[八菅神社] :はすげ、八菅山七社権現。
八菅 八菅拝殿兼覆屋
住所:愛川町八菅山139 
祭神:国常立尊、金山毘古命、大己貴命、日本武命、伊邪那岐命、誉田別命、伊邪那美命。
本殿:流造桧皮葺、東南向。 千木: 。 神紋:九曜、
場所:中津川右岸、相模川合流点より上流約8km、八菅橋傍、pk有。

由緒,伝承:

−−−「大日本国誌」より抜粋
「八菅神社」愛甲郡八菅山村字宮村八菅山上、境内3994坪、
、社伝云日本武尊東征の時之を創建し国常立尊を祀り、大寶3年(703)役小角 押武金日命以下6神を祀る因て七社権現又八菅山権現と称す。和銅2年僧行基之を再建し勅して方7里の地を賜ふ、後足利尊氏社殿を重修、応永26年正月足利持氏の許可を得て諸州を勧進し之を再興す(勧進帳写存す)。
永正2年乙丑兵火に燃し同4年複た勧進して假堂を営し天文10年辛丑11月遠山綱景(甲斐守)再造の功を畢す(棟札存す)、天正19年辛卯徳川氏社領6石6斗を付す、貞享4年丁卯及ひ文政7年甲申武相に州を勧進して社宇及ひ祭具等を修す、慶応元年乙丑蔀殿を修す、明治6年7月郷社に列せらる。
祭日3月8月28日氏子本村及び中津村棚沢村560戸あり旧別當を八菅山光勝寺と号す古へ八菅寺と称し坊中52宇あり中本坊24院を以て輪番し本寺を管す此地旧修験者勤行の?にして毎年2月中旬より35日間此山及び近傍諸山30所を巡行す、明治元年戊辰悉く之を廃し神官を置き祭祀を掌とる社地麓より登る6町許頗る険峻なり境外官林あり松杉森?にして中に役小角手植と伝ふる所の楠松等あり今多く枯槁す。−−−

明治初めの内務省収集の大日本国誌では現在表示されている7神のうち金山毘古が押武金日命(安閑27)になっている。

−−−「県神社史」抜粋
日本武尊東征の折この山に立ち、山の形大蛇に似る所より蛇形山と名付けられたという、今も眼池鼻池などがある。大宝3(703)役小角、日本武尊の御神殿を慕い入山修法された。その折天空より玉幡1流山中に降り、白菅8基地中より惣然として生じ、よりて八菅寺と称す。和銅2(709)僧行基は勅命を受け神体及び本地仏を彫刻し一山の伽藍を建立。
永正2(1505)兵火に罹り同4年勧進して本社以下諸堂を仮に造営、天文10(1541)に至り遠山甲斐守綱景の功に依り再建された。その時の棟札は宝物館にある。、天正19(1591)社領6石6斗の御朱印。
山内方8町不入にして古木繁茂、下川入郷5村の惣鎮守だった。貞享4(1687)本山修験として京都聖護院の末寺に属す。役小角以来、連綿、坊中52ヶ坊の中24坊は開山以来の法孫にして大先達の内、交代にて2人の年番あり、諸行事を設営した。文化6(1809)後桜町の皇子聖護院宮{孟}親王御染筆の勅額奉納、天保12(1841)光格の皇子聖護院宮雄仁親王当山に参拝修法。その時の碑伝他現存。明治維新一山の修験社は総て帰農、八菅神社と改称し明治6.7/30郷社となる。明治44.3村内の13社を合祀。−−−

 
鳥居をくぐり社務所をすぎると、目の前に崖の様に見上げる石段。これは「はとむね」という聞いてみると「破途胸」。確かに胸が破れそうだ一気には登れない。

この真直ぐの道を男坂、手前左手に車道兼用の女坂がある。

*後日3D地図で確認すると、この石段と本殿は冬至の日の出方向を向いていた。

 
「波途胸」と登りきると少し視界が開ける、すこし離れてトイレなどがある。画像中央に見える石段を登ると本殿。

 
本殿を覆う建物、拝殿も兼ねる。本殿は中央に1、左右にそれぞれ1、いずれも流造。
裏に経塔跡などある。

 
拝殿中央にある賽銭箱と神紋?の九曜。
帰りは女坂を下りた。阿舎風休憩所、謂れある池などが路傍に在る。


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