[ 日枝神社・竜腹寺 ] 、ひえ、りゅうふくじ、

竜腹寺門仁王尊 龍腹寺の創建は大同2年(807)と伝えられている。
竜「腹」寺の名前には、こんな伝説がある。
「昔」、印旛沼周辺一体に旱魃が続き人々は非常に苦しんでいた。これを見かねた印旛沼の主の竜が大(龍)王にそむき雨を降らせた。竜は天へ戻りかけたが大王の怒りに触れ身体を裂かれた。竜の身体は頭・腹・尾の3つに分れ地上に落ちてきた。頭は栄の竜角寺、腹はここ本埜の竜腹寺、尾は八日市場の竜尾寺に落ち、それぞれの寺で手厚く葬られた。という。

この旱魃を救った竜の話の「昔」は、天平3か4年(731)の事だと言う。
2本の角を持つ頭を収めた龍角寺には、天平3か4年と伝わり、この時より竜閣寺から竜角寺と名を変えたと言う。
腹を収めた龍腹寺には延喜十17年(917)に同じ様に大旱魃で祈雨祈祷し降雨のあと寺に竜の腹が落ちていた、とも伝わる。

仁王尊に奉納のワラジと木槌 この2寺とは離れている八日市場の龍尾寺には、 −−−「・・和銅2年(709)元明天皇の時、全国的な大旱魃に襲われ人民が飢餓に苦しみ、天皇は勅使に命じ釈命上人を導師として請雨法を修法して雨乞いをした。其の折に、総領村の浜より竜神が空に向って舞い昇った。その時竜の尾が垂れ下った所から、尾垂総領村(おたれ)となり、後に尾垂村となった。現在の匝瑳郡光町尾垂がそれである。
空中高く昇った竜神は、間もなく凄まじい雷名と共に、その躰が三ツ切断されて堕ち、同時に激しい雨が振り出して、七日七夜の間降り続いたと云う、それによって枯死寸前の生物は皆悉く蘇生したと伝記されて居る。
三ツに断たれた竜神の頭は下総国埴生庄に、腹は下総国印西庄に、尾は北條庄大寺郷にそれぞれ堕ちて埋妃(まつ)られた。即ち頭は印旛郡栄町竜角寺に、腹は印旛郡印西町竜腹寺に、尾は大寺の寺に埋妃り、勅使釈明上人名付けて「天竺山尊蓮院龍尾寺」となる。以来関東の三龍の寺と呼ばれるに至った。(注、大寺とは古代官寺を指した。それより大寺村となる。)・・」(天竺山龍尾寺略縁起)−−−

これらをみると大旱魃が何度も襲っていることが分る、恐らく大同以前から水に近い印旛から太平洋にかけ龍神への信仰が根強くあったと思われる。広い地域で共通の龍が3つに分断されたとの話は、この3寺のつながり、また後の佐倉宗吾似た事件があったのでは、壬生氏の栄えるきっかけとか、3つは3ヶ所の反(乱)拠点か、など思わせる。

鐘楼左手の日枝鳥居  日枝拝殿
住所:千葉県印旛郡本埜村竜腹寺626 
祭神:大己貴命?。
本殿:流、西向。 千木: 。 神紋:巴。 :pk有。

由緒、伝承:
 未入手。
仁王尊のおられる山門をくぐると正面に竜腹寺本堂がある(立派な本堂などは戦後墨田区某所に売られたらしいが)この今の本堂に向って右手に鐘楼がある、この鐘楼の左手奥に神社がある。昼なお暗く社殿近くまで鬱蒼と樹木がせまる、夏には特におすすめの場所です。
 「仁王さん」と言ったほうが良く通じるようですが、本堂屋根には「龍」の文字が寺紋代りに付けられています。


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