軽くノックして樫の大扉を開けた。 いつでも勝手に入ってくれと言われてはいたが、不在を承知で入ったのは初めてだ。 その為か久しぶりに訪れた部屋は居るべき主の不在で、いつもより広く感じられる。 この広いロックアックス城でも指折りの広さを誇る赤騎士団長の部屋だから、広さを感じるのは当然の事ではあるが部屋に配置されている調度の少なさがそれに輪をかけているのだろう。 少なくとも同じ広さの筈の自室では、ここまで空漠な印象は受けないのだが。 これも馴れというものなのか。 何度訪れても印象を拭えない部屋を見渡し、そう考えた。 とはいってもけして過ごし辛い部屋というわけではない。 いつ訪なっても冬はちろちろと炎をあげる旧式の銅鉄製暖炉、絶えず正確な音を刻む振り子時計、柔らかな色彩の風景画に季節を感じさせない色とりどりの花々。これらのすべてが変わらぬ温もりで部屋を守っている。 忠実に仕えている少年従者が念入りに清掃しているのだろう。 冬の気だるい西陽が射しこむ出窓一つとっても塵も埃もなく、清潔なベッドカヴァーにも皺はない。 ただ。 この部屋にはここに暮らしている人間の息遣いが感じ取れ無いのだ。 自分の部屋はもっと生活感に溢れている。 兵法や歴史書の詰まった本棚にもらい物のワインの瓶を一緒に並べ、大きな応接机には手合わせ中の大理石のチェス板がそのままになっていて。 時には遣り残した書類の束を持って帰り、しばらく部屋中に散乱させたこともあった。 この時はさすがに困ったのだろう、部屋付きの従者に報告を受けた侍従長から紛失したら困る重要書類は早めに片付けてくれと注意されたのだが。 さして物欲が深い訳ではなく、地位を得てからも私物の量は一騎士時代と変わっていない。だが実に様々なものが部屋のここそこにあるのは確かだった。 例えばベッド横のサイドボードに置かれた読みかけの本や、暖炉の飾り棚の上に飾っている家族の肖像画、暖炉の前においてある母手製のパイル製敷布。 それらすべては質素だが、どれを取っても確かに自分という人間の性質が出ていると自分でも思う。 自分でしか作り得ない独特な空間。 だが普通は自然と滲み出てくる主の性質が、この目前の部屋にはない。 前任の赤騎士団長時代に使われていた調度をそのまま引継ぎ、それ以来部屋に増えたものも減ったものもない。 ただ一つの例外は昨年の誕生日に自分が置いて行った毛皮の敷物だけだろう。 暖炉前に敷かれているその毛皮をそっと撫でると贈った時と変わらぬ心地よい手触りがする。 何度も使っている姿を見た今でも、贈った時のままの状態に持ち主が大事にしている様子が伺えうれしくなった。 『この部屋は広くて寒いから置いて使えば良い』 知り合ってすぐの頃、初めて贈り物をした時彼が見せた困ったような表情をみたくなかった自分は、そう告げただけで反応も見ずにすぐに部屋を辞したのだった。 あの時、困ったような表情にプレゼントを貰うのは嫌なのか、と子供だった自分は思い違いをしたのだが。 今ならばわかる。 きっと彼は知らなかったのだ。 贈り物をされた時にどんな顔をしたら良いのか。 誕生日を祝う言葉を贈られた時に、ただ微笑めばいいという単純な事すら学ぶ機会が無かったのだ。 しばらく経って彼の縁薄い家族環境を聞いた自分は、それからは彼を困らせないように、黙ってプレゼントだけを置いて行く習慣がついた。 でもそれも潮時だろう。 彼自身気がついていないであろう、意識をそろそろ変えるべきだ。 いつまでたっても何も欲しがってはならない子供ではないことを。 周りのことには必要以上と思えるくらい気を配る彼は、こと自分については希薄過ぎるほど関心を向けない。 器用そうに見える彼が、実は自分自身の事には気を向けられない不器用な人だと気がついたのはいつのことだったか。 もう少し自分の価値に気がついて、自分という存在を大事にするべきだ。 そう感じたその時から、彼は自分の中で特別な存在となっていたのだ。 いつの間に内に沈んでいた思考が、ドアを開ける音で浮上する。 「マイクロトフ…」 「すまない、不在を承知で勝手に入りこんでいた」 驚いた顔を見せる彼にそう謝罪すると、華のほころぶような笑顔がかえった。 「それは全く構わないよ、それより今日は洛帝山麓での演習と聞いていたが」 「あぁ、それは早めに切り上げたんだ。大事な用があってな」 不審そうな顔をした彼に微笑する。 手の中にあるこの贈り物をなんと言って渡そうか。 そして最近やっと気づく事ができたこの気持ちをいつ彼に伝えるべきか。 そう考えながら。 マイクロトフはゆっくり口を開いた。 |