+ Calf Love +
      ...0. ギゼル 6歳






 水時計が一つ時を刻み、部屋に響き渡る玻璃の繊細な音色にギゼルは部屋を見回した。
 部屋に通されてもう半刻以上過ぎているが、一度飲み物を女官が運んできたきりで、誰もやってくる様子が無い。
 立ち歩いてる間に誰かが入ってきたら行儀の悪い子供だと思われるかもしれない、という恐れから、外の様子を窺うこともできず、椅子を勧められてこの方、彼はずっと身動き一つせず座ったままだ。
 薄布を壁や天井にもふんだんにあしらったどこか異国情緒を感じさせる部屋の内装は、重厚かつ絢爛な彼の故郷のそれとは趣を異にし興味深いものだったがずっと眺めていて楽しいものでもない。自然彼の視線は窓の外に向けられることとなった。
 太陽宮の左翼に位置するこの部屋は、大きく採られた窓外に緑の木立を望んでいる。
 上階にあるため枝葉しか見えないが、光に濃淡を変える葉色や、風で縦横の動きを見せる輪郭を辿ると少しは気がまぎれる。
 しかし、半刻という時間は六歳の子供には長すぎた。
 勉学で机に向かう習慣は身についてはいても、こうして無為の時間を潰すことには慣れていない。
 たった半刻ではあったが、時間の感覚がなくなるくらい長い間こうして座っているような感覚を、彼は覚えていた。
 厚い扉越しに外の物音は聞こえてこない。
 自分を宮殿に呼び寄せたハスワールは、まだ帰ってこないのだろうか。
 こんなことならこの前のように、城下の屋敷に来てもらえば良かった。
 そう考えると同時に「ハスワール様は将来の女王になられるお方だ。姻族とはいえ臣下の元に足を運んでいただくわけにはいかない」と言っていた父の言葉を思い出す。
 こうして招いてもらえるだけでも光栄と思わなければならない。
 自分の年で太陽宮に上がれる者は、貴族の子弟でもいないのだから。
 六歳の子供には過ぎるほど冷静に状況を分析したギゼルだが、自然と漏れ出でる溜息を堪えることはできず。
 もう何度目になるかわからぬ溜息をつきながら俯いた。
 
 
 やがて再び視線を窓外に向けた彼は、眼を見開いた。
 彼の眼に飛び込んだのは、それまでには存在しなかった色だった。
 最初に眼に入ったのは華やかな薄紅。
 それから温みのある白に、眼の醒めるような眩しい銀が遮光布の陰からちらちらと見え隠れする。。
 驚き眼を見張るギゼルの前で、静かに窓を開ける音がして、次の瞬間その色は女の子の形となって彼の前に降り立った。
 乱暴に薄紅の長着の裾を叩いた少女は、ギゼルの視線に気がついたのか。
 はっと顔を上げ、怒ったような声を出した。
「そなたは、だれじゃ」
「ぼく・・・わ、私はギゼル、ギゼル・ゴドウィンともうします」
「ギゼルとな、ここはハスワール姉上の部屋じゃぞ。その方なにゆえ無断で姉上のお部屋におるのじゃ!」
「無断じゃありません。ハスワールさまにここで待っているようにいわれたんです」
「姉上が?」
 びっくりした顔で眼を丸くする少女に頷く。
 首を傾げながらつかつかと近寄ってくる少女に慌てて立ち上がる。
 この少女が席に座ったまま相対していい人物ではないことくらい、一目見たときからギゼルには分かっていた。
 長く伸ばした眩いばかりの銀髪。
 この色彩を纏うのは、ファレナ女王一族の者しかこの国にはいない。
 初めて見る顔だが、彼女もまた女王家の一人なのだろう。
 なによりも纏う気品が、彼女が特別な存在であることを知らしめていた。


「して、姉上はどこにおられるのじゃ?」
「ハスワールさまは・・・分かりません」
 きょとんと眼を見開いた少女の顔に、自分が間抜けな答えをしたことに気がつきかっと赤くなる。
「まだ、ぼ、わ、私は会っていないので・・・」
 何と言えば良いのだろう、しどろもどろに言葉を探すギゼルを見詰めていた彼女は、不意に表情を強張らせ、扉を見詰めた。
「隠れねばならぬ!」
「え?」
「わ、わらわのことを聞かれても、ここにはおらぬというのじゃぞ!」
 一転して押し殺した小声でそう囁いた少女は、室内を見回し、すぐ目の前にある円卓の下に這入りこんだ。
 何が起こったのかわからぬまま、しゃがみ込むと、掛布の縁房の間からこちらを伺っていた少女と視線が合う。
「あの・・・」
「わらわはここにおってはならぬのじゃ!」
 その怯えたような色に、とっさに少女の手を掴む。
「ここだったら見つかります。こちらへ」
 迷うことなく窓際へ駆け寄ると、壁に置いてある長椅子をぐっと押し隙間をつくる。
 するりと身を滑り込ませた少女に続き、ついでに幾重にも端に寄せられている遮光の布で自分達を覆うのも忘れない。
 二人でじっと息を凝らしていると、すぐに部屋の扉が開く音と、知らない女性の声が聞こえた。
「・・・られぬではないか」
「長くお待ちいただいておりますゆえ、不浄に席を外されかと」
「そなた達の知らない間にか?」
「ともあれギゼル様はハスワール姫の客人。心配して頂く謂れはございませぬ。あぁ、失礼ですが、姫様の不在時に勝手に部屋に立ち入られることはご遠慮願います。いかにサイアリーズ様の・・・」
 相手をしていた声は部屋に案内してくれた女官のものだろう。
 声が遠ざかりまた扉が閉まる音に、ギゼルはほっと肩の息を抜いた。
「そなたまで隠れたらおかしく思われるではないか」
「ご、ごめんなさい」
 隣で囁く声に、慌てて小声で謝る。
 どうしようかと迷うが、扉が閉まったというのに少女は身を縮めたまま動こうとはしない。
 隣を見ると、表情を強張らせ、扉を透かし見るかのように長椅子の背を睨んでいる。
 まだ何か怖いのだろうか。
 彼女が隠れる相手は去ったのに、いまだ怯えるような表情を見せている。
 ちょっと身動げば頬に当たるふわふわと柔らかい銀髪の感触とは裏腹な硬質な表情に、ギゼルは胸の辺りが痛くなった。
 ぎゅっと強く握り締めている手が白っぽくなっている。
 握ってあげたほうがいいのだろうか。
 迷っていると、不意にまた扉の開く音がした。
「まぁ・・・かくれんぼをしておるのじゃな。二人とも出ておいでなさい」
 足音とともに近づいてくる軽やかな鈴のような声は、聞き覚えのある声。ハスワールのものだった。
 途端、弾かれたように立ち上がった少女に押しのけられるような形で、ギゼルはまろび出る。
 眼を丸くしたハスワールは、しかし思いっきり抱きついた少女に身をかがめた。
「ハ、ハスワール姉上っ」
「どうしたのじゃ、サイアリーズ」
 優しく尋ねるハスワールに、サイアリーズと呼ばれた少女は、
「アルシュタート姉上が戻らぬのは、わらわのせいではないじゃろう?」
 と震える声で尋ねた。
「誰かが何か言ったのか?」
「ヒューラッハが、姉上が・・・姉上が戻らぬのはわらわがわるいこじゃからと・・・」
 言いながらぽろぽろと泣き出す少女の姿に、ギゼルは驚いて立ち上がるのも忘れる。
「そんなことはない。心配せずともアルシュタートは直に帰って参るゆえ・・・」
「じゃ、じゃが、姉上は潤月には戻るとおっしゃってたのに、もう霄水月じゃ。姉上は・・・わらわのことが嫌いになったから戻らぬのじゃろうか・・・」
 そう言いながら溢れる涙を何度も拭う少女に、ハスワールは笑って見せた。
「それはな、アルシュタートがわらわの分まで勉強してくれておるからじゃ。わらわはこの都を離れることが叶わぬゆえ、アルシュタートにわらわの分まで学んできてくれと先日書き送ってのう。アルシュタートは優しい子じゃからわらわの願いを聞いてくれておるのじゃろう。アルシュタートはそなたに手紙を送ってくれておるのじゃろう?」
「うん・・・、はい」
「ならば何を気にすることがあろう。さぁさぁ、そう泣かずともよい。折角の可愛いお顔なのじゃから・・・」
 そう笑いながらぎゅっと抱きしめるハスワールに、ほっとしたように少女は笑みを浮かべる。
 初めて見る笑顔に、ギゼルは眼を見張った。
 それは今まで見たどんな子よりも可愛らしい笑顔だった。
「さぁそろそろ戻らねば」
「ありがとう、姉上」
 こくりと頷いて、駆け出した少女は、来たときと同じ窓に向かう。
「あ・・・」
 自分の方を一度も見ぬまま去って行こうとする少女を呼び止めようとしてか。
 それとも、どうして扉から出ないのか、とふと浮かんだ疑問がついたのか。
 とっさに掛けようとした声は、窓の欄干に足を掛けたまま振り向いた少女の視線に中途で止まる。
 眼が合ったのは一瞬だったのだろう。
 瞬きをする間もなく、少女の姿は窓外へ消えた。
 だが、その一瞬だけでも自分に向けられた瞳は、それまでの硬く張り詰めたものとは違い、驚くほど素直で柔らかいものだった。
 綺麗で深い青色。
 
  ―――――― 夜明けの空だ
 
「ごめんなさいね、ギゼルちゃん」
 ぼんやりしていたギゼルを我に返したのは、背後から掛けられた声だった。
 慌てて立ち上がると、ハスワールに手を引かれ元の椅子へと導かれる。
「すっかり遅くなってしまったから待ちくたびれたでしょう?」
「話し方が・・・」
 先ほどとはまるで違う言葉遣いに驚き呟くと、ああ、とハスワールは小さく笑った。
「さっきの話し方は宮中の言葉なの。あんな話し方をしないと煩い人たちもここにはいるのよ。サイアリーズちゃんはまだ小さいし、間違えて怒られたら可哀想だからあんな話し方を普段からしているのよ」
 微かな憂いを刷いたその笑みに気づかず、ギゼルは尋ねた。
「あの方は、サイアリーズ様っていうんですか?」
「まぁ、知らなかったのね。ええ、サイアリーズちゃんはファルズラームさまの二番目の姫で、私の従姉妹になるわ。ギゼルちゃんより一つ二つ年上かしら。少し強引なところがあるけど、悪い子じゃないのよ。仲良くしてあげてね」
 くすくす笑ったハスワールは、自分が帰るまでの間にこの部屋で何が起きたのか、正確に見抜いていたようだった。
 その言葉に大きく頷く。
「それよりも小母様はお元気? 小父様の御用はいつまでなのかしら?」
 優しく尋ねるその言葉に如才なく答えながら、サイアリーズ様、と胸の中で何度もギゼルはその名前を繰り返す。
 暁の空のような瞳の色は、彼の心から離れることがなかった。
 






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