【 菊田神社、寒川神社、藤原氏 】  更新中メモ。('06.02-)

 
図:
・薄く青い部分は現在の標高4mまで海とした図。
・明治の終わり頃では現在の国道辺りまで海だった。
・津田沼辺の国道の標高は2〜3m程。
・等高線は5m毎。
・緑の○印の宮本台・外原・上ノ台は古墳時代の遺跡。
・赤の■は神社名。

菊田神社の伝承にある藤原氏の上陸(治承)頃を想定した海岸線。実際は河口近くには大小の砂洲などあり複雑で潟湖などもあったと思われる。
菊田神社の社地は舟形で川の中洲だった。今も境内は砂で大雨には出水するという、東西は一段高くなっている。

藤原氏がどれほどの期間滞在したかは不明だが北東3km程にある二宮寒川神社へ移り、祭神に一族の祖である藤原時平を加え奉賽したという。
菊田神社の由緒に「治承年間(1177-1181)には藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り・・」とあり、寒川神社の由緒には「治承4年(1180)藤原師経当国へ左遷の際、同人及び神官倶々協議して左大臣藤原時平を本社の相殿に合祀す。」とある。

藤原師経、師長、時平。
藤原師経(?-1177)父は藤原師光(法名西光)と、治承より百年ほど前の藤原師経(1009-1066)父は藤原登朝。該当する人物は見つからない。
師光親子は小説にしても十分面白そうだがおいといて。。
藤原師長(1138-1192)祖父忠実の養子になり、治承3年11月太政大臣から尾張(鳴海)へ流されている。

藤原時平(879-909)、子供は男子3人女子として5人が記録されているが、流に早世が多い様子で記録に残るのは10代程だが「師」の名は見当たらない。

治承4年(1180)4月(末頃か)には平家追討の令旨が伊豆の源頼朝に届く、8月17日挙兵。8/29真鶴から安房へ、9/17下総国府へ、10/6鎌倉入り、・・・

師長、師経に共通するのは反平家。
時平を祀った理由だが、師経の父の出生、このあたりが鍵だろうか。
さて、、



 
図:

・緑の○印の宮本台、外原、上ノ台、名主山は古墳時代の遺跡。(一部複合弥生-中世)

・赤の■は神社名。

三山七年祭
船橋市三山の下総二宮寒川神社の大祭礼が近隣の八社を集めて、丑・未年の11月に2日間盛大に行われる。

集まる各社と役割、
 ・二宮神社  (船橋市三山)  :夫
 ・子安神社  (千葉市畑町)  :妻
 ・八王子神社 (船橋市古和釜) :次男
 ・高津比メ神社(八千代市高)  :娘
 ・時平神社  (八千代市萱田) :長男
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・三代王神社 (千葉市武石)  :産婆
 ・子守神社  (千葉市幕張)  :子守
 ・菊田神社  (習志野市津田沼):叔父

神社に残る伝承では、
1445(文安2)下総国馬加城城主千葉康胤(平康胤)の妻の難産の後、神事による安産がこの祭事のはじまりと伝わる。
1445.9/16、神輿を素加の磯辺に移して祭事
1445.9/17、安産で男子が誕生。

この頃の千葉氏、
1455.3月(2月-?)康正元年、馬加康胤、千葉城を急襲落城さす 千葉宗家・胤直ら落のび
1455.11月、東常縁、千葉氏一族を率い馬加城を攻める。
1456.4月、東常縁、千葉城を攻撃。馬加康胤、胤持父子は千葉城を脱出。
1456.6月、康胤は上総国村田川(市原市?)にて自刃、胤持も戦死。馬加康胤、胤持の墓と伝わる。





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