[ 五所宮 ] :ごしょみや、五所八幡宮。
五所八幡宮
住所:神奈川県中郡中井町五所の宮 
祭神:誉田別尊、神功皇后、高良玉垂命、
  :猿田彦命、大山咋命、菅原道真、日本武尊、宇迦御御魂命、木花咲耶姫命、大山祗命、大日留貴命、伊左冊命、武内宿祢、素戔鳴命、高オカミ神、健御名方命、豊城入彦命、崇徳天皇、仁徳天皇。
本殿:、南向。 千木: 。 神紋:巴。
場所:中村川河口から北へ直線で約10km、西から下る中村川と北からの藤沢川の合流点に突き出した丘陵先端に鎮座。pk有。

由緒,伝承:
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五所八幡宮略縁起によると後白河天皇保元2年(1157)比叡山延暦寺の高僧慈恵大師の門人なる僧義圓東国行脚の折、当町雑色村(ぞうしき)子の神の祠(当社の元宮と云われる)に一夜の宿を借り霊夢により白鳩に導かれて現在の地「龍頭丘の杜」りゅうずがおか)に至り、ここに現われた童子(御主祭神誉田別尊)の霊言に従って勧請したと伝えられる。
雑色にはこの時義圓の挿した杖がその後成長したとされる樹齢8百数十年の槐の大木(神奈川県指定天然記念物、神奈川の銘木100選)があり又例祭時の楽人は雑色の青年数名が奉仕するという慣わしがある。

五所宮の由来は欽明29天皇の御代豊前国(とよさきのー)宇佐に初めて八幡宮の勧請有りしより、次第を経て第五に当る故という。
1に宇佐(宇佐神宮)、2に男山(京都岩清水八幡宮)、3に鎌倉(鶴岡八幡宮)、4に河内(大阪壺井八幡宮)、5に当社と、。
創建当時は源頼朝祈願所の1社に数えられ、頼朝に仕えたこの地方の豪族、中村荘司宗平(むねひら)が当社を守護神として深く尊崇し以後その3男土屋三郎宗遠、娘婿曽我大郎祐信(すけのぶ)両家より祭典の供物を納めるを常とした。
−−− 境内掲示板抜粋

五所宮 五所宮
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文明元年正月火災にかかり雑色村在住の神官引地氏辛うじて御神体のみを御動座したという。故に此以前の諸記録神宝など皆焼失し詳細を伝えずとされる。同13年新殿御遷宮。
その後も小田原北条氏を始め武家方の崇敬を広く集めたといわれ、神宝として曽我五郎時到(ときむね)寄進の弓脇差1腰、春日局の子で江戸幕府年寄(老中)を務めた因幡丹後守正勝寄進の大刀1振)甲冑1領他多数有るしと伝わる、弓1張以外は昭和の敗戦後盗難により消失した。
享保17年、本殿再建御遷宮、明治6年郷社八幡神社となる。 又この頃神仏分離令に伴うある誤解から参道階段の中程にあった荘厳なる隋神門を廃棄したと伝わる。明治10及び41、42年村内17御祭神を合祀「所願成就の宮」と呼ばれる。当社の秋祭(9/23)は是を記念した祭礼である。又同41年神饌幣帛料供進神社に指定される。
平成元年より4年かけ社殿・神輿大修復、2の鳥居、玉垣再建。 平成11年11月「五所八幡宮」と再改称し社号標を再建した。
往古の例祭は6月晦日「禊祭り」として江戸初期の頃まで近隣4社と行われた。
−−境内掲示板抜粋

五所八幡宮 本殿真後ろに鎮座する「後三社」
覆殿に三つの小社が並ぶ。祭神は、天御中主、高皇産霊、神産巣日。
祭神の性格は違うかもしれないが、中村川下流8km程の式内川勾 神社も本殿真後ろに祭祀場がある。富士山近くの浅間神社にも本殿真後ろに社がある。

五所八幡宮 −「五所八幡宮・梵鐘」
この神社は保元2年(1157)比叡山の僧義円によって創建されたものであり、のちの源頼朝の全国61ヶ所祈願所の1つに数えられている。源頼朝の再興に尽くした中村荘司平宗平(むねひら)はこの神社を源氏の守護神とあがめ中村、上中村の総鎮守にしたといわれる。
この神社の例大祭(4月29日)は「かながわのまつり50選」に選定され、例大祭の神事として今も残る「鷺の舞」は「かながわの民俗芸能50選」に選ばれている。
境内西側の坂の途中にある梵鐘は寛永6年(1629)の鋳造で高さ95cm口径65cm、中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに第二次世界大戦の時、供出(武器弾薬の材料にするため国中の金属類が軍に徴収されること)をまぬがれた由緒あるものである。
 中井町指定重要文化財第1号 鷺の舞
 中井町指定重要文化財第15号 梵鐘
−平成2年3月、中井町教育委員会 (ママ)


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