|
|
+ 彼の名前 +
「ちちうえ〜!」
大声で叫びながら、白亜の階段を駆け下りてきたのは、フェリドの娘リムスレーアだった。小さな身体に似合わぬ猛突進は、足にまとわりつく服の裾で転ばないか、段差に蹴躓いて倒れないか、と見る者をはらはらさせる走りだが、無事にこけることなく父親の元に辿りつく。
ぱふんと足にしがみついた自分の腰までもないその小さな頭を撫でたフェリドは、楽しげに笑った。
「おや、見つかったか」
「おや、みつかったかではないー、ちちうえ! あにうえとケーキたべるからわざわざよびにきたのじゃ」
舌足らずな物言いで、早う行こう、と袖を引く小さな手は、思わず横で畏まっていたカイルと、隣で小さくなっている少女を眼にして止まる。
「ずるい、ちちうえ! かいるとりおんとあそんでいたのじゃな!」
リムはさっきまでお勉強だったのに、と途端に頬を膨らませる少女は、空いた手で手招いた。
「りおん、こい、こい! こっちにくるのじゃ!」
「いかないと・・・ダメでしょうか?」
あえぐようにして眼を見開いて硬直する彼女が、実はこの姫君のことを苦手としているのを知っていたカイルはどうしたものかと一瞬言葉に詰まる。
だがその窮境を救い上げたのは、リムスレーア姫の後ろからやってきたのんびりとした口調の声だった。
「だめですよ〜姫さま。リオンちゃんと同じ名前の猫ちゃん苛めたら、八つ当たりしてるっておもわれちゃいますからね〜」
「な! な、な、な、なんでわらわがやつあたりせねばならぬのじゃ!」
王宮の誰もが思ってはいるものの、恐ろしくて言えなかったことをへろりんと言ってのけたのは王女の護衛の女王騎士ミアキス。瞬時に赤くなった姫は、裏返った声で抗議する。
「だってリオンちゃんは、姫さまのだ〜い好きな王子といつも一緒ですから、ねぇ?」
「えーと・・・どうしてそれで八つ当たりになるんでしょう?」
おっとりと可愛らしい声ながら、発する言葉は実に直截。
だが当の王子付きの少女だけは分かっておらず、隣の王子におずおずと小声で尋ねて言葉に詰まらせている。
「そんなわけなかろう! それにわらわはいじめてなどおらぬぞ!」
「んー尻尾引っ張るのは、普通の猫ちゃんは嫌がるものですけどぉ〜」
「リムはそんなことをしてたのか?」
「ひっぱったのではない! どれだけながいかしらべただけじゃ!」
「そりゃいかんな、骨が折れてないか調べてやらねば」
「リムはそんなにつよくひっぱっておらぬーっ!」
窘める口調のくせにからかうような表情を浮かべる父親は、むきになる娘の反応が楽しいようだ。幼いがゆえにか、やや素直すぎるほど直情に感情を破裂させる時の姫の表情は、それはそれで可愛らしいものだが、あんまりやりすぎると可哀想だ。
「姫さま、リオンちゃんの代わりに俺が遊びますよ! 俺の尻尾なら引っ張っても平気ですから!」
そう言いながら抱きしめようとしたのだが。
「いやじゃー! カイルはいやじゃー!」
絶叫の強さで叫ばれ、すごすごと退散する。
「えーなんで俺じゃダメなんですかー?」
いきなりの行動に仕方ないとはいえ、まさかそこまで酷い拒絶反応を示されるなどと夢にも思わなかっただけにショックだ。
慰めるつもりが当てが外れ悄然とした表情で尻尾と耳を落としているカイルと、そのべそをかいている愛娘に仕方ないと苦笑したフェリドは、
「ほれ、泣かずともよい」
と片手で娘を抱き上げて、カイルの頭を撫でた。
心配そうに駆け寄ってきた兄王子に慰められて王女が涙を拭き始め、同じように心配げな顔で寄ってきた猫のリオンと人間のリオンに慰められてカイルが少し元気を取り戻した時。
階段を下りながらやってきたのは、騎士服を着た若い男だった。
「酷いなぁ、姫さま。大声で俺の名前を嫌いって叫ばないでくださいよ〜。俺のことって誤解されちゃうかもしれないじゃないですか」
「あら、リオンちゃんとカイル殿が揃いましたねぇ〜」
ぽんと手を叩いて楽しそうなミアキスに、こらこらと笑って見せるのは女王騎士カイルだ。
「で、何があったんですか?」
ぐるりと一同の顔を見回して尋ねる彼に、相変わらずの間延びした口調でミアキスが説明をする。
端的に過不足なく告げられた経緯をふむふむと聞き終えたカイルは、
「そりゃこの駄犬が悪いですね」
と姫の前でしょげている大型犬を指差した。
「自分の図体のでかさも弁えず、姫さまに圧し掛かるとは無礼千万。こんな悪い犬は百叩きにして王宮から放り出してさしあげますよ」
にっこり笑ってとんでもないことを提案する同名の男に、カイルは抗議を込めて唸ってみせるが、それに同調したのはミアキスだった。
「そうですねぇ。仮にも次期女王を泣かせた悪い子ですから、毛を丸刈りにしておいたできないように懲らしめるのもいいかもしれませんねぇ〜」
やりましょうか? と愛剣の柄に手をかけてにっこり笑う表情は普段と変わらぬ笑顔なだけに、冗談とも思えない。
予想外の成り行きに、困惑したように兄と父の顔を窺うが、黙ったままの彼らの態度に不安げな表情を浮かべていたリムスレーアは、「じゃあまずは頭から〜」と楽しそうに小太刀を抜こうとしたミアキスに、悲鳴を上げた。
「ダメじゃ、ダメじゃ! そんなことをしてはならんー!」
「えぇ〜だって姫さまを泣かせた悪い犬ですよぉ〜」
「そうそう、悪いのはこの駄犬。毛刈りして百叩きして王宮から追い出せば良いんですよ」
息もぴったりにそう言い立てる二人に、カイルは怯えて尻尾を股の間に入れ、王女は首を振る。
「かいるはびっくりさせようとおもってやったのではないから、わるくないのじゃ。いじめてはならん! ちちうえもあにうえも、とめてくだされ!」
ぎゅっと袖を掴んでそう頼む娘に、フェリドは口を開いた。
「そうだな。カイルはただ遊んで欲しくてじゃれついただけだからな。罰を与えるのは良くない」
「この犬が悪くないんだったら、毛刈りするのも百叩きもやめときましょうかぁ〜」
こくこくと頷く姫の顔を覗き込み、ミアキスは柄から手を離す。その様子に心配げに見守っていた子供達はようやくほっとしたように笑った。
いきなり訪れた危機的状況に本気で怯えていたカイルは、ようやく窮地を脱し安心し、安堵したように頭を撫でてくる人間のリオンの手に鼻を擦り付けた。
その様子を楽しそうに見ていた大柄な女王騎士は、おもむろに口を開いた。
「この犬が悪くないなら『いやだ』って言ったの取り消してあげてくれませんか?」
腰を屈め、フェリドの腕に抱かれたリムスレーアと目線を合わせて告げるカイルは、同名の誼というわけじゃないんですけどね、と前置きながら言葉を続ける。
「多分こいつ、かなり傷ついたと思うんで。もちろん本当に嫌な時は遠慮せず言って欲しいですけど、冗談でも姫さまみたいに可愛い方にダメ出しされたら俺達みんな落ち込みます。姫さまだって王子に『リムは嫌だ』って言われたら悲しいでしょう」
「あにうえは・・・そんなことをいわぬ」
きっぱりそう宣言しながらも、一瞬不安げな視線を兄王子に向けた王女に、「もちろん例えばの話です」とカイルは笑う。
「王子が姫さまに向かってそんなこと言うわけないですけど、想像しただけで悲しくなるでしょ? 俺達も姫さまが王子のことを好きなのと同じくらい、姫さまのことが大好きですから『いやだ』って言われたら悲しくなるんです」
だから、ね。
困ったような心配そうな顔でおずおずと視線を向けられ、カイルはぱたぱたと尻尾を振ってみせる。
その途端ほっとしたのか、
「きらいといったのはうそじゃ」
と王女はカイルが一番言って欲しかった言葉を笑顔で言ってくれた。
飛びついて顔を舐めたいのをぐっと我慢して、その代わりに大きな声で「ワン」と吠えると、リムスレーアは声を立てて笑う。
「あと、一般論としてやっぱり言われて嬉しいのは『大好き』って言葉だと思うんですよねー。姫さま、この犬に悪いことしたなーって思ってるんなら、『カイル大好き』って言ってやりませんか?」
「・・・それはどちらにむかっていうのじゃ?」
胡乱な眼を向ける姫に、がしっと大型犬の首根っこに腕を廻し顔を寄せたカイルはにこやかに答える。
「えー、そりゃもちろんこの犬にですよ」
いけしゃあしゃあとそう嘯く男に大人は呆れた顔を向けるが、そんな言葉には引っかからない程度には明晰な姫は、ぷいと横を向いた。
「いわぬ。わらわがだいすきなのはあにうえだけじゃ!」
そう宣言するなり最愛の兄に抱きつこうとした姫は、父親の腕から落ちそうになり周囲を慌てさせる。
「こらこら、急に暴れるヤツがあるか」
腕の中から逃亡しようとした娘をがっしり捕まえた父親の判断は、以前勢いの余り兄を敷き潰した少女の実績を鑑みると実に適切だ。
あと数年も経てば少年らしくしっかりした体格になるはずだが、今はまだリオンよりも華奢な王子が姫を抱きとめるのは些か無理がある。
しかしそんな過去など忘れ去っている本人は不服なのだろう。
「いやじゃ、あにうえにだっこしてもらうのじゃ!」
じたばたともがく妹を前に、王子は困った表情を浮かべる。
「ダメだ、リムがいなくなったら父が寂しいからな。代わりに、ほら」
手を差し伸べて反対の腕で王子を抱き上げたフェリドは、「これなら文句ないだろう」と笑った。
息子の自尊心を傷つけることなく、子供たちを笑顔にしてみせた父親の腕の中で兄妹は仲良く手を繋ぐ。
「いいなーフェリドさま、両手に花花って感じですね〜。あ、重たくなったらいつでも言ってくださいね、代わりに抱っこしますんで」
ひょこひょこと横を纏わりつきながら、そう提案する青年に、
「安心しろ、例え腕が抜けそうになっても頼みはせん」
そうからから笑いながら、「さて、ケーキでも食べに行くか」とフェリドは歩き出した。
「えーなんでですか〜! いいじゃないですか、減るもんじゃないし!」
「君子危うきになんとやらだ。歩くトラブルメーカーにうちの可愛い子供達を近づけるわけなかろう」
「ム。その意見には納得できませんね。なんで俺がトラブルメーカーなんですか! 大体さっきのだって、フェリド様が手抜きして犬猫に俺達と同じ名前付けなければ問題にならなかったんですよー!」
「手を抜いたつもりはないぞ。そっくりでぴったりじゃないか」
「どこがですかーっ?!」
「え〜、二人ともよく似てますよ、雰囲気なんてそっくりです〜。リオンちゃんたちもそっくりそっくりですもん〜」
「ほれ見ろ」
「ちょっと、ミアキスちゃん! そりゃなくない? どうして俺が・・・」
楽しげに話しながら王宮に向かう彼らの後ろをついていきながら、ふと後ろに広がる木々の緑を振り返ったカイルに気がついたのだろう。
「どうしたんですか?」
同名の少女の腕に抱かれたリオンが小さく尋ねる。
「んー、いやなんでもないよ」
そう言って笑って見せると、不思議そうな顔をした少女は首を傾げる。
そっくりでぴったりってもしかして ―――
ふっと浮かんだ考えを、まさかなと打ち消したカイルは勢いよく階段を駆け上がる。
やがて人の気配がなくなり、流れる水の音だけが響く庭の片隅で。
先ほど飛び立った鷲の黒い羽根が草叢に隠れ、ひっそりと風にゆれていた。
終 .
|
|