黄昏とも彼誰ともつかない曖昧な光が眼裏に差して、緩々とマイクロトフに覚醒を促した。
ぼんやりと最初に意識の淵へと上がってきたのは此処暫くお馴染みの、苦しいというには大袈裟な、けれど矢張り
躯に染み付いたようにして離れない軽い悪寒。
室内にあっても空気は固く冷えていて、関節に溜まった熱っぽさが一層のものに感じられた。背筋をざわざわと寒
気が駆け上っていく。それでも眠る前の引きも切らない鈍い頭痛は止み、随分と楽になったようだった。他方、四肢
に澱のようにして凝っている気怠さは、更に増したようにも思われる。
寝返りを打つのも、目を開ける事すら億劫で、マイクロトフは唯ちいさく吐息を洩らした。その呼気もまた、重たく熱
が篭っている。
自分の躯が自分のものでないような苛立たしさに、無意識にマイクロトフは眉を顰めた。
その時、ふわりと空気が動いた。
汗に湿った額に、てのひらが置かれる感触。乾いた冷たさが頭の芯に流れ込んでくるようで、ひどく心地よかった。
暫くそれは額の中央に在ったがややあって右の方へずれ、こめかみを掠め、瞼に触れ、次いで頬へと滑らされる。
その柔らかな動きはマイクロトフに、どこか甘くこそばゆい安堵を覚えさせた。
撫ぜられる肌に、ときどきひっかかるような感触がある。年波と日々の雑事の為に、ところどころ皮膚の硬くなった
優しい手。
「……おばあさま…?」
夢うつつに呟いた声は、我ながら幼児のように頼り無かった。
一瞬の沈黙の後、相手が頭上で吹き出した。
「………!?」
激しい違和感にマイクロトフは慌ててぱ、と目を開けた。部屋の隅に薄闇が蟠っている中で、橙の暖かな光をもた
らしているのは枕元の燭台。そうして見出したのは、珍しく声をたてて笑っている、直ぐ脇に立っている同室者の姿
だった。
「カミュー…?」
「…俺も大概、女に間違われるのは慣れたけど。おばーさまと呼ばれたのは初めてだな」
完全に面白がっている顔で見下ろされ、ようやくマイクロトフは状況を飲み込む。祖母の荒れた手と、友人の剣を
握る手を錯覚したのだと。…飲み込んで、即座に耳まで赤くした。
────幾らなんでも、年明けには騎士登用試験を受けるという人間の態度ではないだろう。
乳離れの出来ていない子供ではあるまいし。
年上風を吹かされる一方の友人の前で、自分が幼子じみたところを露呈した事は酷い羞恥を呼んだ。まともにカミ
ューを見ることが出来ず、マイクロトフは赤面したまま顔を背ける。
この同室者は、他人をからかうのを至上の愉しみとしているのだ。当分の間は自ら与えてしまったネタでそれに事
欠かないのに違いなく、マイクロトフは己の迂闊さを心底から呪った。
手酷く揶揄される事を覚悟して肚を括る。だがカミューはそれ以上は何も云わずに笑声を納め、腰を屈めてこちら
を覗き込むようにした。燭を横にした淡褐色の頭髪が朱金の輝きを帯び、毛先から淡く光を零すのが単純に綺麗
だった。
額にかかった前髪をカミューは軽く掻き上げた。露になった白い額が、マイクロトフのそれにこつりと寄せられる。
「……うん。大分、下がったかな」
予想外の相手の態度に、マイクロトフは瞳をしばたたかせた。些か戸惑いつつ、応えを返す。
「…そうか」
「気分はどうだ?」
「え、ああ…。云われてみれば幾らか楽になった、ような気がする」
琥珀の眼が、笑みに緩やかに細められる。普段ならば、自分の事だろう気がするとは何だ楽なのかそうじゃないの
かどっちだ、と容赦なく質される処だが、カミューは一言、そうかと云っただけである。
どうも調子が狂うと思いつつ、マイクロトフは問いを発した。
「今、何刻だ?」
「もうすぐ点呼だ」
では夕食───病人用の、味も素っ気もないオートミールだった。あんな食事では治る病気も治らないような気が
する───を摂った後、二刻も眠ったのだ。もう半刻もすれば、消灯時間がくる。いかにも一日を無為に過ごしてい
るようで、マイクロトフは軽く溜息を吐いた。
「寝てばかりで、身体が腐りそうだ…」
「風邪なんだから、仕方ないだろう。冬場に腐るって事はないから、大人しくしていろ」
慰める気もなく宥めるという訳でもなく、単なる事実を述べているだけという口調は変わらないが、何時もより響き
がやわらかい。
そう云われても、眠ってもいないのに寝転んでいるのは何だか自堕落な感じがして、やっぱりマイクロトフは好きで
はなかった。せめてもと半身を起こしかけると、カミューが背を支えて助けてくれ、自分の寝台から取り上げた毛布
を肩口から包むようにしてかけてくれる。
謝意を伝えようとして、今更のようにマイクロトフが喉の渇きに気付いた時には、目の前に水差しが差し出されてい
た。
「……………有難う」
受け取った湯冷ましで腫れた喉を潤し礼を述べると、琥珀の瞳がにこと微笑んだ。
…優しい。
ここ暫く、カミューの機嫌は絶好調で、しかも恐ろしく優しいのだった。
─────マチルダ騎士団領の首府ロックアックス市では現在、悪性の風邪が蔓延している。その猛威は城下の
みならず先日とうとう主城にまで押し寄せて、上は騎士団長から下は幼年学校の生徒に至るまでを、等しく病床へ
と叩き込んでいる。
『今なら皇国も国境を侵すにはもってこいだな、こんな有様じゃ碌な援軍も出せないし。冬で良かったよな』
『…不謹慎だぞ』
団の医局が大入り満員だと聞いて皮肉に笑ったカミューを、渋い顔でたしなめたマイクロトフだったが、その数日後
には見事に罹患して臥せる事になった。その頃は既に幼年学校の医務室も一杯で、自室で療養を余儀なくされて
いる。
鬼の霍乱てヤツだよなァと、友人達は見舞いに来たのか面白がりに来たのか良く分らない風情で好き放題に云っ
てくれたが、カミューはマイクロトフの風邪について特に感想を述べる事はなかった。人手不足の所為で従騎士と
しての務めが増えて大変だろうに、教練の合間や昼休みに頻繁に帰寮しては、マイクロトフの様子見にやって来
る。
揶揄いがてら、マイクロトフの見舞いに来ていた友人達も前後して病人の仲間入りを果たした中、カミューだけは
不思議に元気だった。元気でマイクロトフの面倒を細々と見、そして。
…何だか、妙に優しいのだった。
マイクロトフは、幼い頃から怪我を沢山した。自身を含めて、仲間内は騎士の家の出で武張った育てられ方をした
子供が多く、喧嘩は年長者を向こうに回してでも良くやった。それに剣を学び馬を習った師が厳格な為人であった
から、打ち身の類は日常茶飯事で生傷も絶えなかった。
一方で物心ついてから、凡そ病というものに罹った記憶が無い。怪我による発熱で寝込むのとは違った、躯に重苦
しく纏わり付くような感覚は、経験がないだけに辛かった。
たかが風邪と頭では思い、実際にさしたる高熱でもないのに、精神的に参ってしまった感がある。どこか気弱にな
って、その綻びた気分のまま何かの折に、
────『世話をかけてすまない』
そう云ったら、カミューは指先でマイクロトフの額を軽くつついた。
無言のまま向けられた穏やかな微笑に、変に緊張していた心が緩んで、何やら泣きたいような気分にさせられた
のは、寝込んだ二日目の夜だったろうか。
マイクロトフが安静を言い渡され、寝台に放り込まれてから既に一週間が経つ。その間、カミューの態度は気持ち
の何処かを擽ったくさせるのと同時に、あんまり彼らしくないので戸惑いも大きい。
………というか、有り体に云ってしまえば、不気味に感じられてきたのだった。
何せ散々おもちゃにされている所為で、カミューの行動を素直に眺める事は難しい。裏で何事か企んでいるのでは
ないかと、内心で恐々としている部分がマイクロトフには少なからず、ある。
慣れない病熱で朦朧としていた時は友人の笑顔が心に沁みて、優しい看護に感動すら覚えていたのだけれど、病
状が落ち着いてくると少々怖くなってきた。むしろ、いつまで寝込んでいるんだ日頃の鍛錬は無駄事かと、辛辣にこ
きおろされた方がマイクロトフは心情的に納得がいくだろう。
…尤も、相当ねじれた性格をしたこの友人も、今は本当に心配してくれているのかも知れず、カミューに優しくされ
るのは落ち着かないのと同時に、己がそう感じてしまう事を申し訳なくも思うのだった。
どうにも琥珀の瞳を直視しづらくて、マイクロトフは曖昧に目線を逃がす。
そこでふと、窓辺に置かれたものに目が止まった。
両の手のひらに乗る大きさの、どこか間の抜けた形の白い物体が、窓際にちょこなんとしていた。銀盆を下に敷い
ているのは、融ける事を考えてだろうか。
雪だるま、であった。
(………何だ、これ…)
いや、雪だるまだというのは理解できるが、部屋の中に何故持ち込まれているのだろう。置いた人間といえば一人
しかいないが。その当人はと云えば、訝しげなマイクロトフの視線を受けると、得たりとばかりに笑った。
「可愛いだろう?」
…可愛いんだろうか。
その形容は置いておいて、いびつな球体をふたつ重ねたそれは、子供の時分はともかく騎士団入りしてからという
もの間近で見る機会も少なくて、何だか懐かしいという気はした。
「カミューが作ったのか?」
「そう」
こくりと得意げに頷く様は、日頃の大人びた印象とは違った稚さがある。子供みたいだなと、マイクロトフがからか
いを口に出すよりも一瞬、相手の言葉が早かった。
「夜になって、また降り出したんだ。その雪で作った。部屋に閉じ篭りきりでは、雪見も出来ないし」
そう云って自分の机の上で何かをがさがさやり始めたカミューの背を、マイクロトフは目を丸くして見詰めた。
(…雪見って)
別に、初雪とかいう訳ではない。今年最後の雪というのでもない。マチルダのひととせの冬に幾度となく降る雪の、
その中の何と云う事も無い一夜の雪。
────それをわざわざ、俺に見せようと?
知り合って最初の冬、カミューは寒がりの癖に窓にぴったりと寄り添って、降る雪を飽く事無しに眺めていた。その
姿に関心を持って、図書館の書物を繰った事がある。そうして、友人の育ったグラスランドでは、ハルモニア国境の
辺りから続く山地でしか雪が降らないのだと知った。生まれてからこの方、当たり前の事象として捉えているマイク
ロトフとは、雪に対する感覚が違うのも知れなかった。
自身が興味深く思うのと同じに、無聊を囲っているマイクロトフの慰めにと考えて、雪だるまを作ったのだろう、きっ
と。
カミューの背から、雪だるまへと視線を移す。
炭の欠片で出来た目に見返されると、胸の裡のどこからか、やわやわと暖かいものが満ちてきて、酷く幸せな心持
ちになった。
「何を、にやけているんだ?」
友人の声に、マイクロトフは我に返った。慌てて緩んだ口元を引き締め、かぶりを振る。
「いや、別に」
ちょっと不審げな顔をして、カミューは肩を竦めた。その調子なら大丈夫かなと一人ごち、その手にあった湯気の立
つマグを、マイクロトフの方へと突き出した。
「身体が温まる」
飲め、という事らしい。
有り難く受け取って口を近づける。そこで完全には利かない鼻腔に薫ったものに、マイクロトフはぎょっと瞠目した。
「…酒じゃないか!」
「違うぞ、酒というのはこっちの事だ」
うそぶいたカミューの左手には、通常の半分の大きさの酒壜。紅の液体が中でたぷんと揺れた。右の手には、多
少の保温保冷効果を持つ、軍用の水筒がある。
「お前のはホットワインだ。水で割ってレモンを搾って砂糖を入れて、火にかけて酒精は飛ばしてあるし、酒という
のも大袈裟だな」
「どうしたんだ、こんなもの…?」
「食堂で頼んで作って貰った。こういう時に日頃の行いが物をいうよな、幾らでも融通をきいて貰える」
どうやら賄い方の、恐らくは女性陣に愛想を振り撒いて作らせたらしい。尤もカミューは、城勤めの女達には大層
な人気を誇るから、今更な愛想も必要としたかどうか。
「そうじゃなくて、酒の方は」
寮内での飲酒など、無論厳禁である。そもそも正騎士以上に行動の自由を制限されている幼年学校生には、城下
に下りる事さえ少なく、普段の生活で酒など手に入れる機会もないのだ。
…にんまり、とカミューが唇の片端を擡げた。
「カードで勝って、ユージィン様からせしめてきた」
己が従騎士として仕えている赤騎士団の隊長筆頭の名を口にして、カミューは得意げに笑った。
「…賭けたのか!?」
咎めるつもりでしたマイクロトフの反問は、残念ながらその意図が相手に伝わらなかった。腕組みしたカミューは、
したり顔で頭を軽く振ってみせた。
「最悪だぞ、あの騎士隊長。負けていたら俺は、団の医局で女装して白衣の天使をやらされるところだった」
「………」
マグを持つのとは逆の手を、マイクロトフは額に当てた。頭痛がぶり返してきた気がする。部下が部下なら上司も
上司だと大きな溜息を吐き、それから仮にも隊長筆頭職にある方に対して不敬だったかと、心の裡で取り消した。
「心配するな、大勝ちだったから。寮には持ち込めなかったけど、火酒も物にした。今度、飲もうな?」
───…心配してない。呆れ返っただけだ。
カミューの念頭からは、遵守すべき規則というものは綺麗に失われているらしい。最早何らの苦言を呈する気も起
こらず、マイクロトフは無言でカップを呷った。
熱めの仄かに甘い液体が、温度の為でなく喉を軽く灼く。胃に落ち着くと、ぬくぬくとした温かみが躯の内部から生
まれてきた。
ふたくちめを啜って、カミューを見上げる。軽く小首を傾げて感想を問うてくるのに、マイクロトフはこくんと頷いた。
「…美味い」
「当然。カナカンの極上物だぞ、心して味わえ」
破顔して、カミューは酒壜に直接口をつけた。呷る仕草には、どこか慣れがあった。
「…けど、あまり感心しないぞ、カミュー」
マイクロトフがそう云うと、ワインを喇叭飲みしていた友人は一息ついて、片目を瞑って寄越した。
「固い事を云うな。事後共犯だぞ、お前も」
言葉に詰まったマイクロトフを見遣って、カミューは酒瓶を振った。
「大目に見ろ。俺はこれから、寒い廊下を延々と歩かなくちゃならないんだから」
「?…直に点呼だろう、何処へ行くんだ」
「寮長がとうとう、へたばったんだ。代わりに、俺に点呼が回ってきた」
寒いから厭だなぁと、愚痴る表情は滅多になく憂鬱で、マイクロトフは寒さに弱い友人に同情しつつも、つい笑みを
誘われた。カミューに目敏くそれを見咎められ、じろりと睨まれて、慌ててそ知らぬ振りでカップの中身を啜る。
「さて、そろそろ行って来るかな」
建物内とはいえ、人気の無い廊下は大層冷える。外套を着込んだカミューは、マイクロトフの額に再度手を当てて、
満足そうに頷いた。
「下がったか?」
「馬鹿云え、半刻やそこらで変わるか。…それ全部飲んだら、大人しく寝ろよ?俺を待ってる必要はないからな」
カミューの語調は、もう余り優しくは無くて、常のカミューに戻ったようだった。それが快方に向かっている何よりの
証のようで、マイクロトフは安心した。そういう自身の心向きも何だか可笑しく、無意識に唇が綻ぶ。
決して自分は笑い上戸とか、そういう面白みの分かる人種では無いと思うのだが、気持ちが妙にふわふわとして
いるのはどうしてだろうか。
額に置かれたカミューの手が、上のほうにずらされた。頭髪を、くしゃりとされる。
「流石に、俺もそろそろ看病には飽きたかな。教練も、剣の相手になる奴がいなくてつまらないし。…いい加減治せ
よ、マイクロトフ」
「…努力する」
「ま、努力と根性で風邪が治るなら医者はいらないんだけどな」
「………どうしろっていうんだ…」
胡乱な目付きで仰ぎ見たカミューは、喉の奥で笑声を転がしている。そして机の上から手燭を取り上げ、肩越しに
マイクロトフに向けて手を振ると、部屋を出て行った。
一人になってマグを空にすると、途端に眠くなってきた。欠伸を噛み殺しつつ、毛布を引き被って横臥する。あんな
に眠ったのにと思ったが、直ぐに瞼が下りてくるのは止められなかった。
ワインの納まった胃の腑の辺りから、とろりとした温みが眠気と一緒に全身を巡り出す。このうえなく満ち足りた気
分を大人しく抱きしめて、マイクロトフは睡りの底へと落ちていった。
────目が覚めたらきっと、風邪も良くなっているだろう。
そんな気が、した。
────結局あれは、面白がっていたのだろうな。
奇妙に優しかった友人の態度についての、それが元青騎士団長マイクロトフの下した結論であった。
十余年を経た現在、同盟軍が拠っているデュナン湖畔の城の一室で、彼らは当時と役割を入れ替えていた。
頭痛、発熱、悪寒、咳、喉の痛みと、風邪の症状の五重奏を見事に喰らったカミューは、先日ホウアン医師によっ
て務めの一切を放棄して休息するよう命じられた。それが一応許される状況でもあったので、本人も異議は唱えな
かった。唱えるだけの元気も無い、というのが正しかったかもしれない。
黙っていれば繊細に見えない事も無い親友は、それを裏切って至極丈夫な性質であった。病で寝込んだ事はおろ
か、絶対安静を言い渡されるような戦傷も負った事が無い。或いはマチルダの冬とは違った、水辺のじっとりとした
冷え込み方が合わなかったのかもしれなかった。とにかく滅多に無い事だけに、体の不調は相当に堪えたようだ。
執務から解放されて気が緩んだのか、カミューは床に就いて直ぐに高熱を発し、二三日は半死半生という態でい
た。今は熱も下がったが、借りてきた猫のように大人しく、素直に世話を焼かれるままになっている。精々が、薬は
糖衣でなくては嫌だと駄々を捏ねた位のものだ。
…口数の少なさが、顕著だった。何しろ、カミューとは切っても切り離せない軽口無駄口皮肉悪口雑言の類が、こ
こ数日というもの完全に止んでいるのだ。長いつきあいだが、そういう友人をマイクロトフは初めて目にした。
そうして、思ったのである。
────面白いかもしれない、と。
心配は無論、している。だが、そういう感情とは全く別のところで、何やら非常に楽しいのである。新鮮、というのが
近い。それで執務の合間にマイクロトフはちょくちょくカミューの私室に顔を出し、世話を焼くことをそれなりに楽しま
せて貰っていたのである。
そうするうちに、ふと過去を思い出し、あの時の友人の不可解な態度を、実感と共に納得したのだった。
カミューは今、寝台の上に半身を起こしていた。そして砕けよと云わんばかりの物騒な目付きで、手元の素焼きの
器を睨んでいた。
ややあって薄い唇が微かに動き、呻くのに似た呟きが洩らされた。
「………これ、どう見ても人間が口にして良い代物じゃないな…」
器の中身は、どろりとした得体の知れない液体である。不気味な暗緑色をしていて、目にした者に本能的な生命の
危機を覚えさせる。…それを、作成者は風邪薬だと称した。その言を身を以って確かめようと試みる者は、勇気で
はなく蛮勇を謳われる事になるに違いない、そういう雰囲気を醸し出しているものだった。
「ゲンカク老直伝だと云うぞ?有難い話ではないか、カミュー」
「………感謝はしてる…」
「使われている薬草は人体に害は無いと、ホウアン殿は仰っていた」
お手製の煎じ薬を直接手渡されたのはマイクロトフである。疑った訳ではないが、見た目からして体内に入れて無
事に済むものとも思えず、些か心配で軍医の判断を仰いだのだった。
「………ナナミ嬢の、あのクッキーもケーキも、材料の小麦粉やら卵やら砂糖やらは、無害な筈だな…」
深々と吐かれた溜息は、諦めの色が濃い。
あの少女がわざわざ、冬の寒い薬庫の中をひっくり返して是非にと作ってくれたものを、カミューが拒める訳が無
いのだった。
「女性の心尽くしを無にするのは、主義に反するしな…」
自らに言い聞かせているその横顔には、悲壮なものが漂っている。
「骨は拾ってやるから安心して良いぞ」
「…面白がっていないか、お前」
「いや?」
────嘘である。
マイクロトフの本音を看破したものか、剣呑な表情で睨めつけてきた琥珀の瞳には、普段ほどの力が無い。余裕で
見返せば、カミューは音高く舌打ちした。忌々しげにマイクロトフを一瞥すると、大きく息を吸う。
そして恐ろしい勢いで薬の盈たされた器を呷った。殆ど一息で干したカミューの眼前に水差しを差し出すと、それを
ひったくって再び一気に呷る。
暫く肩で息を整えていたカミューは、ややあってから青息吐息といった風情で、ぼそりと口を開いた。
「………人間は味覚で死ねるぞ、きっと…」
「良薬口に苦しと云うではないか」
笑い混じりにそう云って、マイクロトフは立ち上がった。部屋の真中にしつらえられた卓の上には、部下や城内の女
性達からの見舞いの品々が並んでいる。その中から、数種の果物が入った籠を取り上げた。
「剥いてやる、何が良い?」
「……林檎」
「了解」
林檎三つを右手に、皿とフォークと果物ナイフを左手にして、寝台の傍に戻る。夜着替わりにしているシャツの、崩
れた襟元を神経質そうに弄っていたカミューが目線を上げた。気抜けたようにぼんやりとした瞳に、その時ちらりと
光が点ったのをマイクロトフは見た。
林檎にナイフの刃を当てたら、カミューから声がかかった。
「うさぎが良いな、うさぎ。な、マイクロトフ」
ナナミの薬と睨めっこしていた時の沈鬱さは何処へやら、何故だか琥珀の瞳がにこにこしている。病気の時の定番
だよな、一遍食べてみたかったなどと機嫌良さそうに笑う。
「味なぞ変わらんだろう。何なら、切るだけにして皮は残しておくか?」
「分からない奴だな。うさぎという形状が、特別で良いんじゃないか。いかにもひと手間かかってます、という感じ
で」
手間という程の手間でもない。が、分かっていながらわざわざ手をかけさせようとする相手の要望に、素直に従っ
てやるのも釈然とせず、マイクロトフは応えを返す。カミューの言に誘われた風に応酬が続けられていくのは、常の
事だった。
「…子供ではあるまいし、甘えた事を云うな」
カミューは目を眇めてみせた。久方振りに見る、人の悪さを滲ませた貌だった。
「馬鹿だな、甘えは病人の特権だろう。目一杯、労わってくれ」
やれやれと、マイクロトフは吐息を零した。
友人は、病人である事を楽しむ事に決めたものらしかった。
うさぎりんごを腹に収めてしまうと、カミューはころりと横になった。軽口を叩く元気は復活したと云っても、本調子に
は程遠く、疲れてしまったのだろう。
体温を確かめようとマイクロトフが額に手を伸ばすと、擽ったそうな顔をした。幸い、熱の上がった気配はない。
「…少し、眠る」
「それが良いな。俺はもう執務に戻るが」
額から退かせかけた手に、上からカミューの手が添えられた。少し戸惑ったマイクロトフを見上げて、小さく笑う。
「ナナミ嬢に、お前からお礼を云っておいてくれるか」
「分かった」
微笑したまま、カミューは瞳を閉じた。掴んだマイクロトフの手を額から滑らせて、頬の辺りに押し付ける。マイクロ
トフは、されるがままにしておいた。
「こういうのは、良いな」
「…何がだ?」
「心配して貰うのは、気分が良い…」
カミューの呟きも表情も、酷くいとけなくて、返答が少し遅れた。
「………馬鹿を云っていないで、早く治せ」
「そうする…」
「多分、近いうちに雪が降るぞ。空気が、そういう感じだ」
「…初雪か。この辺は遅いな…」
掴まれた手をそのままに、マイクロトフはすべらかな頬を指先だけで軽く叩いた。白く薄い膚の下から透き通る、血
の色が病的に鮮やかで頼り無い。
「今の状態じゃ、雪見はさせないからな?だから早く治せ、カミュー」
「…ああ」
そうすると、もう一度呟いて、カミューはマイクロトフの手を解放した。
「おやすみ」
[了] |
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