[ 船,舟メモ ] 2000/10/15、Ver1.0  ★ は追加分 

※ メモ公開。舟、航海に関するおもしろい話がありましたら、ご連絡お待ちしてます。 stan 拝 。
※ 多分に趣味主観が入ったメモです。取扱いにはご注意下さい。




・ 舟(ふね):舟を示す甲骨文字は|=|のように帆を示している。

・約22700年も前の神津島の黒曜石が相模原市の橋本遺跡のローム層から出土した。

・縄文早期中頃、本来大島には生息しないイノシシまで伊豆半島から持ち込んでいた。
・千葉県から縄文時代とみられる丸木船が70例に近い遺跡から出土している。
・長6.08m、巾63cm、杉、船尾には2本の角のような突起がありトモ綱を巻き付けたと思われる窪みがある。厚みは3.5ー4cm、鳥浜貝塚。
・BC2千,長4.8m、巾70cm、椋木、千葉県安房郡加茂神社。
・東京都中里遺跡の長さ5.79、巾72cm。
・千葉県多古町七升の長さ7.45mで縄文中期。

・エジプト、帆付のボートの絵はBC4000かそれ以前(パピルスゴンドラ前帆)。
・第3王朝のジュセル王(BC2630-2611)のピラミッドから出土した壺に描かれる王家の船(52mか)。
・トトメス1世の治世(BC1504-1492)にイネニはカルナック神殿へオベリスクを運ぶ為のはしけを建造、全長63m、幅21m。
・ハトシュプスト女王(BC1473-1458)の葬祭殿で見られる、アスワンからカルナックへ2本の巨大なオベリスクを運搬するはしけ、Aコスターによれば、全長84m、幅28m、排水量2664トン、・ CVソルヴァーは 、全長63m、幅25m、排水量1500トン・ 最近のオベリスクの研究からは、長95m、幅32m、総排水量7300トンとなる。
・最古の難破船、BC1400頃、水深45-50mから金銀装飾物、銅鋳塊(@27kg×200=6t)、テレピン樹脂(1t)、シリア、パレスチナ沿岸からエジプトへの輸送途中の難破。
・ヘロドトスが語ったところでは、BC600頃、エジプト王ネコがフェニキア人クルーによる船隊を紅海の港のひとつから送りだし、この船隊は2年以上かかって、地中海経由で帰還したという。

・戦国時代(BC403ーBC221)「秦の西に大船あり、粟を積んで楚に至る三千里、一舫に50人と3ヶ月の食を載せる」
・秦漢時代(bc221−300)で遺跡の中心部分には平行して3つの造船台があり船台の滑走台の長さは88m以上になる、この船台からは幅6から8m、長さ30mもの巨大な木造船が建造されたと見られる。推定積載重量50ー60トン。遺跡からは鉄鋳物、鉄釘、鉄棒、砥石も発見されている。
・徐福の時代、楼船の記述。「古風」李白:(701ー762)・・・余市載秦女 楼船幾時廻・・・。
1隻に、船工50、射撃手10、百工10、方士、管理人5、童男女100、計175。・・30隻=5250人。 中国復旦大学教授の試算。
・歴代の南越宇墓は広州市象崗山にあるが、船紋銅桶型器と呼ばれる線刻画をほどこした銅桶が出土している。
・15c始めの鄭和の大艦隊の大船・寶船は長さ50m以上とされ、船長140mでの復元模型もある。jump-www.chinapage.com-鄭和・三寶太監

・日本の古代の壁画の船の絵は、田代太田、五郎山、弁慶ヶ穴、竹原など双胴船が多い。
・福岡遺跡、鳥取県西伯郡淀江町、弥生土器と供に1.3、1.52、1.8mの3本の櫂が出土。近くに鮒ガ口の地名がある
・壱岐カラカミ遺跡、弥生式土器にゴンドラ4本櫂全長8m?
・津古遺跡、福岡、竿櫂、船上に3本の縦線、マスト?
・唐古遺跡、奈良、ゴンドラ4櫂人の漕ぐ絵。
・大石遺跡、福井、銅鐸に線刻画、櫂が両舷で18〜20本、全長15m、中央部にマスト?。

・準構造船:弥生中期の浜松市の角江遺跡や埼玉行田市の小敷田遺跡出土の船材はいずれも丸木舟の装着用であるほぞ穴を持っていた。

・東殿塚古墳(天理市大和神社側)から出土した楕円筒埴輪に三隻の大型船が線刻で描かれていた。
・奈良天理市清水風遺跡、弥生土器に描かれた線画、大体長さ25m、片舷17本の櫂と一本の梶櫂。
・(1997)大阪平野区高廻り一号噴から長107cm高さ31cmの船型埴輪が見つかった。高廻り二号墳からはL128.5cm,H41cmの"準なみはや型"埴輪が見つかった。
・船型埴輪は宮崎西都原(さいとばる)古墳、京都府ニゴレ古墳出土など全国で30例ほどある。

・長保寺遺跡、寝屋川市昭栄町木田町、古墳中、後期。堀立柱建物、古代船の再利用井戸枠(準構造船の中央胴体部分)。
・蓮田遺跡の刳船、門真市三島、長18mのケヤキ材、船首に二股の根が残されており造船途中で20本ほどの枕木の上にあった、定員30人程と思われる。

・物部氏の先祖の饒速日が天磐船に乗ってきたとき、船長は跡部首で、舵取りは「阿刀造」あとのみやつこ)。それに天津麻良という金属を精錬する「真浦」とか「麻良」の名を持つ鍛冶屋集団を乗せている。
・庚子、崇神17、詔して1諸国に船舶を造らす。
・垂仁2年是歳条、「御間城天皇の世、額に角有人、一の船に乗りて越国、笥飯浦の泊まれり、故そこを名付けて角鹿という。」
・景行紀に豊前の、神夏磯(かむなつそ)姫が、賢木(さかき)に、鏡・剣・玉をつけ、船の舳に「素幡しろはた」を立てて参向したとある。
・応神5(400頃?)、伊豆国に命じ十丈(18m)の船を造らせた、速かったので枯野と名付けられた。
書紀推古16年6/15条、「客等、難波津に泊まれり。是の日に、飾船三十艘を以って、客等を江口に迎えて、新しき館に安置らしむ・・・」

・「兎木(とのき)」、(楠)高安山と淡路へ影、仁徳のときその木を切って枯野(からの)という船をつくった。その枯野で淡路島にある井戸に飲料水を取りに行かせた。
・平城京でも条坊にあわせた河道の制御が行われ、新たに人工の堀河が開削され、左京では佐保川から分流させて東三坊に人工の東堀河を開削した。
・蓮田遺跡の刳船、門真市三島。全長18mのケヤキ材、船首に二股の根が残されており造船途中で20本ほどの枕木の上にあった、定員30人程と思われる。

・書紀は、倉稲魂を于介能美た麿(うあかのみたま)と訓めと注している。延喜式の大殿祭の祝詞にも「屋船豊宇気姫」に注して「是稲霊なり、俗の詞に宇賀能美多麻」とある。
・「道昭法師、大唐にいき、新羅にいたり山中で法花経を講じき。虎500の中に、役の優婆塞なりき。」道照とも書くが、道昭は船連の出自である、船氏は百済からの渡来人だからなぜ新羅山中か?
・斎宮、任務を終えるのは天皇崩御、譲位、近親者の喪、自身の病など。退下道は、一志、川口、阿保、都介ツゲ、相楽の各頓宮で宿泊し木津へ出て船旅、淀を下り大庭堀川に入り、茨田真手に入るのは斎宮を出発して6日目。船中で一泊した斎王は難波の三津浜(心斎橋あたり)で禊ぎを済ませ、茨田真手にもどり山城の河陽宮を経て都へ戻る。
・貫前縁起(神道集):姫は抜堤河(ばっていが)の中央に抜鉾を立てて住んだが草河の王が追うので、3人の美女を連れ天の早船に乗って飛行脱出し降りたところが上信国境の荒船山であり抜堤河の水も運んできた。

・青森十三湊には宣教師カルワーリュ(17c前半)は「メナシ(東方の?)アイヌ」だけでも100隻の船が松前に交易の為産品を積んで訪れ、そのなかには200俵の米を積める物が含まれている、と記している。

・「くらわんか舟」、旅客、三十石船、船頭4人、定員28人、長27、巾3.6m、流れの速い所では綱引き道が整備され右岸寄り左岸寄りと水勢に応じて9カ所の綱引道があった。所要時間は昇り一日または一晩、下り半日または半夜。枚方は上りを主とする片宿(カタシュク)であった、下りの半分の利用率である上りのため困窮であった。
・近世荒川では500俵積み、利根川では1000俵積み。浦和市見沼通船堀閘門(パナマ式)享保16(1731)完成。水運、利根川−神流川・藤の木、鳥川・倉賀野まで河岸あり。

・「寝屋川の舟運」:川舟には、荷物専用の団平船ダンペイ、剣先船、どてら船、渡海 船トウカイ。貨客両用の早舟。肥専用の四十荷船シジュウカ、三十荷船、間切船マン ギリ等、三枚板の小舟は農家の自家用。鴻池の樋門(堰堤)堤の上流下流に分けて折り返し運行、小舟は板敷きの通路を利用し船を引き上げ荷を積み直した。
・鉄道敷設以前、奈良から難波まで大和川を利用した水運(客船、定期船)があった。舟の長,幅は久宝寺より出土した”なみはや”とほぼ一緒。