やかん
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雪が降っても年が明けても、今日も新同盟軍作戦室は忙しい。
「城郭外の市の件、やはり書類の回収率悪いですね。別に禁止するわけじゃないんだからさくさく出してもらえないものかしら」
「だから、その数字は概算だったわけで。見込みだから実際と即してない可能性は織り込み済みでしょう。じゃないと……」
「あ、そこの山、よろしければ済の横に置いて頂けませんか」
「……はいはいはいはい、できてますよ、やってますよ、ちょーっと待ってくださいねぇ」
狭い部屋にすし詰めになっているのは正軍師シュウを筆頭とする、文官達だ。改築を繰り返したこの城は、ノースウィンドゥ廃墟を修繕して使い始めた当初から比べれば格段に広くなってはいるものの住居空間が優先されるのが当然で、事務仕事のための部屋などそう何部屋も確保できるはずがなく。作戦室として使用されているのは、大円卓に書類棚、本棚、脇机に人数分の椅子を詰め込めば、人が行き違うのも苦しくなるような部屋だった。
個室を持っているシュウなどは、機密性を確保せねばならない懸案の際には自室に篭るのだが、その彼もさすがにここ暫くはこの狭い部屋に詰めている。秘匿すべき作戦がないのも事実だが、それよりも切実な理由は、個人の部屋で昼間から消費できるほどの燃料がないからである。正軍師でも、いや、軍の上層だからこそ、下の規範となるべし。個室での燃料浪費など論外。貧乏所帯ゆえのわりと実も蓋もない事情である。
そんなわけで今日の作戦室も、多種な作業音に色んな会話が交錯する賑やかしい空間となっていた。
ぺったんぺったんと小一時間皇国方面への通商書類に偽印を捺し続けていたフィッチャーの後ろで、軽やかなノックが響いた。昼下がりのこの時間、独特なノック音は元マチルダ赤騎士団長のはずである。予想通り対応に出たフリード・Yに書類を手渡しながら補足を述べるのは、涼やかな声だ。聞くともなしに耳に入るその会話が終わり、部屋を辞そうとするカミューに、その更に背後から声がかかる。図書館へ行っていたジェスが帰ってきたらしい。
「おや、これはこれはカミュー殿。実に善い所においでくださいました」
「歓迎して頂けるのは光栄ですが、残念ながらこのあとの予定がありまして、長居は……」
普段のツンケンした態度は人見知りの裏返しのジェスにしては、格別に愛想が良く親しみのこもった声なのは、ミューズ市時代に何度も顔を合わせていたからなのだろう。文官内でも一線引いて冷然としている彼の珍しく崩した態度に、フリード・Yやアップルなどが内心驚いている様が窺え、フィッチャーはおかしくなった。
そう言わず中へどうぞだの、いえいえ私はここでだの、じゃれ合うような会話を断ったのは、シュウの一声だ。
「……部屋が冷える」
言外に、さっさと中へ入れという示唆に、赤騎士団長は諦めて部屋に足を踏み入れる。
横目でちらりと見ると、シュウが顔も上げず無言で放った紙片を取り上げた彼は、眉をぴくりと上げていた。
「……森の村との契約書ですか?」
「食堂から芋が足りないと催促がきてる」
「で、これを私にどうしろ、と?」
「芋などなくても俺は困らん。困るのは貴様等だろうが」
都市同盟で芋の主要産地は、北のマチルダ領だ。それに応じるように、芋を使う料理はマチルダやその近郊で食されるものが多い。そしてそのマチルダとの通商が途絶えた今、じりじりと品薄感が漂ってきているのは事実だった。都市同盟でも南に当るこの辺りでは、小麦や米を使う料理が主流であるため、大勢から切実な声は上がっているわけではない。しかし食堂のメニューで休止されているものの殆どが北部のメニューの為、嘆く者の中には彼が懇意にしている青騎士団長などが含まれているに違いなかった。
「芋が食いたければ、食いたい者がやれ」
端的な言葉に、フィッチャーは思わずぐるりと室内を見回すが、ここにいる文官の殆どは南出身。少々苦しくはあるものの赤騎士団長を動員する筋は通せる。皆同じように踏んでいたのか、ちらりと視線が合ったクラウスと微笑を交わす。
やれやれとばかりに肩を竦めたカミューが空いている椅子に座り、入れ替わるようにしてシュウが休憩と部屋を出て行くと、その姿が消えると同時に一同の注目が客人へ集まった。
「いつも申し訳ありません、カミュー殿」
「いえ、私の方こそ皆様のお邪魔にならないとよいのですが」
「邪魔だなんてとんでもない! 本当にありがたいです!」
ぶんぶんと首を振るアップルの言葉は、ここにいる一同の総意だ。
ここは慢性的に修羅場の忙しさだ。話している今でも、各人の手は止まらず仕事をこなしている。猫の手でも犬の手でも、とはいうものの、戦力にならないコボルトの手ならば丁重にお断りしたいところだが、有能な赤騎士団長の手とあれば二本でも三本でも借りたいところなのである。
「そう言って下さり、嬉しいですよ」
にこりと笑うカミューも、視線ばかりは厳しく草稿の条項を追っている。とはいえ先ほどまで部屋に広がっていた気忙しい空気が一転、和やかな空気になっているのはシュウが抜けたからだけではなく、客人の雰囲気に由るのだった。
こうして他愛のない時事を話題にしていても、彼の言葉の中には本当にさりげなく自分達文官に対する評価や敬意が込められている。同性であるにもかかわらずいつ見ても思わず見惚れてしまうくらい甘く端正な容貌に加えその言動では、周囲が骨抜きになるというものだ。こういう人を天性の外交官というのだろう。本職の外交官としての自分の立ち位置とは間逆にいる相手だけに、フィッチャーはつくづくと感心する。
事務処理能力にも長けたカミューの仕事が終わりそうなのを見計らい、話の切れ目で「そろそろお茶で休憩しようよ」と声をかけたのは、ここ暫く応援で作戦室に詰めているテンプルトンだった。
「もうこんな時間ですしね。……アップルさん、お願いできますか?」
同意しながら立ち上がり、薬缶を手にとるとわざわざアップルへと差し出したクラウスに、フィッチャーは唖然となり思わず顔を上げた。
一般的に女性の仕事となっているお茶いれは、この部屋では基本的に言い出した者が動くのが言外のルールとなっている。それなのになぜここでアップルに給仕を振るのだろうか。しかも彼女自身が昨今己の性別で引け目を感じており、さらにそのコンプレックスを刺激する存在となっているクラウスがそれを言い出すとは。彼自身、己が彼女の屈託の一因となっていることを承知のはずなのに、一歩間違えば修羅場になる暴挙に出たその真意を図りかねる。
ドキドキして成り行きを見守る周囲とは逆に、アップルの方は呆気に取られたのだろう。
「私が? それにこれは何ですか?」
「鳳凰玉緑という慶事に飲むお茶だそうです。だってほら、今日は旧正月ですから」
だから? と言いたげなアップルの視線に、
「シュウ軍師は旧正月を祝われる方だとお聞きしました。アップルさんがいれて差し上げると喜ばれるのではないかと思いまして」
とのほほんと微笑みながら、クラウスは薬缶とお茶の袋を手渡す。
「旧正月……」
「ああ、そういえば商人は旧正月を重んじるという話は聞きますねぇ」
一般的に用いられる暦は太陽暦だが、地域によっては太陰暦を使用するという。どういったくだりでかは分からないが、太陰暦の方が縁起が良いと言い商人は太陰暦の元旦、旧正月を祝うらしい。元は商人のシュウもその口なのだろう。
「でも、だったら……クラウスさんがいれたらいいんじゃないですか?」
クラウスさんが買ってきたんだし、と呟くアップルは、お茶淹れを頼まれたことよりも、クラウスがシュウの事情に自分よりも通じていることの方が問題点らしい。平常を装おうとしながらも隠し切れていない拗ねた声が、シュウに対する擬似兄妹コンプレックスの顕れだった。
「買ってきたというよりは、アレックスさんに買わされたというのが正しいところでして……。それにカミューさんのように見目の良い方から勧められれば同性でもありがたいですが、私ではとても。ここはアップルさんの方が適任だと思いますよ」
「お褒めに与って光栄ですが、残念ながら私がいれたのでは、逆に嫌がられそうですしね」
確かに……
思わず一同納得してしまったのが伝わったのだろう。カミューは楽しそうに笑う。それにつられて一同にも笑みがこぼれた。
お互い切れ者同士、そして文官武官と畑が違う役所を代表して折衝に当ることの多い二人である。常に笑顔のカミューはともかく、シュウの応対はけして和やかなものとは言いがたい。ついでに言えば彼の標準装備は笑顔であるものの、この青年の本質は春のように穏和なものではない。素直にありがたく好意を受け取るより、何か裏があるのではと勘ぐるのがオチだろう。
「買ってきたのは私、いれるのはアップルさん。役割分担でちょうど良いのでは? あ、あとで御茶代半分お願いしますね」
卒なく纏めに入ったクラウスに、笑ったことで気分が変わったのだろう。アップルは薬缶を手に素直に席を立つ。クラウスも共に茶器の準備を始め、そんな二人の後姿に、カミューがしみじみと呟いた。
「羨ましいですね、シュウ殿は良い部下をお持ちだ。うちは正月だからと言ってわざわざお茶をいれてくれるような可愛げのある部下はいませんでしたよ」
「ははは、あの言動の割には部下に恵まれてるんですよね、あの人。でもカミューさんだって良い部下をおもちじゃないですか?」
「騎士の皆さん、カミュー殿やマイクロトフ殿を尊敬しておられます」
言い添えるフリード・Yに、カミューは笑顔で礼を述べた。
「お茶に関してはカミュー殿は玄人裸足ですし、片やマイクロトフ殿は料理に関してはなかなかの腕前と聞いてますよ。それでは部下も余計な手出しはできないでしょう」
そう笑うジェスに、
「なるほど、自分ではお茶一つ淹れず、泰然としていればいいのかもしれませんね」
とカミューはおどけてみせる。
「そうそう、こーんな難しい顔をして、ふんぞり返ってさ」
「たまには厭味の一つでも言ってみればいいかもしれませんよ、こんな風に」
シュウの真似を披露すると、振り返ったアップルから「どこの年寄りなんですか、それ!」と抗議を受ける。テンプルトンなどはクッキーを食べ零しながら大笑いするくらいだったのだが、改善の余地はあるのかもしれない。そう省みるフィッチャーの後ろで、扉の開く音がして、件の御仁の声がした。
「……これはまた随分と賑やかだな」
さほど険の無い声に、どうやら似てない物真似を聞かれてはいなかったらしい、とほっとする。
「ちょうどお茶の時間で…… 」
「今アップルさんがお茶をいれて下さってるんですよ」
と告げるクラウスに、良いタイミングで入ったお茶をアップルが差し出す。一口飲んで少し表情を変えたことから、シュウは何のお茶か分かったらしい。
まわってきた茶を飲むと、確かに普段の番茶とは格の違う円やかで馥郁とした味わいだ。
「旧正月だから兄さんにって、クラウスさんが探してきてくれたんですけど」
自分に花を持たせてくれたクラウスにわざわざそう言って礼を返すのが、生真面目なアップルならではだ。なんだかんだとお互いに思うところはあるのだろうが、育ちの良いクラウスとある意味素直でアップルだから大きな衝突もなくここまで来ているのだろうことが分かる応酬だった。
茶碗を返すと、さらりと頭を撫で、クラウスに軽く黙礼するシュウは、だが表情をそれ以上変えず、こっそり様子を窺っていたフィッチャーをがっかりとさせる。とはいえ、部外者、特にあの赤騎士団長の前でにこやかに部下を褒める正軍師も想像できないのではあるが。
「さてと、では私はそろそろこれで」
そんなやりとりをいつもの笑みで見守っていたカミューは席を立った。口々に礼を言う面々に軽く言葉を返し、手にした書類をシュウに渡す。
「作るだけ作っておきました。苦情は受け付けませんので、あとはよしなに。私でしたら十日以内に十分量を確保できますが、やはりここは本職にお任せすべきかと思い日時の交渉は空欄にしておきました」
にっこり笑って暗に圧力をかけるカミューに、嫌な顔をして追い払うようにシュウは手を振る。「兄さんっ!」と抗議の声を上げたアップルを宥めるように、
「お茶をご馳走様でした」
とにっこり笑う彼は、そんな応対は茶飯時なのだろう。気にした様子もなく去っていった。
ただ居るだけで華やかな存在感のあった彼が抜けると、室内はまた雑然とした慌ただしい空気に戻る。
「チェックを頼む」
シュウからそっくりそのまま引き渡された書類は、筆耕家は不要なのではと思わせる実に赤騎士団長らしい流れるような綺麗な字で、内容も一分の隙もない。ぜひとも作戦室の応援に欲しい人員だが、首を縦に振ってくれないのが残念だった。たまにやって来た時にあの手この手で引き留めて、どうにか口実をつけて手伝ってもらうのが精一杯だ。
とはいえこちらを嫌ってのことではないことは、たまに混じる時の和やかな雰囲気や、そろそろ限界かと思う頃になると普段は従騎士を使う所をわざわざ自分の足で書類を届けに出向く辺りに伺える。
文一辺倒の自分には分からない所だが、もしかすると命令系統に厳しい武官ならではの職域意識が関係しているのかもしれなかった。
となるとシュウ辺りから頼めば手を貸してくれるのかもしれないが。
まず無理だろうな、とシュウの横顔を見ながら、フィッチャーはそっと肩を竦めた。
じゃがいもの契約書に重ねて渡したのだろう他の書類も、あの短時間で綺麗に整えられている。そんな所にも有能な二人ならではの意思疎通の完璧さを認めるのだが、きっとそれは言葉抜きで相対していないからという限定付きだから成り立っているのだろう。なにしろあの矜恃の高い正軍師が、あの一癖も二癖もありそうな赤騎士団長に頭を下げて助けを請うなど考えられない。
「フィッチャー、それが済んだらさっきの集計表を見せてくれ」
軽くでも頭を下げてくれれば部下が助かるんだけどなぁ。などと考えていた所に、鋭い声がかかり、
「はーい、はいはい、ちょーっと待ってくださいね」
反射的に返事を上げた。
とにかく書類は山積み、そして片さなければならない案件も押し寄せている。
ではまぁきりきり働きますか、とフィッチャーはぐいっとお茶を飲み干す。
上等な緑茶は冷めても充分に美味しかった。
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