[ 子安神社 ] 、こやす、

畑・子安 住所:千葉県千葉市畑町2093
祭神:奇稲田姫命。
本殿:流、南向。 千木:。神紋:九曜、巴。 
:pk有。

由緒、伝承:
・、、口伝によれば桓武天皇延暦年間、この辺を支配る豪族により作られた子安古墳のお山を ご神体として五穀豊穣の神として創立される。
子安大明神と祀られせしは人皇第60代醍醐天皇の御宇延喜年間奇稲田姫命を勧請し祀る。

・祭日:元旦祭(1/1)・節分祭 (2/)湯立神楽祭(2/28)安産子育講社祭(5/7)・例祭(10/18)・七年目式年大祭(丑年未年11月3,4,5,6日)七五三祭(11月12月)

宮中御慶事の度毎に御安産の祈願祭を奉営し御岩田帯として白羽二重一反を御嘉納の栄を受けている。・・宮中御沙汰書 ---略---
−−−境内由緒抜粋。

千葉市畑町2093、JR新検見川北2km、奇稲田姫命、10/17、本殿銅板流2T、幣殿銅板妻入7T、拝殿銅板入母屋12T、社務所瓦入母屋10T、境内十二社神社、水神社、1940T、---県神社史抜粋。


本殿 妙見宮
  本殿、この背後に子安古墳がある。   厄除厄払星祭の妙見宮とある。

境内は標高20m強の台地上にあり北から西へ続く低地を展望できる場所にある。 社殿の100m程南は大きく掘り下げられ京葉道路が走る切取られた台地の南端に居寒台遺跡があり、古墳時代から奈良平安の住居跡、掘立柱建物跡、土壙、などが見つかっている。また中世の殿山城(館)址もある。
 ※居寒台(いさむだい、いしゃぶだい)。

子安古墳 神社の口伝では桓武50の時代に子安古墳を神体としたのが始めという、対面する台地上の諏訪神社には坂上田村磨の伝承も残っているが、、その百年程前からは続いていたのではないだろうか、豪族の先祖と豊穣への祭祀が。  延喜年間に統制が地方に及びそれなりの神名を充てたのだろうか。

九社による七年祭の伝承では二宮、菊田とも 文安2年(1145)の馬加康胤から始まるが、ここ子安では、
「千葉之介平之常胤(1118-1201) 信仰少なからず建久3年(壬子)公の奥方懐胎し 生月に至るも監産の気色なかりしかば、公の家臣 長田八郎時忠氏を旗村(畑)なる子安大明神に安産祈願の為参篭せしに帰路幕張の海岸に於いて男子を安産し給ふ。
公を始め諸士庶民一同祝賀を挙げ翌建久4年(癸丑年)公は巨費を投じて社殿を造営し且祭典を執行する。(建久4年9月17日の棟札有り(1193))。」
とあり、・七年目式年大祭が現在のような形に発展したのが康胤公の時代と云う。 また・子授安産大祭:更に江戸中期(享保12年1727)の頃より7年目毎に幕張磯辺に於いて子授安産大祭が行われるやうになる。とある


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