文人由来の遺伝子に、古墳時代の帰化人である漢族のO3a2c1と、韓族のO2bが加わっているだけで、その他には流入時期や経緯が不確かな少数遺伝子の、O1aO2a1Nなどしかない。

O1aO2a1は、大陸の南部や台湾・フィリッピン・インドネシアに多い遺伝子で、日本では西日本の比率が高いから、秦代~漢初の動乱期に、日本列島に逃げ込んだ稲作民だった可能性が高い。Nは高句麗滅亡時(飛鳥時代)に、日本に亡命した高句麗人の遺伝子だったと考えられ、縄文時代~弥生時代に大挙して流入したY遺伝子はなかった事になる。遺伝子と彼らの生業を結び付ければ、これは必然的な結果でもある。

縄文時代の主要な生業は、漁労、狩猟、栽培の3種だったから、シベリアからC3狩猟民族が渡来し、沖縄から縄文人が栽培民族として渡来した時点で、日本列島の民族構成は飽和状態になり、大陸から同種の生業を持つ民族が渡来する必然性はなかったからだ。大陸では人口空白地帯に栽培民族が拡散し、時には暴力的な民族拡散も発生したが、海に囲まれて海産物を主要な食料としていた日本列島では、漁民との合意がなければ列島内に移住する事もできなかった。漁民は長い間共生していた縄文人や狩猟民族と、高度な共生文化を形成していたから、新たな民族を受け入れる必要はなかった。

古墳時代に帰化人を受け入れたのは、当時の特殊性が移民を受け入れる必然性を生み出したからだ。この章では事実だけを検証し、必然性は3章で説明する。

 

1-2 古墳時代の流入(O3a2c1O2b

中国の歴代正史に依れば、中国人は唐代末期まで、日本列島や南西諸島は云うに及ばず、台湾にさえも渡航できなかった。新石器時代の中国に海洋文化があり、鉄器時代にそれを失ったとは考えにくいから、大陸人は唐代まで東シナ海に乗り出す意欲はなく、古墳時代の帰化人も、D2の船で渡来したと考えられる。帰化人の主体は大陸のO3a2c1漢族と、朝鮮半島のO2b韓族だった。

大陸人には海洋性が欠如していた事は、(10)縄文時代/縄文人の海洋性と石材加工を参照して頂きたいが、その概要は以下になる。

D2漁民の主要勢力は、倭人と呼ばれていた。

大陸の戦国時代(BC53世紀)の様子を記した山海経は、「蓋国(山東半島の地域名)は鉅燕(河北・遼寧省)の南、倭の北にある」と記している。

後漢書や魏志(AD15世紀の事情)は、「倭人の島は会稽(福建省と浙江省)の東にある」と記し、山海経と同じ認識を示している。これらの記述は地理的には誤りだが、倭人が日本列島への渡航ルートを秘匿するために、大陸人にその様な嘘を組織的に言ったから、当時の認識としては正しかった。倭人が正式に朝貢した南朝時代(古墳時代)に著述された、後漢書までがその様に記している事は、弥生時代~古墳時代の倭人が、大陸人にその様に説明していた事になるからだ。

倭人は沖縄~台湾を経由して大陸に渡航し、最初に到着するのが福建省の福州だったから、大陸人は福州の沖に倭人の島があると考え、倭人もそれを否定しなかった事になる。大陸人から見れば話に無理がないが、船で日本列島と福州を往来していた倭人自身は、正しくないと認識していた事は間違いない。その事情については(1)魏志倭人伝の項で詳しく説明するが、大陸人のその様な思い込みは、倭人にとっては都合がよかったから、倭人はそれを否定しなかっただけではなく、大陸人がその様に思いこむ様に仕向けていた。

漢書地理誌に、「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う。」「会稽の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う。」と記されている。倭人も東鯷人も日本列島の海洋民族で、漢書はそれぞれの寄港地を書き分けたが、それは漢書の政治的な意図によるもので、実際には倭人も会稽に寄港していたから、漢書より新しい後漢書や魏志が、漢書の誤りを訂正している。

その訂正に従って漢書を意訳すると、「倭人を主体とした多数の海洋民族の船が、毎年(日本列島から)大陸の各所に渡って来て、多数の豪族と会って交易を行っている、と云われている。」になる。倭人と漢代の豪族との間に定期的な交流があったにも拘らず、歴代史書が倭人の島は福建省の沖にあると記し、誤った地理観を示しているのは、倭人がその誤解を訂正しなかったからであり、海洋性がなかった大陸人には、自分の目で誤った認識を訂正する能力がなかったからでもある。

倭人が漢族を騙していたのは、漢族が極めて凶暴な民族だったからだ。複数の史書が、具体的にその事実を示している。秦の軍人の凶暴さは、史記に赤裸々に描写されているから、敢えて紹介する必要もないが、漢帝国は海峡を20㎞渡海して海南島を征服し、圧政によって特産品の絹布を強奪したが、反乱が頻発したので支配を放棄したと、後漢書に臆面もなく記されている。漢民族はその様な倫理観を持つ民族だった。

三国時代の呉は、1万の兵を載せた軍船を倭人の島に向けて発し、奴隷狩りを行う積りだったが、台湾に上陸して数千人を拉致するに留まったと、三国志/呉志が記している。呉がこの様な不始末を仕出かしたのは、倭人が嘘の情報を与えていたからで、倭人の恐れは杞憂ではなかった。隙を見せれば倭人の島も、漢族の征服対象になっただろう。

台湾から九州に至る東シナ海は、倭人が支配する海であり、その地理は倭の軍事機密だったから、現代的な倫理観に照らしても、倭人が中国人を騙した事は許される行為だった。これらの記事からも、大陸勢力が弥生時代~古墳時代に、組織的に日本に渡来する事はなかったと断定できる。

倭人は稲作民と文化を共有したから、江戸時代までの日本人は呉音で漢字を読んでいた。この「呉」は春秋時代の呉の事で、倭人の島に侵攻しようとした三国時代の呉ではない。揚子江下流域の政権として、両者は共に呉を名乗ったが、その支配者は全く異なる民族だった。春秋時代の呉は史記に記された様な呉ではなく、倭人と親和的な稲作民族が統治する、文明的な政権だった。縄文人や倭人と友好的な関係にあった稲作民に、濃厚に含まれていたO1系やO2a系遺伝子は、その比率が高い西日本でも合計で5%以下だから、彼らが移民として渡来する事は、殆どなかった事になる。従って僅かな渡来は、漢族が暴力的に稲作民を征服した、秦~漢初の亡命者だった可能性が高い。

帰化人の話に転じると、平安時代に編纂された新選姓氏録(しんせんしょうじろく)に、帰化してから500年も経った平安時代になっても、系譜伝承を堅持していた漢系や、朝鮮半島の帰化氏族が多数登録されている。魏志倭人伝には、彼らの帰化に関する記述はないから、彼らは古墳時代に一族を挙げて帰化した、漢系豪族や半島民族の子孫だった事になる。古墳時代に編纂された後漢書に「倭人の島は遠すぎるから、中国人には往来できない」と記されているから、帰化人の渡航手段は倭人の船しかなかった事は間違いなく、その詳細は(1)魏志倭人伝(2)漢書・後漢書を参照。

以上を前提に、弥生時代と古墳時代の大陸事情を確認すると以下になる。歴史の解釈には気候変動に関する知識が必要だから、それについては(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動を参照。

春秋戦国時代に気候が温暖化したから、稲作民は気候が湿潤な東シナ海沿岸を北上し、山東省に達した。この頃鉄器が普及し始めたから、華北や華中の森林が開かれてアワ栽培地が広がり、華北と華中のアワ栽培者の人口が急膨張した。そのアワ栽培民族の武力を背景に漢王朝が成立すると、華北のアワ栽培者の人口が急膨張した。

しかし漢王朝に征服された華南では稲作文化が破壊され、発展から取り残されて人口も減少した。稲作民が漢王朝の帝国主義的な支配下で、被支配民族に転落すると、灌漑施設が補修されないまま放棄され、雑穀民の暴政が稲作技術の発展を阻害したからだ。帝国主義的な支配下では、協同組合や結社は反乱の芽として抑圧されるから、灌漑施設の共同管理が必要な稲作は、生産性が後退せざるを得なかった。漢代の稲作民の困難はそれだけではなく、温暖期の華南の夏は炎熱地獄になったから、華南を旅行した司馬遷は、食料は豊富だが人は短命だと記している。戦国時代~漢代に森林が無秩序に伐採され、大地が剥き出しになってヒートアイランド現象を起こしたから、それも稲作民に厳しい環境を与え、華南の人口密度を低下させた。

前漢代末期に温暖期が終了し、気候が寒冷化し始めると、穀物の北限が南に大きく後退し、人口の南下が始まった。後漢時代に気候の弱い回復があり、寒冷な気候下で栽培していた作物の耐寒性が向上していたから、人口はある程度回復したが、後漢末期から再び寒冷化が進展し、三国時代には人口が大きく減少していた。

中華が再統一された晋代に本格的な寒冷期になり、人口は漢代の盛時と比較した戸数換算で、2割程度になるまでに激減した。特に黄河以北の寒冷地と、稲作が行われていた沿岸部は人口減少が激しく、戸数は1割以下に減少した。村落人口が希薄になった華北には異民族が侵入し、4世紀初頭に西晋王朝が匈奴によって倒された。その様な状況になると、人々は競って華南に移民したから、5世紀には揚子江流域の人口が増え、南朝文化が開花した。

大陸ではこの寒冷化により、稲作だけでなくアワ栽培も壊滅的な打撃を受けたが、日本では稲作の耐寒技術が飛躍的に向上していたので、この寒冷期の稲作の北限は、関東以北に留まっていた。それに関する農学的な分析は、3章のイネとヒトの遺伝子から、稲作の伝来事情を解析するを参照。

華北の農業が破局的な状態になると、倭人は華北や華中の農民を、揚子江流域や日本列島に移民させた。史書にはその記述はないが、史書は朝廷の記録を纏めた書籍だから、朝廷の活動とは無縁の倭人の交易活動を、正史に記載する必然はなかった。従って倭人の移民事業に関する事績が、史書に記載されていない事に違和感はなく、倭人が移民事業を行った証拠は沢山あるから、以下に順を追って説明する。

漢書に「楽浪海中に倭人あり、分れて100余国を為す、歳時を以て来て献見すると云う。(各国が毎年中国の貴人の館を訪れると云われている)」と記された様に、倭人は交易のために各地の豪族を戸別訪問していたが、云うと記されている様に、倭人の交易活動は漢王朝の朝議録には記されていなかった。正史と呼ばれる史書は、朝議録や官僚の報告書を編纂したものだった。

蛮族が華北に侵入し、西晋王朝が滅亡した(316年)古墳時代(46世紀)初頭に、南朝が成立して華南の治安は維持されたが、華北や華中の治安は極度に悪化したから、身に危険を感じた華北や華中の豪族が、倭人の船で移民したいと望むのは、当然の成り行きだった。陸路より河川路や海路の方が安全だった上に、倭人の船は東シナ海沿岸も航行できたから、淮河の支流を使えば人や家財を、華北から華南に一気通貫で運べたからだ。蓄財していた華北の豪族は、訪れた倭人に一族の移住と家財の輸送を、強く依頼しただろう。組織的な輸送力を持っていた倭人にとっても、謝礼が沢山貰える悪くないビジネスだった。平安時代に編纂された新選姓氏録は、この寒冷期に日本に帰化した漢系豪族も、多数居た事を示している。

通説でも、古墳時代に華南の人口が増え、南朝の経済力が高まった事は認めている。

この時期の日本列島の事情

漢書だけを読むと、倭と呼ばれた小集団が三々五々大陸に出掛け、無秩序に貴人に会っていた印象を与えるが、倭は倭国王が統括する小国の連合体だった。後漢書はAD107年の事績として、「倭国王帥升(読みに定説なし)等が160人の生口を献上し、(後漢の)皇帝に面会を求めた」と記し、その実態を示している。倭の30国を統治していた卑弥呼が、魏の皇帝に献上した生口は初回10人で、後継者になった台与が、破格の財宝と共に送った生口30人だった。160人の生口を献上した倭国王の勢力の、強大さを理解できるだろう。この頃は未だ華北の治安が安定して生口の供給力が弱く、価格が高かったとも言えるが、中華の皇帝の都に遠路運んだ海運力も、考慮する必要がある。船の漕ぎ手や使者の随行者は、生口の何倍もいた筈だから。

倭国王が倭人諸国の王を率い、渤海湾から黄河を遡って洛陽に乗り込み、皇帝に面会を求めた事は、洛陽にも日頃から倭人の交易船が訪れていた事を示し、最高指導者が洛陽に出向いても身に危険を感じないほどの、大勢力を率いて洛陽に出向く海運力があった事も示している。

倭国王が洛陽に出向く契機を作ったのは、AD57年に後漢に朝貢した奴国だった事を、漢書地理誌が示唆している。倭人が交易のために豪族を訪問する事は、漢代には既に行われていたからだ。後漢書のこの記述は、漢代の倭人は倭国王の統制の下で交易を行っていた事も示している。現在の通説は、「倭」を民族名であるかの様に誤解させているが、中華では政権を戴く集団名をこの様に記したのであって、「倭」は民族名ではなかった。古墳時代になると東鯷人も倭人になった事が、その証拠を示している。

倭国王帥升の記述は、倭国王は中華的な絶対権力者ではなく、諸王を代表する大王だった事を示している。商人集団が自治的な組織を形成した事例は西欧に多数あり、日本にも堺の例があるから、交易集団だった倭人の在り方として違和感はない。

倭は小国に分かれてはいたが、ヤマト政権や大和朝廷に統合される途上だったのではなく、倭の実態が小国連合で、その体制は千年以上継続していた。統合が意図されていなかった事は、史書が記す倭人国の数が、時代が進んでも殆ど増減しなかった事からも分かる。現在の日本の教科書は、弥生時代に小さな国が生まれ、徐々にヤマト政権に統合され、最後に大和朝廷が生まれたと記しているが、創作物語である日本書紀に記されたお伽噺に過ぎない。

この時代の倭人の海運力

隋書倭国伝に、日本列島に「秦王国」と呼ぶ中国人の国があったと記されている。状況証拠から判断すると、秦末漢初の動乱期に、日本列島に渡来した人々の国だったと想定される。彼らが中国の習俗を800年間も維持したのは、当時の日本では自治意識が高い小国が分立し、移民した中国人にも自治が許されていたからだと想定され、倭の小国分立制の実態を示すと同時に、移民した人々の数が多かったから、民族文化を遺していた事も示している。従って秦末漢初の倭人は、大量の移民を輸送する海運力を持っていた事を示している。実際に「秦王国」の人々を移民させたのは東鯷人だったが、倭はその何倍もの海運力を持っていた。

従ってその500年後の古墳時代の倭人が、華北から華南に多数の移民を運ぶ海運力と、組織力を持っていた事は明らかだ。大陸の豪族を移民させる事は、経済的な利潤が大きかった事も明らかだから、海洋民族だった倭人が、移民事業を行ったか否かを確認する必要はなく、扱った移民の規模を見積る事が課題になる。

当時の移民には、複数の形態があった

漢書地理誌燕の条に、「倭人の100余国は、毎年決まった時節に中国の貴人の館を訪れると云われている。」と記され、漢書地理誌呉の条に「福建省の東の海上にある東鯷人の20余国は、毎年毎年決まった時節に、中国の貴人の館を訪れると云われている。」と対句の様に記し、後漢書は倭人も福建省に来た事を示しているから、倭人の交易は大陸全域に亘っていた事になる。

淮河の支流域にある安徽省亳州(はくしゅう)市の、後漢代の墓の煉瓦に、「有倭人以時盟不」(倭人が居る、適切な時期に盟約を行うか)と刻まれていた。墓があった亳県は東シナ海から400㎞離れているから、倭人が淮河を遡上し、大豪族の曹氏の館を訪問した事を示している。

後漢代は寒冷化によって、農業生産が不安定になっていた時期だから、この地の豪族が一族の一部の人々の、南下移民を模索していた可能性が高い。後漢王朝が健在な時期には、高級官僚を輩出していた大豪族の曹氏が、一族を挙げて移民する事はできなかったから、農耕の生産性が劣化していた地域の郎党を、南下移民させたがっていたから、倭人と契約するか否か思案していたと想定され、豪族の郎党の一部が集団で移民する形態が、後漢代に生まれていた事を示している。

後漢書や魏志倭人伝は、それとは異なる個人的な移民として、倭人が「生口」を交易していた事を示している。史書の倭人伝は、倭人由来の隷属民を「奴婢」と記しているから、「生口」はそれとは違う人々だった事になり、農業が不振になった華北で困窮し、売買された人々だったと考えられる。晋書に「扶余之口」との記述があり、満州南部にいた扶余が西晋時代に衰退すると、集落が鮮卑族に襲われて民衆が捕えられ、奴隷として市で売られたので、晋がそれを禁じた記述に含まれている。従って「口」は、売買の対象になる隷属民を指したと推測される。また高句麗の好太王碑文には、百済の同族民が生白と記されている。は扶余人や百済人を指す民族名だったから、は民衆を指す漢字だったと考えられる。「生口」と記された事例は倭人伝や倭伝にしかないから、倭人が華北で購入した漢族の隷属民を「生口」と呼び、それが史書に記載されたと考えられる。

魏志倭人伝に生口は登場するが、豪族の帰化に関する記述はないから、大陸の豪族が帰化したのは、晋が滅亡して華北の治安が悪化した後の事で、王朝が戸籍を管理していた西晋代までは、生口としての移民が主流だったと考えられる。後漢代前期のAD107年に、倭国王が160人もの生口を後漢の皇帝に献上したから、生口交易はその頃には始まっていた事になる。つまり後漢代の倭人は生口交易を行いながら、安徽省亳州市の墓の煉瓦が示す様な、利益率が高い豪族の部分移民も手掛けていた事になる。

晋王朝が崩壊すると、多数の豪族が一族を挙げての移民を希望したから、倭人は高額な手数料を要求しながら、豪速の移民を支援したと考えられ、その頃から日本の古墳が巨大化する事と整合する。倭人が収益性の高い事業形態に傾斜した頃に、治安が悪化した華北では市が開かれる機会も減少し、市を介した生口の供給は途絶えたから、大陸に根を張っていなかった倭人は生口交易から手を引き、その交易は他の民族の活動に委ねられたと想定される。若し倭人が生口の様な隷属民を労働力として欲しければ、移民を希望していた豪族の隷属民を、移民の代金の一部として受け取る事も可能だったからだ。

平安時代に新選姓氏録が編纂され、そこに帰化氏族も記載されているが、それは移住後500年以上経た家系だから、移民後に絶えた家系はその何倍もあったと想定される。畿内在住の者だけが記載されているが、それでも142の漢系氏族が登録されているから、晋が滅亡してから北魏が華北を制圧するまでの150年間に、千家以上の豪族が十万人規模の眷属を引き連れ、日本列島に渡来したと想定される。

この時期の華南に沢山の移民があった事は、教科書にも載っている事実だから、その真偽を改めて検証する必要はないが、華南への移民には上記の3形態があった。アワ栽培民族が徒党を組んで南下し、稲作民になった例もあったかもしれないが、この序の3章を読了すれば、それは極めて少数の例外だった事を理解できるだろう。この時代の稲作は未経験者が行う事ができる程に、生易しいものではなかったからだ。また華南の温暖で湿潤な気候帯では、アワ栽培も難しかったからだ。

3世紀末の晋の戸籍は、華北と華中の合計人口が100万戸程度だった事を示している。戸籍漏れが5割あったとしても150万戸程度で、漢代には775万戸、3660万人もいたから、戸数は1/5に激減していた。漢代の1戸の人数は45人だから、治安が悪化した晋代にそれが倍増したとしても、人口は半分以下になっていた。華北の人口は、漢代には2千万人を超えていたが、晋代には500万人以下だったと推測される。

その20年後の4世紀初頭に晋王朝が滅亡し、多数の豪族がどこかに移民したが、日本に帰化した豪族が千家族の数十万人だったとすると、それは華北人口の1割未満だった。華南に移住した豪族の数は分からないが、多数が移住して華南の人口が急増したのであれば、多数派は華南への移住者だった事になる。

次に生口としての移住人口を推定する。

倭人が生口を扱い始めたのは、遅くともAD1世紀で、華北が再統一されて移民が終了したのは5世紀中頃だから、生口としての移民は400年間に亘り、豪族の移民期間である150年間より遥かに長かった。華北の人口は漢代の775万戸から徐々に減って150万戸程度になったのだから、生口の累積移民数は晋代の華北人口の500万人未満より、遥かに多かったと想定される。

倭人は淮河流域や東シナ海沿岸の人々を華南に運ぶ傍ら、渤海湾岸の人々を日本列島に運び、農業労働者や工人・技能者として使い、その人達を帰化人と呼んだと想定される。上のグラフに示すO3a2c1の主流は、その様な帰化人の遺伝子だったと考えられる。その根拠は、この遺伝子は渤海湾岸の漢族などに多い遺伝子で、現代韓国人の4割を占めているが、沖縄には少なく、西日本の本土日本人に多いからだ。つまり縄文時代の幕開け期に、沖縄経由で来た縄文人の遺伝子ではなく、魏志に記された卑弥呼の時代より後に、西日本を中心に多数渡来した遺伝子であると考えられるからだ。

豪族が移民に際して運送料を払えば、その人の子孫は新選姓氏録に登録された帰化人になり、生口と呼ばれた奴隷身分の人は、受け入れ者が運送料と身代金を払ったと想定されるが、どちらが多くのY遺伝子を後世に遺したのかは分からない。敢えてその様に指摘するのは、華北はアワ栽培地だったが、日本列島は稲作経済域だったからだ。移民事業が終焉してから250年後の、奈良時代初頭の元正天皇は即位の詔で、「農民は米を作りたがるが、アワなどの雑穀栽培も行う様に指導せよ。アワを租税として納める者は、それを許しなさい。」と官僚に訓示した。奈良時代の日本人はアワも食べたが、米だけが市場に流通していた事を示している。従って日本ではコメが生産できなければ、貧しい農民になった事を示唆している。日本にも伝統的なアワ栽培者がいて、生産性が高い焼畑農耕を行っていたが、帰化人は焼畑農耕を知らなかった。

華北の雑穀栽培は天水農耕の畠作だったから、渡来者には焼畑でアワを栽培する技能がなかった。耐寒農法が普及していた日本列島で水田を拓き、田植えを行う事は、更に大変な農法変更だった。焼畑農耕については次章で解説するが、温暖多雨な日本列島では雑草が蔓延り易く、穀類を広い畠で栽培する事は難しいから、収穫を大量に見込む必要があった雑穀栽培の手段としては、焼畑農耕しかなった。しかし焼畑農耕は、畠を耕す農法より遥かに高度な農法だったから、帰化人が集団で渡来しても、在地の農民の様な高収穫を得る事は難しかった。その様な帰化人が辿った運命を、縄文晩期に関東に渡来した、漢族女性のミトコンドリア遺伝子が物語っているから、ミトコンドリア遺伝子の章で説明する。

生口を労働力として受け入れた日本の稲作者は、彼らの生活の面倒も見た筈だから、彼らはそれなりに子孫を遺したと考えられる。日本の稲作者が生口を労働力として受け入れた理由は、古墳時代に本格的な鉄器時代になり、土木工事によって水田を拡張する事ができる様になったからだ。大型古墳が作られたのは、移民事業の収益を分配する為だったとしても、その背景には鉄器の普及による、土木技術の高度化があった事は間違いない。それを使って水田を切り拓くためには、多数の労働力が必要だったから、多数の生口を受け入れた事になる。大型古墳を強大な権力を持つ豪族の墓と見做し、その出土遺物の鑑定に狂奔している考古学者は、この様な視点に欠けている。

朝鮮半島も寒冷化の影響を受けた上に、高句麗の南下によって戦場にもなったから、現在の北朝鮮や馬韓北部にいた韓族を、移民として受け入れたと想定され、そのY遺伝子はO2bだった。

6世紀に始まった朝鮮の三国時代には、百済は馬韓を支配する王朝になったが、5世紀以前の百済は、高句麗の南下に対抗するために倭が雇った傭兵集団だった。寒冷化して農業が不振になったからと言って、傭兵を農民として倭人の島に移民させる必然はなかった筈だから、百済滅亡時の亡命移民はいたが、それ以前の百済系帰化人はいなかったと想定される。滅亡時の亡命移民は数が限られるから、新選姓氏録に百済系と記された帰化人の大勢は、韓族だったと想定される。

新選姓氏録には、漢、百済、高麗の3区分しかないから、5世紀以前に移民した韓族が、百済区分の中に沢山紛れ込んでいる可能性が高い。大和朝や平安朝は倭人の歴史を抹殺するために、取るに足らない国だった百済を、大陸から日本に文化をもたらしたと持ち上げた一方で、中華の史書が文明的な民族としていない韓族を無視したので、この様な区分になったが、魏志韓伝は、倭人が韓族を優遇していた事を示唆している。

新選姓氏録の高麗区分は、高句麗滅亡時の亡命移民だったと考えられる。高句麗は渤海湾を航行する船を持つ交易国家だったから、亡命時には倭人の船だけではなく、自身が所有していた船も総動員することができたし、彼らは日本海北岸の海洋民族だった粛慎と提携し、交易を行っていた。従って百済滅亡時より、亡命者は格段に多かったと想定されるが、登録された豪族の数は、漢族系163氏や百済系103氏族に対し、40氏族と遥かに少ない。高句麗の亡命者の大半は関東に渡来したから、高麗神社が関東にあるのだから、この氏族数から渡来者の数を推測する事はできないが、短期の亡命者だったから、漢族のO3a2c1や韓族のO2bより格段に少なく、高句麗系と考えられるNは日本人の1%しかいない。それでも当時の日本列島の人口が800万人程度だったとすれば、8万人以上の亡命者が渡来した事になる。魏志高句麗伝は、高句麗の戸数は3万戸と記し、南北朝期の北朝の魏の史書である魏書は、高句麗の人口は魏代の3倍になったと記しているから、1戸平均5人だったとすると、50万人近い人口だった。高句麗の亡命者にとって、奈良時代初頭までは苦しい時期だったから、渡来した亡命者の人口が15万人程だったとすると、高句麗人の3割ほどが日本に亡命した事になる。

朝鮮半島からの移民の主体は、O2b韓族だったと考えられ、倭人が韓族をこの様に優遇したのは、この時代に至るまでの倭人と韓族の間に、千年以上に亘る交流があったからだ。

以上を前提に、弥生時代末期から古墳時代の移民規模を、現代日本人のY遺伝子の比率から見積ると以下になる。

古墳時代初頭の日本列島の人口は、800万人ほどだったと推測され、算出根拠は(11)弥生時代を参照。移民の人口増加率は在来日本人の半分だったとすると、弥生時代末期から古墳時代中頃までの400年間に、300万人ほどの移民を運び込めば、現代日本人のO3a2c1O2b合計の人口比である2割になった。年平均7500人だから、繁忙期には年間数万人の移民があり、朝鮮半島への出兵と共に倭国連合の国家事業だった。倭の五王が南朝の宋に朝貢した裏で、この様な事業が進行していた。

移民先が華南であれ日本列島であれ、移民した漢族の貴人から感謝の意と共に莫大な謝礼が支払われたから、それを原資とした多数の大型古墳が日本全国に林立した。華北から華南への移民が終息した5世紀中頃に、大型古墳の造営も急速に下火になった事が、古墳造営の原資は移民事業の収益だった事を示している。

西晋滅亡後に古墳が大型化し、大阪湾岸に巨大古墳群が造営された事は、その時期の移民に高額の謝礼を払う豪族が多数含まれていた事を示し、その事業を統括したのは大阪湾岸の倭人国だった事も示している。岡山県では古墳築造の盛衰が顕著で、弥生時代末期には他地域に先行し、大型の弥生古墳を築造して特殊器台と呼ばれる古墳埴輪を生み出した。それが倭人国ではなかった出雲と機内に拡散し、移民事業の繁忙期だった古墳時代前半には、地方政権としては際立って大型の古墳を築造したが、華南への移民が終了した5世紀中頃になると、古墳の築造を突然停止してしまった。岡山の倭人国は、移民事業を先導して高い収益を上げたが、国の財政がその収益に大きく依存する様になったから、移民が終了して収益が枯渇すると、途端に財政基盤を失った事を示唆している。

倭人はこの時代に日本に送り込んだ数倍の移民を、華南に送り込んだと想定され、日本に300万人移住させたのであれば、広大な稲作地があった華南には、少なくとも日本に帰化した人口の2倍の、600万人は運んだと考えられる。現代日本人のO2a2c1O2bの比は32だから、この時代に日本に運んだ漢族は200万人程で、韓族は120万人程だったと想定される。晋代の華北の漢族人口は500万人だったから、その時期に倭人の組織体制が最も整い、上の想定の半分の300万人を運んだとすると、華北の人口500万人中の300万人を運んだ事になり、中国の南下移民の過半は倭人の船で南下した事になる。人口500万人の地域から200年掛けて300万人を移民させても、残った人々がある程度の人口を維持しただろうから、残余の人数は引き算では得られない。

寒冷化が始まった後漢期から晋王朝期は王朝が健在だったから、農民は戸籍で管理されて租税が徴収され、徒党を組んで移民する事は許されなかった。その様な時期に、貧窮した者が自力で華南に旅する事は極めて困難だったから、困窮者の移民実態は人身売買だった可能性が高いが、中国全土に交易網を張り回らしていた倭人でなければ、遠隔地に生口を運ぶ商売は出来なかった。豪族の一部を移住させる場合も、水上の交易を独占し、華南の豪族の館にも出入りしていた倭人でなければ、密かに移住先を探す事は難しかった。従って墓の煉瓦に記述された様な状態が、各地に起こっていたと考えられる。

それを確認する為に、漢代の広域交易者について考察すると、高速の船を操って河川を往来していた倭人が、内陸の主要な長距離交易者だったから、漢書地理誌はその様な倭人を描写したと考えられる。漢族の地域交易者もいただろうが、広域的な交易は、船を駆使できる倭人の独壇場だったと想定される。広域交易者として活動していた中国人がいたのであれば、海外勢力だった倭人は豪族を戸別訪問する様な商流から、撤退を余儀なくされていた筈だからだ。

従って晋代までの中国人は、最も高価な商品の一つである労働力を、商業的に遠距離移動させる商流は持っていなかったと想定され、この想定は生口が倭人の言葉だった事とも整合し、新選姓氏録に記載された漢系氏族の数の多さとも整合し、5世紀に築造された古墳の多さと巨大さと、その築造が移民の終焉と共に停滞した事とも整合するから、倭人が移民事業で大活躍した事は間違いない。

海運力の観点でも、上記の推測には合理性がある。渤海湾岸から日本列島に200万人運んだのであれば、淮河流域から華南には、同様の労力で少なくとも600万人は運ぶことができたからだ。渤海湾から日本列島の中枢部まで、殆どの航路は海洋上だったが、淮河を下って揚子江を遡上したり、南シナ海を広東方面に回航したりするだけであれば、短距離の沿岸航路だけだから、それ程の困難はなかった。

その航路を具体的に指摘すると、華南への移民を運ぶ場合は、沖縄を経由した空船が流れの緩やかな淮河を遡上し、移民を満載してから淮河を下り、河口に出てから東シナ海沿岸を上海まで150㎞南下し、そこから揚子江を遡上したと想定される。上海から広東に至る距離は1000㎞だが、沖縄を経由して大阪湾や東京湾に行く距離は2000㎞以上あるから、それよりは遥かに短い。つまり移民を満載した後の、太平洋、東シナ海、黄海の波浪や、海流に脅かされる海上の航路は、南方への移住者の航路の方が遥かに短かかった。

当時の倭人の海運力を示す証拠は、好太王碑文にもある。4世紀の倭は朝鮮半島に出兵し、弁韓人と共に高句麗軍5万の南下を阻止し、最終的に帯方界で戦ったと記されているからだ。弁韓人は数万戸しかなったから、5万の高句麗軍と対峙した主力は倭軍だったと想定され、碑文も高句麗軍は倭と戦ったと記している。

碑文を総合的に解釈すると、倭軍は高句麗の怒涛の様な南下を半島南端で阻止した後、帯方上陸作戦を敢行して高句麗軍の背後を突き、その南下意欲を半永久的に挫いたから、宋書が記す朝鮮半島の安定状態が生まれたと考えられる。高句麗と倭が採用した作戦は、20世紀の朝鮮戦争時に米朝両軍が採用した、釜山攻囲戦と仁川上陸作戦の様に進行したと想定される。仁川上陸作戦を知らない人が多いかもしれないが、朝鮮戦争の前半戦は以下の様に展開した。

北朝鮮軍が怒涛の様に南下して朝鮮戦争が始まり、米韓連合軍がその勢いに圧されて釜山に後退すると、北朝鮮軍は釜山を包囲したが、連合軍が黄海からソウルに近い仁川に上陸すると、釜山を包囲していた北朝鮮軍は背後を脅かされ、輸送路や退路が遮断されたから、攻囲していた戦線が崩壊して北に逃げ帰った。戦意を喪失して満鮮国境に後退した北朝鮮軍を支援する為、中共軍が大挙して朝鮮半島に南下し、朝鮮戦争の後半戦が始まった。

高句麗軍も朝鮮戦争の前半戦と同様に、5万の大軍が電撃的に朝鮮半島を南下し、弁韓を侵攻する事によって戦端が開かれた。緒戦は高句麗軍優位に展開したが、倭が帯方界を奇襲する事によって戦争の転機を迎え、最終戦に惨敗した高句麗が南下意図を放棄した様に見える。つまり倭は帯方界の奇襲に際し、移民事業に使っていた船の総力を結集し、敵の本拠地に近い帯方界に大軍を上陸させたから、南下していた高句麗軍の壊滅的な崩壊を恐れ、和平に応じたと考えられる。

朝鮮戦争時の仁川奇襲上陸は、海運力が圧倒的に優っていた連合国側が、半島の地形を巧みに利用した戦術だから、海運力が圧倒的に優っていれば、時代に関係なく有効な戦術だった。高句麗は交易国家だったから、北朝から渤海の支配者であるとの称号も得ていたが、倭の海運力はその様な高句麗を圧倒的に凌駕していた事になる。

漢族を渤海沿岸から運んだ移民事業の話に戻ると、海岸線に沿って航行した当時の船にとって、地形が複雑な遼東半島や韓半島西岸の航路は、直線距離より遥かに遠かったと想定され、移民を満載して渤海から移動するのであれば、山東半島を周回する航路で華南に運ぶ方が楽だった。高句麗は南朝に朝貢する際にその航路を使ったから、南朝は高句麗が船で朝貢すると認識していたからだ。

それにも拘らず、倭人が日本列島に200万人もの漢族を運んだのは、生口を使って大きな土木事業を行い、拡張した水田で稲作に従事させる為だったと考えられる。山東省や江蘇省の稲作は、古墳寒冷期に壊滅的な被害を受けたから、その地の稲作民は東南アジアに移民してしまったが、日本では独自の稲作技術が生まれ、関東以南が稲作地として健在だった上に、鉄器が普及して利水用の土木工事が可能になり、稲作地を広げる事が容易になっていたからだ。

大型古墳が林立した事は、古墳時代に土木技術が高度化した事を示しているが、それは古墳を作るために高度化したのではなく、稲作地を拡大する為だったと考えるべきだ。考古学者は古墳に代表される墓に異常に執着する習性があり、この様な経済的な視点が欠落している。古墳の形状が日本独特である事は、土木技術は日本独自のものだった事を示し、豪族が帰化していなかった弥生時代後期から、大型古墳が築造され始めた事は、古墳の築造技術の起源も帰化人がもたらしたものではない事を示している。華北で畑作を行っていた漢族に、水田を造成する土木技術はなかったとも言える。

生口を使役して土木工事や稲作に従事さる事は、新選姓氏録に多数登録された漢系豪族や、親和的だった韓系帰化人とは関係がない話だから、漢系豪族も移民として受け入れた理由は、他にあったと考えられる。

稲作の経験がない華北の豪族が、一族を挙げて華南に移民しても、稲作地では生存条件が厳しかった。彼らは日本列島でアワが栽培されている事を知り、華南ではなく日本への渡航を望んだ可能性が高い。彼らに稲作に適さない日本列島の山間地を、アワの栽培地として手当てしたのではなかろうか。

温暖な華南の方がアワ栽培に適していると思いがちだが、温暖な地域にはアワの原生種であるエノコログサが繁茂しているから、それらがアワと交配してしまうと、アワ栽培そのものが壊滅してしまう危険があった。日本では縄文時代からアワが栽培されていたが、原生種であるエノコログサが帰化したのは、それ程古い時代ではなかったと考えられている。従って漢族や韓族が入植したのは、稲作に適さない山裾や山間地だったと推測される。亡命高句麗人の入植地だった高麗郡も、その様な地域だった。

現在流布している日本書紀史観では、帰化人が日本に渡航した理由や経緯を説明出来ないから、史家は上記の事実に全く触れず、帰化人が来たとしか言わない。それでありながら、帰化人が大陸の文化を伝えたなどと、臆面もなく嘘を主張している。