Innocent Rose





教会の裏の小高い丘は士官学校来の秘密の場所だった。
北向きの斜面に墓地を擁するこの丘に訪れる人影は殆ど無く、まとまった時間が取れるとマイクロトフはここで剣術の練習をする。
いつも心待ちにしていた休日の一時。
しかし今日は全くもって心が晴れない。
「……つまらん」
思わず漏らした言葉の覇気の無さに自分で幻滅した。
もう二刻近くここで素振りをしているのだが、練習に身が入らないのだ。諦めて仰向けに身を投げ出すと、勢い手にしていた木刀が草叢を転がっていった。
この気鬱の理由はわかりきっている。
いつもここで一緒に過ごしている彼の不在。
でもそれだけでもなくて…
(何故なんだ…)
ここ数日間、正しくは二週間前のあの日からしつづけた詮無き自問を繰り返し、埒のあかなさにマイクロトフは深く嘆息をした。


二週間前、赤騎士団の人事が変動した。騎士団内の人事変動は珍しいことではない。年に数度、三峰の騎士団の何れかで、必ず配属変えは起こる。
騎士団内の世代交代は早い。三騎士団の最高峰に十年近く君臨し続けている現白騎士団長ゴルドーなどは例外に近い存在で、騎士団長も数年に一度交代する。多くの騎士は四十歳代で現役を引退し、後進の育成指導に務めることを考えればもっとものことではあるが、今回の赤騎士団の人事替えは、正直多くの騎士の間で物議をかもしていた。納得はできるが、かなり奇抜な人事というのが大方の見方で。しかしマイクロトフは口にこそ出さなかったが、その大多数を占める意見には賛同していなかった。
そしてそれがマイクロトフのここ二週間にわたる嘆息と憂鬱の源となっていた。
どのくらいそうしてぼんやりしていたのだろう。
ぼんやりと仰ぐ空の雲が十二程流れて行ったまでは数えていたが、途中で数えることにも疲れただ蒼穹の果てを眺めるだけだ。
だが突然耳元に響いた馬の轡の音に、慌てて飛び起きると目の前に、馬の四肢が迫っている。慌てて飛びのき馬上を仰ぐと思いがけぬ人物の姿があった。
「なにやってるんだ、そんな所に転がってるから轢きそうになったぞ」
赤騎士団第五部隊(別称諜報部隊)隊長、アレフリィード・S・ランデンダール。マイクロトフの士官学校来の親友カミューの、幼馴染兼悪友である。が、マイクロトフはといえば、つかみ所のないこの六歳年上の男が大の苦手だった。
「アレフ殿…何故ここに?」
「あぁ?いとしのハニーとランデブー」
そういえば彼の肩には大きな薔薇の花束が無造作に抱えられている。花に詳しくないマイクロトフでもかなり値が張ると分かるものだ。しかし…真昼間から逢引き等と臆面もなくそう言い切る彼のことばに、激しく脱力感を覚えるのだが。こんな男を諜報部隊の連隊長にしているあたり、赤騎士団の人事は良くわからない。それとも他人の活力を気力もろともに削ぐ彼の言動は、極めて諜報部隊向きと見るべきなのだろうか。
そうつらつらと考えていたマイクロトフの思考は、内向に沈んでおり。気がつけば顔面すれすれまで顔を近づけて、アレフが面白そうに覗きこんでいる。慌てて身をそらすと、さながら猫のように目を細め、機嫌良さそうににやにやと笑った。
「どうした魂抜けたような顔しやがって、なんだ今日はカミューは一緒じゃないのか?」
「いえ、…自分一人です」
もう二週間近く彼と話すらしていない。こんなに彼と離れていたのは、お互いの遠征時を除き初めての経験だった。しかもこの別離は物理的なものだけでなく、精神的なものも含む。
最近彼の考えていることがわからなくなった。今まで彼の考えていることを分かっていたのかと聞かれると、答えようはないのだけれど。
もしかすると遠くなったと思っているのは自分だけで、元からこんなに遠い距離を自分たちは保っていたのかもしれない。

―――  それはきっと自分の狭い心のせいで。

「えらく不機嫌な顔だな、なんだそんな時は花街にでも行って御姐さん方に慰めてもらえ。疲れも不機嫌もイッパツで吹き飛ぶぞ」
「貴方と一緒にしないでください」
憮然として返せど、低い忍び笑いを漏らす彼は気にした様子もなかった。
「喜んでやらないのか、あいつが団長に就任したことを」
手早く馬を巨木に結わえ付けると隣に腰を下ろしたアレフは、どんな話の流れだかそう話題をふった。
いきなり核心を突かれて、マイクロトフは言葉に詰まる。
「…俺は貴方が団長に就任されるのかと思っていました」
「俺が?冗談だろう、あのゴルドーが俺をそんな大任につけると思うか。大貴族の坊々なんかを赤騎士団長にしてみろ、自分の権力が危なくなる。そんな危険を犯すような奴ではないさ。」
さらっと語られた言葉の裏を読み取ったマイクロトフは、眉を寄せた。
「ではカミューが後ろ盾を持っていないから…グラスランドの出だから今の地位に上り詰めることができたと言われるのですか!」
「それも一因の一つだろうな。現にあいつの就任をゴルドーが一番強く押したとも聞いているしな」
平然と返された言葉にかっと頭に血が上る。
「アレフ殿っ…」
「あくまでも一因だ、青坊主。あいつの実力はお前が一番良く分かっているだろう」
そういなされ気がつく。この男は多分誰よりも冷静に公平な目で物事を見ているのだと。
ましてや彼はカミューを一番古くから知っているのだ。そんな彼が偏見の目でその言葉を吐いたのではないことは明らかだった。
頭に上った血に自分の狭視野を思い知らされ、マイクロトフは深く溜息とも深呼吸ともつかぬ息を吐いた。



倒れこむように仰向けになると、どこまでも澄んだ青空に千切れた雲が流れるのが視界を横切る。
丘を渡る風は頬をやさしく撫で、眼を閉じると梢を渡る風に葉の応えが耳に心地よい。
しばらくその静謐に身を任せていたマイクロトフはやがて口を開いた。
「…俺はあいつが分からなくなったんです」
いきなりそう呟いた言葉に怪訝そうな顔一つせずにアレフは静かに続きを促す。
そのことに背を押され、マイクロトフはゆるゆると言葉をつないだ。
「いつもあいつは言っていたのに…」
何事にも束縛されることを嫌う彼は肩書きや地位を持つことを疎んじていた。その技量、他と比すことできぬ武勇ゆえとんとん拍子に出世街道を邁進してきたカミューだったが、彼自身はけしてその昇進を喜んではいなかった。

『地位?そんなものはなくても騎士の務めはまっとうできるよ。かえって要職なんかにつくと足をとられる羽目になることの方が多いのさ。私は御免だね』

ほんの数ヶ月前副団長という地位に抜擢されて以来、『こんな筈じゃなかった』と口癖のように言っていた彼が、何故その言葉を反故して団長というそれまでとは比にならない大任を受け入れたのか。
「権力とは一番無縁に見えるあいつが何故団長なんかになったのかってか?」
「えぇ」
低くいらえを返すと、
「俺があいつを焚き付けたんだ」
思いがけぬ返答にマイクロトフは身を起こし、平然とした顔でそう返した男の顔を凝視した。
「…何故ですか」
「面白そうだったから。自分に押し付けられるのが嫌だったから。嫌がらせ。さぁ、そのうちのどれだと思うか?」
「……全部ですか」
「よく分かってんじゃねぇか。まぁ自分に押し付けられるのが嫌だったからというのは確かにあるな。だって考えても見ろ、赤騎士団長になったら、あのゴルドーと始終顔突き合せなきゃならんのだぞ。やってられっかよ、んな仕事。終いには切れてあのジジイを三枚下ろしにしかねんぞ俺は。さすがに新任赤騎士団長、白騎士団長相手に城内で刃傷沙汰、なんて醜聞起こすわけにはいかんからな」
冗談めかした言葉とは裏腹に眼は笑っておらず、彼ならやりかねないと深く納得した。しかし、彼の場合ならもう少し陰険に薬を盛るとか刺客を放つとかのほうが手管としては合っているような気がする。そう考えた所で、はたと問題の本質を思い出し、アレフに詰め寄った。
「カミューだったら良いんですか、カミューだったら!」
「いいんじゃねぇのか。あいつなんだかんだ言って、腹の探りあいとか陰険漫才とか好きだからどうにかなるだろう」
興味なさげに肩をすくめる様子に、唖然とする。
「俺は貴方はカミューのことが好きなんだと思っていました」
「あぁ、あいつの根性の悪さはかなり気に入ってるけどな、リスクと利益を秤にかけたら利益の方を選ぶもんだろう」
「そういう意味ではなくて…」
悔しいが今カミューのことを分かっているのはこの男だろう。
二週間前のあの団長就任の報以来、マイクロトフにはカミューのことが分からなくなっているのだ。
「お前もしかしてそっちの意味で言ってんのか?冗談だろう、俺には可愛い婚約者がいるんだぜ。くそガキだけどな」
さらりと流す彼の言葉をどこまで信じていいのか分からない。その視線に気がついたのだろう。
「買かぶってもらえるのは嬉しいけどな、あいつは俺では駄目だ」
何が駄目なのか主体の見えない言葉を重ねる彼の言葉を黙って受け取る。
「あいつのトラウマ聞いただろう」
「えぇ」
カミューが初めて隊長に抜擢された晩。二人だけで祝い酒を酌み交わしていた時、彼の年少時代の話を初めて聞いた。
「どう思った?」
「別に…カミューはカミューですから」
過去に何があろうと彼の人はその脆ささえも内包した強さで、誇り高く美しい。傷を抱えながらも前を見据えるその姿に自分は惹かれたのだ。
「俺はな、可哀想だと思ってしまったんだよ」
その言葉の意味が分からず訝しげな表情をしたのに気がついたのだろう。
「あぁ、こいつは俺が守ってやらなければって思ったんだ。言っとくけど、純粋に守るだけの意味だからな、誤解するな」
言いきるその言葉に頷く。
「まぁそれはともかく…あいつが望んでるのは同情じゃない。庇護でもない。あんな面してるけど死ぬほどプライド高い奴だからな。同性から守ってあげたいなんて思われてるのは、奴には我慢ならないことだろうさ」
肩をすくめるアレフの言葉に、思い当る節は山ほど目にしてきたマイクロトフである。
「えぇ、あまり嬉しくはないようです」
赤騎士団はおろか他二騎士団内にも、カミューのいっそ狂信的ともいえる熱烈な信奉者は多い。カミューの士官学校時代にはわざわざ彼の姿を見るためだけに、休み時間に下級生が上級棟まで押しかけていた。
初めはそのたおやかな外見に惹かれた者も、やがてそれを大きく裏切る彼の豪胆かつ魅力的な言動の数々に心奪われ。気がつくと目が離せなくなり、中には彼のためなら命を捧げても惜しくはないと冗談めかした口調で、しかしはっきりと明言していた者がいることもマイクロトフは知っていた。そのことをカミューに告げると心底嫌そうな顔で黙殺されたのだが。
「でもあいつの過去の話を聞くと、大概のやつは、あぁ可哀想だ、とか、守ってやりたい、とか思うわけだ。それがいいか悪いかは別としてな。大体あんな面してるから、夢見たがるやつはそれじゃなくても多いのは分かるだろ。あいつの性格知ってる俺なんかからすると、寝言は寝て言いやがれと言いたくなるが、未だにあいつのこと虫をも殺さぬお姫様みたいに思いたがってるやついるからな」
「…お姫様………ですか…?」
体格の良いマチルダの男達に混じると、カミューの異質さは目立つ。身長こそ平均に達するか否かであるが、筋肉の質が全く違うのだ。しかし内に秘められた性格の素晴らしさを熟知している二人の男にとって、『お姫様』などと言う言葉は、豹を子猫と称するような違和感しか感じさせない。
「な、くそ笑えるだろ。ま、夢見てそれで満足してるやつはそれでいいさ。だが俺は自分の手を必要としないやつにいつまでもうつつを抜かすほどお人よしじゃないし、そんな立場に甘んじる気などさらさらない。それよりはもっと大事なものを自分で作るつもりだ。まぁ、大事な弟みたいなもんだから、泣いて頼られれば手を貸すのも吝かでないこともないかもしれんがな」
面倒くさそうにそう言い捨てるアレフに、頬を緩める。
なんだかんだ言っても、彼が自分達のことを考えていてくれることはマイクロトフにも分かっていた。口も態度もおよそ優しいとは言いがたい男ではあるが、いざという時は頼りにしているのは事実で、それに見合うだけの実力は兼ね備え、請わずとも手を差し伸べてくれる男だった。
もちろんその分収支が合うくらいからかわれ、玩具にされるのも事実ではあるが。
「そういえば貴方から騎士団に入るように勧められたとカミューから聞きました」
「あー…まぁ、勧めなかったと言やぁ、嘘になるか。風みたいにふらふらしている奴だからな。どこかに錨があったほうがいいだろう。それに…」
「それに、なんですか?」
「…。あんな顔の奴が慇懃な態度で騎士をするのもいかにもで面白いだろ」
何か他のことを言いそうに見えたその瞳が、ふとその色を変えて悪戯っぽいそれにとって変わる。
多分聞いてもはぐらかされるのだろう。
そう判断したマイクロトフは曖昧な笑みで返答を避けた。


穏やかな東風に混じり、時折強い北風が髪を揺らす。
寝転んだ草の上を緑葉が踊るのを眼で追う。
「で、結局喧嘩しているのはあいつがお前に無断で団長職を引き受けたからか?」
つかの間の沈黙を破ったのはアレフだった。
「……そうです。それだけではありませんが、…そうです」
「ややこしい奴だな。」
呆れたように見下ろされるアレフを先ほど苦手と感じていないことにマイクロトフは気がついていた。
「あいつにはあいつの考えがあって団長職を引き受けたことくらいお前も分かってんだろうが。ならいつまでもごねてんじゃねぇよ」
それは多分揶揄する言葉の裏に潜む彼の優しさに気がつけたからか。
「分からなければ聞けば良いんだろうが。それで答えてもらえなかったり、理解できない答えが返ってきたら、理解できないと喚く前に努力すれば良い。人間なんて山程いるんだ、全員を理解しようなんて無謀なことを考えずに、一握り自分のアンテナに引っかかる奴だけに注意を向けとけば少しは分かるようになるかもしれないぜ」
それとも言葉を交わすことによって、アレフと言う人が少しは見えてきたからかもしれない。
「少なくとも後悔したくなければやることだけやっとけ。同じ目線に立って同じ物を見れば少しは相手を理解出来るようになるかもしれないさ」
「同じ目線…ですか」
それは同じ地位に、騎士団長という地位につくということだろうか。
「どんなに相手を理解したいと思っても、同じ目線に立たなければ見えてこないものもある。でもその地位は限られた奴しか就く事ができない場所で、なまじっかな奴には上り詰めることなどできない場所だ」
ま、俺は別にそんなとこに立とうなんて気はしないがな、そんな彼らしい言いぐさに頬を緩めるが、続けられた言葉に姿勢を正した。
「だがお前は違う。お前は俺の知る限りでは唯一あいつの表面ではなくて本質を見ぬいてるやつだ。あいつは高い地位について、もちろんトップなんて重責もあるし孤独なもんだろう…それでもあいつにはお前がいる。あいつの傍に立って同等の立場で渡り合えるのはお前だけだ」
そうだろう?
言外に含まれたその確認にマイクロトフは大きく頷いた。
「だったらこんな所で行き倒れてる暇はないんじゃないのか?さっさとこれでも持って行って仲直りでもなんでもしてこい。お前みたいな図体のでかいのがいつまでも辛気臭い顔してると騎士団全体の士気が下がってかなわんからな」
そう言って傍らに置かれた薔薇を差し出すアレフの顔をマイクロトフは見つめた。
恐る恐る渡された花束を受け取ると、かなりの重みがある。
「こんなに頂いたら、相手の方に悪いのではないでしょうか」
「いいさ、あいつもカミューのこと気に入ってたしな。団長就任を聞いたらきっと一番に花贈るような奴だったから」
過去形にされたその言葉に彼が何処へ行くつもりだったのかが察せられ、マイクロトフは視線を落とした。
アレフがこの花束を持っていくつもりだったのは、きっとこの先の墓地に眠る人なのだろう。
「もしかしてアレフ殿の御母堂へ持っていかれるつもりだったのですか」
「馬鹿、勝手に殺したら訴えられるぞ。それになんで俺が母親にこんな花贈らにゃならんのだ」
呆れたように言われ、そういえば夫人が亡くなったという話も聞かないなと、どこかずれたことを考えたマイクロトフは思いがけぬ言葉を聞いた。
「婚約者だよ、元な」
「存じ上げず失礼致しました」
「大昔の話だ、気にするな。…あいつもカミューと仲良かったからな、遅くなったけど報告も兼ねてな」
遠くを見るような目をしたアレフはマイクロトフの知らない顔だった。
こんな顔もする男だったのか。
いつもは少し意地の悪い笑みで、そのイメージしか見せなかった男の横顔にマイクロトフは目を奪われる。もう少し彼のことも知ってみるのも良いかもしれない。そう考えた視線の先でアレフがにやりと口元を歪めた。
「そういえば最近避けられてるみたいだってしょげてたぞ」
あのカミューがしょげるなんて。それはない、絶対ありえない。
そう即答しようとしてふと思いとどまる。そうやって自分の作った枠に相手を押し込めようとしていたから、分からないような気になっていたのではないだろうか。
自分に見えてる面以外にも知らないそれぞれの顔がある。
それ自然なことで当然なことだ。
問題はその事実をどう自分の中で消化して行くか、だ。


『心配しなくてもお前もすぐに団長になれるさ』
別れ際に風のように残された彼の言葉を素直に受け入れることができる。
そうだ、自分はこんな所で立ち止まっている暇はないのだ。
久しぶりに彼に会いに行こう。
きっと慣れない激務に疲れているだろう彼にこの花束を渡して。
お茶を入れて他愛ない話で、つかの間の休息をとらせるのもいいかもしれない。
そう思いついたマイクロトフは巨木の根元に投げ出していた上着をつかみ、花束を肩に背負う。
鼻先を掠めた真っ赤な薔薇の花束はいつになく馨しい芳香で、マイクロトフの気分を高揚させた。







軽くノックをするとすぐに応えの声が上がった。赤騎士団長執務室には何度も足を踏み入れたことがあるのだが、彼の人が正面の席に座っている所を見るのは初めてだ。マイクロトフは内心緊張を覚えながら、
「失礼する」
と開いた扉に一歩踏み出した。しかしその瞬間不覚にも目を奪われたのは、目の前の団長席に座っている親友の姿にではなく、部屋中を席捲している赤い花々の艶やかさにだった。部屋中いたる所に所狭しとおいてある花瓶。その中にはすべて共通の花々が挿してあった。…マイクロトフが抱えている花と同じ種類の花が。
その緋色の中に埋もれるようにして書類に向かっていたカミューはいつもと変わらぬ穏やかな表情だった。
そのことにほっとしたマイクロトフだったが、無言で自分の手の中にある花束に注がれる視線の意味を悟り、言葉に詰まる。
「あ…っと…そのだな、一応団長就任祝いに持ってきてみたのだが…その…邪魔だっただろうか」
尻すぼみに小さくなる声にカミューは溜息をついた。
団長就任以来、カミューには一人自由になる時間など全くと言っていいほど存在しなかった。団長就任時のレセプションの場所でもあちらこちらの偉い方や貴族などに捕まって身動きが取れないうちに、マイクロトフはどこかに雲隠れして話す機会はなかったし、公務についてからは当然自由になる時間は限られてきて、私時間は僅かとなっていたのだった。当然今までのようにマイクロトフと過ごす時間など取れない。
しかし人が目が廻るくらい忙しくしていて、身動きが取れないのが相手にも分かっているだろうに、彼は会いに来るどころか何の音沙汰もよこさない。
別に祝いの言葉やねぎらいの言葉が欲しかったわけではないが、マイクロトフにとって自分はその程度の存在だったのだろうかと考えるだけで、落ち込む日々だったのだ。それなのにこの男は、不意に何の前触れもなくやってきて謝罪の言葉一つ言わずに、あまつさえ今一番見たくないものを持ってやってきたのだ。
「その…悪かった。こんなに薔薇の花を貰っているとは知らなかったもので…」
「そうだろうさ。どうやら薔薇の花束はここでは祝い品の定番のようだな。誰も彼もが贈りたがる」
皮肉たっぷりに言った言葉はまったくもって伝わらなかったようだ。マイクロトフは首をかしげた。
「定番…なのか?俺はカミューだから贈るんだと思っていたのだが」
「私だからなんだって?」
「いや、カミューだからみな赤い薔薇を贈るのではないのか?
「お前は祝いにきたのか?それとも喧嘩売りにきたのか?」
かなりの鬱憤が溜まっているカミューの口調は、自然剣呑なものになる。
「祝いにきたに決まっているだろ。赤い薔薇は綺麗で気高くてまるでカミューみたいだ。みんなそう思うから贈るんだと思う」
「そして贈られる方の身にはなってくれないわけだ。こんなに一気に贈られてみろ、どうしろって言うんだ。貰い物だと分かるだろうから誰か知り合いのレディにも差し上げられもしないし」
溜息混じりに愚痴ると、マイクロトフは申し訳なさそうな顔をした。
「すまない、迷惑だったな」
「いいよ、花には罪はない。お前が持ってきたのは、悪いが私室の花瓶にでも放り込んでおいてくれ」
「私室に入れていいのか?」
「確かに物を私室に入れるのはあまり好きではないんだけどね。そうも言ってはいられないだろう。今まででも辟易してるんだ、これ以上ここに置かれたらこの匂いで悪酔いしてしまうよ」
そう肩をすくめるとマイクロトフは何とも言いがたい表情をした。
「分かった」
「頼むよ、マイクロトフ」
もう行けとばかりにひらひらと手を振って見せると、肩をすくめてマイクロトフは踵を返した。
そのまま書類に再び目を落としたカミューは、扉がしまる前に聞こえた言葉に顔を上げた。
「待っててくれカミュー、すぐに追いつくから」
前触れもなく落とされたその言葉は何の脈絡のないものだった。
しかしカミューの耳にはマイクロトフの言わんとすることが分かった。冗談にしたり笑い飛ばすにはあまりに真摯な響きを孕むその言葉は、カミューが何よりも聞きたかった一言で。
だから満足そうに微笑む。
「……ありがとう」
閉じられた扉に静かに呟く言葉は誰にも届くことはなかったが、カミューの混り気のない心からの言葉だった。


言葉どおりマイクロトフが第四十九代青騎士団長に就任するのは、カミューから遅れて八ヶ月後のことである。






20000605/Fin
20000828/Up

MODELED BY CAMUS&MIKLOTOV/ GENNSOUSUIKODEN 2
LYRIC BY AYA MASHIRO



Blue & Red  * Simplism