+ Calf Love +
      ...0. サイアリーズ 11歳






 長椅子に腰掛けているサイアリーズは、眼の前の木製の扉をぼんやりと眺めていた。
 重厚な扉からは、中の気配は何も伝わってこない。
 何度も侍女たちが慌ただしく出入りしていたあの扉が最後に閉まってから、もう裕に一刻以上は過ぎている筈だった。
 ふと、窓際に立って外を見ている義兄に視線を向ける。
 後姿からは、彼が何を思っているか分からない。
 だが、微動だにしない義兄も不安と戦っているような気がして、サイアリーズは立ち上がり、彼の横へと立った。
 肘を、いや服の端でも良いから掴めたらこの心細い気持ちはなくなるだろうか。
 ぼんやりと考え、けれども腕を組んだ義兄の厳しい横顔に手が伸ばせない。
 見上げるその視線に気がついたのか、やがてフェリドは振り向き頬を緩めてみせた。
「まだ、もう暫くかかるかもしれん。入れるようになったら起こすから、それまで寝ていたらどうだ?」
 奔放に跳ねる髪を無造作に括り、サイアリーズの腕の太さほどもある太刀を腰に帯びている義兄は、この宮殿の中でも眼を惹く長身だ。
 そのせいか少し身を屈めるようにして、話しかけるのが彼の常だった。
 今も同じようにしてそう告げる義兄に、首を振る。
「・・・私も起きておく」
 先ほど扉が開いた時、部屋から漏れ聞こえた姉の苦しげな声を思い出す。
 あの扉の向こうでは、姉が一人で苦しんでいるのだ。とても眠る気にはならない。
 寝台へ入っても、きっとあの悲鳴のような声を思い出して眠れないだろう。
 幸いいつもならとっくの昔に寝台へ向かうように喧しく言い立てる乳母は姉についていて、サイアリーズを咎める者はいなかった。
「そうか」
 頷く義兄とともに視線を、真っ暗で景色も見えない窓外に移す。
 朝から苦しげな息遣いをみせていた姉が扉の向こうに消えたのはまだ陽も傾き始める頃だった。
 お産とは大変なものだとは乳母から聞いてはいたものの、こんなに時間がかかるものとはサイアリーズは思いもしなかった。
 産屋となっている隣室に向かう時にはすでに姉は自分の足で歩くのがおぼつかなかった。それでも心配で泣きそうになっているサイアリーズに笑って、大丈夫だと言い残した姿を思い出す。
 それからずっと苦しい状態が続いているのだろうか。
 いつも穏やかな笑みを浮かべて頼れる姉の姿しか知らないだけに、長く待ち続けるこの時間に恐れを募らせるばかりだ。
「義兄上・・・姉上は死んだりせぬよな?」
 恐る恐る問うたその言葉に、ややあってフェリドは口を開いた。
「・・・お産で死ぬ人は滅多にいない。俺の母は五人子供を産んだが、今もぴんぴんしてるぞ」
「五人もか?!」
「あぁ、俺は長男だったが下に弟と妹が四人いる。一番下の妹は六歳だからサイアリーズよりも小さいな」
 初めて聞く義兄の身上に眼を丸くする。
 闘神祭で彼が優勝した時には、この宮殿の中でその出自についての憶測がそこかしこで囁かれていた。
 だが、陰で取りざたされる噂にも、直接尋ねられる問いにも、彼は全て詳らかにせず通してきたのだった。
 姉の夫としてではなく、フェリドという人間として今初めて彼を認識できたような気持ちになる。
 そういえば二人きりで話をしたのもこれが初めてのことだ。
「義兄上の母上も、こんなに時間がかかったのか?」
「さてどうだったかな。すぐ下の弟が生まれたときは俺はまだ小さい頃だったし、下のチビ達の頃にはもう家を出ていたしな。だがお産には時間が掛かるものらしい。特にアルは初産だからな、気長に産まれて来るのを待ってやれといわれたぞ」
「分かってはおるが・・・姉上が苦しいのは嫌じゃ」
「そうだな。俺も同感だ。アルが頑張ってるのに何もできずただ待っているしかないのは辛いな」
 自分の娘が初産というのに今宵も母は取り巻き達とともに宴に興じている。
 ハスワールにも話が伝わっているはずだから、もしかすると同じように心配していてくれるのかもしれないが、こちらの棟には来てもらうことができない。
 義兄がいてくれて本当に良かった。
 同じように不安や心配をしている存在が傍にいてくれるのが、こんなに嬉しいこととは知らなかった。
 自分が痛いかのように顔を歪める義兄の姿に、思わずその肘の辺りをそっと掴む。
「大丈夫だ、アルは強い」
 そう呟く義兄はまるで自分に言い聞かせているようだ、とサイアリーズは思った。
 だからだろうか、小さな子供にするように頭を撫でられても、嫌な気持ちはしなかった。
 それから促されるがままにまた長椅子に座って、ぽつりぽつりと会話を交わした。
「義兄上は男の子と女の子のどちらが良いのじゃ?」
「さてな、あまり考えたことはなかったな・・・」
 待つ時間は本当に長い。
 水時計は何度も刻を奏で告げ、サイアリーズは何度も欠伸を噛み殺した。
 眠くて涙目になっているのを見ても、絶対に眠らないという気持ちが分かっているのか、義兄は何も言わずただ小さく微笑するだけだった。
 それでも静けさに響く単調な時計の水音と、長く続きすぎた緊張にうつらうつらと舟を漕ぎ出す。
 はっと気がつくと隣の義兄の肩に寄りかかるように頭を凭せ掛けていて、起きていようとしてもいつの間にかその繰り返しだった。
 どれだけ時間がたったのだろう。
 やがて、不意に待ち望んでいた扉が開いた。
「無事お生まれになりました! 男の、王子君です!」
「アルは無事か?!」
 立ち上がった義兄の吼えるような大声に、身を竦ませた侍女は頷く。
 そのまま部屋に突進しようとするフェリドは侍女に押し留められ、また閉ざされた扉の前で落ち着き無く歩きぐるぐるとまわる。
 すっかり眼のさめたサイアリーズは、その義兄の姿におかしくなった。
 さっきまでは平然とした顔だったというのに、いざ姉が無事で赤ん坊が産まれたということが分かってから、やっと不安そうな顔を見せるとは。
 次はさほども待たぬうちに扉が開いた。
「サイア、来い!」
 あせった声で呼ぶ義兄の後から、隣の控えの間を抜けてその奥の部屋に足を踏み入れる。
 燭台が数箇所置いてあるだけの薄暗い部屋は、香が焚き染めてあるのか、気持ちの良い匂いがする。
 部屋の真ん中にある寝台には姉が半身を起こすように横たわっており、その横で義兄は身を屈め妻を抱きしめていた。
「アル、よくやった・・・よくやった!」
 感極まったように何度も繰り返すフェリドに、横で乳母が得意そうな口調で告げる。
「本当に綺麗な王子君ですよ。普通の赤ん坊はこんなに綺麗に産まれてきませんとも。さすが姫さまのお子ですわ」
「本当にアルそっくりだな」
「あら、髪の跳ね方はそなた譲りでしょう。それにわらわはサイアの子供の頃を思い出しましたよ」
 赤子を腕に抱いたアルシュタートは戸口に佇むサイアリーズに笑いかける。
 その笑みにサイアリーズは恐る恐る寝台に近づいた。
 立ち上がり肩を引き寄せる義兄に背押され、姉の前に立った。
 腕に抱かれている赤ん坊は、乳母に言われていたように赤黒くもしわくちゃでもない。
 ピンクの肌でどこもかしこも柔らかい曲線だ。
 触って良いのかと眼で尋ねると、にっこりと肯首される。
 そっと手を伸ばし、恐る恐る赤い頬を指先で触れる。
「・・・かわいい」
 思わず呟く。
 血の繋がりのある、庇護すべき存在。
 
 宝物だ。
 
 愛おしくてたまらないという風にみつめている、姉や義兄、乳母を見てそう思う。
 きっと自分も同じようにこの小さな赤ん坊を見ているのだろう。
 可愛い、宝物。
 自分が守ってあげなければ。
 泣き出して母の乳を吸いだした赤ん坊を見詰め、サイアリーズは微笑む。
 もうハスワールはこの子が産まれたことを知ってるだろうか。
 女王陛下や母上はどうなのだろう。
 きっと皆喜ぶに違いない。
 こんなに可愛い赤ん坊なのだから。
 そうだ、ギゼルにも伝えてあげよう。
 幼馴染の少年に宛てた文面を考えてわくわくする。
 乳母に「もう寝なければ」と自室へとおいやられ寝台に入っても、興奮と喜びが醒めやらぬサイアリーズは笑みを浮かべて小さな赤子の姿を思い出していた。
 だが、欠伸を二度、三度すると、あっという間に眠りに落ちたのだった。
 
 
 
 
 






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