マイクロトフは悩んでいた。 『お返しは甘いものが良いな』 とびっきりの微笑みでいとしい恋人からそうねだられたのは、先月の14日。バレンタインとかいう異国の風習でチョコレートを貰った時に言われた言葉である。 あれからはや一ヶ月。 休日にでも何か作ろうと思ってはいたものの、愛馬の怪我や休日出勤などでなかなかその暇がなかった。 ここらで何か手を打たないと、なし崩しに忘れてしまうのが目に見えている。 しかし……甘いもの……甘いもの……。 甘いものといったら普通お菓子のことだろう。 お菓子。 そう、それは料理一般が得手なマイクロトフの唯一の不得手だ。 ……やはり作るしかないのだろうか。 しかし作るとなるといつ作ればいいのだろう。 早朝訓練から始まる彼の一日は、多忙を極める。 ここ最近はリーダーの少年の遠征について城を空けることも多く、デスクワークが溜まりに溜まり息抜きに恋人と散歩どころか、顔を見ることさえできない時も多い。 そんな惨状でもしお菓子作りのために休憩をくれと言ったら、あの恐ろしい副官が何と言うか目に見えている。 『余裕がおありになるのですね、マイクロトフ様。では要決裁の書類を増やさせていただきましょう』 おっとりとした口調で、有無を言わさず椅子に縛り付けられる羽目に陥るのは確実だ。 あいつはカミューを尊敬していたからなぁ……。 最近とみに恋人と言動の似てきた副官を思いマイクロトフはため息をついた。 しかしこんなことで挫けていては、いつまでたってもカミューへのお返しのお菓子は作れないのである。 どこかでどうにかして時間を捻り出さねば。 買って済ませるなどということが頭に浮かばない辺りが、思考回路単線男と言われる所以なのかもしれないが、彼の頭にはこの一ヶ月というもの作ることしか頭になかった。 いつまでも悩んでいてもしょうがない、とりあえずは情報収集するか。 そう思い立ったマイクロトフはお菓子のレシピを手に入れるため、夕食前に図書館に行こうと心に決めた。 マイクロトフが図書館を訪れるのはまだ数えるほどだが、いつものように入り口のところでエミリアに声をかけられた。 「あらマイクロトフさん、何の本をお探しですか」 「お菓子の本を」 そう言った後で、ミスマッチさに相手がびっくりしたのではないかと思わず後悔する。しかし司書のエミリアは気にした風もなく、ではこちらになりますね、と書棚を案内してくれた。 「どんなものをお望みか分かりせんがとりあえず料理一般はこちらになっていますの。作り方を知りたいのですか」 「え、えぇまぁ」 「ではこちらなんかいかがでしょう」 そう言って差し出された本を手にとる。ずっしりと重いそれはぱらぱらと捲ってみると、細かい字で難しそうなレシピがのっているのが少し見ただけでも分かる。挿絵の完成品であろう菓子も凝ったものであることが見て取れた。 「マイクロトフさんはお料理が上手だとシュエさんからお聞きしていたのですけど、違う本のほうがよかったかしら」 困ったような顔をしたのが分かったのか、そう訊ねたエミリアにほっとしたマイクロトフである。 「そうですね。料理は慣れているのですが、菓子作りはあまりしたことがないので初心者向けの本がよいのですが」 「初心者向けね…あら困ったわ、簡単そうな本はすべて出払ってますの。先月借り出してそのまま女の子達の間を転貸しされているみたいで…。お急ぎですか?」 「いえ、まぁ…」 返答に困ったマイクロトフの顔で、急ぎと分かったのだろう。ちょっと考え込んだエミリアはにっこり笑って、 「もしよろしければ入用なレシピをお渡ししますけど。ついでに一緒に作って実地指導してあげてもいいですわ。ちょうどこの城の女の子達と約束してましたの」 と提案した。 一人で作ることに自信のなかったマイクロトフにとってこの申し出はまさに渡りに船だった。 「よろしくお願いします、エミリア殿!!」 あからさまにほっとした様子のマイクロトフにくすくす笑うと、 「ところで何を作るつもりだったのかしら?」 と訊ねた。 「それが何も考えていなかったのです。実は…」 一ヶ月前の自分たちのやり取りを幾分簡略化して伝えると、エミリアは考え込んだ。 「甘いものねぇ…お菓子は大体甘いと相場が決まっているものだけど、どうせなら季節物が良いんじゃないかしら。林檎パイはいかがかしら。今の季節だったらぎりぎり林檎が出回っているころだし。あれは男の人の力の要るお菓子なの」 「林檎パイですか、わかりました」 林檎パイならカミューも好きなはずだった。それに複雑な作業は自信がないが、力仕事ならお手の物である。 「で、いつにしましょうか、早いほうが良いのだったら明日では」 「日中は…無理ですね」 「私もここの仕事があるから無理だわ」 「申し訳ありませんが夜も…多分無理です」 「困ったわね…休日はいつ?」 「それがよく分からないのです」 日曜日は大体休日とされてはいるものの、急な遠征が入れば意味がないのである。それにこの忙しさでは休日出勤も大いにありえる話だった。 「そう………マイクロトフさん、カミューさんと同室だったわよね。彼は何時に眠るのかしら」 「大体12時ごろだと思いますが」 「ではそれ以降の夜中に作るのはどうかしら。どうせプレゼントするのなら、秘密に作って驚かすのも楽しいわよ。夜中に作るのならばそれも十分に可能だし、厨房の人にも迷惑をかけずにすむのだけど」 ただし次の日少し眠たいかもしれないけれど、そう付加えたエミリアの言葉をマイクロトフは反芻した。 確かに。 夜中ならば十分に時間は取れる。 言われるまで失念していた厨房使用も問題ないだろう。 それに内緒で作ってプレゼントするとカミューも驚いてくれるかもしれない。 考えれば考えるほど良い案のように聞こえてマイクロトフは顔を輝かせた。 「エミリア殿さえよろしければぜひお願いします」 その言葉ににっこりしたエミリアは、 「では私は今から女の子達の希望者を募ります。多分十人くらいになると思うのだけど、全員夜の2時に厨房で集合。その時間なら作り終わる時間がマイクロトフさんの早朝練習にかからないはずですわ。そしてそれまでに私がハイ・ヨーさんに話をつけて材料を用意しておきます。それでよろしいかしら」 「はいっ!よろしくお願いします!」 きびきびとした物言いに思わず士官学校時代の先生を思い出し、思わず敬礼してしまうマイクロトフだった。 □■□ ……寒い。 夢うつつの状態でやけに寒さを覚えて、カミューの意識はぼんやりと覚醒に向かっていた。 ………湯たんぽは…どこだ…。 大の男二人で寝るには狭いこのベッド、少し伸ばせば手が届くはずの湯たんぽ、もといマイクロトフを見つけられずにカミューは目を覚ました。 カミューが夜中と称される時間帯に目を覚ますのは珍しい。 朝陽が昇りきってもベッドの中でぼんやりしているようなタイプなのだ。 もしかしてもう朝なのだろうか。 そう思い窓の外を見るがまだ真っ暗だ。 厠なのだろうか、しかしそれにしてはこのベッドの冷え方は短時間のものではない。 こんな真夜中に何をしているのだか。 それとも何かあったのか。 寝台横の蝋燭を灯して部屋の中を見渡すと、長椅子の上には寝る前通りにマイクロトフの服が置いてあるのが分かった。 いつもの軍服を着用していないということは公用ではないということか。 それならば自主的に、しかも私用で、どこかへ出ていったということなのだろう。 小さく欠伸をしてもそもそと軽装に着替える。少し考えて自分のマントではなく、マイクロトフの上着を拝借することにした。羽織ると思ったとおりの暖かさでほっと息をつく。 眠くて幾分頭はぼんやりするが、マイクロトフの不在の理由が気になってそのまま寝る気にもなれずカミューは部屋を出た。 「カミュー様」 「見張りご苦労、マイクロトフを見なかったかい」 「マイクロトフ様なら西棟のほうへ一刻前くらいに行かれたのを拝見しましたが」 「何か言ってたかい」 「いえ、どうされたのですかと訊ねてもはっきりとおっしゃいませんでした」 そう首を振る宿直の兵士に礼を言う。 東棟といえば食堂に貯水施設がある程度だが…。 マイクロトフのことだ、お腹でも空かせて食堂で夜食でも作って食べているのだろうか。 暗い通路を通りぬけがらんとした呈の食堂に入ると、厨房の方から煌々と明りがもれている。 やはりここだったか苦笑して足を踏み入れようとしたカミューは、中から聞こえた明るい笑い声に思わず足を止めた。 「あ、失敗しちゃった。どうしても上手く切れないんだよね」 「やっぱりナナミちゃん下手だよね」 「そういうニナだってまっすぐ切れてないじゃない」 この声はナナミとニナのものだ。 ここにいるのはマイクロトフではなかったのだろうか。 そっと覗いて見ると数人の少女たちにエミリア、そして探していたマイクロトフの姿もあった。あんな薄着では風邪をひかないだろうかと心配するような白いシャツにエプロンという出で立ち。 どうやら料理をしているようだがこんな真夜中に何をやってるんだか。 甘い林檎の焼ける匂いがする上に周りの少女達もエプロンを着けていて、お菓子講習会のように見える。 「きっとこういうのカミューさんだったら得意だよね。やってくれないかなぁ…」 こんな格好ではまずいかなと思いながらも入ろうとしたカミューは、いきなり聞こえた自分の名前に足を止めた。 「お菓子作りはどうか知りませんが、包丁さばきは苦手ですよ。それにカミューは今起こしても多分起きないと思います。寝ることはあいつの趣味の一つですから」 …失礼な、起こしてくれれば私だって起きて一緒に作ったぞ。 むっとしてそう内心呟くカミューの耳に届いたマイクロトフの次の言葉は、思いがけないものだった。 「それにこれはカミューに作ってやろうと思ったので、頼むのはちょっと…」 「そうだね、いきなり作ってびっくりさせたほうが楽しいもんね」 楽しそうに笑いながら言うナナミの声は呆然としたカミューの頭を素通りする。 もしかしてマイクロトフは私のために、こんな真夜中に起き出してお菓子作りをしているというのか。 その瞬間一ヶ月前のバレンタインに自分が言った言葉を思い出す。 『お返しは甘いものが良いな』 きっと彼は休日や平日の日中に作れないので、代わりに夜に作ろうと思ったのに違いない。 ハードスケジュールの中でも自分の些細な言葉を律儀に守ろうとしてくれる恋人の誠実さを、きっと喜ぶべきなのだろう。 もちろんうれしいのはうれしい。 でも… 「お菓子なんかよりお前が傍にいてくれるほうが嬉しいんだけどな」 誰にも聞こえぬように小さな声でそう我侭を呟いてみる。 少し寂しい気がするのは、彼らがとても楽しそうにしているからで。 そして多分彼が話し掛けているのが自分ではないからだろう。 楽しそうなパーティに一人呼ばれなかったような疎外感。 そしらぬ顔で彼らの間に入っていくこともできるが、折角マイクロトフが秘密に作ってくれているのだ。 ばれたところで困ることではないがこっそり準備する楽しさは失われるし、今まで黙っていた努力が水の泡になる。隠し事の苦手なマイクロトフの努力を無にすることはもちろん自分の本位ではない。 「なんだかつまらないな……」 それでも思わずもらしてしまった自分の呟きの響きがもつ大人気なさに苦笑したカミューは、背中を預けた壁の冷たさに温もりが恋しくなりそっと踵を返した。 翌朝。 いつものように早朝訓練から帰ったマイクロトフから起こされたカミューは、差し出されたアップルパイに嬉しそうに受け取りその笑みは恋人を大いに満足させるものだった。 しかしそのカミューが宿直当番の兵士に口止めを忘れるという、珍しい自分の手落ちに気づかされたのはその日の夕刻のことだった。 |