[ 蛟{虫罔}神社 ]門宮。 、みつち、こうもう、蚊虻ぶんもう、文間明神。

蛟{虫罔} 住所:茨城県北相馬郡利根町立木882
祭神:埴山姫命(波迩夜須毘賣命)。
相殿:句句廼馳命、軻遇突智命、金山彦命。
本殿:流、南向。 千木:。 神紋:巴か。 
:pk有少。

由緒、伝承:
<境内案内板> −史跡案内、蛟{虫罔}神社周辺
蛟{虫罔}神社は孝霊天皇3年(前288)水神の弥都波能売命、文武天皇2年(698)に土神の波迩夜須毘売命をまつったのが、その始まりと伝えています。記録に現れた最初は、延喜5年(905)に編集を開始した「延喜式」の神名帳で「相馬郡一座蛟{虫罔}神社」と書かれています。
蛟{虫罔}の名は周囲が流れ海であたころの台地の姿が水を分けて進む水蛟(みずち)に似ていたためといわれています。
門の宮(かどのみや)のある所は縄文後晩期貝塚(前2500-後300)でそうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的に見ても貴重な遺蹟として大切にされています。
門の宮の社殿は慶長3年(1598)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄11年(1698) 再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄16年に再建されました。簡素なつくりで彫刻でかざられた門の宮と対象的な建築物です。 蛟{虫罔}神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の?塚や舟形山があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。
昭和55年3月 利根町教育委員会 文化財保護審議委員会。−−ママ−

祭日:6/15、9/15。 旧住所:北相馬郡文間村大字立木

蚊虻注連縄 蚊虻本殿

 社名は、鳥居扁額に蛟{虫罔}神社、入口石碑には蚊虻となっている。式内神名帳では蛟{虫罔}、平安末期に「蚊虻」とみえる。
蛟{虫罔}神社[みづち]とは、蛇に似た想像上の動物で角と四足をそなえ毒気を吐いて人を害したと言われる。
社領50石(天正)、明治5年郷社、文間郷28ヶ村(立木、大房、押戸、奥山、横須賀、総新田、加納新田など)が氏子地域。

 志賀貢は式内社研究で −
、、ミツハ(罔象女)はミツキハノメ(水際の女)の縮約したもの、、学のある郡司が古語の「みつち」に蛟{虫罔}の文字をあてた、庶民には意味も分からず読めなかっただろう、平安末期(大治3)には早くも「蚊虻」となっている。ブンモウと訓んだと思われる、ブンマとなりこれに文間の字を充てた。− と記述している。

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<立木貝塚> この周辺は「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺蹟です。、、この遺蹟は古くから知られておりましたが正式に学会で紹介されたのは明治28年のことです。そのため当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術的調査を最初に行ったのは、昭和38年の明治大学考古学研究室です。この調査では縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
そしてこの遺蹟を全国的に有名にしたのは、土偶、土製耳飾、貝輪、骨針器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。 特に土偶は全国でも最多出土遺蹟の一つとして知られるほどなどです。
土偶は祭礼や儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。−− 利根町教育委員会。
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[ 蛟{虫罔}神社・奥宮 ] 、こうもう、蚊虻神社ぶんもう。

奥宮 住所:茨城県北相馬郡利根町立木
祭神:罔象女。
本殿:流、南東。 千木:。 神紋: 。 
:pk可能。

由緒、伝承:
−−−『下総国旧事紀考』
蛟{虫罔}神社小 相馬郡立木村にあり文間明神と称す、社領50石{天正19年辛卯11月} 奥ノ宮角ノ宮二社なり、社の伝は奥ノ宮は罔象女ミツハメノ、角ノ宮は埴山姫ハニヤマを祀るといへり、〔相殿句句廼馳命、軻遇突智命、金山彦命〕六月十五日、田植の神事、九月十五日、稲刈の神事あり、稲刈の神事のとき、此地の旧領主より〔伊賀守松平候、山城守松平候〕焼絹とて絹若干其他品々の備物、今に廃する事なしと云、
祠官友野氏・海老原氏〔外にも社家五人ありと云〕、別当を宮台山神宮寺と云〔又無量院とも天台宗〕氏子村常陸国にわたりて二十七ケ村ありと云〔此社祭事に筑波山嫗歌合に似たることありしが今は絶たりとぞ〕
 罔象女埴山姫を祀るといふは蛟{虫罔}の訓、水土と通ふにより付会せしものならん、社伝に神体は蛇形なりといへば、文字の如く蛟{虫罔}の神なるべし〔村名を立木と云(立?トカ?フナリ)傍に立崎と云村もあれば因あることならん、{虫L}龍は和訓ミツチ角なき龍なり、和名抄に水神を美豆知と訓す〕
書紀に、劔頭垂レ血激越為レ神。号曰ニ闇{オカミ}-〔此云於箇美-音力丁反〕次闇山祇。次闇罔象{オカミ}は巨神(オカミ)にて、即蛇なり。〔常陸河内郡 龍ヶ崎辺に岡見村あり、此も巨神なるよし、常陸志料に見ゆ〕。 此彼因あることならんか、凡て称呼は地名に残れるもの多ければ蛟{虫罔}の元の訓は龍神(タツカミ)とも云しにや。
−−−抜粋。

蚊虻 蚊虻/等高線5m
蚊虻神社は結構大きな勢力だったらしく利根川を越えた布佐の竹内神社は蚊虻の神官が奉仕をしていたとある。別当は宮台山神宮寺とか勝蔵院などみえるが現在資料未見。
西の門宮と丘陵突端の東の奥宮は700m程離れている。奥の宮は元禄16年に再建の記録があるが創祀ははっきりしない。
天正から江戸初期には天海の影響で旅人の流れが北へと向かうのが多くなり参詣の便で東の奥宮を建てた(拡充)ともいう。
−−−天海と地名を抜き出してみよう
生:?福島大沼郡会津高田町。芦名家龍興寺ー江戸崎不動院
伊佐須美神社の奥院清龍寺・文殊堂ニ祈願随風を生む。− 龍興寺で3年間、− 14歳で宇都宮粉河寺で龍興寺住職瞬幸と同門皇瞬(権僧正)に師事。
− 18歳で比叡山神蔵寺じんぞうじ)の僧侶実全に師事。−23歳で実母病死一時帰郷 − 下野足利学校へ4年間。− 武田信玄に招かれる −天正1(1573)会津に戻る。 − 4年後上野国新田郡世良田の善昌寺ぜんしょうじ(長楽寺)で5年修行。
− 天正19-蘆名盛重に江戸崎不動院 − 下野長沼(真岡市)宗光寺 −(1603)家康に叡山東塔南光坊。 元和2(1616)4/17家康没、寛永20(1643)10/2示寂。−−−



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