軽い寝息を感じて本を閉じた。 窓際に寄せるように位置していた椅子から腰をあげると、眠るマイクロトフの傍に近寄った。 ぼんやりと空に意識をのせているうちに、時間が経っていたのだろう。 覚醒前より硬質な印象の和らいでいるその寝顔を一瞥すると、椅子をそっと引きよせ寝台の横に落ちつける。 手にしていた題名も覚えていない本の表紙をふと眺め、吐息を吐きながらそれを卓上に置いた。ここ数週間というもの、毎晩のように彼の部屋にきてこの本を手にしている。毎晩開く個所を変えるその本の一字一句すら頭に入っていない。ただ決まったように本を開き、読む形をとるだけだ。 きっとそれは彼も承知のことだろう。 いつもなら意見を求め、戯れに議論を仕掛けてくる彼が何も言わない。 常でない自分の精神状態を察しているのか。ただ黙って何も言わず場所を準備してくれ、そして干渉せずにいてくれる。そして自分は決まったように用意された椅子に座り、部屋の主の感触を全身で感じているのだ。読みもしない本を眺める振りをしながら。 もとより狭い部屋だ。 本を読む振りをしながらでも狭い空間で動く彼の気配など、手に取るようにして分かる。 それを肌で感じ取る。 何が明確な理由ということもなく。ただ気分が落ち着かず、全てが重く感じられる時期が自分にはあるのだ。それはもう十年以上も前の昔からで、慣れ親しんだ感覚といってもいい。癇癪を起こしかけていた子供のときならともかく、今の自分にはそれを周囲に隠し通し平常に振舞うことも可能になっている。その分鬱積したその感情を抱えることになるがそれももうやり過ごすことができるようになった。 手に触れることはしない。直接その熱を手に触れることはなく、ただ彼の存在を感じているだけで気持ちのささくれが平坦になっていく。剥離しかけた感情の片鱗が、傷を治癒するように復元されてゆく。 そしてそれを感じながら自分の心はまどろむ。過敏になりすぎた神経を休めるように。 クッションの効いた枕に頭を預け、穏やかに眠るその顔をただぼんやりと眺める。 こんな風に無心に彼の寝顔を見つめるのは何年ぶりだろう。いつもは彼が眠りにつく前に頃合を見計り部屋を辞すのだが、今日はいつになく意識を飛ばし過ぎていたようだった。 灯りをつけたままでは寝にくかっただろうに、何も言わずにいてくれたからいつ眠りについたか分からなかった。 短く整えられた黒髪に張りのある肌。少し日焼けしたこんな肌を鞣革のような、と称するのだろうか。 眠るときでさえ寄せられた眉が彼らしいと思う。少年の頃はあどけない寝顔を晒していた彼は、いつからこんな大人の顔をして眠るようになったのだろう。 グラスランドからマチルダへ移住してくる途中、あるキャラバンに世話になったことがある。 子供の一人旅でマチルダまで行くというのは思い返すに壮絶な経験で、キャラバンでのその生活は安全を保障されたつかの間の気を許せた生活だった。 ただその中の男の一人が不快な行為を仕掛けてきたというだけで。 初めは抱き上げられる程度で済んでいたその接触は、日を経るにつれ肌を滑る熱を持つ手にとって変わられた。欲望を孕んだその手の意図を子供だった自分ははっきりと悟ることはできなかった。ただその手がたまらなく嫌で、閨に連れ込まれそうになった晩、隠し持っていたナイフでその男の腕を刺した。 それが人を傷つけた一番最初の記憶。 丁度この感情に捕われた初めの記憶だ。 それから騎士団に入団して、初めて敵を殺めた初陣の前。隊長に就任して指揮する部隊を切り捨てざるを得ず苦渋の決断を下した後。 気が付けばこの憂鬱な重圧感はいつでも心の底に溜まっていた。 では今は―――。 自分でも忘れていたその記憶を今になって思い出すのはなぜなのだろうか。 人を傷つけることと因果をもつこの感情。殺傷には慣れた筈の自分が、いまさら何故この感情に捕われねばならぬというのか。すでにこの手は見えない血に塗られて、咽ぶほどの血の芳香に慣れきっている程というのに。 気が付かぬ場所で自分は何かを傷つけているのだろうか。それともその予感に心が備えているのか。 穏やかな眠りをたゆたう彼の寝顔を眺める。 硬質な容貌の下に柔軟な心を隠し持つ彼の精神。時には迷いを見せながらも、彼はいつも最善の道を選び取る。強健な揺るぎのない存在。彼を傷つけられるものなどいない。 むろん彼も人間で。些細な摩擦で心を揺らすことはある。だが誰も、何も、稀石のように輝く真直ぐな彼の生き様を屈膝させることはできない。 だから信仰に比する強さで自分は信ずる。 彼を変質させる資質は存在しないと。 だが… だがもしも… 彼に対してそれだけの影響力が自分にはあるのならば。 それはどんなにか――――。 知らず昏い笑みを口元に浮かべている自分に気がつく。 「…どうかしているな」 思わず口をついたその呟きに、視線の先の彼が身動ぎをするのが見えた。 息を詰め短い黒糸が額に揺れるさまを凝視する。 ――――― 眼を覚ますな 薄い目蓋を微かに震わせ、覚醒の気配を漂わせるその姿に心の中で囁く。 今の自分はきっと酷く醜い表情をしている筈だから。 そんな顔を彼に見てほしくなどない。 緩やかに呼気を吐く、広い胸の上掛けをじっと見つめる。 一度起きるかのような素振をみせただけで、自分の気持ちを察したかのようにまた体勢を動かさず眠り入る男の横顔を、そっと心の中で撫どる。 その吐息を、感じる熱を絡めとりたいという明確な欲望ではなく。 苦しくないように互いの息を吐けるだけのこの関係をなんと呼べばよいのかは知らない。 ただ、相手を傷つけることで自分の立場を確認しなければいけない程危うげな距離感を保っている訳ではないことは確かで。 規則正しい彼の鼓動が続く限り、間違えずに彼の指し示す道を辿ることによって自分は正しく生きていける筈だった。 その果てに何があるかわからなくとも。 立ち止まることなく進む彼が自分の位置を見失うことがないように、ただ傍にいる。 そのために自分は生きているのだから。 20000816/Fin |