水の音が聞こえる
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 どこかで水が流れる音がする。
 川のような大きなものではない。堅い面を流れるような、ささやかな、でも澄んで高い響きだ。
 寝台から身を起こしたアンネリーは、座ったままで目の前のカーテンの端をそっとめくった。白く曇った硝子越しに、薄暗い夜明けの闇と仄かに浮かぶ木々の緑が滲んで見える。
 雨が降っているのだ。
 きっと耳にした音は、雨樋を伝わる水の音。
 雨音が聞こえないのは、霧雨のせいなのだろう。
 顔を窓硝子にくっつけるようにして見ていると、寝台が軋む音がした。背中から毛布を掛けられ、そのままそっと抱きしめられる。抱きしめるというよりも、抱きつかれるように感じるのは、腕の主が誰か知っているからだ。
「雨、降ってる…」
 不機嫌な声。
 ピコは雨が嫌いだ。特に夜降る雨と、夜明けの雨が苦手なようで、雨が降るとくっついてきたがるのは昔からだった。
「一緒に寝る?」
 起きるにはまだ早い。そう囁くと、暫しの沈黙の後、
「いい。アルから怒られる」
 と返ってきた。アンネリーが子供の頃には良く一緒に寝ていたものだが、さすがにアルバートに注意されてからは一緒に寝なくなった。その代わり女性達に安寧を求めるようになったのだが、さすがにこの城では問題を起こしてはまずいと思っているのだろう。
 それになにより三人一緒の部屋に女性は連れこめない。
 叱られた子供のように悄然とした響きの囁きに、小さく笑うと、『眠かったら寝ていいよ』と後ろから抱きしめられる。
 頷いたアンネリーは、大人しくその胸に背を預けた。
 
 
 アンネリーの両親はいない。
 元々ハルモニアの生まれだが、両親は反体制の疑いを掛けられ処刑されたのだという。アンネリー一人が難を逃れ、両親の書いた手紙一つを手にミューズの遠い親戚を頼り身を寄せたのがまだ十にもならない時。だが暗闇や物音にいちいち怯える暗い表情の子供は、厄介な存在だったのだろう。アンネリーが泣く度に、持て余して納屋に閉じ込めていたという親戚は、その時偶然出会ったアルバートとピコが彼女を引き取りたいと申し出た時も、あっさりそれに応じたという。
 そんな親戚の顔も、ハルモニアでの暮らしも、アンネリーは覚えていない。彼女の記憶に在るのは、朧げな両親の顔、そして三人で旅を始めてからのことだけだ。
 普通は幼少の頃、記憶力の良い者では乳幼児の頃まで記憶しているというから、彼女のそれは、一種の心的外傷によるものだろう。とは、心配したアルバートが相談した時に、とある街の医者が言った言葉だ。
 けれどもそれは彼女にとって、どうでもいいことだった。
 いつも穏やかで父親のようなアルバートと、陽気で楽しい兄のようなピコ。彼ら二人とともに色んな街を巡り旅する生活は、めまぐるしくも楽しく、過去を振り返る必要も隙も感じさせないものだ。
 時には野宿を余儀なくされ、時には戦火に追われたり、と楽しいばかりの旅ではなかったが、三人でいれば苦労は三分の一。辛い記憶など無い。
 もちろん小さい頃は、同じ年頃の子供達が親に甘えている姿に、寂しくて泣き出したこともある。だがそんな彼女を抱き上げ、二人はいつも泣き止むまで傍に居てくれた。
 『急に雨が降り出して、雨宿りしようと小屋に入ったら小さなアンネリーが眠ってたんだ。二人とも、一目でアンネリーが私達の仲間だって分かったんだよ。可愛いアンエリーが私達のところに来てくれて本当に嬉しかったんだ』
 頭を撫でながら繰り返し語られる言葉に、いつしか両親を恋しがって泣くこともなくなった。
 しとしとと降りしきる雨音は、記憶の底の不安を揺するが、アルバートやピコに逢わせてくれた雨が、だからアンネリーは嫌いではない。
 
 
 朝になっても雨は降り続いていた。
「あーあ、外はすっかり灰色だ。こう雨が降ると気分まで湿ってきそうだよ」
 パンを切りながらピコはぼやき続けている。
「ピコ、今日の予定は?」
「アルが帰ってきたらルルクの歌詞を見てもらおうと思ったんだけど、いつ帰るか分からないしなぁ」
 サウスウィンドの店に、楽器の部品が届くことになっているといって、アルバートは一昨日から出かけている。昨日には戻ると思われたが、結局帰ってこずじまいだった。
「ステージが開いてたら午後から歌わないかって声掛けられたんだけど、伴奏してくれない? …弦の調子が良かったらでいいけど」
 そっとそう付け加えたのは、彼の眼が赤いからだ。きっと遅くまで寝付けないでアルバートを待っていたのだろう。
「ああ、いいよ。歌う曲を後で教えて」
 そう言ってピコがパンをストーブの上に載せようとした時、ノックなしでドアが開いた。
「おはよう、ただいま、二人とも」
 入ってきたのはアルバートだった。ちょっとそこまで散歩に行っていたというような、普段通りの顔に、二人で口々に挨拶を返す。
「なんだ、こんなに早い時間に帰れるんなら、昨日の晩に帰ってくれば良かったのに」
「向こうでシュエ殿達と一緒になってね。どうせなら一緒に泊まれば良いと宿をとってくださったんだよ。・・・やぁ、これは美味しそうだ」
 濡れた外套を入り口に掛けながら、テーブルを見廻したアルバートは顔を綻ばせた。
 今朝は元気のないピコの為に、彼の好きな柔らかいオムレツを作ったのだった。三人で食べるには少ないがサラダを出せばどうにかなるだろう。その食卓に、アルバートはお土産だといって燻製肉の塊を出した。早速嬉しそうに切りはじめるピコとアルバートに、アンネリーは紅茶を注ぐ。
「何か変わったことはなかったかい?」
「ううん。たいしたことはなかったわ。ねぇ、シュエさんの他は、誰と一緒だったの?」
「ハンフリー殿にモンド殿にフリード・Y殿。あと、アニタ殿とマイクロトフ殿もいたよ」
「じゃあ、カミューさんの所に新作のお茶が来たのね」
 そう笑うと、アルバートは訝しげな顔をした。
「カミューさんはサウスウィンドにあるお茶屋さんの紅茶が好きなの。今日の紅茶もカミューさんがくれたのよ」
 以前レストランで一緒にお茶を飲んだ時、彼が紅茶に煩いことを知った。
 紅茶というものがその名一種類の飲み物ではなく、実は幾百種類の多岐にわたるお茶の総称だということすら知らなかったアンネリーに、カミューは分かりやすく説明してくれ、自分のお茶の葉を分けてくれたのだった。
「だからきっとマイクロトフさんのお土産は紅茶よ」
「マイクロトフ殿とカミュー殿は仲が良いんだね」
「昔からの親友なんだって」
 その言葉に感心したように、ほぉ、と漏らしたアルバートは、湯気がくゆる紅茶の薫りをそっと嗅ぐ。その姿にアンネリーは微笑んだ。
 彼らの関係は親友と言うよりも恋人といった方が正しいのだろう。彼らが恋人同士ということはこの城の殆どの人が知っている。
 当人達も隠している風もないその仲を、だが何も知らない様子のアルバートの前で、口にしたくはなかった。
 ちらりとピコを見ると、知っているはずの彼も燻製肉をフライパンで焼くことに専念する振りをしているのが分かる。
 一瞬交差した瞳の中に共犯めいた色を認め、二人は口を噤んだままでいた。
 
 本当は、あの二人の関係が理想なのかもしれない。
 真っ直ぐに向かい合って、お互いの眼を逸らさず見詰め合えるそんなシンプルな関係。
 短い線と比べ、正三角形はバランスを保つのが難しい。
 本当は不安定な三角のバランスをとるより、一点を外して線にするか、いっそバラバラに壊した方が楽なのだろう。
 きっと誰もがそのことに気付いている。
 それでも動けないのは、不安定ながらも少しずつ積み重ねる努力で成り立っているこの場所が心地良いからだ。
 
「しかしそんな面子で出かけてるってことは、近々また何かあるってことかなぁ」
 ジュウジュウと美味しそうな音を立てている肉を皿に移しながら呟くピコに、
「それは間違いないだろうね。交易商の話では、ハイランドはまた軍を動かそうとしているようだよ」
 とアルバートは眉を寄せた。
「アンネリーは戦の時は後ろにいなきゃダメだぞ」
「そうだね。女の子だから大人しくしておくんだよ」
 父と兄の心配しきりの言葉に笑って頷く。
 紅茶と香ばしい燻製肉の香りが交じり合う暖かい空間で丸い小さなテーブルに座って三人で食卓を囲めば、雨の音は聞こえない。
 しゅんしゅんと湯気を立てる薬缶の音を聞きながら、アンネリーは紅茶をゆっくりと飲んだ。


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