相模地震   
● メモ,相模地震  . . -  

 

伊豆・相模の、社寺に関連ありそうな、地震記録のメモです。(03.02.23、補追★4/15)
補足・修正、情報お待ちしてます。

3100年前、神山北西山腹で大規模な水蒸気爆発、初期芦ノ湖ができる。

2850年前、天城山山腹のカワゴ平火口の噴火。縄文後期の集落の廃絶。

(AD400)過ぎ、箱根大地震

・欽明帝の13年4/12から23まで大地震がおこり海上に忽ち一島を生じさせた、「江島がこれである」。島の上に天女が降臨してついに竜と夫婦になった(なれなかったとも)。という。

(662)、天武天皇白鳳13年、大地震によって伊豆島西に1島が出現したことが詳述されている(続日本後紀承和7年(840)9月23日条)
「神社については天武紀13年10月壬辰条に地震の被害の列記で「諸国郡舎及百姓倉屋、寺塔、神社破壊之類、不可勝数」で、この後暫く、この他に神社の表現は見られない。

(800)、延暦19、富士噴火、宮下家は相模高座郡早女(そうめ)郡岡田原(現寒川町)に避難。

(802)、正月富士噴火、延暦21年4/19、古来主要な官路であった足柄路は、一旦閉じられる。

(818)、『類聚国史』「弘仁九年七月、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野国地震、山崩谷埋数里、圧死百姓不可勝計」。(M7.9,相模湾(内陸か)
 弘仁9年8/19、大地震
 弘仁9年9/10、地震

(832)、天長9年(832)5/22伊豆国言上三島神・伊古奈比盗_2前預ニ名神-、此神塞ニ深谷-高巌 平造之地2千町許、作ニ神宮2院池3処-神異之事不レ可ニ勝計-」釈日本紀十五述義三引日本後紀)

(838)、「続日本後紀」に神津島噴火の状況、承和5年7月5日出火(838)、十二童子、海に放火し上津島の左右の海中は野火の如くなり大石が飛び灰が降った。この時新に神宮4院、石室2間を造った。

(841)承和8、(M7.0,北伊豆)

(864)貞観6、6月、富士山噴火(青木ヶ原溶岩流)『三大実録』「甲斐国言す、駿河国富士大山、暴火あり、崗巒(ごうらん)焼き砕き草木焦げ熱し、土鑠石流れて八代郡本栖並びに{戔リ}(せん)の両水海を埋め、水熱して湯の如し、魚鼈みな死し、百姓の居宅海と共に埋る、、」

(878)元慶2、大震災圧死、地震。(M7.4,相模中部)
(887)、扶桑略記巻22・宇多59、仁和3年11/2、伊豆国から新たにできた島(おそらく新島)の地図を献上。山の頂には緑雲の気が漂っていると書かれる。

(937)、富士噴火、承平7年、これ以前の旧山中湖は水深2m〜3m程度の浅い湖か、あるいは川程度の規模であった。

(1241)仁治2、(M7.0,相模南部沖)

(1250-)日蓮が実相寺を訪れた頃は、地震、洪水、大火、日蝕、月蝕、旱魃、飢饉が相次ぎ、赤斑瘡(あかもぐさ)が流行。前将軍-頼経が死に、後深草天皇、将軍-宗尊親王、執権-北条時頼まで羅病。
年号も建長8(1256)10月に康元、になり6年の間に、正嘉、正元、文応、弘長と連年変る。

(1257)正嘉1、(M7.1,相模湾)

(1282)、弘安5年5/13、相模川大氾濫、で宮下文書流失、が吉田家の写しが残る。

(1293)、永仁1年4/13、鎌倉地方大地震、死者2万3千。直後の22日、貞時は腹心をつかわし経師ヶ谷の頼綱邸を襲わせ頼綱と次男を自殺させた。平禅門の変。

(1433)永享5、(M7.1,相模湾)

(1605)慶長9、(M7.9,房総沖)

(1633)寛永10、(M7.1,小田原沖)小田原の家屋ほぼ全壊、

(1648)慶安1、(M7.1,小田原沖)

(1703)、元禄16年11/22、(M8.2、房総沖)関東大震災の3倍。
 元禄16の地震の頃までは駒ヶ崎神社辺りは岬のようにでっぱり、その奥・天富彦を祀る布良崎神社辺りまで海岸線だった、館山市布良は房総半島の突端で白波の打ち寄せる崖の上に「駒ヶ崎神社」があり、この地が天富命が阿波忌部氏を引き連れやってきて上陸した地と伝えられている。

(1707)、宝永4の富士噴火。12/16、宝永火口、火山灰厚木で10cm、江戸で5cm、

(1782)元明2、(M7.3,小田原)小田原天守30度傾く綱引で直す、

(1783)元明3、浅間噴火、5/9-90日間、8/4吾妻火砕流、8/5鎌原火砕流、

(1853)嘉永6、(M6.5,小田原)

(1854)安政1年11/4、(1854.12/23)(M8.4,)

(1923)大正12、(M7.9,相模湾)