壁画
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 山の端にかかる暗雲は、急速にその勢力を増し、いくらも経たぬうちに冬枯れた木々に冷たい滴を落とし始めた。
「スタリオン、この辺りに雨宿りできる場所ないかな?」
「ちょっと待ちな」
 頭から皮のマントを被り寒そうに身を縮める盟主の少年の言葉に、エルフの男は馬から下り細い獣道を外れ森の奥へと入っていく。
 暫くして戻ってきた彼は、
「もう少し行って谷を下る中腹に、雨宿りできる穴があるようだ」
 と報告した。
「どれくらいかかりそうですか?」
 次第に強さを増していく雨脚と、雨雲のせいばかりでもなく暗くなりゆく空を睨みながらのマイクロトフに、
「さほどかからないと思う。案内するよ」
 スタリオンは、栗毛馬に飛び乗った。
 暫く山を下り、栗毛馬の後を追い森に踏み入った一行は、言葉通りすぐに岩陰を見出す。
 それは穴と称すにはいささか立派で、馬達を引き入れてもまだ深い奥には十分な空間があるようだった。
 岩が作り出した天然の洞窟は頑強で、崩れる心配などないように見える。
 短い言葉で火を作り出したカーンは数本の松明を仲間達に渡していった。
「空気も悪くないようだし・・・変な生き物もいるようではないな」
 洞窟の奥を照らしても、外の雨音しか聞こえてこない暗闇に、フリックはそう呟く。
 だが、ここで夜を越すには、松明を幾本も掲げても、果てが照らし出せない穴の奥を探ってみる必要があるだろうと、装備を解かぬまま彼らは穴の奥を確認することにする。
 万が一の為に、クライブと盟主は入り口に留まり、残りの四人が松明を片手に洞窟の奥へと踏み入る。
 四面を石に囲まれた穴の中はひんやりと乾いた空気で、雨の音も聞こえない暗闇の中で松明のはぜる音と、一行の足音だけが響く。
 さほど行かないうちに冷たい壁へと行き当たり、この穴が予想していたよりも深くまで続いていたわけではないことが分かった。だが松明を掲げて照らしてみると、その空間は入り口よりも格段に広く、本拠地の中でもやや大きい部屋くらいの広さはあるようだった。
「危険はなさそうですね」
「あぁ、悪くなさそうだ。シュエたちを呼んでこよう」
 モンスターが根城にしている痕跡もない様子に、フリックは頷いて踵を返す。その後を追おうとしたマイクロトフは、背後に聞こえた驚いたような息遣いに振り返る。
 見れば、火の紋章で少し大きな光源を作り出したカーンが石の壁を驚きの表情で見詰めているところだった。
「何かありましたか?」
「絵じゃないかな、これ?」
 いつの間にかカーンの隣に並んだスタリオンの言葉に、近づくとカーンは火を壁に掲げる。同じようにしてマイクロトフも松明を近づけると、黒い岩壁にうっすらと赤や白の模様が浮かび上がる。
 掠れかかったそれを見ているうちに、牛や羊を描いているものだと判明した。
 随分と古いものなのだろう。素朴な線に、あまり発色の良くない顔料は、経年の劣化で所々色が抜け落ちている。だが、それは確かになんらかの意図で人為的に描かれた絵だった。
「他にもあるようですね」
 カーンが火を動かし指し示す横の位置には、人の姿が描かれたものもある。
 動物と共に幾人もの人間が跪いており、その中心には一人の人物がいる。
 いや、人物ではない。
 これは―――
「何を見てるの?」
 少年の声に三人が振り返れば、荷物を抱えた仲間達が近づいてくるところだった。
「すみません、手伝いもせずに」
「いや、何見てんだ?」
 慌てて荷を受け取るマイクロトフ達に、フリックは興味を惹かれたように背後を覗き込んだ。
「見てください、壁画があったんです」
「すげー結構古いものだろうな、これ」
 照らし出された石壁の絵に目を見張るフリックの横で、
「ねぇ、これって羽生えてない?」
 盟主の少年は中心に描かれた人物を指した。
 その言葉に連想したものは皆同じだったのだろう。
「・・・カミューか?」
 そう呟くフリックに、返るのは無言の同意だ。
 赤騎士団長カミューが、モンスターの攻撃の後遺症で羽を負っていたことは記憶に新しい。
 幸い一時的な現象で、現在は普通の身体に戻ってはいるものの、羽を背負う人物の絵で彼の事象を思い出すのは必然だった。
「同じようにモンスターの影響で、有翼化した人間という可能性はありますね。もしかするとそのような人間が神の使いとして崇められていたのかもしれません」
 跪く人々や動物に囲まれたその絵にカーンが呟けば、
「あはは、じゃあ時代が時代ならカミューさんは神様扱いで色んな貢物をもらえたのかもね」
「今だって似たようなもんだろ。あいつ、あっちこちから色んな貢もん貰ってるだろ」
「確かにね」
 そういえば、とここにいない仲間の話題で一同は盛り上がる。
 だがその横で、カーンは冷静な声で指摘した。
「いや、しかしこれは貢物というわけではなさそうですよ。ほら、この羊の足には赤い色が塗ってある。怪我をしているようにも見えます。周りの人間が連れてきているものもどこかしら赤い色が塗られていたり、不具のもののようですね」
 その言葉通り、絵に描かれた有翼人の前に描かれた羊の足には赤黒の着色がある。
 よく見れば、翼人の手はその傷の近くに伸ばされているようだった。
「手当て・・・なのかな?」
「もしかして治癒の能力を持っていたってこと?」
「おい、カミューはそんな能力あったのか?」
「いえ、フェザー殿と会話ができたり・・・したようですが、治癒能力については特には気がつきませんでした。試してみることもありませんでしたし」
 仲間達の言葉にマイクロトフは曖昧に首を振る。
 一人沈黙を保っていたクライブがその隣で呟いた。
「・・・風か水の紋章を持っていたとも考えられるぞ」
「なるほど」
「確かにその可能性はあるな」
 その言葉に納得した仲間達は、話しながら荷解きと食事の準備へと移っていく。
 一人壁画の前に残ったマイクロトフは、そっと手を伸ばしその絵に指で触れる。
 白手袋でなぞれば、白い羽はその白さを増したようにみえた。
 
 
 
 ノックの応えに扉を開ければ、いつものように親友の姿は粗末な机の前にあった。
「おかえり」
 難しい顔をして片手に持つ書類を顎に手をあて睨んでいた彼は、ちらりと視線を上げ微笑む。だが、その表情はすぐに気遣わしげなものへと変った。
 土埃で汚れたマントもそのままで、旅装も解かずに部屋に入ってきたマイクロトフの姿に、火急の用件を連想したのだろう。
「何かあったのか?」
「いや、なんでもない」
 腰を浮かす彼に近づき、安心させるように頭を振る。
 そしてそのまま彼の背後に廻ると、肩を抱き己の額をその背中へとあてた。
「おい、マイクロトフ・・・」
 背に冬の穏やかな陽射しを吸った彼の赤い騎士服はほんのり日向の香りがする。
 困惑の色に構わず、深く溜息を吐くと今度は気遣うような声がかかる。
「どうしたんだ、具合でも悪いのか?」
「いや」
 小さく返すと、背中の中心、その上の辺りに唇を押し当てる。
 腕の中の身体がひくりと震えたこの場所は服の上からは見えないが、ほんの少し前、羽が生えていたその場所だ。
 カミューに羽が生えていた時の特殊能力。
 その中の一つに、限られた状況下においての精神感応があったのだった。
 その方法を口にするには些かの憚りがある為それを誰にも告げるつもりもない。だからその能力を知るものは二人だけだ。
 考えまでは伝わらずとも、互いの感情を自分のもののように感じ取れるその瞬間は、比喩ではなく二人が一つに交じり合っているようだった。
 旅途中で見かけた壁画の中でそれを思い出し、マイクロトフに浮かんだ感情は寂しさだった。
 ただそれだけのことだ。
 だが、冬の雨と荒涼とした景色の中でその感情は、じわりと増幅され、帰城するやいなや、矢も盾もたまらない気持ちで、カミューの部屋へと足を向けたのだった。
 こうしていると、不思議なほど胸に凝った重苦しい冷たさが解けていくのがわかる。
 淡い金のその羽が彼の背を飾っていたのはさほど長い期間ではなく、あれから半年近くを経ていた。
 あの羽を惜しむ気持ちはないかという問いに、否と答えれば嘘になる。
 眼に麗しい優美なその造形も、比類もなく互いの距離を近づけたその特殊能力も、惜しまずにはいられないものだった。
 だが、その羽を負っていた時の彼の苦労を知るものとしては、抱くのはただ惜しむ感情だけではない。
 それに羽がなくてもこうしてこの温もりを一欠片でも感じられれば、本当は十分なのだとマイクロトフは分かっていた。
「マイクロトフ、マイクロトフ、一時間待ってくれればあとは付き合ってやるから、今は離してくれないか?」
 困ったような声にちらりと視線を上げると、困惑したような顔の従騎士が部屋の隅に立っているのが分かる。
 確かにこの体勢では上官の威厳もなにもあったものではない。それに彼は執務中であることは間違いがない。
「すまなかった」
 素直に手を離せば、怜悧な顔に仄かな笑みを浮かべた彼は首を振る。
「これが終われば、食事に行こう。それまで部屋で休んでいるといい」
 その言葉に冷静になったマイクロトフは、自分が旅塵で薄汚れたままで彼を抱いていたことに気がつき、ばつの悪い気持ちになった。
 そして、それを彼が許していたことも同時に知る。
「いや、俺も部下の報告を聞かねばならん」
「では、落ち着いたらまた会おう」
 従騎士に会釈をし、部屋を出て行こうとしたマイクロトフは、マイクロトフ、と掛けられた声に足を止めた。
「お帰り」
 微笑みそう告げるカミューに、彼は自分が忘れていた言葉に気づき照れくさい気持ちで口に載せる。
「ただいま、カミュー」
 重く冷たい何かは、跡形もなく消え去っていた。




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