[# 古代であそぼ、旧Log] 
1996/10/-12/。

・ hp古代であそぼ、の原点ともなった古いLogで公開(NIFTY,fdiysで)されたもの&掲載了解済分。96/10〜97/12分。
・ hp立上当初テストランで掲載してましたが,ご要望などにより再掲します。2000.10.18。


tan 、re:、re:小屋、よもやま (12) 96/10/24

 13番、「さくら」「日本民族はどこから?」ざーっと斜め読み^^;しました。
 古代はいくら発掘が多くなっても推理の幅が狭くなるだけ、とゆーわけで以下  雑談ですので興味ない方はわらって読み飛ばして下さい。

  さくらの話しから随分ひろがっているのですね。手元に資料が無くて確認でき  ずの思い付きですが、「さ」+「くら」てのもあるかなぁ。さよなら、さような  らばの「さ」と神の宿る「くら」。「さの神」の「くら」。
  農耕の神の「たの神」これは山から山の神が降りて来てなるのですが、里山に  桜がぱーっと咲くのを里から見るといかにも「おーい、これから降りてくぞーっ」  って感じがしません?

  昔からの農耕儀礼については稲作の広まる以前から続いているとの説もあって、  色々な地方の供え物に根菜類があるのをテレビなどで見ると、なるほどと思う事  が有ります。
  徐福村の南、揚子江下流に5千〜8千年前かそれ以上前に栄えたらしいカボト、  ラカカクの遺跡等がありますが、ここの住民が漢民族に追われて上流や南下した  ほかに海を渡って日本に着く事は充分考えられますね。

 移動についてちょっと飛躍した説ですと、インドからアスカ、飛鳥、アラスカ、  ナスカの地上絵と続く地名と世界に点在するaskaの入った地名は同一民族の  移動の痕跡とする。これも否定ばかりはできないですね  

  ウルム氷期の北方流入は陸続きが2万年前としてもひょっとして1万年程前迄  は簡単に渡れたかも知れない。縄文の世界最古の土器が1万年以上前と分析され  ていて、これに反論するグループは、類似の土器がシベリアでBC500〜20  00として発見されているからとしてますが、これは総ての文化が流入したとの  先入観が強すぎるのではないかと思いますね。
  縄文6千年としても最盛期週休5日で暮らせただろうの期間が世界でもまれな  程長い縄文期には文化の輸出がかなり発生した可能性が高いと思ってます。
 サンプル数が少ないですが、縄文初期の頭蓋骨は後期のそれとか弥生と比較して  もきゃしゃで歯の形も大きさも小さく進化したモノで長命だったとの分析があり  ます。
 最近荒神谷の隣から大量の銅鐸がでましたが、以前上野で馬王堆墓の展示の時に  銅鐸をずらーっと吊って日本の童謡も含め何曲か演奏してまして、時間も忘れて  始めから終わりまで聞いてました。またどこかでやらないかしら。。

 石器と鉄道具ですが、どの本に書いてあったのか不明で「たしか」の話しですが  実際に比較実験した結果ですと、木の加工は3〜6倍の時間で石は鉄と同じ仕事  ができるらしいです。

   ・tan・

かたばみ 大昔のいろいろと建物 (12) 96/10/29

ちょい2分割でタイトル変更。
こっちでも住まいとは直接関係ない話になっちゃうけど..なんでもありのDIYに 免じて長文ご容赦(^^;

》 ずの思い付きですが、「さ」+「くら」てのもあるかなぁ。さよなら、さような
》 移動についてちょっと飛躍した説ですと、インドからアスカ、飛鳥、アラスカ、

古代語のサという韻は稲と関係ある意味をもつらしいから、稲作以降につけられた名称 ならありえるかもですね。
天皇=スメラミコトですが、アルタイの諸民族にはスメルと呼ぶ高山信仰があったりす るし、天尊降臨のような高山に神様が降りたという神話も共通するようです。
神様は人間がいちばんゆきにくい場所からきたというのはどこにでもありそうですが。

》 縄文6千年としても最盛期週休5日で暮らせただろうの期間が世界でもまれな 》 程長い縄文期には文化の輸出がかなり発生した可能性が高いと思ってます。

日本の縄文中期は最盛期で文化が輸出された可能性は十分あると思います。 ただし、昔の定説へのゆきすぎの反動にも注意がいりそう。 最近は古代史報道が多いけど、正確な年代と文化状態が確定できればその差から、 ひょっとして人類の発祥が単一起源で各地に拡散した、なんて推定が可能になるかも。 どの地域でもある段階までの文化は大差なかったんじゃないかと考えています。

生活の安定と困難が同居して、なおかつ困難を回避できる手段を発見できる「広さ」が あったときそこに文明は発達する..そんなように考えてます。
安定すぎても、困難すぎても、手段が発見できなくてもうまくゆかないわけです。
紙一重のたいへんデリケートなバランスシートがありそう。
(大陸移動や地軸変動、気候変動などを加えた人類ゲーム..作れそう(^^;)

人種的な「どこからきたか」はおそらく物理的に解決できる。
でも文化はむずかしい。
最初に作った人々のところでは消滅しても別の人々が継承発展させることもありそうだ し。
日本だと肉体的には数万年前の樺太、朝鮮半島経由のモンゴロイドが中心と見ます。 (北経由と南経由ですでに若干違ってる可能性あり)
山、海、温暖、強敵なし..たいへんに恵まれた環境下で縄文中期に最盛期を迎えた。
1万年もあれば考えてできることならほとんどのことはできますね。

しかし..欠けていたのは「広さ=可能性の大きさ」だったと思うんです。
気候の変化に伴う困難が生じたとき「手段」を発見できる広さがなかった。 
発見がなければ、活力は自然の恵みの大きさ以上にはなれず結局は衰退した。
後に大陸(東南アジア含む)からの文化(手段)を大量に輸入して次のステップへ。
(このとき若干の肉体的な混合もあると思うけど)
そんなイメージを持っています。

食べ物文化といった点からは..
ワラビやクズを食料にするのは今でもやってますけど、これを利用する地域はヒマラヤ から中国南部山岳地帯(東南アジア北部)の照葉樹林文化。
いわゆる東洋特産の、酒(麹を使う酒)、茶、絹、漆、柑橘類などなどを残します。 カボトやラカカクのことは良く知りませんが、地域的にはこの流れが海にぶつかる位置 ですね。

もうひとつは各種のイモに代表される根菜文化圏。
これはポリネシアなどから東南アジア、インド平野部がその範囲。
カレーライスのターメリックもこの一帯から取れるイモの1種だそうです。
ヤシ、パンノキ、バナナもこの地域の特産。
この文化は豊かな森と水が必要だけど、それがあるかぎり心配なしの安定継続地帯。

もうひとつがサバンナ食文化といわれるもので穀類文化です。
豊かな森はなくていい、ある程度の荒れ地でも栽培できた。
ヒエ、アワ、稲、麦、地域によって利用種はいろいろ。
小さな種子を食べるのは鳥と人間くらいだけど(^^; そこが大発見。
豆の利用と植物油の採取にも成功して、すべてを栽培でまかなえるようになります。
地域と時代で人間を含めて複雑な流動があったと思われます。
そして、定着→耕地=勢力→戦争の形態を生み出した文化。

陸における稲や麦に匹敵する海の稲や麦がまだ未開発(未発見)。
(それが可能になったとき「公海」がなくなるようだと戦争はそのまま継続(^^;)

》 最近荒神谷の隣から大量の銅鐸がでましたが、以前上野で馬王堆墓の展示の時に

残念ながら銅鐸の音は録音でしか聞いたことがないです。
−−以下遊び−−(^^;
荒神谷の隣の銅鐸は日本シリーズの応援団用だった(^^; ま、日本シリーズといっても相撲の起源の当麻蹴速(タイマノケハヤ:大和出身)と野見宿禰 (ノミノスクネ:出雲出身)の試合です。
出雲が負けたのでげんなおしに埋めちゃった(^^; 当時の超大国、邪馬台VS出雲。激戦というより知恵比べだった雰囲気です。

邪馬台国はライバル出雲の背後を押さえるために瀬戸内経由で軍団を近畿へ上陸させ、 拠点を作った(これが神武東征伝説となる)。
動きの取れなくなった出雲はしだいに邪馬台国に吸収合併されてゆく..
−−遊び終わり−−

住宅金融公庫のギャラリーで東南アジアの住まいの写真パネルを見てきました。 日本の住まいとまったく変わらない。
中国、韓国になると「土」を使いはじめるのが少し違う。
タイやベトナムでは土をまず使ってない。 森林、雨..の差かなと感じました。

校倉というのは木がある場所なら世界中でありふれた手法なんですね。 多くがしっくいや泥をつめて密閉しようとしたけれど、日本のは通気を持たせようと したのがちょっと違う。
ただし、日本では校倉は倉庫用で住宅に使ってないのが面白いです。
銅鏡の絵にある高官の住まいの壁は柱構造で壁は木か草網で東南アジアの住まいとほと んど同じ。

500年頃の天皇の住まいの新築祝いの歌に、柱や梁や屋根は一生懸命ほめてるけど 壁をほめてる部分がない(^^;
大嘗祭(天皇即位式)で使われる「臨時宮殿」も木と草だけで壁がなくて、簾や障子の ような家具のみの掘立柱の竪穴住居(^^;
保存のための倉庫はめいっぱい丈夫に作ったが、通常の住まいは雨露しのげればそれで よかったように見えます(寒冷地はわかりません)。
日本で住まいにはっきり土壁が登場するのは600年あたりからのようです。

〜かたばみ〜

tan 、re:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/02

 どもども^^。    

;>神様は人間がいちばんゆきにくい場所からきたというのはどこにでもありそうで ;>すが。
#精霊が身近だった時代がすぎて神様というか建国神話になると、国毎にいろいろ  ありますね、オオカミだったり熊だったり。面白い事に日本の神話は3つが合体  してますね。

 中国南西とか台湾にもある兄弟(イザナギ、イザナミ)から始まる話。兄弟婚はエジプ  トはじめ結構最近までありますね。

 インドネシア、ポリネシア、南アメリカと太平洋に広く伝わる体から食べ物がで  てくる話。これは生きている時に限らず死後に死体から沢山食べ物がでるところ  まで共通です。食べ物の種類は日本は五穀と蚕、牛、馬ですが、太平洋では芋類  、椰子類。この死体化生型神話から縄文の土偶が壊れているのが多いのは、この  神話(伝説)が理由としている人もいる。

 半島北部高句麗の五穀をもっての建国神話とかギリシアでの麦をもっての神話、  日本では(ウケモチの)体からでた種を天(タカマガハラ)で栽培し稲の種をもって降りて  くる話。

 どの本か誰かいま分かりませんが、歯の大きさ等特徴から流れとなる人の移動を  みると、タイ辺りのスンダ大陸棚から2万年近く前に沖縄を通って1.2万年前  に東北まで来たのが初期縄文人。この歯の特徴はメラネシア、ポリネシアにもあ  るので上陸地は一ヶ所一時期ではなかったかも。一部は雲南から長江で留まり2  千年前に上陸。
 弥生人の特徴である中国型の歯は1.5万年前に北海道へ。半島を経由して2千  年前に流れ込む。
 とすると、記紀の神話は、はじめスンダ大陸orインド辺りから直接来た。  次にニューギニア、メラニシア、ポリネシアを経由してそして日本へ向かった。  で建国の主は半島から来た。記憶痕跡ではないかと。。

 縄文の話しですが、骨からみると縄文人というのは弥生のそれに比べてもあまり  個体差が無く殆ど単一というか混血はなかったといっていいくらい、のようです。  また長江下流での5〜8千年前程の骨とは類似性が認められていない。ただ、大  陸南西からチベットにかけてちらほら類似の骨が見つかっているようです。
 環境が長い間良くて体の変化も必要なく、外から見ると海を渡って大量に移動し  なければならない理由も無かったのかも。大陸から離れた後は鎖国ではないけれ  ど人種的にはかなり閉鎖的だったかもですが、こちらから出ていったのも否定で  きないと思っています。
 縄文人の個体の均一性と人種を含めた”ふきだまり”というのは、どうもすなお  にむすびつかない、さらに弥生よりも現代の方が個体差が大きい。。
 入ったのか出たのか?2万年前直後とそれ以前このあたりがkeyかしら

 最近のハイテクを使った発掘物の分析では、少し前までの稲の起源、雲南アッサ  ムから長江を通って九州というのから、長江下流が稲作の起源だった、と言う様  に変わってます。先日の竜馬古城とか大陸での発掘が拡大して、新しい流れとか  つながりが分かるかも知れませんですね。  

;>・・・できる「広さ」が あったときそこに文明は発達する..そんなように考え
#ですね、楽園状態では文化はできても文明はそれほど必要じゃない。

 倭人伝によると弥生の樹木は、くす、とち、樟、ぼけ、くぬぎ、すぎ、かし、楓、  山桑。家には部屋があって柱は杉が多く屋根はススキが多い。とあって壁につい  ては? 板と草?竹もあったかも

 建物は神社にむかしを残すとのことですが、大社と神明造りがあって同じ高床式  でも流れが違いますね。出雲は床の高さが20m以上大昔は90mはあったとか  、こんなに高いのは高地への郷愁なのか灯台かわりにでも使ったのですかね^^。
 伊勢は低くて棟持柱、たしか棟持柱は海系、とすると出雲は山系で伊勢は海?

 高床の住居は縄文前期にも掘立竪穴にまじってあり中期にはかなり多くの高床と  みられる遺跡があって、縄文のそれは4m四方くらいが多く、弥生になると長方  形が多くなる。
 カボト遺跡の高床も柱と床に石器での貫、継手などの仕口が見られるのですが、  縄文のそれにもほぼ同じ加工が見られる。穀倉としてネズミかえしのある高床の  代表は登呂で太平洋側に多い。
 日本海側の高床にはネズミかえしは無くて、縄文遺跡の中には周辺を含めて竪穴  の跡の発掘はなく高床式の建物だけで構成された集落も発見されている。
 で、高床は穀倉だけでなく住居として使われた。と思ってます。
 これらの高床もなぜか古墳時代の前までに一般からは消えるのですね。。

 土壁は600年頃ですか、竪穴だと掘ったのを周りに積み上げてすぐ土壁に発展  しそうな気がしてしまうのですが。土器にもまぜものをしているのですから。
 気候気温の変化のせいでしょうか、今手元に無いのですがちょっと古い資料をみ  て最近の出版も捜して記紀も読みなおさなくては、、建物、植生から見るように  なったのは最近ですから。。。

   ・tan・

かたばみ 、re:、re:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/06

絞りきれる決定打がないと自由に想像ができて面白いです(^^;
販売してた「倭国乱る」という資料を読みました。戦争原因に単に農耕としか書いて ないのがちょっと気になったです。
しかし、石の鏃が食い込んだり刀傷のある骨があれだけ残ってるということは、当時の 人口から考えても、ほんとにたいへんな大戦争だったみたいですね(^^;
この時期の農耕具は退歩すらしてるのに、武器は鉄器を含めてずいぶん進歩(^^;
人種的な流れはDNA研究で遠からず解明されるのは確実と思います。
問題はそれらの人々がなにを考えなにをしていたか。
祖先..血の継承か文化の継承か。
洪水が最も共通項の多い神話だと思うけど、日本の神話ってなんだろ.. 他の国でも消えた神話がいろいろありそうですね。

文化はどこが発祥か、盛衰と断続、逆流が入り交じってるからむずかしそう。 中国、東南アジア、インド、掘れば無数の遺跡発見で推測もたぶん二転三転(^^; 東南アジアと日本の遺跡だけかな、岩と砂でなく森に埋もれてるのは。

稲は大別するとアフリカ系とアジア系の種があるそうですが、現在アフリカ系を栽培す るのは少ない。
アジア系では成長に温度依存型と光量依存型があって、インドだけが光量型で耕作法も 地中海農耕の麦作の手法が混じっていて他の国とは違うみたい。
(おそらくはギリシャとインドを征服した北西アジアの印欧語族の影響と思います)
縄文期にもアワやヒエを栽培していたはずで、稲以外の流れも知りたいところです。

衣食住+信仰の総括が言語あるいは文字。文化の指標。
縄文にも文字があるはずと思うけど..情報不足。
文字のある土器はないのかな?? 木の皮に書いたので残ってない??

》 日本海側の高床にはネズミかえしは無くて、縄文遺跡の中には周辺を含めて竪穴
》 の跡の発掘はなく高床式の建物だけで構成された集落も発見されている。

持っていた慣習が各部族(ムラ)で違っているか、その地域の環境が違っていたのかも しれないですね。
福井県の鳥浜遺跡では他の地域よりだいぶ早くに落葉樹が消えて照葉樹林化してるそう です。
こういう地域ならヒマラヤ〜中国南部に至る照葉樹林型文化に短期間で切り替わっても 不思議はないです(輪島塗(^^;とかひょうたん栽培などなど)。

当時は食料を貯蔵することが最重要だっただろうと思います。 後に戦争が多くなれば、焼き討ち対策で倉庫に土などを塗ったかもしれない。 (住まいは燃えてもすぐDIYできるから面倒なことはやらない(^^;)
校倉が日本から消えた第1の理由は人為的な火災の危険が増えたためじゃないかと。 (高床は校倉と表裏一体)
第2の理由は..ちょっと遠回りします(^^;

》 倭人伝によると弥生の樹木は、くす、とち、樟、ぼけ、くぬぎ、すぎ、かし、楓、
花粉分析によるとBC1万年以前ではモミや松類がほとんどで広葉樹なし。
温暖化に伴って広葉樹が急速に増えてBC3千年あたりがピーク。 以後スギ、ツガなど針葉樹が出現。

縄文中期の人口密度推定では中部内陸、関東が100平方キロあたり300人。 (300人というのは世界にも例がないそうです)
中部日本海沿岸、東海で100人。
ブナ、ナラ、クルミ、クリ、トチなど温暖型落葉樹林で木の実が大量に取れた。 東北では寒冷型落葉樹が混じって人口は70人くらい(北海道は不明)。 対して、近畿、中国、四国、九州はカシ、クス、シイなど常緑照葉樹林で木の実が少な く、人口もわずかに10人以下です。
気温は各地平均で現在より1〜2度高かったらしい。

これだけ東西で差があると同じ縄文でもだいぶ違っていたはず。 すなわち西日本ではパワーは少ないにしても照葉樹林文化と同じものがあったと考えて よさそう。焼き畑など原始農耕です。

縄文後期になると寒冷型落葉樹が南進。中部内陸では亜寒帯針葉樹も出現。 東海、日本海沿岸では照葉樹が増える。 関東、東海、日本海沿岸の人口が半減。中部では1/3以下に激減した。 東北では植生共に大きな変化はなし。北海道では針葉樹増大(人口はデータ不足)。 近畿以西でも植生と人口は変化なし。

弥生期にはいると日本海側で人口微増、東北は微減。 中部、関東では再び増大して300人を越え、東海では500人近い。 近畿で300人、九州、中国で150人、爆発的急増。 この当時の水田技術は現在の東南アジアの技術をしのぐほどだったらしい。 農耕の下地があったればこそと思われます。 気候は最も寒冷で現在より各地平均で1〜2度低かったようです。

中部、関東は盛衰が激しい。文化も複雑にいりまじりそうです。 盛衰の少ない東北なら文化の安定継承になって不思議はなし。

魏志倭人伝には松(赤松など)がでてこないですけど、少なかったのだそうです。 他の木が育たない適度に荒れた環境のとき松が育つ。 その環境を1万年前には自然が作り1500年ほど前からは人間が作った。 近畿で松が増えるのは森林破壊が大規模になる500〜600年あたりからです。

野尻湖の花粉データもこの時代以降に異常なほどの松の急増加を示してます。 京都の嵐山や東山の松林、昭和にはいって保護指定されたら意に反して松が消えて広葉 樹の山になっちゃった(^^; ..デリケート。

すごい遠回りしたけど..(^^;
手頃な木が近場では入手難になったことが校倉消滅の第2の理由じゃないかな。 (東大寺建設当時ですでに柱に使える巨木が枯渇したために集成材を使ってる) ちなみに木曽で松が増え始めるのは1100年あたりだそうです。
第3は、生産力の向上でゆとりと、相互援助が可能になって倉庫の重要さが減った。 寒冷化も伴って高床も消えた。

》土壁は600年頃ですか、竪穴だと掘ったのを周りに積み上げてすぐ土壁に発展
出典は「ものと人間の文化史45/壁」法政大学出版で、一般建築で土壁が使われるの は仏教建築がスタートのようです。
青丹(アオニ)よし、奈良の都の青瓦と白壁の対比の美しさの様子だと思います。

中国や朝鮮ではレンガ積み工法がたくさん使われてるのに、日本では明治になるまで 校倉同様に住まいには使わなかった。
高松塚のしっくいとか平城京の基礎のレンガ積みがあるから知らないわけじゃない。 家型埴輪には高床の床下を土で塗った?のがあって、大きな換気口らしきがしっかり開 いてたりする(^^)

森と温暖に恵まれた環境→自然の懐で暮らす→開放を好む、があったんだと思います。 おそらくは縄文1万年の森林生活で形成された住まいの意識。 森あるかぎり日本式建物に縄文がまだ流れ続けてる、そう感じます。

〜かたばみ〜

tan 、re:、re:、re:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/12

 ほんとに絶対違うとは否定しきれないのが”むかし”ですね、発掘される物は事実  ですが”なにに、何の為使った”のかは推測できても確定はない^^。

 時間が足りなかったですね、久々の私も物足りなかったです。特別展もなんとなく  つっこみが足りないというか遠慮がち、あそこは畿内説系統なのかしら。 倭国乱れる原因というか原発は農耕ですね。稲作で人が時間と土地に縛り付けられ  労働力が多量に必要になり、収穫時には盗られない備えが必要になった。  農耕具より武器に投資した方が「効率」がいい、耕すより耕す人を捕らえたほうが  てっとりばやい^^;

 稲はオリザ・なんとかという単一の種からインディカ(インド、シンドシナ、中国  南部)とジャポニカ(中国北部、朝鮮、日本)に分かれたのが今の定説になった様  です。以前は栽培種インディカからジャポニカに分かれたとの説が主流だった。  長江下流の稲作はBC5000〜6500で温帯ジャポニカ。日本ではBC150  0、少し前(20年弱)の論より千年遡った訳です。
 縄文遺跡からは温帯と熱帯ジャポニカが混在して出ているようで、現在の米も中国  と違って熱帯の痕跡があるようです。
 稲作に限らず調査の量と質が変わるとどんどんひっくり返るというか遡りますね。  その割に偏った文献展示が多いような。。著者によって引用参考が違う^^。  アフリカ系の稲、読んだ事が有りません^^;栽培としての種なのでしょうか

 洪水伝説はアララトやポリネシア、南太平洋に散在してるけど日本にはたしか無い  ですね、伝説神話のmapが載った本どこへいったのやら。。

;>東南アジアと日本の遺跡だけかな、岩と砂でなく森に埋もれてるのは。
中南米とか海、湖ってのもありますね国内でも河床からでたのもあったし。

 植生、建物については次回ってことで、、読みなおすじかんが ^^;

   ・tan・

かたばみ 、re:、re:、re:、re:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/15

》 倭国乱れる原因というか原発は農耕ですね。稲作で人が時間と土地に縛り付けられ
食料をDIYできるようになると..あいつのをいただけばもっと..(^^;

》 稲はオリザ・なんとかという単一の種からインディカ(インド、シンドシナ、中国
》 南部)とジャポニカ(中国北部、朝鮮、日本)に分かれたのが今の定説になった様

  オリザ・フアッアかな。
野生種であれば野尻湖の花粉分析でも1万年前から少なからず日本にもあったみたい。 ただ、現在各地にあるフアッアは付近の栽培種と混血していて各地で相違が大きすぎて 原種かどうか断定できないそうです。

アフリカのはオリザ・グラベリマという栽培種だそうで、ニジェール川流域。 この川は大西洋岸から内陸を遠回りしてギニア湾にそそぐ面白い川なんですね。 この種は栽培量が少ないのでアジア種だけ考えればいいと思います。

(以下各種資料からの抜粋と好き勝手推論(^^;)
禾本科(カホンカ)植物(アワ、ヒエ、麦、稲など多数)は多くがサバンナの乾燥地帯だけ ど、稲は特殊な部類で湿地に生える。
陸稲、モチ、浮稲といったの種類があるそうです。
アジア系(オリザ・サチバ、栽培種の総称)のジャポニカとかインディカは有名ですが、分類法すらいまだ明確でないらしい。
こういう分類って人間サイドの勝手な決め方だから考え方に先入観を与えやすいです。

例えばアマン種とアウス種という分類もあって、アマンは日照時間が短くなると穂が出 るタイプで蒔く時期を限定されないのが特徴。前に書いたインドのが「おおよそ」これ のようです。
アウスは栽培中の温度(エネルギー蓄積)がある量に達すると穂がでるタイプで、気候 がよければ2毛作など季節に関係なく作れる。ジャポニカは「おおよそ」この仲間。 「秋」という字は稲を木にかけて火(日)で乾かす作業の時期、という形からできた そうです。

アジアの稲は照葉樹林文化から生まれた..というのが私の推測。 焼き畑と麹を使う酒が照葉樹林文化だというのが傍証です。 (根菜文化でも焼き畑はやるみたい) はじめはアワやヒエと同類の陸稲種から始まった。

湿地帯は食住とも環境が悪い。最初からここに住んだ人はまずいないはずで、食料開発 も同じ。
食料の乏しい人々が山肌に生えてる雑穀を食料にしはじめた。 (鳥に教わったのかもしれない(^^;)
そして近所に湿地帯がある地域の人々がそこに生えてる種類のおいしいことに気がつい て、交配改良した結果が現在の水稲。
(野生の浮稲と現在の栽培種が交配できることは実証されてるそうです)
具体的には、ヒマラヤ東端の山岳照葉樹林民族がインド側の野生種と中国側の野生種で 作ったのが、例えばインディカやジャポニカの違いになった。 アッサム(ガンジス)からインド全域と東南アジアへ、雲南(揚子江)から北部と東南 アジア、日本へ。

アジアでは照葉樹林(山岳)、初期農耕(焼き畑など)、高度な農耕のできる平地へ、 というステップに注目しています。
山岳系と平野系の民族の葛藤というのがアジア全域にあって、初期には山岳系が最初の 文化を作る。
平野があいてるのに、なぜか山に登って焼き畑やったりするんです。 生産性がよくないから山岳は大きくは発達しません。 そこへ平野での食料技術を持つ人々が平野に住み着いて葛藤がはじまる。 たいていは生産性のよい平野が優勢になります。

スリランカのシンハリ族とタミル人(ドラヴィダ族)の紛争は有名ですが、シンハリは BCゼロ年あたりには国家を作った先住の山岳民族。 タミルはインドのガンジス川付近からやってきた平野の民。 平野の民がさほど大きな文化やパワーを持たなかった地域では山岳民族が今も主権者に なってる。スリランカやマダガスカルがそうです。

このパターンはアジア全域で共通していて、今も紛争の続く場所も少なくない。 日本だけ例外だったとは考えにくいんです。 日本が稲の開発に至らなかったのは中部と関東では食料豊富、東北では気候の問題。 西では住民パワーが少なすぎた。総じて湿地がない。

九州ではつい最近まで焼き畑が行われているけど、農耕の基礎があったことが稲作を 短期間でものにした理由だと思います。 高千穂:たくさんの穂が波打つ山肌(アワの穂かな)。

えーと建物の話がないな(^^; 門の話..鳥居だけど(^^;
ある本にインドシナのある民族(名前忘れた)の村の入り口に鳥居がたってる写真が あってびっくり。鳥居だけで塀はないのです。
その隣にはセックス描写の道祖神が..(^^;
横棒が1本ですが、弥生の遺跡からでてくる鳥の彫刻と同じものが、鳥居の上に棒に くっつけて並べてああります(弥生の鳥にも棒を通したと思われる穴がある)。 鳥が居る門=鳥居。 鳥と稲作、なにかありそう。

〜かたばみ〜

tan 、re5:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/19

 植物というのは、実に行動範囲が広いと思ってます。山小屋と自宅を往復している  と植生が似てくるし、山の敷地内でも鳥の良くくる場所の下は知らぬ間に新しい花  がでている。草や木の種類によって集まる鳥の種類も違う、アワヒエにはスズメが  近づくし、惚木の実には違う鳥(判別できない^^;)などなど。

 照葉樹林といった植生では雑穀類とか草もそれほど違いはない様な気がしてます。  稲の原種が身近にあっても栽培するかしないかは現地の状況判断次第。  現在原種に近いのを栽培している所が発生した場所とは限らない。

   長江下流の稲作はBC6000、日本では岡山辺りの遺跡でBC1500。  インドでの記録ではBC3000、長江からほぼアジア全体に広まるまで4000  年ほどかかっている。大規模の稲作はそんな気がするが、4千年というのはちょっ  とかかりすぎ、のような気がしている。

 オリザ・ルフィポゴンでした原種。属名のオリザはインドのオリッサ地方の名が由  来で、1920年代の植物地理的微分法での熱帯アジアの低湿地で生まれたという  考え方での属名ですが、それ程単純ではないような気がする。栽培種としてはイン  ディカが先行しジャポニカが二次的に分化したという説も否定されつつあるし。  オリザ・の先入観が崩れて来ているですね

 アフリカは、グラベリマですか。感光性が強く短日性というのは「アマン種」。  業界^^。で使う言葉もまだ統一されていないようなきがする。

;>門の話..鳥居だけど(^^;
#鳥居、またあたらしい遊ぶモノが。。。^^。  まだ精霊信仰に近い縄文に既に鳥居の原形がありますね、塀はなくて、鳥居の意味  で呼んでいたかどうか分かりませんが。

 s43年の本ですが(日本の建築\5000)、
 炉、室内に入ったのは縄文前期、暖房と炊事と思われる2つが室内にあるのも
 壁、唐古遺跡:板、杭を地中に埋めつづら折りで編んである。日吉台遺跡:丸太と    ワラで壁
 かなり昔から壁に土を塗りこんだ気がする(寒ければ)。

   ・tan・

(くま) 、re:、re5:だいぶ暴走します。 (12) 96/11/19

こんOOは、K.G.A.-(くま)です。以下暴走します。

鳥居とはまた、大変な物が出てきてしまった気がしますが。(^^;

>> まだ精霊信仰に近い縄文に既に鳥居の原形がありますね、塀はなくて、鳥居の意味
>> で呼んでいたかどうか分かりませんが。


鳥居は元々の意味(字義)だと「取異」とするのが神道では一般的なようでして、結界 への入り口を現します。結界に入る時、体に巻き付けている「異物」−「邪」を柱が巻 き取ってしまうので、人は祓われた状態で結界に入る事ができるとか。
で、神社の場合は、当然参拝帰りは鳥居の脇を通って帰らないとせっかく巻き取って もらった物がまた憑いてきてしまいます。 結界(境界)を表すという意味では、朝鮮 の「チャンスン」なんかと同じ系列ではないでしょうか。

で、ここからは塀は無くてもいいんじゃないかな?という話です。
まず、聖域に対する認識は調和型宗教徒とサバイバル型宗教徒ではかなりの違いがあるよ うに思われます。調和型の場合は空間型聖域で、サバイバル型の聖域認識は空域型とゆー 風に私は呼んでいます。空間型の場合、あるエリアとエリアの間に聖域は存在するので、その 大きさは動的なもの(区切りようが無いもの)になりますが、空域型だとそれ自体が エリアを持っているものになり大きさが限定されています。

例えば、通常、「にんげん」と言う意味で用いられている「人間」は本来個別の生物や 個体を指すものではなくて、「じんかん」の意味しかなく、個体間の「あいだ」にある 「なにか」だけをさします。この解き方で言うと、人間関係とは、「人と人とのつなが り」ではなく、「人と人とのあいだにあるなにかのつながり」ってゆー風になります。 人間関係の複雑さは個対個の問題じゃなくて、「あいだ」の「ねじれ」の問題であると 考えると修復が容易になりません?(ちょっと話題がずれたな)

空間も同様で、広がりを持つ「あいだ」を示します。「あいだ」の大きさはそれを挟ん でいるエリアによって規定されるので、伸び縮みします。(英語でいうスペース、エリア、漢語で いう空間、空の語義語感の違いは文化的に大きいはず。)一方、空域は大きさが限定さ れたエリアで周囲の変動に影響を受けることなく存在します。

この聖域認識の違いから考えてみると、アジアでは、鳥居や、門は塀を併せ持つ必要がな く、ただ入り口の目印だけあればいいことになります。
実際、インドのある聖域には今でも門しかありません。通りを歩いて行くといきなり門が 建っていてその先には何もないのです。ただ入り口だけ。
その門の聖域側の柱(あと一歩で俗界に戻るとゆう境界側)には、「ここより出でて泣 け」と彫ってあるんだそうです。(俗界はつらいことばっかりかい…)

日本、中国の絵画は掛け軸タイプ(枠なし)でヨーロッパ系絵画には額縁が必要ってのも 似たような空間認識から来たものだと思いますですよー。


かたばみ 、re:、re5:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/21

日本の場合、少なくとも数十万年前の旧石器の時から人がいるわけで、人種的に10万 年単位を隔てて数波の波があっただろうと思います。 最新の波がいわゆる帰化人、その前が縄文の人々、その前は..不明。

文化は年月と環境の影響が8割、残りの2割が遺伝子的な影響あたりかなあ。 例えば嗜好、アジアの人々はモチが好きです。
米はもちろんですがアワやトウモロコシもモチ性の品種を開発したのはアジア。 (西欧にモチ麦とかモチ食品てあるんだろうか)
これはたぶん遺伝子的な嗜好のような気がする。

赤米から白米。東南アジアや中国南部では今も米を黒や赤に染めて食べる人々がいるそ うです。日本人もそうだけど。
粘る糸引き納豆。東南アジア、朝鮮にもある。 関西じゃ納豆きらいな人多いみたいだけど、中国も最近は南部以外では食べなくなって るようです(干し納豆は全域で食べる)。

酒。これはカビを使うのがアジア全域の特徴。 材料は各地でいろいろ、インドやネパールではヒエの一種、チベットでは大麦だけど ビールじゃない。モンゴルへゆくと馬乳でやや毛色が変わる。 酒だか発酵粥だかわからないのがスタートのようです。

山岳、気になっています。
ヒマラヤから西へはアフガニスタン、イラクを経てトルコに山岳が連なる。 東へはビルマ、中国国境へ。
中国雲南ではかっては照葉樹だった山が乱伐で禿げ山になってるそうですが、最南端の ビルマ付近までゆけばたくさん残っていて、桜やツバキが咲いているそうです。

文化の発祥は中緯度温暖な山岳の森林、なにかの潜在意識があるんじゃないか、そんな 気がしてます。
アッサム、雲南、カシミール、メソポタミア、エチオピア、ニジェール.. 森が生んで川が育てる。

》 かなり昔から壁に土を塗りこんだ気がする(寒ければ)。

氷河期を経験した人なら隙間をふさぐDIYやるでしょうね。 縄文の人々がその人々と同じかどうかは別にして、必要がなくなれば消える。 また寒くなって古いやりかたは忘れたので、身近の中国のやりかたを真似した。 それが現在の土壁起源といったところだと思います。 波のように押しては返し消えて現れて..

》 長江下流の稲作はBC6000、日本では岡山辺りの遺跡でBC1500。
》 インドでの記録ではBC3000、長江からほぼアジア全体に広まるまで4000

情報速度は現代から見ると双曲線カーブで遅くなりそう。 ま、他のデータがみつかってないから不思議に見えるだけだと思いますけど。

こぼれた実から芽が出るのに気がつかないはずがない。 日本でも縄文早期には小規模にしても独自の稲作があっただろうと思ってます。 ただし大湿原はなかったと思うので水田までは無理だろうな。 陸稲の焼き畑方式。アワやヒエがメインかもしれないけど、食糧事情から見て西で始ま る可能性大。

米と鳥、切り放せない感じ。
鳥と船、日本の古墳の壁画にもでてくるモチーフのようです。 タイの山岳民族の儀式にも鳥と小舟がシンボルにでてきたりします。 山岳民族なのに小舟がシンボルとは不可思議.. ノアの箱船をどうしてもイメージしてしまうけど、アジアなら鳩がくわえてくるのは 稲穂に違いなし。
小麦じゃなくてオリーブだったのは木の実の印象が強かったのかな(^^;

鳥に対応するのが蛇ですね。金印のツマミは蛇。
中国だと鳥より竜(蛇)が主役のような気がするけど殷代のシンボルには神格化された 鳥がでてくる。
縄文土器から連想するのは蛇、縄模様は蛇をコロがしてもウロコ模様がうまくでなかっ たので代わりに縄を使ったとか..(^^;
弥生のは少なくとも蛇じゃない。こじつければ鳥の足跡(^^;

コンピュータも発達したことだし、そろそろ別の手法がでてきてもいいころだと思いま す。
なにかが起きるのは結局は確率だと思うのです。
遺跡データとは無関係に確率だけでシミュレーションします。 いくつもの可能性(必然性)の積み重ねで確率が一番大きい場所、そこが発祥地。 環境と人間の行動様式から、オリジナル文明を机上でDIYしちゃうわけで、いくつも のシミュレーションが可能だと思います。

PS. 相撲の起源で大どじやった(^^; 勝敗を逆にしてしまった(^^; (勝利に感謝して埋納したに訂正(^^;)

〜かたばみ〜

かたばみ 鳥居 (12) 96/11/21

これまた決定事項がないようで、自由にDIYできそう(^^;

うーん、取異というのははじめて聞きました。 だとすると鳥居と書くのはなぜなんだろう。
延喜式に「鳥居」の文字がでてくるらしい、他にも鶏栖(鶏の住みか)というのがあっ て鳥とは切り放せない感じがします。
ごく自然になにかを感じたときに、それを象徴したのが鳥居じゃないかなあ。

》空間も同様で、広がりを持つ「あいだ」を示します。「あいだ」の大きさはそれを挟 》んでいるエリアによって規定されるので、伸び縮みします。(英語でいうスペース、エリア、

すごい難解な話がでてきましたが、鳥居はイメージの世界と人間界をつなぐ窓だと思う のです。
それを現実に表現するためのシンボル。シンボルなら塀は必要ない。 平面的な結界の役目も含むけれど、地上を動くものだけを相手にするなら道祖神なり 石なりを立てるだけで足りる(これは門番あるいは警告的な意味が強いと思う)。 先の東南アジアの例ではふたつの意味を分けてるので鳥居?の隣に道祖神?を並べてる んじゃないかと思う。

鳥居には通るのではなく、くくぐり抜けるという感覚が重要じゃないかと思います。 それで横棒が加わった。
くぐり抜ける方向はどっちでもいい(^^; 神様の領域に人間がいるか、人間の領域に神様がいるかの違いでどっち方向かが決まる わけです。現代日本だと神様の方が閉じこめられてるわけです(^^;

パリの凱旋門のように、これだけ高さがあるとこれはくぐり抜けるという感覚には なりにくいです。「通過」のシンボルだと思います。
逆に茶室の造りは、サディスティックにまで別世界へのくぐり抜けを強要する(^^; (うかつに門の上に自分の像を置いたりするとクレームの元にもなる(^^;)

》その門の聖域側の柱(あと一歩で俗界に戻るとゆう境界側)には、「ここより出でて 》泣け」と彫ってあるんだそうです。(俗界はつらいことばっかりかい…)

ヒンズーは西欧文明の基盤のひとつの印欧語族との合体なので複雑そうですね。

》日本、中国の絵画は掛け軸タイプ(枠なし)でヨーロッパ系絵画には額縁が必要ってのも 》似たような空間認識から来たものだと思いますですよー。

面白いです。
手元にあるヨーロッパ中世都市の古地図ではすべて手書きで枠が書いてあります。 に石に文字を彫る篆刻というのがあります(いわゆるハンコです)。 文字を朱線にする朱文(通常の日本のハンコ形式)と白ヌキにする白文の2種がありま すが、ほとんどの朱文には枠があります。

この枠の一部をわざと削り取る場合があるんです。 古くなって欠けたのを模すとか、デザイン上のこともあるけど、外界とつながる余韻を 残すといった意味があるようです。
このあたりにも周囲と同体になりたいという東洋的感覚がありそう。 (みんなが渡れば恐くない..もそうかな(^^;) 西欧系では独立を確保したいという意識が強いように感じます。

〜かたばみ〜

(くま) 、re:鳥居 (12) 96/11/22

鳥居話をあと少し。
>>すごい難解な話がでてきましたが、鳥居はイメージの世界と人間界をつなぐ窓だと思う>>のです。
かたばみさんのこの文を読みまして、私は自分がイメージしていたものがなんだか分かり ました。

鳥居はドラエモンの「どこでもドア」のイメージなんです。 例えば、空き地にドアだけが建ってる。(誰かがふざけて建てたのか、以前見たことが あるけれど、結構「凄み」がありました。)ノブを廻してドアを開けると向こう側に別の 場所がある。そんな感じです。

茶室の造りはどうですかね?「別世界への移行」ってよりは「世界の凝縮空間」って方 じゃないでしょうか?借景や日本庭園と同じ思想。茶室の中にいるとき、世界はそこに 全てあるから外に世界は無い(ある)。世の現象はみな所作で表される。ゆえに「茶道」と呼ばれる。こんな風かな。茶席に呼ばれたことはあるけどよー判らん。茶道の究極の スタイルは野点ってことになりますかね?>茶道に詳しい方 Help!

私の後輩で15の時から篆刻が趣味とゆーものがおりまして、彼が言っていたんですが、印鑑は「力の封印」なんだそうですね。
で、「大工と鬼六」って民話をご存知ですか?
大工仕事を鬼に手伝ってもらった大工がそのかわりに約束をしてしまう。 一週間以内に自分の(鬼の)名前を言い当てられなかったら大工の娘をもらうって取り 引きをしてしまうやつ。みごと名前を言い当ててめでたしめでたしの結末ですが。 あとは、うーん、陰陽道では相手の正式な名前(特に幼名)が判ると相手を呪うことが 出来るって言われてますね。昔は名前を知られるってゆーのは殆ど生存の危機に直結し ていたようなのです。
印鑑の「印」の字には押し付ける、押さえつけるの意がありまして、うかつに自分の名前を彫って枠で囲ってしまうと封印されてしまうらしいのです。
力の一部を限定して託しつつ、しかも封印されないためには枠の一部を欠くよりやり方 がないということだろうか。

掛け軸タイプの絵の話で、中国の伝奇書の中にあった話をあとから思い出しました。 ある家では、夜な夜な絵の中から妖怪が出てきて家人を悩ましていた。 主人は風水師の所へ絵を持って相談にいった。 その軸を見るなり、風水師は筆を採って墨で黒々と絵に枠を書いた。 で、妖怪が出なくなったって話です。

なんか、とりとめの無い話になってしまいました。読み捨て可だな、これは。 ここんとこ、神道だの、風水だの陰陽道だの話が怪しいなあ。読んでる人、退いてない かな?

ではでは、

tan 、re:、re:、re5:だいぶ暴走します。 (12) 96/11/22

 「取異」これは初見です、たしか。。以下手近に資料が殆ど無いので間違いあっ  たらよろしくです。

 鳥居のそれについて調べた事はないですが、面白そうだと思います。伊勢内宮の  鳥居はまっすぐな丸太白木、外宮は上が角材。出雲系に八幡これはあたらしいか、  結界への入口、ということは道教が入っての取異という事ですね。それともタイ  南のクメール族でしたか、に見られる村と外との結界としての鳥居かな。

 磐座、磐境にも鳥居はみられる、もちろん本殿へは必ずあるですが、本殿はAD600  前にやっと出来たようで、神社と呼ばれるようになったのはAD700前辺り。  それ以前になると、神が降りる所というかよく居る所と招き呼ぶ場所、後に常盤  木などで囲うヒモロギと呼ばれる場所よりも鳥居は古いのではないかと。。  神奈川伊勢原に縄文の祭祀後があるのですが、これは小さな鳥居の前に立つとそ  の向こうに大山が見える。禰宜さんとの話しでは呼びおろすのではなくて鳥居を  通して山を拝む、といった話しだった記憶。結界の印以前になんというか空間を  縮めるような使い方があったんじゃなかな。。

;>例えば、通常、「にんげん」と言う意味で用いられている「人間」は本来個別の
#「人間」という文字は中国では「社会」をさして、日本の「人間」に近いのは「  人体」ですね。人体はなんとなく輪郭がはっきりした感じですが、人間は人と人  との空間を含めたなんとなくぼやっとした感じですね。

 鳥居といえば、塀に鳥居マークこの使い方はどんな意味なんだろ^^。
   ・tan・
tan 、re7:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/22

;>最新の波がいわゆる帰化人、その前が縄文の人々、その前は..不明。
#そうなんです、いろんな波があったでしょうね
 モチもそうですが、これほど繊細な嗜好を持つのは他にないような気がします。  以前、外国の会社が日本人の舌をあなどって散々な目にあって、今はココロを入  れ替えているようですが^^;

;>山岳、気になっています。
#海の近くに居るのと山の中に居るのでは何日かでも違ってきますね、窓から見て  いる海は違いますが海はなんとなく茫洋というかこの向こうにナニがあるかなど  思いますし、山は内省的というか森に溶けこむというか、夜焚き火などしている  と炎の向こうの闇から棍棒片手にご先祖様が出てくるような気になったり。  

 土と壁ですが、土はなかなか残らないので確認しにくいそうですが。
 弥生、大阪瓜生堂だったか鬼塚に板葺の屋根に土を乗せていた痕跡。これは火事  にあって板の屋根とその上の土が判別できた。古墳時代では群馬で屋根全体に土  を被せていた痕跡があります。では立ち上げの壁部分は、となるとなかなか確認  は出来ないようです。ですが大阪のソレからは梁、柱、以外に厚さが3段階に分  かれた板が出て来ていて竪穴自体も浅いので立ち上げ部分はそれなりにあったよ  うな気がしてます。
 建て方の主流はそれぞれあった、たぶん大きく二つの流れとその時代の気候に合  わせた主流。バリエーションはかなりあったと思う、竪穴の痕跡は残り易いが高  床の柱跡は発見もしにくい。草葺入母屋に限らず屋根の形、壁の高さ厚さ、弥生  以前は特にその種類は多かったような気がする。

;>なにかが起きるのは結局は確率だと思うのです。
#そうですね、そうなる必要性があってなる。温度湿度の気候が因子として大きい  だろうと。稲の起源なんかも70年までは現在ある種をプロットしてその状態か  ら推測してた、それが最近分析も細かくできるようになり発掘物の年代を合わせ  た物をプロットしてますね。シュミレーションが確実になるのはインプットする  モノの質と量、客観性ですね。因子の相対的ちからをちょっと変えるだけでも、  結果がコロコロ変わってしまう、行動様式まで行くと半端な分析量ではなくて、  ソフトのフローチャートだけでも膨大になりそう。フローがつくれる汎用客観の  情報があるか集まるか、が問題。直感で決めると複雑大量のデータと処理はいら  ない、シュミレーションだと複雑大量のデータと因子の取り扱いひとつで結果が  コロコロ変わる。

   ・tan・

(くま) 、re*2:、re:、re5:鳥居関連 (12) 96/11/25

こんOOは、t a n さん、 私も手元に資料がないんで、うろ覚えになってしまいますが。(後でウラを取ってきま す)

鳥居の様式は確か3パターンぐらいあって、中でも伊勢神宮の様式は大変珍しいものだっ たはず。東北のアラハバキ系は特殊だったと記憶してます。
まー、だいたい、神社の縁起?なんて結構いいかげんなものですよね。
祟ったから奉ったとか(太宰府天満宮etc)、偉い人だったから奉ったとか。

>>鳥居といえば、塀に鳥居マークこの使い方はどんな意味なんだろ^^。
えっ!どんなマークのことですか?思い浮かばないっす。
神社がらみのマークっていいますと篭目=清明判=ドーマンセーマン=ダビデの星ぐらいしか…。


かたばみ 、re:、re:鳥居 (12) 96/11/27

》鳥居はドラエモンの「どこでもドア」のイメージなんです。
それそれ(^^)
野原のドア、後ろも同じなのはわかってるのにあけてみたくなる。 傑作のひとつだなあ。

借景などもイメージの世界だとは思うけど、具体的なものを配置してだれでも同じイメ ージを確定させようといったところだと思います。
鉄道模型なんかでも風景作って低い位置に目線をもっていってイメージを膨らませたり したです(^^;
野点..ひとつの極限に対するもうひとつの極限、対=解決策だと思うけど、いろいろ なものをぎゅーっと「道」にするのは日本のお家芸のような。

篆刻はFDIYでブーム?になったことがありまして、その先駆者はF○氏。 ライブラリにみなさんが彫ったのがあります。 私もいくつか彫ったですが、感じることがあって今はやってない。 枠があると無難にまとまるけど変化がほしいことがあります。 枠がないとそれ自体で安定させるのがすごくむずかしく感じました。

「大工と鬼六」、話は聞いたことがあります。
悪さしてる奴は名前を知られたくない(^^;
言霊信仰の一種かな。写真とられるとどうこう、といったのにも似ていそう。 西遊記に孫悟空が名前呼ばれて返事したら壷に吸込まれる話もありますね。

〜かたばみ〜

かたばみ 鳥居 (12) 96/11/27

鹿島出版会の「門のはなし」によると、上の横棒を笠木といって下の横棒は貫(ヌキ) というようです。
個人的には笠木は鳥のためのとまり木、ヌキは構造上の補助を兼ねた人間用(^^;じゃ ないかと。

古いタイプのは皮付き丸太の自然木で作ったもので黒木鳥居といって、笠木は外から見 て右を木の元口(根っこ側)にするらしい。
次のがきれいに皮をむいた白木を使う神明鳥居というもので、伊勢神宮のはこの仲間。 同じ神明型でも鹿島神社のは笠木の元口が左側らしい。 ここまでは丸太の直角組。

以降は柱が斜めになったり笠木の木口を斜めに削ったり反りをつけたりいろいろな変形 装飾?がでてくる。 赤や黒の着色するのは中国あたりの影響かな。 鳥居の造り方からも当時の神様のいろいろの影響がありそうです。

一般の門の場合はアーチを別にして斜めの門ってないですよね。 柱を斜めにしたのはなぜかなあ。作りにくいことおびただしい(^^; 遠近法の応用かしらん。

開けっ放しのドア(窓)のむこうに高い山が見える、自然だと思う。 高い場所。高い場所がない場合は代わりにうんと高いシンボルを作るかもしれない。 そこではてなと思うのが広島の厳島神社の鳥居です。 この鳥居の向きはどっち向き??(^^;

》 鳥居といえば、塀に鳥居マークこの使い方はどんな意味なんだろ^^。
うちの犬は鳥居があるとよろこんでちょちょっとひっかけてゆきます(^^; ポリ瓶なんぞも平気でちょちょっ。

〜かたばみ〜

かたばみ 、re:、re7:大昔のいろいろと建物 (12) 96/11/27

》 モチもそうですが、これほど繊細な嗜好を持つのは他にないような気がします。
今日の読売新聞にモチ麦が日本で開発された記事がでてた。
これにてアジア開発モチ食品のラインナップ完成、よしよし(^^) たい焼きなどにも格好だそうで、日本だなあ(^^;

最初のご先祖様は北方系の旧人だろうと思ってます。 数十万年の昔に北海道から沖縄まで全域に。そして新人としての縄文の基盤を作る。 さすがにまだ航海はきつかったと思うので陸伝い(氷河期なら沖縄も陸続き)。 イラン、イラク付近からカスピ海、アラル海、バルハシ湖、バイカル湖など水と森林伝 いにヒマラヤの北を移動した人々(おそらくはある時期の砂漠化に追われて)。 もうひとつのルートが同じ地帯からヒマラヤの南を経由、こちらはインドや東南アジア へ。
中国は南北の再合流地。日本も若干は再合流があったかな。

人類は単一発祥でそれはアフリカであろうと思っています。 ギニアからエジプトを結ぶ現在は砂漠化してしまった地域に人類最古の文明が埋もれて いるんじゃないかと思ってるんですが.. ヨーロッパへはジブラルタルを渡れたのかな。

この時代に地軸変化とか月を捕まえるとかの地球の大変動が..山に住んでた旧人が多 く生き残って新人へ..磐石の岩への意識もこのときできたのでは..大空想(^^;

》 建て方の主流はそれぞれあった、たぶん大きく二つの流れとその時代の気候に合 》 わせた主流。バリエーションはかなりあったと思う、竪穴の痕跡は残り易いが高
建物ほど環境にマッチさせないといけないものはないだろうなあ。 一時的な変化はたぶん数世代待たずに淘汰されると思う。 爺様はこんなの作ったけどありゃーだめだ..なんて。

》 ソフトのフローチャートだけでも膨大になりそう。フローがつくれる汎用客観の 》 情報があるか集まるか、が問題。直感で決めると複雑大量のデータと処理はいら 》 ない、シュミレーションだと複雑大量のデータと因子の取り扱いひとつで結果が 》 コロコロ変わる。

フラクタル図形にしろ確率というか方程式だけで動くものが思いもしない変化をする。 事実は小説より奇なり、をねらうともいえます。 人間の思考はどうしても先入観と固定パターンが伴う。それを排除して客観性を極限ま で高めるとなにが見えるか、それをヒントに発想の拡大を、といったところです。 まず手始めは客観的に得られるだろう気候と植物の歴史が最初のデータになるんじゃな いかな。

〜かたばみ〜

tan 、re9:鳥居関連 (12) 96/11/28
 この休み半日ほど歴博の図書館で過ごしたのですが、鳥居、壁など古代の建築に  関する資料はほとんど見当たらなかった。もちろん背表紙で”らしい”のをあさ  っただけで中身まで確認したわけではないのですが、公開されている資料は図書  館としても多くはないなぁ。。

;>鳥居の様式は確か3パターンぐらいあって、中でも伊勢神宮の様式は大変珍しいもの
#伊勢内宮とか天皇陵のそれが縦横とも直丸太で組まれていて、靖国も同じ様なだ  ったと思う。出雲は上部が角で各地の神社の鳥居は様式としてはほとんど出雲か  らの派生として説明されているようです。
 アラハバキ系はどんなだったか、秋田の物部神社と似てるのではなかったかなぁ。。

 金沢郊外のチカモリ遺跡のウッドサークル(BC4000位)の輪から離れて立つ2本  の柱に横木があったとして、鳥居につながるものではないか。と言うのもあった。

 神社の縁起というか、杜、社、で森そのものから、森を象徴する山を見る場所と  しての建物が後に降りていただく場所として本殿となった?。弥生後期の高床に  入口の無いのや(かたばみさんのいう床下階段)腰掛けともベッドとも考えられ  る場所があったりでそれぞれ前後してるみたいですが
 今、全国8万の神社で主祭神として多いのは、稲荷−八幡−伊勢−天満−諏訪−  日吉−熊野の順になるですが、ちがう区分をしてる人もいます。  

;>>>鳥居といえば、塀に鳥居マークこの使い方はどんな意味なんだろ^^。 ;>えっ!どんなマークのことですか?思い浮かばないっす。
#え〜 よくあるでしょ 塀にタチション しやすい所に鳥居のマーク^^;  これは、やっぱり”しにくい”様にする為のなのかな?

 鳥居をはじめ神社関連は神社で聞いたほうがてっとりばやいかも、神社本庁かな
   ・tan・

tan 、re:鳥居 (12) 96/12/02

 寺院に対抗して本殿が作られるようになった以降の資料はいくつか見つかったの  ですが、それ以前の「鳥居」なかなか資料が見つからない。

 本殿は暫く跡絶えた「むかし」の住居の形の復活という説が主流です。  寺院が建ち始め、それに対抗すべく「寺院ではない建築」を昔の住居などを参考  に或はそのまま神社の本殿に取り入れた。

 鳥居の部分名称は、上から「笠木」左右の反りを「反増」、笠木の下の支えを「  島木」、柱の上で島木を支える「台輪」、額をつける場所は「額束」、柱を貫く  「貫」、貫を止める「楔」、柱の下に「台石」と柱を巻くように「根巻(藁座)」  、形が丸い台石を「亀腹(饅頭)」。
 神明が一番簡素で貫が柱の外に出ていないのはコレだけ。白木丸太の簡素な鳥居  は内宮とか元伊勢とか元出雲と呼ばれる丹波の倭姫巡業(^^。)地に見られる。  丸木の鳥居は特定の女性(神)に多いのか限られているのか、など新たな?が。。

 鳥居の鳥はどうもアマテラスを呼んだニワトリのようです。カラスのように導く  意味もあるのかも。。韓国は3羽のカモメで悪霊を追い払う。

 うーむム、自然丸太の黒木鳥居ですか、くぐると粋な姐さんが。。。  笠木の木口に左右の決まりがあるのは初耳、暇見て香取鹿島に行って見よう。  鹿島、香取の本殿造営は早いですね、タテマエは出雲よりも上位だし始めから別  格ですね。出雲が出雲の名になったのは大分後で。。
 出雲の本殿は、高さが97m、48m、現在は24m、で地元では今でも24m  以上の建物を作らないらしい。しかし97mというと縄文日本海での栗の木直径  1mとか大きな柱を使った名残りなんだろうか。
 出雲大社といえば、杵築社以前の神体はヘビに縁のある山だったようです。

;>赤や黒の着色するのは中国あたりの影響かな。
#赤や黒というと漆を思い浮かべます。鳥居がもっと小さかった頃にですが、魔除  けとか色に感動して使った事がある様な気もします。今の稲荷社によく見られる  それとはニュアンスが違うような。。
 神社は森、杜で、森に溶け込む様なのが自然ですね、尤も寺院のコケオドシ的色  使いに対抗して示威的役割の神社は早くから着色してたような気がします。先の  香取鹿島など水軍の先端基地的役割が造営当初からと思います、舟(軍船)も派  手ですし。

;>柱を斜めにしたのはなぜかなあ。作りにくいことおびただしい(^^; ;>遠近法の応用かしらん。
#神明鳥居以外は斜めなんですね、三輪、両部鳥居もあるけどこれは柱の数が多い  から。。。遠近法もあるですねきっと、あと斜めの方が強度を増すからかな。。  この斜めの部分は「転び」と呼んでるようです。

;>この鳥居の向きはどっち向き??(^^;
#厳島の大鳥居は清盛の造営、祭神は宗像三女神とすると海方向かなあ。。ですが  宮島全体が神域で大山祇との関連もありそうで、平家の公達の船参り、現代の祭  りも船が集まるからやはり入口は海からじゃないですかね。大洗などの海辺にあ  る鳥居とはちと違うようです。

 鳥居に?で調べだすとどんどん疑問が増える^^; 鳥居をくぐる=右と左の柱の  中央を通る=大地、自然と一体化する

   ・tan・

かたばみ 、re:、re9:鳥居関連 (12) 96/12/04

鳥居研究の書籍は昭和18年発行の「鳥居の研究」厚生閣/根岸栄隆著が現在は唯一だ そうで、これを拾い読みしました(復刻版/第一書房)。
時代が時代なのにこのような内容はすごいと思ったです。
以下ごく一部の抜粋要約だけを別に書きます。当時の文体なので読解誤りはご容赦。

「鳥居」の発祥については諸説ふんぷんで不明だそうです(^^;
いろいろな論を紹介した上で、多数決で決めるならばアマテラスの岩屋で鳴かせた長鳴 き鶏をとまらせた棒が発端である、と皮肉たっぷりに書いてます(^^;
しかし、漢字を見てはならない、発音を見るならばアイヌ語で、ト:彼方、リイ:高い 場所、であることにも注目せよとあります。

別の人の「ボルネオの奥地にて鳥居類型を発見せり..うんぬん」への解説では 「南方とのつながりを求むには都合のよい話だが、そんなことまで鳥居の起源に持ち  込むことはあるまい」といっています。
それでいながら満州、朝鮮、南支那、南洋、インド、アルタイの名をだしてそこに鳥居 類型があることを暗示してる。
検閲がらみと思える矛盾が散見されるので、このあたり読解がむずかしい(^^; 巻末に紙不足につきとりあえずここでとどめ後日にまわす、とありますが残念ながら そうはならなかったようです。

形式分類では8系64型にわけてるけど、原点は神明系といわれる直線だけで構成され た鳥居のようで、この形が日本人のふるさとだといってます。 鳥居の2本の横棒のうち下の横棒(貫、ヌキ)が鳥居の本体だそうで、上の棒は笠木で あって本体をガードする屋根とみなすようです。

神明系で最も古いのが黒木型で、皮付き丸太で組むだけで転びはなし。 寛政年間に書かれた絵には伊勢神宮に黒木鳥居があるそうです。 次が皮をむいた丸太をそのまま使う白木型で、さらに丸太の両端の太さをそろえる加工 を施したのが陵墓型。転びはあったりなかったり。

陵墓型は日本全国にあるので陵墓型という名称は不適当かもしれないとあります。 西日本に陵墓型が少ないのは陵墓本体が多いために遠慮したのではないかとあります。 伊香保付近には笠木の上に3本の幣束(紙のひらひら(^^;)をつけるのがあってこの 地方独特だそうで、著者は榛名神明型と呼んでる(鳥を飾るのを連想させるけど)。

ついで貫を角材にしたものが登場します。
鹿島型が陵墓型に続く形式のようで貫が柱を貫通して左右に突き出すタイプ。 当時の写真では転びがあるように見える。笠木は丸太で間違いなく左が太い。 (水戸の常盤神社の白木型では右が太いです)

神明系の基本は直線構成で額束(額を掛けられる中央支柱)がないことのようです。 なお、伊勢型というのにはいろいろあって基本は神明系ではあるけれど、後代の明神系 の形態との混合があって単純ではないらしい。
笠木の断面を屋根型に削ったりするのは伊勢型の特徴。 伊勢型は関東以北には少ないようです。

2本の角材を上下に重ねた笠木を使うのが島木神明型。 大径の角材の入手がむずかしかったからだろうとあります。 これ以降は額束つきになって、八幡型、春日型など複雑多種。 笠木両端を斜めに切るのは伊勢型が最初か、八幡型などから伊勢へ逆流したのか微妙な ようです。
ついで笠木にそりがつくなど直線でないものが現れて明神系(稲荷型)となる。 以後は(平安期以降かな)屋根付きとか門と見間違うような装飾に凝った型などいろい ろ登場です。

なお、靖国型は明治以降に現れた型で陵墓型をベースにした陸軍技師の設計(^^; これは関東に多く関西には少ない。周辺神社が有力神社の模倣をするからであろうと いっています。
これは伊勢型でも同様らしく、今ある鳥居が古くからの形を伝えてるとは限らないわけ です。

なお、宮大工に伝わる工法の多くは秘伝であってこれは外部には漏れない、漏れるのは 初心者用のテキストのみだから、これらをベースにする資料はあてにならない、とあり ます(^^;
いろいろな形がある理由の第1に仏教の関係(仏教支配の時代)、第2に社格の誇示 (祭神の自己主張)、第3に設計者と工作者の創意工夫をあげています。

〜かたばみ〜

 ・tan ・ 、re11:鳥居関連 (12) 96/12/06

;>「鳥居」の発祥については諸説ふんぷんで不明だそうです(^^;
# やはり^^; 多数決で決めるならアマテラスの鶏というと、現在の多数決でも  そうなるのか知らん。

;>    発音を見るならばアイヌ語で、ト:彼方、リイ:高い
#ト・リイ なるほど すると 「遠い」は「ト+オ〜〜イ」になる。
 なにかの目印である土に刺した棒が、目立つようにトーテムになる、カラスだっ  たりトビだったり。部族とかかわりの深い動植物、自然から題材をとった。  それが2本の柱になって。貫と笠木がついたのはなぜ。貫が本体。。
 神道では、鳥居の2本の柱は、かむろぎ神漏岐、かむろみ神漏美、の神性(あえ  ていえば陰陽)その中央に立つ我は「天御中主神、あめのみなかぬしのかみ」、  の一霊を受けた小天御中主神こあめのみなかぬしのかみ、で、左右の神漏岐、神  漏美の産霊の神力をまとめる働きを意味する。とあります。
 とすると「貫」は天御中主神(宇宙根源の神)ということになる。

 神道では右と左にも意味が有ります。右は、水極ミギ、陰ツキ、であり。左は、  火足りヒタリ、陽ヒ、であり。この火と水が合わさる(柏手)と調和しカミにな  ります。このように禊(手水舎)から始まる神社内での一連の動作はすべて自然  との融合調和の為の動作として意味付けられています。
 明治以降は全国的に動作が統一されたのですが、それ以前の動作が残っていると  かなり面白いというか何故その動作か、が分かるのではないかと思います。

 これは推測ですが、国家神道以前のカミに上下関係が無かった精霊のあふれる時  代には、あまたの精霊と同化するために各精霊の代表的な動作(狩りで鹿に化け  る、演技、踊)をしたのではないか。部族、部落の精霊が絞られてくると、その  他は少しずつ代替品になっていって、国家神道になるとその他はさらに簡素化さ  れ象徴的なモノになってきた。

   ・tan・

かたばみ 、re:、re:鳥居 (12) 96/12/06
同じ神社内でも神様にいわく因縁があったりすると、各種形式が混在したりするので 要注意ですね。
アラハバキに限らず記紀では消された古代氏族の祖先神がその神社の本来の祭神で あればそれを密かに自己主張するのに鳥居の形などは絶好かもしれない。 (同時に形式化して周囲の模倣になってる鳥居も多いと思うけど) 先の本には出雲や諏訪については数行の記載しかありません。書けなかったのかもしれ ない(^^; 柏手のうちかたなんかも違いますね。

鎌倉期以前の鳥居で残ってるのはわずかに8基(鳥居はどう数えるんだろ(^^;)で 奈良吉野山金峰神社の銅製を除けばすべて石製のようです。
古鳥居として最古のは784年築造の佐賀県八坂神社の石鳥居で、著者は肥前型と分類 して日本的でも大陸的でもなく半島的を感じると書いてる。
木製鳥居の最も古いのは1480年の山梨富士浅間神社の両部型で近世に補修。 これ以外に江戸以前の木製鳥居はゼロです。

うちの近所の神社の由来をみてきたら、頼朝がその地の松に伊勢神宮のお守り札が かかっていたのを見て作った神社だそうで祭神はアマテラス。 鳥居はコンクリート製で靖国型。
もうひとつ近所の富士浅間神社系のはやはりコンクリートで普通の?明神型。

鳥居はやっぱりイメージの世界と人間界をつなぐ窓だと思う。 窓を通してみることで自分たちの世界とは違う世界を感じようとした。 トーテムポールや道祖神とはちょっと違って、ケルト?のドルメンなどと同類のように 思えます。
鶏は今でも稲作の祭事で登場したりするし、「原始の鳥居」が現在に至る過程のどこか で稲作=鳥とドッキングしたんじゃないかな。 北経由の鳥居は鳥に関係なしで広まり、南経由のに鳥がとまったかな(^^;

丸太のは縄文初期からあったかもしれない。 最初は石で作ったかもしれない。 窓なら立体の必要なし、線だけでいい。木でやったらまず残らないだろうな。 くぐると姐さんならぬ恐い道祖神が、おめーよそもんだなぁ、ちょいと顔かしてもら おーかい..(^^;

出雲の神殿が97mあったとすると木造はむずかしそう。 法隆寺の五重塔でてっぺんまでが32m。できるとすればピラミッド形式かなあ。 クフ王のが140mくらいだった。霞ヶ関ビルが147m。
どっかに木製のジェットコースターがあったと思うけど高さは? 当然トラスの固まり になる。

着色について先の著者は稲荷型では大陸の影響(秦氏)を、春日型などでは仏教建築の 影響をいっていて、仏教支配の一時期ではやたらに塗ったことがあったそうです(^^; 著者がある稲荷の鳥居を設計して、完成したのを見たら色が塗ってなかった、聞いたら せっかくいい木をみつけてきたのに塗ったらもったいないからとのこと。 それが日本の感覚なんだ、と書いていますが賛成です。

古代の赤は酸化鉄のベンガラ、鉛の鉛丹、水銀の辰砂の3種あるようで、水銀のが一番 高級じゃなかったかな(薬の効果は水銀で安全なのはベンガラかしらん(^^;)。 丹生だったかな、こういう名前のいわれはみんな水銀生産の関係みたいですね。 話がずれるけど少し前のアフリカの製鉄集団に対する感じ方が面白い。 マサイのような狩猟が主の人々は嫌う、農耕が主の人々は敬うといった傾向があるそう です。

厳島のは額があるのかな、識別できる写真でもあればいいんだけど見つからない。
神域は鳥居の向こう側の海で鳥居を通してむこうを見て神事をする、といった感じがす るんだけど、もしそうなら額は陸側を向いてるはず。 その場合はこの鳥居はずばり野原のドアと同じになりそう。

蛇族とか鳥族というのは中日ドラゴンズとかダイエーホークスとかと同じくある集団の シンボルが始まりだと思う。
恐竜がどっかに生き残ってた時の記憶で、ありゃすごいんだぞ俺達のマークにしよう、 とか、なんかの拍子で鳥に助けられたのでそれをシンボルにするとか。 アメリカインディアンの生活様式がよく引き合いにだされるようですが、おれはあの 「ほえる熊」のひ孫の「笑う熊」だぞ、熊族のほうが狼族より強いんだぞとか。

#1720
》# やはり^^; 多数決で決めるならアマテラスの鶏というと、現在の多数決でも

記紀をベースにするならそれしかないだろうなあ。 鳥はあとからとまったと見たいです。 いずれにしろ理論や形式ができるのはずっと後からで、最初はただ感じるままにだと思 います。
笠木の有無、これが勝負に思える。ないと門との識別がむずかしいけど(^^;

言葉の発音というのはむずかしい。
日本語→シュメール起源という本を数冊読んだけど1冊は途中でぶんなげた(^^; あまりに語呂合わせと都合のいいつじつま合わせの羅列で、これじゃかえって逆効果に なと思ったです。
似た言葉を探すのではなくどれだけ違ってるか、を調べたのってないのかなあ。

〜かたばみ〜

tan 、re:、re:、re:鳥居 (12) 96/12/17
 同じ神社の境内の中にも混在してますね。相殿の有無、摂社末社などよく見ます  が香椎宮は特に多かったですね、武内宿禰の家の跡なんかもあったかなぁ。  村社なんかでは神明と明神がほぼ同じ大きさであったり、逆に簡素化されて似た  形になっていたり。鳥居はそれほど厳密には連続性はないのかも、ちょっと変わ  っちゃった、が結構変わってしまっているのかも知れない、貫がでるでない笠木  の有無までは変わらないとは思いますが。千木のソギ方に間違いを見つけた事は  ないのですが鳥居はなかなか判別できない。鳥居を見てカミの一族系統などが分  かると面白くなるだろうと思います。
 写真で見る限りアラバキ神での鳥居には丸太そのまま貫のでないのがある。神体  は殆ど石、磐なんですが。
 鳥居に限らず流行も影響あったでしょうね、日光東照宮を作った大工さん達が赤  と緑、権現造りを広めたりとかあるし
 密かに主張というのはいろいろあると思う、隠された形、口伝、暗号(古代文字  )での伝承、固有の神事。神事といえば大祭での順序はそのほとんどが地元の先  住神らしき社から始まるですね。鹿島も諏訪も伊勢も。明治天皇も氷川(タシカ。。)  で翌年伊勢だったと思う。

 鳥居の数詞はかたばみさんが書いているように1基、2基で他に基と数えるのは  塔婆と灯籠、香炉、厨子、塔婆と一緒なのも面白いですね。神社は1座、1社。  木製鳥居の古いのは富士浅間社ですか、一度いこうかと思いながら行っていない  社です。やりたい事に比べると時間というのはいつも足りないなぁ^^。
 鳥居はいろいろもろもろの意味があるような気がする。入口も窓もトンネルも兼  ねているような、神漏美神漏岐も祝詞では始めに発する言葉なのですが、天皇の  事だとかいまいちはっきりしてない様です。

 出雲、その頃は杵築社なのですが97mというのは大社発行の刊行物に載ってい  て、図面では大きな柱が貫で組まれていてその上に本殿、本殿にまでは長い直線  の階段が組まれてます。まあ鳥居の大きさ形式のように後世に作られた資料かも  しれませんが伝承といえども結構真実を伝える事が多いので可能性はあると思い  ます。

 白木にたいする思い入れというのはいまだに有りますね。加工も得意だけれど素  材そのものに畏敬の念みたいなのがある。縄文1万年でしょうねやはり。
 鬼、節分の鬼も外来宗教では”来るな出てゆけ”のイメージですが神道では”こ  こではなくあっちがあなたの住む場所ヨ”のイメージですね。

 地名と言うのも面白いですね、分布と類似で部族の移動を類推したり。丹生とい  うと川と結び付いて神社の起源に結構でてきます。
 製鉄集団といえば、山の民は国内勝手に移動して金鉱堀などを田畑農地かまわず  勝手に掘り返していたようです、当然お上からの依頼もあっての事でしょうが、  一種の特権ですね。

 記紀といえば、出雲よりも大きな国があったのを隠す為に出雲が大きく取り上げ  られたのではないか、吉備王国ははるかに大きかった、という説も有ります。  体制側が本当に都合の悪い事は記録するとは思えないから意外に事実かも  補:以前、秋田の物部神社と書いたのですが神社名は唐松でした(韓デスネ。。)

 鳥居の笠木、なんとなく船の舳先の反りに重なったりするのですが、海神を祭る  社がすくなくて大山祗と海神が親戚とか親子だとすると笠木ありが一つのグルー  プで、あま=海=天だと、笠木無=有で起源は一緒だろうから、笠木の有無は他  に大きな意味があるような気がする。
 額とか額束の有無もあるですね、神明と鹿島には額はなくて他はある。額束には  ”あまり頻繁には出てこないで”の意味が込められているような気がしている。  疫病と反乱を押えるため造った大和の檜原は三つ鳥居だし多はまるで砦みたいな  神社。額束と笠木はセットでその意味なのかそれぞれに意味があるのか。。次は  このあたりに注目して見よう。

;>言葉の発音というのはむずかしい。
;>日本語→シュメール起源という本を数冊読んだけど1冊は途中でぶんなげた(^^;
#ほんとにいろいろありますわ^^; シュメールは日輪でしたっけ? エジプト、 ユダヤにギリシャもあるし、それぞれ少しずつ事実かも。。
 シュメールとヒッタイトでしたっけ突然変異とか謎の多いのは。。  言葉は、血:乳、父。歯:母とかの基本語のみを類似で分けると、世界は3つ程  に絞られるとか。。

   ・tan・