[ 吾妻神社 ] :あづま、
吾妻 吾妻社殿
住所:神奈川県中郡二宮町山西1117(吾妻山) 
祭神:弟橘樹媛命。  配祀:日本武尊。
本殿:南向。 千木:外削 。 神紋:巴、
場所:、pk可能。

由緒,伝承:
−−境内掲示
吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第12代景行天皇の朝に始まると云う、主神は弟橘樹媛命とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行12の第3皇子である。天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中三浦半島走水から海路上総に渡る時、暴風突如に起りそこで妻の命は夫にかわり海神の怒りを静め夫の武運を祈り海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。
其の7日後に命の御櫛が海辺に流れつき埋めて御陵を造る。この前一帯を埋沢といい梅沢と同音である、又命の小袖が磯部に漂いこれを取りて山頂に祭ったと云う。その海岸を袖ヶ浦と云う。 日本武尊は東北戦が終り帰路相模国から足柄を通り甲斐にでる途中、峠ではるか東方の海をながめ(ああ吾が妻)と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神体は木彫りの千手観音で既に数千年星霜を経て現在藤巻寺に安置してある。
源頼朝幕府を鎌倉に創設するや、妻政子本社を崇敬すること浅からず、吾妻山金山と山麓田畑並びに霜見塩田を寄付する、右大臣源實朝も祈願のあめ・・建保6年に雄剣を奉納する。
−−境内掲示(ママ)

吾妻神社と弟橘比売、相模湾から東京湾沿岸に広く分布するがその伝承は似通っていて、櫛や衣が流れ着いた、となっている。また蘇生したとか(千葉の蘇我ヒメ)遺骸が流れ着いたとかある。ここ二宮の吾妻では櫛の他に屍が漂着し漁師が葬り社を営むとの伝承もあります。櫛というのは御身と同じなのかも知れないですね。またこの辺りは淘綾郡と云ったのですが「其衣袖濤に翻り綾帯磯に漂ふを以て浜を餘綾浜と云、海を袖ヶ浦と称す翻る」という地名伝承もあります。
江戸末期の文政8に書かれた等覚院の僧が書いた梅沢誌には「櫛が流れ着き陵を築いた、東南の神明下に日本武尊が陣をおいたので後に祀り三武社とした」とあったようです。ただ文政6頃から寺と社(僧と社氏)の争議があり社は独立した様子ですから梅沢誌に書かれた内容も何時からのものなのか疑問がでてきます。

境内掲示の後半にある「実朝祈願のあめ・・」ですが実朝が領民の苦しみを憂い「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ 時によりてすぐれば民のなげきなり 八大竜王雨やめたまへ」の歌のことで、社寺にも祈願したということでしょう。

 
海(南)からみた吾妻山。標高は吾妻神社の裏手頂上で136m、裾からの比高は125m。2つの頂があり東の頂に浅間神社がある2社の間は直線で200mほど。

育った樹木がなければ相模湾を広く見渡す条件だが、地元の方々に聞いても城など軍事的施設があったという話は聞くことができなかった。周りには横穴など古墳が多いがこの近所にそれが見られない、逆に山頂付近が横穴以前の墓標であった、ということはないのだろうか。



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