[八雲神社] :やぐも、(梵天社)

八雲 八雲
住所:神奈川県平塚市中里138 
祭神:須佐之男命、
本殿:平入、南向。 千木:外削 。 神紋:巴、
場所:平塚農業高校の南西100m。pk無。

由緒,伝承:例祭7/25頃、鉄筋流10坪。境内400坪余
旧村社(明治6年7/30)新編相模風土記巻48村里部大住郡7に「梵天社、本地仏は薬師如来、小字上平塚町の鎮守なり、相殿に八幡、春日2座を祀る・・鐘楼寛政3(1791)、末社神明、山王、疱瘡神」とある。鐘楼の鐘は戦争へ相殿末社共に現在はない。
「安政3辰年(1856)玉川(花水川の上流)大洪水のため大野町大字南原大口という場所が大破したので・・字達上という丈余の高台にある其地500坪余が流失し始め、見る見るうちに目通7,8尺もある大間ツ15,6本も土砂と共に流失しその水害で上平塚耕地は全部荒廃地と化し村民の困窮言語に絶す。
当時同村は韮山代官江川太郎左衛門の領地ゆえ時の名主今井清左衛門、百姓総代原田勘兵衛2人が代官所へ免税を願いに行ったが役人に「莚半枚許すから大道へでて乞食をしろ」と言渡された。
村で再度評定の結果、再びお代官所に願いに、使者の帰るまで八雲神社の社殿で村民断食し、大願成就の暁には常燈明を上げますと祈願し待つと、神社に参篭する村民に「願の儀聞き届け」の返事有、その日から毎夕午後5時に常燈明をあげた、太平洋戦争の灯火官制で中止。」
(境内掲示)
社殿背後に、万治2庚子年(1660)正月大吉日相州大住郡上平塚之村□□の山王碑がある。昭和51年1/18不審火で社殿焼失、同年10/5今の社殿再建、昭和44年2月自然公園施設を整備。

花水河岸段丘に在り、近くは古墳が多くあったが昭和初期耕地整理で消滅、今も時折弥生式土器片がでる。農業高校あたりは鎌倉時代三浦三郎為高の居館あり、室町時代には大森伊豆守の平塚城があったという。 (新編相模国風土記)


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