未来予想図


赤騎士団の副長を務めるアルフレート・グスタフ・ホランドは、年若い己の上官を心から敬愛していた。その頭のさえも、剣の腕前も、見かけに寄らぬしたたかさも、そしてしばしば自分に多大な心労と後始末を要求してくるその奔放ささえ、好ましく思っていたのだった。勿論、騎士団長という重職にある身を省みず、単独行動を取りがちで、こちらの肝が冷えるような事をさらりと仕出かしてくれる上官を案じて胃に穴があきそうな思いをすることががつづくと、不器用なまでに生真面目なもうひとりの騎士団長の爪の垢でもせんじて飲んでくれまいか、と心ひそかに思ったりもするのだが、その副長を務める男の話を聞くとどうやら苦労の度合いは同じぐらいか、自分の方が少々ましなようだった。それは上官に惚れこんでいる己の贔屓目であり、あちらはあちらでこちらよりはましだろうと思っているに違いなかったが、恋人の仲にしろ、夫婦の仲にしろ、情がうつればそういう物だろうと思う。上官との関係を無意識にそんなものに例えてしまう己のずれ方には心の奥底でかすかな不安を感じないでもなかったが、そこらへんにはあえて目をつぶることにした。
なんだかんだと言っても、アルフレートはかの青年の副長という役職に十二分に満足し、力の限りをもって彼を支えようと心に誓っていたのである。

だが・・。

引きも切らずに次々と現れる訪問者のほとんどが赤騎士団長みずからの要請をうけて現れた市井の人々だった。ロックアックスの生活を支える一介の商人であり、職人であり、教師や役人や診療所を営む医師や・・・、カミューがその重厚な執務室に迎え入れる人々は実に多岐にわたっていた。
彼らは、雲の上の存在だと思っていた青年にきさくな握手とともにむかえいれられられ、人好きのする笑顔をむけられることに、最初のうちこそひどく戸惑っている様子だった。が、旧知の友を相手にしているかのように語りかけられるうちにまもなくその青年に魅了され、望まれるがままに本音をかたり、それが受けいれられる心地よさによいながら、青年の質問に応え、騎士団がわの要請に快く応じて、再訪を約して帰って行くのが常だった。家路を辿る人々の顔には例外なく満足げな表情がうかび、誰もが誇らしげに胸を張っていた。
毎度のことながら見事なお手並みだ、とアルフレートは感心した。カミューがそれでなくとも忙しい日程の間に、市民と語る時間を入れた時には他の重要事にしわ寄せが行くのではないかと危ぶんだものだが、今にしてみればそれこそが一番大切なことだったのだとわかる。

自分をも含めて、いま騎士団の中枢にあるものの殆どが、一度は騎士団を出奔し、マチルダをはなれることとなった身である。ゴルドーの失政ゆえとはいえ、王国軍に占領されるにいたっては、市民が騎士団にむける信頼は地に落ちていたと言ってもいい。連合軍とともにロックアックス攻略に現れた出奔した騎士たちと彼らを率いる2人の騎士団長に複雑な感情を抱きつつも彼らの中にこそ自分達が誇りに思っていた騎士本来の姿がある、と市民の殆どが思い、それを支えとしていたようだった。
それゆえに、戦争が終わった時、彼らをふたたび向かい入れたのは市民の総意であったと言ってもいい。が、しかし、その屋台骨が大きく揺らいだ騎士団の今後を、そしてまたその存在に大きく依存している自分たちの将来を彼らが案じていなかったわけはない。
その人々を前に赤騎士団長が口にしたのは甘い言葉だけではなかった。この変革の時期にマチルダを待ちうけるであろう困難を彼はいとも率直に語った。諸国間の駆け引きや腹の探り合いを生業とする相手と話す時には、狡猾なまでにたちまわり、
「うそはつかないが、本当の事を話す気もない。それが外交と言うものだ」
とまでうそぶいて、一方的に相手の本音を引き出すことに終始していた青年が今回ばかりはそんな策を弄しようとはしなかった。
カミューのそんな姿勢は、失われた騎士団への信頼を取り戻すと同時に彼らこそがこれからのロックアックスを、しいてはマチルダをしょってたつ身なのだ、という自覚をもたせる事を願ってのものだったのだろうとアルフレートは思う。そして彼らは充分にそのカミューの願いに応えてくれた。この時代の変革期を共にうけとめようと気力を奮い起こした人々に支えられて、騎士団は、そしてマチルダはこの変動の時代を乗り切って行けるのに違いない。

一方騎士団そのもののたてなおしは青騎士団長をつとめる青年の手で着々と進められていた。新生騎士団の一部は新しい国の戦力の中枢をになうために、首都と定められた都市に駐屯する形になり、ここロックアックスは北にむけての備えの要衝となることになろう。それでも自分たちが誇りを抱くマチルダの騎士であることにかわりはない、そう力強く説く青騎士団長は1年近くに及んだ戦火を潜り抜けたことで一層その精悍さをましていた。その瞳には、かわらない意志の強さと、重みを増した思慮深さの輝きが宿っていた。一種カリスマ的な魅力を持つ彼は、あるべき姿を失っていた騎士たちを導き、ふたたびその誇りを取り戻させつつあったのである。

2人の卓越した指導者のもと、騎士団はかつての、いやそれ以上の輝きと結束とをふたたびその手につかもうとしていた。

何もかもが順調だった。そう、順調すぎるほどだった。


「カミューさま」
書類をととのえていた手を休めて、アルフレートは上官に声をかけた。
「一休みなさってはいかがですか。お茶でもお入れ致しましょう」
「そうだな。頼むよ」
返事はもどってきたものの、カミューは手にしていたぶ厚い報告書から顔を上げようともしなかった。最初の内はかつての彼には考えられなかったその勤勉さをいぶかりながらも喜んだものだが、今はそんな姿を目にするたびに、かすかな不安が胸を掠める。
アルフレートはかたわらに控えていた従者が用意を整えようとするのを制して、自ら立ち上がった。
他のことには執着がなさすぎるほどにこだわらないカミューだが、こと紅茶に関してはその最高の味と香りを引き出すべく努力をおしまず、自ら手がけることもしばしばだった。いやしくも騎士団長の地位にある人物が、と最初の頃こそ恐縮したものだが、その味をほめるとカミューが素直に嬉しそうな表情をうかべるのがなんとも心地よくて、勧められるがままに応じていた。同盟軍時代にはカミューの私室での午後のお茶会は心ひそかな楽しみになっていたほどである。
が、今の赤騎士団長にはそんな余裕もないようだった。
このところの休む暇もないような激務がたたっているのか、すこし頬がこけたように見うけられるカミューを見やって、副長は小さなため息をついたのだった。

「すこし、無理をしすぎているのではないか?」
そんなカミューの様子に気づいたのは、案の上というかさすがというべきか、その旧友であるヘッセン侯だった。
まもなく7ヶ月になる愛娘にすっかり夢中で、社交の世界からは随分と遠ざかっているようだが、10年来の執着の方をあきらめる気はさらさらないらしい。無論マチルダの経済面や政治面に深く関わっているだけに、仕事上の用件も多いのだろうが、3日と空けずに顔を出し、長々といすわっていくところをみると、赤騎士団長の秀麗な面を拝み、軽やかな会話を楽しむのが一番の目的のように思われた。
それだけに、カミューが彼らしくもなく仕事にのめりこみ、休日さえまともに取っていないことを危ぶんで少しペースを落とすように、とも忠告してくれたようだが、カミューは微笑を浮かべただけで明確な返事を返さなかったらしい。
「まるでなにかに追われているような仕事っぷりだな」
とヘッセン侯は不可解げに顔をしかめる。
「建国がせまっているとはいえ、マチルダの立てなおしはゆっくりでもかまうまいに・・」
アルフレートは返事ができなかった。ヘッセン侯が言うとおり、カミューは時間に追われている。自分自身にリミットを課している。マチルダの再興を軌道にのせたら、彼は多分、きっと・・。
そう思うだけで胸がいたみ、とても言葉にはできなかった。
「気分転換に休暇でもお取りになったらいかがですか、とは何度も申し上げているのですが・・」
辛うじてそれだけを口にし、深刻な表情で黙り込んだアルフレートに何を思ったのか、ヘッセン侯はふと、目を輝かせた。
「いっそ強制的に休暇を取らせればいい。」
「は?」
「うん、それがいい。どんな顔をするか見物だな、これは」
いったい何を思いついたのか妙に嬉しげなヘッセン侯にアルフレートは首を傾げた。


騎士団中に知れ渡っていることだが、青騎士団長の朝は早い。裏庭で飼われている鶏が本能にしたがって朝の訪れを告げようとするその時、彼は既に身支度を整えて意気揚揚と訓練の場に向かっているのが常だった。それを目にするたびにまた今日も寝過ごしたか、と雄鶏はかすかな自己嫌悪におちいり、ときの声もつい力ないものになるのだった。
一方赤騎士団長の朝は士官学校以来、食堂の朝食時間にぎりぎり間に合う時刻にやってきていた。けして寝起きの良い方ではない彼が空腹という加速装置だけを頼りに、顔を洗い、髪をとかし、身支度を整え、部屋を飛び出るさまはさながら高速のコマ送りを見るかのようであった。
が、しかし、青騎士団長と深い仲になって以来、赤騎士団長の朝はいささかさま変わりをした。訓練が終わるなり、青騎士団長が起こしに現れるようになったからである。もっとも無理やりたたき起こされた赤騎士団長の身支度はそれ以来、いまにも止まりそうなスローモーションで行われるようになったのだが。
「カミュー!いいかげんで起きろ!」
本日もいつものように扉を開き、いつものように声をかけたマイクロトフはその場にかたまってしまった。
布団にもぐりこんで眠っているカミューの布団の上でにこにこと笑っているのは・・・
しばし言葉を失った後で、
「カミュー、おい、カミュー」
声を低めて、マイクロトフはその名を呼んだ。
「頼む。起きてくれ」
どうやら怒鳴り声よりもその切羽詰った声音にカミューは敏感に反応したらしい。
「どうした?」
目をこすりながらもめったにない目覚めの良さで体を起こした赤騎士団長は、視界にはいった対象にほんの一瞬だけ目を見開いたが、
「・・どちらかというと、お前に似ているな」
いともあっさりとそんなことを言ったのだった。


その日の午前中、赤騎士団長の執務室を訪れた文官や騎士たちはみな一様に唖然として入り口に立ち竦み、己のほっぺたをつねるはめにおちいった。
黙々と仕事に励むカミューが書類を広げている大きなマホガニーの机の上を、はいはいをしながら我が物顔に徘徊し、時には書類を握り締めて口に運んでいる赤ん坊の姿を目にしても、それが現実のものなのかどうか自信がもてなかったのだ。しきりに目をこすりながら、全くいつもと変わらない表情のカミューに用向きをのべ、指示をあおぎ、決済をもとめては首を傾げつつ再び部屋を後にして行く。カミューがあまりにもいつもどおりなので、その赤ん坊がいったいなんなのか、問いかけることさえできないまま、混乱しながら執務室を出て行く者が多かった。
たまに勇気のある誰かがこの赤ん坊はどうしたのか、と聞いても赤騎士団長は肩をすくめるだけだった。
「どこかのコウノトリがこのレディをおとしていってくれたらしい。身に覚えがあるだけに邪険にも出来ないしね」
あっさりとそう言われて、身に覚えがあるとは、生ませたということだろうか、それとも生んだということだろうか?と自問する。どちらもありえそうな気がしてくらくらとめまいを感じ、聞かなければよかったとおのれの蛮勇を恨みながら、彼らもまた混乱したまま、執務室をあとにするのだった。
周囲にそんな波紋をひろげているのを気にする様子もなく、赤騎士団長は書類を処理する手を休めると、赤ん坊のまるまるとした指からよだれでべちゃべちゃになった書類を取り上げた。
「随分とおいしそうだがそれはなんだい?」
赤ん坊に問いかけながら書類に目を落とし、
「税金を滞納している者のリストか・・」
と呟いた。
「これの証拠隠滅をはかるとは、少々認識に問題があるな。これは君たちのために学校や病院をたてるのに必要なお金なんだぞ。自分の利益を守らないでどうする。」
そんな事を諭しているのを自らも書類にうずもれながら横目でうかがい、副長のアルフレートはため息をついた。

何事にも動じない上官だと知ってはいたが、ここまでだったとは・・とアルフレートは首をふった。マイクロトフが訓練もなにもかも放り出して、よりにもよってマチルダ騎士団の中枢も中枢、赤騎士団長の寝室に捨てられた赤ん坊に関する情報集めに奔走しているというのに、カミューはまったく気にした様子もなく、
「くれるというならもらっておこう。親はなくとも子は育つというじゃないか。ま、どうにかなるだろう」
などとのたまい、どうやら心ひそかにその赤ん坊はかつて女性遍歴華々しかったカミューの隠し子ではないかなどと疑っているらしい青騎士団長の神経をはげしく逆なでしたようだった。マイクロトフは、意地でも赤ん坊の実の両親を見つけてみせる!そう叫んで飛び出て行ったのだ。

ふと手を止めたカミューはひどくいとおしい者を見るような視線を赤ん坊にむけた。琥珀色の瞳が柔らかく細められ、どこかせつなさのこもったまなざしを注ぐ。それを端から見ていたアルフレートの胸までかすかに痛んだほどだった。カミューが赤ん坊にむけて何かを言おうとしたその時、
バン!!!すごい音と共に扉が開き、駆けこんできた人物がいた。白騎士団の第2隊長をつとめ、赤青両騎士団長の旧友でもあるクルーグである。普段から表情の読みやすい男だが、結構礼儀にはうるさい彼が取次ぎも何もなしで飛び込んできた様子を見ると、彼が怒り心頭に達していることは誰が見ても一目瞭然だった。
「カミュー!!!今度という今度ばかりは愛想が尽きたぞ!隠し子がいたどころか、養育費もまともに払わないから、困窮した哀れな母親が助けを求めてきたと言うじゃないか。その子を母親から取り上げ、あろうことかあてつけるように、執務室で養育しているだと!?いったい全体お前の常識はどうなっているんだ!」
「・・・・なんだかすごい話になっているな・・」
「カミューさまが面白がって事情をちゃんとお話にならないからです。」
「事情もなにも、わかっていることなどないじゃないか。ひょっとするとクルーグが言ったとおりかもしれないし」
「やっぱりそうだったんだな!!」
「違います!」
なんで自分がむきになって否定しなければいけないんだ、がっくりと疲れながらアルフレートはため息をついた。
呑気に赤ん坊を膝に抱いて遊んでやっているカミューを横目に、アルフレートが今朝方カミューの寝室にこの赤ん坊が振って沸いたのだ、と誰も信じないような話をすると、クルーグは胡散臭そうに友人をみやった。
「まさかと思うが、お前が産んだのか?」
いやがらせのつもりだったようだが、カミューはおかしそうに笑い、
「マイクロトフ似だよな。」
などと返してくる。クルーグとアルフレートは共にがっくりと肩をおとした。
「それにしても、赤騎士団長の寝室にだれかが侵入したなどと警備に問題があるんじゃないか」
クルーグは眉を顰めた。ロックアックスに帰還して以来、カミューとマイクロトフは、ゴルドーの元でいささか過剰気味になっていた儀礼や警備などをあっさりと簡素化したのだ。それまでは不寝番が騎士団長の私室を固めていたのだが、それもなくしたから、こんな事が起こり得たのだろう。赤ん坊ならまだしも爆発物の類でも置いて行かれたらどうするつもりだったんだ、と腹立たしくなる。
「だいいち誰かに侵入されてもグーグー寝ているなんて、どういう神経をしているんだ。お前だって一応剣士だろう!」
とつめよるクルーグに、
「つかれきっていたんだよ。文句はマイクロトフに言ってくれ」
「・・・・カミューさま」
アルフレートは本日何度目になるのかわからない、それこそつかれきったため息をついた。今の台詞は聞こえなかったことにしておこう、と心に決めたらしいクルーグが、
「とりあえず、昨夜から今朝方の警備にあたった騎士たちに不審なことはなかったかを訊くのが先決だろう」
と立ちあがりかけるのを押しとどめ、
「それはもうマイクロトフがやっている」
カミューは言った。
「無駄だと思うがな」
「どう言う意味だ?」
不審げにクルーグは顔を顰めたが、アルフレートはカミューがちらりとこちらを見たのに気がついて、心臓が飛びあがりそうな気持を味わった。
「おそらく内部に協力者がいたんだろう。」
続いての言葉には、呼吸が止まった。
「協力者だと!裏切り者か?いったい誰だ!?」
クルーグの怒鳴り声に、冷や汗が出そうになる。
「いちいち怒鳴るなよ。そんなに力が余っているなら、ちょっと使いに行ってくれ」
カミューは赤ん坊をポンとクルーグに渡し、あせりまくっている友人には構わずに、手早くメモをしたためた。
自分の腕の中でぐずりはじめた赤ん坊に、おたおたしているクルーグにメモを渡し、行き先を耳打ちする。クルーグはあんぐりと口を開き、
「・・・あの人は何を考えているんだ?」
あきれたような声を出した。
「よほど、退屈なんだろう」
カミューは笑い、それからふと表情を変えた。
「それにしても今度のことでお前がわたしの事をどう思っているかとてもよくわかった。友情とか信頼とかそんなものがいかにはかないか、身をもって知ったよ」
「カミュー」
と絶句したクルーグはふと気がついて、
「おまえ、まさかだからマイクロトフにもなにも教えてやらなかったのか!?」
「本気でわたしの隠し子じゃないかなどと疑う奴になぜ教えてやらなくてはいけないんだ?」
かすかな怒りをにじませたその言い様に、クルーグは今ごろは赤ん坊の親さがしにとびまわっているのであろう哀れな青騎士団長を思って心中でしみじみと涙した。なんてかわいそうな奴なんだろう。こんな冷血漢に惚れたのが運の尽きだったのにちがいない。
肩を落としたクルーグが執務室を出て行くと、
「アルフレート」
呼びかけられた声に、副長は飛びあがった。
「な、何でしょうか、カミューさま」
「午後から休暇をとってもいいかな」
「は、はい、それは勿論」
「これ以上ここにいると、どんどんすごい噂が広がりそうだし、君も退屈したよな」
カミューはにっこりと赤ん坊に笑いかける。
「おむつやミルクも必要だろうし、ついでに買い物をしてくるよ」
「あ、赤ん坊をお連れになってですか?」
「ああ、勿論。レディを置いて行けるわけがない。」
といったカミューはふと考えて、
「そうか。荷物もちが必要だな。マイクロトフも連れて行くか」
そんなことを呟くカミューに、青騎士団長を心から哀れんでアルフレートはふたたびため息を落としたのだった。


赤ん坊をだいたカミューと、同行を求められたもののなんとも釈然としない表情のマイクロトフ、2人の騎士団長は城中の注目の的になりながら、城門に向かっていた。厩舎にちらりと視線を投げて、
「馬で行くのか?」
とマイクロトフが尋ねてくる。
「レディをつれているんだ。そう言うわけにもいくまい」
カミューは答え、腕のなかで愛想よく笑っている赤ん坊に微笑みかけた。
「散歩がてらのんびり歩いていこう」
「それはいいが・・」
城下の街でどんな注目を浴びるか考えただけで恐ろしい。マイクロトフはちらりとなれた手つきで赤ん坊を抱いているカミューをみやった。
「重くないか?俺が代わろうか」
そう尋ねると、
「あのおじちゃんの所に行きたいかい?」
カミューは赤ん坊に問いかけつつ、マイクロトフの方に赤ん坊を差し出してきたが、その顔を見るなり、顔をゆがめて泣き出す1歩手前になった様子をみてとって、ため息をついた。
「赤ん坊を威嚇してどうするんだ」
「す、すまない」
そんなつもりではなかったのだが、緊張のあまりこわばった顔は怒っている様に見えたのだろう。
「それにしても、おまえは随分と慣れているな」
「レディの相手は得意なんだ」
「お前の守備範囲は0歳児にまで及んでいるのか」
カミューは明るい声で笑い出した。
「ノヴァリスさまのところのアデルの面倒を見ていたからね。どうすればいいかはまだ覚えている。」
父親をなくし、今はグリンヒルで暮らしている少女ももう8歳になっているはずだ。しばしの沈黙と言う形で2人は少女とその母の事を思った。
「その内会いに行こうと思っている」
ぽつんとカミューが言った。
「別れを告げにか?」
さりげなく聞いたつもりだったが緊張が声にでてしまった。内心舌打ちをしたくなったが、カミューは気にした風もなく、
「言伝があるようなら伺って行こうと思ってね」
と答えてくる。マイクロトフは目をつぶった。詰めていた息を吐き出す。
「…否定ぐらいしろ」
思わずそう言ったが、カミューはほんの少し笑みを浮かべて、
「グラスランドの情勢は知っているんだろう」
と答えてきただけだった。

知っている。いやになるほど良く知っている。グラスランド東部で部族連合を作ろうとする動きがあることも。それに反対する氏族との間で穏やかでない規模のいさかいが起きていることも。カミューをはぐくんだ氏族と若い長がその渦中にいることも。
心の中のどこかで、仕方がないと思っている。それでもその日がくるのができるだけ遅くなるように、そう願わずにはいられない。軽く唇をかんで、マイクロトフは、そんな思いを振りきった。
「それにしてもいったいこの子はどこの子なんだ」
あらためてそう自問するマイクロトフにカミューは肩を竦めただけだった。


「おやまあ、すっかり大きくなられて」
かけられた声にマイクロトフは目を見張った。パン屋のおかみさんがにこにこと笑っている。カミューが抱いた赤ん坊の小さな丸い手を握ってあやしながら、
「お久しぶり、お嬢ちゃん、今日はまたいい男を2人も従えて」
などと話しかけている。
「こ、この子が誰だか知っているのか!?」
マイクロトフが詰め寄ると、おかみさんはびっくりしたように目を見張った。
「誰も何も、このお嬢ちゃんは・・」
と言いかけるのを、カミューがやんわりとさえぎる。
「おしのびなんです」
「おやまあ、驚いた。カミューさま、あなたときたら、こちらのお姫さまと駆け落ちでもなさったとか?」
「そんなところです」
残念ながら彼女の意思は確かめられなかったのですが。とカミューは笑った。
「あと5年もたっていたら、喜んでうなずかれただろうけどね」
そういって笑うおかみさんに、白パンを4つ注文してそれをうけとると、カミューは赤ん坊の手を取って、バイバイと挨拶をさせた。目を細めて同じように手をふってよこすおかみさんに声が届かないところまで来ると、マイクロトフは、
「カ、カミュー!!おまえ、この赤ん坊がどこの子か知っているのか!?」
と詰め寄った。
「始めからね」
あっさりと答えられてマイクロトフは絶句した。そんな馬鹿な。今朝からの自分の努力は一体全体何だったんだ。
「わたしたち2人にはいい気分転換だろうと画策してくれた人がいたらしい。ありがたく受けておこうと思ってね。」
おかげでおまえも騎士団の再編成なんて面倒くさい仕事のことを半日忘れられただろう。平気な顔でそんなことをいう赤騎士団長に、マイクロトフはがっくりとうなだれた。
「で、いったいぜんたいどこの子なんだ、」
と聞いてもカミューはその内わかるさとすげない返事を返してくるだけだった。

赤ん坊のオムツを買い、ミルクを手に入れ、ついでにその場で作ってもらって哺乳瓶を満たす。それから肉屋をまわり、ハムとサラダを手に入れ、花屋で豪華な白薔薇の花束をあつらえてもらう。本屋で何冊かの本を買い込み、雑貨屋では敷き物を購入した。酒屋ではカミューの気に入りの白ワインを一本。・・とマイクロトフが抱える荷物はどんどん増えて行く。いったいぜんたいカミューは何を考えているのだろう、とマイクロトフは首をひねった。おまけに、立ち寄る店みせで赤ん坊の事が話題になり、カミューはそのたびに気さくに話に応じているのだ。だれもがその子が誰だか知っているらしい。
マイクロトフの眉間のしわはだんだんと深くなる。カミューが、
「あちこちにみせびらかしているだろうとは思っていたがこれほどまでとはな」
と苦笑まじりに言った。
「君が結婚する時、父上はさぞかしなげかれることだろうね」
「・・父親はいったい誰だと言うんだ!」
赤ん坊をほうりだしていった無責任な親など一刀両断にしてくれる!とマイクロトフは思わず腰のダンスニーに手をかけた。

ぞくっ、背中にふと冷たいものを感じて、ヘッセン侯は思わず後ろを振り向いた。
「どうなさいました?」
とアルフレートが尋ねる。
「いや、ちょっといやな予感がして・・」
2人は、こっそりと騎士団長の後をつけて回っているのだった。物陰から赤ん坊が商店街の話題の的になっている様子をうかがい、
「さすがにうちのエチエンヌはどこに行っても人気者だ」
とでれっとした表情になるヘッセン侯を赤騎士団の副長は救いがたいという表情でみやった。
「それにしても、もう、完璧にばれていますよ。いや、最初からお気づきだったんでしょう。」
オムツをかえたのは城のメイドなのに、カミューは最初から赤ん坊をレディとよんでいた。馬鹿げた話にのってしまったものだと思う。天から赤ん坊がふってきたら、さすがのカミューも、呑気に執務などできるわけがなく、親探しに奔走することになるだろう。いい気分転換だなどと言われて片棒をかついでしまったのは返す返すも短慮だったと思う。どんな手段をつかってもカミューが休んでくれたらと思っていたのだが、何事にも動じない上官は、結局半日の休暇を取っただけだったし、返って疲れさせてしまったのではなかろうか。唯一の収穫と言えるのは、赤ん坊を置きに行った際に、熟睡するカミューの寝顔を拝めたことぐらいだろう。それだって自分が共犯だったことがカミューにばれているとなると後でどんな報復が返ってくるか考えただけで恐ろしい。
後悔にさいなまれるアルフレートの気も知らず、
「カミュー殿がエチエンヌを見たのは産まれて間もなくの時だけだから、まさかわかるまいと思ったんだがな」
ヘッセン侯は呑気に首を傾げる。
「ますます可愛くなったから見に来いと何度いっても仕事が忙しいと断わられていたんだが、一度あっただけのあの子をしっかりおぼえていたのは、やはりエチエンヌがとても魅力的だからだろうか」
真顔でそんなことを問われて、親ばかもきわまれリ、とアルフレートは天を仰いだ。
「それにしてもカミュー殿はいったい何をなさっているんだ?」
とヘッセン侯が不審そうに言った。
「買い物が目的、というより、まるで城下のみなに挨拶まわりをしているようじゃないか」
その言葉にアルフレートは、はっと目を見開いた。

城下の店を一回りし、話しかけてくる街行く人々ともひとしきり会話を交わした後で、
「一休みしに行こうか」
とカミューが微笑みかけてきた。城下をみおろせる小高い丘に上り、敷き物をひろげてピクニックとしゃれ込もう、というのだ。まったくこの男は何を考えているんだと思いつつも、長い付き合いだけに、何を言っても無駄だと良く知っている。マイクロトフはため息ひとつで素直にそれに従ったのだった。
おむつをとりかえてすっきりし、ミルクをのんだ赤ん坊はやがて気持よさそうに寝入ってしまった。その寝顔をみながら、
「いい街だろう」
とカミューが語りかける。
「ここが、君の育つ街だ。君を愛し、はぐくみ、うけいれてくれる人々の住む街だ。この人達のことをしっかり覚えておくんだよ。そして、いつか君自身がこの街の未来を築くんだ」
しばし言葉を切ってから、
「しあわせにおなり」
優しくそう囁いて、カミューが赤ん坊の額にキスを落とす。マイクロトフは何も言えないまま、その様子を見つめていた。何か言いたいのに、言葉が出てこない。ただ心臓だけが自分の動揺をつげるようにその鼓動を早めて行く。
赤ん坊をとおして、カミュー自身がロックアックスの街とそこに住む人々に挨拶をして回っていたのだとやっと気がついたのだ。心の中で礼をいい、同時に、わかれを告げていたのに違いない。
「カミュー」
震える声でその名をよびかけると、こちらをみた赤騎士団長はワインを指差して、
「飲もうか?」
と微笑んだ。

樹の影からその様子をうかがっていたヘッセン侯はかたわらからいきなりもれた嗚咽に目を見張った。
「ど、どうされた?」
そう訊かれても、アルフレートは必死に涙をこらえながら首を振るだけだった。彼もまた城下の店をめぐりながらカミューが何を意図していたかに気づいたのだ。赤騎士団長は挨拶を交わしながら、人々に別れを告げていたのだ。彼が執務室に人々を招き入れたのも、半分はそのためだったのだろう。自分をうけいれ、騎士団の頂点に立つ事さえ認めてくれたマチルダの人々に今までの礼をいい、同時にこの地をあとにすることのわびを心の内で告げながら彼らと話をしていたのにちがいない。
ふるえる息をつきながらアルフレートはもはや上官を引きとめることは不可能なのだと悟っていた。すっかり困惑した体のヘッセン侯が、どうした、と重ねて問いかけてくるが、カミューの決意を、自分が他言するわけには行かない。
「いえ、申し訳ありません。なんでもないんです」
そう答えながらアルフレートは、もう一度ゆっくりとくびをふるのだった。

まるで味のわからないワインを口に含みながら、
「・・永遠のわかれじゃないよな」
マイクロトフはそれだけを確認した。
「つれないことを言い出す男だな」
とカミューがわらう。
「もどってくるさ。おまえのもとに必ず」
優しく細められた琥珀色の瞳をみつめ、マイクロトフは、カミューの腕を掴んで引き寄せた。
「レディが見ているぞ」
その言葉にちらとそちらをみると、なるほど短い昼ねからめざめたらしい赤ん坊は大きな黒い瞳を見開いていたが、
「構うものか」
とマイクロトフは言った。
「誰かを想うとはこういうことだ。お前もそのうち経験する。よく覚えておくといい」
赤ん坊にそう言い置くと、マイクロトフはカミューの唇を覆っていったのだった。

ヘッセン侯の屋敷につくと、マイクロトフはふかぶかとため息をついた。
「あの人か・・・」
「本当にわからなかったのかい?」
笑みを含んだ声で訊かれて、マイクロトフは恨めしい気持で傍らの男をみやった。
「なぜわかったんだ?」
「わたしは1度みたレディの顔は忘れない」
「・・・・赤ん坊にまで適用するなよ」
執事に取次ぎを頼むと、ふたりはすぐ応接間に招き入れられ、令夫人であるリーズが現れた。
「すっかりお世話をかけてしまって」
とリーズがやわらかく微笑む。
『連日の育児におつかれでしょうから、夕刻までエチエンヌ殿をお預かりします。』
カミューが、クルーグに託したメモをうけとって、
「不謹慎だけどちょっとほっとしてしまったの」
とリーズは恥ずかしそうな笑みをみせた。
「夫が寝不足気味のわたしの為に今日は一日面倒を見る、と夜鳴きするあの子をだいて出かけて行ったのだけれど、ちゃんと世話ができるかどうか不安で・・。その点、アデルさまの世話になれていたカミューさまになら安心して託せたわ。本当にありがとうございました。」
エチエンヌを抱き取ったリーズは嬉しそうに愛娘をあやしながらかすかに眉を顰めた。
「それにしても、カミューさまに世話をおしつけて、アドリアンは何をしていたのかしら?」
「わたしにまかせても不安だったらしく、ずっと後をつけていらっしゃいましたよ」
とカミューがにっこりと笑い、傍らのマイクロトフは青くなった。と、するとあのくちづけも見られていたのだろうか?思わず口元を押さえて絶句するマイクロトフに苦笑しながらカミューはその手から花束を取り、
「これはリーズ殿に」
と差し出した。
リーズは傍らに控えていた乳母に赤ん坊を渡して、豪華な白薔薇の花束をうけとり、嬉しそうに顔をうずめた。
「花束をいただくなんて久しぶり・・」
しみじみと呟く。おそらく育児に終われて外出もままならないのだろう。
「時折は乳母にあずけて、侯とお出かけになることをおすすめします。いい気分転換になりますよ」
と、カミューは笑った。
「気分転換がいかに大事か、侯はよくご存知のはずですから」
カミューの言葉に、マイクロトフは思わず噴き出しそうになった。

屋敷を辞すと、夏の長い日もさすがに西に傾いていた。城に向けて歩きながら、
「忙しい一日だったな」
とマイクロトフはつぶやいた。
「ああ。だがひさびさにお前とのんびりすごせて楽しかったよ。ヘッセン侯とアルフレートに感謝しないとな」
「アルフレート?」
とマイクロトフは片方の眉を上げた。
「あいつも絡んでいたのか」
呆れたような声音にカミューは笑った。
「連日で悪いが、あとで部屋に行ってもいいか?」
マイクロトフの言葉にカミューは一瞬目を見張った。真摯な瞳がまっすぐにこちらを見つめている。
「貴重な時間を無駄にしたくない」
続けられた言葉にカミューは笑い出した。
「相変らず直截的なやつだな。わかりやすくて楽だが」
そんなことを言われてマイクロトフはさすがに顔を赤くした。
「貴重な時間を仕事に費やしたいような気もするが・・」
マイクロトフはすこし傷ついて目を伏せた。恋人のつれなさは良く知ってはいるが。が、カミューは腕をのばして、マイクロトフの頬にそっとふれると、いきなり軽く唇を合わせてきた。こ、この往来で!とマイクロトフが立ち竦むのに笑いかけ、
「お前の方が大切だ」
カミューの言葉に、マイクロトフは一瞬息を呑み、それからゆっくりと笑みを浮かべた。


ひときわ鮮やかに輝いたその年のロックアックスの夏が過ぎて行く。

マチルダ騎士団の赤騎士団長をつとめた青年がロックアックスをはなれ、グラスランドの内乱のさなかに身を投じたのは、それから数ヶ月ののち、秋の気配がすっかり濃くなった頃の事だった。

−FIN−