眼鏡越しの空
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溢れ出そうになる涙を堪えながら、アップルは庭を歩いていた。
昨日降った融けかけの雪が、足元でしゃりしゃり鳴り、遠くから雪遊びに興じている子供達の歓声が流れてくる。
だがそんな長閑な冬の音は、彼女の耳に届いていなかった。
ふと気配に気づき顔を上げると少年達が前方から歩いてきていて、慌てて顔を伏せ足早に歩く。下を向くと眼鏡がずれそうになり、蔓を抑えた。
会話に夢中になっている彼らはそんなアップルに気づいた風もなく、楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。その様子に余計に惨めさが募り、手に持つ本の固表紙に爪を立てて今にも零れ落ちそうな涙を必死で飲み込んだ。
『お前に説明しないのは、お前が女だからではない』
さっき投げかけられたシュウの言葉が、何度も頭の中を駆け巡る。
マチルダ降伏の報からこの方ずっと沈考していたミューズとマチルダの攻略法についてクラウスと相談していたシュウは、戦略室に入ってきたアップルの姿に言葉を止めたのだった。
自分も加わらせて欲しいと頼み込んだ彼女に対する返答は、否。
それでも、と必死に何度も食い下がった最後に告げられたのは、溜息混じりのその言葉だった。直後に見せた彼の表情は、自身の失言を悔いる苦いもので、それがかえって彼の真意だと伝えていた。
いつもならシュウの厳しい言葉をそれとなく取り成すクラウスも、傍らに立って困ったような表情で黙ったままだった。哀れまれているようなそんな態度に、悔しさを通り過ぎて、いっそ憎しみすら感じる。
確かに自分は何年も前から軍師として功を挙げている彼とは違い、まだ実戦の経験も乏しい半人前だ。それに彼女に差配を任されていた先のミューズ市攻防戦では、手痛い敗北を喫した。
それでも軍師として、必死に仕事に取り組んできたつもりだったし、先日の汚名を返上する機会としていつにもまして頑張るつもりだったのだ。
だがその機会すら与えられず、疲れたように切って捨てるようなシュウの態度が悲しかった。
何一つ言い返せずに黙って部屋を出た時も、結局掛けられた言葉は何もなく。
行くあてのない彼女が一人になれる場所として思いついたのが、いつもの図書館の奥の静かな空間だった。
「それにしたって、お前甘すぎじゃないのか?」
図書館への曲がり角の手前で、そんな言葉が不意に耳に飛び込んできた。
呆れたようにそう言ったのはフリックの声だった。
「そうでしょうか。でも一ヶ月に一回もしていませんよ」
相手の声は、青騎士団長のマイクロトフだ。
図書館の前の階段で立ち話をしている彼らの様子に、樹の影に隠れる。
彼らの横を通って、こんな顔を見られたくはなかった。
「十分だろ。それじゃなくてもここんとこ急に忙しくなったのに、睡眠時間まで削って大丈夫なのかよ」
「ご心配ありがとうございます。しかしこういう時だからこそ、息抜きや娯楽も必要だと思います」
彼らが話しているのはきっと、マイクロトフが城の歳若い少女達を相手に開いているという真夜中のお菓子の講習会のことだ。
騎士団長という肩書きにそぐわず、彼は料理が得意らしい。その腕を口実に、少女達はマイクロトフとの交流を図っているのだった。
彼はこの城の少女達の中で、評判が良い。
とはいえそれは恋愛対象としてというには些か疑問の残る所だった。
彼に同じく騎士団長にして親友であるカミューという恋人がいることはこの城でも有名な事実だったし、少女達もそのことを踏まえた上で好意を持っている。
むしろ彼に同性の恋人がいることで、その人気が高まっていると言っても過言ではないだろう。
ともに眉目秀麗で対照的な二人が並び立つ姿は、美しいものを好む彼女達の眼を楽しませ、同時に異性に興味はあるものの、恋に恋する程度の少女達にとって気楽に話しかけられる恰好の相手となっているからだ。少女達と同じ土俵に立たない恋人がいるマイクロトフといくら話したところで噂にはならない。
それに無骨で堅苦しいところはあれど、どんなに歳の離れた女性にも常に礼儀正しく膝折るような騎士らしい態度は彼女達にとって新鮮に違いなかった。
アップル自身はその講習会に参加したことはない。
軍師としての職務は多忙を極めていたし、軍の中枢を知るある意味特殊な立場は、自然同世代との壁を作るものとなっている。
顔をあわす時には親しく話しはするが、同じ年頃の彼女達との交流はあまりない。
だが、講習会自体には参加してはいないものの、彼女もマイクロトフには好意を抱いていた。
「それに俺自身も楽しんでますから」
「それならいいけどさ」
意外に本好きらしい彼を図書館で何度か目撃したことはあるが、個人的に話をすることはない。
軍議で会う程度なので、今までに交わした言葉は挨拶程度だった。
アップルが彼に抱いている好意は、ふとした折に耳にしたマチルダ軍離反時における彼の行動と少女達が話していた幾つかの噂話。そして軍議での彼の様子、ただそれだけからのものだ。
その話の端々から窺える彼の真っ直ぐな気性、飾り気のない、見方によっては愚直とすらいえる彼の態度は彼女に好感を抱かせるに十分だった。
比較対象として引き合いに出すのも呆れられそうだから誰にも言ったことはないが、自分自身の人間性はどちらかといえばカミューに近しいものを感じる。
カミューの持つ、常に冷静であれと己を律し、理で押していく性向は、自分の中にも強くあるもので、だからこそ、その逆に立つマイクロトフに惹かれるのではないか、というのがアップルの分析だった。
「しっかし、カミューをほったらかしにしてあいつらと遊んでたら、機嫌悪くならないか?」
「いえ、カミューもどちらかというと楽しみにしているようですよ」
「ホントか?」
「えぇ、あいつは甘いものが好きなので、次の日が楽しみだといって必ず土産を催促されます」
樹の陰からそっと覗けば、広い肩越しに彼の横顔が見える。
幾分野性味のあるものの育ちのよさと品格が面に出ている顔立ちと、意志の強さを示す凛々しい眉。
ぴんと伸ばされた綺麗な背筋。
潔さと真っ直ぐな性格そのままが顕れたようなマイクロトフの短い髪ときりりとした後姿がとても好きで、つい眼で追ってしまう。
なぜかここ一週間だけ掛けている眼鏡は、きっとカミューのセンスなのだろう。
リムレスのすっきりしたデザインは、幾分うかがえたあくの強さを緩和し、彼の顔立ちを知的にすっきりと見せていた。
自分のただ野暮ったいだけの眼鏡とは大違いだ。
「ただ、…そうですね。あんまり放っておくと拗ねることが分かりました」
笑いを含んだ声は、恋人を思ってか。
随分と甘く、耳に響く。
あのマイクロトフのものとは思えないような柔らかい感触を、フリックも感じ取ったのだろう。
「うへー、あのカミューが? 頼むからこれ以上ゴタゴタ引き起こしてくれるなよ。これでも一応戦の前なんだからな」
呆れたような苦笑う声に、
「えぇ、カミューを悲しませることは本意ではありませんので、善処します」
と返すマイクロトフは、真摯な声だった。
「もっともあれもいつまで続けられるか分かりませんから。でも彼女達が望んでくれる限りは、俺のできる範囲で協力したいと思っています」
「・・・そうか・・・そうだな。しっかしあいつらの相手をマジで楽しんでんのか? 俺だったら御免被りたいぞ」
「確かに皆元気が良いですが、妹と過ごしているようで楽しいですよ」
「ん? お前んとこ妹いるのか?」
「えぇ、一緒に暮らしたことはないんですが、歳の離れたちょうど同じくらいの歳の妹が四人ほどいるそうです」
「へぇ。それにしてもお前も変わったよな。最初来た時はもっとこう・・・」
伝文体でさらりと告げられた言葉に話題を変えた、からりと明るいフリックの声を背に、アップルはその場を離れた。
建物の影になって殆ど融けていない雪が、歩くたびにキシュリキシュリと鳴る。
その音はまるで自分の胸の軋みの音のようだ、とアップルはぼんやり思う。
木立の合間を通って広い小さな池の辺に出ると、静かな水面といつもはくすんだ土色が白いベールを被り、キラキラ冬の陽射しに輝いていた。
眩しくて視線を逸らすと、この季節には珍しい深い青空が広がっている。
まるで彼の服の色のようだ。
「よう、フリック見なかっ、・・・ってどうした? 何かあったのか?」
道場からきたのだろう。
のんびりと声を掛けたビクトールは、アップルの顔を見て眉を顰めた。
思わず俯くと、足元の雪にぽつりぽつりと穴があくのが歪んだ視界に映る。
――――― あぁ、自分は泣いているのだ。
頭の奥の醒めた所で他人事のようにそう思う。
泣いているのは、気がついてしまったからだ。
自分は彼のようになりたかったのだ。
凛と伸びた背筋と広い肩。
彼のもつそのままの姿が顕している、強くて揺ぎない精神と、他者の為に腕を広げる大らかさ。
そして真摯な情。
カミューが彼に惹かれたわけが分かった。
迷ったり悩んだりした時に、マイクロトフのように直向に生き、自分を見守っている存在が傍にいてくれればどんなに安らげるだろう。
何の答えをくれなくてもいい。
ただ傍にいるだけで、歩き出せる。
自分もそんな存在になりたかったのだ。
ここの所ずっとシュウがこの先の戦いについて思い悩んでいるのを知っていた。
彼ほどの財を築き、土地への柵もない立場なら、こんな戦いに加わることもなかったのだ。それでも自分のせいで戦の渦中に身を置き、きっとこの城の誰よりも皆の将来の為に力を注いでいる彼の助けに、自分はなりたかった。
けれども今の自分は本当に小さくて、ただのちっぽけな子供だ。
――――― 何もできない。
――――― シュウに必要とされていない
その事実が悔しくて、こんなにも哀しいのだ。
「・・・なんでもないの」
漏れそうになる嗚咽を堪え、小さく呟くと、
「しゃーねぇなぁ。ほれ、好きなだけ泣いちまえ」
子供にするように背中を優しく叩かれ、涙を許される。
その温もりに今度こそこみ上げてきた嗚咽を飲み込み。
強くなりたい、ただひたすらにアップルはそう願った。
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