瀬能早智
纏わりついて離れない雑音が、耳鳴りだと気づいたのはいつだったか。
血に濡れているこめかみの鼓動がやけに大きくて癇に障る。大した出血ではないが、皮膚に薄膜を張るかのようなその感触が不快で、思わず手袋越しに掌で拭った。
先刻から斬って斬って斬り続けて。数えるのは途中で止めたから、もう何人を屠ったかもわからない。
始めのうちはできるだけ一太刀で、敵といえど苦しむことなく仕留めてやれればいいと思っていた。
しかし地形的に接近戦しかないという状況は、予想以上に困難だった。まだ戦力的に未熟なものが多い部隊を抱えていると、どんどん余裕が持てなくなってくる。何より、指揮系統が混乱するのが痛い。
完全に統率が失われたわけではないが、巻き上がる砂塵と血煙、そして普通であれば有り得ないほどの乱戦状態に突入し、戦い慣れぬものは浮き足立った様子を見せる。自分の命を守るのが精一杯で、他との連携をとるだけの思考も技術も欠けてゆくのだ。
ここまできてはそれも仕方ない、とカミューは胸の内で呟いてユーライアを握り直した。
訓練が足りていないのは事実であるし、それを踏まえた上で戦術構成を組み上げた筈なのだ。その構想がうまく機能しなかったのは自分たちや軍師のミスかもしれないが、今それを考えてもどうにもならないと知っている。
あと半刻ほどを乗り切れば。
援軍が届く筈のその時まで、何とか戦況を保つことが出来ればそれでいい。
今無理に退路を開こうとすれば返って余分な血を流すことになるのは目に見えていたし、整然と退くこと自体もう無理だ。
部下をできる限り生きて連れ帰るのは指揮官としての義務だが、それにも限界はある。そう言うと夜空の瞳を持ったかの男などは反論してくるかもしれないが、今は何より自分の命が最優先だった。
どれほど勝手だといわれようとも、自分はあの男のように全てを投げ出してまで他の人間を救えない。
――――そうするには、あまりにも生きることへの執着を持ち過ぎてしまった。
視界をよぎる影が味方のものでないと察した瞬間、剣を真横に一振りし薙ぎ払う。紅く生温かいものが新たに右半身へ降りかかるが、それを避けることもせず更に背後から叩き付けられた剣を受け流した。
血と脂でまみれ、想像以上に滑る剣に体勢を崩しかけ、それでも喉元を狙って強引に突き上げる。
相手の切先が眦を掠めるのを意識の表層にさえ留めず、曝け出された顎下へ刃を刺し入れた。倒れ掛かってくるその身体を無感動に躱して剣から血糊を振り落とし、周りへと目を遣る。
まともに立っている人間の方が少ないのではないかと思えるような光景。
岩肌があちらこちらに露出している狭間、元の姿さえ判別できない骸が無数に転がっている。驚愕し、絶叫したままに開かれた目や口が、深淵への入口を形作っているかのようだった。
遠くから響いてくる鍔迫り合いの音。
ゆっくりと息を吸い込み、細く吐き出すと、それまで意識していなかった体中の傷が疼く心地がする。どれも浅いものではあるが、鬱陶しいことに変わりない。
耳鳴りは続いている。
視界に流れ込む血に目を眇めながら頭を巡らせると、蒼い輪郭が不意に網膜へ飛び込んできた。
しっかりしている太刀筋に、大きな怪我をしていないのだと確認する。その姿を目にしただけで、胸の奥に安堵の波が押し寄せるのを痛感した。傍らに行きたい衝動を抑えて、今の自分が成すべき事に思考を戻す。自分の前に敵はほとんどいなくなったが、他所でまだ追い詰められている味方もいた。
少しでも多くを、生きて帰さなければならない。
口腔内にしみる鉄錆びた味に、カミューはふと微笑を零した。
……決して、鋼青の騎士には見せられないような笑みを。
夜半を過ぎると、城の中は冷たく静まり返っていた。
四日かかってようやく城へ辿り着いた自軍のうち、第一陣の数は出立した時の半分。しかもほとんどのものが怪我をしている身とあって、空気が悄然としている。傷ついたものは早々に治療を受け、指揮官たちも最低限の報告を終えるとそれぞれ自室へと引き上げていった。
とにかく休みたい、というのが今の全員の気持ちだろう。戦場に赴いていたものは勿論、城で待機していたものたちも耐え難い緊張を強いられ続けていたに違いない。
カミューとマイクロトフはそれほど大きな傷もなく帰還できたが、それでも精神的疲労は極限に近かった。
他の人間と碌に言葉を交わすこともなく、手当てだけを簡単に済ませる。何か軽く胃に入れて神経を落ち着かせた方がよく眠れるとわかってはいても、その余力がなかった。
引き摺るようにしか動かせない手足。
せめて汚れた身を清めてから休もうと、二人並んで浴場へ向かう。本来ならば部屋についている浴室を使うところだが、自分たちでその用意をするだけの気力さえないのだ。
個人がというよりも、城全体に渡って疲労の色が濃い。
無意味な戦いではなかっただろうが、無駄の多い戦いだったのだろうと、カミューは考えた。それも、自分一人の胸の裡に閉じ込める。他人が耳にして気分のいいことではないし、そもそも誰に対する言葉でもなかった。ささやかな自嘲、というのが一番近いのかもしれない。
隣を歩く男が、どのように感じているかは知る由もないが。
湯を使うのにマイクロトフよりも手間取ったせいか、部屋に戻ろうとする頃には随分と夜が深くなっていた。篝火の放つ昏い金の綾が揺らいでいる石造りの通路には、既に人の気配がない。
血痕そのものよりも血の匂いが落ちなくて、神経過敏になっているような気がしていた。どれだけ流しても消えないそれに、途中で諦めて浴場を出たのだ。その後もずっと自分から離れないその匂いに、精神のささくれたところを絶えず刺激されている。……何も、初めて戦いに出たわけでもあるまいに。
瞳の表面が、酷く乾いていた。
歩く度にあちこちの傷が引き攣れるようだったが、立ち止まるほどの痛みはなかった。
自室へ辿り着き、扉の前で息をつく。
先に戻っているマイクロトフを起こさないように薄く扉を開いて入る。音は立てていないつもりだったが、一方のベッドの上に横たわっていた体躯が微かに起きあがるのがわかった。
「すまん…起こしたか」
「いや、まだ眠ってはいなかった」
低い声が、幾分掠れている。疲れと眠気が混在した声音。
「先に眠っていてもよかったんだぞ」
囁き返して羽織っていた上着を椅子の上に投げ出すと、マイクロトフの方へ顔を向けてひっそりと笑った。何を笑っているのかは自分でもよくわからなかったが、他の表情を作ることが出来なかった。
黙ってそれを見つめていたマイクロトフが、強い視線を投げかけてくる。
カミューを、自分の傍らへと呼ぶ光がその奥に閃く。
一瞬表情を消し、目を伏せて再び微笑すると、カミューはそれに従った。
マイクロトフが僅かに体を寄せて空けてくれた場所へ、滑り込むように横たわる。薄い衣服越しに伝わる体温に、ふと溜息が零れた。
彼の腕がゆるく背中へと回されるのを感じて、自分から肩口へ頬を擦り寄せる。眠りやすいよう姿勢を整えるために自分が身じろいでいる間、マイクロトフは一言もなく背を撫で続けてくれていた。
体重をかけ過ぎてしまわないように注意しながら、仰向いている彼の胸の上へ腕を伸ばす。うつ伏せるようにして半身だけを凭せ掛けると、柔らかく項を抱き寄せられた。
押し当てた頬の下、微かな鼓動を感じる。マイクロトフの体温が自分のそれよりも高い、というのは常のことだが、頬に触れている部分の中、殊更熱くなっている箇所があった。
不審に思い顔を上げると、苦笑を含んだ瞳と出遭う。差し伸ばされる指先に大人しく目を閉じると、瞼の縁を穏やかに愛撫された。
「傷があるからな。やはり気になるか」
「それじゃあ…」
傷のある部分に、僅かでも体重をかけたりするのはよくない。たとえ軽傷でも、治りが遅くなってしまう。
慌てて体を退こうとしたところを、いつになく強い力で引き戻された。
「いい。大した怪我じゃない」
「でも、」
「お前が不快じゃないなら、こうしててくれ。……その方が、よく眠れる」
口元をカミューの髪に埋めるようにして告げられた言葉は、耳に響く以上に重く聞こえた。静かな、だが凛とした空気を内包した声。それが自分の心の底にもたらす暖かな漣をも、カミューはじっと受け入れた。
「私も、こうしてた方が眠れるよ…」
素直に身を預けると、腕に込められていた力が弛んだ。
額に唇が触れてくるのに応えるように、その肩先の熱源へと唇を押し当てて。早く、彼のすべての傷が消えてしまえばいいと願いながら、ゆっくりと意識を沈めた。
END
2000.04.05