ピシャン… 湯船に指を浸すと勢い水が撥ねる。 入浴は大好きだ。 幼い頃、水のあまり豊かでない地方で育ったせいか、いまでも頭のどこかに水は貴重品という価値観が残っている。そんな自分はマチルダ領に移り住んで、初めて知った入浴の習慣にひどく驚いたものだった。 もちろん幼い頃住んでいた地、グラスランドにも風呂に入るという概念はある。ただ極端に、マチルダとは比べ物にならないくらい極めて水の少ない土地柄のせいか、水を浴びるということは月に一度あるかないか。湿度の低い乾いた気候で、必要はさしてなかったのだ。 マチルダにきて毎日湯を使うという習慣を知り、遥か遠方の土地へ来てしまったのだと幼心にも思ったのを覚えている。それからというもの一日に一度の入浴の時間がとても楽しみになったのだ。 それはマチルダから離れ、同盟軍の本拠地、りょうさんばく城に住み始めてからも変わらない。 なにしろここにはトラン湖を背後に擁し豊富な水源があるのだ。 今日もカミューは風呂に入る。 シャワーで軽く身体を洗い、それから栓をして湯船にお湯を張る。 その前に。 「……この粉を蛇口の下に置くんだったよな」 白い粉を一袋栓の上にあけると、勢い良く蛇口をまわしお湯を注ぐ。 みるみる間に大きな泡が湯船に溜まっていく。最近城の女の子達の間で流行っている入浴剤。アダリーとヨシノが共同して発明したらしいこの粉は、カミューは二ナからもらったのだが、とても楽しい。湯の勢いで泡がどんどんできるのだ。 湯が溜まっていくこの時間がカミューは一番好きだ。 とても贅沢なことをしている気分になれる。 日常の中で毎日こんな良い気分になれる自分はとてもお手軽で幸せなのだろう。 湯船にたっぷり湯が溜まったら、泡を掬って遊んだり、肩まで浸かって温まった後に湯船の縁にもたれて温かい水の感触をしみじみと感じたり。 皮膚と水の境界がわからなくなるくらい湯水に浸かって幸せの溜息をつく。 時間があるときには二時間だって入っていることだってあるのだ。 テツの管理している浴場では大きく手足を伸ばしてのんびりできるけど、それができない部屋の湯船では代わりにタオルを使って遊ぶ。濡らしたタオルで空気を包み込み、ゆっくり湯に鎮めていくこの遊びは少年の頃マイクロトフの家で一緒に風呂に入ったとき教わったものだが、気泡がぷくぷくと上がっていくのを見るのはなんだか楽しい。大勢で入る大浴場ではできないことなので、一人ではいる自室の湯船ではいつもやるのだが、それを見ると教えてくれた当の本人は怒るのだ。 曰く… 『この歳になってやることではないだろう』 『行儀が悪い』 『自分の立場を考えて行動しろ』。 全て自分が常々彼に言っている言葉だが、たまに言うことができる機会があると嬉々としてお説教してくる。 でも今日はその彼はリーダーのお供で遠征だ。予定では今日の昼頃帰るとのことだったのだが、この時間になっても帰ってこないとなると、今日帰るのか明日帰るのか。もしかすると数日伸びるかもしれない。 折角の機会だからこういう時こそ、彼がいたらできないことをフンダンにやっておくのだ。 泡が溶けていくと代わりに乳白色の入浴剤を入れて、ミルクバスにしてみる。(これはアンネリーからもらったものだ) 余分が余っているというリーダーの少年からもらったひよこを浮かべて、トランプでビクトールからせしめた晩酌セットでキバ将軍からもらった酒を飲む。 そんなことをしているとあっという間に時間が経つ。気がつくとすっかり湯もぬるくなっていてかなりの時間を過ごしていたのが分かる。 久しぶりに思う存分長風呂を堪能できたカミューはご機嫌だった。 マイクロトフがいたらきっと口煩く怒られこんなに長風呂などできないだろう。 でも… 「…いなければいないでなんだか寂しいよな」 いつも耳にしていた男の声を思い出して、タオルを湯船に浸しながら溜息をつく。 長風呂をしていると、『さっさとあがれ、のぼせるぞ』と五分置き位にやってきてそれはそれは煩かったのだ。 生まれたときから水があるのがあたりまえという環境で育った彼には、カミューの思い入れは良く分からないものらしい。毎度毎度早く上がらせようとする彼と攻防戦を繰り広げていたのだが、あの口煩さにいつの間にかしっかり慣らされてしまったのだろうか自分は。 それはそれで嫌だな、と思う自分の心のどこかで、それでも寂しさを訴えかけてくる部分も確かにあって。 「呪文一つであいつに変わればいいのにな…」 空気を溜めたタオルをにらみつけるようにぶくぶくと湯船に沈めながらそう呟く。 「なにが変わればいいんだ?」 と間を入れず、戸口から懐かしい声がした。 「マイクロトフ…おかえり〜」 顔をあげるとちょうど頭に浮かんでいた男が戸口に立っているのを見つける。 重苦しい重装備は解いたのだろうか、上着を肩に掛けたラフな格好だ。 嬉しくて手招きをすると、眉をしかめた男は足音も荒くバスタブに近づいてきた。 「カミュー、お前酒飲んでるだろう!」 「んー?」 「お前、酒飲んだら風呂に入るなってあれほど言っているだろう!」 溜息混じりに顎に掛けられた、指の手袋の感触になんだか違和感を感じる。 「いいじゃないか少しくらい。風呂入るのくらいけちけちするな、減るもんじゃないし」 噛み付いて引っ張って、手袋をはずして。表れたいつもの手の熱はさらりとしていて、気持ちがいい。 「分かった、分かったからもう上がれ。あぁもう!指がこんなにふやけてるんじゃないか!何時間入ったんだ!!」 「そんなに眉間にしわ寄せてると軍師みたいになるぞ」 するりと両腕を首に回し引き寄せる。 「カミュー!!」 「一緒に入ろう、埃っぽいだろ」 「わあぁぁぁ―――――――――っ!!!」 酔っ払いの馬鹿力に水の中に引きずり込まれそうになって慌てふためく、男の悲鳴も意に介さず。 水と同じくらい、いや水よりも好きな感触を両手で抱え込んで引き寄せて、カミューは心底満足そうな笑みを浮かべた。 一日の心と体の疲れを落とす、穏やかで心浮き立つ空間。 それはささやかながらとても贅沢な時間。 |