日本人の遺伝子とイネの遺伝子を解析する 史書が示す倭に戻る

 

遺伝子分布は歴史を明らかにする有力な手段だが、基本認識が誤っていると解釈が混乱し、折角のデータが無駄になる。

その解釈にマーケティング手法と数値解析技法を使うと、有史以前の出来事が明らかになる。

この手法は簡明で実践的だが、解析には背景論理が必要になり、その理論形成や論理性の検証にもこの手法は使える。

中国の歴代史書の著者は、倭人は海洋民族であると全員が認識していたから、この極めて限定的な事実だけを基礎とし、

遺伝子分布を解析して背景論理を整備すると、考古遺物や歴史的な気候変動と整合する、確からしい歴史解釈が生まれる。

この歴史解釈は事実との整合性に優れ、遺伝子分布は歴史の偽らざる証拠である事を示している。

遺伝子分布のサンプリングデータは容易に得られ、その精度は統計学的に保証されるから、

考古学が陥りやすい偶発的な誤解や、古文献の著者の恣意的な捏造に左右されない歴史の実態を、最も的確に示している。

 

このページの目次

1、日本人のY遺伝子の由来

2、日本人のミトコンドリア遺伝子の由来

3、イネとヒトの遺伝子から、稲作の伝来事情を解析する

 

1、日本人のY遺伝子の由来

Y遺伝子は父親から息子に完全なコピーが伝えられるが、希に変異が起こるから、変異を分類すると過去の民族移動を復元できる。Y遺伝子以外は2本が対になっているから、この用途には使えない。その理由は、祖父母と孫の関係に着目すると分かり易い。孫は4人の祖父母の8本の遺伝子から、偶然選ばれた2本の遺伝子しか受け取らず、彼らの生き残りには遺伝子淘汰が作用したから、風土に適合した遺伝子を受け継いだ孫は生き残り易く、多数の外来遺伝子は世代を経て消滅したと考えられるからだ。

膨大な遺伝子情報を内在する遺伝子索には、遺伝子として機能しない部位が沢山あり、その変異は自然淘汰に影響しないので、Y遺伝子のその部位に着目し、共通性が高い変異をAT20種に大分類し、それに準じて共通性が認められるものを、サブフィックスを付けて更に細分類している。細分類は毎年改定されているので、既存分類の一部は毎年名称を変更する必要がある。従って毎年最新版に追従し続けると、既存データでは表現しなかった分類名が生まれ、変更作業が煩雑になるだけではなく、過去に蓄積されたデータとの比較が困難になる。その損得を勘案し、適切な解析環境を確保するため、以下では2007年の論文データを使い、2013年版の分類名に準拠してサブフィックスを決めた。2014年以降の分類名に準拠しないのは、系統樹を合理化するために分類名を大変革したから、それ以前のデータが参照できなくなったからだ。人の移動を追跡するのに必要なのは、注目するマーカーであって、マーカーの精密な系統樹を作成する事ではない。系統樹を精緻化するために膨大なデータが収集され、複雑な系統樹が定義されているが、出自記憶を失った都市住民のデータがそれに混入すると、系統樹の精度は高まっても地域データに誤りが生まれ、特定の遺伝子を持っていた者の移動を追跡できなくなくなるからだ。

参照論文を選定した理由は、出自を確認して地域毎にデータを採取したからだ。以下はそれをグラフ化したもの。

出典;Y-chromosomal Binary Haplogroups in the Japanese Population and their Relationship to 16 Y-STR Polymorphisms I. Nonaka, K. Minaguchi, and N. Takezaki

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D2は日本人独特の遺伝子で、多数の変異を内包しているから、旧石器時代から日本列島にいた人の遺伝子であると考えられる。O2b1も日本独特の遺伝子で、D2程ではないが多数の変異を内包し、日本列島での歴史が長かった事を示している。O3系は東アジアに広く分布し、膨大な変異が発見されている。C3は北東アジアに多く、氷期のシベリア狩猟民の遺伝子であると考えられる。O2bは朝鮮半島で3割を占め、朝鮮半島と日本に分布している。D2O2b1O2bO3a2c1C3の流入イベントを検証すれば、8割以上のY遺伝子の流入経緯をカバーできる。

 

1-1 縄文時代以前の移動(D2O2b1C3

以下は概論だから、詳細は(10)縄文時代参照。

2万年前まで氷期が続き、その後8千年の過渡期を経て、11千年前に温暖な後氷期になった。氷期にも相対的な温暖期と寒冷期があり、64万年前は温暖期で、42万年前は寒冷期だった。氷期の海面は現在より120m以上低く、北海道は樺太を介してシベリアに繋がり、津軽海峡も徒歩で横断できたので、D25万年前にその陸橋を経由し、シベリアから日本列島に来たと考えられる。朝鮮海峡は氷期も陸橋化しなかったので、半島経由で日本列島に人が来る事はなかった。

下のグラフは、氷期が終了した2万年前から現在までの、海面上昇を示している。氷期の10万年間に徐々に海面が低下したのではなく、一貫して120m以上低かったと考えられる。

出典Wikipedia

氷期が終わると北大西洋両岸の厚い氷床が融け始め、海面上昇が始まったが、海面が上昇し続けた間は、北大西洋両岸には氷床が残っていた。15千年前に温暖化が急進展し、海面が急上昇したが、13千年前から寒の戻りが始まり、氷床の融解が停滞した。この寒が戻った時期を、ヤンガードリアス期と呼ぶ。11千年前から再度温暖化が進み、高緯度地域の氷床も融解して海面上昇も復活した。8千年前には高緯度地域の氷床も融解が完了し、縄文海進の時代になった。縄文海進時の5m以下の変化は、このグラフは反映していない。海面が上昇すると、氷期は海岸の平野だった地域が水深100mの海底になり、その地殻が水圧で沈降したから、その影響は海岸にも及んだが、沈降の程度は岩盤の性質に依存するから、その精密な反映をこのグラフに求める事はできない。

海面が上昇していた8千年前まで、北大西洋の両岸には厚い氷床が残っていたから、その間北大西洋は寒冷な海であり続けた。それは流れ込んだ水が海を冷やしたからではなく、残っていた氷床、融解した水が形成した淡水湖の氷結、融解した淡水湖が生み出した積雪などが、一時的に太陽光を反射して大地の温暖化を妨げた事と、海に流れ込んだ淡水が北大西洋の塩分濃度を低下させ、メキシコ湾流の北上が妨げられていた事が、北大西洋の温暖化を妨げていたからだ。

日本列島にD系が漂着した54万年前は、氷期の温暖期の後期で、東欧からシベリアにかけてオーリニャック文化と呼ぶ、狩猟・漁労文化が展開していたから、Dはその文化に関係した人々だったと考えられる。オーリニャック文化の遺跡から検出されたのはC1だから、オーリニャック文化は狩猟民族と漁労民族の混成文化だった可能性が高い。チベットもD系遺伝子が多い地域で、日本列島と同様に旧石器時代から湖が散在する地域だから、D系はチベットと日本列島に分かれる以前から、湖沼漁労を行う民族だったと考えられる。従ってオーリニャック文化圏の漁労民族Dは、氷期の深い谷底で活動していた事になり、狩猟民族とは活動域が異なったから、共存は可能だったが、河川漁民の痕跡は発掘されない事になる。

D254万年前に、シベリアから陸橋を経て日本列島に到着したが、シベリアの狩猟民だったC3も日本列島に南下できたから、C3の日本列島への南下はD2より早かった可能性が高い。

旧石器時代の狩猟者は、硬い石を打ち欠いて鋭利な刃部を形成し、それで獲物を仕留めたり肉を切り裂いたりした。考古学者はそれを打製石器と呼び、狩猟者が存在した証拠にする。日本ではその様な打製石器だけでなく、43万年前の磨製石斧も多数出土する。磨製石斧は、粘性がある石を研いで刃部を形成した石器で、縄文時代には樹木を伐採するために沢山作られた。作成に手間が掛かり、肉を切り裂く鋭利さは得られないから、この磨製石斧は樹木を伐採する道具だったと考えられる。この事実から想定できる事は、D2は氷期の温暖期に、磨製石斧を使って筏や柵を作る文化を生み出し、寒冷化していく中でその技能を高めながら、湖沼漁労によって人口を増やした事になる。

3万年前から氷期の最寒冷期になり、それと共に磨製石斧を伴う遺跡はなくなった。D2が氷結した湖を捨て、湖沼漁労で獲得した操船技術を応用し、海洋漁民になったからだと考えられる。3万年前の日本列島には、狩猟民族と海洋漁労民族の痕跡があるから、C3は狩猟民族としての人口を維持し、D2は海洋漁労によって人口を大幅に増やし、D2が多数派である日本人の基底を作ったと考えられる。

当時の海岸は、現在水深120mの海底だから、彼らが漁労を行った海岸ではその痕跡は発掘されないが、23万年前の日本列島に海洋漁民がいた痕跡が、考古学的に発掘されている。孤島だった伊豆半島沖の神津島の黒曜石が、この時代の内陸の遺跡から沢山発掘されたからで、伊豆半島から40㎞以上離れた神津島に渡航できたのは、海洋漁民しか考えられないからだ。既に海洋漁民が成立していた事を示す、確実な証拠であると言っても良いだろう。

D2がこの様な経緯で、旧石器時代の東アジア唯一の海洋漁民になったのは、日本列島独特の自然環境が彼らをその様に導いたからだ。後氷期になって温暖化すると降雨も増え、それによって日本の殆どの湖は消滅したから、氷期が終わって1万年以上経ている現在の日本列島には、湖沼は殆ど存在しないが、火山列島である日本では定期的に湖沼が生まれるから、降雨が少なく湖沼寿命が数万年以上あった氷期には、湖沼の形成頻度は消滅速度を大きく上回っていた。現在の日本列島でも、九州・中国・四国には湖がなく、北海道に大きな湖が多数ある事は、気候による湖沼寿命の違いを示している。D2が日本列島に辿り着いた54万年前は、氷期が始まって6万年経過していたから、日本列島には巨大湖が沢山あったと想定される。氷期の降雨は少なかったが、日本列島は亜寒帯林に覆われていたから、それを維持する降雨はあった事になる。その降雨が湖沼の水を循環させ、魚の生育を助け、氷期の温暖期には豊かな漁場を提供したと想定される。

東ユーラシア大陸に隣接する日本列島以外の島嶼は、氷期に海洋漁民が生まれる環境に恵まれていなかった。氷期の寒冷期の樺太は寒く、湖は冬季に長期間氷結した。日本でも湖沼漁民から海洋漁民が生まれたのは、関東・新潟以西の地域だった。

氷期の台湾は、現在の日本列島の様に温暖で雨が多かったから、湖沼の寿命は数千年程度で、氷期にも湖沼は殆どなかったと想定される。台湾以南も同様で、フィリッピンは海面が低下しても孤島だったから、人は到達していなかった。

大陸の大河の河口近辺でも、湖と同様の環境が生まれた様に見えるが、氷期の海水面は120m以上低下し、海岸には広大な沖積平野が広がっていた。砂や泥が堆積した沖積平野では、石器の素材が得られないから、石器時代の人が住む環境ではなかった。

大陸内部に目を転じると、氷期は海水温が低く蒸発が抑えられたから、降雨が極端に少なく、内陸には砂漠が広がっていたと考えられる。チベット高原は造山帯にあり、モンスーン気候地域でもあるから、氷期にも湖沼が散在していたと想定されるが、付近に海はないから、湖沼漁民が海洋漁民になる状況を欠いていた。

氷期の寒冷期が終わり、微妙に暖かくなり始めた19千年前頃から、シベリアで狩猟を行っていたC3が北から日本列島に流入し、細石刃と呼ばれるシベリア起源の石器を各地に遺した。温暖化し始めた時期に、シベリアから狩猟民が南下した事は、気候環境の変化と民族移動の観点では真逆の方向だから、孤立した民族の気紛れな行動だったとは考えられない。獣骨やシカの角は、漁具である釣り針や銛を作るための、唯一と言っても良い貴重な材料だったから、D2漁民の間でその需要が高まり、C3がそれらとの交換によって得た海産物の豊かさが、日本列島への移動を促したと想定される。実際に移動と呼べる状態があったのか判然としないが、季節に応じて南北を遊動していた狩猟民が、日本列島で豊かな食料事情を得て定着し、人口を増やしたのではなかろうか。この推測には以下の証拠がある。

日本最古の土器は、津軽半島の16500年前の遺跡から発掘されたが、道南にある同時代の巨大な旧石器時代の遺跡は、石製装飾品や琥珀の珠が出土する豊かさを示しながら、その後も数千年間土器を含まない状況が続いた。その不自然さを解く鍵は、土器が発見された津軽半島の遺跡から、同時に発掘された矢尻にある。これもまた、道南の旧石器時代遺跡から発掘されていない。

矢を飛ばす弓にはアサなどの植物性繊維が必要だが、未だ氷期が完全に終わっていなかった寒冷な時期に、津軽半島にアサが自生していた筈はない。津軽半島に遺跡を遺した人々がアサを採取したのではなく、南の暖かい地域からアサと土器を交易として入手したから、この遺跡の住人だけが土器と矢尻を持っていたと想定される。氷期の日本列島は、九州まで亜寒帯の針葉樹林に覆われていたから、日本列島にはアサはなく、アサが自生していたのは沖縄や台湾などの温暖な地域だった。アサが自生する気候地域では、ドングリなどの堅果類も自生していた筈であり、それを食料にするには加熱してアクを抜く必要がある。16500年前の津軽半島の土器と弓の供給者は、沖縄以南の地域で堅果類を採取していた民族だった筈だ。

氷期が終わって5千年経った15千年前に、九州は落葉樹林や照葉樹林が広がる温暖な気候になったから、堅果類に依存する食文化を持つ民族が、九州に北上できる環境生まれた。それに応じてO2b1が渡来したが、彼らは航行技能を持たなかったから、D2が彼らの渡航を支援したと考えられる。D2が彼らの渡航を支援したのは、土器や弓矢が欲しかったからではなく、船や漁具の素材になるアサの入手を、容易にしたかったからだと考えられる。この頃から日本列島にドングリが実るナラ類の林が広がったが、それはO2b1がアサなどと共に、その種子を持ち込んだからだと考えられる。その証拠は以下になる。

日本には杉やヒノキなどの、冷温帯性の固有樹種が沢山ある。それらの固有樹種が存在する事は、日本列島は氷期と関氷期を繰り返した数十万年間、大陸と植生を交流する機会がなかった事を示している。従って日本列島の固有種ではない同じく冷温帯性のナラ類やカシ類は、誰かが種を持ち込まなければ、寒冷期にだけシベリアと繋がり、温暖化すると孤島になる日本列島に、自然に上陸する事はなかった筈だ。

16500年前のD2は沖縄以南にいたO2b1と、海洋を経由して交流し、アサや土器を入手したが、O2b1が九州に上陸すると日本列島でもアサが栽培され、潤沢な供給環境が生まれたから、D2C3も弓矢や土器を使い始め、12000年前頃の日本列島に、矢尻と土器を使う文化が普及したと考えられる。

但し12000年前の縄文遺跡は、九州に限れば南方から来たO2b1の遺跡だったが、その頃はまだ冷涼だった東日本の太平洋沿岸に、堅果類を栽培するO2b1が拡散したとは考えられない。D2漁民の生活痕は現在海底にあって発掘されないから、この頃の東日本の太平洋沿岸の縄文遺跡は、C3狩猟民の痕跡だった可能性が高い。

土器と矢尻が発掘された16500年前の津軽半島の遺跡は、当時の海岸から20㎞も離れている上に、当時の標高で140mの地点に営まれたから、漁民ではなく狩猟民の遺跡で、その土器やアサは漁民から入手した事になる。彼らは漁民と交換する物品を持っていたから、それらを入手する事ができたと考えるべきであり、その物品は漁具の素材になる獣骨やヘラジカの角だったと想定される。マンモスの化石は本州から発掘されないが、マンモス動物群であるヘラジカの化石は発掘されるから、当時の北海道と青森は狭い陸橋で繋がっていたと想定される。従って冬季に南下したヘラジカは、狭い陸橋を通って本州に南下していたと想定され、陸橋に隣接した隘路が絶好の狩猟場になり、そこに集まった狩猟民と漁民の交易が生まれ、狩猟民のキャンプ場に土器と矢尻が遺されたと想定される。

上の段落で証拠があると指摘したのは、1万9千年前にシベリアから南下し始めた狩猟民も、その様な交換によって海産物を多量に得たから、その豊かさ故に日本列島に定着したと想定できるからだ。

考古学者からこの様な合理的な説が提案されないのは、漁民の生活痕が発掘されない限り漁民の存在を認めない、発掘全能主義に陥っているからだと考えられ、その上に縄文人が海洋民族だった事を認めると、日本書紀史観が否定され、教科書に記載されている嘘が露見するから、それを恐れているのではなかろうか。

 

九州に北上する以前のO2b1の居所と、北上経路

氷期の東シナ海は台湾まで陸地化し、台湾の南北は広大な平原だったので、以下それを台湾平原と呼ぶ。台湾平原は沖縄の近くまで張り出していたが、沖縄は氷期も孤島だった。氷期の東ユーラシアの平均気温は現在より10℃ほど低く、台湾平原は現在の日本列島の様な気候だったから、温帯性の落葉樹林が広がり、南部には照葉樹林もあったと想定される。その根拠は尾瀬の花粉分析から得たデータだから、確度が高い。詳しくは(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動参照。氷期の日本列島は現在の樺太の様な気候で、亜寒帯性の針葉樹林が広がっていた。3万年前に氷期の寒冷期になると、海洋に進出せざるを得なくなったD2漁民は、冬季には船で南下遊動した。当初の遊動先は本州内に留まっていたが、寒気が厳しくなると沖縄まで南下する様になり、やがて台湾平原に渡ってO2b1と交流し、アサや土器を入手したと想定される。既に異民族だったC3狩猟民と交易を行っていたから、新たな異民族との交易にも抵抗はなかったと想定され、それらの交易の発端は3万年以上遡る可能性もある。

17000年前の人骨である沖縄の港川人は、O2b1がその頃、D2の船で沖縄に渡航した痕跡を示し、津軽半島で発掘された16500年前の土器と矢尻も、季節的に南北に遊動していたD2漁民と、沖縄や台湾平原のO2b1との間に交易があった事を示している。津軽半島の矢尻は付近の石で作られ、弓に使うアサは消耗品として交易で入手したから、直接の交流がない両民族が、矢尻文化を共有していた事は、台湾平原のO2b1、海洋漁民D2、津軽半島の狩猟民の3者が、継続的な交易関係を持っていた事を示している。従って18000年前に海面の上昇が始まり、台湾平原が水没し始めると、アサが欲しかったD2O2b1に沖縄への移住を勧誘した事になり、その動機が鮮明になる。

付記すれば、海洋民族だったD2が先ず弓矢の使用に習熟し、それを津軽半島のC3狩猟民に伝えた事になる。石器時代もこの様な技能の伝達が一般的だった場合、石器文化の拡散は民族移動とは一致しない事になる。

15000年前に海面上昇が激しくなり、沖縄が狭くなる様子が目立ち始めたが、その頃の台湾平原は沖縄から遥かに離れていたから、沖縄に移住したO2b1は孤島の住民になっていた。沖縄が水没するとの危機意識を持ったO2b1の一部が、再びD2の勧誘を受け、温暖化し始めた九州に渡海した事を、沖縄と日本の遺伝子分布が示している。但しこの頃の沖縄の平野部は、現在水深100mの海底だから、生活痕が発掘される事はない。

長崎県の福井洞窟の、15000年前の土層から縄文土器が発掘され、彼らがこの海面急上昇期に九州に渡った事を示している。津軽の16500年前の土器は系譜が不明だが、福井洞窟ではより進化した爪型紋土器が上層から発掘され、進化の跡が読み取れる縄文土器だった事を示している。当時の海水面は現在より80m低く、五島列島と九州は陸続きだったから、当時のO2b1はその中間にあった広い沖積平野に居住したと想定され、その痕跡は海底に沈んでしまった。福井洞窟の住人は、土器を入手したC3狩猟民だった可能性が高いが、継続的な縄文土器の存在は、O2b1が九州に上陸した事を示している。

O2b1は寒が戻った縄文草創期(~12000年)には、薩摩半島の「栫ノ原遺跡」(かこいのはらいせき)などの九州南端部で過ごし、温暖化した縄文早期(~7300年前)には鹿児島湾岸の「上の原遺跡」などで、高度な縄文集落を営んだ。彼らはD2漁民との交流を重視し、海船が寄港できる場所に集落を設定したが、海面上昇を極度に恐れて小高い丘の上に集落を営んだので、この時期は海面上昇期であったにも拘わらず、現在も発見できるこの時代の縄文遺跡を遺した。O2b1が上陸してから3千年経過した12千年前には、上陸直後に入植した五島列島と九州の間の広大な沖積平野は、その殆どが海に飲み込まれていたから、恐怖を交えてそれを伝承し、小高い丘の上に集落を営んだと推測される。

7300年前に、九州の南の海底で火山(鬼界カルデラ)が大爆発し、O2b1の中心地だった九州南部は壊滅したが、現在より温暖化していたこの時代には、O2b1は本州に拡散してD2C3と共生する、新しい縄文文化を形成していた。現在D2O2b1は、九州から青森までほぼ均一に分布しているが、関東のD2比率が西日本より高いのは、東日本は西日本より冷涼で植物性の食料が乏しく、食料に占める海産物比率が高かったからだと考えられる。日本人のD2比率が高い事は、縄文時代の最も重要な食料は、海産物だった事を示唆する。日本列島で本格的な農耕が行われた縄文後期以降、栽培者だったO2b1O3a2a02b1と一緒に九州に上陸した)の人口比率が高まり、古墳時代にはO系の帰化人が2割追加された事により、現在のD2の比率は縄文時代よりかなり低下したから、縄文中期までのD2比率は現在の2倍以上あったと想定される。従って漁民だけでなく縄文人も殆どが海岸に住み、彼らの主要食料は海産物だったと考えられる。日本人の大半が、海藻を消化できる特異な体質の保有者である事も、この想定を支持する。

海面が上昇すると黒潮が沖縄の西を流れ、九州と奄美大島の間から流出する様になったから、15千年~1万年前頃まで、D2は沖縄に渡航できなくなったが、沖縄から発掘された曽畑式土器と呼ぶ縄文前期の九州系土器が、縄文前期には沖縄に再進出していた事を示している。屋久島と奄美大島の間の幅200㎞のトカラ海峡を、幅100㎞の黒潮が最大流速7/h、平均流速5/hで太平洋に噴出する様になったから、それを横切るには10/h程度の速度が出る船が必要だった。船も航海術も旧石器時代より進歩する必要があり、D2が再進出するまでの沖縄は、O2b1を主体とする島として取り残されていた。

機動性の高い船を持ったD2は、縄文前期には中国大陸に渡航し、華南の稲作民と交流していたと想定される。高度な航海術を持ちながら、沖縄から先に進まなかった筈はなく、岡山で発見された縄文前期の稲作の痕跡が、その証拠を示している。縄文人も弥生時代の倭人も、九州~沖縄~台湾を経て江南に渡航したから、古墳時代までに編纂された中国の史書は、倭人の島は福建省福州の沖にあると記している。台湾の北端から大陸に向かうと、福州は最初の寄港地になるからだ。沖縄はその航路の中継基地だったから、多数のD2が移住し、沖縄はそれ以降D2比率が高い島になった。D2の沖縄への渡航時期については、ミトコンドリア遺伝子の項で詳しく説明するが、沖縄へD2が移住したのは縄文前期~中期で、縄文中期末に沖縄への移住が終わったが、沖縄に渡った海洋交易者はD2が圧倒的に多かったから、現在の沖縄はD2主体の島になっている。従って縄文時代に海洋交易者だったのはD2だけで、O2b1は海洋交易者ではなかった事が分かる。日本列島の海岸でO2b1縄文人とD2漁民が共生していても、両者は異なる生業を持つ別の民族だった事になり、異業種を担う民族が居住地を近接させながら、分業して共生していた事も分かる。その方が双方に豊かな生活をもたらしたからだと考えられ、この様な形での民族の共存は日本列島の特徴だった。複雑な産業社会に生きている現代人には、社会的な分業が文化の発展に如何に重要な事なのか、実感を以て十分承知しているが、日本列島では縄文時代に、それを当然とする社会が形成されていた事は、特筆に値するだろう。漁民は骨や角を供給してくれる狩猟民と、アサなどの植物性資源を供給してくれる栽培系縄文人と共に、日本列島で共生していた事になる。縄文前期になると、磨製石斧や黒曜石の生産地が生まれ、財貨としてヒスイの加工品が作られる、先進的な産業社会を形成し始めていた。

縄文時代にY遺伝子が大挙して流入した兆候はない。詳細は(16)(C)日本人の遺伝子分布とその由来を参照して頂きたいが、遺伝子の分布グラフの中で、上で説明しなかったO3a2aC1は、縄文時代の開始期にO2b1と一緒に、沖縄から九州に上陸した遺伝子だった。古墳時代の帰化人も、次節で指摘する様にO3a2c1O2bが主体だったと特定できるから、流入時期や動機が不明なのは、比率が低いO1aO2a1Nなどになる。O1aO2a1は大陸の南部や台湾・フィリッピン・インドネシアに多い遺伝子で、日本では西日本の比率が高いから、秦~漢初の動乱期に日本列島に逃げ込んだ稲作民だった可能性が高い。三国志、後漢書、隋書は、その様な人々がいた事を指摘している。Nは高句麗滅亡時に亡命した高句麗人だったと考えられるので、縄文時代に大挙して流入したY遺伝子は存在しない。

 

1-2 弥生・古墳時代の流入(O3a2c1O2b

中国の歴代正史によれば、中国人は唐代末期まで日本列島や南西諸島は云うに及ばず、台湾にも渡航しなかった。新石器時代の中国に海洋文化があり、鉄器時代にそれを失ったとは考えにくいから、大陸人は唐代まで東シナ海に乗り出す意欲はなく、弥生時代末期~古墳時代に日本に来た帰化人は、D2の船で渡来したと考えられ、帰化人の主体は大陸のO3a2c1漢族と、朝鮮半島のO2b韓族だったと想定される。

先ず大陸人に海洋性が欠如していた事実を指摘すると、以下になる。

D2漁民の主要勢力は、弥生時代に大陸人から倭人と呼ばれた事が、史書に散見される。戦国時代(BC53世紀)の様子を記した山海経は、「蓋国(山東半島)は鉅燕(河北・遼寧省)の南、倭の北にあり」と記し、後漢書や魏志(AD13世紀)は「倭人の島は会稽(福建省と浙江省)の東にある」と記し、多くの史書が、倭人の島は福建省の沖にあると記している。地理的には誤りだが、倭人が日本列島への渡航ルートを秘匿するために、大陸人にその様な嘘を組織的に言ったからで、南朝時代(古墳時代)に著述された後漢書までその様に記している事は、その史書が記された時代の倭人が、大陸人にその様に説明していた事を示している。倭人は沖縄~台湾を経由して大陸に渡航していたから、最初に到着するのが福建省の福州であり、大陸人はその沖に倭人の島があると考え、倭人もそれを否定しなかった事になり、話に無理がないが、海洋民族だった倭人自身には緯度認識があり、それは正しくないと知っていた。それについては、ミトコンドリア遺伝子の章で詳しく説明するが、大陸人のその様な思い込みは、倭人にとって都合がよかったから、倭人はそれを否定しなかった。

漢書地理誌に、「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う。」「会稽の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う。」と記されている。倭人も東鯷人も日本列島から渡っていた海洋民族で、漢書はそれぞれの寄港地を分けたが、それは漢書の政治的な意図によるもので、実際には倭人も会稽に寄港していたから、漢書より新しい後漢書や魏志は漢書の誤りを訂正している。その訂正を受けたとして漢書を意訳すれば、「倭人を主体とした多数の海洋民族が、毎年(日本列島から)大陸の各所に渡って来て、多数の豪族と会っていると云われていた。」になる。倭人と漢の豪族との間に、その様な定期的な交流があったにも拘らず、歴代史書が、倭人の島は福建省の沖にあると誤った地理観を示したのは、倭人がその誤解を訂正しなかったからだ。それを言い換えれば、海洋性がなかった大陸人には、自分の目で誤った認識を訂正する能力がなかった事になる。倭人が日本列島の位置を漢民族に正しく伝達しなかったのは、凶暴な漢民族を、日本列島に渡航させないためだった。邪馬台国の位置が、魏志倭人伝の記述から特定できないのは、倭人が魏の使者を騙したからだ。魏志倭人伝に記された経路を忠実に辿ると、邪馬台国が台湾やフィリッピンの近傍になるのは、倭人の島は福建省の沖、即ち台湾に近い太平洋上にあると、倭人が大陸人を騙し続けていたからである事を示している。

邪馬台国が台湾やフィリッピンの近傍にあると騙したのは、邪馬台国の倭人だが、彼らが特に入念に魏の使者を騙したのは、朝鮮半島と九州が狭い海峡で隔てられている事を知られたくなかったからだ。魏志倭人伝は、朝鮮半島と北九州が1200㎞離れていると記しているが、正しい距離は200㎞しかない。魏の使者は邪馬台国に何度も出掛けたのだが、その度に操船した倭人に騙され、1200㎞も航海した積りになって九州に渡り、帰路もその様な状態だった事になる。地理的な知識は重大な軍事情報だから、魏の使者も地理認識には敏感だった筈であり、魏志倭人伝に記された地理観を魏の使者が持ったのは、倭人が意図的に騙したと考える以外に合理的な回答はない。魏の使者が聡明な人物だった事は、魏志倭人伝に記された内容を見れば明らかだから、邪馬台国の倭人も、彼らを騙す事に相当の労力を投じたと想定される。

倭人が魏の使者を南に向かったと誤解させたのは、倭人が長い間大陸人に思い込ませていた、倭人の島は会稽の沖にあるという嘘と、整合させたからで、倭人の方針が何世紀にも亘って、組織的に堅持された事を示している。正午の太陽高度や北極星の位置から、邪馬台国の緯度を推測する事ができれば、魏の使者は倭人が示す位置は不合理だと判断できた筈だが、農耕民族だった魏の人は高官であっても、航海術に必要な天文的な知識に疎かった事を示している。騙した倭人は、それを知っていた事になる。漢書地理誌を読むと、漢民族の貧弱な地理観が理解できるだろう。

倭人がその様に漢民族を騙したのは、漢民族が極めて凶暴な民族だったからで、複数の史書が具体的にその事実を示している。秦帝国の軍人の凶暴さは、史記に赤裸々に描写されているから敢えて紹介する必要はないが、漢帝国は海峡を20㎞渡海して海南島を征服し、圧政によって特産品の絹布を強奪したが、反乱が頻繁に起きたので支配を放棄したと、漢書や後漢書は臆面もなく記している。三国時代の呉は、1万の兵を載せた軍船を倭人の島に向けて発し、奴隷狩りを行ったが、台湾に上陸して数千人を拉致するに留まったと三国志呉志は記している。漢民族の王朝は欲に駆られると、自国民には海洋性がないにも拘わらず、大陸から20㎞離れた海南島を征服した。100㎞離れた台湾について殆ど何も知らなかったが、台湾を宝の島である倭人の島と間違え、軍船を整えて侵攻した。倭人が嘘の情報を与えていたから、呉はこの様な不始末を仕出かしたのであり、倭人の恐れは杞憂ではなかった事を示している。隙を見せれば、倭人の島も漢民族の征服対象になっただろう。

古墳時代までに成立した中国の歴代史書は、倭人の島は平和で秩序があると記している。魏志倭人伝は「倭人の国には秩序がある。」「窃盗はなく諍いも少ない」と記し、隋書にも同様の記述がある。従って大陸人を騙した倭人には、平和で秩序がある日本列島を、粗暴な征服至上主義者だった漢民族から守るという、正当な理由があった。東シナ海は倭人が支配する海であり、その地形は倭の軍事機密だったから、現代的な倫理観に照らしても、倭人が中国人を騙した事は許される行為だろう。従って弥生時代に漢民族などの大陸勢力が、組織的に日本に渡来する事はなかったと断定できる。

倭人は稲作民と文化を共有したから、江戸時代までの日本人は呉音で漢字を読んでいたのだが、友好的な関係にあった稲作民でも、その遺伝子に多数含まれるO1系やO2系は、比率が高い西日本でもその合計は5%以下だから、移民として渡来する事は殆どなかった事を示している。僅かな渡来は、漢民族が暴力的に稲作民を征服した、秦~漢初の亡命者だった可能性が高い。

平安時代に編纂された新選姓氏録(しんせんしょうじろく)に、渡来してから500年も経った平安時代になっても、系譜伝承を堅持していた漢系帰化人や、朝鮮半島の帰化氏族が多数登録されている。魏志倭人伝には、彼らの帰化に関する記述はないから、彼らは古墳時代に一族を挙げて帰化した漢系豪族や、半島民族の子孫だった事になる。古墳時代に記された後漢書に「倭人の島は遠すぎるから、中国人には往来できない」と記されているから、帰化人の渡航手段は倭人の船しかなかった事は間違いなく、その詳細は(1)魏志倭人伝が示す倭(16)(F 漢書地理誌、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照。

以上を前提に、弥生時代と古墳時代の大陸事情を確認すると以下になる。

気候が温暖化した春秋戦国時代に、稲作民は東シナ海沿岸を北上して山東省に達した。気候変動の詳細については、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(B)周期的な気候変動参照。鉄器が普及して華北・華中の森林が開かれ、アワ栽培地が広がって農業生産が拡大し、漢王朝の成立によって平和が到来すると華北と華中の人口が急膨張した。しかし漢民族に征服された華南では稲作文化が破壊され、発展から取り残されていた。華南に限らず稲作民の居住域は、漢王朝の帝国主義的な支配によって灌漑施設は補修されないまま放棄され、雑穀民の暴政が稲作技術の発展を阻害していたと想定されるからであり、帝国主義的な支配は異民俗の協同組合や結社を抑圧する事が常だから、灌漑施設の共同管理が必要な稲作は生産性を後退させていた疑いが濃いからだ。温暖期の華南の夏は炎熱地獄になったから、この時期に華南を旅行した司馬遷は、食料は豊富だが人は短命だと記している。戦国時代~漢代に森林が伐採されて大地が剥き出しになり、ヒートアイランド現象を起こしていたからだと想定される。

前漢代末期に温暖期が終了し、気候が寒冷化し始めると、穀物の北限が南に大きく後退して人口の南下が始まった。後漢時代に気候の回復があり、作物の耐寒性が向上して人口はある程度回復したが、後漢末期から再び寒冷化が進展し始め、三国時代には人口が大きく減少していた。中国が再統一された晋代に本格的な寒冷期になり、漢代の盛時と比較した戸数換算で、人口は2割程度に激減していた。特に黄河以北の寒冷地と、稲作が行われていた沿岸部は1割以下に減少していた。華北の村落人口が希薄になると、異民族が侵入して治安が悪化し、4世紀初頭に晋王朝が匈奴によって倒された。その頃から人々は競って華南に移民し、揚子江流域の人口が増えたから、5世紀に南朝文化が開花した。

寒冷化によって大陸では、稲作だけでなくアワ栽培も壊滅的な打撃を受けたが、日本では稲作の耐寒技術が向上していたので、稲作の北限は関東以北に留まっていた。それに関する農学的な分析は、次々章のイネとヒトの遺伝子から、稲作の伝来事情を解析するを参照。

倭人はこの破局的な寒冷期に、農業が不振になった華北や華中の農民を、揚子江流域や日本列島に移民させた。史書にはその記述はないが、史書は朝廷の記録を纏めた書籍だから、朝廷の活動とは無縁の異民族の事績を記載する必然はなかった。従って倭人の移民事業に関する事績が、史書に記載されていない事に違和感はない。倭人が移民事業を行った証拠は沢山あるから、以下に順を追って説明する。

倭人は漢書に100余国に別れ、各国が毎年中国の貴人の館を訪れる」と記された様に、交易のために各地の豪族を戸別訪問していたから、蛮族が侵入して晋王朝が滅亡し、華北や華中の治安が悪化して身に危険を感じた貴人が、倭人の船で移民したいと望むのは当然の成り行きだった。陸路より河川や海路の方が安全だった上に、倭人の船は東シナ海を航行できたから、人や家財を華北から華南に一気通貫で運べたからだ。蓄財していた華北の豪族は、訪れた倭人に一族の移住と家財の輸送を、強く依頼しただろう。組織的な輸送力を持っていた倭人にとっても、謝礼が沢山貰える悪くないビジネスだった。平安時代に編纂された新選姓氏録は、その様にして帰化した漢系豪族が、多数居た事を示している。

次にこの時期の日本列島の事情を確認する。

漢書だけを読むと、倭と呼ばれた小集団が三々五々大陸に出掛け、無秩序に貴人に会っていた印象を与えるが、倭の実態は、倭国王が統括する秩序ある小国連合だった。後漢書のAD107年の事績の、「倭国王帥升(読みに定説なし)等が160人の生口を献上し、(後漢の)皇帝に面会を求めた」との記事は、その事情を示している。倭国王が諸国の王を率い、渤海湾から黄河を遡って洛陽に乗り込み、皇帝に面会を求めた事は、洛陽にも倭人の交易船が訪れていた事を示している。その交易を先導したのは、AD57年に朝貢した奴国だった事になるが、後漢代になって突然大陸と交易を始めたのではない事と、それは民間の交易であって朝貢交易ではなかった事を、漢書地理誌が明示している。「云う」は朝廷の議事録に掲載される様な、政治的な活動ではなかった事を示しているからだ。

倭国王帥升に率いられた多数の王が、大船団で洛陽郊外の洛河に停泊した様子は、壮観だったと推測される。倭国王帥升と記された事は、倭国王は中華的な絶対権力者ではなく、諸王を代表する大王だった事を示している。商人集団が自治的な組織を形成しやすい事は、日本にも堺の例があり、西欧にも幾多の例があり、その事情に違和感はない。

倭は小国に分かれていたが、大和朝廷に統合される途上にあったのではなく、倭の実態が小国連合であり、その体制は千年以上継続した。統合が意図されていなかった事は、史書が記す倭人国の数が、時代が進んでも殆ど増減しなかった事からも分かる。現在の日本の教科書には、弥生時代に小さな国が生まれ、徐々に統合されて大和朝廷が生まれたと記されているが、それは日本書紀史観から生まれたお伽噺に過ぎない。

次に、この時代の倭人の海運力を確認する。

隋書倭国伝は、日本列島に「秦王国」と呼ぶ中国人の国があったと記している。状況証拠から判断すると、秦末漢初の動乱期に、日本列島に渡来した人々の国だったと想定される。彼らが800年もの間中国の習俗を維持したのは、当時の日本では自治意識が高い小国が分立し、移民した中国人にも自治が許され、中華の習俗を維持した事を示している。その事実が倭の小国分立制の実態を示すと同時に、元々秦王国に移民した人々の数が多かったから、国を形成して民族文化を遺した事になる。従って倭人は秦末漢初には、その様な大量の移民を輸送する海運力を、既に持っていた事を示している。

以上の事実から古墳時代の倭人が、華北から華南に多数の移民を運ぶ組織力と海運力を持っていた事は明らかで、大陸の豪族を移民させる事は経済的なメリットが大きかったから、海洋民族だった倭人が移民事業を行ったか否かを確認する必要はなく、扱った移民の規模を推測する事が課題になる。その概算を行う前に、当時の移民には複数の形態があった事を認識しておく必要がある。

移民の形態を確認する。

漢書地理誌燕の条に、「倭人の100余国は、毎年決まった時節に中国の貴人の館を訪れると云われている。」と記された実態は、倭人の船が毎年大陸の河川を遡り、各地の豪族を訪問していた事をし、漢書地理誌呉の条に「福建省の東の海上にある(東鯷人の)各国は、毎年毎年決まった時節に、中国の貴人の館を訪れると云われている。」と対句の様に記し、後漢書は倭人も福建省に来た事を示しているから、倭人の交易は大陸全域に亘っていた事になる。

淮河の支流域にある安徽省亳州(はくしゅう)市の、後漢代の墓の煉瓦に、「有倭人以時盟不」(倭人が居る、適切な時期に盟約を行うか)と刻まれていた。墓があった亳県は、現在東シナ海から400㎞離れている。この時代にも淮河の河口から、直線距離で300㎞以上離れていたと想定されるから、この煉瓦は、倭人が淮河の奥深くまで遡上し、曹氏と呼ばれた大豪族を訪問した事を示している。この墓が作られた後漢代の末期には、寒冷化によって農業生産が不振になり始めていたから、一族の一部を南下移民させる事を模索していた可能性が高く、この時代の華中豪族の苦しい台所事情を示している。後漢代に曹氏が一族を挙げて移民する事はなかった筈で、生産性が劣った地域の郎党を、南下移民させたがっていた事になり、豪族の一部が集団で移民する形態が、後漢代から生まれていた事を示している。

それとは異なる個人的な移民として、後漢書や魏志倭人伝は、倭人が「生口」交易を行っていた事を示している。「生口」は農業が不振になった華北で、困窮して売買された人だったと考えられる。史書の倭人伝は、倭人由来の隷属民を「奴婢」と記しているから、「生口」はそれとは違う人々だった事になる。満州南部にいた扶余が、西晋時代に衰退すると鮮卑族に襲われ、民衆が捕えられて市で売られたので、晋がそれを禁じたとする晋書の記述に「扶余之口」と記されたが、「生口」とは記されていないから、倭人が華北で購入した隷属民を「生口」と呼び、それが史書に転記されたと考えられる。

魏志倭人伝に生口は登場するが、豪族の帰化に関する記述はないから、大陸の豪族が多数帰化したのは、晋が滅亡して華北の治安が悪化した古墳時代で、王朝が戸籍を管理していた時期には、生口としての移民が主流だったと考えられる。但し弥生時代の倭人は生口の交易を行いながら、安徽省亳州市の墓の煉瓦に象徴される様な、利益率が高い豪族の部分的な移民も、手掛けていたと想定される。

晋王朝が崩壊すると、多数の豪族が一族を挙げて移民する事を希望したから、倭人は高額な手数料を要求しながら、彼らの集団移民を支援したと考えられ、その頃から日本の古墳も巨大化する。その様な状況下で倭人は、収益性が高い事業形態に傾斜していったと想定され、生口の供給があっても取引を辞退していたかもしれない。治安が悪化した華北では、市が開かれる機会も減少していただろうから、生口の供給が細っていた事も事実だろう。

新選姓氏録に記載された氏族は、移住後400年以上経た家系だから、背景にはそれ以上の数の、移民後に絶えた家系があったと想定され、登録は畿内在住者だけだったが、それでも142の漢系氏族が登録されている。従って晋が滅亡してから北魏が華北を制圧するまでの150年間に、千以上の豪族が十万人規模の眷属を連れ、日本列島に渡来したと想定される。

この時期に華南にも沢山の移民があった事は、教科書にも載っている事実だから、その真偽を改めて検証する必要はないが、華南への移民には上記の3種の形態があったと想定される。

晋の3世紀末の戸籍は、華北・華中の人口は100万戸程度だった事を示しているから、戸籍漏れが5割あったとしても150万戸程度で、漢代の775万戸、3660万人から1/5に激減していた。4世紀初頭に晋王朝が滅亡してから、豪族集団として人口の70%がどこかに移民したとすれば、100万戸=500万人が移民した事になり、日本に渡来した豪族はその1割未満だった事になる。華南に移住した豪族の数は分からないので、次に生口としての移住人口を推定する。

倭人が生口を扱い始めたのはAD1世紀で、華北が再統一されて移民が終了したのは5世紀中頃だから、生口としての移民は400年間に亘り、豪族の移民期間の150年間より遥かに長かった。華北の人口は漢代の3660万から徐々に減っていったから、生口の累積移民数は500万人より遥かに多かったと想定される。

倭人は、淮河流域や東シナ海沿岸の人々を華南に運ぶ傍ら、渤海湾岸の人々を日本列島にも運んで農業労働者や工人・技能者として使い、後世その人達を帰化人と呼んだ。帰化人は上のグラフに示すO3a2c1だったと考えられる。その根拠は、この遺伝子は縄文時代の幕開け期に、沖縄経由で来た縄文人ではなく、渤海湾岸に多い遺漢民族起源の遺伝子で、現代韓国人の4割を占めているからだ。

豪族が移民に際して運送料を払えば、その人は新選姓氏録に登録された帰化人になり、受け入れ者が運送料と身代金を払えば、生口と呼ばれた奴隷身分の人だったが、どちらが多くのY遺伝子を後世に遺したのかは分からない。敢えてその様に指摘するのは、華北はアワ栽培地だったが、日本列島は稲作経済だったからだ。移民事業が終焉してから250年後の、奈良時代初頭の元正天皇は即位の詔で、「農民は米を作りたがるが、アワなどの雑穀栽培も行う様に指導せよ。アワを租税として納めるものは、それを許しなさい。」と官僚に訓示した。奈良時代の日本人はアワも食べたが、米だけが市場に流通する交換財だった事を示し、日本ではコメが生産できなければ、貧しい農民になってしまった事も示している。

生口を労働力として受け入れた日本の稲作者は、彼らの生活の面倒も見た筈だが、一族として集団移住した雑穀民が、米経済の中でどの様な末路を辿ったのか疑問になる。華北の雑穀栽培は、天水農耕の畠作で行われていたから、渡来者には焼畑でアワを栽培する技能もなく、耐寒農法が普及していた日本列島で、水田を拓いて田植えを行う事は更に大変な農法変更だった。焼畑農耕については次章で解説するが、温暖多雨な日本では雑草が蔓延り、穀類を広い畠で栽培する事は難しいから、収穫が見込める雑穀の栽培方法は焼畑農耕だった。

朝鮮半島も寒冷化の影響を受け、高句麗の南下によって戦場にもなったから、馬韓北部の韓族を移民として受け入れ、そのY遺伝子はO2bだったと想定される。6世紀に始まった朝鮮の三国時代には、百済は馬韓を支配する王朝になったが、5世紀以前の百済は、高句麗の南下に対抗するために倭が雇った傭兵集団だった。農業が不振になったからと言って、傭兵を農民として倭人の島に移民させる必然はなかった筈だから、百済滅亡時の移民はいただろうが、亡命移民は数が限られるから、新選姓氏録に百済系と記された帰化人の大勢は、韓族だったと想定される。新選姓氏録には、漢、百済、高麗の区分しかないから、百済の区分の中に、5世紀以前に移民した韓族が沢山紛れ込んでいる疑いがある。

新選姓氏録の高麗区分は、高句麗滅亡時の亡命移民だったと考えられる。高句麗は、渤海湾を航行する船を持った交易国家だったから、亡命時には倭の船だけではなく、自身が所有していた船も総動員した筈で、百済滅亡時より亡命者は格段に多かったと想定されるが、登録された豪族の数は百済が103氏族に対し、40氏族と遥かに少ないから、百済系の大勢は韓族だったと想定される。

従って朝鮮半島からの移民の主体は、O2b韓族だったと考えられる。倭人が韓族をこの様に優遇したのは、この時代に至るまでの倭人と韓族の間に、千年以上に亘る交流があったからだ。

飛鳥時代以降には、日本列島への大量移民はなかったから、以上が日本に渡来した主要Y遺伝子になり、弥生時代末期から古墳時代中頃の移民規模を、Y遺伝子の比率から見積ると次の様になる。

古墳時代初頭の日本列島の人口は、800万人ほどだったと推測され、算出根拠は(11)弥生時代を参照して頂きたい。移民の男系子孫の残存率は、その時代の日本人の半分だったとすると、弥生時代末期から古墳時代中頃までの400年間に、300万人の移民を運び込めば、現代日本人のO3a2c1O2b合計の人口比である2割になった。年平均7500人だから、繁忙期には年数万の移民があったと考えられ、朝鮮半島への出兵と共に、倭国連合の国家事業だったと想定される。倭の五王が南朝の宋に朝貢した背景に、この様な事業が進行していた。

移民先が華南であれ日本列島であれ、移民した貴人から感謝の意と共に莫大な謝礼が支払われたから、それを原資とした多数の大型古墳が、日本全国に林立した。華北から華南への移民が終了した5世紀中頃に、大型古墳の造営も急速に下火になったから、古墳造営の原資は移民事業の収益だった事が分かる。晋滅亡後に古墳が大型化し、大阪湾岸に巨大古墳群が造営された事は、その時期の移民に高額の謝礼を払う豪族が、多数含まれていた事を示唆する。その経緯が顕著に現れた倭人国があった岡山県では、弥生時代末期に先行して大型の弥生古墳を築造し、特殊器台と呼ばれる古墳埴輪を生み出しただけでなく、倭人国ではなかった出雲と機内にそれを拡散し、移民事業の開拓者だった事を示唆している。移民事業の繁忙期だった古墳時代前半に、地方政権としては際立って大型の古墳を築造したが、華北から華南への移民が終了した5世紀中頃に、古墳の築造を突然停止してしまった。移民事業を先導して高い収益を上げ、国の財政がその収益に大きく依存する様になったから、その様な経緯を辿ったと想定される。

この時代の華南に、日本への数倍の移民を送り込んだと想定されるから、日本に300万人移住させたのであれば、広大な稲作地があった華南には、少なくとも日本の2倍の600万人は運んだと考えられる。現代日本人のO2a2c1O2bの比は32程度だから、この時代に日本に運んだ漢民族は、200万人程だったと想定され、それと併せると800万人の漢民族を、華北・華中から華南や日本に移民させたことになる。上に示した晋代以降の500万人は、移民事業の後半期の華北人口から算出した想定だから、その時期に組織体制が最も整っていた倭人が運んだのは、倭人が運んだ全漢民族の半分の400万人だったとしても、晋代以降の移民推計500万人中の400万人だった事になり、中国の南下移民の過半は倭人の船で南下した事になる。

寒冷化が始まった後漢から、寒冷化によって滅亡した晋王朝期は、王朝が健在で農民は戸籍で管理され、それに基づいて租税が徴収されていたから、徒党を組んで移民する事は許されず、移民は個人的なもの、或いは豪族の内輪の分家だったと想定される。その様な時期に貧窮した者が自力で華南に旅する事は、極めて困難だったと想定され、困窮者の移民実態は人身売買だった可能性が高い。帝国主義的な王朝支配下では、豪族であろうとも勝手に移住できたとは考えにくいから、豪族の分家にしても、先に挙げた後漢代のレンガに記された様に、密かに倭人と契約する様な形態だったと想定される。従って中国全土に交易網を持っていた倭人でなければ、密かに移住先を探す事は難しかっただろう。

漢代の広域交易者について考察すると、高速の船を操って河川を往来していた倭人が、内陸の主要な長距離交易者だった可能性が高く、漢書地理誌はその様な倭人を描いたと考えられる。漢民族の交易者として、専売的な鉄や塩を扱う者はいただろうが、専売ではない高級商品の広域交易は、倭人だけが扱っていたと想定される。中国人が広域交易者として活動していたのであれば、海外勢力だった倭人は、豪族を戸別訪問する様な商流から、撤退を余儀なくされていた筈だからだ。従って後漢代から晋代の中国人は、労働力を商業的に遠距離移動させる商流は持っていなかったと考えられる。それ故に生口が倭人の言葉になり、王朝統治下の華北から華南への遠距離移民の過半は、倭人が扱ったと考える事に合理性がある。新選姓氏録に記載された漢系氏族数の多さと、5世紀に築造された古墳の多さと巨大さを見れば、倭人が大活躍した事は間違いない事も、この仮説を支持する。

海運力の観点から考えても、上記の推測には合理性がある。渤海湾岸から日本列島に200万人運んだのであれば、同様の労力で、淮河流域から華南には、少なくとも600万人は運ぶことができただろう。沖縄を経由した空船が、流れの緩やかな淮河を遡上し、移民を満載して淮河の河口に出てから、東シナ海沿岸を揚子江中流域や広東に向かって航行する距離は、沖縄を経由して大阪湾や東京湾に行く距離より遥かに短い。渤海湾から大阪湾や東京湾への距離と比較しても、移民を満載した後の大陸航路は遥かに短く、波浪や海流に脅かされる海上の距離は1/3に満たない。

当時の倭人の海運力を示す証拠は、好太王碑文にもある。碑文によれば、4世紀の倭は朝鮮半島に出兵し、弁韓人と共に高句麗軍5万の南下を阻止した。弁韓人は数万戸しかなったから、5万の高句麗軍と対峙した主力は倭軍だったと想定され、碑文もその様に記している。碑文を総合的に解釈すると、倭軍は高句麗の怒涛の様な南下を阻止した後、帯方上陸作戦を敢行し、高句麗の南下意欲を半永久的に挫いたと想定される。その際の高句麗と倭が採用した作戦は、20世紀の朝鮮戦争時に米朝両軍が採用した釜山攻囲戦と仁川上陸作戦と、ほぼ同じ様に進行したと想定される。高句麗が、電撃的に弁韓まで南侵する事によって戦端が開かれ、緒戦の戦闘は高句麗優位に展開したが、朝鮮戦争の転機になった国連軍の仁川上陸作戦の様な、倭の帯方奇襲によって戦争の転機を迎え、高句麗が南下意図を放棄した様に見えるからだ。倭は帯方奇襲に、移民事業に使っていた船の総力を結集したから、帯方に上陸した倭軍の数に驚いた高句麗が、和平に応じたと考えられる。仁川上陸作戦と言っても、知らない人が多いかもしれないが、北朝鮮軍が怒涛の様に南下して朝鮮戦争が始まり、米韓軍がその勢いに圧されて釜山に後退すると、北朝鮮軍は釜山を包囲したが、連合軍がソウルに近い仁川に上陸すると、釜山を包囲していた北朝鮮軍は背後を脅かされ、輸送路や退路も遮断されたから、攻囲していた戦線が崩壊して北に逃げ帰った。これは海運力が圧倒的に優っていた連合国側が、半島の地形を巧みに利用した戦術だから、時代に関係なく有効だったと考えられる。

多数の移民を乗せ、渤海湾岸から大阪や関東に向かう航路には、流れが速い海流や荒い波浪がある上に、地形が複雑な遼東半島や韓半島西岸を経由したから、海岸線に沿って航行した当時の船には、直線距離より遥かに遠い航路だったと想定され、移民を満載して移動する観点では、全員を華南に運ぶ方が楽だったと考えられる。それにも拘らず日本列島に200万人も運んだのは、生口を稲作に従事させる為だったと考えられる。但しそれは新選姓氏録に多数登録されている、漢系帰化人とは関係がない話だから、豪族の漢系帰化人を受け入れたのは、他に理由があった事になる。稲作の経験がない華北の豪族が、一族を挙げて華南に移民しても、稲作地では生存条件が厳しかったから、稲作に適さない日本列島の山間をアワの栽培地として、彼らに手当てしたのではなかろうか。彼らも日本列島でアワが栽培されている事を知り、華南ではなく日本への渡航を望んだのかもしれない。温暖な南の方がアワ栽培に適していると思いがちだが、温暖な地域にはアワの原生種であるエノコログサが繁茂しているから、それらがアワと交配してしまうと、アワ栽培そのものが壊滅する危険がある。

現在流布している日本書紀史観では、帰化人が日本に渡航した理由や経緯を説明出来ないから、歴史書籍は上記の事実に全く触れず、帰化人が来た事しか言わない。それもさることながら、歴史を更に捏造し、帰化人が大陸の文化を伝えたなどと、臆面もなく嘘を主張する事は直ちに止めるべきだ。