りんご
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「マイクロトフさん!」
「これはナナミ殿」
レストランへと急ぐ回廊の途中、掛けられた声に振り向けば、小走りで駆け寄る姿があった。
「おはよう!」と言いながら、吐く息も白いほどの冷たい空気に少女は少し身震いする。その様子を見て取ったマイクロトフは、同じように挨拶を返しながらさりげなく日向に場所を移した。
「昨日の晩、うちの部屋にニナちゃんを運んでくれたのマイクロトフさんってシュウさんに聞いたんだけど?」
ああ、そのことかと思い当たったマイクロトフは頷く。
昨夜、ハイ・ヨーから厨房を借りて料理を作っていた時に件の少女がふらりとやってきた。料理が終わる頃にはすっかり寝入ってしまった彼女をどうしたものかと困惑したが、幸い居合せたシュウから、ナナミの部屋の寝台が空いているから運ぶようにと指示され、結果的に目の前の少女の寝台を無断借用する形になってしまったのだった。
「はい。お留守の所、勝手に立ち入らせていただきました。申し訳ありません」
「とんでもない! ニナちゃん、まだ寝てるから、代りにお礼を言おうと思って」
「どうもありがとう」と頭を下げたナナミは、「それから」と声を弾ませた。
「クグロッカ! マイクロトフさんが作ってくれたんだってね! 美味しかったです!」
「ああ、ナナミ殿も召し上がったのですか」
「うん、作戦室で食べさせてもらったの。あのお菓子をまさかこっちで食べられるとは思わなかった!」
その言葉に、そういえば彼女はハイランド出身なのだと思い出す。今は敵国である彼の地の伝統菓子を作るきっかけになったのは、カミューの従騎士がクラウスからレシピを聞き、それをカミューが食べたがったからだ。ただ、今年は林檎の不作年。北からの輸入経路も途絶え、肝心な林檎の入手が難しいのではないかとみられたが、シュウが手を廻してくれたおかげで僅かながらも手にすることができた。
「林檎が手に入るよう、働きかけて下さったシュウ軍師のお陰ですよ。ニナ殿の件もシュウ軍師が手配してくださって、自分はただ運んだだけですから」
「そうなの?」と不思議そうに首を傾げる少女に、「ええ」と首肯する。「そうなんだ……」と少し眼を瞬かせたナナミはにっこり笑う。
「でもケーキ作ってくれたのはマイクロトフさんだよね」
「ええ、まぁ」
「じゃあやっぱり、どうもありがとうございます! だよ」
ぺこりと頭を下げて嬉しそうに笑う少女が本当にケーキを喜んだのが分かり、マイクロトフはやや躊躇った後に申し出た。
「あの、よろしければまだ召し上がりますか?」
「え?」
「少しですが残っておりますので」
昨夜少々無体を強いて機嫌を損ねたカミューの機嫌をとるために、部屋に取りに帰ったクグロッカの残りが今まさにこの手の中にある。
カミューのためにはまた新しく焼くこともできるし、と差し出した包みにナナミは首を振った。
「今年分はちゃんと食べたから大丈夫。それに、これカミューさんのためでしょう」
くすりと笑った彼女には、この包みが誰のための物なのかすっかりお見通しのようだ。
意外と敏い少女に、マイクロトフは笑顔で礼を言った。
* * *
「はい、シュウさん」
書類から眼を上げ、差し出した皿をじろりと睥睨したシュウは、数秒じっと眺めた後で無造作に菓子を口に入れた。
食べながらまた書類に視線を戻すのは本当にいつも忙しい彼の癖のようなものだから、ナナミは気にせず紙を捲る姿を眺めた。
三つめの菓子が無言のシュウの口の中に消える。
「ねぇ、忙しいの?」
「忙しい。交易品が増えたのは良いが、碌にルールも学ぼうとしない新規参入業者が増えていらぬ手間ばかりかかる。南は干魃で米の輸入量が減るというし、ティントは値を吊上げるためか鉱石の手数料を増やすと一方的に通告してくる。契約書がなんの為に存在するのか素人にでも――」
滔々と愚痴ともつかぬ説明をするシュウは、首を傾げるナナミの様子に眉間に皺を寄せ言葉を噤んだ。碌に理解していない相手に語る愚に気がついたのだろう。
彼の部下達なら腰が引けて退散するであろう仏頂面であったが、
「そっか大変なんだね」
とナナミは畏れることなく笑顔で頷いた。
「私に何かお手伝いできればいいんだけど……」
「手伝いはいらん」
「うん、商売の勉強したことないから多分お手伝いにはならないよね」
笑顔は変わらぬままで、少し肩を落とした様子に気づいたのか、シュウは紙を捲る手を止めた。
「……何度も言ったがお前の役目は俺の目の届く範囲で、いつも脳天気に笑ってることだ」
「うん」
頭では理解しているものの、感情はついていかず、どうしても俯いてしまう。
そんなナナミの腕をひくと、シュウは彼女を膝に乗せ、戸惑いに固くなった躰を抱きしめた。
「これはお前が作ったのか?」
「……うん」
「旨い」
「本当?!」
何食わぬ顔でこうしてお茶菓子として出してみたものの、食べてもらえないのではないかと思っていただけに本当に嬉しく声が弾む。
何しろナナミには前科があるのだ。
すったもんだあった末、ハイランドとの戦争が終結した半年後にナナミはシュウと結婚したのだが、結婚当初気合いを入れて作っていた料理を黙って食べ続けていたシュウが、ある日いきなり倒れた。原因は食中り。ナナミの料理のせいだった。
終戦後、一緒に旅をした時、義弟や幼なじみはいつも美味しいと言って食べてくれていたし、正直自分の料理はあまり上手なものではないのだろうと薄々気づいていたものの、料理をすること自体は好きだったナナミにとってそれはショックなことだった。
だが、そんなナナミの顔色を変えたのはシュウとの結婚になぜか猛反対で、小舅よろしく新婚家庭に居座っていた義弟が口を滑らせた一言だった。
『なんだ四日で音を上げたんだ。ナナミの料理をちゃんと残さず食べるなら認めるっていったんだけど、これで離婚決定だね』
良かった良かったと言わんばかりの弟の頬を、反射的にパシンと平手で叩いたナナミは、その足でシュウの元へ駆け込み、泣きながら宣言したのだった。
『これから私がシュウさんに出すの、水と果物だけにするから! ご飯は他の人に作ってもらうから!』
自分の料理を嫌がらせの道具に使った義弟にも腹が立ったが、なによりもショックだったのは限界までシュウに我慢をさせてしまったことだった。
興奮のあまりお腹の子を早産しかけ、周囲に迷惑をかけたのは苦い思い出だが、あれ以来、義弟は結婚に反対をしなくなったし、なぜか二人の結婚にいい顔をしなかった周囲もなし崩し的に認めてくれたので、あれはあれで必要なプロセスだったのだろうと今では思える。
とはいえ、料理に対するトラウマは残り、どんなに勧められてもずっと料理人に任せていた。
今回の菓子はあれ以来、初めて作ったもので、これだけは自分で作りたかったのだ。
林檎を使ったハイランドのお菓子、クグロッカ。
ナナミの故郷でも作られる郷土菓子の一つだが、同盟軍時代に青騎士団長マイクロトフが作ったそれが、シュウに対する認識を変える小さなきっかけだった。
それまでのナナミの中でのシュウのイメージは、義弟に同盟軍の盟主という重荷を押しつけ、いつも不機嫌な顔で怒ってばかりいる吝嗇な軍師。ティントで盟主という重荷を捨てようとして、それでも捨てきれずに戻った義弟の頬を張り、厳しい声で叱責した彼は、理不尽を押しつける嫌な大人でしかなかった。
そんなイメージが少し変わったのがマイクロトフの『林檎が手に入るよう、働きかけて下さったシュウ軍師のお陰ですよ』という一言で、それからシュウのことを少し気にかけるようになったのだった。
気つけて見れば、シュウは、確かに言葉は辛辣だし、いつも怒った顔しか見せず、とても取っつきの良い人間とは言えないものの、意外な一面もあることも分かった。野良猫に話しかけながら餌をやったり(とはいっても仏頂面ではあったが)、料理のオーダーを間違えられたり、誤って水をかけられたりしたという個人的な事由に関しては、怒ることなく溜息をつくだけで済ませていたり、いつも夜遅く最後まで残って仕事をしていたり。
怖がられたり嫌われたりしているのではないかという予想とは裏腹に、案外彼に気さくに話しかける人は多く、(なんだ、もしかしてシュウさんっていい人なのかも)と根が単純なナナミの意識はすぐに変わった。苦手意識を解消してシュウの仕事ぶりを眺め、改めて彼の存在について思いを巡らせると、シュウが憎まれ役を買って出てくれているおかげで、この同盟軍が上手く行っているのかもしれないと気づき、義弟が『シュウが欠けるとうちは立ちいかないよ』と言っていた意味が分かった。
だから、あの時、『同盟軍の為に、義弟のために、お前を死んだことにさせて欲しい』というシュウの言葉に、躊躇いなく頷けたのだろう。
シュウが言うのだから、彼が頭を下げるのだから、自分が死んだということにするのが皆にとって必要なのだ。
そう信じられた。
自分の死に大事な義弟が、どんなにショックを受けるか。共に戦ってきたこの同盟軍から誰にも何も言えず姿を消し、身を潜めて生きるのが、どれだか孤独なことか、ナナミ以上にあのシュウには分かっていたのだと思う。
終戦を告げに来たシュウに孤独から温もりを求め縋った時に、困った顔をしながら彼が受け入れてくれたのは彼の性格からして当然のことで、きっと拒まれないと信じていたからのとれた行動だった。
彼の罪悪感と同情につけこんだ結果の妊娠は互いにとって想外のものだったが、成り行きが成り行きだっただけに一人で育てるのが当然だとナナミは思っていたし、そうするつもりだったのだ。
だから責任を取ると言ってくれた時は嬉しかったけれど罪悪感の方が強かったし、そのことが元で周囲から非難を浴びた時は、大声でシュウは悪くないのだと主張してみたものの、皆の非難は高まるばかりで本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。
「あのね、シュウさん……無理しなくて良いんだよ」
料理ヘタなの分かってるし、と膝の上を居心地悪くもぞもぞと立ち上がろうと控えめに藻掻きながら告げると、「無理はしてない」と返る。
「四つめだ」
半分囓った菓子を、自分で確かめろと言わんばかりに口に入れるシュウは、元来あまり甘い物を好んで食べない人だ。
料理人につきっきりで作り方を指導してもらった菓子は、さきほどできあがりを味見して我ながら上手くいったと自信があるものだったし、料理人からも太鼓判を押されたものではあるが、シュウの口に合うかと言われると首を傾げてしまう。
冷たいように見えて本当は優しいシュウは過ぎるほど大事にしてくれて、今の生活はとても幸せで、幸せで、だからいつもなんだか少し罪悪感を感じてしまう。
それでももぐもぐと食べる菓子は、あの時青騎士団長が作ってくれたものほどではないがそれなりに美味しいもので、「ちゃんと美味しい」と言って口の端についた欠片を口付けで拭われると、浮かぶのは幸せの笑みしかなかった。
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