毛布
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 ただいま、と声を掛けても返事が返らないことを訝しんだマイクロトフは、すぐにその理由に気がついた。
 部屋で帰りを待っている筈のカミューは、長椅子で読みかけの書類を膝に乗せ、眠り込んでいた。
 少し傾いだ体勢は苦しいだろうに、随分と深く眠っているのか不快な表情は浮かんでいない。
 むしろ柔らかく口角を緩め、穏やかな顔をしている。
 よほど疲れていたのだろうか。
 まだ夜も早い時間だというのに、彼がこうして転寝をすることは珍しいことだった。
「カミュー、ここで寝てたら風邪をひくぞ」
 傍に跪き、小さくそう囁いてみる。
 肩に手を掛けてみても気がつく様子もない。
 暫くそのままその寝顔を見ていたマイクロトフは、やがて立ち上がり寝台から毛布をとって、カミューの身体に掛ける。
 そして静かに椅子を彼の前に置いた。
 背を抱え込むように逆向きに座ると、顎を載せてカミューの顔を眺める。
 こうして眼を閉じた彼の顔を見ると、改めてその整っているさまに気づかされる。
 普段の生き生きとした感情や雰囲気に眩まされているが、彼の顔は驚嘆するほど美しいものだった。
 飽きることなく見惚れていると、不意に表情が動いた。
 
  ――――― ・・・かぜだ
 
 微かにそう呟いた彼は、仄かな笑みを口許に浮かべている。
 きっと夢を見ているのだろう。
 坂の多い石畳の街を見下ろし吹く風か。
 それとも故郷の広大な草原に立って、大地の息吹を感じているのか。
「良い夢を見ているのか」
 小さく訊ねる。
 何も返らない言葉の代わりに、マイクロトフは触れたくてならなかった白い肌にそっと指を伸ばした。
 
 眠れるうちに眠るといい。
 きっと暫く穏やかな眠りは自分達にはない。
 
 昼に告げられた軍師の言葉を思い出し、頬をそっと撫でる。
 手の届かない場所にあるあの懐かしい街には今、どんな風が吹いているのだろうか。
 また二人、あの街の風を並んで感じる日が来ることを信じ、マイクロトフは何度も白くすべらかな頬を撫でた。
 
 
 どれだけその寝顔を見つめていたのだろうか。
 不意に震えた睫に我に返ると、カミューが眼を覚ました。
 焦点の定まらない瞳でマイクロトフを見つめた彼は、やがてふんわりと小さな花が開いたような柔らかい笑みを浮かべた。
「そこにいたんだ」
 呟くその瞳はまだ眠たげで、夢の世界を漂っているようだ。
「夢を見ていたのか、カミュー?」
「さぁ・・・どうだろう・・・」
 それきり口を噤んだ彼は、そっと手を伸ばしマイクロトフの腕を引く。
 乞われるがままに立ち上がり隣に座れば、その膝の上に頭を横たえたカミューはゆっくりとまた眼を閉じ、息を吐いた。
 ずれ落ちそうになった毛布を掛けなおすと微笑む。
「風って言ってたぞ」
「うん?」
「夢の中の寝言だ」
 見下ろせばマイクロトフの愛してやまない恋人の顔があった。
 同じ性とは思えないほどきめ細かく、透き通るような白い肌だ。
 一際薄い目蓋は白さを通り過ぎ青みがかっていて、部屋の灯りが眩しいのではないかとマイクロトフは手のひらでその目許を蔽った。
「そうなんだ。・・・覚えてないよ」
 不自然なまでの沈黙の後、小さく呟いた彼の言葉が本当なのかは分からない。
 瞳を隠し緩い笑みを浮かべただけの彼の口許からは、それは判別がつかなかった。
 幸せそうに笑っていた彼が見ていたのは、ロックアックスの夢なのだろうか。
 今日の軍議でシュウから伝えられた次なる戦の場所こそが、ロックアックス。
 彼らが後にした懐かしい街だった。
 あの美しい石の街に攻め入り戦を仕掛けるのが、敵国ハイランドではなくあの街を愛し守ってきた自分達だというのは随分と皮肉な話だ。
 生まれ育った街だ。
 どの街角にも思い出があり、街並み、暮らす人々、その全てが愛しい。
 ハイランドから奪回する為には必要な戦だとは理解していても、あの街の風景をこうして思い出すだけで言葉を失う。
 そんな自分の心情を分かっているから、彼は何も口にしないのかもしれない。
 そう考えて、マイクロトフは口を引き締めた。
「あぁ、でも良い夢だったんだと思うよ」
 部屋に落ちたそんな沈黙を、不意に破ったのはカミューのあどけない声だった。
「なぜだ?」
「だって、この手の温もりがあったから」
 それだけは覚えてるんだ、と微笑んだカミューは、そっと眼を蔽っていた手を取って頬にあてる。
「夢の中で、『ああ、マイクロトフだ』って思ったことは覚えてるんだ。多分こうやって頬を撫でてくれたんだと思う」
「それだけか?」
「え?」
 不思議そうに眼を見開くカミューから手を取り戻すと、軽くひらいている赤い口唇に指をゆっくりと滑らせる。
 じんわりと熱をもっている薄い粘膜を撫でると、赤くなった彼は慌てて口を閉じた。
「頬だけなのか?」
「・・・知らない」
 眼を逸らし怒ったような口調は、きっと照れているからに違いない。
「じゃあゆっくり思い出せばいい」
 そう言ってゆっくりと顔を近づけていけば、小さく唇を尖らせながらも大人しく彼は眼を閉じる。
 押しつぶさないようにゆったりと抱きしめる恋人の温もりは甘い。
 せめて今晩だけはその包み込まれるような優しさに溺れていたい、とマイクロトフは抱きしめる腕に力を込めた。
 


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